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福田迷走総理混迷内閣がおわびをしたという。しかし、今更、誰にお詫びをするのか、超KYであろう。1人芝居もいい加減にして欲しい。 恐らく、多額の与党献金でもしている石油関係業者なのだろう。 「せっかく多額の寄付を戴いておいて、甘い汁を吸わせなくて御免ね」というとこが本音なのだろう。 確かに、これら一部の大手企業も、国民に変わりないが、国民全体からみれば、わずかに裕福な数%にしかすぎない。大多数の国民は、これら一部の既得権益に反感を抱いているはずである。 与党なんかに寄付して、ぬるま湯に浸かるのを喜ぶよりも、大多数の他の国民を幸福にするために、切磋琢磨して、額に汗して働くことを考えた方が、人の道であり、平和への道であろう。 楽して儲けた金なぞに人間の幸せなどない。むしろ不幸しかない。 不幸を感じるからこそ、幸福感が訪れるのである。 熱い湯を感じるからこそ、冷たい水を感じるからこそ、ぬるま湯の有り難さがわかる。 ぬるま湯ばかり浸かっているとふやけるだけである。 新約聖書のヨハネの黙示録のラオディキアにある教会にあてた手紙に、この意味がある。 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。 「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のようにいわれる。 『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目を塗る薬を買うがよい。 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて、戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように 耳ある者は、”霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」 (意訳する) キリストがこういわれる。 「人間よ、わたしはあなたたちの行為を常に見守っている。あなたたちは、すぐに堕落しようとし、安易で快適な方向に流れようとするが、自らに厳しいか、他に思いやりをもった人間か、どちらかの人格であって欲しい。 自らに甘く、他に厳しいので、中途半端に、その場限りの生を貪るので、わたしは、あなたをますます地獄に落とさざるをえないだろう。 あなたは「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と物質的快楽の意味で、語っているが、精神的には、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 そこで、人間よ、あなたたちに勧める。精神的に裕福になるように、熱で生成された金色のような光を、わたしから与えよう。精神的に無知な裸の恥をさらさないように、白い叡智を身に纏う衣を養い、また、精神を見通せるように、心眼、霊眼を養うがよい。 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしはあなたの傍に立って、あなたを見守っている。だれかわたしの声を聞いて、心を開く者があれば、わたしは心の中に入って、その者と共に行いをし、彼もまた、わたしと共に行為するであろう。 自らの悪魔を打ち下し、自らに勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように 愛ある者は、”霊”が肉体に告げることを聞くがよい。」
2008年03月31日
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さて以前、奇妙なエーテル実質(エーテル体の不整合の優位)に遭遇した。以前表現し、記述した事を覚えていれば、アストラル実質より重い(優位な)、いわば、アストラル体領域を、超えたエーテル体をみた。そして、それは人間に重くのしかかるルシファーの影響であるといった。しかし更に別のものも見た。 物質(肉)体の、エーテル実質、つまりエーテル体に対する優位(卓越)をも見出したのである。実際、こちらの方を先に見い出した。さて、しばらくの間、この酷い(不整合の)形で組み合わされた人間の構成体の間に見い出される関係、つまり、真に完全にルシファーの影響によるものである、この結合に注目する。 そのような関係がある場所では、物質は、至る所で肉体の優位(卓越)によって掻き乱されたエーテル体と遭遇することになる。つまり、精神は、あるがままの(自由な)エーテル的実質の中へと分解し、分散していくのではなく、確かにエーテル的だが、物質によって圧倒された身体的条件の中に押し入ることになる。そして、精神がそのような実質の中に押し入るとき、神経物質が生じる。物質(肉)体により、圧倒されたエーテル体の中に精神が流れ込むときに神経物質が生じるのである。 さて、今まで、三段階の物質について見てきた。最初に、感覚世界の中で遭遇する通常の鉱物質、次に、植物の中に見いだす植物質、最後に、人間と動物の体の中に見い出す物質だが、これ(神経)は、体の中の不規則性により生じる物質である。 世界の中に存在する多種多様の物質を生じさせる様々の条件を数え上げるなら、一体どれだけの事をしなければならないか、一度考えてみれば、途方もないことがわかる! 以前、ルシファーの影響により、いかに多くの不規則性が生じるかを見た。例えば、エーテル体がアストラル体を超え出るのを見た。 この種のアストラル体、つまりエーテル体に圧倒されたアストラル体の中に精神が押し入るとき、筋肉物質が生じる。これが、神経や筋肉を構成する物質が、他のいかなる物質とも比べることができない、奇妙でユニークな外観を呈している理由である。どちらの場合も、これは今述べたような複雑な仕方で物質が生じているからなのである。 肉体のエーテル体への優位な結合へ精神が流れ込む→神経物質 エーテル体のアストラル体への優位な結合へ精神が流れ込む→筋肉物質 熔けた金属を持ってきて、空気中に射出する場合と水中に射出する場合、そして、しっかりと固まった物質中に射出する場合とでは異なった結果が得られることについて考えてみるなら、実際、どのようなことが起こっているかを思い描くのに役立つ。 これと同様、複雑な方法で様々の種類の物質が世界の中に生じる。いま述べている全ては、主に、これらの事を、その根底から探求するには、いかに遠くまで、存在の深みへと降りていく必要があるかを示すためなのである。 例えば、更なる物質の深みへと導く条件について、つまり、自我が、その自我性においてアストラル体を圧倒する場所で生じる不規則性について考える。この条件の中に精神が噴射され、分散していくときには、結果として(ただ、長い回り道をした後だが)骨を構成する物質が生じる。ここから分かるように、これら全ては、結局、物質が精神から生じるときに、どのような条件下で、精神が噴射され、ばら撒かれるかにかかっている。 自我のアストラル体への優位な結合へ精神が流れ込み→骨 いま述べたことを、たとえ個々の考え方を細部にわたって辿ることはできなくても、よく心に留めておくべきである。その要点については理解できると思うが、それは結局、いつでもどこでも分裂し分散する精神として物質を理解する必要があり、ただ、分解する精神に抵抗する何かが既にそこにある可能性がある、ということである。 そして、様々のものが、精神に遭遇するのに従って、精神は何か異なる存在の中へと噴射される。そして、そのようにして、様々の形状を持つ物質、つまり、神経や筋肉、植物などを構成する物質が生じる。
2008年03月31日
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田原なる財務官僚とつるんで小泉を総理にした、ジャーナリスト気取りの視聴率守銭奴が、まるで自民のフィクサー気取りで、北朝鮮なみの独裁支援宣伝番組を行っている。 ガソリン税をなくすと、地方財政が困ると、今更のように叫んでいる。 ふざけるな、小泉のときに、先頭に立って、地方財政削減策を支援したのは、どこのどなたであろうか。サンプロの田原本人ではないのか? この人は福田と共に、記憶無くしの迷人である。 病院が疲弊し、医師不足を招き、無駄な道路ばかりをつくり、財政削減どころか、馬鹿なブッシュに付き合って、海外派兵し、大幅に財政赤字を増やしておいて、問題は、全て地方に丸投げし、一体、何を改革したのか? 市場開放を無制限に行ない、ハゲタカが乱入し、治安は乱れ、格差が拡大し、雇用不安が深刻化し、若者の勤労意欲を削ぎ、ニートという言葉が生まれ、若者が安易な選択に走る。大学生が詐欺師になり、未成年者が殺人犯となる。 全て小泉改革のせいである!! 創価学会を使って、いかに与党宣伝の報道をやっても、いま日本が深刻な問題に陥っているのは、全て小泉改革という嘘改革のせいであることは、いまは衆目一致しているところである。 この法案を通さないと、大変だ!問題だ!!と国民を恐喝する前に、他人に罪を擦り付ける前に、お前たちの頭のなかを早く改革しろ!といいたい。 日銀総裁も決められないで、ガソリン税の何が現実的でないというのか? 現実的でないのは、福田という最低総理の存在とその発言の方だろ? 手前たちの身勝手な政策論理やアピールの方が、全く現実的でないだろう。 ああいう田原独裁の与党宣伝報道番組が、若者を狂気の犯罪に導いて、自分たちは、善い事を行っていると自己欺瞞、独善に走っている。 面白ろおかしく視聴率だけとれればよいのか? 若者よ! 将来の日本のために、サンデープロジェクトだけは、見るな!! テレ朝は、心霊カウンセラーの番組規制よりも、ああいう建前は健全と装って、与党宣伝を刷り込んでいく巧妙なサブミナル的な報道の規制をすべきである。勝手に嘘世論を形成しないでほしいものだ!
2008年03月30日
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血迷ったか?福田三成!? 馬鹿で、愚かな福田総理は、緊急記者会見で、自ら、与党にも、支持されていないことを暴露してしまった!! KY坊の後には、超ド級のKY老害が現れた! KY老人というよりもはやKY妖怪といえそうである。 安倍お坊っちゃんKY総理と同じく、緊急記者会見の後に病院に引き篭もったような、運命を迎えるのだろうか? それは、まるで、釣鐘に「国家安康」と書いて、家康の名を分断するものだと家康に逆に咎め立てられ、おろおろと、引き下がった没落豊臣政権と同じ出来事といえそうである。 今回の一件でわかったことは、実際は、小沢が首を立てに振らない限りは、政策は承認されないわけで、つまり、事実上の総理大臣は、小沢であるということなのである。 そう、実は、いま影の総理大臣は小沢といえるのではないだろうか? 小沢一郎が、キャスティングボードを握っているということを、馬鹿でアホな井の蛙の与党の古ぼけ能無しちゃんたちは、すでに詰んで、手詰まりなのに、開き直って、詰んでいないと言い張るようなお子チャマの独り善がりの敗者に過ぎないのである。 日銀総裁も、ガソリンも、道路も、全て、小沢が認めない限り、政策にならないのだから、小沢一郎が、実際の総理大臣なのである。後は、政権を奪取して、民主を中心に組織化を現実路線に乗せるだけといえるだろう。 もはや、自民に用はない。一刻も早く消えて貰うのが、日本の為だろう。 与党は悪あがきはやめて、さっさと名目の大政奉還しちゃいなさい。 実際、あなたたちが政権に就いていても、マスコミを使って吼えたり、国民を恫喝したり、責任を他人に押し付けているだけしかできず、せいぜい下らないテレビに出て、芸能人の如く振る舞って、芸者を演じて、人気を獲得する大ボケ振りしかできないのだからね。 独り善がりの意見を他に押し付ける愚はいい加減にして欲しいな! 自己保身や政権維持をだらだら続けていても、自分が惨めになっていくことに気がついていないようである。 馬鹿自民党議員の顔もみたくない! 年金返せ、国家を盗む泥棒たちめ! こんなに生活を危機に貶めた連中たちを、国民は決して忘れないぞ! 特に、子鼠と竹中豚め!! そして、悪党の頭目の森は早く政界から引退すべきである。 自民が最もいま恐れるのは、公明党の裏切りだろうね。 しかし、裏切らなくては、最後は、自民が責任転嫁して、公明党こそ、悪の元凶といわれるだろうね。
2008年03月28日
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破産寸前な都庁銀行に400億円の投入や、4兆円もの大阪府の借金、皆、御馬鹿な連中が無責任にも拵えたものである。 石原都知事、歴代の大坂府知事は、皆、極悪人といわねばならないだろう。 一体、どうやってかえすんだ! 国民に重税し、課税して返すのかい。あぁ、いい気なもんだね。自分の財産は、返上しなくてよいのかい? それで免れたとでも思っているのかい? 国民を不幸にしておいて、自分だけ幸せ気分でいい気なもんだね。 こんな連中が、国家をダメにする奴らだ!! 国家を我が者顔で私物化し、他の国民全てに、ツケを回して、恥知らずだよ。 どの面下げて公衆の面前にいられるのだろうか? 精神が堕落し、腐敗し、腐りきってしまったんだろうね。恐らく、日頃の生活から、贅沢三昧で、底辺の人の苦しみなぞ、どうでもいいのだろうね。政治家のクセしてね。 まぁ、芸能人が政治家になっちゃう時代だから、初歩的間違いにも気がつかないのだろうね。 他者の不幸の上に自らの幸福を築く者は、せいぜい地獄行きというのを覚悟しておくんだね。神様なんかいないものと思ってるのだろうが、どっこい、そんなことだから、平気で、他人に借りをつくってしまうんだろうね。 自ら光を灯さず、他から光を借りてくるものは、闇の本性を持つと言う事を知らないらしいね。 どこかの総理の不見識も甚だしいな! 悪影響は貴方の存在そのものということに気がついていないのが不幸なのです! そうあなたの存在があまりにも独善なので、皆不幸なんですよ! あなた自身に、自ら火を投じ、辞めるべきときということなのですよ!! 次々と問題が生じるのは、問題を複雑化し、先送りしているからで、先手を打って、問題が生じる前に未然に防ぐ態度や資質や勘に欠けているという存在を、問題を通じて現象が示しているのです。 そう、問題が既に生じているというだけで、その任に失格ということなのです。それを教えているのが問題という現象の背後に存在する神様なのです。 漢方の未病のうちに防ぐと同じで、問題の前の未問題のうちに処理しておくのが、王道というものなのです。だから、慣習や伝統が重んじられる由縁なのですよ。 王道より劣る覇道は、問題となってからはじめて断を下すことで、これは対症療法に過ぎず、下手糞、つまりプロフェッショナルでない、経験に乏しいことを示すわけです。一介の書生ならまだしも、大臣や首相になるべき器ではないことは確かである。 更に、問題を放置するのは、もはや邪道、妖道であって悪道なのです。 ここ数十年間は、本来その器にない者がその地位に就いた為、著しく社会が混乱に陥ったといえるだろう。通常なら、森、小泉、安倍、福田は、総理大臣になど就けなかった人物だろう。戦中の大政翼賛会ともいえる大蔵、財務官僚のマスコミキャンペーンのせいである。
2008年03月27日
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■外債はよくない 質問;「外債を募るのが極悪人とおっしゃるのは、いかなる理由からでしょうか?」 海舟先生曰く;「どうやって、外債を返すつもりかね。返せるかね。中国などは国家が違うよ。李鴻章なら、どんどん借りて国家を開くのも善いだろう。 しかし、日本は、国家が異なるよ。もし、国の一部でも割譲しなければならなくなったらどうするんだい。もし、天皇自身が、外債を募るとおっしゃっても、お止めしなければいけないよ。それを、こちらから、外債を募ると言い出す奴はもっての他、とんでもない悪党である。 いまに、御覧よ、そんな議論や悪党が出てくるから。 だから、いまから(その予防で)極悪人と言って置くのさ。 幕府の末でも、そのような議論があった。 『どうしてもいけません』と言って、一生懸命で、防いだ。徳川の時は、とうとう、その傷はつけなかったよ。」 質問;「天領(幕府直轄地)は次第に増減したのでしょうか。或いは、幕府の始めから、ほとんど同じものでしょうか?」 海舟先生曰く;「多少の増減はあったが、もとは幕府以前からの、慣習だった。幕府の政治をみて、これが徳川氏の政策だというから間違える。皆、織田、武田、足利、豊臣の遺法で、即ち、日本の政治なんだ。 王政復古といいながら、今の王命(天皇の名)をもって古の王法(慣習や伝統)を破ろうとする、なんたる馬鹿げたことか。 この辺り(江戸)の年貢は二分で、これは足利氏の定め。甲州は四分で、これは武田氏の定めだ。」 質問;「家康に輔弼の政治家はありましたか?」 海舟先生曰く;「無い。ただ1人本多(佐渡、正信)がやや政治を知っていただけだ。」 質問;「家康が万事を創始独裁したのでしょうか?」 海舟先生曰く;「勿論だろう。彼は大将じゃないか、太平時代の大将なら兎にも角にも、大将自ら断をなさずして、誰がするかい。」
2008年03月27日
