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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク村岡城址公園に向けて村岡東二丁目の住宅街を北上する。村岡は起伏が激しく、坂の多い土地だったので「重なり合う岡のむれ」からその地名がついたと伝えられる。約一千年前の940年(天慶3)、村岡城主・村岡五郎良文(平良文)は、平氏の守護神である御霊(ごりょう)神社を京都から勧請したが、ここにこの地の歴史がはじまる。鎮守府将軍相模守村岡五郎平良文の居城の地であった村岡は村岡郷と呼ばれ、当時関東、東北の政治の中心地であった。その後、鎌倉幕府の成立、玉縄開城で武家屋敷が増え、江戸時代には藤沢宿の定助郷(じょうすけごう)を務めるようになる。村岡郷五ヶ村とは、宮前(みやまえ)、小塚(こつか)、弥勒寺(みろくじ)、高谷(たかや)、渡内(わたうち)を指す。宮前の地名は御霊神社によるもの、小塚の地名は古墳があったためといわれ、弥勒寺は寺の名前によるものといわれている。明治21年の町村制施行により、川名(かわな)と柄沢(からさわ)を加えて村岡村となり、昭和16年藤沢市に合併した。一部に水田を主とする農耕地と深い谷戸をもち、山苺、山百合、野草が見られる山林地帯であったが、時の変遷とともに市街化への要望が高まり、昭和41年3月、およそ10年の歳月をかけて区画整理事業がおこなわれたのだと。村岡一丁目と二丁目の境の角にあった「石塔群」。高谷大神宮の左側に位置し、数基の庚申供養塔があった。「村岡御堂」と呼ばれていると。この付近・村岡地区に散在していたものをこの場所に集めたのであろうか。様々な石仏が。弥陀堂は渡内村伝寺持ちであったが、廃仏毀釈により、高谷425に移設され、藤沢市の区画整理により移転したと。右側中央には石仏、太子像であろうか。「石塔群」の左横の狭い階段を上っていくと、ここにも「石塔群」が。青面金剛・三猿・庚申塔などいろいろと。「奉立願帝釈天王」の文字の下に三猿がほられている藤沢市指定文化財の庚申供養塔があった。寛文4年(1664年)の銘も。一番左側の庚申塔がそれ。次に訪ねたのが約100mほど先左手の路地の奥にあった「高谷大神宮」。藤沢市村岡東3丁目379。村岡東という地名はもとはなく、この辺周辺一体は高谷村で、「高谷大神宮」はその鎮守。東側は現在土地区画整理事業が進んでおり、かつての山がすっかり様変わりしてるようだが、ここは、木が生い茂り、急な石段があって、どこか地方の神社に来たかのような雰囲気が残っていたのだ。石鳥居の先に急な石段が。扁額には「大神宮」と。石段を上って行った。この石段は58段。「社殿」天慶三年(940)平良文(村岡五郎)が甥にあたる平将門を討つために京都の御霊神社(祭神は早良親王)から勧請し、後に祭神として鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王を加え五座とした。祭神は天照皇大神、慶安3年(1650年)の創立で、高谷地区の鎮守。「高谷大神宮祭神 天照大御神 創立 慶安三年(一六五〇年)当時高谷部落約十軒の農民が五穀豊穣と郷土の安穏を祈念し建立その後嘉永四年(一八五一年)改築 再度平成二年(一九九〇)年債権を計画平成五年(一九九三年)完成し現在に至る 例祭日は十一月十五日と定められているが農繁期のため九月十五日にかわり その後時代の推移により九月の第二日曜日となっている。」境内社「矢竹稲荷」。 鎌倉権五郎景政が戦いの時に目を射抜かれた矢を個々に埋めたところ枝葉が生えてきたという逸話に因んだ稲荷社。境内には相州村岡七福神の「大黒天」も祀られていた。「大黒天」の横には石の祠が二つ。「社殿」裏からの眺め。そして石段を降りて次に訪ねたのが「曹洞宗 長福寺」。右手に「涅槃堂・位牌堂」。お葬式をはじめ様々な行事に利用できる多目的ホール「涅槃堂」(1階)と、故人の永代供養を行う位牌堂(2階)。「長福寺」寺標。境内の石庭。石庭の中にある墓地への石段の横には「不動明王」。ズームで。この丘は?塚の如くであったが。長福寺の本堂。禅宗らしい、質素で趣のある堂宇。ご本尊は釈迦如来。次に「村岡城址公園」を訪ねた。「村岡歴史の道 ⑨村岡城址」。「村岡城址公園」。村岡城址公園は、村岡地区の中でも小高い丘にあった。公園は二段になっており、西の高台に忠魂碑、村岡城址碑、三日月井跡碑が建てられている。村岡城は平将門の叔父である平良文(村岡五郎)の居城と伝わっています。その後も村岡氏の居城として維持され、新田義貞の鎌倉攻めなどでは戦場となったようですが詳細は不明です。戦国時代は北条氏が玉縄城を守備する「高谷砦」として利用されたと考えられており、北条氏滅亡とともに廃されたようです。現在は「村岡城址公園」として整備されており、遺構はありませんが、城址碑と案内板が建てられていた。「文化財ハイキングコース案内板」。「村岡の歴史と文化財村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生れた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になりました。やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の7ヶ村(柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚、宮前、川名)は藤沢宿の助郷と定められ、街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぶための人や馬を提供することを義務づけられました。明治時代|こなって助郷制度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。現在の村岡地区は、武士が権勢を誇っていた頃の村岡とは地形もかなり変っているようですが、それでもこの地を歩くと、平良文の居城跡といわれる村岡城址をはじめとして、二伝寺境内に伝わる良文の墓、良文が将門の乱鎮定にあたって勧請したと伝えられる御霊神社、渡内村の名主であった福原家の長屋門など、村岡の地に生きたひとびとが遺した多くの歴史的遺産に接することができるはずです。」「忠魂碑」。昭和3年11月10日に日清・日露戦争の戦死者4柱を合祀して建立された。終戦後埋没されていたが、戦後の昭和46年3月大東亜戦争の戦病死者を併せ祀り再建されたと。碑正面:「忠魂碑 陸軍大将一戸兵衛書」裏面:「昭和三年十一月十日建之」「村岡城址」碑。「額 元帥伯爵東郷平八郎書村岡城の地位は古来武相交通の要衝に在り昔従五位下村岡五郎平良文公及びその後裔五代の居城なり蓋しその築城は今を距ること約一千年前に属す良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ多くの荘園を有し威を関東に振るひたり天慶の乱起るに及び藤原秀郷平貞盛と共に将門を征討し大に軍功を立てたり其の後裔に秩父平氏の一族澁谷庄司重國あり其の孫實重は薩州東郷氏の祖なり昭和六年村岡城祉を史蹟として縣廳より指定せらるる同七年村岡村の有志相謀り鎌倉同人會の賛助を得城址に碑を建て以て後昆に傳ふと云爾 海軍中将東郷吉太郎撰書 昭和七年十月三日」城址碑脇の「三日月井跡」。裏面には「ここより東百五十㍍の処に三日月井あり 村岡城内で用水として使われ又村岡城五代城主鎌倉権五郎平影正産湯井としても知られています後世になって近在の人々が眼病を治しにこの井で眼を洗いに多くの人が訪れたようです。」「顕彰碑石井政次郎村長は清廉潔白、意思強固でしかも人格は円満で村民の信望も厚かった。大正三年三月から昭和十六年二月五日、六十歳でなくなられるまでの間多年にわたり村長として村の政を任されておりました。当時、柏尾川が毎年氾濫して村岡耕地の大部分が浸水し、農作物の被害は甚大であった。この点に意を注がれ、県関係者等の協力を得て自ら工事を請負い、村民の協力によって改修され、今日の柏尾川の姿となりました。特に柏尾川の川底は岩盤が多く、それを掘削する工事を宮前の石工、林 藤吉氏(現林石材産業(株)林一郎の祖父)に依頼し、その大部分は奉仕で行われた。又、小学校の増築、校庭の拡張をはじめ村役場の新築、村道の新設改修を行い、今日の村岡地区の基礎をつくられたその功績多大なものがあります。その後、昭和十六年藤沢市と合併し、戦後は企業誘致等により村岡の様相は大変革を遂げていますが、石井政治郎村長の当時の功績をしのび、後世にその偉業を語り伝えるべく碑又建てた次第です。」「蒼穹(そうきゅう)の碑」。裏面には村岡の略歴と土地区画整理組合のことが記されていた。側面には、石は語らず 蒼窮の丘山なみ続く鎌倉の景悠久の天地 幾星霜江戸城に数百年今 村岡城に座す「蒼穹」とは青空、大空のこと。この「蒼穹」の文字を刻んだ石は江戸城から持ってきたのか?公園の遊具は新型コロナ禍の影響で使用禁止になっていた。「村岡ふるさとマップ」。◯が現在地の「村岡城址」。「村岡城址」を後にし進むと左手にあったのが「陸軍砲兵 一等卒勲八等 福原佐太郎之碑」。 明治三十七、八年戰役=日露戦争において亡くなられた方のようだ。村岡三丁目、四丁目の境の道を北上して行った。そして渡内「日枝神社(ひえじんじゃ)」を訪ねた。藤沢市渡内3丁目8−10。村岡東地区から再び渡内地域に戻ったのであった。「村岡歴史の道 ⑪日枝神社」。「8基の石仏・石塔」が階段下に並んでいた。庚申塔、石塔、石仏。天和2年(1682年)と本社覆殿再建前後の頃の文政4年(1821年)から文政10年(1827年)頃の石仏。この中に文政4年(1821)と文政10年(1827)の双体道祖神2基が。(5番目と8番目)左手は青面金剛像で道標を兼ねており 「左かま具ら道 右 観世音道」 と刻まれていた。右手に三猿そして天和二年(一六八二)九月の文字が。「日枝神社の由来渡内の日枝神社は渡内の鎮守となっておりますが、発祥は裏山の台地宮山に平良文が京都より延長年間(九二三〜九四〇)宅の守護神として日吉山王大権現(大山咋命)を勧請したと伝えられています。その後応永二十七年(一四二〇)に福原家のご先祖、福原左衛門平忠次が現在地に移し、そのおり平良文の霊を合祀しました。尚、慶長十二年六月(一六〇七)福原孫十郎重種が再建する旨の棟札があります。社前の石段上り口に神鏡石燈籠があり、「村岡山王大権現御宝前石燈二基、平良文の遠縁村岡良綱、天保六年正月吉日(一八三五)建立」とあります。尚、現在の本社覆殿は、天保九年十一月(一八三八)福原家のご先祖、福原高峯が発願主となり、村の有志達によって再建されたものであります。その後、地域の開発が行われ、渡内東土地区画整理事業(平成十七〜二十一年)によって周辺の環境の変化に伴い、土地の造成工事が行われ、合わせて神殿の増改築を行い、現在に至っております。」福原家は代々名主で、その長屋門が新林公園に移築保存されているのだと。古い祠も並んでいた。「右側の祠(ほこら)は渡内四丁目一番(県道小袋谷・藤沢線沿いの「渡内」バス停北側)辺りにあったもので、平成十年(一九九八)区画整理事業に伴い移設したものです中央の祠は峯渡内村の名主家にあったもので、その位置は現在地より東に七〇メートルほど行ったところです。平成二十年(二〇〇八)区画整理事業に伴い移設したものです。左側の祠は壺井三社大権現で、現在地より北東に一四〇メートル程行った藤沢市本在寺公園の山頂に祀ってあったものです。壺井三社大権現とは、源頼義・義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祭った祠のことをいいます。」渡内日枝神社「社殿」。御祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)村岡良文(むらおかよしふみ) [別名]平良文(たいらのよしふみ)。「稲荷社」。「弁財天」。「弁財天藤沢市の東部に位置する村岡地区(七地区)の歴史をたどると、古事記に縁があると言われます。由緒あるこの地域に平成八年暮れ、村岡郷土史研究会のお導きで、お寺や神社に七福神を祭って「和と幸せをもたらすように」との地域の人たちの願いを込めて、新たに七福神が各地区に設置されました。この渡内日枝神社に設置された弁財天は、インドの河の神「サラスヴァティ-」が起源とされています。この神は世界創造の際、言葉や音楽を作ったとされ、また中国に伝わり、人々に弁財を与え、天災を徐滅させる仏神に変わり、日本に伝わったと言われています。芸能、芸術、文学、学問の才能、金銀財宝授与にご利益があります。弁財天は、仏神として崇敬された女神であります。」常夜灯の如き祠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.30
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「天嶽院」を後にし、県道312号線を南下し、「弥勒寺高架下」交差点を右に曲がり進む。和食「華屋与兵衛」が角にある交差点を左折して進む。右手に美しいアジサイが。白のアジサイも。その先右手にあったのが「藤沢市立村岡中学校」の正門。その先を左折して進むと正面に目的の寺の山門の姿が見えて来た。「法善寺」山門。藤沢市弥勒寺2丁目4−24。「法善寺」寺標。日蓮宗の寺院。扁額は山号の「蓮教山」。「本堂」。北条時宗が開基し文永2年(1265年)に創建した。もとは、永谷山法泉寺という寺院であった。創建頃の宗旨は不明。永正5年(1508年)日勤が日蓮宗に改宗した。再び廃寺となっていたが、明暦3年(1657年)日善が再興したと。本堂の扁額は「法善寺」。境内を囲む山の裾には石窟が穿たれたやぐら内に「法善寺」代々の住職の墓石が並んでいた。近寄って。その横のやぐらにも墓石、石仏群が。「藤沢 樹木葬墓地」の案内板。樹木葬とは、墓石の代わりに樹木をシンボルとするお墓のこと。桜や紅葉、ハナミズキなどのシンボルツリーの周りに遺骨が埋葬されるのだと。そして「法善寺」を後にし、住宅街をしばらく南下していくと左手にあったのが「むらおか幼稚園」。その先に、東海道線を超えていく県道312号線の高架が姿を現した。高架上の歩道からこの場所に降りる階段歩道橋。そして進むと、左手にあったのが「弥勒寺」山門。山門より「弥勒寺」境内を見る。境内の梅の木には完熟の梅の実がたわわに。そして地面にも多くの梅の実が落ちて。右手に「芭蕉」の木?が。バショウの雄花。「弥勒寺」の「本堂」。藤沢市弥勒寺519番地。日蓮宗の寺院。嘉禄2年(1226年)北条泰時が開基し創建した。 正和4年(1315年)火災で焼失し、日善が弥勒如来を祀る弥勒堂を建てた。 天正元年(1573年)日祐が再興、日蓮宗に改宗したと。扁額は「弥勒寺」。別の株の雄花。「本堂」裏のやぐらにも小さな石仏が。そして再び高架に沿って北上して行くと右手にあったのが「荒神神社」。建武二年(1335年)に小塚五左衛門さんという人が創建、一族の守護神としそれ以来小塚地区の鎮守となったそうです。「荒神社」と書かれた扁額。境内には相州村岡七福神の布袋様が。裏から境内に入ったようで、こちらが参道入口の「荒神神社」の石鳥居。関東大震災の紀念碑。村岡歴史の道⑯「荒神神社」。そして小塚交差点を右折し進むと前方にあったのが高谷交差点。高谷交差点を左折すると、右手、ガスト 藤沢弥勒寺店の駐車場入口にあったのが「庚申供養塔」。「市指定重要文化財(有形民族文化財)寛文四年(一六六四)庚申供養塔庚申信仰についてこれは十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無痛・息災・長寿を願う信仰です。この源流は、人の体内にあって、人命にわざわいをおよぼす「三尸(さんし)」という虫の害をふせいで、長寿を願う道教の信仰にはじまっています。江戸時代、万治・寛文頃(一六五八〜一六七二年)には仏教を背景に広く庶民に伝わり「庚申講」ができ、庚申の夜、当番の家に集って飲食歓談したり、供養塔を建てるなどの行事が盛んになりました。現在、市内には三百数十基の庚申供養塔が確認されていますが、このうちの十五基が藤沢市の重要文化財に指定されています。この近世庶民の素朴な祈願・信仰の遺産である庚申塔をともども大切に保護し後世に伝えてゆきたいものです。」後ろに回ったが、文字等は確認できなかった。「昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高97.0㎝、火成岩製/銘文から、寛文4年(1664)村岡の講中12名による造立とわかります。下方を基礎様に造り出して全体的な安定感を工夫し、塔身中央に帝釈天造立の発願文と年記を刻んでいます。日蓮宗系の庚申供養塔は、この塔のように帝釈天の尊号を標識とした例も少なくありません。帝釈天と青面金剛との結合は、青面金剛が帝釈天の使者として仮の姿をとって現れるという考え方によるものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク続いてスイレン(睡蓮)の部屋に。スイレン配置図。花の咲いている株のみカメラに。夜ざきのスイレン・「アンテレス」👈リンク。これも夜咲きの「レッドフレア」👈リンク。小さな滝が池のほぼ中央に。その手前にあったのが「クリント ブライアント」👈リンク。ズームで。「ドーベン」👈リンク。ズームで。「スター オブ サイアム」👈リンク。スイレンの池を振り返る。「ハイビスカス ハワイアンタイプ 「白の貴婦人」👈リンク」。「マンデビラ」👈リンク。ズームで。そして屋外に出て「サンゴシトウ」(珊瑚刺桐)👈リンク を。「サジオモダカ」👈リンク。グリーンハウスの外にも蓮の花が出番を待っていた。そして訪ねなかった部屋には「パパイア」👈リンク も。和風庭園「吹合の庭」も訪ねた。管理棟の横にあった和風庭園「吹合の庭」。小さいながらも池泉回遊式庭園となっていて、池の周囲を散策することができた。周りには松の木や和風の植物が植えられ、洋風のフラワーセンターにもかかわらず、しっかりした趣旨が垣間見えるエリア。「和風庭園 「吹合の庭」について日本の庭園は、樹木と水と石組みが本来の構成要素です。この庭は、池を中心とした小さな回遊式庭園で、本館に近い東半分は、井泉、遣水、洲浜、反橋など平安朝の要素を、また西半分は石橋、灯寵、池を渡る飛石など江戸風の要素を組合せて作られており、「吹合の庭」と名づけられました。植込まれた樹木は、当園手持ちの範囲で植栽され、四季おりおりの花が鑑賞出来るなど、年月の積み重ねで趣きが育まれております。」「管理棟」前の「コリウス」👈リンク も。「タチアオイ(立葵)」👈リンク 。「ホタルブクロ」に似た白き花。「アーティチョーク」👈リンク の紫の花。可憐な「ムラサキツユクサ」👈リンク 。そして花の苗の販売所を覗いた後に帰路についたのであった。。 ・・・END・・・
2020.06.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク温室への道には、朝顔&夕顔のトンネルが造られており、定植後の蔓の養生中であった。そして温室の入り口右にあった花。「チョウキンレン(地湧金蓮)」👈リンク の花。正式名はラシオカルパといい、バショウ科のバナナの一種。一度開花したら約100日は咲き続けると。「チョウキンレン中国雲南省に分布する植物で、バナナに近い仲間です。黄色の花びらのように見えるのは苞葉で、本当の花はその内側にあります。「地面から湧いてきた金色の蓮」という意味で、「地湧金蓮(元は中国名)」と呼ばれています。」アメリカデイゴの品種の一つである「マルバデイゴ」。「マルバデイゴ」👈リンク。鮮やかな紅色をした蝶形の花をつけていた。葉も同じ場所から3枚、いや1枚の葉が3つの小さな葉に分かれた形で、互い違いに生えているのだと(互生)。「グリーンハウス」 開花MAP。そして温室に入ると「モンテスラ」👈リンクが実を付けて迎えてくれた。「コチョウラン(胡蝶蘭)」👈リンク。「オンシジューム」👈リンク。「ハイビスカス室入口」。「ハイビスカス室この部屋には’ハイビスカスを中心にその.仲間やブーケ’ンビレアなどを植えました。面積245.2m2、最低室温 15℃」ハイビスカス「ブリリアント」👈リンク。情熱的な真紅の花。「ブーゲンビリア」👈リンク。ピンク、オレンジの「ブーゲンビリア」。前方に濃いピンクの「ブーゲンビリア」。「ブーゲンビリア」は、鮮やかで豊富な花色が特徴ですが、じつはこの色づいた花びらに見える部分は花を取り巻く葉で、苞(ほう)という。実際の花は、苞の中央にある小さな白い部分。こちらは黄色の「ブーゲンビリア」。「デュランタ 宝塚」👈リンク。「ルエリア スクアローサ」👈リンク。「ヒメアリアケカズラ」👈リンク。「ルリマツリ」👈リンク。「ミツバチについて知ろう」のコーナーが展示中であった。私は素人養蜂家なのである。見慣れた「セイヨウミツバチの巣箱」。ミツバチの家となる木箱の箱。この中でミツバチは暮らしています。巣箱の中には8~10枚の巣枠が入っており働きバチの数によって2段、3段へとジョイントすることもできます。」「ミツバチの種類ミツバチの家族構咸ミツバチは単独では生きられない生物で、コロニー(巣単位で数えるミツバチの群れ)を作って集団で生活をしています。ミツバチの巣には、一匹の女王バチと何万匹の働きバチ、そして数百匹から数千匹の雄バチがいます。【女王パチ】性別: メス 体長:18mm程度 寿命:2~4年【働きバチ】性別:メス 体長:13mm程度 寿命:40日程度【雄バチ 】性別:オス 体長:16mm程度 寿命:40日程度●女王バチ 1群に1匹にしかいない女王パチは、ほかのミツバチより体が大きく。寿命が長いです。 女王バチの役割としては卵を産むことです。春に誕生する女王バチは羽化後1週間すると 外に出て、空中でたくさんの雄バチと交尾をし、そのあとは寝るときや休んでいるとき以外は 巣の中を1日中歩きまわって卵を産み続けます。毎日約1000~1500個ほど産卵します。 女王バチは雄バチと働きバチの卵を産み分けることもできます。●働きバチ 巣を構成する多くは働きバチです(巣の9割は働きバチ)。有精卵から生まれた働きバチは すべてメスです。メスといっても働きバチは卵を産みません。毎日たくさんの働きバチの卵が 女王バチによって産み付けられているため、巣には常に何万匹の働きバチがいて、せっせと 暮らしのためにひつような仕事のほとんどを行っています。●雄バチ 無精卵から生まれてくる雄バチの役創としては、繁殖のみの目的で存在し、4月~6月の 繁殖期に羽化したばかりほとんど仕事をせずに、働きバチからエサをもらって巣の中で 暮らしています。 交尾の季節が終わると雄バチはエサをもらえなくなり、巣から追い山され死んでしまいます。「ミツバチとは地球上の生き物の半数以上を占める昆虫は、100万種類ともいわれています、この昆虫のなかで、ハチは4番目に多くの種類で、ハチの仲問は世界に約13万種類、日本では約5000種が記録されています。ハチは分類学上、膜翅類(まくしるい)に属しています。ミツバチはこのハチの仲間です。ミツバチの種類ミツバチはハチ(膜翅類)・ミツバチ科(Apidae)、ミツバチ属(Apis)に属する昆虫の一群で花の蜜を巣に蓄え、はちみつとすることで知られています。独立種として詔められているミツバチは世界にわずか9種類しかいません(マルハナバチが500種類)。日本にいるミツバチの主な種類はセイヨウミツバチとトウヨウミツバチ(ニホンミツバチ)はその1亜種)2種です。日本で見ることができるミツバチセイヨウミツバチは人間が養蜂に利用するために家畜化したものです。日本にいるセイヨウミツバチは主にイタリアン種という品種で体は茶褐色、腹部には縞模様があり、上部はオレンジ色をしています。ニホンミツバチはトウヨウミツバチの亜種で、本州から九州に分布するミツバチです。体表や足に憂い毛があり、暗い茶褐色で腹郎全体が黒っぽく自い綿模様をしています。閉鎖的な場所に巣を作ります。」天敵の「キイロスズメバチの巣」。養蜂で使用する主な道具キイロスズメバチ、オオスズメバチの「駆蜂器」。養蜂具。面布、ゴム手袋ミツバチから顔を守るため、つばつきの帽子に細かい網をかぶせて守ります。作業時は厚手のゴム手袋を使用します。パイプツール先端がカギ状になっており、内検時にプロポリスで固まった巣枠を動かすために使用します。燻煙器。作業をするときに、麻袋などを本体に入れ燃やし、空気を送り込んで、煙を出し、ミツバチをおとなしくさせる道具。「養蜂とは」。 「養蜂」とはミツバチを飼育することをいいます。養蜂家は「養蜂」を仕事としていることを「養蜂業」といいます。ミツバチを飼育し、はちみつを収集することが主な仕事です。ミツバチの巣からは、はちみつのほかに花粉、ミツロウ、プロポリス、ローヤルゼリーなどが採取することができます。日本にいるミツバチは、セイヨウミツバチとニホンミツバチの2種類といれていますが、はちみつを採取するために養蜂で使用されるミツバチはセイヨウミツバチが一般的です。養蜂に適している場所 ・蜜源植物・花粉源植物が豊富にある場所 ・夏の暑さをしのげる木陰、冬の北風を防げる場所 ・乾燥した土地(湿気はミツバチが病気になりやすい) ・南向きに地形が広がっている場所 以上の場所以外でもしっかりと対策をすれば、自宅の庭や 屋上などでも飼育は可能です。遠心分離機。蜜をとるときには、蜂ブラシで巣枠についたミツバチを払い落し、ナイフで蜜ブタを切り落とします。巣枠を遠心分離に入れ、回転させると、巣にたまったはちみつが絞り出せます。「働きバチの仕事」働きバチは分業制?ミツバチは人間社会と同じように仕事を分業して社会生活をする昆虫です。ミツバチの仕事のほとんどは、働きバチが受け持っており、働きバチの成長によって仕事内容が変化していきます。■成長によって変わる働きバチの仕事 若いハチ 巣の掃除担当 育児期 幼虫へのエサやり 巣部屋のふたがけ 巣部屋のふたの撤去 女王の世話 内役期 毛づくろい 成虫へのエサやり 換気行動 巣板づくり 花粉の受け取り 花粉の突き固め 花蜜の貯蔵 外役期 花蜜や花粉を集める働きバチのさまざまな仕事羽化して成虫になった働きバチは巣の中の仕事から始まります。幼虫の世話や巣づくり、女王蜂の世話など、24時間体制の交代制で行います。成長につれ、外勤の仕事へと移り、日中に(夜はじっとしている)お花の蜜や花粉を集めるようになります。春から秋のミツバチの平均寿命は40日程ですが、仕事の少ない冬の期間は巣の中で冬越しをしているため、寿命は約五か月と長くなります。スプーン一杯のはちみつ成虫になって20日以上たったミツバチは外へと出て、花のミツを集めるようになります。春にはさまざまなお花が咲き乱れていますが、ミツバチは決まった1種類の花だけに訪れます。これは知り尽くしたお花の方が効率的にたくさんのミツを集めることができるためです。1回30分ほどで40mgほどを集めます。(1日に10~15回ほどミツを運びます)外で花のミツを運んでいるミツは市販されているはちみつとはこの段階では言えません。ミツを運んできたハチは巣でまっているハチにミツをわたし、渡されたハチは息をすったり、吐いたりすることで、ミツを空気と触れさせることで水分をとばし、高濃度(糖度80‰)のミツをつくります。ミツを体から何度も出し入れすることにより、ミツの性質が変わり、はちみっが完成します。外に出て仕事をするようになったミツバチの寿命は20日程。毎日たくさんの花を訪れてミツを集めますが、1匹のミツバチが集めろことがつくることができるはちみっはスプーン1杯ほどです。「蜜源植物」。なぜ花はなぜミツをだすのか?植物が種子をつくって子孫を残すためには雄しべから雌しべに花粉を運ぶ必要があります。植物は動くことができないため、植物は虫や鳥などに花粉を運んでもらおうと考えたのです。植物が鳥や昆虫をおびきよせる戦略の一つとして、植物はミツを出します。ミツバチの好きな花の色植物がミツバチをおびきよぜる方法の一つとして「花に色をつけること」があります。花は色を使って、昆虫や鳥にこの色の花にミツがあるということを示しています。ミツバチは赤色が認識できないため、黄色や白色に集まりやすい。アゲハ蝶は赤が認識できるため赤い花に集まりやすい。蜜源植物とは蜜源植物とは、花蜜を分泌する植物(草花や樹木)のことを言います。ミツバチが飼育されている地域によって大きく異なりますが、ミツバチが訪れる可能性がある花は12万種類もあると推測されています。主な蜜源植物日本の蜜源植物は500種類以上あるといわれ、代表的な植物はアブラナ、レングソウ、ミカン、二セアカシア、トチノキ、ハギ、クリ、ソバなどがあります。ミツバチは花の開花を追って日本中を旅しています。春 ウメ、ニセアカシア、ツバキ、タンポポ、ミカン、サクラ、アブラナ、レンゲ、など夏 カキ、クロガネモチ、ソバ、ヒマワリ、トチ、クリ、など秋 コスモス、クズ、ハギ、など冬 ビワ、など振り返って。「ほこばヤトロファ」👈リンク。「コエビソウ(小海老草)」👈リンク。壁沿いに「シクンシ」。「シクンシ」👈リンク。「アマランダ ヴィオラケア」👈リンク。「ペトレア ウォルビリス」👈リンク。「ソラヌム シーフォーシアヌム」👈リンク。「バナナの木」「バナナの花」👈リンク。上部には、バナナがたわわに。「サンタンカ」👈リンク。「トランペットフラワー」👈リンク。「ソラヌム ウエンドランディー」を見上げて。「ソラヌム ウエンドランディー」👈リンク。「きふげっとう」の株。「きふげっとう」👈リンク の花。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンクバラ園を後にして、次に「ハナショウブ園」に向かう。左手にはグラジオラスが。こちらも既に終わっている場所も。「野川の辺り」👈リンク。「朝日の峰」👈リンク。「深山紫(みやまむらさき)」👈リンク。「五大州」👈リンク。「新生の輝」👈リンク。株がない場所が。「松の雪」👈リンク。「夢の羽衣」👈リンク。「千代の春」もエピローグへ。「千代の春」👈リンク。「紅公子(べにこうし)」👈リンク。「五月晴」👈リンク。「水精の玉」👈リンク。「藤壺」👈リンク。「神楽岡(かぐらおか)」👈リンク。「草の庵(くさのいおり)」の株。「草の庵(くさのいおり)」👈リンク。「丹頂」👈リンク。「春の名残」👈リンク。園児も久しぶりの散策か?「ハナショウブ・ショウブ・アヤメの違い」・ハナショウブ:花びらの根元に細長い形の黄色い模様がある。ショウブ:葉にツヤがあり、匂いが強い。アヤメ:花びらの根元に網目模様がある。「キキョウ」。オレンジの「スカシユリ(透百合)」。黄色とのコラボ。黄色の「スカシユリ(透百合)」。「センニチコウ(千日紅)」。そして「グリーンハウス(温室)」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク蓮の花を楽しんだ後は、次にピクニックグラウンド内を歩く。グラウンドの中央には、枝先に20-30cmの穂状の花が直立し、白色の雄しべが目立つ筒状の花を多数つけた大きな塊の植物を発見。しかし案内板の姿は隠れてしまっているのか見つからず。ネットでいろいろと検索ワードを入れて調べてみると辿り着いたのが「アエスクルス・パルビフローラ(Aesculus parviflora)」。何故にこんな舌を噛みそうな名前が付いているのか?花図鑑のサイトには、属名の Aesculus はラテン語の「aescare(食う)」からきていると。実を食用にしたり家畜の飼料にしたりすることから名づけられた。種小名の parviflora は「小さな花の」という意味であるとのこと。和名は???。北アメリカ南東部原産の低木性で小形のトチノキの一種のようだ。株立ち状の樹形になると、よってひと塊に見えたのであった。糸状に飛び出しているピンクの部分が雄しべのようだ。そして次に「バラ園」を訪ねた。既に花のピークは終わっていたが、まだまだ花が残っていた。バラ園には、1本1本花の名前の書かれた札が。それぞれのバラの花の更に詳しい内容に興味のある方は「👈リンク」にアクセス願います。「タイムレス’98(Timeless’ 98)」👈リンク。「インカ」👈リンク。「ジャンダン ドゥ フランス」👈リンク。「金蓮歩」👈リンク。「モリニュー」👈リンク。「センティッドエアー」👈リンク。「サラバンド」👈リンク。「カナリー」👈リンク。「ローラ」👈リンク。花の数はかなり少なくチョット寂しかったが。「マリア・カラス」👈リンク。世界で賞賛された偉大なオペラ歌手「マリア・カラス」の名を冠する名花。「宴(Utage)」👈リンク。「ラブ(Love)」👈リンク。「カトリーヌ ドゥヌーブ」の株。「カトリーヌ ドゥヌーブ」👈リンク。「ダブル デライト」の株。近づいて。「ダブル デライト」👈リンク。「夢」👈リンク。「オクラホマ」👈リンク。「希望」👈リンク。「サン フレーア」👈リンク。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鵠沼の蓮池の蓮の花を愛でた後は、車を「日比谷花壇大船フラワーセンター」に走らせました。「神奈川県立フラワーセンター大船植物園」は、名称を「神奈川県立大船フラワーセンター」に改め、また、ネーミングライツ制度を導入し「日比谷花壇大船フラワーセンター」の愛称で平成30年(2018年)4月1日にリニューアルオープンしたのです。新型コロナ感染拡大のため緊急事態措置により臨時休館していたが、令和2年6月9日(火)より開園したことを、当日にフラワーセンターの前を「歴史散歩」で通過した折に知ったのでした。「日比谷花壇大船フラワーセンター」は神奈川県鎌倉市岡本1018の柏尾川沿いにある総面積63,900平方メートルの植物園。JR大船駅から徒歩で15分前後の場所。1967年(昭和42年)に神奈川県農業試験場の跡地に開設された植物園なのである。「お知らせ 大船フラワーセンター 利用再開について」。令和2年6月9日(火)より開園いたします と。9:00からの開園を待つ。9時前に待っていたのは私を含めて5名。入園料は65才以上の400円➡150円の割引。体温検査、手の消毒後にマスクを着用して入園。「大船フラワーセンター案内図」。ズームで。「園内開花情報」。入園後、左側にあったのが花時計であったが停止中であった。噴水のある「スイレン池」。まずはスイレン(睡蓮)の花を楽しむ。この「睡蓮」ですが、決して「水蓮」ではないのです。この「睡蓮」にもちゃんと名前の由来があって、花は開いて閉じてを3回繰り返すのだと。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)夜(閉じる=眠る)というところから、「睡眠する蓮」→「睡蓮」なのだと。なるほど納得なのだが、「蓮」も開いて閉じては同じはず。濃いピンクのスイレン(睡蓮)。睡蓮も蓮も葉は円形。でもよく見るとちょっとちがうのです。睡蓮は基本的に葉に切り込みが入っていますが、蓮には入っていないのです。そして花の違いは簡単なのだと。水面に咲くのが睡蓮(熱帯産スイレンは水面から突き出る)。水面より上の方で咲くのが蓮なのだと。よってこの写真の睡蓮は熱帯性スイレンなのでしょうか。純白の睡蓮が仲良く寄り添って。睡蓮の花の上に、トンボが留っていた。白の睡蓮の花が多い。葉の上の水玉も静かに。こちらも負けじと寄り添う。スイレン池から「日比谷花壇大船フラワーセンター」の入口そして管理棟を振り返る。スイレン池の横には「やまあじさい(プレシオーサ)」。カシワバアジサイ。カシワバアジサイ・スノーフレークは、横に広がるタイプのカシワバアジサイ。そしてスイレン池の横の散策道を歩く。右手には蓮田があるが、ここの蓮の花は未だほとんどなし。開花するのは後1ヶ月程度先なのであろう。葉の下に隠れていた花を発見。 『金槐和歌集』 源実朝 「小夜ふけて 蓮の浮葉の 露のうへに 玉とみるまで やどる月影」夜がふけて、蓮の浮葉の露の上に玉のように月影が宿っている。どくだみ科の植物『半化粧』花の時期にだんだん葉が白くなり、このようになっていきます。虫を誘う為だと言われていますが諸説あるそうです。花が咲き終わって夏の盛りのころになると、白い葉の部分は色落ちしてだんだん普通の緑になっていきます。アガパンサス。さわやかな涼感のある花を多数咲かせ、立ち姿が優雅で美しい。玉縄桜広場には鉢植えの様々な色、種類の蓮の花が開花を始めていた。蓮の花をカメラで追う。品種等の表示板は付いていなかった。大賀ハスであろうか。蓮の花の種類をネットから。世界に自生しているハスの花は、アジア周辺のヌシフェラ種(Nelumbo nucifera)と、アメリカ周辺のルテア種(N. lutea)という2種類のみとのこと。前者は花の色がピンク、後者は花の色が黄色。この2種類が交雑されることで、さまざまなハスの花の品種が作り出されて来た。日本には中国から渡来し、江戸時代には100を超える品種があったようだ。しかし、現存するのは20種くらいだと。 【https://www.umaka-yamaga.com/portal/wpcontent/uploads/%E8%93%AE%E4%B8%80%E8%A6%A71.jpg】八重の花。こちらも。こちらは見事な八重。これから、更に花の数が増えて来るのであろう。ハスの花の構造はユニークなのです。中央の台座のような部分は花托と呼ばれ、その上に等間隔に並んでいるリベット状のものが「雌しべ」。花托の周囲を囲んでいる多数の「雄しべ」は「雌しべ」に届かない構造になっており、これで自家受粉を防いでいるのです。花が終わると「雌しべ」の周りが凹み、その中で子房が成長し、あの蓮の実になるのです。ハスの名は、成熟して種子が抜け落ちた状態が蜂の巣に似ていることから、「蜂巣」が変化したものとされていると以前に知ったのです。 ・・・つづく・・・
