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今回は、個人的な思い出から始める。私(シュタイナー)が若かった頃の経験で、大して重要でないように見えながら、後になって、頻繁に楽しい思い出として蘇ってくるような種類のちょっとした経験である。 私(シュタイナー)は大学で文学史の講義に出席していた。その講義は、レッシングの時代における文化生活の特徴についての考察から始まり、18世紀の後半の残りと19世紀前半の一部を含む時代の、様々な文学上の発展(進化)について、更に議論する、という意図をもっていた。 講師の最初の言葉は大変印象的で、レッシングの時代における文化生活に現れた主要な革新を特徴づけるために、「芸術的意識が審美的な良心を獲得した。」と述べたのである。このように言うことにより意図されていたのは(今は、それが正当かどうかを問う必要はないが)、大凡、次のような事だった。 レッシングとその同時代人の努力に結びついていた、全ての芸術的考察や意図は、芸術を何か人生の単なる付加物、或いはその他大勢の単なる娯楽以上のものにしたい、という深い熱望に浸透されていた。 芸術はその名に相応しく、人間のあらゆる存在形態における必須要素になるべきであった。偉大で実り多い人類の活動について語る声と協調し、聞くに値する人間の深刻な関心事のレベルにまで芸術を引き上げる事が、この時代の先頭に立つ思想家たちの目的であった。 その講演者が言おうとしていたのは、審美的な良心が、その時代の芸術と文学への道を見い出していた、ということを強調するようなことだった。 この指摘が色々な人の心の中に反映されるような、「存在の謎」を把握しようと努める魂にとって重要であったのは何故なのか? それは、芸術の概念とは高められるべきものであり、同時に、人間生活のあり方と、その運命全体にとって、芸術が重要であるということに関しては疑う余地がない、というような形で表現されなければいけないからである。 芸術活動の重要性と意義については、議論の余地がないものとして、置かれるように意図されていたが、実際、「良心」という言葉によって示される経験とは、それが真に指し示す、あらゆる状況が高貴な存在になる、といったようなものなのである。 言い換えれば、「良心」という言葉が話されるとき、人間の魂は、その言葉が魂自身の中で最も価値ある要素に言及しているということ、そして、その要素を欠くということは重大な欠乏を意味しているということに気づく。 それが文字通り受け取られるか、比喩として受け取られるかはともかく、「人間の魂の中で良心の声がするとき、それを語るのは神の声。」という言葉によって、いかに頻繁に良心の重要性が問題にされてきたことか。 そして、その人が高次の精神性に関与する準備が全くできていなかったとしても、良心とは何なのかについて何も考えてこなかった人を見つけることはほとんどない。良心というものは、何であろうと、何が善で何が悪か、すなわち、自分が納得するためには何を為すべきで、自分を見捨てないためには、何を為すべきでないかを、抵抗力を持って決定する、個々人の胸の内にある声として経験されるものであるということは、誰でもボンヤリと感じている。 この事から言えるのは、良心とは全ての人の胸の内に何か聖なるものとして現れるもので、ある種、意見形成が比較的しやすい、ということである。 しかし、人間の歴史と精神生活に目を通すなら、事態は、このしやすさとは異なってくる。この種の精神的状況を、深く探求する人ならば誰でも、当然、そのような事柄に関する知識が前提になっていると考えられる人たち、つまり哲学者の意見を参考にしたいように思うだろう。 けれども、幅広い人間の関心事の全般に渡る事柄のように、この場合にも、様々の哲学者が良心に関して非常に異なった説明をしているが、確かに異なって見えるけれども、多少とも、漠然とした核心部分はどの場合も同じようなものである、ということを見い出すだろう。 しかし、そのことが最悪であるわけではなく、もし、誰かが古代の、そして現代の哲学者にとって良心が何を意味しているのかを、わざわざ調べてみるなら、あらゆる種類の非常に洗練された、そしてまた理解困難な多くの言葉に出会うだろう。しかし、自分の感情から、これが良心であると、疑問の余地なく言えるようなものを、そこには何も見い出せないだろう。
2008年08月28日
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なんでも、五輪野球代表として、惨敗した星野監督が、次の国際野球大会のWBCにも監督として挑戦するという。この話を聞いて、思わず戦中を思い浮かべてしまった。 NHKで、太平洋戦争の証言をみているせいであろうか、敗軍の将を、その責任もとらせずに、再び、貴重な兵隊をつけて、戦場に送るとは、太平洋戦争の数多き失敗のなかに、見い出された、いわば失敗の鉄則のようなものである。 このような話が野球という1スポーツでよかったと思う反面、野球ファンとしては、許し難き不義のようなものを感じた。その後、故障した選手もいるのだから。少なくとも、仕事にマイナスなわけで、戦場ならば、戦死に相当するだろう。 戦中でない、60年すぎた、いまでも、NHKの不祥事幹部を、下請けの会社に雇用したり、汚職、不祥事官僚を、天下りさせたりして、悪を庇うような、日本人の性分は一体、どこからくるのか? 司馬遼太郎は、自分が学徒兵としてノモンハンに送られた経験を糧に、太平洋戦争の過ちを、自ら独自で、検証し、不祥事を起こした幹部が、何度も、同じ地位に戻ってきて、何度もまた同じ過ちを繰り返し、結局、軍隊内部から崩壊していったことを、小説に書いている。 司馬ではないが、私も、少し日本人の欠点から考えてみたいと思った。 日本人の欠点は大きくわけて3つある。 1.主語がない。 2.曖昧である。 3.公私混同が激しい。 このように書くと、日本人でなく、日本語の欠点のようにみえるだろう。それは、日本人の欠点がそのまま日本語という母国語に顕れているといってよい。 では、少しづつ解説していく。 1.主語がない。 日本人は、主語をあまり使わない。だから、個性がなくなるのである。自然、命令口調になり、なんらかの組織に属する環境を必要とする。そして、主語を使うときは、特別なときで、好き嫌いの感情を表すときに用いる傾向にある。 この事は、西欧人と比べると顕著で、西洋は、主語がほとんど先頭にくる。それだけ、西洋人は、個性的、個性表現を心掛けているようにみえる。 西洋人は、はっきりと、相手に、自分は何々したいというし、私は、あなたを愛するとはっきりという。そこに個性を感じさせるのである。ここから、西洋人は目的意識が強いのに対し、日本人は、自分の目的というよりも、どことなく、周囲や環境に流されて、自分というものよりも、周囲の状況からやらざるを得ないという感じで、自分を表現する。 だから、日本人には個人主義が根付かないようにみえるのである。この自己表現という点で、日本人は、西洋人に大きく遅れているようにみえる。まずは、自分を表現する事から何事もはじまるからである。 日本人の場合は、自らの個性というより、何者かの権威や、属する団体の威光をかりて、自らを表現する傾向がある。○○所属の何何ですといった感じである。西洋人は、名前をいって、何をやっているかという感じである。所属は、二の次という感じが強い。だから、所属団体を変えても御構い無しである。 もういい加減、集団主義はやめる時代ではないだろうか? 集団主義というのは、動物と変わらないからである。少なくとも、人間という個性が奪われるからで、芸術性が、育たずに、創造性が生まれないからである。 2.曖昧である。 曖昧であるというのは、非論理的で、厳密でないという意味である。この事は、日本語で、科学論文を書くと、顕著に顕れる。日本語と、英語では、全く違う意味となる。恐らく、日本語の方が、集団性のなかで、省略されて使われる隠語のような表現が多い為なのだろう。 これは、日本社会の上層階級に行けば行くほど、曖昧になる。自然、細部を省略した、命令口調にならざるを得なくなるわけで、意思伝達が、非常に乏しくなる。多くの会社の上層部、お偉方が、「あれ」とか、「それ」とか、「あの」とか、全く、具体的な言葉を使わなくなるのは、このような弊害の端的な例である。 だから、詳細な検討や、過ちの訂正がなされないうちに、事態は進行し、勝手な解釈が横行し、事態が収拾つかなくなると、結局、現場任せの無責任で、事勿れ主義が横行する。失敗者は何らかの処罰もされずに、過ちもまた繰り返される。 主語がないので、集団性が一層形成され、一人の人間では、どうにもできない流れとなり、集団性に呑み込まれていく。 3.公私混同が激しい。 主語がない上に、曖昧なので、公の場と、私の場が、明確に区切られていない。だから、日本人は、時間の使い方が、ルーズにみられる傾向にある。とにかく、日本人は、皆が揃わないと、時間が進まない。皆で、休暇を取り、皆で、食事をとりという感じである。 日本人は、このことを「和」といっているが、勿論、本来の「和」ではない。和とは、個性の善い部分全てを合わせることである。そのような日本人の弊害は、「赤信号、皆で渡れば怖くない」というギャグに端的に表されている。 日本人を沈没した船から飛び込ませるには、ほら、皆、飛び込んでいますよといえばよいという世界的ジョークがあることでわかる。 この皆でやるということから、公の場と、私の場の境界が曖昧になってくるのである。この傾向は、戦場でいかんなく発揮された。皆、特攻しているのだから、一人だけ特攻しないのはおかしいという論理になるわけである。そして、その命令は、上官の負けたくないというプライド、公的な人の命よりも、自己保身という、私的な欲求から出ているのである。 そのような論理から、村八分が生まれ、戦時中の政治犯投獄のような、思想弾圧が生まれてしまう。上層部は、自己保身のために、私的なものを、公的なものに優先させる。だから、後に、責任がとられないし、第一、主語がない。 本来、論理にはなりえない非論理事項が、論理になってしまうのが、日本人の特質である。 日本人の犯罪者に、この傾向は顕著に現れる。皆がやっていたから、犯罪でも、やっていいという理屈を述べる。欧米の場合、このような理屈は成り立たない。なぜ、他の人に従ったのですか? あなたの判断力はどうなっているのですか? となる。 自分も日本人なので、日本人が変わる時期にきていると深刻に思ったので、書いてみた。勿論、これらの欠点を補完する長所もある。 1.親切である。 2.真面目である。 3.謙虚である。 である。しかし、昨今、西洋文化の進入により、これらの長所は失われ、逆に、欠点の方が目立ってきたというのは、どういうことなのだろう。特に、戦中のような、鎖国的な雰囲気の環境、つまり、保守的なタカ派が台頭する時代に、日本人の欠点が顕著になる。 国際大会は、技能を通した、人間的な交流が重要なのだから、勝敗に拘らず、最善のプレーを心掛けるべきで、故障選手を使ってまで、ましてや、様々な選手に、平等に機会を与えてやるべきなのではないだろうか? 打たれたから、エラーをしたから、といって、その挽回で、もう一度使うのはいかがなものだろうか? 同じレベルでプレーしているならわかるが、相手がレベルが高くて、そのために、そのような結果が出ていたとしたら、相手に対して、更には、使われた選手に対しても、精神的なダメージを誘発させるものではないだろうか。 どうも、日本の選手が、ギコチないようにみえたのは、目の錯覚だったのだろうか? なにより、一番残念なのは、プレーする選手よりも、監督の方が目立っていた点にある。前回のWBCは、イチローや川崎、松中、福留、松阪、上原等々、選手の活躍が、目立っていたし、王監督以外のコーチはいまでも、名前に挙がらないほどである。 また、星野で、リベンジでは、監督が目立つばかりだろうね。監督とは、いかに、戦える一流選手を集められるかなのではないだろうか? 大方の野球ファンや現場は、五輪前から、故障選手ばかりで、厳しいとわかっていたのではないだろうか? 優秀な監督なら、その時点で結果がみえていたと思うのだが。ある新聞には、五輪前から、すでに暗黙糧に出場辞退選手が多発していると書いてあったし、どうも、選ばれるのが嫌というのが本音のようで、いまでは、選ばれなくてやっぱりよかったと、ホッとしているのではないだろうか。 いずれにしても、上層部と現場での温度差にかなりの隔たりがあるのは間違いない。
2008年08月27日
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今日の人類には、論理への信頼が大きく欠けている。だから、人智学における、真実の理解に必要な論理的客観性が常に存在するわけではない。ファウストの中で、ある種の人々について語られている言葉を、現代に適用しても、馬鹿にしたり、皮肉を込めるのではなく、ある種の悲しみを持って適用すべきである。 「たとえ賢者の石を持っていたとしても、哲学者には一寸荷が重すぎる。」 論理により、人智学を理解できる。そして、人智学の論理的理解は、最奥の広がりを持つ身体の本性を癒すことができる。ところで、論理による真理の把握は、今日、人智学の探求者だけでなく、その他の人々によっても主張されている。この主張は、現代的な人智学以外の道によって、精神に近づこうとした人々によってもなされているが、そのような人々もまた現代ではほとんど理解されていない。 ヘーゲルが至る所に論理の存在と働きと必要性を強調したという、その理由のために、彼を嘲笑しない人がいるだろうか? 彼は今日の人間の中での論理の働きを、次のように考えることによって、この事を強調した。 「私は人生を十字架として想像する。」、と。 そして、彼にとって、十字架上の薔薇は、人間の中の論理に相当するもので、これが、彼の著書において、次のようなモットーを前書きに記した理由である。 「論理とは、現代の十字架上の薔薇である。」、と。 そして、論理への信頼は、その十字架を勝利へともたらす。論理への信頼、律せられた思考、調和的な感情や意志への信頼が十字架上に薔薇を置くことになる。発達(進化)可能で、発達(進化)を要する調和的感情、調和的意志、そして、自立的理性に対する信頼をもつとき、我々人間は、自らの中に、「心的障害」と呼ばれるものに立ち向かうための力を、少なくとも、ある程度もっている。 もし、これら三つを発達(進化)させたなら、人生における、いかなる状況下でも、より力強く、意気揚々としているだろう。 そして、ヘーゲルは、調和的感情、意志、そして、規律的思考、すなわち理性的知性を論理の中へと収めるが故に、魂生活の発達(進化)に際し、モットーとして役立つ言葉、すなわち、「論理は人間にとって、現代の十字架上の薔薇である」、ということを述べている。
