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食事の時間の30分前になって、子供が「お母さん、おなかすいた」と言ってきたとします。あなたならどう答えますか。「今作ってるからもう少し待ってなさい」「少しだけおやつでも食べてなさい」等ではないでしょうか。子供はおなかがすいたといっているだけなのに、どうして、すぐに待ってなさいと指示をしたり、解消法を教えたりするのでしょうか。森田では命令、指示、強制、脅迫はご法度です。森田で考えてみましょう。子供はおなかをすかしています。お母さんはいま料理を作っています。子供の食欲はますます刺激されてきます。お母さんのまわりをうろつきます。そこで子供にどんな感情が湧き起ってくるか、私は興味がわきます。早く作ってほしい。待つしかないか。できたらつまみ食いでもしようか。そしたらお母さんに叱られるかも。食器を出す手伝いをしてあげようか。なんかお手伝いをしてあげたい。お父さんや兄弟たちに食卓に来るように伝えようか。などなどです。この感じがでてくることがとても大切だと思います。お母さんは「そう、おなかすいたのね」だけ伝えて、あとは子供にどんな感情が湧き起ってくるのか見てみるという姿勢が大切となります。この感じがおきて初めて自主的な行動へと発展していくのです。ある子どもが、お母さんの手伝いをしていました。食器を食卓に出すお手伝いです。一枚一枚出せばよかったのですが、4枚いっぺんに運んでいて手が滑って床に落として割ってしまいました。そのときよくあるパターンがあります。「だから言ったでしょう。ひとつずつにしておきなさいって」「だから言ったでしょう」というのはまずいいい方です。子供は必ず言い訳をしたり、泣き出したりします。責任転嫁をし、もう二度と手伝いをしたくなくなります。もしこの時、「あっ、皿が割れちゃった。その上を歩くと怪我するよ。どうしたらいいと思う」と子供の気持ちを聞いてみるようにしたらいかがでしょうか。子供を否定するわけではない。皿が割れたという事実をよく見させて、その後対応を子供に任せようとしたのです。皿が割れてどんな気持ちになったか聞いてみたのです。すると子供は注意深く割れた皿をかたづけ始めるかもしれません。小さな破片をきちんと掃除しようと工夫すればもっとよいと思います。ここでも皿を割ってしまったという事実に対して、どんな感じが湧き起ったのかということがとても重要です。自立的、積極的な行動はこの感情の発生と高まりなしには考えにくいことです。すべて森田理論が説明しているとおりです。
2013.08.31
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私たちの人間関係の築き方は特徴がある。温かい濃厚な少人数の人間関係を築いて、それにのめりこんでしまうのである。それは偏っていると思う。もともと人間関係には自分で選択できないものがある。家族、近所、学校、職場など生まれてくれば必然的に所属する集団があり、人間関係がある。そこで形成される人間関係を、唯一無比と考えて成長発展させようとする事は正しいのだろうか。私の経験では、そのような人間関係に固執することは、自分を追い詰めていった。悩みをなんでも相談できて、仲間内ですべての問題が解決するように、理屈では考えられるが、現実はその人間関係を維持することに神経を集中させてむなしくなってきたのである。こうした人間関係に偏ってしまうと大変生きづらくなってしまう。職場では、仕事をするのも遊ぶのも、飲んだり羽を伸ばすのもいつも一緒にいるという関係である。学校では勉強するのも、休憩時間も家に帰ってからも、四六時中一緒に繋がっているという関係である。緊密な関係だか、その関係が問題なくいつまでも続くことは難しい。お互いがお互いに気を使っており、息が詰まる。いったんその関係が崩れてしまうと、お互いに非難しあい元に戻すことはほぼ不可能となる。この関係は森田理論でいう不即不離の反対である。不即不離の人間関係とは、時と場合に応じて、付き合う人を替えていくという考えである。濃厚な人間関係ではない。薄い人間関係なのである。コップ一杯の人間関係ではない。コップに少しだけの人間関係である。特定のグループに過度に傾斜するのではない。数多くのグループに分散して身を置いておくことである。もともと人間関係は生活したり仕事をしていく上で、必要があってひっついたり離れたりしているものである。仕事や学校だけでなく、趣味や地域活動、あるいはボランティア活動など様々なグループに身を置くことが大切だと思う。集談会に参加することもそのひとつである。
2013.08.31
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集談会にはいろんな人がやってくる。うつ病、心身症、躁うつ病、パーソナリティ障害(人格障害),アダルトチルドレン、不安障害、依存症、不登校、引きこもりなどである。生活の発見会の森田理論学習は、神経症と器質的な病気が合わさっている人も一緒に学習している。生き方や考え方の誤りを学びたい人は受け入れている。ただし、器質的病気を持っている人はそれなりの配慮が必要である。特に「うつ」の人に対して森田的アドバイスは禁物であるという。我々生活の発見会の会員は「うつ」の予備知識も持っておく必要がある。一応学習はしているが確認しておきたい。斎藤茂太著 「躁と鬱」中公新書から対応策を紹介しておきたい。1、 今の苦しみや能力の低下は、病気によっておこっているもで、「本質」ではないから、必ず治るものであることを本人に納得させる。2、 とにかく休ませること。ただ、いきなり会社を休ませると、今頃会社ではどうしているだろう。自分が休んだために、上司や同僚に迷惑をかけているのではないかと、かえって罪の意識が強くなるから、会社の上司や親しい同僚等と十分連絡をとってやすませるという「根回し」をすること。上司から、「キミ、よくなるまで安心してゆっくり休みたまえ」とひと言いってもらえれば最高である。3、 自殺念慮がある場合には、自殺しないよう約束させること。4、 病的な状態にあるときは、退職、離婚、退学等の人生の重大決定をさせてはいけない。うつ的なときは、往々にして辞職願等をだしがちであるが、病状が好転したあと、かならずはげしく後悔するものだ。5、 うつ状態を元気づけてやろうと、無理に、旅行、ドライブ、観劇、運動などに連れ出してはいけない。ただ患者を疲労させるだけである。病状がよくなれば、おのずと運動、外出などしたくなるものである。6、 統合失調症は、レクリエーション療法や作業療法が必要だが、うつ病の場合はなにより休養を優先させたほうがよい。7、 「しっかりしろ」「頑張れ」「なにをぐずぐずしているのだ」「君も男だろ」などなど、激励の言葉は自信喪失、自己卑下など逆効果をもたらす。ああしろ、こうしろなどの指図のしすぎも同様である。8、 本人に同情することは必要だが、本人に同調して一喜一憂、周囲のものが大騒ぎするのはよくない。過度の情緒的密着的家族は、病気の回復を遅らせ、再発を招く。9、 ただし、やさしく、おだやかに、本人のいうことに耳を傾けることは大いに結構である。10、 病院からもらってきた薬を、早く効かせようと思って、指示以上の多量をのませるなど勝手な行動はいけない。必ず医師と相談してからにすること。11、 安易な見舞客はできるだけ断わる。会社の同僚等が、見舞にきて、元気づけようとしてにぎやかに騒いで行ったあと病状が悪化、それがきっかけになって自殺したというケースもある。
2013.08.31
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誰でも歳をとってボケて、犬や猫のような生活を余儀なくされることはイヤだと思う。しかし現実には認知症を抱えてしまう人は多い。そのうえ足腰が立たなくなって、植物人間のような状態になると、本人も苦しいし、介護する人も家族の負担も大変だ。集談会でも介護の話は、毎回のように話題として取り上げられる。認知症の人の脳はどうなっているのだろうか。まず記憶をつかさどっているのは脳の中央部にある「海馬」である。これが歳とともに機能不全に陥る。少しずつ記憶が薄れてくる。これは仕方ない面があるが、積極的に手足を動かすなどの生活を保っていると、全く機能しなくなるということはないようだ。次に嬉しいとか、悲しいとか、腹が立つとか、恐ろしいという感情ですが、大脳辺縁系の原始的感覚だという。脳でいえば、快、不快、好き、嫌いは扁桃体の役割である。意欲とかやる気は帯状回の担当である。これは動物などにもある。認知症になっても、最後まで残る感覚である。だから旧皮質といわれている。前頭葉は、大脳新皮質といわれるもので、動物ではほとんど発達していない。人間のみが高度に発達している。人間には理性があり、感情の制御があるというのは、前頭葉、頭頂葉、後頭葉の働きによるものだ。認知症の場合は、海馬や前頭葉などの働きが機能しなくなって起きる。例えば、さっきご飯を食べたのに、「嫁がご飯を食べさせくくれない」などという。まず海馬が機能不全に陥っているために記憶がないのである。反対に嫁に気に入らないことをされたり、言われた事はイヤな感覚としていつまでも残っている。拒否反応があるのだ。大脳辺縁系の原始的感覚だからだ。しかしそれを抑えたり、うまく立ち回るような前頭葉の働きが衰えているので、我慢するということはできない。その結果相手に不快なことや、してはいけないことを平気でしてしまうのである。認知症になった人が家族にいる場合どうするか。脳の働きを理解していれば、叱りつけたり、説教しても、そのいやな感じだけが蓄積されるのでほとんど意味はない。反対に悪影響が積み重なる。認知症の人は、今現在だけに生きているのである。それ以外のことは記憶にない。「嫁が自分の財布を取った」と言えば、財布が自分の目の前にないということを言っている。だから家族の人は、「そうか。それなら一緒に探そう」といって探せばよいのです。自分が置き忘れていることが多い。また自分で隠すこともあるが、大体同じようなところに隠しているそうです。見つけたら「あった。あった。ここにあった」と言って一緒に喜んであげる。そして渡してあげればよいのです。穏やかになります。すぐにまた別の問題を出します。同じ対応することが大切です。これは集談会で聞いた話です。介護は事実に従うと比較的うまくいくという話だと思います。ただ私たち自身としては、認知症にならないように予防することが大切です。脳が廃用性萎縮を起こさないように森田理論を応用して生活していく姿勢を堅持したいものです。
2013.08.30
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以前集談会に来ていた女性の人から「人間はなんで生きているんでしょう」と言われました。その時はとっさなことで返事ができませんでした。今考えると人間は誰ひとり目的を持って生まれてきた人はいないと思います。親の種族保存欲求か、強い性欲の結果として生まれてきた人が多いのではなかろうか。大体こうゆう質問をするのが神経質らしい。多くの生存競争の果てに、宝くじよりも高い確率を乗り越えて生まれてきたのだから、これからどう生きるかということに注意を向けたほうがよいと思う。私は人間が生きるということをこう考える。生きている限り、次から次へと難題が降りかかる。問題がないという人は一人もいない。それに対して、なんとか解決の手掛かりを模索して乗り越えようとする生き方、その意気込みを持ち続けることが人生なのではなかろうか。乗り越えることができれば自分も成長できるし、自信にもなる。生きる楽しみがでてくる。また次の課題に対して前向きにとり組むこともできる。自分ひとりでできないときは、人の応援を頼む。今できなければ時期が来るまでじっと待つ。今どんなに苦しくても、そうゆう方向に目を向けているという気持ちが大事なのではなかろうか。
2013.08.29
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私たちは負けず嫌いだと思います。負けず嫌いというのは闘争心が強く、いつも優越感を味わっていたいという気持ちが強い。ある面では全く勝負にならないが、ここだけは負けない自信がある。または負けないように頑張りたいという気持ちが強い。それが生きるエネルギーとなっている面があります。ところが世間一般では、それは人を差別することになるという。果たしてそうだろうか。昔高校時代では成績上位者は廊下などに貼り出されていた。それが普通だった。それを励みにしてさらに勉強をするエネルギーにしていた。通知表も中学は5段階評価、高校は10段階評価で評価されていた。高位に評価されればさらに意欲に火をつけていたと思う。今はそんな評価はしない。差別になるという。運動会でも差がつかないように足の速い人は足の速い人同士、遅い人は遅い人同士で走らせる。学芸会では主役が何人も出てくるという珍事もある。森田で考えるとどうなのだろうか。昔は立身出世は学業成績優先という時代だったのだが、もともと人間は、勉強はできないが運動能力はある。勉強は苦手だがガキ大将でみんなを統率する能力を持っている。そんなふうに、みんななにがしかの特徴を持っているような気がする。森田では、それを個性という。元々みんなそれぞれ違う能力を持っているものなのだ。一人の人間がすべてにおいて万能であるということはあり得ない。もし仮にそうゆう人がいれば、バランスを崩しているという考え方です。バランスが崩れているといずれ破綻します。だから違いを個性と捉えて、そのうえに立って自分のできること、すぐれている面を伸ばして発揮して生きていこうという考え方です。ということは能力の差は際立たせたほうがよいのです。自分の能力のある面を伸ばし、能力の劣る面は人に譲り、応援していく。そういうスタンスで生きていきましょうという考えだと思います。人間はみんな平等に顔があります。目が2つ。耳が二つ。鼻と口は1つずつついています。この点では平等です。ところがその形や配置は人によって全く違います。それが美人だったり、ハンサムだったりするわけです。機能的には同じなのですが、人間が勝手に価値判断をする事によってよし、悪しの判定をしているのです。今の人はどちらかというと面長の人がバランス的によいといわれますが、平安時代はまんまるいふくよかな顔立ちが良かったそうです。また体格的には昔のネアンダール人は体格がよく、今生存していたとしたらオリンピックでメダルを取るのはその人たちばかりだったろうと言われています。ところがそういう人たちは、力があるがゆえに頭を使って考えることをしなかったため絶滅してしまったのです。能力や見た目の違いは事実として存在しています。それは認めないといけないと思います。しかし価値判断して差別することは慎んだ方がよいと思います。差があるのに、あたかも差がないかのように取りつくろうとすることは問題だと思います。ましてや、私たちはいつも優越感を味わっていたい人間です。負けたり、人並み以下では悔しい。その気持ちは分かります。森田ではその事実を認めましょうといっているのです。それを人並みの域に引き上げようとしてはいけませんよと言っているのです。それは悔しいけれどもそのままに受け入れて、自分のできること、自信のあることで勝負してゆきましょうと教えてくれているのです。
