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韓国の旅6また韓国の旅にもどる。もうひとりの友となった金容善氏を紹介しよう。この人の日本語のイントネーションはまったく日本人と変わらない。まるで日本人である。あにはからんや、彼の母は愛媛の人である。父が韓国から松山の旧制高校に留学しているときに恋愛して結ばれた。父は京都大学を優秀な成績で卒業し、卒業して朝鮮総督府に勤めた。戦争が終わると、父は対日協力者として北朝鮮に拉致され、そのまま行方知れずだという。金氏人は、「僕は3回国が変わったのを経験しました」と言った。ひとつは朝鮮が日本に併合されたとき、もう一つは戦後、韓国が独立したが、すぐ朝鮮戦争が起こり、2か月半ほど北朝鮮の支配下に入ったとき、3回目がまた朴政権に変わったとき、である。この人とは数時間一緒に話してずいぶん理解が深まった。エンジニアとして大成し、韓国の大企業のエリートとして活躍する。日本とは何度も往復して技術移転を受ける。日本がいちばん輝いていたのは70年代だったという。あのころの日本は活力がみなぎり何を見てもかなわないと思い、韓国は絶対にこの国を抜けないと思ったという。それが80年代後半になってから変わってきた。90年代に入ったら、日本人は確実にだめになってきて、もう尊敬しなくなったという。彼は今はリタイアしてエッセイを書いたり本を読んだりして知的な生活を楽しんでいる。この日本語教育を受けた世代の韓国人エリートの特徴はどういうものだろうか。ひところ世界に連載していたT・K生つまり池明観氏の「李光洙と日本」がいちばんよくそれを表している。李光洙は1892年生まれ。日本の明治学院に留学してきたのは1905年の日露戦争の頃である。日清戦争で韓国は日本の保護領となり、1910年に日本に併合される。いわばこの頃から韓国エリートのアンビバレントな人生が始まるのだが、明日また書く。
2006/06/29
27日、6日居た福岡ともおさらばする。新尾道で途中下車する。戦艦大和も模型公開も終わりとのことで、バス停のところに座っていた老人に尾道の観光のことを聞く。偶然とはいえ、えらい物知りで歴史上のことなどをとうとうと話す。話が弾んで、ではご案内しましょうかということになり、まず「尾道むかしおもしろ館ほっと蔵」というところに連れて行かれた。そこに頼山陽ゆかりの家の手紙類から焼き物、暖簾、はっぴ類、酒瓶、駕籠、馬の鞍、刀、槍、なぎなた、火縄銃、陣笠、兜、鎧などなど珍しい雑多なものが山ほど並べられていた。建屋も百数十年前のままの造作で、それをひとつひとつかの老人、いや元広島師団の陸軍将校の来原健氏が薀蓄を傾けて説明してくれた。ついでに街を散策する。かつては港に日本全国から北前船が雲集し、外国船まで入ったという往年の盛時を想像する。来原さんはついでに近くの浄土寺まで案内してくれ、さらに小津安二郎監督の東京物語のロケ地として有名なこと、本因坊戦がこの前行われたこと。白樺派発祥の地であること、林扶美子の生地のことなどことこまかく話を聞いた。お礼に食事でもしましょうというとそれは固辞。立派な元軍人さんである。3時に芦田の息子の家を訪問し、孫と思い切り遊ぶ。27日は関西知研のセミナーに出る。鈴木博信氏(桃山学院大学教授)の「ソ連崩壊とロシア政治史のサイクル」を聴く。鈴木さんは老いてますます盛んという感じで、口を開けば言葉が滝のごとく噴出するさまは昔と同じ。とうとう2時間そのままで行ってしまった。大変な勉強家であるから、世界史の出来事があたかも自分が身近に経験したことのように身体化していて、生々しく表現する。この方とは24時間か48時間くらい話しても話し足りないなと思った。
2006/06/28
