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いま述べている、回数の限られた講座では、主として、通常の書物や講義ではみつけられない知見を述べている。けれども、その前提となるのは、正に、通常、普通に見られるものである。通常、よく知られたような理論を並べることは、さして価値があるとも思えないので、ここで、人間の骨格と、いわゆる高等のサルであるゴリラの骨格を思い浮かべ、そこから見て取れることを、単純に比較し、明らかな差異を参照してみる。 両者の骨格を純粋に外見的に比較してみると、本質的に、ゴリラの場合には、もっぱら下顎組織全体が特に大きく発達していることに気づく。この下顎組織は、いわば頭骨全体の中に、負荷としてある。 ゴリラの頭部を、その大きな下顎とともに見ると、この下顎組織には、何らかの方法で負荷が掛かっていて、骨格全体が前に突き出、そして、ゴリラは、言うなれば、とりわけ下顎で働いている、この負荷に逆らって、幾分苦労して直立している、と感じられる。 手を伴う前膊部の骨格に目を向けると、ゴリラと同じ負荷システムを、人間の骨格にも見つけられる。この負荷は重力的に作用する(負荷がかかる)が、ゴリラの場合は全てが嵩張っているのに対し、人間の場合は全てが精密繊細に分化している。 人間の場合(手の骨格)には骨量が目立たない。下顎組織と、指組織を伴う前膊組織では、人間では骨量が目立たず、ゴリラの場合には骨量が目立つ(豊富)。このような関係に対して観察眼が鋭い人は、足及び下肢の骨格にも同様の差異を追求できる。 下肢にも、ある特定の方向に圧力をかける、いわば負荷がある。この負荷的な力(これらは下顎組織、腕の組織、脚および足の組織にみられるが)を、矢印(→)によって図式的に描いてみる。(図) ゴリラの骨格と人間の骨格を純粋に観察することから差異として現れてくること、すなわち、人間においては、下顎が後退し、もはや負荷がかからず、腕及び指の骨格が精密に形成されていることに着目すれば、人間の場合は至る所で上昇力が、これらの負荷力に対抗しているといえる。 (ダーウィンの人間の進化図、つまり、猿から人間への骨格変化の進化図から、人間になるにつれ、上昇力が働いていることがわかる。しかし、この猿から人間への進化は、間違いで、人間は猿から進化したのではなく、人間-猿の中間存在から、上昇したのが人間で、下降したのが猿だと、シュタイナーは説いている。) 人間においては一種の力の平行四辺形から形成されるものを想定する必要がある。これは、この上昇力から生じるもので、この力を、ゴリラは外にのみ習得し、それはゴリラが直立し、直立しようとする努力のなかに見出せる。このようにして、以上の矢印(→)で描かれた平行四辺形が得られる。(上図) さて究めて奇妙なのは、今日、通常、高等動物の骨格、或いは筋肉を、人間のものとの比較だけに限定し、その際、上記のような負荷や上昇力等の形態変化には重点を置かないことである。本質的に重要な事は、このような形態変化を見る中に求める必要がある。ゴリラにおいて、形態形成力に逆らって作用するような力が存在せねばならない。 実際、形態形成力に逆らう力が存在する必要があり、このような力が働いていなければ、形態形成されない。このような力を探すなら、古代の医学が、ヒポクラテス的な体系によって濾過された際に、捨て去られた叡智を再び見つけることになる。 更に、形態形成力に逆らう力は、地上の自然力の平行四辺形の中にあって、力の平行四辺形の中で、地上の力と合成され、その結果、地上力を起源とせず、地上を越えた、地球外的な(天の)力を起源とする合力の成立からわかる。 このような力を、地上の外に求める必要がある。人間に直立姿勢をもたらした牽引力を求めなければならないが、この牽引力は、高等動物にも、ときおり見られるような直立姿勢をもたらすだけでなく、直立姿勢の中で作用する力が、同時に形成力でもあるような形で、直立姿勢をもたらすものなのである。 サルは直立歩行するが、量的に、直立に逆らって働く力をもつかどうか、もしくは、人間では、その骨組織の形成が、地上的でない(天的な)起源を持つ力の方向に作用しているかどうか、ということが相違点である。 人間の骨格の形を正しく見れば、個々の骨の記述から、動物の骨との比較だけに限定されることはない。人間の骨格構造にある、ダイナミズムを追求すれば、地球の領域に、上昇力を見つけることはできない。 この構造探求から、遭遇する力(上昇力)は、他の力と合わせて力の平行四辺形を作る力といえる。単に人間の外にある力に注目するだけでは発見できない合力が成立している。だから、動物から人間へのこの飛躍を一度明確に追求することが重要となる。 (この上昇力が、パラケルススが呼んだアルケウス、つまりエーテル体の力で、シュタイナーは生命形成力とも呼んでいるが、上昇力の要因は霊魂からくる。動物は地球と平行に、つまり地表上に働き、人間は天に向かって働くので、直立歩行ができるという。) この合力を探求すると、人間だけでなく、動物の場合にも、病気の本質の起源を発見できる。このような要素を、ここでは少しづつしか指摘できないが、更に進むうちに、これらから非常に多くのことが発見できるだろう。
2008年09月30日
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19世紀の40年代と50年代の、この20年間に、より普遍的であった古代の見解は終焉に向かい、原子論的な医学的見解が黎明を迎える。1858年にウィルヒョウ(14;Rudolf Virchow 1821-1902)の『細胞病理学』が出版されたのが、正しくその時だった。 実際、この2つの著作、つまり1842年のロキタンスキーによる『病理学的解剖学』と、1858年のウィルヒョウの『細胞病理学』の間に、近代の医学的思考における、大きな飛躍的転回を見い出す必要がある。この細胞病理学により根本的に、人間に現れてくる病像は全て細胞作用の変化から推論されるようになる。このような公的的見解に従って、全てを細胞変化に基づいて構築することが理想とみなされる。 ある器官組織の細胞変化を研究し、この細胞変化から、病気を理解することに理想が見い出される。このような原子論的観察は実際、容易である。つまり、その考察は自明の理とでも言うべきものである。全てを、このような観察によって、容易に理解できるように構築できる。 このように、近代科学は、あらゆる進歩を遂げたが、この科学は相も変わらず、全てを容易に理解することを目指し、自然の本質と宇宙の本質は究めて複雑なものである、ということを考慮しない。 (物事は分かり易くなければならなく、真理は誰にでも理解できるものでなければならず、シンプルイズベストと考える科学的な風潮を生んだといえる。しかし、そもそも真理が誰にでも理解できるものなら、真理の意味さえないだろう。なぜなら、真理は、そこに到達した者だけが理解できるもので、誰でも真理の理解ができるなら、真理に到達する努力が無意味になってしまうからである。) さて、簡単に、実験で確かめられるが、例えばアメーバは水中で、その形を変化させ、腕のような突起を伸ばしたり、また縮めたりする。アメーバが泳いでいる水を暖めると、ある温度になるまで、突起を伸ばしたり縮めたりする所作が、徐々に活発になるのがわかる。特定の温度をすぎた後、アメーバは収縮してしまい、もはや周囲の媒体で起こっている変化について行けなくなる。 また、この液体のなかに流れを作り出すと、アメーバはその体を球状にし、あまりに流れを強くすると、最後には破裂が観察される。このように個々の細胞が環境の影響によって、どのように変化するかを研究し、そこから、細胞の本質の変化により、次第に病気の本質が、いかに構築されるかという理論を形成できる。 では、20年の間に生じた、この転換により到来した、上記全ての本質とは何なのか? この時、生じた知見は、今日公認された医学全般を貫く中に、実際、継続している。この時、生じた中に生きるのはやはり、唯物論的時代に形成された、世界を原子論的に理解しようとする傾向に他ならない。 (このような唯物論的な原子論的解釈は、現代では、還元主義と呼ばれている。) さて、次のような事に注意すべきである。今日医学に携わっている人は必然的に、「そもそも病気とは一体いかなるプロセスなのか?」、という疑問を提示せざるを得ない、ということに、注意を向けることから出発した。 病気は、人間の生体組織の、いわゆる正常な状態から一体どのように区別されるのか? このような疑問に対する認識は、正常からの逸脱に関する、肯定的(ポジティブ)な観念からのみ、活動可能なのに、公認の科学においては、通常、この疑問に関して、見い出され、与えられる表現は、結局、否定的(ネガティブ)なものでしかない。もっぱら、正常からの逸脱があると指摘されるだけなのである。 それから、この逸脱を、いかにして取り除けるかが試される。けれども人間の本質に関する透徹した見解は、そもそも、そこにはない。人間の本性に関する透徹した見解が欠けているので、根本的に、現代の医学的見解全体が病んでいるといえる。 (このような正常からの逸脱を病とし、その病を取り除くというような、医学的態度を、通常、アロパシーと呼んでいる。) 一体、病気のプロセスとは何なのだろうか? やはり、病気も、自然のプロセスと言わざるを得ないだろう。外界で進行し、その結果を追求できる、何らかの自然のプロセスと、病気のプロセスとの間に、すぐには、抽象的な区別を打ち立てることはできないからである。 自然のプロセス、これを正常と称し、病気のプロセスを異常と称する。その際、人間の生体組織における病気のプロセスが、なぜ異常なのかについては注意しない。少なくとも、このプロセスがなぜ異常なのか説明できなくては、実際、実践に移ることはできない。 異常を説明できてはじめて、病気のプロセスを、いかにして終結できるか、ということを探究できる。異常の説明によってはじめて、病気のプロセスを取り除くことが、宇宙に存在するプロセスの、どの段階から可能なのかという問題に到達できるからである。 つまるところ、病気のプロセスを異常とみなすこと自体が妨げになる。一体何故、人間における相当数のプロセスが異常とみなされる必要があるのか? 指を切ったとしても、人間にとっては単に、物質的には、相対的に異常なだけである。自分の指を切るのではなく、一片の木材を、ある形に切るなら、正常なプロセスといえるからである。 (唯物論的に、人間が進化しているのなら、指を切る事も、いわば人生における進化のプロセスに含まれるのではないか、とも考えることができる。人間が日々進化しているのなら、いまのような人間の形姿を正常だと誰が決め得るのだろうか。指を切れば通常痛いと感じるが、これは何故なのか?はこれから後に述べるが、少なくとも、物質的には、異常とはいえない。) 自分の指を切るのは、異常なプロセスと呼ぶわけだが、自分の指を切るのとは、異なるプロセスを追求する慣習によっては、実際、その異常については、何も語ることはできない。単なる言葉遊びが世に広まっているだけである。なぜなら、自分の指を切る時に生じる異常は、ある別の側面からすれば、そのプロセス(経過)は、他の何らかの自然のプロセスと全く同様に正常とも言えるからである。 さて、病気のプロセスと呼んではいるが、根本的には、全く正常なプロセスで、ただ、特定の原因によって生じたプロセスと、通常健康なプロセスとみなしている日常的なプロセスとの、人間の生体組織における、この2つのプロセスの間に、どのような差異があるのか?ということに到達するのが課題である。 この決定的な差異を見つけなければならない。この差異は、真に、人間の本質へと導く観察方法に立ち入らなければ、見つけることはできない。この導入部において、その為に、少なくとも最初の基礎を示しておく。その後、改めて個別的に詳しく述べていく。
2008年09月29日
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自民曰く、麻生内閣とは、きたる選挙戦を有利に戦うための救自民人気回復特攻内閣であるというのだろう。 なにやら、戦時中の一億総玉砕という悲劇が思い浮かばれる。火の玉攻撃ならぬ、総口撃なのだろうか? 民主党と刺し違えるつもりで、民主党の弱点や欠点を口撃し、自民人気回復のために、玉砕する覚悟という腹づもりなのだろうか? だから、日頃から問題発言の多い大臣や、さしたる実力もない、形だけの、お友達連中を招集したのだろうか? お友達内閣は、安倍坊のときに、霞ヶ関で撃墜されたのに、今度は、霞ヶ関を味方につけ、民主党が相手だから、大丈夫とでも思っているのだろうか? 星野ジャパンも、お友達内閣で、国際ストライクゾーンやルールの前に、なすすべなく、赤っ恥をかいて、メダル無しで、引き返してきたのに、時事に疎いとしかいいようがない。 というわけで、早速、国土大臣が、民主を口撃する前に、暴発してしまった! なんでも、「日教組をぶっつぶす」という口撃で、早くも、麻生内閣のポストを1つぶっつぶし、次の選挙で、自民党をもぶっつぶしそうなので、自爆してしまった。 典型的なオウンゴールである。デフェンダーが、自チームのキーパーを交わしてシュートしてしまったようなもんだ。人気50%そこそこが更に下降するだろう。しかも、今度は、内閣改造も、総裁選も許されないだろう。 民主党や野党は大笑いなのではないだろうか? はて、お笑い作戦かもしれない…。 ひょっとして、竹下内閣のときの、褒め殺しならぬ、笑い殺しにするつもりなのか? まだまだ、爆弾発言、暴言、失言の止まらない大臣ばかりなので、いっそのこと、吉本興業にでも、引き取ってもらい、暴言内閣として、お笑いの道を目指した方がいいかもしれない。 ボビーオロゴンの前で、日本は単一民族国家だといい。成田空港の飛行機の舞う滑走路に座って、ゴネ得だといってみたらよい。 確かに、日本を明るくするには、笑いが必要なのはよくわかるが、特定の団体を中傷することで、笑いや人気を取ろうとするのは邪道だね。 せいぜい、自虐ネタに留めておいて欲しいよ! 「日教組の解体のために火の玉となる」なんて、せいぜい、自民の解体の火の玉になるだけだよね。 拉致問題の解決が深刻なので、奥さんから、よく北朝鮮の金主席と間違われ、いじめられるんだとか、軽いジョークにおさめておくべきだったね。 さてさて、次はどの大臣かな?
