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次に項目ごとに説明文をつけてゆきます。「1、 生の欲望の発揮」の上の空きスペースに次の言葉を書いてください。イ、 日常茶飯事、雑事の徹底、規則正しい生活を心がける。ロ、 好奇心の発揮、一人一芸を身につける。ハ、 物そのものになりきる。今一歩踏み込むニ、 物の性を尽くす、自分の持っているものを活かすホ、 境遇に柔順になるヘ、 無所住心、変化への対応を図る「2の2、不安との格闘 強い不安、恐怖、不快感、おびえを感じる。神経症の苦しみの発生」の下のスペースに次の言葉を書いてください。ひとつのことにとらわれると、精神交互作用によって、症状として固着する。自然現象は、人間の意志の自由はない。不快なイヤな感じは治らない。治してはいけない。治さなくてもよい。「3、 かくあるべしからの発想 理想の立場から、現実、現状を見てダメ出しをしている(思想の矛盾)」の下に次の言葉を書いてください。かくあるべしとはミスや失敗、欠点は絶対に許されない。人に軽くあしらわれるようではいけない。目標はなにがなんでも達成しなければならない。人に負けてはいけない。すべて自分の思い通りにしたい。完璧でなければならない。理不尽なことはあってはならない。意志の弱い自分であってはいけない。強い欲望が○○しなければならないにすり変わる。上から下目線で現実をみる。完全主義、理想主義、強いコントロール欲求がある、目的、目標至上主義、結果第一主義、昔と比べる、他人の長所と自分の短所を比べる、自己弁護、自己否定、他人否定、常に是非善悪の価値判断をしている。「4、現状、現実、事実を認めて受け入れ、そこから出発する。事実本位、物事本位の態度」の下に次の言葉を書いてください。事実をよく観察する。十分に現状、事実を認識する。事実を受け入れる。事実に服従する。4つの事実 1、 自然に湧きあがってきた不安や恐怖などの感情の事実2、 自分の素質、容姿、性格、弱み、ミス、失敗などの事実3、 他人の素質、容姿、性格、弱み、ミス、失敗などの事実4、 自然災害、経済危機、紛争等世の中の理不尽な出来事以上ですべて完成しました。お疲れ様でした。
2013.03.31
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森田全体像を書いてみますのでA4の用紙を横書きに置いてください。まず横中央部の上部に「1、生の欲望の発揮 現在の欲望(なすべきこと、やりたいこと)に取り組む」と書いて大きく枠で囲ってください。次に横中央部の下部に「4、現状、現実、事実を認めて受け入れ、そこから出発する。事実本位、物事本位の態度」と書いて大きく枠で囲ってください。次に右側中央部に「3、かくあるべしからの発想 理想の立場から、現実、現状を見てダメ出しをしている(思想の矛盾)」と書いて大きく枠で囲ってください。左側中央部分に、「2の2、不安との格闘 強い不安、恐怖、不快感、おびえを感じる。神経症の苦しみの発生」と書いて、大きく枠で囲ってください。次に左側上部(2の2の上、1の左になります)に、「2の1 不安の活用 欲望の制御機能として働く不安や恐怖 本来の欲望と不安はアクセルとブレーキ」と書いて大きく枠で囲ってください。これで大まかにできました。次は実線を引いてゆきます。「1」から「2の1」実線を引き両方に矢印をつけます。実線の上に「バランスをとる」と書いてください。「2の1」から、「2の2」に実線を引き、「2の2」の方に矢印をつけてください。実線の上に「手段の自己目的化」と書いてください。「2の2」から「1」へ実線を引き、「1」の方にのみ矢印をつけてください。「1」から「3」に向かって実線を引いて、「3」の方にのみ矢印をつけてください。実線の上に「過大な欲望が「かくあるべし」にすり変わると苦悩が始まる」と書いてください。「3」から「2の2」に向かって実線を引き「2の2」の方にのみ矢印をつけてください。実線のうえに「かくあるべしと現実の矛盾に苦しみ葛藤が深まる」と書いてください。「3」から「4」に実線を引いてください。矢印は「4」の方にのみつけてください。「2の2」から「4」へ実線を引いてください。矢印は「4」の方にのみつけてください。「4」から「1」に向かって実線を引いてください。「1」の方にのみ矢印をつけてください。これで実線は終わりです。次に続きます。
2013.03.30
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みなさん、東京ディズニーランドなどのような観光地に行かれる時必ず手にされるものがあります。それは「施設のご案内図」です。もしこれを持たずに中に入られたとするとどうなるでしょう。手あたりしだい見ていくことになります。自分の興味に合うようなアトラクションがどこにあるのか全く分かりません。時間と経費ばかりがかかり、そのうち歩き疲れてしまいます。中途半端なうちに出ることになります。また家を建てる時設計図を持たず、建築資材だけは立派なものを集めてきても、はたして家は建つでしょうか。行き当たりばったりになり、修正箇所がいくつも出てきて決して満足できる家はできないでしょう。森田理論も同じことが言えます。森田では公式には「施設のご案内図」「家の設計図」にあたるものはありませんでした。これが森田理論学習の進め方に大きな影を落としました。この状態で森田のキーワードといわれる、あるがまま、自然に服従する、事実唯真、純な心等を学習しても、言葉の持つ意味は多少分かっても、知識が増えたというだけでした。自分の生活に影響を与えることはあまりありませんでした。そこで私は、思考錯誤の末独自に「森田理論の全体像」をA4用紙1枚にまとめました。今ではこれをクリアファイルに挟み込みいつも持ち歩いています。苦しい時、森田先生の著書を読むとき、その他世の中の出来事を考えるとき、いつもこれを見ながら自己内省を繰り返しています。みなさんも「森田理論の全体像」という案内図を持って、森田理論学習を始められますと、実に効率がよくなると思います。無駄がなくなります。また自分の状況、自分の努力目標も見えてくるのです。ただこれは私一人で作ったもので今後修正箇所がでてくるかもしれません。そのことをご理解ください。明日は作り方を実際にご紹介します。
2013.03.29
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アルコール依存症から立ち直ろうとする人たちのために、自助組織としてアルコホーリクス・アノニマス(略称AA)があります。AAは今や世界中に広がっているそうです。その中に12のステップを作られています。その一番目に、「私たちはアルコールに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」とあります。アルコールは飲みすぎると体に悪い。だれでも知っています。でもアルコール依存症の人は、悪いと思っていても自然にアルコールに手がでるのです。自分の意志の力ではコントロール不能に陥っているのです。普通はコントロールできなくなった自分に嫌気がさして自暴自棄になって、ますますアルコールに依存して体を悪くしてゆきます。その制御不能になっている自分を認めたということです。その事実にたいして逆らうことを止めましたと言っているのです。これは大変大きなハードルです。でも、アルコール依存症から抜け出るためには、その出発点に立つことがきわめて重要となります。これは森田理論の中でも大変大事なところです。「かくあるべし」「かくあらざるべし」的発想をおさえて、事実を認めて、事実を受け入れてゆくことが森田理論学習の目指している道となります。事実をよく観察し、事実をよく認識し、事実を受け入れられるようになると神経症の苦悩はなくなります。私は事実を4つに分類し、それぞれの対応方法について提案していますのでご覧ください。
2013.03.28
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熊の母子は、小熊が自立して生きていけるようになると、母熊は小熊と一緒に木に上って、そのまま置き去りにするという。取り残された小熊はそれ以降自力で生きていくことになる。キタキツネでも、子供が一人で獲物をとれるようになると子供を巣から追い出してしまう。牙をむいて威嚇し、傷口に血がにじむほどの激しさで噛むのである。子は何度も巣に戻ろうとするが、そのたびごとに手荒い仕打ちを受ける。そして最後には、仕方なくあきらめ、住み慣れた巣をあとにして、自力で生きていく生活が始まるのである。人間場合はそうしたことは考えられない。大学を卒業するまではほぼ親がかりである。それ以上に親にいつまでも依存して、親が亡くなったあとも遺産を受け継いで依存している。国にも生活できなければ生活保護、年をとれば年金、病気になれば医療費のサポートなど至れり尽くせりである。しかしその反面自力で生きていく力がどんどん衰えてきているのである。生命力、生存欲そのものが極めて希薄になってしまったのである。人間が生きていくためには人と協力しあったり、あるいは競争しあったりすることもあります。そうした力がなくなりつつあるのである。森田先生がもし今生きておられたら、「生の欲望」の減退をどう見られたであろうか。「生の欲望」の発揮は森田理論の土台部分であるので、かなり手厳しいのではあるまいか。それにつけても本来の教育とは何であろうか。人類が今までに築きあげてきた知識、文化、知恵を学んでいくことも必要であろう。しかし一番大なのは、人間が困難に出会った時それを乗り越えていく能力を身につけて自立して生きていく力を身につけさせることではなかろうか。現代社会ではこの困難や問題点は誰かが先回りしてことごとく摘み取ってくれている。その結果、現在無気力、無関心、無感動な子どもたちが増えているという。その意味でも森田理論学習を広く学習する意味があると思う。
2013.03.27
