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この日は9月14日(月)、テレビで長野県佐久市にあるコスモス街道のコスモスの花が満開であるとのことで、旅友を誘って日帰りドライブで行って来ました。併せて、JR小海線の「JR鉄道最高地点」、国立天文台「野辺山宇宙電波観測所」そして続日本百名上の「龍岡城」も訪ねたのでした。前回と同様に6時に茅ヶ崎のお宅に我が車で行き、旅友の車に乗り換え出発。全空きと同様に134号を小田原方面に進み平塚市の「花水川橋」を渡る。そして西湘バイパスに入り「大磯西IC」で降りる。国道1号の「川匂神社入口」交差点を通過し押切坂を下る。先日のテレビで「国道1号線」ではなく「国道1号」であることを知ったのであった。国道の路線名や起終点、経由地を規定した「一般国道の路線を指定する政令」において、各国道の路線名は「〇号」と、「線」が付けられていないのだと。したがって国道においては、「国道1号」などと「線」を付けない表現が正当であるのだと。前回と同様に「岡入口」交差点を右折。東海道線の「曽我街道架道橋(ガード)」を通過。「御殿場線」下を通過。かながわ景勝50選「曽我梅林」の「中河原梅林」横を進む。県道72号線・松田国府津線から国道255号線に入ると神奈川県足柄上郡大井町にある高層ビルが見えた。かつては第一生命保険の本社ビル。現在は「未病バレー BIOTOPIA(ビオトピア)」内のテナントビルとして、ブルックスホールディングス大井事業所の所在地となっているのだと。BIOTOPIA(ビオトピア)とは「BIO」(いのち輝く社会の実現)と「UTOPIA」(未病改善の取り組みを実現する理想的な里)を表していると。me-byo valley(未病バレー)という言葉には神奈川県西地域全体から未病改善を「集積」「創造」「発信」し、健康な社会を実現するための場所にしていきたいという思いを込めているのだと。BIOTOPIA(ビオトピア)では自然の恵みが集まる「食」、身体を整える「運動」、五感を解放する「癒し」、これらをコンセプトに子供から大人まで全世代が楽しく「未病」改善体験ができるとのこと。籠場インターから国道246号に入るが暫しの渋滞に巻き込まれる。右の高架が東名高速道路。前方左の山の頂上にあるのが株式会社トヤマの本社工場。国道246号から「吾妻山トンネル」手前の高架橋を右手に見る。東名高速道路上り車線下を通過。新鮎沢橋を渡り静岡県小山町に入る。「静岡県へようこそ」と。国道246号・裾野バイパスから工事中の第2東名を見る。国道246号・「菅沼」交差点を右折し県道151号線・須走小山線に入る。坂を登っていくと濃霧が。県道151号から138号に入り山中湖に向けて坂道を進むと左手にあった案内板。「藤原光親卿遺跡承久役殉難五の一人正二位權中納言按察使藤原光親卿は承久三年(西歴1221年)七月十三日鎌倉護送の任に当たれる執權北條義時の家人武田信光によって当所よリ上方三百メートルの地点に於いて斬首、昭和三年今上天皇載冠式に際し、從一位を贈らる。」永久の変(永久3年)のとき、後鳥羽上皇が北条氏の討伐の企てに際し、藤原光親卿は極力時期尚早を上奏しましたが聞き入れられず、義時追討の案文を書いた。謀議はいち早く鎌倉にもれ、謀議に参加した光親卿は捕われの身となり、甲斐武田五郎信光により、鎌倉護送の途中の篭坂峠において斬首された。毎年5月に地元の人々により、慰霊祭がとり行われていると。「藤原光親卿墓所」の標柱そして山中湖畔に向かって進む。国道138号・「富士見バイパス南」のポールの上には、山頂に雪を冠った富士山を形どったパネルが。「北口本宮冨士浅間神社」の鳥居が左手に。「富士山」の稜線が一瞬だけ。「東恋路」交差点を右折して河口湖方面に進む。県道707号を河口湖に向かって進む。正面の山が黒岳(御坂黒岳)(標高1792m)。右手に「不動茶屋」と「河口湖北原ミュージアム」。「河口湖大橋」を渡るがこの日も富士山の姿は雲に隠れて。「追坂トンネル」を抜ける。国道20号・甲州街道に入り西に進む。左手に三つのドームがある建物は「ドン・キホーテ いさわ店」。甲州街道をひたすら進み韮崎市の「船山橋北詰」交差点を右折して「清里駅」を目指す。左手奥に見えたのが「韮崎平和観音」。昭和36年、市民の平和や登山者らの安全を祈願して市街を一望できる七里岩南端に建立された。製作には2年2ヶ月かかり、昭和36年10月13日に高さ16.61m、体重305tの像。JR中央線の下を潜る。前方に「韮崎高校」の案内板が。サッカーの中田英寿の母校であると旅友から。国道141号・清里ラインを進む。八ヶ岳の「編笠山」が見えて来た。そして前方にユニークな形の歩道橋が姿を現した。「道の駅 にらさき」と書かれた案内板が。左手には日帰り温泉施設「ゆ~ぷるにらさき」。巨大な球体が印象的な建物・「ゆ~ぷるにらさき」。道路を挟んで向かい側が「道の駅にらさき」となっていた。「道の駅にらさき」から八ヶ岳を見る。清里ラインには、小振りなサルスベリが開花中。小須田牧場手前にあった水車小屋。山梨県北杜市から長野県南牧村に入る。 ・・・つづく・・・
2020.09.30
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1Fから2Fへと上がる階段途中には、能楽の演目の1シーンを再現した版画が。128枚展示されていたとのこと。「八十四能面」。登り切った場所には1/8縮尺の能面が展示。どちらも本総合プロデューサー/アートアクアリウムアーティスト・木村英智氏の私物とのこと。そして下りの階段の壁にも金魚の描かれた浮世絵が。ズームで。「金魚は江戸の時代より・着物にもよく描かれていました。アートアクアリウムアーティストの木村英智は、京部に人りまず興味を持ったのは、着物でした。そして、様々な技法を持った京都の一流の着物屋たちと、古来からのニ十四節気七十ニ候という季節に合わせて24枚の羽織りと、72枚の女性ものの着物の制作を始めました。ここではそのコレクションを紹介します着物には金魚と花を、羽織りには月をテーマにしています。着物に泳ぐ金魚達を探してみて下さい。」「白露 初候 草露白 萩」「処暑 末候 禾之登 桔梗」「処暑 次候 天地始粛 槐」「東海道五十三次 行書版 安藤広重」私の「東海道五十三次」は日本橋から全行程を徒歩にて歩き、今年の3月23日に京都三条大橋に到着し「旧東海道を歩く」👈リンクを完遂したのであった。右上から下へ日本橋~大磯小田原~興津江尻~掛川袋井~御油赤坂~石薬師桑名~水口(右3枚がダブリ)石部~京師日本橋は、江戸の時代より、人・物・文化が往来する日本の発展の中心地でありました。なかでも、京都と江戸をつなぐ東海道には、さまぎまな文化的意義があります。アートアクアリウムアーティストの本村英響は、日本橋で活動を始めてから、街に大変興味を物ち会社も住居も日本橋に移します。そして日本文化に傾倒して行く中で、京都を目宿し住居を構えます。住民票と会社登記、自分の大事なニつのものを、日本橋室町と京都三条室町に分け置いて日本文化の探求を始めます。それが現在の本村の活動の基盤となっていきました。この東海道五十三次の浮世絵コレクションは、本村がその考えに気づいた時に出会い手に人れた物です。喫茶店の壁にも金魚の絵画が。水墨画も。「アートアクアリウムの軌跡」作家・総合プロデューサー木村英智氏&アートアクアリウムの歴史が紹介されていた。既に累計来場者数1000万人を超えていると。お土産屋コーナー。金魚をあしらった様々な製品が置かれていた。これも土産物であったのだろうか?「アートアクアリウムの歴史」では過去のポスターが一面に。そして2020年・今年のポスター。そして出口にあったのが写真家・篠山紀信とメルセデス・ベンツのマイクロコンパクトカー「smart fortwo」がコラボレーションし、誕生した世界に一台のアートカーであると。廻り込んで。「ART AQUARIUM MUSEUM」の巨大な看板が。この日は大いに「アートアクアリウム美術館」の幻想とも言える世界を堪能できたのであった。そして長年の仕事の関係上最後に気になったのは、金魚や鯉の水槽の水処理なのであった。一般の水族館の水処理の基本は、懸濁物質(SS)や有害成分をろ過装置により除去しその処理水を循環して再利用すること。特に、水生生物に有害となる排泄物や残渣由来の窒素成分(アンモニア態窒素:NH4 + -N, 亜硝酸態窒素:NO2 - -N,硝酸態窒素:NO3 - -N)を蓄積さ せないための水処理技術は重要なのである。この様な処理システムが各水槽の下部に設置されているのであろうか?それとも、各水槽から集水し、バックヤードで集中処理をしているのであろうか?そして給餌はいつ何処でどの様に?その裏側を見てみたいのであったが・・・・。そして水槽水量に対し、金魚が過密に飼育されていることに対する金魚のストレスは?そして、常時色彩が変化した照明を当て続けることでの金魚のストレスは?しかし、多くの金魚や鯉を見たが、水面等で苦しんでいるものは一匹もなく、見事に飼育環境がコントロールされていることには驚愕の一言であった。もちろん、入場客の健康そして金魚、鯉の生き物最優先の展示会になっているのであろうが。そして日本橋を渡り東京駅まで徒歩で進み、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.09.29
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「金魚品評/ A show 0f Kingyo」「水面が波立たない水が溢れ出る円形の水盤に金魚を優雅に泳がせ金魚を正しい見立て方である上からしっかり鑑賞できる作品。横から見ると溢れた水が静かに流れ落ちる効果により、まるで金魚が泳ぐまわりの水ごと切り取った様に美しく見えます。金魚の品評をするのにも適したデザインです。」金魚を愛でる姿の浮世絵。金魚は当時も夏の風物詩であったのだろう。一寿斎国政 画。「フローティングリウム/Floatingrium」新潟県長岡市山古志から取り寄せた最高級品種の錦鯉が円筒形の水槽の中を、優雅に静かに泳ぎます。全体が水で履われた直径1.5mの円筒形の作品は錦鯉と周りの水をまるごと切り出し、まるで錦鯉が宙を浮いているかのような不思議な見え方が楽しめます。」「アースアクアリウム・ジャポニズム/Earth Aquarium Japanism)」「水が溢れる巨大な球体、よく見ると、表面には世界地図が描かれています。「水の惑星である地球そのものが、生命が織りなすアートであり、そこで生まれる美しい生命を我々は大切にしなければいけない。」この作品は、そのメッセージを伝えるために生まれました。今回の展示では錦鯉が舞い泳ぎ、日本の美で水の惑星を彩りました。その名も「アースアクアリウムジャポニスム」美しいものを守りたい、という小さな気付きを持ち帰ってください。ここで泳ぐ錦鯉は、錦鯉発祥の地である新潟県の山古志村の錦鯉が泳いでいます。」オーストラリアの地図が。そして「金魚の杜/ The forest of Kingyo ( gold fish)」「アートアクアリウム美術館の鎮守の聖地です。水中世界なのか?不思議な惑星なのか?自分が一体何処ににいるのか、感覚の境界が曖味な空間を彷徨い歩いていくと、非日常の世界は非現実の世界へと訪れる者を誘います。」〆のエリアは「神秘」。圧倒的なスケールで異次元の世界を表現したエリア。「アートアクアリウム」リピーターの方にとって、最も新鮮な体験はこのエリアであると。手前上の映像も見事な美しさを。高さ2メートルの円柱形の水槽がさまざまな色に照らされるのであった。「九谷金魚品評/Kutani Goldfish Exhibition」。「日本の伝統工芸である九谷焼で制作されたアートアクアリウム、青九谷、赤絵、花詰という九谷焼の3つの基本技法を用いた金魚の絵柄を施している。品評会に倣い正しい金魚の見方である上見で金魚を鑑賞し横からは九谷焼で描かれた金魚達の華やかな世界を楽しむ、贅沢な作品。」そして階段を利用して2階にあがる。2階の案内図。④老松、⑤愉悦、⑥土産コーナー。展望ラウンジから「金魚の杜/ The forest of Kingyo ( gold fish)」と正面には3Dのデジタルアートが映し出され、大胆に飛び回る金魚や光がより空間の広がりを感じさせてくれるのであった。1階からの光景と、2階から見下ろす眺めで異なる美しさが楽しめたのであった。水柱の上部に映し出される3D映像と合わせた立体的な空間演出も見事な美しさ。そして2回の展望ラウンジの反対側のエリアには軽食レストランバー・「④老松」が。その横には能舞台・水戯庵ラウンジも。「鏡板」には「老松」の姿が。少し戻って別の場所から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.28
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さらに「アートアクアリウム」の展示品を楽しむ。「花魁道中/Oiran Courtesan Procesion(Oiran Dochu)」「江戸時代に最も第やかで革新的な場所であった花魁。その花魁においても最も煌びやかで象徴的な瞬間は「花魁道中」でした。その花魁道中をアートアクアリウムの代表作である”花魁”によって構成した超大作です。」美しさ、艶やかさを競う花魁や江戸の女性たちをイメージしているのだ。花見をする「花魁」の浮世絵も。金魚と花魁の描かれた浮世絵。「アンドンリウム/Andonrium」「日本の伝統的照明、行灯をモチーフとした、アクアリウムによるライティングの集大成といえる作品です。側面全てをレースで施されたグラフィックで覆い、中で泳ぐ数匹の金魚が複雑に変化す影を織りなし、儚い夢のような灯りを放っています。」行灯の光の中に黒出目金の姿が見えたのだ。「金魚大門/Kingyo(gold fish)Great Gate(Kingyo Ohmon)江戸の時代日常と非日常の境界であった花魁の大門を現代の花魁であるアートアクアリウム的解釈で製作した、複合作品です。」2つめのエリアは『浮世』。アートアクアリウムの基本コンセプト『現代における江戸の花街』を象徴するエリア。豪華絢爛で煌びやかな世界と、美しくも儚い物語を表現。「金魚大門」、「金魚大提灯」が花街を彩る。「金魚大門」。「金魚大提灯」。螺鈿細工の如き美しき姿。2つめのエリアは「浮世」。アートアクアリウムの基本コンセプト『現代における江戸の花街』を象徴するエリア。豪華絢爛で煌びやかな世界と、美しくも儚い物語を表現。「リフレクトリウム/Reflecterium」「金魚大門」の下の「リフレクトリウム/Reflecterium」「凹レンズ、凸レンズ、二重レンズなど、様々な見え方のレンズをアクアリウムに施した新作。中に泳ぐ魚たちは大きく見えたリ小さく見えたリ、分身したリ、歪んで見えたり不思議な世界が広がります。工ッジの効いた造形美にも注目の作品。」「天井金魚/Ceiling Kingyo」。「ガラスの水槽を天井に作り、金魚を見上げて観賞していたという江戸時代の豪商の伝説を現代に蘇らせた、構想期間5年にもおよぶ新作。鏡面効果により、さまざまな角度から<金魚の美しさを見ることができる新感覚の作品です。」様々な色に刻々と変化して。「ボンボリウム/Bonborium」「アクアリウムを雪洞に見立てた「ボンボリウム」は1つ1つに丸い金魚を一匹だけ泳がせ火種に見立てています.その姿はまるで影絵のような、不思議な儚さを感じさせます。江戸時代から親しまれてきた雪洞の持つ可愛らしさを強調しぼんやりと照らし出される金魚と、ゆっくりと変化する光の競演が楽しめます。」「テマリリウム/Temaririum」。「日本に吉くからある遊具の一つである「手毬」をモチーフとした.球体の作品。手毬の特徴である色とりどりの可愛らしい模様を伝続工芸である伊賀組紐と中を泳ぐ生きた金魚で表現しました。伝統工芸とアクアリウムが完全に融合した名作です。」別の角度からズームで。仕切りの窓の模様も花をイメージした和風のものが。「花魁/Oiran」1000匹の金魚が泳ぐ巨大な金魚鉢。この作品は江戸の遊郭花街の象徴である花魁を表現しています。花魁になった女性の生い立ちに倣って、ここで泳ぐ金魚達は名も無く一束幾らで売られる雑種だけで構成されています。しかしそんな金魚達もこの作品の中に泳ぎ花魁に昇華することによりこの会場の中の頂点に君臨することになるのです。ここにも「花魁」の浮世絵が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.27
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そしてこの日の最終目的地は、夏の風物詩として毎年開催されている「アートアクアリウム美術館」。 美しく舞う金魚を、光・音・香りのオリジナル演出で魅せる「生きるアート」。今年からは夏限定ではなく専用施設の常設展として、8月28日(金)に東京・日本橋にオープンしたのだ。 場所は「東京都中央区日本橋本町1丁目3。ネット予約の時間の5分前に行くと、数人が入場を待っていた。混んでいる時はここに長蛇の列が出来るのであろう。日陰用のビーチ・アンブレラの如きものも。施設は2フロア構成、展示工リアは1階で会場の広さも、過去の日本橋開催時の約3倍になったと。1階は「水端」「浮世」「神秘」をそれぞれテーマにした展示会場に分け、2階はバーを併設する「老松」とカフェラウンジを展開する「愉悦」に加えて「土産」の3つのエリアを設ける。消毒、検温、マスク着用を確認されて、ネット予約のQRコードをかざして定刻に入場。1階案内図。館内は1F「①水端(みずはな)」「②浮世」「③神秘」、2F「④老松」「⑤愉悦」「⑥土産」の6のエリアで構成。来場者はそれぞれ異なる世界観を堪能しながら館内を回遊する事が出来るのであった。 【https://tabilog723.com/artaquarium-museum/】より入口にあった「フラワーフラワーアクアリウム/Flower Flower Aquanum」「新しいゴージャスアクアリウムの極み.水槽の中のアクアリウムディスプレイと水槽の外に飛び出すフラワーアレンジメントが競演する花瓶と水槽のコラボレーション作品です。作品名は華やかな花と金魚の相乗効果を表しています。」花の生命力あふれる迫力と、優然と泳ぐ金魚の美しさが融合した魅惑の作品であると。角度を変えて。横からも。そして「禅アクアリウム/ZEN Aquarium」「日本画によく描かれる金魚。それをリアルで表現した額縁式のアート水槽です。まるで絵画を思わせ、横見(よこみ)の金魚の美しいシルエットが楽しめる作品です。」流木と水草の中を泳ぐ金魚が出迎えてくれた。アートアクアリウムアーティスト・木村英智氏の「紹介文」👈リンク。1972年、東京に生まれる。“アート”“デザイン”“エンターテインメント”と自身がライフワークとして追及している「アクアリウム」を融合させる『アートアクアリウム』という分野を発案・確立したアートアクアリウムアーティスト。変幻自在な水槽デザイン、ハイレベルな水質調整、知り尽くした生体管理と組み合わされる『アートアクアリウム』という独自の分野を確立させ、アクアリウムを用いて美術館でアートとして有料展覧会を開く唯一の存在となる。展覧会におけるインテリア、ライティング、映像、音楽、空間構成も自らデザイン・監修する。「アートアクアリウム美術館」作家・総合プロデューサーの「木村英智」さんをネットより。 【http://fm840.jp/blog/hello/2020/08/24/28020】より「木村英智」氏のサイン 2020.8.28。「木村英智」氏の「ご挨拶」。「Kingyo ( Hidetomo Kimura x VENINI)」「イタリアのヴェネッィアンガラアートの最高峰である「Venini」との共同作品.金魚(土佐錦魚)のゆらめく尾びれを象徴的に表現し、見た目にも金魚を感じさせるがラス製の金魚鉢(Kingyo)。Veniniとの共作はアジアでは、建築家安藤忠雄氏についで2人目。」金魚(土佐錦魚)。ゆらめく尾びれを追って。「床掛け金魚飾り/Tokogake Kingyo Omamento」「自と黒の世界。そしてミニマルな世界観で表現された作品、それが床掛け金魚飾りです。プロジェクションマッピングされた水墨画の掛け軸の中を、本物の黒い「出目金」が泳いでいます。「バーチャル」な水墨画の世界と、「リアル」な生きた金魚の影。「虚」と「実」が、綯交ぜとなり、融合した世界を作り出しています。」金魚と映像で水墨画を表現した作品。中で泳ぐ黒い「出目金」は、まるで墨で描かれたようで、作品の一部として溶け込んでいる。よく見ると本物の金魚の中に、映像の金魚も隠れているのであった。本物の黒い「出目金」が泳ぎその影が・・・。これぞ「虚」と「実」の融合。掛け軸の前には、様々な魚介類の姿の置物が。「カレイドリウム/ Kaleidorium」「横長水槽の側面には三角形のレンズが組み込まれ.中を覗くと幾何学模様が現れます。レンズのそばを金魚が泳ぐと、万華鏡を回しているかの様に模様が美しく変化する作品です。」横長水槽の前面には三角形のレンズが埋め込まれ、中を覗くと幾何学模様が現れる。そのレンズの前を金魚が泳ぐと、万華鏡を回しているかの様に模様が美しく変化する作品。「カレイドリウム3D/ Kaleidorium3D」「大人気作品であるカレイドリウムを六面体の「万華鏡」として立体的に再現した作品。色とりどりのライトで照らされたアクアリウムの中を金魚が泳ぐと、金魚一匹一匹が持つ固有の模様や尾ひれの動きが、まるで万華鏡の様にキラキラと変化して見え、無限の美の世界が広がります。」色とりどりのライトで照らされて。水槽に近づいて。万華鏡の如き世界を楽しむ。別の面から。「金魚コレクション/ Kingyo Collection」「金魚はその存在自体が人の手で作り出された”生きるアート”です。金魚の奥深さを堪能いただくために、金魚の品種ごとに水槽を分けて展示します。色や柄、形に至るまで同じ金魚は一つとしてありません。正当な品から珍しい品種まで展示します。」「円窓リウム/Round Windowrium(Marumado rium)茶室など、古来より日本建築で用いられる円窓。それを覗いた先には美しい光景が広がります。それは、円窓の持つ雰囲気が更に、その先の景色に想像力をかき立ててくれるのかもしれません。障子を開けると金魚が泳ぐ不思講な窓からは非日常の世界が広がります。」「石庭リウム/Rock Gardenrium (Sekitei rium)」「色々な物を排して、究極のシンプルで表現された日本庭園の「石庭」において、一番最初に排した”水”を、最後まで残された”石”として表現し、その中に金魚を泳がせた、今までの庭造りの概念を覆す作品です。」「枯山水」から更に庭木などを限りなく無くしたのが「石庭」。「灯籠リウム/ Stone Lanternrium(Tou-rou rium)「日本底園などによく見られる石灯籠。それをアートアクアリウムで表現しました。光解き金魚が冰ぐ灯籠は、まるで宇宙と交信しているかのようです。」金魚が冰ぐ灯籠。 ・・・つづく・・・
2020.09.26
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更に日本橋室町の散策を続ける。「日本橋室町三井タワー」が左手に。「日本橋室町三井タワー」前にあった案内板」。「江戸で最初の町割りの地本町通りは、古くは太田道灌が築いた中世江戸城の大手から、古来以来繁栄していた浅草寺に向かう通りであり、そのまま奥州へとつながっていました。天正18(1590)年に江戸に入った徳川家康は、江戸城大手から続く常盤橋を整備し、この本町通り一帯で町割を行いました。その町支配のため、町年寄として家康の江戸入りに従った奈良屋市右衛門・樽屋藤左衛門・喜多村彌兵衛を命じました。また、現在の日本銀行が立つ場所に江戸幕府の金貨鋳造を行う金座※が置かれ、その表通りには各種の商人の店舗がならび、行き交う武士や、商人・職人などの町人たちで賑っておりました。※金座は、後藤家が司っていたここに、徳川家康江戸入府後の最初の町割の地として、本町の歴実を後世に伝えるために記します。」「日本橋室町スチーム時計」「日本橋室町スチーム時計この日本橋室町スチーム時計は、この建物の地下にある日本橋エネルギーセンターの取り組みの象徴として設置されました。日本橋エネルギーセンターは、高効率大型発電機・地域冷暖房により電気や熱を創り出し、独自の配管・配線によって、この建物の他、周辺の既存ビルや大型商業施設約20棟に供給する日本初の取り組みを行っています。この日本橋室町スチーム時計から発せられる蒸気や音は、本取り組みで創出しているエネルギーをイメージしています。時計台は高さ6mとなっており、時計盤面及び塔体側面には日本橋発祥の江戸切子の伝統的な籠目・矢来の文様を使用しています。」「日本橋三井タワー」YUITOビルと三重テラスの間に鳥居風の「福徳神社」の入口。「福徳神社」と刻まれた石碑。「福徳神社」の朱の鳥居。鳥居をくぐると、境内の緑の中に石碑が。「宮戸川の邊り宇賀の池上に立る一里塚より此福徳村稲成森塚迄一里」と刻まれた石碑が。裏には「貞観元年卯年三つき吉祥日」と。 「福徳神社由緒当社伝来の稲荷森塚碑文によれば九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物・食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は、往古より源義家公、太田道灌らの武将の尊崇を受け、ことに最初に江戸城を築いた太田道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正18年、江戸入部直後に当社を参詣。2代将軍徳川秀忠も慶長19年に参詣し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は、江戸城の弁財天を合祀し社地を330坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。その後、江戸の町の発展と、度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんどを失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が祭祀を継承してきた結果、平成26年秋、日本橋地縁諸氏の尽力により、往時の姿を彷彿とさせる社内・社殿が再興されるに至った。」「拝殿」が正面に。「手水舎」。「拝殿」。「拝殿 内陣」。御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。令和2年1月23日(算額文化を広める日)に、加須市の内田氏より算額が奉納された。「算額」とは神社仏閣に掲げられた絵馬の一種で、額面に日本の伝統的数学「和算」の問題を載せたもの。江戸時代以来の数学者が自己の研鑽の成果を神前に発表し、一層の精進を祈念したのだと。「日本橋福徳神社の算額について由来「算額」は神社仏閣に掲げられた絵馬の一種で、額面に数学の問題を載せたものである。この風習は江戸時代以来の数学者が、自己の研鑽の成果を神仏の前に発表し、その後の精進を神仏に祈念するために行ったものである。算額は「和算」(日本人の伝統的数学)の発展に大きく貢献している。算額の奉納はごく一部の県を除いて北海道から九州まで各地で行われており、埼玉県は現存の算額の数では全国有数を誇っている。当社の掲額は令和2年1月に埼玉県加須市在住の内田圭一氏が「先人の残してくれた遺産をぜひとも次の時代に継承していきたい。」との思いで、ご縁のあった当社に奉納されたものである。埼玉県の中でも加須市には非常に多くの算額が現存している。算額はいろいろな意味で貴重な歴史資料であるにもかかわらず、年々失われつつあるのが実情である。願文にもあるようにこのことがあまり知られていないことを憂いておられ、加須市の算額のことそして日本人の数学文化についてぜひ多くの人に知っていたたきたいとの願いで奉額されている。」最後の問題には答えはなかった。上の算額の解答解説文がネットに掲載されていました。 【https://mebuki.jp/825/】より「社務所」。「室町東三井ビルディング」。「本町廻りと町年寄喜多村家本町通りは、徳川家康 が江戸の町造りに着手した時から江戸の中心となっていました。天正18年(1590年)関東に転封となった家康は、浅草に抜ける本町通り沿いに金座や町年寄の屋敷地を下賜しました。現在の天伝馬本町通り(当敷地北側の通り)です。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)更に「天下普請」を開始し、新橋から神田まで南北に貫く目抜き通りを造りました。これが現在の中央通りで、このとき日本橋 が架けられました。翌慶長9年(1604年)日本橋に五街道 の起点が設定され、北に向かう中山道と日光街道はこの交差点で分岐し、日光街道は本町通りをとって東に向かいました。天正から慶長の城下建設で、奉行衆の下で市街地造成と町割りなどに携わった樽屋・奈良屋・喜多村の三年寄が江戸の町政を担うようになりました。喜多村家の役宅は当ビルの敷地にあり、初代彦右衛門の出身は加賀(金沢)だと伝えられています。浮世小路と料亭百川(ももかわ)福徳神社南側の通りは、江戸時代「浮世小路」と呼ばれていました。延宝期(1673〜81年)の「江戸方角安見図」には「うきよしやうじ」と記載されています。小路と呼ぶのは、この地に屋敷があった町年寄喜多村家の出身地、加賀の方言によって発音されていたことを示しています。浮世小路の東端北側には、落語噺の舞台としても知られる料亭百川があったとされています。百川は江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー艦隊が来航した時には、乗組員全員にすべて自前で本膳を提供したほどの力がある料亭でした。小路にあった福徳神社は小さいながら、遠い平安時代前期からこの地に鎮座していたといわれる由緒ある神社です。徳川家康をはじめ歴代将軍から厚く崇敬されましたが遷座や敷地の縮小を繰り返して、今日にいたりました。縁起の良い名前もあって、江戸時代には氏子である瀬戸物町や伊勢町等の商人達から多くの信仰を集め、富くじ興行でも大いに賑わいました。ここ室町をはじめ日本橋地区で働く人々をそれぞれ「福徳神社広場」、「新浮世小路」と名付けました。」社務所前のガラスケースに収められた小さなこの社が「福徳神社」の「本宮様」で、コレド室町と共に再開発で建てられた拝殿は本宮から分祀されているとのこと。「社務所」と蔵の如き「室町東駐輪場(有料)」そして重要文化財(建造物)の「三井本館」。「三井本館」は東京都中央区日本橋室町にある、三井不動産保有のオフィスビル。