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「江東区芭蕉記念館」を後にし、来た道を東に戻り「東京都道463号上野月島線」方面に進む。200m以上進むと、左手にあったのが「深川神明宮」。「深川神明宮由来この辺一帯は、慶長年間(1596~1614)に摂津国(大阪府) の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名付けられた。深川村発祥の地です。八郎右衛門は持地内の小祠に神明を勧請したと伝えられこれが「深川神明宮」です。のち、現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み 、八郎右衛門は代々名主をつとめました。「深川神明宮」のひとつ(寿老人)として親しまれています。」「由来記今カラ凡ソ四百余年ノ昔深川ノ地ハ、葦ノ茂ル三角洲デ住ム人モ無カッタ ソノ頃深川八郎右衛門ト云ウ人ガ一族ヲ引連レコノ一帯ヲ開拓シタ 八郎右衛門ハ敬神ノ念篤ク、崇敬スル伊勢皇大神宮ノ御分霊ヲ奉齋シテ、開拓民ノ福祉ト当地ノ発展ヲ祈願シタノガ深川神明宮ノ初メデアル ヤガテ徳川家康公ガ江戸ニ入府、慶長元年当地ヲ巡視シ八郎右衛門ヲ召シテ地名ヲ尋ネタ 未ダ住ム人モ少ナク地名モ無キ由答エルト、家康公ハ八郎右衛門ノ姓「深川」ヲ以テ地名トセヨト命ジタ 深川ノ地名ノ起コリハ、神明宮ノ鎮座スル実ニ此ノ地ナノデアル爾来深川ノ地ハ江戸ノ繁栄ト共ニ発展シ、当宮モ「深川総鎮守神明宮」ト称エラレ、多クノ崇敬ヲ集メルコトトナッタ ソノ間ニハ震災戦火ノ大キナ災禍ガアッタガ 氏子万民ノ赤誠ヲ以テ昭和四十三年ニ御社殿御造営モ成リ、衆庶ノ崇敬益々旺ンデアル今般、郷土和楽万民繁栄ヲ祈念シテ御鎮座四百年祭ヲ齋行スルニ当タリ、今日ノ繁栄ノ礎ヲ築イタ郷土ノ先人ニ感謝シ、当宮ノ由緒ヲ茲ニ記ス」「深川神明宮」社号標石。参道の両脇に並ぶシャッター。御神輿を格納しているところであると。シャッターに祭りの様子が雄壮に描かれていた。参道の左側の絵画。真ん中の神輿絵。右側手前の絵。右の神輿絵。奥の絵。最奥の神輿絵。参道を突き当たると右手にあったのが「和倉稲荷神社」。その隣に「寿老神社」。「手水舎」。「茅の輪くぐり」と「社殿」。茅の輪のくぐり方1. 先ず、手水舎2. 先ず「水無月の夏越の祓する人は 千歳の命延ぶといふなり」の神歌を唱え、 茅の輪をくぐり、右に廻ります。3. 次に「思ふことみなつきねとて麻の葉を 切りに切りても祓ひつるかな」の 神歌を唱え、茅の輪をくぐり、左に廻ります。4. 最後に「宮川の清き流れに禊せば 祈れることの叶はぬはなし」の神歌を唱え、 茅の輪をくぐり、ご社殿に真っ直ぐに進んでお参りします。「社殿」に参拝。「深川神明宮」を出た左手にあったのが「日本画家 伊東深水誕生の地」案内板。「日本画家 伊東深水誕生の地伊東深水は、明治31年(1898)2月4日、深川西森下町の神明宮門前で生まれました。本名は一(はじめ)。深川尋常高等小学校に入学後、2年生のときに父が失職し、深川の地を離れました。しかし、深川との縁は深く、明治41年には深川東大工町の東京印刷株式会社(白河4-9)に勤務。ここで画才が認められ、同44年に日本画家の鏑木清方かぶらぎきよかたに入門しました。深水の雅号がごうは、深川の水にちなむもので、清方がつけたものです。入門の翌年、巽たつみ画会展出品作「のどか」が初入選。大正3年に「桟敷さじきの女」、翌年には「十六の女」がそれぞれ院展、文展で入選し、その後も高い評価をうけました。また、大正中ごろには、新版画運動に共鳴し、木版画「対鏡ついきょう」を制作。雑誌や新聞小説の挿絵、口絵なども手がけました。深水は、江戸の浮世絵の伝統を受け継ぎ、女性の美しさを創出する日本画家として、日本の近代美術史に大きな功績を残しました。その功績から、昭和33年5月には日本芸術院会員になり、同47年5月8日に74歳で没しました。」「伊東深水の作品」👈リンクもちろん、女優・歌手だった「朝丘雪路」の父親。「新大橋通り・東京都道463号上野月島線」に突き当たる。「現在地」地図が左手に。「森下駅前交差点」を渡る。路地を右に折れると左にあったのが「近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地」」碑が。「近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地明治2年2月。明治政府ハ「府県施政順序」ヲ交付,「小学校ヲ設ケル事」ヲ命ズ。明治3年6月28日。東京府ハ深川森下長慶寺ニ「東京府小学第六校」ヲ設置。明治4年12月。文部省ハ小学第六校ヲ「文部省直轄小学校」トスルコトヲ布達。明治5年8月。政府ハ「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナキヨウニ」ト「学制」公布。明治6年5月。「官立小学第六校」ヲ「第六中学区一番小学深川学校」ト命名。」その先にあったのが「長慶寺」の山門。山門の脇にあった案内板。「江東区指定有形文化財(絵画) 絹本着色釈迦十六善神像 一幀この釈迦十六善神像は、本紙を幀貼装にしたものです。本紙は縦114.8cm、横57.3cm。幀貼装は縦138.9cm、横73.9cmです。十六善神とは、「大般若経」およびその経の愛持者を守る十六種の守護神です。釈迦十六善神像は、鎮護国家・除災招福のため宮中や諸大寺において行われた「大般若経」を転読する大般若会の本尊として祀られました。仏画としては基本的なもので、平安時代末からみられますが、特に鎌倉時代から室町時代にかけて多く描かれ、全国に作例が残されています。画像は、蓮華座に坐す釈迦如来を中心に、その左右に獅子に乗る文殊菩薩と白象に乗る普賢菩薩、法涌菩薩と常啼菩薩、経巻を積んだ笈を背負う玄奘三蔵と鬼神形の深沙大将を対にして並べ、その外側に十六善神を二分して配置しています。本像は、描線の力強さや、迫力のある造形性、濃厚で鮮やかな彩色などから桃山時代後期から江戸時代初期のものと推定されます。中世にまでさかのぼる作例がほとんどみられない江東区にとって貴重な作品といえます。」「絹本着色釈迦十六善神像」。境内には松尾芭蕉の門弟が建てた「芭蕉句塚」があった。碑の表面には「芭蕉翁桃青居士」と彫られていた。「芭蕉翁桃青居士」の側面には「世にふるも更に宗祇のやどり哉」と刻んであった。左手に「玄峰嵐雪居士」右手に「宝晋斎其角墓」と彫られていた。塀の貼紙には昭和2年撮影の芭蕉翁・其角の碑が。蟠龍山天寿院長慶寺の文字が確認できた。板には「時雨塚」、「芭蕉翁桃青居士」、「世にふるハさらに宗祇の時雨哉」。「本堂」【正式名称】蟠龍山天寿院長慶寺【所在地】東京都江東区森下2-22-9【宗派】曹洞宗【本尊】釈迦如来【開基】深川孫右衛門夫妻【開山】一空全鎖【中興開山】徳山五兵衛重政扁額「蟠龍山」。境内にあった「殉国難死萬霊塔」卒塔婆及び建立日から東京空襲の戦災殉難者の慰霊顕彰碑のようであった。その右にも「慰霊」碑。北に進むと右手奥にあったのが「大久保稲荷神社」。「社殿」。稲荷神(推定) 宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたま)ご祭神について 稲荷神:五穀豊穣の神ご利益 商売繁盛、五穀豊穣 他そして「大久保稲荷神社」前のY字路角の小さな公園内に案内板があった。「五間堀跡五間堀は小名木川と竪川を結ぶ六間堀からわかれる入堀である。五間堀という名称は川幅が5間(約9メートル)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路であった。五間堀の初見は寛文11年(1671)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(1657)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658~60)ころか、それ以前と考えられる。五間堀は江戸時代には富川町(森下3)までで堀留となっていたが、明治8年(1875)、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜により掘りすすめられ、明治10年ころに小名木川まで貫通した。昭和11年(1936)・同30年の二度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。」「五間堀跡」のすぐ先右手にあったのが「龍光院」。ここは江東区から墨田区に入った場所で墨田区立川1丁目2−2。門が閉まっていて境内には入れなかった。門扉の隙間から「本堂」を。「浄土宗寺院の「龍光院」は、慶長16年(1611)中央区馬喰町に雲光院塔頭として創建、幾度かの移転を経て天和二年(1682)に深川へ移転してきたといいます。深川七福神の一つ毘沙門天として親しまれています。」そして江東区から墨田区に入って行った。「表具師 前川」の建物が「江戸表具博物館」👈リンク らしい。ここは「墨田区千歳3丁目5−11」。墨田区では「小さな博物館事業」というのをやっていて、個人商店のちょっとした一角を「博物館」として一般に開放しているのだと。「表具(ひょうぐ)とは、布や紙などを張ることによって仕立てられた巻物、掛軸、屏風、襖、衝立、額、画帖など。または、それらを仕立てること。仕立てることを表装(ひょうそう)とも称する。表装を職業としている人を、表具師(ひょうぐし)または経師(きょうじ)という。表具師の主な仕事内容には、掛軸、屏風、衝立、額、画帖、巻物などの修理をはじめ、襖の新調、張替、障子貼りなども含まれる。古くは表補絵師(ひょうほうえし)と呼ばれた。」とウィキペディアより。「江戸表具博物館」は、今年で創業95年になる前川表具店が運営。館内には、江戸表具師が使用する刷毛(はけ)や糊(のり)、鉋(かんな)などの道具、襖(ふすま)や掛け軸の製作工程を説明したパネルが展示されていると。見学は予約制のようであった。店内には掛け軸が飾られていた。そして店の前にあったのが「鬼平情景 弥勒寺門前 茶店 笹や弥勒寺前にあリ、平蔵が「本所の銕」ど呼ばれ、放蕩無頼の日々をおくっていた頃をよく知るお熊婆さんの店てす。今は七十を超えていますが、若い頃は平蔵に毎日のように酒を飲ませ、泊めてやったきつぶのよい世話好きてすが、一度は平蔵の寝床にもぐリこんて逃げ出された苦い思いをしています。「お熊と茂平」では役宅を訪ねて来たお熊が平蔵にその時の話を持ら出されて恥じる場面が出てきます。意外に純な面があリます。塩辛声てロの利きようは男勝リ、容姿は痩せて骨が凧のように張リ出し、一度会ったら忘れられないものです。平蔵が盗賊改方の長官になってからはその出先のような役を担い、連絡や見張リの場所はもらろん、隠れ家にもなり、作品の多くに登場します。