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相変わらず仕事はバタバタしっぱなしだ。書こうと思っていることはそこそこあって、これまでの日記でも「そのうち書きます」と吹いていることがたまってきてはいるのだが、いかんせんまとめる時間も能力もなかったりして、微妙に恨めしい。そもそも昨晩もあんまり寝てなくて、今日もこれからダラダラと待ち時間が続くので、微妙に脳味噌がデレ~ンとしている。ので、どーでもいいことを書く。私、今年の初めにいくつか目標を立てたのだが、そのうちのひとつに「最新のエロゲーを買ってクリアする」というのがあったりする。まあ信じてもらわなくても別にいいのだが、私は基本的にエロゲーはやらない。3年くらい前に1本だけやったことがあるのだが、絵のクオリティは低いし音声はないし。とてもじゃないが満足できるレベルではなかった。しかし最近のエロゲは違うらしい。いやよく知らんけど。で。自分で決めただけでは決心が揺るぎかねないので、最も身近な女性(母親ではアリマセン)も含めて10人くらいに宣言しているのだ。が……。今年ももう4カ月しか残ってないというのに、いっこうに実現される気配がない。そもそもエロゲーというのはひたすらMacユーザーに冷たく、Windowsユーザーに優しいジャンルであったりする。意を決して先月秋葉原にまで乗り込んでその手の専門店に入ってみたのだが、どの棚にもMacで走るソフトが置いてない。仕方がないのでレジまで行って店員に聞いてみると、「あー、Mac用は扱ってないんですよねぇ」と、さして残念でもなさそうに言われた。秋葉原のエロゲー専門店でデブオタに混ざりながら棚を探し、あげく店員に冷たくされる。なんなんだこの妙な敗北感は。悔しいのでMac用のエミュレーターソフト買ってやる。と、オノデンのMacコーナーに行って吟味したのだが、やはりどれがいいのかサッパリわからず、今度はMacコーナー専門とおぼしき店員を呼び止めて「Windows用のゲームソフトをやりたいのだが、適当なエミュレーターソフトはどれか?」と聞くと、「この負け犬め、お前もエロゲで転向(コロぶ)のかっ!!」みたいな口調で「中古のWindowsマシンを買ったほうが安いし便利ですよ」と言われる。なんかこう「お前はマイノリティなんだ」と業界全体で言われたような気がしてちょっと凹んだ。しかもエロゲ業界に。いやMac好きなんだけどね。つかWindowsよくわかんねーし。ゲイツの顔が嫌いだし。「あー、わざわざハードを買わなきゃならんのか」と落胆しつつ後回しにしていたら、最近になってメールやらなんやらで「エロゲやったのか?」とか聞いてくるヤツが出てきた。この2週間で4人くらいに。宣言なんかするもんじゃないね。デレ~ン。というわけで、探し物を求めて中古のWindowsマシンを買うかどうか思案中。あ、あとお薦めのエロゲがあったら教えてくだせえ。デレレ~ン。
2004/08/31
どうにもまあ仕事が忙しくなってきて困っている。今週末は北海道に行かねばならないし、明日も明後日もバタバタすることが決定的だ。うーむ、まあ仕方がない、自分で選んだ仕事だしな、と思い本日も残業中。知り合いにひとつ日記のネタを提供してもらっていて、「これについて書いておけ」と言われたものがあるのだが、ゆっくり考えているヒマがない。どんなネタかというと、アテネ五輪の報道でゲストに呼ばれた「先生方」が「彼らは国なんてものを背負ってないし、過剰な国民の期待などというものは感じてない。個人で楽しんでやってるから強いんだ」と分析すると、その直後に当の選手達がすぐさま「いや皆さんの期待と応援があったからここまで頑張れた。個人の力ではない」と、思いっきり真っ向否定される、という悲しい話。そのゲストの「先生方」に、どうも世代的共通点がありそうだ、ってなネタ。アテネに限らず中田英寿とかイチローなどの評論でもたまに言われることだ。まあ平たく言うと、「団塊の世代(今の50代中盤から60代前半ですな)は安保闘争と浅間山荘事件時代の夢をまだ見続けているよね」という話なのだが、そこまで平たくしていい話ではないような気もするし、案外簡単な話なのかもしれない、という気もしている。私は高校生のころ、学生運動というものに憧れていた時期があった。ゲバ棒もってヘルメットかぶってマスクして、機動隊相手に終わりなき革命を!立て労働者たち、歌えインターナショナル、民族自決、米帝を打ち倒して集え若者よ! なに!? 貴様、総括しろ総括!そんな感じで憧れていたわけだ。ファッション左翼というかなんというか。いや60年代ならカッコもいいのだろうが、私が高校時代を過ごしたのは思いっきり80年代中盤なのだ。近くの女子高の文化祭に遊びに行く時は「マル金マルビ」とか言ってました。はいすいません。まあ簡単に言うと時代遅れの周回遅れで、要するに阿呆だっただけなのだが。いやほんとすいません。で、まあ学生運動をするからにはマルクスくらい読んでないとイカンなと思って図書館に行き、『資本論』を開いてみたら何が書いてあるのかサッパリわからず(今読んでもわからん)、あえなくショータ青年の極左への道は閉ざされたわけだ。なんか「初恋の時代」とか書いてあって、えへへ、こんなヒゲ面のジイさんが経済学の本で何を書いてるんだ? とか思うのが精一杯だった。(後に大学に入ってからマル経専攻のヤツにその話をしたら、「初恋の時代? なにそれ」と言われた。そいつも『資本論』は通読してなかったのである。大手都市銀に入ったアイツ、元気かのう)世はニューアカブームの残滓ゆらめく首都トーキョー。浅田彰とか中沢新一とか読んでるのがナウなヤングに鬼ウケする時代であり、私がそれに気づくのは大学に入ってからだった。スキゾとかパラノとか。誰も言わなくなったね。話を戻して、団塊の世代がいまだ見続けている夢の話なのだが、ここまで筆に任せて書いてきて、まだ切り口に悩んでいるところである。この世代のインテリを批判するのはそれなりの手法を使えば簡単だろう。彼らが夢見ていた「未来の若者像」は最も皮肉なかたちで実現したわけだし、それによって噴出した新たな問題点は専門家の研究が進み、さまざまなサイトで触れられているだろうから、ここでやってもしょうがない。あ、この「問題点」というのは少年犯罪の凶悪化とかではないよ。平和で平等で穏やかな若者たちとそれが作り出す社会を希求したら、なんか知らんが世の中バカばっかりになっちゃったという素敵な現代の世相のことであるので誤解なきよう。でもなあ。困っているのは、そんな「現代の社会」が、実は私、けっこう好きだったりするのだ。平和で平等で穏やかなら、多少バカだっていいぢゃない。キミねえ、戦後民主主義め! とかいって邪険にするけど、これ以上何を望むというのよ。今ここでビール飲みながらネットできるじゃないの。それって素晴らしいことだよ。そう言いたくなってしまうのである。ただまあ「社会をよりよくしたい、そのための提言は無駄ではない」とかいう寝言に近い箴言も、まあマジメで熱い人がやってるぶんには某かの成果は残すかもしれないのでやっててもらって構わないし。だからして、私といえば批判するでもなく擁護するでもなく。態度を決めかねて困っているわけだ。そもそもナンパばっかり考えていた学生時代を過ごした私に、女神となった樺美智子さんを抱える世代をどうこう言う資格はないように思えるのだよね。う~む、なんか今日の日記はちょっと飛ばしすぎた気がする。ほとんど読む人を意識していない文章だ。それに何を書いているのかよくわからない部分が多いとも思う。ま、書いてる本人もよくわかってはいないわけなのだが。そんなわけで探し物はまた今度ね。
2004/08/30
表題は、スポーツジャーナリズムの最高傑作だと私が勝手に思っている沢木耕太郎大先生の著作から(文春文庫刊)。もしスポーツライターを志す方であれば、必読の書ではあるのだが、自信をなくす可能性もあるので簡単にお薦めはできない(なんじゃそら)。本日、2週間に渡って日本列島を沸騰させたアテネ五輪が閉幕する。ハンマー投げのドーピング疑惑、最終種目の男子マラソンがまだ残ってはいるが、現時点でのメダル獲得数は金:15個 銀:10個 銅:11個 計36個金メダル獲得数は米国、中華人民共和国、ロシア、オーストラリアに次いで5位。私は「感動をありがとう」とかいう新聞の見出しが大っ嫌いだ。なぜ嫌いなのかはうまく説明できないのだが、どうも虫が好かない。「選手はお前を感動させるために頑張ったわけではない」という文言をよく見かけるけども、それこそ選手に失礼な気もする。「応援してくれた皆さんのおかげです」と多くの選手はコメントするではないか。なに? 社交辞令だ? だからどうした。応援が力になるのは事実だし、「選手の本音はこうだ」なんて言い出したら泥沼の水掛け論になることは目に見えている。成績の本当の原因など選手自身にだってわからないのだから、ましてやマスコミや、それを通して観戦する我々にわかるわけがなかろう。我々は、ただただ画面や紙面を通して選手の活躍とコメントを知り、それに向けて声援や感謝や敬意を送るのである。だからまあ、一応声には出さないし、おおっぴらには書かないけれど、こっそり「ありがとう」とは思っている(書いてるやんけ)。一般的に、日本のスポーツ観戦は「人を見てスポーツを見ていない」と言われる。ゴジラ松井の活躍には熱狂し、その家庭事情や同僚、コーチとの人間ドラマにはすぐ感動するが、では松井秀喜が他の選手と比べてどういう点で優れたバッターなのか、HRを打ったのは、どんなピッチャーのどんな球種なのか? 相手チームは? スタジアムは? そうしたことはほとんど触れられず、流されていく。『スポーツ批評宣言』で元東大総長の蓮實重彦もそこらへんを問題視しており、それは今後のスポーツジャーナリズムにとってかなり深刻な問題でもあるような気がするが、私は意外と楽観視している。別にいいぢゃない。それで充分感動するんだから。今回のアテネ五輪で個人的に一番感動したのは体操男子団体の金メダルと、アーチェリー、山本博選手の銀メダル。むろん谷亮子選手や北島選手にも感動したのだけれど、やはりわかりやすい人間ドラマに心惹かれてしまうのだよね。アーチェリーの山本選手は、シドニー五輪選考会で落選。自宅で過ごした4年前の夏に、「どうしてテレビ中継を見ないの?」と長男の純太郎君に言われたそうだ。雪辱を期して挑んだアテネ五輪。スコープに純太郎君の写真を貼り、それを見て心を落ち着かせて挑んだ準決勝と決勝。「純のヒーローになりたくてやってきたら、メダルまで辿り着いた」競技後のコメント。ジーンときてしまった。41歳での銀メダル。おめでとうございます。探し物はまだ見つかっていない。
2004/08/29
