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前回までに、真実への道には、第一段階に「驚き」、第2段階に「尊敬」の状態を経験することであると述べた。 さて、人間がある種の尊敬の感情へと至り、この尊敬の感情を経験した後、唯一思考だけを持って、無理に先に進もうとするなら、その人はやはり無へと至り、そこから先へは進めない。確かに、その人は多少の満足な発見をするだろう。 そして、その人は、最初の「驚き」と「尊敬」という二つの段階を通過しているが故に、正しい知識を持って、多くの明瞭な、堅固に確立した観点を獲得することもあるだろう。しかし、それら全てをもってしても、その人は、まもなく不確実さの中へと不可避的に落ち込んで行くしかないだろう。 というのも、「驚き」と「尊敬」を経験した後、魂の中に、第三の状態が、定着しなければならないからで、この第三の気分は、世界の法則と叡智に満ちた調和の中で、自らの存在を感じることと表現できる。そして、この感情は、単なる思考が、いかに無価値であるかという洞察によってしか達成され得ないものである。 思考の正確さに依存する人は、思考の結果、肯定に終わるか、否定に終わるかが問題ではなく、以前紹介した、パンの数を正しく数えた、小さな少年と同じことを行っているということを、何度も繰り返し感じ取る必要がある。 少年が自分に「僕の計算は全く正確だけど、僕は自分の、この正しい考えに依存するのを避けるべきで、僕は事実に従うべきである。自分を現実に調和(適合)させなければならない。」と言えたなら、少年は(論理の)正確さよりも、高みに位置する、「5個のパンにつきパン1個がおまけで貰える」という村の習慣を見出していたことだろう。 何かが真実かどうかを知るためには、彼自身が外なる世界へと出て行く必要があり、(論理等の)正しい思考は、真実の代わりにはならない、ということを見出していただろう。 しかし、この自分を、真実との叡智に満ちた調和の中に置くということは簡単にはできないし、自然にそうなるものでもない。 もし簡単にできるようなものならば、人間が、今の時代に、堕天使ルシファーを通して、やってくる誘惑を経験することも、また、これまでずっと、その誘惑を経験してきたということもなかっただろう。 というのも、人間が善悪を区別するとか、知識を獲得する、もしくは、知識の木の実を食べるといったようなことは、人類が充分に成熟した、後の世界になって、初めて人間に訪れるように、世界の神的な導き手たちによって計画されていたことは最も確かなことだからである。 人間の堕落は、あまりにも早い段階で、善悪の違いに関する知識を、自分で持とうとした点にあった。ルシファーの誘惑は、人間が、本当は、もっと後の時代に与えられるはずだったものを(我慢できずに)、早めに持ちたいと思うようにさせたところにあった。これが重要な点である。 そこから導かれる唯一可能な結果とは、不十分な知識をもつことで、本来人間のために意図されていた真の知識に対する、その関係は、通常の出産に対する早産に似たものである。古代のグノーシス(叡智)では実際、この表現が使われたが、その事がいかに正しかったかが理解できる。 古代人は言った。 「人間が、この世への人類全ての受肉を通して、携えて行く人間の知識とは、本当は早産した未熟児である。何故なら、人間は、人間を知識へと一歩一歩導くはずであった全ての経験を、通過するまで待てなかったのだから」、と。 ある一定の時間が経過するのに、本来、人間は身を任せるべきだったのである。 成熟するまでに、時に身を委ねるならば、その間に、人間は特定の魂の気分や状態を、益々成熟したものにできたはずであり、知識は、人類の処へと、自ずとやって来ていたはずなのである。人間は今でもこの原罪を絶えず犯し続けている。 何故なら、もし人間がこの罪に関して潔白ならば、人間が様々の真理をいかに早く獲得できるかではなく、むしろ真理を理解するために、自分をいかに成長させるかに関心があったはずだからである。 もし現代人のところに(古代人の)誰かがやってきて、次のように言うなら、それは非常に奇妙に聞こえるものとなる。 「汝はピタゴラスの定理を知っているね。けれども、もし、直角三角形の直角を挟む2辺の2乗の和が他の1辺の2乗に等しいということの、真の隠された意味を更に深く理解しようと思うなら」、 或いは、もう少し簡単な例を取り上げ、 「3の3乗が9に等しいということが理解できるほど、(魂が)成熟するには、汝の魂は様々な経験を通過する必要がある。何故ならば、数学の法則が、今日見られるような形で、我々の前に出現するように、世界が、事物を配置した法則と、汝自身を調和させたときにだけ、汝はその真理を理解できるからである。」 現代人は、その言い分に、ただ笑うだけだろう。それも、大声で。 真に、正しく、人間は今でも原罪を犯し続けている。何故なら、人間が、様々のことを理解するためには、最初にある一定の経験を積む必要があるという事実を無視して、自分が到達する、各々の段階で何から何まで理解できると考えているからである。 真実の領域においては、どんなに厳密で正確な思考をもってしても、実際問題として、何処にも至れない(行き着かない)という意識に支えられることが真に必須である。この事に気づくことは、今述べている魂の第三状態に属する。 何かを正しく判断するために、どんなに努力しても間違いは常に忍び込んでくる。真の判断は、その発見へと乗り出すときではなく、ある一定の成熟度に達して、判断の方が、自らの方へと、ジャンプして来るのを待つとき、つまり、真実自らが、自分の処へ来ることができるように、自身を成熟させるために、骨を折るときに、結果としてやってくるものである。 その時、我々が下す判断は真実に属するだろう。 正しい判断に遭遇する努力を、ただ、がむしゃらに行う人が、そのような努力により、決定的で満足のいく判断に至ることは、全く期待できない。自分の持つ全ての注意力と思考を、自身が益々成熟する為に、傾注する人だけが、正しい判断を受容するのに充分成熟したときに、自分の中へと流れ込んでくる啓示から、正しい判断を受け取る形で、正しい判断に到達することが期待できる。 この関連で、全く奇妙な経験をすることがある。出来合いの判断力を持って、早合点をする人は、以前紹介した話のように、当然のことながら、誰かが水に落ちて死んで引き上げられれば、溺死したと思うだろう。 しかし、叡智を学んだ人、人生の経験を積んで成熟した人は、思考の一般的な正しさというものは全く重要ではなく、個々のケース毎に事実に当たる必要があり、そうすれば事実が自らを明らかにし、評価を下すということを知るだろう。この事が真実であると、人生のなかで、絶えず経験するだろう。 1つの例を取り上げてみる。誰かが何かをあなたに言ったとする。それはそれとして、あなた自身は全然別の観点を持ち、その人の言うことは全くの偽りであると言うかもしれない。さて、ここで、彼の言うことも、あなたの言うことも両方間違っている場合もあり得る。つまり、ある点から、両方の判断が正しく、しかも両方とも間違っているという可能性もある。 第三の段階にある魂にとっては、誰かが別の誰かとは異なる観点を持っているという事実は何ら決定的なことではなく、その事が、何も告げることはない。それは単に各々が自分の意見という狭い尖塔の上に立っているということを言っているに過ぎない。 一方、叡智を学んだ人は、常に自分の判断を保留し、自分の判断が正しいと思っていても、決して事態に巻き込まれることなく、判断を保持したまま待つ。その人は一歩退いて、自分の意見の正しさをいわばテストする。 反対に、誰かが今日何らかの意見を述べて、2ヶ月後に正反対のことを言う。そのような場合には、あなたは自分が、これら2つの意見に全く関知しないようにすることができる。これら2つの事実を見、それらの印象を自分に作用させるとき、あなたは、これらのいずれに対しても反対する必要を感じなければよい。 それらの意見はお互いに矛盾し、対立する。その評価は外界によってなされ、あなたによるものではない。この時のみ、賢者は判断を開始する。対象自体が、それ自身を評価するのに任せるという、この叡智の概念なくしては、どのようにして、ゲーテが自然科学の研究を追求したかの理解は決してできないというのは興味深い事実である。 ゲーテは次のような興味深い観察を行った。この事に関しては、「ゲーテの自然科学研究紹介」で読むことができるが、次のように言った。 「真に、我々は外(界)の現象に関して、決して判断を下したり仮定を立てたりすべきではない。何故なら、現象とは理論であり、正しい方法で、その印象を受容できるほどに、魂が成熟さえしていれば、現象自身が自らの考えを表明する」、と。 それは、どこか片隅に座って、心の中で、様々に思考を巡らし、考えながら、正しいと思われることを捻り出すかどうかの問題ではなく、むしろ自分自身を成熟させることにより、真の判断が、事実から湧き出して、自分の処にやって来るようにさせるかどうかの問題なのである。 思考に対する人間の関係は、思考のなかで、対象に関する判断をじっくり行わせるのではなく、むしろ対象が思考を通じて、自分を表現できるような道具にするというものでなければならない。 以上が、自分自身を、対象との調和の中に置くこと、つまり第三の状態が意味するものである。
2008年02月28日
