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国会議事堂の周辺に多くの人が8月30日に集まった。安倍晋三政権が成立を目指している「安全保障関連法案」に反対する人びとで、主催者によると参加者数は12万人。圧力を感じて警察は車道を「開放」せざるをえなかったようだが、それでも発表の数字をできるだけ小さく見せたかったらしく、「警察関係者」は「国会周辺だけで」という限定付きで約3万3000人だとしている。官僚的な小賢しさを感じるが、3万人台に押さえろと言われていたのかもしれない。 これだけの抗議活動が行われる程度の健全性が日本には残っていることを示していると言えるだろうが、「この期に及んで」とも言える。日本の支配層はアメリカの支配層の命令に従って政策を打ち出しているわけで、「安保関連法案」もアメリカの戦略が生み出したもの。その戦略は、本ブログで何度も書いているように、1992年の初めに作成された「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。つまり、23年前に日本人も反応しなければならなかった。このドクトリンはソ連の消滅と深く関係している。 1985年にソ連書記長となったミハイル・ゴルバチョフは「牧歌的親欧米派」で、1990年に東西ドイツが統一される際、東へNATOを拡大させることはないとするジェームズ・ベーカー米国務長官の約束を信じた。このときのソ連外相は外交の素人だったエドゥアルド・シュワルナゼ。 1991年3月にロシアと8つの共和国(人口はソ連全体の93%)で行われた国民投票によると、76.4%がソ連の存続を望んでいた(Stephen F. Cohen, “Soviet Fates and Lost Alternatives,” Columbia University Press, 2009)のだが、同年7月にロシア大統領になったボリス・エリツィンはソ連解体を目論み、12月にウクライナのレオニード・クラフチュクやベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチとベロベーシの森で秘密会議を開いてソ連からの離脱を決めた。この時、クラフチュクとシュシケビッチは状況を把握できていなかったとも言われている。 エリツィンは一種のクーデターを実行したわけだが、その原因は1991年7月にロンドンで開かれたG7の首脳会談にある可能性が高い。エリツィンがロシア大統領になるのとほぼ同じ頃に開催されたこの会談で西側の首脳はゴルバチョフに対して巨大資本にとって都合の良いショック療法的な経済政策を強要、これにゴルバチョフは難色を示したのだ。その瞬間にゴルバチョフの排除は決まり、エリツィンのクーデターへつながった可能性が高い。 ソ連消滅を受け、1992年初頭にネオコン/シオニストを中心とするアメリカの好戦派は新たな世界制覇戦略を作成する。アメリカが「唯一の超大国」になったと考え、潜在的ライバルを潰そうとしたのである。その戦略は国防総省で作成されたDPGの草案としてまとめられ、「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。このドクトリンはアメリカ支配層の内部でも危険視されたようで、ニューヨーク・タイムズ紙などでも報道された。アメリカへ特派員を送り込んでいる日本のマスコミも当然、この危険なドクトリンは知っているはずであり、「安保関連法案」の議論でも取り上げねばならない。 潜在的ライバルには旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパや東アジアが含まれ、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアも支配するとしている。西南アジアはイスラエルの戦略とも密接に関係しているが、アメリカの「イスラエル第一派」であるネオコンは1980年代からイラクのサダム・フセイン体制打倒を主張していた。 そのドクトリンをベースにしてネオコン系シンクタンクPNACが作成、2000年に公表した報告書が「米国防の再構築」で、ジョージ・W・ブッシュ政権はその報告書に基づく政策を打ち出していく。バラク・オバマ政権もこの戦略に基づいて動いている。 ポール・ウォルフォウィッツ国防次官はドクトリンを作成する前、1991年にシリア、イラン、イラクを5年から10年で殲滅すると口にしていたという。これは欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の元最高司令官、ウェズリー・クラークの話。その年の1月にアメリカ軍がイギリス軍などを引き連れてイラクを攻撃したのだが、その際にジョージ・H・W・ブッシュ政権はフセイン体制を倒さずに停戦、ネオコンは怒って殲滅発言につながったわけだ。 1992年9月にはプリンストン大学の教授だったバーナード・ルイスが中東のレバノン化、つまり混乱した状態になることを暗示しているが、この人物はかつてイギリスの情報機関に所属したことがあり、イスラエルの好戦派を支持していることでも知られている。 アメリカ国防総省のONA(ネット評価室)で室長を務め、「ヨーダ」とも呼ばれているアンドリュー・マーシャルもルイスの弟子。ウォルフォウィッツ・ドクトリンを作成する際に助言した人物でもある。ズビグネフ・ブレジンスキーは「危機の弧」という概念を使ってソ連の脅威を煽っていたが、これもルイスのアイデア。 ウォルフォウィッツがイラク、シリア、イランを殲滅すると発言した10年後にニューヨークの世界貿易センター、そしてワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の周辺は、イラク、イラン、シリア、リビア、レバノン、ソマリア、スーダンを攻撃すると決めていたともクラークは話している。 日本では1994年に「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」が出されるが、これに満足できないマイケル・グリーンとパトリック・クローニンがカート・キャンベル国防次官補を介してジョセフ・ナイ国防次官補やエズラ・ボーゲルに会い、1995年の「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を作成する。これもウォルフォウィッツ・ドクトリンがベースになっていると見るべきだろう。 1997年には「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が作成され、99年には「周辺事態法」が成立、2000年にはナイとリチャード・アーミテージを中心とするグループが作成した「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けて(通称、アーミテージ報告)」、「9/11」をはさみ、2002年に小泉純一郎政権が「武力攻撃事態法案」を国会に提出、03年にはイラク特別措置法案を国会に提出、04年にアーミテージは自民党の中川秀直らに対して「憲法9条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」と言明、05年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が署名されて対象は世界へ拡大し、12年には、またアーミテージとナイが報告書を発表、そして「安保関連法案」につながる。 こうした動きに警鐘を鳴らす学者やジャーナリストは日本にもいたが、大半の学者、大手マスコミはそうした声を無視、多くの国民は事態の深刻さに気づかなかった。ウォルフォウィッツ・ドクトリンから23年の間、「専門家」たちは静観してきたのだ。同じドクトリンに基づいて行われている中東、北アフリカ、ユーゴスラビア、ウクライナの戦争の事実からも彼らは目を背けてきた。アメリカ批判を避けようとしているとしか思えない。 そうした戦闘でアメリカの好戦派はNATOを使うだけでなく、イスラエル、サウジアラビア、トルコなどと手を組み、「イスラム武装勢力」を編成して戦乱を演出してきた。アル・カイダやIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ダーイシュなどとも表記)とはそうした武装勢力だ。 アメリカはそうした戦争へ日本を引き込もうとしている。そのアメリカから最後の詰めを任された安倍首相が「王手」をかけた後、学者やマスコミは動き始めた。この段階では詰めを間違えるのを期待するしかなく、国民としては死に物狂いで抵抗するほかない。安倍が詰めに失敗すれば、「偽旗作戦」が行われる可能性もあるが、それに対する心構えも必要だ。
2015.08.31
今から92年前の9月1日、相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000名以上、損害総額は55億から100億円に達したという。復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断するのだが、それを引き受けられる相手はJPモルガンしかなかった。 1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていたのが井上準之助。同銀行を指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年2月には調印に漕ぎ着けている。東京市や横浜市の起債もJPモルガンに依存した。 その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。必然的にラモントが率いるJPモルガンの日本に対する影響力は絶大なものになった。 井上はウォール街と同じように「適者生存」を主張する人物で、最近の用語を使うならば、新自由主義的な政策を推進、庶民の世界では景気は悪化して失業者が急増し、農村では娘が売られるなど耐え難い「痛み」をもたらすことになった。こうした社会的弱者を切り捨てる政策が「テロ」を誘発したわけだ。 この当時、JPモルガンは政治の世界でもリーダー格で、イギリスの王立国際問題研究所(RIIA)のアメリカ支部とも言われる外交問題評議会(CFR)を管理していた。1930年代以降、CFRはロックフェラー系と見られるようになるが、その一因は1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とする勢力がフランクリン・ルーズベルト大統領の排除を目的としたクーデターを計画、スメドリー・バトラー少将の議会での証言で発覚したことにあるだろう。 JPモルガンを動かしていたのはラモントだが、そのラモントを使っていたのはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア。その結婚相手、ジェーン・ノートン・グルーはボストンの銀行家だったヘンリー・スタージス・グルーの娘。ジェーンのいとこにあたるジョセフ・グルーは1932年、つまりルーズベルトが大統領選で勝利し、井上準之助が暗殺された年に駐日大使として日本へ来ている。ジョセフの妻、アリスは大正(嘉仁)天皇が結婚した貞明皇后(九条節子)と華族女学校(女子学習院)の時代に親しくなっている。 関東大震災の直後、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」といった話がまことしやかに伝えられ、警察や軍隊の通信網で全国に広がった。根拠のない荒唐無稽な話だったのだが、この流言蜚語を信じた人々は各地で自警団を組織、数千人とも言われる朝鮮人や中国人が虐殺されたほか、東京の亀戸では警察署に連行された労働運動の活動家が殺されている。アナキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥でまだ7歳だった橘宗一とともに殺害されたのもこの時だ。 こうした残虐なことが行われた背後では警察など支配システムが動いていたが、「一般市民」の一部が実行したことも忘れてはならない。閉鎖空間の中で行われたわけでないため目撃者は多く、腹を切り裂いたり、焼き殺したとする証言もあるのだが、証言者の大半は鬼籍に入っている。そこで「虐殺はなかった」という妄想を口にする人も出て来たようだ。 地震が起こる前年、政府は「過激社会運動取締法」で権力への盲従を拒否する人びとの取り締まりを強化しようとしていた。その計画が地震で実行されたとも言えるだろう。地震の2年後には「治安維持法」が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙された。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕されている。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足した。 日本で大規模なコミュニスト弾圧が行われた前年、1927年の8月にアメリカではニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティが処刑されている。ふたりは1919年にボストン近郊で起こった現金輸送車襲撃未遂事件で懲役12ないし15年の刑が言い渡され、20年4月にマサチューセッツ州サウスブレーントリー駅近くで起こった強盗殺人事件で死刑が言い渡された。 ふたりは冤罪だった可能性がきわめて高いが、その冤罪を生み出した原因はアメリカにおける当時の政治経済状況にある。第1次世界大戦の後、アメリカでは街に失業者があふれ、ストライキやデモが続発していたのだ。 そうした中、アナキストのふたりが逮捕され、検察はふたりの思想を強調した。いずれの事件もふたりを有罪とするような証拠、証言はなく、1925年には別の事件で収監されていたセレスチーノ・マデイロスという男が「真犯人は自分たちだ」とする書面を提出しているが、裁判官は無視している。「アナーキストの犯罪」を処罰することが重要だった。 この当時、アメリカと日本は共鳴し合っているように見えるが、1933年に状況が大きく変わる。アメリカ大統領がJPモルガンと対立していたフランクリン・ルーズベルトに交代、33年から34年にかけていのクーデター計画も失敗してしまい、日本はそのルーズベルト政権と向き合わねばならなくなったのだ。そうした状況は1945年4月にルーズベルトが急死するまで続く。 第2次世界大戦で敗北した日本に厳しく対処すべきだと考える人は連合国内に少なくなかった。そこでアメリカ政府は急いで「天皇制」を維持する憲法を制定したのだろうと本ブログでは書いてきた。そうした中、日本をウォール街の支配下へおくためのプロジェクトが始まる。いわゆる「右旋回」だが、そのプロジェクトを実行するために編成されたのがジャパン・ロビーで、その中心にはジョセフ・グルーがいた。「戦後レジーム」と「戦前レジーム」の構造は基本的に同じだと言える。その象徴的な存在がグルーだ。
2015.08.30
1983年8月31日18時26分(UTC。日本時間9月1日3時26分)にサハリン上空で大韓航空の旅客機KAL-007がソ連の戦闘機に撃墜されたと言われている。この事件を利用して西側のメディアはソ連批判の大キャンペーンを展開したが、真相が明らかになったとは到底言えない。 この旅客機はニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港から韓国の金浦空港へ向かう予定で、中継地のアンカレッジを13時(UTC、以下同じ)に離陸、10分も経たないうちに航路からそれはじめ、民間機の飛行が許されていない「バッファー・ゾーン」へ向かった。14時34分に管制官と思われる人物が「警告しなければならない」と口にしたことが記録されている(アメリカ政府は「聞こえない」と言い張っていた)。15時過ぎには「飛行禁止ゾーン」へ侵入したはずだ。 NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)のアラスカ航空指揮規則によると、飛行禁止空域に迷い込みそうな航空機を発見した場合はすぐに接触を試み、FAA(連邦航空局)へ連絡しなければならないと定められている。 ところが、アメリカ軍は撃墜も予想される飛行禁止空域へ向かう民間機に対して何もアクションを起こしていない。アメリカ軍のスタッフが信じがたいほど怠慢だったのか、事前に飛行許可を受けていたのだろう。 バッファー・ゾーンと飛行禁止ゾーンを横断した航空機を15時51分頃、ソ連防空軍の早期警戒管制レーダーが捕捉している。その時、航空機の目前にはカムチャツカが迫り、近くではアメリカ軍の戦略偵察機RC135が飛行していた。そこで航空機は大きくSの字を描いてからソ連の領空を侵犯、重要な軍事基地の上空を飛行する。領空に侵入する際、ソ連側は航空機を10分足らずの間、見失っている。18時頃にはソ連軍が複数の要撃機を発進させた。 公表されたコックピットの会話を見ると、ソ連が戦闘機を緊急発進させた直後、旅客機のコックピットでは興味深い会話があった。【18時4分】税関を通過するのは、かなり複雑なことになりそうだ。【18時5分】まだ向かい風を受けている。 18時11分にソ連防空軍の司令部は要撃機に対し、ロックオン・モードにセットするよう命令。つまり撃墜の準備を始めた。すると・・・【18時11分】ドルから韓国の通貨にするのは大丈夫。 当時、韓国ではウォンをドルに替える際には制限があり、韓国人のクルーならドルのまま持っているのが自然だろう。また、KAL-007の到着予定時刻に金浦空港で通貨の交換はできなかった。 18時13分に要撃機は司令部に対し、ターゲットが呼びかけに応じないと報告、15分には司令部はターゲットと要撃機がスクリーンから消えたと発言した。そして17分、領空を侵犯したとして撃墜命令が出る。 19分には地上から強制着陸させるようにという命令があり、要撃機はロックオンを解除し、警告のために銃撃する。21分にミサイルの発射が命令されるが、22分に再びスクリーン上から航空機が消えてしまう。 18時23分に司令部は銃撃での破壊を命令するが、要撃機からミサイルを発射すると伝え、26分にターゲットを破壊した報告。その後、ターゲットは右へ螺旋を描きながら降下していると要撃機のパイロットは報告しているのだが、レーダーの記録では左へ旋回している。レーダーの記録が間違っているのか、パイロットが錯覚したのか、あるいはレーダーが記録していた航跡はパイロットが見ていた航空機のものではなかったということになるだろう。 少なくとも記録上、空中で分解、あるいは海面に突入する様子を誰も目撃していないだけでなく、事実上、遺体や遺留品が見つかっていない。遺体はタカアシガニが食べたとする説もあるのだが、それなら骨が残っているはずで、説得力は全くない。ソ連が回収したとする証拠もない。 1981年にロナルド・レーガンが大統領になってから、アメリカとソ連との間で軍事的な緊張が高まっていた。憲法の機能停止を目的としたCOGプロジェクトが秘密裏に始まり、ソ連を攻撃する口実に「民主化」を使うという「プロジェクト・デモクラシー」もスタートしているのだが、より直接的な軍事的挑発をレーガン政権は実行している。 例えば、1982年10月1日からスウェーデンでは国籍不明の潜水艦が侵入したとして大騒動になっているが、潜水艦は捕獲されず、根拠が曖昧なままソ連の潜水艦という印象だけが広まった。ノルウェーの研究者、オラ・ツナンデルによると、西側の潜水艦だった可能性が高い。 実は、10月8日にスウェーデンではアメリカに批判的だったオルオフ・パルメが首相として返り咲いている。潜水艦騒動はパルメの動きを縛ることになったが、それだけでなく、スウェーデン国民の意識も変化させている。つまり、1980年までソ連を脅威と考える人は国民の5〜10%に過ぎなかったのだが、事件後の83年には40%へ跳ね上がり、軍事予算の増額に賛成する国民も増える。1970年代には15〜20%が増額に賛成していただけだったが、事件後には約50%へ上昇しているのだ。(Ola Tunander, “The Secret War Against Sweden”, 2004)なお、パルメ首相は1986年2月28日、妻と映画を見終わって家に向かう途中、銃撃されて死亡している。 1982年11月には中曽根康弘が内閣総理大臣に就任、翌年の1月にはアメリカを訪問している。その際、中曽根はワシントン・ポスト紙のインタビューを受け、「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母(実際は巨大空母だったようだが、本質的な違いはない)とすべきだ」と発言、さらに「日本列島にある四つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と挑発した。 そして1983年の4月から5月にかけて、アメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で艦隊演習「フリーテックス83」を実施する。この演習には3空母、つまりエンタープライズ、ミッドウェー、コーラル・シーを中心とする機動部隊群が参加、演習では空母を飛び立った艦載機がエトロフ島に仮想攻撃をしかけ、志発島の上空に侵入して対地攻撃訓練を繰り返し、米ソ両軍は一触即発の状態になったと言われている。(田中賀朗著『大韓航空007便事件の真相』三一書房、1997年)この演習を日本のマスコミは無視した。 大韓航空機事件の直後、1983年11月にはNATO軍が軍事演習「エイブル・アーチャー83」を計画、核攻撃のシミュレーションも行われることになっていたのだが、これをソ連の情報機関KGBは「偽装演習」だと疑い、全面核戦争を仕掛けてくるのではないかと警戒している。
2015.08.29
中国は9月3日に「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」を祝う記念式典を開催する。1945年9月2日に政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦、ミズーリ号で降伏文書に調印、つまり日本の敗北が正式に決まった翌日を戦勝記念日としているわけで、「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれている声明の朗読が放送された8月15日を「終戦記念日」とか「終戦の日」と呼ぶ日本よりは理にかなっている。 本ブログでは何度も書いていることだが、1945年9月3日の時点でアメリカやイギリスの一部支配層はソ連との戦争を始めていた。この年の4月12日にフランクリン・ルーズベルト米大統領が執務中に急死、ホワイトハウスではニューディール派の力が急速に弱まってウォール街が実権を握ったことが大きいだろう。 5月7日にドイツ国防軍作戦部長だったアルフレート・ヨードル大将が降伏文書に調印すると、ウィンストン・チャーチル英首相は合同作戦本部(JPS)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出されている。この作戦によると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団はソ連を奇襲攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。これは参謀本部の反対で実行されていない。 中国ではコミュニストの紅軍と国民党軍が日本軍と戦っていたが、1944年9月の段階でソ連はコミュニストを支援しないと語っていた。1945年4月の段階でもヨシフ・スターリンらは蒋介石に好意を寄せていることを隠していない。その年の8月に結ばれた中ソ友好同盟条約に付属した覚書で、ソ連は精神的な支持と軍事的な援助を「中国の中央政府たる国民政府」に対してのみに与えると約束している。コミュニストに近かったのはルーズベルトだったが、そのルーズベルトは4月に急死している。 第2次世界大戦が終わって間もない時点における国民党軍と紅軍の兵力を比較すると、前者が430万人だったのに対し、後者は120万人強にすぎない。しかもアメリカは国民党軍に対して20億ドルの援助をするだけでなく、軍事顧問団も派遣していた。装備は国民党軍が最新装備だったのに対し、紅軍は日本軍から奪った旧式のもの。圧倒的に国民党軍が優勢だ。 ところが、1947年の夏になると、農民の支持を背景として人民解放軍(1947年3月に紅軍から改称)が勢力を拡大、兵力は国民党軍365万人に対して人民解放軍は280万人になっていた。1948年後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒、49年1月には解放軍が北京へ無血入城し、10月には中華人民共和国が成立する。 この間、アメリカは破壊工作部隊のOPC(この組織については何度も書いているので、今回は割愛する)が上海などを拠点にして活動していたが、人民解放軍が北京入りする前に拠点を日本へ移動させている。その中心がアメリカ海軍の厚木基地だった。ちなみに、1949年に日本では国鉄を舞台にした「怪事件」が起こり、左翼陣営に決定的なダメージを与えている。その事件とは、7月5日に発生した下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するが、その年の春先からアメリカは朝鮮半島で挑発作戦を実行していたと元特務機関員で戦後はCIAのエージェントだった中島辰次郎が証言している。 また、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というもので、「開戦」の2日前から韓国空軍は北側を空爆、地上軍は海州を占領している。 1950年10月にOPCはCIAの内部に潜り込み、翌年4月にはアレン・ダレスがCIA入りしている。そのダレスは1953年2月にCIA長官となった。ダレスがCIA入りした1951年4月、CIAの顧問団は約2000名の国民党軍を率いて中国領内へ侵攻を試み、翌年8月にも再度、軍事侵攻、この時は国境から約100キロメートルの地点まで進んでいる。その後、アメリカはベトナム戦争を始めるわけだが、朝鮮戦争もベトナム戦争も本当の敵は中国だったと考えるべきだろう。 アメリカ軍の内部にも好戦派はいて、1948年に「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、その翌年に出された統合参謀本部の研究報告ではソ連の70都市へ133発の原爆を落とす(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)ことになっていた。 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、こうしたグループは1957年初頭、ソ連に対する先制核攻撃計画をスタートさせ、1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定するつもりだった。そのころ、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。ソ連は中距離ミサイルで対抗するしかなく、そのためにアメリカとソ連はキューバに目をつけた。こうした計画を阻止したジョン・F・ケネディ大統領は好戦派が開戦を予定していた1963年の後半、11月22日にテキサス州ダラスで暗殺される。 勿論、今、アメリカがロシアや中国と戦争を始めたなら「大変なこと」になるが、だからといって、そうした戦争が起こらないことは意味しない。局地戦しか起こらないと考えるのは「希望的観測」だ。例えば、2006年にキール・リーバーとダリル・プレスは、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとする論文をフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)に書いている。