やっと仕事が一段落ついたよ。やれやれ。さて。ここから先は8月25日に書いた『「ネット友人」の普遍性と異常性』の続きとなる。前回の要旨をザッと記すと、「なぜネットで知り合った友人には、リアル社会での友人よりも短い時間で親近感や親密感を味わうのだろうか」という疑問に対する私なりの考えとなる。前回私は「ネット・コミュニケーション解体」というサイトより、以下のように引用した。>ぼくは、個人ページの掲示板へたどり着くまで、この孤独を噛み締めた。>すべてはそろっている。何もかもがここにはある。>でも、なにもなかった。ぼくを必要とするものは、何もなかった。>ネットの中で、膨大な言葉に出会い、膨大な言葉がぼくの中に蓄積され、>何度も感情がプラスに、マイナスに揺さぶられた。>でも、それを分かち合う誰も、あの完璧な帝国の中にはいなかった。>すべては世界であり、なおかつすべては自分である完璧な帝国の中で>ぼくはひとりぼっちだった。ネットという媒体の特質として、基本的に「ひとりでモニターに向かい、コミュニケートする」ということが挙げられる。多くは自宅であったりネットカフェであったり。いずれにしても断絶された「わたし」という固有空間のなかでのコミュニケートだ。「わたし」はひとりでモニターの前に座り、無限の広さを持つ電子の世界に相対するわけだ。いっぽうモニターの中の世界には、「人間」は誰一人として存在しない。それは掲示板だろうと個人の日記サイトだろうと同じ(チャットは少し資質が違う。これについてはそのうち別項で語ることになるだろう)。ただただ「言葉」と「画像」が並べ立てられ、膨大な数の情報のやり取りだけがなされている。「ならば本やテレビでも同じでは」と思う方もおられるだろうが、ネットはちょっと違うのだ。理論的には、「わたし」はその世界でなんでもできる王様だ。javaやC言語といったプログラムさえ使えれば、望むどんなサイトでも構築できるし、どんな発言も許される。そこまでのスキルがなかったとしても、どのサイトに飛ぶか、どの情報を摂取するか、どういった「言葉」を書き込むか、それらの権限はすべてモニターの前にいる「わたし」の思うがままなのだ。ひるがえって見て。書籍やテレビは、その向こうにあるのは基本的にすべて「特別な情報」、「特別な存在」なのだ。その情報は原則的に受信者側には加工不能だし、同じものを作り出すことができない。しかしネットは違う。モニターの前でブラウザを通して見るHTMLの世界は、ほとんどすべて「わたし」にでも作成可能であり、それに対して暴君のように振る舞うことができ、しかも多くの掲示板、日記サイトで発信している声の宿主たちは、「わたし」と同じ一般人の【はず】なのである。話を戻してネット社会である。そこにはどんな分厚い本よりも多くの情報が詰まっている。しかし、そのモニターの先には人間だけがいない。そこは整然とし、なんでもそろっている「巨大都市」のようでありながら(「ネットコミュニケーション解体」では「帝国」という表現を使っていた)、ただただモニターの前に座る「わたし」と同じような「人間」だけがいない。いうなればこれは、渋谷や新宿のような大都市で、ざわめきだけが響いているのにも関わらず、人間だけがひとりもいないようなものである。おお、この圧倒的な孤独たちよ!(ニーチェ風)さらに。この巨大な都市で交わされるさまざまな情報のなかで、ただ「わたし」に関する情報だけは(一部の有名人を除きほとんどの人は)交わされていない。そこには情報に飢えた人々が山のように求めあい、せめぎ合っているのにも関わらず、ひたすら「わたし」についてだけはいっさい触れられていないのである。少し感受性の強い人であれば、ネットにアクセスし、サイトなどを巡ってみると、しばらくすればどうしようもない寂寥感、孤独感を感じるはずだ。なぜならその無間に広がる都市で「わたし」は常にひとりぼっちであり、誰もがみな「わたし」を無視しているかのように振る舞っているのだから。そんなネット社会において、掲示板に書き込んだり出会い系に登録したり日記サイトを始めることは、“「わたし」はここにいる”と弱々しく声をあげることに等しい。誰もないはずの都市で、その圧倒的な無関心のなかで、「わたし」はその存在を主張する。「わたしはここにいるのだ」と。すると、姿は見えないけれども、どこか遠いところから木霊のように返ってくる声がある。「あなたを見ています」という声が届くのだ。それは砂漠のオアシスのようでもあり、神の啓示のようでもあるだろう。顔も知らない、年齢も本名も知らない、まさに「異界の住人」として、掲示板のレスやメールでのアクセスが「言葉」として届くのである。「ネットコミュニケーション解体」ではこれを「天からの声」と書き、「これに狂わないほうがどうかしている」と分析している。無限に広がる空間のなかで、ただひとつだけ「わたし」に向けられた声。それにすがりつき、比類なき感謝と感激と敬意を与えてしまうことは、容易に想像できる。ウェルテルがロッテに出会ったしまった瞬間なのだから、当然だ。これはおそらく、本名よりも「名無しさん」よりも、自らのある一面を切り取った分身である「ハンドルネーム」に対して払われた関心で、よりその効力を発揮するだろう。なぜなら「わたし」そのものには、ネット外に友人がおり、家族がおり、恋人がいる。よきにつけ悪しきにつけ、社会的評価も獲得している。しかしその「ハンドルネーム」の分身には、上記にあげたいかなるものも存在しない、さらなる孤独のうちに閉じこめられているのだ。私は仕事柄、始終ネットにアクセスしている。某チャットソフトが入っているから(自動で立ち上がる。この設定の解除の仕方がわからない(笑))、年中オンライン状態だ。しかしそれでも「ネット依存症」と呼ばれる方々ほどには、ネット社会への依存度は低い。と思う。前回の日記で書いた通り、ネットで恋人を見つける気はまったくないし、特に友人も募集してはいない。しかし、それでも掲示板でのレスや日記へのコメントにはやはり感慨深いものがあるし、それらに対して特別な思いを寄せてしまう。それはやはり、そのコメントたちが「無人の大都市」にたたずむ「わたし」にとっての「天の声」なのだから、だろう。この考えの傍証として、普段の生活では言えないことや書けないことが、なぜかネットでの友人には相談できたり、web日記では赤裸々に公開できたりする、ということがあげられる。ネットのなかには「人間」は誰もいず、ただ「わたし」しかいない。そこに響く声、降りてくる言葉はすべて「異界の者」からのものであるのだから、当然だろう。懺悔室で、壁の向こうの牧師にならなんでも喋れてしまうのと同じ理屈である。「人」には言えないことも、「神」になら言えるのだ。これは試しに、友人でも家族でも恋人でもよいので、横でモニターを見てもらいながら書き込んでみればよくわかる。ひとりで書き込む時の内容など、とても書けなくなるはずだ。うーん、とりあえず考えていることはこんなところなのだが、あんまりデキがよくない気も…。あとで書き直す可能性はある。ま、探し物のひとつが見つかった気がするので、少し満足はしている。(8月29日に微修正×2)
2004/08/28
サッカー日本代表現時点最強メンバー予測 久保 高原 中田(英) 中村 小野 稲本三都主 中田(浩) 中澤 宮本 楢崎控え)鈴木、大久保、藤田、本山、福西、遠藤、松田、森岡、田中、川口、都築1カ月前に某所に書いたものです。ちょい手抜きですんません。はー、忙しい。
2004/08/26
私にはネットがキッカケで友人になった人が何人かいる。正確にはネット掲示板でやり取りをし、メールを交換するようになって、実際に会って食事したり飲みにいったりするような連中だ。結婚式に出席して祝辞を読むような仲になったヤツもいれば、数年前から毎晩のようにチャットで話すのに、いまだに本当の住所氏名年齢職業を知らないヤツもいる。私はまっっっったく興味がないので手を付けた(なんじゃこの表現)ことはないが、知り合いのなかにはネットで知り合った仲間から恋愛に発展し、結婚して2子をもうけた連中もいる。(会長、元気か?)そのいっぽうで、ネットのみの付き合いの方々もいる。2年ほど前から公(おおやけ)のサイトに書き込む機会が激減したせいもあってほとんど存在しないのだけども、顔も本名も知らない、ただハンドルネームと文体だけは知っている方々がいる。(皮肉な話ではあるが、これを書いているこの日記サイトを読まれている方々のほとんどが、その「一部」の方々となる)また、当たり前の話ではあるが、ネット以外で知りあった友人もたくさんいる。元同級生や同僚、先輩や後輩、部活が一緒だったヤツ、近所の幼なじみ。我ながら社交的な性格だと自惚れているので、その数は比較的多いほうなんじゃないかと思っている。向こうはどう思っているのか知らないが、一応こっちは親友だと思っているヤツもいる。私自身はネットがキッカケで知り合った友人と、それ以外で知り合った友人とで有意差をつけることはしていない。もともと学生時代にはふらふらとひとりでバーに入っては、そこで飲みに来ている連中と友達になったり、ディスコで声をかけた女の子と仲良くなって、もちろん当初は下心があったわけだが、そんなことはすっかり忘れて今でも続く友人になった人もいる。こうした友人観を持つ私にしてみると、「ネットで培った関係性は特別だ」という言説には少し首を傾げざるを得ない。インターネットというのはあくまでコミュニケーションツールであり、「場」であって、根っこにあるのはあくまで人間性同士の関わり合い、その方法論だと思うからだ。ネットの付き合いで気をつけなければいけないことは、実際の友人付き合いで気をつけなければいけないのと同じ。実際の友人付き合いで有効な手段は、ネットでの付き合いでも有効。こうした考えは一定の普遍性を持っていると思っている。が、しかし。多くの方々は「そうではないんじゃないか」と思っておられることだろう。実際に対面して付き合う機会の多い友人には話せないことが、モニターの向こうにいる顔も知らない友人になら話せることができたり、ほんの数カ月前から数通のメールのやり取り、掲示板でのいくばくかの交信、チャットでの会話をしただけで、数十年来の友人と等しい親密感、親近感を感じる人は少なくない。こうした理由を、「ネット・コミュニケーション解体」というサイトでは以下のように分析している。ちょっと長いけど引用する。>いまぼくは、ネットの世界を「無人の帝国」「生きた廃墟」だと書いた。>以前書いた「人のいないオアシスが点在する砂漠」も、同じことだ。>ネットには、膨大な-検索登録だけでも1億2000万ページ-言葉が>蓄えられている。それは画面の上で完璧に再現される。完璧な>大都市のようだ。しかしそこを歩くとき、どこにも生きた人間がいない。>あるのは、書き込まれた「情報」のみ。>(チャットは、そこにこそ意義があるのだが、それはチャットの章にしよう)>>企業サイトがあり、宣伝があり、今日のニュースが映し出される一方で、>きわめて個人的な憂鬱や喜び、怒りや涙にもあふれている。>しかし、生きた言葉には出会うことは無い。しかしいつのまにか、>新しい言葉はネットの上に打ち上げられつづける。>生きた帝国に刻み込まれつづける、死んだ言葉。>その無人の帝国の中で、ぼくたちは膨大な言葉を手に入れて、>なおかつそれをだれに伝えることもできないでいる。>ネットはざわめきにあふれているのに、誰一人ここにだれあらぬ>このわたしがいることを、知らない。>>ぼくは、個人ページの掲示板へたどり着くまで、この孤独を噛み締めた。>すべてはそろっている。何もかもがここにはある。>でも、なにもなかった。ぼくを必要とするものは、何もなかった。>ネットの中で、膨大な言葉に出会い、膨大な言葉がぼくの中に蓄積され、>何度も感情がプラスに、マイナスに揺さぶられた。