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「道の駅 上ノ国もんじゅ」を後にして、国道228号から分岐した坂道を暫く上っていくと左手下に駐車場があり、ここに車を駐め「勝山館(かつやまだて)跡」の散策を開始する。駐車場横には「勝山館跡ガイダンス施設」があった。「勝山館跡ガイダンス施設」では模型や映像で勝山館を案内していると。映像コーナーでは、北の中世史を解説するビデオ、「勝山館とその時代」が放映されているが、勝山館の発掘結果をもとにしたコンピューターグラフィックスによる勝山館の復元が話題を呼び、注目されている。また、この建物の地下にある勝山館の人たちのお墓のうち、火葬墓1、火葬の跡1、屈葬土葬墓5の計7基のお墓が発掘されたそのままに型取りして元の位置に再現されていると。同時に特別展示されている過去4半世紀におよぶ発掘調査の出土品は、勝山館の成り立ちや人々の暮らしや、北の豊かな中世世界を教えてくれるのだと。しかし入り口には「準備中 開館 午前10時」との案内表示があったが時間は14:29。ネットで調べてみると、この日10月19日は月曜日で休館日と。「勝山館跡ガイダンス施設」内のこの続日本百名城「認定証」の写真を撮りたかったが・・・。 【https://kazu1207.blog.fc2.com/blog-entry-480.html】より館内の中央に置いた勝山館の200分の1の復元模型は、正面のガラス越しに現地と見比べることで、より高い臨場感を得られるものとなっていると。 【https://japanin.jp/image/c1ea2be11b49a6】より「勝山館跡」散策マップ。上空からの想像図です。下の想像図の左側が、上の地図の下側になります。 【http://napoleone.at-ninja.jp/Hokkaido/Katsuyama/Katsuyama.html】より駐車場の横には小高い山・「夷王山」があった。標高159mの山頂からは、上ノ国市街はもとより、日本海に浮かぶ奥尻と大島の島影、熊石方向へ延びる海岸線が一望できる。付近一帯には約500種の山野草が咲き乱れ、エゾヤマツツジの名所としても有名。「夷王山」は、松前氏の祖武田信廣や蠣崎氏一族の居館・「勝山館跡」の「詰めの丸」ともいわれ、山頂には武田信広を祀る夷王山神社(古くは薬師如来などを祀り、医王山頭陀寺と言った。)があると。「夷王山墳墓群勝山館跡の背後から夷王山ののあたりに6地区に分かれて600基あまりの墓があります。2✕1.8m、高さ40cmほどの土饅頭で、径が7mほどのものもあります。火葬した骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納め北枕に土葬し、土や石を高く積ん墓を作っています。宋銭や明銭、漆塗りの椀や盃が納められることが多いのですが、大きな墓には硯、玉なども副えられていました。いずれも仏教様式の墓と思われますが、シロシのついた漆器を副葬した墓やアイヌの流儀で葬られた墓もあります。また火葬の跡も見つかりました。これらの墳墓群には勝山館を築いた武田信広とその一族、さらには勝山館を中心に中世の上ノ国を支えた多くの人たちが眠っていると思われます。」「史跡上之国館跡のうち勝山館跡」碑。「勝山館」は、北海道檜山郡上ノ国町にあった中世の日本の城(山城)。昭和52年(1977年)4月12日、「上之国館跡」のうちの一つ「勝山館跡」として国の史跡に指定された。平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(102番)に選定された。築城年代は不明だが、館北端にある館神八幡宮(たてがみはちまんぐう)の創建が文明5年(1473年)と伝えられているため、この頃の築城と推定されている。蠣崎信広あるいはその子光広以降、蠣崎氏の本拠地とされていたが、光広の時代の永正11年(1514年)に松前の徳山館に本拠を移転して以降は、主要な副城として脇館転じて「和喜の館」と称され一族を配した。夷王山の中腹、南から北へと伸びる斜面を利用して長さ270メートル、幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの規模を有する。さらに城の背後から山頂に向かって中世和人の墳墓群(夷王山墳墓群)が存在する。」とウィキペディアより。山の斜面には、遺跡の存在を示す白い杭が打たれていた。「第Ⅱ地区36号墳」。途中、このような看板が。そしてその直後に、山の木々の間に動くものを発見しビックリ。カメラでズームして見ると、熊ではなさそうで安堵。色合いと体毛の状況からタヌキのようであった。それにしてもフクヨカなタヌキであった。「夷王山墳墓群のアイヌ墓仏教様式の墓と隣り合って、頭を東に向け身体を伸ばして埋葬した墓が見つかりました。身体の脇や上に太刀を置き、漆器や小刀などをそえた男性の墓です。一人は錫製の耳飾りをつけています。江戸時代のアイヌの墓の様子と同じなので、勝山館の中にアイヌの人たちがいたと思われます。このすぐ北は斜面を削って砂利を敷いた墓所で小屋根をかけた墓や、アイヌの子供のものと思われる墓もあります。」山道を下っていく。そして舗装された小路まで来る。「勝山館の後ろの守り(-神仏に守られて-)1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部はニつの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。堀に架かる橋から続く道が館の中央を通り、道の両側には住居などが建っていました。一番高いところに館の守護神、館神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが祀られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。この近くからは、ゴミ捨て場や井戸、池、倉庫の跡なども見つかっています。」「搦手」「城の正面を大手といい、背後を搦手といいます。勝山館の両側は寺ノ沢と宮ノ沢に深く刻まれ、天然の要害になっています。後ろ側の尾根が細くなったところを堀り切って空堀を作り、内側に土塁を高く築いてその上に柵をめぐらせ、厳重に守りを固めています。土塁の中央には門を構え、空堀Ⅲは断面がV字形の「薬研堀」となっていました。空堀は15世紀後半から16世紀の間にIからⅢの順に造り替えられていますが、ⅡとⅢは一緒に使われた時期があったとも考えられます。」周囲は山に囲まれて。空堀、土塁、そして上部に柵が見えて来た。そして空堀には木橋が架かっていた。「空堀跡」「館神(たてがみ)八幡宮跡」。全ての遺跡群は発掘調査後、境界を石で、内部は砂利を敷き詰めて保存されていた。右手に「室町創建社跡」と。左手に「江戸再建社跡」と。「館神八幡宮跡1473年松前氏初代武田信広は館の上に八幡神を祀り館神と称しました。この頃までに勝山館も出来上がったと思われます。高い部分を削り下げ、西から南を囲む土塁を造って柵を立て、正面に搦手門を設け堀を渡る橋を架けています。土塁の内側で掘立柱の建物跡と礎石立の建物跡が見つかりました。掘立柱は創建当初の社跡で、礎石は1770年に修理した本殿覆屋の跡と思われます。北東部分の土塁はこの頃に築かれたもののようです。現在の上ノ國八幡宮本殿は1699年に造り替えられたもので、1875年に現在地に遷された北海道最古の建造物です。」別の角度からを見る。「館神八幡宮跡」周りの遺跡の配置図。中央通りの右手にあったのが「掘立柱建物跡」。「掘立柱建物跡」と。反対側にも「掘立柱建物跡」があった。「柵列跡」。そして前方には江差方面の海が見えて来た。なだらかな曲線美の「内郷浜」そして厚沢部川河口の「砂坂海岸」方面が眼下に。ここから先の遺跡群が「勝山館」の中心地。「東の厳重な守り ー帯郭と物見櫓ー」「東の厳重な守り ー帯郭と物見櫓ー勝山館跡の中央には幅3. 6mの通路が通っています。道の両側に、広さ100 ~ 140m2ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、平地全体を柵で囲んでいます。中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになっています(帯郭)。堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。館を守る兵が集まる小屋かと思われます。勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。」「住居群」のCGによる復元イメージ。「建物の配置と種類」。中央には幅3. 6mの通路が通り、道の両側に、広さ100 ~ 140m2ほどの土地を階段状に造って住居などが建っていた事が理解できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.30
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「松前城」を後にし、次に向かったのは「松前線松前駅跡」。道道435号線を進み、右に折れて道なりに進むと右手にあった。松前駅は、かつて北海道(渡島支庁)松前郡松前町字博多にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)松前線の駅であった。松前線の廃線に伴い1988年(昭和63年)2月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)まで運行されていた急行「松前」の発着駅だった。「北海道最南端の町 松前駅」と刻まれた石碑。地名は、アイヌ語の「マツ・オ・マイ」(婦人のいる所)に由来するとされるが、江戸時代にこの地を支配した松前氏に由来するともいう。松前氏の「松前」については松平家康(後の徳川家康)の「松」と前田利家の「前」から採られたという説、あるいは城下の海に面した所に大きな松の木があり、船がこの木を目当てに出入したことから名付けられたとの説もあるのだと。石碑とともに松前線のあゆみが掲げられていた。周囲には花壇が整備され、かつては北海道最南端の駅であった松前駅が、いかに町民から愛されていたかが実感できたのであった。「松前線のあゆみ大正元年 松前鉄道期成同盟会を結成大正12年 政府が松前線を敷設予定鉄道路線に加えた昭和12年10月 福山線(現・松前線)木古内 ー 渡島知内間開通 森越停車場開業昭和13年10月 福山線(現・松前線)渡島知内 ー 碁盤坂(現・千軒)間開通、湯ノ里停車場開業昭和17年11月 福山線(現・松前線)碁盤坂(現・千軒) ー 渡島吉岡間開通、渡島福島停車場開業昭和21年12月 福山線(現・松前線)渡島吉岡 ー 渡島大沢間開通昭和28年11月 福山線を松前線に改称。渡島大沢 ー 松前間開通、木古内 ー 松前間全通昭和31年9月 ディーゼルカー登場、客車と貨車が分離された昭和32年1月 松前線、白荷・及部停車場開業昭和36年11月 渡島大沢を旅客駅とする昭和38年6月 松前線にレールバス導入昭和38年12月 準急「松前」登場昭和45年12月 森越・渡島大沢を駅員無配置駅とする昭和46年4月 碁盤坂(現・千軒)を旅客駅とする昭和47年3月 碁盤坂を千軒と改称昭和57年11月 松前を旅客駅とする、松前線貨物営業を廃止昭和59年2月 松前線荷物取扱い廃止昭和59年9月 松前線特定地方交通線対策協議会開始昭和63年1月 松前駅廃止」「松前駅」の裏の桜並木も紅葉が始まっていた。ここが、昔の「松前線」の線路があった場所なのであろう。そして再び国道228号に戻り、函館バス 松前出張所付近からは前方に多くの風力発電装置が姿を現した。蒼き海・日本海と前方にトノマ岬の館浜港西防波堤灯台の姿が。そして左手に「渡島小島(おしまこじま)」の姿が。ウミガラスやウミウ、ウミネコ等の海鳥の繁殖地であり、カエデ科のイタヤカエデ類が優占する林や冷温帯性の草原が発達している。このことから、「松前小島」の名称で天然記念物(天然保護区域)に指定されていて文化財保護法に基づき、島本土への立ち入り等について規制を行っているのだと。渡島小島は、北海道松前郡松前町に属する無人島。松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれる。松前町の沖約23km付近に位置している。面積は1.54km2。小島の名は渡島大島に対してのもの。島の南端は北緯41度20分58秒であり、離島も含めた広義の北海道最南端である。住所は全域に亘って松前郡松前町小島。無人島のため、島へのアクセス手段はないが、近海で操業する漁船が多いため、漁船の避難所・休憩所として小島漁港が設置されているとのこと。2017年にこの島で「北朝鮮籍漁船による掠奪と破壊行為」が行われたのであった。そしてその右手奥に「渡島大島(おしまおおしま)」の姿も確認できたのであった。渡島大島は、北海道松前郡松前町に属する無人島。松前大島(まつまえおおしま)とも呼ばれる。松前町西方沖50kmの地点に位置する。大島の名は渡島小島に対してのもの。住所は全域に亘って松前郡松前町大島。岩場の多い「折戸浜海岸」付近の「光る海」。海岸の岩場の風景を楽しむ。大きな風力発電も。枝の先に白い花が?いやよく見ると葉の裏が白く、花のように見えるのであった。国道228号・日本海追分ソーランラインを進む。前方に「州根子岬」が見えて来た。檜山郡上ノ国町字大崎。遠くに「奥尻島」の姿が確認できた。「州根子岬」。昔はここに六角形で白黒ツートンカラーの洲根子岬灯台があったのだが。風力発電銀座。「州根子岬」の先端をズームで。そして道の駅「上の国 もんじゅ」に到着。施設横のモニュメント。別のモニュメント。道の駅「上の国 もんじゅ」の建物。「上ノ国町観光マップ」。「道の駅 上ノ国もんじゅ国道228号沿いの岸壁に建ち、日本海を見渡す絶景のロケーションと新鮮な地場産食材を提供するレストランや特産品販売所があります。裏手には伝説の場所 ” 神(かん)の道 ” があり、窓岩に差し込む夕日が神秘的です。また、四季折々の様々なイベントや観光案内所等も併設しており、まちの観光拠点施設となっています。」「史跡 上之国館跡 勝山館跡松前藩祖の武田信廣が1470年頃に標高100mの丘陵に築いた山城で、16世紀末頃まで政治・軍事・北方交易の拠点として機能していました。発掘調査では、建物跡や中国・朝鮮・沖縄・本州産の出土遺物のほか、アイヌが使用した骨角器やアイヌ墓が見つかったことなどから、和人とアイヌの混住説が唱えられています。また、勝山館・花沢館・洲崎館の3館が上之国館跡と総称され国の史跡に指定されています。」。「勝山館跡ガイダンス施設北海道の日本海側における政治・軍事・北方交易の拠点として栄えた勝山館を200分の1スケールの模型や映像などでご案内しています。建物直下にある墓のうち、火葬墓、土葬墓の計7基の墓が発掘された。そのままに型取りされ、元の位置に復元されています。また、発掘調査での出土遺物も多数展示されています。」。道の駅上ノ国もんじゅから「もんじゅ岩」を見る。道の駅「もんじゅ」からみえる前浜一帯は、旧地名を「文珠浜」と言っていた。岩が知恵の仏・文殊菩薩に似ているといわれたことから「もんじゅ岩」と呼ばれていると。道の駅「上の国 もんじゅ」は上記の「もんじゅ岩」から名付けられたのだと。ゆるから「カミゴン」。ポケモンがデザインされたポケモンマンホール『ポケふた』が。こちらは、『ロコン』と『ヒコザル』がデザインされたマンホール蓋。店の裏から江差方面を見る。店内。各種ハチミツも売られていた。レンゲ蜜、百花蜜が。ホテルでの夕食用にと、私は「カニ飯」を購入したのであった。「勝山館跡」案内もビデオ放映中。「昇平丸」。「昇平丸(しょうへいまる)」史略。安政元年(1854)11月 昇平丸竣工 全長約3mの大砲を積み込んだ洋式帆船安政ニ年(1855) 1月 昇平丸と命名 2月 鹿児島を出帆 品川に着船 3月 この時昇平丸が日の丸をたてたのが日の丸の初めと言われている 6月 幕府より昇平丸を献上するよう申し出 7月 長崎に海軍伝習所を設置 8月 昇平丸は幕府に献納され名も昌平丸と改める 9月 長崎海軍伝習所に派遣、伝習生を乗せて江戸を出帆 10月 長崎に着(伝習生の中に勝海舟もいた)明治三年(1870) 1月 南部安渡を出帆脇澤海岸を経、大島沖で風浪に逢い 上ノ国木ノ子村猫澤に漂着した 2月 が高波によって海岸に吹きつけられ破船昇平丸は日本最初の様式軍艦であり日本近代科学の導入の過程を理解する上で重要な船と言われている。ネットから。昇平丸は、薩摩藩が幕府や他藩に先駆けて桜島瀬戸村(現鹿児島市黒神町)で建造した全長27.3m、全幅7.6m、全深5.5mの木造バーク型の洋式軍艦。薩摩藩主の島津斉彬は、ペリーの遠征艦隊が浦賀へ来航する以前、早くから諸外国の艦船に匹敵するだけの大船が必要と考えており、薩摩藩が幕府に「琉球大砲船建造届書」を提出し、嘉永6年(1853)5月に後の昇平丸にあたる琉球大砲船を建造している。さらに、幕府が同年9月「大船建造解禁令」の禁を解いた後、琉球大砲船(昇平丸)は約7ヶ月かけて大砲10門、臼砲2門、小口径自在砲4門を搭載するなどの改造をした洋式軍艦として竣工したのだと。 【https://dounan.exblog.jp/18612219/】より「夷王山(いおうざん)」、「天の川」、「上ノ国」の観光ポスター。夷王山:標高159mの山頂からは、上ノ国市街はもとより、日本海に浮かぶ奥尻と大島の島影、 熊石方向へ延びる海岸線が一望できます。天の川:町の中央を流れる清流。川釣りのメッカ。とくに7月~8月のアユ釣りシーズンは 賑わう。 支流の中小河川はヤマメ・イワナ釣りもできる。 中流の中州には、アオサギの コロニー(繁殖地)があると言われ、晩秋には優雅な舞を披露してくれる。上ノ国:上ノ国は北海道で最も早い時期に和人が定住した地であるとされる。 1189年、源頼朝が奥州の藤原氏を攻めた際に、糠部や津軽の人々が上ノ国付近まで 逃れたという。 松前藩の礎を築いた武田信広(武田信廣)の勝山館跡がある。 標高159.1mの夷王山から北東に伸びる尾根上に、和人とアイヌが混住していたと 推測される館が築かれ、「続日本100名城」に選定。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.29
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更に松前城(福山城)の散策を続ける。本丸の南端から津軽海峡を見ると、津軽半島の小泊岬(権現岬)がはっきり見渡せた。そしてこの日は遠く、青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する「岩木山」の姿も見えたのであった。再び本丸中央付近から天守閣を見る。天守の鯱(シヤチホコ)(左)。天守の鯱(シヤチホコ)(右)。「青木郭公の顕彰碑」。「青木郭公の顕彰碑北海道暁雲社の主宰で大正年間より昭和初期にかけて活躍した本道俳句の代表的先生で、「高潮や城門を吹く花の雲」と刻まれております。」「鎌倉翁の顕彰碑」。「顕彰碑」。「鎌倉翁の顕彰碑松前桜の育ての親、鎌倉翁の顕彰碑。鎌倉翁は大正10年(1921)頃より約50年間松前の桜を育て、多くの品種を造りあげた方でございます。昭和43年91歳で亡くなられました。」本丸を後にし、外に出て左に進むと「観光案内所」が。再び「松前城文化財マップ」。内堀と天守閣・三重櫓。以前訪ねたときには、この内堀に多くの睡蓮の花が咲いていたことを思い出したのであった。そして次に訪ねたのが、「隅櫓」跡。「隅櫓この櫓は、東郭にあり、主に東方から侵入する敵を監視する位置にあります。東郭は、内堀を挟み本丸へ通じる重要な郭で、搦手升形・北郭とともに東方の備えであり、その要となる建物がこの隅櫓でした。櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が桁行四間( 7.272 m )、梁間三間( 5.454m)であったことが判ります。また、発掘調査を行った結果、出土した土台石の規模が絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)の二重櫓であったことが、慶応3 (1867)年に撮影された古写真から判ります。」別の角度から。天守閣を見る。「搦手二ノ門跡」越しに天守閣を見る。「搦手二ノ門跡」「桜前線本道上陸標準木 品種 染井吉野」。天守閣・三重櫓は現在「松前城資料館」になっているのだ。「二重太鼓櫓」、その先に津軽半島が。近づいて。「二重太鼓櫓この櫓は、二の丸南東隅にあり、城内三ヶ所ある二重櫓のうち、敵の侵入を監視するうえで最も重要な位置にあって、海上はもとより海岸線、市街地、三の丸と広範囲を見渡すことが出来ました。また、平常時にはその名のとおり、太鼓を打ち、時を知らせる役割をし、櫓の西に接して「太鼓番居小屋」があり、その管理をしていました。櫓の規模は、絵図「福山城見分図」から、一階の柱芯間が四間( 7.272m )四面であったことが判ります。また、土台石は発見されませんでしたが、発掘調査で出土した土台下の地業(地下構造)の規模が、絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)であったことが、慶応3 (1867)年に撮影された古写真から判ります。」「岩木山」と大型船の姿。「津軽半島」と貨物船。三の丸、番所跡、砲台跡、が眼下に見えたのでズームで。二の丸と三の丸の間には外堀が設けられている。「番所跡この番所は、搦手升形へ通ずる外堀に架かる木橋脇にあり、木橋の守備及び三ノ丸地域の警備のために置かれています。三ノ丸には同様の番所がもう一か所あり、追手升形に通ずる木橋脇にもあります。」搦手枡形へ通じる二の丸と三の丸の間の外堀に架かる木橋。「天神坂門跡」。「松前勘解由 時代に翻弄された悲壮の若手藩主1853(嘉永6)年、家老格に昇進し、翌年には箱館に来航したアメリカ極東艦隊ペリー提督らの主席応接使を務めた。その態度はペリー提督に感銘を与え、アメリカ側の要求をことごとくかわした交渉ぶりは、「コンニャク問答」として評判になった。1868(慶應4)年8月3日、正義隊のクーデターにより自宅の一室で自刃。蠣崎廣年(波響)の子である廣伴の次男として生まれる。名を崇效。松前廣重の養子となり、勘解由を名乗る。1853(嘉永6)年に家老格に昇進し、1854(安政元)年のペリー艦隊による箱館来航の際は主席応接使に抜擢され、大役を勤め上げた。1868(慶応4)年の正義隊クーデターにより失脚、自宅にて自刃を遂げる。」そして駐車場に戻り天守閣・三重櫓を再び見上げる。コスモスも再び。ピンクのコスモスの花言葉は『乙女の「純潔」』白のコスモスの花言葉は『「優美」「美麗」「純潔」』であると。そして和名は「秋桜」。これは本来「あきざくら」と読まれ、コスモスという読みではなかったのだと。では、なぜコスモスと呼ばれるようになったのか?それはもちろん、昭和を代表する歌手、山口百恵の「秋桜」👈リンク という曲が大ヒットしたことがきっかけだと。この曲を作詞作曲したさだまさしが、「秋桜」をコスモスと読ませ、曲がヒットしたため、その読みが一般的になったのだと。とはいえ、由来が歌謡曲であり、当て字だったとは驚き。もしこの曲がここまでヒットしていなかったら、おそらく和名の「あきざくら」という読み方が今でも一般的だったのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.28
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「松前町郷土資料館」を後にして、「松前城 天守閣」に向けて進み、駐車場に車を駐め散策開始。天守閣下の駐車場横にはコスモスの花が満開。天守閣(三重櫓)の東側には「御多門」があったが、遺構案内板には「多門櫓跡」とあった。櫓門だったのだろう。今は、そこから少し引っ込んだところに門が建てられ、天守方面への入城門になっていた。松前城は、西蝦夷地(渡島国津軽郡、のち福島郡の一部を編入で松前郡)福山(現・北海道松前町松城)にあった日本の城(平山城)。江戸時代、公式には福山城(ふくやまじょう)と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていたのだと。「松前城 案内図」 【http://yogokun.my.coocan.jp/matumae.htm】よりこちらは「地図」 【http://castle.slowstandard.com/00hokkaidotohoku/01hokkaido/post_1.html】より松前城(福山城-国指定史跡今から約七〇〇年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの戦(一四五モ)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家ニ世)以降代々福山館ができるまで大館に域を築いていた。五世慶広の時、松前氏に改め、慕府より蝦夷地における支配を認められ松前藩が成立。十七世崇広が徳川慕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(一八五四)に日本最後の旧式築域として発成したもので、約七万六千平方メートルを有する堂々たる城郭であった。特に城内に砲合を備え、一見簡素に見える天守闇も、火器戦争には最もがん丈な意匠構造で、従来の日木式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前は北辺警備の重大な役割を果たしていた。現在の天守は、昭和三十六年に再建きれたものである。」搦手升形脇にある「多門櫓跡」案内板。現在の入口門の右側にあったようだ。「搦手二ノ門」2000年に復元された搦手二ノ門。資料や古写真、発掘調査の結果を元に、瓦葺の高麗門として復元されていた。この門の先は台場が並ぶ三ノ丸に。 「史跡 松前城」碑。「松前城文化財マップ」と「松前町内指定文化財一覧表」。「松前城文化財マップ」をズームで。「松前町内指定文化財一覧表」入口門から入城。そして、松前家の家紋は「丸に武田菱」。丸の中にある菱型の紋「武田菱」は戦国武将・武田信玄の家紋として有名。「四つ割菱」とも呼ばれており、他にも「武田の田の字が変形してこの形になった」という説があるのだと。天守閣手前の右側に案内板が。「武田氏略系」、「松前氏歴代」。光って見にくいのでネットから。「松前城 天守」北海道で唯一の天守である。松前藩には長らく城がなかったが、幕末になって国防上の理由からか、築城が認められ、安政元年(1854)に完成した。これは日本における最後の和式築城と言われている。海に対して多くの砲座が設けられたが、山の方は防備が薄く、たいして要害ではない。天守は昭和16年に国宝に指定されたが、昭和24年に謎の火災で焼失してしまった。現在の天守は昭和36年に復原された鉄筋コンクリート製のものである。近づいて。「本丸御門」松前城(福山城)本丸御殿の正門。切妻造り、銅板葺きの櫓門。1849(嘉永2)年、江戸時代初期の城郭を取り壊し、北方防備を重視して新しい城郭を建設した際の門。石垣は凝灰岩を方形に加工し、隙間なく石をすり合わせて積んだ美しい姿。幕末の建築当時のままに残され国の重要文化財に指定されている。「福山城(松前城)本丸御門 安政元年建立(1854)」。「重要文化財福山城(松前城本丸御門修理概要等)福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。松前家5世慶広が、天正17年(1589)徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5年(1600)福山の地で築城に着手し、同11年(1606)完成した。蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永2年(1849)幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張により、直ちに全面的な改築に着手し、安政元年(1854)完成をみた。その後10数年を経ずして、明治維新後の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8年(1875)には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら3棟は、国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し、指定を解除された。同25年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。本丸御門は、昭和24年に屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が磨耗し、雨漏りを生じるようになり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため、屋根葺替部分修理を実施した。実施に当たっては松前町の直轄工事とし、設計監理を松前町教育委員会文化財課が担当した。」「長尾山樵(秋水)松前城下作詞」「海城寒坼月生潮、 海城の寒坼(かんたく)月潮をより生じ、 波際連檣影動揺。 波際(はさい)の連檣(れんしょう) 影動揺す。 従此五千三百里、 此れ従(よ)り五千三百里、 北辰直下建銅標。 北辰直下 銅標を建てむ。」「松前城下には、寒い夜、夜回りの拍子木の音が響いている。今上がってきた月は、まるで潮の中から生まれて来たようだ。(松前の港のにぎやかなようす)波打ち際にたくさんつながれている船のたちならぶ帆柱の影が、しきりと揺れ動いている。(城内や津軽海峡のようす) ところで、この松前の地から五千三百里の彼方にある北極星の真下(つまり北極点)にここまで我が国だという国境の標を建てたいものだ。」「本丸玄関」「旧福山城本丸表御殿玄関慶長11(1606)年に完成した城は、当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14(1637)年城中から出火し、多くの建物を焼失、同16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。明治8年、北海道開拓使の命令により、福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和57年まで利用されてきた。」角度を変えて。再び天守閣を見上げる。「本丸跡」を望む。「普賢象(ふげんぞう)」「普賢象 高松宮宣仁親王は国際親善、厚生、美術工芸、スポーツなど多彩な部門で活動され、桜に関する造詣も深いお方でした。宣仁親王は、昭和49年(1974)年7月4日、松前町を訪問なされ、松前町桜保存子ども会が育てた「普賢象」を、ここ福山械本丸御門そばにお手植えされ、史蹟や桜見本園をご視察されました。桜見本園をあとにされる前に、宣仁親玉は「日本の桜を守り、美しい桜の園にされるように」と仰せられました。 宣仁親王のご訪問から30年後の平成16年(2004)4月29日、松前町は、お手植えの桜が生長し、その桜を接木した後継樹も育成したことを踏まえ、宣仁親王の御来園祈念碑を桜見本園に建立するとともに、後継樹を新桜見本園に記念植樹して、宣仁親王のご遺徳をお慕いし、平和を願い、桜の向上、発展に努めることをお誓いしている。」これが「普賢象」の花であるとネットから。「本丸御門」を出て外から振り返る。角度を変えて振り返る。「本丸御門」前から天守閣を見る。「松前神社」をズームで。武田信広(武田信廣)を祭神とする神社。松前家は寺町の一角に松世祠を設けていたが、明治12年、地元から武田信広を祭神とする神社の創建の願いが開拓使に出され、旧松前城北の丸を境内地として社殿を建立。つまり松前藩の祖である武田信広を祀った神社。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.27