2008年08月27日
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魂の活動と肉体の活動との間の関係が明らかになるのは、人智学による厳密な探求だけである。精神的努力とのバランスを、物質的存在によって取れると信じている人は、本質的な事が分かっていない。 人智学の探求者は、例えば、ある真実を伝えるように頼まれ、その後で、そのテーマに関して、いまだ正しく自分の考えを述べられず、また、その思考においても正しいイメージを形成できないような相手の話を聞かなければならないような場合、それが非常に疲れるもので、例えば、精神世界を探求する場合、どんなに探求しても、疲れることがない、ということを知っている。 その差異は、他の誰かの話を聞くときには、肉体的な脳を使うような、物質的な意志疎通に携わっているのに対し、精神的探求においては、低次レベルでは、まだ幾分、物質的器官が必要であるが、高次段階に達するほど、その程度が低くなり、従って、段階に応じて益々疲れなくなる、という理由による。 外界の人間が参加せずに済むとき、消耗と疲労はもはや生じない。精神的活動においては、その衝動が、魂自体から与えられるか、或いは、それが外から促されるかでは違いがあり、区別する必要があることが分かる。人間の様々の発達(進化)段階においては、常に内なる衝動に対応した事柄が生じることから、その事を常に考慮すべきである。 以前、強調した例を取り挙げてみる。それは、「人智学の光に照らされた子供の教育」という小冊子の中に見い出される例である。そこで述べているのは、7歳までの子供は、第一に、その行動全てにおいて模倣への衝動を感じている、ということである。そして、歯牙交替期(約7歳)から思春期(約14歳)までの発達は、「権威に従って自らを方向づける」、或いは、別の人物によって刻印づけられた印象に従って行動する、とでもいえるような特徴を有する。 模倣と権威への敬意という、これら2つの段階が無視された場合を仮定する。もし、その2つが全く考慮されなければ、外なる体は魂の道具になるかわりに、不規則に発達する。そして、更なる発達過程において、その外なる人間の不規則な性質に対し、魂が正しい方法で影響を及ぼし、それと相互作用する機会を持つことがなくなる。 もし、この2つの法則が観察されなければ、その人生における重要な時期に、新しい発達段階へと入っていくときに、人間存在における、ある構成体が停滞するのが分かる。精神分裂病、早発性痴呆の根底にあるのは、魂の外なる人間への、この2つの法則を無視するということなのである。 早期における正しいプロセスを無視することにより、内なる人間と外なる人間との間の不調和の結果として現れるのは早発性痴呆、すなわち時期を逸した模倣という症状である。 人智学によって明確に区分される、これらの事柄の間にみられる不調和が多くの場合、魂における異常の原因になっているということは、よくあることである。 同様に、人生の終わりに向かって現れる老人性痴呆の中に見られるのは、思春期(約14歳)とアストラル体が完成する時期(約21歳)との間に、内なる人間と外なる人間の間に調和が存在するような方法で、その人が生きなかった為に生じる、内なる人間と外なる人間の間の不調和である。 この事は、人間に関する知識が、「不調」と「心的障害」の本性を照らし出すことを示している。そして、たとえ表面的な結びつきしかみられなくても、もし、人間が、「不調」は通常の魂生活の一部なので、人間の外の本性には影響を及ぼし得ないとしても、それとは逆に、力強い論理の発達、すなわち感情や意志での、調和的で規則的な魂生活が、外の人間から生じる障害に対抗して、強化するときに従う法則は、大いに勇気を与えるということを述べなければならない。 このように、人智学は、恐らく常にそうとは限らないが、それでもほとんどの場合、外の人間の超越、或いは卓越に対抗する可能性を与える。内なる人間を強化し、育成するのは、外なる人間の卓越に対抗するために行うことが重要である。人智学は、この内なる人間の強化を行うための癒しの力を与える。 従って、人智学が常に強調するのは、途中で停止することのない、首尾一貫した思考を最後まで追求するために、不適切なものを避ける、秩序づけられた思考を発達させるという重要性である。内の規律と調和の中に魂生活が現れるような形で、思考の秩序を厳密に要求する人智学自体が、(肉)体の本性における病理的症状の卓越(優位)に対抗する医療であるというのは、この理由による。 そして、人間が健全な意志、健全な感情、そして自律的な思考の光によって、体の弱さ、体の不具合を包み込めるとき、病理的な傾向に対して勝利を収めることができる。この事は、今日では一般的でないが、それでも現在を理解する上で、重要である。 このように、人智学は、ある慰め、つまり、精神の中には、もし、真に強化するなら、人生において、影響を与える、あらゆるものに対する最良の救済があるという慰めさえ、与えてくれる。人智学によって、単なる精神の理論化を学ぶのではなく、俗物が中途半端な思考で立ち止まろうと努力し続けることと対照的に、我々人間の中で、それを治癒力に変えることを学ぶ。 というのも、「あなたの言うような輪廻転生やその他の事を証明してみなさい。」というのは、中途半端な思考以外の何者でもないからである。思考を、その結論にまで導くことを拒否する人に対して、それを証明することはできない。真実全体を、半端な思考をもっては証明できない。それらは、ただ思考を全うする人にのみ証明され、そして、全体的思考は、内なる人間により、発展(進化)させられなければならない。 もし、ここで示唆された事を更に発展させるなら、この事、つまり精神に対する不信が、我々の時代における不徳の中心に位置している、ということが分かる。しかし、一方で、不信を信へと、つまり、真の精神性へと変容させるための方法がある、ということが、そこに示唆されるということも分かる。
2008年08月26日
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続いて、DVDビデオの感想を書きたい。「チームバチスタの栄光」と「ミスタビーン、カンヌに行く」と「自虐の詩」である。 シリアス路線が続いたので、そろそろ、コメディ路線もみようと3本かりたのが以上のビデオであった。チ-ムバチスタはコメディではないが、阿部寛が出ているので、そのコメディキャラに期待して借りたというとこである。 阿部寛は、真面目にやればやるほど、コメディキャラになるという、どこか寅さんに通じる最近、稀有な俳優であると思う。ドラマ「結婚できない男」は最高に面白かった。 さて「チームバチスタの栄光」は勿論、全くのシリアスドラマである。どことなくサスペンス調で、その作りは「シックスセンス」に通じるどんでん返しがある。 「チームバチスタの栄光」は、その小説が素であるという。内容を語ると、これからみる人をガックリさせてしまうので、書かないが、しかしすでに大どんでん返しがあると書いてしまったので、少し半減かもしれないが、まぁ、そこは適当にお茶を濁してちょ。 期待した阿部寛は、期待した通りに最高にハマリ役を演じて、よかったと思う。映画で期待すると、大体は裏切られるのだが、阿部寛は、どことなくコミカルキャラによくハマる俳優に思える。「ドココミ」、「DCC」ブランド御用達といいたいところか(古いか?) まぁ、この映画では、最高にハマっているキャラであり、周りの俳優もよい。吉川晃司もよかったし、周囲の配役は適格だったように思うが、主役のヒロインの竹内結子は、ちょっとイマイチ感が残った。確かに綺麗だが、阿部寛の役には、ツッコミが必要なのでは?という感じで、少し、ツッコミ不足に感じられてしまう。 これもやはり、仲間由紀恵との「トリック」が鮮明に脳裏に焼きついてしまったからだろう。確かに、この「チームバチスタの栄光」も竹内を仲間に変えてしまうと、「トリック」の別バージョンともいえそうだからである。 まぁ、ともかくも、手術を一種の殺人と捉える観点は、現代医療への警告でもあり、真剣に考えれば、医療倫理問題という深刻な問題にもなり得る。 というわけで、「チームバチスタの栄光」は阿部ちゃんの活躍で、☆☆☆☆としたい。 さて、ホンマもんのコメディといえる、ミスタービーンを次にみた。やはりローワンアトキンソンは、最高に面白い。やはり、和モノは三谷、洋モノは、ローワンアトキンソンだろう。腹を抱えて笑うシーンは2回ほどあった! 私のローワンのお薦めは、「ジョニーイングリッシュ」で、もう、これ最高に笑えますので、とにかく、見てください! このビーンのカンヌは、「ジョニーイン」ほどは残念ながら笑えませんが、それでも笑えるので、必見の価値ありです。 コメディを語るのは不可能なので、とにかくみてねとしかいいようがありません。 というわけで、「ミスタービーン、カンヌへ行く」はこれもまた☆☆☆☆としたい。 最後に、これまた、阿部ちゃん絡みで、「自虐の詩」をみた。漫画が素なので、単なるコメディだろうと期待してみたが、非常に哲学的で、度肝を抜かれました! 私的には大絶賛で、最高に秀逸な作品になってます。自虐の詩は、なんか賞とったのかな?という位、素晴らしいです。 笑いだけのコメディはありますが、泣けて、意味深なコメディはなかなかありません。チャップリンの領域です。悲劇でいて、喜劇というのが、秀逸なのです。確かに、他のコメディと比べると、笑いの部分が少ないのですが、その分、哲学的で、泣けて、更に心地よい幸せ感を与えてくれるものです。 舞台は関西で、恐らく大阪だろうと思いますが、どことなく、大阪の笑いの底力を感じさせる作品でもあります。 というわけで、最近みたなかでは、この「自虐の詩」が一番よかったです。というわけで、文句なく☆☆☆☆☆☆です!!
2008年08月25日
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さて、同様の不調和は、自意識の基礎をなす意識魂と、肉体との間にも生じ得る。そのとき、以前の受肉(前世)に起因するような肉体的特徴だけでなく、先祖からの系譜の中にみられるような特徴も現れてくる。 しかし、この不調和においても原則は同じである。意識魂の働きが、肉体の活動的法則性の中に障害を見い出す可能性がある。そして、意識魂が、これらの障害に遭遇するとき、「心的障害」の、ある徴候のなかに荒々しく現れる、様々な事柄が生じる。 同様に、ある特定の器官が、肉体の中で特に卓越する(優位である)とき、その器官の不幸な側面が現れる。肉体の諸器官が適切に共働し、どれもがその他の器官に比べて、比較的、共に発達していれば、健全な目で見ても、お互いが妨げにならないように、肉体は意識魂の適切な道具となる。 このような関連で注目すべきことは、近代の、ある重要な科学者によって取り上げられた1つの症例である。ある人物が、片方の目に視覚障害を持っていた為に、特に薄暗がりの中では、何か幽霊のようなものが見えるように思われた。 この目の障害による、視覚への影響の為、しばしばその行く手に誰かが立っているかのように感じられた。目による、そのような影響が障害となる場合、健常な視覚は不可能になる。このような部分的な欠陥は、全く別の形態を取って現れることもある。 意識魂が肉体の中に障害を見い出すとき、何らかの器官の特別な卓越(優位)性に帰すことが可能となる。肉体の中の諸器官が通常の共同的な働きを行っているとき、肉体は意識魂にとって抵抗とはならず、自分の意識を、通常の方法で表現できるが、ある器官が、特別な卓越(優位)性を獲得する場合に限り、障害に気づく。つまり、それは抵抗に遭遇するからだが、このように外界との自由な関わり合いが妨害され、そして、その妨害に気づかない場合、深層に根ざした病気の徴候として、誇大妄想や偏執狂的な考えが現れる。 このように、人間を複雑な存在として観察することにより、人生における不調和と調和について理解できるが、今日の相応しい文献の中に示される素晴らしい結果を、人智学が、いかに秩序立てながら、明らかにしているかに関しては、簡潔に示すことしかできなかった。 このような事を理解するなら、更なる洞察を得ることができる。つまり、内なる人間の現実や、それぞれの受肉における内なる人間と外なる人間との関わりについての洞察、すなわち、いかに以前の存在状態(前世)に由来する弱さや過ちの結果が、外なる人間における何らかの欠陥、例えばエーテル体の欠陥として現れるか、についての洞察を得ることができる。 しかし、この事はまた、障害があまりにも大きい場合には、強く内なる規則的な魂生活によっても、それら障害を、常に克服できるとは限らない、ということも示す。 とはいえ、外なる人間と内なる人間の間の通常みられない衝突のみがあるとするなら、多くの点で、障害が克服可能なのは、魂生活の中に、内なる人間を、できるだけ強化することが重要である、ということを、理解できるからである。 この考え方を最後まで厳密に追求しない弱い人間、自分の考えの、明確な規定を欲しない弱い人間、感情が自分の経験と一致するような方法で、それを発達させようとしない弱い人間は、外なる人間の抵抗に対し、ただ弱々しく反対することができるだけだろう。つまり、自分の内に病気の種を抱えているとき、いつか、そのときが来れば、心的な障害に陥るだろう。 しかし、もし我々が強い内なる存在によって、外なる人間に起因する病気に対抗できるなら、状況は違ってくる。何故なら、内と外の2つのうち、強い方が勝つからである! この事から、外の本性に対し、常に勝利を収めるとは限らないとしても、規則的で強力な魂生活を発達させることにより、障害に対する主導権を維持すべく多くの事を為すことができる、ということが分かる。 この事から、あらゆる些細な不都合によって影響されていると感じないで済むように、感情や情動、意志を発達させるように努め、より大きな文脈を包括するために、思考の拡大に努め、思考により、最も明らかな道筋を辿るだけでなく、最も些細な成り行きをも追求するように努め、不可能なことを欲するのではなく、状況に即して、自らの望みを発達させることに腐心するのは、何故なのかを理解できる。 強力な魂生活を発達させたとしても、それでも限界に行き当たる。しかし、内なる存在が、あらゆる外の抵抗に対して優勢になるように、できるだけのことをした。 こうして、人間が、その魂生活を、それ相応に発達させることの重要性を理解できる。今日、魂生活を発達(進化)させるということが何を意味しているかについて、ほとんど理解されていない。以前、同様な機会に触れたのは、今日では、体育、例えば、散歩に行くことや肉体を鍛えることに重きが置かれている、ということだった。 肉体を鍛えることに含まれる原則について、何も言うことはない。肉体の鍛錬は健康的である。しかし、生理的な強化だけを目指して運動がなされるとき、まるで機械であるかのように、外なる人間だけが考慮されるなら、それらが、よい結果をもたらさないことは確かである。体育においては、特定の筋肉が特に強化すべきという観点によって特徴づけられる運動に取り掛かるべきではない。 あらゆる運動ごとに内なる喜びを体験できるように、あらゆる運動への衝動を内なる健康の感情から取り出してくるように注意する必要がある。運動への衝動は、魂から来るべきである。体育の教師は、例えば、様々の運動に取り掛かるとき、いかに魂が、様々な種類の健康を感じられるか、感情をもって経験できる立場に、自分を置くことができなければならない。 そのとき、我々は魂を強化する。つまり、もし、健康を魂から感じられなければ、肉体だけを強化し、魂はずっと弱いままに留まる可能性がある。人生を深く洞察する人は、この観点から取り組まれる運動が健康によい影響を与えるもので、人間を単なる解剖学的な機械であるかのように考えて取り組まれる運動とは全く異なる寄与がある、ということを見い出すだろう。