>でも、それを分かち合う誰も、あの完璧な帝国の中にはいなかった。>すべては世界であり、なおかつすべては自分である完璧な帝国の中で>ぼくはひとりぼっちだった。>>そして人は一般に、境界線の内側、自分の領域の中にいるとき、>無防備になる。映画も、映画館では我慢できても、部屋でビデオを見る>ときは思い切り泣けたりする。ネットという広大な自分の領域で、>とはいえ実際は自分の狭い部屋の中で画面に向かうだけなのだけれど、>ぼくたちはかなり自分のよろいを脱ぎ捨てて情報に相対している。>だからこそ、ネットの中の言葉には腹の立つものが多くなるのだ。>人間、自分とぴったり来るよりも違和をおぼえる人のほうが多い。>ネットにいると、違和感だらけだ。当然、腹の立つことも多い。>腹が立つのだけれど、すべては自分の部屋の中のことだ。思う存分、>誰もいないネットの向こうに腹を立てることができる。>>ネットの中でぼくたちは、自分のよろいを脱ぎ、たくさんの言葉を抱えて、>ひとりぼっちを感じている。>>そして、ある日、異変が起こる。>無人の完璧な帝国のどこかからか、「あなたを見ています」という>かすかな声が聞こえるのだ。>それは、どこの誰かもわからない名前で届けられ、「はじめまして」という>ちいさなつぶやき、少し遠慮を伴った初々しいつぶやきとともに始まる。>>あの帝国のどこかに、誰かがいる。>わたしのことを認めてくれる、誰かがいる。>>はじめて誰かからメールが届いたときのことを思い出す。>あれで「狂って」しまわないほうが、どうかしている。>いままで読むだけ、対話のないのっぺりとした世界が、いきなりまばゆく>輝き出す。対話が始まる。始まろうとしている。>なにも知らない誰かが、わたしのことを認めてくれた。>なにも知らない誰かと、何かが始まろうとしている。>>メールを受け取った瞬間から、もう、深い連帯感はぼくたちを捉える。>>メールを送ることも、同じことがいえる。誰かの言葉が、自分を揺らす。>この人のことが、知りたい。ひとこと何か、伝えたい。わたしはあなたの>言葉を読んでいます。わたしはあなたの言葉に揺られています。>ようやく、出会いました。この帝国の中で。この腹の立つ帝国の中で、>ようやく、出会いました。>メールを送る人も、あの無人の帝国の中で、ようやく自分を揺らす>言葉を見つけて、誰かの息吹を感じたのだ。<『ネット・コミュニケーション解体』第2章 第1節 「7 深い連帯感1-廃虚に響く声」より引用>いくぶん叙情的だが、美しい文章である。行間から知性が垣間見えているあたり、一瞬書き手を職業作家かと疑ったが、どうやら違うらしい(管理人さんのプロフィールを探したが、当該サイトでは見当たらなかった)。ともあれ、上記文章の書き手はネットを「無人の帝国」と呼び、そこでのコミュニケーションに「狂ってしまわないほうがどうかしている」と綴っている。これはどういうことか。思いのほか長くなったので、本日はここでいったん切る。残りは明日以降。探し物をひとつ見つけた気がする。追伸/日記にコメントおよび私書箱へメール頂いた皆様へ。頂いた感想はすべて読ませていただいており、当方真摯に受け止めております。ただ(私の)日記に関する感想にレスする、ということにいくぶん「照れ」を感じており、どう返していいのかも悩むところがありまして、どうしても滞りがちになっております。恐れ入りますが、当方からの返事を期待されてらっしゃる方は、気長にお待ちくださいませ。
2004/08/25

野口みずきがツチノコ発見!あなたはツチノコを見たことありますか? マラソン界きっての天然娘・野口はまた見た。まさにミラクルだ。それはスイス・サンモリッツ合宿を打ち上げる12日の朝練のときだった。 「草むらから“サササササ~ベーンッ!”って跳びはねたんです。去年見たのとは違った。新種ですよ、あれは」 野口によると、驚異の跳躍力で姿を現し、体長は30センチほど。体色は茶で、背中に斑点があり、舌がピロピロ出ていたとか。昨年のサンモリッツ合宿で初めてツチノコを目撃し、興奮も冷めやらぬまま迎えたパリ世界選手権では見事に銀メダルでアテネ五輪代表権を獲得した。空想上の生物ツチコノを見たつもりになることは、野口にとって吉兆なのだ。 さらに続ける。「UFOも見ました。8月1日のスイスの独立記念日でした。青白い炎が2つ見えたんです」。 なんと今回はツチノコに加え、UFO。奇跡が2度続いた。信じる者は救われる。無敵の野口ワールドでメンタル状態は最高だ。肝心の練習も順調。ベルリナ峠の標高1800メートル地点から2100メートル地点の高低差300メートルの山道を10キロ上って10キロ下るという過酷な練習を繰り返し、アテネ対策もバッチリこなしてきた。心身ともに絶好調。マラソン発祥の地での五輪で、今度は野口自らミラクルを起こす番だ。サンスポ.COM 8/20付けより引用ミラクル起こしましたな。イラストはともかく、「去年も見たんかいっ!」とは誰もつっこまないのか。ともあれ金メダルおめでとうございます。CM契約がいっぱい来ることを祈っております。
2004/08/24
昨日まで期せずして難しいことを書いてしまったので、今日は脳を休めつつ書き流しDay。これから歯の手術に向かわねばならないしね。ああ、憂鬱だ。8/19の日記は頭に浮かんだ事をばかばか書いていっただけなのだけども、それなりに思うところはあるわけで、気が向いたらそれなりに長いのを書いてアップする予定。本日はその補稿を作っておく。>・私、マンガはほとんど読みませんが『ワンピース』はお薦め『週刊少年ジャンプ』というマンガ雑誌には、以前から「友情、努力、勝利」という三大原則がある。『北斗の拳』、『キン肉マン』、『ドラゴンボール』、『スラムダンク』、『幽々白書』等々、ジャンプでのヒット作品を振り返ってみると、この原則を外した作品はまったくといっていいほど見当たらない(荒木飛呂彦が頑張っているけれど)。むろん、『ワンピース』という作品も御他聞に漏れず「友情、努力、勝利」が詰まっている。そうしたマンガに男の子が憧れ、楽しめるのはよくわかる。だって実生活ではそんなもんまったくないもんね。>・将来は富士山がハッキリ見えるところに住みたいいいよね、富士山。「霊峰」というのはつくづくうまいこと付けた名前だと思う。幕末の外国使節団が日本にやってきたとき、案内係の武士が「この国で一番美しいものをお見せします」といって、富士山を見せたそうだ。欧州は平地ばかりだから特に感動しただろう。>・横書きの原稿と縦書きの原稿って、同じ文章でも読後感が違うよねこれはそのまんま。国語学では子細に研究がなされていると思う。当たり前の話だが、日本語という言語は横書きには向いてません。>・楽天は新たなネットのコミュニティスタイルを構築しており、その生成過程がナショナリズムに似ている。ような気がする掲示板でも日記へのコメントでも、楽天に日記を借りている人の足跡だと、なんとなく安心する。こうした「生ぬるい連帯感」というのが、実はナショナリズムにとってもっとも重要な要素であることは学術の補をまたない。>・文中リンクは日本語文章の新しいスタイルとして特異な形で確立するのか?知り合いに相談したら、「中高生の日記によく登場する小文字(ぁ、ぃ、ぅ、ぇ、ぉ、ゃ、ゅ、ょ等)の乱発のほうが日本語を変える」と言われた。どっちみち、口語体の出現以来の変革期であることは間違いないようだ。>・DVDドライブが欲しいぞ。仕事が一段落したら買いに行くまだ買ってない。欲すぃ。>・ジャック・オー・ランタンってずっと「幽霊」だと思ってたのだが、「妖精」だとする説があるようだ。しかもかなり有力「幽霊」は元人間なのだが。ジャック・オー・ランタンとは御存じハロウィンで登場する失礼なカボチャの化け物。ハロウィンというのはそのままズバリ「復活祭」なわけで、この化け物も一応「ジャック」という人間の名前がついているわけだ。なのに妖精?ま、どっちでもいいんだけど。>・バリ島に行って本物(だと言われている)の呪術師に会いたいとズッと思っているんだが、沖縄のユタにも会ってみたいなあこのHPを見ている人でいないかしら。>・日本人の「肩が凝る」をアメリカ人は「荷物を背負い込んでいる」と表現する日本語の「肩が凝る」にあたる言葉を、英語では「have a pain on the back」と表現する。(辞書で調べたら「have stiff shoulders」とか書いてあった。誰も使わねーよこんなの)日本の会社では自分で自分の肩をトントンと叩くと「俺は疲れてるぜ」というアピールになるが、外資系ではなんのこっちゃかわからん、という話。これは言語学とか文化人類学の話で、かなり高度。人間の思考は言語(母語)に支配されており、それは時に身体すらも拘束する。>・ミレハホホハヒホレヒヒハヒハ>・いわゆる「電話線」というのは海中を伝っているのか?どうなのよ?太平洋の海底には電話線ケーブルがず~~~っと繋がっているの?誰がどうやって沈めた? メインテナンスはどうしているの?>・森博嗣が書いていた「内張りが全面鏡張りの球体、中心にカメラを設置するとどんな映像が映るの?」の答えが知りたい『臨機応答・変問自在』に、学生からの質問として載っていた。森博嗣の回答は「自分で作って実験しましょう」。時間も金もない。誰か教えてください。工学系の学者というのは実験至上主義で困る。かつてエジソンは、電球の容積を数学者に計算させていたが、複雑な数式を使ってもいつまでたってもできないので、「私だったら水を注いで、その量を計るが」と助言したそうだ。そりゃそーなんだけどね。・これらのネタは後ほど日記に使えるなたいして使えてないかもしれない。>・探し物どころではない いやまったくで。
2004/08/23
「愛国心とはなんぞや」という質問を昨日の日記でいただいた。が、実はこれ、とんでもなく難しい問題である。ナショナリズムについての考察は、古くは福沢諭吉、丸山真男、頭山満、福田恆存などに研究され、海外ではアーレント、ゲルナー、B・アンダーソンなどが一定の条理を指し示している。これについて私はひとつの答えを持っているのだが、それをここで書くと喧々諤々の議論になりそうな気がするので、ひとまず置く(機会があればコッソリ書きます)。なぜ愛国心やナショナリズムに関する議論が難しいかというと、少なくとも現代日本においては、「国とはなにか」、「国民とはなにか」、そして「国を愛するというのはどういうことか」という、非常に感情的な問題を通過せずには語れないものが横たわっているからである。『連合王国の解体』のT・ネアンは、ナショナリズムを「個人における神経症のようなもの」と書き、『ナショナリズム』を書いた姜尚中は「(海外では)若いうちに誰でもかかる熱病のようなもの」と書いた。私は上記について無批判に同意する者ではないけれど、一定の特徴を指し示していることは間違いない。で、ここは若い人も見ている可能性があるので、愛国心についてのふたつの大事なことだけは提示しておきたい。ひとつめは、「愛国心」とは個々人に自然発生的に宿る「家族を愛する、友人を愛する、故郷を愛する」という感情とはまったく別のものであるということ。もうひとつは、「愛国心」とは非常に危険で、だからこそ大変魅力的なものであるということ。このことを踏まえずに、愛国心について議論すること(それが必要か、必要でないかも含めて)はできない。というより、やめたほうがいい。危ないから。なに? なぜ危ないのかわからない? あのねえ、「本当に危ないもの」というのは、たいてい「どんなものかよくわからないもの」なのだよ。なお、本件において「ミギだ」、「いやヒダリだ」とかいう感想を持たれた方は、「ナショナリズム」について語ることに向いていないのでやめたほうがいいと思われる。本件も含め、掲示板や日記にいただいたレスが滞りがちとなっており、恐縮している。とりいそぎ私の日記は当然のようにリンクフリーで、しかも著作権を放棄している(そんなたいそうなもんでもない)ので、ご自由に切ったり貼ったり引用したり転載したりして構いません。数年前、ナショナリズムについての本を固め読みした。我ながら元気だったと思う。が、そのなかには探し物はなかった。
