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「アメリカに帰国前にCOVIDテストが陰性でなければならないので、明日は〇〇時に、この部屋で専門家が来るのをまっていてください。朝食後に皆で、COVIDテストを受けてから徒歩でパレスを見に行ってホテルに戻ったら自由時間です。夕方は全員、馬車で町を一時間半くらい見物して、ラスト・サパーのレストランに直行する計画です」と、ハビエルがいった。スペインの旅も、今日が最後である。 全員テストが陰性になるといいけど、と心配顔だったが、17人全員陰性でパス。晴れ晴れとした顔でホテルをでた。パレスは、現在でも王家の人や、首相などがセビリアを訪問する時の宿舎としてつかっているそうだが、そうでない時は、一階は一般人が見学できるようになっていた。建築のスタイルは、アルハンブラによくにていたが、小高い丘の上から、城下町を見下ろすアルハンブラ宮殿と違って、ここは街中にあった。つまり、門を一歩でたらダウンタウンで、車が行き交い賑やかな場所にある。又、アルハンブラ宮殿は誰も住んでいないが、ここには記者会見の部屋があったり、二階の部屋は泊まれるように、家具、寝具がそろっていて一部だけは、人数制限で見せてくれるらしいが、一階でも博物館のように沢山の絵や歴史を織り込んだタペストリーが沢山かざってあり、庭も色々な行事にもつかっているらしく、生活がみられた。 一見は百聞にしかず・・・であるから、私の写真よりこのサイトの方が分かりやすいと思う。3分程度なので、ごらんになることをお勧めする。オバマ大統領も訪れた様子がはいってる。 (帰り道で、アメリカ人でこの町に30年すんでる絵描きと話てるグレッグ) ホテルにもどったら自由時間と言われても、荷造りをしたり、エアラインのコンファメーションから、朝4時半のタクシーの予約など色々やることがあるから、のんびりとはしていられない。とは言っても、それは私だけ。グレッグは、ITに至極弱く、携帯でもサイトをみたりチャットをしたりする程度だから、自分の荷物をパックして、屋上のジャクジに消えた。「朝3時半起きだから水着が乾かないかもしれないじゃない」と言ったが、「大丈夫だよ」と我関せず。こういう時には、80才にして、結構携帯やPCを扱える自分は損だなあと思う。 一時間以上すったもんだのあげく、一応コンファメーションを終わらせ、ホテルのフロントでタクシーを予約してもらったが、このホテルの前は車が入れないので、100メートル位歩くことになると言われた。 7時にロビーに降りて行くと、もう10人くらい待っていて、私にピアノを弾け弾けと、うるさい。小さなロビーの真ん中にグランドピアノがおいてあるのである。このホテルは『アマデウス』といって、どの部屋にも楽器が沢山かざってあり、ピアノ、セロ、ギターなどはだれでも弾けるようになっていた。(枚数に制限があるので写真は明日別に載せます) 「指が曲がって、もう7,8年弾いてないから無理。楽譜もないし」と本心を言ったのだが、皆あとにひかない。仕方なく、暗譜で弾ける『エリーゼの爲に』を弾き始めたが、最悪であった。皆は「素晴らしい」とか拍手されて、穴があったら入りたかった。 皆が集まったので、大通りまで行くと、4人乗りの馬車が5台我々を待機していた。全員が座ると、ハビエルは、皆にプラスチックのシャンペングラスを手渡し、なみなみとシャンペンをそそいだ。クレッグと、ロレーンには、コカ・コーラを渡した。私も、「1インチだけ」といって、ちょこっと入れてもらい、ハビエルの音頭で「かんぱ~い!」 そして、馬車は走り出した。物凄い渋滞の目抜き通りを、まるでツーリストに優先権があるかのように、すいすいと走った。5台つらなって、シャンペンを飲みながら通り抜ける馬車は、人々の目に異様に映ったと思う。我々とシェア―したカップルの奥さんが、「エリザベス女王は、どうやって手を振ったかなぁ」というので、「こうじゃない?」と私が手をたててヒラヒラさせたら、「あ、そうそう、それだ!」といって、通る人に女王の真似をしたので、大笑い。 