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3.「和人地の成立道南地方と本州の交流はしだいに強くなり、鎌倉時代には、道南地方に定住する和人がでてきました。室町時代には、館主と呼ばれる小さな豪族が成長し、百年にわたる民族戦争のすえ、戦国の動乱期に、蠣崎氏を中心とする和人の統一政権が誕生しました。」「アイヌ民族の社会アイヌ民族は、依然として狩猟、漁撈による生活を続けていましたが、もう土器は使わず生産用具も本州から手に入れたものを、多く用いるようになっていました。しかし和人の勢力はまだ及ばす、民族独自の世界をつくっていました。」「仕掛弓(アマックウ)」「仕掛弓(アマックウ)熊や鹿の通路を横切って細くて目につかない丈夫な細ひもを、動物の高さに張り、その一端を仕掛弓に装置させて.ひもに触れると.自動的に毒矢がとび出す仕組になっています。」「らっこ漁の図 雪好筆」。「鹿狩の図 雪好筆」。「求福山山車 胴幕」。近づいて。孔雀の雄をデザインした幕。刺繍作品なのであろうか。牡丹の花。「「北海道指定有形民俗文化財 求福山山車の人形その他付属品」求福山山車 胴幕松前城下を代表する山車の一つが求福山高砂山であった。城下の七社祭礼には、このような豪華な山車が各町内から引き出されたいへんなにぎわいであったという。側面に張られた幕が胴幕で、孔雀の雌雄をデザインした幕である。オランダ製の赤の羅紗地に金糸・銀糸をふんだんに用いた刺しゅうで、往時の松前の繁栄を象徴するものであり、製作は京都と考えられている。近年、傷みが激しいため、昭和63年度には道費の補助を得て修復をしている。」「求福山山車の人形その他付属品」向かって左に尉、右に老の正装人形。この衣裳は祭礼の時に藩主、奥方から下げわたしされたもの。左に「尉(じょう)」。右に「姥(うば)」。「求福山」。「北前船とは北前船とは通称”弁財船”と呼ばれ、おもに、日本海を舞台に大坂から下関を経由して、松前交易にたすさわった一枚帆の和船のことです。また経営のしかたが、荷主などに依頼されて商品を運ぶ賃積船とちがい、船頭が即商人である船頭の意志で、各寄港地で商売をする買積船であったところに大きな特徴がありました。」「北前船正月船・沖口役所標柱」「北前船」1600年頃、近江(滋賀県)商人がたくさん松前に来て、出店を開き繁盛した。松前の産物(にしん・こんぶ・干しあわび)を京都や大坂などの市場で売りさばき、帰りには呉服物・米・味噌・醤油・漁具など百貨を松前に運んだ。松前藩は米がとれず特殊な経済制度であるため、商人との直接的な取引をしなければ、藩の財政も家臣の生活も成り立たなかった。また、文化面でも京都の文化が近江商人によってもたらされ、寺院の庭園樹や桜、椿など名木の多くはこの頃松前に運ばれたと。「奉納船」。「北前船の航路北前船主には、加賀の大乗寺、橋立、越前の河野、敦賀など、富山、石川、福井、沿洋諸港の人たちが多く、彼等は、日本海を舞台に、活躍しました。」「絵馬」。近づいて。「絵馬北前船主や船頭たちは、航海の、安全を願って、各地の神社に絵馬を奉納しました.この絵馬もそのひとつです。」「船だんす」。船だんす(懸硯)「船だんす北前船などの船が航海上必要書類や貴重品などを入れて使用し船が難波してもこわれずまた他の人に盗まれないように仕掛けをしたりして作られています。たんすには.懸硯(かけすずり)、半櫃(はんがい).帳箱(ちょうばこ)の3種類があリます。」「国指定 重要無形民族文化財 松前神楽」と「郷土芸能」の写真展示。「手杵(てきね)江良ハ幡神社杵振舞保存会所蔵江良杵振舞(えらきねふりまい)は、松前神楽の四箇散米舞(しかさごまい)の楽曲にあわせて、「ヤレヤレ ソラヤレ」の掛け声とともに、手杵を回します。手杵は白木木目の磨出しの杵で、両端に房を付けます。」6「しいたげられたアイヌ民族ひらけゆ<蝦夷地、にぎわう松前城下、その裏には、アイヌ民族の怒りと悲しみがありました。おしよせる圧迫の中でも彼らは、いのちをかけて民族的誇りを守りつづけていきました。」「体制に組みこまれたアイヌ(藩主謁見の図)原本・市立函館図書館蔵松前藩の誕生は、アイヌ民族への新しい差別と収奪のはじまりを意味し、アイヌの酋長は藩主へ貢物を差し出し、謁見を強要されました。」アイヌ民族の歴史の紹介。「アイヌ人口の減少蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの人口は著しく減少してゆきました。中でも、道南地方をはじめ鯡(にしん)や鮭漁が発達した西海岸及び根室、国後地方が最もはなはだしく、鮭漁場で有名な小樽、歌棄、磯谷、寿都などは、明治初年頃には、全滅ないしはわずか数人という状態になっていました。「アイヌ人の人口推移(北海道、千島、樺太)文政5(1822)年 24,339人安政元(1854)年 18,805人明治6(1873)年 18,644人」「高利をもたらしたアイヌ交易」。「アイヌ民族のたたかい封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧に、いのちをかけてたたかいました。そのうち最も大きなたたかいは、康正2(1456)年~長禄元(1457)年の道南地方を舞台にしたコシャマインのたたかい、寛文9(1669)年日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがったシヤクシヤインのたたかい、さらに寛政元(1789)年、クナシリ、根室地方を舞台にした、たたかいです。」「アイヌ民族の宝物」「耳だらい」と「脚付行器」「つのだらい」「大だらい」「アイヌ民族の宝物鎌倉時代以降和人との交易が盛んになるにつれて、本州からは漆器をはじめとする物品が流入しました。なかでも漆器はアイヌ民族のカムイノミといわれる重要な飲酒儀礼には欠かせずこれがなくては成立させることができないといわれています。」「私の大事な恋人がどこか遠いところにやられたあなたは今どこにいるのか風よ 憎い風よお前は自由な風だからお前だけは私の恋人のまわりをまわりさわっても歩けるだろうが私は人間だから行くことができないのだヤイサマネナ仕方ない風にでも鳥にでもなって とんで行ったら恋人にさわれるだろうかちょっとでも姿を見れないだろうかヤイサマネナ」7.「北方に目をむける幕府江戸時代の終わりころになると、幕府は、産物の豊かな蝦夷地に、特別な関心をよせました。ロシアが、蝦夷地周辺に南下したのを機会に、松前氏から領地をとりあげ、蝦夷地を直轄してしまいました。」「正確になった北海道の地図松前藩は、現在の北海道、千島及び樺太南部の広大な土地を領地とし、面積では日本最大の藩でしたが、その大部分がアイヌ民族の居住地であったために、藩領の地図も江戸中期頃までは、不正確なものでした。ところが、18世紀末に入って、幕府が北方への関心を示し、蝦夷地の調査を行なうようになってから、次第に正確な地図がつくられるようになりました。」左:元禄御国絵図(写) 元禄13年松前藩が幕府に提出した地図。中:蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。右:蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの「元禄御国絵図(写)元禄13年松前藩が幕府に提出した地図」「蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。」「蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの」「本州に移封された松前氏寛政11 (1799)年、幕府は松前から東鰕夷地をとりあげて、仮直轄し、さらに享和3(1803 )年には、永久直轄しました。その後、文化4 ( 1807 )年には松前氏を福島県の梁川に移封し、全蝦夷地を直轄してしまいました。これより、以後14年間、松前氏は、梁川藩9,000石の領主になり"松前藩"は消えてしまいます。」「蝦夷輿地全図(写)天明5年山口鉄五郎外幕府の調査隊が作成したもの。」「蝦夷国測量図(写)寛政~文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの。」8 「おしよせる時代の波長い間、鎖国を続けてきた日本の社会は、黒船の来航をきっかけに大きくれ動き北辺の松前荿もこの、激動のうずの中に巻き込まれていきました。」「福山館と福山城安政元(1854)年の新城完成までの福山城は、正式には館または陣屋と称されました。嘉永2(1849)年、松前氏は城主となったためこの時から正式に福山城となりました。」「福山城の築城幕末になって諸外国船の津軽海峡往来がはげしくなると、幕府は、北方警備のため嘉永2(1849)年、松前崇広に築城を命じました。安政元(1854)年に落成したこの城は、日本最後の旧式の城です。」「松前城下眺望の図」。「3万石の大名安政2(1855)年、箱館を含む大部分の領地が、幕府の直轄となり、代わって、東北地方に、領地をもらったため、この時から松前氏は、3万石の大名になりました。」左の領地:文政5(1822)年 ~ 安政元(1854)年右の領地:安政2(1855)年 ~ 明治4(1871)年「薙刀 銘 堀井正次」「北海道指定 有形文化財薙刀 銘 堀井正次」。「箱館戦争松前は、明治元年11月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の攻撃受け、館城も落城し、藩主以下津軽へのがれました。翌年、官軍によって松前は、奪還されましたが2度にわたる兵火のために城下の大半が焼失してしまいました。城下の人々lことって、戦争は物心両面こ大きな傷あとを残しました。」箱館戦争時の松前藩家臣が着用したもの。「町内出土の砲弾・弾丸」「町内出土の砲弾・弾丸明治元年及ぴ2年の箱館戦争は松前でも激戦が繰り広げられ、城下に大きな被害をもたらした。現在でも町内の各所から、当時の砲弾や弾丸が発見されることは珍しくない。旧式の火縄銃の弾丸や最新式のスペンサー騎銃の弾丸、和式の大筒の砲弾や洋式の爆裂弾など種類も豊富である。当時、世界的に武器の進歩は著しく、アメリカの南北戦争が終結した後でもあって、ヨーロッパの武器商人たちは競って日本へ武器の売り込みを図ったのである。各種の弾丸・砲弾が見られるのは、こうした背景があることを示している。」「箱館戦争口書戦闘の様子を松前藩士松崎多門が記したもの。」「錦切(きんぎれ)官軍側の兵士が目印のため肩につけたもの」江戸時代に京都から輿入れした人の化粧道具とのこと。「福山城下町遺跡 出土 近世陶磁器」近づいて。「福山城下町は、海岸段丘に築かれた福山城(松前城)を中心に展開しています。船舶の接岸に便利な海岸沿いには商人の店舗や土産が立ち並び、城の東西にある段丘上には武家屋敷が作られました。そして、火災や水害のたびに盛り土を行い、その上に新たな建物が建設され、今に至っています。近年では、道路拡幅工事や建築工事に伴い、「福山城下町遺跡」の発握調査か行われるようになりました。ここに展示した陶磁器は、福山城下町が持つ豊かな経済力の一端を示すものです。」「現在の松前国道が敷設され、護岸工事が行われたことで、往時の海岸線をしのばせるのは、松前川河口付近のみとなりました。」「平成29年 認定 日本遺産荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.26
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「白神岬展望広場」を後にし、更に国道228号を海沿いに進む。洋上に見えるのは「渡島小島(おしまこじま)」であろうか?北海道松前郡松前町に属する無人島。松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれていると。「櫃(ひつ)の下橋」手前から松前線の櫃ノ下川橋梁の橋脚を右手に見る。松前線は木古内駅 - 松前駅間 50.8 kmが国道228号線に沿って結んでいたが1988年(昭和63年)2月1日に全線廃止となったのだ。「渡島小島」を再び。そして松前町に着き、最初に「郷土資料館」を訪ねた。「松前町町民憲章」碑。私たちは、天守閣のそびえる北海道の古都、松前町の町民です。新生松前町発足20周年にあたり、先人の業績をたたえるとともに、町永遠の発展と町民のしあわせをねがい、みんなが力を合わせてその実現をはかるため、私たちの生活のめあてとしてこの憲章を定めます。一、 力を合わせて産業をおこし、豊かな町にしましよう。一、 自然を愛し、美しい町にしましよう。一、 若い力を育て、明るい町にしましよう。一、 先人の遺産をだいじにし、文化のかおり高い町にしましよう。一、 互いに仲よく助け合い、平和な町にしましよう。1F入口にはアルコール消毒薬とマスクポストが置かれていた。2Fロビーの壁には「北前船渡航図」。北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称。 買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。「松前屏風(まつまえびょうぶ)」は北海道指定有形文化財であるが、これは複製と。「松前屏風」は、高さ1.57メートル、横3.648メートルの6曲半双屏風で、松前に生まれた画家龍園斎小玉貞良によって描かれました。宝暦年間(1754~1764)の松前城下の秋を、福山を中心に白神岬から根部田(現在の字館浜)に至る城下町の全景が描かれ、福山館、寺院、商家、港湾、船舶と交易の状況や往時の風俗にいたるまで克明に表現されています。この屏風は、小樽内の場所請負人であった近江八幡の恵比寿屋岡田弥三右衛門が松前での出店の繁盛状況を後世に伝えるため描かせたものと考えられます。滋賀県近江八幡市の同家から、明治39年(1906)に同市在住者に譲渡されていたものを、昭和51年(1976)に松前町が購入しました。」とネット情報。2Fに「郷土資料館」の入場口があった。入場料は無料。先史時代からの松前の歴史、暮らしに関する資料を展示。町内各地で発掘された縄文土器等も紹介していたのであった。まずは名前を記帳して。松前町内の遺跡から出土した土器や、町内に伝わる民俗資料、箱館戦争に関する資料などが展示されていた。まずは「北海道の成立約50億年におよぶ地球の歴史のなかで日本列島はしだいに骨格ができあがってきました。何度かの氷河期を経て、日本列島は大陸から分かれて、津軽海峡・宗谷海峡などができ、北海道は島になりました。」日本列島の変遷が絵図で。下にはそれぞれの年代の化石が展示されていた。①津軽海峡、松前が大陸と陸続きだったころ(3600~2500万年前)②海峡の一部が形成されたころ(600~300万年前)③津軽海峡が形成されたころ(15~1万年前)熊の親子の姿が。近づいて。2.大むかしの松前松前地方に人々が住みはじめたのは、今から約7000年位前と考えられています。このころは、海や川で漁をし、山や野で狩をする生活でした。こうした生活は、本州文化の影響をしだいに強く受けなガら、鎌倉時代ころまでつづきました。「大津のむら(想像図)」大津遺跡(松前町・江良)は、縄文時代後期(約4000年前)の遺跡です。豊かな海と山の幸に恵まれた自然の中で数軒がまとまって村をつくり、人々は、共同で生活していました。発見された土器などなら、青森県や秋田県と深いつながりのあったことガわなります。「大津のむら(想像図)」子を抱く母親の姿も。「縄文から続縄文へ数千年間つづいた縄文時代は、さらにいくつかの時期に分けられ、地域によって、多様な文化を生み出していきました。やがて本州では、米作を土台にした弥生文化へとうつっていきましたが、北海道では、米がつくれなかったため、依然として、狩猟生活をつづけていました。このころの文化を続縄文文化と呼びます。」「縄文土器」。「竪穴住居」。「竪穴住居(想像図)縄文時代の人々は竪穴住居と呼ばれる家に住んでいました。地面を50 ~ 60cm堀り床をたいらにし、木で柱を立て簡単な屋根をかけたものです。想像によれば、夏は涼しく、冬は暖かいのが長所で、湿気の多いのが欠点ではなかったかと思われます。「縄文をつくろう」縄文式土器の名前は、土器の表面に刻まれた縄目の文様から付けられています。文様の種類によって、時代や地域を解く手がかりになります。細いひもをより合わせて、押し付けたりころがしたりして・・・・・。さあ君も、文様をつくってみよう。様々な文様作りのTRYコーナー。「擦文文化とアイヌ民族続縄文文化のあと北海道の文化は、擦文文化へと移っていきました。この文化は、鉄器を用いるなど本州の新しい文化の影を強く受けた文化です。この人々は、アイヌ民族の祖先とも考えられていますが、まだ明確な答はでていません。」「擦文土器」「沖口役所」絵図。松前藩は松前・江差・函館に沖口役所を置き、出入りを取り締まったのだ。上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところであると。「沖の口役所松前藩は、松前・江差・箱館の3港に沖の口役所を置いて、出入りの商品や船・人馬をきびしくとりしまりました。この絵は、松前沖の口役所で、上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところです。」「沖口役所の標柱 沖口役所とは、現在の税関のような機能を備えた役所であり、松前、江差、箱館の三港におかれた。この標柱は松前藩の復領後建てられ、地下から偶然発見されたものである。銘 文政癸未歳次建立(文政六年(1823)建立」「金山の開発と鷹商品の少なかった江戸時代の初期には、砂金と鷹が藩の有力な財源となり、藩は金山と鷹場の開発に多くの力を注ぎました。千軒岳には、今もなお砂金掘りの跡が残っています。」砂金の採れる川と道具の紹介。大、小粒の砂金。「藩制を支えた近江商人米のとれない松前藩にとって、交易が藩を支える重要な柱になりました、江戸初期、本州との交易で大きな役割を果たしたのが近江商人たちでした。そのため、藩では藩主への謁見を許し、また関税を安くするなどの特権を与えました。」「近江商人の出身地江戸時代に活躍した近江商人は、全国的には八幡・五個荘・日野の出身者が非常に多かったのですが、松前で活躍した近江商人の大部分は、近江八幡及び薩摩と柳川の出身者でした。」「近江商人の交易ルート松前交易で活躍した近江商人は、主に福井県敦賀・小浜の海産問屋と取引をしていたため、松前産物の多くは、両地へ集められ、琵琶湖経由で京都・大坂などの市場へ送られました。」「駕籠この駕籠は華遊山龍雲院から寄贈を受けたもので、僧侶が身分の高い侍の使用したもので4人で担ぎました。」「甲冑・二枚胴具足」。「江戸時代 初期 甲冑 折紙」。「鬼瓦」。町奉行所で使用されたもの。4「松前氏の独立日本最北の豪族蠣崎氏は、第5世慶広の時秀吉の天下統一事業が進むにつれ、にわかに中央接近策をとり、朝鮮戦争さなかの文禄2(1592 )年、秀吉より蝦夷地交易の独占権を認められました。ついで、慶長9(1604 )年、家康より同趣旨の制書をもらい、ここに松前氏が誕生しました。(慶長4年、氏を前と改める)」。「無名の大名松前氏は、領内で米がとれなかったため、石高のない"無高の大名。として存在し、当初は幕府より"蝦夷島主”というあつかいをうけ、江戸時代中期以降は、1万石格になりました。」「微塵塗大小拵え」「体制に組みこまれたアイヌ」「体制に組みこまれたアイヌ(藩主謁見の図)原本・市立函館図書館所蔵松前藩の誕生は、アイヌ民族への新しい差別と収奪のはじまりを意味し、アイヌの酋長は着主へ貢物を差し出し、謁見を強要されました。」「五世 慶広侯 木像 (松前家初代藩主) 阿吽寺所蔵」.「定」。慶長9(1604)年に松前(蠣崎)慶広が徳川家康から発給された制書。「制書のよみ方 定一、諸国より松前へ出入りの者ども、志摩守へ相断ずして 直に商買つかまつり候儀、曲事たるべきこと一、志摩守に断なくして渡海させ、売買つかまつり候は、きっと 言上いたすべきこと 附、夷の儀は、何方へ住行候とも、夷次第いたすべきこと一、夷仁に対し、非分申しかけは、かたく停止のこと右条々、もし違背の輩に於ては、厳科に処すべき者也よってくだんのごとし慶長九年正月ニ十七日 黒印 松前志摩守どのヘこの制書によって、松前氏は名実ともに蝦夷島の支配者になりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.25
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「福島町 青函トンネル記念館」を後にして、さらに松前半島を南下すると「横綱千代の山・千代の富士記念館」が右手に。この場所は、「2013年にも訪ねており」👈リンク、館内にも入り見学したので2回めの訪問なのであった。手前の「道の駅 横綱の里 ふくしま」。交差点角にあった案内表示。前のコンビニの駐車場に車を駐め、水分補強用にお茶を購入。正面に「横綱千代の山・千代の富士記念館」。第41代横綱・千代の山、第58代横綱・千代の富士の生誕の地。師弟関係にもあった二大横綱の歩みと大相撲の文化を知ることが出来るのだ。館内には横綱の綱や優勝トロフィー、千代の富士が断髪した際の大銀杏、国民栄誉賞状など、たくさんの展示物がある。その他にも九重部屋の稽古場と土俵が再現されており、同部屋の合宿も開催されると。第41代横綱千代の山、第58代千代の富士が向かい合って横綱土俵入りを。第41代横綱千代の山。第58代千代の富士。2016年7月31日に61歳の若さで亡くなったのであった。「横綱の里 ふくしま」。巨大な軍配には千代の山、千代の富士の文字が。高さ約16mの櫓太鼓。江戸時代は報道機関がないため、太鼓をたたき相撲興行を市中に知らせた。また、力士の場所入りの時間を報知するため、早朝から一番太鼓・二番太鼓と階級別に知らせたが、いまは客をよぶ「寄せ太鼓」、その日の興行が終わった「はね太鼓」など、違った太鼓の打ち方をするのだ。そして次に国道228号沿いにあった「伊能忠敬北海道測量開始記念公園」を訪ねた。「大日本沿海輿地全図」を作成した際、蝦夷地測量は福島町吉岡から始まったとする記録が残っており、その功績を後世に伝えるため伊能忠敬没後200年の節目であった2018年に記念公園を建設したと。公園内には銅像や功績を記す説明板などがあった。測量器具を使い測量する姿の「伊能忠敬像」。測量器具は上下角と、羅針盤により方位角が測定できる「中方儀」。中方儀としては初期の型式。望遠鏡のような照準器の中にはレンズは無く、針が筒の中心に突き出ている。青森県三厩から函館を目指していた伊能忠敬、どうやら風の影響で流されてここ福島町へ辿り着いてしまったのではと下記に。この地から蝦夷地測量が始まり北海道地図が生れたのかと思うと、不思議と熱き思いが。「伊能忠敏の北海道測量開始地点は福島町吉岡五十五歳の伊能忠敬は寛政十ニ年(一八〇〇)閏四月十九日(新暦六月十一日)江戸深川の富岡八幡宮に参詣後、師匠の幕府天文方高橋至時に挨拶し、蝦夷地といわれた北海道に向かって測量の旅に出発した。年内に測量を終わり、地図を作成提出する計画だったので、大急ぎで奥州街道を北上し五月十日に津軽の三厩(みんまや、青森県外ケ浜町)に到着する。津軽藩の役船で函館に渡ろうとしたが、風が悪く八泊も風待ちし、五月十九日漸く出航。しかし途中で風が変わり、やむなく福島町吉岡に着船。一泊して風を待ったが変わらなかった。幕府折衝に手間取った為であるが、北海道まで往復して地図を作るのに、新暦六月十一日の出発では大変遅すぎた。時間が限られていたので、決断して吉岡から函館に向かって測量をはじめる。一日一日が非常に貴重だったから、測量しながら歩いたに違いない。吉岡は伊能測量隊の北海道測量開始地点となった。函館でも諸手続きのため七泊しているが、函館山に登って本州の目標との方位を計ることができた。六月一日北斗市市ノ渡に先輩村上島之丞を訪問、従者だった間宮林蔵に出会い御縁が結ばれた。北海道東南岸を厚岸の近くまで歩測し、さらに別海で天測したあと引き返す。福島で天測し、吉岡を経て、松前まで測って役船で三厩に戻る。江戸帰着後は内妻お栄も動員してデータ整理と地図の製作にあたった。堤出は十ニ月ニ十一日、年内ぎりぎりだった。(注)五月十九日「松前領吉岡という所へ昼九ッ後に着。暫時見合候ても同風に付吉岡に泊」(国宝・伊能忠敬測量日記より)」反対側から。伊能忠敬も眺めたであろう福島町吉岡からの海の眺め。先端は「矢越岬」であろう。先端の高台に白きものが見えるが、これが矢越岬灯台であろう。「光る海」津軽海峡。白神岬トンネルの手前。ここは岩がせり出しているところなので、覆道ではなく、トンネルになっているのか。赤石覆道。そして「白神岬」。「海底下の 列車のひびき 聞こえ来て 白神岬は さざ波の列 清一」と。あなたは今北海道最南端(北緯:41度 東経:140度)に立っております。この場所の下近くには、青函トンネルがあり、北海道新幹線が走っているのである。石碑の裏面には「作者村上清一は白神生まれ教師として二十年白神小学校大沢中学校に努め歌集(岬みち)等を残してふるさとを深く愛しました」と。実際には、青函トンネルは先程の「伊能忠敬北海道測量開始記念公園」近くの下を通っているのであったが。「北海道最南端 北緯41度23分 東経140度12分」碑。松前町にある「北海道最南端」の岬で、本州最北端の大間崎(下北半島)から15kmほど南に位置。対岸の津軽半島最北端の竜飛崎からは19.2kmで、晴れていたので本州を眺望出来るのであった。走って来た道を振り返る。本州・津軽半島の姿がはっきりと。ここ白神岬から、青森県津軽半島最北端・龍飛崎の距離は、津軽海峡を挟み19.2km。本州と北海道の距離としては屈指の近さなのであった。津軽半島・「小泊岬」と大きな貨物船の姿が。砂浜2m上から見えている水平線までの距離は約5km(地球は丸いので)であることから、この貨物船はここ北海道側から7~8kmより手前の「公海」ルートを航行しているのであった。(この場所を水面より4m高さと仮定)「小泊岬」をズームで。大きな船?をズームしたが・・・。そして白神岬覆道を出ると前方に紅白の「白神岬灯台(しらかみみさきとうだい)」の姿が現れた。実際にはこの先、「白神岬灯台」の下が「北海道最南端」の地であるようだが・・・。離島を含めた実際の北海道最南端は渡島小島(松前小島)であると。「白神岬灯台」は、北海道松前郡松前町の白神岬に建つ、北海道最南端の灯台。「白神岬燈台」銘板。1888年(明治21年)9月15日 - 初点灯。 1951年(昭和26年)6月1日 - コンクリート造に改築。白神岬灯台裏の山の上にあり、レーダー等を用いて津軽海峡を通航する艦船の警戒、監視等を行っていると。また、津軽海峡に海底ケーブルを敷設し、音響観測による監視も行っていると。すなわち潜水艦の監視であろう。「昭和52年に制定された「領海法」により領海は基線からその外側12海里(≒22km)までとされたが、 国際航行に使用されるいわゆる国際海峡である 宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡西・東水道、大隅海峡 の5海峡は特定海域として、同海域に係る領海は基線からその外側3海里(≒5.6km)の線及びこれと接続して引かれる線までの海域とされたのだ。平成8年に制定された「領海及び接続水域に関する法律」により直線基線が採用されたことによって、 特定海域内の領海の限界線は若干の修正が加えられた。仮に、この5海峡の領海幅を3海里から12海里のままにしてしまうと、5海峡は完全に日本の領海になる。一方、国際法(海洋法条約38条2)では国際海峡における外国の船舶及び航空機の通過通航権が認められている(それは核兵器を搭載した外国の軍艦あるいは軍用機であっても同じである)。とすると、核兵器を搭載した外国の軍艦が当該海峡を通過する場合、日本は国際法上、軍艦の通過は拒否できず、結果として領海内に核兵器が持ち込まれたこととなり、非核三原則の「持ち込ませず」の原則を堅持できなくなるのであるそこで、海峡上に領海に含まれない海域を残し、核兵器を搭載した軍艦をこの海域上を通航させることによって、こういった事態に対処しようとしたのである」とネットから。以下の図は、特定海域での領海の限界線を表示したもの。 【http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=1221】より津軽海峡の詳細図。濃青色は内水を、青色は領海を表している。よって水色の部分は公海部分となっていて、核兵器を搭載した外国の軍艦を含め原子力潜水艦等も自由に通過することができるのだ。 【https://www1.kaiho.mlit.go.jp/JODC/ryokai/tokutei/tokutei.html】よりそして「陣屋覆道」を通過し「白神岬展望広場」にも立ち寄る。反対側から。「白神岬展望広場」蒼き「津軽海峡」。「松前燈台」方面を見る。「渡島小島(おしまこじま)」をズームで。「渡島小島」は、北海道松前郡松前町に属する無人島。松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれる。松前町の沖約23km付近に位置している。面積は1.54km2。小島の名は渡島大島に対してのもの。島の南端は北緯41度20分58秒であり、離島も含めた広義の北海道最南端である。住所は全域に亘って松前郡松前町小島であると。「伊藤整 生誕の地」碑が立っていた。「「伊藤整 生誕の地」伊藤整(いとうせい、1905年~ 1969年 64才没)本名は伊藤整(いとうひとし)1905年(明治38年)、北海道松前郡炭焼沢村に生まれ、その後塩谷村(現小樽市)に移住し、北海道庁立小樽中学校(現潮陵高校)を経て、小樽高等商業高校(現小樽商科大学)を卒業し、小樽市中学校(現長橋中学校)の英語教師に就任。2年後に教師を退職して上京。詩人として出発するが、小説家・評論家に転じる。ジェイムス・ジョイスの「ユリシース」、D. H.ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳紹介。小説「鳴海仙吉」「火の鳥」「若い詩人の肖像」「氾濫」「変容」など評論「小説の方法」「日本文壇史」など。1967年、日本芸術院賞を受賞、翌年、日本芸術院会員に選定される。生誕地の炭焼沢村とは、現在の松前町字白神であり、生まれた場所からは難れていますか、白神地区としてこの地に生誕の碑を設置しました。」「伊藤整」の作品を読んだ記憶がないのであるが・・・。再び「津軽半島」を見る。巨大な貨物船が津軽海峡を進む。松前港方面を見る。先端に見えるのが「弁天島」であり「松前灯台」がある。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.24