2004/08/22
『華氏911』を見てきた。前日に井筒監督の「こちとら自腹じゃ」で酷評されており、あんまり乗り気ではなかったのだが、まあ話のタネにと行ってみた。公開している劇場を探すためにyahooでチェック。ついでだからレビューを覗いてみると、5点満点で3.7点だった。ほう、なかなか評価が高いぢゃないかと思いつつ、公開劇場数が少ないことを呪いつつ。表題の『華氏911』というのは、ブラッドベリが書いた『華氏四五一』をもじったものだということを会場のポスターで知る。華氏四五一度というのは紙(まあこの場合は本ですな)が自然発火する温度で、小説のほうは「思想統制のために焚書が行なわれる」というお話でした。ちなみに「華氏」というのはまあ皆さん理科の時間にお勉強したと思うけども、こんな感じ。摂氏に直すと、・華氏451°(本の燃える温度)=231℃・華氏911°(自由が燃えちゃう温度)=488℃ですな。なかなかに上手なタイトルだと思うのだけど、それをマイケル・ムーアがまた拝借して「じゃあ9.11で『自由が燃える温度だ』ってことにしよう」と。まあそういうわけでこのタイトルなわけだ。で。観劇後の感想だが。う~む。ハッキリ言って駄作だ。会場の3分の1は寝ていたんじゃないかと思う。正直、私も何度か睡魔におそわれた。映像手法としては、NHKのドキュメンタリー特集を思い浮かべてもらえば想像がつくと思う。内容はまあ皆さんご存じだとは思うけども、「ブッシュ大統領がいかに無能で利権にまみれた男か」というのを、インタビューやコメントや過去のTV映像で明らかにしていくというもの。そのテーマ自体はまあいい。衝撃的なイラクの映像や米兵の狂気に歪んだ顔、日本では報じられなかった大統領選挙の疑惑やブッシュ自身のオイルメジャーとの関わりなどが順不同で流されていく。ただもうそれが冗長で冗長で。日本のテレビクルーなら楽勝で1時間にまとめられるような内容なのよ。このつまらなさは何なんだいったい。会場を出てから入った喫茶店でしばらく考え込んじゃったのだけども、これはどうも「アメリカのオナニー」なんじゃないかと思うようになった。ブッシュがバカで間抜けなことは、ちょっと新聞を読む人間なら誰だって知っていることだ。アフガン空爆やイラク戦争はさまざまな利権のためであり、大量破壊兵器や「民主主義の輸出」はあまり関係ないこともよく知られている。そんなまあ「よく知られたこと」をいちいちご丁寧に、微に入り細に入り確認してもしょうがないではないか。劇中でムーア自身が言っているように、彼はアメリカを「素晴らしい国だ」と信じている。その彼にとっての「素晴らしいアメリカ」を、「こんなにしやがって、どうしてくれるブッシュ!」と怒鳴っているのが本作品なわけだ。あんたの愛国心はわかったからさ。その「俺はこんなにアメリカが好きなんだ」という態度は、基本的に恥ずかしいものなんだということをいい加減わかれよ。というわけで、これを見に行こうとしている方々、私はダメでしたが、まあ面白いと思う方もおりますでしょうから、そういう方は別のレビューを参考にしてくださいまし。探し物は映画の中にはなかった。
2004/08/21
飽きれるほど仕事が忙しくなってしばらくネットどころでなくバタバタしており、山を越えたら越えたで放心状態になって気がつくとサイトとか放ったらかしだった。どうも皆さんお久しぶり。元気でした?そうかそれはよかった。というわけでこれから2~3日ぶんおいおい更新します。ヨロシク。
2004/08/20
ちとキツい。文章をヒネる時間がないくらい、今日、明日と忙しかったりする。なかなか切羽詰まっており、昔、某所に書いたものでも載せようかと思ったが、どれもこれもナショナリズムがどうしたとかT・イーグルトンがこうしただとか、七面倒くさくて分かり辛く、しかも読み返したら直したいところがボロボロと出てきて断念。というわけで、まとめる時間がないので最近考えてたことで今パッと頭に浮かんだことを取りあえず羅列していく。・私、マンガはほとんど読みませんが『ワンピース』はお薦め・将来は富士山がハッキリ見えるところに住みたい・横書きの原稿と縦書きの原稿って、同じ文章でも読後感が違うよね・楽天は新たなネットのコミュニティスタイルを構築しており、その生成過程がナショナリズムに似ている。ような気がする・文中リンクは日本語文章の新しいスタイルとして特異な形で確立するのか?・DVDドライブが欲しいぞ。仕事が一段落したら買いに行く・ジャック・オー・ランタンってずっと「幽霊」だと思ってたのだが、「妖精」だとする説があるようだ。しかもかなり有力・バリ島に行って本物(だと言われている)の呪術師に会いたいとズッと思っているんだが、沖縄のユタにも会ってみたいなあ・日本人の「肩が凝る」をアメリカ人は「荷物を背負い込んでいる」と表現する・ミレハホホハヒ・いわゆる「電話線」というのは海中を伝っているのか?・森博嗣 が書いていた「内張りが全面鏡張りの球体、中心にカメラを設置するとどんな映像が映るの?」の答えが知りたい・これらのネタは後ほど日記に使えるな・というわけで本日はここまで・探し物どころではない
2004/08/19
NHKがラジオ体操改革を発表 放送時間、朝6時半→8時に NHK(日本放送協議会)は10日、「ラジオ体操」の名前で広く知られている国民健康体操についての改革案を発表した。 この改革案では、(1)放送時間を現行の朝6時半から8時に遅らせる、(2)ラジオ体操第2の廃止など全4項目が上げられている。 このうち、放送時間の変更は社会の夜型生活化にともない、子供の就寝時間が30年前と比べて約2時間ずれているという文部科学省の調査を受けたもの。 また「『第2』は運動効率が悪い」という専門家からの指摘を受けてNHKが調査したところ、「第2」は身体負担の割に「第1」の約20%程度しかカロリー消費を行えなかったことから、「第2」の廃止を決定した。「第2」に変わる新体操の導入も検討する。 NHKが発表した改革案は以下の通り。 (1)放送時間を朝6時半から朝8時に変更、(2)ラジオ体操第2を廃止、(3)ラジオ体操第1のテンポを現行の1.2倍に引き上げ、(4)演奏楽器をピアノからソプラノリコーダーに変更。http://www.f7.dion.ne.jp/~moorend/news/2004081002.html上記より引用抜粋私は小学生のころから朝に弱く、夏休みシーズンになるとこの「ラジオ体操」なる行事が嫌でたまらなかった。なまけ性の私はもちろん色々理由をつけて行かなかったわけだが、「なんで来なかったの?」とクソマジメな友人たちに責められるのが苦痛だったのだ。それが朝8時に遅らせられるというのだから、最近の小学生は恵まれているものだ。なんちゃって。(古っ)信じてはいけない。上記はむろん、ネタである。詳しくはこちらを参照のこと。その名もズバリ、「虚構新聞」というサイトである。最近「メディアリテラシー」という言葉が、やっと有名になってきた。リテラシーというのは「読解力」と訳され、要するに「メディアで報じられた内容を吟味する力」、という意味である。米国などでは小学校ですでに「メディアと政治」なる授業を実施している学校も少なくなく、対して日本では大学までこういったことを教えない傾向が強い。少なくとも私は学校ではこの言葉は習わなかった。(注/だからといって「米国人はメディアを疑う能力が優れている」というわけではない)多くの日本人は「メディア信仰」が根強い。まあ最近は2ちゃんねるを筆頭にしたネット情報の台頭で、(色々な面で)「与えられた情報を疑う力」はついてきたと思われる。少なくとも確認作業の幅は確実に広がった。しかしまあなんというか、素朴で純情な方が多いのも事実であったりする。ちょっと気の利いた国語の先生であれば、授業中に「何が書いてあるかではなく、何が書いてないかを読み取りましょう」と教えているのではないか。少なくとも私が教師ならそう教える。読解力をつける基礎の基礎であろう。これは何も教科書に載っているようなヘンチクリンな文学作品に限らず、メディア全般に言えることだったりする。例えば缶ジュースと化粧品とクルマ、この3つの「新製品」に関して、批評的な意見は絶対にマスコミには載らない。何故かといえば、コカコーラと資生堂とトヨタの年間広告費は3社合計で2000億円を超えており、その広告費でTV局と新聞社と出版社は成り立っているからだ。新聞のTV欄を眺めてみれば、刑事ドラマ、推理もの等々を目にする機会が多いが、「缶ジュースを使った毒殺」、「口紅などの化粧品を使った毒殺」、「交通事故を装った轢殺」などが登場する殺人事件は、驚くほど少ないはずだ。広告主のイメージが悪くなるからね。こうした「情報統制」は、広告主からだけではない。例えばどんな雑誌や新聞でも、コンビニとJRの悪口って見ないでしょう?(かつて文藝春秋社が頑張ったことがあったが、あっという間に降参した)そりゃ当たり前で、販売経路をガッチリと押さえられているからだ。どんなにいいものを作っても、セブンイレブンとキオスクに「あんたのところの雑誌(新聞)はウチでは売らないよ」と言われてしまっては売り上げ激減必至だからである。こうした「圧力」は、何も現実に広告出稿を停止したり、販売中止を宣言したりする必要はない。世界有数の広告代理店である電通と博報堂が、実際に世に出る前に「まさかそんなニュースは流れませんよねえ?」と囁いたりするだけで充分なのだ。それだけで多くのメディア関係者は震え上がる。「なんだメディア関係者、弱腰すぎるぞ」と言われる方。貴方は圧倒的に正しい。三菱自動車や旧雪印や浅田農産の例をひくまでもなく、世の中のシステム的な「間違い」というのは、ほぼすべてこうした人間の「弱腰」から生まれるものなのだ。言い訳しません。私はTVをあまり見ない。新聞はなるべく読むようにしているけど、それでも配信されるニュースの100分の1も消化できていないだろう。そんな少ないインプットのなかでも、なるべく「何が書いてないのかな」と気をつけるようにはしている。情報はよく吟味しましょう。特にこのサイトに書いてあることとかね。探し物は忙しくなってきたので、来週になりそうな雰囲気だ。
2004/08/18

