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いままで、一通り、シュタイナーのキリスト教関係の講義を書いてきたが、これからは、人智学の基本に戻って、シュタイナーの魂生活の講義を書いてみたい。 人間が自らを表現する様々の方法を、人智学の観点から、観察するのは興味深い。というのは、この連続講義で行ってきたように、いわば様々の側から人生にアプローチし、その様々の側面を観察する事で、人生に関しての、ある包括的観点が獲得されるからである。 今回は言語の中に明瞭に示される、人間精神の普遍的な表現を取り上げる。そして次回は、「笑うことと泣くこと」という題名の下に、言語に関連する、といっても、言語とは基本的に異なる人間表現の、いわば多様性を見ていく。 人間の言語について述べるとき、いかに人間全ての意義、尊厳、その人間全体の本質が、言語と呼ぶものと関連しているかを十分に感じる。人間の最奥の存在、全ての思考、感情、意志の衝動が、仲間の人間へと流出するとき、言語を通して、自らを、仲間の人間に結びつける。 このように、人間は、言語を通して、人間の存在の、無限に拡張する可能性を、環境の中へと延ばす能力を感じる。一方、意義深い人物たちの内(精神)的生活の中に入れる人なら誰でも、いかに言語が暴君になるか、つまり我々人間の内的生活を圧倒する力になるかを感じることができる。 人間は、感情と思考、すなわち人間の魂を通過する、特別で親密な性格をもった、この感情と思考を、言葉、或いは言語をもってしては、いかにも貧弱で、不十分にしか表現できないことを感じることができる。そして人間は、母国語の言語でさえも、思考に関して特定の様式を、自らに押しつけるのを感じることもできる。 誰もが、人間の思考に関する限り、いかに言語に依存するかを意識する必要がある。通常、我々の概念は、言葉に付着している。そして不完全な発達(進化)段階にある人間は、言葉と、言葉が吹き込む概念とを混同しがちである。 ある人々が、周囲で普通に使われる言葉の中に含まれる事項を超えた概念構築を、自らで構築できない理由が、ここにある。そして、いかに共通言語を話す人々全体の性格が、一様に、その言語(母国語)に依存しているかに気付く。 国民的性格、言語の文脈上の性格を詳細に観察する人は、人間が、魂の内容を、音に変化させる仕方が、今度は逆に、その人の性格の強さや弱さ、気質を表現する方法、そして全体的存在に関する、その人の概念にさえ影響を及ぼすということに気付くだろう。 言語の構成は国民の性格について多くを告げる。そして1つの言語が1つの国民に共通であるが故に、個々の人間は、いわばその国民の間に卓越する共通の要素、平均的な性質に依存する。このように人間は一種の圧政、共同体の支配に屈しやすくなっている。 しかし、もし人間が、言語は、一方では個人的な精神生活を、他方では共同体の精神生活を包含している、ということに気付くなら、「言語の秘密」と呼ばれる、何か特別な重要性をもつものとして、言語を理解するようになるだろう。もし、人間が、いかに言語において、自らを表現するかを観察するなら、その魂的生活に関して、かなり多くのことを学ぶことができる。 言語の秘密、その起源と各時代における発展は、いつでも、ある特定の科学的な専門分野における研究課題であり続けた。しかし、我々の世紀において、これらの専門分野が言語の秘密を暴くことに特に成功したとは言えない。 いま、言語とその発達、そして、その人間との関係を、これまで人間とその発達に適用してきた人智学的観点から、いわば警句的、かつ外観的に照らし出そうとするのは、この理由からである。 対象、出来事、経過(プロセス)を記述するのに、言葉を使うとき、第一に、非常に不思議に見えるのは次の問いである。 「言葉や文章を構成する、ある特定の音の結びつきと、人間の内にあり、言葉として表現される対象が意味するものとの間のつながりとは何なのか?」 この関連で唯物的科学は幅広い観察結果を、あらゆる方法で結びつけようとしてきたが、人間の内面の像と音の構成を結びつける、その方法は、不満足な性格をもつものと感じられてきた。その問題は、次のように非常に単純化できても、それに答えるのは究めて困難である。 人間が外界の、ある対象や出来事に直面したとき、何故、その対象や出来事の残響として、自身の内部から、様々な特定の音を発したのか? ある観点から見ることにより、この事は全く単純に考えられた。例えば、言語は、元々言語器官の内(精神)的能力によって形成され、つまり、この内的能力が、外界の音として聞こえるもの(例えば、ある動物の鳴き声、或いは、何かが、別の何かにぶつかる衝突音)を模倣し、生まれたと考えられた。 もしくは犬が「ワンワン」と鳴くのを聞いた子供が、その犬を「わんわん」と呼ぶようなものであるとした。このような言葉の形成は擬音、音の模倣と呼ばれる。これはある方向性をもった考え方により、音と言葉を形成する本来の基礎とされた。 しかし、当然のことながら、人間は、ではどうやって音を発さない存在に名前を付けるに至ったのかという問題は答えられないまま残る。そのような理論の不十分な性格に気付いていた偉大な言語学者マックス・ミューラーは、この説明を「ワンワン」理論と呼んで、馬鹿にした。 彼は別の理論を打ち立てたが、彼の反対者達は、今度はそれを「神秘的」(この言葉は、本来この意味で使うべきではないが)と呼んだ。というのも、マックス・ミューラーは、様々の対象が、いわば自身の内に音のようなものを含んでいて、つまり、落下し、音を発するガラスや、鳴る鐘だけでなく、ある意味、あらゆるものが音を持っているという観点を掲げているからである。 そして、人間の魂と、この表現要素、すなわち対象の本性との間に関係を確立する人間の能力が、魂の中に、対象の内的な音存在を表現する能力を呼び起こし、例えば、鐘の本質的要素が「キンコンカン」という音の中で経験されるというように考えた。 そこで、マックス・ミューラーの反対者達は、彼が馬鹿にしたお返しに、彼の理論を「キンコンカン」理論と呼んだ。詳細に検討すれば、人間が、物事の本性に関して、魂の中で残響のように経験するものを、このように外的な方法で性格づけようと試みるときには、常に何か不満足なものが残ることが分かる。つまり、人間の内(精神)的な存在の中へと、より深く貫き至ることが要求される。
2008年05月29日
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では、ヒエラルキア存在とは何なのか? セラフィーム、ケルビーム、トローネから始める。彼らは神から受け取った衝動の遂行によって、その権威を行使する。次に来るデュナミス(運動霊)は、その力を上方から受け取り、上方に負う。そして、その事はエクシスアイ(形態霊)にも当てはまる。もし、彼らが悪の存在になるなら、神的世界の決定の結果、悪の存在になるだけである。 そして今、人間のすぐ側まで降りてくる権天使(人格霊)、大いなる御使い(大天使)、そして御使い(天使)に至る。では、人間は、どのようにしてヒエラルキアの位階に組み込まれるべきなのか? 大天使と天使(大いなる御使いと御使い)の後に続いて、ヒエラルキア的な位階の中に置かれるべきなのは、「自由の霊」、或いは「愛の霊」とでも呼べるような存在である。上から下に数えるなら、この存在は「10番目のヒエラルキア(天使)」である。 この「10番目のヒエラルキア(天使)」はいまだ発達途上にあるが、霊的なヒエラルキアに属している。宇宙では、単なる繰り返しが行われているのではない。1つの周期が完結する度に、新しい要素が宇宙進化の中に導入される。そして、その新しい要素を組み込むのは、常に人間の発達(進化)段階にあるヒエラルキア存在の仕事なのである。 今回の講義では、人間の意味と重要性を、宇宙の意義の考察によって、推測してきた。少なくとも、ある程度は、人間存在の意義に関する精神的な質問を投げかけた。そして、秘儀の教えに従って、宇宙の中央点としての人間存在の重要性を確立しようと努めてきた。 この人間存在の確立の中で、中心の謎、つまり人間の謎を周辺から解明しようとした。円周の観点から点の謎を解こうとした! 円周から中心点の謎を解く事で、我々の知識を現実の領域に置くことになる。つまり、この事は、真の人智学的知識が、現実的で具体的な知識でもあるということの本質的な点である。言い換えれば、人智学的知識自体が、宇宙と精神的なヒエラルキアの像を直接創り出す。 我々人間は宇宙の中心にいる。 人間の周囲にある全ては意義を失うが、それは、人間の感覚による、知覚可能な外界は、人間が直面する謎を解くことができないからである。対して、人智学的知識は、まるであらゆるものを、1つの点に濃縮するかのようである。 そして、全てが、全体として圧縮するとき、宇宙の謎についての答えが、物質と同様に、力強く現実的な存在として、それは精神的存在の反映で、イメージだが、宇宙の周辺部から、中心へと再び戻ってくる。 物質は、物質自体がお互いに寄せ集まり、中心点で消滅すると同時に、宇宙の周辺において再び現れる。これが真実である。 我々の知識が現実となるのは、それが宇宙全体の構造として、或いはその過程(プロセス)として、我々の目の前で、その歩みを進めるときである。そのような知識は、もはや思いつきが形になったもの(空想的理論の織物)ではない。 というのも、そのような知識は宇宙から生まれてくるからで、我々人類が発達させるべき感情とは、上記のようなものである。 叡智は、我々の理想になるべきである。 それは宇宙の周辺から生まれて、大いなる力で、つまり、我々が、自身の運命を成就し、自身の宇宙的な理想を達成することを可能にするような力で、我々を満たすことができる叡智である。この叡智の力があれば、未来に、我々を待ち受ける人類の理想を現実のものにするということもまた可能となるだろう。
2008年05月28日
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もし、人間がルシファー的な力を受け取っていなかったらどうだろうか? キリストの力は流れ込んでいたが、ルシファー的な妨害には出会わなかっただろう。我々人間は、これらの相殺的な力を一度は克服する必要が生じたことで、現在、可能となった程度まで、善、真理、叡智において、発達(進化)できた。 人間はヒエラルキア(天使)存在の1つだが、他の存在とは異なっている。セラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)、キュリオテテス(主天使、叡智の霊)、デュナミス(力天使、運動霊)、そしてエクスシアイ(能天子、形態霊)、アルヒャイ(権天使、人格霊)、アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊)、そして、アンゲロイ(天使、薄明の霊)の一部とも異なっている。 未来を覗き見て、人間は次のように言う。 「私は、わが行為に向けた衝動を、自身の内的存在の最奥部において追求するように求められている。例えばセラフィームのように、神の思索からではなく、自分自身の内的存在から行う」と。 キリストは、衝動に従わせるような形で働く神ではない。人間がキリストに従うのは、ただ本人の理解と自由から行うだけである。キリストとは、様々な方向に発達(進化)しようとする、自由で個別的な自我を妨げることを、決してしない神である。 キリストは言葉の最も深い意味で、次のように言う。 「汝は真実を知るだろう。そして、真実は、汝を自由にするだろう」と。そして、天使のヒエラルキア(位階)に属する存在たち、悪を行う可能性のあるルシファー的存在たちは、人間の力によって、再び救済され、自由にされるだろう。 このように、宇宙の発達(進化)は単なる繰り返しではないことが分かる。新しい要素が入ってくるからである。人類が経験するような人間の段階は、以前の天使、大天使、或いは権天使の間で見られたような人間段階のものではない。 人類は世界の中で成就すべき全く新しい使命、丁度今記述したような使命を有している。人類が地球世界に降りて来たのは、この使命を達成するためである。キリストは人類の自由な援助者としてやって来た。上から働きかける神としてではなく、多くの中の最初に生まれた存在としてやって来た。 ヒエラルキア(位階)を構成するメンバーとしての人類の尊厳と重要性を十分に把握できるのは、このような形だけである。より高次のヒエラルキア(位階)存在たちの高貴な本性と栄光を見上げ、人類は自らに、次のように言える。 「これらのヒエラルキア存在たちが、いかに力強く、賢明で、善なる存在である(従って、真の道から逸れることができない)としても、世界に自由をもたらし、そして、自由と共に、我々が言葉の真の意味において愛と呼ぶものをもたらすことができるのは、唯一人類だけで、それこそが人類の偉大な使命なのである」、と。 というのも、自由なしには愛の存立は不可能だからである。(神の上からの)特定の衝動に、どうしても従わざるを得ない存在たちは、従うだけしかできないが、それ以外の方法が可能な存在にとって、いわゆる自由を可能にする唯一の力がある。その力が愛なのである。 自由と愛は相互に属する2つの極である。 もし、愛が我々の世界に入ってくれば、(神の上からの)特定の衝動以外の方法を可能とするのは、自由によるもの、つまり、ルシファーと、ルシファーに打ち勝つ者(その者はまた人間を救済する者でもある)、つまり唯一、キリストだけである。 地球が愛と自由の宇宙であるというのは、この理由によるが、重要なのは、人類を謙遜から遠ざけようとするのではなく、西洋の秘教においては、絶えず知られてきたような、一連のヒエラルキア存在たちに精通するようになることである。 セラフィーム、ケルビーム、トローネは神の眼差しの下で伝達される直接的な衝動に従う。キュリオテテス、デュナミス、エクスシアイは、より高次の力にまだ非常に密接に結びついているため、人間の前進的な発達を可能にするための反抗命令を受け取らなければならない。 大天使や人格霊でさえ、間違いを犯したり、自らの自由な決意によって悪に陥ったりすることはできない。人間の真上に位置するヒエラルキア存在たちは、天使、或いは大天使と呼ばれるが、それは、彼らが、自身の仕事を成し遂げるのではなく、上方から受け取った命令を、ただ遂行するだけであることを示している。 一方、人間は自身の仕事を遂行するように、徐々に成熟していくヒエラルキア存在なのである。木星紀、金星紀、そしてヴルカン星紀の発展を通して、人類は自身の衝動の成就に向けて、徐々に成熟していくだろう。今日、この目標はいまだ遙かなものとはいえ、いつか人類はその目標を達成するだろう。
2008年05月27日
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国内の医療問題が解決できなくて、地球規模の温暖化問題のような壮大な問題が解決できるのだろうか? 全く馬鹿政府の馬鹿連中には呆れかえってしまうよ。 大きな問題に取り組む前に、せめて、足元の簡単な問題を解決してくれ! 大きな問題に取り組むだけ、無能であることが露呈しているぞ。 まぁ、所詮、解決能力ゼロなんだから、せめて大きな問題に取り組み、点数を稼ぎたいという馬鹿丸出しの知能のなせる業なんだろうね。 無責任もここまできたら、むしろ哀れだな! 日本の総理ってこんなに馬鹿なんだろかな? 大きな問題に取り組みましたからって、誰が評価するかよ! せめて、ドンキホーテになって早く自滅でもして、幕をひけ! 福田君、君はゼロ点なんだからね。最低点なんだよ。 小学生並みの初歩問題も、自分で解けずに、官僚に丸投げしているの? わかるかな? 自分の立場がね? あなたは国民にテストされてるのよ! 採点者じゃないんだよね! 落第者なんだよ。安倍君は、病院に逃げ込んで病欠したけどね。 難しい問題選んでないで、もっと、簡単な問題を解いてくれよ! 少しでも、基本問題を解いて、点数稼ぐべきじゃないのか? 減税とか、法人税課税とか、景気刺激策と、雇用促進だろう。 テストというのは、問題解いていかないと、時間がないんだよ! 点数取らずに進級したって、後でツケが来て、皆に馬鹿にされるだけだぞ! 至上最低の総理だってね。父親を泣かすなよ!
2008年05月26日
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昨今、巷では大馬鹿者が一種ブームになっている。確かに、馬鹿な振りをするのは、賢さを表すもので、「能ある鷹は爪を隠す」という諺や、「馬鹿殿」という江戸時代の褒め言葉もある。 「馬鹿殿」とは、江戸時代、幕府は各大名の隙を伺って、少しでも倒幕につながりかねない小賢しい殿様大名を、前もって潰してしまおうとする幕府防御策に対する対抗手段、つまり対処法である。 「あそこの殿さまは、馬鹿なので、よもや謀反心など起こすまい」という相手に信頼を与えることである。この馬鹿な振りは、戦国時代、「うつけ」で呼ばれた信長の得意とするものだった。信長は、信玄や謙信には、その「うつけ」振りをいかんなく発揮していたという。 信長は、家臣にも、この馬鹿な振りを強要していたようで、秀吉が可愛がられたのは、この馬鹿な振りが得意だったからである。対して、光秀は、その貢献にも関わらず疎まれた。恐らく家康の嫡子の信康も、秀吉のように馬鹿な振りができていたら、殺されずに済んだかもしれない。 信玄は、有名な諜報使いであるし、謙信も、その信玄のライバルで、信玄の侵入を食い止めたのだから、よほどの諜報使いであっただろう。なにしろ、戦国の有力大名で、その素性が不明確なのは、信玄と謙信が、代表的である。信玄なんか、影武者までいたといわれるのだから、情報保持には、かなりの達人だったのだろう。 「人は生垣、人は城」といっていたのだから、よほど世情に通じていたのだろう。 江戸幕府も、このような信玄の遺法を採用し、かなりの隠密が暗躍したという。柳生但馬守なんかは、その代表的例といえる。 勝海舟が、江戸幕府の隠密の凄さは尋常ではなく、海舟が幕府に頼まれて、大砲をつくったときは、賄賂をうけとったかどうか、始終、隠密が探索にきたという。海舟はそのことを逆手にとって、賄賂は一切うけとらずに(当時、賄賂は受け取るのが普通だった)、非常に安く製作したので、逆に、老中阿部正弘の目に止まり、軍艦奉行に取り立てられたという。 海舟は後にいっているが、幕府の情報は、隅々まで行き届いていて、誰某が、運動を少しでも起こすと、すぐに伝わり、何かにつけて処分してしまったというぐらい、透明だったという。 大河で篤姫をやっているが、恐らく、斉彬や水戸烈公の慶喜擁立運動や、井伊直弼の家茂継承など、皆誰もが知りながら、その形勢を見守りながら、どちらかに組みし、虎視眈々と相手の隙を伺っていたように思われる。 その間、家定が馬鹿な振りをしているように描かれているが、確かに史実にはその証拠は残っていないが、史実通りの馬鹿であるなら、いかに太平の世とはいえ、馬鹿を将軍に選ぶゆとりもないのではないだろうか? もし、馬鹿を選ぶのなら、よほど、周囲がしっかりとしていなければならないだろう。恐らく、どちらかに組みして、いかに将軍とはいえ、敵対した相手から怨まれるのが嫌だったのかもしれない。だから、馬鹿将軍を演じていたとは、なかなか考えたものである。 実際、家茂は幼いながらも、江戸幕府を公武合体政策でなんとか切り抜けるが、慶喜は、時代の違いがあるとはいえ、敵前逃亡し、大政奉還は重要な決断とはいえるが、官軍に押し切られ、最後は投げ出してしまうのだから、決定的に、無責任な面がある。 海舟も、家茂は聡明で、慶喜は無責任といっているところからみても、斉彬は偉人だったが、慶喜選択は、どうも間違いであったことがわかるからである。水戸烈公の勢力を元に、攘夷派を取り込んで、慶喜勢力を拡大すれば、話は違ったかもしれないが、結果としては、家定はどうも、家茂に加担していたようで、家定にうまく騙されたという感じでもある。 さて、家定のような馬鹿は、史実にも馬鹿と残っているが、本当の馬鹿ではない。本当の馬鹿とは、自分の過ちに気づかない馬鹿のことである。つまり、軌道修正ができないまま、自分の意地と、面子、面目だけを通そうとする我儘な人格の持ち主のことを真の馬鹿という。 自らの我儘に、大勢の他人を巻き込み、不幸にする人物を差すのである。 現代でいえば、米国のブッシュと、日本の小泉だろう。 彼らは、いまでも、間違いでないと言い張るのだから。 「君子豹変する」という易経の表現がある。君子は、時勢を読んで、日々生まれ変わるという意味である。間単にいえば、昨日の間違いを今日には正すということである。 海舟に、横井小楠が、「今日はこのように思うが、明日はまた考えが変わるかもしれない」と、アドバイスしたというが、海舟はこの事を、小楠の凄さだといって褒めている。つまり、意見など、状況によって変わるというのである。そのとき、そのときの最善策を探し、実行していかなければならないということなのである。 世は無常である。世の中は日々移り変わっている。自らが世の流れに合わせなければ、置いてきぼりを食うだけである。それでも自分一人ならいいが、周囲を巻き込んでいくので、もはや悪人ともいえる。 自分の意見に固執し、エゴ丸出しでは、誰も、そこに入っていける余地すらない。正しい意見とは、少なくとも、誰もが納得できるものでなくてはならないからである。 「理屈は死んでいる。世間は生きている」と海舟は言っている。理屈通りにいくようなものではない。だから、世間に理屈を合わせなくてどうするのだ! 困っている人、手を差し伸べるべき人に差し伸べなくて、どうでもいい、贅沢をして、威張りちらし、殿様気分の連中を、益々堕落させてどうするのだろうか? 実は、このような人間は、人一倍プライドが高く、依存心が強い、愛情の薄い弱虫なのである。幼いときに、親から充分な愛情を受けずに育ってきた環境があるといえるだろう。思えば、ブッシュも小泉も、父親は家庭不在の、世間的に立派な人物である。このような父親は、家庭の父親役を演じることができない。 昔から、教師と神父の子供はグレるという諺があるが、世間の評判と、家庭内での役割では全く逆ということなのだろう。 この両者の父親も、そのようなことがわかっており、ブッシュは、成績が悪いのにも関わらず、無理にハーバードに押し込み、小泉も、英国留学させ、親馬鹿ぶりを発揮している位の甘やかせ放題である。こんな子供が、世を舐めて、苦労知らずで、マトモに育つわけがないだろう。 この両者には、恐らく父親の愛が不足しているのだろう。だから、父親の理想な人物を演じることばかり考えて、人生を棒に振ってしまったのだろう。理想の政治よりも、父親に褒められる子供でいたかったはずである。 その点、竹下の孫というダイゴというミュージシャンは家庭の事情に束縛されずに、自分の道を選んでいる点で、少なくとも、よい選択をしたといえる。1人の人間として生きることがまず優先されなければならない。でないと、少なくとも人生を、自分に嘘をついて生きることになるからである。 また、このような一家庭の事情に、国家が巻き込まれるのだから、国民としては不幸この上ない。このような二世議員は、一刻も早く、天下国家の公の政治体制から除外すべきである。家庭問題を、社会問題や、国家問題にするなど、もってのほかである。 モンスターペアレンツや、モンスターペイシェントや、至るところにモンスターが出現しているが、これらは、取るにたらない一個人の私事をさも大袈裟に、公共に持ち込んで、大事化している堕落した、その精神のなかにあるといえるだろう。 もっと、恥を知ったらいかがだろうか? このようなモンスターたちは、恥知らずなので、撃退して、恥を教えてやるしかない。まずは、公共の福祉を守って、家庭内で、その役割や義務を果たしてから、出直してきなさい! 父親として、母親として、子供として、充分に役割を果たしていますか? 公共に出る前に、エチケットを教えていますか? 社会に役に立つべき人間として、本当の愛情をもって育てていますか? 明日をつくる聖人になるか、明日を壊すモンスターになるかは、家庭内の教育次第なのです。 そして、教育とは、どのようなことでも粗末にせずに、学ぶことで、人生から何も学ばない人間こそ、真の馬鹿といえるのだろう。そのような人間は、成長が止まるどころか、何一つ、自ら行動しようとせずに、他をあてにしようとするので、益々退化していくからである。 教育により、自らを変えるか、自らが変わるのが嫌で、学習を放棄し、他に依存し、古くなった自分を守るために、新しい世の破壊行為を行うかのどちらかであるといえる。前者が進化で、後者が退化である。 たかが一部の集団の古い党を守るために、国家を破壊しようとする馬鹿な連中につける薬はないようである。馬鹿は死ななきゃ治らないらしい。
