全34件 (34件中 1-34件目)
1
子供の3つの成長の発達段階を踏んで大人になっていない人は、体は大人になっていますが、心理的には幼児のままというジレンマがあります。それは成長段階を乗り越えていないと、そこで足踏みをして先に進めなく、停滞してしまうからです。多くの親は子供の教育の学習はしていませんので、自分なりにそれぞれ思い思いに子育てをします。心身とも立派に成長して、社会に適応して、自立してくれればよいのですが、必ずしもそのようにはなりません。むしろ子育ての途中でいろいろと問題がでてきます。それが一般的です。私たちが神経症に陥った原因の一旦もあると思います。問題を抱えて大人になった人が、それにどう向き合っていけばよいのでしょうか。まず一番大切なのは、その事実をよく観察して、その過程を正しく認識することです。親の教育を非難することではありません。ましてや自己否定を深めていくことではありません。自分の立ち位置、状態を正しく掴んで自覚を深めていくという事です。3つの成長過程で親との関わりはどうであったのか。うまく関わりを持てて一つ一つクリアーできていたのか。問題があったとすれば、どの段階でどういう状態であったのか。その結果として現在噴出している現象はなんであるのか。以上をよく整理してみることです。私の場合について書いてみます。私の場合は特に父親との関係がうまくクリアーできていない。父親の私への接触は、非難、説教、命令、指示、禁止、叱責を前面に打ち出していました。そして中学生のころから、手に負えないと思ったのか、子供のことは一切母親任せで、放任主義を貫いていたようです。男の子の場合、成長過程における父親との接触は大変重要です。父親によって、男のたくましさを身につけます。社会への適応力、勇気、責任感、協調性、積極性の基礎を学びます。私にはこれらを学ぶ機会が閉ざされていました。その結果、いじめられても反発したり逆襲を企てたり、あるいは一杯喰わせたり、相手を懐柔させたりといった手練手管を用いることなく、ただ耐えるだけ、我慢するだけの人間になってしまいました。耐えて我慢する生活はストレスがたまります。そういうストレスが積もり積もって他人を怨むようになります。またそうした困難な状況から逃避するようになります。引っ込み思案になり、孤独な生活に甘んじるようになります。これでは協調性、リーダーシップは育ちません。大人になりある程度会社などで過ごしますと、責任ある立場に立たされます。そんな人にとって多くの人をまとめて、指導して育てて、組織の目標達成を目指すなどという仕事はとてつもなく苦痛になります。さらに親の後ろ盾がないと、何か問題が起きた時は、自分で自分の身を守らなくてはいけません。本来は目的に向かって突進して、問題を打開してゆくべきなのに、自分を守ることに汲々としてしまいます。親に見放された状態は不安です。積極的で自主的な行動にはなりません。意識が内向化して、自分のことに自信が持てません。つまり自己否定、自分嫌いに陥ってしまいます。親の指示命令でイヤイヤ動いていると、自分は我慢してやっているという心理状態になります。もし仮に他人がそれをやらないと、とても他人を許すことはできません。他人に「かくあるべし」を押し付けるようになります。他人との間に軋轢が生まれて、他人が嫌いになります。他人は敵。他人を怨むようになります。長くなるので、続きを書きます。
2013.04.30
コメント(0)
友達から次のような相談を持ちかけられた時、あなたならどう対応しますか。「中学3年生になった娘と昔みたいに話ができなくなって、なんだか気まずいんだよな」思い浮かぶ答えとして、「うちの子の場合もそうだったよ。」「だいたい、中学3年の娘が父親にべたべたする方がおかしいんじゃないの。」「態度が悪い子は、時にはガツンとやった方がいいんだよ。」「今は反抗期なのよ。放っておけばまた元に戻るよ。」「グレたり、非行にはしらないようによく見ておかなくてはね。」「お宅の子どもに限っては大丈夫でしょう。」同じ質問を銀座のナンバーワンホステスに聞いてみました。自分がその問題を解決してあげようとは思わないようにしているということでした。お客は、そんな話を望んでいないことをよく心得ているからだといいます。ただひたすら「そう」「それから」「で?」「ふーん」と相槌を打ちます。たまに「そう、娘さんがねえ」などと言います。いわゆる「復唱」、話を「促す」ことに力を入れます。上半身はきちんとお客に正対していて、少し前傾しています。お客は、その相槌だけで、話を聞いてくれるんだと感じ、親身になってくれているんだと感じます。お客は、最終的には、「まあ、もう少し様子を見てみるか、母親とはうまくやっているんだし、不良っていうわけでもないんだし」などと自分で勝手に「答え」を出して着地するのです。この対応は集談会でも応用したいことです。こちらからこうしらたよいと自分の考えを述べることは、それが正しいことであっても、相手が望んでいることではありません。相手は自分の話を受け入れて、耳を傾けて聞いてくれる人を求めているのです。話しているうちに自分で解決策を発見することができれば最高です。
2013.04.29
コメント(0)
好村兼一氏の小説に「侍の翼」というのがある。島原の乱などの惨状を生々しく書いているので、後々まで余韻が残っている。読後感想としては、生々しい人間の生きざま生命力に、現代社会にかけている大切なものを思い起こさせてくれた。江戸時代初期は経済的には本当に恵まれていなかった。ましてやこの小説の主人公は、唐津藩のお家断絶で江戸の裏長屋の浪人暮らし。結核の妻を抱え人足仕事でやっと生き延びているという状態。息子は島原の乱で戦死、父親も別の戦で戦死、長男の嫁と2人の孫は家出。その日その日をなんとか生き延びることが精一杯だったのが実態です。でも今の時代にはない心温まるものを感じた。親子、夫婦、親戚、友達、仕事仲間たちとの温かい思いやりのある交流である。人間同士の助け合いである。これは今の日本に欠けている点である。マンションなどに住んでいると隣はなにをするひとぞと全く関心がない。また関心を持たなくても生きていける世の中である。とにかく人とかかわりを持つことを極力少なくするような社会に変わってきた。その結果老人の孤独死も問題になっている。自殺者は3万人もいる。街中で人は見かけてもみんな自分以外の事には関心がない。アフリカではその日食べるものがないというほどの貧困だという。経済的には苦しいがみんなで助け合って生活している。助けあわないと生きていけない社会である。でもそんな環境の中で育つ子供たちの目の輝き様は、日本ではなかなかお目にかかれない。経済的には苦しいのに自殺する子はいない。どこかがおかしい。それは分かっているが、どこに問題があるのかはっきりとは分からない。この本を書いた好村兼一氏は、1970年東大3年のとき柔道の指導員としてフランスに渡り、以来フランスに住み着いた。フランスという地でバブルに浮かれて、物の豊かさこそ人間の幸せという風潮の日本人を見てきた。それまで日本人が培ってきた心の豊かさが、一挙に瓦解したのに驚いたという。そこに大きなカルチャーショックを受けたという。本当の豊かさは、心の豊かさと物質的な豊かさが互いに牽制しあいバランスをとる必要があるのではないのか。それがこの小説の主題のような気がする。
2013.04.28
コメント(0)
