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ひろこさん先日は本当に久しぶりにお会いできて嬉しかったです。『Happy介護』読ませていただきました。(遅くなってごめんなさい)色々な意味で衝撃でした。 今までの固まった考え方や価値観という「かさぶた」を少しずつ少しずつ剥がされているような(笑)。読み終わった後は自分がこれから担うであろう親の介護、自分が老いたときの娘への負担、、、など色んな気持ちが絡み合って消化するのに時間がかかりました。一番印象に残った言葉は、まえがきにある「二度とやりたくないとは思うが、苦労だったとは思わない」というヒロコさんの言葉です。ヒロコさんが義理両親を看取ったことは知っていましたが、読み進めば進むほど大変な出来事が続くのに「苦労だったとは思わない」と言えるヒロコさんに正直驚きました。そのポジティブな物の考え方、捉え方を心から尊敬し私も存分に真似しようと思います。 どんなに辛いことも大変なことも苦労だと思う思わないは自分次第なんですよね・・・。ヒロコさんの義両親が言っていたように金銭的蓄えさえあれば老いても誰にも迷惑をかけずに済むって私も思っていました。さぁどうやって老後の蓄えを作っていくかと丁度考えていたところです。 しかし、どんなにお金があっても誰にも迷惑をかけずに人生を終えるなんて不可能だということがよくわかりました。 もちろんお金はあるに越したことはないし、計画は大事ですが、何よりもまず人を思いやり、徳を積むことが一番大切でそれこそが生きている意味だとこの本に教えていただきました。私もヒロコさんほどではないですが、日本よりアメリカ生活の方が長くなってある程度のことは経験したりして、人生をFigure Outしたような気持ちになっていましたが、とんでもなかったです。 まだまだです。(汗) この本を今この人生のタイミングで読めて本当によかったです。私の今後の生き方を大きく変えていくと思います。ヒロコさんの貴重な体験を本に残してくださりありがとうございました。この本が助けになった方は沢山いらっしゃると思います。そして私も確実にその人達中の一人です。どうもありがとうございました。昌子日本では、アマゾンでどうぞ。アメリカは 8pkaigo@gmail.com へご連絡ください。
2022.08.28
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レスリーの介護をしていたから、一週ぬかしたので、坂道はちょっときつかった。ラナとのスピードウォークはもう、かれこれ20年近くつづいているが、その持続性の理由は、お互いに絶対に無理をしないことで、自由にキャンセルをしてよい事になってることや、途中で、「じゃ今日はこのへんで、ターンしよう」とか、「今日は、お茶のんでいこうか」みたいに、兎に角自由なところだと思う。ラナの方が3歳年上なのに、私より二倍のエネルギーですたすたあるく。 そして、何よりも、お互いに「何でも」話し合える相手なのだ。これは、とても貴重な存在である。最近のラナの悩みは、夫君の足が悪くなって、一緒にすたすた歩けないことと、記憶力が日にひに衰退してることらしい。それと、互いに、80を超えているから、友達が次々に亡くなっていくことも、話題のひとつになっているので、「だから、若い友達を大勢つくろう」と話し合っている。 これは、今朝の散歩コース、我が家から車で5分内。
2022.08.27
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先々週、買い物から帰宅し、車をとめると、後ろから、お腹を抱えて私の後ろから、グレッグの姉のレスリーが、「ちょっと家に入らせて」というので、トイレに行きたいのだと思って、「どうぞ、どうぞ」と言いながら、私は、買い物袋を台所に運び入れていたのですが、彼女はゲストルームのベットに靴をはいたまま横たわったのです。 何事が起ったのかグレッグも私も訳が分からずに、いたら、お腹に激痛が走り、運転もできなくなって、途中下車したというのです。温シップでもだめ、冷シップでもだめで、痛みは増すばかりで、ついに救急車を呼ぶ事になり、ERにいき、検査をしたら腸捻転で、即手術ということになったのです。それから一週間、彼女はICUで激痛とたたかって、私がピックアップに行き我が家の一階の部屋で一週間看護しました。スペシャルダイエットを用意したり、歩く練習をしたり、薬をとりにいったり、ドクターにつれていったり。やっと、一昨日、彼女の家にもどったのです。彼女の家は、道路にガレージがあっても、そこから住居まで33の階段を登らなければならないのです。それで、数年前に手術したときも、我が家で介護しましたが、今回はながかったです。というわけで、楽天もちょいと、ご無沙汰をしていますが、少しずつまた書いていきますね。、
2022.08.27
