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マルハニチロの冷凍食品から、基準の150万倍の残留農薬が見つかった。外国からの輸入食品は極力食べないようにしていたが、日本の食品の安全性にも疑問符が付く。しかしこれは、農業の仕組みを観察すればすぐわかることである。農業の現状を書いてみたい。農作物には連作障害がある。人間の浅はかな考えによってトマトを作ればもうかるからと、同じ土地でトマトを作りつづれると病気にかかりやすくなったり、収穫量が落ちてくるのである。ナスでも大根でも白菜でもなんでもそうである。だから同じ土地に同じ野菜は作らないほうがよい。同じ野菜もそうだが、同じ科の作物を作ることさえ好ましくない。たとえばトマトはナス科に属する。ナス、ピーマン、ジャガイモなども同じ科である。アブラナ科に白菜、キャベツ、ブロッコリー、小松菜、大根などがある。これらも同じ科であるから、今年収穫が多かったからと言って、基本的には同じ場所で作ってはいけない。無理して作れば病気が発生する。収穫量が落ちてくる。キャベツには根こぶ病という病気がある。いつもは休眠しているが、キャベツを作ると活性化してキャベツの根の周りに集まり病気を作る。これに対して人間は、問題を観察して根本から見直すことをしない。力でコントロールしようと考えたのである。それを作り続けると病気が大発生してくるので、農薬で処理をしているのである。今の農業は単一作物の産地化を進めている。安定供給と規格化のためであるが、輪作を無視した農業は農薬漬けのもうけのための農業となっているのである。自然の摂理を無視して、人間のエゴ丸出しだから悪循環に陥っているのである。これを改めて、キャベツの後にイネ科のトウモロコシなどを作ると根こぶ病菌は死滅してしまうそうです。また作物同士の相性もあります。トマトとアスパラガスは、相互に成長を助長します。キュウリと豆類。スイートコーンにエンドウなどは相性が良いのです。相性の良いものを組み合わせてやればやるほど病気は発生せずに収穫量は多くなるのです。これはボーリングでスペアやストライクを連発すればするほど、点数が加算されるのと似ています。自然の摂理に従うと、問題は起きないようになっているのです。ところが人間が自然に反して、自然を思うがままにコントロールしようとするから問題を引き起こしているのです。さらにその問題を対症療法で解決しようとするから、さらに大きな問題へと発展するのです。自然の仕組みや動きをよく観察して、自然の営みに沿って人間がその手助けをしていくという謙虚な姿勢になればなるほど、将来に明るい展望が開けてくるようになっているのです。お気づきだと思いますが、神経症も原理は全く同じです。コントロールできない不安、恐怖、違和感を、無理やりコントロールして、スッキリとした気持ちにしようという驕りが葛藤と苦しみを招いているのです。農業に詳しい人は、自然の摂理に逆らおうとはしません。自然との共存を図っています。自然との共存共栄を目指す人は、神経症とは無縁です。そういう人が、「森田の達人」という人生を歩んでゆくことができるのです。
2013.12.31
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オリオン座のベテルギウスが、近々超新星爆発をするのでないかといわれている。私は宇宙の営みで面白いと思うのは、星々の死によって、新たな元素が作られるということだ。超新星爆発は温度が50億度に達し、核融合反応によって元素周期表の鉄までは一挙に作られる。さらに銀河同士が衝突するときは、1兆度にも達してそれ以上の元素が一挙に生成される。今地球上で確認されている元素は118余りだが、その元素は星々の死によって作られた。その元素が宇宙空間を漂い、また集まって新しい星を作る。46億年前に太陽系ができたそうですが、地球にある元素からしてみると、そうした星々の死の結果、その残骸から生まれてきたことは間違いないようです。人間の体を構成しているのもそうした元素の集まりです。宇宙というのは死があって、新たな生が生まれる。生と死は裏腹な関係にあります。死は恐ろしいのですが、死はそれで完結しているものではないのです。死は新たな生の始まりなのです。つまり生と死は宇宙の営みを見る限り、永遠に繰り返しているのです。しかも新たな元素を付け加えて成長して、新たな生が生まれているのです。森田理論では不安と欲望はコインの裏と表の関係にあるといわれます。一心同体なのです。そう考えると、人間の死は、新たなる生の発生が予定されているという風に考えるのが自然だと思います。そのように自然の営みをとらえると生き方が変わってくると思っているのですが、皆さんはどう思われますか。
2013.12.30
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集談会で介護の話がよく出ます。年老いた親の介護をどうするかということです。毎日付き切りで、食事、洗濯、入浴、排せつの世話をするのは大変です。ましてや認知症などを抱えているとさらに苦労します。さらに仕事を抱えていたりすると困難です。森田先生はそんな時は、嫌だなあと思いながら、仕方がないと思いながら手を付けてゆけばよいといわれています。行動することによって、不快な感情が流れていくといわれています。私たちは普通、自分の親の介護は何が何でも自分でしなければいけないと考えます。思考が優先して「かくあるべし」で自分を追い込んでゆきます。そうなるととてもしんどい。自分もしんどいし、介護されるほうも親身に面倒を見てくれないとストレスがたまります。ある時、介護は嫌だという自分の気持ちを否定してはいけないのではないですか。という方がおられました。その方が言われるには、自分の気持ちを最優先して、そこから考えてみるほうがよい。いやいや介護に取り組むのは親に対して失礼だから、そんな考えを持ってはいけないと考えるほうがおかしい。その結果として、森田先生のようにいやいや行動してもよい。または介護施設に預けてもよい。ヘルパーさんに頼む。兄弟姉妹に協力を要請してみる。いくらでも対応方法が考えられます。でも自分が選んで方法については、責任を取らないといけません。たとえば介護施設に預けて、兄弟姉妹や親せきから「ろくでなし」と責められたら、その責任は自分で取らないといけない。これは自分の気持ちや意志を尊重することは自由にしてもよいが、その結果は自分で背負っていくということです。これがまさに森田理論的な対応だと思いました。
2013.12.30
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「宇宙への挑戦」という番組を見た。その中でロシアのワレリー・ポリャコフの言葉が印象に残った。この方は438日宇宙滞在記録を持っている。長く無重力の宇宙ステーションで暮らすと2つの問題が出てくるそうだ。一つは骨密度の低下、筋肉の量の減少だ。廃用性萎縮が起きてくるということです。もう一つは心の問題だ。他の宇宙飛行士が近くにいるにも関わらず、孤独感にさいなまれるそうだ。また感受性が鈍化してくるという。感情が湧いてこなくなるというのだ。限られた仲間、限られた空間、単調な生活はストレスになるばかりか、心の病につながるそうだ。自由な行動、外に向かっての動きが制限されると、まず精神が不安定になる。ましてや神経質性格で、内へ内へと考え込む性格の人はたまらないだろう。ワレリー・ポリャコフの心の危機を救ってくれたのは宇宙船の窓であったという。窓から故郷の地球を見る。そしてあそこには何があるのだろう。どんな人がどんな生活をしているのだろうと想像した。そういう知識欲、好奇心が生まれて来たそうだ。この話から学ぶことは、人間は目の前のことをよく見つめてみる。観察して何らかの感情が発生する。それをもとにして意欲や欲望が出てくる。そして行動してみる。問題が発生する。問題を解決するためによく考えてみる。そしてまたチャレンジする。その繰り返しのパターンを大事にする。心の病に陥らないために、心掛けないといけない重要な点を指摘している。
2013.12.29
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この呪縛から逃れるためには、親の話を聞くということと、親の言いなりになるということを別々に考えることだ。自分の感情、気持ち、意志、欲望を最優先している人は、親の意見はただ一つの意見として聞くことができる。その意見を参考にして行動するかどうかは、また別の問題であるというふうに考えることができる。どう行動するかは、あくまでも自分に決定権があると考える。単に人生経験の豊富な人の、参考意見として取り扱うのである。なるほど自分は気が付いてなかったけれども、そうゆう考え方もあるのか。そのスタンスでよい。自分はこうしたい、このように考えるというように主体性が育ってくると、親と意見が衝突すれば、親の話を聞いてどう折り合いをつけていこうかという方向に進む。一方的に自分の意見を押しとおすこともしない。反対に親の言いなりにもならない。双方が納得する妥協点を見つけていくようになる。その過程でけんかになることはあっても、しこりにはならない。これはWIN,WINの法則である。その土俵に持ち込むには、自分の感じ、自分の気持ち、自分の意志、自分の欲望を育てていかなければならない。この点、森田理論学習では、「生の欲望」の発揮で詳しく説明している通りである。
2013.12.29
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対人関係で悩んでいる人は、家庭でも親子の関係がぎくしゃくしていることが多い。それは小さいころから「かくあるべし」を押し付けられ、指示、叱責、強制、強迫で育てられたからである。すると自分の気持ちは抑圧するようになる。親に逆らってはいけない。親と対立するときはいつも戦闘態勢に入る。話す前から敵意丸出しの気持ちだから、親の話を聞こうという気持ちはない。どう否定しようか。どう抵抗したら相手に勝てるかという意識になる。本人にはその気持ちがなくても、顔は横を向き、怒っているような態度ですぐに親に分かってしまう。親はそんな態度を見て、ますますエスカレートしてくる。どうして今まで面倒を見てきたし、今もいろいろ面倒を見てきている。子供ほどかわいいものはないのに、どうして反抗的な態度をとり続けるのか。全く理解できない。この時子供は、親の言いなりにはならないぞという強い気持ちがある。親の言うことを聞くということは、子供時代と同じように親に支配されてしまうという気持ちになる。親の話に真剣に耳を傾けるということは、親に服従してしまうというふうにとらえているのだ。これは会社や学校での人間関係でも同じです。神経質者は負けず嫌いで、服従して支配されるということを極端に嫌う。
2013.12.29