今日は変化のある一日でした。普段は仕事をしているためあまり変化はありません。みなさんの刺激にはなるかなと思いまして書き込みしてみます。早朝起きてブログの投稿をしました。そのあと趣味のネット麻雀を半荘しました。朝9時半ごろ、いつもお世話になっている素人チンドン屋の仲間に缶ビールを持って行きました。するとちょうど筍堀りから帰ったところで、友人と祝杯をあげていました。しばらく談笑して筍をもらって引き揚げました。次にある人の紹介で、獅子舞いを教えてくださるという先生をたずねました。その人は建築士の人でした。一時間ビデオやいろんな指導を受けました。立派な獅子頭は友人が無償で作ってくれたものを持参しました。話を聞いていると歌舞伎の動きによく似ていることが分かりました。間がとても大事なのです。その方はビデオを貸してくれた上、獅子舞いで踊る衣装をくれました。私は買い取りたいといいましたが、習いに来てくれたのがうれしいのでお金はいいといいました。さらに一カ月に一回は無償で指導してくれるというのです。その人は有名な神社で奉納獅子舞をしていたのですが、ヘルニヤになってできなくなったそうです。その後家で昼ごはんにかけそばを食べて、「どじょうすくい」の教室に行きました。15名ぐらい来ていました。月一回で月謝は1000円です。私は老人ホームで何回も実演しているのですが、今日もいろいろと気づきがありました。たかが「どじょうすくい」ですがとても奥が深いのです。2時間ぐらいありました。帰って家で洗車と車の清掃をしました。そのあと電気屋に頼んでいた食器乾燥機をとりに行きました。また米を20キロほどつきました。その後サックスの次回課題曲の練習を30分ほどしました。夕食をすませて、この原稿を書いています。この後、どじょうすくい、獅子舞いの復習、読みかけの本読みなどがあります。その他まだまだメモしているやるべくことがことがいくつかあります。それらを淡々とこなしてゆこうと思っています。明日は「どじょうすくい」検定試験があるので、早朝から出かけます。したがって朝の投稿はできません。悪しからずよろしくお願いいたします。たくさんの読者の人がおられるので心苦しいのです。以前神経症で苦しんでいた時は、今日のような過ごし方はとてもできませんでした。家の中にじっとしていて、苦しくて仕方がなかったのです。このように充実した一日を送れるようになったのは、森田理論学習を続けて自分が変わることができたおかげなのです。森田理論学習がなかったら今の自分はないと思っています。
2013.04.27
コメント(0)
人間は生まれてから親とどういう関係にあったのかが、その後の人生を大きく左右します。3歳まではスキンシップがとても大切です。可愛がってやればよいのです。これはほとんどの人がクリアーできているのではないでしょうか。3歳から6歳ぐらいまでは、どんな粗相をしても同情してやることだそうです。おしっこを失敗しても、食べ物や飲み物をカーペットの上にこぼしても、叱りつけたり、叩いたり、否定したりしないで、「私メッセージ」で自分の気持ち、事実を話すことです。信頼関係があれば厳しいしつけも受け入れてくれます。7歳から17歳は、一人前の人間として接することです。子供は自分とは違った一人の人格を持った人間です。子供のしていることに理解を示し、欠点や弱みは目をつむり、できている部分、すぐれた部分を褒めて評価してやるのです。いつも子供の立場に立って考えたり行動することです。子供を自分の家来のようにして管理するのではありません。親しい先輩、友人として対応するのです。これは子供の成長に応じて段階があり、たとえば5歳ぐらいの子どもに赤ちゃんのときのようなスキンシップを強要していると、子供は激しく反発します。こういうふうにして親の後ろ盾に守られながら、段階を経て成長してくると、大人になってスムーズに親離れして自立への道へ歩み出します。ところが、毎日ガミガミ言って育てていると、いつもおどおどしして、人の思惑ばかり気にするようになります。親に受け入れられたという経験を持たない子供は、私のように対人恐怖症になるのではないかと思います。特にお母さんからいつも叱責、命令、禁止の教育をうけ、父親が放任で子育てにかかわらない家庭に育った子は後でつけが噴出してきます。問題はこうして大人になり、神経症として発症した人です。こうして大人になった場合救いはないのでしょうか。私はそうは思いません。その出発は、きちんとした子育ての段階を踏んで大人になっていないという事実を認めることです。これは親を非難すること、自己否定を繰り返す事ではありません。親と子の関係のどこかに問題があったという分析をして、事実を認めるという事です。その事実をより深く認めることです。認めるだけです。その出発点に立つことは簡単にできることではありません。もしそれが出来れば、次に対策が打てます。その際森田理論学習を応用して、追体験ができます。追体験によって成長段階をクリアーしていけば、かなりの部分に変化があります。この点については今後書き込みをしてゆきたいと思っています。
2013.04.27
コメント(2)
(続き)これは森田の事実にしたがうという問題を考える良いヒントを与えてくれます。このように自分を認めることができれば、神経症に陥ることはありません。山崎氏は彼がどんな事実でもすんなりと受け入れることができるのは理由があるというのです。それは彼が両親から愛されているからだといいます。親から「あるがままの君でオッケーだよ」と太鼓判を押されているのです。だから彼は両親が好きだといいます。彼のお母さんは学校の先生から友人関係のことで注意を受けた時、先生に向かって「うちの子はそんな子ではありません」と言って子供をかばったという武勇伝の持ち主だそうです。子供は、親から全面的な支持を受けていると、それが精神的に安心の基盤になって自分を守ろうとしなくなり、どんな事実でも受け入れることができるようになるのです。まず我が子にやらせてみる、そしてその結果がどうであろうと決して責めない。失敗したら同情し、成功したら手を叩いて喜ぶ。だから彼は両親が好きになったのです。こんなに自分のことを信頼して、見守り、存在を認めてくれる親をもった子は幸せです。ところがこのように育てられた子は少ないのです。指示、命令、批判、強制で育てられるのが普通でしょう。考えてみると私も小さいころから父親から叱られるばかりで、ほめられたことがありません。大きくなってからさらに、父親は親しく子供には接することがありませんでした。私が対人恐怖で他人の思惑ばかり気になっているのは、そうしたことが影響しているのかもしれません。そして今度は自分が親と同じように、子供に接していたのです。いまになって気付くのは少し遅すぎました。
2013.04.26
コメント(4)
山崎房一氏は母親と子供の接し方についていろいろと提案されている。接した子供の中にこんな子がいた。彼はクラスでリーダーシップをとっている子だそうです。山崎氏は彼を観察しているうちに面白いことを発見したそうです。彼は自分に対して堂々と○をつけているのです。彼はクラスの友達に×の多い答案を見られても平気です。「なんだ、こんなところができなかったの」と友人からからかわれても平気な顔でうなずいているのです。これは対人恐怖の人は考えられないことです。普通対人タイプの人は隠すと思います。彼はあるがままの自分に満足しています。だからテストの点が50点であろうが、忘れ物をしようが、少々厄介なトラブルに巻き込まれようが、いつも平然としていられるのです。彼には現実を平然と受け入れられる勇気と冷静さがあります。まず現実を受け入れ、それから対策を練るというこころのやわらかさが備わっています。ところが他の子どもたちはあるがままの現実を受け入れるほど度胸がすわっていません。その前に恐れ、恥ずかしさ、不安、いらだち等の心の動揺にとらわれ浮足立ってしまいます。50点の答案を手にすると、彼らは真っ先にお母さんのこわい顔を思い浮かべます。そして忘れ物をすると、先生から叱られるのではないかと表情を曇らせ、トラブルに遭遇すると、トラブルをどう処理するかではなく、トラブルに出会った不運を嘆かずにはいられません。だから態度に落ち着きがなく、なにかに集中しようにもそれ以外のことが気になってついつい気を散らしてしまうことになります。彼らには、目に見えない影におびえ、耳に聞こえない声に身を縮み上がらせ、手ではふれられないまぼろしを恐れているのです。一方彼は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手でふれられるものだけを信じています。だから彼は、いつも平然と現実を受け入れることができたのです。50点の答案は、それ以上でもそれ以下でもありません。忘れ物をしたら正直にそう告げて、トラブルに出会ったら冷静にベストの対応策を講じていけばよいだけの話でした。(続く)
2013.04.26
コメント(0)
