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注意すべきことは、鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分な為、摂取と排泄との間に絶えず持続的な平衡状態を保つこと(摂取と排泄がほぼ同時に行われる)である。鳥は飛翔しながら排泄できる。鳥は食べた残りを体内に留め蓄積することはない。鳥には食物を蓄積する機会がない。 もし鳥が食べた残りを体内に蓄積すれば、即座に病気になり、鳥の体をダメにしてしまうだろう。我々が人間である限り、物質的な人間である限り、いわば(今日的な見解に沿って言うなら)鳥よりも進化したわけだが、もっと正確に言えば、鳥よりも(大地の)下方に降りてきたといえる。 鳥は実際、腸菌群落に対して激しい戦いを展開する必要はない。高等動物や人間には必要な、この腸菌群落が鳥の体内には全く無いからである。けれども、人間の高位に置かれた活動というか、例えば以前述べたエーテル的存在を変化させる活動や、光を変化させて変容に導く活動に関しては、鳥と同じ位置に立っているといえる。 人間は物質的な膀胱と物質的な大腸をもつが、これらの器官に関わる、エーテル体に関しては、鳥なのである。実際、このエーテルのような器官は宇宙においては、動(力学)的に存在しない。エーテルに関しては、人間も光を受け取って直接加工し、排泄物として、また排出するということに依っているのである。 このエーテル器官に支障が生じると、この支障に対応する器官がないため、健康を損なう以外に、支障無しに耐えることはできない。だから、この小さな脳を備えた鳥を観察する際に明確にすべきことは、鳥は、人間よりも精妙な、マクロコスモスの生体組織の写像である、ということである。 従って、人間を、鳥よりも下方に降った、粗雑な組織に写し取られた、(鳥の)精妙な組織というような観点から研究すれば、マクロコスモス的に鳥の世界の出来事を研究する必要が生じるだろう。 ただここで言っておきたいことは(これは括弧付きで述べるのが望ましいが)、人間が物質的組織において、鳥類に比較してもつ特性を、そのエーテル的組織においても、同様に持つとしたら、実際、人間の生活は悲しむべきものになるだろう。なぜなら、エーテル的組織は、物質的組織のように、外界から遮断できないからである。 もし、エーテル的組織を外界から遮断できると、変容光を貯蔵する時には、同時に、恐らく、変容光を感じとる臭覚器官が存在することになり、人間の共同生活は、かなり悲惨な状態になるだろう。最も、これは括弧付きで述べるべきことである。羊を死後解剖して、その内部の匂いを嗅いだときに経験するのと同じことが起こるからである。 一方、(遮断できない)エーテル体的存在に関しては、実際、人間として、互いに向き合う形でも、例えば腐肉を食する鳥でさえ、その鳥を解剖した際に不快な匂いを発散しないが、この不快でない匂い(勿論、比較的、相対的に言えるだけだが)に比較できるように、不快ではない。 この不快でないというのは、とりわけ反芻動物、(進化の道のりにおいて)ようやく反芻動物への素質を持ち始めた、例えば、馬のような動物でも(馬は正確には反芻動物ではないが、その組織においては、反芻動物への素質が見られる)、解剖する時に発散する匂いに比較して、不快でない匂いといえる。 つまり重要な事は、外の植物相と動物相に生じている事と、人間の生体組織のなかでの、腸内の動物相と植物相で生じ、それらを克服する存在との対応を調査することである。そして、何らかの薬と器官との関係を確定したなら、いままで展開してきた一般的な特徴付けから、次回以降の講演での個別的な特徴付けへと進んでいかなければならない。
2008年10月30日
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動物相の場合においても事情は変わらない。このような洞察が無ければ、人間と植物薬との関係に到達出来ないのと同様に、外の動物界において形態を与える諸形成力を、人間は自分の(内部の)腸内動物相から取り去ったということについて意識できず、治療用血清の使用に関しても、正しい理解に至ることはない。 この事からわかるが、このように人間と環境との関係を、事実に即して、見据えない限り、理性、つまり、このような真相の体系化は不可能である。更に、もう1つ、非常に重要な事を指摘する。 少し前(1920年)に滑稽にも、至る所で、唾を吐くことが禁止されたとき、甚だ酷い状態になったが、この唾吐き禁止を体験された人もいるだろう。 人々は、この唾吐き禁止により、結核を撲滅しようとしたが、この唾吐き禁止が滑稽なのは、誰もが知るべきことだが、病原菌、結核菌は、ありきたりの分散した太陽光により究めて短時間で殺されてしまうので、僅かな時間の後、痰を調べてみると、痰のなかには、結核菌は死滅させられているからである。 太陽光は即座に、この病原菌を殺すのである。だから、通常、医学上の前提が正しい場合でも、このような唾吐き禁止令は、なおも究めて滑稽なものと言えるだろう。このような禁止行為は、せいぜい、ごく一般的な衛生という面では意味もあるが、最も広義の予防医学にとっては意味のないことである。 事実を正しく評価し始めた人にとっては、この事は非常に大きな意味を持つ。なぜなら、この事は、結核の動物相、ないし植物相に属する存在で、つまり病原菌は太陽光の下では自らを維持できない、ということを示しているからである。 病原菌は太陽光の下では自らを維持できない。太陽光は病原菌には都合が悪い。病原菌が自らを維持できるのは、どのような場合なのか? それは人間の体内にいるときである。それでは、なぜ、人間の体内でなら自らを維持できるのか? 病原菌に、元凶を求めるように見るのではなく、それが体内で活動する状態こそ、探究すべきである。しかし、このとき、注意を払っていないものがある。 人間は、絶えず光に囲まれている。この光は(恐らく、自然科学から記憶しているように)、人間の外の生物の発育にとっても、究めて大きな意味を持っている。特に、光は外界の植物相全体の発育にとって究めて大きな意味を持っている。 人間は、この光に囲まれている。しかし、人間と外界との境目において、この光、つまり純粋にいえば、エーテル的存在に、非常に重要なことが起こっている。つまり光が変化させられているのである。光は変化させられなければならないのである。 丁度、植物化プロセスが人間によって(体内で)阻止されるように、この植物化プロセスが、いわば中断され、炭酸の発生というプロセスによって植物化に抗する働きかけがなされるのと同じように、光の生命のなかにある存在も、人間によって中断される。 従って、人間のなかの光を探究すると、外の光とは何か別の光、つまり光が変容した存在となる。人間(人体)の境界を、内に向かって越える瞬間に、光の変容が見出せる。 すなわち、人間は自らのなかで、単に通常の外界に計測し得る自然現象(植物等)を変化させているだけでなく、計測不可能な存在、つまり光(の生命力)をも変化させているのである。 人間は光をも別の存在に変える。太陽光の下では直に死んでしまう結核菌が、人間の内部では、よく生存するということは、次のような事実を、正しく評価すれば、端的に証明できる。 その事実とは、人間の内部に生じる、この光の変容の産物、既に、この産物に結核菌の生命元素があり、すなわち、結核菌が体内で増え過ぎるとき、この変化した光の状態に、なんらかの異常があることになる。 更に、そこから出発して、結核の原因のなかには、人間のなかで、この変化させられた光、この光の変容に関して、本来起こるべきでない何かが起こっている、ということも有り得ることで、結核菌は常に存在しているが、通常、人間は、結核菌を沢山、過度に取り込むことはない、という事実を理解できるだろう。 実際、結核菌は常在している。ただ通常は充分な数ではないというだけで、人間が結核に屈服すると夥しく増える。この変容させられた太陽光の発達に関連した何らかの異常がない限り、通常、結核菌が何処にでも見つかるというわけではない。 さて、また、この分野の学位論文や研究論文の類を、次のような事柄から引き出すのは(ここでは観点としてしか与えることができないが、その経験的素材は、次のような事柄から蓄積されるだろう)、困難ではないだろう。 つまり、人間が結核菌に適した土壌となる場合に生じる状態は、人間が太陽光を十分に取り入れることができないか、或いは、その人の生活習慣の為に、充分な太陽光を得ていない為に、その人のなかに入ってきた太陽光と、太陽光を変容させて加工した産物との間の均衡が崩れ、その人が、これまでずっと自分のなかに備蓄していた変容光から、貯えを引き出さざるを得ない、ということである。 結核菌に適した土壌;太陽光と、太陽光の変容光との均衡が破れ、備蓄した変容光を引き出す場合 是非とも考慮に入れて欲しい事は、人間は正に人間であることによって、変容光を絶えず自らのうちに貯え持つということである。この変容光の貯蓄は人間の生体組織にとって必要なのである。 人間と外界の太陽光との間の相互プロセスが正しく実現されないと、このような影響下では、丁度、痩せていく場合に、自分に必要な脂肪が肉体から取り去られるように、変容光が肉体から奪われることになる。 そして、このような場合、人間は、上部を病ませるか、或いは上部にとって必要なものを、下部から引き出す、すなわち変容光を、下部から取り出して、下部を病ませるか、というジレンマの前に立たされるわけである。 この事からわかるが、人間は、とりもなおさず、その生体組織の為に、外から入ってきて変化させられた計量可能な実質を必要とするだけでなく、人間を正しく観察すれば指摘できるが、人間のなかには、変容した形ではあっても、計量できない実質、エーテル的な実質も存在しているのである。 しかし、この事から看取すべきことは、このような原理を通じて、太陽光の治癒的作用の為の正しい見解を打ち立てる可能性を、いかに生み出していくか、ということである。 例えば、一面において、周囲の太陽光との相互プロセスが秩序を失っている場合、再び秩序づけるために直接その人を太陽光に曝すことによって、或いは他面において、変容光を取り出す時に不規則になる状態を調整するような実質に、その人を内的に曝すことによって、治療を行うことができる。 このように変容光を(不規則に)取り出すことは、薬剤の作用によって弱める必要がある。ここに、人間の生体組織(の秘密)を覗きみることができる。 光による治療原理 1)太陽光摂取の秩序回復の為の適度な太陽の外的曝露 2)変容光の内的搾取による不規則な変調の為の薬剤投与 ここで、世界全般を観察できる人にとって奇妙な事が起こってくる。そのような人は(些か下品な言い方だが)、しばらくすると(いま述べることは一見反駁される可能性もあるが、そもそも共感も反感も無いという意味で全く客観的といえる)、顕微鏡で観察する全て、つまり微小世界の観察全般に対して、一種の激しい怒りを覚えるだろう。 なぜなら、顕微鏡での観察は、そもそも生命と、生命を妨害する存在との、健全な把握の可能性に導くというよりも、むしろ、健全な把握から、逸脱を生じさせるものだからである。 というのも、健康、病気に関わらず、人間において、関わってくる真のプロセスは全て、顕微鏡(ミクロ)的なものというよりも、巨視(マクロ)的なもののなかに、遥かに、より良い研究の可能性を与えるからである。マクロコスモスのなかにこそ、このような事柄の研究の機会を探す必要がある。 光による治療原理 1)太陽光摂取の秩序回復の為の適度な太陽の外的曝露→太陽光の研究 2)変容光の内的搾取による不規則な変調の為の薬剤投与→薬剤の探求
2008年10月29日
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さて、下腹部の植物化を阻止する上部の反植物化作用に加えて、もう1つ注意すべきことがある。恐らく、日常経験から、次のような事実を経験しているように思うが、十分に評価されていない。唯物的でない、健全な科学では、この事実の正しい評価こそ重要である。 つまり、この事実とは、ある特定の器官について考える瞬間、もっと良い言い方をすれば、その特定の器官に関連する考えを抱く瞬間、この器官にある種の活動が起こるということである。 (人間のなかで、)沸き起こってくる、ある種の考えと、唾液分泌、腸内の粘液分泌、母乳の分泌、尿の分泌、生殖液の分泌等との関連を(ここにも、将来の学位請求論文の為の豊富な領域があるが)、一度研究してみるとよい。これらの生体組織の現象と、並行して現れる、ある種の考えが、どのようにして起こってくるかを、研究して欲しい。 いま注目していることは、どのような性質の事実なのか。魂生活に特定の考えが生じると、それと並行して生体組織の現象が起こってくるのではないだろうか。これは一体どういうことなのか。 思考のなかに生じてくる表象(イメージ)は、丸ごと器官のなかにある。つまり、ある考えを抱き、それと並行して、何らかの腺分泌が起こる場合、その考えの基礎を成し、考える基礎となる活動を、腺から取り出しているのである。 思考活動を、腺から分離させて実行し、腺自身の運命に委ねると、腺は自身の活動に没頭して分泌を行う。この分泌が妨げられている場合、つまり、妨げられていなければ、腺から排泄される分泌物を、思考が、腺に結びつけたままにしているということである。 思考活動(形成力);腺+分泌(排泄)物 この事実から、形成(再生)活動が、器官から思考のなかに入り込んで現れるということを、いわば明白に理解できるように思う。 「そのように考えなかったとしたら、腺は分泌しなかっただろう」、と言うことは可能なのである。すなわち、腺から力を奪い、この力を、魂生活に移行させるからこそ、腺は分泌を行う。 (運動すれば汗が出る。感動すれば涙がでる。思考の結果、排泄物がでる。) この事実から、人間の生体組織のなかに、今までの考察から述べてきたことの証明を見出せる。つまり、人間が霊-魂生活において体験していることは、目の前にある、自然秩序の為に分泌(排泄)した形成(再生)力に他ならない、ということの証明である。 霊魂生活(形成力);生体組織+分泌(排泄)物 (涙は心の汗であるといった俳優がいたが、自然現象のなかから、人間は思考力を、再生(形成)力として取り出しているのである。) (人体内の)腸菌群落(腸内植物相)に並行して、植物相として外の自然のなかで、発達(進化)する力を通じて、外の自然のなかで起こっている現象のなか、この自然の内部にこそ、人間自らが、腸菌群落から引き出した形成(再生)力が潜んでいるのである。 戸外で山の植物相を、草原の植物相を眺めるとき、本来は、次のように言わなくてはならない。 「このなかには、表象(イメージ)のなかに生き、感情のなかに生き、思考のなかに、発達する諸(形成)力が潜んでいる」、と。 従って、腸菌群落は外部の植物相とは異なる。外の植物相からは思考が取り去られていないからである。 外の植物相での思考は、茎、葉、花と同様に植物の内部に潜んだままである。ここでは、花や葉のなかで支配している形成力と、(体内の)腸菌群落を発達(進化)させるときに、人間自身のなかで起こっている形成力との親近性についての理解が得られる。 このとき、腸菌群落に形成力を委ねず、腸菌群落から形成力を奪い去るのである。この形成力を奪い取らなければ、思考する人間にはならない。思考する人間は、外の植物相が持つものを、自らの腸菌群落から取り去ったのである。 (人間は、植物を消化して、反植物化するときに、外の自然のなかにある、本来の思考力を取ってくるのである。外界の自然現象の背後の自然法則を、体内で、思考形成力として取ってくる。)
2008年10月28日