2008年08月25日
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最近、レンタビデオで、DVDばかりみているので、ブログが疎かになってしまった。さて、そこで、代わりに、DVDビデオの感想を書きたい。 まず、「アイアムザレジェンド」をみたのだが、ホラー映画だとは知らず面食らってしまった。なんだか、ゾンビの現代版という感じで、目新しさはまるでなし、最後は、主人公が、エイリアン3のように、犠牲になって死ぬのだが、なんだか、もう見飽きたという感じで、サイテー作品の部類に入るだろう。 ウイルスミスを期待してみたのだが、全くの失敗作品だった。レンタル料半額の日にかりたのがせめてもの救いといえる。ウイルスミスは、ユーモアさが全く殺されてしまったという感じで、主人公のラストとともに、記憶から消したい作品といえるだろう。 「アイアムレジャンド」は、そういうわけで、評価☆は無しとしたい。 あまりに、架空の物語をみた後は、やはり現実にかえって、大人の作品をみたいと思って、次に、みたのが、あの「911」をつくった、マイケルムーアの「シッコ」である。 非常に秀逸なドキュメント作品である。アメリカの問題点が見事に浮き上がった作品といえる。アメリカで疾患に罹ったら、「金持ち以外は死ね」というのがはっきりくっきりと描き出されている。この作品をみると、アメリカという国は、1%の金持ちのためにある国家といえるだろう。 「911」で緊急活動を行った消防隊員やボランティアの人たちは、911後の義援金を集めたときだけ、英雄視され、かりだされ、その後、後遺症で悩んでいるのに、知らん振りで、国から、医療費も支給されないという。その構図は、「硫黄島からの手紙」の星条旗を掲げた兵士たちとそっくりである。 この映画をみると、アメリカの国が、ユダヤ系に牛耳されているという謀略説も信憑性を帯びてくる。医療は、保険会社の富のためにあるようで、医師は、保険会社の言いなりで、医療拒否をし、高額の給料を受け取るという。全くキリストの説く言葉と相反している。 アメリカは偽キリスト教国で、悪魔の国という名に相応しいように思える。現状を知らずに、まるで、受身で、そのようなアメリカの真似をしている日本は、阿呆としかいいようがない。アメリカの病院は、名前だけ立派で、中身は冷酷ということが、確かマーチールーサキング病院に入院を拒否されたために死亡した患者の話から伺えた。 マイケルムーアが、カナダ、イギリス、フランスと先進国では、医療費が無料で、しかも税金もそれほど高くないのをインタビュー形式で聞いていくところは、コメディのようで、大笑いを誘う。それぐらい、米国市民は政府に騙されているということなのだろう。 映画では大笑いを誘うようにつくられているが、本心は悲劇なので、笑えないと思う。米国では、あまりに高額な医療費や薬価のため、キューバーにいって医療を受けたとき、その素晴らしさに患者が泣き出してしまう位である。 日本も、馬鹿小泉政権のときに、米国に見習って、医療費を大幅に削減した。日本には、皆保健制度はあるが、無料ではないので、おそらく、先進国では、米国についで不満な人が多いと思う。そういう意味では、日本は非常に中途半端で、どっちつかずといえる。 医療ではないが、厚生福祉で、フランス人なんか、最低3週間、長くて3ヶ月も有給がとれるというから、日本人と米国人は、なんで、こんなに働かなければいけないのか理解に苦しむだろう。金持ちが政府を盾にして、貧乏人を働かしているのである。在住フランス米国人にいわせれば、政府は国民を恐れているという。やはり、一度位、フランスのような革命を起こすべきかも知れない。 そもそも、医療費というのは政府が税金を徴収しているのだから、政府もちで、無料なのが普通だろう。米国の方がおかしいともいえる。病気になれば、儲かるシステムや、死に際して、高額な金をまきあげるシステムは、悪魔のものとしか思えない。よくもそのようなカネで、贅沢な生活を行えるのか不思議でもある。米国の金持ちは、悪魔なんだろう。 米国は、キューバーをコミュニストと散々に罵っているが、医療に関しては、キューバーの方が、全く上で、医療に限らず、奉仕の点でも、あまりに抜きん出ているようにみえたのは、マイケルムーアのつくり方にあるのだろうか? 米国とキューバー、どっちが真のキリスト教国といえるのか? 疑問に思う。米国は、キリストの言葉を利用して商売をしている国だけでしかない悪魔の国なのではないか?と思える。 社会主義は嫌いといいながら、実は、最も資本社会主義なのは、米国といえそうだというコミカルな皮肉まじりの映像が展開される。このような悪制度をはじめたのは、悪名高き大統領のニクソンである。ベトナム戦争といい、ニクソンという奴は、正真正銘の悪人といえる。 そのような歪な政府に従って戦場まで行く、米国市民は尊敬できるが、政府の要人には同じ人間として、嫌悪感さえ覚える。彼らの頭のなかは、金、金、金なのだろう。 こんな国が戦争を世界に仕掛けているのである。日本は、こんな政府に従っていていいのだろうか? まるで、後期高齢者医療制度は、この米国の日本版ともいえるものである。我々は奴隷ではない。 アメリカを大嫌いになりたい人にはおススメである。アメリカ人の長所は、この映画でフランス人が語っているように、アメリカ人は素直に間違いを認め、正すという点にある。はやく、ブッシュのような間違いだらけの国を正して欲しいと願うのみである。 勿論、「シッコ」の☆は、5つの満点評価にしたい。☆☆☆☆☆ さて、最後に、「母べえ」をみた。日本のなかで、いま一番の監督といえば、やはり山田洋次だろう。昔は黒澤、今は山田洋次といえる。「母べえ」も決して派手さはないが、じっくりと泣かせる見事な作品だった。 映画の出来ではなく、終始みていて腹が立ったのは、日本の戦中の人たちの非人情さにある。日本の戦時中ほど、不自由な生活はなかったのではないだろうか?と思わされる。 なんだか、威張り腐って偉そうな大人たち。警察官なんか、庶民を見下して生きる嫌な人間である。周囲には、上司には媚を売り、目下の者は馬鹿にして、やること全てが幼稚なのが、非常に歪な社会をつくっている。これが昔の日本だと思うと、ゾッとするのである。 戦時中の警察官ほど卑劣な連中は少なくなかったのではないか?と思う。他人の部屋に勝手にどかどかと踏み込んできて、他人の幸福を破壊して、連行して、拉致して帰っていく。まるで、北朝鮮のようでもある。国内だけでなく、海外でも同じことをしたから、日本人は、アジア人に、非常に嫌われたのだろう。 戦時中の日本は、まるで自分を殺さないと生きていけなかったようである。それでも、自殺せずに生きていけたというのは、何故なのだろうか? 不思議に思える。日本人の忍耐力の強さなのだろうか? 恐らく、この「母べえ」のような真に忍耐強い、真の愛を知っていた母親たちのお陰なのだろう。 このような人たちからみたら、当時の政府やお偉いさんは、馬鹿な連中ばかりだっただろう。そんな馬鹿な連中の権力にも負けずに必死に耐えて生きてきた、いまは亡き、90代の母親たちのお陰で、日本は戦後復興を遂げたことが、よくわかる。 全く馬鹿な戦争をはじめ、負けた日本! しかし、この映画をみていると、こんな日本は、負けてよかったと思えるから不思議である。政府の連中は、自分ばかりが贅沢をしておいて、庶民を戦場に送りまくっているのだから。こんなんで、勝ってしまったら、庶民の怒りが、おさまらないだろう。 特に、作品中の、贅沢防止隊という、なんだか、贅沢を言いがかりに検閲をしてくる、馬鹿中年婦人には、激しい怒りを感じた。僻みや嫉妬もいい加減にして欲しいものである。上層部に注意できないから、弱い連中ばかりをターゲットにして卑劣極まりない。 一番、怒りを感じたのは、「母べえ」の父が、スキヤキという贅沢をしておきながら、自分の立場を忘れて、「母べえ」を、「お国の兵隊さんは、贅沢なんて言ってられないのだから」と叱るところである。 「お前はなんだよ!」と思わず、画面にツッコミを入れたくなった。全く卑劣な大人たちに溢れていた社会は、戦時中なのだろう。なんだか、自分の弱音や愚痴を説教に置き換えた発言で、見苦しさを感じた。 このような大人たちをみていれば、自然、無責任にならざるを得ない。ひょっとして、いまの60~70代の大人、団塊の世代がエゴ丸出しの割りに、無責任なのは、そのせいなのかとも思った。アメリカには平身低頭で、日本人には、威張り散らしている官僚が目に浮かぶ。 織田裕二じゃないけど、「あんな日本に生まれなくてよかったぁあ!」である。靖国問題なんか、糞食らえ!って思う。A級戦犯なんか、憐れみ蔑むことはあっても、誰が拝むか。 いまの日本にも、戦時中の面影が残るのが、非常に悲しいばかりである。恐らく、終戦の勅語を聞いて涙したのは、そのような独裁政府から、解放されたという、嬉し涙だったのではないかと思う。 それにしても、多大なる600万という人命を失わないとわからなかったのかと思うと、日本人って、馬鹿なんじゃないかと、いまの政治家をみていて、心底激しく思わざるを得ない。多大な人命を失う前に、わかるだろうが、いまの米国政府のような悪魔支配に気づかない人たちは、まだまだ多いのだろう。だから、天文学的な財産の金持ちはいても、戦争はなくならないのだろうね。 「母べえ」の評価も勿論、母強しで、☆☆☆☆☆
2008年08月23日
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人智学は物理的な遺伝について明らかにするだけでなく、精神的要素があらゆる物理的存在の中で活動している、ということをも示す。そして、エーテル体の悟性魂に対する妨害的な影響が、あまりにも大きくなる状況では、恐らく、悟性魂に似たエーテル体を、酷い手法で形成し、準備したことが考えられる。 だから、もし、現在の悟性魂の中に、そのような「不調」がみられるなら、そして、もし、理性を保持できるなら、その「不調」を、身体(肉体)にまで至らないような方法で是正できるので、あらゆる情動がすぐに病気を引き起こすと考えるべきではない。 人智学的観点に立てば、「心的障害」に陥るとき、深く考えることなく、外界の影響に帰すのはナンセンスであるということがわかる。しかし、一方で、たとえ、自分のエーテル体を変化させる力がなくても、間違いが生じるときと同じく、「不調」の法則により、「心的障害」が満たされ、色づけされるので、その間違いが、エーテル体の中で表現されるときに病気になる、ということも理解する必要がある。 通常、そのような間違いは、誕生から死までの現人生(現世)において、直ちに影響を及ぼすわけではない。この間違いが生じるのは、間違いが繰り返され、習慣になるときである。 もし、ある特別な場合のように、誕生から死までの間、絶えず間違いの上に間違いを積み重ねるなら、もし、思考、感情、意志に関する、ある種の弱さに常に流され、誕生から死に至るまで、その弱さと共に生きるならば話は別だが、通常は、誕生から死までの間の外なる身体(肉体)性は、ただ限定的変化を被るだけである。 死の門を通っていくとき、肉体はその全ての善の性質と悪の性質と共に破壊され、自分の思考、感情、意志において創造した、あらゆる善と悪とを伴って行く。そして、次の人生のための外なる身(肉)体性を構築するに当たり、現在の人生から、もたらされる思考、感情、意志における弱さや間違い、混乱をその中に移行させる。 (現世での精神的な過ちや間違いを改めずに死ぬと、来世で、肉体的な障害を引き起こす素となるという。逆に、現世での障害を克服した経験は、精神的改善を伴うので、死後、来世で、健康的な肉体をつくりあげるときに生かされるという。) このように、妨害的に働くエーテル体については、現在の魂生活における間違いが直ちに、エーテル体の中にその姿を現すのではなく、現時点では、魂が次の人生を組織する際に現れる。エーテル体の中に原因として、また、ある特徴としていま出現するものは、現在の人生を遡るのではなく、以前の受肉(前世)へと遡るときに、確かに見い出すことができる。 (現在の遺伝病とみなされる病気の原因は、前世の精神的間違いに起因するという。神的信仰心が乏しいと、死後、神的存在とコンタクトすることが乏しく、天使等の援助を受けられずに、来世に際し、粗雑な障害の多い肉体を選択してしまうという。 唯物論的科学者は、無神論者なので、来世において、障害の多い肉体を選択する可能性が高いという。神的存在の援助なしに、独力で、構築しようとする傾向が、誤りの多い粗雑な肉体を選択してしまうという。科学者の唯物的で、利己主義的な見方が、全体のバランスを失わせ、過度にある部分を増強してしまうために、かえって遺伝的な障害を導いてしまうといえる。 19世紀以降無神論が浸透したので、抵抗力の乏しい、アトピー等の遺伝的な免疫機能不全病が増えたという。病原菌やウイルスが増えたようにみえるのは、表面的現象にすぎないという。この傾向は益々顕著になるだろう。 つまり、遺伝にみえる本質は、魂の偏りにある。何事も「足るを知る」のが重要ということなのだろう。偏った食生活などは、悪しきその典型である。) 「心的障害」について幅広く理解するには、隠された「永遠に続く進化の闇(謎)」の中を手探りで進むだけでなく、その人間の以前の存在状態(前世)へと赴くときである、ということを、この言葉は示している。とはいえ、この真実を、あまり極端なものとして受け取るべきではない。 何故なら、人間が、以前の人生(前世)から来る性質の他に、遺伝された性質をも、内にもつという事、そして、人間の外なる性質(肉体の外見)は遺伝されたものとして考えるべきだからである。人間が、ある人生から次の人生へと運んで行くものと、祖先から受け継いできた特徴とを注意深く区別しなければならない。 (つまり、肉体は、誤った考えや間違いを身をもって示してくれる、精神の教師ともいえる存在だという。だから、病気は、現在の考えや、精神のどこかに間違いが潜んでいることを、警告してくれているという。だから、人生で経験を積むほど、精神は向上していき、次の人生では、誤りの少ない肉体を選択するようになるという。 だから、病気に罹るのが問題なのではなく、病気を克服することが重要であり、死が悪ではなく、病気から学ぼうとしない魂への救いでもある。なるべく生きて経験を積むに越した事はないが、学ぼうとしない魂には、次の転生への持ち越しとなる。生きているうちに悔い改めるべきなのである。)