動物の調教を見て思った。サルは思ったような芸をすると、おやつのようなものをもらっている。反対に調教師は思ったような芸をしないと叱ったり叩いたりしている。そのたびにサルはどこかおどおどした態度をみせる。調教師はアメとムチを上手に使い、調教師の思い描く芸をサルに仕込むのである。サルはアメにつられ、ムチを逃れるために条件反射的に芸を覚えて見る人を喜ばせているのである。決してお客さんを喜ばすために自主的に演じているのではない。サルはあまりストレスをためないかもしれないが、もしこんなことを人間がされたら、すぐにストレスで胃潰瘍になるかもしれない。親が子供を育てるときにこれと同じようなことをしていないだろうか。テストの点が悪いとお母さんは我が子を叱り飛ばす。また今度100点をとったらほしいものを買ってあげると約束している。これは動物の調教そのものである。アメとムチの教育である。2つとも子供にとっては、悪影響を与えている。ガミガミと叱られていると、いつも親の顔色を窺うようになる。いつ親が機嫌を損ねて八つ当たりしないかと怯えている。親の許しがないうちは自分から動き出すことがない。つまり完全に親の支配下にあるのである。それなのに親は消極的で、少しも積極性がない。もっと明るく元気よくできないのかという。それは無理というものである。そうしないように教育し続けているのだから。そしてその子供は、弟や妹等に対して、親の先回りをして命令や指示や強制をするようになる。親の「かくあるべし」を弟や妹に押し付けているのである。親に自分を認められることがないので、自己否定感が強く、いつも不安に支配されている。これが神経質な子どもを作る原因となっているのではなかろうか。
2013.04.25
コメント(0)
日本人の生活を見ていると、昔から一つのものをいろんな使い方をしてきた。そうゆう工夫ができる民族であると思う。たとえば畳の部屋である。夜は布団を敷いて寝る場所となる。朝はテーブルを出して食卓にもなる。マット出せばヨガもできる。ちょっとした趣味や娯楽の部屋にもなる。べッドをおいてしまうと、寝ること以外は利用法がない。外国人はびっくりするのである。大根という野菜は実に多彩な食べ方ができる野菜である。大根おろし、おでん、ふろふき大根、大根サラダ、たくあんなどである。工夫すればまだまだ料理法はあるだろう。森田先生は風呂の残り湯はすぐに捨てることはなかった。洗濯水、部屋の掃除、庭のうちみず、植物の水やりなどである。徹底して活用していった。新聞に挟み込まれるチラシでもメモ用紙やカルテとして使われている。これはケチでそうされたのではない。物にはそれぞれに価値がある。その価値を工夫して最後まで活かしてあげたいという森田先生の考えの表れなのである。その考えは、入院生にも、自分自身にも貫徹されていた。つまり自分の持って生まれた特徴で利用できるものはどこまでも、最後まで利用し尽くすという考え方なのであった。物の性を尽くし、人の性を尽くし、自分の性を尽くす。自分の持っているものを見つけてどこまでも活かしていくという「唯我独尊」という思想は、自分の生活の中にぜひすぐにでも取り入れてみたい。この考え方を推し進めて、生の欲望にのっとった生き方ができるようになれば、素晴らしい人生が待っていると思う。
2013.04.24
コメント(0)
元オリンピック女子マラソンランナーの有森裕子さん。1992年バルセロナオリンピックで銀メダルを獲得し、その後の怪我との戦いを見事に乗り越え、4年後のアトランタオリンピックでは2大会連続の銅メダルを獲得しました。銅メダルを獲得したときのレース後、有森さんは「初めて自分で自分を褒めたいと思います」と言いました。いい言葉です。今まで努力してきた自分に惜しみない賛辞を送ったのです。森田理論学習をしているものからすると、とてもうらやましい言葉です。我々はいつも自分に対して、厳しく接していて、気が安らぐことがないからです。自分の欠点や自分のしでかしたミス、失敗に対して自分自身を否定しているからです。これは自分の中に二人の自分がいるようなものです。一人は完璧主義の自分。もう一人はそれとは程遠く現実の世界でのたうちまわり苦しんでいる自分です。けなげにも苦しいながらも何とか生きているのに、もう一人の自分は、後ろから苦しんでいる自分に石を投げています。「石を投げないで」といっても聞く耳を持っていません。もし石を投げる自分が、親しく近寄ってきて、どんなことが起きても私はあなたの味方だよ。責任は私がとるから思い切ってやってごらん。と言ってくれたら一挙に状況は変わることでしょう。有森さんは、銅メタルだったけれども、今のあるがままの自分に対しては、自分から大きな金メタルをかけてあげているように思います。人と比べて欠点や見栄えの悪い容姿、性格、なすことすべてに不満を持っている人は、有森さんと同じように、苦しみながらも何とか生きている自分自身に、誰にも知らせないで、そっと大きな金メタルをかけてあげましよう。今のあなたのままでいい。変える必要なんて何にもない。変えるために精力を傾けるほど人生は長くはありません。今現在の自分から一歩でも歩み出せばいいではありませんか。それが「かくあるべし」から、「事実本位」の生き方につながります。
2013.04.23
コメント(0)
乙武洋匡(おとたけひろただ)さんは、生まれた時から手と足がない。でも電動いすでどこへでも出かけている。普通の人だったら、自分の不遇を嘆き、親を恨んで後ろ向きの生活になるのではなかろうか。彼は小さいころから引きこもることなく、みんなの前にでていった。強い人だと思う。彼はいま障害者が暮らしやすいバイヤフリー社会を作るための活動をしている。それは自分が障害者として生まれて、いろいろと経験を積む中で「僕には、僕にしかできないことがある」という思いに至ったという。乙武洋匡さんは自分の置かれた境遇を素直に受け入れて、そこから何ができるのだろうかと考えられました。つまり障害者という事実を受け入れて、その事実に服従されたという事です。私たちは五体満足に生まれてきたにもかかわらず、人と違うところを見つけて、それを拡大鏡で覗いたように誇張して、劣等感に悩み人前に出ることを躊躇することはないでしょうか。乙武洋匡さん言います。「アメリカでは障害者は、その人の特徴、個性と捉えます。日本では人と同じであることが原則とされて、そこからはみ出ることを極端に嫌う。そしてはみ出た人間を、差別したり、偏見でもって扱うのが残念だ。でも本来一人一人の人間は違って当たり前ではないのか。その違いはその人の特徴なのだから、それを活かして伸ばして生きてゆけばよいのではないか」今の子供たちに対しては、すぐに「どうせ俺なんか勉強できないし」「どうせ、私なんか美人じゃないし」といった「どうせ自分なんて」といった言葉を口にする。しかし、もしも彼らが、自分はひとりしかいない、かけがえのない存在なんだと、自分を誇りに思えるようになれば、「どうせ自分なんて」という自ら人生をつまらなくするような言葉は口にしなくなるだろう。そして、自分の存在をかけがえのない存在と認めることができれば、自然に、目の前にいる相手の個性も認めることができるようになるはずだ。自分も、たった一人の自分であるように、その人も、たった一人しかいない、大切な存在なんだと。そうだ、自分も他人も存在しているそのままが100点満点の人間なのだ。
2013.04.22
コメント(0)
鎌田實さんの詩を紹介します。考えすぎなくていい なやまなくていい 人生には解けない問いがあるなんで生まれてきたのか 生きている意味は何か 解けない問いはいっぱいあるわからない わからなくていい なやまないことが大切解けない問いは放っておけばいい なやまないで毎日のあたりまえの生活を ていねいに ていねいに 実践すればいい心をうつうつとさせないで 明るく ポジティブに いきいきと生きよう希望が持てないような時がある そんな時は 無心に部屋をきれいにしたり 料理を作ったり 人のために生きたり無心がいいのだ なやまないことが大切森田先生は森田全集5巻764ページに不安をすぐに解決せずに持ちこたえることの大切さを書いておられる。すぐに解決できそうもないようなとき、疑問は疑問としてこれが解決する時節を待つしかない。すぐに衝動的な行動をしてはならない。態度を保留にすることが大事である。安田さんの例です。赤ちゃんが夜鳴きをしてうるさくて寝れない。こんな場合どうするか。うるさいと思うのも純な心である。子供のことだからしかたない。「我慢しなければいけない」と型にはまっていては少しも進歩はない。また一方叱りつけたり、懲らしめたり、菓子を与えて機嫌をとるなどの軽率な行動はもっといけない。神経者はどちらかに態度を決めなければいけないということが強い。白か黒かどちらかに決めたがる。どうしてよいか分からないようなときは、うるさいなあという純な心はそのままにして、態度を保留にすることである。ああうるさいどうしてやろうかと、ああも思い、こうも工夫して、子供を観察したり、他の事をしていると、いつとはなしに、子供は泣きやんでくる。なるほど子供はなくだけなけば、なきやんでくるものだという法則を発見する。