越後屋の跡地にある。また、團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場でもある。現在の建物は1902年(明治35年)に竣工した旧三井本館が関東大震災で被災したために建替えられたもの(1929年(昭和4年)3月23日竣工、6月15日開館)で、アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所が設計しジェームズ・スチュワート社が施工を行った。地下大金庫の最大厚さ90センチメートルの扉は搬入に際し重量の大きさ(約50トン)から日本橋が損傷する恐れがあるために通過が認められず、川に浮かべ船で運ばれた。近年、川から陸揚げを行っている写真が発見された。1945年(昭和20年)より1947年(昭和22年)までは連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が4・5階の一部を接収した。1998年(平成10年)には国の重要文化財に指定された。現在でも三井不動産の本社、三井住友銀行日本橋支店、三井住友信託銀行日本橋営業部などが入居しているほか、7階には三井家の所蔵品を展示している三井記念美術館が2005年(平成17年)10月8日に開館した。また夜間はライトアップされる。正面入口に「三井住友信託銀行」と書かれた銘板が。「三越日本橋本店」。「三越日本橋本店」入口。「日本橋三越本店」は江戸時代の1673(延宝元)年に呉服店「越後屋」として開業したのが始まり。1904(明治37)年に「株式会社三越呉服店」を設立するとともに『デパートメントストア宣言』をし、現在の百貨店の形ができあがった。つまり、日本のデパートの歴史を牽引し続けてきたのがこの「三越」なのである。現在の「三越日本橋本店」となる建物が最初に建てられたのは1914(大正3)年。ルネッサンス様式の建築で、当時は「スエズ運河以東最大の建築」と称された。また、内部はセセッション風・アダム式・ジャコビアン式・ルイ16世式などの様式が各場所に施され、エスカレーターやエレベーターなど日本初の最新設備も備えられた。そしてこの当時から正面玄関で2頭の「ライオン像」が出迎えているのだと。「日本橋三井タワー」「古河市兵衛之像」ズームで。「古河市兵衛翁は天保三年(一八三二年)京都岡崎で生まれる。行商から身を興し明治八年鉱山経営に着手。その強靭な気根と不撓の行動力により幾多の困難を乗り越え「鉱山王」と呼ばれる。足尾銅山 の発展を基盤として多角経営に進出。これが今日における古河グループ発展の基礎となる。この地は翁が明治十年住居兼古河本店としその後二十年間事業の拠点とした発祥の地である。」「門前茶屋 雲母橋(きららばし)」。そしてその隣りにあったのが「薬祖神」。扁額「薬祖神」。「社殿」。「薬祖神社(ご由緒)御祭神大己貴命(おおなむじのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)御利益無病健康・病気平癒わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で峨(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表してきました。明治四十一年(1908年)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人 東京薬事協会)が東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和四年(1929年)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和五十八年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。さらに平成二十八年(2016年)九月に現在地に第三代目の薬祖神社が遷座し今日に至っています。」そして「お江戸日本橋亭」。「お江戸日本橋亭」とは、東京都中央区日本橋にある演芸場である。1995年に開館し、その他上野広小路や、新宿、両国にも演芸場を持つ永谷商事株式会社が運営を行っている。「お江戸日本橋亭」では、公益財団法人落語芸術協会により定席を始め、講談、浪曲、新内、長唄、義太夫等の伝統芸能を中心に連日公演が組まれている。若手芸人をはじめベテランも出演することがある。当会場の観客席は畳席と椅子席の2種類あり、キャパシティは120名という広さのため、伝統芸能を間近に見ることができると高評価を得ているのだと。看板「お江戸日本橋亭」。「落語芸術協会出演 お江戸日本橋亭定席」案内。「永谷 お江戸日本橋亭 定席 9月番組表」。「講談」の演芸会。「落語立川風」他の案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.25
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「貨幣博物館」の入口近くの無料資料置き場に「現在有効な銀行券」そして「現在有効な貨幣」についてのパンフレットがあったので、ここに紹介します。まずは「現在有効な銀行券」。現在、主に流通しているのは2004年発行開始のE券(一万円券、五千円券、千円券)および2000年発行開始のD二千円券である。日本銀行や国立印刷局ではそれぞれの日本銀行券(紙幣)を「一万円券」「千円券」等と称しているが、一般的な通称として「一万円札」「千円札」等と呼ばれる。発行順を表すため、お札をABCDEの記号で区別している。現在発行されているお札は、戦後5番目の発行ということで、「E券」と呼ばれています。守礼門の二千円札には「D」という記号を頭に付けて、D二千円券と呼ばれており、一万円札、五千円札、千円札についてもE券の前のお札は「D」という記号が。ところで「二千円札」はどこに行ってしまったのだろうか?ここ10年?の記憶をさかのぼっても、「二千円札」を目にしていないのであるが私だけなのであろうか。二千円札は沖縄サミット開催を記念して、20年前の2000年7月19日に発行された紙幣。それゆえ、上記写真のごとく表の図柄は肖像画ではなく、沖縄首里城の守礼門となっている。欧米主要国では、アメリカは20ドル紙幣、イギリスは20ポンド紙幣、EUでは20ユーロ紙幣のように「2のつくお金」が発行され、よく流通しているし、現金の支払い・受け取りに要する紙幣を節約できることが、二千円札の発行理由として説明されたはずであったが。以前テレビで、沖縄では二千円札はかなり利用されている。特にタクシー料金を支払う時などに使われていると。最近、沖縄に行っていないので真実は如何に?そして2003年から新規製造はストップしているとも。すでに発行済みの紙幣も、その多くが日本銀行の金庫に保管されている状態なのだとコメンテーターが語っていたが。そして現在は発行されていないが、有効な銀行券。★一万円券:平成19(2007)年4月2日発行停止 寸法:縦76mm、横160mm 肖像:福沢諭吉 発行開始日:黒色記番号:昭和59(1984)年11月1日 褐色記番号:平成5(1993)年12月1日★一万円券:昭和61(1986)年1月4日発行停止 寸法:縦84mm、横174mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和33(1958)年12月1日★五千円券:平成19(2007)年4月2日発行停止 寸法:縦76mm、横155mm 肖像:新渡戸稲造 発行開始日:黒色記番号:昭和59(1984)年11月1日 褐色記番号:平成5(1993)年12月1日★五千円券:昭和61(1986)年1月4日発行停止 寸法:縦80mm、横169mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和32(1957)年10月1日★千円券:平成19(2007)年4月2日発行停止 寸法:縦76mm、横150mm 肖像:夏目漱石 発行開始日:黒色記番号:昭和59(1984)年11月1日 青色記番号:平成2(1990)年11月1日 褐色記番号:平成5(1993)年12月1日 暗緑色記番号:平成12(2000)年4月3日★千円券:昭和61(1986)年1月4日発行停止 寸法:縦76mm、横164mm 肖像:伊藤博文 発行開始日:黒色記番号:昭和38(1963)年11月1日 青色記番号:昭和51(1976)年7月1日★千円券:昭和40(1965)年1月4日発行停止 寸法:縦76mm、横164mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和25(1950)年1月7日★五百円券:平成6(1994)年4月1日発行停止 寸法:縦72mm、横159mm 肖像:岩倉具視 発行開始日:昭和44(1969)年11月1日★五百円券:昭和46(1971)年1月4日発行停止 寸法:縦76mm、横156mm 肖像:岩倉具視 発行開始日:昭和26(1951)年4月2日★百円券:昭和49(1974)年8月1日発行停止 寸法:縦76mm、横148mm 肖像:板垣退助 発行開始日:昭和28(1953)年12月1日これより下の銀行券については、私(1950年生まれ)は全く記憶がないのであるが。★百円券:昭和31(1956)年6月5日発行停止 寸法:縦93mm、横162mm 肖像:聖徳太子 発行開始日:昭和21(1946)年2月25日 中央「百圓」の文字の下にある赤色標識がなく、裏面模様が赤い色のものは 失効券ですからご注意ください。★五十円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止 寸法:縦68mm、横144mm 肖像:高橋是清 発行開始日:昭和26(1951)年12月1日★十円券:昭和30(1955)年4月1日発行停止 寸法:縦76mm、横140mm 図柄:国会議事堂 発行開始日:昭和21(1946)年2月25日★五円券:昭和30(1955)年4月1日発行停止 寸法:縦68mm、横132mm 図柄:彩紋 発行開始日:昭和21(1946)年3月5日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(二宮尊徳) 寸法:縦68mm、横124mm 肖像:二宮尊徳 発行開始日:昭和21(1946)年3月19日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(武内宿禰:昭和発行開始分) 寸法:縦70mm、横122mm 肖像:武内宿禰 発行開始日:昭和18(1943)年12月15日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(大黒像) 寸法:縦78mm、横135mm 肖像:大黒像 発行開始日:明治18(1885)年9月8日★一円券:昭和33(1958)年10月1日発行停止(武内宿禰:明治発行開始分) 寸法:縦85mm、横145mm 肖像:武内宿禰 発行開始日:漢字記番号:明治22(1889)年5月1日 英数字記番号:大正5(1916)年8月15日次に「現在有効な貨幣」。500円、100円、50円、10円、5円、1円貨幣の6種類(記念硬貨は除く)。そして現在は発行されていないが、有効な貨幣。★500円白銅貨幣:昭和57(1982)年発行開始 図柄:桐 素材:銅75%、ニッケル25% 直径:26.5mm 量目:7.2g 縁刻:レタリング 発行開始年:昭和57(1982)年★100円銀貨幣:昭和34(1959)年発行開始 図柄:稲穂 素材:銀60%、銅30%、亜鉛10% 直径:22.6mm 量目:4.8g 縁刻:ギザあり★100円銀貨幣:昭和32(1957)年発行開始 図柄:鳳凰 素材:銀60%、銅30%、亜鉛10% 直径:22.6mm 量目:4.8g 縁刻:ギザあり★50円ニッケル貨幣:昭和34(1959)年発行開始 図柄:菊花 素材:ニッケル100% 直径:25.0mm 量目:5.0g 縁刻:ギザなし★50円ニッケル貨幣:昭和30(1955)年発行開始 図柄:菊花 素材:ニッケル100% 直径:25.0mm 量目:5.5g 縁刻:ギザあり★10円青銅貨幣:昭和28(1953)年発行開始※ 図柄:平等院鳳凰堂 素材:銅95%、亜鉛4%~3%、錫1%~2% 直径:23.5mm 量目:4.5g 縁刻:ギザあり 本貨幣は昭和26(1951)年に制定され、製造が開始されました。 表裏の図柄は現行の十円硬貨と同じだが、周囲が溝付きであることが現行の十円硬貨と 異なる点であり、「ギザ十」の愛称で呼ばれる。★5円黄銅貨幣:昭和23(1948)年発行開始 図柄:国会議事堂 素材:銅60%~70%、亜鉛40%~30% 直径:22.0mm 量目:4.0g 縁刻:ギザあり★5円黄銅貨幣:昭和24(1949)年発行開始 図柄:稲穂、歯車、水 素材:銅60%~70%、亜鉛40%~30% 直径:22.0mm 量目:3.75g 縁刻:ギザなし表裏の文字が楷書体で、裏面が「日本國」と旧字体であることが現行の五円硬貨と異なる点。そしてこんなページがネットに。「普段何気なく使っているお金ですが、その裏にはどんな歴史や真実が隠れているのでしょうか。お金に関するトリビアをご紹介します(文中敬称略)。トリビア1 最初に発行された日本銀行券に描かれているもの日本で最初に紙幣(日本銀行券)が発行されたのは1885(明治18)年。図柄には、商売や農業の神様である大黒天が描かれていました。このため「大黒札」という通称で親しまれたそうです。紙幣には歴代様々なものが描かれていますが、日本銀行券に初めて描かれた歴史上の人物は「菅原道真(すがわらのみちざね)」です(1888年発行)。菅原道真は福岡・太宰府天満宮にまつられている学問の神様として有名ですね。トリビア2 今までお札に肖像が描かれた人のうち最多登場はこの人物現行紙幣を含めて、日本銀行券に描かれた人物は16人です。戦前の紙幣では、藤原鎌足、日本武尊(やまとたけるのみこと)、聖徳太子など。戦後は岩倉具視、板垣退助、伊藤博文新渡戸稲造などです。その中でも最も多く登場しているのは、聖徳太子で7回です。現在、日本で製造されている紙幣はすべて肖像が使用されていますが、お札に肖像が使われる理由は2つあります。1つ目は、偽造防止のため。私たちは人の顔を見分けることに慣れているため、肖像がずれていたりぼやけていたりすると違和感を持つため、偽造を見抜くことができるそうです。2つ目は、親近感を持ってもらうため。誰もが知るその国の政治家、文化人、有名人などを描いて、その人の功績を再認識してもらい、日本銀行券への認識を深めてもらいたいという意図があります。トリビア3 過去最大の紙幣、最小の紙幣はこれ現在発行されている一万円札、五千円札、千円札は、縦(短辺)の長さが同じです。横(長辺)が若干違い、一万円札が最も長いようです。過去にはどんな大きさの紙幣が発行されていたのでしょうか。日本で発行された紙幣の中で最も大きな紙幣なのは、1891(明治24)年に発行された「改造百円券」で、A4サイズの半分程度の大きさです。逆に、最も小さな紙幣は1948(昭和21)年に発行された「A5銭券」です。戦後すぐに発行され、梅の花が描かれたこの紙幣の大きさは縦48ミリメートル、横94ミリメートルでした。トリビア4 同じ千円札でも呼び名が異なる日本銀行は、紙幣に記号を付けてデザインごとに分類をしています。例えば、現在の野口英世が描かれた千円札は正式には「E千円券」、その前の夏目漱石が描かれた千円札は「D千円券」と呼ばれます。現在発行されている紙幣では、福沢諭吉の一万円札、樋口一葉の五千円札、野口英世の千円札はそれぞれE一万円券、E五千円券、E千円券です。また守礼門が絵かれた二千円札はD二千円券です。一万円札、五千円札、千円札もE券の前はそれぞれ「D」という記号がつけられていました。この記号は、明治中期~1935(昭和10)年頃までは「甲・乙・丙・丁」、1942(昭和17)年頃~1945(昭和20)年頃までは「い・ろ」、1946(昭和21)年以降は、「A・B・C・D」とアルファベットになっています。キャッシュレス化が進み、最近では紙幣や硬貨を取り出さずに決済できるようになってきました。「お金」の形は時代ごとに変わっていますが、私たちの生活においてなくてはならない存在であることは変わりません。お金については知っているようで知らないことが意外と多そうですね。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.24
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そして前方右手に「日本銀行本店」の「本館(旧館)」。明治29年(1896年)竣工。設計者は明治建築界の重鎮で、中央停車場(東京駅)、万世橋駅等全国に数々の名作を残した、近代建築の父といわれたあの辰野金吾氏。東京都中央区日本橋本石町2-1-1。右折して「江戸桜通り」に入る。「本館(旧館)」を南側から。設計者の辰野金吾博士は建築学界の第一人者で、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)教授であった。同博士は、日本銀行の支店(大阪・京都・小樽など9店舗)やその他に東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけているのだ。なお、日本銀行の「本館(旧館)」は、昭和49年(1974年)2月5日に国の重要文化財に指定された。正面に「西門入口」であるが閉鎖されていた。さらに「江戸桜通り」を進むと、こちらが「南門」。こちらから出入り出来るようであった。正面から屋根のドームを。外壁は、外装材の石と内装材のレンガを互いに積み上げる構造で、上層階ほど薄くして建物の軽量化を図った。石の種類は、地階と1階は花崗岩、2階以上は安山岩。大正12年(1923年)に起きた関東大震災では、建物自体はびくともしなかったたが、近隣の火災が日本銀行にもおよび、シンボルである中央のドームや一部フロアは、焼けてしまった。現在のドームはその後復元したものであると。別の場所から。ドームをズームで。別の角度から。上空から見ると「本館(旧館)」は「円」の文字に見えると以前テレビで。なるほど。しかし日銀本店が着工されたのは明治24年(1891年)。このとき紙幣で使用していた文字は「円」でなく旧字体の「圓」。この表記は戦後の昭和21年(1946年)に新字体の「円」になるまで変わっていないと。そこで屋根の形は、意識的に設計したものではなく、「偶然の造形」というのが大方の意見のようだが。 【https://twitter.com/kurakata/status/869756681466527744?lang=ca】「本館(旧館)」の上空からの写真。 【https://www.boj.or.jp/about/services/kengaku.htm/】高い場所から「本館(旧館)」西側を見る。(ウィキペディアより)再び、「外堀通り」に戻り「本館」を見上げる。正面・中庭・西面の2階から3階を貫く双柱にはコリント式の様式が見られるのだと。そして右手に「日本銀行「本店」の新館」が。前方に北越コーポレーション 東京本社。現役時代に、ここ「元北越製紙 」に何度となく通ったのであった。右に折れて、日銀通りに向かって進むと、右手に北側の入口が。この建物は昭和48年に完成した10階建ての新館。「日本銀行 北門」銘板。そして「日銀通り」に面した日本銀行本館の東側の旧館の2号館、昭和13年竣工。本館の右隣り(東隣り)の建物の、奥側(北側)であり、手前側の3号館と外観上は一体化している。そして、「日本銀行 本店」前にあった「貨幣博物館(かへいはくぶつかん)」を訪ねた。「貨幣博物館」は、日本銀行金融研究所内の2階フロアに設置されている博物館。1982年(昭和57年)に日本銀行創立100周年を記念して設置され、1985年(昭和60年)11月に開館したと。日本銀行本店に隣接し、館内には古代から現在に至るまでの「日本の貨幣史」、世界の貨幣・紙幣を紹介する「さまざまな貨幣」、および「テーマ展示コーナー」からなる。発掘された貨幣や、軍票、記念硬貨などが順路毎に約4000点展示されている。また、1億円分の紙幣の重さを体験出来るコーナーもある。日本銀行が収集してきた日本および国外の貨幣類と、田中啓文から寄贈された「銭幣館コレクション」がもとになっているのであった。入口には、「和同開珎」、「永楽通宝」や「慶長笹書大判金」の描かれた幟が置かれていた。無料だが受付で名前を書き、手荷物検査等空港の保安検査場並みのセキュリティチェックを受けて2階の展示室に。「貨幣博物館」。「貨幣博物館」入口の屏風風案内板。入口手前にあったのが「石のお金(ヤップ島の石貨)」。ヤップ島で実際に流通している石貨で、フェイと呼ばれ、世界最大の通貨。大きすぎて動かすことが容易でないことから、家の前などに放置されるようですが、実際に結婚式や不動産売買の時など特別な場合に利用され、貨幣が移転せずに所有権のみ移転するという独特の流通形態であるようだ。なお、フェイは、現在は新たに作成されることはなく、ヤップ島では、日常的にドルが流通していると。「銭幣館から貨幣博物館へ」。銭幣館は1923年に古銭の研究・収集家で東洋貨幣協会会長だった田中啓文(1884-1956)が自宅に煉瓦づくりの建物を建て開設した博物館だった。コレクションや資料は10万点に及んだが、戦時中空襲による被災を恐れ1944年末、日本銀行に寄贈した。そのときの総裁は澁澤敬三だった。澁澤敬三は澁澤栄一の孫で第一銀行副頭取だったが日本常民文化研究所という民俗学の博物館をつくるような人物だったので、貨幣のコレクションにも興味をもった。澁澤が退任してからだが1948年標本貨幣室として公開開始、日銀創立100周年記念事業として1985年11月に貨幣の専門家である郡司勇夫氏らの協力を得て誕生したのだと。「日本銀行の三つの大きな仕事」の解説ボード①お札の発行:お札の発行・流通・管理を行う、わが国唯一の発券銀行②物価の安定:国民生活の安定や経済の持続的な発展のために③金融システムの安定:お金の受け払いや貸し借りを誰でも安心して行えるように入館時に頂いたパンフレット。「金座から日本銀行へ現在、日本銀行本店のあるこの地には、江戸時代、「金座」がありました(当時本町一丁目)。幕末までここで金貨がつくられていました。」「日本銀行は1882年、永代橋(日本橋箱崎町)にあった建物を利用して開業しました。1896年、辰野金吾設計による日本銀行本店(現本店旧館<本館>)の建物が完成し、現在の場所(日本橋本石町)に移転しました。辰野金吾は建築家ジョサイア・コンドルの弟子で、東京駅丸の内駅舎などの設計も手がけています。」ここにあるのは”お金の歴史”です。「貨幣博物館の見どころ」古代から現代にかけて、貨幣・紙幣の実物(一部は複製)と資料を合わせ、貨幣制度の移り変わりを展示している。古代・物々交換から物品貨幣へ・わが国における貨幣発行の開始中世・中国銭の使用近世・江戸時代幣制の芽生え・独自の幣制の成立・幣制の安定と動揺近現代・明治初期の幣制混乱・円の誕生・日本銀行の成立・金本位制度から管理通貨制度へトピック展示・さまざまな貨幣・海外の貨幣・紙幣など古代、中世、近世近代、トピック展示「古代からの貨幣の歴史」👈リンク「実物大でみる日本の歴代貨幣」「展示室」入口。「貨幣博物館」中に入ると本物の大判・小判・黄金の分銅がずらりと並んでいた。「貨幣博物館」👈リンク 内部は撮影禁止でしたので、展示内容詳細については、上記👈リンクにアクセス願います。そして「日本銀行券の偽造防止」👈リンク のパンフレットも頂きました。それぞれの紙幣の偽造防止技術が紹介さていました。一万円札。「さわってわかる」①深凹版印刷:図柄は、従来のお札よりもインキが表面に盛り上がるように印刷されています。②識別マーク(深凹版印刷):目の不自由な方が指で解って識別できるように、 従来の「すかし」に代えて一層ざらっきのある「深凹版印刷」に よるマークを導入しています。③すき入れバーパターン:光に透かすと、すき入れられた棒が見えます。 従来のすかしよりも、バソコンやカラーコビー機等で再現しにくい ものです。「傾けてわかる」④潜像模様 お札を傾けると、一万円券は表面左下に「10000」、五千円券は表面中央下に 「5000」の文字が浮び上がります。また、それぞれ裏面右側には、「NIPPON」の 文字が浮び上がります.⑤ホログラム 一万円券、五千円券に導入された技術です。 お礼を傾けると、画像の色や模様が変化して見えます。⑥パールインキ お札を傾けると、左石の余白部にビンク色を帯ひたバール光沢のある 半透明な模様が浮び上がります。「傾けてわかる」⑦潜像パール模様 千円券独自の偽造防止技術で、お札をけると、 (1)バール印刷による「千円」の文字と、 (2)潜像模様による「1000」の数字がそれそれ浮び上がります。⑧マイクロ文字 「NIPPON GINKO」および、「10000」、「5000」、「1000」と書かれた 小さな文字が印刷されています。従来の文字よりも小さい文字を取り入れて いるほか、地絞(細かい曲線などで描かれたお札の地模様)にも大小取り混ぜた文字が デザインされています。⑨特殊発行インク 表の印章(日本銀行総裁印)に紫外線をあてるとオレンジ色に光るほか、地絞の 一部が黄緑色に発光します。二千円券の偽造防止技術。ニ千円券には①~ ⑨ (除く③、⑤、⑦)の偽造防止技術に加え「光学的変化インキ」が導入されています。これはニ千円券独自の偽造防止技術で、表面右上の料額の文字「2000」が、角度を変えると青緑色から紫色に変わります。そして見学を終え通路に出ると、ポスターコーナーが。「The UKIYO-E 2020」〇三大浮世絵コレクションが-堂に集うのは史上初!〇浮世絵の歴史を展観する約60名の絵師の代表作を一挙紹介〇出品総数約450点のうち、重要文化財・重要美術品はなんと100点以上!〇世界唯一の残存作など秘蔵の逸品が目白押し〇葛飾北斎「冨嶽三十六景」、歌川広重「東海道五拾三次」の超有名作を通期で展示「The UKIYO-E 2020」を是非訪ねてみたいと思いながら「貨幣博物館」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.23
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この日・9月11日は都内の銀行そして日本橋に向かう途中にまず我が市役所に立ち寄りました。本庁舎が正面に。藤沢市の新庁舎は、2018年(平成30年1月4日(木)供用開始したのだ新庁舎は鉄筋コンクリート地上10階地下1階建て、延べ床面積約3万5400m2。免震構造を採用し、ヘリコプターのホバリングスペースや非常用発電設備、防災倉庫を設置するなど、災害時の活動拠点としての機能が強化されている。また、5階には市民が利用できる会議室や屋上庭園、9階には展望デッキを設けられている。国道467号線に架かる歩行者専用橋を渡る。東京2020オリンピック競技大会のセーリング競技会場は藤沢市にある江の島(湘南港)になっているのだ。1964年に開催された東京大会で、江の島はヨット競技の会場となった。それ以来、国内有数の競技会場として数多くの選手を育んで来た。1964年当時は「ヨット」と呼ばれていたが、2000年のシドニー大会から「セーリング」という名称に変更されたのであった。ただし、2020年東京パラリンピックではセーリング競技を実施しないことになってしまったのだ。2020年東京五輪の公式マスコットの名前が「ミライトワ」(五輪)。公式エンブレムの市松模様をあしらった五輪マスコットの名前は「未来」と「永遠(とわ)」を結びつけたものであると。2020年東京五輪の公式エンブレム。歴史的に世界中で愛され、日本では江戸時代に「市松模様(いちまつもよう)」として広まったチェッカーデザインを、日本の伝統色である藍色で、粋な日本らしさを描いた。形の異なる3種類の四角形を組み合わせ、国や文化・思想などの違いを示す。違いはあってもそれらを超えてつながり合うデザインに、「多様性と調和」のメッセージを込め、オリンピック・パラリンピックが多様性を認め合い、つながる世界を目指す場であることを表しているのだと。本庁舎内に入り、目的の場所に行くと多くの市民が順番待ちをしていたのであった。私も整理券を入手し、しばしの庁舎内散策。「キュンとするまち。藤沢」コーナー。「キュンとするまち。藤沢海だけでなく、自然も食も歴史も便利さも、子育てや介護、安全安心も、胸を打つ魅力にあふれる藤沢が、私たちは大好きです。そして、この大好きな想いがエネルギーになり、さらにまちにいきいきとした輝きをプラスしています。暮らすだけで、訪れるだけで、「キュン」とするまち、それが藤沢です。」マスコットの名前は「ふじキュン」。「ロゴマーク」に込められた想い「大好きな想い」に満ちあふれた市民は、みんな笑顔で輝いています。 市民の笑顔が、藤沢には大切なエネルギーです。 笑顔の「キュンとするまち。藤沢」からはじまるこれからに胸が膨らみます と。「市制80周年 記念事業 「キュンとするまち」。藤沢 写真集」募集案内。「江の島de宝探し」開催案内。宝の地図(参加リーフレット)に描かれた暗号や謎を解読し、江の島島内を探しながら「キーワード」を見つけ出し、最終目的地の発見を目指すイベントであると。「ふじさわのくだもの 直売所に行こう!」案内。「藤稔(ふじみのり)と巨峰の比較」。藤稔は、およそ35年前に藤沢で生まれたブドウ。本庁舎内にも 東京オリンピック・パラリンピックの大会マスコットキャラクターの「ミライトワ」「ソメイティ」の姿が。「ソメイティ」は桜の代表的品種である「ソメイヨシノ」と、力強いという意味の「so mighty」という言葉からそれぞれ名付けられたとのこと。そして庁舎内にはロボット・「AYUDA」が。「AYUDA」は自律移動型のコミュニケーションロボット。女性の平均身長と同じ160cmの大型で市民と同じ目線の高さでのサービス提供を可能としていると。今回、藤沢市役所の協力のもと、藤沢市役所内での案内および誘導の自律走行機能を用いたサービスを含めた実証実験を行っていると。「AYUDA」は、スペイン語で手伝う、助けるという意味で来庁者の呼びかけに応じ適切な部署を案内することができます。 また、簡単な日常会話もすることができ、英語や中国語にも対応しているほか、相手の感情を識別できると。本庁舎1階内。「藤沢市 市制施行 80周年」横断幕。そしてそろそろ呼び出される番号が近づいて来たので、「マイナンバーカード」に関する市民窓口センターへ。実は、私の「マイナンバーカード」の電子証明書の期限切れに気づいた為にその手続に市役所に行ったのであった。マイナンバーカードと電子証明書には有効期限があるのだ(電子証明書の有効期限は5年)。有効期限ぎた場合には、マイナンバーカードを身分証明書として使えなくなるほか、E・Tax等の電子申請やコンビニ交付、令和3年3月から開始される健康保利用等に使えなくなるのです。そして今回期限切れに気がついた「マイナポイント」登録にも。マイナンバーカード・電子証明書の更新にかかる手数料は、無料。そして10分程で電子証明書の有効期限再登録を完了し、本庁舎を後にし、藤沢駅からJR東海道線で東京駅に向かったのであった。「本庁舎」を振り返る。そしてJRで都内に向かう。そして都内での用事を済ませ久しぶりの東京駅に戻り、八重洲北口改札へ。彩り豊かなギフトが揃う「東京ギフトパレット」が2020年8月5日にオープン。そして駅舎を出て、「八重洲口グランルーフ」を振り返る。帆を模した屋根が特徴的な東京駅八重洲口の新たなランドマーク。「駅前広場案内」。東京駅八重洲地区では下図に示すように駅ビルを撤去し八重洲駅前広場を挟んで南北に超高層のツインタワーを建設し、その間にタワーを結ぶ歩行者デッキを設けている。この再開発により、八重洲通りから行幸通りおよび皇居に向けて連続的なオープンスペースが形成されることになった。駅ビルの撤去等により風通しが全般的に改善されており、東京駅の風下に位置する丸の内地区では1℃近く気温が低下してヒートアイランド現象の緩和が実現していると。JR東京駅周辺の地図。「グラントウキョウ ノースタワー」。手前に「八重洲鉄鋼ビル」その奥に「丸の内トラストタワー」。「新鉄鋼ビルディング」。右手に建設中の「東京駅前常盤橋プロジェクト」のA棟。A棟は2021年に完成予定で、その奥に出来るB棟は2027年の竣工を目指している。後から完成するB棟が、高さ390mの日本一高い高層ビルとなる予定と。「東京駅前常盤橋プロジェクト」のA棟の先には「一石橋(いちこくばし、いっこくばし)」と「首都高速都心環状線」が見える。「東京駅前常盤橋プロジェクト」のA棟を見上げる。「一石橋」と「首都高速都心環状線」。「一石橋」を渡る。下を流れるのは「日本橋川」。東京都道405号外濠環状線(通称「外堀通り」)を通す。南岸は中央区八重洲一丁目、北岸は中央区日本橋本石町一丁目。皇居(旧江戸城)外濠(外濠川)と日本橋川の分岐点に架橋され、日本橋川に架かる橋では最も低い橋である。北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であったと。進行方向右側(下流側)を見る。「東京駅前常盤橋プロジェクト」のA棟を振り返る。そして上記のビル・「東京駅前常盤橋プロジェクト」のA棟の奥にはB棟が建設中。A棟は2021年に完成予定であるが、B棟は2027年の竣工を目指していると。後から完成するB棟が、現在最も高いビルであり高さ300mの「あべのハルカス」を超えさらに「東京タワー」(333m)をも超える390mの日本一高い高層ビルとなる予定であると。 【https://officee.jp/magazine/tokyo-tokiwabashi-2027/】より ・・・つづく・・・