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私は人と仲が悪くて人間関係が悪化してもよい。ただ家族のために餌をとってきて、なんとか暮らしていけばよいのだと気持ちを入れ替えることができました。すると気持ちにゆとりが出てきたのです。ハンドルでも「あそび」があります。「あそび」がないとちょっとしたトラブルが、自分の一生を左右するような大きなトラブルに発展することがあります。いっぱい、いっぱいのところで頑張るというのは、それはそれで尊いことだと思います。私はその道は遠慮したということです。その方向で特化して仕事に取り組むようにしたのです。当然熱意といったものはありません。みんなの足を極端に引っ張ると辞めさせられることがありますので、そこそこの仕事はします。でもやりすぎはいつも抑えるようにしていました。とにかく餌をとるのが目的ですから、気持ちとしてはのんべんだらりとその日一日を過ごすことに注力しました。上司からしてみると、なんとかならないのかと苦々しく思われていたかもしれません。でも普通の会社では、そんな理由で解雇することはできないのです。また神経質者は完全欲が強すぎますから、それぐらいの気持ちでちょうど普通の人と同じぐらいの仕事をこなしているのだと思っていました。転職をしたいと今すごく悩んでおられる方がおられると思います。森田理論を応用してこのような考え方もあるのだというところを学んでほしいと思います。
2013.12.28
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「かくあるべし」で、「嫌なことがあっても、我慢して仕事を続けなければいけない」「家族を路頭に迷わしてはいけない」「そんなことに耐えなれない自分はだめな人間だ」「次の仕事が簡単にあると思っているのか。あっても給料は下がってしまう」「現実の苦しみから逃げてはいけない」などと自分を責めないでほしいのです。自分はやめたいのだというその気持ちだけは否定しないで、きちんと向き合って、しっかりと受け止めて自分をいたわってやってほしいのです。仕事を続けるか辞めるか決定権を持っているのは自分です。そういう自由を与えられているという点はしっかり認識したほうがよいのです。その認識を持てるかどうかがとても重要なことです。もしそこを土台にして仕事にあたると、取り組みが変わってきます。仮に経済的な理由で辞めることはできないと判断したとします。森田の精神拮抗作用で考えると、どうしてもその方向で着地することが多いでしょう。するとだめなのかというと決してそうではありません。仕事に対する目的、会社での人間関係はいい意味で明確になります。これが重要なのです。私は集談会で、会社で仕事をするのは、人間関係を改善しないと仕事に集中できないと愚痴をこぼしていました。ある方が、「仕事というのは第一に、自分の食い扶持を得てくることが目的だ。あなたは月給鳥という鳥になって餌をせっせととってきなさい」といわれました。私はこの言葉で「ガアーン」と頭を殴られたような衝撃を受けたことがありました。そうか、出世しなくてもよい。管理職にならなくてもよい。実際には管理職になりましたが、大きな成果を上げるということははなからあきらめて、早く閑職に変えてもらうように祈っておりました。実際に出世街道を駆け上った人もいましたが、途中で成果を上げられずに、結局辞めざるを得ない状況に追い込まれた人を数多く見てきました。
2013.12.28
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仕事についている人は、一度は仕事を辞めたいと思われたことがあるのではないでしょうか。人間関係がうまくいかない。上司と折り合いが悪い。仕事がきつい。残業が多すぎる。仕事が難しすぎる。仕事が単調すぎる。出張が多すぎる。ノルマがきつい。通勤時間がかかる。給料が安すぎる。ボーナスが少ない。休暇が取れない。得意先との接待で疲れる。得意先やエンドユーザーとのトラブルに巻き込まれた。などいろんな理由があるでしょう。私は人の思惑ばかり気にしていました。仕事上の人間関係、特に上司との関係で悩み辞めたい気持ちでいっぱいでした。58歳の時に早期退職優遇制度が実施された時、すぐに手を挙げて辞めました。それまでは、辞めたいと思いながらもその思いは果たすことはできませんでした。家のローン、子供の教育費、生活費を稼がなくては生活できなかったからです。転職ということを森田理論ではどうとらえたらよいのでしょうか。私は転職したいという気持ちは最大限認めてやるべきだと思います。そういう気持ちがあるということは抑える必要はありません。逆に抑圧したり、無視したり、否定することからますます仕事に身が入らなくなるのだと思います。その気持ちはもっともな気持ちだと思います。大体人間の行動というものは、森田理論でいっているように、見つめる、感情が発生する。こうしたい、こうしたくないという感情の高まりが起きる。その過程を踏むことによって、自由で積極的、建設的、創造的行動につながるようになっています。ところがほとんどの仕事は、生活費を稼ぐためにいやいや仕方なくしているというのが現状だろうと思います。つまり感情の高まりがない中で、いきなり仕事を押し付けられているようなものです。いやいや取り組んでも、そのうち興味がわき、積極的に仕事にかかわれるようになればいいのですが、ほとんどの人はそうはなっていないと思うのです。それはあなたの取り組み方の問題ではなく、仕事の成り立ち、仕組みそのものの抱えている問題であると思っています。
2013.12.28
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安倍総理大臣の靖国神社参拝が国内外で問題になっている。これは森田理論で考えるとすぐに答えは分かることだと思う。安倍総理が自分の意志で、戦争で亡くなられた人の御霊に手を合わせて、二度と日本を戦争の惨禍に巻き込まないようにしようというのはリーダーとして至極当然の思いである。これに異論のある人はいないのではないだろうか。自分の意志を第一に優先する。これは森田理論の要である。自分の感じを横に置いて、相手の顔色ばかりを窺うことをするから、神経症を引き起こしたともいえる。ところが森田理論では、自分の意志を大事にするのは正しいが、行動するにあたってはその時の状況、場面をよく観察しなければならない。靖国神社には、戦争を主導した人たちも合祀されており、戦争で多大な犠牲を受けた中国、韓国、東南アジアの人たちにとってはとても耐えがたい屈辱であるということも考慮しないといけない。この2つの相反する思考が渦巻いているのである。それを無視して、自分勝手な行動をすると、相手の反発は必至である。どうバランスをとっていくのか、ここが考えどころである。安倍総理は今回の私の行為で、話し合いのきっかけづくりをしたかのように説明されていた。それも一つの方法かもしれない。それ以外にも、靖国神社のあり方や、中国や韓国との対話を優先する道もある。いずれにしてもここは熟慮を重ねるところではある。すぐに結論はでないと思う。森田ではそういう時は、その気持ちを保留したまま「なすべき」をなしていくという姿勢だと思う。安倍総理は、歴代の総理も参拝のたびに衝突を繰り返してきたということをどう受け止めておられるのだろうか。森田理論学習の自分の感じから出発する。次に理知で調整していく。そして妥協点を探っていく。これを応用していくのが基本であると思う。
2013.12.28
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私は、他人が何かにつけて自分を無視している、自分のことを馬鹿にしていると先入観を持ちながら生活していました。それを自分一人で抱えて苦しんでいました。決して自分の思いを言葉に出すことはしませんでした。いつも我慢していたのです。我慢しないで、その気持ちを正直に出すことは人間関係を決定的に壊してしまうと思っていました。しかし、心の中では他人のことを憎んでいました。恨んでいました。そして、心の中でこう呟いていました。「あの人さえいなければ自分の人生はバラ色になるのに」「どうしてあの人は自分を傷つけることばかり言うのだろう」「どうしてあの人は無神経なのだろう」「よくあんな態度で生きていけるものだ。」「いつか罰が当たるに違いない。罰が当たればいいのに」「自分も相手を無視してやろう」「相手にかかわらないようにしよう」自分のことは棚に上げて、相手のことを非難ばかりしていたのです。非は自分ではなく、すべて相手のほうにあると思っていました。自分の心の中で思っていることは、態度で相手に伝わっていたと思います。相手は相手で、あいつは、常に警戒していないと、いつ喧嘩を吹っかけてくるかわからない。冷たく突き放してやろうという気持ちだったのでしょう。潤滑油のない歯車が回っているようなものです。その態度がますます私の気分を刺激して、人間関係が悪化してしまったのです。最終的には、あるちょっとした事件をきっかけにして、感情を爆発して、すぐに修復不可能な状態に陥ることになりました。いつもこのパターンにはまっていると、もう人と付き合うということを避けるようになりました。嫌な思いは二度としたくないという気持ちが強くなってきました。付き合いをあきらめて、一人で過ごすことがまだましなのです。精神的に楽なのです。これは結果的に、人間関係から遠ざかり、自分の活動を狭めて、孤立していく道だったのです。一人寂しく生きていく道につながってゆきました。自分を守ることができない自分に対して、言いようのない絶望感を感じていたのです。天気でいえばどんよりと黒い雲が空を蔽い、今にも大雨が降ってくるような感じです。どこで歯車がくるってしまったのでしょうか。今考えると、我慢する、耐えて、自分の感情や気持ちを抑圧してきたことに原因があったと思います。自分の感情、気持ち、意志をしっかりと持ってそれを打ち出していくほうが、ストレスをためることがないので、人の輪の中に入っていくことができたのではないかと思うのです。森田理論の言う通りのことを実践すればよかったのです。難しく考えないで、自分本位にシンプルに生きてゆけばよかっただけのことです。
2013.12.28
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私メッセージで対応すると、その後上司との人間関係がめちゃくちゃになるかもしれません。でも、我慢して耐えるほうが、自分に与える影響は計り知れないものがあると思います。この上司はワンマンで自己中心で織田信長のような上司です。こういった上司に対して、自分の感情を素直に表現するとこうなるでしょう。間違ってもミスの言い訳をしたり、かっとなって殴りかかってはいけません。火に油を注いで、下手をすると解雇されてしまいます。そうかといって、我慢すれば上司は図に乗って同じようなことを繰り返すでしょう。しまいには家来のように扱われます。我慢したり耐えたりしていると、それがたまり大変なストレスとなります。そして、ある日突然、火山の大爆発のようなことが起きるのです。私も何度か見てきました。即刻解雇になります。ところで「あなたには失望した」と部下に言われると、上司にはとてもこたえると思います。主語を「私」にして、私に沸き起こった感情、気持ちを少しでも伝えることができればよいと思います。それが感情を拒否したり、無視したり、抑圧したり、否定しないということなのです。不快な感情に正面から向き合い、きちんと受け止め、感情を味わうことだと思います。口頭でどうしても言えない場合は、「トイレに行ってきます。顔を洗って出直します」と言って、人のいないところで、独り言で言葉に出して表現してみることです。あるいは、感じたままを文章にしてみるのです。相手を非難するのではなく、最愛の自分を守ってやるために全力を尽くすということです。これで不快な感情をため込まないことになるのです。感情は小さいうちにうまく処理してしまうことが大切だと思います。ただ耐えるだけ、我慢していれば流れるというようなものではありません。そして行動すれば感情は流れるというのは、体験してみると分かりますが、心の中で長らくとどまり葛藤を起こすことになります。