2015.08.28
イギリスの労働党を本来の姿に戻そうとしている人物がいる。ジェレミー・コルビンがその人で、党内で支持を集め始めた。それを懸念した労働党の幹部は党首選でコルビンに投票しそうなサポーターを粛清、つまり投票権を奪い始めたという。 トニー・ブレアの時代に労働党は組合との関係を断ち、強者総取りの新自由主義を導入したマーガレット・サッチャーの後を追った。そうしたことを可能にしたのはブレアに強力なスポンサー、イスラエルが存在していたからだ。 1975年に大学を卒業した直後に労働党へ入ったブレアは1983年の選挙で下院議員に選ばれ、影の雇用大臣を経て1992年には影の内務大臣に指名された。1994年1月には妻のチェリー・ブースと一緒にイスラエル政府の招待で同国を訪問、帰国してから2カ月後に彼はロンドンのイスラエル大使館で開かれたパーティーに出席、その時に全権公使だったギデオン・メイアーからマイケル・レビという富豪を紹介されている。その翌月、1994年4月には労働党の党首だったジョン・スミスが死亡、ブレアが後を引き継ぐことになった。そして1997年の総選挙で労働党は勝利、ブレアが首相になる。 イスラエル系富豪を資金源にするブレアは労働組合の資金を当てにする必要がなく、労働者の利益に反する政策を打ち出した。彼の掲げた「第三の道」とは、「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家路線でもサッチャー保守党政権が進めた新自由主義的な路線でもない道を歩むと言う意味だったが、実際はサッチャーの路線を継承することになった。外交面では親イスラエル政策を推進する。これはブレアの資金ルートを考えれば当然だろう。こうしたブレアの路線を持て囃す人たちが日本にはいた。 もともとイギリスの労働党はイスラエルと友好的な関係にあったのだが、1980年代に関係が悪化する。1982年1月にイスラエルのアリエル・シャロン国防相はベイルートでキリスト教勢力と秘密会談、さらにペルシャ湾岸産油国の国防相とも秘密裏に会合を開き、イスラエルがレバノンへ軍事侵攻してPLOを破壊してもアラブ諸国は軍事行動をとらず、石油などでアメリカを制裁しないことを決め、アメリカへ通告したという。 その年の6月にイスラエルはレバノンへ軍事侵攻し、1万数千人の市民を虐殺する。フィリップ・ハビブ米特使の仲介で停戦が実現、イスラエル軍とPLOはレバノンから撤退し、9月12日には国際監視軍も引き揚げるのだが、その2日後にファランジスト党のバシール・ジェマイエル党首が爆殺され、その報復だとしてファランジスト党のメンバーがイスラエル軍の支援を受けながら無防備のサブラとシャティーラ、両キャンプへ軍事侵攻、その際に数百人、あるいは3000人以上の難民を虐殺している。その結果、イスラエルの責任を問う声がイギリス労働党の内部でも大きくなり、関係が悪化したわけだ。 ブレアはイスラエルだけでなく、メディアの支援も受けていた。1983年にメディア界に君臨していた親イスラエル派のルパート・マードックやジェームズ・ゴールドスミスがロナルド・レーガン米大統領と会談、「BAP(後継世代のための米英プロジェクト)」を組織したのだが、その特徴はメディア関係者が多く参加していたということ。そのため、この団体に関する情報をメディアはほとんど伝えていない。 2003年にアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はイギリスなどを引き連れてイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を破壊し、100万人とも言われるイラク国民を殺している。攻撃の前にブレアとブッシュの話し合った内容を示す数十の文書が存在するのだが、その公開をアメリカ政府は拒否している。 このイラク攻撃は1991年、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ政権が湾岸戦争でフセイン体制を倒さなかったことに激怒したネオコン/シオニストのポール・ウォルフォウィッツが予告していた。ヨーロッパ連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の最高司令官を経験しているウェズリー・クラークによると、ウォルフォウィッツは1991年の時点でイラク、イラン、シリアを殲滅すると語っていたのだ。 その直後、1991年12月にはソ連が消滅、ネオコンはアメリカが唯一の超大国になったと認識、潜在的なライバルを潰すという戦略を打ち出す。それを形にしたものが国防総省で作成されたDPGの草案、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。旧ソ連圏は勿論、西ヨーロッパ、東アジアなどがライバルに成長することを防ぎ、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアも支配するとしている。そのドクトリンをベースにしてネオコン系シンクタンクPNACが作成、2000年に公表した報告書が「米国防の再構築」で、ジョージ・W・ブッシュ政権はその報告書に基づく政策を打ち出していく。 安倍晋三政権が成立を目指している「安全保障関連法案」も「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」に基づいている。つまり、1995年に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」から始まり、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、2000年の「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けて(アーミテージ報告)」と続く。 2001年の「9/11」を経て02年には小泉純一郎政権が「武力攻撃事態法案」を国会に提出、03年にはイラク特別措置法案が国会に提出され、04年にアーミテージは自民党の中川秀直らに対して「憲法9条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」と言明し、05年には「日米同盟:未来のための変革と再編」、そして12年には「日米同盟:アジアにおける安定性の定着」。そして「安全保障関連法案」だ。少なくとも「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」の意味を理解しなければ、安倍政権の政策も理解できないということでもある。 1992年の時点でネオコンは世界制覇をほぼ実現、自分たちが支配者として世界に君臨できると信じたのだろうが、その夢想を揺るがしているのがウラジミル・プーチン。ここにきて彼らはズビグネフ・ブレジンスキー一派と手を組んでロシア殲滅へ舵を切った。必然的に中国も敵に回すことになり、中露が脅しに屈しなければ、全面核戦争になる可能性が高まる。その暴走を止めようとする動きも見られるが、成功するかどうかは不明。言うまでもなく、安倍政権は好戦派の手下だ。
2015.08.27
中国の天津にある工場で爆発があり、多くの死傷者が出たようだが、その爆発が通常では考えられないほど大きなものだったことから、小型の戦術核兵器が使われたという説が流れ始めた。爆発の後にクレーターができていることも核兵器説の根拠になっている。 爆発は現地時間で23時34分06秒と23時34分36秒の2度あり、衝撃波が届いた範囲は最初が半径3キロメートル、2度目が半径10キロメートルだったとされている。また、焼失した面積は2万平方メートルに及び、半径5キロ以内の住民は避難したようだ。 イエメンでも使われた可能性があることは本ブログでも紹介した。この場合、CCDカメラに画素が輝く現象(シンチレーション)があり、ほかの事実と合わせると核兵器が使われたと推測できるということだった。2013年5月や14年12月にシリアでも同じような爆発があり、これもそうだろと言われている。天津での爆発でシンチレーションは確認されていないが、その他の状況証拠は核爆発を疑わせる。 2003年にアメリカがイギリスなどを率いてイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を倒した。その後、ファルージャでは住民の間で放射能による障害が多発、劣化ウラン弾によるものだとされているが、調査の過程で濃縮ウランが発見され、これまで知られていないような兵器が使われていた可能性が出てきた。ウルスター大学のクリストファー・バスビー教授によると、2006年7月にイスラエル軍がレバノンに軍事侵攻した後、レバノンやガザでも濃縮ウランが検出されたほか、アフガニスタンでも同じ兵器が使われ、バルカン半島でも使用された可能性があるようだ。 ソ連消滅直後の1992年初頭にアメリカ国防総省で作成されたDPGの草案では、ソ連というライバルが消滅したことを受け、潜在的なライバルを潰すという方針を示している。つまり西ヨーロッパ、旧ソ連圏、東アジア、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアが自立することは許さないということ。 この草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニー、執筆はポール・ウォルフォウィッツ国防次官が中心だった。そこで、このDPGは「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。国防総省のシンクタンクONA(ネット評価室)で室長を務め、「ヨーダ」とも呼ばれていた親イスラエル派のアンドリュー・マーシャルが助言していた。 このDPGが作成された頃、ロシアのボリス・エリツィン大統領は西側の傀儡で、ロシアはアメリカの属国。そこで中国を最も警戒する国だと考えるようになり、マーシャルは中国脅威論を叫んでいた。ジョージ・W・ブッシュも大統領に就任した直後、中国脅威論を展開している。 ところが、その後、ウラジミル・プーチンがロシアを再独立化、中国と手を組んでドルを中心とする経済システムを脅かす存在になってきた。ドルが基軸通貨の地位から陥落すれば、アメリカを中心とする支配システムは崩壊する。 アメリカの好戦派、つまりネオコン/シオニスト、戦争ビジネス、人道的軍事介入派、ズビグネフ・ブレジンスキー系の嫌ソ/嫌露派は力尽くでロシアや中国をねじ伏せようとしている。現在、シリアやウクライナで戦争になっているが、好戦派が東アジアへ戦火を拡大させても不思議ではない。 2006年にキール・リーバーとダリル・プレスは、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとする論文をフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)に書いているが、アメリカの好戦派はそう考えていたのだろう。 その2年後、ジョージア(グルジア)の大統領だったミヘイル・サーカシビリは南オセチアを奇襲攻撃させる。当時、ジョージアはイスラエルとアメリカから武器を提供され、兵士は訓練を受けていた。イスラエルやアメリカの強い影響下にあったサーカシビリが独断で軍事作戦を行うとは考えられず、作戦はイスラエルが練った推測する人もいるのだが、ロシア軍の反撃でグルジア軍は惨敗してしまった。 フォーリン・アフェアー誌にリーバーとプレスの論文が出る前年、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュはニューヨーカー誌で、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの「三国同盟」がシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始した書いている。 その前年、イラクで活動していたアル・カイダ系武装集団のAQIが中心になってISIが編成され、今ではIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ダーイシュなどとも表記する)と呼ばれている。 1992年以降、アメリカの好戦派は世界制覇プロジェクトを開始、つまり戦争を始めている。当初の計画では潜在的ライバルを叩き、エネルギー資源などを支配するだけのつもりだったのだろうが、ロシアが再独立、中国も思い通りにならず、両国を中心にBRICSやSCOといったグループが作られてきた。ウォルフォウィッツ・ドクトリンを生み出し、世界制覇を狙っている勢力はロシアと中国を必死に倒そうとしている。アメリカが両国に経済力で勝つことは困難であり、別の手段を講じなければならない。
2015.08.26
シリアをめぐって興味深い動きがある。イスラエルのF-16戦闘機が地対空ミサイル・システムのS-300に撃墜されたという話が流れているだけでなく、ロシアがシリアへ6機のミグ-31要撃戦闘機を引き渡し、衛星写真を提供し始めた模様。その一方、NATOがトルコに設置し、IS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ダーイシュなどとも表記)やアル・カイダ系武装集団を守る形になっていたパトリオット・ミサイルが撤収され、イスラエル沖にいたアメリカのイージス艦2隻が消えたというのだ。ロシア政府がシリア政府支援を強化、アメリカがイスラエルやISとの距離を取り始めたと言えるだろう。 少なくとも半年前までISはNATOから衛星写真の提供を受け、シリア軍の動きをリアル・タイムで把握していたと言われている。そうした写真を含む書類の入ったブリーフ・ケースをシリア軍が回収した際、そのケースをイスラエル軍が空爆で破壊したともいう。2013年1月30日の夜明け頃、4機のイスラエル軍戦闘機が超低空飛行でシリア領空に侵入て首都ダマスカスの近くにある軍事研究センターを攻撃したのがそれ。 この攻撃に対し、ロシア軍は「最速の要撃機」と言われているミグ31を発信させ、シナイ半島を横断してイスラエルの方向へ飛行、途中で西に転回して地中海に出ることでイスラエルを牽制している。その時、地中海には18隻で編成されたロシア軍の艦隊が待機していた。そのミグ31をロシアはシリアへ提供したわけだ。 現在、アメリカはフランス、イギリス、ベルギー、カナダ、そしてトルコと共同してインシルリク基地を拠点にしてISを空爆しているというが、ISのスポンサーであるトルコ政府は作戦計画をISへ知らせ、空爆の効果はあまりないと言われている。勿論、ほかの参加国もそうした事情を熟知しているはず。 そうした中、アメリカが情報の提供を止め、トルコに配備していたパトリオット・ミサイルを撤収、イージス艦をイスラエル沖から移動させたわけで、ロシア軍によるIS攻撃を支援する意味があると言われている。そうなると、あくまでもISをシリア攻撃の駒と認識しているトルコやイスラエルとの関係は微妙になる。 そのトルコはウクライナでアメリカの好戦派が行っている軍事作戦にも関与しはじめている。本ブログでは何度か書いたが、8月1日にウクライナの外相、トルコの副首相、そしてタタール人の反ロシア派代表がトルコのアンカラで会い、タタール人、チェチェン人、ジョージア(グルジア)人などで「国際イスラム旅団」を編成してクリミアの近くに拠点を作ることで合意したとされている。ネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)の部隊や既存の傭兵だけでは足りないということだろう。 ウクライナを乗っ取り、ロシアを殲滅しようと考えているのはネオコンやズビグネフ・ブレジンスキーの一派。ボリス・エリツィンというアメリカの傀儡を使ってロシアを属国にし、2004年から05年にかけての「オレンジ革命」でウクライナを乗っ取ることに成功したが、いずれも途中で挫折、ロシアの場合は再独立してしまう。そこで、軍事力による脅し、あるいは制圧に切り替えた。 アメリカ支配層の一部は中東でISをたたき始めたが、殲滅しようとは考えていない。制御しようとしているにすぎず、戦闘員をウクライナへ移動させてロシアと戦わせようとも目論んでいるだろう。そうなる前にISを叩きつぶそうとしているロシアとは思惑が違う。つまり同床異夢だが、とりあえずはアメリカの一部支配層がロシアとISの問題で手を組んだ。11月に予定されているトルコの総選挙次第では状況がさらに大きく変化する可能性がある。
2015.08.25
IS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ダーイシュなどとも表記)がイラクのモスル周辺で盗掘した石油が日本へ運ばれているという情報がある。本ブログでは何度も書いているように、ISの兵站を支えているのはトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領で、ISの石油を扱っているのは大統領の息子であるビラル・エルドアンだとされている。 ジャーナリストのウィリアム・イングダールによると、密輸石油を扱っているのはこの息子が所有する海運会社のひとつであるBMZ社で、レバノンのベイルートやトルコ南部のジェイハンにある秘密の埠頭から日本へ向かうタンカーで運んでいるという。兵站の調達や運送を含む経費をこの石油密輸で生み出しているようだ。また、戦闘で負傷したISの兵士を治療している秘密の病院を運営しているのは大統領の娘であるスメイー・エルドアンだと病院で働いていた看護師は語っている。 新たなオスマン・トルコを建設するという妄想を抱くエルドアン大統領の行動をアメリカ、イスラエル、イスラエルが容認してきた最大の理由は、シリアのバシャール・アル・アサド体制を倒すという目的に合致しているからである。イスラエル第一のネオコン/シオニストは1980年代にイラクの体制転覆を主張していたが、1991年にはネオコンのポール・ウォルフォウィッツがイラク、シリア、イランを殲滅すると口にしている。 その当時、国防次官だったウォルフォウィッツが中心になり、1992年には国防総省の内部でDPGが作成されている。いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。1991年12月にソ連が消滅してライバルがいなくなるとネオコンはアメリカが「唯一の超大国」になったと認識、潜在的なライバルを潰して覇権を確たるものにするためのプロジェクトを始める。西ヨーロッパ、東アジア、旧ソ連圏などがライバルに成長することを防ぐことを目的にしているが、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアも支配の対象にしている。 ソ連消滅後、アメリカは東アジアを重視する姿勢を見せるが、その理由はロシアを属国化したという安心感にある。次は中国ということだ。中国を屈服させ、略奪するため、当然、拠点として日本が利用されることになる。 ウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成された1992年には「PKO法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)」が公布/施行され、94年には細川護煕政権の諮問機関「防衛問題懇談会」が「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書を発表したが、国防大学のスタッフだったマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはその内容に満足できず、友人のカート・キャンベル国防次官補を説得してジョセフ・ナイ国防次官補らに彼らの考えを売り込んだという。そして1995年に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が発表される。 その後、日本をアメリカの戦争マシーンへ組み込む作業が続き、安倍晋三政権の「安全保障関連法案」につながる。6月1日、安倍晋三首相は官邸記者クラブのキャップとの懇親会で、「安全保障法制」は「南シナ海の中国が相手」だと口にしたという。 2000年にネオコン系シンクタンクのPNACは1992年のDPGをベースにして「米国防の再構築」という報告書を公表、東アジアの重要性を謳い、2001年から始まるジョージ・W・ブッシュ政権はその報告書に基づく政策を打ち出していった。そうした中、9月11日にニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃される。そして、この攻撃と全く関係ないイラクを「大量破壊兵器」という嘘を口実にしてアメリカは先制攻撃する。勿論、イラクはウォルフォウィッツが殲滅すると語っていた3カ国のひとつだ。 9/11から間もないころ、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の周辺では攻撃予定国リストが作成され、そこにはイラク、イラン、シリア、リビア、レバノン、ソマリア、スーダンが載っていたという。ウォルフォウィッツが挙げた3カ国のほか、リビアなど4カ国がプラスされている。 調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは2007年3月5日付けニューヨーカー誌で、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの「三国同盟」がシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始した書いている。工作の中心にはリチャード・チェイニー米副大統領、ネオコンのエリオット・エイブラムズ国家安全保障問題担当次席補佐官、ザルメイ・ハリルザド、そしてサウジアラビアのバンダル・ビン・スルタンがいるとしている。 リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制がNATOとアル・カイダ系のLIFGによって倒されたことは本ブログで何度も書いてきた。この後、戦闘員と武器の多くはシリアへ移動、現在に至っている。その間、ISが登場してくるが、本質的な変化はない。ただ、リビアの経験からロシアはアメリカが信頼できない国だということを学び、シリアでは同じ間違いを犯さないだろう。