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「甘えの構造」の著者の土居健郎氏によると対人恐怖の様相が変化してきているという。「遠慮」が必要となる人間関係を中間帯とすると、その内側には、「遠慮」の必要のない身内の世界があり、またその外側にはやはり遠慮する必要のない「他人の世界」がある。「遠慮」必要なのは、仕事での仲間、上司、お客様などである。また隣近所の人などである。要は利害関係が絡んでいる人間関係であろう。内側の「遠慮」の必要のない身内とは、家族、気心の知れた友達とか、趣味の仲間とか、会社の同僚などである。ところが今の若者は、友達や親友に対して非常に気を使っているのである。決して本音を出すようなことをしてはいけない。また相手を傷つけるようなことをずけずけと口に出してはいけない。あたらず触らずのよそよそしい関係になっているのである。つまり現代社会では友達などは「遠慮」しなくてもよい身内の世界から、「遠慮」しなくてはいけない、中間帯の位置に変化してきたのである。また一方で、会社の取引先とか、お客様に対しては低身低頭最大限「遠慮」して気を使わなければいけない相手である。ところが、お客様がちょっとクレームをつけると、「僕は間違っていません。お客様が間違っています。注意してもらわないと困ります。」と言って逆ギレしたりするのである。本来気を使うべき相手と気を遣わなくてもよい相手が混乱しているのである。昔当然と思われていた人間の付き合いができなくなり、衝突したり、ぎくしゃくするようになってきました。そうゆう変化が起きているということは、頭の中に入れておいた方がよいと思います。
2013.03.26
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2010年NHKテレビで放送された番組に、大学生が一人で学生食堂に行って食事ができずに、トイレに行って一人で弁当を食べるというのがあった。一人だけで学食で食べていると、「友達がいない孤独な奴」「ネクラな奴」と人からみられるのがイヤだというのである。一緒に食べる友達ができずに、大学へ行くのが億劫になり、ついには中退し、退学する学生もいるという。ある大学では、そんな学生のために、カウンセラーが一緒に昼食を食べるサービスをスタートさせたという。会社でも、得意先と大きなトラブルが発生し、上司がすぐに先方に行って謝ってこいと言われた社員が、先方に出向かずメールで謝ったという笑い話がある。得意先からのお叱りの電話を受けた上司がその社員に事情を聞いたところ、面と向かってはしどろもどろになると思ってメールにしましたと答えたという。対人緊張の強い人は、人の思惑が極端に気になる人です。それも悪い方にばかり考えて、予期不安で全く行動ができなくなります。現代の人の行動を見ていると、対人恐怖はより深刻になっていると思われます。そいう意味では、一般教養として森田理論の学習は学校教育の中に取り入れる時期にあるのではないでしょうか。そういう人が300万人はいるという試算があるのである。また神経質性格を持っていて人の思惑が気になる人、なんとかしたいという意欲を持っている人は真剣に森田理論学習をされたらよいと思う。学習されることによって、認識を深めて、対処の仕方を見つけていくことができます。
2013.03.25
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マズローは階層説の提唱者としてよく知られています。それまでは欲求は禁欲主義的な観点から、欲求は抑えるべきものとして理解されることが多かった。マズローは、欲求を満たすべきものとしてとらえました。これが彼の独自性だった。この点は森田と似通っています。欲求の階層説では、欲求が満たされないときに、いろいろと行動に歪みででてくるといっています。まず欲求を4つに分類している。最下層に生理的欲求、次に安全への欲求。さらに愛と所属への欲求。そして承認と自尊の欲求である。現代の日本では、生理的欲求や安全への欲求はおおむね満たされていると思われます。そして次の欲求として、仲間や所属集団を求め、愛を求め、他者からの承認を求め、自尊心を求めることになる。自分が優秀であることをみんなに認めてもらいたい、ほめられたい、ちやほやと持ち上げてもらいたい。みんなにいつも受け入れてもらいたい。いつも優越感を味わっていたい。ところが仕事や学校での人間関係は必ずしも理想どおりには事は運ばない。むしろ事実は反対になることが多い。森田でいう思想の矛盾が起きている。つまり現代の日本では、集団に無条件に受け入れられ、つねに重要視されるということは難しく、承認欲求は脅かされ、傷つくことが多いのである。どうして、承認の欲求は容易に満たされることができないのであろうか。西欧人はもっと認めてほしい、もっと評価をしてほしい、ちやほやしてほしいというときは、他人に対して評価に値する行動をとる、ほめられるようなことをしてアピールするそうです。これに対して日本人の多くは、そうして努力をしないで、相手が自分のそうした気持ちを察してそのようにふるまってくれるのをひたすら待つという対応をとる。努力をしないで人は自分をもっと評価をしてくれて、存在そのものを認めてくれることを期待しているのである。努力をしないのであるから、容易に「かくあるべし」が肥大して、神経症の基を作り出している。
2013.03.24
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休み明けは会社や学校へ行くのが億劫になります。これを「ブルーマンデー」とか「サザエさん症候群」などと言います。日曜日のサザエさんが始まるころから急に明日の仕事や勉強のことが気になって重くるしい気分になることです。これを解決する方法の一つとして、金曜日の夕方に月曜日朝一番にする仕事を作っておくことです。神経質な人は区切りとして、金曜日までにやることはすべて片付けたいと思いますが、1つや2つは月曜日のためにとっておくのです。すると月曜日になって今日はなにをしようかと迷うことがなくなり、すぐにその仕事に取り掛かるため、比較的早くエンジンがかかるのです。また別の方法としては、普段より30分か1時間早くいって、体をならしておく時間を作っておくのである。コーヒーを飲んだりして多少だらだらとして過ごし、みんなが来るころになると、だんだんと調子が上がってくるようにするのである。森田先生もおっしゃっていることですが、やらなければならない仕事とか用事をわざと目につくこところに置いておくことがあります。これも尻軽に手を出すということからするとよいことです。ある作家は、文章を書く時必ず区切りの悪いところでとめておくそうです。たとえば、「わたしは」と書いて終えるのではなく、「わた」と書いてその日の仕事を終えるのです。すると翌日は、「しは」と始めるしかない。「しは」と書くことによって、それがスタートとなり仕事が進んでゆくというそうである。
2013.03.23
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会社で上司から「ちょっと今あいてる」「はい、あいてますけど!」「じゃちょっと会議室へ来てくれる」と呼び出されたとします。その時、普段快く思っていない上司だとはっとして、もしかしたらリストラされるかもしれない。イヤきっとそうに違いないと思ったりすることもあるでしょう。直前に仕事のミスがあったとすればなおさらそのように思います。むしろそれ以外に考えられないと確信します。そのように絶対に間違いと考えたとしたらそれは認識の誤りとなります。これは自分の頭で勝手に考えたことであり、事実ではありません。神経症の発症は実際には事実としてないにもかかわらず、自分で勝手に思い込むことによって起こります。認知行動療法では他のことは考えられないだろうかと、他に考えられる可能性を書き出してみます。たとえば、ねちねちと叱られるかもしれない。その可能性はどれぐらいですか。20%くらいですかね。他にはどんな可能性がありますかね。転勤の可能性があります。それはどれぐらいの確率ですか。10%くらいです。その他思いつくことはありますか。ただ単に仕事の打ち合わせの可能性もあります。その可能性はどれくらいですか。5%ぐらいでしょうか。このように可能性のあることを思いつくままに書き出してみるといろいろなことが思いつきました。上司にあって話を聞かないと実際にはどうゆう話か分かりませんが、それにしても我々はかってに事実でもないものをあたかも事実のようにさまざまに想像していたのです。それも独善で一つのことを間違いないと思って確信しているのです。このように事実でないものを事実とみなして対策を立てると、とんでもない間違いを起こす可能性が高くなります。どこまでも観念の世界から離れて、事実をよく観察するという態度が大切だと思います。
2013.03.22
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長野県諏訪中央病院に鎌田實医師がいる。チェルノブイリの救援活動のため全国を講演活動されているので、お話を聞かれた方もおられると思う。その鎌田医師の著書に、「がんばらない」という本がある。病院に知的障害者の書がかかっている。その中にこの「がんばらない」というのがあるそうです。僕ら医療者が重症な患者さんや末期の患者さんについ口に出してしまう言葉が、「がんばろう」「がんばりましょう」という言葉であるという。この言葉に勇気を奮い立たせる患者さんがいる半面、今まで精一杯頑張ってきた、そして末期を迎えた患者さんにとって、頑張れという言葉はやりきれない言葉である。こうこれ以上頑張れないときにこの言葉をいわれると絶望感が襲ってくるのである。お母さんが子供たちによくいう言葉の一つが、「もっとがんばりなさい」という言葉である。これは悪気はないのだが、頑張らなければいけないという、「かくあるべし」を患者さんや子供たちに押し付けているのである。ある患者さんから、この言葉は不思議な勇気を与えられるといわれたそうです。「あなたはあなたのままでいい」「競争しなくてもいいですよ」といわれているようだ。と言われたそうです。病気と闘わなければならないという「かくあるべし」重圧から解放されて、肩の荷が下りるそうです。確かに本人が目的や目標を見つけ出して、少しでもそれに近づこうとすることは大変意義があることです。その努力が生きるという意味かもしれない。ところが他人が、人に向かって、「あなたは頑張らなければいけない。」などと声高に叫ぶことは、「かくあるべし」の押し付けであって思想の矛盾に苦しむ。百害あって一利なしと心得たいと思います。
2013.03.21
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私たちは今まで自分の容姿をよくしたり、性格を改善したり、弱みをなくしたり、ミスや失敗を極力少なくすることで人に認められる立派な人になれると思ってきたのではないでしょうか。自分を不完全な人間として厳しい目を向けて、完全無欠の人間を目指してきたのだと思います。自分は欠点だらけで、改善や修正すべき点が山ほどある人間だと考えることに慣れてしまっているのです。自分だけではなく、子供や配偶者、親や友達もそうした物差しで見てきました。森田では、今のままのあなたで十分ですよ。修正したり欠点を取り除いたりする必要は全くありませんといいます。欠点があると思っても、いつも100点満点の自分として認識します。欠点や弱点、失敗しても「それでいい」と自分を許すことができるようになると、とても楽な生き方ができますよ。そのように他人に対してもどこも治さなくてもよい。今のあなたのままで生きてくださいと言えば、途端に人間関係は改善に向かいます。事実を受け入れるということは、「あるがまま」の自分や他人を認めるということです。思い切って今の自分に100点満点をあげてください。