2013.12.27
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会社で自分のミスで会社に粗利で100万円の損失を出したとします。意地の悪い上司はみんなの前で、「このどあほうが。これだけの粗利をあげようと思うと1000万の売り上げを作らないと元はとれなんだぞ。どうしてくれるんだ。仕事ができないんだったら辞めてくれてもいいんだ。代わりはいくらでもいるんだ。」と言って叱り飛ばします。私の勤めていた会社でもこれに近い上司がいました。こんなときどう返答しますか。押し黙ったまま我慢しますか。我慢は最悪の対応ですね。後々まで尾を引きます。我慢していても態度を見れば、怒っている、震えているのはすぐわかります。それを見て上司はますます追い打ちをかけます。森田では不愉快な感情はそのまま受け入れます。そしてその不愉快な気持ちを私メッセージとして表現できれば最高だと思います。こんな流れになると思われます。「そんなふうに無能力者扱いされると、私はとても傷つきます。」「なんだと。上司に向かってたてつくのか。間違えたのはお前じゃないか。反省して謝らないのか。このくそバカが。」「会社に迷惑をおかけしたのは謝ります。でもそんなふうに自分のことを否定されると、私は恐ろしくて仕方ないんです」「なにを寝ぼけたことを言っているんだ。損失の穴埋めはどうするんだ。お前にはできないだろう。だからバカ者だといってるんだ」「そんなにバカ、バカと言われると、私には返す言葉がありません」「反省もしないでよくもそんなことが言えるもんだ。顔を洗って出直して来い。」「ああ、もうたまりません。私は少し中座して休ませてもらいます。私はあなたには失望しました。私はとても残念です。」
2013.12.27
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私は森田理論学習で3つの大切なことがあると思っています。まず、森田理論学習では「境遇に従順になれ」といいます。人間が生きている間には、理不尽とも思えるような自然災害でいつ命を落とすかわかりません。また自分はルールを守っていても、いつ交通事故に巻き込まれるかわからない。戦争や暴動に巻き込まれること。航空機の事故。株などの暴落。経済の変動。あるいは刑事事件の被害者。避けることのできない事件が、絶えず待ち構えています。ある程度は予防しなければなりませんが、それも限度があります。森田理論学習では、自分の力の及ばないことは基本的に受け入れていきましょうという考えです。自然に服従です。そして次に人生には波があるということです。順風満帆で何をやってもうまくいくときと、やることなすことが裏目に出るときがあるのです。地震でも何年か周期で、再び大地震が起こるとされています。その波に乗っていくことが大切です。そして、いい時はやりすぎない。悪いときはあまり動きまわらない。森田先生は後年、ダンスなどをしてリズムを研究されていました。このことに目をつけておられたのだと思います。2番目に大切なことは、自分本位な生き方を確立していくということです。自分のやりたいこと、自分の気持ち、欲望に沿って自分を前面に押し出して生きていくということです。他人の思惑を第一に考えるのではなく、自分の気持ちに素直になって行動していくということです。森田理論学習では生の欲望の発揮といいます。感情については、どんな感情も無視したり、否定したり、拒否したりしないこと。不安、恐怖、不快感は生の欲望があるからこそ生まれるものです。不安がない人は生の欲望が少ないので、無味乾燥な人生しか待っていません。不安は人間にとってなくてはならない大切なものです。不安に学び、不安を活用できる人間になりたいものです。3番目は、宇宙の営みを見てもすべて調和、バランスのもとに成り立っています。生の欲望も、それだけが突っ走るとすぐにバランスを崩します。不安などは、生の欲望が暴走しないようにブレーキの役割を果たしています。アクセルをふかしながら、時にはブレーキをかけてスピードを制御していくことが大切です。生の欲望は不安を活用して調和を維持していく必要があります。調和を無視することは、自分の存在を危うくするということです。「やじろべい」のように常にバランスを意識して生きていくことです。この3つを生活信条として生きていくこと。これが、森田理論学習が要求している究極の考え方だろうと私は思います。
2013.12.26
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徳川家康は36歳の時、織田信長に命じられて、長男信康と妻築山殿を処刑している。正室と子供を、信長の命令とはいえ、自らの手で処刑したのである。今の日本では考えられない事件である。500年前にはそんなことはよくあったようです。これは信長の娘である徳姫が、信康のところに嫁いでいた。ところが徳姫は、姑である築山殿と仲が悪かった。そのうち信康とも仲が悪くなった。そのことを徳姫は、織田信長に密告したのである。それに激怒した織田信長は、徳川家康に二人の処刑を命じたのである。徳川家康にしてみれば、大変悩んだようである。部下は部下で、身代りに首を差し出すとも言ってくれたそうです。そんな子供だましのことが、信長に通用するわけがないということで却下されました。家康が信長に反旗を翻して戦うという道もありました。ところが当時の信長は絶大な力を持っていたため、徳川一門の将来を考えて、二人の処刑をやむなく実行したようです。こんな理不尽なことがあるでしょうか。それでも家康は、やむなくその理不尽な事実に従ったということだと思います。理不尽といえば「私は貝になりたい」という映画があった。昭和19年、第二次世界大戦中。高知県幡多郡清水で理髪店を営んでいた清水豊松は、気は弱いが平凡な人柄の人物であった。戦争が激化する中、豊松にも赤紙が届き、出征することになる。内地の日高中隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカ軍B29の搭乗員が大北山山中に降下。軍司令官の矢野中将による「搭乗員を確保、適当な処分をせよ!」という命令が、尾上大隊を経て大北山の最寄にいた日高中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。そこで豊松は、小隊長から滝田二等兵とともに銃剣でその米兵を刺すよう命じられた。終戦後、豊松は無事に復職するも戦犯として特殊警察に逮捕され理不尽な裁判により絞首刑。とにかくやりきれない映画であった。でも、好むと好まざるにかかわらず、どうすることもできないことは、受け入れていくしか道はないのだろう。受け入れるかどうかというよりも、そうして時代は何事もなかったように流れていくのだろう。岩もあり木の根もあれど さらさらと たださらさらと水の流れる あるがままに生きるしか、なりようがないということか。
2013.12.25
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もう一つは嫉妬心ということです。これは誰でもあります。同僚が早く出世した。あの人は才能がある。恵まれた家庭に生まれた。あの人は器量がよい。人と比較しては自分を否定してひがんでいる状態です。これは雨が降ったり、台風が来たりする自然現象と同じです。嫉妬心はなくそうとしたり、やりくりするものではありません。こういう時は、自分は誰それに対して猛烈に嫉妬していると心の中で叫んでみることです。日記に書いてみることです。それで嫉妬心が増進して、自分がめちゃくちゃになってしまうことはありません。これはあくまでも自分の感情を認めてやるためにすることです。自分の感情をいたわってやることです。出来たらその感情をアナウンサーのように、実況中継してやることです。感情を詳細に観察して、どんな感情が沸き起こってきたのかを事実だけを説明するのです。それは私メッセージの発信といいます。私メッセージは、相手に愚痴を言ったり、同情を求めるものではありません。自分を癒すためのものでなければいけません。
2013.12.25
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玄侑無宗久がこんなエピソードを紹介している。ご夫婦そろっての画家がいた。夫は悠々と画室にこもって絵を描いている。ところが妻は炊事、洗濯、育児で一日中目が回るほど忙しい。絵を描く時間はわずかしかない。それも台所の片隅でさっと描くしかない。ところが妻のほうが次々と賞を獲得する。悠々と構えている夫のほうはどうしてもそこまでいかない。当然面白くない。そんな気持ちが重なって、結局は離婚したというのである。面白い話である。森田理論と関連したことを書いてみたい。2つある。まず、妻のほうはいつも精神が絶えず活き活きと活動しているのではないか。そうだから絵にも命が宿っているのではないか。それにひきかえ、精神が引き立たない夫のほうは感情のほとばしりにかけているのではないか。森田先生も、短歌などをされていたが、気ぜわしく活動していて、その間に作る短歌のほうが出来が良い。心が弛緩状態で空っぽな時はいくら良いものを作ろうとしても感じが湧いてこないといわれています。芸術などというものは、心に浮かぶものを形にすることだと思います。すると心は常に活動して、緊張していないと良い作品には結びつかないということではないでしょうか。森田理論ではこのことを「無所住心」といいます。心が四方八方にとらわれている状態です。この心がけで生活することが大切です。
2013.12.25