2008年08月20日
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エーテル体がストライキに入るとき、つまり、エーテル体が、思考の道具となることを拒否するとき、悟性魂が完全に孤立して経験するものを保持することが、いかに難しいかを、混み入った例から明らかにする。 エーテル体が独立し、悟性魂に抵抗するとき、思考を十分に表現することが妨げられる。そのため、それは途中で打撃を受け、完遂されることがない。この事は最も賢いと言われている人たちにも起こる可能性がある。ある奇妙な例を取り上げてみる。 誰でも笑い、可笑しいと、すぐに気づくのは、論述での論理的な愚かさ(過ち)である。「まだ失っていないものを持っている」、というのは論理的な結論であり、大きな耳をまだ失っていないので、まだ大きな耳を持っているというようなものである。 愚かさ(過ち)は、思考が事実と一致しないために生じ、これと全く同様の、つまり、「まだ失っていないもの」という先行する論述が不当な仮定で、その事に気づかないというパターンに従って、事態が、少し混み入ったものとなる人生の重要な問題に関し、信じ難い間違いが犯されることがある。 こうして、ある哲学者は人間の自我に関して自分が打ち立てた理論を大いに強調するが、これまでしばしば触れてきたのは、自我が、自我自身の定義においてさえも、人間がもてる、いかなる経験とも異なっているか、ということだった。 誰でも、テーブルを「テーブル」、ガラスを「ガラス」、時計を「時計」と呼べるが、「私」という言葉だけは、自身を指すときには、他の誰も使うことができない。この事は自我の経験と、その他全ての経験との根本的な違いを示唆している。 このような事は観察可能だが、その半分(内か外)だけが観察できる。そして、その哲学者が「自我は決して対象となることはなく、従って自我は決して観察されない。」というような結論を導くとき、人間がもつ経験の半分(内か外)だけしか観察していないことになる。 そして、彼が、「もし、自我を把握しようと試みるなら、自我は自分の外に存在する必要があり、同時に、自我自身の中にも存在する必要がある。」と言うとき、それは賢明な観点であるかのように見える。 この観点は、木の周りを走っている人にとって、「もし、自分が十分に速ければ後ろから自分に追いつける」、と言うのと同じである。自我は、自我自身の中では把握され得ない、という教義が、そのような例によって裏付けられるとき、この事を信じない人がいるだろうか! だが、このような観点は、そのような比較が正当ではない、という事実に、つまり、自我は観察され得ないという仮定に基づいている。木との比較でいえば、ただ次のように言うことができる。 「自我は木の周りを走る人ではなく、せいぜい、蛇のように木の周りに自分を巻き付ける人と比較すべきである。そうすれば、多分、足を手で掴むことはできるだろう」、と。 このように、自我は、人間の経験の中でも、自我以外のあらゆるものとは全く違ったものである。自我は主体と客体が一致する存在として把握できる実体である。この事は、あらゆる時代の神秘家達によって、自分のしっぽをくわえる蛇という象徴的な言葉によって示唆されてきた。 この象徴を用いてきた人たちは、自身の前にある象徴の中で、いわば自身を観察している、ということを理解していた。 この例は、感覚(アストラル外)体とのみ不調和をきたす可能性がある、直接的な知覚に関する感情や知覚から、純粋な感情や知覚だけでなく、いかに悟性魂、もしくは心魂への影響へと前進するか、ということを示している。 思考の内なる消化は、思考そのものに比べると遥かに恣意的ではないが、イメージが原因となって生じる障害ばかりでなく、全く別の種類の抵抗、それは、その思考過程の厳密な追求によっても結論に到達できないような思考には、認識不可能な抵抗だが、そのような抵抗となる何かがある。 我々は、人間がそれとは気づかずに、事実に関する論理ではなく、いかに自分の論理に単純に巻き込まれるか、という例を見てきた。事実に関する論理は、悟性魂とエーテル体との結びつき、従って、悟性魂のエーテル体に対する支配力が保持されるときのみ存在する。 こうして、魂生活が病理的な表現形態を取るのは第一義的には、思考と思考の間の結びつきが損なわれることによるが、それはエーテル体が、その表現のための健全な道具として、悟性魂に仕えることができない、ということが明らかになる。 だけど、今、悟性魂の働きを妨げるような障害を作り出すエーテル体が、我々人間の本性の一部を成しているとすれば、魂が単なる「不調」から「心的な障害」へと移行するような影響を及ぼす原因とは何か、コントロールできない中に、それが横たわるのか、という問いは正当なものである。 ある意味、そのような例は、もしそれが真に理解されるなら、ここで何度も強調されてきたこと、同時代人の多くが(最も開明的な人たちでさえ)ナンセンスと考えるような存在に気づかせてくれる。エーテル体が悟性魂の行く手に障害を置き、その思考の繋がりを不完全にするのが観察される。 そのとき、自分が無力で、もうここから先に進めないと認めるかわりに、混乱し、捻じ曲げられた判断を通す。悟性魂からの判断は、エーテル体の侵入によって混乱したものになる。ある奇妙な状況、つまり、エーテル体が外なる人間に属しながら、あたかも(内なる)悟性魂と同レベルにあるかのように、その活動に介入するような状況があるが、この事はどのように説明すればよいか? 純粋に言葉だけで説明するなら、「遺伝的特徴」その他のことで、指摘できるだろう。この遺伝に帰する説明は、ある固定された思考パターンが原因となって、魂に関する事柄に関して、論理的に思考できない人たちによってなされてきた。 しかし、魂に関して、じっくりと思考できる哲学者(賢者)は次のように言う。 「そのような(病理的状態といえる)場合に、魂の中に入って来る不調や混沌とした状態は、単なる物理的な遺伝の結果ではあり得ない」、と。 ところが、現代の有名な哲学者(賢者)は、純粋に物理的な存在を越えて行く、内なる過程を驚くべき言葉で記述している。 ヴントが「これ(病理的状態)は我々を永遠に続く進化の闇(謎)へと導く!」と言うとき、もし、深刻なテーマを扱っていなければ、この言葉は、かなりの線に達している。厳密な思考に慣れた人は世界的に有名な哲学者の、そのような言葉を奇妙なものと思うだろう。 この言葉を、魂と精神は魂と精神だけにその起源を有していると語る、人智学の真実と比べてみる。それは、17世紀の偉大な自然科学者、フランチェスコ・レディが別の分野で口にしたもう1つの真実、すなわち、「生き物は生き物だけから発生することができる」という真実に比べられるものとして、しばしば見てきた真実の更に高次の真実である。 (生命は生命から生まれ、魂は魂に起源を発している、というのが真実であるという。現代科学者は、思考の癖や、環境の原因から説明のつかない病理的状態を、遺伝として安易に考える傾向にあるが、それは生命が、無生物から自然に生まれると考える不完全な思考にあるという。 生命は生命からしか生まれず、生命は、魂に起源をもつので、思考の癖や病理的状態は、一見、遺伝のようにみえるが、思考の癖は、魂に起源があり、病理的状態は、魂がその状態を選んでいることにあるという。 魂が、能力を開発し、永遠の存在へと進化するために、思考の癖や病理的状態を選択するという。なぜなら、癖や病理的状態を克服することで、魂は進化を遂行するからである。 自我はそれ自身で自我を把握できないが、肉体等につながることで、蛇のように、自分の尻尾を加えることができるというわけである。つまり、魂は転生することで、魂を把握し、能力を開発できるというわけである。蛇は転生の象徴で、古代では神秘のシンボルとして崇められた。 我々は、記憶をいわば、蛇の尻尾として形成し、その記憶の尻尾をくわえて、自我を認識しているのである。記憶のなかの「私」を、いまの「私」と同一視し把握している。)
2008年08月19日
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さて、通常生活においては、外なる人間と内なる人間の間には、ある関係がある。その相互関係は次のようなものである。 魂の高次の構成体がほとんど発達していない場合、奴隷のように従わせる欲望や熱情を担う魂の最低次の構成体は、感覚(アストラル外)体と関連している。 感覚(アストラル外)体は感覚魂に似ているが、人間では、外なる人間に属するものと考えられる。アストラル体は、本来、ここでいう感覚体とは別に記述する必要がある(本来のアストラル体は人間内部に属するからである)。 というのも、魂を構成する3つの個々の領域(感覚魂、悟性魂、意識魂)はアストラル体が部分的に改造されたものにすぎないが、単純に、アストラル体から作り出されたのではなく、分離されたものだからである。起きている間、感覚魂は絶えず感覚(アストラル外)体と相互作用している。 同様に、悟性魂もしくは心魂は、エーテル体との絶えざる相互作用の中にあり、ある意味、意識魂は肉体と密接に結びついている。意識魂の中に入ってくる情報に関して、覚醒意識に依存するというのは、この理由による。肉体、感覚、脳の活動により伝達される情報は、まず意識魂の中に入ってくる。 感覚魂-感覚(アストラル外)体 悟性魂(心魂)-エーテル体 意識魂-肉体 このように、人間は、3つの(魂の)構成体から成る、2つの(内と外の)部門(パーツ)があり、互いに対応している。つまり、感覚魂(内)と感覚体(外)、悟性魂もしくは心魂(内)とエーテル体(外)、そして、意識魂(内)と肉体(外)である。 この対応は、内なる人間から外なる人間へと導く糸の解明のための手助けになると同時に、もし、それらが通常の形で機能できないなら、通常の魂生活に、いかに支障をきたすかを示せる。では何故、このようなことが起こるのか? 感覚魂は感覚(アストラル外)体の影響下にあり、これらが正しく対応していないときには、感覚魂の健全な生活は中断される。同様のことは、悟性魂が、エーテル体を正しい形で制御し、自分のために、適切な道具にできないときにも起こる(健全な生活が中断する)。そして、意識魂もまた、肉体が、その正常な表現に対して、障害や妨害になるとき、異常として現れる。 このように、人間を体系的に分けてみるとき、健全な魂生活に必要な秩序をもった対応が見られる。そして、あらゆる種類の障害が、感覚魂と感覚(アストラル外)体、悟性魂とエーテル体、意識魂と肉体間の相互作用の中に生じ得るということも、また理解できる。 この複雑な有機体を貫いて走る糸と、生じ得る不規則性を認識できる人だけが、魂の中で起こり得る障害を認識できる。障害が起こるのは内なる人間と外なる人間の間に不調和が生じるときだけである。 意識による完全な制御下で生じる魂生活は、一方では意識魂の中に、他方では悟性魂の中に存在するイメージを示している。しかし、感覚魂の中には、ほとんど、気づかれないようなイメージ、例えば、パリのイラスト画やローマの写真集などが、次から次へと流れている。このようなことが生じるのは、哲学者が、前に立っている人物との関係を保ちながら、注意を逸らすことにより、感覚魂と感覚(アストラル外)体との間に裂け目を生じさせるためなのである。 パリのイラスト画やローマの写真集のイメージは感覚魂の中に求める必要がある。そこでは今述べたような制御されていないプロセスが生じている。2人の人物間での会話は意識魂の中で起こっている。この場合、注意が会話から逸れて彷徨するのを防ぐように強いる必要性が、感覚魂と感覚(アストラル外)体間の亀裂を生じさせた原因となっている。 これらは単に一時的な状態である。というのも、独立するのが感覚(アストラル外)体だけである場合、僅かな妨害が魂生活に生じるだけだからである。そのようなときにも、理性と、認識を保持する意識の内なる糸を保てる。つまり、独立した感覚(アストラル外)体に現れる強制的イメージとは別に、まだ、内なる意識が存在している。 そのような亀裂が悟性魂とエーテル体に関して生じるとき、事態は遥かに深刻なものになる。そのとき、病理的状態と境界を接する状態の中へと遥かに深く入り込む。とはいえ、どこで健全な状態が終わり、どこから病理的な状態が始まるのかを決めるのは困難である。
2008年08月18日