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前回、真の思考には、「驚き」が必要だといった。しかし、それで十分ではなく、一歩先に進む必要がある。思考が「驚き」の気分を発するときでも、もし人間が、カルマにより、鋭い機知と賢さの持ち主になるように予め決められ、直ちに、その賢さを自慢し、その賢さに満足すると同時に、賢さだけを発達させることに、全エネルギーを使うなら、当初、感じた「驚き」は、もはや当人を助けることは全くない。 何故なら、もし、「驚き」が魂を捕らえた後、当人の更なる思考プロセス(過程)において、「考える(思考)」以上の行為がなければ、真実へと至ることはないからである。ただし、人間は無思慮になれ、とか、思考は有害であると言っているわけではない。このような偏った意見が広がることがよくある。 真の思考は、「驚き」から始まるというような話だけで、人々は、思考は悪であり、有害であると曲解する。人間は、ちっぽけな存在だが、「考える」ことを始め、人間の七つの原則等々を、数え上げることが可能になったとき、わざわざ、その思考を停止すべき理由は何もない。 勿論、思考は継続されなければならないが、「驚き」の後に、また別の状態が現れなければならず、その状態とは、思考がもたらす全てに対する、「尊敬」という言葉で、最も良く表現できる状態である。「驚き」の後に、「敬虔」ないしは「尊敬」の気分が続く必要がある。 思考領域に入ってくる驚きの気分を、「尊敬」の眼差しをもたずに、「尊敬」とはまるで無縁の思考では、真実に至ることはない。世の中を不注意に、軽い足取りで、いわば踊りながら進んで行くような、まるでゲーム感覚の思考では、絶対に真実には到達できない。 真の思考は、「驚き」の気分を通過した後、宇宙に対する「尊敬」の感情の中にしっかりと根を張らなければならないもので、この点において、知識への真の道が、今日の科学と呼ばれる現代科学とは、真っ向から対立する領域(地点)へと至る。 もし、あなたが、実験室で蒸留器(実験器具)等の前に立ち、物質を分析し、また合成プロセス(過程、手順)に従って化合物を合成する科学者に、次のように言うとする。 「あなたが、真実を探求することは、誠に結構なことだが、確かにあなたは何かを華麗に考え出し、その考察の結果を、頭の中で1つに要約することができるだろう。しかし、それは単なる事実だけに関わる態度で、あなたは、それに対する敬虔さも、尊敬の気持ちもなく、世界の事象に向かっているが、本当は、牧師が祭壇の前で感じるのと同じ敬虔と尊敬の感情を持って、蒸留器(実験器具)の中で起こるプロセスの前に立つべきなのである。」 今日では、上記のように言われた人は何と言うだろうか? その科学者は、恐らく、笑うだろう。何故なら、今日の科学の立場からいうと、「尊敬」の態度が、真実や知識と関係があるというようなことは、理解を越えたものだからである。或いは、たとえ、笑わなかったとしても、その科学者は次のようなことを言うだろう。 「蒸留器(実験器具)の中で起こっていることに対して、大いなる(知的な)熱情(情熱)を感じるが、この熱情は、私の個人的な関心事(信仰心)であってはいけないもので、この(知的な)熱情は、真理の探究と何らかの関係を持つべきで、つまり、(私のような)知的人間を、説得して、(何らかの宗教的教条等を)信じ込ませることなど、誰もできはしない。」 それでも、もし、あなたが次のようなこと、つまり、 「事物の性質に関する探求は、その事物自身に関しての探求であっても、決して尊敬の念を伴わないものであってはならない。人間は、自分の調査対象物に対する尊敬の感情に満たされることなく、一歩でも、その思考において先に進むべきでない」、 と言うなら、あなたは、今日の科学者の目からみて全くの(新興宗教者のような)馬鹿者としてみられるだろう。
2008年02月27日
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あらゆるものが、証明も反証もできることを感じ、経験する、ある特別な地点まで、魂の進化が到達してはいるが、物質世界に内在する、精神的顕現と呼べる存在を受容するには、まだ十分に成熟していない人間を、知ることは、ある種、理論的に興味深い。 かつて出会った人物のなかに、上記のような魂の成熟を顕著に示しながら、いまだ、精神科学(人智学)が提供する事柄を把握するまでには至れない人物を、いま思い浮かべる。 その人物は、哲学が言及する諸事は、証明も、反証もできることを、非常に明確に認識できる領域にまで達していた。実は、その人物とは、数週間前(1920年当時)に亡くなったウィーン大学教授の、類い希な能力と知性を持った男、ローレンツ・ミュルナーである。 あらゆる可能な哲学体系や思想に関する証明を、大いなる明晰さを持って、引用できる大変な才能を持った、この男はまた、これら全ての矛盾をも指摘できた。そして、彼自らは常に厭世主義者の態度を示した。 かつて、彼が次のような、かなり恐ろしいことをいうのを聞いたことがある。 「あらゆる哲学は、実際に、よくできたゲームに過ぎない!」、 そして、その思考ゲームにおいて、彼の心の素早い閃きや活動を目にするとき、そのような場面は度々あったが、同時に、彼が、何1つをも全く認めようとしない為に、何らかの信頼を、彼に寄せることが全くできない、ということを知るのは興味深いことであった。 何かある観点から、否定的意見を、誰かが述べたりすると、彼は大喜びで、その観点を肯定する為に、あらゆることを持ち出し、2、3日前には、彼自身が無情にも完膚無きまでに、打ち砕いた事実をも、持ち出したのである。 彼は最も興味深い、心の持ち主の一人であり、実際、ある意味で、最近(1920年)では、生存する最も重要な哲学者の一人であった。彼が、そのような心境へと導かれていったプロセス(過程)もまた大変興味深い。 というのも、ミュルナーは、人類哲学上の発展史における、探求者であると同時に、カトリックの神父でもあったからである。彼は、長年ウィーン大学の教授の職にあったにも関わらず、良きカトリックの神父のままでいたいという熱心な願いを常に持っていた。彼はカトリックの考え方にどっぷり浸かっていた。 そして、この事が、ある宗教的情熱によって、実り豊かになった思考形式に比べて、外(物質)的世界の中に見い出せる、単なる全思考ゲームを、小さなものに見る、というような効果を及ぼした。ただ、これら全ての事実にも関わらず、彼のカトリック主義は、彼をして、懐疑主義的立場を、越えてゆくことを可能にはしなかった。 彼はあまりに偉大な男であったために、単なる教条主義的なカトリック主義の段階に留まることができなかったが、他方で、彼のカトリック主義は、彼の中では、あまりに大きな位置を占めたが為に、神智学的真実の把握へと上昇することができなかった。 人間が、もし真実に近づこうとするなら、何が必要かを、実際に研究できる地点までに至った、このような魂を観察するのは、途方もなく興味深いことである。というのも、この有能で、知性的な男が、全くはっきりと、彼の思考をもってしては、真実に近づくことが不可能であるということを、自ら理解し、示していたからである。 遥か太古のギリシア時代には、人間の健全な精神(心)がもし、いつの日か、真実に到達することを望むなら、何を出発点とすべきかが知られていた。そして当時、次のように言われていたが、そのことは今でも有効である。 「全人間的探求は、驚きから出発すべきである!」 この事は、完全に前向きな姿勢で受け取る必要がある。実際、真実に到達しようとする魂の中には、この状態が、最初に存在する必要がある。魂は驚きと畏敬の念を持って、宇宙の前に立つ必要がある。 そして、このギリシア人たちの表現力全体を理解できる人は誰でも、人間が真理の探究へと向かうとき、その出発点が、この驚きの気分、世界の事実に対する、この驚きの感情であれば、その他の条件が何であろうと、それは丁度、地面に種を蒔いて、種から植物が生長する様子との比較を実感できるようになる。 人間が、驚きからでなく、例えば、若い頃に良い教師がいて、様々の原則を、その人に叩き込んだからとか、或いは、人間が成長する過程で、その種のことを学ぶ慣習になっていた為に、つまり純粋に環境の影響によって、哲学者になったような場合には、全く話が異なる。 また、哲学の試験はパスするのが最も易しいということも、良く知られているが、要するに、哲学の勉強の出発点として、驚きとは全くの別の理由(出発点)が、年百何千と存在するが、全てそのような出発点から、何らかの真実を知るに至ったとしても、種から植物を育てるのではなく、それは混凝(こんくり)紙で植物を作ることに相当する。 この比較は、全く適切である! 何故なら、世界の謎に取り組む機会を待ち望む全ての真の知識は、「驚き(驚異、驚嘆)」という種から生長すべきだからである。人間は際限なく賢い思想家になることができ、過剰な知識に苦しむことすらもあるが、もし、驚き(驚異、驚嘆)の段階を、全く通過しなければ、そこからは何も生まれて来ない。 その哲学者は、巧みに考え出されたアイデアを提供し、そして、それには間違いが何も含まれていなかったとしても、その正しさは必ずしも真実へと導いてはくれない。考え始める前、実際、思考を働かせ始める前に、驚き(驚異、驚嘆)の状態の経験が絶対に必要なのである。 驚きの状態抜きで働かされる思考は、単なる思考の遊び以外のものではない。全ての真の思考は驚きの気分に由来する必要がある。
2008年02月26日
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前回までに、人間探求には以下の2つの道があることを述べた。 人間は、自分自身を外から眺めて、神に意志された本性の中に、素晴らしい祝福の感覚を体験する。人間は、自分自身を内から眺めて、神に疎外された自らの魂に対する圧倒的な悔恨の感覚を体験する。 しかし、健全な心の状態にあるならば、これら2つの道に関して、次のような結論に必然的に至るだろう、 「人間を、いわば濃縮された宇宙の抽出物として、世界の中心に置いた神的な力の源泉と、全く同じ源泉から、自分の心に、刻印される、道徳的理想が、湧き出してくる」、と。 どうして、これら2つの道は、お互いに、(人間を通じて)こんなにもかけ離れてしまったのか? 実際、この疑問こそが人間存在の大いなる謎である。 本当のことを言えば、もし、この自責の念が、人間の魂の中に生じなかったなら、もし、これまで述べてきたような、この不調和が、ボンヤリとしたものであろうが、明白に組織化された知覚であろうが、多少とも、意識的に感じられなかったなら、神智学、もしくは哲学さえも、存在することはなかった。 というのも、深い考えや思索、探求といった全ては、魂の、この不調和の経験から湧き出してきたものだからである。 「神に意志された人間と、神に疎外された人間の間に、何が必要なのか?」 この問いが、全ての哲学の基本的な問いである。この問いは、無数の形式で定式化され、規定されてきたが、全ての人間の思考の根底に横たわるものである。一体、人間が、疑いもなく祝福された、この外的本性の様相と、同じく、この疑いもなく、妨害的な魂の様相との間に、橋を架ける可能性を見いだす道というものはあるのだろうか? 