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さて、植物薬による生体組織の再生(治癒)のような事は、いわば一寸した短編小説風に叙述できる。 人間を取り巻く世界の素晴らしい植物相に眼差しを向けると、当然、歓びを、とても大きな歓びを感じるだろう。しかし、羊を解剖し、その解剖の直後に、その腸のなかの、別の植物相(羊の腸内にある菌)を目にするときは、歓びを感じない。 この(羊の体内の)別の植物相は、その発生原因という点でも、外部の植物相の発生原因と、決定的に類似しているが、羊を死後に解剖して、この羊の内部の腐敗臭が、こちらに漂ってくるのを感じるとき、この腸内の植物相、すなわち腸菌群落に対して、歓びを感じるどころではないだろう。 しかし、この事こそ、特に注目すべきである。なぜなら、人間の外の自然においては、植物相を、植物足る性質の軌道にのせる要因であっても、人間(人体)のなかでは、克服されねばならず、腸内に、腸菌群落が発生してはならないことが明白だからである。 このなかには、究めて広範な研究領域が拡がっており、比較的若い、勉学中の医学生に、この研究を勧めたいが、特に、学位請求論文の為に、この領域から、多くを役立てるとよいのではないかと思われる。特に、様々な動物の形態、哺乳動物を経て、人間に至る形態における、腸形成の比較研究という領域からは、得るものが多いように思う。 この領域においては、究めて、重要なことがまだ数多く研究されないまま、残っているので、非常に実り豊かな分野が成立するだろう。 とりわけ、羊を解剖すると、その腸菌群落の為に、酷い腐敗臭が発散されるのに、鳥類の場合は腐肉を食する鳥の場合でも腐敗臭はなく、解剖しても比較的心地よいとさえ言える匂いを発するのはなぜなのか、一度その隠れた事情を探究して欲しい。 このような事柄においては、いまだ非常に多くの事が、今日まで充分に、学術的に研究されていない。この領域における腸の形態の研究に関しては尚更である。一寸考えてみれば、鳥類全体が、哺乳類との、そして人類との本質的な差異を示しているのである。 鳥類の場合、(例えば、パリの医師メチュニコフ(2)のような唯物論的な医師たちは、このような事柄に関して、最大の思い違いをしてきたが)膀胱と大腸は、究めて未発達なのである。鳥類が走禽類となる段階でようやく、大腸の形態、及び膀胱の形態における、ある種の膨隆が見つけられる。(2)Elias Metschnikoff 1845-1905 オデッサ大学動物学教授、後にパリのパスツール研究所副所長。 このように、重要な事実が示される。つまり、鳥においては、排泄物を蓄積したり、一定期間、生体組織内に溜めたりしてから、その排泄物を随意に排出するなどということはなく、摂取と排泄との間に持続的な平衡状態が成立しているのである。 腸内、そして人間の生体組織全般に現れてくる植物相、更に、これから見ていくように動物相のなかに、病因を見るなら、表面的な見方にとどまるだろう。実際、恐るべきことだが、今日病理学の文献を調べてみると、各章毎に新たに、この病気には、この菌(ウイルス)が、あの病気にはあの菌(ウイルス)が発見された云々にぶつかる。 この病原菌(ウイルス)による発病全ては、人間の生体組織の腸内植物学、腸内動物学にとっては非常に興味深い事実だが、病気にとっては、せいぜい1つの指標という以上の意味を持っていない。 つまり何らかの病気の型が根底にあると、人間の生体組織においては、何らかの興味深い微小な動物、或いは微小な植物の形状が、この基盤の上に発達する機会が提供されるが、そうでない場合はそれ以上何もないと言える限りでの、指標にすぎない。 この微小な動物相、及び植物相の発達が実際の病気に関与している程度は非常に低く、せいぜい間接的に関わっているだけである。というのも、この今日の医学内で、展開されている論理は、究めて奇妙なものだからである。 良く飼育されて見事な牝牛が沢山いる土地を発見する場合を考えてみる。その場合、これらの牝牛が何処からか飛び込んできて、この土地が牝牛に感染されたから、このように沢山の牝牛が、この土地にいるなどと言うだろうか。多分、そのような事などほとんど考えられないだろう。 そんな事よりも、この土地に勤勉な人たちがいるのは何故か、何らかの動物の飼育に適した土壌がその土地にあるのは何故かを探究するだろう。要するに、恐らく、良く飼育された牝牛が、その土地にいる原因となり得る全条件(要素)を、思考の拠り所にするだろう。 この土地が、良く飼育された牝牛に感染されたからなどと言うとは考えもつかないだろう。 しかし、今日の医学が、微生物その他に関して展開している論理は、この発言と同じものである。微生物等のこの興味深い生きものが、そこに実在することから見て取れるのは、そこに肥沃な土壌があるという以上のことではなく、この土壌の観察こそ当然留意すべきものなのである。 ただ、例えば、この地方には良く飼育された牝牛がいる、これを何頭か譲ってやれば、もっと勤勉になろうと奮起する人もいるようになり、間接的に、このような事が起こる可能性はある。これは無論、付随して起こり得る事柄である。準備の行き届いた土壌が菌(ウイルス)により刺激され、土壌自体も何らかの病気のプロセスに陥ってしまうことは当然起こり得る。 実際、この菌(ウイルス)という生物の観察は、本来の病気の観察とは、ほとんど関係がない。健全な論理の養成を留意するなら、このような細菌(ウイルス)だけに病因を言及する論理のように、公認された科学からはじまって、健全な思考の荒廃を招くような事は、そもそも起こり得ないはずである。 考慮すべきことは、以前から、その特徴を述べてきた、人間における(身体)上部と下部のある関係が誘因となって、上部と下部との正しい相互関係が成立しない可能性がある、ということである。 その結果、上部の人間の反作用が少なすぎることで、植物化していく傾向を、阻止する反植物プロセスというか、植物化プロセスを阻止できない力が、下部の人間において活性化する可能性がある。そうすると、腸菌群落(腸内植物相)が夥しく蔓延る機会が与えられ、そして、この腸菌群落は、正に人間の下腹部が、正しい形で働いていないことを示すものとなる。 人間(人体)のなかでは、下部の規定(水準)に従って生じるべき活動が、下部で生じ得ない場合、堰き止められ、押し戻されるという特殊な事態が起こる。つまり、下腹部において、この下腹部に組織されている特定のプロセスが生じることができない場合、これらのプロセスは、押し戻される。 このような言い方は素人臭いが、今日通用している病理学に少なからず見つけられる表現よりは、科学的といえるものである。人間の下部において規定通りに生じるべきプロセスが、上部へと押し戻されるわけだが、肺の排出や、肋膜その他のように、上部における排出全般についても、その原因を、人間の下腹部の正常、もしくは異常な排泄プロセスと、いかに関連するかを調べることで、追求する必要がある。 生体のこのようなプロセスが下腹部を通じて、上半身に向かって押し戻されることを正確に見ていくことが究めて重要である。上半身で起こりうることの多くは、下腹部から押し戻されたプロセスに他ならない。上部人間と下部人間との間に正しい関係が成り立たないと、これらのプロセス(反植物化作用)は押し戻される。
2008年10月27日
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「ヨガの喜び」という本から、抜書きしたい。 この本には、悟りをひらくという項目がある。「悟りをひらく 大切なのは、まず、自分の考えをもつこと。それは同時に、人を納得させられる真理でなくてはならない。 体験の少ない人が自分の主張らしいものをすると、少ない知恵だけに固執するから、いっけん意志強固に見える。 しかし、これは自分や世界の本当の姿を語ってはいない。つまり、自分の都合とか利益といった「はからい」の心が強い。 真理とは、他の人に、細かいところに意見の違いはあっても、根本的にうなずいてもらえる考えのことだ、それは、もはや自分の意見を言っているのではなくなっている。 次の2つのことの違いがおわかりだろうか。 人間が歌を歌う 歌を人間が歌う はじめの方は、人間が中心になっている。あとの方は、歌が中心になっている。 意見をいうときも、人間でなく真実を中心にする。自分が話をするときは、あくまで真理だけを中心にするべきで、自分の考えを中心にしてはいけない、という意味だ。 (略) 『僕は、』とか、『でも、私は』と自分の立場ばかりを主張するのは間違いだ。 (略) それでは、どうしたら悟りがひらけるのか。 悟りとは、自分の心が如実(真実)とひとつになること(如来という)である。物事の本当がわかって、それが自分の考え方と生き方になっていることである。 (略) 社会とは悟りをひらいた人間の集まっているところであるべきだ。羊は、一頭が走り出して崖から落ちると、後に続くものも全て同じ行動をするという。 これと同じような事が、人間の社会に起こってはならない。他人の考え方の奴隷にならないことだ。」 大阪府は、大阪府は、と、まるで、自分が大阪府であるように語る。では、大阪府と、知事は、イコールなのだろうか? 大阪府は、知事が一人住む場所ではない。大阪府に暮らす人が、皆、幸せになることを願い暮らす場所である。 大阪府を将来、どのような町にしたいかというヴィジョン無しに、ただ、財政削減ばかりを強調する。とってつけた、どこかの削減の考え方をそのまま用いている。 勝海舟は言っている。経済をよくするのは、いかにケンカをなくし、仲良くするかであると。 ケンカばかりしていると、競争しあって、金ばかりかかって、浪費し、赤字になるよ。 といって、大奥で、反目し合っていた和宮と篤姫を仲直りさせたようだ。それから、姉妹のように、何でも相談しあって、仲良くなったという。そして、篤姫は、質素倹約の主となったようである。 倹約、倹約といって、ケチってばかりいると、逆にケンカばかりして、どんどん赤字になるよ。 だから、倹約なんていわないで、どんどん使いなさいといってけしかけるよ。そうすると、こんなに使って大丈夫かとそのうちに不安になって、自分で節約するようになるという。人間の心は、天邪鬼だよ! というようなことを、勝は言っている。心をうまく掴むのが為政者の技だという。だから、政治の秘訣は、正心誠意だと、勝は看破している。正心誠意のみが、人の心を掴み得るからだろう。
2008年10月24日
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さて、今回は、誰もがよく知っている事実から始める。この事実は、自然科学や、医学的思考との関連では、全く正当に評価されていないが、人間の人間外の自然に対する関係を判断するための基礎を提供してくれるものである。 この事実とは、三つの部分から成る存在としての人間、すなわち、神経-感覚存在、循環存在、つまり律動的存在、そして新陳代謝存在の人間は、新陳代謝存在であることにより、外の自然、植物界で生じている事象に対する陰画(ネガ)として関係づけられる、というものである。 人間は、 1.神経-感覚存在、 2.循環存在、つまり律動的存在、 3.新陳代謝存在 の3つの部分からなる存在。 そして、新陳代謝存在に対しては、植物のネガ(逆)となる。 次のような事実を、魂の前に描き出して欲しい。 つまり、外の自然において、差し当たり、植物界だけを観察すると、植物相においては、いわば炭素を集積し、この炭素を全植物相の基盤とする傾向が認められるという事実である。 人間は植物に囲まれることで、炭素の集積に基づいた本質を持つ有機体、形成物に囲まれるわけである。この形成の基礎を成すものは人間の生体組織にも現れているが、人間の生体組織は、その本質において、形成の過程(プロセス)で、いわば発生期状態が進行していくうちに、この形成を止揚し、破壊して、代わりに、その反対の形成(反形成)を取り入れなければならない。 このプロセスの端緒は、内部の、これまで、「下部人間」と呼んできたなかに見つけられる。炭素を沈殿させ、いわば自身の力から植物化プロセスを始め、その後、上部組織に誘導されて、この植物化に抵抗しなければならない。 つまり、炭素に酸素を対抗させることで炭素を止揚し、炭素を炭酸に加工することで、人体のなかに植物化に対抗するプロセスを形成していかなければならない。 (下部人間において、炭素を沈殿させ、外界の植物(物質)のネガ(霊化)となるような植物化を行い、上部人間においては、酸素を取り込んで、下部との均衡を図る。下部の食物摂取と、上部の呼吸により、その均衡において、炭酸を産出する。) 人体の至る所に、この外の自然とは反対のプロセスに注意する必要がある。 というのも、この事に注意すれば、人間の真実を、益々根本的に理解できるようになるからである。人間の重さを計っても(物理学的研究方法に則った他の研究に対しては象徴的に、このような言い方ができる)、人間自身(生命)を理解できないが、次のようなことを考慮すれば、人間のメカニズムについて、直に、何らかの真実が理解できるだろう。 脳の重量は良く知られているように、平均1300グラムだが、この重量で頭蓋の下半分の面が圧迫されることはない。なぜなら脳のその重量で、圧迫されたなら、脳の下にある、繊細な血管が拡がっている部分全てが押し潰されてしまうからである。脳が自らの土台を圧迫する重さは、せいぜい20グラム程度である。 1300-20=1280グラムが重量をもたないのは、脳が脳水のなかに浮かんでいるという事実の為に、良く知られたアルキメデスの水圧の原理に従って浮力を得た結果、脳の重量の大部分は作用せず、浮力により止揚されているからである。 このように、脳の重さが克服され、自らの生体組織の重量ではなく、(重量の)破棄のなか、つまり、物理的重量とは、反対の力のなかに、人間が生きているということは、人間の他のプロセスの場合も同様である。 実際、自然現象が作り出すなかではなく、自然現象を止揚したなかに、人間は生きている。 実際、外の自然の中や、植物界の最終形態を、体験する過程(プロセス)として知覚できるようなプロセスのなかに生きるのではなく、植物化を止揚することにより、人間は生きるのである。 この事実は、病気に罹っている人間の生体組織と植物薬との間に、橋を架けようとするなら、当然本質的に問題となってくることである。
2008年10月24日
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前回の議論は、確かに極めて興味深いもので、今、目にした質問との関連で、既に行ったことだが、やはりもう一度、次のような事を強調しておく必要がある。 「個々の治療薬と個々の症状との関連を見つける為に充分な方法は、これまでの考察のなかで前もって、ある基礎的問題を処理してからでないと得られない」ということである。 これらの基礎的問題によって、ようやく、人間の外にある存在から、薬が取り出せ、人間と人間外の存在との関連に関する認識の有効範囲を推測できるようになる。特に、個々の治療薬と個々の器官との関係について語ることは、これらの基礎的問題の処理が無ければ不可能である。 その理由は明白で、この薬と器官との関係は、単純ではなく、些かに複雑で、この基礎的問題を処理してからでないと、この本来の意味を推し量ることができないからである。 基礎的問題の処理に続き、治療薬、特に治療処置と、個々の疾病器官との具体的関係を、実際に議論する可能性が出てくる。しかし、今回も早速、前置きとして、とりあえず、1つの事柄を受け入れて欲しい。 その事から、ある光が当てられることもあり、当然、最初はショックを与える事柄である、ということを先に強調しておく。前回、検討された関連で述べたいのは、物事の別の側面に留意して欲しいということである。 前回、全く特定の治療に関して、非常に啓発的な事例を数多く紹介できた事は、究めて満足のいくところである。さて、このような特定の治療を、単純に(不特定に)そのまま用いると、恐らくほとんど意味をなさないものにしてしまうだろう。 だから、このような特定の原則を、そのまま単純に用いないように(勿論、このような手段をそのまま用いることも考えられるが)、紹介する。 このような原則に関して、勿論、人智学的素養者の下でしか述べることができない。この原則というのは、リッターの治療法(1)を、普遍的にする、あらゆる策を講じるなかに見つけられる。(1)リッターの治療法:「M・リッターの光力学的治療の実践的応用のための手引き」(ミュンヘン、1913) 及び「神経-力学的治療法―蛍光素材及び発光(ルミネセンス)素材の細胞領域と神経死に対する作用に関する研究と経験との関連」(ライプツィヒ、1905)参照。 治療の成功に関しては、1人の医師という個人に帰することだけを尊重するわけにはいかない。確かに、個人として、次のようなことを意識している人もいるかもしれない。 自分は1人の医師として、大きな医師集団に対して戦わなければならない。けれども、リッターの治療法を大学の主要件にした途端、その原則に染まってしまい、リッターの治療法とは反対の立場には、もはや立てず、非常に多くの(全てとは決していえないが)病気が癒されるので、リッターの治療法ではない、これまでの自分の治療の成果が、今度は著しく減少するという経験をするというような、意識をもつ方もいるだろう。 現実の生活においては、このような矛盾が考えられる。つまり、普通考えられているものとは、現実はほとんど異なっていることが多い。医師個人としては、1人1人の人間の治療が最大の関心事であるのは当然だが、現代の唯物論的な医学は、1人1人の人間の治療に専念するような一種の法的根拠というべきものを、この専門化というべき、唯物論的医学において探し求めてきた。 実際、この法的根拠は、「そもそも病気というものは(単独では)存在せず、存在しているのは病人だけである」、と言われる処にある。 確かに、人間が、病気に関しても、今日、外見的にみえるように、(特定疾患の患者として)周囲から隔離されているなら、このような根拠も真のものとなるが、実際に起こっていることは、病気が単独で存在することが、大きな意味を持つほどに、人間が、隔離されておらず、以前、E.博士が言及されたように、ある種の病気の罹患期間(スパン)は、かなり広範囲にわたり、ある人を治したとしても、別の場合には、また別の人たちに、同じような病気を発症させていることも充分考えてみる必要がある。 個々の病例を、プロセス全体のなかに置いてみないと、個別的には、甚だ驚愕させられるものである。けれども、人類の治癒を、全体として見る人は、やはり別の角度からも語る必要がある。 この事から、一面的に、臨床的な方向付けをするだけでなく、完全な病理学を基にして、治療を引き出してくることが是非とも必要となる。ここで試みようとしている事は、通常の経験的-統計的な思考に、一種の理念、理性をもたらすことである。
2008年10月23日