2008年05月26日
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さて、能天使、或いは形態霊と呼ばれる存在たちまでに下ってみる。彼らも同様に自ら邪悪になることはできなかったが、この事は人格霊(アルカイ、権天使)や火の霊(アルヒアンゲロイ、大天使)にも当てはまる。というのも、後者が古い太陽の上で、人間の段階を通過したときには、運動霊たちはまだ反抗命令を受けておらず、まだ、悪という、いかなる可能性も存在していなかったからである。 この悪になる、という可能性を最初に有したのは、天使(アンゲロイ)だが、それは、この悪の可能性が存在するようになったのが、月の進化段階以降であったことによる。「天上の戦い」は太陽から月への移行期に起こった。 多くの天使たちがこの可能性(障害の導入を運命づけた力に、いわば唆されること)を拒否した。彼らは以前の本性に対して真実であり続けた。このように、天使に至るまで、そして天使の一部もまたそうだが、より高次のヒエラルキア(天使位階)存在たちには、神的意志に従う以外のことはできない。これが最も重要なことである。 だから、二種類の存在たちがいる。第一に、運動霊たちが「天上の戦い」の間に生じさせていた中に、自らを投げ入れた天使たちがいる。これらの存在たちは、後の行いによって、ルシファー的な存在と呼ばれた。彼らは地球進化の間に人間のアストラル体に働きかけるようになり、悪の可能性を導入したが、同時に、自分自身の自由な活動を通して、自ら発達(進化)する可能性を導入した。 だから、ヒエラルキア(天使位階)の位階全体を通して、自由の可能性を見い出せるのは、天使の一部と人間だけである。自由の可能性は天使の位階において始まるが、それを十分に発達(進化)させるのが可能なのは、ただ人類だけである。人類が地球へと降りてきたとき、人間たちは最初、ルシファーの大群による圧倒的な力の餌食にならざるを得なかった。 これらのルシファーの大群が、その力によって、人間のアストラル体に浸透した結果、自我は、その力の領域の中に絡め取られた。レムリア期とアトランティス期の間、そして、その後の時代においても、自我が、ルシファー的な影響によって生じた雲の中に包み込まれているのが分かる。 このような、人間を弱体化させるような力によって圧倒されることから、人間が守られたのは、以前の存在たち(上方に留まった天使や大天使)が人間に影響を及ぼし、人類を指導するために、選ばれた人物たちに受肉したからに他ならない(半神半人)。この事はある重要な出来事が起こる時まで続いた。 以前、常に太陽存在と結びついていた、ある存在が、かつて、より高次存在たちが、太陽存在と結びついていたように、人間の肉体、エーテル体、そしてアストラル体に浸透できるだけでなく、人間の自我に至るまで、浸透できるほどに進歩した。 古代では、いかに、より高次の存在たちが下降し、人間の肉体、エーテル体、そして、アストラル体に魂を吹き込んだか、ということを述べたのを覚えているだろう。さて、時の流れにおける、特別な瞬間に、最も気高い存在(かつては太陽存在に結びついていたが、今度は、自我、つまり、自我が有する、あらゆる力の中にまでインスピレーション(霊聴)的に働きかける存在)を、自らの中に受け入れるために選ばれた個人的存在が立ち現れた。 自我は血を通して、自らを表現する。丁度、血が、物質的実質での自我の表現のように、血の温かさ、つまり火と呼べるものは、土星の火の名残りだが、自我の元素の表現である。この存在は二重の形で、自らを物質的に表現しなければならなかった。 火の元素の中に、自我存在は、燃える林とシナイ山上の稲妻において、自らをモーゼに告げ知らせた。 その自我存在は、人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴から、モーゼに語りかけることができた。この存在は、その暁を準備した後、血に浸透された体、つまりナザレのイエスの体の中に現れた。この太陽存在は地上的な個人の中に入り込んだ。人間の自我は、そのとき、自我に浸透した力によって、益々満たされ、飽和されるようになるだろう。 太陽存在により人間の自我が満たされることによって、人間の自我は、自身の力を通して、自我を引きずり下ろす力を持った、あらゆる影響を、徐々に克服できるようになるだろう。というのも、人間の自我に浸透した、この太陽存在は、以前に地上に下降し、肉体、エーテル体、そしてアストラル体に魂を吹き込んだ他の存在たち(ルシファー存在)とは、その性質において異なるからである。 古代の聖なる導師(リシ)たちについて考えてみる。既に見てきたように、高次存在の精神は、彼らのエーテル体の中に棲んでいたが、それは、崇高な存在が、偉大なアトランティスの祖先たちのエーテルの中に棲み、それを聖なる導師(リシ)たちが引き継いでいたことによる。 高次の精神は、彼らに伝えられたが、導師(リシ)たちは、彼らのエーテル体のインスピレーション(霊聴)を通して流れてくる存在を、人間の自我とアストラル体では、理解できなかった。時代から時代へと続く流れとは、理解できない霊聴のような存在だった。 人間はインスピレーション(霊聴)を受け取ってきたが、インスピレーション(霊聴)を受け取るときには常に人間の中に何か力のような存在を経験した。インスピレーション(霊聴)とは、いわば(霊能)力で、捉えるような存在だった。そのような場合、独力(肉体)で、行う、通常の人間力(努力)は多少退いていた。 その人間が前進(進化)し、改善するためには、より完全な存在からのインスピレーション(霊聴)を受ける必要があった。宗教の創始者たちは全て、このような状況にあった。天上の戦いから超越していた存在たちが、宗教的創始者たちの中に吹き込んでいたが、そのことにより、人間たちが自分自身の能力だけに頼るようにはなっていなかった(他力本願だった)。 けれども、キリストにおいては非常に異なった本性の存在が現れた。キリスト存在は、絶対的に何も(強制を)行わない、つまり、人々を、キリストのところに連れていくために、ほんの僅かな強制力さえも行使しない存在だった。この事が主要点である! もし、キリスト教の伝播について考えるなら、キリストが、その生涯において、キリスト教の布教を生じさせようとは、何も為さなかったという生きた証拠を見い出すだろう。古代の宗教創始者たちについて考えてみる。彼らは偉大な人類の教師たちである。彼らは、人類の発達(進化)の、ある特定の瞬間から教えを伝え始め、そして、彼らの教えは圧倒的な力をもって人類に働きかける。 今、キリストについて考えてみる。実際、キリストは、その教えを伝え続けるか? キリストの主要な貢献が、その教えにあると考えるなら、その人は、キリストを真に理解していない。少なくとも第一義的に、キリストは、その教えではなく、その行いを通して働きかけた。そして、キリストの最も偉大な行いとは、彼の死によって終わった行いのことである。その行いとは実際、彼の死だった。この事が最重要な点である! キリストは行いを通じて働きかけた。そして、この行為に関する知識が、世間に広まり始めたとき、彼はもはや物質的には存在していなかった。この事がキリストの効果と他の偉大な宗教創始者たちの効果との根本的な違いである。この違いの理解は全く困難だが、最も重要な違いである。 キリスト教の教え全て、キリスト教の中で教えられる全て、キリスト教の教え全ては記述でき、他の宗教体系の中に見い出すことができる。この事は否定できない。確かに、キリスト教の教えの本質は、それ以外の体系の中にも含まれている、とは言える。 しかし、キリスト教が有効だったのは、その教えの内容を通してなのか? キリスト教を広めるために最も多くのことを為した人物は、その教えに頼ったのか? 使徒パウロについて考えてみる! 彼がサウロからパウロへの変容を、自身に作用させたのは聖書の中に書かれている事柄によるものだっただろうか? 彼は、十字架上で死を遂げた人物が雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロが、キリストは「生きている」という事実についての彼自身の個人的な神秘体験を持つまで、キリスト=イエスの追従者たちを迫害していたのである。 キリストの死の影響、キリストの行為の効果が、パウロにとっての促進的な衝動となったが、その事が問題なのである。他の宗教体系は、その教えを通して働き、その教えはキリスト教の中に見い出されるものと同じである。しかし、キリスト教では、教えが重要ではない。問題は、生じた「行い」なのである。 キリストの行為が、ある人に働きかけることができるのは、その人が、キリストの行為を有効にしようと決意したとき、つまり、個々の自我の絶対的に自由な本性と、その行為とが、1つに結びつけられるときだけである。人間のアストラル体の中にキリストが存在する、というだけでは不十分である。 キリストが、真に理解されるためには、自我の中に存在しなければならない。そして、自我は、キリストを受け入れることを自由に決断しなければならない。この事が重要な点である。しかし、自我が、自らをキリストに結びつける結果として、この人間の自我は、自らの内に、現実を、つまり、単なる教えではなく、神的な力を、獲得する。 だから、キリスト教の教えは既に至る所で見い出すことができるが、その事が問題ではないということを、何百回でも示すことができるだろう。 キリスト教の本質的側面は、より高次の世界への自発的な上昇を通してだけ、自分のものにできる行為なのである。 (要点をいえば、ルシファーの力は、覇道のような力による統合なのである。そこには、権威主義や強制力が働き、ルシファー的でないものを排除しようとする傾向を帯びる。なぜなら、ルシファーは、自らの力こそ、正義と確信し、それを他に強いるものだからである。つまり独善なのである。独善は悪である。 対して、キリストの力は、王道による統合で、自主性と自由や愛、他者との共感を重んじるものである。何より、他者の痛みや苦悩を共に分かち合い、共に解決する道を探る。共存共栄の道を探るのである。キリストは、自らを善とは呼ばない、更なる高みへと、父への正義と、尊敬とに結びつける。 自らの過ちにも気づける謙虚な謙信な善なのである。その謙虚な態度ほど、真なる善なのである。どんな善にもわずかに悪が混じる。その悪を克服していく働きこそ善なのである。そして、他が不幸であるなら、自らの幸福をも捨てる勇気、つまり、誰もが幸福になるまで、自らの幸福を諦め、待てる忍耐力こそ、尊いものとするような道なのである。 勿論、キリストの道は茨の道で、過酷な道でもある。弟子たちの足を自ら洗い、その足で踏まれるのを厭わない道である。悪人に、自らが悪だと悟らせるには、悪を行わせ、自らの過ちに気が付かせることしか出来ないからである。確かに、非常に無力だが、そこには愛の深さがある。キリストの十字架がそのシルシなのである。)
2008年05月26日
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運動霊たちが反抗(反逆)命令を受けて「天上の戦い」に参加し、「障害の神」となったことから、その行為の結果が、人間のアストラル体の中に侵入し、別のより重要な意義を持つことになった。というのも、その結果は、人間の過ちと悪の可能性に相当しているからである。 このように、人間は間違いを犯す可能性と悪の可能性を与えられたが、同時に、自分の力で間違いと悪を乗り越えて上昇する能力をも受け取った。 第二ヒエラルキア(天使)に属する運動霊、或いはデュナミスのような存在にとっては、自ら悪となる可能性は全くなかった。彼らは反逆するように命令されたということを考えてみればよい。第三ヒエラルキアに属する存在、つまり、人間に最も近い天使だけが、妨害的な運動霊につき従うことも、或いはつき従わないことも選択できた。 屈服しなかった存在は、天上で戦い取られた勝利を描く絵の中に表現されている。この事は、人間がアストラル体への受肉、つまり動物人間の段階にまで進んでいた月の進化段階の間に生じることになった出来事を表現している。純粋なままに留まった天使存在たちは、いわば月進化の過程から自らを引き離し、下方の月上で起こっていることを免れた。 この構図は様々な形で我々の魂の前に提示される。それはまずミカエルと龍との戦いとして表現されているのが見い出せるが、ミトラ教の牡牛の図の中にも非常に明白に表現されているのが分かる。しかし、その牡牛の図は、これらの天使存在たちが、自らの義務を放棄した、ということを言うために表現されたのではない。 それらの象徴によって意図されていたのは、未来のための理想を描くということである。そこで言われていたのは次のようなことである。 「これらの存在(堕天使)たちは、むしろ精神的世界に上昇することを好んだが、人間である汝は『妨害的な力たち』に従った別の存在(堕天使)たちと、共に下降した。今、汝が取り入れたものに働きかけ、それを精神的世界へと運び上げるかどうかは、汝にかかっている。上方に向かう道上で、汝はミカエルや、牡牛の征服者になるように求められる。」 この種の象徴は、上記のような二重の意味で説明されなければならない。 だから、ここから分かるように、人類が自分自身の力で、その目的を達成する可能性(それはセラフィームでさえ、自身の努力によっては達成できないものである)を与えられたのは運動霊たちが反抗命令を受け取ったからに他ならない。最も重要なのは、この事実である。 セラフィーム、ケルビーム、トローネたちには、神によって彼らに与えられた直接的な衝動に従う以外のことはできない。主天使たち(実際には、第二ヒエラルキア全体)も同様である。ただ運動霊の位階に属する一部が反抗命令を受けただけである。 彼らが発展の道筋を横切るように身を投げ出したときにも、彼らには神の命令に従う以外なかった。「悪の源泉」とでも呼べるような存在を引き起こすときでさえ、彼らはただ神の意志を遂行したにすぎない。自らを悪の僕とすることによって、これらの運動霊たちは、悪という回り道によって、善を強化しようとした神の意志を達成した。
2008年05月23日
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残虐で有名なローマ皇帝ネロを、ヨハネの黙示録の悪魔666という誤った説が有名だが、さながら、いまの日本自民帝国には、この暴君ネロがいるかのようである。 75歳のお年寄りは、経済的に追い詰め、亡くなっていただき、道路は自分たちの既得権益や懐を肥やすために、鱈腹つくり私腹を肥やす。 なにより取り巻きに裏切られたくないので、パフォーマンス気取りで、何もいえずに知らん振りである。せいぜい、評論家的な無責任発言を繰り返し、国民を馬鹿にし愚弄する。 ついに消費税もアップするらしい。 やるなら、やれである。そして、どんどん奈落の底に堕ちていくがよい。 悪いことは全て、福田にやらせて、みんな福田のせいにしてしまえばいい。と自民の連中は思っているという。後がやりやすくなるという皮算用なのだというが…。 確かに、次の政権はみんな福田がやったことだから、逆のことをすれば、人気回復万々歳だろう。 福田がみんな悪いんだよ!といえばよい。 本当は、小泉が元凶なのだが、福田が無責任にも言われたとおりそのままに実行するから、全部、ツケは福田が疫病神になってくれる。小泉では政局で揺さぶられるから、福田なら仲間もいないし、切捨て御免てなもんで、さぞ、自民党の次の党首はほくそ笑んでいるだろう。 小泉の尻拭いの嫌なこと全部、福田にやらせて、梯子を外してしまえばいい! 福田はまるで田中角栄の末以下をみるようでもある。 しかし、自民よ、そんな暢気な駆け引きがもはや通用するとでも思っているのかな。 福田は用が済めば、与党野党の左右から袋叩きで消えてなくなるが、自民も小泉をなんとかしなければ、もはや生き残れないのではないだろうか? というより、福田が今以上に、やらかす気がしてならないな。なんせあの森政権以下の不人気なのだからね。小泉のようなパフォーマンスはもはや通用しないことを、小泉に踊らされた国民の誰もが知っているからね。 森はまだサメ脳といわれる愛嬌があったが、もはや福田は、日本一の嫌われ者だからね。福田が好きという奴は、頭がおかしんじゃないか?といわれるだろう。 貧乏神、厄病神、そのうち貧乏ジジイ、厄病ジジイだね。皮肉言って一人で笑っているインタビューだからね。最も上司にいてほしくない人物だろう。超ド級のKYだ!! つまり、もはや自民党の株が上がることはないということだね。 視聴率王のキムタクをもってしても、いまの政治では人気がとれないという証なんだろうな。それとも、いっそのこと、ドラマのように、キムタクを総理にしてしまうかな。それこそ、終わりだね。 福田総理、最後にいっておく、貧乏くじをひいたんじゃなく、お前が貧乏そのものなのだよ! 嫌なことをやらせるのに相応しい嫌われ者だってことだよ! 嫌われているのに官僚にお人よし気取りなんだから、超KYだね! おっと、低俗な政治を語っていると、こっちまで口が悪くなってしまう。くわばらくわばら!!
2008年05月22日
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さてここで、神秘学的叡智において、ある程度の進歩(進化)を達成した人たちにさえ理解が困難なテーマを紹介する。古代の秘儀においては、次のような形で、そのテーマを理解可能なものにした。 それは古代の秘儀への参入での、ある特定の段階で、弟子は残虐で恐ろしい形相をした敵対的な力が存在する段階へと導かれたことである。 そして、その敵対的力の存在を示すために、弟子の目の前で、考え得る最も恐ろしい所行を遂行した。これらを行ったのは、他ならぬ仮面を被った司祭、仮面を被った聖人たちだった。理解困難なテーマの理解に必要な試みを行うために、司祭たちは恐ろしい存在として、幽鬼的な姿に仮装し、考え得る最も恐ろしい所行を遂行した。 一体、これは何のためだったのか? 秘儀参入者、司祭が悪を行う姿で、悪の仮面を被って弟子の前に現れたのは何故なのか? それは、発達(進化)というものが、正しい道から、いかに遠く逸れてしまうものか、ということを弟子たちに示すためである。 弟子は、悪に直面して立つ、という幻想を抱くようにさせられた。仮面が取られたとき、弟子は初めて真実を見た。幻想が取り払われたときに初めて、弟子はその場面が試験、或いは試みを創り出すための手段であったことを知った。 (秋田のナマハゲに似ている) 弟子を悪に対して強化し、武装させるために、当然のことながら、通常、過ちを犯すはずのない司祭によって、それは最も忌まわしい姿で示された。これは宇宙進化の中で、実際に生じた事柄の反映に過ぎない。 木星から火星への進化の中間段階に当たる時代を通して、いささか浅薄な表現をすると、デュナミス、或いは運動霊の領域に属する一団の存在たちに対して、「反抗(反逆)命令」が出された。彼らは、前進(進化)的な影響を及ぼす代わりに、進化の過程に障害を生じさせるように配置された。 この事は「天上の戦い」として、知られるようになった。 (まるでスターウォーズのようである) これらの、いわば「反抗(反逆)する命令」を受けた運動霊たちの行為は、進化の道を横断して、投げかけられたが、それは、ヒエラルキア(天使位階)存在たちを支配する宇宙の力が、自らに、もし、道がなだらかであったなら、意図された存在(新しい存在)が生じない、と言ったからである。もっと偉大な(新しい)何かが生じなければならない。 さて、例えば、荷車を前に押すことで、ある一定の力を発達させることを想像する。もし、荷車に重い荷物を積めば、より強く押す必要が生じるが、そのため、より大きな力を発達させることにもなる。 この事と同じように、神が宇宙進化の過程を木星の進化に至るまで、そして、それを越えて(火星まで)進めようとしたことを想像する。確かに人間はよく進化したが、その進む途上に障害が置かれたら、更に強くなることも可能になる。 だから、ある種の運動霊たちが、反逆命令を受けなければならなかったのは、人間を更に善に導くためだった。当初、彼らは悪の存在ではなかった(彼らを悪の力と見なす必要はない)。むしろ、彼らは発達の道筋の上に障害を置くために自らを捧げた、と言ってもいい。 (まるで、巨人の星の星一徹のようでもある。星飛雄馬を巨人の星に育てたが、今度は中日に入って、飛雄馬の敵として戦うのである) だから、これらの運動霊は、言葉の最も広い意味で、「妨害の神」、或いは「抵抗の神」と呼ぶことができる。彼らは発達(進化)の道に沿って置かれた障害、或いは抵抗の神たちだが、その障害や抵抗が置かれた瞬間から、未来に達成されるべき、あらゆる事柄が成し遂げられる可能性が生じた。 これらの抵抗命令を受けた運動霊たちはまだ、彼ら自身が悪の存在というわけではなく、反対に、通常の発達(進化)過程に反抗(反逆)することで、彼らは進化の偉大な促進者となった。とはいえ、彼らが創り出した嵐の中から次第に悪が生じた為に、彼らは悪の創始者となった。 「抵抗命令を受けた」運動霊にとっては、発達(進化)の過程は仲間の運動霊とは、非常に異なったものになった。彼らの活動の影響が非常に異なったことで、「月」の発達(進化)過程において、これらの運動霊たちは、「天使」と呼ぶ存在たちの誘惑者となった。 「月」の進化段階において、「天使」たちは、当時の人間の段階を通過していた。発達(進化)過程における障害の影響を目撃した「天使人間」(神話によく出る半神半人のこと)が「月」の上にいた。 彼らは自らに次のように言った。 「我々は今これらの障害に立ち向かっていくことができる。「月」進化の流れの中に飛び込むことができる。しかし、我々はそれを差し控えたい。その中に飛び込むのではなく、善き神々と共に上方に留まることを選ぶ」と。 これらの天使存在たちは、下方で月の段階が進展する間、その発達の中に障害をもたらした運動霊たちから自らを引き離した。ところが月の上には、 「我々は彼らには追従しない。何故なら、もし、追従したら、発達(進化)の形式は元に戻り、何も新しいことは起きないからである」と、自らに言う別の天使たちがいた。 確かに、月の発達(進化)段階以降、新しいことが導入されたのは、正に障害が存在していたからである。 また次のように言う存在たちがいた、 「我々は下方で起こっていることに何も関わりたくはない。我々は劣った者たちとの交流を望まない運動霊たちと共に留まる」と。 これらの存在たちは、古い月の発達(進化)が続いている間、月の塊から離れて、太陽の中で生じていた、あらゆる事柄の追従者となった。彼らは、障害の存在のために放り出されていた月の上で生じていた事柄に関わることを望まなかった。 しかし、その中に飛び込んだ、他の者たちは、月の上に発達(進化)の障害が存在していた為に、彼らが受け取ることになった全てを、彼らの肉体的な本性の中に取り込まなければならなかった。もし、取り込まずにいたら、なっていた存在よりも、もっと自らを硬化させる必要があった。 彼らの肉体的な鞘は、より濃密になり、運動霊による行いの結果を、その体の中に担うことになった。とはいえ、運動霊、或いはデュナミスの行為は、神的宇宙計画の中に確実に基礎づけられたものであったということは覚えておく必要がある。 これらの事柄全ては更に次のような結果をもたらした。月の進化が地球の進化へと移行したとき、その過程全体が、ある意味で繰り返された。月進化の潮流のただ中に自らを投げ入れた存在たちは、関わりを持とうとしない存在たちに遅れを取ることになった。また別の存在たちは更に遅れをとることになったが、それは、彼らが退行する進化に魅了されたからである(堕天使の存在が生じる)。 だから、これらの事が起こった結果、地球進化の間、二種類の天使(当時は人間)が存在することになった。 先行(進化)していた天使たちと、後に取り残された(退行した)天使たちである。先行する天使たちはレムリア期になると人間への働きかけを開始したが、それは人類が自我の種子を受け取ることができるまでに成熟していたからである。 彼らは人類にいわば選択肢を提示したが、その選択肢は、月の発達(進化)段階以来、宇宙進化の過程に紛れ込んでいた存在とは、もはや関わりを持たず、精神的世界に直ちに上昇する存在だった。 我々がルシファー的存在と呼ぶ、後に取り残されていた存在たちは人間のアストラル体への働きかけ(彼らは自我にまで至ることはできなかった)を開始すると共に、「天上の戦い」の結果を、人間のアストラル体の中に注入した。
2008年05月22日