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前回の、物質とは崩壊した精神であるという事に関してよく考えてみると、誰かが多分次のように言うだろう。 「そうかも知れないが、美しい結晶のような空間的な形状があるよね、結晶は美しい空間的な形態ですよ。今、あなたは全ての物質は『精神の廃墟』であると言いましたが、結晶はどうなのか。」と。 この事に関しては、上図を基に説明する。水が滝になって落ちるのを考える(図3のa)。ただ、それはあくまで不可視で、見えないものとする。(b)にその流れを妨げる障害物を置く。水が、(b)にぶつかると、水滴(c)となって砕け散る。 今、滝は不可視だが、砕け散った水滴は目に見えることと想像する。すると、この粉々に飛び散る滝の水滴中に、物質の起源をイメージしたことになる。しかし今、下方にある障害物を考慮に入れないようにする必要がある。何故なら、それは存在しないからである。もし存在するなら、既に物質がそこにあったと仮定しなければならない。なので、次のように考えなければならない。 「物質は、そのような障害物なしに(精神的に、つまり超感覚的に)存在する。」 物質は運動(動き)の中で存在する。それは形態を取るという行為においても運動の中にある。何故なら、運動(動き)は形態に先行するからである。運動(動き)の霊の行為に浸透されていないものなど、どこにもない。そして、この運動(動き)、この形態は、ついには、いわば消耗し、内部崩壊する地点へと至る。 その地点を、完全に魂的、霊的存在が、流れ出した最初のものとして把握する必要がある。その原動力には限りがあり、いわばそのエネルギーが尽きるところまで至り、それ自身へと投げ返され、そして断片へと分解する。 なので、物質のある所ではどこでも次のように言える。 「この物質の背後には、その活動の限界に達し、そこで分裂した超感覚的なものが横たわっている。しかし、それは分裂する前、まだ内的、精神的形態を保っていた。そしてそれが崩壊したとき、その精神的形態は、離れ離れに分散した廃墟の中でも働き続けた」、と。 その(精神の)働きの強いところでは、その精神的形態の輪郭は分解と分散の後も継続し、それが描く線の中に、まだその精神的な輪郭の名残を辿ることができる。そこに結晶の起源がある。結晶は、それ自身の推進力によって、まだ当初の方向性を保持しているが、ただ反対向きの方向性を持つ精神的形態の再構成なのである。 ここに描いたのは、超感覚的認識により明らかにされる水素についての究めて大凡の姿である。水素の起源は、無限の彼方から突進してきた光が消耗し、バラバラになって流れたものである。ただ、水素への光の変化を、この図(4)では、その光線が自身を通り越した為に、その水素の形態が保持されたように描く必要がある。 超感覚的観察者には、水素は以上のように見える。水素には世界の無限の彼方からやってきて、ついにはバラバラに飛び散る不可視の光線のようなものがある。要するに、物質はどこにあっても、破壊された精神と呼ぶことができる。物質は本当に精神に他ならないのだが、分解状態にある精神なのである。 (シュタイナーは、このとき、すでに、素粒子論の超対称性の前身を唱えている。光のようなものから水素原子、つまり原子核と電子が生じるといっているのである。つまり、ボーズ粒子からフェルミ粒子が生じるといっているわけである。 光は可視光だが、その前に不可視の光のレベルがあり、それが精神であるというのである。また、精神の状態は、運動により生じるといっている。 現代物理学では、原子核は、グルーオンとクォークからなり、その原子核の周囲を電子が周っているという見解であるが、原子核を、実際、グルーオンとクォークに分けるには、加速器を使って、電子や陽子とその反粒子を衝突させ、高エネルギー状態にしてやらないといけないのである。つまり、高エネルギーの運動が必要なのである。 グルーオンや光子は、ボーズ粒子、クォークや電子はフェルミ粒子に分類されるが、加速器という運動により、素粒子に分解してやると、ボーズ粒子とフェルミ粒子に分けられるわけである。 実際は、散乱エネルギーを解析して粒子として見積もってやっているので、シュタイナーのここで述べていることは、それをイメージで捉えたものともいえる。) 更にもう1つの難しい考えを示さなければならない。そして、それは、この講義の初めに述べたことに関連している。魂と精神の中で、外(界)的なものと内的なものとを区別する必要があると言った。さて、それは次のように空間の次元と対比することができる。 つまり、全ての空間の次元というものは、実際、空間の次元が存在する処では何処でも、ある一点から、多様な方向へと発する存在から構成されるが、その一点というのが「内的」なものであり、その他多様な方向全てが「外的」であるというように対比される。 面(2次元平面)に関していえば、直線は内的だが、その他全ては外的である。なので、空間とは、精神がバラバラに分解し、その事によって物質存在へと移行するとき、物質と共に始まるものである(物質の占有しない空間はない)。 (直線上の点から面上全てに発するイメージに該当するのだろう。) さて、次の事柄の理解は究めて重要である。精神の物質への崩壊が次のように起こることが想像される。 「精神は、分裂と破壊を与える、いかなる種類の外的障害物にもぶつかることなく、自ら壊れ、崩壊する」、と。 その破壊は、いわば無の中で生じることと想像する。もし、精神が無の中へと崩壊していくならば鉱物質が生成する。なので、実際、第一に精神は、精神自体が分解しなければならない。その時、鉱物が生じる。 けれども今、宇宙においては、物事はそのように無垢の方法では生じないものと想像できる。ある分解プロセスは精神から生じるのだが、そこでは既に世界が準備されている、つまり、無の中ではなく、例えば、既にあるエーテル的な形態の中へとバラバラに分解していくものと想像できる。 既に述べたように、それが無の中へと展開していくならば結果は鉱物だが、今は、既に存在しているエーテル的な身体の中に展開するものと考えられる。なので、精神は分裂し、エーテル体の中へと押し入り、分解した物質と、既に準備されたエーテル体が存在している。精神は、世界の「無垢の土壌」ではなく、エーテル体の中で分解し、物質となる。そして、この場合には植物実質が生じる。
2008年03月27日
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恐らく、都民の大方、大半が、怒り心頭の結果だと思う! 石原いい加減にしろ! 公明党の母体の創価学会から、失敗した分の追徴税金をとるべきである。 全く腹立たしいことばかりである。 あまりに都民無視の政治に、腹が立ったので、短いながらブログに記した! このような結果に至っただけで、石原は万死に価すると思うが、 どうやら、責任を先延ばしにすることが、責任だと勘違いしているようだ!! 都合のよい無責任とはこのことだろう。 とるべきときに責任をとらない奴は卑怯者である。 地獄に堕ちるだけなのに、憐れな人間だ!! 他人の言を聞く耳ももたないらしい。恥知らずな人間失格人間ですね。ああなったら、人間お終いですね。 個人的には、石原軍団の出る番組はみないことにした!
2008年03月26日
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■古人先哲 質問;「二宮金次郎先生を、御存知でしたか?」 海舟先生曰く;「一度会ったかな。至って正直な人でした。ああいう時代には、ああいう人物がよく出るものです。何人か、人を遣わしたかな。ああいう人に会って話を聞きなさいとね。 時勢で人格ができて、逆境がまた、よく人格を拵えるということは、事実であることを、私は確かに(二宮金次郎に)見ました。 私の所には、太鼓持ち(男芸者)や、遊び人や、芸人が多く来ます。芸人などは、無心で、熟練して、それぞれ自得しているから、面白いよ。それで、自分は気づかないので、こちらが説明してやると、酷く吃驚して、(私を)慧眼のように思うようだ。 この頃の人(明治二十八年)は、自分で偉そうにして、議論ばかりして、五月蝿いから、理屈を書いたものをみると、癇癪に触る。それで、人情本や、古人の書いたものを、暇をみて、読んでいます。」
2008年03月26日
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前回、描いた図は事物そのものにとっては何の重要性もない。なので、事物そのものから目を逸らすなら、魂生活の中に留まる限り、非空間的空間として想像しなければならない。 そして、意志の霊は、最初古い土星上、叡智の霊は古い太陽上、運動の霊は古い月の上で働き、そして、形態の霊は地球上で働くと言うとき、形態の霊の純粋に内的な性格に留意する必要がある。そして、形態の霊により、人間は地球上で創造されたが、そのとき、形態霊は、まだ不可視の形態を有していたと言わなければならない。 この事は、以前述べたことと素晴らしい形で一致している。人間の地上における進化の始めに、形態霊により、初めて人間に与えられたのは、空間的な形ではなく、不可視の形態だった。そして今、我々人間は、同時に、自身だけでなく、外界で出会い、感覚により知覚する全ての外的な事物もまた、内的精神の外的表現以上のものではないということを、心に留めておく必要がある。 我々は、空間中のあらゆる外的、物質の背後に、我々自身の魂の中に生きるものと類似の存在を見なければならない。ただ、勿論、物質背後の霊たちに、外(界)的感覚をもって出会うことはできない。それは外(界)的な感覚が提供する背後にあるからである。 さて、形態霊の活動の更に先にあるもの、まだ空間的でないものとして、形態霊が創造する存在を超えた働きをどのように表現できるか? この活動が意志、叡智、運動の、つまり形態を超えて更に先に進むとき、何が起こるのか? それが問題である。 もし宇宙における、あるプロセスが形態にまで進むとき、そして、その形態がまだ全体として、魂と精神の領域にあり、全く空間のものでない(非空間的な存在の)とき、つまり、このプロセスが、この超感覚的形態にまで進んだとき、次の段階は、そのような形態の崩壊を通して、唯一可能となる。 そして、この形態の崩壊は、超感覚的認識に明らかなものと正確に一致する。形態霊の影響下で創造された形態は、ある程度まで発展するが、それからバラバラに分解する。そして今、この崩壊した形態にしっかりと心を向けるなら、つまり、もし、形態の崩壊を通して生じる存在、そして、それでもまだ超感覚的なのだが、その形態の崩壊について考えるなら、超感覚的な存在の感覚的、空間への移行を見る。 実は分解した形態こそ物質なのである。 宇宙の中で生じる物質は、神秘主義者にとっては、破壊され、分裂し、粉々に崩壊した形態以上のものではない。もし、目の前にあるチョークが不可視であり、不可視のなかでも猶、この特徴的な平行六面体構造をもっていることが想像できるなら、そして、ハンマーを取り出してきて、そのチョークを多くの細かい破片に壊れるように上手に叩くなら、形態を破壊したことになるだろう。 その形態を破壊する瞬間、不可視のものが見えるようになることを想像すれば、物質の起源を描写したことになる。物質とは、形態にまで発展し、それから破裂し、バラバラに分解して内部崩壊した精神なのである。 物質とは、精神の廃墟である。 この定義を把握することは途方もなく重要なことである。物質は精神の廃墟である。なので、物質とは本当は精神なのだが、崩壊した精神なのである。
2008年03月26日
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さて、いわば魂の脱皮行為である、このプロセス(過程)、つまり内面の外面化によって達成されるプロセス(過程)が実際に、魂生活の内容を与える。何故なら、この事をよく考えると、自分が思い出せる幼少時代の最初の時からの経験全てを、自分の魂と呼べることが理解できるからである。自分の経験全てを忘れてしまった人は、実際、自分の自我を失ってしまっているのである。 なので、我々人間が記憶を後にしながら、記憶を、絶えず脱ぎ捨てる皮のように保持できるという事実の中、つまり、その可能性の中に、魂生活の現実が横たわっている。さて、この魂生活の現実はあらゆる形式で形成される。いま魂が、ある瞬間に、いかに、他の瞬間とは違って形成されるかを観察する。 美しい星空の夜に、ベートーベンの交響曲を聴きに出かける事を想像する。そのような瞬間、つまり広範な魂生活の領域を、自身の内的存在と一致させ、星空の下で、交響曲が演奏される暗いホールの中に足を踏み入れることを想像する。この魂生活は、まるで突然、それらが(記憶として)濃縮(縮退)したかのようにみえる。 多少のアイデアが浮かんでは消え、交響曲が聞き終わったことを想像する。そのとき、そのアイデアの領域は、交響曲を聴いていた間に、縮小(濃縮)してしまう。そして、夜眠ると、睡眠中の魂生活は、朝目覚めのときに、鳥が羽毛を立てるように、自らを広げるまで、収縮しているだろう。 そのように、人は絶えず魂生活を再構築している。なので、もし魂の生活の内容を描写するなら(しかし、これは単なる象徴(シンボル)である、何故なら、本来描くなら、空間の中だが、いま意図しているのは時間であり、空間ではないからである。)、多くの異なった形に描くことができる。 それは、図中の(a)では縮み、(b)では広がっている。縮んだ記憶は、ありとあらゆる形を取ると考えなければならない。一方、図中(c)には、常に魂生活の内容がある。このように不可視のものを可視化し、象徴的に表すことにより、その収縮と拡張に気づく。 魂生活は交響曲を聴いているときの方が、単調な音を聞いているときよりも豊かである。そのように魂生活は、外に向け広がり、そしてまた内に引き篭もる。つまり、拡張し収縮することができる。ただ、このように言うとき、いかなる空間的概念の混入も許してはならない。あるものが、この拡張と収縮の間に、疑いもなく、存在する。そして、それは内的、精神的な運動である。運動(動き)! 魂生活とは運動(動き)なのである。 ただ、空間中での運動(動き)ではなく、今述べたように、魂の運動を考えなければならない。そして、この拡張と収縮が形態を与える。このようにして、運動(動き)と、その外的表現としての形態が存在する。しかし空間的な形があるわけではない。 ここでいう形態とは、空間的な形ではなく、拡張し収縮する魂生活の形を意味している。そして、この拡張と収縮の中に何が生きているのか? もし、その中に何が生きているのか、少しでも考えるなら、真実へと近づける。その中には、感情、思考、意志の衝動が、全く精神的存在である限り、生きている。それは形態に沿って、滑らかに流動する水のようだが、全く精神的なものである。 さて今、魂生活全体を実感するには、更にもう1つ別の概念が必要になる。その中に思考が生き、概念や感情、意志の衝動が生きているといま言ったが、基本的には、思考よりも、意志衝動の方がより必要である。 というのも、いかに、この魂生活が、あるときには、素早い運動(動き)の中にあり、またあるときは、緩慢な運動(動き)の中にあるということを考えてみるなら、それに運動(動き)を与えるものは、意志であることが分かるからである。 もし、意志を刺激するなら、思考や感情を、より速い運動(動き)へともたらすことができる。もし意志がものぐさであったなら、それらは全てよりゆっくりと動く。魂の生活を広げるために、意志を必要とする。なので、そこには、順番に、まず意志があり、それから感情と概念の中に生きる全て、つまり、我々の魂生活の中にある全て、そして、これを我々は、叡智の現れとして把握できるが、それから運動(動き)、つまり、拡張と収縮があり、そして運動(動き)の表現として現れる形態がある。 意志、叡智、運動(動き)、形態は究めて正確に区別できる。これらは魂の生活を織りなし、その中に生きている。 さて、ここで魂の生活として挙げた一連のものが、異なる位階(ヒエラルキー)に属する霊の存在(天使)のために、順次与えられた名称、つまり、意志の霊、叡智の霊、運動の霊、形態の霊に、素晴らしい形式で対応するのが分かる。 我々の魂生活を、このようなやり方で提示することにより、いわば、これらの霊の存在たちを、不意をついて、一箇所に集めたのである。我々は本当に、霊存在を、この魂生活の中に捕らえた。霊存在は人間の内的な魂生活の中に、非常に奇妙な方法、つまり、霊存在の活動は全く非空間的方法で、自らを表現する。 そして我々は、たとえ、それ以上の事が分からなかったとしても、少なくとも、この重要な点、つまり、これら四つの位階(ヒエラルキー)の霊存在たちの重要な性質についての最初の概念、すなわち、霊存在は空間的存在ではないということを確認した。 このようにして、我々は、形態とは、形の非空間的形成力のことを意味することを知った。これは非常に重要な点である。なので、形態の霊により創造された形について語るとき、空間中の外的な形ではなく、意識だけに存在し、魂生活のプロセスで把握できる、あの内的な形態形成のことを念頭に置いているのである。あらゆるものが唯一時間の中で経過する。時間なしには、これら天使存在を想像することさえできない。
2008年03月25日
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巷は、喧々諤々で、一体全体、一億総評論家の御時世である。あれしろこれしろというなら、立候補して、政治家にでもなったらどうだろうか? 政治家が何もできないんだから、やはり交代しちまった方が手っ取り早いもんだね。 政治が下痢気味なんだよ。消化不良で、下痢ばかりで、そういやぁあ、病院に逃げ込んだ総理までいたね。 都政や府政、地方行政がおかしい。これだけで、日本はヤバイことがわかる。中央なんかどうでもいいんだし、誰だって出来る。ただ座っていりゃいいんだ。徳川幕府をみれば、地方行政は、地方に任せきりで、地方から搾取していたことがわかるし、地方でもってたもんだよ。 まぁ、とにかく、政治があまりに騒々しく五月蝿い!! いってみりゃ、三成福田に、家康小沢が大坂夏の陣の包囲網を敷いていると考えたらいいよ。この際、自民の有力政治家が亡くなってしまえば、日本も救われるな。 赤字事業を続けようという魂胆が馬鹿らしいもんだね。 都庁銀行だか、いっそのこと、石原軍団を担保にでもして、映画興行でも債権化したらどうか? かえって不良債権化したりしてね。 大坂府の赤字については、食い倒れの町なんだから、いっそのこと遊び倒しの、笑い倒しの町にでもしたらどうかな。世界のセレブを集めるために、日本には、三ツ星レストランが盛り沢山なわけだろう。 米国のサブプライムでダメな銀行から、銀行員をどんどん引き抜いてくるって手もあるよ。いっそのこと、日銀総裁を、トーナメント戦でも組んで、興業にして、チャンピオンになった奴に決めたらよいかもね。 そうだ、バンカーのワールドカップでもやったらどうだ! バンカー堀まくってるゴルファーはいらねぇって、オヤジギャグにもならんが。 タイガーウッズ級のバンカーをつれてくるとかさ。 競馬みたいに、バンカーに、はらたいらさんに3000点っていって、カネを賭けるって手もあるな。懐かしいなクイズダービーって!! アラブの王様から資金投資してもらって、米国の有力なバンカーを連れてくりゃいい。日本は、場所だけ提供して、カネを落として貰えばいいんだよ。ショバ代で稼げばいいよ。 エキゾチックジャパンは、これからは観光事業だよ!って古いか!! 大坂を、食い倒れ、遊び倒れ、笑い倒しのクールな観光都市にするのはどうだい! 東のオタク都市秋葉原に対抗して、西のアソビ都市大阪だよ。 日本はアニメやゲームつくらせると世界一なんだよ。エンターテイメントナンバーワンなんだからさ! 日本列島総ゲームセンター化という手もあるね。 世界一周よりも、日本一周の方が面白いような現代文明の集大成の国にしちまうんだ! エンターテイメントクールな国ニッポン。奇妙な国から面白ろ可笑しい国に変身だあぁあ!! 日本をディズニーランド、いやアニメワールドにして、世界中の若者の目を引き寄せ、世界中の若者に、「いまの日本に行ったかい」を合言葉にしてしまうんだ! レジャーランド大国、サービス産業大国ニッポンだ。あ。 あ、そうだ、北京オリンピックの後は、日本でセレブな買い物ってのもいいだろ! 円高で、海外もんは、安く手に入るからね。米国行って、セレブな材料買って、 日本で加工するって手もある。そのまま売ってもいいかもね。 北京オリンピックをゲーム化するってのもあるかもね。選手のグッツをセレブ化するっていう手もあるかもね。 それにしても、橋下知事じゃ、このままじゃ大坂不眠は、いかにも悔い倒れだろうからさ!!