何故、ここに?そして更に進むと、赤い鍵が現れた。「金庫と鍵博物館 杉山金庫」と。「杉山金庫」の先代が珍しい金庫や、古い金庫を集めていて、そのコレクションを展示しているそうだ。「旧日本軍の金庫」👈リンク が内部に展示されているとのことだがここも事前予約制のようであった。右に折れ「堅川(たてかわ)」に向かって北に進むと左手にあったのが「ちゃんこ 増位山」👈リンク。元大関・増位山が経営する店で増位山や北の湖、把瑠都も稽古した旧三保ヶ関部屋の稽古場を改装した店とのこと。そして次に訪れたのは「要津寺(ようしんじ)」。臨済宗妙心寺派の要津寺は、東光山と号す。要津寺は、慶安年間(1648-1651)に下総関宿藩の初代牧野成貞が、父成儀を開基として僧東鉄が東光山乾徳寺と号して駒込に創建したと。元禄4年(1691)当地を牧野家下屋敷として拝領した際、当地に寺を移し、成儀の戒名(要津院殿壁立鈍鉄大居土)から要津寺と寺号を改めたとのこと。墨田区千歳2-1-16。「本堂」の扁額「要津寺」。「牧野家墓所 雪中庵関係石碑群牧野家墓所は、区内の数少ない大名墓の一つです。代々旗本として仕え、五代将軍綱吉の時に成貞が側用人に取り立てられ、関宿藩主となりました。要津寺は、成貞が下屋敷の一部である現在地に再興、成貞寺としましたが、父成儀の戒名から要津寺と改称しました。その後、牧野家の下屋敷は緑町に移転、維新後も末裔の貞寧は、本所小学校(昭和21年廃校)の学務委員を務め、地域社会の発展に貢献しました。雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより、当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には、蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養墓や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦十三年(1763)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永二年(1773)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明二年(1782)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。」「島男也(しまおとや)墓嶌男也(1809~1861)は、笠間藩士石井勘平盛郷の子として生れました。通称を庄吾、名を龍雄といいます。幼少のころから示現流や北辰一刀流を学び、新たに鹿島流を創始しました。21歳の時に脱藩して島男也と変え、伊勢国白子や大坂の生國魂神社境内などに道場を構え、数多くの門人を指導しました。そののち、常陸国土浦の国学者佐久良東雄と親交をもち、尊皇攘夷運動に加わりました。万延元年(1860)の桜田門外の変に水戸藩士高橋多一郎らとともに加担したため捕縛、江戸伝馬町に投獄されたと伝えられています。翌年獄中で没しました。(墓地は公開しておりませんので見学はご遠慮下さい)」「嵐雪庵関係石碑群」。一番左に「嵐雪と二世吏登の供養塔」。その隣に「雪上加霜の蓼太の墓碑」。モミジの木に隠れるように「雪中庵蓼太の句碑」が。「 碑(いしぶみ)に花百とせの蔦植む」「芭蕉翁俤塚(おもかげづか)」。「芭蕉の句碑古池や蛙飛び込む水の音」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.31
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さらに「江東区芭蕉記念館」の「おくのほそ道」を創るのコーナーの見学を続ける。「布絵 おくのほそ道 山鹿文子」明治41年(1908)新潟県生まれ。江東区に57年間在住。70歳を過ぎてから、自身の着物古裂で「布絵」の手法に挑み、梟をモチーフにした布絵作品「布久呂」を完成。平成7年(1995)に喜寿として「おくのほそ道布絵展」をこの記念館で開催した。と元禄2年(1689年)5月28日、芭蕉と曽良は川水(高桑加助)案内で最上川畔の船宿である一栄亭を訪れた。「さみ堂礼遠 あつめてすゝし もかミ川」 芭蕉「岸に ほたるを繋ぐ 舟杭」 一栄「爪ばたけ いざよふ空に 影待ちて」 曽良「里をむかひに 桑のほそミち」 川水「うしのこに こゝろなくさむ ゆふまくれ」 一栄「水雲重し ふところの吟」 芭蕉山鹿文子布絵「おくのほそ道」明治四十一年( 1908 )新潟県生まれ。江東区に57年間在住。70歳を過ぎてから、自身の着物古裂で「布絵」の手法に挑み、梟をモチーフにした布絵作品「布久呂」を平成七年(1995)に喜寿の記念として「おくのほそ道布絵展」を江東区芭蕉記念館で開催しました。※本展示では「おくのほそ道」全作品のなかから抜粋して展示いたします。」「おくのほそ道発端月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を拂ひて」「草の戸も住み替る代ぞ雛の家」表八句を庵の柱に懸置く旅立ち 弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢またいつかはと心細し。「行く春や鳥なき魚の目は涙」「むつまじき限りは宵よりつどひて舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。これを矢立の初めとして行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと見送るなるべし」。小いさき者ふたり、馬の跡慕ひて走る。ひとりは小姫にて、名を「かさね」といふ。聞なれぬ名のやさしかりければ「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」曽良「夏山に 足駄を拝む 首途かな」修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。雲巖寺松杉黒く苔したりて、卯月の天今なほ寒し。十景の盡きる所、橋を渡って山門に入る。「啄木も 庵は破らず 夏木立」「野を横に 馬引き向けよ ほととぎす」 殺生石は温泉の出る山陰にあり「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り」「笠島は いづこさ月の ぬかり道」「壺の碑」市川村多賀城にあり千歳の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、 羇旅(きりよ)の労を忘れて、泪も落るばかりなり。江上に帰りて宿を求れば、窓を開き二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るゝ時、素堂松嶋の詩あり。「松島や 鶴に身を借れ ほとゝぎす」「五月雨の 降り残してや 光堂」「平泉三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。」「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷て、時の移るまで涙を落しはべりぬ。」「夏草や つはものどもが 夢の跡」「眉掃きを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」「蚕飼ひする 人は古代の 姿かな」 曾良立石寺山上の堂にのぼる。岩に巌(いわお)を重て山とし、松栢年旧(しょうはくとしふり)、土石老いて苔滑に、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ。「閑かさや 岩にしみ入る 蟬の声」最上川最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕いて、 芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷うといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、ここに至れり。白糸の滝は青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危(あやふ)し「五月雨を 集めて早し 最上川」「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」「雲の峰 いくつ崩れて 月の山 」「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」「湯殿山 銭踏む道の 涙かな 」越後路「文月や 六日も常の 夜には似ず」「あら海や 佐渡によこたふ 天の河」市振今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて、疲れ侍れば、枕引よせて寐(いね)たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計(ばかり)ときこゆ。年老たる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、明日は古郷にかへす文したゝめて、はかなき言傅(ことづて)などしやるなり。白浪のよする汀に身をはふらかし、海士(あま)のこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因(ごふいん)、いかにつたなしと、物いふを「一家に 遊女もねたり 萩と月」「秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子」「あかあかと 日はつれなくも 秋の風.」「しほらしき 名や小松吹き 萩薄」多太神社「むざんやな 甲の下の きりぎりす」この所、多田の神社に詣ず。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より 賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、 龍頭に鍬形打つたり。真盛討死の後、木曾義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし別離 曽良「 行き行きて倒れ伏とも萩の原」行く者の悲しみ残る者の憾み(うらみ)、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷ふがごとし。「今日よりや書付消さん笠の露 」気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるがごとし。