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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線下り車線を潜り抜けていくと、ちょっとした広場に出た。この広場の奥に更に登り口があり、手前に東海自然歩道案内板が建っていた。案内図には、鈴鹿峠・坂下宿・筆捨山・観音山の案内が記載されていた。ここにはどの様な案内が書かれていたのであろうか?『東海自然歩道案内図』の前には、ごく最近設置された休憩用テーブル&ベンチが。『東海自然歩道案内図』。「鈴鹿峠三重県と滋賀県の県境にあり、「鈴鹿馬子唄」で名高い峠で、文化庁の「歴史の道百選」に選定されています。 東の箱根とともに東海道の難所でしたが、今は国道1号線が通り、自動車で楽に越すことができます。 峠の頂上近く自然歩道沿いに昔、山賊が道を通る旅人の姿を岩肌に写して危害を加えたという、県の天然記念物に 指定されている奇岩「鏡岩」があります。」年季の入った『東海道➡鈴鹿峠』。広場から階段を数段登って行くと、平成2年建立の『芭蕉句碑』が左手にあった。句碑には、「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」 と刻まれていた。裏面には 「貞享2年(1685)2月に伊賀を出発した芭蕉は、奈良・京をまわり、3月末頃鈴鹿山と呼ばれるこの峠を越えて江戸へ向かった。「ほっしんの」 句は、古くこの峠を越えた西行 「鈴鹿山 憂世をよそに ふりすてていかになり行く わが身なるらん」 に思いをよせて詠まれたものである」 と。『芭蕉句碑』前から先程利用した休憩用テーブル&ベンチのある広場を見下す。更に鈴鹿峠に向かって石段を登る。「鈴鹿峠鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。 八町ニ十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、 山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。 また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。」芭蕉句の直ぐ上に『馬の水飲み鉢』があった。かつて街道を上り下りする人馬のために水溜が置かれていた と。平成4年(1992年)関町教育委員会により復元された模様。『界杭』。三重県と滋賀県の界。さらに坂道を上って行く。根っこごと倒れた杉の木も。台風の強風による倒木であろうか。峠道を上り詰めると平らなところに出て、左手に東海自然歩道道標が建っていた。道標には、「←片山神社0.4km・坂下1.7km」 「山 女原4.1km・安楽越6.6km・石水渓9.3km→」とあり、裏側に向かって 「田村神社跡10m・鏡岩150m」と記されていた。その下に『豚コレラ 消毒用消石灰 下山時に使ってください』と。消石灰(水酸化カルシウム)は強アルカリ性(pH12)で、消毒効果を有し、 畜産分野の消毒でよく使われている石灰なのだ。靴底をこの消石灰で消毒して下山せよとのことであったが・・。『田村神社跡10m・鏡岩150m』との表示を再確認。『田村神社舊跡』案内に従って来てみましたが、石柱があるだけであった。鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ませており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂に勅命を出してこれを平定させたという。田村神社は土山宿にもあり、坂上田村麻呂を祀っているが、かつてはこの地にも社殿があったのであろう。田村神社跡の先を更に100m程進んで行くと、鈴鹿山の鎧岩標柱があり、その奥に三角形に見える鏡岩があるのであったが行かなかったのでネットから。標柱には、「硅岩が断層によってこすられ、名のとおり露出面につやが出たものである。 鏡岩面の規模は縦2.3m、横2m。昔、この峠に棲む盗賊が、山道を通る旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたという伝説から、俗に 「鬼の姿見」 とも云われている。」 と記されているのだと。案内板には、「鈴鹿峠頂上にある巨岩で岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌(スリッケンンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。昔、鈴鹿峠の山賊が、往来する旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたので、「鬼の姿見」とよんだと伝えられています。」と記されていると。 【http://chantoyarouyo.seesaa.net/article/389067203.html】より「鈴鹿峠伊勢と近江の国境をなす標高三七八mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。 都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。 しかし、仁和二年(八八六)近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。 峠越えが開通して間もない昌泰元年(八九八)、伊勢神宮へ下った勅使が山賊に襲われている(「伊勢公卿勅使雑例」)。 建久五年(一一九四)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に盗賊の鎮圧を命じていることや(「山中文書」)、「今昔物語集」の蜂を飼う水銀商人が山賊を退治する逸話、「太平記」の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、 古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。 また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。 『拾遺集』 思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく 村上天皇 世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ 斎宮女御『新古今集』 鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらむ 西行このほか、峠頂上には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。 江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の茶屋が建ち並び賑わっていた。 現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。」『伊勢参宮名所図会』。旧東海道に戻って更に進む。『鈴鹿峠』案内板の先にあった『界碑』は伊勢の国と近江の国の国境の標石。「界右 滋賀県 近江の国左 三重県 伊勢の国」平坦な旧東海道を更に進む。道標の裏には茶畑が広がり、その前に東海道碑・東海自然歩道道標・東海自然歩道解説が建っていた。『歴史の道 東海道 江戸⇔土山宿⇔京大阪』。『東海自然歩道 道標』。鈴鹿峠路傍休憩地まで0.3km。『東海自然歩道』「この歩道は、東京の「明治の森高尾国定公園」から大阪の「明治の森箕面国定公園」まで、美しい自然や文化財をむすぶ約1300kmの道です。 樹木や草花を大事にしましょう。 野鳥を愛護しましょう。 文化財を大切にし、歴史に親しみましょう。 たばこは吸がらに入れに、森林火災を起こさないよう注意しましょう。」 三重県側の鈴鹿峠を越えて、いよいよ滋賀県(近江国)へと入ったのであった。そんな場所にかって置かれていたのが『澤立場』。立場には松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったと。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことでしょう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできないが、わずかに石垣等の遺構が残存していた。そして未舗装の街道の左側には土山茶の茶畑が広がっていたのであった。『登山者の方へ』案内板。『東海自然歩道』東海自然歩道0.11km鈴鹿峠路傍休憩地0.08km km表示よりはm表示が解りやすいが。『鈴鹿峠 路傍休息地 公衆トイレ』。『まごの杖』「鈴鹿峠を登下山される皆様の安全と安心を祈念して、坂下・馬子唄会館と土山・万人講常夜灯の2箇所に、「まごの杖」を設置しています。 この杖は、正調鈴鹿馬子唄保存会の会員が、約1年かけて手づくりで作った杖です。 ”大切にご使用ください” 。この杖を使用された方は、必ず下記の場所に返納して下さる様、お願い申し上げます。」坂下・馬子唄会館の「まごの杖」は気が付かなかったのであった。『東海自然歩道』「鈴鹿峠は、古くから近江と伊勢を結ぶ交通の要衝で、旅人の往来安全のために灯された常夜燈の万人講燈籠が今もなお残っています。かもしか高原から安楽越までの稜線部からは、眼下に県内の山々や遠くは伊勢湾が望まれます。」舗装道の旧道を下って間もなく、『万人講常夜燈』が迎えてくれた。巨大な『万人講常夜燈』を見上げる。それぞれの巨石は乗っているだけなのであろうか、それとも一体構造になっているのであろうか?「万人講常夜燈万人講常夜燈は、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。 重さ三十八t、高さ五m四十四cmの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。 もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。 東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。」土山町教育委員会➡甲賀市教育委員会にラベルにて変更されていた。これは町村合併によるものであろうか?近くに寄って。台座には『万人講』と刻まれていた。『東海道ネットワークの会 第1回 記念植樹』とあったが植樹された松は残念ながら枯れてしまっているようであった。峠道を下って行くと国道1号線の『鈴鹿トンネル』の近江側出口、そしてその上に『万人講常夜燈』が。遂に『滋賀県甲賀市(こうかし)』に入ったのであった。「こうが」ではなく「こうか」であることを知ったのであった。ネットで調べてみると。「甲賀というと伊賀と並んで忍者の里として有名だ。一般的には「こうが」と濁って読まれることが多いが、甲賀市の読み方は「こうか」と濁らず、かつての甲賀郡も「こうか」だった。甲賀郡には多くの古墳があり、古くから豪族達がいたことがわかっている。中でも有名なのが、渡来人系の鹿深臣(かふかのおみ)という一族で、この「かふか」に因んで地名が「かふか」となり、やがて「こうか」に転じて「甲賀」の漢字を当てるようになったと。従って、「こうか」と濁らなないのが本来の読み方なのだが、忍者の里として対比される「伊賀」が「いが」と濁るのと、「賀」という漢字の読みが「が」であることから、「こうが」と誤読されるようになったものだろう。」と。土山町集排マンホール蓋。「町の木(杉)、町の鳥(きじ) 、町の花(茶)」をデザイン化したもの。「鈴鹿トンネル:長さ276m」との案内板。こちらは、上り線 :亀山・四日市・名古屋・伊勢方面のトンネル表示。『万人講常夜燈』の先で、新鈴鹿トンネル(下り線 大津・京都・大阪方面)長さ : 395 mを抜けた国道1号線に合流したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次坂下宿を鈴鹿峠に向かって更に進むと国道1号線・下り車線との合流地点の手前の右手にあったのが『大道場 岩家十一面観世音菩薩』碑。江戸時代の「伊勢街道名所図会」の「坂下宿」に崖下に観音堂があり、その脇に滝が落ちている絵が描かれているが、これが岩家観音あるいは清滝の観音というもの。 【http://network2010.org/article/191】よりあたりには何もなく、奥に鉄製の門があるだけであった。「清滝の観音」というものがあるらしく、滝らしい音は聞えるのであった。鉄製の門は閉まっており、入れないと思ったが、鍵はかかっておらず、思い切って中に入ってみた。『一見観音即滅衆罪』と刻まれた石碑。阿彌陀仏に出会い一度心に念ずるだけで、それまで犯した無量の罪障を消滅することができるという意味なのであろうか。石段を上って行った。大正2年(1913)の地蔵菩薩を刻んだ供養塔。そして『観音堂』。この日は扉は閉められており、観音堂内の石仏3体は拝顔できなかった。『観音堂』横の『地蔵堂』。『地蔵堂』の『地蔵菩薩』。『観音堂脇』の『清滝』がこれ。流れの途中から、竹で作った分岐樋がありその末端から清水が流れ落ちていた。『観音堂』を後にし、旧東海道に戻る。片山神社1.1km、バス停鈴鹿峠1.2kmとあったがバス停鈴鹿峠は現在はないのでは?狭隘地を通り抜ければ国道1号の側道に合流。この場所の国道1号線は、上り、下りは別の道になっており一方通行。『旧東海道 鈴鹿峠(土山宿)⇔坂下宿』。青のパイプは下り線用の融雪水用配管。『お食事処 バーベキュー 鈴鹿峠』案内板。国道1号線の歩道に階段入口があり、ここから旧東海道が分岐していると思いこの階段を上り進んだのであった。よく見ると、手前の道標には「片山神社0.2㎞、旧東海道鈴鹿峠0.6㎞」 と記されていて真っ直ぐ進まなければならなかったのであったが・・・・。階段の先には、大正4年(1915)の『南無阿弥陀佛』名号碑があった。名号碑の奥は東海自然歩道。更に山道を上って行った。しかし、下り坂になり右手の方向に行くと『バス停坂下』に行ってしまうようなのでこの道は旧東海道の分岐ではないことに気が付き、国道1号線まで戻ったのであった。そして国道1号線に戻り進むと直ぐ先に、側道から分岐して、右手に鈴鹿峠への入り口が姿を現したのであった。道標『片山神社0.2㎞、旧東海道鈴鹿峠0.6㎞』。『片山神社』社標が左手前方に。杉林に中を進む。岩屋観音堂と片山神社の中間あたりにあるとされる「荒井谷一里塚跡」はこの辺りには見当たらなかった。更に案内板もなかったのであった。「荒井谷一里塚」は江戸日本橋より108里なのであったが。先に進むと、街道左手の窪地に小さな地蔵祠と新しい地蔵堂が建っていた。地蔵堂のあるこの辺りは古町と呼ばれ、慶安3年(1650)9月の大洪水で宿場が壊滅するまで坂下宿のあった所である。街道を横切る沢跡に『琴の橋』が架かり、沢の上流の右手に南無阿弥陀仏名号碑などが残っており、坂下宿の解説も建っていた。しかし現在は古町という地名が残るのみで、家一軒すら見当たらないのであった。「坂下宿~鈴鹿峠坂下宿坂下宿は、東海道を近江国(滋賀県)から鈴鹿峠を越えて伊勢国(三重県)に入った最初の宿場である。大永4年(1524)、連歌師宗長は 「その夜は坂の下の旅宿」(「宗長手記」)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっている こと (「言継卿記」) などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。このあたりは「古町」と呼ばれ、慶安3年(1650)9月の大洪水で宿場が壊滅するまで坂下宿のあった所である。 洪水後、坂下宿は約1km東に移転し、宿場集落として繁栄した。 なお、洪水以前の寛永14年(1637)に実施された「勢州鈴鹿郡坂下村検地帳」によれば、 坂下村全体で寺社のほかに111軒の人家があったとされる。 今も所どころに石垣が残り、往時の面影が偲ばれる。」片山神社片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された (「片山神社縁起」) とされる。 明治以前は 「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」と呼ばれ、「室町殿伊勢参宮記」(応永31、1424)にも「鈴鹿姫と申す小社の前に」と記されている。東海道はこのあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く。」坂道をどんどん上って行くと、正面に『片山神社』の一の鳥居が姿を現した。坂上田村麻呂の山賊退治のまつわる伝説の女性、鈴鹿御前を祀ったことに縁起があるとされ、江戸時代には”鈴鹿権現”等とも呼ばれた『片山神社』。ここが鈴鹿峠の江戸方よりの本格的な上り口にあたる場所。右手にあったのが『鈴鹿流薙刀術誕生之地』碑。『延喜式内片山神社』社標。『孝子萬吉之碑』万吉は古町で生まれ、4歳で父を失い、6歳から茶屋の使い走りや旅人の峠越えの荷物を運び、わずかな賃銭を稼いで病弱な母を助けたのだと。『愛宕社』。片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された。平成11年に社殿などを焼失したことから、鳥居の先の石段を上がると右手に新しい愛宕社があったが、更に上った社殿があった辺りは更地で、奥まったところに片山神社を祀った社があった。最上段奥にあった『片山神社社殿』。片山神社の祭神、鈴鹿明神は水害や火事の神様なのであるが、皮肉なことに社殿は平成11年(1999)の放火により神楽殿を残して焼失したのだと。境内最上段に有った文化12年の建立の『常夜燈』。現在も本殿は再建されず荒れ果てた状態であった。境内最上段から参道を見る。石段を下る。新しい石祠の『片山神社』か?その他にも常夜燈が数基。石段下の鳥居の周りの常夜燈は天保7年や文化12年の建立と。東海道は、片山神社の前から 「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」 と言われた街道の難所である鈴鹿峠へと続いていたのであった。『常夜燈』の先で石垣のあるつづら折りの急坂を上ると、頭の上に国道1号線の高架が現れた。旧東海道は高架の下を通り、反対側の斜面へ上って行ったのであった。国道1号線高架下を抜け階段を上る。階段上に出ると後方に国道1号線の下り車線が姿を現したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次亀山市の『東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠』イラスト案内図 表紙。案内イラストその1。東海道五十三次の48番目の宿場である。現在の地番は三重県亀山市関町坂下。かつては難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい、江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり(宿場の範囲は河原谷橋から岩屋観音までの約1kmであった。)、戸数約150戸、人口500人あまりと記録される。案内イラストその2。鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」(大竹屋は坂下宿の本陣の1つで小竹屋は脇本陣であった。本陣である大竹屋に庶民が泊まるのは不可能だが、脇本陣の小竹屋には少なくとも泊まってみたいものだ。)と唄われ、旅籠や本陣も数多く東海道有数の盛況な宿であった。 1650年(慶安3年)9月2日、宿場は土石流の被害を受け壊滅してしまう。幕府の援助を受け、1.3km東の現在の位置に移設される。案内イラストその3。1895年(明治28年)には関西鉄道が草津駅 - 名古屋駅間を全通させた(現在の草津線・関西本線)が、鈴鹿峠の勾配が蒸気機関車に障害となったため路線は西寄りの柘植経由となる。地域の経済を旅人相手の商売に依存していた坂下は、交通の要所から外れることとなってしだいに衰退していった。 現在は域内を国道1号の新道が通るが、旧街道沿いは民家も少なく、2005年(平成17年)の調査では戸数89軒・人口147人と過疎化が進行している。かつて繁栄した宿場町であったことを示すのは、本陣跡を示す、旧関町によるいくつかの石碑のみである。以上 ウィキペディアより。『坂下宿』本陣に向かって進む。かつて難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい、江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり、戸数約150戸、人口500人あまりと記録される『坂下宿』。左奥にあったのが『消防団第11分団坂下車庫』。その右手の道路沿いに石柱があった。『松屋本陣跡』碑。この後訪ねた『法安寺』の庫裡玄関となった門はかつてここら辺にあったはず。左手に『坂下集会所』。「明治28年には関西本線が開通したが、鈴鹿峠の勾配が蒸気機関車に障害となったため路線は西寄りの柘植経由となる。地域の経済を旅人相手の商売に依存していた坂下は、交通の要所から外れることとなってしだいに衰退していった。現在は域内を国道1号の新道が通るが、旧街道沿いは民家も少なく、平成17年の調査では戸数89軒・人口147人と過疎化が進行している。かつて繁栄した宿場町であったことを示すのは、本陣跡を示す、旧関町によるいくつかの石碑のみである。」とウィキペディアより。『坂下集会所』前のバス停・『伊勢坂下』。亀山市コミュニティバスの西部ルート〔総合保健福祉-伊勢坂下〕の終点駅。かつては鈴鹿峠越えをする三重県内と滋賀県内を結ぶ国鉄JRバスがあったとのことだが、採算が取れず、すでに廃止されているのであった。7,9,13,16時に1本のみで休日は運行していないようであった。『坂下宿』案内板が茶畑の前に。「坂下宿東海道を近江から鈴鹿峠を越え伊勢に入った最初の宿場である。貞和2年(1346)、京都醍醐寺三宝院の賢俊は伊勢参宮に赴いた折、「昼坂ノ下、夜垂水」と記している(『賢俊日記』)。同様に応永29年(1422)中原康宮が、同31年に将軍足利義量が参宮にあたり当地で小休止し出立している(『康富記』『室町殿伊勢参宮記』)。大永4年(1524)連歌師宗長は「その夜は坂の下の旅宿」(『宗長日記』)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっていること(『言継卿記』)などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。 江戸時代には、東海道五十三次のうち四十八番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。江戸時代後半には本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒を数える東海道有数の宿となり、『東海道名所図会』には「此宿の本陣家広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」と記されるほどであった。しかし、明治23年(1890)関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた。」『伊勢参宮名所図絵』の『坂の下』。「東海道五十三次之内 阪之下 筆捨嶺 / 歌川 広重」阪之下の宿から筆捨山を眺望する。狩野元信が、この山を描こうとしたが、余りの美しさに筆を投げ捨て断念したという言い伝えがある。山頂までにところどころ、岩石が露出し、渓谷を形成し、二条の滝が流れている。茶店の旅人は、その絶景を眺め、清涼な空気をすって休んでいる。下からは荷を積んだ牛が茶屋に近付いてきている。『前田屋』が右手に。江戸時代に坂下宿の隣、関宿の名物だった団子餅”志ら玉”を復活させて製造販売する。こし餡をくるむ白の生地に、赤・黄・緑の飾り玉をのせる可愛らしい見た目の”志ら玉”は、東海道を往来する旅人に親しまれた。ここが鈴鹿峠を超えるまでの最後の店であった。『大竹屋本陣跡』碑が店の向かいに。「東海道を関宿から鈴鹿峠に向かって進んだ場所にある宿場である。貞和2年(1346)、京都醍醐寺三宝院の賢俊は伊勢参宮に赴いた折、「昼坂ノ下、夜垂水」と記している(『賢俊日記』)。同様に応永29年(1422)中原康宮が、同31年に将軍足利義量が参宮にあたり当地で小休止し出立している(『康富記』『室町殿伊勢参宮記』)。大永4年(1524)連歌師宗長は「その夜は坂の下の旅宿」(『宗長日記』)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっていること(『言継卿記』)などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。 江戸時代には、東海道五十三次のうち四十八番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。江戸時代後半には本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒を数える東海道有数の宿となり、『東海道名所図会』には「此宿の本陣家広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」と記されるほどであった。」とその先、左手にも石碑が。『梅屋本陣跡』碑。大竹屋本陣跡の隣に位置するところ。その先に、鈴鹿川の支流に架かる『中乃橋(なかのはし)』。鈴鹿川の名前は大海人皇子が東国へ向かう途中、洪水に難渋しているところに駅路鈴をつけた鹿が現れ、その背に乗って川を渡ったという伝説から付けられたとされると。『中乃橋(なかのはし)』の手前の右奥の一段高い場所にあったのが曹洞宗の『鈴鹿山 法安寺』。山門前には享保4年(1719)の『南無阿弥陀仏名号碑』、嘉永7年(1854)の『西国三十三所順拝所碑』、『庚申手水石』などがあった。庚申と刻まれた手水石。見事な『山門』の彫刻そして屋根瓦。山門に掛かる『禅定峯』の扁額。『曹洞宗 鈴鹿山 法安寺』。『山門』の屋根瓦を境内から。牡丹の花が散りばめられていた。『三界萬霊塔』。境内の『庚申堂』。『庚申堂』の『地蔵菩薩半跏像』。『本尊善光寺分身如来』を祀る『法安寺本堂』。本堂に掛かる『鈴鹿山』の扁額。『本堂』の屋根にも『鈴鹿山』。松屋本陣玄関を移築した『庫裡』。「この鈴鹿山法安寺庫裡の玄関は江戸時代繁栄を極めた坂下の宿場で諸大名の休憩所となった松屋本陣の玄関であったのを明治十五年五月大字坂下七十九番地に坂下小学校舎改築の際学舎玄関に移築され昭和十三年四月沓掛地内の坂下村尋常高等小学校が移転新築される迄旧校舎の玄関として保全されていました。この玄関は文化財として希少価値があり昭和三十五年10月法安寺庫裡玄関に転用移築したもので昭和五十七年七月本堂改築当り屋根瓦の葺替を実施しました。」松屋本陣玄関を移築した玄関を正面から。『宝篋印塔』。『法安寺山門』から旧東海道、そして『梅屋本陣跡碑』を見る。『法安寺』を後にし、『法安寺』の横を流れる『鈴鹿川』の枝流に架かる『中乃橋』を渡って直ぐ右手にも石碑が。かつてここ『中乃橋』周辺には本陣や脇本陣が建ち並び、宿場の中枢をなしていたのだ。『小竹夜脇本陣跡』碑。鈴鹿馬子唄に歌われた小竹屋脇本陣跡だが「大竹小竹」の大竹とは本陣の大竹屋を指しており、本陣に宿をとるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋には泊まってみたいという意が込められているのだと。鈴鹿馬子唄・「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」。先に進むと右手に『金蔵院跡』の石垣があった。『金蔵院』は、仁寿年間(851~853)に創建され鈴鹿山護国寺とも呼ばれた。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が休息した。その後、明治に入り廃寺となり、現在、石垣だけが残っていたのであった。前方右側の石垣の前には『地蔵堂』が。『身代わり地蔵尊』と呼ばれ、大名行列を横切った子供の身代わりになったと。民家が無くなって先に進むと、右手の石垣の上に男女2体の石像が建っていた。男性は刀を持っており、女性は杖を衝いているが、詳細は不明である。刀を持つ男の像。杖を衝いている女性像。その先にも廃屋?が。男女2体の石像を振り返るがこの詳細が知りたいのであるが。情報をお持ちの方は書き込みをお願いいたします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次沓掛地区を更に進むと、右手の沓掛公民館の路地の奥に真宗大谷派の『超泉寺』があった。『山門』。『本堂』。超泉寺の創建年代等は不詳であると。本堂に掛かる扁額は『超泉寺』。本堂屋根の龍。鬼瓦。『沓掛』バス停。『沓掛』は近畿以東の各地に見られる地名。特に中山道碓氷峠の西側にあった沓掛宿は有名である。沓とは旅人や馬の草鞋を指し、旅の道中で履き替えた草鞋を神社や寺の枝木等に掛け、旅の安全を祈願する風習があったと。更に沓掛地区の旧東海道を上って行く。ここにも連子格子の旧家が。道路横には広くはないが田園が拡がっていた。正面の山は鈴鹿峠の東側にそびえる三子山(最高点が568m)で、その左側に鈴鹿峠があるのだ。鈴鹿川沿いの旧東海道に面した民家。『坂下簡易郵便局』。人の姿はほとんど見かけない旧東海道。正面に『三子山』。左から三子山南峰(Ⅲ峰)540m、三子山中峰(Ⅱ峰)556m、三子山北峰(Ⅰ峰)568m。坂下簡易郵便局から50mほど先の右手段上に『庚申堂』があった。堂は新しくなっていたが、中には宝珠のような石が祀られている。これが『庚申様』なのであろう。沓掛集落を行く旧東海道。道路整備はこれぞ日本!!。そして正面に三子山が再び。東海道における峠越えの二大難所、西の鈴鹿に三子山、東の箱根には二子山があるのであった。しかし民家の屋根が朽ちて今にも・・・。『坂下簡易郵便局』から500m程行くと道は三叉路になり、東海道は右側の狭い急な坂を登って行った。先に進むと比較的大きな近代的な建物が姿を現した。右手筋に東海道五十三次の宿場名が書かれた木柱が並んだ坂道が。旧東海道はこの道を進む。道路の左側に宿場名を記した木柱が。「日本橋」「品川」・・・。バス停『鈴鹿馬子唄会館前』。左手には『鈴鹿峠自然の家』駐車場があった。石垣の上に建つ『鈴鹿馬子唄会館』。見にくい『道標』。『鈴鹿馬子唄会館』の玉石塀に沿って進むと『坂下地区コミュニティーセンター 鈴鹿馬子唄会館』案内板が。『鈴鹿馬子唄発祥之地』碑。『鈴鹿馬子唄会館』の敷地内を探索。『歌川広重 東海道五十三次 坂之下 筆捨嶺』「坂下宿 上り下りの旅人で賑わっていた。江戸時代は大きな旅籠が軒を並べ本陣、脇本陣の規模は街道一とも言われた。往時戸数三百余りと栄えた。」「昔、狩野元信があまりの美しさに絵も描けないといって、筆を捨てたという岩根山。鈴鹿川を隔て、見晴らしのよい峠にある「藤の茶屋」からの風景は、さぞ絶景であったのでしょう。茶を飲みながら景観を楽しむ旅人が描かれています。山の下にある白い空間は川のもやを表現したのでしょうか。距離感を生み、自然の雄大さを見せています。」『鈴鹿馬子唄会館』の建物。亀山市乗合タクシーもここまで来るようであった。サッカーボールのような建物・『鈴鹿馬子唄会館』。「鈴鹿馬子唄の発祥の地として、末永く後世に伝えるため資料展示を行い、又生涯学習、地域文化創造の場として活用できる施設である。ホール150名収容(舞台昇降式)、会議室24名、和室8・12帖、調理室、ロビー展示コーナー(映像、グラフィックで紹介)、芝生広場(観覧席有)。市外の方にも貸し出しを行っています。東海道53次のマップをそろえ、京、江戸に旅する方の休息の場となっています。」「鈴鹿馬子唄」は旅人を乗せた駄賃馬を引く馬子(まご)が、鈴の音に合わせて「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と口ずさんだ民謡で、伊勢湾側の「鈴鹿(坂下宿)」は晴れていても、峠を越えた近江側の「土山宿」では雨が降っている、という気象の違いを謡ったものであると。そしてその向かいにあったのが『鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)』。「鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)鈴鹿峠自然の家は、「坂下尋常高等小学校」 校舎として昭和13年(1938)に建てられた。 同小学校は、昭和54年3月に廃校となったが、その後は坂下公民館等として坂下地区の人々を中心に活用され、現在は青少年のための宿泊研修施設 「鈴鹿峠自然の家」として活用されている。校地は、山の西側斜面を整地して造られており、南側に校庭をとり、校舎は北側に寄せて建てられている。外観は、切妻平入形式の瓦葺で、正面玄関に切妻妻入形式で洋風の意匠を施した車寄せが突き出ている。外観はペンキ塗りの洋風下見板張りである。校舎は南北の2棟に分かれ、中央に中庭をとし、東西に廊下を設けて両棟をつないだロの字形の平面である。校庭に面した南棟は、中央に玄関をとり、西側には教室一室と職員室・校長室を、東側には教室一室と和室を設け、北側に廊下をとっている。また、北棟は、講堂と教室二室を設け、北側に廊下をとっている。平成11年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財(建造物)に登録された。」懐かしい校舎の姿。この校舎は松下奈緒主演のテレビドラマ「二十四の瞳」の撮影に使われたとか。そして敷地内にあるのが天文台『童夢(どーむ)』。定期的に星空観察会を開くなど、天文ファンの間では、密かな人気スポットになっているとのこと。「鈴鹿峠自然の家」の使用について。東海道53次の宿場名を記した木柱が沿道に並ぶ。「丸子」、「岡部」、「藤枝」、・・・これから向かう「坂下」、「土山」、「水口」・・・。現在地は「坂下」手前。最終ゴールの「三条大橋」も残り4日か?杉林の中の旧東海道を花粉対策用マスクをしながら進む。『下乃橋(河原谷橋)』を渡る。この川が沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると48番目の坂下宿(さかのしたしゅく)に入った。坂下宿は鈴鹿峠の登り口にある宿場町で、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内軒数は153軒、人口は564人、本陣が3軒、脇本陣は1軒、旅籠は48軒の規模を持っていたと。坂下宿東側の町並みを進む。人口の割に本陣、脇本陣が多いこと、そして全戸数から割り出すと3軒に1軒が旅籠だったことになる。旅籠の数の多さはこれから鈴鹿峠を越えようとする旅人の多くがここ坂下宿に泊まることを想定してのことなのであろう。今ではひっそり佇む山あいの集落の一つ。現在残る街道の道幅が二車線となっているが、この道幅は当時からのものであると。ここ坂下宿は当寺物産の集積地だったので、他の東海道より広かったのだと。正面に見える山が『三子山』の一番左の山・南峰(Ⅲ峰)か。特別養護老人ホーム『華旺寿(かおす)』案内板。カオス( Chaos)とは 「混沌(こんとん)・無秩序」 という意味であるが特別養護老人ホームの名前としては・・・??漢字の文字面は良いが・・・・??そしていよいと『坂下宿』の中心部へと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『関宿・西の追分』を後にし、旧東海道は国道1号になって続くが、この先鈴鹿越えが待っているのであった。 箱根越えは天下の険として有名で、東海道一の難所であったが、関から土山までの鈴鹿越えのこの区間も、それに劣らなかったのだと。左に人気の焼肉店『びっくりや』が。甲賀まで27km、草津まで48km、大津まで63kmの表示も。甲賀が「こうが」ではなく「こうか」読むのだと初めて知る。『鈴鹿峠』への上り坂が始まる。三重県亀山市と滋賀県甲賀市をつなぐ標高約357mの峠。関宿からの標高差は約260m。滋賀県側は比較的なだらかだが、三重県側は高低差が激しく、いまなお「箱根峠に次ぐ国道1号有数の難所」といわれる。国道1号線は途中、上りと下りで道が分かれる一方通行の区間があり、県境はそれぞれのトンネル内に位置するのであった。少し歩くと、三叉路になり、右に行くと、『関ロッジ』。ここを上っていくと観音山公園に辿り着き、観音山公園からは関宿を一望できると。『東海道 三宿のまち 亀山市』。亀山宿➡関宿➡坂下宿『市瀬』交差点を左に折れ、国道1号線に沿って流れる鈴鹿川に架かる『ふれあい橋』を渡りチョット寄り道。鈴鹿川を見る。鈴鹿川の砂場には動物の多くの足跡?が。夜に水を飲みにやって来るイノシシ等の足跡であろうか?『躍動』と台座にある『町長の像』と。この像の意味、設置目的は?国道1号線に戻る。「東海道 関宿 歴史と緑の町」右の駐車場の中にあった巨石。『転び石(ころびいし)』。『転び石(ころびいし)』。転び石は、「東海道名所図絵」などにも描かれている。「弁慶ころがし」とも言われ言い伝えによると付近の山の上から転がり落ちてきて、夜な夜な山に戻りたいとうなり声を出して人々をおそれさせたが、通りかかった弘法大師がこの大きな石を供養したところ、石は静かになったと伝えられている。」また、鈴鹿峠から当時畑だったこの地に転がり落ちてきたという説、鈴鹿川に転落した石が自力でここまで戻ったという説等もあるのだと。小夜の中山の「夜泣き石」に似ているのであった。右のゆるやかなカーブに沿って進むと旧東海道は右に入る。国道1号線に架かる橋の手前を右に。橋の名は『いちの勢はし(市瀬橋)』であろう。橋近くから鈴鹿川下流を見る。再び同名の『いちのせはし(市瀬橋)』が前方に。何故に国道1号線に架かる橋と同じ名前?『市瀬橋』。『市瀬橋』を渡る。昔は市瀬橋より鈴鹿川下流約50m辺り、「はねかけ橋」と呼ばれる橋が架けられていたと。江戸時代の狂言師大田南畝(蜀山人)が書いた「改元紀行」にその名が見えると。市瀬集落の旧道はここを左側に江戸方面に伸びていたが、現在は橋が架けられておらず行き止まりとなっていると。我々はここを右に曲がり進む。市瀬集落を鈴鹿峠に向かって歩く。市瀬集落は江戸時代立場だったところで、道の両側には古い家が並んでいた。正面に国道1号線が姿を現す。