2013.08.29
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森田先生は後年感情にはリズムがあるということを研究されていました。自分でもダンスをされ、ダンス教室にも関心を持っておられました。そもそも我々の注意作用には、緊張と弛緩のリズムがあって、一つのことに対して、いつまでも同じ強さの緊張で、注意を集中し続けることはできない。視覚でも聴覚でも、ある一定の物あるいは音に対して無理に注意を集中していると、初めはそれに注意が向いているけれども、いつとはなしに注意は散漫かつ、漠然となり、無意識の状態になってしまうのである。これは感情の法則3に該当します。「感情は同一の感覚になれるに従って、鈍くなり不感となるものである。」逆にいえば注意をあることに集中しておきたいときは、一端注意を別のものに向けてゆれば、そこで新たな緊張感が生まれてくる。しばらくして元に戻すとよいということです。実際に自分の経験で確かめてみてください。森田施設に入院したとき、まず1週間の臥褥があります。気晴らしになることはいっさいやめてただ寝ているだけというものです。これは弛緩状態を一週間も続けると、退屈でいてもたってもいられなくなります。この状態は裏を返せば、体と心の中に活動のエネルギーをため込んでいるというふうに考えることができます。体と心のリズムを利用しているのです。これは生活の中に応用することができます。例えばあと一カ月で大事なイベントを控えているとします。すると一ヶ月後には心身の状態、モチベーションを最大に持っていけばよいということが分かります。この弛緩と緊張のリズムを作り出してやればいいのです。例えば最初の20日ぐらいで徹底的に問題をつぶして準備をします。へとへとになるぐらい成功のためのシュミレーションを繰り返します。緊張感を保ち続けるのです。そして10日前ぐらいになると、急にそのことは一切忘れて他のことをするのです。そして3日ぐらいになってそろそろウォーミングアップを開始して本番を迎えるというものです。状態をいったん落としてしまうということです。すると本番を迎えるころには、状態が自然にあがってくるというものです。これが反対に5日ぐらいまでに神経をピリピリさせて、ある程度成功のめどが立ってしまって、本番を迎えるころにモチベーションが下がってくるという局面を迎えるのは得策ではありません。とくにスポーツなどでは決してよい結果が得られません。ご自分でも生活の中で確かめて、取り入れてみたらいかがでしようか。
2013.08.28
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2013/9月号の生活の発見誌にのった体験談はとても共感を覚えた。対人恐怖を克服した30歳の人の体験談だ。これは集談会で読み合せをして感想を出し合えばかなり得るところがあると思う。いくつも参考になるところがあった。さっそく紹介しよう。この方は高校卒業後引きこもりを始めて1年たったころ、友達との交際を絶った。それでも友達から連絡がきたという。「自分は、お前がヘンには見えない。でも会いたくないなら仕方がない。ただ一つだけお願いがある。生きていてくれ」この手紙に涙が止まらなかったそうだ。励まされたそうだ。「生きているだけでいい」という友達からの言葉は温かく、一時的にではあれ自分を許すことにつながったという。集談会に参加している人は、この精神を持ってもらいたいと思う。どんなに自分の価値観と合わなくても、恐る恐る参加した人を、軽々しく批判してはいけない。口に出したくなっても我慢してほしい。その気持ちがなければ、その人はもう二度と集談会に来なくなり、集談会は成り立たないから。もしそうゆう態度の人がいたら厳しく批判してもらいたい。この体験談でよいと思ったことが2つある。一つは学校や仕事を辞めなかったことだ。辞めようとしたことは本当に数え切れないほどあるが、高校も大学も仕事も、どんなに苦しかろうと、結果的にはしがみついていた。これがよかった。神経症の人は、これができないのです。早く楽になろうとして、簡単に仕事や学校をやめてしまうのです。後で悔やんでも悔やみきれないのです。森田先生も神経症で苦しくて仕事を辞めたいと言った人に、辞めたら神経症は治らないといわれています。2つ目。なるべく自分を隠さずにさらけ出す。自分の弱点だと思っている部分、例えば「人前で緊張して顔がこわばること」だったり、「自分に自信がないこと」かもしれない。コンプレックスは隠そうとするから肥大化し苦しみに変わる。苦しみは隠すものではなく見せるものなのだとこうことに初めて気がついた。これも大切なことです。むすかしいことですが、自分の弱み、欠点、ミス、失敗を赤裸々に表ざたにできるようになれば神経症はすぐに克服できます。今までの経過からすると一挙にそうなることは難しいです。大事なことはその方向に向いているということです。時間をかけて少しずつできるようになればよいのです。焦らないことです。集談会に参加し続けていれば必ず獲得できるようになります。集談会の仲間は、きっと受容して共感してくれるはずです。
2013.08.27
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森田先生のよく話されている宇宙はたえず猛スピードで動いている。一時も動きを止めることはない。月は地球の周りをまわっている。地球は1年かけて太陽の周りを1周している。その太陽は銀河の中心に対して、秒速300kmというスピードで、2億年かけて1周している。我々の住んでいる銀河系から200万光年のかなたには、アンドロメダ星雲があって、お互いの重力でもって秒速275kmの猛スピードで近づいているそうです。将来は2つの銀河は合体する運命にあります。このように宇宙の現象は常に流動して変化している。動いて変化していないと、宇宙の中で存在そのものがないということです。時間は常に過去ー現在ー未来へと続いている。過去へと戻ることはない。バックトゥザフューチャというアメリカの映画があった。タイムマシーンで過去の時代に行ったり来たりする映画だった。アインシュタインの理論によると、もし光速で走行するマシーンがあるとすると(秒速30万キロだが)、時間の進行速度は今と違って半分とか、3分の1というように遅くなるという。これは理論的に証明されているらしい。地球上で30年たった時、光速移動している人は10年しか経っていないということになる。つまり地球上の3倍生きていることになる。しかし大事なことは時間が後戻りしているということではない。遅くても前進しているということだ。時間は常に前に向かって絶えず流動変化しているという事実が大切であると思う。自然現象である感情も、絶えず変化流転している。我々ができることは変化の波にうまく乗ることだけだ。人間の意志の力でもってコントロールしようとすることは、人間の大きな思いあがりである。
2013.08.27
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クリントン元アメリカ大統領はアダルトチルドレンであると告白した。タレントの東ちづるさんもそうだという。ニクソン元アメリカ大統領は強迫神経症だという。アインシュタインやエジソンは発達障害で協調性がなく、恐ろしく自分勝手なアスペルガー症候群だという。日本では坂本竜馬や織田信長もそうだったのではないかといわれている。今から取り上げる夏目漱石は、かなり重症の精神疾患を抱えていた。3回危機に見舞われている。第一回は27歳ごろ。抑鬱気分、厭世的、神経過敏、癇癪、他人の行動に対する曲解、他人が自分に注目しているという感じ、自分を探っているスパイがいるという妄想的解釈などが襲った。第2回目は36歳ころ。ロンドン留学から帰国にかけてである。英国人が自分をバカにしている。つけ狙っているという被害妄想が中心症状で、下宿では、暗い部屋に閉じこもって泣いていたりした。第3回は「吾輩は猫である」が発表されて7年後ぐらいであった。漱石は生後間もなく里子に出されたり、父に過酷な扱いを受けていた。養父母の離婚、実母と13歳で死別するなど幼児期から不安定な状況にあった。猜疑心や警戒心などは、あまり幸福でなかった幼児体験からきているものと思われる。性格的には神経質性格特徴が当てはまり、とらわれやすい性格であった。つまり神経症を患っている我々と同じ性格特徴を有し、我々以上に過酷な境遇にもてあそばれたと推測される。現在、漱石が残したすぐれた文学作品には多くの人が注目するが、うつや神経症、統合失調症に注目する人はいない。しかし現実にはつらい厳しい人生であった。しかし創作意欲をずっと持ちえたというのが素晴らしい。多くの人は心や体の問題を抱えて、それでもなんとか日々生を紡いでいるのではなかろうか。それが普通の状態ではなかろうか。森田に「不安常住」という言葉があるが、不安を持ちながら、できる限り前進していく生活態度が大事なのではなかろうか。ここにあげた歴史に名を残した人でさえ、苦しみや葛藤を抱えていたのである。森田先生は境遇に柔順に、運命を切り開くという生き方を説かれました。私たちは神経症に陥り、つまずいたことを嘆くのではなく、むしろ自分を成長させるための課題を与えられたと受け取ることはできないでしょうか。つまずくことがなければ、森田に出会うこともなく、神経症を克服して、成長するチャンスはなかったわけです。克服すれば雨降って地固まるように、味わい深い人生を歩んでいくことができます。是非とも森田理論学習を継続していただきたいと思っております。森田理論の学習は大きな可能性を秘めていると思います。
2013.08.27
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「一人でいられる能力」があると、とても楽な生き方ができます。人の目が気にならないからです。自分がどんなに弱点があろうとも、欠点があろうとも隠す必要がないと思えれば、余計な神経を使わなくてすみます。斎藤学さんの言葉を引用させてもらいます。一人でいられる能力は、母親の中で芽をふき育ちます。子供は、母親にたっぷり愛され、見守られているという安心感を持つと、やがて徐々に母親の腕の中から離れていきます。最初は腕からひざの上へ、そして部屋中を探検し、家の中、さらに外へと、母親から離れて「一人でいられる」範囲を広げていくのです。これができるのは、離れていても、ちゃんと母親に愛され、「母親と共にいる」ことを確信している子供です。母親から離れて冒険しても、戻ってくれば母親はそこにいて、また抱きとめてくれる。こうした安心感があるからこそ、子供は一人で遠くへ出かけていくことができるのです。子供のころにたっぷりと甘えた子供は、親離れもスムーズで、さっさと自立してゆきます。反対に、このような確信が持てない子は、一人でいることが不安でしかたなくどうしようもない寂しさを抱えることになります。一人でいることに耐えられず、常に落ちつきなく動いて活動し、何かに依存していきます。では心の中に寂しさを抱えて大人になった人はどうすればよいのでしようか。済んでしまったことをいろいろと分析してもしようがないと思います。分析が明日につながるものならよいのですが、自己否定、親への恨みつらみを増殖するものは意味がないと思います。そもそも完全な親というものはいません。よいところと欠点が等分に持ち合せて釣り合いがとれているのが生きている証のようなものです。私はここに集談会に参加する意味があると思います。集談会では生きる苦しみを持ってやってくる人に共感して受容することが大切です。集談会では、ほめあい、のせあい、たたえ合う、励まし合うという温かい関係が求められます。そういう人間関係を持っている事はとても大切です。集談会は利害関係がありません。宗教や思想を強要される団体ではありません。また基本的には月一回、老若男女さまざまな人が集まり、比較的薄い人間関係で成り立っています。森田ではつき過ぎないで、離れ過ぎない不即不離の人間関係を学びますが、その点集談会は十分な用件を満たしていると思います。集談会以外にも2つ、3つとそういう人間関係の場が持てれば、「一人でいられる」能力は育ってくると思います。さらに集談会で神経質性格の活かし方を学習していけば、不安と共存しながらも満足できる人生を歩んでいくことが可能となるでしょう。
2013.08.26
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人間は本来助けてあげたり、助けてもらったりしながら生活をしています。そういう関係が普通です。ところがお互いに「生の欲望」を持てないで、依存することが目的となってしまうと大きな問題が起きてきます。「生の欲望の発揮」の生活態度が出来上がっていないと、生きがいが持てず、暇を持て余し退屈やむなしさを感じるようになります。人間はその心の痛みをいやすために、何かで埋め合わせをしようとします。そのひとつとして「共依存」というのがあります。夫婦でいえば、酒のみで金遣いが荒く、身の回りのことが満足にできない夫は意気がりながらも、ほとんど妻に依存しています。一方妻も困った夫だと思いながらも、かいがいしく夫の世話をする事を、生きがいにしてしまっているのです。妻は献身的で、奉仕的な生き方をしているように見えますが、実は自分の「生の欲望の発揮」を放棄して、心の癒しを求めているのです。夫は妻に、妻は夫に互いに依存して生きているのです。「共依存」の片方がいなくなると途端に生きがいが失われます。次の相手を探すようになります。この場合また「共依存」の相手を探すようになります。それは「共依存」が唯一自分の生きがいに結びついているからです。彼らはパーティなどで離れたところにいても、そういう相手はすぐに見分けられる能力を身につけているのだそうです。「共依存」者は、斎藤学さんによると次のような特徴があります。私なりに意訳して紹介します。1、 相手が沈黙したり、不機嫌そうな表情を見せたりすると、自分が何か悪いことをしたのではないか、自分に何か欠陥があるのではないかと考える。2、 自分の感情に対してそれをやりくりしたり、逃げたりする。また表現することを抑制する。3、 相手に献身的に尽くしているのだから、その人は自分に感謝して、服従しなければならないと考える。世話をする相手が自分を無視して、自分以外のものに愛情を注ぐことは決して許さない。4、 自己否定が強く、他者にこびること以外に自己主張の方法をもたない。どうでしょうか。神経症で悩んでいる人と「共依存」の人は、思考パターン、行動パターンは驚くほどよく似ています。いつも相手の動向を監視して、がんじがらめに縛りつけています。その基本的な共通点は、どちらも自分の「生の欲望の発揮」というところから目をそむけているということです。森田理論では「生の欲望の発揮」は、土台部分です。理論学習の出発点です。古閑義之先生は次のように言われています。「生の欲望の提唱は、森田先生の晩年において強く主張された重要な事項で、この生の欲望の提唱こそ、森田の神経質解明の根本理論と主張してやまない」