22日から福岡に来ている。まだこちらの景気はいっこうによくならないという。福岡ほどの大都市にしてそうである。どうして日本の景気は一極集中したままなのであろうか。地元の経営者の方と話したがなかなか大変のようである。河太郎というところでおいしい料理をいただいた。店の入り口に河童のいろいろな彫り物が飾ってあり、有名な清水カッパの絵もあった。九州には河童の話が多い。私の父は熊本人であるが、こどもの私に向かってまことしやかに河童の話をした。川で泳いで遊んでいると河童が来て尻の穴に手を突っ込んで臓器を奪い取るから気をつけなというわけである。しかし、河童の頭の皿には水がたまっており、それが乾燥すると河童は死ぬという。この話はよく聞いてみると川獺らしい。子供時代の父は川獺に石をなげてたくさん殺したという。韓国の旅の話は東京に帰ってきてから続けるが、韓国のインテリはよく日本の本を読んでいるなと思った。福沢諭吉の学問のすすめは韓国でも中国でもよく読まれている。しかし彼らがいうのは、「脱亜」の部分は文句なく自分たち自身の問題として理解できるが、「入欧」の部分では、日本ならすらりとそれができたが、中国の場合は「入欧」するにも欧州は敵国として目の前にあったのだという。韓国の場合はさらに複雑である。「入欧」の前に日本が目の前に立ちふさがっており、選択肢はほとんどなかったという。福沢の脱亜論に共鳴すればするほど、だんだん自国を日本と同心円として重ねることによって自己を欺くしかなかった。そうしてある人たちは「入日」するのである。そこにある自虐は何と深いことか。
2006/06/26
私が伯ちゃんこと李愚伯きょうだいと遊びほうけていたのは、昭和10年ごろから17年の秋までである。この頃は日韓併合(1910年)から30年以上が経っていた。1938年に創氏改名が決まり、朝鮮半島の人は日本姓に改名しなければならなくなった。家の制度は日本式にされ、夫婦別姓は許されなくなった。改名は自由だとされていたが、しないといろいろなプレッシャーがかかり、結局80%の人が改名した。この結果、金姓が多い朝鮮では金山、金澤、金村、金田、金本などが多くなり、浅野、竹本、松岡、梅本など松竹梅をつけた名が増えた。李家は最後まで改名を嫌がったが、とうとう我が家に相談に来て、父が改名を考えた。同じ年に小学校で併行して教えていた朝鮮語の教育を禁止した。朝鮮人は日本人語の学習を強制されるようになった。その他、宗教も神社参拝、宮城遥拝などが押し付けられた。カトリックおよびプロテスタントの総局はただちにキリスト教徒が神社参拝、天皇崇敬を強制されても、それは習俗に従ったもので、信仰とは別のものであるとして信徒たちの逆境を救った。天津にはその頃、すでに5万人ほどの日本人がいたが、そのうち1万5千人ほどは朝鮮出身の人であった。台湾の人も日本籍であった。1938年に法令ができると、朝鮮人の子は別校舎で教育していたのを、日本人の小学校に移し、サクラ組という新設の組をつくって入れられた。朝鮮で義務教育令ができると、両班といわれる上流階級は自分の子を貧民の子と一緒にされることを嫌がった。それで彼らの一部は日本人の子と一緒にしてほしいと希望してきた。李家は両班出身であったから、李家のきょうだいは日本人の学校に入ってきたのである。今日の若い人はピンとこないかも知れないが、朝鮮半島の人は北朝鮮も南朝鮮も、満州のほうにはみだして移住していた約80万人の朝鮮系の人々もおしなべて建前は日本人だったのである。内鮮一体ということがいわれて、朝鮮人、台湾人の準日本人化がどんどん進められた。
2006/06/21
李家きょうだいと私の兄弟はともに日本人の幼稚園から小学校に通った。我が家が李家と別れたのは昭和17年の秋で、我が家が旧イギリス租界に引っ越したからである。やがて戦争がたけなわになり、李きょうだいたちと会うのはたまにしかなかった。昭和19年、我が家は北京に引っ越す。以来、李家との交流は途絶えた。私の両親が北京で客死し、私が弟妹とともに引き揚げてからは、李家のきょうだいたちと遊んだ楽しかった日々を夢のように思い出した。朝鮮戦争で、いったいかれらの運命はどうなったかと暗澹と思いを馳せた。昭和の30年代の中ごろ、私が名古屋に転勤となり、休日に歯医者の待合室で備え付けの雑誌をパラパラとめくると、KBCの日本向け国際放送のアナ李愚伯という記事を見つけた。それでさっそくKBCに手紙を書いて互いの消息が知れた。伯ちゃんこと李愚伯氏はそれからまもなくアメリカ行きの途次日本に立ち寄り、我が家に泊っていった。李家も我が家のことを案じて、三井の本社に問い合わせたが、不明という返事であったという。18歳の彼は、朝鮮戦争が起こると、国連軍の英語通訳になり、やがて北鮮軍の捕虜になり、脱走して南にもどり、姉たちはアメリカに避難し、大変な時代だった話を聞いた。その後、私は韓国に行き、KBCで我が家と李家のつながりを放送させてもらった。伯ちゃんは事業が成功して2つの会社を経営する身となり、立派な邸宅に住んでいた。姉たちはアメリカで結婚しており、おばさんは老齢化が進んで寝たきりであったが、半分認知状態の中ではっきりかつての働き者の声を聞いた。今回の旅行をふくめて李氏は常に熱い接待をしてくれる。どうしてこんなによくしてくれるのか、家内はいぶかりながら推測した。「あんなによくしてくれるのは並大抵ではないわよ。幼馴染みという程度なら普通はあんなことはしないわよ。きっとあれはあなたのお母さんが向こうによくしてあげたからではない?」。