町を一周してから、今夜行くレストラン前で馬車をおりた。店の入口がまるでファンシーな魚屋のように、ケースの氷の上に新鮮な魚や貝類、ラブスターなどをならべてあり、「最後だから、フレッシュなラブスターとか、生カキの前菜などがでるのかなあ」と期待していたのに、そこを通り抜けて裏の大広場のテントの下にテーブルがセットしてあって、何時も食べてるオリーブ、チーズやら、サラミがならべてあって、相変わらず沢山のワインが用意されていたので、「なんだ、つまらない」と思った。(乾杯するハビエル) (牛の尻尾)「長い旅も、今日で終わりになります。皆さんで乾杯しましょう。カンパ~イ!」とグラスをかかげて一揆に飲み干すと、ハビエルは「今日はスペイン独特の特別な料理を選びました。Ox Tail(牡牛の尻尾)です!」と言ったら、グループの人々は気味悪そうに顔を見合わせていたが、グレッグと私は、ベトナム・レストランでOxTailのフォーをちょくちょく食べてるので、慣れていたし、コーンビーフのような食感だというのも知っていたから「大丈夫よ、きっと美味しいでしょう」と言って皆を安心させた。 最後の晩餐にしては、貧弱だなあとは思ったが、最後に闘牛で有名な国で牛の尻尾を食べるというのも、忘れがたい思い出となるかもしれないから、「ま、いっか!」と思った。我々は、皆がまだ寝てる間にホテルをでるので、皆にさようならをいった。ここから、ポルトガルに行く人、まだあちこち旅する人、数日ここにとどまる人と、皆それぞれ。 ホテルに戻ったらもう11時。翌日は3時半起きだから、シャワーを浴びたら4時間しか寝られないというのに、グレッグはテレビをつけた。「僕はねられないよ」といったが、アラームをセットして目を閉じたらテレビの音もきにならず、私はすぐ寝てしまった。
2022.07.30
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実を言うと、私がスペインに来たかった理由の一つは地元で見るフラメンコにあった。フラメンコにも色々な宗派があって、とりわけセビリアのフラメンコは絶妙だと聞いていた。 グレッグと一緒になって今年で26年目になるのだが、巡り合って4,5年たったころ、私は不思議な夢をみたのだった。この話は、「深い知識」という本に書いたので、かいつまんで書いてみる。私のブログを20年前から読んでいらっしゃる方は、もう珍しくもないだろうが、初めて読む方には信じられないかもしれないので、ちょっと説明すると、私は子供の頃から霊感が強く、更に意義深い「夢」を沢山みてる。それは、同時に進行してる事柄 (事故とか、竜巻とか)、予知夢、正夢、問題解決、教え、シンボリックな夢の他に前世の夢をみる。ちなみに、去年の1月6日にアメリカの国会で起こった暴動も、3年前に夢でみており、「トランプ率いるクーデターが失敗に終わった夢をみた」とフェイスブックに書いた。人々は笑っていたが、実際にその通りになっている。 筆頭の夢だが、リズムをとって床を蹴る音に目覚めそうになり、何だろう?とフォーカスすると、私がフラメンコダンスの練習中のシーンであった。物凄いスピードを要する踊りで、カスタネットを鳴らしながら踊り狂ってたのだが、ギターの伴奏をしてる男がちょっと間違えた途端に私もつまずきそうになったので、怒ってカスタネットをその男に投げつけたのだった。その男は、文句も言わず静かにカスタネットを拾って「ごめん」と言いながら私に渡したのだが、よく見るとそれがグレッグだったのである。 この夢は延々と続き、面白い物語になっているが、その話を書くためではないので、ここでやめとく。兎に角、私達は前世でも恋人同士だった夢だったので、もしかしたら、スペインのどこかに行ったら、とくにフラメンコをみたら何か感ずるかな?と思って期待していたのだった。 劇場に入っても、別になにも感じなかったが、ギターが奏でだし、若い女性のダンサーが凄いエネルギッシュに床を踏み始めた途端に爪先から頭のてっぺんまで鳥肌が立って、物凄く『懐かしい‥‥』という感覚になりウルウルしてる自分に気が付いた。