2008年09月28日
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ローマ帝国崩壊のように、アメリカ帝国が崩壊していくだろう。このブログで何度も、預言めいた内容で述べているように、ブッシュが大統領に決まったときに、すでに天では決定していた出来事だともいえる。 ブッシュが大統領になったときを考えてみればよい。非常な僅差で、ブッシュが勝ち取ったが、私は、投票が、パンチ式等の新方式に変わり、不正行為が働いたのではないかと、いまでも思っている。実際、ゴア陣営が、再度、投票の確認を要求したのは、それだけ、不信感があったことを示している。 ブッシュは、アメリカでは稀な、世襲大統領である。全く優秀ではなく、アル中だったし、父親ブッシュの権限で、徴兵逃れで、州兵になったり、自分の弱さを、キリスト教福音派、つまり原理主義に求めた、いわゆる、外国からすればカルト信者に近い人物である。 このような人格者が、大統領に就くなど、本来、考えられないことである。もはや悪夢としかいいようがない。天が許すはずもないだろう。この事は、日本では小泉に相当する。 確かに、ブッシュと小泉はウマがあっただろう。大学もサボり、会社もコネで、籍があるだけで、親の七光りで、社会をなめていた人物である。恐らく、素行の悪さは折り紙つきで、恐らく犯罪等も、親の七光りで揉み消していたのかもしれない。 そのやり方は、重要なポストに就いても変わらなかったといえる。なぜなら、小泉は日本社会を壊し、ブッシュはアメリカ社会を壊しているからである。 小泉は、常々、その言動から二重人格者ではないか?と私は思ってきた。表の顔は、営業スマイルで、実は裏の顔は非情な冷酷者なのではないかと思う。総理就任早々、選挙で第一の功労者であった田中真紀子を切ったときに、田中が、第一に感じたのではないかと思う。 あれだけ、自民党をぶっ壊すといって、国会をもぶっ壊し、生活を破壊する法案を単独独裁で可決して、自民党の本流派政治家を党から追い出して、最後は、ちゃっかり、世襲の為に引退するのだから、国民も舐められたものだと思う。 しかし、日本は小国なため、ある程度、急な舵取りも利くだろうが、アメリカはそうはいかないだろう。 ブッシュは、75兆円もの公的資金導入を決めたようだが、多くの米国債を、海外に負担している以上、いくら、税金を投入しようと、デフォルトには程遠い。もはや、アメリカ大陸を、外国に切り売りしなければ、解消できないほどの借金を抱えてしまっているのである。 75兆円もの公的資金導入の前に、せめて、ブッシュの資財資産全てを国庫に寄付して、ブッシュ家は、一から、ホームレスになるべきだと、天の声は囁いているように思えて仕方がない。 ブッシュが、キリスト信者ならば、アメリカを救う道は是しかない。国を売る前に、多くの金持ちの資財資産凍結しかないだろう。要するに、アメリカは破綻したのである。公的資金導入では、日本の金融破綻とは、あまりにも規模が違いすぎる。 天の摂理からいえば、多くの住民の家を奪っておいて、自分たちだけが、豪華な家に暮らせると思ってはならない。海外で多くの生命を奪っておいて、自国で悠々自適に人生を永らえると思ってはならない。 不幸の種を蒔いたら、不幸の実を収穫しなければならない。悪因は悪果を呼ぶ。善導が必要なのである。悪が悪いのではなく、責任をとらないのが悪いのである。 真の間違いは、間違いとわかった時点で、訂正しないことである。 蒔いた種は必ず刈りとらなければならない。地球はもはや、人間の為したことを引き受けてはくれない。 アメリカは当分の間、リメンバー911から、ノーモアブッシュになりそうな気配である。
2008年09月28日
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さて、当時、根源的に意味されていた事が、次第に理解されなくなっていった。とりわけ、この事が明白になってくるのは、17、18世紀と進んで、シュタール医学(7;Georg Ernst Stahl 1577-1644)に遭遇する時である。シュタール医学に至っては、この宇宙の地球への作用については、もはや全く理解されていない。シュタール医学は、純粋に空気中に漂う、あらゆる可能な概念、生命力、生命霊に関する概念を利用する。 パラケルススとファン・ヘルモントは、人間の本来、霊的-魂的な存在と、物質的な生体組織との間にある存在について、まだある程度意識的に語っていたが、シュタールとその信奉者たちは、あたかも意識的-魂的な存在が別の形をとって、人間の身体の構造付与に働きかけるかのように語った。この事により、無論、強い反動を呼び起こした。 なぜなら、このような手法で、一種の仮説的な生気論を打ち立てると、結局、純粋に、恣意的な提示になってしまうからである。このような提示に、特に強く対抗したのは19世紀である。例えば、エルンスト・ヘッケル(8;Ernst Haeckel 1834-1919)の師で1858年に亡くなったヨハネス・ミュラー(9;Johannes Mueller 1801-1858 ベルリン大学生理学教授)のような偉大な精神のみが、人間の生体組織に関する、このような「不明確な表現」に由来する、あらゆる害悪を克服し、乗り越えて行った。 この「不明確な表現」とは、人間の生体組織において作用する生命力に関して、それがどのように作用しているのかを、明白に考察すること無しに、もっぱら魂の力に関して語るようになってしまったことを指す。 さて、シュタール医学のような「不明確な表現」全てが生じる間に、全く別の流れが現れてきた。今までいわば、消滅していく叡智の、最後の余波までを探求してきたが、近代とともに、特に19世紀の医学上の概念形成にとって、今度は別の形で決定的となった医学が到来した。 結局それは、18世紀の、法外に強力な決定的影響を与えた唯一の著作、パドゥアの医師モルガーニ(10;Giovanni Battista Morgani 1682-1771)の『解剖所見による病気の所在とその原因について』に遡る。モルガーニとともに、その根本において、唯物主義的傾向を導いた医学が到来した。 このような医学の到来は、共感、反感を交えず、全く客観的に特徴づける必要がある。なぜなら、この著書とともに到来した医学は、人間の生体組織が病んだ結果に目を向けさせるものだからである。決定的となったのは、死体鑑定だった。死体鑑定が決定的と言えるのは、実際、この時代からである。 人々は、死体から、病名は何であれ、何らかの病気が作用すると、いずれかの器官が何らかの変化を蒙るに違いないということを知った。今や、何らかの変化を他ならぬ死体鑑定から研究するということが始まった。 実際、ここではじめて病理学的な解剖学が始まる。他方、医学のなかに、以前からあった全ては、なおも作用し続けている古代の霊視的要素に依拠していた。 さて興味深いのは、言うなれば、大きな転換が、それから一挙に、最終的に生じたことである。実際、直接、20世紀に示すことができる。興味深いことに、20世紀に大きな転換が成し遂げられ、その転換によって、古くからの遺産として、存在していた全てが捨て去られ、更に現代の医学制度における原子論的-唯物論的見解が基礎付けられたのである。 少し努力して、1842年に出版されたロキタンスキーの『病理学的解剖学』を調べてみれば、ロキタンスキーにはまだ、古代の体液病理学の名残り、つまり病気は体液の正常でない相互作用に基づく、という見解の名残りが存在していることがわかるだろう。 このような体液の混合に注目せねばならないとする見解(体液混合の注目を可能にするのは、体液の地球外的特性に関する見解の遺産をもっていた時代だけなのだが)は、ロキタンスキーによって非常に機知に富んだ手法で、器官変化の観察と結びつけて処理された。 つまり、ロキタンスキーの書物は、元来、常に器官変化の死体鑑定による観察を根拠としているが、このような特殊な器官変化は体液の異常な混合の影響によって生じてきた、という指摘に結びついている。だから、古代の体液病理学の遺産から現れた最後の医学は、1842年には存在したと言える。 この古代の体液病理学の没落の中に、例えばハーネマン(12;Christian Friedrich Samuel Hahnemann 1755-1843 ホメオパシー[Homoeopathie]の創始者。主著『合理的治療学のオルガノン』ドレスデン、1810)の試みのような、包括的な病気の表象を考慮に入れるという未来志向的な試みが、いかに投入されたか、という事に関しては、後で述べていく。 このハーネマンの試みは、この講義の前置きで取りあげるには、あまりにも重要なことなので、まずは同種の試みとの関連において、それから個々の場合において議論する必要がある。 さて今度は、ロキタンスキーの『病理学的解剖学』出版後の20年間が、医学の本質の原子論的-唯物論的考察にとって、本来の基礎をなす期間となったことに注目する。古くからの知識は、奇妙なことに、なおも19世紀前半に形成された表象(イメージ)の中に入り込んでいる。 だから、例えば、植物細胞の発見者と言えるシュワン(13;Theodor Schwann 1810-1882 リエージュおよびレーヴェン大学解剖学-生理学教授。 主著『動物と植物における構造と成長の一致に関する顕微鏡研究』ベルリン、1839)はなお、細胞形成の根底には、ある種の形式化されていない液体形成、胚胞とみなした液体形成があるという見解を持っているが、この液体形成から細胞核が硬化し、細胞原形質が周囲に分化するのを観察できるというのは興味深いことである。 シュワンがなお、細分化していく方向に流れる特性を、内在する液体的要素に依拠すること、そして、この細分化を通して細胞の発生が観察できるというのが興味深い。更に興味を惹くのは、人間の生体組織は細胞から構成されている、という言葉で総括し得る見解が、その後、次第に形成されていくのを追求できることである。細胞は一種の基本的有機体であり、人間の生体組織は細胞から構成されている、という見解は、実際今日当たり前になっているものである。 さて、シュワンがなおも、その行間に、いやその行間以上に、有していた、この見解は、つまるところ古代医学の本質の、最後の名残りなのである。なぜなら、この見解は原子論的な存在には向けられないからである。 この見解は、原子論的に現れてくる細胞質を、正確に観察すれば、決して原子論的には観察できない存在から、つまり液体的な何かから生じてくるという観察を意味する。この液体的存在が、力を内在し、この力が自ら原子論的存在を分化していくというのである。
2008年09月27日
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どうも、麻生内閣も、自分たちの存在意味すらわかっていないようである。はやくも、選挙をせずに、任期を真っ当しようとするようなKYぶりのようである。どうやら、痺れを切らしている公明党の立場を理解していないようである。 国民は更に痺れを切らしているというのに、阿呆もいい加減にして欲しいものだ! 手を変え、品を変えても、支持率は下降するばかりだろう。大体、公明党が裏切ったら、自民の立場なんか、吹き飛んでしまうことに、考えが及ばないようである。 誰が好き好んで自民などに投票するだろうか? 公明党頼みの選挙戦に、公明党に裏切られたら、比例代表だって、危ういに違いない。公明党によって、福田が辞任に追い込まれたことが理解できないようだ。 福田じゃ戦えないから、麻生にしたわけだろう。麻生で更に戦えなくなったら、公明党は平気で、自民を裏切るだろう。自民は馬鹿じゃないのかルンバ! 党内滅茶苦茶で、醜いねぇ、小泉チルドレンは路頭に迷うわ、安倍や福田や、麻生に、ポストをとるため、尻尾を振り振り、派閥の長は、風見鶏ぶりで、支離滅裂、その混迷振りは、醜悪もいいとこ。そのうち現地の自民候補が、たまりかねて、裏切り誘発の事態になるかもしれないというのに。馬鹿な人たちだ! マスゾエなんか、麻生の暴言から、馬鹿扱いしていたのに、いまや、ポストに居座るために、ヨイショの太鼓もちだし、節操のないこと、この上ない。軍事オタクが、総裁候補に立候補して、最低票数でも、農水大臣のポストを得て、今度は、農水改革だと馬鹿の一つ覚えのように、連呼する。皆、小泉詐欺病から、精神分裂してしまったようである。 改革、既存勢力の掃討といいながら、小泉チルドレンを刺客として擁立しておきながら、通用しなくなると、正真正銘の小泉チルドレンならぬチャイルドに世襲する、小泉という男は、最低のエゴイストで、最低の男だったといえるだろう。よくもまぁ、こんな人間が総理に就いたものである。 安倍も、福田も、そして麻生も、ただ総理になってみたかったお坊ちゃんだと、その発言の相似性から、改めてわかった! 駄々っ子が、両親に、集団的自衛権買ってよぉお、総理になったらねと説き伏せられても、総理になるまで、待つの嫌だ嫌だぁあ! いま欲しいと、玩具屋の前で泣いている子供と同じ精神である。 そして、総理になると、両親が、無理を承知で説き伏せていたことにきがつかず、ほら、総理になったから、買ってよねと平気でいう御馬鹿ちゃんなのだろう。 だから、三者とも、同じような言動を繰り返すのだろう。麻生と安倍が酷似してきた! 同じ轍を踏まないという原則を知らない御馬鹿には、国民が泣かされるだけである。 これでは、漫画でも読んで静かにしてもらった方が楽だ! 金融危機で世界恐慌寸前に、戦争ごっこを持ち出す無神経ぶりには、辟易させられるね。そんなにやりたければ、単身で乗り込んでくれ! 自民はタイムマシンでももっているのか?と思うが、恐らく、永田町という洞窟で権力抗争している間に、思考回路がショートして、過去のまま、進歩しないのだろう、だから時代にもついていけないのだろう。暴言の連続は、現代感覚についていけていない証拠ともいえる。もはや過去の人間を、いまに連れてきてどうするのだろうか? 教育を日教組のせいにしたり、成田問題をゴネ得とか、一体いつの話をしてるんだ! いまでも、昭和の感覚なのだろう。 だからいつまでも、小泉期待論が蒸し返されるのだろう。辞めても小泉と言い出すに違いない馬鹿ばかりだ!
2008年09月26日
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通常、医学史が考察される際、5世紀と6世紀の古代ギリシアにおける医学の成立と、ヒポクラテス(1;Hippokrates 紀元前460-377)が指摘される。そして少なくとも、その際、ヒポクラテスの見解として現れ、その後、いわゆる体液病理学へと続き、根本的には19世紀に入ってもなお、ある程度重視されることにより、あたかも西洋における本質的な医学が展開され始めたかのように感じさせられるだろう。 しかしながら、この事が既に、人々の犯す最初の根本的な誤謬であり、これは実際根本において、後々まで影響を残し、今日においてもなお、病気の本質について、囚われのない見解に至るのを妨げている。この根本的な誤謬を、まず取り除く必要がある。 他ならぬ、このヒポクラテスの見解を、何の偏見もなく見る人には、この見解は、ロキタンスキー(2;Karl Freiherr von Rokitansky 1804-1878 病理解剖学教授。『病理解剖学教本』3巻、ウィーン、1842-1846 )に至っても、つまり19世紀に入っても、ある程度重視されているが、このヒポクラテスの見解は、単なる始まりではなく、同時に、しかも大変重要な意味において、古くからの医学観の終焉なのである。 いわば、ヒポクラテスから始まる見解において、太古の医学観の、最後の濾過された残滓に遭遇する。これら太古の医学観は、今日、現代人が探究する方法、つまり解剖学的方法によっては獲得できず、古代から隔世遺伝的(肉体の意味ではなく、霊魂の意味である)に継承されてきた観照法(生まれながらの霊能力)によって獲得されたものである。 ヒポクラテスの医学の位置づけを、まず抽象的に特徴づけようとすると、実際、ヒポクラテス医学をもって、古代から隔世遺伝的に継承されてきた観照法(霊能力)に基づく医学が終わりを遂げた、というのが一番良いだろう。 外(資料)的に言って、尤も外(資料)的にしか言われてはいないが、ヒポクラテス派は、人間の生体組織において共に作用している体液の適正でない混合のなかに、あらゆる病気の本質を探究していたと言える。 彼らが指摘したのは、正常な生体組織において、体液はある比率を保っていなければならず、病んだ肉体においては、体液に、この混合比率からのズレが生じるということだった。 適正な混合がクラーシス[Krasis]、不適正な混合がディスクラーシス[Diskrasis]と呼ばれた。 (恐らく、このディスクラーシスから、英語のディジーズ「病気」が派生したのだろう) さて、それから当然、再び適正な混合に戻るように、不適正な混合に働きかけようとする試みがなされた。外界において、あらゆる自然存在を構成するものと、みなされた四つの構成要素は、土、水、空気、火(火といっても、今日の熱のことだが)である。 人間の生体組織においては、(動物の生体組織においても)これらの四要素は、黒胆汁、黄胆汁、粘液、血液として特徴づけられると見なされた。そして、適正に混合された血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁から、人間の生体組織は機能しなければならないと考えられた。 さて、今日の人間が、できる限りの科学的準備で、上述のようなことにアプローチするなら、まず、次のように考えるだろう。 つまり、「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の混合というのは、これらの特性として内在する因子、多少とも、低次、或いは高次の化学により、その内在因子の性質として、適切な配分が確認できるような化学結合則のようなものに従って混合することである」、と。 実際、このような観点に照らして、あたかもヒポクラテス派も、このような現代科学的な方法で、血液、粘液その他を見ていたかのように、体液病理学が端を発したと想定されている。 しかし、この観点は大きな間違いである。そうではなく、ただ一つの要素、今日の観察者にとって本来最もヒポクラテス的に思われる黒胆汁(土;固体)に関してだけ、通常の化学的特性が他に作用すると考えられたのである。 他3つ、白胆汁もしく黄胆汁、粘液、血液に関しては、単なる化学的反応により、確認できる特性が考えられていたわけではなく、人間の生体組織の、この液体要素の場合(人間の生体組織に限定し、動物の生体組織については考慮しない)、地上的存在の領域外にある諸力の、各々の液体に内在する特性が考えられた。 要するに、水、空気、熱が地球外の宇宙の諸力に依存するように考えられたのと同じように、人間の生体組織の液体要素も、地球の外からやって来る諸力に浸透されていると考えられたのである。 このような地球の外(つまり天)からやって来る諸力への視点は、西洋科学の発展に伴って、全く失われてしまった。 だから、今日の科学者が、水は、単に化学的に検証できる存在として与えられた特性だけでなく、水が人間の生体組織のなかに働きかけることで、地球外の宇宙に属する特性も持つものと考えるように要請されるなら、全く奇妙な事、オカルトに思えるだろう。 つまり、人間の生体組織の中にある液体要素を通じて、古代の人々の見解によれば、この生体組織の中へと、宇宙(天)に由来する諸力の作用がもたらされる。この宇宙に由来する諸力の作用は、次第に省みられなくなっていった。 とはいえ、15世紀までの医学的思考にはまだ、ヒポクラテスにおいて遭遇する濾過された見解の、いわば残滓部分に基づいていた。従って、今日の科学者にとって、15世紀以前の医学的古文献を、そもそも理解することは困難なのである。なぜなら、当時、医学書を書いた人々の大多数は、自分の書いた書籍を、自身で系統的に、秩序立てて理解などしていなかったからである。 古代人は、人間の生体組織の四つの基本要素について語ったが、これらの基本要素を、様々な方法で特徴づけた根拠は、本来ヒポクラテスとともに没落してしまった叡智へと遡るものなのである。このような叡智が後に及ぼした作用、人間の生体組織を構成する液体の特性については、なおも語られていた。 従って、ガレノス(3;Claudius Galenus 131-200頃 ガレノス著作全集20巻、ライプツィヒ、1821-1833)により成立し、その後15世紀に至るまで影響を及ぼしたものは、基本的に、次第に理解不能になっていった古代遺産の組み合わせなのである。 しかしながら、正しく、古代遺産の残滓として残る知識から認識できた人々が常に少数存在していた。つまり彼らは、化学的に確認できる存在や物理的に確認できる存在、すなわち純粋に地上的な存在に汲み尽くされない何かを指摘できることを知っていたのである。 人間の生体組織においては、化学合成とは別な形で、その中の液体的実質を作用させる何かが指摘され得る、ということを知っていた人々、つまり世に知られた体液病理学と闘った人々の中に、パラケルスス(4:Philippus Aureolus Paracelsus ,Theophratus von Hohenheim 1493-1541 著作全集多数、例えばSudhoff版)と、ファン・ヘルモント(5;Johann Baptist van Helmont 1577-1644)(その他の名前を挙げることもできるが)がいる。 彼らは丁度15、16世紀から17世紀への変わり目に、言うならば他の大多数の人々が、もはや明確に表現しなくなったことを、正しく明確に表現しようと試みることで、医学的思考の中に新たな動向をもたらした。しかし、この表現のなかには、人々が幾らか霊視的であった時にのみ本来追求し得たものが含まれていた。実際、パラケルススとファン・ヘルモントが見霊者であったことは明らかである。 こうした事柄全てを明確にしておく必要がある。さもなければ、今日なお医学用語に定着しているが、その起源については、もはや全く知られていない言語について、理解できないだろう。 こうして、パラケルススと後に彼の影響を受けた他の人々は、生体組織における作用基盤として、アルケウス[Archaeus](6;著『Opus paramirum』)というものを想定した。人智学者が凡そ、人間のエーテル体について語るように、彼は、このアルケウスを想定した。 パラケルススのように、アルケウスについて語るなら、人智学者がエーテル体について語るように、アルケウスを語るなら、存在してはいるが、その本来の起源については追求されていない存在が、統一の補完体として現れる。なぜなら、エーテル体(アルケウス)の本来の起源を追求するなら、次のような方法をとらざるをえないからである。 「人間は、地上から作用する諸力から本質的に構成される物質的な生体組織をもつ」、と言わねばならない。 我々人間の物質的な生体組織は、いわば地球の組織全体から、切り取られた一片である。そして人智学者の言うエーテル体とパラケルススの言うアルケウスは、地球には属さない、すなわち宇宙のあらゆる方向から地上へと作用するものの一片である。 つまるところ、パラケルススは、以前はもっぱら人間における宇宙(天)的な存在とみなされ、ヒポクラテス医学とともに没落した叡智を、物質的組織の根底にあるエーテル的組織という見解において、統合的に見たわけである。 パラケルススは、このアルケウスにおいて本来作用しているものが、地上を越えた、どのような諸力と関係しているのか、個別的に暗示を行ったが、それ以上は研究しなかった。