「月清し 遊行のもてる砂 の上」十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。「名月や 北国日和 定めなき」種の浜 十六日、空晴たれば、ますほの小貝拾はんと、種の浜(いろのはま)に、舟を走らす。「寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋」「波の間や小貝にまじる萩の塵」「蛤の ふたみよ別れ 行く秋ぞ」(3)『おくのほそ道』を創る の漫画家・沖山潤「『奥の細道』と芭蕉」コーナー。漫画家・沖山潤「『奥の細道』と芭蕉」昭和四十一年( 1966 )東京都生まれ。ゲームのグラフィックデザイナーとして活躍後、「月光通りのマスター」で「週刊ビジネスジャンプ」(集英社)の新人賞を受賞。平成十四年( 2002 )頃から下町を題材にした独特の風景漫画に取り組むようになり、繊細な描写のなかに、ほのぼのとした漫画の持つユーモラスを加味した「風景漫画」という新しいジャンルを開拓しました。※本展示では色蕉漫画「『奥の細道』と芭蕉」から抜粋して展示いたします。「さみだれを」歌仙巻子【複製】『おくのほそ道』道中、元禄ニ年( 1689 )5月29日、最上川の大石田にある高野ー栄亭で催された歌仙での俳諧連句の一巻。発句は「五月雨を集めて涼し最上川」とありますが、『おくのほそ道』では「五月雨を集めて早し最上川」と改案されています。「歌仙の初折の表六句」さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川 芭蕉岸にほたるを繋ぐ舟杭 一栄爪ばたけいざよふ空に影待ちて 曽良里をむかひに桑のほそミち 川水うしのこにこゝろなくさむゆふまくれ 一栄水雲重しふところの吟 芭蕉『芭蕉翁絵詞伝』 蝶夢編寛政四年( 1792 )【複製】《義仲寺蔵》「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」『芭蕉翁絵詞伝』 蝶夢編寛政四年( 1792 )【複製】《義仲寺蔵》江戸中期の俳人・蝶夢が芭蕉百回忌に義仲寺(滋賀県)に奉納するために編んだ絵巻です。芭蕉の生涯の主要な出来事を三巻の絵詞にまとめたもので、最初の本格的な芭蕉伝記です。場面は中巻にある『おくのほそ道』の「出羽三山」の条で、芭蕉と曾良が穢れを祓うといわれる木綿しめを体に掛け、宝冠(修行者が頭巾として巻く白木綿の布)で頭を包んだ格好で山頂を目指している場面です。「芭蕉の旅の句」。「芭蕉の旅とその足跡」。「おくのほそ道」国別の俳句。平成元年奥の細道300年記念『奥の細道』記念切手シリーズ「おくのほそ道」出立300年を記念して、昭和62年(1987)から平成元年(1989)にかけて、芭蕉の句をモチーフとした切手「奥の細道シリーズ」(全十集)が発行されました。デザインの原画は杉岡華邨や森田曠平など現代を代表する書家とがっかによって手がけられました。展示ブース。右側の展示ブース。左側の展示ブース。江東区内の「芭蕉句碑・史跡案内図」記念撮影パネル。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.30
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「みや古」での「深川めし」を楽しんだ後、向かったのが「江東区芭蕉記念館」。雨が急に降り出し、急ぎ足で記念館に駆け込んだのであった。芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残している。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されたが、幕末から明治にかけて消失した。大正6年(1917年)9月の台風の高潮の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定した。江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981年)4月19日に芭蕉記念館を、平成7年(1995年)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館。当館は、真鍋儀十翁等が寄贈された芭蕉及び俳文学関係の資料を展示するとともに、文学活動の場を提供していた。「バショウ」の木。「芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞夜哉(聞く夜かな) 天和元年(1682)」そしてバショウの花が。バショウ(芭蕉) 学名:Musa basjoo バショウ科バショウ属の大型の多年草。英語ではジャパニーズ・バナナと呼ばれていますが、 学名の命名者は有名なシーボルトです。原産地は中国ともいわれており、はっきりしない。バナナにそっくりで、よく似ていますが、バナナの花は苞が赤紫色。果実もバナナに似ている。「芭蕉記念館」碑。松尾芭蕉は、弟子の李下から贈られたこの「バショウ」の木を自分に例えたと。「バショウ」の幹は柱にもならないし、葉は全く役に立たない。わたしもこの「バショウ」と同じような存在である。「夏炉冬扇(かろとうせん)」というが、わたしも夏の火鉢や冬の扇のように、日常生活には何の役にも立たない人間である。しかし、人生に役に立つ「無用の用」のような俳人でありたいと『芭蕉』と。「芭蕉記念館由来新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家らの寄贈品を中心に、芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。また、研修室(和室)は俳句や短歌を楽しむ人たちに利用されています。庭園には、池や滝、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられ、築山にほこらと「古池や……」の句碑があります。」江戸時代をイメージした木製の門をくぐり館の入口に向かって進む。「芭蕉を記念して」碑。「芭蕉を記念して松尾芭蕉は延宝八年(一六八〇)三十七歳から元禄七年(一六九四年)五十一歳、大阪への旅に出発するまで、常磐一丁目にあった庵の周辺に色蕉を植えて深川色蕉庵と称し、ここを本拠として「奥の細道」等の旅に出発し、多くの紀行文や俳旬を残し、文学史上偉大な足跡を記した。芭蕉庵が芭蕉歿後武家屋敷となり、幕末から明治にかけて、減失してしまったのを地元の方が惜しみ、この地を「深川芭蕉庵跡」として旬碑等を作り保存されてきた。そして大正十年十一月東京府の旧跡に指定された。しかしこの地が狭隘であったので今般江東区はここに芭蕉記念館を建設し、併せて地元の協力により「句碑」等をも移管した。ここに芭蕉の業績を顕彰し、永く旧跡を保存するとともに、芭蕉関係の資料等を公開しより充実した記念館としていきたい。」最奥に芭蕉庵を模した建物があった。庵の中には芭蕉像が。入口に「芭蕉記念館」と書かれた木板。展示室に入ると、2020年度特別展・「おくのほそ道」美術館展 が開催中。裏側。芭蕉が約半年の旅を経て著した日本文学の傑作である紀行文『おくのほそ道』。それに診せられた人々と、インスピレーションを受けた『おくのほそ道』の作品、その両方に焦点をあてた特別展です。【主な展示内容】1.「おくのほそ道」を読む・『おくのほそ道』桝型素龍清書本【複製】・『おくのほそ道』永機本・『奥細道菅菰妙』ほか2.「おくのほそ道」を歩く・俳文学者・久富哲雄一写真コレクション・『絵入りおくの細道』(墨絵入り)ほか・平成元年奥の細道300年記念、「奥の細道」記念切手シリーズほか3.「おくのほそ道」を創る・漫画家・沖山潤「『奥の細道』と芭蕉」・山鹿文子布絵「おくのほそ道」・平成元年奥の細道300年記念「奥の細道」記念切手シリーズ ほか松尾芭蕉の研究家・真鍋儀十氏が芭蕉記念館に寄贈した芭蕉および、俳諧関係の資料が目に入って来た。「古典の授業で習ったことがあるかも」、そんな学生時代の懐かしい記憶が蘇ってくる空間なのであった。このマークのある資料は撮影禁止と。「芭蕉年譜」👈リンク「松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。三重県上野市(現在の伊賀市)出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。俳号としては初め宗房(そうぼう)を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 芭蕉は和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名」とウィキペディアより。(1)『おくのほそ道』を読む「はじめに元禄二年(1689)の俳人・松尾芭蕉の東北と北陸を巡る旅に基づいて創作された紀行文「おくのはそ道」は芭蕉の死後に出版され、以後、広く普及し、愛読されてきました。近年では外国語版にも翻訳され、日本のみならず世界中の人々に愛されている日本文学の最高峰の作品といえます。現在でも、芭蕉の旅に生きた姿は我々の心を捉え、なかには実際に芭蕉の歩いた道をたどり、インスピレーションを受けた絵画や音楽など、文学の枠にとらわれない作品が多数存在しています。このたび、関連資料から『おくのほそ道』とは何か、そして.多くの表現者が読み、歩き、創った『おくのほそ道』の作品を紹介します。文学だけに留まらない様々な『おくのほそ道』をご覧ください。」「『おくのほそ道』とは?元禄二年(1689)3月27日(新暦5月16日)、門人・河合曾良を伴い、江戸深川を出発し、東北と北陸の諸国を巡り、その旅で起こった出来事、出会った人々、そして詠んだ句を、創作を交えて書いた紀行文が「おくのほそ道」です。行程は、武蔵、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江の各地を歴遊し、8月下旬に美濃の大垣へ到着。伊勢神宮の式年遷宮を拝もうと大垣から船出をするまでの約5か月間、600里(約2 , 400km )という、芭蕉の旅でも最長距離の一大行脚でした。この旅では、古くから和歌で詠まれた歌枕(題材)を訪ねることを目的とし、旅を通して古人の歌の心に触れ、地方俳人と交流を得ることができました。この経験が、「不易流行」「かるみ」「風雅の誠」というような芭蕉が後に抱く俳諧の考え方がまとまるきっかけとなりました。」「元禄四年( 1691 )、旅を終えて江戸に戻った芭蕉は、翌年に新築した深川芭蕉庵で『おくのほそ道』を執筆。推敲を重ね、成稿を俳人・素龍(そりゆう・そりよう) ( ?