人間の魂が、価値ある形式で、偉大で崇高な存在の問いに関し、考察できる処まで上昇する為に、取ることが可能な道に関して、ここで語るべきであろう。 というのも、この道を辿ることにより、多くの誤謬の源泉を発見できるようになるからである。 我々の周囲の世界では、外(唯物)的科学が支配的であるために、人々が知識について語るとき、常に次のように言うのを聞く、 「勿論、我々は正しい思考を働かせ、正しく判断を行うときに、知識へと至る」、と。 この正しく論理的な判断を行えば間違いなく真実に至るという、この仮定には、いかに大きな誤りがあるかを示すために、非常に簡単な例を紹介する。 論理の正確さが、必然的に真実に導くわけではないことを示す為に、次のような話を、ここに再度、行いたい。 かつてある村に、小さな少年がいた。彼の両親は、いつも彼にパンを買ってくる、お使いをさせていた。彼は必ず10クロイツ持って行って、6個のパンを買って帰ってきた。そのパン1個は2クロイツで売られていた。しかし、彼はいつも必ず10クロイツで6個のパンを買って帰った。その少年は算数が特に得意というわけでもなく、自分がいつも10クロイツ持って行き、つまり、パン1個2クロイツなのに、10クロイツで6個のパンを家に持って帰ることができることを、わざわざ解明しようとは思わなかった。 ある日、一人の少年が別の地方から里子としてその家に連れてこられた。彼は少年とほぼ同年齢だったが、里子の少年は、計算のできる子だった。彼は、彼の義兄弟が10クロイツ持ってパン屋に行く様子を見ていた。そして彼は、パン1個が2クロイツであることを知っていたので、彼は義兄弟に言った。「君は(本当は)5個のパンを家に持って帰らなくちゃいけないよ。」 確かに彼の計算は正しく、彼の論理は完全に正確である。パン1個は2クロイツである(と彼は筋道たてて考えた)、「あいつは10クロイツ持って行ったのだから、確かにパン5個を持って帰るはずだ。ところが見ろよ、6個持って来たじゃないか。」 だから、この計算の達者な少年は言った。「だって、それでは全く変だよ。パン1個2クロイツするんだぜ。君は10クロイツ持って行っただろ。10割る2は5だよ。6個持って帰れるはずはないだろう。何か間違ったんじゃないか、それとも1個くすねたか・・・」 ところが何としたことだろう、次の日もまた、その少年は6個のパンを持って帰ったではないか。 もう分かるだろう、その地方では、パン5個を買うと1個おまけに付けてくれるという習慣があったのである。だから、5個分のお金で6個のパンを受け取ることになる。それは、家庭で5個のパンを必要とした人には、大変結構な習慣であった。 この計算の達者な少年は、全く正しく、筋道をたてて考えた。彼の考えに間違いはなかった。しかし、この正しい思考は現実とは一致しなかった。つまり正しい思考が現実に至らない例外を認めざるを得ない。何故ならば、現実は正しい思考に自分を合わせたりしないからである。 この例から、最も意識的で最も良く考えられた論理的思考をもってすれば、正しい結論には至るかもしれないが、その結論を、現実に照らし合わせたとき、完全な間違いになることを、非常に明白に理解できる。このような事は常に起こり得る。結局、純粋に思考を通して得られた証明というのは、決して現実を測る物差しにはならず、決して論理通りに物事は進行しないのである。 人は、例えば、外的な世界に関して原因と結果を結びつけようとして、トンでもない間違いを犯す可能性をもつ。また1つ例をあげる。 川の土手を誰かが歩いているとする。その人がある地点で、土手の縁を越えて、水の中へと落ちるのを、遠くの方から誰かが目撃する。その目撃者は、水におちたその人を助けようとして、そこへ急ぐが、その人が水から引き上げられたときには、既に死んでいた。 さて、いま目撃者の前に死体がある。目撃者は当然、その人は溺れ死にしたと主張するだろう。目撃者は溺れ死を、非常に有り触れた方法で証明するかもしれない。多分、その人が水の中に落ちた場所に、石コロがあったとすれば、大変結構で、その人は、その石に躓いて水の中に落ち、溺れたと主張するだろう。それは全く正しい思考の流れである。 その男が川の土手に行ったとき、そこにあった石に躓き、水の中に落ち、そして死んで引き上げられる。なので、溺れ死んだと考えるわけである。この種の思考では別の可能性はあり得ないだろう。 さて、正に、このケースにおいて、必ずしも溺れ死とは限らない場合が存在する。目撃者が、この場合のような原因と結果のつながりに捉われないとき、この男が水に落ちたときには、既に心臓発作に襲われていたこと、その結果、たまたま川の縁を歩いていたので落ちたということを発見できる。 彼は、落ちたときには既に死んでいたので、たとえ、彼が(心臓発作に襲われずに)生きたまま、川に落ち、彼の身に起こった全てが、全く同様に生じたとしても同じである。このように、一連の外的な出来事から、問題の男が躓いて水の中に落ちて溺れたという(論理的な)結論に至るとき、その結論は全く間違いで、現実とは一致しないことが分かる。 何故なら、彼は死んだから落ちたのであり、落ちて死んだわけではないからである。このように、捻じ曲げられた結論というものは、今日の科学文献の方々に見出される。ただ、それらは気づかれず、この例でも、誰かが態々、この出来事を細心に調査しなければ気づけないほどのものである。 このような失敗は、原因と結果の最もデリケートで微妙な関連において、絶えず繰り返されている。以上のように述べることで、我々の思考が、実際、現実に関しての何らかの決定を下すには全く無能ということを示唆したつもりである。 さて、では、もしこのような思考の間違いが頻繁に生じるようなら、つまり、もし我々の思考が、確かな導き手でないとすれば、一体、どうやって、我々が、疑念と無知の中に沈み込んでいくのを救うことができるだろうか? というのも、事実、このような事柄について経験を積み、思考について深い関心を持つ人は誰でも、どんなことでも証明も反証もできるということを知っているからである。なので、証明も反証もできる、その思考においては、いかに洞察力のある哲学でも、そこから先の問題を提示することはできない。 何故ならば、彼は、その正反対の方向で、知的に理論立てを行おうと思えば問題なくできることを知っているからである。このことは証明も反証もできる全てに当てはまる。このような関連において、人はよく、極めて興味深い観察を、日常生活において行うことがある。
2008年02月19日
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しかし、前回とは異なる、また人間探求のもう1つ別の道がある。道徳的理想と呼ばれる、荘厳さと力に対する、その圧倒的な偉大さに対する、感情を発達させるとき、つまり、自身の魂の中を覗き、その世界の中で、道徳的理想として、意味づけられるものを、長い間に認識できたとき、その別の道が、我々人間の前に開ける。 道徳的理想の偉大さ、崇高さに対して、敏感であることは、全体的に、健康な人間の本性に属している。人間は、自身の中で、丁度外なる宇宙の中に顕現した栄光と美により、喚起された感情と同じように、圧倒的な力で働く感情において、道徳的理想に関して、この別の道を発達させることができる。 自身の内に、道徳的理想と、その目的に対する人間の愛と情熱の灯を灯すとき、真に神を認識する、別の道を歩むことができる。大いなる感情の熱が、その時、魂を満たすことができる。しかし、続いて、ある考えが必然的に生じる。 その考えは、人間を通して、宇宙が顕現するという、前回述べた考察から、自然に出てくる考えとは異なっている。道徳的理想の力という、最も崇高な概念をもつ人々により、強烈に経験される考えが続いて生じる。 その考えは、次のように表現される、 「人間よ、汝がいまある姿は、汝の心の中に生じることのできる、気高い道徳理想から、何と遠くに隔たっているのか! 汝が行う、もしくは行えること全てをもってしても、汝の前に、汝が置くことができる、道徳理想の偉大さに比べて、汝は、何とちっぽけで、取るに足らない存在であるか!」 そして、このように感じられないこと、自分の理想に比べて、自分を小さいものと感じないことは、その人が、惨めにも、小さい心しかもっていないということを意味する。というのも、人が自分の道徳理想を前にし、自分の不十分さを、益々感じるようになるのは、正しく、その人の心と魂の成長に従って、生じることだからである。 それから、また1つ別の考えが魂の中で夜明けを迎える。その考えは、我々人類に頻繁に生じることができる考え、つまり、 「我々の内で、道徳的理想を、今までより、もっと生き生きしたもの、強いものにするために、持てる勇気と全ての力を発揮すべきである」、 という決心である。 道徳的理想に対して、自らが不十分であるという考えは、その性質上、人間の魂の中にあまりに、しっかりと根づくために、自分が打ち砕かれるように感じると同時に、他方で、感覚世界の中に、自分がおかれていることにより、その外的側面においては、神に意志された人間という、あまりに力強い感情を持つ故に、人間は自分自身を、神から疎外されているように感じる、ということも起こる。 そのような人間は、恐らく自身に次のように言うだろう、 「私は、外的な存在として、ここに立っている。私が自分を外的な存在と考えるとき、自分に次のように言わざるを得ない。 『汝は、その全体が、神の意志による世界の合流点であり、汝は神に意志された存在であり、汝は神に似た姿をしている!』、 それから、私は内を見る・・・そこに、私は神が私の心に刻み込んだ理想を発見する。そして、その理想は確かに、私の内の神に意志された力のはずである・・・」 そのとき、その人は、自身が不十分な存在であるという感覚が、自らの魂から湧き出してくるのを感じる。 以上が、前回とあわせて、人間が、世界(宇宙)と自分自身を観察するときに辿ることができる2つの道である。
2008年02月19日