2008年09月26日
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前回で、魂の講座のまとめが終わった。さて、今回からは、いよいよ、シュタイナーの医学講座を展開してみたい。かって、一度、このブログでも、行ってみたが、何処となく、私自身、消化不良な感がしていた。何度も、続けてみたいと思うが、2度目を行ってみる。()内は、私の注釈みたいなものである。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 多くの人々が、将来の医療生活に期待しているが、この講座では、当然のことながら、その僅かな部分しか触れることができない。なぜなら、将来の医学分野における、真の確実な活動は、医学研究そのものの改革にかかっているからである。 (医学研究を唯物論的なものから、霊的なものにする必要があると、シュタイナーは常々語っているところで、それは、唯物論では、人間の肉体しか把握できないからで、シュタイナーの説く、人間の他の身体構成体である、エーテル体、アストラル体、自我、つまり霊魂を把握することが困難だからである。 例えば、現代医学において、死の意味を問うことは不可能で、死は、肉体機能の停止という概念で語られるが、それでは、死を実証するだけで、死の本来の意味が見い出せない。また、心肺停止と脳死のどちらが真の死なのかも曖昧なままで、脳が自我の本体であるとするなら、脳を移植すれば、他人に成り代わってしまうかの議論も曖昧なままに残る。 また、脳に自我があるとするなら、脳は、どうやって自我を認識し、脳のどの部分が、自分を脳だと意識しているのかも不明なままに留まざるを得ないだろう。 これとは、対照的に、シュタイナーの人智学では、自我は霊魂にあり、肉体は、霊魂の人生経験の為の乗り物にすぎないという仏教的な観点と似た立場をとる。つまり、肉体は、いわば人生の翻訳装置で、肉体とともに、人生を体験することで、霊魂は成長し、能力を開発することができるという。 死は、明らかに生に対する意味をもち、死の定義は、霊魂が、もはや養分という肉体を必要としない、旅立ちを意味する。死は、いわゆる昆虫の変態や、蛇の脱皮と似ているといえる。つまり、霊魂の脱皮といえるのである。 肉体は、霊魂の土であり、霊魂は、種子であるという。植物が土から養分を吸収し、生長するように、霊魂は、肉体の体験から、成長するという。このような太古では、明らかであった、生命の法則を、肉体だけに囚われてしまい、人類は失い、唯物論的科学が誕生し、医療は大きく道を踏み外したという。 そのような医療を、再び太古の医療、つまり精神的治癒力を復興、復活させるために、改革が必要だと説いているのである。精神的治癒力とは、キリストが行った霊的治癒力のことで、誰にでも、自然治癒力として霊魂の奥底に眠っているという。その治癒力は、しばしば、天国とか、神の国という比喩で語られるが、その扉を開くには、肉体の体験が必要なのである。肉体の体験こそが、人生の謎を説く鍵であり、天国の扉を開ける鍵なのであるという。) たった一度の講義では、せいぜい数百名に、この医学研究改革への参画の衝動を促すぐらいで、本来の霊的改革を促進するには、程遠い。とはいえ、今日の医学分野で論義されている事例は、この改革の一方の極を背景にした医学活動が、解剖学、生理学、いわゆる生理学全般によって準備されてきた手法を有することを示し、このような準備を通して、医師の思考法は、初めから特定の方向に導かれているので、何よりもまず、この特定の方向から離れてみることが肝要である。 それでは、今回の連続講演の目的と理念に到達する為に、これから考察すべき事を、以下のような一種のプログラムに分類する。 第1に、今日一般に行われている研究において、真に事実に即した病気の本質そのものの把握を阻んでいる事柄を幾つか提示する。続いて、第2に、医学活動の真の基盤となり得る人間の認識を、どのような方向に求めるべきかを示す。そして第3に、人間と、その他の世界との関係の認識による、合理的な治療法の可能性を指摘する。この際、(完全な)治療というものが、本質的に可能なものなのか、完治を目指すべきものなのか、という問いに答える。 更に4番目に(これが考察の一番重要な部分で、他の上記の3つの観点に組み込む必要がある)、参加者自身の希望、すなわち聞いてみたい事、この講座で述べて欲しいことを提出してもらい、講座プログラムの、この第4の部分によって、他の上記の3つの部分にも取り入れられるべき疑問や不満をなくすように心掛ける。 だから、質問、希望として書かれた事全てが消化できるように、この講座を構成し、参加者全体と一体となって、この講座を実施する枠内で、ある種、完璧にするのが一番良いものと思える。 今回は、前置き、方向づけの考察に留める。まず出発点は、主として、いわば霊学=人智学的考察から、医師に与えることのできる全ての知識を結集するよう努める。ここで試みる事が、従来の医学講座と混同されるのを望まないが、あらゆる点から医師にとって重要と言えることを、主として考慮しようと思う。 なぜなら、真の医学、或いは医術というものは、やはり、想像できる限りの病を暗示させる意味で、あらゆる事柄を、医学、或いは医術の構築の為に真剣に考慮することにより達成されるからである。 その第1段階として、なんらかの方向づけを行う考察から始める。医師に、課題として提示される関連の考察から、 「一体、病気とは、病人とは、そもそも何なのか?」という疑問に一度ならず遭遇するだろう。 実際、病気や病人について、一見すると、様々な客観的挿入句で覆われた記述がなされるが、結局、要約すれば、次のような説明以上のものを、滅多に見い出せない。 すなわち、「病気のプロセスは、正常な生命プロセスからの逸脱であり、正常な生命プロセスにある人間に作用し、ある種の事実により適合せずに、正常な生命プロセスと生体組織に、変化が引き起こされるものである。そして、病気の本質は、肉体部分の変化に結びついた機能的な侵害にある」、といった説明である。 しかし、この説明は、病気に対する否定的観点以上の何物でもないということを認めざるを得ないものである。病気に関わる際に、少なくとも(病気が)何らかの援助を生むような代物ではない。ここで何にも増して目指すべきものは、正しく、病気と関わる際に、その援助となりうる実際的な事実なのである。 この分野での標準化に到達するには、やはり、時代の流れのなかで成立してきた病気に関する見解に注目するのが良い。それは、これが現代における病気という現象の把握に是非とも必要に思うだけでなく、病気についての古くからの見解、この見解は、なおも現代にまで通じているが、この古い見解を考慮すれば、この講座の方向付けが容易になるからでもある。
2008年09月25日
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シェークスピアの劇では、自我は、内密性から歩み出て、他の魂の中に入っていく。ゲーテの場合には、歩み出た自我は、自身をファウストに代表される人間全ての魂生活に沈める。 また、自我が、自身の魂の力を発達させ、自らを別の精神性へと沈潜させれば、自身から出て、別の魂を理解できるが、ゲーテが、外界での物質的行為や経験だけでなく、精神世界へと、自我を開けば、誰でも経験できる精神的出来事をも記述するように導かれたのは、芸術的な創造活動の絶えざる進歩と符合する。 詩は精神世界から来て、人間の自我の中に入った。詩は、ダンテにおいて、自我を、その内なる生活の最も深いレベルで捉えた。ゲーテにおいては、自我が再び、自身から歩み出て、精神世界への道を見い出す。 太古の人類がもつ精神的経験は「イリアス」と「オデッセイ」の中に反映され、ゲーテの「ファウスト」において再び現れた精神世界が人間の前に立つ。 このように、「ファウスト」の偉大な終幕に、つまり、人間が深みへと下った後、内なる力を発達させることで、精神世界が再び、我々の前に広がるように、その上昇への道を、苦労して進むという終幕に相対すべきである。それは主旋律の合唱のようだが、どこまでも前進する形態を持ち、どこまでも新しいものである。 精神的視界に代わって人間に付与され、人間の天才達により、滅ぶべき創造行為の中に形態を与えられた想像力が不朽の精神世界から響きわたる。不朽のものから、ホメロスやアイスキュロスによって詩の中で創造された、滅ぶべき登場人物たちが生まれた。詩は滅ぶべきものから不朽へと再び上昇し、「ファウスト」の最後の部分で歌われる神秘的な合唱を聞く。 移ろいゆく全ては、比喩にすぎない・・・ そして、ゲーテが示すように、人間の精神力もまた物質世界から精神世界へと再び上昇する。 芸術的意識が、代表的詩人たちの中で、世界を大股で進んで行くのを見てきた。芸術は根本的認識の源泉である精神世界から現れる。精神的視界は、感覚世界が益々広く注目を集めることで、自我の発達を促すにつれ、益々退く。人間の意識は、世界進化の経過を追って、精神世界から自我と感覚の世界へと旅しなければならない。 もし、人間が外(唯物)的科学だけを通して、感覚世界を探求すれば、科学的な言語で、知性的に理解するようになるだけである。しかし、人間は、超感覚的能力が消え去ったときの代わりとして、もはや知覚できない、一種の影のような反映を、人間のために創り出す、想像力を与えられた。 想像力は人間と同じ道、すなわちダンテの場合のように、最終的に、自意識へと入っていく道に従わなければならなかった。しかし、人類を精神世界に結びつける糸は、芸術が下降して人間の自我の中に閉じ込められるときでさえ、断ち切られることはない。人間は想像力を携えて、人間の道を行く。そして、「ファウスト」の出現によって、人間は、精神世界が、想像力から新しく創造されるのを見る。 このように、ゲーテの「ファウスト」は、芸術の起源を有する精神世界に、人間が再び入って行くべき時代の始まりに位置している。だから、芸術の使命とは、高次の訓練によって、精神世界に至ることができない人々のために、遥かな過去の精神性と未来の精神性とを結びつけるべき糸を紡ぐ、ということなのである。 実際、芸術は既に、「ファウスト」の第二部に見られるように、精神世界に関する視界を想像力の中で与えることができるまでに前進している。人間が精神世界に再び入り、その意識的認識を獲得できる力を発達させることを学ぶべき地点に立っている、ということに関する示唆が、そこにある。 芸術は、想像力の助けをかりて、人間を精神世界へと導くだけでなく、十全なる自我意識に基づき、精神世界についての明晰な視界を持つことを、前提とする人智学への道を準備した。人智学の仕事とは、芸術の領域から、紹介してきた例の中で見てきたように、あの世界(人間が憧れる、あの世界への道)を指し示すことで、それは、これまでの連続講義の仕事でもあった。 このように、いかに偉大な芸術家たちが、精神世界の反映こそ、人類に提供すべきものであると、感じてきたということを正当化できるかを、見ることができる。そして、精神世界の直接的顕現が、もはや可能でない時代では、これらの顕現を仲介する、というのが芸術の使命なのである。 だから、ゲーテは、昔の芸術家たちの作品について、 「そこには必然があり、神がある。」と言えた。 それらは、そうでなければ、決して発見されることがなかったような、隠された自然の法則に光を当てる。そして、リヒァルト・ワーグナーもまた、第9交響曲という音楽の中に、別世界(主として知的意識では決して到達できないような世界)の顕現が聞こえる、と言えた。 偉大な芸術家たちは、過去から現在、そして、未来に向けて、あらゆる人間の源泉である精神を担っている、と感じてきた。だから、深い理解を持って、自身が芸術家であると感じていた一人の詩人(シラー)によって話された、「人間の尊厳は、汝の手に渡された。」という言葉に同意できるだろう。 このように、人間進化の過程での、芸術の本性と使命について記述し、芸術が、今日、人々が軽々しく想像するほどには、真実に関する人間の感覚からは、かけ離れていない、ということを示そうと試みてきた。 逆に、ゲーテが真実に関する考えと、美に関する考えを別の考えとして話すことを拒否したとき、ゲーテは正しく、真実と美の考えを同じとし、ゲーテの言葉を借りれば、神的-精神的存在の必然的な働きという「1つの」考えがあり、真実と美とは、その1つのなかの2つの顕現なのである。 詩人や、その他の芸術家のなかでは、人間存在の精神的基礎は、芸術において、その言辞を見い出す、という考えに対する同意がみつけられる。或いは、芸術家の中には、芸術作品が、精神世界からのメッセージを、人類にもたらすと信じることを可能にする、と言えるような深い感情をもつ者もいる。 だから、芸術家が、その表現において、最も個人的であるときでさえ、彼らは、芸術が普遍的な人間のレベルにまで上昇させられ、そして、芸術の性格と顕現が、次のようなゲーテの神秘的な合唱によって語られる言葉を効果的にするとき、真の意味で人類のために語っている、と感じる。 移ろいゆく全ては、比喩にすぎない・・・ そして、人智学的な考察力の上に、次のような言葉を付け加えることができる。 「芸術は、一時的で、滅ぶべき存在に、永遠で不朽なる光を吹き込むために必要とされる。束の間の生命に永遠の生命を与えることが、芸術の使命なのである」、と。 (日常、経験する全ては、多様な精神世界のたった一面でしかない。芸術は、その一面性を多様的世界、つまり精神世界に戻すような魔術である。プラトンは精神世界を、イデアと呼んだ。我々は、イデアのある断面、一部しか経験できないが、幾何学という芸術により、イデアを考察することができる。 だから、プラトンは自らの学院の門前に、「幾何学を志さぬ者は通るべからず」という表札を掲げたという。)
2008年09月24日
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オリンピックの不様な敗戦以来、野球は見ない事にしている。いわば、断観して、再起を促す戒めのようなものだが、なんでも、巷では、巨人が、大躍進しているという。 私には、オリンピックのせいだとすぐにわかった。 いかに断観しているとはいえ、ニュースぐらいは、みえてしまうので、巨人の大躍進の背景が、掴めてしまう。野球をみなくても、逆にみないからこそ、戦力比較で明らかである。 オリンピック敗戦の後遺症が最も少ないのが、巨人である。 阪神は、新井を失い。中日は、岩瀬、川上、森野と球団中、一番の損失を蒙っているし、比較的後遺症の少ない、広島、オリックス、巨人が大躍進するのは、当然ともいえるだろう。 しかも、韓国の4番イスンヨブの復活が大きい! ジャパン4番新井を失った阪神とは好対照で、コリア4番の復活した巨人が大躍進するのは、当たり前である。 しかし、ペナントレースはいわば持久戦なので、オリンピック効果が、何処まで続くかわからないが、3位までのトーナメント戦では、オリンピックという経験から、かえって逆転するのではないか?と思える。 そういう意味では、イスンヨブの復活が大きかった巨人は、オリンピックや、星野に大感謝というべきだろう。WBCまで、巨人有利に運ぼうというのは、あまりにも虫が良すぎる話だろう。 阪神は逆に、あまりに裏目に出すぎた結果ともいえる。オリンピックがなければ、独走優勝していたように思える。 しかし、韓国に負け、3A、2Aに負けた、箱庭野球に期待するほど、野球ファンのプライドは捨てたくはない。見る目を磨くために、あくまで一人の野球ファンとして、実力主義を貫きたい。 と、このブログを書いているときに、王監督辞意表明というニュースがTVに出た! すると、来年のWBCは王監督の最後の花道になる可能性もあるのでは?
2008年09月23日
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さて、更に現代に近づくと、ゲーテが現れる。ゲーテを、ゲーテが創作した人物、つまりゲーテが主著に取り組んでいた60年間にわたって、彼の理想や努力、諦め全てをその中に体現させたファウストという人物に関連づけてみる。 世界の謎に対する、より深い答えを求めて、認識の階梯を登りながら、ゲーテの豊かな人生を通して、その最奥の魂において、ゲーテの全経験が、今日出会うファウストという人物の中に凝縮されている。では、ゲーテ詩劇の文脈の中で、ファウストとはいかなる人物なのか? ダンテについては、彼が記述する人物を、彼自身が見た成果として思い描くことができる。ゲーテは、ダンテのような人物は何も見なかった。ゲーテは、ダンテが、その「神曲」について記述するように、特に厳粛な瞬間に特別な顕現があったとは主張しない。ゲーテは、彼が提示する人物に、内(精神)的に働きかけていたということが、「ファウスト」の至る所で示される。 また、ダンテの元へと来た経験が、彼自身の一方的な手法だけで記述されたのに対して、ゲーテの経験は、個人的なものではないが、ファウストの客観的性格へと移し替えられた。ダンテは、最も親密で個人的経験を提示する。 ゲーテもまた個人的経験をもってはいたが、ファウストの行為や苦しみは、ゲーテが人生において経験したものとは異なる。それらは、ゲーテが、自身の魂の中で経験したことを自由に、そして詩的に変容させたものなのである。 ダンテが「神曲」と同一視されるのに対して、ゲーテを、ファウストと同一視するには、人類史上多くの文学史家を連れてくる必要があるだろう。ファウストは一人の個性だが、シェークスピアが創作した個性たちと同じ位、多くのファウストに似た人物たちを創作できたと想像することは不可能である。 ゲーテが「ファウスト」の中で描き出した個性は、たった一度だけ創造できたものなのである。シェークスピアはハムレットの他にもリアやオセロ等々を創造している。確かに、ゲーテは「タッソー」や「イフゲーニア」も書いたが、彼らと、ファウストとの差は明白である。 ファウストはゲーテではなく、基本的に誰でもある。ファウストは、ゲーテの最も深い憧れを体現しているが、詩に登場する人物としては、完全にゲーテ個人からは引き離されている。ダンテは一人の男、つまり、ダンテ自身が見たものを、提示する。ファウストという個性は、ある意味で、我々1人1人の中に住んでいる。この事は、詩がゲーテに至るまでに、遥かに進歩したことを示している。 シェークスピアが創造した人物たちは非常に個性的だった為に、シェークスピアは、自身を創造人物たちの中に沈め、彼らの一人一人に際だった声で喋らせることができた。ゲーテは、ファウストという個性的な人物を創り出すが、ファウストは一人の個人ではなく、誰にでもあてはまる。 シェークスピアは、リア、オセロ、ハムレット、コルデリア等々、魂の本性の中に入っていった。ゲーテは全ての人間の中にある最も気高い人間的要素の中に入っていった。この事により、ゲーテは全ての人間に適った代表的個性を創造した。そして、この個性は、ゲーテ自身を詩人としてのゲーテ個人から引き離し、外(物質)の世界の中で、現実的、客観的人物として、我々の前に立つ。 これまで概観してきた道筋に沿った芸術の更なる進歩とは、以上のようなものである。より高次の世界の直接的、精神的知覚から出発して、芸術は益々大きく人間の内なる生活を捉える。芸術が最も親密に生じるのは、ダンテの場合のように、人間が、自身のみに関わるときである。
