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「すててこの車を洗ふ日曜日」(きくよ) 住宅街ではよく目にするの図。昔颯爽として女心を口説いた旦那様。髪もふさふさとしていたし、黒くて艶があった。外で逢えば、大切な一日のスケジュールをきちんと立てていて頼もしい。この人ならと、我が一生を託した伴侶。もうお互いを知り尽くして遠慮というものが無くなった。これでいいのだが、何だか騙されたような、損したような気がしないでもない。近頃は奥様よりも車の方に、愛の手を施す時間がとみに増えて、自分は置き去りにされているみたい。車に嫉妬する訳にも行かず、その昔、角隠しに引っ込めた角を出す訳にも行かない。トドのつまりは、こっちも好きなようにさせて貰うことにする。旦那も古女房のご機嫌に時間を割く手間が省けるから黙認する。40代、50代の夫婦なら正常。結婚後間もなく旦那が様変わりで車に手をかけ過ぎるのは、イエロー信号。綺麗に磨いた車に乗るのは、よその女かも知れない。注意肝要、注意肝要。
2003.04.30
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人はそれぞれ生い立ちが違っている上、先祖から貰った血脈も異なっている。本人の意思に関係なくこの世に生を授けられ今の時を迎えている。一人っ子に生まれついた人、多兄弟の中で揉まれて成長した人、豊かな環境ですくすく育った人、清貧の中で富める人を羨望しその反面不屈の精神を鍛えられた人、争いごとの中でわが身を守りながら大きくなった人、正に性差万別である。天に神在りと謂えど、生まれついた時から公平なことは在り得ないものである。いろんなハンディはあるのは否めない。一生経済的に豊かな人生を迎えられる保証もない。ではあるけれど、物心ついてくれば、そこからは本人のスタンスの置き方によって、精神的な満足は自分の力で見つけ出す術(すべ)を自ら会得して行かざるを得ないと思うのである。おりくの齢にもなると、自分よりも年下の人に仕事なり、生き方なりを教える立場に多々遭遇する。最近の若者は(当然、おりくもその若い未熟な年齢の時があったのだが)往々にして、基本よりも技術のみを優先して伝授して貰おうという姿勢が強いように感じる。情報が錯乱し、技術を有料で教える機関が増えたことに起因するのであろうか。・・・戦後の日本は近代化の道を歩み、経済的には世界稀にみる発展を遂げた国である。その一方で核家族が急増し、従来の年寄りから生きる諺(ことわざ)的なものを自然体で、日々の生活の中で受け継ぐ機会が無くなってしまった現在の家族構成には疑問が残る。急成長の企業が或る日歯車が狂って斜陽化して消滅することに見られるように、本来進化というものは古いものが序々に改良されて行くべきものでなかろうか。新参の若者が新しい部門の実態を徹底的に解明分析もしないで、小手先で大改造をして間もなく失敗するのに似ている。「古きを尋ねて新しきを知る」の格言は古い時代の言葉であるが、何の何の脈々と生きている「年齢を知らない」言葉であると思うのだ。
2003.04.26
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生きるって事は難しいものだな。倫理や善悪の物差しも難しいものだな。・・・丸い食卓の上に一つの林檎を置き、10人が腰掛けてその林檎を写生したとして、皆同じ絵になるかと言えば、そうでは無い。絵の上手、下手は別としても、画用紙に描かれる林檎は、やはり10通りの林檎になってしまう。倫理や善悪の基準は、その時代によって刻々との変化して行く。美、つまり美人の典型も時代によって、様々に変遷して行く。初めは誰かの手によって、人為的に美の基準が変えられて行く。細い眉毛の良かった時代、太い眉毛が流行った時代、細身で華奢な女がもて囃された時代。巨乳で無ければ人では無いに近いような時代。世の中に流されるか、自己を主張するかは各個人の選択肢にあって、或る意味で自由である。大まかな基準で全てを肯定しつつ、その長所のみに賛辞を贈ることも、自己の視野を広げる上で必要ではないだろうか。おりくは全て事を白紙で一旦受け入れ、自分の物差しで肯定、否定して行きたいと常々思っている。噂や氾濫する情報だけで判断の基準にはすまいと思っている。
2003.04.24
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「ビール注ぐすこしの嘘はつかせおき」(きくよ) ちょっと時節は早いけれど、これなンですよ。女性の 凄 い ところは。所詮、お釈迦様の手の平の上であっち行き、こっち行きしている孫悟空と、男 は同じこと。女の嘘は男に見抜けないのに、男の嘘は女にゃー直ぐ判る。男は嘘をつく時、余計な事を言ったり、いつもと違った行動を取ったり、妙に優しくなってしまうから、女の頭にある異物検出器がすぐ反ねる。気づかれているのに、まだ嘘の上塗りを男はしてしまう。程度問題であるが、まあ少し見逃せる範囲であれば、女は可笑しさこらえて目を瞑る。男の根正直さにほだされ、女もお酌などしてサービスする。そこまでサインを出しているのに未だ気づかない。男ってヘンな生きもの。・・・もう一句。「遠き子と昼夜さかしまさくらんぼ」・・・我が子は世帯を持つようになって、地球の真裏側で家庭を持ち働いている。昼夜が正反対になっている。この子をあやしていた時分、まさか親子が別の国で生活することなど考えもしなかったのに。今年も幾つか実をつけたさくらんぼの木。遠い遠い昔の子の匂いと薄桃色のほっぺ。・・・おりくの句「女文字書簡のシールはさくらんぼ」。
2003.04.22
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都の外れの亭にて転寝をして居りました。花散る宵に衣擦れの音。御簾の向こうに緑の御髪艶やかな姫が恥ずかしそうに控えて居られた。・・・・・こちらから御手を引き寄せれば、なよなよと崩れ給ひしに、更に引き寄せれば見目麗しき姫。名を問ふても、細き首を振るばかり。ひしと抱き寄せれば、わが懐に収まりぬ。程良き重さの姫はうっとり、円らな瞳で見つめ給ふ。その奥床しさに我を忘れて・・・・。一時過ぎぬれば、わが傍らに姫の姿無く、さては春の夢かと思いしが、再び御簾の向こうに仄かなる女(ひと)の影。さきほど見し姫には非ず、只、にこやかに打ち笑いなどし給ふ。手を差し伸べれど、源氏のかほに笑みを浮かべて座し給ふまま、「春の夜の 夢の枕に 侍ぬれば 君が情(こころ)に 花や散るらむ」と一首認め参らせ、後ろ姿を残し打ち去り候。そはならじと後追いやれど、身軽な振る舞ひに、その裳裾を捉へる術無きまま、終に打ち損じて候。やれ哀しやなと悔しがり居れば、再び別なる姫が控えて居りぬ。「源氏の君さま、夢路と申しまする。何やら腰の辺りの辛ければ、優しゅう揉みなど介抱賜ひたし」とぞ申されぬ。しからば落花しきりなる湯殿に案内(あない)致せしが、衣脱ぎたく無き振る舞ひ。「これ夢路姫、湯殿は腰ひも一つにならねばなりませぬ」と説きふせれど、只、恥ずかし気に打ち震え給ひぬ。散りゆく花が姫か、姫が花かといとめでたく思いしが、淡き衣を残せしままに、この姫も打ち消えて終ひぬ。・・・後の世に「高野聖」と言ふ物語が有りしが、正に似たる夢にぞありぬべし。
2003.04.13
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