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唯物論的時代において、次第に、いわゆる最も単純なものから最も複雑なものへと、外見(唯物論)的存在の進化論を考えるようになった。最初に下等生物に観察範囲を広げた後で、最も複雑な生物まで形態の変化を研究し、更に無生物、例えば鉱物界にも注目した。 鉱物界に注目して、鉱物界は植物界よりも、いかにも単純である、と考えた。結局、この事から、鉱物界からの生命の発生とか、無機的な集合体から有機的な集合体へと物質が集合する為に、かって存在した条件といった事に関する、あらゆる奇妙な問題を生み出すことになった。いわゆる「自然発生」(1)は多くの議論をよんだ。(1)Generatio aequivoca:もとのラテン語の意味は「多義的な生殖、発生」で、一般には、神の創造行為によらない地球上の生命の発生に関する仮説。 偏見をもたずに観察すれば、このような見解は全くの間違いであることが明らかになる。そこから、次のように言わなければならない。 「そもそも、何らかの方法で、植物から動物を経て人間に至る1つの進化が考えられるのと全く同様に、今度は生物から生命が取り去られることによって、生物すなわち植物から鉱物に至る1つの進化(退化)も考えられる」、と。 (先に述べたように、今回はこの事を暗示するだけで、後日の考察で更に明らかにする。) 進化というものを、鉱物から始まって植物的存在を経て、更に動物的存在を通って人間に至る、という風に考えるのではなく、出発点を中間に取って、植物的存在から始まって動物的存在を経て人間に至る1つの進化を考え、今度は逆に、鉱物的存在へと下っていく、もう1つ別の進化を考えると、つまり出発点を鉱物に置かず、自然の真ん中(進化と退化の中心)に置いてみると、一方は上昇する進化を通じ、もう一方は下降する進化(退化)を通じて、出現することがわかる。 この事から次のようなことが洞察できる。つまり、植物から鉱物へ、特に、これから見ていくように、究めて意味深い鉱物、すなわち金属へと下降していくことにより、この下降する進化(退化)においては、その鏡像である上昇する進化に対して、全く特別の関係にある諸力が現れる、ということである。 (シュタイナーの進化論は、進化の中間体を中央に置き、そこから、上昇する進化と、下降する進化を表現する。ダーウインの進化論は、この点で一方通行であり、一面的で間違いだと説く。 シュタイナーは、例えば、中間体を、植物の原型とし、そこから上昇したのが、動物で、更には人間に至り、逆に、植物から下降したのが、鉱物であると説く。 人間についても、地球の前段階、当時は、月と呼んでいたが、そのとき人間は、サルと人間の中間体だったという。その中間体から、上昇したのが、人間で、下降したのがサルだという。ダーウインは、一方しかみていないといえる。) 要するに、鉱物には、いかなる特別の力が存在しているのか、という問いが、我々の魂の前に提示される。この特別な力を研究可能にするのは、下等生物において研究してきた形成力を、鉱物においても研究するときだけである。 鉱物の場合、この力は結晶化のなかに現れてくる。この結晶化が、非常に明確に示すものは、下降する進化(退化)の観察に出現し、上昇する進化の観察に、形成力として出現する存在と関係するが、同じではない力である。 従って、鉱物のなかに、力としてある存在を生体組織に供給すると、新たな問いが生じる。これとよく似た問いには、次のように答えることができた。 つまり、「霊-魂により、生体組織から取り去った形成力を、植物界、動物界から取り出して人間の生体組織に供給すると、生体組織を助けることができる」、と。 しかし今度は、下降する進化(退化)、すなわち鉱物界のなかに存在する別の種類の力を人間の生体組織に供給すると、どんなことが起こるか。今回は、この問いを出しておいて、考察を進めつつ詳細に答えようと思う。 しかし、それでもやはり、これまでの考察の初めに出された問い、「自然から治療プロセスを密かに、自ら学びとることができるか」、という問いに、正しい意味で、有用に活用するところまで、到達していない。 このような問いにおいて、常に重要なのは、正しい洞察力をもって(このような事柄に関して、少なくとも概略的には、以上のような洞察力が得られるように試みてきたわけだが)、自然に近づくことである。そうして、はじめて、ある出来事の本質が顕現する。この事が重要である。 さて、人間の生体組織には、二つのプロセスが存在し(この事は、動物にも存在しているが、差し当たり重要ではない)、今までに得た理念を備えて観察すると、ある意味で対立するプロセスとして現れてくる。 この両者は完全に対立しているわけではないが(この説明を誤解しないように注意を強調しておく)、かなりな程度まで対極的なプロセスである。 この対立する二つのプロセスとは、人間の生体組織に出現する、血液形成と乳汁形成のプロセスである。血液形成と乳汁形成、この両者は既に外面的な点で本質的に異なっている。血液形成は、いわば人間の生体組織の隠された面へと強力に引き戻されている。乳汁形成は、最後には、血液形成とは逆のむしろ表面の方へと向かう傾向をもつ。 人体の外へと進む;乳汁形成プロセス 人体の内部へと進む;血液形成プロセス けれども人間そのものを観察すると、血液形成と乳汁形成との間の本質的な差異というのはやはり、血液形成は、形成力を自ら造り出す能力を、自身のなかに非常に多量にもつという点である。血液は実際、俗っぽい言い方をするなら、人間の生体組織の予算全体のなかに、(利潤)形成力を繰り込まねばならない部分なのである。 つまり血液は、下等生物において認められる形成力を、ある意味でいまだもっている。この形成力を自らの内部にもっている。近代科学(20世紀初頭)が、血液を観察するなら、ここに非常に依拠できる重要な存在があるが、結局、真に合理的な意味において今日まで、見つけられていない。 近代科学は、血液の主要成分は赤血球であり、赤血球は増殖能力を持たず、つまり増殖力が無いという特性を持つ、ということを拠り所にできる。増殖力が無いという点は神経細胞と共通している。 けれども、このような共通の特性を強調する際に重要な事は、共通である理由が、両者とも同じなのかどうか、ということだが、その理由は同じではない。なぜなら、神経細胞から取り去った程には、人間は、血液から形成能力を取り去ってはいないからである。 実際、表象(イメージ)生活の基礎を成す神経実質は、かなりの程度、内的な形成能力を欠いている。人間の場合、生後しばらくの間は、神経実質は、まだ遥かに外界の印象に依存しつつ、それを模して形成されている。 つまり、ここでは内的な形成能力は、外的な影響にもっぱら適応する能力に対して後退している。血液の場合、事情は異なる。血液は内的な形成能力を高度に保持している。この内的な形成能力は、生活上の事実からわかるように、ある意味では乳汁にも存在している。 なぜなら、乳汁に形成能力がなかったら、健康に良い食品として母乳を乳児に与えることなどできないからである。乳児は母乳を必要としている。乳汁のなかには血液と似た形成能力がある。だから、形成能力という点においては、血液と乳汁の間には、ある種の類似がある。 けれども少なからぬ違いもある。乳汁は形成能力をもつ。けれども、血液がその存続のために最高に必要としているものを、乳汁は持たず、少なくとも少量、ほんの僅かしか持っていない。その形成力の相違とは鉄にある。 鉄は基本的に人間の生体組織内で唯一の金属であり、人間、つまり人間の生体組織との結びつきにおいて、自ら整然とした結晶化能力を示している。従って乳汁が他の金属を微量にもつとしても、いずれにせよ、血液は自らの存続の為に紛れも無い金属である鉄を必要としている、という点に違いがある。乳汁も形成能力をもっているが、鉄を必要としない。ここで、なぜ血液は鉄を必要とするのか、という問いが生じる。 これは結局、医学という学問全体の根本問題なのである。血液は特に鉄を必要とする。今回触れた事実に関する判断材料は、既に、ここにある。まず確認しておきたいのは、血液は人間の生体組織において、それ自身の本性により、ひたすら病み、鉄によって絶えず癒されなければならない実質である、ということである。 乳汁の場合、この事は当てはまらない。乳汁が血液と同じ意味で病んでいるなら、それは人間自身の、健康や成長の為の母乳類の形成手段、つまり、人間にとって、外から与えられた形成手段となることが不可能だからである。 血液を観察すると、人間を構成するために、その組織構造の故に、常に幾分病んでいる状態が観察される。血液はひたすら、自身の本性により病み(不安定で)、鉄の付与によって絶えず治療(安定化)され続けなければならない。すなわち、血液のなかで生じているプロセスにおいて、人間の内部に絶え間ない治療プロセスをもつのである。 医師が自然を通じて試行するなら、自然のなかの既に異常なプロセスを観察するのではなく、正常なプロセスを観察しなければならない。血液プロセスは確かに正常なプロセスではあるが、同時に、自然自体が絶えず治療し続けなければならないプロセス、自然が、付与した金属、つまり鉄により絶えず治療し続けなければならないようなプロセスなのである。 そのような訳で、血液において生じていることを図で示すなら、次のように言わなければならない。血液が鉄無しで自身の構造だけでもつものは、下に向かう曲線、ないし直線で、これはとどのつまり、血液の完全な分解に至る(図、赤い線)。一方、血液中で鉄が働きかける力は、常に上に向かい、絶えず癒す(黄色の線)。 実際、ここからわかることは、正常なプロセスであると同時に、元来の治療プロセスとして考えるなら、治癒モデルとして形成すべきプロセスである。ここにおいて、真に自然を通じての試行が行えることがわかる。 自然が、人間の外にある金属の力を人間に付与することで、いかにプロセスを完了しているか、血液と鉄の関係において、理解できるからである。 そして同時に、あくまで生体組織のなかに止まろうとする、すなわち血液が癒される必要があり、生体組織から外へと向かう、すなわち乳汁が癒される必要がないこと、乳汁は、形成力をもつとき、形成力を他の生体組織へと健全に導けることも理解できる。 これは一種の両極性である。一種であって、血液と乳汁との完全な両極性とはいわないが、この両極性に目を向ける必要がある。この事を手懸かりに、非常に多くのことが研究できる。これを次回更に継続していく。 以上のことを全て前もって、述べなければならなかったのは、質問を見て、返答の為の概念、基礎があれば、全く違った手法で質問に答えられることがわかるからである。 乳汁の形成力→植物から動物を得て人間へと上昇する曲線 血液の形成力→植物から鉱物へと下降する曲線、そのため鉄という鉱物により形成が完了する。 (神秘的には、乳汁の形成力を上昇する蛇で表し、血液の形成力を下降する蛇で表す。両者を融合したのが、カドケウス、モーセ、メリクリウスの杖であり、いまでも、医術の紋章となっている。) 以下を参考に(進化を意味し、宇宙霊神ロゴスの言語と解される) ケーリュケイオン
2008年10月22日
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今日の心理学を構成するような言葉ではなく、自らの心理学的組成の実質により、心理学者足りえる者は、根本的に、思考、感情、意志のプロセスを次のように追求しなければならない。 (身体)下方では、造形的な形態化のなかに出現する事象を、上方では、霊-魂だけに経過するものとして、思考、感情、意志のプロセスのなかに明確に示していかなければならない。 もはや生体組織には不可能な事を、いかに内部(精神)の魂のプロセスにおいて、行っているか、少し考えてみる。 この(前回の再生)力を、いわば、忘れてしまった一連の思考といえる(霊魂の)プロセスを、他の事象から補完できる。この補完の手法は、前回、(下等生物の再生について)直接隣り合った器官部分ではなく、それとは関係のない組織が現れる、と説明した事実とよく似ている。 内(精神)的-魂の体験と、外界にて形成される自然の諸力、いわゆる形成の自然の原理との間には、完全な平行現象が成立している。精神と物質の間には、完全な平行現象が成立している。この平行現象に注意を払わなければならない。 そして、人間に対して、根本的に外界での形成原理として、存在するものは、人間が霊-魂生活として、自身の生体組織から取り出した存在で、その結果、自身の生体組織においては、もはや物質素材としての実質の基礎にはなっていない、ということを示さなければならない。 とはいっても、それ(物質素材から取り出した再生力)を、生体組織全体から、同じ割合で取り出したわけではなく、その取り出し方はそれぞれ異なっている。いま展開したような予備知識を、いわば身に備えている場合だけ、人間の生体組織に、相応しい方法でアプローチできる。 というのも、神経系の構成全てを観察すれば、次のような特徴に気づくからである。つまり、通常、神経細胞、或いは神経組織などと呼ばれるものは、根本的な形成物で、比較的初期の発達(進化)段階に止まり、それほど進化した細胞形成物ではない、ということである。 (神経細胞は、細胞としては未分化の古いものであるという) 従って、このような神経細胞は、初期の原始的な細胞形成の特徴を示すことが期待できるので、別の細胞との関連においては、全く異なる描像を示す。なぜなら、例えば、神経細胞は、増殖力を持たないからである。神経細胞は、血液細胞(赤血球や血小板、分化停止した血液系細胞)と同じく、形成されると分割不可能で、増殖できない。 (神経細胞の増殖や血液細胞の増殖には、現代の観点から、異論が多々あると思うが、シュタイナーの観点からいえば、体内と体外では、そもそも細胞は別物であり、ここでいう増殖能は、体内に限ったものである。 つまり、体内では、神経幹細胞は、なんらかの損傷がない限り、再生されないという意味で捉えて欲しい。また、体外に出た細胞は、もはや、人間の自我(霊)の支配下にはないので、下等生物と同じ働きを行うと考えてよいだろう。 体外に出た神経細胞が、ニューラルネットを構築して、思考することなど、もはや有り得ないからである。この観点を推し進めると、体内にありながら、体外と同じ振る舞いを行う細胞の存在が明らかになる。それが、癌細胞である。癌細胞は、体内にありながら、自我の制御下にないので、体外と同じ独立した働きを行うのである。) つまり、人間以外の(動植物)細胞に与えられた能力が、比較的、初期段階に神経細胞から奪われているのである。この増殖能力が取り去られている。神経細胞は初期の進化段階にとどまり、いわば、この進化(初期)段階で麻痺させられている。 この神経細胞のなかで麻痺させられた力(増殖-再生力)が、霊-魂として、自らを分離する。その結果、実際に、自らの霊-魂プロセスによって、かって器官的実質のなかで、自ら形成した存在に回帰するが、この回帰に到達するには、比較的初期の段階で、自らを殺した、少なくとも麻痺させた神経実質を、自ら所有することで可能になる。 (神経細胞は、進化を止め、未分化に止まることで、下等生物と同じような再生力を確保したという。そのために、通常、他の細胞と同様に、増殖能力をもたず、損傷のときのみ、代替的に、再生力を発揮させるという。 さて、ここには、なぜ、神経を「神を経た」と表現するかの意味も隠されている。神とは、初期状態に止まる永遠の完成体である。初期であり、最終であるわけで、常に同じ完成された状態という意味でもあり、聖書ではアルファであり、オメガであると記されている。 つまり、神には、物質とはならず、霊体のままに止まる永遠の存在という意味がある。物質になると、時間に支配され、時間の制限を受ける。だから、時間の制限を受けないために、永遠となるために、自らを何遍も改める存在といえる。つまり、生まれ得ない存在で、生まれ得なければ死もない、不死の存在なのである。 神経細胞は、増殖能力を失う代わりに、霊魂という永遠性を手に入れたというわけである。) このように考えることで、神経実質の本質に近づける。更に、この神経細胞が、一面では、かなり原始的な形成に類似するように見え、更に発達(進化、分化)した段階でさえも、原始的形成に類似するかのように見えるにも関わらず、神経細胞が、通常人間において最高とされる精神活動に奉仕する、という特性を備えているのはなぜか、ということがわかる。 (トカゲの尻尾の損傷再生力を、神経細胞は、下等生物の進化段階に止まることで、その再生力に類する同じ力を手に入れたという。) 思うに(これはちょっとした挿話で、考察の本筋ではないが)、人間の頭部を表面的に観察するだけでも、つまり人間は頭部のなかに様々な神経細胞をもち、この細胞が固い装甲(頭蓋骨)で覆われているが、この事は、高度に進化した動物よりもむしろ下等な動物を思い起こさせる。 (人間の頭部は、昆虫に似ているともいえるだろう) 人間の頭部自体が、いわば有史以前の生物を想起させる。有史以前のような生物を一寸変形させただけのようにさえみえる。下等生物について語るとき、通常、次のように言う、「下等生物は外骨格を有し、高等生物と人間は内骨格を有する」、と。 けれども、人間の最高度に発達しているようにみえる頭部、この頭部だけは外骨格をもっている。この事は、少なくとも先ほど述べた事の一種のライトモチーフになるだろう。 さて、一寸考えてみると、このように(人間の)生体組織から奪われてしまった再生力を、病気と称する状態を通じて(この事は更に詳しく述べる)、生体組織に補給するよう働きかけるなら、つまり、この形成(再生)力、(人間の)外の自然のなかには存在するが、人間は、それを、霊-魂の為に使うので、(人間の)生体組織からは奪われてしまっている、この形成(再生)力を、植物等を使うことで、薬剤として再び生体組織に補給するなら、生体組織と、この生体組織に欠けている形成(再生)力とを結びつけることになる。 我々が人間になることによって、生体組織から取り去られた形成(再生)力を、生体組織に、再び、付与することで、生体組織の支援を行うのである。 差し当たって、ここで、治療プロセスと呼び得る姿が仄かに見えてくるだろう。つまり、治療プロセスとは、人間が通常の状態では有しない外の自然の諸力を、援助として利用することであり、通常の状態よりも、自身の内部において、(形成)強化するために、自然の力を用いるのである。 (薬剤とは、人間に再生力を促す切欠を与えるものであるといえる。人間の霊魂には、下等生物に生まれつきある再生力が存在するので、薬剤は、霊魂に、その再生力を思い起こさせる働きをするわけである。 キリストは、人間のなかに神殿があり、神殿を通じて発揮される治癒力は、人間のなかに眠っているだけであるといっている。祈りや神への信仰は、人間のなかに隠された神殿に参入し、蘇らせる行為なのである。病気に罹るということは、そのことを忘れてしまったことに他ならない。 だから、キリストは、神のためにひたすら祈れと言ったのである。しかし、我々現代人が忘れてしまったことは、あまりにも大きいといわざるを得ない。太古人には、病気の概念すらなかったからである。 そのかわり、現代人は病気に罹るという自由を手にいれた。) ここで、少し具体的な話をする為に、といっても、ただ例として挙げるだけだが、例えば肺という器官を取りあげてみる。この器官についても、人間は、霊-魂の為に形成原理を、この器官から取り除いた、ということが判明するだろう。 今度は植物界において、肺から取り除いた、この諸力に辿り着き、肺組織に、何らかの障害がある人間に、この諸力を付与すると、この人の肺の働きに援助をもたらすことができる。そうすると、次のような問いが生じてくる。 「人間の諸器官の基礎を成すが、霊-魂の活動の為に取り除かれてしまった諸力、人間の外の自然においては、このような諸力に類似するのはどのような力なのか?」、という問いである。 ここに、単なる試行錯誤的な治療から、一種の理念、理性(ラツィオ)からの治療に至る道を見つけるであろう。 しかしながら、ここには、神経組織、つまり人間の内部に関して、人々が陥っている誤謬と並んで、人間の外の自然に関わる、些かならぬ誤謬が存在する。今回は、この事を暗示するだけに止め、次回から更に詳しく説明する。