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小説・津田梅子「ハドソン河の約束」をお書きになった、こだま ひろこ様から、こんなに素敵なご感想文をいただきました。[Happy 介護」は、日本では、アマゾンでご購入なされます。アメリカでは、8PKaigo@gmail.com にご連絡ください。Happy 介護アメリカ人の義両親を看取った日本人嫁の介護奮闘記!ヒロコ・ファルケンシュタイン著私の著書「小説津田梅子 ハドソン河の約束」に身に余る感想文をいただいたカリフォルニア在住のHiroko Falkensteinさまの著書です。読み始めからビックリ続きでした。まず米国人の義両親を介護したこと、最後は同居しますが、ご自分の家から義両親の家に通っていたこと、2人の老夫婦には病気があること。施設に入らず最後まで看取ったこと。日本の介護事情と米国では明らかに違っていますが、作者の優しさとポジティブな感覚で修羅場さえ、ユーモアが感じられました。あとがきに1995年に英吾で書いて著作権をとり、その後地元の日系月刊紙に日本語で2017年から連載が始まったと書いてありました。ご義両親は、かなり裕福な会社経営者で大邸宅にお住まいで、別荘もお持ちです。お元気な時は素敵なライフを送っていたことが感じられられます。私も1人になった母親を引き取り、夫の協力のもとに介護をしましたので、作者のようなすさまじ介護ではありませんでしたが、どんどん記憶が無くなる母親に涙したことを思いだしました。介護はひとりではできません。時には孤独感に苛まれます。作者はいつも明るくポジティブで、ご義両親、ファミリー、さらには雇っていた介護人に対しての愛をも感じました。作者は80歳ですが、動画を拝見しましたら、張りのある声に驚きました。22歳で渡米、ハワイから南カリフォルニアへ移り、現在もポジティブにご活躍です。人生誰でも山あり谷あり。「Happy 介護」で勇気を頂きました。素晴らしいご本です。有難うございました。 発行所 日米出版 📲05053626424
2022.08.11
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こだま ひろこさんの著書「小説 津田梅子」への感想文をおくったのですが、その返信をいただきました。小説津田梅子ハドソン河の約束アメリカカルフォルニア在住のHiroko Falkenstein様から素晴らしい感想文を頂きました。有難う御座います。繋いでくださいました如意・にょい ナオミ様に深く御礼申し上げます。とても勇気がわいてきました。信念を持って活動して参ります。添付の写真はお祖母様が「華族女学校」(現在の学習院中高)時代に津田梅子に英語を習ったクラスメイトです。こだまひろこ様封建的な時代の大和撫子達に独立心を目覚めさせた津田梅子の生い立ちから、本人自身のアメリカ人と日本人の魂をバランスよく操って、志を貫いた波乱万丈の人生の終わりまでを、つぶさに書いた『小説・津田梅子』先週、やっと読み終えました。 先ずは、ブラボー!とても良く研究していらっしゃいますね。読みながら、小説とは書いてあるけど、日本の女性史の教科書としても通用するのではないかなと考えてました。それほど、政治の流れも、世界情勢も読み取れる御本です。(中略)祖母に育てられた私ですから、鹿鳴館のくだりを読んだ時は祖母の話を思い出しながら想像していました。祖母も何度か色々なイベントに招待され行った事があるので、その経験談を私にシェアーしてくれたのです。あなたの御本にでてくるシーンと、ほぼ同じです。 17歳でドイツに留学し、アメリカで最後を迎えた、大正生まれの叔母(実母の姉)の独立心も、梅子さんが撒いた種の影響が多いにあります。津田塾で英文タイプの教師を終身職としていた、もう一人の叔母も、梅子さんの影響をうけており、当時の女性としては珍しく、考え方も発言も一人の人間としてはっきり主張していました。 私の代になると、もっと独立精神旺盛になっていて、夫が大学生時代に私が働いてサポートしたり、娘の場合は更に男女が入れ替わって、彼女が稼ぎ手で彼が家事と子育てをするような立場になってます。 この100年の間に、世の中の男女関係は物凄いスピードで進化していますが、これも梅子さんのような開拓者が開いた道から始まってると思ってます。そして、その歴史をしっかり紹介してくださったあなたに感謝をするとともに、多くの方々に読んでいただきたいと思っています。弘子ファルケンシュタイン8月6日2022追伸:同封した写真は祖母の華族女学校のクラスメートですから、全員、津田梅子さんから英語を習った人達です。勝海舟の娘とか、伏見宮とか、いらっしやいます。でも、一番仲良しだったのは、一級上の九条さんで、平成天皇のお祖母様になった方です。
2022.08.08