2020.09.22
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天守閣の1・2階は郷土や高島城の資料室に、3階は展望室として利用されていた。東側展望テラスからの眺望案内。右手をズームで。快晴の日には富士山がよくみえると。夕焼けに染まる富士山の姿の写真。東の方向、山と山との谷間に富士山の姿が見えるとのことであったがこの日は・・・。反対側は諏訪湖方面。その奥の山の右側は霧ヶ峰の方向。高ボッチ高原方面をズームで。正面に「諏訪レイクサイドホテル」。遠くに見えた琵琶湖岸は、昔はこの高島城の天守閣の下まで迫っていたのだ。諏訪湖の西側の山並み。描かれた高島城。葛飾北斎「信州諏訪湖水氷渡」様々な浮世絵に高島城が描かれているのであった。葛飾北斎 「富嶽三十六景」 「景勝奇覧・信州諏訪湖」の図。富士山の下に高島城が。英泉「木曾街道六十九次 三十一 塩尻嶺諏訪湖水眺望」。富士山の左に高島城が。高島城縄張り図高島城は、諏訪湖畔に突き出した小島に築かれた水城で、小規模ながらも諏訪湖と低湿地に囲まれた要害の城であった。本丸、二の丸、三の丸、衣の渡郭の四つの郭(くるわ)から構成され、本丸西北隅に三層の天守が築かれていた。 【http://zuien238.sakura.ne.jp/newfolder1/shinsyu-kikou2.html】より「信州諏訪 御柱祭」ポスター。続日本百名城 「130 高島城」のスタンプを頂きました。天守閣を出て、本丸内の高島公園の散策を続ける。漢文が彫られた古い石碑。高島公園碑。明治14年に城跡を整備して公園化された際に建てられた碑のようだ。岩倉具視 篆額(てんがく=石碑上部に書かれたタイトル部分)とあった。時計塔。時間は15:23。高島公園内の新字池。城内の公園には2羽の白鳥が仲良く餌を啄んでいました。いや本当は白鳥像なのです。人の字形の池に心を島で表わし、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものであるとのこと。本丸には三つの門があり、最初に入ってきた冠木門(正門にあたる)、天守横の御川渡御門(諏訪湖に船で繰り出す入口)、そして搦手にあたる土戸門があった。ここは御川渡門跡で、奥に見える道路はかつては諏訪湖であり、ここから城主が船に乗り諏訪湖へ繰り出す門だった。今建っている門は三之丸御殿の裏門で、移築現存になる。「三之丸御殿裏門( 御川渡門跡)ここは、かって御川渡御門(御川戸門 )と呼はれた門があった場所である。城が湖に面していたころは、ここで湖の舟に乗ることかできた。この門は三之丸御殿の裏門である。三之丸御殿は、藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。また、藩主ガくつろぐところでもあった(現在の高島一丁目ハ番地付近)。門は、昭和六十三年に所月者から市に寄贈され、この地に移築された。(寄贈茅野市湖東小平真弓氏)」本丸内の一角、御川渡御門入ってすぐ右手側に、諏訪護国神社が鎮座していた。シンプルな石鳥居。社号標「諏訪護国神社」。入口門か。「諏訪護国神社」。城跡に護国神社が祀られる事例はとても多いのだと。拝殿を囲むように「御柱」があった。木造の立派な拝殿。神社の中では比較新しい明治33年にてきた神社だと。諏訪大社の拝殿に似ていた。拝殿内部。「永田鉄山中将像」。長野県諏訪郡上諏訪町本町(現諏訪市)出身の陸軍軍人。「鎮魂慰霊碑」。「諏訪護国神社は、我が郷土諏訪出身の英霊を御慰霊申し上げるべく高島城址に創建されて、現在5781柱の英霊を奉斉申し上げております。家内安全、商売繁昌も祈願しております。神社創建は明治3 3年であり百年近い星霜を経ております。社務所は昭13年の建の為、雨漏りを凌ぐ為に社務所屋根、神門の御屋根葺替工事を崇敬者各位の御協賛を仰ぎ改修が完了竣工致しました。 平成六年十ニ月吉日」「西多門跡」。「氷餅部屋跡」「氷餅部屋跡ここは、氷餅部屋かあった場所である。氷餅は餅を凍らせたまま乾燥させた菓子で、諏訪の特産として将軍家への献上や江戸での贈答などに使われた。高島藩の独占事業として一年に餅米十数俵ほどを使って作られたが、品質もよく江戸でたいへんに珍重されたといわれる。明治初めの廃藩置県とともに、高島藩による製造は途絶えたが、その後も市井で作られるようになり、諏訪の名産として出回るようになった。」巨木が丘の上に。「本丸御殿跡ここは、本丸御殿があった場所である。家老など重職との接見や重要な行事が行われた表御居間・御次・下御次・下段之間があり、御納戸・中御納戸・御祐筆部屋・大納戸部屋など藩主の身の周りの世話をする部屋が付属していた。奥には藩主の私生活の場である御休息居間・同ニ之間・同三之間があリ、江戸城でいえば大奥にあたる長局と呼はれる部屋ガ隣接していた。また、御用部屋や郡方、御勝手方など藩政の中核となる部屋も備えられていた。」そして「土戸門跡」から「本丸」の外へでる。「土戸門はお城のお勝手口であった。上薪はしめ、その他の納めものもここから運び込まれたし、商人や職人たちも出入りした。役所むきの用件でも冠木門お通りの資格を与えられていないものはここから出入りした。」主郭の周りを囲んでいる(半分は埋め立てられている)水堀沿いに歩きながら、石垣を見る。南東端から北へと。かつての水堀はもう少し幅広だったと。石垣の下に小さな小屋が。中には大きな亀が昼寝中?さらに北へと進む。石垣の上に「持方月櫓跡」案内板が見えた。本丸東側は一か所折れ曲がりが作られており、飛び出たところには見張りの櫓もあったのだと。この場所から、堀の幅が広く。そして北東端までやってきた。写真スポットの「角櫓」、「冠木橋」、「冠木門」、「大天守」が揃い踏み。「冠木橋」、「冠木門」、「大天守」。再び「大天守」を。堀に映り込む「大天守」の影。そして「高島城」を後にし、往路と同じ国道20号線・甲州街道をひたすら戻る。「道の駅 信州蔦木宿」にてトイレ休憩。「天然温泉 つたの湯」があると。「サントリー 白州蒸溜所」の入口交差点には蒸留釜のオブジェが。再び「道の駅 はくしゅう」に立ち寄る。南アルプスの 天然水の持ち帰りができるとのことで、旅友のSさんが1.8Lペットボトルに2本お持ち帰り。「白州・尾白川天然水南アルプスの名峰甲斐駒ヶ岳。この霊峰に降り注いだ雪や雨は、一千万年以上昔、地下深部で結晶固化した花崗岩に含まれていた、真白い石英粒の厚い地層に磨かれながら、ゆっくりと地中に 浸透して行く。この水晶(石英粒)をくぐり抜けてきた名水は、硬度三十、ペーハー7の極めてきれいな軟水である。」日本伝統の茶道の世界や、素材の風味を最大限生かす和食の食文化等を、豊かに育くむ、日本を代表する、貴重な、キレのある、さわやかな天然水てある。」そして甲府市内を走る頃には夕暮れが。右手前方に富士山の姿を発見しズームで。この日、初めて見る富士山の姿、しかしアッという間に山頂も隠れてしまった。「かつや 山梨甲府店」に立ち寄り、早めの夕食を楽しむ。「カツ定食」を楽しんだのであった。そして順調に茅ヶ崎そして我が家に22時過ぎに帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.09.21
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高島城の天守閣に入る。拝観料は大人300円。大天守は明治の古写真に残る姿を元に昭和45年に再建された。江戸時代の天守は瓦を載せず、こけら葺きで御殿のような色合いをしており、それを意識して再建天守には銅板が葺かれている。窓の数など一部のデザインが微妙に変更されているが、ほぼ当時の姿を模しているのだと。「高島城の年表」。天正18年(1590年)、日野根高吉(1539~1600年)が諏訪郡に2万7千石を与えられた記述から始まっていた。はじめ、美濃斉藤氏に仕え、斉藤氏滅亡後は織田信長、後に羽柴秀吉に仕えた武将。最後の記述が昭和45年(1970年)の天守の復興。「高島藩の起こりとあらまし天正10 ( 1582 )年3月、諏訪を支配していた武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、諏訪は信長の家臣河尻秀隆の領地になったが、本能寺の変を機に、諏訪大社上社の大祝であった諏訪頼忠が支配者となり、徳川家康の配下になった。天正18年 (1590)小田原の北条氏滅亡後、諏訪頼忠は、家康に従って武蔵国(埼玉県)に移り、ついで上野国(群馬県)に移った。この時、諏訪は豊臣秀吉の家臣日根野高吉の領地になった。高吉は天正19 年( 1591 )、この地に城を築くことを決め、翌文禄元年に着工、慶長3年( 1598 )に7年の歳月をかけて高島城が完成した。関ヶ原の戦いの後、慶長6年( 1601)に高吉の子である日根野吉明は、下野国(栃木県)に移され、代わって上野国にいた諏訪氏が旧領に戻り、初代高島藩主となった頼水以降10代、明治維新までここを居城とした。2代藩主忠恒は、将軍徳川秀忠から「忠」の字を賜り、以降それまで諏訪氏が名前に用いてきた「頼」の字に替えて「忠」を代々用いるようになった。3代藩主忠晴時代には藩の体制が出来上がり、4代忠虎、5代忠林は文化的業績を多く残している。6代忠厚の頃には社会も変動し、逼迫した藩の財政再建を機に藩政の転換期を迎えた。7代忠粛時代には、藩士の子弟教育を盛んにするために藩校「長善館」が輿入れするなど落ち着きをとり戻した。9代藩主忠誠は幕府の老中などの要職を勤めたが、10代忠礼のとき明治維新を迎え、明治5年 ( 1872 )、高島城も破却されることになった。」高島城主の系譜日根野氏 高島城築城者 高吉ー吉明 諏訪氏 頼満┳頼隆ー頼重 ┗満隣ー頼忠ー頼水ー忠恒ー忠晴ー忠虎ー忠林ー忠厚ー忠粛ー忠恕ー忠誠ー忠礼「諏訪大社御祭神」。諏訪大社全体で祀る主祭神は以下の2柱(各宮の祭神については各項参照)。両神とも上社・下社で祀られている。建御名方神 (たけみなかたのかみ)●上社本宮祭神。 『古事記』の国譲りの段において、大国主神の御子神として登場する。 『先代旧事本紀』には大己貴神(大国主神)と沼河比売(奴奈川姫)の子とされ、 「信濃国諏方郡諏方神社に鎮座す」と明示されている。●八坂刀売神 (やさかとめのかみ) 上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃とされ、記紀には出てこない。「戦国時代の諏訪」「諏訪氏の成り立ち」と「諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家」「諏訪氏の成り立ち」。持統天皇5年(691年)、古事記に記載されたのが文献上の初出とされ、この時には、既に社殿を持つ諏訪社があったようだが、詳細は分かっていない。諏訪神を祀る諏訪氏が、武人化したのは平安末期とされ、鎌倉時代には中央政府で活躍したことなどが紹介されていた。下社と上社が分離したのは鎌倉時代とされ、上社は『諏訪氏』、下社は『金刺(かなざし)氏』を名乗ったことも紹介されていた。「諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家」。鎌倉幕府滅亡後、南北朝時代の争いに巻き込まれ、上社と下社の対立が起きたことなどが説明されていた。北条氏との繋がりで南朝側だった諏訪氏だが、下社が室町幕府に帰順し、内紛のきっかけとなったと解説されていた。「諏訪氏の成り立ち」。 【https://ameblo.jp/idryou/entry-12542473606.html】より「諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家~」 【https://ameblo.jp/idryou/entry-12542473606.html】より「武田信玄・勝頼と諏訪信仰」&「諏訪御料人と諏訪四郎勝頼」。「武田信玄・勝頼と諏訪信仰」。「諏訪御料人と諏訪四郎勝頼」。ズームで「諏訪御料人」を。「諏訪の姫 ~武田勝頼の母 諏訪御料人👈リンク~」。武田信玄に滅ぼされた諏訪家の当主、諏訪頼重には娘がいた。実在した人物であるが、今日に名前が伝わっていない。一般的には諏訪御料人と呼ばれるこの姫は、井上靖の小説『風林火山』では由布姫(ゆふひめ)、新田次郎の小説「武田信玄」では湖衣姫(こいひめ)の名で知られている。信玄の倒室となり、諏訪四郎勝頼(武田勝頼)を生む。1988年放送の「NHK大河ドラマ 武田信玄」の側室の湖衣姫(こいひめ 諏訪御料人)を演じた南野陽子。記念撮影用にセットされた場所の光景。左の甲冑が『紺糸縅胴丸具足(こんいとおどし・どうまるぐそく)』、右の甲冑が『紺糸素懸縅胴丸具足(紺糸素崖縅・どうまる具足)』。それぞれに床几が置かれていた。「諏訪氏家紋」:三ッ葉根あり梶の葉左から藩主嘉門の『丸に諏訪梶の葉』、上社神紋の『根が4本』、下社神紋の『根が5本』。右下に鍛冶の葉の見本、左下に『高島藩御相験図(たかしまはん・おんあいじるしず)』が展示されていた。「武田勝頼の滅亡と信長・秀吉期の諏訪」「山城から平城へ~金子城と近世城郭 高島城の築城」「高島城を築城した領主 日根野高吉高島城は、豊臣秀吉の武将、日根野高吉により築城されました。( 1592 ~ 1598 )なぜ、日根野氏が諏訪の領主になったのでしようか。それは、織田信長の支配を経て、徳川家康に従属した諏訪氏が、一度は諏訪の地を安堵されたものの、豊臣秀吉の国替えにより、家康が関東に下ったので、諏訪氏もこれに従って現在の埼玉県に転封され、代わりに小田原攻めで功績のあった日根野氏が領主となったのです。日根野氏とは、どのような人物だったのでしようか。大阪城の築城にも関わった人物であり、築城は最も得意とされるところで、その知識を活かし、高島城の築城は、陬訪湖を自然の要塞とした、時代の要求に応えた堅固なっくりにしたと伝えられています。」「日根野高吉の築城」「高島城築城天正18 ( 1590 )年、秀吉の天下統一に向けての最後の戦いとなった小田原北条征伐でも、高吉達日根野一族は秀次の指揮の下で戦いました。北条氏の居城、小田原城の周りには、北条氏の彖臣が守る数多くの支城があり、秀次の軍はそのうちの一つ、山中城(現静岡県三島市)の攻略に挑みます。この戦いで一族の者を失いながらも奮戦した高吉は、戦後の論功行賞で諏訪の地を与えられました。諏訪は徳川家康の押さえとして重要視されていて、遘ばれたのは、高島村と呼ばれた諏訪湖に浮かぶ小島で、「浮嶋」とも呼ばれていた場所でした。高吉はおよそ7年の歳月をかけて、周囲を諏訪湖と河川と温地帯に守られた難攻不落の城を築城しました。高吉は、このほかにも城下町(現在の田上諏訪町に相当)の整備、検地の実施、金山の開発などを行いました。また、水害の多い地域ではその年の状によって納める年貢の量を変えるなど、後の高島藩政に引き継がれた政治方針もあります。」「高島城の復興工事写真」。『明治4(1871)年、破却前の高島城』のタイトルがあった古い写真の光景です。昭和45年の再建工事の際にも参照された写真のようです。この時の瓦は現在の銅葺と違って、木を使った『杮葺き(こけらぶき)』とされます。天守は独立式望楼型3層五階の造りでした。『天守復興工事の様子』のタイトル。昭和45年(1970年)頃の写真のようです。天守台の上に2階分くらいが姿を現していました。.『天守復興工事終了直後高島城』のタイトル。昭和45年(1970年)頃の写真。城内の木立は冬木立か新緑の頃のようだ。堀には、冠木橋付近を泳ぐコブハクチョウらしい姿が。名札が外れかかって、撮影時期が確認できなかった写真、天守が破却され、天守台だけの光景。冠木橋が化粧直しをされたばかりの頃?、年代が特定できるのかも知れな。右下に、『フジカメラ商会製作』の文字もあった。「諏訪人の息吹」。一番左に『御柱祭御用』の立札と御幣と注連縄が飾りに使われた置物。高島城復興の工事で出土した・縄文時代~弥生時代の遺物。高島藩領内見取著色絵図である六曲ー双・ニ隻の御枕屏風。諏訪湖と、その周辺が描かれた屏風画。左隻の左半分に黒っぽく見える部分が諏訪湖。流れ込む川や、流れ出す川も細かく描かれていた。高島城は黒い部分の右側に。右隻の屏風。「御枕屏風について『御枕屏風』は.大正5年(1916)に旧藩主の子孫諏訪忠元氏から八劔神社に奉納されました。平成25年八劔神社のご協力により屏風の複製を作成し高島城に展示させていただいております。屏風に描かれた絵からは.江戸時代前期(17世紀)の諏訪をうかがい知ることができ、今に通じる景色が楽しめる貴重な資料です。また、美術品としても優れた作品といえます。なお、現在実物は、助市石形文化財に指定され諏訪市博物館に寄託されております。」「開運稲荷大明神」と「甲冑」。「甲冑」。「諏訪の主な城跡の分布図」。左端近くに見える諏訪湖周辺を中心に、城が密集していた。武田氏が全盛時代に築かれた城が多いのであろう。「諏訪地域の山城一覧表」。天守閣3階から冠木橋を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.20
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「韮崎市民俗資料館」を後にして、この日の最終目的地の、長野県諏訪市高島にある続日本百名城の「高島城跡」に向かって進む。北杜市にある国道20号線・甲州街道の「富士川」の枝流の「大武川」に架かる「大武川橋」を渡る。何とか雨も時々小雨が。そして諏訪湖に向かって進むと、ようやく諏訪市に入る。「四賀武津」交差点を左折して長野県道50号線・諏訪辰野線を進む。そして「高島城」の駐車場に車を駐め散策開始。駐車場の前から「高島城」天守を見る。まずは、外堀の先にある本丸御門への「冠木橋」に向かって進む。「天守閣」を外堀の前から。高島城の石垣はいわゆる野面積みで築かれているが、諏訪湖岸の地盤のゆるい湿地帯に築かれた城であったため、一般的な城と異なり、沈下しないように大木で組んだ筏(いかだ)の上に石垣を積んでいるのだと。「冠木橋」手前から見る「天守閣」。「高島城」は、かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の1つに数えられているのだと。その昔、諏訪湖は現在よりも『ずっと広大な湖』だったと。現在では外周17.9kmの大きさなのだが、太古の諏訪湖の大きさが下の地図であると。 【http://www.hamanoyu.co.jp/2017/05/21/47921/】より「上諏訪温泉周辺まち歩きマップ」。諏訪市の汚水マンホール蓋。市の花「あやめ」のカラー蓋。おすい すわし と平仮名表記。「冠木橋」「冠木橋」の向こうは「冠木門」、その左右の石垣に連なる塀は下から八分目ほどまでの板張りで△や□の鉄砲狭間が見えたのであった。「冠木橋」の正面に到着。「角櫓」。「冠木橋」の先に「冠木門」が。「冠木橋」の上から「天守閣」を見る。「冠木門」。「冠木門」は、「冠木を渡した、屋根のない門」のことだが、この門は立派な屋根を盛った楼門形式でった。かつての「冠木門」の名前だけが残されたものであろう。「冠木門」前に「史跡 高島城本丸」と刻まれた石柱碑、「高島城本丸の堀と石垣高島城は、衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖と阿原(あわら(沼沢地)に囲まれ、縄手だけが城下町に通じていた。天守閣の石垣と、本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。衣之渡郭(くるわ)・三之丸・二之丸などの石垣も比較的小規模である。石垣は、野面積み(のづらづみ)で、稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。」「冠木門跡冠木橋を渡ったところに冠木門があった。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼はれる屋根付きの門であったことがわガる。おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。」「木曾街道 塩尻嶺諏訪湖水眺望 渓斎英泉作」塩尻街道を行く旅人達の眼下に広がる諏訪湖、左側には八ヶ岳や高島城、右側には南アルプス、正面に見える山は名峰・富士である。諏訪湖は凍結して、氷の上を旅人だろうか、馬を引きながら歩いている。湖では『御神渡り(おみわたり)』という真冬の諏訪湖で起きる自然現象までも描かれていて実に緻密である。高島城は赤丸で囲んだ部分。正に湖城・浮城であったことが解るのだ。この浮世絵からも諏訪湖がずいぶん小さくなった事が分かるのであった。高島城城郭図。現在は本丸しか残っていないが、当時は本丸の三方を二の丸で囲み、その北側に三の丸、大手郭を連ねた、梯格式と連郭式の併用縄張りだったのだと。また、「浮城」の異名如く、諏訪湖に浮かんだような水城であった。東西が反対である図ではあるが。上の図とが上下が逆であるが。 【http://hanatanbou2.web.fc2.com/suwa_takasima_zyo.htm】より「高島公園案内図」。「高島城本丸絵図」。「高島城 浮城とも言う」碑。「高島城 浮城とも言うこの地は高島城本丸跡です。この城はおよそ380年前、文禄、慶長年間に日根野織部正高吉が7年を要し、彼独特の築城の技術を生かし諏訪湖の波打ちぎわに築いた難攻不落の水城で、別名を浮城とも言われています。関ヶ原役の後は、諏訪氏の居城となり、そのまま転封もなく維新まで続きました。この間、城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもありました。本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務の御用部屋、郡方、また賄方などがあり、能舞台、米餅部屋など多くの建物で埋まっていました。明治維新の改革で高島藩は消え、明治8年には天守閣も破却されましたが、諏訪氏の在城260余年間、一度も百姓一揆をおこさせるような暴政のでたことのない名城でした。明治9年本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、諏訪の人々の心のよりどころとして親しまれてきました。今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿を残して近世の城郭を考えるいい史料となっています。今度の復興については、文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものです。庭園は、天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長岩本諏訪市長が自らの設計に拠り、諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して、人字形の池に心を島で表し、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものです。」「冠木門」を本丸側から見る。美しい緑の巨木。「高島城のキハダ諏訪市天然記念物種名 キハダ(ミカン科)推定樹齢 120 ~ 130年(平成7年現在)大きさ 目通り幹周2m94cmこのキハダは諏訪地方で最大の部類に属する。根元のところが上部の幹より大きくこぶ状となっているが、現在の幹は切り株からの根生えガ大きくなったもので、こぶは切り株の大きくなったものと考えられる。これは、薬用として城内に植栽され、必要に応じて伐りとっては使用されていたためとも考えられる。野生のキハダが少ない現在、これだけの大きなものは貴重で、市木として指定されている。」これは別の大木は「カツラ」であろう。そして「天守閣」の姿を本丸から。「多門跡」。『多門』は、『多聞』とも記述され、城の石垣の上に築いた長屋造りの建物を指す。兵器庫と防壁を兼ねる。松永久秀(1508~1577年)が、大和国佐保山に築いた多聞城の形式からの命名とする説が有力であると。「多門跡」近くの建物。彫刻家・細川宗英氏の昭和45年(1970年)の作品で「いらか」と書かれたモニュメント。裏側から。どこが正面の作品なのであろうか?「覗石松」の名前があった立派な松。天守への石段の右脇に植えられた背の低い盆栽風に仕立てられた松。「冠木門」を再び見る。「亀石」。「高島城亀石この亀石は、元々、城内の庭園にあったが明治八年廃藩の時に城外に移され、以後所有が引き継がれ河西謙吉氏庭に安置されていた。平成十九年、百三十ニ年ぶりに高島城公園に戻った由緒ある石。水をかけると、まるで亀が生きているようになり願いがかなうと言われています。」「藤棚」。「高島城のフジ諏訪市天然記念物種名 フジ(マメ科)推定樹齢 120年(平成7年現在)大きさ 東のもの根元周1m86cm 西のもの根元周3m25cmこのフジは「高島公園のフジ」として古くから親しまれている。高島城が破却され、城址が公園と定められたのが明治8年、開園ガ9年5月。このフジは当時植栽されたもので、市内では最古のものである。5月には紫色の蝶形花をたくさんつけた総状花序をたれてみごとである。」5月には。 【http://blog.livedoor.jp/sinsyuudori/archives/6547984.html】より高島城天守閣の登り石垣の脇にあった、『復興碑』の文字が刻まれた大きな石碑が。建てられた時期は確認していないが、天守が再建された昭和45年(1970年)頃の建立の可能性が。「天守閣入場案内」。「天守閣展示案内」。「高島城高島城は天正18年(1590 )、豊臣秀吉の家臣、日相野織部正高吉によって設計され、文禄元年(1592 )着工、慶長3年(1598 )完成した。この高島城は、琵琶湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城と石垣に迫り「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長6年(1601)初代藩主諏訪頼水か10代藩主諏訪忠札に至る270年の間、諏訪氏の居域としてその戌容を誇ってきた。明治4年(1871)廃藩置県となり、明治8年(1875 )廃藩置県によって天守閣は撤去され、翌明治9年(1876 ) 5月高島城趾は。「高島公園」として、一般に開放された。朝夕の。「時の太鼓」が鳴らなくなって100年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970 )春ここに「高島城」は復興された。」中央に、諏訪明神を象徴する紋所として諏訪氏が使用した『梶葉紋』が記されていた。「石集配湯枡」。「石集配湯枡享和三年(一八〇三年)第七代藩主忠の頃、城内三の丸浴場に、引湯のため木樋(きとよ)を継ぎ、集湯・配湯をした石枡である。」そして「天守閣」内部に入ることとする。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.19