2013.03.20
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今の子供たちは、自信のない子供が多いそうです。それは小さいころから、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと「かくあるべし」「かくあらざるべし」を押し付けられて、子供たちの存在を認めてこなかったことが原因かもしれない。そういう子供が大人になると、会社などで「ちょっと来て」と言うと、「私が何かしましたでしょうか」とおどおどした調子になるという。元日本弁護士連合会会長の中坊公平さんは、お母さんから叱られた事はなかったといいます。いつもやさしく包み込んで、なぐさめ励まし続けてくれたそうです。小さい頃は劣等生で、みんなが受かった中学校に落ちた時、お母さんはこう言ったそうです。「公平、あんたが悪いんと違う。世間が悪いんや。」その励ましが中坊さんを勇気づけたそうです。その後、不本意ながら行った中学校の最初の試験で中坊さんはよい成績をとったそうです。その時お母さんは、「公平は天才やなあ」と手放しで喜んでくれました。ところがしばらくして、成績が真ん中ぐらいに下がったそうです。それをお母さんに言うと、「なにゆうてるんや。人間万事、中庸が一番や」どんな成績であっても、お母さんは認めてくれたといいます。お母さんは「ほめて育てる」「認めて育てる」ことの名人だったそうです。これによると、人はミス、欠点、弱点をあげて叱咤激励されるより、人に認められることによって自信を得て、安心して成長していける。その安定した土台があってこそ親から本当の意味で自立してゆけるようになるということではないでしょうか。
2013.03.20
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安倍総理が2013年3月TPP参加表明した。私は森田理論を学習したものとしては反対である。その理由は以下のとおりである。TPPは、環太平洋に属する各国が関税を全く無くするというものである。安倍総理は例外品目を許容するということでオバマ大統領と合意したので参加することにしたと言っていた。しかし実際に交渉の段階に入ると、そのようなことは無視されて強行される可能性が高いといわれている。日本だけのわがままは許されなくなってくる。そうなると自由貿易ですべての分野で競争原理が働くことになります。競争に勝てば生き残るし、競争に負ければ生き残っていけない。日本では一部の分野では勝ち残るかもしれない。ただ農業は米作農家でも生き残ってはいけないだろうといわれている。この問題を考える時そもそも誰がこんなことを考えたのかということを考える必要がある。農業でいえば米国の穀物メジャーの意向が反映されている。彼らは有り余るほどの農産物を少しでも高く買ってくれることころへ売り込みたいのである。そして販路を拡大して多くの利益を手にしたいのである。ところが現在各国が関税障壁を設けているので、自由自在に利益を得ることができないのである。彼らにとっては、TPPは思惑通りの展開になっており喜んでいる。これは一例だがTPPは、すべての分野でもっともっと法外の利益を得たいという人たちの、強い意向があって初めて検討されることになったのである。今後はその人たちのあくなき欲望をさらにかきたてる方向に進んでいくと思われる。そういう意味では関税というのは、国内産業を保護している面もあるが、広くいえば人間の欲望が暴走しないように制御している面があると思う。森田でいうブレーキとしての不安の役割を果たしているのである。TPP締結後は、不安のたがが外れるため急速に欲望の暴走が始まるだろう。これは躁病の人が思いつきの欲望に走り問題行動を起こすのに似ている。また食料の貿易の自由化がなぜ悪いかといえば、今は日本が金を出せば日本に小麦や牛肉を売ってくれるが、もし生産国で食糧不足が起きたり、新興国が力をつけて日本よりも高く買うといえばそちらに売ることは目に見えている。日本はその時点で食糧不足になる。その時になって食料の生産の回復を叫んでももう遅いのである。つまりアメリカにとって食料は日本を思い通りに支配するのに一番手っ取り早いものなのである。これは森田でいうところの雑事の手を抜いて楽をしていると、結局は自立性を奪われて、生きがいをなくして生きる屍となるようなものである。
2013.03.19
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本を読むのが好きな人は本代が馬鹿になりません。私は基本的に町の図書館、市の図書館、県の図書館を利用します。それぞれ2週間、5冊まで貸してくれてます。市の図書館は区民図書館が5か所ぐらいありどこで借りて、どこに返却してもよいのです。これだと返却するので本がたまらないので助かります。でもマーカーや鉛筆で線を入れたりはできません。大事にところは付箋を付けて読みます。それからブックオフという中古の本を売っている店があります。105円の本がたくさんあります。よい本がたくさんあります。私はよく利用しています。この店はあちこちにあります。アマゾンドットコムは中古の本を売っています。ただ郵送料が250円はかかります。森田関係図書はほとんどこれを利用しました。参考までにご紹介しました。
2013.03.18
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集談会に参加する意義として仲間と接するということがあります。対人恐怖の人は人の思惑を過度に気にするあまり対人折衝の場を避ける傾向があります。孤立してきて話すのは家族ぐらいという人もいます。これは精神衛生上問題です。秋葉原通り魔事件の加藤智大容疑者や秋田連続児童殺人事件の畠山鈴香容疑者も、昔から友達がいなくて孤立していたと報道されていました。最初集談会に参加して親しく雑談している人を見ると、とても不安になると思います。私もそうでした。場違いなところに来ているのではないかと不安になりました。そんな時はどんな話をされているのか聞く方に専念してみてください。次に先輩会員は新しい人が参加された時は、その人の悩みをよく聞いてくれるはずですから、自己紹介などで具体的に少しでも結構ですから話してみてください。それを繰り返していると知り合いが少しずつできてきます。また集談会後の喫茶店や飲み会などに参加するとすぐに親しくなると思います。今現在友達がいないという人は試しに集談会への参加をお勧めします。同じ悩みを抱えた、質の良い友達ができると思います。
2013.03.18
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我々はいつも人と比較して優越感や劣等感を抱いています。比較することは悪いことなのだろうか。人と比較するのはよくないということで、学校では面白いことが起きています。勉強できない子がかわいそうということで、成績表を張りだすことはしない。足の遅い子に配慮して運動会では順位をつけない。中には手をつないでゴールさせる。足の速い子は足の速い子どうし、遅い子は遅い子同士で走らせる。主役になれない子がかわいそうだから、学芸会では桃太郎が6人も登場する。これってなんかおかしな気がしませんか。勉強は苦手だけど走るのは誰にも負けない。算数は苦手だけど歌うことは自信がある。全部人よりよくできるということはまれだと思います。それぞれの得意な分野を評価しないということは、その子が自信を持つということができなくなります。自信を持つことができないと、得意分野を伸ばそうという意欲がわかなくなります。人の長所と自分の劣っているところを比較して、劣等感に陥り、自己否定に走ることは確かに問題です。しかし人と比較して、自分の長所や自分の能力、自分の持っているものを自覚することはとても重要です。それが生きる目的や力となります。人と比較するということは悪い面ばかりではありません。むしろ比較しないと見えてこない面があると思います。要は活用の仕方が問題ではないでしょうか。
2013.03.17
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ある方からどうしてそんなに打ち出の小槌みたいに投稿する材料があるのかと聞かれました。ご紹介します。私の投稿方法はいろんな本を読むことです。一日に一冊ぐらいは読みます。速読に近いと思います。森田のに関係する記述はすぐに見つけることができるのです。そこは少し丁寧に読みます。話のきっかけができればすぐに自分の森田的意見がでてくるという感じです。森田の基盤がないとそれはできないと思います。それと心がけているのは生活の中で、森田的なきっかけとなる事件や場面はないかなと常にアンテナを張っています。ブログをはじめてよかったのは、自分の曖昧にしてよく考えたこともなかった問題を改めて考えることができたことです。投稿の在庫はいつも20ぐらいは作ってあります。その中から基本的に古い順番に投稿しています。そうすると、原稿を作る余裕がない日も安心しておれます。まあ一番は読んでくれる方のカウンターがあるのですが、それが励みになっています。目標を少しアップして1000投稿、10万アクセスを目指して、少しづつ継続を目指したいと思っています。
2013.03.16
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元ヤクルトの古田敦也さんは、野球はグランド上のガチンコ勝負のように見えるけれども、実はそれまでにしっかりと準備をした方が勝つ可能性が高くなるといわれています。古田さんは準備の一つとして、ピッチャーの観察と対応力をあげておられます。古田さんはピッチャーの癖を分析することを徹底してやったそうです。まずはボールの握りを見るんです。ピッチャーは投球モーションの途中で握りを変えることはありません。投球時に球種によって違いがないかよく見るのです。「変化はどこかに必ず現れる」と思って見ていれば、そのうち見えてくる。「どうせそんなのわかりっこない」と思えば、見えるものも見えません。またこんな発見をされたというんです。ピッチャーがストレートを投げる時、投げる一点を頭に描いています。すると何が起きるかと言えば、投げる直前にちょっとした「間」が生じるんです。ストレートだから、その一点、あの隅を狙わなければと慎重になるのでしょうね。それがワンテンポのズレとなってでてくる。観察をして準備を怠らなければ、プロ野球という厳しい世界で生き抜いていけるようになったということです。森田理論を学ぶものは「事実を受け入れていく」ことを目指しますが、その前提として事実を十分に観察するという態度が欠かせません。