~正徳六年く? ~ 1716〉)に清書させました。現在、素龍清書本と呼ばれる本は二つ(柿衛本・西村本)あり、芭蕉は西村本を決定本として、表紙に自ら書いた題簽(書名を記した紙片)を付け、元禄七年( 1694 )の帰郷の旅で、伊賀上野の実兄・松尾半左衛門に贈りました。その旅の途中で芭蕉は死去、後に遺言により去来に譲られました。その後、元禄十五年( 1702 )、京都の俳諧書肆(今でいう出版と販売を兼ねた出版社)・井筒屋庄兵衛から複製刊行しました。以後、この版本を基に、広く普及し、芭蕉の代表作として愛読され現在に至ります。」「おくのほそ道」の書本。右側から①「桝型素龍清書本 一冊 芭蕉著」【複製】「元禄七年(1694 )、俳人・素龍が清書しました。題簽の「おくのほそ道」は芭蕉直筆とされており、芭蕉公認の最終形態とされています。のちに元禄版本として木版印刷されました。」②「おくのほそ道」桝型元禄版 一冊芭蕉著 (跋)無署名奥書「色蕉の門人・去来が、芭蕉の遺言により譲り受けた素龍清書本(西村本)を、素龍の跋文(あとがき)のみを省いて書型・大きさ・表様の模様・題箋・綴じ糸に至るまで素龍清書本のスタイルをそのまま踏襲して出版したものです。」③「おくのほそ道」桝型寛政版 一冊 芭蕉著 (跋)素龍(元禄七年〈1694〉)・去来(同八年)・ 蝶夢(明和七年〈1770〉)「寛政版は明和版の無署名跋のある一丁のみを取り除き、本文・跋文(素龍・去来・蝶夢)を全巻五十四丁にわたって、かぶせ彫にしたもの。元禄版・明和版と板木が異なっています。」④「『おくのほそ道』 永機本晋具角筆 明治十八年(1885 )刊奥付には「出版人 晋永機」とあります。晋永機とは幕末・明治時代の俳人・穂積永機(1904 )を指します。永機は六世具角堂鼠肝の長男で、父の後を受けて七世其角堂を継ぎ、『時事新報』など俳句選者とし活動、明治俳壇を代表する俳人でした。明治ニ十年(1887)に自身の門人・田辺機ーに其角堂を譲り、老鼠堂と号します。」⑤「麦林舎佳江自画質「絵で見る奥の細道」折本 昭和六十三年(1988 )麦林舎とは江戸中期の俳人・中川乙由(延宝三年~元文四年(1675 ~1739 ) )の別号。伊勢国(現三重県)の木材商のちに神宮の御師。松尾芭蕉の門人・支考の門に入り、伊勢俳諧で、頭角を現します。後に乙由の指導を受けた人たちのことを麦林派と呼ぶようになりました。」⑥『奥細道菅菰抄』 安永七年(1778 )刊注訳書としては古く、版本としては最初のもの。注訳は詳細で、重要な参考資料です。著者の蓑笠庵梨ー(正徳四年~天明三年く1714 ~ 83>)は蝶夢と交流し、蕉風復興運動に尽力。『おくのほそ道』の研究に没頭し本書を含む芭蕉に関する俳論を執筆しました。⑦「英一蝶筆「芭蕉と柳図」」ズームで。「英一蝶(承応元年~享保九年〈一六五二~一七二四>)は絵師・俳人。京に生まれ、若くして江戸に移り、狩野派の絵師・狩野安信に入門します。俳諧では其角と親しく、談林から蕉風へと変わる江戸俳擅て才気を発揮しました。元禄十一年(一六九ハ)に三宅島へ流罪になりますが、赦免により江戸に戻り、「英一蝶」と改号し、深川を制作活動の拠点としました。深川の冝雲寺に身を寄せており、現在も同寺は一蝶寺とよはれています。本点は笠や杖なと旅をイメージする小物が描かれ、『おくのほそ道』の「芦野の里の遊行柳」の場面を描いていると思われます。」⑧「与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」【縮尺複製】 六曲一隻《山形美術館蔵・重文》」「与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」【縮尺複製】 六曲一隻《山形美術館蔵・重文》」与謝蕪村(享保元年~天明三年〈一七一六~ハ三〉)は画人・俳人。文人画て大成する傍ら、基角・嵐雪に師事した俳人・早野巴人に俳諧を学び、蕉風復興運動の中心人物になります。屏風は『おくのほそ道』の九つの場面を描いた画て構成しています。文字は草体て楷・行を交えに大小を巧みに配置しています。」この日は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出立した「弥生も末の七日」、旧暦の3月27日。もっとも芭蕉に随行した曾良の日記によると、出発は3月20日だったらしいが。芭蕉と曾良の姿が左手に。⑨「多賀城碑拓本幅 江戸期 手拓」。⑨「多賀城碑拓本幅 江戸期手拓多賀城碑とは奈良時代に築かれに古代城柵多城跡(宮城県)にある石碑て、日本三古碑のひとつです。碑面には京・蝦夷・常陸・下野・靺轄(まつかつ)の国境から多賀城まての里数や、城が神亀元年(七二四)、鎖守(府)将軍・大野東人により設置され、藤原朝獦が修造したことを記し、末尾に天平宝字六年(七六二)十ニ月一日の日付があります。江戸時代に発掘され、発掘当初から所在不明の歌枕「壺の碑」であるとされ、多く拓本が取られました。芭蕉も『おくのほそ道』の道中に訪れています。」芭蕉遺愛の石の蛙(伝)。こちらが本物か。「芭蕉が深川芭蕉庵において愛好していたと伝えられる石の蛙。小松石を彫ったもので、縦26cm、横20cm、高さ6cmの台座に、蛙の体長は21cm。芭蕉没後深川芭蕉庵は武家屋敷となり、その場所は明確でない。大正6年(1917)9月の台風による高潮の後、この石の蛙が発見され、現在、芭蕉稲荷神社のある場所が芭蕉庵の旧跡として大正10年(1921)東京府から旧跡の指定をうけた。」「与謝蕪村筆「奥の細道画巻」【複製】」「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も 住替る代ぞ ひなの家表八句を庵の柱に懸置。弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明けにて光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。 行く春や 鳥なき魚の 目は涙これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るなるべし。⑪「与謝蕪村筆「奥の細道画巻」【複製】」《海の見える杜美術館蔵》蕪村が『おくのほそ道』を書写し、画を描き加えた長大な画巻。蕪村は生涯のうち、同種の作品を十数点制作したと考えられています。」「 行く春や 鳥なき魚の 目は涙」芭蕉と曾良を見送る弟子の姿が。「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ 共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。」「『俳諧百家仙』「諸九尼」寛政八年( 1796 )刊「長生の恥も思はぬ花見かな」 諸九尼諸九尼(正徳四年~天明元年く1714 ~81〉)は江戸時代の女性俳諧師です。筑後国(福岡県)の庄屋の妻でしたが、30歳のころ、俳諧師の湖白(のちに浮風)と駆け落ちし、上阪。浮風の指導を受け、俳諧の道に進みます。旅を好み、『おくのほそ道』の旅程を辿り紀行文『秋かせの記』を著しました。」『絵入おくの細道』(墨絵人り) 三冊芭蕉著、香雪・交山編 文政五年(1822 )刊「交山( ? ~慶応ニ年( ? ~1866 ) )は江戸深川八幡宮ニ軒茶屋松本の主人で、家業を弟に譲り、画を谷文晁、のちに酒井抱ーに学びます。友人の香雪と共に、『おくのほそ道』を歩いて情景を写し、挿絵ニ十九点を描いた本書を出版しました。絵はそれぞれ画題を付け、落款・印章を加えました。」『奥のほそみち画冊』小杉放庵著 【複製】昭和三十年(1962 )刊大正、昭和の画家である小取方庵(明治十四年~昭和三十九年<1881 ~1964 > )が、洋画家・五百城文哉に洋画を学びますが「放庵」と改号した前後から日本画を主に制作しました。芭蕉や芭蕉の俳諧作品を題材にした作品は多く、『おくのほそ道』や『野ざらし紀行』など、現地を取材したことを踏まえて描いています。」「那須野 「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」。(2)『おくのほそ道』を歩く俳文学者・久富哲雄 写真コレクションや『絵入りおくの細道』(墨絵入り)ほかが展示されていた。「おくのほそ道」の影響を受け、芭蕉の足跡をたどるため、実際の旅程を巡る人は昔も今も絶えません。実際に歩いた人たち、影響を受けて製作された作品を紹介します。俳文学者・久富哲雄写真コレクション大正十五年(一九一一六)山口県生まれ。東京大学文学部大学院を修了し、都立の高等学校の教論、鶴見大学女子短期大学部教授を経て、鶴見大学名誉教授に就任。近世俳文学を専攻し、俳文学者として「おくのはそ道の旅」「おくのほそ道全訳注」などを著しています。多くの作品が展示されていた。「天保六年 加藤宗清作 芭蕉像(胸像)」。「天保六年(一八三五)冬、瀬戸村(愛知県)加藤宗清造之と刻まれている。胸像。像の内部は空洞になっており、安政四年(一八五七)の説明書がある。そこには三河の中津川春芙が、同郷の伊東涼石から、この像を授けられたとある。箱書は昭和四年(一九二九)伊藤松宇の名で書かれている。」「箱書」伊藤松宇、昭和四年(一九二九)の文字が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.29