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「重内神社」を後にして、国道228号で知内町を走る。立ち寄ったのが「道の駅 しりうち」のつもりであったがここは手前の「あすなろパン工房 しりうち店」なのであった。隣りにあるのが「道の駅 しりうち」であることに気が付き、徒歩で移動する。「道の駅 しりうち」案内板。北海道上磯郡知内村(現:知内町)出身の北島三郎をデフォルメした絵が迎えてくれたのであった。「湯の里4遺跡」。「湯の里遺跡群は、知内川沿いの台地上に位置し、縄文前期から晩期の各時代にかけて分布する6つの遺跡です。この中でも、立石遺構の湯の里1遺跡、二重のストーン・サークルをもつ湯の里5遺跡、漆塗り製品の湯の里3遺跡は、いずれも縄文後期の祭祀に関係した特徴的な遺跡となっています。湯の里4遺跡は昭和58年の調査発掘され、旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土壙が発見され、コハクや石製の小玉・垂飾・石刃・石刃核・細石刃など14点が出土し、平成3年に国の重要文化財に指定されました。」と。「悠久の眠りからさめて1983年10月発掘調査がおこなわれていたこの台地で、琥珀とカンラン岩で作られた垂飾2点・小玉3点の装身具と石刃核・細石刃などの石器9点をともなった旧石器時代(約2万年前)の墓が、国内で最初に発見された。装身具や石器などの副葬品は、当時の人々の生活や文化を知るための貴重な資料であり、わが国の墓制の起源を縄文時代から旧石器時代にさかのぼらせるなど、学術的にもきわめて価値が高いことから、1991年6月国の重要文化財に指定された。また、自然石を外環径が約6m、内環径が約2.5mの二重環状にめぐらした、道内ではまれな形態である縄文時代後期のストーンサークルも発見されている。このモニュメントは、過去から現在までの時の流れをモチーフとして、中央の石柱が知内の大地に最初に根をおろした人々と時空を、円形に敷きつめられた石がストーンサークルをあらわしている。」「知内町へようこそ!湯の里地区案内マップ」。①新幹線展望塔②親水公園③農村公園青函トンネル出入口(湯ノ里トンネル)等が記載されていた。そしてこちらが「道の駅 しりうち」なのであった。「道の駅 しりうち」の奥にあった新幹線展望塔を訪ねた。「新幹線展望塔スタンプ」用紙にスタンプをGET。ズームして。エレベーターに乗り展望台へ。新幹線展望塔では、全国的にもめずらしい、貨物列車が退避する横を新幹線が走行する瞬間を見ることができる場所であると。木古内駅方面を見る。これがその時の写真のようだ。 【https://www.travel.co.jp/guide/article/33644/】よりこちらが青函トンネル方面。全国的にも珍しい貨物列車と新幹線が共用する線路構造「三線軌条」も確認することができたのであった。知内駅は北海道新幹線の開通に伴い廃止されたが,旧駅の施設から北海道新幹線を間近に見ることが出来たのであった。中央左に「大千軒岳」がはっきりと見えた。「北海道にあって、暗澹とした歴史を持つ山の一つに道南の大千軒岳がある。言わずと知れたキリシタン殉教の地で、寛永16年(1639年)当時の幕府の圧力に屈した松前藩によって、106人ものキリシタンがこの尻内川コースの番所跡地付近で斬首されている」のだと。「エレベーター 降りたらまっすぐ 物産展 知内町」。指示に従い、物産展へ。買いたいものがたくさんあったがグッと我慢。歌手「島あきの」のポスター。北海道長万部出身の父と同じ北海道知内(北島三郎の故郷)出身の母の次女として生まれる。北島三郎の弟子であるようだ。そして昔訪ねてそばを楽しんだ事がある「千軒そば」にも立ち寄った。「海峡と横綱の里 福島町」の「歴史探訪 殿様街道」案内板。営業日は週4日、火、木、土、日曜日であり、この日は残念ながら月曜日で休みであった。「第二十八回 北海道 女だけの相撲大会」ポスター。これは昨年2019年のポスターであるが、今年の第29回北海道「女だけの相撲大会」はコロナの影響で中止となった模様。「旧福島町立千軒小・中学校」の校門。左には中学校、右には小学校と書かれていた。そして更に国道228号を南下する。そして左側にあった「町立 青函トンネル記念館」に立ち寄った。世紀の大工事と言われ、トンネル技術を結集して完成させた世界最大の海底トンネル「青函トンネル」。工事中に実際に使用していた設備重機や工事記録、技術情報などが展示されていると。その他、青函トンネルの全容や工事の様子などを映像で見ることが出来るとのこと。「北海道立 青函トンネル記念館」石碑。北海道大学水産学部が所有していた有人小型潜水調査船「くろしおⅡ号」が展示されていた。1960年には耐圧殻を転用して大改造を行い自航式の「くろしお2号」として竣工、母線からの給電ケーブルを200mから600mに延長、安定した岩石サンプルの採取が可能なボーリング機を搭載し、348回の潜水調査を実施。予算不足や船舶安全法の規制強化に伴い1971年に引退し1979年に北海道立青函トンネル記念館に引き取られたのだと。「青函トンネルの海底地質調査では、海底のようすをじかに観察する豆潜水艇が活躍しました。1960 (昭和35 )年に導入された「くろしおⅡ号」は、200の深さまで潜ることができました。また海底の岩石を採取したり備え付けのポーリング機械で岩石の試料を採取することもできたので、貴重な調査データが数多く得られました。」時間の関係で外部だけを散策。2015年末においては、世界最長の海底トンネルである青函トンネル建設の工事記録や土木技術が収められた建設技術集積施設で、設備重機などトンネル文化を体験できる。円筒を2つ並べた外観は、地上に姿を現した海底トンネルという物語的デザインをとっている。しかし、2016年にスイスに青函トンネル(53.9km)を抜いて世界最長となった全長57kmの鉄道トンネル「ゴッタルドベーストンネル」が開通したのであった。外に展示されている機械を見て廻る。「内部」👈リンク はリンクを参照願います。「試すい機用送水ポンプ」。「試すい機用送水ポンプトンネル工事では、堀り進む前に孔をあけて前方の岩石を取り、地質を調査する試すいを行います。このポンプは、試すいで掘っていく孔の先端へ水を送り、切り用られ岩石(切り粉)を孔の外へ流し出す役目をします。」「緊急用排水ポンプ台車」。「緊急用排水ポンプ台車昭和51年5月、北海道物吉岡作業坑で発生した異常出水により、固定ポンプが完全に水没して使用できなかったため、緊急に導入されました。排水に大きな力を発揮してトンネル水没をまぬがれ、青函トンネル工事史上最大の危機を乗りこえることができました。」「アジテーターカー」。「アジテーターカー混合したコンリートを運搬する車です。コンクリートを使用する場所に着くと、ドラムを回転させ、混合しながら生コンクリートを供給します。陸上で使われているミキサー車と同じ役目をします。」「試すい機」。「トンネルを掘り進める前に前方の地質を調べる試すいという作業を行う機械である。先端にダイヤモンドまたは硬い鋼がついた鉄管を回転させながら、が引責の中を切り込み、鉄管の中にコアを掘りだして地質を調査するという。この機械で700~800m掘ることができる。」イルミネーション設備であろうか?「排水ポンプ」。「排水ポンプトンネル内の湧水を地下300mのためますに集めた後、一気に地上まで排出するポンプです。トンネル内には常にわずかな湧水があるため、この排水ポンプはトンネル機能を第持するための重要な設備のひとつです。」「ふくしま歴史名所双六」。「軸流送風機」。「軸流送風機トンネル工事中、トンネルの中の温度、湿度がともに高く、作業のために空気が汚れます。常時海底現場に新鮮な空気を大量に道り、仕事がしやすい環境を保つため、この送風機を補助として使用し、斜坑口から採り入れた新鮮な空気を切羽(トンネル・・・「青函トンネル」をイメージした展示室を外から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.23
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「鶴岡農村公園」から徒歩にて、近くにあった「禅燈寺」に向かう。正面に見事な山門が。禅燈寺の仁王門は2階建て高さ9.5m、幅は10.6mあり2階は鐘つき堂。2010年に金剛像の修復をされたようで、道内有数の木仏像とされる。北海道上磯郡木古内町字鶴岡103 。2階の鐘つき堂の場所には、扁額「龍雲山」。山門の仁王門は1917(大正7)年に完成。1993年の北海道南西沖地震の影響で仁王門の壁がひび割れるなどしていたのだと。2体の金剛像は高さ2.4m。右手の阿形像・那羅延金剛。左手の吽形像・密迹金剛。「禅燈寺と仁王門明治18(1885)年から19年にかけて山形鶴岡藩士105戸が北門の警備と蝦夷地開拓の大使命を帯び入植したが、故郷山形善寶寺に懇請し、三世岱静和和尚が北海道・千島・樺太などの漁場を巡鍚して明治35(1902)本堂を建立した。文安3(1446)龍神様を祀られているお寺として建立され北海道・東北6県をはじめ、関東・関西方面に多くの信者を有する山形県龍澤山善寶寺39番目の末寺。大正7(1918)年に仁王門を建立。仏法守護のため寺門の左に密迹金剛と右に立つ那羅延金剛は、明治から大正年間に函館市に在住した仏師、風間慶師の作。」と何とか解読したつもりだが。「山門」下から「本堂」を見る。右手にあった石碑・「開拓史判官 松本十郎之書」と案内板。「北海道開拓史判官 松本十郎天保10年( 1839 )山形県鶴岡市生まれ。文久3年( 1863 )父親に従って蝦夷地の庄内藩警備地区浜益・苫前等に勤務。慶応3年( 1867 )江戸市中取締の任に当たる。翌4年、戊辰戦争ては大隊の幕僚として活躍した。庄内藩降伏後、新政府首脳との接渉に当たり、明治2年(1869)黒田清隆の推挙により北海道開拓判官に任せられ、根室地区の責任者として、漁業振興や北方領主の警備などに尽力し、根室市の基礎を築いた。明治6年開拓大判官となり、北海道開発の責任者として財政の確立、農業の振興などに尽力し、北海道開拓に偉大な功績を残した。奥羽地方最初の勅任官になった人。」寺の境内をJR江差線の線路が通ることで、鉄道ファンなどに人気があったが、江差線は2014年に惜しまれながら廃線になり、山門と本堂の間を列車が通る風景を見ることはできなくなった。現在は、旧江差線の線路に道南トロッコ鉄道のトロッコ列車が走り、ひと味違う光景が見られるとのこと。踏切を渡り、山門を振り返る。「禅灯寺踏切」。境内参道の左手の石仏。白のマスクを付けて。左手に持っているのが「ワクチン」であると良いのだが・・・・。そして「禅燈寺」の「本堂」。禅燈寺は明治35年(1902年)に木古内村(現 木古内町)鶴岡地区に入植した山形鶴岡藩士の要請によって建立された曹洞宗の寺。扁額も「禅燈寺」。こちらは「寺務所」であろうか?五七桐紋(豊臣秀吉の家紋)と西山浄土宗の宗紋の竜胆車(りんどうぐるま)が重なり合っていたがその意味は?境内の大木は全て伐採されていた。銀杏の樹であったのだろうか?そして再び旧江差線の踏切を渡り「禅燈寺」からの帰路に。「おりづる 折鶴信号場」現在のトロッコ電車の駅前が記載されていた。「令和鶴岡」駅方面の線路。「鶴岡農村公園」の水場周りは見事な紅葉が。ドウダンツツジであっただろうか。そして木古内町 鶴岡多目的集会施設の「農村ふれあいセンター」。そして次に「北海道新幹線木古内ビュースポット展望台」に向かう。「北海道新幹線ビュースポット」に到着。屋根の緑、柵の紫は北海道新幹線カラーなのであった。階段上の展望台にはここから見える景色の案内が。無料の固定式双眼鏡が設置されていて、360度回転できるので分岐ポイントやトンネルを走り抜けていく列車の姿を見ることが出来たのだが・・・。また、運が良ければ並走する在来線を走る列車の姿も同時にと。「通過時刻表」を見たが、来るまでに時間があるため諦める。北海道新幹線から青函トンネル方向へ約3㎞の地点に高さ約4mの新幹線ビュースポット。山間を抜ける直線の線路を走る新幹線を見ることが出来るのであった。「青函トンネル」方面を見る。上下線でレールが3本ずつあり、新幹線と在来線の共用区間、もちろん、レール幅が在来線と新幹線で異なるため。「新函館北斗駅」方面を見る。手前に在来線と新幹線との分岐・合流点が設けられ信号場が建屋の下に。両側に在来線の線路が分岐・合流されていることを見ることが出来たのであった。そして次の訪問地に向けて国道228号を進むと、高台からの眺望が美しい場所・重内(おもない)神社があるとのことで、急遽右折し、道道698号線・重内さくら道路のひたすら一直線の道を進む。海沿いの国道228号から重内神社に至る真っ直ぐなこの道路には桜が植えられていた。春には桜色の真っ直ぐな道路が見れるのであろう。そして正面に重内神社、そして社殿の奥の階段、そして裏山の山頂に展望台が見えた。「道営圃場 完成の碑」、両脇には「耕心」、「拓魂」と刻まれた石碑が。「林雅雄理事長之碑」。「重内神社」の「鳥居」と「社殿」。「鳥居」を見上げる。「本殿」。扁額「重内神社」。「重内神社由緒古老の言によると、明治十八年福井県大野郡出身の林七郎兵衛他十数戸のものと重内に入植した折、自分達入植者の守り神として信仰の中心にしょうと、明治二十五年頃、祠を建てて祭ったのが始まりと聞くその後、本格的な部落の開拓が始まり、人家も漸次増加し重内部落を形成するに及んで不動明尊を部落の守り神とし、名稱も重内神社と改め、部落全体で祭り事をとり行うようになった。明治、大正、昭和そして平成と年代は移り変わり、昭和二十四年に、神社の境内、敷地神社山も当時の所有者知内農場より四町六反七畝の寄贈を受ける。これを機に宗教法人重内神社の登記も完了し、主祭神不動明神、雷公神社分祀、別雷神加茂御祖神宇迦魂神を合祀する。昭和五十一年神社の本社殿を神社山頂上に再建遷宮し、同五十三年に拝殿も再建、境内を氏子総出の奉仕により、記念の植樹、更に神社山一帯を神社公園化に向けて努力し頂上には展望台、遊歩道も設置し、今ここに名実共に神社としての姿を整えるに至ったものであります。」神社社殿の裏手には200段もの長い階段がまっすぐに伸びていた。200段の長い階段を登らずに、車で山頂まで一方通行で行けるのであった。そして車で上り、道路脇に車を駐め徒歩で進んでいくと鳥居と社殿が。この手前で車中泊をしながら星空を撮影する人物との暫しの一期一会の会話、そして翌日に訪ねる予定の「恵山」周辺のお勧めの場所を教えて頂いたのであった。山頂の「社殿」でお参り。昭和51年、神社の本社殿をここ神社山頂上に再建遷宮したもの。そして横に建っていたのが「重内神社展望台」。展望台からは走って来た道道698号線・重内さくら道路のひたすら一直線の道が見えた。「北海道電力(株)知内発電所(しりうちはつでんしょ)」が見えたのでズームで。知内発電所は、北海道上磯郡知内町元町にある北海道電力の石油火力発電所。1983年12月に1号機が運転を開始、2号機までが建設された。主に北海道道南への電力供給を行っていると。そして山頂の朱の鳥居から再び道道698号線・重内さくら道路を見る。200段の階段そしてその先に伸びる道道698号線・重内さくら道路。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.22
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「トラピスト修道院」を後にして、再び国道228号まで戻り南下する。この先で国道228号から道道5号線に入り「木古内駅」に向かう。正面にJR「木古内(きこない)駅」が姿を現す。木古内町の中心駅であり、北海道新幹線「はやぶさ」「はやて」合計13往復のうち、8往復16本が停車するのだと。駅前ロータリーに面した場所に「道の駅 みそぎの郷 きこない」が建っていた。北海道、北の大地の玄関口である木古内駅。「木古内(きこない)」の名はアイヌ語に由来し、干満の差が激しく、満潮時に潮が川を逆流する(感潮河川である)ことから名づけられた「リリオナイ(リロナイ)」(波・入れる・川:潮の差し入る川)からとされる。別説として、沢のあたりが自然に高く上がっていたことから名づけられた「リコナイ」(登る・沢)からとするものもあるとのこと。マスコット「キーコ」がお出迎え。キーコは木古内町特産の「はこだて和牛」をモチーフ。チャームポイントは、津軽海峡をイメージした「津軽ブルー」の目と、プリッとしたかわいいおしりに付いてる小さなしっぽであると。「みそぎの郷きこない」は、2016年1月にオープンした、木古内町(きこないちょう)の新しい道の駅。施設内には土産品・特産品を扱うショッピングコーナーが設置され、「世界の料理人1000人」に選ばれたシェフ・奥田政行氏が監修するレストラン「どうなんde's Okuda Spirits」が人気。施設の正式名称は「木古内町観光交流センター」であり、愛称の「みそぎの郷」とは1831年(天保2年)から続いている神事『木古内町寒中みそぎ祭り』に因んで名づけられ、複数の候補から選ばれた。 施設の内装・外装には町木「道南スギ」を使用しているとのこと。「道の駅満足度 ランキング2020」3年連続 北海道の総合1位 であると。そして「大鳥圭介 陸軍奉行」掲示塔。そして裏側には力作の説明文と絵画が。「馬上から指揮する大鳥圭介 此処が木古内口の戦場地跡1868日(明治元)年11月、松前を撤退した旧幕府軍は、同月木古内に人る。本営を木古内市街に置き、江差、松前方面からの新政府軍を迎え討つべく薬師山からふもと、海岸に及び数箇所の砲台や壕を築いた。1869 (明治2 )年4月、江差山道より進軍してきた新政府軍と対峙、大鳥圭介『南柯紀行』によれば「十一月なりしか、木古内ロへ敵兵回りし注進、知内辺守衛の彰義隊より申し来りしに依り、前頭兵隊を率いて五稜郭を出発し木古内に着せしに、彰義隊五十人程に伝習隊一小隊許り、既に在し」という状況であった。木古内ロの戦いでは再度陣地を奪還するなど大奮戦を見せたが、戦況悪化に伴い4月下旬、大鳥は諸隊の反対を押し切り、撤退を命じた。」「戊辰の役函館戦記 馬上で指揮する大鳥圭介」「1832 (天保3 )年、現在の兵庫県にうまれる。1867 (慶応3 )年、幕府の歩兵奉行となり伝習隊を結成する。翌年4月、旧募府軍が市川(千葉県)に集結すると総督となり各地を転戦する。木古内ロの戦いでは、薬師山の頂で白馬に跨り全軍を指たと伝えられている。」「星 恂太郎 1840~18761840 (天保11 )年、東照宮宮司の息子として生まれる。仙台薯士。江戸で洋式銃隊訓線を学び額兵隊を組する。戊辰戦争で仙台藩は降伏するが、星はそれを受け入れず額兵隊を率いて蝦夷逃れる。木古内ロの戦いでは単身で斬り込むという離れ業を決行し名を馳せた。」「歩兵頭 伊庭 八郎 1843~18691843 (天保1 4 )年、剣の名門心形刀流の伊庭家の長男として生まれる。臣。名は秀額。1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いに参戦、箱根の戦いて左腕を失い、片腕の美剣士として名を馳せる。錦絵や丹下左膳のモデルともいわれている。木古内での激戦中、胸部に深手の銃創を負い箱館病院に搬送されるも亡くなる。亡骸は五榎郭の一角に理葬されていると伝えられている。享年26歳。」「歩兵頭 本多 幸七郎 1845~不明1845 (弘化2 )年生まれ。幕府の士官として歩兵頭を務める。戉辰戦争では大蔦圭介の腹心人物といわれ、伝習隊を率いて南関東から箱館まで各地を転戦した。木古内ロの戦いにおいては、伝習歩兵隊を指揮して新政府軍を撃退している。」再びJR「木古内駅」を振り返る。そして「木古内駅」を後にして、道道5号線を利用して「道南トロッコ鉄道鶴岡公園駅(旧江差線渡島鶴岡駅跡)」を目指す。「道南トロッコ鉄道鶴岡公園駅(旧江差線渡島鶴岡駅跡)」に到着。「道南トロッコ鉄道」は廃線となったJR線の線路の一部を活用し、トロッコ乗車体験ができる施設。動力付きトロッコ1両と足こぎトロッコMax3両の編成で運行し、ゆっくりと景色が楽しめるのだと。「木古内町郷土資料館 周辺マップ」。「木古内町郷土資料館「いかりん館木古内町郷土資料館「いかりん館」は、平成23年3月に廃校となった鶴岡小学校の校舎を利用して平成27年3月に開設しました。館内は、縄文土器などを展示する「大むかしの木古内」、民俗資料を展示する「マチの歴史と発展」、農機具や漁具などを展示する「木古内の産業」、昔の家庭で使われていた日用道具などを展示する「人々の生活と文化」、JR松前線・江差線などの鉄道資料などを展示する「木古内と鉄道」の5つのカテゴリーに分けて、約2000点を展示しています。特に幕末から明治維新にかけて活躍した「咸臨丸」のものとされているイカリは、天井に届きそうなくらいの大きさと歴史の1ページが刻み込まれた本体にロマンを感じさせます。」「禅燈寺 Zentoji Temple禅燈寺は、姉妹都市である山形県鶴岡市にある善寳寺の末寺で、本堂の隣リでは龍神様を祀っています。お寺の創建は木古内開拓の歴史とつながリ、山形県の庄内藩士1 05戸が明治18年に入植したのに伴い、明治33年に建立されています。大正7年には山門を建立し、山門内に設置されている2体の仁王像(左に密迹金剛・右に那羅延金剛)は、函館市に在住した仏師、風間壮慶作です。また、平成26年5月1 1日のJR江差線(木古内~江差間)廃止までは境内の敷地内を線路が通っていた、全国的にも珍しい鉄道スポットとしても有名でした。廃止に伴い、列車は通過しなくなリましたが、レールは残されておリ、現在は、道南トロッコ鉄道が運行しています。」料金は大人:700円 子児:400円 とのこと。西側(松前方面)の線路。東側(木古内駅)方面の線路。「令和鶴岡(江差)方面時刻表。」トロッコは、行きは、スタッフが運転する「動力付きトロッコ」がアシストし、MAX3両編成で乗り場から山側の「キーコの郷」駅まで進みます。そして、帰りは、動力付きアシストの「急行便」1両と、乗り手自身で自転車のようにこいで動かす「快速便(足こぎトロッコ)」2両とに分かれて、乗り場まで戻ります、往復約18分 と。そして次に「鶴岡農村公園」に車を駐める。「山形庄内藩士上陸之地」碑。この地は、山形県鶴岡市の人々が開拓したので「鶴岡」と名付けられているのだ。「山形庄内藩士上陸之地北門の警備と蝦夷地開拓、自立自営の大使命を帯び、明治18年から同19年にかけて山形県鶴岡を出発、酒田港より御用船にて此の地に上陸し、庄内藩士、佐藤洋孝と共に105戸が帯刀を鍬にかえ土地墾闢を志向す。所謂、士魂を農魂にと皆をあげ決然轉身の勇を揮い、大谷地、棚部岱、瓜谷、吉堀、中野、達川に移住し、爾来 鏤骨の辛苦と苦難の農耕を続け、歴代に受け継がれ、ここに87年の今日、水田酪農郷鶴岡を築く。改めて先人の労苦と偉業を偲び永遠に伝えん 酒井忠明書」「碑の来歴この碑山形庄内藩士百五戸開拓者上陸地之標は昭和40年鶴岡地区開基八十周年記念事業として字本町七百三番地に標柱を建立をしたのが始まりです。昭和47年この標柱建立地が町立病院建設地となったため移転せざるを得ず、協賛会を組織し、辛亥会の協力を得て移転、新設の形をもって石造碑を建立することに決し中学校通り線の町有地に同年六月建立したものであります。なお、この碑の標記及び碑文は旧荘内藩主酒井忠明氏の揮毫をいただいたものです。平成23年9月、北海道新幹線建設に伴い(支障となり)移設を求められたため移設委員会をつくり協議の結果、ここ鶴岡農村公園に移設建立してものであります。平成23年9月 庄内藩士上陸の碑移設委員会」「木古内町 鶴岡多目的集会施設」の前のには様々な石碑が。「記念碑鶴岡市・木古内町 姉妹都市盟約宣言十五周年朝暘第一小学校・鶴岡小学校姉妹校交流四十周年明治十八年より旧庄内藩士開拓団百五戸がここ鶴岡地区に入植したことを縁に、昭和三十九年五月十ニ日、鶴岡市立朝暘第一小学校と木古内町立鶴岡小学校は姉妹校の契りを交わし、今年で四十周年を迎えました。また、平成元年四月ニ十七日、鶴岡市と木古内町は姉妹都市盟約宣言を行い、今年で十五周年を迚えました。両都市は、教育・支化・経済の交流を深め、相互の信頼と友愛の絆を一層強くすることを誓うと共に、互いの限りない繁栄を念願し、記念碑と致します。」学校前にある碑とは別に開拓 開校百年の碑があった「開拓 開校百年の碑碑文前面「開拓 開校百年の碑」裏面には「開拓 明治18年6月11日/開校 明治22年6月30日/鶴岡地区開基百周年並び鶴岡小学校/開校百周年と新校舎落成祝賀協賛会/辛亥会/昭和62年11月22日建立」と。「開拓繢蹟功碑」白樺の木であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.21
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「茂別館跡」を後にし、近くにあった「茂辺地北斗星広場」に立ち寄る。右側には「HOKUTOKEN」と書かれた建物が最初はラーメン店としてオープンしたが『地域運営食堂 北斗軒』としてリニューアル。地域のおかあさん食堂というコンセプトとのことだが現在でも営業しているのであろうか1988~2015年に上野・札幌間で運行されていた寝台特急「北斗星」の客車2台を、かつて走っていた沿線の北斗市茂辺地で保存・展示。車内を見学することも可能(土日祝)であると。「北斗星車両内部公開について例年、内部公開を実施しておりますが、新型コロナウイルス感染症の拡大防止と、御来場者や地域住民の皆様の安全保護の観点から、今年度は実施しないことといたしました。ご来場いただきましたのに、大変申し訳ございません。ご理解のはど、よろしくお願い致します。(最新情報は、facebook「北斗の星に願いをプロジェクト推進委員会」ページに更新中です。ご参照ください。)2020年7月23日北斗の星に願いをプロジェクト澤田」と。青函トンネルが開業した1988年から、北海道新幹線開業前年の2015年までの27年間、東京の上野駅と札幌駅を結んだ寝台特急「北斗星」。引退後、ほとんどの車両は解体されましたが、函館近郊の北斗市茂辺地町内の中学校跡地のグラウンドで、客車2両が2016年7月から保存・展示され、内部が一般公開(土日祝日10時~15時)されていたが、今年はコロナの影響で内部公開は休止中であったが外観の見学は可能なのであった。真鍮で作られた大きなエンブレムも。エンブレムをズームで。SAPPORO 539 TOKYO、JR HOKKAIDO の文字が。539とは 青函トンネルの長さ53.9kmのことなのであろうか。内部は見学できなかったが、展示されている車両は開放式B寝台車・緩急車オハネフ25形と、ロビー室とB個室ソロの合造車のスハネ25形であると。海からさほど離れていないためか、腐食が目立つのが気になったが・・・。そして「北斗星広場」の先にあった「さけ公園」を訪ねた。北斗市南部を流れる茂辺地川は、鮭の遡上風景を間近に見られることで有名であることを訪ねて初めて知る。左に見えた青い橋が「鮭見橋」。川を見つめると多くの黒い影が動いていた。鮭の遡上をこの目で見たのであった。カメラの設定を変えて待っていると、尾を振って白い飛沫が水面に。鮭の姿が。カメラの設定を再び変えて。そして河原にはこの様な鮭の姿が所々に。熊の仕業なのであろうか?頭を切り裂いて内臓も残しているので他の動物か?旧上磯町のおすいマンホール蓋。市内茂辺地にある「葛登支岬灯台」と、「鮭」をデザインしたマンホール。茂辺地川では鮭の遡上が見られるので。町名の由来は函館市の西部(上)の海岸(磯)に位置していた事からとされる。 渡島支庁では函館市に次いで人口の多かった自治体。上磯町・大野町による協議の結果、合併し市制を施行することに決まった。新市名は「北斗市」。2005年2月28日に合併調印式を行い2006年2月1日に合併された。なお、上磯町役場は北斗市役所の所在地となっている。そして国道228号・日本海追分ソーランラインに戻り、函館山の姿を。前方に「葛登支岬(かっとしみさき)」を再びズームで。正面に標高499 mの「当別丸山」の姿が正面に。そして当別丸山が裏に聳える北斗市の「トラピスト修道院」を訪ねた。数kmにわたってのまっすぐな道を「トラピスト修道院」に向かってポプラの木が整然と並ぶ光景は、まるで外国に来ている様に感じたのであった。長い階段の上に建つ「トラピスト修道院」の姿が大きくなって来た。駐車場に車を駐め散策開始。駐車場横の案内板。「トラピスト修道院周辺 観光案内図」。「厳律シトー会 灯台の聖母大修道院明治29年(1896年)、「祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福」を目的とし、日本で最初の男子修道院であるこの修道院が建てられた。最初の建物は白ペンキ塗り細長い木造建築であった。修道院からは日に何度も鐘の音が流れてくることから、村民たちは修道院のことを「ガンガン寺」と呼んでいた。当初の修道士はフランス人5名、オランダ人2名、カナダkとイタリア人各1名の9名であった。創立当時は荒地であったこの地を開拓し、農耕・牧畜・酪農に力を入れた。明治35年( 1902年)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに南北海道一帯に広がっていった。南北海道の酪農の原点ともいえる。現在の建物は最初の修道院が明治36年( 1903年)に焼失したため、明治41年( 1908年)に建てられたものである。この時に使われたレンガは野幌で作られて運ばれていたが、輸送が間に合わなくなった。そのため現地生産となり、現在の石別中学校が建っているところから良質の粘土がとれたため、煉瓦を作ったと伝えられている。」「岡田普理衛( D・ルラール・プゥイエ)初代修院長。安政6年(1859年)にフランスのノルマンディー県にて出生し、哲学・物理・科学を学んだ後、大神学校で神学を修めた。その後、自ら志願して明治30年(1897年)に日本に渡来した。明治33年(1900年)日本人信者であった大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。性格は喜怒哀楽を表に出さなし、が豪快であり、質実剛健で行動力が盛んで、トラピスト修道院での労働も頑丈な体で二人分の仕事をこなしたと言われている。地元の人々は、「見慣れない外国人が重罪人ではないか」と最初は噂し修道院の作物を荒らしたりしたが、岡田普理衛は病人の介護方法を教えたり相談に乗ったりと徐々に地元の人々からの信頼を得て、親しまれるようになった。大正14年(1925年)には福岡県にトラピスト分院を設立するため、現地に出向し、昭和20年(1945年)この修道院に帰ってきた。そして昭和22年(1947年) 7月1日に87歳で死去した。」「北海道まちづくり100選」、「人間道路会議賞 町道トラピスト通線」の受賞パネルが。緑の牧草畑が広がるなかを一直線にのびる道。「ホプラ並木が風に吹かれて葉の裏を返すとき、その奥に静ガなたたすまいをみせる赤レンカの尖塔ー美しい自然との調和。その見事な景観は、見る人のを感動へといざなう。いま、「北海道まちづくり100選「人間道路会議賞」に輝く一」階段途中から「トラピスト修道院 正門」を見る。正門駐車場から、舗装された急坂を登りきった奥に正門建屋があった。レンガ造り左右対称の平屋(一部は二階)建てで、ファサード頂部にキリスト像が安置されていた。大正中期~昭和初期の建築と思われる。「トラピスト修道院 正門」前に到着。「十字架」と「キリスト像」。「キリスト像」。正門の建物内部正面には、頑丈な鉄柵と左右の出入扉が設置されていて、院内には立入りできない。鉄柵にはラテン語と日本語の飾り文字が取り付けられていて格調を高めていた。また、文字列の左右には、聖ベルナルド像と聖ベネディクト像が取り付けられていた。「本館」鉄柵の隙間から前庭を通して遠方に、白枠尖頭アーチ窓の赤レンガ造り、中世ゴシック風の美しい「本館」建物が見えたが、その左右端部は植栽で遮られて見えにくかった。そして「キリスト」を抱く「マリア像」をズームで。内部左側には、展示室があり、白を基調とした部屋になっていた。写真と説明が中心のトラピスト修道院の資料展示が行われていて、その内部、歴史、修道士の生活の一部を窺うことが出来たのであった。 「トラピスト修道院の沿革明治29年(1896年)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのまります。聖ロベルト(1018年~ 1111年)は、現在の、フランス・シトーの地に新修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。そして、1664年、シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には七つの修道院(その内五つは女子でトラピスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネディクト(480年~ 547年)の修道戒律に従い、「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした観想生活を送っています。」様々な「トラピスト修道院」に関する写真が。教会の内部の写真も。「修道院内の見学は、予約制&男子に限ります」と。「トラピスト修道院 正門」前から、舗装された急坂、階段を見る。階段を下りながら、始まったばかりの紅葉を眺める。正門駐車場に面して八角形のキリスト教会があった。これは、大正6年(1917)にロマネスク様式で創立された聖堂が平成5年(1993)の奥尻島地震で損傷を受け、その2年後に外観を一新し再建されたもの。地元ではリタ教会と呼ばれ、その形から「まるみ堂」とも呼ばれている。司式は修道院の司祭によって行われ、修道院内で修道士が行うミサと同じ雰囲気が感じられると。駐車場奥の「三木露風」の歌碑。「日は輝やかに沈黙し 時はおもむろに移り行けり 美しき地上の断片の如く 我が命は光の中にいきづく 露風」「「赤とんぼ」の詩人三木露風の詩碑「日は輝やかに 沈黙し 時はおもむろに 移り行けり美しき地上の 断片の如く 我命は 光の中に いきづく」三木露風の略歴も刻まれていた。「三木露風明治22年(1889) 6月23日、兵庫県龍野市龍野町上霞城101番地に生まれる。幼名操。後早稲田大学、慶応大学に学ぶ。詩集「廃園」(明治42年9月刊行)によって日本詩増で注目され、「白き手の猟人」(大正2年9月刊行)で象徴詩界の頂点に立ちました。大正9年5月から同13年6月までトラビスト修道院の文学講師として4年間居住し、その間大正11年キリストの復活祭に夫人と受洗しました。昭和39年12月21日、東京三鷹市で交通事故に遣い、同29日死去、カトリック吉祥寺教会で葬儀。享年75才、法名穐雲院赤蛉露風居士。昭和40年1月16日、勲四等瑞宝章を追贈。*童謡「赤とんぼ」は修道院の文学講師時に作詞されました。」そして「駐車場まで戻り、八角形のキリスト教会・「聖リタ教会」を見る。駐車場周辺の赤松の老木。八角形のキリスト教会・「聖リタ教会」。聖リタ教会(正式名:カトリック当別教会)は1917年(大正6年)トラピスト修道院の創立者D・ジェラール(帰化して岡田普理衛)らによって創立。カッシーノの聖リタに捧げられた教会で昔から地元では「リタ教会」の名で親しまれています。奥尻沖地震で亀裂が入り、現在の教会は1995年(平成7年)に再建。以前のリタ教会はその外観から「まるみ堂」とも呼ばれていたと。そして、帰路に再びヨーロッパの田舎的風景を連想させるトラピスト修道院。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.20