2013.03.16
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今ここに1000円持っている人、10000円持っている人、10万円持っている人がいるとします。10000万円持っている人を中心に考えてみますと、1000円持っている人からみると富者であり、10万円持っている人から見ると貧者になります。人と比較をすると、優越感を感じたり、劣等感を感じたりすることになります。優越感を感じるときは、他人を格下とみなしています。劣等感を感じるときは、自分を格下とみなしています。格下とみなすときは、他人なり自分なりを否定しています。現状を認めていないことになります。いつも人と比較して是非善悪の価値判断に重点をおいていますと、そのギャップに苦しむようになります。「かくあるべし」と現実の落差です。これは神経症に苦しむ最大の原因となります。人と比較しないで1万円持っている自分を認識して、それをいかに活かしてゆくかという視点を持つことが大切です。そのために意識することは、まず自分の神経質性格の長所を学習によって認識することだと思います。その長所を具体点に伸ばしていくようにすることだと思います。神経質な人は自分の持っている性格の価値を過小評価する傾向があります。私もそうでした。神経質の性格特徴を学習することによって、見方によって、プラスにも見えマイナスにも見えることを知りました。それまでプラス面はまったく見向きもしませんでした。そこで方向転換をして今度はマイナス面はそのままにして、プラス面ばかり見るようにしました。するとやじろべいが釣り合うようにバランスがとれるようになった経験を持ちました。
2013.03.15
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部屋の掃除をしようとしていたら、お母さんがきて少し部屋を掃除しなさいよといわれた。先ほどまでやろうとしていたのに急にやる気がしなくなることがある。風呂にそろそろ入ろうと思っていたのに、早く風呂に入れといわれると急に入りたくなくなる。この原因を考えてみた。3つほど分かったことがある。一つ目は精神拮抗作用である。○○しなさいといわれるとそれに対して反対したい気持ちがでてくる。森田ではこれは自然現象であるという。確かに大酒飲みの夫に対して、奥さんが、二日酔いになるぐらい好きなだけ飲んでいいのよ。といわれると、いわれた本人はおいそれと飲むことはできなくなる。そういう反応が我々には備わっている。二つ目。自分が自ら課題、問題点、興味の対象を発見して、行動を起こそうとすることはとてもうれしい。だから積極的になれる。自ら発見した楽しみを味わうことができるからである。ところが自分の思いついたことを、他人も発見していて、他人からその行動を強制されることは苦痛以外の何物でもない。たとえば囲碁や将棋をしていて、他人の指図通りさして仮に強い相手に勝ったとしても少しも喜びは起きてこない。また迷路遊びしていても他人が教えてくれた道をたどって出口までたどり着いたとしても全く嬉しさは湧いてこない。自力の発揮がないからである。反対に余計なお世話をしてと反発心がわいてくる。お母さんが、子供が難しい問題にぶつかった時、子供に先駆けてその困難を取り除いてしまうことは、子供の自力の発揮、自ら問題を見つけて乗り越える楽しみを奪ってしまうことになる。心しないといけない。3つ目。これが一番大きな原因だと思う。相手が自然に動き出す前に安易に指示、命令、批判、説教、非難、叱責をするということは、相手を自分の家来のようにして扱っているということです。相手を自分の思うようにコントロールしようとしている。相手を信頼して任せることができない。相手が問題点を見つけて、乗り越えようとするのを待ってやることができない。つまり相手を見くびって、言って聞かせないとダメでのろまでどうしょうもない人間であると決めてかかっているのである。普通の人は、そんなふうに自分のことを否定されて黙ってはいられないはずだ。本来人間は自分のことを大事に扱ってほしい。味方になってほしい。認めてほしいという強い欲求を持っているのである。その欲求をはなから否定されては立つ瀬がないのである。非行に走る子は中流家庭の子が多いそうである。その子たちは親に自分のほしい物を買ってほしいとせがむ。親は愛情の証として子供のほしいものを買い与える。それでも万引きをする子供がいる。それは子供たちのほしいものは実は品物ではなく、親の子どもに対する心遣いなのである。親の愛情なのである。そのことを物と勘違いしているために、多くのすれ違いが起きているのである。
2013.03.14
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有名大学を目指して合格を果たした人が、何をやっていいのか分からない。「人生むなしい」と言っている人がいるようです。とくに入学直後に現われます。彼らの思考方法は自分の力の範囲で、少しでもランクの上の有名大学、学部を選択するということだそうです。自分の将来やりたいことから発想しているのではないということです。京都にある堀川高校では、部活、実験、野外活動、社会活動などに勉強と同じぐらい力を入れて、その中から将来自分の取り組んでみたい分野を考えてもらおうとしたそうです。また授業内容にしても、探求基礎や総合基礎なとという教科がある。とてもユニークな教科で、自分で疑問に思っていることに自らが積極的に取り組んでゆくという。たとえばバングラディシュでは土壌にヒ素が溶け出して地下水が飲めないという。ある生徒がそれを知って、「赤土を用いたヒ素の除去」の研究を始めた。その生徒は2年生の夏休みにそれに没頭しました。そしてついに赤土を300度で2時間焼くと、ヒ素を赤土が吸着して、しかも水を透しやすいことを発見したそうです。そうした勉強を続けていると、生徒たちには将来何をやりたいかが見えてくるという。ただ単に合格すればよいというのではなく、その大学に行けば、自分のやりたい勉強ができる。そうゆう分野を見つけ出せれば、自然に受験に取り組む意欲はとても積極的になるということでした。可能性の分野を豊富に用意して、生徒の意欲、積極性、自主性、自立性を引き出すのが教育の大きな役割だと思います。それは森田理論学習で以前いわれていた、「理想は高く、実践目標はこきざみに、努力を積み重ねる」と重なります。「生の欲望」をこのように積極的にとらえることは、大変意味があることだと思います。
2013.03.14
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私たち日本人はグラッサーのいう生存や安全の欲求は完全といわないまでもおおむね達成されていると思います。ところが次の社会的所属の欲求は達成されているとは思えません。社会的所属の欲求というのは、自分の属している集団から自分を受け入れてもらいたいという欲求です。集団から離れると生きていけなくなるので、集団から見放されて孤立したくないという欲求です。温かい、ぬくもりのある人間関係の中に常に身を置いておきたいという欲求です。自分の所属している集団のすべての人に、自分を守ってもらいたい、信頼してほしい、認めてもらいたい、重要視してもらいたい、かまってもらいたい、保護してもらいたい、味方になってもらいたい、失敗やミスをしても大目に見て許してもらいたいという欲求です。これは生存や安全の欲求と同じように、本能的欲求といわれています。この欲求が満たされないと、次の向上発展の欲求に進むことはできません。この欲求は子供のときの親の育て方、特に母親の育て方によって満たされた人と、満たされることなく大人になってしまった人がいるようです。満たされずにおとなになった人は、小さいころからほめられるという経験が少なく、いつも母親に「かくあるべし」を押し付けられて、叱咤激励を受け続けた人です。つまり自分の存在を受け入れてもらえなかった人です。そういう人が大人になると、人間関係ではいつも対人的な不安、恐怖、不快感、おびえが付きまとい、さらに予期不安で逃げてばかりの防戦一方になりやすいのです。つまり不安定な基盤をなんとか安定しないと、自分が所属集団からはじき出されて、一人孤立の道を歩み、野垂れ死にすることの恐怖を常に感じているのです。こういう人は今後どのように生きてゆけばよいのでしょうか。2つの道があります。一つは自分の存在をあるがままに受け入れてくれるような人間関係を探して築くことです。親、兄弟、祖父母、親戚、地域の人、学生時代の友達、趣味などの仲間、学校の友達、会社の同僚、上司、部下、先生、集談会の仲間などから自分を比較的受け入れてくれる人を見つけることです。それもべったりの人間関係ではなく、少しの心地よい人間関係をたくさん作っていくことです。一つがダメになっても別の人間関係で立ち直れるようにした方がよいと思います。次に、自分も「かくあるべし」で他人に接するのではなく、あるがままの他人をそのままに認めてあげることです。事実をそのままに認めてあげることです。これは森田理論学習でよく学習してほしいと思います。これは心がけ次第で出来ることです。そうなれば、自分の容姿、素質、性格、弱点、自分の引き起こしたミスや失敗の事実も受け入れることができるようになるのです。社会的所属の欲求が満たされるように努力をしないと、いつまでも苦しみ続けることになります。
2013.03.13
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元ヤクルトの古田捕手は、僕が「ストレートでいこう」とサインを出した時、ピッチャーが変化球を投げたいと思ったら首を振ればよい。しかし若い選手は首を振ると先輩に悪いと思うのか、首を全く振らない人がいます。選手が首を振っても、ここはストレートがよいと僕が判断すれば、またストレートのサインを出すだけです。つまり自己主張がないのが問題だというのです。自分の思いをきちんと伝えないと相手の考えていることが分からず、信頼関係は生まれないと言っています。森田先生も同じことをいっています。西郷隆盛などは自分の意見をしっかりと持っていた。でもそれを押し通すことはなかった。みんなの意見を聞いてそれが大勢を占めていれば、自分の意見と違っていてもそちらにしたがったといいます。また自分の意見がまったくないのは盲従であって、私のいう柔順ではないと言っています。納得ができないと思いながらも、森田先生のいうことであるから、しぶしぶでも手をつけてみる。これを柔順という。