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太陽系の惑星の形成は、古い土星から始まった。本当に、太陽系は古い土星から始まったのである。そして、その惑星形成は、(古い土星から)木星ができるまで継続した。木星で、全体的な創造が始まったとき、周辺にいる存在全ても、その過程に参加した。 しかし、丁度、惑星内部の存在たちが惑星系を創始し、彼ら自身の発達(進化)を継続するために働いたように、惑星の外側にいる存在たちもまた、周辺から内に向かって働きかけた。ある存在たちが、中心から外側へと退いたように、外なる宇宙空間の中にいた存在たちも同じことをした。周辺(辺縁)にいた、ある存在たちも、また退いたのである。 木星自体が収縮するに従って、退いていた存在たちは圧縮して、天王星を形成した。同様に、(木星から)火星形成の進化の間には、退いていた存在たちが収縮して、海王星を形成した。 天王星(ウラノス)や海王星(ネプトゥヌス)といった名前は、このような事柄に対して、古代人たちがそれに相応しい名前をつけた名称ではないが、それでも、天王星という名前には、まだ重要な意味が残されている。 天王星(ウラノス)という命名は、人間がまだ、この事柄に気づいていた時代に名づけられた。だから、我々の惑星系(太陽系)を越えて存在する惑星は、集合的に「天王星(ウラノス)」という名前をもって表現された。 (惑星の中心で消滅した物質が、太陽系の辺縁に出現し、天王星をつくったという意味) このように、天王星と海王星の二つの惑星は(近代天文学は、太陽系の惑星と同列に扱うが)、実際には、全く異なる基盤の上に立ち、我々の世界(太陽系)の形成には特に関係していない。 この二つの惑星は、古い土星紀の間に、我々人類とまだ何らかの関係を持っていた存在たちが退き、宇宙の周辺を越えた処に、住む場所を確立したことによって生じた世界を表現している。この事から、例えば、この二つの惑星が、退化してゆく月の性質をも有している、というような多くの事実を導き出すことができる。 ここまで、太陽系が存在するに至った過程を大まかに概観してきたが、次のような疑問、つまり、実際、我々人間の祖先の、高次のヒエラルキア(天使)存在たちとの関係から、人間はどのような位置にあるのか?という疑問が生じる。 最高位存在のセラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)から始める。実際、最高位の本性を特徴づけることにより、人間に関する正しい考えに至れる。 しかし、セラフィームを越えて行くときには、忽ち聖なる三位一体の領域に入っていくことになる。この事こそが、セラフィーム、ケルビーム、トローネが有している特別なこと、宇宙の他の存在たちには手の届かないことである。つまり、彼らには「神を直接見る」と呼ばれる権限が与えられている。 彼らは人間がその発達(進化)の過程を通して、徐々に追い求めなければならない権限に初めから与っている。 我々は、人間として、「思考、意志、その他の益々高次の力を達成するために、今日いる場所から始めなければならない。もし、我々が、その力を達成するなら、益々神の側に近づき、神は益々我々と共にいるようになる。このように、我々は、まだ隠されている能力に向かって、自分を発達(進化)させなければならない、つまり、『神性』へと近づかなければならない。」 一方にはセラフィーム、ケルビーム、トローネがいて、片方には人間がいるが、これらの間の違いとは、上記のようなものである。精神的なヒエラルキア(天使の位階)における、高次存在たちは、彼らの発達(進化)の最初から、神である聖なる三位一体と共にあった。 彼らは正に最初から「神性」を見る位置にいることができた。セラフィーム、ケルビーム、トローネにとっては、人間が、これから向かって進まなければならない条件が、初めからあった。これらの存在たちは初めから、神を仰ぎ見、そして、その命がある限り、彼らは常に神を見ている、ということに気づくことは、とても重要なことである。 彼らが成し遂げる全ては、神を見ることを通して行われ、神は彼らを通して働く。彼らの行いが、それとは別様に為される可能性はない。彼らにとって、それ以外のことを行うのは不可能である。神を見るということは強大な力と影響を、彼らに及ぼすので、彼らは神が間違いのない確かさと直接的な衝動をもって命じることを成し遂げる。 熟慮とか判断に似たものは、これらの存在たちの領域には存在しない。彼らには、見たものを実行する直接的衝動を受け取るために、神が命じるものを唯一見ることだけが存在している。彼らは神を、その本当の姿において、その通りのものとして見る。彼らは自分たちを単に神の意志と叡智を実現する存在と考えている。最高次のヒエラルキア(天使)が置かれている状況とは上記である。 キュリオテテス(主天使)、デュナミス(力天使)、そしてエクシスアイ(能天使)、あるいは叡智霊、運動霊、形態霊と呼ばれる次のヒエラルキア(天使位階)にまで降りてくると、彼らは神を直接見ることはない。彼らには、神を、直接的形態において、つまり、神そのものを見ることはないが、彼らは神の顕現を、つまり、いわば、神の表情を通して、神が自らを現すのを見る。 その表情が神であることは彼らにとって明らかである。セラフィーム、ケルビーム、トローネと同様、彼らもまた神によって顕現されたものを実行するための直接的な衝動を受け取る。その衝動はそれほど強力ではないが、それでも直接的である。 セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネにとっては、神の命令と見える命令を実行しないという可能性はない。命令の不実行は考えられないことだが、それは彼らが神の近くにいるためである。しかし、キュリオテテス、デュナミス、そしてエクシスアイにとっては、神自身が意志しないことを行うこともまた同様に、問題外である。とはいえ、世界が更に進化していくためには、何か非常に特別なことが介入する必要があった。
2008年05月21日
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シュタイナーの聖杯、福音書、呼吸、そしてクリスマスときたら、やはり、キリスト講義を最後に付け加えておきたい。 では、以下に、シュタイナーのキリスト講義を書く。 最初に述べるのは、現代的な意識には理解困難な、実際、ほとんど理解不可能な事柄で、気づいておくに越したことはないというような事柄である。つまり、太陽-惑星系は、一度出現したのに、どうして再び消滅するのか、という疑問に関連した事柄である。 精神的観点から、惑星系の発達(進化)過程がいかに生じるかということが明らかになる。存在というものは、より高次の段階へと上昇するものだが、惑星系の進化過程においては、以前の活動の場から離れて行かなければならない。 つまり、他の場所では獲得できなかったような、ある種の能力を発達させることを、一定の期間にわたって可能にした、それまでの居住場所を離れなければならないのである。進化の過程において、古いレムリア期と呼ばれる時代が近づいて来ていたとき、人間は、発達(進化)において、土星、太陽、月の段階を通して達成できた全てを要約して、繰り返す段階まで来ていた。 その後、人間は地球進化の環境の中に現れたが、それは正に、更なる発達(進化)のために用意されていたことなのである。人類は、レムリア期、アトランティス期を通過し、現在の我々自身の時代(ポストアトランティス期)へと発達して来たが、受肉から受肉へと移行しながら、未来に向かって更に発達(進化)して行くだろう。 そして、しばらくの後、人間は再び地球を離れなければならなくなるだろう。地球には人間に与えるべきものが何もなくなっているが、それは更なる発達(進化)の可能性を提供できなくなっているということである。 人間が去った後の地球は荒涼とした廃墟になっていることは想像できるだろう。それは住民に見捨てられた後の都市と比べられるかもしれない。そのような都市がほんのわずかな時間経過しただけで、どのようになるかを、つまり、いかにそれが徐々に土の塊になるかを知っている。 自然力に捉えられた古代の都市を見ると、その過程がどのようなものであるかが、絵画的な描写で得られる。実際、今日においても、同じ状況だが、地球の未来については、この事は当てはまらない。 次のような観察が、将来、地球がどうなるのだろうか?という疑問に対する答えへと導くだろう。レオナルドダビンチやラファエロのような人物、或いは、他分野における、その他の偉大な天才たちの地球進化に対する意味とは何なのか? ラファエロやミケランジェロが素晴らしい芸術作品群を制作したということ、そして、その芸術は、正に今日に至るまで何千という人々によって鑑賞されているわけだが、そのことは地球進化にとって、どういう意味をもつのか? ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐」を見て、ある種の悲しみを覚える人もいる。そして、この素晴らしい作品は、後どのくらい持つのだろうか、と考えたかもしれない。ゲーテは、最初のイタリア旅行において、まだ、この作品が十分に輝いている状態で眺めることができたが、現代では、もはや、その状態にある、この作品を見ることはできない、ということを思い出してみるべきである。 ゲーテの時代から今日に至るまで、外的な(外界の)物質的環境の中に置かれた、この芸術作品の運命というものは、我々現代人には、悲しみの感情を呼び起こす。ゲーテの時代から、我々の時代までの時間と同じくらいの時間が、今から経った後に生きる人々にとっては、この作品はもはや存在していないかもしれない。人間が地上の物理的な物質に刻印づけ、創造した全てに関しても同じことが言える。 地球や、人間の思考の産物についてさえも同じことが言える。人間が、より高次の領域へと上昇し、その領域へと精神化される時代について想像してみる。 現在の言葉の意味での思考というもの(科学的思考に言及しているのではない、というのも、それらは三、四百年もすれば何の意味もなくなっているからである)、つまり、脳によって作り出され、地上において意味をなす人間の思考は、より高次の世界にとっては何の意味もない。 人間の思考は、地上においてのみ意義を持っている。けれども、人間は地球を去らなければならない。では、そのとき、何百年、或いは何千年にもわたって、地上で作り上げてきた全てはどうなっているのか? 精神的な観点からまず考察すべきことは、個人の進化ということである。レオナルドダビンチは、彼が達成したものによって、更なる高みへと上昇した。それが彼の上昇を構成している。 我々の自分への問いは、偉大なる創造者たちが地球の物質の中に刻み込んだ偉大な思想や偉大な衝動は、地球の未来にとって何らかの意義があるのか?ということである。 未来は地球を灰燼に帰し、男女が土から作りだした全ては、地球という惑星がもはや存在しなくなったとき、消えてしまうのか? 例えば、ケルンの大聖堂を賛嘆する。それほど遠くない将来、たった1つの石がまた別の石の上に残っているということもないだろう。この事から、人類がケルンの大聖堂というものを石の中に体現したということは、地球全体にとって無意味であった、ということを意味するのだろうか? 我々は今、人間が自分と一緒に地球から持ち去るものではなく、地球について考えている。惑星というものは、実際、その進化の過程で益々小さくなっていくものである。惑星は縮む。それは惑星の物質的部分の宿命なのだが、それで話が終わるわけではない。その事は、いわば肉眼や道具によって観察され得る部分に過ぎない。また、物質には、そのように観察できる存在を越えて行く進化もある。 今、この点を越えていく物質の進化について考察するが、この考察によって、現代人には理解困難な、ほとんど理解不可能と、先に述べた事柄へと来た。地球は絶えず縮小している。物質は周囲のあらゆる面から中心に向かって押し潰されている。 さて、当然のことだが、十全な意識に基づけば、力の保存測があることがわかる。同じように十全な意識に基づいて、あらゆる神秘家に知られている別の事実、つまり、物質は益々中心へと圧縮され、そして、何と、中心点へと消滅しているという事実があることがわかる。 一断片の物質が益々中心へと圧縮され、そこで消滅することを想像してみる。それは別の側面に押し出されるのではない。中心点で、それは実際に無の中へと消え去っている! (なんと、シュタイナーはブラックホール理論を提唱していた。) 言い換えれば、地球は、その物質的側面が、中心点へと押しやられているために、最終的には中心の中へと消えていく、ということになる。けれども、それで話が終わるわけではない。中心において消えていく分だけ周辺(辺縁)に現れる。それは惑星系の周辺の最果てにおいて再び現れる。 (今度は、ホワイトホール理論の提唱といえる。つまり、物質は、惑星の中心点で消滅し、いわばブラックホールで、4次元のワームホールを通って、惑星系の辺縁から、この場合、太陽系の外縁のホワイトホールから、再び出現するというのである。ホーキングの理論を既に提唱していた。ただし、ホーキングの場合は宇宙全体だが、シュタイナーは太陽系全体という違いがあるが…) 物質は空間中の一点、つまり中心点で消え去り、別のところ、つまり周辺(辺縁)に再び現れる。中心へと消え去るものは全て周囲(辺縁)において再び立ち現れる。あらゆる働きが、物質の中へと注ぎ込まれ、惑星上で働いていた存在たちは、あらゆるものを物質の中へと刻印づけた。 当然のことながら、物質は現在の形姿ではなく、この変容(惑星進化)の過程により、受け取った形姿において存在している。だから、ケルンの大聖堂の物質的な断片が、中心点へと消え去ったとしても、別の側から再び現れて来るのを見るだろう。惑星上で成し遂げられた事柄は何1つ、絶対に失われることはない。失われたものは、反対側から戻ってくる(4次元空間のことを意味する)。 土星紀から続く進化紀の、地球進化における最初期の時代を通して、(中心点である)我々のところ(地球)へと来た全ては、このようにして外側へと、星座を越えた周辺(辺縁)へと移された。 太古の叡智では、この事を「結晶化した天国」と呼んだ。 以前の進化に属する存在たちの行いは、周辺(辺縁)に堆積している。それらは新しい存在たちが創造的になることができるための基盤を構成している。 既に述べたように、このような事柄を現代的な理解力で理解するのは困難だが、それは物質的側面だけの考察に慣れているからである。物質が三次元空間中の一点から消え去って、別の次元を通過した後、どこか別のところに再び戻ってくるということを認めることに、現代人は慣れていない。三次元空間の文脈で考えることに留まっている限り、この事は把握できない。 なぜなら、この現象は三次元空間を超越しているからである。だから、その事は別の側面から再び三次元空間中に入ってくるまで見ることができない。その間、それは別次元の中に存在している。この事は、理解しておくべき事柄である。 というのも、宇宙創造の諸側面は、この上なく複雑な形で互いに関連し合っているからである。ある場所にあるものは、三次元空間中の全く異なる場所に見いだされる別のものと複雑な形で結びつけられている。
2008年05月20日
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昨年クリスチアーナを訪問した際、キリスト神秘に関する、色々な言葉で述べられた幾多の講義で表出された思考が、「夢伝説」として知られる美しい「サガ」に体現しているのを見い出し、私(シュタイナー)は興味深く思った。奇妙だが、この「サガ」は、この10年から15年の間(1911年当時)に、ノルウェーで脚光を浴びて、人々に知られるようになったが、言うまでもなく、その起源は遥か昔である。 この伝説は、オラーフ・アステソンが、いわば自然の諸力によって、秘儀に参入する様を素晴らしく美しく物語っている。彼はクリスマスイブに眠りにつき、1月6日まで、ずっと13の昼夜を眠り続けて、地球の始まりからゴルゴタの秘跡までの受肉に人間が経験しなければならなかった全ての恐怖を体験した。 そして1月6日が来ると、ミカエル霊を先触れとして、どのようにキリストが人間性に介入するか、そのヴィジョンが、オラーフ・アステソンを訪れる様子が語られる。いつか、この詩を全編にわたって提示できるだろう。そのときに、13聖日夜の間のヴィジョン意識が今日でも生き残っている、いや、実際息を吹き返しつつあることがわかるだろう。特徴的な数行だけを今は引用する。詩は次のように始まる。 集い来て耳を傾けよ、我が歌を聞け 素晴らしき若者を歌う歌を 我はオラーフ・アステソンのことを歌わん 幾多の日々を眠りし若者のことを -まことに起こりしことを クリスマスイブに身を横たえし彼は 長き眠りにつきたり、何も知らぬままに 13日目にようやく身を起こした彼は 教会へと足をはこぶ人々を目にした しかり、オラーフ・アステソンこそ かくも長き眠りにつきし者なり 詩は更に進み、夢の中で13聖日夜の間に、オラーフ・アステソンが、ルシファーの影響のために人間が経験しなければならない全てを通過するように、どのように導かれるかが語られる。カマロカ(欲界)との関連でしばしば描かれる、人間が持つ経験の領域を、通っていくオラーフ・アステソンの旅と、ミカエルに先導されて、キリスト霊が、このヴィジョンにどのように流れ込むかの生き生きとした映像が与えられる。 このように、霊性においてキリストが到来すると共に、人々は霊力がどのように織り成し支配しているかを知るのが益々可能になるだろう。そして祭日が恣意的な意見で設けられたのではなく、しばしば人々の意識には届かないが、それでも歴史を通じて作用し、統治している宇宙的叡智によって設けられているということを益々知ることができるようになる。 この宇宙的叡智が、イエスの誕生の祭日を13聖日の始めに置いたのである。 宇宙世界を観想するとき、我々が自らの内に全ての低次の自我(欲求)を征服する強さを見い出す助けとなるのを常に思い出させ続ける存在が、イースター祭であるのに対して、クリスマス思考(もし、我々が、人間の神的起源や、御子イエスの姿で、クリスマスの日に我々の前に置かれた象徴を祝う祭を理解するなら)は、繰り返し、次のことを我々に告げる。 「魂に平和をもたらす力は、我々自身の内側に見い出し得る」、と。 真実の魂の平和は、その平和が確かな基盤を持つときにだけ、言い換えれば、人間が、次のことを知り得る力をもつときにだけ、存在する。 「汝の内には、もし、本当に誕生するなら、汝を神的高みに、神的勢力たちに、導き得る、いや導くに違いない存在が生きている。このクリスマスツリーの灯りは、無垢の姿の御子イエスによって、クリスマスの夜に象徴的に、我々に告知される事柄の実在を把握するとき、我々自身の魂の中で輝く光の象徴なのである。 人間の魂の、内奥の存在自体、つまり、強く、無垢で、静かな内奥の存在自体が、我々の、人生の道を、存在の最高の目標へと導いていく。クリスマスツリーの灯が、我々に、次のように告げるように。」 「もし、汝の魂が弱ければ、もし汝の地球存在の目標が、汝の届かない処にあると信じるなら、人間の神的起源について思いを寄せ、至上の愛の力でもある、あの諸力が汝自身の内にあることを自覚せよ。汝のあらゆる仕事において、汝の生の全てにおいて、今も来るべき、あらゆる時において、汝に信頼と確信を与える諸力を、内的に自覚せよ。」
2008年05月20日
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キリストの誕生の祭日が13日はやくなり、イエスの誕生の祭になったのは、一体なぜなのか。 この事を理解するために、我々は人間存在の深い神秘に浸透していかねばならない。外的(外界の)自然について、人間は現に目で見ているために、当たり前のように信じられていることがある。 太陽光線が、大地の深みから魅き出し、展開して、春と夏に、美となる存在は、外的な太陽の領域が最も暗くなる時(冬)には、その同じ深みへと退き、翌年に再び生まれるために、大地深い内部に、種子として準備されるというように信じられている。 人間の目で、その光景を目撃すると、植物の種子が1年の周期を巡り、春に太陽の暖かさと光の下に、再び展開するために、大地の深みに入って行くと、人間は信じている。 しかし、この植物の種子と同様に、第一に、人間の魂も、このような周期を通過するということは、人間には全く想像もつかないだろう。存在の偉大な神秘への参入が許されれば、この事が啓示される。 全植物の種子に含まれる力が、大地の物質力と結び付いているように、人間の魂の最奥の存在も大地の霊力と結び付いている。 植物の種子がクリスマスとして知っている(冬の)時期に、大地の深みに沈んでいくように、人間の魂も深い霊の領域に降下し、植物の種子が春の開花の力を引き出すように、このような魂の深みから力を引き出すのである。 魂が、大地のような霊の深みで経験する事柄は、通常意識からは完全に隠されている。しかし霊眼の開けた者にとって、12月24日と1月6日の間の13日と13夜は深い霊的経験の時である。 自然の大地の深みでの、植物の種子の経験と平行して、大地の霊の深みでの、霊的経験がある。それらは正しく平行関係になる経験である。霊的訓練の結果、或いは遺伝的な霊視能力でも、このような経験が可能な見霊者は、自らが、このような霊の深みに浸透していくのを感じる。 この冬の、13の日夜の期間に、見霊者は、地上進化の開始以来、ルシファーの諸力の影響下にあった受肉を通過して来たために、人間に生じるべきことを、眺めることができる。地上で受肉を始めてから、ルシファーが傍らにいる為に、人間が霊界で耐え忍ばねばならないカマロカ(欲界)の苦悩全ての最も明らかなヴィジョンが、クリスマス祭と1月6日の祭、つまり公現祭の間の、13の昼夜の間に、魂の前に来ることの可能な力強い想像認識に提示される。 植物の種子が地下の深みで最も重大な期間を通過している時に、人間の魂も、その最も深い経験を通過しようとしている。人間の魂は、ルシファーの影響下で、世界を創造した霊的勢力たちから、自らを疎外した為に、霊界で人間が経験しなければならない全貌を眺める。 このヴィジョンは、13の昼夜の間に、魂に最も明瞭になる。このため、それは、キリスト想像認識と呼べる。この期間は、この想像認識、つまり、ルシファーに勝利することによって、キリスト自身が、ルシファーの影響下にあった受肉間に、人々の行為の審判となったということを自覚させる、この想像認識の啓示の最も良い準備と言える。 見霊者の魂は、イエスの誕生祭から公現祭へと、キリストの神秘が啓示されるように、生き続ける。この13の聖日と聖夜の間こそ、魂が何よりも深く、ヨルダン川でのヨハネの洗礼の重要な意義を把握できる期間といえる。 キリスト世界が歴史を刻むようになってから、霊視能力が正しく発達(進化)した場所ではどこでも、ヴィジョンが、冬至という季節の13聖夜の期間に、最も深く浸透するということが、見霊者に知られていたというのは驚異的なことである。 幾多の見霊者が、近代の密儀で身につけたか、或いは、遺伝の霊視能力を保持したかにしろ、明らかにしてくれたことがある。冬至の最も暗い時点で、魂は、キリスト霊から自らを疎外したために、人間が経験しなければならない全てのことをヴィジョンで見ることである。 ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によって発生した秘跡と、それからゴルゴタの秘跡によって、どのように調整とカタルシスが可能となったか、そして、13夜において、どのようにヴィジョンがキリスト想像認識によって1月6日に絶頂に達するのかが、明らかになった。 だから1月6日をキリスト生誕の日と名付け、この13夜を、見霊者の能力により、人間の魂において、人間がアダムとイブからゴルゴタの秘跡までの受肉の生に何を経験しなければならなかったかを識別知覚する時と名付けてもよいだろう。
2008年05月19日
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政治のことはあまりに下らない連中が、どうせ地獄に堕ちるだけなので、最近は書くことを我慢してきたが、もはや我慢も限界にきている。 一体、この国賊ウータン福田やヒトラー小泉、ケーワイ安倍を、誰かなんとかしてくれないか! 民主党をパフォーマンスだなどと、お前たちの方がパフォーマンスだろ! 阪神タイガースの勢いで、タイガーマスクでも、現れて、ウータン福田、ヒトラー小泉、ケーワイ安倍のような悪役政治家をやっつけて、すかっと爽快にさせてくれ! でないと、日本は一党独裁国家のまま埋没し、国民は窒息死だ!