2008年09月23日
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なんだか、巷は茶番で、結局、麻生総裁に決まったという。 「あそう、だから」ってな感じですね。 麻生は、安倍、福田と二代の幹事長を続けて、政権放り投げ以外に、何も出来なかった人間だ! 野中は、朝の対談で、盛んに吼えまくっていたが、後の祭りである。野中が、田原というマスコミを使ったせいで、結局、最後は、そのマスコミに裏切られる幕引きになったというべきだろう。 策士、策に溺れたというのは、野中にこそ相応しいのではないだろうか? 野中は、幕末の井伊大老を思わせる。自民党を守るために、嫌われ役に徹する余り、国民の真意を読み取れなくなってしまったようである。晩年、隠居する羽目になった。 桜田門外の変ではないが、小泉改悪の変の標的にされてしまった感が拭えない。 思えば、小泉改悪とは、熱に魘された真夏の夜の夢、幕末の攘夷論のようでもあった。 攘夷論と倒幕論をごちゃ混ぜにした、自民党をぶっ壊すというお題目が、いまや虚しい、オレオレ詐欺ならぬ、改革詐欺であったことがわかるからである。 幕末の攘夷論も、詐欺のようなもので、攘夷が困難とわかると、倒幕論になり、政権を奪取すると、看板を挿げ替えて、開国論に変えてしまったからである。 米国打つべしが、米国追従、そして売国になってしまった感がある。 小泉は、まさに火事場泥棒の感じがする。幕末でいえば、清川八郎のような人物といえるだろう。清川八郎は、混乱に紛れ、清川幕府をつくろうとした人物だが、幕府に見抜かれ、京都見廻り組に暗殺されてしまう。 小泉が政権を取れたのは、幕末のように、幕府に忠誠を近い臣従する家臣が、自民には皆無だったというだけのことだろう。暗殺どころが、逆に、刺客を立てられ先手を打たれてしまったというわけである。 小泉チルドレンは、どこか浪士隊に似ているともいえる、浪士隊から、袂を分かち、幕府側につくのが、有名な新撰組であるが、小泉チルドレンには、そのような骨のある人材も皆無である。 さて、話を戻すと、小泉のお茶の間劇場のせいで、難しい政策論はおざなりになり、国会はただ目立つだけの宣伝機関に成り下がってしまった。 今回の総裁選ぐらい、つまらない詐欺芝居をみせられた感がしてならない。そんな猿芝居とは対照的に、自業自得のリーマン破綻や、汚染米問題、年金、医療問題の深刻さが増したお陰で、現実の深刻さが、逆にクローズアップされてよかったように思える。 こんな政治詐欺家に頼ってたら、国民まで阿呆になるよ!って 今回の下らない総裁選で唯一わかることは、小泉に入れていた連中が、麻生に鞍替えしたということである。つまり、彼らは理念も高貴な政治理想もない、単なる烏合の衆ということである。自民全体が、洞ヶ峠の筒井順慶なのである。勝てる方についてポストを得たいだけの集団なのである。骨のあるやつはいない。 あんな見栄見栄の総裁選をやる位なら、やらない方がマシで、民主の方が数段マシである。自民連中は、民主を批判していたが、公明はどうなんだ? 福田を窮地に落とし、政権の放り投げの要因の公明の太田採決には、何もいわずに、そんなに創価学会の票が欲しいのか? 見苦しいこと、この上ない。自民はもはや、公明党の方を向いているようである。 公明党は、最も、嫌われている党で、政教分離の原則に反する党でもある。まだ、共産党の方が、これから躍進するだろう。 しかも総裁選の面々も低レベルだった。小池なんて、もはや賞味期限切れの米であり、汚染米流通に近いものだろう。いかに、小泉で箔をつけようが、マダムスシにするには、お粗末すぎである。 小泉の人気なんか、宣伝一つで、麻生のモノになるという手の内が明らかである! リーマン破綻で、竹中の市場原理がいかに如何わしいものであるかが、明らかになった! 小泉と、ブッシュが、イラク戦争をやっていなかったらと、思うと、非常に残念に思うが、国民は善き教訓を得たようにも思える。 仕事から逃げるために、留学していた小泉と、徴兵から逃れ、州兵になったブッシュが、戦争を起こしたのだから、戦争経験のない者に、戦争の道具や切欠を与えてはならないという教訓である。 戦争で常々、不思議に思うことは、戦場に送られる若者の大半が死んでも、送った連中は、命乞いしてまでも、生き残るという不条理さである。 戦場に送られた若者は思うだろう、「あなたたちは、私たちを戦場に送っておきながら、よくも恥ずかしい生き方をできるものですね。そんなにしてまで生きたいのですか? 他人の命を危険に曝しても、他人を不幸にしてまでも、生きたいのですか、そんなにしてまで生きても、いずれ、死ぬのですよ。そのとき、あなたたちは、戦場に送った人たちと対面できるのでしょうか?」と。 来年には、どうやら、政権交代で、新政権誕生となる日も益々近くなったように思う。
2008年09月22日
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さて、ダンテから別の偉大な詩人、シェークスピアにまで、更に数世紀、大きく時代を下る。また、ここでも、進歩という意味で、顕著な一歩が踏み出されるのを見ることができる。シェークスピアを批評するというのでも、ある詩人を別の詩人の上に置こうというのでもなく、ただ、必要な、合法的前進(進化)を指し示す事実に関わろうとするものである。 ダンテに関しては、何が特別な印象を与えたのか? ダンテは、精神世界に関する自身の顕現とともに一人で立ち、そして、彼自身の魂の中から彼にやって来た偉大な経験について記述する。もし、ダンテの見たものを、5、6種類以上の異なる方法で記述しても、ダンテが見たような真実に、あれほど影響力のある印象を与えていたと想像できるだろうか? ダンテが、自身を置いた世界とは、たった一度だけしか記述できないものであるとは感じないか? 実際、ダンテはそのように記述した。ダンテが記述する世界は、自分にとっての精神世界と一体であると、自身で感じた瞬間の世界である。それは次のように言うべきかもしれない。 「ダンテは、人間的個性の要素の中に、自身であるような形で、自身を沈めた」、と。 そして、ダンテは、この人間的-個性的な側面を、あらゆる方向から考察することに取りかかる。 一方、シェークスピアは、あらゆる可能な個性、リア、ハムレット、デズデモーナを豊富に創造するが、精神の目(心眼)で、純粋に人間的性質や衝動とともに物質世界にある、彼らを見るとき、これらの個性の背後に、いかなる神的存在も直接的に感知することはない。彼らの魂から思考、感情、意志の形で直接、来るものだけを我々は期待する。 シェークスピアが描く人物たちは全て際だった個性の持ち主だが、ダンテが、自身を自身の個性の中に沈めるとき、常にダンテであるという同じ手法で、彼らの中に、シェークスピア自身を認めることができるだろうか? 否、シェークスピアは更に一歩先に進んだものである。彼は個人的要素の中へと更に突き進むが、特定の個性の中ばかりでなく、もっと様々な個性の中へと突き進む。シェークスピアは、リア、ハムレットやその他の人物を記述するときには、常に、シェークスピア自身を否定する。シェークスピアは自身の考えを提示しようという気には決してならない。何故なら、シェークスピアとしての彼は完全に消し去られているからである。 シェークスピアは、完全に、彼が創造する様々な個性の中に生きている。ダンテにより記述される経験は一人の人間の経験である。シェークスピアが示すのは、究めて多様な個性の中の内なる自我から生じてくる衝動である。 ダンテの出発点は人間的個性だった。ダンテはその個性の中に留まり、そこから精神世界を探求する。シェークスピアは一歩先に進む。ダンテもまた自身の個性から出発し、ダンテが描く個性たちの中に入り込むが、ダンテは、自ら描く人物の中に完全に沈潜する。 ダンテが劇化するのは自身の魂生活ではなく、ダンテが舞台の上で提示する外なる世界における登場人物たちの生活であり、彼らは全て、自身の動機と目的を持ち、独立した人物として描かれる。 このように、ここに再び、芸術がどのように進化するかを見ることになる。芸術は人間の意識が、自我感情に欠けていた遥かな過去に始まり、ダンテによって、自我が1つの世界になるように、個人的人間を包含する段階へと到達した。 その世界は、シェークスピアによって、個別の自我たちが詩人の世界になるまでに広がった。この段階が可能になるために、芸術は、沸き出してきた精神の高みを後にして、物質的存在が活動する場所にまで下降しなければならなかった。 そして、この事は正に、ダンテからシェークスピアへと移行するときに生じる。この観点から、ダンテとシェークスピアを比べてみる。 皮相的な批評家はダンテを説教ぶった詩人であると非難するかもしれない。ダンテを理解でき、彼の作品全体と、その豊かさに応えることができる人は、彼の偉大さは正に、中世の叡知と全哲学が、彼の魂から語っているという事実に起因している、と感じるだろう。 中世の叡知全体が、ダンテの詩の力を付与された魂の発達(進化)にとって、必要な基礎だった。その影響は、最初、ダンテの魂に作用していたが、その後、彼の個性が世界へと拡張する中で再び明らかとなった。中世における精神生活の高みを知ることなく、ダンテの詩作を正しく理解し、評価することはできない。この事を知るときだけ、ダンテが達成した事の深みと巧みを評価できる。 確かに、ダンテは一段下降した。ダンテは精神的なものを、より低いレベルに落とそうとしたが、彼の先駆者の何人かが用いたラテン語ではなく、自国語で書くことにより、行った。彼は精神生活の最も遥かな高みへと上昇すると同時に、彼が生きた場所や時代の言葉と同じだけ深く物質世界の中へと下降する。 シェークスピアは更に下降する。彼の詩における偉大な登場人物たちの起源は、今日では、あらゆる種類の想像力溢れる思いつきにより取り沙汰されているが、もし、詩が日常生活の世界へと(今でも、高所に位置するものより、しばしば見下される世界だが)、このように下降したことを理解すれば、次のような事実を心に留めておく必要がある。 シェークスピアを除き、今日では、あまり高く評価されることのなさそうな、俳優たちによって劇が制作されていた、当時のロンドン郊外にあった小さな劇場を思い浮かべる必要がある。どのような人たちが、この劇場に行ったのか? 下層階級の人たちである。当時は、飲んだり食べたり、気に入らなければ卵の殻を投げつけたり、舞台にまでなだれ込んで、俳優たちが観衆の真っただ中で演技しなければならなかったような劇場に行くより、闘鶏や、それに似た見せ物にお金を出す方がファッショナブルだった。 だから、これらの劇は、多くの人が好んで想像するように、文化生活における上流階級の間で最初から喝采を浴びていたのではなく、最初は、ロンドンの極めて下層の大衆の面前で上演されていた。 せいぜい、変装して、どこか人目の付かない溜まり場に出かけるような独身息子たちが、たまに、この劇場に行ったかもしれないが、それは尊敬すべき人々にとっては非常に不適な事だった。この事から、詩が、最も品性のない領域にまで下ったのを見ることができる。 シェークスピアの劇とその登場人物の背後に立つ才能にとって、人間的で、疎遠など何もなかった。だから、そこで起きた出来事は(外の側面から詳細に見ても)、高地において、細い川として流れていた芸術が、通常一般の人間性の世界にまで下り、日常生活の真っただ中を流れる大きな川にまで広がった、ということである。 そして、この事をより深く洞察する人なら、シェークスピア劇に登場するような非常に個性的性格の活き活きとした人物たちが現れるためには、気高く精神的な流れが、いかにより低いレベルにまで引き下げられる必要があったか、ということを理解するだろう。
2008年09月22日
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さて、では、13、14世紀のキリスト教の時代まで、年代を下ることにする。そこでは、自我自身の努力で、神的-精神世界へと上昇するとき、到達できる領域へと非常に印象的な方法で、人間を導く中世の偉大な人物に遭遇する。その人物のダンテに至る。 その「神曲」(1472年)はゲーテにより何度も読まれた。ゲーテに対する、ダンテの影響は非常に大きく、知り合いが、ダンテの新しい翻訳を、彼に送ったとき、詩の形で、その送り主に感謝の気持ちを表した。 大いなる感謝は もう一度この本を新たに、我々にもたらす彼に! そして、栄光に満ちた方法で、その本が沈黙させるのは 我々の全ての探索や不満だ! 芸術は、どのようにアイスキュロスからダンテへと発展したのか? ダンテはどのようにして、我々を、その三つの世界、地獄、煉獄、天国(物質的存在性の背後に横たわる世界)へと導くのか? そこに見ることができるのは、いかに人間の進化を指導する基本的、精神的衝動が、同じ方向で働き続けてきたかである。全く明らかなことは、アイスキュロスが、まだ精神力との関係を保っていた、ということである。 プロメテウスは、ゼウス、ヘルメス、等々の神々と直面するが、この事はまた、アガメムノンにも当てはまる。これら全ての中に、太古の超感覚的能力の残響を認めることができる。 ダンテに関しては、かなり異なっている。彼が示すのは、ただ自身を自身の魂の中に沈め、そこに眠る力を発達させるとともに、この発達のために、あらゆる障害の克服を通して、彼が言うように、人生半ばで(35才のときという意味だが)、いかに精神世界を覗き見ることができたか、ということである。 古い超感覚的能力を付与されていた人間たちは、眼差しを、精神的環境に向け、アイスキュロスはまだ古い神性を考慮していたのに対し、ダンテの中には、自身の魂の中に降り立ち、その個性と、その内なる秘密の内に完全に留まる詩人を見て取れる。ダンテは、この個人的発達の道の追求によって、精神世界に入り、その事により、「神曲」の中に見出される力強い像の中で、示せるようになる。 そこでの、ダンテの魂は、彼の個性とともにあって、全く孤独で、外なる顕現には無関心である。ダンテが伝統の中から、古い超感覚的能力の成果を引き継ぐことができたなどとは、誰も想像できないだろう。ダンテが頼りにするのは、その唯一の支援としての人間個性の力強さによって、中世において可能となった内なる(精神的)発達である。 そして、ダンテは、我々の前に、目に見える像として、これまでしばしば強調したこと、つまり人間は、自らの超感覚的視界を曇らせ、或いは暗くするあらゆるものに、打ち勝たなければならない、ということを示す。 ギリシア人たちが、まだ精神世界の中に現実を見ていたのに対し、ダンテは、克服すべき魂の力の像のみを見る。高次の発達(進化)段階から、自我を引き下ろそうとする感覚魂、悟性魂、意識魂の低次の力とは、そのような像である。 その反対の善なる力とは、既にプラトンによって示された、意識魂にとっての叡知、悟性魂にとっての自立的な勇気、感覚魂にとっての中庸である。自我が、この善なる力を獲得する発達を通して進化するとき、精神世界へと通じる、より高次の魂の経験へと近づく。しかし、まず、障害を克服する必要がある。 中庸は放縦と貪欲に対抗して働く。そして、ダンテは、いかに、この感覚魂の影の面に立ち向かい、そして、それに、いかに打ち勝つかを示す。彼はそれを雌狼として記述する。次に、いかに悟性魂の影の面、ライオン(獅子)として記述される非常識な攻撃性が、それに対応する徳、自立的な勇気によって克服されるかが示される。最後に、我々は、叡知、すなわち意識魂の徳へと到達する。高みへと努力することのない、単なる抜け目なさや狡賢さとして世界に適用される叡知は大山猫として描写される。 「大山猫の目」とは精神世界を、覗き見ることができるような叡知の目ではなく、単に感覚世界だけに焦点を合わせる目である。ダンテは、いかに、内なる発展を妨害する力から身を守るかを示し、そしてその後で、いかに物質的存在性の背後に存在する世界へと上昇するかを記述する。 ダンテの中に、自身を頼りとして、自身の中を探求し、自身の中から精神世界へと導く力を引き出す人間を見る。彼において、詩は、人間の魂をしっかりと把握し、人間の自我と、より密接な関係を持つようになる。 ホメロスは、その本性が、実際、彼自身が感じていたように、神的-精神力の行為へと織り込まれていたために、「ミューズよ、私が語るべき物語を歌え。」と言う。 魂とともにある孤独なダンテは、自身の内から、精神世界へと導く力を引き出して来なければならない、ということを知っている。我々は、いかに想像力を外なる影響に依存させることが、徐々に不可能になっていくかを見ることができる。 この点で、人間は、単なる自身の意見に関わっているのではなく、人間の魂に深く根ざした力に関わっているということを、ちょっとした事実により示すことができる。ゴットリープ・フリードリヒ・クロプストクは信心深い人間で、ホメロスさえも凌ぐ奥深い精神だった。彼が望んだのは、ホメロスが古代に為したことを現代に行うという意識的な意図を持って、聖なる叙事詩を書くことだった。 クロプストクは、自身を欺くことなく、ホメロスの方法を生き返らせようとした。そのため、彼は「私のために歌え、おおミューズ、」と言う代わりに、彼の「メシア」で、「歌え、不死の魂よ、罪深き人間の救済を。」という言葉で始めなければならなかった。このように、人間の間で、芸術的創造における進化(発達)がいかに実際に起こったかを見ることができる。
2008年09月18日