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さて、更に、魂生活が健全で、最高度に明晰なものと考えられている人々について、ずっと衝撃的な例を挙げることができる。哲学分野で最も卓越した人物の1人と考えられている、ドイツの哲学者について触れる。その哲学者は、自らの経験を次のように述べている。 「彼はかって、ある人物と話していたが、その中で、2人が共に知る、ある学者に話が及んだ。その学者に話が及んだ瞬間、その哲学者が思い出したのは、パリのイラスト集と、その次に、ローマの写真集だった。その間、その学者についての会話が続いていた。その哲学者は、何故、会話中に、最初はパリのイラスト集のイメージが、つづいてローマの写真集が現れる、というようなことが起こったのかをよく考えてみた。 そして、実際、彼は何とかして、その正しい繋がりを確立した。彼らの話題に上った学者は特筆すべき、顎鬚を生やしていた。この顎鬚は、直ちに、同じような顎鬚を生やしていたナポレオン三世のイメージを、その哲学者の潜在意識の中に呼び起こしたのである。そして、このナポレオン三世のイメージはフランスを経由してパリのイラスト画へと導きながら、彼の意識の中へと押し進んで来た。 そして、同じようなバンダイク髭を生やしていた別の男のイメージが彼の前に現れる。イタリアのヴィクトール・イマニュエルのイメージである。そして、このイメージがイタリアを経由してローマの写真集に導いた。ここには、充分に意識的な魂生活において、全く異なる事が生じている間に、気儘で出鱈目な一連の考えが展開しているのが見られる。 さて、ある人の中にパリのイラスト画が現れ、もはや会話の糸を手繰ることができず、そのすぐ後に、次のローマの写真集についての考えが続くことを仮定してみる。彼は出鱈目な思考生活に左右され、誰とも秩序だった会話を持つことができず、一纏りの考えから次の考えへとリズムも論理もなく導くような病理的な魂生活の中に織り込まれてしまうだろう。 しかし、話題の哲学者は更に先へと進み。そして、この事を別の場合と対比させるのだが、彼は、それによって、これらの事柄がどのように関連しているかを認識できるようにしたいと思っていた。彼は、かつて、税金を払うために税務署に出かけたことがあった。そのとき彼は75マルクを払いに行った。そして、彼の哲学はともかく、彼はシッカリした男なので、この75マルクを、彼の支出簿に記入し、そして、別の仕事に取り掛かった。 彼は、後になって、そのとき払った税金の額を知りたいと思ったが、思い出すことができない。彼は考えた。そして、哲学者なので、体系立てて、その仕事に取り掛かった。彼は連想によって、その額を思い出そうとした。彼は税務署に向かう自分の歩みに集中し、そして、財布の中に金色の20マルク札が四枚入っていたということ、更には、そのとき、釣りとしてもらった5マルクのイメージを思い出した。彼はこの2つのイメージを思い出し、そして、後は簡単な引き算によって、今や、彼が払ったのは75マルクであった、ということを見い出した。 ここには、全く異なる2つの出来事がある。最初のケースでは、一連の意識的な思考によるコントロールを一切受けない、いわば、自発的な魂の生活が、その役割を演じているもので、これがパリのイラスト画のイメージとローマの写真集のイメージを創り出した。 2番目のケースでは、魂がその踏み出す一歩一歩を選び取りながら、いかに体系的に振る舞うかを見ることができる。これら2つの魂の過程には、かなりの違いがある。しかし、かの哲学者は精神的な探求者であれば直ちに気がつくようなことに注意を向けることができなかった。 というのも、最初のケースでは、彼の注意は話し相手に向けられているということ、つまり、彼の意識的な魂生活全体は相手との会話を維持することに関わり、出鱈目なイメージは、まるで別の意識レベルにあって、勝手に浮かんで来るかのようである、という処が肝心な点なのである。 2番目のケースでは、哲学者は注意力全てを思考の繋がりを決定する方向へと向けている。この事は、最初のケースでは、イメージが出鱈目に生じたのに対して、2番目のケースでは、意識的な魂生活のコントロール下にあった内容を説明する。 とはいえ、そもそも何故、以上のような出鱈目なイメージが生じるのか? この哲学者が見落としているのはその点である。人生の観察者で、このようなケースを知り、問題の哲学者の性格を考慮する立場にある人なら(たまたま、その事を知っているだけでなく、その男も知っている場合)、次のような仮説を立てるだろう。 「その哲学者は、彼には格別興味のない人物について話し合っていたので、会話に集中し続ける為に、ある程度の努力を必要としていた。その為、ある量の魂生活が、この会話に関与しないままに取っておかれ、それが内に向かった」、と。 しかし、興味のない会話に注意を割かねばならなかった彼には、結果として生じる一連のイメージをコントロールする力がなく、出鱈目に生じることになった。この事は、そのようなイメージが、いかに意識的な魂生活の背後で、影のように生じるかについての示唆を与える。このような例は無数に挙げることもできるが、特に、この例を取り上げたのは、それが非常に特徴的であり、この事によって多くの事を学べるからである。 さて、次のように問うことができる。 「そのような出来事は、人間の魂生活をもっと深く探求するように我々を促すのではないのか? また、そのような魂生活の裂け目は、そもそも、どのように生じるのか?」と。 ここで、今回取り上げている、あまり愉快でないテーマに関する経験を、以前、しばしば取り扱ってきたものに、全く自然に適合させることができる領域へとやって来た。その例の中で触れられた哲学者は、彼の経験を記述しようとして、謎に直面するが、事実を一度告知してしまえば、そこから更に続けようとしない。 それは、科学が、事物や人間の本質に関しての認識の手前で、どんなに多くのことを語れるとしても、立ち止まってしまうことから来ている。 人間の本質に関する観察が示すのは、人間は、物質科学により成される以上の手法で眺めなければならず、外なる人間と内なる人間を区別しなければならない、ということだった。あらゆる領域において、通常の科学から理解されている知見とは異なる手法で、睡眠に注目すべきことを示してきた。 我々が示したのは、眠っている人間の中で、ベッドに残っている部分は、単なる外なる人間で、その外なる人間をベッドに残していく不可視の、高次の内なる人間が、通常の意識では探求することができない、ということだった。 睡眠中、何かが人間から去って行くが、それは、ベッドに残る部分と同じくらい現実的なもので、その内なる人間は、眠りに落ちてから目覚めるまで、その真の故郷である精神世界に引き渡される、ということを、通常の意識では理解できず、また、人間が通常の魂生活を支えるために、起きてから寝るまでの間に必要とするものを、精神世界から抽出する、ということを、通常意識では認めることもできない。 眠っている間も、その法則と共に、そこにある外なる人間と、起きている間だけ外なる人間と共にあり、眠っている間は分離する内なる人間を別々のものと見なし、はっきりと区別しなければならない理由が、ここにある。この区別をしない限り、人生における最も重要な出来事を理解できない。 便宜的に、あらゆるものを統一体と見なし、別の考えを容れず、至る処に一元論を確立しようとする人たちは、人間を内なる人間と外なる人間の2つに分けるということのために、人智学者に二元論者の烙印を押す。しかし、そのような人たちは、水を水素と酸素に分ける化学者もまた、酷い二元論者であると認めないわけにはいかないだろう。 もし、元素をもっと深い処に横たわるもの(素粒子)として認識しないなら、高次の意味で一元論者であることは不可能である。ところが、最も身近な存在の中にだけ、統一を見る人たちは、多様な生の本性を観察すると同時に、多様性から、生命を説明できるような事柄の認識を、自ら妨げているといえる。 さて、外なる人間と内なる人間の内にある個々の構成体もまた区別すべきである、ということも示した。外なる人間の中で、最初に区別したのは、見たり触ったりできる肉体である。更に、その肉体を形成し、作り上げる、エーテル体と呼ぶ別の構成体がある。肉体とエーテル体は眠っている間、ベッドの中に残る。 次に、睡眠の間、肉体とエーテル体から去り、精神世界に入っていく部分は、この連続講義の中で、アストラル体として記述したが、それ自身、自我の担い手を包摂している。けれども、更にもっと微妙な区別を行った。つまり、アストラル体の中にある魂の3つの構成体を区別した。そして、これら3つの構成体を注意深く区別することで、人生における多くの出来事を説明できた。 魂の最も低次の構成体を感覚魂と呼び、2番目の構成体を悟性魂、或いは心魂、3番目を意識魂として記述した。だから、内なる人間に言及するときは、あらゆる種類の意志衝動、感情、概念、考えが区別されないままに入り交じった状態について語るかわりに、魂の中にある、これら3つの構成体を注意深く区別できる。
2008年08月14日
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人智学の本連続講義(魂生活)の第1講「言語」で特徴付けたような観点から、非常に多様に現れる人間の魂生活、或いはもっと広い意味での生活に光を当てることが、かって行った連続講義の使命だった。 今回は、悲惨や苦悩、恐らく、希望の喪失をもたらすような人間生活の領域全般を観察する。 今回の内容を補完するために、次回の主題は、「人間的意識」と題して、自我意識の人間的尊厳、価値、力が最大限に表現される高次へと、人間を連れ戻す領域について触れる。そして、最後に、今日、暗く、最も戦慄すべき人生の側面から、我々の前に現れるように見える存在の、健全的な側面を示そうと努める「芸術の使命」に関する考察をもって、この連続講義の締めくくりにする。 では、「不調と心的障害」に関して述べるとき、誰の魂の中にも、人間の最も深い苦しみのイメージと同時に最も深い人間的共感のイメージが生じる。そして、このように、魂の中に生じる全ては、人間の魂の中に存在する、最も奥深い深淵を、この連続講義の中で得られるものと期待される光で、照らし出すような挑戦でもある。 特に、魂の前に示された、これまでの考察によって、前進することに益々精通する人は、人智学的な観察方法を用いれば、ある意味、人生における、この悲しみの章に光を当てることができる、という希望を持つだろう。 というのも、なんらかの文献上の知識をもつ人であれば、ただし、ここでいう文献とは急速に広まっている素人のものではなく、むしろ専門家の文献で、そのような知識が、人智学的観点から見た場合でも、ある意味、非常に遥かな地点まで達し、魂に関連する事実の評価に、豊かな素材を提供するということに気づく一方で、同時に、どの文献においても、現代の様々な理論や観点、思考様式を集約した経験や、科学的観察に骨組みを与えているという点で、ほとんど役に立たないことが、あまりにも明らかになるからである。 特に、この領域において、いかに人智学が、真正で本物の科学、つまり、科学的事実や結果、経験として、人間が出会う全てと調和しているかを、はっきりと見て取ることができる。けれども、同時に、各段階において、人智学が、魂の経験と現代の潮流となっている科学的観点から、魂の経験を説明する手法との間に矛盾を見い出す、ということもまた理解できる。 他の領域と同様に、ここでも、主題(テーマ)を概略的に扱うことしかできないが、おそらく、これから扱おうとしている、悲しむべき状況との関連においても、益々、自身の方向性を見い出せるように、実生活の中にも流れ込むように、適切な理解の獲得のための刺激を与えることになるだろう。 「不調」と「心的障害」という言葉を使用するにあたり、その両者が基本的に異なったものであることを、我々は意識している。にも関わらず、実際に「心的障害」を受けている状態として記述できるような魂生活を正確に観察する人が見い出す、「不調」との相違は、単純に、程度の差異に帰せるような表現や外観の違いでしかないであろう。 (つまり、不調の重い症状が、心的障害であるというような差異) しかし、そのような観察は、ある思考の方向性から、個別的区分を曖昧にさせ、実際、健康で正常な魂生活と「心的障害」という言葉で記述できるような状態との間に、はっきりとした線を引くことができない、と言うような傾向をもつことから、間違った説明を行いやすい。 その種の記述には、「不調」と「心的な障害」の間の区分けが曖昧な場合に、強調される、ある種の危険が含まれている。そして、その危険は、その記述が間違っているということにあるのではなく、それが正しい記述であるという事実の中にある。 この事は矛盾のように聞こえるかもしれないが、間違った記述というのは、ときとして、説明可能で、一方的な方法で実践に移せるような正しい記述よりも危険が少ない、というのは事実である。正しい記述がより危険なのは、その記述の正しさの中に本来備わっている危険に気づかないからである。 ある文脈の中で、何かが正しいと証明されるなら、それで十分だと考えられがちなのだが、あらゆる正しい事柄には、その反対の側面があり、我々が見い出す、いかなる真実も、ある種の事実と経験の観点から見たときだけの真実にすぎない、ということに気づくべきなのである。 危険は、その真実が他の領域にまで外挿される瞬間、つまり、それがあまりにも遠くまで拡張され、教条的信念になるときに生じる。たとえ、「真実が存在する、ということを知っていても、一般に大したことは達成できない、真の認識において重要なのは、その知識が有効に働く限界を知ることである」、と言われるのはこの理由による。 確かに、通常の健全な魂生活が、ある限界点を越えるとき、病理学的な徴候になる、という現象を観察できる。この記述を、充分な意味(重み)をもって認識できるのは、親密なレベルで人生の観察に正しい形で慣れている人だけである。 ある人が何らかの概念を理解し、それを正しい瞬間に別の概念に結びつけることができず、そのため、それを新たな、そして全く不適切な状況下で適用し、以前の状況下では正しかったが、後に正しくなくなった考えに基づいて行動するなら、誰が、そこに「心的障害」の題字の下に括られる病理学的側面があることを否定するだろうか? 誰が、これは病理学的な状態に近似している、ということを否定するだろうか? もし、その状態が程度を越えて起こるなら、それは「心的障害」への直接的な徴候なのである。けれども、他方で、その気苦労の多さと、ぎこちなさの為に、仕事をうまく進められないという人々もいる、ということも否定できない。 そこに見られるのは、通常の魂生活における、1つの状況(ある考えを展開できないという状況)だが、「不調」について語るのをやめて、病理的な「心身の障害」について語り始めるべき地点へと接近できるのは、そのような状況である。 