2008年05月18日
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シュタイナーのキリストに関しての講義を学んでいるうちに、ふと、「かごめかごめ」の子供たちの遊びが思い浮かんだ! かごめかごめとは、以下の遊びである。 鬼は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。 この遊びの全体像をみると、まるで、地球を鬼として、その周辺を惑星や、黄道十二宮が巡るような天道説の構図が思い浮かぶ。 この遊びのモチーフは、古代神殿で行われた儀式なのではないか? と思ったのである。 というのも、なにやら、占星術の儀式のような気がしたからである。 天動説では、地球を中心として、太陽より内側の惑星、つまり月、金星、水星を内惑星と呼び、植物が生長するときの、主に地上の働きを為すものと考え、太陽より外側の惑星、火星、木星、土星を外惑星と呼び、植物が生長するときの、主に地下の働きを為すものと考えているのである。 つまり、植物の生長とは、東洋哲学でいう「気」の流れのことで、この事を漢字に当てはめて、まとめたのが易経である。 なので、占星術と易経が組み合わさった儀式と思えるのである。いわゆる太古の時計のような、または、農作物を作る際の暦表のような感じもする。 更に、神秘的な意味を加えると、天体と金属の関係から、錬金術の霊的な周期表のようなものが考えられる。例えば、土星が主に地球(鬼)に影響を及ぼす天体配置では、地球には、鉛が生成しやすいだろうというような感じである。 さて、では、なぜキリストなのかといえば、かごめといえば、籠目で、龍の目である。正確にいえば、竹がつくから、龍ではないが、竹と龍とは、共に節目があり、龍は鱗で、まるでフラクタル構造のような生命体である。一種の波形を表すのではないか? また宇宙のフラクタル構造、つまり階層性を表現しているのかもしれない。 また籠目とは、六芒星のことで、点が12個ある。この12の点が龍を表し、その中心に目があり、いわば13番目の中心の隠れた人物がいるというわけで、ここから思い浮かぶのが、十二使徒の龍に乗った主であるキリストという救世主なわけである。 ちなみに球体を立体格子状に並べていくと、12個の球は13番目の球を覆い隠すという。六芒星に現れる六角形は、蜂の巣に現れ、水晶、アンチモンという物質にもみられることがあるという。アンチモンは古代の癌治療に用いられた物質だという。 また、六芒星はダビデの紋章で、イスラエル部族の象徴なのである。つまり、イエスの出自、血統というわけである。 また、六芒星は三角形から成っている。三角形とは三位一体を意味する。 そこで、唄を考えてみると、 かごめ、かごめ、かごの中の鳥は、いついつ出やる。 夜明けの晩に、鶴と亀がすべった、後ろの正面、誰だ! 籠目は、キリストを囲んだ十二使徒で、そのなかの人物、主であるキリストは、いつ現れるのか?といっている。 鳥というのは鶏で、時を告げる鳥である。この鳥はまた、契約の箱、つまりアークの上にある鳥のような像、これは正式には、羽で、天使ケルビムを表し、叡智を意味するのである。 ちなみに神輿は、この契約の箱をモチーフとしたものであるようだ。古代エジプトでは、このケルビム、つまり鳥は、トート神、つまりヘルメスを意味する。 「夜明けの晩に」とあるが、これは夜明けなのに晩というのは矛盾しているが、これは裏読みで、太陽が昼間、外に輝くときには、隠され、太陽が隠れ晩になると、顕れ、明らかになるという意味である。 つまり、キリストは本来、太陽霊なのに、地球のために、太陽を捨て、地球霊となったという意味で、太陽が明るいときは、地球に隠れ、太陽が暗いときは、代わりに太陽の光となるという意味なのだろう。 次の「鶴と亀」の意味がイマイチわからないが、鶴は千年、亀は万年、或いは、陽と陰の生物の代表として付け加えられたのだろう。つまり、陽気と陰気が交互に統治するという意味なのだろう。これはまた、善と悪が交互に支配するという意味でもある。 そして、「後ろの正面 誰だ!」であるが、後ろでもあり、正面でもある存在といえば、アルファでありオメガである存在、更にいえば、鬼が目隠しを、最後に外して、正面の人物から、後ろの人物を当てるわけだから、鬼が、目隠しという悪を克服し、正面から、悪から、善を予測する、もしくは結果から、原因を推測するわけで、それはキリスト存在であることがわかる。 なんとなく、少しコジツケのような気もするが、古事記にもある、岩戸隠れを、表現した儀式のような気もしてくる。 しかし、このかごめの作者は、霊能者、あるいは秘儀参入者であったことは、確かだろう。
2008年05月15日
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イエスの誕生の、このクリスマス祭と関連して、人間の魂に生きていた曖昧な感情と経験全て(勿論、顕在した意識で、人々は背後にある事柄については何も知らなかったが)と、魂の深みで動いていた、これらの感情全てが、素晴らしい言葉を話した。 正しくは1月6日に祝われるはずの事象において、宇宙的な世界から流れ込んだ存在の理解が失われたとき、魂の隠された深みで働いている諸力が、物質的体現以前の霊魂の存在としての人間の映像を提示した。つまり、肉体的人間存在として、進化の出発点にある人間の姿を提示したのである。 物質(肉)体との接触の影響に、魂がまだ曝されていない新生児の映像、地上の肉体的進化の始まりにある子供の姿が提示された。しかし、それは通常の意味の、人間の子供ではない。人間たちが地球進化において、最初の物質的体現の地点に到達する以前に存在した子供(霊体)なのである。 それはカバラで、アダム・カドモンとして知られている存在である。古土星、古太陽、古月の時代に獲得した全てを備え、神的-霊的高みから降下した「人間」である。 地球進化の正に最初に霊的状態で存在した人間存在(アダム・カドモン)、御子イエスに生まれた存在が、イエスの生誕祭に、神的(神々の)叡智によって人類に提示された。 宇宙世界から、天の領域から、地球へと降下した存在を理解するのが、もはや不可能になったときに、魂の起源の思い出、地球進化でルシファー諸力が出現する前の状態の思い出が、人々の魂の中に刻み込まれた。 最高の、最も真実の意味で、ヨルダン川でのヨハネによる洗礼に関して言えること、すなわち、平和が善意の人々を統治するように、宇宙世界から人間の魂の中に、自らを啓示した神の力がやってきたということが、もはや実感されなくなったとき、この映像を、聖なる祭として提示し得るような理解が失われたとき、もう一つの確証が代わりに示された。 地球進化の最初に、ルシファー諸力が作用を始める前に、人間がルシファーに朽ちることのない希望を吹き込み得る本性、いわゆるエンテレヒー(独立可能な生気因子)を持っていたという確証である。 (ルシファーに浸透される前の人間の魂の故郷の、アダム・カドモン、つまりエデンの園が、人間の魂の奥底に存在しているのである。ちなみに、エデンとは、「Ex deo nascimur『神々から生まれるの意』」の頭文字を組み合わせたものである。) 聖ルカの福音書のイエスは(聖マタイ福音書のイエスではない)、羊飼いたちが礼拝する御子である。彼らに、次のような告知が鳴り響く。 今こそ神性が天の高みから啓示され、善意の人々の魂に平和をもたらす。 このように、高次の実在が人間の把握を、超越する存在であった何世紀にもわたって、毎年、人間の、あの思い出(霊的なアダム)を呼び覚ます祭が設けられた。 「汝は、天の高みを覗き込み、そこに偉大な太陽霊を認めることはできないが、汝は、汝自身の内に、汝の地上の始まりの時から、子供の魂を純粋な状態で、物質的受肉の影響に犯されずに、保持している。」 「この御子の魂の力は、汝に、ルシファーの誘惑の結果として、汝に媚びり付いている、低次の性質に打ち勝つことのできる堅い確信を与えることができる。」 イエスの誕生祭を、アダムとイブの思い出に関連させることは、羊飼いたちの訪れた場所で人間の魂が、地上の最初の受肉以前に存在していた無垢の状態で生まれたという思考を強調してくれる。 それ故に、この祭のときには、もはや、神の誕生は理解されないので、人間の誕生が祝われた。というのも、どれほど人間の力が衰微に脅かされて、苦悩が優勢になろうとも、平和と調和と強さの尽きない源泉が2つあるからである。 我々人間が、宇宙空間の中へと見い出し、人間の本性であるエンテレヒーが神聖な霊の織り成す生命と運動と温かさによって浸透されていると知るとき、最初の源泉に導かれる。 そして、宇宙をくまなく織り成している、この神的-霊的な力は、我々人間の力に揺らぎがないときにだけ、我々の存在に浸透できるという確信を強く抱くなら、我々は、そのとき、イースターの思考を持つ。同じように、宇宙領域から流れて来る、希望と信頼の源泉を持つ。 そして、第2の源泉は、霊魂の存在として、地球進化の最初にルシファーの餌食になる前に、人間はイースターの思考におけるように、宇宙世界から待望されていた、その同じ霊の一部であったというボンヤリとした思いから発することができる。 ルシファーの影響が開始する以前に、人間本来の元々の存在に見い出される源泉に向かって、我々は自らに、次のように言うことができる。 「汝に、何が降り懸かろうとも、汝を、何が拷問しようとも、汝を、何かが霊性の輝く領域から引き降ろそうとも、汝の神的起源が、いかに魂の深みに隠されていようとも、永遠の実在である。魂の、この最奥の力を認知することは、高みが、汝の手の届くところにあるという堅固な確信を生むだろう。」 「そして、汝が、汝の魂の前に、無垢な、子供のような、生の誘惑から解放された全てを想起するなら、地上進化開始以来、幾多の受肉を経て、既に人間の魂に降り懸かってしまった全てから解放された存在を彷彿とさせるなら、そのとき、これらの地上受肉が始まる以前の人間の魂の姿の映像を、汝は得るであろう。」 しかし、一個の魂が(たった一個の魂だけが)、実際に、この(無垢の)状態で残っていた。すなわち聖ルカの福音書に描かれている御子イエスの魂である。この魂は、他の人間の魂が地上の受肉を経験し始めた時も、霊的な生に止めおかれた。 この魂はパレスチナの事象のときまで、至聖の密儀の守護の下にあった。そのときに、その魂は、それを受けるように、前以て定められた体の中へと送り出され、2人の御子イエスの1人になった。つまり聖ルカの福音書に描かれた御子になった。 このようにして、キリスト生誕の祭日はイエス誕生の祭日になった。 この祭を正しく理解するなら、我々は次のように言う必要がある。象徴的にクリスマスの夜が訪れる度に新たに誕生すると、信じる存在とは、本来の性質(エンテレヒー、つまり霊的なアダム)の人間の魂である。地球進化開闢の人間の子の霊の姿である。そして、この魂が天の高みから啓示として降下したのである。 そして、この実在を人間の心が意識するとき、魂は、我々を気高い目標へと連れていくことのできる、揺るぎない平安で満たされる。もし、我々が、善き意志の存在であれば、その魂に満たされる。クリスマスの夜に、我々に鳴り響くことのできる言葉は、誠に力強いものである。その重さを理解する必要がある。
2008年05月15日
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思考、感情、意志が相互に入り混じり作用するのを観察すると、人間全体のおおよその像(イメージ)が得られる。しかし、1人の人間ですら、思考、感情、意志を分けて観察しないわけにはいかない。全てを統合する場合、我々の眼差しは、全てを見通すほどには、十分ではない。 思考、感情、意志の三つの特性を分けて、それぞれ別個に考察することにより、課題を比較的軽減できるが、他方、これら三つの特性を人間の魂のなかで、統合的に見て、思い描くと、その像は色褪せてくるだろう。 全てを一緒に考察するには、我々の力では不十分なので、その不十分さ故の原因で、諸特性を統合すると、像は色褪せる。 ヨハネ、ルカ、そしてマルコ福音書という三つの福音書を考察して、イエス=キリストの思考、感情、意志に関する予感を得たなら、これら三つの特性を再び調和[Harmonie]へと導く存在を統合できる。 このとき、どうしてもその統合像はボヤけ、色褪せたものになってしまうが、それは、人間の力では、分けられた存在を、十分に再統合できないからである。 というのも、その本質において、存在するのは1つ(統一[Einheit])体であって、分離[Trennug]体では、存在しないからで、その究極において、ようやく、1つの統合を許されるからである。 けれども、統一を許された段階では、その像は、我々の前では色褪せたものになるだろう。そのかわり、その究極において、我々の前では、初めて人間としての、地上の人間としてのイエス=キリストとなった存在が立っている。 人間としてのイエス=キリストとは何であったのか? イエス=キリストは人間として地上での33年間の生存に、どのように働きかけたのか? この考察は、マタイ福音書との関連で展開できる。マタイ福音書に含まれている存在は、自らのうちで調和する1つの人間像を与える。 ヨハネ福音書において、宇宙万有の一部である宇宙的な神人[Gottesmensch]を描写し、ルカ福音書において、自らを犠牲として捧げる一個の愛の存在を描写し、マルコ福音書において、1つの個性のなかの宇宙意志を描写し、そして、マタイ福音においては、パレスティナ出身の1人の人間、三十三年間生き、他の三つの福音書の考察によって、獲得できた全ての統一を、そのなかに持つ、イエス=キリストという人間の真の姿がある。 マタイ福音書との関連では、イエス=キリストの姿が全く人間的に、一人の地上の人間として現れてくるが、他の考察を前提としなければ、この人間が理解できない。 このとき、この地上の人間(イエス=キリスト)は、(他の)人間の目には色褪せてうつるとしても、この色褪せた像のなかには、それでもやはり、他の考察により獲得された存在が反映している。そして、キリストの人格に関する像は、マタイ福音書に関連する考察によりはじめて与えられる。 マタイ福音;ヨハネ、ルカ、そしてマルコ福音書という三つの福音書の記述の統合体-色褪せた人間像 このように、以前、第一の(ヨハネ)福音書を取り扱った時には別の特徴づけを行った意味が示される。 今、ルカ、マルコという二つの福音書の考察を終えたので、これら3つの福音書が、内的にいかに相互に位置づけられるか、そして、いかに、イエス=キリストの像が得られるかを述べる事ができるが、それには、この地上でイエス=キリストを通じて存在するようになった人間に、それ相応の準備を行って(霊能力をもって)近づくときにだけ有効である。 ヨハネ福音書に関連した考察においては、神人が立ち現れ、そしてルカ福音書との関連では、地上においてゾロアスター教や仏教の同情と愛の教えとして発展した存在のなかに、あらゆる方向から流れ込んだ潮流を、自らのうちに統一する存在が現れてくる。ルカ福音書に注目し、考察するとき、今まであった全てが、立ち現れてきた。 マタイ福音書を考察するとき、何よりも親密で、詳細に立ち現れてくるのは、キリスト自身の民族から、古ヘブライ民族から生じる源流で、つまり、その民族に根ざした人間イエス、他ならぬ古ヘブライ民族の内部に、存在すべき人間イエスである。 そして、地球人類の為に、正に、このイエス=キリストの血が貢献できる為に、なぜ古ヘブライ民族の血が全く特定の方法で用いられる必要があったのかを認識するだろう。 マタイ福音書の考察において、現れてくるのは、ヘブライの古代の本質だが、それは古代ヘブライの本質だけでなく、この民族の全世界の為の使命、新たな時代の誕生、古ヘブライ世界からのキリスト教の誕生が現れてくる。 そして、ヨハネ福音書を通して、偉大な、意味深い包括的な理念を学ぶなら、ルカ福音書を通して、最も熱い、限りなく、熱い供犠の愛のための感情を獲得するなら、マルコ福音書の考察を通して、あらゆる存在と領域の諸力についての認識を獲得するなら、今得られるのは、人類の内部、地上の人間の、内部(精神的)進化に、パレスティナにおけるイエス=キリストを通じて、生きる存在に関する認識と感情である。 人間としてのイエス=キリストであったもの(アルファ)、人間としてのイエス=キリストであるもの(オメガ)、人間の歴史と人間の進化の秘密全てが、マタイ福音書に含まれている。マルコ福音書のなかに、地球と地球に属する宇宙のあらゆる領域と存在たちについての秘密が含まれているように、マタイ福音書においては、人間の歴史の秘密を探究しなければならない。 ヨハネ福音書を通してソフィアの理念を学ぶなら、ルカ福音書を通して供犠と愛の秘蹟を学ぶなら、そして、マルコ福音書を通して地球と宇宙の諸力を学ぶなら、マタイ福音書に注目した考察を通して、人間の生、人間の歴史、人間の運命を知るようになる。 七年の人智学運動において、原理原則を消化するために四年間を、そして、人智学を生の様々な領域へと投げかけるべき光として深めるために三年を費やし、今、マルコ福音書の考察が、その後に続くことができる。 そうすれば最後に、マタイ福音書に注目しながら、イエス=キリストを考察することにより、この建築全体を完成させることができただろう。けれども人生は不完全なので、少なくとも人智学運動に携わっている人々の場合、その人生が不完全でなかったとしても、誤解を生じさせずに、直ちに、マルコ福音書の考察へと移ることは不可能である。 ヨハネ或いはルカ福音書の考察の帰結として、イエス=キリストの本性について、何かを知ることができると信じるなら、キリストの姿を完全に見誤ることになるだろう。逆にまた、マルコ福音書に関連して言うべきことを、一面的に、あらゆるものに適用してよいと、誤解して信じることにもなるだろう。そうすると、誤解は更に大きくなる。なので、この事を考慮して別の道を選ぶべきである。 さて、この事に続くには、可能な限り、マタイ福音書に注目した考察が続かなくてはならない。そのため、さしあたり、マルコ福音書の巨大な深遠を得ることを、諦めることになるが、そのかわり、イエス=キリスト全体が、“1つの”特性だけで描写され尽くされるなどと思う誤解は避けられるだろう。それにより、誤解を取り除くことができる。 そしてまず、古代ヘブライ民族からキリストが出たことについて、パレスティナでのキリスト教の誕生と呼ばれるものについて、可能な限り考察を行う。この事については別の機会に、マタイ福音書に注目し、考察していく、それにより、また別の1つの特性と、この存在全体の考察との混同を避けなければならない。そうすれば、マタイ福音書に続いて、マルコ福音書に注目して語るべきことが容易になるだろう。
2008年05月15日
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シュタイナーを学んでいると、あらゆる宗教の源流に辿り着く。特にキリスト教と仏教の融合には、驚く。 そこで、キリスト教ばかりでは消化不良を起こすので、仏教についても、人智学的観点から書くことにする。 例えば、ウィキペディアで、「八正道」を調べると、なんだかいかにも学術的専門用語(特に哲学用語がよくない)が並んで、全く意味不明なことに気づかされる。哲学用語は、あまりに形式ばっているので、無味乾燥で、イメージが沸かない。恐らく、書いている本人も分かってないのではないか?と思う。 ウィキペディアは、さしずめ、優等生的見解といえるもので、確かに即席に知識を得るには有用だが、いわゆる東大生的回答、つまり、現代教育に実験管理されたモルモット的実験結果といえるものにみえる。 要するに、知識の羅列に過ぎず、死んだ感じがするのである。 では、実はあるホームページから失敬拝借しているのだが、良いことなので、人智学的観点の八正道を書きたい。 ■週をめぐる毎日の訓練 弟子は、通常の場合注意も関心もなく継続している魂の生の、ある種の活動に注意深い関心を払わねばならない。こうした活動が8つある(魂の意識的な向上に目覚めよ)。 (釈迦の説いた八正道にあたる) 当然のことだが、1度に1つの訓練だけに取り組むのが最善である。例えば、1週間か2週間それを継続し、次に第2の訓練に移るというようにして、また最初からやりなおすのである。 また一方で、第8の訓練は毎日実行されるのが最良である。そうすれば、真の自己認識が徐々に実現し、いささかであれ進歩がすぐに知覚出来る。 その後、土曜に始めて、約5分続く1つの訓練を毎日、8番目の訓練に加えて行っても良かろう。その結果、適切な訓練が時に触れ同じ曜日に来ることになる。 こうすると、土曜-思考、日曜-決心、月曜-言葉、火曜-行動、水曜-振舞、木曜-習慣、金曜-記憶、翌週或いは毎日-吟味といったようになる。(八正道では、土曜-正見、日曜-正思惟、月曜-正語、火曜-正業、水曜-正命、木曜-正精進、金曜-正念、翌週或いは毎日-正定) ■土曜(正見) 自分の思考に注意を払う。 重要な考えだけを考える。自分の思考の中で、本質的なものを、非本質的なものから分離することを少しずつ学ぶ。永遠なるものを無常のものから分離することを学ぶ。真理を単なる意見から分離することを学ぶ。 同胞の話に耳を傾ける際、内的に十分静か(平静)になるように努める。あらゆる同意を無くし、あらゆる好ましくない判断(批判、否定)は更に静める。思考と感情の中でもそう努める。 この訓練は次のように言える。 正しい意見 ■日曜(正思惟) 最も些細な事柄すら十分に理詰めの思慮を巡らせた後で初めて決定する。何も考えていない振舞いの総て、無意味な行動の総ては、魂から遠く離しておかねばならない。あらゆることに、十分な手応えのある理由を必ず持つべきである。重要な理由のないことは何も決してしないよう抑制すべきである。 一度ある決定の正しさを確信したなら、内(精神)的沈着で、それを固持しなければならない。 この訓練は次のように言える。 正しい判断 この判断は、共感からも反感からも独立して形成されたものである。 ■月曜(正語) 話す感覚と意味のある言葉だけが、高次の発達を目指す者の唇から出るべきである。おしゃべりのためのおしゃべり(暇潰しのおしゃべり)はこの意味で有害である。 通常の種類の会話、つまり脈絡のない言葉のやりとりは避けるべきである。これは、自分を同胞との交流から閉ざせという意味ではない。正にそうした時にこそ、話が徐々に意味深いものに導かれるべきなのである。 あらゆる側面を考慮に入れて、話と言葉の一つ一つに思慮深い態度を取る。理由もなく決してしゃべるな。喜んで沈黙を守れ。しゃべり過ぎてもいけないし、しゃべらなすぎてもいけない。まず静かに耳を傾けよ。それから言われたことをよく考えよ。 この訓練は次のように言える。 正しい言葉 ■火曜(正業) 自らの(外的)行動が、同胞の混乱を招くものであってはいけない。自らの内的存在(判断)から行動することを、機会が求める場合、その機会にどうすれば最もよく見合うことが出来るか、注意深く思慮を巡らせ。全体の善のために、人間の永続する幸福のために、永遠なるもののために、細心の思慮を巡らせ。 自身から物事をなす場合、自身の自発性から物事をなす場合、自分の行動の影響を前以て徹底的に考察せよ。 この訓練は次のように呼ばれる。 正しい行為 ■水曜(正命) 秩序ある人生。大自然と霊性に調和して生きよ。人生の外(表面)的な些事に拘泥するな。不安と急ぐ思いを人生に持ち込む、あらゆるものを避けよ。何者にも慌てるな。かといって怠惰にもなるな。人生を、高次の発達(進化)を目指して働く手段と見なし、それに相応しい振舞いをせよ。 この関連は次の事を語っている。 正しい立脚点 ■木曜(正精進) 人間の営為。自分の力の及ばないことをしないように注意を払うべきである。と同時に、自分の力の内にあるものは、必ずやるように注意を払うべきである。 日常の存在と瞬間的な存在の彼方を見よ。そして人間存在の最高の義務と関連する目的と理想に自らを向かわせよ。例えば、これまでに述べた訓練の意味で、同胞の助けとなったり助言者となることが、後に、より一層出来るように、自分自身を育成するように努めよ。もしかすると、その目的はすぐには叶わないかもしれないが。 この訓練は次のようにまとめられる。 これまでの訓練が習慣になるようにせよ。 ■金曜(正念) 人生から出来るだけ多くを学ぶように努める。 人生に役立つ経験を得る機会を与えずに、何者も私たちを通り過ぎはしない。間違ったことや不完全なことをしたなら、それこそ、後でそれを正しく、或いはもっと完璧にする動機になる。 他の人が何かしているのを見たら、それと類似の目的を展望に収めて、そのような人を観察する(冷たく、もしくは無慈悲に眺めることはない)。人間は、自分の決定と成就に役立ち得る過去の経験を振り返らずに、何も行えないものである。 人は誰からも学ぶことが出来る。もし注意深ければ、子供からも学ぶことすら出来る。 この訓練はこう呼ばれる。 正しい記憶 (経験から学んできたことを覚えておくこと) ■翌週-総括(正定) これらの訓練と同時に毎日たとえ5分間だけでも、時に触れ自分の眼差しを内に向ける。そうする際に、自身の中に深く沈み、注意深く自らと話し合い、自らの人生の原理を試し、形成し、思考のうちに自分の知識を(あるいは知識の欠如を)経験し、自らの責任をはかり、人生の内実と真の目的について思いを巡らし、自分の誤謬と不完全さを苦痛を持って純粋に感じる。 一言で言うと、本質なる存在、永続する存在を発見するように労苦せよ。そして、それに調和する目標を真剣に目指せ。例えば、美徳を獲得せよ。(何かをうまくやったと思う間違いに陥るな。更に高い目標に向かって、もっと努力するようにせよ。) この訓練はこう呼ばれる。 正しい吟味 とにかく実践あるのみ。
2008年05月14日
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クリスマスの話というと、季節外れだが、シュタイナーの聖杯、呼吸、福音書の講義を書いた以上、クリスマスだけ抜け落ちては、魂の入れ忘れとも思えるので、シュタイナーのクリスマス講義について書きたい。 クリスマスツリーにキャンドルが灯るとき、人間の魂は、永遠の実在の象徴がそこに立っているかのように感じ、このツリーが、遥か遠い過去から、クリスマス祭の象徴であったように感じる。 というのも、秋に、外的(外界の)大自然が衰微し、あたかも太陽の創造がまどろみに落ち、外的(外界の)知覚器官が物質世界の現象から、その目を転じる必要のあるとき、魂は、最奥の深みに引き込む契機を持つからである。いや、単なる契機ではなく衝動をも持つからである。 外的(外界の)太陽の光が一番弱くなり、その暖かさも一番弱まるときこそ、魂が闇にひきこもりながら、自らの内側に、内(精神)的霊の「光」を見い出し得る時であることを感じ、経験するためである。クリスマスツリーに灯る光は、眼前では、外的(外界の)闇に灯された、内的(精神的な)、霊の「光」の象徴として存在している。 そして、大自然の闇に輝きを送っている霊の光と感じられるものは、永遠の実在に思えるので、クリスマスの夜に輝いているキャンドルのついた、もみの木は、地上の受肉が始まってから、ずっと輝いていたように想像する。 ところがそうではない。クリスマスツリーがクリスマスの季節に、人間に生じる思念と感情の象徴になったのは、たかだか1世紀か2世紀前のことである。クリスマスツリーは目新しい象徴だが、年毎に、偉大な永遠の真理を、人間に啓示している。 だからこそ、我々は、クリスマスツリーが、遥かな昔にも、必ず存在していたように想像する。 まるで、クリスマスツリーから、宇宙の広がりにおける、天の高みにおける、「神性」の告知が鳴り響いているかのようである。 人間は、クリスマスツリーが、魂の中で善意から生じる、平和の力の尽きざる源泉であると感じることができる。 だからクリスマス伝説によれば、羊飼いが、クリスマスの日にお祝いをする御子の生誕の地を訪れたときにも、次の告知が鳴り響いた。羊飼いたちに、雲間から、次のように鳴り響いた。 「宇宙の広がりから、天の高みから、神的(神々の)勢力が、自らを啓示し、善意に満ちた人間の魂に平和をもたらしている。」 長い間、人々はクリスマス祭で世界に提示される象徴に始まりがあるとは、どうしても信じる気にはなれなかった。人々はそこに永遠の徴を感じていた。このために、キリスト教儀式は、永遠の告示をクリスマスの夜に象徴的に生じることに仮託し、次の言葉に託した。 「我々のために、キリストが新たに生まれた!」 たった一度だけ生じたと考えられている実在を、魂が新たに感じるように求めているかのようである。この象徴的事件の永遠性が、もし、その象徴自体の真の概念を持つなら、無限の力で、我々の心を打つだろう。 けれども、キリスト=イエスが地上に出現後、紀元353年になっても、イエスの生誕は、ローマでも、祝われてはいなかった。イエスの生誕祭は紀元354年にはじめてローマで祝われた。それ以前、この祭は12月24日と25日の間に祝われなかった。 ゴルゴタの秘跡に関係する深い叡智を幾分なりとも理解している人々にとって、至高の祝典の日は、1月6日だったのである。 公現祭[顕現日]が紀元後3世紀の間、キリストの生誕祭のようなものとして祝われていた。それは、ヨハネの洗礼においてナザレのイエスの体にキリスト霊(太陽霊)が降下した思い出を、人間の魂の中で蘇らせる意味を持つ祭だった。 紀元353年まで、人々が洗礼で生じたと思っていた事件はキリスト誕生の祭として1月6日に祝われていた。キリスト世界の最初の数世紀間、全神秘中で人類にとって最も把握するのが困難な神秘、すなわち、ナザレのイエスの肉体の中への、太陽霊キリスト存在降下の神秘の感知がまだ残っていたからである。 では、最初の数世紀間キリスト教の秘密を感知している人々の感情とはどんなものだったのか。彼らは自らに次のように言った。 「キリスト霊は、諸感覚を通じ、人間霊を通じて、啓示される世界を織り成している。遥か遠き過去に、このキリスト霊は御自らをモーセに啓示した。人間の「私(自我)」の秘密が、クリスマスツリーの象徴から、「I(我)」、「A(アルファ)」、「O(オメガ)」の音から、鳴り響くように、モーセに鳴り響いた。」 アルファとオメガの前に、「I(我)」がある。 この事こそ燃える茂みの中で、キリスト霊がモーセに出現したとき、モーセの魂に鳴り響いたことだった。同時にキリスト霊はモーセを、キリスト自身を、真実の存在において認知できる場所へと導いた。 主(キリスト霊)は「エリコ(都市名)に対峙する」ネボ山にモーセを導き、キリスト霊が人間の体に受肉できる前に何が生じなければならないかを、彼に示した。ネボ山でモーセに、キリスト霊は次のように告げた。 「しかし、私が、自身を前もって啓示した汝は、汝の魂に持つものを、汝の人々(民)の進化に生み出してはならない。彼らはその時が実現するときに、生じねばならないことを、まず準備しなければならないからである。」(申命記) 『意訳;キリスト霊自らが、前もって、人間の自我の理想を、汝(モーセ)に授けたが、それを、汝の民族(イスラエル人)の進化の為だけに用いてはならない。イスラエル人は、人類全てが、平和の為の理想的自我の実現のときがくるまで、まずは準備が必要で、その供犠となるべきだからである。 要するに、イスラエル民族は、世界人類の平和のために、自己犠牲を払いなさいということで、その為に、キリストが自ら自己犠牲の愛を、モーセに与えたということ。そして、キリストは、イエスとして受肉し、イスラエル民族のなかで、実際に、(子羊として)自己犠牲の見本をみせたのである。 また、キリスト霊がイエスとして示した十字架の道は、イスラエル民族が将来辿るべき宿命である。やがて、イスラエル民族に限らず、多くの善なる民が、(子羊の)十字架の道を歩むだろう。』 このように、何世紀も経ち、進化の準備が完了したとき、モーセをおし止めた同じ霊が、実際に、自らを啓示した。肉となり、人間の体、ナザレのイエスの体をとり、自らを啓示した。ともに人類の総体が、「エリコ」という言葉が意味する秘儀参入の段階から、ヨルダン川の横断によって示唆される段階へと導かれた。