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前田智徳選手が今年限りで引退した。多くの人に勇気と感動を与えた選手だった。前田選手は1990年広島カープに入団。24年間現役で頑張ってきた。その間、2007年9月1日、2000本安打達成。通算打率3割2厘。3割以上を11度達成している。落合博満氏は、「天才は俺ではなく、広島の前田だ」と言っていた。前田が打席に入ると、他を寄せ付けない鬼気迫るものがあった。その姿は野武士のイメージであった。打の職人であった。仕事師のイメージを抱かせる選手には、めったに出会うことはなかったが、前田はその数少ない選手であった。前田一人で、お客を呼べる選手だった。その前田選手、順風満帆の選手生活ではなかった。入団6年目の、1995年5月23日のヤクルト戦で、右足アキレス腱完全断裂。普通はここで選手生命は終わりだろう。しかし、前田は見事に復活を果たした。しかしまた、2000年右アキレスけんをかばうあまり、今度は左アキレス腱を痛めた。そして、手術を決断した。その後、またまた復活した。驚いた。その後、今年2013年手に死球を受け骨折。ついに引退した。10年以内で現役を終える選手が多い中、怪我を抱えながら、24年もの選手生命を保ったことは驚異である。それにしても苦しい選手生活だっただろう。プロ野球選手として、過酷な運命に翻弄された道のりであった。前田選手は、足のハンディを、足以外の部分を鍛えることで乗り越えていった。身に降りかかった運命を素直に受け入れて、運命を切り開いていった人だったのではないだろうか。
2013.12.24
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12月号の「生活の発見」誌の「苦しみの最中にある人へ」より。二番目の方は、職場での部下との関係にとらわれるという方です。この方は集談会に参加して一旦は症状に悩むことが無くなったといわれています。でもその後、年下の部下のことが気にかかり、仕事が手につかないといわれています。再発したということは、完治していなかったということです。この方の治り方というのは、症状は横において、なすべきことができるようになり、症状ばかりに向いていた意識が、他に向くようになって、症状中心に向いていた意識が薄れてきた状態です。頭の中に症状が100%占めていた状態から、他のことを考えることによって80%、場合によっては50%と比重が下がってきた状態です。気持ち的には症状が薄まったので、楽になった状態です。これも治ったといえば治った状態です。どうにもならない痛みがとれてきたのですから。しかし、こういう状態は完治ではありませんので、容易に再発します。がんでいえば転移してしまいやすい状態です。ではどうすればよいのか。この人の場合も、生まれてこの方、考え方が極端でこだわりがあり、視野狭窄に陥り、普通の人から見るとなんでもないことをすぐに過大に考えて、人生の生死を分けるように考えてしまいます。ここまで踏み込んで、対策を立てないといけません。こうでないといけない。こうであってはならない。という思考パターンで物事に対応していくと、とても苦しいものです。森田では、「かくあるべし」という理想主義、完璧主義は、自分を苦しめるばかりだと教えてくれています。「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、日々の生活を丁寧にこなしていくようになれば、自由な生き方ができるようになります。そのためには、森田理論の全体像の学習から始めることです。先輩会員の手助けを受けて、「かくあるべし」一つでも、二つでも少なくしていって、事実を否定しない。拒否しないで素直に受け入れる。そうした生活態度に修正していく。体得してゆく。その活動が大切だと思います。事実を観察して、事実にきちんと向き合えるようになると、大変楽な生き方になります。そのことだけで森田の達人の域に達することができます。
2013.12.24
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まず、その時の負けて悔しい気持ちというのは、どうすることもできない感情である。沸き起こる感情は自然現象だからどうすることもできない。その結果として逃げてしまうというのもいいと思う。人間の脳には偏桃体というものがあります。これは不安、恐怖を感じた時、即座に戦うか、逃げるのかを判断して指令を出す。そうした機能がなければ、いつ安易に命を落とすかもしれない。その脳の機能は十分に分かっています。でも逃げることが習慣になる。あるいは戦うことが習慣になるというのは様々な心の病を引き起こしてしまう。森田理論学習で学んだことは、どんなつらい感情でも、無視する、拒否する、否定してはいけないということだった。感情とまずきちんと向き合う。よく確かめて味わってみる。これを実践し続けるということだった。私は翌朝いやいやながら新聞を開いてみた。まずは内容を見てみようと思った。すると県大会では2時間6分が精一杯だったのに、4位でも2時間3分台であった。これは大変な驚きであった。新聞で確かめないと分からなかった。選手たちの健闘をたたえてやりたいと思いました。駅伝というのは他の人と競うというよりも、自分の設定タイムをたてて、シュミレーション通りに走れるかどうかが重要である。そういう意味では予想以上の成果があったのである。他のチームとの競争には負けたが、選手たちは自分の記録を更新したことは自信になったことだろうと感じた。これをもし翌日の新聞を見ないでいたらどうなっていたか。あの6区の選手は何だ。駅伝を台無しにしてけしからんやつだ。なんで監督はあの選手を起用したのだ。もっと代わりはいなかったのか。それにしても3区の選手が、もっと差を拡げておく走りはできなかったのか。アンカーはどうして競り合いに負けたのかと選手や監督を責めていただろう。自分のイライラは募るばかりであったと思う。新聞を見て事実に向き合ったおかげで、そんな考えは感じなかった。悔しいのは悔しいのだが、感情が流れているのを感じる。つらい感情も自分の体から出てきたものである。無駄なものがあるはずはない。森田理論学習では、不快な気分は、勝ちたいという闘争本能があるからこそ、生まれるものであるという。事実をよく調べてみる。そして不快な感情に一旦はきちんと向き合ってみる。これを実践するだけで随分楽な生き方ができると思っています。
2013.12.23
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昨日、京都で全国高校駅伝があった。私の母校が出ていたので応援していた。それも優勝候補である。4区までで2位に30秒の差をつけて1位だった。優勝はほぼ間違いないと思ってみていた。ところが6区で他の高校に並ばれ、最終区でトラック勝負となり、4位になってしまった。やりきれない気持ちである。期待が大きかっただけにショックが大きい。新聞も見る気がしなくなる。見るとまたその時のことを思い出して、不快な気分になるからである。私はプロ野球でもひいきのチームが負けると、その日のスポーツ番組は極力見ないようにしている。あくる日の新聞も見ないことがある。悔しい思いになんども直面することが恐ろしいのである。怖くて怯えている状態である。これは何も人に迷惑をかけていることではないので、別に気にすることはないのかもしれない。しかし、森田理論学習をしているものとして少し考えてみたい。
2013.12.23
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玄侑宗久さんの「まわりみち極楽論」からの引用です。確かアメリカだったかと思いますが、「老化するのは気のせいではないか」という仮説で真面目に研究している研究者たちがいるそうです。彼らが行った実験は80歳以上の人を50人集めて、彼らが20台頃の環境を再現した場所に確か50日間住んでもらった。環境のすべてが60年前の景色ですから、テレビをつけてもラジオをつけてもそのころの番組をやっている。そのころの音楽が流れる。カーテンの柄も当時のものです。ともかく彼らが青春を謳歌した環境をそのまま再現して、そこで共同体みたいに暮らしてもらったんですね。人間の老化度を測るのに、もっとも信頼できるのは「皮膚圧」らしいですね。肌の張りです。そこで50日前の皮膚圧を測りまして、50日後にまた調べた。すると80代の人の30パーセントの人が20代の皮膚圧に戻っていたというんですね。これを聞いて私は思いました。集談会でも60代の後半から70代になるともう集談会には出てこないという人が多いようです。理由はよくわかりませんが、自分で自分をもう歳だからと言って追い込んでおられるようです。まだ脳が正常に働いている、心臓がほぼ元気に動いているというのにもったいないことだと思います。一般社会でも65歳ぐらいになると、仕事から完全撤退して悠々自適の生活に入る人もいます。別に仕事をしていないのがけしからんというつもりはありません。でもそれが、自分で自分の生活を縮小して、こじんまりと生きていく方向にシフトされているのでしたら、残念ですというしかありません。20代だろうが、50代だろうが、80代だろうが、まだ生命が宿っている限り同じ人間です。尊いのは年齢がいくつだろうが、自分のやりたいことに懸命に取り組んでいる姿勢だと思うのです。森田を生涯学習として取り組んでいる人は、自分で自分の限界を勝手に設定しないでほしいのです。それは生の欲望の発揮ということで森田理論が強く強調していることではありませんか。
2013.12.23
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認知行動療法では、最近は不安の解消は目的でないとまで言っています。私は認知行動療法と森田療法は「不安、恐怖」についてのとらえ方が違うと思っていました。認知行動療法は不安はあってはならないもの、なくしていくものと考えている。森田療法は反対に不安はなくてはならない大切なもの。欲望があるから不安がある。不安に学び、活かしていくものと思っていました。この点少し考え方を修正しないといけないかもしれません。また認知行動療法には、多くの行動療法的な手法が設けられています。不安階層表などの認知行動療法ならではの工夫もあります。浜松医大では重作業期の治療効果を上げるために認知療法を取り入れているそうです。森先生は、認知行動療法は森田療法を基盤にして発展してきたといっても過言ではないといわれています。ただ認知行動療法は理屈っぽい。森田療法は指導を受ければわかりやすいし、受け入れやすいのではないかとも言われています。私が感じることは、認知行動療法は生活が行き詰まっている人はよいと思います。違和感を抱えながらも日々の生活を持ちこたえている人は、森田理論学習を進めていくべきだと思います。理論を学び、認識の誤りを正し、森田理論に沿って生活を変えていく。つまり森田先生の言うところの、人生観を変えていく。結果として神経症から回復して、味わい深い人生を歩んでいくことができる。ここをターゲットにするべきだと思っております。また、認知行動療法で治癒したひとも、不安にとらわれやすいという体質は変わっていませんので、何かのきっかけで容易に再発します。森田理論学習を生涯学習として取り組む必要があるでしょう。
2013.12.22