ある考古学者が「まったく近ごろの若いモンは」とブツブツいいながらアテナイの遺跡を発掘していたら、まったく同じセリフをソクラテスが書いていた、という小話がある。もちろんソクラテスがそんなことを言ったという公式な記録が残っているはずもなく(プラトン、アリストテレスという説もあり)、弟子の出世頭であるプラトン(「プラトニックラブ」の語源の人ですな)が後に正反対の哲学的主張をしたからこういう話になったのかなあ、と愚考を重ねている。むろん、あんまり意味はない。ちなみに「プラトニックラブ」というのは「プラトン風の愛」という意味で、「思想的な愛」、「精神的な愛」と訳されるわけだが、プラトンがバキバキの少年愛嗜好者だったことは有名な話。いわゆるショタホモですな。『プラトニックセックス』という本が出た時はかなり笑った。さてそんな枕とはまったく関係なく、「最近の若者は活字離れが進んでいる」と言われている。出所は不明だがこんなプロジェクトも動き出しているくらいだ。上記は新聞社の購買キャンペーンっぽくて嫌な感じもするのだが、いっぽうで「読書人口は増えている」という説もある。ここね。参考までに、グラフを転載しておこう。 (JAバンク兵庫より無断転載)確かに書籍の販売部数は低下しているが、図書館の貸し出し点数は増加しており、販売部数+貸し出し点数=読書人口は10年前と比較して増加しているというのだ。知り合いの大学の先生が、「最近の文学部の学生はまったく本を読んでいない」と嘆いていたことがあった。しかし本当にそうだろうか? 当代流行作家であった芥川龍之介の初版部数は2000部、村上春樹なら50万部である。「文学部の学生が」というのであれば、全人口に占める文学部の学生の割合と比較しなければ意味がないのではないか、と思う。「大学」というのが特別な意味をもたなくなった現代、それはそれで問題であろう(夏目漱石の『三四郎』という小説は、当時「特別な場所」であった大学の、さらに特別だった「東京帝国大学」の中身を知らしめた、という価値があったのだ)。しかし、「だからどうした?」とも思う。もともと特別な場所ではないのだ。養老孟司氏は大学に進むとき(まさに東京大学だ)、叔母に「大学なんか行くとバカになるよ」とたしなめられたという。私は東大というところに行ったことはないけどね。少なくともネット上で学歴を自慢している人に、「確かに頭がいいなあ」と思ったことは一度もない(実は実生活では一度だけあるが)。現代に生きる人たちは、過去日本におけるどの年代の方々よりも本を読んでいる。それは「読書人口」が示している。比較相対的に考えて、「本を読む若者」だって増えているだろう。かつて「読書」というのは特別な趣味だった。それが今や広く人口に膾炙しているわけだ。この効能と弊害は社会のいろいろなところで出てきている。と、私は思っている。それについてはそのうち書きます。わかっていることは、私の探し物は本の中にはない、ということだ。
2004/08/17
理由は聞くな。
2004/08/16
久々に休みらしい休みをいただいたので、1日中ボーッとしている。本日東京は雨模様で大変過ごしやすい温度なわけだが、しかし、それとはまったく関係なく我が家のエアコンが昨晩壊れた。自動切りタイマーにして寝ていたら、夜半に突如「ゴインゴインゴイン……」と轟音を鳴らし出したので、何が起こったのかと電源を切り、フィルターを開けてみたが、見えるところは異常なし。一応フィルターを洗って電源を再度入れてみたら、今度はどこをどういじっても温風しか出なくなった。電気屋さんもお盆休みだろう。為す術なく、押し入れから扇風機を引っ張り出して寝た。試みに、後ほど最後の手段として気合いの右ストレートをブチ込んでみることにする。なに、どうせ壊れているのだ。
2004/08/15
中島義道という哲学者がいる。ともかくもまあ「死」についての本ばかり書いている奇特なオジサンなのだが、自らを「哲学病患者」と名乗り、自分の書いた文章についても嫌悪してばかりなので、信用はできるだろう(哲学者というのは「疑うこと」が商売なのだから、当然の帰結だ)。「先生、人間は誰もがいつか必ず死ぬのに、なぜいま死んではいけないのですか?」上記の問いに対して、「死」について考えて考えて考え抜いた哲学者・中島義道はこう答える。「僕が悲しいから、君は死んではいけない」それはあまりにも悲しくて虚しいけれど、そうとしか言えない、と。それが哲学という学問が2500年間かけて到達した結論であるそうだ。楽天に限らず、世に流布するサイトを巡ってみれば、今にも死んでしまいそうな日記や叙情文を綴る方たちで溢れていることがよくわかる。警察庁の統計によると、昨年中の自殺者数は3万4427人で、一昨年より2264人増加している。真剣に死を考えている人に対して、上っ面をなぞったような言葉しか出てこないことはよくある。そもそもインターネットという非常に頼りないコミュニケーションツールで、真になにがしかを伝えることなどできるのだろうか。できる。かもしれない。ツール(道具→もちろん「言語」も含まれる)に対して過剰な期待を寄せるのは間違えているのだろうが、まあしかし、ほかに手段がない場合はやむを得ない。あー、なるほど。だからみんな、危機に際して言語に頼ってすがりつくわけだ。もちろん私も同じである。だからして、いつかまた、誰かに対して私は言うであろう。「僕が悲しいから、君は死んではいけない」探し物はまだ見つかっていない。
2004/08/14
ちょっと落ち込んでいる。私は8/4~8/5の日記で以下のように書いた。>しかるに、21億hitのサイトというのはどういうものなのか。>有り体に言えば、私は少し余計な心配をしているのだ。>21億hitということは、「他者」から21億回の「アクセス」を受けるということだ。本>物かどうかは知らないが(実は本物かどうかはたいした問題ではないが)、単なる>女子高生がそういった「精神の高負荷」に耐えられるものなのだろうか。なんの話かといえば、凄まじいアクセス数のカウンターをここで見かけたからである。そのアクセス数、見た当時で21億4748万4224hit。世界のおよそ3分の1の人々が見た計算である。本当なら世界最高のベストセラー、『聖書』なみにメジャーな文章だ(ちなみに聖書は毎年約6億冊発行。歴代発行部数2位は『シャーロックホームズの冒険』といわれている)。正直に言おう。偽装も疑った。自動カウンターも疑った。しかし「そうではないと話を進める」と、えらいこと長文を書いてアップした。私はこのhit数の秘密は「メインがタグ講座である」という点にあるのではないか、と睨んでいた。楽天に限らず、サイトに日記を書いている方なら皆さんわかると思うが、概してタグ打ちというのは面倒なものである。わざわざ<A HREF="ht.......とか手打ちでやっている人は誰もいないだろう。たぶん。だから基本的には、任意の場所を決めておいて、そこをブックマーク(お気に入り)かなんかしておいて、タグを打つ必要がある場合はそこからコピペしてくる、というやり方が一般的なわけだ。楽天には数万のユーザーがいるから、その何分の1かが日記を書くさいに毎回そこに飛んでいれば、あるいはこの数字も……と考えていた次第。そしたらですな。> 昨日、僕の友達のHPのアクセスカウンターが、いきなり、9000から20億へと変わっちゃっ>たのですよ~!>> つまり、、アクセスカウンターが、、壊れてしまったのです、、。(-_-#)>> なんだ、、20億って、、そんな事だったのか、、驚かせんじゃねえや、、って感じですよ>ね、、(-.-;)y-゜゜angel heartさんの日記、『インターネットジャンキー』「アクセスUP」より引用故障かよ..........._| ̄|○ちなみに上記のangel heartさんのご友人のカウンターは、壊れた当初21億4748万3871hitだったとのこと。で、私が見た『がっこうのかえりみち』のhit数は21億4748万4224hit。わー、ソックリだあ。偶然だなあ。直しとけよ(涙)。
2004/08/13
ここ「楽天広場」には「テーマ一覧」という項目がある。楽天外の方も読んでくださっているようなので一応紹介すると、こんな感じ。ザッと目を通せばわかると思うが、この楽天広場というシステムのメインユーザー層は女性であろう、と見当がつく。以前私は楽天のシステム管理側に「この楽天広場にはどれくらいのサイトがあるのですか?」と質問を送った。その際に「男女比率は?」、「ID(ニックネーム)やサイト名での検索方法は?」、「サイト登録者の年齢構成比は?」といくつかの疑問点を合わせてメールで送ったのだが、回答は短かった。「すべてについて、お答えできません」とのこと。冷てー。なので、これは私の推測でしかないことをあらかじめ断っておく。メインユーザー層が女性であろうという根拠は、しょっちゅう盛り上がっているジャンルが「恋愛」、「育児」、「ペット」関連だからである。なんの因果かこのサイトによくいらっしゃるのが女性ばかりだから、というわけではない。(当サイトは男女分け隔てなく歓迎いたします。はい)いっぽうで、男が好みそうな「政治」とか「戦争」とか「学問」とか「アイドル」とかのジャンルは存在しない。男性主体であれば「秋葉原」とかのジャンルがあってもよさそうだが、もちろんない。あっても書かないけどね。簡単に言えば、「女性週刊誌の特集記事の羅列」っぽくはあるが、「男性週刊誌の記事の羅列」ではないのだ。(偏見か?)私は基本的に「男」と「女」の間にそれほどの違いはないと思っている。呉智英という評論家は「男がやることは女もやる」と書いていて、私はそれを支持している(ロシアなどでは女看守による男子囚人への強姦例があるそうだ。どうやってヤったんだ???)。「母性」、「父性」という概念は人間社会が近代に入って作り出された幻想だということは、わりとよく知られている。いわゆる「母性本能」というのは「幻想」でしかない、ということですな。この認識は私が勝手に言っているわけではなく、女性側から提出された概念なので、文句のある方はそちらへどうぞ(無責任)。私は「フェミニズム」という学問を信奉していないし、むしろ嫌いな分野ではあるけれども、その学問としての功績には敬意を払うし尊重もする。またそれとは別に、精神分析学の分野における「男と女の認識の違い」には一定の説得力を感じている。これは斎藤学という精神科医の先生が分析したそうなのだが、男女の認識学上の違いは「生きることの意味付け」に関して、より表面的になるそうだ。いわく、女性は子供を生む事ができる。自分のお腹のなかで「自分の子孫・別の生命」を育むことによって、「自分はなんのためにこの世に生まれてきたのか」というのを実感しやすい。それに対して男性はどう頑張っても妊娠、出産ができない。この「自分はなんのためにこの世に生まれてきたのかが、男は実感しにくい」という、「存在の根本的な不安」があるから、男は歴史的に戦争だの経済だの政治だの哲学だの、抽象的で不確実で時に破滅的なものに頑張っちゃうのだそうだ。多くの男が「国」なんていうよくわからんモヤモヤしたものに命を懸けてしまうのも、この「不安」があるからだとのこと。いっぽうで、「妊娠・出産・育児」があるから、女性は「目の前の具体的な事象」を大事にする傾向があり、ひいて、料理や炊事や身の回りの人間関係などに敏感になる。