体中の全細胞が踊りだしたくてうずうずしている自分に気が付いた。(日本人なのに、と思う方。私はオランダの血も1,2滴入ってるのです) グレッグは「フラメンコなんか別に見たくもない。一度、ハリウッドでみたじゃないか。つまんなくて途中から帰ろうっていったじゃないか。いきたくないなあ」と言って、待ってる間も貧乏ゆすりしていたのだが、ギターが鳴り出した途端にビクッとして最後まで釘付けになっていた。(撮影禁止で、これは、写真用に違う衣装で出て来た時のものです) ショーが終わった時に、「何かかんじたかい?」と聞いた。彼も私の夢の話を思い出していたらしい。「踊りだしたとたんに、体中に電気が走った感じになった。これは、ハリウッドの時には全くなかった感覚。確かに自分は踊り子だったという感じはしたけど、この土地ではない」と答えた。今度は私が「グレッグは?なんか感じた?」と聞いた。「始まるまで、何故来たんだろう?ホテルでジャクジに入ったり泳いでればよかったと思ってたけど、ギターがはじまったとたんに、ジーンと体中がしびれた。歌もよかったねえ。来てよかった」と言ったのだ。彼にしては、とても珍しいことだった。 物語は、夫を亡くした未亡人が嘆きながら墓参りをする・・・みたいな暗い筋だったが、表情や動きに、怒り、悲しみ、哀愁が現れており実に見事な踊りであった。ひらひらした華やかな衣装ではなく、喪服でバラの花を頭にさして踊り、烈しい動きでバラが舞台におちても表情も替えず、緩やかな動きの時にひろって口にくわえたり、実に見事であった。 劇場から出る前にギターのCDを買い、夕食は自由行動なので皆ばらばらに消えて行った。 「さっき、寿司の看板でてたところに行ってみようよ」とグレッグがいったが、閉っていたので、一時間くらい歩いてる内に小雨になってきた。劇場に入る前までは青空だったのにである。 行けども行けども、日本食堂などない。その内に小雨がもう少しひどくなって、これではびしょ濡れになるだろうと思ったら、目の前に『日本料理』の看板があったので、飛び込んだ。中国服のオーナーがでてきたけど、グレッグは「寿司しかたべたくない」といったので注文したが、最低であった。雨宿りをしたつもりになればよいと自分に言い聞かせ、ホテルに戻った。
2022.07.28
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セビリアというと、母が良くロッシーニの「セビリアの理髪師」の後半を口ずさんでいたのを思い出すが、クリストファー・コロンブスの永眠の土地であるとは知らなかった。それだけでなく、今でも子孫が代々この町に住んでいるというのだ。ちゃんと彼の横たわってるという立派なお棺も見てきた。 (この中に本物のコロンブスが入ってるとのこと) この町に着いたときに、ローカルガイドの女性が待っていて、最初に連れて行ってくれたところは有名なラ・マカレナ、別名Weeping Virgin(涙する乙女)の立像がまつられているカテドラル。驚いた事に、建物に入った右側にメキシコの聖グアダルペがいたことで、奇遇にもグレッグは自分のデザインしたグアダルペのTシャツを着ていたのだった。よりによって、その日に着ていたのがとても不思議であった。 本堂は他のカテドラルと比べると、さほど大きくはなかったが、その隣の部屋がちょっとした博物館兼ギフトショップになっていて、二階と三階にフェスティバル用の山車とか、人々が着る衣装とかが飾ってあった。考えたら、イースターが終わったばかりだったので、その数週間前にはここに展示してある山車がパレードにくわわったらしい。ツアー会社は、その期間は数年前からどのホテルも満員になるので、我々のツアーはそれが終わってからになると言ってた。 そのパレードのマカレナに選ばれるコンテストが毎年行われるとか、選ばれるのは、大変に光栄なことらしい。その時代の装束にみを固めた人々がパレードをするというが、ネットで調べたらでてきたので、興味のある方は、どうぞ。そこから、バスでホテル近くの大通りの道で降ろされ、「全員自分のスーツケースを持って、素早く降りてください。