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旅行2日目・10月19日(月)の朝のホテルの部屋からの新函館北斗駅。エレベーターホールからの日の出をカメラで追う。時間は6:05。ビニールハウスの上には白く霧がかかる。ビニールハウスの内外の気温差による現象なのであろう。山の端の色合いの変化を追う。遠く函館山の姿を。そして漸く太陽が山の端に姿を現す。時間は6:08。前方の山からも日の出の如くに太陽が2つ。そして太陽が強く輝く。そして手前の日の出も大きくなり。そして部屋に戻り、この日の観光の出発。ホテルのフロントをカメラに。そしてホテルの外に出ると駐車場前の舗装空き地にも朝の陽光が差し込みオレンジ色に輝く。ホテルを振り返る。そして車でこの日の観光に出発。この日は、渡島半島(おしまはんとう)の南部・日本海に面する「松前半島」を函館から時計回りにほぼ1周し、日本海に面する「江差町」から「松前半島」を国道227号で横断し再び函館に戻る行程を決定していたのであった。青線一がこの日のドライブルート。駐車場を出て函館方面に進む。早朝の温度低下により一面に朝霧が棚引いていた。外気温は6℃の表示。時間は6:27。カーナビに従い、「北海道」の道道756号線を進み、この先で右折し道道96号線に入る。道道96号線を南下し新幹線下を通過。国道228号の「上磯新町」交差点を出て直ぐに「函館山」を見る。左手の函館湾の中に、太平洋セメント㈱上磯工場へ2kmにわたって延びる海上棧橋を見る。我が国で100年を越える歴史を持つ、コンクリート工場。生産されたセメントは、函館湾に延びる約2キロのこの」海上桟橋のベルトコンベアによって大型船に運ばれ、国内出荷はもとより海外輸出も行っているとのこと。明治時代に稼働を始めたという上磯工場で海上桟橋が完成したのは1970年。その後1987年に延伸し、いまの2kmという長さになったと。太平洋セメント上磯工場がすごいのは、原料の石灰石を採掘する鉱山側にもベルトコンベア(約6km)が敷かれているということ。全長8kmちょっとの直線上で、鉱物資源は経済を動かす即戦力として日夜活躍しているのであった。国道228号を横断する巨大なベルトコンベアの建屋。太平洋セメント㈱上磯工場を右側に見る。既に市制の施行により2006年に上磯町の名はなくなり北斗市に変わっているが、長年の間、共に歩んできた「上磯」の名を残しているのであろうか。函館湾・函館山近くの太陽、光る海を見る。車の進行とともにオレンジ色に光る帯が移動する。函館湾沿いを国道228号で南下する。腰の位置まで海に入り魚を釣る多くの人の姿が。遡上する前の鮭・鱒を釣っているのだと。近くには、鮭・鱒が遡上する「茂辺地川」があるが、河口付近は釣りが禁止されているのだと。左海岸:600m、右海岸:700m、沖合:1000m以内が、規制期間:9月1日〜12月10日で禁止になっているのだと。そして、規制対象の魚種はサケ(鮭・シロザケ、アキアジとも)・サクラマス(鱒・ヤマメの降海型)・カラフトマス・ベニマス(標準和名ベニザケ、ヒメマスの降海型)・キンマス(標準和名キンザケ)・マスノスケ(キンクサーモンとも)の6色魚であると、ネット情報から。葛登支岬(かっとしみさき)が前方に姿を現す。太陽が、函館山の右側に移動して来た。そして茂辺地川を渡り川沿いを進み、「茂辺地橋」を渡ると正面に白い案内板が。「茂辺地鮭卵ふ化場跡」。「茂辺地鮭卵ふ化場跡明沿11年(1878)に茂辺地川の鮭から採卵したものを七重勧業試験場で試験的に実施され、翌年稚魚ガふ化しました。その翌年には北海道初の民間(酒井宮次郎等)による鮭卵ふ化社が設立されました。当初は北海道開拓使の煉瓦石製造所跡の払い下げを受けふ化場として使用しました。明治20年以降は100万粒台の採卵になり、発眼卵は東北地方や利根川流域・島根・広島県にまで広がりました。昭和22年(1947)から本格的にふ化事業に取り組み、24年には建物は水源池下に人工ふ化場を開き、昭和50年頃にふ化施設建物と稚魚の養魚池を完成しました。水産庁の助成を受け、捕獲・採卵・ふ化の一切を漁業共同組合に委託、実施されていました。現在は、北海道より直接業務委託を受けた社団法人渡島さけ・ます増殖事業協会が捕獲・採卵からふ化・放流までの事業を実施しています。」そして更に坂道を登っていくと左側に石鳥居が。矢不来天満宮の鳥居は、明治以前に運んできたが、その途中で丘の上まで揚げるのが難しく、遂には海中に放棄してしまった。それを後年、誰かがここへ建てたものだという。上部の二本の「笠木」は中央で繋がっていた。「矢不来天満宮(やふらいてんまんぐう)」。左手には「史跡 茂別館跡」と刻まれた石碑も。近づいて。「国指定史跡 茂別館跡一、所在地及び地域 北海道北斗市矢不来一三一ー一ほかニ、指定年月日・昭和五十七年七月三日指定三、指定理由ア・基準特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準史跡ニ(城跡)による。イ・説明茂別館は、嘉吉三年(一四四三)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。北海道の室町時代の和人の館跡のうち志苔館跡・大館跡上之国勝山館及び上之国花沢館の四件は既に指定されているが今回これに茂別館を加え、蝦夷島中世史の解明に資そうとするものである。四、保存上の注意一、土塁などの遺構をき損しないこと。一、許可なく現状を変更しないこと。前記の事頂に反したものは罰せられます。」「鮭之碑」。境内の参道を進むと「二の鳥居」が。そして「三の鳥居」と社殿が見えて来た。天神様を祭っているということで、牛が狛犬代わりでしょうか、鎮座していた。こちらは新しい牛の像。「社殿」を正面から。矢不来天満宮は、15世紀にここに流れ着いたという天神様(菅原道真)像を祭ったのが始まりと。文和年間(1352~1356)、大松一株が漂着した。アイヌの人たちがよく見てみると、その株の枝と枝との間に、2尺ほどの木像があるのを発見したという。そこで、矢不来の地に祭った。もちろんアイヌの人々は、この像が道真公だとは知らなかったが、その神々しさに打たれ、「ヤギナイ」という地名を「カムイヤモンケナイ」と改めた。下国氏の某の代に、ご神体の破損がひどいということで、京師の某という名工へ修理に出した。その名工は、このご神体の工作の巧みさに驚き畏れながら、心を込めて修理した。下国氏の重臣がご神体のお迎えのため京に上り、ご神体のある一室に案内されて入ると、5基の寸分たがわぬご神体の像が床に置かれてあった。その名工がご神体があまりに巧みに出来ていたため、恐れ多いが研究のために4体を模造したとの事。そして、試みにこれだと信じる1体をとってみてください、と言う。その重臣は主家の守護神と言いながら、しっかりと拝したことがなくしばらく躊躇してみていたら、その中の一体が目をギョロリと動かし、「我こそ」と言ったように感じたので、早速その一体を指した。果たして、それはまさにご神体であったという。名工は、専門の自分が見ても間違うこともあるのにと驚愕したという。また、このご神体の両眼は黄金だという。「社殿」に近づいて。矢不来(やふらい)の地名由来はアイヌ語からの転訛で、ヤンケナイ<yanke-nay>(陸に揚げる・川)陸揚場〈この河口の辺に舟を着けて、漁獲物とか積荷を揚げた所なのでこの名がついたのであろうと。なお、昔は「やぎない」のように呼んだ場所で、昔の人たちは東北弁で「矢来(け)ない」という言葉に当てて、矢不来と書いたのだろうが、それでは読みにくいので、後に「やふらい」と音読みにして呼ぶようになったものらしい とのこと。境内に祀られている「赤松の幹」矢不来天満宮の天神様(菅原道真像)は、赤松の上に乗ってこの地に流れ着き、流れ着いた浜辺には赤松の大木が生えた。昭和5年(1930)、上磯~木古内間に鉄道架設工事が始まり、この大木を伐ろうとしたが、旭川から連れて来た腕のいい木こりでも伐ることが出来なかった。ある夜、その木こりの夢に老人が現れて、「切り口に葦を挟んで伐るとよい」と教えたので、その通りにするとようやく伐ることが出来た。 しかし、その後伐った木こりもお祓いをした神官も死んでしまったという。鉄道開通後も走行中の汽車の中に、白衣の老人の霊が現れると騒がれたため、伐った木の一部を矢不来天満宮に祀って木の霊を鎮めたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.19
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駐車場から徒歩にて10分ほどで「函館山ロープウェイ山麓駅」に到着する。北海道の玄関口「函館」を代表する観光スポットの一つ「函館山」は、函館湾を囲むようにして海に突き出た半島にそびえる標高334mの山。実際には、「函館山」という一つの山ではなく、展望台のある御殿山(標高334m)をはじめ、薬師山(標高252m)、つつじ山(標高306m)、汐見山(標高206m)、八幡山(標高295m)、水元山(標高280m)、鞍掛山(標高113m)、地蔵山(標高286m)、入江山(標高291m)、エゾダテ山(標高129m)観音山(標高265m)、牛の背山(標高288m)、千畳敷(標高250m)という13の山々の総称で、牛が寝そべっているようなその姿から別名・臥牛山(がぎゅうざん)とも呼ばれているのだと。ロープウェイは5分間隔で運転中であった。函館山からの函館の街並みの今昔の写真。予想通り多くの観光客がロープウェイへの乗車を待って並んでいた。現在のゴンドラは5代目で、初代は30人乗り、2代目が44人乗り、3代目からは125人乗りとなり、時代と共に大型化。トップスピードは秒速7m、海抜334mの山頂まで約3分で到着。そしてロープウェイに乗り函館山山頂駅に向かって進む。次第に函館の夜景が眼前に拡がって来るのであった。そして山頂駅に到着。そして展望台に到着。展望台には多くの観光客がカメラ、スマホを構えていた。函館の夜景の良さは、陸地を挟む海岸線のカーブが独特の美しさを醸し出しており、ひと目見ただけで函館とわかるほど特徴があるところ。函館駅周辺ズームで。左手の、海に突き出た場所は「緑の島」。「緑の島」をズームで。絵に描いたような美しさは函館湾(左)と津軽海峡(右)に挟まれた景観がつくりだしたもの。函館湾と津軽海峡に挟まれたシルエットに沿って広がるエキゾチックな光の美しさは世界一の夜景と言われているのである。しかし、最近の夜景は、以前より暗くなっていると。主に「人口減少」と「街路灯のLED化」そして「コロナ禍」が影響。市内には約37,000の街路灯が設置されているが、半数以上がLED化されているとのこと。右手に函館空港の灯りが。教会群をズームで。再び函館駅付近をズームで。五稜郭タワーも見えて。更にズームで。函館山山頂の送信鉄塔。コンクリートの建物の上に架台を設置し、その上に鉄塔を建てていた。STV 函館山テレビ送信塔。日本三大夜景に、そしてナポリ、香港と並んで世界三大夜景に数えられる函館の夜景。標高334メートルから巴湾と呼ばれる優雅に湾曲した函館の港湾と町並みを望むことができたのであった。毎年8月13日は「夜景の日」として街全体でライトアップに協力するのだと。「函館山」と書かれた石碑。「函館山ロープウェイ」往復チケットは1500円。帰路のゴンドラ。そして「函館山ロープウェイ山麓駅」に到着し、徒歩で駐車場に向かう。「真宗大谷派 東本願寺 函館別院」の山門。「東本願寺函館別院この寺院は、宝永6年(1709年)木古内町泉沢に建てられた堂宇(どうう)が移され、浄玄寺(じょうげんじ)と称したのが始まりで、安政5年(1858年)本願寺の掛所(かけしょ)となった。その後、幾度かの火災で焼失したが、明治9年(1876年)に東本願寺函館別院となり、現在地に移転したのは明治12年(1879年)である。ここで明治40年(1907年)の大火で焼失したため、耐火建築により再建することになった。大正4年(1915年)完成した現在の本堂は、わが国最初の鉄筋コンクリート寺院として知られており、コンクリート造りではあるが、伝統的な本堂の形式を踏まえた造りになっている。建築当初、人々に踏まれた土砂で寺院が建てられるとは、ご先祖様に申し訳ないとか、大きな屋根が鉄筋やコンクリートでもつだろうかと不安の声が上がり、寄付金が思うように集まらなかったことから、芸者を高床に上げて手踊りをさせ、安心させたなどのエピソードもあり、苦心の末、完成にこぎつけたという。平成19年(2007年) 12月4日、国の重要文化財に指定された。」「明治天皇御遺跡」碑。「函館カール・レイモン レイモンハウス元町店」。本場ドイツ製法の彼の技を受け継いだハムやソーセージが自慢で多彩な味が揃う店と。1925年(大正14年)、函館で創業した「カール・レイモン」像。そして、車で「新函館北斗駅」前の3連泊のホテル・「ホテルラジェントプラザ函館北斗」に向かう。途中スーパーマーケットで夕飯、アルコール、酒のつまみ等を購入。ホテルに到着しチェックインし部屋へ。時間は19:55過ぎ。ツインの部屋。部屋の奥に四畳半程の畳のスペースが。そしてホテルで、ビール、焼酎片手に、初日のこの日の反省会を行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.18
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「旧イギリス領事館」の「基坂」の反対側にあったのが「ペリー提督来航記念碑」。(台座)ペリー提督像(台座裏)二〇〇二年五月 小寺真知子日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、函館市が国際観光都市として発展する礎となった。「ペリー広場Perry’s Squareペリー提督函館来航150周年を記念して、このペリー提督像の立つ敷地の一画を「ペリー広場」(愛称)と命名します。(正式名称「函病跡地緑地広場」)」「ペリー提督 来航時の足跡絵図」。「函館における日米会談」。1854年5月22日 午前11時よりペリー提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が沖之口役所(後の水上警察、西警察、現在の函館市臨海研究所)の近く、山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で始まる。ペリーの要求とは、休息所とする家屋2, 3棟の借り入れ、遊歩区域の境界線を定めることなどであった。しかし、一家老の身分では決定権もなく押し問答が続いた。「函館山からの眺望」箱館に着いたペリー艦隊一行は、早速当時の臥牛山(がぎゅうさん)(箱館山)に登り、各種の測量や調査を始め、海図の作成等を実施 箱館湾の出入港の安全を図る。当時の箱館山山頂には観音像が建立されていたが、明治32年に当時の軍部が函館山を要塞化するため、指示により山頂より降ろされ称名寺湯の川説教所(現在の湯川寺(とうせんじ))に収蔵され現在に至っている。「黒船 ポーハタン号」1854年5月17日(新暦)午前9時にアメリカの黒船艦隊2隻が箱館港に入港 その後更に3隻が入港した。入港した艦船は旗艦 (1)ポーハタン号 2,500トン (2)ミシシッピー号 1,800トン (3)マセドニアン号 (4)サウザンプトン号 (5)バンダリア号「姿見坂の一景」函館の姿見坂(現在の函館市弁天町13番付近)から見た風景である。これは、ペリー艦隊に乗り組んでいた従軍画家ハイネが描いたもの。ペリー提督一行が当時の箱館を市中見学した際、実行寺、称名寺、浄玄寺、当時の八幡社(現在の函館八幡宮)を訪ねたことが判明されている。「称名寺の境内」これも当時ペリーが箱館市中を散策しているときに、称名寺の境内の一角で日米交流をしているときの光景を描いたものである。「ペリー提督像の背後にある「つつじ」は、日本名を「黒船つつじ」といい、アジア東北部が原産で、日本へは1668年に渡来したものです。ここに植えた「黒船つつじ」は、1854年5月17日、箱館港に来航した5隻の黒船(函館山に向って右からマセドニアン号・バンダリア号・ポーハタン号(旗艦)・ミシシッピ号・サウザンプトン号)に因んで植栽したものです。」「基坂」の上りきった場所近くにあった案内板。「元町公園」への階段入口左にあった2種の案内板。その後ろに函館山の姿が。「散策コースご案内」👈リンク。「ミシュラン・グリンガイド・ジャポン 掲載 函館観光スポット」。多彩な観光名所がある北海道函館市のなかでも、全国的に有名なのが、函館市を一望できる函館山展望台。開けた市街地の両側を海に挟まれた特徴のある景観は、誰もがテレビや情報誌などで一度は目にしたことがあるはず。特に夜景は世界に類を見ないほど美しいとされ、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」でも三つ星として紹介されている。「元町公園」への入口階段。「元町公園案内」。視覚障害者が利用する「元町公園 触知案内」印刷された地図を見ることのできない視覚障害のある人の為の、「手で見る地図(「触知案内図」)」であると。恥ずかしながら、この年令になって初めて「触知案内」と言う言葉を知ったのであった。「元町公園」入口から函館湾、その後方の山々をズームで。赤く染まっていた中央の山が標高1166.9mの「横津岳」、山頂には航空監視レーダーが設置されているのがズームで確認できたのであった。「元町公園」奥の「旧函館区公会堂」は改修工事中であり安全保護シートで覆われていた。「基坂」と函館湾方向を見下ろす。函館の街の坂道の一覧。「函館山の麓には海に向かって名前の付いた坂道が19本並んでいる。これらは函館が箱館といわれた、開港間もない時代の中心が函館山ふもとの西部に集中していたことによるもので、当時の函館を偲ばせる名前が現在も残っている。この坂道を含む景観が西部方面の観光地の一翼を担っていると言っても過言ではない。なお、この19のほかに、昔から名前の付いてる「さくら坂」「地獄坂」「すりばち坂」「テンコの坂」「みやま坂」という5つの坂もあるようだ。」とネットから。 【https://blog.goo.ne.jp/sakag8/e/7d20229fd2f57936875dfe86be699568】より階段を上ると左手にあった「箱館奉行所跡」碑。江戸幕府が設置した箱館奉行所跡で、五稜郭ができるまではここが奉行所であった。港に近すぎて敵軍の格好の的とされるため、完成とほぼ同時に場所を五稜郭へと移したと。幕末の黒船来航により、下田と共に箱館の開港時にここに奉行所が置かれた記念碑だが、「箱館奉行所跡」と書かれた碑があるだけで説明板もなく、ちょっと寂しい感じ。「元町公園」内のモニュメント。大きな石に座り空を見上げる少女像。犬と戯れる男子像。サボテンの如き樹木。親子熊であろうか。「大地と海と僕たちと」 安藤 泉 2008.3.10設置 ブロンズ(一部彫金) 「緑豊かな山並みの大海原の恵みに支えられ僕らの夢は拡がる」と。「四天王像」。正面から。ズームで。像に向って左より今井 市右衛門、平田 文右衛門、渡邉 熊四郎、平塚 時蔵。「函館四天王像 市民精神の源流明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器機製造所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のために教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門をはじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。四天王とは次の四人である。像に向って左より今井 市右衛門(いちえもん)(天保7-明治20年、1836-1887年) 石川県能登の生まれ、若くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の 新聞社の北溟社を創立した。 医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を 投じて少しも惜しまなかった。平田 文右衛門(ぶんえもん)(嘉永2-明治34年、1849-1901) 函館生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社の 設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかった。 区の財産造成にも大功があった。没後、区会の決議により肖像を議事堂に高く掲げて その徳を顕彰した。渡邉 熊四郎(くましろう)(天保11-明治40年、1840-1907年) 大分県竹田の生まれ、明治2年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて 文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、2代3代にわたり 私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。平塚 時蔵(ときぞう)(天保7-大正11年、1836-1922年) 青森県田名部の生まれ、函館の平塚家の養子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした 四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち 最も長命、後輩の指導に尽くした。この四人は当時の区長常野正義と共に明治14年制定の藍綬褒章第三号から第七号まで受けた。」斜めから。今井 市右衛門。平田 文右衛門。渡邉 熊四郎。平塚 時蔵。そして「旧北海道庁函館支庁庁舎」。正面から。記念撮影はこの角度からか。記念撮影パネル。「旧北海道庁函館支庁庁舎旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年( 1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年( 1982年)に修復整備されたもの。特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が、柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(工ンタシス風)巨大な4本の柱で支えられている。明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年( 1985年)北海道有形文化財に指定されている。なお、江戸時代、ここ元町公園には松前藩の亀田番所が置かれ、19世紀初めの幕府直轄時には箱館奉行所が置かれた。安政元年( 1854年)に日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となり、箱館奉行所が再置されたが、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年( 1864年)に亀田の地(五稜郭)に移転した。」「旧開拓使函館支庁書籍庫」元町公園内の旧支庁舎に隣接する赤レンガの書庫。1880(明治13)年築。明治40年大火でも類焼を免れた。使用されているレンガは函館近郊の茂辺地製。北海道指定有形文化財。「外壁のレンガは、1つ1つ微妙に色が異なります。大半のレンガは1874(明治7)年-1876(明治9)年の製造年と、「函館製造」の文字が刻印されています。このレンガは、1872(明治5)年、茂辺地村(現在の北斗市茂辺地)に建てられた開拓使直営の「茂辺地煉瓦石製造所」で焼き上げたもので、当時作られたレンガは市内各所の建造物にも用いられています。この煉瓦の積み方は、1列に長い辺と短い辺を交互に並べるフランス式です(一部増築分は、1列に長い辺ばかり、次の列に短い辺ばかり、交互に並べるイギリス式)。 外観をよく見ると、壁面のレンガ以外にも、至る所に特徴ある意匠や技法が見受けられます。建物の四隅には補強のために組まれた「隅石」、桟瓦葺きの屋根、耐火のために作られたとされる鉄製の扉や柵のついた窓など。2階壁面の所々にはL字型をしたフックのようなものがあるのに気付くはず。この金具には板を載せたり、コモを下げることで、防水・防寒の効果が期待できるのだそうです。先人たちの知恵と工夫には脱帽させられます。」とネットより。「元町公園」の中の様子。人の姿はほとんどなし。タイルは「函館ハリストス正教会」。「明治天皇行幸記念碑」。「五稜郭タワー」をズームで。そして、日の入りを楽しみに函館山の西側の「入船漁港」の防波堤まで車で急ぐ。しかし既に日は沈み・・・。上空が赤く染まった松前半島の山々。対岸の北斗市立茂辺地方面の山々の夕焼けを楽しむ。防波堤には多くの釣り人の姿が。そしてその先に「北海道駒ヶ岳」の姿。何の魚であっただろうか。そして辺りも暗くなり、再び函館山からの夜景観光に向けて函館山ロープウェイ山麓駅近くの駐車場に向かって進む。しかし、空いている駐車場が見つからずグルグル廻るが何とか少し遠い場所であったが駐車場に車を駐める事が出来たのであった。実は、函館山展望台への主要アクセス方法である函館山ロープウェイは、定期整備点検のため、翌日の2020年10月19日から12日間の運休となるとのことで、そのため運休前の最終日のための混雑なのであった。駐車場から徒歩にてロープウェイ山麓駅に向かって歩く。途中「カトリック元町教会」の前を通過しカメラに。「カトリック元町教会安政6年( 1859年)フランスの宣教師メルメ・ド・カション(パリ外国賞教会司祭)が仮駅堂を建てたの0に始まるもので、徳川幕府によるキリシタン追放令以降の日本におけるキリスト教宣教再開の先駆として、横浜の山手、長崎の大涌と共に最も古い歴史をもつ教会である。明治元年( 1868年)同宣教会司祭ムニワー、アンプルステル両氏が現地に仮駅堂を建て、その後、明治10年( 1877年)同宣教会司祭マラン氏により最初の聖堂が建立された。以後3回の大火で類焼したのち、大正13年( 1924年)現在の大聖堂が完成した。この大駅堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁十四景の十字架道行の壁像は、イタリアのチロル地方の木彫で、時のローマ教望ベネディクト十五世から購られた由緒あるものである。」「函館聖ヨハネ教会」礼拝案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.17
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別の駐車場に移動し、更に函館の街の散策を続ける。駐車場の前にあった建物の壁一面には紅葉した蔦が。海峡通りの交差点の角にあったのが「赤い靴の少女像「きみちゃんの像」」函館港の見える場所にあったが、海を背中にして。「赤い靴」の歌碑 野口雨情作詞 本居長世作曲♫赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢(あ)うたび 考える♫」像の作者は函館出身の彫刻家・小寺真知子さん。野口雨情作詞の童謡「赤い靴」のモデルとされる少女・きみちゃんの像。1903(明治36)年、きみちゃんは、お母さんのかよさんと一緒に静岡県から函館へと移り住み、その後、母親は後志管内留寿都村の農場に入植したが、病弱だったきみちゃんはアメリカ人宣教師に預けられ、函館が母子の別れの地になったと。2009年、母と別れた地といわれる函館に設置された。靴の部分が赤くなっていた。親子の絆の大切さを伝えるべく、2009年8月、函館開港150周年に合わせて設置された。台座を含めて高さ約160センチメートルのブロンズ立像で、イタリアローマで製作された。国道279号(海峡通り)の交差点から「八幡坂(はちまんざか)」を見る。函館山からの夜景と並んで、函館のビュースポットとして紹介されることが多い坂。赤レンガ倉庫が立ち並ぶウォーターフロントの先を進むと、函館山へ導いてくれるのがこの「八幡坂」。両歩道脇には、坂上まで手すりつきの階段が整備され、冬には歩道にロードヒーティングが施されているとのこと。坂名は、河野政通の館跡地(現在の元町公園付近)から移設された函館八幡宮があったことに由来すると伝えられていると。大火の被害を受けて1880(明治13)年に現在の谷地頭町に移ったものの、その後も坂の名称は残されたのだと。そして少し戻り「金森赤レンガ倉庫群」を見る。そして車で「緑の島」駐車場まで行き、直ぐに引き返して訪ねたのが「新島襄 海外渡航の地碑」。地碑は、同志社大学から記念碑面を寄贈された1952(昭和27)年の2年後に建立。後方に「緑の島」。「緑の島」は函館港の万代・港町泊地浚渫工事によって生じた土砂を利用し、港内を護岸で囲って確保した処分場工事によって誕生した埋立地であり、埋立土量は約70万m3。「緑の島」の活用については、水族館や第三セクターによるウォーターフロント開発の中核施設建設などの計画があったが、2007年(平成19年)に事業断念を表明し、現在は多目的広場、カラー舗装広場、石畳広場そして駐車スペース(約200台)になっていると。「新島嚢海外渡航の地碑新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を箱館に選んだ。元治元年( 1864年)江戸から来て、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の官立気候測量所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功した。上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年( 1874年)に帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立した。この碑にある「男児志を決して千里を馳す自ら苦辛を嘗む豈(あに)家を思わんや却って笑う舂風雨を吹く夜枕頭尚夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治2年( 1865年)香港での作である。渡航前の名前は新島七五三太であったが、航海中に船長から「ジョセフ」の名をもらい、路して「襄」の字をあてた。明治23年( 1890年) 48歳で没。函館市」「新島嚢海外渡航の地碑」から「金森赤レンガ倉庫群」を見る。ベイエリア西にあった新島襄のブロンズ像はどこに行ってしまったのであろうか?そして「海上自衛隊函館基地隊」。掃海部隊が駐留しており、津軽海峡および宗谷海峡の海峡警備の拠点である。北海道における海上自衛隊の代表的な基地隊であり、アメリカ海軍艦船の寄港も多い。門柱には「海上自衛隊箱館警務分遣隊」と。左手には護衛艦「はまゆき」の主錨が展示されていた。「箱館運上所跡欧米5か国との通商条約に基づき、安政6年( 1859年)、箱館は横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となった。これにともない、税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は、商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻の計64隻であった。貿易では、輸入はほとんどなく、韓出は中国向けの昆布が4分の1を占め、そのほか、いりこ、するめ、干あわびなど海産物が上位をしめていた。明治5年( 1872年)、運上所は税関と改称された。昭和43年( 1968年)、海岸町中央埠頭に港湾合司庁舎が完成し、税関も同庁舎に移転した。なお、明治44年( 1 91 1年)に築された庁舎は、木造ルネサンス風の洋風建築であったが、昭和47年( 1972年)に取り壊された。 函館市」そして「箱館運上所跡」の正面の「基坂」のグリーンベルトにあったのが「三蹤碑(さんしょうひ)」。グリーンベルトの真ん中にある赤御影石の地球儀の上に青銅の鳳凰が羽を広げた大きな石碑が「明治天皇御上陸碑」。台座となる塔の部分と地球儀は花崗岩製。