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「スペインに行ったら一つだけ見てみたいものがある」と出発前にグレッグが言った。なんだと思ったら、ピカソのゲルニカ(Guernica日本語の発音をしらなくて、今ネットで調べたところです)の事であった。 今日は、セゴヴィア行が大雪でキャンセルになり、午後3時からフリータイムになった。明日はトレドに向かうので、このチャンスを逃せない。一休みしてから、Reina Sofia Modern Art Museum(ソフィア女王モダン美術館) に行くことにした。戦争の歴史展で、当時の兵役ポスターの数々が展示されてあり、その中にはナチスのシュワーツティカが沢山出て来た。ポスターだけでも300枚以上はあって、「国を自分達で守ろう!」「悪魔と戦おう」「勝利は我らの手に!」みたいなスローガンが書いてあり、兵器をつくる工場とか、女性が男の仕事を引き継いでるイラストとか、当時の社会背景がうかがわれる。グレッグは世界中の戦争の歴史には詳しいので、あれこれ説明してくれたが私は上の空。戦争中に生まれて、戦後の貧乏国で目の前で苦労をしてる大人達や、傷病兵、ホームレス、孤児達を見てそだっているから、戦争はこりごり。 一つ一つに細かく見入っていて、閉館になったらくやしがるのは彼だから私は一足先に、ピカソのゲルニカのある部屋を探す事にした。「ゲルニカを探してくるから、この部屋からでないでね」と言って彼から離れ、ボランティアーのドーセントにあう度に、馬鹿の一つ覚え、¿Dónde está el Guernica de Picasso? と聞きまわった。プラド程でなくても、なんせこの美術館も大きくて迷子になりそうだし、5時にホテルを出たから閉館までそれ程の余裕はない筈。 やっと見つけたら、めずらしくロープが張ってあり、黒山の人。この部屋にはボランティアーの監視人が4人もいて、携帯で盗み撮りしてる人を次々に注意していた。上手い具合に真正面の真ん中あたりに立てたので10分くらい眺めていたが、当時のピカソの怒り、悲しみ、悲鳴、心の葛藤が手に取るように伝わって来て、知らない内に目が霞んでいた。「あ、そうだ、グレッグに知らせなきゃ」と、われに返って、元の部屋を目指して彼を探し出して連れて来た。 私は彼の背に手を置いて二人共沈黙でなが~いこと見ていたのだが、急にグレッグの背中が痙攣のように動き出したので、どうしたのかと思ったら、目を真っ赤にして声を出さずに泣いていたのだった。私はサングラスをかけてマスクをしていたから気付かれなかったけど、彼はマスクだけだったので、マスクを上に持ち上げて涙を拭いていた。それほど、インパクトのある作品である。 今、これを書きながらふと口を突いてでてきた短歌、「わが夫ゲルニカの前で涙する心動かす巨匠の力」がぴったりであった。死んだ子を抱えて泣き叫ぶ母親、折れた剣をもって息絶えた男、兵器につぶされて叫ぶ男。私達には、牛馬の悲鳴が聞えてくる。首だけ飛んでくるところも、大けがをして地面をはいずってる人も想像できる。 心魂こめて描く絵は、画家のスピリットが塗り込まれているので分かる人の心に響くものである。ピカソの作品はそれほどパワフルであった。故に巨匠と呼ばれて当然だと思う。美術館内は撮影禁止なので、こちらでどうぞ。
2022.05.31
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「明日は、日帰りでセゴヴィアに行きますから、朝8時半にロビーに集まってください」と昨夜、外食後ハビエルが言った。「それから、ちょっと悪いニュースですが、どうやら天候が危ぶまれてますから、傘を持って行ってください。それと、高度の高い山の村ですから、温かいジャケットや、セーターが必要でしょう」セゴヴィアでは、ギターの手作りをする工房の見学と、昼食の計画でとくに有名なギター作りの名人の工房見学をたのしみにしていた。ホテルから、チャーターバスの所まで600メートル位の登坂がある。ホテルを出た時暗くなっていた空が、50メートルくらい歩いたところから雨になったので、グレッグが背負っていたバックパックの中の傘を取り出したかったが、腰を痛めていた私が一番おそかったので、グレッグはパニック状態。「ちょっと、傘を取り出す数分間とまってちょうだい」というのに、止まってくれない.「乗り遅れたらたいへんだよ。濡れたって良いから歩け!」と、どんどん先にいってしまう。悲痛な声で、「びしょ濡れになってきたから、とまって。全員そろわなかったら、出発するはずないんだから」といって、バックパックにしがみついたらやっと止まってくれたけど、バックをあけて、傘を取り出そうとした途端に、「もういい!はやくしろ!」と歩き出したので、びしょびしょの道に、中身が全部おちて、もっと遅れることになった。傘だけ二個取り出して、必死で閉めたとたんに、彼は雨の中にきえてしまった。「先に行って、弘子を待つようにいうから」というわけだが、私は絶対に添乗員が私一人を置き去りにする筈は無い事もわかっていた。 彼がおいてきぼりを、極力怖がるのには訳がある。彼が10才の時に父親を亡くしていて、継父とうまくいってなかった。6年生の時の遠足で、船でカタリナ島に行くはずだった時、波止場に8時に集合だというので、継父が送ってくれたのはよかったが、まだ誰も来ていなかったのに、会社に行く途中だったので一人置いて出勤してしまった。