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韮崎にあった「新府城跡」を訪ねた後は、近くにあった「光明寺」を訪ねた。「光明寺」入口には「汲流千億人」と刻まれた石柱があった。そしてこちらには「杓底一残水」と。「杓底一残水 汲流千億人」(杓底の一残水、流れを汲む千億人)とは、曹洞宗開山「道元禅師」の言葉であると。「道元禅師は門前を流れる川から柄杓で水を汲みに行っていた。その際、必要な分の水を使ったら、使わなかった残りの水を元の川に戻していたと。川には水が豊富にあり無くなる心配は無い。しかし、どんなに水が豊かにあったとしても一滴の水も粗末に扱わない、その一滴を川に戻せば下流で水を使う人、またその先の子孫の為になるわけであると。今私たちが生活する周りにはたくさんのもので溢れている。水も電気も紙も使いたい時に使える。しかし、今は好きなだけ使えていても、地球の資源には限りがある。無くなる時がやってくるかもしれない。我々は自然と共に生きている、生かされているわけ。この世に存在するものは、すべて支え合い、助け合って生かされているということを忘れてはならない。このように考えるとき、我々は資源を初めとする一つ一つのものを大切にしなくてはならないのだ。そして自分以外の他者も同様。他者を思いやる心、これも現代の私たちに必要なことではないか?「杓底一残水 汲流千億人」とは、自分のことだけ考えるのでは無く、他者を思いやる心も大切にしよう、というメッセージである、」とネット情報から。寺号標「曹洞宗 金龍山 光明寺」。「文化財 光明寺カヤ」。塩川筋二十九番観音霊場札所 「光にて 心の闇も 明けぬれば 大悲のちかひ 有明の月金龍山 光明寺十九世 蘭堂康俊代」。隣りにあった掲示板。「木曽氏の墓由来天正十年二月、今より四百ニ十余年前、武田信玄公と姻戚関係にあった木曽福島の城主木曽義昌は、織田・徳川の連合軍と手を結んだ為、離叛者となり、此れを知った勝頼公は怒り心頭に徹し、未完成である新府城の防戦は不可能と察し城に火を放ち、郡内岩殿城主小山田信茂を頼り再挙を計った。その時人質として預かった義昌公の母70歳、嫡子千太郎13歳、娘17歳を、上野豊後守宅より連れ出し躑躅が原にて家臣土屋惣蔵の介錯により自決せしめた。勝頼公は後事を上野家に託し、戦国の世の哀れな御尊雲の言提を弔うため光明寺の開基として墓所に安置されたのである。」一部は消したのか、消えたのか・・・・・???住職が「山本俊康住職」から「齋藤明慧」氏に7月に交代されたと。「日常の五心一、すみませんという反省の心一、はいという素直な心一、おかげさまという謙虚な心一、私がしますという奉仕の心一、ありがとうという感謝の心 」そして本堂のある境内の階段の手前には三体の石仏・庚申塔が。駐車場横にあった観音像と掲示板。「天正十年三月、武田勝頼は、新府落城の時、人質となっていた木曽義昌の嫡子木曽千太郎を殺りくした。地元の人々はこの霊を哀れみ永く菩提を弔うため、今から約二百九十年程前正徳(一七一〇~一七一五)年間に本堂を建立し法名を光明寺殿木曽浄高大居士を開基(最初の仏様)として今日に至っている。墓参に併せて、本堂へもお参り下さい。(御本尊様は南無釈迦牟尼佛です。」墓地への入口。「木曽氏の墓」案内板。「史跡 木曽氏の墓」。 戦国時代 木曽義昌が武田家に送った人質3名の墓。 ・ 武田家と姻戚となった木曽谷の木曽氏だが、 1582年 木曽義昌は武田家に反して織田信長の軍勢を信濃に招き入れた。 武田勝頼はこれに怒り、人質として預かっていた義昌の嫡男 千太郎(13歳)、長女(17歳)、老母(70歳)の3名を処断してから岩殿城に向かっていった。 上野豊後守は処された3名の埋葬を任され、墓は後に光明寺に改葬された。「木曽千太郎之墓」。「墓石」。「木曽千太郎之墓由来一、光明寺殿木曽淨高大居士 木曽義昌 嫡子 十太郎一、寶光院殿玉輪妙関大姉 木曽千太郎 祖母一、六観院殿幻屋法如大姉 木曽千太郎 姉天正10年2月、今より四百ニ十余年前、武田信玄公と姻戚閂係にあった木曽福島の城主木曽義昌(木曽義イ中の末裔)は、織田・徳川の連合車と手を結んだため離叛者となり、これを知った勝頼公は怒り心頭に徹し、十完成である新付城の防戦は不可能と察して城に火を放ち郡内岩殿城主小山田信茂を頼り再挙を計った。その時人質として預かった義昌公の母70歳、嫡子千太郎13歳、娘17歳を、上野豊後守宅より連れ出しおどりが原において土屋惣蔵の介錨により自決せしめた。勝頼公は後事を上野家に託し、戦国の世の哀れな御尊雲の言提を弔うため光明寺の開基として墓所に安置されたのである。」墓地から境内への階段を下っていくと「十三重塔」が左側に。「六地蔵」。左から檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光菩薩像。道元禅師の和歌『濁りなき 心の水にすむ月は 波も砕けて 光とぞなる 光とぞなる』。「修行を積んだ人の心が澄んだ水面、そこに映り込んだまあるい月がつまり悟り、そしてその水面にしずくが一滴ポツンと落ちる、これは人の心を乱す外部的要因を抽象的に表現しているのでしょう。そして、水面つまり心の表面はざわめき月即ち悟りもその姿が揺れ乱れる。同時に、月の姿の本体である”光”そのもの、つまり悟りの本体も様々な方向に散り放たれ、遍く世界に拡がってゆく。」とネットから。境内の雌株のカシの木が前方に。根回り8.4m、樹高20mあると。「光明寺」そして「開基木曽千太郎公縁起」碑。「光明寺山寺号 金龍山 光明寺御本尊 釈迦牟尼仏宗派 曹洞宗(禅宗)宗祖 高祖 承陽大師 太祖 常済大師大本山 吉祥山永平寺(福井) 諸嶽山總持寺(鶴見)本寺 陽谷山 正覚寺(若神子)開山 来州英撮大和尚(正覚寺十一世) 開基 木曽千太郎公 法名光明寺殿木曽淨高大禅定門霊場 塩川筋二十九番 「光にて 心の闇も 明ぬれば 大悲の誓い 有明の月」本堂建立 宝永七年~正徳元年(一七一〇~一七一一)天然記念物 光明寺のカヤ史跡 木曽市の墓 所在地 山梨県韮崎市藤井町駒井 六百五拾四番地「開基木曽千太郎公縁起武田信玄公、三女真理姫が木曽の城主、木曽義昌公に嫁したことにより両家は姻戚にあった。天正10 ( 1582 )年武田勝頼公が、新府后城の際、義昌公は嫡子千太郎( 13歳)と老母( 70歳)及び急女( 17歳)を人質として新府城下の上野豊後守宅に預けられた。しかし義昌公は武田家が屓墾を告げる頃となるや離叛を企て織田、徳川連合軍と手を結んだ。勝頼公これを知るや、怒り心頭に徹し、天正10年3月朔日、人質を役邸からほと近い、おとり原に引き立て、家巨土屋惣蔵の介錨により御生害させた。その後家人が三の塚を築いて手厚く葬り、更に小帽景雪が石碑を建て、故あって光明寺墓所に移す。俗名、木曽千太郎の法名、光明寺殿木曽浄高大褝定門を当寺開基とする。その後、百五十回忌に相当たり追善供養を営みその折、大本山より法名に大居士の位を賜る。また千太郎公御守佛聖観音ー躰並びに紫硯一面が当寺の重宝とされている。右、観世音言薩を当時の本尊脇佛として毎年2月18日を御縁日として法要を厳修し観音講の行事が営まれている。木曽千太郎公の法名は光明寺殿木曽浄高大居士と改められ、老母の法名は宝光院殿玉輪妙関大姉、急女の法名は六観院殿幻屋法如大姉となり共にこの本堂臭手の墓所に安置され、戦国の世の哀れな御尊雲の言提を弔うため、法灯は揺きなく今日に及んでいる。」この石碑は?和歌がきざまれているようであったが。「本堂」。扁額「金龍山」。「本堂内陣」。境内の「光明寺のカヤ」。「光明寺のカヤカヤの雌株で、根回り8.4m、幹根境界部の周囲5.4mそれより0.5m上では3.8m、枝張り東西8m南北7.5m樹高20mである。」「♫かやの木山のかやの実はいつかこぼれてひろわれて 山家のおばさはいろりばたそだたき しばたきあかりつけかやの実 かやの実それはぜた今夜も雨だろもう寝よよおさるが鳴くだではよお眠よ♫ 白秋」 と。作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰により1922年(大正11年)に発表された日本の歌曲『かやの木山の(きやまの)』👈リンク。そして「光明寺」を後にし、続日本百名城のスタンプの置いてある「韮崎市民俗資料館」へ。韮崎市民俗資料館は昭和55年に開館。韮崎市内の民俗資料や考古資料を中心に収蔵展示していた。スタンプ置き場には新府城の続日本百名城の認定書が陳列されていた。スタンプを頂きました。インクを付けすぎ押し過ぎました。館内の「新府城跡」のジオラマ。「新府城」のパンフレット。新府城が立地する七里岩は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30キロメートル続き、奇観を呈しているのだと。西側の断崖絶壁下に国道20号線・甲州街道が走っている。 【http://niramin01.blog43.fc2.com/blog-category-15-1.html】よりパンフレットの裏面には先程訪ねた「新府城」の説明が。館内の民俗資料や考古資料を中心にした収蔵展示を楽しんだのであった。「To obsidian origin 77,857 STEPS 54.5km」。内容が不明であったので、館内の女性に尋ねたところ、黒曜石の尖頭器が指している方角に八ヶ岳の黒曜石産地があり、そこまでの歩数と距離を表示しているのだと。「武田の里 韮崎」甲冑が。古墳時代の土器。「ともす(照明用具)とはかる(はかりと計量用具)」のコーナー。懐かしい蓄音機が。女性の花嫁道具のコーナー。花嫁髪飾り。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.18
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「信玄堤」を後にして、国道20号線.甲州街道をひたすら韮崎市方面に進み、途中から国道17号線に入り北上し「新府城跡」駐車場にすべりこむ。「武田の里 にらさき」案内図。「新府城跡出構」案内板。「出構は城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。東西に約百十メートルへだてて平行にニ本(東出構・西出構)が築かれている。城の裾に沿って掘られた堀は幅約七メートル、深さ約ニ・五メートルの断面逆台形をした箱堀で、その外側には湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め防御施設となっている。出構は新府城跡のみにみられる施設で、鉄砲陣地とも堀の水位を調整するためのダム的な施設ともいわれるが、その機能は解明されていない。」そして、駐車場から「新府城跡」に向かって県道17号線を歩く。右手に「東出構」の案内柱。「新府城跡」案内板。駐車場から5分ほど歩くと右手前方に、紅白の幟が見えてきた。道路標識にも。ここが「新府城跡」入口の階段。「新府城跡」への階段入口にあった「史跡 新府城跡」碑。「国指定史跡 新府城跡」案内板。「新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(一五八一)春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年十二月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年三月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修復して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南の三の丸、大手、三日月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約二〇ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らに屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。」「新府城跡見取図」。「新府城跡」への長い石段を上っていく。途中に「新府藤武神社」の朱の鳥居があった。扁額「新府 藤武神社」。右手には「参道(乙女坂)」もあったが更に階段を選択し上って行った。階段を上る。階段を上りきると正面に「新府 藤武神社」の社殿が現れた。上って来た階段を振り返る。「新府 藤武神社」の社殿「お新府さん」と呼ばれ、武田哀史をとどめる新府城跡にある。文化三年拝殿改築の棟札によると、藤井庄と武田庄とを前後に見下す所に在るので藤武神社といふ。天正年中勝頼公が新府築城の節、城内稲荷郭に鎮守として祀ったが落城とともに焼失した。しかし徳川神君様の藤武神社に対する尊崇あつく、平岩七之助に命じて再建され、藤武神、稲荷神同殿に鎮座して藤武神社と称したといふ。神社への奉納、献納品の石碑群。「舞殿」か?「拝殿」、「渡殿」、「本殿」を横から見る。「本殿」。御祭神:倉稲魂命、天照大神、月読命、保食命、稚産霊命、武田勝頼公鎮座地:韮崎市中田町中條4787歴史を感じさせる石碑。柱の壁には多くの人名が刻まれていた。そしてここが「本丸」跡。「新府城 想定復元図」。裏面の案内板。「史跡 新府城跡新府城は武田勝頼によって天正九年(一五八一年)二月に築城着手され、その完成したのは同年十二月であった。それまで甲府躑躅崎の館城になった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する以外に方策がなかったのである。しかし時すでに遅く天正十年三月三日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた悲劇の城跡である。本郭は南北六〇〇米、東西五五丸米、外堀の水準と本丸の標高差八〇米、型式は平山城で、石垣は用いない。最高所は本丸で、東西九〇米、南北一二〇米、本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二之丸があり大手に続く。堀は北西から北、北東へ巡り、北方の高地からの敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の「出構え」が築かれている。「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で防御のために工夫されたもので特に「出構え」が鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。」武田氏の系図甲斐源氏の祖、源義光の第三子義清は市河荘司として甲斐に土着した。その子清光は八ヶ岳山麓の大八幡・熱那・多摩の三荘を掌握し、逸見一帯を甲斐源氏の本拠とした。その子太郎信義は武田の荘(韮崎市神山町武田)にあって、初めて武田を名乗り、武田の氏祖となる。清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-(義家・義光)義家(八幡太郎)義光(新羅三郎)-義清-清光-信義(武田の氏祖)-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-(信成・氏信)信成(甲斐源氏)-信春-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-晴信(信玄)氏信(安芸源氏) -勝頼-信勝 天正十年三月(一五八二)、信玄の第四子武田勝頼、信勝の父子は天目山に滝川一益と戦い、父子自殺し武田の歴史が終わる。「国指定史跡 新府城跡新府城は、天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼が自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田氏滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。本城は南北六〇〇メートル、東西五五〇メートル、外堀の水準と本丸の標高差八〇メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。最高所は本丸で、東西九〇メートル、南北一二〇メートル、本丸の西に蔀の構えを隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪(いなりくるわ)、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある、蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。」「新府城跡概要図」。ネットから。「本丸」右手の階段から登城したのであった。案内板の「本丸」周辺をズームで。「本丸」跡を見る。発掘調査が完了し埋め戻した場所なのであろう。「蔀(しとみ)の構(かまえ)」案内板。「本丸と本丸馬出しの間にある。蔀は城内を見透せないように工夫したもので、植込・蔀土居・蔀塀の構えである。」奥に進んでいくと「二の丸」案内板が。この先が「二の丸」なのであろうと。ここからは引き返す。「国指定史跡 新府城本丸跡」碑。横の面には「普請奉行 真田安房守昌幸 原隼人佑貞貞胤 城主 武田(諏訪)四郎勝頼」 と書かれていた。小さな社が。そして「本丸」東側の正面に石碑が。「甲斐国主武田氏四百年追遠の碑」昭和57年4月20日、新府四百年記念祭において、高さ1.64m、横6.67m、厚さ0.36mの仙台御影石製の記念碑「甲斐国主武田氏四百年追遠の碑」。碑は元市議が寄贈したとのこと。韮崎市文化財保護審議会会長(当時)による碑文には武田家のいわれが書かれていた。この石碑は?「石祠・武田勝頼公霊社」。旧「本丸」に鎮座している神社。社殿は無く、小さな石祠が信仰の対象となっているようであった。「石祠・武田勝頼公霊社勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府城守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼公の心霊を納め之を祀り勝頼神社と称し 毎年卒去の当日は慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。勝頼神社建立の時期は、貞享、元禄(一六八四年)の頃と言い伝えられている。」「大塚 長篠役陣歿将士之墓」。ズームで。その後ろの左右に「武田十四将の霊碑」七基ずつ別れて立っていた。左側。右側。こちらも「長篠設楽原陣没将士分骨之碑」。近づいて。本丸跡から北の方向。下は崖。現在も本丸の東堀側は発掘調査中であった。ブールーシート、土嚢で養生されていた。そして帰路は階段ではなく、乙女坂を下り駐車場に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.17
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「積翠寺」を後にし、続日本百名城の「要害山城」のスタンプが甲府駅前の「藤村(ふじむら)記念館」に置いてあるとのことで甲府駅まで下る。駅前の30分間は無料の駐車場に車を駐め「藤村記念館」に向かう。左側に「甲府駅」の駅ビルが見えた。そして「藤村(ふじむら)記念館」が直ぐに目の前に。「藤村(ふじむら)記念館」は明治8年に現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に建てられた睦沢学校校舎。昭和41年、藤村式旧睦沢学校校舎保存委員会の手によって武田神社境内に移築復元され、「藤村記念館」として甲府市に寄贈された。翌年には国の重要文化財に指定され、長い間、郷土の民俗・歴史・教育・考古資料の展示館として市民・県民に親しまれてきた。そして平成22年10月1日甲府駅北口に移転し、交流ガイダンス施設として新たに開館したと。この建築様式は、山梨県令藤村紫朗が奨励したとされる擬洋風建築で、県内では、藤村式建築と呼ばれているのだと。その隣りにあったのが「武田信虎公之像」「武田信虎」は、もちろん「武田信玄」の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。「山梨県人が誇りとする甲府の街。その礎は武田信虎公という人によって築かれた。甲斐武田氏の全盛を極めた嫡子、武田信玄公の事績も、信虎公の積み上げた地盤がなければ、その隆盛は無かったかもしれない。国を追われた武田信虎公が、駿河、京都、高野山などへ入りて後、信濃国高遠で没することになったのも、自らが興した甲斐の府中、甲府へ戻りたいとの願い故であったたろう。甲府商工会議所は、甲府開府五〇〇年を記念すると共に、武田信虎公の遺徳を偲び、甲府を開いた公の像を建立し、甲府市に本像を寄贈する。一.像 高さ 2m10cm 重量 400kg 材質 ブロンズ一.台座 高さ 1m85cm 重量 7000kg 材質 御影石張、鉄筋コンクリート「以下 略」。「藤村(ふじむら)記念館国重要文化財旧睦沢(むつざわ)学校校舎指定年月日 昭和42年6月15日移築の経緯旧睦沢学校校舎は、明治8年( 1875 )巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の校舎です。昭和41年( 1966 )武田氏館跡西曲輸に移築し、県令藤村紫朗にちなんで藤村記念館と命名され、歴史や民俗を含む教育資料館として一般公開してきました。新都市拠点整備事業に伴って、失われた歴史景観の再生と市民や観光客の交流ガイダンス拠点となることを目的に建物を移築復元しました。建物の概要と特徴この建物の様式は、当時の山梨県令藤村紫朗が積極的に奨励した擬洋風建築(西洋建築に似せて建てられた建築物)で、明治前期には多くの官公舎、学校、商家がこのような様式で建てられ、藤村紫朗にちなんで藤村式建築と呼ばれています。正面中央の玄関車寄せ、2階のべランダ、正面の吹き放ちの円柱と礎盤、出人口や窓の黒塗りアーチ形の枠、両開きのガラス戸と鎧戸の二重扉などに洋風の意匠を見ることができます。べランダは独特の曲線を見せる幕板を飾り、軒天井は菱組の透かし打ち天井となっています。外壁は漆喰塗りの日本壁で、隅は黒塗り擬石隅石形を示し、屋根は宝形造の桟瓦葺で、中央に太鼓楼と呼ぶ塔屋をのせています。」この時まで「藤村記念館」は「島崎藤村」の記念館であると思っていたのであった・・・。しかし、甲府の街と「島崎藤村」はどの様な関係があるのかと思いながらも。「藤村紫朗(ふじむらしろう) 弘化2年( 1845 ) ~明治41年( 1908 )肥後熊本藩士黒瀬家の二男で、同藩士萱野家の養子となる。尊皇攘夷運動に加わり勤皇志士とともに国事に奔走、脱藩して長州に走り、王政復古の運動に参画した。明治維新に際して藤村姓を称し、監察司知事、大阪府参事を経て、明治6年山梨県権令から翌7年山梨県令となった。明治19年地方官制により山梨県知事、翌20年の愛媛県知事に転ずるまで14年間の長期にわたり山梨県政を担当した。藤村県令は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業として養蚕技術の普及や県営勧業製糸場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実施した。また、甲府市街の整備に着手し「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を特別に推奨した。明治23年貴族院議員に任ぜられ、同29年男爵、晩年郷里で熊本農工銀行頭取に就任している。」「藤村紫朗(ふじむらしろう)の遺品が展示されていた。「江戸~昭和時代の教科書」。ここ「藤村記念館」で「128 要害山城」のスタンプを頂きました。続日本百名城はこの「要害山城」の如く、山城が多く、別の場所にスタンプがおいてあるのでともすれば、スタンプだけ集めて廻る所謂「スタンプ集め」になりがちなのではと。しかし「スタンプ集め」で続日本百名城を制覇しても・・・・・????そして駐車場に戻る。左手には「甲府市歴史公園 」の「甲府城山手御門」が。「甲府城の出入り口は、南側の追手(大手)御門、北側の山手御門、西側の柳御門の三ヵ所がありました。城外から木橋と土橋で堀を渡り、その先に山手門があり、虎口空間を直角に折れて二階建ての山手渡櫓門があります。出入り口の防御を固めるため、非常に厳重なつくりとなっています。枡形門虎口型式の両者を総称して山手御門と呼んでいます。山手門は城門として、山手渡櫓門は武器の倉庫としての役割も果たしていたと言われています。明治時代になると、市街地化が進み、山手御門周辺の石垣も崩され、堀は埋め立てられました。発掘調査で、石垣の一部が発見され、山手御門の復元を中心とした公園の整備が始まりました。門は発見された石垣を土台にし、当時の工法を用いて復元しています。山手門 :高さ5.866m/横幅4.969m山手渡櫓門:高さ11.350m/横幅13.790m」そして前方右手に見えたのが「甲府 時の鐘」。甲府駅東側の甲州夢小路内にあった。「江戸時代、甲府城下の横近習町や愛宕町に時刻を知らせる鐘楼があり明治5年まで使われていた。平成25年甲州夢小路内にこの時の鐘が新造された。この鐘はかつて愛宕町の鐘楼を模造したと伝わる法性山玄法院の鐘楼を模して再現されたものであるとのこと。」県道7号線から県道6号線へ向かう。「荒川」に架かる「千松橋」の銅像・「希望」。そして次の訪問地は「信玄堤」として、「赤坂台総合公園 (ドラゴンパーク)」横を通過。高さ33mの展望塔(展望フロアは22m)からは、甲府盆地の景色が一望できると。そして国道20号線に合流しここを左折。国道20号線を進み、右に入ると「信玄堤公園」に到着。「信玄堤」案内地図。「公園の概要甲斐市は、甲府盆地のほほ中央に位置し、南に霊峰富士、西に南アルプスの山々、北に八ヶ岳を眺められる風光明媚な自然環境にあります。また、武田信玄公が1 7年の歳月と計り知れない人力、新しい治水工法で永禄2年に完成させた「信玄堤」をはしめ、竜王水などの伝説や多くの文化財で有名な「慈照寺」、郷土の大学者・山県大弐をまつった「山県神社」、おみゆきさん(御幸祭)の行われる「三社神社」など有形無形の歴史文化的資産が数多くあります。水と緑の豊かな自然環境のなかで先人たちがはぐくみ、築きあげてきた文化に親しみ、誇りのもてる郷土を守り、育て、末永く後世に伝えていくため、この地域を歴史文化公園「信玄堤」として指定しました。」「釜無川ゾーン 信玄堤エリア 竜王用水「信玄堤」のあるこの付近は甲府盆地を洪水から守る重要な地点ですが、竜王地区の田畑への用水を取るためにも重要な地点でした。昔の人は、いろいろ苦心をして御勅使川と釜無川の洪水の流れを高岩にあてて洪水の勢いを弱めていました。また、高岩に川の流れを集めることは、普通の時に高岩地点で川の水を取りやすくなります。江戸時代の絵図では高岩の前に集まった釜無川の水をトンネルを開けて取り入れていることがわかります。このように昔の人々は、洪水を防ぐことも、そして川から水を取ることもうまくエ夫していたことがわかります。ここから取った川の水は竜王用水と呼はれます。この竜王用水を守るためには地域の人々の大変な努力があり、信玄堤が築かれて以来、甲府盆地の竜王地区を潤す用水として、現在も大切な役割を果たしています。」「潤澤興郷之碑」。「潤澤興郷之碑」は信玄堤が甲府盆地の治水地点だけでなく、竜王地区の用水地点としての役割もあったため、竜王地区を潤したことを示す碑である。「竜王用水施設整備記念之碑」。「水神」碑が中央に。「用水隧道開削碑用水隧道開削碑は、釜無川からの取水のため寛永十三年(一六三六)に高岩に隧道を開し、翌寛永十四年に富竹新田に至る用水路(堰)を完成させた甲州代官触頭平岡次郎右衛門和由の徳をしたって、富竹新田村(甲斐市富竹新田)の村民が建立した報恩碑と推測されます。碑は高さ一・五メートル、幅〇・四七メートルの自然石を平坦にした表面に「平岡次郎右衛門和由大翁玄広居上、穿開此水道立富竹新田、寛永十四年丁丑七月日」と刻銘があります。文化十一年(一八一四)に完成した「甲斐国志』に「渠口ニ石碑ヲ建ツ」と書かれていますが、碑が建立された時期は明確にしていません。この富竹新田へ導く延長三キロメートルの用水路の建設は新田開発と並行して進められて竣工し、新田開発工事は和由の子勘三郎良辰に引継がれて慶安五年(一六五二)に完成しました。この事業の成果によって富竹新田村が生まれました。」「甲斐市観光案内図」。「釜無川」上流を見る。山梨県西部の川。長さ68km。赤石山脈北端に発し山脈断層崖沿いに南流,甲府盆地で御勅使(みだい)川と塩川を合わせ,笛吹川と合して富士川となる。小淵沢〜韮崎(にらさき)の左岸には八ヶ岳泥流の台地が七里ヶ岩と呼ぶ数十mの絶壁をなす。荒れ川でしばしば氾濫(はんらん)。御勅使川合流点付近に武田信玄築造と伝える信玄堤が残る。谷沿いの信州往還は信濃・甲斐・駿河(するが)3国を結ぶ要路で,現在は国道20号,52号線。川の流れの端に三角の形のものが並んでいた。ズームで見る。同じものが堤防上に展示されていた。手前が上流側に向ける面か?竹籠の中に、丸石を詰めて。この石で流れを弱めるのであろう。「釜無川 ソーン 信玄堤 工リア 聖牛富士川は日本ても有名な急な流れの川てす。このため大雨のときには、たびたび荒れ狂います。現在のようにコンクリートも機械も無い大昔に荒れ狂った川の洪水を防ぐ事は大変なことてした。この「聖牛」は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本て有名な古い河川工法のひとっで、戦国時代のこの甲州か発祥の地といわれています。見てのとおり三角の形をしているので、上の部分が牛の角のように見えるためこのような名前かついたといわれます。「聖」の意味ははっきりしませんか、現代風にいえはスーバーとかウルトラという意味たろうともいわれています。聖牛は、大きさて「大聖牛」、「中聖牛」、「聖牛」の3つに分類され、ここに設置されているものは「中聖牛」の大きさのものです。」「聖牛」姿図。基本的構造は以下のとおり。一対の前合掌木と砂払いで三角形をつくる。棟木をこれに連結し立ち上げ基本の三角錐をつくる。前立木を前合掌木と砂払いに連結する。桁木を河心側が下になるように棟木に連結し、その上に前梁木を連結する。梁木の位置を確認し、後・中合掌木を連結した後、後・中梁木を連結する。敷成木を梁木に連結し、その上に蛇籠を重し籠として載せるとともに、後部に尻籠を置く。聖牛の種類は以下の通り。 (中聖牛) 三対の合掌木を備え、一般に棟木の長さ7.3m、末口12cmのもの。 (大聖牛) 三対の合掌木を備え、一般に棟木の長さ9.0m、末口15~18cmのもの。 (大大聖牛) 四対の合掌木を備え、一般に棟木の長さ12.7m、末口20cmのもので、 二段の棚を設けて重籠を積載するもの。「釜無川を見守る「龍」ここは豊かな水とみどりに接することが出来る釜無川のほとりです。甲斐市では環境整備の一環として国土交通省甲府河川国道事務所の協力を得て、ここ信玄堤を訪れる皆さまの患いの場として、また治水祈願として「龍」を護岸の階段部分に描きました。「龍」は想像上の動物ですが、水の神様として「龍神」「龍王」とも呼ばれ、崇められていました。特に釜無川と御勅使川が合流するこの地域は、古来より洪水が多く、水を治める、洪水からの守り神「龍神」への信仰も厚かったと思われます。また、「龍」はこの地域の地名である「竜王(龍王)」の由来でもあります。