その上に乗る羽を広げた青銅製の鳳凰は、宝来町にある高田屋嘉兵衛銅像の作者としても知られる函館出身の彫刻家・梁川剛一氏が手がけたもので、まるで生きているかのような躍動感と存在感が。「明治天畠上陸記念碑赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9年( 1876年)、東北・北海道巡幸で来函の際の、旧税関桟橋への上陸を記したものである。同14年( 1881年)に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して青森へ向かった。明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で、計3回となることから、「三蹤碑」とも呼ばれている。この碑は、函館出身の彫刻家・梁川剛ーの作で、昭和10年( 1935年) 9月7日に除幕された。同16年( 1941年)に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、明治天皇の明治9年( 1876年)の巡幸の際、7月1 8日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。平成8年( 1996年)から国民の祝日「海の日」となった。」そしてその先に「基坂(もといざか)」と「函館山」が。交差点の角にあったのが、不動産仲介業「相馬(株)」の建物。1913(大正2)年築のルネサンス風事務所建屋。ぺディメント(西洋式切妻破風)など特異な意匠。基坂と電車通りの交差点に建ち、西部の街並みのランドマーク的存在。伝統的建造物。電車通り側にある入口。ズームで。木造2階建ての鉄板葺き屋根に突き出た窓(ドーマー窓)は、ルネッサンス様式。軒先や窓枠などに目を凝らすと、随所に洒落た装飾が見受けられます。そして「函館市北方民族資料館」 北海道函館市末広町21−7。資料館の入口。アイヌ民族や北方民族に関する資料館。こちらは「基坂」側の入口。そして路面電車「函館市電」。路面電車が走りはじめた1913(大正2)年の函館は、北海道の表玄関として活況を呈しており、それまでの馬車鉄道に代わって颯爽と登場した姿は、街で注目の的であったと。今でも、市民の日常の足として、また観光客には移動の足として、広く親しまれていると。そして「基坂」を登って行く。「基坂」と書かれた柱の横には「はこだて観光案内」が。「基坂(もといざか)通」と刻まれた石碑。函館山山麓から函館港方面にのびる坂の一つである基坂は、明治時代に坂を下った所に里数を測る基点となる里程元標(りていげんぴょう)の木柱が立っていたため名付けられた。明治40年(1907)8月に起きた大火で、基坂にあった主要施設の殆どが焼失してしまい、大火後から数年に渡り基坂では旧函館区公会堂をはじめ豪華絢爛な建物が次々と建設されていった。現存する建物で旧北海道庁函館支庁/明治42年(1909)築、旧イギリス領事館/大正2年(1913)築、 相馬株式会社/大正3年(1914)築など。石畳の「基坂」を上って行く。「諸術調所跡諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年( 1856年)に設立された。教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなと実践を重んじた教育を行った。元治元年( 1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカへ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出てしまっていたための行動であったとも言われている。内外共に多難な幕末期、開明的で進取果敢の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けるだろう。」花壇の中に像が並ぶ。パブリックアート「ハイカラさん」。西洋風のドレスをまとった明治期の貴婦人がモデル。日傘を手にしてベンチに座る女性のすました表情が印象的で、高さは約1.5メートル。「ハイカラさん」岡本銕二(てつじ)作文明開化華やかし時代にタイムスリップしてみませんか”Let's sit together”作品のベンチには、貴婦人の横に大人1人が座れるスペースがあった。作者は「一緒に写真を撮るなど、実際に作品に触れながら鑑賞を楽しんでほしい」と。基坂通のハイカラさんの先にも彫刻が。「旅を続ける男」 峯田義郎作左ひざの上には小鳥が乗っていた。そして像にしては珍しい?サングラス姿。「旅を続ける男」 峯田義郎「人間(ヒト)は 何故 旅を続けるのだろうか」と刻まれていた。道路の反対側には「函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区保存地区は、弥生町、大町、末広町、元町あよび豊川町の各一部て、面積約1 4 . 5へつタールの範囲てす。函館は、安政6年(1859年)に長崎・横浜とともに、我ガ国最初の開港場として開かれ、以来、外国買易や北洋漁業の基地として、また、北海道の玄関口として繁栄してきたまちてす。この保存地区は、その中心的な役割を果たしてきたところてあり、現在でも、旧外国公館や各宗教施設、洋風の公共施設や煉瓦造の倉庫群、掘割りなどのほか函館独特の上下和洋折衷様式の町家や洋風・和風の住宅等か混在して、異国情緒豊かな町並みを形成しています。函館市では、こうした町並みを、末長く後世に伝え残すため、昭和63年12月に函館市西部地区歴史的景観条例により「伝統的建造物群保存地区」を定めました。平成元年4月には北海道で初めて、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定を受け、貴重な町並みの保護保存に努めています。」「異国への夢」佐藤正和作黒船が来航した時代、船員となって 世界を旅する夢を抱く箱館の少年。佐藤正和は、1973 北海道函館市生まれ。「基坂」周囲の観光案内図そして「旧イギリス領事館(開港記念館)」1913(大正2)年築、1934年まで領事館として使用。1992年改装して開港記念館として一般開放。2009年、全面リニューアル。内部にはティールーム、英国雑貨店併設。1859(安政6)年の開港とともに、アメリカ、ロシアに次いで函館では3番目に開設された領事館。最初は当時、現在の弥生小学校付近にあった称名寺内に仮設、1863(文久3)年に現在のハリストス正教会(函館市元町3)付近に新築した後は、幾度かの大火に見舞われ、現在の建物は1913(大正2)に竣工したものです。1934(昭和9)年に領事館としての役目を終えて閉鎖され、1992(平成4)年に復元されて以降は、開港記念館として一般開放されている。函館市指定文化財(有形文化財)。旧イギリス領事館の窓枠の青と白壁の建物。「函館市旧イギリス領事館(開港記念館)営業案内板」「旧イギリス領事館(開港記念館)箱館にイギリス類館が新かれたのは、安改6年( 1859年)日本最初の貿易港として開港した時のことで、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。文久3年( 1863年)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、数度の火災にあった。この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913年)に竣工したものであり、昭和9年(1934年)の閉鎖まで領事館として使用されていた。平成4年( 1992 ) 8月からは、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、旧外国公館の雰回気の中でお茶やお菓子を楽しめるカフェを設け、一般公開している。 函館市」」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.16
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次に「函館市青函連絡船記念館 摩周丸」に向かう。途中の道路脇にはホタテの貝殻がすだれ状に。何かの目的で天日乾燥しているのか、それとも箱館の風物詩としての展示か?左手に函館朝市 どんぶり横丁市場。「朝市 函館の朝は早い」案内板。函館の朝は、ここ朝市から始まるといわれるように、朝市の人々の朝は早い。まだ夜も明けぬ午前3時半ば、昔ながらの裸電球に日が灯り、商いの準備が始まって行く。ここ函館朝市は、戦後の物不足の時代から、函館市民の食生活を支え続け市民の台所として親しまれてきました。その昔朝市は、現在の函館市役所裏手に近隣農家のおばさんたちが農作物を持ち寄り、野菜を中心とした露店の集まりが始まりました。やがて段々とその規模は大きくなり、昭和32年(1957)、現在の場所へと移り、野菜ばかりではなく陸揚げされたばかりの海産物を地元の漁師達が持ち寄った乾物屋や花屋、やがては衣料品・雑貨などを扱う商人達までもが集いはじめ、今では北海道一と呼ばれる「函館朝市」が誕生したのです。今でも変わらず市場内は日の出とともに、徐々に活気を帯びて行き、、威勢のいい売り声がどこからともなく響いて来ます。いい食材を求め、早朝は、地元郷土料理店などの仕人れ客が目立ちますが、やがて午前7時を過ぎると観光客や一般客でにぎわい、そんな朝の光景が幾度となく続き函館朝市の歴史を築いてきたのです.今でもこの広いドームの中には、朝市発祥当時をしのばせる農家のおばさん達や、地元漁師の方々が旬の野菜や新鮮な海の幸を並べ、素朴で人情味あふれる函館弁とともの、皆様のお越しをお待ちしております。」そして「函館市青函連絡船記念館 摩周丸」の入口表示が。1988(昭和63)年3月13日の青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開しているのであった。明治41年から昭和63年まで就航した青函連絡船の一隻、二代目摩周丸を係留し公開しているのだと。摩周丸の船尾を見る。津軽丸型連絡船の5番艦で昭和40年建造。就航期間は22年9か月、運行回数は3万5493回、その距離は約400万キロメートルに達する。操舵室・無線室が現役そのままに再現されており、船内には、歴史や船の構造が分かる展示コーナーや体験コーナーなどがある。青函連絡船では、1925(大正14)年から鉄道車両ごと船で運ぶ「貨車航送」が始まり、船の中にレールが敷かれ、陸上のレールと接続して、海上輸送をしていました。その積み込み口が、函館駅側から見える船の後部にあるのだと。よって船尾を開放すると内部に車両甲板があり、線路が船内に敷かれているのであろう。「ともえ大橋」。ベイエリアの湾岸に沿って走る、全長1,924mの高架道路が1997年開通。摩周丸は、八甲田丸・大雪丸・羊蹄丸・十和田丸・空知丸・檜山丸・石狩丸とともに、青函連絡船の最後になる航海を飾った一艘。前方には函館山が見えた。船首側まで進む。全長:132m型幅: 17.9m旅客定員:1200名。乗組員:50名車両搭載数:48両(ワム換算値)航海速度:18.2ノット(時速33km)昭和40年6月30日に処女航海し、青森-函館間を3時間50分で結んでいたと。ズームで。4階に操舵室・無線通信室があると。箱館ドック内には津軽海峡を縦断し大間~箱館を往復する「津軽海峡フェリー」が停泊中。オーバーホール中のようであった。日が次第に西に傾き函館湾は「光る海」に変身中。遠く北の方向には「北海道駒ヶ岳」の山頂の勇姿が。前方の「ふれあいイカ広場」にはヨットの帆の如きモニュメントが。ヨットではなく「イカモニュメント」と呼ばれている模様。平成6年(1994年)2月に3パイのイカが群れ合う姿を表したモニュメントが設置され開設されたのだと。そして巨大な錨も。摩周丸のすぐ横にあるのが、この貴重な「改造型」と呼ばれる錨。青函連絡船の錨には、当初は一般の船舶でも使われているJIS型と呼ばれるものが使われていたが、1954(昭和29)年の台風で洞爺丸遭難という大惨事に見舞われ、国鉄は錨の改造に着手した。1963(昭和37)年ごろにJIS型錨を改造して、把駐力を高める試験を実施。その際に使われた「改造型」と呼ばれる錨が、1992(平成4)年、旧函館桟橋に函館シーポートプラザ(当時)がオープンした際に移され、今も展示されているのだと。特に説明等はなかったが、現存しているものはこれ1つだけという珍品中の珍品であると。前方の「シーボート公園」の中にも像が立っていた。小寺真知子作「青・海・テティス(海の女神)」。小寺真知子(1950-2012)は函館市出身の彫刻家。北海道教育大学卒業後、イタリアに留学。ローマを拠点に活動した。函館には多くの小寺作品が設置されている。テティスはギリシア神話に出てくる海の女神で、アキレウスの母。「光る海」を背景に手を広げるテティス(海の女神)。そして箱館駅前に駐めた車に戻る。途中、「函館朝市」手前のシーフード・海鮮料理店・海光房 (Kaikoubou)店頭の水槽には元気に泳ぎ回るスルメイカ?の姿が。以前、函館を訪れた折、このイカの活き造りを食べたが、動く脚をワサビ醤油に付け口に入れたが、吸盤が口の中にくっついて苦戦したことを想い出したのであった。ホタテ貝。左側に目があるようなので、ヒラメであろうか?巨大なミズダコも。函館市の汚水マンホール蓋。五角形は100名城の一つ「五稜郭」の縄張りで中の建物は、国の重要文化財の旧函館区公会堂をデザイン。 左「HAKODATE」の下に「おすい」、右に「旧函館区公会堂」の文字。コンビニエンスストア・ハセガワストア ベイエリア(左)とラッキーピエロ ベイエリア本店(右)の賑やかな看板。「西波止場」はショッピングモール。そして「金森(かねもり)商船株式会社」のビル。石碑と「赤レンガ倉庫」の案内板。金森商船株式会社が管理・運営を行う「施設案内板」。金森赤レンガ倉庫は、北海道函館市にある赤レンガ倉庫群の名称。金森商船株式会社が管理・運営を行っているのだ。金森商船は、大分県出身の実業家、初代渡邉熊四郎が明治時代に開業した「金森洋物店」が起源。現在はショッピングモールやビアホール・レストランが入居する、函館の観光名所となっている。この地域一帯は重要伝統的建造物群保存地区、街並みは北海道遺産に選定されている。函館市末広町14番12号。「箱館ベイエリア~西部地区周辺マップ」「金森赤レンガ倉庫群」。明治末期に函館で最初の営業倉庫として建造された金森[かねもり]倉庫群。港に面して赤レンガの倉庫が立ち並ぶ様は函館を代表する風景の一つ。5棟の倉庫が改装され、金森赤レンガ倉庫の名で利用されている。倉庫の外観はそのままに、ショッピング街の金森洋物館、函館の味覚が味わえるレストラン、多目的イベントホールとして活用され、観光客でにぎわう。夜はライトアップと電飾で彩られ、昼間とまた違った表情になる。トレードマークの「曲尺」に「森」の字は、金森洋物店の商標である。人力車の姿も。「函館港と倉庫群安政元年(1854年)4月、米国のペリー提督が5隻の艦船を率いてこの港に姿を現わし、箱館の住民を大いに驚かせたが、ペリー著「日本遠征記」に”世界の最良港の一つ”と記されているように、舟が出入りしやすく、安全な港として国際的に名を知られた港である。箱館港は、北海道の玄関口であるばかりでなく、安政6年(1859年)長崎、横浜とともに日本最初の貿易港として開港され、欧米文化が上陸した港である。また、江戸時代後期に高田屋嘉兵衛が国後、択捉両島の漁場を開拓して以来、北洋漁業の根拠地として発達した港でもある。この赤レンガの金森倉庫は、明治40年(1907年)頃の建築。レンガを2枚半の厚さに積み上げた外壁、木骨の柱で、函館港の歴史を語り継ぐシンボル的存在であり、時折り、テレビ、映画のロケーションの場にもなっている。」「日本最初の気候測量所跡この辺りは、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊(日本で最初に西洋型の船を造った続豊治の次男)が明治5年(1872年)ブラキストンの機械を譲り受け、日本で最初の気象観測をする「函館気候測量所」を開設した所である。」「金森赤レンガ倉庫」の建物の間を抜けて進む。倉庫内にはレストラン、食料品店、土産物店があったが、今回は時間の制約もあり倉庫内は立ち寄らなかった。「金森赤レンガ倉庫」案内板。営業倉庫として函館で初めて倉庫業を行った。初代・渡邉熊四郎は、1863年、24歳の時に長崎からここ函館にやってきました。その後、1869年旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等、数々の業績を残しました。特に社会、文化事業に果たした役割は大きく、学校の建設、公園や水道施設の整備など、多くの公共事業に私財を投じました。その熊四郎がこの地に倉庫業を始めたのは1887年。当時の倉庫は、1907年の大火で焼け落ち、その後すぐに再建工事を行いました。現在の倉庫は1909年に完成した建物です。そして「古稀庵」。国選定の重要伝統的建造物群保存地区となっている北海道函館市末広町にある建物。1909年(明治42年)に海産物商「渡辺商店」の店舗として建築。木造二階建、和洋折衷様式の建物であり、能登半島から大工を呼んで建築に当たらせ、ヒノキが使われている。また、建物に付属して土蔵造二階建の蔵も建築され、こちらも伝統的建造物となっている。そして「箱館高田屋嘉兵衛資料館」。「箱館発展の恩人」と称される豪商・高田屋嘉兵衛は、私財を投じて箱館の基盤整備事業を実施し、造船所を建設した。その関連資料と北前船にまつわる資料が展示されている。しかしこの日は閉館中であった。「高田屋嘉兵衛江戸時代末期の豪商、回漕業者、高田屋嘉兵衛は明和6年( 1769年)淡路島に生れた。28才のとき、北前船「辰悦丸」て箱館(函館)に来航、以後、箱館を本拠地として北洋漁業の開拓、本州各地との交易の発展に尽力した。幕府はその功績を認め寛政12年( 1800年)嘉兵衛に苗字帯刀を許した。当時の寒村箱館か港として発展できたのは嘉兵衛の力によるところか大きい。更に嘉兵衛は、いわゆるゴローニン事件解決の立役者であった。1812年ロシアの海軍将官ゴローニンか北方領土侵犯の疑いにより捕えられたとき、ロシヤは報復としてエトロフ島回航中の嘉兵衛を捕え投獄した。嘉兵衛は少しも臆せす、国土劫掠の非を難し、両国融和の道を説いた。ロシヤは嘉兵衛の勇気に感服し謝罪した。嘉兵衛は箱館奉行に懇請、ゴローニンを釈放させ、以後両国の平和友好が促進された。幕府は円満解決の功績を称え賞詞を与えた。文政10年( 1827年)波乱とロマンにみちた59才の生涯を閉した。」「箱館高田屋嘉兵衛資料館」は閉館中。そして「旧茶屋亭」。函館赤れんが倉庫街のそばにあるレトロモダンなカフェ。明治末期に建てられた和洋折衷建築が、異国情緒あふれる函館らしさを醸し出しているのだと。そして1本の電信柱。これが「日本最古のコンクリート電柱」「日本最古のコンクリート電枉この電柱は、大正12年( 1923年) 10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が健てたもので、日本最古のコンクリート電柱である。高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで、角錐形という珍しいものである。火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この電柱もそのあらわれであり、木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役として街の移り変わりを見守っている。また後に同形の電柱(昭和46年に撤去し、平成8年に再建)が建物をはさんで建てられたため、「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話題となった。」現場打ち工法のコンクリート電柱にびっくりしたのであった。そして函館山に向かう「開港通り」、国道279号・函館市電通りの先に「二十間坂」が見えた。その名の通り、道幅が二十間(約36メートル)ある。何度も函館を襲った大火に備えて整備されたもの。冬期にはライトアップされ、明治館前まで続くイルミネーションを楽しめる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・
2020.11.15
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そしてJR駅レンタカー 新函館北斗駅営業所で約1000ccのトヨタROOMYをレンタルしこの日の函館の街の観光に向けてスタート。国道227号に向かって進む。国道227号を函館駅方面に向って進む。今回も運転は旅友Sさんが担当して下さった。私は助手席で補助ナビゲーター。北斗市七重浜にて右折。前方には函館湾が見えて来た。この日は日曜日でもあり街中に近づくにつれて車の数も増えて来た。そして最初に訪ねたのが、「土方歳三最期の地」。北海道函館市若松町33−6。横の駐車場に車を駐め散策開始。入口にあったのが「猿田彦塚の碑」。「猿田彦塚の碑昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていました。猿田彦塚は、文化14年(1817)、一本木付近に建立され、「天保九年御巡見要用録」という記録書には、箱館村と亀田村との境界標であったと記されています。この塚は以前、旧若松小学校西側の鶴若稲荷神社の境内にありましたが、鶴若稲荷は昭和20年に疎開のため移転し、取り壊された跡には家屋が建ち、塚は無くなり見つかりませんでした。しばらくして、昭和31年に付近の民家の庭から字を刻んだ猿田彦塚の破片の一部が発見されました。ここにある二つの碑は、発見した石の破片を使用して昭和33年に猿田彦塚を復元したものです。塚の表面には「猿田彦大神、鈿女命、右箱左亀」また、側面には建立年と、向って左の小碑に一部復元してある文字が刻まれていました。猿田彦と天鈿女命(あめのうずめのみこと)とは夫婦であり、猿田彦は道案内の神として知られている。函館市」そしてここ「若松緑地公園」の南側にあったのが「土方歳三最期の地」碑。石碑とその隣に「一本木関門」が。土方歳三は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて「一本木の関門(現・若松町)」を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが、銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。「土方歳三最期の地」碑。碑の前には多くの献花が、土方歳三の人気の高さが感じられたのであった。近づいて。「土方歳三」の写真。「土方歳三最期の地新撰組副長として京都の町に勇名をはせた土方歳三は、鳥羽伏見の戦いの後、新撰組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が指揮する脱走軍艦隊と合流した。明治元年(1868年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立。土方は、その陸軍奉行並の要職についた。翌2年4月、新政府軍の箱館総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現北斗市)だけは最後まで落ちなかった。しかし、同年5月11日、ついに箱館も新政府軍の手に落ちた。土方は、箱館奪回を目指し、約50名の兵を率いて一本木(現若松町)の関門を出て、箱館の市中に向かい、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ、波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。函館市」ネットには司馬遼太郎氏著『燃えよ剣』より以下引用文が。『ついに函館市街のはしの栄国橋まできたとき、地蔵町のほうから駈け足で駈けつけてきた増援の長州部隊が、この見なれぬ仏式軍服の将官を見とがめ、士官が進み出て、「いずれへ参られる」と、問うた。「参謀府へゆく」歳三は、微笑すれば凄味があるといわれたその二重瞼の眼を細めていった。むろん、単騎斬りこむつもりであった。「名は何と申される」長州部隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。「名か」歳三はちょっと考えた。しかし函館政府の陸軍奉行、とはどういうわけか名乗りたくはなかった。「新選組副長土方歳三」といったとき、官軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。歳三は、駒を進めはじめた。士官は兵を散開させ、射撃用意をさせた上で、 なおもきいた。「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使ならば作法があるはず」「降伏?」歳三は馬の歩度をゆるめない。「いま申したはずだ。新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音をたてて地にころがっていた。なおも怖れて、みな、近づかなかった。が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。歳三は、死んだ。』と。「若松緑地公園」の池には水がなかったがこれもコロナ禍の影響か。「土方歳三 掲示塔」函館に縁の深いの人々が円筒状の「掲示塔」で紹介されていた。五稜郭築造150年祭の記念事業として実施されている「函館リトファスゾイレ/ヒストリア・ハコダディ」であるとのこと。リトファスゾイレとは、ドイツ語で円筒形掲示塔のこと。函館の幕末から開港・明治までの歴史上の人物にスポットを当て、五稜郭や西部地区など観光客が多い場所を中心に函館市内各所に設置し、函館の激動の歴史を紹介しているのだ。こうした手法による歴史展示は、国内では初めてのものだと。「構造体には、ボイド管という工事用の建築資材を採用していると。建築工事でコンクリート円柱を建てる際、このボイド管を型枠として中にコンクリートを流し込み、あとでボイド管をはがすのですが、強度・耐久性に優れているので、そのまま掲示塔に使えると着目したのです。今回の事業では、直径700~900mmの3種類のボイド管を使用しています。」とこれもネット情報から。真っ赤な地に白抜きの文字で「旧幕府軍陸軍奉行並・函館市中取締裁判局頭取 土方歳三」と。歴史解説部分は絵入りで。「箱館戦争」絵図。「新政府軍函館総攻撃 土方歳三 激闘の中戦死を遂げる1869 (明治2 )年5月11日(旧暦)、早朝午前3時から新政府軍の箱館総攻撃が実施された。新政府軍陸軍部隊は箱館山の裏側の寒川付近から山上へ登頂し、薬師山から愛宕山、七面山を下り箱館市街地へ殺到し、短時間で箱館市街地の制圧に成功して、箱館守備隊の旧幕府軍は弁天台場へ孤立する状態となった。また、箱館港内へは早朝から新政府軍艦甲鉄、朝陽、春日が進攻し、弁天台場や旧幕府軍艦(回天・蟠龍)へ砲撃する海戦となった。一時は、旧幕府軍艦蟠龍が新政府軍艦朝陽を爆沈させたが、その後に旧幕府軍艦の2艦は操船不能となり、乗組員は上陸し弁天台場や五稜郭に敗走した。旧幕府海軍は全滅状態となり、函館港内も新政府軍の制圧下に置かれた。また七重浜方面の戦闘も新政府軍が圧勝することとなり、旧幕府軍兵士は五稜郭へ敗走した。旧幕府軍は五稜郭、千代ケ面への連絡路も断たれた。『箱館戦争図』は、この新政府軍箱館総攻撃が決行された当日の状況が詳細に描かれた絵図である。明治元年から2年にかけて行われた箱館戦争は、この最大の決戦を境に終結を迎えることになった。総攻撃の翌日から降伏勧告の交渉が開始され、5月18日に旧幕府軍が降伏して箱館戦争は終結した。」「旧幕府軍陸軍奉行並・箱館市中取締裁判局頭取 土方歳三 1835~18691835(天保6年)武州多摩郡石田村生まれ。1863 (文久3)年、幕府兵募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し、副長を務めた。戊辰戦争時には鳥羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧・幕府軍に合流して蝦夷地へ渡り、函館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後の1868 (明治元)年10月22日、函館進攻へ出撃。鷲ノ木から砂原、鹿部、川汲峠、湯川村経由の間道部隊を率いて、箱館へ進軍した。引き続き11月には、松前・江差の攻略部隊を率いて進軍して、蝦夷地平定に大きく貢献した。蝦夷地仮政権の陸軍奉行並およびの戦闘に奮戦した。同年5月11日(旧暦)、箱館や弁天台場を奪回・救出のため、一本木関門の突破をはかり、箱館市中へ向う途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。」「旧幕府軍 陸軍奉行並添役 大野右仲(うちゅう)1837 (天保7 )年、唐津藩士の家生まれ。1856 (安政3 )年、晶平坂学問所て学び、戊辰戦争では、小笠原長行に随行して会津入リ、この後に仙台で新選組へ入隊した。旧幕府軍に合流して夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。箱館戦争では、陸軍奉行並添役に就任し、土方歳三の補佐役を務めた。大野の著書「函館戦記」には、1869 (明治2 )年5月11日、土方歳三と一本木関門へ向い、土方に箱館方面への進撃を命じられ、その後に千代ヶ岡陣屋へ引き返した時点で、大島寅雄、安富才助らから土方の戦死を知らされたことが記されている。大野はこの後、相馬主計と行動を共にして弁天台場で降伏した。戦争終結後に新政府に出仕し、久美浜県権参事、豊岡県権参事および千葉、長野、青森各県の要職を歴任した。1911 (明治44 )年に死去した。享年76歳。」「陸軍奉行並添役 安富才助1839 (天保10年)生まれ。1864 (元治元)年新選組へ入隊。新選組では、伍長、諸士調兼監察方を歴任。戊辰戦争時は、会津で土方らと合流し副長を努め、蝦夷地へ渡った。箱館戦争では、陸軍奉行並土方歳三の直属の部下となり、各地の戦闘に随行した。1869(明治2 )年5月11日(旧暦)、安富才助が五稜郭から一本木関門へ向かい、土方歳三が被弾して戦死したことを知り、この後に土方隼人への書状の中で、「同五月十一日、箱館瓦解の時、町外れ一本木関門にて、諸兵隊の指揮を取り、遂に同所にて討死にせられ・・」と記して、立川主税に託したとされる。土方家に現存する、土方歳三の戦死通知であった。1870(明治3 )年放免となった後、1873 (明治6 )年に死去した。享年35歳」「函館大戦争之図 永島孟斎 筆」この錦絵は、箱館戦争における最大の決戦となった、明治2(1869)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時の旧幕府軍の戦闘の様子が描かれています。明治元(1868)年に蝦夷地南部を占領した旧幕府軍に対して、新政府軍は反撃を開始します。明治2(1869)年4月9日に乙部へ上陸、その後に江差を制圧、一路、箱館方面に向けて進撃し、4月17日に福山城を奪回します。新政府軍は、4月24日に箱館港入口付近での旧幕府軍との海戦勝利の後、旧幕府軍が敗走した箱館に対して、5月11日早朝から総攻撃を決行し、短時間で制圧しました。旧幕府軍の幹部は、箱館・弁天台場の奪回・救出に出撃を決定し、副総裁松平太郎を筆頭に陸軍奉行並土方歳三、額兵隊、見国隊、神木隊、士官隊などで一本木関門突破を謀り、また、陸軍奉行大鳥圭介、衝鋒隊古屋作左衛門、伝習歩兵隊大川正次郎などが桔梗・大川方面の防戦にあたった5月11日の旧幕府軍の動向が、錦絵に描かれています。「旧幕府軍 軍監並(衝鋒隊 軍監)今井信郎(のぶお)1841 (天保12 )年生まれ。幕臣で、直心影流榊鍵吉の門下生となり、講武所師範代を務めた。1867 (慶応3 )年、京都見廻組の与カ組頭に就任し、京都近江屋での坂本龍馬暗殺事件に関わったといわれている。この後、江戸へ帰り古屋佐久左衛門と衝鋒隊を組織し、戊辰戦争では越後・会津を転戦した後、旧幕府軍へ合流し蝦夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後に衝鋒隊副隊長として、土方歳三率いる間道部隊に加わり、鷲ノ木から川汲峠を越えて箱館へ進軍し、蝦夷地仮政権では軍監並歩兵頭並海陸軍裁判役へ就任した。