2015.08.24
シリア領内を爆撃していたイスラエルのF-16戦闘機をシリアのS-300(SA-10)が撃墜したという。これは1979年から実戦配備されている防空システムで、そのレーダーは同時に100の目標を追跡できると言われている。イスラエルは以前からこのシステムを恐れ、シリアへ引き渡せば破壊するとロシアを脅していた。今回の報道が正しければ、すでにシリアでも実戦配備され、ロシアから使用許可が出ていたということになる。 シリアがS-300を使用できるということになると、トルコからシリア領内へ延びているIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)への兵站ラインを守っているトルコ軍のF-16も撃ち落とされる可能性がある。この兵站ラインの存在は有名な話で、ドイツのメディアDWも昨年11月に、トルコからシリアへ武器、戦闘員、食糧、衣類などがトラックで運び込まれていることを伝えている。 兵站が戦争の勝敗を決する重要な要素だということは、勿論、アメリカも熟知している。かつて、ベトナム戦争では北ベトナムの兵站線(ホー・チミン・ルート)を断つためにカンボジアやラオスを「秘密爆撃」し、枯れ葉剤も使用された。その当時、カンボジアやラオスとアメリカは戦争状態にないことになっていた。 1969年3月から70年5月にかけてアメリカ軍はカンボジアを3600回から3900回にわたって空爆、60万人を殺し、爆撃による病死者や餓死者は100万人とも200万人とも推計されている。クメール・ルージュ(ポル・ポト派)を台頭させる大きな原因はこの爆撃にあった。そのクメール・ルージュが1975年4月から78年にかけて処刑した人の数は7万5000名から15万名と言われている。 また、ベトナム戦争ではCIAが特殊部隊と共同で展開、「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画されたプログラム」だとされているフェニックス・プログラムも兵站がひとつのファクターだった可能性がある。物資の供給源になっていると見なされた村の住民が皆殺しにされたのではないか、ということだ。ウィリアム・コルビーCIA長官の議会証言によると、1968年8月から71年5月までにこの作戦で殺されたベトナム市民は2万0587名。別の推計では4万1000名近くが殺害されたという。 コルビーが示した期間より前、1968年3月にソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で住民がウィリアム・カリー大尉の部隊に虐殺されている。いわゆる「ソンミ事件」だ。ミ・ライ地区だけで347人、ベトナム側の主張ではミ・ライ地区とミ・ケ地区を合わせて504人だという。この虐殺もフェニックス・プログラムの一環だったと言われている。 アメリカは敵の兵站を叩くためには手段を選ばないということだが、ISの兵站を叩こうとはしていない。本ブログでは何度も書いているように、アル・カイダ系武装集団やISはアメリカ、イスラエル、サウジアラビア、トルコなどの傭兵だからだ。最近はトルコとの関係が強い。 イスラム武装勢力が名前を頻繁に変え、黒幕が変化してくる理由をロビン・クック元英外相が明らかにしている。クックによると、アル・カイダとはCIAに雇われて訓練を受けた数千人におよぶ「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイル。アル・カイダとはアラビア語で「ベース」、「データベース」という意味でも使われる。要するにアル・カイダとは「派遣戦闘員」であり、派遣先によって名称や雇い主は違うということ。この指摘をした次の月にクックは保養先のスコットランドで心臓発作に襲われ、急死した。享年59歳。 このアル・カイダ/ISをイスラエル政府も敵視していない。例えば、2013年9月に駐米イスラエル大使だったマイケル・オーレンは公然とシリアのバシャール・アル・アサド体制よりアル・カイダの方がましだとエルサレム・ポスト紙のインタビューで語っているこのオーレンはベンヤミン・ネタニヤフ首相の側近だ。
2015.08.23
ニューヨークのダウ工業株30種平均が大きく値下がりした。8月17日には1万7545ドル18セントだったが、18日は前日比33ドル84セント安、19日は162ドル61セント安、20日は358ドル04セント安、21日には530ドル94セント安の1万6459ドル75セントだ。この間、1085ドル43セント安、比率にすると6.19%の下落ということになる。 相場を動かしているのは売り注文と買い注文の綱引きだが、そうした綱引きの力関係を何が決めていたかを庶民が知ることは難しい。マスコミの場合、大半は証券業者などが行う「レクチャー」を垂れ流していることが多く、業者の利害、政府の思惑などが反映されているので、信用しない方が無難だ。 ただ、ここにきて経済状況が悪化していることは確か。西側メディアは中国の経済鈍化、元の切り下げなどに目を向けさせているが、それ以上に深刻な事態になっているのがアメリカのシェール・ガス/オイル業者。16日にも書いたことだが、1年前に1バーレルあたり約100ドルだったWTI原油価格が40ドル近くへ値下がりし、採算はとれていないはず。軒並み倒産しても不思議ではないのだが、ゼロ金利政策で経営破綻が表面化していないだけだとも言われている。つまり、関係者は9月に連邦準備制度理事会が金利をどうするかを見守っている。 ネオコン/シオニストやズビグネフ・ブレジンスキーの仲間をはじめとするアメリカの好戦派がウクライナで戦争の準備を進めていることも懸念材料だ。この勢力は2004年から05年にかけて「オレンジ革命」を実行、西側の巨大資本に操られていたビクトル・ユシチェンコを大統領に据えている。 ウクライナでは2004年11月に大統領選挙があり、東部や南部、つまりロシア語を話す住民が多い地域を地盤にするビクトル・ヤヌコビッチが勝利したのだが、ユシチェンコ陣営が選挙の不正を主張してデモを展開、政府施設を包囲するなどして混乱を演出した。それと並行してメディアがプロパガンダを繰り広げ、最高裁の決定で同年12月に再選挙が行われてユシチェンコが勝ったわけである。 この手法を考えたのはジーン・シャープなる学者。その研究結果をアメリカの政府や情報機関が戦術に作り替え、1989年に中国で試されている。趙紫陽を支持する若者を親米派と結びつけて行われた「天安門事件」だ。混乱が始まった直後、中国政府はシャープを拘束、国外追放にしている。事前に計画を察知していたのだろう。 この事件に関する西側の報道が事実に反していることは西側メディアの内部からも指摘されていたが、後にWikiLeaksが公表した文書でも確認されている。昨年、香港で行われた「オキュパイ・セントラル(佔領中環)」と称する抗議行動も構図は似ている。 シャープの研究はイスラエル陸軍のレウベン・ガル大佐やRANDコーポレーションが発展させ、2003年にジョージア(グルジア)で実行されたバラ革命やウクライナのオレンジ革命など「カラー革命」につながっている。 しかし、バラ革命もオレンジ革命も挫折する。西側資本の命令で新自由主義を導入した結果、貧富の差が極度に広がって経済は破綻、社会システムも破壊されて人心の離れたことが大きい。 そこでネオコンやブレジンスキー派は暴力を全面に出してくる。彼らはネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を使い、昨年2月にクーデターを成功させたのだ。勿論、憲法の規定などは無視されているが、このクーデターを日本の一部「護憲派」が支持していたのは滑稽だった。 ところが、東部や南部では住民側の反撃でウクライナ全域を支配することに失敗する。ネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)の暴力を使い、反クーデター派の住民を虐殺して民族浄化が行われたのだが、思惑通りには進まなかったわけだ。そこでネオコンやブレジンスキー派は停戦期間を利用して態勢の立て直しを図る。この間、傭兵会社のメンバーが送り込まれ、FBI、CIA、軍がウクライナへ入ってネオ・ナチなどを訓練している。 また、ウクライナではすでに人心が離反しているため、外部から戦闘集団を入れる動きがある。例えば、ウクライナの外相、トルコの副首相、そしてタタール人の反ロシア派代表が8月1日にトルコのアンカラで会い、タタール人、チェチェン人、ジョージア(グルジア)人などで「国際イスラム旅団」を編成してクリミアの近くに拠点を作ることで合意しているという。 こうした戦闘集団が東部や南部を攻撃し始めた場合、状況によってはNATO軍とロシア軍との衝突もありえる。そうなった場合、勿論、「戦争で大企業が儲かる」という次元の話ではなくなる。短期間でロシア占領、略奪が実現できなかった場合、アメリカを中心とする支配システムも終焉を迎えるだろう。
2015.08.23
朝鮮軍が5月20日午後3時52分(現地時間)に韓国軍が設置しているプロパガンダ用のラウドスピーカーを砲撃したと韓国政府が発表したのに対し、朝鮮の慈成男国連大使は砲撃を否定している。朝鮮側は米韓合同演習を挑発だとして、19日には国連へ安全保障理事会の緊急会合を開くように求める書簡を出していたともいう。 それに対し、韓国の崔潤喜合同参謀本部議長はアメリカのマーティン・デンプシー統合参謀本部議長と電話で会談、さらなる朝鮮からの軍事行動があれば報復することで合意したと語っている。あくまでも砲撃は事実だという立場だ。 挑発行為だと朝鮮が主張している韓国軍のプロパガンダ放送再開は8月10日に決定されているが、その原因は8月4日の出来事にあるようだ。その日、非武装地帯をパトロールしていた韓国軍の兵士が対人地雷と見られる爆発物のために重傷を負ったことへの報復だとしている。後に韓国側は木製の爆発物を朝鮮側がパトロールのルートに設置していたとしているが、事実かどうかは不明。また、非武装地帯に朝鮮戦争時代に埋められた地雷があるのだが、パトロール兵は地雷の探知機を持っていなかったという。 確かに今回の出来事では韓国側の主張が一方的に流れ、事実として広まったのだが、それが正しいかどうかは確認されていない。朝鮮は19日の時点で国連に緊急会合の開催を求めているようなので、少なくともトップが軍事的な行動を決断したとは思いにくい。朝鮮の一部が暴走したか、韓国側が嘘をついているかの可能性が高いだろう。 朝鮮半島では2010年にも砲撃事件があった。2009年10月に朝鮮は韓国の領海侵犯を非難、11月には韓国海軍の艦艇と朝鮮の警備艇が交戦して軍事的な緊張が高まる中、10年3月にアメリカと韓国は合同軍事演習「フォール・イーグル」を実施した。両国軍は高度の警戒態勢に入っていたはずだが、そうした中、韓国軍の哨戒艦が南北で境界線の確定していない海域で沈没している。 当初、国防大臣も国家情報院長も朝鮮が関与した証拠はないと発表していたのだが、5月になると韓国政府は沈没の原因を朝鮮軍の魚雷攻撃にあると主張し始めるのだが、すぐに疑問が投げかけられている。 例えば、アメリカのロサンゼルス・タイムズ紙はこの発表に疑問を投げかける記事を掲載している。(1) なぜ「朝鮮犯行説」を沈没から2カ月後、選挙の直前に発表したのか、(2) 米韓両軍が警戒態勢にある中、朝鮮の潜水艦が侵入して哨戒艦を撃沈させたうえ、姿を見られずに現場から離れることができるのか、(3) 犠牲になった兵士の死因は溺死で、死体には爆破の影響が見られないのはなぜか、(4) 爆発があったにもかかわらず近くに死んだ魚を発見できないのはなぜか、(5) 調査団の内部で座礁説を唱えていた人物を追放したのはなぜかといった具合だ。CIAの元高官で駐韓大使も務めたドナルド・グレッグもこの朝鮮犯行説に疑問を投げかけている。 そして11月には問題の海域で米韓は軍事演習「ホグク(護国)」を実施、アメリカの第31MEU(海兵隊遠征隊)や第7空軍が参加したと言われている。そして朝鮮軍の大延坪島砲撃につながる。 今回の事件も結論を出す前に慎重な調査が必要だ。
2015.08.22
アメリカには外国の勢力が政治に影響を及ぼすためのシステムが存在する。ロビー団体や宣伝会社だ。トルコ政府が雇っているロビー活動のチームにポーター・ゴス元CIA長官が参加したのだが、この人物には単にCIAの長官だったという以上の背景がある。 ゴスはエール大学出身で、卒業したのは1960年。大学時代にCIAからリクルートされているが、これはジョージ・H・W・ブッシュ(1948年卒)と同じだ。1960年から62年まで陸軍情報部に所属し、62年からCIAで活動していると言われている。1974年に彼は政治の世界へ飛び込むが、CIAから抜けたということではない。 彼がエール大学を卒業する前年の1月、キューバではフィデル・カストロをリーダーとする勢力が革命に成功し、その革命政権を倒すためにCIAのマイアミ支局は秘密工作を始めていたが、その支局へゴスは配属されている。 ブッシュの母方の祖父はウォール街からナチスへ資金を供給するパイプになっていた金融機関を経営していた人物だが、その祖父と同じ名前も持つ叔父の資金でテキサス州ミッドランドに石油会社「ブッシュ・オーバーベイ石油開発」を設立、1953年には別会社を買収して「ザパタ石油」と名付け、54年にはその子会社「ザパタ・オフショア」の社長に就任した。1959年夏にブッシュはザパタ・オフショアを分離して本社をヒューストンに移している。この会社移転はキューバ工作を始めるためだったと推測する人もいる。 1953年から61年までの間、アメリカの大統領はドワイト・アイゼンハワーが務めていた。つまり、キューバ革命の時の大統領はアイゼンハワーで、その時に対キューバ工作は始まるのだが、1961年から大統領はジョン・F・ケネディに交代する。 ケネディ政権になって間もない1961年4月、CIAは亡命キューバ人を使ってキューバへの軍事侵攻を試みる。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を攻撃、17日には1543名の亡命キューバ人部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みたが、約2万人のキューバ軍に撃退された。 チャールズ・キャベルCIA長官は航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したが、アメリカ軍が前面に出た侵攻作戦の要求は却下されている。CIAは亡命キューバ人部隊の敗北を前提に、「救援」という名目でアメリカ軍を投入する計画を立てていたと言われている。その後、キャベル副長官はアレン・ダレス長官やリチャード・ビッセル計画局長とともに解任されている。ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されるが、同市のアール・キャベル市長はチャールズ・キャベルの弟。 ケネディ政権の時代、CIAだけでなく軍の内部にも好戦派が存在、1957年初頭に「ドロップショット作戦」をスタートさせ、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊しようと目論んでいた。この作戦を1961年7月にライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長らが大統領に説明したが、拒否されている。このレムニッツァーたちはキューバ政府の手先を装って米国の都市で爆弾攻撃を繰り返し、最終的には旅客機をキューバ近くで自爆させ、キューバ軍に撃墜されたとして軍事侵攻する作戦を練り上げていた。「ノースウッズ作戦」だ。ソ連に対する先制核攻撃とキューバ侵攻作戦はリンクしていると考えるべきだろう。(その理由は本ブログで何度も書いているので、今回は割愛する。)なお、レムニッツァーの議長再任をケネディ大統領は拒否、1962年9月に退任している。 本ブログでは何度も書いていることだが、対キューバ工作は単独で行われていたわけでなく、CIAで破壊活動(テロ)を担当していた計画局(the Directorate of Plans)が行っていた秘密工作の一環。 この計画局は第2次世界大戦中、アメリカの情報局OSSのSOがイギリスのSOEと共同で始めたジェドバラを源流とする人脈で編成されていた。大戦後、アメリカではOPCという秘密機関として復活、CIAの一部になったのは1950年10月。1970年代に入って議会などの調査で活動の一部が発覚、1973年3月には作戦局(the Directorate of Operations)へ名称が変更されたが、活動内容に変化はない。イラクを先制攻撃した後、2005年10月にはNCS(国家秘密局)を名乗るようになった。ヨーロッパ支配の仕組みとしても使われているNATOの秘密部隊(今回は詳しい説明を割愛する)もOPC人脈が関係、その人脈はシャルル・ド・ゴール仏大統領の暗殺未遂やケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。 トルコもNATO加盟国である以上、秘密部隊が存在しているのだが、エルドアンが大統領に就任する頃にはアメリカから中国へ軸足を移動させていたとも言われている。その人脈をエルドアン大統領は一斉に逮捕して自らの権力地盤を強化している。 現在、シリアの体制を転覆させるために戦っているIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)はトルコを拠点にし、兵站の大半はトルコから運び込まれていると言われ、その兵站線はトルコ軍が守ってきた。 ISが密輸している石油はレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領の息子が所有するBMZ社が扱い、ISの負傷兵はトルコの情報機関MITが治療に協力、秘密裏に治療が行われている病院はエルドアン大統領の娘が監督しているとされている。 昨年10月2日、ジョー・バイデン米副大統領はハーバード大学でISとアメリカの「同盟国」との関係に触れ、ISの「問題を作り出したのは中東におけるアメリカの同盟国、すなわちトルコ、サウジアラビア、アラブ首長国連邦だ」と述べ、その「同盟国」はシリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すために多額の資金を供給、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は多くの戦闘員がシリアへ越境攻撃することを許してISを強大化させたと語っている。 そしてここにきてDIA(アメリカ軍の情報機関)が2012年8月に作成したISに関する文書が公表され、アメリカ政府がISの勢力拡大を自分の意思で決断したことが明確になった。その中で、シリアにおける反乱の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、AQIであり、反シリア政府軍を西側(アメリカ/NATO)、湾岸諸国、そしてトルコが支援しているとしている。反シリア政府軍を支援すると言うことはアル・カイダ系武装集団を助けることを意味し、現在の状況は予想されていた。文書が作成されたときにDIA局長だったマイケル・フリン中将は文書が本物だと認めた上で、そうした勢力をDIAの警告を無視して支援してきたのは政府の決定だとしている。 ポーター・ゴスはアメリカの「テロ部隊」に属していたと言える人物だが、この種の人びとが平和的に組織を抜けることは困難。仕事をしなくなることはあるが、組織は抜けられないのだ。そのゴスがトルコ政府のロビーになったということは、トルコ政府が何らかの形でアメリカのテロ人脈とつながっていることを暗示している。
2015.08.21
5月20日、朝鮮半島の軍事境界線付近で砲撃戦があったようだ。現地時間で午後3時52分に朝鮮軍が韓国軍が設置しているプロパガンダ用のラウドスピーカーを砲撃、韓国軍が報復として155ミリ砲を撃ち返したとされている。砲撃戦の前、韓国側は11年ぶりにラウドスピーカーを使ったプロパガンダを再開すると表明、それに朝鮮側は反発し、ラウドスピーカーを撤去するように要求していた。また、17日からアメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習が始まっているが、その中止も求めていた。 今回の砲撃もベースにはネオコン/シオニストが描く世界制覇プランがある。そうしたプランが作成された背景にはソ連の消滅があるのだが、その当時、アメリカ政府の国防総省はネオコンに押さえられていた。大統領はジョージ・H・W・ブッシュで、国防長官はリチャード・チェイニー、次官はポール・ウォルフォウィッツだ。 そのネオコンが1992年に作成したDPG(国防計画指針)の草案、いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンはアメリカが「唯一の超大国」なったという前提で、ソ連のようなライバルが出現することを防ぐため、潜在的なライバルを潰していく意思を示している。ソ連の消滅、冷戦の終結で世界が平和になると思った人がいるとするならば、それはアメリカ支配層の本質を知らず、歴史を学んでいなかったということだ。世界支配を妨害していたソ連が消えたことでアメリカの支配層は世界制覇に向かって暴走をはじめた。 この指針は国防総省のシンクタンクONA(ネット評価室)で室長を務めてきたアンドリュー・マーシャルの戦略をベースにして、ポール・ウォルフォウィッツ国防次官、I・ルイス・リビー、ザルメイ・ハリルザドといったネオコンが書き上げたもの。マーシャルはONAが創設された1973年から今年1月まで室長を務めた親イスラエル派で、冷戦時代はソ連の脅威を誇張して発信、ソ連消滅後は中国脅威論を叫んでいた。 マーシャルが退任した後、後任は彼の弟子ではなく空軍のジェームズ・ベーカー退役大佐が選ばれている。つまりONAのプロパガンダ色は薄くなったのだが、その一方で国防長官は戦争に消極的なチャック・ヘーゲルから好戦的なアシュトン・カーターへ交代、5月には次の統合参謀本部議長としてバラク・オバマ大統領は、ロシアをアメリカにとって最大の脅威だと主張しているジョセフ・ダンフォード海兵隊大将を指名した。カーターは2006年にハーバード大学で朝鮮空爆を主張した人物だ。 ウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成された後、アメリカは日本もアメリカの戦争マシーンへ組み込もうとする。その始まりが1995年に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」。その後の展開は何度も書いてきたので、今回は割愛する。 そして1998年、アメリカでは金正日体制を倒し、朝鮮を消滅させて韓国が主導する新たな国を建設することを目的とした作戦、OPLAN 5027-98が作られた。この年の8月、朝鮮は太平洋に向かって「ロケット」を発射、翌年の3月には海上自衛隊が能登半島の沖で「不審船」に対し、規定に違反して「海上警備行動」を実行している。 日本で「周辺事態法」が成立した1999年になると、金体制が崩壊、あるいは第2次朝鮮戦争が勃発した場合に備える目的でCONPLAN 5029が検討され始めた。日本は朝鮮戦争に備えるためにアメリカ軍が日本や太平洋地域に駐留することを認めたという。なお、この5029は2005年にOPLAN(作戦計画)へ格上げされた。このほか、朝鮮への核攻撃を想定したCONPLAN 8022も存在している。朝鮮占領の準備が着々と整えられ、あわよくば中国を支配しようとしているようにも見える。 2003年3月、アメリカ軍がイギリス軍などを引き連れてイラクを先制攻撃した頃に空母カール・ビンソンを含む艦隊が朝鮮半島の近くに派遣され、また6機のF117が韓国に移動し、グアムには24機のB1爆撃機とB52爆撃機が待機するという緊迫した状況になった。 こうした動きを韓国の盧武鉉やアメリカ支配層の一部がブレーキをかけるのだが、その盧大統領は2004年3月から5月にかけて大統領としての権限が停止になり、08年2月には収賄容疑で辞任に追い込まれた。次の大統領は軍需産業と結びついている李明博だ。 李政権時代の2009年10月に朝鮮は韓国に対し、韓国軍の艦艇が1日に10回も領海を侵犯していると抗議、11月には韓国海軍の艦艇と朝鮮の警備艇が交戦し、10年3月には、韓国と朝鮮で境界線の確定していない海域で韓国の哨戒艦「天安」が爆発して沈没する。 2010年5月頃から韓国政府は朝鮮軍の攻撃で沈没したと主張し始め、11月に韓国軍は領海問題で揉めている地域において軍事演習を実施、朝鮮軍の大延坪島を砲撃につながった。そして12月にKORUS FTA(自由貿易協定)の締結が合意された。 2010年11月にWikiLeaksが公表した2009年7月付けの文書によると、韓国の玄仁沢統一相はカート・キャンベル米国務次官(当時)と会談、朝鮮の金正日総書記の健康状態や後継者問題などについて説明している。 金総書記の健康は徐々に悪化、余命はあと3年から5年だと低いとしたうえで、息子の金正恩への継承が急ピッチで進んでいると分析していた。確かに金総書記の健康状態は悪かったようで、2011年8月に死亡している。 この会談で玄統一相は朝鮮が11月に話し合いへ復帰すると見通していたのだが、実際は10月に韓国の艦艇が1日に10回も領海を侵犯、11月に両国は交戦、話し合いどころではなくなった。玄統一相の分析が正しいなら朝鮮が自ら軍事的な行動に出る可能性は小さく、同相もそうした流れを望んでいるように読めるのだが、そうした流れを止めるようなことを韓国軍はしている。 以前にも書いたことだが、現在の朝鮮政府は軍事的な緊張を高めたくはない環境の中にある。天然ガスを韓国へ送るパイプライン、資源の開発、あるいは鉄道の建設を考えているロシアは2年ほど前から朝鮮に接近し、朝鮮がロシアに負っている債務の90%(約100億ドル)を帳消しにし、10億ドルの投資をするとロシア政府は提案しているのだ。朝鮮がこの提案に合意すれば、韓国にとっても利益になる。つまり、アメリカの好戦派にとっては許しがたい事態だ。 その好戦派は安倍晋三政権に対し、「安全保障関連法案」を成立させ、集団的自衛権を行使できるようにしろと命令しているはずだが、日程通りには進んでいない。沖縄の問題も迷走し始めている。「今、日本には危機が迫っている」というイメージはアメリカの好戦やは安倍政権にとってはありがたいはず。 アメリカと中国との経済的な関係から、アメリカが中国と軍事衝突するはずはないと高をくくっている人もいるようだが、マーシャルと同じようにアメリカの戦略に大きな影響力を持っていたフリッツ・クレーマーは内政より外交を優先、外交の本質は政治的な強さと軍事力だとし、経済面は軽視していた。これはネオコンのメンタリティーだ。相手を屈服させれば問題ないということなのだろう。