ところが、母親は、その遠足が一日伸びたという学校からの知らせをちゃんと読んでなかったので、グレッグは波止場に置き去りにされてしまったのだった。そういう苦い経験があるので、グレッグは約束の時間には必ず、はやくいかないと気が済まない人である。いうまでも無く、この事件がますます彼を継父嫌いにしてしまった。(私と一緒になってから仲直りをして、亡くなる前には二人で旅行をするくらいの仲になっていた) バス乗り場には全員そろっていて、私が一番最後だったけど、雨が大降りになってきた爲、交通渋滞でバスも20分くらい遅れて来た。安楽なバスに座ってほっとして数分後、ハビエルがセゴヴィアの話をはじめた。大型バスに17人とハビエルの18人なので、最後のセビリアまでのツアーは、ほぼ全員、一人ずつ窓際にすわるようになった。 マドリッドの郊外にでたころから、もうバンパー・ツー・バンパーの渋滞で、10メートル位走っては、10分くらいとまるのを2時間も繰り返し、「この分ではお昼までにセゴビアには着かないだろう」と、皆がささやき始めたころ、屋根に雪をつんでいる対向車が増えだした。ハビエルは顔色も替えずに携帯につきっきりだったが、山門が遮断されているのを見て、「ちょっと、待っててください。交渉してくるから」とバスを降りた。何を交渉したのかしらないが、そこからセゴヴィアまでの道は遮断されたので、次々に車がターンしている間、遮断機をあげて我々のバスだけ門の内側まで、のろのろと入れてくれ、また閉めた。「大雪で山越えができないので、せめて途中のカテドラルまで行こうと思います。トイレにも行きたいだろうし」と言った。ちなみに、このツアーでは、必ず数時間でトイレストップがあった。これは、どうやらバスの運転手組合でも決まった事らしく、運転手にも数時間に20-30分の休憩をさせることが規則だといった。疲労を防ぐ爲にも良い事だとおもった。 バスが山道を登り始めると、だんだん大雪になってきて、当たりは真っ白であった。「わ~、僕は雪が降るのを実際にみるのは生まれて初めて」と、グレッグが子供のようにはしゃいでいた。山の中腹に大きな十字架が見えて来た時、雪はみぞれになって、風と共に横に降りだした。 独裁者フランコが、つい最近まで埋葬されていたそうだが、大きな建物なのに、殆ど窓がなくて洞穴のようで、とても陰気であった。建物そのものが、巨大なお棺なのかもしれない。寒いし、暗いし声はエコーするしで、はやくバスに戻りたかった。ドアを出た途端に、吹雪が体中をなぐりつけるようであったが、エンジンをかけっぱなしで暖房を入れたバスに乗ったときは皆、ため息をついていた。「まあ、天候だけは、我々もコントロールできないのでセゴヴィアにいけなかったのは残念でしたが、そのかわりに、マドリッド一番のパエリアの老舗にお連れします。」と言って、バスはマドリッドに後戻り。そのまま直接、そのレストランにいったのだった。 ホテルに戻るまで気づかなかったが、今朝、バックパックから傘をだした時に携帯の充電器二個、コード二本、ヨーロッパ用のソケット全部をうしなってしまったのだった。
2022.05.30
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「このトレインはAVE(Alta Velocidad Espanola)といって、ヨーロッパ一の快速で、時速310キロまで出ますよ。そして、現在のスピードが常にあそこに掲示されます。食堂車もありますけど、高いし種類も少ないから皆さんに自分のランチを用意するようにいったのです…トイレは・・・」と、添乗員のハビエルがドアの前に立ってグループに自慢げに説明している間も、ドアが開いて人が通り過ぎる。我々、アメリカ人のグループは「オ~」とか「すご~い」とか「あ、この座席一回転するんですね」とか驚いていたが、トイレは臭いし座席は壊れてるのもあるし、結構レールの音はうるさいしグレッグや私のように日本の新幹線をしっている者には、貧弱に見えた。 バルセロナからマドリッドまでの3時間、右も左もオリーブ・オーチャードと、葡萄畑ばかり。スペインのトップの産業がオリーブ油とワインだというのも頷ける。後に個人経営のオリーブ工場にもたちよるし、ワイナリーにも行くのだが、兎に角このツアーは昼間からよくワインを飲む。我々とロレーンの飲まない3人は、いつも酔いがまわって段々騒がしくなるグループの中で、ヒソヒソと話すのだが、お弁当の時間になって通路の反対側のカップルを見ると、二人で普通サイズのワインを一本開けて、全部のんだ。それから、一時間後にはマドリッドで歩くのだが、二人共全く酔っ払った様子がなかったので、驚いた。その後も、夕食になると二人で二、三本は飲むので、グレッグが「彼等は、アル中寸前だよ」と耳打ちしたくらいである。彼は、自分がそうだったからよくわかるらしい。マドリッドの駅に着くと、チャーターのバスが待っていて「今日から最後のセビリアまで、このホゼの世話になります」と運転手を紹介され、エアコンもWiFiも携帯のチャージャーもついたのり心地よいシートに座り市内見物をする。私は、ヨーロッパの国々を沢山見てるので先ず気付いたのは、マドリッドの町並みの建物が皆、まるでオリジナルに揃って残っているようできれいで、びっくりした。