『東海道➡坂下宿』と書いてあったのであろう。国道1号線の信号のない横断歩道を注意して渡る。市瀬集落はS字形になっていたが、途中で国道1号線に分断されていたのであった。道路脇には小さなお地蔵様が入った祠が。横断歩道を渡ると正面にあったのが『常夜燈』。その先にあったのが『西願寺』。市瀬集落の中央部にある『西願寺』。『常夜燈』。報恩謝徳の文字が。『西願寺』山門。扁額には『龍玉山』と。山門屋根の隅棟の鬼瓦と熨斗瓦の上の飾り瓦。『西願寺 本堂』本堂の屋根の主棟にも『龍玉山』と。この堂は?旧関町の汚水管のマンホール蓋。 旧関町の花・シャクナゲ、町の鳥・キジ、町の獣・シカ、周囲に、町の木・スギを描いていると。更に旧家の残る市瀬集落の旧東海道を進み再び国道1号線に合流。日本橋から427kmの表示。「亀山市名勝 筆捨山 昭和五十三年九月二十二日指定東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高二八九mの山である。 もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、 雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。 江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。 歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 阪ノ下 筆捨山』をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。 浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝は無く、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである。」『東海道五十三次之内 阪之下 筆捨嶺 / 歌川 広重』。山頂までにところどころ、岩石が露出し、渓谷を形成し、二条の滝が流れている。茶店の旅人は、その絶景を眺め、清涼な空気をすって休んでいる。下からは荷を積んだ牛が茶屋に近付いてきている。『筆捨山』バス停。右手の鈴鹿川を見下ろしながら進む。右手の藪の中に『國道改良記念碑』の石碑が寂しそうに。そして左手にあったのが『坂下一ノ瀬一里塚跡』。107番目の一里塚には『一里塚阯』と刻まれた石碑が。そしてこの先で案内に従い再び右折する。国道1号線の先の正面に見えたのが『筆捨山』であろうか。『東海道』案内板。これより沓掛集落へ。この辺に木彫り像があるはず?であったが。『農村集落排水事業 沓掛地区浄化センター』。『沓掛地区浄化センター 汚水処理施設図』計画処理人口:170人の処理場。長年の仕事が頭の中に顔を出した瞬間であった。『観音山歩道案内図』。『道標』の文字は白く塗られて解読不明。いたずら?それとも補修工事の途中?東海自然歩道でもある旧東海道を進む。沓掛集落の旧家の前を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが、やはり左側にあった『福生山 長徳寺』。浄土真宗佛光寺派の寺の『山門』。『本堂』。『本堂』には『長徳寺』と書かれた扁額が。境内の地蔵尊。地蔵尊の台座には歌碑が刻まれていたが・・・。蝋燭台にも歌碑が・・・。子安地蔵尊であろうか。伊勢型紙を用いた手摺り御朱印の自動販売機が置かれていた。日にちは『吉日』表示、500円とのことで遠慮したのであった。御朱印も自動販売機とは・・・・。民家の庭の立派な松の下にも大きな石碑と石灯籠が。連子格子戸には蔓で作ったリースが飾られていた。松ぼっくり、綿花、カラスウリ、赤&オレンジの実を配したリース。こちらは松ぼっくり、南天の実を。この家の方の手作りであろうか。更に『西追分』に向かって進む。こちらにも綿花が。連子格子の平屋が続く。虫籠窓のある旧家がここにも。鶴の姿が。こちらの旧家には、波の中で踊る魚、いや鯉の滝登りであろうか。路面に埋め込まれた道標には『観音山公園 関ロッジ 350米』と。青空の下、重要伝統的建造物群保存地区・新所の街並みの散策を楽しむ。ここ新所には関宿の名産竹火縄を造る火縄屋が数十軒あった。火縄を火縄銃をはじめ、煙草の着火にも用いられたため、庶民からの需要も多かった。関宿には旅人相手の火縄売りも多くいたようだと。火災に備えて西には火除け土手、長徳寺前には火除松林がつくられていたと。鈴鹿の山々がだんだんと迫って来た。右手に『金光教 関教会』入口。金光教は安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村(現:岡山県浅口市大谷)にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である(旧町名由来の金光町という地名は金光教の本部があることから付けられた)。祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長は西川良典(にしかわよしのり)。日本を中心に約1500の教会・布教所、41万人の信者を有すると。山門柱。『境内』。『本堂』。隣りにあったのが『観音院』。『観音院』の本堂。「観音院 略由来古くは「関西山 福聚寺」と言います。 嵯峨天皇の御代(820)に開創されたと言われ中世土地の豪族関氏の祈願寺として栄えました。 当時は城山の西方に在り、戦国末期兵災にかかりすべてのものは焼失しましたが幸い御本尊一躰は難を免れました。 徳川家江戸幕府の武運長久を祈願すべしと「先規の例により将軍の武運長久を祈願すべしと観音山と佛供田を残されたのであります。 寛文年間に至り(四代家綱(1665))当地にお堂を建立し「関西山 観音院」と号するようになりました。 当院は東海道関宿の守り佛としてのちには観音山に西国三十三ヶ所の霊場を開き、人々の篤い信仰によって支えられて来ました。 今は関町内の信徒講員によって外護せられ昭和五十年四月、平成二十三年三月当宇の大修理が行われました。八千とせに たのまぬ人も みちびけよ 鈴鹿の関の十一面観世音」木箱の如き意匠で被われた分別収集用のごみ箱が並ぶ。堂の片隅には石柱、そして横の自然石碑には「大峯山」の文字が。石柱には「西国三十三所 観音山 公園道」と刻まれていた。観音山公園(三重県亀山市関町新所)に、西国三十三所の石仏群があると。石碑前からの旧街道。ここにも鶴の意匠が。何処までも続く連子格子の旧家の家並み。『南禅寺 井口家』。「南禅寺 井口家井口家は、屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理を名物とする料亭であった。当時西追分は宿屋が建ち並び旅人がひきもきらず賑わったという。同家は文久の頃の建物といわれ、道路に面して連子格子、塗ごめの中二階があり、料亭の面影をよく残している。」『西の追分』が迫って来た。右手奥に社殿が。『関神社御旅所』。『御旅所』は、「関宿祇園夏まつり」の「神輿の渡御」に係わる大切な場所で、1年に1回だけ、神輿の宿所として使われる建物。関宿の「西の追分」近くに,昭和10年ごろ建てられた『御旅所』が老朽化してきたために今回改築されたもので,初期の御旅所と同じ形に復元された。平成25年7月20日に行われた「関宿祇園夏まつり」から神輿の宿泊所として使われた と。手水場であろうか。左手に『関宿 西の追分休憩施設』。裏庭に井戸が残っており、古民家を改装したものか。この先、トイレがしばらくないので、ここで済ますのが良いのであった。『関宿周辺案内図』。このオレンジの街道・重要伝統的建造物群保存地区を前回、そして今回と15町13間(約1.7km)を歩いたのであった。関宿の京方出入口、西の追分。東海道から伊賀・奈良方面へ通じる大和街道が分岐する。『西の追分』案内板。「西の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78Km)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。」『従是 東海道関宿 亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区』石柱。西の追分に残る『法悦供養塔道標(題目塔道標)』といわれる高さ2.9mの石の道標。元禄14年(1691)に谷口長右衛門が旅人の道中安全を祈願して建立したもの「南無妙法蓮華経」の下に「ひたりハいか やまとみち」と。伊賀大和道とは加太(かぶと)峠を越えて、伊賀上野、奈良に至る大和街道のこと。裏面にも「南無妙法蓮華経」。西の追分広場にあった浮世絵・『歌川広重 東海道五拾三次 関 本陣早立』まだ明けやらぬ早朝、伊藤本陣を出立する大名行列。「大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから出立の準備があわただしく始まります。濃い灰色の濃淡と黄緑色の配色は、日の出を間近にひかえた早朝の雰囲気を伝えています。昔ここに、鈴鹿の関があったことから関宿といわれ、近江の相坂の関、美濃の不破の関とともに三関に数えられました。」次に目指すのは『坂下宿』なのであった。歩いて来た関宿旧東海道を振り返る。ここは、柘植、上野を経て大和へ出る「加太(かぶと)街道」の追分で、写真を右に行くと、現在は国道25号になっているのであった。そして鈴鹿峠への上りが始まったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次741年、開創と伝わる名刹で国の重要文化財に指定されている関宿のシンボル的存在の『地蔵院』の境内の角の三叉路に建つ文久2年(1862)の『常夜燈』と『歴史の道』碑。そして左には『停車場道』と刻まれた石柱も。明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として整備されました。「ステンション道」と呼ばれていたそうです。三叉路にあったのが真言宗御室派の『九関山 宝蔵寺 地蔵院』。関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。『地蔵院』の横にあるのが『岡崎酒店』。『ほ庵』店頭のライオン像は何を咥えているのであろうか?『小万茶屋』。二階に洋風意匠の窓がついた『洋館屋』その隣が『會津屋』。現在は地蔵院前で手作りおこわと、街道そばの店『會津屋』であると。『い 一休が 開眼供養の 地蔵院 関宿かるた』。『会津屋 森元氏宅会津屋は鶴屋・玉屋とともに関宿で有数の大旅篭であった。明和から天明にかけて会津屋の前身山田屋で育った小万が女の身で亡き父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である。」鈴鹿馬子唄に「関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足」と謡われた仇討ちの烈女、小萬が育った家。『あいづや』木灯籠。以前は大きなタヌキの置物が置かれていたようであったが。中町の外れ手前の民家も一面の連子格子造り。右手の外れのここが『関見世吉右衛門』。昨年12月にオープンした店であると。関宿に、築150年の古民家を改装した土産物店『関見世吉右衛門』。『関見世吉右衛門』。そしてこの先、『西追分』までが『新所の街並み』。新所の街並みの朝景、この日はこれから奥に見える山の鈴鹿峠を越えるのであった。『東海道 東追分⇔西追分』案内板。中町の街並み方面を振り返る。右手奥が『地蔵院』。『新所の街並み』が続く。民家の玄関には『伊勢 笑門 飾り』が。関宿の伊勢講に所属する家々では、「笑門」と記した「注連飾り」を一年間通して玄関口に飾り付けているようであった。「注連飾り」の飾り付けは、正月準備として年末に行われ、 それまで付けられていた前年の「注連飾り」は、大晦日の「年 越し参り」の折の「かがり火」か、翌年 1 月 15 日に行われ る「どんと」で焼かれるのだと。連子格子の街並みを楽しみながら進む。中二階には虫籠窓のある旧家が多い。旧家の維持管理の大変さに思いを馳せながら。民家の門。連子格子の民家の先の、屋根付き板塀の上には。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶・布袋様が。右手にあったのが『誓正寺』山門。山門屋根の鬼瓦の意匠も見事。『誓正寺』境内。『誓正寺』本堂。見事な屋根瓦の飾り瓦。これも本堂の見事な彫刻。陸軍歩兵慰霊碑。『誓正寺の筆子塚』。本堂の前に石灯籠のような形をした筆子塚が。「誓正寺の筆子塚この灯籠は高さニメートル四◯センチあり「正定院筆子中」と刻まれています。「筆子中」とは、寺子屋で教育を受けた門下生たちのことです。誓正寺の筆子塚は住職であった正定院宝瑞を先生とする教え子たちが学恩に感謝し、慶応四年(一八六八)に建立したものです。竿石の裏面には、宝瑞先生のプロフィールが記されています。宝瑞先生は文化十〇年(1813)長野村(津市美里町)清芳寺に生まれ、天保九年(一八三八)に誓正寺住職となり寺を再興し子供たちに習字などを教えお酒が好きで、慶応二年(一八六六)に住職を引退したとあります。幼いときの学恩を忘れず、慕いつづけ筆子塚を建立した教え子たちと、お酒が大好きな先生との間の人間味あふれた深い絆は、今日の社会でも求められている大切なことではないでしょうか。」『正定院筆子中』と刻まれている石灯籠。竿石の『裏面』には、正定院宝瑞先生のプロフィールが記されていると。『誓正寺』の墓地。白梅も開花間近。更に関宿の街道を進む。東海道の地道風カラー舗装や無電柱化などはこの地域にも。屋根の上の白い花の漆喰意匠。時間が経過しても朝の関宿・『新所の街並み』には人の姿はなし。時間は金曜日の7:36。屋根の上のこの像は『鍾馗様』か?正面にこれから超える鈴鹿の山の姿が。この民家の屋根の上にも。鯉を抱える『恵比寿様』。2階建ての大きな旧宅。町屋の正面二階の漆喰で塗籠た縦格子の虫籠窓。これが『虫籠窓』。そしてこの家の軒下にも、幕板が取り付けられていたが、これは風雨から家先を守る霧除けの役目をするのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次昨日、約2年前から始めた『旧東海道を歩く』を完歩しました。今回は水口宿から出発し、石部宿、草津宿、大津宿、三条大橋まで3日間の歩きとなりました。昨日は「大津駅」を7:45に出発し、「大津宿」、「逢坂の関記念公園」を通過し「大津・追分」から「山科」、そして「天智天皇 山科陵」を訪ね、その後「蹴上インクライン」から「三条通り」に入り、柳の新緑が美しい「白川」沿いにあった「明智光秀首塚」を訪ね遂に「日本橋」から492kmを延べ32日間で完歩し、「京都・三条大橋」に13時JUSTに到着しました。「完歩」の記念撮影。東海道五十三次の絵図が描かれた手ぬぐいを持って撮影しましたが、風が強くて。彌次・喜多で仲良く。この手ぬぐいは「袋井宿」で購入。この手ぬぐいには距離:約495kmと。こちらは出発点の「日本橋」から。「鴨川」に架かる「三条大橋」。「三条大橋」を渡る。渡りきった西橋詰左手に『弥次喜多像』。十返舎一九の東海道中膝栗毛に登場するお馴染みの人気者の二人が銅像に。今回の「旧東海道を歩く」は、我々もSさんとの「弥次喜多道中」なのであった。もちろん、私が「文武に優れ、真面目、世情に疎く、人にだまされやすい」・「弥次」さん!!そして、旅友のSさんは、「女性好き、喧嘩が強く、豪放磊落な性質」の「喜多」さん。東海道中膝栗毛とは異なり、実際の年齢は「喜多」さんが大先輩で反対ですが・・・。『弥次喜多像』の前で記念撮影。『歌川広重 東海道五拾三次之内 京師 三条大橋』「江戸・日本橋を起点に始まった東海道五十三次の旅も、この京の玄関口、三条大橋が終着地点である。鴨川に架かる三条大橋。川の向こうには古都の町並み、その背後には東山三十六峰が見える。この三条大橋の橋桁は木組みで描かれているが、実際の三条大橋は石組みだった。この点を含め、リアルに描かれていたのは「三島」あたりまでで、以降の宿場は想像や他の資料に基づく図が多くなっていることから、広重が八朔御馬進献に同行し京へ上洛したとの説を疑問視するむきもある。橋の上には雅やかな姿も見られ、そこを渡る人々の取り合わせもおもしろい。遠景には東山36峰と比叡山が描かれている。当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であったという。」 【http://chisoku.jp/collection/au-0014/i00420/】より『弥次喜多像』横から『三条大橋』を見る。「三条大橋この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正十八年(1590)で、豊臣秀吉の命によるえい奉行増田長盛が大改造を行った。また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるもの也、磐石の礎は地に入ること五尋、切石柱は六十三本也(以下略)…」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和二十五年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは七十四メートル、幅十五・五メートル。なお、橋の西詰めは、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。」「四国八十八ヶ所霊場めぐり」では結願の寺となる第88番札所「大窪寺(おおくぼじ)」で「結願証」を頂きましたが、今回は個人による「歩き」でしたので自ら「完歩証」を作って遊んで見ました。今回の「旧東海道を歩く」のエピローグは後日、ブログにアップさせていただきます。さて次は何に挑戦するか思案中です。
2020.03.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2月21日(金)、この日も元気に早朝起床し朝食を取る。6:30にこの日に目指す鈴鹿峠➡土山宿に向かって出発点の関宿を目指してホテルを出発。『ホテルエコノ亀山』。朝の陽光が迎えてくれた。そして右手に前回歩いた関宿の入口を確認。『関駅前』交差点を左折し駅前駐車場に車を駐める。『関駅』にはタクシーが1台。駐車料金は1日300円と格安。車名、車のナンバーを記入してこの茶袋に駐車料金300円を入れて、駅構内に設置されているポストに入れるのであった。これが駐車料金用のポスト。関駅前の『東海道 関宿』道標と『関宿観光案内図』。国道1号線から県道11号線に入り直ぐ右折して『関宿伝統的建造物群保存地区』に向かって進む。左手にあったのが『天理教鈴鹿分教会』。そして『関宿伝統的建造物群保存地区』の『中町四番町山車庫』前に合流し左折して、前回の復習を始めたのであった。この日の朝も正面に『関地蔵院』の本堂の大屋根が見えた。左手に『吉野屋』。この朝も人の姿はなし。家の軒下には、『幕板』が取り付けられているが、これは風雨から店先を守る霧除けの役目をするのだと。『骨董 琵琶屋』。『岩田商店』。『鶴屋脇本陣跡』。二階壁面に千鳥破風を乗せた派手ではあるが美しい意匠であった。『鶴屋脇本陣跡』の隣に『問屋場跡』があり、『山車庫』が。ガラス人形。『川北本陣跡』碑が右手に。左手に『東海道関宿』碑。連子格子に覆われた『松井電気』。『伊藤本陣跡』碑。「伊藤本陣 松井家伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公卿高僧など身分の高い人の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は間口11間余 建坪69坪 西隣の表門は、唐破風造りの桧皮葺であった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。」『橋爪家』。「橋爪家同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大坂のこうの池と並び称せられる豪商であった。江戸末期には、芸伎の置屋として栄えた。街道に面して手すり付き二階妻入り建てで、これは明治期の改造で、もとは、平入りの屋根であった。」右手には狭い路地が。『東海道のおじなさま』ポスター。右側に冠木門が。『旅人宿 石垣屋』。石垣屋の段飾り。「石垣家 辰巳屋初代石垣の杢平(享和二年、一八〇三年生)が朝明郡保々村より来る。二代目杢平は肥料商を始め、後に米穀の販売等を手掛けて明治二四年に当屋敷を建てた。現在中庭には当時の米擂石牛繋石敷石等が利用されている。五代目敏夫は戦後ここで昭和末年まで医業を営んだ。」新聞販売所の建物の屋根には七福神が。『恵比寿、大黒』様。『関郵便局』。慶応元年創業の伊藤彦一商店『伊藤茶』。大きな壺が。お茶を保存するものなのだろうか。『三重県茶商工業協同組合 組合員之証』関郵便局の前に『関宿高札場』。『毒薬札』は毒薬やにせ薬の売買を禁止するもの。もし違反すれば、その罪は重い。『にせ金札』はにせ金銀の売買を停止する。すべてにせ物を造ってはいけないなどが記載されている。『キリシタンの密告を求める高札』。「定 きリしたん宗門は累年御禁制たり 自然不審成ものこれあらば申出べし 御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者の訴人 同 断 同宿并宗門の訴人 銀百枚 右之通下さるべし 縦同宿宗門の内たりといふとも 申出る品により銀五百枚被下へしかくし置 他所よりあらハるゝにおゐては 其所の名主并五人組迄 一類共に可被行罪科もの也 正徳元年五月日 奉行」『火付高札』。『駄賃并人足賃銭』。『駄賃并人足荷物の次第』。『徒党札・徒党禁止の札』。『駄賃并人足賃銭 割増』左手に『旅館 魚藤』。右手の大きな瓶には『骨董屋』の文字が。そして昔の貨幣が格子戸にぶら下がっていた。『寛永通宝』。『ナガオ薬局』。『白玉屋 三宅家』。関宿名物『志ら玉』の店。右側に連子格子の引き戸が並んでおり、その隙間から庭を。『化粧品 はらや』。『いっぷく亭』前からカメラを構える『あしながオジサン』の陰とその先に『関地蔵院』の本堂が。関宿の特徴をもっともよく表す景観は、鈴鹿の山々を背景にしたこの地蔵院の屋根を中町の町並み越しに見たところ。地蔵院はふるくから関の中心で、東海道はここで緩く右にカーブしていた。右手『聖石屋』の屋根の主棟鬼瓦。隅棟の先端の飾りは葛飾北斎の『神奈川沖波裏』の波のごとし。『門音 尾崎家』今は『ANTIQUE 江戸屋』。『門音 尾崎家』。「尾崎家は地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から屋号をとって川音と称した。同家は文久頃の建物と言われる。間口七間半、通り庭をはさんで左手に屋敷、右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次愛知県道458号線・一宮弥富線を更に南下すると、『東名阪自動車道』高架が前方に。名鉄津島線に沿ってイオンタウン弥富前を通過。関西本線、近鉄名古屋線高架下を通過。そして国道1号線に入り木曽川に架かる尾張大橋を渡る。次に長良川に架かる伊勢大橋を渡る。左手にが現れた。『長良川河口堰』は、その設置によって塩水のそ上を防止し、塩害を生じることなく川底を掘り下げることを可能にし、洪水を安全に流下させる。一方、堰上流が淡水化され、堰に貯留された水を水道用水や工業用水に利用可能とするもの。11機の調節ゲートを操作する大きな上屋が並ぶ姿は壮観であった。伊勢大橋を渡る。閘門(こうもん)部分。閘門は、堰の右岸側に設置された船の通り道。通航する船舶が通船要求引き綱を引き、合図することにより操作を開始。船が通らない時間帯は、ロック式魚道として運用していると。国道1号線から国道23号線に向かうと、左手ビルの屋上には黄色の巨大なアヒルが。国道23号線はしばしの渋滞。左手に『JERA 川越火力発電所』が。JERAは、東京電力グループと中部電力とが共同で設立した発電会社。『朝明川(あさけがわ)』に架かる『朝明大橋』を渡る。『富洲原橋』を渡る。沖の四日市港霞埠頭への渡し船がこの下から出ていると。シドニー港通り手前のコンテナヤード前を通過。『JERA 四日市火力発電所』。そして、この後に前回訪ねた場所の不鮮明な写真の場所に立ち寄り再撮影しながら進んだのであった。『血塚社』は日本武尊の足から流れ出た血を封じた場所とか、御神体が日本武尊の血がついた石であるという言い伝えがある。境内に石が積まれているのは、御神体が石であるからといって積む人がいるためであると言う。旅友が『石薬師寺』の梅が開花しているのではとのことで立ち寄る。白のしだれ梅は開花が始まっていた。紅梅も。しかし境内全体の開花はこれからであった。更に、前回撮り残った境内の場所の写真は前回のブログに追加アップしています。そして近くの『蒲冠者範頼之社(御曹司社)』を訪ねて再撮影。更に『石薬師の蒲桜』にも。庄野町の国道1号線を走るが夕焼けが迫っていた。日田川駅手前の安楽川に向かって進む。鈴鹿市に入ったところで道脇に日の丸デザインの飛行機(旅客機)と再会。横田商店と言う中古建築機械取扱業者の目印になっているのだと。『井田川駅口』交差点を通過。JR関西線に沿った県道28号線・亀山白山線を進む。この日のホテルの姿が漸く見えて来たのであった。そしてJR亀山駅近くの『ホテルエコノ亀山』に到着。時間は17時。チェックインに向かうと、予約の部屋は格安価格であり、19時からチェックイン可能とのことで止む無く車に戻り、2時間の時間調整に向かう。まずはJR亀山駅前に。亀山駅前ロータリーの駐車場に大きな鳥居が立っていた。駅前の観光地図を見ても付近に大きな神社が見当たらず、鳥居だけとなっているようであった。ネットで調べてみると能褒野神社一の鳥居の位置付けとなっていた。能褒野神社自体は亀山駅からかなり離れており、最寄駅と云え居るのは、名古屋方面隣駅の井田川駅であるようであった。石鳥居の『能褒野神社』の扁額。そして前回訪ねた約6km先にある『関宿』に向かったのであった。前方に鈴鹿の山々の山の端が鮮やかに。西空も赤く染まって。そして『関宿』に車で入り、シャッターを押しながら国の「重要伝統的建造物群保存地区」をゆっくりと進む。人の姿も殆どなし。灯りも街路灯が所々にのみ。私は車から降りて暫しの散策。『東海道のおひなさま 亀山宿 関宿』が2/15~3/7にて開催中であった。連子格子の隙間から中に飾られていた雛飾りを撮影する。『男雛(おびな)、女雛(めびな)』。別の場所の段飾り。上から親王(男雛・女雛)、三人官女、五人囃子、??、随臣、仕丁。こちらにも。こんな人形も。『関郵便局』。武士と旅人の顔出しパネル。『高札場跡』。手前の『尾崎酒店』と『小万茶屋』。『会津屋』『あいづや特製 山菜おこわ』の看板。ここにも七段飾りが。『会津屋』を反対側から。「重要伝統的建造物群保存地区」を振り返る。そして時間調整を終わり、翌日に車を駐めておく、関駅に立ち寄り駐車場の駐車料金の支払い方法の事前確認を行う。そして時間もチェックインの19時に近くなってきたので、宿泊ホテルに向かったのであった。左手には、怪しい?ホテルがあったがビジネス用、観光用にも泊まれるのであろうか?そしてホテルに戻り我が部屋で、事前にコンビニで買い込んでおいたビール、焼酎でこの日の反省会を行った後、長い1日も終わり爆睡したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『光圓寺』を後にし、『佐屋路』を進むと前方に再び『名古屋高速5号万場線』の高架が姿を現した。くねくねと曲がる『佐屋路』。『新川』に架かる『砂子橋』を渡る。『砂子橋』から『名古屋高速5号万場線』を見る。中央分離線のない狭い『佐屋路』・県道117号線。大治いずみ幼稚園前を通過。ここを左に。正面には佐屋街道『高札場跡』。正面に『名古屋第二環状自動車道』が。『名古屋津島線』の『西條平ヶ野』交差点を渡る。『名古屋津島線』の『神守町』交差点手前。『神守町』交差点の右先に小高い丘が見えて来た。右手に『神守の一里塚』。右手(北側)のみに残る『神守の一里塚』。南側は民家の庭になっていて、通りからは、その跡が見られなかった。『神守ふるさと散歩道』案内板。「神守の一里塚江戸時代、佐屋街道の一里塚の一つとして作られた。一里塚は街道の両側に一里(約4㎞)ごとに設けられ、その上にエノキを植えて旅人の目印にした。昔は北側の塚が東西7.3mメートル、南北6.7mメートル、高さ1.5mの小山でムクが植えられ、南側の塚は長径5.5m、短径4m、高さ1.4mメートルの小山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で、最後まで街道の両側の塚が残っていたのはここの一里塚であったが、今は北側の塚が残っているだけである。」一里塚の丘の上には『表忠碑』と石灯籠が。津島市の汚水管マンホール蓋。日本三大川まつりのひとつに数えられる「尾張津島天王祭」の [まきわら船]と市の花・藤が描かれていた。右手に『(株)ノリタケカンパニーリミテド 神守工場』が。『日光川』に架かる日光橋を渡る。津島市古川町1丁目の歩道橋下を通過。『名古屋津島線』を左折し、狭い『佐屋路』に入る。直ぐに右折して進むと正面に大きな『常夜灯』が姿を現した。ここが『埋田追分』で、道標と常夜燈、その先に鳥居の土台が残っていた。『道標』「左 さやみち」「右 つしま天王みち」「東 あつた なごや 道」「天和二年戌九月浄入 明和二年酉十月 向島橋詰片町再建之」『常夜燈』、その先に『鳥居の土台』が。右手の『常夜燈』。「牛頭天王」「常夜燈」「津島氏子中」「天保二年卯十月」と。反対側左手の『常夜燈』には「牛頭天王」「常夜燈」「津島氏子中」「明和三年戌」と。「津島街道 埋田追分 埋田町のここには津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜灯(夜どおしあかりをともすとうろう)一対追分(別れ道)をあらわす道標がのこっている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は『佐屋の渡し』への佐屋街道と分れる所で江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代頃までは松並木が続いていた。また熱田から津島までの道を『下街道』とよんでいたが、いまは耕地整理や新しい町づくりで道すじも変わり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚万場(ともに名古屋市)砂子(大治町)、神守の宿(宿場)を経て津島追分から佐屋にいたり佐屋川を船で下って桑名(三重県)へと続き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの『海上七里の渡し船』をきらった人たちに広く利用されていた。徳川三代将軍家光や、明治天皇の通られた跡や記録が街道各地にのこされている」『津島神社(天王様)の一の鳥居』は昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れて台石のみとなっていた。右側の『台石』。こちらは左側の『台石』『台石』のみの鳥居の間を抜けて右、左に曲がりながら『佐屋路』を進む。『名古屋鉄道尾西線』の踏切を渡る。『内佐屋』の交差点を左折する。その先、県道458号の道路脇にあったのが『佐野海道址』。「史跡 佐屋海道址 かつて東海道の脇往還として多くの往来がみられた佐屋路。 往時の栄華を後世に語り継ぐため、昭和五十四年(1979)十一月に碑が建てられました。」『海道』とあるので、この付近まで海が迫っていたのであろう。更に『佐屋路』を南下する。そして愛西市佐屋町に入り交差点脇の駐車場に一時車を駐車させて頂く。駐車場の前の道路の先にあった案内板『愛西市の歴史にふれて散策しよう!』。「史跡 佐屋代官所址佐屋路が名実ともに天下の往来となったのは、3代将軍徳川家光が上洛の折、道中の宿泊に使う「御殿」を佐屋に建てたことからといわれています。佐屋路の隆盛にともない、尾張藩は藩の海東・海西の109村を治める代官所を佐屋に設けました。街道の治安と、三里の渡しを監督する海の関所的な仕事も手がけていたようです。」「佐屋路」『佐野宿』『東海道佐屋路佐屋三里の渡し址』「佐屋路江戸時代、幕府は東海道はじめとする街道を整備するとともに、宿駅制度も整備しました。東海道は宮(熱田)から七里の渡しで桑名へ渡るルートをとりました。七里の渡しは、通行の際支障をきたすことが多く、幕府は佐屋宿を創設し、桑名への三里の渡しでもって渡るようにしました。それに伴い、宮と熱田を結ぶ脇往還佐屋路が整備され、多くの通行人で賑わいました。宮宿から桑名宿への距離は? ・宮宿から海路での桑名宿への距離は、七里。 ・佐屋街道の陸路は佐屋宿まで、六里。桑名宿への海路が三里で、計九里。よって、佐屋街道の陸路+海路は、二里の遠回りとなる。」「佐屋宿その昔、あらいの渡しと呼ばれていました。交通上の要衝であったことから元和年間佐屋奉行が設置され、寛永年間佐屋宿が創設されました。徳川家光の上洛をはじめ、多くの大名、文人らが往来しました。大名らが宿泊する本陣のほか旅籠も建ち並び、多くの商家も営業していました。本陣は岩間権右衛門家と加藤五左衛門家が勤め、加藤家は問屋も兼務しました。陸上交通と水上交通の結節点として、また他国との境界として佐屋宿は重要な位置を占めていたことは、天明元年(1781)代官駐在制採用の際、水野(瀬戸市)・北方(一宮市)とともに佐屋代官所が設置されたことからもうかがえます。」「史跡 東海道佐屋路佐屋三里の渡址佐屋と桑名を結ぶ海路三里の船旅は当時多くの旅人が利用したといわれています。明治の中頃に佐屋川が廃止され、農地転用されるまで大いに賑わいました。」「佐屋驛 渡口その昔は、ここまで佐屋街道を歩きここから舟に乗り、三里の渡しで桑名宿へ行ったと。現在は、道路脇に「佐屋三里之渡址」の石碑のみが残るが、今回は訪問しなかった。」天保年間の規模は、本陣1軒、脇本陣2軒(1軒は非公式)、旅籠31軒、問屋場1箇所。佐屋御殿(尾張藩主の休息所)、船番所、船会所、奉行所、佐屋代官所、が設置されていた。『佐屋宿を通った人々』。徳川家康、吉良上野介、松尾芭蕉、伊能忠敬、シーボルト他の名が。『加藤高明懐恩碑』が交差点の角に。『懐恩碑』。「懐恩碑故郷を遠く離れて暮らし、故郷を懐かしく思うとともに、感謝とお礼の意を込めて、加藤高明伯が揮毫したもの。平成七年十月 柚木の明教寺から移設」「加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明は 万延元年(一八六〇年)正月三日 父 服部重文(佐屋代官所手代)・母 久子の次男として 佐屋で誕生 幼名は総吉 七歳で祖父と共に 名古屋に 移住し十四歳で加藤家を継ぎ高明と改名東京大学卒業後 三菱会社・郵船会社を経て官界に転じ 特命全権駐英大使・外務大臣等を歴任 憲政会総裁に推され 大正十三年(一九二四年)内閣総理大臣に就任 大正十五年一月国会で演説中に倒れ 同月二十八日逝去 享年六十七歳 伯爵正二位大勲位菊花大綬章を授かる由緒あるこの地(生誕地はここより南方約百米)に直筆の碑を柚木から移し建立した」『佐屋代官所址』。『佐屋代官所』案内碑。「佐屋代官所わが佐屋は其の昔慶長二十年四月家康が大坂夏の陣に此処から船出 し大勝した徳川方吉祥の地。藩祖義直もこの事を嘉し寛永十一年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に承応二年船番所を 置くに及んで佐屋は天下に知られるに至った。其のため元禄八年奉行所が、次で天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所 となり、海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄寛永文久と二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。其後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物も其 れを知る人もない。われわれは今その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつ其の事を石に刻し、永く後世に伝え語り継ぐことの 資とする。」四方が囲われた『佐屋舟場道』道標が道路の反対側に。それには、『左 さや舟場道』とあった。 木製の案内板には、「佐屋舟場道舟場への道を示すものである。この道標は、佐屋町故山田秀信氏の屋敷内にあったが同氏の好意により寄附を受け、昭和五十四年此処に建てた。」 とある。東海道佐屋路はこの佐屋宿より舟にて桑名へ渡った。寛永十一年佐屋宿創設より明治五年に至る長い年月であったのだ。その先の植え込み中にある解説板には、尾張名所図会の佐屋駅の図の『きこくの生垣』と『キコク(枳穀)』の説明が書かれていた。「江戸時代このあたりは佐屋宿船番所前で旅籠(近江屋)があった。現在このブロック塀上に見える「きこくの生垣」は尾張藩士小田切春江 によって天保年間に発刊された『尾張名所図会』にも描かれており、当時の姿を今に伝える貴重なものである。 キコク(枳穀) カラタチ の別名。中国原産のミカン科の植物で、揚子江沿岸地域に自生しており、わが国への渡来は今から1000年前といわれる。 果実の香りがよい所から庭木として鑑賞され、また生垣用として利用された。」下の写真は天保十二年(1841)発行の尾張名所図会の佐屋駅の図だが、上の写真の道標の左手にある高い屋敷のあたりに、旅籠の近江屋があった、との説明が。 これも美しい姿のブロック塀。また、ブロック塀の奥に姿を見せていたのが『きこくの生け垣』の名残であろう。現在栽培されている柑橘類の多くは、このカラタチを台木として接木されたものとあり、我が国の 柑橘類の母ともいえる存在なのかも知れないとも。最後に交差点から再び『加藤高明懐恩碑』、『佐屋代官所址』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次名古屋・熱田神宮の先の国道19号線の『金山新橋南』交差点を左折する。ここ『金山新橋南』交差点を左折すると『佐屋街道(さやかいどう)』、『佐屋路(さやじ)』が始まるのであった。実は船が苦手な人向けに『宮宿(七里の渡し)→佐屋宿→桑名宿』というルートも整備されていたと。その陸路というのが『佐屋街道(さやかいどう)』、『佐屋路(さやじ)』と呼ばれた道であり、中には「船酔いする」などの理由で船が苦手な人もいたことから、七里の渡しから続く東海道には水路だけではなく、少々遠回りになるが陸路も用意されていたのだと。ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられたと。その木曽川ほとりに築かれた船着場を『佐屋宿』と言い、宮宿から陸路6里の場所。そして佐渡宿から約3里(約12㎞)下った先が桑名宿だったというワケです。このことから七里の渡しに倣い、別名で『三里の渡し』とも呼ばれていた。宮宿から佐野宿まで陸路6里、船で桑名の船着き場まで3里(三里の渡し)で合計9里。宮宿から桑名の船着き場まで7里、よって2里ほど遠回りだったが難破の危険や船酔いを避けることが出来、また、水上の距離も短かったことから盛んに利用されたとのこと。『ネット』👈リンクで詳しく説明されていましたので、興味のある方はアクセス願います。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B1%8B%E8%A1%97%E9%81%93】『三里の渡し』の昔のルート図。 【http://kenkou-ikka.com/~hutihata/sayasyuku2.htm】交差点角左にあったのが佐屋路と美濃路の分岐を示す『道標』。佐屋街道は、江戸時代初期、東海道の脇街道として開かれたもので、海路の『七里の渡し』を避けた道。道標は、文政四年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通から尾頭橋へ抜ける佐屋街道への分岐点に当たるこの地に建てたもの。戦災に遭い破損したが、その後修理された。道標には、「東 右 なこや 木曽海道」の文字が。因みに他の三面には「西 右 宮海道 左 なこや道」「南 左 さや海道 津しま道」「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」と刻まれているのだと。『佐屋路』・愛知県道115号線を西に向かって走る。津島市方面に向かって進む。東海道新幹線のガードを潜る。中川運河に架かる長良橋手前左手のFamilyMartの前にあったのが『明治天皇御駐蹕之所(めいじてんのうちゅうひつのところのひ)』碑。「駐蹕」とは、天子が行幸の途中で、一時乗り物を停めること。一時、その土地に駐留すること。駐輦(ちゅうれん)と同義であるとのこと。明治天皇も海路ではなく陸路を進んだのであろう。海路のリスク回避が目的であったのだろうか。名古屋市中川区長良町3丁目を進む。前方に関西本線&近鉄名古屋線の高架橋が。そして正面に『庄内川』の堤防が姿を現した。堤防上の『鳥ヶ地名古屋線』を『万場大橋』に向かって進む。正面の高架は『名古屋高速5号万場線』。『万場大橋』を渡った直後に左折し道なりに進むと正面突き当りに塔が見えて来た。突き当り手前の右側にあったのが『覚王院』。『真言宗 医王山 覚王院』。境内入り口の標石は伊藤萬蔵氏が寄付したものであると。正面 ちゝの観音醫王山覺王院右面 大正十五年左面 名古屋市西區塩町 伊藤萬蔵この『伊藤萬蔵』氏の新聞記事をネットから。 【https://ameblo.jp/kakashiyo/entry-12345206018.html】より参道入口の小さな祠の中に鎮座していた地蔵様『本堂』。・真言宗智山派・本尊…木像千手観世音菩薩立像・創建…天正十三年中興(1585)・お乳の出なかった母親が「ここの観音様のお告げにより、境内のちちの木(オオイタビ)の実を食べたらお乳が出るようになった」という言い伝えがあるのだと。扁額には『観世音』と。そして次に隣りにあった『国玉神社・八劔社相殿』を訪ねた。『業社 延喜式 國玉神社』と刻まれた社標と石灯籠。『国玉神社・八劔社相殿』。「創建は古く「尾張志」によれば、尾張大国霊神社より勧請したという。「延喜式神名帳に」国玉神社、「本国神名帳」に従2位国玉明神と記載されている式内社である。明治元年(1868)八剣社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉弊を受ける。同5年近隣8か村の郷社に、同40年より神饌幣帛料の供進指定社となる。なお、拝殿等の屋根は昭和58年改修。祭神 大物主大神、天照大御神、草薙剣御霊、日本武尊。大祭は春5月5日、秋10月7日。当社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた。」『郷社 相殿 八劔社』社標。『手水場』。「国玉神社の御祭神天照皇大神、大物主命、日本武命、草薙御剣神霊」扁額は『国玉神社 八劔社 合殿』であったがピンぼけ。『社務所』。佐屋街道の国玉神社角に立つ『地蔵堂』。そして次に訪れたのが『光圓寺』。ここは愛知県中川区万場2丁目2003番地。門前は万場『佐屋路』。山門脇にある巨大な『石灯籠』があった。巨大な『石灯籠』。この巨大な石灯籠は中村区鬼頭〇〇長寿九五歳記念 死ぬる者に覚悟はいらぬ・・・と刻まれていると。昭和六ニ年建立。『山門』。金字額がかかる山門は、織田信長と斉藤道三が会見した尾北(一宮市)富田村聖徳寺の山門を移築したものであると。扁額は『臥龍山』。『真言宗大谷派 光圓寺』寺標。『山門』にあったのは寺紋・『抱牡丹紋』であろうか?扉格子の透かし彫りも美しかった。『境内』。『本堂』。『本堂』を斜めから。扁額には『如是我聞(にょぜがもん)』と。『如是我聞』とは仏教の経典の冒頭に必ず出てくる言葉で、「このように私は仏から聞いた」という意。転じて、人から聞いたことをそのまま信じて疑わないこと。『本堂』屋根の鬼瓦の龍像。『抱牡丹紋』も。『光圓寺』の『光』の文字も。『鐘楼』。境内の『三重塔』。『三重塔』を正面から。『三重塔』の背後、墓所入口の『蓮如上人巡化』銅像。『蓮如上人御巡化』石碑。境内中央に『切支丹灯籠』。下部には密かに地蔵に似せた聖像が刻まれていた。『私が人生に意味を問うのではない。人生にあなたに問うているのだ VEフランクル。』と『はい、解りました』!!『蓮如 歌碑』 「弥陀の名を聞きうることのあるならば、南無阿弥陀佛とたのめみなひと」。この『扁額』は?『寺務所』。『霊堂』碑。ズームで。『釋常念』の文字や戒名が刻まれていたが。『角文碑』。『境内』。『佐屋路』に戻り、『庄内川』の堤防方向を振り返る。万場宿は,1634(嘉永11)年の『佐屋路(佐屋街道)』開設時から設置されていたと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年2月20日、旧東海道を歩く(関宿~鈴鹿峠~水口宿)の初日の移動日。旅友のSさん邸を6:30に出発し、いつものように一般道を名古屋に向かって進む。ここだけは有料の西湘バイパスを進む。相模川を渡りながら富士山の姿を楽しむ。相模湾は朝の陽光で黄金色に輝く。三浦半島上空からこの日の朝の陽光が。時間は6:50過ぎ。大磯からの松並木越しの富士山。二宮からの二子山。右手に行くと箱根ICから小田原厚木道路方面へ。新早川橋と東海道線を走る電車の姿が。新幹線の下を潜り箱根新道方面に向かう。箱根新道を上って行く。上で出っ張っていたものは何?箱根峠を越え笹原山中バイパスを下ると正面に駿河湾の姿が。正面に三島スカイウォーク姿が垣間見えた。河津桜も満開。錦田一里塚前の松並木が始まる。右手に三嶋大社の石鳥居が。杉材を過積載ぎぎぎり?まで積んで走るトラック。信号待ちでは、この横を避けて停止する。新富士駅近くの紙パ工場の煙突からは白き蒸気が。道の駅 富士 でトイレ休憩。前方に薩埵峠が見えて来た。静岡県掛川市と島田市に跨る標高532mの山・粟ヶ岳(あわがたけ)の斜面には、『茶』の文字が。当初(昭和7年)は松が植えられたが、マツクイムシによる枯損から、昭和58年にヒノキに植え替えられているのだと。小夜の中山トンネル。天竜川を渡る。左手に天竜川橋。浜名バイパスから舞阪灯台を見る。浜名湖に架かる浜名大橋を渡る。浜名バイパス・新居弁天IC手前の海岸。三河港・豊橋市神野新田町シノ割にある大型クレーンには「港湾技術家遠州センター」の文字が。豊川に架かる豊川橋から、愛知県豊川市御津町の「昭和電線ケーブルシステム(株)」の風力発電を。子安弘法大師像。高さ18.78mの東洋一の大きさを誇る、安産、子授かり諸願成就の子安弘法大師像。像の背丈は空海の世寿が62歳であったことにあやかり、62尺(18.7m)、釈杖の長さは竹島の標高に合わせ22m、抱いている子供の丈が5m、耳たぶの大きさ1m、目の長さが1mと言われているのだと。以前訪ねたことがある子安弘法大師像。愛知県蒲郡(がまごおり)市にあるラグーナテンボスの観覧車。高さ65mの4人乗り観覧車。三河湾が一望でき、夜のイルミネーションも華やかと。三河湾に浮かぶ『三河大橋』。『矢作川』を渡る。知立バイパス・国道23号線を名古屋方面に。原っぱの中にポツンと。古墳でもなさそう。国道23号線豊明IC付近を通過。同じ標識案内が3枚並んでいた。『柴田本道3』交差点を通過。あつた蓬莱軒 本店前を通過。そして熱田神宮を右に見て金山方面に向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2020.03.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして右手に『尾崎酒店』。その先にも地蔵院前の街並みが続いていたが、この先は次回にと。三叉路に真言宗御室派の『九関山 宝蔵寺 地蔵院』があった。関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。三叉路に建つ文久2年(1862)の『常夜燈』と『歴史の道』碑。そして左には『停車場道』と刻まれた石柱も。『地蔵院 本堂』。本堂に掛かる『地蔵堂』の扁額。『本堂』の『おびんずる様』。『本堂 内陣』。『本堂』の見事な彫刻をカメラで追う。獅子が牡丹の花の上を生き生きと走っていた。獅子と人間の姿。馬に乗る姿も。象と鳥と人間が。どの様な物語が刻まれているのであろうか。国の重要文化財(建造物)の『愛染堂』。『重要文化財愛染堂』碑。『愛染堂』。『関の地蔵 愛染堂』。国の重要文化財(建造物)の寛文11年(1671)建立の『鐘楼』。『関の地蔵 鐘楼』。鐘楼建立:寛文11年(1671) 同移築:元禄13年(1700) 梵鐘鋳造:寛文11年(1670)。その横に『明治天皇關行在所』碑が。この仏像は?天保11年(1840)の『一休尊像』。一休和尚が東海道を旅していた時、地蔵の開眼供養をしてほしいと村人たちが頼んだところ快く引き受けてくれました。しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ、弥勒はいまだ出でぬ間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。これに怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯(ふんどじ)を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。鹿の像。『地名 鈴鹿の由来』案内板。「六百七十ニ年壬申の乱において、大海人皇子は大友皇子を討つため、吉野を出発され加太を経て関へ向かわれる途中、豪雨と暗夜のため道に迷われ進退に窮せられた。その時鈴をつけた鹿が現れたので神の助けとその鹿に乗られ、山を超へ川を渡り関の里へ無事お着きになり難をのがれた。それ以后このあたり一帯を鈴鹿と呼ぶようになったといわれている。これに因みこの像を造る。」『奪衣婆像』。三途の川のほとり(川を渡った先)に衣領樹(えりょうじゅ)という木があり、その木の下に「奪衣婆」(だつえば)と呼ばれる老婆がいると。老婆は、ようやくのこと川を渡り終えた亡者の濡れた衣を剝ぎ取っては、木の上にいる「懸衣翁」(けんえおう) という老爺に渡す。老爺は受け取った衣を木の枝に掛け、枝の垂れ具合で生前の罪の軽重を判別するのだと。『地蔵院』の脇の出口を出て旧東海道を望む。そして帰路の『関駅』に向かって進む。そして国道1号線の合流地点の手前左にあったのが『街道 おんな唄』石碑。「泊めていいのね こころの宿に 夢のかけらを 想い出を 待ちますわ 待ってます 壊れそうなの 闇の中 胸突き七坂 箱根山 越すに越せない 世間の川が 愛の行く末 とおせんぼ 行こうかな 戻ろうかな 憎さなおます 大井川 掛川かなわぬ 旅衣 坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨の春 負けないわ きっと咲く 花はつぼみよ 関の宿 うす陽もこぼれる 石畳」国道1号線に出る地蔵院口の交差点に、『関地蔵堂ェ二町 明治三十二年七月二十四日』の石標が立っていた。『関宿重要伝統的建造物群保存地区』これより西へ450M 1.800M 町並保存地区地蔵院。国道1号線を関駅方面に進む。日本橋から『423.8km』の表示。右手にあったのが『道の駅・関宿』。『道の駅・関宿』案内標識。正面から。電車の時間もあり立ち寄らず。『関駅前』交差点。関西本線『関駅』に到着。『関町観光案内図』。『東海道 関宿』。関駅舎前には『関宿ふるさと会館』と刻まれた石碑があった。時刻表には朝夕の短い時間を除き、1時間に1本の電車が。『関宿ふるさと会館』の椅子で電車の到着を待つ。『関宿ふるさと会館』はJR関駅を併設しており、列車の待ち合わせに利用できる。売店では関宿の土産販売やコーヒーやぜんざいといった喫茶コーナーもあった。関宿を紹介した案内書も置かれていた。次の『鈴鹿峠超え』のルート案内も。『関宿西追分』から『鈴鹿峠』を超え『土山宿』までのルートが詳しく説明されていた。『鈴鹿峠超え』のルート案内も詳しく。先程見た光景が写真に。駅前の『関駅有料駐車場』は1日300円と。次回はこの駐車場を利用しようと旅友と話をする。三重県内の城の『登城記念 御朱印』案内。それぞれ200円とのこと。桑名名物の『折鶴』。1980年(昭和55年)の関西線関駅舎の写真。美しい紅葉風景と生け花。その横に巨大な柚子?鬼柚子であろうか?『花いっぱい運動 関宿』。亀山行きの一輌ディーゼル車に乗り、亀山駅で乗り換え『加佐登駅』まで戻る。そして帰路は『加佐登駅』から近鉄『平田町駅』までバスを利用。利用したコミュニティバスを見送る。そして前夜に宿泊したホテルに戻り、旅友の愛車に乗り自宅への帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.03.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次関宿・重要伝統的建造物群保存地区の電話BOX。『東海道 関宿』道標。更に関宿の旧東海道を進む。掲示板には『会津屋』の紹介記事が。『まつい呉服店』の店頭には和風傘が展示されていた。『百六里庭』の先に『伊藤本陣跡』があった。「伊藤本陣伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公家、高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は、間口 十一間余、建坪六十九坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。」『伊藤本陣跡』の隣の2階建ての旧家の入り口には俳句が書かれた暖簾が。そして『関宿 関の山車 保存会』の絵も。『伊藤本陣跡』の斜向かいに『橋爪家』があった。「橋爪家同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大坂のこうの池と並び称せられる豪商であった。江戸末期には、芸伎の置屋として栄えた。街道に面して手すり付き二階妻入り建てであるが、これは明治期の改造で、もとは、平入りの屋根であった。」『旅人宿 石垣屋』が右手に。その先にあったのが『玉屋』。玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれ「鶴屋」「会津屋」と並んで、関宿を代表する大旅籠だった。玉屋の開業時期は不明だが、寛政12年(1800)の宿場絵図には代々襲名の理右衛門の名が記されており、既にその当時にはここで旅籠を営んでいたと考えられる。東海道に面した主屋は、慶応元年(1865)築の木造二階建で、外観は関宿に多い二階を漆喰で塗り籠める形式で、江戸期の建物としては特別軒が高く、屋号に因んでの宝珠を形どった虫籠窓が特徴的と言える。入口には大福帳を前にした番頭(蝋人形)が座り、二階には布団を敷き食器を並べた、江戸時代その侭の旅籠風景が再現されており、坪庭もあって奥行きが深い。奥には蔵があり、年4回展示替え(広重の浮世絵など)を行っている由。主屋の他に、離れ・土蔵・納屋の4棟の建物があり、旅籠当時の建築物が一体的に保存されており、貴重である。これは、平成5年3月に旧所有者の村山弘道氏から町が買い取り、平成6年3月に関町有形文化財に指定、平成6年度から8年度迄3ヵ年かけて保存修復工事をして、往時の旅籠の姿を再現したものである。『玉屋』の前の『新聞店』の屋根の七福神。『深川屋 服部家(「関乃戸」菓子店)』。同家は、屋号を深川屋と称し、代々菓子司で、寛永年間初代服部保重によって考案された餅菓子「関の戸」は、関宿の代表的な銘菓として名高い。京都御所より陸奥大掾(むつだいじょう)の名を賜っている。屋根看板は伝統あるもので風雪を刻んでいた。歴史ある和菓子店であるが、実は服部一族、伊賀忍者の服部半蔵の末裔にあたると。ご自宅兼店舗はまさに忍者屋敷を思わせるもので、築233年という造りもさることながら、その2階にはカラクリがあり、ある部屋の畳をめくると1階に下りるための階段がかつてはあったのだと。この屋根看板(庵看板(いおりかんばん)に特徴が。江戸側が「関の戸」で「の」がひらがな。そして京都側が「関能戸」で「能(の)」が漢字。旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと言われているのだと。中町の建物は二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多く、二階壁面を真壁とした新所や木崎の町屋に比べ、意匠的により華やか。また、間口が大きく、主屋の横には庭を設けて高塀を廻すのがみられたが、その主屋や高塀群は意匠的にも質が高く、町屋の細部意匠としては漆喰細工や屋根瓦に見るべきものが多いのであった。 漆喰彫刻の鯉の滝昇り、虎、龍、亀、鶴など、縁起を担ぐものが多く 細工瓦には職業に使う道具を意匠にしたものなどもあった。前方右手に『関郵便局』の白き建物が。関郵便局があるこの場所には天正20年(1592)、徳川家康が休息した「御茶屋御殿」があったと。江戸幕府初期には代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは藩役人の詰所が置かれていたのだと。『関郵便局』前の歴史を感じさせる『書状集箱』・ポストが。「このポストは、文化財保護法により選定された関宿重要伝統的建造物群保存地区の街並みとの調和を保ちつつ、みなさんに利用していただけるようにした特別なポストで、京都大阪に設置され、現在は東京の逓信総合博物館に所蔵されている日本最古のものを模して作成したものです。日本の郵便ポストは明治五年(1871)の郵便創始あたり、東京に十二ヶ所、京都に五ヶ所、大阪に八ヶ所のほか、東海道の各宿駅に六十二ヶ所設置したのがはじまりです。当時のポストは江戸時代の「目安箱」に似た木製の箱で、「書状集め箱」と呼ばれていました。」東海道右手の『関郵便局』前に、復元された『高札場跡』があった。「関宿高札場高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期のおいては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。(復元概要)●復元年代 規模及び高札についての資料が残る、寛政年間から天保年間頃●規模 寛政年間の史料と考えられる「御分間絵図御用宿方明細書上帳関宿」 (服部家文書)に「高サ弐問四尺弐寸長三間弐R五寸、幅壱間弐尺」という 記載かおり、これを基本とした。●形状 関宿の高札場の形状を描いた図面類は残存せす、他の高札場の幕末から明治期の 写真等を参考とした。●高札 掲示する高札については、関宿のものは現存せす、同様の内容を記載した 他の高札を参考とした。 また文言については「東海道宿村大概帳』の記載どおりとしたが、読み易さを 考慮し楷書にとした。●構造補強 高札場裏側に構造上必要な、補強壁を設けた。様々な『高札』が。ズームで。『喫茶たなかや』を振り返ると、ここの屋根にも七福神の大黒天と恵比寿さんの姿が。『大黒天』(左)。『布袋様』(右)。なぜ、こんなにも人がいないのか?右手の大きな瓶には『骨董屋』の文字が。そして昔の貨幣『寛永通宝』が格子戸にぶら下がっていた。『白玉屋 三宅家』。一番右に関宿名物『志ら玉』が。「白玉屋菓子舗、こしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から赤、青、黄色で色どりを添えた餅菓子を「志ら玉」と名付けて関の戸と並んで人気があった。二階は手摺の付いた中二階がある。」食べたいなぁ!!と旅友が。関宿名物『志ら玉』を1個100円で購入。江戸時代より街道の旅人に親しまれてきた関宿名物・『志ら玉』。北海道産小豆で作ったこし餡を上新粉の生地で包んだ素朴な生菓子で、砂糖を少なくして甘さを抑えたあっさりとした味わいであった。『高札場跡』の先右手に、天台真盛宗の『清浄山福蔵寺』があった。福蔵寺は、天正11年(1583)織田信長の三男・信孝の菩提寺として創建された。境内には馬頭観音・不動明王・元三大師を祀る観音堂、薬師如来を祀る薬師堂があり、裏門横には仇討烈女・関の小萬の墓がある。『福蔵寺山門』。『関の小万之墓碑』。「関の小万が 亀山通い 月に雪駄が 二十五足関の小万は若くして父の仇を討った烈女と伝えられる。15歳から風雪にもめげず亀山の道場に通って修業につとめ武を練り、天明2年8月本懐を遂げた。享和3年没(妙証信女)地蔵院前には小万の育った宿屋山田屋の跡が現存する。」『薬師堂』。『地蔵菩薩』。『福蔵寺 本堂』。『本堂』に近寄って。『水子地蔵尊』。『観音堂』を斜めに。『清浄山 福蔵寺のご案内』「当山は、天台宗真盛宗(本山は滋賀県大津市坂本西教寺)に属します。草創は天正11年織田信長卿三男信孝光の菩提寺として創建されました。本堂のご本尊は阿弥陀如来です。本堂左のお堂は観音堂で、馬頭観世音菩薩・不動明王・元三大師をお祀りし、道中の安全と関宿の繁栄を祈願しております。表門横のお堂は薬師堂で、御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に移されたもので、関宿の守護佛として厚く信仰されています。裏門横には、仇討烈女・関の小萬の墓と碑があります。客殿横には英照皇太后(孝明天候后)がご宿泊された書院が現存します。(非公開)」『観音堂』。『馬頭観世音菩薩』の幟が。馬頭観世音菩薩・不動明王・元三大師が祀られた『観音堂内陣』。『織田信孝の供養塔』。『福蔵寺の創建と織田信孝公』「織田信長の三男信孝公は、本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、神戸の住人旧臣大塚俄左エ門長政にメイジこの寺の建立にかかりました。しかし信孝公は羽柴秀吉との後継をめぐる争いに敗れ、天正11年尾張の国野間に於いて自害させられましたので、長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。この墓は信孝公の墓石不祥のため400年忌を迎えた時菩提を弔うため建立したものです。本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています。」『関の小萬碑』とその左に『関の小萬墓』が。関の小萬は、女性の身でありながら亡き母の遺志を継ぎ、父の敵討ちをした仇討烈女として名高い。関地蔵院前にあった旅籠山田屋(現会津屋)の養女となっていた小萬は、亀山藩の道場で武芸を磨き、天明三年(1783)亀山城大手前付近で無事本懐を遂げる事ができたのだと。旧東海道に戻ると左手に『やまと屋』、右手には立派な板塀が続く旧家が。正面には『関地蔵院』の大きな屋根が見えて来た。『いっぷく亭』。関宿散策拠点施設として設置されたもので、解説文付きの「関宿イラストマップ」掲示やトイレ・休憩コーナーがあった。『関宿イラストマップ』。『関宿・重要伝統的建造物群保存地区』の上空からの写真。「関宿まちかど博物館」の札が貼ってあったが。『門音 尾崎家』今は『ANTIQUE 江戸屋』。『川音 尾崎家』。「尾崎家は地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から屋号をとって川音と称した。同家は文久頃の建物と言われる。間口七間半、通り庭をはさんで左手に屋敷、右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『関神社』を後にし、路地を旧東海道に戻ると右手にあったのが『伊藤酒店倉庫』。左手には上部が漆喰の白い壁で覆われた倉のある旧家。旧東海道に戻る手前左側にあった『大井家』。『平入り中二階、前面格子』の造り。「平入(ひらいり)」とは、日本の伝統建築において、建物屋根の「棟(むね)」に対して直角に切り下ろした側を「妻(つま)」、棟と並行する側を「平(ひら)」と言い、平入とは建物の出入口がこの「平」にあるものをさすのであると。関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中ごろの建築で、明治中頃までのものが半数以上を占めるのだと。「大井家同家は、代々玄庵を名乗り、医科であった。明治初期には西洋医学を学び、種痘医として、また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。「本草網目」など医学書の他、江戸末期の往診用の駕籠、医療機器などの一部が遺されている。」旧東海道に突き当たる場所の正面にあったのが関宿を代表する芸妓置店『開雲楼』(左)。凝った意匠の二階手摺に格子窓等昔の面影を残す。『松鶴楼』(右)、今は鮮魚青果物商・「遊快亭」。かつて旅籠では飯盛女と呼ばれる遊女やそのような専門の場があった。 開雲楼と松鶴楼は、その代表的な建物だったのだ。『松鶴楼』は今は鮮魚青果物商・「遊快亭」。「遊快亭」の名は飯盛女の存在を考えると意味深か。誰がいつ付けた店の名前なのであろうか?旧東海道に戻り左手にあったのが『関の山車会館』。市の民俗文化財である「関の山車(やま)」の保存や祭囃子などの伝承活動の拠点として、「関の山車会館」が昨年・2019年7月6日に開館。会館には、主屋、離れ、土蔵、山車収蔵展示棟の4棟の建物があった。館内では夏まつりに曳き出される山車とその付属品を保存・展示するとともに、祭りで演奏されるお囃子などの保存伝承活動の拠点とするため整備したもので、あわせて祭りに関する歴史資料等を展示していると。奥にあった『山車収蔵展示棟』。『せきのやまかいかん』入口。一階は出格子、二階は虫籠(むしこ)窓に土壁で覆った塗籠(ぬりごめ)屋敷の前の出格子窓は明治時代以降に取り付けられたもの。『関の山車会館』案内板。旧家の前には休憩用ベンチが。『しき島肥料』の看板。右手に『百五銀行』があった。『百五銀行』は、町並みに配慮した意匠の建物で、平成9年度の三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞している。なるほど周囲の景色に完全に溶け込んでいた。『百五銀行』の先の十字路を左折すると、JR関西本線の『関駅』があった。『百五銀行』の先、左手にあった『御食事処 山石』の屋根にあった『漆喰彫刻 虎』。『百五銀行』の先の十字路の手前右側の屋根には『細工瓦 虎』。『百五銀行』の先の十字路を右折すると、突当りに浄土真宗西本願寺派の『清静山延命寺』があったが先を急ぐので訪ねなかった。『関宿イラスト案内図』によると『延命寺山門』は旧川北本陣の門を移築したものであると。 【https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_8392.html】より南に行くと『関駅』。最初は「南関駅」があると思ったのであった。『東江戸 ⇔ 西京都』。左角の店の前には案内板が。『関町 関宿』案内板。「関の地名は7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたことに由来します。江戸時代以降は地蔵院を中心に東海道で47番目の宿場町として栄えました。宿場の西端は大和街道との、東端は伊勢別街道との分岐点で、豊かな自然環境の中、古くから交通上の重要な地でした。街道筋には今日でも200棟以上の伝統的な家々が建ち並び、かっての宿場町の様子を知ることができます。」『東海道 道標』。更に関宿・重要伝統的建造物群保存地区の光景を楽しみながら進む。やや早足の自分が、いつの間にか自ずとゆっくりになっていると気づいたのであった。人の姿がない、二人占めの異様な?空間が続いたのであった。町家の通りに面した右手旧家の柱に付けられた直径5㎝程の丸い金具。人を乗せたり荷物を運んだりした馬の手綱をかけるためのもので、『馬つなぎぎの環金具』と呼ばれているのだと。この環金具は、柱の中ほど、大人で言えばヘソの高さ位の位置に付けられていた。関宿の町家では、同じような輪金具が土台や柱の根本などの低い位置にも付けられていることも。これも使用法としては同じなのだが、繋がれた動物が馬ではなく牛だったと。そのほうが、牛や馬がおとなしく待っていると。つまり、関宿では馬は柱の中ほどの高い位置で、牛は柱の根本や土台など低い位置でつないだという訳。そうなると、低い位置に付けられた環金具は『牛繋ぎの環金具』と呼んでいたのであろうか。「環金具に 手綱つながれ 馬や牛」関宿かるた。更に関宿を進む。『延命寺』を出た十字路から右手一本目の細い路地の入口に、民家の壁に貼られた小さな『瑞光寺』の木札があった。この先に入って行くと突当りに曹洞宗の『河上山瑞光寺』が。「権現柿」の文字も色褪せていたが確認できたのであった。『瑞光寺山門』と扁額『河上山』。重厚な『山門』の扉。『鐘楼』。『観音堂』。『観音堂』に掛かる『観?自在』の扁額。嘉永2年(1849)の『旧観音堂鬼瓦』。境内からの『本堂』。『本堂』前右側にあった『権現柿(ごんげんがき)』。「権現柿瑞光寺中興開山豊屋永隆和尚は、三河国(現愛知県)宝飯郡に生まれ、幼少のころ徳川家康と親交があった。永隆の弟子隆眞が、元和元年(1615)に記録した「開山和尚伝」によると、家康は上洛の際当寺永隆和尚を訪ね、庭先の柿を賞味したことから、後世、この柿を「権現柿」と呼ぶようになった。瑞光寺は、応永4年(1371)の創立と言われ、小野川の上流にあったが、兵火により焼失した。その後、永禄~天正年中(1558-1591)に、当時の亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として現在地に移し再興したと言われている。」『本堂』。瑞光寺は、応安4年(1371)の創建と云われ、兵火により焼失したのち、永禄~天正年中(1558-1591)に亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として再興したという。『本堂』に掛かる『瑞光禅寺』の扁額。しだれ桜であろうか。その先に『鐘楼』が。『瑞光寺』を出ると、直ぐ左手に『関まちなみ資料館』があった。この資料館は、江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつであり、亀山市関町の文化財・歴史資料の展示するほか、関宿の町並みの移り変わりを写真展示していると。『町屋の細部詳細』。「関宿の町屋には、庇下の幕板、軒の持ち送りの操形、二階の虫籠窓や漆喰細工、起り屋根、格子建貝など、細部の意匠に工夫されたものが多くあります.特に.漆喰細工や瓦細工は.子孫繁栄・家運長久などを願って職人が技をこらして作ったものです。こうした様々な細部の意匠は、多くの人々が行き交った宿場町の町屋にふさわしいものといえます。」『関宿まちなみ資料館』の斜向かいに『鶴屋脇本陣跡』があった。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣とも呼ばれていた。二階壁面に千鳥破風を乗せた派手ではあるが美しい意匠であった。『鶴屋』は『玉屋』、『会津屋』と共に関を代表する旅籠の一つ。『鶴屋脇本陣跡』の隣に『問屋場跡』があり、『山車庫』が建っていた。「関の山」 の言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あったのだと。互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。現在はわずか4基の山車が4箇所に残っているのだと。『東海道関宿 問屋場跡』。『中町三番町山車(やま)』案内板。「関の山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)から伝わるお祭りです。最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になりました。現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭りは毎年七月上旬の土・日曜日に開催されています。中町は関宿の中央部で、江戸時代には街道沿いに最も西の一番町から順に六番町まで、また、大裏町(北裏)、南裏をあわせて八基の山車がありました。中町三番町山車は、白木造りで、天場高欄下に龍の彫刻が施されていて目を引きますが、全体は質素なつくりになっています。電線が巡行の支障になることから、最上層にあたる天障子が撤去されていましたが、平成十四年の大修理の際、これを復元して往時の姿に戻しました。また、山車の周囲を飾る紅提灯には、三番町の「三」の文字を図案化して用いています。見送り幕には、「昇龍・降龍」の図柄で、嘉永年間(1848~1853)に製作されたと伝えられています。」左側に『岩木屋 吉澤家』。「同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。明治十七年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。」更に『関宿』の旧東海道を進む。右手に『川北本陣跡』碑があったが、昔の建物は何も無かった。『岩田商店』。川北本陣跡の斜向かいに『百六里庭・眺関亭(ちょうかんてい)』が。江戸から106里余にある処から付けられた小公園で、通りに面した「眺関亭」の2階からは宿場の家並みが一望でき、街道で見るそれとはまた異なった感動があったのであった。『百六里庭』と書かれた木札。『旧東海道 四十七番目 関宿』案内地図。『百六里庭』の中庭に入る。中庭には井戸や、庭の中央には礎石が残されていた。「百六里庭この「百六里庭」は、住民参加によるポケットパーク・デザインワークショップによるデザイン案をもとに造った庭園です。舗装の中に点在する石は、埋蔵文化財調査において発見された、昔の町家の「礎石」です。また、井戸も既存の位置に復元したものです。」これが『西追分』方向の絶景。こちらは『東追分』方向の絶景。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次いよいよ『関宿(せきしゅく、せきじゅく)』の大看板に迎えられ、この日の最終目的地の宿場(旧街道)へと入る。看板の後ろは、小野ポケットパークになっており、鈴鹿山脈案内・関宿総合観光案内図が建っていた。『東海道五十三次 関宿 重要伝統的建造物群保存地区』と書かれた大きな看板。関宿は、東海道五十三次の47番目の宿場である。現在は三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)。 古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。 江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。 古い町並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。『鈴鹿山脈案内板』。亀山ライオンズクラブ 45周年記念事業 2011。左から観音山 ・ 関富士 ・ 羽黒山 ・ 明星ヶ岳宗長日記などが刻まれていた。「羽黒山のふもとにある国史跡正法寺 鷲山正法寺とて山在あり厳たかく苔ふかく松杉いく村ともなく 凡 寺のさま高尾山 神護寺にも 似たり」「関富士が女山なら 羽黒はをとこ 鈴鹿大風を受けて立つ」「安政の昔より 観音山に鎮まる半眼微笑の佛たち 三十三体石佛群」『関宿総合観光案内図』。関宿入口の旧東海道は坂道になっていた。『関の小萬のもたれ松』がどこにあるのだろうかと。「関の小萬のもたれ松江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。 小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。この場所には、当寺亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから、「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。 関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足 (鈴鹿馬子唄)」『小萬の碑』。これは九州久留米藩士の妻が夫の仇を討つために、関宿に留まるが、女子を出産後病死する。その子供は成長すると亀山城下で武術を習得して、無事に仇を討ったと。亀山に通う時に若者の戯れを避けるために、松に身をもたれ隠したと言い伝えられていると。しかし、『小萬の碑』の前の松は幹の根元から『切られていた』のであった。そして関宿の旧東海道を進んで行く。『汚水マンホール蓋』。旧関町のキャラクター「アスレ」をえがいた蓋。「アスレ」の名前の由来は「ア(明るく)ス(住みよい)レ(歴史の街)」で「アスレ」だと。先に進んで行くと変則十字路の左角に『東の追分』そして『関の一里塚跡』があった。東の追分は東の入口で東海道と伊勢別街道の分岐点です。ここには大きな鳥居があり、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されて来るのだと。