2008年10月21日
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さて、今回はまず、人間の外の自然における、あるプロセスを手懸かりに、これらのプロセスが、多くの点において人間の(内部の)自然プロセスと、いかに異なっているかを明確にすることから始めたい。 まず、下等な動物や植物において観察できるプロセスから始めて、更に、人間の外にある一般、つまり植物界、動物界、特に鉱物界から取り出されるものにより引き起こされるプロセスへの道を見つけたい。 しかし、純粋な鉱物質の特徴にアプローチするには、基本的な自然科学的表象(イメージ)から出発し、更に、例えば砒素や鉛といった、(鉱物の)薬剤でないものを、人間の生体組織のなかに取り入れる際に生じるプロセスへと上昇していくときに、はじめて可能になる。 ここでまず指摘すべきことは、人間以外の存在では、成長における形態変化が、人間の(内部の)自然とは全く異なっているということである。 人間のなかの本来の成長の原理、生きた成長の原理を何らかの方法で考えないといけないが、人間以外の存在の成長原理をも、同時に考えなければならない。しかし、根本的な意味を持つのは、そこ(人間内と人間外との間)に生じてくる差異である。 例えば、何か非常に身近なもの、通称ニセアカシア、ロビニア・プセウドアカシアを観察してみる。このニセアカシアの葉を葉柄のところで切り取ると、興味深いことに、葉柄が形態変化によって、多少変形し、更に、この変形して瘤状になった葉柄が、葉の機能を受け継ぐということが起こる。 ここに、とりあえず仮説として、1つの力と呼べる存在が強く働いている。この力は、植物全体のなかに潜み、その植物が、正常に形成された器官を、特定の機能に用いることを妨げるときに発現してくる力なのである。 成長する植物では、非常にはっきりと現れている形態の名残(遺産)というようなものが存在している。ということは、人間の場合も、何らかの理由によって一方の腕、或いは手を、何らかの機能に用いることを妨げられた人は、もう一方の腕、或いは手が、以前より力強く形成され、物理的にも大きくなる等といった事例により証明できる。 このような事柄を互いに結びつける必要がある。なぜなら、このような知見が、治療の可能性への認識に至る道だからである。 さて、人間の外の自然においては、事態は非常に広範囲にわたっている。例えば次のようなことが観察できる。山の斜面に、ある植物が生えている。このような植物は、葉を形成しない形で、特定の葉柄を発達させる、ということが起こる。 (葉を未完成な状態に、つまり未分化にし、その分、葉を支える葉柄を発達させる。つまり、葉の形成プロセスに進まずに、その前段階の、葉柄の形成プロセスに、その力を使ってしまうのである。) 葉が生えずに、対して葉柄は湾曲して、支持する器官になる。葉は萎縮し(図)、葉柄は湾曲して支持器官となり、自らを支える。 山の斜面に生える植物は、変形した葉柄を備え、葉が萎縮した植物である。植物が、その環境に限定された生存様式に広範囲に適応できるということは、植物において作用している内(精神)的形成力の存在を示している。さて、この内部で働いている諸力は、特に下等生物において究めて興味深い形で現れてくる。 例えば、原腸胚段階まで進んだ胚を取り挙げる。この原腸胚(原腸胚、嚢胚「卵発生における胞胚期の次の段階」)を切断し、真ん中で切り離すと、切り離された各々の断片は再び丸くなり、それぞれ前腸、中腸、後腸の3つの部分を形成する能力を自らのうちに養成する。 つまり、原腸胚を切断すると、二つの断片はそれぞれ、切断されていない全体と同じことを(代替的に)行うことがわかる。この試みは、下等動物、ミミズにまで広げることができる。 何らかの下等動物の一部を切り取ると、その部分は新たに補充される。自らの内的形成力から、切り取られた形態と同じ形態が元通りに得られる。このような形成力は、事実に即して指摘しなければならない。 何らかの生命力を想定することで、仮説的に指摘するのではなく、事実に即して、このような形成力を指摘しなければならない。なぜなら、そのとき、実際生じていることを正確に見て、真に追求するなら、 例えば、非常に初期段階のカエルの生体組織のどこかを切り取ると、切り取られた組織に、別の組織が新たに生じてくる。 ということがわかるからである。 多少、唯物論的な考え方をする人は、 「傷口に弾力があり、この傷口の弾力によって、新たに成長する組織が生えてくる」、と言うだろう。 しかし、そのようなことはあり得ない。なぜなら、もし、ある組織を、切断して、その傷口にある弾力により新しい組織が生じるのなら、この傷口に生じてくる組織は、このすぐ近くの組織部分、すなわち完全な組織のなかでは、直接隣り合う組織部分でなければならないからである。 しかし、実際、そのようなことはなく、カエルの幼生の一部を切り取ると、末端器官、つまり尾や頭部でも、他の動物の場合は触覚糸といった組織でも実際に(切り取られた組織部分そのものが)出現してくる(トカゲの尻尾が御馴染みの例)。 つまり、傷口に接している部分ではなく、その組織にとって、(主要な)必要な組織部分が生じてくる。だから、傷口に直接内在する弾力により、自らを形成する組織が生じてくるということは不可能なのである。この再生に際しては、弾力ではなく、生体組織全体がなんらかの形で参加していると考えなければならない。 (この下等生物の切断実験から、失った組織が、その組織の周辺から、代替的に、周辺の組織の特徴を持って出現するのではなく、失った組織が、周辺組織の特徴をもたずに、そのまま出現することがわかる。下等生物においては、コンピューターのリセットボタンのように、いわばデフォルト状態で、組織が、再生することがわかる。) このように、下等生物において生じていることを実際に追求できる。今日まで文献に記載された、あらゆる経験にまで、この事を拡張していくとき、この事をどのように追求していくべきか、という道を提示したが、この道を通じてのみ、このような事柄に関する見解には辿り着けないということを、至る処で確認できるだろう。 人間の場合、このような事はあり得ない。実際、指や腕が切断されても、補充できるなら、とても素晴らしいだろう。でも、それは不可能なのである。 そこで、次のような問いが生じる。この、かっての成長形成力、下等動物の傷口再生に非常に顕著に現れている力は、一体人間の生体組織では、どうなっているのか。この力は人間においては、失われてしまったのか、そもそも人間には全く存在しないのか、という問いである。 (下等生物、例えば、トカゲの尻尾のような再生力は、人間の場合にはどうなっているのか?) 事実に即する自然観察を心得ている人は、人間における、精神と物質との関連に関する自然に即した見解に到達できる為には、この再生力解明の道を通って行くしかないということを知っている。 つまり、ここでいう、造形的というか、そういうものとして始めて出会う力、実質から直接形態を創り出す力、このような力は、人間の場合には(物質の)諸器官からは、すっかり取り出され、人間の霊-魂のなかにだけ存在しているのである。 つまり、この再生力は霊-魂のなかにある。この力が諸器官から取り出され、既にもう諸器官の形成力ではないことによって、人間は、この力を特別な形で所有している。人間は、この力を、自らの霊-魂の機能のなかにもっているのである。 人間が考えたり、感じたりするとき、この再生力を使っているわけで、下等動物や植物界において造形的に働いている諸力と同じ力により、人間は考えたり、感じたりしているのである。 つまり、物質素材から引き出した力を使って思考し、感じ、意志しないなら、人間は考えることなど、もはや何もできないだろう。 (トカゲの尻尾の再生力が、人間の思考を形成しているのである。つまり、下等生物では、組織破壊により、組織再生がなされているが、人間の場合、霊魂のなかで、破壊と再生が繰り返され、その結果が、例えば、脳細胞のニューラルネットを形成していることになる。 脳が思考するというのは、霊魂が、破壊と再生を行った結果が、脳のなかにネットワーク構築として反映されることで表現されているのである。霊魂は、実際、雷のように、脳細胞をスパーク(点火)させているという。) よって、下等生物を眺めると、次のように言える。 「この下等生物の内部に潜む、造形力、これと同じものを、人間も自らのうちにもっている。しかし、人間は、この造形力を、器官から取り出し、自分自身の為に所有している。そして、外界の下等生物の世界では造形的に働いている、この同じ力を用いて、人間は思考し、感じ、意志している」、と。
2008年10月20日
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唯物的科学では、もっぱら魂を、神経組織にだけ近づけ、人間の生体組織全体に近づけることを行わない。せいぜい、存在してもいない運動神経という神経を考え出して、運動神経の機能から、循環による伝播その他への影響を期待することで、全体に近づけようとするが、この循環による伝播他への影響というのも、仮説の域を出ない。 いま説明した事から、(精神的な)暗示と催眠といったような徴候が現れてきたとき、究めて思慮深い人たちを、結局、誤謬の道に導くことになってしまう。その際(1920年代の出来事だが)、「ヒステリー」の婦人が、究めて思慮深い医師たちを誤謬に導き、欺く、といったことが体験された。 「ヒステリー」のような人たちが、医師の前で披露する、あらゆる徴候に気をとられて、本来、生体組織のなかで生じている出来事には入っていくことができなかった。 この事に関連して(この場合は「ヒステリー」の婦人ではなく、「ヒステリー」の男性だが)、常に非常に思慮深い、シュライヒ(3)のような医師が、いかなる誤謬に陥ったか、もしくは陥らざるを得なかったかを述べるのも、一興であろう。 (3) カール・ルートヴィヒ・シュライヒ Carl Ludwig Schleich 1859ー1922 局所麻酔の考案者。「思考の切替装置について」(エッセイ、ベルリン、1916)260頁以下。その他の著作:「魂について」(エッセイ、1910);「意識と不死」(講演、1920);「幸福な過去」(回想録、1921) それは、医師シュライヒのもとに、インクのペンで指を刺してしまった「ヒステリー」男性がやってきて、「血液が毒されてしまうから、明日の夜には死んでしまうので、腕を切断してくれ」、と言った話である。 当然、外科医のシュライヒは、その患者の腕の切断を敢行することはできなかった。シュライヒにできたのは、この男性を落ち着かせ、傷口を消毒するなど必要な応急処置を施すことだけで、明日の夜には血液が毒されてしまうからなどという言い分に応じて、この男性の腕を切断することなど無論できなかった。 すると、この「ヒステリー」患者は、また別の権威のところに行ったが、当然、ここでも彼の腕は切断してもらえなかった。しかし、シュライヒは、事態にいささか不吉なものを感じ、朝になって直に、その患者のことを問い合わせると、その患者は本当にその夜に死んでいた。そこで、シュライヒは、(精神的な自己)暗示による死、と診断を下した。 (精神的自己)暗示による死、と診断することは、容易に推測できることである。しかし、人間の本質への洞察があれば、このような形で、(精神的自己)暗示による死を考えるということはあり得ない。 ここでの、(精神的自己)暗示による死の診断というのは、原因と結果の根本的な混同といえる。勿論、血液が毒されることはなく(これは解剖により確認された)、当の患者は、医師たちには公表されない原因によって死亡したように見えるが、事態を洞察できる人は、患者の死は紛れもなく、生体組織の深部に根ざした原因によるものだった。 この生体組織の深部に根ざした原因が、死に至る数日前から、この人物を、ぎこちなく不安定にさせ、インクのペンで自分の指を突き刺すというような、通常行わないことをさせてしまった。インクのペンで指を突き刺すという出来事は、ぎごちなくなった結果生じたものと解せる。 そして、この人が外的-物質的な意味で、不安定な行動になる一方で、内(精神)的な透視能力が幾分高められ、病気の影響で、夜になって、やってくる自らの死を預言的に見通していたといえる。 この患者の死は、インクのペンで指を突き刺したこととは全く関係なく、自分のなかに有している死の原因を感じることの要因となったのが、この(予見された)死だった。生じた混乱は、死をもたらした本来の内(精神)的プロセスに対して、外的な関連を持ち出したことによる。 だから、ここで『(自己)暗示による死』が登場するのは全くの問題外である。なぜなら、この男性が信じていた事や、彼のもっていた暗示は、死を招いたこととは何の関係もなく、もっと深い原因があったからである。 ともあれ彼は死を予見し、起こったことを、この死の予見に組み入れて解釈した。この例によって同時に、自然における複雑な事象に関して適切な判断を得るなら、慎重さが要求されることがわかる。その際、究めて単純な出来事から出発することはできない。 とはいえ、次のような疑問を感じざるを得ないだろう。 「感覚知覚と、それに類する全ては、人間の生体組織に対して、薬剤から発する、いわば少々異なった種類の影響を示すような手懸かりを与えてくれるのか?」、という疑問である。 さて、正常な状態において、人間の生体組織に対する3種類の影響がある。第一に感覚知覚を通しての影響で、これは神経組織のなかで継続される。第二に、律動組織、すなわち呼吸と循環による影響、第三に新陳代謝による影響の、以上の3つである。 これら3つの正常な関係は、何らかの方法で、外界の自然から取ってくるべき薬剤と、人間の生体組織の間に生じる異常な関係のなかに、何らかの相似物をもつはずである。しかし、外界と人間の生体組織との間に生じることが最も顕著に現れるのは、神経組織への影響である。 従って、次のように問う必要がある。 「人間の外にある自然、つまり、外界の経過(プロセス)、実質的には、薬剤のようなもので、いわゆる人間の治療に利用する外の自然と、人間自身との両者の間に、いかなる合理的関係が考えられるのか?」、と。 人間と、薬剤を取ってくる、人間外の自然との相互関係がどのようなものであるかについて、1つの見解を獲得する必要がある。というのも、水による治癒(消毒)を適用するときでさえ、何か人間の外にある存在を用いているからである。 そこでの処置は、人間の外の存在から人間(内)のプロセスへと適用されるもので、そこから、人間と人間外のプロセスとの間の関係がどういうものなのかに関する、合理的な見解を手に入れなければならない。 ともかく、ここで、現在通用している医学という学問の組織的関係に代わって、純粋な集合体として纏りのあるテーマに辿り着く。医学生は通常まず準備段階として、自然科学の講義を聴く。それから、これを基礎にして、一般病理学、及び個別病理学、一般治療学等が構成されるが、いざ本来の医学の講義が始まると、この本来の医学講義で語られているプロセス、つまり治療処置というものが、外の自然の経過(プロセス)と、いかなる関係にあるかに関しては、もはや聞くべきことがほとんどない。 今日の医学教育を受けてきた医師達は、この事を、単に外界の知性に欠陥があると感じるだけでなく、実際に病気のプロセスに介入すべきときに沸き起こってくる感覚のなかで、ある感情として、何かを用いようとする際、ある種の不確実さの感情として、自らの心のうちに強く刻みつけることだろう。 使用すべき薬剤と、人間のなかで生じている、実際存在するものとの関係が、真に認識されることは何といっても、稀である。ここでは、事の本性そのものから、医学という学問の改革の必要性を指摘することが重要である。