「ロンドン、パリなんか、立て直したり、スモッグで汚れてきたなかったり、クロアチアやミュンヘンなど最近の建物とまじっているけど、ここは時代錯誤しそうにきれいねえ」とグレッグに言うと、「独裁者のフランコが、ヒットラーと仲良かったからね、破壊をまぬかれたんだよ」と言ったので納得。 「バスの運転手と、今後の打合せをする30分自由行動をしてください」とハビエルに言われて、大きな公園と噴水のある広場で解散。グレッグと私は、とても暑い日だったので、小さな出店で飲み物を買って、芝生に座って休んだ。今まで、飛行機、特急、バス、地下鉄、徒歩ばかりだったので、土の上に座ると、なんとなくほっとした。 我々のホテルは、ダウンタウンの忙しい場所だったから便利ではあったが、工事中でうるさい事この上なかった。荷物を置くやいなや、国立美術館のプラドに行くという。「冗談だろ?僕はいかないよ。この国で一番大きな美術館だろ?もう、5時だよ。しかも歩いて行くんだろ?で、夜食が9時だろう?」とグレッグは、シャワーを浴びて昼寝するという。 こういう時、私は自己中心の彼が羨ましい。グループのスケジュールに従わないことが何度かあって、「だんなさんは?」と聞かれる度に気まずい思いをしたが、後になって考えると、彼の言ってる事が正しいと思う。朝8時にバルセロナを出発して、マドリッドに着いたとたんに1時間以上あるいて美術館に行くわけで、こういうのが、グループ旅行の短所だと思う。 しかも、終わるまで気づかなかったが、ローカルのガイドは、我々がくたびれてるのは知らないわけで、美術館に行くまでの道のりを、あちこちに曲がって、建物の歴史的説明をするし、美術館に入ったら、彼女の好きな絵の前ばかりにいって、しかも絵の描き方とか、絵のどこが大事かとか、もう大学の美術のクラスの教授並みであったので、グループの皆も、「またかぁ~!」という顔で、いい加減くたびれていたので、グレッグがいたら、とっくに「出よう!」と手を引っ張って、出ただろうと思い、来なくて良かったと思った。 このプラドは、パリのルーブル級のサイズで、ゴヤ、べラスクエズ、エル・グレコの作品が何千とあるわけで、結局はこのガイドに引率されて、15点くらいしかみてなかったので、翌日、自由行動の時に二人でゆっくり見に行ったのだった。 バスの窓が青いので、全部青く写ってしまいました。 Plaza Mayor 市長のプラザといって、ベニスの三マルコス広場と同じように皆が集まってかいものしたり、食事をしたり、市の行事などをやる場所で、市長が住んでいる処。 ダウンタウンの一部 プラド美術館は、写真禁止なので外だけ。ゴヤの銅像夜食に行く途中で、であった町のボランティア―のご婦人たちが愛とか、おめでとうとか、愛嬌をふりまいて、みなに、微笑みかけて居て、「一緒に写真とりましょう」といってくれた。ヨーロッパは、庭の無い人がおおいらしく、春になると、一斉に窓辺に花を飾る。 一般市民が住んでいるアパート。ギフトショップの赤に引き寄せられたけど、何も買わなかった。私は、ゲートとか、ドアが好きなので、どこに行っても色んなドアと、門の写真を撮る。 昔懐かしい、青、白、赤の床屋マーク。(余談ですが、これは、その昔、床屋はちょっとした外科医も兼ねていたそうで、この青赤は、血管を表すことだとききました)
2022.05.24
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我々のホテルは数百年前の建物を改築したもののようで、部屋は清潔で、バスルームなどモダンなのだが、明かりをつけなかったら牢屋のように暗く、中庭にむかった小さな窓が一つあるだけ。その中庭が明り取りになってるようで、水道管、下水管、などがむきだしになっていて、あまりにも殺風景だからか、一つの壁に、大きな絵がかいてあった。 ロビーの椅子にすわると、屋外にいるような錯覚をおこすようなインテリアである。 このホテルは、バーはあるが、ダイニングは朝食しかださないかわりに、チョイスは多い、朝食であった。 今日は、ホテル前から歩いて、近所のランドマークを見にいったのだが、あるビルの入口から、どんどん地下に潜っていくので何だろうとおもったら、アグスタス・テンプルがあるというので、信じられなかったが、ちゃんと、石柱が残っていた。つまり、今の町は、古代の町の上にたっているらしい。エジプトも、最近古代の町が発掘されたらしいが、メキシコなども、次々にピラミッドなどが、発掘されているから、不思議でならない。いつ人間の知らないうちに、それ程の土が積もるものなのだろうか? 今ある町も、1000年位たつと、地下にもぐってしまうのだろうか? 我々のホテル前の広い歩行者天国の道路で、はタクシーしかはいれないようになっていて、歩行者優先なので、タクシーはのろのろ走る。我々が飛行場からここに来た時も、通行止めのおおきなシリンダーがたってるところで停めて、ボタンを押すと、地面スレスレに下がり、車が通りおわると、又ニョキニョキ上がって来るようになっていた。両側にある店は、高級品店のようであった。 4月の終わりだというのに、よる9時半くらいまでは薄明るいのだが、まず陽が落ちると、キーボードや、ギターで歌ってた人、笛を吹いていた人などが徐々に消え去り、夜8時くらいになると、どこからともなく、若い男女が我々のホテルのまえの道路に、CD プレイヤーをもってあつまってくる。道端にすわってタバコをすったり、輪になってなにか相談していたり、多い時は15人くらいのグループが、2,3組いて、順番に踊りだすのだ。