マドリードからずっと一緒だった運転手のホゼは、これで終わりです。いまからマドリードまで戻るのです」と言われて、それぞれに握手をして、バスは去って行った。 我々のホテルまで、10分くらいゴロゴロと荷物を引っ張って繁華街をあるき、小型自動車が一台くらいしか入れない路地に入って暫くすると、『アマデウス』という洒落たホテルがあった。そこに荷を置いて、またすぐロビーに集まり、スペインで一番大きなゴシック・カテドラルまで徒歩で行くことになった。 ダウンタウンと、そのカテドラルは、我々のホテルから歩いて15分位の便利な場所にあった。バルセロナから始まって、沢山のカテドラルを見て来たが、一番大きいといわれるだけあって、トレドでもそうだったが、建物の中に柵にはいった教会のようなものがいくつもあって、人でごった返しているので、ちょっとよそ見をしていると迷子になる。「奇跡の像」というのがあって、順番をまって私も触って来た。別にご利益とか期待しなかったが、無事に帰宅したことだけでも利益だったとしよう。 「ここから、自由行動ですが、今夜はフラメンコを見に行きますから、xx時にロビーに集まってください」という事で解散になった。
2022.07.27
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スペインが誇る文化の一つにアンダルシアのショー・ホースがある。血統のよい馬を、丁寧に、大事にそだて、歩き方の数々、ジャンプ、お辞儀とか、ラインダンスのように、他の馬と足並みをそろえて闊歩する事を教えて観客に見せる行事で、毛並み、姿勢のよさ、お行儀の良さにはほれぼれするし、感心するのだ・・・・・・が・・・・・私には、いつも、この・・・・が・・・・が続く。 ショーに出すまでのトレーニングは、馬にとっても人間にとっても大変な仕事。我々が行った牧場、飼育場、リングの設備はグラディエーターのトレーニングを思い起こさせるもので、円形の場所に巨大な輪があって10頭くらいの馬が繋がれており、同じスピードで歩く訓練をされていた。ただ、機械を一定のスピードに設定してあって数時間ぐるぐるあるきまわるのだ。また、馬車を引く馬は、一か所にじっと待っている訓練もされるらしく、50センチくらいの鎖で壁に繋がれていて向きを変える事もできない。さらに、優秀な馬は、乳離れをするくらいになると親と離されてしまうそうで、そういう時に親子で悲しむらしい。 トレーニングにパスした馬は、昇格(?)して自分の馬小屋がもらえるのだろう、立派な馬小屋がずらりと並び、ブラスでできたプラックに生年月日や名前が書いてある。そうでない馬は、肩寄せ合って、そのた大勢の柵の中にいた。「この大きな牧場に放し飼いしないのですか」と聞いたら、「野原に放つと喧嘩をして噛みついたりするので、トレーニングにはつかうけどあまり自由時間はない」と言った。 劇場にはいって、まっていると一頭の馬が入って来てショーの一部を披露してくれたが、10分くらいで終わりテレビ局のインタビューに行ってしまった。(私のヴィデオを見せられないので、YouTubeのリンクをいれましたから、興味おありでしたらどうぞ。こんな感じだというのが分かるでしょう) https://www.youtube.com/watch?v=0Z7AvrSztpY ま、そういうわけで、私は馬たちの自由を取り上げてしまってるようで気の毒になってしまうのである。私が好きなのは、荒野を自由に走り回るマスタング、オオカミやクーガーという敵もいるが、それは自然の世界。私はそれでも、スペインの文化を見学のために皆と一緒に行ったが、グレッグなどは「馬の自由を束縛されてる所なんか行きたくもない。こんなに素晴らしい景色の町にきて、散策しないって手はないから、行かないよ」と、ホテルで一日過ごした。 ただ、グループは牧場だけでなく、市民が食材の買い物をするダウンタウンの市場や、おしゃれな官庁街などにも行ったので、彼は色々見逃したわけだが、ホテルに戻ったら「とても平和な一日だった」と言って、ホテルの周りにはどんな植物が生えてるか、カリフォルニアと似たような花もあったとか、ゆっくり昼寝をして体が休まったと気嫌がよかった。私達は、ダウンタウンで食事やスナックをしたのだが、彼は「一日、何もたべてなかったから腹減った」と言って、早めの夕食をとりにいった。そして、今回の旅では二度目の鹿肉のシチューを食べていた。動物愛護家でありながら、珍しいから食べてみたいとは複雑な男である。