例えば、誰か(これは本当に起こることだが)勘違いしやすい人がいて、周りにいる人の咳払いが普通の咳ではなく、当人に対する人々の悪口のように聞こえる、つまり、そのような幻想を与えることを仮定してみる。 もし、当人が、そのとき、その生活と行動を、この幻想に適応させるなら、当人は「心的障害」を持った人と考えられることになる。 だが、この事と、通常生活における出来事、すなわち、当人が、何かを漏れ聞き、その内容について、実際に語られた内容とは全く違う内容を聞いたかのように説明する場合との間の、その内容には、僅かの違いしかない。 ある人が、「誰それが私について、何々のことを言った。」と言ったにも関わらず、その誰それが、その何々を言ったという形跡がない、というようなことがある。通常の魂生活が、その健全な道筋から外れ、魂的な障害へと変わるのは、どの地点においてなのかを決めるのは、このような訳で容易なことではない。 次に述べることは、矛盾しているように見えるが、この分野において、何らかの考えを喚起するのに役立つだろう。 「並木道に立っている人が、近くを見るときには木と木の間の正しい距離を正確に知覚できる一方で、他方で遠く離れている木は、互いに少しずつ接近しているように見えるために、木々の間にロープを張ろうとした際、遠くに行けば行くほど、遠くの木々が接近して見えるので、張り渡すロープの長さが益々短くなると考えるなら、健全な観察から間違った結論を引き出す例といえる。 (つまり、視覚において、近くの木々の間の距離よりも、遠くにある木々の間の距離が、近づいてみえるので、遠くにいくほど、木々を囲むロープが少なくてすむと考えることを意味する。これは、地球圏で成り立つ法則が、地球を越えた宇宙にも成り立つと考えることと同じである。実際は、成立しない。 また、家族間のルールを持ち出し、公共の社会、例えば職場で、そのルールを適応しようとするのと同じである。つまり、ローカルルールを、そのままグローバルにしようとするのに無理がある。) しかし、健全な観察が可能なのは、錯覚があるからに他ならない。錯覚もまた1つの観察である。その不健全で害のある側面が現れるのは、ただそれが目の前の机と同じ現実性をもつものと考えるときだけである。 錯覚のような観察が病理的と言われるのは、単に、正しい方法で説明できないからである。さて、誰かが幻覚を抱き、それが通常の物理的意味において、現実と考える場合と、先ほどの並木道で、木と木の間を遠くに行く程、益々短いロープで結びつけようとする人との間の矛盾とを比べてみることができる。 論理的には、これら2つの事柄の間に原則的違いはない。だが、幻覚は何と容易に、間違った判断へと我々を導く一方で、他方で、並木道の観察では、滅多に同じような間違いをしない! このような事全てが馬鹿馬鹿しい問題と考えるかもしれない。 しかし、これらの点を逐一考慮する必要がある。というのも、もし、考慮しなければ、すぐに話が脱線し、通常の魂生活が、いかに容易に混乱させられるものであるか、ということを理解できないからである。
2008年08月13日
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ある人が常にネガティブで、別の人が常にポジティブであるというようなことは決して起こらない。我々一人一人が、存在の様々な段階で、ポジティブとネガティブな状態を通過する必要がある。そのような考え方を、この光の下に見るときに、唯一、そのことを真実として、人生を実際に生きるための基本として受け入れることができる。 このように、この講義の始めと終わりに述べてきた言葉、つまり、人生を、あまりにも深く覗き見ることができたために「変人」と呼ばれた古代ギリシャの哲学者、ヘラクリトスの 「いかなる道を探求しようとも、魂の境を見い出すことは、決してできない。魂の存在とは、それほど包括的なものである。」 という言葉を、今回の議論でも確認できた。 (魂は輪廻転生する永遠の存在なので、その境を見い出すことができない。つまり、魂とは常に成長する連続的、包括的な存在である。) さて、誰かが次のように言う。 「では、魂に関する、あらゆる探求は無駄に違いない。何故なら、もし、その境界を見つけることが、不可能なら、いかなる探求も、魂を確定できず、そもそも、魂について何かを知ることは絶望的なのだから」、と。 ただネガティブな人だけが、言われた通りの、この発言の傾向を受け取る。ポジティブな人は次のように付け加えるだろう。 「魂の生活が、あまりにも深遠なので、決してその事を、知識が取り巻くことができないということを、神に感謝する。何故なら、そのお陰で、明日には、今日、理解したことを、越えていくことができ、今日を明日が越えることによって、より一層、高次の水準へと進むことができるということなのだから。」、と。 (魂は、知識を超えて成長するからこそ、魂は新たなる知識や知性を開発し、獲得できる。) あらゆる瞬間に、魂の生活が、知識をあざ笑うことに感謝しよう。我々人間は際限のない魂生活を必要としている。何故なら、この無限の展望こそ、我々が絶えずポジティブな性格を越え、段階を追っての上昇に対する希望を与えるものだからである。 我々が希望と確信をもって、前を見ることができるのは、正に、我々の魂生活が際限のないものであり、不可知のものであるという、その不可知の程度におけるものだからである。魂の境を決して発見できないために、魂は、自らを越え、より高く、どこまでも高く上昇することができる。
2008年08月12日
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さて、人智学には、何か無条件にポジティブな反応を要求する性質がある。もし、例えば、有名な近代的装置、つまり写真やスライドを使い、動物や、自然現象を、目の前でスクリーンとして、映し出すなら、視聴者は、その映像をネガティブな気持ちで、全く受動的に見ることになる。 その際、ポジティブな性質は必要とされず、思考すら必要とされないだろう。或いは、氷河が山を下っていくような様々な局面を映し出す一連の写真を見せられるかもしれない。それもまた、同じネガティブであることに変わりはない。これらの例は、ネガティブな態度に訴えかけるものが、今日、幅広く存在することを示す。 人智学はそれほど単純ではない。写真は、せいぜい人智学的な考え方の幾つかを象徴的に示唆するだけである。人間はその魂生活を通してのみ、精神世界に近づくことができる。実り多い方法で、人智学に精通したいと望む人は、その最重要な要素が見せ物等の題材にならない、ということに気づく必要がある。 だから、人智学を志す人間への助言は、活動し続けること、それも自身の魂と共に、そして、その事によって、その魂の最もポジティブな性質を引き出すことである。実際、人智学は、これらの性質を人間の魂の中に育成するのに、最高の意味で、相応しいものである。 人智学は、魂の中で眠っている力を掻き立てる以外のことは要求しないので、その世界観の健全さが存在している。人智学は、あらゆる魂に本来備わっている活動に訴えることによって、隠された力を呼び覚まし、身体全ての活力と精力に浸透するようにする。 だから、それは、人間の体全体に対し、十全なる意味において、健康を与える効果をもっている。そして、人智学は、集団心理によるものでなく、ただ個々人の理解力を通してだけ呼び出される健全な理性にのみ訴えかけ、集団心理が引き起こす、あらゆるものを放棄するが故に、人間の魂の最もポジティブな性質を考慮するものなのである。 このように、作り話ではなく、いかに人間が2つの流れ、ポジティブな流れとネガティブな流れの中に置かれているかを示す多くの事例を集めて来た。 低次のポジティブな段階を離れ、魂が新しい内容を得ることができるようなネガティブで受容的な状態へと赴くことなしに、更なる高次段階には上昇できない。つまり、このネガティブな状態をずっと伴っていくことによって、高次段階において、もう一度ポジティブになる。 もし、自然を正しく観察することを学ぶなら、いかに人間が、世界の叡知による配剤に従って、ポジティブな位相からネガティブな位相へと、そして再びポジティブな位相へと導かれるかを見ることができる。 このような観点から、特別なテーマ、例えば、アリストテレスの有名な悲劇の定義について学ぶのは有意義なことである。彼によると、悲劇とは、観客の中に恐れと哀れみを引き起こすことができるような、完全に劇的な演技を、その怖れと哀れみの感情が浄化され、その罪障が消滅するような形で、我々の前に提示するものである。 人間は、最初、通常のエゴイズムと共に、悲劇の存在状態に入るに際し、非常にポジティブであること、つまり、自身を硬化させると同時に、他の人間から自分を切り離す、ということに注意する。けれども、その後、もし、他の人たちの悲しみに同情し、同時に他の人たちの喜びを自分の喜びとすることを学ぶなら、非常にネガティブになる。それは、その人が自分の自我から離れ、他の人々の感情に参入するからである。 人間がネガティブになるのは、誰か別の人に降りかかるように見える何か漠然とした運命、つまり、親密な共感を抱いている誰か(悲劇の主人公)に、明日、降りかかるかもしれない出来事に深く心を動かされるときである。 誰かが、自らを破局へと導くような行いに向けて、急ぎ進むとき、つまり、それを予見できるが、自らの衝動に突き動かされているために、その人にはそれを避ける力がないような破局に急ぐとき、誰が震撼せずにいられるだろうか? 悲劇がもたらすものを恐れるが、その事が、我々人間の中に魂のネガティブな状態を醸し出す。何故なら、恐れはネガティブなものだからである。もし、我々人間が、危険に満ちた未来に近づきつつある、他の誰かのために、恐れ(不安)を抱くことができなければ、もはや、人間は人生の中で真の役割に与ることはないだろう。 人間をネガティブにするのは、そのような恐れと共感なのである。悲劇が、我々人間の前にヒーローを登場させるのは、再びポジティブにするためである。我々がヒーローの行為に共感を覚え、そして、ヒーローの運命を非常に身近に感じることで、運命が目覚めさせられるのである。 同時に、そのヒーローの姿は、演劇の進行とともに、我々の恐れや哀れみが純化されるような形で、目の前に現れる。つまり、それらはネガティブな感情から、芸術の働きによって、我々に付与される調和的な満足へと変化させられ、それによって、再びポジティブなあり方へと我々は上昇させられる。 こうして、古代ギリシャの哲学者による悲劇に関する定義が示すのは、いかに芸術が必然的にネガティブな状態の感情を、ポジティブな状態に変容させる人生における要素であり得るか、ということである。 当初、低次の発展(進化)段階から更に発達(進化)していくために、ネガティブでなければならないが、芸術は、そのあらゆる領域において、人間を高次の水準へと導く。 美は、さしあたり、現段階を超えて上昇するのを助けるために、目の前に置かれるように意図されたものである、と見なければならない。そのとき、通常の人生は、もし、その人間が既に芸術を通して、高次の水準に上昇させられていたならば、魂の高次状態から放射するもので浸透される。 このように、いかにポジティブと、ネガティブな性質が、個々人の間だけでなく、人間の一生を通じて交替するものであるか、そして、それが、いかに個人と、そして人類全体を、ある受肉から次の受肉へと上昇させることに寄与するかということを理解する。 もし、時間があれば、いかにポジティブ、或いはネガティブな時代、及び歴史的時代があったかを容易に示すこともできる。ポジティブとネガティブの考え方は、あらゆる魂の生活領域と広く人類全体の生活領域に光を当てる。 (アリストテレスの試みた演劇は、比較的新しい秘儀参入法、つまり魂の修行法であるという。 人間は最初、個人として、人類という集団から離れた、個性的な登場人物として誕生する。つまり、この状態は、ポジティブであり、劇中では、主人公の個性は容認される。 やがて、主人公が、大人になるにつれて、闇に包まれた社会へと足を踏み出し始める青年期を迎える。社会は危険に満ち、個人の力ではいかんともしがたいような経験を積みはじめる。人間社会で何事かを為すには仲間や同士が必要である。この事は、魂に共感と恐れを持ち込み、悲劇は、魂をネガティブにさせる。 そして、その悲劇を克服するような、ヒーローが現れ、お互いのなかの恐れを純化し、共感を純化し、その結束をまとめ上げ、悪を克服するヒーローとなり、再び、魂をポジティブに目覚めさせる。 このように、悲劇には、魂をポジティブからネガティブへ、そしてネガティブから再びポジティブに目覚めさせる秘儀参入法が隠されているという。)
2008年08月11日