今井は、古屋とともに衝鋒隊を率いて、森村鷲ノ木、鹿部、川汲方面を守備し、新政府軍攻撃時には大野ニ股ロの戦闘へ参戦した。1869 (明治2 )年5月1 1日(旧暦)の新政府軍箱館総攻撃時には、大川・桔梗野方面での戦闘に奮戦したが、五稜郭へ敗走した。今井は、箱館戦争時の戦記である「蝦夷之夢」を記していて、その中に「五稜郭よりは副総裁松平太郎、陸軍副都督土方歳三、額兵隊、見国隊、神木隊、彰義隊を率い箱館を取り返さんと進撃、一本木関を守りたる長州、福山の兵を破って、市街に衝き入り血戦し、異国橋辺にて土方歳三、ニ関源ニ、大館昇一郎、後藤松三郎討死し、」と土方歳三の戦死場所は「異国橋辺」としている。」少し離れて再び「土方歳三 掲示塔」を見る。公園の後ろにあったのは「函館市 総合福祉センター・あいよる21」。そして車に戻り函館駅に向かい、駅前の駐車場に入る。JR函館駅前の赤いモニュメント。工業デザイナー、林昌平氏による作品・「OYAKO」。2003年8月~12月に「ふれあい」をテーマに全国から公募され、寄せられた272点の応募作品の中から選ばれたものであると。親がお腹の下に我が子を隠して守る姿を形にしている。最も基本で原始的なふれあいである親子、そして親の防御本能を題材に選んだという。「まず触って、内側に入ってみてほしい。いろいろな表情が楽しめます」と作者は語っているのだと。「はこだて観光案内」。函館市は、北海道南部(道南地方)に位置し、札幌市・旭川市に次ぐ北海道第3位の人口(約25万人)を有する中核市。北海道南端の渡島半島南東部に位置し、天然の良港である函館港によって北海道と本州を結ぶ交通結節点、道南地域の中心都市として発展してきた。毎年500万人近い観光客が訪れる観光都市となっており、市町村の魅力度ランキング調査で京都市に続き2位にランクインする都市になっているのだと。函館都市圏は観光業の他に、水産業や食品関連産業、医療福祉を主要産業としてきたが、一方で人口減少が著しく、2014年(平成26年)4月1日から市域のすべてが「過疎地域」に指定されているのだと。「函館市民憲章」碑。 (昭和52年5月3日 制定) 一、真心あふれる函館市民、あたたかいまち 一、健康で働く函館市民、にぎわうまち 一、文化を誇る函館市民、はぐくむまち 一、自然を生かす函館市民、きれいなまち 一、郷土を愛する函館市民、のびゆくまち 安全都市宣言(昭和36年3月6日 制定) 核兵器廃絶平和都市宣言(昭和59年8月6日 制定) 国際観光都市宣言(平成元年8月1日 制定) スポーツ健康都市宣言(平成4年10月10日 制定) いきいき長寿都市宣言(平成6年12月10日 制定)。函館駅前の花壇も色彩豊かに。「函館市国道元標」を探して交差点方向に向かって進み、函館駅を振り返る。「函館駅前」交差点の角に何かがあるのを発見。左手前方のキラリス函館(Kiralis Hakodate)内には科学博物館「はこだてみらい館」があるとのこと。これが「函館市国道元標」。そしてその先には「函館市電」の姿が。「函館の路面電車は、温泉旅館や別荘などが立ち並んでいた「函館の奥座敷」湯の川温泉と、当時の函館区内の都市交通を担うため、1897(明治30)年に開業した「亀函馬車鉄道」が元になっている。馬車鉄道はは馬が客車を牽くもので、あまり速度が出ず、軌道上で乾いた馬糞が風に舞う「馬糞風」などの問題を抱えていた。開業時に技術協力を受けた東京馬車鉄道は、1903(明治36)年に路面電車に切り替え。函館でも、電力会社「函館水電」が馬車鉄道の会社を買収し、電車用の車庫の建設、架線工事、電車の購入などを進めた。1913(大正2)年6月29日、最初の路線となる東雲町(後の労働会館前、1992年廃止)~湯の川間が路面電車での運行に切り替えられ、翌年12月までに全線が切り替えられた。路面電車の運行開始は札幌や秋田・仙台より早く、東京より北では初めてのことであった。」とウィキペディアより。「函館市 国道元標」と。国道元標とあり「道路元標」とは表現されていなかった。日本橋にあったのは、たしか「日本国 道路元標」であったが。「函館市国道元標北海道の玄関函館市は、また、北海道における国道の起点にもなっている。前方交差点中央にある国道元標より、北方向へは、一般国道5号が長万部町・小樽市を経由して札幌市に至り、東方向へは、一般国道278号が恵山町を経由して森町で5号に合流する。さらに、南方向へは、一般国道279号が 1.8 km 先の函館市末広町から津軽海峡を渡り、青森県の野辺地町へと向かっている。いずれの国道も歴史と伝統を誇る幹線道路であり、函館近郊の代表する区間は、5号「赤松街道」278号「漁火通」、279号「海峡通」の愛称で呼ばれ多くの人々に親しまれている。」函館駅前交差点南西側の北洋銀行前には裸婦像が。秋山沙走武(すすむ)作「陽」、1996.5.12設置。台座込みで高さは2.8m。そして函館市雨水マンホール蓋。「函館市の魚「イカ」をデザインしたマンホール蓋です。 波間に仲良く並んだ3匹のイカ。足が9本しかないように見えますが、実はバランスをとるため、後ろに1本隠れているんです。 イカは函館市で水揚げされる魚種の中で漁獲量が最も多く、とれたてをさばいた「いか刺し」や「いかソーメン」は函館ならではの料理です。 イカ釣り漁船の「漁火(いさりび)」は函館の夜景に一層の彩りを加え、函館港まつりでは多くの市民が「いか踊り」で盛り上がるなど、函館市民にとってイカは身近で親しみのある魚。 」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.14
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この日は10月18日(日)、いつもの旅友Sさんに誘われ阪急交通社の『【GoToトラベルキャンペーン適用】 往復北海道新幹線利用! 函館フリープラン 4日間』👈リンクの旅に行って来ました。3泊4日、往復新幹線指定席、ホテル代、4日間のレンタカー付きで46,500円/人Go To キャンペーン割引(35%)付で-16275円/人なので総計30,225円/人。そして現地函館の地域共通クーポン券7,000円が付き、よって実質は23,225円/人の超格安旅行。東京駅から新函館北斗駅への「片道」乗車券は12,100円、新幹線指定席は11,330円の合計23,430円ですので、それよりも安い嬉しいツアーだったのです。東京駅出発9:36発のはやぶさ13号の切符が送付されて来ました。当日、旅友とは9:15に東京駅・東北新幹線北口改札口で待ち合わせて無事合流。7,000円分の「地域共通クーポン券」。9:36発の新函館北斗行きの、はやぶさ13号は全車指定の10両編成。はやぶさ13号が23番線ホームに入線。指定席は2号車15番A&B席。定刻9:36に東京駅を出発し新函館北斗駅までの4時間弱の移動のスタート。右手に筑波山が姿を現した。仙台駅に向かって順調に進む。空は快晴。仙台市民病院が右手に。広瀬川を渡る。仙台手前のNTTドコモ仙台ビルの電波塔が右手に。そして定刻に仙台駅に到着。時間は11:06。北上山地のほぼ中央に位置する、日本百名山のひとつ早池峰山(標高1917m)であろうか?そして盛岡駅手前に。NTTコム盛岡ビルの紅白の鉄塔が。姫神山(ひめかみさん)が右手に見えた。姫神山は、岩手県盛岡市にある山である。独立峰でピラミッド型をした山容が特徴。標高1123.8m。日本二百名山の一つである。山麓の渋民村(現・盛岡市渋民)出身の歌人石川啄木がこよなく愛したことで知られる山。新青森駅に近づいていくと、右手前方に青森ベイブリッジが見えた。1994年に全線供用開始した、青森県のランドマーク。全長は1,219mで、「青森(AOMORI) 」の頭文字「A」をかたどったデザインが特徴的。時間は12:34、東京駅を出て3時間。そして東京駅で買った幕の内弁当を楽しむ。新青森駅を出て津軽半島を青函トンネルに向けて北上する。新青森駅から新函館北斗駅までの148.8 kmは、JR北海道が運営しているのだと。未開業区間のうち新函館北斗駅 - 札幌駅間・約211.5 kmは2030年(令和12年)度末に開業する予定であるとのこと。進むにつれて陸奥湾が右手に時々姿を現す。そして青森県今別町から青函トンネルに入る。青函トンネルは、津軽海峡を横断し本州と北海道を結ぶ延長53.85kmの長大海底鉄道トンネル。北海道新幹線が通る海峡線新中小国信号場~木古内間約85kmは、標準軌(軌間1435mm)の新幹線と、狭軌(軌間1067mm)の在来線が線路を共用する、いわゆる「三線軌条」となっており、このうち約54kmを占める青函トンネルは、すれ違い時の風圧を考慮して現在は160km/hに抑えられていたのだと。しかし、貨物列車の運行が少ない今年の12月31日から翌年1月4日までの各日、6時から15時30分まで青函トンネルを通過する新幹線上下各7本が210km/h走行すると。これにより東京~新函館北斗間の到達時間は、現行の最速3時間58分から3分程度短縮されるのだと。3分短縮する目的は、意味は??「昭和29年、台風による青函連絡船洞爺丸沈没という世界的にも大きな海難事故を契機として建設が促進された。海底部の掘削では4度の大出水事故による水没の危機を初めとした難工事の連続でしたが、様々な技術開発や工事関係者の努力と奮闘の末、昭和58年に先進導坑、昭和60年には本坑が貫通し、1988年(昭和63年)3月13日に津軽海峡線として開業した。開業後28年を経た平成28年3月には、北海道新幹線(新青森・新函館北斗間)が開業し、青函トンネルはその一部となりました。日本の国土を一体化させた意義は大きく、日本の20世紀遺産20選にも選ばれている。」とネットから。そしてあっという間の20分で北海道側の出口の北海道上磯郡知内町に。そして木古内駅の手前に。右手に津軽海峡が見えた。右手に函館山の姿が現れた。五稜郭タワーも。そして新函館北斗駅へと新幹線は更に北上。そして定刻に新函館北斗駅に到着。時間は13:34過ぎ。改札を出ると正面に鮮やかなそして色彩豊かなオブジェが。花々をイメージしたものであろうか?ズームで。新函館北斗駅舎を出て駅レンタカーに向かう。JR新函館北斗駅舎を振り返る。駅舎の右側は「北斗市観光交流センター」になっていた。駅のすぐ横にこの日から3連泊する「ホテル・ラ・ジェント・プラザ函館北斗」を確認。「カール・レイモンゆかりの地~ 1930年代の新函館北斗駅前には、当時日本最大のハムソーセージ工場がありました ~本物のハムソーセージづくり昭和10年の頃、後に新函館北斗となる本郷の駅前に、当時としては日本最大規模のハムソーセージ工場があった。その主こそ、ドイツからやってきた食肉加工技師カール・レイモンである。1919年に初めて日本を訪れたレイモン。その動機はサムライの国を見てみたいという素直なものであった。食肉加工や缶詰の技術を見込まれ、仕事で函館~カムチャッカ間を往復するようになったレイモンは、ステーキの美味しい勝田旅館の娘、勝田コウと恋に落ちる。海外へ駆け落ちしてまで一緒になった情熱家のレイモンは、許されて函館へもどると、1925年に本場のマイスターの技で本物のハムソーセージづくりを始める。函館駅前の若松町、五稜郭と規模を大さくしながら場所を移し昭和8年、本郷駅前に3千坪の土地を買い、牛35頭、豚310頭、羊30匹を飼い畜産施設や食肉処理工場を構えた。近隣農家にも畜産技術を伝えたため、地元農業は大いに振興した。それはレイモンが幾たびも北海道に提唱した畜産中心に循環型の自給自足を実現する産業構造「北海道開発プラン」をミニチュア版として実践してみせたものである。また、動物好きだったレイモンがライオンや熊、鹿、猿などを飼っていた一角は、地元の小中学生が遠足で訪れるなど、道内最初の動物園であったと言われている。当時の政策によリ1938年に工場を強制買収され、事業も禁じられるという苦難に遭うも戦後なた函館の地でハムソーセージづくりを再開したカール・レイモン。平和を愛した彼は、ヨーロッパは一つになるべきという意見書を欧州評議会に送っている。その一部は採用され、現在のEU旗にもレイモンのアイデアが活きていることが、感謝状からうかがい知れる。1987年に亡くなる迄の生涯を本物のハムソーセージづくりに捧げたカール・レイモン。彼の遺志と伝統の製法は(株)カール・レイモンに受け継がれている。」異国情緒あふれる函館元町でドイツ伝統のハム・ソーセージを作ったカール・レイモン。 【https://gift.pal-system.co.jp/shop/g/g1000-089-595/】よりそして「JR駅レンタカー 新函館北斗駅営業所」に到着したのであった。 ・・・つづく・・・
2020.11.13
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そして江の島を後にして、江の島弁天橋を渡り、小田急線・片瀬江ノ島駅の手前にある弁天橋を再び渡る。弁天橋の中央真ん中に寝そべる姿の如き像が。⑤「雲の形」作者:山本正道氏竣工年:1987年作品材質:ブロンズ寝そべる女性のような姿に見えるが「雲の形」。背中側から。弁天橋から江の島を振り返る。下を流れる境川の上流側。そして国道134号を渡り片瀬漁港交流広場へ(片瀬海岸2-20)⑥「海の詩」作者:親松英治氏竣工年:2006年作品材質:ブロンズ巨大な鯛を抱えて逆さになったユニークなポーズで。反対側から。巨大な鯛の正面から。顔を見上げて。「海の詩」広げた右手の先に、雲に隠れかけた太陽の姿が。横顔を。鯛の後ろ側から。その先には⑦「片瀬こま」「片瀬こま昔から藤沢て遊ばれていたこまは大山こまと片瀬こまてした。大山こまと深い縁があリ江戸時代、人々は東海道藤沢宿から大山道を経て大山詣でのお土産として藤沢に伝わって来ました。大正ニ年(一九一三)箱根の挽物(ひきもの)職人が片瀬の親戚を頼り移住してきました。ろくろを使用するため、こま作りにもちょうど良く、そこて箱根の伝統技術と合致して出来たのが『片瀬こま』です。お一人て作っていたのでなかなか作ってもらえず当時の子どもたちにとって持っている子どもは英雄てした。片瀬こまの台は椿(つばき)、心棒には樫(かし)が使われ、非常に硬い木で作られており重量感のある硬い片瀬こまは「喧嘩こま」が強いと有名てした。昔は「祝いこま」とも言われ、片瀬地域では家を新築した時や、男の子が生まれた時など、縁起ものとしても贈られました。全国にこまは数多くあリますが、地域の名前がついているこまは多くあリません。湘南地域の伝統文化の継承のため、『片瀬こま』はみんなで大切に守っていきましよう。」江の島を背景に。良く回っています。そしてこの後に、境川に沿って上流側に歩いて行くと左手にあったのが西浜公園。⑧「大望の像」作者:般若純一郎氏竣工年月日:1968年4月1日作品材質:ブロンズ「大望の像この地は明治中期まで片瀬砂漠と呼ばれ砂丘が連なる寂寥たる荒無地であった。しかし気候温暖で遠く江ノ島、鎌倉を望み相模灘を俯瞰する景勝の地であることに着目して、山本家当主山本龍太郎氏の祖父庄太郎氏並びに父百太郎氏はこの開拓を志し小松を植え堤を築き、その間、50有余年の歳月を費やし今日の見事な環境を造りあげたのである。昭和32年藤沢市はこの土地を都市計画公園に決定し、昭和37年汎く市民の憩いの場所として利用される公園の築造を企画し山本龍太郎氏に語りましたところ直ちに承諾されたので本土地を藤沢市公園用地として譲り受けたものである。而来公園造成に五ヶ年の歳月を費やしここに公園完成の運びを見たことは洵に喜びに堪えないところである。偶々本公園完成を記念して山本龍太郎氏よりこの彫像を寄贈されたのでこれを公園内に設置し公園開設の由来を記して、同氏の徳を讃えるものである。」地球を両手で支え持つ少年と少女の像。これからの世界を担うのは子どもたち、ということを象徴しているのだと。そして再び国道134号に架かる円形の西浜歩道橋まで戻る。歩道橋から茅ヶ崎方面を見る。そして西浜海岸の散策道から再び江の島の姿を。西浜には多くのサーファーの姿が。そして湘南海岸公園に到着すると、高く掲げた右の掌に、平和の象徴である鳩を乗せたたくましい男性の像のうしろ姿が。「明治以来殉国英霊の遺族が会を創立して満15周年を記念し、その不幸と悲痛を再び繰り返えさないようにと、平和像建設を企図し市民の浄財を仰いでこれを市に寄付された。 市は更に市費を加えてここにその建立を完成したのである。今台上を仰いで未来を象徴する若人の高く掲げた右手の拳に、天翔けり降った平和の具象たる鳩を受け止める勇姿を見るとき、希望と平和の融合した人類の理想の園を思わずにいられない。まことに平和こそ人類創生以来群落国家社会を形成しつつも、なお絶え間ない戦乱に惨禍を被る国民大衆にとり永遠の悲願としての希求である。願くはこの像の鳩とともに、永遠に平和の去るなからんことを切に祈るのみ。なお終りにこの台座の中には英霊の尊名が安置されていることを書きそえる。」筋骨逞しい青年の後ろ姿をズームで。⑨「平和の像」像製作者:難波孫次郎氏竣工年:1965年作品材質:ブロンズ海の平穏を願う一方で、世界の安寧を願う「平和の像」。明治以来、祖国のために命を落とした英霊を顕彰し、「戦争の悲惨と不幸を二度と繰り返してはならない」という願いが込められているのだと。「平和の像」。当初の位置より百数十メートル移動していると。英霊を祀り平和を願う像。背後に江ノ島を抱き、希望の空を見つめています。青年の顔をズームで。相模湾に背を向けて大山の方向を見つめて。右手の掌には鳩が。平和之像 解説碑(遺族会:像の横)。「未来を象徴する筋骨たくましい若人が、高 く掲げた右手の拳に平和の鳩を受け止め、希望の空を見つめています。この台上に仰ぎ見る平和の像は日中戦争から太平洋戦争へと長い戦争経験をした、藤沢市民と藤沢市によって昭和四十年三月に建てられました。明治以来国の礎になった英霊を顕彰し戦争の悲惨と不幸を再び繰り返してはならないという悲願がこめられています。しかし年を経た今日地球上にはなお戦争の不安が絶えていません。藤沢市遺族会は創立五十周年に当たり改めて行く末の平和を強く念願しつつ、この碑を建てました。この台座の中には英霊のお名前が納めら れていることを書き添えます。」緑豊かな湘南海岸公園に立つ青年像。そしてサーフビレッジ前にあった「日本ビーチバレー発祥の地碑」中央に尖った三角形の碑があるのでこれが目的の発祥碑かと思いきや, 実は5個の石で構成されている。 写真の左から,横倒しになった B横倒しになった E中央の三角形 Aビーチバレーボール横倒しになった C仰向けになった Hとなり、 続けて読めば「BEACH」という単語であるのだと。更に、中央の三角形Aはネットをも表現しているようだ。よって、中央のネットを挟んだ2名のビーチバレーボール選手を表しているのだ。平成18年(2006)8月18日に除幕式が行われた石碑。これとは別に静岡県下田市にも「ビーチバレーボール発祥の地」の碑があった記憶も。湘南海岸公園「水の広場噴水池」の噴水はコロナの影響で停止中であった。そして「聶耳(ニエ・アル)記念広場」。「聶耳終焉の地郭沫若題 一九六五年九月一八日」と。揮毫:郭沫若(1892-1978 中日友好協会名誉会長)。「義勇軍行進曲」の作曲者である聶耳は、作曲した年の1935年(昭和10年)、日本を訪れていて、7月17日の午後、友人と遊泳中のこの鵠沼海岸で帰らぬ人となったのであった。「義勇軍行進曲」は1949年(昭和24年)に中華人民共和国の国歌となった。「記念碑の由来1935 年 7 月 17 日、この地に来遊され、この海に不帰の客となった聶耳(ニエ・アル)氏の、その夢みるよ うな在りし日の姿が、ここに甦えりました。聶耳氏は 1912 年春、中国雲南省昆明湖畔に呱々の声をあげました 静澄、雄大な自然に抱かれて成長した氏はやがて、その 豊かな天賦の才を花ひらかせ、中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲をはじめ現代中国音楽の 先駆者として大きな足跡を遺しました。氏が故国を離れて、日本を訪れたのは、若いここ ろを抱いての旅でしたが、その旅情を慰め魅了したのがここ藤沢の地であり鵠沼の渚でし た。わたくしたちは、そのゆかりをしみじみ思い、そのえにしを深く感じ 1954 年この地に 記念碑を建設し保存会を発足させましたがさらに、氏の没後 50 周年を記念し思いも新たに この胸像を建立しました。永遠に時を刻みつづける波のひびきの中、平和を奏でる在りし 日の聶耳氏の像は、いつまでもここに微笑を湛え、日中友好の礎となることを確信します。」「この記念碑・碑文と広場は、中国国家作曲者の聶耳(ニエ・アル)先生が1935年7月17日にこの地で不帰の客となったことを悼み、先生の偉大な功績を称えるため、先生を敬愛する藤沢市民が中心となって設置し、守り続けてきたものです。そして聶耳先生の縁をなかだちとして、1981年11月5日には藤沢市と聶耳先生の出身地である昆明市とが友好都市提携を結び、これまで両市の相互理解と信頼、及び友情関係を深めてまいりました。これからも永きにわたり、この記念広場を日中友好平和交流の拠点として、両国民がお互いを尊敬しあい、心と心の真の交流が深まることを願っています。 藤沢市」「聶耳記念碑 藤沢市」。近づいて。昆明市から寄贈された詩碑 「一曲報國驚四海両地架橋恵萬民」。2011 年(平成 23 年)昆明市より友 好都市提携 30 周年を記念して寄贈された。「ひとつの曲が世界に響 き渡り、両国に橋を架け人びとに恵みをもたらす」という意味であると。中国語による「石碑」。次に引地川に架かる「作橋」を訪ねた。⑪「道標」作者:柳原義達氏作品材質:ブロンズ「欄干にとまるハトの彫刻は、橋を渡る人々の心をなごませてくれます。作者は、自分の人生と重ね合わせて、この『道標』シリーズを晩年まで作り続けたそうです。」と小冊子に。反対側から。次に長久保公園を訪ねた。「長久保公園都市緑化植物園」は、引地川沿いにある3.4haの広さの公園で、「ハーブ見本園」ではミント、ラベンダー、セージなど100種、約1,200株を植栽、「展示温室」では124.1㎡の室内に熱帯の観葉植物や洋ランなどの鉢植え植物約100種450鉢を展示している。また正面入り口から公園中央部への「花のプロムナード」の約300㎡の大花壇は四季折々、マリーゴールド、サルビア、ポーチュラカ、パンジーなどが順次咲き乱れる。その他に延長777mの「生垣見本園」、広さ4,300㎡の「芝生広場」、江の島、三浦半島を見渡せる「展望広場」「渓流広場」など自然がいっぱい。様々な種類のマリーゴールドがこの日も開花中であった。⑪「デミター(豊かな実りをもたらす女神)」作者:サール・シュワルツ氏竣工日:1990年4月作品造形:ステンレス「デミター」とは、ギリシャ神話に登場する、穀物の栽培を人間に教えたとされる女神のこと。高く伸びた中心部は木の幹にも両手を広げた人のようにも見えます。上部の曲線は、生い茂る木の葉、それとも女神のウェーブした髪?あなたはどのように見えますか?」と小冊子に。「題名 デミター(豊かな実りをもたらす女神)作者:サール・シュワルツ氏このモニュメントは、かながわ都市緑化フェアの開催を記念して、神奈川県下市町村及び(財)みどりのまちかながわ県民会議の御協力を得て製作したものです。」公園の池の岩の上には亀達が日向ぼっこ中。不動産開発の(株)大源のビルの手前・藤沢市辻堂1-14-1にあったA 「海鳴りの樹」作者:平野杏子氏なぜ、この場所にあるのだろうか?可愛らしい熊?とパンダの像も近くに。辻堂砂場公園(藤沢市辻堂3-20)にあったB 「渚」作者:熊谷喜美子氏金色の女性像。帽子を左手で抑えて。辻堂高砂東公園(藤沢市辻堂5-3)にあったC 「2人のこども」ブロンズ像幼児が裸んぼうでお互いに背を向けて空を見つめている姿。横から。正面から。指をしゃぶっているのであろうか?あるいは何かを口に入れて?引地川に架かる日の出橋のD 「日の出橋欄干のカモメ」橋の四隅の石柱にはそれぞれカモメの姿が。下流側の柱には4羽。上流側の柱。2羽のカモメ。上流側の欄干には1羽のカモメがそれぞれの柱の上に羽を休めて。合計で8羽であるが、下流側の欄干にはなし。この構成は、引地川に架かる天神橋の蛙と同じ。ズームして。引地川の上流側を見る。そして橋のはずれ、上流側右手の柱には2羽。そして下流側に渡ると、この柱には4羽。引地川の下流側を見る。前方に見えたのが稲荷橋。美術館やギャラリーではなく、公共空間に設置される、私の長年住んでいる藤沢市内の芸術作品「パブリック・アート」を、「あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩」👈リンク と言う小冊子に基づき、徒歩と車の併用で数日に分けて巡ったのであった。公共空間に設置されたパブリック・アートについては、「屋外恒常設置」と呼ばれる著作権の効力を制限する規定があることを知っているので、今回も多くの作品をこのブログにアップさせていただきました。そしてパブリック・アートを巡ることにより、市内には多くの芸術品が存在することを今更ながら知ったのであった。しかし、我が家の近くのいくつかの公園には、このパブリック・アートはほとんど存在しないのである。近くの市民センターにおいても全く同様なのであった。この理由は?公園を作る際にはどの様なプロセスでパブリック・アートが設置されるのであろうか気になるのであった。ネット情報(https://jptca.org/publicart/)によると「パブリックアートは「公共空間のための芸術・文化作品」を言います。経済恐慌後の1930年代、スウェーデンやアメリカで苦しい状況にある芸術家やアーティストのために仕事を発注する公共政策として始まりました。戦後の50年代になると、フランスで公共建築を建設する際に、総予算の一部(1%)を美術作品の設置・購入に振り当てることを義務付ける法律が成立します。60年代にはアメリカでも「アートのための%」という名称で、国・地方自治体レベルで法制化が進み、文化政策の有力な制度として定着しました。何パーセントを芸術・文化作品に割くかは国によって異なりますが、いまでは欧米諸国にとどまらず、中国、台湾、韓国でも同様の取り組みが行われています。」とのこと。そして現在の日本では、我が県、市では???しかし、日本でもじわじわと、アートが子供達にもたらす効果が注目されて来ている と以前テレビでも放送されていた記憶も。子供達が、公園や公共施設で今回の如きにパブリック・アートを日常的に見ることで、自分の年齢なりにその作品のテーマを感じとることは、その後の美しい物への感性、観察力や読解力を自ら育む良い機会になるのではとも感じた「パブリック・アート」巡りなのであった。 ・・・完・・・
2020.11.12
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この日は10月26日(火)。江の島の島内の「あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩」に行って来ました。小田急線で片瀬江ノ島駅に向かう。今年の5月に新装なった小田急・片瀬江の島駅。1929(昭和4)年の開業時から「竜宮城スタイル」の駅舎で知られた片瀬江ノ島駅。新駅舎は2018年2月に着工し、長年親しまれた旧駅舎のイメージを残しつつ、より「竜宮城らしい」駅に生まれ変わったのだ。新駅舎の外観は、神社仏閣の技法である”竜宮造り”を採り入れた本格的で品格のある造り真っ赤な柱と緑の屋根、黄金に輝く竜や、屋根の上には鯱ならぬイルカが。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれ、迫力ある竜の像も。別の場所からズームで「天女」を。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が。下層のアーチ部分の天井は神奈川県産のヒノキ仕上げで、竜宮城らしく四隅にカメの彫刻が泳ぐ。改札口横には、新江ノ島水族館とコラボした「クラゲ水槽」が設置されていた。正面から。クラゲをズームして撮ったが背景が映り込んで。更にズームで。更に・・・。改札を出た裏側にも。そして江の島弁天橋に向かって進む。龍が彫られた巨大灯籠が迎えてくれた。弁天橋入口にある石碑・「名勝及史跡江ノ島」とセーリングの帆を形どった2020オリンピック・セーリング会場の記念のモニュメント。2020年1月5日、ここ弁天橋の袂に記念モニュメントが建てられたのだと。モニュメントは高さ約2・5mで、テラコッタと呼ばれる焼き物製。セーリングの帆が風を受けた膨らみや傾きを表現し、帆の中心部には大会エンブレムを焼き付けている。また、台座は真鶴町の特産品である本小松石が用いられていると。ここからが江の島弁天橋。左側に「潮音」「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子氏の作。長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られていた。平成元年4月、藤沢のライオンズクラブが結成15年を記念して建てたものであるとのこと。日時計の位置は、東経139度29分11秒、北緯35度18分09秒であると。「円弧型・日時計時は形がなく見えません。しかし、私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。人々は大昔、太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる時に区切りをつけました。それが日時計と時刻です。三角形の石の指針(ノモン)の影を円弧形の石の時刻目盛りで読んでください。影は止まることなく刻々と動いています。それが宇宙における地球の雄大な回転なのです。午前は西側の影、午後には東側の影で真太陽時(ここの太陽による時刻)がわかります。日本標準時と真太陽時はちがいます。標準時が兵庫県明石市・東経135度で決めてあるからです。いつも真太陽時が進んでいてその差は毎日ちがっています。左の時差表グラフを見て計算すると標準時がわかります。湘南海岸にたつ日時計に明るい風が吹き抜けていきます。太陽と地球と私達、すべてを大切にしたいと思います。」江ノ島弁天橋を渡り終え、道路の反対側にある江の島北緑地広場(江の島1-1)に到着。①「弁財天と世界女性群像」東京オリンピック(1964年)記念として作られた。噴水内、周囲には5体の像が。作者:加藤顕清氏。竣工年月日:1964年10月1日作品材質:ブロンズ中央に弁財天。七福神中の紅一点、琵琶を弾く妖艷な姿で現される弁財天(弁才天とも書く)は福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている。江の島・辺津宮の境内の八角の堂・奉安殿(ほうあんでん)には、八臂(はっぴ)弁財天と、 日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天 が安置されている。 江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せた。 世にいわれる「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江の竹生島、江の島の弁財天のこと。お顔をズームで。鳥の糞?が所々に。横顔を。4体の像が「弁財天」を囲んでいた。西洋:ギリシアの古代女性像。「湘南港竣工とオリンピック東京大会ヨット競技開催記念弁財天と世界女性群像噴水池弁天の江の島といわれる江の島弁財天は、近江の竹生島、安芸の厳島とともに日本三弁天の一つであり江の島の象徴であって、この弁財天にちなみ、冥想の弁財天を池の中央に配し江の島の歴史と文化を表現しこれを囲んで東洋と西洋、古典と現代の四つの像つまり東洋の古典像は、オリンピック発祥の地ギリシャの古代女性像、これに対し西洋現代像は優雅な女性裸像と東洋の現代女性像として東南アジア踊り子像をくみあわせこの五体はオリンピックの五輪を表し世界とその平和親善を表現しヨット競技開催を永久に記念するものでこれらはいずれも格調高く気品にみち全体的に美的統一がはかられています。噴水は弁財天を水のベールにつつみ、昼間は太陽のひかりをあびて七色の虹をいろどり夜間は水中照明により様々に変化しつつ一層の美観をくわえます。」「弁財天と世界女性群像噴水池を後世にこの弁財天と世界女性群像噴水池は平成十年第五十三回国民体育大会かながわ・ゆめ国体を機に江の島北緑地の再整備事業として現在の姿となりました。当初の位置は現在地より約二十メートル程南側に位置しその景観は左の写真のとおりであります。弁財天は、発祥地インドではサラスバティーすなわち水の神 音楽の神と云われそれにふさわしく弁財天を中心として世界女性群像はこの水面の上にたたずみ幾年の歳月を潮騒の調べにだかれて流れる雲とともにその女性美を水面に映してまいりました。