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メンタルニュース31号(公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団発行)から森田療法について考えてみたい。書かれたのは浜松医科大学の森則夫先生である。浜松医科大学は慈恵会医科大学と並んで森田療法に熱心である。まず、精神分析学について説明されている。フロイトによって確立された療法です。心の奥底にある心の悩みや傷は、無意識の領域に押しやられている。これを探し出して意識化して、悩みを解決するというものです。これは、ほとんど成果はなかったようです。次に行動療法が出てきます。これは、症状の原因である不安や恐怖は生きている以上避けることができない。そこでそういう感情には手を付けない。行動を変えていくという方法をとります。たとえば不安神経症で外出できない人に対して、訓練によって少しずつ外出できるようにトレーニングして社会復帰させようとしたのです。要約すると心の悩みはコントロール困難なので、自分の意志でコントロールできる行動のパターンを変えてゆきましょうという考え方です。これはまさに森田療法がとっている方法です。さらに認知のゆがみが症状の形成に大きくかかわっていますので、認知のゆがみを一つ一つ見てゆがみを自覚しましょう。この二つが相まって認知行動療法といわれています。これも森田理論学習でよく取り上げています。思想の矛盾。「かくあるべし」。事実に従うといった学習と重なります。
2013.12.22
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小柴さんはニュートリノをとらえてノーベル賞を受賞されたました。話を聴いていると、能力があって自由自在に生きておられるかのように見えます。でも東大の物理学科では最下位の成績だったそうです。今だったらとても母校の教授にはなれなかったと思われます。それでも育った時代が、小柴さんに幸いしたようです。小柴さんの言葉です。日本人は先生や年上の人が間違ったことをしても、「先生それは間違っています」とは決して言わない。自分の息子を他人に紹介するときでも「うちの子はとても良い子です」とは言わない。逆に「愚息です。うちの子は出来が悪いです」というのがたしなみのように思っている。アメリカはその点全く違います。たとえノーベル賞をもらったような先生でも、講演していて間違えると、若い大学院生などがすぐに誤りを指摘する。言われた先生も「まてよ、そうかもしれない。うーん。そうだお前の言うほうが正しい」と素直に誤りを認める。私がアメリカから帰ってきて、国内でいろいろと学会がありました。その時私の教わった先生とか全国の有名な先生が講演で間違ったことを私が指摘すると、大変ひんしゅくを買って、以後研究に支障をきたすということがありました。これはあの人は偉大な先生だから、あの人は博士だからということで、あの人に逆らってはいけない。逆に反論されて、批難されたら自分の立場がなくなる。逆らって自分の意見を述べて、そのあと冷遇されては自分の将来に傷がつく。だから我慢するに限るということになる。研究者としてのポリシーはどこにあるのか。そういう小さい我慢を続けていくと、大きな我慢に膨れていく。我慢はストレスになり心も体もむしばんでいく。どんな不快な感情でも我慢する。けなげに耐え抜くという態度はよくない。森田理論学習では不快な感情は、押さえつけてはいけないという。一人で声をだして呟いてみる。紙に書き出してみる。私メッセージで沸き起こった感情を相手に話してみる。こうするだけでも感情はため込まないで済むという。これはぜひ体験で確かめてもらいたいと思います。私はこういう態度で、これからも生きていこうと思っています。
2013.12.22
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玄侑宗久さんの「まわりみち極楽論」より引用します。奈良の薬師寺の和尚さんがこんな話をしてくださったそうです。芽が膨らんで、いろんな可能性が芽ばえてくる春は、生まれてから30歳まで。花も大部分は春に咲きますね。そして夏は、その枝葉がどんどん茂って成長を続けるわけですが、これは60歳まであります。長い夏でしょ。秋にはこれまでのしっかりした枝葉から実が稔ります。人生の果実は61歳から90歳まで採れつづけるわけです。この時期には木々は紅葉します。常緑樹もありますが、美しく紅葉する木が多い。しかもこれは花よりも美しい木が多い。なぜかといいますと、花は、生物としてはあくまでも花粉を媒介してくれる虫とか蝶とか鳥に、自己アピールしているんですね。自己主張のための美ですからなんとなくあざとい。しかし紅葉というのは死にゆく途中の葉の様子が、たまたま美しいのです。私はこれを読んで思いました。森田理論を深めて、行動にまで落とし込んで生活している人は輝いています。若いころは右往左往して、苦しみぬいたけれども、その苦しみのおかげで森田理論に出会うことができ、そのおかげで素晴らしい人生を送ることができた。神経症という苦しみがなければ、こんなにも味わいのある人生は送れなかったのではないのか。神経症に万歳と叫びたい心境です。
2013.12.21
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洋食ではデミグラスソースは、すべての料理に応用が利くそうだ。おいしく仕上げるにはいくつものポイントがあるそうだ。まず、牛スジ肉と野菜を炒める。それをとろけるまで煮込む。それを漉す。そこにまた野菜を炒めて入れる。それを煮込んで漉す。野菜をたっぷり入れるとさっぱりした味になる。これを5回ぐらい繰り返す。この作業を10日かけて行う。漉す作業は冷えていては、うまく漉せない。ソースに火を入れて温めないといけない。濃厚なデミグラスソースは、油断するとすぐに焦げてしまう。だから鍋につきっきりで混ぜないといけない。同じ材料を使っても、味も色も違ってくるという。私たちが何気なく食べているデミグラスソースは手間暇がかかっている。一つ一つの作業は簡単でも、それを使えるまでするには、細かい神経を張り詰めた仕事がある。ものそのものになりきらないとできない。我々もこのように日常茶飯事を丁寧に、手を抜かずに取り組みたいものです。集談会で鯛のかぶと煮の上手な人がいた。その人の料理の作業手順を聞いていると、一つ一つの作業はとても単純なのだが、それを積み重ねると独特な味わいと個性が出てくるのだなと感じました。そこにささやかな達成感と喜びが、じわじわと湧き出てくるのではなかろうか。
2013.12.21
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私は普段対人関係で気に入らないことがあると、自分のほうが折れて我慢してきた。そうした恨みがどんどんと積み重ねられて、たまたまそのはけ口として、彼にあたることになってしまったと思うのです。小さい不快な感情、小さな恐怖の感情を、その時々できちんと受け止めなかったので、大きなとらわれとなり、対人恐怖症状として苦しみ、苦難に満ちた人生を歩むことになったのだと思います。森田理論学習では感情は、やりくりしたり逃げたりしなければいずれ流れていくといいます。不快な感情をそのままにしておければそうでしょう。でも私の場合は、無意識にその怒りが増幅してしまうばかりでした。それはその感情を我慢しているので、かえって憎悪が増進してきたものと思います。今ははっきりわかります。我慢したり耐えていては感情は流れない。ではどうすればよいのか。はっきりしています。ますは不快な感情をきちんと受け止める。不快な感情をよく味わってみる。しっかりと向き合わなければなりません。不快な感情を無視したり、否定したり、抑圧したり、拒否したり、我慢したりしてはいけなかったのです。ここに力を入れていく必要があると思います。私は現在できるだけ、私メッセージで自分の気持ちをそのまま表現するという態度でいます。自分の気持ちや欲求を出しても、相手がその通り行動してくれるとは限りません。私が断って相手が気分を害することもあります。相手には相手の都合があるからです。でも自分のその時その時の気持ちを吐き出してやるというのは、自分にとっては大きな意味があると思っています。人の思惑ばかりに翻弄されるのではなく、まず自分の感じ、気持ち、欲望を優先にする。そのあとで、他人の状況を見てその場に合わせて対応する。これは精神拮抗作用で森田理論が強調している通りです。
2013.12.21
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今考えるとちょっとしたボタンの掛け違いで、そんなことになってしまったわけで彼には悪いことをしたなと思います。これを今森田理論で考えてみたいと思います。怒り心頭の時は、常に意識が彼の言動に向いていました。そして冷ややかな目で見たり、私の言動も顔に怒りの表情があり、態度も悪くけんか腰の対応であったと思います。彼は彼でけんかを売られると、ふてくされて反対に仕事をさぼったり、ミスを連発して上司の私のせいにして腹いせをしていたように思います。お互いが会社ではほとんど口をきかず、戦争状態に入っていたのです。こうなると大きな仕事を彼に任せることはできません。私の部署の全体の実績にかかわってくるからです。彼が早く転勤にならないかな、あるいは辞めてくれないかなと思っていたのです。他の人からはもう少し大人の対応はできないのかといわれていました。でも私は絶対に許せないやつだと思っていたのです。神経質者はこのように執着性が強いのです。今考えると、彼に悪い意味でとらわれていたと思います。この気持ちはどうすることもできないと思っていました。そこには森田理論学習でいうところの、自分の腹立たしい感情と向き合うということがありませんでした。不快な感情をしっかりと受け止めるということをしていなかったのです。受け入れることをしないで、その感情を取り去ってスッキリしようとしていたのです。今彼の行為を見て、イライラしている。すごく腹が立っている自分がいる。その怒りを爆発させて発散させたいけれども、他の部下もいるし、大人げないし、ここはひとつ我慢して耐えたほうが得だなと考えていたのです。それで時間がたてばスッキリするでしょうか。そんなはずはありません。その怒りはどんどんと大きくなり何年間にもわたって悩まされることになりました。最初テレビを見ている彼に向って「今とてもイライラしているんだ。せっかくの機会なのでいろいろ話を聞かせてもらいたいんだ。しばらくテレビは遠慮してほしいんだ」と言葉で表現したほうがよかったのではないかと思います。そして、その後の対応は彼に任せたほうがよかったのではないか。もし彼が「今しかサッカーは見れないじゃないですか」といえば、「じゃ明日早いので僕はお先に失礼させてもらうよ」といって退散すればよかったのではないだろうか。そのほうが自分の感情にも、気持ちにも素直になれたのではないだろうか。
2013.12.21