2015.08.20
ウクライナの東部、ドンバス(ドネツクやルガンスク/ナバロシエ)で軍事的な緊張が高まっている。アメリカ政府の中でもジョン・ケリー国務長官はミンスクでの停戦合意に賛成の立場を示していたが、ビクトリア・ヌランド国務次官補はロシアへ軍事的な圧力を強めようとしていた。また、ヌランドたちアメリカの好戦派が手先として利用、昨年2月のクーデター(詳細は割愛する)で主力だったネオ・ナチ(ステファン・バンデラの信奉者)は合意を拒否すると宣言していた。 今年5月12日にケリー長官はキエフでペトロ・ポロシェンコ大統領と会い、クリミアやドンバス(ドネツクやルガンスク/ナバロシエ)の奪還を目指す作戦を実行してはならないと言明、その足でロシアのソチを訪問してウラジミル・プーチン大統領らと会談したのだが、14日から16日にかけてヌランドもキエフ入りし、ポロシェンコ大統領のほかアルセニー・ヤツェニュク首相、アルセン・アバコフ内務相、ボロディミール・グロイスマン最高会議議長らと会談、ケリー長官に言われたことを無視するように釘を刺したと言われている。 ヌランドはネオコン/シオニスト。ズビグネフ・ブレジンスキーの一派、「人道的」な軍事介入を主張するグループ、戦争ビジネスと同じように、この勢力は好戦派を構成している。彼女の夫はネオコンの大物として有名なロバート・ケーガン。2000年にネオコン系シンクタンクPNACが発表した「米国防の再構築」の作成にも参加した人物だ。 ジョージ・W・ブッシュ政権で「摂政」だったと言われているリチャード・チェイニー副大統領の外交担当副補佐官を務め、2005年から08年にかけては大使としてNATOへ派遣されていたヌランドをバラク・オバマは2008年の大統領選挙でスタッフとして雇い、現在に至っている。ちなみにヌランドはロッキード・マーチンの代理人ことヒラリー・クリントン前国務長官と親しく、オバマの「師」はブレジンスキー。 ウクライナでは、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領を追放したクーデターの直後からアメリカの傭兵会社、アカデミ(旧社名はブラックウォーター)系列のグレイストーンは数百名の戦闘員を派遣、今年初頭にアカデミはウクライナ政府の要請で、射撃、市街戦、接近戦、兵站などの訓練をする準備を整えていた。 さらに、アメリカ政府は訓練のためにCIAやFBIの専門家数十名を顧問として派遣、国防総省は戦略と政策の専門家チーム、つまり軍事顧問団をキエフへ送り込んでいる。4月20日にはアメリカの第173空挺旅団の兵士290名がネオ・ナチを主力とする部隊に対する訓練を7月から開始した。 アメリカ以外の国ではポーランドからも傭兵が雇い入れられ、イスラエル、グルジア、ルーマニア、スウェーデン、ドイツなどからも戦闘員がウクライナ入りしていると言われている。イギリスやカナダは訓練のため、軍人や専門家をウクライナへ派遣している。 ここにきてキエフ政権は約90輌の戦車や装甲車をドンバス(ドネツクやルガンスク/ナバロシエ)の前線へ新たに配備、軍事的な緊張を高めようとしているが、それだけではなく、ウクライナの外相、トルコの副首相、そしてタタール人の反ロシア派代表が8月1日にトルコのアンカラで会い、タタール人、チェチェン人、ジョージア(グルジア)人などで「国際イスラム旅団」を編成してクリミアの近くに拠点を作ることで合意したという。 シリアの大ムフティー(最高イスラム法官)によると、IS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイッシュとも表記する)の戦闘員になろために全世界から7万人ほどがトルコへ入り、訓練を受けているようだ。そのうち5000人から7000人がロシアやCIS(独立国家共同体)の出身者で、中でもカザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンが多いという。 5月にはタジキスタン内務省特殊任務民警支隊のグルムロド・ハリモフ司令官がISに加わったと明るみに出ている。5月27日にハリモフ司令官のメッセージ動画がインターネット上に投稿され、仲間数人と一緒にISへ参加したことを認めたのだ。この人物は2003年にアメリカで、08年にはロシアで訓練をうけたことがあり、4月23日から行方不明になっていた。 また、シリアにチェチェン人がいるとする報告はないと大ムフティーは語っているが、200名から1000名が入っている、あるいは最も多くの戦闘員を送り出しているのはチェチェンとサウジアラビアで、累計するとそれぞれ約1万4000名と約1万2000名だとする情報も流れたことがある。こうした人びとは帰国後、ロシアとの戦争を始める可能性もあるだろう。 アメリカの支配層は意に沿わぬ政権、体制を暴力的に破壊し、場合によっては国や民族そのものを消し去ろうとする。1992年以降、そうした光景が旧ソ連圏、中東、北アフリカなどで展開され、ラテン・アメリカでもアメリカ政府は工作を進めてきた。そのアメリカの戦争マシーンへ日本を組み込むための集団的自衛権だ。TPPも無縁ではない。
2015.08.19
2012年にはヨルダン北部に設置された秘密基地でCIAや特殊部隊が反シリア政府軍の戦闘員を育成するための訓練が始まった。その中にISのメンバーが含まれていたと言われている。この頃になるとNATOとアル・カイダとの関係が広く知られるようになり、別のタグが必要だと黒幕たちは考えたのかもしれない。 この年の8月にDIA(アメリカ軍の情報機関)はシリアにおける反乱の主力について、サラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてAQI(アル・カイダ系武装集団)であり、反シリア政府軍を西側(アメリカ/NATO)、湾岸諸国、そしてトルコが支援しているとアメリカ政府に報告している。文書が作成されたときにDIA局長だったマイケル・フリン中将は文書が本物だと認めた上で、そうした勢力をアメリカ政府が支援してきたのは政府の決定だと語った。 イスラエル政府は露骨に反アサド体制を表明している。2013年9月、駐米イスラエル大使だったマイケル・オーレンは、イスラエルの希望はシリアの体制転覆であり、バシャール・アル・アサド体制よりアル・カイダの方がましだとエルサレム・ポスト紙のインタビューで語っている。イスラエルはこれまで何度かシリアを空爆しているが、ISを支援するものだと指摘されている。 実は、シリアで戦闘が始まった直後から西側の政府、少なくともフランスはメディアの報道が嘘だということを知っていた。シリア駐在のフランス大使だったエリック・シュバリエは、武装蜂起を外国から入ってきたグループに扇動されたものだとアラン・ジュペ外務大臣兼国防大臣に報告した。報道とは違い、緊張が高まるにつれて市民の運動は小さくなり、政府の激しい弾圧という事態にはならなかったとしている。シュバリエの報告はジュペ外相によって封印された。 ホウラの虐殺を口実とした軍事介入に失敗した西側やペルシャ湾岸産油国はシリア政府が化学兵器を使ったと宣伝し始める。2013年3月にアレッポで使われたケースではシリア政府がすぐに調査を要請、イスラエルのハーレツ紙は状況から反政府軍が使ったと分析、国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテも反政府軍が化学兵器を使用した疑いは濃厚だと発言している。ロシア政府も独自に試料を分析、サリンや砲弾は「家内工業的な施設」で製造されたもので、反政府軍が使ったと推測している。 そして8月、ダマスカスの郊外で化学兵器が使用されたと反政府軍やその支援国が宣伝し始める。国連の調査団がダマスカスへ入るタイミングだった。3月と違い、反政府軍が支配している地域が攻撃されたのだが、これも嘘だということが発覚する。 マザー・アグネス・マリアムは独自に調査して報告書を国連に出している。攻撃は8月21日の午前1時15分から3時頃(現地時間)にあったとされている。つまり大多数の住民は寝ていた時間なのだが、犠牲者がパジャマを着ていないのはなぜか、家で寝ていたなら誰かを特定することは容易なはずだが、明確になっていないのはなぜか、家族で寝ていたなら子どもだけが並べられているのは不自然ではないか、親、特に母親はどこにいるのか、子どもたちの並べ方が不自然ではないか、「遺体」が使い回されているのはなぜか、遺体をどこに埋葬したのか・・・・・ この攻撃が行われる10日ほど前、反シリア政府軍がラタキアを襲撃し、200名とも500名とも言われる住人が殺され、150名以上が拉致されたと言われている。化学兵器の犠牲者を撮影したとされる映像の中に、ラタキアから連れ去られた住民が含まれているとする証言もある。 8月の攻撃でシリア政府軍がサリンが使ったとする主張は早い段階からロシア政府が否定、国連へ報告書を提出しているが、その際に反シリア政府軍が支配しているドーマから2発のミサイルが発射され、ゴータに着弾していることを示す文書や衛星写真が示されたとジャーナリストがフェースブックに書き込んでいる。 そのほか、化学兵器とサウジアラビアを結びつける記事が伝えられ、10月に入ると「ロシア外交筋」からの情報として、ゴータで化学兵器を使ったのはサウジアラビアがヨルダン経由で送り込んだ秘密工作チームだという話が流れた。 12月になると、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュもこの問題に関する記事を発表、反政府軍はサリンの製造能力を持ち、実際に使った可能性があるとしている。国連の元兵器査察官のリチャード・ロイドとマサチューセッツ工科大学のセオドール・ポストル教授も化学兵器をシリア政府軍が発射したとするアメリカ政府の主張を否定する報告書を公表している。ミサイルの性能を考えると、科学的に成り立たないという。 1992年にアメリカ国防省の内部で作成されたDPG草案、通称「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」ではアメリカを「唯一の超大国」になったと位置づけ、新たなライバルの再登場を阻止することを第1の目標だと宣言、旧ソ連のほか、西ヨーロッパ、東アジア、南西アジアを注目地域に挙げている。当時の国防長官はリチャード・チェイニー、次官はポール・ウォルフォウィッツだ。 これ以降、アメリカは「民主」や「人権」という旗を掲げる一方、広告会社とメディアを使って偽情報を流布、人びとを欺きながら侵略戦争を続けてきた。2001年9月11日の出来事以降は侵略が加速している。 こうした侵略を推進しているアメリカの好戦派は、ネオコン/シオニスト、戦争ビジネス、嫌ソ/嫌露派、人道的軍事介入派が柱になっているが、少し注意深く情報を集め、整理すれば、その嘘に気づくはず。それでも支配層が流す話を垂れ流し、そう主張している人がいるならば、個人的な利益を考え、信じている振りをしていると言われても仕方がない。 SOHRを信頼できる情報源であるかのように扱う人や団体は侵略戦争を見て見ぬ振りをしているに等しく、「民主」、「人権」、「護憲」、「戦争反対」といった看板を掲げていても真に受けない方が良い。そうした人びとはアメリカをはじめとする西側支配層を批判しているように見えるかもしれないが、真の対決を避けているとしか思えないからだ。
2015.08.18
ロンドンを拠点としている「SOHR(シリア人権監視所)」が8月17日、シリア政府軍がダマスカス近郊のドーマを空爆して民間人96名を殺害したと公表、西側メディアはその話を垂れ流している。この空爆でターゲットになったのは化学兵器に関連した施設だという情報があることは本ブログで書いたとおり。 2011年3月にシリアで体制転覆を目指す戦闘が始められてからSOHRは一貫して反政府軍の立場から情報を発信、それを西側メディアは垂れ流してきた。西側メディアにとって都合の良い話を提供してくれる、つまり信頼度の低い情報を流している団体だということだ。 このSOHRは2006年に創設された。その背後にはCIA、アメリカの反民主主義的な情報活動を内部告発したエドワード・スノーデンが所属していたブーズ・アレン・ハミルトン、プロパガンダ機関のラジオ・リバティが存在していると指摘されている。 ブーズ・アレン・ハミルトンはアメリカの情報活動で重要な役割を果たし、LIBOR(ロンドン銀行間取引金利)の不正操作、エネルギー市場や為替取引の相場操縦において首謀者的な役割を果たしたとする噂が流れている。SOHRの創設者はイギリスのウィリアム・ヘイグ外相や同国の情報機関と親しいとも伝えられている。 内部告発を支援しているWikiLeaksが公表した文書によると、SOHRが創設された頃からアメリカ国務省の「中東共同構想」はロサンゼルスを拠点とするNPOの「民主主義会議」を通じてシリアの反政府派へ資金を提供している。2005年から10年にかけて1200万ドルに達したようだ。 こうした工作が始まった直後、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは2007年3月5日付けニューヨーカー誌で、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの「三国同盟」がシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始した書き、その中心にはリチャード・チェイニー米副大統領、ネオコン/シオニストのエリオット・エイブラムズ国家安全保障問題担当次席補佐官、ザルメイ・ハリルザド、そしてバンダル・ビン・スルタンがいるとしている。 シリアの体制転覆プロジェクトが始まった直後、西側メディアが重宝していた情報源のひとりがシリア系イギリス人のダニー・デイエム。シリア政府の弾圧を訴え、外国勢力の介入を求める発言を続けていたのだ。シリアへの軍事介入を望む西側諸国、ペルシャ湾岸産油国、あるいはトルコの支配層にとって好都合な訴えで、西側メディアは盛んに彼の話を伝えていた。(例えば、ココ、あるいはココ) ところが、しばらくするとダニー・デイエムのグループが「シリア軍の攻撃」を演出する様子を撮した部分を含む映像がインターネット上に流出してしまう。彼を使っていたメディアは反省するかと思いきや、そんなことを気にする様子は見られず、堂々とプロパガンダを続けている。「恥知らず」ということだ。 シリアより1カ月ほど早く体制転覆プロジェクトが始動したリビアでは2011年10月にNATOの空爆とアル・カイダ系のLIFGの地上戦で政権を崩壊させ、ムアンマル・アル・カダフィを惨殺している。その直後にベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられたている。その映像がYouTubeにアップロードされたほか、デイリー・メイル紙も伝えていた。 その直後から戦闘員や武器がシリアへ移動、2012年5月にはシリア北部ホムスのホウラで住民が虐殺される。西側の政府やメディアは政府軍が実行したと宣伝したが、事実との間に矛盾点が多く、すぐに嘘だとばれてしまう。 そのホウラを調査した東方カトリックの修道院長も反政府軍のサラフ主義者や外国人傭兵が実行したと報告、その内容はローマ教皇庁の通信社が伝えた。ドイツのフランクフルター・アルゲマイネ紙も、キリスト教徒やスンニ派の国会議員の家族が犠牲になっていると伝えた。 その修道院長は、「もし、全ての人が真実を語るならば、シリアに平和をもたらすことができる。1年にわたる戦闘の後、西側メディアの押しつける偽情報が描く情景は地上の真実と全く違っている。」と語っていた。現地で宗教活動を続けてきたキリスト教の聖職者で、セント・ジェームズ修道院の尼僧であるマザー・アグネス・マリアムも外国からの干渉が事態を悪化させていると批判している。
2015.08.18
クルド人やイラク人に対し、IS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)が毒ガスのマスタードガス(イペリット)や塩素ガスを使った疑いがかかっている。リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が倒れた際に化学兵器が持ち出された可能性があるのだが、今回の場合、トルコの専門家が製造してシリアのダマスカス周辺へ運び込まれたとされている。シリア軍はこの拠点を攻撃した。 以前、イランの義勇兵組織、バスィージのモハマド・レザ・ナクディ准将は、イラクのアメリカ大使館がISの司令部だと語り、アメリカ軍の航空機から支援物資を意図的にIS側へ落としていると主張していたが、これが事実ならISはアメリカの戦争マシーンの一部。 アメリカが作り上げたNATOに参加しているトルコはISと関係が深い。ドイツのメディアDWは昨年11月、トルコからシリアへ武器や戦闘員だけでなく、食糧や衣類などの物資がトラックで運び込まれ、その大半の行き先はISだと見られていると伝えている。 また、昨年10月に「自動車事故」で死亡したイランのテレビ局、プレスTVの記者、セレナ・シムはその直前、トルコからシリアへ戦闘員を運び込むためにWFP(世界食糧計画)やNGOのトラックが利用されている事実をつかみ、それを裏付ける映像を入手していたという。NGOのいくつかはCIA系、あるいはモサド系だと見られている。 ISの主要な資金源とされているのは石油で、1日に4万5000バーレルを生産、毎日の儲けは300万ドルに達するという。ISが密輸している石油はレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領の息子が所有するBMZ社が扱い、そうした取り引きをアメリカなど西側の国々は黙認しているとされている。なお、ISの負傷兵はMIT(トルコの情報機関)が治療に協力、秘密裏に治療が行われている病院はエルドアン大統領の娘が監督しているようだ。負傷兵の治療はイスラエルも行っている。 こうした実態をアメリカの支配層が知っているはず。例えば、昨年10月2日にジョー・バイデン米副大統領がハーバード大学でISとアメリカの「同盟国」との関係に触れ、ISの「問題を作り出したのは中東におけるアメリカの同盟国、すなわちトルコ、サウジアラビア、アラブ首長国連邦だ」と述べている。 2012年8月にDIA(アメリカ軍の情報機関)が作成したISに関する文書でも、シリアにおける反乱の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、AQIであり、反シリア政府軍を西側(アメリカ/NATO)、湾岸諸国、そしてトルコが支援しているとしている。サラフ主義者やムスリム同胞団のメンバーはアル・カイダやISのような武装集団の主要メンバーだ。 事実上、「穏健派の反シリア政府軍」は存在せず、その「穏健派」を支援してバシャール・アル・アサド体制を倒すという主張に説得力はない。シリアに緩衝地帯を勝手に設定して「穏健派」の拠点とさせ、飛行禁止空域を設定してシリア軍機が現れたら撃墜するということは、結局、ISなどを支援することになる。 昨年3月23日にトルコ軍のF-16戦闘機がシリア軍のミグ23を撃墜したのだが、シリア政府によると、シリアの戦闘機は反政府軍を攻撃中だった。最近、ロシアがシリアへミグ31を6機、供給しているという情報があるのだが、これが事実なら、トルコ軍も簡単には撃墜できない。アメリカやトルコのシリア侵略に対するロシアのひとつの解答なのかもしれない。
2015.08.17
WTI原油価格が値下がりしている。6月に1バーレルあたり約60ドルまで回復していたのだが、今は約42ドル台だ。2014年7月の前半には約100ドルだったものが急落、今年の初めには50ドルを切り、5月には60ドルを回復したが、また値下がりしている。 原油相場の値下がりが加速したのは昨年10月からだが、その直前、9月11日にアメリカのジョン・ケリー国務長官はサウジアラビアのアブドラ国王と紅海の近くで会談、そこで原油相場を引き下げる相談をしたと言われている。サウジアラビアは生産コストが安く、値下がりはイランやロシアにダメージを与えるはずだった。1980年代の半ばに成功した作戦をまた使ったのだが、今回は失敗したと言えるだろう。 このとき、ロシアの通貨ルーブルも急落している。例えば、原油相場が1/2になったとして、その時に1ドルあたりルーブル価格が2倍(ルーブル安)になったなら、ルーブルで計算すると石油取引の収支に変化はない。しかも、ロシアや中国を中心とする国々、例えばBRICSはドル離れを進めている。アメリカによる原油や為替の相場操縦は、そうしたドル離れを促進することになったはずだ。 原油安がアメリカやサウジアラビアへダメージを与えることにアメリカ支配層は気づいたようで、下げ止まり、反転するかに見えたのだが、サウジアラビアがロシアへ接近した後、6月下旬から再び下がり始め、アメリカのシェール・ガス/オイル業者が深刻な事態に陥っている。原油相場の急落で採算がとれなくなり、倒産の危機が訪れたのだ。ゼロ金利政策で経営破綻が表面化していないだけで、関係者は9月に連邦準備制度理事会が金利をどうするかを見守っている。金利を上げた場合、10月に倒産ラッシュになる可能性があるからだ。 そうなった場合、巨大銀行は「大きすぎて潰せない」うえ、「大きすぎて処罰できない」ということで政府が助けてくれると高をくくっているかもしれないが、全体としては「リーマン・ショック」よりも酷い事態になるとも言われている。 サウジアラビアも危機感を強めているはずだ。2015年の予算は1バーレル80ドルを想定して作成されているので、今の状況が続くと赤字国債を発行しなければならなくなるとする人もいる。イエメンに対して始めた干渉戦争が泥沼化、戦費もかさんでいる。 サウジアラビアの増産が値下がりの原因だとするならば、生産調整すれば良いように見えるが、一説によると、ジョン・ブレナンCIA長官の手下がサウジアラビアの石油会社、Aramcoを説得してフラッキングさせ、減産できない状態になっているともいう。 生産を効率化するために高圧の食塩水を注入しているので、圧力が均衡する前に石油の採掘を止めると石油が食塩で汚染され、使い物にならなくなると言われている。この説が正しいなら、サウジアラビアは油田を放棄するか、5年の間、生産を継続するしかないという。 金融資産を取り崩し続けなければならなくなると、投機市場に吸収されていたドルが流出することになり、基軸通貨の地位からドルが陥落、アメリカは基軸通貨を印刷できるという特権を失い、アメリカの支配体制が大きく揺らぐこともありえる。ネオコン/シオニストなどは、アメリカが「唯一の超大国」となり、自分たちが世界を支配するという計画を実現できないなら、全面核戦争で人類を破滅させようとしかねない。