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「芭蕉庵史跡展望庭園」内の柱には「富嶽三十六景 深川 萬年橋下」が描かれていた。なかなか、撮影角度が難しく・・・。これが葛飾北斎の原画。「江戸時代の深川は、隅田川をわたった東側で「川向こう」呼ばれ、新興地ゆえの自由な雰囲気があり、新しいものがどんどん出来る、いきいきとした街だったようです。万年橋も往来の人々で大変賑わっています。本図は、隅田川に浮かぶ船の中から、万年橋を見上げたような構図が印象的です。橋のカーブが美しいアーチをもって描かれ、鮮やかな藍色で全体にすっきりと仕上げられています。」柱の別の面の橋の名は?新大橋?「周辺案内図」。「本所深川繪圖」安政5年(1858)。「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道元禄15年(1702)12月、本所吉良邸を急襲し、本懐をとげた赤穂浪±47名は、泉岳寺に向かうために竪川一之橋を渡り、絵図赤線のように隅田川沿いの道を南下して永代橋を渡ったといいます。途中、小名木川の万年橋、佐賀町あたりの上之橋・中之橋・下之橋を渡って、永代橋のたもとでひと息を入れたと伝えられています。ここから北に伸びる道は、当時の道筋が残っている場所です。赤穂事件で、将軍綱吉は、赤穂藩主浅野長矩を即日切腹させました。綱吉の裁断については、武士道精神に反すると武士や庶民から批判されています。この道は、時代が武断政治から文治政治に移り変わろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。」「芭蕉庵史跡展望庭園」近くにあった「正木稲荷神社」。扁額は「正一位 正木稲荷神社」。「正木稲荷の由来かつて深川元町万年橋北側に柾木の大樹あり、その樹にほど近い隅田川の中州上に当社「正一位稲荷大明神」存す。時の移る中、大樹朽ち、当社も幾多の変遷を経るが、当社ふるくから「腫物に効くおでききの神様」との名高く、寛政十年(1798)、昭和6年の文記にも当社の名が見られ、文政十年(1827)6月16日には曲亭馬琴の妻女お百も「腫物平癒」の願かけに参詣の記録あり。昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の「キレイドコロ」が人力車を連ね大変賑わっていた。 ぴいぴも売れる柾木の御縁日 陸奥米の籾の間に稲の神 柾木のぴいぴい吹きながら野掛也ご当社を読む句も残っている。戦災後、先代三木常正宮司はじめ地元秋田勝三郎、飯田源次郎、塙善之助各氏世話人となり社殿復興す。そして平成2年の今日玉垣御社殿改修に際し、崇敬者の賛同を得て現状の整備を成す。」横面外、道路に面して黒御影の石碑があった。「正木稲荷由来近年柾木稲荷が正木稲荷に改められ、祭神は宇迦魂命(うかのみたまのかみ)と応神天皇を祭り、例祭は毎年二月初午の日である。創立は年代不詳、江戸時代古くより当社はあったようである。為永春水著「梅歴」の挿絵に当社が描かれ、奉納の幟に「柾木稲荷大明神、天保五年(1834)二月初午等」と書かれ名の知れた稲荷社であった。当社は江戸切絵図「本所深川絵図」に『マサキイナリ』と記載されている。この絵図は文久二年(1862)版である。また江戸名所図絵では「真先稲荷明神社」とも稱されている。江戸には稲荷社もっとも多く、この絵図には著名な稲荷社だけが記されている。当社はその一つであった。昔は柾木の大木があったので、この社名がつけられた。隅田川から小名木川へ入る目標として尊重されていた。また子供が柾木の葉を丸めてピーピー鳴らしていたのである。またその葉が腫れ物によくきいたともいわれている。その祈願には全快迄「ソバ」を断ち、全快すれば「そば」を献じて報賽する信仰があった。柾木(柾)はニシキギ科の常緑低木で、高さ3m、海岸近くに多く育ち庭木生垣用になり、葉は厚く滑らか、長楕円形、六月頃淡緑色の四弁花を沢山つける。実は球形、開いて赤色の種子をだす。小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を直線コースで江戸に運ぶため、天正十八年(1590)に水路が開かれ、江戸が世界一の人口になるにつれ重要な河川となり、寛永六年(1629)現在の河幅に開鑿され、船舶取締りのため当社の隣に船番所が設置された。寛文元年(1661)船番所は大島9丁目の小名木川と中川の交査する場所に明治維新まで置かれた。また当社の近くに芭蕉庵があって、大正10年11月東京府が芭蕉翁古池の跡とし旧跡に指定した。しかし昭和56年この旧跡は芭蕉記念館に移転した。江東区の地図にも当社は記載されており、昔より町内持(維持経営)である。」社殿内陣。御祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)例祭日 5月丑の日創立年月は詳ではないが、当地の鎮守の深川神明宮の摂社または末社とも伝えられる。万年橋際に鎮座していたことから「万年橋稲荷」とも称されていた。腫れ物の治癒に霊験新たかで、その祈願には全快までそばを断ち全快すればそばを献じる。「新大橋・萬年橋・柾木の杜 安藤広重画」そしてここが「江東区芭蕉記念館分館」であったが閉館中であった。そして次に訪ねたのが「芭蕉稲荷神社」。扁額「芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社」。朱の鳥居を潜る。狭い境内右手には「芭蕉庵跡」碑。「史跡 芭蕉庵跡」碑。碑の前にはカエルが。これが大正6年(1917)津波来襲のあと発見された、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙のレプリカであろうか。そしてもう一匹。「芭蕉記念館」碑。比ヨリ北百五十米 と。「深川芭蕉庵旧地の由来俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年(1680)から元禄7年(1694)大阪で病没するまで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して芭蕉庵として住んでいました。ここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音〔貞享3年(1685)春・芭蕉庵・詠〕」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年(1917)津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、大正10年(1921)東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。昭和20年(1945)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年(1955)復旧に尽した。しかし、当初が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。」「俳聖芭蕉翁生誕三百五十年祭記念」碑と芭蕉句碑「ふる池や蛙飛び込む水の音」そして「社殿」。朱の「芭蕉稲荷大明神」の幟旗。「芭蕉稲荷神社」を後にし、万年橋通りを北に進む。左手にあったのが「旧新大橋跡」碑。常盤1丁目6番9号、万年橋北交差点の西北角の歩道に標柱が建っていた。現在の新大橋と永代橋の丁度真ん中当たりになるのか。「旧新大橋は元禄6年(1693)12月、この地先の墨田川に架設起工し52日間で完成し長さ百間幅員三間七寸あり当時橋名は両国橋を大橋と称していたので、この橋を新大橋といった。近くの深川芭蕉庵に住んでいた芭蕉は新大橋の工事中 初雪や かけかかりたる 橋の上の句をよみ、また橋の完成をみて ありがたや いただいて踏む 橋の霜の句をよんだ。そして「深川芭蕉通り」を東に向かって歩く。材木商の材木置場が左手に。多くの丸太や竹が。「常磐一丁目」交差点右手角にも材木商が。そして左手には「(株)田口屋酒店」が。店の前でビールを飲むオジサンもいたが、グッと我慢。そして時間は12:42、この日の目的の一つでもあった「深川めし」を楽しもうと「みや古」へ。メニューがズラッと。「深川めし本家 みや古」の暖簾。「深川めしの由来古来より深川特産のあさりは、種々の調理法があり池波正太郎先生の作品にも度々登場しております剥き味と長ねぎの味噌仕立ての知るかけ丼や炊き込み飯等がありますが当店の二代目春義が戦前に調理人として諸国の板場修行し、その体験と味覚を充分に発揮してあさり持ち味を最大限に出し 独創的な炊き込み飯が当店の「深川めし」であります戦後は、諸般の事情に依り供膳を中断しておりましたが、近来は、水質も良好となって良質な「あさり」が採集されてます。再度の研究を重ね風味を一層加えて食器をも考慮して現在の「本家深川めし」として客膳に供しましたるところ絶大なるご好評を頂きまして御陰様にて千客万来の賑わいであります。この上は、尚一層の御愛顧をお願い申し上げます。」店内は空いていて、客もまばらであった。深川めしと天ぷらのセットを注文し大いに楽しむ。茶碗蒸し、吸物、煮物、小物、新香がセットについていた。天ぷらは海老、カボチャ、ピーマン他。蒸篭で蒸し上げ、風味豊かに炊き込まれた深川めし。昆布ダシに塩、醤油、酒などを加え、あさり、ねぎ、油揚げを軽く煮た煮汁でご飯を炊くと。炊き上がる直前に具を乗せるという調理法であると店のオネイサンから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.28
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「芭蕉庵史跡展望庭園」への木製の入口門に到着。「芭蕉庵史跡展望庭園」の門をくぐると、左手に石碑が。「川上と この川下や 月の友」元禄6年(1693年)秋、隅田川に東方から合流する小名木川に舟を浮かべ「深川の末、五本松といふ所に船をさして」という前書きで詠まれた松尾芭蕉の句。句意は、「川上において友も同じ月を眺めていることだろう」というもの。その友とは、「目には青葉山ほととぎす初がつお」の句で知られる山口素堂のことだと言われていると。「深川芭蕉庵」案内板。「絵本江戸土産 新大橋 萬年橋 正木の杜」絵には、「新大橋の長さ百間、両国橋の下にあり その傍なる万年橋の柾の稲荷は霊験あり。此の辺四方に気色を備えて見所もまた多し」と下の絵で、隅田川が右上から左下に流れており、右下の川は小名木川。また、正面の大きな橋が新大橋で、右手前の橋が萬年橋。萬年橋の袂に幟が見えるが、それが正木稲荷かと思われます(二つ見える屋根の右側)。「絵本江戸土産 萬年橋 柾木 稲荷」「大橋の傍にあり。これを高尾稲荷ともいう。最種々の利益ありとて、詣人常に絶ることなく、報賽には幟を献ず。故に幟その数を知らず。景地にあらずといえども臨みたる社頭のさま神寂ていととうとし」と。正面に隅田川に架かっている大橋があり、手前の流れは小名木川で、萬年橋が架かっています。橋の向こうの幟のある辺りが柾木神社。「深川芭蕉庵ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の送った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄7年(1694)にいたる15年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝8年(1680)冬から、天和2年(1682)暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ3年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。 櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり天和3年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、53名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが2つ、茶碗が10個と菜刀1枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『』笈の小文』の旅はここから旅立った。 