2020.06.24
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今年も市内鵠沼(くげぬま)にある蓮池を6月16日の早朝に車で訪ねました。7月の誕生花、幸福の花とも呼ばれる蓮の花、そして私の誕生日も来月。自宅から車で約20分で第一蓮池に到着。鵠沼の地名の由来は、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたと言われているのです。 鵠の文字の左は「告」では無く「牛+口」であることを以前知ったのです。鵠沼藤が谷のここ第1蓮池の蓮は、「舞妃蓮(マイヒレン)」という種類。舞妃蓮は、昭和41年に御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮とのこと。花色は初日は淡い黄色で、全体に淡い紅色が乗り、赤、黄とも日を追うごとに退色していき、二日目以降、淡い黄色の爪紅状になります。屈光性のため、花弁がやや捩れる傾向があり、風に舞うように見える事から舞妃蓮の名が付いたと言われています。ピンクの蕾。蕾の先端がほんのり紅く、開花して1日目はピンク、2日目3日目は黄色に変化すると。やや開花を始め、蕾も緩やかに。花片下部は薄い黄色に。色の移り変わりが解る。花片上部は薄いピンクに。蓮の花、花心部分が濃い黄色の姿が。この日が舞妃蓮の花見のピークか。多くのカメラマンが立派なカメラを持って。蓮の花を写しに来たのではなく、蓮池に来る「カワセミ(翡翠)」が目的。そして5分ほど待っていると一羽が小魚?を咥えて。一斉にシャッターの音が、そしてその音に驚いたかアッという間に姿を消してしまったのであった。淡いピンクの開きかけた蕾が勢揃い。こちらにも。こちらはピンクに染まって。ハスの花の鑑賞にあたってのお願い~新型コロナウィルス感染拡大防止と迷惑防止の観点から~★混雑と感染予納・・・マスク着用 そしてブログ、ホームページ等を通じての拡散防止!!と ラジオ、テレビ、雑誌の取材は控えてほしい★近隣対策・・・最寄りの駐車場の利用 三脚撮影禁止 大声、複数での会話禁止 ゴミの持ち帰り、喫煙禁止、水鳥への給餌の禁止白からピンクではなく、ピンクから白へ。蓮の葉の上の水玉。そして、車で第2蓮池の誠蓮(まことはす)を訪ねる。バードウォチングの人の姿もなく、蓮池を一人占めであったが、まだここの誠蓮は小さな蕾がポツポツと。葦の中にいたのが「アオサギ」。「誠蓮」の蕾を見つけて。鵠沼は「ゆっくりを見守る心」をつくる街。そして帰路での江ノ電の踏切にて。
2020.06.23
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク県道312号線沿いにある「天嶽院」手前の林の中に鎮座する「秋葉三尺坊大権現」に向かう。「天嶽院」の手前の鐘楼方面への坂道を進んで行くと左手に墓地への階段を上り、墓地の左手奥に進むと山道の如き道があり、山頂に向かって進むことが出来た。山頂に鎮座する「秋葉三尺坊大権現」。最近建て直したようであった。秋葉大権現は火の神様として敬われ、「火防守護」その他七難を除き、除災開運、家内安全、授福繁栄の神様でもある。「秋葉三尺坊大権現」の反対側、墓地の先にも小さな神社が。「秋葉三尺坊大権現」から戻ると天嶽院の「六地蔵尊」が。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいた。左から、いきいき地蔵・すくすく地蔵・にこにこ地蔵・ふくふく地蔵らくらく地蔵・ほかほか地蔵 と名前が刻まれていた。「温顔和楽」と刻まれた石碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。「天嶽院(てんがくいん)」配置案内図。天嶽院は藤沢市にある曹洞宗の寺院。山号は功徳山。「天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。 この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。 安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。」と「天嶽院」HPから。藤沢市藤沢市渡内1-1-1。 【パンフレット】より鐘楼への道の左手のこの石碑は??「継末生流之碑」ではないかと、くずし字に詳しい「先生」から。「出家◯真如」?先ほど、高校時代の友人から「幽鳥弄真如」である旨のLINE書き込みが。そして「古松談般若(こしょうはんにゃをだんず) 幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょを ろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。「鐘楼堂」。「庫裡」。「早雲閣」。「六地蔵尊」。「とっても とっても生える雑草 どっちも根気だ 負けないぞ」は我が農園作業も同じ。再び「鐘楼閣」。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある。緑のモミジ葉に覆われた「手水場」。「法堂」への参道。「不動尊」。近づいて。「不動殿」。「不動殿 内陣」。青の「不動明王」。「相生松(あいおいのまつ)」。相生松とは、雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。また、黒松と赤松が1つの根から生え出た松のこと。「浄聖殿」が右手前方に。道元禅師の代表的な歌。「峰の色 渓の響きも皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」という御歌。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿であると。「浄聖殿」。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。 【パンフレット】より「中雀門」。「中雀門」からの「法堂」。「法堂」 【パンフレット】より「法堂内陣」。 【パンフレット】より 「庫裡」。「掃除小僧」。「庫裡」玄関。「開山堂」。 【パンフレット】より「葛籠ヶ池と鶴夢楼」。 【パンフレット】より「中雀門」から参道を見る。趣のある見事な参道を「山門」に向かって歩く。深緑のトンネルと切石敷の参道。石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のように美しかった。藤沢にも京都の如き雰囲気が。木漏れ日が参道に射し込み。新緑のもみじの下で青々とした苔が美しかったのであった。陽光が苔を輝かせる。山門から境内の参道を見る。山門前から、仁王像の後ろ姿を。江戸中期建立の切妻造茅葺の「山門」は2段になって、瓦葺の袖塀を設けていた。水戸光圀公建立の天嶽院山門、江戸中期の建物で唯一火災を免れた「山門」。「山門」前には阿形吽形の「仁王像」が露座し、仏敵の侵入を防いでいるのであった。石造りの阿行像。ズームで。吽行像。ズームで。「天嶽院」寺標。「見直し 手直し やり直し 思い直して 根気よく」。この我がブログも同じくありたい。山門右脇の高台に「聖観音」。ズームで。既に赤いモミジが美しかった。「聖観音」前から「山門」を見る。境内を出て山門を振り返る。この門柱に書かれている文字も、我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「百花至佛境 流水識禅心」ではないかと。心強い我がブログの「校閲」支援者が増えたのです。丘を登ると「湘南霊園」が広がっているとのことで上っていった。新しく整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。優しそうなお顔。「◯地蔵」と。村岡の街並み。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.22
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク村岡消防出張所前交差点を進むと左手高台にあったのが「慈眼寺(じげんじ)」。「慈眼寺」参道階段下。「曹洞宗 慈眼寺」寺標。入口の「不動明王像」。参道の石段の上には「山門」が。階段下の像。小地蔵に迎えられて慈眼寺の参道脇の狭い石段を上る。可愛らしいお地蔵様たちが次々と。家に持ち帰りたいほどに可愛いのであった。そして「山門」前に。「山門」前の右手にあったのが「平 氏満の墓」。武士の様な名前だが、藤沢の旅籠の隠居で、千種集という和歌集を編み遊行上人に献上した人物。石塔には 「平氏満之墓」 とだけ刻まれていた。「平 氏満の墓坂戸町(現在の藤沢本町)の旅龍小松屋の隠居。歌名を旦上平氏満という。詩歌を好み、『我棲里』の著者でもある小川泰堂とも親交があり、嘉永元年(一八四八)の『藤沢山日鑑』(遊行寺の日記)には、『千種集』と題した千句の和歌を遊行上人に献上したことが記されている。『千種集』は天地二巻よりなり、遊行上人の返し歌も記されており現在も遊行寺什宝として宝物館に所蔵されている。没後は、海の見える場所に埋葬してほしいとのことから慈眼寺の高台の一隅に墓を設けたものであったが、昭和六二年(一九八七)からの区画整理により、この場所に移動したものである。」 その横にあったのは歌碑であろうか?慈眼寺「山門」。扁額「無量山」。山門柱左右に龍の彫り物。ズームで。混生樹(寄り木)。場所を変えて。藤沢市指定文化財(天然記念物)混生樹(寄り木)右が指定文化財で、モチノキ(モチノキ科)4株、タブノキ(クスノキ科)3株、スダジイ(ブナ科、シイノキのうち樹皮が縦に割れるもの)1株の三種類8株が根元でくっついて一部融合した寄り木です。樹齢は300年以上と推定され、高さは約10メートル、全体の根回りは7・5メートルにもなっている大変珍しい樹木です。左も同様にケヤキとサクラの混生樹で、輪状に植えられた苗木が成長していく過程でこのような形になったものと思われます。共にもとは本堂裏手の丘の上にありました。」根元にはこのような「願掛供養」碑が。慈眼寺「本堂」。向拝の彫刻も見事。見事な向拝の彫刻。本堂扁額「慈眼寺」。「本堂」の右手に小さな(といっても高さ1m)の「梵鐘」(右)が吊るされていたが、これは上州藤岡の住人が鋳造し江島寺(廃寺)に寄進したもの。明和8年(1771)、藤沢宿の住人がこれを買い受け慈眼寺に寄進したのだそうだ。「藤沢市指定重要文化財 十一面観音立像 平成元年十ニ月十五日指定 旧江島寺梵鐘 平成十年二月十二日指定曹洞宗・無量山慈眼寺は、天文二年(一五三三)の頃、玉縄三代城主北条左衛門大夫綱成が開創し、中興開山は韓嶺和尚と伝えらる。本尊の十一面観音立像(一七八・五㎝)は、寄木造で玉眼(水晶)をはめ込み、頭・体とも四材矧ぎ(板材を接ぎ合わす)を基本に造られている。太づくりな肉取りをみせる量感のある体部や、よく引き締まった面相など鎌倉地方の中世像らしい作風から、十三世紀後半の造立とされる。十二年に一度、申年に開帳される秘仏である。平成三年(一九九一)に解体修復が行われた際に、像内より紙片が発見された。これにより、天正十一年(一五八三)に玉縄六代城主北条氏勝の弟直重と母の七曲殿が鎌倉大仏所快円に修復を依頼したこと、この寺院が慈眼山観福禅寺と号し鎌倉の円覚寺の塔頭天池庵に関係があったことなどが、新たに確認された。銅造梵鐘(総高一〇〇・五㎝、口径五四㎝)は、その陰刻銘によると寛永六年(一六二九)に上州藤岡(群馬県藤岡市)の住人が「現生安穏、後生善処」を祈願して鋳造し、当時江の島に所在したもので、追記の銘文によれば、その後、明和八年(一七七一)に藤沢宿大鋸の住人が江島寺より買い受けて、慈眼寺に寄進したものである。」古い梵鐘が寂しそうに雨ざらしになっていた。鐘楼が出来るのを待っているような何となく不思議な光景。寛永6年(1629)金亀山江之島寺(江ノ島神社)の梵鐘として鋳物師の酒巻庄五郎定勝により鋳造され、明和8年(1771)江之島寺の鐘が再鋳されたので江島寺より買い受けて、慈眼寺に寄進したものであると。総高100.5cm、口径54cm、身高80.3cm。「お腰さま 貼り仏」。病む所に貼って祈願すると治癒すると。寺務所も豪華。「ニ百観音霊場巡拝供養塔」。「ニ百観音霊場巡拝供養塔西国三十三所 坂東三十三所 秩父三十四所の百観音霊場を参拝し 加えて三浦三十三所 鎌倉郡三十三所 武州金澤三十四所の百観音霊場を参拝し無事に二百観音霊場の巡礼が成就しその巡拝で得た功徳をすべての人々に施すという思いで安政四年(一八五七)に建てられた「供養塔」です。江戸時代 遠方まで行くことのできないお年寄りや女性達がこの供養塔で.二百所の観音霊場を巡拝したと伝えられています。」山門と本堂を見る。そして「慈眼寺」を後にし、再び村岡消防出張所前交差点まで戻り、ここを左折。左手にあった「オリンピック 藤沢店」は開店前。そして反対側の高台には「藤が岡中学校」の姿が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.21
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朱の太鼓橋の先に「来宮弁財天」。手前の巨石は「弁天岩」、古来神様が宿っていたと伝えられる磐座(いわくら)と紹介されていた。「弁天岩」の上には、蛇の彫像があった。カメラでズームしてみると歯が妙にリアルで、何か口にくわえていた。どうやらコレ扇子らしいのであったが、辨財天は芸能の神でもあり、熱海の芸姑さん達にあやかっているらしい。「来宮弁財天」の朱の鳥居、そしてその先に太鼓橋。熱海芸妓(げいぎ)が芸能の神様とあがめる「来宮弁財天」であると。本殿の隣に鎮座するこの弁財天は、もともとは金華山(宮城県)に祀られていたが、のちに秩父霊場(現秩父神社)を経て、卜占により 来宮神社に安置されたという。「七福神」の一員で財宝神としての性格を持つが、来宮神社では大正時代から芸妓衆が芸能の神として崇拝。現在でも熱海芸妓衆が連日、芸事の上達を願い参拝しているのだと。そしてパワースポットとされる御神木の「大楠」。樹齢2000年以上、周囲23.9m、樹高約25m、本州一位(全国二位)の巨樹、昭和8年2月28日文部省指定天然記念物になった「阿豆佐和気神社の大クス」日本第1位の鹿児島県蒲生町の「蒲生の大クス」に次ぐもの。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると1つ願い事が叶う、そして一年寿命が延びると伝えられているのだと。「大樟(大楠)天然記念物文部大臣指定 昭和八年二月二十八日 樹令 二千年 周囲 二〇米 高さ 二〇米由緒(いわれ)大古には我国では現代の様な家屋はなく文字もなく言葉ばかりの時代が長く続いていました。其頃此の社の森には七本の楠や椎の木、細葉の大木、羊朶(しだ)類等が自生していて昼なを暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云ふ年に熱海村に大網(おおあみ)事件と云ふ(流刑者(しまながし)迄出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻(ねん)出するため、五本の大楠は伐(き)られてしまったのです。現在残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫(きこり)が大鋸(のこぎり)を幹に当てようとしたところ忽然として白髪の老人が現れ両手を拡げて此れを遮(さえ)ぎる様な姿になると忽(たちまち)大鋸は手元から音をたてて二つに折れ同時に白髪の老人の姿は消へてしまつたのです。此れは神のお諭(さとし)であるとして村人等は大楠を伐る事を中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります。此の大楠へ古代には「神の魂(みたま)にお降(さがり)を願ひ」いわゆる神の依代(よりしろ)として此の御神木の中に宿る神の魂(みたま)と人々は対面していたのであります。斯(か)くて二千年の長い間世の天変地異を経て現代に至りました。 此の大楠を人に例へれば世の中の有らゆるものを知り盡くしてござる大古老(だいころう)とでも申しましようか、然るに二千年を経ても尚樹勢は少しも衰へず、根は深く大地に食い込み巨岩を抱きかかへ、幹は巌石の様相を呈し内に溢るる生気はますます、旺(さかん)にして枝葉は毎日西に東に伸(の)びゆき未来永劫生き拔こうとする生命力の強靱さには恐ろしきものさへ感じとれます。 右の様な次第でありますので大楠は「不老長生」「無病息災」の象徴とされているのです。それ故に二千年の大楠の長寿に肖(あやか)ろうとする願ひからか、此れを一廻りすると「一年寿命が延びる」、又「願ひ事」のある人はそれが必ず叶うと云い伝えられて来ました。今の世に大楠の様に長命で然も厳然として物に動ぜず、ひたすら正しく生きる道に徹する事が出来たならば何と幸せなことでありましょう。 世の貴顕紳士(きけんしんし)を始め国の内外から訪ねて来られる方々は毎日後を絶ちません。」「樹齢二千年超 御神木の根を守る「大楠」保護工事」案内板。令和2年6月(今月)末 完成予定とのこと。「御神木」の手前に参拝用の濡れ縁の如き構造物を設け、直接地面を踏みしめてしまうことをなくし「御神木」の根を守る大楠のだと。工事前の写真をネットで見ると、「大楠」の手前の一部は舗装されており、根に優しくなかった事が理解できたのであった。「日本最樹齢の碑 国指定天然記念物 大樟 文部大臣指定 昭和八年ニ月二十八日樹齢 ニ千年以上周囲 ニ十三.九米高さ ニ十六米以上御由緒 古代においては此の樟へ神の御霊をお招きしてお祀りしております。現在は当社の御神木となっております。此の大楠はニ千年の間、世の天変地異を経て今の世に至りましてもその樹勢は衰えずいよいよ旺にして根は深く大地をふまえ巌石の如き様相を呈し『延命長寿』の象徴とされています。世の貴顕紳士をはじめあらゆる方々が訪ねて来られ、此の大楠の前たたずみ何物かを感得されて帰られます。」本州一位(全国二位)の巨樹。此の大楠は来ノ宮大神の寄代とされた御神木で之を一周すると一年寿命が延びると伝えられています。「大楠」も幹の内部が空洞の部分も。御朱印と共に頂いた絵葉書。夜間はライトアップされたとパンフレットより。現在は??「徳富蘇峰顕彰碑」・「餘香碑(よこうひ)」。昭和32年(1957)、熱海で95歳の天寿をまっとうした『徳富蘇峰(とくとみそほう)』の業績を顕彰して立てられた碑。この碑は、元内閣総理大臣中曽根康弘氏の書によるもので、昭和60年に建立されています。徳富蘇峰氏「国民之友」、「国民新聞」を創刊したほか、著書には「近世日本国民史」などがあり、明治・大正・昭和にかけて活躍したジャーナリスト、思想家、評論家などとして有名。「御神木」の裏の滝。雨天後でもあり白き流れが激しかった。滝の後の川の流れを上部から。この川は「あたみ桜 糸川桜まつり会場」の糸川に続く流れ。白のカオス。再び「大楠」を振り返る。拝殿前から「参集殿」を見る。「来宮神社」拝殿を別の高い場所・参集殿の2階「杜の屋上」から振り返る。階段を降り、「参集殿」の中に入った。「参集殿」の中の「来宮神社 宮神輿」。札所。御守りが並ぶ。様々な種類の御札も。「来宮神社」紹介のビデオコーナーも。「新日本風土記 熱海」のポスターか?「日本三代巨樹」。今回で、制覇していないのは鹿児島県にある1位のみになったが・・・。3位の佐賀県武雄市のものも「大楠」よって3位までは皆、楠なのである。御朱印を頂きました。帰路は濃霧の中、静岡県道20号熱海箱根峠線を利用し小田原に戻る。小田原漁港内にある「ひもの屋 半兵衛」に立ち寄る。店舗内部。鯵、えぼ鯛、サンマの干物を買って再び帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.06.20
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6月12日の早朝にジャカランダを楽しんだ後は、車で5分ほど離れた、来宮駅近くにある「来宮神社(きのみやじんじゃ)」を訪ねた。パワースポットを特集するテレビ番組などでたびたび紹介される、静岡県熱海市の「来宮神社」。熱海郷の地主の神が鎮座し、来福・縁起の神として昔から地元の人々に信仰されているのだと。そんなに大きくはない神社だが、メディアや口コミで来宮神社の噂が広がり、平日にも関わらず老若男女、多くの参拝客の姿があるとのことだが、やはりこの日は新型コロナ禍で人の数はほとんどなかったのであった。参道の前には東海道新幹線の下を潜る県道20号線のトンネル・来宮暗渠(きのみやあんきょ) 、通称メガネトンネルが。「来宮神社」👈リンク 配置図と「来宮神社の由来」。境内配置をズームで。「来宮神社の由来御祭神大己貴命(商売繁盛・縁結び・温泉の神)五十猛命(樹木の神)日本武尊(決断の神)社伝によると、およそ三千有余年前大己貴命(大国主命)が国を治めるため、遠い西の国(現在の島根県)より諸神を率いて海を渡り伊豆の国のこの地に(現在の熱海の海岸)に上陸されて此の地方をお治めになり、ここは温泉に恵まれ気候風土よく、その上、諸物資の豊かな所なので、非常にお喜びになり、ここに居を定められ、当神社が其の跡と伝えられている。その後第12代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし、第43代元明天皇の御代に(約1300年前、和銅3年)五十猛命をお祀りしたと伝えられている。大楠の由来大昔の大楠を御神体として、よろずの人が信仰していたもので、いわゆるひもろぎ神社であった。樹齢は二千年以上と謂われております。古くからそのまわりを一周廻る毎に 一年間生き延びると伝えられ、廻った人は医者いらずといい、一名不老の楠とも呼ばれ ている。此の大楠の由来は宮地直一・加藤玄智両博士の著書にも明かである。 昭和八年二月二十八日に文部省より国定の天然記念物に指定された。願事の由来一、縁結びの神 縁結びの神として古くから知られ今も遠近の人より良縁 の幸福のご利益が あるので、信仰が厚い。一、商売繁盛・宅地造成・温泉守護の神 昔から商売繁盛・宅地造成・ 温泉守護の 神として信仰が厚く、御家繁盛の為ここを詣でる人の絶え間がない。一、酒断ちの神 古くから酒断ちの神として近くは関東・遠くは関西に至る迄 大神の御神徳が 拡まり、酒の為家庭を破壊し病に悩む身を滅ぼさんとする人は、 期間を定めて酒を断ち、 大神の御利益により数多くに人が救われている。その他諸々の 願事を大神にすがり、 大願成就して日夜詣でる人は絶え間がない。」御祭神■大己貴命(おおなもちのみこと)(営業繁栄・身体健康・縁結びの神) 大己貴命は素蓋鳴命の御子であって又の名を大國主命、俗に『大黒様』とも云われ、 古代出雲の国の神々が海、山を渡り伊豆地方に進出されたときに、この熱海の里が海山に臨み 温泉に恵まれ、風光明媚にして生活条件の整っていることを愛し、この処に住居を定め、 祀られたと伝えられています。■五十猛命(いたけるのみこと)(五十猛命樹木と自然保護の神) 五十猛命は素蓋鳴命の御子で、大陸より樹種を持ち帰り日本国土に播種した神であります。 当社へは和銅三年(七一〇年)に合わせ祀られました。おおよそ、今から一三〇〇年前の 旧暦六月十五日に熱海湾で漁夫が網をおろしていたとき、御木像らしき物かこれに入ったので、 不思議に思っていると、童子か現れ『我こそは五十猛命である。この里に波の音の聞こえない 七本の楠に囲まれた祠があるから、そこに私を祀りなさい。しからば村人は勿論、里に入り 来るものも守護しよう。』と告げられ、村民達が探し当てたのが此の熱海の西山の地でした。 その当時、ご神前に、麦こがし、百合根、ところ、橙(だいだい)をお供えしたところ喜んで 召し上がったと伝えられています。今でも六月十五日(新暦七月十五日)になると熱海の氏子は 海岸に出て、当時を偲ぶお祭り(七月の例大祭・こがし祭)を行ない、多くの人々で賑わいます。■日本武命(やまとたけるのみこと)(武勇と決断の神) 日本武命は人皇十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、この地に軍を進め られたとき、産業を奨励した功績と武勲を称え合わせ祀られたと伝えられています。竹林に囲まれた参道を進む。佐佐木信綱 歌碑。「来の宮は 樹齢二千年の 樟のもとに 御国のさかえ いのりまつらく」和歌革新運動の先達となった佐佐木信綱(1872-1963)は、明治の頃から熱海に幾度か静養に来ていたが、1944(昭和19)年、来宮神社近くの自然豊か、閑静で趣のあるこの地に定住するようになったのだと。2020年3月23日に完歩した「旧東海道を歩く」👈リンク の中で、東海道石薬師宿の北端から南端の1.8kmの間の「信綱かるた道」👈リンク と名付けた旧東海道を歩いた事を想い出したのであった。左手に「手水舎」。「手水舎」の裏にあったのが「稲荷神社」。朱の美しい鳥居が続く。「稲荷神社」。「稲荷神社」の祭神は五十猛命の兄妹神・宇迦之御魂(ウカノミタマ)神。海・山の豊穣を祈願する五十猛命とは少し違う、食物神に近い豊穣・稲の神さま。そして右手には竹の鳥居の「三峯神社」。「三峯神社」は昭和初期に勧請されたが、祭神は本殿と同じく日本武尊。本物の竹で出来た鳥居と思ったが、触ってみると樹脂製?のようであったが。そしてこちらは「第二大楠」案内板。「樹齢1300年を超える「第二大楠」。約300年前の落雷にも負けず負けず今なお息吹いています。幹の裏側に廻り、漲る(みなぎる)生命力をご覧下さい。」「第二大楠」幹周945cm 、樹高11m 、樹齢1300年以上。「第二大楠」の幹の中(樹洞)と小祠。「忠魂碑」。更に「拝殿」への参道を上って行った。右手に「御神水取り」。そして正面に「来宮神社」の「拝殿」が姿を現した。古くは「木宮明神」や「来宮大明神」などと呼ばれた。明治維新後、式内社「阿豆佐和気命神社」に比定されたため、「阿豆佐和気神社」(あずさわけじんじゃ)を称したが、その非が判り現社名に復称した。祭神は・日本武尊・五十猛命(いたけるのみこと)・大己貴命(おおなもちのみこと)上記3柱を主祭神として、稲荷神社・柿本社・天神社を相殿に祀る。『走湯山縁起』は伊豆山神社の地主神としている。「きのみや」を「忌の宮」と解し、禁酒など断ち物の祈願をする者も多いのだと。「来宮神社」と書かれた大きな提灯。「内陣」。「本殿」を横から。来宮神社の社殿は拝殿・幣殿・本殿が連なる権現造り。「来宮神社由緒沿革祭神大巳貴命(おおなもちのみこと)・五十猛命(いたけるのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)由緒沿革来宮神社は太古 大己貴命(別名大國主命)が海上遥か西方より諸神を率いて海を渡り伊豆の國の此の地に着かれるや気候温暖にして温泉湧出し 更に海山の幸にも恵まれているので此処に居を定められ当神社が其の跡地と伝えられている 当社及附近からは古代の土器が多数出土する 人皇第十二代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし 第四十三代元明天皇の御世 和銅三年(約千二百有余年以前)に五十猛命をおまつりした 現代になってからは畏くも大正二年二月に 今上天皇には皇太子殿下の御時 御参拝に相成り幣帛料を御下賜下され 尚三笠宮 久迩宮 両殿下より金一封を賜り更に 三笠宮寛仁親王殿下には御榊を植樹 伊勢神宮祭主北白川房子様より 来宮神社神額を御染筆くだされ畏き極みである神徳 伊豆の國には古代から来宮信仰が拡まっていたが 当社はその中でも最も著名にして諸願成就の神として広く神徳を慕われている 即ち御祭神の御事蹟にあやかり 殖産興業 温泉守護 縁結び 禁酒 交通安全 等を祈念する人々にて踵を絶たない はるはると尋ねて此こに来の宮の神さみしくも幾代へぬらん 織田従四位侍従 来宮は樹齢二千年の樟のもとに御國の栄へ永久に守らん 佐佐木信綱大樟の由来 此の大樟は 来ノ宮大神の寄代とされた御神木であって樹齢二千年を数え之を一周すると一年寿命が延びると伝えられている大正八年に文部省から國の天然記念物に指定された 奉納 御鳳輦昭和亥子会 昭和五十二年七月吉日 境内には縁結びの落ち葉の♡マークが。前日の雨と風でハートマークは心乱れて。「御鳳輦(ごほうれん)」。鳳輦(ほうれん)は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては、古くから、天皇の正式な乗り物を意味するほか、現代では神社の祭りなどに使われる、鳳凰の飾りがある神輿を意味するとのこと。「東宮神社例大祭毎年7月14日~16日 今から約千三百年の昔、御祭神の五十猛命の後神像が漁夫の網にかかり引き上げられました。漁夫が麦こがし・百合根・橙・ところをお供えすると、とても喜ばれたと云われています。祭りの名“こがし祭り"は此の故事から来ており、今でも例大祭には此の四品を神饌としてお供えします。古より熱海では「麦こがし」に触れ、食することにより無病息災・身体健全になると言い伝えられております。 毎年例大祭は、7月14日宵宮祭に始まり、7月15日宮神輿渡御、7月16日の神幸祭では。麦こがしを撒く猿田彦命(天狗)の先導により、「42歳の地元男性」が来宮の神々を御鳳輦に乗せ、街の繁栄を祈り市街・浜に降ります。100年以上続く伝統、総勢500人の御神幸行列は壮大な時代絵巻の再現となります。「御鳳輦」👈リンク 毎年7月16日 浜降り神事。白装束に身を包んだ男衆は、てんぐの姿をした猿田彦を先頭に神社を出発。市街地を巡って熱海サンビーチに到着すると海に入り、「みょうねん、みょうねん」と力強く唱えながら進むのだと。神事は同神社のご神体が海から到着したとの故事にちなむ。男衆は厄払いの意味も込め、御鳳輦の担ぎ手となるという。道中で猿田彦がまく「麦こがし」は、触れると無病息災の御利益があるとされていると。境内の弁天池には巨大な鯉が。白蛇と白いたまごが5個。金運アップのご利益があるとして、縁起の良い生き物とされる白蛇。白蛇は弁天様のお使いとして、一緒に祀られている事が多いとのこと。 ・・・つづく・・・
2020.06.19