2013.04.21
コメント(0)
老子の言葉に中気(ちゅうき)というのがある。ブッダに中道という言葉がある。孔子に中庸というのがある。老子の研究の第一人者である加島祥造氏は、三つともバランスの大切さを言っているという。森田先生の精神拮抗作用、調和、不即不離、両面観に通じる言葉である。昔からバランスをとるということは、生きていく上でとても大切なことだと言っている偉人がいたのである。私はバランスというとサーカスの綱渡りがすぐに頭に浮かぶ。高いところにロープを張って長い棒でバランスをとりながら、ゆっくりと渡りきってゆく。それを真似て机の上には手作りのヤジロベイを置いている。森田理論でバランスといえば、「生の欲望の発揮」と「不安、恐怖」の調和を図るということが大事であろう。この関係を理解しないと、森田理論はよく分からない。生の欲望ばかりが突っ走ると躁病の人のように始末が負えなくなる。つまり社会生活の中でうまく適応しないのである。制御機能として働く不安、恐怖を活かして調和をとりながら生活することが大切だと思う。これが認知行動療法など他の精神療法と大きく異なる。他の療法は不安を邪魔者としてみなすのである。不安を取り去ってすっきりと解決しようとする。森田理論では不安は自然現象だからどうすることも出来ない。不安は取り去ることはできないという。自然現象という事は、どんなに心の中で醜いことを思っても自分が責任をとる必要は全くない。それよりも不安は人間が生きていくために大切なものだ。人類の進化の過程で今までずっと淘汰されることなく、引き継がれてきたものである。不安は多くの警告を発してくれている。その警告に注意を払い、不安に謙虚に学ぶことが大切である。不安が正常に機能すれば、生の欲望が暴走することはないのである。昨今の社会問題の多くは、欲望過多で不安が正常に機能していない。不安には感謝しなければならない。
2013.04.20
コメント(0)
神経質性格の中に心配性というのがある。裏を返せば普通の人が気づかないようなことでもよく気がつくということである。感受性が強いということです。それを活かして気がついたことをメモにでも残しておいて、小さい気づきを実践していくと大変気のきいたことができる。リッツ・カールトンというホテルがある。このホテルは接客がよいという評判がある。一般のホテルに予約を入れて満室の場合、「あいにくその日は予約でいっぱいでございます。申し訳ございません」というのが普通である。リッツ・カールトンでは、「私どものホテルでは一杯でございますが、明日のご予約ですから、もしお困りでしたら、近くの同ランクのホテルの空き状況と料金を調べてご連絡いたします。いかがいたしましょうか。よろしければ、私どもの方でご予約の手配もさせていただきます。同業ですので割引できないかも伺ってみます。」と返答する。こうした配慮は心配性の人間はいくらでもできる。問題は気がついたことを実践するかどうかである。またこんな気配りは少し気をつけていればいくらでもある。たとえばバスに乗り込む時はあらかじめ小銭を用意して、手間取らないようにすることなども同様な気づきです。そのちょっとした気配りが人に感動を与えます。こうしたことを、こまめに1年も続ければ、神経質者は人から大きな信頼感を得られるのではないでしようか。信頼は自信につながります。これが神経質の長所を活かすということです。
2013.04.19
コメント(0)
「かくあるべし」で相手の弱点や欠点、ミス、失敗などを指摘する人は刑事のような人です。いつも相手がぼろを出さないかと手ぐすね引いて待っている。それを見つけると自分の出番が来たかのように積極的に出動するのです。ぼろを掴むと今度は、相手の弱点や欠点、ミス、失敗などの是非善悪を裁判官になり変わって価値判断する。そして最後には罵倒したり、相手をこき下ろす。刑の執行官までかって出るのである。一人の人間が刑事、裁判官、刑の執行までするようになります。餌食になる人はたまったものではない。このように追い込まれれば水蜜桃のような人間の心はすぐに壊れてしまいます。無気力、無関心、人に対して不信感を抱き、人を恐れ、怯えるようになります。相手を責めれば責めるほど、相手はさかんに言い訳をし、弁解するのである。また、嘘をついたり、ごまかしてなんとかその状況を脱しようとする。これをもし仮に罪を許してあげると、叱られた相手は悪いことをしたという気持ちが残り反省してなんとか償って帳尻を合わせようとする。反対に罪を許さないで懲らしめたり罰を与えるということになると、最終的には罪は罰によって相殺されて、一件落着となる。そうすると、自分のしでかしたミスや失敗は棚にあげて、相手に叱られた事だけを恨みに思い、また同じようなミスや失敗を重ねるのである。これは森田先生が、皿を落として割った人がミスの言い訳をすると、自分が許してもらいさえすれば、その件は片がついたと思い間違いをして、また同じ過ちをおかすと言っています。
2013.04.18
コメント(0)
神経症に陥るパターンは2通りあります。一つは不安、恐怖、不快感はイヤなものですから、それを取り去ろうとしているうちに、注意が不安、恐怖、不快感に向き、注意を向けば向けるほどさらに感覚が強まり、それをくりかえしているうちに、悪循環に陥り症状として固着するのです。もう一つは、たとえば対人恐怖の人の場合、人から批判されるような人間であってはならないなどという強い「かくあるべし」を持っています。すると、現実の自分の欠点やミスや失敗は我慢がならないもとして肥大化してきます。そして理想と現実のギャップで苦しむことになります。そのギャップをうめようとやりくりしたり逃げたりしていると、、苦悩や葛藤が強まりついには神経症へと陥ってしまいます。神経症で苦しむ多くの人は、この2つ発生原因を両方とも持っています。2つの原因がこんがらがって神経症を作り上げているために、神経症を克服することを難しくしています。神経症を克服するためには、一つには、精神交互作用を断ち切ること。つまり、「症状はあるがままに受け入れて、なすべきをなす」ということに取り組むことです。症状は横においておき、イヤイヤながらでも目の前の日常生活に目を向けて行動してゆくことです。もう一つは「かくあるべし」という思考パターンを出来るだけ小さくしてゆくことです。そのためには、事実を受け入れて、事実に服従していくという生活態度に変えてゆくことです。これは言葉でいえば簡単ですが、そういう態度を身につけるのは、ある程度の時間がかかります。でも森田理論学習を続けてゆけば必ず目的は達成できます。この2つが身についてくると、神経症から解放されると同時に、その後の生活がとても充実して生きることが楽しくなってきます。でもこれは一人で取り組んでゆくことはかなり手ごわい相手になります。なんとか生活が維持できていれば、生活の発見会に入り、神経症を克服した仲間と森田理論学習を続けることが近道だと思います。私もこのプログでもそのあたりのコツを紹介してゆきたいと思っています。
2013.04.17
コメント(0)