2006/06/19
私と李愚伯氏との縁は、私が中国・天津で生まれてからすぐ引っ越した家の隣に李一家が住んでいたことがはじまりである。昭和8年頃の話である。日本租界の比較的いい住宅地の長屋ふうの連合住宅で2階建て、間取りもけっこう大きな家であった。我が家は両親と兄と私、李家は両親と子供3人であった。上2人の子供は女、3人目が長男の愚伯氏で私より1歳下であった。両家の子供たちは互いの玄関から往来せず、ベランダ伝いに行ったり来たりしたから、あっという間に眼の前に現れた。李家の父は私の記憶が始まる前に亡くなった。貿易業をしていて結構繁盛していたらしい。突然の死因は脳膜炎と言っていたが、私と同年の次女の津英が長じてアメリカで医師になってからの話では、あれは毒殺ではなかったかと言った。日本人医師が2名やってきて注射を打った直後に死んだのは医師として考えると不自然だというのである。彼女がなぜ毒殺の疑いを抱いたかというと、やはり私の記憶にないが、李家の祖父は李朝の高級官僚であったが、日本併合後、上海に逃れて独立運動をしていた。やがて老いさらばえて天津の李家に引き取られ、そこで亡くなった。それで、その子である李家の父にも日本当局の嫌疑がかかっていたのではないかというのである。李家の父が独立運動を密かにしていたとは信じ難いが、今考えてみると、当局にマークされていたふしがないでもなかった。李家の母が異常に親日的で地域の国防婦人会の副会長を熱心につとめ、その働きぶりはすごく熱心で日本人顔負けだったのは、そういうことへの防衛のつもりだったのかも知れない。李家とわが家が親密になったのは、私の母が喘息もちで病弱であった上、中国語はカタコトしか話せないので、いつも使用人との間でいらいらしていた。時々ヒステリーを起こした。そういう時、李家の母がすぐ飛んできて通訳をし、使用人の教育に当たった。やがて彼女は自立のため、ドイツ租界に裁縫店を開き、有能な裁縫師として流行るようになった。私の母は三井関係の有閑夫人連とともにぞろぞろとそこに通って洋服をこしらえてもらった。李家の子供たちは毎日何時間も我が家にやってきたから、李家の母も安心だったのかも知れない。そういう相互扶助的な関係が我が家との間でできていたのだと思う。その後、私の父は、日本人やくざによる李家追い出し事件の解決に一役かうことになるが、このことはまた後でふれる。
2006/06/15
韓国料理をひととおり食べた。すき焼き風の焼肉、冷麺、ビビンバ、クッパ、キムチなど。韓国人はこれを毎日うまそうに食べている。しかし、これほど日本人と食い物がちがうことにあらためて驚いた。李愚伯氏によれば、韓国人と日本人は見かけはほとんど変わらないが、共通点は10パーセントもないだろうという。しかし中国人とは20パーセントくらい共通点があるという。実際に食べ物を見てもそう思う。昨日、構想日本のセミナーに行って韓国の専門家という人の話を聞いた。40代の人である。しかし今の50歳代以下の人たちにはもう韓国という国に対する感情輸入といったものはもはやないと感じた。同様に同じ世代の韓国人も日本に対する理解は反日教育のためにきわめてウスッペラである。嫌韓流というマンガを立ち読みしたが、いわゆる相手の傷に塩を塗りこむというか、ああいうことは日本人は口がくさっても言ったらいけないことである。日本人が大国民で、武士道の国であるならば。あのマンガには日本人が韓国に対して鉄道を敷いたり、教育を熱心にやったり、韓国の近代化は日本のおかげだということを反日の韓国人に反論して、相手にグーの音も言わせなくしてしまう筋書きである。寅さんの映画に出てくる「それを言ったらおしまいよ」である。日韓の歴史は実に重たい。涙なくしては語れぬと言いたい。ソウルで私を歓迎してくれた人たちは70歳前後の人たちで、日本の植民地時代の最後の教育を受けた人たちである。この人たちは日本語をすらすら話す。日本を尊敬している。日本人の友である。しかし今では対日協力者の烙印をおされている。この人たち以降の年齢の人はもう日本語を話せず、ずっと反日教育を受けて育ったから、アメリカ寄りだが、日本は外国の中の一国に過ぎない。だが、この世代の人たちも何かで日本にくると日本のよさを信じるようになる。今まで教えられていたことがうそだったことを悟る。呉善花さんなどがその典型である。私はまず日本のよき友である友人たちについて語っていこうと思う。