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さて、また、別の事を挙げる。「良心」に関する講義の中で、古い超感覚的能力の衰退が色々な国々で、様々な時代に、全く異なった形で起こったことを述べた。東方においては、古い超感覚的能力は比較的後の時代まで持続した。西方ヨーロッパの人々の間では、超感覚的能力は、それほど広くは存在していなかった。西洋の人々の中では、強力な自我感情が前面に出てきていた一方で、他の魂の力や能力は、比較的未発達だった。 この自我感情は、ヨーロッパの異なる地域で非常に様々な形で現れた。北と西では異なっていたが、特に、南では非常に異なっていた。キリスト教以前の時代、シシリアとイタリアにおいて、その自我感情は最も強力に発達した。 東方の人々が長い間、自我感情を持たないままに留まっていたのに対し、ヨーロッパのシシリアとイタリアの南の地域には、古い超感覚的能力が失われていた為、特別に強い自我感情を持った人々がいた。外から精神世界が、人間から失われるのに比例して、内なる自我感情が点火した。 このように、ある時期の、アジアの人々の魂と、ここで考察しているヨーロッパの各地に住む魂との間には大きな相違が生じざるを得ない。彼方のアジアでは、いかに宇宙の秘儀が依然として偉大な夢の像として魂の前に生じるかが、そして、いかに神の行為が人間の精神的な目(心眼)の前で展開するのを目撃できていたかが分かる。 そして、そのようなアジアの人間が語る中に、世界の根底に横たわる何か精神的事実に関する古い説明のようなものを認めることができる。アジアでは、古い超感覚的能力に代わるもの、すなわち想像力に取って代わられたとき、それは特に視覚的な象徴を像の形で生じさせた。 西方の人々の間では、特にイタリアやシシリアにおいては、そのイメージ形成力、想像力からの視覚像とは異なった能力、しっかり根付いた自我から生じてくる能力が、一種の過剰な力、すなわち、いかなる直接的、精神的視界も伴わないが、(目に)見えないものに到達したいという憧れによって浸透され、魂から発生する熱情を生じさせた。 だから、西洋では、いかなる神の行為の説明も見られない。何故なら、東洋のイメージ形成や想像力からの像は、西洋では、目にみえないもので、もはや明らかな形ではなかったからである。しかし、魂が、熱烈な献身をもって、語りと歌の中に表現する、憧れが可能な高みへと希求するとき、古い超感覚的意識が陰った後、もはや見ることができなくなった力に向かう原始的祈りと賛美歌が生まれた。 東洋と西洋の中間に位置する国、ギリシアにおいて、東洋と西洋の2つの世界が出会う。ギリシアでは、東西両側からの刺激を受けた人々がみられる。東方からは像のような視界が、西方からは見ることができない神的-精神力に捧げる献身的な賛美歌に霊感を与える熱情がやって来る。 その2つの流れがギリシア文化の中で混ざり合ったことで、紀元前8世紀から9世紀と考えられるホメロスの詩から、3、400年後のアイスキュロスの仕事へと継続する流れをつくった。 確かにアイスキュロスは、十全なる東方の洞察力に向かって、つまり、神の行為と、その人間への影響に関する古い超感覚的視界の残響として、ホメロスの中にみられるような確信力に向かって開かれた人物として、我々の前に現れるわけではない。 この残響は、常に非常に弱いものだが、アイスキュロスの中では、それはあまりにも弱かったので、太古の超感覚的視覚が人間にもたらしていた神々の世界に関する像のような視界に対する一種の不信を感じるようになっていた。 ホメロスに関しては、かって人間の意識が、物理世界における人間の熱情や感情の相互作用の背後に立つ神的-精神力に関する視界を有していたことをよく知っていたのが分かる。従って、ホメロスは単に人間間の衝突を記述するのではない。ゼウスとアポロの干渉に人間の熱情が巻き込まれ、そして、その影響は出来事の推移の中で明らかになる。それらの神々とは、詩人が、詩の中に持ち込む現実なのである。 アイスキュロスに関しては、全く異なっている。人間の自我を特に強調し、人間の魂を内的に分離するような西方からの影響の流れが、彼に絶大な影響力を及ぼしていた。彼が自我から行動を起こし、神的な力の流入から、その意識を解放し始めた人間を描写した初めての劇作家になったのは、この理由による。 アイスキュロスにおいては、ホメロスの中に見られる神々の代わりに、たとえ初期の段階に立っていたとはいえ、行動において独立した人間が登場する。劇作家として、アイスキュロスは、この種の人間を物事の中心に据える。叙事詩は東方からやって来る像的な想像力の影響下に現れなければならなかったが、個人的自我を強調する西方の影響は、行動する人間が中心となる劇を生じさせた。 例えば、オレステスを取り上げてみる。彼は母殺しの罪を犯し、その結果として復讐の女神を見る。これはまだホメロスである。物事はそれほど簡単には過ぎ去らず、アイスキュロスは、かって神々が像の姿で見えた、ということをまだ知っているが、正に、その信念を捨て去ろうとする段階に来ている。 特徴的なのは、ホメロスにおいては、充分にその力を発揮したアポロンが、オレステスを扇動して、彼の母を殺させたにも関わらず、その後では、もはや彼の側に立つ権利をもたない、ということである。人間の自我が、オレステスの中で身動きを始め、それが支配的になる様子が示される。 アポロンに不利な裁決が下され、アポロンは拒絶される。そして、我々は、オレステスに対するアポロンの力の行使がもはや完全ではないのを見る。だから、アイスキュロスは、プロメテウスを、つまり、神々の圧倒的な力にタイタンのように立ち向かい、神々からの人間の解放を象徴する神的英雄(プロメテウス)を劇化するための正当で適切な詩人であった。 このように、東方の像的な想像力を有するアイスキュロスの魂に、いかに西方からやって来る自我感情の目覚めが混ざり合っているかを、そして、いかに劇が、この統合から生まれたかを見ることができる。そして、完全に人智学的探求によって発見されたものを、素晴らしい形で伝統から確認できるのを見るのは本当に興味深い。 注目すべき伝統が、部分的とはいえ、アイスキュロスから、ある秘儀の秘密を暴露した罪を免じる。ただし、アイスキュロスは、秘儀の秘密を暴露できるはずもなかった、と応える。何故なら、彼はエレウシスの秘儀に通じてはいなかったからである。 確かに、アイスキュロスは、ホメロスの詩が、その起源のテンプル(聖堂騎士団)の秘密から発することを示すつもりは全くなかった。事実、彼はその秘儀から少し離れた位置に立っていた。他方、彼がシシリアのシラクサで人間の自我の出現に関する秘密の知識を得ていた、という物語が伝えられている。 オルフェウスの信者たちが、もはや見ることができず、ただ憧れることができるだけの神的-精神的な世界に向けた古い形態の叙情詩、賛美歌を培っていた地域においては、この自我の出現は特別な形態を取っていた。このようにして、芸術が一歩前進した。 それが太古の真実から自然に現れ、人間の自我へと続く道となるのを見ることができる。人間が、主として外の世界に生きた後、自身の内なる生活を自分のものとしていたことから、ホメロスの詩で姿を取ったものたちがアイスキュロスの劇中の人格となり、叙事詩と並んで劇が現れた。 このように、古代の真実が、芸術という別の形態を取って生き続けるのを、そして、太古の超感覚的能力により達成されたものが詩的想像力によって再構成されるのを見ることができる。そして、芸術によって太古の時代から保存されたもの全てが、人間の個性、つまり、自身という存在に気づくようになった自我に適用されたのである。
2008年09月17日
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遥かな昔には、人間は、後に自身を所有できるように、自身を自我の中に、つまり環境から切り離された、魂の狭い境界内に閉じ込めることができなかった。人間は、環境の中に、自分が、属していると感じながら生きていたが、現代人は、環境から独立している、と感じている。 そして、今日の人間が、生命を支えるのに、必要な物理力が、肉体的組織に流れ込み、また流れ出す、ということを、感じるのと丁度同じように、太古の人間は、超感覚的意識をもって、偉大な世界の諸力との内(精神)的な交換の中で生きることができ、精神的諸力が、人間の中に流れ込み、そして流出している、ということに気づいていた。 そして、太古人は次のように言えた。 「私の魂の中で何かが起こるとき、私が考え、感じ、或いは意志するとき、私は孤独な存在ではない。私は、内なる視界に現れる存在たちからやって来る諸力に向かって開かれている。内なる存在は、彼らの力を私に送り込むことによって、私に考え、感じ、意志するように促す」、と。 まだ精神世界の中に横たわっていたときの人間は、以上のような経験をもっていた。人間は精神力が、思考の中で活動している、人間が何かを成し遂げるときには、神的-精神力が、人間の意志や目的を、人間の中に注ぎ込んでいる、と感じていた。そのような太古の時代には、人間は、自分の事を、精神力が、自らを表現する器であると感じていた。 ここで、過去へと遥かに遡った時代を振り返っているが、この時代というのは、あらゆる種類の中間的な段階を経て、正にホメロスの時代まで続いていた。ホメロスが、いかに人類の太古の意識の継続の表現を与えていたかを見極めるのは難しいことではない。イリアスの登場人物の何人かを眺めさえすればよい。 ホメロスは、ギリシアとトロイの大いなる戦いを描くが、どのようにして、それを描くか? 当時のギリシア人にとって戦いとは何を意味していたのか? ホメロスは、その観点から話を始めるわけではないが、この戦いには、人間の自我に発する熱情や欲望、思考により引き起こされる敵意以上のものがあった。この戦闘の中で、ぶつかっていたのはトロイとギリシアの、単に個人的、或いは部族的な感情なのか? といえば、そうではない! 太古の意識とホメロスの意識とのつながりを示す伝説が告げるのは、ヘラ、アテナ、アフロディテの三女神がいかに美の競演において競り合っていたか、そして、いかに人間であるトロイの王子パリスが美の鑑定家として、そのコンテストの判定をするように指名されていたか、ということである。 世界中で一番美しい女を、パリスの妻にすると約束していたアフロディテに、パリスは賞を与えた(パリスの審判)。その一番美しい女とは、スパルタ王メネラオスの妻、ヘレネだった。パリスはヘレネを獲得するため、力ずくで奪い取る必要があった。この蹂躙への仕返しとして、ギリシア人たちは、エーゲ海の遥か対岸にあるトロイ人たちの国(イリオス)に対して武装し、戦闘が起こった。 何故、人間の熱情が、このように燃え上がったのか、そして、何故、ホメロスのミューズが語ったような全出来事が起こったのか? それらは人間世界における単なる物質的な出来事だったのか? それは物質的な出来事ではない。ギリシア人たちの意識を通して、人間たちの戦いの背後に、女神たちの敵意が描写されているのを見る。当時のギリシア人は次のように言った。 「私は、人々を激しく対立させるようにした原因を、物質世界の中に見出すことはできない。神々とその力がお互いに対峙する、高次領域を見上げなければならない。」、と。 当時、このようなイメージの中で見られた神的な力が、人間同士の衝突の中に働いていた。このように、詩という芸術における最初の偉大な作品、ホメロスのイリアスが人類の太古の意識から生まれてきたことを見ることができる。 ホメロスにおいては、太古の人類に、自然な形でやって来た超感覚的な光景の残響が、後に現れた意識の立場から、韻文の形で提示されるのが分かる。そして、超感覚的意識が、ギリシア人にとって終焉を迎え、ただ、その残響だけが残った最初の時代を探すなら、それは正に、このホメロスの時代だった。 太古の人間は次のように言っただろう。 「超感覚的意識の前に横たわる精神世界で、私の神々が戦っている。」、と。 ホメロスの時代には、このように言うことは既に不可能だったが、それに関する、活き活きとした記憶が保持されていた。そして、太古の人間が、自分の存在を所有していた神的世界から、霊感を受けていると感じていたように、ホメロスの叙事詩の作者は、同じ神的な力が、魂の中で支配していると感じていた。 だから、ホメロスは次のように言うことができた。 「私に霊感を授けるミューズが内で語っている。」、と。 このように、ホメロスの詩が、もし、正しく理解されるなら、太古の神話と直接関係にあることが分かる。この観点から、ホメロスの詩的想像力の中に、古い超感覚的能力に代わるようなものが生じているのを見出せる。 支配する宇宙の力が、直接的な超感覚的視界を人間から引き上げ、その代わりに、魂の中に同様に生きることができ、形成力を授けることができるようなものを与えた。つまり、詩的想像力は失われた太古の超感覚的能力の代償なのである。
2008年09月16日
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「あなたとは違うんです!」という福田爺元総理の逆切れ発言が流行語大賞に決まりそうだと言う。 しかし、福田という男は、終始何を言っているのかわからない人物だった。さぞかし、突っ込んだ記者も、「ひょっとして、私と同じとでも思っていたのですか?」と言い返したかったのではないかと勝手に想像してしまった! 一歩譲って、「あぁ、安倍坊元KY総理とは違うといいたかったんですね。私の顔が、安倍にでもみえたのでしょうか?」というとこなのだろう。 なんでも、安倍坊は、病気で寝込んだくせに、総理就任期間が福田より長かったのが自慢らしいと、日刊ゲンダイに載っていた。 まったくもう、この国の首相というのは、ブタに口紅つけるまでもないブタのようである。 ブタもおだてりゃ、総理の椅子に座るってもんかね? しかし、この逆切れセリフ、「(会見が)ひとごとのように聞こえる」と質問した記者に、キレたもので、実は、国民の誰もが、思っていた質問、つまり、正に、国民の意を汲んだ質問だったように思う。 たしか、安倍坊の場合は、必ずカメラ目線で、まるでアイドル気取りで、僕が、僕が、となんだか、自分のことしかいわなかったKYで、なんだか、気持ち悪い会見だったことは確かで、北朝鮮ばかりを強調していたのもあって、拍子抜け会見だったのもあり、その後の福田は、一層、国民とは、全く他人行儀な感が大きかった。 すると、突然、今度は、国民目線などと、言い出す始末で、どこが、国民目線なのかとツッコミたかったところでもある。これは、安部のカメラ目線に対抗する意味の、福田の国民目線だったのか?と、どうでもいいことに、いま気がついたという感じもある。 さてはどうあれ、二代の放り投げ政権の総括もできないままだが、辞任の逆切れ会見の「あなたとは違うんです」の前のセリフに、「わたしは自分自身を客観的に見ることはできるんです」というものがあったのを思い出す。 この自分を客観的にみることができるというのは、どういうものだろうか? お釈迦様でも、聖徳太子さまでもあるまいし、自分を客観視できる人間なんているのだろうか? 福田は、自分は神様仏様とでもいいたかったのだろうか? 驚きである。昨今の新興宗教の教祖でもいわないセリフに思う。 大体、自分で自分をみるのは、主観の域を出ないのではないだろうか?と真面目に考えてしまう自分が馬鹿馬鹿しくもある。 福田は、霊能者か? 幽体離脱ができるのか? と一つ間違えば、なんだか、如何わしい会見を彷彿とさせるものである。 どうも、福田爺元総理が、自分のことを客観的にみれたとは思えないね。客観的にみれたら、自己嫌悪で、奈落の底に落ちていたんじゃないでしょうかね? 国民目線でみれても、「あんたサイテーだよ!」って感じですよ。 つまり、まるでひとごとのような会見は、自分を客観的にみることができたおかげといいたかったのかもしれないけど、それじゃ、総理大臣であって、総理大臣でない自分を同時に演じていたという精神分裂症にでも罹っていたと告白したことになるのではないでしょうかね。 つまり、「私は、自民党を政権につかせるために、総理大臣を演じさせられていたんですよ。」といいたかったのではないでしょうか? ホントは、辞めたかったんだけどね、お前が辞めると、嫌われ者の麻生や、目立ちたがりの小池や、影が薄くて選挙で勝てないけど、財務省ウケのよい与謝野や、小泉にすがりついて何もできやしないチルドレンが出てきて五月蝿いからさぁ、とにかくがんばってよっていわれて、やめるにやめられなかったんだよ。 ってのが本音なんじゃないのかね? う~ん、どこか北の影武者騒動にそっくりという感もある。福田は自民の影武者を演じさせられていたような気もするね。なんだか、日本がどこか北朝鮮のような感じもしてきたしね。マスコミなんか、北批判しているけど、報道そのものが北化してきているようにみえる。 そして、福田がやめてみると、ほお~ら、やっぱり、出てきたよ。みちゃいられないねって、最近の福田の笑顔の秘密はここにあるのかもしれないね。 しかし、少なくとも、あなたが客観的にみることができていたなら、総理大臣なんてなるんじゃなかったって思っているはずだと思うよ! 国民の知らぬ間に、実は北朝鮮の植民地になっていたなんて、笑えないジョークなんて真っ平御免だよ! リングの上では敵対視しているけど、密かに仲良くバスで隣同士並んで座っているなんて、プロレスじゃよくある話だからね。国民の目も肥えてきているしね。 いい加減、自民は幕引きが必要なんじゃござんせんかい!!
2008年09月11日
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さて、ゲーテの話から離れ、ある使命をもって芸術を探求した一人の個性、芸術を通して、存在の源泉に関係するものを人類にもたらした近代の人物の、リヒァルト・ワーグナーに着目するなら、彼が芸術的創作の本性と意義を、自らで明らかにしようとした、彼の著作の中に、真実と美の間の内なる関係について、多くの同様の示唆をみつけることができる。 例えば、ベートーベンの第九交響曲に関する著作の中で、彼は、これらの音が別世界から現れたようなもので、単に理性、或いは論理的な言葉で把握し得るものとは全く異なるものを含んでいると言う。芸術を通して顕現する、これらのものに関して、確かに言えることが少なくとも一つある。 それは、これらの音楽が確信の力を持って魂に働きかけるということで、それを前にすると、全ての、理性、或いは論理的思考は無力であるような確信、つまり、それらが真実であるという確信を、我々の感情に浸透させる、ということである。 ワーグナーは、交響曲という音楽に関する著作の中でも、混沌が秩序づけられ、調和がもたらされた太古の時代、つまり、そのような感情を反射する、いかなる人間の心もまだ存在しなかった時代の創造行為へと赴く感情を現出させる器官としての、楽器があるかのように、感情としての音楽が、そこから鳴り響いてくる、と言う。 このように、ワーグナーは、芸術の顕現の中に、知性によって獲得される知識と同等の立場に立てるような神秘的真実を見た。 ここで、別の何かを付け加えることができるだろう。偉大な芸術作品を人智学の意味で知るようになると、芸術作品自身が、人間による真実の探求の顕現を、我々に伝えていると感じる。そして、人智学者自身が、このメッセージに内から関連していると感じる。 実際、人智学者が、自分は今日の人々があまりにも軽々しく受け入れる、いわゆる精神の顕現ではないものとして、そのメッセージに親密に関連していると感じると言う場合でも、決して誇張ではない。 では、真に芸術的個性が、この種の使命を芸術に帰属させ、一方、人智学者が、これらの偉大な芸術の神秘的顕現にあれほど強く心惹かれるように感じるのは何故か? この連続講義を通して、魂の前にやって来た多くの事柄を統合することにより、この疑問に対する答えに近づくことになるだろう。 もし、我々が、この観点から、芸術の意義と働きを探求するなら、人間の意見や知性の屁理屈をもってすべきではない。人間や世界の進化との関連で、芸術の発達を考察すべきである。芸術自体に、その人類にとっての意義を語らせるようにすべきである。 もし、芸術のはじまり、芸術が詩という外観をとって人間のなかに初めて現れたときにまで遡るなら、通常の考え方に従い、遥かに遡らなければならない。ただ現存する文書が連れていくことができる程度の過去にまで遡ることにする。 しばしば伝説的な人物と見なされるホメロス、2つの偉大な叙事詩、イリアスとオデッセイによって、伝わっているギリシア詩の創始者にまで遡ることにする。 この2つの詩の作者、或いは作者たち(何故なら、今回はこの問題に立ち入らないので)が誰であったとしても、特筆すべき点は、両方の詩が全く非個人的な調子で始まる、ということである。 おおミューズ、アキレスの怒りを歌え・・・ という言葉で、最初のホメロスの詩、イリアスは始まり、そして おおミューズ、大いに旅する男の詩を歌え・・・ というのが、第二のホメロスの詩、オデッセイの始まりの言葉である。 だから、ホメロスは、その詩が、高次の力に負っていることを示そうとしている。そして、ホメロスにとって、この高次の力とは象徴ではなく、現実で、客観的存在であった、ということに気づくには、ホメロスを少し理解すればよい。 もし、このミューズへの祈りが現代の読み手にとっては、何の意味ももたないものなら、それは彼らが、ホメロスの詩のように、非個人的な詩が由来する経験を、もたないからである。そして、もし、初期の西洋詩における、この非個人的な要素を理解しようとするなら、次のように問う必要がある。 「それ以前(太古)には何があったのか? そして、それはどこから生じたのか?」と。 人類の進化に関して語るとき、人間の魂の力は、千年紀の間に変化した、ということを何度となく強調してきた。遥かな過去の時代、外なる歴史では到達できない、人智学探求には開かれている時代においては、人間の魂は夢のような原初の超感覚的能力(霊能力)を付与されていた。 人間が後の時代になったような、あまりに深く、物質的存在性の中に横たえられるようになる以前の時代(太古)には、人間は周囲の至る所で、精神世界を現実のものとして感知していた。また、太古の超感覚的能力は、今日、達成できるような意識的で鍛錬された超感覚的能力とは異なっていた、ということをも指摘した。 というのも、後者(今日達成可能な霊能力)は魂の生活における確固とした中心点により、人間が、自身を自我として把握する存在と結びついているからである。現在もつような、この自我感情は、長い時間をかけて徐々に発達してきたもので、遥かな過去には存在していなかった(前回の講義で、良心も同じで、キリストによって、目覚めさせられたと語った)。 けれども、正にこの事故、つまり、人間が、この内的な中心点をもたなかったがために、精神的感覚が開かれており、人間は、その夢のような、自我とは無縁の超感覚的能力を持って、遥かな過去に、人間の真の内なる存在が現れた処の精神世界を覗き見ていた。 物質的存在性の背後にある諸力の力強い像、夢のような像が魂の前に現れた。この精神世界の中で、人間は、神々との間で演じられる行為や出来事を見た。そして、今日的な研究では、国によって様々に異なる神々の物語(神話)が、よく知られた想像の産物であると推定する点において、全く間違っている。 (神話は、当時の人間たちが霊能力によって、実際に、目にうつった光景を伝承したものだという) 遥かな過去にも、人間の魂は丁度、今日と同じように機能していた、ただし、物語に登場する神々を含めて、今日よりも物事を想像する傾向が強かった、と考えるなら、それは全くの想像の産物であり、想像力が豊かなのは、そのように信じる現代人たちの方である。 (神話は、想像の産物ではなく、古代人が実際にみた自然の記録であるという。想像の産物にしているのは、現代人の唯物的な思考にあり、現代人と古代人の身体構造の違いにあるという。現代人でも、夢をみるとき、古代人の霊視能力に近い観察ができる。夢はどことなく、神話に似ていることでわかるだろう。) 太古の昔の人々にとって、神話の中で記述された出来事は現実だった。神話、英雄伝、そして童話や伝説でさえも人間の魂の中にあった太古の能力から生まれた。この事は、人間が、今では自身の中で、自身を所有しながら生きることを可能にする、しっかりとした中心点(自我)をまだ獲得していなかった、という事実と関連している。