ここを訪れ散策する多くの人々の心に安らぎと美しき感銘をあたえ静かにいならぶ弁財天と世界女性群像この五体の彫刻の製作者こそ昭和九年に日本彫刻家境界を創立、造形と精神の両面にわたる人間性の追求に専念した日本彫刻界の重鎮、加藤顕清氏であります。氏は晩年を藤沢市ですごし昭和四十四年市内大庭で没した。享年七十二才。ここに氏の生涯にわたる彫刻美術の偉業に敬意を表し弁財天と世界女性群像噴水池を後世に残すものであります。 平成十二年三月 藤沢市長 山本捷雄」現代:東南アジアの踊り子像。東洋:法隆寺の百済観音像。古典:西洋の女性裸像。そして同じ江ノ島緑地広場にあった②「エドワード・S・モース記念碑」。作者:山本正道氏竣工年月日:1985年4月14日作品材質:ブロンズ大きな御影石にレリーフがはめ込まれた碑。ブロンズ製の博士と子供たちのレリーフ。「エドワード・S・モース記念碑 日本近代動物学発祥の地」碑。「東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは明治10年(1877)7月から8月末までここ江の島に日本最初の臨海実験書を開き、シャミセンガイなどの研究をしました。」島内の「江の島 モース臨海実験所推定地」にも立ち寄りました。「工ドワード・シルベスター・モースは1877年(明治10年) 7月17日~ 8月28日ここに東洋初の臨海実験所を設け海産動物の研究・指導を行い我が国の近代動物学の基礎をつくりました。」そして江の島サムエル・コッキング苑まで足を延ばす。夜間は、約10000基のキャンドルが灯る「湘南 2020 Candle」が開催中。昆明広場(春澤園)。中国の昆明市から寄贈されたものであると。昆明市は、中華人民共和国雲南省の都市。1981年に藤沢市と友好都市提携を結んだと。四阿(あずまや)騁碧亭(ていへきてい)の手前にあったのが③「孔雀彫刻(吉祥永駐)」竣工年:2003年作品材質:黒御影石2002年に同市から贈られた像。三羽の孔雀の家族の姿。「雲南省においては、孔雀は吉祥のシンボルであり「吉祥永駐」は三羽の孔雀の一家族が、この世に暖かく、ハーモニーに溢れた雰囲気を作り出し、見る人々に愛情や幸福に対する追求を引き起こさせ、21世紀が人々にとって平和な発展の世紀であるよう本作品を通し美しい祈願を込めて凛々たる表現をされたものである。」「昆明碑記」「彩雲の南端、眞池(昆明市)の畔、聳え立つ城、名は昆明。二千年にわたる歴史、優れた人や物が集まり、光り輝く。眞国王の金印、東寺塔と西寺塔、拓東の古典建築、金馬碧鶏、講武学堂、数多くの古跡、我が都市の輝かしき足跡を刻む。この景色、天下一品とも言る。洋々たる眞池、雄大な石林、九郷の鍾乳洞、すべて天の賜り物。四季は寒暑なく、通年花咲き乱れ、人はここに身を置くと、まるで仙界にいる様である。この地にニ十六の民族が集まり、純朴な民風、習俗多様、情調が色濃く満ち溢れる。ここ百年の間、英才を雲の如く輩出、日本国藤沢に寄寓した中国人民音楽家ー聶耳も、昆明にて生まれ育つ。占く「西南シルクロード」に遡り、昆明の対外交流は絶え間なく続く。一九八一年、昆外交流は絶え問なく続く。一九八一年、昆明、藤沢友好都市提携、昆明・藤沢友誼館を昆明に建設する。壬午の年( 2002年)、昆明市政府は藤沢江の島にて吉祥孔雀を鋳る、騁碧亭を建て、中日友好が代々にわたる証とし、この石碑を立ち、文を刻み、これを記とする。」そして「江の島シーキャンドル」方面に更に進むと右手にあったのが④「石塔」竣工年:2003年作品材質:黒御影石2002年に藤沢市と姉妹都市になった保寧市(ぼりょんし、大韓民国・忠清南道)から2003年に姉妹都市提携を記念して起草された2本の石塔。「市の象徴 記念物 内容解説」上の作品は大韓民國忠淸南道保寧市聖住面聖住里の聖住寺(ソンジュサ)跡にある聖住寺大朗慧(デナンへ)和尚白月(ペクウォルポグァン)塔碑である。新羅第一の塔碑で國寶第8號に指定されている。この碑には新羅後期( 780~935 )九山禪門の一つである聖住山門の開山祖である大朗慧和尚無染(ムヨム)國師の生涯が5120字に及ぶ長文で敍述されているが、文は新羅末期の文豪である孤雲(コウン)崔致遠(チェチウォン)が王様の命令を受けて撰述し、文字はやはり新羅末期の「三崔」の一人である崔仁○(チェインヨン)が歌陽詢體で書いた、無染國師が入寂して2年後の眞聖(チンソン)女王4年( 890)、舍利塔を建立する時に塔碑も一緒に建てられたものと推定される。無染國師は法號が無染であり、俗姓は金である。太宗(テジョン)武烈王(ムョルワン)が彼の8代租になる新羅哀莊王(エジャンワン) 1年( 800)に生まれ眞聖女王2年( 888 )に入寂した。13歳で出家して雪嶽山の五色石寺(オセクソクサ)の法性(ポプソン)禪師にを習い、続いて浮石寺(プソクサ)の釋燈大德(ソクドゥンデク)に華嚴經を學んだ。憲德王(ホンドクワン) 14年( 822 ) 唐の国に留學し終南山(ジョンナムサン)の至相寺(チサンサ)で再び華嚴を學にだが、すぐに麻谷寺(マゴクサ)の寶徹(ポチョル)和尚の門下に入って、禪を問い印可を受けた。寶撤禪師が入寂した後、四方の古蹟と高○大徳を訪ねて長い間苦行を重ね「東方大菩薩」と呼ばれた。文聖王(ムンソンワン) 7年( 845 )に歸國し、大臣である金昕(キムフン)の懇請で熊川州(ウンチョンジュ)の烏合寺(オハプサ)に駐鯣すると法益を求める人が大勢集まり禪が盛んになった。このため文聖王は寺の名前を「聖住寺」と改稱して國師として敬いその後慮康王(ホンガンワン)もやはり國師として敬い禮遇を盡くした。聖住寺は以後日本書紀にも記録されるほど有名を伽臻になり'また門徒が榮えた。」「藤沢市・保寧市姉妹都市提携締結これまで藤沢市と大韓民国との交流は、少年サッカーが1972年から、また、小学生バスケットボールが1989年からの長きにわたり、いろいろな地域の子どもたちとの交流を通じ、相互理解と友好を深めてきました。その中で保寧市とは、2000年から交流が始まりました。保寧市は大韓民国で最大の海水浴場を有する風光明媚な都市で「農漁業や商工業の盛んな産業都市」「市内に大学を持つ学園都市」など本市との類似点も多いまちです。また、2002年は「日韓国民交流年」であると同時に、サッカーワールドカップ日韓共同開催が歴史的大成功を納めた年でもありました。この記念すべき2002年11月15日に藤沢市・保寧市が姉妹都市提携の記念として石塔(記念碑)を寄贈され「江の島コッキング苑保寧広場」に設置されました。日韓両国は、もともと文化などで共通点の多い国ですから、両市がお互いに発展していけるよう、これからもさまざまな分野で交流を進めてまいります。」こちらは「萬世保寧」と刻まれた石碑。「昔から豊かな自然環境に惠まれた保寧市は、美しい山々に圍まれ、水のきれいな山紫水明の地に先祖代々が平安に暮してきたというので、萬世保寧と呼ばれてきた惠みの深い土地で『萬世保寧』は保寧市の別稱でもある。書秋史體は朝鮮時代の文臣であり、著名な書家の秋史金正喜のものである。金正喜は、20歳前後には既に百家の書に通じ、13經に全力を盡くし、特に周易に造詣が深かったといわれる。金石、圖書、詩文、篆隷學の書法としても天下にその名が知られている。彼は漢隷の筆法を研究して楷書に應用し、いわゆる秋史體を創り上げたが、その書體は平凡な楷書とは比べものにならないほど優れていると語り、まずは文字香・書卷氣を心に持っことで禮法の基本を備えた者となり、書藝の神訣となる神髓を極めると語った」そして「江の島シーキャンドル(展望灯台)」を見上げる。「江の島シーキャンドル」を後にして、下り階段を進んで行く。途中、江の島ヨットハーバーそして相模湾、三浦半島の景色を楽しむ。次に訪ねたのが、湘南港の岸壁近くにあったE 「1964年のオリンピックの聖火台」以前、聖火台は横にあるセンタープロムナードと呼ばれる道の正面にあったが、工事のためか2015年現在センタープロムナードの脇に置かれているのだと。五輪のマークと1964と描かれた聖火台。裏面には「第18回オリンピック東京大会THE GAMES OF THE XVIII OLYMPIADEUX DE LA XVIII OLYMPIADETokyo, 10TH Oct. - 24TH Oct.,1964ヨット,YACHTING」と。江の島ヨットハーバー。そして聖天島公園の横の道を進み左に折れ海に向かって進むと、岩場の手前、右側にあったのがF 「自由の翼」作者:熊坂兌子氏竣工年月日:1987年作品材質:大理石正面。裏面。左斜から。表面を右斜から。この大理石には多くのマーブル模様が。「自由の翼」「タイトル:自由の翼<作者:熊坂兌子作品解説:この彫刻は1982年に完成した神奈川県婦人総合センター(当時)に設置されていたもので施設の老朽化による解体に伴い.2017年に現在の場所に移設されたものです。「女性よ.元気よく立ち上がれ」との願いを込め、さんさんと輝く湘南の太陽を浴びた女性が翼をげて力強く大地に立つ姿を表ています。」センタープロムナード。その先端はサザエ島と呼ばれている。 さざえ島は1999年に整備された遊歩道と人工島状の高い部分からできていた。サザエ島周辺はタイドプールになっており、安全に磯遊びを楽しむことができるようだ。タイドプール(Tide pool)とは、岩礁海岸や干潟の潮間帯において、干潮時に岩や砂泥底などの底質のくぼみに海水が取り残されてたまったもの。潮だまりとも呼ばれる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.11
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更に藤沢駅周辺の「あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩」を続ける。藤沢市役所分庁舎前(朝日町1-1)㉖「みぎわ」作者:陶山定人氏竣工年月日:1994年4月15日作品材質:ブロンズ波が打ち寄せる濡れた砂地のことを「みぎわ(汀・渚)」と言うのだと。「女性は裸足でみぎわに佇み、遠い沖を見つめているのでしょうか」「組んだ腕、愁いある表情が語るものとは・・・?」同じく藤沢市役所分庁舎前(朝日町1-1)㉗「大気の臼」作者:前田耕成氏「藤沢市の様々な日常の音、あるいは市民の声を臼状のフォルムで集める装置でもある」(同氏の言葉。冊子より引用)とのこと。そしてJR藤沢駅改札外コンコース正面へ㉘「湘南讃歌」原画・監修:ルイ・フランセン氏竣工年月:1980年6月作品材質:陶板レリーフ作品寸法:2.5m✕11.5m海辺の様子やヨット、花火など湘南の風物が盛り込まれている。右手に花火、左手に江島神社の朱の鳥居。中央上に富士山、浮世絵の姿。海辺で楽しむ女性の姿。ヨットの姿。設置当時の色合い(右側)。 【https://jptca.org/publicart018/】より設置当時の色合い(左側)。 【https://jptca.org/publicart018/】より「湘南讃歌」そして、藤沢駅北口の商店街サム・ジュ・モール整備計画に伴い、設置された作品群。街路樹の柳。㉙「海行く物」作者:児玉慎憲氏竣工年:1993年作品材質:ステンレスモールを進んでゆく船のかたち㉚「海を望むオーケアニデス」作者:児玉もえみ氏竣工年:1993年作品材質:ブロンズギリシャ神話の、海流を司る水の神がモチーフオーケアニデスとは、ギリシア神話に登場する海や泉、地下水の女神であると。イルカに乗るオーケアニデス。㉛「サムジュモールの波」作者:児玉慎憲氏竣工年:1993年作品材質:ステンレス景色が映り込んで。㉜「サムジュモールの樹」作者:児玉慎憲氏竣工年:1993年作品材質:ステンレス㉝「サムジュモールの太陽」作者:児玉慎憲氏竣工年:1993年作品材質:ステンレス㉞「海の形」作者:児玉慎憲氏竣工年:1993年作品材質:ステンレスそして遊行道り北口にあった㉟「QUIESCENT ELAN」作者:山本一樹氏竣工年:1990年作品材質:ステンレス遊行寺の鐘をモチーフに作られた作品である と。「QUIESCENTは英語で沈着、静止、ELANは鋭気、飛翔、情熱の意味。作者は反対の言葉を結び付けることで、将来への躍進を表現しました。」と小冊子から。そして藤沢市民病院前庭へ㊱「真心(まごころ)」作者:陶山定人氏作品材質:ブロンズ「大切な人のお見舞いに来たのでしょうか。帽子を両手に大事に持ち、少し緊張した面持ちが表れているよう。」愁いの中に真心が。藤沢市民病院の休日・夜間入口にあったのがG 「ぶどうを持つ少女」作者:細野稔人氏そして近くの白旗神社の「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は昨年・2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。H 「藤沢聖苑のモニュメント」作者:新妻実氏弥勒寺第二公園(藤沢市弥勒寺1-17)I 「弥勒寺太郎」正面から。幼子の裸像。両手を上げて、空を見つめて。後ろ姿も。「記念碑この地は、東耀山弥勒寺の寺号に由来し、鎌倉郡村岡村から藤沢市に合併した当時は、良好な水田地帯でした。しかし時代の変遷と共に市街化進行の兆しが見え始め、半面常に水害対策に悩まされた現状を危惧し、本地区を安全で、便利で、快適な居住環境の形成を図るため、権利者全員の協力により昭和六十三年五月土地区画整理組合を設立し、まちづくりに着手しました。 爾来、組合員の熱意と努力の結集により、総事業費三億六千万円余を投じ、施工面積一万一千平方メートルを三年余りの短期間で都市施設の完備されたまちづくりが完成しました。 これを記念し、地区の更なる発展を祈念し、ここに記念碑を建立しました。 平成三年十月吉日 藤沢市弥勒寺第二土地区画整理組合」そしてJR藤沢駅北口サンパール広場内へL 「平和モニュメント」北口コンコースの北側にある鳥の像。これも「核兵器廃絶平和宣言都市宣言」に関連する平和モニュメント。「核兵器廃絶平和宣言都市わが国は世界で唯一の核被爆国であり,核兵器廃絶と恒久平 和の実現は全国民共通の願いである。 しかし、すでに地球上には多くの核兵器が貯えられ,人類の 生存に深刻な脅威を与えている。 藤沢市は、日本国憲法の精神に基づく国の平和と安全こそが、地方自治の根本的条件であることにかんがみ、非核三原則が完 全に実施されることを願い、核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、この人類共通の大義に向かつて不断の努力を続ける核兵器 廃絶の平和都市であることを宣言する。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.10
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この日は10月11日(日)、『あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩』の小冊子に紹介されている「藤沢駅周辺」を下の地図に基づき訪ねて来ました。訪ねた順番は異なりますが、上記の地図の数字の順番に紹介致します。まずは奥田公園前広場にて。藤沢市鵠沼東7。⑫「核兵器廃絶平和記念碑(平和の母子像)」作者:熊坂兌子氏竣工年:1995年作品材質:大理石。この彫刻は戦後50年を記念して設置された作品。台座の16枚のレリーフパネルは熊坂兌子氏の夫のサール・シュワルツ氏のてになるものと。「母親が子供を抱いている姿に見えますが、この母親は地球、母なる大地を、子供は人類をイメージしている」と小冊子に。素材は、イタリアのピエトラサンタで採石した大理石で、大理石特有のマーブル模様が少ない白い部分の使用にこだわった作品とのこと。台座には「PEACE」と刻んであり、その左右に「戦後50年その平和の日々を私たちは讃える」という文字も。そして別の辺には「緑と太陽と潮風のこのまちを 私たちは愛する このまちをこの国を そしてこの地球を 平和の潮で永遠にみたし つづけることを 私たちは誓う一九九五年八月十五日 平和が始まってから五十年目の日に 藤沢市長 葉山 峻」と続いているのであった。そしてその下の世界地図の太平洋の場所には平和の文字も。同じく彼女の作品が奥田公園広場に。⑬「貝」作者:熊坂兌子氏製作年:1967年作品材質:大理石。近づいて。藤沢市民会館中庭(藤沢市鵠沼東8-1)にて⑭「波」作者:熊坂兌子氏製作年:1970年作品材質:大理石。近づいて。そして藤沢市民会館前に。「藤沢市民オペラの生みの親 福永陽一郎」。故福永陽一郎氏(享年63)の没後25周年を記念し、有志の製作した記念碑。縦70cm、横80cmの碑には、タクトを振る福永氏の姿が手彫りの点描画で精密に再現されていた。⑮「名誉市民 片山哲先生」。作者:菅沼五郎氏竣工年:1972年作品材質:ブロンズ戦後、最初の社会党内閣総理大臣の「片山哲像」。1926 年の社会民衆党の結成に参加。30年に神奈川2区から立候補して初当選した。戦後は日本社会党に属し、47年に同党が第1党に躍進した際に内閣総理大臣に就任し、戦後の難局処理に当たった。1924年から市内片瀬に居を構え、以後半世紀余を藤沢の地に暮らしました。63年に75歳で政界を引退。69年に藤沢市名誉市民第1号に選ばれ、78年に90歳で亡くなったと。碑陰には「[碑陰](縦書き)片山哲氏、明治二十年紀南に生る。こよなく湘南を愛し、居を構えてより五十有余年、清節道を守つて湘南の人となる。市民諸君より推されて衆議院議員に当選する事十一回、昭和二十二年五月には内閣総理大臣に就任し、戦後の難局処理に当る。その后外遊数回、世界の人物と風光に接し、益々わが湘南の風物、世界に秀でたるを信ず。この真白き冨士の嶺緑の江の島の中心地たる藤沢市の第一号名誉市民に選ばれたる事を、生涯の光栄として喜び居れり。一九七二年五月 林 大作 識」と。⑯「翔」作者:親松英治氏竣工年:1991-1992年作品材質:ブロンズ音楽や演劇やダンスなど、さまざまなプログラムを発信する藤沢市民会館。ここにふさわしいモチーフとして作者が選んだのがこのバレーであったと。裸婦の姿で。体操のシーンのごとく。更に近づいて。奥田三角公園にて藤沢市鵠沼東2。⑰「待ちぼうけの石」。作者:関根伸夫竣工年:1971年4月1日作品材質:御影石長い時間にわたって待ち続けた人の心が石になって行くイメージなのであると。何故か、尻の部分だけ人の形を保っているのだ。そして尻の部分だけ磨かれて。イスの部分に「待ちぼうけの石」と刻まれていた。奥田三角公園近くの工事現場の安全フェンスには「PLAY! Fujisawa ART GaIlery現代絵師、山下良平が本プロジェクトのために描いた作品のギャラリーです。撮影は自由となっておりますのでInstagramやTwitterにぜひご利用ください。」『MATSURI FUJISAWA』。『ROAD TO PLAYGROUND』。『TRIANGULAR FOREST』。『BY THE SEA ENOSHIMA』。そして、JR藤沢駅南口ペデストリアンデッキ入口に向かう。JR藤沢駅から江ノ電への連絡コンコース(2階)外に出たところ、植木茂みの中。路上ライブや演説、ティシュ配りなどが行われている人通り多い場所。⑱「地」作者:高田博厚氏竣工年:1978年作品材質:ブロンズ高田博厚氏(1900~1987)は 彫刻家。石川県生まれ。高村光太郎に学び、渡仏後、ロダン・ブールデルに師事。多くの肖像を制作。文筆にすぐれ、著訳書も多いと。物思いに耽る裸婦の姿か。顔をズームで。再び奥田公園前広場にて。⑲「空」作者:高田博厚氏竣工年:1979年9月作品材質:ブロンズ次に訪ねたのが藤沢駅北口から藤沢市役所分庁舎に向かう手前左側にあった「FTビル」前。⑳「海」作者:高田博厚氏竣工年:1979年9月作品材質:ブロンズ海に脚を入れて空を見つめる裸婦の姿。「海 高田博厚作」。後ろ姿を。次に旧近藤邸前庭。「旧近藤邸設計 遠藤新建築主 近藤賢ニこの建物は一九二五年(大正一四年)関東大震災の直後に藤沢市辻堂の松林の中に近藤賢二氏の別荘として建てられました。生活の近代化が叫ばれはじめた当時にあって、いち早く日本の風土と生活に即した新しい建築をつくり出した建築家 遠藤新の三十六歳の時の作品です。一九八〇年(昭和五五年)老朽化のため取り壊しが決定されましたが地元市民の保存の声に守られて一九八一年(昭和五六年)三月藤沢市によってこの地に移築されました。 一九八九年(平成 元年)かながわの建築物一〇〇選 二〇〇二年(平成一四年)国の登録文化財」㉑「まごころ」作者:陶山定人氏竣工年:1986年作品材質:ブロンズ胸の上に右手を当て、「まごころ」というタイトルを分かりやすくポーズで表している と。秩父宮記念体育館へ藤沢市鵠沼東8-2㉒「円舞」作者:小峰貴芳氏竣工年:1997年作品材質:鋳鉄壁を縦横に走る優雅なうねり。下部はベンチとしての役割もと。藤沢市役所本庁舎南側庭藤沢市朝日町1-1「石林の石」「石林の石この石は、「昆明市・藤沢市友好都市提携周年」を記念して、中国昆明市人民政府から寄贈されたものです。」㉓「愛と友情」竣工年:2007年作品材質:御影石、大理石近づいて。中央に位置する新芽の花びらは保寧市と藤沢市との友情が新しく芽生える姿を形象化したもの。「愛と友情本作品はVⅣA保寧の都市ブランドを活用して保寧市の未未の天然都市を表すもので、山と海そして豊かな西海岸の漁場を表現している。藤沢市との姉妹結綠5周年を記念して木を形象化した5つで表した。中央に位置する新芽の花びらは保寧市と藤沢市との友情が新しく芽生える姿を形象化したもので未未に対して友好を深めることを表現したものである。」藤沢市民会館本館内1階ロビーにて「ふじキュン」がハロウィンの飾りに囲まれて。(左)オリンピックマスコット・「ミライトワ」、(右)パラリンピックマスコット・「ソメイティ」。こちらの「ふじキュン」はマスク姿で。藤沢市市標章の大凧。㉔「我が家のソクラテス」作者:桑山賀行竣工年:2010年作品材質:楠作者が2年半ほど共に暮らした元盲導犬のアイリスがモデル と。藤沢市役所分庁舎へ入口左手にあった「平和の灯」。平和の誓いの灯に近寄って。「モニュメント「平和の灯」藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言に込められたられた核兵器廃絶と恒久平和の実現に向けて強い願いを市民の皆様とともに未来に継承していくため、藤沢市民の平和のシンボルとして広島平和記念公園の「平和の灯」から採火し平和の誓いの灯として灯し続けます。」藤沢市役所分庁舎1階ロビーへ㉕「めでたき富士」「めでたき富士」原画:片岡球子造形:ルイ・フランセン製作:現代壁画研究会完成:1983年5月片岡球子氏は1968年藤沢市に転居1989年文化勲章を受章1990年:藤沢市名誉市民に。左からズームで。左側に太陽と雪を頂く赤富士。右手に可憐な「梅」の花が咲きほころぶ。その上に松竹梅の「竹」が。近寄って。絵画と異なり、レリーフの場合はその盛り上がりが魅力。裾野に拡がる山の姿か、いや松竹梅の「松」。波と松は湘南海岸をイメージしたものか?こちらにも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.09
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続いて「藤沢北部2」を訪ねた。谷戸川の延長線にある「渋谷の里公園」。藤沢市下土棚字渋谷の里1109。50.「子どもとウサギ」。「ウサギ」を見つめる裸の少年の姿。何を語りかけているのであろうか。「渋谷の里 完成記念碑」。六会公民館石川分館藤沢市石川1丁目1番地の225月25日の緊急事態宣言の解除に伴い、第6回藤沢市新型コロナウイルス感染症対策本部においての決定に基づき、6月1日(月曜日)から石川分館の業務を再開。51.「くつろぎ」。立膝で座り込み空を見上げる少女。場所を変えて。髪を後ろで束ねて。丸石公園藤沢市石川5-13。52.「花のかんむり」。お姉ちゃんが弟に「花のかんむり」をかけようとする姿。反対側から。桐ヶ谷公園藤沢市湘南台3丁目5-15。53.「昼さがり」。本を読む少女の姿。その脇で何かを見つめる弟?の姿。一色公園藤沢市 石川6-12。54.「姉弟」。両手を繋ぎ、楽しそうに戯れる姉弟。姉も笑顔で。弟も。円行下原公園藤沢市円行2-15。55.「ささぶね」。仲の良い姉弟の姿であろうか。山田公園藤沢市石川2-23-45。1991年 開園。56.「水あそび」。水辺を走る兄妹。妹はバケツを持って。兄。妹。北原公園藤沢市遠藤字北原2006番15。57.「しゃぼん玉」。猫がしゃぼん玉を追って。しゃぼん玉を作る少女。横から。しゃぼん玉を追う猫の姿が生き生きと。長後市民センター藤沢市長後513番地。時計は15:05。藤沢市長後市民センター エントランスホールの陶板レリーフ58.「にっぽんの詩」 1995年3月完成原画・監修:田澤茂氏縦3.0m × 横 6mの陶板レリーフ。中央には、富士山と富士山の山頂に夕日が沈む瞬間、太陽の光がダイヤモンドの様に美しく輝きだす神秘的な現象・「ダイヤモンド富士」の姿か。そしてその麓の祭りの情景が。「ダイヤモンド富士」。祭りの山車では太鼓を打つ姿が。そして右手には「風神」の姿が。その下には民家の生活の姿が。左手には「雷神」。その下では「どんと焼き(団子焼き)」の姿も。「市民センターの桜」が建物の前に。「市民センターの桜この桜の種類は、ソメイヨシノで、昭和三十一年に殖産学校を改造して、長後支所が完成したことを記念して、植樹されたものであります。樹勢が旺盛で技ぶりも良く、満開時には、ひときわ美しく見事で、長後のシンポルとして地域の々に親しまれております。樹高 10m幹回り 2m50cm樹齢 約40年」湘南台公園大きな地球儀と宇宙儀がシンボルの湘南台文化センターと国道467号線を挟んで向かい合う緑の塊が、この湘南台公園。区画整理にあわせ昭和51年に開設したが、地下鉄工事の完成に伴い、中央部分が大芝生広場としてリニューアルされている。藤沢市湘南台7丁目16番。「湘南台公園」碑。「湘南台公園」案内碑。「レインボータウン わくわくMAP」小田急線湘南台駅周辺の案内図。「愛されるふるさと湘南台」案内板。公園の一角に、59.「湘南台公園のハニワたち」家型埴輪・船型埴輪・馬型埴輪・人物埴が並んでいた。 「武人」。「巫女」。「船」。「馬型」。「男子」。「動物」。「動物」。「家」。埴輪群を振り返る。公園には「金木犀」の花、そして香りが。束の間の陽光に、黄金色の花を咲かせて。公園内の石庭?「湘南台公園」。「絆」碑と公園内花壇。湘南台駅東口前通りを見る。公園入口から公園内を見る。この下には地下鉄の線路が。「湘南台文化センター」独特のデザインの建物。いくつかの球体によって構成されている。そのうちのひとつは公的には「地球儀」を模しているといわれ、一番大きいものは「プラネタリウム」ということになっているが、実はこれらは「パチンコの街・湘南台」を象徴する、パチンコ玉の形状を模しているとの噂も昔はあったが・・・・。公園内の遊具広場。今田公園J.「ハーメルンの笛吹」グリム童話からの作品か?「ねずみの大発生で困っている街に、1人の男が現れます。男は笛の音でねずみを退治しましたが、町長たちは約束の報酬を支払おうとしません。すると男は別の笛を吹き、街中の子どもを岩山へ連れ去ってしまいました。」と。横から。足下には巨大なねずみが4匹。「アベリア」。淡いピンク色の花を夏から秋にかけて咲かせる街路樹が公園の周囲に。中丸公園ここにも今田公園と同じK.「ハーメルンの笛吹」が。ズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.08
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先日、地元の市民センターを自治会連合会の会議で訪ねた折、「あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩」と言う小冊子を頂いて帰りました。小冊子には下記のごとく書かれていました。「藤沢市アートスペース(FAS)では、市内に点在するパブリックアートの調査を2018年から開始しました。これまでに、関連事業として、専門家指導のもと作品を美しく蘇らせる「まちの彫刻ピカピカプロジェクト」や、展覧会「Fujisawa Art Re;public - 藤沢で再発見! まちのアート探訪 - 」を実施しています。これまでの調査と活動についてまとめた冊子『あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩』を刊行しました。ぜひお手に取り、街を歩きながら、藤沢のパブリックアートの魅力に触れてください。」と。「いつもの通動、通学や買い物の途中で見かける、何となく気になるポーズの像や不思議な形のオプジ。でも、立ち止まってじっくり見つめることなく、通り過ぎてしまう人も多いのではないでしようか。「あるいて。みつけて。ふじさわパプリックアート散歩」はその名の通り、敗歩の途中などに気軽に、身の回りにあるアートに触れてほしいとの思いから生まれました。冊子をつくるにあたり、まず行ったのは、”誰でも見られる場所に置かれた立体造形作品"である市内のパプリックアートの情報を集めること。すると、作品が集まっている場所や、広く分布している場所など、各地域の状況が見えてきました。そこで、実際に足を運びやすいよう、市内を四つの地域に分けて紹介することにしました。もちろん、鑑賞の仕方は人それぞれです。設置された理由や、使われている素材、表現されている人や物など、情報から入るもよし。もしくは、まず作品と対面して、心の声で話しかけてみるのもまたよし。時には作品の目線に立って見えるものを確認したり、周囲の風景を眺めたりするのも楽しいかもしれません。パプリックアートは、美術館などの建物の入口をくぐらなくても、好きな時問に自由に見ることのできる芸術作品です。みなさんの日々の暮らしの中で、そんな作品との出会いや新しい発見があればと思います。」この日は10月5日(月)、『小出川彼岸花』を訪ねた帰りに、『あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩』👈リンクの小冊子に紹介されている「藤沢北部1」を下の地図に基づき訪ねる事としたのです。訪ねた順番は異なりますが、地図の下側から数字の順番に従い紹介致します。まずは天神橋へ引地川に架かる天神橋。 左側の欄干の上にのみ何か突起物が。「天神橋」。㊲「引地川親水公園の 欄干の彫刻」相撲の立会いから取り組みまで、そして行司を含め全部で10匹が向かい合うように。平安末期から鎌倉前期にかけて描かれたといわれる、京都・高山寺の国宝"鳥獣戯画"から抜け出してきた蛙たちが、相撲をとっている姿に出会うことが出来たのであった。しかし鳥獣戯画は蛙と兎だったのでは。行司のカエルが軍配をふるっているところから始まるのであった。軍配には三日月が描かれているのみのシンプルなもの。様々なポーズをとったカエルの像が並んでいた。相撲の仕切りのポーズ。残った!残った!浴びせ倒し!!何故か南京錠が。ワッハッハ。酔っぱらっちまった!!橋の中央から、微妙に姿は異なりますが対称的な姿で順番に。欄干上に金属製の蛙作品が等間隔に並んでいたのであった。「引地川」の下流側を見る。「引地川」。次に訪ねたのが湘南大庭市民センターへ「湘南大庭市民センター 湘南大庭公民館」。神奈川県藤沢市大庭5406−1。正面のアプローチの左右に向かい合う像がニ体。「湘南大庭市民センター 湘南大庭公民館」に近づいて。㊳「春の詩」作者:桒山 賀行氏(くわやま がこう) 竣工年:1995年。作品材質:ブロンズアプローチを挟んで二体の作品が向かい合っていた。鳥と戯れる二体の少女像は、さわやかな春のイメージなのであると。少女の掌、頭の上には羽ばたく鳩の姿が。そしてもう一体。こちらの少女は右の掌の上に鳩が。近づいて。更に。正面から見て右側の少女像の後ろから二体の姿を。鳩がアプローチを進んでくる訪問者を迎える位置にあることが解るのであった。次に訪ねたのが大庭城址公園藤沢市大庭5230。㊴「自然」作者:熊坂兌子(なおこ)作品材質:大理石竣工年:1995年ほのぼのと、ゆったりと親子のひととき。次に藤沢市立ニ番構公園を訪ねた。「藤沢市立二番構公園」案内図。南北に長い公園。この場所までが、大庭城の範囲であるとの説があると。㊵「ニ番構公園の彫刻」「二番構(にばんかまえ)」という名前は、すぐ近くにあった大庭城に由来する地名で、湘南ライフタウンの区画整理事業によって生まれた近隣公園。本丸を守るように堀や土塁を備えた武士などの屋敷のことだそうで、裏門に隣接した場所を二番構と呼んだのだと。南側の公園入口に廻り込むと二人の幼児の像が。作品名:2人の子ども作者:山岸伸一裸で仲良く向かい合って。