古池や蛙とびこむ水の音 華の雲鐘は上野か浅草か 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵元禄2年(1689)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄5年(1692)5月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の赴きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。 名月や門に指し来る潮頭 川上とこの川下や月の友 秋に添うて行かばや末は小松川芭蕉庵の所在地は、元禄10年(1697)松平遠江守の屋敷となり、翌元禄11年(1698)には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。」「小名木川五本松と芭蕉の句松尾芭蕉は、延宝8年(1680)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1693年)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふ所に舟をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。「五本松旧跡」(猿江2丁目16番 小名木川添い)とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」として、又、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成20年12月4日に社屋の敷地に建立したもので、今回同社屋の移転の伴いご寄贈いただき、ここに再建立いたしました。」『江戸名所図会』小名木川五本松。先が階段になっており、上の方は僅かに左に曲がっていた。「芭蕉庵史跡展望庭園」からの隅田川に架かる「清洲橋」。「芭蕉翁之像」。「芭蕉翁之像この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(1647~1732)が描き、京都の画家吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により制作したものです。」近寄って。角度を変えて。17時を過ぎると、清洲橋のある隅田川河口方面へと回転するのだと。「芭蕉翁之像」と「清洲橋」。17時を過ぎると、この場所からは、「芭蕉翁之像」の背中が見えるのであろうか。四季折々の水辺の風景を眺められる庭園。隅田川と小名木川との合流地点に造られた庭園なので潮風が吹きつける絶景の場所に位置していた。そして庭園には石の椅子も所々に置かれていた。周囲には各種の案内板が並んでいた。「深川芭蕉庵俳誌『ホトトギス』明治42年1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866年)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建(こうけん)の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。」「深川芭蕉庵」。「俳人百家撰江戸の緑亭川柳が安政2年(1855)に刊行した『俳人百家撰』に掲載する図である。絵は、天保5年(1834)~天保7年(1836)に刊行された『江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を詠んだ古池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。」江戸の緑亭川柳が安政2年(1855)に刊行した『俳人百家撰』に掲載する図。「芭蕉翁略伝天保14年(1843)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記『芭蕉翁略伝』を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化2年(1845)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である」『芭蕉翁略伝』の挿絵。「芭蕉翁絵詞伝蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政5年(1793)に刊行した。図はその一齣で葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り・漆をかけて仕上げる。」葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。「深川八貧図蝶夢編の『芭蕉翁絵詞伝』の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(1688)12月17日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の7人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。(義仲寺蔵)」芭蕉庵に門人たちが集まり、句を詠んでいる場面。「俳諧悟影法師天保8年(1837)に鶏鳴舎一貫が著した『俳諧悟影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斎は、浮世絵師池田英泉である。構図は安永2年(1773)刊、小林風徳編『芭蕉文集』所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである。」『俳諧悟影法師』の巻頭に載せてある図。「埋木の花明和8年(1771)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから55年後の文政9年(1826)に、平一貞がその著『埋木の花』に実見記録したもの。「古池や」の句碑は、安永2年(1773)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在江東区芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑は其の模刻である。」深川要津寺の芭蕉庵。「芭蕉文集安永2年(1773)に、小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この日とは芭蕉を敬愛すること篤く、『句餞別』の編者でもある。」『芭蕉文集』に掲載されている図。「芭蕉庵再興集明和8年(1771)に、大島蓼太が、芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄末斎長喜。」『芭蕉庵再興集』所載の図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.27
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江東区清澄1丁目2の「本邦セメント工業発祥の地」を後にし、来た道を戻ると「清澄排水機場」が正面に。「清洲橋」まで戻ると、橋の付け根似合ったのが「明治維新百年記念碑」。明治天皇御製「いかならむ 時にあふとも 人はみな 誠の道を ふめとをしへよ」「この記念碑は明治100年を記念して菅沢運勇氏(当時町会長)の提唱により町会役員並に町会員各位一同の協力により建立した。石材は福島県三の輪山(安達太郎)麓の土湯荒川石を搬出したもので明治神宮權宮司伊達 巽殿の揮毫による明治天皇御製であり、この御製を当町会の全員で元旦の祝賀式その他総会等町会の皆さんが集まる機会のある度に必ず合唱し明治時代を忍び将来の私共の指針として心に刻むと共に後世に伝えるものである。総工費¥364,000 で町会役員及福島県安達町の菅沢伝氏並に町の方々の奉仕により総て実費で完成した。昭和43年(1968)11月3日除幕式当時の町会役員町会長 菅沢運勇副会長 谷田貝三之助 亀本時男会計 石塚豊治役員 田村千代治 飯高勝次 牧野松三 堺喜三郎 牧野治郎意 石福善治郎 深谷真平 伊林庄蔵 倉持忠造 戸井田富雄 芦沼幸太郎 谷田貝いちの 菅沢けさのこのプレートは田村千代治氏町会役員勇退の節寄贈されたもので昭和53年(1978)9月プレート作製時の町会役員町会長 石塚豊治副会長 堺喜三朗 牧野治郎意会計 菅沢運一役員 亀本時男 石福善治郎 倉持忠造 伊林庄蔵 菊地一三 深谷真一 田村通敏 石塚なを子 堺綾子 石福君子」清洲橋通りを東に戻ると「江東区」のポールの手前に白いボードが。「江東区登録史跡 陸奥宗光宅跡陸奥宗光 は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(1844)、和歌山藩士伊達宗弘(千広)の第六子として生まれ、明治三十年(1897)、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。父宗広は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へでました。文久二年(1862)に脱藩し、京都で尊王攘夷 運動に加わり、のち坂本龍馬の海援隊 に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治一〇年(1877)、西南戦争 に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は外務省に入り、明治二三年(1890)、第一回衆議院選挙で当選、第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。宗光が深川清住町(現清澄)に在住したのは明治五年(1872)から同一〇年(1877)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。この邸宅は、墨田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼」と呼ばれていました。」そして「万年橋通り」に入り、路地を右に曲がると左手にマンションが。ここが「北の湖部屋」跡。