いつまでも水害の無い釜無川であって欲しいと願っています。」「信玄堤と御勅使川(みだいがわ)・高岩」案内板。「信玄堤と御勅使川・高岩・甲府盆地を洪水から守る信玄堤甲府盆地には東から笛吹川、西から釜無川・御勅使川が流れています。どちらの川も暴れ川です。東の暴れ川、笛吹川を押さえるのが「万カ林」。そし西の暴れ川 釜無川・御勅使川を押さえるのがこの「信玄堤」です。・信玄堤のはたらき「信玄堤」は戦国時代に武田信玄の命によりつくられたといわれています。信玄堤は、この付近の堤防の名前ですが、この堤防だけでは釜無川や御勅使川の洪水を防ぐことはできません。右の図のようにいろいろな施設によって洪水の流れを調整しています。特に御勅使川の洪水の流れをたくみにコントロールしていることか大きな特徴です。・御勅使川の流れを上流の「石積出し」で北側へはねます。・このはねた流れを2つの「将棋頭」で受け止めます。・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で御勅使川の洪水の流れを「高岩」へ導き、そ の勢いを弱めています。・弱まった流れをこの「信玄堤」がしつかり受け止めているのです。「信玄堤と御勅使川・高岩の全体説明戦国時代に武田信玄がつくらせたといわれる「信玄堤」は、日本の土木技術史でも一級の価値があります。是非一度、ご自分の目で「信玄堤」を構成する一連の治水施設をお確かめください。」ズームして。「信玄堤整備前の模式図」。「石積出し:御勅使川を北側に押し出す」「将棋頭:御勅使川の流れを集める」。「堀切:御勅使川の流れを高岩に導く」「十六石:釜無川の流れを高岩へ導流」。「高岩:御勅使川の流れの勢いを弱める」。「一番、二番出し:合流後の流れを対岸へ向ける」。「信玄堤:洪水をすみやかに導流する」。「釜無川 ゾーン 信玄堤 工リア おみゆきさん「おみゆきさん」は、毎年4月1 5日に行われる一宮町浅間神社のお祭りです。その由来は、平安時代に甲府盆地西側の水害を治めるために朝廷から命じられたことから始まり、戦国時代には信玄が祭主となり甲州治水を祈らせたといわれています。ーノ宮の祭神「木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)」は女性であるため、御輿の担き手は、紅おしろいに赤い長じゅばん、たすきがけに白い足袋という女性の格好をします。そして、御輿の掛け声は「ソコダイ、ソコダイ」で、浅間神社から三社神社まの長い道のり( 7里、約28km )のため、終点がすぐ「ソコダ」と威勢をつけたことによると言われています。御輿か浅間神社から三社神社に着くと川除けの儀式(水防祈願)が行われます。川に向かって投げる繭に似せた白い石を拾うと厄除けや無病急災にこ利益があると伝えられています。昔は一ノ宮(浅間神社)ニノ宮(美和神社)三ノ宮(玉諸神社)から御輿が出る三社合同の共祭でしたが、明治3年( 1 87 0年)からは、一ノ宮のみのお祭りになりました。浅間神社に伝わる江戸時代の絵巻物によるとその行列は当時の十万石の大名行列と同じぐらいの規模であったといわれています。」「おみゆきさんの様子」。「釜無川」下流を見る。釜無川の名前の由来 ・「釜のような深い淵がない川だから」、「釜のふちのような堤防ないから」という説 ・「川の水が温かいので釜が必要ないから」という説 ・言い伝えからの説 釜無川の水害を心配した女が、暴風雨の夜に釜のふたを川に投げ入れ、 その上に飛び乗ったところ、女は蛇に化けてふたと一緒に消えてしまったそうです。 その後、水害は起こらなくなりましたが、村人はその話を怖がって釜を使わなく なったという。御勅使川の名前の由来 ・「大水が出る意味の水出川(みだしがわ)から」という説 ・「古代に水害が発生した際に甲斐国司の奏上で“朝廷から勅使が下向したことに由来」する説「霞堤の図 A-通常時,B-洪水時,C-洪水後」通常の河川の堤防はずっと連続して続いている。切れているところがあれば、そこから水が流れ出してしまう恐れがあるから、切れ目なく堤防を作るのが現在のやり方。ところが「信玄堤」は、「霞堤」と呼ばれる不連続な構造を持つ堤防になっていたのだ。霞堤は、イラストが示すように、間が開いている、変わった堤防。完全な遮断を敢えてしないのだ。大雨で川が氾濫すると、増量した水をわざと越流させ、霞堤間に導いて、滞留させる。そうすることで、洪水のエネルギーをパワーダウンさせるのだ。霞堤はエネルギーを喪失した洪水流を速やかに本流に戻すという機能を担っている。平地部には霞堤を2重3重に築き、氾濫したとしても、その水を釜無川に戻しやすくしたのだ。がっちりと切れ目なく築くほうが強固な対策に見えるかも知れないが、この場合(東日本大震災でもそうだったように)、いったん決壊してしまうと、あっという間にすさまじい氾濫と洪水が起きてしまう。一見、脆そうに見える霞堤のほうが、いざというときの被害が少なくてすむのだ。洪水を完ぺきに封じ込めることを目指すのではなく、洪水が起こることを前提に、流域全体の力を使って、水の流れを制御しているこのしくみは、「しなやかに強い」レジリエンスの好例ではないか。」釜無川の対岸に「霞堤」があったのだ。約3kmの信玄堤は改修され森林公園、スポーツ公園が整備されていた。丸い石碑には「遊水巴流上○」??と。「信玄堤から見た山々」案内図。山の端は雲に隠れて。「手ずくり郷土大賞」碑。そして国道20号線・竜王バイパスを釜無川に沿って進んで行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.16
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「甲斐善光寺」を後にし、次の訪問地である「続日本百名城」に指定されている「要害山城跡」に向かって進む。綺麗に刈り込まれたカイズカイブキ(貝塚伊吹)の並木の中を進む。昔、我が家の生け垣もこのカイズカイブキ(貝塚伊吹)でしたが、幹や太い枝近くまで深く剪定すると、徒長枝が出、その葉が針葉になってしまい見栄えが悪くなってしまったのです。幼葉に返るため、この現象を「先祖返り」と言うとのこと。加齢と共に剪定作業がシンドクなったので、現在はアルミフェンスに。県道6号線の車窓から甲府の街並みを眼下に見る。「愛宕トンネル」を通過。「武田」交差点を右折し、県道31号線・「武田通り」を「武田神社」に向かって北上。正面に見えたのが「武田神社」の鳥居。ここ「武田神社」👈リンク は以前、数回訪ねた事があるので今回は訪ねなかった。このT字路を左折し、「要害山城跡」に向かって進む。こその先左手にあったのが「西曲輪南馬出・馬埋葬跡」案内板。 「西曲輪南馬出・馬埋葬跡この場所は、武田氏館(躑躅が崎館)の西曲輪南桝形虎口に伴う馬出である。馬出とは、虎ロの前に築いて人馬の出入を知られぬようにした防御施設である。地籍図では「コ」の字状地割りが確認できる。発掘調査では、四肢を折り曲げ、北枕西向に埋葬された馬骨が完全な形で出土した。戦国期の馬を伝える貴重な資料である。」「武田氏館跡曲輪配置図」。そしてその向かいにあったのが「西曲輪南側虎口」。「西曲輪南側虎口」前の外堀。そして県道31号線の坂道を更に登って行った。そして「要害山(ようがいざん)」参道入口に到着。「相川」に架かる橋を渡る。「積翠寺(せきすいじ)温泉(要害)信玄の隠し湯の一つと伝えられるこの温泉は、要害山麓の閑静な山あいにニ軒の温泉旅館で営まれています。尾根を隔てて西方の養朝沢にあるのを古湯坊、東方の要害山入口に位置するのを要害といいます。泉温は15 ~ 20度と低温ですが、緑ばんを含み、リュウマチや神経痛などに効果があるといわれています。周辺には、豊かな緑に加えて要害城跡や積翠寺など武田家をめぐる史跡もあり、森林浴や歴史散策の格好の場となっています。」そして車を降りると、左手にあったのが「史跡 要害山」碑。「史跡要害山マップ」「要害山要害城は、永正17年(1520)武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館(現在の武田社)に対して、緊急時に立てこもる詰の城として役割を担っていました。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・整備されました。城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、枡形虎ロ(ますがたこぐち)や郭(くるわ)が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪堀(たてぼり)や堀切(ほりきり)を要所に設けて防御を固めています。山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したものと推定されます。南東尾根上には支城の熊城(くまじよう)があり、深い堀切で区切られた連続的な小郭と畝状竪堀(うねじようたてぼり)が特徴的です。また、ふもとには根古屋の地名が残り、城番を勤める武士の屋敷が置かれました。要害城は、熊城とともに遺構の保存状態がきわめて良く、記録が豊富に残されているなど、戦国期の山城の様相を今日に伝える貴重な山城です。」「山梨百名山 要害山(770m)」。山頂への路には、「要害城」に関係する様々な遺跡があるようであった。2017/1/31をもって閉館した「積翠寺温泉(要害)」。「積翠寺温泉 要害」と刻まれた石碑も寂しく。「要害山」山頂を目指そうと考えていたが、山道は整備されておらず、草ぼうぼうであったためやむなく諦めたのであった。そして車に乗り込み、坂を下り次の訪問地の「積翠寺(せきすいじ)」へ。「積翠寺」入口には石灯籠とその先に参道が。ここには「山門」があったのだろうか。「武田信玄和漢連句八ノ宮良純親王墨跡・硯箱・煙草盆積翠寺は、臨済宗妙心寺派の末寺で要害城の南麗に位置し、古くは石水寺と書いた。山号は万松山、本尊は釈迦如来を安置する。寺伝では開山を行基、中興開山を夢窓国師の弟子竺峰とする。また、武田信玄の誕生した寺とも言われ、境内には産湯井戸や産湯天神がある。天文15年(1546)信玄は、後奈良天皇の勅使として甲斐におもむいた三条西大納言実澄・四辻中納言季遠と東光寺鳳栖、法泉寺湖月らを加えた十数名を当寺に迎え和漢連句を催した。この時の一巻が当寺に寄進され寺宝として現存している。和漢連句は、五・七・五の和句と呼ばれる和歌と漢句と呼ばれる五言の漢詩を続けた連歌の一種であり、当時流行した知的な遊びであった。信玄が京都文化を積極的に移入したことや、武芸とともに文芸にも関心があっただけでなく和歌や漢詩の優れた作者であったことを示す貴重な史料である。良純親王は後陽成天皇の第八皇子であるため八ノ宮とも呼ばれた。寛永20年(1643)罪を得て甲州湯村に配流され、ついで下積翠寺町興因寺に移って12年、さらに三珠町の薬王寺に5年を過ごしたのち許されて帰洛した。興因寺にいた時、積翠寺にもたびたび訪れられたことから、日常愛用された硯箱と煙草盆が当寺に伝わっている。また、消息(手紙)・和歌・色紙など親王自筆の墨跡が一括されて保存されており、親王の往時がしのばれる遺品である。」積翠寺周辺の案内地図。参道には見事な赤松の老木が剪定を終えて。正面に「寺務所」。「鐘楼」。「長寿鐘」と書かれた木札が。本堂の隣には「不動堂」があり、不動尊、武田信玄像などが祀られていて、毎年4月には不動尊祭りが行われているそうだ。「積翠寺由緒当寺は臨済宗妙心寺末にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。大永元年(1521)、福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり。堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文15年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻二卿と拙寺にて催されし信玄公の和漢聠句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。」となんとか読めたのであった。「武田不動尊 信玄公像 毘沙門天 堂」石碑。信玄公像。不動明王ご真言「南莫三曼多 嚩日囉赧戦拏 摩訶路灑拏 薩破咤也吽怛羅他憾含(のうまくさんまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん)」「信玄公産湯の井戸大永元年(1521年)飯田河原の合戦の時、信虎夫人(大井夫人)は戦乱を避け当寺に留りて信玄を出生したのである。その時産湯に使った井戸です。」「本堂」と「寺務所」。「本堂」。宗派は臨済宗妙心寺派で、山号は万松山。本尊は釈迦如来。扁額は「萬松山」。「本堂」の屋根には「武田菱」が輝いていた。そして駐車場?横には「産湯天神」の石祠が並んでいた。別の場所にあったものをここに移設したのであろう。「産湯天神」の石祠前から、眼下に広がる甲府市の街並みを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・.000
2020.09.15
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更に「甲斐善光寺」の境内の散策を続ける。境内の中央にあったのが「香炉堂」。面白かったのは、線香が2台の自販機で売られていたこと。巨大な「常香炉」。石仏と石柱が、真ん中の石柱には南無阿弥陀仏と刻印されていた。地蔵堂の左側に並ぶ「六地蔵」とその奥の石碑、石仏群。「地蔵堂」。「地蔵堂内陣」。左側の地蔵尊。右側の地蔵尊。ヤクルトが置かれていたが・・・。境内の池・弁天池。小さな滝もあった。多くの鯉が。私が手を叩くと、驚いたように逃げて行ったのであった。檀信徒会館(だんしんとかいかん)。「里垣の伝説 甲州善光寺の棟木 昔、遠光寺村というところに、お琴という娘がおりました。お琴には夫となる若者がいて、二人は仲むつまじく過ごしておりましたが、ある青い月の綺麗な晩に、若者は、「私は高畑村にある大きな柳の木の精です。あす善光寺の棟木になるため切り倒されてしまうので、お別れしなければなりません」と涙ながらに言いました。そして、「私は切られても千人二千人の力では動きません。もしあなたが来て声をかけてくれたら動きましょう」と言い残すと、すうっと消えてしまいました。さて、そのあしたのこと、柳の木は切り倒されましたが、いくら人夫を増やしても動きません。そこで、お琴が泣く泣く今様をうたうと、柳の木はスルスルと動いたということです。」「手水舎」。「金堂(本堂)」の前には手入れの行き届いた老木の枝が。屋根には「武田菱」が中央に。「金堂(本堂)」正面。単層裳階付二重の撞木造で、正面梁行き23.6m、正面屋根幅30.8m、側面桁行38.0m、総奥行49.1m、総高27m、建坪310.8坪という、東日本最大級の木造建築として名高い。見事な彫刻。本堂扁額「善光寺」。甲斐善光寺の寺紋は丸に立葵の「本田葵」。信州善光寺は立葵なので、似ているが葵のイメージが少々違うと。「武田菱」もその隣に。「金堂内陣」。金堂内には、手を打つと共鳴する「鳴き竜」や闇の中を手探りで歩いて行き仏様の御利益を得る「戒壇巡り」があるとのこと。七年に一度、本尊の御開帳があるが(次回は令和3年(2021年))甲斐善光寺宝物館を併設し、阿弥陀三尊像や源頼朝像など多数の文化財を展示しているのだ。更にズームしたが、厨子には帷(とばり)が下りていたので御本尊様・「木造阿弥陀如来及両脇侍像」姿はは拝めなかったのであった。御本尊様・「木造阿弥陀如来及両脇侍像」をネットから。 【https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/kamejii/052.html】から「武田信玄公訓言 凡そ軍勝五分を以て 上と為志七分を中と為志 十分を以て下と奈須 其れ故は五分は勵を生し 七分は怠を生し十分は 騙を生する由之仮令戦に 十分の勝を得るとも騙を 生寸連波次には必ず敗るるもの奈利 寸へて戦に限らず世の中の事 此の心かけ肝要奈利 甲斐善光寺 第七十世 諦譽真人書」「50%の成功でよい、70%の成功を収めると怠慢になる、100%の成功は驕りが生じ、 最も危険である。」と。然り!!「金堂(本堂)」内のニ仏。「びんずる様」。旅友のSさんは「びんずる様」の頭を何故か?必死に撫でていたが・・・。こちらの仏様は??「金堂(本堂)」の姿が切り絵で。「山門」と「金堂(本堂)」の木組み模型。御朱印を頂きました。「甲斐百八霊場一番 善光寺如来」「金堂」から「山門」方向を見る。「鐘楼(しょうろう)」近づいて。銅鐘をズームで。「善光寺銅鐘本銅鐘は、正和2 ( 1313 )年に補鋳されたことが銘によってわかる。治承3 ( 1179 )年と文永4 ( 1267 )年の善光寺火災の折、火をうけてその都度修理されている。鐘の周囲は4つに区分され、八葉複弁(蓮の花)をきさんだ撞座があり、鐘乳は総計100個つくられている。鐘の肩の部分は大変力強く、鎌倉時代の風格を表わしており、美術的価値の高い遺品である。なお、本鐘は武田信玄によって長野市善光寺より本尊その他とともに移されたものてある。総高 200 cm口径(内側) 135.2cm」「稲荷社」。石造りの扁額「正一位稲荷社」「稲荷社殿」。法然上人像。平安末期から鎌倉前期の僧で浄土宗の開祖。「霊牛碑」。長野市の善光寺は「牛に引かれて善光寺」だが、甲斐善光寺にある伝説では牛が一人で善光寺詣りをしているのだと。そして、その牛の角はここに寄進され、この五輪塔を建てたと。「霊牛碑江戸芝牛町に、大切に飼われていた牛がおりました。延宝六年(1678)五月下旬のこと、その主人の夢に三晩続けて牛が現れ「私を甲斐善光寺へ参詣させてください。そうすれば、必ずこの家は末長く栄えるでしょう。」と告げたのです。主人は不審に思っていると、六月初め牛は自ら小屋を出て、西に向かって駆けだしてしまいました。主人はあわてて後を追ったのですが、捕まえることができず、先日の夢のお告げも思いあわせ、放っておくことにいたしました。一方この牛は、四谷口から甲州街道を一路ひた走り、六月十八日坂垣村善光寺に到着し、金堂に参詣いたしました。四足を折り伏して頭を垂れる様は、まことに人が善光寺の如来様を拝むかのようであったと申します。数刻の後、おもむろに立ち上がり、金堂の東側に駐まること七日間、八日目にようやく帰路につきました。江戸に帰った牛は、三十日ばかりして突然死にましたが、その体には円光が輝いていたということです。主人は、日頃信仰する阿弥陀如来様の再来かとねんごろに供養し、牛の角を当山に寄進したのです。一本の角はこの地に埋め、五輪塔を建立して、信心深い牛の末代までの記念といたしました。その後、霊夢のごとく主人の商売は繁盛し、福徳円満に暮らしたと伝えられております。そのため、開運福徳の霊牛として、この碑を参詣する人が絶えないのです。なお、この一本の角は寺宝として現存しており、宝物館で一般に公開いたしております。」「金堂」を横から。様々な石碑、石仏がところ狭しと。「保存庫(ほぞんこ)」保存庫内の左右に安置されている二組六体の阿弥陀三尊〔重要文化財〕は、いずれも内刳(うちぐり:像の内部が空洞)のある桧材寄木造りの漆箔(しっぱく)像で、藤原中・末期の作と推定されているのだと。残念ながら、扉は閉まっていた。「重要文化財木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫右側)木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫左側)保存庫内の左右に対置されたニ組六躰の阿弥陀三尊像は、いずれも材寄木造りの漆箔像で、作風から両者に多少の相這はあるが、争土思想が興隆にむかう藤原中・末期の造顕と推定される。これらは甲斐の国主浅野長政が甲府在城中( 1593ー150のこの寺の本堂荘厳のため、右側は元宮地村(現韮崎市)大仏堂・左側は元千塚村(現甲府市)光増寺から動坐したもので、法量は両中尊とも約1.4メートル、餡侍はそれぞれ右方1.54メートル、左方1.04メートル前後である。藤原末鎌倉初期の願成寺(韮崎市)阿弥陀三尊像とともに、かっての甲斐源氏の信仰を思わせる名作といえる。」境内の「香炉堂」、「地蔵堂」、「手水舎」を見る。松の木の下には「旧増上寺石燈籠」が。戦後、増上寺の徳川家霊廟の霊廟部分をプリンスホテルが取得、霊廟の周辺の諸藩主より寄進された石灯籠を寺院の希望により配布されたもの。「武州増上寺 文昭院(ぶんしょういん)殿尊前」と「有章院(ゆうしょういん)殿尊前」と刻まれた2基があった。金堂左手前の大仏(だいぶつ)。ズームで。「宝物館」。「県指定文化財の木造源頼朝(みなもとのよりとも)像、木造釈迦涅槃(しゃかねはん)像、当麻曼荼羅図(たいままんだらず)、梵鐘などの多数の寺宝を所蔵しています。そのほか、源実朝(みなもとのさねとも)像・熊谷直実(くまがいなおざね)像玄和居士(げんわこじ)像は、鎌倉期の肖像彫刻の秀作として知られ、徳川家光(いえみつ)奉納の聖観音像・賽(さい)の河原地蔵尊・善光寺如来絵伝・木喰上人絶筆梵字(もくじきしょうにんぜっぴつぼんじ)阿弥陀如来像・武田信玄朱印状なども展示されています。昭和五十七年(1982)の建立。今回は時間の関係上、中には入らなかったのであった。「武田の杜「歴史の路」案内図」。「武田神社」、「円光院」付近。この後に訪ねた「積翠寺(せきすいじ)」付近。「北浦翁之碑(きたうらおうのひ)」。この人物は??芭蕉翁月景塚(ばしょうおうげっけいづか)安永四年(1775)10月、如雪庵尺五(じょせつあんせきご)の造立。「月がけや 四門四宗も 只(ただ)ひとつ」とここで詠んだと。善光寺は一宗派にこだわることのない寺で、すべての人に門戸を開いているということのたとえによくこの句が使われると。四門四宗というのは仏教用語で、仏門にはいるためには四つの門があり、仏の教えにも四つの宗派があるのだが、善光寺はそれを越えてただ一つの仏の道をあらわしているということなのだと。再び「山門」を振り返る。六字名号碑の隣の「丸石道祖神」。山梨の道祖神は丸石が多いとのこと。「金堂(本堂)」の微妙な曲線の美、そして屋根の「武田菱」を見る。今回、この「甲斐善光寺」を訪ね、そしてこのブログを書くことによって「戦国の武将武田信玄は、川中島合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、弘治元年(1555)本尊三国伝来阿弥陀如来をはじめとして、諸仏寺宝類を悉く佐久郡禰津村に移した。その年の8月には上杉軍の本拠となっていた善光寺は炎上し、その後も、甲越両軍の衝突が起こったため、信玄は安全な場所に善光寺如来を奉遷することを決意。その地を、本田善光葬送の旧跡とされるここ板垣の郷に定めた。」事を初めて知ったのであった。そして下記の如きご意見のページにも出会ったのであった。『長野県人には郷土を蹂躙され宝物を略奪されたという感情はいまだにあるし、信濃より伝来として堂々と展示している甲斐善光寺の厚顔ぶりも気になる信州人がいることを伝えておきたい。戦利品は返さなくてもよいというのが常識であり、信濃善光寺と甲斐善光寺の間ではとっくに決着がついている話なのかもしれない。しかし、甲府の人たちが武田信玄が信濃善光寺の寺宝を兵火から守った、善いことをしたと思っているとしたら、それは大きな間違いであることを認識するべきだ。兵火そのものの原因は武田軍が他国に遠征して作ったことを忘れてはならない。もし善意でしたのであれば、危機が去って平和になったら返すのが本筋ということになる。武田信玄も織田信長も天下統一のためには他国へ攻め入ることは必然であったのは認めても、占領した地域のアイデンティティーまで蔑ろにすることは肯定できない。武田信玄亡き後、武田氏が脆くも滅び去ったのは、諏訪大明神や善光寺如来の祟りだとささやかれたのも頷ける。』と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.14
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この日は9月3日(木)、旅友のSさんが「続日本百名城」を訪ねており、この日は山梨県甲府市にある「要害山城」と「新府城」そして長野県諏訪市にある「高島城」を訪ねるとの事で、私も連れて行ってもらいました。二人共、既に「日本百名城」は制覇しており私は2015年9月に793番めの日本城郭協会の登城完了者になっているのです。そしてこの日も早朝6時に茅ヶ崎を出発。甲府市内は午前中は天気予報は雨になっていましたが台風10号が九州に近づいており、この日以降の天気も不透明であるため、決行となりました。西湘バイパスを進み、この日は大磯西ICで降り、国道1号線に向かう。国道1号線・大磯警察所前を通過。二宮・押切坂を下る。国府津・岡入口交差点を右折し曽我梅林方面に向かう。東海道本線、御殿場線のガードを潜り進むと右手に「菅原神社(天神宮)」が。神奈川県足柄上郡大井町にある高層ビルが見えた。かつては第一生命保険の本社ビル。現在は「未病バレー BIOTOPIA(ビオトピア)」内のテナントビルとして、ブルックスホールディングス大井事業所の所在地となっているのだと。BIOTOPIA(ビオトピア)とは「BIO」(いのち輝く社会の実現)と「UTOPIA」(未病改善の取り組みを実現する理想的な里)を表していると。me-byo valley(未病バレー)という言葉には神奈川県西地域全体から未病改善を「集積」「創造」「発信」し、健康な社会を実現するための場所にしていきたいという思いを込めているのだと。BIOTOPIA(ビオトピア)では自然の恵みが集まる「食」、身体を整える「運動」、五感を解放する「癒し」、これらをコンセプトに子供から大人まで全世代が楽しく「未病」改善体験ができるとのこと。そして国道255号線の籠場インターから国道246号線に入る。東名高速道路上り線の高架下を通過。前方に見えたのが、東名高速道路下り線の高架。国道246号線・裾野バイパスを進む。「道の駅 ふじおやま」手前の菅沼交差点を右折し、県道151号線・須走小山線に入り進む。車窓からはそろそろ稲刈りが始まるのであろうか?。右手にあったのが「東口本宮富士浅間神社」。そして山中湖畔の国道138号線を河口湖方面に向って進む。山中湖の水位は上昇し道路岸まで迫っていた。先日訪ねた「忍野八海」中道入口表示が右手に。赤松の林が右手に。交通量も次第に増えて来たのであった。「富士山レーダードーム館」の白のドームの姿が前方に。「北口本宮冨士浅間神社」の「冨士山 第一大鳥居」が左手に。右手に「富士急ハイランド」のジェットコースター「FUJIYAMA」の姿が右手に。「東恋路」交差点を右折し県道707号線を「河口湖大橋」に向かって進む。河口湖畔の「大池公園」にてトイレ休憩。駐車場から「河口湖大橋」を見る。「大池公園」の花壇のベコニア。左手には「河口湖北原ミュージアム」があった。「河口湖大橋」を渡る。河口湖も見渡せ、本来なら気持ちの良い富士山ビューのスポットであったが、この日は・・・。そして「追坂トンネル」を通過。道路脇のポールには河口湖に映る?富士山の逆さ富士をイメージしたものが。前方に防音フードの覆われた「リニアモーターカー実験線」が姿を現した。2027年に東京-名古屋間を開通する予定とのことであるが、この山梨実験線は中央新幹線の一部として利用される予定であるとのこと。乗る可能性は??そして甲州街道・甲府バイパスに入り、「向町ニ」交差点を右折し最初の訪問場所の「甲斐善光寺」に向かって進む。城東バイパスに入り西に進むと右手に「山梨学院大学 甲府酒折キャンパス」が見えた。「濁川」に架かる「城東大橋」を渡る。そして県道109号線・善光寺通りを進むと巨大な「甲斐善光寺 山門」が姿を現した。山門がだんだんと大きくなって来た。時間は9:22、茅ヶ崎から約3.5時間で漸く到着したのであった。駐車場に車を駐め、散策開始。まずは「山門」の前まで戻って「山門」を正面から見る。扁額は「定額山」。「甲州善光寺」の社号標。「善光寺山門付棟札」が「山門」の内側にあった。「善光寺山門付棟札 (国指定文化財 建造物)指定年月日 昭和30年6月22日所在地 甲府市善光寺3丁目6番1号所有者 善光寺 五間三戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦4年(1754)の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和4年(1766)に上棟式が行われた。両脇に仁王像を安置し、二階部分は、手すり付きの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な朱塗りの丸柱と白壁、銅板葺の屋根などから醸し出される雰囲気は、本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。」山門の両脇には未完成の金剛力士(仁王)像が祀られていた。格子が邪魔で仁王像全体の写真が撮れなかったが、格子の隙間から・・・・。阿形像の右手が未だ・・・未完成。お顔をズームで。反対側・正面左手の吽形像。こちらも、お顔をズームで。そして「山門」から境内と「金堂(本堂)」を見る。「山門」上層を振り返る。山門は、和様と唐様を折衷した五間三戸の重層楼門で、桁行約17m、梁間約7m、棟高約15mの大門。伽藍焼失後の寛政8年(1796)に再建され、現在は国重文に指定されているのだ。2階部には手すり付きの板廊下が巡らされ内部には仏壇が置かれているのだと。「お咳婆さんの石」が右手に。「この大をな石は「お咳婆さんの石」と呼ばれています。いつの時代からか、百日咳など咳に苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば効験が著しいと言われておりました。同様に信仰されたきた石は、甲府市千塚など名所にもあるといわれております。」境内を「金堂(本堂)」に向かって進む。山門から松並木に囲まれた石畳が、金堂へと真直ぐに延びていたのであった。雨の心配をしていたが、青空が見えて来たのであった。六字名号碑(ろくじみょうごうひ)阿弥陀如来への信仰を表す「南無阿弥陀佛」の六字が刻まれていた。「浄土宗定額山(じょうがくさん) 善光寺金堂 鳴竜 戒壇廻り宝物館 1階に手洗所、休憩所があります」確か、長野の善光寺も山号は「定額山」であった記憶が。「定額山浄智院善光寺由来定額山浄智院善光寺は、武田信玄公が永禄年中、川中島の合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、本尊阿弥陀如来その他、諸仏、寺宝、大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し、大本願第37世鏡空上人を開山に迎え、信濃善光寺開基本田善光公追葬の地、ここ板垣の郷に新たに建立さられたものである。その後、江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け、浄土宗甲州触頭として、金堂、山門、三重塔、鐘楼をはじめ本坊三院十五庵の大伽藍を有し、荘厳を極めるに至った。ところが、宝暦4年2月、門前の農家の失火により類焼し、堂塔ことごとく烏有に帰してしまった。そこで中興癡誉、性誉両上人が再興勧請に奔走し、三十有余年の歳月を費やして寛政8年8月金堂が落慶した。これが現在の伽藍で、昭和30年5月、金堂、山門共に重要文化財に指定され、同32年より5年間に渡り大修理が行われた。金堂は日本有数の大建築として著名である。本尊は、建久6年、尾張の僧定尊が霊夢により造立した金銅善光寺式一光三尊阿弥陀如来像で、重要文化財の指定を受けている。このほか文禄年間に甲斐国主浅野長政公が他寺より動坐した木造阿弥陀三尊像ニ組もそれぞれ重要文化財である。また県指定文化財の木造源頼朝像、木造釈迦涅槃像、当麻曼荼羅図、梵鐘など多数の寺宝を所蔵している。寺域には文禄2年、朝鮮の役で戦病死した国主加藤光泰公の墓所などもある。当山は創建以来時に盛衰はあったが、全国の深い尊信を集め今日に至っている。」付近の「観光案内図」。 ・・・つづく・・・