2008年03月24日
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■経済のこと 質問;「先生が、自ら認められている事はなんですか?」 海舟先生曰く;「まず、経済です。徳川の経済は、このようにしました。随分と骨を折ったよ。 天下の富をもってして、天下の経済に困るということはないというのが、私の信じる処です。 昔の人も皆、経済には苦労しました。信長は経済の着眼が善かったので、あれだけになった。信玄でも、甲州の砂金をそっと掘り出したり、色々な法を立てた。南朝でさえ、北朝に細川頼之という経済家があって敗られた。芭蕉なども、なかなかの経済家で、近江の商人は、皆、芭蕉の遺法に従っている。 感心なのが、北条氏だ。元寇が3年続いても、軍事公債は募らなかったよ。総理が自分で走り廻りはしなかったよ。九州の探題に防がせて、綽綽として余裕があったよ。 (北条)泰時でも、単騎でかけてゆくと、三日にして十万騎になったというじゃないか(承久の変のとき)。その頃の兵站は、羨ましいほどに調っていたようだ。(元は)陪臣(源氏の家臣)でも、政を執りながら、九代の治をして、民も富み、武臣人民悉く服したじゃないか。それで、自分は僅かの旧北条領に甘んじ、位は五位の下だろう。 (北条氏は)倹約で盛んになって、奢りでつぶれたのだよ。 北条氏が、仏法に帰依したといっても、ただ禅に凝ったのではないよ。やはり経済の為だよ。宋が亡びて、元の起こる時だから、宋の名僧を呼んで、五山を開いたよ。それで、『電光影裏に春風を斬る』の無学まで、渡ってきたよ。 そこで、宋の名僧が、続々渡ってくる、参詣人も絶えない、信仰にことよせてくる者もある。銭は大層渡ってきたよ。何処を掘っても、宋元通宝の沢山出るのをみなよ。信仰といっても経済の為だよ。」 質問;「真の信仰が篤くて、それが事業に現れたというものではないでしょうか?」 海舟先生曰く;「それが利用というものだよ。だから、北条氏は、天下の子民ということが一番で、民の非常に親身になったようだ。 栂尾の明慧が、あるとき、(北条)泰時に帝室(天皇)のことについて、忠告すると、泰時が言うには、『まことに恐れ多いことではありますが、先父もしばしばおっしゃっていました。民百姓のことを思えば、やむを得ず、(天皇には気の毒な)かのようなこともせねばなりません。致し方ないとおっしゃっていた』と言ったという。 私も、幕府の末に、果たして、この北条氏だけの決心があるかと自分に問うてみたが、とても出来なかった。驚くべき決心じゃないか。(北条泰時は)それに無学文盲で、勅文すら読むことができなかったというじゃないか。 それで、学者というものが、役に立たないことを、維新前から、よくよく試してみたよ。あんな学問は、造作もないことで、至って容易だよ。」
2008年03月24日
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一般に物質の本性を把握できるのは唯一比較的難しい概念による。もし物質を記述したいなら、まず、その顕著な特徴を問う必要がある。そしてもし偏見なく探求するなら、物質の特徴とは、空間中での広がりをもつ存在であることを発見する。 誰も空間の占有が、感情、思考、意志に帰属するなどとは考えないだろう。何らかの思考が、誰か偉大な人物に関する思考でもいいが、それは一般の人物に関する考えより、5平方ヤードも大きい等と示唆するなら、馬鹿にするだろう。 人間は、この広さの感覚、空間での広がりを、魂に関する事柄に適用など全くできないことを、すぐに理解する。しかし物質には、もう1つ別の特徴、つまり質量(重さ)がある。この質量は、これから見ていくが、それほど単純なものではない。というのも、世界を観察するだけで、直ちに質量(重さ)について分かるというものではなく、ただ空間的な広がりだけが認められるからである。 さて、この広がりが通常三つの次元、つまり、高さ、幅、そして、深さ或いは奥行き(長さ)に従って考察できる事を知っている。事物が空間中で三次元的に広がっているというのは当たり前で、ほとんどありきたりな事実である。なので、物質の最も明らかな特徴とは、その三次元的広がりであることを認める必要がある。 さて、空間的条件を、魂の中に横たわるもの(精神)に適用することはできない。なので、実質、或いは物質として空間を満たす以外のもの(精神を構成するもの)が、世界に存在する必要があることが明らかになる。何故なら、物理的空間の中でさえ、空間的な広がりを持たないプロセスや状態があるという証拠を持っているからである。そして、それが、いわゆる「魂の経験」である。 さて、もし、空間中の物質状態に接したときと同じく、できるだけ偏見を持たずに「魂の経験」に接するなら、すぐに、その中に、魂の経験なしでは、全く経験が存在しないような、もう1つ別の性質を発見する。そして、その別の性質を認めないわけにはいかないが、 その別の性質とは、「魂の経験」は「時間の中で経過する」ということである。 我々は、「感情、或いは意志の衝動が5ヤードの長さ、或いは5平方ヤードの広さがある」とは言わないが、我々が考える事、或いは感じる事、要するに、全ての「魂の経験」は「時間の中で経過する」、ということを認めないわけにはいかない。 それは、我々の「魂の経験」には、ある長さの時間を要するだけでなく、ある魂の経験は早く、別の魂の経験は遅くやってくるということでもある。 要するに、魂の中で経験するものは時間的制約下にある。 さて、実際問題、時間的条件と空間的条件は、周囲を取り巻く現実(真実)や、我々人間の存在内部(精神)では、至る処で入り交じっている。外界において、物事は、空間中に散りばめられ、時間中で相前後して起こり、それ自体一定の時間を要するような形で生起する。 これら全てに関する超感覚的真実へと至る前に、次のように問う必要がある。 「では、空間は、時間とどのような関係にあるのか」、と。 そして、そのように問う事によって、分かるが、この人智学の講義において、全くそれとは知らず、大いなる「哲学の謎」(この謎にぶつかり、比喩的に言えば、無数の頭が破壊されたが)に遭遇した事になる。 つまり、いま時間と空間の関係へとやってきた。多くの者は、特別に哲学的な訓練を受けているわけではないので、それとは知らずに、時間と空間の関係に遭遇し、充分に、その思考プロセスを追跡することは、おそらく困難だろう。しかし、少しでも努力するなら、そのような思考が、いかに実り多いものか、そして、もし、その思考を瞑想の中で行うなら、いかに、その探求において、先に進めるものとなることが分かるだろう。 その出発点として、自身の魂の中で経験する時間を対象にするのは善い事である。自身の魂の中でどのように時間を経験するのかと自問する。もう少し明確に言えば、時計によって知るような時間に関して考えるのではなく、人間は、時計によって、内的経験を外的プロセスと比較するに過ぎず、今、時計を見るとかその他の外的な出来事全てを、心の中から、すっかり追い出して欲しい。 魂の中での、時間の関連がどのように現出するかのみを考える。その時間について、できるだけ深くじっくり考えてみると、時間の基準として、次のこと以外は考えられないということが分かる。 すなわち、「ある思考は、何か外的知覚によって、かき立てられた(刺激された)ときに把握すると考えざるを得ない。」 何かを見るとき、何らかの思考、或いはアイデアが魂の中に生じる。その思考、或いはアイデアと自身の間の関係をより詳しく調べるなら、次のように言わざるを得ない。 「私が思考を行っている間、私自身が実際に思考の存在である」、と。 再度、この事を最後までよく考えてみる。すると、次のように言うだろう。「私が思考に没頭している間、私は、魂の最奥の存在において、思考となっている」、と。 この概念と同時に「私在るもの」の考えを持っているならば、その思考は偏見にすぎない。 「私在るもの」は、自分を、思考に明け渡している間は、そこにはない。自身が思考という存在になっている。ある特別の訓練を受けなければ、自分が抱いている思考とは別の存在であることはできない。 その時、人間は第一に、直接与えられる思考と感情の中にいる。例えば、目の前のチョークが、ある思考に人間を駆り立てる(刺激する)ことを想像する。その時、もし、チョーク以外の他全てを排除し、チョークのみの知覚により刺激された思考に没頭するなら、最奥の存在は、そのチョークに関する思考と1つになっている。 ところが今、このチョークの思考を把握するとき、突然、昨日も、このチョークを見たことを、再度思い出す。そして、直接的な知覚により与えられたチョークの思考と、昨日の経験との比較を想像してみる。すると、今日、観察されたチョークと、自分は完全に1つだが、昨日のチョークとは、自分を同一視できないことに気づくだろう。後者は記憶像であり、いつまでも、そのままに留まる。 真に今日のチョークとは1つになったが、昨日のチョークは、何か外的なものになったと感じる。今日観察されたチョークは、現在の自身の内的な存在(精神)と同一だが、記憶像は、確かに振り返ってみるものであり、前者と比べると客観的で、外的なものである。 そして、この事は、現在の経験を除いて、魂の中で経験したあらゆる事について言える。現在とはさしあたり、内的存在になっているが、経験した事、つまり、脱ぎ捨てた事全ては既に、外にある。 この事に関してイメージするなら、概念を把握している現在が、いわば「蛇」であり、外に出したものが脱ぎ捨てられた蛇の皮である(脱皮)とイメージしてもよい。そして、蛇が、二度三度と脱皮するように、幾らでも多くの思考を脱ぎ捨てることができる。そして、それらは、今現在の内面性に比べると、外的なものになっている。 この「思考(蛇)の脱皮」は、人間が、思い出すことができる(過去の記憶の)時点からずっと、最初は内的なもの(精神)を、絶えず外的なものにしてきた、ということを意味している。 例えば、いまもっているチョークに関する考えを、次の瞬間には、外的なものにしてしまう。そして、自身は別のものに移っていく。つまり、人間は絶えざる外面化の過程(プロセス)に従事しているといえる。永遠に、人間は、内部で何かを創造し、そして、それを後向きに置き去りにする。 人間のもつ(魂の)最奥にあるものは、脱ぎ捨てられた皮のように、(蛇の脱皮のように)直ちに外的なものになる。我々の魂的生活は、この事、つまり、内的なもの(精神)が絶えず外的なものになり、そのため、自身の存在の内(精神)、つまり、この内的な、精神的プロセスの中で、真に最奥のものと、内なる内的なものが外的になったものとを区別できるという事実から成立している。我々は常に自身の存在の内にいるが、そこでは2つの部分、すなわち第一に、真の内面、第二に外面化された内面の部分を区別する必要がある。
2008年03月24日
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■機(気)は感ずべきもの 質問;「機(気)というものは、言葉にできないものでしょうが、悟る秘訣などあるのでしょうか?」 海舟先生曰く;「機(気)は感ずべきもので、言葉にできず、教えることのできないものです。かつて、(横井)小楠の事を、村田(氏寿)から聞いていたから、(小楠に)長崎ではじめて会って感服したから、しばしば、小楠の意見を聞いたが、いつでも、次のように伝言してきた。 『よく勝さんに言ってください、『今日はこのように思うが、(明日になったら、また違う意見が生まれますから、)明日のことはわかりませんよ』』と。 それで、益々感服したよ。 小楠は、太鼓もち(男芸者)の親方のような人で、言う事が奇想天外だった。維新の時に、大久保(利通)でさえ、次のように言っていた。 『小楠を呼んでみたが、(こちらの)見込み違いだった』と。 大抵の人には、理解できなかった。しかし、非常に優れた理解力のある人で、途方もなく聡明だった。 (海舟が)アメリカから帰った時、色々と、アメリカの事を話すと、一を聞いて十を悟るという感じだった。 (小楠は)『ははぁ、尭舜(古代中国の皇帝で、孔子が理想とした政治家)の政治ですな』と言ったよ。 西郷(南洲)は無口だし、小楠はよく話したよ。それで、小楠の説を西郷が行ったらと思って、幕府に薦めたところが、その頃、西郷は島に流されるし、小楠は、無腰で、茶屋から逃げて、藩で、閉門(蟄居)をくってる時で、勝は途方もない事を言うということで、叱られたよ。」 質問「小楠先生が、(松平)春嶽公に用いられた時、もっと業績を残せなかったのでしょうか?」 海舟先生曰く;「とても、無理だった。」 (注;海舟は、いかに小楠でも、機(気)が熟さないと仕事はできないといいたいようである。どんなに才能があっても、周囲の援助や支援、時期や機会が、一致しなければ、つまり条件が整わないと、大事は為せないということを言いたいのである。 つまり、機(気)が肝心であると。だから、日頃から機(気)を感じなければいけないと言いたいのであろう。機(気)を感じる達人には、小楠のように日頃、遊んでいてもわかるのである。) 質問;「西郷(南洲)先生は、小楠先生に会わなかったのですか?」 海舟先生曰く;「会いません。又、説く必要もなかっただろう。なんせ、小楠は、毎日、芸者をあげて遊んで、太鼓持ち(男芸者)などと1日話している。人に会うのでも、1日に1人や2人に会うと、もう疲れたなどと言って会わない。しかし、植木屋だの、肴屋などと、1日話しても飽きさせなかったが、春嶽公の時でも、内閣に出仕しても、一々政治を議するなどは、煩わしいといって、しなかっただろう。だから、善い弟子もいない。所詮、人から理解されるような人じゃなかったよ。」 質問;「小楠先生は、天性の素質が豊かにみえますが、随分と鍛錬なさったのでしょうか?」 海舟先生曰く;「それは、それは、大変鍛錬したようで、地方を廻った時の事やら、色々話をしてくれたよ」 質問;「胆力はあった方でしょうか?」 海舟先生曰く;「あれだけ智慧があれば、胆力なんか必要なかろうよ。 (島津)斉彬は、偉大な人だった。西郷(南洲)の事は、安政の頃に聞きました。一度、お庭を一緒に歩いている時に、二つの大事を教えてくれた。 人を用いることは急いてはいけない。 一事業というものは、十年たたぬと、とりとめのつかぬものである。 ということだよ。どうだい、私の言葉でいえば、以上のことだね。」
2008年03月20日
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現代の政治は非常に歪んでいる。あまりに歪んでいるのは、つまり人心が歪んでいるからであるので、その歪みを正すために、格好な書である海舟語録を挙げたいように思う。 大道廃れて仁義あり とは老子の格言だが、つまり、現代は、大道廃れて仁義がとやかく喧しく云われる世の中になったわけである。大道が廃れ、行ないが行われず、言ばかりが先行しあれこれ言われるので、喧しいばかりで、仁義、仁義というわけである。 要は、人がよくない。人徳がないということに尽きる。ただそれ、人徳は自己修養あるのみである。 これから、機会をみて、ブログに、なるべく現代風に改め書き込んでいきたい。 ■道について 質問;「道とは何かを伺いたいのですが」 海舟先生曰く;「主義だの、道だのといって、ただ是しかないと決めつけるのは、よくない。一言に、道といっても、大道もあり、小道もあり、上には上がある。そのうち一つをとって、他を排斥するということは、決してしません。 誰かきて、様々に喧々諤々いいますが、「そういうこともあるかもね」と言って、言い争いはしません。 そして、後で、じっくり熟考し、色々比較してみて、上には上があると思いつくと、誠に愉快です。研究というものは、死んでしまって初めて終りで、生きているうちはとにかく苦学です。1日でもやめることはありません。 まぁ、私などは、ふてぶてしい奴というのでしょう。しかし、そう急いても仕方ないですよ。寝転んで待つのが一番です。西洋人の忍耐強さには、実に感服しています。 伊藤サン(伊藤博文)の外交のように、成功か、不成功かが、直ぐにわかるのは、余り感心しません。李鴻章の今度の処置(日清戦争の講和条約)などは、巧みなのか、馬鹿なのか、少しもその結果がわからないのには、大変驚いています。大馬鹿でなければ、大変、上手なのでしょう。 これまでの長い経験からいわせてもらえば、大抵、日本人の目に大馬鹿者と見えるのが、実は、偉大な人物のようです。 (注;海舟は、このような日本人の短気でせっかちな性質を嫌っている。直ぐに結果を求めるというのは、要するに根気がない、忍耐強くない、守銭奴や、成金の商人気質や、坊っちゃん育ち、公家育ちの風を嫌ったわけである。海舟は小器量を箱庭つくりと呼んでいる。 現代でも、日本人は肩書きに弱いが、要するに、人間をじっくり観察する気力に欠け、見抜く眼が脆いだけである。肩書きでの判断は容易で誰でもできる。) 西郷(南洲、隆盛)なども、本心を打ち明けても、相手にする者が少なくて、誠に寂しかったようです。私なども、不忠者(反逆者)などといわれて、何度となく、殺されかけた。 山岡(鉄舟)や、一翁(大久保忠寛)ぐらいは、後に少しはわかってくれたようです。二人とも、すぐに熱くなる方で、心配性だから、早く亡くなってしまった。私は、ふてぶてしい性分なので、長生きしてるよ。」 質問;「慰めというものはありましたか」 海舟先生曰く;「家内も、娘も、みんな反対さ。誰も、私に賛成しなかった。しかし、この(反対の)上には、また道があると思い巡らしては、いかにも面白かったよ。 又、途中で殺されて、私に代わる者があるかという心配もあったが、そんな心配は、いらないよ。ただ、行うべきことを行えばよい。自分で、身を殺すようなことさえしなければ、よいと決めて、安心していました。 人を集めて党をつくるというのは、私利私欲ではないかということを、早くから疑っていました。人間は、皆それぞれの長所があるから、信ずるものを十分行えば善い。世の中は広いから、酒屋でも、餅屋でも、高利貸しでも、一つの借家に住ませて善い。それでも治まってゆくと思っていたよ。 機会と、着手の2つさえ、誤らなければ、皆放任しておいても大丈夫です。」