反対側から。㊶「ニ番構公園の彫刻」細長い布をふわりと体にまとわせ、「水瓶を抱えた女性像」。作者:山岸伸一この日は噴水、壺からの水は出ていなかった。角度を変えて。㊷「ニ番構公園の彫刻」岩や水の配置が工夫されて。瀧からの水はここにもなく。噴水池のある広場。手を上げながら様々なポーズをした裸婦像が3体。作者:黒川弘樹(原画) 山崎豊三(塑像)池の中の踏石を利用して、像の周囲を巡る。それぞれの女性にズームして。ここはフジの花の名所であるようだ。フジの花が咲くと。 【https://lovegreen.net/flower/p137752/】より「フジロード Fuji Road」案内板。来年はフジの咲く時期に「フジロード」を歩いて見よう。4.に二番構公園が。藤沢市の「雨水管マンホール蓋」にも市花のフジの花が。大庭丸山公園遊びながらトレーニングができるアスレチック器具がたくさん設置されていた。㊸「光る風」。正面に立つと、風が左から右へと吹き抜けて行く姿をイメージした作品であると。裏側も同様に。遠藤公園中央に石像が。「人間にとって大きな存在である太陽、自然、地球と共に生きる」というコンセプトで作られた作品であると。㊹「駆ける太陽と共に」。作者:熊坂兌子当初は純白であったのだろうが。北永山公園へ藤沢市遠藤742㊺「空の表情」太陽と雲のレリーフが施された石彫彫刻。公園入口の中央に立っていた。裏側。「ふじさわ パブリックアート散歩」の本には紹介されていないが東急ストア湘南とうきゅうにあった作品。藤沢市遠藤698−10。作品の題名は「水・浮遊」。作家は池田徹氏。石碑。大庭城址の城郭と湘南の海を象徴的に表現した彫刻とのこと・秋葉台運動公園へ藤沢市遠藤2000-1こもれび広場に立つ㊻「シャツブラウスの娘」作者:佐藤忠良氏竣工年:1983年作品材質:ブロンズ「シャツを大胆な着こなしや質感はもちろん、手を腰にあて足をクロスさせた全身の絶妙なバランスが特徴的な女性像」「日常生活の中で一瞬だけ見える「人間の美」を追求した作品の一つである」と。そして秋葉台文化体育館。秋葉台体育館 配置案内図。第二体育館。そして体育館。「藤沢市秋葉台公園概要秋葉台公園は建設省のカルチャーパーク構想に基づく都市公園として整催が進められ、運動施設としては現在、体育館、球技場、プール等のスポーツ施設が設置されており、北部方面におけるスポーツレクリエーションの拠点施設として、多くの市民にご利用いたたける様、開設しております。」「藤沢市秋葉台文化体育館」正面入口。「ふるさとマップ 遠藤」ここは、神奈川県藤沢市遠藤2000−1。㊼「大黒橋小公園のモニュメント」「大黒橋」の横にあった「大黒橋小公園」とモニュメント。小出川の流れと、水面にきらめく陽光をイメージしたが如きモニュメント。「大黒橋その昔、窪島氏が寄付された伊豆小松石ニ本の橋であった。この橋の近くには比丘尼橋があって、玄光院(廃寺)から宝泉寺に通う尼さんが掛けた橋といわれる。比丘尼橋に対して、大きな橋こう名付けたという説や、黒い立派な橋だったので、という話もある。新編相模国風土記稿にも大黒橋の名がある。」大庭台墓園「藤沢市 大場台墓園」と刻まれた石板。駐車場に車を駐め、目的の像を探す。正面が「立体墓地」。大庭台墓園の「立体墓地」は屋内に設けられた納骨壇で、上部に墓石を設置できる「普通納骨壇」とアルミ製のいわゆる"ロッカータイプ"の「集合納骨」に加え、承継者がいない方むけに20年間の期限付きで納骨し、その後に合祀墓へ共同埋葬される「合葬納骨壇」が用意されているとのこと。像のある場所が判らないので、管理事務所に行き「施設案内図」を頂き説明していただく。場所は管理事務所前のロータリーから5区の前の駐車場に車を駐める。ブロンズ像を発見。作品名は??㊽「大庭台墓園のブロンズ像」碑の台座には、平安時代の歌謡集『梁塵秘抄』から、童心を詠んだ有名な一節が刻まれていた。「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ揺るがるれ」無心に戯れ、喜々として声をあげる子供の姿に、忘れていた童心を呼び覚まされた大人の感懐を詠んだ歌。「 遊びをしようとして生まれてきたのであろうか。あるいは、戯(たわむ)れをしようとして生まれてきたのであろうか。無邪気に遊んでいる子供のはしゃぐ声を聞くと、大人である私の身体までもが、それにつられて自然と動き出してしまいそうだ。」裸で両手を上げて空を見つめる男の子。ズームで。その姿を下から見上げる男の子。後ろからも。弟の姿であろうか。 「少年の森」へ藤沢市少年の森は、国際児童年記念事業として、昭和55年5月5日に建設された、青少年野外活動施設。藤沢市打戻2345。敷地面積:93,642.43m²主な施設:アスレチック(20ポイント) 木製遊具(9基) 自然散策路 キャンプ場(テントサイト・野外炊事場) じゃぶじゃぶ池 多目的運動場(クローバー広場・さわやか広場) 宿泊研修施設「かわせみハウス」㊾「友情」フォークダンスをする若い男女の像。作者:安田周三郎皇帝ダリアに囲まれて。お互いに目を見つめ合って楽しそうに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2020.11.07
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さらに「江の島サムエル・コッキング苑」の「湘南Candle2020」を楽しみながら歩く。冬への準備が終わった樹木も灯りに照らされて。そば道場「松本館」も灯りに照らされて。様々な工夫が。LONCAFE 湘南江の島本店。そして人気の撮影スポットに。スタッフがカメラマンとして奮闘中でした。中央のベンチに座り記念撮影。空席を見計らって。赤と白のコラボが。消すときには蓋を締めるだけで・・・時間の節約も。四阿(あずまや)騁碧亭(ていへきてい)を背景に。美しい空間と時間。棚に乗せて立体感の演出。灯りの曲線美。「湘南Candle」。騁碧亭(ていへきてい)も輝いて。そしてこの夜の月も満月に近づいて。そして「江の島サムエル・コッキング苑」を後にして、途中、江の島ヨットハーバーを望む。江の島弁天橋を渡る。人影の姿は既に少なく。片瀬漁港の東西プロムナード。「江の島シーキャンドル(展望灯台)」を振り返る。そしてライトアップされた小田急線「片瀬江ノ島駅」。「小田急線 片瀬江ノ島駅」。角度を変えて。楼門上層をズームで。黄金の龍(向かって左側)。反対側(向かって右側)。改札を入り駅構内へ。天井の斜部には龍の彫り物が。右側から左側に向けてカメラで追う。格子天井にも4頭の亀が木彫りで。亀をズームで。「片瀬江ノ島駅」構内。この電車に乗り込み帰宅の途に付いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.11.06
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「江の島サムエル・コッキング苑」内に入り「湘南Candle2020」の美を楽しむ。江の島の晩秋の風物詩となった「湘南Candle2020」。日時:10月17日(土)〜11月8日(日)17:00〜20:00(最終入場 19:30)「江の島が日本一のあたたかな光に包まれる湘南の、秋夜」総数約10,000基のキャンドルのやわらかな灯りとともにゆるやかな時間をお過ごしください と。黄色部分が「キャンドル配置エリア」であると。中に入り、案内の女性に訪ねた。「灯は人力で灯すのでしょうが何人くらいで?どのくらいの時間がかかるのですか?」ボランテイアも含めて40人前後、1.5時間以上はかかると。消すのも人力であるとのこと。入口のキャンドル群。様々な色が混じって幻想的。昆明広場の「騁碧亭」を背景に。江の島展望灯台(江の島シーキャンドル)もピンクにライトアップ中。ズームで。竹筒灯籠に似て。ズームにて。様々な配置の工夫が。「江の島」と「シーキャンドル」をイメージして。周囲には波の形が。別の場所から近づいて。更に。様々に彩られた別のデザインの容器に灯が灯されて。江の島らしく、網とガラス浮き球が。「シーキャンドル」とのコラボ。流木の如き枯木と網とガラス浮き球との競演。ピラミッドのごとくに。そして「江の島シーキャンドル」の展望台へのエレベータには距離を置いた列が作られて。約1周の列が。そしてエレベータにて「江の島シーキャンドル展望台」へ。避雷針まで入れた高さは59.8m(海抜119.6m)あり、その斬新なスタイルは江の島の新しいシンボルとして親しまれているのだ。高さ41.75m(海抜101.56m)のところにガラス張りの展望フロア、さらにその上には屋外展望台があり、昼間は富士山や丹沢などのワイドな眺望が楽しめるのだ。展望フロアからガラス越しに「江の島大橋」を。ズームして。西浜海岸。再び「江の島大橋」そして片瀬港を。帰路は屋外階段を注意しながら下る。江の島灯籠を眼下に。美しい色合い。そして地上のカフェテラスに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.05
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この日は10月29日(木)、2020年10/17(土)〜11/8(日) の期間で江の島サムエル・コッキング苑内にて開催されている「湘南Candle2020」を楽しんで来ました。今年は過去最高の約10,000基のキャンドルが用意されたとのこと。小田急線を利用して「片瀬江ノ島」駅へ。改札出口の手前には「新江ノ島水族館」と書かれた案内板の下には大きな円形の水槽があり多くのクラゲが泳いでいた。小田急片瀬江ノ島駅(藤沢市)の新駅舎が7月30日完成した。新江ノ島水族館の協力で、クラゲが漂う常設の水槽が駅内に登場。ホームを歩けば目に入ってくる趣向で、駅利用者らの間で話題になっているそうだ。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径2mの円形で、2.65m3の海水が入っており、ゆっくり回転するように流れていた。40匹前後のミズクラゲがゆらゆら浮遊する様子は、同館で人気を集めている展示水槽そのままなのだと。ゆらゆら浮遊するミズクラゲを追う。日本近海でも最も普通に観察できるクラゲであると。傘に透けて見える胃腔、生殖腺が4つあることから、ヨツメクラゲとも呼ばれるのだと。ヨツメクラゲをズームで。そして改札を出て駅前広場から、新装なった「片瀬江ノ島駅」を見る。1929年以来、地元住民から“竜宮城の駅”として親しまれてきた片瀬江ノ島駅。1999年にはその個性的なたたずまいから「関東の駅100選」にも選ばれた。今回のリニューアルでは“竜宮城の駅”のイメージはそのままに神社仏閣の造作技法を取り入れ、屋上にはイルカの像を設置するなど、江の島に古くから伝わる「五頭竜と天女の伝説」をモチーフにした品格と遊び心があふれるデザインを取り入れているのだと。波間から昇龍の姿、そしてその屋根には宝珠水煙が。楼門の軒唐破風の下には妻壁が彫刻で飾られていた。軒上にも龍が。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。正面に向かって左側。正面に向かって右側。楼門の屋根の龍の姿。イルカの姿が鯱(シャチホコ)ならぬ、これも金箔の「イルカホコ」で。そして弁天橋からの江の島の姿。手前に国道134号の片瀬橋。境川を渡る弁天橋の中央にあったオブジェ「雲の形」。「江の島シーキャンドル(展望灯台)」をズームで。江ノ島弁天橋に向かって進む。龍を刻んだ巨大な石灯籠にも灯りが灯る。残念ながら富士山の姿は・・・。海上保安大学校の4代目の練習船「こじま」であろうか?「江の島シーキャンドル(展望灯台)」もライトアップが始まった。江ノ島弁天橋を渡り終わり江の島内に。江の島のエントランスに位置するラグジュアリースパリゾート「えのすぱ別館」入口。壁の絵画が映り込んで。「青銅の鳥居」。江の島弁財天信仰の象徴である青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建された。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめているのだと。この先も神奈川県道305号江の島線。波をイメージした模様の灯籠が土産物屋の前に並んでいた。朱の鳥居の先に「江の島神社 瑞心門」。この日は「エスカー」を利用して「江の島サムエル・コッキング苑」に向かう。「銭洗白龍王」。「江島神社 辺津宮」「奉安殿」。次のエスカー乗り場に向かう。「湘南2020Candle」ポスター。「江島神社 中津宮」。最終の「エスカー乗り場」へ。そして「江の島サムエル・コッキング苑」に到着。 ・・・つづく・・・
2020.11.04
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「お台場海浜公園管理事務所」を訪ねる。港区台場一丁目4番地、1Fにいた職員に訪ねると海上バス待合所・2階に設置されているとのこと。説明に従い進むと2Fのスタンプ置き場を発見。続日本百名城スタンプ「124 品川台場」を頂きました。「黒船来航と品川御台場の構築嘉永6年(1853) 6月3日のペリー来航は、江戸幕府を長い「鎖国」の眠りから覚ますことになった。ペリー退帆後、幕的はすぐさま江戸湾の海防強化の検討に人り、勘定吟味役格江川太郎左衛門英龍(堪庵)らによる江戸湾巡視の、内海防備のための御台場築造を決定した。築造計画は、西洋の築城書、砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築しようとするものてあった。工事は嘉永6年(1853) 8月末に着手され、昼夜兼行で進められた。土取人夫などは第一・第ニ・第三台場築造時で5,000人にも及び、総築造軽費は75万両という膨大なものとなった。第一・第ニ・第三台場は翌年7月に、第五・第六台場と途中で加えられた陸続きの御台山下台場は12月に竣工した。第四・第七台場は築造に着手したが、工事半ばで中止し、第八台場以降は末着手に終わった。最終的に6基完成した御台場は、徳川家康家に近い親藩・譜代とそれに準ずる家格を持つ大名によって、慶応4年(1868 )の幕府崩壊直前まで江戸湾防備の拠点として警備が行われた。」「品川御台場その後完成した6基の御台場は、明治6年(1873)に海軍省の管轄になり明冶8年( 1875 )に海第省から陸軍車に移管された.その後第三台場は第六台場とともに大正4年東京市に払い下けられ、同13年東京府知事によって史跡の仮指定を受け、同15年国指定史跡となる。その後、東京湾に浮かぶ6つの御台場は.、2つの史跡を残して埋め立てられたり、撤去されて姿を消していった.今なお当時の面影をしのはせる第三台場は、都立台場公園として人びとに親しまれている。」「品川御台場構築図」。南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築しようとするものてあったのだと。「品川御台場その後完成した6基の御台場は.明治6年(1873)に海軍省の管轄となり、明治8年( 1875 )に海軍省から陸第省に移籍された。その後.第三台場は第六台場とともに、大正4年東京市に払い下げられ.同13年東京府知事によって史跡の仮指定を受け、同15年国指定史跡となる。その後、東京薄に浮かぶ6つの御台場は. 2つの史跡を残して埋め立てられたり、撤去されて姿を消していった.今なお当時の面影をしのばせる第三台場は、都立台場公園として人びとにしたしまれている。」現在の第三台場(台場公園)「現代によみがえる江戸湾と品川御台場フジテレビの球体望台から見える東京の風景を江戸時代に置き換える、という㈱フジテレビジョンによるプロジェクトのもと完成した高精度のCGパノラマ写真です。数多くの絵3と文書を一点すっ照らし合わせながら忠実に復元されました。現代と江戸時代との対比をおしみ下さい.」「東京湾の風景・江戸と現代」「第三台場」とその後ろに「レインボーブリッジ」を見る。「お台場海浜公園水上バスのりば」と「レインボーブリッジ」。スタンプをGETした後は、「第三台場」に向かって徒歩で進む。「お台場海浜公園」案内図。㈱フジテレビジョンのビル・FCGビル(エフシージービル)を振り返る。設計は丹下健三・都市・建築研究所が担当し、丹下健三が手掛けた巨大プロジェクトの中で最後に直接指揮をとった建築物。台場地区を象徴するランドマークとなっている。建物は縦横の比率を、ハイビジョンテレビの画面の縦横の比率と同じ16:9となっていると。2棟のビルの間にそびえる球体は直径 32m あり、「はちたま」という愛称。「お台場ランニングコース(4.0km)」案内図。再び「シーリアお台場一番街 1&2号棟」。「おだいばビーチ」を歩く。「第三台場」と「レインボーブリッジ」をズームで。「シーリアお台場一番街 1&2号棟」を見上げる。「第三台場」入口にあった「お台場海浜公園」案内図。海辺にはカルガモが。ズームで。くちばしは黒く、先端部は黄色、脚は橙赤色でよく目立つのであった。再びフジテレビのビルを見る。入口にあった「関東大震災、東京大空襲 犠牲者慰霊碑」。「東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。」「1853年、ペリーで知られる黒船の来航に億えて江戸幕府が品川沖に築いた砲台跡地です。1926年には「品川台場」として国の史跡に指定されました。公園内は青々とした芝生が茂っており、レインポーブリッジを最も近くで見ることができる穴場スポット。春は桜の名所となります。お台場に遊びに来た際には、歴史に触れあえる「台場公園」へぜひ足を運んでみて下さい。」「第三台場」への階段が前方に。階段を上がった場所から「レインボーブリッジ」を見る。「台場公園案内」。「都立台場公園のあらまし台場公園(第三台場)「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永六年(一八五三年)八月に着工、一年三カ月の間に六基が完成しました。現在は大正十五年(一九ニ六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平担なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。」「お台場海浜公園」図。「品川台場」内を見下ろす。水上バスが「お台場海浜公園水上バスのりば」に向かう。水上バス「ヒミコ」と「ホタルナ」は、アニメーターの松本零二氏がデザインを監修。メタリックな素材を用いた宇宙船のようなフォル厶で、今にも空へ飛び立ちそう。台場の南端の土塁上に、「砲台跡」が2基並んでいた。これは往時のものではなく、後世に作られたレプリカのようだ。ここが台場公園として開園したのは昭和3年(1928年)だそうなので、あるいは、そのときに作られたものであろうか?。左に「GRAND NIKKO」、手前に「ヒルトン東京お台場」。品川南埠頭方面を見る。再び「レインボーブリッジ」。眼下に見えたのが「品川台場」の「かまど」。先程スタンプを貰った「お台場海浜公園管理事務所」そして「フジテレビビル」が見えた。右手に「第六台場跡」。「レインボーブリッジ」下の右手に「東京タワー」が見えた。「東京タワー」をカメラで追う。更にズームで。「フジテレビビル」の上空には離陸した飛行機も。「はちたま」をズームして。「第六台場跡」をズームで。再び「THE TOKYO TOWERS MID TOWER」を見る。「品川台場」の土塁内側に降りる。南端角地に「かまど場」と呼ばれる土塁で囲まれた敷地が2区画あったと。「かまど跡」を近くから。平坦部中央には陣屋(兵舎)が置かれていたのだと。長さ45m、幅11m程の木造建ての陣屋であったと。陣屋(兵舎)の柱。南西の土塁内側に3基、南東の土塁内側に2基の弾薬庫が埋め込まれていたと。奥行き1、5m程の石材に囲まれた弾薬庫。そして「おだいばビーチ」に沿った遊歩道を歩き、駐車場に向かう。品川南埠頭方面を見る。そして駐車場に戻り帰路に。「お台場中央交差点」江東区青海1丁目にある「パレットタウン大観覧車」を見る。「東京ゲートブリッジ」を見る。そして「東京港臨海トンネル」に入る。そして暗くなった国道15号、国道1号を往路と同じルートで戻る。そして国道1号沿いの「かつや戸塚原宿店」でこの日も「カツ丼」を楽しんだ後に我が家までSさんに送っていただいたのであった。 ・・・END・・・
2020.11.03
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都内の続日本百名城・お台場に向かうために、東京湾アクアラインを利用することとした。国道297号を利用し北上し、「市原鶴舞IC」から圏央道(首都圏中央連絡自動車道)に入る。圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、日本の首都圏において神奈川県横浜市金沢区から東京都・埼玉県・茨城県を経由して千葉県木更津市に至り、東京都心からおおむね半径40 - 60kmの位置を環状に結ぶ高規格幹線道路(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路))である。2025年には全線が開通予定であると。我が家の近くの「横浜湘南道路」は2024年(令和6年)の開通予定であると。 【https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/index00000036.html】より途中、左手に「高滝湖」にかかる赤いアーチ橋・県道168号線「加茂橋」。千葉県木更津市に入り「真里谷第一トンネル」が前方に。東京湾アクアライン・海ほたるまで25kmの案内標識。「木更津JCT」まで2.1kmの案内板。ここから、それぞれ館山そして千葉方面に分岐しているのだ。交通量も次第に増えて来た。そして「東京湾アクアブリッジ」に入る。東京湾を横断し、神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ、東京湾アクアライン。川崎市側9.5kmは海底トンネル(東京湾アクアトンネル)だが、ここ木更津市側4.4kmは「東京アクアブリッジ」という長大橋で、トンネルと橋が直結される場所が人工島の「海ほたるパーキングエリア」。橋長さ4384m、実はこの橋が日本最長の橋。ネットから上空からの写真を。 【https://www.sankei.com/life/news/171216/lif1712160025-n1.html】より「海ほたる」まで1.2km。10km先の川崎浮島JCT案内板。そして前方に「海ほたる」が姿を現した。「海ほたる」は、トンネルと橋梁との接続を目的に設置された盛土式の人工島で、島の天端幅が100m、長さ方向が650mとなっており、島内には、豪華客船をイメ-ジした、海上に浮かぶ世界にも珍しいパーキングエリアとして休憩施設が設置されている。ここでは、横浜ベイブリッジ、東京タワ-、新宿の超高層ビル群、幕張メッセ等がよく見え、富士山まで望める360度の展望が楽しめるのだ。この日は時間の関係で立ち寄らずに通過。「東京湾を横断し、川崎市から木更津市を車でたった30分でつなげるアクアラインは、平成9年の開通当初、通行料金を「片道4千円」と設定。料金の割高さから利用者が伸び悩み、開通直後の1年間は、交通量が1日平均約1万1千台と、供用開始前の約2万5千台という予測を大きく下回った。なかなか点火しない需要を“爆発”させようと、森田知事が試みたのが、通行料を800円に引き下げることだった。21年の知事選の公約に掲げ、初当選後、満を持して首相官邸に足を運び、麻生太郎首相(当時)に直談判。「できるわけねえだろう」。渋る麻生首相に「できないなら、アクアラインをぶっ壊してくれ」と粘った。その後、親交の深い菅義偉官房長官の口添えもあり、21年8月、社会実験としてETC搭載普通車の通行料800円引き下げが開始。社会実験後も引き下げは続けられたが、森田知事は「実現したときは半分うれしかったが、成果が出なければ大変だと、半分は身が引き締まる思いだった」と振り返る。」とネットから。そして海底トンネルの「東京湾アクアトンネル」へ。川崎側の約9.5kmがトンネル(東京湾アクアトンネル)で、背の高い巨大な船も東京湾内を問題なく通行することができ、また、木更津側はもともと浅瀬であり、橋梁化することで建設コストを安くすることができたのだと。川崎浮島JCT手前の案内板。前方に地上への出口が。首都高速方面に進む。首都高速湾岸線で多摩川下を渡り、湾岸環八料金所を通過。「空港中央」方面に進む。左手に進むと、空港第一ターミナル方面に。東京国際空港(羽田空港)新管制塔が前方に。日本一高い115.7mの新管制塔。赤い羽田スカイアーチ(はねだスカイアーチ)は、東京国際空港(羽田空港)の第一ターミナルと第二ターミナルの間にある橋梁。羽田空港のシンボル的存在。新管制塔を見上げる。「東京湾トンネル」に入る。首都高速湾岸線を降り、臨海副都心方面に進む。「臨海副都心」出口へ。そして「お台場海浜公園」横の駐車場に到着し、「お台場」の散策開始。前方に白亜の「レインボーブリッジ」の勇姿が。「シーリアお台場一番街」緑と水に囲まれた自然豊かな高級マンション「シーリアお台場』。なかでも最もレインポープリッジに近いタワー棟「一番街」の二棟 ・32階建 (地下1階)。正面に勝どきのタワーマンション賃貸「THE TOKYO TOWERS MID TOWER」帆船を思わす独特のデサインが特徴的な大規模ツインタワー。まずは、続日本百名城・「お台場」のスタンプをGETすべく、お台場海浜公園管理事務所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.02
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大多喜城を後にして、「大多喜城駅」を訪ねる事とする。「メキシコ通り」を「大多喜城駅」に向かって進むと「房総の小江戸」と書かれた扁額のある巨大な門を通過。この「大手門」は、昭和57年に建設され、町民から名称募集を行い「大手門」と命名したものとのこと。高さ8.5m、幅9.3m、奥行き6.1mの威風堂々の佇まい。ここが、大多喜城への玄関口。「メキシコ通り」は、今から約400年前に御宿海岸の沖合いで遭難したスペインのフィリピン総督ドン・ロドリゴ一行を時の城主が庇護し帰国させ、その答礼として昭和53年(1978年)に来日したメキシコ大統領が当町を訪問し、これを記念して整備された道であるとのこと。そして「大多喜城駅」前に到着。「房総の小江戸 大多喜絵図」。大多喜駅の駅舎前の「歓迎」の塔。大多喜駅の駅舎。時計台に風見鶏。大多喜駅は、千葉県夷隅郡大多喜町大多喜にある、いすみ鉄道いすみ線の駅である。全ての車両は当駅を拠点に運用される。関東の駅百選に選定されている。駅舎入口横には美しく彫り抜かれた竹灯篭が並んでいた。穴を開けるのにどのくらいの時間がかかったのであろうか?改札口横では本多忠勝像が迎えてくれていた。反対側から。「開運・勝利の神将 本多忠勝像1548~1610、徳川四天王、十六神将の一人、上総大多喜藩 初代藩主生涯五十七度の合戦に出陣し、一度も傷を受けなかった強運の持ち主この像は発泡スチロールで出来ている」と。いすみ鉄道いすみ線の一両編成の列車がホームに入って来た。「本多忠勝」の顔出しパネルがホームに。隣は 正室の於久(おひさ)であろうか。駅名表示板・いすみ鉄道「大多喜」。千葉県夷隅郡大多喜町大多喜264。そして「大多喜駅」を後にして、車で20分ほどの場所にある「曼殊沙華寺」に向かって走る。大多喜城ゴルフクラブの奥の山道を進みトンネルを通過。そして15分強で「曼殊沙華寺」に到着。参道横には「曼殊沙華」・「彼岸花」が。ピークは既に過ぎていたが。参道の入口には青紫色のノアサガオ(野朝顔)と「曼殊沙華」のコラボが。この近くは既にエピローグに。近づいて。赤いトタン屋根の「本堂」。正式名称は「浄宗寺」千葉県夷隅郡大多喜町三条。左の小さな鐘は「呼び戻しの鐘」であると。江戸に出て行った息子が帰ってくるようにと念じながらこの鐘を撞いたところ、息子が帰ってきたと伝えられているとのこと。墓石?周りの「曼殊沙華」。「曼殊沙華寺江戸から来た旅人が、この地(寺)で命を落とした際、住職は旅人の故郷に咲き誇っていた「曼殊沙華」を植え供養しました。住職亡きあとも、住民が球根を植え、年ごとに花は増え、秋のお彼岸になると、寺一帯に曼殊沙華が咲き誇ります。これから曼殊沙華寺と呼ばれるようになったという。」境内の「曼殊沙華」を愛でる。真紅の「曼殊沙華」。別の角度から。曼珠沙華寺の隣りにある「白山神社」。「社殿」の前には朽ちた御神木?が。「八幡社」。「魅惑の口元 願いを叶えてくれた神様 白山神社だいぶ昔のお話しです。この村に若いお嫁さんが嫁いできました。器量良しで働き者で、村一番のお嫁さんと評判でした。しかし、1年もすると「あのお嫁さん、笑顔を一度も見せたことがないねえ。」と皆が不思議に思うようになりました。「子どもができたみたいだよ。」と、村人が話すようになり、そのころから時々神社にお参りに来るお嫁さんの姿を見かけるようになりました。深々と頭を下げ、お祈りが終わるといつも神社の境内をきれいに掃除して帰っていきます。近所の人たちは安産祈願のお参りだろうと別に気にも止めませんでした。やがて女の子が生まれてもなお、お参りは続きました。子どもを背負って落葉を掃き、草をむしり、子どもと一緒に神様にお願いをしていました。子どもが3歳を過ぎたある日のこと、いつものように掃除をして帰りかけた時、近くに住む知り合いの老婆が参詣にきました。一人ではしゃいでいる子どもを見て「おーおー、大きくなったのう。かわいくなったのう。それに歯並びがきれいだこと。」と褒めました。子どもを抱きよせたお嫁さんは、「おばあさん、ありがとう。」と言い、初めて笑顔になりました。そして話してくれました。「私は歯並びが悪いのを子どものころから一人で悩んでいました。人前で大口をあけて笑ったことなど一度もありません。子どもが授かったと分かった時に十人並みの口元にしてほしいと、神様にお願いしてまいりました。毎回お賽銭をあげることもできない私は境内の掃除をしただけですが、それでも神様は私の願いを叶えてくださいました。ありがたいことです。」この話しを聞いた村人は「私たちは今までお嫁さんを誤解していたようだ。すまないことをした。これからは皆で神社の掃除をしよう。」と老婆が音頭をとり、毎月1日と15日に当番を決めて境内の掃除をするようになりました。~おしまい~」「魅惑の口元 歯の神様 白山社」案内板。白山社が歯の神様なのは、昔は歯槽膿漏が多く、口臭から「はくさ」が訛って「はくさん」となり、白山神社が信仰の対象となったのだとネットから。「社殿」。再び「曼殊沙華」を追う。境内の槇の生け垣にはカラスウリの実が。カラスウリはこの実が有名で、花はあまり印象に残らないようです。カラスウリの花は、日が暮れると開花し、朝には閉じてしまう一夜花。真白なレースのような不思議な美しい花を咲かせるのです。カラスウリの名前はカラスが食べるからだと言われていますが、鳥がこの実を食べているところは見ないと。またはカラスウリの葉が大きく生育旺盛なので、絡みついた木を枯らしてしまうことから、枯らす瓜がカラスウリになったという説もあるのだと。墓地の中の「曼殊沙華」。再び「曼殊沙華寺」の」寺号標を。次の目的地の都内・お台場に向かい再び大多喜駅方面に戻る。「大多喜駅入口交差点」角にある四ツ門公園は、城内から数えて4番目の門があった場所。四ツ門公園は平成14年に整備設置されたと。シンボリックなミニチュア櫓が目立ったが、案内版の横には「上総大多喜城 四ツ門跡」と書かれた碑も建っていた。「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマに の幟も風雨に耐えて。千葉県大多喜町では、行政・民間協働にて、戦国の世を駆け抜けた徳川四天王の一人「本多忠勝」とその次男「本多忠朝」の大河ドラマ誘致に取り組んでいるのだが・・・。2017年5月にここ大多喜城を訪ねた際にも、真新しいこの幟があちこちに立っていたのである。あれから3年以上、進展はあるのだろうか?途中、下から「大多喜城」のBEST SPOTを求めて進む。県道172号線で車を止める。ズームで。そして10月16日のテレビ放送画面から。こちらも。この様な写真を撮りたかったが、撮影場所の事前チェックが出来ていなかったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.01
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