山崎房一さん(故人)の「どんどんほめればグングン伸びる」という本の中から「かくあるべし」を考えてみたいと思います。あるお母さんの話。娘の麻里が変わり始めたのはささいなことでした。娘は社会の西山先生が嫌いで社会の時間になると保健室にゆき、ペットで頭から毛布をかけて寝ているのです。西山先生は度重なる娘の態度に我慢できなくなったのでしょう。毛布をはぎ取りビンタをくらわせました。その日、娘は大声で泣いて帰りました。私は、「西山先生がいわれるように、麻里ちゃんがちゃんと勉強しないからよ」というと、娘は「クソババァ、何をぬかすか」と手あたりしだいしだいに物を投げつけて荒れてしまったのです。私は何か問題を起こすと、いつも学校側に立ち先生の味方をして娘を責めていました。山崎さんの子どもとの接し方の講座を受けて、今まで「麻里をかばってやらなかった」そう気づいてから、今後はどんなことがあっても、徹底して無条件で麻里の味方をしてやろうと肝に銘じました。また同じようなことがあって、娘は泣いて帰ってきました。私は、「どんな理由があったにせよ、麻里をなぐった西山は絶対に悪い。もう頭にきた。お母さんが麻里のかたきをうってやる。」ここぞとばかり語気荒く、娘にすごみをきかせて、西山先生への怒りをぶっつけてやりました。私が本気であると思った麻里は、「お母さん行かないで。私が悪いの。先生が叩いたのはこのぐらい。別に痛くはないの」と私の胸に顔をうずめてきました。お母さんと麻里に呼ばれたのは何年ぶりのことでした。どんな問題児でも、「かくあるべし」で対応しないで、ありのままの子どもを受け入れる。親の力で子供を変えよう、あるいは治そうとしないこと。もともとそんなことは不可能なことだから。見栄も外聞も全部捨てて、母親としてこの子の味方になってやるという覚悟。地獄の底までも一緒に行ってやり、無条件で徹底して子供を守ってやる。この態度が子供に安心感を与えて前進していくことになります。「かくあるべし」を押し付けることは、戦場で目の前の敵と戦わなければいけないのに、後ろから味方が、自分たちに鉄砲を放っているようなものです。闘う力は一挙に奪われて、無気力でおびえの強い子供になってしまいます。
2013.04.16
コメント(3)
他己紹介というのがあります。二人一組になって相手の名前、家族、趣味、仕事のことなどを聞きこんで、本人になり変わって自己紹介するのです。この時、相手の長所を紹介するということを付け加えるととても面白い他己紹介になります。相手の話の内容、話しぶり、しぐさ、印象等から相手の長所を探さなければなりません。これとよく似ているのですが、自分で行う自己紹介のときに、自分の子ども、自分の配偶者、自分の親の長所を紹介するというものです。普段は悪いところばかり目についていても、少々無理しても長所のみをみんなの前で披露するのです。集談会で取り入れて、発表しあうと面白いと思います。あるお母さんの話です。「私は今まで、我が子を毎日ダメです、バカだ、早くしなさいと叱ってばかりでした。ところがよく考えてみると、あの子はよく下の子の世話をするのです。そうゆういいところがあることに気がつきました。下の子がすぐに生まれたので、あの子には手をかけてやれず、まとわりついて甘えてきても、うるさいわねと叱ってばかりでした。あの子にすまないことをしたなと思うと涙がでてきました。」そしてその長所をあの子の前でほめてやりました。そしてお母さんはとても大好きだと言ってやりました。あの子は何回もその言葉は言ってくれるようにせがみました。そして元気よく外に出ていきました。叱り飛ばしてダメになる子はいますが、ほめすぎてダメになった子はいません。またバランスという面からみても、私たちは自分に対しても、他人に対しても欠点やミス、弱みなどは放っておいても刑事のように目を皿にして見つけます。反対に自分や他人の長所や強み、出来たことなどは無視しがちです。バランスをとるためには、自分の長所や強みだけを考えるようにすると次第にバランスがとれるようになってきます。そのようにバランスをとりながら生活するということが森田の大切な考え方となります。
2013.04.15
コメント(0)
先日テレビを見ていたら、桑田と清原がホームランをかけて真っ向勝負するという番組があった。清原の現役のときは子どもたちが小さかったため、父親のホームランをよく覚えていない。それで清原が子どもたちにホールランを打つ姿を見せてやりたいということで実現した番組であった。その相手ピッチャーに指名されたのが永遠のライバル桑田真澄であった。なにより驚いたのは桑田真澄のピッチングフォームの美しさであった。現役のときの華麗なホームが全く変わっていなかった。ストレートのスピードこそ120キロ台になっていたが、コントロールのよさは抜群であった。反対に清原は体型が全く変わっていた。引退に追い込まれた膝が今でも痛んでいるようで、たまった水を抜いたりしていてかなりガタがきているようであった。ただ身体は太り気味とはいえ腕の筋肉の盛り上がりは素晴らしいものがあった。決戦に向けて二人のトレーニング姿が紹介されていた。清原は現役を退いてからはあまりトレーニングをおこなっていなかった。清原はジムに行って上半身、特に腕の筋肉をさらにつけることを中心にトレーニングをおこなっていた。それに引き換え桑田は現役を退いたのちも、毎日トレーニングを続けているという。ランニング、ピッチングはもとより、いろんな器具を使って全身の筋肉をバランスよく鍛えていた。トレーニングもいろいろと工夫してよどみなく続けていく。とくに彼がしゃべっていたことで印象的だったのは、人間の体はバランスよく鍛えないと、体のどこかに無理がかかり、故障につながるということだった。そのうえ、清原のトレーニングを見て、ストレートを内角高めに投げれば、強い腕っ節が災いして打てないだろう。カーブ等の変化球は全く打てないだろうと冷静に予測していたことだった。結果予想どおり桑田の完勝であった。私が感心したのは、体をバランスよく鍛えていくということだった。上半身のみ、下半身のみ、体のキレだけという鍛え方ではなく、全身の筋肉を少しずつ鍛えて全体をレベルアップしていくという考え方であった。これは森田理論でいうどちらにも偏らない、常にバランスをとって生活を前進させていく考え方と一緒であった。桑田真澄は、森田理論は全く知らないのに、我々以上の考え方を実際に実践していたのである。
2013.04.14
コメント(0)
斎藤茂太さんが王貞治さんと対談された時のこと。「王さんはホームランを打とうと思って打つのか。それとも自然に打てるものなのか。」と質問された。王さんは、「ホームランは打とうと思って打てるほど簡単なものではない。ホームランを打とうと意識するとボールが見えなくなる。」といわれたそうです。ここでホームランが欲しいという場面がある。当然世界の王選手である。球場全体がホームランを期待している。でも、期待にこたえて、ここで一発ホームランを打とうという意識が強くなると、途端にボールが見えなくなる。ホームランはおろか凡打なってしまうことが多かったというのである。これは本来外向的注意が内向してくるからだと思う。これは森田でいう、「この場面ではホームランを絶対に打たなければならない」と自分にプレッシャーをかけて追い込んでいくと、その思いとは反対の結果がでるという「思想の矛盾」のことではないだろうか。反対に練習だけは十分にしておいて、ピッチャーの特徴を洗い出して、狙い球をしっかり絞り、これで駄目だったら仕方なしと割り切って打席に立つ方がよりよい結果がでるのではなかろうか。私は老人ホームの慰問でアルトサックスを吹いています。これは楽器の演奏でも同じであると思う。練習では徹底して100%の出来になるように、指使いを練習します。出来ないところは何回も繰り返します。そして問題がないか仲間にチェックしてもらいます。練習で100%出来ないものは決して本番ではやりません。その段階で本番を迎えます。本番前には必ずウォーミングアップを行います。これは、運動の選手が競技前に必ず行っているのと一緒です。そしていよいよ出番です。出番前はとても不安です。時には逃げ出したくなる心境になります。でも舞台に立つとそんなことは忘れています。ここまで準備をしても、悲しいかな本番で必ずしも完璧にできているかというと決してそんなことはありません。いつも80%から90パーセントの出来です。それが普通です。だから今では100パーセントの練習をして、あとは運を天に任せるという気持ちでやっています。それを以前はいつも完璧でないとダメだと思って、自分にプレッシャーをかけていたため、かえって結果がよくなかったのです。それは少しでも間違えると気が動転していたからだと思います。自己否定していたのです。今は失敗する自分も許すことができます。練習は完璧にして、本番は楽しむという心掛けがちょうどよいようです。
2013.04.13
コメント(0)