2020.09.13
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク更に綾瀬市・「早川城跡」の散策を続ける。「バラ園」の案内板に従い、木製の階段を下る。階段途中にあった「東屋」風の建物。更に階段が続く。そして「バラ園」へ。バラの花は既にほぼ終わっていたが・・・。「ロイヤルバシィーノ」近づいて。「トゥールーズロートレック(Toulouse Lautrec)」「鮮やかな黄色で、シャクヤクのような花弁の多い花を咲かせる。軽く甘い香りが特徴。」「ビバリー(BeveIy)豊かなニュアンスのピンク色とフルーティな香りに恵まれた品種。第さに強い。」「ピース 四季咲大輪種」。「ラセビリアーナ」こちらが「バラ園」の正門。9月の半ばからまた花が見られるとの案内が。そして住宅街の道路には綾瀬市の雨水マンホール蓋が。市の木「ヤマモミジ」を描いたマンホール蓋。こちらは汚水マンホール蓋。市の花「バラ」を描いたもの。そして「目久尻川」。この川の名の由来はいくつかの説があるのだと。一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる伊勢下村橋には河童の像があしらわれているのだと。そしてこちら側にも大きな「城山公園」の駐車場があった。こちらが、裏側(南側)の「城山公園」入口。そしてこちらにも「城山公園案内図」が用意されていた。「日本庭園」もこの奥にあった。そして再び「桜の広場」に向かって竹林の中の階段を上って行った。坂の先に「桜の広場」が見えて来た。「桜の広場」のニ段下の遊歩道横にも「案内板」が。「腰郭と竪堀早川城跡西側の斜面からは、腰郭と呼ばれる防御施設が2ケ所発見されました。腰郭とは、斜面を人工的に切り崩して平坦面を作り出したもので、敵の侵入を見張り、いざ敵が攻めてきたときには、第一線の防御施設として機能していたものと考えられます。早川城跡の西側斜面は、東や南側の斜面に比べ緩やかであり、外敵が侵入しやすい地形です。このため、要所に腰郭を配して敵に備えています。早川城跡では、いずれの腰郭からも柱穴が発見されており、小規模な建物が建てられていたようです。竪堀とは、城郭の斜面に直交して掘られた堀のことをいいます。要所、要所にこうした竪堀を設けることによって、敵の進入を防ぎ、より堅固な防御施設を作り上げています。早川城跡では、北側堀切の両端部、及び南端部からこうした竪堀が発見されました。南端部の竪堀内からは、当時の貨幣として使われた渡来銭(中国の銅銭)が出土しています」歩いて来た竹林の道を見下ろす。そして再び階段を上る。ここが「桜の広場」の1周できる遊歩道。東側にも城跡が拡がっていた。遊歩道の反対側にも案内板が。「1号柱穴列から出土した火舎片平成三・四年度の発掘調査の結果、早川城の北西部の斜面に段切して作られた腰郭に掘建柱建物の柱穴列がみつかりました。柱穴は全部で5つで、その内の4つは直径が50cm・深さが70cmあり、建物の主柱用の穴であると思われます。早川城の関連施設の一つで、見張り小屋的機能をもった建物跡と思われます。この柱穴列の箇所より、かわらけとともに瓦質でできた火舎のロ縁部の破片(口径42cm)が出土しました。火舎とは火鉢のことです。ロ縁の部分には二本の沈線の間に押印菊花文が珠文帯がめぐっています。このうな特徴から一四世紀ごろ(鎌禽時代後期から室町時代の前期)作られたものと推定されます。中世の出土遺物が少ないなか、早川城の成立を解明していく上で貴重なな遺物の一つです。」「縄文時代の城山早川城跡の発掘調査では、早川城が造られる以前の縄文時代や古代における生活の様子も明らかになっています。台地平坦部からは約5,000年前にあたる縄文時代中期の竪穴住居址二軒が発見されました。いずれの住居も使用後ごみ捨て場として利用されており、多量の土器や石器が出土しています。出土した土器は「勝坂式土器」と呼ばれる、関東地方の縄文式土器の中で最も装飾性に富んだ土器で、土器に施された文様から、縄文人の創造性の豊かさを知ることができます。台地上にはさらに多数の竪穴住居址が存在するものと思われます。周辺には、早川天神森遺跡や道場窪遺跡など、同時期の縄文時代のムラが隣接して作られており、当時、早川城一帯は、豊かな自然に恵まれ縄文人にとってとても住みやすい場所であったことが想像されます」「蓄霊之碑」。「当綾瀬市は早くから県下でも有数な畜産都市としてその名声を博し 特に優良高座豚の産地として知られ 現在では豚2万5千頭更に乳牛7百頭鶏17万羽の多きに達し農家経営に寄与貢献していることは計り知れないものがありますそこで幾多の畜霊の恩恵に思いをいたし永久にその霊を慰めるため会員並びに関係者の特志により ここに その供養塔を建立したものであります」斜面を下った場所には「遊具広場」があった。斜面を利用した滑り台。そしてここが東側の「城山公園」入口。ここにも「早川城跡」案内板が。再び「桜の広場」に戻るとあったのが「日時計」。上部から見る。「日本標準時を求めるには緯度差による補正と均時差による補正が必要です。日本標準時=投影された時刻ー経度による時間差ー均時差」と難しい内容が。つまりより正確な時刻を知るためには日時計の指す時刻を補正しなければならない。と言うのは太陽が真南に来たからと言って必ずしも、(というよりいつもだが)12時になるわけではない。原因の1つは経度の差である。東京と九州では東京の方が真南に来る時間が早い。これは簡単に補正できる。複雑なのは地球の自転軸の公転面に対する傾きによるものと地球の公転速度が一定でないことによるものであるようであったが・・・・。「均時差」について勉強してみます。そして、「早川城跡」の見学を終え、駐車場に戻り愛車に乗り込みホームセンターに向かう。右手に「免許証交付窓口綾瀬出張所」があった。そしてこの先の「綾瀬市役所前」交差点を右折。そして「綾瀬中央通り」を南に進む。そして行きつけのホームセンターに到着。そして肥料と培養土を購入し帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・
2020.09.12
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク先日9月2日に、綾瀬市にあるホームセンターに行った折、ここから1km程先にある「早川城跡」を初めて訪ねたのでした。この場所は以前から知ってはいたのですが、訪ねたことはなかったのでしたが、我が旅友Sさんが訪ねブログアップされていたので、私もこの日に訪ねたのでした。現在は「城山公園」として整備されており、2008年(平成20年)2月5日付で県指定史跡となったとのこと。駐車場に車を駐め、散策開始。「城山公園」石碑。神奈川県綾瀬市 早川城山3丁目4-1「入口広場」には時計塔の如きモニュメントが。ズームで。時間は15:35。「入口広場」から「城山公園」の海老名駅行きのバス停を振り返る。「城山公園」は平成13年6月1日に再整備された、市内で2番目に大きい公園とのこと。「城山公園案内図」が「入口広場」に。城山公園は、鎌倉時代源頼朝の御家人として活躍した渋谷重国の居城跡と伝えられ、県内でも遺存状態の良好な数少ない城跡の一つであり、大規模な堀切と土塁が現存していたのであった。「早川城跡」案内板。「早川城跡は、地元では古くから「城山」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成6年度にかけて、早川城跡の学術調査を行いました。発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかになりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかになりました。」それぞれの見どころが写真入りで。地図部を接写で。「入口広場」の左側に「管理棟」。「管理棟」に近づいて。この日は係の人の姿はなし。「入口広場」から公園内へ。「古代の城山」案内板が左側に。「古墳時代の終わり頃から奈良・平安時代にかけて、早川城跡周辺には大きなムラが造られます。市立城山中学校から早川城跡にかけての台地上からは、100軒を超える竪穴住居址が発見され、目久尻川を挟んだ対岸の宮久保遺跡(県立綾瀬西高等学校)からも、150軒の竪穴住居址が発掘調査されています。古代と呼ばれるこの時代、都を中心に律令国家が確立し、地方には国府、郡衙が設けられました。律令体制を支えた人々は、竃を備えた竪穴住居に住み、収穫した穀物は、掘立柱建物と呼ばれる倉庫に蓄えていました。住居址内からは、土師器と呼ばれる土器とともに、須恵器と呼ばれる陶器が出土するようになります。また、鉄製の農耕具類や文字の書かれた土器(墨書土器)が出土することから、この当時、庶民レベルまで鉄製品や文字が普及し始めたことが分ります。早川城跡や宮久保遺跡からは、都で作られた奈良三彩と呼ばれる珍しい陶器も出土しています。」公園入口すぐ左には、炊事棟があり、かまどが設置されており、予約制だが、燃料と食材を持ち込めば、ここでBBQができるようであった。「炊事棟の利用について」。ここにも。予約制で市民には1基2000円と。「炊事棟」の奥には多くの木製テーブル、ベンチも。公園内に入って進む。「渋谷氏と早川城跡」案内板。「渋谷氏は平安時代の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、1247年宝治合戦の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。」早川城跡周辺(江戸時代)の景観。相模川の支流目久尻川左岸の舌状台地南端部に立地する事が解る図。渋谷氏略系図(「入来院氏系図」により)。渋谷重国の居城であったここ早川城址は、現在、城山公園として整備されている。渋谷氏は、桓武平氏秩父氏の一族で、重国は渋谷荘を与えられ、渋谷庄司と称し、綾瀬から大和、藤沢一体を統治した(参考:鶴舞伝説と公所浅間神社)。『吾妻鏡』には、1159年(平治元年)、平治の乱で源義朝に味方して敗れた近江源氏の佐々木秀義が、奥州平泉の藤原秀衡を頼るため渋谷荘を通りかかったときに、それを引き止め、以後、約20年間にわたり面倒をみたという話が残されている。1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、父秀義と共に渋谷荘で暮らしていた定綱、経高、盛綱、高綱の兄弟(佐々木四兄弟)は、頼朝のもとに馳せ参じ、鎌倉幕府成立に大きな貢献をした。このとき重国は大庭景親方に付いていたが、のちに頼朝につき御家人に列せられている。BBQ広場を振り返る。「湿生園」の入口階段。「湿生園についてこの湿生園は、早川城山地区の雨水調整池を利用し整備したものてす。雨天時は多量の雨水が流れ込み、池の水位が上昇するため大変危険てす。雨天時には近づかず、雨が降り始めたら、ただちに避難してください。」雨は降っていなかったので「湿生園」に降りてみたが・・・・。花の姿はなく雑草が生い茂っていた。ここも「早川城」の外堀であったのであろう。「堀切と土塁鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、天守閣を持っ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、掘切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。掘切とは外敵の侵入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。掘切の内側には、掘切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11m、深さ5m以上という大規模な掘切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の侵入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。」左手の堀切。右手の堀切。公園の中心に芝生の「桜の広場」が広がり3月下旬から「かながわの花の名所100選」に選ばれた桜が観賞できるのだと。桜の広場の周りの遊歩道に「東郷元帥祖先発祥之地」の石柱が建っていた。明治時代に活躍した海軍元帥の東郷平八郎が渋谷一族の子孫であることにちなみ、「早川城址東郷元帥祖先發祥之地碑」の石碑が建っているのだ。「元帥伯爵東郷平八郎書之」とも刻まれていた。石碑のある場所は、小さな塚・物見塚跡で、ロープが周囲に張られ立入禁止となっていた。石碑の裏。ネット情報によると、石碑の裏には「相模高座の郡早川郷は往古渋谷庄司重国の領地にして 其子光重孫重直実重の住地なり光重承久の乱に戦功あり薩摩国薩摩郡の数郷に封せられたり 光重は長男重直と共に早川に在城し次男早川次郎実重 三男吉岡三郎重保 四男大谷四郎重茂 五男曹同五郎坊定心下男落合六郎重貞は宝治二年の春薩州の封地に下向せり 而して実重は川内川の上域 東郷の地を領し姓を東郷と改む元亀元年東郷の一族島津氏に帰服するに至る迄 三百十有余年間其子孫東郷地方に割拠し渋谷党と称し雄を北薩に振へり 爾来東郷の姓を冒す者概ね其後裔なり昭和六年有志相謀り東郷氏の祖先発跡の旧地を卜し早川の城山物見塚に碑を建て以て後昆に伝ふと云爾昭和六年 月 海軍中将正四位勳一刀功四級東郷吉太郎撰並書」と刻まれているのだと。日露戦争時の日本海海戦(1905年)でロシアのバルチック艦隊を壊滅させた際の、 日本連合艦隊司令長官東郷平八郎は、当地から薩摩国東郷へ移った渋谷氏の子孫なのだと。物見塚下の「桜の広場」の案内板。「物見塚と東郷氏祖先発祥地碑早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21m、東西23m、高さ約2mの塚です。発掘調査の結果、表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また、塚の作り方が土塁と同様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの)であることから、城郭の関連遺構の一つであり、外敵の侵入を見張るため築かれた塚であると思われます。物見塚の上には、昭和7年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の先祖の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。」「桜の広場」内の巨木。「桜の広場」の反対側。春になるとこれぞ「桜の広場」に。 【https://hanami.walkerplus.com/detail/ar0314e60207/】より「時計塔」。そして「湿生園」の外れにあったのが雨水調整池用の雨水回収施設。この「湿生園」・雨水調整池に水が貯まると、ポンプで水を抜くのであろう。これは何の木?下にはヒントが。この木であったが。答えは「ヤマモミジ」。その他の場所の木にも同様なクイズが。 ・・・つづく・・・
2020.09.11
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さらに、岩の隙間から湧き出す「白糸ノ滝」の落下の「カオス」を追う。これぞ「潜流瀑」。そして「滝見橋」を見る。再び「滝見橋」から。ミストが漂っているので鮮明な光景にならない。「滝壺」。そして「白糸ノ滝」もこの日の見納め。そして土産物屋にあった「赤富士」の絵画。そして「白糸ノ滝」を後にし、帰路に。前方に環状交差点(ラウンドアバウト)。環状交差点とは、車両の通行部分が環状(ドーナツ状)の形になっていて、車両が右回り(時計回り)に通行することが指定されている交差点。その昔イギリス・ロンドンに勤務する息子を訪ねて旅行した折、息子の車を運転し大きなラウンドアバウト交差点を通過したが、交差点を通過する車のスピードが速く、入るタイミングがなかなか難しく、後の車からクラクションを鳴らされたことを想い出すのであった。イギリスは日本と同じく車は左側通行であり、車は右ハンドル。【https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/smph/kotsu/doro/kisei_kanjokosaten.html】より。富士宮市上井出の交差点で見かけた「711M」先⬆のセブンイレブンの案内看板セブンイレブン➡711 と旅友のSさんが気づく。ネットによると全国いたるところに、ちらほらと「711M」先⬆の看板があるのだと。「新東名」の下を通過。「沼津バイパス」を進む。左手に富士山の勇姿が見えるはずであったが、この日は最後まで姿を見せなかった。「東駿河湾環状道路」を進む。笹原山中バイパスから国道1号線を箱根峠に向かう。そして「箱根新道」を順調に下り「西湘バイパス」にて茅ヶ崎を目指す。そして「橘料金所」を通過。茅ヶ崎市今宿にある「かつや」で腹ごしらえ。カツ丼を楽しむ。肉厚のカツ丼に満足。帰りに「割干大根漬」を自宅用に2個購入。そして旅友の家に無事到着し、自家栽培されたぶどうを頂き、自分の車に乗り換え帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.09.10
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「鳴沢氷穴」を後にし、国道139号線を次の目的地の「白糸ノ滝」に向かって進む。「鳴沢氷穴」を出ると直ぐに左手に見えたのは「富岳風穴」。「天然記念物 富岳風穴」青木ヶ原は富士山の噴火史上、864年(貞観6年)の「貞観大噴火」の溶岩流が広く流れた所で、大室山や長尾山などいくつかの噴石丘、西湖・精進湖を生み出している。そこには火山性洞窟、溶岩洞がいくつかあるのだ。富岳風穴は総延長201m、高さは8.7mの横穴で、壁は玄武岩質である。夏でも寒い洞窟内では、夏でも溶けない氷柱や、溶岩棚、縄状溶岩などが見られる。江戸時代から昭和時代にかけて様々に利用されてきて、カイコを飼ったりしていたと。ここも、昔訪ねたことがあるが、この日は立ち寄らなかった。「風穴」と「氷穴」の違いは何かをネットから。「風穴」は流れ出る熔岩流の上部は内部より先に冷えて固まるが、下部の熔岩流はそのまま流れ続け、その際に上部と下部との間に隙間ができ、固まった空洞が「横穴式」の洞窟です。「氷穴」は噴火の際に巨木などが溶岩流にのみ込まれ、徐々に冷めて溶岩が収縮する際、内部の高熱のガス体や熔岩が噴き出して残した空洞が「竪穴式」の洞窟です。鳴沢氷穴は深さが21mもあります。要は「横穴式」か「竪穴式」の違いのようだ。 【https://yamanashi-guide.com/hyouketsu-fuuketsu/】よりそして「青木ヶ原樹海」の中の道を進む。「青木ヶ原樹海」案内板。「青木ヶ原樹海」、あるいは「富士の樹海」とも呼ばれ、山頂から眺めると木々が風になびく様子が海原でうねる波のように見えることから「樹海」と名付けられたという説もある。樹海の歴史は約1200年とまだ浅く、若い森である。「青木ヶ原樹海は自殺の名所」という噂により、他の深い森より自殺者が多く、その遺体が遊歩道からそう遠くない所で見つかることも少なくない。「青木ヶ原樹海は自殺の名所」というのは、テレビドラマ化もされた松本清張の『波の塔』で取り上げたため有名になったからだと。「精進湖」近くを進む。そして、以前訪ねた「富士芝桜展望広場」入口を通過。その時の写真です。左側には「朝霧高原」が拡がっていた。「道の駅 朝霧高原」が左手奥に見えた。この付近で「パラグライダー」を楽しめるようであった。「日本一の小水力発電のまち 富士宮市」の看板。富士宮市は富士山の湧水に恵まれ、市内には湧水を源とする芝川・潤井川から引かれた用水路等の水を利用して、古くから水力発電事業が行われて来た。現在、市内小水力発電所の箇所数と最大発電出力の合計がともに日本一となっていると。 現在までに4カ所以上本格的な小水力発電所が稼働していると。「白糸滝」案内板が姿を現した。そして「白糸ノ滝」に到着し、500円の有料駐車場に車を駐め散策開始。まずは「音止之瀧」碑。そして「音止の滝(おとどめのたき)」。芝川本流の落差約25メートルの名瀑。豪快で雄雄しい滝であり、白糸の滝とは対照的である。付近には曽我兄弟の隠れ岩、工藤祐経の墓、源頼朝が鬢の乱れを直したという泉があると。「滝口」の白のカオス。音止めの滝の名前の由来は、かつて源頼朝が挙行した富士の巻狩りの際に、曾我祐成・時致兄弟が父の仇である工藤祐経を討とうとした、その密議をしていたが滝の轟音で話が聞き取れない、そこで神に念じたところ、たちどころに滝の音が止んだという伝説による。曾我兄弟は見事に本懐を遂げたのだ。そして「白糸ノ滝」に向かって進む。「ノ」と「の」の使い方が微妙。調べてみると、名勝、天然記念物としての指定名称及び世界文化遺産・構成資産一覧では「白糸ノ滝」と表記されているとのこと。「白糸ノ滝」案内地図。そして遊歩道から「白糸ノ滝」が姿を現した。「土産物屋」の横を通過。客の姿は殆どなかった。そして階段を下りながら「白糸ノ滝」を見る。下に「滝見橋」が見えた。ズームして。天下の名瀑としてその名を轟かす「白糸ノ滝」👈リンク。この滝は、富士山の雪解け水が、上部の水を通す地層である新富士火山層と下部の水を通さない地層である古富士火山層の境の絶壁から湧き出している。高さ20m・幅150mの湾曲した絶壁から、大小数百の滝が流れ落ちている。 その姿は白糸の名にふさわしく、幾筋もの絹糸をさらしているが如し。優しく、女性的な美しさで、滝壺近くに立つと、三方が水のアーチとなって幻想的な世界を見せてくれるのだ。 国の名勝及び天然記念物。(平成2年日本の滝百選に選定)。「本滝」をズームで。この「本滝」周辺の滝は「芝川」の枝流が滝となっているが、その他は富士山の伏流水が岩の絶壁から湧き出しているのであった。「滝見橋」から。これぞ「白糸」の滝。横の絶壁から、数え切れないほどの白き糸の如き流れが拡がっていた。ズームで。白糸の流れのゆらぎをしばし楽しむ。そして再び正面の「本滝」の勇姿を。流れ落ちる水量は毎秒1.5m3であると。滝に近づくにつれ、清らかなミストのように、風に乗って降ってくる細やかな水しぶきが猛暑の中、心地よいことこの上なし。かつて滝壺の脇の場所(現在の撮影場所近く)には建物が存在したとウィキペディアより。 「白糸ノ滝白糸ノ滝は、高さ約20メートル、長さ約150メートルに渡り馬蹄状に広がる崖面の各所から湧き出した水が、数多の白い糸を垂らしたように流れ落ちています。全国的にも珍しい湧水らなる滝であり、見事な景観を持っことから、昭和11年( 1936 )に国の名勝及び天然記念物に指定されました。周辺の地質は、上部に水を透し易い地層(白糸溶岩流)があり、下部に水を透し難い地層(古富士泥流)があります。富士山麓に降った雪解け水などは、上部の地層の内部や層の境目を流れ下っていると考えられており、崖面では上部の地層や層の境目なら水が湧き出している様子が観察できます。」「食行身禄の碑江戸時代中期以降、江戸を中心に隆盛した富士講の開祖長谷川角行(かくぎょう)は、白糸ノ滝で修行を行ったとされます。そのため白糸ノ滝は富士講の信仰を集め、信者の参詣や修行などが行われました。このことは世界遺産「富士山」の重要な要素とされ、白糸ノ滝はその構成資産となっています。食行身禄の碑は、天保3年( 1832 )、富主講の中興の祖食行身禄の百回忌供養として造立されたものです。幕末、白糸ノ滝で修行を行った富士講の先達(指導者)の記録には、白糸ノ滝で垢離(こり)をとる先達のそばに食行身禄の碑と思われる石碑が描かれています。」富士の巻狩の際にこの滝を訪れた源頼朝もその美しさを愛でて、「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」と詠んでいるのだと。今度は流れ落ちる「白のカオス」を追いかける。緑と白の共演。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.09
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国道139号線を「鳴沢氷穴」に向けて進む。左手に「富士浅間神社」の案内板が。「北口本宮冨士浅間神社」一の鳥居と参道。扁額には「富士山」と。日本全国に数多くある浅間神社の中でも、山梨県富士吉田市にあるここ「北口本宮冨士浅間神社」は、日本古代史上の伝説的英雄である「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」のパワーが宿る聖地。富士山頂から噴出する強力な気の流れ(龍脈)に沿って雪解け水が湧き出る地でもあり、拝殿の左右にそびえる樹齢約1000年のご神木(冨士太郎杉、冨士夫婦檜)にも非常に強いパワーが秘められているのだと。富士急ハイランドのジェットコースター「FUJIYAMA」が右手前方に。急に雨が降り出した。「ほうとう不動 東恋路店」の白いドーム型のデザインの建物も窓の水滴に隠れて。そして左手に曲がり進むと「鳴沢氷穴」駐車場に到着した。市して車を降り「鳴沢氷穴」チケット売り場・売店に進む。売り場には短い列が出来ていた。「天然記念物 鳴沢氷穴」鳴沢氷穴は青木ヶ原樹海の東の入口に位置し、年間を通して観光客がたえず富士五湖観光のひとつに数えられている。今から1150年以上前の貞観6年(864)富士山の側火山長尾山の噴火の際、古い寄生火山の間を灼熱に焼けた溶岩流(青木ヶ原丸尾)が流れ下ってできたのが、トンネル式になった洞窟。昭和4年に文部省の天然記念物の指定を受けてから世界に紹介され、地質学上、貴重な存在となっている。ちなみに 鳴沢村の樹型溶岩群はスパイラクルの数では世界有数といわれていると。「氷穴」案内板。「今から1 100年以上前、富士山の火により流れ出た溶岩が、徐々に冷めて収縮する際、内部のガスが噴出した後に残った空洞が鳴沢氷穴です。環状型なので1周することで様々な洞窟の表情が楽しめます。」「鳴沢氷穴の龍神様神聖な存在として祀ってもいる。五行思想では黒は北と同じ水に対応するので、玄武と同じく「北方を守護する神聖な龍」邪神を撃退し、恨みや嫉み、嫉妬、生霊の災いから守ってくれます。お客様の中で振り向いてもくれな女性と結婚することができましたと嬉しいご報告もいただいております。」「青木ヶ原樹海の神様豊玉姫命、海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住まいする。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型として知られる。神武天皇(初代天皇)の祖母であり、天皇の母玉依姫の姉にあたる。祀られている剗海神社 (せのうみじんじゃ)は竜宮洞穴にあります。富士講八海巡リの青木龍神としての霊場であリ、社殿の側の水を借りて析願すると必ず降雨ある霊験があるとされています。富士山貞観の大噴火以前は西湖から精進湖までつながっている、剗海という大海かありました。」チケット売り場で350円支払う。氷穴入口ゲート。入り口には、「大丈夫ですか ?下り91段 登り101段地下21m 洞内温度 0~4℃おんぶ・だっこでの入洞禁止。天井高さ 91cm 5m ほど続きます。」と。案内に従って、チケット売り場の建物の周囲を進む。「富士五湖周辺観光案内図」。「時代 年号 平安 貞観6年誕生 富士山の側火山である長尾山の積火によリ噴出した熔岩流によって 形成され 江戸 江戸時代中期 この附近は原始林で歩行も容易でなかったが天然氷の採取貯蔵は この時期からであるどいわれている. 明治35年 鳴沢村住民より開発が始められた。 開発初期 明治 明治末年 明治時代の終り頃よリ大正年聞を経て昭和12年頃まで約30年聞 蚕種貯蔵 蚕種貯蔵を主として行い、この貯蔵庫敷地は氷穴洞内入口に借地し 大正 4階木造作リの貯蔵庫であった。 天然氷の 大正年聞は氷穴内氷の池より採取販売も行われた。 採取 昭和 昭和4年12月 国の天然記念物に指定されその文中に氷を産出すると 明記されており氷穴と名付けられた所以でもある。 天然記念物に 指定 観光開発 氷穴の見学は大正初期頃から始められ大正7年には 県の指定により見学料は金5銭と定められ以後10円20円時代を経て 現在料金となった。 照明設備 初期はロ-ソクの利用で昭和45年に電灯を設置した。 戦時期と戦後 戦争中は観光客がとだえ、洞内は入口付近まで氷でうまり 人の出入りは出きなかった。しかし戦後進駐軍の命により 氷を切り出しまた洞内入口には踊り場が設けられ進駐軍の ダンスホールとして利用れた. 現代 今では設備が整い観光客も多い為、天然氷は昔程はなく 特に秋口は氷は少なくなってしまう。」富岳風穴の案内も。氷穴は「なぜ」冷えてるの?昭和の中頃まで使用されていた貯蔵庫を再現、冬の間に多くの氷を保存し、夏に使われていた天然の冷蔵庫。案内板は日本語と英語で説明していた。そしてここが「鳴沢氷穴」入口。只今の洞穴内:0℃と書き込まれていた。洞穴内の温度は常に0℃なのであろう。そして氷穴内部へ階段を下って行った。観光ポイントが照明されて。足下は濡れて滑りやすく要注意。「溶岩鍾乳天井から雫がなちる寸前のような格好に長く垂れ下がっているのか溶岩鍾乳です。全部、玄武岩らなっております。」身体を屈めながら狭い「溶岩トンネル」を進む。高さ91cmを横歩きしながら通過したのであった。高齢者には無理な見学コースなのであった。「地獄穴」は立入禁止。「この穴は竪穴で、一歩足場を失うものなら、二度と帰ることができない危険な穴です。伝説によりますと、江の島の洞窟まで続いていると言われています。どこまで穴が続いているのか確かめられません。」小さな社があった。「社の由来鳴沢氷穴が発見される以前から江の島に通じているといわれ、神聖な洞窟として崇めら。本日観覧される皆様が生涯堅実に歩まれるように祈願されております。どうぞ。お祈り」と。「地獄穴」の最深部を見る。「氷の壁」が姿を現す。いつか、そして時期も不明であるが、前回のときはもっと氷が高くあったような記憶があるが。この洞窟で一番深い場所は、氷の貯蔵場所。江戸期には、夏に馬でここから氷を将軍に届けたとのことで、大変貴重なものだったのだ。そして青い照明が氷を照らしていた。氷が宝石のごとく青く輝く。別の角度から。幻想的な光景であった。案内板もライトアップされて読み難くなっていた。メガネが曇っているのか、レンズが曇っているのか判らなかったのであった。よって旨く撮れているのか判らないままシャッターを押したのであった。そして無色のライトアップに戻る。ここが氷の貯蔵場所。再び青のライトアップ。そして出口への階段へ。振り返って。「ソードアートオンライン」通称 「SAO」。原作小説は累計発行部数全世界2200万部を突破。2018年10月から2019年3月に放送された「ソードアートオンライン アリシゼーション」と鳴沢氷穴のコラボ企画のポスターか?そして土産物屋を暫しの散策。外に出て、チケット売り場の建物の正面には風車が暖簾のごとくに。風が吹くと一斉に回りだすのであった。まだまだチケット購入の列は残っていた。入場者のコントロールが行われているようであった。列のげ原因はこの子供達か?男性トイレの内部の壁には赤富士の姿が描かれていた。そして河口湖の「富士山パノラマロープウェイ」のポスターが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.08