それを、ビデオに撮るのは男の子。現代っ子は、今はやりの「ユーチューバー」とかいって、それをネットに取り込んで、収入を得てるのかもしれない。アメリカだと、大抵黒装束だが、スペインは情熱的で黒に、けっこう赤も多い。気が付いたことは、ツーリストの町は、このゴス・ガールにせよ、店員にせよ、屋台で働いてる人にせよ、白系のスペイン人がすくないように見えた。そして、皆親切である。 「明日は、Trainで、マドリッドに行くから、お弁当の用意をしてください。朝8時半にロビーであいましょう」と、ハビエルがいったので、美味しいサンドウィッチを買いに行く。バルセロナはテイクアウトの店のベジタリアンサンドウィッチも最高であった。テイクアウトの店にいったら、スペイン語が全くでてこなかった、メキシコではこまらないのに、不思議であった。でも中国系の女性が英語がわかったのでたすかった。グレッグは、チェのTシャツをきてご機嫌。この町には、色々楽しいたてものがあるが、見る暇などなかったが、これは、電車の駅にいくバスのなかからみたドラゴンの家だそうだ。これが、スペインの特急。ハビエルが自慢げに説明していたが、私もグレッグも日本の新幹線をしっている。日本の方がくらべものにならないほど、立派である。
2022.05.18
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(今日のブログは、ちゃんと彼の許可を得ていることを一言) 夫のグレッグはセンシティブな画家である。しかも、社会問題を取り上げる画家。この5,6年間鬱がひどくなっていて、医者達が処方箋をどんどん増やしその度に悪くなっていったので「薬が命取りになるかもしれないから、私からドクターに話そうか」と私がいうと、「ヒロコは医者か?余計な事するなよ」という口論を繰り返していたが、ついに言動がおかしくなり、実を言うと精神病院とリハビリに2か月入いり、去年の1月に退院したのである。 入院する前の患っていた期間、生活パターンを替えるためにも、国内を旅したらどうだろうと思って、中古のキャンピングカーを買ったり(その話は長くなるので省く)又は海外旅行でもしたら気分転換になるかなと思って、ヨーロッパの国をすすめ、「どこがいい?」と聞いたとき、「メキシコの文化を破壊した自分の先祖 (祖母の一人がスペイン系メキシカン)の国を見てみたい」と言ったので、2019年にスペイン旅行を予約したわけだが、そのとたんに、コロナ騒ぎで外出禁止になった。彼の鬱はさらに悪化し、上に書いたような状態になったわけである。 私は寝られない日々を過ごしていたから、医者がグレッグを入院させたときは本心ほっとした。精神病院で強制的にDetox(デトックス)させられた時に、体中の毒素(麻薬系鎮痛剤)が全部なくなったわけで、彼の体は元にもどり、幸いな事に記憶ももどった。つまり、私の思っていた通り薬漬けになっていたのだった。入院した時に「どんな薬を飲んでるかしらせろ」というので、彼のアトリエにあった薬をしらべたら20種類くらいあったのだ。今年の1月で、退院して1年たったが、とっても朗らかで元のグレッグにもどっていたから、スペイン旅行も楽しいものになった。 彼の性格上、道端でお金を乞うてる人には、必ずいくばくかのお金をめぐんだり、食べものを与える事は25年前から知ってるから、私はいつもばら銭を用意しておく。世界の大きな町には大抵ホームレスがいて、彼はそういう人の絵を描くので、旅行中も「あの写真をうつせ」と言われれば私はシャッターを切る。(本人は写真をとらない) バルセロナの土曜日はツーリストでメインストリートはごった返していたが、ホテルをでるとすぐにグレッグは「キューバで買った、チェ・グエバラのTシャツがぼろぼろになったから又買いたい」と言い、そう決めると手に入るまで探し回る人だから、午前中はティーシャツ探しに歩き回り、やっと5軒目くらいの土産屋でみつけたので大満足。子供のような人である。 私が文句も言わずに彼の買い物に付き合った理由は、自宅を出る前に「ボロボロのシャツだけは、持って行かないでね」と私が哀願したからだった。そうでないと、「何度も洗った服は着心地がいいのだ」と、穴だらけのシャツを着たがるからである。それでなくても、スニーカーを履いたのは雨と雪の2日だけで、あとはゴムゾーリで通した人である。しかも、はなおに花模様のある私のであった。“Because they are soft and comfortable.” だからだそうだ。 この日は、散歩がてらに海岸まで行ってみよう、という事になり、あるいてる途中で『スペインの市民戦争博物館』をみつけて入った。ナポレオンが着そうなユニフォームが飾ってあったり、ライフル、ピストル、機関銃などのディスプレイが気に入ったようであった。おそらく、息子がいたら、やはり熱心に見ただろうと思った。 海岸にいったら、ヨットハーバー等はパルム・ツリーが沢山はえていて、気候も湿気がなく、人々の恰好もカリフォルニアとかわらないと思っていたが、後ろを振り向くと何百年も前に建てられた建造物に囲まれているのでやはり、ヨーロッパなんだ、と我に返る。そこで出くわしたホームレスの男性、なにやら熱心に虫眼鏡を通した太陽熱で杖の持ち手にデザインを描いているようで、煙がでていた。「彼の写真を写しといてくれ。絵をかくかもしれない」とグレッグがいったので、パチリ!