中学2年生のN君の校外学習のことです。同じクラスのつっぱりのSが、先生のいないことを確かめて、N君に缶ビールを買ってくるように命じました。N君は恐ろしいのでSの命じるままに缶ビールを買ったのです。ところがそれを運んでいる時に、担任のK先生に見つかりました。K先生からN君は問答無用の叱責を受けました。彼はSの仕返しを恐れてSの命令だとはいえませんでした。駅で解散する時「明日授業に出る必要なし。朝10時に両親と校長室に来ること」と命じました。N君は帰宅して、お母さんにことのいきさつを話しました。お母さんは、「それはあなたが悪い。先生が怒るのは当たり前よ。どうしてきっぱりSに断らなかったのよ。しようのない子ね」と昔の失敗を持ちだしてさらに文句を言いました。翌日、校長室では、校長、生活指導教師、担任教師が待っていました。校内暴力、非行の発生に神経をとがらせていた学校側は予想以上に激しく叱りました。生活指導教師は、「なぜ黙っているのか、悪いと思わないのか、悪いと思ったら土下座して謝れ」とN君を力ずくで土下座させ、頭をゴツゴツと叩きつけました。「お前は人間の屑だ」と吐き捨てるように言いました。お母さんは「こんなことをしてすみません」と謝るだけだったといいます。その翌日からN君は登校拒否、両親とは口もききません。時々気が変になったように暴れるのです。同じような問題がT君にもありました。彼は先生から殴られた時5針縫いました。お母さんは、「あなたにケガをさせた先生を絶対に許さない。もうあんな学校へ行く必要はない。お母さんが怒鳴り込んでくるから」といったそうです。するとT君は、「お母さんそんなに怒らないで、ビールを買った僕が悪い。先生だって生徒がビールを買えば殴るよ。明日から学校へ行くから心配しないで」と先生を弁護したのです。お母さんがT君の味方をしたので、外部の敵や障害に対して勇敢にたたかい、それらを克服して前進できたのです。N君のお母さんは建前で対応しました。N君は、建前なんかはどうでもよかったのです。たとえN君が間違っていたとしても、身を張ってN君をかばってくれる母親が必要だったのです。森田先生はこんな時は正論ではなく、常に人情から出発しないといけないと言っておられます。
2013.04.12
コメント(2)
ストレス学説を打ち出したカナダの故ハンス・セリエ氏は「適度のストレスがないと人類は滅びる」と言っています。寒さというストレスをネズミに与えていくと、ネズミは徐々に寒さに慣れていくそうです。寒さに対する耐性ができているということです。寒さはきついですが、それに打ち勝つことで、結果として生き伸びる力がついてくるのです。重力のない宇宙に滞在した宇宙飛行士の筋肉や骨は急速に衰えていきます。重力というストレスは、空を自由に飛ぶことはできませんが、そのおかげで筋肉や骨が丈夫になるのです。使わないと廃用性萎縮が起こります。世界一の長寿村であるコーカサス地方を調査してみるととても興味深いことが分かります。一つは案に反してかなり厳しい労働をしていること。もう一つは山あり谷ありの厳しい自然環境で、気候も寒さや暑さの寒暖の差があることです。そんな過酷な自然の中で、コーカサス地方の人たちは、ほとんどみんな毎日生きるための農作業に従事しています。亡くなるのは115歳ぐらいになって、畑でぽっくりというのが多いそうです。特徴的なのは、何かあるとみんなが集まり酒盛りをして歌を歌うそうです。その時80代の人は若手扱いだと聞きました。過度のストレスを抱え込みすぎないで、発散する楽しみがあるのがよいのでしょう。日本の長野県も長寿県ですが、山は多いですが決して特別に恵まれた環境とは言えません。むしろ冬は雪が多く、夏は暑いところです。考えてみれば、あまりにもストレスの多い一年中寒さの厳しいところや、反対に一年を通して気候が温暖なところ、花が一年中咲いているようなところではかえってあまり長生きができないようです。それは食べ物や気候に恵まれていると、人間の生命力が発揮されないということだと思います。反対に生命力がどんどん失われてゆくからではないでしょうか。だから適度なストレスが人間の生命力を目覚めさせて、生きる力を与えているということではないでしょうか。森田では不安や心の痛み、ストレスは人間が生きていく上に無くてはならない大切なものだと教えてくれています。今一度その効用を見直してみたいものです。
2013.04.12
コメント(0)
事実をよく見ないで先入観で判断を下すことになるととんでもない間違いを起こすようになります。これは森田理論の考え方ではありません。国立国語研究所で話題となった実話があります。ある一人の女性の事をAさんが、「目がぱっちりして、スリムだ」と言いました。ところがBさんは「目がぎょろっとしていて、電信柱があるいているようだ」と言いました。実際に彼女を見ないでいる人は、Aさんから話を聞いたか、Bさんから話を聞いたかでその女性の印象が全く違ってしまう。仮に事実を確認しないで、その人のイメージを作り上げて対応しているととんでもない間違いにつながります。福井商工会議所が県内の企業人348人を対象に、言葉のイメージ調査をしたことがあるという。大勢というと何人ぐらいの人のことをいうか。最多が1万人で最少は4人。おじさんというと何歳以上の人のことか。78歳から22歳までの答えがでた。長電話に至っては10時間から2分。300倍もの開きがあった。言葉は便利だが、それを真に受けていると、間違いのもとである。自分で実際に事実を確認しなければならない。その時決して先入観を持って見てはいけないのである。マル、ながくろ、バック、クロ、くい、リキ、ちょこ、タロ、うろ、チビ、つる、いろ。これは小学校4年生の横山あやちゃんという子供が、自宅で飼っていた12匹の蚕につけた名前だそうです。一匹ずつ、わずかに違う顔の特徴をつかんでスケッチしているそうです。事実の観察の見本のような話ですね。我々大人には同じようにみえる蚕でも、よく観察していると違いが見えてくるということです。森田先生のように実際に自分で現地に足を運び、また実際に実験をして確かめるという態度はとても大切です。森田理論では事実をよく観察する、という態度を養うことがかかせません。事実を観察し、事実を「かくあるべし」という観念を入れずに、そのままに味わうこと、最終的に事実を素直に受け入れてゆくことが森田理論学習の目指すところです。
2013.04.11
コメント(0)
みなさんは腹が立った時どんな対応をとられていますか。1、 ふくれっ面をして、その腹立たしさを爆発させて喧嘩をする。2、 じっと我慢する。ひたすら耐える。3、 その場は耐えしのぶが、以後その人には近づかない。4、 他人にグチをいう。同情を求める。5、 腹の立たないような包容力のある人間になろうとする。6、 食べたり飲んだり、ギャンブルなどで発散する。7、 反論の材料をよく整えて、整然と闘いを挑む。腹がたった時こそ森田理論を応用したいものです。精神拮抗作用と感情の法則が役に立ちます。まず感情の法則1。どんなに腹立たしい感情でも、放っておけばひと山越えておさまってきます。この法則を知っておけば、何もしないでじっとしておくことです。さらに早くしようと思えば、その腹立たしさは横に置いておいて、その時のなすべきことに手をつけることです。その時にいくら腹が立っても、後で考えるとたいしたことではなかったという体験は誰でもしていると思います。これは実際に生活の中で実験してみることが大切です。次に精神拮抗作用。森田先生は腹が立つときは殴ってやろうか、それとも嫌味の一つでも言ってやろうかとか、その感情をそのままにしておけばよいと言っています。そのままにしておけば、人間には反対の考えが自然と湧き出てくるようになっている。人間の心の仕組みはそのようにできている。殴りかかったり、腹立ちのまま相手を攻撃したりすれば、その後の付き合いが難しくなってしまう。腹が立つけれどもここはひとつ我慢しようということに落ち着く。どちらかに態度を決めてしまうと、とても融通はきかなくなります。臨機応変に動くことができなくなるのです。それともう一つは、3日たってもまだ怒りが収まらないようだと、それは腹が立つだけの理由がある。そういう時はたまには準備周到にして闘いを挑むことも必要だと言っている。そうしないとストレスを抱えたままになる。また相手は自分を見限って、以後家来のように軽くあしらうようになるといっておられます。でもここでも慎重に精神拮抗作用を応用しないと、取り返しがつかないことになることもあると思う。
2013.04.10
コメント(2)