(ヨシュア記) 『意訳;モーセに自らを明かしたキリスト霊が、イエスとして地に受肉し、実際、自己犠牲を基本とした理想の自我を示した。 エリコとはヨルダン川の東岸にあり、自ら独立するのではなく、他に従属し、依存しながら生活する、権力支配濃厚な、進化に埋没する集団自我を意味する(これはアトランティス時代の人類の古い典型で集団主義を意味する。)また、この事は東洋を暗示している。 ヨシュアという者、いわゆるヘブライ読みの「イエス」が出て、ヨルダン川を渡り、西岸に達し、エバル山に供犠の祭壇を立てる。つまり、人間のなかの悪と戦い、東、いわゆる古の集団自我から解放され、西で、神のために、善人として十戒の契約を立て、個人的自我に目覚め、その自我を、平和実現のため、神のために役立てようと決意する。 ヨシュア記が説くのは、道徳の為に、他者に属さずに、独りで戦い、いわゆる権威主義を廃し、偏見や先入観故の、自らのなかの依存心を打破することと、個人の勝利で得た教訓を、周囲の人々に伝えていくことともいえる。この事は福音書のイエスの光と愛と力についての記述に相当する。』 我々の時代の、最初の数世紀に、キリスト教の真の重要性を理解した人々の心と精神は、キリストが降下したナザレのイエスのヨルダン川での洗礼に向いていた。太陽-地球-霊であるキリストが降下したヨルダン川での洗礼に向いたのである。 初めのキリストの数世紀に秘跡として祝われたのは、この事だった。キリストの誕生(ヨハネの洗礼によるイエスへの受肉)だったのである。 人智学を通して、アトランティス後の第5文化期に属す叡智を通して、今日、我々が自らを準備すべき洞察が、ゴルゴタの秘跡が生じた時代に、まだ残っていた古代の霊視能力の名残りから、ヴィジョンの形態で閃いた。 そのヴィジョンは、グノーシス派に閃いた。古い時代と新しい時代の転換期に生きていた、あの驚異的な智慧の進んだ人々に閃いた。グノーシス派のキリスト秘跡の概念は、形式の点で、人智学徒自身のものとは異なるが、内実の点では同じである。グノーシスの教えは、世界に漏れ伝わった。 だから、ヨルダン川での洗礼によって象徴的に示された事件において、実際に生じたことは広く理解されなかったが、それでも、そのときに太陽霊(キリスト)が、地球霊(イエス)となって、生まれたということが何かしら感知された。 宇宙的な力が地球の人間の体で生きたということが、何かしら感知された。このように、キリスト世界の最初の数世紀に、ナザレのイエスの体でキリストが誕生した祭、いわゆる、キリストの公現祭が、1月6日に祝われた。 しかし、この深い神秘への洞察は、たとえ曖昧で不確実なものにしろ、洞察といえるものは、時が経つにつれ、ボヤけて消えていった。キリストと呼ばれる存在がたった3年だけ物質的な人間の体で存在したということを人々が、もはや理解できなくなった時代が、やがて来た。 人間の肉体における、この3年間に地球進化の総体の為に成就されたこと(ゴルゴダの秘儀)の理解は最も難しく最も深い神秘の1つであると、これから益々実感されるだろう。4世紀以降の、唯物主義の時代の接近とともに、人間の魂の力は(当時まだ準備段階にあった為)、我々の時代以降、益々理解されるようになる、この深い神秘を把握できるほど強くはなかった。 このように、キリスト教の外(顕教)的な力が増すと、その増した分だけ、キリスト神秘の内(秘教)的理解が減り、1月6日の祭日が、本質的な意味を持たなくなるようになった。 キリストの生誕は13日はやく(前倒し)され、ナザレのイエスの生誕と一致するものと見なされるようになった。 ところが正に、この事実において、我々は、絶えず霊感と感謝の源泉とに対峙させられている。実際、偉大な真理が失われた為に、12月24日、25日はキリストの生誕日として固定された。その事は今、目にしている通りである。 この過誤は偉大な真理の喪失を指し示しているようにみえるが、その背後には非常に深い意味が隠されているので(実際、この日に実施するのに責任があった人々は、このような事は何も分かっていなかったが)、クリスマスの祭日を、ナザレのイエスの生誕に設けた、その意識に潜在する叡智には、驚嘆せずにはいられない。 正しく、人間の魂の奥底に存在する、神的(神々の)叡智の働きが、この祭の固定に見えるからである。 魂が、自らを啓示する事柄を読み取る方法(霊能)を知っているなら、神的(神々の)叡智を、外的(外界の)自然に知覚できるように、次の事を心に留めると、我々は、人間の魂の無意識な魂領域において働いている神的(神々の)叡智を知覚できる。 カレンダーで言う、12月24日は、実は、アダムとイブに捧げられた日である。 その次の日(25日)が、キリスト生誕祭である。 かくして古代の真理の喪失は、キリスト誕生の日付けを13日はやく(前倒し)され、ナザレのイエスの誕生と同定したが、正にこのために、非常に素晴らしい方法で、ナザレのイエスの誕生が、地球進化における人間の起源の思考と結び付いた。 つまり、アダムとイブにおける起源に、キリストが結び付いたのである。
2008年05月14日
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宇宙を貫いて脈打つ力強さ、つまり、あらゆるものを実現する力を繰り広げる強さ、宇宙を貫いて脈打つ創造力、これらは、獅子として、あらゆる象徴表現をとって示される。 イエス=キリストを通じて、この地球に引き入れられた強さ、全てを秩序づけ、方向づけ、それが展開されるとき、最大の威力を意味する強さ、これを、マルコ福音書の記述は、イエス=キリストにおける第三の特性(獅子)として描写する。 キリストとみなされる、高き太陽存在について、ヨハネ福音書の意味で、霊的な意味での地球太陽光について語り、ルカ福音書の意味で、キリストの地球太陽から迸る愛の熱について語るなら、マルコ福音書の意味においては、霊的な意味での地球太陽の力そのものについて語ることができる。 地球における諸々の力として存在する全て、秘され、かつ開示された地球の諸力の活力として、至る処で活動する力全てが、マルコ福音書に注目して考察するときに、現れてくる。 ヨハネ福音書の意味で自らを高めるとき、地球に到来した理念を予感し、キリストの地球思考のような理解が許され、ルカ福音書の熱を、自身を通して流出させるとき、供犠の愛の熱い息吹を感じる事ができるなら、また更に、ヨハネ福音書のなかにキリストの思考を、ルカ福音書を通してキリストの感情を予感できるなら、マルコ福音書を通して、キリストの意志を良く知るようになる。 そして、キリストが、愛と叡智を実現する力の1つ1つを知るようになる。 ヨハネ福音書、及びルカ福音書についての考察に、マルコ福音書についての考察を付け加えることができれば、三つの特性を予感しながら把握することができる。 そのとき、次のように言うだろう、 「畏敬の念をもって我々は御身(おんみ)に近づき、御身の思考、感情、意志について、御身の魂の、これら三つの特性が地球上の最高の模範として、我々の前に高く掲げられているのを予感する」、と。 このような考察のなかの小さな枠組みにおいて、我々が人間を考察し、 「人間は感受魂、悟性魂、意識魂から成る」 と言い、感受魂、悟性ないし心情魂、意識魂の特徴を考慮した。 意識魂という語を、キリストに適用するなら、次のように言うことができる。 「意識魂はヨハネ福音書において、予感的に理解される、心情魂はルカ福音書を通じて理解され、意志力の全てを伴う感受魂はマルコ福音書を通じて、理解される」、と。 その事を一度考察できれば、これらは我々に、開示され、かつ隠された自然力について、我々の世界にあり、キリストというただ1人の個性に凝集された自然力が明らかになるだろう。そして、その自然力は、我々に、宇宙に存在する、あらゆる力の本性を明らかにするだろう。 ヨハネ福音書においては思考内容のなかに、ルカ福音書においては、このキリスト存在の感情のなかに沈潜したが、この{マルコ福音書の}場合、人間はそれほど深く、この個性に入り込む必要はないので、この考察は、マルコ福音書においては、我々に(宇宙のあらゆる隠された自然力および霊力の組織(システム)として)立ち現れてくる(意志)存在に対するものとなる。 これら全てはアカシャ年代記に記されている。 マルコ福音書の圧倒的な記録を、我々に作用させるなら、全ては我々に反映される。そのとき、我々は、キリストという単一存在のなかに凝集されている力を、予感しながら、通常は、宇宙という単一の存在全体に振り分けられている力を理解するだろう。 我々はその事をきっと理解できるだろう。そして、様々な存在たちの基本的な原理原則として知っていた存在が、更に気高い輝きと光のなかで現れるだろう。全宇宙意志の秘密を含んだマルコ福音書を、我々が明らかにするとき、深い敬意と共に宇宙の中心点に、キリストの思考、感情、意志があることを、徐々に会得しながら、イエス=キリストに近づいていく。 ヨハネ福音書;《私は宇宙(世界)の光である(私は世の光である)》-叡智の普遍的な光-鷲の高み-ケルビム-意識魂-思想 ルカ福音書;《父よ、彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているかわからないのですから》、或いは、《父よ、あなたの御手に私の霊[Geist]を委ねます》-愛の普遍的な熱(愛と同情)-犠牲の牡牛に見られるミトラ像-セラフィム-心情(悟性)魂-感情 マルコ福音書;《かつて存在し》かつ《いま存在する》-宇宙の隠された自然力及び霊力組織-獅子-トローネ-感受魂-意志
2008年05月14日
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悠久の叡智として、あらゆる事物のなかに注ぎ込まれ、そのなかで生き、活動する宇宙の霊光として、キリストについて語るべきことは、霊的な考察により明らかになる。 また、この事は、ヨハネ福音書から、我々人間に向かって光り輝き、そして、人間に到達できる叡智であり、ある意味、ヨハネ福音書に含まれていないものはない。 宇宙の叡智全ては、このヨハネ福音書のなかに含まれている。なぜならイエス=キリストのなかに、宇宙の叡智を見る人は、その叡智が遥かな過去に、いかに実現されたかということだけでなく、遥かな未来において、いかに実現されるかも見るからである。 従って、ヨハネ福音書に関わる考察においては、人間は、あらゆる人間的生存(人生)の上空高く、鷲のように舞う。 ヨハネ福音書の理解を可能にする、大いなる理念を繰り広げるべきとき、その広大無辺な理念と同時に、個々の人間の魂のなかに起こる事を超え、空中を舞う。 包括的な宇宙理念(世界理念)は、ヨハネ福音書に関連する考察を行うとき、人間に流れ込むソフィア[Sophia](叡智)を働かせる。そして、このとき、ヨハネ福音書から流出するヴィジョンは、日々刻々移ろいゆく人間の運命のなかで起こる事全てを超え、一人、鷲の高みのように、旋回するようにみえる。 高みから下降し、そして、刻々と日に日を継ぎ、年を経て、世紀から世紀へ、千年紀から千年紀へと続く一人一人の人間の生を観察するなら、特に、人間の愛と呼ばれる力を観察するなら、生きている人間の心と魂のなかで、この愛が数千年を通じて、うねり息づいているのが見える。 更に、この愛が一面において、人類の内部で最大の、最も意味深い、最も英雄的行為を成し遂げるのが見える。それから、人類の最大の供犠が、様々な存在、或いは、様々な事柄に対する愛から流れ出したのが見える。 そして更に、この愛が人間の心のなかで最高の事を成し遂げるのを、しかし同時に、その愛が諸刃の剣であることが見える。 例えば、ここにある母親がいる。彼女は自分の子供を心底愛している。子供がなにか乱暴な振る舞いをしても、彼女は子供を愛し、その深い熱烈な愛情においては、子供を罰することがどうしてもできない。子供が二度目に乱暴な振る舞いに及ぶと、今度も母親は深い愛情のために子供を罰するに忍びない。引き続き、そのような調子で、子供は成長し、役立たずの、人生の平和を乱す者となる。 このように意味深な事柄に触れるとき、現代から実例を取るのはよくないので、更にずっと以前の例を挙げる。 十九世紀の後半、わが子を愛し抜いた母親がいた。 「どんな者も、愛を賞賛するのに足りない、どんな事があっても愛は人間の最高の特性の1つ」 と、はっきり言っていた。さて、この母親は子供を愛していたので、この子が家族のなかで働いた、ちょっとした盗みに対し、この子を罰することがどうしてもできなかった。続いて二度目の盗みが起こり、彼女はまたも罰することができなかった。 そして、その女の子は悪名高い毒殺者になった。その子は、叡智に導かれない母の愛によって毒殺者になったのである。 愛は叡智に浸透されたとき、最も偉大な行為を成し遂げる。けれども、ゴルゴタから世界に流出した、愛の意味とは、正に、愛が、キリストという1つの存在のなかで、宇宙の光と、叡智とに合わされ、1つにされた、ということなのである。 従って、我々が、愛は世界で最高のものであると認識しながら、同時に、愛と叡智が最も深い意味において補完し合うことを認識するように、2つの特性を考察すれば、イエス=キリストに眼差しを向けることになる。 今、ヨハネ福音書及びルカ福音書について、全体的な考察を行ったが、そこから何を理解したのだろうか。 「叡智の普遍的な光、愛の普遍的な熱」 と呼べる特性、世界において、他のどんな存在にもなかった方法で、イエス=キリストのなかに流れ込み、かつて、どんな人間の認識力も近づけなかった特性、この特性以上の事は何も理解しなかった。 そして、ヨハネ福音書との関連では、鷲の高みにあるかのように人間の頭を超えてゆく力強い理念について語られる一方、ルカ福音書に依拠すれば、瞬間ごとに一人一人のどんな人間の心にも語りかけてくるヴィジョンが見い出せる。 ルカ福音書の重要な点は、それが愛の外的な顕(あらわ)れで、その熱で、我々を満たすということである。最大の犠牲を厭わない愛、自己自身を捧げ、自身を捧げること以外何も望まない心構えの、愛への理解で我々を満たすことである(無償の愛)。 ほぼ同様に感じられるのは、気分、つまり正しい意味で考察するときに、ルカ福音書に関連する考察の場合、その心情の状態に関するイメージを得たいと思うなら、供犠の愛へと急ぐ、犠牲の牡牛に見られるミトラ像において、現れてくるイメージである。 牡牛の上に人間が座っているのが見え、上には大いなる宇宙の出来事の歩みが、下には地上的な出来事の歩みがある。 この人間は、血を流す牡牛の体に斧を打ち込み、人間が克服すべき低次元の欲望を克服できるように、この牡牛の体は、自らの生命を捧げる。人間が生の道を行けるように犠牲にされる、この人間の下の牡牛を観察すると、ルカ福音書に関わる考察に、正しい基本的な気分を与える感情、心情状態を、ほぼ得ることができる。 犠牲の牡牛、つまり自分自身の中へと深まっていく、愛の顕れのなかにあるものを理解する人々にとって、いつの時代にも牡牛が、そのような愛の顕れで、そのような人々は、ルカ福音書の考察が与える愛の特性の描写についても、何かを理解する。というのも、愛の顕れが描き出そうとしたのは、イエス=キリストの第二の特性以外の何者でもないからである。 しかし、1つの存在のなかの、2つの特性を知る人は、その存在全体を知っているだろうか。 この存在においては、最大の謎が我々に向かって立ち現れてくるので、この2つの特性を理解するための説明が不可欠だった。しかし、この2つの特性の考察から、この存在自体を見通せるなどと思う人があってはならない。 イエス=キリストの2つの特性を描写し、これら2つの特性の、高次の意味を予感し、我々を理解に導いた全てを行うことは怠りなかったが、この存在自体を前にした、我々の敬意と畏敬の念はあまりに深いので、この存在が自らのうちに秘するその他の特性については、少しは理解したなどとは思ってはいけない。 ここで今、第三のものが考えられる。そしてこの第三のものは、我々の運動の内部では、まだ観察されていないものと関連しているので、一般的な特徴づけを行うことだけしかできない。なので、次のように言えるだろう、 「ヨハネ福音書のキリストを描写するなら、高き存在として働きかけるキリストを描写し、叡智に満ちたケルビム(智天使、調和の霊)の領域を意のままにする存在のキリストを描写する」、と。 ヨハネ福音書の意味では、このように、キリストは鷲の高みに漂うケルビムにより、呼び起こされる気分と共に描写される。 ルカ福音書の意味でキリストを描写するなら、キリストの心臓から熱い愛の火として迸るものが描出される。宇宙にとって、キリストである存在、セラフィムの居る、高みにおいて働きかけることにより、キリストである存在が描かれる。セラフィムの愛の火が宇宙を貫き流れ出し、そして、それはイエス=キリストを通じて、この地球に伝えられた。 さて、ここで第三のものを描写しなくてはならない。それは、キリストが叡智の光、愛の熱であるだけでなく、地球存在の内部のケルビム的及びセラフィム(熾天使、愛の霊)的要素のみでなく、キリストの力全てを観察すれば、この地球存在のなかにキリストが《かつて存在し》かつ《いま存在する》ことにより、地上(地球)世界のキリストとなった存在、《トローネ(座天使、意志の霊)の領域を貫いて働く》存在とみなせるもので、これらの天使存在を通じて、あらゆる強さ、あらゆる力が宇宙にもたらされ、叡智の意味においてある存在、愛の意味においてある存在が成就される。 これらは霊的ヒエラルキアの最高の三つ、ケルビム、セラフィム、トローネである。 セラフィムはその愛とともに、我々を人間の心の深みに導き、ケルビムは我々を鷲の高みへと誘う。叡智はケルビムの領域から放射されてくる。帰依に満ちた愛は供犠となり、犠牲の牡牛は、象徴(シンボル)として示される。
2008年05月13日
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シュタイナーは、4つの福音書について、数々の講義を行っている。これら、シュタイナーの福音書の見解を読むと、現代のキリスト教が非常に病んでいることが理解できる。 また、シュタイナーは、第5の福音書というべきものを書いているが、人智学から、現代のキリスト教の病んだ部分を治癒しようとしていたことがわかる。 現代のキリスト教が病んでいるのは、いわば産みの苦しみに相当するだろう。キリスト教が、ルシファーの手に渡り、他の宗教や、イスラム教への無理解からくる、対立に至り、アーリマンのような闘争的な物質悪魔を呼び出した現状において、その中立と、和合、融合を唱え、根本から、ルシファー的なイデオロギーの苦しみの克服を説くのである。 キリスト教は和解や理解の道具であり、闘争や無理解の道具ではないからである。 しかし、人類は、キリスト教を闘争や無理解、或いは差別の道具としてきた。キリスト教が、数々の戦争や戦乱を生んできたことは、歴史上明らかである。このような病んだキリスト教を、人類は一度捨てるべきであろう。 米国は、キリスト教の十字軍を気取って、イラクに侵攻し、イラクの人々と米国の人々、特に弱者を死に追いやっている。その命で手にいれた資金で、巨額のマネーゲームに現を抜かしているのが現状である。 このような米国のキリスト教が悪魔の宗教といわず、なんと呼ぶのだろうか? 米国の格差問題には、明らかに、差別がある。いまでは、キリスト教とイスラム教の対立に至っている。宗教が差別を生むのなら、もはや宗教足る意味がない。 宗教は、理解や平和を生むものでなくてはならない。 正直にいえば、私は、幼い頃から、キリスト教が大嫌いだった。キリスト教の偽善的態度が我慢できなかったからである。口では善を語りながら、子供心に、その姿勢は俗世に塗れた連中だと、密かに思っていた。 ブッシュのような奴をみると、益々、子供のとき感じた悪神父、悪牧師が思い浮かぶ。 だから、キリスト教は、新興宗教の親玉的感覚でいたが、キリストだけは、別格だとは感じていた、しかしどうも、日本では、キリスト教は、侵略的で、似つかわしくとはいえない。恐らく、イエズス会や、米国の斬新的なプロテスタントの布教のやり方のせいだろう。 米国はナンバーワンという自惚れの押し付けがましさが嫌味に感じる。 だからといって、仏教が好きかといえば、坊主は更に嫌いだった。日本の坊主は、とにかく金持ちなのが、気に食わないからである。仏陀は別格だとは感じていたが、弟子たちと称する連中は二枚舌の破戒坊主ばかりだと思っていた。くそ坊主としか思わない。 確かに善き人もいるのだろうが、悪い処が目立つものである。宗教団体は、他者に説くよりもまず、自分たちのその悪い部分を無くすべきであろう。 なので、いまでも、宗教的な教義は、なくなるべきだと思う。教義ではなく、何を為したかにあると思う。教義を除いて、その宗教者の行為をみるべきである。 もし、宗教者が、その教義を説くのなら、まずはその見本を見せてくれと質問すればよい。 さて、前置きが長くなったが、シュタイナーの福音書講義を書くことにしたい。 ヨハネ福音書とルカ福音書に関する考察や、この両福音書に注目する心情は、次のように特徴づけられる。 「この両福音書に関する考察は、イエス=キリスト存在に関しては、現代人の可能な限りの理解力のなかでは、最も偉大、かつ最も広大にして力強い存在なので、イエス=キリストとは誰で、このキリスト存在は1人1人の人間精神にとって、また個々の魂にとって、いかなる意味を持っていたか、ということを、一面的に語ることを、考察の出発点とするのは不可能という観点から始まる。」 このような観点は、少なくとも、我々の考察のなかに存在する、最大の宇宙(世界)問題に対して、敬意を欠くように思えるが、深い敬意と畏敬こそが、この考察を、正にもたらした気分を表す言葉である。深い敬意と畏敬は、例えば、次のような気分のなかに表現される。 「汝が宇宙の最大の問題に立ち向かうのなら、人間の理解を、高く設定し、評価しすぎないように努めよ。人智学が、あらゆる叡智を、汝に与えてくれるものであっても、決して高く評価しすぎないように努めよ。 そして、生の最大の問題に立ち向かうなら、最高の領域である神界にも上昇せよ。そして、この圧倒的に大きな問題を一面から特徴づける以外の理解力をもつために、人間の言葉が十分であるなどとは考えるな。」 ここ三年にわたって行われた講義全ては、他ならぬヨハネ福音書の記述に現れた言葉を中心点としていた。 《私は宇宙(世界)の光である(私は世の光である)》 というのが、その言葉である。 ヨハネ福音書について説いた全講義で、ヨハネ福音書の、この言葉を理解する必要があった。そして、ヨハネ福音書に関連して行われた講義は、次のような予感には、ほぼ十分だった。 この言葉を自らのものとするなら、語られたこの言葉を少しずつ理解するには、つまり、ヨハネ福音書のなかにある《私は宇宙の光である》という言葉が、いかなる意味なのかを、予感するだけでも、理解するには、これらの講義で十分だった。 光が輝くのを見るとき、光を見つめることによって、輝く存在が光であると理解できただろうか。そして、この光の色合いと特殊さに関して多少知ったなら、光っている存在が何であるかを理解できただろうか。 太陽光を仰ぎ見て、その白い太陽光を1つの開示として受容するが故に、太陽を知るのだろうか。輝く存在を、輝くなかの光として理解するのは、それとはまた別の事と思い描くことはできないだろうか。 輝く光について語った存在は、自らを《私は宇宙の光である》と言うことができる。 なので、我々は、この言葉を、余儀なく、理解したが、同時に、キリスト存在について、この《私は宇宙の光である》という生の表出の言葉より以上の事は理解しなかった。 ヨハネ福音書に関連する考察に示された全ては、宇宙の叡智を自らのなかに担うキリスト存在が、宇宙の光であることを示すために不可欠だった。けれども、この存在は、ヨハネ福音書のなかで特徴づけられた記述を遥かに超えるものであった。 ヨハネ福音書の講義からイエス=キリストを理解したいとか、イエス=キリストを包括的に捉えたと思う人は、その人が予感しながら、認識した、ただ1つの生の表出から、光輝く、この存在全体を理解できると思っている。 次いで、ルカ福音書の講義を行ったが、この講義から、また別のものを見てとれる。ヨハネ福音書に関する全考察で語られたことを、《私は宇宙の光である》という言葉の理解のための手段と、大凡みなすなら、場合によっては、ルカ福音書に関する考察は、ルカ福音書が十分深く把握されるなら、 《父よ、彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているのかわからないのですから》、或いは、《父よ、あなたの御手に私の霊[Geist]を委ねます》 という言葉の言い換えと解してよいだろう。 イエス=キリストである存在の、今や、宇宙の光としてだけではなく、献身という最大の供犠をもたらした存在、自身を失うことなく全てを、自分のなかで1つにすることを許された存在として、イエス=キリストである存在、献身という供犠として特徴づけられる存在、自分自身のなかに最大の供犠、考え得る最大の献身という供犠の可能性を孕み、供犠により未来のあらゆる人間の生と地球の生を貫き暖かく注ぎ込む泉である存在、つまり、この言葉のなかに捉えられた全ては、我々がイエス=キリスト存在と呼ぶものの第二の面を与える。 このように、イエス=キリスト存在を、同情(共感)のなかに大いなる供犠を実現できる存在、光の力により現存する、全ての人間を照らす存在として特徴づけた。我々は、いま、イエス=キリストという存在のなかにある光と愛を描写した。ヨハネ福音書、及びルカ福音書を、完全な枠において捉える人は、イエス=キリストのなかで《光》であった存在、イエス=キリストのなかで《愛と同情》であった存在について、ある意味、予感を抱くことができる。 我々はイエス=キリストのなかに、二つの特性を、その普遍的意味において理解しようとした。
2008年05月12日
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またまた、シュタイナーの「死者の書」を読むと、 「どんな人生であっても、少なくとも真剣に生きなければならない」 ということがわかる。つまり、ズルや手抜きはよくないということである。 それは「犯罪の意味」という項目にある。 ■犯罪の意味 「人生の本当の神秘は、犯罪者がいるということです。人智学の探求者は、犯罪者が、罰せられるべきではないというような、ユートピア論者であろうとはしませんが、人間生活の中に存在するものであれば、どんなことでも理解しようとします。 ですから、どうして犯罪者的な生活が可能なのかを知ろうとします。この点に関しては、色々なことが安易に語られておりますが、人智学の立場からも、それに答えなければなりません。 これから言おうとすることは、背理であるように思われるでしょうが、あえて発言しなければならないことなのです。 犯罪者を霊視すると、その性質が、一種の霊的な早産によるものであることがわかります。 どんな魂も、物質界に正しい時点で降下することができます。 しかし、そうしようとする傾向が別の傾向とぶつかりますと、多くの人々、特に犯罪者は、通常の場合よりも遥かに早く地上に降りてきてしまい、そして、(予定されていた結果とは)別の結果を生じさせてしまうのです。 魂が正しく体内の隅々まで浸透することによって、私たちは『全人(完成人)』として生きられるようになるために、ほぼ正常な時点に生まれてこなければなりません。 しかし、前世の特別な事情のために、早期に受肉する理由があるときには、私たちは、それとは知らずに、地上生活をいい加減に生きようとする傾向を魂の奥底にもって生まれてくるのです。 人生を真剣に考えない態度が、その人の魂の内的な在り様になってしまいます。 たとえ日常意識の表面では、強度の自己保存本能を持っており、この上ない利己主義的態度で生きているようにみえても、その人の心の奥底では、人生をいい加減に考えて、霊的に早産した自分の人生にあまり価値をおこうとしないでいるのです。 そのような場合、その人の人生は、そうとは気づかずに、表面上、自己保存本能に益々駆り立てられていきます。 人生をいい加減にする、そのような態度から犯罪者が生じるのです。 私がこの事を知ったとき、別の事柄もはっきりと見えてきました。犯罪者に固有の辞書があるということです。 犯罪者特有の語り口、犯罪者が語る言葉のなかにみられる、いい加減な態度、それは今述べたことを知っているときにだけ、理解できるのです。 人間の地上生活全体のなかで、この傾向は再び清算されます。現世にあまりに早く生まれてきたために生じた犯罪行為が、次の人生で清算されるのです。」 逆説的にいえば、人生が辛く厳しいのは、真剣に生きるに価するものだからといえる。真剣に生きようとするには、自然、人生は苦難の連続でなければならない。悪魔の誘惑や罠が至る所にあるのが、その証拠かもしれない。 我々の人生は、悪魔のようなワニや野獣が下で、我々を獲物として食らおうとするなかの、自らでバランスをとりながら、一筋の綱渡りをしているのかもしれない。
2008年05月07日
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シュタイナーは、「死者の書」のなかで、社会の癌について言及している。 ■社会の癌 「今日では、消費を顧慮しないままに、市場のための生産が続けられています。私が論文「霊(人智)学と社会問題」において述べた意味においてではなく、生産された商品は全部、市場を通して倉庫に集められ、買われるのを待っています。 この傾向は益々顕著になっていくでしょう。 そして、この傾向は、自己を破滅させるまでは、やまないでしょう。 社会生活のなかに、このような生産方式が導入されますと、それによって、人間社会の秩序のなかに、生体の癌が発生するときと全く同じことが生じるのです。 全く同じ癌が、文化癌が、人間社会に発生するのです。 今日の社会生活を霊視する人は、そこに癌への傾向を発見します。今、至る所に、社会的腫瘍形成への恐ろしい素地がつくられつつあるのです。 この事は、現実を直視する者にとって、とても憂慮すべき状況であり、心を締め付けられるほどの恐ろしい事実なのです。 自然という創造の場においてはなくてはならないものが、今述べたような仕方で、社会のなかへ入ってくるときには、癌を発生させるのです。」 このシュタイナーの社会の癌をみると、市場原理主義が、人間社会を破壊するまでに、成長し、いまもなお増殖を続けている癌であることがわかる。 癌を即座に解体するように、市場原理主義をすみやかに自然に戻すこと、エコ化が必要であることがわかる。 それには、一人一人のエゴから、濁点を取り去って、エコの視点に立つこと、リサイクルの視点が必要になることはいうまでもないだろう。 リサイクル、エコ自然回帰主義が望まれるのかもしれない。 そんなことを考えていると、宮沢賢治の詩を思い出した! 「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ、丈夫な体を持ち 慾はなく 決して瞋らず、いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、 あらゆることを自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり、そして忘れず 野原の松の林の蔭の小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば、行って看病してやり 西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い 一人のときは涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き みんなにデクノ坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず そういう者に私はなりたい。」 社会が癌に罹っているいまだからこそ、社会という癌の病巣に住む、現代人だからこそ、この宮沢賢治の精神が、胸にとてつもなく響いてくるような気がする。 日本社会自らが、すでに米国の癌病巣が転移していると、気づくのは、いつのことだろうか?