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私の体験です。前に勤めていた会社での事。地方に出張しました。当時の部下と数名で居酒屋に夕食に行きました。するとそこにテレビあり、サッカーの中継をしていました。あるひとりの部下は、私という上司がいるにもかかわらず、サッカーに夢中になり、私が話しかけてもいい加減な対応しかしないのです。私はムカッとして腹が立ってしまいました。私が上司と酒を飲みに行くときは大変気を使います。話題に気をつかうし、メニューにも、酒のお替りにも気を配ります。ましてや上司をないがしろにして、テレビにうつつを抜かすとはもってのほかだと思っていました。上司に気分よく時間を過ごしてもらうように最大限努力します。それが部下たるものの上司に対する礼儀だと思っていたのです。そういう「かくあるべし」で凝り固まっていたのです。だから不快な気持ちがとめようもなく大きくなってゆきました。「よし、わかった。今後はお前を引き立ててやることはしない。勝手にしろ。」いう気持ちになりました。事実その通りに対応してきました。つまり言葉は悪いのですが、仕返しをしていたのです。彼は彼で他の同僚はボーナスの額が自分よりも多い。また仕事上でも便宜を図ってもらっている。自分の場合は目をかけてもらえないのはどうしてなのかと愚痴を言っていたそうです。私はそれを聞いて、自分の態度を反省したらどうだと思っていました。
2013.12.21
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蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな小林一茶は、蔵を建てて、いろいろな珍しいものを買い求めて、蔵の中を珍品でいっぱいにする生活されていました。ところが心境の変化がおこりました。そして蔵を売り払いました。空き地になったところに日がよくあたるようになり、牡丹が鮮やかに咲いている。そんな光景を読んだものです。何ともすがすがしい句だと思います。物質的な豊かさを求めることにあくせくしなくなった人の気持ちを詠ったのでしょうね。人間にとっては、江戸時代が物質的豊かさの限界だという人もいます。江戸時代までは自然と人間は共生して生きていました。自然循環が貫徹されていました。ごみを埋め立てるという発想はありませんでした。それ以上の贅沢?は、ローマ帝国が滅んでいったような運命をたどるのだといわれるのです。私もなんとなくそうだなあと無意識に感じてしまうのです。
2013.12.20
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塙保己一という江戸時代の国学者がいます。一流の歴史学者、国学者です。水戸光圀が作った「大日本史」というのは、塙さんが校正されて、直すべきところは修正されているのだそうです。その塙さんは7歳で両目の視力が失われたそうです。15歳まで埼玉県と群馬県の境で過ごされました。その後江戸に出てマッサージの先生について修行を積まれました。ところが塙さんは不器用で勘が鈍かったそうです。結局マッサージ師にはなれませんでした。しかし、塙さんは記憶力がよかったそうです。人の言うことで珍しいことは、好奇心を発揮して情熱をもって聞く。そしてよく覚えることができたそうです。マッサージの先生は、自分の知り合いの国学者のところに預けられたそうです。すると俄然力を発揮して、一流の国学者になられたということです。吉岡たすくさんという人は人間というのはマイナスばかり与えられているのではない。容姿が悪い、勉強はできない、仕事ができない、性格が悪い、対人対応能力がない、境遇が悪い。何もできない、一生不幸だと思ってばかりいることはない。神様はどこかでちゃんと計算が合うように見ておられると思うのです。私たちの一生を見ると、プラス、マイナス、すべての合計点は同点にしてくださっているといわれています。10の短所があれば、10の長所がある。短所にとらわれることなく、自分の長所に焦点をあてて、自分の持っているもの最大限に活かすことにこそ力を入れたいものです。
2013.12.20
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学校でいじめられたり、職場で人の思惑ばかり気にして、仕事に集中できない人がいます。この人たちは、自己主張ができずにいつも相手のいいなりになってしまうことが多いようです。こういう人は、家ではわがままし放題、家庭内暴力で発散している人もいます。妻や子どもを虐待している人もいます。でもいったん家を出ると、家とはうってかわって借りてきた猫のようになるのです。何も言えないのです。当然葛藤があり、自己否定感が強くなります。友達との間では、親子の依存関係では成り立ちません。対等な人間関係が結べないとつきあうことは困難になります。このことについて、崎尾英子さんは次のように指摘されています。お友達との関係を結んでいくには、基本的には親との「世話をし、される」関係、「保護し、される」関係という、互いに互いを補うような関係を基軸にしながら、その内部に「対等」という言葉で示されるような互いを等しく尊重しあう関係をいくらか発展させておくことが必要です。親が子どもに指示、命令、強制、脅迫で行動を迫ったとします。親がいつでもどこでも親の思いに従わせるという家庭もあるでしょう。反対に、子どもが「私はそれには従わないよ」というメッセージを返してきました。親にとっては子供が反抗してきたということです。ところが子どもにとっては、自分の言い分が通ることもあるという体験も必要なのです。親がきちんと受け止めてくれると、子どもにとっては、自分の意見が親に尊重されたという経験になります。こういう経験がないと、子どもはいつも親のいいなりです。それに慣れてしまうと、自分で積極的に行動できなくなるのです。その場はなんとかおさまっても、子どもの自主的、対人交渉能力は育っていく余地がなくなってしまうのです。子どもの対人折衝能力、自己主張能力は、最初に経験する親との対人関係に大きく影響を受けているということです。ではそれらの能力が育たないで大人になった場合はどうすればよいのでしょう。あきらめる必要はありません。ただ成育歴を分析し、原因を突きとめて、親を恨んでも事態が好転することはありません。私は、これは森田理論の「感情を受け入れる」、「自分の意志を尊重して生の欲望にのっとって生きていく」という実践によって解決すると考えています。
2013.12.20
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他人に対する怒りや腹立たしさ、怯えや恐ろしさなどの感情が湧いてきたとき、対人恐怖の人はがまんしたり、じっと耐えたり、格下の人に攻撃を仕掛けたり、格上の人からは逃げるのではなかろうか。これでは精神交互作用により、怒り、腹立たしさ、怯え、恐怖は収まるどころか、火に油を注ぐ結果となります。この対応はどこに問題があるのでしょう。それは不快な感情を素直にキャッチしていない。受け入れていない。向き合っていない。味わうことをしていない。目をつむって避けているということです。言い換えると、不快な感情を無視している。拒否している。否定している。抑圧しています。結局は自分自身を否定している。冒涜していることになります。森田理論学習的にみて正しい対応とは何でしょうか。それはまず不快な感情にきちんと向き合う。次にその感情を外に吐き出す、つまり表現するということです。すると嫌な感情を無理やりため込まないので「しこり」にならない。もう少し説明しましょう。1、 まず他人に対する怒りや腹立たしさ、怯えや恐ろしさなどの不快な感情としっかり向き合う。きちんとキャッチする。認める。受け入れる。味わう。2、 次に感じたままに表現してみる。これには可能なら「私メッセージ」で相手に発信してみる。不可能なら日記などに書いてみる。独り言として口に出して表現してみる。それ以上のことはしないようにします。こうした対応をとることが大切です。これができた後で初めて、ところであなたはどうしたいのですか。何をしたくないのですか。と自分自身に尋ねてみるのです。それから自分の欲求に従って行動を起こすのです。森田理論学習でいえば「なすべきをなす」ということです。振り返ってみると、今までの森田理論学習は、不快な感情に「きちんと向き合う」ということが曖昧であったと思います。それよりも、不快な感情には手を付けない。横に置いておくこととされていました。不快な感情は手を付けなければ、時間とともに変化して、いずれ流れていくといわれていました。その代りに「なすべきをなす」という行動が、不快な感情を消し去るのだという考え方だったのです。これは多少修正してみる必要があると考えています。私は「なすべきをなす」前に、感情はいったんきちんと受け止める。そして不快な感情を「私メッセージ」の手法などを使って、吐き出すという実践を取り入れるようにしたほうがよいと思っています。そのほうが我慢してため込まなくてすみますので、精神衛生上理にかなった方法だと思います。今後具体的な例で説明をしてゆきたいと思います。
2013.12.19
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さて、完全欲の強い人は、いったん動き出すと、ずるずると同じことをいつまでもする傾向があります。そのあいだ他のことに目が向かないことが考えられます。これは神経症に陥り、自分の気になる症状に、いつまでも取りつかれてしまうことと同じことです。また反対に、できないと思うと全く行動しない。そして、意識はふがいない自分の心や体に向かい、自己嫌悪、自己否定するようになります。それを解消するためには、整理整頓は、一挙に全部しようと思わずに、今日は新聞の整理、明日は本箱の整理、そして次の日は寝室、その次の日は玄関やお風呂、居間という風に少しずつ分けたらどうでしょうか。そして一週間でまたもとに戻るように、ローテーションを組んでみたらいかがでしょうか。それから掃除は15分とか、30分とかの短時間にして時間になれば終わり、というようにけじめをつけたらどうでしょうか。多少未練があっても次の行動に移るのです。これは岩田真理さんが言われています。また感情の法則から見ると、いったん沸き起こった感情は取り消すことはできないが、行動を起こすことによって新しい感情を作り出すことができます。そうすると古い感情は次第に流れていくということにつながります。さらに言えば、「○○しなければならない」という「かくあるべし」は、神経症の発症の大きな原因となります。森田理論の学習によって、「かくあるべし」発生の原因、実態、理想と現実の乖離による格闘などを学習されることをお勧めします。そして「かくあるべし」を少なくする方法について学んで、体得する必要があると思います。これは自分一人で行うのではなく、集談会などで相互学習することが大切です。これらに取り組んで見られたらいかがでしょうか。
2013.12.18