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さて、個々人がお互いに及ぼしあう印象についてはこれくらいにして、人々が周囲の環境から受け取る印象に移る。また、ここでも、ポジティブ、ネガティブという文脈の中で、重要な結果が得られる。 例えば、ある特定のテーマについて、非常に実り多い働きを行い、それに関連する多数の事実を集積した探求者について考えてみる。この事で、彼は人類にとって何か有益なことを成し遂げた。今、彼がこれらの事実を、受けてきた教育やそれまでの人生から得られた考え、或いは、その事実に関する非常に一面的な見方を提示するような、ある特定の理論や哲学的な観点から得られた考えに、その事実を結びつける場合を想像してみる。 彼がその事実から推量した概念や考えは、自身の内省的思考の結果なので、魂に対して健全な影響を及ぼす。何故なら、彼は、自身の哲学を苦心して作り上げることにより、彼の魂にポジティブな感情を吹き込んでいるからである。しかし、今、彼の追従者がいることを想像してみる。彼らはその事実について自分でよく調べたのではなく、その事について聞いたり読んだりしただけの人たちである。 追従者たちは、その探求者が、研究室での仕事や勉強によって、自身の中に引き起こした感情に欠ける。そして、追従者たちの気分は完全にネガティブなものだろう。こうして、全く同じ教義が、たとえ、それが一面的であるにしても、その一団の指導者を、彼の魂においてポジティブにする一方で、単にその教義を繰り返すために、そこに群れ集まった追従者たちに対しては、不健全でネガティブな影響を及ぼし、追従者たち(の魂)を益々弱めるだろう。 この事は何か人類の文化史全体を通して流れているものである。今日でも、完全に唯物的な世界観をもった人たちが、そして、彼らは自身の発見に基づいて、その世界観を発展させようと精力的に働いているが、生き生きとして、ポジティブな性格で、人との出会いが楽しみであるような人たちであるのが分かる。 しかし、彼らの追従者達の場合、同じ基本的な考えを頭に入れて持ち運んでいるとはいっても、自身の努力によって、それらを獲得したわけではない為に、それらの考えには不健康で、ネガティブで、弱体化させるような効果がある。 このように、人間が、自身で哲学上の観点を達成するか、或いは単純に、他の人から取り入れるかでは大きな違いがある。前者はポジティブな性質を、後者はネガティブな性質を獲得する。 このように、我々の世界に対する態度は、ポジティブにもネガティブにもすることができる、ということが分かる。 例えば、自然に対する純粋に理論的なアプローチは、実際に、特に自分の目で見れる、あらゆるものを見落とすなら、その人をネガティブにするだろう。自然に関する理論的な認識は、存在すべきだが、この認識(動物、植物、鉱物の系統的な研究から得られ、自然法則として概念や思考形態の中に体現した認識)は、人間のネガティブな性質に働きかけ、このような思考の中に、人間を閉じこめる、という事実に対して盲目であってはならない。 一方、自然がその雄大さの中で、差し出す全てに対し、生き生きとした鑑賞力を持って応えるなら、つまり、例えば、花をバラバラに引き裂くのではなく、その美に反応しながら、その中に喜びを見い出すなら、或いは、太陽が昇るとき、朝の光を一杯に受けながら、それを天文学的に検証するのではなく、その栄光に見入るならば、魂の中にはポジティブな性質が呼び覚まされる。 そのとき、人間の魂は、世界に関する理論的概念を通して受け入れる、いかなるものにも巻き込まれることはない。そのとき、人間は、他の人たちが、それを口述させるままにする。しかし、人間が自然の現象に快や不快を感じるとき、その魂全体は、その事に生き生きと関わる。自然の真実が自我に左右されることはないが、人間を喜ばし、不愉快にするものは違う。何故なら、人間が自然に対し、どのように反応するかは、自我の性格にかかっているからである。 このようなことから、次のように言える。 「自然への生き生きとした参加はポジティブな性質を、自然の理論化はネガティブな性質を発達させる」、と。 ただ、この事は、繰り返しになるが、一連の自然現象を最初に分析する研究者が、その発見を受け入れ、その発見等から学ぶ人よりも、遥かにポジティブであるという事実によって修正されなければならない。 このような発見者とその追随者との違いは、教育の幅広い分野において注意を払うべきものである。この事に関連し、いま述べてきたような事柄に関する意識が存在していた場(古代)では、人間の魂のネガティブな性格が、ネガティブであるように養成されることは決してなかった、という事実がある。 プラトンは、彼の哲学のための学院への入り口に、何故、「幾何の知識をもつ者だけが入ることを許される。」という言葉を刻んでいたのか? それは幾何と数学が、他の権威によっては受け入れることのできないものだからである。自身の内なる努力により、幾何をやり通さなければならず、ただ、魂のポジティブな活動によってのみ、幾何を修得できる。 (幾何学、数学に関しては、権威主義の入る余地が最も少ない。数学ができるかできないかは、教えられた知識とはあまり関係がなく、自らで発見した知識による。) 今日、この事に注意が払われていたなら、周囲を五月蝿く飛び回る哲学大系の多くは存在していなかっただろう。というのも、幾何学のような思考体系が打ち立てられるには、非常に多くのポジティブな働きがつぎ込まれたということに気づく人は、人間精神の創造的活動に対して敬意を払うということを学ぶからである。 ところが、例えば、ヘッケルの著書「世界の謎」を、それがどれほど苦心して作り出されたものかに思いを馳せることなく、読む人は、全く容易に新しい世界観へと至るが、魂の純粋にネガティブな状態から、知識を獲得することになる。 (主体的な知識獲得、或いは独自の発見がなければ、魂の向上には役に立たない。やらされるか、試験の為の勉強が、身に付かないのと同じことなのであろう。なぜなら、魂のなかに、発見に対する喜びがないからである。)
2008年08月10日
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では、ある人が他の人々からの影響や、外界からの印象を受け取るとき、当人に働きかけているものとは何なのか? 魂に絶えずポジティブな性格を与えているものが1つある。それは、現代人にとって、その発達(進化)段階に関わらず、人生の中で生じる、あらゆる状況、或いは関係を明らかにする健全な判断であり、合理的な検証である。 この反対が、健全な判断の喪失であり、ポジティブな性質による防御が破られるような形で、印象が受け取られる場合である。ある種の人間活動が、無意識の中に落ち込むとき、しばしば通常の判断が意識的に行使されているときよりも、強力な影響力を、人々に及ぼしている状況を観察できる。 不幸なことに、特に、人智学的運動にとって不幸だが、精神世界に関する事実が厳密に論理的な形態で、つまり、それ以外の生活領域においては、よく認知された形態で示されるとき、人々は、それから逃げ腰になる傾向がある。彼らは、そのような事実が原因と結果の合理的な関係において示されるのを、シックリとこないように思う。 一方、人智学的情報が、彼らの判断を喚起しないような形で伝えられるときには、遥かに容易に反応する。合理的な言葉で伝えられる精神世界についての情報には究めて疑り深い反面、漠然とした力によって吹き込まれた霊媒から聞いたことは、何でも信じ込む人たちさえいる。 自分が何を言っているのか知らず、自分が知っている以上のことをしゃべる、これらの霊媒たちは、自分が何を言っているのかを正確に知っている人たち以上に多くの信者たちを引きつける。少なくとも半意識状態にあり、明らかに何か別の力に捉えられている人でなければ(このように言われるのをよく耳にするが)、どうして精神世界のことを、我々に告げられるだろうか? これは、精神世界から引き出された事実を「意識的に」伝えることに反対する理由としてよく言われることである。健全な判断に基づき、合理的な言葉で伝えられる情報に注意を払うよりは、霊媒に走る方が遥かに一般的である理由が、これである。 精神世界に由来するものは何であれ、意識を排除された領域へと突き落とされるとき、魂のネガティブな性格に働きかける恐れがある。何故なら、このような性格は、意識下の暗い深みからの影響が、我々に迫るとき、いつでも前面に出てくるものだからである。 綿密な観察が示すように、比較的愚かな人物が、そのポジティブな性質のおかげで、知的人物に対し、もし、その知的人物が意識下の暗闇から現れる、あらゆるものに印象づけられやすい性格であれば、強い影響力を持つことがよくある。 こうして、何故、人生においては、繊細な心をもった人たちが、頑強な性格の人たち、その主張が自身の衝動と傾向だけから導き出されるような人たちの餌食になるようなことが起こるのかが理解できる。 (例えば、改革の中身や意味さえわからなくても、改革を信じて、改革と唱える者に、人々は影響されてしまう。数年前の熱に魘された小泉改革を思い出す。小泉改革は、単なる地域社会の破壊だけに終わった感がある。) この事に更に一歩踏み込むなら、ある顕著な事実に至る。単に、僅かな理性を見せないだけでなく、心の病に罹り、混乱した状態から湧き出るような言葉を口にする人について考えてみる。彼が病気だと気づかれない限り、繊細な性質を持った人に対し、普通ではない強い影響を及ぼすだろう。 (小泉総理は、一種の病気だったと気がつかれなかったので、異常な強い影響を及ぼした。いまから、考えてみれば、彼の言動全てが、理性を失ったものであることがわかる。人生いろいろ、自衛隊が行ったところが安全地域だとか、妄言病といえるようなものだった。) このような全ては人生の叡知に属している。ポジティブな性質を持った人間は道理に対して開かれず、一方、ネガティブなタイプの人間は、しばしば、自ら締め出すことのできないような非合理な影響に左右されやすい、というようなことに気づかない限り、正しく理解できない。緻密な心理学は、これらの事柄を考慮しなければならないだろう。
2008年08月07日
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もし、精神世界に貫き至ることを欲するなら、その経験の悪しき側面にも遭遇しやすくなる、ということを明確にしておかなければならない。ネガティブな性質をもって精神世界に接近するとき、同時に危険につぐ危険に脅かされることになる。 精神世界から目を移し、通常生活について考えてみる。例えば、菜食主義は、何故、人間を、ネガティブにするのか? もし、菜食主義が推奨されているからとか、或いは確かな判断もなく、ただ漠然と生活様式や行動様式を変えるというような、原則的問題として菜食主義者になるなら、ある条件下で、菜食は、ある身体的特徴の上に、その他の影響との関連で、深刻な弱体化をきたすような影響を及ぼすだろう。 しかし、もし、外の生活に発するような使命感からではなく、豊かに発達する魂生活から発する、新しい使命を含む、自主的な生活に入っているなら、食習慣における新しい路線を取ることも、以前の食習慣から生じる何らかの障害を取り除くことも、非常に有益となる。 (菜食生活には、精神生活の向上が求められる。ただ単に菜食主義になるのはよくないらしい) 物事は、異なる人々に対して、非常に異なった効果を及ぼす。だから、人智学の探求者は、ここで何度も強調されてきた、次のような事柄に固執する。 つまり、「人は新しい印象を受け取るために必要とされるネガティブな魂の性質を、ただ単純に育成し、内なる観照や内なる集中を発達させることに満足すべきではない。何故なら、新しい段階へと上昇すべき生活は、それを満たし、支えることができるほど十分に力強い内容をもたなければならないからである。 その事を明らかにすることなく、高次世界へと上昇する方法を、誰かに伝えることはできない。もし、精神世界を覗き見ることができる力の獲得方法を、単純に誰かに示すなら、その人間を、その種の努力につきもののネガティブな性質を通して、あらゆる種類の悪しき精神力に曝すことになる。 しかし、もし、彼が精神的探求者によって伝えられる高次世界について喜んで学ぶなら、彼は単にネガティブなままに止まることはないだろう。何故なら、彼は、高次段階にあるポジティブな内容を、魂に浸透できるようになるからである。 探求者は単に高次段階に向けて努力するだけでなく、同時に、人智学が伝える叡智を注意深く研究しなければならない、ということを、何度も強調する理由は、ここにある。新しい領域を経験すべき人は、それらに対して受容的であり、従ってネガティブでなければならない、という事実を、精神の探求者が考慮するのは、以上の理由による。」 意識的に魂の開発に乗り出すときに、呼び出すべきものを、通常生活の中で出会うような、様々な人々の中に見ることができる。それは、魂が、ただ現在の生活の中でのみ発達(進化)を遂げているのではなく、以前の生活の中での発達(進化)を経験した後(前世)、地上の存在状態に入るという決定的段階(現世)にあるからである。 現在の生活の中で、段階的に先に進むとき、丁度、ポジティブな段階に進むために、ネガティブな性格を獲得しなければならないように、おそらく、最後に死の門を通り、ポジティブ或いはネガティブな性格をもって、新しい生活に入ったときにも同様のことが起こる。 人間を、ポジティブな性格と共に人生へと送り出した意図は、現在、自らが位置する存在の場として取り残され、更なる発展(進化)へのブレーキとして働くだろう。何故なら、ポジティブな傾向とは明確に規定された(自身の)性格を形成するものだからである。 一方、死と新たな誕生の間に、多くのものを魂の中に受け入れるのを可能にするのは、正に、ネガティブな傾向なのである。しかし、それは、地上の生活における多くの偶然の出来事、特に他の人々が自分に投げかける印象にも曝す。だから、ネガティブなタイプの人間が、他の人々に出会うとき、その人々の性格が自らの上に刻印づけられるのが、よく見られる。 (前世の経験が、現世の人格を形成し、ポジティブ人間を形成するが、死後、霊界から多くの影響を受けた人は、現世でも、ネガティブ人間として、他者の性格に染まり易くなる) 彼が友人や好意的な関係にある誰かと親交を結ぶとき、自分が益々相手に似てくるのを、自身で感じることさえできるだろう。結婚や親密な友人関係の場合、筆跡さえ似てくる場合もある。それらを観察すれば、ネガティブな人の筆跡が本当に、その結婚相手の筆跡に益々似てくるのが分かる。 このように、ネガティブなタイプの人というのは他の人、特に親しい関係にある人の影響を受けやすい。だから、彼らはある一定の危険、つまり、自らを失い、自分たちの魂の生活や自我感覚が消されてしまう、という危険に曝されている。 ポジティブなタイプの人にとっての危険とは、他の人々からの印象を簡単には受け入れられず、彼らの特徴的性質の評価にしばしば失敗するため、彼は他全ての人の傍を通り過ぎ、誰とも友人関係や親しい交わりを築くことができないことである。だから、彼には、魂が硬化し、荒廃する危険がある。 人々を、そのポジティブ或いはネガティブな側面において考察するとき、人生に対する深い洞察が得られる。そして、これは人々が、周りの自然に対するときの様々な方法にも当てはまる。
2008年08月06日