2013.03.13
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赤ちゃんはおむつをしています。濡れると気持ちが悪いので泣いて知らせます。親がきておむつを取り換えてくれます。うまく赤ちゃんと親のコミュニケーションがとれるようになっているのです。ところが今のおむつは赤ちゃんが気持ち悪がらないように、吸収率抜群のおむつに変わっています。親もわずらわしさがなく、赤ちゃんも快適で何の問題もなさそうです。ところが一つには赤ちゃんの感覚が育たなくなってきているのです。また赤ちゃんと親の関係が希薄になってきているのです。3歳までの子どもと母親の関係はその後の人生にとって極めて大切だといわれますが、それが希薄になりつつあるのです。老人が寝たきりになるとベットに寝かせます。老人にとっても動きやすいし介護する人も楽です。ところが老人の筋肉は衰え機能の低下がものすごい勢いで進んでしまうというのです。いったんペットを使うと、すぐに畳に敷いていた布団から起き上がるということはできなくなります。老人の運動機能を奪ってしまい、植物人間へと変えてしまうのです。今の世の中一事が万事、便利で楽になり、人間の基本的な生活態度を、手を抜こうとすればできるようになりました。森田では煩わしい日常生活に真剣に取り込む中に生きる意味があるといいます。そういう意味からすると、生きがいが失われていきつつあると思います。
2013.03.13
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ある女子学生がいじめっ子にいじめられて自殺するという事件がありました。いじめっ子たちは大胆にも彼女の家にまで行き、お母さんの目の前でいじめたというのです。こんな時多くの評論家は、いじめた子供たちを責めあげます。そしてその中の中心人物をあぶり出します。しかしこの子のときは、お母さんがいじめっ子の前で、自分の子に向かってこう言ったそうです。「ウソをついたあなたが悪い。学校へ行って謝って許してもらいなさい。」この一言で彼女は自殺を決めたとしたらとてもかわいそうです。彼女は母親だけは味方だと思っていたことでしょう。ところが、そのお母さんが、いじめっ子たちに同調したのです。こうして彼女は最後の後ろ盾を失い、孤立無援になり、一人ぼっちで死んでいったのです。森田先生はこんな時人情から出発しなさいといわれています。どんなに家の子が悪くても子供をかばうのが親だというのです。もしお母さんがいじめっ子たちに、「うちの子をいじめたら私はあなたたちを決して許しませんよ」と言ったらどうだったでしょう。お母さんの言葉を頼りにして、どんなにいじめられても耐えることができたかもしれません。お母さんが子供に対していう魔法の言葉を紹介します。「お母さんは、あなたのことが大好きよ」「あなたは、お母さんの宝物よ」「どんなことあっても、お母さんはあなたの味方よ」
2013.03.12
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最近は学校で保健室登校児がものすごく増えているそうです。ある学校の養護教師が学校や家庭訪問をしながら、ある保健室登校児がどんな優れた特徴を持っているかを探していたら、小さい時からとにかく動物の飼育をする事が好きだということが分かったそうです。それで、その教師はちょうどクラスでミドリ亀を水槽の中で飼っていたので、その子どもに「君がそのミドリ亀の世話をする飼育係の班長だ」と役割を持たせました。そうするとその子どもは、「じゃあ、みどり亀の世話にいくか」と言って教室に行くようになったというんです。彼は、飼育に関してはものすごく有能で、他の子どもが太刀打ちできないぐらいの知識を持っているのです。すると、みどり亀を育てることによって、自分はクラスの誰よりもすごいところがあるということを、自分自身で気づいてきたのです。自信が生まれてきたのです。それからは、他の面でもどんどん能力を発揮し始めたということでした。素晴らしい教育の成果だと思います。その子供の特徴や能力をよく観察したということ。それを活かすような役割を設定してあげて、子供の意欲に火をつけてあげたということが素晴らしいと思います。このような教育は、子供の自立性、自主性を育て、本当の意味の教育だと思います。我々は自分の生の欲望の発揮ということばかりが前面に出てきますが、他の人の生の欲望の発揮の手助けという意味で大変参考になります。
2013.03.12
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今日は東日本大震災から2年目だ。福島原子力発電所の廃炉には今後40年かかるそうだ。汚染水の保管のため3mのタンクがたくさん作られていた。それでも3年で満杯になるという。2013年2月11日のNHKスペシャルで、原子力発電所の再処理核燃料問題が暗礁に乗り上げていると言っていた。それでもなお安全性が確認された原発から再稼働させるという。森田理論を学んだものとしてやりきれない気持ちになる。森田では人間にはコントロールできることと、コントロールできないことがあるといいます。コントロールできないものとは自然現象である湧き出た感情などです。コントロールできるものは、自分が手を出すことによって将来明るい展望が開けるもの、人のためになることです。これらは不安に学んで積極的に手を出さなければなりません。でもそれ以外のことは、自然に服従するということを学びました。原子力発電所を稼働させると、高濃度の放射能を発生させる廃棄物ができるという。これを青森県六ケ所村に運んで再処理して核廃棄物と再利用できる燃料に分離して処理するという。核廃棄物は永久に保管するようにするという。再利用できるものは、元の原発に戻して使う予定だったという。ところが六ケ所村でトラブルが相次ぎ稼働に至っていない。そのため各原発には再処理予定の核燃料棒が山積みになっているという。にもかかわらず政府は安全が確認された原発は再稼働させるという。再処理予定の核燃料棒の処理は棚上げにしたままである。こんなことが許されるのであろうか。我々の世代が電気の利用の恩恵を最大限享受するために、問題を先送りにしているのである。将来世代にとっては大変迷惑な問題を抱えることになる。世界各国は、人間がコントロールできない核燃料の利用に手を染めている。これは自然はすべて人間のコントロール下にあるという思想でないだろうか。人間のおごりがあるのではないだろうか。現代人は未来に生れてくるであろう子供たちに顔向けができるのであろうか。我々は感情を意のままにコントロールしようとして神経症になりましたが、その反省の上に立って、自然に服従することの意味を、少しは発信してもよいのではないでしょうか。
2013.03.11
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阪神時代の江夏豊の実績はすごい。1967から6年連続奪三振王、1968年25勝で最多勝、沢村賞、1971年オールスター9者連続三振。等々。そんな江夏が1976年阪神を追われるような形で南海に移籍した。その時50球以上投げると握力が子供なみになるという血行障害があったという。野村監督は江夏にクローザーを要請したそうだ。ところが江夏は頑なに拒んだそうです。プライドが高かったのである。江夏にとってピッチャーは先発完投するのが当たり前。リリーフなどはダメな二線級のピッチャーの仕事であると思っていた。リリーフは江夏にとっては恥でしかなかった。野村監督は、「アメリカでは先発、中継ぎ、押さえの分業制が確立している。日本もすぐにそうなる。お前が日本にその革命を起こしてみないか。」と言って説得したそうです。江夏はしぶしぶそれを受け入れた。つまり、今までのスタイルを捨てて、変化を受け入れたのです。その後、江夏は広島、日ハムの優勝に大きく貢献し、「優勝請負人」といわれるようになりました。もし南海に移籍したとき、ひねくれて変化を受け入れなかったとしたら、すぐに引退に追い込まれていただろうし、日本プロ野球の分業制はもっと遅れていたと思われる。変化を受け入れて、境遇に柔順になるということは改めて大切なことだと思います。
2013.03.11
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京大の霊長類研究の故伊谷純一郎先生の話。アフリカの原始狩猟民族の集落で経験された事です。その集落では狩りは、一族の男が総出で弓矢をもって出かけます。誰か一頭でも獲物を倒しますと、その日の狩りは終了となります。そしてとった獲物をみんなで分けるそうです。それを見た伊谷先生は、「もっと狩りを続けて、みんなふんだんに食べれるようにしたらどうですか」といったそうです。すると「それは村の掟でしてはいけないことになっている」といったそうです。これは、一族が欲望のおもむくままに獲物をとっていれば、やがて野生動物の減少を招き、いつかは自分たちの食糧難を招くということを、本能的に知っているということだと思います。つまりその時の欲望のおもむくままに身を任せることはしないで、あくなき欲望に自然にセーブがかかっているのである。ところが文明国といわれる国は、セーブが全くかからず欲望をどこまでも満たそうとする。今現在の自分たちの欲望の充足のみを考えているように思える。これは森田でいう不安の歯止めがかからず、欲望の暴走ではないだろうか。調和をとらないと将来必ず大きな問題を抱えるようになるだろう。
2013.03.10