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更にジャカランダの花を追いかける。ラッパのごとき藤色の花。その形がファンファーレを吹くトランペットを連想させることから「栄光」「名誉」という花言葉がつけられたと。その神秘的な紫色は高貴な色とされ、王室をイメージするとも。熱海から高速船で30分の初島(はつしま)の全景。初島は、ここ静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もあると。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住していると。「梅雨の時期は熱海の閑散期にあたるので、ジャカランダが新たな魅力になれば」と期待をかけて植え付けたを始めたのだと。熱海のジャカランダの知名度がだんだん上がってきており、「全国ネットのテレビ番組で取り上げられたことも多くなった」と。三密?のジャカランダの花。「ジャカランダの花が頭に落ちると幸せが訪れる」との言い伝えがあると。移民として南米に渡った日本人が、桐の花に似ていることから「桐擬き」と呼んで愛した花だと。また,ハワイでは日系人が日本の桜に思いを馳せ,「ハワイ桜」や「紫の桜」と言われていると。なるほど筒状に咲く一つ一つの花は、我が家の前の畑に植えてある桐にソックリ。ポタポタと落花する様子も良く似ているのだ。南アフリカのツアーが最も人気が出るのがジャカランダの時期・10月。プレトリアでは街全体が紫色に染まり、まるで花のトンネルをくぐっているような気分に!。日本の桜の「青紫」版。「お宮緑地」のゲートを潜って、国道135号線沿いにUターン。「お宮緑地」の入口ゲートを振り返る。ブーゲンビリアの花がここにも。熱海の風景をテーマにしたお宮緑地の石碑を楽しみながら歩く。「長谷寺山門」、見落としたので旅ともSさんの写真をコピペ。熱海にも「長谷寺」があることを知ったのであった。「錦浦景勝」。このジャカランダは何故か葉が少なく、元気がない?奥にはユニークな形の石造りのオブジェが。ジャカランダと熱海城。国道135号線の歩道を進む。「湯~遊~バスのりば お宮の松」。熱海の観光スポットを約45分でぐるりと巡る「湯~遊~バス」の停留所。「4月22日~当面の間、運休」の張り紙が時刻表の上に。伊豆東海バスは、「湯~遊~バス」に4月1日から新型専用車両を導入したと。 【https://news.mynavi.jp/article/20200319-yuyubus/】より「サンビーチ 花火大会」。「熱海サンビーチ案内図」。ジャカランダと椰子の木。「来宮神社」。この後、「来宮神社」を訪ねたのであった。「お宮の松」前まで戻る。正面にジャカランダの大木。その下には「明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説「金色夜叉」は、明治30年(1897)1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こした。 ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継に見染められた。しかし、宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者間貫一がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌 熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限りが広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。 金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくでしょう。 紅葉は、37歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わったが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成された。 熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われる。貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61年(1986)年1月17日熱海市に寄贈したものです。」再びジャカランダと椰子の木。これぞ「熱海」の光景。「梅見の滝」熱海市の全国的に知られる観光名所である「熱海梅園」内にある、四季の移ろいが感じられる滝。「姫の沢公園」。「姫の沢公園」は、市街地中心部より北西約5キロメートルに位置し、四季を通じて花と緑を楽しんでもらうように造られた自然を基調とした総合公園であり、園内には、四季折々の花木はもとより、アスレチックコースなどが整備され、家族連れで自然に触れ合いながら一日中楽しむことができると。熱海の初夏を告げるジャカランダ。ATAMIジャカランダフェスティバル2020の開催はもちろん中止。「貫一お宮」。「尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の名場面。主人公貫一とお宮の別れ場面に熱海海岸が登場し一躍有名になった。現在の像は昭和60年に建立された。」椰子の木のテッペンから熱海の海岸を眺めてみたいと。「中山晋平記念館」。「大衆音楽の普及に大きな役割を果たした作曲家中山晋平の業績を偲び、晋平が晩年を送った住居をそのままの形にて遺品とともに梅園内に保存されています。」「大湯間歇泉」「お湯が音とともに噴出し、周囲に湯気とイオウの臭いを立ちこめる大湯間隙泉。関東大震災により噴出が不規則になり現在は復旧工事にて人工間歌泉となった。」「熱海」と書いて、「あたみ」と読むこの地名の由来は、海中より温泉が凄まじく沸きあがり、海水がことごとく熱湯となったため、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「あたみ」と称されるようになったと。「澤田政廣記念館」。「熱海が生んだ芸術家澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、津田芸術の集大成がここに展示されています。」青空であればと我儘に。「伊豆山神社」。「伊豆に流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です。」この「伊豆山神社」👈リンク は昨年2019年2月に訪ねたのであった。「中央交番」前まで戻る。「光る海」熱海。「熱海サンビーチ」。「熱海ムーンテラス」。サンビーチから南に続く親水公園。熱海市が北イタリアのサンレモ市と姉妹都市であることや、地形と街並みが似ていることから、 地中海北部のリゾート地のイメージで整備されています。「南欧・コートダジュール」をイメージした「スカイデッキ」はレンガで、 「北イタリア・サンレモ・リヴェラ海岸」をイメージした「レインボーデッキ」は「石」を基調につくられ、渚小公園とペデストリアンデッキで結ばれたエリアは、「南イタリアのナポリ海岸」をイメージ。「釜鳴屋平七夫婦像」。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」階段を降りて「熱海ムーンテラス」を再び。熱海ムーンテラス 恋人の聖地のモニュメント。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい。熱海ヨットハーバーと熱海後楽園ホテル、そして山の上には「熱海城」が。錦ヶ浦の山頂にそびえる「熱海城」は、歴史的に実在した城ではないのです。桃山時代の建築様式を模して、昭和後期に建てられた観光城なのだ。最後にアガパンサスを愛でて車に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.06.18
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6月12日(金)に旅友Sさんを誘って熱海海岸のジャカランダを愛でに行って来ました。数日前にテレビのニュースで、満開に近いと知ったのでした。6:30にSさんの愛車で熱海に向けて出発。前日の雨もなんとか上がり、富士山の姿も。西湘バイパスを進む。相模湾上空の雲。西湘バイパス、小田原市・御幸の浜近く。そして早川出口から一般道へ。手前に新早川橋が姿を表した。国道135号線を進む。前方左手に真鶴半島、そして三ッ石の姿も。「都道府県をまたぐ移動は慎重に」との表示が。途中県道740号線に入り真鶴駅横を通過。そして熱海城が姿を表す。ショウワパーク熱海に駐車しジャカランダを愛でに。熱海のマンション群、正面にゼファー熱海ビーチタワーが。ジョナサン前のジャカランダの花。ジャカランダ(Jacaranda)の花はノウゼンカズラ科。カエンボク(火炎木)、ホウオウボク(鳳凰木)と並んでシウンボク(紫雲木)と呼ばれ、世界三大花木のひとつとされているジャカランダ。自生地では10mを超す高木になるのだ。花一つ一つをよく見ると、なるほどノウゼンカズラの花に似ている。花径5㎝くらいの釣鐘状の花を枝の先に塊のように咲かせるので、遠くから見ても存在感がある。ジャカランダの木は枝を横に広げる樹形なので、高木の枝いっぱいに青紫色の花をいっぱいに咲かせる姿は息を飲むほどの美しさになるのだと。昨年訪ねたポルトガルでは、初夏になると青紫のジャガランダで街が紫一色に染まるのだと。さしずめ紫の桜といったところ。ポルトガルではジャカランダの紫色の花が満開になる頃はちょうどイワシ祭りというお祭りの時期。賑やかなイワシ祭りと、ジャカランダの満開の花を見る為に海外からもたくさんの人が訪れるのであるというが今年は??。こちらが、南アフリカの首都・プレトリアのジャカランタの並木。熱海のジャカランダは、残念がら花のボリュームより葉のボリュームが多いのだが。これも天候、土地の質等が微妙に影響するのであろう。 前日の強風で花は落ちて。こちらは比較的花のボリュームが多いジャカランダ。「ジャカランダ世界三大花木(カエンボク・ホウオウボク・ジャカランダ)の一つで、いまでは熱海の初夏を告げる花となりました。街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ、本州では珍しい風景です。また、ジャカランダの日本での認知度は、海外のリゾート地への渡航者増加に伴って広がりつつあります。熱海での開花は折しも傘の花開く梅雨のシーズン。ラッパの形をした小さな青紫色の花がブーケのように熱海の梅雨空を彩ります。」ラッパの形をした小さな青紫色の花。こちらは、ブットレア・ブラックナイト。蝶やミツバチの集まることでよく知られた花木。こちらは、ブラシの木。再びジャカランダの花をカメラで追う。ジャカランダは、樹木が大きく生長しないと花が咲かないのだと。樹木が生長するには温度と日照等の必要条件があり、日本では冬を越せず生長できないので、開花が難しいと言われていたのであったが。ポルトガルのジャカランダは、ポルトガル人が大航海時代にブラジルから持ち帰ったものだと。緑豊かな南米の国で霞むように咲き誇るジャカランダの花は、ポルトガル人たちの心を癒したのだと。ポルトガルはヨーロッパの最西端に位置するため、夏はとても暑くなるのだ。よってブラジルから持ち帰ったジャカランダがそのまま育ったのだ。緑の芝生に花びらが散って。熱海市の汚水マンホール。明治時代に熱海温泉を一躍有名にした尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の名場面と「お宮の松」、そして背景の夜空には「花火」を図案化したもの。葉は鳥の羽のように繊細で細かく、非常にやわらかな感じが。ジャカランダとブーゲンビリアのコラボ。青紫というよりは藤色か。「カスカイス市・熱海市 国際姉妹都市提携紀念樹木」。カスカイス市は、ポルトガルのリスボン県の都市。市内には、国際的なリゾート地であるエストリルを含む。 また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へのバスがここから発着しているのだと。お宮緑地のこのジャカランダは平成2年7月にポルトガルのカスカイス市と国際姉妹都市提携を記念して植樹された木であるのだ。ひとつの花房に50~90コの花を付けるのだと。陽光があれば藤色が更に神秘的に輝くこと間違いなし。こちらはカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)。「熱海八景画家、山本光一は、天保13年(1842)江戸下谷に生まれた。名は信教。明治36年(190)10月6日、61歳で没した。墓は臨済宗南禅寺派の月州寺(東京都台東区竜泉2丁目2-15)にある。山本家は代々江戸で儒学を教授していたが父素堂は二男で画もまたよくし、生涯を画家として終えた。光一の兄、学半も画家を志した。評価は2人とも不明である。光一は熱海の風土が好きだったにちがいない。度々来遊して、明治21年には「熱海梅園之図」と「改正熱海市全図」を、翌22年には「伊豆の浦づたい」と第する絵入りの和綴本を刊行し、熱海の紹介に努めている。「この熱海八景色紙」は明治21年の刊。八景とは、かって成島柳北(1837~1884)が選んで話題となっていた景勝の地8ヵ所、すなわち梅園の春暁、来宮の杜鶘、温泉寺の古松、横磯の晩涼、初島の漁火、錦浦の秋月、魚見崎の帰帆、和田山の暮雪を、版画にしのであろう。現今の風景と比べて興味津々たるものがある。今を去90余年前の熱海である。」「サンゴシトウ」。サンゴシトウはオーストラリアのシドニー植物園で、アメリカデイゴと北アメリカ原産のヘルバケア(Erythrina herbacae)を交配して作られた園芸種です。 アメリカデイゴと間違われることがありますが、別名をヒシバデイゴというように葉の形が菱形に近いことと、アメリカデイゴと異なり、サンゴシトウの旗弁は完全に開かずに花が筒状になることで見分けられます とネットから。この花の蕾はキング・プロテア(King protea) 。プロテア(Protea) とは、花の王様と賞賛される南国のヤマモガシ目ヤマモガシ科プロテア属の常緑低木です。 花色や形、大きさ、感触、光沢などが異なる多数の種類があります。 中でも、このキング・プロテア(King protea) は、代表的な品種とされ、 南アフリカ共和国の国花ともなっています。 熱帯植物なので日本では高価な花でありあまり生花では使われませんが、 ハワイではホテルやレストランのフラワーアレンジメントの花材としてふんだんに使われています。とこれもネット情報から。キング・プロテア 説明板。そして「貫一・お宮の像」に到着。「尾崎紅葉記念碑」。「紅葉山人記念 金色夜叉の碑」「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」。「「お宮の松」の由来。お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものである。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、智恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれている。この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていた。1897(明治30)年から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものである。このことから、1919(大正8)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立された。この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となった。 また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めている。1949(昭和24)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだした。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にあった)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めた。その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、1966(昭和41)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものである。「お宮の松」の樹齢は、2001(平成13)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になる。」再び「貫一・お宮の像」とその後ろに熱海城。「熱海城」をズームで。「お宮の松」。「初代のお宮の松」。現在のお宮の松は昭和41年に植えられた2代目で、初代は排気ガスの影響などで枯れてしまったとのこと。2代目の脇に展示されている初代の切り株をみると相当大きな松の木だったことが分かるのであった。 ・・・つづく・・・
2020.06.17
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク県道302号線を進む。前方に柄沢橋交差点が。民家の庭の枇杷の木にはビワがたわわに。そして次に訪ねたのが「柄沢山 宗休庵 隆昌院(からさわさん しゅうきゅうあん りゅうしょういん)」。日蓮宗の寺、「南無妙法蓮華経」題目碑。「鬼子母神」碑。通称「柄沢の鬼子母神」と呼ばれている寺。鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっているのだ。「縁起」 柄沢山宗休庵 隆昌院 通称「柄沢の鬼子母神」 創立元禄十六年(西暦1703年)約303年前「開山」閑攝院相休日心上人 播州赤穂、城主浅野内匠頭の家臣奥田孫太夫の末子、君父菩提のため鎌倉に来たり、両山(鎌倉妙本寺、池上本門寺)二十四世日等の法弟となり比企永代千部大会を開闢し、その法勲により日等より鬼子母神像を賜り当地に当院を建立する。その後本堂が大破し、文久三年(1863年)今日の本堂を再建す。当山安置奉る子育厄除鬼子母神は日蓮上人が松葉谷草庵に中老日法上人に彫刻させ宗祖開眼の尊像と伝えられ、後に比企大学に与え、妙本寺に格護、両山六世日行に夢告あり、両山七世寿(稚児貫主)を現出させた由緒ある尊像といわれる。以後、現在に至るまで子供の守護神として子宝成就、安産成就、育成祈願、虫封じ、命名、厄除け等でご利益甚大にして信者参拝多し。病弱の子供が丈夫になり、長命を得た人々の孫を連れての参拝者多数あり。「水子供養地蔵尊」。「寺務所」。「本堂」への階段。「本堂」。扁額「隆昌院」。向拝柱の見事な彫刻。本堂内陣。本堂前の摩尼車(後生車)。「祈願回向 一回一誦(いっかいいちじゅ」。「摩尼とは、宝珠・如意・離垢と漢訳し、珠玉の総称で正法の功徳にたとえられます。正法のお経である法華経が書写された車輪型の経文石板に触れ、一回転させる事でお経を一回読誦(一回一誦)した事になります。更に心を込めて回すと、その回数のお経を読んだ事と同じ功徳がいただけるとされます。また、一心に合掌し誓いや願いを祈りながら摩尼車を回すと必ず祈願が叶うと信じられています。私たちの心の中にある仏心を目覚めさせその美しい心を清め、自己を生かすことができるよう摩尼車を回して御参詣下さい。」とネットより。「南無日蓮大士七百年紀念開山」碑。「隆昌院」を後にし、階段道を上って行く。柄沢地区を北に向かって進む。右手にあったのが「森坂稲荷大明神」。「森坂稲荷大明神」社号標。社殿の前、両側に1対の狐が鎮座。「巻物」をくわえていた。「巻物」は仏教の経典で神様からの言葉の意味があるのだと。「社殿」。「内陣」。そして次に訪ねたのが「柄澤神社(からさわじんじゃ)」角にあった「青面金剛像」の庚申塔。天保十年(1839)、「當村中」?の文字が。「柄澤神社」社号標。社号標横にも青面金剛碑群。駒形碑(左)と地神像・文政十三年(1830)(右)。駒形碑の下部には三猿が。左から八臀弁財天 (はっぴべんざいてん)、不動明王像、大山不動尊(天明三年)。正面に一の鳥居と拝殿。1193年(建久4年)、入間野・那須野の巻狩へ向かう途中の源頼朝が参拝したことで信仰が広まり、鎌倉武士や江戸時代の領主大久保佐渡守忠保らに崇敬され、村民も氏神と仰ぎ祭事を尽くしたのだという。藤沢市柄沢512。左から青面金剛 (しょうめんこんごう)、帝釈天王とそれぞれ刻まれた碑。その右横の3体は、左から・合掌六腑責面金剛像+三猿・合掌六腑責面金剛像+三猿・元禄十二己卯天十一月廿六日、・六腑金剛像。狛犬(左)。狛犬(右)。鳥居の神額「柄澤神社」。「鐘楼」。「手水舎」。[柄沢神社由緒]鎮座地 藤沢市柄沢五一二番地御祭神 天照皇大神 孝安天皇由緒 創建年不詳。もとは第六天社といい、孝安天皇を祀っていた。建久四年(一一九三年) 右大将源頼朝武州入間川に狩りせし路次当神社に奉斎せしより、 鎌倉武士及び領主大久保佐渡守忠保等の崇敬極めて篤く、 村民亦氏神と仰ぎ祭事を尽くした。文化六年(一八一〇年)六月 社殿を造営文久元年(一八六一年)四月 社殿を造営明治元年(一八六八年)三月二十八日 第六天社を柄沢神社と改称明治六年(一八七三年)十二月 村社に列せられた。明治十六年(一八八三年)現在地に移転した明治四十五年(一九一ニ年)四月 社殿を造営大正十年(一九ニ一年)三月三十一日 大神宮を合併し天照皇大神を合妃した昭和五十年(一九七五年)八月十四日鐘楼堂不慮の火災に遭い焼失昭和五十二年(一九七七年)四月十五日鐘楼堂再建並に社殿屋根葺替完成平成二十二年(ニ◯十◯年)十二月吉日 区画整理事業に依る改修工事完成祭礼 小祭 四月第二土曜日 大祭 九月第二土曜日 翌日曜日 「拝殿」。平成の村岡七福神恵比須様。「村岡ふるさとマップ」。これから巡る予定の神社仏閣を確認。渡内、村岡地区。弥勒寺地区。「柄澤神社」境内を振り返る。「柄澤神社」の隣りにあった「柄沢中央町内会館」。さらに302号線・小袋谷藤沢線を大船方面に進む。302号線・小袋谷藤沢線は鎌倉市小袋谷(こぶくろや・大船地区)と藤沢市西富とを結ぶ一般県道。古くは鎌倉山之内往還と呼ばれ、藤沢宿から遊行寺を経て小袋谷に至り鎌倉街道(現県道21号線)と合流する街道だった。鎌倉時代この街道は藤沢宿から鎌倉へ向かう交通の要衝として位置づけられ、小袋谷付近に関所が置かれていた とウィキペディアより。村岡消防署前交差点角。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.16
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札番 寺号👈リンク 読み 所在地 参拝日------------------------------------------------------------------------------------------------- 1 霊山寺1 りょうぜんじ 徳島県鳴門市 2015.09.02 霊山寺2 2017.10.14 2 極楽寺1 ごくらくじ 徳島県鳴門市 2015.09.02 極楽寺2 2017.10.14 3 金泉寺 こんせんじ 徳島県板野郡 2017.10.14 4 大日寺 だいにちじ 徳島県板野郡板野町 2017.10.14 5 地蔵寺 じぞうじ 徳島県板野郡板野町 2017.10.14 6 安楽寺 あんらくじ 徳島県板野郡上板町 2017.10.14 7 十楽寺 じゅうらくじ 徳島県阿波市 2017.10.14 8 熊谷寺 くまたにじ 徳島県阿波市 2017.10.14 9 法輪寺 ほうりんじ 徳島県阿波市 2017.10.14 10 切幡寺 きりはたじ 徳島県阿波市 2017.10.14 11 藤井寺 ふじいでら 徳島県吉野川市 2017.10.14 12 焼山寺 しょうざんじ 徳島県名西郡神山町 2017.10.14 13 大日寺 だいにちじ 徳島県徳島市 2017.10.14 14 常楽寺 じょうらくじ 徳島県徳島市 2017.10.14 15 国分寺 こくぶんじ 徳島県徳島市 2017.10.14 16 観音寺 かんおんじ 徳島県徳島市 2017.10.14 17 井戸寺 いどじ 徳島県徳島市 2017.10.14 18 恩山寺 おんざんじ 徳島県小松島市 2017.10.14 19 立江寺 たつえじ 徳島県小松島市 2017.10.15 20 鶴林寺 かくりんじ 徳島県勝浦郡勝浦町 2017.10.15 21 太龍寺 たいりゅうじ 徳島県阿南市 2017.10.15 22 平等寺 びょうどうじ 徳島県阿南市 2017.10.15 23 薬王寺 やくおうじ 徳島県海部郡美波町 2017.10.15 24 最御崎寺 ほつみさきじ 高知県室戸市 2017.10.15 25 津照寺 しんしょうじ 高知県室戸市 2017.10.15 26 金剛頂寺 こんごうちょうじ 高知県室戸市 2017.10.15 27 神峰寺 こうのみねじ 高知県安芸郡安田町 2018.03.27 28 大日寺 だいにちじ 高知県香南市 2018.03.27 29 国分寺 こくぶんじ 高知県南国市 2018.03.27 30 善楽寺 ぜんらくじ 高知県高知市 2018.03.27 31 竹林寺 ちくりんじ 高知県高知市 2018.03.27 32 禅師峰寺 ぜんじぶじ 高知県南国市 2018.03.27 33 雪蹊寺 せっけいじ 高知県高知市 2018.03.27 34 種間寺 たねまじ 高知県高知市 2018.03.27 35 清滝寺 きよたきじ 高知県土佐市 2018.03.27 36 青龍寺 しょうりゅうじ 高知県土佐市 2018.03.27 37 岩本寺 いわもとじ 高知県高岡郡四万十町 2018.03.28 38 金剛福寺 こんごうふくじ 高知県土佐清水市 2015.09.03 39 延光寺 えんこうじ 高知県宿毛市 2015.09.03 40 自在寺 かんじざいじ 愛媛県南宇和郡愛南町 2018.03.28 41 竜光寺 りゅうこうじ 愛媛県宇和島市 2018.03.28 42 佛木寺 ぶつもくじ 愛媛県宇和島市 2018.03.28 43 明石寺 めいせきじ 愛媛県西予市 2018.03.28 44 大宝寺 だいほうじ 愛媛県上浮穴郡久万高原町 2015.09.03 45 岩屋寺 いわやじ 愛媛県上浮穴郡久万高原町 2015.09.03 46 浄瑠璃寺 じょうるりじ 愛媛県松山市 2018.03.28 47 八坂寺 やさかじ 愛媛県松山市 2018.03.28 48 西林寺 さいりんじ 愛媛県松山市 2018.03.28 49 浄土寺 じょうどじ 愛媛県松山市 2018.03.28 50 繁多寺 はんたじ 愛媛県松山市 2018.03.28 51 石手寺 いしてじ 愛媛県松山市 2018.03.29 52 太山寺 たいざんじ 愛媛県松山市 2015.09.04 53 円明寺 えんみょうじ 愛媛県松山市 2015.09.04 54 延命寺 えんめいじ 愛媛県今治市 2018.03.29 55 南光坊 なんこうぼう 愛媛県今治市 2018.03.29 56 泰山寺 たいさんじ 愛媛県今治市 2018.03.29 57 栄福寺 えいふくじ 愛媛県今治市 2018.03.29 58 仙遊寺 せんゆうじ 愛媛県今治市 2018.03.29 59 国分寺 こくぶんじ 愛媛県今治市 2018.03.29 60 横峰寺 よこみねじ 愛媛県西条市 2018.03.29 61 香園寺 こうおんじ 愛媛県西条市 2018.03.29 62 宝寿寺 ほうじゅじ 愛媛県西条市 2018.03.29 63 吉祥寺 きちじょうじ 愛媛県西条市 2018.03.29 64 前神寺 まえがみじ 愛媛県西条市 2018.03.29 65 三角寺 さんかくじ 愛媛県四国中央市 2017.10.16 66 雲辺寺 うんぺんじ 徳島県三好市 2018.03.30 67 大興寺 だいこうじ 香川県三豊市 2017.10.16 68 神恵院 じんねいん 香川県観音寺市 2017.10.16 69 観音寺 かんのんじ 香川県観音寺市 2017.10.16 70 本山寺 もとやまじ 香川県三豊市 2017.10.16 71 弥谷寺 いやだにじ 香川県三豊市 2017.10.16 72 曼荼羅寺 まんだらじ 香川県善通寺市 2017.10.16 73 出釈迦寺 しゅっしゃかじ 香川県善通寺市 2017.10.16 74 甲山寺 こうやまじ 香川県善通寺市 2017.10.16 75 善通寺 ぜんつうじ 香川県善通寺市 2017.10.16 76 金倉寺 こんぞうじ 香川県善通寺市 2017.10.16 77 道隆寺 どうりゅうじ 香川県仲多度郡多度津町 2017.10.16 78 郷照寺 ごうしょうじ 香川県綾歌郡宇多津町 2017.10.16 79 天皇寺 てんのうじ 香川県坂出市 2017.10.16 80 国分寺 こくぶんじ 香川県高松市 2017.10.17 81 白峯寺 しろみねじ 香川県坂出市 2017.10.17 82 根香寺 ねごろじ 香川県高松市 2017.10.17 83 一宮寺 いちのみやじ 香川県高松市 2017.10.17 84 屋島寺 やしまじ 香川県高松市 2017.10.17 85 八栗寺 やくりじ 香川県高松市 2017.10.17 86 志度寺 しどじ 香川県さぬき市 2017.10.17 87 長尾寺 ながおじ 香川県さぬき市 2017.10.17 88 大窪寺1 おおくぼじ 香川県さぬき市 2015.09.04 大窪寺2 (結願) 2018.03.30 高野山 こうやさん 和歌山県伊都郡高野町 2017.10.18お礼 高野山奥の院 2018.03.31参り
2020.06.15
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク船玉神社を後にし鎌倉街道を境川にそって南に進む。そして最初の十字路を左折し坂道を登って行く。藤沢市藤が岡1丁目2-1。暫く坂道を登り左折すると右手にあったのが賃貸マンション・コンフォール藤沢。そしてその先、左手にあったのが「藤稲荷」。正式な参道の一の鳥居、二の鳥居を振り返る。「社殿」正面。神(扁)額「藤稲荷大明神」。「内陣」。「藤稲荷」を後にし、滝川沿いを下流側に進んでいくそして次に訪ねたのが「感応院」。「山門」は薬医門。高野山真言宗の寺院。山号は三島山。藤沢市大鋸二丁目6番8号。藤沢宿では最も古い寺院とのこと。山門前の石碑「弘法大師 感応院」。境内右側の歴史を感じさせる鐘楼は老朽化?による立入禁止のテープが周囲に。「太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。(享保18年11月鋳造、昭和18年2月10日供出、昭和26年3月12日再鋳)」「弘法大師修行像」。感応院には弘法大師像が2つあり、1つは本堂内にある木造弘法大師像で、相模国準四国八十八箇所の一番。境内中央にはこの弘法大師修行石像があり、これは二十三番。八十八箇所を巡礼する人は、ここに2度来ることになるのだと。境内の植栽と十三重石塔。「不動堂(本堂)」。建保6年(1218)源実朝を開基として創建。道教の開山。応永5年(1398)幸海が中興。やや荒れているが、独特の風情がある。本尊は不動明王。藤沢七福神・「寿老人」の寺。扁額は「不動尊」。「不動堂(本堂)」右側の玄関の向拝の彫刻も見事。本堂唐破風の彫刻。本堂唐破風の童子の彫刻。「三嶋大明神」の石鳥居。扁額「三嶋大明神」。「感応院三嶋神社」👈リンク。源頼朝が建てたものとされ、堂が360°回転するように造られているとのこと。長谷寺の輪蔵などにも見られるように、経が納められた堂を回転させることで御利益あると。扉の両脇の木の壁には見事な彫刻が。三嶋大明神4面の昇り龍の彫り物。三嶋大明神4面の下り龍の彫り物。「不動堂(本堂)」前に石碑が2本。「南無妙遍照金剛」の石碑。「辞碑」「不動堂(本堂)」前から境内の鐘楼、山門を見る。この境内の一隅に、ちょっと変わった六地蔵を見つけました。右から「六地蔵」と彫られた台座の上に、一枚の石板に六地蔵が線彫りされていた。磨耗してよく見えなくなっているが、確かに6体。「感応院」を後にし、「遊行寺」交差点から日比谷花壇大船フラワーセンター方面に繋がる県道302号線・小袋谷藤沢線に出て、東に進み路地を左に折れる。県道302号線・小袋谷藤沢線は、古くは鎌倉山之内往還と呼ばれ、藤沢宿から遊行寺を経て小袋谷に至り、鎌倉街道(現、神奈川県道21号線)と合流する街道だった。鎌倉時代、この街道は藤沢宿から鎌倉へ向かう交通の要衝として位置づけられ小袋谷付近に関所が置かれていたのだと。急な石段を上って行く。左手奥に赤い小さな社が。「大鋸山武士堂 稲荷大明神」。「内陣」。そして次に訪ねたのが、「山王神社」。階段の上には山王神社の朱塗りの鳥居が。藤沢市大鋸3丁目2-29。「山王神社の由緒この山王神社(正式名は、別地山王社:わけちさんのうしゃ)は、旧相州鎌倉郡藤澤宿西村(明治になり西富に改名)の鎮守で、祭神は大已貴尊{おおなむちのみこと}で別名は五穀豊穣・縁結びの神、そして医薬の神といわれる大国主命(おおくにぬしのみこと)です. 俗称として、七福神のひとつ『大黒天』とも言われています。 例祭lは、毎年6月14日に執り行われています。 この山王神社の由緒ですが、南関東の地を治めていた後北条氏が滅ぼされた後、代わって徳川家康が関東の地を治めることになり、江戸城に居を構えました。 その後、京との往来や鷹狩の際の宿泊所(御殿)が.慶長元年(1596年)に現在の藤澤公民館の北側にあった藤沢の氏神で撥塚山王権現社(ばちづかさんのうごんげんしゃ)の境内に造られました。 その御、徳川の天下となった寛永11年(1634年)に.徳川3代将軍家光が朝廷より太政大臣という最高官位を授かるため江戸より京へ上洛するに当り、将軍家光の威光を示す御殿を新築するために、山王権現社は坂戸町の西の丘(旧県立藤沢高校の地)に遷座され、その後.明治初期まで鎮座しておりました. この山王権現社は、明治時代にここの地に藤沢町営実業女学校(県立藤沢女子校の前身)を造るため、白幡神社に移されて合妃されました。 坂戸町の西へ移されて以来、西村・大鋸・大久保町辺りの住民より参拝するに遠いとの声が永らく多く出ていたため、安永9年頃(1780年頃)に遊行寺の藤沢山33世諦如上人によって鎌倉山之内往還(藤沢西村~小袋谷)の街道筋で遊行寺の寺領である西村1番地(現在の大鋸3丁目2-29)に別社を勧誘し、分地山王社が造営されました。それ以来、鎌倉郡藤沢宿西村・大鋸の鎮守さまとして戦前まで璃光の山王様と呼ばれ、例祭には芝居小屋や露天も出て近隣地域の多くの住民の参拝で賑わっておりました。 明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、この山王神社と土地は遊行寺より当時の大門町(大光町の前身)に無償譲与され、現在は地縁団体である大光町内会の所有となっており、大光町のみの氏神となっております。」6月14日に開催予定?の例祭への奉納掲示板。藤沢宿の最初の鎮守で、寛永年間(1624年 - 1644年)山王山(藤沢市本町4丁目8-50付近)に勧請された。安永年間(1772年 - 1781年)藤沢山33第諦如上人が清浄光寺の近くに移転させた。祭神は大巳貴命(おおむなむちのみこと)。境内の石造物群。青面金剛庚申塔は貞享2年の建立。白の縁取りのアジサイも美しかった。更に県道302号線を進むと左手に「正一位 山王稲荷大明神」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.15