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平成25年12月号の「生活の発見」誌に整理整頓ができずに困っているという人の相談が載っている。この方は趣味や仕事が忙しくなると、整理整頓ができなくなるといわれています。ということは「うつ」で行動力が鈍っているということではなさそうです。自分ではごみ屋敷のような家になってはいけない。いつも小奇麗な住まいにしておかなければいけないという「かくあるべし」にとりつかれて、不快な気持ちになっておられるのではないかと思います。その嫌な気持ちを取り去ってスッキリとした気持ちになることを望んでおられるのだと思います。「かくあるべし」の中でも、完全欲が強くでているように思います。完ぺきに整理整頓されたホテルのような部屋を望んでおられるのではないでしょうか。しかし、毎日人間が生活している以上、ホテルのように整理整頓することは大変難しいと思います。多少散らかっていても、生活するうえで支障がなければよろしいのではないでしょうか。どこに何を置いたのかわからなくなるといわれていますが、たとえば外出するとき必要なものはあらかじめバックの中に入れておくとか、箱を決めて入れておけばあわてることはありません。私は、外出するときのチェックリストを作っています。それを見て持ち物がそろっているかどうか、チェックしますので忘れることがありません。また短時間で整えることができます。
2013.12.18
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これは先日の忘年会の余興で見ました。YOU TUBEで「名物 しばてん踊り」をご覧ください。南国高知県のおどりです。とにかく腹を抱えて笑えるおどりです私は早速被り物を注文しましたとにかく好奇心旺盛な人と付き合っていると、次から次へと面白いものと出会います。人生に乾杯です。
2013.12.17
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この方は自分中心主義を提唱されています。他人中心主義の反対です。この方は60冊以上の本を書かれています。私は取り急ぎ10冊程度読みましたが、どの本も大変参考になりました。森田理論学習との関係では、どんな感情でもあるがままに受け入れる。自分の○○したいという気持ちを大切にする。主題はこれですが、具体例が豊富です。どの本も掘り下げて詳しく書いてありました。森田理論学習を掘り下げて、現実問題を考えてみたいという方はぜひ読んでみることをお勧めいたします。応用森田・生活森田の研究には欠かせない本だと思います。
2013.12.17
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先日のプロフェッショナルはイチローだった。イチロー曰く。ピンクのTシャツを着て球場入りしたとします。その時、多くのチームメイトが「なんだそのTシャツは。女の子みたいじゃないか」と、ケチをつけました。すると自分は次の日は、もっと色の濃いピンクのTシャツを着て球場入りをするというのです。自分がよいと思ったことは、人からぼろくそに言われても、自分の信念を通すというのです。自分を感覚を信じているのですね。他人からどんなにダメ出しをされても、自分は自分を信じる。自分は自分にとって、最大の理解者である。これは分かっていてもなかなかできることではありません。森田理論の核心をついている言葉だと思います。森田理論学習を続けていると、その方向に向かっているなと感じてはいます。
2013.12.17
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以前集談会でこんな話を聞きました。ある中年の女性の方が私は集談会に毎回出席したいのだけれども、主人が、私が日曜日に一人で出かけることをすごく嫌うのです。食事の準備も万端整えていても不機嫌なのでなかなか出席できません。私は「そうなんですか。それは仕方ありませんね」と一応その方に同意しました。ところがよく考え見ると、いつも相手に合わせて自分のやりたいことを我慢しているという態度が、対人恐怖の原因になっているのではないのかと思いました。その方が自分の意志を大切にして、出かけたいところに行くのは私の自由だ、と思って行動するのが大切なのではないかと思いました。もしそういえないのは、私のわがままを無理やり押し通してはいけない。押し通せば主人が腹を立てて私を叱りつける。それを根に持っていつまでも不機嫌になる。すると私が深く傷ついてします。そんな嫌な思いをするぐらいなら、私の気持ちを抑えたほうが気が楽だ。これは出かけるということに、罪悪感を抱いているのです。罪悪感を抱いて無理して出かけると、心から喜ぶことはできません。出かけるときにうそをついたり、不機嫌そうな態度が口をついて出たり、行動に表れたりします。そのふてくされた態度を見て、ご主人もまたエスカレートして非難するということになるかもしれません。夫婦の人間関係は、こうしたちょっとしたボタンの掛け違いがたくさんたまることによって、破滅に近づいてゆくのです。こんな時は、自分が自分の行きたいところへ出かけるのは自由なのだ。その代りあなたが行きたいところへ行くのも自由ですよ。私はそれに対しては無条件に容認しますから。という関係性を持つことが大切だと思いました。自分の気持ち、意志を第一に優先して行動することは、人間関係に良い影響を与えると思います。
2013.12.17
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それは意識を自分の感情に向けていくこと事だと思います。そして自分はどうしたいと思っているのか、あるいはどうしたくなのか考えてみることが重要です。自分は急いでいる。早くいかないと電車に間に合わないかもしれない。だからイライラしている。目的は電車に乗り遅れないようにしたいことだ。すると、口に出てくる言葉は、「すみません。急いでいますので、前を開けていただけませんでしょうか」となるのではないでしょうか。相手が気を利かせてくれれば、うまくいきます。仮にうまくいかなくても、自分の気持ちを伝えることができたということは大きな意味があります。それは怒りや恨みの感情をため込まなかったということです。不快な感情を表現することによって流すことができたということです。反対に、我慢して耐えた。でもそのせいで電車に遅れてしまったとすると、非常識な人に対する恨みは残ったまま。さらにその感情は強化されてしまいます。「感情の法則」が示すとおりになります。つまりここで最も大切なことは、嫌な感情を無視したり、否定したり、抑圧しないで向き合ったということなのです。受け入れたということなのです。そして、次に自分のしたいことに焦点を当てて相手にしゃべったということです。相手を責めたり、非難したりしてはいない。ただ自分の気持ちを相手に伝えているということです。この違いは決定的なものです。この違いは、大きな差になって、生き方そのものに大きく関係してきます。自分の不快な感情をがまんしてため込まず、その時々で小さなうちに受け入れていく。これを森田理論学習で体得してゆきましょう。
2013.12.16
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長いエスカレーターに乗っていて、みんな片方によっているのに、一人だけが反対方向に立っていて、つかえていて前に進めないことがあります。自分が急いでいるとしたらどうでしょう。そんな時は「どうしてこの人は無神経なのだろう」とイライラして腹が立ちます。でも普通は、仕方ないので我慢しています。この我慢するという対応はこれでいいのでしょうか。きっと我慢しているのは、こんなことで腹を立ててはいけない。また言葉に出して注意して、相手とけんかになって、自分が傷つきたくない。不快な気分を味わいたくないという気持ちが働きます。つまり「かくあるべし」で自分を抑えているのです。仮に「そこに立っていては、急いでいる他人が迷惑するじゃありませんか」と相手を非難すると、相手もムカッとして、言い争いになる可能性が高いでしょう。これをよく考えてみると、一つの特徴があります。こういう時の自分の意識は、すべてその相手に向いています。相手は無神経で、どうしようもない人だ。社会人として常識がない。ダメな人だと価値判断しています。心の中では「この馬鹿が」と思いながらも、実際には我慢して耐えているだけなのです。その不満は解消されることなく蓄積されていきます。いずれ小さな不満が、大きな不満に発展していくでしょう。おそらく頭の中は、相手を誹謗中傷する気持ちでいっぱいになっています。問題なのは、こういう人は、何かにつけて、耐えて我慢しているのです。会社でも、学校でも、家庭でも同じような対応をとっています。そして心の中でいつも相手を非難したり、無視したり、否定する傾向があります。つまり自分の「かくあるべし」を押し付けているのです。そしていつもイライラして、怒りまくっているのです。それが顔や態度に表れているのです。人間関係がうまくいくはずがありません。どうしたらよいのでしょう。答えは森田理論学習の中に用意されています。
2013.12.16
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今日趣味の会の忘年会がありました。ビンゴゲームがあり、一人一つずつ景品を持ってきてくださいということでした。いくらぐらいのものという決まりはないとのことでした。こういう時何をもっていったらよいのが迷います。まあ1000円以内のものがいいかと思いますが、みんなとの兼ね合いもあります。私は買い物にも行く時間がなかったので、家の中を探しました。すると入浴剤があったので持っていきました。みんなもいろいろなものを持ってきていました。こんな時対人恐怖の人は、相手の思惑がとても気になります。自分の持って行ったものを喜んで受け取ってくれるだろうか。こんなものを持ってきてと馬鹿にされないだろうか。案の定私の持参したものが最後まで残り、当たった人がほかの人にあげているのを見てショックを受けました。その人は風呂に入浴剤を入れたことはないといっていました。私としてはなんか自分を否定されたように感じてしまったのです。そして落ち込んでしまうのです。こんなことでも、他人の思惑を気にしてしまう自分が嫌になりました。
2013.12.15