2008年05月07日
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この間、NHKのBSで黒澤明監督の特集をやっていた、いまもやっているようである。黒澤作品について語ったものだが、淀川長治の解説が一番よかった。 淀川長治曰く、黒澤は、映画の言葉で表現したというようなことを言っていた。 確かに、黒澤映画には、欧米共通の展開の仕方というか、テンポの良さ、リズムがあるように思える。 黒澤作品は基本的にどれも好きだが、なぜか、「影武者」に惹かれてしまうのは、戦国時代が好きで、その戦国を描いたなかで、一番秀逸で、NHK大河など足元ににも及ばない風格を感じさせるからである。 影武者が勝新だったら、さぞ凄かっただろうと思うと、非常に残念なのだが、だからこそ、未完成という意味で、映画以上の期待感を、自分のなかで思い描いてしまうのである。 話は少し変わるが、有名な、良寛さんが、「心」という字を色紙に残しているのだが、最後の「心」の字の一点だけが抜けているのである。亡くなった祖母が言っていたように思うのだが、最後の点は、その書を見る人の自らの心のイメージのなかで、書く(打つ)ために、わざと、良寛は、一点だけ書かなかったというのである。 黒澤も、ストレートに表現するのを嫌ったようである。押し付けがましい主張を極力廃したという。自然に通じるというか、わかるように、鑑賞者に委ねるように、表現したというのである。 影武者は、信長や家康、謙信の信玄に敵対する大名に、当時、素人同然の俳優を使ったというのだが、それが非常に信長らしく、また家康らしかったのが不思議でもあった。まさに黒澤マジックというような感じであった! 確かに、黒澤のような天皇と呼ばれる監督は、俳優泣かせといえそうである。何より、完璧主義者のようだから、恐らく妥協を許さない厳しさには、なかなかついていけないだろう。 黒澤をみていて、先月、これもNHKのBSでやっていた、クラッシックの帝王といわれた指揮者カラヤンを思い出した! カラヤンの美意識というか、完璧主義の、果敢に冒険し、挑戦していく姿勢は、黒澤の映画に対する情熱に通じるように思えた。 黒澤は、晩年、アカデミー功労賞をもらったとき、「私には、まだ映画がわからない」と名言を残している。恐らく、達人ならではの、映画の奥深さがみえていたのだろう。 カラヤンのベルリンフィルに入団した日本人のチェリストが、カラヤンに出会わなくても、それなりに音楽の才能で、食ってはいけたが、カラヤンに出会って、自分の音楽性を天まで導いてくれたというようなことを語っていたが、巨匠には、常人にはみえない、何かがみえているのだろう。 また、ベルリンフィルのコンサートマスター、これも日本人なのだが、カラヤンは、ヒントも何も教えずに、自然に自らでその方向に向かわせるように、自分で考えるような習慣をつけさせられたようなことを語っていた。 かの小澤征二も、カラヤンの弟子なのだが、いつの間にか、カラヤンの得意な曲を振らせられる羽目になっていたというようなことを言っていたのが印象的であった。 この2人に共通していることは、後からみると、周囲を巻き込んで、自分の意のままにしてしまうというところにあるのだろう。 まるで一つのドラマや夢をみせられているような気分なのかもしれない。 さて、本題とは全く異なる話を続けてしまったが、書こうしたのは、最近、映画よりも、ドラマの方が面白いように感じてしまうということなのである。 かつての映画の巨匠がいなくなったせいかもしれない。 確かに、「デスノート」のように、面白い映画もある。しかし、わざわざ、映画館に行ってみなくてもという感じでもある。 というよりも、そこそこドラマが面白い、特にフジテレビのドラマは昨今面白いと思うようになった、「世にも不思議な物語」は特によいと思う。 基本ベースは、スピルバーグの「トワイライトゾーン」が発端だと思うが、もはや映画並みのつくりといえる。下らないB級映画よりも、ドラマの方が面白い。 恐らく、ゼニを広告代理店に沢山流したせいで、映画よりも、CMやドラマの方が、ある意味、洗練されてしまったのではないだろうか? 多分、この事には、意見が分かれると思うが、トリックに関しては、テレ朝だが、映画よりも、少なくともドラマの方が面白い。
2008年05月07日
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超感覚的な聴覚(霊聴力)をもつ人は誰でも、宇宙が圧倒的な調和の中で鳴り響くのを聞く。そして、この調和の響きと比較して、個々の人間から、個人の人間に届く響きを聞くとき、不調和の音を、ある場合には大きく、ある場合には小さく、やはり不調和の音響を聞く。 現代人の使命は、継続的な進化を通して、この不調和を解決し、調和へと解消することなのである。 この不調和は「私」によって生じたが、とはいえ、それは宇宙を支配し導く精神的諸力の叡知を通して生じてきたのである。もし、人間が調和の中に留まっていたならば、決して独立した存在にはならなかっただろう。 人間が自由に自身の力で調和を取り戻すことができるように、不調和が導入された。そのために、自分自身に、意識的な「私」の感情が、内(精神)的な調和を犠牲にしてでも、発達(進化)することが必要だった。 木星意識が点火され、人間が宇宙の諸力との調和的関係を取り戻すときが来れば、新しい意識状態の中でも、自意識を持った「私」の感情を保持しているだろう。つまり、人間は独立した「私」なのだが、それにも関わらず宇宙との調和の中にあるだろう。 新しい木星意識が既に「恐れと不安」を感じる能力の中に自らを告げるのを見てきた。しかし、常にいえるように、未来の状態が、あまりにも早く現れるとき、それは未成熟で場違いなものになる。 1つ例を挙げてみる。8月に開花すべき花を温室に入れて、5月に咲かせるように強制できる。本来開花するはずの8月には、咲かないものとなる。開花の力が(5月に)使い果たされて、(8月に)置かれた条件(その環境)の中で正しい位置を見い出せないからである。 5月においても、温室から出された瞬間に死んでしまうだろう。何故なら、その花は、その季節の文脈の中には属していないからである。「恐れと不安」の感情についても同じである。今日、その感情には行き場がない。未来においては益々そうなるだろう。 「恐れと不安」を感じるとき、何が起こるだろうか? しっかりとした中心点を形成し、人間を外の世界に抗して強化するために、血が人間の中心へと、つまり、心臓へと押し戻される。 血を心臓に戻すことを行うのは「私」の最も内(精神)的な力である。 血に影響を及ぼす、この「私」の力は益々強く、益々意識的になる必要がある。 つまり、木星上では、人間は自分を強くする為に、全く意識的に、自らの血を、中心点に向けることができるようになる。けれども、今日、この血の流れに結びついた「恐れと不安」の感情は有害で、不自然なものである。未来においては、血を心臓に戻す行為と「恐れと不安」の感情が結びついてはならない。 「恐れと不安」とは無縁の「私」の力だけが活動的であるべきである。 人類の進化全体を通して、外界は、我々にとって益々敵対的なものになっている。内(精神)的な力を、我々にのしかかる外界に向けることを益々学ばなければならないが、「恐れと不安」は消え去る必要がある。 特に、秘教の訓練において前進する人にとっては、全ての「恐れと不安」の感情から、自分を自由にすることが必要である。「恐れと不安」がなんらかの正当性をもつのは、ただ我々が、自分を強くする必要があることを気づかせる点においてだけである。 とはいえ、人間を苦しめる全ての不自然な「恐れと不安」の感情は全体として消え去らなければならない。 もし木星意識が始まるとき人間がまだ「恐れと不安」の感情をもっていたなら、何が起こるか? その段階で、外界は、今日の人間にとって、敵対的であるよりも遥かに、更に遥かに敵対的で恐ろしいものになっているだろう。「恐れと不安」の習慣から脱していない人は誰でも、将来、恐ろしい戦慄に次ぐ戦慄へと陥ることになるだろう。 この状態は既に今、外界の中に準備されている。それは、以前述べた、やがてやって来る大天使オリフィエルが支配する恐怖の時代には、もっとはっきりと自らを現すことになる。 その時代が来たとき、人間はしっかりと立つことを学んでいる必要がある!(オリフィエルの時代は、2030年位といわれている) 現在の、我々の文化そのものが、木星上で人類を脅かす恐怖のモンスターを創造しているのである。今日、人間の技術が、天才的手法で構築している巨大な機械類を見てみれば、人類は将来、自分に向かって荒々しく立ち向かってくる悪魔を、自らで創り出しているのである。 今日、人間が技術的装置や機械として組み立てるものは、将来、生命を獲得し、恐ろしい敵意をもって、人類に反抗するだろう。 単なる便宜のためや、個人や集団のエゴイズムを満足させるためにだけ創造される全てのものは、人間にとって未来の敵になるだろう。 今日、人間は、あまりにも、自身が為すことから有利な便宜を得ることに関心を持ちすぎている。 もし、本当に進化と前進の為に役立ちたいと思うなら、それが役立つかどうかではなく、それが美しいかどうか、高貴であるかどうかに関心を持つべきなのである。 人類の行動は、便利さによるのではなく、美しいものへの純粋な喜びによって導かれるべきである。 芸術的な必要性を満たすために、純粋な愛と美の中で人間によって創造された全てのものもまた、将来、生命を獲得し、そして、人類の高次の進化のために貢献するだろう。 今日、いかに何千、何万という人間たちが、その幼い子供時代からずっと、物質的便宜に基づいた活動のみに従事させられているのかを見るのは恐ろしいことである。 彼らは、その全ての生活において、あらゆる美しいもの、芸術的なものから切り離されている。どんなにみすぼらしい小学校にも最高の芸術作品が架けられていなければならない。その事が人類の進化にとって無限の祝福となるだろう。今日、人間は自分の未来を構築しているのである。 今日、絶対的な善も、絶対的な悪もないということをはっきりさせるならば、木星上では事態がどうなるかについてのアイデアを得ることができる。どの人間の中にも善と悪が入り混じっている。善良な人は誰でも自分の中に悪よりも少しばかり多い善をもっているに過ぎないこと、善ばかりもっているのではないことに気づくべきである。 けれども、木星上では、善と悪が混合されることは、もはやない。 人類は完全に善なる人たちと、完全に邪悪な人たちに分かれるだろう。今日、我々が育成する、あらゆる美しいもの、高貴なものは木星上における善なるものの強化へと導き、エゴイズムや便利さの結果として生じる、あらゆるものは悪の強化につながる。 人間は、未来の悪の力に対等に直面できるように、「私」の内(精神)的な力を自分のものにする必要がある。全く「恐れと不安」なしに悪に直面できるように自分を強化するような方法で、意識的に血を制御することができなければならない。 血を内側に向ける力を手にする必要がある。 しかしまた、血を周辺に向けて流れさせる別の能力も失うべきではない。 木星状態とは、ある意味で古い月意識への回帰を意味することにもなる。人間は偉大な宇宙の法則との調和を取り戻し、それらと自分が一体であると感じるようになる。 人間は宇宙の精神的な諸力と共に流れる能力を取り戻すが、月の上で、存在したように、無意識でボンヤリとした形で、あるのではない。木星上では、常に、明るい昼の意識と自意識的な「私」の感覚を保持するにも関わらず、宇宙の諸力や法則との調和の中で生きる。不調和はそれ自体、調和へと解消されるだろう。 そして、この宇宙的な調和の中へと流れることができるために、人類は、「私」の最も奥深いところにある力が、心臓から輝き出るようになる必要がある。 言い換えれば、人類は、敵に直面したとき、血の内(精神)力を、意識的に中心に向けて導くことができると同時に、意識的に輝き出させることができなければならない。 人類が未来の条件に対抗できるのは、この事ができるときだけなのである。 内(精神)的な発達に向けて努力する人は誰でも、既に今日、これらの力を徐々に制御し始めていなければならない。 これは意識して息を吸ったり吐いたりすること(呼吸法)を学ぶことによりできる。 人間が息を吸い込むとき、宇宙の力に結びつける「私」の力、心臓から輝き出る力が活性化される。そして、人間が息を吐いて止めるとき、心臓に向けて押し進み、それを確固とした中心にする、「私」の力が活性化される。 月意識;「恥ずかしさ」無しに、宇宙と一体となり、「私」の輝きにより血液の体表への膨張浸透させること 木星意識;「恐れと不安」無しに、確固とした中心としての「私」から血液を心臓へ逆流させること こうして、秘教学徒は、今日でさえ、いま述べた意識的な呼吸訓練をすることによって、「私」の力を徐々に支配することを学ぶようになる。しかし、もし、まだ教授を受けていなければ、誰もそのような訓練に、熟練者の助けなしに取りかかれると信じるべきではない。 誰でも、正しい時が来れば、教えを受けることになる。とはいえ、まだそのような訓練を実践していない人でも、その訓練の目的に対する理解を深めるのが早すぎるという事は決してない。理解は後になって、その訓練を、一層実り多いものにするだろう。宇宙の中にある微妙なプロセス(経過)に対する理解を益々発達させ、そして、徐々に人間進化の未来の時代へと成長していくべきである。
2008年05月07日
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シュタイナーの聖杯講義から、聖杯、つまり、霊我(霊視器官)-生命霊(霊聴器官)-霊人(天使器官)を獲得することが、何より人類にとって、来るべき過酷な地球の未来への進化のための修行のために、必要なことがわかる。 では、続けて、その獲得方法を大まかに、シュタイナーの講義から拾ってみる。 シュタイナーは、人類の進化全体を通して、明らかになる精神生活の偉大な法則と原理に関して、つまり、物質界で起こる、あらゆる事柄を見渡し、各時代を通して交代で指導力を発揮する偉大な精神力について、考察している。 大天使(アルヒアンゲロイ)の統治; ガブリエル(1510年~)、ミカエル(1879年~)、オリフィエル また、この精神力と対比し、人間の内面(精神)生活を検証することにより、幾分親密な方法で精神生活の法則について議論する。 秘教訓練を志す探求者は誰でも、ある意味、忍耐強く待てる人である。 通常の知覚世界とは異なる、新しい世界が、いつか現れることを期待しながら、つまり、いつか、自分に、 「私は新しい世界を知覚する。私は今、かつて物理空間中で知覚していたあらゆるものの中に、以前隠されていた多くの精神的存在たちを見る。」 と言えるようになるのを期待しながら待つのである。 この事を明確に理解するには、人間がその進化プロセス(過程)の中で通過していく、七つの意識状態(段階)について思い巡らす必要がある。 これらのうちで、第一(最初)のものは、鈍くボンヤリとしたレベルの意識であるが、人間はその意識の中で自分を宇宙と一体のものとして感じていた。この意識状態を土星状態(段階)と呼ぶ。 七つの意識状態; 土星意識、太陽意識、月意識、地球意識、木星意識、金星意識、 ウルカヌス(ヴァルカン)意識 土星意識;鈍くボンヤリとしたレベルの意識、深いトランス状態、 デルタ波の多い熟睡状態、徐波睡眠 太陽状態(段階)では、意識は狭い範囲に限定されたが、そのため、明るいものになった。 人間が月状態を通過したとき、その意識は、最後の名残りとして、睡眠中にみる夢の中に、つまり、鈍い像(イメージ)の意識の中で経験するものに似ていた。 太陽意識;狭い範囲だが明るいレベルの意識、浅いトランス状態、 徐波睡眠を除いたノンレム睡眠 月意識;睡眠中の夢をみる鈍い像(イメージ)の意識、レム睡眠 現在、地球上で、我々は明るい昼の意識をもっている。この意識は、次の木星(段階)上で、再び像(イメージ)の意識、ただし、そのときには明るく照らされた像(イメージ)の意識であるが、その木星意識を発達(進化)させるときにも、我々のなかに留まるだろう。 地球意識;明るい昼の覚醒意識 木星意識;明るく照らされた像(イメージ)の意識、イマジネーション(マナス;霊視力)意識 人類は更に2つの意識段階、つまり、インスピレーション(霊聴力)意識とインテュイション(霊人;神通力;天地合一;神人一体)意識へと順次上昇して行くことになる。 なので、明るい昼の意識は鈍い月段階の意識と木星の照らされた像(イメージ)の意識との間に中間状態として位置する。 金星意識;インスピレーション(ブッディ;霊聴力)意識 ウルカヌス(ヴァルカン)意識;インテュイション(アートマ;霊人;神通力;天地合一;神人一体)意識 秘教学徒は、いつの日か木星意識が、自らに現れるのを待つ。遅かれ早かれ誰でもこの木星意識を達成するだろう(これは、各々の人の受容能力、その人の内(精神)的準備の程度にかかっている)。 人間は誰でも、内に木星意識の萌芽(マナス)を担っている。未来の意識は人間が気づかないような非常にデリケートで一時的な形式で現れる。秘教的生活は、かなりの程度、自身と周囲に生じる微妙なプロセス(経過)を正しく説明し、学ぶことから成立する。 古い月の意識もまた完全に消滅しているわけではない。その最後の名残りが残っている。古い月意識と新しい木星意識の両方が今日の人間の中に見られるが、前者は「恥ずかしさ」の感情の中に、後者は「恐れと不安」の感情の中に見出される。 月意識;地球意識の「恥ずかしさ」 木星意識;地球意識の「恐れと不安」 血液は「恥ずかしさ」の感情の中で、体の表面や、周辺へと押しやられるが、その中には月意識の最後の名残りが生きている。「恐れと不安」の感情の中で、血液は心臓へと逆流するが、その中で木星意識が自らを告げる。我々の通常の昼意識は、これら2つの方向へと分岐している。 「恥ずかしさ」;血液の体表への膨張浸透 「恐れと不安」;血液の心臓への逆流 何かを恥じて赤くなるとき、月存在の思い出の何かを経験している。 月人間を想像する。月人間は、まだ自分のことを「私」とは言えないが、ボンヤリとした鈍い像(イメージ)の意識の中に生き、月人間自身と結びつき、調和していると感じていた、アストラルの諸力(月存在)との存在の中に、(安らぎ母体のなかで癒された音楽を聴きながら眠ったような形で)完全に横たわっていた。 そのような月人間が、ある日突然、 「私は『私』である。私は他の人間とは違う。私は独立した存在であり、私の周囲の存在たちは皆、私を見ている。」 と感じ始めたと想像すれば、そのような月人間が感じた「恥ずかしさ」は、月人間の中で圧倒的な力で燃え上がっただろう。 もし、月人間が、そのような未成熟な「私」の感情を経験していたなら、月人間は消えてしまおうと、恥ずかしさのあまり死んでしまおうとしただろう。我々も「恥ずかしさ」を感じるときには、消えてしまいたい、床の下に入り込みたい、我々の「私」を解消してしまいたいように思うだろう。 太古の月人間が、いかに周囲の力や存在と調和していたかを思い描いてみる。 例えばもし、敵意を抱いた他の存在が、月人間に近づいてきたとしても、どうしたらよいかと考える必要もなかった。月人間は本能的に、敵を避ける方法を知っていたからである。 このような月人間が、もし意識をもっていたなら、恐らく大まかに次のような方法、 「この敵である野生動物が、私をバラバラにするのを、世界の法則は許さないことを、敵から自身を守る手段が存在するように世界の調和があることを、私は知っている。」 と表現するような方法で行動した。 (自然に対する信仰心とでもいうべきものだろう。例えば、日本人の神風のような伝説にみられるアニミズムのようなものである。日本文化は恥の文化と呼ばれたが、これは太古の月意識に近いもので、「私」という感情が未熟なのだろう。日本人は月意識、つまり帰属意識が強いのである。) 太古の月人間は、自身が宇宙の諸力と完全な調和の中にあると感じていた。 もし、「私」の感情が自身の中に目覚めたなら、この調和は直ちに破られただろう。そして、実際、地球上で「私」の感情が人間に浸透しはじめたとき、月人間と周囲の環境との間に、益々不調和をもたらすようになった。
2008年05月06日
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前回のシュタイナー聖杯講義の続きである。 パルジファルは、新しいキリスト教秘儀参入者である。 ジークフリート秘儀参入にとってかわるものの偉大な象徴である。パルジファルの母は「ヘルツェライデ」と呼ばれる。「パルジファル」の言葉と行間を深く読み取るなら、この叙事詩の作者ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハその人自身が秘儀参入者でもあったが、「ヘルツェライデ」という名前はゲルマン人の心にあった悲劇的気分が生んだものだと分かる。 パルジファルの道を進まない者は心[ヘルツェ]に悲しみ[ライデ]を担った。彼は自ら平和を見い出さねばならない。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは「サガ」を素晴らしい形態で包むことができた。登場人物の一人は深く内的な象徴である。 女性像は必ず意識を意味する。 ヘルツェライデはパルジファルが生まれる意議状態である。彼はまず、悲劇の意識をもたねばならない。彼は、聖杯の秘密に至るために、苦闘して素朴な、単純な意識に到達しなければならない。 パルジファルは聖杯の秘儀参入者になる。ジークフリートは低次の性質、ドラゴン、蛇を克服した。パルジファルは「傷つかざる(ない)者」を知るようになる。一方ジークフリートは(十字架を背負わなければ)まだ傷つく者だった。 パルジファルの像には、キリスト教の本来の理念が表出されている。キリスト教は、当時もはや再受肉の知識をもたなかった。誕生と死の間の1つの生が唯一のものとみなされた。人々はブッディ(生命霊)-アートマ(霊人)-マナス(霊我)を見上げない。 パルジファル秘儀参入はキリストとの関連意識までにしか到達せずに、1つの受肉しか見なかった。そこで、人間は、同情を通して知識を見い出す。 しかし、人智学のように、知識を通して同情を見い出すのではない。人智学は、我々がどんな意味において、全人間存在と1つなのかを教える。人智学を通して、我々は、各々が自らの兄弟のすることに責任があるということを知る。人智学は、知識を通して同情へと、同胞感情へと導く。 しかし人間性は、同情の結果として、知識へと至る発違(進化)段階を、一時、通過する必要があった。人間は、同情の深淵にも降りる必要があった。なぜなら、そこでも知識への道を見い出すことができるからである。 人々が物質世界の重要性を知るようになるためには、知識の道は必須のことだった。キリスト教の使命は、人類を地上なる存在の意義を感得するように教育することだった。このために、物質生活の重要性を道徳生活との関連で強調しなければならなかった。そのときにのみ、都市、町での生活文化とともに始まる偉大な業績が可能となった。 中世に生じた進歩は、伝統の形態で、パルジファルからローエングリンヘの移行に述べられている。 ローエングリン・「サガ」は都市文化の時代に現れる。全ヨーロッパにわたる都市の成立は市民意識の目覚めを大いに薦めた。中世のキリスト教の大きな使命は、「サガ」の形態で、市民意識のなかに表出されている。 都市に、物質的繁栄が始まる。例えば、印刷術。この都市文化がなければ、近代科学は、発達(発展)することはなかっただろう。大学もこの文化の結果である。コペルニクス、ケプラー、ニュートンなどの仕事は、都市文化がなければあり得ないものだっただろう。ダンテの『神曲』とルネッサンスの画家もこの都市文化から育った。 父パルジファルと息子ローエングリンの間の関連を語る「サガ」は、都市文化の意義を示している。 ブラバントのエルザ(オペラのローエングリンで有名)は、都市の代表、都市意識の代表である。あらゆる神秘主義において、物質世界に抗して働くものは、女性によって提示される。ゲーテは「永遠なる女性」と言った。 エジプトの場合、女性はイシス崇拝にある。ブラバントのエルザは、(物質)周辺世界で、男性によって、実るような努カの人間意識(都市意識)を人格化している。 エルザの姿に表象されている都市意識は、ローエングリンにより、聖杯によって、実るはずである。ブラバントのエルザとローエングリンの結合は、物質文明と第5亜人種(アーリア人種)の結合を表出している。 白鳥は秘儀参入したケラ、秘儀参入の第3段階に到達し、マスターを偉大なロッジからもたらす(与える)ケラを表象している。 秘儀参入の第1段階で、ケラは「家なき者」である。言わば物質世界から、切り離されて、彼の物質世界に対する姿勢は、全く客観的な、超脱したものになる。あらゆる偏見を捨て、あらゆるものへの平等な愛をもつようにならねばならない。 愛さなくなるのではなく、愛に値するもの全てに愛を賦与するようになる。例えば我が家、故郷、故国だけを愛するのではない。 第2段階でケラは、「小屋を建てる。」 彼は新たな家を見い出す(変容時の弟子たち)。 第3段階は白鳥である。