2013.08.25
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私の参加している集談会では、「生活森田・応用森田」というコーナーがある。これは神経質者は、好奇心がとても旺盛で、他の人の趣味や行動、考え方などに影響を受けて自分の生活が大きく膨らむ可能性があることに目をつけて企画したものである。毎回15分の時間を予定している。最初はいろんな趣味や生活ぶりが多彩に紹介されていたが、発表してくださる人がいなくなった。そこで先月は「お勧めのテレビ番組」の紹介だった。みんなから発表してもらった。その中で、ドラマ「半沢直樹」を見ている人が多かった。私はそれまで全く見ていなかった。私もこの情報をもとにして、早速録画してあとで見てみた。痛快なドラマだった。大手銀行の支店長の不正融資を、部下の融資課長が見破り、支店長を失脚させる内容であった。今後の番組では、さらに本店常務などを失脚させるという筋書きだろう。私の感想です。自分が一度はやってみたいこと、言いたいことを、自分になり変わって「半沢直樹」が正々堂々と、組織の上層部に挑み、かつ成果をあげているのが気持ちよかった。自分の痛めつけられた仕打ちに対しては、10倍返しで仕返しをしていくのであるから、ストレスのある人にとっては痛快でたまらない番組だろう。事の顛末に対して、スリルも感じることができる。特に次のような問題を抱えている人にとっては、共感を得ていると思う。毎日毎日遅くまで仕事でサービス残業している人。仕事のキャパが自分の能力の限界を超えている人。ノルマがきつく、いつもノルマを達成できずに、上司から叱責されている人。得意先やお客様などのわがままに対して、常にトラブルを抱え込んでいるような人。思っている仕事を与えられず、閑職に追いやられている人。会社の人間関係でノイローゼ気味になったり、鬱状態になっている人。同僚との出世競争に巻き込まれてヘトヘトになっている人。仕事に生きがいを見出すことができないけれども、生活のために辞めるわけにはいかない人。その他いろいろあるだろうが、現状の仕事や人間関係にとてつもない憤りを感じている人である。この日曜日のドラマで、月曜日から仕事のエネルギーが湧いてくればよいのだろうが、ご覧になっておられる方はいかがでしょうか。上に書いた問題は私の問題でもありました。私がどうして乗り切ってきたのか。いくつかありますが、その一つの基本的な考えをご紹介しましょう。私は集談会で、会社は利潤をあげることが唯一の目的だから、どっぷりその渦中に巻き込まれてはいけない。「月給鳥」という鳥になって家族のための餌をとってくれば十分ではないかという話を聞き、それを第一に心がけました。その方針で、定年近くまで勤め上げれば御の字だと思います。難しいかもしれませんが、肩の力を抜いて、「ほどほど」に仕事に取り組まれたらと思います。この考えには、反論がある人も多いでしょうが、最後に笑うことができる人は臨機応変、柔軟性のある人だと私は思います。
2013.08.24
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だから人間は、自分が所属している仲間内のグループから排除されてはならない。仲間に受け入れられ、承認されることが、なにはさておき一番大事ということになる。すると最大の阻害要因である、自分の弱み、欠点、ミス、失敗を世間にさらけ出すことは決してできるものではない。私がそうだったのだ。これはそもそも認識の誤りなのだが、自分がその渦中にいるとそうは思えない。いったん集団から排除されると、もう二度と仲間に入れてくれることはないと感じる。そうなれば自滅するしかないと思った。そこで自分の弱み、欠点、ミス、失敗などは、仲間に見つからないように隠す。弱み、欠点、ミス、失敗などが存在することは仕方ないが、みんなに見つかるということが恐ろしいのである。あってはならないものなのである。隠せない場合は、精一杯取り繕うとします。こうして自分を守ることに汲々としてしまうのです。毎日が針の筵の上にいるような感じです。本来の自分の欲望に従って、自由にのびのびと生きていくことを忘れて、毎日葛藤と苦悩の道を歩んでいくのです。それから逃れるためにはどうすればいいのか。私はその答えを森田理論の中に見つけました。それは対人的な不安は不安として持っていてもかまわない。そういう気持ちを持ったまま生きていければよいということでした。決してしてはいけないのは、スッキリと悩みを取り去ってしまおうとすることです。もしその道を選べば、坂道を転がる雪だるまのように、どんどんと苦しみは大きくなり、さらに加速度を増してゆきます。不安を持ったまま生きていくことは実際に苦しいですが、もしそうゆうことができるようになると、一つの素晴らしい能力を獲得したということです。この能力は、ちょっとやそっとでは獲得できるものではありません。でもこの能力の獲得は大変魅力があります。森田理論の学習と実践で獲得することが可能となります。皆さんも不安を持ったまま行動できる、という能力を身につけてゆきましよう。そのための応援は惜しみません。森田では最終的に事実に服従することを学習しますが、その前提として不安を抱えたまま行動できる能力を獲得するということが大切だと思います。
2013.08.24
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私は対人恐怖症である。私の奥底には他人から社会的に抹殺されてしまう、という恐れやおびえが常につきまとっている。私のDNAのなかにしっかりと根付いているものです。どうして抹殺されるといけないのか、一人孤立すると死んでしまうからである。生きることも地獄の苦しみなのだが、なんとか死だけは免れたいと思っている。社会的な死を極端に恐れている。森田先生は死を究極の恐怖といわれています。私もそうなのです。以前「いきものがたり」という映画を見た。その中で青森の一頭の子猿を追っていた。その子猿は親と死に分かれて、群れの中でけなげにも一人で生きていた。厳しい寒さがやってきた。雪が深々と降る中で暖を求めて、他の親子ザルたちのもとへ身を寄せようとした。どの親子ザルたちも受け入れてくれない。みんな追い払うのです。最後はブルブルと震えながら一人でいるしかない。食べ物もない。苦しそうでした。そのうち春になった。大勢のサルたちが山から下りてきた。ところがその子猿は姿を見せなかったのです。寒さの中で、一人寂しく死んでいったのだろう。こんな悲しいことはない。人ごととは思えなかった。我が身に引き寄せると、集団の中で孤立して同じような目に遭わないとも限らない。人間は社会的な存在である。社会を離れて無人島のようなところで、一人で生きていくことはできない。そもそも人間の基本的欲求である衣食住が確保されていない。外敵も多いだろう。話す相手もいない。生活するための道具も何もない。たとえ命はつながったとしても、それ以上のものはない。死んだも同然だ。むなしいかぎりである。
2013.08.24
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皆さんもYOU TUBEはよく利用されていると思います。私は集談会後の居酒屋での懇親会で教えてもらうまでは知らなかったのです。私にとってはとても役に立つ貴重な情報でした。6年ぐらい前だと思います。現在音楽や演芸でよく利用させてもらっています。ほとんどの聴きたい音楽はそろっていますね。私はPCM録音機にダイレクト録音して利用しています。この録音機も集談会で教えてもらいました。CD並みのクリアーな録音ができるというのが気に入りました。再生は、スローにしたり、リピート機能を使ったりといろいろ利用しています。カードを入れてもうすでに30時間分ぐらい録音しています。サックスの練習もこれなしでは上達しないと思っています。演奏の本番を迎えるときは、心を落ち着けるためにイージィリスニングがよいと思っていましたが、先日ある人から、それはやる気モードに転換できないといわれましたので変えてみようと思っています。
2013.08.23
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ある専業主婦の人のお話です。二人の子どもが小学校に上がりやっとゆとりがでてきました。それまでは炊事、洗濯、掃除、子供の世話、夫の世話で忙しく毎日があっという間に過ぎていたそうです。子供が小学校に入ったら自分の好きなことをしようと思っていたというのです。ところが、自由な時間が増えたというのに、誰もいない家の中でなにをしていいのか分からない。焦燥感に襲われたというのです。テレビを見たり、新聞や雑誌を読んだりしても落ち着かない。友達に電話をしても仕事をもっていたり、子育て中でゆっくりと話せない。パートに出ることも考えましたが、自分のしたいような仕事はないというのです。この先こんな不安を抱えて歳を重ねていくことが、とても不安だというのです。金もある、時間もある、欲しいものはなんでも食べることができる、欲しいものはなんでももっている。でも何もすることがない。なにも面白いことがない。自分のやりたいことがない。自分はなにをしたいのか分からない。こんな日本人が増えています。森田でいう「生の欲望」の欠乏症なのである。欲望自体が湧いてこないのである。森田先生は欲望がない人は哀れであるといっています。欲望が持てない人はどうなるか。まず退屈を紛らすために補償行為に走る。アルコール、ギャンブル、セックス、ドラッグ、仕事、過食、ゲーム、テレビなどで心の憂さを晴らそうとする。次に意識が自分の身体や心、他人の視線に向いてくる。森田でいうように意識の内向化が起きてくるのである。神経症のもとになるものである。また集団から仲間はずれにされること、排除されることに敏感になる。精神的にきわめて危険な状態になる。だから生の欲望をもち、生の欲望の発揮に力を注ぐことは、活き活きと生きようとすればするほど極めて大切なものである。でも目標や夢は突然与えられるものでも、降って湧いてくるものではない。森田理論を思い出してほしい。何かを見つめていると、それなりの感じが起きてくる。感じに従って手を出していく。弾みがついてくる。さらに創意工夫をする。こうした生活の繰り返しの中で自分の欲望は高まっていくのである。人生の目標や夢はこうしたプロセスの先に見えてくるものである。そうしたものを持つ人であれば生きがいがなくて、なにも面白いことがない。毎日退屈で苦しいということはないと思う。
2013.08.23
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森田理論では神経症が治るということについて、主に次の3つの段階があると解説している。1、精神交互作用の打破2、思想の矛盾の打破3、「生の欲望」に沿った生き方をめざす森田先生は1の段階を小学校卒業程度、2の段階を中学卒業程度、3の段階を大学卒業程度と言っておられる。丸山晋先生はそのうえに大学院卒業程度のことも言及しておられる。私の考えですが、1は今まさに神経症で、観念と生活の悪循環で生活が停滞し、蟻地獄の中にはまったような人はすぐに取り組むべき課題である。ほとんどの人は比較的短期のうちに蟻地獄から這い出る。1は蟻地獄から這い出たとしても、その生活態度自体は、堅持しないと元のもくあみとなるので注意が必要だ。続いて2が達成されないと、生きづらさ、心のもやもやは解消しない。1の段階で森田理論の学習を止めてしまう人がいるが、生き方が改善していないので心の中はいつも曇天のような状態である。また何かのきっかけで神経症の再発を容易に招く。2の学習が不十分なのである。これは比較的大きな壁であるので、自分ひとりで乗り越えることはかなり難しい。ピアカウンセリング、仲間との相互学習でまず理論を正しく理解すること。次に事実本位・物事本位が生活の中で実践できるようになること。森田先生がよく言われる修養を積んでいくことである。ここが森田理論学習の最大の難所となる。こうゆうときは仲間の力を借りることである。ここを乗り越えれば、どんな状況に遭遇してもほぼ乗り越えてゆける。その道は確かに森田理論学習と実践の中にある。3は難しく考える人が多いいが、私たちは森田理論を解釈するために学習しているのではないと思う。自分の考え方の誤りを正し、森田理論に沿った生活態度を身につけるために学習しているのだと思う。真意を汲み取り、自分なりの言葉に置き換えて理解していくことが大切だ。森田先生は次のように説明されている。この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度のものであろうか。私は大学卒業程度については次のように理解している。比較対象のない世界だと思います。自然と同化し、なりきった世界。「かくあるべし」が小さくなった世界。つまり思想の矛盾を乗り越えて、事実に服従するような態度が出来上がってみると、それは実に自由な満足感に満ちた生活がよみがえってくる。本来の人間の生き方に立ち戻ることができる。どこまでも「生の欲望の発揮」に邁進するような状態になってくる。そのことを言っているのだと思う。次に丸山先生の言われている、大学院卒業程度であるが、これは「小我に生きるのではなく大我に生きる」ことと言われている。私の考えはこうだ。大学を卒業して、どこまでも「生の欲望の発揮」に邁進するような状態というのは、反面とても危険な面をもっている。つまり「生の欲望」の暴走が起こることである。ここでは不安の制御が働いたうえでの「生の欲望の発揮」でならないといけない。制御が働いてくれば「生の欲望の発揮」が一人暴走することはない。本来の「生の欲望の発揮」というのは、将来が今より良くなること、他の人のために尽くすこと、この二点に集約されてくるものと考えています。
2013.08.22