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対人恐怖の人は、人から良く思われたい、人に認められたいという気持ちが強いと思います。それは「かくあるべし」で、そういう人間でなければ、自分は社会の一員として扱ってもらえなという恐れや怯えが渦まいています。そういう人は一方では、自分のことを否定しています。自分のことを信頼していない人です。最大の理解者である自分が自分のことを認められないのです。他人からも嫌われて、自分自身も嫌っているのです。立つ瀬がない状態です。会社で上司にある仕事を押し付けられたとします。あなたは、今手一杯で、その仕事を断りたいのに断り切れないとします。すると同僚が横から入ってきて、肩代わりしてくれました。自分のことを、他人からも自分からも認められない人はこう考えます。「いつも同僚は上司の前で恰好をつける。嫌な奴」「上司も自分の忙しい仕事ぶりを見て察してくれてもいいのに」「上司はいつも自分勝手だ」「自分が断って自分のことをどう思っているのだろう。きっと能力のない奴だと噂するに違いない」「自分はどうしていつも優柔不断な態度をとるのだろう」「自分は能力がないから駄目だ。会社を辞めてしまいたい」等など。反対にいつも自分で自分をかばって守っている人は、「体がしんどい時だったので助かった」肩代わりしてくれた人に、「すみません。助かりました。ありがとうございます」とお礼を言うでしょう。上司にも、同僚にも卑屈になり、自分を卑下するということはなくなるでしょう。これは、普段から自分の気持ち、意志、欲望を第一に考えていないとできません。自分の感情、気持ちを大切に扱うという強い意志を持てないとできません。これはどこまでも自分本位の考え方です。他人本位ではありません。自己中心とも違います。いわゆる自己チュとは違います。森田理論学習をして、体得していく意味はここにあります。
2013.12.15
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どうしてその場ではっきりとその依頼を断らなかったのでしょう。私は人の機嫌を損ねては会社では生きていけない。自分を抑えていつも相手の意向を尊重して仕事をしてゆこう。自分の感じや気持ち、要望などは二の次に考えていました。すると常に人の言動が気になり、それに影響を受けて行動するようになりました。つらいときは自分が我慢すればよい。会社で生き残るためには耐えるしかない。守り一辺倒の生活になりました。そして人を見れば、みんな敵のように思えていつもおびえるようになりました。森田理論を学習してわかったことは、自分のこうしたい、こうしたくないという気持ちをしっかりと尊重しなくてはいけない。自分の欲望、意志は最大限に重視する。そこが人間関係の始まりだということでした。相手の思惑でいっぱいな時は、自分の気持ちは無視していました。というよりも、自分の気持ちや欲望には全く気が付かない状態だったのです。相手の思惑に振り回されることが、100パーセント頭の中を占めていたのです。森田理論学習ではいつも自分の感じ、欲望、思い、意志から出発せよといいます。そのあとで初めて、相手のことを思いやって調整して行動に移す。この順番は決して逆になってはいけないのです。人間関係の好転のカギはここにあると思います。最近は、相手のことを考えるよりも、自分は何を感じているのか、自分はどうしたいのか、どうしたくないのかに焦点を当てています。楽な生き方、気持ちの良い生き方、体が喜ぶ生き方に変わりつつあります。
2013.12.14
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私の体験です。以前の会社での事。ある優秀な営業マンが、明日得意先に電話して○○してほしいと依頼してきました。私は次の日、私用で有給休暇をとることにしていました。私はその依頼を受けた時、嫌な依頼だなと思いました。でもその依頼を断ると、相手からあからさまに、嫌味を言われるのではないかと思いました。そして以後無視されたり、悪口を言われ続けるのではないかと感じました。怯えとおそれでいっぱいだったのです。本来なら明日は有給をとって休むので、誰かほかの人に頼んでほしいという必要があったのです。私は結局断ることができませんでした。安請け合いしました。そして帰社する前に、その依頼を同僚にお願いして、肩代わりしてもらうように手配したのです。ところが次の日、その同僚はその依頼内容をすっかり忘れていたのです。休み明けに、私はその営業マンからこっぴどく非難されました。その営業マンは得意先は10よいことをしても、1つでも機嫌を損なうようなことがあると信用はすぐになくなり、得意先は他社に流れていくといっていました。私がまさにそのことをしてしまったのです。私は同僚に対して腹が立つど同時に、自分のふがいなさ、無力さに打ちのめされてしまいました。
2013.12.14
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対人恐怖で苦しむ人は学校や会社などで、仲間外れにされてはいけない。なんとか無難に人間関係を保たなければいけない。と「かくあるべし」で自分を鼓舞しています。でも、やっぱり人付き合いは苦手だなあ。自分の思いを打ち出せば、みんなから非難ごうごう。最後には自分が傷ついてしまう。だから自分の気持ちは抑えて我慢する。一人孤立してみんなから白い目で見られることは、とてもではないが耐えられないから。私も以前は、常に他人の目を意識して、びくびくしながら毎日を送っていました。毎日恐怖との戦いです。生きる意味なんてありません。私は苦しむために生きているんです。心も体もカチカチに凍り付いた状態です。さらに自分の中にいるもう一人の自分が、現実でのたうち回っている自分を否定しているのです。自分を責めてばかりいるのです。踏んだり蹴ったりです。この世の地獄ですね。そうならば、あなたはいったい自分というものをどう考えているのですか。生きとし生けるものは存在価値があるといいます。自分という存在を大切にして、どこまでも自分の味方になり、自分本位の生活に立ち戻ることはできないのでしょうか。森田理論学習はそれを可能にしてくれると思います。自分に湧いてきたすべての感情を素直に受け入れ、さらに自分の欲望に沿って生きていく。他人の思惑からではなく、常に自分の好き嫌い、生の欲望から発想する。そういう生き方を早く身につけようではありませんか。
2013.12.13
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本多信一さんは若いころ劣等感で悩んでいました。1、 顔がよくない2、 歯が悪い3、 鼻が大きくて赤い4、 ニキビのあとがある5、 白髪が多い6、 数学が小学生並にしかできない7、 理工科目の能力がゼロ8、 学校の成績が悪い9、 勉強に全く興味が持てない10、 先生と親しめない11、 学校集団に不適応12、 クラブ活動が嫌い13、 スポーツができない14、 楽器が何一つできない15、 異性に好かれない16、 一人で喫茶店に入れないまだまだあったそうです。こんな自分では生きていけないと思ったそうです。そこで作戦を変更されました。自分の得意なことだけを考えてみることにしました。1、 犬猫からとても好かれる2、 ボロの服を着ていても恥ずかしくない3、 出された食べ物は全く残さない4、 他人の長所がわかる5、 石を3時間でも見ていられる6、 人と待ち合わせをしていて、相手が何時間遅れても平気7、 風呂には1週間に1回はいれば済む8、 どこでも眠れる9、 鳥の声からニュアンスがつかめる10、 追いつめられると変身してすごい力が出る11、 みかん皮むきが上手12、 年上の人と友達になれる13、 不良っぽい人とも付き合える14、 原稿は1日に10枚ぐらいは書ける15、 欲しいものがないから、お金がなくても暮らしてゆける16、 一度見人の顔は忘れない17、 一対一の説得には自信がある18、 旅に行くとき、予約をしたことはほとんどないが、いつでも電車、宿舎にありつける19、 女性を女としてではなく人間としてみて尊敬できる20、 勉強はできないが試験は好きである21、 腹式呼吸ができる22、 難しい漢文、古文が読めなくても分かるところがある23、 一人でいても退屈しないこれは神経質性格の二面性を考えるとき参考になるだろう。メンタルヘルス岡本記念財団の元会長の岡本常男さんは、「人間には10の欠点があれば、必ず10の長所がある」と喝破されていました。私はこの言葉に励まされて、少しずつ自分を受け入れることができるようになったと考えています。
2013.12.13
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本多信一さんは、学校時代になすべきは、「自分の本来の個性」を発見することで、それができればもう十分だといわれています。学校で友達がたくさんできて、うまくやっていける人は集団適応能力がある人だから、大人になって営業などの仕事、管理職としての仕事をこなしていけるだろう。それができない人は、自分には対人関係をうまくやっていける自信がないということを自覚すればよい。対人関係がうまくゆく人を見て、なんとか自分を改造していこうと思わなくてもよい。ましてや自分を否定して悲観することはない。自覚すれば、営業や管理職以外の道で自分を生かせるような道を探していけばよいのだ。たとえば、研究職、パイロット、運転手、職人、自営業、農業、サムライ業、芸術家などの対人関係があまり要求されないような仕事を選べばよい。これは自分のできないことは早くあきらめるということです。性格や能力でも自分の欠点を直すことはやめたほうがよい。それよりももっと大切なことは、自分の持っているもの、自分の得意なもの、自分の好きなものを早く見つけて、それをさらに磨きをかけて伸ばしていくことだ。神経質な人は、自分の持っているもの、長所を見向きもしないで、劣っているもの、欠点、短所を人並みに引き上げようと無駄な努力をする。これは長所にやすりをかけて削っているようなものだと思います。短所は人並みに引き上げることができず、長所は人並みに下がってくるのだから始末が悪いと思う。
2013.12.12
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これは森田でいえば普通神経症である。夏樹さんは復帰後、「椅子が怖い、私の腰痛放浪記」を書かれて、大きな反響があったという。また「心療内科を訪ねて」という本では、耳痛、醜形障害、大腸炎、高血圧、喘息などの人が心療内科にかかり生還した経過を取材して紹介しておられる。ここで紹介されている14名の体験は、生死をかけたつらい苦悩から生還した人の物語であった。全員器質的病気よりも、心の治療に取り組み、病気を治した人ばかりである。その中に森田療法のことも一部紹介されていた。心療内科では森田療法を応用しておられる場合もあったのである。夏樹さんによると、もともと心身症にかかる人は共通の特徴があるといわれている。1、 がんばり屋である。自分はどんなに無理をしても、周囲の期待に応えようとする。2、 言いたいことを言わずに、飲み込んで我慢する。3、 完全主義、完ぺき主義でないと気がすまない。4、 物事へのとらわれが発症を誘発し、症状のこだわりがますます状態を深刻化する。5、 本人は自分のそうした性格や行動についてほとんど気が付いていない。6、 そこに強いストレスがかかったり、忙しすぎて疲れ切っているのに、そのことを自覚していない。これらはすべて森田理論で説明していることと同じである。こうした普通神経症は、自分の性格、考え方の誤り、行動の誤りをよく学習して、普段から予防することが大切だと思う。
2013.12.11
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