関宿の入り口に立つこの大鳥居は東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に伊勢神宮に向かって遙拝するためのものとのことで、我々も伊勢神宮には立ち寄れなかったので伊勢神宮に向かって遥拝をしたのであった。『東の追分』案内板。「東の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。 古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ (東海道宿村大概帳) 鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60km)と刻まれています。」『元文5年(1740)の常夜燈』竿石に「大阪津国屋重右衛門、江戸嶋屋佐右衛門」と刻まれている。『一里塚址碑』残念ながら、塚の姿はなかった。『関宿木崎の町並み』一里塚跡の先から鈴鹿峠に向かって、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒ほど約2kmにわたって続いていた。旧東海道の両側に連子格子の『木崎』の街並み・建物が続く。さすが重要建造物保存地区に指定されるだけのことは有ると納得。人や車の姿もなくひっそりと。時間は14:16過ぎ。旧家の2階には『虫籠窓』が。連子格子の旧家が更に続く。『関宿のイラスト案内図』には、弥次さん、喜多さんの姿が。関宿は、イラスト案内図で見ると、東の追分から西の追分まで、大きく「木崎の町並み」「中町の町並み」「新所の町並み」で構成されており、その中心「中町」に宿機能を果たす諸施設が集中していたようだ。道は、前方(京側)に向かって僅かな勾配ながら登り道になっている感じだ。道はJR関西本線が一番左側で、その右に国道一号線、そして今我々が歩いている旧東海道(関宿の町並み)という位置関係にある。『関宿の町屋の特徴』「関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中頃の建築で、明治時代中頃までのものが半数以上をしめます。平入の二階建が一般的ですが、二階前面を土壁で覆った塗寵のものが目を引きます。」『重要伝統的建造物群保存地区』の風景を楽しみながら進む。関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に総戸数が632戸、人口は約2000人、本陣が2軒、脇本陣2軒、旅籠が42軒とあり、かなり大きな宿場でした。今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観なのであったが・・・。エアコンの室外機、消火栓も連子格子等で目立たぬようにと。関宿では貴重な建物の保全にはかなり力を入れており、街道から10m入った部分まで建物を勝手に手直しすることは禁止されていると。例えば、家の戸に敷居すべりを貼ることも禁止されているのだと。エアコンは木製のカバーで覆われていた。『いっぷく亭 木崎』。一面『連子格子(れんじこうし)』の旧家。『連子格子』とは、『連子子(れんじこ)』という細い材を、縦あるいは横に一定の間隔で並べたもの。『東海道のおひなさま 亀山宿・関宿』が2/15~3/7に行われると。左手の旧家には『出格子と幕板』が。庇の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る霧除け。座敷の前の出格子窓は.明治時代以降に取り付けらたものであると。ここのエアコンの室外機は木のカバーはなしで。『宝林寺 山門』。『真宗高田派 法流山 宝林寺』の『本堂』旧東海道に戻る。この関宿の旧家の内、旧家で今も生活をされている、店を出している割合はどの程度なのであろうか。そして、昨今の商業環境として、沿道型大型商業店舗やイーコマース等が拮抗していることを踏まえると、旧宿場町にある小規模商店等がその営業で苦戦していることが用意に想像できる。これら商店等の土地・建物を現代の都市の中でどのように活用していくかが、ASAPの課題であることを、感じながら歩いて行ったのであった。道路にも案内板が埋め込まれていた。弘善寺まで60mと。『不動尊弘善寺』と刻まれた道標。曹洞宗の『無量寿山弘善寺』の『山門』。扁額には『無量寿山』と。本堂への参道。両側には『南無不動明王』のピンクの幟が。本堂。本堂に掛かる『弘善禅寺』の扁額。境内には菜の花が。左手に『浅原家』があった。『浅原家』は屋号を江戸屋と称し、米屋材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子の明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり、江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったことから、それ以前の建築年代と推察される。そして『ばったりと幕板』が上げ下げできる棚(ばったり)が店の前に取り付けられていた。商品を並べたり、通りを通る人が座ったりすることが出来ると。庇の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る霧除けとのこと。浅原家の直ぐ右手に『御馳走場跡』があった。ここは関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり、見送ったりした場所で、享保19年(1734)に造られた。関宿には4カ所の御馳走場があったと。『御馳走場』道標。関宿には四ヶ所の『御馳走場』があったと。「御馳走場関の街並みは、安土桃山時代の天正11年(1588)関盛信によって木崎、新所間に中町が建設されたときに基礎ができました。その後徳川幕府により宿駅が定められてからは、東海道五十三次で47番目の宿場として繁栄しました。中心部の中町には宿場の中心的施設が集中し、比較的規模の大きい派手なデザインの町屋が 残っています。ここは御馳走場と呼ばれ、身分の高い武家や 公家に対して宿役人が出迎えや見送りの儀式を行ったところです。また、関神社(旧熊野権現)の参道入口でもあります。」(御馳走場の現地の案内板が、かすれて読めなかったため、ネットで調べました。)「関宿かるた うち揃い 殿様迎える 御馳走場」。『手づくり郷土賞』石板。路面の道標に従い、御馳走場跡の筋を北向きに路地に入って行く。突当りにあったのが『関神社』の『一の鳥居』。『関神社について』案内板。「御座地 三重県鈴鹿郡関町大字木崎六七五神紋 五七の桐祗祭神 天照大御神 伊邪那美命 天太玉命 天手力男命 大山祇神 火之伽具土命 菅原遭真 木花佐久夜比売命 倭比売命 生井神 石凝蛯命 昧内宿禰 金山比古命 応神天皇 天兒屋根命 月夜見命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理比売命 栄井神 市寸嶋比売命 大己貴命 白山比売命 建速須佐之男命 武内宿禰 保食神 大山咋神 宇伽之御魂命 天宇受売命 天忍穂耳命 天穂日命 多岐津比売命祭祀 例祭 七月十六日建造物 本殿(神明造)拝殿 社務所 手水舎 倉庫氏子 坂下、加太、白木一色、鷲山、萩原、福徳を除く関町全域由緒・沿革 明冶五年頃、この神社は熊野皇大神社と呼ばれていた。 昔関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、 境内の梛(ナギ)の木は、それに縁があるものと思われる。 江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれた。 天和七年{一六二一)修造、その後寛永十四年(一六三七)更に元文四年(一七三九) にも大修理が行われた。 又、明冶時代まで新所にも、笛吹大神社があり江戸期、笛吹大明神と呼ばれ、 もと鈴鹿山麓の総社として加行山に鎮座されていたか、文明十一年(一四七九) 各郷が分難して新所村のみの氏神となった。 その他古厩に大井神社、久我に白石神社、宇佐八幡官等周辺に小桐が多数あったが、 明冶四十ニ年七月二十三日に合祀され、同年九月関神社と改称された。 昭和二十七年十ニ月一日『宗教法人』関神社となった。 夏まつり 毎年七月二十日すぎの土・日曜日に、神輿渡御・山車曳きが行われる。」『関神社 拝殿』。昔、関氏の祖・実忠が紀伊国熊野坐神社勧請したものと伝えられ、境内のナギの木は、それに縁があるものと言われる。江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれ、その後、周辺の神社を合祀し、明治42年9月に関神社と改称された。拝殿に掛かる『関神社』の扁額。『関神社』を後にし、旧東海道に戻る途中左側にあったのが『木崎町 山車庫』。「木崎町山車「関の曳山」は.旧東海道関宿に江戸時代の.元禄年間(一六八八~一七〇三)から伝わるお祭りです。最盛期には一六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる『関の山』という言葉の語源になりました。現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車か保存されており、祭りは毎年七月下旬の土・日曜日に開催されています。木崎町は関宿の東側の地域で、江戸時代には、神事講・宮講のニ基の山車があり、各町の山車を宮の前(関神社)へ曳き込む際の先違を交互につとめていましたか、明治時代に二基とも廃止され、現在の木崎町山車にまとめられました。山車は滋賀県水口町から購人したものと伝えられています。木崎町山車は.現存する四基の中で最も規模が大きく.四つの御所車の上に囃手が座る囃場があり、その上に天場か乗る二層露天式といわれる構造形式です。山車前部には、参加する町内各組の名前が書き込まれた提灯が並べられ、山車の周囲を飾る紅提灯には「五七の桐」の図柄が用いられています。見巡り幕は、風景をあしらったものと、「がま仙人」の図柄のニ穐類かあり、『がま仙人』の見送り幕を用いると雨が降ると伝えられています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.16
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『椿ライン』・県道75号線を箱根・大観山に向かって進むと左手前方に球体が二つ。『東京航空局 箱根航空路監視レーダー(ARSR)局』。ルート上の航空機の位置を探知し、航空機の誘導及び航空機相互間の間隔設定等レーダーを用いた航空路管制業務に使用していると。道路右側にあったのが『史跡 土肥の大椙跡』碑。「治承四年(一一八〇年)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝主従地元豪族土肥実平一族に僅かに七騎、この辺りの大杉の伏木の空洞に隠れた所と伝えられる。平家方・大庭景親の命により梶原平三景時は、伏木の中をうかがい、頼朝と目が合ったが、助けようと決意し、蜘蛛の糸を鎧に付けて出て来て、誰もいないと他の者の探索を許さなかった。後に、景時は頼朝の家来になったという。世に言う「土肥大杉の一件」まさに歴史の転機鎌倉幕府発祥の起源である。大正六年大暴風雨で倒れるまで、大朽穴のある大杉があり、頼朝主従が隠れたと伝えられていた。」実際の大杉跡は、この石碑から数百メートル山道を入った場所であるらしい。現地まで歩いてゆくことは、残念ながら断念。そして大観山に到着すると、駐車場前の展望台に雪を頂く富士山の絶景が迎えてくれた。芦ノ湖の先に富士山の勇姿が。じわじわとズームで富士山に迫って行く。富士山の裾野にはわずかに雲が。富士山の中腹にぽっかり開いた『宝永火口』。江戸時代の宝永4年(1707年)に起きた宝永大噴火の火口。その上には、ジグザグの富士宮ルートの登山道も確認できた。山頂付近。これが我がカメラの限界、やはりここまで来ると三脚が必要。右手には『箱根 駒ヶ岳ロープウェー 駒ヶ岳頂上駅』が見えた。『日本景勝百選地 箱根大観山 標高1,011M』。『箱根ジオパーク』案内板。『箱根火山の成り立ちを風景から読み取ろう』「大観山のダイナミックな風景からは、箱根火山の成り立ちを学ぶことができます。 芦ノ湖の背後に連なる三国山などの山々は、箱根火山の活動のはじめの頃に活動した火山です。 ①・・・約40~23万年前の間に、金時山や明神ヶ岳など外輪山と呼ばれる成層火山群が 形成されました。 ②・・・約23~13万年前には、火山の噴出物が地面を這うように流れる火砕流を伴う大きな 噴火が起こり、箱根の山の中央部が陥没してカルデラがつくられました。目の前に 広がる風景で外輪山に囲まれた場所が、カルデラの内側です。 ③・・・約13~8万年前にかけてカルデラの中に大量の溶岩が噴出し、形成されたのが屏風山や 浅間山などの中央火口丘のはじめの活動でできた火山(前期中央火口丘)です。 ④・・・約8~4万年前には、再び火砕流を噴出する激しい噴火が起こりました。 ⑤・・・約4万年前以降から現在にかけて、カルデラの中での溶岩の噴出で形成されたのが 駒ヶ岳や二子山などの中央火口丘のうち後の活動でできた火山(後期中央火口丘)です。大観山では、この箱根火山の形成モデルに出てくる外輪山と中央火口丘の全ての山々を観察することができ、箱根火山がどのようにできたのか観察することができます。」『箱根火山の形成モデル』案内図。スキー場『フジヤマ スノーリゾート Yeti(イエティ)』をズームで。再び絶景をカメラに残し、椿ラインで大観山を下り芦ノ湖方面に。「箱根関所南」を右折し国道号線に出る。ここは箱根駅伝の往路のラストスパート、復路のスタートスパートの場所。左手の『箱根関所』を車窓から。『旧東海道を歩く』👈リンク でここをスタートし箱根の山を越えて三島まで歩いたのは2019年1月4日であった。『旧東海道 箱根宿の杉並木』を通過すると前方に『箱根神社 第一鳥居』が姿を現す。国道1号線を進見しばらく進み県道732号線に入り進むと左手に『お玉ヶ池』碑が見えた。江戸で奉公していたお玉が故郷へ逃げ帰ろうとし、関所破りが見つかり処刑され、哀れんだ村人たちが近くのこの池(なずなが池)を『お玉ヶ池』と呼ぶようになったと。左手に『甘酒茶屋』。畑宿にある『箱根旧街道一里塚 江戸より二十三里』に立ち寄る。箱根町の中では、湯本茶屋、畑宿、箱根の3か所にあった一里塚の中で、唯一その形態をとどめるもの。標識樹として、塚の頂上に、畑宿から見て右側の塚には樅(もみ)の木を、左側の塚には槻(けやき)の木が植えられている。『そば処桔梗屋』に立ち寄る。客は我々だけ。囲炉裏と座敷があり、落ち着いた店内で、ゆっくり蕎麦を楽しむことができたのであったが、客が少なくて心配なのであった。 私はとろろ蕎麦を楽しむ。店の脇には『ミツマタ』の花が満開。「ミツマタはなかなか趣に富んだ春の花木です。新葉が芽吹く前の枝先に花だけが開花する姿は、冬が終わり待ちわびた春がきたことを喜んでいるようにも見えます。うつむくように下を向いて咲く花には芳香があり、小さな花が集まって半球形をつくっています。この小さな花には花弁はなく、花弁のように見えるのは筒状の萼の先端が4つに裂けて反り返ったものです。枝は3つに分枝し、これが「ミツマタ」の名前の由来となっています。強い繊維質の樹皮は、強度の高い良質の紙の原料として有名で、紙幣などにも使われています。」とのネット情報。そして旧東海道を車で下ると、箱根湯本の早川に架かる『三枚橋』に出た。折しも小田急線ロマンスカーが箱根湯本駅に滑り込んでいた。そして西湘バイパスを利用して茅ヶ崎に向かったのであった。15:30前にSさん宅に到着し、自分の車に乗り換え帰宅の途に。途中、荏原製作所(株)藤沢事業所前の通りは白モクレンの並木が開花を始めていた。信号で停止した際に、ズームで。そして16時前に、この日の『石橋山古戦場』➡『根府川おかめ桜』➡『しとどの窟』➡『大観山からの富士山』の観光を思いっきり楽しみ、帰宅したのであった。Sさん、運転ご苦労さま、ありがとうございました。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.03.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道を西に進み、ここを左に進み関西本線の跨線橋に向かう。この跨線橋を渡って関宿方面に向かう。跨線橋上から関西本線、県道565号線を見る。跨線橋を下って行くと、前方に関バイパスの高架橋が見えた。左手に『鈴鹿川』を見ながら歩く。道路脇には桜並木が。ここは『太岡寺畷(たいこうじなわて)』と呼ばれていると。『太岡寺畷のいわれ』案内板。「畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。 太岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされます。 松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹透し」と詠んでいます。 この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地であるとの認識がありました。 かつては、「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い松(待つ)ばかり」(『亀山地方郷土誌』)と謡われたほどの松並木で、 大田南畝(蜀山人)が享和元年(一八〇一)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり此間十八町にて太岡寺縄手といふ」とあります。 なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられます。」『太岡寺畷における桜の名所づくり』案内板。左手に鈴鹿川に架かる橋が、橋の名は『神辺大橋』。『亀山市立神辺小学校』が右手に。そして名阪国道、東名阪自動車道の高架の橋脚側面には、三重県の宿場町の東海道五十三次浮世絵があった。掲げられていたのは、広重の、桑名宿・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・阪之下(坂下)の浮世絵。進行方向右手前から。『東海道五十三次と歌川広重』「慶長六年(一六〇一)徳川家康は「御伝馬之定」を制定し東海道沿道の集落五十三ヵ所を宿駅に指定した。以後、東海道は江戸と京を結ぶ最も重要な街道として、上り下りの大名行列や庶民にいたるまで、数多くの旅人が往来した。江戸後半には一般の人々の旅行も増大し、それにつれて各宿場の名所や行程などを記した名所絵図や道中記などか次々に刊行された。これらの需要もあって、浮世絵師たちも治道の風景を画題として描くようになった。その風景画の中で最も著名なものが、初代歌川広重(一七九七~一八五八)の「保永堂版東海道五十三次」で、五十三の宿駅に日本橋と京を加えた五十五枚から構成され、四季折々の宿駅風景や人々の姿を猫いている。天保四年(一八三三)から頃次出版されたこのシリーズは爆発的な人気を得て広重の名声は一挙に高まり。以後他の絵師たちの描く東海道の風豪画は、少なからず保水堂版の影響を受りているほどである。また、広重は行書版、隷書版、堅絵などの東海道物や、木曽街道五十九次、名所江戸百景などの名作を次々と発表して、風景画家の第一人者となるとともに、花鳥画や美人画などにも独自の境地を開き、その地位を不動のものとした。なお、この作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口』。「宮宿から桑名宿への海上七里の距離を、船で渡ったためこの「七里渡口」の名前がある。2~3時間の船旅であった。2隻の渡し船がちょうど到着したところであろうか。画中海に多き突き出た城が桑名城である。」『『歌川広重 東海道五拾三次之内 四日市 三重川』「画中右では三重川に架かった何とも粗末な橋を、風に吹き飛ばされないように渡っている姿が何とも危うい。画中左では旅人が飛ばされた笠をあわてて追いかけているのも、その危うさを強める。広重の絵では珍しく風の動きを見せた図でもある。北斎『冨嶽三十六景』の「駿州江尻」との比較も一興。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 石薬師 石薬師寺』。「遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな形と色彩が何とも美しい名作。その山のふもとにあるのが石薬師寺。田圃の畔道をつきあたると石薬師寺の山門がある。その右手には宿場が広がる。田んぼでは稲刈りが終わっているので、季節は晩秋から初冬であろうか。叙情豊かな風景である。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 庄野 白雨』。「『東海道五拾三次之内』の中で、最も有名な一枚。白雨とは夕立のこと。画面左から大胆に描かれた勾配のある坂。画中右手の家並みがこの坂の小高さを思わせる。その坂を必死に登る駕籠かきと転げ堕ちるように駆け下る旅人と農夫。そこに夕立がこの坂と直角に交差するように降り始める。よく見ると駆け下りる旅人の傘には「竹のうち」「五十三次」としっかりと宣伝されているのも面白い。この「庄野」は「蒲原」と並ぶ傑作とされる。「蒲原」が深々と降る雪をテーマにしたのに対して「庄野」では激しい夕立が描かれる。画中の人の動きもあり、静と動の対比がある。季節にも冬と夏の対比がある。この版の摺りもとても良く、雨雲を感じさせる空のぼかし、雨しぶきに煙る竹林のシルエットの濃淡、白雨の言葉のとおりの夕立の繊細な色合いなど、いずれをとっても最良の版といえる。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』。「広重の大胆な構図が光る名作。画面右上から左下に極端なまでに描かれた勾配に画中のほとんどの事物が納まってしまいそうだ。雪の朝、朝焼けに染まり始める空の描写と白と黒のモノトーンで描かれた銀世界の雪景色。その中にわずかに見える大名行列の色彩が効果的な印象を作り出している。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 関 本陣早立』。「鈴鹿の関は逢坂の関、不破の関とならんで三関といわれた。参勤交代の大名が宿場で宿泊するところを本陣という。宿場の有力者の家がその本陣にあてられた。この図は、その本陣を早朝に出発する様子を描いている。定紋をつけた陣幕が張り巡らされているが、実はこの紋は、広重の実家の田中家の家紋が使われている。また門の前の足軽が持つ提灯の紋も広重の「ヒロ」をデザインしたもの。ちょっと不思議な空気の本陣になっている。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 坂之下 筆捨嶺 』。「画中左の奇抜な形をした山は、岩根山といって奇岩や松、滝など見所の多い山であった。室町時代に狩野元信がこの山を描こうとして描ききれず筆を捨てたという、いわれから筆捨山と呼ばれていた。広重は画面に右に茶店と見物にいそしむ旅人を描き、この景勝地の描写に挑んでいる。遠景に青いシルエットで描かれた山の美しさが、この筆捨山の奇抜さをひときわ目立たせている。」そして『鈴鹿川』と鈴鹿の山々。上は『東名阪自動車道 上下線(左)と名阪国道の関バイパス連絡道路』の美しいカーブ。『東名阪自動車道』の下の小さな橋には『太岡寺畷橋』と刻まれていた。鈴鹿川沿いを更に進む。正面に鈴鹿山脈。農村集落排水処理場。河口から26kmの『鈴鹿川』。鈴鹿山脈の景色を楽しみながら進む。関西本線の『小野踏切』が正面に。『小野踏切』を渡る。左が『関駅』方面。単線で電化されていなかった。『小野川橋東詰』交差点で国道1号線に合流し、ここを左折した。日本橋から『422.4km』ここで国道1号線を進むと、右に入る細い道があり、ここが関宿入口なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.15
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『きのこ苑・お山のたいしょう』を後にし、富士山の絶景を見に箱根・大観山に向かうことを決定し、カーナビをセット。ところがカーナビは小田原に戻る様にとの案内が。Sさんは、湯河原経由で行くことを決断し更に南に進む。県道740号線に架かる『白糸橋』の先で車を止める。前方下方に『白糸川橋梁』そして新幹線の線路が見えた。折しも、JR東海道線が橋を渡っていた。新幹線も通過したがシャッターチャンスを逃してしまった。ここに新幹線の姿があるはずであったが・・・。遠く房総半島の山々の姿も見えた。こちらは三浦半島。それぞれズームで。国道135号線・真鶴道路に出て海岸沿いを湯河原駅方面に向かう。左に『大島』、右は熱海沖の『初島』。そして湯河原駅に到着。駅前ロータリーに車を一時停車させ駅前の像を撮影。『土肥實平(どいさねひら)公並夫人像』と『土肥氏館阯』碑。JR湯河原駅のシンボル的存在である土肥実平夫妻像。土肥実平は、相模国足下(あしのしも)郡土肥郷(現在の神奈川県湯河原、真鶴町)の豪族で、土肥次郎とよばれ、平安末から鎌倉初期に活躍した武将。 1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆で挙兵すると嫡男の遠平とともに中村一族を率いて参画した。以後、富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐、宇治川の戦、源義仲討伐などに従軍し、1184年(寿永3年)2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦い、三草山の戦い後、吉備三国(備前、備中、備後)の守護職に任ぜられた。戦国に活躍した武家・小早川氏の祖とされている。『土肥實平公並夫人像』の前には『土肥氏館阯』碑があった。『乾坤一擲(けんこんいってき)』の文字が。「源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)八月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である 茲に挙兵七百八十年を記念して 土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。」乾坤一擲(けんこんいってき)とは、のるかそるかの大勝負をすること。『土肥實平公並夫人像』。見つめ合っている姿であると。「由来土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。」『四季彩のまち さがみの小京都 ゆがわら』案内板。「私たちのまち湯河原は、海と山と川に恵まれた自然環境や豊かな温泉、歴史文化の香り漂うまち並みなど、多彩な表情を持つ美しいふるさとです。京都で生まれた日本画壇の大家竹内栖鳳は、湯河原をこよなく愛し、この地で終焉を迎えました。その作品を展示する、「湯河原ゆかりの美術館」(現町立湯河原美術館)開設や、京都仙洞御所の州浜に趣のある岸辺を造り上げている吉浜の一升石(石一升を米一升と交換したと伝えられる)などが契機となり、平成十一年六月、本町は、全国京都会議において「小京都」に認定されました。これを記念し、ここに、御所にちなんだ庭園を整備いたしました。千二百年の歴史を誇る風雅な伝統が息づく京都に、いつの日か近づけるよう、これからも町民一同町独自の文化の掘り起こしと新たな創造に努力してまいります。」そして『湯河原駅前』を再出発する。新幹線の高架を潜る。椿ラインにて箱根・大観山方面に向かう。途中『椿台』に車を止めた。ここは県道76号線(椿ライン)と白銀林道との分岐。『かながわの景勝50選』でもあると。遠く初島、大島の姿を再び。駐車場脇に石碑があった。昭和17年建立の『土肥郷椙山鵐ノ窟之碑』「源頼朝の志を天下に為せるは箱根外輪山南部の複雑なる嶺谷と土肥氏並源氏の爲に隠したる地と人とに依ること大なり。○たる幕山鍛冶屋川の深渓遊子この窟前に立ちて治承四年八月頼朝陰潜九死一生の故事を想起せすや ○○昭和十年二月此の地人士二十余名と共に寒雨を冐し雑木○○を分ち之を踏査して感慨深きものあり仍って文を作ると云○」『しとどの窟(いわや)』を見に行くこととする。『しとどの窟(いわや) 徒歩20分➡』案内板治承4年(1180)8月23日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、郷土の英雄・土肥実平に導かれて、椙山(湯河原町の山中)に隠れ、この『しとどの窟』へ隠れた。この付近は、地域信仰の霊地で、窟に至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が安置されている。」車に戻り白銀林道を車で進むとすぐ先で、城山隧道を潜ると、右手は地蔵信仰の霊地で、広場に石塔・燈籠・弘法大師石仏群があり、ここが『しとどの窟』への入口になっていた。そしてここより先はゲートが閉鎖され通行禁止となっていた。『しとどの窟』とは「源頼朝がこの岩屋に隠れようとしたとき、鵐(しとど)と呼ばれる鳥が舞い出た」あるいは、「大庭・伊東らの追手が岩屋を覗いたときに鵐が飛び出してきて人がいないと勘違いさせた」という言い伝えから「鵐ノ窟(しとどのいわや)」と呼ばれているのだと。城山隧道抜けた所に広場があり、常夜燈や様々な石碑が並んでいた。弘法大師石像群が祀られていた。左に『弘法大師像群之由来碑』、右に『桜郷史跡碑』。『燈龍建立記念碑』。「桜郷史蹟由来箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山獄宗教史上有数の場である。随って、この地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城壁であり、治承4年8月24日、源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとど岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡であるために神奈川県文化財保護指定地であるが、また同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・観音信仰の遺跡と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺跡が多い。ここに安置された弘法大師石像群は、かつて山麓に湮滅されていたもので、これを世に出し、併せて付近の史跡顕揚の上にも永く益せん為に、この聖地に遷座したものである」広場から九十九折れの急な山道を20分ほど下ると『しとどの窟』に達した。現在、道は観光的に整備されていていたが、かなり厳しい坂道であった。「しとどの窟まで四〇〇百米」とあったが「〇〇」又は「百」は不要ではと。信仰の霊地といわれるだけに洞窟に辿り着くまでの道々にも数多くの石仏地蔵や石灯籠が。下り坂を終わると上り坂に。今度は大岩をまわり込んで上って行く。更にクネクネと。石柱には奉納者の名前が刻まれていた。すると様々な立て札が立つ小さな広場に出た。「しとどの窟(いわや)治承四年(一一八〇)八月十七日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗上げをしたが、同年八月ニ十三日、石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を得たと伝えられている。」「源頼朝としとどの岩屋の由来源頼朝は14才の時父義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅じのなさけによって一命を助けられ伊豆の蛙が小島に流され平の兼隆の監視によって二十年間をすごした。治承四年八月望仁王が平家討閥?の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが八月一六日三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り伊豆の源氏に組する者たちを集め十九日伊豆を出発土肥実平を道案内で日金山を越え土肥郷(現湯河原町)に着いた。土肥実平の館勢総大将大庭景親三千余騎と戦ったが十対一の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ土肥実平の守護とみちびきによって土肥の椙山に逃げかくれ実平のお蔭で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。この岩屋に五日間かくれていた。その間食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。源平盛衰記に残っている暫くして敵も引揚げたので山から降りて来たら吾が家が盛んに燃えていた。この状況を見た実平は頼朝を勇気づけるため延年の舞を舞って慰めた。あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。この岩屋は関東大震災のため入口が崩れたが水は一年中湧いている。実平のお蔭で平氏を滅し鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、土肥会では昭和五十五年湯河原駅前に実平の銅像を建立した。このたび小沢進夫氏寄進によって案内板を建立しました。」「湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 昭和五十四年四月一日指定一、所在地 湯河原町鍛冶屋九五三一、所有者 吉浜財産区この観音像群が立像及び坐像六十一体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に中世以降近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永六年、元治元年、新しいもので大正一五年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものである。」「神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝陰潜地) 昭和三〇年十一月一日指定このあたりは、今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。[吾妻鏡」には源頼朝が治承四年(一一八〇年)八月一七日伊豆の蛭ヶ島に兵を起し、相模に入って土肥の館に集結、二三日三百の兵と戦って敗れ、二十四日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の山中に隠れ、二十八日真鶴から安房に向かったとある。この巌窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。」広場を振り返る。山肌をくり抜いたような真っ暗な洞窟。高さ5m、巾12・8m、奥行11・3m、頼朝主従が身を潜めるには十分。洞窟内や周囲には観音像が六十体余安置されていて大半は無銘ですが、嘉永6年(1853)などが確認されていると。あたりは静まりかえっていて、岩肌からたえまなくしたたり落ちる水音だけが聞こえる神秘的な場所。二基の燈籠の奥、ひな壇状の岩盤に安置された観音像群が並んでいた。窟の内部。岩屋の入口は関東大震災(大正12・1923)で崩れてしまったと。ひな壇状の岩盤に安置された観音像群。別の角度から。頭のないいくつかの像も。何と刻まれていたのであろうか。流れ落ちる水は小さな滝の如し。実はここで平家側の梶原景時という人物に発見されてしまう源頼朝ですが見逃して助けられる」逸話があるのも人徳の備わった風貌が故か。ここから再起を図る頼朝の強運を物語っていて興味深い逸話なのだ。前田青邨作「洞窟の頼朝」 二曲一隻 絹本着色・屏風 をネットから。平家方の探索から逃げようと岩窟に潜む頼朝と、主人を必死に守ろうとする武者達を描いており、この七人の武者の一瞬の気配を描いた名作。(2010年に国の重文に指定された)。帰路は坂道を息を切らせながら上り入口にたどり着く。入口には『鳥獣之碑』もあった。そして車に乗り、この『城山隧道』を潜り再び椿ラインに戻り大観山に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道沿いの民家の縁側が様々な手作りの民芸品が展示棚になっている旧家。『鈴鹿・亀山まちかど博物館』。亀山市野村町23-2。明治の終わり頃に建てられた町家を改装した連子格子の家。昭和レトロを始めいろいろな骨董品を展示していた。『水車小屋』。野村3丁目17の先の交差点を渡る。交差点を渡ると左手に『明治天皇御召替所跡』が。『御召替所跡』。「明治天皇御召替所跡 内池家主屋明治13年5月、明治天皇が東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝された。東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸された。亀山では陸軍の大阪鎮台の様子を見分された。その折、ここ内池家で御休みになり、御茶料として3円を下された。」この付近の名所観光案内図。更に進むと、右手に『野村一里塚跡』があった。『史跡 野村一里塚』。ここは江戸日本橋から数えて105里目、京都三条大橋から20番目(三条大橋から約83㎞)の一里塚である。『史跡野村一里塚』碑。「一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。 この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。本県における旧東海道においては桑名宿から坂下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。」この塚上には、目通り幹囲5m、高さ20m、樹齢400年を越えた椋(ムク)の木が。南塚は大正12年に倒されてしまったと。春になり新緑で覆われた時の姿を見てみたいのであった。更に雨に路面が濡れた旧東海道を西に進む。野村一里塚を過ぎると、道幅は車1台しか通れないような細い道筋へと変わった。そして町名は「布気町」に。黒ではなく茶色の連子格子の旧家が左手に。『野尻』バス停の空き地の角には掲示板と遺跡を示す白い標柱が。『亀山藩大庄屋内田権四郎昌克旧宅跡』。「打田家は江戸時代初め頃 近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を努めた。現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。内田権四郎昌克(1641~1758)は元禄15年(1702)亀山領に関する記録集『九々五集』を編纂した。」その先にも2階建て板塀の歴史ある建物が。『東海道 道標』。『毘沙門天』手前のT字路。『毘沙門天 本堂』。ここは亀山市布気町。扁額には『毘沙門天』。境内の石仏群。T字路を右折し進む。左手にあったのが『布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社』の『一の鳥居』。「布気皇舘太神社神 紋 揚羽蝶鎮座地 亀山市布気町一六六三番地御祭神天照大御神 建速須佐之男命豊受大神 品陀和氣命猿田彦大神 稲田比賣命伊吹戸主大神 高御産業日神宇迦之御魂神 手刀雄命大名牟遅神 手置帆負命菅原道真 火之迦具土神火之夜勢速男命 帯中日子神宇都志國玉神 廣國押武金日神木花佐久夜比賣命 五男三女神天宇受賣命祭 祀 例 祭 十月十五日 獅子舞 丑、辰、未、戌の一月一日から三日由緒 延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社です。社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長長八十間横百間」とあり、また同書の巻第九の巻末に記述の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり。夫レ神戸と申侍るは人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て諸国所々に御舘を改め其郡の宗廟として荒魂の卸神を社の神戸なり」とあります。布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社小詞を合祀し、現在の社名となりました。」一の鳥居の先に並ぶ石燈籠の間の参道を進む。日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願の寺として知られ、春には桜、秋には紅葉の名所として賑わいをみせるという「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」。美濃国・現岐阜県揖斐郡揖斐川町にある「西国三十三所観音霊場」。裏の道路からの入り口。『布気皇舘太神社 拝殿』。布気皇舘太神社は、延喜式巻九 「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」 とあり、神話時代垂仁天皇18年の創始にかかる式内社である。明治41年に村社に列し近在の鎮守社を合祀したことで、もともと天照大神、豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬし)の三神が祭神だったが、明治の合祀で二十三柱を祀るようになったと。日本の八百万の神を代表する神々が合祀されているというか、神々としてはベストメンバーなので、なんでもかんでも叶えてくれるのではと、丁寧にお参りしたのであった。『拝殿 内部』。『本殿』。鈴鹿川北岸の河岸段丘の上に鎮座する。古く野村布気林(野村の西北部・野尻村との境)にあつたが、文明年間の兵乱によつて衰退し、のち、現社地の皇館の森に移つたと伝えている。中世には、神戸郷の神領を管した在地の豪族板淵氏(同村の西北に居住)が当社の祭祀を経営していた。文永元年(1264)に関実忠が地頭職として亀山に移住し、亀山城の氏神とした。享保8年(1723)に吉田家より皇館大神宮の神号を受けた。『境内社』。『聖訓』碑。地元出身の軍人の慰霊碑のようであった。参道を旧東海道に向かって戻る。更に旧東海道を進む。『立場茶屋能古付近』。『布気皇舘太神社』の先に『立場茶屋能古』があったと言われている。この辺りには、現在、『神辺簡易郵便局』が建っていた。『能古茶屋』は、松尾芭蕉の親友である禅僧道心坊能古が開いた茶屋と言われている。芭蕉は逗留中に 「枯枝にとまりたるや秋の暮」 という句を残しているのだと。郵便局の建物の前左手に『常夜燈』。付近に川も無く、大きな道でもないので、何処からか持って来たものと思われる。しかし年代を感じさせる常夜燈。 亀山市指定史跡。珍しい事に「さざれ石}が使われていると。下り坂の手前左にあったのが『昼寝観音』。観音縁起によれば、通称 「昼寝観音」 と呼ばれ、東大寺再建の折りに造られ、奈良より背負われて各地を巡り、此の地こ伝わったという。また、各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡ってお参りする33カ所の寺を決める会議が開かれた時、落針の観音様は昼寝をして会議に行かなかったので、33ヶ所の寺に選ばれなかったという。『落針観音堂』。石山観音が祀られた『落針観音堂 内陣』。『地蔵堂』中には寛政12年(1800)の地蔵菩薩が2体。境内の『豊田多賀助翁頌徳之碑』寺のフェンスには『道標 東海道 亀山宿⇔関宿』が。坂を下っていくと、左斜奥遠くには鈴鹿の山々が姿を表したのでズームで。『宇気比神社』案内板。『東海道 道標』。逆Y字路の中央に安政6年(1859)の『常夜燈』が建っていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.14