2022.05.15
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ひろこさん、先日一気にHappy介護読み終えました。お義父さんが亡くなる時、涙なしには読めませんでした😭お義父さんお義母さんやひろこさんのそれぞれの愛情が伝わってきて、ハリーポッター以来、夜通し読みふけりました😂ほんと、映画化できそうなくらいエピソードてんこもりでしたね!日本ではこんな人出会うことないだろうなーと感じるヘルパーさんや、衝撃エピソード満載💦お義父さんの第六感とかのエピソードもとっても興味深かったです☺️心にのこる本を読ませて頂いて有難うございます♥️Wed 7:36 AM私:うわ――――嬉しい。これ、無名で、ブログにのせてもいいですか?XXさん:はーい!もちろんですよー!本当に続きが気になって、仕事の合間や寝る時間をおしんで読みふけりましたもの(๑ ˃̵͈́∀˂̵͈̀ )久しぶりに没頭できる楽しい時間でした✩︎⡱日本では、アマゾンでご購入できます。アメリカは、8pkaigo@gmail.com にお問い合わせください。8p(ハッピー)です。
2022.05.14
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とんがった屋根の上に、バナナとか、パイナップルとか、お供え物みたいなものが乗ってました。これは、ファミリアの裏のほうですが、彫刻が超モダンで、角ばっていました。このパエリアは折角良い味なのに、お米がガリガリでがっかり。ラテン系の国は夜遅くまでにぎわうというのはしってますが、ここは観光地ですから賑やかであって、他の場所は、結構早くしまってました。ゴシック教会 夜の10時近くです。
2022.05.14
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昨日の夕方ころ、我が家から500メートルもしないところの丘から、物凄い煙が上がり、あれよあれよというまに、黒い煙になったので、パソコン、金庫の中身、写真などを車に積み込んで、避難命令がきたらすぐ逃げられるよういをしましたが、幸いに風向きが南だったので、我々の辺はまぬがれました。でも、夜中まで延々と燃え続けて薄気味悪かったです。いまさっきまでまだくすぶりつづけてましたが、やっと、鎮火したようで、ほっとしてます。皆さん心配して、メッセくださるけど、答える暇などありません。「はやく逃げて」「気を付けてください」「また山火事ですか」「ご無事で」などなど、いただきましたが、一番うれしかったのは、「もし避難したら、私の家はいつでも泊まれるからね」と言うメッセと「私にできることあったら、何でも知らせてね」という二人からのでした。今、二つのセミナーの講師をたのまれてるので、その用意でいそがしいですから、スペイン旅行記は、時間がかかりますけどつづけます。又、写真の事は、楽天に今問い合わせ中です。ちなみに、フェイスブックに載せたのをコピペするなら、オッケイみたいですので、その手でいきましょう。
2022.05.13
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日本にお寺や神社が多いように、カトリック教徒の多いスペインには沢山のカテドラルがある。京都の様なものだろう。又、ヨーロッパは15,6世紀の建物が沢山のこっていて現在でも市民が住んだり、事業を営んでいるのだから素晴らしい。つまり16世紀位の建物にガラス窓をいれ、電気、上下水道管などは建物の外側についてたりするが、トイレ、キッチン、風呂場などの内装もモダンにして現代人がすんでいるわけである。最近は、日本でも昔の建物の内装を近代化してる所も沢山あって、2016年に娘一家と日本を旅したときに、そういう素晴らしい白木つくり和風の家が京都の清水寺に上る坂の途中にあって、借りた事がある。 今日は、ホテルから地下鉄駅まで歩いていって、ガウディのサグラダ・ファミリアの見学をするが、地元のガイドが案内するとの事で、ホテル前に集まり、説明を聞いた後地下鉄で移動。地下鉄の出口についたら、「あ、すみません、私地下鉄あまり乗らないので一駅前で降りてしまいました」というガイドに従って、またプラットフォームに戻り次の電車を待った。今度は正しい駅で降りて歩くこと5分、ガイドブックでおなじみの、サグラダ・ファミリアが目の前に現れた。もう、何千人という人が列をつくっており、ニューイヤーズイブのディズニーランドみたいな人混みだった。地下鉄は、パリのより清潔だった。(パリのは汚いし、目つきの悪い人が大勢載っているし、物乞いもよってくる) ガイドからチケットをもらって飛行場並みのセキュリティ―を通過して雑踏のなかをのろのろ歩いた。話しにきいてたごとく、これでもか、これでもかというケバケバしいデコレーションが目の前にあらわれ、不思議な国のアリスになったような感じ。というか、「ここまでごてごてしたものをよく調和させてるなあ」と感心したのである。