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森田理論学習の進め方ですが、私は20年近くたってやっと森田の学習方法がおぼろげながらわかってきました。森田理論が分かるのに、こんなに時間がかかるのかなというのが正直な気持ちです。これから学習に取り組む方はそんなに時間をかけないでもう少し早く物にしていただきたいと思います。その方法はあると確信しています。初心者の人はまず森田理論を学習するにあたって基礎的学習をお勧めします。生活の発見会では「新版 森田理論学習の要点」を出しています。その中の、神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、欲望と不安、行動の原則は基礎的学習として次に進む前に十分に学習することが後々大変役立ちます。これを発見誌や単行本で深めて、自分の場合はどうなのか内省してみることが大切です。次の学習としては、森田理論の全体像を学習することをお勧めします。この学習方法は今までなかったことです。しかしこの学習ものすごく重要です。最重点に取り組むべき学習項目です。今までは、森田のキーワードである「事実唯真」「あるがまま」「自然に服従して境遇に柔順なれ」「純な心」「精神拮抗作用」「不即不離」「かくあるべしの打破」「思想の矛盾」「生の欲望の発揮」「なりきる」「努力即幸福」「唯我独尊」「精神交互作用」「調和」「流れに乗る」を個々に勉強して、知識を蓄積していく学習方法をとっていました。私もそうでした。でも森田理論学習で殻を打ち破れずに、混迷を深めていったのです。これらは単独で学習するよりも、森田理論の全体像の中で、互いにどう関連しあっているのかを学習していく必要があるのです。たとえば、「精神拮抗作用」という森田のキーワードがあります。これに関連するキーワードして、「不即不離」「調和」「両面観」「バランス」等があります。このキーワードは、「生の欲望の発揮」と「欲望の制御機能としての不安、恐怖、不快な感情」との関連性について学習をする中ででてくるキーワードです。森田のキーワードは、すべてこのように他のキーワードとの関連性を見てゆくことが大切です。このようにして学習に取り組めばもつれた糸が自然にほぐれてきて、すごく理解が進むのです。この全体像は、すでに簡単に投稿しています。今後もその概観については書き込みをしたいと思っています。そうすれば、森田の学習2年から3年で劇的な変化を起こすことが可能です。
2013.03.09
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今日は、1か所のストリートパフォーマンスと2か所の老人ホームの慰問に出かけます。昔懐かしいチンドン屋の余興です。4名の編成です。チンドン太鼓、サックス、アコーディオン、ゴロスです。曲は竹と雀、千鳥、美しき天然、オッぺケペ節、野崎小唄、北国の春、高校三年生、同期の桜、さんぽ、瀬戸の花嫁、さよなら港などです。そのほか私は「どじょうすくい」もやります。老人の方に喜んでもらうと同時に、私も精一杯楽しんできたいと思っています。
2013.03.09
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灘中、高校で国語の先生をされた橋本武さん。中学3年間は中勘助の小説「銀の匙」を題材にして授業を行った。どんどん横道にそれる授業だったという。単に作品を精読・熟読するだけでなく、作品中の出来事や主人公の心情の追体験にも重点を置き、毎回配布するガリ版刷りの手作りプリントには、頻繁に横道に逸れる仕掛けが施され、様々な方向への自発的な興味を促す工夫が凝らされていた。たとえば「銀の匙」に出てきた凧あげをしたり、百人一首でカルタ取りをしたりと型破りであった。この横道にそれて好奇心のおもむくままに、いろいろ手をだしていくのが人生の楽しみにつながるといわれる。橋本さんは現在100歳を超えておられますが、とても好奇心が旺盛です。カメラ、8ミリ、国内旅行、郷土玩具・カエルグッズの蒐集、おしゃれ、茶の湯、お能、短歌・俳句作り、謡曲、人形浄瑠璃などの鑑賞、社交ダンス、宝塚歌劇の観劇など。橋本さんは、「趣味は人生の幅を広げてくれます。そしてのめりこんだ趣味の数が多ければ多いほど、より人生が楽しくなります。私は実感をもってこう断言できます。」「人生の楽しさは趣味の数に比例する」いい言葉だと思います。現在養護老人ホームに入っている人は、何もすることがなく、暇を持て余している人が多いように思います。橋本さんのように、生涯活き活きと生きてゆきたいと思います。森田先生もたくさんの趣味を持っておられました。集談会で聞いた話ですが、定年を迎えて20ぐらいなすべきことがないと、退屈だと思うようになるということです。心して置きたい言葉です。
2013.03.09
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私は以前バイクに乗っていて、二段階右折を知らずにパトカーに捕まり違反切符を切られました。罰金は6000円でした。そこは二車線の国道でしたが、右折するところだけ3車線になっていました。腹が立つので警察に行って聞くと二車線の場合、二段階右折はしなくてもよいが、3車線は必ず二段階右折しなければいけないということでした。私はその時、そういう教育は受けたことがなく、知らなかったのだから、教育的指導にとどめておくべきではないのかと訴えました。知らないで検挙されることに対して腹立たしく思いました。警察はノルマがあるのか、それは法律で規定されているので知らない方が悪いといいました。仕方なく引きさがりました。後日その件を集談会で話しました。するとある方が今や二段階右折はバイクに乗る人の常識である。そうゆう人がバイクに乗る資格はない。といわれました。その時はそうですか。と思いましたが、あとからむかむかしてきました。でもこれは森田の勉強をするよい教材だったと思います。次の2つを参考にして、自分だったら相手に対してどう対応したらよいのか考えてみました。1、相手が話したことに対して、相手の気持ちを私はこう理解しましたよと相手に話してみる。「あなたは、二段階右折を知らなかったのに、いきなりパトカーに停止を命じられ、一方的に切符を切られたことに対して、とても腹が立ったのですね。」「はい。その通りです。」2、相手の行動に対して、私がどう感じたかを相手に話す。私メッセージのことです。「私もそうした教育を受けていないのに、いきなり切符を切られたのであなたがかわいそうだと思いました」「免許更新のときの講習やテレビで説明する機会を作ったらよいのにと思いました。」
2013.03.08
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人の思惑ばかり気にしている人は、人から非難されたり、無視されたりすることに異常に神経を張りつめています。そして心の奥底には不快感を忌避する気持ちがあります。不快感に出会うことを極力避けているのです。予期不安があるとそうした場には顔を出さなくなります。これは不安、恐怖、不快感などに向き合っていない。少しも味わおうとしていない。無視しようとしているのです。感情の事実を認めることができないのです。すると意識はそこにとどまって、いつまでもくよくよと悩み続けることになります。普通の人も人から非難されたり、無視されることはあります。それは自分がミスや失敗をした結果だから、そうゆう仕打ちを受けても仕方ない。甘んじて受けるしかないと思っているのです。不快だけれどもその事実を素直に受け入れているのです。素直に不快な感情を受け入れると、意識がずっとそこにとどまることはありません。次の刺激によって流れていくようになっているのです。不快感にとらわれる人は、いつも逃げ腰の生活態度になり、いつも困難を避けるという消極的な生き方が身についてきます。生の欲望が強い我々はとても我慢のならない生き方です。森田理論で事実を認める生き方を身につけていただきたいと思います。
2013.03.07
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筑波大学付属小学校の有田先生のお話です。クラスに意欲のない、無気力な子がいたそうです。有田先生はこの子が学校にいる間、他の子と違った特徴がないか、すぐれたものはないかずっと見続けていたそうです。ある時、この子が昼食の時間に食べる勢いがあるということが分かったのです。そこでその食べる勢いを活かせないかと考えたといいます。それを四六時中考え続けたそうです。ある日デパートの試食コーナーで、これを使えばあの子が動くのではないかと考えたそうです。翌日クラスで、「デパートの試食コーナーでどんな食品を試食させているか調べていらっしゃい」と言って、一週間後に持って来るように宿題を出しました。一週間後にクラスの中で、一番食品の名前をあげてきた子は、その動かない子だったそうです。しかもその子は、最後に「少し食べさせるところがミソである。」と書いていたそうです。ちょっと食べるとおいしい。お母さんに買ってもらって家で食べるとそんなにおいしくない。そんなことを何回か繰り返しているうちに、「少し食べさせるところがミソである。」に気がついたというのです。有田先生は、「○○君はクラスの中で一番たくさん調べてきて、そしてこんなことまで気がついて素晴らしい。」とほめたそうです。それから彼はものごとに自信を持って当たるようになり、どんどん変化していったそうです。これは教師が子供の特徴、優れたところを注意深く観察して、発見して、それを発揮させる場面を作ってやり、子供の意欲や成長に結びついた例と言えます。私たちも「かくあるべし」で相手の欠点を見つけ出すのではなく、相手のよいところを見つけて評価してあげるようにしたいものです。そういう習慣が身につけば自分自身に対しても、自分のよいところを活かすように考えるようになると思うのです。
2013.03.06
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「神経症の時代」の著者渡辺利夫氏によると流浪の俳人、種田山頭火は神経症であったという。山頭火は父の放蕩と蒸発、母の自殺、弟の自殺、兄弟姉妹の早死、家の破産、離婚など人生の艱難辛苦をなめた人であった。その苦しみを逃れようと、酒におぼれて忘れようとしたがかなわなかった。仕事も長続きしたものはなかった。幸い全国に句会仲間がおられたのでその人たちを頼りにして、法衣を着て全国を行乞しながら流浪するしかなかった。山頭火の代表的な句 「分け入っても 分け入っても 青い山」振りほどこうとあがけばあがくほど頑固にこびりついて離れない執着、それがこの山の緑だ。執着を振り払って少しでも安らかな心境を手にしようと必死に努めても、いや、努めようとすればするほど執着が強くなってゆく。一つの山を通り抜けても、また別のもっと深い山に分け入ってしまう。これは森田の精神交互作用のことですね。苦悩、煩悩、不快な感情をなんとか意のままに操ろうとしたが、なかなか思うようにならない。最後には森田理論で学習するようにあるがままに受け入れていくしかないという心境に達したと思われる。「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」
2013.03.05