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ツアー名称 ブログ 旅行期間------------------------------------------------------------------------------------------------★秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間 その1~38 2019.10.24~10.31★中国・東北地方7名所大周遊8日間 6/19~6/26 2019.06.19~06.26 ★決定版ポルトガル8日間 その1~33 2019.02.18~02.25 北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!★カンボジア縦断満喫周遊6日間 その1~26 2018.10.12~10.17★北京が誇る4つの世界遺産を巡る 北京3日間 その1~12 2018.06.10~06.12★神秘のカラカルパキスタン共和国へ その1~24 2018.05.22~05.29 はじめてのウズベキスタン 8日間★シルクロードの起点 歴史深き古都 西安4日間 その1~18 2018.03.05~03.08★ベトナム世界遺産紀行5日間 その1~17 2017.08.09~08.12★バルト3国感動紀行10日間 その1~30 2017.04.19~04.28★クロアチア、スロベニア6ヶ国周遊 10日間 1~40 2016.04.20~04.29★韓国 釜山、慶州の旅 その1~12 2015.11.15~11.17★とっておきのモロッコ10日間 その1~38 2015.04.16~04.25 サハラ砂漠のオアシスと青の街シャウエンに宿泊★ロシア世界遺産の旅9日間 6/4~6/12 2014.06.04~06.12★中欧とポーランド 6ヵ国10日間の旅 その1~27 2013.09.17~09.27★ロンドン旅行 その1~12 2013.04.25~05.07★文明の十字路エキゾチック・トルコ10日間 その1~23 2012.06.02~06.11★北欧フィヨルド 3ヶ国 周遊8日間 その1~22 2011.07.08~07.15★ネパール :カトマンズ、ポカラ、エベレスト遊覧飛行 (1)~(22) 2010.10.16~10.24★イグアスの滝、ナスカの地上絵、マチュピチュ遺跡 その1~22 2009.06.05~06.14 10日間 ★グラシアス!スペイン8日間 プラス 1~13 2008.06.06~06.14【ブログ開始(2008年)後の海外観光旅行のみ掲載しています。】
2020.06.14
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江の島灯籠 2024へ(その1~11) 2024.08.24盆参りへ 2024.08.16我が家の近くのひまわり畑 2024.07.22湘南江の島の海が割れる・トンボロを見に行く(1/3~3/3) 2024.05.28近所の民家の見事な藤棚 2024.05.05地元の花見(その1~4) 2024.04.13 「藤沢地名の会」・「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」(その1~14) 2024.04.01地元の紅葉の寺・天嶽院へ(その1~3) 2024.03.02今年の「どんど焼き」へ 2024.01.15時宗総本山 遊行寺を訪ねる(その1~9) 2024.01.06「藤沢地名の会」明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねる (その1~9) 2023.12.28 藤沢市民まつり湘南台ファンタジア2023へ(その1~3) 2023.11.27龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠へ(その1~3) 2023.11.24白旗神社・湯立神楽へ(その1~5) 2023.11.19江の島・湘南キャンドル2023:夜空に輝く10,000の 灯りの魔法(その1~10) 2023.11.09 片瀬・諏訪神社例大祭へ(その1~4) 2023.10.034年ぶりの鵠沼【皇大神宮 例大祭】へ(その1~4) 2023.09.29今年も、小出川彼岸花を愛でる(その1~3) 2023.09.26 花應院(その1~5) 2023.09.18令和5年度 藤沢市文書館歴史講座・大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義 を受講(その1~2) 2023.08.16鵠沼・片瀬の史跡を巡る(その1~2) 2023.07.23鵠沼・蓮池を訪ねる(1/2~2/2) 2023.07.21我が藤沢市の交通インフラについて 2023.07.14藤沢地名の会・サバ神社と湘南台地区(その1~9) 2023.07.12今年も「大清水アジサイロード」へ(その1~2) 2023.06.19江の島に続く砂の道「トンボロ」を歩く(その1~6) 2023.05.30今田鯖神社へ(その1~2) 2023.05.03相州 藤沢 白旗神社を巡る(その1~2) 2023.05.01白旗神社の藤の花を愛でに 2023.04.29【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る(その1~6) 2023.04.23自宅近くの桜そして花々を追って(その1~5) 2023.04.01地元の早咲き桜を楽しむ(その1~2) 2023.03.04地元神社への初詣 2023.01.02湘南海岸・片瀬西浜からの富士山 2023.01.02湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出 2023.01.01藤沢市内にある『天嶽院』の紅葉を愛でに(その1~3) 2022.12.27我が地元の『六会イルミネーション2022』へ 2022.12.07辻堂駅前・テラスモール湘南のイルミネーション(その1~3) 2022.12.04秋の白旗神社へ(その1~3) 2022.11.22地元の寺・雲昌寺そして菊花展へ(その1~2) 2022.11.13江の島そして「湘南キャンドル2022」へ(その1~7) 2022.11.06瀧の口竹灯籠へ(その1~2) 2022.10.31今朝の富士山そして夕焼け 2022.10.26小出川の彼岸花を今年も 2022.10.10江の島からのダイヤモンド富士を見に行く(その1~2) 2022.09.12例祭:白旗まつりへ(その1~2) 2022.08.07鵠沼のはす池に(1/2~2/2) 2022.06.24今年も「大清水アジサイロード」へ 2022.06.06今年も地元の桜を愛でに(1/2~2/2) 2022.04.03地元の神社に初詣 2022.01.02湘南海岸の初日の出と富士山 2022.01.01今年も「天嶽院」の紅葉を愛でに(その1~2) 2021.12.13近くのボサ菊を愛でに 2021.11.10小出川の彼岸花を今年も(その1~2) 2021.09.23湘南T-SITEへ 2021.09.06再び「大清水境川アジサイロード」へ(1/2~2/2) 2021.06.06白旗神社の藤の花 2021.04.17日本大学湘南キャンパス の桜を愛でに 2021.03.29地元・引地川の桜 2021.03.28光と色の祭典・江の島「湘南の宝石」へ (その1~5) 2021.01.19遠藤にある曹洞宗の寺院(禅寺)・玉雄山宝泉寺へ(その1~2) 2021.01.17今年も「どんど焼き」へ 2021.01.13今年も遊行寺への初詣、そして境内めぐり(その1~4) 2021.01.06紅葉の天嶽院へ(その1~3) 2020.12.21あるいて。みつけて。ふじさわパブリックアート散歩(その1~6) 2020.11.07湘南Candle2020へ(その1~3) 2020.11.04藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮世絵」展へ(その1~4) 2020.06.24久しぶりに白旗神社へ再び 2020.06.23 藤沢歴史散歩:大鋸~柄沢~渡内~弥勒寺~村岡(その1~15) 2020.06.14藤沢浮世絵館へ(その1~4) 2019.11.02藤沢・龍口寺『龍の口法難会』(その1~3) 2019.09.21藤沢・遊行寺 初詣へ(その1~2) 2018.01.07相州藤沢 白旗神社へ 2018.01.06藤沢・善行神社、鶴嶋天神社 2017.02.08藤沢・西俣野 神明社、御嶽神社 2017.02.06藤沢・立石神社、立石不動尊 2017.02.05藤沢・旧三觜八郎右衛門家住宅(その1~2) 2017.02.03藤沢・用田散策(その1~2) 2016.11.20藤沢・葛原散策(その1~2) 2016.11.18藤沢・長後、下土棚散策(その1~3) 2016.11.07藤沢・高倉、長後散策(その1~3) 2016.10.22藤沢・菖蒲沢散策 2016.10.17藤沢遠藤散策(その1~3) 2016.10.14藤沢・獺郷、宮原散策 2016.10.09藤沢打戻散策(その1~3) 2016.10.04藤沢巡り(藤沢本町~辻堂周辺)(その1~7) 2016.09.06鵠沼散策(その1~3) 2016.08.27 皇大神宮例大祭へ(その1~3) 2016.08.23地元の寺・雲昌寺散策へ 2016.08.22小栗判官・照手姫伝承の里めぐり 2016.08.21 辻堂古道散歩(その1~4) 2016.08.16藤沢宿巡り(その1~8) 2016.08.06江の島 天王祭へ(その1~3) 2016.07.29藤沢散歩3 江の島道へ(その1~4) 2016.06.30藤沢散歩2 大庭城址へ(その1~3) 2016.06.25藤沢散歩1 江の島、そして岩屋へ(その1~4) 2016.06.19俣野別邸庭園へ 2016.04.10常立寺(じょうりゅうじ)へ 2016.02.13再び遊行寺へ(その1~2) 2016.01.30藤沢七福神めぐり 2016.01.28遊行寺へ 2016.01.09歩いてみよう藤沢宿(その1~2) 2016.01.07遊行寺 2015.01.07湘南ねぶた祭り2014 2014.08.312013 湘南ねぶた 2013.08.31小動神社 天王祭 2013.07.21湘南ねぶた 2012.08.27市民まつり(その1~2) 2011.09.26湘南ねぶた 2011 2011.08.20藤沢市民まつり 2010.09.26江の島 瀧の口法難会 2010.09.15江の島への早夕散歩 2010.09.14
2020.06.14
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は6月9日、「旧東海道を歩く」のブログアップも完了し、新型コロナの影響で外出もままならなかったが、6月に入りやや落ち着きを取り戻したので、我が街・藤沢市の「藤沢市文化財ハイキングコース」👈リンク の内、唯一?未だ本格的に訪ねることがなく残されていた場所へのマスク付きの散策に向かったのであった。自宅近くから早朝のバスを利用して、遊行寺前で下車し「藤沢橋」がこの日のスタート地点。藤沢橋交差点手前には、「藤沢橋自動車排出ガス測定局」があった。この建物は一見すると、なまこ壁があり藤沢宿に関する施設の様に思うのだが関係なく、景観への配慮でこの様な外観となっているのであろう。「旧東海道・藤沢宿旧東海道 藤沢宿 遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡江戸 からの東海道を 進むと、東海道第六の宿、藤沢宿 内の遊行寺 橋(旧大鋸橋 ) で境川 (片瀬川 )を越えてから高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大 久保町。橋のたもとに高札場 があり、公定運賃 の定め、キリシタン禁制 など、 徳川幕府 の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江の島 一ノ島 居」が建てられていました。江の島弁財天の川の鳥居 で、東海道と別れて居をくぐれば、 「江の島道 」です。」初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲居をさして 登る春かな」「東海道五十三次 藤澤宿」(隷書東海道)夜の藤沢宿の場面が描かれています。画面右側にある鳥居が江の島道の入口である江の島一ノ鳥居 、画面中央にあるのが大鋸橋 (現・遊行寺橋)です。宿場に着いた人々や客引きなど、様々な人々の様子が描かれ、当時のにぎわいが感じられます。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)です。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます。「東海道藤沢宿成り立ち・しくみ」案内板。「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。藤沢宿 藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。①藤沢御殿 藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。②本陣と脇本陣 江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延元22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。 脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。③問屋場 職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。④見附 見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。⑤高札場 高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。⑥旅籠屋 一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。⑦枡形 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。東海道分間延絵図。「旧東海道・藤沢宿」「江ノ島弁財天 道標」。「江の島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てたれた道標(どうひょう)の一つです。江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(すぎやまけんぎょう 杉山和一、1610~1694)が寄進したと伝えられています、現在、市内外に十数基が確認され、市内所在の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部のとがった角柱形で、その多くが、正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)は、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に移設されていましたが、新庁舎建設にともなう遊歩道の整備により当時の浮世絵類に描かれている江の島道入口の道標を参考として、この地に移設したものです。」「二世安楽」の文字が。正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」の文字が。広重 東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)。「画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。大鋸橋を通っているのは東海道で、この鳥居が東海道から江の島道への入口になっています。橋の上の人物が担いでいるは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で、一行が大山詣の帰りであることが分かります。」「藤沢橋 交差点」。横浜方面を見る。こちらは茅ヶ崎方面の藤沢橋への下り坂。そして、藤沢橋から江の島方面に向かう国道467号線入口右にあったのが「金砂山観世音(きんささんかんのんどう)」。「金砂山観世音」寺標。「鼻黒稲荷大明神」社号標。「緒言夫れ靈驗顕著なる金砂山子育安產帶解觀世音菩薩は今を去る三百有余年前即ち寛永年間に金井清西なる者不思議の靈夢を感じて一宇を建立す參詣者常に群を成し善男善女の利盆感應を蒙ること多し其後天保年間に梶某なる者再築して一層美觀を添え慈德倍々輝けり然るに星移り物換り明治の初年に堂宇廢絕し真浄院に移轉し一堂を新築せんと欲して木材を集めしに不幸十三年の大火の災禍に罹り一燈の冷灰を化す又其後毛利觀道和尚十万の浄財に依り一堂宇を新築せられしも維持の基礎鞏固ならざりし高め綾滅に破したるは痛措に堪るず不肖常に復興の願意念頭を去らざること年あり然るに大非救世の機綠熟せしにや今回有志と相計り往昔安置の砂山に圖の如き堂宇を建立し觀音妙智力の慈德を仰ぎ又當地の舊蹟を復興し繁栄の一助にせんと欲すれども十方信者の信仰カに依らすんば竣工を期し難し故に信徒諸氏は此の車を替して浄財を寄付し起立塔像の巧德を蒙り福聚海無量現受無比樂の美果を得られんことを希ふ 大正五年七月一日 金砂山觀世音」 階段下から観音堂を見る。「観音堂」本堂の左隣に朱に塗られた「鼻黒稲荷大明神」が。実は、性病の一つ梅毒患者が治癒を目的にお参りする神社でもあったのだと。江戸時代、藤沢宿には娼妓が多数いたのだ。鼻黒とは、鼻先が膿んで真っ黒になり、その後「落ちて」無くなるとのこと。藩も厳しく取り締まりをしたそうですが、あまり効果がなかったと。境内にある「嗚呼九月一日」碑。「大正拾弐年九月壹日関東之地大震震源袮在千丹那山震幅方數十里斫地倒家減財損人其被害甚大喩之無物就中禍殃之大為帝都及金港不啻年土火其地域以揺減巨億之物貸殉難之生靈至算十數寓惨鼻之状豈忍説乎哉我藤澤之地亦在其圏中於震動最尤巍然藤澤山堂宇殆倒壊市街家屋亦大半没其姿一望凄然如臨荒墟特損生命者壹百餘名為天地暗澹鬼哭啾々日光有如無回想富時則肌膚生票戰慄不能語嗚呼逝者難追天譴易遣震災以來早既閲七星霜何人對殉難者無一片弔慰之念ロ是乎藤澤町民有志膂謀設一大法筵併建之供養碑以欲教後毘長追憶富時有所自警其擧洵美也矣予聞之賛称不措乃不吝筆勞茲録其梗概以使成其志云爾銘日一大地異揺坤軸來物貲成喪世夢始開獨憐老幼無辜殉災乃壮賛唄薦登靈臺昭和四年九月壹日藤澤山主大僧正他阿尊光」石碑背面上部の碑文は上記の如く漢文ですが、次のような内容が読み取れるのだと・大正12年9月1日に大地震があり、震源の数里四方は被害が甚大であった、・藤沢地方もその範囲内にあり、堂宇・人家は倒壊し百余名が死亡した、・その時から七年目に当たり、藤沢町民の有志が相談して慰霊祭を行い、併せてこの慰霊碑を 建立したことなど。この石碑の左側には金砂山安産子育観世音の石碑もあった。そして「藤澤橋」を渡る。下を流れるのは「境川」。赤い橋が「遊行寺橋」。江戸時代に大名行列が渡ったといわれる橋で、旧東海道が境川を渡るところに架けられていた。擬宝珠のついた赤い欄干のこの橋は、時宗総本山遊行寺の門前の橋である。現在の橋は、昭和35年に造られたPC桁橋である。「境川」石灯籠。境川というのは、かつて武蔵と相模の境ということ。こちらは「境川」の下流方向。滝川という小さな川が左手から合流。「藤澤橋」を渡り、最初の路地を右に入る。境川に合流する滝川に架かる舟玉橋を渡る。大鋸(だいぎり)2丁目の住宅街を進む。右手にあったのが「船玉神社(ふなたまじんじゃ)」。「船玉神社祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)です。日本武尊の奥方、女神である。船玉とは船霊のことで、船中に守護神として祭る神である。日本武尊が走水(横須賀)から房総に渡ったとき、荒れ狂う海に身を投じて日本武尊を助けたという故事から船の航行安全を守る神として崇められるようになったと。神社前の道は鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。昔は江の島からこの付近まで舟が出入りしたと言われ、鎌倉三代将軍の源実朝が舟を造らせた材木を切り出した所と伝えられていますここは大鋸(だいぎり)と言う地名ですが、「大鋸(おおが)ひき」と言う職人たちが住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたと言われています藤稲荷大明神(ふじいなりだいみょうじん)この道10メートル先を右折階段を登り山の上にあります。藤稲荷は大鋸の御幣山(おんべやま)の西のはずれにある。藤沢宿最古の稲荷だそうです。」船玉神社「本堂」。扁額「船玉大明神」。「内陣」。境内には小さな社もあった。その横に二宮金次郎像も。船玉神社改築記念碑。この石碑は??「船玉のみ社まえへ・・・もみぢうえる はやかんれきをむかえんと言われての心あらしふくよの中ますます そだて大木へ」 ・・・つづく・・・
2020.06.14
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境川に架かる鷹匠橋。橋の欄干には蝶が舞うステンドグラスの如きガラス絵が。橋の欄干には同テーマの作品が。鷹匠橋を渡り対岸に。こちら側にも様々な入のアジサイが。ここは「藤沢・大和 自転車道案内図」。神奈川県道451号藤沢大和自転車道線(かながわけんどう451ごう ふじさわやまとじてんしゃどうせん)は神奈川県藤沢市鵠沼海岸から神奈川県大和市下鶴間に至る一般県道として認定された自転車道である。大規模自転車道の一路線。通称境川自転車道。一般に境川サイクリングロードとも呼ばれる。整備済み区間の大部分が境川の右岸(西岸)に沿っている。更に様々な色、種類のアジサイをカメラで追う。サツキ?も負けじと。一面のピンク。ヒルガオ(昼顔)も開花を初めて。そして帰路の道路沿いのアジサイ。八重咲きのピンクのガクアジサイ。緑のアジサイ。こちらも「アナベル」という品種でもう少しすると白いきれいな花色になるらしい。こちらは、既に純白のアジサイ。鎌倉・明月院の「明月院ブルー」に似て。高圧線鉄塔を見上げて。こちらは白のカシワバアジサイ。そして白い縁取りがあるアジサイも。青。ピンク。更に赤のアジサイの群生地が。実物はこの写真より赤い記憶が。赤いガクアジサイ。そして帰宅して、我家の庭のアジサイ。玄関先の花々。ご近所から各種の苗をいただきました。キンシバイ(金糸梅)。黄色一色。いっぱいある黄色のおしべを「金の糸」に、5弁の花を「梅」にたとえたのです。既に我がミツバチ?が花粉団子を足につけて。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2020.06.13
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先日・6月6日の早朝に、我が家から車で10分ほどの場所・藤沢市大鋸を流れる境川の両岸に植栽されているアジサイ(紫陽花)を愛でに今年も行って来ました。ここ大清水橋から鷹匠橋までの約400mは、「大清水境川アジサイロード」と呼ばれているのです。まずは青の色彩の変化を楽しめるアジサイの株に出会う。アジサイ特有のアントシアニンと補助酵素だけなら花は赤くなり、それに土壌から吸い上げたアルミニウムが加わると青くなると言われています。アルミニウムは酸性の土壌に溶けやすいので、酸性の土壌なら花が青くなり、中性ないしアルカリ性なら花は赤くなるのだと日本は酸性の土壌が多いのでアジサイは青い花をつけることが多いのですが、土壌の一部がアルカリ性だったりすると、そのアルカリ性の土に張った根から栄養を得ている花だけ赤くなることがあるのです青から紫そして赤への変化が。白から青、紫への目覚め。そして青から紫へ。中心の白い箇所が本当の花。こちらはピンクのガクアジサイ。「ガクアジサイ」の揚合、中心部にある小さなツボミのような部分が「真花」と呼ぱれる花で、私達が花びらだと思っている部分は、ガクが発達したもので「装飾花」と呼ばれているのです。「装飾花」の真ん中に小さな花がありますが、おしベもめしべも退化しているので、実は結ばないのです。「ガクアジサイ」の名は、「真花」を「装飾花」がまるで額縁のように縁取っていることから名付けられたのです。こちらは白のガクアジサイ。ガクアジサイの園芸品種の一つの「墨田の花火」と呼ばれる種類でしょうか。八枚の花びらが重なりあい、星型になった装飾花が、飛び出すように咲いています。その様子を、隅田川の花火大会にたとえられて名付けられたのだと。装飾花の色は、白にほのかな青紫色が入っていました。境川沿いの「大清水境川アジサイロード」。遠くに見えるのが藤沢市民病院。紫のアジサイも色が七変化。毎年6月には、全国各地で「あじさい祭り」が開催され、園内のあちこちで咲く大輪のあじさいを求める多くの観光客で賑わうのであるが、今年は新型コロナの影響で中止が続いているのである。近寄って。青のガクアジサイ。道路の左側にあったのが、「湘南教育会館」。ここ湘南地区の教育文化の振興発展に寄与することを目的に教育講座及び教育相談等を開催するとともに、湘南教育会館の維持、教職員の福祉厚生事業を行う場所であると。そして民家の庭先にあったのが。花の根元が黄色いのでしょうぶ(花菖蒲)であろうか。ヤマユリ。ピンクのカサブランカ?そして野鳥の餌場も。「アナベル」という白いアジサイも。再び可憐な白とピンクのアジサイ。ガクアジサイの中心の花も開いて。こちらも。そして「大清水境川アジサイロード」終点の鷹匠橋に到着。 ・・・つづく・・・
2020.06.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして『三条大橋』東詰が前方に。『三条大橋』に遂に到着したのであった。やったぁ!!2020年3月23日、12:58:34 『東海道53次 旧東海道を歩く』 完歩。『日本橋』をスタートし、延べ32日目での『三条大橋』到着。延べ492kmを『完歩』したのであった。東詰南前方には『花回廊」と刻された平成11年(1999)6月建立の石碑が中央に。丁度この前が、京阪電車の三条駅、地階からの南西側出入口になっていた。「「花の回廊」整備について平安建都1200年を契機に「京の川づくり」が着手され、その一環として鴨川東岸の三条~七条の間に、「花の回廊」を京都市とともに整備しました。「花の回廊」は、鴨川の川面を眺めながら四季折々の花や木を楽しめる、水と緑の散策路となっています。また、散策路には、京都を代表する鴨川が、私達の共有財産として後世の人々にも広く親しまれるよう、公募した俳句・短歌の碑も設置しました。山紫水明の歴史都市・京都の象徴として、いつまでも美しく愛される鴨川であることを、皆様とともに祈念します。」「花の回廊」とは、鴨川左岸約2kmに渡って桜の木を植樹し花見の名所を作ったのだ。その際三条大橋袂に記念碑が建てられたのだと。場所は、鴨川沿いの三条通~七条通が「花の回廊」と呼ばれる地域。桜の咲く時期には、多くの花見客で賑わうのだが、今年はダメ。『歌碑』(右) 我が心 きよめ流るる 鴨川は 優しき母の まなざしに似て 堀井由紀子『句碑』(左) かもがわに どこからきたの ゆりかもめ 東詰から『鴨川』の下流を見る。『鴨川』はこの後に『桂川』と合流し、最後は『淀川』に合流するのだ。歩いて来た東海道五十三次の地図を描いた手拭い(袋井宿で購入)を持っての『三条大橋』・東詰から記念撮影。旅友と二人で。『広重作・東海道五拾三次大尾 京師 三条大橋』、「江戸より124里半(約492km)、この加茂川に架かる三条大橋を渡れば京都である。三条大橋は長さ57間2寸、巾4尺1寸で、一部は石製の基礎杭を初めて使った橋であるという。橋の上には雅やかな姿も見られ、そこを渡る人々の取り合わせもおもしろい。遠景には東山36峰と比叡山が描かれている。当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であったという。」しかし、遠景の山の位置がおかしい。広重はここ『三条大橋』は訪ねていないので想像で描いた絵であるとの説が有力であるようだ。「大尾」とは「最後、終局、終わり」の意。『三条大橋』の南側高欄の東端の宝珠柱には漢文の文字が。ネットで調べてみるとこの刻銘の内容は『都名所図会』から原文のまま引用されているのだと。「洛陽三条之橋、至後代化度往還人、盤石之礎入地五尋、切石之柱六十三本、蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代、奉増田右衛門尉長盛造之」洛陽三条の橋は後代に至るも往還人を化度し、盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十五本なり。蓋(けだ)し日域に於いては石柱の濫觴なり。天正十八年正月日、豊臣初之御代に増田右衛門尉長盛奉じて之を造る。(京都・三条のこの橋は後の時代までも往来する人の助けとなる。非常に安定し揺るぎない基礎は地中5尋(ひろ)の深さがあり、石材の柱を65本使っている。おそらくは日本において、橋に石柱を使う第一号である。天正18年正月、豊臣初代(=秀吉)の時に、増田長盛が奉行となりこれを建造した。)の意であると。『三条大橋』を渡り、西詰に向かう。現在の『三条大橋』は、長さ74m、幅15.5m。「擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた三条大橋由緒がこちらは日本語で『三条大橋』は、明治45年三条通拡張のとき幅員を倍加して14.5mに、橋長は101mに、橋脚はコンクリート造としたが、橋面は従来の風格をもつ木造橋であった。たまたま昭和10年6月の洪水にあい、橋の一部と擬宝珠一個を流失、この水害に鑑み鴨川を改修し、川底を深くしたので、天正以来の改修で、礎石は取り除かれた。重ねて今回この橋の改築に際し、橋を鴨川と疎水の二>部に分け、橋長は鴨川部74.03m、疎水部16.97m、幅員はいづれも15.5mとし、橋面構境コンクリート床版として架け替え、この擬宝珠も新に追補した。」『三条大橋』の中央附近の擬宝珠で再び記念撮影。そして西詰にあった『弥次喜多像』と案内板。『弥次喜多像』。以前は下記の如きパネルもあったようだが、今回は?撮り忘れであろうか?「弥次喜多像この像は。江戸時代後期に十返舎一九が書いた滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公である弥次郎兵衛と喜多八をモデルにしたものです。「東海適中膝栗毛」とは二人が伊勢詣でを思い立ら、数々の失敗や滑稽を繰り返しながら、東海道を江戸から京、大阪に旅する様子を描いた滑稽紀行文です。物語では、大阪に行く前に三条大橋に近い宿屋に泊まって、ハシゴを買わされる話になっています。このブロンズ像は、三条小橋商商店街が、二科会の会員で彫刻家の小山由寿氏に制作を依頼し平成六年に建立し、西院春日神社内にある旅行安全・還来成就の神である還来(もどろき)神社に御祈祷をして頂きました。「撫で石「無事に還り来る」の信仰で有名な還来神社にならい、旅の安全を祈願Lて「撫で石」を設置しました。昨今、旅行中に何が起こるか分かりません。旅行に来ておられる方、また、これから旅行に行く方、どうぞこの撫で石を撫でて旅の安全を研願し、楽しい旅にましょう。また、この石は牛若丸(源義経)で有名な鞍馬から産出した鞍馬石で、酸化鉄の含有により玉葱状剥離が現れ、鉄錆色が全面を覆っているのが将漱です。」 