時々、大きなつばの帽子、水玉のブラウスに、チェックのスカート、手袋はめて、凄いイヤリングをぶら下げ、ミッキーマウスのバッグをもち、ブーツで闊歩してる若い女性をみかけると、その大胆さと、異様にもマッチしていることに関心するのだが、ちょうどそんな感じであった。 16世紀風のものから、21世紀風のもの、ステンドグラスの天井が七色の虹だったり、聖堂の左右が日の出と日の入りを表したものになっていたり、超モダンな螺旋階段があったり・・・・・このプロジェクトは、いつ終わるともなく延々と続くらしいが、話しの種に一度は見てみたかったから満足であった。 帰りは自由行動だったが、6人は、ホテルまで歩いて帰るというのでグレッグも「一緒に歩こう」ということになり、私は、痛い左足をひきずりながら一時間くらい歩いた。途中の道端で一人の女性が “O Mio Babbino Caro” をレコードにあわせて歌ってたので、立ち止まって最後まで聴いて「ブラボー・ファンタスティック」といって、5ユーロ寄付。素人とは思えないほど素晴らしい声であった。 その夜もまた、タパスのディナーだというので、我々は別行動で、パエリヤの店に行った。サラダは美味しく、パエリアも見栄えはよかったが、お米が殆ど生にちかくて、ガリガリだったので、がっかり。それで、口直しに。。。と、アイスクリーム屋に立ち寄り、ゴシック教会前の広場で9時だというのにまだ薄明るい光景をたのしんだ。(何度やっても、ファイルサイズが上限を超えている画像があったため、アップロードに失敗しました。(1枚目)(エラーコード:3_429) とでます。1000枚削除し、画総数をサムネイルの小さいものにしても、のせられません。昨日まではなんでもなかったのに、不思議です。どうしたらよいのでしょう。
2022.05.12
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スペイン紀行・1 バルセロナ「スペイン」と聞くと、ぱっと頭に浮かぶのは闘牛、歴史に残る画家達、フラメンコ、サグラダ・ファミリア。いつか見てみたかった、サグラダ・ファミリアがツアーに含まれていたので、バルセロナに行くのを楽しみにしていた。「時差ぼけを無くすためにも、最低一日は速く行ってたほうがいいわよ」と、ラナに言われていたので、「グッド・アイディア」と我々は、ツアーの最初泊まるホテルに一日前に着くように計画し、翌日の午後グループが集まる頃には、もう荷物も片付けてあって近所でスペイン名物タパスのレストランで結構おいしいものも食べたり名所なども散歩した後だったので、ルンルン気分であった。 このツアーは最高20人までという小さいグループだというのも気にいっていたのだが、一組のカップルはパスポートの有効期限+6週間なければならないという規則に、4週間足りなかったためにキャンセルせざるを得なかったそうだ。有効期限+2週間の余裕があったのだから、多めに見てもよさそうなのに、法律に逆らうことは出来ないのだろう、気の毒であった。 ところが、人の事を気の毒がってる場合ではないハプニングが起きた。ツアーガイドのハビエルにワクチン4回証明書と、コロナテスト陰性証明書を出したとたんに、彼が1,2,3,4と指折りをしだして、「陰性証明はツアーの始まる48時間以内でなければならない決まりなので、これは受け付けられない」と言ったのだ。ガーン! 頭を金槌で叩かれた感じになる。つまり、1日早くついたわけで、ツアーの始まる頃には48時間以上たっていたのである。 次にハビエルは、時計を見て「テスト場が閉まるまで1時間あるから、まにあうかもしれない」とフロントでそのテスト場のディレクションを書いてもらって、「急いで行ってください、予約したからあちらも待ってますから」と言うので、慌てて走るようにホテルを出たのだが、行けども行けども、その番地につかない。何回ためしても途中から道の名前が変わってしまうのである。私は出発前に左腰を痛めていたので、歩くのさえ容易でないのに走るわけで痛くて痛くて死にもの狂い。やっと、薬局らしきところについたら、そこではないという。長い話を短くすると、1時間迷子になって、やっと着いたら6時2分で閉まっていたのだった。 グレッグは「もういい、こんな馬鹿らしいツアーやめて帰ろう!」と激怒。彼が帰ろうというのはカリフォルニアの自宅の事である。その間、ツアーのグループは、ダイニング・ルームでワインを飲みながら、好い気分でこのツアーの計画をはなしあっていたわけで、私一人が近づいて来たのを素早くみつけたハビエルがダイニングルームから飛び出て来た。 グレッグはふて腐って部屋に戻ってしまったのだ。「迷子になってやっとみつかったら2分おそくて閉ってました。あすから土日だし、キャンセルして別行動しましょうか?」と言ったら慌てて、「いや、もう一つの手がある。近所の薬局でテストキットを買って来てください。