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対人恐怖で苦しんでいる人は、周囲の人はみんな侵略者や敵に見えるのではなかろうか。周囲の人はみんな、自分の欠点や弱点、失敗やミスを大小漏らさず見つけ出して、常に口汚くののしり、陰で自分の悪口を言い、自分を傷つけ社会から葬り去ろうとしている。そうした被害者意識がある。それに対抗するため自分は頑丈な鎧を身にまとい、どんな手段をとってでも防御しないといけないと考えている。そのためには、実態がいかに悪くても、見栄えをよくしなければいけない。ミスや失敗は起こるのは仕方ないとしても、人に知られるようなことは絶対にあってはいけない。ボロを出さない、相手につけいる隙を見せない。こうした姿勢を常にとり続けてきた。しかし、防御一辺倒で頑張って自分を守っているが、気が休まるときがない。どんどん敵に攻め込まれて、後退につぐ後退を続けて後がないところまで追い込まれている。社会からいつ放り出されるかという不安が常に付きまとう。過度の緊張が続き、不眠、体調不良が続いている。だいぶ生きていくエネルギーがなくなってきた。これは実はかつての私の姿です。こんな状態でどうして今まで生き延びることができたのか自分でも不思議なのです。一つ言えることは、森田理論学習と学習仲間の励ましが役に立っています。学習の中で症状と闘っても勝ち目がないのは薄々気がついていました。そこで途中から白旗をあげて降伏したということでしょうか。しぶしぶ負けを認めたということです。すると、今まで必死になって守ろうとしていた要塞を死守する必要がなくなりました。守るものがないと自由に動き回れるようになったような気がします。次に高良先生の人間関係をよくしようと思ったら、1つの分野でエキスパートになれという言葉が役立ちました。10年も一つのことに打ち込めばその道の専門家になれる。そしたら人間関係はよくなります。このことに取り組んできたことかと思います。
2013.03.05
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森田でいう「唯我独尊」を後押ししてくれているような歌があります。「世界に一つだけの花」です。森田の応援歌といってもいいのではないでしょうか。「オンリーワン」「悩むあなたのままでよい」大変共感できます。花屋の店先に並んだいろんな花を見ていた人それぞれ 好みはあるけどどれもみんな きれいだねこの中で誰が一番だなんて争うこともしないでバケツの中 誇らしげにしゃんと胸を張っているそれなのに 僕ら人間はどうしてこうも比べたがる一人ひとり違うのに その中で一番になりたがるそうさ 僕らは 世界に一つだけの花一人一人違う種を持つその花を咲かせることだけに一生懸命になればいい
2013.03.04
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元ヤクルトの古田敦也さんは人生でスランプに陥った時は「人生のフォアボール」を狙えといわれます。古田さんは野球でスランプに陥った時は、ヒットを打つなどということは考えないようにしてバッターボックスに入るそうです。それは不調のときはボール球に手を出してしまう。また不思議なもので、調子の悪い時に限って打ちたくなるのです。だから「ボール球は絶対に振らない」「きわどい球は全部ファールでよい」「結果がでないときは打席に入ってもフォアボールしか狙いません」といいます。普通の野球選手は全打席ヒットを打ちたいのではないでしょうか。全打席そのように向かっていくのかと思っていました。そんな考え方もあるのかと大変驚きました。古田さんは不調のときの自分を、よく自覚しているのではないかと思います。自覚できれば自分の努力目標が決まります。それがフォアボールねらいだったのです。もし自覚できなかったら、自分を叱咤激励して、追い込んでいったのではないでしょうか。その結果ますますスランプに落ち込んでいくのではないでしょうか。自分を自覚すれば、その後の対応は外向きになってきます。我々もいつも完全を目指さないで、その時々の自分を自覚して、悪いなら悪いなりに、目標を下げて、今できる範囲のことを一生懸命にしていくしかないのではないでしょうか。
2013.03.04
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本来の欲望を達成するという目的が、その障害物となって現れた不安、恐怖などを取り去ることに目的が転化することはどうして起きるのだろう。いくつも原因が考えられる。1、欲望の達成は努力をともなう。場合によっては苦しい。安易に欲望を達成することなどできないのに、楽をして目的を達成しようと考える。不安を感じないで欲求を実現しようと考える。生き方が積極的ではなく、消極的なのである。2、不快感は感情の法則で学習したように、放置しておけば自然に消えてなくなるものである。消えてなくなるまで待つことができないのである。また感情は自然現象でありコントロールできないものであるのに、意志のままにコントロールできるという認識の誤りがある。できないのは自分の努力が足りないと考えるのである。3、人間には危険を察知したときにすぐに逃げるという逃避欲求がある。時には逃げることも必要だが、我慢するということが全くないのは、気分本位の生活態度である。4、根底には、自分が幸せになるには、不快感をなくする方向で努力している。たとえば欠点をなくしていけば人から好かれる。ミスや失敗をしないようにすれば人の評価がよくなる。と考える。人に好かれるために人の役に立つことをするとか、人が嫌がっている仕事を引き受けるとかは考えないのである。つまり幸せになるために自分から積極的に働きかけるということがないのである。受身の生活態度になっている。
2013.03.04
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中島みゆきの「時代」という歌は、森田理論の諸行無常、すべては変化流転しており、流れに身をゆだねていれば、どんな苦しいことも必ず次の展開が待っているという意味ではないでしょうか。神経症で苦しい時、この歌詞に癒された人もおられることと思います。私もそうでした。今はこんなに悲しくて 涙も涸れ果てて もう二度と笑顔にはなれそうもないけどそんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょうまわる まわるよ 時代はまわる 喜び悲しみ 繰り返し 今日は別れた恋人たちも 生まれ変わって巡り会うよ 旅を続ける人々は いつか故郷に出逢う日をたとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても めぐる めぐるよ 時代はめぐる 別れと出逢いを繰り返し今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ まわる まわるよ 時代はまわる 別れと出逢いを繰り返し 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ
2013.03.03
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森田先生の「生の欲望」は次のようなものです。1、病気になりたくない。死にたくない。長生きしたい。2、よりよく生きたい。ひとに軽蔑されたくない。人に認められたい。人に褒められたい。3、いろんな知識を広めたい。勉強したい。4、偉くなりたい。幸福になりたい。5、向上発展したい。グラッサーという人は次の5つに分類しています。森田先生の「生の欲望」と比較してみてください。重なるところもありますし、それ以外の事もあります。分かりやすいほうで理解してもらったらよいと思います。1、生存や安全の欲求 生命を維持したい、安全を確保したい。子孫を残したいという欲求です。生きるために必要な食欲、性欲、睡眠欲、排泄欲などはすべてこれに入ります。この欲求はいちばん基本的なもので、以下の4つの欲求は、これが満たされてはじめて生じてくるものです。2、社会的所属の欲求 温かい人間関係を築きたい欲求です。愛し、愛されたいという欲求です。家族の中にいたり、友人と話したりしていると気分がよいのは、この欲求が満たされているからです。3、向上発展の欲求 自分の能力を高めたいとか、人に認められたいといった欲求です。勉強をしたり、体を鍛えたり、地位の向上を望むのはこの欲求を満たすためです。4、楽しみたいという欲求 経済的に豊かになると娯楽や趣味、レジャー、旅行、スポーツなどを楽しみたいという欲求を追及するようになります。日本でも、大型の娯楽施設がたくさんできています。5、自由を求める欲求 自分の意志で行動したいという欲求です。人は束縛されることを嫌います。
2013.03.03
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土屋守医師は、「森田で治ったと称する人の中に、社会適応はしていても、独善的でさまざまな歪みを残した治癒像を見る。森田は神経質な傾向を長所として活かしきって、自己に対するマイナスイメージを一挙にプラスイメージに転化させるが、時として、プラスイメージが強化されすぎて独善性を身につける。とくに、自己の脆弱な事例に森田療法を行うと、容易に独善性を身につけ、歪みを残した治癒像になる。」といわれています。この点を補完するために、内観をおこなうと、我の部分が自分に災いしていることを、身にしみて感じさせられて、森田療法の治癒像の歪みを強制できるといわれています。私はこの点について次のように考えている。症状からの治癒でまず取り組むのは、行動や恐怖突入によって、精神交互作用の打破である。これがある程度軌道に乗ってくると、症状は楽になってくる。この段階で完治とみなすと、土屋先生のいわれるような独善的で、自信満々で、ずけずけと他人を非難するような人が出現してくると思う。「かくあるべし」で他人を遠慮なく価値評価する人である。思想の矛盾が自己を苦しめているのならまだいいのですが、他人を苦しめる方に向いているので始末が悪いのである。とばっちりを受ける人はいい迷惑である。したがって神経症の治癒というのは少なくとも下記1、2は達成される必要があると思う。1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。2、思想の矛盾の打破神経症に陥った人は、強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。こうした生活態度が身につくと、第二段階の治るということは達成されます。
2013.03.03