2008年09月11日
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なんだか、政治は小泉以来、宣伝会社が絡んで、まるで低レベルな予算削減番組をみせられているようで、一刻も早く、いまの堕落政府を滅ぼしてくれないかと願っている次第。 総裁選など、相殺戦でもしておれって感じで、もはや国民はドッチラケで与党なんかどうでもいい。こいつらを早く下野させたいだけである。 なんでも、山本一太は、6人しか集められずに、立候補して、他の立候補者を抱き合わせようとして、影の薄い棚橋かなんだかに、もちかけるが、どちらも譲らず、ケンカ別れして、後で、棚橋の支持者が3人と聞いて、逆ギレしたというのが日刊ゲンダイに載っていたが、ホントに、こんな奴らが国政やってんだから、日本がなめられるわけだよ。 どうしょもないな、小学生の学級委員会よりも低レベルだろ! 小学生だって、10人は集められるだろう。 こんな苦労知らずのテレビ写りばかり目立って、中身のないボンボン連中が、総裁立候補なんて、ちゃんちゃらおかしいよね。もう、なんでもやってくれって感じですよ。いっそ、国会で、裸踊りでもしたらいいだろう。もう終わりだよ。 どうせ麻生で決まって、解散で、この人、失言が多いし、性格的にも吉田茂の自慢しかしないKYだそうだから、一発芸人としてウケがいいだろうが、まぁ、一発屋で、所詮、自爆して終わりとみている。 不幸なのは、福田で政権移譲しておけば、自民も少しは歴史に名をとどめただろうが、麻生で自爆してしまうわけで、まぁ、爆発分裂ってところだろうね。なんせ、麻生は、党内に敵を何人も抱えているわけだから、福田よりも何も出来ない人形なわけだから。 爆弾発言連発の秋葉のフィギュアにでもしたら、せいぜい面白がって、売れるかもしれないね。そういう意味では、小泉のキャラとダブる。小泉フィギュアとアンチ小泉フィギュアでペアで売り出してもいいだろうが、小泉チルドレンおまけつきって、誰が買うかって…。 さて、政治はどうせ、総選挙で、来年は、小沢一郎内閣誕生と私はふんでいるので、海外のイチローの活躍を見込んで、国内のイチローに国民生活を奮起させて欲しい。小沢といえば、小澤征爾も海外的に有名だし、語呂がいいし、小沢政治で、国内オーケストラを活性化して、経済教育文化シンフォニーを奏でて貰いたい。 小沢政治で、海外でも、イチローのような活躍を! っていって欲しいものである。しかし、小沢も一時は、妖怪中曽根に唆されて、大連立なんてスキをみせたから、どう転ぶかわからないところが不安でもある。 しかし、中曽根は、角栄を踏み台にして、よくもまぁ、恥も外聞もなく、ご意見番のような立場でいられる元祖KYといえば、この中曽根をおいて他にないだろう。いまだに憲法改正などと言っているから恐ろしい。 さてさて、本題は、政治の話ではなく、野球のWBCの監督の話なのである。 どうも、なんだか、かなりプロ野球は、大相撲と同様に戦後、一番の大危機に直面しているのにも関わらず、全く、関係者はその自覚もないようだ。 星野以外にやる人物がいないというのである。だから、わざわざ、自分はやらないと、高く売る手段に出ているようである。世も末だね。 カネを稼ぐ意味では、何もプロ野球選手でなくても、監督は務まるだろう。ある掲示板には、ビートたけしはどうだろうか?とあったが、星野よりも、ビートたけしの方が名が売れていることは確かである。 WBCに、日本は、映画を取りにきたらしいと思わせて、騙し討ちにするのもいいだろう。負けても、充分に理由がつく。大体、連覇なんて、世界が許さないだろうしね。 だから、星野がやるくらいなら、いっそのこと、ビートたけしにやらせてみたら、面白いと思った。まぁ、野球選手にしてみたら、怒り心頭だが、負けた監督を出すのと、どっちもどっちだし、大体、WBCよりペナントレースが大事だといっているのだから、誰がやっても同じってことなんでしょ? あくまで、球界の意地をみせるなら、やはり、王監督しかいないだろうが、健康問題等で、リスクも高いというのなら、現役監督が望ましいが、ペナントレースにひびくので、現役監督は無理というなら、実績から考えて、 若松元ヤクルト監督か、伊東勤元西武監督あたりはどうだろうか? 日本一にもなっているし、確かに、目立たないが、それなりに実績はあげている。少なくとも、監督未経験者や、監督の実績のない人物よりはよい。 だから、まとめると、 1.王監督 2.今年日本一の優勝監督 3.若松元監督、もしくは伊東勤元監督 4.ビートたけし、もしくは世界的に有名な監督 という感じになる。とにかく、ケジメだけは、つけて欲しい! 4は流石にないと思うが、監督が目立つより、選手が目立ち、選手がベストをつくせる環境つくりがなにより、必要だと思う。だから、3あたりが妥当なのではないか?と思う。目立たない監督の分、選手が目立てばよい話なのだからね。
2008年09月10日
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魂生活の変容シリーズ、最後の主題は、人間の内なる生活から湧き出す、最も偉大な宝物に満ちた、魂生活の領域に捧げる。 つまり、人間進化における芸術の本性と意義について考察する。芸術の領域はあまりに広範にわたるため、ここでは詩の分野に限り、この詩の分野において、人間の精神が達成した最高のものだけを考察する。 さて、次のように誰かが言うかもしれない。 「これまでの一連の魂生活の(変容の)講義は、人間の魂の様々な側面に関するもので、その中心課題は、精神世界との関連において、真実と知識を求める、というものであった。では、これらの探求は、人間活動の中でも、特に美の要素に表現を与えようとする努力とは、どのような関係にあるのか?」、と。 そして、我々の時代では、真実と認識に結びついたものは、芸術的活動が目指すものとは、遥かにかけ離れている、という観点をとるのが、容易だろう。今日、広く信じられていることは、科学の全分野では、論理と実験の厳密な規則に従う必要があるのに対し、芸術的業績では、心と想像力の自発的な思いつきに従う、ということである。 だから、同時代人の多くは、真実と美とは何の共通性もないと言うだろう。にも関わらず、芸術的創造の領域での偉大な指導者たちは、真の芸術とは、知や認識と同様に、人間存在の深い源泉の中から流出するものである、と絶えず感じてきた。 1つ例を挙げてみる。最も、美と真実の両方を探求したゲーテに目を向けるだけだが、彼は若い頃、あらゆる可能な方法を用いて、世界に関する知識を獲得し、存在の偉大な謎に対する答えを見い出そうと苦闘した。 憧れの理想を秘めた国に、彼を導くことになるイタリア紀行時代の前には、彼はワイマールの友人たちとともに、例えば、人生の全ての現象の中に、統一的な実質を見い出そうとした哲学者スピノザの研究によって、真実を追求する道を進んでいた。 神の考えに関するスピノザの論文はゲーテに深い感銘を与えた。メルクやその他の友人たちとともに、彼はスピノザの中に、あらゆる周囲の現象を通して語る声のようなもの、存在の源泉を仄めかすようなもの、ファウスト的な憧れ、つまり癒されそうな考えを聞ける、と信じていた。 けれど、ゲーテは、あまりに豊かな魂に恵まれていた為に、概念的、分析的なスピノザの仕事から、真実と知識に関する満足のいく像を得ることができなかった。この事に関して、彼が感じていた事、彼の心が希求していたものが、最も明白に現れるのは、彼が偉大な芸術作品に接し、その中に古代の芸術の名残りをとらえた彼のイタリア旅行に、我々がついて行けた場合だろう。 ゲーテは、それらの作品の前で、スピノザの考えから引き出そうとして、成し遂げられなかった感情を経験した。この事から、彼はワイマールの友人たちに次のような手紙を送った。 「1つだけ確かなことがある。古代の芸術家達は、ホメロスと同じように、自然に関する知識、何が表現されるのか、また、それはどのように表現されるべきなのか、に関する確かな考えをもっていたということである。 残念な事に、最高の段階にある芸術作品は、あまりにも少ない。けれども、最高の芸術作品に関して、熟考するとき、人間が望むべきことは、最高の芸術作品を正しく知り、そして、その前から静かに立ち去る、ということだろう。 これらの卓越した芸術作品は、自然の最も気高い産物として人間の手により、真の自然法則に従って創造されたものである。あらゆる思いつきや単なる想像の産物は消え失せる。そこには必然があり、神がある。」 ゲーテは、これら最高の段階にある芸術作品が、それらを創造した偉大な作家たちによって、彼らの魂の中から、自然が従う法則と同じ法則に従って取り出されたということを、見極めたと信じていた。この事が意味するのは、自然法則に関するゲーテの観点においては、鉱物、植物、動物界において作用しているものが、人間の魂の中で、新しい段階に引き上げられ、新しい力を付与され、そのため、それらがその魂の中で十全に表現されるようになる、ということに他ならない。 ゲーテは、これらの芸術作品の中にも自然の法則が働いていると感じ、そのため、ワイマールの友人たちに、「あらゆる思いつきや単なる想像の産物は消え失せる。そこには必然があり、神がある。」と書き送った。 ゲーテは、そのような瞬間、最高度に表現された芸術は知や認識と同じ源泉から来る、という考えに心を掻き立てられるが、彼が、「美とは、永遠に隠されたままに留まる自然の秘密の法則が表現されたものである。」と断言するとき、その事が真実であることを、いかに深く感じていたかを知る。 こうして、ゲーテが芸術の中に見るのは、認識に関する他分野における探求の中で発見されたものを、芸術自身の言葉により確かなものとする自然法則の顕現である。
2008年09月10日
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以前、「ヨガの喜び」という本を、このブログで推奨したが、この書を読み進めるほどに、この書の偉大さに感服する。 「ヨガの喜び」沖正弘著 光文社知恵の森文庫 である。 そこで、少し抜書きする。 心と体を強くするの章に、心を柔軟にするという項目がある。 「○心を柔軟にする 柔軟さとは、言い換えると、心の幅が広いことである。ちぢむ力と伸びる力の幅が広いこと、許す心と許さない心、嫌悪と愛情、この幅が広いほど、心はやわらかい。 だから、どうしても嫌だと思ったときは、徹底的に嫌だと思えばよい。どうして嫌なんだろう、好きになるにはどうしたらいいかなどと、ぐずぐず考えると、幅は狭くなるばかりだ。 そのうちに、嫌だという気持ちに飽きてくる。人間はそれほどしつこく、ひとつのことを思いつめられるものではないからだ。そこではじめて、じっくりと、自分が嫌がっていたことを好きになる方法を考えてみる。 仕事や勉強を、やりたくないというのは自然な考えだ。どんなにつらい仕事でも、おもしろくない勉強でも、楽しくてしょうがない、と言ったら「うそ」であり、またそう思うのは無理である。 おもしろくないことがあったら、嫌がりながらでも、それをなんとか喜んでできる道を探す事だ。 心でも体でも、逆の刺激を同時に加える練習をすれば、柔軟になるのである。かといって、好きだからそれしかしないというのも偏った考えだ。一方ばかり力を集中させると、心にも偏りができる。バランスをよくとること。勉強と遊び、叱るとほめる、この幅が広いほど成果は上がる。 つねに逆の心を同時にもつ訓練が、心のバランス法である。」 つまり、心の柔軟性とは、一方に偏らず、かならず、反対側の心を同時にもつことだという。嫌悪と愛情というように、嫌悪感を追求しつづけると、反対側の愛情にかえってくるというのである。 そういえば、第一印象の悪かった異性が、付き合って行くうちに、嫌悪感の印象が逆転することがあるというのは、この心の柔軟性になるのだろうか? つぎに心を安定させるという項目がある。 「○心を安定させる それにはまず、自分や自分の生き方をじっくり考えて、自分とは何かという主体性をつかむことである。こういう事件が起こったら、自分は、自分にどうさせたらよいかをよく知っていなければならない。 たとえば椅子は、自分にちょうどよいものでないと座り心地が悪い。同様に他人とは考え方が違っていても、それは当たり前なのだ。 自分がほんとうに感心し、信頼でき、ほれ込めるものをつかむことも大切だ。このようにして自分が管理してはじめて、自分の自由や進歩がある。人の真似をすることは、奴隷になることだと思った方がよい。」 「○悟りをひらく 大切なのは、まず、自分の考えをもつこと。それは同時に、人を納得させられる真理でなくてはならない。 体験のない人が自分の主張らしいものをすると、少ない知恵だけに固執するから、いっけん意志強固にみえる。しかし、これは自分や世界の本当の姿を語ってはいない。つまり、自分の都合とか利益といった「はからい」の心が強い。 真理とは、他の人に、細かいところに意見の違いはあっても、根本的に頷いてもらえる考えのことだ。それはもはや自分の意見を言っているのではなくなっている。 (中略) 『ぼくは…。』とか、『でも、私は…。』と自分の立場ばかり主張するのはまちがいだ。 私はいままで、人に言い負かされたことがない。なぜなら、私はわからないことは言わないからだ。自分で実証し、理解し、体験していないことは絶対に口に出さない。 それでは、どうしたら、悟りが開けるのか。 悟りとは、自分の心が如実(真実)と一つになること(如来という)である。物事の本当がわかって、それが自分の考え方と生き方になっていることである。 地球上に沖正弘(著者)は私一人だから、私の生き方は、私が自分でつかみとらなくてはならない。そして、この問題を、私はこう処理する、という自分なりの考えをもつ。それがないと、人間としての成長はない。自己喪失者だ。 社会とは、悟りを開いた人間の集まっているところであるべきだ。羊は、一頭が走り出して崖から落ちると、あとに続くものも全て同じ行動をするという。これと同じようなことが、人間社会に起こってはならない。他人の考え方の奴隷にならないことだ。」 特に、最後の悟りを開くは重要なことをいっているように思える。戦中の日本は、他者の考え方の奴隷になっていたといえる。全て軍国主義に染まり、その思想を押し付けられ、命を戦場に投げ出すことを強いられたからである。 昨今、このような戦中の日本の社会に戻っているような気がしてならない。二度と小泉政権なんて御免蒙りたい。
2008年09月09日
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東の世界では、人間は神的な宇宙精神の中に、その起源を有しているという意識が活き活きと保持されていた。そして、この事から、神の声として語られる内容を、自身の内に見い出そうと、多くの人(例えばアイスキュロス)が努力した時代から、2、3百年後に起こった出来事に関する理解を、東洋人に、可能にした。 すなわち、この出来事によって、地球と人間の進化の中に入ってきた衝動の内、全精神的立場からみて最も偉大な衝動、つまりキリスト衝動と呼ぶものが人類にもたらされた。 神、すなわち事物や、人間の外的鞘(外界)の創造主は、内なる生活の中に認められるということを初めて人間に気づかせることができたのが、このキリスト衝動だった。人間は、キリスト=イエスの神的な人間性を理解することで、神の声とは、自らの魂の中で(良心として)聞くことができるものである、ということを理解するようになった。 (キリストは、神の王国は、我々人間のなかにあるといっている。) キリストは、人間が、自身の内なる生活の中に、神的本性を見い出せるように、外(界)的な、歴史的出来事として、人類進化の中に入ってくる必要があった。もし、神なる存在であるキリストが、ナザレのイエスの体の中に存在しなかったなら、或いは、もし、キリストが人間の体の中に存在することで、神は、人間の内なる生活の中に認められるということを、たった一度も示さなかったなら、或いは、もし、キリストが、ゴルゴダの秘蹟を通して死の征服者として出現しなかったなら、人間は、魂の中に、神が住んでいるということを、決して理解しなかっただろう。 もし、たとえ「キリスト=イエスが歴史的に存在しなかったとしても、そのようなことは認識できたはずだ」と誰かが言うなら、それは「太陽がなくても、人間は眼を持っていたはずだ」と言うのと同じである。 いま、もし、それとは反対の意見、例えば、光の起源は眼に求めるべきで、何故なら、眼がなければ、人間は光を見ることができないからである、という哲学者達の一面的な見方を持ち出すなら、それに反論するには、「眼は、光のために光によって創造された。」という、ゲーテの金言を持ち出さなければならないだろう。 もし、空間を光で満たす太陽がなければ、人間有機体の中に眼が発達することは決してなかった。目は光により創造され、もし、太陽がなければ、眼は存在しなかった。どんな眼も、最初に、太陽からその力を受け取っていなければ、太陽を、知覚できない。 同様に、もし、キリスト衝動が外(界)的歴史の中に入ってこなかったなら、キリスト衝動を把握し、認識する力は存在しなかっただろう。宇宙にある太陽が人間の視覚に対して行ったのと同様に、歴史上のキリスト=イエスは、内なる生活への神的本性(良心)の導入と呼ぶものを可能にする。 この事を理解するのに必要な要素は東から来た思考の流れの中に存在していた。それらは、ただ高次レベルに引き上げられればよかった。魂がこの衝動を把握し、受容できるまでに成熟したのは西洋においてだった。 西洋においては、かつて外界に属していた経験が最も強力に内なる世界に移し替えられ、概して弱かった自我を、「良心」の形でみなぎらせた。このようにして魂は強化され、自我の中で語る「良心」の声を聞く準備ができた。 つまり、東洋において、世界を超感覚的に見ることができた人々の前に現れた神性、この神性は、今、我々人間の中に住んでいる! (東洋では、良心は、季節毎と場所毎に外界に存在するものと捉えられ、西洋では、体験を通して、人間内部に発現するものと捉えられた。やがて東洋では、行事や慣習や風俗に形骸化し、西洋では、体験をもちあった学芸や芸術、オリンピックのように、更には弁論大会や、討論や会議に形骸化する) けれども、もし、内なる神性が意識の夜明けに際し、前もって語りかけていなかったなら、このように準備されていたものが意識的経験になることはなかっただろう。このようにして、キリスト=イエスに対する外的な理解が東洋で生まれ、そして、西洋から現れ出た「良心」が来て、出会うのを見ることができる。 例えば、キリスト教時代の初期に、ローマ世界において益々頻繁に「良心」が語られるようになり、西に行けば行くほど、次第に、その存在に対する認識が明白になると同時に、それが胎児のような形で存在しているのが明らかになる。 こうして、東と西はお互い、それぞれの手の中へと働きかけた。キリスト本性を有する太陽が東方に昇り、一方、西方では、発展(進化)する「良心」がキリスト理解への道を準備するのを見る。だから、キリスト教は栄光に満ちて、東方ではなく、西方へと前進する。 (太陽が東から昇り、西に降りるのと同じという) 東方では、東洋的世界観の(その最高レベルにあるとはいえ)最後の結果(成果)を代表する宗教が広まるのが見られる。つまり、仏教が、東方世界を捉える。キリスト教が西方世界を捉えたのは、西方世界がキリスト教を受容する器官を、まず準備していたからである。この点において、キリスト教が西洋文化における深化された要素、すなわちキリスト教に体現された「良心」という概念に関係してくるのが見れる。 これらの発展(進化)に関して知るには、外的な歴史研究ではなく、事実を内的に熟考することによる。いま述べた事は、多くの人にとって信じられないことかもしれないが、外界の現象の中に精神を認める、というのは時代の要請でもある。 ただし、この事が可能なのは、少なくとも、精神が、明白なメッセージの形で語りかけてくる場合で、差し当たり、それを識別できるときだけである。通常意識では、「『良心』が語るとき、それは魂の中で神が語っている。」と言うものである。 最高次の精神的意識は、「『良心』が語るとき、それは本当に宇宙的精神が語っている」、と言うものである。 そして、人智学は「良心」と人間進化における最も偉大な出来事、すなわちキリスト事件との関係を明らかにする。だから、そのキリスト事件によって「良心」が高貴にされ、高次領域へと上昇させられたというのは驚くべきことではない。「良心」のために、何かが為された、ということを聞くとき、「良心」が人類の最も重要な所有物であると見なされていると感じる。 このように、「良心」とは人間の中の神であると、人間の心が語るとき、それがいかに当然で正しいことであるかが分かる。 そして、「神なる自然が、人間に自らを現すとき、それは人間にとって最も高貴な経験である」、とゲーテが言うとき、神が精神において、人間に自らを現すことができるなら、それは自然を、その背景にある精神の光の中で見るときだけである、ということに気づく必要がある。 人間進化の中で、この事が充足されるのは、一方で、外から輝き入るキリストの光によるものであり、他方で、我々人間の内にある神の光、すなわち「良心」の光によるものなのである。フィヒテのような人間の本質を研究する哲学者が、「『良心』とは、我々人間の内なる生活における最も気高い声である」、と言うとき、それが正当なのは、上述によるからである。 この事との関連で、また、人間としての尊厳が「良心」とは不可分である、ということに気づくだろう。自我意識をもつが故に人間なのであり、我々人間が、自らの側で有している良心は、自我の側にあると言える。 このように、「良心」を個人が所有する最も神聖なもの、外界によって侵害され得ないものと見なせる。その声によって、我々人間は、方向性や目的を決定できる。「良心」が語るとき、他のいかなる声も口を挟まない。 だから、「良心」は、一方では、世界の原初的な力と、我々人間との関係を確認し、他方では、我々人間は、神から流れ来る1つの滴のようなものを、自らの中の最深部に有している、という事実を保証するものである。 そして、良心が人間の中で語るとき、それは神が語っている、ということを、人間は知るのである。