2022.07.22
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どの国でも同じだろうが、大都会の他はツーリストで経済が成り立っているのだと思う。アルコに来て、特にそれを感じた。ツーリストは勿論自分の国民も含むが、スペインは、ポルトガル、モロッコ、フランス、イタリアに近く, 隣国の人が旅にきている。カリフォルニアで考えたら、オレゴン、ネバダ、アリゾナ、コロラドに行くくらいの距離で、簡単に車で来られるわけである。 アルコで何故それに気づいたかというと、あちこちの店が閉鎖されていたり売りに出ていて、その理由がコロナのパンデミックだからである。ただでさえ、この16世紀位に出来た崖の上の町は不便なところなのに、ツーリストが2年半くらいストップしてしまったわけだから、次々に破産してしまったというのも良くわかる。ここまで乗ったタクシーの運転集も「客が激減して、タクシーやめた仲間も大勢いる」と同じ事をいっていた。 ここはスクーターや、オートバイ又は日本で軽という車しか入れない場所だらけ。駐車場にある車の90%が、でこぼこなのは、左右が石の建物の道がせまくて壁にこすりつけるのは、日常茶飯事だからであろう。歩いていると、目の前で次々に車が壁にぶつけてはしっていくし、歩行者もちょっとへこんだ、建物のドアに張り付くように立っていないないと大けがをすると思う。 我々の2★ホテルはWiFiが届かなかったり、シャワーが壊れて居たり、自分で荷物を持ち運ぶ。二階の足音、椅子を動かす音などが、びんびんと響くような建物だが、清潔で絶景であったから文句はない。私はどこでおすぐ寝られるから問題はない。ロビーでお茶を入れて、ベランダでお茶をのみながら、その景色をしばらくたのしんだ。「ここで、気球フェスティバルをやったら、素敵だろうなあ」とグレッグに話していたら、翌朝聞きなれた気球の音がして、一個だけ浮いて来た。私は気球に乗ったことがあるので、あのシューシュー・ゴーゴー言う音を知っている。 「今夜は、夕食抜きにする。グループディナーに一人でいってきてくれ。どうせまた、タパスだろう」とグレッグが言うので、一人ででかけた。 とても洒落たレストランで、タパスではなく8コースのディナーで味もよくサービスも満点であった。ホテルに戻ると、グレッグはテレビを見ていて「腹減った、なにかある?」と聞いたけど、何もなかったので、「じゃ、ちょっとどこかで何か買ってくる」と出かけて行ったが、「真っ暗で、どこもしまってた」と、すぐに戻って来た。ラテン系の国は夜食がおそく真夜中までにぎわってるというが、場所によりけりである。「のど飴と、ピーナッツの残りならあるよ」と言ったら、それをむさぼり食っていた。
2022.07.17
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私の母は、戦後、化粧品など買えなかった時代、顔や肌にオリーブ油を塗っていた。その頃、疎開先の田舎町でオリーブ油などどこから手に入れたのか、今考えてみると叔母が米軍で通訳をやっていたから、米軍の基地経由ではないかと思う。叔母は食料として買ったのだと思うが、小さな瓶にはいっていて、今の私ならマリナラ・ソースを作る時に数回でつかってしまうだろう量であったが母はもったいながって食べものにはつかわなかった。そういう訳で、私は幼児の頃からオリーブ油の存在も香もしっていた。 又、ダヴがオリーブの木の枝を船に持ち帰ったことで、土地が見つかった証拠として、洪水で長い事閉じ込められていた箱船からでられる希望が見えて来たというくだりを子供のころ『ノアの箱舟』という本で読んだのを思い出した。