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『離れのやど「星ヶ山」』を後にして、更に坂を上り第3会場の『きのこ苑お山のたいしょう』に向かう。奥の第2駐車場に車を駐め散策開始。『苑内ご案内図』。『レストランお山のたいしょう』を起点に周囲に『おかめ桜』を楽しめる散策コースが造られていた。『農家レストラン お山のたいしょう』入口。『おかめ桜まつり 』「今から約20年前、縁あって植えたおかめ桜。春になり、花を咲かせたその姿にすっかり魅せられ「このかわいい桜を皆様にお楽しみ頂きたい!」と、年々植栽し、現在の姿となりました。鳥たちの声と、心ゆくまでご鑑賞下さい」『おかめ桜のおいたち』。「寒緋桜と豆桜(富士桜)をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられました。」『お山のたいしょう』の椎茸栽培法と食べ方が説明されていた。。「お山のたいしょうは、昔ながらの原木栽培を行っておりますが、この方法は日本での生産量の15%しか行われておりません。のこり85%はおがくず等で発生させる苗床栽培です。原木(コナラ)の栄養分100%で育つしたけは、安心してお召し上がり頂けます。お召し上がりの際は、しいたけの香り、食感をたのしめるよう、水洗いせずそのままお使い下さい。しいたけのカサの部分に白い斑点が沢山ついておりますが、これは新鮮な証拠です。また、カサの広い大きなしいたけも大変おいしくお召し上がり頂けます。まだちいさな赤ちゃんしいたけは、採らないであげてください。」散策コースを歩き、『おかめ桜』を楽しむ。下の黒い屋根は、ボイラーで温度管理されたしいたけ栽培ハウスの様であった。斜面に広がる『おかめ桜』。竹林越しに。今年の筍も」例年より早く顔を出すのであろう。途中『みはらし台』が。『みはらし台』からの『おかめ桜』。斜面には菜の花も開花中。黄色とピンクのBEST MIX。ミツバチの羽音も聞こえて来た。菜の花の香りの中でミツバチの姿を追う。発見!!。そして散策路を下ると、ホダ木置き場でホダ木から出た椎茸を発見。そして巨大な椎茸も。こちらは20cm近くはあろうか。『おかめ桜』と『菜の花』そしてその下にホダ木置き場。しばし、『おかめ桜』と『菜の花』のコラボ。ミツバチの羽音とともに『菜の花』を楽しむ。原木栽培で種菌を植え付けた『ホダ木』置き場。屋外に積み重ねて置かれていたが、既に収穫済みなのであろうか。緑と青空の下にピンク色の世界が。もちろん『健脚道』を進む。真紅の椿越しに『おかめ桜』を見る。椿を接写。そして1周して入口に戻る。4月上旬の絶景の写真も。照手桃(テルテモモ)が満開に成ると。『レストラン・お山のたいしょう』入口。レストラン内部にはお客が1組のみであったが。駐車場への道にはピンクのアセビの花が。そして『おかめ桜』に見送られながら駐車場に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『京口門跡』を後にし、『京口坂』を下って行く。京口門跡の先で『竜川』に架かる『京口坂橋』が現れた。『竜川』。『京口坂橋(きょうぐちざかはし)』橋標。『竜川』上流域。『京口坂橋』から『竜川』を見ると、『京口坂橋』がかなり高い所に架かる橋であることが理解できたのであった。『京口坂橋』の渡り詰め右手下に、日蓮宗の『妙亀山照光寺』があった。『照光寺』山門に向かって坂を下る。『歌川広重 東海道五拾三次 亀山 雪晴』。「当山 東下の滝川よりのぞむ 京口門の勝景。旧東海道の京口坂は、大正時代後半までその面影を留めていた。亀山宿。」『日蓮宗 妙亀山 照光寺』寺標と『山門』。元禄13年(1700)の『南無妙法蓮華経』題目碑。慈眼寺にあったものであると。『亀山における谷口一族関連資料』。「亀山における谷口一族関連資科は、京都の町人で法華信徒であった谷日長右衛門・自滎〔法悦〕及びその一族が全国の街道沿いや寺院などに行った寄進活動のうち、亀山市域における状況を示す資科群である。照光寺に所在する谷口一族関連資料は次の四点である。一 照光寺蔵谷口一族寄進題目塔題目塔は高さ一四〇・三cm、幅四五・三cmの板碑型石等で正面に『南無妙法蓮華経』と刻字されている.塔身右側面に元禄十三年(一七〇〇)十一月の造立年銘.塔身背面には「谷口甚右衛門」の施主名が刻まれる。また左側面の「日教代」は、照光寺第八世、慈眼寺第二世住職である.この題目塔は、元慈眼寺(阿野田村旛問山)にあったが、平成二六年(二〇一四)に慈眼寺の本寺であった照光寺に移設された. 一 照光寺蔵谷口一族寄進紙本著色涅槃図(縦一九二・〇cm、横一四三・〇cm 一 照光寺蔵谷口一族寄進軸装涅槃図裏面墨書(縦一一八・五cm、横四ニ・〇cm 一 照光寺蔵谷口一族寄進断簡涅槃図裏面墨書(縦六三・六cm、横一三三・二cm涅槃図三点は、涅槃図と涅槃図の裏書であって.本来一体のものであったが、平成ニ十年の修復の際に三つに分離された。裏面墨書から、元禄十四年(一七〇一)に施主「妙信院法悦」と『谷口甚右エ門』により寄進された涅槃図である.なお.「妙信院法悦」は、谷日長右衛門自滎の法名である.天保十五年(一八四四)に表装の修理が行われているが、この時の住職であった「日随」は照光寺との住職を兼務しており、本図が照光寺、慈眼寺いずれに寄進されたものかは不明である.これらの資料と、市域に所在する西追分題目塔(関町新所・県史跡)、川合町題目塔〔川合町・市指定文化財〕とあわせて、亀山市域においては元禄期(一六六八~一七〇四)に、谷口長右エ門自滎(法悦)はじめ谷口一族が関わって寄進活動が行われたことがうかがえる。谷口一族に関する文学資が全国的に極めて少ないなかで、一族の活動の具体的様相を知ることができる貴重な資料群である。」梵鐘の無い『鐘楼』。『照光寺の文化財』案内板。「妙亀山照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公(在任元禄元年~宝永六年)の義母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄ニ年(一六八九)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。境内西にある墓地には、「赤堀水之助墓」(市史跡昭和十六年指定)、及び「山本善太郎墓」(市史跡昭和二十六年指定)がある。」赤堀水之助(源五右衝門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右嗇門の許に身を寄せ、その推挙によって禄一五〇石を賜り。馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄十四年(一七〇一)五月九日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟に父兄の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬られた。兄弟が二十九年目にしてようやく本懐を遂げたことから、この事件は「亀山の仇討ち」として著名になり、仇討ちが行われた石坂門跡には、昭和七年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑が建てられた。山木善太は。阿波(現徳島県)の生まれで天保二年(一八三一)三十二歳のとき亀山藩主・石川総安(在一文政三年~天保四年)に儒学者として召抱えられた。藩校明倫舎の教授となり「海内医林伝」など多く著書を残したが、天保八年(一八三七)七月、三十八歳の若さで病没し、ここ照光寺に葬られた。墓石群が並ぶ。『史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑』。赤堀水之助(源五右衛門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右衛門の許に身を寄せ、その推挙によって禄150石を賜り、馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄14年(1701)5月9日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬られた。兄弟が29年目にしてようやく本懐を遂げたことから、この事件は「亀山の敵討ち」として著名になり、敵討ちが行われた石坂門には、昭和7年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑が建てられた。そして平成元年10月にはこの碑が。『照光寺本堂』。『照光寺』は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公の養母照光院は篤く法華経に帰依し、元禄2年(1689)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。『日蓮大菩薩』。『妙見堂』。旧東海道に戻り進む。右手にあった歴史を感じる白塗りの蔵。『照光寺』から程なく左手に『森家住宅』が。街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。また街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。現在は、名物・伊勢うどんなどの幟を立てた飲食店として使用されているのであった。『森家住宅』の建物の角の前には『東海道 道標』と『案内板』があった。『東海道』。『森家住宅』。「亀山宿・関宿間の野村集落に所在。 旧東海道の歴史的な町並みを伝え、貴重な建物である。 切妻造機瓦葺で西面に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。 左手に土間、右手に居間を配し、さらに奥に座敷を設ける。 妻を漆喰で塗り込め、正面は上屋を黒漆喰真壁、下屋に格子を設けるなど町屋的な表構えを見せる。」『森家住宅』を振り返る。連子格子が美しい野村地区の町並みを進む。『笑門』と書かれた正月飾りのしめ縄がこの日にも。ネットで調べてみると、『お伊勢さんのしめ縄』 玄関用 注連縄 『笑門』であると。正月だけでなく一年間、家や店、会社の玄関、入り口にお飾り。『笑門』👈リンク を参照下さい。『森家住宅』の先の左手筋を入ると、右手に浄土宗の『心光寺』があった。『無縁仏塔』であろうか。その奥に梵鐘の無い『鐘楼』が。『観音菩薩』。『地蔵菩薩』。『心光寺 本堂』。心光寺の創建年代等は不詳であるが、境内には十一面観音菩薩を祀る観音堂、数体の地蔵菩薩などがあった。九東海道に戻ると直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の『究竟山 光明寺』があった。『鐘楼門』の『山門』と右に寺標『浄土真宗 本願寺派 究竟山 光明寺』。『鐘楼門』を見上げる。『梵鐘』。『光明寺本堂』。光明寺の創建年代等は不詳であるが、街道に面して鐘楼門が建ち、本堂前に親鸞聖人像があるのみですっきりした境内。『親鸞聖人御像』。『京口坂橋』を渡ってからは、連子格子の旧家が建ち並び、往時の町屋の雰囲気を偲ばせている野村の街並み。木造3階建の建物が右手に。『西光明寺』の先の十字路左手に浄土宗の『亀鶴山無量院慈恩寺』があった。『木造阿弥陀如来立像』。「慈恵寺本尊の阿弥陀如来立像は、亀山市はもとより三重県を代表する優品である。現在は浄土宗寺院の本尊として信仰されているが、薬師如来の可能性も指摘されている。伝来については、近在の忍山神社の神宮寺であった神福寺の本尊と伝えられるが、不明な点が多く詳しいことはわからない。像高て一六一・九cm、蓮華座上に両足をそろえ、胸をそらすように立ち偏袒右肩の如来形で、肉髻珠、白毫相をあらわす。右手は屈臂して第一・二指を捻じ、左手はゆるやかに垂下して第一・三指を相捻じる。頭体のほとんどをヒノキの一材から彫成し、内刳は施さない。両肩や衣文等、部分的に木屎漆を用いて厚手に塑形し、漆箔仕上げとする。当初は、本体と蓮肉部を共木で造っていたものと思われるが、現在は両足首が後補。また左手先、右手臂より先、台座、光背も後世のものに替わっている。螺髪は植付けで当初のものである。制作年代は平安初期の重厚で緊張感あふれる作風を示しヽ九世紀初頭に遡るものと思われる。」『重要文化財 木造阿弥陀如来立像』。説明内容は上記にほぼ同じ。『忍山観音堂』。隣に『薬師堂』。『鐘楼』。『慈恩寺 本堂』。『本堂』に掛かる『亀鶴山』の扁額。『子安観音像』か。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.13
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車で引き返し、第2会場の『離れの宿星ヶ山』に向かう。分岐点には中止になった『おかめ桜開催中』の看板が寂しそう。桜見物の人の姿は、時節柄もあり少なかった。花びらが下を向いて。『オーランジェ・ガルデン』からの下り坂の『おかめ桜』。第2会場の『離れのやど星ヶ山』に向かって分岐を入って行く。道路脇には既に花びらが散っていた。花びらを再びズームで。こちらは別の種類の桜か色が薄い。『おかめ桜』を写すオジサンの姿がサイドミラーに。そして第2会場の『離れの宿星ヶ山』に到着し車を降りる。手前の東屋風の建物。客室は、全棟1棟建て離れのログハウス。露天風呂付きログハウスの洋室、和室等があるようだ。左側にセンターハウス オリオン&レストラン「ななつの星」入口。左側には鶴の置物が。『おかめ桜』の並木を進む。せせらぎ散策道の小川の流れ。澄んだ空気、小鳥のさえずり、川の音…自然の中を歩く散策路はマイナスイオンでリフレッシュ効果抜群。身も心も癒される散歩道。夏にはホタルの姿も。ほとんど二人占めの散策を楽しむ。中年夫婦は愛犬を連れて。散策路の横に短い線路が。『豆相人車鉄道』と『ミニカーハウス』案内板。右側にあったのが『星ヶ山ミニカーハウス』。その手前に鐘が。ぎっしりと並んだ1500台ものミニカーは壮観。飛行機も展示。その横にあったのが、明治29年に全開通した人力による『豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)』。『豆相人車鉄道』。「明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を人間が押しで熟海-小田原間を4時間かけて走る人車鉄道が運行していました。この復元車両は当寺の資料を基に製作しました。」「かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。『豆相人車鉄道』は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。」とネット情報から。客車の内部を覗く。当寺の写真。1車両を2~3人でひたすら押す姿が。当寺の『豆相人車鉄道』の路線図ガイド。 【http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/spot/p16553.html】より下記の写真が、以前、小田原宿を歩いた時に写した『人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡碑』。「東海道線は国府津駅から静岡が1889年に延伸しました。ただし沼津までは御殿場線が使われていました。熱海の住民運動から1888年国府津から小田原まで小田原馬車鉄道(現在の箱根登山鉄道)に鉄道を繋ごうとしましたが資金が集まらず、甲州財閥の雨宮敬次郎の案で人車軌道に変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年~1900年に漸次開通させました。1907年に社名を熱海鉄道と改めて蒸気機関車が引くタイプの軽便鉄道に切り替えました。この切り替え工事からヒントを得たのが芥川龍之介の「トロツコ」です。」と。毎月第三金曜日 PM3時より要予約で運行するのだと。『豆相人車鉄道』のマークには「人」の文字が。『おかめ桜』をこれでもかと。『沈丁花』も香り豊かに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『亀山城跡』を後にし『東海道亀山宿』碑まで戻る。坂を登って行くと正面には連子格子の旧家が並んでいた。こちらが『西町』の旧東海道。反対側の突き当りにあったのが『西町問屋場跡』案内板。「西町問屋場跡問屋場とは、江戸叶代の各宿において。主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で町の重役である宿役人がこれを受け持った。東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程の期間で定期的に交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和三年(1803)の「亀山領内東海道分間絵図」(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化四年(1807)の「伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図」(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。なお、元治二年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。」この場所からの見晴らしが上等であった。亀山城も下の石垣から始まって良く見える。ちょっとした休憩所が設けられていた。旧東海道・『西町』を西に進む。『岡田屋本店』前の「東海道亀山宿」と書かれた立て札の両脇には弥次さん、喜多さんの姿が。屋号札はやはり「おかだや」。江戸時代からの屋号を引き継ぎ純米酒・オーガニック食料品店とのこと。『道標』:大正3年 田中音吉建立。「右 東海道 左 停車場」道。明治23年(1890)西町南側に関西鉄道の亀山停車場(現 JR亀山駅)が設置されて以来、西町は亀山の表玄関として栄えた。この四つ角を右へ入ると二の丸へとつづく道筋に置かれていた「青木門」があったのだと。『道標』右 郡役所 左 東海道この道標のある角を右に折れ旧東海道を離れる。ここも枡形構造。そして右に見えた白塀の建築物が『加藤家長屋門・土蔵』と『加藤家屋敷跡』。『加藤家長屋門』。江戸時代後期、亀山城主・石川家の家老職を務め、亀山城西之丸に居を構えていた加藤家の屋敷。もともとは相当な敷地面 積があったようですが、明治後ほとんどの建物が他所へ移築されました。現在は屋敷の表門である長屋門とこれに連なる土蔵などが遺されており、白壁や白と黒の対比が美しいなまこ壁が、武家屋敷の威厳と風格を感じさせてくれます。江戸時代後期の建築で、当時の武家建築様式を今日に伝える希少な遺構として、亀山市文化財に指定されています。ここも開館日は土、日、祝日であった。反対側も西之丸に建つ白壁造りの壮麗、広大な御殿跡、現在は地区の集会所として利用。庭園は『西之丸庭園』と呼ばれ広く、一般に開放されていた。『西之丸庭園』脇入口門。『西之丸庭園』。庭園内の『集会場』。『西の丸庭園』の正門入口。『西の丸庭園』の正門入口から『加藤家長屋門・土蔵』を見る。そして旧東海道に戻る途中の枡形の入口に標柱が。『青木門跡』「元和元年(1615)4月16日、徳川家康が大阪へ出陣の時、亀山に宿泊した。城主松平忠明出征中で留守を守る家臣が接待にあたった。翌17日亀山城南三之丸より西町に出る搦手門より出立の時、付近に繁茂した青木を見て 「おお青木」 と称賛したので、この周辺の土地を青木と称した。また、門を 「青木門」 と呼んで家康を敬慕したと伝えられる。」『飯沼慾斎生家跡』「飯沼慾斎(一七八三~一八六五)は、西町西村家に生まれる。 十二歳で美濃大垣に移り、飯沼家を継いだ。 わが国植物学の基礎を拓くなど、近代科学草創期の代表的な自然科学者である。」旧東海道に戻る。『旧舘家住宅(枡屋)』東海道沿いの町家で市の有形文化財。旧舘家住宅(枡屋)開 館 日◆土曜日・日曜日・祝日開館時間◆午前9時から午後4時30分まで入 館 料◆無料『東海道亀山宿 西町 ますや跡』。石垣と多聞櫓が描かれている旧東海道のタイルの案内板。旧舘屋住宅(枡屋)の土蔵脇の筋を入って行くと、浄土宗の『終南山光明院善導寺』があった。こちらは『脇門』。『善導寺 本堂』。善導寺の創建年代等は不詳であるが、山門前には伊勢板倉勝澄公寄進の石燈籠があり、境内には地蔵堂・宝篋印塔などがあった。『鐘楼』。『寺務所』。『山門』を境内から。旧東海道に戻って道なりに進んで行くと、突当りに亀山城西之丸外堀跡が。『亀山城西之丸外堀』碑。この西之丸外堀は、寛永13年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同16年から3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。 江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されている。『亀山城西之丸と外堀』。「亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。 築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。 寛永13年(1636)本多俊次 が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。 西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷地のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。 この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。 町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。 この地点は、発掘調査の結果、町屋側から見て、深さが1.8m程度の水堀で、水深は60cm程度でした。 この深さでは、城の防御に適さないと思われますが、堀の斜面は急こう配で城内側には土居(防御のための土手)があって、堀底から3m以上の高低差があり、 さらに土居上には土塀が設けられていましたので、十分な防御機能を有していたものと思われます。 なお、工事にあたり、遺構面を保護するために全体に1mかさ上げをし、水堀を表現するために水面の高さで復元しました。 亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓(県史跡)及び二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡(市史跡)、 旧東海道沿いの町家として旧舘家住宅(市有形)等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。 このことから、市では、平成20年12月に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定(平成21年1月歴史まちづくり法により認定)して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。」『西之丸外堀築造技術』「亀山城西之丸外堀は、寛永13年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同16年から3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたとされます。 江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されます。 また、天保3年(1832)から10年の間に西之丸外堀の改修が行われた記録が残っています。奥から発掘された堀を見る。更に旧東海道を『京口門跡』に向かって歩を進める。右手に創業100年以上の『大平畳製造所』。旧東海道は左にカーブ。『京口坂』を下る。『梅巌寺』の南口門のところに『京口門跡』が。京口門は、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。 また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。『京口門跡』。「亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる滝川左岸の崖上に築かれた門である。 『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文一二年(一六七二)に完成したとされる。 翌延宝元年(一六七三)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。 また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。 大正三年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると、門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった。 歌川広重「東海道五拾三次」のうち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。」 尚、伊勢屋の蘇鉄の木は亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあったのだが、昭和59年の道路拡幅工事のため亀山市に寄贈され、市の文化会館の玄関前に植えられた。株回りが約5mの立派なもの。あの京口御門ができたのが江戸時代の寛文12年(1672)であるので、300年を超える樹齢を誇っているのだと。『柳谷十一面千手千眼観世音菩薩』と刻まれた石柱。『梅巌寺』の『四国三十三所観世音菩薩』。『不動明王』。庭には歌碑「雪景色亀山城は広重の画に見るがごと石垣高し」『三界萬霊塔』『浄土宗 純一山常壽院梅厳寺』の『山門』と『寺標』。『慈母観世音菩薩』。『梅巌寺本堂』。左に『地蔵菩薩』。『本堂』に掛かる『純一山』の扁額。『六地蔵尊』。この仏様の名は??『一光三尊善光寺如来』。再び『四国三十三所観世音菩薩』。鬼瓦。『梅厳寺『鬼瓦』縁起』「明治45年(一九一二)五月本堂が全焼。その後、大正二年(一九一三)七月再建された当時の鬼瓦である。昭和59年(一九八四)五月、屋根葺替えにより役目を終え、塊内に安置される。亀山藩主 石川家の菩提寺であるため、瓦に「笹竜胆」の家紋がおかれている。」 再び『歌川広重 東海道五拾三次之内亀山 『雪晴』(宝永堂版)』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.12
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根府川駅を後にし、県道740号線・小田原湯河原線を西に進む。小さな下り坂の路地に入ると左手下に東海道線が再び姿を表す。そして白糸川の脇まで下り、『白糸川橋梁』を見に行く。『白糸川』の流れ。白き流れが陽光に輝く。前方の東海道新幹線の高架橋の下を潜って進む。その先に『白糸川橋梁』が姿を現す。白糸川に架かる橋を渡ると左手のカーブの場所に案内板があった。『根府川関所跡』案内板。「根府川関所跡東海道の脇街道であり、熱海や伊豆へ通じる根府川道の関門として、この地に根府川関所は設置されました。新編相模国風土記稿などによると、江戸時代初期の元和元年(1615)頃に設けられたとされており以後、明治維新のため明治2年(1869)に廃止されるまでの約250年間に渡り、明六つ(午前6時頃)の開門から暮六つ(午後6時頃)の閉門まで、破れば磔(はりつけ)により罰せられることもある厳しい掟により通行が取り締まられていました。箱根関所のほか、小田原藩内には、仙石原、矢倉沢、川村、谷ヶにも関所が設けられましたが、根府川関所は常駐する役人の数が箱根に次ぐ多さで、要衝として重要視されていたことがうかがえます。根府川関所は白糸川の南側にありました。関東大震災前までは礎石もあり、当時の様子がうかがえたそうですが、震災により埋没し、その後の新幹線の工事等により川の形も変化してしまい、関所跡は、現在、川底となっています。」『潮騒の駅根府川駅・江之浦漁港コース』案内。『白糸川橋梁』に向かって引き返す。そして『白糸川橋梁』が正面に。橋長:24mの鉄道橋・鋼ワーレントラス橋で、鉄道マニアに人気が高い。海岸線に近く、赤く塗装されたこの橋は、いわゆる鉄橋のイメージを大いに感じさせてくれるのであった。初代の橋梁は1922年(大正11年)に、根府川駅と真鶴駅の間に竣工。径間150フィートの複線上路トラスが3連と、その前後に径間40フィートの単線プレートガーダーが各2径間架かる構造であった。竣工翌年の1923年9月1日。関東大震災により背後の山が崩壊し、土石流が押し寄せて壊滅的な被害を受ける。3連トラスのうち一つは泥流に押し出され行方不明、一つは大破して泥流に埋没し、残る一つも一部が泥流に埋没したと。根府川駅の真鶴駅寄り(南側)、西側に相模湾に開けた谷筋に南北に架かり、在来線の東海道本線の複線を渡す。下流側に国道135号(真鶴道路旧道)、上流側に東海道新幹線の橋梁が並行する。鉄道撮影のスポットとしても知られ、1991年にはかながわの橋100選に選定された。地形的要因から特に南風の時には強風が観測され、しばしば列車の運行規制を受けた。この区間の東海道本線は首都圏と東海地方・西日本を結ぶ物流の動脈であるとともに、伊豆半島への観光路線としても重要であるため、風への対策が求められた。1991年に、車窓からの景色を極力損なわないよう60%充実金網方式の防風柵が設置された。この対策により、使用開始後1年間の実績で従前に比べ運転中止日数約80%減、運転中止本数約90%減の効果が見られているのだと。『白糸川橋梁』を真下から見上げる。更に進むと右手路地の角には『釈迦堂入口』と書かれた石碑があった。『白糸川橋梁』沿いに白糸川に向かって進む。小さな橋を渡る。橋を渡里ながら右手に見えたのが、白糸川と『釈迦堂』。白糸川の下流には国道135号線に架かる『新白糸橋(しんしらいとばし)』が見えた。再び『白糸川橋梁』を見上げると、『防風柵』がはっきりと確認できたのであった。国鉄時代はトラスが白色に塗装されていたが現在は赤色に。右手前方の『釈迦堂』に向かって進む。『釈迦堂』。大正関東地震の前は高台に位置していたこの『釈迦堂』は、震災により土砂の中に埋まったが、その後、釈迦像は見た目は無傷で掘り出された。被害のなかった釈迦像への信仰は高まり、釈迦堂は再建され、現在は地下の洞の中で昔のままの姿を見ることができるのだと。「根府川の旧家広井家の古文書によると広井家二十二世広井長十郎重友の代に頻発地震多く特に寛永九年一月二十一日と正保四年九月十四日と慶安元年四月二十二日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も来襲する等で世相は不安に満ちて居り、長十郎重友は村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩盤に釈迦尊像を像立して世相の安泰を祈ったとあります。お姿の右側に『寛文九申丙歳七月十二日、元喜道祐庵主』と刻まれて居ます。これは像立した長十郎重友の命日と戒名ですから、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。その左に『普明暦二配歳仲秋月』と其の左に『広井宗左衛門敬』と刻まれて居ります。宗左衛門は長十郎重友後改め宗左衛門と、広井家の系図にありますので、二十二世広井長十郎重友改め宗左衛門が、台座に刻まれて居る『大工権助策』『石匠寅佐代』によって明暦二年(一、六五六年)に像立したものと思われます。後に万治二年(一、六五九年)の大洪水で岩泉寺は現在の高台に引移ったがお釈迦様は岩盤に刻まれて居りますので引移す事ができないので現在の場所に残りました。大正十二年九月一日(一、九二三年)関東大地震が起こりまして関東一円は有史以来の大惨事となりました。お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に山津波の土砂で埋没してしまいました。お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居たのですが、土砂に埋まったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。お釈迦さまは長い歴史の移り変わりの中で言い伝えによれば、弘法大師の作とも言われ此の地方の信仰のより所としてまいりました。