【https://okamotoorimono.com/jizo/sanjoohashijizo/】より『撫で石』。「三条大橋商店街町定わたしたちは、京の玄関口 としての歴史 と文化 の蓄積を大切に守りまちに住み、働き 、集ううすべての人がカをあわせ、訪れてよし、働いてよし、住んででよしの三条小橋 を目指して、ここに「三条小橋商店街町定 」を制定します。 一、東海道 の正面玄関 としての歴史性と、まちなか への導入部 としての界限性を大切にする 都心をつくります。 一、三条大橋 、 三条小橋 、ヒト・モノ・コトの出会いが生まれる都心をつくります。 一、人にやさしく、環境にやさしく、人とモノの息づかいが表出する都心をつくります。 一、安心と安全と心地よさと、歩く人の気持ちをわる都心をつくります。 一、美しいくらし・美しいなりわい・美しいまち、美しい京の洗練 を守り育みます。 一、清らかな水の流れに親しみ、四季の移ろいを感じることのできる心をつくります。 平成十七年二月 三条小橋商店街振興組合」「三条大橋 擬宝珠刃傷跡三条大橋西側から二っ目の南北擬宝珠に刀傷があります。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刃傷です。三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。」西詰の『地蔵堂』。『三条大橋』を西詰南から。西詰北には『天正一七年・・・』と刻まれた石柱が。「旧三条大橋の石柱高欄に付けられた擬宝珠には、三条大橋は、豊臣秀吉に名により増田長盛が奉行となって、天正一八年(一五九〇)正月に日本で初めての石柱橋として架けられたと書かれています。この石柱はその時の橋脚に使われたものと考えられ、『天正一七年津國御影七月吉日』と刻まれていることから、現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかります。なお、現在の三条大橋の下流側の橋脚にも当時の石柱が使われています。」「高札場高札場とは幕府が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板に書き、人目を引くように高く掲げる場です。絵図は、文化二年に三条大橋西詰の御高札場(現近江屋ビル前広場)に掲げられていた高札です。当中島町には天保十二年にこの高札の文面の写しが残っています。それを見ますと、大半が正徳元年(一七一一)に定めた事が多く、親兄弟と仲良くし、家業に専念せよと書かれた「親兄弟の札」や、人足(荷役などの力仕事をする労働者)に担がす荷物の重さや料金が書かれた「駄賃の札」などがあります。他にはキリシタンの不審者を発見すれば銀五百枚の褒美が出るとした「切支丹 の札」、毒薬、偽薬の売買を禁じた「毒薬の礼」、放火を見つけたらすぐに届けよと書かれた「火を付る者の礼」もあります。文化二年の「唐物抜荷之儀の札」は、密輸品が見つかれば差し押さえ、役人が立会いの元、封印すると書かれています。」『三条大橋』の北側歩道を引き返す。 池田屋騒動の刀傷が残る擬宝珠三条大橋西側から二つ目の南北の擬宝珠 ( ぎぼし ) に刀傷があります。 これは、 池田屋事件の時についたのではないかといわれています。『鴨川』上流側を見る。中洲の緑の上には人々の姿がこの日には、まだ長閑な光景が。『三条大橋』の中央付近から『鴨川』上流を再び。再び『三条大橋』東詰南に戻る。「三条大橋この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。また、擬宝珠(ぎぼし)は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度(けど)とせしむるもの也、磐(ばん)石の礎は地に入ること五尋(ひろ)、切石柱は六十三本也(以下略……)」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74メートル、幅15.5メートル。なお、橋の西詰め北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。」『駅伝発祥の地』碑。「日本初の駅伝は,1917(大正6)年.京都三条大橋から東京上野不忍池までを23区間にわけて開催された。2017年(平成29)年4月29日はちょうど100年となる。今や国際的にも普及発展し「EKIDEN」という語が世界共通の競技として認められるようになった。駅伝発祥から100年を迎えたことを記念して.この地に記念碑を建立した。 2017(平成29)年4月29日 一般財団法人 京都陸上競技教会」『駅伝の碑』「駅伝の歴史はここに始まる我が国、最初の駅伝は、奠都50周年記念大博覧会『東海道駅伝徒歩競走』が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。」同じ碑が上野公園の不忍池東岸にもあったことを想い出したのであった。駅伝の襷をデザインしているのであろう。<東海道駅伝徒歩競走≫日本で最初の駅伝「日本のマラソンの父」といわれる金栗四三が、長距離ランナの育成を目的に発案したといわれる。三条大橋から東京の上野不忍池まで、約508kmを、3日間昼夜を通して、23区間に分けて行われた区間三条大橋一草津一水ロー北土山一亀山一四日市一長島一名古屋一知立一藤川一豊橋一新居一見附一掛川一藤枝一静岡一興津一吉原一三島一箱根一国府津一藤沢一川崎一東京・上野不忍池『東海道駅伝徒歩競走』の全コースは下記であったと。柳の木の下に『京の川づくり』の銘板碑が立っていた。「千年の古都京の変遷を眺めつつ悠久に流れる鴨川を守り「美しい心と自然を後世に」伝えるのはわたしたちのつとめです」そして帰路に。「三条京阪」駅から地下鉄に乗り「山科」駅へ。そしてJR琵琶湖線に乗り換え瀬田駅へ。瀬田駅から徒歩にて、旅友の愛車の待つホテルへ向かう。途中、丸亀うどんの店で腹ごしらえ。そして愛車に乗り換え、ひたすらの帰路へ。時刻は14:55。国道1号線を利用して四日市方面へ。前方に近江富士を見る。鈴鹿トンネルを潜る。車窓からの夕焼けを楽しむ。時間は17:51。そして国道23号線からの四日市・東邦ガステクノ(株) 四日市のガスタンクに描かれた絵は万古焼の茶碗で伊勢茶を飲む小僧の姿が。そして「YOKKAICHI」の街並みも描かれて。そして前方にコスモ石油 四日市製油所の煙突が見えた。辺りも暗くなり、国道23号線・四日市市天カ須賀新町の手前の「冨洲原橋」を渡る。そして旅友の巧みな運転でひたすら東海道・国道1号線を走り、茅ヶ崎に無事到着。時間は0:45。そして午前01:15過ぎに無事自宅に到着し、今回の『旧東海道を歩く』の全行程を完了したのであった。振り返れば、2018.02.15に日本橋を出発し、品川宿まで歩いたが、その後半年以上のブランクがあったが、2018.10.26に品川宿からの『歩き』を再スタート、そして2019.01.04に箱根を下り三島宿まで辿り着き、その後は、夏場の6月~9月中までは、熱中症の危険もあり休みとしてその後9月中から本格的に再スタートし、今日のゴールに至ったのであった。『旧東海道を歩く』をスタートさせたきっかけは 2016.05.07に小田原・三枚橋から箱根の石畳を踏みしめ、箱根関所まで歩いた事。その後2017.10.13~2018.3.30まで車の移動ではあったが『四国八十八箇所お遍路の旅』に今回の旅友Sさんと挑戦し、これを結願したのであった。次に何に挑戦しようと考えた折に『旧東海道を歩く』を決断したのであった。目的は、旧東海道を歩くことによって、旧東海道沿いの風景を楽しみ、また旧東海道にまつわる歴史・文化を学ぶこと、そして歩くことで健康維持をしたいと考えたのであった。更には、齢(よわい)70を目前として、何か新たな目標を持ちたかったのであった。現役時代から目標達成のための「SMART」の法則が好きなのであった。1. Specific(明確な) 2. Measurable(測定可能な) 3. Achievable(達成可能な) 4. Relevant (関連性がある) 5. Time-bound (期限のある)旧東海道には様々な場所にかつての面影を残す場所や歴史的な史跡、更には数々の伝説・物語・秘話などが残っていて、それを今更ながら多いに学ぶことが出来たのであった。そしてそれぞれの『旧東海道を歩く』の前日までには、IphonesのGoogle Mapに歩くべき旧東海道のルートや訪ねたい神社仏閣にチェックマークを入れて望んだのであった。黄色のマークが歩くべき旧東海道のルート、赤が訪ねようとした史跡や神社仏閣そして緑が訪ねようとした史跡や神社仏閣の入口なのであった。特に神社仏閣の入口を以前確認しておくことは、時間の無駄を防ぐには必要な事であった。(最初は入口が判らず、寺の周囲を1周して漸く境内に辿り着いた事が何度かあったのだ。「日本橋」から「新居宿」までは、全て日帰りでの『旧東海道を歩く』を繰り返した。毎回、早朝のJR東海道線に乗り、その日のスタート近くの駅で下車し『旧東海道を歩く』を8~9時に開始した。そして16~17時までひたすら歩いたのであった。途中の昼食の時間ももったいないので、コンビニでオニギリやパンを購入しこれを食べながらの歩きがほとんどであった。浜松以西は、日帰りは無理であり、初日はスタート地点まで旅友Sさんの愛車で経費削減も兼ね有料高速道路の利用は避け、往復とも現国道1号線を中心に一般道をひたすら利用したのであった。そして毎回2日間の『旧東海道を歩く』を計画し、移動日を含め2泊3日の行程を繰り返したのであった。ホテルは無料朝食付格安ホテルをネットで予約、現地での朝夕の移動は主に電車とし当日の『旧東海道を歩く』を完了した後は愛車で戻り、次のホテルまで愛車で移動したのであった。旧東海道を歩くだけでは面白くないので、旧東海道沿いの神社仏閣・旧跡等を訪ねることも積極的に行ったのであった。よって毎日35,000歩から40,000歩を歩き、旧東海道だけの距離の1.5倍以上を毎日歩いたのであった。江戸時代には日本橋から京まで、一般的に、徒歩で13日から15日前後かかっていたと。江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492km。15日とすると、1日平均約33kmも歩く計算になるのだ。おそらく当時であれば、季節にもよるが、川止め、舟便の欠航、悪天候などでその所要日数はかなり伸びたのではないかと容易に想像出来るのであった。因みに、元禄年間に日本に滞在したドイツ人医師ケンペルは12日、幕末に日本を訪れたオランダのお抱え医師シーボルトは17日の旅であったと。この両名は、自らの脚で全行程を歩いたのであろうか?そして我々は32日間(移動日を除く)の旅なのであった。もちろん、旧東海道沿いの神社仏閣・旧跡等を訪ねなければ、もっと早く到着したであろうが・・。旅友から下記の歩数データを頂き、自分の歩幅で換算し纏めて見た。全歩数は約125万歩となり850km~900kmを歩いたことになるのだ。これは旧東海道沿いの神社仏閣、名所旧跡を意識的に訪ねた事によるのだがなんとか目標の2020年春先・3月末までにの目標をクリアーしたのであった。そして今回の『旧東海道を歩く』はツアー参加ではなく、個人計画に依るものであった為に『旧東海道を歩く』の『完歩』の「EVIDENCE(証)」を入手出来ないのであった。EVIDENCE(証)があるとすれば、このブログの内容、写真そして一緒に歩いた旅友Sさんなのであろうが。よって、上記の如き『完歩証』を自ら作り、これをA4サイズの写真用紙に印刷し額縁に入れて「四国八十八ヶ所巡り 結願証」と共に我が家の床の間に掲げているのである。江戸日本橋から京都三条大橋までの長い道のりの中で、見知らぬ土地での人々や寺のご住職や神社の神主との一期一会の出会い、その土地の風土や歴史、さらには旧東海道沿いに次々と現れる数多くの史跡や歴史的建造物に触れ、写真を撮りまくったことは、ネット情報やガイドブックの文字からは到底得られない貴重な体験、そして感動に満ちた時間であったのだ。更に帰宅してその都度、歩いて来た行程の復習を兼ねての備忘録としてのブログをアップし東海道53次の全ての行程について完遂出来た、充実した日々なのであった。最後に、この『旧東海道を歩く』の移動に関して、愛車を提供してくれ、移動行程の全てを運転してくれた旅友のSさんに熱く御礼申しあげます。終わりにあたって、東海道53次にご関心のある方は下記にアクセスください。★東海道五十三次(全解説)https://www.youtube.com/watch?v=Ygd4PngrLfY★東海道を歩く(全宿場ガイド) https://www.youtube.com/watch?v=yLNNmtr_QXY ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.06.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『インクライン』を後にして、仁王門通りを『蹴上』交差点まで坂道を上る。小さな休憩広場にあった『付近観光案内図』。その隣には『京都市国際交流会館』が280mの場所にあるとの案内板が。「kokoka(ココカ)」とは、「国際(kokusai)交流(koryu)会館(kaikan)」の頭文字で、公募によりつけられた愛称とのこと。そして右手下にあったのが『蹴上発電所(けあげはつでんしょ)』。蹴上発電所は、京都府京都市左京区粟田口鳥居町1番地に設置され、関西電力が管理する水路式・流込み式の水力発電所である。 琵琶湖第一疏水から取水し、琵琶湖疏水に放水している。運転開始から125年以上経った今なお、現役の発電所として電気を送り続けているのだと。「1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1疏水に関連して、翌1891年(明治24年)6月に第一期蹴上発電所が運転を開始した。営業用としては日本最初の水力発電所である。当発電所の電力は、近接する蹴上インクラインの動力源として用いられ、近隣に配電されたほか、1895年(明治28年)に開通した京都電気鉄道(後の京都市電)でも使われた。1912年(明治45年)、第2疏水の完成に伴い第一期蹴上発電所が取り壊され、第二期蹴上発電所が開業した。1936年(昭和11年)には、第一期発電所の跡地に第三期発電所が建設された。1942年(昭和17年)に京都市から関西配電に現物出資され、2017年現在は関西電力の発電所となっている。」とウィキペディアより。左手の1段高い場所に合ったのが『ソティスウェスティン都ホテル京都』。右手にあったのが『立正佼成会 京都教会』。左手奥にあったのが『佛光寺本廟』。『佛光寺本廟』の『山門』をズームで。左手に『合槌稲荷神社 参道』。「合槌稲荷大明神ここには刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える。宗近は信濃守粟田藤四郎と号し、粟田口生條坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助を得て名僧小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて、明神を祀ったのがここだともいう。なお宗近は 平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の土を使ったといわれる。」合槌稲荷神社の先左手に『粟田神社』の一の鳥居があった。粟田神社は、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として創建したと云われている。「粟田神社由緒古くは山城国愛宕郡下粟田郷に属し、粟田郷は上粟田(北白川・浄土寺・鹿ケ谷・岡崎)下粟田(三條以南)に分かれ、 この地は上古のころ孝昭天皇(人皇五代)の皇子天足彦国押人命を祖とする一族が住み鉱物を穿ち粟や瓜を主食として、 中古熱田神宮が奉祀されるや、一族熱田の社人として移り、土地名を残すのみとなれり。 その氏神として上古より祠ありしが人皇五十六代清和天皇貞観十八年(八七六)悪疫流行のため、 奉行藤原興世に勅して都の東、白雲の泡立つ郷の霊地に一社を建つ。」これ当社の社伝による創記である。 又伝う往古八坂神社を感神院と称するに対し、当社を感神院新宮と称し、祇園会無き年は当社の祭礼として祇園会の代わりとなす記録あり。 依りて当社代祭礼は祇園会の始めの形なりと云う。」訪ねなかった『本殿』をウィキペディアより。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE】より手前に『三条神宮道』交差点。「平安神宮」、「知恩院」への案内表示が。神宮通りの『平安神宮 大鳥居』をズームで。三条通神宮道西北角にあったのが『平清の道(へいせいのみち)』碑。[東] 平清の道 [南] 左 八坂神社から清水寺[北] 右 南禅寺から平安神宮 [西]特許庁登録 平成九年十一月 と刻まれていた。「平清」とは平清盛のこと?それとも平清経?『三条神宮道』交差点を先に進むと、街道左手のパークウォーク京都東山というマンションの前に『坂本龍馬お龍「結婚式場」跡』が建っていた。側面に『此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡』と刻まれていた。「坂本龍馬お龍「結婚式場」跡当地は青蓮院の旧境内でその塔頭金蔵寺跡です。 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。 お龍(鞆)は1906年まで生きていました。 一般には慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。 が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。 この地が選ばれたのはお龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。 その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。 しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。 龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。 当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟としてここに建碑します。」ここがパークウォーク京都東山というマンションの入口。暖簾には「丸に花菱」の家紋と浅井氏と書かれていたがどの様な関係があるのだろうか?前方に歴史を感じさせる石橋が。『白川』に架かる『白川橋』の袂に、『三条白川橋道標』が建っていた。正面に「是よりひだり ちおんいん ぎおん きよ水みち」この道標は、延宝6年(1678)建立で市内に現存する最古のものであると。ここを左に折れて『白川』の流れに沿って進む。白川は、滋賀県大津市および京都府京都市を流れる淀川水系一級河川鴨川支流の一級河川である。流域のほとんどは京都市東山区および左京区に属している。我々の目的地は『明智光秀の塚』。『白川』沿いの柳の芽吹きを楽しみながら。美しい新緑が青空に映えて。一本目の白川『一本橋』が前方に。『一本橋』手前左角に石碑が現れた。『東梅宮 明智光秀墳』」 刻まれた弘化2年(1845)の道標。ここを左折すると明智光秀の塚があった。『明智光秀の塚』案内板。左手に『明智光秀の塚』。「明智光秀の塚天正一〇年(一五八二年)六月二日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させました。しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引きあげてきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、十三日に山崎(天王山)で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れます。そしてその途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれています。光秀の首は、家臣によって隠されたといわれます。ですが吉田兼見という公家が記じた日記『兼見卿記』によると、光秀の首は十五日までに発見されています。十八日からは、粟田口(左京区)で重臣の首とともに晒されました。晒されたのは数日で、二十二・二十三日には近くに埋め、塚を築いたことも記されています。実際、『雍州府志』や「都名所絵図」など江戸時代の京都にっいて記した地誌類には、その塚が蹴上附近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されています。多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえます。その後、江戸時代中期の安永~天明初年ごろ(一七七〇~八〇ごろ)に、蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されてきました。以来、この地が、明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首もここに埋められたと伝えられています。また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚があります。」『明智光秀の塚』のこじんまりとした小さな社。『長存寺殿明窓玄智大禅定門』と刻まれていたが光秀の戒名であると。『子孫が解き明かす 明智光秀の実像』案内板。著者の明智憲三郎氏についてウィキペディアには「明智光秀の子の於隺丸(おづるまる)の子孫であると称している。しかし、明治まで一族は明田(あけた)の姓を名乗っていて、曾祖父が伝承品を添えて政府に明智姓への復姓を願い出て改名したという経緯だと云う。明智光秀生存説(天海=光秀説/天海=秀満説)を唱えた明智滝朗は祖父。」と。『明智光秀の塚』への路地の入口にあった、天保年間から続いている和菓子屋『餅寅』。『光秀饅頭』の文字も。様々な饅頭、和菓子が。『光秀饅頭』、食べればよかったと・・・時既に遅し。 【https://ameblo.jp/k224679/entry-12163129424.html】より一本目の『一本橋』。こちらは、有名な方の橋ではなく、橋の幅も広い。石が3つ並べられていた。橋上で人同士ならぎりぎり行き違いできる幅があった。明治時代までは、この橋も下流の一本橋と同じ幅だったと。石の橋を一幅足して三本にして渡りやすくしたのだと。『一本橋』を渡る。柳の新緑の清々しさを楽しむ。わずかに風に揺れて。そして三条通りに戻り、この『旧東海道を歩く』もエピローグへと。右手に紙専門の老舗『紙嘉』が。『三条大橋』の文字も気のせいか大きく。『東山三条』交差点。そして『三条京阪』交差点を渡る。左手にあったのが『高山彦九朗皇居望拝之像』そして手前に『高山彦九郎先生皇居望拝之跡』碑。三条大橋の手前の交差点左角に土下座して御所を遥拝する姿。高山彦九郎は、群馬県の出身で18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、京都御所に向かって拝礼したと。「高山彦九朗皇居望拝之像江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。 今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(一七四七~一七九三)の姿を写したものである。 高山彦九郎は、群馬県の出身である。 十八歳の時以来、前後五回、上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向って拝礼した。 その姿は 大御門 その方向きて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧と和歌に詠まれた。 明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。 後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遥かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は鴨の水アサノサ と謡いつがれた。」『高山彦九郎歌碑』をズームで。寛政三年三月十五日 恐れみ畏れみ恪み謹みてよめる 正之「われをわれと しろしめすぞや 皇(すめろぎ)の 玉の御声の かゝる嬉しさ」『高山彦九郎正之先生御直筆歌碑』標柱もズームで。寛政三年三月十五日恐れみおそれみつゝしみしみて謹みてよめる「われをわれと しろしめすぞや すめろぎの 玉のみ声の かゝるうれしさ」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『光照寺』を後にすると、右手に地蔵堂があり、この先府道143号線の三条通に合流するまでに6つの地蔵堂があった。山科区日ノ岡朝田町の旧東海道を進む。非常に狭い旧東海道を進むと左手にも地蔵堂が。地蔵堂が多くみられる街道に家屋は建っているが、その数軒は明らかに空き家であった。祠の外にも石仏が安置されていた。日ノ岡西部町地蔵堂。右手前方にっ道標と新しい案内板が。『旧東海道』道標と解説板。「旧東海道(日ノ岡の峠道)この道は、江戸時代には東海道と呼ばれ、日本を代表する街道の一つであった。江戸幕府を開いた徳川家康が整備したものである。東海道では幕末まで車の往来が禁止されてぃゑに近い大津京都開けは例外であった。人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分けて、車道には舗石が並べられ車石と呼ばれていた。当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。そこで木食正禅上人が享保一九年(一七三四)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との段差を無くしたり、峠の頂上を据り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、元文三年(一七三八)に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。またその後、木食正禅上人は、峠道近くに「梅香庵」を建て峠道の維持管理をすると共に井戸を掘り、水を亀の口より落として量救水と名付け、旅人や牛馬の乾きを潤したり、石の竃を設けて湯茶の接待をしたりした。」左手に『栄花山荘』が。ここは山科区北花山山田町。「150 years house」の表示が入口に。古民家を改修した庭・裏山付シェアハウス兼イベントスペース。茶会を中心に開かれたイベントを催し、新たな文化の創造・発信を目指していると。左手のここにも地蔵堂が。2体の石仏が安置されていた。そして右下から来る三条通(府道143号線)に合流した。「旧東海道」と「150 Years Old House Eikasansou(栄花山荘)」案内板も。左手前方に荷車のモニュメントと車石が置かれた広場があった。『車石広場』すぐ先左手の道端に小ひろばが設けられ、4個の車石の実物や、俵を7俵乗せた台車と解説板があった。実際に使われたと思われる車輪も。「平成9年10月の京都市営地下鉄東西線開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通の四車線化及び歩道整備の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛馬道を模した広場を設置する」と解説している。石には車輪の通る箇所が線路上に凹面に刻まれていた。俵を7俵乗せた台車。「車石平成9年10月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した本事業の完成を記念して三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛車道を模した広場を設置する。」車輪も。荷車のモニュメント。こちらは俵を6俵乗せた台車。1俵は何処に?三条通りの坂道を上って行く。左手に案内板が。「粟田口刑場跡この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠に続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間(1804-17)には、車道に車石舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶應3年(1867)には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者によって何基もの供養塔が建てられました。明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。しかし、明治初期の廃仏毀釈や現代にいたる開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8年~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6年~8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。」粟田口刑場跡を過ぎると、東山ドライブウェイの高架手前右手に地蔵堂があった。地蔵堂の中央には地蔵菩薩立像が安置されていた。「左卍(ひだりまんじ)」は大乗仏教などの伝統的なシンボルとして使用されているのだ。東山ドライブウェイ高架橋の下をくぐる。東山ドライブウェイは三条通りの左手の坂を上ると将軍塚に至る。将軍塚は桓武天皇が平安京の造営時、王城鎮護のため、征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、 都(西方)に向けて埋めたと伝えられるところ。東山ドライブウェイの高架下を過ぎると、下り坂にさしかかる。ここから地名は京都市山科区から東山区に変った。そして左手にレンガ造りの建物の蹴上浄水場(けあげじょうすいじょう)があった。蹴上浄水場は、日本最初の急速ろ過方式の浄水場として、明治45年(1912)、京都で初めて給水を開始した施設であるのだ。「蹴上」の地名の由来は「源義経が牛若丸と呼ばれていた頃、鞍馬寺で金売吉次(伝説上の人物の可能性あり)という商人に出会います。1174年。義経が彼の案内で奥州平泉へと向かう途中、一行は、山科の日ノ岡峠の日向(ひむかい)大神宮へ道中の安全祈願をするため立ち寄りました。その後、日ノ岡峠の清水(現在の蹴上)で義経が供の者との別れを惜しんでいた時です。平家の武者・関原輿市重治(せきはらよいちしげはる)と9人の従者が馬に乗って通りかかり、彼らの馬が、水溜りの水を義経に蹴りかけ、義経の衣服を汚してしまいます。晴れの門出を台無しにされた義経は、無礼を詫びるように迫りますが、武者たちは平家の威光を笠に着て、かえって居丈高な態度に出ます。そこから両者の争いとなり、ついには義経が興市の家来たち9人を斬り捨て、與市の耳と鼻を削いで追い払ったのです。この、馬が水を蹴り上げたエピソードが蹴上の由来となりました。」と。『蹴上浄水場 水質管理センター』当寺の給水能力は1日68,100m3であったが、その後、水需要の増加に対応するために、昭和37年(1962年)11月には、創設期の第1系統の改良とともに、新たに第2系統が新設され、給水能力が1日198,000m3になったと。10年以上前に仕事で訪ねた浄水場なのであった。「蹴上のつつじ」で有名な蹴上浄水場なのだ。GW頃に開花すれば多くの人々が。しかし今年は・・・???。 【http://gottuan7.blogspot.com/2019/05/blog-post_7.html】よりゴールの『三条大橋』の文字が道路標識に現れた。ここを目指して日本橋から490km近くを歩いて来たのだ。岡崎は、京都府京都市左京区の南部に存在する地域のこと。右手にあったのが『日向大神宮』社標と『青瀧山 安養寺』の寺標が建ってた。参道を進むと大神宮橋の手前に2基の常夜燈があり、参道を15分ほど登ると手水舎の前に出て、拝殿・外宮・内宮と続いているのだと。『日向大神宮』は、第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられている。境内奥には、天岩戸の戸隠神社があり、神田稲荷神社の裏から山道を登ると伊勢神宮遥拝所があるようだ。『蹴上浄水場』に沿って下って行く。右手にあったのが地下鉄東西線の「蹴上駅」の出入り口。そして右手に赤レンガのトンネルが姿を現した。トンネルの入り口の「雄観奇想 (素晴らしい眺めと優れた考え) 」の文字。「ねじりまんぼ「ねじりまんぽ」は三条通から南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、明治二十一(1888)年6月に完成しました。高さ約3m、幅約2.6m、長さ約18mで「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉です。トンネルの上部に敷設された、台車に載った船」が行き交うインクラインの重さに耐えられるように、内壁のレンガは斜めに巻かれ、トンネルはインクラインと直角ではなく斜めに掘られています。トンネルの東西には、トンネルの完成を祝い第3代京都府知事の北垣国道が揮毫した扁額があります。