2008年09月09日
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さて、ではソフォクレスを飛ばして、1世代後に、同じ状況を取り扱ったエウリピデスに目を向けてみる。 学者達が正しく指摘したように(とはいえ、人智学だけがその事を、真の光の中で示せるが)、エウリピデスにおいては、オレステスが経験した夢の像は良心の呵責の影のようなイメージ以上のものではない。シェークスピアにおいても幾分同様である。 このように、詩という芸術は、「良心」という考えが確立した段階があったことをはっきりと証明している。いかにアイスキュロスのような偉大な詩人でさえ、「良心」については語れなかったかを、そして、一方で、いかに彼の後に続くエウリピデスが正に、「良心」に関して語るかを見ることができる。 この発展(進化)を心に留めれば、何故、人間の思考一般が「良心」に関する真の概念に向かって、ただゆっくりと、その歩みを進めることだけができるのかが分かる。現在、「良心」の中で働いている力は、太古の時代にも働いていた。それは人間の超感覚的視界の前に、人間の行いの影響を示す像として現れた。 唯一の違いは、この力が内在化されたことなのだが、それを内的に経験するためには、徐々に「良心」の概念へと導く、人間の発達(進化)全体が必要だった。 このようにして、段階を追って前面に出てくる能力、人間自身の努力によって獲得すべき能力を「良心」の中に見ることができる。 では、「良心」の最も力強い活動をどこに探すべきなのか? それは人間の発達過程(進化プロセス)の中でも、自我が初めて認知されるようになった時点、自我がまだ弱い時点である。 古代ギリシアでは、自我は悟性魂の段階にまで進んでいた。しかし、古代エジプト、カルディアにまで遡ると(外的な歴史はこの事に関して、何1つ知らないが、プラトンとアリストテレスは、自我に関する超感覚的認識をもっていた)、当時の最も高度に発達した文化でさえ、独立した自我の内なる存在無しに、達成されたものであるのが分かる。 エジプトやカルディアの聖地によって育まれ、その使用に供された知識と、近代的科学との違いは、我々の科学が意識魂により把握されるのに対して、ヘレニズム以前の時代においては、全てが感覚魂からのインスピレーション(霊聴力)に依存していた、ということである。古代ギリシアにおいて、自我は感覚魂から悟性魂へと発達した。 今日、現代人は意識魂の時代に生きているが、これは真の自我意識が今初めて生じているということを意味している。人類の進化を研究する人、特に、東洋文化から西洋文化への移行を研究する人は、いかに人間の発達(進化)が、どこまでも増大する自由と独立の感情により特徴づけられてきたかを見ることができる。 ギリシア以前(エジプト時代)の人間においては、自分は神々と、神々から来るインスピレーション(霊聴力)に完全に依存していると感じられていたのに対して、ギリシア以降、西洋において初めて、文化が内なる生活から湧き出してきた。 この事は、例えば、アイスキュロスが人間の魂の中に自我意識を生じさせようとして、いかに苦闘したかを見れば特に明らかである。彼が片方の目を東洋に、もう片方を西洋に向けて、人間の魂の中から「良心」の概念へと統合されるべき要素を集めながら、いかに東洋と西洋の境界線上に立っていたかを見ることができる。 彼はこの「良心」の新しい形態を、劇の形に体現させようと努力するが、まだ充分にできない。「良心」の比較は混乱を招き易く、単に比較するのではなく、区別する必要がある。 大事なのは、西洋においては、あらゆるものが自我を感覚魂から意識魂へと上昇させるようにデザインされていたという点である。東洋においては、ヴェールをかけられた曖昧さの中で自由ではなかった自我は、西洋においては、東洋とは対照的に、意識魂への上昇の道を辿る。 古い、夢のような超感覚的能力が消し去られるとき、他のあらゆるものが自我を目覚めさせ、その自我を守る内なる神の声としての「良心」を呼び起こそうとする。アイスキュロスは東と西の世界を分ける礎石だった。
2008年09月08日
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政治家は甘ったれた連中ばかり。政権を放り投げといて、いい人を決めてくださいって、馬鹿いってんじゃないよ! 国内向けパフォーマンスばかりしてんじゃない! どうも、国民の怒りをわかっていないようだが、こんな馬鹿与党のせいで、国民もかなり馬鹿になっているから、それをみこして、馬鹿自民はパフォーマンスするんだろうな。 こうなったら、総裁選なんかでウツツをぬかしている連中をかたっぱしから、次の選挙で、相殺していくしかない。 国民が自民をやっつけるしかない。 何もできないやつが、集まっても、何もできやしないんだから、まだ共産党に入れた方がましかもしれない。 とにかく、早く解散しろ! でないと、馬鹿自民を選挙で落選させることができないのだから。
2008年09月07日
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さて、夢のような超感覚的視界には、人間の悪い行いに対応するものは、どのような形を取って現れたのか? その形は、当時の人間がいかに宇宙的秩序を妨害し、混乱させたかを示すような光景で、人間を取り巻く精神力が、有益な影響を及ぼすことを意図して、人間に示した光景だった。それは、人間を上昇させようとする神が、人間の行いによる影響を人間に示し、人間がその有害な結果を取り除けるようになることを望んで取られた措置だった。 実際、それは、当時の人間にとっては恐ろしい経験だったが、その出現は、人間にとっては、宇宙的基盤から来る基本的に有益な経験だった。人間が自身の内に、その自我の中心を見い出す時代が来たとき、外の光景は反射像の形で、魂の中に移された。 自我が最初に感覚魂の中に出現するとき、それは弱く、脆いものである。人間は、自我の完成に向けて徐々に進化するために、まず自身にゆっくりと働きかけなければならない。 さて、人間の悪事の結果としての外的、超感覚的視界が消えたとき、もし、それが有益な影響を持つ、その内なる対応物によって置き換えられなかったならば、何が起こっていただろうか? 人間は熱情によって、まだ脆い自我とともに、まるで際限のない、波打つ海の中にあるかのように、感覚魂の中を、あちらこちらへと引きずり回されていただろう。 では、この歴史的瞬間に、外界から内なる魂の生活へと移されたものとは何なのか? 人間が何を善なる存在にすべきかを、超感覚的意識の前に示しながら、悪徳行為の有害な効果を、治癒的影響としてもたらしたのが偉大なる宇宙の精神であり、後に、人間の自我がまだ弱かった頃、その内なる生活の中に、力強く自らを現したのも、その同じ宇宙の精神だった。 その精神は、超感覚的視界を通して人間に語りかけた後、内なる生活の中へと引き下がり、宇宙秩序の中に引き起こされた歪みの是正に関して語るべきことを伝えた。人間の自我は、まだ弱いので、その宇宙精神は絶えることなく、眠ることなく、人間の自我を監視し、自我がまだ判断できない場所で、判断を下す。 その弱い自我の背後には、力強い宇宙精神の反映のような存在、以前、人間の行為の結果を、超感覚的視界を通して、人間に示していたものが立っている。 そして現在、その反映は、人間の自我を監視する良心として経験される。 このように、良心が人間の内なる神の声として素朴に記述されるとき、いかにそれが真実であるかを理解すると同時に、外の光景が内なる経験になった瞬間、つまり、良心が生まれた瞬間が、人智学によって示された。 今まで述べてきた事柄は、純粋に精神世界から引き出すことができる。外面的な(外界の)歴史は必要でなく、いま記述した事実は内なる目によって観察できる。それを見れる人は誰でも、それを疑う余地のない真実として経験するが、時代の必要性から、次のような問いに導かれる。 一体、外なる歴史は、この場合、内なる能力により見られる事実を、確認させるような何かを、提示できるのか? 超感覚的意識により見い出されるものは、常に外界の証拠によって検証でき、その証拠は、内面と矛盾するものと恐れる必要はない。そのような事は検証が不正確であった場合にのみ起こる。超感覚的洞察から、ここで導き出された記述を、外なる事実が、いかに確認するかを示す一例を示してみる。 良心の誕生という出来事が起こってから、それほど長い時間は経っていない。紀元前5世紀から、6世紀を振り返るなら、古代ギリシアの偉大な悲劇詩人、アイスキュロスに遭遇し、そして、彼の作品の中に、ある特筆すべきテーマをみつけるだろう。そのテーマが注目されるのは、後の時代のギリシア詩人によって全く異なった方法で、そのテーマが取り扱われているからである。 アイスキュロスが示すのは、アガメムノンがトロイから帰還し、家に帰り着いたとき、彼の妻、クリテムネストラに殺される事である。彼の息子、オレステスは神の忠告にしたがって母を殺し、アガメムノンの仇討ちをする。 では、オレステスにとって、この行為の結果とはいかなるものなのか? アイスキュロスが示す事は、もはや当時では、母殺しの重荷(罪)が、異常なものであるという見方を、オレステスの中にいかに呼び覚ますかということである。彼の罪の非道さが、古い超感覚的能力を、過去からの遺産のように彼の中に目覚めさせた。オレステスは次のように言った。 「アポロン、つまり神自身が、私に告げたのは、私が母にした、父の仇討ちは単なる1つの行為にすぎないということである。私が行う行為全ては、その行為を存在させるが、私のなかの母の血は(私とともに)生き続ける!」と。 そして、オレステス3部作の第2部で、古い超感覚的能力が、オレステスの中で目覚め、仕返しの女神、エリニエス(或いは、後にローマ人が呼ぶような復讐の女神)が近づいてくる様子が力強く示される。 オレステスは、夢見るような超感覚的意識の中で、外なる形態を取って現れる母殺し行為の結果を目の当たりにする。 アポロはその行為を容認していたが、そこには高次存在が存在していた。アイスキュロスは更にもっと高次の宇宙的儀式が通用することを示したかったが、可能だったのはただその瞬間に、オレステスを超感覚的意識にすることだけだった。 何故なら、アイスキュロスはまだ、内なる声と呼ぶものをドラマ化するのに十分な段階にまで至っていなかったからである。もし、彼の作品を研究するなら、何か良心のようなものが人間の魂の内容全体から現れようとしている段階にありながら、その地点には全く到達していない、という印象を受ける。 アイスキュロスはまだ良心へと変容していない夢のような超感覚的な眼差し(霊視)をもってオレステスに向かう。しかし、もう少しで良心の認識に至るのが分かる。例えば、クリテムネストラに語らせる言葉の1つ1つが、紛れもなく、今日の意味での、「良心」という考え方を示すような感情を呼び覚ますが、決して、最終的には到達しない。 当時、偉大な詩人が示すことができたのは、それ以前の時代においては、いかに悪い行いが人間の魂の前に立ちはだかったか、ということだけだった。
2008年09月05日
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魂の構成体(感覚魂、悟性魂、意識魂)が、いかに身体的な組織の構成体(肉体、エーテル体、アストラル体、もしくは感覚体)と関連づけられているかを見てきた。この事から(人智学が示すように)、自我が感覚魂へと上昇する以前には、感覚体の中で活動し、更にそれ以前にはエーテル体と肉体の中で活動していたということを理解できるだろう。 当時、自我は、まだ外側から人間を導いていた。それは身(肉)体生活の闇の中での支配であり、人間はまだ自分自身に関して「私」といえず、自身の内に、その存在の中心点を見い出していなかった。 (つまり、太古では、操り人形のように、人間は外から肉体を操っていたという) 太古の時代に、身体を支配し、人間の外なる身(肉)体的組織を作り上げた、この自我について、どのように考えればよいのか? 今日、我々が魂の中に担う自我に比べて、太古のその自我は、より不完全な存在であったと見なすべきなのか? 自我を、人間存在の現実的な内なる焦点として、つまり、人間に内なる生活を付与し、未来においては、訓練により、無限に進歩可能な存在として眺める。自我の中に人間本性の縮図と、人間としての尊厳を保証する存在を見る。 さて、この自我に関する意識をもたなかったとき、自我が、暗い世界の精神力から、働きかけていたとき、太古の自我は、今日の自我と比べて、不完全だったのだろうか? 全くの抽象的な思考方法では、太古の自我が不完全であったと言うだろう。 では、肉体について考えてみる。肉体を、人間の魂の住居として、太古に精神的世界から形成された存在として眺めることができる。唯物的精神だけが、この人間の体(肉体)は、元々精神から生まれたものではない、と信じることができる。単に外見的視野で眺めるとき、肉体は、奇跡的な完全体として現れるだろう。 人間の心臓の構造に現れた叡知に比べて、人間の全知能や全技術、或いは熟練度とは、結局どれほどのものなのか? 或いは、橋の建設で用いられる技術力等を取り上げ、人間の大腿骨の構造や、その支持機構を顕微鏡で観察したときの驚くべき十字構造に比べて、橋建築の技術力は、どれほどのものなのか。肉体構築に必要な固有の叡知に、人間が僅かでも到達できたと思うなら、それは際限のない傲慢といえるだろう。 魂生活に関して、ただ単に、本能、欲望、熱情だけで考えてみる。それらは、どのように機能しているのか? 我々人間は、叡知に満ちた組織からなる身(肉)体を、内から浸食するために、できる限りのことを行っているのではないか? 実際、もし、偏見無く、肉体組織の驚異を考えるなら、内なる生活において示せる全てに比べて、その身体的構造とは、現在の不完全さから、完成にむけて更に前進することを望むような、遥かに賢い存在であることが認められる。観察可能な事実を、偏見なく見るなら、たとえ超感覚的能力がなくても、上記以外の結論に至ることはほとんどないだろう。 自我の住居として、(肉)体を作り上げたのは、自我の本性と何か共通する、賢明な(肉体の)活動なのではないだろうか? この(肉体)の形成力を、測り難いほど、進歩した自我の性質として考える必要があるのではないか? 自我に関係した肉体(物質)的存在が、太古の時代を通じて、自我が居住可能になるような構造を建設するために働いていたといえる。この事実を拒否する人は、何か他の違う事実を想像するしかないが、そのような人は、人間が住むために建てる普通の家も、人間の精神によってデザインされたのではなく、自然力の働きによって組み立てられたと想像しなければならない。 そのような仮定は、それと同等の真実から、他の仮定を導く。このように、どこまでも完全な自我性を付与された精神力が、身(肉)体的な鞘に働きかけていた、遥かな過去を振り返れば、人間の自我は、当時、無意識の深みに隠され、そこから現在の意識状態へと、その歩みを進めてきたことがわかる。 もし、遥かな過去から、自我の進化を眺めるなら、自我が、まるで子宮の暗闇の中にあるように、その鞘の中に隠れていたときには、自我自身に関する知識をもたず、その分余計に、身(肉)体的乗り物に働きかけていたとはいえ、それとは比較できないほど大きな完成度をもつ、精神的存在たちの近くにいたことが分かる。 このように、超感覚的洞察により、人間が精神的生命そのものの中に横たわっていた為に、まだ自我意識を獲得していないような、また、魂生活も、自我が現れた頃の魂の能力に関係する為、今とは随分と異なっていた遥かな過去を振り返ることができる。またその時代の人間は、内部が自我の光に照らされていなかった為に、ボンヤリと夢のように機能していた原初の超感覚的な意識をもっていた。 自我が最初に現れたのは、このボンヤリとした夢の意識形態からだった。 人間が、将来、自我を持ったままに、獲得する能力(霊我)は、太古の時代には、自我無しに存在していた。超感覚的意識(霊能力)は、精神的存在や精神的事実を周囲に観察することを必然的に伴うが、その超感覚的能力は、夢のようで、まるで夢の中でのように精神世界を眺めるもので、太古の人間ももっていたものである。 太古人は、まだ自我の光に貫かれていなかった為に、精神的存在(神々)を見ようとしたときにも、自らの内に留まるように強制されることはなかった。太古人は周囲に精神的な存在を見ると同時に、自身を精神世界の一部として眺めた。そして、太古人が何をしても、(神々の)精神的性格を帯びたものになった。 太古人が何かを考えるとき、自分に向かって、今日の人間のように、「私は考える。」とは言わなかった。 つまり、太古人の思考は、超感覚的な視界(霊視)の前で立ち止まった。そして、太古人が何らかの感情を経験するために、自身の中を覗き込む必要はなかった。つまり、太古人の感情は、自ら輝き出し、精神的な環境全体と結びついた。 太古の時代における人間の魂生活とは、以上のようなものだった。太古人は、自身に至るために、つまり、自分の中で、今日まだ不完全な状態にあるとはいえ、人間が自我とともに、精神世界への歩みを進めるとき、将来、益々完成された存在に近づくための中心点に至るために、夢のような超感覚的意識から、内的に発達して来なければならなかった。 さて、もし、既に述べたような方法で、超感覚的手段により、太古の時代に光が投げかけられるなら、当時の人間の意識に関して、例えば、人間が悪い行いを犯した場合には、秘儀参入者(先覚者)は、何を告げるのか? 太古人の行いは、(良心のように)内的に評価可能なものとして提示されたのではない。太古人は、悪い行いが、魂の前に、その悪徳と恥辱全てを伴って幽霊のように立ち現れるのを見た。そして、太古人の悪しき行いに関する感情が、魂の中に生じたときには、その恥辱が、彼の前に精神的現実として現れることで、太古人はまるで、自らが働いた悪い行いの光景に取り巻かれているかのようだった。 (太古人が何か悪い事をすると、その悪い行為に相当する、悪の存在、いわゆる悪魔が現れたという。) そして、時の経過とともに、この夢のような超感覚的能力が消え、人間の自我が益々前面に出てきた。人間が自分の内に、その存在の中心点を見い出すにつれ、古い超感覚的能力(霊能力)は消し去られ、自我意識が益々はっきりと自らを確立するようになった。 以前有していた善行や悪行についての視界は、内なる生活の中に移し替えられ、そして、かって超感覚的に眺められた行為は、魂の中に反射されるようになった。
2008年09月03日