それで平和とか希望とかのシンボルにオリーブの木の枝を使うようになったそうだが、スペインはまさにその産地。バルセロナからマドリードまでの三時間、特急の窓から左右に見えたのはほぼ80%がオリーブ畑であった。 ハビエルが、スペインを支えてるのはオリーブと、ワイン産業だと言うのが頷けられる光景であった。「ところが、その産業で働く人は全国民の3%以下で、年々減るいっぽうです」と言った。どの国でも、お百姓さんが減っているとうのは、食料の生産が減ってるわけで農産物が高くなる筈である。 我々のバスは、道なき道をどんどん上っていくと、普通の農家に20世紀にできたような機械がおいてある場所についた。周りは野原とオリーブ畑で、次の家など何十キロも先の場所であった。 人の好さそうな夫婦が現れて「こちらにどうぞ」と案内されたところに、昼食のよういがしてあった。それをチロリとみせてから、工場を案内してくれ、オリーブ油の作り方を説明し、そのあとオリーブ油の味見をした。ワインの試飲と似たようなやり方で、「先ずは、においをかいでください。そして、ちょっと口に含み、舌で左右に動かして、ちょっと飲んでみてください」と言った。油だから、まさかがぶがぶ飲めるわけはないので、本のちょっと飲んであとは捨てるのである。 「バージンオイルという意味はなんですか」と聞いたら、上等でとりたてのオリーブを低温で時間をかけて絞り出すのだと言った。時間をかけることによって、コクのある濃い味になるのだそうだ。食後、売店で、そのExtra Virginのを一本買ったが、アメリカで買うボトルの5分の1位のボトルで、昔母がつかってたオリーブ油のボトルくらいだなと思ったが、値段は$20くらいしたからアメリカの5倍の換算になる。COSTCOならその5倍の大きさのボトルで$20以下である。 食後また2時間くらいバスにのって、中世期にできたような今夜の宿のある、アルコにむかった。(写真は、なんどやっても横向くのがあるので、あきらめました)
2022.07.16
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生きてますよ!昨夜は、Zoomのセミナーをやっと終わらせてほっとしたので、また、ブログを書きますね。明日は、またグレッグの叔母さんの追悼式にいくので、今夜時間をみて、スペイン紀行文をつづけましょうね。下のサイトは、もう数カ月前のですけど、興味あるかたどうぞ。1時間くらいあるけど、私がどういう人間かわかりますよ。ここに「Happy 介護」についてアマゾン・シェルパのエミリさんとのインタビューをしたのがありますから、全くそのものの私がでてきますよ。日本語がおかしくなってきてるから、英語がでちゃったり、あちこちでつっかかったりしてますけど、これが私です.「現在介護してる人へのよいヒント」なども、出てくると思いますよ。
2022.07.15
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テレビが出始めた昭和20年代にプロレスラーの力道山という人がいた。元々は力士だったが、『空手チョップ』で有名になった人だった。色々な悪い噂もあったが小学生だった私にはそんな事はどうでもよく、初めてのテレビの思い出は?と聞かれたら、寸を入れず「力道山の空手チョップ」と言うであろうほどのインパクトがあった。 まだ、疎開先の町に住んでいたが、当時テレビは電気屋のショーウィンドウと、駅前のタクシー会社と、A医院にしかなかった。力道山が出る日は、電気屋とタクシー会社前は黒山の人だかりで小さな私には殆ど見られなかったので、母に頼んでもらってA医院に見に行った。そこの座敷もぎゅうぎゅう詰めだったのを思い出す。 中学生頃、東京に戻ってからもテレビのある家などは聞いたこともなく、相変わらず電気屋のショーウィンドウや駅とかデパートとか公衆の場所に置いてあった。ただ都会であったから、沢山の電気屋があった。 昭和30年代になって、やっと小さな白黒のテレビが我が家の床の間に鎮座し、V型のアンテナをあちこち動かして、揺れ動くスクリーンに見入ったものである。