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私が日本からアメリカに出て来て、夢を全部叶えたはなしです。1時間ちょっと、プラス最後の応答に興味深い話もでてくるかもしれませんよ。お時間のあるときどうぞ。昭和時代の話が沢山でてきます。イイネをクリックしてくださるとうれしいです。よろしく。
2022.08.05
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我が家には明治、大正、昭和初期の写真が沢山あった。父はライカというドイツのカメラを持っていて、時々写真を撮っていた。私は小学生だったから、それが当たり前で、どこの家族でも同じだと思っていたのだが、高校生くらいになって、そんなに古い写真やアルバムが沢山ある家庭はそうあるものではない事を知った。 アルバムには写真館で写したものも多かったが、母の子供時代の学芸会とか、海水浴やピクニック、パーティー、スキーなどの写真もあったので考えてみた。祖母の兄(大叔父)が明治時代にCalifornia Institute of Technology(カルテックス)を卒業しており、エンジニア専攻で、当時カメラの研究をし日本に帰国後、カメラの発展に協力したと聞いていたので、恐らくその大叔父がいくつかのカメラを持っていたのではないだろうかと思う。 皆亡くなってしまった今となっては、誰にも聞きただす事はできないが、上に述べたように個人的な写真も多かったから、大叔父は多分フィルムの現像なども自宅でやっていたのではないかと想像している。さらに、叔母もドイツに留学していた訳だから、父のもっていたライカはその叔母の土産だと思うのが一番理屈にあう。ここまでは親の代の話で、カメラというと大事な物、子供は触ってはいけないものという感覚であった。 我々の代になると社会状況も変わり、色々新しいメラがでてきた。話しを少しそらすが、質屋という職業が昔からあって、期限がきれても預けた客が取りに来ないと質流れというかたちで、品物を安く売りに出すのはご存じだろう。とくに私が育った戦後20年の日本は経済困難だったため、この質屋が可なり流行っていた。社会人になっていた年上の従兄が、ある日そういう質流れのカメラを買って来た。四角い箱のようなカメラで、上からのぞくと被写体が逆に見える物だったがとても良く撮れたから時々借りた。出来上がった写真は真四角であった。従兄はいつの間にか、そのカメラを又、質屋にいれて、かわりに手のひらに乗ってしまうくらい小さなカメラに買い替えており、フィルムも1センチ位の高さのロールであったからポケットに入れて持ち歩くことが出来た。従兄が外国のスパイ映画に夢中になっていた頃である。背広やズボンのポケットからだして隠し撮りをするスパイが格好良く見えたのだろう。 母も私もまだ、カメラに対して全く無知で、ある日二人で新宿御苑にそのカメラと、お弁当を持ってお花見に出かけた。数枚写した後シャッターが動かなくなってしまった時、母が「フィルムがつっかかったかもしれないから開けてみたら?」と言うので、カメラの後ろを開けたら母の言った通り、何故かフィルムの穴がポチポチから外れていたので、キチンといれて蓋をしたら、シャッターが動き出した。 その後、二人でにっこり微笑んで写しあったり、他人に頼んで一緒に写してもらったり全ロール終わらせたのだが、現像してもらったら、真っ黒であった。今なら爆笑ものである。「バカ!ちょっとでも光が入ったら駄目なんだよ。だから暗室で現像するじゃないか」と従兄に笑われて利口になった。無知とはそういう事である。 後にアメリカの学生と結婚し、日本を離れる前に夫となった彼が、「日本のラジオとカメラを買って帰りたい」と言ったほど、日本のカメラや電気製品は世界に誇れる立派なものになっていた。アメリカに住むようになってからも、写真家の殆どが日本のカメラを使っていることを知って誇りに思った。戦後わずか20年で世界のトップ級の品物をつくりだした日本人は、それほど優れているのである。 更に、義母が芸術家で彫刻、銅像作りの他に芸術写真にも没頭した時代があって、家にはフィルム拡大機も含み玄人の写真屋並みの暗室をもっていた。しかし私がその家に出入りしだした頃は、ガラクタが一杯つまった物置と化していたから、とっくにカメラもなかったが、整理整頓の下手だった義母の死後おびただしい数の写真が家のあちこちからバラバラに出てきた。余談であるが、その義母と義父を最後まで看取った話を、当Orange Networkに連載させていただき『Happy介護』という単行本にしていただいたのである。 カメラの進化には目覚ましいものがあり、ただシャッターを押すだけで写せる(バ〇チョン)カメラとか、数分でプリントされて出てくるポラロイドカメラだとか、使い捨てカメラ、水中カメラなど色々つかってみた。使い捨てカメラは、治安の悪い所に旅したり海に行ったりする時に盗む人もいないから便利であった。 更に私の子供達の代になると、デジタル・カメラが出始め、フィルムの現像所がどんどん消え去って行き、フィルムも手にはいらなくなったので立派なカメラをもっていても使えなくなり、デジタル・カメラを買わざるを得ない時代に入った。そして、今ではそのデジタル・カメラさえ陽の目を見なくなっていて携帯一個で電話から、写真、支払い、メールのやり取り、つまりカメラ付きコンピュータ―を持ち歩く時代に替わってしまったのである。