西口の「雄観奇想」は「見事なながめとすぐれた考えである」、東口の「陽気発処」は「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝つことができる」という意味です。このような形状のトンネルは全国的に施工例が少なく、また多くが老朽化や廃線等で撤去されました。「ねじりまんぽ」は、明治時代の土木技術を物語る貴重な遺産といえます。」「京都一周トレイル」案内柱。「京都一周トレイル」は、京都の東南、伏見桃山から、比叡山、大原、鞍馬を経て、高雄、嵐山、苔寺に至る全長約83.3キロのコースと、豊かな森林や清流、田園風景に恵まれた京北地域をめぐる全長約48.7キロのコースからなると。赤レンガのトンネルを潜る。トンネルを出ると右側の石段の上にあったのが『琵琶湖疏水工事殉職者碑』。「殉職の碑この碑は、琵琶湖疏水の建設工事中に事故や病気により殉職された方を弔う為、昭和16年11月、琵琶湖疏水事業を所管していた京都市電気局の職員により建立されました。明治23年に竣工した琵琶湖疏水は、我が国最初の事業用水力発電所や運河、灌漑用水等に利用され、東京遷都により産業が衰退した京都のまちの復興を果たしてきました。現在も京都市民の命を支える水道や発電、防火用水等に広く利用されています。この琵琶湖疏水の建設工事は、主任技術者である田邉朔郎を中心に外国人技術者の手を借りることなく実施し、当時の日本人の学び得た技術を最大限実地に応用した画期的かつ大規模なものでした。題字は当時のの京都市長加賀谷朝蔵によるものです。京都華頂ライオンズクラブ 結成40周年記念事業琵琶湖疏水工事 殉職者之碑 京都市電気局」『インクライン(傾斜鉄道)』琵琶湖疎水は、明治時代初期に琵琶湖の水を京都へ引き、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防災などに利用して京都の産業振興を図るために開削された。途中の蹴上船溜から南禅寺船溜までは落差が36mあるため、この間はインクラインという傾斜鉄道を使用した。公園内には、写真の『インクライン(傾斜鉄道)』が復元され、疎水工事の総括責任者・田辺朔郎像、琵琶湖疎水工事殉難者碑が建っていた。因みに、インクラインとは英語の「incline」で「〔物が〕傾く、傾斜する」の意味から。『インクライン(傾斜鉄道)』上で和服姿で記念撮影する女性たち。卒業記念写真なのであろうか?桜が満開であれば。こちらにも。「インクライン(傾斜鉄道)大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として伝承されてきました。明治2年(1869)の東京遷都以降、衰退する京都経済の復興策として京都府三代目知事北垣国道、青年技師田邊朔郎、測量技師嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年(1885)8月、水力動力、舟運、かんがい、精米水車などの多目的な効用をはかるため、疎水開削工事に着手しました。インクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した舟から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に乗せて昇降させる目的で建設されました。当初、蹴上から分水した水力動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていました。その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国発の蹴上発電所を建設することになりました。この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)など産業用、電灯用として活用されました。明治27年(1894)には伏見区掘詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客約13万人を記録しました。しかしながら、時代の流れで大正4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人大に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年に現在の山科駅が開設されたため、京津間の足としての疎水の機能は実質的に失われることとなりました。一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録しました。やがて、陸送化がどんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に下り疎水舟運60年の任務を終えました。こうして、琵琶湖疎水、インクラインは文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たしました。平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた遺産として後世に長く伝えるため形態保存しています。概 要着工 明治20年(1887)5月竣工 明治23年(1890)1月運転開始 明治24年〔1891〕11月(以上発毛所営業退転開始)約22m幅 約22m勾配 15分ノ1所要時間 10~15分電動機 直流440V、70Aドラム工場 両禅寺船溜北側(白い建物)」『インクラインで使われた台車の復元』👈リンク後方から。「三十石船と蹴上インクラインこの「三十石船」は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用されてきた運輸船を復元したものです。明治から昭和にかけては、琵琶湖疏水を通航する運輸船により、滋賀と京都の物資(米、薪炭、醤油、酒など)の物流が盛んに行われていました。琵琶湖疏水の蹴上船溜から南禅寺船溜までの間は、高低差が大きいため、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、この坂を昇降させていました。本インクラインは、琵琶湖疏水関連施設として、平成8年に国の史跡に指定されています。この「三十石船」は、京都滋賀県人会様から、同県人会の創立50周年を記念して、平成22年3月に寄贈を賜り、蹴上インクラインの当時の面影を再現するために、船の「積み荷」につきましても、平成6年3月にご寄贈いただいたものであります。」明治40年6月時の掲載写真を見てみると、蹴上げのインクラインが写っていた。南禅寺方面の道も、平安神宮への道も、その地形に変わりないことがわかる。船が上がれない急な坂を貨車を使って引っ張り上げるための線路で、大津から来た船をそのまま貨車に載せて、次の水路へと運んでいたことが、理解できる写真なのであった。インンクラインに昇降する舟(写真は琵琶湖疎水記念館のもの)。こちらの写真の時代は大正期らしい。 【https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201706150000/】より『蹴上インクライン』QRコード 案内板。QRコードをスマホで読み込んでみてください。因みに、移動用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転。通過時間は10分から15分だったと。『琵琶湖疏水』👈リンク ルート図。『第1疎水縦断面図』。南禅寺船溜から琵琶湖方面への最初の登りが標高差36mの、この蹴上インクラインであることが解る。怒涛のごとく琵琶湖の水が流れていた。この場所の水路勾配は1/15であると。琵琶湖の取水口から蹴上までの距離は約8kmとのことだが、この間の高低差はわずか3.4m。現代のような精巧な測量器械のない時代に、正確な勾配を計算しながらつくられていることに驚愕したのであった。蹴上から先は山の斜面を下らなければならない。水平距離にして582m、高低差は36mであると。水路は暗渠にすることができるが、舟を通すことは出来ない。そこで舟を運ぶために考えられたのがインクライン(傾斜鉄道)なのであったと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.09
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我が趣味の養蜂場のある菜園のスイカも順調に生育しています。見守ってくれている案山子のズボンも破れワイルドな姿になっています。そろそろお色直ししなければ可哀想なのですが、なかなか・・・・ネットで種を購入し、苗に育てて定植しました。既にソフトボール大に成長しているスイカもあります。そしてこちらは実を下部につけた雌花。我がミツバチが受粉を手伝ってくれていますが、念の為、雄花をちぎって人工受粉しました。スイカは受粉した日から35日~40日、 植え付けをしてから85~90日 ほど経ったものが、 収穫に適していると言われているのです。昔、母は人工受粉をした後に、日付の書いたTAGを蔓に取り付けていました。私は6月6日を覚えておくつもりでいます。よって収穫開始時期は7月11日から私の誕生日の7月16日前後になりそうです。既に旅友のSさんから、スイカの予約のメールを受信しているのです。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次緩やかにカーブを描く山科区御陵進藤町下りの道を進むと、右手に黒塀の美しい家や長屋門の旧家があった。中二階には虫籠窓も。旧家の向かいには、二体の地蔵尊が祀られた『地蔵堂』が。長屋門のある民家。直ぐ先で、三条通(府道143号線)に合流し右に進み東海道本線の高架下をくぐって行った。山科区御陵別所町の交差点まで進む。横断歩道を渡った前方の冠木門のモニュメントが『天智天皇陵』の入口と勘違いし横断歩道を渡ってしまった。この冠木門は『陵ヶ岡みどりの径』の入口であることに気が付き引き返し、再び横断歩道を渡り道路の反対側に戻る。「周辺観光案内図」。横断歩道を渡り戻ると正面に『山科警察署 御陵交番』があった。「御陵」の読みは「ごりょう」ではなくて「みささぎ」と読むのだと。入口左にあった『日時計』をズームで。日本最初の時計を考案した天皇の徳を称えてこの『日時計』が建てられたのであろう。実際は日時計ではなく、漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、時刻に合わせ鐘や太鼓をならしたと。天智天皇は時間を知らせる報時制度をも作ったのだ。ちなみにその漏刻を設置した日は6月10日、つまり時の記念日として制定されているのだと。右手に天智天皇(てんぢてんのう、てんじてんのう)陵の参道が北に向かって延びていた。樹木が生い茂る参道を400mほど入ると、京都で最古の天皇陵である山科陵と呼ばれる八角墳(上円下方墳)があったのだ。参道口にある宮内庁の禁札「天智天皇 山科陵一.みだりに域内に立ち入らぬこと一.魚鳥等を取らぬこと一.竹木等を切らぬこと 宮内庁」樹木に覆われた長い参道を進む。ここにも人の姿はなかった。飛鳥時代の第38代天皇である天智天皇を祀る「天智天皇 山科陵」は数多い京都の天皇陵の中でも最古のものとされる由緒ある存在で、考古学的には御廟野古墳という名の古墳。以前は○○天皇陵という呼称だったのが、近年になって○○古墳と名を変えている場所があるのだ。古来からの伝承で○○天皇陵とされてきたものでも、実際には被葬者が断定できない場合が多いのだとか。昨年・2019年7月に世界遺産登録された「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」の、かの有名な前方後円墳の仁徳天皇陵も現在では大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)という呼び名が優勢になっているのだ。前方にあったのが天皇陵入口門であろうか。長い参道が途切れると、前方に玉垣で囲まれ、その玉垣の中に鳥居が立つ『天智天皇の陵墓(みささぎ)』が現れた。白砂に囲まれ、鳥居の奥はうっそうとした森になっていた。一般人が入れるのは白砂の手前まで。誰も入れない白砂にも、きちんと手入れがされ綺麗な砂紋が描かれていたのであった。大津近江京で西暦671年に崩御された天智天皇はここ山科陵に1300年以上にわたって眠っているのであった。ズームで。『天智天皇』は第38代天皇で、在位期間は668年2月20日 - 672年1月7日。陵所としては京都市山科区にあるこの山科陵に治定されている。一般には中大兄皇子として知られいる。中大兄皇子と言う名前で知られ、645年7月10日に中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こした(乙巳の変)。日本と関係が深かった百済が唐・新羅に滅ぼされたため、援軍を送り戦ったが敗北(白村江の戦い)。その後に都を大津京に遷都しているのだ。『天智天皇山科陵』碑。★天智天皇の略年譜★を【https://ameblo.jp/morikuma1103/entry-12573955638.html】 より。◎626年:舒明天皇の第2皇子として誕生◎645年:6月、乙巳の変。蘇我宗家を滅ぼす。◎645年:12月、難波長柄豊碕宮へ遷都◎646年:改新の詔◎653年:孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて板蓋宮へ遷る☆654年:10月、孝徳天皇崩御☆655年:1月、母・斉明天皇即位(皇極天皇重祚)◎659年:阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる☆660年:百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。◎661年:7月に斉明天皇が朝倉橘広庭宮にて崩御◎663年:7月、白村江のたたかいにて唐・新羅連合軍に大敗◎667年:3月、近江大津宮へ遷る◎668年:1月、第38代天皇として即位。◎671年:12月3日崩御『天智天皇山科陵』の平面地図。 【http://moundtomb.blogspot.com/2015/03/blog-post_22.html】より「天智陵」は山囲みの地勢で、墳丘下段に「方形壇」が設えられて、墓室が八角形墳丘の外に開く、八角墳丘部対辺間距離が約42mで、横穴式石室(墓室)全長が約24mと大規模な八角墳の分類に含まれていると。 【http://19481941.blog.fc2.com/blog-entry-261.html?sp】より築造年代は7世紀末~8世紀。古墳の大きさは、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルであると。 【https://akiokun.muragon.com/entry/16.html】より宮内庁書陵部月輪監区山科部事務所。参道を戻る。そして再び三条通りを渡り旧東海道に入る。先に進むと狭い路地となるが、要所要所に黄色い旧東海道標示があるので、これに従って進んでいく。この道標がなければ、ほんとうにこの道筋でいいのかと疑ってしまうような道筋なのであった。道幅の狭い路地の如き旧東海道を更に進む。更にここ山科区御陵鴨戸町の旧東海道を真っ直ぐ進む。更に坂道を上って行った。ここが東海道中で最後の峠越えで、峠の名前は「日ノ岡峠」。更に急な峠道を上って行くと『亀の水不動尊』の案内表示を見つける。『木食上人(もくじき)』はこの峠道の改修に心血を注いて、元文3年(1738)から3年がかりで安心して通れる道を完成させたと。その手前のフェンスの中に大きい方の道標が。「右妙見道」と刻まれ、南東方向にある妙見宮を指しているようであった。『亀の水不動尊』入口『亀の水不動尊』の赤い提灯が下がる門。亀の水不動尊は、元文3年(1738)木食正禅養阿上人が道普請の際、人足寄場として建てた梅香庵跡であると。そしてここの井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の喉の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待したと。『亀の水不動尊』。亀の口から水が出ていた。『亀の水不動尊』そして『亀の水不動尊』の直ぐ先に『大乗寺』の寺標があり、参道の石段を上がって行くとそこに小さな建物の『大乗寺』があった。『大乗寺』は、約300年前に京都七本松に建立され、その後、禅宗系の寺から法華宗の寺に改宗されたと伝えられているのだと。「南無妙法蓮華経 法華宗 大乗寺」寺標。「酔芙蓉の寺 大乗寺大乗寺は、戒禅比丘隆韶大和尚が、約300年前に七本松の内野(現在の上京区鳳瑞町)に開き、禅宗系の寺から法華の寺に改宗されたと伝えられています。 その後は、代々尼寺として受け継がれ、無本山の寺でしたが、約200年前に法華宗の大本山本能寺の末寺になりました。 昭和55年に現在の地に移転したものの、無住の荒れ寺となっていた大乗寺でしたが、平成4年以降、移り住まれた住職により、参道整備などの復興が進められるとともに、 寄贈された酔芙蓉の苗100本ほどから挿し木して育て、今では1500本もの酔芙蓉が群生する「酔芙蓉の寺」として知られています。」急な石段参道を上って行った。『山門』。『大乗寺 本堂』は民家のごとし。『水子地蔵尊』『酔芙蓉観音』の入口左には『歌碑』があった。『源宗千歌碑』「山里は 冬ぞさびしき まさりける 人目も草も かれぬと思へば」「小倉百人一首 第二十八番👈リンク山里は 冬ぞさびしき まさりける 人目も草も かれぬと思へば 源 宗于朝臣歌意 山里は(他の季節でさえさびしいが)冬にはさびしさが、いっそうまさって感じられることだ。 人の往き来もとだえてしまい、草木も枯れてしまうと思うと。鑑賞 ここ、山科の里は三方を山々に囲まれ、南に開けている閑静な地で都の人々が余生を過ごすのに 適切なところであったろうかと思います。 第五十八代光孝天皇の皇孫源宗于も、賜姓皇族の一人としては不遇であったとされる生涯の余生を この山科の地で送ったのでありましょうか。 世にある人から見れば、四季それぞれに趣もある山里ですが、定住する身にとっては、本当に淋しい 片田舎です。 官途にあった頃には、それなりに寄り集まった人々も今は少ないままに他の季節でも淋しい田舎ですが 冬ともなると荒涼の世界、草も枯れ果て人の訪れも途絶えて淋しさも限界に達します。 過ぎ来し方を振り返り、歌人宗于は何と思ったでありましょうか。 疲れ果てた人生荒野の旅路を重い宗于はいま真冬の茅屋に臥して、一人静かに御佛の目に迎えられて いる自分を見出したのでは。(寄進主 近藤清一)」『光孝天皇歌碑』「君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」「小倉百人一首 第十五番👈リンク君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ 光孝天皇歌意 あなたのために春の野に出て、若菜を摘みとっているわたしの着物の袖に、雪がしきりに 降りつづいているよ。鑑賞 何んというお優しい大御心の御製でありましょう。春まだ浅く、特に降雪を見る 肌寒い日ではありますが、息災であるようにと、臣下一同に 賜る若菜を摘みに野に出で給うという。その御心には、本当に肌の寒さも感じない ほのぼのとした、慈父の情を感ずるでは ありませんか。この御製を口ずさむと、自ら御歴代天皇の御仁慈が国民われわれの胸に 伝わって来るのであります。 遠い昔の平安朝の御代にあった光孝天皇この御製と拝誦して感激するのですが、更に近くは、 今からわずか五十年前のこと。 わが国が戦争に敗れ、1億国民が飢餓に頻した時に昭和天皇は皇家の私有財産と 敵将マッカーサー元帥の前に差し出されて国民に食を与えてほしいと懇願されました。 国氏のための食料を求められたのであります。 真に真に有難き極みであります。」『酔芙蓉観音菩薩』「酔芙蓉」が咲くと。 【http://tomonakayama3.ikora.tv/e1229759.html】より『青龍歌碑』「清浄を 得されば花も 世の塵と おしゆこころの 吟の道ゆく」『日蓮上人歌碑』「立ちわたる 身のうき雲も 晴れぬべし たえぬ御法(みのり)の 鷲の山風」『大乗寺』の先の旧東海道にあった『光照寺』案内。左へ上る石段があり、石段脇には圓光大師御旧跡碑が建っていた。この階段を上り詰めると、木曽義仲軍が京へ乱入した時に、法然上人が避難されたという頂後山光照寺があるのであった。階段もここまでで引き返す。「光照寺 當寺は大宇日岡の地にあり、頂後山と琥し、浄土宗にして、京都の金戒光明寺末であり、寺格は三十等である。本尊は阿弥陀如来を安置し、創立の年代は詳かでない。寺傅によると、宗祖法然上人乱を避けて此地に来り住居せしとき、自身の木像を彫刻して、末世までもその舊蹟たることを示さんとて遺し置いたとのことである。其の後僧観誉閑月と云えるものが、上人の舊蹟を慕って堂宇を再建して之れに住した。因って此の僧を富寺の中興開山と云う。境内は八十坪を有する。」『光照寺 本堂』。 【https://yaokami.jp/1266625/】より『光照寺』から旧東海道に戻ると、右手に地蔵堂があり、この先府道143号線の三条通に合流するまでに6つの地蔵堂があったのだ。いずれも大日如来と思われる石仏や地蔵尊が安置されているのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.08
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一昨日、我が家の横の我が趣味の菜園から、妻がキュウリを収穫してきました。そして妻が、1本のキュウリを我が目の前に。良く見ると、キュウリ本体から1枚の葉っぱが。葉っぱは、トゲトゲのある場所がやや膨らんでその場所から出ているのであった。しかも出ている葉っぱは、本来のキュウリの葉っぱとは形が異なる葉っぱなのだ。下記の双葉、本葉とも異なる、葉っぱの表面がやや凸凹の細い葉っぱ。こちらは、種を撒いた後の、最初の双葉。こちらはキュウリの本葉。私にとっては初めて見る不思議な姿であるためネットで調べてみたら、多くの投稿があったのだ。「キュウリから葉っぱ」👈リンク で検索してみるとリンクの如きページに。「キュウリの実から葉や弦が出てくることがありますが、これは野菜の「全能性」という性質によるもの。全能性とは野菜のどの部分も葉・茎・花・根になる性質のことです。原因はキュウリが何らかのストレスを受けている(気温・乾燥・病気)と発生すると言われていて特に珍しい現象ではなく、食べても問題はありません。」と。要は「時々ある突然変異。本来はイボになるのが葉になったのでは。温度や栄養の違いで出ることがある」ということらしい。葉の出ている場所で切ってみました。「表面の皮の一部が盛り上がって、葉が出ているキュウリ」なのであった。そしてこの後、モロキュウで食べてみたが「味は普通、美味しかった」のであった。本当に葉っぱだけ突如生えた「面白キュウリ」なのであった。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次京都市山科区四ノ宮南河原町を流れる『四宮川』に架かる橋を渡る。『四宮川』は南流して山科川となり、山科地蔵の古里である六地蔵を通り宇治川に流入する。橋を渡ると左側にあった『地蔵堂』。この先、いたるところにこのような地蔵堂が安置されていたのであった。『四宮川を渡ると右手に臨済宗南禅寺派の『徳林庵 地蔵堂』があった。『臨済宗南禅寺派 徳林院』寺標。「山科地蔵と徳林庵山科地蔵は、小野篁(たかむら)公により852年に造られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に開創した。境内には、人康親王、蝉丸供養塔(室町時代)、茶所の四休石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。」『わらべ六地蔵尊』。「徳林庵柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派 の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一木から刻んだ大地蔵の一といわれ京の町から諸国諸地方へ向う東遊道の出口にあたり物詣や疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり地蔵菩薩信仰として栄えた。また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。江戸時代には検校位を有する盲人が毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を奉じ親王の御霊を慰めたという。」「山科地蔵徳林庵旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要六か所に安置された地蔵のうちの一体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。六地蔵巡り850年の伝統を持つ行事で、8月22日、23日に都の主要街道にある伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)そして、山科地蔵(徳林庵)の六体の地蔵を巡り、お礼を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるとされています。」『徳林庵山門』。『人康(さねやす)親王供養塔』 ・ 『蝉丸供養塔』。人康親王(831-872)は、平安時代前期、仁明(にんみょう)天皇の第4皇子。 天長8年生まれ。母は藤原沢子。上総(かずさの)太守、弾正尹(だんじょうのいん)、常陸(ひたちの)太守を歴任し、貞観(じょうがん)元年病気のため出家し、ここ京都の山科(やましな)に山荘をかまえた。貞観14年5月5日死去。42歳。法名は法性(ほっしょう)。名は「ひとやす」ともよむ。また、親王は琵琶の名手であったという。そして何故、『蝉丸』の名が連名で?ネットで調べてみると「一説によると、宇多天皇の皇子、醍醐天皇の第四皇子、また人康親王と同じ仁明天皇の時代の人ともいうのだが、その人物像は謎のままである。逢坂の関に住み、琵琶を好み、その腕は名人の域を超えていたというのも、人康親王と共通するところである。そんな処から、蝉丸は人康親王でなかったのかという異説まで飛び出しているようである」と。そして宝筺印塔の後ろには、2体の地蔵菩薩像が。『手水舎』。『伏見六ぢざう』碑には『南無地蔵尊』と。『徳林庵』の横の路地の桜は開花を始めていた。『人康親王御墓(さねやすしんのうのはか)』道標。繰り返しになるが、人康親王は・生没年:天長8(831)年~貞観14(872)年・続 柄:(父)仁明天皇、(母)女御藤原沢子仁明天皇の第四皇子であり、同母兄に時康親王(光孝天皇)がいる。成年後に弾正尹兼常陸太守を務めたが、病により、職を辞し山科諸羽山の麓(現在の四ノ宮)に隠遁した。また、親王は琵琶の名手であったという。享年42歳。桜が開花を始めた路地の入口にあったのが『十禅寺』寺標。この路地の先、京阪電鉄京津線を渡った突当りに『十禅寺』があると。『十禅寺』は聖護院門跡の末寺で、平安時代の859年、仁明天皇の第四の宮人康親王を開山として創建され、この辺りが 「四の宮」 と呼ばれる所以となったと言われている。 境内の東北隅の樹の下に開山人康親王の廟があるのだと。開花を始めた桜をカメラで追う。更に進むと右手に『大谷派 圓光寺』寺標があった。参道を入って行くと京阪電鉄京津線を渡った突当りに、真宗大谷派の圓光寺の長屋門の山門が見えた。『圓光寺寺標』の一軒隣に『諸羽神社鳥居』があった。石鳥居に架かる扁額も『諸羽神社』。「諸羽神社天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。貞観(じょうがん)四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。 この後、正殿(せいでん)に応神天皇、脇(わき)殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。 当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。 神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。山科区四ノ宮中在寺町」その先右手に『四ノ宮中在寺町地蔵堂』。左手にあったのが『毘沙門尊天 是より北へ八町』と刻まれた道標。右手の安朱保育園の隣にあったのが浄土宗西山禅林寺派の『九品山 来迎寺』。『浄土宗西山禅林寺派 九品山 来迎寺』寺標。来迎寺は、鎌倉時代の嘉禄3年(1227)西山国師により建立され、元亀元年(1570)織田信長と戦った浅井長政の兵に焼かれ、寛永8年(1631)に再建された。安朱保育園は、来迎寺の敷地内にあるようだった。『来迎寺』の直ぐ先の右手エスタシオン・デ・山科三品の前に『東海道道』標が建っており、「東海道 大津札の辻まで一里半 京三条はし迄一里半」 と刻まれていた。傍らには車石があり、入口奥には 「御菓子司三品老舗」 の看板があり、昔は菓子屋さんだったようである。前方に『山科駅前』交差点が。右手角にあった「旧東海道(旧三条街道)この地を東西に貫く街道は、古代から都と東国を結ぶ日本の大動脈であった。関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、支配確立の一策として、道路制度の改革と整備に乗り出した。この時整備した五街道の一つが東海道である。起点である江戸の日本橋から終点の京都三条大橋の間に宿場が五十三箇所あったことから、これらを総称して東海道五十三次といい、葛飾北斎や歌川(安藤)広重の浮世絵や、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」など、絵画や文学の題材ともなった。五街道では幕末まで車の往来が禁じられていたが、都に近い大津・京都間だけは例外で、人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分け、車道には雨後のぬかるみに車輪が取られないよう、車石という石が敷き並べられた。今の山科駅前にはかつて奴茶屋という茶店があり、近世の地誌に紹介されるほど著名であったが、平成二十一年に惜しくも廃業した。また、当地の西方、日ノ岡峠の麓には、東海道では市内唯一の一里塚が設けられていたが、残念ながら残っていない。」『山科駅前』交差点を渡ると右手奥にあったのが『京阪 山科駅』。山科駅前交差点を渡ると、右手のホテルプラトインシティ京都山科の植栽の中に『旧東海道碑』が建っていた。『旧東海道碑』の直ぐ隣に『明治天皇御遺蹟碑』が。「明治天皇御遺蹟碑この石碑は、明治元年(1868)9月、明治天皇東幸の際、同2年3月の御還幸及び同11年10月の御還幸の3回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹毘沙門堂御領地内にあった 「奴茶屋」(現RACTO・A2階)に御注輦されたことを記念して建立された。」右手前方に石碑が。『明治天皇御遺蹟碑』から程なく、街道右手に高野山真言宗の『吉祥山 安祥寺』寺標が。『安祥寺』は嘉祥元年(848)仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により入唐僧・恵運によって創建された。寺標からは東海道本線を越えた山裾に位置している。寺標の直ぐ奥に地蔵堂があり、大日如来と地蔵尊が安置されていると。『安祥寺寺標』の直ぐ先の十字路に南北に流れる『安祥寺川』に架かる大津畑橋があった。左手に虫籠窓のある旧家が。その向かいにあったのが『愛宕常夜燈』。『愛宕常夜燈』の向かいにには『地蔵堂』があった。二体の地蔵尊が祀られているようであった。『愛宕常夜燈』から程なく右手に浄土宗西山禅寺派の『弘誓山 當麻寺』が。『當麻寺 山門』。『本堂』。「弘誓山 當麻寺永観堂禅林寺を本山とする浄土宗西山禅林寺の寺院である。派祖西山空上人が天福2年(1234)に創建と伝えられている。本尊は「山科大仏」とも呼ばれる像高2.6mの寄木造の丈六阿弥陀如来像である(昭和59年京都市文化財に指定)。寺宝の當麻曼荼羅は「観無量寿経」という経典を絵で説いたもので、古代インドのマガタ国の「王舎城の悲劇」と称される親子間の悲劇を描いた「韋題希夫人物語」を題材として釈迦が夫人に説いた阿弥陀様と極楽世界の様子を表現している。奈良・當麻寺の當麻曼荼羅に基づいて室町時代末期から江戸時代初期に制作された。縦3m、横2.25mで平成28年6月に3度目の保存修理が行われた。極楽世界の鮮明な色彩が残っている。境内、正面には「やすらぎ観音さま」が安置されている。」本堂脇の『やすらぎ観音』。境内の石仏群。旧東海道を進むと左手のクリーニング丸江の先の路地角に『五条別れ道標』があった。 ここは三条通りと五条大橋の追分で、道標の北面には「右ハ三条通」 、東面には「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐ満きよみず道」 南面には「宝永四丁亥年十一月」と刻まれていると。ここ五条別れ道道標から京都三条大橋までは約6㎞程の距離。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.07