2008年03月19日
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ではその時、自我はアストラル体との間のいかなる関係下に立つのか? その関係は注目すべきもので、著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の中の章の幾つかを、注意深く読めば、自我とアストラル体に関する考えを持てるだろう。今日のような姿の人間は、絶えず思考、感情、及び意志と、密接に織りなされている。人間が、思考、感情、意志と無関係に、自我だけの中にいる状態をみつけるのは、外的感覚の意識には、簡単ではない。 試しに、純粋に自我だけを考えてみればよい。ウンガー博士が、思考、感情、意志から離れた、この自我について考えるように、何度も、友人に要求したとき、その友人は勇敢にも、この自我に関する純粋な考えを把握しようと努力したが、努力のなかで息切れした。 自我へと至ることが、思考のなかでさえ、いかに困難であるかが分かる。まして現実の中、実際に、自我を思考、感情、意志から分離するのは尚更である。通常、人間の魂は、思考、感情、意志衝動、そして欲望と共に経験され、自我は一瞬たりとも、それらから離れることはない。 しかし、この分離こそ、いま述べた四つの魂の状態により達成される状態なのである。思考、感情、意志の外に立つ事が可能になり、それらを、自身の外にある存在として眺めることが可能になる。その時、自身の思考は、周囲にある事物と同程度に、無関心なものにならなければならない。 そのとき、もう、「自分が考える」、とはいわない。 何故なら、そのとき、思考は、自分とは関係なく、勝手に進行するプロセスのように見えるからである。それは感情と意志に関しても同様でなければならない。少しでも考えてみれば、自分を思考、感情、意志から解放することが、いつか達成される理想として、自分の前に置くことができるが、実際問題、自分が余りにも、それらに雁字搦めに捕らわれているために、究めて困難であることを、認めるだろう。 人間は、自分に次のように言い聞かせながら生きていくのが、究めて困難であることを理解するだろう。 すなわち、「私がこの世に生きている間ずっと、思考、感情、意志は、私にぶらさがり、くっついている。それらは、私と一緒に成長した仲間であり、私の幻影である。思考、感情、意志の全てが、私と共に歩む。私は、思考し、感じ、意志するものではなく、自我の中において、私で在るものなのである。私は、私が携える三つの袋のような存在と共に歩む。1つの袋には思考が、もう1つの袋には感情が、そしてもう1つの袋には意志が詰まっている」、と。 この三つの袋理論を、実際に自分のものとしない限り、ルシファー影響の介入前の、神的存在たちにより、元々意図されていた状態の自我が、今日、思考、感情、意志と、どのような関係にあったかに関して、いかなる正しい考えにも到達できない。 人間は、自分を眺めるように運命づけられていたのであって、自分の中で生きるようには意図されていなかった。 では、元来、誘惑とはいかなる性格のものだったのか? できるだけ通俗的に記述してみる。 ルシファーが人間の自我に近づいてくる。人間は自我を、その全純粋性の中で保持すべきであったが、その自我に対し、ルシファーが次のようなことを言う。 「おい人間!『私』を、ちっぽけな1つの中心点にして、辺りをうろつくだけで、他をただ眺めるだけなんてつまらないだろう。お前自身のアストラル体の中に飛び込んだら、もっとずっと楽しいぞ。お前にそのための力をやろう。そうすれば、お前はもう、お前の自我と共に、そこに突っ立って自分の幻影を眺めている必要はない。お前はお前の幻影の中に浸るのだ。だが心配はない、お前がその中で圧倒され、溺れたりしないように、私(ルシファー)のある(卓越した)力を、予め提供しようではないか。」 こうして人間の自我はアストラル体の中に飛び込んだのだが、ルシファー的な力を接種されていたために溺れることはなかった。そして、人間が受け取った力こそ、自我のアストラル体に対する優位(卓越)だった。 それは過剰な利己主義であり、人間の中のルシファー的な要素である。しかし、それは実際どういう性格のもので、人生において、どのような現れ方をするのか? それはさしあたり、第一に我々の思考、それから感情、そして意志の衝動に巻き込まれ、ごちゃ混ぜにされるという事実の中に現れる。とりあえずは、思考だが、もしルシファーがいなければ、人間は、自分の内に知性を有し、思考を抱くなどという愚かな考えに出くわすことさえなかった。 人間は、思考とは外にあるもので、思考とは眺めるべき存在であるということを知っていただろう。人間は、常にじっくり考え、思考が与えるのを、そして、その思考の目的と意義が明らかにされるのを待っていたはずなのである。 この事が、例えば著書「精神科(人智)学の哲学」の中で、前面に表現されているのをみつけるだろう。人間は決して、あらゆる種類の思考を結びつけて、自分の内で、評価や意見を形成しなければならない等という考えを持つことはなかったはずである。 啓示とは無関係に、自身の内で評価を形成することは、我々の中のルシファー的な性質に基づいている。そして、人間の知性全体は、人間が知性を自分の本性と見なす限り、間違いなのである。人間に、自分は知性を持つべきと思い込ませたのは、ルシファーの誘惑なのである。なので、今や、この種のズレを通して生じることになった、この知性を、現実を理解するための基準と考えることなどできないということが理解できる。 カールスルーエで行った連続講義の中で、知性に立脚する人にとって、次のように言うことは全く理に適ったことであるという事を指摘した。 「もし、ゴルゴダの秘蹟を構成するものとして、キリストの復活を理解するなら、自らの知性全てを放棄しなければならない。何故なら、知性が告げる全ては、復活とは相容れない、矛盾したものだからである。」 (つまり、知性をもってしては、ゴルゴダの秘蹟、つまりキリストの十字架刑の復活を理解できない。言い換えれば、知性では、キリストが、十字架刑から蘇ったとは考えられない。) そのように十九世紀の人間は言う。そのように十九世紀の神学者までもが、自由主義的な学校の神学者である限り、言う。 しかし、人間が、一体どうやって、ゴルゴダの秘蹟のような行為(それは、ルシファーの影響を被っていない行為で、ルシファー領域の全くの外にあり、ルシファーを征服するという正にその目的のために世界にやってきた行為である)を把握するに当たって、ルシファーに負う人間の知性をもって、行うことができるなどと期待できるのか? このような事柄は、人間自身の(ルシファー由来の)知性をもってしては、決して把握できないということ以上に明らかなことはない。何故なら、人間の知性はルシファーの賜であり、ルシファーの働きとはいかなる関係ももたないものを理解するようにはなっていないからである。 いかに深い関連が、これらの事柄の背後に横たわっているかが分かる。もし、ゴルゴダの秘蹟が人間の知性によって理解可能であるなら、そもそも、そのようなことが起こる必要がなかったといえ、ゴルゴダの秘蹟は、全く不必要であっただろう。 何故なら、その目的は、正にルシファーの影響によって生じた乱れを元に戻すような方向で、バランスを取ることだからである。ゴルゴダの秘蹟が演じられたのは、あらゆるものを知性によって理解しようとする、人間の特異な傲慢さと高慢を癒すためであった。 人間が、いかに今のような知性には限界があるかに、気づくことができるのは、正にこの点においてなのである。しばしば、人間の認識能力には限界があるという考えに異議を唱えてきたが、このような知性には確かに限界があるといえる。 1.肉体のエーテル体に対する優位(卓越) (a)感覚器と感覚世界 2.エーテル体のアストラル体に対する優位(卓越) (b)体全体の感情 3.アストラル体のエーテル体に対する優位(卓越) 通常の有機的、体的な過程(食物摂取) 4.自我のアストラル体に対する卓越 (注)(b)でルシファーとアーリマンが出会う さて、この上の表から、人間本性の中で生じたズレ、或いは不整合が、どこから始まったのかを調べてみる。最初に生じた乱れは、自我のアストラル体に対する優位(卓越)と呼ぶ存在であった事は確かである。人間に対する全てのルシファーの影響は、この事、つまりルシファーの力が自我に与えられ、自我が、不純にも、思考、感情及び意志と、ごちゃ混ぜになると共に、アストラル体に対するルシファー的な優位(卓越)を保持したことに始まった。その結果、アストラル体が、今度は自分で、エーテル体に対する優越を獲得することが可能になった。このようにして人間の中のバランス全体が崩れていった。 それは丁度、アストラル体にルシファーの影響による一撃が加えられ、アストラル体が、それをエーテル体に伝えることによって、エーテルに対する自らの優越を獲得したかのようである。しかし、事態は、もはやそのようには進まず、エーテル体は、その一撃を次に伝えず、それはゴム球を打つようなもので、ゴム球はある程度の深さまで打ち込む(めり込ませる)ことはできるが、それはまた押し戻ってくる(跳ね返ってくる)。 なので、アストラル体のエーテル体に対する優位(卓越)について述べることができるが、その話は逆転する。というのも、アストラル体に対して反発し、優勢を主張するのは、今度はエーテル体の方だからである。 この逆の優勢について、以前述べた。そして、これに肉体のエーテル体に対する優勢が続く。これらは反対方向の一撃なのである。どうして、これらは打ち返すのか。それが何故生じるのかというと、ここではルシファーが打ち込むが、一方、肉体とエーテル体の中で、アーリマンが反対側から打ち返すからである。 その真ん中で、つまり、一方にはエーテル体のアストラル体に対する、そして肉体のエーテル体に対する優勢があり、他方にはアストラル体のエーテル体に対する、そして自我のアストラル体に対する優勢がある、その真ん中で、ルシファーとアーリマンが衝突しているのである。 ここでルシファーとアーリマンたちはお互いに対峙する。なので、人間の中には、ルシファーとアーリマンが、真の本性(悪)をもって出会う中心点がある。そして人間は、ある時はルシファーの方向に揺れながら、アストラル体をエーテル体の中に限度を超えて押し込み、またある時はアーリマンの力の衝動に従って、エーテル体をアストラル体の中にあまりにも深く打ち込む。取り扱わなければならないのは、このようなダイナミックな効果なのである。 次のステップは、力の働きが、人間本性の至る所で、我々人間に実際に関係してくるということに気づくことである。ある1つの例外を除いて、すなわち、アストラル体のエーテル体に対する優位(卓越)を除いて、つまりその場合、食物摂取と消化という物質的プロセスを考察する必要があるが、そのたった1つの例外を除いて、物質の働きに出会うことはない。この事は、人間に、物質或いは実質と呼ぶものの本性を秘教的観点から探求する必要性を感じさせる。次回の考察はこの問題から始める。
2008年03月19日
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さて次に、エーテル体とアストラル体の間の関係に移る。ここでもまた、一方の他方に対する正しく適正な浸透が見られず、エーテル体によるアストラル体に対する優位(卓越)が現れるのを見ることができる。 このアストラル体に対するエーテル体の優位(卓越)は、ほんの僅かでも超感覚的認識能力があれば、すぐに調べることができる。それを感じ取るのに苦労はしない。もし、そのような優位(卓越)がなければ、人間は、他にもあるが、決して涙を流すことはできなかっただろう。 もし、誰かが泣いているのを、つまり、眼の腺組織から、あの奇妙な塩辛い液体を分泌しているのを観察するとき、多少なりとも超感覚的認識能力があれば、この場合、アストラル体の活動との関係で、余りに影響力の大きいエーテル体の活動があることに、すぐに気づくだろう。 人間は、アストラル的に経験したものを十分にエーテル体の生活の中に印象づけることができない。アストラル体に対するエーテル体の優位(卓越)があり、その優位は、エーテル体が逆に肉体の方に働きかけ、涙を押し出すという事実の中に表現される。 そして、人間の中全ての腺組織の分泌プロセスに関しても同じ事が言える。それら全ては、エーテル体のアストラル体に対する優位(卓越)に依存する。そのバランスの乱れは、その影響が肉体にまで及ぶとき、様々の腺組織からの分泌現象として表現されるに至る。 もしこの優位がなく、アストラル体がエーテル体に合致していたなら、腺組織が働くときにも分泌は起こらず、アストラル体の活動は腺組織の内的な運動と活動の中で汲み尽くされていただろう。腺組織は何も分泌せず、その機能全体は自身の中で果たされ、いかなる物質の追放(放出)も生じなかっただろう。 このように、ルシファーの影響が、いかに凄まじいものであったのかが、秘教的観察で明らかになる。もしルシファーが世界秩序に介入しなかったなら、誰も、例えば汗をかくことが全くできなかっただろう。発汗に際して生じる活動の代わりに、対応する器官内部では、消耗し尽くされる活動と運動が生じ、腺組織からは全く何も排出されなかっただろう。 更に、アストラル体に対するエーテル体の優位(卓越)を、第2点として書き留めておく。奇妙な性質と外観を呈する感覚世界が、最初(第1点)の優位(卓越)、つまり、肉体のエーテル体に対する優位(卓越)に帰すなら、この第2の卓越、エーテル体のアストラル体に対する第2の優位(卓越)は、我々人間が気持ち、或いは感情と呼ぶものの原因と見なす必要がある。何故なら、人間の、全身的で普遍的な感情は、この体的状況、つまりエーテル体のアストラル体に対する優位(卓越)から生じるからである。この卓越を主観的に表現すると以上のようになる。 第1の卓越;肉体のエーテル体に対する優位→表層的な物理的感覚の受容 第2の卓越;エーテル体のアストラル体に対する優位→腺活動による感情の発生 さて、ところが、この考察を押し進めるには、便宜上、構図的(図式的)に行うべきではない。もし便宜的(図式的)に考えるならば(勿論、究めて簡単だが)、単純に次のようになる。 「肉体のエーテル体に対する優位(卓越)と、次に、エーテル体のアストラル体に対する優位(卓越)について述べた。だから、今度はアストラル体の自我に対する優位(卓越)の番である」、と。 このように、純粋に知的基盤の上に立って、その構図を完成させようとするだろうが、この方法では、決して真の結論には到達できない。思考の道筋を、いまは、このように辿ることはできない。実際問題として、秘教的事実に関する情報を受け取り、知性によって、便宜的(図式的)に結論を引き出すときは常に、現実は、それとは全く異なる結果を与えるということが理解できる。知的な方法で思考の道筋を辿ろうとしても何にもならず、しばらくは正しいことも、たまにはあるが、長続きしない。 さてここで、実際に、第3の不整合として逆方向の優位(卓越)、つまりアストラル体のエーテル体に対する優位(卓越)を取り上げる必要がある。 そして、この卓越は、人間の目から見て、今までの三つの中で最も重要なものである。というのも、人間を完全に唯物論的観点から考察するとき、真に人間を、多くの唯物論の著書で描かれているように、つまり、他でもない大いなる消化装置として、食べ、消化し、吸収することにより、その身体を構築する、一種の機械として思い描くことができるからである。 実際、唯物論的観点から書かれた著書の中には、このような方法で描かれた人間がみられるが、せいぜい、それは食物を取り入れ、処理し、筋肉や骨、腱等に分配するというような、大いなる消化装置程度のものである。 もし、人間の中にある、感覚世界を知覚する事実を通して、人間全て、そして、人間が、自分の体に関する全般的な感情の中で、様々の腺組織からの分泌プロセスを経験するという事実を通して、人間全てから目を逸らし、人間を単に栄養摂取の観点からのみ考察し、口から入った物質が血流中に吸収されるまでに何が起こるかを(唯物的に)調べるなら、アストラル体のエーテル体に対する優位(卓越)の究極の物理的な表現である物質プロセスを目の当たりにすることになる(つまり、第1、第2の卓越を無視すると、第3の卓越がわかる)。 