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さて、この講義の目的は、魂を、高い認識レベルにまで引き上げることから来る、光の援助をかりて、魂の構成を照らし出す、ということだった。つまり、秘儀参入者(先見者)の内なる目や、感覚世界だけの知識を得るのではなく、その感覚世界のヴェールの背後に、第一義的な源泉の、精神的基礎を見い出せるような領域を見ることで、自らを現出するような魂生活全体を記述した。 そして、秘儀参入者(先覚者)の意識は、日常生活で経験する魂生活の上方に位置し、魂の深い領域への道を開くことを繰り返し(例えば、「神秘」の講義の中で)示した。日常生活においても、自身を覗き込み、思考、感情、意志に関する経験に出会うとき、この深いレベルに関して何らかのことを知ることになると信じているが、通常の覚醒状態では、魂は、精神性の外面を明らかにするに過ぎないということも、指摘した。 もし、見たり、聞いたり、脳で理解したりする、あらゆるものの背後に現れるような、これらの外面の基礎となる原因を見い出そうとするなら、感覚世界の上にかけられたヴェールの背後へと沈潜する必要があり、もし、自身の生活の精神的基盤を知ろうとするなら、思考、感情、意志の背後にある存在、つまり、通常の内なる生活の背後にある存在を見なければならない。 上記のような観点から出発して、多くの分岐によって織りなされる人間の魂の生活に光を投げかけた。これまで見てきたのは、魂は3つの構成体から成立すると考えるべきであるということ、この3つは区別すべきとはいえ(この点に注意して欲しいが)お互い、全く別々に取り扱うべきではないということである。 これらの構成体を、感覚魂、悟性魂、意識魂と名づけた。そして、それらを結びつける統合点としての自我が、まるで道具を糸で操るかのように働きかけ、無限に多様な方法で、その3つを共鳴させることによって、いかに協和音や不協和音を奏でるかを見てきた。この自我の活動は段階を追って発達してきた。 そして、もし、人間が、将来、どのような存在となり得るのかを、垣間見るなら、或いは、今日においてさえ、もし、意識魂の中から、高次の超感覚的な意識形態を発達(進化)させるなら、今日の意識や魂生活が、いかに太古の昔から進化してきたものであるかを理解するだろう。 意識魂は、通常の状態では、我々が感覚を通して知覚した外の世界を把握可能にする。もし、誰かが感覚世界のヴェールの背後に沈潜することを欲するなら、彼は魂生活を高次のレベルに引き上げなければならない。 そのとき、彼は何か魂の覚醒といったようなこと、つまり、生まれながら盲目な人に、視覚獲得を施す手術が成功し、それまで知らなかった光と色の世界が、侵入してくるという成果に比類するような覚醒が起こり得るというような、大いなる発見をする。 正しい方法によって、自分の魂を高次の発達(進化)段階に引き上げる人についても同様である。通常の状態では、無視してきた存在、常に、周囲を、群を成して飛び回っている、霊的存在を知覚できる新しい器官を獲得したことで、豊かな存在性と活動をもって、魂生活の中に入り込んでくる瞬間がやって来る。 ある人が、この種の意識的な見霊能力を訓練によって獲得するとき、彼の自我はその最初から終わりまで完全に存在する。これが意味するところは、彼が、感覚世界の基礎をなす精神的事実や存在の間を、まるで物質世界にある机や椅子の間を縫っていくように動き回ることや、感覚魂、悟性魂、意識魂の経験を通して、彼を導いてきた自我を、魂生活の高次の領域へともたらす、ということである。 さて、自我によって照らされ、点火される、この意識的な超感覚的能力から、魂の通常生活に、もう一度目を向けてみる。自我は、3つの魂の構成体の中で、実に様々の方法で生きている。 もし、感覚魂の中から生じる欲望や熱情、本能的な衝動に、自分の生活を譲り渡す男がいたとすると、彼の自我は、ほとんど不活発で、感覚魂の打ち寄せる波の中に、ただある微かな炎のようで、本能的衝動に打ち勝つ力をほとんどもたないと言えるだろう。 自我は悟性魂の中で、ある程度の自由と独立を獲得する。悟性魂の中で、自身に至り、その事で、自我をある程度認識する。何故なら、悟性魂は人間が感覚魂を通して、自らにやって来る経験を、内なる平穏(落ち着き)の中で熟考し、洗練させることで発達(進化)させることができるからである。 自我は益々光を放つようになり、ついには意識魂の中で十全なる明晰さを獲得する。そのとき、人間は 「私は自分を把握した。私は真の自意識を達成した。」と自らに言うことができる。 人間が感覚魂から悟性魂へと発展し、意識魂の中で働くようになって初めて、その段階の明晰さが、自我において達成される。 けれど、もし、人間が自我の中で意識魂を超え、高次の魂の原則と比べられるような超感覚的意識へと上昇できるなら、秘儀参入者(先覚者)が人類進化の過程を振り返り、 「自我は、このように、高次の魂の段階へと上昇するのと同じく、低次の状態から感覚魂の中へと入ってきた。」と、告げるのをよく理解できる。
2008年09月02日
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無能な上に、意地とプライドだけで権力を維持してきた男に対して、この期に及んで「福田が、野党にいじめられて、かわいそう」などと、頓珍漢な意見を述べる一部の国民には、全く呆れ返ってしまい、能天気もいい加減にして、いっそのこと、この国は滅んだ方がいいのではないか?と正直、思った。 大体、一般人と、国家のトップとを、一緒くたに、ごちゃ混ぜにして、同等に、自分の感想をそのまま述べるという低能さ加減に辟易してしまう。マスコミ操作の恐ろしさというか、全て、小泉のような人物が出たせいで、お茶の間レベルで、政治が語られ、政治が国家ではなく、お茶の間として、語られるような低レベルに化してしまったといえるだろう。 何も総理大臣を辞めても、議員は辞めないのだから、生活は充分に安泰で、一般庶民の数倍も恵まれているのである。いっそのこと、議員もやめて、国家に私財を寄付して、文無しやホームレスにでもなれば、まだしも。何がかわいそうなのだ! 馬鹿か? いい加減にしろといいたい。 それよりも、アフガニスタンで殺されてしまった同じ日本人に対しては、何の同情もないのだろうか? 「どっちがかわいそうやねん」と関西弁で、ツッコミを入れたいほどである。 福田は、外務省任せで、何もしなかったのだよ! 日本政府の代わりに殺されたといってもいいのにだよ!! 数年前なら、日本人はテロの標的にはならなかった。米国に協力したせいである。何の考えもなしに、米国に協力するような、給油問題を、野党は、国会という正式な手続きを踏んで、反対表明しているのに、耳をかそうとせずに、3分の2という多数派工作で、強引に法案成立に走ったのは、福田なのである。 一体、どっちが冷酷な人間なんだ? 呑気に同情している場合ではない、与党は、赤字財政のツケを国民生活に転嫁し、更に生活を締め付けようとしているのに。 石油税だって継続する決議をしたのは、福田なんだよ! 石油が高騰したせいで、不景気に邁進だよ。一体福田が、総理になってから、国民生活のためにやったことなどあるのだろうか? 財務省の失敗を隠し、予算を削減せずに、国民を切り捨てただけじゃないか? 年金問題、北朝鮮拉致問題、後期高齢者医療福祉、全て切り捨てじゃないか? 首を絞められる人間が、締め上げる権力者に同情してどうするのだろうか? 「そうか、そうか、そんなに同情してくれるのなら、首を締め上げてやろうかね。」と逆手にとられるだけである。 欧米には、こんな馬鹿な国民はいないだろう。自分の生活のためなら、ストでも、なんでもして戦うからである。それが民主主義というものだろう。少なくとも、権力者に同情している余裕をもてるほどの時間を、自らの生活のためや、勉強のために費やすからである。 日本人は、経営者のいわれる通りに、なかば奴隷と化して働く。だから過労死という用語が出来る位である。脅かされて、抵抗できずに、泣き寝入るしかなく、終いには、経営者に同情までしてしまう始末なのである。流石に、昨今の若者は、そのような社畜的人間ではないようである。そこまでして働かせられるのなら、ニートとして人間でいる方がマシという倫理観がある。 総理大臣をかわいそうなんて、全くの上から目線で、あんたは、いつ総理大臣より上になったんだって聞きたいね? お役目や仕事に対する責任というか、国家を背負っている自覚なんか、全て省略され、吹き飛んでいるような無知さ加減に、この国は、滅んでしまった方がいいのかもしれないと思うよ。少し、戦時中のような体験でもすれば、かわいそうなんて、いってられる余裕などないことに気がつくのだろうね。 深刻なイジメ問題を、こんなとこに持ち出す拡大解釈というか、錯誤感覚が危ういと感じる今日この頃である。マスコミの表現に問題があるように思えてならない。ねじれ国会という言葉も同じである。正式な手続きを踏んでいる段階で、ねじれもないだろう。 国会は、議論して、法案を議決する場であり、多数決で決める場ではない。国家のために、法案を捻出する場であって、政党の党利党略で戦う場ではない。一体、国家と党とどっちが重要なんだろう。 相手の意向を聞いて、妥協案や、総合案を捻出する場である。だから総理というのではないのか? 国会で決める前に、裏で決められ、はい起立、着席じゃ、独裁政治と同じではないのか? 与党で独裁できないから、「ねじれ」なんて、どこが民主主義なのだろうか? 多数決主義、多数主義じゃないか? 自分たちで、自分たちを律しなくて誰が律するのだろうか? その法律を決めているのは国会であり、議員なのだから、それこそ、自分たちで、自分たちを制御できていない証拠だろう。文句を言う前に、シッカリ仕事して、責任を果たしてみろよ! 失敗も何もできなくて、言い訳や、文句ばかりいってんじゃないよ。 こんな日本人が総理大臣という国家のトップについている国が、世界から馬鹿にされないはずがないと思うけどね。国民から「かわいそう」なんていわれてちゃ、世界の笑い者だね。 不可思議な国日本だね。まぁ、ほとんどの外国は、日本なんてどうでもいいし、相手にしていないけどね。北朝鮮以下だと思うけどね。ロシアだったら、かわいそうなんてプーチンに言ったら、国家反逆罪で、即座に射殺もんだろう。 あぁ、やんなっちゃった。あ~ぁ、驚いた!
2008年09月02日
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なんだか、すっ呆けた辞任劇である。これから臨時国会というときに、安倍坊に続いて、福田爺が、辞任するという。思わず笑ってしまった! この爺は何も考えていないなぁ…。 最初から最後まで、全くの無能で、日向ぼっこでもしている爺総理大臣福田であった! 国民生活国民生活というが、手前らの生活しか頭にないんだろ!って感じだよ。 何も決められないって、あんた総理大臣だろ! あんたが決断しなくて誰がやるんだよ。臨時国会の日程一つも決められないで、他者のせいばかりしてばかりで、よくいうよ。 なんだか、ストライクゾーンの違いがどうのこうのいっていた五輪野球代表の星野監督と全く同じだね。国民生活は、あんたの決断にかかっているのだよ。 早く解散総選挙して、自民は野に下るべきだね。 もはや、共産党以下になってしまった自民だな! 国民が三行半を突きつけるのも時間の問題だよ!! 星野と同じぐらい、言い訳がましい会見だったな。 敗軍の将、兵を語らずという諺が昨今の雷の響きとともに鳴り響いてくるよ みっともないな、総理大臣! 記者の質問にキレまくって、記者とケンカしてどうするんだろ!! 小泉、安倍、福田と、この人たちは、総理大臣として国民のために何をしたというのだろうか? 国民生活をぶっ壊しただけじゃないのか? いい気なもんだね。
2008年09月01日
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勿論、ここで人類の哲学上の指導的人物たちによって、何世紀にもわたり与えられてきた良心に関する説明を総括するなら、手にあまり行き過ぎたものとなる。ただ、中世初めの3分の1以降の中世哲学を通して、良心が話題にされるときには、 「常に、良心は人間の魂の中にあり、人が為すべきことと、為さないでおくべきことを直ちに宣告できる力である」、と言われてきたことは注目に価する。 けれども、これらの中世の哲学者たちは、魂の力の根底には何か別のもの、良心というよりも、より繊細な性質を持つ何かがあるとも語る。この事で、よく取り上げられる人物、つまりマイスター・エックハルトが告げる事は、 「良心の下に横たわるのは、小さな閃光であり、もし、この閃光に留意すれば、善悪の法則を、誤りのない力をもって宣言する、魂の中の永遠の要素に言及できる。」ということである 近代においても、再度、良心に関する、実に様々な説明に遭遇する。そして、その中には奇妙な印象を与える説明もあるが、それが奇妙なのは、「良心」と呼べる神聖な内なる声としての重大な本性について、全く気づいていない説明だからである。 「良心」とは、人間が人生における経験を絶えず拡張していくことで、何が役に立ち、何が害で、何が満足を与えるか等々に関して学ぶときに獲得できるようなものである、と説明する哲学者たちがいる。これらの体験全体が「これをせよ、それをするな。」という評価を生じさせるというのである。 また他の哲学者たちは、最高の賛辞をもって、「良心」について語る。そのような哲学者の中に、特に人間の全思考と全存在の基本的原則としての人間の自我(一時的な個人的自我ではなく、人間の中の永遠の本質)を指し示した偉大なドイツの哲学者、ヨハン・ゴットフリート・フィヒテがいる。 特に彼は、人間の自我にとって、最高の経験とは、「お前はこれをすべきである。何故なら、それをしないことはお前の良心に反するからである。」という内なる判定に耳を傾けるときの良心の経験である、と考えていた。 彼は、この判定の威厳と高貴さは超越しがたい存在、と信じていた。フィヒテは人間の自我の力と意義を最高度に強調した哲学者だが、「良心」を自我の最も重要な衝動として位置づけたところに、彼の特徴がある。 更に現代に近づくほど、思考が唯物的になるほど、人間の心の中というより、多少とも、唯物主義に染まった哲学者の思考の中では、「良心」が益々、その尊厳を剥奪されていく。この傾向を説明するには、1例を挙げれば十分である。 19世紀の後半に、魂の高貴さ、調和のとれた人間的な感情、寛大で広い心故に、最も洗練された人物として数えられるべき哲学者が生きていた。バーソロミュー・カルニエリのことだが、彼は今日では、ほとんど言及されない。彼の著作に目を通すなら、その繊細な性質にも関わらず、当時の唯物的思考に深く染まっていたことが分かる。 「良心とは、何なのだろうか?」、と彼は問う。そして彼は言う。 「良心とは、基本的には、至極若い頃に吹き込まれ、人生の経験を積むに従い、強化される習慣と評価の総計以上のものではない。もはや意識しない、これらの影響が、『これをせよ、これをするな。』という内なる声の源泉である」と。 このように、「良心」の源泉は、外の影響と習慣に求められ、しかも、それらは非常に狭い範囲に限定されてしまった。更に唯物的志向をもつ19世紀の何人かの哲学者は更に先に進む。例えば、かってニーチェに大きな影響を及ぼしたポール・レーだが、彼の書いた「良心」の起源に関する著書は、我々の時代の世界観を示す徴候として興味深い。 彼の考えは(簡潔な描写では、詳細な点での幾らかの歪みはつきものだが)、大凡次のようになる。ポール・レーが言うには、 「人間は全ての能力において発達(進化)している。従って『良心』に関しても発達(進化)している。元々人間は、『良心』と呼べる痕跡も持っていなかった。『良心』が永遠と考えるのは大変な偏見である。」 レーによると、我々に何かをするように、もしくは、何かをしないように告げる声は、元々存在していなかったという。けれども、人間本性の中には実際に発達(進化)してきた何か別のもの、復讐への本能とでも呼べるようなものがあったという。そして、これは、あらゆる衝動の中でも最も原始的であったという。 もし、誰かが他者の手により苦しみを受けたなら、復讐の本能が仕返しをするように駆り立てた。社会生活が複雑になるに従い、徐々に復讐の遂行は支配権力の手に委ねられた。それで人々は、他の人間を傷つけるような、いかなる行いも、当然、以前の復讐心を呼び起こしていたような要因が引き起こしたと信じるようになった。結果、引き起こした行為は、別の行為によって再び沈静化されなければならなかった。 ときがたつにつれ、この確信は特別な行為への感情、或いは、更に、そのような事を行いたいというような誘惑の感情を伴うようになった。復讐への当初の衝動は忘れられたが、害を与えるような行いは、その報いを受けなければならない、という感情が人間の魂に染み込んでいった。 「こうして今、内なる声を人間が聞いていると信じるとき、これは実際、内なる形態を持つように変化させられた復讐の呼び声以外のものではない」、と。 ここにあるのは、この種の説明の極端な(極端なというのは良心が完全な幻想として示されるという意味だが)例である。 他方、良心は人間が地上に生きてきたのと同じくらい長く存在している。言い換えれば、良心は、ある意味で永遠である、と断言するなら、あまりにも言い過ぎである、ということを認めなければならない。 良心を、精神的に考える人も、良心を純粋な幻想とみなす人も両方ともに間違いなので、たとえそれが毎日の内なる生活や、実際、その聖なる部分に属するとしても、良心に関して何らかの合意に達するには、いずれにしても非常に困難である。 哲学者たちを一瞥するだけで、以前の時代には、最高の哲学者でさえ、今日、我々が良心に関して考える形とは違った方法で、考えていたということが示される。というのも、良心とは最も素朴な人の胸の内からでさえ、神的な衝動として、「お前は、これをすべきである-それはしてはならない。」と語りかける声であるといわれるが、この事はソクラテスやその後継者プラトンにおける教えとは幾らか異なっている。 彼らは両方とも、徳(良心)は学べると主張している。実際、ソクラテスは、人間が自分は何をすべきか、そして何をすべきでないかについて、はっきりとした考えを形成するなら、徳(良心)とは何かという知識を通して、徐々に正しい行為を学べるという。 さて、現代的な観点からみて、もし、我々が正しく行動できるようになるためには、何が正しく、何が悪いかを学ぶまで待たなければいけないというなら、非常に困ったことになるという反論が容易に生じる。 つまり、良心が人間の魂の中にある基礎力によって、「お前はこれをすべきで、あれをすべきでない。」と語り、一人一人が、その良心の発言を聞くのは、善悪に関する考えの形成を学び、そこから道徳的な教訓を定式化する、ずっと前である。 そして、更に、良心とは、人間が自分に「お前は、お前が同意できるようなことをした。」と言えるような場合、その魂に一定の平静さをもたらす。 我々人間の振る舞いに関して同意可能な評価に到達するには、徳(良心)の本性と性質に関して、より多くのことを学ぶ必要があるなら、非常に都合が悪い(不便である)、と多くの人々が言うだろう。 だから、死により、哲学を最高の、高貴なものにした哲学者、或いは哲学への殉教者として尊敬すべき哲学者は(ソクラテスのことを言っているが)、良心について、今日見られるような観点とは、ほとんど符合(調和)しない概念を示している。 そして、その後に現れるギリシアの哲学者においてさえ、完全な徳(良心)とは、学べるものであるという主張、つまり原初的で基本的な良心の力という存在と合致しないという教義が、常に見い出される。 では、ソクラテスのように傑出し、力強い人物が、今日、我々でも、もてるような良心に関する考えに、当時は気がつかなかったというような事が何故あるのか、つまり、我々が、彼について研究するときには常に、プラトンも言っているように、最も純粋な道徳性と最高の徳(良心)が、彼の言葉を通じて語られていると感じるにも関わらず、何故、今日の良心の考えに気づかない事があり得るのか。 それは、今日では、生まれつきのものであるかのように感じられる考え、概念、そして内なる経験が、実際には、人間の魂によって、ときの流れの中で苦労し、獲得されてきたものだからである。人類の精神生活を過去へと遡るとき見い出すのは、太古の時代には、良心に関する、我々の考えや、それに対応する感情は今のような形では存在せずに、従って、ギリシア人の間にも存在していなかったということである。 良心は実際、「生まれた」のである。しかし、例えば、ポール・レーのように、外の経験や学識のような安易な方法では、良心の誕生に関して何1つ学ぶことはできない。人間の魂に関する啓発を得るなら、その問題に更に深く分け入って行く必要がある。
2008年09月01日
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