2008年10月16日
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提出してもらった要望は、連続講演を進めていくなかで自然に消化していきたい。勿論、なかには、重複することもあろうが、少なくとも、ある部分まで、全要望が集約していなければならないだろう。 その際、この講座で質問されたり、示唆されたりすることを、ある基礎をつくりあげる前に語るか、つくりあげた後に語るかは曖昧にできない。従って、今回は、御要望を見て、気づいた点を考慮に入れながら、できるかぎり、これからの講演のための基礎をつくりあげる試みを行う。 既に、最初の考察の為に、骨-筋肉組織の形成と、その内(精神)的効力を起点にしようとした。そして、以前、少なくとも、とりあえず、病気のプロセスの具体的な観察と治療の必要性へと進み、1つの実例と、それに適した観察を結びつけるために、心臓組織における循環から出発しなければならなかった。 さて、今回は、治療全般の可能性とその本質についてのより深い人間観察から得られる見解について、原則的な前置きを、更に述べておく。個別事項については、引き続き、考察のなかで立ち入っていくが、まず、この原則的な説明を優先する。 そもそも今日の医学研究が、どのような性質なのか、想定してみると、少なくとも大筋において見いだせることは、治療は病理学と並んで現れているが、両者の間に、明確に見通せる関係が成立していない、ということではないだろうか。 とりわけ治療においては、今日往々にして、単なる経験的方法の独壇場となっている。合理性、つまり、理念に基づく実践において、実際に原理を打ち立てることのできるような、そのような合理性は、とりわけ治療においては、ほとんど見つけることができない。 周知のように、19世紀における、この医学上の思考方法の欠陥は、医学上のニヒリズム派にさえ通じてしまった。このニヒリズム派は、全て診断に基づき、病気が識別できれば満足し、治療における理念(ラツィオ)に対しては、全般的に懐疑的態度をとった。 さて、医療体制に対して、いわば純粋に理に叶った要求をするなら、第一に、そもそも診断に関連した時点で既に治療を暗示する事実が存在しなければならない。治療と病理学の間に、外(唯物)的な関係が保たれているだけではいけない。いわば病気の本質から、治療プロセスに関する見解を形作ることができるような形で、病気の本質を認識できなければならない。 当然、この事は、「治療法と治療プロセスは、そもそも自然プロセス全体のなかに、どの程度まで存在しうるのか?」、という問いと関連している。 パラケルススの大変興味深い箴言、 『医者は自然を通じて試行していかなければならない』(1) は非常によく引用されるが、このような箴言からはじめることを、近年のパラケルスス関連の研究文献が、充分に心得ているとはいえない。 (1) パラケルスス「オープス パラミールム」参照。 このような箴言から直接、取り組まなくても、どのみち、自然そのものから、治療のプロセスを密かに学びとることを、模索しなければならない。確かに、自然自らが、病因に対して策を講じるような病気のプロセスが、自然のなかにあるときには、このような試みもなされる。 しかし、このような場合は、既に損傷があり、自然が自ら自衛策を講じる場合、その治療処置に関して、自然そのものを、特異で、特別な存在として(いわゆる異常な病気として)観察することに通じ、やはり真の自然観察というのは、正常なプロセスを観察するものでなければならない。 すると、次のような疑問が起こる。「治療処置に関して、何らかの見解を得る為の手懸かりとして、正常なプロセス、いわば正常なプロセスと呼ばれているものを、自然のなかに観察できる可能性があるのか?」、という疑問である。 すぐに気づくが、この事は多少とも考慮を要する問題と関連する。病気のプロセスが、自然のなかに正常な在り方で存在しているときには、当然、自然のなかに正常な形で治療プロセスを観察することが可能である。 すると、一体自然そのもののなかに、自然を通じて試行し、自然を通じて癒すことができるような、病気のプロセスが既に存在しているのか、という疑問が生じてくる。 この疑問に対しては勿論、この連続講演が進むにつれ、はじめて完全な答えが与えられるが、今回は、せめて少しだけ、この答えに近づくことを試みる。 けれどもその際、即座に言えることは、ここに呈示したような道は、今日通用しているような自然科学に基づいた医学が注がれ、覆われ、隠されてしまっているということである。現在のような前提では、これまで述べてきたような道を歩むことは非常に困難である。 というのも、大変奇妙な事に、他ならぬ19世紀における唯物論的傾向が、ここで、骨組織、筋肉組織、心臓組織に続いて付け加えるべき組織、すなわち神経組織を、その機能において、根本から、完全に誤解するような事態を招いてしまったからである。 いわゆる、魂の全性質を神経組織に負わせ、その際の、あらゆる霊的-魂的事象を、神経組織のなかに見つけられる(同時)平行現象のみを解明するということが、次第に一般的になってきた。 私(シュタイナー)は、このような自然観察に対して、「魂の謎について」(2;1917:GA21)という著書のなかで、異議を唱えた。この著書において、第一に示そうと試みた事は(この真実を実証するために、経験面から加えることは、この通常の観察法によってこそ数多く得られるが)、神経組織と関係するのは、本来の表象(イメージ)プロセスだけであり、感情のプロセスは、間接的ではなく、直接的に、生体組織の律動的現象に関連しているということである。 (思考は神経組織に直接関係するが、感情は神経組織ではなく、律動的現象、つまり主に心臓である。心臓は体内の感覚器官で、物質とエーテルの対流を生じ、そこから感情が生じるようである。感情から鼓動が現実となるようである。) 今日の自然科学者は通常、感情プロセスは、律動組織とは直接関係なく、この律動プロセスが神経組織に中継されることにより関係する、つまり、感情生活も、神経組織によって営まれる、と考える。 私(シュタイナー)は、更に、意志の生活全般も全く同様に、間接的ではなく直接的に、新陳代謝組織と関係していることを示そうとした。つまり意志のプロセスに関しても、神経組織にとっては、この意志プロセスを知覚すること以外の何もできないわけである。 神経組織を通じて、何らかの意志を実行するのではなく、意志を通じて、人間のなかで起きることが知覚されるのである。 いま主張した全ては、生物学上の、それに応じた事実によって完璧に証明できるが、他方、これと反対の、魂生活を、神経組織だけに組み込む見解は、これらの主張を証明できない。 いわゆる運動神経を切断し、感覚神経を切断して、両者を繋ぎ合わせることが可能で、そこから、また均一の神経が生じるという事実があるが、感覚神経と運動神経があるという見解と、この事実とが、全く健全な理性によって、どのように関係づけられるのか、一瞥していきたい。 感覚神経と運動神経といったものは、本当は、存在せず、運動神経と呼ばれている神経は、四肢の運動、すなわち、人間が「意志する」ときに、四肢の新陳代謝において起こっていることを知覚する感覚神経に他ならない。 つまり、運動神経とは実際のところ、人間自身の内部だけを知覚する感覚神経なのである。それに対して、感覚神経と本来呼ばれている神経は、外界を知覚する。 この事実は、医学にとって非常に重要な意味を持つが、このように、事実そのものを、明確に見据えることによりはじめて正当に評価できる。というのも、以前、結核の例を得る為に、出発点とした病気の諸症状に対しても、感覚神経と運動神経の区別で済ませてしまうことが、実際困難だからである。 従って、賢明な自然観察者は、どの神経も、周辺(皮膚表面)から(皮下)内部へ、或いはその逆へと、一方に伝わるだけでなく、周辺(皮膚表面)から(人体の)中心へ、或いは(人体の)中心から周辺へも、双方向に伝わるということを既に受け容れている。 この事は同様に、どの運動神経にも2つの回路があるということになる。すなわち、神経組織から、例えば「ヒステリー」等を説明しようとすると、互いに反対に流れている(双方向の)2つの回路を容認することが必要となる。 つまり、事実に立ち入る瞬間、神経組織に関する、従来の仮定に完全に矛盾し、以上のような2つの回路のような神経の特性を容認することがどうしても必要になる。 例えば「ヒステリー」の場合に起こっていることのように、生体組織のなかで通常神経組織に定められている神経について(上記の2つの回路のように)知るべき性質が、神経組織に関する唯物的(通例の)考え方を習ったことで全て塞がれてしまったといえる。 (唯物論で、2つの神経を運動神経と感覚神経と区別するのではなく、霊学論で、1つの感覚神経の2つの双方向の性質と考えるべきであると、シュタイナーは主張している。) 以前、例えば、結核の場合に生じている、神経により知覚されている病態(ヒステリー)を、新陳代謝に起因する事象により特徴づけた。このような事実こそ留意する必要があるのに、代わりに人々は、神経組織の伝播の可能性や、その伝播のなかだけ、「ヒステリー」を探究し、全てを神経組織のなかに置き換えてしまった。 (私は、このシュタイナーの着想に触発され、いま独自にエーテルネットワーク理論を考察している。ニューラルネットを、双方向性をもたせた2つの回路に喩え、このシュタイナー講座の両極性を、エーテルネットワークで、数的にシュミレーションし、説明しようと試みている。 エーテルの前は、アポトーシスという細胞死から考えてみたが、本質は、エーテルを考えた方が納得行くような気がするからである。端的にいえば、気孔をニューラルネットの発展モデルで説明するようなものである。) このように、更にまた別の観点が与えられた。とはいえ、「ヒステリー」の遠因のなかにはやはり心魂的な原因もあることは否定できない。心痛、失望感、実現可能なものも不可能なものも含めて何らかの内的な興奮、これらが「ヒステリー」の徴候のなかに入り込んでいる。 けれども、神経組織以外の生体組織全体を、いわば魂生活から切り離し、神経組織だけに直接、魂生活を関係づけたことで、全てを神経組織に負わせることを余儀なくされている状況である。 (唯脳論という馬鹿げた唯物論的思考の極致まで生まれている。脳学者は、脳から脳が生まれると考えているようである。それでは、脳以外は何のためにあるのか? 意味不明である。) 全魂生活を神経組織のみに負わせる事により生じてきた見解は、第一に、もはや多少とも事実には裏付けされないもので、また第二に、魂を人間の生体組織に更に近づける手懸かりをも何ら与えないような見解である。
2008年10月15日
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ついに、米国は、株価下落のパンドラの箱を開けてしまったようだ! 何をやっても、株価が下がるばかりである。 米国には、沢山の富豪が住んでいるのに、金融不安にそっぽを向き、自分だけよければよく、他者を救おうとしないばかりか、株価下落に乗じて、儲けようとする者もいるようだ。 このような連中が、仮想の金融バブルをつくり、振り込め詐欺のように、実体経済破壊の資本を食いつきはじめた。 いよいよモンスターの侵略がはじまったようである。 金融ゴジラが、市場を食いつきはじめた。 欧米型資本主義の崩壊がはじまった。蒔いた種は刈り取らなければならない。 日本の過去の不良債権問題と似ているという人がいるが、それは違う! 日本の場合は、地方実体経済が、それほど深刻ではなかったからである。大都市圏の土地バブル遊びですんでいた面が大きく、中小企業の技術力が、安定していたからである。 それに、規模が違う! 米国のは、金融工学という詐欺に近い机上の空論で、CDSという、資本主義では、保証人になるなという鉄則を破るような、保証そのものを債権化して、信用そのもののバブルをつくってしまった点が、致命的といわざるを得ない。 信用のバブルが破壊したら、全てのプラスが、逆のマイナスへと転じる。一度、マイナスに転じたら、再度、プラスに転じるまで、マイナスが続いていくのだろう。 米国金融に対しての信頼が再び確保されない限り、暴落は止まらないだろう。 信頼性を回復させるには、米国の実体経済を健全化させるか、もはや資本主義を捨て、米国が最も嫌う共産主義国家になるしかないだろう。 軍事兵器しかつくれない米国実体経済は、これまで、戦争ばかりして、財政赤字を増やし、一部の金持ちを益々裕福にし、それを誤魔化す手段が金融工学であったから、いずれにしろ、崩壊するだけである。 それはGMという企業に主に象徴化されている。需要のない大型車をつくったり、戦争はもう沢山だという21世紀に、再度戦争を持ち込もうとする傲慢ぶりに、象徴化されている。 戦争がなければ成り立たない実体経済など、神が認めるわけがないだろう。 他者の不幸や犠牲の基に、自らの幸福を築く者は、地獄にいかねばならない。 金持ちは、天国にはいけない、地獄こそ相応しいのである。 世界中を混乱に貶めておいて、米国の富豪たちは、自分だけが幸福に暮らせればよいというのだろうか? キリスト教国の名に恥じないというのだろうか? キリストに従う人間ならば、一切の財産を、自ら貧しい人に施し、キリストの行いに従うべきであろう。天国には、財産は必要ではなく、死において、財産ほど障害になるものはないからである。 死に際し、所有欲がある限り、地獄の火で焼かれることだろう。 株価が上がるという事は下がるという事でもある。 物質世界から離れるには、物質に関する全てを捨て去らなければならない。 神以外に信じるに足るものは存在しない。神々が宇宙をつくっているからで、それ以外は、偶像崇拝となる。 「天下の富をもってして、天下の経済に困るという理屈はないはずだ」と勝海舟はいっている。 救おうと思えば、生命を除いて、どんなことだって救えるものである。救おうと思えない障害を取り除くことだと思う。 公的資金投入に際し、国民の将来の不安を煽るようでは、意味がないということである。 数字やデータではなく、人間の心の問題なのだと思う。
2008年10月11日
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何らかの物質特性を考えるとき、つまりどのような形であれ、物質がその効力を生じる際の特性を考えるとき、第一に、消化の際に起こるように、生体組織により克服されて人間の下部活動に取り入れられる摂取物が考えられる。 さて、ここでホメオパシー(同種療法)(2)を行うことができる。その物質の集合性、関連性を止揚することができる。これは、その物質を、何らかの手法で希釈するとき、いわゆるホメオパシー的な極小量を用いるときに生じる。(2)ホメオパシー[Homoeopathie] 同種(類似)療法。健康体に与えると該当の病気に似た症状を起こす物質を、ごく低濃度に希釈し、それを薬品(レメディ)として、該当の病気にかかった患者に投与して治療する方法。ハーネマンによって創始された。アロパシー[Allopathie](逆症療法)はこれとは逆の治療法。 このとき、現代の自然科学全般では、マトモに観察されていないものが明らかになるが、それは人々が全てを抽象的に観察することに慣れてしまっているからである。だから、例えば、もし、ここに1つの光源があるとするなら、彼らは、光があらゆる方面へ広がっていく、と言い、光は、あらゆる方面へ広がり、無限の彼方で消滅する、と考えるだろう。彼らは太陽についてもそのように考える。 しかし、これは間違いである。真相は、このような光の活動は、いかなる無限の彼方にも消え去ることはなく、ある限界の範囲まで達し、その後、弾力性をもって、はね返ってくるというものである。 たとえ、その性質が往路の性質とは異なるとしても、はね返ってくる(下図)。自然のなかには、リズミカルな経過(プロセス)があるだけで、無限の彼方に通じる経過(プロセス)は存在しない。リズミカルに再び、それ自身にはね返ってくるプロセスだけが存在する。 この事は、量的な拡散だけに当て嵌まるのではなく、質的拡散にも当て嵌まる。ある物質を分割し始めるとき、その物質は最初の出発点での特性を荷っている。これらの特性は、無限に減っていくのではなく、ある点に至ると、はね返り、出発点とは反対の特性になる。 人間の生体の上部組織と下部組織の間の対比も、この内的なリズムに基づいている。上部組織はホメオパシー的である。上部組織は、ある意味、通常の消化プロセスの正反対で、その反対物、ネガを形成する。 従って、ホメオパシーの薬剤師は、 「希釈を行うことで、通常の人間の下部生体組織に関係し、下部組織と関係のある諸特性を導き、次に、人間の上部組織に関係ある特性へと、実際に導いている」、といえる。 これは大変興味深い内(精神)的関連である。この関連に関しては、次回以降、更に述べていく。
2008年10月09日