世界を精神の観点から考察するときにはいつでも、あらゆる感覚的現象の背後に、精神の真実を見なければならないことが思い出される。感覚が受け取ることができるのは、せいぜい外観だけである。だから、栄養を受け取り、消化する全ての粗雑なプロセスの背後に、精神力を探さなければならない。そして、これらの精神力は、アストラル体のエーテル体に対する優位(卓越)の中に発見できる。この優位(卓越)は通常、物質の有機的生命プロセスの中に表現されている。 真に不思議な結論へと至ったが、その事をしっかりと見て欲しい。明確にしておきたいのは、正に、唯物論がしばしば人間全体と見なすもの、大部分の人々にとって、正に人生の主要関心事であり、心配事である、つまり栄養摂取と、身体諸器官への栄養供給は、アストラル体のエーテル体に対する優位(卓越)が、ルシファーの影響によって、人間の中にもたらされたという事実を通して、存在するようになったということである。 もしルシファーがいなかったなら、もしルシファーが、人類進化の初期に、このようにアストラル体とエーテル体の関係を変化させなかったなら、人間は、今日のように、食べることも、消化することも、食物に働きかけることもなかったはずである。 唯物論の立場から見て、人間に関する主要事項は、全くルシファーの活動の所産なのである。何故なら、それは、以上のように、アストラル体とエーテル体の間にズレが生じたことの結果に他ならないからである。 アストラル体は、ルシファーを通して過剰な活動部分をもつに至り、その事によって、エーテル体に対する優位(卓越)を達成した。それはルシファーの仕業であり、そのことによって、人間が粗雑な物質的栄養の受け取り手になるという結果がもたらされた。 というのも、人間は物質的栄養を受け取るように運命づけられていたのではなく、それを必要としないような一種の存在形式を取るように意図されていたからである。この事実は、ルシファーの誘惑により、(聖書の)「楽園追放」と呼ぶものが生じたという言い方のなかに、その素晴らしい表現を発見できる。何故なら、楽園にいるということは、他でもない、精神的存在であるということ、そして、物質的栄養を必要としないということを意味しているからである。 人間は、食物を摂取し、消化を行うように強いられることにより、罰せられているだけでなく、二重に罰せられている。というのも、聖書のなかで象徴的に語られているように、人間に最も大きな喪失と嘆きを課したとされる、正にその出来事が、つまり、「楽園からの追放」を通して、人間に物質的食物を取ることを必要とさせた正に、その出来事が、大部分の人間にとって、人生で最も強烈な楽しみの一つになっているからである! 人間にとって、楽園の外にいることが、最も大きな楽しみになった。 ここで、いま人生についての真に不思議な事実に直面しているが、この事は学ばれ、知られる必要がある。そしていま最後に、第4の不整合へときた。そして、この第4の不整合には、自我とアストラル体が関係している。この第4の卓越において、ルシファーは、自我のアストラル体に対する優位(卓越)が生じるように乱れを生じさせたのである。 第4の卓越に至って、何かが抜けているのに気づくだろう。アストラル体の自我に対する優位(卓越)であるが、実は、そのようなものは存在しない。図式的(便宜的)に考えてはいけない。常に観察に従って前進する必要がある。既に見てきたように、アストラル体とエーテル体の間には、最初に、卓越の関係があり、そして、その逆の卓越の関係があるが、第4の卓越では、アストラル体に対する自我の優位(卓越)だけがある。 この事は、エゴ、或いは自我が、ルシファーの影響、つまり介入前から、意図されていたアストラル体との正常な関係をもたないこと、つまり、エゴ、もしくは自我が、本来あるべき関係よりも、更に自己中心的であることを意味している。このルシファーの影響以前の、元々のエゴ、自我の卓越性も、ルシファーの影響によって起こった。 では、この第4の優位(卓越)を生じさせるために、正確に何が生じたのか? この事を理解するには、まず、自我とアストラル体の間の適正な関係とは、どのようなものかに関して明確な考えを持つ必要がある。 そのような真正な関係を知るのに唯一の方法は、それを再構築してみることである。世界の中に生きる人間の内では、ルシファーの影響を受けているために、自我とアストラル体の間の関係が秩序だったものにならないような、自我の優位(卓越)がある。 人間は、本来あるべき姿よりも、更に自我(エゴ)している(妙な表現だが、文字通りである)。 さて、これまで述べてきた中で、人間の自我が本当は、いかなるものであるべきかを見通す処まで導く考察を積み重ねてきた。 正しく、真正な関係は、人間が賢明で、精力的で、忍耐強い自己訓練に取り掛かり、「驚き」、「敬虔」、「調和の感情」、「献身」という名の下に記述した性質を獲得したとき、生じることになる。 そのとき自我は、偏見のない観察者が、その関係は今や真正なもので、自我は、ルシファーの介入による影響を取り消し、打ち消したという印象を持つような、アストラル体との関係の下に立つことになる。これら四つの魂の性質を非常に高度に発達させるときにだけ、元の正しい関係を取り戻すことができる。
2008年03月18日
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敗戦が決まって、昭和天皇がマッカーサーに、 「私の生命はいらないから、代わりに国民を助けてほしい」 と懇願しにいったことが伝説となって久しいが、 現代の政治家は、この天皇の態度とは逆の 「国民の税金はいくら搾取してもいいから、私を助けてほしい」 と外国に懇願し、あきられ見放され、 「私を助けないと、大変なことになる」 と国民を恐喝する知事や権力者が増殖しているのがいまの日本である。 こういう連中を、米国では、「チキンハート」と呼ぶらしい! 自分1人で、まるでなんでもやってきたような自負心でいるようだが、まるで、見当違いといわざるをえないだろう。何事も独力で為せるものなど存在しない。周囲の協力があってこその権力であり、協力の得られない、理解の得られない政策など、幼児の我儘と同じ存在である。 久しぶり、TVのニュースをみて驚いた! 大坂では、多額な予算をかけて、まるで知事独りの学級会をやっているようである、あれでは、巨額な赤字が増えて当然だろう。大量な赤字財政をつくった前知事の意見も出てきたが、無責任発言そのものである。「敗軍の将、兵を語らず」という諺をどうやら知らないらしい。 どうも、権力に相応しくない人物が就くから、周囲が騒然となり、忽ち混乱に陥り、面白ろ可笑しくマスコミが大衆に報道する結果となり、社会不安が一層深刻化するわけである。 そもそもが赤字なのに、ケンカする為に、時間外に会議を主催する愚すらわかっていないようである。企業が経費節減で、残業代も削減している御時世で、サービス残業が問題となっているときに、未経験な新人知事の、それも人気で選ばれたような人物の話など誰が聞くだろうか? こんなことは、選ばれた時点でわかっていたことだが、要するに、先の見えない人間が国政を担うと、ろくな事が起きないということである。 この数十年、マスコミが政治に介入した為に、ポピュリズム化し、国政は混乱続きとなってきた。いまも、その反省はない。ただカネが儲かればよいという風潮があるからである。だから、テレビには、醜い守銭奴の連中しかいなくなった。カネ、カネ、カネ、視聴率、視聴率である。 庶民はたまったもんでなく、住民税が上がり、いま物価があがろうとしているわけで、生活は益々逼迫していく現状にある。 豚都知事は、必死に「助けてくれ!」と、頭一つも下げずに、まるで当たり前かのような、偉そうな態度で、半笑いの顔で、一体何様のつもりかわからないが、都政の天皇とでも思っているのだろうか? それなら、せめて、昭和天皇のような態度を示したらいかが? そんなに大切ならば、まず、私財全て投入してから、議会で土下座して、御願いしろ! 天皇でもなんでもない平民の身分なのだから!! 都銀行の一件は、右翼気取りの人間の本性が私利私欲の塊であることがわかる事件である。 戦争で亡くなった人の顔に泥を塗っているのは誰かよく考えてみるべきである。特攻隊を選挙の人気取りに使ったり、靖国神社を組織票に取り込んだり、この国は、なんと汚れた国になってしまったのだろうか?
2008年03月16日
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もし地球進化の初めに、ルシファーの影響が入り込まなかったなら、人間存在全ての構成体は、お互いに全く異なって配置されていたはずで、この点について明らかにしたい。 すなわち、ルシファーの影響が、人間の四つの構成体の間の結合に、不整合をもたらしたことによる特別、かつ重要な結果についても示すつもりである。 最初に、肉体と肉体に挿入されているエーテル体の間に存在する関係について取り上げる。もし人間進化を司る神々によって、元々意図されていたように、エーテル体が肉体に完全に規則的な形式で注ぎ込まれていたなら、人間は、周囲全体に(そもそも、そのような経験がないため、言葉を見つけるのは困難であるが)、「支配する意志」の絶えざる流れと滴りといったようなものを経験していたはずである。 人間は至る処に、「様々な意志」を感知していただろう。何故なら、人間は、目や耳他の器官を、周囲の世界に意識的に向けるに従って、意志の働きの中に、(手で掴むように)一定の(力的)差異を検知していたはずだからである。 これら全ての器官は、その多様性において、多くの新しい方法で、他ならぬ意志、つまり「流れる意志」を経験する可能性を、人間に提供していただろう。 以上が、もしエーテル体が神々により意図されていたような方法で、肉体に適合していたなら生じていたはずのことである。 しかしそうはならなかった。何が生じたかというと、エーテル体が完全に肉体の中に収まらず、肉体の一部をいわば自由にさせ、肉体全体に浸透しなかったということである。その結果、肉体は、ある点から言うと、本当は持つべきでない、肉体自身の過剰な活動をもつ羽目になった。 なので、人間の肉体の中には、地球進化を司る神的、精神的存在たちの元々の意図に従っていれば、あり得なかったような、エーテル体に浸透されない場所がある。そして、肉体が、エーテル体に適正に浸透されない、これらの場所において、感覚器官が発達するに至った。 感覚器官が現在の形態を獲得したのは、このような事情による。なので、我々人間は、卓越した生命活動が完全に排除された、純粋に物理的活動の非常に特筆すべき現象を、あらゆる感覚器官の中に見出すことになった。 この事について、例えば、写真家の道具であるカメラの暗室にみられるような、純粋に物理的作用と比較できるものが、目の中にも存在するということが考えられる。 それは丁度、エーテル体の全般的な浸透から、いわば一部分が取り残されたようなものである。 また、迷宮のような耳の中の、一種のキーボードが収まった不思議な内耳についても同じことが言える。 エーテル体はいわば押し戻され、浸透されずに、純粋に物理的性格を持つ活動が、目や耳にはある。これが、感覚的イメージと呼ぶものの起源である。色彩の経験は、エーテル体が視覚器官に適正な方法で浸透せず、従って純粋に物理的プロセスが、そこで進行することに基づいている。 どの感覚においても同様に、エーテル体に対する肉体の卓越が見られる。こうして、この事を、最初の結果として書き留める事ができる。 肉体とエーテル体の間には、肉体のエーテル体に対する優位(卓越)と言えるような関係がある。 この優越(卓越)が存在しなければ、我々人間は、今日のように、感覚の世界全体が、周囲に広がっているのを見ることはなかっただろう。 そうではなくて、周囲の世界に対する人間の関係は、それら全てが、流れ、波打つ「支配する意志」として知覚されるようなものであっただろう。 もし、この肉体のエーテル体に対する優位(卓越)がなかったなら、人間は自らを受動的な感覚としてではなく、自分の手を延ばすように、能動的な感覚として、(周囲を)感じていただろう。 ここで、高次の秘教的な観察で、実際に明らかになる、究めて興味深い事実、つまり、感覚世界全体は、以上のように、エーテル体が感覚器官に入り込むのを妨げている事、そして、そのような状態にある感覚器官が、人間の内に、純粋に物理的世界のための場所の提供を受けることに依存しているという事実について述べることができる。
2008年03月14日
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前回の内容から、人間の肉体と、感覚世界との間に関連があることが分かるだろう。我々は、人間の物質(肉)体が、外に広がる感覚世界のなかに発見できる実質、つまり、前回述べた、「意志」の性質を持つ存在として認識した実質と同じことを理解した。 外にある感覚世界にも、人間の物質体の中にも、「活動し、支配する意志」を発見できる。だから、この意志を見通す霊的感覚の限りにおいて、人間の肉体は外的な感覚世界の一部であると言ってよいだろう。 そして、感覚世界の背後に、いかに生成し、消滅する世界が横たわるか、その世界の中には、いかに叡智、つまり、その真の形態を「活動し、支配する叡智」として描写できるものが、発見されるが、人間のエーテル体と呼ぶものは、本当は叡智の実質からなっているという事について述べた。 さて、人間のエーテル体と肉体には、更にアストラル体と自我が組み込まれている。つまり、我々が地上で出会うような人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、及び自我の連結点であるといえる。 さて、ここで、多分、少し困難だが、一度把握すれば、世界について、特に人間自身の本性について、理解する上で大いに役立つ事を考察する。肉体、エーテル体、アストラル体、及び自我が、ある時点で合流し、1つの全体へと統合されたという仮定に関しては、これまで述べてきた事柄から受け入れる準備ができているだろう。 ところが今、超感覚的認識能力を獲得した人が、人間本性の、その四つの構成体が、どのように組み合わされているかを観察するとき、それらが不規則な形で統合されているという印象を(後で、何故、この印象についての考察が重要なのかが分かる)持つという事実がある。 それら四つの体が、現在の人間の中では、ある不整合、或いは不規則性が、何処かの時点で入り込んだとしかいいようがないような形で、組み合わされているのを発見する。このように、人間存在の四つの構成体についての探求が、当初予定されたような形(在り方)では、相互に組み込まれず、ある時点で乱れが生じたという結論を導くのは、注目すべき事実である。そのような印象から、その乱れが与えられる。 さて、ここでもまた、第一級の宗教的真実の中に、もし正しく理解すれば、いかに深い意味が込められているかを見る機会を得る。というのも、その不整合としての表現が、聖書の中に、ルシファーが人間を誘惑しようとして、人間に話しかける言葉として、素晴らしい形で記述されているのが発見できるからである。 ルシファーは言う。「お前たちの目は開かれ、お前たちは善悪を区別するであろう。」 この言葉の中には、極めて深い真実がある。ただ、目だけが開かれると理解すべきではない。ここで、目は全ての感覚を代表している。もし、ルシファーの言葉を正しく理解するなら、それは次のように言い換えることができる。 「お前たちの全ての感覚は、もしお前たちが私(ルシファー)ではなく、神たちに従うとすれば、予定されていた方法とは異なる形で働くようになるであろう。」 ルシファーの影響により、感覚は、その影響がなければ、取りえた形態とは異なる形態を取るようになった(つまりルシファーの影響により、現在の感覚形態となった)。 今日の人間にとって、感覚がどのように働いているかを思い描くのは極めて困難である。なので、ここで、ルシファーを通して、人間本性の四つの構成体の間に不整合が入り込まなかったならば、感覚の働きがどのようなものであったかを明らかにするために述べることを、馬鹿げた事のように思うだろう。 それは、馬鹿げた事のように捉えられるものである。何故なら、感覚の本来の正しい活動とは、いま現在、我々が体験しているようなものではない、ということを信じることは、ほとんど不可能だからである。 「人間の目は、本当は何のためにあるのか?」と問われたとき、 「何だって、勿論見るためだろう。」という以上に、自然で明白な答えがあるか。そういう意味で、目は見るためにあるのではないなどと言う人間を馬鹿呼ばわりするのは、尤もな事だろう。 しかし、現実に、地球進化の初期に遡れば、人間の目が、見る能力に属するものではないこと、そして、現在目が見るものになっているのは、ルシファーの誘惑によるものである事がわかるだろう。 それはつまり、次のような事である。人間がもつ視覚能力というものは、目を通って外へと押し出され、いわゆる物にまで到達するようには、当初、(神々に)意図されてはいなかった。 神々の元来の目的に合致した形で、全てが進行していたとすれば、見るとは自分の目を意識することであり、人間は外的な事物を見るのではなく、人間自身の目を体験し、感じるはずのものだった。 つまり、人間は、目自体の活動を意識するようになる予定だったのである。 しかし、今日のあり方では、人間は目自体の意識をもっていない。人間は、ただ目の活動により引き起こされる視覚について、つまり、人間が向き合っている外的な(外界の)事物に関してだけ意識している。 本当は、人間は、見るという視覚行為が、対象に到達してから、初めて参加するのではなく、もっと早い段階で参加し、目の中で、既に人間自身を意識しているべきなのである。目の活動こそ、人間が感じるべき本当のものである。 目の場合、そのような体験をもつことは、特別秘教的な発達を遂げた人でなければ、今日では、ほとんど不可能だが、手に関しては可能である。 人は、少なくとも、何か、手で掴んで、或いは、単に手が、特に目的もなく、自由に動いているかどうかで、(周囲)を区別できる。後者の場合、手自体の実際の動作だけを意識している。 けれど、今日では、人は、視覚力を目そのものに向けても、何も見ることがない。これが今日の人間の有様である。 しかし、最初から、そのように意図されていたわけではない。(神々に)意図されていたのは、人間が、目や耳、或いは、いずれかの感覚器官に注意を向けたとき、先に述べた「支配する意志」を知覚し、そして実際に、「支配する意志」の中を泳ぎながら、耳その他の感覚器官への特別な影響のあり方に従って、その事実を認識するということだった。 このように、人間の目に関する経験は、あらゆる点で、手に関する経験に似たものになるはずだった。何かモノを掴んだとき、力の入れ方と、そのへこみ具合によって、それが硬いか柔らかいかを知る。実際、いつでも手で何をしているかについての意識がある。目に関しても、この手のようであるはずだったのである。 しかし、それは、エーテル体が肉体に正しく適合している場合にのみ可能だった。もしそうなっていたら、我々人間は目そのものを知覚し、目と「支配する意志」との関連を直接感じ取ることができただろう。 しかしながら、エーテル体は肉体に正しく適合していない。我々は、この重要な事実に気が付かなければならない。ただ、これは人間の中に見られる不適合の1つの例に過ぎない。人間本性の、どの構成体も他の構成体に正しく適合せず、どれも不整合なのである。