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更に先に進む。これまでの講義のなかで、いかに魂が、精神生活において、高次の領域に自ら上昇できるかを見てきた。そして、著書「神秘学概論」の中では、魂が、この段階を追った上昇を達成するために、どのように自らを訓練する必要があるかが説かれている。最初、魂は、自らの中のポジティブな要素を抑制し、故意にネガティブな雰囲気にすることで、新しい印象に向けて、自らを開放する必要がある。 故意にネガティブにする以外に、進歩はできない。精神の探求者が、高次存在の段階への到達を望むなら、何を為すべきかについて、何度も説明してきた。通常は睡眠においてもたらされるような、魂が外の刺激を全く受容しない状態を、故意に、そして意識的に生じさせなければならない。つまり、魂が全く空になるように、全ての外の印象を締め出さなければならない。 そして、もし、初心者なら、彼にとって最初は全く新しいものに見える印象に向けて、魂を開く必要がある。この事は、彼が、自身をできるだけネガティブにしておかなければならない、ということを意味している。 神秘主義的な生活や、内なる観想、内なる瞑想と呼ぶ、高次世界の認識を、魂の中に生じさせるのは、基本的に、正にネガティブな雰囲気なのである。それは避けられないことである。 人間が外界からの印象全てを抑制し、完全に自身の中に沈潜すると同時に、以前は、自らのものであったポジティブな性格を消し去るような状況を意識的に達成するとき、彼はネガティブに、そして自身に没頭するようにならざるを得ない。 もっと容易で外的な方法を取るときにも、同様のことが起こる。この方法自体が、高次生活を導くことはないが、人間の上昇のための支えを与えてくれる。例えば、ポジティブな衝動を引き起こすような、ある動物性の食べ物から、特別な食事、すなわち野菜や野菜類の菜食に移行するとき、そのようなことが起こる。 確かに、菜食主義や菜食類を食べることにより、高次世界に上昇できるようになるわけではなく、菜食だけで、高次へと上りつめることができるなら、あまりに安易である。自身の魂への働きかけ以外に、高次へ連れていくことが可能なものは何もない。 しかし、栄養摂取における特別な形態がもつ、妨害的な影響を避けることにより、その働きかけを容易にすることはできる。高次の、精神的生活を送ろうと試みる人は、ある種の食習慣を採用することにより、力を高めることができることを容易に確信できる。 というのも、もし、彼が頑強でポジティブな要素を、彼の中に育てる傾向のある食物を遠ざけるならば、ネガティブな状態へともたらされることになるからである。 真の人智学の基盤の上に立ち、イカサマとは無縁の人であれば、真の精神的生活へと導く努力に実際に結びついた事柄を、たとえそれが外のものであったとしても、認めないということは、決してない。しかし、これは、悪しき精神的な影響に曝されることをも意味している。 人智学によって自分を教育し、日常的な印象を拭い去るとき、絶えず我々の周りにいる精神的事実や存在たちに、自身を開放する。確かに、その人の中の、適切な器官にも、良き瞑想者の中で展開するときに、最初に知覚すべき事を学べる、善き精神存在(力)や勢力がいるが、同時に悪しき精神存在(力)や勢力にも曝されることになる。 それは、丁度、調和のとれた音の調べを聞くためには、不調和な音にも、耳を傾け、また開かれる必要があるのと同じである。
2008年08月05日
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魂は、概念、感情、思考の混沌とした流れのものではなく、明確に区別すべき、三つの構成体をもっている。これら三つの構成体の内、第一の、最も低次のものを、以前、「感覚魂」と呼んだ。その基本的な姿を最もよく見ることができるのは、比較的低い発達(進化)段階にあり、完全に熱情や衝動、欲望や願望のままに生き、自分の内に生じる、あらゆる欲望や願望をひたすら追求する人間である。 このタイプの人間の中では、人間の魂の自意識的な核である自我が、熱情、欲望、共感と反感の波打つ海の中にあり、魂の中を、嵐が吹き抜ける度に、その影響を被る。そのような人間が、その性向に従うのは、当人がそれらを支配しているからではなく、それらが当人を支配しているからである。そのため、彼はあらゆる内なる要求に、そのはけ口を与える。彼の自我が、この波打つ欲望を超えて、自らを上昇させることは滅多にない。 魂が更に発達(進化)していくなら、自我が力強い中心点から働くことを、益々はっきりと見ることができる。 進化が進むに連れて、当然の成り行きとして、誰の内にもある魂の高次の部分が感覚魂に対して一定の支配力を獲得するようになる。この高次の部分を、以前、「悟性魂、或いは心魂」と呼んだ。 人間が、あらゆる性向や衝動に従うときにも絶えず、魂のなかに存在し、自我が、性向や欲望をコントロールし、当人が受け取る、絶えず変化する印象に、内なる生活における、ある一貫性を賦課し始めるときにだけ、効果的となるものが、魂の中に現れる。このように、この魂の第二の構成体、悟性魂が優位になるとき、人間に関する表象(イメージ)はより深いものになる。 次に、魂の最も高次の構成体、意識魂について、以前語った。意識魂では、自我が十全なる力強さをもって前面に出てくる。そのとき、内なる生活は外界に向かう。その概念的な表象(イメージ)や考えは、もはや、熱情をコントロールするために、魂のなかにあるのではない。何故なら、この段階において、魂の内なる生活の全体は、外界を映し出し、その認識を獲得するように、自我により導かれるからである。 この段階は、意識魂が魂の生活を支配するようになったことを示している。これら魂の三つの構成体はどの人間の内にも存在しているが、いずれの場合も、それらの内の1つが支配的になっている。 以前の講義では、魂は発達(進化)において、更に先に進むことができ、実際、もし、言葉の真の意味で人間であるなら、日常生活でさえも、先へと進まなければならない、ということを示した。 行動への動機が完全に外の要求に由来するような人間、ただ共感と反感のみによって行動へと駆り立てられるような人間は、内にある人間本性の真の性質に気づこうと努力しない。精神世界から導き出される、道徳的な考えや理想へと自身を上昇させるような人だけが、進化を達成する。 何故なら、新しい要素によって、魂の生活を豊かにするのは、精神世界から導かれる行為を行うことによるからである。(人はパンにのみ生きるのではなく、神の真実、つまり精神世界から導かれる行為により生きる。) 人間は、内なる存在によって、知られざる深みから、外界に刻印する何かを、引き出し、人生に持ち込むことができるからこそ、「歴史」を有する。同様に、もし、外(界)の経験を、ある考えに結びつけることができなければ、決して世界の秘密に関する真の認識に到達することはない。 ある考えを、自身の中にある精神から取り出し、外界に対置する。人間は、そうすることにより、外界を、その真の姿において把握し、説明できる。このように、我々の内なる存在に、精神的な要素を注ぎ込み、外界だけからは決して得られないような経験で、魂を豊かにする。 神秘主義に関する講義で述べたように、しばらくの間、外界の印象や刺激から、自身を切り離すことにより、つまり、魂を空にすると共に、通常は日常生活の絶え間ない経験により、打ち消されているが、今、炎へと燃え上がらせることができるような(マイスター・エックハルトが言う)小さな炎に没頭することによって、魂生活の、より高次の形態へと上昇できる。 この階級にある神秘家は、日常のレベルを超えた魂生活へと上昇する。つまり、神秘家は、魂の中に置いた存在のヴェールを、世界の神秘により、取り除くことによって、自身を、その世界の神秘の中に沈潜させる。 次に、もし、人間が、その世界の神秘を、静かに受容する態度で、未来を待ち受け、過去を振り返るにあたっては、日常生活において明らかになるようないかなるものよりも偉大なものが、自らの内にあることを感じるなら、その人は、祈りの中で、当人の上に聳え立つ、より偉大な存在を見上げざるを得ないようにさせられ、つまり、神秘家は、その神秘の中で、通常の生活を超越する存在に向けて、自身を超えて、内へと上昇するということを(その講義で)、見てきた。 そして、最後に、イマジネーション(霊視)、インスピレーション(霊聴)、インテュイション(霊人)という3つの段階を通じて、人間を導く、真の精神的訓練によって、光と色の世界が盲目の人には閉ざされているように普通の人々には、知られていない世界へと成長できるということを見てきた。 このように、人間は、通常レベルを超えて成長する魂を見ることによって、魂が限りなく多様な段階を経て発達(進化)していく様子を垣間見ることができる。 例えば、もし、周囲の人たちを見回してみるなら、彼らは究めて異なった発達(進化)段階にあるということが分かる。ある人は、自分の魂を、ある一定の段階にまで上昇させ、自分が獲得したものを、死の門を通って運んで行くことができる可能性をもつということを、その人生の中で示すだろう(病気の克服、治癒力)。 もし、人々が、ある段階から別の段階へと移っていく様子を研究するなら、ポジティブな性質とネガティブな性質という概念へと至るが、ある人がポジティブ、或いはネガティブであると言うことはできない。何故なら、人間は、発達(進化)段階に応じて、両方の特徴を示すからである。 ある人は、当初、最も強固で最も頑固な衝動を、感覚魂の中にもつかもしれない。そのとき、その人ははっきりとした衝動、熱情、欲望に駆られる一方、その人の自我中心は、比較的ボンヤリしたものにとどまり、しかも自分で、そのことに気がつかない。この時点で、その人は非常にポジティブで、ポジティブなタイプの人間として、その人生を追求する。 しかし、もしその状態にとどまるならば、その人は進歩することができない。その人は、その発達過程において、ポジティブな人間からネガティブな人間に変化しなければならない。何故なら、その人は、発達(進化)が要求するものが何であれ、その受容に向けて、開かれていなければならないからである。 もし、彼が、感覚魂の中のポジティブな性質を抑制し、そのことにより、新しい印象が流れ込むことができるように準備を行わないなら、つまり、もし、彼が自然に備わったポジティブな性質から抜け出し、ある種のネガティブな受容性を獲得できなければ、彼は、それ以上先に進むことができないだろう。 ここで、魂にとって必要とはいえ、危険の源泉ともなり得るもの、つまり、人生を安全に導くことができるのは、魂に関する親密な知識のみである、ということを、非常にはっきりと示すような存在に触れることになる。もし、魂の生活に影響を及ぼすような、ある種の危険から逃れようとするなら、人間は進歩できない、というのが実際なのである。 そして、ネガティブな人間にとって、外の印象の流れ込みに対し、そして、それらと一体になることに対して、開かれているために、この危険は絶えず存在する。この事は、当人がよい印象ばかりではなく、危険で悪い印象もまた取り込む、ということを意味している。 非常にネガティブな人間が、別の人間に出会うとき、簡単に我を忘れ、判断や理性とは何の関係もない、ありとあらゆることに聞き入り、その人間が言うことばかりではなく、行為にも影響を受ける。彼は、その人間に非常によく似てくるほどまでに、その行動やお手本を真似するだろう。そのような人物は確かによい影響に対して開かれているといえるが、あらゆる種類の悪い刺激にも応答し、それを自分のものにするという危険に曝されることにもなる。 もし、普通の生活から、周囲で活動する精神的事実や存在の本性を見ることが可能な水準へと上昇するなら、ネガティブな魂の性質を有する人間は、外(界)の生活においては、ほとんど認識できないような、曖昧で漠然とした印象からくる影響にとりわけ開かれている、と言わざるを得ない。 例えば、実際、人間が独りでいるときには、多人数の集団の中にいるときとは、かなり異なっている。その集団が活動的であるときには特に異なることがある。人間が独りでいるときには、自身の衝動に従い、たとえ弱い自我といえども、その活動の源泉を、自身の中に探求する。 しかし、多人数の集団の中では、一種の集団魂が存在し、そこにいる人たちに発する、あらゆる種類の衝動や欲望、評価が共に流れる。ポジティブな人間は、この集合的な実体に容易に、自分を明け渡すことはないが、ネガティブな人間は絶えず、その集団性に影響される。 だから、ローゼガーが書いた方言の詩の、わずかな言葉で表現した真実を何度でも経験できる。次のような言葉は乱暴だが、そこには核心以上の真実がある。 ひとりで人間 ふたりで皆の衆 もっといりゃあ畜生だ 人間は独りでいるとき、仲間といるときよりも賢い、ということに、しばしば気がつく。というのも、仲間といるときは、ほとんどいつでも、その場の支配的で、平均的雰囲気に左右されるからである。 このように、ある人は、はっきりとした考えや感情を持たずに集会に出かけ、以前は特に気にも留めなかった何らかの論点を、講演者が熱心に語るのを聴く。その人は、その講演者からは、その講演に応える聴衆の歓呼ほどには影響されないので、その歓呼にしっかりと心を掴まれ、全くの確信を持って家に帰ることになる。 この種の集団心理は人生において大変大きな役割を演じる。それはネガティブな魂が曝される危険、特に、党派主義の危険を示している。というのも、誰かに何かを確信させようとして失敗しても、もし、その誰かを党派やグループの影響下に置くことができるなら、その影響下に、魂から魂へと広がる集団心理が働くために、再び確信させるのに、比較的容易になるからである。ネガティブなタイプの人にとって、大いなる危険がここにある。
2008年08月04日
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なんでも無能総理が無能改造したという。まぁ、どうでもいいんだけどねぇ、そんなことは、そんなことより、物価や日韓関係をなんとかしろよ! というのが本音だけど。無能な連中に期待したって、馬鹿をみるだけなんで、無視してたんだがね。 国民から搾り取るだけしか能のない、無能連中だから、景気や先行き真っ暗闇だ! オリンピックでまた、恥曝さなきゃいいけどね。至上最低の成績だったら、無能総理の暗さのせいだろうな。 なんかテレビが改造、改造とあまりに五月蝿いから、無視するつもりでいたけど、ブログに書くことにした! 最後通牒だよ! 寝た子を起こすな!! 無能総理め!!! やりたくないことは断れよ! 皆迷惑しているんだ!! あなたが総理になってしまってね!! もう懲り懲りだよ。はやく辞めてくれ! ただそれっだけよ!! どんどん、人気を下げたいのなら、勝手にやってくれ、国民は付き合いきれないよ。 なんか報道でしつこくやってたが、顔ぶれまるっきり変わってねえだろ! 野田ぐらいだろ、はじめてやるのは? 無視、無視だね。 ♪しらけ鳥飛んで行く、永田町の暗闇にぃ、みじめ、みじめ、みじめって、昔、流行ったね。 はい、さいなら、さいなら、さいなら
2008年08月01日
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