1985年(昭和60年)1月場所限りで現役引退した横綱・北の湖は、一代年寄・北の湖を襲名し、同年12月1日に三保ヶ関部屋から分家独立して北の湖部屋を創設した2015年11月に日本相撲協会前理事長の北の湖親方(元横綱)が死去したため、部屋の名称が「山響部屋」に変更された同部屋の看板が25日、これまでの「北の湖部屋」から「山響部屋」に掛け替えられたと。そして2017年4月29日に江東区東砂6-6-3に移転したと。ビルの壁には「横綱 北の湖」の土俵入りの姿が。「万年橋通り」を北に進むと前方に「萬年橋」の姿が現れた。「小名木川第一橋(川口の橋)。現橋は、昭和5年に架けられた長さ56.4m×幅11mの鋼橋アーチ橋だが、それ以前は木橋だった。万年橋の創架年は明らかではないが、区内の最も古い橋の一つ。寛文十一年(1671)の江戸図には載っている。恐らく小名木川が開鑿されたと同時に架けられたろう。松尾宗房(桃青→芭蕉)が深川へやってきた延宝八年(1680)の江戸絵図には「元番所橋」と記されている。橋の北側に船の動向を監視する船番所があったからだ。万年橋は太鼓橋で虹形をしていた、真ん中が丸く高かったので富士見橋で、富士山が美しく見える名所だった。安藤広重の名作「江戸名所百景」にこの橋が取材され、「亀は万年」の言葉から、橋の手前に大きく、桶の取っ手にぶら下げられた亀を描き、遠くに冨士が描かれている。また葛飾北斎の名作「富獄三十六景」には「深川万年橋下」と題して、万年橋の虹形の橋を」大きく扱い、遠くに富士山を描いた錦絵がある。」手前の「深川萬年橋南」交差点を右折して進むと左側にあったのが「高田川部屋」👈リンク。1974年(昭和49年)3月場所に現役を引退して高砂部屋の部屋付き親方となった年寄・8代高田川(元大関・前の山)が、同年4月に内弟子8人を連れて高砂部屋から分家独立して高田川部屋を創設した。8代高田川は小結・前乃臻や剣晃、幕内・鬼雷砲などといった関取を育て上げた。そしてその隣りにあったのが「尾車部屋」👈リンク。1985年(昭和60年)11月場所限りで引退して佐渡ヶ嶽部屋の部屋付き親方となっていた年寄・8代尾車(元大関・琴風)が、1987年3月23日付で5人の内弟子を連れて佐渡ヶ嶽部屋から分家独立して尾車部屋を創設した。以降、関脇・豪風や関脇・嘉風など現在までに10人の関取を輩出している。師匠の現役時の四股名から取った「風」という字が付けられた力士が多い。2005年(平成17年)4月には閉鎖された押尾川部屋から17代押尾川(元大関・大麒麟)・11代不知火(元関脇・青葉城)および所属力士6人と床山1人を迎えた。2014年1月21日には11代中村(元関脇・琴錦)が佐渡ヶ嶽部屋から移籍して部屋付き親方となった。11代中村は2016年1月に19代朝日山へ名跡変更し、同年6月1日に内弟子3人を連れて朝日山部屋を独立した。そして「尾車部屋」の「小名木川」沿いの遊歩道を「萬年橋」方面に戻ることとした。前方に巨大な水門が見えた。「小名木川」でカヤックを楽しむ方の姿が。カヤックは水門を通過して進む。この水門の名は「新小名木川水門」と。小名木川(おなぎがわ)は、東京都江東区の北部を東西に横断し、隅田川と旧中川を結ぶ運河(人工河川、水路)である。江戸時代初期に徳川家康の命令で建設されたものであり、全長 約5km。しかしこの遊歩道も行き止まりであった為、「高橋」まで戻ったのであった。前方に「高橋」が見えた。全長43.8mの橋。「高橋」を渡る。「小名木川」の表示版。そして「高橋」を渡り終えると左側の桜の樹の下に白いボードが。「江東区登録史跡 二代目 中村芝翫宅跡(江東区常盤ニ~十ニ~一四)歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政八年(一七九六)江戸下谷に生まれ、嘉永五年(一八五ニ) 二月一七日に五七歳で没しました。はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち後子)になり、藤間竜三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化一〇年(一八一三)に中村鶴助と改名、文政八年(一八三五)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役、実悪、女方、武道、荒事など、さまざまな場面で活躍し、天保七年(一八三六)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫新河岸」と呼ばれました。天保二年(一八三一)に江戸の中村座で「六歌仙」を演じた時、喜撰法師(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、「我が庵は芝の辰巳常盤町、而も浮世を放れ里」と住居付近の様子をおりこんでいます。」そして「小名木川」沿いを下流に向かって進むときれいに咲いた樹木に出会う。クマツヅラ科の「デュランタ」。「デュランタ」は藤色や白の小花が集まって房状に垂れ下がって咲く人気の熱帯花木。”タカラヅカ(Duranta‘Takarazuka)”という濃紫色に白い縁取りが入る美しい品種。そして「萬年橋通り」に出て左折すると前方に「萬年橋」が再び現れた。芭蕉関連施設の案內表示。「萬年橋」の袂に休憩ベンチがあった。ここは「川船番所跡川船番所(かわふねばんしょ)は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624~1644)にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。」「万年橋」案内板。「万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として配されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~73)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。」「北斎作 冨嶽三十六景 深川万年橋下」。「ケルンの眺め」「ケルンの眺めここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。この場所からの眺めが一番美しいといわれています。」そして「万年橋」。「隅田川テラス案内図」と現在地。再び隅田川に架かるケルンの眺め・「清洲橋」を見る。「大川端芭蕉句選しばの戸に ちゃをこの葉かく あらし哉」。隅田川に架かる「新大橋(しんおおはし)」が前方に。新大橋は、東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。●構造形式 2径間連続斜張●橋長 170.0m●幅員 24.0m●着工 昭和51年(1976年)●竣工 昭和52年(1977年)3月27日「新大橋、清洲橋」案内地図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.26
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「深川江戸資料館」を後にして、横の道を北に進み東京都道474号浜町北砂町線に出てここを左折し隅田川方面に向かう。右手の道路の反対側に石碑を見つける。「干鰮場跡(ほしかばあと)」碑をズームで。「干鰮場はいわしを乾燥したもので江戸時代から重要な肥料であった。寛永のころ関西地方の漁民が銚子付近の海岸で干鰮をつくり、江戸へ輸送するようになった。江戸の干鰮取引きははじめ中央区方面であったが元禄13年から小名木川にそった白河小学校付近に干鰮の荷揚場がおかれこれを干鰮場といった。またここを銚子場ともいった。干鰮場はこのほか永代に永代場、深川2丁目に江川場があった。」そして更に進むと左手奥にあったのが「江月院」。このビルが「浄土宗 江月院」。浄土宗寺院の江月院は、江東区清澄にある寺院。江月院は、正蓮社観誉吟察(元和4年1618年寂)が本誓寺の子院として創建したと。金色の「ふれ愛観音」が出迎えてくれたが、見学はここまでであった。そして細い路地を左手に折れ「清澄庭園」方面い進み次に訪ねたのが「浄土宗 常照院」。ここは墓地の入口。墓地内部。こちらが「浄土宗 常照院」山門。参道を進み「本堂」へ。浄土宗寺院の常照院は、江東区清澄にある寺院。慶長年間に開山以来、400年続いている寺院で本尊は阿弥陀如来立像。「常照地蔵」。そして次に訪れたのが「瑞甕山臨川寺(ずいおうさんりんせんじ)」。臨済宗妙心寺派の臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可されました。平成26年(2014)年5月に栗生明氏設計により新本堂が完成。延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は二歳年上の仏頂禅師の人柄に感服し、足繁くこの寺に参禅するようになった。芭蕉庵と呼ばれた草庵が、臨川庵とほんの500mほどしか離れていなかったことも、二人の交流を深める助けとなったのだと。芭蕉庵は新しい俳風を模索する一門の拠点となっていった。号を桃青から芭蕉翁と改めたのも頃のこと。禅味が加わった芭蕉の作風は、従来見られなかった高い精神性を俳句の世界にもたらし、文芸としての価値を世間に知らしめた。臨川寺には「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残され芭蕉ゆかりの寺として知られているのだと。「梅花仏碑」梅花仏とは、蕉門十哲の一人である各務支考の諡号(しごう)。京の雙林寺にある鑑塔を写して建てられた。各務を鏡に擬え、円形をしている。「墨直しの碑」芭蕉の門人である各務支考が、師の十七回忌にあたる宝永七年(一七一〇)に、京の雙林寺に建立した石碑を写したもの。雙林寺は芭蕉が敬愛してやまなかった西行法師縁の寺である。毎年三月には墨直会(碑を洗い浄めて彫字通りに墨を入れ直し、然る後、法会を営み句会を催す)が行われていたことから、「墨直しの碑」と呼ばれている。「芭蕉由緒の碑」「墨直しの碑」の写しと梅花仏碑が臨川寺に建立された由来を記したもの。名が刻まれた文化坊応一、以中坊待買、礎石坊四睡の三名は神谷玄武坊の弟子で、白山下連中に所属した人々と思われるが、経歴などは不詳。「玄武仏碑」「墨直しの碑」を臨川寺に建立した神谷玄武坊を記念する碑。文化年間(一八〇四~一八一八)に建てられたと思われる。当寺にある石碑の中で、震災や戦災の被害を乗り越え、江戸時代から残った唯一のもの。「江東区登録有形文化財(歴史資料) 玄武仏碑 清澄三-四-六臨川寺は、承応二年(一六五三)鹿島根本寺(茨城県)第二〇世の冷山宗仙和尚が小名木川に近い現在地に結んだ臨川庵に始まり、仏頂河南和尚(根本寺第二一世)が幕府に願い出て、正徳三年(一七一三)に「瑞甕山臨川寺」という山号寺号を許され、京都妙心寺の末寺となりました。