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私はこのプログをはじめてずいぶん成長させていただいている。思いがけない発見の連続である。特に「純な心」、「かくあるべしの弊害」はこのプログで深耕することができました。これをはじめてないと、自分は停滞したままだっただろう。今後は5年で2500投稿、10万アクセスを目標としている。常に投稿原稿は30ほど確保している。途中でダウンするかもしれないが、毎日1投稿をめどにできる限り頑張ってみたい。今のところ単行本、文庫本などからネタを仕入れている。毎日一冊は読むようにしているが、はずれの本も多いのである。週に1冊か2冊刺激を受ける本に出会えればよしとしている。ところで毎日読んでいただいている方には感謝しています。ときどきお会いする人から感想をいただいています。励みになっています。そこでお願いですが、できたら感想や反論を聴かせていただきたいなと思っています。勝手なことばかり書いているので、ここは違う、森田が全然分かってないじゃないかと思われていることもあるのではないかと思います。さらにこうゆう考え方もありますよ。とかここのところをこうゆうふうに発展させたらいいのではというご意見がありましたら是非お聞かせ願いたいのです。さらにそれを読まれた他の読者の方に、よい影響を与えるのではないかと思っているのです。必ずしも適切なご返事ができないかもしれませんが、ともに学習する仲間としてよろしくお願いいたします。
2013.08.21
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今度の土曜日は養護老人ホームの慰問がある。私はどじょうすくいとサックスの演奏がある。サックスの演奏で新しい発見があった。サックスは吸う息よりもは吐く息のほうが圧倒的に多い。これは太極拳やヨガの息ずかいの基本であると聞いた。吸う息は鼻から短く、吐く息は口から3倍ぐらい長くするのだそうです。知らず知らずにやっていたこととはいえ、健康に大いに影響していることは初めて聞いた。そういえば仲間の人は70代だか元気いっぱいである。私が下手なりにサックスを手掛けていたおかげで、少なくとも発見会の人が新規に2人はじめられた。これもうれしい誤算である。すぐに私以上の演奏家になるだろう。近くで習いたいという人がいれば、月一回か2回ぐらいなら無料で教えたいと思う。レパートリーは100曲以上の楽譜は持っている。森田を勉強して演奏に役立ったことがある。楽器というのは100%吹けるようになるまでは、指遣いなどは意識して練習しないと上手にならない。ところが本番で演奏するときは、意識がでてきては困るのである。練習で培った指遣いが無意識に動いてくれてはじめてうまくいく。少しでも意識がでてきて、うまくいくだろうかとか、この次はどこのキーだったかなと頭にうかぶと突然乱れてしまう。今では楽器の演奏は、自分の中に二人の自分がいると思っている。猛練習で10回やって8回ぐらい正確に吹けるようになると、意識している自分が、無意識の自分に対して間違ったら自分が責任取るから思い切ってやってこいよ。と言って送り出すようにしている。不思議とそのほうがうまくいくのです。森田の威力をつくづくと感じている次第である。
2013.08.21
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ガリレオ・ガリレイは、「見ないと始まらない。見ようとしないと始まらない」という言葉を残しています。これは森田理論を学習しているものからするととても重い言葉です。それまでは天動説が世界の主流を占めていました。つまり人間は、自己中心的に自分を中心に太陽さえも地球の周りをまわっていると考えていたのです。現代の人間からするとあきれて反論する気力もわきません。でもガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて、「それでも地球はまわっている」と主張した為処罰されてしまったのです。事実に正直に生きた人でした。望遠鏡で観察しすぎて最後には目がやられたそうです。人間は事実を反論する前に、なぜ事実を調べようとしないのでしょうか。私たちも事実は見なくたって分かっているじゃないか。観念で解釈して、すぐに分かったようなふりをして、対策を立てようとします。事実関係を確かめるよりも、すぐに対策を立てたがります。森田を学習した人は、分かっている事でも、一端事実をこの目で確かめる。現地に出向いてみるという態度は身につけたいものです。事実を確認しないで、すぐに結果を断定する。結論を急ぐ、とりまとめを急ぐ、要するに君の言いたいことは何だとせまる、すぐに多数決で決着する。こういう方向は慎みたいと思います。そういう方向で動くというのは反森田的な考え方です。森田先生はいつも事実の羅列です。膨大な事実の前に自分の意見というのは加えておられないのです。森田先生は18歳のときからずっと日記を書いておられました。簡潔に1、2行ものが多く、簡単なものはいつ起きて、いつ寝たとだけ書いてある。事実の羅列だけです。感情的、気分的なことは書いておられません。例えば年賀はがきの枚数について。書いた原稿の枚数について。完成するまでの日数について。病院へ行く道すがら食べたアンパンの数について。父からの仕送りの額について。ちなみに総額2587円だった。自分でこれをためるのに8年かかったといっている。妻とのセックスの回数について。月末には集計までしておられます。誰だって隠したいことはある。森田先生にはそれはない。事実を具体的にということに徹底してこだわっておられたのです。事実を観察する。事実をどこまでも掴みとろうとする執念は、最初に取り組んでゆきたいところです。
2013.08.21
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現場監督という仕事がある。私はよいイメージは持っていなかった。学生時代に炎天下のもと、ある工事現場に資材運びのアルバイトに行ったときのこと。その現場監督が重い資材をもっと多く持って運べと指示するのである。水を飲もうとしているとさぼるなといって叱るのである。私はその時、現場監督は軍隊の指揮官のように力で指示に従わせる仕事だなと思いました。最近マンションの大規模修繕工事があり、現場監督という人の仕事ぶりを見ていて、考え違いをしていたことに気がつきました。その監督がいうのに、現場監督は仕事がうまく進行しないという前提のもとで仕事をしているのだ。現場が何も問題なく過ぎるということはあり得ない。そしたら自分の仕事は三分の一ぐらいになってしまう。飯の食い上げだというのである。そういう考え方もあるものだ。現場監督はとにかく職人の段取りが一番だ。たとえばペンキを塗る職人。人を集めるのが一苦労。それも必要な人員を必要な時に確保する必要がある。普段から信頼関係を作っておかなければ一番に自分のところに優先してはいってはくれない。職人さんは他の業者との奪いあいなのだという。そのために気を使っていることは、気持ちよくみんなに挨拶をすること、仕事の材料や資材がきちんと準備されていること。そして保管場所が整理されていること。きちんと休憩したり、食事をする場所を確保してあげること。駐車場を確保してやること。居住者の室外機や鉢物、物置をかたづけておいてやること。仕事の邪魔になる掲示物を取り除いておくこと。暗いところは照明を確保してやること。足場などの安全には十分配慮してあげること。トラブルを起こしそうな住民の情報はきちんと事前に伝えておくこと。暑いときは冷たいもの、寒い時は温かい飲み物の差し入れをすること。なるべく職人さんの近くで話を聞いてやること。などだそうです。いわゆる雑用の連続なのである。一つでも職人さんにへそを曲げられると、たちまち仕事が滞ってしまう。この仕事は神経質に向いていると思いました。神経質は事前に予測される小さな問題にいろいろ気がつきます。それをめんどくさがらずに一つ一つ手を打っておけば仕事は比較的スムーズに流れていくということです。大事なことは、思っただけで終わるのか、体や手を動かすのかの違いです。小さい仕事を先に先におってゆけるようになると、好循環になるのだなと感じました。
2013.08.20
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傾聴の研修で問題が2問だされました。次の中からよりよい答えを見つけてください。なおこの問題は看護師さんの研修で出された問題だそうです。問題1 病気で入院しているおじいちゃんへの対応。「私がこんなに苦しんでいるのに誰も私のつらさを分かってくれません」「入院して3年になるので家族もいい加減疲れてきたみたいです」「私がつらいというと慰めてくれていた妻も、今ではやさしい言葉一つかけてはくれなくなりました」看護師さんの答え1.私たちも、ご家族の方々も、あなたのことをいつも見守っているんですよ。2.つらいのは分かるけど、頑張らなくちゃだめよ。3.あなたのつらさを誰も分かってくれないのね、4.あなたが弱気になっているからそんなふうに思えるんじゃないでしょうか。5.奥さんの最近の態度はどうですか。第2問 入院している奥さんへの対応「主治医の先生はやさしいし話も聞いてくれるよい人だということは認めるけど」「こう病気が治らないではいつまで見てもらってもお金ばかりがかかって無駄だと思うの」「何とかならないでしょうか」看護師さんの答え1.先生をどう思っているのか、もう少し聞かせてください。2.ちゃんと指示に従っていれば、そのうち治るはずよ。3.私からも相談しておきましょうか。4.早く退院したくて焦っているのね。5.主治医を交替してほしいのね。森田では私はあなたのおっしゃられた事をこのように理解しましたが、これでよろしいですか。間違いありませんかというふうに答えます。すぐに解釈して自分の意見を述べることではありません。自分の意見を言う前に、まず相手の言葉を受け入れて、理解したいと思っています。という態度で接するのです。こうすると相手は自分のことを受け入れようとしてくれている人だと感じます。そうすると次第に打ち解けて次の話をしてくれるようになります。オウム返しということに近いかもしれません。問題1では3が、問題2では4がそれに近い言葉です。他の答えは原因を追究しようとしたり、相手のことは無視して自分の持論を述べています。また世間一般の価値観を持ちだして押し付けています。こういう対応は相手にすぐに伝わります。相手はこの人には何を言ってもダメだと即座に判断してしまうのです。共感的、受容的、理解的態度が全く感じられないからです。
2013.08.19
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自分は人の思惑ばかり気になる。いつも人の動向が気になる気の弱い人間である。自信を持って積極的に行動できない。いつも他人の思惑が気になる。人が恐ろしくて雑談の輪に加われない。異性と気軽に話すことができない。自分はいつも仲間外れにされて孤独である。人前にいるよりも一人の方がほっとする。そんなふうに自分のことを感じて、そうでない自分に変身しないといけないと考えているとしたら、葛藤や苦悩が始まります。仮にできたとしても、いつも人前で明るく、楽しい自分を演じているととてもストレスを感じます。それは自分を押し殺して、いつも他人の言動に一喜一憂しているからです。本来の自分とは違う自分を演じているからです。自分の人生を生きていないからです。そんなことを思っている人がまず心がけたいことは、そんな自分の事実を素直に認めてやることです。人のよい点と自分の欠点を比較して価値判断をしてはいけません。他人の思惑を敏感に気にする、現実の自分をよく自覚することです。もっといいのは、自分はそういう「特徴」を持っている。そういう「個性」を持っている人間であると認識することです。そこがこれからの人生の出発点となります。そうした自覚ができてくると不可能なことを可能にしようとする努力はしなくなります。その個性をいかに活かしていくという方面に意識が向いてゆきます。成長してゆける道が開けてきます。自分の特徴や自分ができることは何かを考えるようになります。それを活かして生きてゆこうとするようになります。自分の元々ある「特徴」や「個性」を活かして人生を楽しむことができたり、人の役に立つことができるようになると目の前の視界はずっと良好になります。人の思惑を気にして、小さい事が気になるという心配性は、反面「するどい感受性」を持っているということです。人の気持ちもよく察することができるし、芸術や文化、スポーツの方面でも活躍できる素質があるということです。孤独であるという事は、人の意見に煩わされないで、一人で思索して、より深く分析できることです。その特徴を最大限に活かしてやればよいのです。また、孤独であるということを活かして自分だけの生活を楽しむ方法はいくらでもあります。孤独であると自分を否定して、卑下する必要は全くありません。孤独でないとできないこと、孤独を活かして楽しむということ、これをまず前提として、しっかりと土台を築いてゆけばよいと思います。その土台がしっかりしていれば、なんとか生きていくことができます。若いうちは苦しみでのたうちまわっていても、森田理論でそのからくりが分かってくれば、しだいに味わいのある人生に変わってゆきます。
2013.08.18
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そのために森田理論では、大きく分けて2つのことを提案しています。1、不安などの注意をそらす、分散させるということです。新しい実践や行動を起こすことによって、新しい感情が養成されます。古い嫌な感情に上に、新しい感情が積み重ねられますと、古い感情の比重は低下してきます。高い目標や、大きな夢、ライバルをもって競争心を駆り立てて積極的に行動できるようになれば、症状は割合早く軽減されてくるでしょう。森田では精神交互作用の打破と言います。2、「なりきる」ということです。ここでいう「なりきる」とは、何かに集中するということではありません。不安などを邪魔者扱いしないということです。例えば平行して走る電車の片方にのって別の電車を見ているとします。二台の電車が同じ速度の時、電車が全く動いていないような錯覚に陥ることがあります。実際には動いているのですが、向かいの電車と同化しているために、動きを感じないのです。感情も同じように溶け込む、同一化する、反発しない、仲よくするということになれば、あるにはあるが意識化しない状態となります。実際には感情をよく見て味わう、受け入れる。さらに気に入らない自分も他人もそのままに受け入れる。理不尽な自然災害などもそのままに受け入れる。ということになりますと、注意が意識化された状態から、無意識化された状態に転化してくるのです。森田では事実に服従して生きるといいます。事実唯真の考え方です。この二つの方向を森田理論は目指しているのです。それが森田理論に沿った一番安楽な道です。本来の人間の生きる道といってもよいでしょう。このように森田理論はスッキリしているのですが、実際には注意を無意識化できなくて、反対にますます意識化の方法に向かって苦しみを増している人が多いのです。プレッシャーや不安に押しつぶされる人は、プレッシャーや不安を最初から自分の「敵」とみなしています。反対にプレッシャーや不安をエネルギーに変えることができる人は、プレッシャーや不安を「味方」として認識しています。この対応は正反対です。入学試験などを受ける時のことを考えてみましょう。ほとんどの人は程度の差はあれ学習を積んで試験に臨んでいます。でも試験前はとても緊張します。合格できるだろうか。1年の成果が一発ででるわけですから気にしない人はいません。全員不安の極致に達しています。でもプレッシャーや不安を「味方」として認識している人は、試験が始まると開き直ることができます。一心不乱に問題と格闘します。ところが、プレッシャーや不安を最初から「敵」とみなしている人は、頭が真っ白になり、どこから手をつけようか迷っています。口の中がからから。暗記したことも度忘れ。隣の人の鉛筆の音が気になって仕方ない。そしてあと10分です。と言われたころにまだ半分しかできていない。もう駄目だ。自分のすべてを否定して、パニックに陥ってしまうのです。またプレッシャーや不安に押しつぶされる人は、失敗するということをとても恐れています。本来失敗することによって成功の足がかりをつかむものなのに、失敗する自分は許すことができないのです。失敗を経験しないで成功したいと思うために、目の前に立ちはだかる壁がとてつもなく大きく見えるのです。一度でも失敗すると自分の全存在を否定してかかる人もいるのです。プレッシャーや不安をエネルギーに変えることができる人は、「失敗は成功するために階段を上っているようなもの」というふうに考えます。小さい失敗を数多く積み重ねると、しだいに成功に近づくとみなします。失敗に学んで成功の足がかりを着実に積み重ねていけるのです。