特にお釈迦さまを掘った人々が落ちた鉄橋と土砂の中から指一本損じないお姿を見て、如来の、あらたかさを驚嘆したとのことで、如来信者も多く、村内始め県西地方の人々の信仰厚く四月八日のお釈迦さまの誕生日には善男善女の参詣者多くにぎあいます。」真っ赤な『華厳釈迦如来』の幟と『釈迦如来』と書かれた扁額。階段を降りると左手にコンクリートで保護された『釈迦堂』が。地下の洞内岩盤に浮き彫りの明暦2年造立釈迦如来像が刻まれていた。『釈迦堂』前から『白糸川橋梁』を見上げる。車への帰路に再び国道135号線の『新白糸橋』を正面に。『白糸川橋梁』には2本のコンクリート基礎が川床から立ち上がっていた。『潮騒の駅根府川駅・江之浦漁港コース』案内道標。そして車に戻り、『おかめ桜まつり』の第4会場の『オーランジェ・ガルデン』に到着。ここの『おかめ桜』も思いっきり満開。その先にあったのが『オレンジ橋』。この橋は『ヒルトン小田原リゾート&スパ』に繋がっているのだと。山の上に『ヒルトン小田原リゾート&スパ』が垣間見えた。『オーランジェ・ガルデン』の直売場。オーランジェ(フランス語:Orangette)とは、砂糖漬けの柑橘類の皮(ピール)をチョコレートで包んだフランス生まれの菓子のことのようだ。『おかめ桜』3年物の苗木を500円で購入、そして「楊貴妃」という苗木も一緒に。『おかめ桜』の下にはベンチも。『おかめ桜』をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『遍照寺』を後にし、更に『亀山城跡』に向かって進む。『真宗 高田派 梅照山 誓昌院』寺標と『山門』。江戸時代の『鐘楼』。『本堂』。屋根瓦には「十六葉一重菊」。パスポートと同じか。そして「五三の桐」見事な池の『鯉』。更に旧東海道の下り坂を左にカーブして行く。歴史を感じさせる板塀の旧家。『亀山城 多門櫓』が右奥に見えて来た。坂の右側には大きな池のような亀山城の濠が広がっていた。濠沿いの「亀山停車場石水深線」を『亀山城 多門櫓』に向かって歩く。濠沿いの道はかつては松並木になっていたのであろうが、現在は写真に写っている松だけ。『天然記念物 池の側松並木』「亀山石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物に指定された。」『伊勢国亀山藩主板倉・石川氏の交替』「伊勢亀山藩主板倉勝激が、延享元年(一七四四年)備中松山(岡山県高梁市)へ移った。板倉氏は重常が初めて人城した寛文九年(一六六九年)以来五代に及ぶ亀山領有が終わり、石川総慶が備中松山から、金山に替わった。石川氏は、昌勝(憲え)の時代に慶安四年(一六五一年)から、寛文元年まで亀山に在城したので七十五年ぶりに旧領に戻った。板倉氏とは、二度目の交替になる。延享以後、板倉・石川両家中とも松山・亀山に、百二十六年間の長きに渡り定着し、明治四年(一八七一年)の廃藩置県に至った。総慶は、亀山に替わった時に、備中に一万石(十三ヶ村)の飛地領を残し、備中中津井村(岡山県上房郡北房町)の陣屋には、代官所が置かれていた。領界を示す「従是東北伊勢国亀山領」の石柱が、現在も陣屋跡に保存されている。案内板は、姉妹提携を結んでいる亀山、高梁両ライオンズクラブより贈られたものである。」『亀山 高梁 両クラブ姉妹提携記念』碑。東海道亀山宿 『三叉路』を過ぎる。右手に『天理教亀山分教会』。『亀山城 多門櫓』そして『石垣』が大きく見えて来た。亀山城跡に遺された、唯一の遺構の建物とされます。現在は三重県の史跡に指定されている。一時期は下見板張りの黒い壁面でしたが、現在は漆喰塗の白壁。平成23~24年に掛けて修復工事が行われたと。三重県に唯一残る城郭の建築物遺構。『飯沼慾斎生誕之地碑』「飯沼慾斎は、天明3年(1783)に伊勢国鈴鹿郡の亀山城下で出まれ、のち、美濃国大垣に移って、飯沼家の養子となった。その後、京都にて医学を修行し、後に江戸へ出て蘭学を学び蘭方医となる。」この石碑の最上部に『鐸山近藤君之碑』の文字のある長文の漢文碑。亀山藩家老近藤鐸山の顕彰碑であると。末尾に明治39年3月に建立されたことが記されていた。近藤鐸山は、亀山藩の勤皇派家老として執政を行ったが、三条実美らと親交があったため、禁門の変への関与を疑われて幽閉された。大政奉還後に復帰して軍事奉行となった。維新後は亀山藩大参事となり、明治23年に死去したと。『史跡 亀山城址』碑。本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、『旧亀山城多門楼』の名称で三重県の史跡に指定。昭和38年(1963年)3月に建立されたことが記されていた。二段の石垣が積まれた、低い基壇。その基壇に登るためらしい長い石段も置かれていた。表示はなかったが、小さな櫓か塔当たりがが建っていたのか。更に坂道を登って行く。亀山城の野面積の高石垣と、本丸多聞櫓の光景。かつては天守があったとされる天守台は、穴太衆により積まれた野面積の高石垣。『黒田孝富遺剣之碑』。黒田孝冨は、通称頑一郎。天保5年(1834)亀山藩士黒田嘉治の子に生まれ、家老近藤織部(鐸山)の抜擢を受けて広間役となった。その後、江戸にて儒学を学び、尊王攘夷を説いた。「伊勢亀山城伊勢亀山城は、文永二年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末期の空堀が確認されている。天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城されたとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。また三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かでない。寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねたニ之丸御殿が設けられた。亀山城の別名としては唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」と記されている。城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和二十八年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。」『亀山城 多門櫓』と『階段』。亀山城は天正 18 年(1590) 岡本宗憲によって築城された。多門櫓は、天守台と言 われる本丸高石垣上にあり、寛永 9 年(1632)頃に築造されたとみられると。三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されている。 平成の大修理が平成25年3月に完成し、往時の姿に復原するというコンセプトの元、 真っ白な白壁の漆喰となっている。多門櫓内部の見学は日土祝 10:00~16:00 であるとのことでこの日は見学できなかった。『亀山城楠門跡』碑。二之丸から本丸へ通じる枡形門で、櫓門は安政元年(1854)の大地震で倒壊した。『亀山城及び城下の歴史まちづくり案内』「亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。この天守は、寛永9年(1632)に丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が伊勢亀山と間違えて取り壊したとされますが、この天守の規模や形状はもちろんのこと、その位置も含めて事実関係は不明です。江戸時代初頭の亀山城は、上済する将軍などが休泊し、寛永11年(1634)の将軍宣下にかかる徳川家光の上洛の前年に大々的な整備が行われています。寛永13年本多俊次が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。また、東三之丸、西之丸、外堀等を取り巻くように旧東海道が通り、亀山城下は東海道53次の宿場(亀山宿)でもありました。亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓(県史跡)及び二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡(市史跡)、旧東海道沿いの町家として旧館家住宅(市有形)等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。このことから、市では、平成20年12月に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定(平成21年1月歴史まちづくり法により認定)して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。『亀山城本丸東南隅石垣と多門櫓』。「亀山城本丸東南隅石垣と多門櫓亀山城本丸は、天正18年(1590) 岡本宗憲により築城整備された。現存する石垣は、本丸東南隅にあたり、外側(東面・南面)高13.5m、内側(北面)は高4.0mで、石垣を多用しない亀山城内では最大の規模を有する。石材は、長大な自然石を多用した野面積で、宝篋印塔等の石造物の転用もみられる。石積技法には多様性が見られ、石垣東面及び南面は野面積が良く残されているが、北面は古い技法が見られない。このことから、東面及び南面は築城時に築造され、北面は嘉永7年(18541)の大地震による崩落後に修復されたものと考えられる。「石垣の上に所在する多門櫓は、東西八間(15.8m)南北六間(10.9m)の木造平屋建入母屋造で、平面がL字形である。創建年代は、諸説あるものの寛永10年(1633)に作成されたとみられる絵図に描かれていることから、遅くともこの年と考えることはできる。江戸時代における修復や建て替えの記録も今のところ見いだせないが、前述の大地震で大破したと伝えられており、幕末時に相当手が加えられた可能性が高い。明治以降、城内の構造物が取り壊される中で、旧藩士により落札され失業士族の授産場に使用され、その後は会議室・展示室として幾度かの改造を受けている。本丸の石垣と本丸の中核的城郭建造物としての多門櫓が、あわせて残っているのは三重県下で唯一であり貴重である。昭和28年(1953)に「旧亀山城多聞櫓」として県史跡に指定されている。」『与助井戸』。「与助井戸亀山城本丸で使用されたきた井戸です。天正18年(1590)岡本宗憲による亀山城築城の際この場所にあった民家「与助鍛冶」を場外へ移したとの伝承から「与助井戸」とよびなわされてきました。城外への抜穴伝説がありますが、確認されていません。」『史跡 明治天皇亀山行在所遺構』。「明治天皇は、明治13年(1880)三重県下御巡幸の折、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅、現市民協働センター「みらい」所在地)を行在所とされ、10日・11日の両日にわたり名古屋・大坂両鎮台対抗演習をご統監されました。この建物は、この折玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されてきたもの。建物はまず井尻町に移されましたが、昭和10年(1935)亀山小学校(現亀山西小学校)地内に移築され、同14年三重県史跡に指定されました。同26年には市指定文化財(建造物)となり、同32年亀山城多門櫓石垣北側に再移築されました。なお、平成23年多門櫓石垣修復に伴い、石垣保護のため現在地に移動しました。」『亀山神社』亀山城址にある亀山神社は、江戸時代中期の延享元年(1744)備中国松山から石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが始まりである。『一の鳥居』。『大久保神官邸宅門』。関実忠が文永二年(1265)亀山城(古城)の鎮守として勧請した南崎権現社の神官大久保但馬守邸宅の門であった。門は本柱の間に二枚開きの扉が付けられ柱の後ろに控柱があり切妻屋根で破風の下に縣魚がたれる。門右にくぐり門、左は土塀に続く。亀山西小学校の裏門に利用されていたが、昭和三十年現在地に移築された。『亀山演武場』。『二の鳥居』。『宝篋印塔基礎部』。「宝篋印塔基礎部この宝篋印塔は、この地にあった善導寺が西町に移転された時に残されたものとされ、昭和二十六年の西小学校運動場拡張工事の際、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔などと共に発見された。石材は花崗岩を用い、高さ五三.一センチ、幅七六センチの基礎と、二段の塔身を受ける部分から成る。基礎の四面はいずれも素面であり、輪郭や格狭間はない。銘文は一面にのみ、□悲母卅三廻之追善並迎孝孫禅観尼一周之忌景為頓証卉乃至法界平□利益造之正慶元壬申年七月十日願主沙弥道智と刻まれている。正慶元年(1332)は南北朝期初頭の北朝年号で、市内在銘石造品としては最古である。この宝篋印塔基礎部は紀年銘のある基準資料として位置付けることができる貴重な遺例である。」『亀山神社拝殿』。『天満宮』。『天満宮』の『牛像』。『稲荷神社』。『社務所』。『亀山神社』を後にし、『亀山公園』を散策。史跡としては、三重櫓跡・二の丸帯曲輪・埋門跡などが残っていた。蒸気機関車C58359が一角に静態保存で。C58359号機本丸で保存されている蒸気機関車。1944(昭和19)年に川崎車両神戸工場で製造され、1970(昭和45)年に廃車となるまで、地元の関西本線などを走行していました。『C58359号の概要』。配置歴によれば、最後は亀山区に配置されていたと。C58539号機を前から。ナンバープレートは赤色に塗られていた。『亀山公園 案内図』。この案内板があった現在地は、本丸跡か、二の丸との境付近。公園内の水場にはベンチも。ここでつかの間の休憩。『帯曲輪二之丸広場』案内板。赤い矢印は、『亀山城 二ノ丸帯曲輪』を表示していた。『亀山城三重櫓跡』。下には池が。『亀山公園 ますみじどうえん』の文字が記された石標。昭和31年に亀山城跡を中心に開設された、亀山公園の一部が『ますみ児童園』になるようだ。『山嵜雪柳翁遺剱之』の文字が刻まれた比較的新しい石碑。亀山藩士・山崎雪柳軒(1828~1893年)は、武術に優れ藩士の剣術を指導した。伊庭秀業に心形刀流を学んで免許皆伝を得て、槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫より学んだ。現在も受け継がれている、心形刀流であると。そして帰路、亀山城址の左手に有る池の手前の左側にあったのが『石井兄弟亀山敵討遺蹟碑』。この碑は、元禄14年(1701)5月9日早朝、石井源蔵・半蔵兄弟が父の敵・赤堀水之助を石坂門外で討ち取った事を記念して、昭和7年(1932)に亀山保勝会によって建立された。当時 「元禄曽我」 と称され、赤穂浪士の討ち入りと並び賞賛されたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.11
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国道1号線とJR東海道線に挟まれた県道740号線・小田原湯河原線を根府川駅に向かって進む。道路沿いの『おかめ桜』には『おかめ桜まつり』のピンクの幟がはためいていた。そして根府川駅に到着。時間は8:34。1896年(明治29年)から1922年(大正11年)までは、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道(のちの熱海鉄道)も存在していた。同線の「根府川駅」は、当駅よりも高台の位置に設けられていた。 1922年(大正11年)12月21日:国有鉄道熱海線 国府津駅 - 真鶴駅間の開通と同時に開業。旅客・貨物取扱を開始。 ここは小田原市の根府川駅。相模湾を見下ろす崖の上にある駅舎。駅前やホームから見る相模湾の眺望は絶景、特に人気なのは、「初日の出」とこの日の「桜」。東京駅から一本で行ける距離にあるため多くの『カメラ爺』がやって来ると。元日に限り、根府川駅で日の出を迎える臨時列車も運行され、一年で最も賑わう瞬間を迎えると。無人駅の改札口を入り右手にあった池とその横に石碑が。『関東大震災殉難碑』。1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により地すべり(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車(8両編成、乗客約150名)が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没した。列車に乗車していた約110名とホームに居た二十数名の計約130名が死亡したのだと。根府川(片浦海岸)案内板。「根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東地震の際の駅裏の斜面の地滑りやその南を流れる白糸川で起きた岩屑なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれた戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれたため、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します。」現地で頂いた『根府川おかめ桜まつり』のパンフレット。開催期間は令和2年2月29日 ~ 3月22日(日)であったが、コロナウィルスの影響で今年は『根府川おかめ桜まつり』は中止とのこと。パンフレットの裏には『おかめ桜まつり 実施施設案内図』が。会場は4カ所。 第1会場:JR根府川駅前 第2会場:離れのやど星ヶ山 第3会場:きのこ苑お山のたいしょう 第4会場:オーランジェ・ガルデン根府川駅駅前の「おかめ桜」は青空に映えて満開中。花の小ささとピンクの濃さが魅力的。『早川・片浦ウォーキングトレイル』案内板。「早川・片浦ウォーキングトレイルは、JR早川駅から根府川駅間の丘陵地を巡る健康の道です。トレイルには、勾配がきついところがありますので、自分のペースで楽しんで下さい。ルールを守って楽しく歩きましょう。」改札口を入った場所から「光る海」を見る。ホーム上の連絡橋から熱海方面を見る。こちらは小田原方面。待合室の展示品。JR東海道線・白糸川橋梁(しらいとがわきょうりょう)の古き写真や絵葉書が。昔の写真の東海道本線の『白糸川橋梁』には蒸気機関車が白煙を棚引かせて。茨木のりこの詩集から『根府川の海』「根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅 たっぷり栄養のある 大きな花の向こうに いつもまっさおな海がひろがっていた 丈高いカンナの花よ おだやかな相模の海よ 沖に光る波のひとひら ああそんなかがやきに似た 十代の歳月」『小田原ふるさとの原風景百選』。「1.潮騒の駅・根府川 海と山に挟まれたJR東海道線の根府川駅は風光明媚で、駅から見る相模湾は絶景。 詩人茨木のり子の詩集「根府川の海」の中で、 『根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅…』と謳われている。」駅前広場から根府川駅ホームを見る。こちら側の『おかめ桜』も満開。『光る海』を背景に。ホームに人の姿はなし。枝には野鳥が。ノビタキか?下り電車がホームに滑り込む。そして熱海に向かって。暫くすると上り電車が。青い通路がホーム連絡橋。線路沿いの『おかめ桜』を愛でて次の散策場所に車で移動。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『江戸口門跡』を右折して進み、東町信号交差点を過ぎると、右手筋奥に真宗高田派の『福泉寺』があった。『松風山 福泉寺』寺標と『山門』。『山門』は1795年(寛政7年)築造。亀山市指定文化財となっている。「福泉寺山門福泉寺は、この地域有数の古刹で、往古は天台宗であったが十五世紀後半に真宗高田派に改宗した。この門は、正面軒唐破風付入母屋造、本瓦葺、一間一戸の楼門で、棟札などから寛政七年(一七九五)の築造であることが明らかとなっている。このため、江戸時代後期における地方有力寺院の建桑様式を顕著に示す貴重な例である。」『鐘楼』。境内には松風福祉会 亀山愛児園の園児が。『本堂』。『福泉寺』に隣接して真宗大谷派の『法因寺』があった。『天然記念物 法因寺の左巻カヤ』標柱。「左巻きカヤは、法因寺本堂の敷地内にある。イチイ科の常緑喬木で、樹齢約350年(2019年現在)。周り約2.6mもある巨木。雄樹で果実に48条の白筋があり、その筋が左巻きに現れているのが珍しいとされている。葉は披針状、4月に単性の花を開く。果実は楕円形で約3cm、内に両端の尖った枝があり、食用や採油したりする。」『黒田孝富墓』標柱。「黒田孝富(1834~1868)は幕末の武士で、京の勤皇派とつながりが深く、郡代奉行に抜擢された藩政の改革を行った。明治元年、反対派により惨殺された。墓は本堂裏、左巻カヤの樹下にある。」『蓮如上人御旧跡』碑。蓮如上人は室町時代の浄土真宗の僧であり、衰退していた本願寺を再興したとして、「本願寺蓮如」などとも呼ばれていました。ここ「法因寺」にしばらく滞在していたそうです。法因寺に滞在していた蓮如上人は、自ら「南無阿弥陀仏」と大きく書いた名号(仏・菩薩の称号)の軸を本尊として寺に贈りました。1547年(天正2年)火事により本堂が焼け落ちますが、不思議なことに名号の軸の中でも、蓮如上人が書いたものだけが火の中から飛び出して本堂裏の柿の木に引っかかっていたといわれます。『山門』。『法因寺本堂』。『鐘楼』。『南無阿弥陀佛』名号碑。『天然記念物 法因寺の左巻カヤ』パイプで支持されて。『黒田孝富之墓』。前代の本堂の鬼瓦。『寺務所』。左手に東町ふれあい広場。ここは『旧佐川邸跡』。『旧佐川低跡』碑。商家であった佐川家は、佐野屋の屋号をもち、この場所に屋敷があったと。「伊勢国鈴鹿郡亀山宿内之図」によると「旅籠佐野屋源治」と記載があるのだと。(有)大和不動産の店先にあった『熊野古道に和歌を見つめる』「したたかに われに喰せよ 名にし負ふ 熊野が浦は いま鰹時」「わが帆なる 熊野の山は朝風に まぎり おしきり 高瀬をのぼる」「山川千里を過ぎて 遂に宝前に奉拝す 感涙禁じがたし」「順礼の銭重の やまの八十里 鎮まる杜の 幽玄熊野」『書画骨董 茶道具商』と書かれた老舗。『樋口本陣跡』の木札のみが道路左側のアーケードの柱に。『東海道亀山宿 樋口本陣跡』木札。『江ヶ室交番前』交差点を左折。「高札場跡高札とは、幕府や藩の法令などを板に墨書したもので、この板札を掲げる場所を高札場と呼びます。 高札場は、法令などを広く人々に公示するばかりでなく、通行の際には敬意を表させるなど、幕府の権威を誇示する意味も持っていました。 江戸時代のこの場所は、大手門前で東海道が直角に折れて広場になっており、亀山宿の高札場はここに設けられていました。 ここから江戸まで百四里、庄野宿まで二里、関宿まで一里半あります。」旧東海道を更に進む。右に大きくカーブ。次に左に大きくカーブ。敵の進入を防ぐクランク状の旧東海道の『枡形』。再び『屋号札の掲示』案内板。「亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えたまちです。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことをはじめました。屋号で呼び合ったまちの人たちの暮らしには、なぜか親しみを感じます。そして、どのようなしごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業などすべて市民有志によって行いました。今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。(註 屋号は文久3年―1863―当時のもの。)」再び右にカーブ。「江ヶ室交番」を左折し、次を右折した左角に天台真盛宗の『延寿山地蔵院遍照寺』が。右奥に楼門の『遍照寺山門』。『遍照寺の文化財』。「遍照寺は、少なくとも十七世紀初頭には所在していることがうかがえるものの、その開基や由来は明らかではない。しかしながら、寺に伝来する数多くの文化財からは古くからこの地に所在したことが想定できる。○木造阿弥陀入来立像。(県指定文化財)県指定 平成十一年三月十七日来迎印を結ぶ三尺の阿弥陀如来立像で、像高は九九・一センチ。紫麗に整えられた衣文は快慶晩年の作風を継ぐものであるが、大宮のへりの渦文、目尻の切れ上がったやや強い表情や張りの強い面相、やや太目の衣文などから、木像の制作年代は十三世紀第二四半期頃(鎌倉中期)とみられ、快慶の弟子の中でも個性的な行状の作風に極めて近い像として注目される。○木造觀音菩薩坐像‧木造勢至菩薩立像県指定 平成十四年三月十八日本尊の阿弥陀如来立像の両脇侍として須弥壇上に安置される菩薩像である。像高は観音菩薩坐像三O・八センチ。勢至菩薩立像 四五・六センチの小像で、規模・作風から現在の中略とは当初から三尊形式をなすものではないと考えられる。観音菩薩坐像は左膝を立てた競坐像で頭部内面に残る墨書銘から、鎌倉時代中期、建長四年(一三五二)、院派の仏師によってつくられたことが確認された。また、勢至菩薩立像も胎内壁専銘から同年に院春によってつくられたことが確認されている。「阿弥陀如未来迎に伴い飛来する菩薩を坐像(観音)と立像(勢至)に構成した、彫刻による来迎形式として稀な作例で、鎌倉中期に新時代の傾向を摂取しつつあった院派中枢仏師の作風をうかがい得る基準作例として注目される。(市史跡)○大月関平墓江戸時代後期の武芸者。新当流第十一代家元(未指定〉○木造地藏菩薩立像 平安時代前期の一木造。造高一五五センチ。○本堂 旧亀山城二之丸御殿の式台・書院を移築したもの」『天台真盛宗 延喜山地蔵院 遍照寺』寺標。遍照寺の創建年代等は不詳であるが、鐘楼門をくぐると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」 といわれた。左に『地蔵菩薩』。『千手観世音菩薩』。『由緒ある遍照寺』「頭で鐘つく遍照寺」と市民から親しまれた天台真盛宗の古刹で津市の別格本山西来寺の四末頭に数えられでいる。本堂は天保十四年七月、火災で悉皆鳥有に帰した。十八世圓明上人代(明治六年)、豪商佐川源氏氏り発起により、亀山藩二之丸御殿の式台と玄関が移築された現在の本堂はその面影を留めている唯一の建造物である。正面玄閤には石川藩の笹龍胆の家門がそのまま残され、千鳥破風の下り棟には上り亀と下り亀の装飾瓦が対峙して置かれ、郷土亀山のシンボルとして万年の命を寿いでいる。「現し身を本願の海に投げ入れて 遍くぞ照る 吾がおのちなり」草創期は地蔵信仰の寺として栄え、延命地蔵菩薩像(藤原時代作、等身大、彫願、古色、一木造り)が安置されている。また千手観世音菩薩の信仰も篤く、お盆の十日観音には払暁の参拝者い多い.別堂には、金毘曜大権現が、交通安全の紙として、その右側に、はくさ明神が、百日咳、治癒の神として信仰されている。」『薬師堂』。『慈母観世音菩薩』。『無縁塔』。『五重塔』。『青銅製の真盛上人幼少像』。『宝珠丸真盛上人幼名』。旧亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築した『遍照寺本堂』。本堂に掛かる『延寿山』の扁額。『本堂屋根』。『六地蔵尊』。本堂裏の墓地。『弘法大師二十一像』の扁額が掛かる『弘法堂』。『佐藤定憲歌碑』「現し身を本願の海になげいれて 遍くぞ照る 吾がいのちなり」。御朱印を頂きました。2種類頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.10
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更に湯河原・『石橋山古戦場』にある『佐奈田霊社』の散策を続ける。親子の『狛犬』が参道の階段を上がりきった場所に。左手の『狛犬』は父親であろう。かわいい子供が背中に乗っていた。右手の『狛犬』は母親であろう。こちらは足元に子供を抱き寄せて。表参道の階段を境内から。階段を上がった場所の左右にある石碑。右に明治天皇の第六皇女の常宮昌子殿下の『常宮殿下御手植松』碑。左に明治天皇の第七皇女の周宮房子殿下の『周宮殿下御手植松』碑。住職の話によると、昔は『桜』を『松』と呼ぶ時もあったとのことであるが??境内からの相模湾。扇の如き光の帯が。中央に枯れてしまった『御神木』が。「治承四年八月、義忠公戦士の時、臣家安其の遺骸を埋めて傍らに植えうる処と傳ふ。」『潮音閣』は寺務所か。現天皇陛下の『徳仁親王殿下登山記念之杉』。再び『観音堂』を斜めから。『小田原一聲會』碑。『一聲會』は鳶職の方々による木遣りの会であるようだ。そして『佐奈田霊社』を後にし、『文三堂(ぶんぞうどう)』に向かって車を進める。途中右側にあったのが、『佐奈田霊社』の表参道の階段。『霊社』であるためか、鳥居の姿はなかった。『石橋山古戦場』案内標識。『文三堂』に向って進む。左手にあったのが『佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)』「治承四年(一一八〇)八月二十三日、佐奈田与一義忠は、敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが駆けつけた敵方長尾新六に首を切られ、この地で討死にしたと伝えられる。」与一が敵方の俣野五郎景久を組み伏せた畑は「ねじり畑」として残り、作物が全てねじれてしまうという言い伝えがあるのだと。道路脇には小さな石像が。未だ収穫前の?ミカンが鈴なりに。ここにも『おかめ桜』。下向きに垂れ下がっている小さな花。『文三堂』への階段が左手にあった。階段を上ると正面に『文三堂』。『石橋山古戦場』にあるこの『文三堂』は、石橋山の戦いで先陣を切って戦い討死した佐奈田(真田)与一義忠の郎党陶山文三家康を祀る堂。文三は、主人義忠が討たれると、敵陣に斬り込み8人を討ち取った後、稲毛重成の手勢によって討たれたのだと。扁額の『文三堂』。内陣には墓石が。間口2間×奥行3間ほどの小さな社が覆堂として墓石を保護していたのであった。堂の内部の文三の墓標。刻まれた文字が微かに読めるが風化しているため内容が判らないし、石塔の由来も?後世に建てた可能性もあるのだろうか?そして車で根府川駅に向かう。途中、東海道線を下方に見る。その横に相模湾。東海道線の上り電車が。そして車を降り、相模湾の絶景ポイントに。小田原市街とその奥に大山の姿が。中央に小田原城の天守閣が。小田原城の天守閣をズームで。線路沿いには「撮り鉄」の若者の姿が。30分後に来る踊り子号を待っていると。我々は車に戻り車を走らせる。前方左に真鶴半島・そして三ッ石が見えた。途中、米神・清水川の先で車を駐め、ピンクの桜を見に行く。まだ開花を始めたばかりの蕾の状態。カンヒザクラ(寒緋桜)であろうか?釣り鐘状の花が特徴であろうか。そして再び東海道線沿いに走ると、左手にはまた別の種類の桜の花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道に戻って先に進むと、右手に『和田の一里塚跡』があった。この一里塚は、亀山市内に所在する『野村一里塚』と共に慶長9年(1604)の幕府の命により亀山城主であった関一政が築造したもの。かつては榎が植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、北塚を平成5年に復元したものである。ここは江戸日本橋から数えて104里目、京都三条大橋から21番目(87㎞)の一里塚跡である。「和田一里塚跡野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長九年(一六○四)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。 かつてはエノキが植えられており、昭和五九年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。 現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。」『亀山宿・江戸の道(旧東海道)』「亀山市は、江戸と京、大坂を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。 このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、 野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの 整備を図り東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものである。」「和田道標(市指定文化財)高さ1.37mの花崗岩製の角柱で、正面に「従是神戸白子若松道」と刻まれており、元禄3年(1690)に度会益保によって東海道と神戸道の分岐に立てられた、市内に現存する最古の道標である。 藩政時代の神戸道は亀山城下から亀山藩領若松港へ通じる主要道路であった。」「石上寺古文書(三重県指定文化財)石上寺は、延暦15年(796)に勧請された熊野権現の神宮寺で、朱雀天皇の勅願寺になったと伝えられる古刹である。 建久3年(1192)源頼朝から寺領社殿の寄進をうけ、同5年には将軍家祈願所となるなど、鎌倉から室町時代を通して手厚い保護をうけていたが、織田信長の兵火によって灰燼に帰した。 しかし、後村上天皇綸旨や足利尊氏制札などの古文書20点が遺され、その栄華を今に伝えている。 これらの古文書は、昭和28年三重県文化財に指定された。(非公開)」『栄町』交差点を通過する。『東海道道標 左・三本松 右・石上寺』『従是西亀山宿』。「屋号札の掲示 --宿場の賑わい復活プロジェクト--亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道四六番目の宿場町として栄えたまちです。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことをはじめました。屋号で呼び合ったまちの人たちの暮しには、なぜか親しみを感じます。そして、どのようなしごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業などすべて市民有志によって行いました。今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。注記 屋号は文久三年(1863)宿内軒別書上帳(亀山市歴史博物館蔵)によりました。史実とやや異なるか所もあることをご了知下さい」『亀山のろうそく工場』が左手に。社名は「カメヤマ株式会社」、前には「亀山ローソク前」というバス停もあった。同社は、1927年にここ亀山で谷川兵三郎が創業、1946年に法人組織となり、現在大阪市に本社を置く蝋燭専門企業である。亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、蝋燭の国内シェアは約5割、社名は創業地の名称に由来する。スパイラルキャンドルを生み出した国内最大手メーカーであり、かつ、世界有数のキャンドルメーカーでもある。創業地・亀山市を中心に本社工場を設け、ローソク及びキャンドルの専門ショールームを併設。1995年にキャンドルを中心とした生活雑貨を扱う専門部署をキャンドルハウス事業部として設立。東京・青山に事業本部を置き、全国7箇所にショールームを設けアロマキャンドルから、様々なキャンドルそして、メッシュ製品などのインテリアアイテムまで幅広いアイテムを取り扱うようになった。結婚式で定番となったキャンドルサービスを1970年代初旬に生み出し、2002年からパーティースタイルウエディングを提唱、その後も様々なウエディングスタイルを発表し続けている。『能褒野(のぼの)神社の二の鳥居』。和田一里塚の先で国道306号線を越えて進むと、右手筋に能褒野神社鳥居が建っている。能褒野神社は、ここから北北東3㎞のところにあり、一帯は前方後円墳で日本武尊が伊勢国能褒野で亡くなったという記録に基づき、明治12年に内務省により 「日本武尊能褒野御墓」 と定められている。全長約90m、後円径54m、 高さ約9mの王塚とか、丁字塚と呼ばれていた三重県北部最大の前方後円墳を日本武尊の墓であると認定し、以後宮内庁が能褒野陵として管理しているのだと。鳥居の下には地元の人が書いた「従是西亀山宿」木札が置かれていた。ただし正式な亀山宿の江戸口門はもう少し先にあった。ここから西が『亀山宿』となる。ほんの僅か進んで打田釣具店の斜め向かいにあるのが『露心庵跡』本能寺の変から2年後の天正十二年(一五八四)、明智光秀や柴田勝家を滅ぼし勢力を拡大する羽柴秀吉に対し、織田信長の次男信雄と徳川家康が手を組み対立を深めていた時代の頃の話。「露心庵跡天正十二年(一五八四)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか十三騎でこれを撃退した。 この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。 関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。 この仏庵が露心庵で、本来の名称を友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。 明治に至り廃寺となった。 この庵から西が亀山宿となる。」亀山宿(かめやましゅく、かめやまじゅく)は、東海道五十三次の46番目の宿場である。現在は三重県亀山市。 城下町であると同時に宿場町であった。亀山は関氏の祖、平実忠が文永元年(1264)城を築いたことに始る。その後城主が変り、延享元年(1744)石川主殿頭が入部し、明治まで続く。宿場でもあり、城下町でもあり、繁栄したといわれるが、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したといわれます。そのため宿場の規模は大きくなかった。本陣 1 脇本陣 2 旅籠 21 『広重 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』。「雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。」亀山宿は露心庵跡から始り、本町に入っていく。旅籠はこの本町と隣の東町に固まっていたと。町並は火曜日というせいでもあるのだろうが、人影がまばらでひっそりとしていた。本町2丁目、3丁目には古い民家もいくらか見ることが出来た。民家の前にあった巨石。『東海道亀山宿 茶屋町 たたみや跡』『東海道亀山宿 茶屋町 しちのすけ跡』『東海道亀山宿 茶屋町 ふじや跡』『東海道亀山宿 茶屋町 さくらや跡』旧家が続く。『亀山本町郵便局』手前の『巡見道』交差点を渡る。「巡見道巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。 巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永十年(一六三三)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や 災害などの実情調査を行う目的で実施された。 巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し中山道とつながる。」右手に『亀山本町郵便局』。さらに旧家が続く。『米川時計店』と書かれた看板。『東海道亀山宿 茶屋町 はなや跡』。連子格子の旧家が左右に。『東海道亀山宿 鍋町 はまだや跡』。更に旧東海道・亀山宿を進む。『東海道亀山宿 鍋町 たまや跡』。『東海道亀山宿 鍋町 きりや跡』と『東海道亀山宿 鍋町 みかわや跡』。本町三丁目『東海道亀山宿 東新町 まつばや跡』。右手に『小菅屋』。道なりに進んで県道566号線に突き当たると、左角に『江戸口門跡』案内板が建っていた。往時は東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を監視していたと。そんな江戸口門跡は鉤手のように鋭角的に折れ曲がる旧街道の角にそれらしいモニュメントが置かれているだけ。「江戸口門跡延宝元年(一六七三)、亀山城主板倉重常によって築かれた。 東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。 曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。 この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。 ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。」東町2丁目を西に進むが人通りはほとんどなしのアーケード街。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.09