2022.08.04
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久々にお客様がみえるので、夏のテーブルセットをたのしんでます。 おままごとのように、このお皿になにいれて、これには、あれをいれてとか、あれこれ想像して楽しむのです。スペイン紀行のエピローグの前に、やることいっぱいなので・・
2022.08.02
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目覚ましが鳴った。朝の3時半であった。私はそれまで4時間ぐっすり寝た。ゆっくり起きてシャワーを浴び、最後の点検、冷蔵庫の中をみたり、アンティークの洋服だなや、金庫を空にして、ベランダに干してあったグレッグの水着を取り入れたり、処方箋の薬をのんだり, 忘れやすい携帯の充電器を抜き取り、飛行機のチケット、パスポートの再点検をして、まだぐうぐう寝ているグレッグを起こした。「ほら、4時よ。あと30分でタクシーがくるのよ」「眠いなあ」と言いながらゆっくり伸びをして、シャワーを浴びだしたので、「先にフロントで、チェックアウトしてまってるからね」と、フロントにいった。 このホテルは、ドイツ人が買ってモダンに改築したと言う。ホテル中に楽器という楽器をかざってある。屋上のテラスの絵も楽器、待合室もダイニングも、客室、廊下にまで音楽に関係のあるデコレーションがあり、バスルームに置いてある、シャンプーや石鹸を載せるトレイも音符のデザインであった。そして、日中は館内にクラシックのバックグランド・ミュージックが静かに流れている。 ロンダの豪邸ホテルもドイツ人が買って、素敵に改築したし、クロアチアでも私の知人のドイツ人が古い家を買って改築しているので知ってるが、彼等のセンスは抜群である。彼等はまた、旅好きで、過去に、キューバやメキシコの奥深くいっても、ツーリストは大抵ドイツ人であった。 グレッグが下りて来た。ロビーもフロントの部屋も、我々しかいない。4時半ピッタリに、タクシーの運転手が来たと、フロントのクラークが知らせに来た。シーンとして真っ暗な中を、ガラゴロと鳴らしてスーツケースを引っ張るのは気が引けたが、車は入れない道なので仕方がない。 飛行場について、料金をきいたら35ユーロだといったが50ユーロ札しかもってなかったので、「おつり要らない」と言ったら、大喜びをしていた。 これで、全てがスムースに行ったわけではない。飛行場のカウンターで予約を見せたら、荷物は何個あるかきかれ、チェックインするのもサイズで違うといわれて、150ドル位とられた上に、席は真ん中しか残ってないというではないか。4か月前にちゃんと窓際の2席をコンファームしてあったのにである。セビリアから、バルセロナまでであるから、我慢をしたが、一時間のフライトで荷物に150ドルもぼられて、嫌な気がしていたら、バルセロナからニューヨークまでの荷物料もまた200ドルとられたのである。しかも、離陸が1時間半遅れたために、ニューヨークで乗り換える時間が極端に短くなってしまっただけでなく、予定のゲートに行ったら、別のゲートに替わったというサインが出ていた。そのゲートが、とてつもなく遠いところで、とてもじゃないが、びっこひいてる私では間に合わないと思ったので、グレッグが私のバックパックをひったくって、走り出した。 「先にいって、ヒロコがくるまで離陸させないようにする」といって消え去った。ニューヨーク飛行場での30ゲートの違いはとんでもないきょりである。125から90に逆戻りするのだが、途中から番号が消え去ってしまい、どちらに行ったらよいか分からなくなったりで、やっとゲートが見えて来たら「おーい、はやくしろ、ヒロコが最後だぞ!」と、大声でどなるグレッグが手をちぎれんばかりに振っていた。そう、私が最後であった。 チケットをみたら、グレッグと私は離れ離れであった。これも、1年前からの予約と違ったので憤慨したが、二人の黒人が、親切にもあれこれ入れ替わってくれて、最終的には二人並んで座れることになったのだった。そして、これまた1時間遅れて離陸したのだが、最終空港のロスアンゼルスには時間通り着陸。出口には留守番をしてくれてた、第二の息子というあだ名のデレックがちゃんと迎えに来てくれていて、やっと旅が終わったのだった。
2022.08.01
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