2006/06/13
このたび、韓国によばれたのは、70年近い幼友達である李愚伯氏がむこうで勉強会をつくったから知的生産の技術を教えてくれという要請からであった。たまたま私の家内とその2人の友達がソウル旅行をしたいというので、ツアーとドッキングさせて行った。家内たちが観光している間に私は李氏が経営しいている2つの会社を訪れた。ひとつはDM発送の会社で、もうひとつはコンピュータソフトの会社であった。従業員は30人くらいで東芝とか日本の大企業からたのまれたソフト制作の仕事をしているという。社員全員が日本語を理解し、文書は日本語で回していた。優秀な女性常務の宋貞順氏は図解のよさを瞬時に理解し、これはぜひ覚えたいと言った。図解のCDを贈るとすぐ学習するといった。午後、李氏のアパートで開いた勉強会に出席した。6名の韓国の方と1人の日本の東芝の駐在員の方が集まった。メンバーは大学教授とか大会社のOBとか高級エンジニアだとかでかなりレベルが高い。3名は日本語教育を受けた最後の世代で70歳前後である。日本語が達者で、議論しだすと延々とつづくという感じで妥協というようなことをしない。日本人とはかなりちがうという感じがした。日本語のうまい3人がすぐ知研に加わりたいと言い出し、李氏は知研のソウル支部にしてはどうだと提案した。19日、家内たちの観光組も自由行動になったので、ソウルの歴史博物館に行く。女性たちが2時間かけて見学している間に私はホールの大理石の縁石に腰掛けて案内役の金容善氏といろいろ語り合った。これは非常な収穫であった。金氏は現代という大企業の全身の会社で技師長を長く勤めた人で、日本語は日本人かと、見まがうばかりに達者である。さもありなんことに、彼は日本生まれ、母堂が日本人で、幼時から日本式の教育を受けた人である。2つの祖国をもつ人というか、実に深い含蓄のある思考を吐露した。おいおい書くが、韓国という国の運命、日韓の間に翻弄されたある個人の生涯というものをある感動を伴って聞かされた。
2006/06/09
さて、韓国旅行の話を書いてみよう。5月20日、旧友李愚伯氏の案内でソウルから約70キロ先の38度線をはさむ非武装地帯まで行ってみた。ほんの1時間半しかからなかった。非武装地域の間にはイムジン川が流れているが、大した川ではない。この川を渡って非武装地帯を越えれば北朝鮮である。ソウルからピョンヤンまで通じる京義線の鉄橋が川をまたいでいおり、2002年に臨津江駅から1つ目のドラサン駅が非武装地域の中にできたが、いまはそこまでの運行はとめられている。歩行者が渡れる自由の橋というのがあったが、そこも中間で仕切られており、向こうにいけなくなっている。そこに北にいる親族を思う色とりどりの手紙や紙が貼られてあった。渡るに渡れない涙の橋である。はるか向こうに北朝鮮の白い建物が望見された。ここに来て、何と言うのだろうか、歩いても渡れるちいさな川の向こうがあの北朝鮮で、あまりにもそれはごくあたりまえの田舎の光景で、どうという感懐も湧かなかった程度のものであった。だが、たったこれだけの境界で歴史が真っ二つにわかれてしまったとは。李氏はベルリンの壁は東西を分けていたにもかかわらず、年に1度や2度家族の往来が認められていたのとちがって、ここは民族の完全な断絶が60年続き、南北はまるで違った民族になってしまったのだとその残酷性を述べた。小さな公園があり、そこはかつて激戦地であったらしく、米軍兵士の激戦を忍ばせる銅板画がはられたモニュメントなどさまざまな記念碑があった。その中でも李氏が毎年おまいりしているというのが、日系2世の戦死者247名の名をきざんだ墓標である。朝鮮戦争に参加した2世部隊の生存者の会がロスアンゼルスにあり、彼らの募金でつくったものだのだという。見ると、沖縄出身者らしい名が多い。朝鮮戦争で約5万人の米兵が戦死し、その墓地はプサンにあるが、2世部隊のモニュメントがここにあるのは、この地の激戦で死んだ友を悼んで、とくにこの地に記念碑を建てたのだという。李氏がどうしてこの部隊に思い入れているかを次に書く。