あらゆる事物や、高次の世界に意識をもつ者たちが、彼に語りかける地点までケラが到達したとき、彼は白鳥となる。 人間だけが物質界に自我をもつ。動物はアストラル界に意識をもつ。植物はメンタル界(ルーパ)に意識をもつ。鉱物は高次のメンタル界(アルーパ)に意識をもつ。 これら他の存在たちの「自我」、「名前(本性)」を見い出すには、人間は高次の諸世界に昇らねばならない。この高次の世界で事物は自らの名前(本性)をケラに明かす。そのとき世界は鳴り響きはじめる。ゲーテはこの真理を次の詩句で示している。 日は太古からの節のままに、 同胞の星の群れと高らかに歌を競っている。 そしてその運命(さだめ)の道を 轟く足音で進んでいる。 (天上の序曲から) 彼はこの指摘を、ファウストが高次の世界に入場するのを述べる箇所でも繰り返す。 霊の耳(霊聴)は、この轟きに はやくも新しい日の誕生を聞きとる。 岩の戸はからからと音高く開き、 太陽神の車輪は轟然と驀進する。 光の音のなんという凄まじさ。 大小のラッパの声、 目は瞬き、耳は竦む。 聞きも及ばぬ響きを聞くことは堪えがたい。 天上の序曲と『ファウスト』の第2部が、このように始まるのには意味がある。ゲーテは、ここで明確なもの、すなわち、ケラの第3段階に言及している。 そこでは周囲の世界が音になり、万物が自らの名前(本性)を告げる(イエスはキリストを自らの中に受け入れるときに、この段階に達した)。 この段階は「ホワイト・ロッジ」で「白鳥」と命名されていた。もはや自分の名前はないが、全世界が、彼に名前(本性)を告げ、彼は「白鳥」となる。 人間は、マスターが実は誰なのか尋ねることなく、自らに作用するように許容せねばならない。 ブラバントのエルザは、マスターが彼女に与えるものを、贈りものと見なさねばならない。彼女が好奇心から尋ねる瞬間に、秘儀参入者は消えてしまう。 テンプル騎士団は、聖杯の秘儀参入の叡知を、東方から治癒の山の、モンサルヴァート、キリスト教秘儀参入の場所へともたらした。秘儀参入の儀式は全人類の未来を示すものを含んでいる。後に、ヴォータンやバルバロッサの鴉が告げるものを含んでいる。実際、次のように言われた。 「キリスト教が新たな段階に入る時が来るだろう。」 古代に、霊的文化の進歩は、太陽の道(黄道)と関連していることが知られていた。紀元前800年以前に、太陽(の春分点)は牡牛座に2200年間あった。その時代に牡牛がアジアで崇拝された。それより前には、同じ理由から、双子座がペルシアで崇拝された。宗教は二重性に関係していた。善と悪のゾロアスター教である。 キリスト生誕の890年前に、太陽は牡羊座の星座に入った。イアソンと金の羊毛はその事を示している。キリストは自らを神の子羊と呼んでいる。なぜなら彼はこの時代に現れるから(紀元約一世紀まで、牡羊座、そして、紀元一世紀から20世紀までが魚座で、20世紀後半から、水瓶座)。 テンプル騎士団は、魚座の次の星座に影をなげかけている。そのとき太陽(の春分点)は水瓶座に入っているだろう。そのときキリスト教は真理において立ち、異教世界はキリスト教世界と結合しているだろう。この文化は、新しいヨハネを目覚めさせるだろう。 このような文化は、太陽(の春分点)が水瓶座にあるときに来る。 ヨハネは、水瓶座を意味する。彼はキリスト教の新時代の告知者であり、テンプル騎士団は、洗礼者ヨハネを指して、キリストを指さなかったと言われるが、彼らが言うヨハネは水瓶座のことである。 秘儀参入者ローエングリンによって始められたキリスト教の最終段階は、功利主義の時代をもたらし、それは今絶頂に達している。 人智学運動は実は、パルジファルやローエングリンとともに始まった運動の後継者である。近代の唯物主義すら、その起源を秘儀参入者に負う。しかし唯物主義は新しい展開、新しい周期にとってかわられねばならない。この新段階(位相)こそ人智学が紹介しようとするものである。 新たな衝動が文明に与えられるとき、常に秘儀参入者は語るのである。
2008年05月05日
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では、どうすれば、高次の精神的存在を、魂のなかに受容する能力が生じるのか? 地球進化の精神的な意味を深く探求すれば、アトランティス時代後の人間がまだ太古の超感覚的能力の名残りを有していた時代には、イマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、そしてインテュイション(神通力)が、地球の精神的な大気中へと豊富に伝達されていたことを発見する。 それ(ポストアトランティスの初期の古代インド文明期;今から約1万年前)は、精神的実質が大量に放出されていた時代であった。 第4後(ポスト)アトランティス時代(ギリシア-ローマ時代の紀元元年期)以来、特に今後は、段々と、より少なくなった精神実質を送り出すようになる。むしろ、現代人に寄りかかってくるのは、送り出すこととは逆の、古い精神実質を受け取るということである。 古い精神実質は、現代人に密接に関わることで、現代人は、太古に送り出された精神実質を再び、自らの中に受け取るという使命を担っている。それは、以前の精神的放出を精神的吸引に置き換えるということが、人間に要求されているということを意味する。 人間は世界の中にある精神に対し、益々敏感に、そして受容的になる必要がある。 太古の時代には、精神的受容はそれほど重要ではなかった。というのも、そのような古い時代の人間は、いわば貯蔵所を持っていたために、精神的実質を、自分たちから放出できたからである。 しかし、その精神的実質の貯蔵所は、第4後(ポスト)アトランティス時代(ギリシア-ローマ時代)以来あまりにも深く利用されたために、これからの人間は、ある意味で、吸収したもの、吸入したものだけを、そのまま送り出すことができるようになる(貯蔵所がゼロになったので)。 人間が地上に生きている間、この新しい任務を十分に理解できるような位置を占めること、そのために人智学は、この世界に存在している。ある人が人智学に惹かれるとき、単に、この世界で、気に入った多くの事物の1つとして、人智学が気に入るということではない。 人智学に惹かれるのは、それが地球の進化全体に深く、密接に関連しているからであり、人間進化のプロセス(過程)において、今日の人間に直接関わってくる使命、つまり、人間の周囲全体に広がる精神に対する理解を深めるという使命に密接に関連しているからである。 というのも、今後、感覚の背後にある精神、感覚世界の背後にある精神世界に対する理解を発達(進化)させない人たちは、呼吸系が傷つけられ、空気(大気)を取り込めない人たちのように(精神的な)呼吸困難に苦しむということが起こるからである。 今日、精神的には、我々の思考の中にまだ残っている太古の人間的叡知をもって、食いつないでいる状態なのである。もし、現代において、人間の進化を精神の目をもって観察するなら、物質的、外的な領域における沢山の発見にも関わらず、一種の精神的な消耗、精神的内容の奇妙な貧困が生じているのに気がつくだろう(自殺が増加しているのもその一端である)。 新しい考え、新しい概念が人類の間に現れることが益々少なくなっている。 今日、何らかの思考が発展し、成熟できると想像するのは、太古の概念を知らず、いつも自分で(かつてあった)古いものを再発見しているような(言い換えれば、人生全体を、長い間、いわば未成熟なままに留まっている)人たちだけである(忘れては思い出し、記憶障害が回復され、その事を1つの発見といっているようなもの)。 人類は、決して新しい発見をしているのではなく、現状において、抽象的思考の世界、知的思考の世界を消耗しているのである。もう人類史上、真なる新しい考えが湧き出してくるということはない。 ターレスの時代が西洋的思考に向けての知的な考えの始まりを画している。そして今、我々はその一種の終局を迎えている。今のような哲学、思考の科学としての哲学は1つの終局にある。いまの思考や考えは、物理的領域に属している。 そして人間は、これらを超えたところに横たわるものへと、つまり、物理的領域の世界を超えたところへと自分を引き上げることを学ばなければならない。さしあたり、イマジネーション(霊視力)へと自分を引き上げることになる。イマジネーション(霊視力)は、人間にとって再び現実的で実際的なものになるだろう。それは精神の新しい実りを人類の中にもたらすだろう。 此の事が、何故、人智学、或いは精神科学が偉大で力強い世界のプロセス(経過)に関するイマジネーション(霊視力)を与えているかの理由なのである。土星期、太陽期、月期についての記述が、その他のあらゆる、その種のものと、いかに異なっているかについて注意するなら、人智学を、自然科学の抽象的な概念と比べてみればよい。 人智学(精神科学)においては、あらゆるものが像(イメージ)の形で与えられなければならない。それらの像は、外的感覚の世界においては、直ぐには認識できない方法で、与えられなければならない。人智学では、古い土星に関しては、熱の状態にある、熱のみからなっていると語る。 人智学が語ることは今日の感覚世界にとっては全くのナンセンスである。何故なら、感覚世界は熱の実質自体に関して何も知らないからである。 しかし、感覚世界にとって、ナンセンスであるものは、精神世界にとっては真実なのである。そして、未来において、人間に要求される次の段階とは、精神世界に向けて、人生の歩みを進めるということである。 精神の空気を呼吸することを決意しない人(そして、人智学は人間の魂を精神の空気に感じやすくさせるために、この世界にやって来たが)、人智学に敏感に反応するようになろうと欲しない人は、実際、精神的な呼吸不足の状態、精神の消耗状態に近づくだろう。 既に多くの人がこの状態に近づいているのが見られる。そして、それは精神的な荒廃と衰微、精神の実際的な「消費」へと繋がっていき、精神的貧困な上に、物質的闘争をもたらす。 多くの人が、もし感覚世界に立ち止まろうとするなら、このような状態になるだろう。彼らは精神的退廃に陥るかもしれない。将来、文明が発展する過程においては、精神に対する感受性に満ちた人々、すなわち、人智学が与える全てに対する、イマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、インテュイション(霊人力)の世界に対する気持ちが、自らの魂の中に自然に湧き出してくるような人々が存在しているだろう。 人類の一部はそのようであり、彼らは、この精神世界に対する理解と献身の気持ちを有している。そして近い将来、地球の前に置かれ、使命を全うするのは、これらの人々なのである。他の人々は多分、感覚世界に満足し、それを超えていきたいとは、つまり、哲学や自然科学の概念が提供する、影のような像を超えていきたいとは思っていないだろう。 そのような人々は精神的な呼吸不足、精神の消費、精神の病、病気の方向に向かっているといえる。彼らは、地球存在の中で干からび、地球進化のために設定された目標に到達することはないだろう(地球と共に物質的に、その使命を終えるだろう)。 しかし、進化は、一人一人が自分に、次のような問いかけを強いられる方法で進んでいく、 「地球紀で、満足なうちに魂の終焉を迎えるのか、地球紀を超えて、更なる新たな地球の木星紀まで、精神呼吸を担うことにより、魂の進化を進めるのか、一体、どちらを選ぶのか?」と。 将来、人間は右か左か、いわば2つの道の上に立つことになる。一方の途上には、彼らにとっては感覚世界だけが真実であるような者たち(ヨハネの黙示録では悪の種)が、そして、もう一方の途上には、彼らにとって精神世界が真実であるような者たち(ヨハネの黙示録では善の種)がいるだろう。 そして、例えば耳のような感覚器官は消え去るということ、地球紀の終わりには、地球に属する全ての感覚が完全に消滅するということから、消費し、浪費し、尽くすことが、どのようなことなのかに関して、ある考えを形成できる。 もし、感覚世界に自分を投げ与えるなら、未来の地球進化から人間を投げ捨てようとする存在(悪魔)に対し、自分を投げ与えることになる。 これに対し、精神世界へと押し進むなら、未来の地球進化において、益々人間に近づこうと意志するもの(善の天使)に向けて、自分を発達(進化)させることになる。 もし、それを象徴的に表現すならば、次のように言えるだろう、 「人間は地球進化の終わりに、最終紀に立ち、ファウストが物理的に盲目にされたとき(何故なら、人間は、周りの世界に対して盲目になるばかりではなく、聞くこともできず、つまり、盲目で、耳も聞こえず、味覚も臭覚も奪われて、立つからだが)に発した言葉、 『しかし、私の最奥の精神の中には、全ての光がある、そうだ、その精神のなかには、全てが燦然と鳴り響く音があり、人間の言葉がある。』という言葉を、ファウストと共に発するだろう」、と。 精神世界に向かった人は、 「私の中に全てがある。光があり、音があり、言葉がある。だからもはや、私には外界が必要ではない。私は外なる神々から、内なる神々をいま認識した」 と語ることができるだろう。 しかし、感覚世界に留まることを欲したその他の人間は、盲目にされた後のファウストのように、 「外に何も見ることがなく、内に精神の光が輝くこともない、汝を受け取るのは暗闇ばかりなり。」 と言わざるを得なくなるだろう。ただ全き暗闇の牢獄の中で生きる。 人間は、これら2つのファウスト的な本性の間から、地球の未来に対する関係を選択しなければならない。最初のファウストとは精神の世界に向かった人であり、もう1人のファウストとは感覚世界に向かい、それにより、人間自身の実体が奪われ、空白となり、現実でなくなる偽りの存在となる。 更に言えば、暗闇は、その人間から、自身の現実と存在を奪うものであると感じざるを得ないもの(進化から逸脱した堕天使悪魔)と密接に合体した人となる。 神秘の高みから探し出し、もたらそうとしているものは、人間の身近な日常生活との関連で、そのように見える。 道徳原則や今日の人間性への意志衝動が、神秘学の真の理解から何を導出するのかを指摘するために、何も、まわりくどい形でいう必要はない。何故なら、正しく理解された叡知から、正しく理解された善と徳が人間の心の中に生み出されるからである。世界進化の現実的理解に向けて努力し、叡知を探求すれば、我々人類は、間違いなく、叡知の子とは愛であることを発見するだろう。
2008年05月05日
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巷では、経済がどうのこうので、財政赤字が喧々諤々、道路が必要不必要と枝葉末節な議論ばかり横行しているが、とどのつまり、経済の表面的問題は価格調整そのものにある。 簡単にいえば、価格が不安定に高騰したり、下落するから、社会経済不安が高まるのである。 価格調整は、金持ちの胸先三寸といえる。金持ちにモラル、ノブレズオブリージュが求められるのは、何より社会安定を高めるためにある。だから、貴族という称号の代わりに、金持ちから金や、その欲望を、取り上げてきたことを、人類の歴史は、物語っている。 金を稼ぐことは、モラルに反しない限り、許容されるが、一度、モラル、つまり社会安定に反し、逸脱するなら、金稼ぎ行為や財産全ては、没収されねばならない。 つまり、モラルを追求する行為に、金稼ぎは許され、それは一つの手段にすぎないが、モラルという社会安定が大前提で、その道を踏み外した連中は、誰か他のモラルの追随者に取って代わられなければいけない運命にある。 日本は、市場開放を無計画にやりすぎた為に、価格破壊が進んだ、価格破壊のために、人件費が高騰し、企業は海外に安い賃金を求め、進出し、国内の雇用不安が増し、今度は、逆に、海外から出稼ぎ労働者がやってくる。 出稼ぎ労働者の多くは、日本の文化に無知なので、社会治安が乱され、犯罪や行政組織が硬直化する。民間企業は、買収を恐れ、企業価値、つまり価格をあげようとするために、政府に揺さぶりをかけ、法人税を減税させる。 すると、民間企業は、努力もせずに、政府に揺さぶりをかけ、価格操作を行うことだけで、企業価格、表面上の企業価値を上げられるから、益々怠惰になり、資金獲得、投資活動に奔走する。 こうなると、政府も民間も、その役割が不明瞭になり、公私混同が激しくなり、儲かればなんでもありとなり、社会事態がギャンブルのようなゲーム社会になる。勝てば多大な報酬を得られるが、負ければ全てを失う社会の到来となる。 それが現状である。安定的な価格操作を怠ってきた政府や銀行関係者の怠慢である。 社会不安が増し、政府は信用をすでに失ったので、利害者の仲裁役が関の山で、勝者の言うことしか耳に入らなくなる。 この構図は、米国の暗部そのものである。大統領は、米国有力企業の代弁者でしかない。そのような構図に、イラク戦争で、世界の人々は気づき始めたので、米国政府の信頼は一気に崩れ、ドルが暴落しはじめていく。 そう、アダムスミスの言った、市場原理が、社会安定をもたらすというのは、嘘なのである。神の見えざる手は、悪魔の見えざる欲望だったのである。 我々は皆、騙されていたのである。 道路もガソリンも、人件費も、議員の給料も、社会安定のための価格調整が必要なのである。 とりあえず、議員の報酬は、あまりにも高騰しすぎているので、民間企業のパート社員と同じにすべきである。議員には、すでに特権という報酬があるのだから。
2008年05月04日
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誰に聞いても、福田は駄目だ! お粗末すぎる!! と言っている。 しかし、与党だけは、選挙が怖いので、サミットまではとにかく福田でと先送り。 この一件だけでも、国民が、現政権、いや与党から離れていくことがわかる! そんな悠長なことを言っていてよいのだろうか? 問題というのは、先送りしている間に、どんどん複雑化していく。 大体が私利私欲、党利党略で政治を行うのがよくない。 嫌なことは、他人任せで、都合のよいことは、自分の手柄にしたい。 自分たちの政務の責任を、無責任にも、国民に丸投げで、搾取ばかり。 このような利己主義者に、何の政治ができるというのだろうか? 馬鹿いっちゃいけない。こんな後ろ向きな姿勢の党など誰がいるか? 国民の怨念は高まり、やがて自民党をこの世から消してしまうだろう。
2008年05月04日
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シュタイナーは、聖杯についてかなりの講義を行っているようである。聖杯の探求という書物も出ているくらいである。 さて、聖杯について、興味深いホームページをみる機会があったので、それを要約してみたい。 ノルマン人による古代の伝承書の「聖杯」と関連する「サガ」は、中世ヨーロッパの精神生活を示す代表的産物である。 昔、知者は神話と「サガ」によって、最深の真理を人々に語った。人智学で、お馴染みな理念を、中世のヨーロッパの人々に伝えようとしても、全く役に立たなかっただろう。 賢者、賢人は、自分の言うことが理解されるように、個人個人と、時代を超えて語る。彼らは常に再受肉の法則(輪廻転生)を考慮に入れていたのである。 北、中央ヨーロッパの人々に、世界の秘密を伝えた賢人が、ドルイドであった。「ドルイド」は実は「オーク」(Eiche)と同じものである。当時のゲルマン人が、「オーク(樫)の木の下で神聖な儀式を行った」と言えば、それは文字どおり「オーク」の意味だけでなく、「ドルイド(僧侶)が、彼らを導いた」という意味でもあった。 「ボニファティウスがオークを倒した」という記述は、「古いドルイド崇拝がキリスト教にとってかわられた」という意味である。真理は「サガ」の姿で伝えられた。ドルイド僧がかつて語った対象は、今日我々の世界観を受け入れた魂のことである。ただし彼らは当時の時代に相応しい語り方をした。 人智学の世界観を受け入れる人智学徒は皆、かつてその世界観を神話とおとぎ話の姿で聴いたことがある。でなければ、人智学の世界観は、今日の人類には理解不可能であっただろう。中世を貫いて、ゲルマンと中央ヨーロッパの文化の根本的な諸真理が偉大な「サガ」に含まれている。 ドルイド僧は、太古、遥か西に、ニーフェルハイム、或いはネーベルハイム、またはニーベルンゲンハイムと呼ばれる大陸に文明が存在したという意識を養った。ニーフェルハイムは古代アトランティス大陸のことである。今日とは全く異なる特徴的な大気状態(湿度が非常に高い、例えるとミストサウナの状態)のために、その名がついた。 ゲルマン人の起源を語る「サガ」には真理がある。というのも、実際、大西洋のかわりに、アメリカとヨーロッパの間に古代大陸が広がっていたからである。この太古のアトランティス大陸は沈んだ。 この大陸とともに、権力と叡知の財宝も沈んだ。この財宝は黄金として描かれている。その水没はニーベルングの黄金の水没として「サガ」には描かれている。しかしこのニーベルングの財宝は、ヨーロッパの東の方で、再び引き上げられる運命にあった。 まずヴォータンが、次いでジークフリートが、古代の財宝、ニーベルングの宝を、近代ヨーロッパに持ち運び近づけ、彼らはある意味、後世の文明として、再び実るような課題を担った秘儀参入者であった。 「サガ」が秘儀参入者のヴォータンについて語る事実は、現在とは異なる太古の文化形態への鍵を与える。WとBの文字には照応がある。“Wota”は、Bodha、Budhaと同じである。ヴォータンは実際“Budha”という言棄のゲルマン語形にあたる(ヴォータンは仏陀の再来であるという)。 このように、ヨーロッパのヴォータン信仰と、アジアの仏陀宗教の共通起源に導かれる。仏教はインド本土ではすぐには広まらなかったが、アトランティス文化の名残りがまだ残っているアジアの諸民族の間で栄えた(インドよりも、中国に仏教が広がった理由がわかる。またタイや日本にも)。 ヴォータンの諸民族もアトランティス文化から自らの思考形態を運んできた。彼らの本来の進化は、ドルイド僧が与えた「サガ」に表出された。それらの「サガ」は、ニーベルングが、略奪したアトランティス文化の財宝を、どのようにしてヴォータンとジークフリートが救ったかを、偉大な美しさで述べている。 預言かつ悲劇的な響きが、この「サガ」を貫いている。この物語はドルイド僧が教えた場所には必ず見い出される。ロシアから、ドイツを横切って、フランス、イギリスに至るまで、次のように預言された。 「神々の黄昏がはじまる。我々はアトランティス文化の生き残りを代表している。我々は死なねばならない。より善き者が来るために。我々の秘儀参入者は、来るべき出来事の預言者である。」 悲劇的な調子が、ジークフリートの手法に従って、秘儀参入した者全てに表出している。ニーベルングの歌は、太古の秘儀参入形態を表出している。ニーベルングは「悲しみ、悲嘆」という意味である。神々の黄昏の気分が至る処にあり、次のように、人々は感じ、また親密な弟子ははっきりと知った。 「我々の秘儀参入者とは全く異なる者が来るだろう。」 「サガ」に従えば、ジークフリートがこの「者」であった。 スカンジナビアとロシアには、トロッテンの秘儀があった。これはドルイドの秘儀に対応するものであった。「トロッテ」は「ドルイド」と同じ言葉である。 古代秘儀全てにおいて、元々の偉大な秘儀参入者の名は、“Sig”(ジーク)である。だから、例えば、ジークムンド、ジーグルド、ジークリンデと呼ばれた。ジークフリートは、秘儀参入において、平和を見い出した秘儀参入者であった。平和“Frieds(フリート)”は、人を、疑惑を超越して導いてくれる者の意である。平和は知識への、力ヘの憧れを満たすことである。 ジークフリートは弱点をもたない、傷つけられない存在として、常に描かれている。ギリシアの秘儀参入者アキレスは、かかとに弱点があった。ジークフリートは、ドラゴンを克服した後、肩甲骨と肩甲骨との間の一点を除けば、弱点がなかった。その箇所は十字架を背負えば、覆われる(隠れる)場所である。 この象徴は、古代秘儀の意義深い特徴である。 「汝たちは皆、あの方(ジークフリート)が十字架を背負うべき箇所が、弱い。この弱い箇所を十字架で覆う者、十字架を担う者は、弱点のない偉大な秘儀参入者となるだろう。」 と言われた。これは北欧「サガ」の偉大な基調である。それは黙示録的叡知であった。 この叡知は12人の秘儀参入者が集うセンター(集会場)から発するものであるということを、全てのオカルティスト(秘儀参入者)は知っている。このセンターが「ホワイト・ロッジ」である。そこから叡知は、世界中に運ばれるが、個人が、他者との関連を知り、自ら感得するのと同じ方法である。 ロッジの叡知を保持する12人が常にいた。例えば、12使徒である。叡知をボンヤリと瞥見する人たちの意識や、本当に知っている人たちの叡知に触れるとき、我々はアーサー王の円卓に遡り、参加することになる。円卓のメンバーは偉大な秘儀参入者たちであった。 円卓はイングランドのエリザベス女王の時代までウェールズに残存していた。そのとき、政治的理由で、廃止された。ジークフリートの秘儀参入で世界に向かって言うべきことを、人々に告知したのは、偉大なホワイト・ロッジに他ならない。 中世の民衆意識において、2つの明確な政治潮流は、原初の時代まで遡る。