2008年03月13日
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人間の魂の中には、これまで述べ、またこれから述べるように、肉体やエーテル体の中へと、絶えず繰り返し流れ込むべき力が含まれている。この魂の力の流入は、夜、人間が寝ている間に起こる。夜(寝るとき)には、人間が疲れを癒すために必要とする力が、人間の自我とアストラル体を通じて、宇宙から人間の処へと流れてくる。 この魂の力の流入に、意志の世界や叡智の世界と、人間の肉体やエーテル体との間の、実際の生きた関連がある。 すなわち、寝ている間、アストラル体と自我は、流れ込んでくる魂の力の世界の中に吸収されるが、自我とアストラル体は、叡智の世界からエーテル体へ、意志の世界から肉体へと流れ出すべき実質を、引きつける為の中心点を構築する。この事が夜、生じなければならない。 何故なら、もし人間が意識を持ったまま、その世界に居たなら、その人は、それらの叡智と意志の世界の中に、人間に流れ込む力を引きつける通常とは異なる、奇妙な装置を作り出すことになるからである。その時、支配する叡智と支配する意志の世界から、自我とアストラル体が送り込む力によって、肉体とエーテル体の中に途方もない障害が生じることになる。 このように、善き神々は、人間の肉体やエーテル体に、正しい力が流れ込むべき夜に、人間が、その世界に居ることができないようにした。その神々は、もし人間が意識を持って、その世界に居たなら、人間の思考によって、間違いなくダメになる障害が生じないように、眠っている間に、人間の意識を鈍くしたのである。 人間が認識への途上にあって、高次の世界へと上昇するとき、大いなる苦痛を経なければならない理由はここにある。もし人間が、本当に熱心に取り組むなら、その世界は、必ず人間に大いなる苦痛をもたらすに相違ない。 著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の中に、人間が、外的な(外界の)真実の世界から、高次の世界へと上昇するために、夜、睡眠中の生活を、どのように、いわば利用できるかについて記述した。 人間が、霊視の世界から、睡眠中の意識を点灯するとき、つまり、知識と経験により、意識を点火するとき、自分自身は後ろに下がると同時に、人間の肉体とエーテル体にとって障害となる全てを、意識から間違いなく締め出すことが重要になる。 高次の世界への上昇に際しては、自分自身を完全に、そして正確に知ることが絶対に必要である。一般的に、人間は、自身を知るとき、自分を愛することをやめる。自己認識を持ち始めるとき、自己愛は終わりを告げる。 意識の中から、自分自身を排除できるようになるには、自己愛は克服しなければならない。そして、自己愛は、自己認識を達成していない人にとっては、常に存在する。何故なら、人間が、自分を愛していないと想像するのは幻想であり、人間は、世界中の誰よりも、自分自身を愛しているからである。 人間は、実際、自分に、現在のような自分から脱却しなければならないといえるような地点にまで至る必要がある。自己献身を達成すれば、既に、この自己愛克服の方向で、かなりの道程を来たことになるが、この段階では、自己愛を完全に排除する必要がある。 人間はいつでも次のように感じなければならない。 「私は、自分を脇へと追いやる必要がある。何故なら、もし、私の中に確かにある、間違い、些末さ、偏見、共感や反感、これらを完全に締め出し、捨て去らなければ、高次の世界への上昇が正しく行われる可能性がないからである」、と。 これらの間違いが存在すれば、超感覚的認識を可能にするために、自身の中に入ってくるべき高次の世界からの流れに、妨害力が混入することになる。これらの力は、肉体とエーテル体に流れ込むが、間違いその他が多いほど、それだけ多くの妨害プロセスが居座ることになる。 睡眠中、無意識である限り、つまり、人間が超感覚的世界へと上昇できない限り、善き神々が、人間を守り、意志の世界と叡智の世界からの流れが、肉体とエーテル体に入り込まないようにしてくれるが、人間自身が、超感覚的世界へと、意識を持ち込むとき、いかなる神も守ってはくれない(何故なら、神々の与える保護は、神々が我々から意識を取り上げているという、正にその事実にあるからである)。 なので、人間は、全ての偏見、全ての共感、全ての反感等々を、自分で取り除く必要がある。これら全てを直ちに、自分から締め出す必要がある。何故なら、もし人間が、まだ何らかの自己愛や個人的欲望を持っていれば、或いは、まだ個人的見地から判断を下せるなら、それら私的な全てが、人間が高次の世界に上昇する過程において、人間の健康に(つまり肉体とエーテル体に)害を及ぼすからである。 これらの事は、はっきりと理解すべきである。なぜなら、人間が、日常生活において、自分の肉体とエーテル体に対する影響力を剥奪されているという事実、人間の思考が、肉体とエーテル体の中に居て、外界を把握する形においては、何の真実と関わらず、何の効果も及ぼさず、従って、何らかの真実に関して、いかなる判断も形成できないという事実の重要性を感じ取るのが困難であるからである。 ところが、夜の睡眠中には、思考により真実を把握できる可能性があり、あらゆる間違った思考が、肉体とエーテル体に破壊的に作用する可能性がある。 もし、夜に意識があるなら、破壊作用が目の前で展開されるだろう。その時、感覚世界は支配する意志の海のように見えるだろう。そして、その背後には、この意志を貫いて、高く低くうねる大浪へと、いわば駆り立てる(活動する)叡智(その浪の1つ1つと共に、絶えず生成と消滅の過程、いわゆる生と死のプロセスを引き起こしながら)、世界を構築する叡智が現れるだろう。 結局、これが、人間が覗き見るべき真の世界、「支配する意志の世界」と「支配する叡智の世界」である。 そして後者は、絶えざる誕生と絶えざる死の世界でもある。それが人間の世界である。人間が、この事に気づくのは、非常に重要なことである。 というのも、もし、人間が一度この事に気づけば、更に真に大いなる「献身」の高みへと至る方法を発見し始めるからである。何故なら、人間は、自分自身が絶えざる誕生と絶えざる死の中に織り込まれていると感じると同時に、その人の個々の行いを通じて、自身を、何らかの生成、或いは消滅に結びつけているということを知る事になるからである。 その時、「善」が、単に、何か対象に関して、良いとか好きとか、共感で満たすようなものでなくなる。善とは何か全体としての世界にとって、創造的で、いつでもどこでも、何かを生成し、存在へと至る世界に属する存在であるということを知り始める。 そして、「悪」は、それが至る処で、死と衰退のプロセスを流出する存在として、自らを現すということを感じ始める。そのとき、悪とは世界を大股で歩く、破壊的な死の天使として唯一考えられるもので、そして、善とは、その大小に関わらず、宇宙的な誕生をもたらす創造者として、唯一考えられるような新しい世界観への重要な移行を果たすだろう。 そして、精神科学(人智学)は、善の世界と悪の世界とは、単に、外的な幻影の中(その幻影の中で、人間は判断力を持って、善悪の前に立ち、単に一方は人間を喜ばし、他方はそうでないことを発見するだけなのだが)に現れるようなものではなく、善の世界とは創造的な世界であり、悪とは大鎌を持って世界を闊歩する破壊の天使(死神)であるということを、人間が感じ始めるとき、人生に対する全体としてのこの観点が、精神科学(人智学)を通じて深められるような意識を、人間の内に目覚めさせることができる。 そして人間は、悪しき行いの度に、破壊の天使の助力者として、人間自身が、この大鎌を持って死と衰退のプロセスに荷担する。精神的源泉から、人間が受け取れる思考は、人生に対する全体的な見方を強化するような影響力を持っている。この精神科(人智)学の力は人類が現在受け取り始めているもので、未来の進化へと携えて行くものである。 そして人類は本当に、この見方を必要とするようになるだろう。これまでは、善き神々が人間のために配慮してきたが、来るべき、我々の第5ポスト(後)アトランティス時代(現在)においては、運命や善悪は、益々人間自身の手に委ねられていくことになるだろう。なので、善悪というものが何を意味するのかを知り、世界の中で、一方は創造的なものとして、他方は死を施すものとして認識することが必要なのである。
2008年03月12日
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「献身」の段階を達成し、更に次の段階へと進んだ人が、例えば人間の喉頭に、注意を向けることを想像する。その人には、喉頭は、その進化(発展)の全く初期段階にある器官のように、前途有望な未来がある器官のように見えるだろう。喉頭自らが、告げることから、その人は、現在の喉頭がまるで、種子であるかのように、果実とか、枯れたものではなく、種子のように感じる。 その人は全く明瞭に、人間進化の途上で、喉頭自らが表現を与えるものから、喉頭が完全に変容するとき、つまり、今の喉頭の本性は、人間が言葉をしゃべるという事にあるが、いつの日か、この喉頭の本性から、人間が人間を誕生させるときが来ることを知る。 喉頭は未来の誕生のための器官、未来の生殖器官である。 現在、人間は喉頭によって言葉を発するが、喉頭は、未来には、人間全体を発する(誕生させる)ように発達していく種子である。喉頭が、人間に、自らが何者であるかを告げるとき、究めて直接的に、種子である事を表現する。 人体のその他の器官は、遥かな昔に、既にその(進化の)絶頂を過ぎたことを示し、未来には、もはや人間の有機体の中には存在しなくなる事を理解するだろう。そのような見方をすれば、人体のあらゆる処に、成長と生成の一方で、他方に衰退と消滅を見るだろう。 人体の現ある器官の進化度合いの両方を、未来へと続くプロセスとして、みることができる。人間のエーテル体と真実の世界との統合が達成されるとき、我々人間の周囲に、芽生える生命や、死、或いは衰退が互いに絡み合っていることを発見するだろう。この透視力に関して、人間は、この先、非常に厳しい試練に耐える必要があるだろう。 というのも、人間が出会い、人間に自らの存在を告げる個々の事象について、人間は、いちいち、その事象のある部分を、人間の中に芽吹く生命の感情として、その他の部分やその内容を、人間の中に死の感情を引き起こすものとして、発見することになるからである。 我々人間が、感覚世界の背後に見る全てが、「自分は、これら2つの基本力の内のどちらか一方からやってきた」、ということを知らせるからである。 このように、人間が見る世界は、神秘主義の言葉で、「生成し、消滅する世界」と呼ばれる。 なので、人間は、感覚の世界に向かうとき、生成する存在と消滅する存在の世界を覗き見ることになる。そして、その背後に、「支配(活動)する叡智」が横たわっている。 意志の背後には叡智がある! わざわざ「支配(活動)する叡智」と言ったが、というのも、人間が、アイデアの中に持ち込む叡智とは、大体、全く非活動的なもので、単なる思考としての叡智(死んだ知性)だからである。人間が活動的な意志の背後を見るときに、獲得する叡智は、対象と一つになっている。そして、客観的事物の世界では、叡智は、叡智が支配する処で、真に支配し、その働きの影響は実際、その表現を表出する。 叡智が、真実から、いわば後退するとき、死のプロセスが始まる。叡智が真実の中に流れ込む処では、生成が、芽吹く生命が表出する。以上述べたことは次のように整理できる(図1参照)。 我々人間は感覚世界を見るが、最初それを曲線Aとして見る。そして、それからその感覚世界の背後にある曲線B、つまり「支配する叡智」の世界を見る。我々自身のエーテル体の実質は、この世界から取ってこられた。なので、我々は、「支配する叡智」として、外に見るものを、我々のエーテル体の中にも見る。そして、我々の肉体の中に、単に感覚的に現れるものだけでなく、「支配する意志」を見る。何故なら、感覚世界の至る処に、「支配する意志」を見るからである。 不思議なことに、もし我々が「献身」を達成していたなら、別の人間に出会い、その人を見るとき、その人の顔色は、たとえ、それが赤味を帯びていようが黄色、或いは緑がかっていようが、単に赤とか黄色、或いは緑には見えず、例えば、その人の顔の頬のバラ色と、共に成長するエーテルの存在をみるだろう。そして、そこに、「支配する意志」を見るだろう。 そして、その人の中に生き、織りなす全てが、我々観察者の中に、その人の頬の色を通して、いわば射し込んでくる。バラ色の頬について観察し、気に止めるという自然の傾向を持った人は、バラ色の頬の人だけが健康であるというだろう。我々は、仲間の人間と、その人の中に「支配する意志」を同時に見るような方法で接するだろう。 さて、図1に戻って、その中の、ある内側の円で表される、我々の肉体は、世界Aから、支配する意志の世界から取ってこられたものといっていい。一方、外側の円で表される我々のエーテル体は、「支配する叡智」の世界から、つまり世界Bから取ってこられた。なので、この図に示すように、我々の周囲に広がる「支配する叡智」の世界と、我々自身のエーテル体、そして我々の周囲に広がる「支配する意志」の世界と我々自身の肉体は結びつきを持っているのである。 さて、日常生活において、人間はこのような関連について知ることはない。そのための力(霊力)が人間から取り上げられているからである。関連は常にそこに存在するのだが、人間は、それらに影響を及ぼすことができない。それはなぜなのか? 実際問題として、我々の思考や、判断等、意見の形で展開するものは、それが何であれ、日常生活においては、我々の現実にとっては、それほど有害ではない。通常の日常生活の覚醒状態においては、善き神々によって、我々の思考が、我々の現実にあまり悪い影響を及ぼさないように配慮されている。 善き神々が、我々人間から、肉体やエーテル体に行使するような有害な思考力を取り上げてくれる。もし、有害な思考を取り上げ無ければ、我々人間にとっては、非常に深刻な事になっていただろう。 再度、強調すると、もし、神の思考が真実の世界で意味するものを、人間の思考が人間世界で意味していたなら、人は思考において、間違いを犯すたびに、微小な死のプロセスを自らの内に呼び出していただろう。そして、人間の体は少しずつ干からびていっただろう。 不真実を行うなら! もし人が嘘をつく度に、対応する脳の部分を消滅させていたなら(もし人間が真実へと働きかける力をもっていたなら、そのようになるが)、人間の脳を、長い時間、保つことが不可能なことが、直ぐに理解できる。 人間の魂から、エーテル体や肉体に働きかける力を取り上げたのは、善き神々なのである。しかし、常に取り上げるわけにはいかない。何故なら、もし、人間が、魂から、肉体やエーテル体に一切影響を及ぼせなければ、肉体やエーテル体の中の力は直ぐに尽きてしまうからである。そうなれば、人間の命は非常に短いものになってしまうだろう!