2006/06/07
韓国旅行の前に、「ダビンチ・コード」を読み、映画を夕べみた。この映画はやはりキリスト教界の人にとってはそうとうなショックであろうと思った。一昨年に封切られたメル・ギブソン監督の「パッション」も従来のキリスト像とはちがうものを感じたが、今後の映画ですさまじくそのことがわかった。メル・ギブソンの映画は、すさまじい拷問に耐え、血みどろになってゴルゴダの丘まで歩かされ、処刑されるまでを強烈に描いている。しかし不思議なことに復活の場面はない。また聖書では娼婦とされているマグダラのマリアがちゃんとした女性として描かれ、妊娠していたか、子供を抱いていたかは忘れたが、とにかく従来とは違って描かれ、不思議に思ったのである。レオナルド・ダビンチは15世紀のルネッサンスの人であるが、この人の描いた最後の晩餐図をよくよく見ると、弟子は12人いるが、キリストのそばにいる1人はどうみても女性である。これには気がつかなかった。「ダビンチ・コード」では、この人はマグダラのマリアであるとしている。マグダラのマリアはキリストが復活後に最初に会った人でキリストとはそうとう親しい間柄であったことがうかがわれたが、まさかこの人がキリストの妻であり、キリストの子供を生んでいるという解釈は、従来のキリスト像を180度ひっくり返すものである。もし中世だったら破門もの、火あぶりの刑に処せられるところである。2000年経って、こういう解釈がオオッピラにされるようになったというのは、第二の宗教改革のようなものだ。しかし、ダビンチが最後の晩餐図に女性を描いていたというのは、ダビンチもそういう解釈だったのではないかと今にして思える。その後何百年もこの図に異議申し立てがなかったのもそういう解釈の流れがあったのだろう。キリスト教は、プロテスタントが分裂に分裂を重ね、信者がいちじるしく減っている一方、カトリックの方は名教皇ヨハネス・パウルス2世によって減り続けた信者が回復し、いまではアフリカや南米など非白人の間で急増している。キリスト教にはプロテスタント、カトリック、その他さまざまな宗派があるが、アメリカで大統領が「神」に宣誓するというときの「神」はユダヤ教も含めた、各宗派共通の「神」ということになっている。だからキリストの名は用いない。むしろキリストを神の子などというのはわかりにくく、「パッション」に示されたような熱烈な信仰者、預言者、つまり「人」としたほうがいいと思われつつあるのではなかろうか。2000年たってそういうキリスト諸派合同というか、そんなながれが生まれてきたのであろう。女性を差別するカトリシズムのストーリーがもはや耐え切れなくなった時代になってきたのであろうか。
2006/06/03
5月は中旬からずいぶん忙しく時が過ぎた。17日から20日までソウルに行き、ずいぶんいろいろな収穫があった。21日は新しい「霞ヶ関をつくる若手の会プロジェクトK」、つまりすでに書いたことのある若い官僚の霞ヶ関改革の組織を公益法人にして立ち上げようという最初の会が新宿の三井住友ビルの地下ホールで開かれ参加した。浅野元宮城県知事の基調講演があり、参加者は120名、大半が20代か30代の若手官僚で、21名でスタートした勉強会が横断的にどんどん広がってきたことが分かる。こういう動きを抑えようとする上役のことを会場で抵抗勢力と表現していた人がいたが、大いにやれやれといいたい。それが若者のあるべき姿である。24日に甲府の叔父が亡くなったので、通夜葬式に出た。そのとき久しぶりに見た甲府の街はいやはやなんともいえないくらい寂れていた。10年か15年くらい前まではそれでも岡島百貨店のある界隈は人が大勢出ていて活気があったのに。それが懐かしく思い出される。それがどうしてこんなに10年くらいで歩いている人が少なくなったのだろう。このことについてはいろいろ原因があろうが一言でいうと、地場産業がダメになった。超大型店が郊外の幹線道路にできてみんな車で買い物にいくようになった。デフレ、人口の老齢化などの原因が挙げられるだろう。ものすごい構造的な問題で、いくら街おこし運動をやっても限界を感じてしまうのである。
2006/06/01
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