2013.08.17
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不安などの意識化された感情を、無意識化するということについて考えてみましょう。プレッシャー、ストレス、緊張、心配事、不安、恐怖、不快感、違和感などはある出来事に遭遇して自然に湧き起こってきます。それは気になる、イヤなもの、なんとか無くしたい、取り除いてスッキリしたいという気持ちになるので、ことさら意識化されてしまいます。楽しい、嬉しいという気持ちもあるのですが、これらはすぐに消えてゆきます。不安などの対処法は2つに分かれます。一つ目は、それらの感情に学んで積極的に動く必要のあるもの。早急に手を打たないとあとで取り返しのつかなくなるものです。例えば自分が不慮の事故で亡くなった時、残された家族は路頭に迷うのではないか。そうした不安があると、生命保険に加入するという行動を起こします。森田では「不安は安心のための用心である」と言います。不安に学んですぐにでも手を出さないと大変なことが起こりえます。ただ1つ目はそんなに多くはありません。松下幸之助氏は、1割か2割であるといわれています。あとは自然の摂理で動いているものである。つまり出来事のほとんどは、人間が手をだすことによって次から次へと問題を発生させるのです。ですから多くのものは、安易に行動をしないで、事実を十分に認識して、受け入れるという態度が大切になります。人間の欲望のままに手を出してはいけないのです。これが本日のテーマである注意の無意識化に結びつきます。森田では神経症の克服について、注意が自分の気になる一点にフォーカスされた状態から、無意識、潜在意識へと拡散変化することによって治癒されると考えています。
2013.08.17
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集中というのは2つの意味がある。2つが整って初めて集中と言うのである。一つは自分のこうしたいという目標に向かって、一心不乱に立ち向かっていく態度のことである。野球でいえば、打者はヒットを打ちたいと思って打席に立つ。ピッチャーの配球を予測し、ヒットやホームランを打つために投げた球に集中しないといけない。その時、バットを持っている手の方に注意が向いたりしてはいけない。ましてや自軍の監督やコーチの思惑を気にしているようでは、ヒットは打てないだろう。常に注意は相手ピッチャーに向いていなければならない。「森田正馬全集5巻」で次のように説明されている。人間の自然な心は、常に目的物に向かってのみ注意が集中するのが普通である。薪を割ろうとすれば、薪の中心に向かって注意が集中してくるのである。ところが神経症の患者は、打とうとする斧に添えた手の動かし方や、自分の姿勢のことばかりに注意が向いて、さらにそんな姿を人はどう思うだろうかというふうに発展して、益々注意の向けどころが間違ってくるのである。球を受ける時は、受けるキャッチャーのミットに注意が移って、しっかりと前を見据えておればよいけれども、ボールの状態やグローブの動かし方、自分の手元や身体の方にばかり気が向いていけば、うまく投げることはできなくなってしまう。そんなときは、ハラハラしないようにと心を自分のほうに向けるのではなく、ハラハラするまま不安のまま、ただ一途にしっかりと投げる方向を見つめておればよいのである。これが一つ目の集中である。実際は勝ちたいという気持ちが強ければ強いほど、一点に集中は難しい。しかし森田を学習すればそうした態度を身につけることができる。さてもう一つの集中は、野球でいえば、風の向きや、守備体系、ピッチャーの癖、キャッチャーの傾向、いままでの対戦結果、ランナーがいるかどうかなどに神経を使わないといけない。それらを無視して、ただ来た球を打つだけというのは、失敗する可能性が高い。森田先生は集中するというのは「無所住心」のことだといわれている。森田先生の弟子である井上常七さんは次のように説明されている。森田先生曰く、「僕は今君の診察をしているんだけれど、(庭で作業をしている患者が見えるんですね)あの作業は間違っていないか、どうしているかなと見たり、それも気になる。外来の患者が気になったり、いろいろ気にしながら、君の事を診ているんだ。少なくとも3つ4つのことに心が流れてるんだ。これが雑念でなくてなんなんだ。」またお釈迦様は雑念の親方だっていうんですね。絶えず自分の生活ばかりでなしに、人類全体の苦労、悩みまでが気になって、絶えずそれを考えてああいうことになった。雑念というのはあるほどいいんだよ。以上、集中とは2つの意味があることを説明しました。これが連携をとれていないとスムーズな行動とはなりません。例えばゴルフで一点に集中して打つことができても、向かい風を頭にインプットして力を加減したり、強風がやむまで少し待つなどしないと、球ははるか手前に落ちる。このことを頭に入れておいてください。
2013.08.16
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北京オリンピックで活躍した北島康介選手は、こんなことを言っていました。「競技前は緊張状態ですごく不安で、不安で。ただ、始まった瞬間、何か別の力が働く。」誰でもここ一番の大勝負ということになると、プレッシャに押しつぶされそうになる。それは人間みなそうだと思う。そこまではみんな同じ心境になると思う。北島選手も同じだ。だが、大舞台で活躍し世間の注目を浴びる人もいれば、プレッシャで緊張し、普段の力が出せずに敗れ去る人もいる。どこが違うのか。考えてみる価値がある。練習では100%できても、大舞台で敗れ去ったり、失敗する一流選手は、本番になってもプレッシャを引きづっている人である。ゴルフなどでは、ここでパットを決めないと優勝を逃すという時にでも、キャディさんや他の選手などの動きが気になって一極集中ができない。とらわれているのだ。反対にプレッシャを引きづらない人は、ボールからカップへのラインが光って浮き出るような気持ちになるという。またカップが実際より大きく見えるなど見えないものが見えてしまうという人もいるのです。これは勝敗を左右する大きな差です。元巨人の川上選手はボールが止まって見えたといいました。実際そんなことはないのですが、相手を呑んでかかっているのである。王貞治選手は一本足打法で相手を見ると、相手ピッチャーは、その迫力に圧倒されて、投げてはいけないところに球が集まってしまうといっていました。この差は試合の明暗となってはっきりと出てしまう。では不安に引きづらないということはどうすればできるのでしょうか。オリンピックに出るように人はできうる限りの練習を積み重ねて、国内のレースを勝ち抜いてきている人である。世界で勝負できると、少なくとも国内のみんなが認めている選手である。そんな人たちにとって、開始の鐘が鳴ったとき、練習通りの力が100%出せるかどうかが、一番問題になる。100%力を出して負けたら潔く消えていくしかない。と開き直ることができるかどうか。そしてレースに臨むことができるかどうか。今までの自分を信頼して、無心になれるかどうか。余計なことは無視して、無意識な感覚に身を委ねてしまうことができるかどうか。ここでは意識の出る幕はない。意識がしゃしゃりでてくるとその時点で負けである。ここが大事なところだ。分かりにくいかもしれない。車の運転を思い出してほしい。車で目的地に行きたいという明確な目的がある。意思が働いているのである。ところが一旦車を走らせたら、無意識にアクセル、ブレーキ、シフトチェンジ、安全確認などをおこなっていると思う。なりきっているのである。助手席の人と雑談しながら、あるいはラジオを聞きながら意識することなく操作している。ほとんどミスをすることなく、緊張感やプレッシャを感じることもなく安全に走行しているのである。こういうとそれは慣れているからだという人がいるかもしれない。ここで問題にしたいのは、意識的行動や思考が、肝心な時に無意識的行動に転換したときは、プレッシャや不安にとらわれることはないということだ。目の前の勝負に集中できる。プレッシャを意識している自分から、無意識の意識を信頼して任せることができるかどうか。まずはこの出発点に立たないと勝負にはならない。ここで勝負できるようになると、プレッシャでカチカチに固まった人から見ると、当然勝つ可能性が相当高くなる。イチローでも打席に立つたびに大きなプレッシャは感じているという。イチローのやり方はこうだ。ネクスト・バッターズ・サークルなどで投手の攻め方を観察している。その情報を無意識に自分の頭の中に取り入れているという。そして前のバッターが打ち取られると四股を踏み始め、自分の名前がアナウンスされた途端に、無意識のルーティンの行動をとる。人にまどわされることはない。同じ歩数でバッターボックスに入り、彼独特の構えをとる。ルーティンとは潜在意識が無意識にリズミカルに動いている事を言います。イチローほどルーティンを大切にするスポーツ選手はいないといわれています。その切り替えの見事さには感心します。森田では不安などを意識している自分が、意識しなくなった時が、とらわれが無くなった時だといいます。ここは大切なところですから、日を改めて分かりやすく解説いたします。
2013.08.15
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山中先生の欲望の記事より欲望について考えてみたい。「われわれが欲望と呼んでいるものの中には、世間から押し付けられたいろいろなものが、入ってきている。森田先生は、人並みに自動車が欲しいとか、世間的にもっともらしい配偶者を得たいなどというのは、かならずしもその人のほんとうの欲望ではない、といわれます。いわゆる神経症的な欲求なのか、ほんとうの自分の欲求なのかを見極めるよう心がけて、あまり世間常識にふりまわされないことが大事です。」普通世間では欲望というと、食欲、物欲、性欲、安全欲などのことを指しているのではなかろうか。これらは人間の基本的な欲求であると思う。これが満たされないと社会的欲求や自己実現の欲求を目指していくということにはならない。だがこれらの欲求は現代の日本人には、程度の差はあるがある程度は満たされていると思う。但しグルメ番組は毎日テレビから流れてくるし、消費欲求はテレビコマーシャルによってどんどん刺激されている。現代は一つの物欲などの欲望が充足されれば、またさらに大きな欲望が刺激されてしだいにエスカレートしていく。物欲を充足させるために、我慢して働いているような状態である。これは森田を学習している人はどう考えておられるのだろう。私も山中先生と同じように、これを追い求めるような生活は空虚な生き方に陥ってしまうと思う。普通の人間なら、精神拮抗作用によって当然歯止めがかかるものだと思う。しかし、そういう生活にはまってしまうともはや歯止めをかけたくても、かけることはできなくなる。アルコール中毒、薬物依存、ギャンブル依存などの人を見ればそこから抜け出すことは並大抵のことではない。また物欲の果てしない追及は、我々の長所である豊かな感受性がどんどん削られていくことになる。少々のことでは感動したり、喜びを感じることができなくなるのである。つまり自分たちが活かしてゆかなくてはならない感受性がしだいに失われていくのである。また低次の欲望にしがみついていては、高次の欲求である「自己実現」「向上発展」等の本来の欲望の発揮に向かうことはない。大体人間の便利さの限界は、江戸時代がマックスであるという人もいる。江戸時代は自然循環が貫徹されていた。ゴミを捨てるというのではなく、ゴミは肥料として活かすというのが基本であった。今のように永遠に埋め立てゴミとして処理するという考えはなかった。それ以上便利で楽をする生活は、人類の滅亡に向かっているという考え方なのです。
2013.08.14
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こんな質問をするのが神経質の特徴である。普通の人は、嫌いな人は不快であり、性格の異なる人とはソリが合わない。これを抑圧しようともどうしようともせずに、ただ我慢して境遇を押し切り、運命を切り開いていこうとしている。これに反して神経質者は、自己中心の功利主義から、自分の苦痛をもっとも少なくして、最も大なる幸福を得ようとする工夫から、楽々と愉快に、人と交際し、何事にも、自分の思う通りにしたいと考えるからである。我々は自分の直接の感じのままに、好きは好き、嫌いは嫌いでそのままに交際してゆけばよい。これを感じから出発するという。嫌いだからと言って、会釈笑いとか簡単なあいさつは当然しないといけない。それ以上のことはしなくてもよい。嫌いという自分の心を持ちこたえておけばよい。ダメなのは、直観から出発しないで、二念、三念から出発することである。「人を恨んではならない」「敵を愛せよ」とか、いろいろの教訓を引き合いに出して、我と我が心をため治そうと反抗することである。これと同時に、自分はあの憎らしいのが、不愉快だから、彼の合うところには行かないとか、話しかけられても、対応しないとかいえば、それは気分本位でありわがままである。これが森田先生の考えである。私はそれに加えて、虫が好かない人の行動はよく観察することをお勧めする。わがままな上司などは、気分がしょっちゅう入れ替わる。機嫌の悪いときは話かけるのは遠慮したほうがよい。気分が入れ替わるまで待ったほうがよい。よく見ていたらすぐに分かる。また上司が見えないところで仕事をしているのなら、近くにいる人に聞いてみることだ。私はややこしい話は必ず機嫌のよい時と決めていた。仮に機嫌の悪い時にややこしい話をすれば、火に油をかけるようなことになる。考えてみればこれは感情の法則ですね。