僕が証人になりますから」ということで、また慌てて出て行き薬局でキットを手に入れ、部屋でくすねていたグレッグをなだめすかし、階下につれてきて、待合室でハビエルがテストをしてくれたのだった。そのテストたるや、お笑いもので、絶対に陰性としか出ないであろうやり方で、綿棒をちょこっと鼻に入れ薬物につけて、5分も待たずに、「はい、陰性です」と写真をとって、本社に送信したのだった。これは、旅の終わりにアメリカに戻る24時間前のテストも同じく、ものものしい鞄をかかえた専門家がホテルにきて翌日帰国するメンバーのテストをしたのだが、全員が絶対に陰性になるようなテストの仕方であったから、何の爲のテストやら、いい加減なものである。 晴れて、ダイニングルームに入っていくと「まってました」とばかり皆に拍手で迎えられた。もう皆自己紹介を済ませた後で、我々の番だった。先ほどまですねていたグレッグが、もうすっかり陽気になって自己紹介を終わらせ、そこから全員歩いて、その晩の食事をしに出掛けたのだった。 繁華街にあるワインセラー付きレストランで、ワインは飲み放題。我々が座ったテーブルには、ロレインという女性と、グレッグは元アル中がいて絶対に飲まないし、私も近頃は90%は飲まない。のんでもグラスに2,3センチなので、隣にすわったハビエル、キャレンとリズが数本空にしていた。このツアーは宿泊、交通費、ワイン付き食事(朝食と夜食が殆ど毎日)が含まれているので、ハビエルが気をきかせて、ロレインとグレッグにコカ・コーラを持ってきたが、毎回凄い量のワインがでて、皆よく飲んだ。ちなみに、タパス(Tapas)は、ワインのおつまみだと思ったらよいだろう、兎に角スペイン中、どこに行ってもタパスの店だらけであった。 このツアーの食事の殆どがタパスであったが、皮肉にも我々がツアー前に入ったタパスのレストランのが一番おいしかったので、後々に揚げ物ばかりでうんざりすることになる。ちなみに、この夜いったレストランも揚げ物が殆どで、グレッグと目くばせをしたくらいだった。 食後は自由行動なので、のろのろ歩いてホテルに戻ったのだが、その帰り道に日本人経営の鮨屋と、ラーメン屋があったので「明日もタパスだったら、お寿司を食べに行こう」と言ったくらいだった。(続く)
2022.05.10
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ヨーロッパの旅は何度もしていており、一番長かったのは3か月であったが、スペインは初めてであった。又、ツアーというものに参加したのも初めてである。皆様もご存じのスピード・ウォークの友達ラナに勧められてリック・スティーブ・ツアーを選んだ。私は聞いたこともなかったツアー会社だが話す人、話す人が皆知っていたから有名らしい。「え?テレビ番組みたことないの?1年前でもすぐに満席になるから」とラナにせかされて、2020年の旅を予約したのが2019年の事である・・・・・・そして、COVID19のパンデミックが始まったわけで、2年据え置きの末やっと今年の4月に再開したのだった。 ツアー会社が全部おぜん立てしてくれると思っていたら大間違い。ツアーはスペインのバルセロナから始まるというし、我が家から出発点までは会社の責任ではないというではないか。何のことはない、ロス・バルセロナ間の飛行機の予約も、ツアーの一日前に着くホテルの予約もツアーの終わり、セビリアから帰国する飛行機の予約、全て私がやらなければならず、「こんな事なら、最初からツアーなど要らない」と思ったくらいであった。 そして、コロナの悪夢は付きまとい、ヨーロッパに到着48時間以内にテストを受けて陰性証明を出せというが、それをしてくれる機関が家から50キロも離れた遠い所だったり、月水金だけとか、火木だけとか時間も限られており、これまた面倒くさい。「そんな面倒くさいならやめちまえ!」とグレッグが言ったが、二日前に旅をキャンセルしたら2年前に支払い済みの大金が全て消え去る。で、やっと我が町の市役所の駐車場(注射場の間違いではない)にある、四角い箱のなかでやってくれると言うので大金を払ってパスポートナンバーもいれた正式な証明書を書いてもらい、やっとバルセロナに着いたのだった。 ところが、これでCOVIDの問題が終わったわけではなかった・・・・・ あんな険しい山の上にあんなに大きなたてものがある。何だろう? あ、もうじきだ。 太陽をおってるので数時間で夜が明けた あんな険しい山に何故あんなにおおきな建物が?あ、バルセロナの海岸だ! (続く)
2022.05.08