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昨日6月5日の17時頃、マスクをした郵便配達の方が我が家のポストに、あの「アベノマスク」を届けてくださいました。安倍首相が各世帯に「布マスク2枚配布」を発表したのが確か2020年4月1日。そして昨日6月5日に漸く我が家に届いたのであった。「みなさまへ みなさまには、コロナウイルス感染拡大防止に向けた取り組みにご協力いただいていることに、感謝申し上げます。感染拡大を防ぐため、これまでどおり「3つの密(密閉、密集、密接)を避けていただくとともに「新しい生活様式jを実践いただくようお願いします。その際、目分は感染者かもしれないという意識をもっていただき、症状がない人でもマスクの着用をお願いします。 この度、一住所あたり2枚の布マスクを配布いたします。十分な量でないことは承知しておりますが、使い捨てではなく、洗剤を使って洗うことで、再利用可能ですので、ご活用ください。」「新しい生活様式」の実践例。①一人ひとりの基本的感染対策 感染防止の3つの基本②日常生活を営む上での基本的生活様式このマスクは洗っていただくことで、再利用できます。布マスクの利用・洗濯方法新型コロナウィルスを防ぐには。日常生活で気をつけること縦95mm✕横135mmの布マスクが2枚、ビニール袋に入れられて。報道では今回の「アベノマスク」配布について、かまびすしく、その大きさ、効果や経済性について論じられているが、どうしたらこの21世紀型の疫病であり、人類の生存に大きく関わる課題そして医療システムを破壊する全く新しいタイプの疫病に立ち向かい、一人でも多くの国民を救えるか、ということに集中すべき時なのに、この問題が政治利用されて国民が分断される方向に向かっていることに甚だ疑問を感じているのである。そんな中、今回の「布マスク」、「2枚郵送」について、的確に説明してくれているページ👈リンク があったのでここに紹介させていただきます。製造、品質管理、配送等に関わったすべての方々に感謝し「大切に」使わさせていただきます。-------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次追分道標を右に旧東海道を進む。追分町自治会館前に『追分町標柱』が。「この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に当たっていました。追分の名は、このような街道の分かれ道で、馬子が馬を追い分けることからきたものです。なお、江戸時代、付近の街道沿いには、鬚茶屋町、南北追分町の三か町が並んでいました。」 と記されていた。『追分町標柱』の直ぐ先右手に高い『山門』が姿を表す。真宗大谷派の『放光山 閑栖寺(かんせいじ)』の『鐘楼門』。その門脇にある『東海道』道標と『車石・車道』の説明駒札。「車石・車道東海道大津・京都間三里(約12㎞)の道には、物資を運送する牛車の通行を楽にするために、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。これが車石で、溝は牛車の頻繁な通行によって擦り削られて出来たものである。文化2年(1805)には、画期的な車石施設工事が行われ、歩車道分離が整備された。この付近は、京に向かって右側が車石の敷かれた車道で、左側は人や馬の通る人馬道であった。人馬道は、旅人の安全の確保のために、一段高く設けられていた。境内には、当時の状況を一部復元して保存している。」『車石』。『放光山 閑栖寺』寺標と『鐘楼門』。『閑栖寺 本堂』。再び『宝暦時代期 車石本堂内陣 余間基礎石 二基 斜め溝 一基』文化二年(一八〇五)以前の宝暦年間(一七五一~一七六四)に西原宗佐エ門が用いたとする車石。元禄2年(1689)和風句碑「大津絵の源流 追分絵追分の 絵師もしらしな けさの春」緩やかな下り坂を進む。『閑栖寺』の先の国道1号線と西大津バイパスの合流地点の脇にプラスチックの鞘堂が現れた。『上横木町地蔵堂』。国道1号線側に回ると京銘菓で知られる「井筒八橋本舗」の追分店があった。玄関には名水「走り井」と、大津絵発祥の地碑が建っていた。江戸時代にこの水で作った名物「走り井餅」を食べ、のどを潤したと。駐車場には坂上田村麿像と天智天皇像が。坂上田村麻呂は、桓武天皇から征夷大将軍を任じられたほか、清水寺(京都市東山区)を創建したとされ、京都市山科区の西野山古墓に埋葬されたとみられる。石像は台座も含み、高さ約7mと。急ぎ足で旧東海道に戻る。『旧藤尾小学校跡地』碑が建っていた。地蔵堂の先左手筋角に小さな道標が建っていた。道標には 『牛尾山を指していると思われた。『法厳寺』は、牛尾山の中腹にある寺院で創建は不詳であるが、奈良時代の創建と伝わっており、かつては清水寺の奥の院と言われ、通称を牛尾観音と呼ばれているのだと。左手には連子格子の旧家そしてその先に蔵が。旧家の板壁の年輪の板目模様の見事さに感動。こちらは蔵の板塀。『煌めき大津賞 都市景観部門受賞』振り返って。直ぐ先で国道1号線に突き当たり、旧東海道は分断されるが、横断するには手前の横断歩道橋を渡らなければならなかった。歩道橋上から国道1号線の大津方面を。山科方面。電波塔であろうか。歩道橋を渡り暫く進み前方の三叉路を右に進む。『旧東海道マップ』を確認。三叉路にあった横木一、二丁目『住宅表示区案内図』。『車石』案内板。「車石大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきまよした。江戸時代中期の安永8年(1778)には、牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。京都の心理学者脇坂義堂は、文化2年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけて約12㎞の間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ、牛車の通行んき役立てました。これを車石と呼んでいます。」『車石』絵図。その下にも『車石』案内。「旧東海道をお歩きの皆様へ「以前この地は近江の国藤尾村横木と言われました。その横木とは牛車や大八車が泥濘で通行に大変な苦労をしたので、堅い丈夫な木を横に敷き詰め荷車の通行に役立っていたので、その名前が付いたと言われています。しかし、荷物の重さで直ぐに取り換えなくてはならず、以後花崗岩の石に取り換えられ車石となりました。」別の場所にも、同様な案内板が。「旧東海道をお歩きの皆様へ江戸時代この地は近江の国滋賀郡藤尾村北上ゲ田、(以後横木)と言う地名でした、現在の地名は大津市横木1丁目です。近江米を京都に運ぶ重要な街道で水車を使って精米する米屋が点在して、小関道の石碑角に立派な縁台の付いた茶店も御座いました。」『車石』。右手に石灯籠と道標が。道標には 『三井寺観音道・小関越・願諸来者入重玄門・文政五季十一月建立常飛脚問屋』と刻まれていた。三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院。三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分(分岐点)。北国街道を利用する旅人にはこの道が近道だったのだと。明治36年(1903)の『常夜燈』。『三井寺観音道』を振り返る。小関越道標の筋を5mほど入ったところにあった『地蔵堂』。旧東海道に戻り進むと滋賀県大津市から京都府京都市に入る。標識の建っているところに細い水路があり、ここが県境になっているようであった。右手の民家の塀の角の中にあったのが『四ノ宮岩久保町地蔵尊』。『山科四宮郵便局』が左手に。『道標 山科区 四ノ宮大将軍町』。前方に『旧三条四ノ宮』の案内標識が。標識『旧三条四ノ宮』。ここを右手に入ると京阪京津線『四宮駅』があった。更に暫く進んでいくと「シティホール山科 玉泉院」手前の右側にも旧家が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと左手の民家前に『大津算盤の始路・片岡庄兵衛解説碑』が。江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長十七年(一六一二)、片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。 同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。 なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。」この石碑は、見落としていたが、旅友Sさんに教えていただき50m程引き返して撮影。左手に『月心寺』。「東海道五十三次 大津宿 保永堂版」に描かれている井戸「走井」が残る寺。「走井餅」が名物として親しまれた「走井茶屋」。名前の由来となった清水の湧き出る井戸「走井」。。この辺りは京への輸送路であったため、荷車が通りやすいよう石・「車石」を敷き、轍の幅で溝が作られていた。今も残る、走井の月心寺。内部の走井庭園の特別公開は2019年度まで週末行っていたようだが、2020年は実施しない事になったようだ。『道標』。『道標 「右一里丁 左大谷町」』。この付近に江戸日本橋から数えて123里目の一里塚があったと。ここは滋賀県大津市大谷町。石垣に沿って先に進むと左手の階段の上にあったのが『瑞米山(ずいべいさん) 月心寺(走井居)』の『山門』。寺号は日本画家・橋本関雪の戒名月心院から、山号は夫人ヨネの戒名瑞米大姉からとったものであると。山門の扁額には「往来」の文字が。逆光の『月心寺 境内』👈リンク。月心寺はかつては走井の茶屋として繁盛していたが、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったという。月心寺の庭園に有る井戸は、歌川広重が描いた東海道五十三次大津宿走井茶屋に描かれた走井の水であると言われている。境内の『五輪の塔』は橋本関雪夫妻の墓所or供養塔であろう。『月心寺 本堂』。境内の石垣は膳所城の石垣を移築したという。十三重塔と石仏の姿も。『月心寺 本堂』を横から。走井居は国道1号線に面して建っていた。日本橋から487.5km。この場所・『月心寺』の外れに立っていた電柱には『元一里塚町』、現『大谷町』と。街道はしばらく山間の道を進むが、隣には車の往来の激しい国道1号線が走り、その隣に京阪電鉄京津線と名神高速道路の高架が並行していた。そして前方の高架下を進む。名神高速道路の高架をくぐると旧東海道は左の旧道に入るが、右手の国道1号線と京阪電鉄京津線を渡った段上に浄土宗の『光明山 摂取院』。『大津市追分町』歩道橋手前を左に折れる。この先を暫く進むと、道筋の北側が滋賀県大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、我々は滋賀県と京都府の県境を歩いて行ったのであった。『摂取院』は天正2年(1574)道春による開基であり、境内には大小5つの地蔵堂があると。また東海道と京街道の分岐点である追分町髭茶屋にあった道標が、中程で繋ぎ補修された状態で保存されているとのこと。再び山門と本堂の巨大な屋根を見るが訪ねなかった。左に折れると右手にあったのが『大津警察署 藤尾交番』。交番の先左手に『地蔵堂』があり、正面の香炉には大日如来と刻まれていた。御堂内を覗き込むと、いくつかの地蔵尊や石仏があり、中央に大日如来?と思われる石仏が。『地蔵堂』の直ぐ先右手に本門佛立宗の『長松山 佛立寺』が。『山門』。道路から『佛立寺 本堂』。佛立寺は、安政6年(1859年)に開創された本門佛立宗最初の寺院で、初転法輪道場と呼ばれ、また、慶応4年(1868)開導聖人初の法難にちなみ法難地道場とも称される。本堂に掛かる『長松山』の扁額。慶應2年(1866)の『常夜燈』。『開導日扇上人像』。「開導日扇上人像禁門の変(元治元年)の後、当地に御住居当寺(聖寿四十八才頃)を偲ぶお姿なり。仁和寺の宮家の御内人となり今大路法橋清風延斎と名のると共に菊華金紋の使用と帯刀を許される居宅を今大路屋敷と称されしなり。」『佛立開導 日扇上人御法難之地碑』。『佛立開祖 日扇霊碑』。「追分にほど近く酒造業を営む小野山勘兵衛は、永年胃病に苦しみ、思い余って自殺を図るが、信者の高橋儀三郎の命がけの勧めにより入信。熱烈な夜通しのお助行の甲斐あって翌朝、見事平癒。余りの有難さに自宅での御講を乞われ、安政6年8月、目出度く「大津佛立講」がご開講された。更には2年後、勘兵衛の親戚に当たる信者御牧卯兵衛と妻イホ女は、茶畑(現佛立寺の土地)をご有志され、翌年文久2年、立教開宗記念日に当たる4月28日に、法華堂の棟が上がり、ここに「本門佛立講」最初道場が建立されたのである。」とウィキペディアより。『南無妙法蓮華経題目碑』。『今大路御旧邸』慶應元年(1865)2月、法華堂の西隣に三牧卯兵衛の発願で、開導日扇上人の住居として建立したと。旧東海道から『佛立寺』を振り返る。左手に複雑な『表示板』。この先、道路の左手が京都市、この先右手と、手前の歩いて来た両側は大津市であると。ーが府県境で旧東海道の道路左側に、そしてその手前で大きく左に。よって、この先の道路はしばらくは大津市であると。道路の中央ではなく左側が府県境界線であるのだ。左側の京都市の旧家の前に昔の『糸より機(撚糸機)』か。『糸より機』を見ていると、この家にお住まいのお母さんが出て来てくれ、暫しの歓談。これぞ一期一会。玄関の前にある縁石は『車石』であると。お土産にと手作りの『お香入り福鈴』を頂きました。早速お守りにとリュックに取り付けました。「お香入り福鈴紐結びは人とのご縁を結び鈴の音はよく鳴る(成る)と云われ何事も良い方向に進み大変演技がよいといわれています。」部屋の奥からお宝の『木の化石』も見せてくださいました。「珪化木」と言い岩石になった木の幹。もう1個には、時計が嵌め込まれていた。二畳紀(2億9000万年~2億5000万年前)アリゾナ州USAと書かれたTAGが付いていたが本物であろうか?振り返ると道路の左側には『滋賀県大津市』と。右・大津市、左・京都市の旧東海道を更に進む。すると三叉路の正面の分岐場所に石碑と案内板が。ここが「伏見道(髭茶屋)」の追分。『道標』正 面:みきハ京みち右側面:柳緑花紅東海道と京街道の追分でがここ。東海道57次と言う場合はここ髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となるのだ。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼ぶ。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのだと。この道標は昭和29年3月再建とあり、摂取院にあった道標のレプリカ。そして『蓮如上人御塚』碑。石碑には「明和三丙」と刻まれていると。いずれの道標も下部は鉄板で包まれて保護されていたのであった。こちら赤い線が『東海道57次』・『京街道』のルート図。京街道とは、大坂から京都へ向かう街道の総称であるが、大津宿の先、ここ髭茶屋から伏見、枚方などを経て大阪市内、高麗橋までの道をいう。徳川家康は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、大名行列は髭茶屋で京へ向う東海道と分れ、京を通らずに大坂へ向うことになった。この間は東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。このため4宿を足して『東海道57次』・『京街道』と呼ばれる。元々文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が淀川左岸に築いた「文禄堤」が起源である。全長約56kmであると。ここから『東海道57次』・『京街道』にも挑戦するか? 【http://kurokamikousaku.blog.fc2.com/blog-entry-3818.html】よりここは『髭茶屋町』・現追分町。「歴史に刻まれた街道(追分)分岐点にあたり、馬子が馬を追い分けることからその名前の由来となっています。「大津絵の 筆のはじめは 何仏」と芭蕉も詠んでいる大津絵は追分で生まれ大津算盤も当地で日本人向けに改良され全国に広がりました。」『大津 追分 絵図』ここ髭茶屋追分は東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点となっており、江戸時代から交通の要所として栄えていた。京都と江戸を結ぶ東海道の宿場町として多くの旅人が往来し、土産品として大津絵が定着していったと。更にズームで。大津絵は江戸時代初期に近江国追分(おいわけ)の髭茶屋追分で発祥したとされていると。京街道(東海道57次)に入った直ぐ左にあった社と頌徳碑(しょうとくひ)。そして、右の旧東海道を山科方面に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大津市逢坂1丁目の旧東海道を進む。「日本一のうなぎ店 かねよ」の看板があった。先に進むと、右カーブの手前右側にあったのが『弘法大師堂』。門前右に寛政6年(1794)の弘法大師常夜燈、『逢坂山 弘法太子堂』寺標、そして『弘法大師御舊蹟碑』が見えた。ここは車が多く往来し、カーブで見えないこともあり、道路を渡るのは危険と判断し道路の反対側から写真撮影した。中央に弘法堂があり、中には小さな弘法大師像が安置され、脇の不動堂には阿弥陀如来像と不動明王像などの石仏が安置されているのだと。『弘法大師堂』の先の道路脇にあった寛政6年(1794)の『逢坂常夜燈』。更に右カーブの『逢坂』を上って行った。左手の坂を上っていく道は『逢坂山 水車谷 不動尊道』と呼ばれているようであった。更に切通しの如き『逢坂』を上って行く。左の石垣に『車石』を描いたプレートが埋め込まれていた。「大津ー京都間を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資として利用されてきたが、この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。 京都の心学者・脇坂義堂(わきさかぎどう)は、文化2年(1805)年に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを車石と呼んでいる。」いたずらであろうか?絵は黒く上塗りされてしまっていた。本来ならば・・・・。 【http://youyou.way-nifty.com/blog/2014/05/post-984e.html】よりその先のこれは??『逢坂』を上りきった右手に平成21年(2009)に完成した『逢坂の関記念公園』があった。横断歩道手前にあったプレートには「蝉丸 これやこの ゆくも帰るも 別れては 知るもしらぬも 逢坂の関」と。昔、子供の頃百人一首の遊び方の1つ「坊主めくり」をやったことを想い出したのであった。その時のルールは確か・絵が描かれた方の札=絵札(読み札)を使う。 シャッフルした絵札を、裏向きにして積む。(=山札)・参加する人は、山札の周りに丸く円を描くように座る。・順番を決め、参加者が順に山札から1枚づつ札を取る・絵札が男性(殿)の場合、そのまま、自分の手札にする。・絵札が僧侶(坊主)の場合、引いた人は自分の手札全てを捨てる。捨てた札は山札の横に置く。・絵札が女性(姫)の場合、山札の横に置かれた札(坊主を引いた人が捨てた札)、 全てをもらう。・山札が全てなくなった時、一番たくさん札を集めた人の勝ち。その時の坊主札の代表がこの『蝉丸』の札であったのだ。百人一種の『蝉丸』の一例。しかし、姉からは “これは坊主じゃない” と言うような事を聞かされた記憶が有ったような無いような・・・。平家物語では、『蝉丸』は醍醐天皇の第四皇子となっているのだと。 【http://photozou.jp/photo/show/215898/190839139】より寛政6年(1794)の逢坂『常夜燈』を見る。その横には『逢坂山関址碑』(右)と『関門の基礎蹟と手水石』(左)が。横断歩道を渡り近づいて。その左下には『関門の基礎蹟と手水石』が。『逢坂山関址』碑。『逢坂の関』案内板。「逢坂の関●歴史と自然あふれる町 大津市大津は京都に隣接していることもあり、歴史の舞台に何度も登場してきた地です。このような背景から、世界文化遺産の比叡山延暦寺をはじめ、三井寺や石山寺などの歴史遺産を有し、平成15年10月には、全国で10番目の「古都」指定を受けました。また、日本一の大きさを誇る琵琶湖、比叡山系や比叡山などの自然に恵まれ、これらが生み出す美しい風景と自然を、四季を通じて楽しむことができます。数多くの歴史遺産と豊かな自然、それらが育む温かい人情にあふれる大津は、多くの人々を魅了しています。●逢坂の関逢坂の関の初出は、平安京建都の翌年延暦14年(795)に逢坂の関の前身か廃止されたという「日本紀略」の記述です。その後、逢坂の間は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。逢坂の関の位置については現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のある辺り)の周辺にあったともいわれますが、いまだにその位置は明らかになっていません。」現国道1号線の「瀬田川大橋」(滋賀県大津市瀬田1丁目)の上空からの写真か。逢坂の関。常夜灯の隣りに実際に使用された『車石』が埋め込まれていた。車の轍(わだち)に合わせて溝が掘られていた。この上を物資を運ぶ牛車が通ったのだ。ここ休憩所横壁にも別の『逢坂の関』案内板が。左に「周辺の社寺」1・2 関蝉丸神社上社・下社3 蝉丸神社4 月心寺5 長安寺・牛塔」長安寺の牛塔と呼ばれる長安寺の重文・石造宝塔。高さ一丈(約3.3m)、八角型の礎石の上に周囲16尺の巨大な壷形の塔身をおき、笠石をつけたもの。1018~22年に恵心僧都が再興した折に、牛が大いに働き、その牛の供養のために造立されたと伝えられている。 【https://ameblo.jp/teravist/entry-12543122827.html】より「逢坂の関と文学」●小倉百人一首これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言●源氏物語 「関屋」の巻 常陸芥と共に東国に下っていた空蝉と石山詣の途中の光源氏が再会する非常に印象的な 場面が描かれています。 「賢木」の巻 斎宮下向の日、思いを募らせた光源氏が、娘と共に伊勢へ下る六条御息所に歌を贈ります。 それに対する御息所の返歌 「またの日 関のあなたよりぞ 御返しある」(「関」とは逢坂の関) その他 「枕草紙」の中にも逢坂の関について記述があります。●「逢坂峠と東海道」 大津は、奈良時代の昔から、物資の集散する京の玄関口として大いに栄えましたが、 この繁栄を支えてきたのはまぎれもない東海道でした。特に、逢坂峠は、東海道の中でも 要塞の地とし重視されており、逢坂峠から瀬田を含む大津宿周辺は、街道一の繁栄を 極めました。街選沿いには、大津絵や針、大津算盤などを売る多くの店が軒を連ねる ようになります。また、車右と呼ばれる石を敷き詰める街道の整備も行われました。伊勢参宮名所図会 逢坂越 【http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1202.html】より『車石、大津算盤、大津針、大津絵』案内板。●車石 江戸時代に逢坂越は、大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた米俵などの輸送にも重要な役割を 果たしました。 これら物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が 敷設されました。 その工事は文化元年(1804)から翌2年にかけて行われました。 車石は、今も京都・大津間の旧東海道沿いに残されており、当時としては画期的な街道整備を 知る重要な文化財となっています。」●大津算盤 大津は日本国内での算盤発祥の地と伝えられています。大津算盤は、慶長17年(1612) 大津一里塚町(現大谷町の西側)の片岡庄兵衛が、長崎で朝(中国)から算盤を手に入れ、 改良を加えたことに始まります。材質は、珠がツゲ、ヒイラギ、ウメ、枠がカシ、カキ、 黒たん、紫たんなどで、桁の軸には丈夫な細竹が使用されていました。また枠や梁の 裏側(底部)には、作者の居住地と名前が木版印刷された和紙が貼られているものも 多くあります。算盤製造は明治期に入って廃れていきましたが、算盤師の看板や製作道具、 宝永2年(1705)銘の算盤などが現存しています。なお製作道具と宝永銘の算盤は 市指定文化財です。●大津針 江戸時代の「東海道名所絵図」によると、逢飯山付近の名物として「大津絵、算盤。縫針」の 人気がありました。貝原益軒は「逢坂山この辺の町に針を売る所多し。虎屋を良工とす」と 評しています。このように大谷の虎屋針は良質の針として知られていました。 また追分池川針やみすや針も有名で、当時は人気を得ていたと伝えられています。 いずれも現在は途絶えています。●大津絵 大津絵がいつごろから始まったものか、はっきり年代を示す史科はありません。 しかし、17世紀前期には、東海道を往来する旅行者用の土産物として絵が売られるように なったと考えられています。その後、大津絵は近松門左衛門の「傾城反魂香」 (宝永5年(1708)初演)によって全国にその名前が知れわたることとなりました。 大津絵は庶民向けの絵であることから、生産コストを抑えるために描写も簡略化し、 細かい描写は小型の版木を押して、すぱやく描けるように工夫してあります。 そして、その素朴な画風は様々な画家に愛され円山応挙や富岡鉄斎、浅井忠なども大津絵を モチーフにした絵画を描いています。また大津絵の魅力に魅せられた愛好家は全国各地に 沢山おられ、その伝統は今でも受け継がれています。「逢坂峠と車石」 鈴木靖将画【https://kitahata55.co.jp/untiku/kengaku/neziri-bangai/01-kuruma-isi/kuruma-isi.htm】大津算盤 案内部をズームで。御針所 看板 【https://japan-geographic.tv/shiga/otsu-otani.html】より大津絵・鬼の念仏『清少納言歌碑』「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ」👈リンク。『三条右大臣歌碑』「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」👈リンク。『蝉丸歌碑』「是れやこの 行くもかへるも 別れては 知るもしらぬも 逢坂の関」👈リンク。右手の坂道の入口にあったのが『大津絵販売之地』碑。逢坂の関では走井餅や算盤と並んで大津絵が旅人の間に人気があった。大津絵とは江戸時代初期東海道53次の大津の宿場(大津の追分、大谷)で軒を並べ、街道を行き交う旅人に縁起物として神仏画を描き売ったのがその始まりである。浜大津の印鑑店「ハン六」の二代目松室六兵衛が明治時代にこの地で大津絵を刷って売りさばいていたことを示していると。『逢坂の関記念公園』の斜向かいに『地蔵堂』があったが、一体の地蔵尊が安置されていると。地蔵堂を見ながら更に進む。『東海道五拾三次 大津宿 走井茶店』。■大津名物「走井餅」茶店、茶店、店の前に「走り井」がコンコンと湧き出ている。 牛車は、のんびり京都へ向かう。『地蔵堂』の先に明治5年(1872)創業の老舗 『かねよ』という『うなぎ屋』が。「寒うなぎは今が旬!!」の幟が。現在では鰻は夏の土用の行事食ということになっているが、、江戸時代には冬の土用、つまり立春前の寒中にも鰻を食べる風習があったと。これを寒鰻というのだと。うなぎは冬のほうが脂が乗っているため、冬にうなぎを食べるのは理に適っていることを初めて知ったのであった。「鰻福感(まんぷくかん)」と。座布団一枚!!道路の両側にあった老舗『かねよ』。慶應時代の峠茶屋風景を暖簾に描いていた。そして、残念ながら営業時間は、11時から20時(ラストオーダー)と。『ウナギの上に極厚玉子焼きがのった日本一のきんし丼』を食べたかったが・・・。 【https://minnanoshare.net/theme/200035291/】よりこちらでも。 【https://tabelog.com/shiga/A2501/A250101/25002530/】より大津市大谷町の旧東海道を更に進む。老舗 『かねよ』の直ぐ先右手に『蝉丸神社』がここにもあった。右手に『蝉丸神社』社標。「蝉丸神社の由来当社は天慶九年(九四六年)蝉丸を主神として祠られております。蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。その後、万治三年(一六六〇年)現在の社が建立され、街道の守護神猿田彦命と豐玉姫命を合祀してお祀りしております。これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさか乃せき 蝉丸」急傾斜の石段参道。手前に元文5年(1740)の『蝉丸大明神常夜燈』と阿吽の『狛犬』。上り詰めに建つ鳥居。見学はここまでで階段を降りる。蝉丸神社「神楽堂」をネットから。 【https://hidachi.net/temples/semimarujinjya.html】より「拝殿」をネットから。 【https://yaokami.jp/1250035/】より旧東海道に戻って坂道を下ると、左手の民家の植栽の中に道標が建っていた。道標には、「右 京三条」、「左 伏見」 と刻まれていた。右手の民家の前にあった『河合清楓荘』碑。『元祖走井餅本家』走井茶屋は、安藤広重作「東海道五十三次」の大津宿にも描かれているのだ。「東海道の中でも最も栄えた大きな宿場でした。「走り井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々として増減なく甘味なり」とある有名な泉のある茶屋のありさまが描かれています。米俵を運ぶ車が連なる図は、大消費地京都を間近にひかえ、物流の流通が盛んであったことが偲ばれます。」『走り井餅』。 【http://www.hashiriimochi.co.jp/shop/】より『道標 大谷町 京阪大谷駅前』。「逢坂山関址碑平安時代、逢坂越えの道(東海道)は京都と大津を結ぶ幹線道路であり、不破・鈴鹿と並ぶ三関として弘仁元年(810)逢坂がおかれた。 逢坂検問所前にある関址碑は、昭和6年から8年(1931~1933にかけて行われた国道改修工事の際に建立されたものである。」この後、旧東海道は『京阪京津線』を越えて国道1号線と合流するため歩道橋を渡る。歩道橋から京都方面を見る。こちらは大津方面。歩道橋を渡り、国道1号線を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.04