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また疲労の徴候(主観的な疲労の徴候ではなく、新陳代謝の優勢に基づく組織的に生じる疲労の徴候)に関して、新陳代謝が上部により制御されない時に強く現れるような疲労の徴候は、結核の場合、実際に引き起こされなければならないので、その後、必要な時点(段階)で、その疲労を克服しなければならない。 つまり、疲労に応じた食餌療法によって(食餌療法の詳細については、更に述べることがあるが)、消化が優勢になるように、すなわち、当人の通常の状態よりも、消化活動が活発になるように、いわば、より安易に消費してしまう活動を、消化プロセスを通じて消費するように配慮することで、疲労の徴候を克服しなければならない。 痩せることに対しても、一種の脂肪形成によって、つまり器官や器官組織のなかへの蓄積を、生じさせるような食餌療法によって、後で、克服すべきである。 盗汗も、引き起こされた後に、究めて知的な活動、つまり努めて熟考するなどして、実際に汗を出すような活動を指示することで、後で、克服しなければならない。そうして再び健康な発汗が促される。 このように、まず心臓の活動を正しく把握することで、上部と下部が、いかに対応しているかを理解し、更に、「神経衰弱」や「ヒステリー」のような、機能性や、エーテル体のなかに、病気の最初の発生、いわば微かな兆しを見ることを理解すれば、そのとき、器官、物質に刻印されている疾患の理解へと進んで行けることがわかる。 このように相関し合う、外観的な、病気像の研究により(最初に生じるものも含め)、いわば病気の経過(プロセス)を、場合によって病状を強めたり、弱めたりして、ある方向に導き、時期が到来すれば、プロセス全体を、再び健康にできるようになる。 言うまでもなく、このような、少しばかり特徴を述べた処方にとっての、第一の最大の障壁は、社会的事情である。従って、医学とは、社会的問題でもある。他面において、最も強力な障壁を築いているのは患者自身ともいえる。患者は当然のことながら、複雑で混み入った真実はさておき、病気にみえる全てを「取り除いて」欲しいと要求するからである。 しかしながら、患者が持っているものを、直接取り除いてしまうと、既に、そうなっているよりも更に病気を悪くしてしまうという事態が容易に起こりうる。患者を今の状態よりも、更に悪くすることも考慮しておく必要があるが、再び健康になる状態になるまでは待たなくてはならない。しかし、そのときには、大抵、患者は逃げ出してしまう。 そもそも、治療全体に正しい価値を与えようとするなら、医師は予後をも完全に掌握していなければならないが、この予後こそ、健康な人間及び病気の人間の正しい観察の結果として、帰着するものでなければならない。予後の掌握こそ、正に公然と目指すべきものである。 現代のような権威信仰の時代では、このような運動を導入するに際し、その必要性を指摘することが困難であってはならない。しかしながら、言うまでもなく、病気を、その支脈の末端まで追求するのを適切とみなさず、何か苦痛を取り除いたことで、多少とも満足するのは、常に患者や社会状況ばかりでなく、医師であることもよくある。 とはいえ、このように人間の生体組織のなかでの心臓の位置づけを正しく追求することが、病気の本質へと徐々に導いていくということは理解できるだろう。 ただ、注目すべきことは、下部の諸々の組織活動は、外(唯物)的な化学的活動を、確かにある意味で克服しているが、それとは全く反対の上部活動に、何らかの形で類似するとき、これら(上下)の間に成立しているのは、顕著なその相違である。 人間の生体組織における、この二元性に満足に足る定義を与えることは非常に困難である。我々の言語は、物質的、器官的存在に対立する存在(霊)を暗示する手段を、ほとんどもたないからである。 けれども、まず次のようなアナロジーによって(このような事柄に関して語るべきことはもっと沢山あるが)、本来、この下部プロセスと上部プロセスの間の二元性がどんなものなのかを明確にするなら、良く理解できるだろう。或いはまた、何らかの先入見にぶつかるかもしれないが、続けて述べていきたいと思う。
2008年10月08日
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株価下落で深刻な不況のなか、日本人がノーベル物理学賞をとったことで、少し巷は浮かれ気分のようでもある。 南部陽一郎の名は素粒子物理のなかでは知らぬ者のない位、有名である。理論の教科書には、必ず出てくる名であるからで、南部-後藤の弦といったら、超弦理論に先がけて、原子核モデルで、試みられた弦という意味で斬新的な理論だが、残念ながら、実験結果を表現できずに、歴史の闇に葬られた。 対称性の破れは、素粒子理論を、数学的モデルで構築する際の指標となる原則といえる。数学モデルは、保存性を要請するので、保存性が破れるということは、新たなる斬新性を数学モデルに反映させなければならないということで、モデルを革新させる際の杖となるからである。 ゲルマンが、原子核のなかの陽子や中性子が、3つのクォークからなると言い出して、QCDという量子色力学が生まれたが、それだけでは解決できない矛盾が多々あった。最も有名なのが、数学モデルを構築する上で、発散という計算上で、無限大が生まれてしまう漸近的自由性と呼ばれる問題である。 簡単にいうと、クォークが原子核から出たがらない、引き篭もりの現象のことをいう。引き篭もりも、家のなかでは自由に暮らしているのに、家の外にはなかなかでたがらないというのと似ているのである。 ニートは引き篭もりの傾向にあるが、この際、ニートをクォークと呼んでもいいのではないだろうか? 余談だが、クォークは、原子核を構築するように、ニートも自宅でできる仕事を与えればいいのではないだろうか? この性質を、南部-後藤の弦は、表現したものだったと記憶している。しかし、今回の受賞は、もっと教科書に近いというか、広く一般的に知られた、超電導の理論にも使われている「対称性の破れ」である。 なんだ、今更、受賞なのかという半ばあっけにとられた時代錯誤的な感がなきにしもあらずといえる。当人たちも、まるで浦島太郎のように爺ばっかである。 教科書に載っている名前の本人をはじめてみたという感じでもある。 しかし、「対称性の破れ」は、統一理論の要の思想ともいえる。対称性の破れとは、大勢の食事会のときに両側にあるスプーンをどちらから先にとるかというイメージに置き換え、説明される。左からとれば、全員が連動して、左からとらないと、どこかで、取り合いになり、右からとれば、全員、右からとるという、いわば右に倣えの現象のことを差す。 つまり、そのことで、両側にあるスプーンの対称性が破れてしまい、ある規則が進むことを意味する。この「対称性の破れ」を用いて、質量の発生機構を考えたのが、俗にいうヒッグス機構というものである。 世界の加速器実験所では、といっても、核兵器や原子炉よりも少ない、僅か数ヶ所なので、ヒッグス粒子を血眼になって探しているが、そのうち、みつかるともいえない。 さて、小林-益川理論は、ゲルマンのクォーク理論をQCDにまで拡張したもので、原子核を構築する陽子や中性子、それらを結びつける中間子が、クォークからなることを、対称性の理論を用いて3世代とし、計6つとし、標準模型(スタンダードモデル)を構築する際の主となった理論であることは、どの教科書でも書かれているところである。 標準模型には、小林-益川行列というのがあるのだが、なんだか狐につままれたような数式であった記憶がある。当時は、誰もがノーベル賞をもらってもおかしくない当たり前の原則のように考えていたが、なぜ、3世代なのかは、誰もわからなかった。 当時は、原子核にはあまり興味がなかったので、なんせ、当時は夢追い青年だったので、なかば完成された、教科書に載るような理論はどうでもよく、超弦理論、つまり重力理論に血眼になっていたから、古臭いイメージしかなかったからでもある。若者故の反骨精神満々だったわけである。 なんとなく、安定志向の御老体は原子核、波乱万丈の若手は重力という棲み分けがなされたいたような雰囲気があった。 その後も、原子核ではなく、ニュートリノのレプトンの軽薄な方向に流れていったので、あまり原子核にはよい記憶はないが、原子核は格子ゲージ理論がいまでは主流とも聞くが、もはや、物理の物質からは出て行っているので、どうでもいい話ではある。 しかし、改めて、今回の賞のニュースをみてみると、小林-益川の両者は名古屋大の坂田研にいたということなので、原点は、有名な坂田モデルという八道説から派生しているのではないかとも、今更ながらに思える。 確か、坂田モデルはあらゆる原子核を、八個の組み合わせで網羅し、説明しようとするものだったと記憶している。仏教の八正道とは似て非なるものである。仏教のものは、八つの修行法により、覚者になろうとするもので、秘儀参入法であり、物質構築を表現するものではない。 いうなれば、精神の構築法が八正道で、原子核の構築法が八道説である。 それにしても、教科書に載っている名前の本人をはじめてみて、あんな顔をしていたのか? 憧れたアニメの主人公の声優の顔をみたという感じでもある。なんだか、古き良き、懐かしい昔をみた感じでもある。ただし、原子核には目がむいていなかったことは確かである。弦ばかりみていた。 その後、素人さんに弦をレクチャーされて面食らったことは多々あった。超弦理論や量子力学は専門家よりも、恐らく一般人の方が知名度では有名な理論なのだろう。そういうときの私の答えは、「知りません、そんな理論」であった。 その応えは、夢を壊していけないからである。教育上、安易に答えを他者から教わるのはよくない。依存心が生まれてしまうからである。また自分が思ったことを自分で追求するのがよいと思うからである。わざわざ説明するのが億劫という感が丸っきりなかったとはいえないが…。
2008年10月07日
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結核患者になり罹りの、つまり将来結核出現の兆しがある人に究めてよく見られる徴候を取りあげてみる。 恐らく、結核患者が咳をするのに気づくだろう。また、喉や胸の痛み、或いは四肢の痛みも感じ、更に、ある種の疲労状態、そして、とりわけ盗汗(寝汗)に気づくだろう。 これらの徴候はいかなるものなのか? これらの徴候を目の前にするとき、その本質とは一体何なのか? 今挙げた全ては、何よりもまず、先に述べた、(身体)内の不規則な相互作用の結果として生じる。しかし、同時に、この徴候は、更に深い根拠として存在するものに対する、生体組織の戦いでもある。 咳を(まず、このような単純な事柄を観察し、それからもっと複雑な事柄に移っていく)、いかなる場合でも常に我慢する事は良くない。生体組織にとっては、ワザと咳をすることが必要な場合さえある。 これは、人間の下部組織が、上部組織によって制御できない場合、咳に対する刺激として現れ、咳をしないと侵入するものを、侵入させない為の生体組織の健康な反応である。従って、いかなる場合に直接、咳を止めてしまうことは、場合によっては害となることもある。肉体が有害なものを受け入れてしまうからである。 咳は、その人のその時点での素質では、有害なものに耐えられず、それを取り除こうとする為に起こる。咳の刺激は、生体組織に何らかの欠如があり、その為に生体内に侵入してくる可能性のある侵入者を、侵入させない必要性を示すものに他ならない。 また、結核の素因があると、近づいてくる侵入者に対する、生体組織の防御、戦いの、咳とは別の徴候も挙げられる。それは、喉の痛み、四肢の痛みで、それは生体組織において、上部プロセスに制御できないような下部プロセスが起こらないようにすることを示している。 例えば、逆に、早期に、結核の素因に気づいたら、適度に咳の刺激を引き起こし(どういう風に、咳を起こすかは、次回以降の講義で見ていく)、特にある種の食餌療法により、疲労の徴候をも、あえて引き起こし、生体組織を支援することが良い場合もある。 更に、例えば痩せることも、1つの防御手段といえる。なぜなら、痩せない場合に生じるプロセスは、上部により制御不可能な、下部プロセスに他ならず、その場合、生体組織は、制御され得ないプロセスが一時的にも存在しないように、痩せることで、自らを守るからである。 だから、例えば、ある人が痩せていく場合、直ぐに太らせる為の食餌療法を施すのではなく、このような事柄を、個別的に研究することが非常に重要である。痩せる徴候が、その時点で生体組織に現れることで、大変良い意味を持つ可能性もある。 そして、まだ結核患者ではないが、結核に罹りそうな人の場合、特に有益なのは盗汗である。 なぜなら、盗汗は、睡眠中に実行される生体組織の活動で、本来は、目覚めている時に、完全な霊的-心的活動の基に行われるもので、昼間の完全に目覚めた状態で行われず、夜になって現れてくる。 この盗汗は、結核罹患の結果現象であると同時に、防御手段でもある。生体組織が霊的な活動から解放される一方で、生体組織は盗汗として顕れる活動を行う。 尤も、このような事実を、完全に評価可能とするには、発汗も含め、あらゆる分泌現象が、通常、魂、及び霊活動が、分泌現象と密接に関係するということについて、多少とも、知っておく必要がある。 構築のプロセス、本来の生命的構築プロセスとは、無意識下での基盤をなす。 生命的構築プロセス;無意識的基盤 目覚めているときの、意識的な魂的-組織的活動に対応するものは、分泌プロセスである。思考というものも、脳の構成プロセスには対応せず、脳の分泌プロセス、分解プロセスに対応している。 分泌プロセス;意識的基盤 盗汗という現象は、通常の生活では、本来、霊的-魂的活動と平行して進行しなくてはならない分泌プロセスである。結核では、上部と下部が正しい相関関係にないので、そのような分泌プロセスは、生体組織が、霊的-魂的活動から解放される夜まで持ち越されることになる。 (睡眠中は、霊魂は、エーテル体と肉体を離れるので、肉体は霊魂から解放され、エーテル体は、無意識的活動の構築をはじまるという。目覚めているときは、霊魂は肉体と共に活動し、エーテル体は、意識的活動を行い、分泌を行う。 しかし、結核に罹ると、エーテル体の活動に不規則性が持ち込まれるので、それを解消するために、目覚めているときと、睡眠中の活動を逆転させ、それが盗汗として顕れる。) 健全に病んでいる(字句として矛盾するが、病んでいる状態が比較的正常なもので、表面上、物質的に現れている場合の)人間の生体組織の成長と生成全体に関係する、あらゆる出来事を注意深く研究すれば、病気の諸症状の間にも相互作用が生じている段階にまで導かれる。 痩せることは、1つの症状である。しかしながら、結核の素因との関係では、つまり幾らか活動し始めている結核との関係において、この痩せることは、様々な症状間の相互作用の一部である。すなわち、様々な症状から成立する、1つの観念上の組織体が成立している。1つの症状は、ある意味で他の症状に属している。 従って、生体組織の他の条件によって、何か反応が起こるとき(いまは結核の例だが)、生体組織自体に、この反応を引き起こす力がない場合は、この反応を助けて、この反応を起こしてやり、1つの病気(のプロセス)に別の病気(のプロセス)が続くようにしてやることは、全く理に叶ったことになる。 このようなことを、古代の医師たちは、医師の為の、いわゆる意味深い教育法則として語ってきた。 「医師として、危険なのは、病気を取り除くことができるだけでなく、病気を引き起こすこともできなければならないことである」、と古代の医師たちは語った。 つまり「医師は病気を癒せるのと全く同程度に、病気を発生させることができる」、というわけである。隔世遺伝的な霊視力により、このような関連について、更に多くのことを知っていた古代人たちは、医師のなかに、医師が悪意を持てば、人々を健康にするばかりでなく、病気にすることさえもできる人格を同時に見ていた。 しかし、この事は、他の発病状態との正しい関係をもたらす為に、何らかの発病状態を引き起こす必然性と関連している。とはいえ、これらが病気の状態なのは確かで、咳、喉の痛み、胸の痛み、痩せる徴候、疲労の徴候、盗汗全ては、病気の症状に相違ない。ときには、これらの症状を引き起こす必要があるとはいえ、やはり病気の症状であることには違いない。 この事から、なかば治癒しかけたとき(小康状態のとき)、すなわち、これらの症状を引き起こした時点で、病人を、その運命に委ねてしまうことはできず、このときこそ、治療プロセスの第2段階が出現せねばならない、ということが自ずと容易に理解できる。 そのとき、これらの反応、つまり病気(の悪化)を防ぐために、引き起こした状態が続くように配慮するだけでなく、今度は、この反応を癒し、生体組織全体を再び正しい道に導くプロセスが生じてこなければならない。 従って例えば、結核の素因に関しての自然、或いは場合によっては人為的に引き起こされた防御として、咳の刺激が引き起こされたとき、また喉の痛みが起こったり、或いは引き起こされたときには、その際、常に、多少下部で詰まった状態、つまり便秘状態を呈する消化プロセスを、秩序正しくなるように配慮する必要がある。 この消化プロセスが、1つの防御プロセス、一種の下痢に移行させられなければならない。常に、咳の徴候や喉の痛み他に続いて、一種の下痢が起こることが必要なのである。咳が、上部に現れていることを、咳自体として観察してはならず、たとえ物質的媒介物がなく、対応関係だけでも、上部に現れている異変の治療を、下部での経過(プロセス)を通じて探究しなければならないことが多々あるということを、結核は示唆している。この事は何にもまして考慮すべきことである。