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今回の連続講座では、日常生活における通常の経験から、人間の最も崇高な関心事への橋を架けること、そして、そのことにより、毎日の生活と、人智学もしくは精神科学が、人間の魂や精神の為に与えるべき叡智との間に、新しい接点を発見することが目的となる。 というのも、精神科学が与えることができる叡智を、完全に吸収するほど、感情、意志、そして人生の様々な出来事や状況に遭遇するために必要な意志の力の中へと、叡智は益々流れ込んでいくからである。 そして、また、高次の世界から、正に、この時代に流れ込む叡智により、学べるようになる精神科学が、人類には、適度に必要であり、もし、人智学、或いは精神科学が、正しく現代に訪れることができなければ、比較的、短期のうちに、人間は人生における、あらゆる自信、あらゆる内的な平安(落ち着き)、人生に必要な心の平和全てを失うことになるだろう。 しかし、当面は、この人智学的精神の流れは、人間の思考、感情、知覚における、2つの異なった傾向において、鋭い対立へともたらすこともよく知られている。 思考と感情における、その1つの方向性とは、何世紀にもわたって準備され、現在までに人類を完全にとらえようとし、近い将来には間違いなくとらえるような方向性にあり、それは広い意味で、唯物論的観点と呼ぶが、その観点は、人智学と共にもたらされる思考の方向性、すなわち精神的世界観に対して戦いを挑むだろう。 近い将来、この唯物的観点と、精神的観点の、2つの思考の方向性の間で生じる衝突(対立)は、益々顕著なものになるであろう。 そのうえ、その戦いは、今自分がどちらの方向性の思考と関わっているかを知るのをしばしば困難にするような形で戦われるだろう。というのも、例えば、唯物論的傾向の思考というものは、明らかにそれと分かる形で人間の前に現われるわけではないからである。 その唯物論的思考はあらゆる方法で仮装し、精神主義的な仮面を被った唯物論の流れが、真に沢山存在することになるだろう。そして、どこに唯物主義が潜んでいるのか、どこに本当の精神の流れが認められるのかを、容易に知ることができないほど困難な状況をもたらす。 かつて私(シュタイナー)は2つの連続講義において、様々な例をあげ、この関連において、正しい結論に至るのが、いかに困難であるかを示そうとした。1つ目の連続講義の目的は、人間がもし今日世界に蔓延している思考や考えに身を任せるならば、容易に人智学的世界観の熱心な反対者になり得るということを気づかせることにあった。 「人間はどのようにして精神科学の反対者になるのか」、ということを、その講義で示した。そして、それに続く2つ目の連続講義において、「精神科学はどのようにして擁護され、実践されるのか」、という主題に移った。 多方面から公にできるような叡智を、その講座で全て公にできることを少しも企図せずに、その目的は、単に、人智学的世界観に対する驚くほど沢山の異論を、明白な正当性をもって、引用できるという事実に対する感情を呼び覚ますことにあった。 我々の時代には、全魂で、人智学にひたすら反対することしかできない人たちがいて、その人たちは、我々の時代の不真面目な人間に属しているわけではなく、しばしば、最も正直な人たちであり、真実の熱心な探求者でもある。 ここで、人智学に反対して持ち出される全ての根拠について再考したいとは思わないが、ただ、正に我々の時代の思考習慣から、そのような根拠が導き出され、そして確立されてゆくということだけは示唆したい。 我々の時代では、人智学に徹頭徹尾反対することが完全に可能である。 しかし、誰かが、人智学に反対するときや、人智学を狙い撃ちする為に、あらゆる理屈を引っ張り出してくるとき、ある問いが生じる。その問いとは、 「人はどのような道筋を通って、人智学に反対する立場に到達するのか」、というものである。 例えば、誰かが、魂の生来の基本的傾向から人智学を受け入れ、その後で、現代科学が、その唯物論的根底から教えることができる知識全てを身につけるようになったとする。そのような人物は、最も革新的に人智学、もしくは精神科学に反対し、反証するに至るだろう。 しかし、反証の為には、第一に、当人の魂の中に、ある特別の立場を誘起する必要があり、純粋に知的な立場をとらなければならない。後で述べる、丁度、この魂の、正反対の状態について知るなら、この意味がもっと明白に分かるようになるだろう。 ここでは、今日の(唯物論的)科学のあらゆる成果に精通する人が、その知性のみに自らを委ねるなら、その人は人智学に革新的に反対することになる、という簡単な記述にとどめておきたい。更に、この事を議論するのは控えて、主題に新たな面からアプローチできるように、もう1つの方向性を取り上げてみる。 実際、人間は世界を2つの側から見上げることができる。例えば素晴らしく美しい日の出について考えるとき、また別の観点を発見するだろう。太陽が夜明けの黄金の中から、いわば誕生しながら視野に入ってくるのを眺めるなら、どのように太陽の輝きが地上に広がるかを見るだろう。 そして、一年のサイクルの中で、魔法のように、地上に生命を芽生えさせるときの太陽光の力と熱について考え、深い感情を持って自分のなかに入っていく。 あるいはまた、沈む太陽に心を奪われ、黄昏が夜の闇へと深まり、無数の星が天上に輝くのを見、そして夜の星空への驚きをもって、瞑想し、自分のなかに入っていく。 このように自然について考えるとき、深い恩恵をもって、人間は自らのなかに満たされる概念へと上昇する。というのも、かつてゲーテが次のような言葉で美しく表現した考えに似た概念へと上昇するからである。 「我々が、驚嘆すべき星の世界を見上げるとき、栄光と驚異に満ちた全宇宙のプロセス(過程)について考えるとき、結局、我々を取り巻く全宇宙の中で、面前に広がる全ての栄光というものは、それを称賛する人間の魂の中に映し出されるときに唯一意味を持つ」、という感情へと導かれる。 「人間を取り巻く空気が、人間の中に入ることにより、人間の存在を形成し、構成するという考え(そのため、空気は、人間の中で辿るプロセス(経過)によって、人間という存在を作り上げることができ、更に人間を呼吸可能にさせるが)、つまり、人間は、この空気とその結合プロセス(過程)、及び、その法則の産物であり、またある意味で、人間は、感覚世界を構成する全世界の産物であり、更に視覚だけでなく、音の世界や、その他の世界へと開かれている人間の感覚へと流れ込んでくる全ての産物である」、という考えに至る。 「人間は、この全感覚世界を、自らの内に包含する存在として外なる感覚世界に向き合う」、という感情へと至る。 人間は周囲にある世界の合流点として自分を感じ、そして自分に次のように言うことができる。 「私の周りに広がる自然をもっと注意深く観察し、全感覚をもって、それを知覚しながら瞑想するとき、私は、外界において見い出される全てが、人間自身の驚くべき形態へと結晶化することで、それらの真の意義が、最良の形で充足される様を見る」、と。 そして、真に、人間が、この事を悟るにまで至るなら、その種の基本力をもっていた、ギリシャの(吟遊)詩人により、次のように表現された感情がやってくる。 「多くの驚嘆すべきものが生き、動いている、しかし、驚嘆の中の最も驚嘆なのは人間である!」 つまり、人間の中には、外界に現れた全てが同時に共に流れている。 全ての一面性は人間の中で多様性に変わり、感覚の世界に関して深く考え、そして、その真ん中に、人間が感覚を持った存在として立っているのを見る。そして人間の中には、(人間)世界の他全ての事物が包含されている。 何故なら、世界をより正確に調べるほど、人間の中で、宇宙全ての一面性が合流し、1つの全体へと統合されるのを、より詳しく見るようになるからである。そしてその時、大いなる世界に向けて、その全てが人間の中で合流する様を見ながら、この感情の発達に従い、深い至福の感情を持って、自らを満たすことができる考えに到達し、つまり、「神に意志された人間」という考えが生じる。 真に、神の行為と目的が、壮大な全宇宙を作り上げ、長い間に渡り、全宇宙が合流した流れとして、神々が宇宙の正に中心においた、最も大切な仕事、つまり、その合流が人間の中で1つになることを可能にした影響と働きを、まるで神々が注ぎ出したかのように、全宇宙を、人間は感じ取ることができる。 この観点から、感覚の世界についても、人間との関係から深く思索した人は言った。 「(人間は)神の意志により作られた」、と。 また、彼は言う、「人間の耳の驚くべき構造に比べて、楽器とは一体何なのか」、と。 耳と同様に、本当は音楽の道具である喉頭の驚くべき構造とを、並べてみるとき、楽器とは一体何なのか。世界の多くの事物が、驚きと称賛を呼び覚ますだろう。そして、もし、世界の中に立つ人間を見るとき、この驚異と称賛の感情が生じなければ、単に、驚くべき構造全てを知っただけで、それを学ばなかったことに気づくだろう。 我々人間がこのような考えに身を委ねるとき、次のような考えが、真に心の中に生じる。 「人間が存在するには、神的、精神的存在たちは何という無数の驚くべき行い(創造)を遂行したことか!」 この事が、人間が世界を考察する道の1つである。
2008年02月18日