男性はそういったものがないので、政治とか経済とかいう「ずいぶん先の抽象的な事柄」に熱心になる、ということらしい。おいおい、じゃあ子供の産めない女性はすべて「存在の不安」を抱えているのかよ、とか、経済、政治、哲学などに女性の功績を認めないのか? とか、こちらもそれなりの説得力のある反論もある。もちろん「国」のために命を懸けるのは男だけではない。それは先の大戦でのひめゆり部隊や樺太真岡の九名の電話交換手を冒涜することになろう。(『氷雪の門』での「内地の皆さん、さようなら、さようなら」は何度よんでも泣ける)私は「だから女はダメなんだ」とかいう言い方が嫌いだ。男女の友情は成立すると思っているし、つまらない女性の数とつまらない男性の数は近しい数で比例するだろうと思っている。けれども、「男」と「女」は違っていたほうが面白いな、とも思う。男は男らしく、女は女らしく。そういう考え方が古くさくて手垢がついていて、しかもこういった「幻想」によって傷つく人たちが多いということは容易に想像できる。できるんだがしかし、それを押しても、「男と女って違う」という考えを持っていたほうが人生楽しいと思っている。「神」は幻想だ。でも「いる」と思っているほうが楽しい。「幽霊」は幻想だ。でも「いる」と思っているほうが楽しい。煎じ詰めれば量子力学だって宇宙物理学だって幻想ではないか。自然科学は「再現性」を重視しているはずなのに、誰もミクロの単位で飛び交う光子やブラックホールを見たことがないし、実験室で再現することはできない。「存在を証明できる」というのなら、いますぐ私の目の前に持ってきてくれ。誤解してほしくないのは、私は自然科学における偉大な功績の数々をバカにするつもりはまったくないということだ。科学が宗教を押しのけて発展したおかげで、私のような軟弱な男でもなんとか生きていける。「楽しいか/楽しくないか」についてだって、非ユークリッド幾何学の成立やフェルマーの最終定理の証明などはスリリングで非常に好きだ。最も自然科学的な学問と言われる数学や工学にロマンを感じた事は一度や二度ではない。けれども、「そう思っていたほうが楽しいなら、それでいいぢゃん」とは思う。男と女には、生物学的な違い以上の、もっと心の根っこのほうで違うものがある。ような気がする。あったらいいな。あるだろ、きっと。これについて私と別の信仰をお持ちであるならば、どうぞご自由に。代わりに私が楽しいと思うものに口出ししないでね、と申し上げるのみだ。東大医学部で解剖学を突き詰めていったら現代社会思想の最先端に行き着いて、『唯脳論』で現代哲学界を震撼させちゃった養老孟司氏は語る。==============(引用開始)================== 私のところにパンフレットを送ってくださる人がある。それに手紙が付いており、論評してほしいとある。ちゃんと返信料つきの封筒が入っている。パンフレットの表題には『霊魂の自然科学的証明』とある。そのまま放置するのも悪いので、「自然科学的に証明された霊魂など、面白くもおかしくもない、霊魂はもっと高貴かつ不可解なものであってほしい」旨、返事を書いて送った。そうしたら今度は、元のパンフレットの三倍以上の厚さの、同じ表題のパンフレットが送られてきた。まだ納得していないと思われたに違いない。また返信用封筒が入っている。これに返事を出すと、次回にはどれだけの厚さのパンフレットが返ってくるのか。それが恐ろしくて二度と返事が出せない。(中略) 先生は霊界があると思いますか。そう尋ねる人が多い。そういう時には「もちろんある」と胸を張って答える。そもそも「ない」ものについて語ることは不可能である。それなら、どこにありますか。頭の中にある。=========(『カミとヒトの解剖学』より引用終了)==========健全な科学とは、こういう思想をいう。男と女の性格的な違い? ありますよ。頭の中に。上記は良書ですので、探し物がある方は上記をお薦めします。何か見つかるかもしれません。
2004/08/12
さすがに自分で買うのは気が引けていたのだが、同僚が「読む?」というので借りて読んでみた。2日で読める軽い感じの恋愛小説だった。映画とドラマは見ていない。たぶんこの先も見ないだろう。(『バトルロワイヤル』は映画も見に行った。小説、映画とも秀逸)かなり充実しているファンサイトはこちら。まずはいまさらではあるが、ザッとストーリー紹介をば(ネタバレ注意)。主人公サクとその初恋の人、アキが中心人物。交換日記で愛を育んだ2人だが、アキが白血病に罹患。入院のため行けなかった修学旅行先のオーストラリアに行きたい、とアキ。2人は病院を抜け出して空港まで行くも、ロビーでアキが倒れる(「助けてください~」のシーン。泣き所)。そのままアキは帰らぬ人となり、10年後、サクはアキの両親とともにオーストラリアへ行き、砂漠でアキのことを想う。途中でサクの祖父(初恋の人を50年間忘れられなくて、遺骨を盗む)のエピソードなどが入る。柴咲コウの「泣きながら一気に読みました」という帯の文句で大ブレイクし、300万部を突破した大ベストセラー小説ですな。ふむふむ。どうも世間ではこれが「純愛小説」として捉えられているらしい。「純愛ってなんだ?」とは確かに考えさせられた。10年間、死んだ初恋の人を想い続けるのは純愛だろうか?そうなると『蒲団』(田山花袋)とか『痴人の愛』(谷崎潤一郎)などは「不純愛」ということになるのだろうか。などと、まあ不純な感じで読み進めた。ポイントは恋人のアキが「奇麗なままで男の前からいなくなり、男はその喪失感に思い悩み続ける」というところか。人間のなかには、大なり小なりこういった「奇麗な印象を残したまま相手(異性)の前から消えたい」という願望があるのだろうか。少なくとも現代はそういう風潮にあるのか。最初は女性だけかと思っていたが、よく考えると伝統的なハードボイルド小説もこういった願望要素を含んでいる。フィリップ・マーロウは毎回印象的なセリフを残してヒロインの前から消え去るではないか。男も一緒なのだろう。それについて特に意見はない。私にはそういう願望はあんまりない、ということぐらいか。好きな人のことはいい部分も悪い部分もよく知りたいと思うし、自分のこともよく知ってもらいたいと思う。だらしない部分はできれば見せたくないとは思うが、そういう部分を「見せないまま終わる」という小説を、「純愛」だと言われると、「愛ってなによ?」と思ってしまう。まあこういう小説を素直に楽しめるほど若くはなくなった、ということなのだろうか。岸田秀先生によれば、人間が年中発情している(発情できる)のは、本能が壊れているからだそうだ。野生動物は本能で発情するが、人間は本能が壊れているから「幻想」がないと性交ができなくなってしまったとのこと。若者たちが恋愛に対して消極的になるのは、むろん私の望むことではない。したがって、こうした「幻想」を助長するような小説が売れまくるというのは、歓迎すべき事態なのだろう。しっかり夢見てくださいまし。【追記】いま気がついたんですが(遅)、「掲示板新着」というのに登録すると、日記が更新されるたびに楽天からメールが送られるんですね。うーむ。。。私は通常、アップしてから読み返して、手直しします。それが登録されると、また読み返して、また直して。これを2~3回やります。アップする前に読み直せよとも思うのですが、実際にHTMLになった文章と、その前段階でテキストで書かれた文章って、やっぱどうしても違いがあるんですよね。段落開けの場所とか句読点とか。なので、私の日記を「新着登録」されている方のところには、更新されるたびに2~3通「更新されました」メールが届く、と。たいして内容は変わってないのに。う~むむ、申し訳ないこってす。この場を借りて御詫びしまする。たぶんこれは直りませんが、なるべくテキスト時の推敲を慎重にします。といいつつ、この日記もアップしてから2回書き直したので、探し物を探す間もなく伏して御詫び中。どひー。
2004/08/11
今日の日記はちょっと狂っています。1980年代終盤、私はまだ学生で、新宿の「ニューヨーク・ニューヨーク」というディスコによく出入りしていた。大音響で流れる『BOOM BOOM DOLLAR』。決まったタイミングで場内に響き渡る掛け声。ワインクーラーを飲みながら黒服と談笑、セイラムライト、ベルサーチのジャケット、アニエスのシャツ、クリアケースに田中康夫。いま考えると本当にバカみたいだ。当時、同じサークルで「かなりいいな」と思っていた女性の先輩がいた。フロアから戻ってきて「別の場所に飲みに出ようよ」と誘われた。1も2もなく同意して、前から目をつけていたバーに入り、カウンターでスクリュードライバーを2人ぶん注文した。精一杯下心を押さえながら、いろんな話をした。同級生のこと、授業のこと、バイトのこと、それまで付き合ってきた相手のこと、芸能人や昔読んだ小説のこと。確か午前1時は回っていたと思う。気がつくと私も先輩も酔っていた。何がキッカケだかわからないけれども、気がつくと先輩は泣いていた。私も知っている男の先輩と昨年からつき合い始め、妊娠し、それを親に内緒で堕ろさなくてはいけないという。先輩はカウンターに突っ伏して、子供のようにワンワン泣いていた。今だったら気の利いたことも言えたかもしれないが(今でも無理か)、当時私はただただ茫然とするしかなく、無性に相手の男に対して腹が立ったのを覚えている。いま思い返せば、そこにしか怒りの向けどころがなかったからだろう。そこで飲んだチェイサーの苦さは、たぶん一生忘れない。中絶経験のある女性がどれくらいいるのか、ふと気になって調べてみた。厚生労働省のHPにある統計資料では平成13年次が最新で、総数34万1588人、15歳~50歳までの千人あたりの人口比は11.8人であった。年代別区分も出ていて、中絶率の一番高いのは20~24歳で千人あたり20.6人という割合だとのこと。この数字が多いのか少ないのか、私にはよくわからない。原理的な中絶反対論者は「命を尊重せよ」という。私はおそらく、そういう人たちに無作為に同意はしない。その人たちは、まだ「人格」の生まれていない胎児に「命」を認めるのか。貴方達が生きるために摘み取る牛や豚や鳥たちの「命」には認めず、胎児には認める、その「命」の線引きはどこにあるのか。人間が「生きていく」ということは、常に「自分以外の何者か」の命の上に成り立っていくということではないのか、と反論するだろう。また、原理的な中絶容認論者は「中絶は自己決定権の範囲だ」という。ふざけたことを抜かすな、とこれまた私は声をあげるだろう。私は過度な個人主義は認めない。人は常に既に社会的な動物でしかありえない。「自分自身」は自己すらも制御できず、管理できないではないか。「人」は自分の人生ひとつに対しても責任を追いきれず、「決定権」などはもっていないのだ。それがまかり通るのならば、「自殺」も「麻薬」も容認することになる。幼児虐待すら認めかねないではないか、と。「胎児を牛や豚と一緒するな」。こんな反論が聞こえてくる。確かにそうだ。しかし、それは反論者(中絶反対論者)が、自分は見たことも話したことももちろんない「胎児」に対して、「人間だ」という認識があるからだろう。ならば問いたい。貴方にとってイラク人は人間ですか? アフガン人は人間ですか? 死刑囚は? 人間の命は平等ですか?「倫理」というのは、人間のどこに、どうやって宿るのか。深く考えたら、思考の穴にはまってしまったようだ。今日の日記はちょっと支離滅裂ぎみになっている。今日の夕方、ある人の日記を読んで、ふと懐かしい、昔憧れていた先輩を思い出した。その先輩は今も、私の想い出の中では泣いていて、かたわらでカカシみたいに黙り込んでいる男に、何か言って欲しがっている。カカシには、何も言えない。15年たって、こうして思い返して「やっぱり無理か」と嘆くだけだ。無い物ねだりだということは、わかっているんだけどね。探し物が永遠に見つからない気がしてきた。