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「忍野八海」を後にして、近くにある「忍野八海浅間神社」を訪ねたのであった。「八海菖蒲池公園」から大きな藁葺屋根の建物を見る。そして「浅間神社」に向かって歩くと向日葵(ひまわり)やアスターが民家の前に植えられていた。あまり見かけない種類の向日葵(ひまわり)の花。ゴッホの絵のイメージそのままの八重咲きのひまわり。「東北八重」という品種であろうか?そして「浅間神社」前に到着。前の道路の入口の向かいには「神域巡場」と刻まれた石碑が。『国務大臣 金丸信(かねまるしん)』とある。金丸は山梨県出身の政治家。盟友の竹下登(たけしたのぼる)が内閣総理大臣となってからは自民党内のボス的存在となり、政界のドンといわれた人物。「浅間神社」入口横にあった「浅間神社三神像(御神体)」案内板。「国指定重要文化財 平成十七年六月九日 文部科学省認定正和四年(一三一五年)丹後国 佛師 石見坊靜存作■木造女神座像【伝 木花咲耶姫 座高40.5cm】 主祭神 木花之咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 別称 淺間大神(あさまのおおかみ)■木造男神座像【伝 鷹飼 座高37.2cm】 相殿神 天津日高日子番能邇邇藝尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 別称 愛鷹光神(あしたかのおおかみ)■木造男神座像【伝 犬飼 座高36.9cm】 相殿神 大山津見命(おおやまつみのみこと) 別称 足柄大神(あしがらのおおかみ)三躰とも檜材、一木造坐像、刀法をはじめ面貌までも似ており、僅かに着衣、双手等に違いを見る胡粉地の彩色も経年の為に古色を帯び、高貴な男女神の相好を示す富士山麓最古の貴重な優作である。また相殿神が御神体と異なるのは明治初年の神佛分離令により佛教的な用語を用いる事が禁止され神として称す事が必要となり現在の神名になったとされる。」「浅間神社」の朱の一の鳥居を正面から。扁額「浅間神社」。「神の水」とその奥に「手水舎」。「神の水」碑は平成二十年(2008)氏子が奉納。「浅間神社正式名称 淺間神社(せんげんじんじゃ)地元では「忍野淺間神社(おしのせんげんじんじゃ)」 「忍草淺間神社(しぼくさせんげんじんじゃ)」 「富士淺間神社(ふじせんげんじんじゃ)」などと称される一般には「忍野八海淺間神社(おしのはつかいせんげんじんじゃ)」と称され崇敬されている主祭神 木花之咲耶姫命(このはなさくやびめのみこと)相殿神 天津日高日子番能邇邇藝尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 大山津見命(おおやまつみのみこと)例祭 春季大祭 五月三日 *明治初年までは五月の初中日に斎行 淺間神社例祭(初申祭) 秋季大祭 九月十九~ニ十一日 境内末社 諏訪神社例祭世界文化遺産また国指定然記念物でもある忍野八海(国と忍野村、当淺間神社所有の八つの池)に鎮庄する当神社は大同ニ年(八〇七年)に創建、文治ニ年(一一八六年)社殿を現在地に再建し、定久四年(一一九三年)に将軍・源頼朝が富士裾野の巻狩りの際に烏居地峠から鬼坂までを社須と定められ、同年八月六日に鎌倉幕府から武運長久祈祷があり、烏居地峠に和田小太郎義盛、畠山次郎重忠の寄進による、神門と金剛力士像が建立されたと伝えられるが現在の竟内には四天王のうちの持国天(東の守で青)と増長夭(南の守で赤)のニ像(阿形と吽形)が当神社神門に安置されている慶長十八年(一六一三年)十一月に社殿を再建、宝永ニ年(一七〇五年)十一月に本殿を三間社極彩色に再々建、正徳三年(一七一三年)六月に東国の講中・武州江戸本郷春木町の伊右衛門三左衛門・喜平治などにより大僧正然書の大鳥居の「富士大権現」扁額が奉納された。延享三年(一七四六年)四月に拝殿再造営、天保二年(一八三一年)に現雨屋拝殿を再造営し神門及び拝殿は藁葺屋根のため幾度か葺替えを行うも昭和五十一年九月に忍野村出身の大森正男氏よりの多額の浄財により銅板葺きになり現在に至る。」ユニークな形状の灯籠の如き石積み。「随神門(ずいしんもん)」建久四年(1193)8月6日、鎌倉幕府の御家人の和田義盛(わだよしもり)と畠山重忠(はたけやましげただ)の寄進で鳥居峠に建立されたと伝えられ、安置されている金剛力士像は運慶の作ともいわれています。現在の門は明治十八年(1885)に改築されたもので、鳥居峠から現在地に移築。現在は二天王像(四天王のうちの持国天【東方の守で青】・増長天【南方の守で赤】の二像で阿形と吽形)が神門に安置されていた。「吽形持国天」。足下に邪鬼を踏みつけ。「阿形増長天」は(ピンボケ)。こちらも足下に邪鬼を踏みつけ。「拝殿」社殿の前には忍野八海の池の名前が書かれた小さな水桶が奉納されていた。扁額「浅間神社」。拝殿の内陣。神門を入ると左手にある、「庚申信仰の碑」と「境内末社」。境内の「八坂神社」。近寄って。「境内末社 八坂神社祭神 素戔鳴命(すさのをのみこと)例祭 七月十五日京都の通称「祇園さん」として知られている神社である清和天皇の御宇貞観十一年(八六九年)を全国に流行した疫病を鎮めるために全国規模で祈願した事で祀られられた。現在は流行病の平癒の社として崇敬されている。」「庚申信仰の碑」。「庚申信仰の碑中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や風俗などが複雑に絡み合った複合信仰の碑である。下段には、浅間信仰・山王信仰の神使でもある三猿が彫られている(見ざる・言わざる・聞かざる」「薬師堂」。「境内末社 久須志社(薬師堂)祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)未だ神仏習合の薬師如来の形を残すも医薬・病気平癒の神であり崇敬を集めている社殿前の左右にある石碑の窪みに溜まった水を瞼につけると(右目は右側の石碑・左目は左側の石碑)視力が回復すると伝えられている。」「浅間神社祭神」由緒碑。「天狗社」。「境内末社 天狗社祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ)例祭 十月一日武運長久で知られる茨城県の鹿嶋大神(武甕槌神)を祀る事から現在は運動や選挙などの必勝析願として崇敬されている。」「西五社」。「境内末社 西五社忍草区の一族の屋敷神である一家一族の守護神が神威の上昇により地域の鎮守となり祀られた日々の感謝の気持ちを捧げて参すると家内安全の御加護があると伝えられる」「社務所」御朱印を頂きました。「稲荷神社」「諏訪神社」「忍野八海浅間神社」拝殿右側の境内社を見る。「八幡社」「境内末社 八幡社祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと) (第十五代応神天皇)大分県の字佐神宮より勧請された社で暗剣殺などの方位による災除け、芸道上達、文化発展の神として祀られる」「諏訪神社」。「諏訪神社 境内末社祭神 建御方命(たけみなかたのみこと)礼祭 九月十九日・ニ十日長野県諏訪大社より動請され風・水の守護神で五穀豊穣を析る神であるが武勇の神として信仰され現在は生命の根源・生活の源を守る神とも伝えられる。例祭は末社でありながらも古くより地区の秋の大祭でもあり深夜くまで暴れ神與が村内を渡御する。」「熊野三社」。「境内末社 熊野三社祭神 家都御子神(けつみみこのかみ) 熊野速玉神(くまのはやたみのかみ) 熊野牟須美神(くまのむすびのかみ)熊野信仰は延命長寿として発展した社である。この社は和歌山県の熊野大神の遥拝所として祀られる。」「宝物殿」。扁額「宝物殿」。「神輿 ??? 浅間神社旧神輿村文化財指定 昭和四十三年十ニ月十一日文政十丁亥年六月 願主 甲州郡内忍草村氏子中昭和五十九年九月十七日 忍野村忍草諏訪神社新造営 神興御造営奉讃会神楽 忍草の獅子神楽村文化財指定 昭和五十九年四月一日内野部落と同様、悪魔を退散させ、無病息災、五穀豊穣を祈願した。舞の種類 シャギリ・幕の舞・幣の舞・剣の舞・狂の舞舞本納の時 新年一月一日 午前〇時浅間神社祭礼 五月三日諏訪神社祭 九月十九日・ニ十日神楽保存会あり、後継者の育成に励む」「諏訪神社本御神輿」(左)と「浅間神社富士山神輿」(右)「諏訪神社本御神輿」の由来が書かれているようだ。「神輿殿」。大小の神輿。「遥拝所」の場所にあった石碑。「坐摩社(いかすりしゃ)」「境内末社 坐摩社祭神 生井神(いくいのかみ)・福井神(ふくゐのかみ) 綱長井神(つながるのかみ)・波比岐神(はひきのかみ) 阿須波神(あすほのかみ)例祭 八月一日大阪市中央区に鎮座の坐摩神社より勧請された社で水利と環境の神を祀る居住地を守る神という意味から「居所知」(ゐかしり)と語源されている」「浅間神社のイチイ群」「浅間神社のイチイ群イチイは、温帯から寒帯にかけて分布するもので、別名アララギといい、本県ではミネゾウ、富士山麓ではヘダという。富士山にも自生しているが、家の周囲の防風・防火のために植栽されるものが多い。この神社のイチイは自生のものと思われるが、十六株の巨樹が一箇所にそろっているのは珍しいので指定されている。その規模は、次のとおりである。」そして帰路に出会った忍野村のマンホール蓋。「富士山」を背景に「忍野八海と水車小屋」、左側に「ハリモミ純林」が描かれているのだと。国指定天然記念物に指定されているハリモミの林。山中湖村と忍野村との間にあり、ハリモミの総数約3万本、高さ20~26m、目の高さの幹まわりが2~3mでほぼ一様の発育をとげ、濃密な林相を保っているのだと。このハリモミ純林は富士山から噴出した 丸尾熔岩流の上にのみ孤立して発達したものであって、この点他に類例なく、学術上極めて貴重と認められると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.07
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再び「甲州郷土料理 ほうとう」の水車小屋を見る。「涌池(わくいけ)」。「涌池」祭神: 徳叉迦竜王(トクシャカりゅうおう) 「徳叉迦」とは、サンスクリット語で、「視毒」とか「能損害者」いう意味。 ひとたび怒りて凝視すれば人畜は直ちに命終するといわれている竜王。和歌:いまもなを わく池水に 守神の すへの世かけて かわらぬぞしる「忍野八海を代表する池で、珪藻土からなる水中洞窟からの湧水量は豊富てセキショウモを揺らしています。昭和58年(1983年)この池の水がNASAのスペースシャトルチャレンジャー号に搭載され、宇宙で人工雪を作る実験に使用されました。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)により湧出したという伝説があります。」水鳥が水面に。カルガモの雌であろうか?湧水量も豊富で、揺れ動く水面や深い水底の景観が美しく、忍野八海を代表する池。「涌池」の前にこの先にあった「池本茶屋」の「水車小屋」。裏の苔生した水車は回っていた。この「水車小屋」👈リンク の中では、この水車の動力を使って蕎麦の製粉が実際に行われていたのであった。国内産玄そばを、水車内で石臼挽き磨き、石抜き、選別、脱皮と。別の「涌池」案内板。「濁池(にごりいけ)」「濁池」祭神:阿那婆達多竜王(アナバダッタりゅうおう) 「阿那婆達多」とは、サンスクリット語で「無熱悩」いう意味です。 馬形の竜王で雪山の頂きの池に住み、四大河を分出し、大地に恵をもたらすという、 最も徳の高いといわれる竜王。和歌:ひれふらす 龍の都の あらましき くみてしれとや にごる池水「文化年間(1804年頃)にはその名の通り濁っていたといわれていますが、現在は透き通っており隣接する阿原川とともに美しい景観を作り出しています。みすぼらしい行者が一杯の水を求めたが断られ、池の水が濁ってしまったという伝説があります。」そして「中池」。旅館『池本荘』の前にある「中池」は、当旅館のテニスコートであった土地を池に造成した「人工池」であるとのこと。よって「中池」は忍野八海に含まれない池であると。「中池」に架かる橋は使用禁止。土産屋が立つ下の部分から水が藻を伝わり湧き出して?いた。「中池」の太鼓橋、そしてその先の中池の中央にある円形の池も人気。「日本名水百選地」と刻まれた石碑が岩に埋め込まれていた。別の場所にも。「中池」の中の像そしてその横に亀の置物も。富士山は姿を全く見えず・・・。富士山が姿を現せばこのような絶景が見える場所・・・ネットから。 【https://blogtag.ameba.jp/news/%E5%BF%8D%E9%87%8E%E5%85%AB%E6%B5%B7%E6%B5%85%E9%96%93%E7%A5%9E%E7%A4%BE】土産物の中に向かって歩く。「中池」、「水車小屋」を見る。土産物屋の中を通過して外に出て名水を飲む。「ここから湧き出ている名水は富士山の湧水です。ご自由にお飲み下さい。」「健康増進 長寿の泉」と。上部には神棚も。丸い真っ青な「中池」の中にある「円形の池」。この池は忍野八海とは関係のない人工池である。これらを忍野八海の一つの池と誤認する傾向がとても多く見受けられるのだと。青を求めて、池の周囲を移動して。「中池の説明池の水深は7m、左右の青岩は珪藻土で昔、噴火で積った灰が草木を浸蝕させいっしか湧水の通り道を作り湧き出しております。水温12.5度、ミネラル、バナジウム泉です。10m下の湧水路は青い鍾乳層灰で八海の池に通じています。」様々な色の大小の魚が泳いでいた。この写真は以前、訪ねた折の写真。この「円形の池」だけの名前があるのだろうか?この池は人工池であるので・・・・???。しかし、この池が「忍野八海」の一番人気の池なのであった。「ご案内当中池は富士山からの湧泉て地下十米下を湧水路が通り道向いの湧池ともつながり魚が往来遊泳しています。魚の説明(1)中池の底の大きい魚・・・・・鯉七十三才(2)エラの白い魚・・・・・・・・イワナ(3)沢山泳いでいる魚・・・・・・ニジマス(4)中池の小さな魚・・・・・・・アユ(5)下の池巣の魚・・・・・・・・ハラアカ注意(1)中池の魚にはエサをやらないて下さい(2)お金を投げ入れないて下さい(食べて死にますので)反対側のこちらにも、土産屋が立つ下の部分から水が藻を伝わり湧き出して?いた。像を横上から。「忍野八海神の水 日本名水百選地」3頭の龍からは名水が。ニジマス、鯉。鯉。これが鯉七十三才?苔むした水車を再びズームで。再び中池を見る。再び富士山が出ていれば・・・・このような絶景が・・・ネットから。新たに建設された休憩場。「富士講と忍野八海」案内板。「忍野八海」案内図。「富士講と忍野八海古来、富士山では、山頂・山域への登拝(富士山の火口部を目指し、山麓の浅間神社境内から金剛杖を突いて一歩一歩登る行為)び山域・山麓への巡礼を通して、神仏の霊力を獲得し、擬死再生を求める富士山信仰の独特の文化的伝統が育まれました。特に、江戸時代には、富士講という富士山を信仰の対象とした民閒信仰が隆盛しました。富士講の信者は八つの湖沼において禊を行いました。「忍野八海」も禊を行った湖沼であり、「富士山根元八湖」と呼はれました。天保14 ( 1843 )年、富士講の一つである大我講等(市川大門村(※現在の山梨県市川三郷町)の大寄友右衛門が中心)が禊池(行場)として八つの池に雨や水を司る神てある八大竜王を配祀し、再興したのを契機に「富士山根元八湖」が近隣諸国に知られ隆盛しました。しかし、明治( 1868 )以降、富士講は衰退の一途をたどり近年は禊を行う者は皆無となりました。平成25 ( 2013 )年6月に富士山が世界文化遺産に登録され、その構成資産(富士山の価値を構成する文化財資産)として「忍野八海」の一つひとつの池が記載されています。また、「忍野八海」は昭和9 ( 1934 )年に国指定天然記念物に指定され、昭和60 ( 1985 )年こは「日本の名水百選」にも選定されています。」「元八湖再興絵図の版木1843年製作」。「忍野元八湖は古くから富士御手洗元八湖として、富士修験の霊場でした。 富士講の信者は、富士登拝に先立ち、8つの湖沼群において水行を行ったとされ、それぞれ「富士外八湖」、「内八湖」、「富士山根元八湖」として記録に残っています。 八つの池(現在の忍野八海)は、「富士山根元八湖霊場」と名付けられ、略して、「元八湖霊場」と言われるようになったとされています。 天保14年(1843年)に富士講の一つである大我講の禊ぎの池として再興されたのを契機として、忍野八海が関東一円の富士講の中で広く知られるようになりました。 明治元年(1868年)に成立した明治政府の廃仏毀釈によって富士信仰は衰退し、忍野八海における水行も徐々に行われなくなり、第二次世界大戦後には禊ぎを行う行者姿はほとんど見られなくなりました。 昭和40年(1965年)頃から忍野八海の観光が注目されはじめ、昭和60年(1985年)に「全国名水百選」に選ばれたことにより、一層知名度が高まったため観光地化が進み、現在に至っています。」「世界遺産 富士山」案内板。信仰の対象と芸術の源泉”富士山-信仰の対象と芸術の源泉”は、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」の世界遺産一覧表に登録されています。2013年6月26日登録人々は噴火を繰り返す富士山を神が宿る山として恐れ敬うとともに、美しく雄大な富士山を詩歌や絵画に描いてきました。このような「信仰の対象」と「芸術の源泉」としての文化的価値を持つ富士山広は、全人類共通の保護すべきす宝として2013年6月26日、世界遺産に登録されました。世界遺産として登録された範囲は、山そのものだけでなく、信仰や芸術と関係する山麓の神社や湖、湧水地、滝、松原などの25ヶ所です。」そして「鏡池」祭神:摩那斯竜王(マナシンりゅうおう) 「摩那斯」とは、サンスクリット語で、「慈心」いう意味。 日照り続きの時に、人々が七日間祈り続けると、雨を降らせて大地を潤してくれる、 慈悲深い竜王。和歌:そこすみて のどけき池は これぞこの しろたへの雪の しづくなるらん「逆さ富士が鏡のように映るので鏡池と呼ばれています。古くは鯔にのしろ)池とも呼ばれていました。この池の水には、すべての事の善悪を見分ける霊力があるといわれ、村内にもめ事がある時に当事者が池の水で身を清め、祈願したという伝説があります。」湧池から続く賑やかな通りの北側にあり、鏡池は湧水がとても少ない。この池は条件が整えば、水面にはっきりと富士山が映り込み、見事な逆さ富士を見ることができるのだと。このような光景が見えると・・・ネットから。 【https://100-japan.at.webry.info/201201/article_2.html】よりそして「菖蒲池」。「菖蒲池」祭神:優鉢羅竜王(ウハラカりゅうおう) 「優鉢羅」とは、サンスクリット語で、「青蓮華」いう意味。 青蓮華池に住んで、人々に安らぎを与える竜王。和歌:あやめ草 名におぶ池は くもりなき さつきの鏡 みるここちなり「かってショウブが自生していたので、その名があります。八大電王碑と池、峰富士の美しい景色を見ることができます。この池のショウブを身体に巻いて祈願すれば病気が治るという伝説があります。」ここ「忍野八海」を訪ねるのは4回目であったが、今回は新型コロナの影響で中国人を中心とする外国人の姿は皆無に近かったのであった。よって、大声、喧騒もなく、周囲のゴミもなく、池の底のコインも少なく、初めての静かな「忍野八海」を楽しむことが出来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.06
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マリモ通り(県道729号線)を山中湖畔に沿って西に進む。途中、「長池親水公園」で車を停める。ここは、逆さ富士の名所であったが、この日は・・・。天気に恵まれた冬の日には見事な逆さ富士が見えると・・・ネットから。 【https://www.vill.yamanakako.yamanashi.jp/spot_detail.php?id=10】より左側の山の端の上部にも雲が一面に。そして公園の前には石鳥居が。階段上に石碑が。「護國之塔」。山中湖村の戦没者慰霊碑。そして更に車を進めると左右にFANUC(ファナック)(株)の広大な工場棟が。社名のFANUCは「Fuji Automatic NUmerical Control」の頭字語。工場の自動化設備に照準を合わせたメーカーで、工作機械用CNC装置で世界首位、産業用ロボットでも世界首位。ここがファナックの本社でもあり、富士山の麓、海抜1000メートルの森の中に位置している。ここには各種工場、研究所、社員用施設などがあり、会社の機能のほぼ全てが集約されている。周辺52万坪に広がる森は「ファナックの森」と呼ばれており、会社のすぐ近くに、リス・ウサギ・シカ・タヌキ・キツネといった、野生動物が生息している。森には「ファナック通り」という通りや「ファナック前」というバス停もある。東京都日野市からの本社移転の際には自然保護のため、森の木は一本も切らずに全て移植された。工場の向きがまちまちなのは、なるべく移植する木を減らすためである。ここは山梨県南都留郡忍野村忍草 字3580近く。そして最初に忍野八海の一つ「出口池」を訪ねた。その昔、忍野湖は富士山の噴火活動を何度も経て、徐々に富士 裾野と御坂山系との狭間を水触、掘削排水され長い期間の後、ついに湖は涸れた。しかし。富士山の伏流水に水源を発する湧水池がいくつか残ったのだと。その代表的な湧水池が「忍野八海」。富士山に降り積もる雪解け水が、地下の不透水層という溶岩の間で数十年の歳月をかけてろ過され、澄み切った水となる。美しく神秘的であり、移り変わる四季に彩られた富士を水面に映しこんだ姿は訪れた人々に水本来の姿と護るべき美しさを実感させるのだと。忍野八海は江戸時代、富士山に入山する前に訪れる巡礼地だったのだと。そして、平成25年6月 世界文化遺産登録 / 富士山構成資産「忍野八海」に。世界文化遺産構成資産として位置づけられた「忍野八海」の3つの要素は○ 富士山域を背景としてた風致の優れた水景○ 富士山を水源とする地下・地上の豊かな水系○ 富士講と元八湖の再興(忍草元八湖霊場) であると。身を清めるための富士山が水源の八つの池…池と呼ぶにはもったいないということで「忍野八海」と名付けられたのだと。祭神:難蛇(ナンダ)竜王 「難陀」とは、サンスクリット語で、「歓喜」という意味。 常に国を守り、適当な時節に雨を降らして百姓を喜ばせる竜王のこと。和歌:天つちの ひらけるときに うごきなき 御山の水の 出口と(た)ふとし「忍野八海の中で最も面積か広い池で、一つだけ離れた場所にあり、他の池が北斗七星を表すのに対し、北極星を意味しているとされています。後方はすぐ山で、瀘岩境の下より湧水があり川の水源の一つとなっています。」「忍野八海」散策マップ。 面積約1,467m2、年平均水温12.5度。透明な「出口池」の水の中を泳いでいるのはニジマスであろうか。「湧水入口」案内。この池の湧水は「清浄な霊水」と呼ばれ、富士登山を目指す行者たちはこの水で穢(けが)れを祓ったと。そして、この水を携えることで無事に登山ができるという昔からの言い伝えがあり、堅く信じられて来たのだと。このような理由から、別名を「精進池」と。池南端に露出する富士溶岩塊の下から湧水しており、池の下方1.5㎞のエリアでは岸壁溶岩一帯に湧水があり、この湧水は桂川に流れ出て冬でも凍ることなく、気温差のある冬の寒い日などに水蒸気のあがる様は壮観。忍野八海の北に位置する東円寺には、天保14年(1843年)、元八湖再興の際に作られたものとされる版木が今も所蔵されているとのこと。この版木には、石碑と同じ、池の名称、禊ぎの順番、竜王名、和歌などが刻まれていると。富士山の伏流水である湧き水が岩の下から。水面が輝いて。ちょうど池を見下ろす林のなかに「出口稲荷大明神」の神社があった。周りには売店などもなく、観光客の数もぐっと少なく、最も自然的な姿を見ることが出来たのであった。扁額「出口稲荷社」。社殿前の4本の朱の鳥居。湧き水はこの先で「桂川」に合流する。そして車を(有)ひので商事の土産物屋の駐車場に車を駐め、散策の開始。「お釜池」に向かって進む。「新名庄川」に架かる歩道橋を渡ると、正面にあったのが蕎麦屋「丸天」の庭にあった池の噴水。最初にこの忍野八海を訪ねた時は、これも忍野八海の池であると勘違いしたのであったが。鯉も置物も水を噴いていたが、自噴かと思ったが下部には配管も見えたのでポンプ圧送か?そして左に折れ清流に沿った狭い道を進むと青い「お釜池」が姿を現した。正に水色。これこそが真の水色なのでないかと思わせる神秘的な色をして水を湛えていた。これで4mの深さがあると。澄んでいて底までくっきりと良く見えるのでそんなに深いとは。その深さが織り成す青の水の色は一味違うのであった。「お釜池」祭神: 跋難陀竜王(ウパナンダリュウオウ) 「跋難陀」とは、サンスクリット語で、「善歓喜」という意味。 難陀竜王と共に国を守り、百姓を喜ばせる竜。和歌:ふじの根の ふもとの原にわきいづる 水は此の世の おかまなりけり「忍野八海の中で最も小さな池です。釜の中で熱洲が沸騰するように湧水していたことから、この名が付けられたといわれています。水量は豊富で、バイカモが掲れ動く景色や水深の青さを観賞できます。」私のデジカメでは青の美しさが・・・・。そして清流には大変珍しい水中花「梅花藻(バイカモ)」が一面に。「梅花藻」の花を旅友Sさんが発見。「新名庄川」の清き流れ。「濁池」からの別の流れ。「新名庄川」への合流地点を振り返る。そして次に訪れたのが「銚子池」。祭神:和脩吉竜王(ワシュキツリュウオウ) 「和脩吉」とは、サンスクリット語で、「九頭」という意味。 この竜王は九頭を持って、妙高を繞って小悪をなす細竜を食し、人々の災難を除く竜王。和歌:くめばこそ 銚子の池の さわぐらん もとより水に なみのある川「祝言の日、この池に銚子を持ったまま身を投げた花嫁の伝説と、かっては銚子の形に似ていたことが池名の由来となっています。池の底から砂を巻き上げて水が湧いているのがよく見えます。また、縁結びの池とも呼ばれています。」「銚子池」。湧池から阿原川沿い脇の草地のなかにひっそりと眠る小さな池で、水深は3m。じっくりと観察すると池底の砂地から水が湧いているのがわかったのであった。「甲州郷土料理 ほうとう」の水車は現在は回っていなかった。「榛の木林(はんのきばやし)資料館当家屋は現存する本村最古の民家である。これに家財を併せ展示して公開することが先代に報い社会に貢献する道と存じます。徳川時代の家屋建築様式、家宝の後北条氏朱印状、忍野八海の一つである底抜池や庭園の観賞、更に什器、家具、農具等の観覧は必ずや皆様の共感を得ることと存じます。よって下記規定によりご見学をお勧めいたします。」「底抜池」は資料館内にあります と。しかし、この後この「底抜池」を旅友のリードでしばし探したのであった。積雪時の絶景写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.05