2015.08.16
ウクライナでキエフ政権が約90輌の戦車や装甲車をドンバス(ドネツクやルガンスク/ナバロシエ)の前線へ新たに配備、軍事的な緊張を高めようとしているようだ。その背景にはアメリカの好戦派が存在している。ビクトリア・ヌランド米国務次官補とジョン・ケリー国務長官との対立は何度か書いたことがある。 昨年2月にネオ・ナチ(ステファン・バンデラの信奉者)が中心になってクーデターを成功させた直後からアメリカの傭兵会社、アカデミ(旧社名はブラックウォーター)系列のグレイストーンは数百名の戦闘員を派遣、今年初頭にアカデミはウクライナ政府の要請で、射撃、市街戦、接近戦、兵站などの訓練をする準備を整えていた。 そうした傭兵会社だけでなく、アメリカ政府が訓練のためにCIAやFBIの専門家数十名を顧問として送り込み、さらに国防総省は戦略と政策の専門家チーム、つまり軍事顧問団をキエフへ派遣している。4月20日にはアメリカの第173空挺旅団の兵士290名がネオ・ナチを主力とする部隊に対する訓練を開始した。 アメリカ以外の国ではポーランドからも傭兵が雇い入れられ、イスラエル、グルジア、ルーマニア、スウェーデン、ドイツなどからも戦闘員がウクライナ入りしていると言われている。イギリスやカナダは訓練のため、軍人や専門家をウクライナへ派遣している。 こうした支援にも関わらず、キエフ政権は弱体。クーデター当初から東部や南部の人びとはアメリカ資本の傀儡とネオ・ナチの体制を拒否していたが、財政破綻が明確になり、ネオ・ナチへの反発も広がる中、この政権は西部でも支持されなくなっている。軍や治安機関も掌握し切れていない。 そうしたこともあり、ウクライナの外相、トルコの副首相、そしてタタール人の反ロシア派代表が8月1日にトルコのアンカラで会い、タタール人、チェチェン人、ジョージア(グルジア)人などで「国際イスラム旅団」を編成してクリミアの近くに拠点を作ることで合意したという。アメリカが1970年代の後半、アフガニスタンで始めた手口をウクライナでも使おうというのだろう。 ウクライナはソ連時代、人工的に作られた国で、異質の集団で成り立っている。第1次世界大戦まで西部はオーストリア・ハンガリー帝国、東部や南部は帝政ロシアであり、文化的にも宗教的にも異質だ。そうした不安定な国を支配するため、クーデターで強引に乗っ取ろうとすれば混乱するのが当然。そうしたことがわかっていながらクーデタを決行したのがネオコン/シオニストで、その背後にはジョージ・ソロスやズビグネフ・ブレジンスキーがいる。 ソロスはハンガリー生まれの世界的な投機家で、これまでいくつもの国を経済的に攻撃してきた。ポーランドの貴族階級の家系だというブレジンスキーはデイビッド・ロックフェラーと親しく、このふたりに目をかけられたのがジミー・カーターだ。 ブレジンスキーは嫌露派として有名で、その弟子のひとりがチェコスロバキア出身でビル・クリントン政権の国務長官だったマデリーン・オルブライト。ユーゴスラビアに対する先制攻撃を推進したひとりだ。現在の大統領、バラク・オバマもコロンビア大学でブレジンスキーに学んだと言われている。 師の教えに従っているなら、オバマはウクライナ乗っ取りで強硬、つまりロシアとの戦争を厭わないはず。オバマ政権に支援されたキエフ政権は東部や南部でロシア語を話す住民を虐殺してきたが、先住の人びとを追い出し、ふたつの文化圏を強引に統一するためだったのだろう。1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンを実現するためにもロシアを屈服させるか、破壊する必要があるとネオコンやブレジンスキーは考えているだろう。
2015.08.15
日本では8月15日を「終戦記念日」、あるいは「終戦の日」と呼ぶ。70年前のこの日に「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流された日だ。それがなぜ「終戦記念日」とか「終戦の日」になるのだろうか? 堀田善衛氏の言葉を借りるならば、朗読の内容は「負けたとも降服したとも言わぬ」不審なもので、日本に協力させられた国々に対しては、「遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」(堀田善衛著『上海にて』)代物だった。負けたわけでも降伏したわけでもないので「終戦」だと言いたいのかもしれない。 30年以上前、兜町の古老に聞いた話だと、1945年の春先には「平和産業株」を買いあさる人がいたようで、支配層の内部では降伏が近いと認識されていたのだろう。沖縄本島へアメリカ艦隊が攻撃を始めたのは3月23日で、26日には慶良間諸島へ上陸して集団自殺が起こっている。沖縄の第32軍を指揮していた牛島満司令官が長勇少将と自殺したのが6月23日、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦の終了を宣言した。 沖縄本島への攻撃が始まる前、3月9日から10日にかけて東京の下町は大規模な空襲で火の海になり、10万人、あるいはそれ以上とも言われる住民が焼き殺された。そのほかの都市も空爆で多くの人が焼き殺され、8月6日にはウラン235を使った原爆が広島へ落とされ、9日にはプルトニウム239を利用した原爆が長崎へ落とされた。8月8日にはソ連がヤルタでの合意に基づいてい日本と戦争を始めている。 都市部への空襲が激しくなると、原爆の開発を急いでいた仁科芳雄を中心とするグループは朝鮮の興南へ避難、そこで研究を続けたようだが、8月12日には原爆の実験を行ったとする情報もある。アメリカの軍事専門家の中にはアメリカの原爆よりも性能は上だったとし、その施設などを押さえたソ連はその後の核兵器開発に生かしたとする人もいる。 長崎に原爆が落とされた直後に開かれた「御前会議」で日本政府はポツダム宣言を受諾する、つまりアメリカ、イギリス、中国、ソ連に降服することを決め、8月10日夜半には同盟通信の海外向け放送でこの決定を明らかにし、14日には最終的な受諾通告をした。そして15日に「終戦勅語」、16日に日本軍は停戦命令を出し、9月2日に政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印した。戦争が終わったのはこの日だ。 日本の現行憲法が公布されたのは降伏から1年2カ月後の1946年11月3日、その翌年の5月3日に施行されている。堀田によると、敗戦直後に中国人から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』) 同じように考えていた人は連合国側に少なくなかったはずで、日本の占領にアメリカ以外の国々が関わりを強めてくると天皇の戦争責任を問う声が強まることは明白だった。本ブログでは何度も書いているように、アメリカの巨大資本を代表するJPモルガンは財界や政界だけでなく皇室とも関係が深く、この関係を第2次世界大戦後も維持するため、天皇制官僚国家の仕組みを崩したくなかったはずである。 JPモルガンの総帥だったジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻と親戚の関係にあるジョセフ・グルーは1932年から日米開戦まで駐日大使を務め、戦後はジャパン・ロビーの中心的人物として、日本をウォール街にとって都合の良い国へ向かわせる役割を果たした。このグルーの妻、アリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で九条節子(後の貞明皇后、つまり昭和天皇の母)と親しい関係を築いている。 勿論、アメリカとしては日本を民主化するという形式を整える必要はあった。アメリカにも大戦を「民主主義」対「ファシズム」の戦いだと信じている人も少なくなかったはずで、日本が降伏するまでの体制を継続させるわけにはいかない。 ところが、日本の支配層はそうした事情を理解できていなかったようで、降伏文書への調印から24日を経過した1945年9月26日に哲学者の三木清が獄死している。戦前の治安体制は継続、政治犯は獄につながれたままだったのだ。こうした状況ではアメリカが急いで新たな憲法を作り上げ、民主化の要素を入れた天皇制を構築するしかない。 アメリカで日本の民主化を強く求めていたのはニューディール派だろう。その中心的な存在だったフランクリン・ルーズベルト米大統領が4月12日に執務室で急死しているので民主化の圧力は弱まっただろうが、それでも戦前の体制を維持することは不可能。そんなことをすれば、戦前にウォール街が築いた主従関係が崩壊する。 ルーズベルトの死後、主導権を握った巨大資本はソ連を敵視している。同じような考え方をしていたのがウィンストン・チャーチル英首相で、5月7日にドイツが降伏した直後にJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令する。そこで考え出されたのが「アンシンカブル作戦」で、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。 アメリカの好戦派は1957年の初頭に「ドロップショット作戦」をスタートさせ、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊しようと目論んでいた。勿論、先制攻撃。 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、1961年7月、ジョン・F・ケネディ大統領に対し、ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長など軍や情報機関の幹部がこの計画について説明している。 1954年にアメリカは水素爆弾を搭載したF100戦闘爆撃機を沖縄の嘉手納空軍基地に派遣、その後も核兵器を沖縄へ持ち込んだが、1955年から57年にかけてレムニッツァーは琉球民政長官を務め、この時期に土地の略奪やラテン・アメリカへの棄民が進められた。比嘉秀平琉球主席が55歳の若さで急死したのは1956年10月のことだ。 レムニッツァーは統合参謀本部議長になってからキューバへの軍事侵攻を正当化するための偽旗計画「ノースウッズ作戦」を計画している。キューバ軍を装ってアメリカで爆弾攻撃を繰り返し、最後には旅客機を自爆させてキューバ軍に撃墜されたように装って軍事侵攻しようというものだ。 ICBMの準備ができる1963年の後半にはソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたというが、ケネディ大統領はこの計画を拒否し、レムニッツァーの再任も認めなかった。そのケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。 アメリカはこうした先制核攻撃の拠点として日本を考え、沖縄の基地化を推進したのであり、アメリカが日本を守ってくれるという考えは妄想にすぎない。アメリカの核兵器で日本が守られているとする「核の傘」論はナンセンスであり、無責任。日本がアメリカの核攻撃に巻き込まれなかったのは運が良かっただけと言わざるをえない。アメリカの介入でいくつもの国が破壊され、人びとが虐殺されてきたことを直視すべきだ。破壊された国の多くは民主的なシステムが機能していた。つまり、アメリカの支配者は民主主義の破壊者でもある。
2015.08.14
アメリカ陸軍の戦闘用ヘリコプター、MH60ブラック・ホークが沖縄県うるま市沖で墜落したと伝えられている。このヘリコプターは陸軍第160特殊作戦航空連隊第4大隊に所属、同乗していた陸上自衛隊中央即応集団所属の2隊員も負傷したという。この大隊は戦闘の支援を任務にしているが、自衛隊員は支援でなく、特殊工作の訓練に参加していたのだろう。 大隊は1981年10月に創設されているが、1980年4月に行われた人質救出作戦に失敗したことを受けてのこと。この作戦はイランのアメリカ大使館で拘束された52名を救出するために陸軍の特殊部隊デルタ・フォースが実行したもので、「イーグル・クロー」と呼ばれている。 特殊部隊の活動例として、今年8月1日にイギリスのサンデー・エクスプレス紙が伝えたシリアでのSAS部隊の活動を挙げることができる。ISの服装を身につけ、ISの旗を掲げたSASの隊員120名以上がシリアでの戦闘に参加、通信支援のために250人以上のイギリスの専門家が関与、アメリカ軍の特殊部隊やCIAも同じようなことをしていると見られている。米英はシリア政府の打倒を公言している。 シリアで体制転覆プロジェクトが始動、武装集団が蜂起したのは2011年3月のこと。その直後からトルコにある米空軍インシルリク基地では反シリア政府軍の戦闘員が軍事訓練を受けているが、その教官はアメリカの情報機関員や特殊部隊員、イギリスとフランスの特殊部隊員だとされている。訓練するだけでなく、イギリス、アメリカ、フランス、カタール、ヨルダン、トルコは特殊部隊をシリア領内へ潜入させている可能性も高い。 主権国家の体制を軍事的に転覆させようとすること自体、大きな問題なのだが、リビアやシリアの場合、その手先として使われた戦闘集団の実態はさらに大きな問題。リビアでNATOと連合したLIFG(リビア・イスラム戦闘団)がアル・カイダ系武装集団だということは自他共に認めるところで、2011年10月にムアンマル・アル・カダフィが惨殺された直後、ベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられていた。(その1、その2) その後、戦闘員は武器と一緒にシリアなどへ移動する。マークを消したNATOの輸送機がリビアからトルコの基地まで武器を輸送、反シリア政府軍へ渡されたという報道もあった。2012年10月に作成されたDIA(アメリカ軍の情報機関)の文書でもカダフィ体制崩壊後、ベンガジからシリアへ武器が運ばれていると詳しく書かれている。武器と一緒にシリアへ移動した戦闘員もアル・カイダ系だ。 DIAが2012年8月に作成した文書の中で、シリアにおける反乱の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてAQI(アル・カイダ系武装集団)であり、シリアで戦闘が始まった直後から、AQIは西側(アメリカ/NATO)、湾岸諸国、そしてトルコと同じように反シリア政府軍を支援しているとしている。文書が作成されたときにDIA局長だったマイケル・フリン中将は文書が本物だと認めた上で、そうした勢力をアメリカ政府が支援してきたのは政府の決定だと語った。 アル・カイダ/IS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)に関しては何度も書いてきたので今回は割愛、アメリカの特殊部隊について少し触れてみたい。 その歴史をさかのぼると、アメリカの場合、第2次世界大戦の際に編成された情報機関OSSにたどり着く。その内部にあった秘密工作部(SO)が特殊工作を担当していた。このSOと緊密な関係にあったのがイギリスの特殊作戦執行部(SOE)。 このSOとSOEは1944年にフランスでゲリラ戦を展開するために「ジェドバラ」という部隊を編成した。1948年頃、「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、翌年に出された統合参謀本部の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012 )この戦争を戦うために特殊部隊のグリーン・ベレーが創設され、ジェドバラの一部メンバーが参加する。 こうした歴史的な背景もあり、特殊部隊はCIAの秘密工作部門と関係が深く、「対テロ」ではなく、「テロ」を実行することも珍しくない。例えば、ベトナム戦争の最中、1967年にCIAとMACV(南ベトナム援助軍司令部)が始めたICEXという秘密作戦。この作戦はすぐに「フェニックス・プログラム」と呼ばれるようになるが、このプログラムには海軍兵学校を卒業した直後のリチャード・アーミテージも参加、黄金の三角地帯で生産されたヘロインをアメリカの犯罪組織へ引き渡す役目を負っていたとも言われている。 プログラムの中核はCIAの秘密工作部門で、特殊部隊からメンバーが引き抜かれている。その下に設置された実働部隊(PRU)には殺人やレイプ、窃盗、暴行などで投獄されていた囚人たちが含まれていた。1968年3月にミ・ライ(ソンミ)でウィリアム・カリー大尉の部隊が350名以上の村人を虐殺したことは広く知られているが、これもフェニックス・プログラムの一環だった。 虐殺の4カ月後、後に国務長官になるコリン・パウエル少佐(当時)がベトナム入りしてチャールズ・ゲッティ少将の配下となり、この出来事を告発する声をもみ消し、上官が聞きたいような話だけを報告していたと伝えられている。この性格がイラク攻撃前の「大量破壊兵器話」でも発揮されたのだろう。 ジェドバラやフェニックスに参加したウイリアム・コルビーが後にCIA長官として議会で証言したところによると、1968年8月から71年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587人のベトナム市民を殺害したという。別の推計では4万1000名がこのプログラムで殺されている。 ベトナム戦争のとき、アメリカにはふたつの軍事組織が存在、それぞれが戦っていた。ひとつは正規軍で、もうひとつはCIAの破壊工作部門と特殊部隊だ。最近では、特殊部隊出身の人間が作っている傭兵会社も後者につながっている。この人脈はNATOにもネットワークがあり、ヨーロッパを支配するために秘密部隊を編成している。中でも有名なものがイタリアのグラディオで、1960年代から1980年頃まで国内で「極左」を装い、爆弾攻撃を繰り返していた。
2015.08.14
安倍晋三政権は国会を無視して「安全保障関連法案」を成立させようとしている。日本を法治国家だとは考えていないわけで、その安倍政権が描く日程表に基づいて防衛省が部隊の編成計画など立てたとしても不思議ではない。 この法案を成立させる目的は集団的自衛権の行使、つまり、アメリカの戦争マシーンに自衛隊を組み込むことにある。2000年にジョセフ・ナイとリチャード・アーミテージが作成した「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けて(通称、アーミテージ報告)」が公表されたが、その中で日本に対して武力行使を伴った軍事的支援を求め、「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している」と主張、「この禁止を解除すれば、より緊密かつ効果的な安保協力が見込まれる」としている。 アメリカで大統領選挙があった2000年にはネオコン系シンクタンクのPNACが「米国防の再構築」という報告書を公表、東アジアの重要性を謳い、オスプレイの必要性も強調していた。この報告書の基になったのが1992年にアメリカの国防総省で作成されたDPGの草案、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」。 アメリカを「唯一の超大国」と認識したネオコン/シオニストが中心になって書き上げられたもので、潜在的なライバルを潰して覇権を確たるものにしようとしている。潜在的なライバルには旧ソ連や中国だけでなくEUや日本も含まれる。さらに、地球規模に影響力を及ぼせる強国を生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアも支配の対象だ。 ネオコンが東アジア重視を打ち出した一因はロシアを属国化したという安心感があったはずだ。1991年の段階でネオコンの大物、ポール・ウォルフォウィッツはイラク、イラン、シリアを殲滅すると語っていたが、2001年9月11日の出来事を受け、攻撃対象の国はイラク、イラン、シリア、リビア、レバノン、ソマリア、スーダンに広がった。その後、ロシアが再独立、ネオコンはウクライナでネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)を使ったクーデターを起こしてロシアを脅しにかかる。 中東や北アフリカで使われたのがアル・カイダ。1997年から2001年までイギリスの外相を務めたロビン・クックによると、アル・カイダとはCIAから訓練を受けた数千人におよぶ「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイル。アル・カイダはアラビア語で「ベース」を意味、「データベース」の訳としても使われている。この指摘をした次の月にクックは保養先のスコットランドで心臓発作に襲われ、急死した。享年59歳。 アル・カイダは統一された戦闘集団ではなく、登録された戦闘員にすぎず、何らかのプロジェクトが計画されると雇われることになる。その最大の雇い主はサウジアラビアで、イラク、リビア、シリアなどの攻撃にはNATO諸国やイスラエルも手を組んでいる。 調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは2007年3月5日付けニューヨーカー誌で、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの「三国同盟」がシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始した書き、その中心にはリチャード・チェイニー米副大統領、ネオコン/シオニストのエリオット・エイブラムズ国家安全保障問題担当次席補佐官、ザルメイ・ハリルザド、そしてバンダル・ビン・スルタンがいるとしている。 この記事が出る前年、イラクで活動していたアル・カイダ系武装集団のAQIが中心になってISIが編成され、今ではIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)と呼ばれている。 シリアに対する攻撃が始まった2011年3月以来、反シリア政府軍に拠点を提供してきたのはトルコ。同国にある米空軍インシルリク基地で反政府軍を編成、訓練してきたが、その教官はアメリカの情報機関員や特殊部隊員、イギリスとフランスの特殊部隊員。それ以降、現在に至るまでトルコは反シリア政府軍の拠点であり、ISへの兵站線はトルコ軍が守ってきた。 ISが密輸している石油はレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領の息子が所有するBMZ社が扱い、ISの負傷兵はトルコの情報機関MITが治療に協力、秘密裏に治療が行われている病院はエルドアン大統領の娘が監督しているとされている。 昨年10月2日、ジョー・バイデン米副大統領はハーバード大学でISとアメリカの「同盟国」との関係に触れ、ISの「問題を作り出したのは中東におけるアメリカの同盟国、すなわちトルコ、サウジアラビア、アラブ首長国連邦だ」と述べ、その「同盟国」はシリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すために多額の資金を供給、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は多くの戦闘員がシリアへ越境攻撃することを許してISを強大化させたと語っている。 そしてここにきてDIA(アメリカ軍の情報機関)が2012年8月に作成したISに関する文書が公表され、アメリカ政府がISの勢力拡大を自分の意思で決断したことが明確になった。その中で、シリアにおける反乱の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、AQIであり、反シリア政府軍を西側(アメリカ/NATO)、湾岸諸国、そしてトルコが支援しているとしている。反シリア政府軍を支援すると言うことはアル・カイダ系武装集団を助けることを意味し、現在の状況は予想されていた。文書が作成されたときにDIA局長だったマイケル・フリン中将は文書が本物だと認めた上で、そうした勢力をDIAの警告を無視して支援してきたのは政府の決定だとしている。 アル・カイダ系、あるいはISのような武装集団が勢力を拡大することを承知でアメリカ政府はリビアやシリアの反政府軍を支援、今でも方針を変えていない。現在、トルコとの関係が強いISにしても、本気で叩こうとしていないことは兵站ラインを放置していることでも明らかだ。こうしたアメリカの戦争マシーンへ日本を組み込もうとしているのが安倍政権だ。
2015.08.13