西ヨーロッパの征服に成功したフランク人のなかには、統冶者の家系があり、その起源は実際アトランティスの時代にまで辿れるものだった。 ニーベルンゲン、或いはヴィーベルンゲンの家系と呼ばれたが、その子孫がギベリンである。フランク人のなかから、ニーベルンゲンの古の大陸に起源をもつ民族の古い意識が生き延びた。 フランク人のなかに世俗的支配と宗教権力が合体された。そのために、シャルルマーニュはローマで王として戴冠しようとしたのである。すなわち、それは霊的要素が、世俗的要素に加えられるのが目的であった。 権力と見なされる全ては本来、アトランティスから伝えられた。神々の黄昏のイメージには、ある種の悲劇的な要素が支配者の系統に結び付いていた。だから次のように言われた。 「知識を望む者は実際秘儀参入者になることができる。とはいえ、彼らは何か別の者にとってかわられねばならないだろう。」 この潮流は、まず、バルバロッサの伝説に表出された。バルバロッサは古いフランク族の支配者継承の表象と考えられた。ホーエンシュタウフェン(神聖ローマ帝国の王朝)は、ギベリン、ニーベルング、ワイブリング(恐らく法王の名だろう)に継承された。そして、ゲルフ(皇帝派)と対立した。 バルバロッサの伝説の親しみ深い物語に、彼がアジアからヨーロッパに「聖杯」をもたらしたということが加えられている。その途中で、彼自身は、肉体的人格者としては、死ぬ。そして今彼の時が来るのを待っていると、伝説は語る。ここには、古代の異教と新しいキリスト教に直面した、中世の雰囲気と姿勢全てが表出されている。 当時の人々は自分の民族魂を考えはじめ、次のように言った。 「我々は文明を古代アトランティスから運んできた。それは消え去る運命にある。キリスト教がとってかわらねばならない。しかしそれはキリスト教を通して、浄化、純化、昇華されて、再興するだろう。」 当時、人々は下降の終末から、上昇の開始に至る変遷を創造し始めなければならなかった。彼らは、より深いゲルマンの霊的文化の発達(進化)の映像を次のように形成し始めた。 アトランティスに存在した明確な霊意識は、来るべき者により継承されねばならない。生来の勇気、信仰の篤さ、美徳は、また別の方法で再獲得(再構築)されねばならない。 彼らは3つの力を思い描いた。ヴォータンというのは、秘儀参入者が保持する直観力である。「ヴィッレ」は意志である。「ヴェー」は感情の気分で、黙示録的な悲劇性をもっていた。しかし、その当時、別の時代が来る予定だった。 文化の移行点には、キリスト教の教えが行き渡らねばならない。そして文化の再上昇は、神々の責昏の前に存在しなければならない。 『バルバロッサが「山の中に」住む』と言われるとき、「彼が秘儀参入者である」という意味である。 山は秘儀参入の場である(キリストは弟子と山に行く)。 鴉(カラス)は、7段階ある秘儀参入の儀式の第1段階を意味する。鴉は、秘儀参入者と周辺世界の間にまだ存在する結合(結界)を意味する(エリアの鴉)。 ヴォータンにも鴉がいる。バルバロッサは聖杯を東方からもたらした。聖杯は、「救済の山」、治療の山に保存された。そのまわりに今アーサー王の円卓の継承者たちがいる。12人の騎士、そこにはキリスト教秘儀参入が古い異教秘儀参入に加えられている。 聖杯はキリスト教秘儀参入の感覚映像、象徴である。聖杯の秘密への参入を求める者は皆、キリスト教秘儀参入者となった。キリスト教秘儀参入者となる者は、まずあらゆる疑惑を乗り越えて、キリスト自身との結合で、堅固な支持を受ける。このためには、あることが必要である。すなわちキリストの姿への秘められた信頼である。 キリストの姿を確実にするために、最初の弟子たちはキリストがここにいたという事実を大いに強調したのである。彼らは言う。 「我々は彼とともにいたことを証言したい。我々は自らが見たり聞いたりしたことを告知する。」 パウロが使徒であるのは、彼が実際に、霊視により、復活した者(キリストの姿)を見たからである。 直接的実在において、到達した実際体験が問題である。叡知と論理によって到達されたものではない。 バルバロッサは、聖杯の、キリスト教秘儀参入の、秘密を求めるために、アジアに行った。しかし彼は聖杯に辿り着く途中で死んでしまう。彼は、キリスト教が、昔の秘儀参入形態との関連を見い出せるまで「山の中で」待たねばならなかった。バルバロッサはキリスト教をもたらしたが、より深いキリスト教秘儀参入の段階にまでは至っていなかった。
2008年05月02日
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町に散歩に行くとき、非常に多くの情報が、感覚を通して、魂の中に入ってくるが、そのうち、魂の生活の恒久的部分になるのを、観察できるのは非常に僅かであるということをよく考えてみる。 絶え間なく印象を受け取っているが、受け取る印象のうち、自身の魂の恒久的、意識的財産になる部分の、その総計に対する関係は、毎年毎年海の中で産み出される大量の魚の卵のうち、実際に魚へと成長する部分の、その全体に対する関係と同じであることに気づく。 また、自身の魂の内で、絶えず、この過程(プロセス)、つまり、広大な領域の中の、ほんの非常に僅かな部分だけが、その目的を達成するというプロセス(過程)を通過して行く必要がある。 そして、人間が、少し隠されたベールを持ち上げ、朝の目覚めに際して、暗闇から現れ出る、大いなる洪水のようなファンタジーや思考の様相(夢は、多くの人の為に、睡眠中に過ごす無限に豊かな生活の最後の名残りを提供する。)を垣間見るとき、人間は、明白には意識に上らないような、非常に多くの印象を、実は受け取っているという事実に、意味があることに気づくようになる。 というのも、明確な意識に上る印象は、人間の内的(精神的)な働きの中で失われ、感覚器官や腺組織系、或いは消化器官系に働きかけることができないからである。明確な意識に上る印象は神経や筋肉、そして骨格系に働きかけることもない。 魂の中で意識となるもの、今日の人間が、意識、内的(精神的)な魂の内容として、内部にもつものは、もはや有機体に働きかけることができない。 つまり、この内部意識は、人間全体という母なる大地から切り離された。切り離されて自由になったことにより、人間の意識に上ったという特徴を持つ。その他全ての魂の内容(それは、意識的存在となった思考や考え、つまり魚になる僅かな卵に対する、他の多くの卵の関係を持つが)は、魂の中に入って来るが、決して、意識に上ることのない全ての無数の印象として、人間全体に働きかける。 周囲の環境に存在する、あらゆるものが、絶えず、人間全体に働きかけている。夢はときとして、意識的な思考として、自身の魂の中で(意識として)生き続ける存在が、魂の中に入って来る総計としては、あまりに少なく、意識から全くかけ離れていることを教えてくれる。 ただその事に注意を向けるだけで、絶えず、このような事が、人生の中で生じていることを見い出すだろう。例えば、ある状況を夢に見る、その夢は、恐らく、自分とは別人に話しかけている人の反対側に自分が立っているような夢だろう。自分の夢のなかの、ある場所に立ち、自分は第三の人物となっている。 そして、夢の中で、自分とは反対側に立つ人物の表情をはっきりと、正確に把握するだろう。そして自分に、 「私は、どうしてこのような夢を見るのだろう? その夢は、実際の生活での、知人に関する印象を与え、実際の生活に関連するように見えるが、その夢はどこから来たのだろう? この人物は見たことも聞いたこともない。」 と言うだろう。 今、その夢について更に追求する。注意深く調べているとき、2、3日前に列車の中で、この人物の反対側に、自分がいたことを知るだろう。ただ、全ての経験が、自身の意識を喚起することもなく、自身の傍を通り過ぎていたのである。 にも関わらず、その印象は深く、魂の生活の中に入っていった。一般に、これらの事柄について人々が何も知らないということは、観察の不正確さによる。 このようにして、夢が我々の前に提示する概念は、魂に作用する印象のうちでも、決して最重要なものではない。最も重要なのは、全く別の印象である。以前述べたプロセス(経過)が人間進化のプロセス(過程)を通して、いかに絶えることなく生じてきたかに関して少し考えてみる。 人間は骨格系により、イマジネーション(霊視力)を生じさせ、筋肉系によってインスピレーション(霊聴力)を、神経系によりインテュイション(霊人力)を絶えず世界に送り込んできた。これら全てが今や世界の中に存在している。 邪悪な流出物は、それを生み出した各々の人間が、自分で、それを再び受け取り、自らの運命を通して運び去る必要がある。しかし、その他の部分は、世界を建設し、形態を取り、そして絶えず人間の周囲に存在する。 人間が地上世界のために与えてきた全てのイマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、そしてインテュイション(霊人力)は、アトランティスの破局以来与えられてきたものでさえ、絶えず、周囲に存在させ、いまや我々の環境の一部となっている。 人間が提供してきた善良なるもの、これは個々の人間がカルマの進展の中で再び引き戻す必要のないものである。なので、何世紀にも渡り、引き続く時代を通して、人間が地球の精神的な大気圏へと送り出してきたものは、丁度、大気(空気)が、物質的な人間の為に存在するように、今地上に生きる人間のために実際に、周囲に存在しているのである。 人間が物理的な空気(大気)を呼吸するように、空気が環境から正に人間の中に入ってくるように、発現されたイマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、そしてインテュイション(霊人力)は人間の中へと貫き至る。そして、人間は魂と精神をもって、それらに加わる。 そこで今重要なのは、人間が、周囲にある全てに対する真の関係を発達(進化)させること、地球での、以前の時代に、人間自身が、分け与えたものに対し、見知らぬものであるかのように、何の関係もないかのように接しないということである。 しかし、人間が自ら地球に与えた、この精神的なものとの結びつきを持つようになるには、それらを、自分の魂の中に受け入れるための力を徐々に獲得するときだけである。
2008年05月02日
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私は花粉症ではないのだが、花粉症が流行る昨今に、シュタイナーの人智学では、花粉症をどう捉えているのかを短く述べてみる。 花粉症は、古代では枯れ草病と呼ばれていたようである。 だから、昔から知られていたようである。 人智学では、人間を4つの基本体からなると考えていて、それは肉体、エーテル体、アストラル体、自我という名で呼ばれている。 更にわかりやすくいうなら、土人間、水人間、空気(光)人間、熱人間と、それぞれ呼ぶことができる。 人間のこの4つの体は、地球の進化と共に、人間に付与されてきたという。 古土星紀は熱人間、古太陽紀は空気(光)人間、古月紀は水人間、そして、現在の地球紀は、土人間となる。 また、ちなみに、この事はそれぞれ、アリストテレスが説いた4大元素霊と呼ばれる、土、水、空気(風)、火(熱)の精霊に相応している。 また、古代の医師ヒポクラテスも、この人間の4分類により、その混合度合いが正常なのを、クラーシス、正常でないのを、ディスクラーシスと呼んだという。 さて、花粉症だが、花粉症の発症は、花粉というよりも、春という季節に由来すると、人智学は説いている。ただ、花粉が非常に強烈な春の性質を運ぶので、表面的に、花粉症にみえるのだと説く。 一般的に、春になると、水のなかの生命体が若い息吹を外に押し出すように、水人間が膨張するのだという。水人間、つまりエーテル体が膨張するという。東洋哲学でいえば、「気」に相当する。 ちなみに、パラケルススは、このエーテル体を、アレケルウスと呼んだ。 では、花粉症に罹る人の体質の違いは何処にあるのか? それは、端的にいってアストラル体が怠惰な傾向の人だという。アストラル体、つまり空気(光)人間である。 自我、つまり熱人間が、怠惰の傾向にあると、空気(光)人間も怠惰の傾向になるという。怠惰とは、一般的に活動的でないことをいう。だから、あまり身体を動かさない人は、怠惰になり、熱人間がうまく発散せず、空気(光)人間が、鈍り、水人間の排泄、つまり新陳代謝が、滞る傾向になるというのである。 水人間が滞ると、部屋にゴミが溜まるように、掃除をしなくなり、汚水が溜まるようになるのである。 ここでいう汚水とは、栄養物が、目的とする、つまり必要とする器官に、適確に到達せずに、誤って他の場所に届いてしまい、廃棄物化することを指す。 だから、土人間は、栄養という手紙を適確に送付できる優秀なポストマンでなければならない。人間は、物質を適確に監督しなければ健康体にはなれないのである。 人智学では、人体の適材適所を説いているのである。 適材適所でなく、不適材不適所だと、病気に罹るというのである。 なので、花粉症は、春の水人間の膨張時に、適材適所に行き渡らなかった腐敗栄養物が、現れる現象といってよいだろう。 社会でいえば、廃棄物が、街で腐敗し、異臭を放つのに相当するわけである。 では、治療を行うにはどうしたらよいか? 理念的にいえば、自我の怠惰の傾向を克服し、活発化することである。一日中、座り込んでいるのが最もよくないようである。ちなみに、農作業等が、最も熱人間を活発化し、また、乗り物に乗るのは怠惰な傾向になるのでよくないようである。 対処療法はどうかといえば、人智学では、ホメオパシーの原理を用いて、薬剤が開発されているが、それはあくまで予防薬である。なぜなら、自我が怠惰なままで、病気を改善しても、一時的だからである。この事は、部屋の掃除を毎日行うのと、付け焼刃で行うのとの違いともいえる。一時的に行っても、やがて、別のゴミが増えるだけである。 まず、何事も、自我とアストラル体、この事を東洋哲学では、霊魂と呼ぶが、霊魂、現代でいえば精神から改めなければ意味がないからである。 霊魂を改めることなく、体裁を整えても、カルマが増えるだけだからである。 それと、ホメオパシーの処方には、処方される人間の将来や、霊魂を見る目が必要で、いわゆる霊能力が不可欠であり、東洋医学でいう心眼が求められるからである。 一般的に、病は年齢に応じて異なり、花粉症の場合、水なので、下痢気味か、便秘気味かが問われ、更にまた、土、水、空気(光)、熱の違いも判別しなければいけないからである。 古代アトランティス時代では、人類のほとんどが霊能力者だったので、ホメオパシーのような処方が有効だったのである。 これは古代アトランティス文化を受け継ぐ、中医、漢方が、気、血、水をみる名残りにみられる。 土人間と水人間の間の混合割合を水、水人間と空気人間の間の混合割合を気、空気人間と熱人間の混合割合を血で、表したのであろう。 ヒポクラテスでいえば、それら混合割合が、正常なときがクラーシスで、異常なときがデイスクラーシスなわけである。 また、これらのことを現代の免疫学で解釈すれば、花粉症は過剰なIgE抗体の産生に起因するとされているが、それは元々、白血球のヘルパーT細胞、これをCD4というクラスター分化分類の記号で表すが、このCD4には、2種の亜種があり、Th1とTh2と分類され、Th2が多いと液性免疫の傾向で、Th1が多いと細胞性免疫の傾向になると言う説明からなされている(ただし、液性免疫にはB細胞が関わる)。 だから、適切なサイトカイン(細胞間の情報伝達化学因子)を選び、適切に処方すると、Th1とTh2のバランスがとれ、過剰な傾向がおさまるという理屈なのである。 理屈はどうあれ、現実的には、なんらかの物質で、抗体反応の抗原感作を弱めてやることが現状であるようだ。 ホメオパシーでは、水人間が膨張した部分の水を一つに集め、そのなかの汚水、つまり不純物質を把握し、似たような不純物質だが、排泄を推進するような、つまり、水人間を純粋、透明化するような水を、体内に供給し、汚水、つまり不純物質を除去するという方法を、一般的には、植物の果実の皮を用いて行っているようである。 この原理は、放射性同位元素を飲んだときに、すみやかに排泄させるために、同じ同位元素を飲ませる方法と原理的に似ている。 だから、花粉と同じだが、花粉のようには抗原抗体反応を起こさない、いわば体内花粉を注入し、花粉感作を排泄、除去するような方法ともいえるだろう。 しかし、いくら薬剤を用いて、一時的に体質改善しても、霊魂、精神が変わらない限り、一時的なものである。だから、かえってカルマを増やし、原罪を犯してしまうだけである。 自我、つまり熱人間が堕落すると、益々、薬剤に頼るようになり、熱人間は益々増長するので、熱は炎のようにその統合力を失い、分裂していく。組織に一つの統制がなくなり、派閥ができるのと同じである。派閥が益々個別化していくと、熱は、怠惰の伝播を個別的に行うようになる。 すると、同様に空気人間も分裂するようになってくる。一方で上から分裂し、他方で、怠惰の影響から、下から汚水が増長し、充満するので、すると、汚水が蒸発を行うようになる。汚水が蒸発すると、煙や煤のようになるから、空気人間の空気は、汚染し、それが精神病として現れるようになるという。 また、汚水が、外に排泄されないで、水人間から、土人間へと至ると、腫瘍を生じるようになるわけである。 花粉症は、上への炎症として現れるので、この下への腫瘍傾向を、いわば抑制するともいえるが、どちらにせよ、人体が汚れている、不適材不適所に在ることには変わりがないであろう。 この怠惰な自我を、他に奉仕する自己犠牲愛的な自我に、改めることが、現代の我々の人生の課題であると人智学は説く。怠惰な自我を克服し、活発化させると、いわゆる霊我という存在に目覚めるようになるという。別名、マナやマナスと呼ばれる三種の神器の一つである。 食べても食べても減らないものをマナと呼ぶが、これは愛のことを表す。愛は精神存在の食べ物なのである。 霊我をもつと、他人の不幸を見落とせない人間になるという。なので、自分が幸せである前に、他者の幸せを祈るような精神であるという。 天は自らを助ける者を助けるとキリストはいったが、なるほどと思う瞬間がある!
2008年05月01日
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植物の魂が、個々の植物の中に見い出されることはない。植物魂は、最重要な点を地球の中心にもち、根が、その中心に向かう。何故なら、植物の根とは植物存在の最も精神的な部分に向かって、絶えず奮闘するような力だからである。 このような課題について考察するとき、自然観の立場からなされる陳述に遭遇する。そしてその自然観は、真実への入り口の近くにまで連れていくことができるが、ただ、メフィストフェレスがファウストを「母たち」の領域に連れていくことができる程度に、つまり、正に、真実の最も外側の入り口にまで連れていくことができるだけである。 というのも、今日の自然科学も、メフィストフェレスがファウストと共に「母たち」の領域に降りて行くことができないのと同程度に、精神性へと入っていくことができないからである。メフィストフェレスが、ある意味、鍵を与えるように、自然科学も鍵を与えるが、丁度メフィストフェレスが自ら「母たち」の領域に入っていこうとしないように、自然科学も、それ自身、「母たち」の領域に入っていこうとはしない。 ただ自然科学が、これまで述べたような認識を獲得していたなら、しばしば、我々の認識を真実への入り口まで連れていくようなヒントを与えるというのは、ある意味、真実である。 このような課題について考察するとき、今日の自然観の立場から、なされる陳述に遭遇する。そして、その自然観は、真実への入り口近くまで連れていくことができるが、ただ、メフィストフェレスがファウストを「母たち」の領域に連れていくことができる程度に、つまり、正に真実の最も外側の入り口まで連れていくことができるだけなのである。 今日の自然科学は、ダーウィンの衝動に従って、ある重要な結論を(感覚世界の観察だけから)引き出した。すなわち、自然科学は、いわゆる「自然淘汰」の原則について語る。外的な感覚世界が提供するものだけを考慮する限り、周囲の至る処に、この自然淘汰を見ない人がいるだろうか? 当然の事ながら、我々は至る処で「自然淘汰」に出会う。 海の生き物が産む無数の卵について、その内のどれほど多くが破壊され、消え去るか、どれほど僅かの卵が実際に成長し、新たな生き物になるかについて考えてみる。 そこには明らかに恐ろしい自然淘汰がある。もし、ある人が感覚世界にだけ耳を傾け、確かに自然淘汰について嘆き悲しみ、 「何億もの卵の中で、何と多くが自然淘汰に屈し、何と僅かばかりしか生き残らないことか。」 と言うかも知れない。しかし、これは単なる、ものの考え方の一端にすぎない。今、これと同じ考えの別の一端を把握してみよう! 思考をある方向に向けて進める為に、ある別の観点について同様の考えを持つようにする。その別の観点の考えについても、同じように自然淘汰を嘆き悲しむことができる。視線をトウモロコシ畑に投げかける。 そこには、とても沢山のトウモロコシの穂が立ち並び、夫々の穂が、多くのトウモロコシの粒をつけているのを見て、 「これらトウモロコシの粒のうち、どれだけ多くが失われ、生存という真の目的を成就することなく終わるのか、そして、どれだけ僅かのトウモロコシが、再び地中に植えられ、古いものと同種の新しい植物になることができるのか?」 と、問うことができる。 このように、実り豊かな収穫を約束するトウモロコシ畑を眺めて、 「あらゆる芽吹く生命のうち、何と多くが生存という目的を達することなく、消え去ることか!」 と言うことができる。ただごく僅かの穀粒だけが同種の新しい植物が生じるために地中に埋められるが、ここでもまた、やはりごく僅かだけしか、生存し子孫を残す目的を成就する例の1つが、先の海の生物とは、かなり異なった領域において見られる。 しかし今、問うべきものは、もし、トウモロコシの粒が1つ残らず、再び地中に埋められるなら、それを食べる人間はどうなるのかというものである。トウモロコシの粒が1つ残らず成長するというような豊かな栽培を行うことが可能であると想像する(理論的には、何でも想像できる)。 しかし、トウモロコシから栄養を取る必要のある存在たちがどうなるかに関しても考える必要がある。ここで、感覚世界を眺めるときには正当化される信念が揺さぶられるような、奇妙な小道に入ってきた。 トウモロコシ畑を、それ自身の物理的存在性において見るとき、その粒の1つ1つが、トウモロコシの植物体へと成長すべきであると結論づけても、全く正当化されるように見えるが、その立場は恐らく、間違いであることに気づく。 この目的と目標、つまり、植物体へと成長することを、トウモロコシの粒1つ1つに帰属させるなら、恐らく、世界の事物の全体的関連性においては、正しく思考していない事になるだろう。 他の存在のための食物となった、トウモロコシの粒は、自らが生き残り子孫を増やすという、その宇宙的目的を果たすことに失敗したと言うとしても、その発言を正当化するものは恐らく、何もないといえるだろう。 「海の生物の卵は魚にまで成長しないとき、その目的を達成できなかった」、と言うべき理由は恐らく、何もないだろう。 実際、全ての種子が、再び同じ存在になるべきであると考えるなら、それは人間の偏見以上のものではない。何故なら、我々の眼差しを、その全体へと向けるときにのみ、個々の存在の使命を推し量ることができるからである。 魚へと成長することなく、毎年、海の中で消え去る何百万もの卵の全ては、いまだ人間の視界に入ってこない別の存在の食料になったのである。そして真なる存在に向けて、自らの道を邁進する中で、明らかに海の中で失われる、無数の卵になる、精神的実質(霊体)は、生き残り子孫をつくる目標を達成できなかったからといって嘆いたりはしない。 何故なら、魚の精神的実質(霊体)の目的とは、その他の存在たちの栄養になること、その他の存在に受け取られ、正にその存在の中に入っていくことだからである。 人間は、知性をもって、魚の傍らに立ち、魚が、何か究極の目標に向けて、つまり、人間の感覚を通して見たとき、魚が、その究極の目標であると考えざるを得ないような目標(生存し、子孫を残す)に向けて努力するという意義だけを有していると想像するが、もし偏見なく、広い心をもって自然を見るなら、個々の存在が、個々の段階において、ある一定の完成と充足の状態にあるのを見ることができる。 そして、そのような完成とは、その存在が最終的に達するものの中にのみ安らいでいるのではなく、その存在の中に既に含まれているのである。 以上が、神秘主義によって獲得され、人間の心と心情の中に根を張るべき考えである。そして、もし外界から目をそらし、自身の魂の中を覗き込むなら、そこに、つまり、魂の中に豊かな思考の蓄積があるのを観察するだろう。 思考は絶えることなく、人間の魂の中に流れ込み、そして、その中で点火している。自然界の現象と同じく、ただ、それらの思考のうち、ほんの僅かだけが把握され、人間の魂の意識的な部分になるのである。
2008年05月01日
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