この頃から、沢山のアメリカの番組が入りだし、と言うか恐らく日本はまだ放映を始めたばかりでニュースとか中継はあったけど、テレビ番組は少なかったのではないかと想像する。『ローハイド』『ベン・ケーシー』『スーパーマン』『ラッシー』『ララミー牧場』は序の口、次から次へとハリウッド番組を家でみられる時代に入った。 余談になるが、想定外の話なので書いてみる。その『ローハイド』の隊長役をエリック・フレミングという役者がやっていたのだが、番組を見ていた娘時代にまさかそのエリックにキスをされる立場になるとは、誰が想像できただろう。でも、それは実際にハワイのホテルのフロント勤務中に起こったのだった。「僕はつい昨日までプロモーション・ツアーでクリント(イーストウッド)と日本に行ってたんだけど、日本が一発で大好きになっちまった、特に女性に惚れてしまったんだ」と言った。私はただ、「あら、そうですか」と答えたのだが、「君のような人を奥さんにしたい、キスしていいかい?」と、急にカウンタ―に上半身を乗り出してキスをされてしまった。カウンターの後ろは狭く、とっさの事でよける暇もなかったが、「私は結婚してます」と言ったら残念がって、手を振って消え去ったのだった。それから間もなくして、彼はロケ中に濁流にのまれて溺死してしまった。スタントマンを絶対に雇わないで、全部自分でやる人だったと聞いた。 私は最初の東京オリンピックの年に日本を出て来たのだが、そのすこし前にカラーテレビが出始めたと思う。カラーでみたハワイの虜になって、何時かハワイに行こうと夢をいだきはじめ、ウクレレを習いだし、ハワイアンを練習するようになった。その頃、鎌倉に住んでいた親戚が「ミス鎌倉になると、アメリカ旅行にいけるってよ。ひろこちゃん試してみたら?」と知らせて来た。 水着で人前にでるのはいやだったが、貧乏時代アメリカ往復航空券は魅力があったので、「あら、いいじゃない」という母にも勧められて参加してみた。200人くらいの美女達が厚化粧、ビキニでハイヒールを履いた人が多く、ワンピース水着、ローヒールに口紅だけの私など出るまくではないと思ったが、最後の5人に残ってしまったのだった。結局一等賞は花嫁道具一式でアメリカ旅行ではなかったから、「ばかみたい、行って損した」と母に文句を言ったのを覚えてるが、帰宅したらNHKのテレビ・ニュースに出ていた。舞台上の豆粒みたいな私だったが、テレビの中の自分をみるのは、面白い経験であった。 日本を出た頃には、日本のテレビ番組も増えて来ていたが、局数は少なかったからハワイに来て日本の数倍のテレビ局があるのには驚いた。それにしても、あの時代に夢を抱いてから4年内に私はハワイに住み始めていたのだから人生とは面白いものである。しかも、夢中でみていたテレビ・シリーズの主役にキスされたのだから不思議としか言えない。 テレビは分厚い四角い物から始まって、今では2センチ位の厚さの大きなスクリーンになり、携帯でも腕時計でも見られる時代になったが、テレビ局も、映画チャンネルもチョイスが多すぎ、コンピュータ―につなげたり、携帯でリモート操作などできる世の中で複雑になってきてるので、娘や息子の家にいって「さて見よう」とテレビをオンにしても、ゲームが出て来たり、音楽チャンネルが出て来たり、全く操作法が分からないので、いつも自分のラップトップを持って行き、コンピュータ―でテレビを見るようになっている。ハイテクは便利なようで不便である。昔のシンプルなオン・オフ時代が懐かしいのは私だけだろうか。
2022.07.04
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羅府新報にも宣伝がのってました。Orange Netweork 7月号にも宣伝されてます。私のエッセイは、あとで載せます。スペインの紀行文もかきたいけど、明日は独立祭だし、このセミナーの原稿をかいてるしで、てんてこ舞いなので、お待ちください。
2022.07.04
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