2004/08/09
陸上自衛隊の大惨事、もとい、第三次イラク復興支援部隊が青森空港からイラクへと出発した。ぜひとも無事任務を果たして帰ってきてほしい。このニュースは夕方TVで流れたのだが、NHKでは「サッカー五輪代表の苦労」と「伝統の一戦、連日の熱闘」の合間に挟まれて報じられていた。主権委譲からこっち、イラク関連報道はどんどん報道時間が削られている。日本がアジアカップ決勝を戦っていたまさにその時に、米軍とサドル民兵「マハディ軍」の間で大規模な戦闘があり、少なくとも43人が死亡したことはご存じだろうか? 少なくとも私はさきほどまで知らなかった。現代は「情報の洪水」と呼ばれている。情報チャンネルの数も情報量も申し分ない。こうしてネットで検索すれば、ナジャフで行なわれている(本当の)激闘の様子は、いちおう知ることができる。この「いちおう知ることができる」というのが、実は曲者だったりする。ヘッドラインニュースで見出しが流れれば、とりあえず「ああ、こんなことが起こってるんだ」ということはわかる。でもこの43人の死者が、イラク人なのか米国人なのかはわからない。そのうち調査が進むだろうが、たぶん日本で報じられることはない。この43人がどうやって死んだのか。どうやって殺されたのか。それもたぶん報じられない。まったく報じられなければ「何をやってるんだ!」という声も上がる。しかし、この「いちおう知ることができる」というあたりのラインが実は一番ヤバかったりするのだ。米軍の誤爆で両足を吹き飛ばされたアフガンのアイスクリーム売りの少年が、いまどこでどうしているのか。検索しても出てこなかった。ただし。私は博愛主義者でも平和主義者でもないので、実はイラクの実情やアフガンの現状を、それほど憂いているわけではない。アイスクリーム売りの少年の現在は気にはなるが、そのために募金やら署名やらをするつもりは毛頭ない。ただなんだか騙されているような気がしているのは事実だ。私は頭は悪いがメディアごときにバカにされるのは納得ができない。探し物が増えた気がする。明日、また探してみる。
2004/08/08
アジアカップ決勝戦終了。相変わらず君が代斉唱の時には中国サポーターから激しいブーイングが飛んでいたが、まあ勝ったことだしヒイキの中澤が活躍したので満足のゲームだった。(中田浩二の2点目はハンドだったけどね)ビール飲みながら見てたもので、すでにいまはなかなかいい気分であって、更新のタイピングもおぼつかない。ういっく。ひとつ思ったのは、中国のメディアは明日以降、日本チームと審判への批判を強めるだろう、ということだ。中国という国は現在人口が13億人くらいいて、55の民族がひしめき、都会と地方の所得格差が50倍以上ある。それを「中国共産党」というひとつの政府が、「ひとつの国」としてまとめているわけだ。東南アジア全部まとめて「これ、来週から一個の国ね」というようなもので、平穏にまとまっているいまの状態がすでに奇跡的だといえる。そうした国においては、どうしたって「共通の思い」というのが必要になってくる。皆さんでも中高生のころのクラス活動を思い出せばわかるように、「なにかの目標」があると集団というのはガッチリとまとまるものだ。そして、いま、中国の「目標」は、「日本を追い越せ」なのである。君が代斉唱時にブーイングすることは、彼らのアイデンティティ確保であると同時に、「国としてまとまるための必須の行為」なのだ。面倒だよねえ。やっかいな国が隣にいるもんだ。探し物? 酔ってるので明日明日。
2004/08/07
明日はアジアカップの決勝戦だ。この大会では中国人による日本代表へのブーイングが問題になっている。メディアにはあまりでてこない話だけども、川口の大活躍で勝利した準々決勝(ヨルダン戦)が開催された「重慶」というところは、戦中、日本軍が無差別爆撃で約1万人(2万人というデータもあるそうだ)の市民を殺した地域である。いっぽう準決勝(バーレーン戦)が開催された「済南」は、1927年に日本人居留民が中国人によって虐殺された「済南事件」が起こった都市だ。どちらの都市も日本とは因縁浅からぬ土地であり、そこに住む人々にとっては歓迎せざる勝利だったろう。そして決勝は中華人民共和国の首都、北京。相手はそのまんま中国だ。スポーツで過去のしがらみ、因縁が洗い流されるなんていう綺麗事は私は嫌いだ。スポーツによって新たな因縁が生まれるケースだってある。1969年、エルサルバドルとホンジュラスではサッカーが原因で戦争にすら発展した。よくも悪くも、フォークランド紛争以後、英国とアルゼンチンはW杯で顔を合わせるたびに、複雑な雰囲気でゲームが進む。「スポーツと政治は関係ない」。そう言いたい気持ちはよくわかる。特にストイコビッチの無念やジダンの苦悩を知ってしまうと、彼らに伸び伸びとやらせるためにも、政治とは無縁にさせときたいな、そう思う。しかし、為政者はそんな彼らの「思い」とはまったく関係なく、時に恣意的に踏みにじって政治に利用しようとする。困ったもんだ。探し物は明日の決勝戦が終わったら、また探しに行こう。
2004/08/06
(これから読み始めた方は先に8/4の日記をお読みください)さてここまでで、「人間というものは、他者(死者)からの影響を受ける動物である」という話をしてきた。(影響を)受けてしまうものだ、と言ってもいいかもしれない。しかるに、「死者」からすら影響を受けるのだから、「モニターの向こうの読者」からも影響を受けるのは、こりゃ当たり前である。(をを、ここまできてやっとアクセス論に戻ってきた! いや正直どうなるものかと…)ましてやネットというのは双方向メディアだ。読者は掲示板に感想を書き込んだりメールで挨拶を送ったり、2ちゃんにスレッドを立てて荒らし依頼をしたりもできる。顔こそ見たことがないものの、チャットのやり取りだけで現実世界の友人よりも精神的な濃密感を感じたことがある方は多いだろう。それは(死者からすらも影響を受けるという)人間の特性のためであり、逆に言えば人間だからこそ気にしてしまうということだ。例え毎日プロキシ経由でHPに行って掲示板に書き込まなくても、メールを送らなくても2ちゃんでスレッドを立てなくても、アクセスを踏む、というだけで作り手は読み手の声を聞かされ、影響されてしまう。だって「人間」とは、声を聞いちゃう(聞こえちゃう)動物なんだもの。(チンパンジーが更新する日記とかを私はまだ見たことがない)日記の書き手、HPの作り手といった発信者側は、WWWを通して情報を世界に発信している。しかるに、その情報を受け取るために読者がアクセスすれば、そのこと(アクセスすること)だけで、読み手は作り手側に何らかの影響を与えていることを、読み手側は忘れてはならない。読み手は作り手側をつねに鑑賞し、かつ干渉しているのだ。んなこたーない、という方は「アクセス」の本来の意味を考えてみてほしい。ついでにいえば、「リンク」という単語も本来はURLを書き込むことではないし、私の考えでは別の大きな意味を持ってくる。しかるに、21億hitのサイトというのはどういうものなのか。有り体に言えば、私は少し余計な心配をしているのだ。21億hitということは、「他者」から21億回の「アクセス」を受けるということだ。本物かどうかは知らないが(実は本物かどうかはたいした問題ではないが)、単なる女子高生がそういった「精神の高負荷」に耐えられるものなのだろうか。いやまあ実際HPを拝見する限り、耐えているみたいなんだけどね。イヤイヤながらもそれほど気にしてないのかもしれないね。そう思うことは簡単である。しかし、なお過ぎたるは及ばざるがごとし。と、私は勝手に思考を進めてしまう。「むちゃくちゃストレスフルなのではないの?」と。私の想像力では、これに対処するにはひとつしか思いつかない。そうしたネットでの「干渉のし合い」に鈍感になることである。読んでくれた一人ひとりの人間の「思い」、それに耳を傾けてしまうという人間の本能をシャットアウトすることだ。そうでなければアクセスによって心に澱のようにたまっていくストレスに、耐えられないのではないか。もちろん、私はHPのアクセスが増えることに反対しているわけではない。このサイトのカウンターが進めばそれなりにうれしいし、日記で文中リンクされたり「おすすめ」に入れてもらえば喜ぶ。と思う。だから反対なんかするわけがない。ただこの、「見られること、読まれること、それを知りつつ書くということ」については非常に興味を持っているし、繊細でいたほうがいいのではないかな、と思っている。そのうえで「適度に気にする程度が楽」という結論に達しているということだ。うー。とりあえず書き上がった。後日、左側の「フリーページ」にまとめる時は、加筆、修正する可能性が高いです。あ、明日からはもっと気楽でバカみたいなことを書きます。まあ疲れたけど探し物には少し近づいた気がする。
2004/08/05