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一昨日、漸く我が家にも『特別定額給付金に関するお知らせ』が送られて来ました。「特別定額給付金のご案内・給付対象者は令和2年4月27日(基準日)において、我がF市の住民基本台帳に 記載されている方。・受給者は給付対象者の世帯主。・給付額は給付対象者1人につき10万円。・申請方法 1)送付されて来た「特別定額給付金申請書」の郵送申請 本人確認書類(マイナンバーカード、運転免許証など)のコピー 振込先口座の通帳やキャッシュカードのコピー(金融機関名、口座番号、口座名義人が わかるもの)を同封する、 2)オンライン申請(マイナンバーカードを持っている方のみ) マイポータル上で特別定額給付金の申請画面から、世帯主及び世帯員の情報並びに 振込口座情報を入力した上で、振込先口座情報の確認書類をアップロードする。・申請締切日 令和2年8月31日 「特別定額給付金申請書」給付対象者名の欄の最後に、『希望されない方は「❌」を記入して下さい』と。無記入の場合や「◯」、「レ」などを記入された場合は全て振込対象とみなします。と我がF市は非常に丁寧・親切に表現されています。しかし、手続きで、誤って受給を辞退してしまうケースが懸念されているのだと。郵送申請書の記入が分かりにくいため、勘違いをして「受給を希望しない」の欄にチェックしてしまう人が少なくないとして、自治体が注意を呼びかけているとテレビのニュースで。市民が誤って受給を辞退することがないよう、国の標準様式からチェック欄を外した市もあるのだとも。「本人確認書類のコピー」の例の説明書。「振込口座が確認できる書類のコピー」の例の説明書。「特別定額給付金 Q&A」「新型コロナウイルス感染症に関わる相談窓口」そして生活支援:もらえるお金や借りられるお金、支払いの猶予などの一覧表も。「教育・子育て支援」「経済支援:事業者が対象の給付金、協力金、融資など」説明書。そして「記入例」も。これらの書類は、国の原案(標準様式)に基づき各自治体で独自に作成したものらしい。そういう意味で我がF市は市民に優しく、記入しやすい配慮がなされていると感じたのであった。私は1週間以上前にネットで既に申請済みであるが、指定口座に振り込まれるのは、いったいいつになるのであろうか?友人の中には既に振込を確認した方もいるのであるが・・・・。-------------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次京阪電鉄京津線の踏切を渡ると右手に『逢坂』碑そして『蓮如上人旧跡碑』が門前にある浄土真宗本願寺派の『逢坂山 安養寺』があった。「逢坂山 安養寺本堂には、重要文化財阿弥陀如来坐像が安置されている。また、同寺は、蓮如上人の旧跡で、上人「身代わり名号石」が残っている。なお、境内の「立聞観音」は古く東海道名所図会等に記載されて有名である。」『蓮如上人舊跡』碑。「圓満院宮御抱所 三井寺南別所 蓮如上人舊跡」と刻まれているようであった。円満院は三井寺内にある門跡寺院。地理的に三井寺の南にあるので南別所もわかるが、そこに浄蓮如上人旧跡が重なるのは?。『山門』。『安養寺 本堂』。本尊の阿弥陀如来坐像(行基、作)は国指定重要文化財に指定されていると。蓮如が身代わりに彫ったという蓮如上人や蓮如が身を隠したと伝わる石などがある。『観音堂』。『安養寺』の手前隣りにあったのが『うなぎの養殖場』?。うなぎの生簀(いけす)があったので『仲卸』屋であろうか。この先に老舗 「かねよ」 という 「うなぎ屋」 があったがそこに卸しているのであろうか。『安養寺』を後にし更に坂を上って行った。右手にあったのが『大谷加圧ポンプ場』。大津市・山上浄水場の水道水配水設備であろう。45m3/hr✕85m✕18.5kwのポンプで送水していると。逢坂山の上部まで送水しているのであろう。前方に『名神高速道路』の高架橋の姿が。そして右手にあったのが『旧逢坂山ずい道東口』案内板。この隧道は、日本人の技術者・技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道である。明治11年(1878)10月東口から、また同年12月西口から、それぞれ掘削を進めて約1年8か月の歳月を費やして、明治13年(1880)6月に竣工したもの。左が明治13年(1880)建造の『逢坂山隧道東口』で鉄道記念物に指定されている。現存する最古の鉄道トンネルで石と煉瓦で造られている。右は明治31年(1898)の複線化工事により増設された上り線の隧道。両隧道とも大正10年(1921)の線路変更によって廃線となった。現在は京都大学防災研究所付属地震予知センターの逢坂山観測所として使用されている。トンネルから出る清水は大津市の水道水として活用されているそうだ。「旧逢坂山ずい道東口この隧道は、日本人の技術者、技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道です。明治11年(1878)10月5日東口から、また同年12月5日西口からそれぞれ掘削を始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年(1880)6月28日に竣工したもので、大正10年(1921)8月1日、線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものです。全長664.8mに及ぶこの隧道は、当時の工部省(「明治3年(1870)に鉄道・鉱山・工作・灯台・電信・造船など、殖産興業のための官営事業をつかさどるために創設された中央官庁。85年廃止。」)の直轄であった生野銀山の労働者が伝統的なノミやツルハシを主体とした手掘りで掘り抜いたとされています。こうして完成した逢坂山隧道は、鉄道の歴史に残る記念すべきもので、日本の技術史の上でも大きな意義を持つものです。坑門上部にある「楽成頼功」の扁額は、竣工を記念して時の太政大臣・三条実美の揮毫によるもので、「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であることから、縁起の良い「楽成」の字を充てました。」『旧逢坂山ずい道東口』トンネルの入口上部には、開通当時太政大臣であった三条実美の筆による「楽成頼功」の扁額が掲げられていたのでネットから転載。落成が「楽成」とあるのは、「落」は不吉としてこの字をあて、「功」は「工」の意味とされる。「明治庚辰」は開通した明治13年(1880)をあらわす。 【http://nostalghia.asablo.jp/blog/cat/otsucity/?offset=34】より『隧道内部』はこの先で封鎖されていた。『レンガ作りの天井』。『近代化産業遺産』の標示プレート。『京都大学防災研究所 附属地震予知研究センター 逢坂山観測所』の案内板。当観測所は,1970年に地震予知研究を目的として設立 された。現在,長さ670mの主坑道(旧逢坂山隧道) とそれに交差する2本の分岐坑道(観測所設立時に掘削) 内に各種の計測装置を設置して,主として地殻変動の観測を行っていると。案内板は至急、交換をすべき。『逢坂一丁目』交差点を通過。西近江路(161号線)は、国道1号線と合流した。 西近江路には歩道が無く、1号線の歩道に渡りたいのであったが、車が多くかつスピードが出ているために、渡るのに苦労したのであった。何とか歩道にたどり着き前に進む。左手に『京阪京津線』の電車が。左手の山の斜面には墓石群が。日本橋から485kmの表示であろう。下の9の意味は?そしてこちらは見慣れている国道1号線 日本橋から486km表示板。そして二つの『名神高速道路上下線高架橋』下を通過。形 式:上路式2ヒンジアーチ橋橋 長:62.2 m最大支間長:54 m完 成:1991年所在地:滋賀県大津市逢坂1丁目管理者:日本道路公団設 計:大和設計・横河工事施 工:横河工事特 徴:本橋は名神高速道路完成後25年余り経過し、当初はRC床版の損傷が生じ、 その後補剛桁、縦桁・垂直材等の鋼部材に亀裂などの損傷が発生し抜本的な対策が 必要となっていました。改良工はアーチ主構を除くすべての部材を交換するとともに 橋の剛性を高めるため斜材・対傾構を追加してスパンドルブレースアーチとしました。 床版はアーチの負担軽減等を考慮して鋼床版としました。線路沿いの国道1号線、大津市逢坂1丁目を進む。名神高速道路の高架下を過ぎると右手に『関蝉丸神社上社』があった。社殿は国道1号線に面した反対側の斜面にあったが、ここは横断歩道があり、押しボタン式信号も設置されていたのであった。『関蝉丸神社上社』は、社伝によれば平安時代、嵯峨天皇(809-23)のときに猿田彦・豊玉姫をまつり、円融天皇(969-984)の代に蝉丸を合祀したと云われている。『郷社 関蝉丸神社上社』社標。両部鳥居が壊れ簡素な鳥居になっているのだと。喜撰法師 和歌 「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」 訳 : 私の庵は都の巽(たつみ)1 都を離れた山の中で、このように住んでいるのだ。 その山を、俗世を「憂」しとて入った、「う」じ山と世の人々は 呼んでいるそうな。紫式部 和歌 「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」 訳 :せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうかのわずかな間に あわただしく帰ってしまわれた。まるで雲間にさっと隠れてしまう 夜半の月のように。『紅梅』であろうか。それとも『花桃』?急傾斜の参道石段の先に『拝殿』が。「郷社關蝉丸神社由緒略歴一 當神社は嵯峨天皇御宇弘仁十三年(822)三月近江守小野朝臣岑守 逢坂山の山上山下の ニ所分析して坂神稱奉 是 當富社鎮座起原なり 上社祭 神猿田彦命 相殿蝉丸靈 所在地大津市上片原町 下社祭神 豊玉姫命或道反大神と云ふ 相殿蝉丸靈 所在地大津市清水町一 文徳天皇御宇天安元年(857)四月に改めて逢阪の関を闘設し、當社関所の鎮護神と 崇敬し給い坂神を関明神と稱し奉る一 圓融天嘔御宇天禄二年(971)五月論旨を給い、當神社を音曲藝道祖神とせられる。 爾来明治維新迄斯道専念の人士へ希望に任せ免許状を下附せらる一 朱雀天皇御宇天慶六年(943)九月詔を奉し、蝉丸霊を二所に合祈し仍て關大明神蝉丸宮 と稱し奉る一 正徳三年(1713)十二月二日ニ品覺尊観王法幣御參拜あらせらる一 享保十七年(1732)四月二十五日実相院宮義周観王法幣御参拝あらせらる一 文政六年(1823)季冬正二位平朝臣時章卿は音曲隆昌祈願の皐賽として自筆の法華経を 奉納せらる一 文政九年(1826)八月平松前大納言より和琴(銘瀧水)一面に譜若菜巻を添えて奉納し 音曲隆昌を祈願せらる一 當神社祭神は陸海路を守護し給ふとて旅行の安全を祈り、殊には音曲藝道祖神として 一般人士の信仰厚く亦髢の祖 神なるとて人毛製造組合亦女髪結等の信仰多し一 祭日往古は九月二十四日、今は五月二十四日に氏子十二ヶ町ぺ御輿の渡御あり一 大谷町蝉丸神社は當神社の分社なり、或る年の神事に神奥は逢坂山の峠限にて大谷町三ヶ町は 氏子中より離して大谷御林山の一部を借用しささやかなる社殿を造営して萬治(万治)三年 當神社の御分靈を奉戴して三ヶ町(上大谷 中大谷 下大谷)氏神とす 蝉丸社の三所にあるは之が爲なり」これも百人一首(右から)清少納言 「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」 訳: 夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、 函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。 (だまそうとしても、決して逢いませんよ)蝉丸 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」 訳 : これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、 皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。三条右大臣 「名にし負(お)はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら 人に知られで くるよしもがな」 訳 : 恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」 その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、 誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。『逢坂山』の様々な出典からの開設、近江百人一首の『逢坂山』を詠んだ句一覧4.音羽山 音羽山今朝越え来ればほととぎす梢はるかにいまぞ鴫ぐなる5.音羽山 音羽山さやかに見する白雪を明けぬと告ぐる鳥の声かな6.逢坂山 吾妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし7.逢坂山 逢坂のゆふつけ鳥にあらぱこそ君が往き来を泣く泣くも見め8.逢坂山 逢坂の木の下露に濡れしよりわが衣手は今も乾かず9.逢坂の関 逢坂の関の岩かどふみならし山立ち出づるきりはらの駒10.関の清水 君が代に逢坂山の石清水木隠れたりと思ひけるかな11.走井 走井の筧の水の涼しさに越えもやられず逢坂の関12.大津 わが命し真幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波そして『月心寺』案内。伊勢参宮名所図会より「走井」一ノ十六(株式会社井筒八ッ橋本舗 所蔵)『牛車を助けた峠道の車石』案内。【江戸時代のレール】 江戸時代、逢坂山の峠道には「車石」というものが敷かれていました。花崗岩に車の轍(車輪を通すための溝)を掘り、二列に並べた車石が、大津から京都の三条にかけての約3里(12キロ)に敷き連ねられ、荷車が峠を越える手助けとなりました。▲かつて逢坂山の峠道に敷かれていた車石。石に車輪を通すための溝を掘り、それを敷き連ねて荷車が峠を越える助けとしました。西洋のレールと逆の発想がおもしろい。▲奥に牛車が通っており、その通り道だけ一段掘り下げられているのが分かります。この頃にはすでに通行の安全を図るため、歩道と車道が区別されていたようです。【滋賀から京都へ】鉄道が引かれるまで琵琶湖は、北海、北陸からの海産物や米等を京都へ運ぶ重要な水運でした。それら多くの物資は、大津港から馬車、牛車により逢坂山、九条山を越えて京都へ運ばれて行きました。しかしながら逢坂山は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。そこで、文化2年(1805)京都の心学者脇坂義堂が一万両の工費を投じて工事にあたったもので、これによって牛車などによる荷物の運搬が円滑に進むようになったのです。【工夫を凝らした一方通行】道は、歩道と車道に分けられていて、歩道は車道よりも高くしてあり、通行の安全を図るため、また、車の通行の邪魔にならない様に配慮してあったようです。また、車石は単線の為、午前は京都行き、午後は大津行きと、時間による一方通行になっていました。【歌人も詠んだ名水】京の都と近江を分かつ逢坂山。その逢坂越えの大津追分には、清らかな水が勢いよく湧き出す井戸があり、古来より「走井(はしりい)」と呼ばれてきました。枯れることのない清浄な泉として平安時代から名高く、大宮人たちが歌に詠んでいます。「走井の程を知らばや逢坂の関ひきこゆる夕かげの駒 元輔」「走井の 筧の水の涼しさに 越えもやられず 逢坂の関 清輔」【走井と走井茶屋は、いま】走井は下の大谷町にあり、石を畳みて一小の円池とす。其の水甚だ清涼にして、冷気凛々たり。今は茶店の庭とし、旅人憩いの便とす。茶店の主、築山泉水を設け、且つ薬を売る。誠に此の水の如きは、清うしてなめらかなり。右より名を得しもことわりかな、湧き出づる水の勢走井の名もうべなり。枕草子に"走井は逢坂なるがおかし"と」(『近江与地志略』1734)蝉丸 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」解説文👈リンク。現代語訳 : これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、 皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。清少納言 「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」解説文👈リンク。現代語訳:夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、 函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。 (だまそうとしても、決して逢いませんよ)三条右大臣 「名にし負(お)はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら 人に知られで くるよしもがな」解説文👈リンク。現代語訳:恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」 その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも 知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。『逢坂山、逢坂の関 あれこれ』解説文👈リンク。『和歌に詠まれた逢坂の関』解説文👈リンク。逢坂山とは京から大津(滋賀)に向かう途中にある標高325mの小高い峠である。山の高さはそれほどではないが、勾配がきついため昔から難所として有名で、さらに都と東国、北国を結ぶ北陸道、東海道、東山道(後に中山道などに再編)が交わる交通の要所でもあり、京都防衛のため逢坂の関がおかれていた。不破関や鈴鹿の関とともに天下の3関と称されている。この逢坂山は名前からして大阪の近くにあると勘違いされやすい。しかし平安時代から度々「人に逢うと人通さぬ峻険なる山の二面性」から和歌にもよく読まれている。百人一首に記載されている蝉丸の「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」とか清少納言の「夜を込めて 鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」や、紀貫之は「逢坂の 関の清水に かげ見えて 今やひくらん 望月の駒」などと名だたる歌人が逢坂山を読んでいる。清少納言は「枕草子」の作者としてあまりにも有名だが、一条天皇の時代、正暦4年(993年)に私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、殿上人と才気ある受け答えをして宮廷社会に溶け込んでいた。そんな折に関係があった男性の一人が藤原行成で、彼は一条天皇の蔵人頭として抜擢され、天皇と執政の藤原道長の両方から信任され、書がうまく三蹟の一人して数えられている。清少納言の百人一首の歌は彼への歌で中国の孟嘗君の故事に基づいている。秦の昭王に命を狙われた孟嘗君は、秦国から脱すべく、夜間に函谷関に至った。しかし関は、鶏の声が朝を告げるまで開かない取り決めになっていた。そこで孟嘗君は、食客の一人に鶏の鳴き真似をさせ、函谷関を突破したという。「史記」に載っている話。「夜をこめて鶏のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」「嘘の鶏の鳴き声などでは、私の恋の関は開きませんよ。しっかりした関守がいますからね」と、強く突っぱねた歌。それに対して行成の返歌は「逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」「逢坂の関は誰でも越えやすい関で、いつも開け放って待っているのだと聞きますが」とひどい返歌に清少納言は怒ったとか。一方、蝉丸は醍醐天皇の第4皇子との説があるが定かではない。蝉丸は生まれつき盲目で琵琶の名手として有名で琵琶の名器、無名を愛用し、逢坂の関に庵を結んだ。彼にいつわる話は色々と取り上げられている。平家物語の「海道下」には一の谷の戦いに敗れ生捕りになった平重衡(たいらの しげひら)が、京都から鎌倉へ護送される場面が描かれている。「四宮河原になりぬれば、ここは延喜第4皇子蝉丸の関の嵐に心をすます、琵琶を弾き給いしに、博雅の三位と言いし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨のふる夜も降らぬ夜も、三年があいだ、歩みを運び、たち聞きて、彼の三曲をつたえけん わら屋のとこのいにしえも、おもいやられてあわれ也。逢坂山踏み越えて、瀬田の唐橋駒もとどろにふみならし、——」。と書いてある。管弦の名人であった源博雅が、逢坂の蝉丸のもとに三年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を伝授されたという伝説が重衡の鎌倉への護送という悲運の場面をもり立てる様に引用され、益々哀れさを掻き立てられる。今や、逢坂山は京都と大津を結ぶ国道1号線として昔の面影はありませんが、それでも狭い谷間の道を京阪電車が車がひしめき並行して走っています。その京阪電車の小さな無人駅「大谷駅」のすぐそばに蝉丸神社や逢坂の関跡がある。『蝉丸本宮』。参拝者は全く無くて、社務所も無人。実に静か。『関蝉丸神社上社本殿』の内陣。更に鏡にズームしたが・・・・。『郷社關蝉丸神社由緒略歴』がここにも、そして様々なスナップ写真が。関蝉丸神社 上社・下社『御朱印』案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次JR東海道本線の上を越えると、徐々に坂道になって行った。そして右手にあったのが『水上山 妙光寺』があった。神社の参道には京阪電鉄京津線(けいしんせん)が横断していた。京阪電鉄京津線の電車が眼前ですれちがった。『山門』とその手前左に安政4年(1857)の『妙見大菩薩碑』。『妙光寺 本堂』。妙光寺は、天正元年(1573)反織田方であった武将長谷川久兵衛が難を逃れて仏門に入り、現在地に一宇を建立、本光院日性を開山に迎える。開山100年記念に毘沙門天を勧請(堂は昭和35年建立)、年代不詳であるが旧東浦妙見堂の妙見大菩薩を奉安する。本堂は安政初年の再建。本堂に掛かる『妙光寺』の扁額。『鐘楼』は昭和48年の建立。『妙見宮』。本尊は妙見大菩薩、脇に七面天女、三十番神などを祀る。『妙見宮』右隣の『毘沙門堂』。『妙見宮』左隣の『三社大明神』。『三社大明神』。『境内』『寺務所』の玄関であろうか。そして県道558号線に架かる東海道線跨線橋を渡る。JR東海道線に架かる『蝉丸跨線橋』を右側に見る。このレンガ積みは京津線とJRが交差してる「蝉丸跨線橋」&「上関寺隧道」。何故か名前が2つ。京阪が「蝉丸跨線橋」、JRが「上関寺隧道」と言うらしい。そしてその下の右手に「新逢坂山トンネル」東口(右)とそのすぐ横にある赤レンガの「上関寺トンネル」(左)。現東海道本線は複々線になっており、右側のコンクリートトンネル・新逢坂山トンネルにも線路が2本通っていた。赤レンガの『上関寺トンネル』 大津側坑口。大正10年にトンネルを経由する大津~京都間の新ルートが完成し、勾配緩和、曲線改良により、輸送力と速度の向上に貢献したのだと。上を通っているのは京津線で下を通る東海道本線に対して京津線は斜めに敷設されたので坑口がずれているのであった。更に坂を上って行く。右手にあったのが『関蝉丸神社』案内板。「関蝉丸神社琵琶の名手蝉丸をまつる神社は、東海道沿いに三社があり、当神社は下社にあたる。平家物語、謡曲「岬丸」などにも、その名が見え古くから歌舞音曲の神として知られる。また.境内には紀貫之の歌で有名な「関の清水」や「小町塚」、重要文化財の『石灯籠』がある。」『蝉丸宮常夜燈』が前方に。『音曲蓺道祖神』碑。『関蝉丸神社』社標。京阪電鉄踏切際に建つ『鳥居』。正面に『拝殿』。『関清水神社』。関の清水は既に枯れているのだと。『貴船神社』。『貴船神社』社標。『神門』。謡曲『蝉丸』と『関蝉丸神杜』「幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをすることが未来への助けになると諦めた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。一方、延喜帝第三皇女逆髪(さかがみ)の宮も前世の業因強く遠くの果てまで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に惹かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていくという今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸能の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。」『関蝉丸神社 本殿』。関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ)の祖神ともいわれている。蝉丸は醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられている。境内には、時雨燈籠ほか数基の歌碑・句碑があった。本殿手前の絵画。清龍(HIDEKI)作の龍神様。琵琶湖の絵画。「近江伝景図滋賀には、琵琶湖、比叡山比良山をはじめ自然が豊富で、歴史街道や文化の豊かな土地があります。今回、古来から伝承されてきた滋賀の自然や文化を形にしたいと思い琵琶湖の景色と中世以降多くの絵師に描かれてきた「近江八景」と滋賀の民謡にまつわる情景などを描きました。又、近江の自然や人々の豊かな暮らしが永遠に続くようにと願いをこめて絵の中に金箔の雲海をあしらっています。」歴史を感じさせる石灯籠。『時雨燈籠』と。「石灯籠(時雨燈籠)「時雨燈籠」 の名称で知られる六角形の石燈籠です。六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、その上に建つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。六角形の火袋は簡素なもので、火口を一か所と小さな丸窓を設け、壁面も上部にだけ連子を彫っています。六角形の笠も薄く、蕨手はよく古式をとどめています。最上部の宝珠と請花は後補。いずれにしても作成年代を示す銘文はないが、様式上、鎌倉時代の特色を持った良い石燈籠で、貴重なものとして昭和37年6月に国の重要文化財に指定されました。」「石灯籠(時雨燈籠)」横の祠。『句碑』「逢坂の 流れは清し 初桜」『紀貫之歌碑』「逢坂の 関の清水に 影みえて 今やひくら 望月の駒」。『蝉丸歌碑』「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」境内の桜も満開であった。更に旧東海道を上って行く。『逢坂』交差点の左奥にあった祠をズームで。京阪電鉄京津線の踏切を渡る。中央の山に向かって更なる登坂となる。京阪電鉄京津線の踏切を渡ると右手に浄土真宗本願寺派の『逢坂山 安養寺がありその入口に『逢坂(おうさか)』碑があった。『逢坂(おうさか)』碑。「「日本書紀」 によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020.03.23。『旧東海道を歩く』の32日目そして『旧東海道を歩く』のゴール地点の『京都三条大橋』へのいよいよ最終日。この日は大津駅前から旧東海道を『京都三条大橋』に向けて歩いたのであった。瀬田駅近くのホテルの部屋から、日の出の光景を楽しむ。時間は6:01。そしてビルの裏からのこの日の日の出。時間は6:05。赤く染まる空。そして太陽が完全に姿を現した。時間は6:10。この日・最終日も天気は良さそうであった。7時からの朝食を楽しむ。朝食会場の壁には広重の東海道五十三次が掲げられていた。これは我が地元の『藤澤』宿。そして『近江八景 瀬田夕照』。瀬田唐橋と中の島、橋を往来する旅人、瀬田川と帆船、近江富士が描かれていた。「露時雨 もる山遠く過ぎきつつ 夕日のわたる 勢田の長橋(つゆしぐれ もるやまとおく すぎきつつ ゆうひのわたる せたのながばし)」そしてホテルを出てJR瀬田駅に向かって歩く。宿泊したホテルは『大津温泉 おふろcaféびわこ座』に併設されていたホテル。『大津温泉 おふろcaféびわこ座』は「東海道五十三次の宿場町」をコンセプトにした温浴施設に加え、「大衆演劇」も楽しめる多くの世代の方に愛される施設。JR瀬田駅から琵琶湖線を利用して大津駅を目指す。途中、『瀬田川』を渡る。そして『大津駅』から、中央大道りを旧東海道に向かって歩く。『大津駅』は当初、現在の場所にはなかったと。最初の大津駅は、 明治13年(1880)の大津~京都間の鉄道が開通したとき、現在の京阪電鉄浜大津駅あたりに設置された。ちなみに大津駅から先は、長浜まで湖上を鉄道連絡船が結んでいた。その後、明治22 年(1889)に東海道線が全通。大正2年(1913)に馬場駅(現在の膳 所駅)の名が改称された。これが2代目大津駅。 現在の大津駅は大正10年(1921)に、東海道線の大津~京都間の ルートが変更された時、新たに設置された駅。そのため大津駅 の名の付いた駅舎としては3代目ということになる。当初の駅舎 は木造建築で、今の駅舎の西寄りにあった。現在の大津駅舎が出来たのは、昭和50年(1975)のこと。平成28年(2016)にリニューア ルされ、商業施設「VIERRA大津」が完成し、現在にいたっているのだと。前日も見た大津駅前の中央大通りにある銅像・『若鮎』。大津駅のほうを見つめていた。旧東海道手前の歩道横にあったモニュメント?それともベンチ。爆弾(不発弾)の如き形であったが。そして旧東海道と交わる角にあった道標『京町三丁目 旧東海道』。そして左折して旧東海道・京町ニ丁目を西に進む。左手に真宗大谷派の『竹越山 唯泉寺』があった。『唯泉寺』は、弘仁2年(811)道河による開基で、慶長3年(1598)に天台宗から真宗に改宗している。『唯泉寺』の山門は閉ざされており、境内に入ることは出来なかったが、山門脇に地蔵堂があり大日如来・地蔵尊が安置されているとのこと。更に旧家の残り旧東海道を進む。『唯泉寺』の横にあった『御堂』・『延命地蔵尊』。左手にすだれ老舗店・『森野すだれ店 京町店』『森野すだれ店』は明治元年の創業以来、琵琶湖産のヨシを使ったすだれづくりと和室室内の装飾に携わっていると。入口上には『よし工芸品の店』と書かれた木製看板が。その前右側にあったのが『餅兵(もちひょう)』という和菓子屋・『御饅頭處 橋村商店』。『御饅頭処 餅兵』は、宝暦年間(1751年〜1763年)に大津東海道沿いに創業したのだと。昔は店の前に床几を置き、ここで旅人が足を休めて一服したと。その向かいにあったのが『大津 魚忠』明治38年建設、高い軒や木割の繊細な構えを持つ明治後期の商家。『うお?忠』と刻まれた石碑と「さんしゅゆ(山茱萸)」の花。登録有形文化財明治38年建設、高い軒や木割の繊細な構えを持つ明治後期の商家。直ぐ向かいにあったのが『ぶつだんや大弘』。『ぶつだんや大弘』と金文字で書かれた店の木製看板。2階窓には木製の肘掛けを付け、町家の雰囲気が。おおくの仏具が展示されていた。可愛らしい木製のお地蔵さん。更に進むと右側に全面格子の旧家が。そしてその向かいの路地の角には石碑が。『此附近露国皇太子遭難之地』「露国皇太子遭難地の碑明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪(たいぎゃくざい)を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院(だいしんいん)法廷では、謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)を適用、無期徒刑(むきとけい)の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。」「5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づくことができたのは津田が取り押さえられた後だった。」とウィキペディアには。全面連子格子の旧家。更に京町一丁目に向かって進む。「中央二丁目」交差点を渡ると左側にあったのが『犬矢来』のある旧家。『大津菓子調進所(有)鶴里堂(かくりどう)』。鶴里堂という屋号は、昔、比叡山より望んだ大津の里が細長く弓形(ゆみなり)で、鶴が翼をひろげてまさに飛び立とうとする姿に似ていたことから「鶴の里」とよばれていたことに因んでいると。大津菓子調進所という名が表す通り、京菓子と並び称された「大津菓子」の流れを伝える和菓子の老舗として、一世紀以上にわたり、東海道筋上京町(かみきょうまち)に店を構えているのだと。先に進んだ『京町一丁目』交差点は、江戸時代に高札が建てられた四つ辻であった。旅人たちに馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。ここは、東海道と北国街道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国海道であった。横断歩道を渡った左角に『大津市道路元標』が建っていた。『大津市道路元標』碑をズームで。しかし、『札の辻』の石碑などは見当たらなかった。『札の辻』は、江戸時代に高札が掲げられ人馬会所も置かれた四つ辻で東海道と北国海道(西近江路)の分岐点であり、大変にぎわったと。『札の辻』で西へ曲がらずに直進すると、小関越えと呼ばれる道。小関越えは山科の手前あたりで再び東海道と合流するのだ。そして『京町一丁目』交差点を左に折れ進んでいくと『京阪京津線(京津線(けいしんせん)』の電車が姿を現した。『京津線(けいしんせん)』は、京都府京都市山科区の御陵駅から滋賀県大津市のびわ湖浜大津駅までを結ぶ京阪電気鉄道の軌道路線である。『京町一丁目南』交差点を渡る。左手の滋賀労働局の立看板のところに『大津宿本陣跡』があった。五条大橋まで11.8km、草津宿ぁら14.4km。 滋賀県大津市御幸町の滋賀労働基準局付近にあたる。大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅。現在は、明治天皇聖跡碑が建つだけだが、江戸時代当時の本陣は広く、3階の楼上からの琵琶湖の眺めは絶景だったという。その他に脇本陣1軒、旅籠71軒があったと。『八町通』木標。「上関寺町から札の辻までの距離が八町(約872m)あったからとも、その間に八か町あったことによるともいわれています。江戸時代の東海道にあたり、道の両側には多くの旅籠屋がありました。なお碑の立つ場所は大名などの宿泊する本陣跡です。」「大津宿本陣跡本陣とは、大名や公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていました。八丁筋には、旅籠などが多数軒を連ね、旅行く人々を迎えていました。大津は、北国海道と東海道の合流地点であり、また湖上交通の拠点でもあったことから繁栄を極めました。しかし、現在は本陣に関する遺構などは残っておらず、大塚本陣のあったこの場所に、明治天皇の休憩所として利用されたことを示す 「明治天皇聖跡碑」 が建つのみです。」『広重 木曽街道六拾九次之内 大津 七拾』大津は、天智天皇が大和から遷都、律令国家の基盤を築こうとした歴史の地。都が京に移ってからも、都への出入口として、 琵琶湖水運の中心地として、また、北陸道、東海道、中山道の分岐点という要所に位置する宿として栄えた。中山道の宿場数は69であるが、この連作では出発地の日本橋を1番とし、最後の大津宿を70番とする朱印が入っているとのこと。聖跡記録碑 明治天皇聖跡碑聖跡記録碑聖蹟 明治元年9月20日 明治天皇御東幸之際御駐泊同年12月21日 明治天皇御還幸之際御駐泊同2年3月7日 明治天皇御東幸之際御晝餐同2年10月5日 昭憲皇太后御東啓之際御駐泊 以上大塚本陣當時明治9年12月4日 昭憲皇太后御西啓之際御駐泊同10年1月26日 英昭皇太后京都行幸之際御駐泊 以上??学校當時道標『御幸町』。道路の反対側にあったのが大津市逢坂2丁目の『井上米店横 地蔵堂』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.01
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