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先日「レ・ミゼラブル」という映画を見てきました。あらすじはジャヴェル刑事が、脱獄したジャン・ヴァルジャンを、法の守護者として執拗に追い詰めていくという物語です。ところが、ジャヴェル刑事は、自分の身の危険を顧みずにある青年を救おうとするジャン・ヴァルジャンの態度に心を打たれて、逮捕することができなくなる。ここに至って法の番人として今まで生きてきた自分の生き方がもろくも崩れてしまい、そんな自分を受け入れることができなくなり、自殺してしまいました。これは、神経症で悩んできたものからすると大変違和感がありました。ジャヴェル刑事は国家、社会、組織、正義など既存の制度、仕組み、既成概念等に忠誠を尽くすことに生きがいを感じている人間でした。我々神経症で悩んできたものは、自己中心的であり、会社や国のために自分を犠牲にするような生き方は理解できないのである。ここでいう自己中心は注意が常に自分自身に向いているということである。そういう意味では、アメリカの精神病分類の中に自己愛パーソナリティー障害というのがある。その中に過敏型というのがある。その考え方にぴったり当てはまるのが我々である。特徴としては1、人の反応に敏感、2、内気で自己抑制的、3、人のことを気にする。4、注目されることを避ける。5、傷つきやすい。などが挙げられている。つまり人の眼ばかり気にしているのが、この過敏型自己愛者である。この過敏型自己愛を昇華するのにアメリカと日本では違いがあるという。アメリカでは自己愛を満たすべく積極的に自己主張してゆく。日本では自己主張をできるだけ抑えて、相手がこちらの自己主張を満たしてくれるのをひたすら待つ。自己愛をみたすかどうかはすべて相手の出方次第という風潮がある。私はこの部分は、アメリカ的になっていくことが森田理論に近づく道であると思う。
2013.03.02
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先日ある女性の方がガソリンスタンドに行った。すると従業員がポケットに手を突っ込んでいた。すぐ飛んできて挨拶をしない。教育はどうなっているのかというのである。その人がスーパーに行った。レジの係の人の対応が無愛想でとても許せない。一言、「おたくはよくそれで仕事がつとまりますね」と皮肉を言ってやったというのです。よく聞いてみると、買い物に行っても、外食に行っても、旅行に行っても、係の人に横柄な態度をとっており、主人からさえもちょっとおとなしくしておれといわれることがあるという。この人を観察していると、住んでいるマンションの中で孤立していることが分かった。奥さん同士で話し相手が一人もいないのである。最近では被害妄想的なことを口走ったり、私はうつになりそうだなどと言う。私が感じるのは、その方はとても人からよく思われたいという気持ちが強い人だと思う。最初入居したときは出会う人と親しく世間話などをしていたのであるが、人から自分の言ったことを否定されたり、非難されたり、軽くあしらわれることが何回も続くうちに、自分は受け入れてもらえない、自分は孤立していることにとりつかれたのではないか。そうゆう不満をお金を払っているというお客という立場を利用して、ストレスを発散しているのではないか。そう理解すると、この人の取り組むことは、人からよく見てもらうように、できるところから少しずつ人の役に立つようなことをすることである。そうすれば将来少しはましになるはずである。人がわがままな自分を丸ごと受け入れてくれるべきだなどと「すねて」いるとますます孤立してくると思う。
2013.03.02
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土居健郎に「甘えの構造」という本がある。日本人の甘えの心理について的を得た説明である。ほめてもらいたいのにちょっとしたミスをして叱られた。こんなに頑張っているのに、評価してくれない。ねぎらいの言葉もかけてくれない。ミスや失敗をした時、慰めてくれない。説教され、挙句の果てには無能力者呼ばわりされた。自分の気持ちを察して、大目に見て甘えさせてほしいのだけれども、甘えさせてくれなかった。冷たく突き放された。被害者意識がある。ここには、自分自身や自分の引き起こしたミスや失敗を、ありのままに認めるという態度ではない。それらをなかったものとして受け入れてほしい。いや、受け入れてくれるべきだという気持ちが見て取れる。つまり虫のよい甘えである。さらにいえば、人から賞賛を浴びるために努力して成果を出す。何かを成し遂げるといった積極的な姿勢を見せることがない。ここに森田理論でいう「かくあるべし」と現実のギャップに悩む病理が発生するのである。最終的には、甘えたいのに甘えられないと、「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」という心理が生まれ、そこに被害者意識が生まれるという。土居氏によれば、素直に甘えさせてくれないから「すねる」ことになる。「ひがむ」のは、自分が不当な扱いを受けたと曲解するわけだが、それは自分の甘えのあてが外れたことに起因する。「ひねくれる」のは、甘えることをしないで相手に背を向けることだが、それは自分の甘えの期待にこたえてくれなかったと感じることによる。甘えが拒絶されたということで相手に敵意を向けるのが「うらむ」である。人に甘えて依存することから、「生の欲望」に目覚めて、その流れに乗っていく立場が森田理論のよって立つ土台である。
2013.03.02
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2000年に史上7人目の3割30本30盗塁を達成。タイガースでは打点王、MVPなど数々の記録を達成したアニキこと金本選手は故障とケガは違うという。ケガとは不可抗力の「アクシデント」のことをいう。たとえばデッドボールによる負傷がそうである。デッドボールにはどうしても避けられないケースがあり、これは自分の責任だとはいえない。けれどもねんざや肉離れは自己管理の甘さが引き起こすものだ。私の解釈ではそういうものを負傷というのである。自分の油断や甘えなどのせいで避けられなかった結果おったのはケガではなく故障だと考えるのである。フライを追って選手同士がぶつかり合うのはアクシデントだが、野手が目測を誤ってフェンスに激突するのは、自分の責任なのだ。私は年に一、二度は風邪をひくことがある。これも故障の一つかもしれない。金本選手はケガはそれに備えて準備はできないが、故障はそうならないためにできる準備があるというのである。そういう不安に対しては積極的に普段から準備をして手を打たなければならないといっているのです。森田理論学習では、コントロールしてはいけないことと、不安に学んでコントロールしなければいけないことがあるといいます。コントロールしてはいけないことは、不安、恐怖など自然現象を取り除こうとやりくりすることです。コントロールしなければいけないことは、行動したらよいと気がついているのに手をつけないで、将来さらに大きな問題を発生させることです。そんなときはできるだけ早く積極的に行動しなければなりません。この区別をして対応することが大切です。
2013.03.02
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大原健士郎先生の話である。神経症の人はよくしゃべる。1時間でも2時間でもしゃべる。しかしうつ病の人は青白い顔し、質問に対してもボソボソと答える。頭はさも重そうにうなだれ、診察室の机にもたれかかるように座っている。神経症は、エネルギーはたっぷりあるが、うつ病の人はエネルギーを消耗し尽くしたような感じである。神経質の人は元気がよいので、浜松にある私の病院にも、北海道や四国などの遠方からもやってくる。うつ病は消耗しきっているので静岡あたりから来るのが限度である。うつ病の人は食欲が著しく減退して、それとともに体重が10キロも20キロも減少することがよくある。神経症の人は体重の減少はあまりない。食欲がないといって間食をしていることが多い。うつ病の人は、いろんな妄想(実際にありもしないことをあると確信し、訂正不能である)が起きてくる。神経症では妄想を示すことはない。うつ病の人は悪くなると、思考も行動もテンポがのろくなり、ちょっと見ると痴呆のような状態になる。神経症はこのような状態になることはない。神経質な人は概して自己中心的で、自分本位である。したがって周囲の人からは、「あの人はなんでもよくできるが、ちょっと人柄がなあ」といった批評を受けることが多い。それに比べるとうつ病は、概して自分を犠牲にしても他人に尽くすといった、他人本位の性格が目立つ。そのため周囲の人から敬愛されている。
2013.03.02
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よく神経質な人を見て、「あなたはプライドが高い人だ。」「彼はプライドが高いから、話をする時うかつなことをいうと、あとが恐ろしい。」とかいうことがある。本来プライドという言葉は、「誇り、自尊心が高い」という良い意味もある。しかし反面、「うぬぼれが高い、思い上がりが強い、傲慢で自己中心的である」という悪い意味もある。今日ではこの言葉は後者の意味合いが非常に強い。そこで「プライド」を仮に「自己中心性が強い」に置き換えても意味が通じる。「あなたは自己中心性が強い人だ。」「彼は自己中心性が強いから、話をする時うかつなことをいうと、あとが恐ろしい。」元来プライドが高い人は、負けず嫌いである。また常に人と比較して少しでも上になりたい、優越感を味わいたい人である。ところが普段の生活の中では、いつも勝ち続けることはない。また人間長所があれば、必ず短所も持ち合わせており、優越感も劣等感も感じるようになっている。プライドが高い人はいつも人からよく思われたい、一目おかれたい気持ちが強いのである。ところが現実は自尊心を高く持ちたいと思いながらも、確固たる自信がなく、ちょっとしたことで自尊心がグラグラと崩れやすいのである。その崩れやすいプライドを必死になってなんとか崩れないようにといろいろやりくりをしているのである。苦しんでいるのである。そこでこの危ういプライドが、他人によって脅威にさらされると途端に過剰反応を示す。他人から批判、否定、無視、バカにされる、からかわれる、悪口をいわれるようなことがあった時、強い怒り、敵意が丸出しになって実力行使に及ぶことがある。周りでみていると一理あるように思える見解でも、反論のためのむきになっている感情が半分ぐらい見え隠れしているのである。本物のプライドを持っている人は、自分にある種の自信を持っている人ある。そうゆう人は人から批判、否定、無視、バカにされる、からかわれる、悪口をいわれる事があっても、自分を守ろうということがない。苦笑はしても腹を立てることはない。また自分の欠点や弱みをネタにして笑い話にしてしまうように心のゆとりが見られる。
2013.03.01
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