2008年10月07日
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狭い意味での本来のヒステリー現象は、実際、この不規則な新陳代謝(前回の新陳代謝内に独立傾向を生じるプロセス)が頂点にまで達した状態に他ならない。 事実、性的症候にまで至る「ヒステリー」のプロセスにおいて、本質的に存在するのは、本来、人間の生体組織の中に存在すべきでない、外界のプロセスの本質をもつような、不規則な新陳代謝に他ならない。 このような下部の独立志向のプロセスに対して、上部はそれを克服するには、あまりに弱すぎることがわかる。これが一方の極である。 下部の「ヒステリー」の特徴と同時に、上部の弱い現象が現れてくるとき、生体組織の下位では、人間の、本来、外界に存在すべき活動が強くなりすぎた状態といえる。しかし、また、上部のプロセスが正しく経過せず、つまり上部のプロセスが上部組織を酷使し過ぎることによっても、同様の不規則な相互作用が生じる。 『ヒステリー;本来生体外にあるプロセスが、下部の新陳代謝に存在し、独立性を強くし、上部との調和を不規則にさせること。』 上部が衰弱することは、下部の増強とは反対のプロセスで、いわば下部のプロセスのネガであり、上部のプロセスを、過剰に酷使することに相当する。この(上部の過剰な)プロセスはいわば、心臓によって下部組織に中継される前に終結してしまう。つまりこのプロセスは、あまりに強く霊的であり、いわゆる、器官的にあまりに知的すぎるといえる。 このように、変則性の他方の極の、「神経衰弱」が現れてくる。人間の生体構造の機能性のなかに潜んでいる、これら二つの変則性に注目すべきである。 それらは、いわば上部で表現され、下部で表現される欠如だからである。そして人間の生体構造における、この両極性が、何らかの欠如の元になっているということを、次第に理解するようになるべきである。 『神経衰弱;上部プロセスを酷使しすぎ、上部器官を消耗してしまうこと。』 つまり、「神経衰弱」は、上部が、あまりに激しく上部器官を使って機能することであり、その結果、本来は上から心臓で中継されて、下部で起こるべき事が、既に上部で起こり、上部で行われてしまうので、その活動が、心臓での滞留を通じて下部の流れに入り込む余地がなくなってしまう。 ここからわかることは、実際、欠陥を生じた器官の実見よりも、遥かに重要であり、病気の実像の、包括的形状に関する観察(観相学)の重要性である。 なぜなら欠陥を生じた器官が示すのは、単にその帰結としての現象にすぎないからである。重要なことは、病気の全体像、形状に注目することである。この病気の観相学は常に、ある種の形に、一方の極か、もしくは他方への極への傾向を持つ、つまり、神経衰弱的変則性か、ヒステリー的変則性への傾向を持つ実像を提示してくれる。勿論、このような表現を、通常用語の使用に向け、拡大する必要がある。 さて、この上部と下部の相互作用について満足のいく実像が得られたなら、そこから出発して徐々に、次のようなことが認識される。 「最初は単に機能的に存在する変則性、つまり、人智学者が言う、エーテル体で起こっている変化が、いわば、その力を凝集することで、器官的-物質的存在をとらえていき、最初は『ヒステリー』の徴候としてだけ存在した変則性が、様々な下腹部の疾患のなかに、いわば、その物質的形態を取ることで、また他面において『神経衰弱』が、喉の病気、頭部の病気のなかに器質的形態を取ることで、その両極性について語ることができる。」 当初は機能的な変則性だった、「神経衰弱」的な変則性と「ヒステリー」的な変則性に、これらの物質的現象が刻印されるということの研究こそ、将来の医学にとって重要な事となるだろう。 器質的となった「ヒステリー」の結果として、消化プロセス全体、下腹部の、あらゆる経過に不規則が生じる。けれども、このように1つの組織で起こることは、更に組織全体にも作用を及ぼす。一部の組織で生じている不規則が、更に組織全体にも作用を及ぼすということを見過ごしてはならない。 さて、その最初期において、機能性のなかに観察できる、端的な「ヒステリー」現象が、機能的には表立って全く現れてこない場合を考えてみる。 言葉の上では矛盾しているが、確かに、このようなことが起こる。機能的に表面に現れることなく、エーテル体が即座に、「ヒステリー」現象を物質(肉)体に押しつける。 それは下腹部の器官においては、どのような形であれ、明らかな疾患としては現れてこないが、内部には存在している。つまり下腹部の器官には、いわば「ヒステリー」の刻印を押されたものがある。これは、物質的な器官に自らを押しつけたことで、「ヒステリー」現象として、心的に前面に現れることはないが、かといって、厄介な病気、物質的な病気として現れるには、まだ充分強くない。 しかし、強くないといっても、生体組織全体に働きかけるには充分な強さを持っている。そのとき、病気と健康の間を漂っているというか、そういうものが、下から上へと作用を及ぼし、上部に反映し、上部にいわば伝染して、そのネガのなかに現れる、特殊な現象が起こる。 上部が一面的になったり、或いは不規則になったりすると、普通は「神経衰弱」を引き起こす素となる領域に、「ヒステリー」の、いわば最初の物質的結果の状態が作用して、上部に現れる現象が、結核への素因をもたらす。 結核への素因;下部の「ヒステリー」が、上部の「神経衰弱」に呼応し、「ヒステリー」が上部にもたらされる。 この事は興味深い関係である。結核に罹りやすい素因は、ただ今述べた、下部活動の上部への反映なのである。このように完全に終わりきらないプロセスが上部に反映することにより生じる、この全く独特な相互作用が結核への素因をもたらす。 この人間の生体組織の原-素因とでもいうべき状態まで遡らないと、合理的に結核を扱う術を見つけることはできない。というのも、寄生生物(細菌、ウイルスを含む)が人間の生体組織に蔓延るということは、たった今述べた原-素因の結果生じる現象にすぎないからである。 これは、必要な条件が揃えば、結核のような病気は伝染する、という事実に矛盾するものではない。勿論、そのために必要な条件が整う必要がある。しかし、この下部の器官活動の優勢は、残念ながら今日(1920年)の人類の極めて大多数に現れているので、結核になりやすい素質は、実際恐るべき範囲に広がっている。 とはいえ、伝染というのは、この領域において、やはり有効な概念である。かなりな程度に結核を病んでいる人は、周囲の人々に作用を及ぼすからである。結核患者の生活に、内面(霊性)から、曝されていると、通常は、単なる作用にすぎないものが、今度は原因となることが生じるからである。 私(シュタイナー)は常に、1つの喩えによって、この病気の第一次発生(原発)と伝染との間の関係を明確に説明しようとしているが、例えば次のような喩えを用いる。 「道端で、普段それほど親しく付き合っていない友人と出会ったとする。彼が悲しそうにやってきたので、理由を聞くと、友人が死んでしまったので悲しいという。 私は、彼に出会い、彼が自分の悲しみを告げることで、私も彼と一緒に悲しくなる(もらい泣きのようなもの)。彼は直接の原因によるが、私はその悲しみの伝染によって悲しくなるわけである。この場合確かなことは、この伝染の条件は、彼と私とのお互いの関係にある。」 (この話は、いまでも、動物の死体をみて、かわいそうと同情すると、その動物にとりつかれるというような風評に見受けられる。このような例で重要なことは、聖書にあるキリストの態度である。 あるとき、キリストが、弟子たちと道を歩いていると、犬の死体に出くわした。弟子たちは思わず目をそむけたが、キリストだけは見つめ、「この犬の歯は綺麗だ!」と言ったという。 つまり、このキリストの態度は、通常、人が嫌悪する、どんなに醜悪な状況でも、そこに美をみつける態度であるという風に解釈されている。キリストは否定の言葉は使わない。どんな状況でも、悪魔でさえも、その存在を肯定的に捉えるのである。 なぜなら、この世を司っている神に、全幅の信頼を寄せているからで、神が起こす全ての出来事に、善を見い出す姿勢を、信仰に見い出しているからである。 この態度でいえば、例えば、病人をみて、その悲惨さに同情するのではなく、病気と闘う精神の勇気に感動するような態度といえるだろう。病人に学ぶ姿勢が大切なのである。 同様に、キリスト教のよくモチーフにされる十字架にかかったキリスト像は、悲しい目や罪悪感で、みるのではなく、キリストが、十字架にまでかかっても、人類のために、自己犠牲を捧げた愛こそ、その精神こそ大切なものだと問いかけているのである。 しかし、この真意をわからない偽善的なキリスト教徒に限って、その像を人間の目でみつめ、悲惨なもの、或いは、穢れた、醜悪なものとしてみている人が意外に多い。 つい最近も、日常の場面で、あの像は、綺麗なインテリアには似つかわしくないという議論が、キリスト教徒のなかであったが、世も末だなと思った。まぁ、キリスト教は一回滅んだ方がよいと私は思ってもいる。偽善者があまりに多すぎるからである。 このような人たちは、聖書を語れどその真意はつかめないであろう。宗教が闘争の種となるなら、宗教こそ無くすべきだろう。しかし、どんなものも肯定的に捉えるには、彼らをある意味反面教師として捉えることも必要である。 そのような人には、「キリストを頼ってはならない。ましてやキリスト教は、キリスト信者がつくった幻想であるから、なおさら、頼りにはならない。日々起こる問題の解決こそ、あなたが頼るべき道なのである。キリストでさえ、頼りにならないのに、他者にすがってはならない。自分で見い出せ。」と言うことにしている。 それでも、納得しない人には、天は自ら助ける人のみを救うと言い、自立せよと説く。) 従って、第一次発生(原発)と伝染、という概念は、どちらも全く正当であり、特に結核においては極めて正当である。ただ、合理的意味において、これらの概念を正当に用いなければならない。結核療養施設が他ならぬ人工結核孵化場となっていることが少なくない。 結核患者を結核療養施設に詰め込むと、この施設をできる限り何度も繰り返し取り壊して、別の施設に作り替える必要があり、結局、一定間隔毎に、結核療養施設を、古いものから、順に遠ざける必要があるだろう。なぜなら奇妙なことに、結核患者自身が極めて感染させられやすい素質をもち、症状の重い結核患者の近くにいると、もし、患者が近くにいなければ、好転している病気が、恐らく一層悪くなるからである。 (病気に罹るのは、精神的に何処かに依存心があるようだ。勿論、同情心は必要だが、依存心は必要ない。同情心とは、本来、ポジティブで、肯定的な共感といえ、依存心とは、その同情心とは逆の、ネガティブで、否定的な共感といえる。 病気に罹っている人は、外界のプロセスを体内に取り入れる傾向があるから、つまり依存心が過多になるのである。依存心を増強させることなく、同情心を高めることが肝要といえる。) さて、とりあえず、結核の本質を指摘するだけのつもりだったが、この結核を一つの例として、人間の生体組織における、様々なプロセスが、いかにお互い密接に関連し合っているかが理解できるだろう。 これらのプロセスは、想像すればわかるが、お互いに、ポジ(陽)の像とネガ(陰)の像が相対するように対応する、上部組織と下部組織があるという事実に常に影響を受けざるを得ない。 今述べたような生体組織の構造の存在によって結核が準備されるという、いわば極めて特異な現象を手懸かりにして、その経過(プロセス)のなかで更に、病気の本質を、原点から見る手法を研究できる。
2008年10月06日
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人間における両極性を理解するには、「人間は本来、このように上部から下部を知覚する二重構造の存在である」ということを知ることが重要である。しかし、次のようなことを付け加えておく必要がある。 「より広い意味での栄養分の摂取、栄養分の消化を、呼吸との同化に至るまで研究するときに、(身体の)下位部分の活動、つまり人間の全本性の一方の極が(下位として)与えられ、呼吸との同化はその時、律動的活動と共に行われる。」 この律動的活動の意味については、更に述べることがある。呼吸活動と組み合わさり、呼吸活動に所属するものと見なすべきものは、感覚-神経活動であり、つまり、外界の知覚と、この知覚の継続に関わる全て、神経活動による知覚の加工に関わる全てである。 つまり、一面において、呼吸活動、感覚-神経活動という関連全てを思い浮かべるなら、いわば人間の生体構造の一方の極が(上位として)得られる。他面において、栄養分の摂取、栄養分の消化、通常の言葉の意味での新陳代謝全てを総合的に見れば、人間の生体構造におけるプロセスの、もう一方の極が(下位として)得られる。 心臓は本質的に、その観察できる運動において、この上部と下部の均衡を表現する器官であり、心意的、或いはもっと良い言い方をするなら、下意識(識閾下)的な知覚器官であって、人間の生体構造の二極間を中継している。 解剖学、生理学、生物学が提供する全てを、この原理に向かって研究できる。そうすれば、この原理によって初めて、人間の生体構造の中に光をさせることがわかるだろう。心臓により中継される、この上部と下部を区別しない限り、人間を理解することはできない。なぜなら、心臓とは、人間の下部の生体活動において生じる全てと、上部の生体活動において生じる全てとの間の根本的な差異だからである。 この差異を単純に表現するなら、「下部で起こっていること全ては、上部にそのネガ、つまり反対の対応物をもつ」、と言うことができる。 「上部に関連する全ては、常に下部において、その対応物を見つけることができる」というわけである。しかし重要なことは、こうした上部と下部は、本来物質的に中継されているわけでなく、対応しているということなのである。 下部における、あるものを、常に正しく、上部における別のものと関連づけることを理解しなくてはならないが、物質的仲介物を見つけることを目指す必要はない。単純な例として、咳は上部と関係するという意味では、上部に属すわけだが、下部での、咳に対応する相応現象は下痢のなかに見つけられる。 (上部での咳は、下部での下痢である。この事は、屁を我慢すると、欠伸になることでわかる。) 上部に対応する現象が常に下部において見つけられる。このような対応関係に正しく着目することで(同様の対応は、観察していくうちにしばしば登場してくる)、真の人間理解に到達できる。 しかしながら、単に、このような抽象的な対応関係があるだけでなく、健康な生体組織においては同時に上部と下部との緊密な補完関係が成立している。 健康な生体組織において成立している補完関係とは、上部のもの、つまり呼吸と関係する活動であれ、神経-感覚機構に関係する活動であれ、上部の活動は、下部のものを、抑制せねばならず、下部と完全に調和しなければならない、ということである。 何らかの形で下部が優勢になったり、支配的になったりすると、つまり下部が、それに対応する上部の活動にとって強くなりすぎると、或いは逆に、上部が、それに対応する下部の活動に対して強くなりすぎると、すぐに(この対応関係は、後に、病気のプロセスを正しく理解することにつながっていくだろう)、生体組織に変則が生じる。 上部の活動と下部の活動の関係は常に、両者が何らかの形で相互に対応し、互いに制御し、両者がいわばお互いを方向づけながら経過していくようなものでなければならない。ここに確固たる方向づけが存在する。この方向づけは、個人によって異なるが、下部のプロセス全体に対する上部のプロセスの確固たる方向づけが存在する。 さて、この上部が下部に対応して健全な作用をする生体組織から、病気の生体組織にまで至る推移が見つけられる。 パラケルススがアルケウスと呼び、人智学者がエーテル体と呼ぶ存在における病気の前兆を出発点とすると、或いは、外側から、つまり、このような事柄に関しては何も知ろうとしない人々から、奇妙に思われないように取り繕っても、やはり、機能的な現象、動的な現象の中で、病気の前兆、いわば病気の最初の微かな兆しに関して、アルケウス、あるいはエーテル体は、語りはじめるだろう。 (このアルケウス、エーテル体は、漢方医学でいう、「気」に相当する。また、漢方医学の「水」は、栄養素や新陳代謝のようで、「血」は、ここでいう、呼吸素、つまり呼吸の律動を指すようである。) これらを出発点とし、まずエーテル体、或いは生体の機能性のなかに、最初に予告される事柄に関して語るなら、両極性についても語ることができる。ただ、この両極性は既に自らのうちに、対応しない状態、変則的な状態をもち、この変則状態は次のようにして生じる。 (身体)下部において、つまり栄養摂取と、より広い意味での消化機構において、摂取された栄養分の内的、化学的、或いは有機力が優勢であると考えてみる。 健康な生体組織においては、実験室で食物分析して得られる、食物の中で作用している力、食物に内在する力全ては、(身体)上部により克服され(非物質化され)、生体組織内部の効力にとっては全く問題とならず、外(物質)的化学、外(物質)的動力学その他、物理的作用が、一切行われず、体内では、あらゆるものが完全に克服(非物質化)されている。 (つまり、体内に取り込まれる物質は、外界にあるときの様々な力が分解され、非物質となって、体内に存在しないと、健常体とはならないという。外界の力を、体内で克服せずに、そのまま体内に受け継いでしまうと、変則的なプロセスとなり、病となるという。 例えば、風邪とは、外界の熱を、体内で、分解し、解消できずに、継続的に引き継いでしまう状態を意味するという。健常な人間は、外界の熱に負けないように、体内でも熱をつくり、皮膚表面で、熱の平衡状態を保っているという。だから、外界の熱に負けると、風邪をひくという。) しかし、(身体)下部を実際、完全に掌握し、いわば完全に(栄養分を)料理し尽くし、いわゆるエーテル化し尽くす(このように言えば多少とも厳密に語ったことになる)為には、対応すべき上部が十分に強くない、という事態も起こり得る。その場合、人間の生体組織においては、通常は外界で起こり、人間の生体組織の中では起こらない、本来人間の生体組織には属さない優勢な経過(プロセス)が現れる。 (つまり、変則プロセスとは、外界の自然法則を、体内に持ち込んでしまうことといえる。それが変則となるのは、体内と外界では、機能、つまりプロセスが全く逆であるからだという。体内は、霊界の原則に従うという。霊界の原則とは、物質界とは逆の法則、例えば、時間が逆に進むという。 古代ギリシアでは、物質界をデウスとし、霊界をクロノスと呼び、未来から過去に進む世界を表現した。鬼子母神の伝説は、このクロノスの世界からくる。なぜなら、母から子が産まれる逆だから、子を母が食らうプロセスとなるからである。物理的にいえば、時間反転の世界である。素粒子物理の世界では、マヨナラ粒子に相当する。) 物質的身体では、このような(機能的な)変則性を、完全に捉えることができないので、このような経過(プロセス)は、正に機能的な存在と呼ばれる、エーテル体、つまりアルケウスのなかに、まず現れてくる。 この変則性特有の形式から取られたと思われる慣用表現を選択するなら、「ヒステリー」という表現を選べるだろう。新陳代謝プロセスが、多大な独立性をもつようになることを表す用語として、「ヒステリー」を選ぶ(後で、この表現が悪しき選択でないことがわかるだろう)。 (つまり、身体全体の自己組織性を逸脱し、特定のプロセスが、過大な独立性を生じる場合のことを指す。いまは、新陳代謝プロセスなので、ヒステリーと称しているが、後に様々なプロセスに適応し、腫瘍や悪性腫瘍、つまり癌の発生を、この変則プロセスの病像から、説明する。)