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この日は3月6日(金)、テレビのニュースで根府川の「おかめ桜」が満開をむかえていると。コロナウィルスの関係でさくら祭りは中止とのことであったが、旅友のSさんを誘いSさんの愛車で7時に出発し根府川を目指して行きました。途中、国道134号線、相模川手前からは富士山の美しい勇姿を車窓から。正面に標高1,252 mの丹沢・『大山』の姿も。相模川に架かる国道134号の橋『湘南大橋』からの富士山。『西湘バイパス』に入り大磯付近から箱根の山々。『西湘バイパス』下り車線は依然として工事中。国府津付近から。早川ICまで1km。新早川橋交差点を左折して根府川を目指す。前方に東海道本線が。光る海・相模湾。根府川の「おかめ桜」を見る前に、二人共訪ねたことのない『石橋山古戦場』を訪ねることにする。国道135号線から別れ曲がりくねった坂道を進み、東海道線のトンネル上の道を進むと、右手に石碑・『石橋山古戦場』があった。『石橋山合戦』は源頼朝挙兵、最初の合戦。治承4年(1180年)8月20日、源頼朝は挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を討ち取る。その後、相模国へと兵を進める頼朝は、大庭景親率いる平氏方の多勢とこの地で『石橋山合戦』を行なったのであった。『源頼朝挙兵之地 石橋山古戦場』碑。駐車場に到着。『佐奈田霊社 駐車場』。駐車場では『おかめ桜』が迎えてくれた。イギリスの桜研究家コリングウッド・イングラム がカンヒザクラとマメザクラを交配して作出。名前はおかめに由来する。 淡い紅色の一重咲き。花が下を向いているのが特徴である。駐車場に車を駐め、『佐奈田霊社』に向かう。青空に『おかめ桜』の小さな花を見上げる。「石橋山古戦揚と佐奈田霊社この附近は。源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。このとき真田与一は、15騎て豪雄俣野五郎の75騎と戦い両将組討ちとなったが与一が勝ったが俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしたが刃に付いた血が固まり短刀がさやがら抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25オの命を花と散らした。与一の郎党文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には与一塚が 建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。また、その先100mの処には、文Ξを祭る文三堂があるが共に今日県指定史跡となっている。霊社下の畑は、組討ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる。頼朝は。建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両基を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる。」『佐奈田霊社 行事予定』案内板。元旦日ノ出護摩供・・・・・・1月1日~1月3日 例祭日・・・・・・・・・・・毎月23日 護摩供修行・・・・・・・・・随時 祈願別 ぜんそく・せき・のど・家内安全・身体安全・商売繁盛・自動車安全祈願・ 交通安全・その他『史跡 源頼朝 石橋山古戦場 佐奈田霊社』寺社標。佐奈田霊社(さなだれいしゃ)は、源頼朝旗揚げの地「石橋山古戦場(神奈川県小田原市石橋)」にある神仏習合の霊社である。 太古より江戸時代まで、仏教と神道は神仏習合・神仏混淆であった。どちらが上かと言えば仏教(寺)であり、神社の中に寺があった。大きな神社の名前も例えば、鎌倉八幡は「鎌倉八幡宮寺」であり、京都の石清水八幡も「石清水八幡宮寺」と“宮寺”であった。この様な神仏習合・神仏混淆の寺・神社を『霊社』と呼ぶのだと、朝の準備のために境内に居られた住職が説明してくれたのであった。境内へのスロープを上って行った。『のぞみ観音』。『天皇陛下御在位六十年』奉祝碑。『手水場(手水鉢)』。石橋山の合戦で討ち死にした、頼朝方の青年武将佐奈田与一を祀った社とお寺の真言宗東寺派宝寿寺が一緒にあり、比較的めずらしい神仏習合社となつていた。『霊社』の場合、『拝殿』と称しているのだろうか?それとも『本堂』と称しているのだろうか?境内でお会いした住職から聞き逃しました。軒唐破風屋根の正面鬼瓦。紋は「丸に三つ引き」。佐奈田霊社は、三浦一族の岡崎義実(三浦義明の弟)の子・『佐奈田与一義忠』を祭神とするので三浦一族の紋と同じなのであろう。正面軒先に吊り下げられた仏具の一種である『鰐口(わにぐち)』。鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴(すず)を扁平にしたような形。扁額『佐奈田霊社』。『内陣』。ご本尊のお姿は??「ぜんそく、せき、のど・気管支炎等日本唯一の祈願所です」と。佐奈田与一は持病の痰のため、味方からの呼びかけに対し声が出せず、そうこうしているうちに敵に討たれてしまったという言い伝えから、咳・声・のどに霊験があるとされ、芸能関係者も数多く参詣するとのネット情報。また、戦の先駆け=魁の神様(魁秀明神)も奉る。 護摩の祈祷あり。 石王山宝寿寺が管理していると。『観音堂』。扁額『観音堂』。内陣の『十二支御守本尊配置図』。内陣には『十二支御守本尊』が並んでいた。『小田原ふるさとの原風景百選』案内板。5.石橋山古戦場と佐奈田霊社 「「石橋山の合戦」(米神、石橋)は、治承4年(1180)、以仁王の命令を受けて挙兵した 源頼朝が平家方の大庭景親、伊東祐親らと戦ったところ。 佐奈田霊社は、頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与―塚の傍らに建っていて、 与-の戦死の故事に、せき・ぜんそくなどに霊験があると言われている。」『与一塚』・県指定史跡。以仁王の平家追討の令旨によって兵を挙げた源頼朝が石橋山で平家軍と戦い大敗を喫した。このとき頼朝より先陣を命じられた佐奈田与一は、大庭景親の弟俣野五郎景久を組み伏せ刀を抜こうとしたがなかなか抜けず、手間取っているうち敵の応援によって討ち取られたという。与一の亡骸は与一塚に葬られ、その傍らには与一を祀る神社が建てられたのだと。江戸消防記念会『第七区』 創五拾年記念碑。『湘南そろばん塚』。1986年に柏木学園👈リンク により寄贈された『湘南そろばん塚』。『五三七九八八九八〇〇八四六四五』は『誤算なく 速くやれればよろしい』と。即ち正確 迅速が計算の使命なりと。江戸消防記念会『第九区』碑。第九区の纒10本が刻まえれいるのだと。赤く塗られた佐奈田与一義忠の『手附石』。佐奈田与一は大変な力持ちで、石に手を附ければ手形が附くほどであったと。境内には様々な石碑が。『魚藍観音像』。『水子地蔵尊』。『石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂』案内板。「石橋山古戦場は、治承四年(一一八〇)八月二十三日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。ここで、頼朝の軍は平家方の大庭景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、落ちのびました。その後勢力を盛り返し平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠とその家臣文三(豊三)家康(安)を祀ってあるところです。佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎討ちになり、景久を組み伏せましたが、刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際、刀を拭わずに鞘に差したため)、敵方の加勢により討ち取られてしまいました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って壮烈な戦死を遂げました。「吾妻鏡」には、石橋山合戦後の建久元年(一一九〇)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。その後、佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。」 ・・・つづく・・・
2020.03.08
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関西本線・井田川駅を後にし更に旧東海道を南西方向に進む。右手にあったのが『亀山宿・江戸の道(旧東海道)』案内板。「亀山市は、江戸と京、大坂を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として栄えてきた。 このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する亀山城跡、 野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、休憩所、歴史広場などの整備を図り 東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として整備したものである。」「景行天皇皇子日本武尊能褒野御墓日本武尊は景行天皇の命をうけて、大和朝廷に従わない豪族を征伐するために、九州から東北まで転戦した。 東国からの帰路に、伊吹山中にて病をえて能褒野においてついに亡くなられ、埋葬した墓から尊の魂が白鳥となって大和へ飛び去ったと「古事記」「日本書紀」に記され、 明治12年(1879)内務省によって現在の御墓が、日本武尊墓と定められ、現在も宮内庁によって管理されている。 御墓は、かって「丁字塚」と呼ばれた全長90mの前方後円墳で、北勢地方最大の古墳である。 御墓に隣接して、日本武尊、弟橘姫命、建貝児王を祀る能褒野神社と、16基の後期古墳がある。」『旧井田川小学校跡』碑。「大正四年三月七日小田町より移転し、昭和五十四年三月三十一日まで存続した。 此の石ふみは、その門柱の片方である。」ここにはやや面長の「二宮尊徳像」も。1本の門柱と二宮金次郎像が寂しげに置かれていた。国道1号線に架かる歩道橋を渡る。川合歩道橋から見た国道1号線。遠くに錫杖ヶ岳が見えていた。そしてここ「亀山市」は、現在ロウソクの生産が有名だ。歩道橋上に亀とロウソクのイラストとNESWが記されていた。旧東海道を左折して直ぐ右手に、真宗高田派の『廻向山西信寺』があった。左手に『真宗 高田派 廻向山西信寺』寺標。『西信寺本堂』。左手に旧家が。旧東海道を進むと、『椋川に架かる昭和48年(1973)竣工の川合椋川橋があった。川合の地名はこの椋川(むくかわ)と鈴鹿川が合流する土地であることに由来していると。『川合椋川橋』。昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624-44)頃、亀山藩士生田理左衛門が私財を投げうって水流を南に変え、橋を架け替えたので、理左衛門橋と呼ばれた。『椋川』上流を見る。『椋川』。『東海道 亀山宿⇔庄野宿』道標。その先で国道1号線の亀山バイパスの高架を潜って行く。亀山バイパスを過ぎると、程なく右手に『谷口法悦(たにぐちほうえつ)題目塔』が建っていた。 昔から 「川合のやけ地蔵さん」 「法界塔さん」 と呼ばれており、日蓮宗の篤信者谷口法悦が元禄年間(1695-98)に建てたと言われている。 解説板に記載はないが、ここは江戸時代の川合刑場があったところで、その供養のために建てらえたと言われる。「谷口法悦題目塔この題目塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」 と呼ばれている。 総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。 造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。」題目塔の直ぐ先で二車線道路の信号交叉点を渡ると、左手に鉄枠で補強された『和田道標』が建っていた。『元禄三庚午年正月吉辰施主度会益保』の文字が。「和田道標元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。 正面に 「従是神戸白子若松道」、左側面に「元禄三庚午年正月吉辰施主度会益保」と刻まれている。「東海道分間延絵図」(文化年間・19世紀初頭) には、「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」 とあり、 亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な分岐点であった。県内東海道の在銘道標の中で最も古いものである。」正面に『従是神戸白子若松道』の文字が。白子という地名について、藤枝宿にあった白子町と関係があるのであった。時は天正10年(1582)、あの本能寺の変で信長公が光秀に討たれた時、家康公はわずかな供を連れて、堺の見物をしていたのだが、身の危険を感じて堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に逃れたのであった。そして白子の浜師「小川孫三」の助けで家康一行を船に乗せて対岸の知多半島へと運んだのだ。その後、家康公は孫三の恩に報いる為、孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免(伝馬役などの宿場の業務を免除すること)の特権を与えたのだ。孫三は藤枝宿に居住し、町名を故郷の名と同じ白子町とした。現在、藤枝市の白子町は本町と名を変えているが、ご子孫は小川医院を経営しているのだと。『東海道 道標』。県道28号線手前を右に、石上寺方面に向かう。先に進むと左手に、木造の神明系鳥居の奥に『小社』があった。これは通行人による悪疫から子供を守るために祀られたもので、東海道分間延絵図には 「叉具神(しゃんぐりさん)」 と記されていると。ここには竿石が途中で折れた石燈籠や道標と思われる石柱などもあった。再び『東海道』道標。「叉具神(しゃんぐりさん)」 の先で右にカーブして集落の中を進んで行く。街道正面に和田町公民館前の前に建つ『緊急アナウンス塔』が見えて来た。『緊急アナウンス塔』。『和田町公民館』。掲示板には『広重画 東海道五十三次之内 亀山』と『和田町のご案内』が。和田町公民館の斜向かいの細い路地角に「井尻道」と刻まれた『道標』が建っていた。この『道標』は、これまで各所にあった道標と同じで、明治中期に亀山で製糸業を始めた実業家・田中音吉が建立したものであると。『井尻道道標』の先に入って行くと、真宗高田派の『當修山 幸福寺』があった。『真宗 高田派 當修山 幸福寺』道標。『幸福寺本堂』。『鐘楼』。旧東海道に戻ると直ぐ右手に天台真盛宗の『多宝山福善寺』が。右手に『天台真盛宗 多宝山福善寺』寺標。『福善寺本堂』。『聖観世音菩薩』が雨によるレンズの水滴に・・・。桜並木の旧東海道を進む。ここが『和田の坂道』『広重 和田の坂道』歌川広重が東海道亀山を描いたものの一つで、和田の坂道を描いたとされます。右手段上に高野山真言宗の『石上寺(せきじょうじ)』があった。『遊歌詠浄土』と刻まれた石碑。植栽に囲まれた参道の坂を登って行く。『伊勢七福神』のカラフルな幟が。『石上寺本堂』。石上寺は、延喜15年(796)熊野那智社の夢告をうけた大和国布留郷の住人・紀真龍(きのまたつ)により、新熊野三社が勧請され神宮寺として開創されたという。「紙本墨書石上寺も文書石上寺は、延暦15年(796)、大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍(きのまたつ)」により勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。鎌倉時代には将軍家祈祷所となるなど手厚い保護を受け広大な伽藍寺領を誇ったが、織田信長の伊勢侵攻による兵火で、伽藍等を失い衰微したと伝えられる。現在は、後村上天皇綸旨や畠山高国袖判禁制、歳末巻数返事、管領畠山持国室町幕府下知状、正平元年某袖判寄進状など、鎌倉から室町時代の古文書20通(21点)が残されている。これらの文書類は、県下でも数少ない中世文書群であり、当時の石上寺と社会との関係を示す貴重な資料である。」『東海近畿地蔵霊場第5番地蔵堂』。『地蔵菩薩半跏像』。『三重四国八十八箇所霊場石仏』が幟の裏に並んでいた。『弘法大師像』。水子供養仏が並んでいた。『水子地蔵尊』。『仁王護国般若経石塚』。再び『三重四国八十八箇所霊場石仏』。『鐘楼』。熊野三社を祀る『拝殿』。『拝殿』に掛かる『熊野大権現』の扁額。『拝殿』の内部。『三重四国八十八箇所霊場第26番』。『聖観世音菩薩』。『六地蔵』。こちらに『石上密寺』と刻まれた寺標。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日・3月20日に滋賀県水口市への移動の途中に三重県亀山市にある『能褒野神社』を訪ねた。能褒野神社は、御幣川と安楽川の合流点に近接する標高45メートルの段丘端部に所在し、宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている前方後円墳。北勢地方最大規模の古墳で4世紀末頃の築造といわれている。能褒野神社の御祭神は日本武尊で、明治二十八年(1895年)地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため、能褒野陵周辺で神社が創建されたと。『能褒野神社』横の駐車場に車を駐める。 ヤマトタケルの能褒野(のぼの)御墓「亀山市田村町)「能褒野王塚古墳能褒野王塚古墳は、全長90m、高さ9mの規模を持ち、4世紀後半の築造とみられる北勢地域最大の前方後円墳です。平安時代以降、ヤマトタケルの墓の所在地は不明となっていましたが、明治12年(1879)に内務省によって、能褒野王塚古墳がヤマトタケルの墓と定められました。能褒野神社(亀山市田村町)能褒野御墓が定められると、墓に隣接してヤマトタケルを祀る神社創設の機運が高まり、明治18年(1885)に能褒野神社が創社されました。ヤマトタケルのほか、オトタチバナヒメ(弟橘媛)、タケカイコノミコ(建貝児王)が祀られています。また、明治41年(1911)には。式内社の県主神社や那久志里神社などが合祀されています。」『のぼのの森公園』案内板。「古代より伝えられる「日本書紀」や「古事記」によると、景行天皇の皇子日本武尊は東征の帰路に、この地「能褒野」で亡くなり墓が営まれたとされています。その日本武尊御墓周辺の良好な自然環境と四季折々の木々が広がる、のぼのの森公園での散策をお楽しみ下さい。」駐車場横の庭園。小さな滝が。『日本武尊御墓』案内標識。参道正面。『縣社 能褒野神社』社標。参道の階段を進む。『能褒野王塚古墳(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)』「御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高四五m程度の段丘端部に所在する肘方筏円墳である。全長九〇m.後円部径五四m、同高九m、前方部幅四〇m、同高六.五mで、北勢地域最大規模の古墳である。この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から四世紀末頃の築造と考えられる。これらの埴輪は。奈良県北部地域や京都府西南地城との関係がうかがえ畿内周辺地域の勢力が濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件にようてもたらされたものであると考えられよう。日本武尊(倭健命)が東征の帰路に伊勢国能褒野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治十二年(一八七九)内務省によって「景行天皇皇子曰本武尊能褒野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。周囲に十数基の円墳が所在し「培塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる。」石鳥居が見えて来た。左手の『日本武尊 御陵墓 能褒野神社』と刻まれた石碑は転倒して中間から折れていた。左手に『石灯籠』。『左 日本武尊御墓参道』。『二の鳥居』手前。『能褒野神社』「御祭神 記(紀) 倭建命(日本武尊) 建貝児王(武卵王) (元他主神社御祭神) 弟橘比売命(弟橘媛)(元小天宮御祭神) 他三十柱祭礼日 歳旦祭 一月一日 祈年祭 二月十七日 春祭 四月八日 夏祭 七月八日 例祭 十月八日 新嘗祭 十一月二十三日神紋 三樫葉 沿革 明治十二年 宮内省、同地の丁字塚古墳(一名、王塚)を日本書紀が記す日本武尊能褒野陵 (『延喜式』諸陵寮能褒野墓)と決定 明治十六年 神宮祭主久邇宮朝彦親王より能褒野神社と社號が選定され、これを聞食された 有栖川宮、山階宮、小松宮、伏見宮、北白川宮、閑院宮、梨本宮、華頂宮より 金幣を賜る。 明冶十七年 能褒野神社創立の許可を得て社殿並びに境内の新設に着手。 明治二十八年 神社創立事業が完了し、神宮祭主賀陽宮邦憲親王より御霊代並びに金幣を賜リ、 御鎮座祭を斎行。 明治三十八年 天皇陛下、日露の役戦勝の御親告のため神宮行幸の折、勅使を御陵へ遣わされ、 勅使は当社へも参拝。能褒野神社創立に閲する詳細を陛下に復奏するとの 御言葉を賜る。 明治四十一年 延喜式内社の縣主神社、那久志里神社、志婆加支神社をはじめ、村内の 四十余社を合妃。 明治四十四年 神宮司廳より賜った皇大神宮撒下御用材を用いて本殿を築く。 大正十四年 縣社に昇格。十月の縣社昇格奉告祭斉行の折、秩父宮、高松宮、伏見宮、 閑院宮、東伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、 北白川宮、竹田宮より御鏡餅料を賜る。 大正十五年 能褒野保勝会、亀山駅前に大鳥居を建立。久邇宮邦彦親王より能褒野神社の 御社號書が寄せられ、この書を扁額として大鳥居に掲げ奉る。 昭和二十二年 宗教法人能褒野神社に改組され今日に至る。」更に参道を進む。『手水舎』。『拝殿』が見えて来る。『連理の榊』。『拝殿』。扁額『御祭神 日本武尊 能褒野神社』。『那久志理神社』石鳥居。元々の祭神は、長白羽神・瀬織津姫命だったようです。天白信仰+滝・川の浄化の女神信仰、もともとの土地神信仰とのこと。『延喜式 那久志理神社』社号標。『社務所』には「亀山警察署警察官警備詰所」東屋であろうか。蝋梅であろうか。『能褒野神社 飛地ほ号 宮内庁』。案内が全く無かったため、肝心の『 日本武尊能褒野御墓』を訪ねる事が出来ませんでした。よってネットから。『 日本武尊能褒野御墓』の拝所への階段。 【https://travelog-jpn.blogspot.com/2013/03/blog-post_28.html】より『 日本武尊能褒野御墓』。 【https://ameblo.jp/kakeifu/entry-12162627509.html】よりそして『能褒野神社』を後にして車で進むと『能褒野神社』に明治41年に合祀された那久志里神社の旧地は能褒野神社入口の道路を挟んで東300mにあり、『奈具志里神社跡』、『東荒寺跡』と刻まれた石碑が建っていた。『奈具志理神社跡』、『東荒寺跡』碑。祭神:長白羽神・瀬織津姫命 『奈具志理神社』は伊勢国・鈴鹿郡鎮座とされる式内小社で、長白羽神は麻を育て青和幣(あおにぎて)を織った神。『倭建命碑』と『水乃神の碑』。『鳴呼英雄 倭建命之碑』。『水乃神の碑』。倭建命之碑と弟橘媛を祀る陰陽石の水乃神が。那久志里神社の祭神・織津姫命は水神で走水で入水した弟橘媛に繋がります。また付近は安楽川にあまりにも近い場所で、この川の水害で水神にも繋がっているのだと。「倭建命(ヤマトタケルノミコト)之碑【御由緒】倭建命は、今からおよそ千六百年前に活躍された人で、当時の天皇(父親)の命令で日本の各地へ遠征し、国内の戦乱を平定されたとされる古代の英雄であり、その神話は今でも人々に永く伝えられています。東北地方の戦乱を平定された後で、故郷を偲んで和歌を詠まれ、能褒野の地でその短い生涯を閉じられました。尚、倭建命が東北の地に遠征した時、その地に子孫を残されて、その子孫が何年かの後、天狗の姿に身を変えられ亡き父(倭建命)のお墓がある能褒野に辿り着き、その後此の地に住み着かれ原家の御先祖様になられたとのことです。水乃神の碑【御由緒】此の碑は、倭建命の妻であった弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)をお祭りしています。弟橘比売命は夫の倭建命が遠征の時、荒れ狂う海に自ら飛び込まれて、荒海を鎮め夫を助けられたとされる神話が永く伝えられています。この神話が水にまつわるとのことで、水乃神様として倭建命の側にお祀りしました。」そして車に戻り進むと右手にも『延喜式内縣主神社』と刻まれた石碑も。左手には『のぼのの森公園』石碑。そして次に訪ねたのが鈴鹿市広瀬町にある『国史跡 伊勢国府跡』。国府は、古代の 60 あまりの国ごとに置かれた古代の役所。現在の三重県の伊賀地方、志摩地方を除く大部分が伊勢国(いせのくに)。現在の県庁所在地にあたる国府があったのがここ鈴鹿市。鈴鹿川中流北側の河岸段丘上にある長者屋敷遺跡と呼ばれる場所からは、古代の瓦などが大量に出土し、発掘調査から政庁跡や官衙(かんが=官庁)と思われるの遺構が多数確認され、伊勢国府跡と認定されたのだと。『伊勢国府跡 』1992(平成 4)年から鈴鹿市教育委員会が続けてきた発掘調査の結果、鈴鹿市広瀬町 ・ 西冨田町にまたがる長 者屋敷遺跡から、政庁・官衙群が確認されて奈良時代中頃の伊勢国府であることが確認されました。その成果を受 けて 2002(平成 14)年 3 月 19 日に矢下地区の政庁跡と南野 ・ 長塚地区の官衙群の計 3 か所 73,940㎡が国の史 跡に指定された。『伊勢国府政庁跡』案内図。「伊勢国府政庁跡政庁は、中央政府から派遣された国司を中心に、儀式や饗宴などが行われていた国府の中でも最も格式の高い施設です。伊勢国府の政庁は、正殿・後殿・脇殿・軒廊などからなり、周囲には東西約八〇メートル・南北一一〇メートルの築地塀を巡らしています。政庁の建物はすべて瓦葺礎石建物で、その配置や大きさは近江国庁によく似ています。正殿・後殿・脇殿の基壇は、今も森の中に一メートルほどの高まりとして残っており、全国的にも貴重な遺構として保存されています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.07
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西富田の『川俣神社』の先は『安楽川』で、江戸時代は平水時は土橋、出水時は徒歩渡しであったと。現在、その道は消滅しているのであった。現在の橋を渡る。橋の名は『和泉橋』。川の名は『安楽川』。400~500m先で鈴鹿川に合流しているのであった。橋の袂で、立ったまま暫しの休憩をする旅友。橋の麓から振り返ると、飛行機の姿が。ネットで調べてみると、鈴鹿市西冨田町の中古建設機械販売店の中にそびえ立っているのだと。コンベア240という機種だそうで、機械販売店の社長がバラバラになっていたものを組み立てたと。台座が見えなければ、超低空飛行に驚くことマチガイなし。『和泉橋』を渡る。『安楽川』上流域。鈴鹿山脈南部の安楽峠に源を発しているとのこと。安楽峠の名の由来は、高低差が少なく楽に越えられた、ということからだと。河原の砂が白っぽく、美しかった。上流は、花崗岩や珪長質の凝灰岩が多いのであろうか。堤防の上を暫し歩き、昔からの旧東海道は下道に。鈴鹿市和泉町の旧東海道を西に進む。直線の街道がやや右にカーブする所の右手筋両脇に『自然石の道標』と『角柱の道標』が建っていた。『自然石の道標』には、『右のゝぼ』の文字が確認できたが『り道』文字は何故か?地中に隠れていたのであった大正3年(1914)の『角柱の道標』。「のゝぼり」 は 「野登」 であり、安楽川上流にある真言宗御室派の鶏足山野登寺への道であると。左手前方に御堂が見えた。『地蔵堂』。中には『聖観音菩薩と思われる石仏』が。この時期の南天、千両の実?のついた花々等が奉納されていた。連子格子の旧家がここにも。先へ進んで、街道が下り坂に差し掛かる右手段上に石碑があった。『故歩兵中尉勲六等功五級磯辺照博碑』の文字が。『地福寺』の手前には『観音堂跡』があり『旧観音堂の鬼瓦』や『明治天皇御小休所碑』もあった。『旧観音堂の鬼瓦』。『明治天皇御小休所碑』。「明治13年(1880)7月13日陸軍大演習御統監の際」と書かれていた。『和泉橋』橋柱。そして『旧観音堂』の隣に浄土宗の『極楽山地福寺』があった。「小田町寺社の由来鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修業せし処といわれている。 当時は、七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。永禄11年(1568)織田信長の戦火に遭い焼失。観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延寶5年(1677)に建立され、 中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、その両翼には後に江戸の鈴木市郎ヱ門が東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔う為に、 元禄12年(1699)に西国三十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され 東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただき、 また毎月17日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。 毎年8月17日は盛大に盆おどりを行い、近郷より人出も多く現在もにぎわっている。毘沙門堂は、身丈1m60㎝の青銅造り毘沙門天をまつり福徳をさずける、七福神の一つとしても信仰を集めている。9月20日の縁日には、昔は踊りもあって、にぎわっていたと伝えられている。堂内には鎌倉時代の作といわれている青面金剛も安置され、その昔庚申さんとして広く庶民の信仰の対象となっていた。寺宝として江戸時代初期の二十五菩薩像も伝わっている。」『極楽山 地福寺』寺標。『地福寺本堂』。その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修業したところと言われている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されているのだと。『本堂』の屋根の主棟には『極楽山』と瓦で表示されていた。『本堂』に掛かる『極楽山』の扁額。『毘沙門堂』。御堂内の『毘沙門天』。『水子地蔵菩薩像』。左『観音菩薩座像』と中央『地蔵菩薩』その脇右に『宝篋印塔』。『百度石』。『五立明神』。地福寺のところから県道641号線に合流。その先で関西本線の踏切を渡った。踏切手前のY字路の手前で鈴鹿市から亀山市に入ったのであった。亀山市の汚水マンホール蓋。「亀山城多聞櫓」と亀山市の花である「花しょうぶ」をデザイン。直ぐ先の三星電気商会の向かいの筋角に観音堂(ほぼ台座のみ)があり、ここを入って行くと曹洞宗の海善寺があったがこの日は訪ねなかった。そして更に進むと、左手の大きな玉石塀、庭木も見事に配置された立派な民家があった。しかし、この立て札が。路地に入った先の民家入り口から。どの様な事情で『売物件』になってしまったのだろうかと想いを巡らせたのであったが・・・。そして関西本線の『井田川駅』前に到着。『東海道道標』井田川駅 庄野宿 ← → 亀山宿。『井田川駅』と駅前ロータリー。駅前ロータリーの周りには、東海道道標、東海道イラスト案内、日本武尊像などがあった。『日本武尊像』。この駅から遠くない亀山市田村町に日本武尊の陵墓と伝えられる古墳があり、明治28年(1895)能褒野神社が創建されているのだと。『ヤマトタケルとオトタチバナヒメヤマトタケルは「古事記」「日本書紀」に登場する伝説上の人物で、景行天皇の皇子オウスがその人ある。天皇の命により九川や東国に赴き、天皇に従わない者と戦った。東国からの帰路、大和国(やまとのくに 奈良県)へ向かう途中「ノボノ 亀山市北東部周辺」で亡くなり陵墓が造られた。ここから北西へ約2kmの地にある能褒野王塚古墳(のぼのおおつかこふん 亀山市田村町)がヤマトタケルの墓とされ、宮内庁が管理している。ヤマトタケルの妃であるオトタチバナヒメは、共に東国へ赴く途中、三浦半鳥(神奈川県)から 房総半島(千葉県)へ渡る海路(走水の海)で荒れ狂う海を鎮めるため、海中に身を投げたとされる。オトタチバナヒメの死を悼んだヤマトタヶルは東国を離れる際に「吾妻はや」(ああ我が妻よ)と嘆いたことから、関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったとされる。なお、このオトタチバナヒメについては、亀山の忍山神社の祠官オシやマノスクネの娘であるとの伝承が当地に遺されている。」『国偲歌』「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとうるわし大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 大和うるはし」『大和タチバナ記念植樹』碑も。井田川駅周辺地図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『女人堤防碑』の先を進み、次の集落・中富田に入ると、前方左手に石鳥居が見えて来た。ここは『川俣神社』で境内脇に『中富田の一里塚跡』があった。中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。常夜燈が左手に。「中冨田一里塚一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。江戸日本橋を起点として、36町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。 享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに 「御馳走場」 と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、 現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。 この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。」『史跡 中富田一里塚跡』碑。石鳥居の右手。『式内 川俣神社社標』。「中冨田一里塚中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。 享和3年(1803)に作成された 「東海道亀山宿分間絵図」 には、中冨田村川俣神社の東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。 大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。」『従是西亀山領(領界石)』。そして『川俣神社』の石鳥居。『御神木』スダジイ。『川俣神社拝殿』。石造物が布で覆われた小社。『山神』。そして再び旧東海道に戻り、西に進む。街道を先に進むと、右手に天台真盛宗総本山西教寺末寺の『富光山常念寺』の『山門』があった。