日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落してから8月12日で30年になる。羽田空港を離陸して伊丹空港へ向かっていたこの旅客機には乗員乗客524名が搭乗、そのうち520名が死亡している。 この出来事でも運輸省航空事故調査委員会が報告書を出しているが、例によって信頼できる内容ではない。例えば、「ボーイング社の修理ミスで隔壁が破壊された」というシナリオを正当化するため、医学的常識は否定されている。 隔壁が破壊されたなら急減圧があったはずだが、機長は酸素マスクをつけていない。異常が発生してから約9分後でも123便の機長は酸素マスクをつけていないのだが、手の痙攣や意識障害はなかった可能性が高いのだ。 急減圧しても酸素マスクをつけなければ、3分程度で小学校1年の国語教科書を読む速度が遅くなり、6分30秒を経過すると手に痙攣が見られるようになり、チアノーゼで指先が紫色に近くなることがわかっている。その当時に出されていた運輸省航空局(現在は国土交通省航空局と気象庁)監修のAIM-JAPAMによると、2万フィートでは5から12分間で修正操作と回避操作を行う能力が失われ、間もなく失神してしまうとしている。 しかし、その件に関し、調査で急減圧実験を担当した自衛隊の航空医学実験隊に所属していた小原甲一郎は、急減圧があっても「人間に対して直ちに嫌悪感や苦痛を与えるものではない」と主張した。説得力は全くない。つまり急減圧はなく、隔壁の破壊が墜落の原因ではない可能性が高いということだ。 では、何が原因だったのかということだが、墜落直前に撮影された航空機の写真を見ると尾翼が消えている。事故原因を探るため、尾翼を探す必要があり、相模湾周辺の海底を念入りに調べなければならないのだが、運輸省(現在の国土交通省)は調査する意思はなく、尾翼の約7割は回収されていないようだ。 ところで、123便に異常事態が発生したのは羽田空港を離陸した12分後の18時24分。コックピットから東京管制部へ羽田へ戻りたいので、2万2000フィートまで降下したいと連絡、すぐに「操縦不能」と伝えている。そして18時58分に墜落。 その当時、近くをアメリカ軍の輸送機が横田基地に向かって大島上空を飛行中で、日航機の管制に対する最初の緊急コールを聞く。18時40分のコールは叫び声のようで、尋常ではないと判断した乗組員は横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図り、墜落地点を19時20分に特定、報告している。運輸省に捜索本部が設置されたのは墜落地点が特定された25分後の19時45分。捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を正確に把握していなければおかしい。 米軍機が墜落現場に到着した直後、厚木基地から海兵隊の救援チームのUH-1ヘリコプター(ヒューイ)が現地に向かい、20時50分には現地へ到着、隊員を地上に降ろそうとしたのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されたという。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。 命令を受けた後もアメリカ軍の部隊は現場にいたのだが、21時20分に航空機が現れたことから日本の救援部隊が到着したと判断、その場を離れている。ところが、日本の捜索隊が実際に墜落現場に到着したのは翌日の8時半。10時間以上、救援が遅れたことになるのだが、この遅れがなければ生存者も増えていたと言われている。 この輸送機の話は1995年8月に「星条旗」で報道された。C-130に乗っていたマイケル・アントヌッチが当時の状況を詳しく説明している。墜落直後には箝口令が敷かれていたのだが、なぜアメリカ軍の準機関紙に証言が載ったのか? 1994年に細川護煕政権の諮問機関「防衛問題懇談会」が「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書を発表、それに反発した国防大学のスタッフ、マイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベル国防次官補を介してジョセフ・ナイ国防次官補やエズラ・ボーゲルに会い、1995年2月の「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」につながる。 1997年には「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が作成され、「日本周辺地域における事態」で補給、輸送、警備、あるいは民間空港や港湾の米軍使用などを日本は担うことになる。「周辺事態法」が成立した1999年にはNATOがユーゴスラビアを先制攻撃した。 2000年にナイとリチャード・アーミテージを中心とするグループが作成した「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けて(通称、アーミテージ報告)」では武力行使を伴った軍事的支援が求められ、「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している」と主張、「この禁止を解除すれば、より緊密かつ効果的な安保協力が見込まれる」としている。 2001年9月11日の出来事をはさみ、2002年に小泉純一郎政権は「武力攻撃事態法案」を国会に提出、03年にはイラク特別措置法案を国会に提出、04年にアーミテージは自民党の中川秀直らに対して「憲法9条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」と言明した。2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が署名されて対象は世界へ拡大し、安保条約で言及されていた「国際連合憲章の目的及び原則に対する信念」は放棄された。2012年にはまたアーミテージとナイが報告書を発表、安全保障関連法案につながっている。 日本がアメリカの戦争マシーンに組み込まれる流れの出発点に「星条旗」の日航123便墜落に関する記事はある。これは偶然なのだろうか? 「星条旗」の記事を日本のマスコミは重要な事実を隠して伝えた。「星条旗」にも触れられていないが、墜落の原因をアメリカは知っていて、日本政府に対する恫喝になる内容だという可能性もあるだろう。
2015.08.11
集団的自衛権が認められた場合、日本はアメリカの命令に従って戦争に参加し、行動することになる。戦争に参加するかどうかはアメリカ支配層の都合次第ということで、安倍晋三首相の「約束」など何の意味もない。 そのアメリカは1992年に世界規模で侵略戦争を始めたが、思惑通りに進まず、もがいている。日本が参加することになる戦争はこれから始まるのではなく、その侵略戦争にほかならない。集団的自衛権を議論するなら、そうした戦争、例えばユーゴスラビア、アフガニスタン、イラクへの先制攻撃、リビアやシリアでの傭兵を使った体制転覆プロジェクト、ウクライナのクーデターなどを直視することから始めねばならないということだ。集団的自衛権に反対だと言いながら、アメリカの侵略から目を背けている人が少なくない。 アメリカが展開中の侵略戦争は1992年にアメリカ国防省で作成されたDPG草案、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」。これは中身が危険だということで草案の段階でリークされ、書き直されているが、そのプランは生き残り、その後の政策決定に影響しているのだが、この話を日本の政治家、学者、記者、編集者といった類いの人びとは取り上げたのだろうか? このドクトリンが作成される前年、ボリス・エリツィンらを使った工作もあり、ソ連は解体され、消滅した。西側の傀儡であるエリツィンが大統領を務めたロシアはアメリカの属国になり、不正な手段で巨万の富を築いた「オリガルヒ」が登場する一方、庶民は貧困化している。エリツィンは西側の巨大資本だけでなく、国内では犯罪組織、そして日本ではオウム真理教とつながっていた。 一方、中国の場合、支配層の子弟をアメリカへ留学させ、そこでアメリカ流の生き方、つまり強欲を善とする考え方を叩き込んでいるので、自分たちに逆らうことはないとアメリカの支配者たちは思い込んでいたようだ。 ロシアと中国を支配下におき、自分たちは唯一の超大国になったと認識したアメリカの支配層は、DPG草案で新たなライバルの再登場を阻止することを第1の目標だと宣言、旧ソ連のほか、西ヨーロッパ、東アジア、南西アジアを警戒地域に挙げている。 アメリカの好戦派はネオコン/シオニスト、戦争ビジネス、人道的軍事介入派、東欧から移住してきた嫌ソ/嫌露派の4本柱。ネオコンの中心的な存在であるウォルフォウィッツは1991年の段階でイラク、シリア、イランを殲滅すると宣言、嫌ソ/嫌露派は旧ソ連圏の制圧を目指した。戦争ビジネスは軍事的な緊張が高まることが望みで、人道的軍事介入派は嫌ソ/嫌露派と近い関係にある。 2001年からアメリカはウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づいて自立した国々を侵略しはじめ、内政面では1980年代から始まったCOGプロジェクトに基づいて憲法の機能を停止させたが、ロシアが再独立、中国もコントロールできていなことに気づく。 それでも、2006年の段階では楽観していたようで、例えば、キール・リーバーとダリル・プレスはロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとする論文をフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)に書いている。アメリカの好戦派はそう考えていたのだろう。この勢力の命令に従っている日本の「エリート」もそう信じたようで、日本の防衛省幹部の中には、「オフレコの会」で「今なら中国に勝てる」と公言している人もいた。 その2年後、2008年8月にミヘイル・サーカシビリは南オセチアを深夜近くにミサイルで奇襲攻撃、軍事侵攻した。この攻撃を立案したのはイスラエルだと推測する人もいるが、その作戦はすぐに失敗だということが判明する。ロシア軍が素早く反撃、侵攻作戦を粉砕してしまったのだ。 ロシアを属国だと認識していた時期にもアメリカの好戦派は支配システムを築く努力はしていた。ウクライナを支援するために1991年から50億ドルを投資したとビクトリア・ヌランド国務次官補は2013年12月に米国ウクライナ基金の大会で発言している。システムの構築にはNGOを利用している。 この手法はロナルド・レーガン政権が始めた「プロジェクト・デモクラシー」から始まったもので、その中心にあるのが1983年に創設されたのがNED(民主主義のための国家基金)。そこから資金はNDI(国家民主国際問題研究所)、IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業センター)、国際労働連帯アメリカン・センターへ流れ、USAID(米国国際開発庁)もCIAの資金を流す上で重要な役割を果たしている。
2015.08.11
ロッキード・マーチンが開発している戦闘機F-35は現在のアメリカを象徴する存在だと言えるかもしれない。プログラム・コストは1兆5000億ドル以上になりそうで、最も高価な兵器。しかも性能に問題があり、「空飛ぶダンプカー」とも呼ばれている。戦闘機もカネ儲けの手段にすぎないとと考えているからこそ、F-35のような航空機の開発に莫大な資金が投入されるわけだ。支配層は目先にカネ儲け熱中し、足下を崩している。 今年1月、カリフォルニア州にあるエドワード空軍基地でF-35A(通常離着陸型)は燃料タンクを装着したF-16Dと模擬空中戦を行ったのだが、完敗してしまったという。新型戦闘機の高性能をアピールするはずが、逆の結果になった。この高額欠陥戦闘機を日本も5機注文、さらに42機を購入する計画だ。こんな戦闘機を作る方も作る方だが、買う方も買う方。正気ではない。 現在、軍事的な緊張を高めている好戦派はネオコン/シオニスト、戦争ビジネス、人道的軍事介入派、東欧から移住してきた嫌ソ/嫌露派。第2次世界大戦後、軍事的な緊張を緩和しようとした大統領もいたが、実現できなかった。例えば、「平和の戦略」を打ち出したジョン・F・ケネディ大統領は暗殺され、「デタント(緊張緩和)」へ舵を切ろうとしたリチャード・ニクソンはスキャンダルで失脚している。 好戦派のうち、ネオコンはイスラエルを第一に考える人たちで、アメリカの衰退には無頓着。戦争ビジネスはカネ儲けのために戦争が必要な人たちで、やはり国を食い物にしている。人道的軍事介入を正当化する人たちの一部は本気で人道や民主化を考えていのかもしれないが、ユーゴスラビアにしろ、リビアにしろ、シリアにしろ、ウクライナにしろ、軍事侵攻を正当化するために「人道」の嘘話を使っているだけ。東欧から移住してきた嫌ソ/嫌露派の象徴はポーランドの貴族階級に属していたズビグネフ・ブレジンスキーだ。ブレジンスキーの教え子で、ユーゴスラビアを先制攻撃した際の国務長官だったマデリーン・オルブライトはチェコスロバキアの出身。 オルブライトの父、ジョセフ・コーベルはチェコスロバキアの外交官だった人物で、後にデンバー大学で教鞭を執る。その時の教え子のひとりがジョージ・W・ブッシュ政権で国家安全保障問題担当の補佐官に就任したコンドリーサ・ライス。オルブライトが親しくしていたブルッキングス研究所の研究員、ロイス・ライスの娘がスーザン・ライス。バラク・オバマ大統領が安全保障問題担当大統領補佐官に指名した人物だ。スーザン・ライスは人道的軍事介入派に分類されているが、その背景を探るとブレジンスキーが出てくる。 こうして見ると、アメリカの好戦派はアメリカの利益を度外視して活動していることがわかる。その指示で動いているのが安倍晋三をはじめとする日本の支配層。彼らが日本人の利益を度外視して動くのは必然だ。 日本の支配層はアメリカ支配層の命令で動いているが、その指揮系統を軍事にも広げる仕組みが「集団的自衛権」。アメリカの好戦派はアメリカという国ではなく、自分たちの都合で戦争を始めるわけで、その戦争が日本の利益になると考えるのは無邪気すぎる。
2015.08.10
広島と長崎に原爆が投下される3カ月前、ドイツが降伏した時点で米英の少なくとも一部はソ連との戦争を始めていた。ウィンストン・チャーチル英首相の命令でソ連を奇襲攻撃する作戦が作成されたのは象徴的な出来事だ。 ドイツ軍と戦い、打ち破ったのはソ連であり、アメリカやイギリスではない。1943年2月にドイツ軍がスターリングラードの戦闘で壊滅、総崩れになるのを見て慌てたアメリカ軍は同年7月にシチリアへ上陸、44年6月にはノルマンディーへ上陸してパリを制圧したのである。ハリウッド映画はドイツ軍と戦ったのはアメリカ軍だという印象を広めてきたが、実際は違う。 1945年2月にはヤルタでフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、そしてソ連のヨセフ・スターリン人民委員会議長が会談したが、その2カ月後にルーズベルトが執務中に急死、5月7日にドイツは降伏文書に調印している。 ルーズベルトに替わって大統領になったハリー・トルーマンは議員時代、ドイツと戦うソ連を支援しようとしたルーズベルト大統領に対し、「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と提案したと言われている。 このトルーマンが副大統領に選ばれたのはアメリカ支配層の意思。本来なら気心の知れたニューディール派のヘンリー・ウォーレスが副大統領になるはずだったが、一般党員の意に反し、実際に選ばれたのはトルーマン。そのトルーマンに多額の資金を提供していたアブラハム・フェインバーグはシオニストのスポンサーとして有名で、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えることになる富豪のひとりだ。トルーマンがマンハッタン計画を知らなかったとしても、彼を操っていた勢力は熟知していたと考えるべきだろう。 ドイツが降伏した直後、チャーチルはJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、そこで考え出されたのが「アンシンカブル作戦」で、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。日本を降伏させるためにソ連の参戦が必要だとチャーチルは考えていなかっただろうが、軍の一部は攻撃されたソ連が日本と手を組む可能性を考えていたとも言われている。この作戦は参謀本部に拒否されて実行されず、チャーチルは7月26日に退陣するが、この段階で米英の少なくとも一部の支配層はソ連との戦争を始めていた。 イギリス軍だけでなくアメリカ軍がソ連への奇襲攻撃に参加することが想定されていたということは、アメリカにもチャーチルの仲間がいたのだろう。そのアメリカでは7月16日、ニューメキシコ州でプルトニウム原爆の爆発実験(トリニティ実験)が行われ、8月6日に広島、そして9日に長崎へ原爆が投下された。 翌年の3月にチャーチルはアメリカのミズーリ州で「鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、1947年にはスタイルス・ブリッジス米上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようトルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたと報道されている。そして冷戦は始まった。冷戦が米ソの対立を生み出したのではない。米英支配層の意思で冷戦は始められたのであり、広島と長崎への原爆投下もそうした流れの中で実行されたのである。
2015.08.09
1945年8月9日、アメリカはプルトニウム239を使った原子爆弾「ファット・マン」を長崎市へ落とした。広島市に続き、実戦で使用された2発目の原爆。その後、核兵器の保有数は急速に増えていった。 現在、実戦配備されている核弾頭の数はアメリカが2104発(保有総数4804発)、ロシアが1600発(同4480発)、イギリスが160発(同225発)、フランスが290発(同300発)。実戦配備は公表されず、保有数が判明している国々の場合、中国は250発、インドは110発、パキスタンは120発、朝鮮は最大で10発。イスラエルも核兵器を保有していることは確実で、核弾頭の数は60発から400発と言われている。 イスラエルが核兵器を開発しているとCIAが察知したのは1958年の後半から59年の初めにかけての頃で、1980年代の半ばまで、保有数は24から30発と見積もられていたが、1986年にその数がひとけた上になった。モルデカイ・バヌヌというディモナの核施設で働いた技術者の内部告発がサンデー・タイムズ紙に掲載され、そこで200発以上という数字が出て来たのだ。 イスラエル軍情報局のERDに所属、イツハーク・シャミール首相の特別情報顧問を務めたこともあるアリ・ベン・メナシェによると、1981年頃にイスラエルはインド洋で水素爆弾の実験を実施、その時点で同国が実戦配備していた原爆の数は300発以上だったとしている。1977年から81年にかけてアメリカの大統領だったジミー・カーターは、イスラエルの保有する核弾頭の数を150発以上だと推計している。バヌヌもイスラエルは水爆を保有しているとしているが、それだけでなく、中性子爆弾の製造を始めていたとも告発している。 こうした核兵器を廃絶できないなら、遅かれ早かれ使われるとミハイル・ゴルバチョフは語っているが、その通りだろう。小型の中性子爆弾は使われていると推測しているひともいるが、大型の核兵器が使われる全面核戦争になると、人類は死滅する可能性が高い。 そうした事態をウラジミル・プーチンも避けようとしているが、そうした心理を利用して世界の覇者になろうとしているのがネオコン/シオニスト。核戦争を始めると脅して屈服させようという「狂犬戦略」だ。 ソ連の消滅でアメリカが唯一の超大国になったと認識、1992年にアメリカ国防省で作成されたDPG草案で戦略を明らかにしている。当時、同省の長官はリチャード・チェイニー長官、次官はポール・ウォルフォウィッツで、ネオコンに支配されていた。ウォルフォウィッツが中心になって文書が作成されたことから、この草案は「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 ソ連を消滅させることに協力たロシアの大統領、ボリス・エリツィンはアメリカ支配層の傀儡で、ロシアは属国化していた。それを前提に、ウォルフォウィッツたちは新たなライバルの再登場を阻止することを第1の目標だと宣言、旧ソ連のほか、西ヨーロッパ、東アジア、南西アジアを注目地域に挙げている。 アメリカは旧ソ連や中国だけでなく、EUや日本を弱体化させ、地球規模に影響力を及ぼせる強国を生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアが支配されることも防ぐ、つまり自分たちで支配すると言っているわけだ。EUや日本の支配層は個人的利益の増大を図るため、国をアメリカの支配層へ売り渡したということだ。 そのアメリカを1970年代の半ば、ジェラルド・フォード政権から支配しているのはネオコン、戦争ビジネス、人道を口実に軍事侵略を目論む勢力、そしてズビグネフ・ブレジンスキーのような東ヨーロッパから移住してきた人びとの子孫たち。その背後には金融資本が存在、このネットワークがアメリカを核戦争へと導いている。ユーゴスラビア、アフガニスタン、イラク、リビア、シリアなどに軍事侵攻、ウクライナでネオ・ナチにクーデターを実行させ、イランに対する工作も進めてきたのも彼らであり、脅しの切り札として核兵器を保有している。 1980年代から侵略や破壊の口実としてアメリカの支配層は「民主化」や「人道」を使っている。こうした呪文を聞いた瞬間、反射的にひれ伏す人も少なくないが、そうした状態で核兵器を廃絶することができるわけがなく、セレモニーを何度開催しても無意味だろう。
2015.08.09
アメリカの軍事情報機関、DIAは2012年8月に作成した文書の中で、シリアにおける反乱の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてAQI(アル・カイダ系武装集団)であり、反シリア政府軍を西側(アメリカ/NATO)、湾岸諸国、そしてトルコが支援しているとしている。文書が作成されたときにDIA局長だったマイケル・フリン中将は文書が本物だと認めた上で、そうした勢力をアメリカ政府が支援してきたのは政府の決定だと語った。 サラフ主義はサラフ(イスラム初期の時代)を理想として掲げるイスラム改革運動で、その中にサウジアラビアの国教であるワッハーブ主義も含まれているが、今のサラフ主義者がイスラムの教えに従っているとは思えず、殺戮と破壊を好む何か別のカルト集団のようにしか見えない。 ムスリム同胞団は歴史的にイギリスとの関係があり、AQIは2004年に組織された武装集団。2003年にアメリカを中心とする軍がイラクへ軍事侵攻し、アル・カイダ系武装集団を弾圧していたフセイン体制を倒したことが影響しているのだろう。2006年にAQIが中心になってISIが編成され、今ではISと呼ばれている。シリアではアル・ヌスラというアル・カイダ系の武装集団が存在しているが、この名称はAQIがシリアで活動するときに使っていたとDIAは書いている。 シリアで武装勢力が反政府戦争を始めたのは2011年3月のことだが、その前の月にリビアでも同じことが引き起こされている。民主化運動への弾圧だと西側の政府、メディア、あるいは「人権擁護団体」は宣伝していたが、2013年にハーバード・ケネディ・スクールの科学国際問題ベルファー・センターが公表した報告書ではアメリカ政府の主張を間違いだと断定している。リビアで蜂起したのは武装勢力であり、ムアンマル・アル・カダフィ政権は反撃しただけだということだ。これは国連や「人権擁護団第」も認めている。 2011年3月にNATOはリビアを空爆しはじめるが、NATOと連携して地上で戦っていた部隊の主力、LIFGは自他とも認めるアル・カイダ系の武装集団。この年の10月にカダフィが惨殺された直後、ベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられた(その1、その2)のは象徴的だ。西側の支配層がテロの象徴として使っていたアル・カイダと西側は連合していたことが明白になったのである。その後、戦闘員は武器と一緒にシリアなどへ移動する。 反政府軍が増強されたシリアでは2012年5月にホムスのホウラ地区で住民が虐殺され、西側はシリア政府に責任があると宣伝するが、すぐに嘘だと発覚する。ロシアのジャーナリストだけでなく、ローマ教皇庁の通信社やドイツのフランクフルター・アルゲマイネ紙も反政府軍が実行したと伝えたのだ。 現地を調査した東方カトリックの修道院長は反政府軍のサラフ主義者や外国人傭兵が実行したと報告、「もし、全ての人が真実を語るならば、シリアに平和をもたらすことができる。1年にわたる戦闘の後、西側メディアの押しつける偽情報が描く情景は地上の真実と全く違っている。」と語った。また、現地で宗教活動を続けてきたキリスト教の聖職者であるマザー・アグネス・マリアムも外国からの干渉が事態を悪化させていると批判している。つまり、西側の政府やメディアが真実を語らないため、シリアは戦乱で多くの人びとが殺され、社会が破壊されていると言っているのだが、これは事実だ。 2013年3月にシリア政府はアレッポの近くで化学兵器が使用されたとして調査を求める声明を出したが、8月になると、西側の政府やメディアはダマスカスの近くでシリア政府軍がサリンが使ったと主張、シリアを攻撃すべきだと叫び始める。 この主張は早い段階からロシア政府が否定、国連へ報告書を提出しているが、その際に反シリア政府軍が支配しているドーマから2発のミサイルが発射され、ゴータに着弾していることを示す文書や衛星写真が示されたとジャーナリストがフェースブックに書き込んでいる。 そのほか、化学兵器とサウジアラビアを結びつける記事が伝えられ、10月に入ると「ロシア外交筋」からの情報として、ゴータで化学兵器を使ったのはサウジアラビアがヨルダン経由で送り込んだ秘密工作チームだという話が流れた。 12月になると、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュもこの問題に関する記事を発表、反政府軍はサリンの製造能力を持ち、実際に使った可能性があるとしている。国連の元兵器査察官のリチャード・ロイドとマサチューセッツ工科大学のセオドール・ポストル教授も化学兵器をシリア政府軍が発射したとするアメリカ政府の主張を否定する報告書を公表している。ミサイルの性能を考えると、科学的に成り立たないという。 こうしたことは本ブログで書いてきたことだが、今でも知らない振りをしている人が少なくない。「民主化」の弾圧、虐殺を阻止するため、「人道」的な見地から軍事介入するべきだと主張する勢力がアメリカには存在しているが、実態は単なる軍事侵略。破壊と殺戮の主犯は「民主」や「人道」を掲げているアメリカ人たちだ。 安倍晋三政権が実現しようとしている集団的自衛権とは、こうしたアメリカの侵略に荷担するために仕組み。「人道」という嘘で始めたユーゴスラビアへの先制攻撃、大量破壊兵器という嘘で始めたイラク侵略、民主化弾圧という嘘で始めたリビアやシリアに対する攻撃、ウクライナでのネオ・ナチを使ったクーデターを直視しようとしない人びとが本気で集団的自衛権に危機感を持っているとは思えない。アメリカ政府も認めている大量破壊兵器の嘘は別として、そのほかのケースではアメリカの宣伝を丸呑みしているのが日本のメディア、「リベラル派」、「革新勢力」だ。