2008年10月03日
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前回選んだ出発点から先に進んで、人間の本質において、支配的な、ある種の両極性に着目することにより、更に人間の本質へと徐々に迫っていきたい。 すでに前回、述べたように、動物においては未だに、負荷が掛かっている力を、人間では、ある垂直方向の力(アルケウス)と結びつけて平行四辺形を形成し、筋肉の反応においても、その力に相応した類似の合力が見られる。 この人間の骨組織と筋肉組織の研究における考察を更に追求すると、今日の経験を助けとし、恐らく、骨学、筋肉学から即時に、医学にとって、従来よりも、意味深い治療行為を行うことが可能となるだろう。 しかし、特に困難なのは、人間の認識を、今日の心臓学から出発する時に、医学が必要とする知見と結びつけることである。ここで、述べたいことは、骨学、筋肉学において初めて、意味深い治療行為を行う構想が示すものは、(古来の)心臓学に関して培われてきた見解において、根本的に生じてきたということである。 というのも、そもそも一般に人間の心臓については(まずは心臓学に限定する)、現代では、どのような見解が持たれているといえるのか? 「心臓は血液を様々な器官に送り出す一種のポンプである」、という風に見られている。そして、この「心臓」というポンプ機構を説明すべく、あらゆる興味深い力学的構造が考案されている。 さて、心臓のこの力学的な構造は、胎生学に全く矛盾するが、この力学的心臓論を、実際に疑ってみることや、この心臓論をもう一度検討することを留意せず、少なくとも通常の科学においても検討されてはいない。 心臓観において、とりわけ考慮すべきことは(まずは概略を述べ、後に述べることは、最初に観点として示す必要があった事柄を、少しずつ裏書きしていく形になると思う)、この心臓という器官は、自ら運動する生体組織の一種(ポンプのようなもの)と呼ばれるようなものではないということである。 なぜなら、心臓の運動は、(心臓自らの活動でおこる心臓が)原因ではなく、(他の活動から引き起こされる)結果だからである(この事は蛙の解剖等で、心臓を切り出し溶液に浸すと、その溶液の浸透圧等で鼓動をはじめることで確認できる)。この原則が理解できるのは、人間の生体組織における、あらゆる活動の間に生ずる両極性に着目する時だけであろう。 すなわち、栄養分の摂取に関係する活動、更に栄養分の消化に関わる活動と、直接、或いは血管を通じての、栄養分の血液中への移動に関わる活動との活動間に生じる両極性である。 いわば生体組織内で下から上へと、栄養分を取り入れる血液と、空気を取り入れる呼吸との間に、初めに生じる相互作用にまで、栄養分の消化を辿ることができるからである。その際、観察される経過を正確に見るなら(実際、正確に見れればよいが)、呼吸プロセス中にある全活動と、最大範囲の消化プロセス中にある活動との間に、ある種の対立があることがわかるだろう。 ここでは、互いに何かが均衡を取ろうとしている。いわば、お互いに渇望し合うものが、お互いに満たし合おうとするわけである。勿論、もっと他の表現を選ぶこともできるが、先に進むにつれ、更に良く理解できるだろう。 まず、液体状になった栄養素と、呼吸を通じて気体の形で生体組織に摂取された要素(呼吸素)との間に生じる相互作用がある。この相互作用を厳密に研究しなければならない。この相互作用は、お互いに働きかけ合う力の中に生じる。 そして、この互いに働きかけ合う要素、これがいわば、心臓において、その互いの働きかけを妨げ合う。心臓は1つの滞留器官であり、つまり、更に生体組織の下部の活動と呼べる栄養分の摂取や消化と、呼吸をその最下部の活動に組み入れたい生体組織の上部の活動、この上下の活動の滞留器官として、心臓は存在しているのである。 (栄養素と呼吸素の合力として)1つの滞留器官が、心臓として組み込まれているわけで、その際、本質的なことは、心臓の活動は、液体状になった栄養素、すなわち液体養分と、外部から取り入れられた空気との間の相互作用の結果で、運動が生じるということで、心臓に表現されている全運動、心臓において観察される全鼓動は、まずは力学的な意味で、1つの結果として考察しなければならない。 (つまり、心臓は、栄養素である物質力と、呼吸素であるエーテル力との合力で生まれる。) 唯一有望な発端といえるものは、少なくとも、この心臓活動の力学的な基礎に一度注目する(勿論、それ以上の観点ではない)ことで、上記のような発想の口火を切ったのは、オーストリアの医師、カール・シュミット博士([Dr.Karl Schmidt] 「心臓の動悸と脈拍の曲線について」 1891年10月26日グラーツで開催されたシュタイアマルク医師協会の月例会における講演。「ウィーン医学週報」1892年15号から17号に掲載。 )だった。 彼は北部のシュタイアマルクの医師で、『ウィーン医学週報』の1892年15号から17号に、彼の「心臓の動悸と脈拍の曲線」が掲載された。この論文には、まだそれほど多くの知見を含んではいなかったが、少なくとも、「通常のポンプとしての心臓ではなく、1つの滞留装置としての心臓である」と、自らの医療実践から気づいた人がいたという事を、述べておく必要があると思う。 シュミットは、心臓の運動と心臓の動悸という経過(プロセス)全体を、水流によって動かされる水撃ポンプ(水撃ポンプ、水圧ラム)として想定している。カール・シュミット博士の論述に内在する真理は、正にこの点にある。心臓の全活動を、液体の流れと気体の流れが(ここでは象徴的に、これらを流れと呼ぶが)、互いに入り込んでいく(2つの)流れの結果として、(心臓の運動を)把握するとき、初めて、心臓の力学に近づける。 では、結局、心臓とは(霊的には)一体何なのか? つまるところ、心臓とは1つの(流体の)感覚器官なのである。たとえ、我々人間が、心臓の感覚活動といえるものを直接意識しなくても、つまり心臓で起きていることが、識閾下の感覚活動に属するものであるとしても、やはり心臓は、いわば人間の上部の活動が、人間の下部の活動を知覚し、その感受を可能にするために存在しているのである。 丁度、眼で、外界の色彩現象を知覚するように、勿論、暗い下意識(識閾下)ではあるが、人間は皆、下半身で起きていることを、心臓を通じて知覚する。 結局のところ、『心臓とは、内的知覚のための感覚器官なのである』。心臓とは、体内の感覚器官であるとみなす必要がある。
2008年10月02日
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さて、前回の説明と関連する事を述べる。骨組織から筋肉組織に移ると、筋肉の本質での、骨との重要な差異がわかる。つまり、通常の化学作用に留意するなら、静止している筋肉はアルカリ性の反応を示す。ただし、静止している筋肉の場合、アルカリ反応は、それほど絶対的に、明確には現れないので、アルカリ性に類した反応と言えるだけである。 活動している筋肉の場合もやはり、あまり明確でない酸性反応が働いている。さて、改めて考えてみると、当然のことながら、筋肉は、新陳代謝に応じて、人間が摂取した食物から構成される。つまり筋肉はいわば、地上物質の中に存在する諸力からの成果といえる。 しかし、人間が活動を始めると同時に、通常の新陳代謝の支配下に、筋肉があることで、自らのうちに存在する物質力が、次第に明確に克服され、筋肉に変化が現れる。つまり、この筋肉の変化は、通常の新陳代謝に応じた変化に対して、骨形成に作用する力と比較可能なものである。 人間の場合、この骨形成と比較できる力が、外から摂取した物質を超えるように、また、この骨形成と比較できる力が、地上的に貫かれて、地上に貫かれた力と合一して合力を形成するように、筋肉のなかで、新陳代謝の作用として現れる力と並んで、地上の化学でも示せるが、それとは別の化学作用にも目を向ける必要がある。 ここでは、もはや、地上にはみつけられない力が、地上の力学、動力学へと作用を及ぼしているといえる。新陳代謝の場合、地上的な化学の中に、地上的でない化学、地上的化学の影響下に出現可能な作用とは、地上とは別の作用を及ぼす作用がある。 本来、人間の本質を見ようとするなら、形態観察の一面と、他面では、質の観察を出発点とすべきだろう。再び、失われた叡智への帰路が、病気の本質を、単に、形式的に定義することだけに留まるのではなく、必須の叡智への帰路を開かせるだろう。 実際、形式的な定義だけでは、実践に際し、多くを手掛けられないだろう。なぜなら、非常に重大な問題が発生するからである。我々人類は根本的に、周囲の環境から、地上の薬物だけを取り入れてきた。その薬物を用いて、病という、変化を起こした人間の生体組織に働きかけることができるからである。 しかし、人間においては、地上のものでないプロセス、或いは、少なくとも、地上のプロセスを、非地上的なプロセスにする力が作用している。従って、次のような問いが生じる。 「病んだ生体組織と、物質的地球環境との間に、相互関係として生じる状態のなかに、病気の状態から、健康な状態へと導く相互作用を、いかにして呼び起こすことができるか?」、という問いである。 また、「我々人類は、いかにして、このような相互関係を引き起こすことができるか?」 「その結果、この相互関係を通じて、実際に、人間の生体組織の中で活動している力に影響を及ぼすことができるか?」 という問いである。 この力は、もし仮に、そのプロセスが食餌療法の為の指示等であったとしても、薬物を選択可能にするようなプロセスとしては、現れてこない(見えない)力なのである。 最終的に特定の治療へと導く力が、人間の本質を、正しく把握することと、いかに密接に関わり合っているかがわかる。そして、我々人類を、この問いの解決へと向上させるために、第一の要素を、人間と動物との(骨格の)差異から、意識的に取り扱った。 「勿論、動物だって病気になり、場合によっては、植物も病気になるではないか(鉱物の病気すらも議論されているが)、だから病気については、動物と人間を区別すべきではない」、 という非難は、非常に容易だが、このような非難は後で解消されるだろう。人間の医学における、進歩(前進)の目的で、動物の本性の調査からは、長い間かけても、得る知見が少ないということが、医師たちに、わかってくると、この動物と人間との差異が認められるだろう。 人間の治療の為に、動物実験から達成できることが、若干存在するのは全く確かだが(なぜ、そうなのかはいずれ判明するだろう)、それはやはり、動物と人間の組織間の、極めて細部に至るまで、いかなる根本的差異があるかに関して、徹底して明確に認識されている場合に限る。従って、問題なのは、医学の進歩にとっての動物実験の意味を、それに相応しい方法で、明確にしていくことである。 更に、引き続き注意すべきことは、このような地上を超えた力を指摘しなければならない時には、いわゆる客観的法則、客観的自然法則を常に指摘できる時よりも遥かに、(病気をみる側の)人間の人格(徳性)が要求されることが多いということである。 無論、重要なのは、医学の本質を、ずっとインテンション(見霊的なもの)へと調整すること、何らかの関係で病気であったり、健康であったりする人間の生体組織、個々の生体組織の本質を、形態の現象から推論する能力によって、形態観察のための直観を鍛えることが、医学の発展において、また未来に向けて、より一層大きな役割を果たすだろう。 このような事柄は、先に述べたように、一種の前置き、方向付けの為の前置きとして述べた。というのも、今回は、ここで、化学や通常の比較解剖学では到達できない叡智、つまり、人智学的な事実観察への移行時にのみ到達できる見解に、医学は再び目を向ける必要があることを示すのが主題だからである。この事に関して、今日人々はまだ多くの錯誤に身を委ねている。 医学の霊化のために物質的薬剤を、霊的薬剤に置き換えることが重要であると考える人もいる。けれども、特定領域で正当なことは、全体としては正しくない。なぜなら、特に重要なことは、物質的薬剤にどのような治療価値を置き得るのかを霊的手法で認識すること、すなわち物質的薬剤の評価に、人智学を適用することだからである。つまり、これが、先に挙げた、人間と他世界との関係を認識することによる、治療の可能性の探求という課題となるだろう。 特殊な治療プロセスについて、これから語るべきことが、できるだけ基礎の確立となるように、また個別の病気において、自然の経過(プロセス)でもある、いわゆる異常プロセスと、自然の経過(プロセス)に他ならない、いわゆる正常プロセスとの関連について、1つの見解が得られることを、あらゆる点から目指すようにしたい。 「病気の経過(プロセス)も、やはり自然の経過(プロセス)であるという意味と、いかに折り合っていくか」という問い、この根本的な問いが生じてくる時は、常に(これはいわば付け足しとして触れておきたい事なのだが)、人間は、できる限り早く、この問題から逃げ出そうとする。 例えば、トロクスラー(15;Ignaz Paul Vital Troxler 1821-1902)はベルンで教鞭をとっていたが、興味深いことに、既に19世紀前半に非常に熱心に次のようなことを指摘していた。 「いわば病気の正常さ(自然さ)ということを探究する必要があること」で、それにより、ある方向、つまり我々の世界と結びつきながら、抜け穴を通って、我々の世界へと浸透してくる、ある世界(霊界)の、最終的な、認知に到達するような方向へと導かれること、そして、そのことにより、病気という現象に関して、何らかの認識に到達し得ることを指摘していた。 ここでは、大雑把な図式を用いて、説明するだけだが、何らかの世界、つまりその世界の法則からすれば全く正当な事柄が、我々の世界では病気という現象を引き起こすような、そのような世界が背後に存在するなら、その世界から、我々の世界に入り込んでくる、抜け穴を通じて、その別の世界では全く正当な法則が、我々の世界では災いを引き起こすことも可能である。 トロクスラーは、このような事を目指して努力していた。たとえ、彼の述べたことが、少なからぬ点において曖昧で不明確であったにせよ、彼が医学において、正に医学という学問の健全化を目指す道の途上にあったことは注目に値する。 かつて、私(シュタイナー)は、かのトロクスラーがベルンで教えていた頃、ある友人と、トロクスラーが同僚たちの中でどのように見られていたか、また彼の提案によって何がなされたかを調べてみたことがあった。 しかし、大学の歴史に関する多くの事柄が記されている事典の中で、トロクスラーに関するものとして発見できたことは、ただ、彼は大学で何度も騒動を巻き起こしたということだけだった。記載されていたのは、その事だけで、彼の学問上の意義については何ら特別なことは発見できなかった。 さて、以前にも述べたように、今回は、以上のことだけを指摘するつもりだった。講義に対する要望から、この連続講演に必要な形式を与えることは、最も良いやり方だと思う。講義が実り多きものになることを期待したい。
2008年10月01日
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