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「寿徳寺」を後にして平野の町を北に進み次に訪ねたのが「石割神社」。国道413号線の平野の「不動明王社」の分岐を左に入る。左手にあったのが「石割神社」と赤く書かれた石柱。そして1kmほど走ると左手にあったのが「石割山神社駐車場」。ここに車を駐め「石割神社」に向かって歩き始める。山中湖に流れ込む小川・一ノ砂川に架かる太鼓橋を渡る。太鼓橋を渡ると右手にあった「石割山ハイキングコース&石割神社」案内板。「石割神社石割山の八合目には、石割神社があり、その名の由来は神社の後方にある大岩石が「石」という字に割れているのでその名がついたと云われ、無病息災のご利益があるとして崇敬をあつめています。言い伝えでは、「古事記」(712年)の中にある神話「天野岩戸」はこの場所てあるともいわれています。これは石割神社の奥の院の二つに割れた大きな岩が、伝説の「天野岩戸」に似ていることからきているものと思われ、ニつに割れた隙間を三回通れば幸運が開けるといわれています。子供でも、大人でも、妊婦のような大きな体の人でも、すれすれに通れることが神秘的てすが服喪の人や、悪いことをし人は岩に挟まれてしまうと言い伝えられています。また、この岩の割れ目から滴り落らる水は、眼病・皮膚病などによく効く霊水として知れ渡っています。」朱の一の鳥居を潜り進む。扁額には「石割神社」と。前方に終わりの見えない長い石段が真っ直ぐに。狛犬(阿形像)。ここに階段:403段と書いてあったが、今気がつく。狛犬(吽形像)。そして更に石段を上っていった。かなり急な階段が続く。そして漸く403段の階段を登り終わった場所にあったのが「竣工 避難小屋」石碑。そしてあったのが、社殿ではなく避難小屋のみであったのだ。携帯しているIphonesのGoogleMapsでよく見ると、この先かなり行った所・石割山の八合目に「石割神社奥社」が鎮座していることを知ったのであった。全くの下調べ不足であったのだ。階段は終わったが、ここから先は急な坂道がひたすら続く山道であった。「桂(かつら)御神木のいわれ石割大権現様が鎮座まします霊山・石割山の標高1300メートルの高地に自生するこの桂の巨樹は日本でも非常に珍しく、地元民から御神木として崇められている。またこの神木の後にはお釜石という釜の形をした水の沸きでる石があり、地元民山中湖村民の水の源であり、その上流「桂川」の名前の由来として言われ、古くは旱魃のさいはこの場所で地元民により雨乞いの儀式が行われたとも伝わる。」御神木の「桂(かつら)」。そして息を切らせ、全身汗にまみれて上って行くと漸く「石割神社奥宮」に到着したのであった。「石割神社奥宮」社殿。「石割神社主祭神 天手力男命(あまのたぢじからおのみこと)祭日 大祭 旧暦の3月9日であったが、昭和41年、新暦4月9日に改める。御利益 開運・武運・厄除・医薬・産業この神社は、石割山の八合目に鎮座し、むかしから古事記にある「天の岩戸」伝説の地といわれている神域であります。また、ご神体の大岩が「石」の字に似て割れているので「石割神社」の名が付いたともいわれ、切り立った大岩には、高さ約十五メートル、幅約六十センチメートル、長さ約十五メートルほどの隙間があり、その間を三回(時計回り)通れば幸運が開けるといわれています。この岩の割れ目から滴り落ちる湧水は、眼病・皮膚病などに効く薬水として伝承され、多くの崇敬者がそのご利益に浴しております。」存在感のある「岩」を正面から。ご神体のこの大岩が「石」の字に似て割れているので、石割神社の名がついたとも。この巨岩をはじめとして、この石割山一帯には「大天狗」、「子天狗」などの奇岩が多く、それぞれに伝説があるとのこと。この巨大な注連縄は毎年新しいものの交換しているのであろうか?岩の割れ目に向かって階段を上って行く。高さ約15m、幅約60cm、長さ約15mの割れ目。横を向き腹を擦りながら摺り抜けたのであったが、3回通らなければいけないとはこの時は知らなかったのであった。「石割神社」案内板にはなるほど書いてあったが、割れ目の入口にも書いておいて欲しいと我儘にも。何とか1回だけであったが、摺り抜けて下を見る。「石割神社奥宮」社殿を見る。そして下に降り、社殿の内陣を格子の開いている場所から撮影。そして、境内の木のベンチで一休みしたが、こんなハードな時間のかかる参拝になるとは想定外であったため、水分補給用のPETボトルも持たずに手ぶらで来てしまったので喉が乾いていたのであった。ところが、孫を連れたご夫妻が後から上って来られジュースをご馳走してくれたのであった。1回のみの割れ目通過であったが「開運」のご利益があったのだ。ここから、更に石割山山頂まで後30分程度かかるのだと。そして下山。時々足を滑らしながら何とか転倒は堪えながら。ホトトギスの花を旅友Sさんが発見。こちらはミズヒキ。萼が白く花びらの赤い花を、進物の包み紙を結ぶ紅白のこより紐・水引に例えたのが名前の由来そして往路では気が付かなかった「ケルン」が。「ケルン」に普段から震えている手??で小石を必死に積み上げる旅友Sさんの姿。復路途中の避難小屋の案内板「石割神社縁起創 立 住吉、詳ならず 素戔鳴命、天千力男命、武甕槌命、岩長姫命、日本武命大祭日 四月九日(旧三月九日)小祭日 毎月九日起 縁 伝承によれば、住吉神の使の白鳩の導きにより、石割山に創始せらる、霊験あらたかな 権現様として平野の郷人をはじめ近郷近在の崇敬者の信仰をあつめ現在に至っている。御利益 開運、産業、医薬、悪疫防除、息災長寿等の神として信仰さる。大天狗、小天狗 天戸岩、お釜石、乗鞍石の奇石が伝説を伝えている。登山家は一度は必ず 石割の御山に登り、天戸岩の石の字に割れている天戸開きの割れ戸を通り、 三度拝むことにより好運が開け、又割れ目から滴り落ちるしずくは霊水として、 皮膚や眼病、イボなどを治療する特効があると云われている。又霊水を飲むと 無病息災長寿を保つことが出来ると伝承されている。 昔から霊山として、蜃気楼が現れる山として、日本山岳史に記されている。」そして案内板にもここから先の階段は403段との表示が。足元を気をつけながら石段を下る。旅友Sさんもややお疲れ気味。そして階段を無事下り太鼓橋まで戻って来たのであった。往復に約1時間40分・標高差230mの想定外の「難行苦行」の時間であったのだ。「入山者の方へ 注意事項」を帰路に気がつく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.04
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「富士屋ホテル」を後にし、富士山周遊のドライブに向かうこととする。「宮ノ下」交差点を直進し国道138号線(箱根裏街道)を進む。箱根駅伝はこの「宮ノ下」交差点を左折して急坂を上り、箱根小涌園方面に向かうのだ。早川に沿って進み、箱根ガラスの森美術館の前を通り「仙石原」交差点を通過。「乙女峠」の「乙女トンネル」を通過。旅友Sさんはトンネルを出た場所にある「乙女峠ふじみ茶屋」で、この茶屋でも使用している敷地内地下380mから汲み上げた箱根山伏流水・『ふじみの水』を、持ち帰りたかった様で、容器も事前に車に積んでいたが、店の駐車場にはバリケードが設置され、店前もリニューアルされた様で車が駐車出来ずに諦めたのであった。この水でコーヒーを造るのを楽しみにされていたようであったが。そしてここからのこの様な「富士山」の勇姿も見たかったが・・・。 【https://suzukidesu.com/otome-touge/】より東名御殿場ICに向けて坂を下るが、富士山は一面の雲に隠れて。そして東名高速道路IC下を通過。「須走南」交差点を通過。右手の高架は国道138号 須走道路・御殿場バイパス、近々開通の予定であるがいつか?前方には陸上自衛隊のトラックが。「東富士五湖有料道路」の無料区間もここまでと。「富士登山道 須走口」案内板も。須走ルートは、須走口五合目を出発し、静岡県側(小山町内)の富士山東側から山頂を目指すルート。「須走口登山道」案内板。須走ルートの特徴は標高の高い位置まで樹林帯が広がっており、登山中の日差しから守られると。その他には・樹林帯を抜けると、どこからでもご来光や影富士が見られる。・火山砂利の下山道を一直線に下る「砂走り」がある。・登山道と下山道が別。本八合目から山頂までの区間は吉田ルートと合流。・樹林帯では見通しが効かないため、夜間や濃霧時は道に迷わないように注意。国道138号線を「籠坂峠(かごさかとうげ)」に向かって進む。静岡県と山梨県の県境「籠坂峠」を通過。籠坂峠は国道138号(旧鎌倉往還)の標高1104mの峠。富士山と丹沢山地西端の三国山稜を結ぶ鞍部にあり、山梨県南都留郡山中湖村南西の旭日丘と静岡県駿東郡小山町須走の境目に位置する。古くは加古坂と表記された。「籠坂」は、峠を駕籠で越えたことに由来する説や、籠に石を詰め火山性の地盤を固めたことに由来する説がある。篭坂峠と表記することもある とのこと。山中湖に突き当たる手前左にあったのが富士急Grの「旭日丘バスターミナル」。「YAMANAKAKO NO KABA」。「YAMANAKAKO NO KABA」は、2011年に運行を開始した水陸両用バス。動物のカバは、水中、陸上の両方で生活する動物の王者であり、古代エジプトの守り神・水の神と呼ばれていたことから、この水陸両用バスも「山中湖のカバ」と命名されたと。陸上走行からそのまま山中湖にダイブする豪快さと雄大な富士山を望みながらのクルージングという非日常感が売りであると。料金は夏季2500円/人で約40minのツアー。先日、東京都江東区を歩いている時にも、水陸両用バス 「スカイダック」を見かけたのであった。ここ「旭日丘」のT字路を右折して湖岸を進む。ここは紅葉も人気のスポットと旅友から。「日本の渚百選 山中湖 夕焼けの渚」展望台に立ち寄る。僅かに富士山の稜線が束の間の間見えたが・・・。そして直ぐに富士山は雲に隠れた。遊覧船「白鳥の湖」の姿をズームで。紅葉シーズンのこの場所からの絶景をネットから。 【https://restaurant.ikyu.com/kouyou/spot5077/】より「日本の渚百選 山中湖 夕焼けの渚」もネットから。 【https://dandyism.online/yamanakako-koyo-2018/】よりそして更に平野方面に向かって進む。富士山の稜線、そして山頂も姿を現したが・・・アッという間に・・・。ここがこの後に訪ねた「寿徳寺」の山門と思い中に入ったが。ここはレストラン「JOY PATIO」の駐車場の入口であったのだ。「薬医門この門は、江戸城神田橋御門内の旧姫路藩酒井雅樂守忠邦の上屋敷の門であった。建造年月は、文政3年(1820)頃と推測される。明治4年に大蔵省の表門となったが、明治10年、木造西洋館新庁舎建造のため解体された際に三井家が購入、これを品川区戸越の別邸(現戸越公園)の表門として再建した。その後昭和25年、隣接する都立大崎高等学校に寄贈されその正門となったが、当時学校として門の老朽化に伴う維持・管理が困難であり、歴史的建造物保護の主意から、昭和33年当家にて購入し、当地平野在住の大工、天野喜一氏の手により原形のままここに移築されたものである。大蔵省時代は、左右に離れ番所を置いた単層入母屋造り、本瓦葺き鼻木出の梁間二間の建物であったが、三井家別邸の表門として改築された時には両番所が取り除かれ、門の棟も短く切り詰められた梁間一間妻破風の「薬医門」となった。この度、大掛かりな改修工事を行い、ここにまた江戸時代の大名屋敷の面影を偲ぶ建物を残すこととなった。」そして寺の駐車場をなんとか見つけて車を駐めて「寿徳寺」の散策を開始。こちらが「寿徳寺」の「山門」。山梨県南都留郡山中湖村平野147。「武田家印判状(寿徳寺保存)戦国時代甲州の生んだ英傑武田信玄公が、平野の地下人一三人にし、本栖村(上九一色村本栖)の地下人に与えたと同様、諸役免許の恩典を与え、その代りに甲駿両国を結ぶ軍道(ヅナ越道ならん)の整備を命じた時のものである。この印判状は、本村残存の古文書中の最古の文献で、旧平野村の歴史の研究上極めて貴重なものである。長く長田開蔵家に保存されていたが、同家が東京へ引越すに当り寿徳寺に引移り保存されている。」「山門」横の「六地蔵」。「馬頭観世音菩薩」の石碑群。「山門」から長い参道に石灯籠が続く境内を望む。境内の歌碑。「郭公や 湖より明けし 灯を消しぬ 岳水」 大正7年1月14日、山梨県生まれの羽田岳水の作品。「臨済宗 妙心寺派 寿徳寺」正面に「寺務所」。駐車場を探す際に見つけた脇門寺号標「開雲山 寿徳禅師」。「海雲山寿徳寺(臨済宗妙心寺派 )往古は真言宗 にして、弘法大師 ・空海上人諸国遍歴の切り、富士の霊山に祈願修法せし折り、営みし草庵を平野坊 と称したのが起源と伝えられる。文応元年(六〇年)鎌倉五山第一建長興国禅寺より高僧美山玄誉禅師来り山紫水明のこの地に禅寺を建立し、海雲山寿徳寺を開山 した。永禄四年(一五六二年)武田信玄公により、当寺を甲斐・駿河・相模 の三国境 に位置し要の地であるため国境祈願所と定められ甲州金三十枚の寄進を受ける。本尊地蔵菩薩は信玄公奉納と伝えられ通称、開運地蔵尊と云われています。国境にあるため数度の戦乱には常に兵舎の要に供せられ、特に小田原城に北条氏政攻略のときには後陣を置いたとされている。当寺は、古屋 (地名)の地にあったが、元禄十六年、十二月二十二日(旧歴)の大地震 、山崩れにあい、倒壊埋没し、寿徳寺・平野村共に現在地に移り、江戸時代中期、享保五年に現在の建物が完成、現在に到る。境内には、オペラ 「蝶々夫人 」により世界に名声を博したソプラノ歌手三浦環女史の墓所があり、墓碑には女史直筆の歌が刻まれています。」「鐘楼」。「本堂」では告別式が執り行われていたのであった。大きな花輪が「本堂」入口に。扁額には「開運地蔵尊」と金文字で。「本堂」の前を奥に進んでいくと、「山中湖村文化財 三浦環(みうらたまき)之墓」と刻まれた案內石碑があった。放映中のNHK連続テレビ小説「エール」で柴咲コウが演じるソプラノ歌手・双浦環のモデルは、「マダム・バタフライ」と言われた実在の国際的オペラ歌手であったこの三浦環(1884ー1946)なのである。「三浦環之墓」に向かって進む。「三浦環」墓地。「山中湖村指定文化財 三浦 環の墓」。「歌姫 三浦環を偲ぶ」の記念碑。「世界的プリマドンナ「タマキ・ミウラ」は国際的な声楽家としてそのすぐれた声質、正確で表現力のある歌唱法、縁起と姿の良さなので高く評価された。明治十七年(一八八四)二月二十二日東京に生まれる。明治三十三年(一九〇〇)東京音楽学校に入学、在学中のグルックの「オルフェオ」の日本初演に参加したのをはじめとして初期のオペラ運動に重要な役割を果たした、大正三年(一九一四)に渡欧し、その翌年プッチーニの「蝶々夫人」でデビュー以後アメリカ・イタリア・フランスなので、最ともすぐれた「マダム バタフライ」としてニ〇〇〇余回も舞台に立った。晩年は、山中湖畔平野の地で過ごし、昭和二十一年(一九四六)五月廿六日、六十二歳でその生涯を閉じ、この墓所に永眠された。」「うたひめは つよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」実筆の詩が刻まれていた。「三浦環之墓」。「三浦環之墓」。昭和20年4月19日に最愛の母親が死亡。環は平野のここ寿徳寺に墓地を求め、母を葬った。環は戦後演奏活動を再開したが、病に倒れ、昭和21年5月26日午前5時20分、大東学園病院で死亡した。享年62歳。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言により、母と同じここ寿徳寺に墓が建てられたのだと。右側には「母堂 永田登波之墓」とも刻まれたいた。そして左側には「うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」と直筆で。NHK連続テレビ小説「エール」での双浦環(柴咲コウ)のモデルはこの三浦環。オペラ歌手で古関裕而と交流があったのだ。 【https://funfunfun-trendlabo.xyz/drama-yell-shibasakiko-model-2020-04-08】より裏の墓地には多くの同じ形状の墓石が並んでいた。再び鐘楼を見る。「本堂」前の「地蔵尊」。「開運地蔵堂」。扁額「海雲山」境内から「山門」を見る。「寺務所」。「寿徳寺」境内を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.03
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「富士屋ホテル」の外からの鑑賞をひとまず終え、本館内部へ木製の回転ドアから入る。ドアの上には羽を広げた白い鳳凰の姿が。プラスチックの庇(ひさし)があるのが残念。庇の目的は?落下物防止用か?鳳凰の上には天使の彫刻が。回転ドアから内部に入ると、赤い絨毯の敷かれた階段下左に犬の像が。初代社長の愛犬ジャーマン・シェパード・ドックの「フワ」だと。赤の絨毯を上る。階段の最上部の両側に像が。龍の彫刻。反対側にも。龍の彫刻を振り返る。階段の奥にはサンルーム的なラウンジを建て増した部分・「サンパーラー」が。奥の「サンパーラー」にはソファを並べられてあり、ゆっくり前庭を眺められるようになっていた。こちらはフロント奥の「サンルーム」。本館1階のロビーから、2階へ通じる本館客室の階段(本館フロント前)そして、今回の改修工事により、当時のフロントカウンターとして使用された右側の場所が現在のフロントカウンターになっているのだと。正面の台の上には大理石の仏像が。この台は明治24年に完成した本館のフロントデスクカウンター。昭和5年に食堂が完成し、それに伴いフロントが移動するまで使用されていたのだと。フロントにて見学、写真撮影の了解を頂きました。受付カウンターの見事な彫刻は昭和5年製作のもの。けやきの一枚板を使用。源頼朝が「富士の巻狩り」👈リンク を興じる様子を描いているのだと。富士の巻狩りとは、建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。左手に富士山の姿。中央に源頼朝の姿が。柱にもいろいろな彫刻が施されていた。主役は尾長鶏(おながどり)。ヘレン・ケラー女史が昭和12年に来館した際、ホテルで飼育していた尾長鶏を可愛がってくれた。2度目に訪れた際、尾長鶏が亡くなっていたため、彼女のために事前に彫刻をほどこし、愛でられるようにしたのだと。「尾長鶏」の裏の柱の彫刻には梅の木が刻まれていた。「梅の枝と花」。日本庭園が眼前に広がるオーキッド(ティーラウンジ)の窓越しに庭園の2連の滝を見る。下段の滝。「成堂忠義書 至誠」。富士屋ホテルのサイトには「明治11年(1878年)の創業以来140有余年、建物・設備・サービスは時代とともにその姿を変えてきましたが、唯一、変わらず継承されてきたものがあります。それは、日本の心、「おもてなし」の精神です。この精神は「至誠」という社是として現在の富士屋ホテルに生きています。「この上なく誠実な事、まごころ」。時を超えて、富士箱根の自然とともに人々を魅了しつづけているのは日本精神の結晶といえる、この「至誠」。それは日本の象徴「富士」の名を冠したホテルにふさわしい、夢の結晶でもあります。」と。「達磨」「大正12年(1923年)、正造は箱根ホテル株式会社を設立し、芦ノ湖畔に箱根ホテルを建設しました。多くの財界人に出資を募り、その船出は順風満帆に思われました。しかし完成の1ヶ月後、関東大震災が箱根を襲います。箱根ホテルは見るも無残に倒壊。さらに再建した箱根ホテルも、昭和5年(1930年)の豆相地震により再び倒壊してしまいます。失意のどん底にあった正造のもとに、友人から1枚の水墨画が贈られました。そこには「不撓不屈」の精神を表す達磨の絵が描かれていました。生涯、正造の支えとなったこの絵は今も富士屋ホテルに飾られています。」と。フロント・ロビー上部にも見事な彫刻が。再びフロント横から階段を見る。こちらは入口の回転扉と赤い絨毯の敷かれた階段を見下ろす。一番奥のソファールーム。黄金の金閣寺のミニチュア。壁には様々な絵画が。珍しい形状の暖炉が中央に。ここにも温泉を楽しむ女性の姿の絵画が。そして内部は宿泊してもう一度ゆっくり見たいと思いながら、外に出て国道1号線方面に向かって「花御殿」前の坂を下る。左手には小さな池が。池にかかる朱の橋。赤い欄干の太鼓橋。その先の階段を上ると、本館の入口へ。黄色の建物は昭和35年(1960年)建築の「フォレスト・ウイング(旧フォレスト館)」。最上階には今回の改修でスパ&リラクゼーションを完備したのだと。再び「西洋館」を見上げる。こちらは、今回は訪ねなかった「別館旧御用邸 菊華荘(きっかそう)」。こちらも今回改修されたようである。 【http://barbie73.seesaa.net/article/428590156.html】より富士屋ホテル別館・旧御用邸の「菊華荘」では、数奇屋風書院造りの純日本建築とともに、四季折々の景色を楽しめる日本庭園をそのままの形で残しているのだと。 【https://heartbell.shinnan.co.jp/oyakudachi/live/15053/】よりそして駐車場の車に戻ると、パンを焼く香りが。「ベーカリー&スイーツ ピコット(PICOT)」は富士屋ホテル直営のベーカリー&スイーツのお店。クラシックカレーパンやレーズンパン、アップルパイなど人気商品が多々あると。残念ながら10:00開店とのことで諦めたのであった。 【https://twitter.com/hakonepancolle1/status/1187271402551795712】より店内の様子。 【https://www.fujiyahotel.jp/facilities/index.html】よりおいしそうな、大人気のカレーパン。 【https://tabelog.com/kanagawa/A1410/A141001/14007490/】よりそして次はいつに?と考えながら「富士屋ホテル」を後にし、この後富士山周遊ドライブに向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.02
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この日は箱根宮ノ下・富士屋ホテルの見学に向かう。耐震補強と改修工事のため、2年余の一時休館を終え、142年目の創業記念日にあたる2020年7月15日にグランドオープンした事が先日のテレビで放映されたので、旅友Sさんを誘って見学に出かけたのであった。この日の早朝の我が部屋からの朝焼けの姿。大型温室がオレンジ色に染まる。そして6:30に茅ヶ崎に住むSさん宅に、そしてそこからSさんの愛車に乗り換え西湘バイパスを利用して小田原方面に進む。西湘バイパスの二宮手前から小田原方面をズームで。西湘バイパスを箱根方面へ。「箱根湯本駅」前を通過。「早川」に架かる「旭橋」を通過。左手に「函嶺洞門(かんれいどうもん)」入口。洞門を迂回する函嶺洞門バイパスが整備されたため2014年に通行禁止となったのだ。通行禁止となっている「函嶺洞門」をバイパスから見る。「函嶺洞門」は、関東大震災によって崩壊した断崖の直下に築かれた、鉄筋コンクリート造の落石防護施設で、1930年(昭和5年)4月に工事を開始して、1931年(昭和6年)10月に完成した。「函嶺」の名前は「箱根」の異名。しかし、完成から80年以上経過して老朽化も目立ち、車道幅員も5.8mと狭くて大型観光バスのすれ違いも困難であった。その為、神奈川県の事業として2007年(平成19年)からバイパス工事に着手し、2014年に完成したことから、2014年2月7日をもって函嶺洞門は通行禁止となり、車道7.25mの函嶺洞門バイパスへ交通を切り替えたのだと。これも歴史を感じさせる「千歳橋」を通過。この後に直ぐ「玉ノ緒橋」を渡り進む。昨年10月の「令和元年東日本台風(台風19号)」による被害のため長期間運休していたが、2020年7月23日、全線運転再開した箱根登山鉄道の国道1号線に架かるガード。箱根登山鉄道はこの先左側で出山スイッチバックに入る。 そして大平台のヘアピンカーブを過ぎ暫く進むと左側に富士屋ホテルの入口が見えて来た。国内屈指のクラシックホテルの一つで、明治後期から20年近く外国人専用ホテルとして営業していた歴史もある箱根の富士屋ホテル。耐震補強と改修工事のため、2年余の一時休館を終え、142年目の創業記念日にあたる2020年7月15日にグランドオープンしたのであった。和洋折衷の意匠を取り入れた文化的価値のある各棟の外観や内装の趣は変えることなく、可能な限り従来の姿を復元するとともに、新たな施設も誕生したとのこと。「国際興業グループ 富士屋ホテル FUJIYA HOTEL」案内板。1878(明治11)年、宮ノ下で長い歴史を持つ旧老舗温泉旅館・藤屋旅館を買収して日本初のリゾートホテルとしてスタート。開業初期の頃はチャップリンやヘレンケラーはじめ、世界中のVIPご用達の「外国人客専用のホテル」として知られていた。武家屋敷をルーツとする日光金谷ホテル(1873年創業)より5年遅い開業だが、本館完成は1891年で、日光金谷ホテルが本格的な西洋式ホテルを建設した1893年より2年早い。富士屋ホテルを創業した山口仙之助は私財を投じて町内の道路を整備。水力発電会社を設立して電力を地域へ供給するなど箱根の振興に尽力した。富士屋ホテルの3代目社長は日光金谷ホテル創業者の次男で、両ホテルの縁も深いのだと。今では正月の風物詩ともなった、「箱根駅伝」の中継ポイントとして広く親しまれているのだ。「富士屋ホテル」の創業からの「歴史年表(1878~2018)」👈リンク。・1878年(明治11年)7月15日:山口仙之助が藤屋旅館を買収・改装し、 神奈川県足柄下郡底倉村に開業。・1883年(明治16年):火災により焼失・1884年(明治17年):平屋建て客室12室として再建し「アイリー」と命名その後は上記の👈リンクを参照願います。そして・2018年 (平成30年) 7月15日 富士屋ホテルが創業140周年を迎える 富士屋ホテル 耐震補強及び改修工事(~2020年7月15日) 富士ビューホテル 大浴場 リニューアルオープン・2020年 (令和2年) 3月19日 箱根駅伝ミュージアムが15年を迎える 富士ビューホテル 新客室 オープン 7月15日 富士屋ホテル グランドオープンもちろん、当初は東京オリンピック(7月24日)・パラリンピック(8月25日)の開催日からこの日のグランドオープンを企図したのであろうが・・この新型コロナ禍で・・・。車で駐車場に向かって坂を上ると正面には「花御殿」が現れた。「富士屋ホテル」配置案内図。富士屋ホテルには、「本館」「西洋館」「花御殿」「フォレスト・ウイング」の4つの宿泊棟そして「食堂塔」、「別館菊華荘」、そして「庭園」があることが解る。 【https://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/1727/CUSTOM/GW1727110831131146.html】より駐車場に車を駐め、富士屋ホテルの散策を開始。最初に目の前にあった「食堂棟」。◎設計:木子幸三郎◎施工:不詳◎竣工:昭和5(1930)年◎構造:鉄筋コンクリート造平屋、地下1階、塔屋は木造◎所在地:神奈川県南足柄郡箱根町宮ノ下359 ❖国登録有形文化財 ❖経済産業省指定近代化産業遺産上記のごとく1930(昭和5)年建築。皇室御用達の建築家・木子幸三郎が手掛けた。1階「メインダイニングルーム・ザ・フジヤ」は、6mの天井高を誇り、その天井には日本アルプスの高山植物が636種類描かれている。欄間や柱などにもさまざまな彫刻が施され、これらは京都の専門家に修復を依頼したと。歴史を重ねた重厚な雰囲気の中、さらにグレードアップしたフランス料理を味わえると。地下1階にはバーとショップを設けている。「食堂棟2階」を見上げる。入口には「唐破風」が。唐破風に取り付けられる懸魚(げぎょ)は兎毛通し(うのけどおし)と呼ばれるのだ。唐破風の下の兎毛通の飾り彫刻が見事、牡丹の花か?昭和5年より90年間に渡り富士屋ホテルを代表するレストランとして多くのお客に親しまれて来た。天井高6mの折り上げ格天井には、日本アルプスの高山植物が636種描かれ、欄干や柱も様々な彫刻が施されていると。今回の改修工事で天井画を文化財補修の専門家により復原作業が行われた。またレストランや客室、ロビー等の椅子や家具も専門の再生工房が復原したのだと。「メインダイニングルーム・ザ・フジヤ」を外から見る。内部から見る日が来るのか・・・???「バリアフリー経路マップ」。これも今回の改修工事の一部なのであろう。「メインダイニングルーム・ザ・フジヤ」を見上げる。遠くからも見えた「三重塔」。いかにも外国人観光客が喜びそうな佇まいなのであった。この三重塔の内部も接客施設になっているのであろうか?三重塔の頂部は見事な「登り龍」が巻き付いて。そして改装なった「富士屋ホテル」の「本館入口」。1891(明治24)年に建てられた本館は、現存する建物の中で最も歴史があり、「富士屋ホテル」の「顔」。ここも社寺建築を思わせる入母屋造りの大屋根瓦ぶき屋根と唐破風をのせた玄関が特徴的。宮ノ下大火や関東大震災の災害から立ち上がり、第二次大戦後は一時、連合国軍のレストホテルとして接収された時期もあったと。そんな苦難の時期を乗り越えてきた富士屋ホテル。平成9年には本館、一号館、二号館、アイリー、花御殿、食堂および菊華荘の建物が、登録有形文化財となった。そんな130年余りの歳月を力強く生き抜き、国内外の著名人に深く愛されてきた歴史ある本館内・外を散策出来るのであった。洋風建築でありながら外観の装飾などは日本的。1階にはフロント・ロビー及びラウンジがあり、2階は客室となっていた。兎毛通(うのけどおし)には鷲の彫刻がほどこされていた。中央階段の先が「本館」入口。右手に朱の欄干が。羽を伸ばした鳳凰をかたどった木の彫刻が入口の回転扉の上に。富士屋ホテルで、最も古い彫刻の一つ。出入り口を覆うよう配置されていた。そして「本館」を「洋館」側から見る。手前に「サンパーラー」が。そして白き「西洋館」を見る。正面右から1号館「カムフィ・ロッジ」、2号館「レストフル・コテージ」、同じデザインの2棟からなる木造2階建て。明治39年(1906)竣工の西洋館は、白亜の建物が二対になった典型的な明治の洋館である。1号館「カムフィ・ロッジ(COMFY LODGE)」を正面から。「COMFY」は「COMFORTABLE」の口語体で、「心地よい」の意味。鎧戸付の窓などさまざまな細部に西洋の文化を取り入れながらも、唐破風の屋根や寺院建築様式が施されているなど、外国からの客を楽しませるための工夫があるのだと。斜めから。「西洋館」内の通路には日本の伝統行事を英文で説明した絵やヘレン・ケラー、マッカーサー、ジョン・レノン、チャップリンなど歴代の宿泊客の写真が飾られているのだと。一方の「RESTFUL」は、「安らかな、落ち着いた」の意味。つまり1号館は「心地よいロッジ」、2号館は「安らぎのコテージ」ということになるが、両者にロッジとコテージの違いはなく、ほぼ双子の造りの建物であると。そして、千鳥破風の屋根、校倉造りを模した壁が特徴の象徴的な「花御殿」。昭和11(1936)年建造、外国人のお客様には「フラワーパレス」として親しまれた富士屋ホテルのシンボル的な存在。「花御殿」の建物の横で像を見つける。「裸婦像」。登録有形文化財、近代化産業遺産に指定されている「花御殿」。スイート4室、ジュニアスイート2室、デラックスツイン33室、スタンダードツイン4室の全43室。「花御殿」では部屋番号の代わりに、43室すべてに異なる花の名前が付けられていると。以前使われていたという花御殿の大きなルームキー(通称:花鍵) 【https://travel.navitime.com/ja/area/jp/guide/NTJpoi0504/】より「花御殿」の唐破風と彫刻。唐破風の上にはライオンの姿が。正面から。大きな唐破風にライオンの像。山口正造(3代目社長)が、百獣の王であるライオンと同じく、富士屋ホテルがホテル界のトップになれるようにとの願いが込められているのだと。その下の兎毛通(うのけどおし)は鳩と薔薇の彫刻。 ・・・つづく・・・
2020.09.01
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