2015.08.08
アメリカ軍はトルコ領内から無人機を飛ばし、シリアの北部を攻撃したという。すでに空爆は実施しているが、ここにきてシリア政府軍を攻撃すると明言するようになったのは大きな変化だ。アメリカ国務省のスポークス・パーソンは全ての邪悪な出来事の根源はバシャール・アル・アサド体制にあると主張、軍事侵略を正当化しようとしているが、アサド政権が気に入らないと言っているにすぎず、理由になっていない。 過激な「悪い反政府軍」と穏健な「良い反政府軍」が存在していると今でも西側では宣伝されているが、それは幻影。これに「普通の反政府軍」が加わればお笑い番組のようになってしまうが、シリアでは多くの人が殺され、傷ついているわけで、笑い事では済まされない。 現在、IS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)と呼ばれている集団は2013年頃までISI(イラクのイスラム国)と呼ばれていた。シリアへ活動範囲を広げたからだというが、この説明には疑問がある。 2012年8月にアメリカ軍の情報機関、DIAが作成した文書によると、反シリア政府軍はサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてAQI。サラフ主義者やムスリム同胞団は戦闘員の出身母体で、戦闘員は別の組織、例えばアル・カイダ系戦闘集団のメンバーとして戦っている。このAQIはイラクでサダム・フセイン体制が崩壊した直後、2004年に組織されたアル・カイダ系の武装集団で、06年にはAQIを中心にしてISI(イラクのイスラム国)が編成された。 アル・カイダの歴史は1970年代の後半にアメリカ政府がアフガニスタンで編成したイスラム武装勢力。その秘密プロジェクトを指揮していたのがジミー・カーター大統領の補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキー。 CIAがムジャヒディン(戦闘員)を支援し始めたのは1980年からだとされているが、これが嘘だということは1991年から93年にかけてCIA長官、2006年から11年まで国防長官を務めたロバート・ゲーツも明らかにしている。彼によると、アメリカの秘密機関がムジャヒディンを支援し始めたのは、ソ連の機甲部隊が1979年12月にアフガニスタンへ軍事侵攻する6カ月前。 こうした証言についてコメントを求められたブレジンスキーは否定せず、カーター大統領が秘密工作を承認したのは1979年7月3日だと明言した。こうしたプロジェクトの中からアル・カイダが生まれるのだが、ブレジンスキーは全く意に介さず、すばらしいアイデアだったと自画自賛している。 アル・カイダという名前が知られるようになって間もない頃から、アル・カイダは統一された戦闘集団ではないことを少なからぬ人が気づいていた。ロビン・クック元英外相によると、アル・カイダとはCIAに雇われて訓練を受けた数千人におよぶムジャヒディンのコンピュータ・ファイル。アル・カイダとはアラビア語で「ベース」を意味し、「データベース」の訳にも使われているようだ。なお、この指摘をした次の月にクックは保養先のスコットランドで心臓発作に襲われ、急死した。享年59歳。 リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が倒された際、NATOによる空爆の支援を受けながら地上で主力として戦っていたのはアル・カイダ系のLIFG(リビア・イスラム戦闘団)。2011年10月にカダフィが惨殺された直後、ベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられたのは象徴的だ。(その1、その2)その後、戦闘員は武器と一緒にシリアなどへ移動する。 リビアではイギリスの情報機関や特殊部隊が積極的に動いていた。2011年2月にベンガジで反政府活動が始まるが、3月上旬には6名のSAS(イギリスの特殊部隊)メンバーと2名のMI6(イギリスの対外情報機関)オフィサーがヘリコプターでベンガジの近くに潜入している。この事実が発覚したのは、イギリス人のチームが反カダフィ軍の警備兵に一時拘束されたため。ベンガジの港からフリゲート艦「カンバーランド」で帰路につくまで、潜入チームは反カダフィ派と何らかの話し合いを行ったと考えるのが自然だろう。 NATOによる空爆が始まるのは3月中旬。イギリスのデイリー・メール紙によると、地上にはSASの隊員が潜入していた疑いもある。トリポリを攻撃する数週間前から、イギリスの軍や情報機関は反カダフィ軍に対する支援を活発化させていた。 伝えられるところによると、TNC(暫定国民評議会)が作成した攻撃プランをMI6のオフィサーが添削して整え、イギリス軍は武器、通信機器、そして精鋭部隊をトリポリに送り込んでいたという。首都攻撃は始まるとすぐにイギリス軍は5発の精密誘導爆弾をリビア情報機関の基地に落とし、夜にはトルネード戦闘機がトリポリ南西部にある重要な通信施設を破壊している。 カダフィは10月にシルトの近くでイギリスの偵察機に発見され、フランスの戦闘機が2発のレーザー誘導爆弾を車列に投下した後、アメリカ軍の無人機プレデターの攻撃も受けたという。最後は反政府武装グループからリンチを受けた上で殺された。NATOがシルトを攻撃する際、電子機器を専門とするアメリカ人が市内の動向を監視、SASは反政府軍を指揮していたとも伝えられている。 今年8月に入り、イギリスのサンデー・エクスプレス紙はシリアでもSASの部隊が活動していると伝えている。ISの服装を身につけ、ISの旗を掲げたSASの隊員120名以上がシリアでの戦闘に参加、通信支援のために250人以上のイギリスの専門家が関与、アメリカも同じようなことをしていると見られている。 アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟のほか、カタールなどのペルシャ湾岸産油国やNATO加盟国のトルコがシリアのアサド体制を倒すために侵略戦争を開始したのは2011年3月、その直後からトルコにある米空軍インシルリク基地では反シリア政府軍の戦闘員が軍事訓練を受けていた。ここにきてサウジアラビアはシリアとの話し合いを始めたようだが、まだISと決別したわけではないだろう。 インシルリクにいる教官はアメリカの情報機関員や特殊部隊員、イギリスとフランスの特殊部隊員だとされているが、訓練するだけでなく、イギリス、アメリカ、フランス、カタール、ヨルダン、トルコは特殊部隊をシリア領内へ潜入させていると疑われていた。イギリス紙による今回の報道に驚くべきではないということだ。 ここにきてアメリカ政府がシリア軍を自らが攻撃すると言い始めたのは、傭兵を使った戦闘が思い通りに進んでいないからだろう。ウクライナでもネオコンの思惑通りになっていないようで、戦闘員を補充する必要に迫られていることもシリアにおけるアメリカの傀儡部隊の戦力を低下させているかもしれない。全面核戦争を避けたがっているロシア政府が屈服することをアメリカ政府は願いながらギャンブルを始めたとも言えるだろう。 こうしたギャンブルを可能にしているのは、「民主化」や「人権」といった西側支配層の荒唐無稽な「おとぎ話」を西側のメディア、「リベラル派」、「革新勢力」が受け入れ、ロシアや中国に対する攻撃に参加しているからだ。西側の体制がこれからも維持されると考えるなら、「おとぎ話」を受け入れることが自分たちの利益に叶う。
2015.08.07
ウクライナの外相、トルコの副首相、そしてタタール人の反ロシア派代表が8月1日にトルコのアンカラで会い、タタール人、チェチェン人、ジョージア(グルジア)人などで「国際イスラム旅団」を編成してクリミアの近くに拠点を作ることで合意したという。反ロシア戦争を始めるつもりのようだが、その戦争を支援することをトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は表明したとも伝えられている。 報道管制が布かれ、ネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)の暴力が広がっているウクライナだが、そうした中、ウラジミル・プーチン露大統領への信頼度が上がっているという。閣僚や知事だけでなく、戦闘員も外部から補充しなければならない状況なのだろう。ネオコンはEUとロシアの間にはさまれた地域を戦乱で不安定化させようと目論み、あわよくばロシアを支配しようとしている可能性が高い。 しかし、ボリス・エリツィン時代に西側の正体を知ったロシア国民がアメリカの支配層に踊らされることはなさそうで、ロシア政府はNED(民主主義のための国家基金)などアメリカ系団体の活動を禁じ、ロシアから追い出した。外部から揺さぶるしかない。 最近、ウラジミル・プーチン露大統領はモスクワ駐在トルコ大使を呼び出し、シリアでIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)を支援するのを止めなければ外交関係を断つと通告したようだが、そうした強い姿勢を示した一因はウクライナへISの戦闘員を本格的に移動させる動きにあるのかもしれない。トルコとロシアとの関係悪化はトルコ・ストリームの建設を中断させることにもなりそうだ。 今年6月の総選挙で与党の公正発展党(AKP)は第1党を維持したものの、獲得したのは550議席のうち258議席にとどまり、エルドアン大統領は足下がぐらつき、憲法改正を問う国民投票を行うために必要な330議席(全体の5分の3)どころか過半数の276議席にも届かなかった。そこで、アメリカと手を組んでクルド人に対する空爆を本格化させている。 トルコはアメリカのネオコン/シオニスト、イスラエル、サウジアラビアと共同してISを支援、シリアの体制転覆を目指してきたが、ここにきてサウジアラビアが消極的になってきたようで、それをトルコがカバーすることになるのだろう。 日本では「安全保障関連法案」に関する議論で「後方支援」、つまり兵站の重要性が主張されているが、そうした主張をする人びともISの兵站には無頓着。シリアの体制を転覆させるプロジェクトが始動した直後からトルコはその拠点であり、兵站ラインはトルコからシリアへ入っている。その兵站ラインを潰せばISは崩壊するのだが、それを守っているのがトルコ。イスラエルやアメリカもISと戦っている人びとを攻撃してきた。つまり、ISを倒すべきと考えるなら、アメリカ、イスラエル、サウジアラビア、そしてトルコを批判しなければならない。兵站を考えるなら、まずトルコだ。 昨年10月19日に「自動車事故」で死亡したイランのテレビ局、プレスTVの記者、セレナ・シムはその直前、トルコからシリアへ戦闘員を運び込むためにWFP(世界食糧計画)やNGOのトラックが利用されている事実をつかみ、それを裏付ける映像を入手したと言われ、昨年11月にはドイツのメディアDWもトルコからシリアへ食糧、衣類、武器、戦闘員などの物資がトラックで運び込まれ、その大半の行き先はISだと見られていると伝えている。 昨年10月2日にはジョー・バイデン米副大統領がハーバード大学でISとアメリカの「同盟国」との関係に触れ、ISの「問題を作り出したのは中東におけるアメリカの同盟国、すなわちトルコ、サウジアラビア、アラブ首長国連邦だ」と述べ、その「同盟国」はシリアのバシャール・アル・アサド政権を倒すために多額の資金を供給、トルコのエルドアン大統領は多くの戦闘員がシリアへ越境攻撃することを許してISを強大化させたと語り、ISを支援しているグループのひとつ、イスラエルの情報機関幹部もアル・カイダ系武装集団がトルコを拠点にしているとしている。 トルコの場合、ISと最も関係が強いのは大統領の周辺。ISが密輸している石油はエルドアン大統領の息子が所有するBMZ社が扱い、ISの負傷兵はMITが治療に協力、秘密裏に治療が行われている病院はエルドアン大統領の娘が監督しているようだ。負傷兵の治療はイスラエルも行っている。 エルドアンは自らの利益、権力のためにシリアを攻撃しはじめたのだろうが、ロシアとの戦いを強いられる状況になってきた。一度始めた戦争を止めることは難しい。
2015.08.06
国力が圧倒的に違ったアメリカとの戦争は回避すべきだったと言う人がいる。アメリカに逆らわなければ破綻しないと言いたいのかもしれないが、1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した時点で中国での戦争は泥沼化していた。財宝を略奪して儲けていたものの、軍事的には追い詰められていたのだ。アメリカとの戦争を回避できたとしても、先は見えていたということでもある。アメリカとの戦争が無謀だったと強調する人びとはアジア侵略から目をそらし、アメリカへの従属を正当化しているとしか思えない。 1931年9月18日の柳条湖事件、37年7月7日の盧溝橋事件などを利用して日本軍は中国を侵略していったが、その始まりは1872年の琉球藩でっち上げ。明治政府は1871年7月に廃藩置県を実施、強力な自治権を持つ藩を廃止して中央政府の送り込む知事が行政を取り仕切る体制へ切り替えていたのだが、その後に新たな藩を作るという不自然なことをしている。 言うまでもないことだが、明治政府が琉球国を日本領だと認識していた、あるいは日本領にしたいと願っていたなら、琉球藩を作ってから廃藩置県のはず。その順番が逆だということは、明治政府は琉球国を日本だと認識していなかっただけでなく、日本領にしようとも思っていなかったということになる。 その不自然なことをした原因と見られている出来事が1871年10月に起こっている。宮古島の漁民が難破して台湾に漂着したのだが、その際に漁民が殺されたとされている。この出来事を口実にして日本政府は台湾へ軍隊を送り込むのだが、そのためには琉球国が日本だとする形を整える必要があった。そこで廃藩置県の後に琉球藩をでっち上げたわけである。明治政府を動かせる立場にいた何者かがこの出来事をみて侵略を思いついたということだ。 琉球国が潰された1872年、厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダーが来日、外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めたとされている。このアメリカ人は1875年まで外務省の顧問を務めた。2003年に公開されたアメリカ映画の「ザ・ラスト・サムライ」は、このアメリカ人がモデルだという。 日本は1874年に台湾へ派兵するが、それに続いて75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦が派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。当初、琉球の併合を考えていなかった明治政府にしては段取りが良すぎる。 同条規の批准交換にル・ジェンダーも陪席、それに続いて1894年から95年にかけて日清戦争、1904年から05年にかけて日露戦争、1910年には韓国を併合、さらに中国や東南アジアを侵略したわけだ。日本のアジア侵略は「琉球処分」で幕が開いたと言える。 米英は中国(清)を支配して略奪するために1840年から42年にかけてのアヘン戦争や1856年から60年にかけてのアロー戦争を引き起こし、そうした戦争で大儲けしたジャーディン・マセソン商会は1859年にトーマス・グラバーをエージェントとして日本へ送り込む。「幕末ものドラマ」によく登場する人物だ。 グラバーが来日した4年後、1863年に長州藩は井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)をイギリスへ送り出している。勿論、物見遊山が目的だったわけではないだろう。その手配をしたのがグラバーであり、渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が使われた。イギリスの支配層は長州藩を手先として使うことにしたように見える。 ところで、日露戦争で日本は戦費を調達するため、日銀副総裁だった高橋是清がクーン・ローブのジェイコブ・シフ頭取と交渉、融資を受けている。関東大震災の復興資金を調達する際にはJPモルガンに頼っているが、この金融機関と最も親密な関係にあったのが井上準之助。第2次世界大戦の前、ウォール街のカネに頼っていた日本は彼らの強い影響下にあった。 このクーン・ローブとJPモルガンを含む金融界の大物たちは1910年11月22日にジキル島クラブで秘密会議を開き、紙幣を印刷する権利を手に入れようと画策している。そして1913年12月23日、クリスマスの直前に連邦準備法を成立させ、銀行家が紙幣をコントロールする連邦準備制度ができあがり、アメリカを支配する体制が整った。 1932年のアメリカ大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトが率いるニューディール派はウォール街の支配者たちから嫌われていて、1933年から34年にかけて金融界はニューディール派を排除し、ファシズム体制を築くためにクーデターを計画した。これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の議会証言で明らかにされている。第2次世界大戦が勃発した1939年頃には、「日本・アングロ(米英)・ファシスト同盟」を結成してソ連と戦うという案が米英支配層の内部にあったという。(Anthony Cave Brown, ““C”: The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988) 1945年5月にドイツが降伏した後、イギリスのウィンストン・チャーチル首相の命令でJPS(合同作戦本部)は「アンシンカブル作戦」を作成した。それによると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始めることになっていたが、参謀本部が反対して実現せず、首相は下野することになる。この時に日本は戦争を継続中で、米英独がソ連と戦争を始めたなら、日本とソ連が手を組むということも米英側は考えたようだ。ちなみに、ポツダム会談が開かれたのは7月17日から8月2日にかけての期間で、その間にチャーチルは首相の座から下ろされた。ポツダム宣言が発表されたのは7月26日。 第2次世界大戦で敗北するまでの日本を「軍国主義」という切り口だけで理解しようとすると、「天皇制官僚国家」によるアジア侵略の歴史が見えなくなる。特高警察や思想検察の幹部たちが大戦後も要職に就くことができた理由も「冷戦」で誤魔化すしかなくなる。問題は「冷戦」が始まった原因であり、そのためには少なくともチャーチルの動きを理解しなければならないが、記者、編集者、学者といった類いの人びとはウォール街のクーデター計画と同じように見て見ぬ振り。 戦前と戦後を結びつけるキーパーソンのひとりがジョセフ・グルー。彼は1932年に駐日大使として来日、戦後は日本をウォール街の意向に沿った国に作り上げるためにジャパン・ロビーの中心人物として活動している。 グルーの親戚、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥の総帥の妻であり、ジョセフの妻、アリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で九条節子(後の貞明皇后、つまり昭和天皇の母)と親しい関係を築いている。グルー夫妻を介し、皇室とウォール街は大戦前からつながっているわけだ。「戦後レジーム」から「戦前レジーム」に切り替えても大きな変化はない。
2015.08.05
サウジアラビアとシリアを話し合いの席につかせたロシアは次にトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領に対し、IS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)との関係を断つように圧力を加え始めたようだ。 伝えられているところによると、ウラジミル・プーチン露大統領はモスクワ駐在トルコ大使を呼び、約2時間にわたって話し合っている。かなり激しい遣り取りがあったようで、シリアでISを支援するのを止めなければ外交関係を断つとプーチン大統領は通告しただけでなく、ISのテロリストと地獄へ落ちろと言い放ち、シリアをスターリングラードにすると警告したともいう。勿論、スターリングラードの戦いでドイツ軍は壊滅、アドルフ・ヒトラーの体制は終わった。 天然ガスを輸送するトルコ・ストリームの建設でロシアとトルコは合意、これでトルコとしてはロシアはシリアへの肩入れを弱めると踏んだのかもしれないが、そういう展開にはならなかったようだ。トルコとEUを結ぶパイプラインの建設ルートと見られていたギリシャがアメリカの脅しに屈したこともロシアの態度に影響を及ぼしているかもしれない。もっとも、ロシアはすでに中国との関係を強化、どうしてもEUへ天然ガスを売らなければならないという状況ではない。むしろEUにとって深刻な事態だ。 アメリカはトルコに対し、ロシアとの取り引きを取り消すように圧力がかかっているようだが、トルコにとってロシアとの取り引きは経済的に大きな意味があり、ロシアとの関係悪化は痛いだろう。国内で批判が強まっているエルドアン政権は窮地に陥った。 しかも、ロシアの空挺部隊の司令官はシリアで「テロリスト」と戦う準備はできていると語ったと伝えられている。トルコとアメリカはシリアでの空爆を開始、飛行禁止空域の設定も話題になっているが、こうした空域がシリアとの戦争を意味していることは本ブログでも書いた通り。アメリカがシリアの現体制を倒すために自らが出て来たなら、ロシアが応戦すると釘を刺しているようにも聞こえる。 現在、「イスラム武装集団」はウクライナやアフガニスタンへ移動、アフガニスタンからは中国やイランへ向かうとも言われているが、サウジアラビアが資金の提供を中止した場合、誰が新たなスポンサーになるかは大きな問題。戦闘の継続は難しくなるかもしれない。
2015.08.04