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『芸術のない人生は野蛮である』とは、≪ディズニーの神様≫というあだ名で呼ばれていたアニメ家、ジョー・グラント氏の言葉。ジョーはウォルト・ディズニーと一緒にアニメの会社を作った一人で、奥さんのジェニーが義父の従妹だった。ジョーは白雪姫の魔法使いや、ピノキオのジミディー・クリケット、ファンタジアのカバ等々を生み出し亡くなるまでディズニーで働いた人である。ちなにみ、絵を描きながら96歳で息絶えたのであった。 そのジョーが大の日本びいきだった事もあって、私は可愛がられ、よく食事に招かれたのだが、ある日ジェニーから電話がかかってきた。“Guess what?”と聞くので、「さあ?わからない」と答えると、「翌日から夫婦で日本に行くのよ」というのだ。今度は私が “Guess what?”と聞く番だった。「はて?なんだろう?」と答えたので、「私も明日から日本に里帰り」と言ったら、電話の向こうで「きゃ~!信じられない」と叫んでいた。全くの奇遇で、同じ日に同じ飛行場から出発したが、違う航空会社だったので東京で会う約束をし、電話を切った。 ホテルに会いに行って一緒に食事をしたときジョーが、「日本に来た理由は、京都に行くことと、古典芸術の歌舞伎をみることだが、歌舞伎座に一緒にいって切符を買うのをてつだってくれるか」と言うので、一緒に歌舞伎座まで歩いて行き、英語の説明のテープも借りる手続きをすませた後別れた。実を言うと私自身、歌舞伎はテレビ中継でしか見た事がなかった。 ずっと後になって、東京文京区にある大学でレクチャーをやった時に親しくなった学長から、食事付き歌舞伎のご招待をいただいて観賞したのが生まれてはじめてであった。日本語なので、と書きたいが本当のところ同時進行の英語の解説テープを聞いていたので良く理解出来たのだった。生で聴いたら分からないほど日本語はこの400年で進化してしまった。大がかりな舞台装置や衣装の色合い、何百年と引き継がれた役者の動きといい、古典芸術の素晴らしさに感動したとき、「日本はあんなに素晴らしい芸術があるんだね」とジョー達が言ってた事が分かった。 考えてみたら、アメリカ合衆国はまだ250歳にもなっていないので、古典芸術とよべるものが頭に浮かばない。オペラ、バレー、シンフォニーにしてもヨーロッパの移民たちが輸入してきたものだからアメリカの古典芸術とは呼べない。強いていえば、黒人達が作り出したジャズやブルース、ジョプリンのツーステップくらいだろうか。それらが、あと200年後には古典芸術となるのかもしれない。 歌舞伎に味をしめた私は、数年後に息子をつれて里帰りしたときにも二人で観賞した。「マムの国は凄いね、400年も前にこんな素晴らしいものを作りだしたんだね。西洋のシェークスピアみたいなものだろうか」と息子が鋭い観察をしていた。 日本の古典芸術と言えば、能楽もその一つというか、歌舞伎より更に昔からあったが、上流階級しか楽しめなかったから市民の爲に歌舞伎ができたともいえる。戦後、疎開先から東京にもどったとき、しばらくは間借り生活だったが、生きるために祖母は和歌、お習字、謡いなどを教えていた。大好きな鼓は借金を払う爲に手放してしまったのだった。戦後でも、余裕のある人は結構いたので、ほそぼそとでも食べていかれるだけのお弟子さんがいた。 そんな状態の生活だったのにも関わらず、祖母は私をお茶の水にあった能楽堂に何度かつれていってくれた。観客も背筋をピンと伸ばして座っており、子供ながらにあの身のひきしまる雰囲気がすきであった。祖母は、私に仕舞を習わせたくてしょうがなく、ある日、最初の師匠につれていかれた。彼は歯科医で趣味に教えていたのだが、半年もしないうちに癌で亡くなってしまったので、次はプロの観世流の師匠の家に通った。謡曲は赤ん坊時代から聞いていたので、リズム勘が良かったらしく、「とても素質がおありです」とおだてられて、14歳の時に青山の観世舞台で『羽衣』を舞ったが、高校に入った頃、やっと手にいれた小さな家の場所が師匠の家からかなり遠のいたのでやめた。 祖母が鼓を売らなければならなかった、という噂を聞きつけた昔の学友が、「おいたわしい。上等なものではございませんが、是非お使いになって」と言って鼓を貸してくださったので、鼓も教えだし、水を得た魚のように、嬉しそうに毎日毎日練習をしていたから、路地を歩いていると掘立小屋の我が家から、ポン、ポン、カーンという音が聞えて来て近所迷惑ではなかろうかと思っていたが、皆さん「この敗戦国の殺伐とした世の中で、時代錯誤を起こすような優雅な音が聞こえてくるのは平和で嬉しい限りです」と喜んでくださった。これぞ古典芸術の極意である。 お免状は男性にしか与えられなかった時代に、祖母は観世流の家元から謡も鼓も師匠のお免除をいただいた日本で最初の女性である。
2022.05.07
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半月家を空けて行ったので、仕事が山積みですので、じょじょに、旅日記をかいてみますので、気長におまちください。先ずは、しゃしんだけ、ちょっと。。。。 グラナダのアルバンブラ宮殿アルコスの崖っぷちのホテル バルセロナのサグラダファミリア ドン・キホーテの舞台となったところ。マドリッドの広場セビリアのフラメンコトレドの町
2022.05.02
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