2013.08.13
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私の盆休みは10日から13日の4日間だ。今日で3日目だ。今日は明日から孫が来るので大掃除をしている。明日は田舎に行って墓参りに行く予定だ。10日と11日はとても充実していた。両日とも朝は、サックスの練習、獅子舞いの練習、どじょうすくいのあと今度の研修に使う森田理論学習テキスト作り。一冊目はA4用紙で100ページのものだが、予定の35冊を製本した。もう一冊目に盆明けに取り掛かる予定だ。午後はハードディスクにため込んでいた、テレビ番組を見て過ごした。情熱大陸、人生の楽園、題名のない音楽会、プロフェッショナル、NHK特集などである。これはDVDに落としておきたい番組がたくさんあった。佐村河内学さんの生きざま、遺伝子解読の話、マイケル・サンデル教授の特別講義、野山の雑草や苔の生態をカメラに収めておられる老人の話などコマーシャルを飛ばしてずいぶん見ることができた。私にとっては至福の時であった。人生の楽しみ方というのはいろいろあるのだなと思います。人から見るとなんでもないような日常にささやかな喜びを感じられる、こんな人生を歩んでゆきたいなと思っています。
2013.08.12
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森田先生は行動・実践は、どんなに苦しくても、それをいったん乗り越えてしまえば、楽になるといわれています。野球選手なども2軍にいるときに、猛練習を積み重ねる時はとても苦しいです。それを乗り越えて一軍レベルになると、すべての面でレベルアップしており、プロとしてその後何年も生活できるようになるそうです。5巻から紹介してみましょう。商船大学の卒業のとき、必ず遠洋航海にでる。100人が100人とも必ず船に酔う。なかにはマストの上で吐く者もいる。これを治すには必ず苦しみを持ちこたえて、無理を押し通して、酔うがままに働かねばならない。すると1週間もしないうちに船酔いは収まってくる。つまり酔うがままに職務を果たす。もしそれが自分は酔うからと、薬を飲んだり、仕事を休んだり、寝ていては決していつまでも船酔いは治らないのである。富士山の強力をしているようなものは、平常は百姓などをしていて夏は強力になる。毎年はじめて上るときは強力でもやはり普通の人間であるから人並みに足も痛む。翌日ははなはだしいときは便所でかがむことができないほど股やふくらはぎが痛いそうです。ここで休めば回復するそうですが、それでは仕事にならない。仕方がないので痛いのを我慢して、足を引きずるようにして、しいて登山を続ける。そうすると1週間も経たずに、いつとはなしに足の痛みもなくなり、夏中ずっとその仕事を続けてゆくことができるそうです。
2013.08.12
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森田先生は、神経症が治りにくいような人は、早く全治した人をみるとそれにあやかるということをしないといわれます。ひねくれてうらやむようなことが多い。例えばあの人は頭がよいからとか、病気が軽いとかで治りやすい。でも自分は意志薄弱であって、病気が重い。あるいは先生の診断が間違っているかもしれないと、自分勝手の理屈をつけて、一人ひねくれて、治療に反抗し、わざわざ自分で治らなくしてしまう。私は集談会に参加し始めたころ、治っている人の側に座るようにしていた。すると話は聞いてもらえるし、何気ない生活の話が役に立った。また自分の実践を話すと「それはよいことだ」といつもほめていただいた。それが自信につながった。集談会に何年も出ていると、スランプのような状態になる。そんな時に役に立ったのは、森田全集第5巻で紹介されている森田先生の日常生活をそのまま真似てみようということだった。紙に書き出してみると真似たらよいなと思うことはいっぱいあった。森田先生は芸達者だった。そこで私も芸を身につけるようにした。今ではいろいろ人を楽しませる持芸がある。日常生活もそっくりまねしてみた。井上常七さんは、森田先生の猫背なところも真似ていたという。何もそこまでと思うが、意気込みはそれぐらいがよろしい。森田理論の学習から入るよりも、形を真似てみるというのは具体的で分かりやすいのではなかろうか。
2013.08.11
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元スピードスケート選手清水宏保選手は162センチしかないそうである。また喘息という病気を抱えていたという。短距離のスケートは体力のない、病気をもった選手は圧倒的に不利だという。それなのに長野オリンピックで金メタルが獲れた。それ以外にも世界記録樹立、数多くのメダルを手にしている。私はそれに至る考え方と普段の精進の賜物であると思う。清水さんの本に、「プレッシャーを味方にする心の持ち方」という本がある。この本にその詳細が明らかにされていた。この中で変化への対応力、バランスのとれた筋肉の使い方、リズム感ある生活の仕方について力説されている。講演会も数多くこなされている。森田理論を学習するものにとって「宝の山」となる本である。ここでは緊張と弛緩という問題について考えてみよう。人間は、プレッシャーをかければかけるほど緊張が高まってきて、筋肉もパンと張ってきます。適度なプレッシャーがあれば、体全体によい影響を及ぼしてきます。人間の筋肉というのは柔らかすぎても硬すぎてもいけない。ゴム毬のような、適度な弾力性のある状態がベストです。つまり緊張感とリラックスのバランスを整えるということが大切です。プレッシャーで緊張感が強いときは、それを取り除いてリラックスするようにする。そのひとつとして、体のどこか一か所をほぐしてやると効果があるといわれます。具体的には体の先端の指をほぐすことがよいそうです。その他にも、手のひらの匂いを嗅ぐ。メンタルリハーサルをおこなう。自分の体を意識のペンでなぞる。頭の中に∞を描くなどいくつも自分で考えられています。やってはいけないことは30前になってウォーミングアップやマッサージ、ストレッチをやり過ぎるということだそうです。そうしてレース前には緊張感と弛緩状態を繰り返すことによって「ゾーン」という状態を作り出すのだそうです。この「ゾーン」に入ると、神経は高ぶっているのだけれども、体は逆にリラックスしているという状態になるそうです。そういう状態の時はよい成績につながったといわれています。世界新記録を出した時は神経はかたぶっていたが、体がだるいという状態だった。バランスがとれていなかったそうです。そこでとった対策はいつもの80パーセントの力で滑ろう。そして途中の状態を見て、力を入れるかどうか判断しようという気持ちだったそうです。運よく調子が上がってきたのでそのままエンジンを全開にしたということでした。そこまで緊張と弛緩というバランスをとっておられたのかというのが、とても新鮮な驚きです。我々よりも森田を体得しておられるようです。
2013.08.10
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山中先生の森田全集第5巻の説明より私の感想を書いてみました。「神経質者は真面目で、完全欲が強いがゆえに世間常識の影響をうけやすい。例えば、世間ではしっかりしなければならないといっていると教えられると、自分もしっかりしなければならない、と自分自身を叱咤激励する、というような持ち味をもっている。世間の人はいい加減なところもあり、まあそういわれてもそうできるか……、少しはやったほうがいいけれどまあまあで……、真面目にやれといわれてもなあ……という程度に考えていく。神経質者は真面目にと言われると少しでも怠けてはいけないとか、マイナスの心をおこしてはいけない、というふうに感じる。人を憎んではいけないとか嫉妬心をおこしてはいけないとか、そちらの方向にいってしまう。そういう自分の中の「かくあるべし」を認識して緩めていけばよい。われわれは、こうだからこうならなければいけないというように、とらわれていく段階で次々と「かくあるべし」をつくりあげていく。」世の中の普通の人と神経症の人のもののとらえ方を適切に解説されている。我々も普通のような人のように、人の言動に素直に対応したいと思う。それには森田の大事なキーワードである「純な心」が絡んでいると思う。「純な心」は常に自分が最初に感じた初一念から出発することである。分かりやすくいえば、最初に「ハッ」とした感じから出発することである。こんなに簡単なことはない。しかし初一念は一瞬、ほんの数秒で消える感情である。見落したり、無視することがある。これが第一の問題である。そのあとにすぐに「かくあるべし」の入った初二念、初三念といわれる感情が発生する。森田ではそれをもとにして行動、実践してはいけないといっている。これが第二の問題である。実際には多くの人がそれとは反対のことをおこなっている。葛藤や苦悩の発生はここに原因があるのである。例えば目上の人から面倒な用事を頼まれたとする。自分には今やりかけの仕事がある。そんな時普通は「イヤだなあ、イライラするなあ」という初一念の感情がわいてくるだろう。続いて、「そんな気持ちになってはいけない。なんとか期待にこたえて、心証をよくしたい」等の第二念の感情が起きてくる。森田では第二念の感情は無視するのです。必ず初一念の感情から出発するのです。初二念、初三念に従うと、「イヤだなあ、イライラするなあ」という気持ちを打ち消そうとするから、自分の気持ちをやりくりするようになる。すると目上の人から頼まれた面倒な用事を忘れて、自分の心の状態と対話するようになるのです。初一念から出発した場合は、常に目上の人から頼まれた面倒な用事の遂行の工夫に意識が向いてくる。自分の不快な感情と向き合うというより、それを抱えたまま意識の中心は物事本位となっているのです。
2013.08.09
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森田先生は56歳の時、20歳の一人っ子を無くした。僕は悲しみのあまり慟哭した。こんな悲しいことはない。絶対です。ただそれきりです。どうすることもできない。その後も思い出すたび、大きな悲しみがある。ただそれだけであって、僕にはグチもなければ、この気持ちを否定したり、曲げたりすることは毛頭ない。「ああ苦しい。どうすればよかろう。」とか、あきらめよう、気を紛らわせようとかゆうことは全く考えないのであります。香取さんのお話。私は告別式のときは、先生のそばにおりましたが、納棺のときは先生は非常に悲しまれ、はらわたを断つように慟哭されました。出棺のときも、見るのも見れないほどの悲しみようでしたが、のち二階に上がられてからは、はや風光霽月(せいげつ)といった風に他の事も話されて、全く別人のようになられて私は非常に感銘したのです。私たちは会社でミスをして上司に叱られた時、夫婦喧嘩をしてイライラすることがよくあります。その感情をいつまでも引きずり、気分転換ができなくて困ることがあります。森田先生のようにどんな嫌な感情も来るものは拒まず、そしてどんな感情も早めに流していくことを身につけていくにはどうしたらよいのでしょう。茂木健一郎氏によると、そういうふうに、悲しみモード、イライラモード、やる気モード、リラックスモードの切り替えは人間の進化の過程で身につけた能力としてもともと持っているものだといわれています。その能力を発揮して、人類は多様な環境やその時の状況の変化に素早く適応して生き延びてきたのだという。モードの素早いチェンジは、人間が生きていく上に必要不可欠な能力だったのである。しかし進化の過程でその能力はしだいに衰えてきてしまった。脳の働きでいうと、前頭葉の眼窩前頭皮質という部分が変化に対して、素早くスイッチの切り替えをおこなっている。これは無意識のうちに切り替えをおこなっており、意思の力ではできない。でも無意識を操る方法がある。実際には体を動かすことです。会社でイヤなことがあって、それを引きずったまま家に帰る。そしてペットの世話をする。草花の手入れをする。お風呂に入る。ジムで一汗かく。するとイライラモードからリラックスモードの切り替えが素早くできるようになる。森田では行動実践によって新しい感情を作り出すことができるといいます。このことを言っています。これを活用しない手はありません。
2013.08.09
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茂木健一郎さんの話です。ファッションショーの最高峰「パリ・コレクション」活躍しているヘアーデザイナーの加茂勝也さんは、プロの条件について、「精神的にタフであること。精神的に強くないと、自分のやりたいことを表現できない」とおっしゃっていました。ファッションショーでは、洋服のデザイナー、ヘヤデザイナー、メイクアップ・アーティストなどが連携して、チームとして力を発揮することが大事なのです。加茂さんは、出来上がったヘアデザインを洋服のデザイナーやメークの人に見てもらいます。そこで何度も「ダメ出し」を受けながら、よりよいものに仕上げていくというスタイルを貫いています。ここで我を張って「いや、自分はこれがいいと思う」といっていては先に進めないのです。他のプロフェッショナルたちの要求に答えつつ、自分としてよりよいものを追及してゆく。この二つの姿勢を愚直に貫ら抜かなければ今の自分はありません。加茂さんは森田理論の大事なことを言われていると思います。森田では相手の主張している事と、自分の考えている事が対立したときどうするか。まずは相手の言い分をよく聞いてみる。理解するという態度で接します。私はあなたの要求をこのように理解しましたがこれで間違いありませんでしょうか。相手がそれで間違いありませんと言えば、そこで「間」を作ります。すぐに自分の考えと違うといって、相手を否定したり、非難するというのはまずいいやり方です。そこで自分の思いと相手の主張の和解点、折衷点をよく考えてみるというということです。そしてまとまった折衷案を相手に提案してみるのです。相手の主張を丸飲みするのではない。イヤイヤ渋々相手に追随するのではない。反対に「かくあるべし」で相手を自分の考えに服従させるのでもない。この考えを森田では「精神拮抗作用」と言います。早速子供や親、会社の折衝に活かしてみましょう。こうした考えを体得して、自然に表現できる森田アーチストを目指そうではありませんか。