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人間はなぜ悪い事ばかりするのかと考えていくと、人間だからこそ、悪い事をするという結論にいきつくだろう。人間が悪い事をするのは宿命であるというのが、性悪説だが、その宿命を、本来の善性で変えていけると説く運命説、立命説が、性善説である。 では、悪性は何処から来るのか?と考えていくと、自由性にいきつくだろう。 悪い事ができるのは、自由が許されているからである。では、何故に自由が許されているのかと考えるなら、自らで悪を悪と覚らなければ改心できないからであることに気がつく。 つまり、世の中が平和になるには、悪人が改心し、悪を行わないように覚るしかないのである。ここに、親鸞の悪人正機説が顕になる。 悪人が悪を覚るには、どうするか、悪人に自由を与えるしかないと、恐らく、神々は考えたのだろう。 しかし、悪人に限って、自らの悪に気がつかずに、KYである。KYだからこそ、悪人ともいえる。 この事は、御馬鹿ブッシュをみることでわかる。表立っては、大統領と持ち上げられながら、内心では、皆、馬鹿にしている代表的人物であろう。この事は、ビンラディンと好対照ともいえる。 ビンラディンは、表向きは、批判され、憎まれ、罵られているが、本音は、直接関係無い限り、もはやどうでもいいような人物であろう。 本音で考えれば、ブッシュの方が、わざわざ演技を強いられる上では、数段、嫌な人物といえるだろう。皆、ブッシュのような無能な人物が、大統領でいられることに、内心、疑問をもち、腹立たしい思いでいるに違いないからである。 もし、ブッシュのようなKYを地でいく人物が、人間の心を少しでも覗けたら、いてもたってもいられないだろう。それだけ御馬鹿な人物ということなのである。 馬鹿は死ななきゃ治らないというが、このようなKY人物は、死後、はじめて、自分の愚かさに気がつくだろう。生きているときは、皆、よい人にみえたのに、死んでみたら、皆、嫌な奴だったと気がつくのである。皆、無理して、いい人ぶっていたことに気がつくのだから。 この逆のパターンが、自殺者である。自殺者は、周囲から、本人が思うほど、嫌がられていないことに、死後、気がつくだろう。ほとんどが、自らの思い込みであることに気がつくだろう。つまり、自分で自分を嫌っていたことに気づくだろう。だから、死後、非常に後悔するのである。なんていう馬鹿なことをしたんだと思っても、もはや遅いわけである。 自分への他者の思いに少しでも気がつけば、自殺を踏み止められるはずである。 自殺者よりも、不幸なのは、KYのような人格性につき合わされる人々である。なにしろ、KYの人物は、自分がこの世で最も素晴らしいという、全くの、おのぼせさんの勘違いお坊っちゃんなのだから。 このような大ボケ野郎にツッコむ芸人はいないものか? 悪人よ! ツッコまれる前に、いい加減、気がつけよ! 悪人が自らの行ないに気がついて、改心すれば、世の中、平和になるのだから。 これがなかなか気がつかずに、覚れないから、戦乱続きで、地獄なんだよね。
2008年02月14日
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今日、人類が新たな文明から、人間の心情と心に寄り添う文明、人間の心情と心から直接生み出される文明が再び必要とされることは明白である。今日、子供が小学校に入ったとき、この高度な文明に属する文字、現在ABCとして学ぶことになる、この文字に子供を馴染ませるなら、子供の心や心情のなかの何ものとも関わり合うことはないだろう。 現代文明に属する文字を学ばせることは、子供の心、心情とは全く関わらないもので、子供がABCを学ばされるとき、子供の頭、心情のなかで発達するものは、霊-魂的に考えて、人間の性質のなかの寄生生物といえるものである(恐らく、依存心のことだろう)。 このように、実際、人間の教育の歴史全体にわたって、今日、文明から発し、寄生的に人間に迫りくる多数のものがある。従って、子供が学校に入るとき、子供の心情から、創造を行う教育芸術を開発する必要が生じる。 子供に、喜び、もしくは落胆という、あらゆる感情から色彩を生み出させるように、色彩形成を、「喜びから苦悩まで!」、紙に表出させる必要があり、子供が、自らの心情を、紙面に繰り広げることで、表出したものは、人間と結びつき、いかなる文明の寄生をも、もたらさないものとなる。 この自主的な色彩表現は、指や、鼻のように、人間から生え出させるが、他方の、文字により、高度文明の成果に導かれることで、人間が受け取るものは、寄生的存在へと至るだろう。 人間の心情と心に、非常に近いものと、教育芸術とが、このように結びつけられる瞬間、スピリチュアル(心霊主義)なものをも、人間のなかで、有毒なものにならずに、人間へともたらされる。 第一に、我々の現代文明が、癌に冒されているという診断を得て、次いで、治療、つまり、ヴァルドルフ学校教育を得るに至る! ヴァルドルフ学校教育は、別段特別に、特殊に組み立てられているわけではない。そこでは、医学的考察と全く同じ思考法により、文化に関して考察されるものである。 なので、以前述べたこと、つまり、人間は本来、下からの栄養摂取から、治癒を経て、上への精神的(霊的)発達へと進み、そして、教育は、精神(霊)へと移行された(翻訳された)医学と見なし得ることが、この文化の癌腫というような、特殊なケースにも、適用できるのをみることができる。 しかし、文化の治療法を発見しようとすれば、特に厳粛さをもって、強調すべきである。というのも、この文化治療というのは、現段階では、ヴァルドルフ学校教育としか考えられないからである。 このような関連を見通すだけでなく、この関連において、このヴァルドルフ学校教育を、実践的に強化し、拡張しようと試みるなら、それがどのような気分のものであるかを考察できるはずで、そして今、文明の癌の共通の帰結として、中部ヨーロッパに生じていることを、自身で確実に理解でき、その癌腫が、実践的ヴァルドルフ学校教育を、全く不可能にしないまでも、恐らく非常に危うくする状況にすることに気がつくだろう。 このような考えを捨ててはならない。この考えを、まだ少しでも可能な場所で、現代文明の癌治療に働きかけようという衝動にする必要がある。実際今日、何倍にも、そのような衝動を増したので、1913年のヘルシンキでの講演会(チクルス)(☆6)で、ある霊認識から、私(シュタイナー)はウッドロー・ウィルソン(☆7、*4)の劣等性に関して述べた。 *********************************************************************************☆7 ウッドロー・ウィルソン:Woodrow Wilson 1856-1924 アメリカ合衆国大統領。シュタイナーは上述のヘルシンキでの講演会、1913年6月1日の講演で彼について述べている。 *4 ウッドロー・ウィルソンについて; シュタイナーは「バガヴァッド・ギーターのオカルト的基盤」で、ウィルソンの論文("What is progress?")に言及しながら批判している。 ウィルソンによれば、ニュートンの時代には、重力に関する考えが社会の概念、国家概念にも影響を及ぼしていたが、天体力学の概念を人間の性格に適用するのは不十分で、現代は別の考え方をしなければならない…そしてウィルソンは、ニュートンの概念では不十分で、生体についてのダーウィン主義の法則を{社会に}適用しなければならない、と主張する。 シュタイナーは、ダーウィン主義のような、純粋に物質的生体組織に由来する法則では不十分で、今日必要なのは、魂、霊(精神)的法則であるとし、ウィルソンの観点を、現代に多く見られる、人智学に敵対する「部分的(中途半端な)論理」の実例として批判する。 シュタイナーによれば、人智学的世界観は、部分的論理ではなく、透徹した包括的(全体的)思考、あらゆる場所に入り込んでいく論理を前提とする。進化というものも、ウィルソンのようなダーウィン主義の意味ではなく、霊的な意味で考えなければならない、と説く。 ("Die okkulten Grundlagen der Bhagavad Gita" P.87-89) 別の講義でも、様々な関連で、しばしばシュタイナーはウィルソン主義を批判している。 ********************************************************************************* ウィルソンはそのとき多くの文化人たちにとって世界の一種の主なる神となり、今日ようやく人々は、もはやそれ以上のことができない為、彼に関しても、多少明確な理解も出てきたが、そのときの状況は、当時、現代文明の癌に関して述べたことと全く一致している。 当時現代文明の腫瘍に関しては全くウィルソン主義のような状態で、今日(1920年)の時代に適合することに関しても、全く同様の状態で、いわば人類の睡眠状態である。睡眠状態に相応しいのは、何と言っても覚醒であり、人智学は真の文化を目覚めさせる全ての衝動、人間の真の文化覚醒の為の衝動を含んでいる。 この事が、この霊的言語の講義の最後に述べたかったことである。(シュタイナーは、この現代文明の文化の癌腫を治療するには、教育芸術しかないと説いているのである。その為に、シュタイナー教育を生み出したともいえる。シュタイナー教育には、人智学のエキスが詰まっているので、もはや人智学を理解する必要はなく、シュタイナー教育をそのまま実践するだけでよいのである。つまり、シュタイナー教育そのものが人智学なのである。 ただし、教師、教員、つまりシュタイナー教育を行う教育者は、充分に人智学を理解し、その態度で臨まねばならない。その意味は、自主性の問題で、人智学に賛同できない者が、その教育を行うことは、人間本来の自由意志に反するからである。)
2008年02月14日
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(前回の文明の癌腫についての補足) 文明の癌、腫瘍形成について:『今日では、消費を顧慮しないまま、市場の為の生産が続けられている(現代でいえば市場原理主義)。私(シュタイナー)が、論文「霊学と社会問題」で述べた意味ではなく、生産された全商品は、市場の仲介を通して倉庫に集められ、売買されるのを待つ。この傾向は益々顕著になっていくだろう。そして(なぜ、今このようなことを言うのか、直ぐにわかるだろう)、この傾向は自己を破滅させるまで、やまないだろう(現代では自己破産者)。 社会生活の中に、このような生産方式が導入されると、人類社会の秩序の中に、生体に癌が発生するのと全く同様の癌が生じる。全く同じ癌、いわゆる文化癌が人類社会に発生するのである。 今日(1920年)の社会生活の霊視者は、文明に癌への傾向を発見する。今、至る処に、社会的腫瘍形成への恐ろしい素地が作られつつある。この事は、現実を直視する者にとって、非常に憂慮すべき状況なのである。(中略)自然という創造の場において、本来物質を形成する為に必須のものが、今述べたような形で、社会の中へ入っていくときには、癌を発生させる。」(第六講 205ー206頁)』(シュタイナーは、社会学的な事項についても述べ、適確に予想し、現にその通りに進行していることがわかる。例えば、共産主義が、将来、無くなることを、マルクスとエンゲルズの前世から、見通し、共産主義は、資本強奪主義に他ならないというようなことを述べている(実際、ソ連が解体した)。 議会民主主義についても、資本主義と結びついた時点で、選挙の票を、金で買うような一種の錬金術であり、国家という偶像崇拝を基にした極度の統治秘密主義であるといっている。 また、庶民は永遠に搾取される側で、しかも搾取する真の組織を知らないという。