2008年03月11日
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もし、「献身」の次の段階を正しく理解するなら、次のような問いを自らに投げかけるべきである。 「我々は、一体どうやって感覚世界の知識を得ることができるのか」、と。 その答は単純で、我々の感覚によって得ていることがわかる。耳によって、音の世界の知識を獲得し、眼によって、色や形の世界の知識を獲得する等々である。我々人間は、感覚器官の仲介によって感覚世界を知る。通常の日常的方法で、この感覚の世界に向き合う人は、その印象を受け取り、自らの判断を形成する。 「献身」を学んだ人は、第一に自らの感覚を通して、印象を受け取り、そしてそれから、いかに対象から自分に向かって活動的な、「支配する意志」が流れてくるかを感じる。その人は、まるで対象と共に支配する意志の海の中を泳いでいるかのように感じる。 そしてその人が目の前の対象の中に、意志の存在と支配を感じる地点まで至ったとき、自身の進歩が、当人を次のより高い段階へと自然に駆り立てる。 というのも、当人は「献身」へと続く全ての前段階、世界の叡智との調和の中で自分を感じる事と呼んだ段階、その前の「敬虔」、そしてその前の「驚き」の段階を経験した後、これらの状態から、最終的に獲得される、「献身」の状態へと浸透することを通して、いかにして肉体と同様に、エーテル体(肉体の背後にある)をもって、対象と共に成長するかを学ぶことになるからである。 その状態に至った人間は、活動的な、「支配する意志」の中で、肉体を持って、つまり感覚器官をもって、対象と共に成長する。 見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり等々をするとき、「献身」の状態にある人間として、目や耳を通して、「支配する意志」が自分の中に流れ込むのを感じる。 そのとき、その人は、自分が対象と真に対応していると感じる。 そして、物質的な眼の背後には、眼のエーテル体があり、物質的な耳の背後には耳のエーテル体がある。その人が益々エーテル体に浸透され、そして「支配する活動的な意志」へと沈潜する(貫き至る)とき、丁度、肉体が感覚世界の事象と共に成長するように、エーテル体も成長できる。 そして、このエーテル体の成長が生じるとき、人間は、自分が全く新しい世界の観点(見方)をもっていることを発見する。その人が、感覚に現れるものを通して、「支配する意志」へと至ったとき、世界は、以前見慣れた景色よりも更に大きな変化を遂げている。 人間のエーテル体が世界の事象と共に成長するとき、これらの事象が、アイデア、概念、そして思考の中に、従来の在り方のままに留まるべきではないというような印象を与える。それらの事象は、その人と関係を持つ瞬間に、変容を遂げる。 既に「献身」の気分を魂の中で経験した人が、樹液に満ちた緑の葉を見ることを想像する。その人は魂の目を、目の前の対象に向ける。そして直ぐに、その人は、この瑞々しい葉っぱを、従来あるような姿のままにしておくことはできないということを発見する。 つまり、その人は、緑の葉に見入る瞬間、緑の葉が自身を越え出て成長するのを感じる。その人は、いかに緑の葉の内に、何か従来とは全く違った存在になる可能性を持っているかを感じる。葉は植物の中で上方に行くほど、徐々に成長し、遂には色のついた花形の葉、つまり花弁に変わる。 植物全体は、実は、変化した一枚の葉に過ぎない。 この事を、ゲーテの自然に関する研究から学べるが、是を学ぶ人が葉に見入るとき、彼は、それはまだ完結していない、それは、それ自身を越え出て成長しようとしている、ということを理解する。要するに彼は、その緑の葉が、彼にいま与えている以上のものを見る(予見する)。 その緑の葉は、その人を刺激して、その人の内に何かが芽生え、成長する生命のようなものを感じさせる。このように、その人は、自身のなかにも生命の芽生え、成長を感じながら、全く文字通り、その緑の葉と共に成長する。 しかし今度は、その人が、乾燥し枯れた木の皮を見ることを考えてみる。もし、その人がその枯れた葉と共に成長すべきなら、死の感情に圧倒される以外のことはない。その人は、枯れた樹皮のなかに、現実以上の発展(成長)ではなく、それ以下の衰退(退行)を見る。 もし、誰かが、その樹皮を外見だけ見るなら、死んだ樹皮を称賛でき、それから喜びをも与えられるだろうが、いずれにしても、死んだ樹皮の中に、自らの魂をいわば縮ませたり、突き刺したり、死の考えで満たしたりする以上の存在を見ることはない。 エーテル体が共に成長するとき、世界のどこにも成長や芽生え、生成の感情、でなければ、衰退や消滅の感情を生じさせる。あらゆるものは、そのいずれかの側面において、自らを現す。
2008年03月10日
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さてここで、この「献身」がもたらす効果に関して考察する必要がある。我々人間が、思考をもって、「驚き」から「敬虔」へ、そして真実との叡智に満ちた調和の中で、自身を感じることへと進んだ後、最後に「献身」の態度へと至ったとき、何を達成するのか? それは次のようなことである。 「我々人間が、この世界に生きて、植物の素晴らしい緑を観察し、その変化する花の色を称賛するとき、或いは空の青さや金色に輝く星を(それらを評価するのではなく、それら自身が、自らを何者であるかを明らかにさせながら)、ジッと眺めるとき、その時、もし、本当に、この『献身』を学ぶことに成功していたなら、感覚世界のあらゆるものが、我々人間にとって変容を遂げ、我々人間の魂生活から取ってきた言葉以外の言葉では、言い表せないような真実が、その感覚世界の中に現れる。」 下図1の線a-bつまり曲線Aが、我々の視界に広がる感覚の世界を示すとする。この図の下方に立って、c方向、つまり、観測者の眼前にベールのように広がる、その感覚世界Aを見る。線a-bは、観測者の耳に働きかける音、目に働きかける色や形、その他感覚器官に働きかける、匂いや味、硬さや柔らかさ等々の、要するに、感覚世界全体の境域のつもりである。 通常の生活において、人間は感覚世界の中に立ち、判断能力をその感覚世界に適用する。全ての科学はこのようにして生じたのではないだろうか? 人間は感覚の世界に関して、様々な方法を用いて、その支配法則を探求するが、今まで述べてきた全てから分かるように、そのような(科学の感覚による)手続きは、人間を真実の世界へと導くことはない。 何故なら、(人間が行う)判断は、真実の導き手では全くなく、人間が真実の世界へと沈潜できるのは、ただ「驚異」や「敬虔」他の道を辿りながら、自らの思考を教育する事によってしかできないからである。その時、感覚世界は変化し、全く新しいものになる。そして、感覚世界の真の性格に関して、何らかの知識を得るべきなら、この事を発見することが重要になる。 今、この感情、この「献身」の態度を、かなり高度に発達させた人間が、瑞々しく輝く緑の牧草地を見渡すのを想像する。一瞥しただけでは、その人間はどんな個々の植物の色も見分けることはできない。全体が新鮮な緑の様相を呈するだけである。 そのような人は、もし「献身」の態度を、真に高度に発達させていたなら、牧草地を見て、何やらバランスがとれているという感覚が、内に生じざるを得ないのを感じるだろう。その人はこのバランスの気分(それは淀んだようなバランスではなく、生き生きとしたバランスだが)を感じるように促される。 それは静かにゆったりと流れる水に譬えられるだろう。このような光景が、その人の魂の前に魔法のように必然的に出現するのを感じる。そして、それは、あらゆる味、あらゆる匂い、そしてあらゆる感覚の知覚についても同様に出現するのである。 それらは不可避的に、その人の魂の中に、内(精神)的な運動や活動の感情を呼び起こす。どんな色も、どんな音もその人に語りかけ、あらゆるものが何かを語りかける。そして、それは、その人が内(精神)的な運動や活動(判断や意見ではなく、運動、それも活動し生きた運動)をもって、出現するものに応えざるを得ないように、感じるような形で語りかける。 要するに、そのような人に対して、感覚世界が、いわば、その仮面を脱ぎ捨て、意志という言葉でしか言い表せないようなもので、自分自身を明らかにするときがやってくる。感覚世界の事物全ては意志、力強い意志の流れなのである。特に、この事に注目すべきである。 多少なりとも、高い「献身」の段階に到達した人は、感覚世界の至る処に、支配する意志を見い出す。この「献身」の性格を、たとえ僅かでも自分の中に発達させた人が、例えば向こうから突然、吃驚するような色の奇抜な容姿で、誰かが来るのを見たとき、苦痛を感じるのは、このような意志を感じることからくる。 その人は外から近づいてくるものに対して、内(精神)的運動や活動を経験しないわけにはいかない。その人はあらゆるものに内在する意志に敏感であると同時に、この意志を通して、全世界と1つに結ばれているのを感じる。 このようにして、感覚の世界は、いわば無限の多様性を持つ意志の海になる。そして、もし、この事象が、意志をもたなければ、単に周囲に広がっているもの(物質世界)としか感じない感覚世界が、実はある一定の厚み、或いは深さを持っているということを意味している。 我々人間は、事物の表面の奥にあるものを見聞きし始める。そして、そこで見聞きするのは意志、それも流れる意志である。 ここで、ショーペンハウアーの読者の、興味のために述べると、彼はこの支配する意志を、ある一面的な方法、つまり音の世界に関して言い当てた。彼は音楽を、意志の多様な働き(運動)として記述した。しかし本当は、献身を学んだ人にとっては、感覚の世界のあらゆるものが、支配する意志なのである。 〔真空のエネルギーや負のエネルギー正体は、神々の支配する意志なのである〕 さて、感覚の世界のあらゆる処に、この支配する意志を感知することを学んだ人は、更に先に進むことができる。その人は、もしそのような事を学んでいなければ近づくことができない感覚の世界の背後に隠された秘密へと沈潜する(貫き至る)ことができる。
2008年03月07日
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前回は、人間は必ず間違いを含む思考を行うということを述べた。そして、人間の思考は、真実に到達する手段ではなく、自己教育の手段であると述べた。 さて、もし後で、思考の間違いを訂正するなら、訂正によって、自分を教育し、より賢くなり、自らの間違いと共に荒廃をもたらすことはない。 このような考えをもてば、自分を道徳力により、益々強めるに従って、「献身」の意味を益々理解するようになる。そして遂には、人生の決定的瞬間において、外的(外界の)事物に関する知識と理解の獲得という希望を持って、思考に依存することを行わない地点にまで至る。 この事は奇妙に聞こえるし、一見、そのような事は不可能に見えることも分かっている。どうすれば、我々は思考への依存を拒否できるのか? 確かに、思考依存の拒否路線を取ることは不可能(考えないではいられない)だが、ある条件下では可能になる。我々は人間として世界の中に組み込まれているが故に、世界の出来事に関して、いつの場合にも判断を保留するわけにはいかない。 我々は判断し、意見を形成しなければならない。これに関しては、これから、何故そうなのかを見ていくことになる。我々人間は、生きて活動しなければならず、常に真実の深層へと沈潜するのを、ただ待っていられるわけではない。 我々人間は判断を要する(但し、我々の判断や意見が、正しい事を認めるに際し、十分注意するよう、自己教育すべきである)。我々人間は絶えず、いわば肩越しに自ら振り返りながら、最も鋭い知性を働かせている限りにおいて、正に最上の知性の場において、非常に不確かな地盤の上を歩き、どこまでも間違いを重ねる可能性があるということを、心に留める必要がある。 この事は、自惚れの強い人には厳しい言い方かもしれない。自惚れの強い人は、何らかの事柄に関する意見が決定的であるかどうかを疑いはじめ、その意見がいかなる結論に達するのも全く不可能であると考えるからである。 一寸周囲を見渡すと、非常に多くの人が、何か意見されると直ぐに 「しかし、私はこう思うのですが。」 という(自分の意見を述べる)必要があると考えているのに気がつく。或いは、何かを見て、 「私は好きじゃない!」とか、「私は好きだ!」 と直ぐに自分の意見を言うからである。 安易な自惚れで、人生を生きることに満足しない人は誰でも、この種の態度を捨て去る必要がある。我々人間が、内(精神)的生活の進路を、真実の方向へと取りたいと願うならば、このような態度を捨て去る必要がある。 むしろ、我々がすべき事は、次のような言葉で性格づけられるような態度の養成である。 「勿論、私は自分の人生を生きなければならない。そして、それは、私が判断を下したり、結論を出したりすることを意味する。だから、人生における実践を必要とする限り、私は判断力を行使する。しかし、私は、それを、真理の把握に使おうとは思わない。私はどこまでも注意深く、仕方なく下すことになった、あらゆる判断を、いつでも、ある程度の疑いをもって振り返ることにしたい。」 しかし、通常の考察で判断を下すのでなければ、一体どうやって真理に関する考察に至るのか? 既に以前、事物そのものに語らせるようにすべきであるという事、つまり、事物自身に、その秘密を告げるようにすべきであるということを述べたとき、この事に関する正しい心の持ち方について示唆した。世界の事物に対して、受動的な態度をとり、事物自身に自分の秘密を語らせることを学ぶ必要がある。 もし、人間に、この事ができていたなら、非常に多くの間違いを回避できていただろう。この事ができた人物の素晴らしい例としてゲーテがいる。彼は真理を探究するとき、自ら、勝手な判断を許さず、事物そのものに自分の秘密を語らせるようにした。 さてここで、単純明快な例を取り上げてみる。ここに2人の人物がいるとする。1人は判断する人で、もう1人は事物に自らの秘密を告げさせる人である。最初の人物が一匹の狼を観察して、その特徴を記述するとする。彼は他にもこの狼に似た動物がいるのを見て、それらの特徴も記述する。このようにして彼は「狼」という一般概念に至る。 この考えを進めると、彼は次のような結論に至るだろう。 「現実には多くの個々の狼がいるが、私が心の中で形成した「狼」という一般概念、つまり、いわゆる(一般の)狼というものは存在しない、世界には個々の狼がいるだけである」、と。 このような人物は、安易に個々の狼だけが問題なのであって、1つのアイデアとして心に抱く狼という一般概念は何ら現実的なものではないというような事を、自分の意見として述べるだろう。このような結論を導く人物の中に、自分で判断し意見を形成する人の驚くべき例を見ることができる。 一方、真実そのものに、自らを語らせる人の場合はどうか? 彼は、個々の狼の中に見い出され、全ての狼を等しく特徴づける不可視の性質について、どう考えるのか? その不可視の存在について、彼は自分に次のように言うだろう。 「狼を羊と比べて考えてみよう。ただ私は、この比較については、判断はしない、単に事実に語らせるだけである」、と。 さて、この男が自らの目で、狼が羊を丸ごと食べるのを見る機会に遭遇した。彼は自分の面前で、その出来事が起こるのを見る。そして、彼は自分に次のように言うだろう。 「以前は、羊として走り回っていた物質は、今や狼の中にある、それは狼に吸収された。」 この事実を見るだけで、狼の本性の真実を知るのに充分である。何故なら、外的感覚(観察)により追跡できれば、次のような結論、つまり、 「狼が他に何も食べるものがなく、羊しか食べなかったとすれば、狼は徐々に(狼のなかで進行する新陳代謝の結果)、狼のなかには、羊物質しかないという状態に至るに違いない」、 という結論に容易に導かれるからである。 しかし、実際問題として、狼は決して羊になることはなく、いつまでも狼のままである。 事態を正しく評価するなら、以上の事実は、狼の中の物質部分が、いわゆる従来考えられてきた「狼」という構成体とは、全く違うものであるということを、非常に明白に示す。外的(外界の)事実の世界が教える通りに見るなら、「狼」という構成体は、我々の前にある、狼という物質体の他に、何か別のもの、何か不可視の最高度に真実な存在を明らかにする。 (羊の物質部分を吸収するのなら、狼という物質は羊という物質になるだろう。しかし、狼は狼であるから、羊の物質部分を、狼という物質構成につくりかえる何かが、狼のなかに存在する。) そして、この最高度の真実こそが、たとえ狼が羊しか食せず、狼の中の単に感覚的に知覚可能な全てが羊の由来物になったとしても、羊にはならず、狼の状態のままでいることを可能にさせているものなのである。 判断の実施と、現実が教える事象に任せる事との間に、明確な線を引き、区別することは、ときとして困難である。しかし、その違いが一度把握され、判断が実際の生活面に限定して用いられる一方で、真実へと近づくためには、世界の事物が教えるのに従うという態度が取られるなら、そのとき、我々人間は少しずつ「献身」の真の意味を、明らかにすることが可能な、魂の在り様へと至る。 「献身」は、思考により、直接真理の探究をしようとする心の状態ではなく、事物から流れ出してくる啓示を通して、真理を求めると共に、その啓示を受け取ることができるほど、成熟するまで、待つことができる心の状態のことである。 判断を行い、意見を形成しようとする傾向のある人は、どの段階においても、絶えず真理に至ろうとする。一方、「献身」は、様々な真理へと、いわば(強引に)押し入ることを始めたりしない。 「献身」においては、むしろ、自分を自己教育により高め、世界の事物から、真理が啓示として、自分の中に流れ込みながら、自分の全存在を満たすという成熟段階へと到達するのを、静かに待つことを求める。 忍耐が自己教育において、益々我々人間を先へと進めてくれることを知りながら、忍耐強く働くこと、この事こそが「献身」の気持ちに適ったことなのである。