2013.08.08
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最近は指示待ち人間が増えているという。学校では先生が、「さあ教科書を開いて」と指示してはじめて開く。会社では上司が新入社員に、「お前はなぜボケッとしているんだ」と聞くと、「仕事の指示を待っているんです」と答える人がいるという。その人たちは言われた事はきちんとやる。仕事の手際も見事だが何か物足りない。自分が進んで仕事にチャレンジしなくても、決められたことをきちんとやれば文句を言われる筋合いはない。それで給料をもらっているのであって、それ以上にサービスしろというのは酷であるという。話を聞いているとなるほど筋が通っている。でもはたしてそれでいいのだろうか。森田ではこういうのを「お使い根性」の仕事であるという。つまり指示された事だけを、完璧に、これ見よがしにすることを言う。「お使い根性」の仕事は、「生きがい」と結びつくことはない。森田では、「生きがい」に結びつかない行動、実践はほとんど意味がない。行動、実践は自主的、自立的、創造的、奉仕的である時に意味があるという。「生きがい」を感じる行動はどうすれば可能になるのか。それは2つのポイントがある。一つは、生々しい現実に向かいあって、問題点をよくよく観察することである。すぐに逃げたりしないで、問題の本質、事実関係をよく掴むことである。二つ目に、自分自らその問題点をどうしたらよいかよく考えてみることである。そうすると、こうしたいという感じがでてくる。この二つの段階を経て、行動、実践に移っていくと、自主的、自立的、創造的、奉仕的な行動となる。「お使い根性」というのは、そうしたプロセスがないから真面目に取り組んでいるように見えても、「生きがい」に結びつかないのである。ふとした瞬間に、自分は何のために生きているのだろう、ということが脳裏に浮かんでくるとすれば、あなたの行動パターンは指示待ち人間になっていないかどうか、点検してみる必要があるだろう。また指示や教育をする人は、生々しい問題点を提示してあげて、相手に感じが湧いてくる環境づくりをしてあげるという姿勢が重要になる。間違っても、直接的な指示、命令、強制で相手を意のままに動かそうとしてはならない。
2013.08.08
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長らく集談会に参加していて、人の思惑が気になって仕方がないという人がとても多い。かくいう私もそうだ。宮川俊彦さんという方がそのへんの心理を次のように書いておられる。ある生徒が友人関係に疲れたという。いつも友達に合わせて、「アッハッハ」とやっていると、顔の疲れを感じちゃって、つまらなくなってしまう。話題を誰かが出し、それに反応し、同じ感想や意見を言いながらも、そこにユーモアや、ちょっとだけの違いを出していくこと、自分をチロッと出しては、すぐに引っ込めるようなことをしてゆかねばならない。そんな友達づきあいしかない日常生活に、つくづく疲れてしまったというわけである。作り顔をしているから「顔がつかれる」という言葉がでてくる。学校では、友達とうまくやっていくことが一番大切なことになっているのだという。それをしっかりやらないと仲間外れにされる。いじめにもあいやすい。学校で友達が一人もいなくて、一人ポツンとしていることに耐えられることができるだろうか。昼食も休憩時間も一人。そして同級生の好奇の目に耐えて学校生活を送らなければならないのだ。あなたがもし会社員や公務員だとすると、組織の中の対人関係も同じことが言えるだろう。苦しくて仕方ない。どうすればいいのでしょうかとよく聞かれます。これは対症療法としての解決法は考えない方がよいと思う。私の考えはこうだ。私たちはもともと、自由に、積極的に、目標に向かって前向きに生きてゆきたいと思っている人たちばかりであると思う。自由に精一杯楽しい人生を過ごしたいのである。ところが実際にはそのような生き方をしている人は少ない。人間本来の生き方をしなくなった時どうなるか。その時自分の意識は内向きに、消極的に、閉鎖的になっていくと思う。すると逃避、自己保身、自己弁護、自己否定、他者攻撃、他者否定に向かうのではないかと思う。引きこもり、不登校、家庭内暴力、いじめなどの現象はその表れである。人の思惑が気になるというのはその中の一つであると思う。人の思惑が気になる人は、基本に立ち返って、まずは自分本来の生き方を目指していくべきだと思う。そのためには森田理論をフル活用してもらいたい。森田理論はその道筋を明確に示しています。まずは自分の置かれた境遇の中で、アンテナを四方八方に張って、どんなに小さいことでも、なすべきことに一心不乱になってくり組んでいく。すると「感じ」がでてくる。「感じ」に基づいて体を動かしてみる。すると次第に弾みがついてくる。そして好循環が始まる。意識は常に外向きに、前向きになる。すると自主的、積極的、創造的な人生へとつながっていく。いつもうまくいくとは限らないが、そういう生活態度を堅持していくことが大切です。感じる。考える。工夫する。行動、実践するという好循環を作るように心掛ければ、他人の思惑にばかり振り回されることは少なくなっていくと思う。
2013.08.07
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私の参加している集談会では、ほぼ毎回、「生活森田・応用森田」というコーナーがある。自分の趣味や特技など、生活の中で身に付けたことを紹介するコーナーである。15分以内でやっている。もう3年ほど続いている。これは集談会のアクセントになりとても楽しい。折り紙で鶴を折ったり、絵を描いたり、川柳の発表会、ペットや陶芸の話、フルートやサックスの演奏、森田先生の肉声を聴いたりした。今回は「私のお勧めのテレビ番組」の発表だった。私の知らない、だけどためになる話がたくさん出た。私は下記番組が参考になった。情熱大陸 日曜日 TBS 22時半沢直樹 日曜日 TBS 21時グレーテルのかまど 金曜日 NHK 9時30分なお、テレビは録画してあとで見ている人が多いことも驚きであった。
2013.08.07
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カーネギーは「人を動かす」という本の中で次のように述べている。「人を動かす方法はこの世にたった一つしかない。この事実に気づいている人は、甚だ少ないように思われる。しかし、人を動かす秘訣は、たしかに、一つしかないのである。すなわち、みずから動き出したくなる気持ちを起こさせることだ。」「人間の行動は、心の中の欲求から生まれる・・・だから人を動かす最善の方法は、まず相手の心の中に強い欲求を起こさせることである。商売においても、家庭、学校においても、あるいは政治においても、人を動かそうとする者はこのことをよく覚えておく必要がある。」家庭でも、仕事でも相手にこうしてもらいたいという気持ちが常に起きる。その時普通はお願い、指示、命令、強制、禁止、叱咤激励などの手段をとることが多い。森田でいう「かくあるべし」押しつけである。カーネギーはその方法は決して相手を動かすということにはつながらないといっています。相手を自分の考えているように行動させようと思った時、我々がとるべき行動は、相手が自分で進んで動きだしたくなるような感情を作り出すことだといっているのです。感情を作り出すためにはどうしたらよいのか。森田では「見つめよ」といいます。状況の中に身を置いて、そのものをよく観察していれば、感じがでてくるといっています。ですから、事実を包み隠さずに、目の前に提示してみる。つまり関心を向けさせる。興味を持たせるということだ。これがポイントとなります。相手がそれに気付き、関心を持ったり、興味を示すことがあれば、自然の流れとして感じが発生する。感じがでてくればこうしたいという欲望が湧いてくる。次にその欲望に従って行動するということにつながる。森田をよく学んでいる人は、他人に「かくあるべし」の押し付けはやめようと心に誓った人だと思う。もし相手にこうしてほしいという欲望が起きた時は、上記のことを試してみてほしい。必ずしも自分の考えている方向には向かないが、少なくとも相手に自主的で、積極的、創造的行動に駆り立てることはできる。生き生きと生きてゆける幸せのおすそ分けをする事ができる。これがお互いの人間関係を良好に保つために肝心なところである。
2013.08.07
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元スピートスケートの清水宏保さんがこんなことを言われています。私の現役時代でモチベーションを高めるためにとった方法に、「プラスアルファ」というのがあります。「練習の中で指導者から、よく「これをやっておけ」という指示が出されていました。当然、選手はそれに従います。しかし、指示の範囲しかしない選手は、決して成長することはありませんでした。反対に、与えられた練習メニューを充分に考えながらこなして、それ以上のことに取り組む人は、3年後、4年後にしっかりした結果を出している。だから私も、常に「プラスアルファ」を心がけていました。与えられた課題プラスなにかを、1日に1秒でもいいから積み重ねていくと、365日後には大きな差となって現れるからです。」森田では人からこれをしなさいといわれると、自分でやろうと思っていたことでも急にやる気が減退してくることがあるといいます。でもイヤイヤながら手をつけなければいけないことが多くあります。最初はイヤイヤ仕方なく手をつけるというのは仕方ありません。でもその先に清水さんの「プラスアルファ」という考えを取り入れてみたらどうでしょうか。「プラスアルファ」という行動には、自分のこうしたいという「感じ」がでてききます。ここが大事なところです。「感じ」がでてくるためには、いま取り組んでいることに対して、身を入れていかないといけません。森田でいうところの「ものそのものになりきる」ということです。一瞬でもなりきった状態になれば「感じ」がでてきます。「感じ」がでてくれば比較的簡単に「プラスアルファ」の行動へと発展してきます。「プラスアルファ」という言葉は、行動・実践のキーワードの一つとして取り上げたいと思います。
2013.08.06
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その他神谷美恵子さんと森田理論でよくいわれている共通点について紹介してみよう。欲望の制御ということについて。「欲望というものは満たせば満たすほどなれがきて、もっと大きな刺激が必要となるらしい。ひとたびエスカレートし始めた欲望はそれ自らの惰性で、少しでもけずられることに反発するだろう。生きていてももはや何の面白いこともなく、なんの驚くこともなく、なんのありがたみもなくなって、あるものはただ既得の特権を守るための努力のみ、となったとしたら、これは生きながらの地獄ということになるだろう。」森田では、物欲、権力欲、名誉欲などの欲望は果てしがなく、自分さえよければ、人はどうなってもよいという考えは、欲望と不安のバランスが崩れていると見ます。欲望は強いほどよいのですが、反対の制御機能が働いてバランスをとらないと必ず最後には破たんします。それは自然の摂理だからです。運命は受け入れるということについて。「人間は自分を超えるものに対しては常に畏れの心を持ち、謙虚であるべきだと思います。またあやまちやつまずきを重ねながら自己を常に反省し、貧しい心のままに、大いなる自然の力に身を委ねて歩んでいくべきものでしょう。」例えば病や老いや死など、あるいは仕事の問題、人間関係の問題など解決できない問題に常に直面している。人間にはどうすることもできない問題があるということを自覚することが大切です。不運が身の上に降りかかってきても、「悲運を嘆くのではなく、悲運は悲運として時間をかけて、また時間を信じて忍耐強く引き受けていくことだ。」森田ではどうにもならない不運な運命に嘆き悲しむのではなく、運命は切り開いていくものだと学習しました。森田理論そのものです。結婚について。「こころの旅」という著書の中で、「結婚には冒険がつきまとう」と書いている。配偶者選びは先の先まで見極めることはできない。「ときには高い崖から飛び降りるほどの勇気と決断がいることだろう。」「自分の人生経験や勉強によって培った直観力によって相手を見る」ことが大事。「占いだよりの品定め」という姿勢は如何なものかという。また「独身で通すか、結婚するか」「仕事をとるか、家庭をとるか」という二者択一の考え方はしていない。神谷さんの考えは、結婚を前向きに考えて、家族の世話や子育ても自分の仕事と同じように丁寧に取り組んでいったのです。精神科医としての仕事も、家庭の妻として、母としての役割も時間の許す限り、使命感に満ちて「生きがい」として取り組まれたのです。ものそのものになりきって生き抜かれたのです。結核やガンに侵されて65歳という若さで亡くなられましたが、精一杯生きられた人生に悔いはないという気持ちが伝わってきました。
2013.08.05
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神谷美恵子さんという精神科医がいた。この人は「こころの旅」、「生きがいについて」等の名著を残されている。一般的には瀬戸内海の小島、長島愛生園でハンセン氏病の患者と向き合われた事がよく知られている。この人の考え方は森田理論と合致することが多い。まず生きがいについて。「生きがいというものは、人間がいきいきと生きていくために、空気と同じようになくてはならないものである。」生きがいというのは生きがいを感じる心、つまり生きがい感である。生きている充実感を感じるような生き方が、生きがい感を持って生き生きと生きることになるのである。生きがいは幸福観とは違うという。おいしいものを食べて、快適な家に住み、欲しいものがそろっているというのは幸福だが、生きがいとは違う。刹那的な感覚的幸せムードとは違う。それを追い求める生活が自分の生きがいだとすると考え違いをしていることになる。女性の仕事である「お茶くみ」「コピーとり」にも生きがいがあるという。それは、森田でいう「なりきる」ということによって生まれてくる。お客さんに少しでもおいしいお茶を飲ませてあげたいという気持ちで工夫していけば、いろいろと気のつくことや改善することが浮かんでくる。そうすれば感じはどんどん高まり、自主的、積極的、奉仕的行動へと変わっていくことになる。そしてそれが生きがいに昇華していくのである。ハンセン氏病の人を見ていて気がついたことがある。比較的軽症の人が病気になったことを嘆き悲しみ、生きがいを喪失している。はたからみて病気の苦しい人ほど、趣味や勉強に没頭して「いきいき」と生活しているという事実だ。たとえば、重症で目も見えない患者さんが、必死で点字の詩を読み、あるいは詩を作り、その姿が実に生き生きとしている。ある重症の患者さんは、「ここでの生活・・・かえって生きる味に尊厳さがあり、人間の本質に近づき得る。将来・・・人を愛し、己が生命を大切に、ますますなりたい。これは人間の望みだ、目的だ、と思う」絶体絶命の立場に立った人はもう後がない。そうなった時に、初めて病気に対しての恨みが消えて、病気を受け入れることができるのであろうか。森田では「背水の陣」などともいう。絶体絶命の境地に追い込まれた時に初めて開き直ることができるのだろうか。病気を受け入れることができれば、次にありのままの自分を活かして精一杯のことをやってみようという、出発点に立つことができるのではなかろうか。ある人が素晴らしい生き方をしている。それは他の人にとっての「生きがい」になる。自分が「生きがい」を持つことによって、人に「生きがい」の芽を与えるのである。生きがいは求めて得られるものではない。「生きがい」というものは、身近な日常の務めを誠実に果たし、その生活をじっくり味わうことによって獲得することができるといわれています。