この搾取側は、実は国家というのは名目ばかりで、世界的なネットワークを張り巡らせた巨大秘密組織であるというのである。) 以前は、下方から上方へと作用する精霊グノームたちと、ウンディーネたちの性質から、寄生的になる衝動を持つ可能性が、人間のなかに有機的に生じてくる様子を、いわば霊-生理学的に描写したが、この反対像が生じるとも述べた。 この寄生的性質の反対像とは、精霊シルフ(ジルフェ)たちとサラマンダー(火の精霊)たちを通じて、毒物が、上方からもたらされ(*3)、今日の文明のように、寄生的性質を持つ文明においては、この毒物のように、上方から、いわゆる霊的真実として流れ込んでくるもの自体は、毒性をもたないが、人間のなかでは、毒物に変化し、その結果、人間は、「ゲーテアヌム」誌に記述したように(☆5)、恐怖と不安の中で、霊的真実を拒絶し、霊的真実を拒絶する為の、ありとあらゆる理由を作り出す。*3 グノームとウンディーネによる寄生生物の発生、ジルフェと熱存在による毒の発生については第八講参照。 ☆5 「ゲーテアヌム」誌の記述:ルドルフ・シュタイナー『魂生活について IV. 魂の勇気と魂の不安における魂の本質』(当初週刊「ゲーテアヌム」誌に発表 1923年11月11日 第III期 11号)、全集版では『現代の文化の危機におけるゲーテアヌム思想 1921~1925年の論文集』GA36 360頁以下)参照。 この寄生と有毒の二つの事柄は、互いに対極となり、つまり、下方の寄生文化は、元素的(エレメンタル)法則から、跳躍して抜け出ることがない為に、寄生生物を自らのうちに含み、そして、降下する毒、上方から降下してくる精神性(霊性、スピリチュアリティ)は、文明のなかに侵入し、人間に摂取され、有毒となる。 この事をよく考察すれば、現代文明にとって究めて重大な徴候を示すものが得られる。そして、この事を洞察すると、自ずと、これらに対する治療手段として、登場すべき文化教育が生じてくる。実際の診断、実際の病理学からラツィオ(理念、原理)に基づく治療法が生まれるように、文化病の診断から治療法が生まれ、一方(文化病)が他方(治療教育)を引き寄せる。
2008年02月13日
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これまで言及してきた事実、いわば人間の良心が分解されたものとして、植物の花を認めるのなら、外界の存在は、いわば、人間の魂の像なのである。(人間)内部に存在するのは、外なる自然とは、似ても似つかない親近性を持たないように、一見みえる力なのである。 骨が骨となれるのは、骨が、鉱物として出現する炭酸石灰や燐酸石灰を憎み、その前から後退し、自身のなかに収縮して、外界の自然のなかの炭酸石灰や燐酸石灰とは別のものになることによる。 人間が、物質的形姿を持つことができるには、人間の物質のなかに、憎悪と冷酷さが必要であるという見解にまで跳躍できなければならない。 このとき、内(精神)的な意味とでもいうべき言葉を獲得する。人間の骨が、ある一定の堅さをもつとき、その適度な堅さは骨には良いことで、骨は、霊的な冷酷さの物質的模像として、この堅さをもつ。しかし、人間の魂が、ある種の堅さを持っていたら、社会生活にとって良いことではない。 人間の物質的本質は、人間の魂とは全く異なる必要がある。人間が人間である可能性、人間の物質的本質は、人間の魂-霊(精神)とは異なるという可能性は、正に、物質と霊が相反関係にあるという点にある。人間の物質的本質は、周囲の物質的自然とも異なり、魂と物質が全く異なる変化を行うのが不可欠なのは、上記の相反する性質に依る。 私(シュタイナー)がかつて、宇宙論、哲学、宗教を扱った講座(☆3、*1)で述べたことに対して、この重要な補足、つまり、人間と、ヒエラルキア(天使)との結びつきの為に不可欠な、この補足、つまり物質と霊の相反関係を、再度、ここに付記する必要がある。☆3…講座で:ルドルフ・シュタイナー「人智学における哲学、宇宙論、宗教」(GA215 全10講 ドルナハ 1922年9月6日-15日)参照。さらにルドルフ・シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25 ゲーテアヌムにおける「フランス講座」のための論文集1922年9月6日ー15日)参照。 *1 シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25)の邦訳は『霊界の境域』(西川隆範訳 水声社)に所収。 丁度、いま、これまでの要約の出発点と同様な出発点を獲得したこの時点で、唯一、この補足を加えることができる。この地上で鉱物界、動物界、植物界の個々の存在とは何であるかを霊眼で見通すように、地上で、物質的自然の出来事と人間の営みが、時の経過と共に進展していくように、人間は、ヒエラルキア(天使)の営みを、霊として、覗き見ることができる。 このように、死と新たな誕生間の生を、すなわち霊界での生活を見つめると、人間が、死と新たな誕生間に行なうことを、丁度、人間がこの地上で誕生から死までの間に行なうことを、伝記的に記述できるのと同じように、事細かに記述することができる。 そして、人間が死の門を通過していくときに、人間を通じて霊界に持ち込まれた人間無理解と人間憎悪に基づく全てが、再度、転生のときに、人間に付与され、それを高貴なものに改良しながら、人間の形姿が再び創造されることは、宇宙が本質的に望むべきことである(つまり、カルマの解消は宇宙全体が、地上の人間に望むことである)。 さてしかし、何世紀も経過するうちに、地球人類の現在の進化にとって、何か非常に奇妙なことが生じてきた。霊界では、人間無理解の力と人間憎悪の力全てが、新たな人間形成、新たな人間形姿の為に使い果たされることはなく、残余ができる。 この残余が、この数世紀の間に地球へと流れ込み、その結果、霊的な地球大気圏のなかに、地球のアストラル光とでも呼ぶべき光のなかに、混入物として、外から人間へと出現する人間憎悪と人間侮蔑の衝動の総和が見られるようになった。 これらの衝動は人間の形姿にはならなかったもので、地球の周囲のアストラル光のなかを巡り流れている。これらの衝動は、人間の中へと作用するが、今のところ(1920年なので、20世紀初頭)、個々の人間には作用しない。これらは人間たちが地上で互いに形成するもののなかに作用を及ぼす。 これらの残余、宇宙のゴミともいえる存在は、文明のなかに作用を及ぼす。そして、この残余の総和が文明の内部に引き起こしたものは、私(シュタイナー)が1914年の春ウィーンで(☆4、*2)、余儀なく、次のように述べざるをえないものとなった、 「現代文明には、霊的な癌、霊的な癌の病、霊的な腫瘍が混入している」、と。 ☆4 1914年の春ウィーンで:ルドルフ・シュタイナー「人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生」(GA153 全6講 ウィーン 1914年4月)参照。文明が霊的潰瘍に冒されていることについてシュタイナーは第6講で語っている。 *2 シュタイナー『人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生』(GA153)の邦訳は『死後の生活』(高橋巌訳 イザラ書房)。 死と新たな誕生間の現象を扱ったウィーンでの講演会(チクルス)において、上記を述べたが、当時の人々が、自分から耳を傾けることはなかった。けれども、それ以来、人々は、当時の発言が真実であったことを、多少は経験することになった。 当時人々は、文明を通じて流れ込んでくる、この癌腫について、よく考えることなく生きていた。人々は、文明の腫瘍形成が、真に存在することがわからず、腫瘍形成は1914年から突発した。今日、この文明の腫瘍は、精神(霊)が全く損なわれた(失われた)唯物的な機械文明の実質として姿を現わしている。 文明のなかに生きているものを、統一ある精神(霊)の形成物とみなすこともできる。人間形成の際に、使用されなかった人間憎悪と人間の冷酷さの流れが入り込んだ、この現代文明にとって明らかなのは、腫瘍として、現代文明に流れ込んでいるものが、現代文明の寄生存在として生き抜いている、ということである。 現代文明は、何か根深く寄生的存在を持っている。それは、まるで、寄生生物、細菌に冒された生体組織の一部のようである。人間の思考に蓄積された残余物が、人間との生きた結びつきを持たないまま存在している。 極めて日常的な現象に、この寄生物がいかに出現しているかを、少し考察するなら、以下のような例に現れていることがわかる。 何かを学ぶ必要のある者が、学ぶべき内容が既に目の前にあるので、熱中して学ぶのではなく、ただ試験に通る為、もしくは、正しいとされている官僚を演じる云々の為に、権力の座に座りたいが為に、学ぶような例である(精神的な道義的理由からではなく、物質的な寄生的理由による)。 その人間にとって、受け容れるものと、その人の魂において、本質的に、精神(霊)を受け容れることへの渇望能力として存在するものとの間に、もはや基本的な繋がりが無いので、これは丁度、渇望(飢え)を感じるように作られなかった人間が、絶えず食べ物を、自分の中に詰め込むようなものである(空腹感もないのに、ひたすら食べ続けること)。 これでは、食物は、以前述べたような変化を遂げず、その本質において、人体の余計なお荷物となり、とどのつまり、他ならぬ細菌を呼び寄せるものになってしまう。 現代文明において、人間から切り離されたようになったままの多くの残余は、正にヤドリギ(寄生植物)とでも呼べるもの(霊的に考えて)で、人間がその心、心情の根源的衝動から生み出すものの上で生きている。その多くは、この文明の寄生的存在として生き抜くというように(いわば根無し草の如く)生きている。 そして、この事を霊眼で観る人、この文明をアストラル光のなかに見る人にとって、既に他ならぬ1914年に強度の癌形成が見られた。このような人にとって、文明全体が何か寄生的存在に冒されたようにみえた。ところが今や、寄生的存在に加えて、また別のものが登場してきた。
2008年02月12日