「富光山常念寺承応年間(1652-54)智詮和尚の開基とされ、本尊は阿弥陀如来である。 当時は、現在地にはなく別の場所にあったが、安政元年(1818)の大地震により倒壊した。 その結果、同じ村内にあって倒壊をまぬがれた平建寺を買収して現在地に移転した。 平建寺は山号を白浪山と号し、高野山真言宗の寺であった。 本尊は延命地蔵尊であり中冨田町の氏仏として信仰され、地蔵堂に祀られている。 毎年地蔵盆には町民が集い、初盆灯籠焼き供養など盛大な会式が執行されている。平建寺から伝わる「不許魚肉五幸入門内」「白浪山平建寺」の石柱が残っている。 明治32年宇田川妙教上人の発願により、鐘楼堂が建立されたが太平洋戦争の時代に軍の命令により供出を余儀なくされ、永年村人に親しまれた鐘の音は止んだ。 梵鐘のなくなった鐘楼堂は、昭和19年の東南海地震で倒壊し、土台石を残すのみとなった。 現在地は麻生はつの遺志により、隣地の屋敷跡の寄進を受け拡大されたが、その功績を後世に伝承するため境内に「麻生はつ屋敷跡」の碑が建っている。昭和48年、檀信徒の熱意により誓吽上人代に現在の本堂が新築され、また平成3年には、地蔵堂と山門が新築され現在に至っている。」『常念寺本堂』本尊阿弥陀如来を祀る。多くの方々の戒名が刻まれていた『慰霊碑』。こちらは『軍人の慰霊碑』であろうか、『地蔵堂』。『真言宗白波山平建寺本尊 延命地蔵尊』の標柱。境内の石庭の中の石碑群。『本堂建立並地蔵堂修築發願銘記』の文字が。平成3年に新築された『鐘楼』・「かねつき堂」。『かねつき堂再建記念碑』。『「正覚大音響流十方」浄土宗の経典としている『無量寿経』巻上の「正覚大音響流十方」⇒「正覚の大音ひびき十方に流る」から出ていると。大音は大きな音と言うことで念仏の声を意味しており、念仏の声が響き流れて、多くの迷える人たちを救い、正しい覚りを得させ、極楽浄土に生まれさせたい、と言う願いがこめられているのだと。「一切の生きとし 生けるものは 幸福でれ 安穏であれ 安楽であれ」とも。『旧鐘楼堂4本柱礎石』。明治33年鐘楼が建てられたが、昭和18年(1943)に太平洋戦争のため梵鐘が供出され、昭和19年の東南海地震により倒壊したと刻まれていた。『常念寺 境内』。常念寺の脇の旧東海道のT字路。カメラの自動露出が可怪しくなっていた?民家の庭先の蝋梅の花。民家の塀の上には棕櫚や芋蔓で造った鳥の置物が。先に進んで西富田の集落に入ると、右手に真宗高田派の『金光山福万寺』があった。『鐘楼』。『本堂』。福万寺は、文永11年(1274)常照師により常照寺として開創され、天台宗に属していたが、寛文元年(1661)本山専修寺第14世堯秀上人の教化により真宗高田派に改宗し、福万寺と改めた。再び旧東海道に戻る。『福万寺』から70~80m程先の十字路右角に道標が建っていた。この道標は、田中音吉の寄付により建立された道標で、『ひろせ道』 と刻まれていた。そして前方に、『安楽川』の堤防そしてその手前左側には神社が。『安楽川』の堤防手前に西富田の『川俣神社』がここにも。庄野宿・中富田に続き3社目の川俣神社で、ここも 「式内川俣神社」 の社標があり、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社であると。昭和47年(1972)の石鳥居。『手水舎』。手水石は巨石を彫り込んで。昭和10年(1935)の旧和泉橋(いずみはし)親柱、その先に慶應3年(1867)の『常夜燈』。昭和10年6月竣功の文字が。『川俣神社拝殿』。拝殿に掛かる『延喜式内川俣神社』の扁額。『拝殿内部』。『無上冷水井跡』碑。織田信長の三男・神戸城主の織田信孝が愛飲したと伝わっているのだと。『國土地理院標石 東経136度30分26秒』。おそらく、右面には、緯度が北緯・・・・と記載されていたのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧家が目立つ庄野宿の旧東海道を進む。前方右手、床屋さんの店先にある赤・青・白の三色のクルクル回る看板の横に立札が。脇本陣跡から3軒程先の理容伊藤が『郷会所跡』であり、壁に比較的新しい案内板が貼られていた。「郷会所跡郷会所は助郷の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。江戸時代も後期になると助郷人馬の割当てが多くなり該当の村々の疲弊が重なり、減免陳情のため会合が繰り返された。庄野宿資料館には陳情書の控え等が保管されている。」「肝煎(きもいり)」という役職があった事を初めて知ったのであった。更に先に進み路地を右に入ると、正面に真宗仏光寺派の『常楽寺』があった。『常楽寺 山門』。『本堂』。『本堂』の龍の透かし彫り。『鐘楼』。常楽寺から程なく、右手にあったのが『川俣神社』。旧東海道に面した社標に『延喜式内川俣神社』とあるので、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。天保15年(1844)の対の常夜燈も参道入口に。境内には、昭和44年に三重県指定天然記念物に指定された推定樹齢300年のスダジイ・椎の木があった。大正6年(1917)の『一の鳥居』と左に『吽形の狛犬』。『御神橋』と『二の鳥居』。『川俣神社拝殿』。推定樹齢300年の『スダジイ』。「川俣神社のスダジイスダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏に雌雄の花をつけ、果実は小粒でかたい。この樹は高さ11m、地上の幹回り約5mの巨木である。」地上の幹回り約5mの巨木であると。旧東海道の住宅街を進む。さらに先に進むと十字路角に『庄野宿碑』が建っており、この辺りが庄野宿の西口になるようであった。『東海道 庄野宿』碑。庄野宿を出ると国道1号線に突き当たった。かつての旧東海道は直線状---に道があったが、国道1号線と県道637号線が通っているため、案内図に従って―の道をを国道1号線のガードを潜り、その先で県道637号線のガード潜り抜けて迂回して行ったのであった。案内に従い進む。正面の国道1号線に向かって歩く。高架が県道637号線です。迂回路を抜けると、右から回り込んできた道と合流し、旧道に復帰した。鈴鹿市農村集落汚水配管のマンホール蓋。水のきれいな川でしか産卵、生息しないなど、川にトンボが飛んでいる事で清流をイメ-ジし生活環境の整備と美しい自然を守っていこうという思いが込められているのであった。先に進んで、街道がやや右にカーブするところの左手筋角に、「平野道と刻まれた大正3年(1914)の『道標』があった。その手前に新しい『平野道道標』があり、「いぼとり地蔵この奥50m」とある。南の鈴鹿川を渡ると「平野町」という町がある。そこへ行く道なのであろう。奥に入って行くと突当り右手に地蔵堂があり、汲河原のいぼとり地蔵尊が祀られていた。鈴鹿川堤防に向かって進む。鈴鹿川堤防脇の『地蔵堂』。「汲川原のいぼとり地蔵この地蔵菩薩像がいつ頃、どの様にして祭られるようになったかは不明である。古来、鈴鹿川左岸堤防南側の平野道で、道標の「お地蔵さん」として露天に立っていたものを、この地に移され地蔵堂が作られたと伝えられている。昔より、いぼと眼病に効くと伝えられ、地域の信仰を集めており、今も遠方よりお参りに来る人も多い。毎年8月には、地区で地蔵盆が行われている。」『いぼとり地蔵尊』。道標のようで、文字が刻まれているが判読できないのであった。漢文で刻まれた『地蔵尊碑』。「惟に地蔵菩薩は六道受苦の衆生の苦を抜き楽を与え給うなり古き友人医師甫元先生自ら恒に篤く地蔵菩薩に帰依し此の功徳を一切に普及する為当尊像を造り奉る仍て之を永久に伝える為有志の者相図り此の碑を建設するもの也昭和7年(1932)秋彼岸日 法印 宥圓書」の意が刻まれているのだと。そして旧東海道に戻り進む。左手に寺の屋根が見えたが、通り過ぎたことに気づき戻る。路地の先に浄土真宗本願寺派の『富田山真福寺』の『山門』が。『浄土真宗本願寺派 富田山真福寺』寺標。『鐘楼』。『真福寺 本堂』『経堂』であろうか。扁額には『???』境内の『勸学實性院釋達立』碑。真福寺の先で集落が途絶えると、小川の手前右手に、『従是東神戸領』と刻まれた継接ぎをした神戸領界石が建っていた。傍らには、『山神碑』、文化10年(1827)の『手水石』、『常夜燈』などもあった。三重県の鈴鹿山脈の麓では集落ごとに碑を建て、『山の神』を祀っていたと。この石碑もその一つだと。『神戸領界石』の向かい側に『女人堤防碑』が建っていた。この辺りは鈴鹿川と安楽川の合流点で、度重なる氾濫により被害が続き、文政12年頃、神戸藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強したところである。『女人堤防碑』。『女人堤防碑』の碑文をズームで。「女人堤防碑文この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、安全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人名を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の訴願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に耐え難く、如何なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による赦罰の早馬駆け来たり既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ」明治33年(1900)の『神戸領界石』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日2020年1月21日(火)は『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日を入れて3日目の朝。そして日本橋をスタートして27日目(移動日を除く)の『旧東海道を歩く』の日。この日も早朝起床して朝食会場に。ホテルのフロント横で朝食会場のレストランのオープンを待つ。フロントロビーに掲げられていた『花魁(おいらん)』の姿絵。海外に移住し現在はオーストラリアに居住しており展覧会もほとんどが海外で開催されている「森田春代」氏の作品か。立派な絨毯も壁に。朝食は和風をオーダー。そして6:50過ぎに、車はホテル駐車場に置き、この日の「旧東海道を歩く」のスタート。『平田町駅』前のタイヤの如きモニュメント。駅から鈴鹿サーキットまでは距離にしておよそ3.5kmなので、鈴鹿サーキットのF1車をイメージしたものか?それとも近くにタイヤ工場があるのか?HONDA鈴鹿製作所があるのは解っていたが。台座の下にあるプレートの確認を忘れました。時間は6:35、雨がポツポツと。ホテルルートイン鈴鹿の手前の路地を斜め右に入り、ひたすら鈴鹿川を目指して歩く。そして鈴鹿川の堤防に突き当たり『庄野橋』に向かって進む。ここは鈴鹿川の河口より13km上流の場所であると。『しょうのはし』。『庄野橋』の歩道を渡る。、『庄野橋』を渡り国道25号線の歩道橋をさらに渡り、旧東海道の1本鈴鹿川沿いにある路地を庄野宿入り口にむかって進む。右手にあったのが、臨済宗東福寺派の『妙法寺』。『妙法寺 山門』。『妙法寺 本堂』。妙法寺の創建年代等は不詳であるが、境内には五輪塔の一部などの石像物があると。また、毎週日曜日の朝に座禅会が行われているという。『鐘楼』。『位牌堂』か?『萬霊塔』。そして旧東海道に突き当たり、左折すると、そこは『庄野町西』交差点。ここが『庄野宿入口』。『旧東海道 庄野宿~石薬師宿』案内マップ。マップを見ながら、前日に歩いた道を振り返る。赤太線ーが現存する旧東海道、赤点線---が今は失われた旧東海道の代道であると。『庄野宿』案内板。「庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。 他宿にくらべ宿立ては遅く、寛永元年(1624)といわれている。この宿は、「草分け36戸、宿立て70戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ70戸で宿立てをした。 南北八丁で宿入口の加茂町中町上町からなる。歌川広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている。」『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』。庄野で描かれた「白雨」は、東海道全五十五枚中三大役物のひとつに数えられ、歌川広重全作品の中でも最高傑作と呼ばれているのだ。「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写。強風に揺れる遠景の竹薮を、輪郭線の無い二重のシルエットにして奥行きを出し、降る雨の角度を変えるなど、技法的にも新たな試みをし、成功していると。『東海道庄野宿碑』。旧東海道・庄野宿を進む。先に進むと、黒板壁の家や連子格子の家などがあり、街道の面影を偲ばせていた。雨が止みそうで止まなかった。庄野宿に入って間もなく、左手に真宗高田派の『筧口山善照寺』があった。『善照寺 山門』。山門に掛かる善照寺の扁額も見えた。『鐘楼』。『本堂』。善照寺は、長禄年間(1457-60)に平田地内筧口と称する所に、善正法師が善照寺を開基した。初めは天台宗であったが、高田派第10世真慧上人の教化により真宗高田派に改宗したと。盆行事の一つの庄野大念佛は、鈴鹿市無形文化財に指定されているとのこと。『本堂』に掛かる『善照寺』の扁額。『善照寺』から100m程進むと、鈴鹿市指定文化財となっている『旧小林家住宅』が左手に。ここにも『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』が。「天領である庄野宿は寛永元年(1624)に設置。本陣・脇本陣各一、旅籠十五軒、五十三ある宿場のうち最も遅かった。「草分け三十六戸・宿立七十戸」対岸の集落を移動させ宿立七十戸とした。」『旧小林家住宅』は、現在、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、『庄野宿資料館』として使用されている模様。早朝スタートもよいが、開館されていないのが問題なのであるが。館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料や地域に残る民具、農具、日用品などが展示されているのだと。建物前に建つ『鈴鹿市指定建造物旧小林家住宅』碑。『旧小林家住宅』を振り返る。旧小林家住宅から20m程先、右手に『問屋場跡』が。「問屋場跡問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)馬差各4~5名が半数ずつ交替で詰めた。主な任務は公用書状の継立、往来者の要望に応じて人足・馬の割振り、助郷村々への人馬の割当て、賃銭・会計であった。」更に庄野宿を進む。道路脇のマンホール。鈴鹿の峰々から湧き出た清水が川となって緑の野を流れ、白砂青松の伊勢湾まで注ぐ様を表しているのだと。右手の庄野集会所前に『庄野宿本陣跡』があった。『庄野宿本陣跡碑』石碑の側面には「庄野宿は東海道五十三次の45番の宿場で、寛永元年(1624)に設置された。 本陣は沢田家で間口14間一尺、奥行21間一尺、面積229坪7合、畳数197畳半、板敷44畳半あった。」と刻まれていた。そしてポストの横には『距津市原標九里十九町』と刻まれた道標も。「石薬師へ壱里一町 亀山へ弐里三町 庄野村」と。庄野宿脇本陣跡の左筋の角に『高札場跡』があり、案内板も。また、高札場跡の立札が建っている家が庄野宿『脇本陣跡』であり、玄関上の軒下に案内板が。脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に利用された。大名や幕府の重臣が本陣に泊る時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の名望家が選ばれることが多かった。庄野宿では、本陣隣の楠与兵衛家が脇本陣であった。「高札場高札場は、法度掟書などを書いた 「高札」 を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。 庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。庄野宿資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『御曹子社』の鳥居の向かいの筋を60m程進むと右手に石薬師の『蒲桜』が。『石薬師の蒲桜碑』。右後ろには『可婆左久良碑』も。『石薬師の蒲ザクラ』「この桜は、ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。赤茶芽、花は一重の五弁、直径5㎝、白色から淡紅色で、開花時は見事である。伝説によれば、寿永(1182-84)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、 鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。 そのため、俗に「逆桜」とも言われている。」『佐佐木信綱歌碑』「ますらをの 其名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春に」例年の花の見頃の3月下旬~4月上旬になれば。 【https://tabi-mag.jp/me0245/】より旧東海道に戻ると、歌碑の番号が44と大きく飛んでいることに気づき、二人で旧東海道を『石薬師寺』方面にしばし戻り歌碑を撮影する。41.どっちにある、こっちといへば 片頬笑み ひらく掌の 赤きさくらんぽ42.花さき みのらむは知らず いつくしみ 猶もちいつく 夢の木実を43.春ここに 生るる朝の 日をうけて 山河草木 みな光あり44.ますらをの 其名止むる 蒲桜 更にかをらむ 八千年の春にそして再び旧東海道のなだらかな坂を下る。45.かぜにゆらぐ 凌秤花 ゆらゆらと 花ちる門に 庭鳥あそぶ46.道とへば ふるさと人は ねもころなり 光太夫の碑に 案内せむといふ47.六つに越え 九つにして 蛉鹿山 ふたたび今日は のぼりけるかな(八歳作)48.投げし魅の 一つを囲み かたまり寄り おしこりおしもみ 鯉の上に鯉そして前方に橋が見えて来た。『蒲川橋(かまがわはし)』。流れる川は『才石川』。『蒲川橋』の渡り詰め左手に石薬師宿碑と 「信綱かるた道」 の最後第50番目の短歌 「生家にゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉せしか此の甲斐川を」 があった。そしてその奥にあったのが『石薬師の一里塚阯』碑。ここは江戸日本橋から数えて102里目の一里塚跡である。『東海道石薬師宿碑』。『道標と石薬師案内』。「これより北 石薬師宿 信綱かるた道』1.8㌔の間に信綱かるたの短歌50首を掲示している。 途中、石薬師寺(信綱・西行・一休・芭蕉等の歌碑句碑など)、蒲冠者範頼社・蒲桜、浄福寺(弘綱記念碑・幸綱歌碑)、佐佐木信綱記念館、本陣跡、地蔵堂などがある。」『佐佐木信綱短歌』の最終50番目。「生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川を」49.呼べど呼べど 遠山彦の かそかなる 声はこたへて 人かへりこず50.生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川を町内安全と刻まれた『石燈籠』と『石薬師の一里塚阯碑』。「石薬師の一里塚信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎を植えさせたという。〔一町は約109m〕家忠日記には、慶長9年2月(1640)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を36町に改めたという。「くたびれたやつが見つける一里塚」 (江戸時代の川柳) 」 。蒲川橋の先の直線の道は途中で消滅しているため、一里塚跡前を左折して、『関西本線のガード』を潜って行く。一面の田園地帯に出る。関西本線のガードを潜ると正面に道標があり、庄野宿方面へ左に田圃を見ながら進んで行く。道なりに進んで行くと、左手に先程あった道標と同じものがあり、ここを右折して国道1号線の地下道を潜って行く。国道1号線の地下道を潜り、左折してその先で小川に架かる橋を渡って進んで行く。そして国道1号線に合流した。国道1号線を進む。更に国道1号線の歩道を『加佐登町』に向かって進む。この日の『旧東海道を歩く』はここまでとし、国道1号線とは別れ、『加佐登駅』に向かって『関西本線』の踏切を渡る。そしてこの日のゴールである『加佐登駅』に到着。時間は予定よりかなり早い13:20。関西本線・名古屋方面の時刻表。昼間は1時間に1本の電車。加佐登駅周辺の『名所案内』。『加佐登』。近くの三重県鈴鹿市にある加佐登神社は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を主祭神とし、古くは、御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれていた。この御笠殿(みかさどの)が『加佐登』の名の由来のようだ。13:34発の名古屋行きに乗り、JR四日市駅を目指す。そしてJR四日市駅に20分程で到着。JR四日市駅周辺の『みなとまち歩きマップ』。そして、脚の痛みもありバスにて近鉄四日市駅に向かう。中央通りのバスの車窓からの婦人像は誰?そしてホテルに戻り、旅友の愛車に乗り、この日のホテルである、近鉄鈴鹿線の終点駅である『平田町駅』近くにあるホテルに向かう。途中、若き頃仕事でお世話になった協力会社に立ち寄り、営業担当の方と会長に面会ししばしの思い出話や現在の工場の仕事の内容についてしばし歓談。そしてこの夜は、営業担当の方と久しぶりに夕食をご一緒することに。ホテルに到着し、暫し休憩していると、車で迎えに来てくださったのであった。そしてこの日の店へ。平田町にある『焼肉 一升びん』へ。まずはビールで久しぶりの再会を乾杯。厚手の松阪牛。松阪牛の焼き肉を、しこたまご馳走になったのであった。ホルモンも美味。仕上げは『ユッケジャンクッパ』をこれでもかと。ご馳走様でした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『瑠璃光橋』の渡り詰め右手に、真言宗東寺派の『高富山瑠璃光院石薬師寺』があった。この標柱から入って行くと『裏門』があり、街道を進むと右手に表門(山門)があった。次の「旧東海道を歩く」の移動日・2月20日にも再び『石薬師寺』そいて周辺に立ち寄りましたので、この時の写真も今回一緒にアップさせていただきました。『瑠璃光院高富山石薬師寺』と書かれた寺標木札。『裏門』から境内に入り石段を下る。『石薬師寺薬師堂(本堂)』の大きな屋根が正面に。石薬師寺は、神亀3年(726)当地で巨石が地下から出現し、これは薬師如来の出現だとしてお堂を建てたのが始まりという。『天満宮」(中に天神社と稲荷社の小社がある)。「石薬師寺薬師堂寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。 戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永6己巳年(1629)再建された。 建物の規模は桁行3間、梁間4間、寄棟造。 本瓦葺きて一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。 石仏は花崗岩で像高190cm寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。 浅い線彫り、ほおはゆかたで、薬師仏として親しまれてきた。 平素は秘仏であるが、12月20日の 「おすす払い」 には、洗い清められる。平安後期の作。」石の祠の中には石仏が。江戸初期の絵師・岩佐又兵衛の歌碑「無病にと 頼みすゑける 石薬師 かたき祈願を 忘れ給ふな」「高富山 石薬師寺由来聖武天皇の御宇神亀年間(726)高僧泰澄大徳が森の中に霊光を放つ巨石あるを認めこれ金輪際より御出現の霊佛なりと一宇草堂を覆い置き給う。その後弘仁3年(812)弘法大師自ら薬師尊像を彫刻し開眼供養せられしより 霊験いよいよあらたかにし時の嵯峨天皇の叡聞に達し勅願所となし寺領を寄せられ西福寺と称せられしだが 天正年間(1574)の頃兵乱に会い悉く焼失した。 西より本尊は光明赫赫として灰燼の中に立たれた慶長年間(1601)神戸城主一柳監物直盛公深く霊験を感じ本堂再建され今日に及べり當地は高富の郷と称せられしを駅立の際「1616」尊號に因み石薬師駅東海道53次の内44と呼んだので高富山石薬師寺と改称せらる。 名匠一立斎宏重の画に當寺の全景を以て写す寿永年間(1185)蒲の冠者源範頼ここに戦勝を祈願。馬鞭倒に芽ざし蒲桜の名を今に留める。又西行法師・一休禅師・上島鬼貫・澤庵禅師・林羅山・深草元政・烏丸光広郷・松尾芭蕉・李渓・佐佐木信綱があり、いずれも沸徳を賛嘆し霊光に随喜し若しくは景致を賞揚している 文化財 本堂薬師堂 県指定有形文化財 本尊石仏 市指定有形文化財 法の恵うけてや瑠璃の壺薫 李 渓 蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも 佐佐木 信綱」『石薬師寺薬師堂(本堂)』。『廣重 東海道五十三次 石薬師 石薬師寺』の浮世絵も色褪せて。扁額には『薬師堂』と。『薬師堂』の内陣。内陣をズームで。『身替り不動明王』。「交通安全」とも刻まれていた。真っ赤な後背が目立つ『身替り不動明王』。『地蔵尊』。『修行大師像』。『森白象句碑』。「人の世の 夢を描きて 走馬燈」。『三界萬霊供養塔』。『寺務所』。『鐘楼』。『納経祈願受付寺務所』。『御朱印』を頂きました。参道から『地蔵菩薩』越しに『石薬師寺薬師堂(本堂)』を見る。参道には『永代常夜燈』が並んでいた。『一休禅師歌碑』。「名も高き 誓ひも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり」。参道から『鐘楼』と『薬師堂(本堂)』を見る。参道中央に建つ地蔵菩薩の百度石が。「本尊石薬師如来・西国薬師第三十三番」と記された『冠木門』。『嵯峨天皇』勅願所の石薬師寺。『佐佐木信綱歌碑』。「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも」。『高富山瑠璃光院石薬師寺』寺標。『地蔵堂』。『地蔵堂』内陣には『延命子安地蔵尊』が祀られたいるのだと。『子安地蔵尊』。『不動明王像』。『大師堂』。扁額『太子堂』。「三面八臂」の『馬頭観音』山門を入って左手の大きな『石庭』。『石薬師寺』の参道入口から。花の咲くシーズンに再び訪れたいと。左奥の空き地には・・・。『石薬師寺護摩堂建立予定地』。国道1号線近くにあった『修行太子像』。国道1号線側にある表面に『高富山 瑠璃光院 石薬師寺』と刻まれた巨大な石碑を裏側から。南天の実が赤く輝いていた。『十三重石塔』。2月20日には紅梅も咲きだしていた。美しい石庭。『佛心』碑。石庭が至る場所に。参道脇には可愛らしい子地蔵様が。そして参道を戻り山門へ。こちらが石薬師如来碑の建つ『石薬師寺山門』。やはりこちらから境内に入るのがお勧めであった。『石薬師寺』。「江戸から百一里三十四丁七間、元和二年(1616)に宿場となった。それまでは高富村と称していた。現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永六年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹子社がある。その御曹子社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにした。それが芽をふいて育ったと伝えられている。地元では「逆さ桜」と呼んでいる。」石薬師寺山門の向かいの筋角に『蒲冠者範頼之社』標柱があり、30~40m先に『御曹子社』があった。石鳥居と『御曹子社 拝殿』。『蒲冠者範頼之社』社標碑。「御曹子社(おんぞうししゃ)蒲冠者範頼(がまのかんじゃのりより)を祭った神社。範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問に優れているので、それらの願望成就の神様と言われている。昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがあった。境内の左側には神馬(模型)とそのきゅう舎が寄進されている。神社の南約60mのところに範頼ゆかりの蒲桜(かまざくら、県指定文化財)がある。」『拝殿』。蒲冠者範頼を祀った神社で、範頼が武道・学問共に優れていた処からそれらの願望成就の神様として崇められていると。神馬の納められた祠。白色の『神馬(模型)』。御神木の椎の巨木が鳥居の脇に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.02
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そして『玉泉寺』を後にし、玉泉寺参道、樹齢130年の松の木のある庭の奥にはオバアチャン手作りの人形店『工房 桜子』が。オリジナルちりめん細工作品、『桜子ちゃん』のクリップ。そして再び車に戻り、海岸沿いを更に奥に進み、「下田浄化センター」の入口手前の山の裾にあったのが『吉田松陰上陸の碑』。『吉田松陰上陸所』と刻まれているのであろうか。「吉田松陰上陸の碑吉田松陰は、海外密航を決意し柿崎弁天島より小舟を漕ぎ出し、ペリーの旗艦ボーハタン号に乗り付けた。しかし海外渡航は国禁であり、ペリーは穏やかに拒絶し、送り返した。送り返された松陰が上陸した地点が、この場所である。」『松蔭上陸所碑』『吉田松陰上陸の碑 と 現在の下田港』案内板。「吉田松蔭上陸の碑吉田松陰は、海外密航を決意し柿崎弁天島より小舟を漕ぎ出し、ペリーの旗艦ボーハタン号に乗り付けた。しかし海外渡航は国禁であり、ペリーは穏やかに拒絶し、送り返した。送り返された松陰が上陸した地点が、この場所である。」次に訪れたのが『ハリスの小径』。ハリスの小径は、安政3年(1856)、タウンゼント・ハリスが玉泉寺にアメリカ総領事館を設置した後、日米通商条約締結交渉中に胃潰瘍をわずらい、望郷の思いにふけりながら歩いたといわれる海沿いの道。現在は玉泉寺のある柿崎から須崎までの620mを石畳の遊歩道になっているのだと。『ハリスの小径』碑。ハリス像。「1856年、我国最初の米国領事館なった玉泉寺には初代総領事として赴任したハリスは、滞在日記に「この領事館旗が日本のためになるように」と書き残している。領事館滞在中、日米通商条約の締結に努め、この周辺を思索にふけりながら散策したという。付近にはパンダリア崖、ササントンロックなど当寺名付けられた地名も残っており、この歩道をハリスを偲び「ハリスの小径」と名付けた。」タウンゼント・ハリスが玉泉寺にアメリカ総領事館を設置した後、日米通商条約締結交渉中に胃潰瘍をわずらい、望郷の思いにふけりながら歩いたといわれる海沿いの道。現在は玉泉寺のある柿崎から須崎までの620mを石畳の遊歩道として整備。潮風を感じながら幕末の歴史に思いをはせられると。幕末開港の歴史ロマンを感じる海沿いの遊歩道であるのだ。三島神社(柿崎神社)にある伊豆・下田の海を見つめる『吉田松陰踏海の像』と先程訪れた『吉田松陰上陸所碑』案内板。620mを石畳の遊歩道『ハリスの小径』をズームで。『吉田松陰「至誠通天」顕彰碑』をネットより。鎖国の続く日本において、遠くアメリカへの渡航を夢見て行動へと移した、「吉田松陰」に纏わる石碑が建てられています。至誠通天の石碑「至誠通天」の文字が、くっきりと浮かび上がるこの石碑は、24歳にして、近くにある弁天島から、停泊中の「ポーハタン号」に伝馬船を漕ぎ出でた青年の熱き志を称えたものとなっています。「踏海の企」が失敗に終わった後、吉田松陰は、山口県の萩において叔父より「松下村塾」を受け継ぎ、「高杉晋作」や「木戸孝允」、「伊藤博文」といった幕末の獅子たちに、多大なる影響を与えていきました。明治維新の影の立役者とも言われる吉田松陰は、その後1859年に、「安政の大獄」にて、29年の生涯を閉じましたが、一本筋の通った吉田松陰の生き方は、多くの方々に慕われ、特に「至誠通天」を座右の銘とする政治家が多いことでも知られています。 【http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-shimoda.html】『至誠通天 ( しせいてんにつうず ) 』の文字が。吉田松陰の言葉で「誠を尽くせば、願いは天に通じる」といった意味の言葉。一つ一つの課題に誠実に取り組み努力をすれば、必ず願いは叶うと。そして下田の海。松陰が密航をしようと身を隠し、小舟を漕ぎ出した『弁天島』を見る。『下田龍神宮』の姿も確認できた。そして下田の散策を終え帰路に。竣工は1957年の『子安隧道』を通過。『小湊一号隧道』。『河津海水浴場』が前方に。河津川に架かる『浜橋』。『浜橋』を渡りながら河津川の河津桜を再び見る。『河津トンネル』が前方に。135号線の河津桜を楽しみながらの帰路。『伊豆さくら亭』前を通過。山の斜面に大きな鳥の姿が‥『稲取ふれあいの森』。ズームで。風力発電の姿が。伊豆高原 体験の里 竹林生い茂る山の麓には『八幡野観音』。昭和57年に開眼し、高さは12m、60トンの大きさ。多くの干物の店が。『網元 徳造丸 海鮮屋』。そして河津桜、日野の菜の花、下田の開国歴史散策を日帰りで楽しみ帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.03.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『石薬師小学校南』交差点を渡り、歩いて来た旧東海道を振り返る。25.いきいきと 目をかがやかし 幸綱が 高らかに歌ふ チューリップのうた26.秋高き 鈴鹿の嶺の 朝の雲 はろかに見つつ わがこころすがし27.万葉の道の 一道生の きはみ 踏みもてゆかむ こころつつしみ28.今し成りぬ 五帙二十五冊を 前におき 喜びの涙 とどめあへなく浄福寺入口手前にあった『竹柏(なぎ)』「竹柏(なぎ)信綱の父・弘綱は「竹柏園(なぎその)」と号した。信綱は明治32年短歌結社「竹柏会」を創設、本会は現在も活動が続く。この樹は信綱から贈られた種子に由来する。石薬師文庫前の竹柏と兄弟樹。」『浄福寺山門』山門には石薬師保育園の標札も掲げられていた。「浄福寺浄福寺は真宗高田派、本尊は阿弥陀如来である。開基(創建)は室町時代の永正年中(1504-20)と伝えられている。山門入り口の左側には佐々木弘綱翁(信綱の父)の記念碑がある。それは佐々木家累代の菩提寺だからである。碑に刻まれている歌は次のとおりである。「わかの浦に 老を屋しなふ 阿し堂徒盤 雲の宇辺越も よそに見類か薙」石薬師宿看板の直ぐ先、左手の『浄福寺』山門前に信綱の父である『佐々木弘綱翁記念碑』が建っていた。『佐佐木幸綱歌碑』「しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師を 愛したる人」「佐佐木幸綱歌人・国文学者。紫綬褒章受章、日本芸術院会員、早稲田大学名誉教授。1938年佐佐木治綱(学者歌人)と由幾(歌人)の長男として東京に生まれる。佐佐木信綱は祖父である。現代短歌界の重鎮であり、万葉集等の研究でも著名である。佐佐木信綱顕彰歌会には選者として招聘されている。」俵万智は早稲田時代、佐佐木幸綱氏の「日本文学概論」を受講し、それをきっかけに短歌を詠むようになったと。俵万智のデビュー作『サラダ記念日』は歌の選択から編集・出版まで佐佐木幸綱教授が深く関わっていたのだと。『佐々木弘綱翁紀念碑』。「佐々木弘綱(1828~1891)信綱の父。歌人・国学者。伊勢山田の国学者足代弘訓に師事した。53歳の時上京し、東京大学の講師となる。門人は全国にわたり1600名ともいわれる。古典の口語訳書、撰集、自作歌集、和歌に関する研究書など著作は、100余に及ぶ。この碑は、1908年(明治41)建立された。以後、毎年碑前祭がこの境内で行われていた。碑表には弘綱の矜持詠がある。「和歌の浦に 老をやしなふ 葦田鶴は 雲の上をも よそに見るかな」『鐘楼』。『本堂』。この冬咲きのピンクの花は、以前我が家にもあった「オキザリス」に似てはいるが?『上田 加佐登』と刻まれた道標。旧鈴鹿郡一帯の古い道筋の角や社寺境内に移されて残る高さ60センチ程の花崗岩で作られたこの道標は、亀山製絲の創業者、田中音吉が大正3年にたてたものであるとのこと。更に東海道を南に進む。29.ありがたし 今日の一日もわが命 めぐみたまへり 天と地と人と30.天にいます わが父のみは きこしめさむ 我がうたふ歌 調べひくくとも31.み空仰げ 八重棚雲を おしひらき 赫々として 初日はのぼる32.山黙し 水かたらひて 我に教へ 我をみちびく この山と水と連子格子の旧家が旧東海道のところどころに。JA鈴鹿 石薬師支店が右手に。ここは三重県鈴鹿市石薬師町1812-2。33.人の世は めでたし朝の 日をうけて すきとほる葉の 青きかがやき34.山の上に たてりて 久し吾もまた 一本の木の 心地するかも35.ものぐさの あるじ信綱 あさなさな 庭におり立つ 石南花さけば36.幼きは 幼きどちの ものがたり 葡萄のかげに 月かたぶきぬ敷地の広い民家が続く。庭には大きな蔵が。門冠りの松も手入れが十分に為されて。手前のカーブの先に青い橋が姿を現した。橋の袂に到着。橋の名前は『瑠璃光橋』。橋の先には正面に『2001年東海道 街道400年祭 石薬師宿』。下を流れる川、いや道路は国道1号線・国道25号線(名阪国道)。左面には『高富山 石薬師寺』と書かれていた。37.山辺の 御井にとくだる 山ぞひみち 遠松風の 音をすがしむ38.国をおもふ 心はも燃ゆ かたちこそ 痩せさらぼへる 老歌人も39.蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも40.鈴鹿川 八十瀬のながれ 帯にして すずか並山 あき風に立つ ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.01
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