2013.08.04
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今月号の生活の発見誌の60ページに発見会会員の減少について分析されている。その理由として、まずベテラン会員が自分の価値観を押し付けてしまうこと。次に森田理論自体が高度経済成長時代にマッチするものであり、今の時代にはマッチしない。3番目に、薬物療法をはじめとした医療にシフトしているということをあげられている。まず一番目である。このようなアドバイスはあってはならない。自明のことである。これについては、ベテラン会員が森田理論がよく分かっていないという問題が大きいと思う。森田理論がよく理解されていれば、適切なアドバイスが可能であり、受容と共感はその前提として大切であるが、もっと大事なのは適切なアドバイスができるかどうかということである。よく分かっていないというのは、本人の責任ではない。誰でもすぐ理解できる理論体系になっていないのが問題なのである。ちなみに私は、自分なりの独りよがりかもしれないが、森田の全体像がはっきりと分かったのは入会から20年も経過した時点であった。あまりにも時間がかかりすぎです。これでは様子見に来た人が定着するはずがないと思います。2番目。今のような不況の時代は、はっきり言って安定的な職業についていない方は、生きていくのが精いっぱいです。残業もノルマもきつく、そうかといって退職するわけにもいかない。そういうゆとりのない時代は、集談会に足を向けるというのはよっぽどのことだと思う。少々の悩みは我慢して生活を維持していかなくてはならない。だから発見会には行きたくても、余裕もお金もない。それで発見会の会員が減ったのだろうか。ここのところを、よく考えてみてもらいたい。こんな不況の時代でも、心の悩みを抱えている人は、とてつもなく多いのである。自分が会社員や公務員だったら、よく職場を見てもらいたい。この人は森田の学習をしたらよくなるだろうな。この人は典型的な神経質性格を持った人だなと思うような人は1人や2人はいるはずだ。もし発見会が、きちんとその受け皿になっていれば、数万単位で発見会に押し寄せることだって考えられる。社会不安障害学会というのがあるが、その治療対象者は日本に300万人いると言っているのである。この中には、対人恐怖症の人が多数含まれている。3番目。薬物療法など医療に発見会の対象者をとられているという考えである。たしかに、集談会のようなところに出かけて、治るかどうか分からないような勉強をするよりは手っ取り早く対症療法でけりをつけてしまいたいという人はおられます。しかし神経症はもともと気質的な病気ではない。考え方の誤りから、あたかも病気のようになっているだけのことである。一時的に薬に頼るとしても、最終的には森田理論の学習によって誤った考え方と行動を修正してゆかなければならない。ということは医療機関が発見会の会員をとっているというよりも、医療機関の協力を得ながら最終的には、生活の発見会が責任を負っていくというのが使命ではなかろうか。最後にこの分析の致命的な欠陥は、あまりにも外部要因に偏りすぎているという点だ。内部要因の分析は全くされていない。これでは片手落ちです。外部要因の分析は、責任転嫁や自己否定につながりやすい。変革意欲は湧いてこない。発見会の会員の減少の一番の原因は、我々自身の中にあるのです。我々先輩会員が、新規会員の変化に気づかずに、変化に対応した学習方法を編み出してこなかった。森田理論を短期間で学習できて、森田理論を体得できる方法を示すことができなかった。自己変革を怠ったつけが表面化してきているととらえると、明日につながります。旧態依然として、自己革新に全く手をつけてこなかったことに思いをはせるとき、すでに時遅しという気持ちがぬぐいきれないのです。全く残念で仕方ありません。でも、森田理論は不滅です。元メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男会長がいみじくもおっしゃられました。「なぜこんなに優れた精神療法が日本で広まらないのか。逆に海外で普及させて日本に逆輸入という方法が有効かもしれない。」今現在その流れで動いております。
2013.08.03
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私は10年以上森田理論の学習を続けている人に提案したい。いったん森田理論の学習から離れてみることだ。10年も森田を学習している人は、それなりに学習を積まれている。特に森田原著を読みこなしている人は、それぞれに深い森田を語られる。そういう人こそ、森田から離れなくてはならない時期を迎えているのではないか。親から離れて、自分の力で生きていくという「巣立ち」の時期を迎えているのではなかろうか。完全には離れられないと思うが、森田理論学習の比重はずっと下げていく必要がある。森田理論の学習だけというのは、私が思うには瀬戸内海で自由に航行しているようなものではないのか。いわゆる井の中の蛙現象が起きているのではないのかと思うのである。実際にはまだ、太平洋がある。大西洋がある。インド洋がある。北極海も南極海もまだ広がっているのである。そのためにはいったん森田を離れて、世の中を見ることだ。また森田以外の書籍によって先人の考え方を学んでみることだ。そして森田理論との共通点、相違点を自分なりによく考えてみることだ。そこで自分の中で森田理論はさらに大きく花開くと思う。また森田先生の「修養」という方面に力を入れてゆくのもよいと思う。森田理論の学習をするだけというのは「修養」とは言わない。森田先生の目指しているのは森田理論の「体得」ということである。10年選手は、学習はそこそこにして、そろそろ森田理論体得へと舵を切っていったらどうだろうか。反論があればまたうかがいたいと思う。
2013.08.03
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会社の人で得意先に行くたびに何かの忘れ物をする人がいる。ボールぺン、ノート、名刺入れなどを忘れてくるのである。まだ部外秘の書類は忘れたことがないが、そのうちやるかもしれない。忘れ物をする人は防備録やチェックリストを持っていない。こんなものは会社が手とり足とり営業マンに教えてくれるものではない。自分で作るしかない。それが出かける前や、得意先からでた後にでも見て確認すれば忘れたかどうかすぐに分かる。チェックリストがあれば複雑な準備も手ぬかりなくできるし、行動にすぐとりかかることができて、気持ちが内向きになることはない。つまりくよくよと悩むことがない。始末におえないのは、肝心の仕事の進め方が思いつきになりやすいということである。気の向いた仕事、思いつきの仕事を優先して、納期などはあまり頭にない。上司などから指摘されてあわててとりかかったり、得意先に走ったりする。そうなると仕事に追いまわされるようになって心身共に疲れ果ててしまうのである。私は森田を学習している中で、仕事を追うようになるととても楽しくなるということを発見した。実際に仕事に追われる段階から、仕事を追っていくようになった。すると仕事の見かたが変わってきた。細かい人が無視するような仕事に真剣に取り組んだのである。神経質者は小さいことにもよく気がつくという長所があるので、それを仕事に活かしてみたのだ。そのためには複雑な仕事は、自分でマニュアルをたくさん作っておくことだ。マニュアルを見て仕事をチェックしながら進めていくと相当量の仕事をこなすことができる。仕事は複雑で面倒くさそうな仕事でも、分解してみれば比較的単純な仕事が多い。気をつけるとしたら他の人が作ったマニュアルはよくできていても、自分にはあまり役に立たないということだ。マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなどはきちんとした調理や接客のマニュアルがあるという。でも人が作ったものをこなすというだけでは、主体性は出てこない。ただ言われた事をそのままするだけでは楽しくはない。次の発展的行動にはつながらない。
2013.08.03
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青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ逞しき意志,優れた創造力,炎ゆる情熱,怯懦を却ける勇猛心,安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ年を重ねるだけで人は老いない理想を失う時に初めて老いがくる歳月は皮膚のしわを増すが,情熱を失う時に精神はしぼむ苦悶や狐疑や,不安,恐怖,失望,こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ,精気ある魂をも 芥に帰せしめてしまう年は70であろうと,16であろうと,その胸中に抱き得るものは何か日く,驚異への愛慕心,空にきらめく星晨,その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰,事に処する剛毅な挑戟,小児の如く求め止まぬ探求心,人生への歓喜と興味人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる大地より,神より,人より,美と喜悦,勇気と壮大,そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われないこれらの霊感が絶え,悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし,皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐みを乞う他はなくなる森田を学習し始めてこの詩が妙に気になり出した。森田の「生の欲望の発揮」を後押ししてくれているかのような詩である。以前は机の前に張っていた。ずいぶん励ましてもらいました。
2013.08.03
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野球で1塁ランナーが盗塁したとき、キャッチャーは素早い送球で盗塁阻止を狙います。ところがたまにあわててボールの握りが悪くて、ボールが手につかないことがあります。当然ランナーはやすやすと盗塁することになります。これを森田理論であてはめて考えてみるとおもしろい。本来は不安、恐怖、不快な感情が襲ってきた時、そのイヤな感情をしっかりとキャッチすることが大切です。全神経をピッチャーからの投球をきちんと受け取るという作業です。別の言葉でいえば、イヤな感情を認める、確認する、味わうということです。苦しいときは、きちんと受け取っていません。イヤな感情をやりくりするか、逃げています。その結果ますます注意が症状に向かい、神経症固着のパターンにはまってしまいます。これは理知本位、気分本位の行動です。森田では事実本位・物事本位の行動を勧めています。相手からイヤなことを言われたりされたりして気分が悪くなった時、まずする事はその何とも言えない不快な気分を先入観をはさまないで正しくキャッチするということです。目をそむけたくなるような理不尽な出来事であっても、まずはその事実と湧き起ってきた感情を素直に向き合ってみること。森田理論学習では、この体得が大きな意味を持っています。
2013.08.03
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共依存ということがよく言われる。夫婦の間でも親子の間にもある。たとえばギャンブルが好き、酒が好き、仕事場では対人的なトラブルをたびたび引き起こす夫。そのたびごとに妻に金銭的にも、介護の面でも、後始末の面でも面倒を見てもらう。妻の方はそんな夫から別れたらよさそうなのに、あの人は私がいないと生きていけない人だと、自分が夫の世話をすることを、自分の生きがいにしているのである。この場合、双方が互いに依存しあって生きているので共依存という。共生関係にある。共依存は双方にメリットがあるため居心地がよいのだろう。多少居心地が悪かったとしても、他の生き方はできない。お互いがお互いを必要としている。あるいはこの人には私しかいないのだからという腐れ縁でむつびついている。そうゆう人間関係は閉塞状態に陥ると思う。それぞれに自立性、自主性が芽生える余地がないように思う。森田で言うところの、生の欲望の発揮とは無縁の人である。寄生虫のように、寄生する相手がいないと生きていけない。たとえ夫婦であっても、自分の感じたことを大事にする、自分のやりたいことを優先する。そして助け合うべき時は、お互いに助け合う。お互いの生き方を尊重しあいながら、それぞれの生きたいように生きていく。それが基本だと思う。たとえば今日寿司を食べたいという気持ちを大事にする。人が焼き肉を食べたいといったから私もそうするではない。海に行って魚釣りをしたいという気持ちを大切にする。人がひなびた山間の温泉でゆっくりしたいというから、私もそれに同調するということではない。自分の意思を尊重する。共依存の人は、自分の好きなように自分で決めたら、といわれると、自分のことを責められているように感じるらしい。共依存は意識が相手に向いて自分の意思が封印されてしまうのである。
2013.08.02
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