アフリカでは原始的な焼き畑農業で生計を立てている部族がいるようです。焼き畑農業は、集落のまわり森を10等分に分けて、それを順番に焼き払いそれぞれ10年ずつ耕作するそうです。食料の量は、部族の人間が1年間に食べられる分しか作らないそうです。もっとたくさんの食糧を得ようと、いつもより多く森を焼き払えば、短期的には多くの食料を確保できます。しかしそんなことをすれば多くの畑がやせて、作物が育たなくなり、飢饉を招きかねません。だから原住民たちは、今はひもじい思いをしても、多くの森をいっぺんに焼き払うということはしないのです。そして子孫代々まで食料の安定供給を目指しているのです。私たち先進国の人間は、自分たちの欲求を満たすためにどこまでも貪欲です。自然を思うがままにコントロールしています。自然はいかようにも人間のコントロール下にあると思っているのです。もはや不安が欲望の暴走を止める歯止めになることはないように思えます。私たち神経症で苦しむ人たちの特徴の一つは、不安、恐怖、違和感などの自然現象を自分の思うがままにコントロールしようとしていることです。感情の法則では、「感情は自然現象であり、人間の意志でコントロールできない」と学びました。松下幸之助さんは「人間万事、天の摂理でできるのが90%、あとの10パーセントが人間のなしうる限度である。」といわれています。森田理論学習で自然に服従するという態度が身につき、生の欲望の発揮に邁進できるようになれば素晴らしい生き方になると思います。
2013.04.09
コメント(2)
平成11年ジャンボジェット機をハイジャックした28歳の男がいた。刃渡り19センチの包丁を持ちコックピットに入り、云うことを聞かない機長を刺殺した。一時は八王子市街の300メートルまで急降下したという。副機長が飛び込まなければあわや大惨事であった。なんとか大惨事にならず、逮捕された男は、「ジャンボ機で宙返りやダッチロールをしてみたかった。」「レインボーブリッジの下をくぐってみたかった」といった。この男は一流大学を出ており、大企業につとめていた。とてもインテリのすることとは思えない。調べによるとこの男は抗うつ薬を飲んでおり、その薬の副作用として、衝動性を高めたり、焦燥感やイライラの出現、躁状態を高めたとされた。つまり躁病の状態であった。躁病は、朝起きても会社に行くのがしんどいとかいう気分はなくなり、ルンルン気分、鼻歌交じりで会社に行くような状態になる。不安、恐怖、不快な感情がなくなってしまうのである。欲望の暴走を止めるための歯止めが利かなくなった状態である。車でいえばブレーキが壊れた状態である。本来不安、恐怖、不快感などはいやなものではあるが、人間が生きていく上になくてはならないものである。不安を取り除こうとしてはいけない。もし取り除こうとすれは不可能に挑戦することである。疲労困憊して最後は負け戦となってしまう。不安に学び、不安を活かす中に本来の人間の姿がある。森田ではこの不安と欲望のバランスのとれた行動がとても大切であるという。
2013.04.08
コメント(0)
良寛さんの作品の紹介をします。散る桜 残る桜も 散る桜裏を見せ 表を見せて 散るもみじ形見とて何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉良寛さんは自然に同化して、自然とともに生きていく意思が感じられる。それがなんともいえないすがすがしい味わいとなって我々に迫ってくる。振り返ってみると、私たちは自然を破壊して、自分たちの生活の都合のよいように自然を作り変えてきました。そして高度の文明を築いてきました。我々神経質者は自分の感情はすべて自分のコントロール下に置いて、自由自在に操ろうとしてきました。それが不可能に挑戦していることは全く分かりませんでした。でもそうすればそうするほど次から次へと問題が発生しました。しだいに自分を苦しめてゆきました。その結果何か心が満たされない、どんよりと雲が立ち込めて重くるしい空気を吸っているようなやりきれない気持なのです。その原因は多くの人が気付いているのです。どんなに頑張ろうと自然は自分たちの自由にはできない。それを追及していくと自分たちの文明は破滅してしまう。最後には地球が不毛の大地になってしまう。でも目先の欲望を満たし、際限なく追及する以外には生きがいが見いだせないような大きな精密機械の中に投げ込まれているような感じです。ちょっとやそっとではその中から抜け出すことはできません。森田理論学習ではその仕組み、メカニズムだけは学習しておきたいものです。
2013.04.07
コメント(2)
平成25年4月号の「生活の発見誌」にパーソナリティ障害の妄想性パーソナリティ障害の記事がありました。この方の例はかなり重症のようでした。そもそもパーソナリティ障害は、偏った考え方や行動パターンのために、家庭や社会生活に支障をきたしている障害のことをいいます。日本語では人格障害といわれています。アメリカのDSM-4の診断基準によると10種類に分類されています。境界性、自己愛性、演技性、反社会性、妄想性、失調型、シゾイド、回避性、依存性、強迫性パーソナリティ障害である。詳しく知りたい人は下記参考文献を参照してください。パーソナリティ障害の人はある特徴があるという。一つには自分に対して強いこだわりを持っているということである。そしてもう一つはとても傷つきやすいということである。いずれも森田神経症と重複している。症状としては回避性、自己愛性、強迫パーソナリティ障害は森田神経症とかなりの部分重なり合う。診断テストをおこなうと私もそれらに該当していた。ただしそれ以外の部分は程度の差こそあれ、森田神経質とは一線を画していると思われる。つまりそれ以外のことで極端に家庭や社会生活に支障をきたしてくると医療対象の範疇に入ると考えられる。ただパーソナリティ障害と診断されても、自分で治したいという意欲のある人、自己内省性のある人は森田理論の学習によって克服できる障害であると思われる。参考図書として「パーソナリティ障害 岡田尊司 PHP新書」がある。この中に自己診断テストがある。ぜひ自分の傾向を把握する意味でも診断テストを受けてみることをお勧めします。
2013.04.07
コメント(0)
昔のやさしい人とは、相手の話をよく聞いてあげて、相手の気持ちになりきって、受容し共感してあげて、何らかの解決策を一緒になって考えてあげることでした。今の若い人のやさしさとは、そのように相手の内面にずけずけと土足で踏み込んでゆくことではない。相手を傷つけないように配慮できる人のことを言う。また相手も自分を傷つけることのないような表面的には和やかな人間関係のことを言う。心が傷つくという言葉があります。不用意な相手の一言によって立ち直れないほどの、心の痛みを相手が感じるのである。これが現代の人間関係を考えるときには一番考慮すべき課題となっている。つまりお互いを傷つけないというやさしさが現代では求められているということである。そうやさしさを持った人は、人の悲しみや悔しさに動揺してしまう。やさしい人は感受性のするどい人です。他人の痛みが容易に伝染し易いのです。そのような人は熱い人間関係は苦手です。「熱い思い」を伝えたり、伝えられたりするのが嫌いです。反・熱血主義なのです。淡白であたり障りのない人間関係を望んでいます。そうゆう人はペットの代わりにどちらかというとぬいぐるみを好みます。自分がぬいぐるみを傷つけることもなければ、ぬいぐるみによって自分が傷つけられることもないからです。ぬいぐるみは物を言わぬこと、そこが重要なのです。やさしい人は優柔不断です。自分が決めたことが、うまくゆかなくなって後で後悔するようなことになっては大変だと考えるのです。自分で決められないときはどうするかというと、結論を先延ばしにするわけです。結婚なども先延ばしにするわけです。やさしい人は失敗を恐れます。「いちおう」「とりあえず」という言葉をよく使います。失敗したときにこれは急場しのぎだから失敗してもしようがないという、自分のいいわけ、慰めになるのです。ここでも失敗しても自分が傷つかないようにガードを張っているのです。また心底熱中できるものがない。何かをする場合、はたしてこれは自分に合っているのだろうかと、絶えず自問自答している。だから何かに熱中しているようでも何か冷めている。他に興味のあるものがあれば容易に移行する。だからいつまでも自分探しの旅と称して、一人旅に出たり、外国へ留学したり、フリーターのような仕事を転々としている。これは価値観の根本が、自分が傷つくことに極端におびえて、それを避けることに汲々として生き延びていることによる。本人は決してそれでよいとは思っていないのだが、それ以外の生き方は、手掛かりさえつかめないのである。これは森田でいうと、生の欲望の発揮を忘れてしまって、自分や他人が傷ついて、不安なり、恐怖、不快感に直面することを逃げたりやりくりした結果、自ら蟻地獄に陥っているのと一緒に見えます。神経症の「手段の自己目的化」が生き方となって凝り固まってしまっているのです。これは順序良く森田理論を学習すれば、そのメカニズムが分かるとともに、脱出方法も見出し、人生観が変わる可能性があると思います。