今から70年前の8月にアメリカ軍は2発の原子爆弾を日本へ投下した。まず8月6日にウラン235を使った「リトルボーイ」を広島市へ、あた9日にはプルトニウム239を利用した「ファット・マン」を長崎市へ落とし、その年の末までに広島では約14万人、長崎では7万4000人程度が死亡したと言われている。言うまでもなく、晩発性の障害や遺伝的な影響を含めた実際の犠牲者はさらに多くなる。その後、日本は「唯一の被爆国」だと言われるようになるが、この主張に疑問を持つ人もいる。イスラエルが中性子爆弾を使った疑いが濃厚だというのだ。 1986年にイギリスのサンデー・タイムズ紙はイスラエルが約200発の原爆を保有していると報道したが、その情報源だったモルデカイ・バヌヌはイスラエルが水爆を保有、中性子爆弾の製造を始めていたとも告発している。このバヌヌは1977年から約8年間、技術者としてディモナの核施設で働いていた。なお、ジミー・カーター元米大統領はイスラエルの保有する核弾頭の数は150発以上だと語っている。 イスラエルが核兵器を開発していることをアメリカ政府が察知したのは1958年後半から59年の初めにかけての頃。偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで原子炉と思われる大規模な施設が建設されている様子を撮影、CIAはイスラエルが核兵器を開発している可能性が高いと判断、この情報はドワイト・アイゼンハワー大統領にも伝えられている。このとき、CIAはディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたが、認められなかったという。 このとき、イスラエルの核兵器開発疑惑を知っていたのはアイゼンハワー大統領とCIAの画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールのほか、ジョン・フォスター・ダレス国務長官、その後任のクリスチャン・ハーター、アレン・ダレスCIA長官、やはりCIAのディノ・ブルギオニ、そしてAEC(原子力委員会)のルイス・ストラウス委員長だったと言われている。ストラウスはアメリカとイスラエル、両国に忠誠を誓っている人物で、1958年に大統領はストラウスをAEC委員長から降ろしている。なお、AECは1975年にERDA(エネルギー研究開発局)とNRC(原理力規制委員会)に改組された。 イスラエルは核兵器の開発に必要な原子炉をフランスから入手している。1956年にシモン・ペレスがフランスでシャルル・ド・ゴールと会談、フランスは24メガワットの原子炉を提供したのだ。イスラエルの科学者は1960年2月、サハラ砂漠で行われたフランスの核実験に参加、その直後にはイスラエル自身が長崎に落とされた原爆と同程度の核兵器を所有している。1960年12月、ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・フィネイは、イスラエルがディモナでプルトニウムを得るために原子炉を建設していると伝えた。 フランスがイスラエルの核兵器開発に協力した理由のひとつはアルジェリア情勢にあるという。エジプトの支援を受けたナショナリストがアルジェリアで勢力を拡大、1954年にはFLN(アルジェリア民族解放戦線)を中心にした武装闘争が始まるのだが、FLNに関する情報を入手するためのネットワークをフランスは持っていなかった。そこで、北アフリカの出身者を抱えるイスラエルの情報機関に頼ったようだ。その代償としてイスラエルはフランスから戦闘機や戦車のほか、小型原子炉を手に入れたという。 核開発に必要な資金はパリに住むエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドなどの富豪が提供しているが、1960年3月にニューヨークでダビッド・ベングリオン首相と会談した後、コンラッド・アデナウアー西独首相は1961年から10年間に合計5億マルク(後に20億マルク以上)を融資することを決めている。1960年代にイギリスは核兵器用のプルトニウムをイスラエルへ秘密裏に供給していた。 アデナウアーとベングリオンが会談する前月、1960年2月にイスラエルの科学者はサハラ砂漠で行われたフランスの核実験に参加、その直後にイスラエルは長崎に落とされた原爆と同程度の核兵器を手に入れている。1963年にはイスラエルとフランスは共同して核実験を南西太平洋、ニュー・カレドニア島沖で実施した。 アイゼンハワーの次に大統領となったジョン・F・ケネディはイスラエルの核兵器開発に対して厳しい姿勢で臨み、同国のダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙を送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している。 そのケネディは1963年11月に暗殺され、副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは議会で親イスラエル派の中心的存在だった人物。次のリチャード・ニクソン政権では大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが1973年10月に第4次中東戦争を仕掛ける。アンワール・サダト大統領をアラブ世界の英雄に仕立て上げるために仕組んだのだが、その一方で石油価格の高騰を目論んでいた。 石油価格を引き上げる決定は1973年5月にスウェーデンで開かれたビルダーバーグ・グループの会合で決められている。ザキ・ヤマニ元サウジアラビア石油相はガーディアン紙で、「1973年5月にスウェーデンで開かれた秘密会議」で石油価格の値上げが決められたと語っているが、その秘密会議を開催したのがビルダーバーグ・グループだった。 エジプト軍の奇襲攻撃で境地に陥ったイスラエル政府は核兵器の使用について議論する。ゴルダ・メイア首相の執務室で開かれた会議の席上、モシェ・ダヤン国防相は核兵器を選択肢として見せる準備をするべきだと発言したという。核兵器使用の準備をするという提案はメイア首相が拒否して実行されなかったという話も流れているが、閣議で核兵器の使用が決まったという情報もある。 敗色濃厚のイスラエルに対してアメリカは物資を空輸しはじめるが、キッシンジャーはエジプトのアンワール・サダト大統領に対し、核戦争へとエスカレートすることを防ぐためだと説明した。 形勢が逆転すると、イスラエルはアメリカの停戦要請を無視して攻撃を続ける。それに対してソ連のアナトリー・ドブルイニン駐米大使はキッシンジャーに対して米英両国が平和維持軍を派遣してはどうかと提案、レオニード・ブレジネフ書記長はニクソン大統領宛の手紙の中で、アメリカがソ連と手を組めないのならば、ソ連は単独で行動すると警告している。 キッシンジャーはソ連側へソフトな内容の返信を送る一方、核戦争の警戒レベルを引き上げ、全世界のアメリカ軍に対して「赤色防空警報」が出されたともいう。核戦争の危機がせまっているとメイアは信じた。 そうした中、ダヤン国防相は核攻撃の準備を始め、2基のミサイルに核弾頭をセット、目標をダマスカスとカイロに定めている。当時、イスラエルとの間に一線を引き、武器の供与に消極的だったニクソン大統領に対する恫喝だと推測する人も少なくない。 2013年5月や14年12月にはシリアで大きな爆発があり、まるで地震のようで「巨大な金色のキノコに見える炎」が目撃されている。イスラエルが小型核爆弾、いわゆる「スーツケース爆弾」を使ったという噂も流れた。今年5月にはイエメンで大きな爆発があり、状況から考えてイスラエルが中性子爆弾を使ったのではないかと疑われている。 このイスラエルと日本は核の分野でつながりがある。例えば、2011年3月に過酷事故を起こした東電福島第一原発にはイスラエルのマグナBSPがセキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラを設置していた。これはエルサレム・ポスト紙やハーレツ紙が伝えている。そのシステムがどうなったのかは不明だ。なお、ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、1980年代以降に日本はアメリカの一部勢力と手を組み、兵器級プルトニウム70トンを蓄積、IAEAは黙認してきたという。日本が核兵器を開発、製造の準備をしていることは情報機関の間では常識になっているようだ。
2015.08.04
バラク・オバマ米大統領はアメリカが訓練した反シリア政府軍を守るためにシリア軍を空爆することを許可したという。一種の集団的自衛権を行使するというのだろうが、その反シリア政府軍とは何者なのか? 2012年8月にアメリカ軍の情報機関、DIAが作成した文書によると、反シリア政府軍はサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてAQI。シリアの現体制を倒すために戦っている反シリア政府軍のうち「穏健派」とされているFSA、その幹部であるアブデル・ジャバール・アル・オカイディによると、FSAの約10%はアル・カイダ系のアル・ヌスラ。DIA文書によると、アル・ヌスラはAQIがシリアで活動するときに使っていた名前にすぎない。 AQIは2004年に組織されたアル・カイダ系の武装集団で、06年にISI(イラクのイスラム国)が編成された際には中核になり、今ではIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)と呼ばれている。ということで、オバマ大統領はISを守るためにシリア軍を攻撃してかまわないという許可を出したことになる。 リビアやシリアに対する攻撃が始まった頃、その中心にはイギリスやフランスが存在していた。そこにアメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟が参加、シリア攻撃にはトルコが重要な役割を果たしている。こうした構図は本ブログでも繰り返し書いてきたことだ。 それに対し、ロシアがシリアに対するNATO軍の直接的な介入を阻止、イランはシリアへ部隊を送り込んで支援している。核開発問題でイランはP5+1(アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスの国連安保理事会の常任理事国にドイツを加えた6カ国)と合意に達したというが、これでイランがロシアからアメリカへ乗り換えるようには見えず、シリアへの支援も続けている。しかも、ここにきてサウジアラビアがロシアの仲介でシリアへ接近、三国同盟が崩れ始めている。 現在、シリア攻撃に参加しているのはアメリカ、イスラエル、そしてトルコ。そのトルコにある米空軍インシルリク基地では、2011年3月にバシャール・アル・アサド体制を倒すためのプロジェクトがスタートした直後から反政府軍を訓練している。教官はアメリカの情報機関員や特殊部隊員、イギリスとフランスの特殊部隊員。それ以降、現在に至るまでトルコは反シリア政府軍の拠点であり、ISへの兵站線はトルコ軍が守っている。シリアとの国境近くには反シリア政府軍の拠点がある。 言うまでもなく、戦争は兵站がなければ維持できない。ISに対する物資はトルコから大量に運び込まれていることは有名で、西側のメディアも伝えているほど。例えば、ドイツのメディアDWは昨年11月、武器や戦闘員だけでなく、食糧や衣類などの物資がトラックトルコからシリアへ運び込まれ、その大半の行き先はISだと見られていると伝えている。 これも繰り返し書いてきたが、イランのテレビ局プレスTVの記者、セレナ・シムは昨年10月19日に「自動車事故」で死亡する直前、トルコからシリアへ戦闘員を運び込むためにWFP(世界食糧計画)やNGOのトラックが利用されている事実をつかみ、それを裏付ける映像を入手したと言われている。 昨年3月23日にトルコ軍のF-16戦闘機がシリア軍のミグ23を撃墜したのだが、撃ち落とされたシリア軍機はその兵站ラインを攻撃してた可能性が高い。そのトルコ軍は現在、クルド軍を攻撃しているようで、ISの護衛が手薄になっているのかもしれない。ISの戦闘員がウクライナへ入っているようなので、そうした面でも戦闘力が落ちている可能性がある。 あと、ISを守る国と言えばイスラエル。何度もシリアを空爆しているが、今年1月18日にはISを追い詰めていたシリア政府軍とヒズボラの部隊を攻撃、イラン革命防衛隊のモハメド・アラーダディ将軍を含む幹部を殺している。 イスラエルのアル・カイダやISへの姿勢は2013年9月、駐米イスラエル大使だったマイケル・オーレンが口にしている。彼は公然とシリアのバシャール・アル・アサド体制よりアル・カイダの方がましだとエルサレム・ポスト紙のインタビューで語っているのだ。 現在、シリアを攻撃している国はアメリカ、イスラエル、トルコであり、ISはその手先ということだが、この国々の結束も強くはないはず。トルコが攻撃しているクルドはイスラエルがイランの体制を転覆させるために支援してきた勢力であり、揉め始める可能性があり、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン政権が倒れることも考えられる。ネオコンの世界制覇プロジェクトは中東でも崩れ去ろうとしている。
2015.08.03
ロシアの仲介でサウジアラビアとシリアが急接近している。サウジアラビアのサルマン・ビン・アブドルアジズ・アル・サウド国王はウラジミル・プーチン露大統領の招待で今年中にロシアを訪問するようだが、その前に副皇太子で国防大臣でもあるモハンマド・ビン・サルマンは6月19日にプーチン大統領と会談した。この副皇太子は国王の息子でもある。 サウジアラビアはロシアのプロジェクトへ100億ドルを投資するというが、それ以上に注目されているのはシリア政府との関係。6月29日にシリアのワリド・ムアレム外相らがモスクワを訪れ、その数週間後には内務長官のアリ・マムルクがロシアの情報機関幹部とサウジアラビアのリヤドを訪問、総合情報庁のハリド・ビン・アリ・アル・フマイダンと会談している。 この背景には、イランの核問題に関する協議が合意に達したこと、イエメンでの戦争が長期化の様相を見せていること、資金を供給していた先のIS(イラクとレバントのイスラム首長国。ISIS、ISIL、IEIL、ダーイシュとも表記)との関係悪化などがあるようだ。現在、ISはトルコ政府との関係が強い。 ISを動かしていたのはバンダル・ビン・スルタンだと言われている。バンダルは1983年10月から2005年9月まで駐米サウジアラビア大使を、2012年7月から14年4月まで総合情報庁長官を務め、ブッシュ家と親密な関係にあることから「バンダル・ブッシュ」と呼ばれている。 調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは2007年3月5日付けニューヨーカー誌で、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの「三国同盟」がシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を開始した書き、その中心にはリチャード・チェイニー米副大統領、ネオコン/シオニストのエリオット・エイブラムズ国家安全保障問題担当次席補佐官、ザルメイ・ハリルザド、そしてバンダル・ビン・スルタンがいるとしている。 そのバンダルは2013年7月末にモスクワを極秘訪問、プーチン大統領に対して黒海のソチで開かれる冬季オリンピックを守ると保証している。オリンピックの破壊活動をすると脅しているチェチェンのグループは自分たちのコントロール下にあり、自分たちとの調整なしにシリア領へは向かわないというのだが、シリアから手を引かないとオリンピック会場を攻撃するという脅しだと理解されても仕方がない。「ここ10年間、チェチェンのテロリスト・グループをあなたたちが支援していることを知っている」とプーチンは応じたという。 そのバンダルは2014年4月に総合情報庁の長官を解任され、彼と近かったサウド・アル・ファイサルは今年4月に外務大臣を辞めている。ネオコンのプランに基づいてアメリカやイスラエルと始めたプロジェクトが行き詰まり、自分たちの体制を揺るがしかねない状況になったサウジアラビアは方針を大きく変更しつつある。 こうした流れの中、アメリカとしてはイランとの関係改善を図るしかなかったという見方があるのだが、それに怒っているのがイスラエルやネオコン。イスラエルは今でもシリアのバシャール・アル・アサド体制打倒を最優先課題にしていて、アル・カイダ系武装集団であろうと、ISであろうと手を組む姿勢を崩していない。トルコは「緩衝地帯」を設定してISを守り、シリア軍機を撃墜する意思を明確にしている。 イスラエルを怒らせてまでイランとの話し合いを進めたアメリカだが、イランがロシアからアメリカへ乗り換える可能性は小さいと見られている。積年の恨みがあり、その傲慢な態度を許してはいない。ロシアがISやネオ・ナチの封じ込めに成功すれば、アメリカは窮地に陥りそうだ。
2015.08.02
ロシア政府はNED(民主主義のための国家基金)などアメリカ系団体の活動を禁じ、ロシアから追い出すようだ。この決定をNEDの幹部だけでなく、ワシントン・ポスト紙も批判しているが、こうした決定を遅すぎると考えている人も少なくない。NEDはCIAの工作資金を供給することが役割だからだ。 ロナルド・レーガン政権はアメリカに服わない体制を転覆させるために「民主主義」という呪文を使うことを決め、1983年に創設されたのがNED。そこから資金はNDI(国家民主国際問題研究所)、IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業センター)、国際労働連帯アメリカン・センターへ流れていく。USAID(米国国際開発庁)もCIAの資金を流す上で重要な役割を果たしている。このネットワークの中心メンバーはネオコン/シオニストだと言われている。 2012年1月にマイケル・マクフォールがアメリカ大使としてモスクワに着任した3日後には、ロシアの反ウラジミル・プーチン、あるいは親アメリカ(親ウォール街)派のリーダーがアメリカ大使館を訪れている。「戦略31」のボリス・ネムツォフとイーブゲニヤ・チリコーワ、「モスクワ・ヘルシンキ・グループ」のレフ・ポノマレフ、選挙監視グループ「GOLOS」のリリヤ・シバノーワらだ。 戦略31はNEDから、モスクワ・ヘルシンキ・グループはNEDのほか、フォード財団、国際的な投機家であるジョージ・ソロス系のオープン・ソサエティ、そしてUSAIDから、またGOLOSもやはりNEDから資金を得ている。こうした団体の影響力は小さくなっていたが、それでもCIAの強力な資金力は無視できない。カネの魔力に操られる人は存在するからだ。日本やEUの場合、NGOを政治家や官僚と読み替えてかまわないだろう。
2015.08.02
アメリカの電子情報機関NSAが日本の政府や企業をターゲットにしていたことを示す文書を内部告発支援サイトのWikiLeaksが公表した。具体的な話が明らかにされる意味は重要だが、NSAが日本も情報収集の対象にしている可能性が高いことは1972年から知られている。この年、NSA元分析官がランパート誌の8月号でNSAは「全ての政府」を監視していると語っているのだ。 NSAはイギリスのGCHQとUKUSAなる電子情報機関の連合体を作り、その配下としてカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの情報機関が活動しているのだが、1972年の段階ではGCHQの存在は知られていない。実は、1972年までNSAの存在も明確には知られていなかった。 GCHQの存在が明らかになったのは1976年のこと。ジャーナリストのダンカン・キャンベルとマーク・ホゼンボールがタイム・アウト誌で発表したのだが、この記事が原因でホゼンボールは国外追放になり、イギリス人のキャンベルはMI5(治安機関)の監視下に入った。 その数年後、キャンベルはタイム・アウト誌のクリスピン・オーブリー記者と電子情報機関の元オペレーターを取材、この3名は逮捕されてしまう。オーブリー(Aubrey)、元オペレーターのベリー(Berry)、そしてキャンベル(Campbell)の頭文字をとって「ABC事件」とも呼ばれている。そうした弾圧を跳ね返してキャンベルは電子情報機関の暗部を暴き続け、1988年にはECHELONの存在を明らかにした。ECHELONは全世界の通信を傍受するシステムで、勿論、日本が例外ということはない。 アメリカの支配層は通信を傍受するだけでなく、トラップ・ドアなどを仕込んだシステムをダミー会社経由で世界の政府、企業、国際機関へ売り、自動的に情報を入手できる仕組みを作っている。そうしたシステムを導入していない国にはハッキングする。 ロナルド・レーガン政権が始まった頃、アメリカの情報機関は司法省と組んでPROMISというシステムのプログラムを盗んだ疑いが濃厚である。(破産裁判所、連邦地裁、下院司法委員会は司法省が横領したとしている。)そのPROMISにアメリカとイスラエルの情報機関が別々にトラップ・ドアを仕込み、全世界で売っていた。こうしたシステムを使い、アメリカの情報機関は世界の情報を集め、政策の立案や敵対するターゲットを脅す材料にしている。 日本の場合、大手都市銀行や動燃がターゲットになっていたと言われている。動燃が狙われた理由は兵器級プルトニウムを日本が作っているという疑惑から。CIAやNSAの内部では、日本の核兵器開発は常識。その開発をアメリカの一部勢力が協力しているとジャーナリストのジョセフ・トレントは書いている。 1965年に佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、核武装する意志を伝えたとされている。思いとどまるように説得されたというが、その2年後には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立されている。 NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1969年に日本政府の内部で核武装を本格的に話し合い、西ドイツ政府と秘密協議をしたという。日独両国はアメリカから自立し、核武装することで超大国への道を歩もうと日本側は主張したのだという。 内閣調査室の主幹だった志垣民郎を中心とするチームによる調査は、技術的に核武装は容易にできるという結論に達している。日本原子力発電所の東海発電所でプルトニウムを生産、志垣らの調査では高純度のプルトニウムを1年に100キログラム余りは作れると見積もっていたという。 日本の提案を西ドイツは拒否したというが、この頃、西ドイツはイスラエルの核兵器開発に協力している。コンラッド・アデナウアー西独首相は1960年3月にニューヨークでダビッド・ベングリオン首相と会談、核兵器を開発するため、1961年から10年間に合計5億マルク(後に20億マルク以上)を融資することを決めたという。 アデナウアーは1963年に首相の座を降り、67年には死亡しているが、日本政府が西ドイツ政府に接触した当時、まだ西ドイツからイスラエルへ核兵器開発用の資金は流れていた可能性が高い。当時の西ドイツ政府が核兵器の開発に否定的だったわけではないということだ。何者かが日本政府に提案した可能性もあるだろう。 アメリカの支配層は外国の情報を盗み、分析するだけでなく、自国民の監視も強化してきた。1950年代にFBIが始めたCOINTELPROや1967年にCIAが開始したMHケイアスは有名だが、いずれも最大のターゲットは戦争に反対し、平和を求める人びと。愛国者法が成立してからも、そうした人びとを「テロリスト」だとしている。 かつてはシステムの能力の問題でターゲットを絞っていたが、今では不特定多数。アメリカ国防総省のDARPA(国防高等研究計画局)は個人の学歴、銀行口座の内容、ATMの利用記録、投薬記録、運転免許証のデータ、航空券の購入記録、住宅ローンの支払い内容、電子メールに関する記録、インターネットでアクセスしたサイトに関する記録、クレジット・カードのデータなどあらゆるデータの収集と分析している。どのような傾向の本を買い、借りるのか、どのようなタイプの音楽を聞くのか、どのような絵画を好むのか、どのようなドラマを見るのか、あるいは交友関係はどうなっているのかなどを調べ、国民ひとりひとりの思想、性格、趣味などを推測、「潜在的テロリスト」を見つけ出そうというプロジェクトも進んでいるようで、特に子どもたちが狙われているだろう。 当然、日本でもそうした仕組みを導入するはず。侵略戦争を肯定する社会科系の教科書が作られたり、「道徳」が導入されているが、これは子どもを「洗脳」するだけでなく、反応を見て「危険人物」を探し出す仕掛けのようにも見える。
2015.08.01
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