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死と新たな誕生との間、人間を追求していくと、つまり、前回述べたように、人間の形姿を上(頭部)から下へと徐々に失っていきながら、人間が、更に動き活動しているのを見る事が出来る。しかし、いわば最後の脚が、下から失われると同時に、素晴らしい霊形姿が、形成され、その霊形姿のなかに全天球の模像があり、同時に、それが、来世の自分の身体に備える未来の頭の原型となる霊形姿となる。 ここで人間は、下位ヒエラルキアの存在たちだけでなく、セラフィム、ケルビム、トローネといった最高次のヒエラルキア存在たちが関与する活動に織り込まれる。 このとき何が起こるのか。このとき起こる事は、実際、本質的な人間として、イメージできる最も驚くべきことである。というのも、このとき、その人間の、今生(現世)での下部人間としてのものが、頭部形成へと移行するからである(つまり、今生(現世)の活動を含む手脚の四肢が、来世の頭となる)。 人間が、この地上を動きまわるとき、表象(イメージ)の器官、思考を担う器官は、貧相に捉えると、頭部だけに思えるが、上記のことから、思考は同時に、胸部の同伴者でもあり、思考はとりわけ、四肢の同伴者ともいえる。 だから、頭部だけで思考するのではなく、例えば、四肢で思考を始める瞬間に、カルマの現実(リアリティ)全てが、開かれる。我々人間が、カルマについて何も知らないのは、常に、この本来、表面的(皮相的)な器官、貧相な脳だけで考えるからである。 もし、指で思考を始める瞬間(指での思考に奮起するなら、人は頭部の神経で、思考するよりも遥かに明快に、正しく手指、足指で思考できる)、完全に物質になっていないものを用い、或いは、下部人間で思考し始めた途端、思考はカルマとなる。 手で、物を掴むだけでなく、手で思考するとき、人間は、手の思考と同時に、自らのカルマを追求していく。そして、特に、足で歩くだけでなく、足で思考するとき、特別、明瞭にカルマを追求できる。 人間が地上で、偏狭なのは、人間の思考全てを、頭部領域に閉じ込めているからである。しかし、本来、人間は全人間をもって思考できる。そして全人間をもって思考するとき、この中間部分(胸部)で、全宇宙論が、素晴らしい宇宙の叡智が自身のものとなる。そして、下部の四肢全般にとっては、カルマが自身のものとなる。 この地上で、歩いている人間を観察し、無関心に陥らずに、その歩行の美しさ、歩行の特徴を追求するなら、そして、例えば人間の手を、動かし、この手の動作を解釈し、どの指の動きにも、人間内部を極めて素晴らしく証左する美の存在(忠実に表現する存在)を見い出すなら、実際、その運動に既に、多くが成し遂げられていることに気がつく。 とはいえ、手足の所作は、歩行し、掴み、指を動かす人間と、共に運動するものの、僅かな部分に過ぎない。何しろこのとき、道徳的人間全体が運動し、その人の運命が共に運動し、その人の霊全てが共に運動しているからである。 そして、死の門に歩み入った後、人間の形姿が溶解していくのを追求できれば(物質的形姿が最初に溶解する)、確かに物質的形姿に似てはいるが、その内的な性質や本質を通じて、その人間の本来の道徳的形姿であると告げるものが、現われてくる。 存在の真夜中に近づき、セラフィム、ケルビム、トローネの領域に到達すると、人間は上記のようになっていく。次いで、驚くべき変容(メタモルフォーゼ)が生じ、このとき、形姿が溶解するのをみる。 しかし、この事は、本質的には重要なことではない。形姿は溶解するように見えるが、実際、このとき高次世界の霊的存在たちが人間に共同して働き、人間は自分自身で、そしてまたカルマ的に結びついている人たちと共に(ある人間が他の人間にも働きかける)、人間の以前の形姿、過去の地上生での形姿から、霊的に、次の受肉の形姿となるものを作り上げるからである。 この霊の形姿はまず、物質生(来世)で、胎児として人間に与えられるものに結びつく。しかし、上の霊界では、足と脚が頭部の顎(あご)に変化し、腕と手が頭部の頬骨に変化し、下部人間全体が、後の頭部の霊原基へと変化する。(この事は顔相占術の基になっている。つまり頭部の形姿から、その人間のカルマを観察するわけである。) このとき、この変容(メタモルフォーゼ)が起こる様子は、宇宙認識と同時に体験する、最も驚くべきことである。つまり、いわば、はじめに全宇宙の模像が創造され、そして、その人の道徳全てが付着し(以前述べた残余物全てが取り除かれた後だが)、これが形姿へと分化し、存在が生成へと変化していく。(以上を要約する。死後、下位、中位の天使により、その人間の残余物全てが、頭部から脚部へと取り除かれると同時に、天空の模造に応じて、霊的人間が、脚部から頭部へとつくられ、上位の天使により、その人間の道徳的実質を付加され、次の転生への頭部となり、そこに前世からのカルマに応じて、分化、生成が行われる) そして、人間が霊の形姿として更に変化を続け、再び第二ヒエラルキアの領域、第三ヒエラルキアの領域に戻っていくのが見える。この変化した霊の形姿に(霊の形姿は根本的に未来の頭部の原基に過ぎないので)、胸部器官となるもの、四肢器官、腹部の代謝器官となるものが、付加されなければならない。 では、この胸部と四肢腹部の付加の衝動は何処からくるのか。 この衝動は、人間が、転生への道の前半にいたときに、第二(中位)及び第三(下位)ヒエラルキアの存在たちが慈悲深く拾い集めたもので、この天使存在たちは、人間の道徳から、この衝動を取り出すが、この衝動を再び下降させ、そこから、リズム(胸部)人間、及び代謝-四肢人間の原基を形成する。 このとき、人間は、死と新たな誕生(来世)間での霊的生存の後半期に、物質的生体組織の為の成分、いわゆる、物質の素の霊的成分を受け取る。胎児のなかに、この霊の形姿が入り込んでいき、物質力、エーテル力となるものを運び入れるが、この物質、エーテル力は、人間無理解と人間憎悪として過去生(前世)から携えてきたもので、四肢は、そこから霊的に形成され、四肢は、その物質的な模像にすぎない。 以上から、物質界に必要とされる観点とは、物質界とは全く異なった種類の感性を身につけなくてはならないということである。というのも、これまで示唆してきた形式で、人間において、霊から物質になっていくものを眺める必要があり、骨のなかには、冷酷さが、道徳的無関心の、冷酷さが物質的模像の状態で生き、血液のなかには、道徳上の憎悪が物質的模像として生きている、ということに耐えねばならないからである。いわば、このような事柄を全く客観的に眺める術を改めて学ばなくてはならない。 とはいえ、上記の事柄を、上記のように覗き込むとき、人は人間内部と外部の自然との違いに、はじめて気づくのである。
2008年02月07日
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人間憎悪の残余物(物といっても霊的なものだが)を、人間は更に長い間運んでいかなければならず、この残余物が、人間から完全に取り去られるのは、第二ヒエラルキア(天使)の、エクスシアイ(能天使;聖書のエロヒムは、この階層存在)、キュリオテテス(力天使)、デュナメイス(主天使)の恩寵によって唯一行われるからである。そのとき、天使たちは、人間憎悪による残余物全てを人間から取り去る。 次いで、人間は、死と新たな誕生(来世)間の霊界の、セラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、トローネ(座天使)という第一ヒエラルキア存在たちの滞在領域へと、私(シュタイナー)が神秘劇で、霊界の真夜中と呼んだ霊的生存期間(☆2)に、ほぼ到達する。☆2 神秘劇で霊的生存期間の真夜中と呼んだ領域:ルドルフ・シュタイナー『四つの神秘劇』(GA14)所収の『魂の目覚め』第四景及び第五景参照。 人間が、その領域に到達する前に、第三ヒエラルキアと第二ヒエラルキアの存在たちによって、人間無理解、すなわち道徳的無知、すなわち冷酷さと、人間憎悪を、慈悲深く取り除かれた状態にされていなかったなら、人間は、内(精神)的に完全に破壊されずに、つまり消滅することなしに、このセラフィム、ケルビム、トローネの領域を通過することは決してできない。 このようなことからわかることは、人間は、更なる宇宙進化に貢献する衝動に結びつきを見出す為に、霊界に持ち込んでくる、残余として、魂のなかに残る物質的、エーテル的本性を、高次ヒエラルキア存在たちに負担させざるを得ないということである。 とはいえ、このような全てを見通すとき、このような道徳的無知、冷酷さが霊界で意のままに活動する様子を見るとき、この霊(精神)的冷酷さと、下方(地上)の物質的冷酷さとの親和性を判定する術も獲得される。 雪や氷のなかにある、この物質的な冷酷さは、実際、この上(空)にある道徳-霊(精神)的冷酷さの物質的模像にすぎない。自分の眼の前に、両者を置いてみれば、これらを比較できる。このように、天使たちにより、人間は、その人間無理解と人間憎悪を取り去られた状態を保つが、その間の、人間が、徐々にその形姿を、いわば失っていく様子、この形姿が溶解していくような様子が、霊眼で追求できる。 霊視力による霊眼では、人間は死の門を通って行くときは、まだ、この地上にいたときと同じような形姿に見える。というのも、人間が、この地上で自らのうちに担うものは、いずれにせよ、粒のような形状、いわゆる原子のような粒子的形状で、この粒子形状が、人間のなかでは、実質となるが、人間の本質的形姿は霊的なものである。(いまでは、量子力学により、粒子は、一種の確率の波で観測され得ることは理論的に明らかである。量子力学を唱える物理学者は、量子力学が物理の世界ではいわば常識化しているのにも関わらず、確率波の概念をいまだに理解できないで、観測問題として残しているのである。つまり、理解できないのに、認めている物理学者は自己矛盾に陥っているわけである。観測問題となると、忽ちシュレディンガーの猫の思考実験例を持ち出して、問題を誤魔化すのが一般的である)。 この事については明白に理解すべきで、本来、人間の形姿を、物質的にイメージ(モデル化、概念化)するのは全くのナンセンスで、人間の形姿を、本質的には、霊的にイメージしなければならない。霊的なイメージ(モデル化)のなかでは、物質は、いわば小さな粒子として、霊的空間内部の至る所にある。(シュタイナーのこの講義は1923年なので、量子力学の定式化の1925年と丁度同時期にあたるが、シュタイナーは既に、量子力学の定式化の内部空間という概念を思いついていたことになる。