2008年03月06日
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前回は、人間の思考には必ず間違いがあり、かつ、それは真実によって妨害されないということを述べた。 では、真実に妨害されないとはどういう意味なのか。つまり真実は、概念の自由な洗練化に際し、どのような種類の妨害をなし得るのか。 もし、人間の思考を、神の思考と対比するなら(この対比は当面純粋に仮定的なものだが、後に、仮定の領域に限らないことが分かる)、障害がどの様なものかを多少とも思い描くことができる。というのも、神の思考が、真実と何ら関わりをもたないなどと考えるのは不可能だからで、そんなことが言えるのか? 我々人間が、神の思考に関して考えるとき、神の思考を可能にするのは(今のところ、まだ純粋な仮定でしかないが)、真実に介入し、真実に影響を及ぼす思考としてのみ可能なのである。 神の思考は、必ず真実に影響を及ぼし、現実に反映するという事から、人間が、思考において、ある間違いを犯すとき、その間違いは、単なる論理的な間違いなので、それ以上に悪い事はなく、後で、当人がその間違いを悟るに至ったとき、当人は、間違いを正すことができるという結論に不可避的に導かれる。同時に、当人は自己教育を成し遂げたことになる。そして、当人はより賢くなる。 一方、神の思考の場合はどうか。神の思考が正しい思考を行なうとき、正しい何かが生じる。そして、神の思考が間違って思考するとき、何かが破壊され、何かが消滅する。 そのような訳で、もし、人間が神の思考を持っていたら、偽りの概念を持つ度に、ある破壊プロセスを、まず自身のアストラル体の中に、それからエーテル体の中に、そして結局は肉体の中にも呼び起こすことになっていただろう。 もし、人間が能動的な神の思考をもっていたなら、もし、人間の思考が真実と何らかの関係を持っていたなら、偽りの概念を持つことは、自分の内部を刺激して、身体の何処かに、死のプロセス、硬化のプロセスを呼び起こす結果となっていただろう。 なので、できるだけ間違わないようにすることが重要になることが認められるだろう。何故なら、数多くの間違いを犯す結果、身体が干からび、バラバラに崩れ落ちるのに、長くはかからないからで、実際、もし、間違った考えを、現実の存在へと変容できるなら、間違えて間もなく、身体が粉々に砕けることになるだろう。 人間が実際、自分を現実的存在として維持できるのは、人間の思考が真実に働きかけることがなく、思考が真実に到達することから、守られているという事実によるからである。このように、我々人間は、次から次へと(自由に)間違った考えを持つことができる。 〔我々が自由な思考、つまり間違いを犯す思考ができるのは、思考そのものが、真実をもたらさないからであり、つまり、間違った思考から、自らの身体が破壊されないためで、もし、神の思考であれば、間違った思考から、たちまち自らの身体が破壊される。 人間の思考は真実を導かないが、自由に、間違いを犯し得るため、過ちを訂正すべき、次なる機会のときに、その訂正行為を行え、ただし、その訂正にも間違いを含むが、そのように間違いをすこしづつ訂正する事で、自己教育しながら、自らを発展させることができる。 人間は思考を正しいものに近づけ、進化するのではなく、過ちを訂正する度に、自己教育し、進化するのである。だから、人間の思考は必ず間違いを含んだもので、思考に依るのではなく、人間の訂正行為こそ、自己教育であり、進化の道といえる。〕
2008年03月05日
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勝海舟の本を読んでいると、日本人同士が争うのは、この事は、日本人に限らないのだが、特に人間のなかに私利私欲があることを、存分に思い知らされる。 勝海舟は、政局にあたり、とにかく私利私欲を捨て去る事を第一においたという。 私利私欲を無くすことは、お釈迦様か、キリスト様に至って、全くの公人となりえるが、通常の人間には、なかなか至れない境地であるともいっている。 なんせ、「世の中はカクガクシカジカでなければならない」と思う心も既に私心であるからともいっている。 何事も、公平無私の、自然でなければならないといっているのである。 さながら、老子の説く無為自然のことであろう。 さて、海舟の本から、なんの為に海舟と西郷で、明治維新を起こしたかが明らかになるが、その呼吸というか、当時の息吹が感じられる。 いまでは通説にもなっているが、欧米列強の植民地主義を免れる為である。俗に西郷には、その政策がなかったといわれているが、さにあらず。西郷には、島津斉彬から引き継いだ、日本-朝鮮-中国の大アジア連合構想があったのである。 つまり、この三国が共同して、露の南下と欧米の植民地政策を抑えるというものである。 しかし、この構想は頓挫してしまった。それは大久保利通の裏切りである。大久保はそれでも、なんとか形を変えて引き継ごうという意志はあったようだが、伊藤俊輔(博文)に至って、挫折というより、完全なる役者不足の幕切れとなったようだ! 勝海舟は、終生そのことを悔やんで死んでいったようである。 特に、伊藤には何度も忠告したようだが、逆に伊藤は、日清戦争の愚挙を起こしたが、李鴻章に巧く煮え湯を飲まされたようである。 この事が、欧米の植民地政策を加速させたと嘆いているのである。 もし、西郷が生きていたら、朝鮮を説得し、続いて、中国を併せ、必ず三国大連合同盟構想を完成させていたと嘆いてもいる。 しかし、出世に目が眩んだ明治維新の俗物たちに、西郷は西南の役で、その後、大久保も暗殺されてしまうのである。 さて、大アジア構想を頓挫させるのは、欧米にとっては好都合である。欧米といっても、主に英国の金持ち白人、つまり貴族であるが、この貴族は昔、ヴァイキングという略奪の王の血統なのである。 略奪王の手下がアメリカ大陸に来て、アメリカ先住民同士を争わせ、アメリカ大陸を植民地にしたのが、いまの米国政府の原型である。 この略奪方法は、トロイの木馬と呼ばれるようである。木馬のなかに、内通者を入れて贈り物として進呈し、相手が寝ている間に、相手の囲い、防衛を解き、内乱を起こし、外から介入するからである。 一応、英国とは独立戦争を起こし、独立した形になってはいるが、いまでも、人種差別が残っているのは、上流階級の白人の割合から科学的に明らかだろう。 というよりも、英国の略奪の手法をそのまま日本に行ったのが、いまの米国政府である。しかし、日本にも落ち度がないとはいえず、日本も朝鮮に対して同じようなことをしたのが、征韓論なのである。このとき、いわばトロイの木馬が仕込まれたといえる。 つまり、西郷のアジア連合構想が、西郷という人徳を失ったが為に、堕落し、征韓論という唯物的戦争主義に変わったのである。 西洋から、略奪の血、トロイの木馬が入った為に、日本は、西郷という精神を失い、植民地主義に感染してしまったといえる。朝鮮や東南アジアに行ったことを、米国から学ばされたといえるだろう。 アジア人同士、日本人同士争っても、傷つけあうだけで、そのうち国家は略奪され、最悪の場合は、彷徨う民族になるしかない。 日本人は、東西に分かれて戦うのが好きである。古くは源平、関ヶ原では東西、幕末には、幕府と官軍、明治には、薩長閥争い、そして、昭和は陸軍と海軍。もし、陸軍と海軍が、少なくとも一つにまとまっていたら、北進と南進に分かれることはなかったといえる。 日本人同士、争って一体何になるのだろうか?疑問である。 大蔵省と通産省から、いまでは財務省と日銀となり、小泉-竹中というトロイの木馬を仕込まれ、日本は更に財政赤字を膨らませ、官僚は利権に潤っている。トロイの木馬は格差社会を産み落とし、内乱寸前まできている。経済が下降し、庶民の生活が疲弊するにつれ、不満は爆発するだろう。 兎に角、事態を収拾する事が先決である。官僚利権を、庶民への減税へと誘導することである。そして、格差を社会保障により補填し、独立化させなければならない。なにより、欧米化の物真似を避けなければならない。日本独自のシステムを構築しなければならない。かつての江戸幕府は、そのよい手本となるだろう。 勝海舟によれば、江戸幕府は、地方の統治体系をよく取り入れたものであったという。武家諸法度は北条氏、直轄領の内政を含む法制度は、武田信玄の手法を取り入れ、信長、秀吉の商業や手法、地方は、地方独特の統治に任せたという。 江戸城周辺の町は、当時大都市の大坂人を連れてきてつくったという。だから、下町の職人が集まる場所の江戸訛りには、大坂の関西弁の趣きがあるという。いまでも、大坂人が、東京の下町風情に共感できるのは、この事からきているとも思われる。 しかし、歴史的には、今度は、米国が学ぶ番であり、略奪の血は巡り巡って、西アジアに至り、中東では、オイルから、経済に変わり、大アジアが一体となれば、欧米、特に、米などひとたまりもなくなるだろう。 恐らく、中国は、小国の日本などより、アメリカ大陸こそが狙いだろう。日本の技術力と、中東のエネルギーとマネー、なにより人口が、華僑を中心にネットワークをつくると、インドとヒマラヤが思想的に鍵を握るのであろう。 白人の一極統合主義は終焉を迎えつつあることは確かである。
2008年03月04日
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前回、もし人間の思考が、つまり通常知識と呼ばれているものが、真実の領域へと入って行くなら、達成すべき、連続した魂の気分について考察した。そして、「献身」と呼んだ魂の状態へと到達するといった。 もし、前回述べた状態へと上昇した思考、つまり、「驚き」に捉えられ、現実の世界に対する「敬虔」と呼ぶ状態を学び、そして、世界の現象との叡智に満ちた調和の中での、自らの認識と呼ぶ状態を学んだ思考が、更なる上昇により、「献身」の状態として表現した領域へと参入できなければ、真実に至ることはない。 この「献身」の状態は、自ら、思考の不十分さに、何度でも向き合うという決意を持つ努力によって達成される。この事は、次のように表現できる、 「ある気分を自身の中で喚起し、強化する」 ように努めなければならない。 それは、まるで絶えず自分に、次のように言い聞かせるようでなければならない。 「私は、自身の思考が、真実に関する知識を、私にもたらしてくれると期待すべきではない。私が自身の思考に期待できる唯一のことは、思考が、私を教育するということなのである」、と。 最も重要なのは、この考え、つまり「思考が教育する」という考えを、我々の中で発達(発展)させることなのである。もしこの観点を人生の指導原則として取り上げるなら、一見して、お決まりの結論とは全く異なった結論へと導かれる場合が多くなることが分かるだろう。 あえて述べるが、哲学者カントに関して徹底して研究した人は多くはいないと思うが、また、その必要はないが、ただここで、カントの最も重要で画期的な仕事である「純粋理性批判」の中に見られる多くの証明が、問題とされている命題の肯定にも、またその否定にも用いられている事実に言及したい。 例えば次のような命題を取り上げてみる、 「世界には時間の始まりがある。」 カントは、恐らく、同じページの反対側に 「世界は永遠の昔から存在している。」 という命題を載せている。 それから、彼は、これらの命題が正反対のことを述べていることを知りながら、両方の命題を証明するのに有効な証拠の収集にかかる。カントは世界には始まりがあるということも、また、ないということも同じ方法で証明する。 彼はこの論理展開の手法を「二律背反」と呼び、この方法によっては相矛盾した結論に到達せざるを得ないのを見て、この事自体が人間の認識能力には限界があることの証明であると考える。そして、思考によって、真実との何らかの客観的な調和に至れるなら、当然、彼は正しいことを述べている。 思考、或いは概念の練磨、もしくは世界の中での経験を、思考において洗練するといってもよいが、この事により、真実に至れるという信仰に囚われている限り、ある特定の命題と、その正反対の命題の両方が問題なく証明できることを、誰かが来て示してくれても、真に、如何ともしがたい。 何故なら、もし、二律背反に至る思考で、真実に至れるとするなら、一体、二律背反の思考のうちのどちらの思考が、真実に至れるのか。 (例えば、「命令に従うなという命令」は論理矛盾しているし、また、「例外のない法則はないという法則」も論理矛盾しているわけである) 一方、もし、何か決定が必要な状況下で、思考が真実に関して、何らの結論にも導かないということを学んでいれば、つまり、もし、思考を、より賢明にするための方法、言い換えれば、叡智に関する自分自身の自己教育の方法であると見なすように忍耐強く自己教育を行っていれば、ある時にはある事が、また別の時には、その正反対のことが証明されることが、我々の障害になることは全くない。 何故なら、直ちに次のこと、つまり、 「概念をいくら洗練させても、我々を、いわば真実の断片にさえ全く導かない」という、正にその事実こそが、概念とアイデアの領域において、論理が真実に導かないという方法により、自らを、自己教育しようとする際に、完全なる自由をもって活動できる理由であるということを発見するからである。 (人間は必ず間違えるということが、人間が間違いを犯すという自由を通して、人間自身を自己教育する。) もし、我々人間が、真実により絶えず矯正される存在であるなら(人間に絶えず真実だけが与えられるなら)、概念を練り上げることが、完全な自由の中で、我々人間に、自己教育する方法を提供することはなかっただろう。 もう一度繰り返すと、概念を洗練させるということが、我々に、効果的で独立した自己教育の方法を提供できるのは、それが真実の干渉により、一切妨害されないからに他ならない。 〔思考は自己教育の為にあり、真実を把握させるためにあるのではなく、真実を把握するには、真実との融合体験が必要である。体験を通じて、真実は自らを思想として物語る。〕
2008年03月04日
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前回は真の思考の第三段階を述べたが、この第三の段階が経験された後でも、思考において、自分の足で立つことは許されない。 その次に来るのは、人間が真理に至る為に達成すべき、ある意味、正に最高の魂の状態である。その状態は、「献身」、もしくは「信心」と名付けることができる。 「驚き」、「敬虔(尊敬)」、「世界の事象との叡智に満ちた調和」、そして、「世界のなりゆきに対する献身」の段階を通過しなければならないが、それは決して思考を捨てることではなく、これら魂の段階と並行して、常に思考が保持されなければならない。 ただ、これらの魂の段階を通過しない思考の到達先は、単なる(論理上の)正確さであって、真実ではない。 「驚き」から「敬虔」、「世界現象との叡智に満ちた調和」に続き、「献身」と名付けた段階に上昇する処まで要約してきた。最後の段階に関してはまだ要約していないが、次回、述べることにして、今回は終わる。以上全てを心に留めておくと共に、一方で、最初に投げかけた問い、つまり 「何故、精神科(人智)学に反対する為には、ひたすら自らを知的にする必要があるのか」、 という問いについても考察する。 今回の要約は、これら2つの問いをもって終わる。次回、これらの問いに対する答えへと進む。
2008年03月03日
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