2013.04.06
コメント(0)
南アフリカのバベンバ族では、部族の誰かが不正をはたらいたり無責任な行動をとった時に、村の真ん中で一人で座らなければいけません。逃げられないようにしてあります。村人はみんな仕事を止めて、集まって輪になり、その人を囲みます。普通はみんなでその人の悪事を白日のものにさらして、その罪に応じて罰を決めるのかと思いますが、その部族は違います。子どもも含めた全員が一人一人、その人が過去にしたよいことについて話し始めるそうです。その人について思い出せることすべてが詳しく語られます。その人の長所、善行、親切な行為などのすべてを、輪になった一人一人が詳しく語るのです。村人はこれ以上ない誠実さと愛を込めて話します。誇張もでっち上げは許されません。不誠実な態度や、皮肉な態度をとる人もいません。その人を共同体のメンバーとしていかに尊敬しているか村人全員が話し終えるまでこの儀式は続きます。それは数日間に及ぶことがあります。最後に輪が崩されると、その人を部族に再び迎え入れるお祝いが始まります。生活の発見会の前理事長の斎藤光人さんは、どんなに人格者といわれるような人でも内面には卑猥なもの、醜いもの、汚いもの、好色なもの、幼稚なもの、狡猾なもの、自己中心的なものを持っているといわれています。反対に殺人事件を起こすような人にも、よい面はある。善行をしたことはある、人に親切をしたことはあります。悲しいかな人間はその両面を持っているのが人間の事実である。森田先生も片方の悪い面ばかりを見て、相手を価値判断してはその人を本当に見たことにはならない。よい面を見てバランスをとって初めて見たことになるといわれています。日本では悪いことをした人は裁判で罰を与えられ刑務所に入れられます。でも出所した人の再犯の可能性がとても高くなっています。それは罰を受けることによって罪は償われて無かったことにされるからだと思います。バベンバ族の罪に対する対応はとても森田理論に近いものがあると思います。
2013.04.05
コメント(0)
イチローのスランプ脱出方法が面白い。イチローはスランプのときベストの状態を思い出さないことだという。苦しいときに一番よい状態を思い出すと、理想の状態と現実との大きなギャップを感じて余計に苦しくなるという。これは森田でいう思想の矛盾の回避ですね。普通の選手は好調時のフォームなどをビデオに収録して、それを見ながらスランプ脱出の手掛かりにしているという。イチローの場合は、良くも悪くもない普通の状態、つまり中間地点を修正の参考にしているという。バットの状態が常に完璧でないといけないというような選手は、野球の世界では長くはやっていけない。外的要因によるそれなりの誤差に対応できる技術を備えるべきだという。我々に置き換えてみると、完全主義、理想主義で自分を追いつめてゆくと、現実とのギャップに苦しみ、手も足も出なくなってしまいます。目標は達成可能な少し努力すればできるところに置けば、やる気も出てくるし、達成すれば自信にもなります。かくあるべしに力点を置くのか、かくある自分に力点を置くのかの違いだと思います。
2013.04.04
コメント(0)
躁病の人は、不安、恐怖がなくなり、生の欲望のみが前面に出てくる。不安と欲望のバランスが崩れて多くの問題がでてくる。躁病の人を見ていると不安、恐怖不快感がいかに大切なのかがよく分かる。躁病の男は尊大となり、やたら威張り声も態度も大きくなる。せっかちで豪胆になり、自信満々で、自分は度胸も才能も魅力も傑出していると思いこんでしまう。すると些細な思いつきが大発見をしたかのように勘違いする。金遣いも荒くなる。不必要な高額商品をやたらと買うようになる。またパチンコやパチスロ、ギャンブルに金をつぎ込む。自分が王侯貴族のような気分になっていて、電車の中でも足を組んだまま携帯で大声をだしてしゃべったりする。レストランに入ればウエイターの案内を待たずに勝手に窓際の夜景が見られるような席に陣取り、開口一番「この店で一番高いワインを出してくれ」と言い放って、周りの人のひんしゅくをかう。むやみに強気になるので、市長選、県議選などに立候補したりする。なかには財政は海水から純金を抽出して賄うから税金はタダにしますなどという。いきなり自叙伝を書きはじめ、途中で音読しては「直木賞間違いなし」と大声を張り上げる。とにかく欲望は思いつきであって、すべてがいとも簡単に達成できると思ってしまう。普通は達成困難な欲望は、歯止めがかかり行動を抑制するのだか、躁病の人は、無鉄砲に欲望に突き進む。歯止めが利かないのである。これでは借金の山を作り、信用を失い、後悔と絶望しか待っていない。
2013.04.03
コメント(0)
野村元監督はプロ野球は「プロセス 過程」が大切だという。これはバッターボックスに入る前に周到な準備を欠かさないことだという。「一に準備、二に準備、三に準備」を徹底することだという。97年に広島からヤクルトに小早川毅彦がやってきた。彼は野球のエリートコースを歩んできた。持って生まれた天性だけで勝負してきた。野村監督は小早川に、「おまえはバッターボックスに入っても何も考えていないだろう」「ヤクルトのベンチからみていると、ただ来た球を打っているとしか思えない」といっている。そのうえで、巨人の開幕投手の斎藤雅樹の攻略方法を解説した。斎藤のとりわけ目立った特徴は、左バッターに対しては、インコース高めに見せ球をはなってから、外角から入ってくるカーブで攻めてくることだった。特にワンスリーになるとカウントを稼ぐために、ほぼ100パーセントの確率で投げてきた。「いいか、インハイに来たら、次に外からのカープがくるという前触れだ。だから外からのカーブを踏みこんで打て。」と指示した。その試合で小早川は3打席連続ホームランを打って、「監督、バッチリでした」といったという。勝負する前の準備で勝敗が決まっていたということです。森田理論ではこの準備をするということを努力するといいます。そして努力する過程そのものが幸福なのだといいます。「努力即幸福」は森田先生がこのんだ言葉です。
2013.04.02
コメント(0)
交通違反を取り締まる警察官はノルマがあるのでしょうか。一時停止するところのちょっと先の物陰などによく隠れています。また見通しのよい障害物のないような道を50キロ規制してよくネズミ取りをやっています。私はゴールド免許ではなくブルー免許なので大きなことは言えませんが、パトカーなんかに捕まるとむかっとして腹が立ちます。でもよく考えると一時停止、信号無視、スピート違反は防ごうと思えば防げると思います。こうしたうっかりミスは森田的生活を実践することによってなくなると思います。私は一時停止の場所に来ると、警官がいるかもしれないという前提に立って行動しています。踏切の一旦停止も警察が見張っているはずだと思って行動します。50キロ規制のところはネズミ取りをしているかもしれないという前提で車を走らせます。神経質者は細かいことになんでもよく気がつきます。それを日常生活に活用することです。前もって常に最悪のケースを想定して、注意深く行動すると捕まることは少なくなります。森田の無所住心ではないですが、あちこちにアンテナを張って、不安に学び、不安を活かして対策を立てて後で後悔しないようにしています。森田では「不安は安心のための用心である」といいます。ぜひみなさんも生活の中に取り入れてみてください。
2013.04.01
コメント(0)
全34件 (34件中 1-34件目)
1

![]()