シュレディンガーやハイゼンベルグにコンタクトするか、両者が外部に定式化の情報を漏らさなければ、独力で思いついたことにもなるわけである。 ちなみに、量子力学は発展して、量子場の理論となり、ゴーストという場が安定せずにエネルギーを常に発散してしまう、シュタイナーがここで述べているような、まるで霊的存在といえるものに出くわす。つまり観測問題が顕在化するわけであるが、量子場の計算の上、常にこの霊的な存在に悩まされたが、この霊的存在は、繰り込み等の計算技術、つまりゴーストの取り込みという手法で、対処的に解決された。この手法で、ファインマンと朝永、シュヴィンガーはノーベル物理学賞を受賞する。 では、粒子とはいかなる実在存在かといえば、いまだに解決できずに、超対称性という鏡像対称性を用いて、無理やり物質場に変換して、議論を進めているが、重力場の取り込みには成功できずに、超弦理論という、粒子ではなく、紐を根底に置く、まるでオカルトな理論展開へと進んでいるのが現状である。 とりあえず、実在問題を度外視して、数学上では、いくらでも計算できるから、超弦理論が生まれたともいえる。最近ではコンピュータという仮想空間を基にしたシュミレーションもできるから、実在問題は思考過程の問題に移ったともいえるだろう。空間の質的構造改革といえる超弦でなく、格子ゲージというあくまで、空間の量的区分に拘った計算法に取り組む輩もいる。) 力体的な形姿の存在、この力体がなければ、バラバラに崩れて(エネルギーの)一塊になってしまうものを、形態に従って結合させている。つまり、個人の特徴(例えば髪の毛)を掴んで、形姿全体を取り除けるなら、物質体とエーテル体は、砂山のように崩れ落ちるのと同じである。(形態を為す力全てを取り除けば、一瞬にして、形態が崩れるわけである。秩序を形作る力を除けば、無秩序になるというわけである。) 物質存在全てが砂山ではなく、個性溢れるように、配分された形姿を持っているということは、何ら物質的性質に由来するのではなく、霊に由来するのである。人間は実際、霊として、この物質世界を動き回っている。人間が物質的存在のみから成るというのはナンセンスで、人間の形姿は純粋に霊なのである。物質的なものは、大凡の表現として、一山のパン屑に相当する。(つまり、数学という数で表す秩序の構築体系もいわば一種の霊なのである。数学で示せるというのは、そこに力が働いているからであり、力が数学的公式に従って、形態を構築しているからである。) 地上で生きているときの形姿を、人間は、死の門を通過していくときも有する。この形姿が仄かに光り、煌き、色々な色彩に輝くのが見える。ただし、人間は最初に、その頭部の形態を失い、次いで頭部以外の他も徐々に溶解していく。そして人間が完全に変容して宇宙の、一種の模像のようになるのは、死と新たな誕生との間で、セラフィム、ケルビム、トローネの領域に至る時である。
2008年02月06日
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さて、この肉体からくる冷酷さと憎悪は否定できないことで(霊眼には極めて明確に示される)、15世紀に始まり、一方では主知主義的で、他方では唯物論的になった、我々の時代の、我々の文明に結びついている観点は、魂の根底では、その観点の多くが人間無理解と人間憎悪において存在する、ということである。 この存在は、考えられている以上の大きさである。というのも、人間の無意識のなかに人間無理解と人間憎悪がどれほど存在しているか、本来人間は死の門を通過して、はじめて気づくからである。死の門を通過するとき、人間は魂-霊を、物質-肉体から引き離す。つまり、人間は物質-肉体を脱ぎ捨てる。冷酷さの衝動、憎悪の衝動はこのとき、実際、単なる自然力であることが判明する。 死体をよく見てみる。霊眼で、エーテルの死体をも、よく見てみると、石(鉱物)や植物と同じように、もはや道徳的判断を生じさせない存在を眺めることになる(死体は石に、エーテルの死体は植物と化す)。道徳的な生命体の内部に入り込んでいた存在は、いわば、石や植物のように、自然力へと変化したわけである。 (人間は死に際し、生前に自分のものとみなしていた肉体を、まるで石のように、肉体の構築図のエーテル体を、まるで植物のように感じ、それらがまるで自然力のように感じるわけである。) しかし、人間は生きている間に、これらから、その多くの生命的活動(要素)を吸い込んだ。人間は、この生命的活動(息吹)を、死の門を通り携えていく。自我とアストラル体は、物質体とエーテル体のなかから、後退し、そこに繰り返しの体験から、蓄積させてしまった為に、生きている間には気づかずに残った冷酷さと憎悪の衝動を引き出して、携えていく。(肉体的感覚故の無理解な存在、つまり人生において蓄積させた冷酷さと憎悪を、死の際に、再び、魂は、肉体感覚の物質的感覚に刻印された負の衝動として、携えていくのである。簡単にいえば、物質的快楽を味わったら、その快楽度合いに応じて、魂でその代償を支払うことになる。物質的快楽度合いが魂の精神を同等に蝕むのである。自分の地位に相応しくない高価な物を買えば、後で借金というツケが請求されてくるのと同じである。) この自我とアストラル体は、霊界へと、正に魂のなかに蔓延っていた人間に対する人間憎悪と冷たさの衝動全てを携えていく。 なので、いま述べたように、次のことがいえる、 「我々のこの文明において、唯物的、もしくは主知主義的に述べられる様々な事柄を通じて、人間無理解と人間憎悪を通して、人間のなかに、いかに多くが植え付けられているか、人は、死の門を通過していくときに、はじめて気づく」、と。(人は、死に際し、その人生でいかに多くの負債をつくっていたかはじめて知るのである。後から、請求書をみせられ、驚くわけである。) なぜなら、今日の人間は、人間無理解(冷酷さ)と人間憎悪の両衝動のうち、非常に多くを、途方もなく多くを、死の門を通過して、運んでいくからである。(あの世と、この世の価値観は百八十度異なるので、この世の快楽は、あの世の負債となる。この百八十度異なるというのは、例えば、順序がまるっきり逆のアベコベの展開になる。この世では、親から子が誕生するが、あの世では、親が子を食うようにみえる。ここから鬼子母神の伝説が生まれた。ギリシャ神話では、ゼウスとクロノスの存在で示したという。) この死のとき、人間(魂)が共に携えていくものは、物質のなかの存在(いわば設計図)で、物質体とエーテル体を完成するもの、霊的な残余物である。人間は、人間無理解と人間憎悪のうちに、もともと物質世界に属する残余物を、霊界へと持ち込み、この残余物を、霊の形として持ち込むのである。 この残余物を、更に、死と新たな誕生(来世)との間の時期(霊界)を通じて、ずっと携えていることは、人間にとって決して役立つものにはならない。なぜなら、人間が、この人間無理解と人間憎悪を残余物として、更に持ち運ばなければならないとしたら、その人間は全く前進(進化)することができず、死と新たな誕生(来世)との間で、更に進化する際に、前に進む度に躓いてしまうことになるからである(霊界でも、同じ過ちを繰り返すことになる)。 いわゆる、死者たちが歩み入っていく超感覚的世界のなかに、今日絶えず見られるのは、その残余物が直接作用すれば、人間の進歩が阻まれるような動向ばかりなのである。このような動向は、一体何に由来するのか? この動向が、何に由来するのかを知ろうとするなら、今日の生活を、よくみればよい。人間たちはお互いに、すれ違い、他人がどんな特性を持っているかを見ることはほとんどない(お互い無関心である)。そもそも、今日の人間たちは、誰もが、多くの場合で、自分が、正しく、良く見られたいというような有様だろう。 そして、他者が、少しでも自分とは異なった様子をしていると、愛情深く、その人のなかに入り込んでいくのではなく、この人は間違っていると判断するだけで、結局、その際の、その判断の背後にあるのは、「この人は、私のようでなければならない」、と呟くことなのである(自分の価値観を押し付けるのをよいことと思っている)。 このようなことが、常に意識されているとは限らないが、今日の正に、社交上の交流、人間の社会的なつき合いのなかに潜んでいるものである。今日、明るみになっているもの、人間言語の形式とでも呼ぶべき文化には、他の人間の理解を導くものは、ほとんどないといえる(自国文化を他国に強要しようとする傾向にある)。(特に日本の場合、昨今の米国の文化強要には敏感だろう。特に肉食など。だが、同様に、日本も日本文化をアジアに押し付けた歴史もある。) 人間であるべきことを自分がいかに考えているか、人間は世界に向かって大声で叫び、騒々しいが、その際、その背後にあるのは、大抵の場合、全ての人間は、自分のようになるべきである、ということに他ならないのである(グローバル主義や市場原理主義などがその典型だろう。要するに米国がナンバーワンといいたいにすぎないのである)。 そのとき、全く別な様子の誰かがやってくると、その誰かが直ちに、例え、その誰かが完全に意識されなくても、敵であり、反感を覚えさせる人間となる。ここには人間理解や、道徳熱が欠けているといえ、愛が欠如しているといえる。そして、これらが欠けているのと同じだけ、道徳的冷酷さや、人間憎悪が、その人間とともに死の門を通過していき、牢獄の鎖となって、死の門に人間を引き留める。 しかし、ここで人間が最初に見出すのは、第三ヒエラルキアの存在たち、つまりアンゲロイ(天使)、アルヒアンゲロイ(大天使)、アルヒャイ(権天使)で、なぜなら人間が更に進化することは人間自身の目標であるだけでなく、全宇宙秩序の、叡智に満ちた宇宙秩序の目標でもあるからである(天使、つまり神々が人間を助けにくるのである)。 人間が死の門を通過して、死と新たな誕生(来世)との間の世界へと入った後の最初期(死後すぐの霊界)に、天使たちは、人間に近づき、人間無理解から来る冷たさを、慈悲深く人間から取り去る。そして、人間が、死の門を通過して今描写した方法で、霊界に持ち込んだ残余物を、いかに、この第三ヒエラルキア(天使)の存在たちが負担してくれるかがわかる。
2008年02月05日
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