8月3日の日記で、私は皆さんに「人間とほかの動物の違いはなんだと思いますか?」と書いた。わざわざお答えいただいた方、感謝しております。さてまずは解答から。「人間とほかの動物の違い」。文化人類学(8/3の日記タイトルの英訳ですな)の知見では、これを「葬儀をすること」としている。葬儀というのはどんな形態でも構わない。お爺さんの葬式に喪服を着て参列するでもよし。ペットの屍体を庭に埋めて花を植えるでもよし。もちろん教会でやっても神社でやってもモスクでやってもいい。火葬、土葬、風葬、鳥葬と、まあ時代や地域によってその形態はずいぶんと変化しているが、ともかく、古来より人間は「死者」に対して「生者」が何らかのかたちでこれを弔ってきたのである。これは古今東西「人間社会」と言われるところには、必ず「墓」があることにも現われている。ちなみにその形態の多くが「土の中に埋めること」であるのは、(生者サイドの)衛生上の理由もあるのだが、多くは「蘇ってこないように」(だから上に重くて大きい石を置いたりする)だそうだ。これは私のオリジナルな説ではなくて、フィリップ・アリエスというフランスのオッサンが苦労して調べたことなので、まあそれなりに説得力がある。犬や猫や猿は、決して死んだものを弔わない。むろん彼らだって「生きているもの」と「死んでいるもの」の違いは理解できている(昆虫だってそれくらいはする)。「自分はいつごろ死ぬのか」と、その死を理解し、覚悟さえ決める動物だっている。しかし彼らは「他者の死」に対して決して「弔い」はしない。親だろうが飼い主だろうが伴侶(つがい)だろうが、それが「目の前からいなくなって辛い、困る」ということはあっても、「葬儀」はしない。道路でクルマに轢かれた親猫のもとを小猫が離れないのは、別に弔っているわけではない。親がいなくて困っているか、もしくは「その死」を理解できていないだけだ。だからその小猫が大きくなって自分で餌を取れるようになれば、特別な理由がない限り(エサ場への通り道とかね)そこには近づこうとしないし、死者(親猫)のことを思い返すなんてことはない。彼らは「死者」というものが、「自分に対してなんの影響も及ぼさなくなった個体だ」、ということを知っているのである。まあ普通、死者はご飯をくれたり敵から身を守ってくれたりはしないわな。死んだものが「(まだ)生きているもの」に影響を及ぼす確率は、自然科学的には0%に近しい。ではなぜ人間だけが葬儀をするのか。死者を埋葬し、弔い、命日なんかを作って親戚一同集まったり、故人の想い出を語り合ってうっかり涙したりしちゃうのか。(これは正式な「お葬式」などに限らない。毎年決まった日にガードレールに花束をそなえに行ったり、ひとりで海の見えるレストランに入ってワイングラスをふたつ用意したりするのも立派な「葬儀」だ。水子地蔵の前を通るときに思わず顔を背けたり、逆についつい手を合わせてしまうのも同じ)その理由は上記を見れば明らかである。すべての動物のなかで、ただただ人間だけが「死者から影響を受けちゃう動物」だからである。これをまたまたフランスの倫理学者であるレヴィナスというオッサンは「人間とは、【他者】(=死者)の声を聞き(聞いてしまい)、それと共生していく動物であるから」だと読み解いている。あ、「死者の声が聞こえる」とかいっても別にイタコやカミーユの話ではないので誤解なきよう。甲子園のベンチに遺影を掲げると普段よりも頑張れたり(カっちゃ~ん)、「こんなことをするとあの子が悲しむよ!」と荒れている彼氏の説得に天国の元カノを利用したりするのも、基本的にはすべて同じ。彼らには「死者の声」が聞こえているのである。それが「頑張れ」であっても「恨んでやる」でもかまわないのだけども、ともかく彼らは死者の声を聞き、プラスの方向なりマイナスの方向なりの影響を自己に受けるのだ。そしてレヴィナスは「人間とはそういうものだ」と言う訳ですな。勘違いしないでほしいのは、私は「死者の声が聞こえる? はあ? 電波ケテーイ?」とかいうつもりでこの話をしているわけではない。「サルだってわかってることをわかってねーのかよ(ワラ」とかいうつもりはまったくない。死者のことを思い返し、その思いに触れて自らの人生に還元し、頑張ったり悔やんだり踏み止まったり嘆いたりするのは、人がチンパンジーではなくて人間だから、なのだ。餌はとってくれないし敵から守ってはくれないけども、語りかけてきたり元気をくれたり、あるいは呪われたり夜な夜な枕元に立たれたりする。時にはそれを源にして偉大な業績を残したり、原因不明の奇病にかかったり苦にするあまりに自殺しちゃったり。それらは人間が人間であることの証明なのである。
2004/08/04
なんだか知らないけど、仕事が猛烈に忙しくなってきた。なので本日は短い更新で済ませることにする。(この日記はヒマな時にのみ活発に更新されます)さて。皆さん、人間とほかの動物の違いはなんだと思いますか?こう問いを投げておいて本日はここまでとします。明日以降、時間ができた時に、21億hitサイトのことについて上記にからめて何か書きます。皆さんも考えてみてください。ちなみに「文化を持つこと」という回答は禁じ手とします。なぜ禁じ手かというと、それが「メタ概念」だからなのですが、それを語り出すと長くなるのでまた今度。ちょこっとだけ説明すると、例えば「交換」は「文化」に含まれますが、「文化=交換」ではありません。それは「文化」が「交換」に対してメタ概念だからです(あー、わかりにくい説明だ)。それは「日本と米国の違いは?」という問題に対して、「文化です」と答えるようなものなんですね。合ってるんだけど、それは使ってはならないオールマイティカードであって(どこの国相手でも使えるでしょ?)、「両者の違いを際立たせるもの」ではないから「禁じ手」なのです。「文化のどこが違うか」を問うているわけですから(猿だってゴリラだって文化と呼べるものは持っています)。というわけで、まあ気楽に考えてみてくだせい。結局そこそこ長くなりつつ、ではまた明日以降。本日は探しものを探すヒマさえない所からお送りしました。ぐわわ。
2004/08/03
昨日まで2日連続で「詩」、というか「文章を書いてネットにアップすること」について書いたのだけども、自分でも少し気になって楽天内で詩を書いていらっしゃる方のサイトをしばらく回ってみた。すると、いきなりえらいサイトに辿り着いてしまった。『がっこうのかえりみち』☆ さくや ☆さんという方(女子高生である)が運営されており、アクセスカウンターが8月2日午前1時50分現在で21億4748万4224hitとなっている。これまで私が見てきた、個人が運営するHPのなかでぶっちぎりの最大hit数であった。「いったいどんな情報が詰まっているのか」と思って上記サイトを巡ってみて、メインコンテンツは「タグの使い方」であろうと目星をつけた。日記は今年3月から7月まで書かれていないし、詩もまあいい意味で若い女の子が書きそうな内容であった。言語感覚は優れているほうだと思うが、しかし失礼ながら21億hitの要因とは思えない(個人的には、詩よりも絵本を書いたら面白いだろうな、と思っている)。なにせ21億hit。こちらの常識外の数字だ。私は「自動巡回」や「自動カウンター」を使う人々が巷間に存在することは知っているし、そういうことを実施してしまう心理には同情の余地があると思っているが、ここでは少なくとも『がっこうのかえりみち』はそうではないという前提で語りたい。むろん、アクセスカウンターの偽装についても考えたが、特に疑っているわけではないのでここでは触れない。ところで。それぞれのコンテンツに文中リンクを張ろうと思ったが、どうもコンテンツごとの直リンクについて☆ さくや ☆さんご自身が悩んでらっしゃるような記述を見つけたのでやめた。私自身はweb内の総てのページについてのリンクは完全フリーにすべきだと思っているし、報告も必要だとは思わない(すれば相手が喜ぶのは当然ですがね)。「リンクはtopへ」なるたぐいの「お願い」も守る必要はないし、「リンク禁止」にいたってはネット社会における概念破壊ですらあると思っている。こちらに関してはよく語られる「倫理」とか「礼儀」の問題以前に法的根拠や理論的背景があったりするのだが、現在いまだ思考中の部分があり、それがまとまったら何か書きます。当サイトも当然リンクフリーである(mitsubachi0087さん、Gaudi310さん、ありがとうございます)。ただしかし、そんな私の愚考よりも、21億hitサイトの女子高生管理人さんの思想信条のほうが優先されるのは、これまた当たり前の話である。これは私のなかのプライオリティーの問題だ。「男の愚考」よりも「少女の願い」のほうが優先されるのは、人類における最も大切な定理のひとつであろう(きっぱり)。閑話休題。話しを戻そう。21億hitのサイトについてだ。「大手サイトに文章を書く」という行為は、新聞やTVや雑誌よりも「コンサート」に近いものだと予想される。「アクセス数の魔力」についてはさまざまなところで研究が進んでいるし、かの有名なテキストサイト『侍魂』に絡んでいろいろなサイトで言及がなされた。興味のある方は「侍魂」、「アクセス数」で検索をかけてみるといいだろう。私個人の考えを述べれば、適度に気にする程度が楽、なのだが、これについては書き出すと止まらなくなるのでここでは置く。『侍魂』については、私は比較的早い段階から読んでいたうちのひとりだった。最初に読んだころは確かアクセス数が5ケタのあたりだったと思う。それが見る見るうちに一般誌等で取り上げられて話題となり、「テキストサイト界の怪物」と呼ばれ、そのうちに管理人である「健」さんは壊れていった。健さんが落涙もかくや、といった相談文を各所に送っていたのは有名な話である(当時、ネット内外の友人に支えられたからだろうが、そこから平静を取り戻した健さんの「強さ」には感服したものだ)。その『侍魂』でさえ現在hit数は1億3756万8824hit(8月2日2時現在)である。21億hitの『がっこうのかえりみち』とは文字通りケタが違う。なんか長くなりそうなので本日はいったん切る。残りは明日以降。むろん、探し物はまだ見つかっていない。
2004/08/02
このHPの存在を教えている数少ない楽天外の閲覧者である友人より、昨日の日記について2つの疑問を頂いた。(1)なにかを書きたくても書けない、物理的には書けるのに精神的にどうしても書けない、という場合はどうするのか(2)書くことによってよりいっそう心がギザギザになる場合もあるではないか上記2つである。私はこのサイトは「探し物を見つけるため」に開いたのであって、ネットセラビーの真似事や大学教授の受け売りを垂れ流すためではないのだが、貴重なお客様の要望には答えなければなるまい。そもそもそれらについて興味があるから書いたわけだし、よく考えれば自分でも疑問な点もある。うん、メールありがとう。また来てね。(1)について。「どういう理由で書けないと思っているのか」によるが、ここでは「恥ずかしいから」、「うまく表現する言葉が見つからないから」といった場合を想定する。そうした方々はネットから離れてみることをお薦めする。「書けないんだチクショー!」とでも殴り書き(殴りタイピング)して、別の「心を丸くする方法」を考えてみてはいかがか。掲示板にいらした方のレスにも書いたが、方法はネットだけでなく多々ある。私は高校時代、わざわざ自宅から十数キロある海辺まで自転車で行って「バカヤロー!」と叫んだ経験がある。狂ってますな。確かロラン・バルトは絶叫にさえ「意味」を見いだしていた。ま、別に「ネットで書く」ということにこだわりを持つ必要はないということで。そういう時は「こだわっている自分」を疑ってみることをお薦めする。(2)について。慣れるしかないでしょうね。直方体のある角を削り取ると、よりギザギザになったように見えます。角が増えるわけですからね。それでもまあ一応は球体に近づいてはいるのでしょうが、丸くなるまで辿り着くまで耐えられそうにない、という方もいるでしょう。また、削り取り方によってはより球体から遠ざかることもあるでしょうし。確信犯的にこれをやる人たちもいます。プロの文章屋でもいますし、「荒らし」などもそうでしょう。ネットに関しては、無自覚にそうした状態に陥ったら、ひたすらネット上でのコミュニケーションを遮断したほうがいいと思われます。相手も自分も傷つくような言葉しか出てこないだろうから。あとは「文章を書く」という行為自体、向いていないのかもしれません。あ、「自爆?」とか言わないで。重ねて書くが、これらはすべて、私が「こうだと思っていれば辻褄が合うし、なにより素敵だな」と思っている考え方である。今日の日記は探し物から遠ざかったような気がする……。
2004/08/01
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