延宝八年(一六八〇)に深川に移り住んだ松尾芭蕉は、仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。芭蕉の号「桃青」も仏頂和尚によるものといわれています。以来、芭蕉ゆかりの寺として玄武仏碑をはじめ、梅花仏碑・墨直しの碑・芭蕉由緒の碑などが残されています。玄武仏碑は、美濃派の俳人神谷玄武坊(玄武仏、寛政一〇年〈一七九八〉没)を顕彰するために門下の白山下連中が建てたものです。延享(一七四四~四八)のはじめ、玄武坊は芭蕉門下の各務支考(梅花仏)が京都双林寺に建てた芭蕉墨直しの墨跡を写した碑を臨川寺に建て、毎年三月に墨直会を催して芭蕉をしのんだといわれています。また玄武坊は梅花仏碑も建てたといわれ、芭蕉と美濃派の顕彰に尽くしました。」永代供養塔。「水子地蔵尊」。「臨川寺」を後にし、都道474号線の「中村学園北」交差点を北に渡る。進んでいくと右手にあったのが「錣山部屋(しころやまべや)」👈リンクの建物。「2002年9月場所限りで現役を引退して、以降は井筒部屋の部屋付き親方となっていた年寄・20代錣山(元関脇・寺尾)が、2004年1月27日付で2人の内弟子を連れて井筒部屋から分家独立して錣山部屋を創設した。2006年12月に東京都江東区に部屋を構えた。現役時代に人気力士だった親方の部屋ということで、部屋創設1年で所属力士が10人を越え、現在では17人が所属する中規模な部屋となっている。2006年1月場所において豊真将が新十両へ昇進し、部屋史上初となる関取が誕生した。2013年7月場所には青狼が新十両へ昇進した」とウィキペディアより。残念ながら、お相撲さんの姿は見る事が出来なかった。そのまま進むと路地の交差点にあったのが「深川稲荷神社」。「深川稲荷神社(布袋尊)由来深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創建と伝えられています。以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。関東大震災(1923)の後の区画整理により町名が変更し、昭和27年頃から深川稲荷神社となりました。深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」「社殿」。「明治百年記念深川稲荷神社は祭神宇賀魂命にて。寛永七年の創立にして当町会の地域が古い町であることを示している。大正十二年の大震災後の区画整理により町名が一変した。清住町西大工町伊勢崎町の各一部を合併して清澄町二丁目が出来た。清住町は寛永六年弥兵衛という人が開発し弥兵衛町と称したが、元禄八年清住町と改めた。西大工町は慶長のころ海辺新田といい、小名木川の河港として栄えたところで舟大工が多く住んでいたので深川海辺大工町とも称されたが明治六年西大工町と改められた。伊勢崎町は元木場の一部で神田京橋の材木商の貯木場であり又川舟組の住居もあった。当町の半分は幕末まで久世大和守の屋敷であった。明治初年頃には近代郵便制度の創始者前島密が住んでいた。明治十三年岩崎弥太郎がこの地を入手して深川親睦園を造り名園とした。之が現在の清澄庭園である。大震災後当町に属する所は埋立られ市街地となった。現在三野村合名会社の附近は幕末から明治初年三井家の代表として財界に活躍した三野村利左ヱ門が住んだ邸宅の跡である。中村学園は中村清蔵が明治三十八年小名木川畔に開校し明治時代深川に於ける女子教育の唯一の学校で大震災後当地に移転した。ここに明治百年を記念して当町の沿革を記し早くから発展してきた由緒ある町であることを伝えるものである。」そして次に訪れたのが「大嶽部屋・大鵬道場」👈リンク。部屋の正面玄関には縦看板の「大嶽部屋」、横看板の「大鵬道場」の2枚の看板が掲げられていた。二所ノ関部屋(元大関・佐賀ノ花)所属の横綱・大鵬が1969年(昭和44年)5月場所に史上初となる30回目の優勝を達成。この功績を讃えて同年9月場所初日に日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。大鵬は1971年(昭和46年)5月場所限りで引退し、一代年寄・大鵬を襲名。同年12月に十数名の内弟子と花籠部屋所属の12代大嶽(元前頭・花光)を引き連れて二所ノ関部屋から分家独立して大鵬部屋(たいほうべや)を創設した。その経緯については「大嶽部屋」👈リンクを参照願います。この道路は「横綱通り」と呼ばれているようだ。都道474号線に戻り「現在地」はここ。更に西に進む。前方に万年橋通りとの交差点が。前方に見えて来たのが「清洲橋」。「清洲橋由来清洲橋は、関東大震災後の復興計画に基づき、昭和3年( 1928 )に架けられました。長さ186.22m、幅22mのつり橋。深川区清住町と日本橋区中洲町を結んだところから名づけられました。ドイッケルン市のライン河に架かるつり橋をモデルとした優美な曲線をもっこの橋は、大正期に活躍した版画家、川瀬巴水の作品にも多く描かれています。」「隅田川テラス」と書かれた石柱。「隅田川テラス」とは、堤防を補強する護岸基礎を親水施設として開放した場所。現在、「隅田川テラス」は隅田川の両岸約47㎞の内、約28㎞の区間で整備され都心の貴重な水辺空間として、多くの人々に利用されているのだと。「清洲橋」の見事な曲線美。広幅員の三径間自碇式(じていしき)補剛吊橋である。橋脚及び橋台は鉄筋コンクリート造で,上部構造は,塔柱から吊された吊鎖(ちょうさ)を橋端部において主桁と連結し,吊鎖と主桁を吊材(つりざい)で繋いでいる。清洲橋は,内務省復興局が探求した力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現している。また,材料,構造形式及び工法に当時の最先端技術を駆使しており,昭和初期を代表する吊橋として重要である と。隅田川の永代橋方面を見る。対岸中央に「ダイワリバーゲート」ビル。隅田川に沿って永代橋方面に進むと左手の駐車場の横にあったのが「平賀源内電気実験の地」碑。「源内は享保十三年高松藩小吏の家に生れ和洋の学を勉学し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かず かずの発明工夫をなし神霊矢口渡の戯作者でもある。源内はわが国最初の電気学者にて安永五年エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄一丁目私宅にて電気実験を行い同八年五十一歳で没した。」場所は(株)読売新聞社東京本社の駐車場であろう。「かみのはし」と刻まれた親柱が。「上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。本橋は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱4本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。」この手前を左折して進む。左手に人物像が。「浅野セメント(現太平洋セメント株式会社)の創設者初代社長 浅野 総一朗翁 像」「江東区史跡 セメント工業発祥の地当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治8年、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治16年、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を逐げました。」その先、左手にも碑が。「本邦セメント工業 発祥之地」碑。「此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ 同七年工部省ノ所管トナリ深川製作寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ 明治十年一月深川工作分局ト改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同十六年四月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場ト称スルニ至ル 明治三十一年ニ月浅野セメント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同三十六年十一月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ 大正元年十月組織ヲ改メ株式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ同時ニ又当社発祥ノ地タリ仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス」コンクリートブロックが2種類。「明治27年に製造されたコンクリートプロック」「明治27年に製造されたコンクリートプロック明持2 2 ( 1889 )年~ 2 9 ( 1896 )年に行われ横浜港築港工事で、その防堤基礎用として明治27 ( 1894 )年に製造して海中に沈設され、昭和6 ( 1931 )年同港改築に際し引き上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ボルトランドセメントを使用したもので、配合はセメント:砂: (砂利と小割栗石)が1 : 2.8 : 5.2 (容積比)、水セメント比は40 %程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。」「フレットミル粉砕機ローラー日本初のセメント工場である工部省深川工作分局時代からのセメント製造設備。同工場は明治16年に当社の前身である後の浅野セメント株式会社へ払い下げられた。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.25
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深川江戸資料館内の深川佐賀町下之橋際という隅田川沿岸の長屋を再現した街並みの散策を続ける。「案内図」。「長屋の住人紹介三味線の師匠 於し津読み書き、手習い、裁縫もおしえています。」「長屋の住人紹介春米屋の職人 秀次妻と小さな子供の三人暮らし。」「長屋の住人紹介棒手振(ぼてふり)政助 あさり、しじみのむきみを天秤棒で売るのが仕事。」そして長屋の先にあったのが、長屋の住民の共同スペースで、井戸、便所、ゴミ溜め、稲荷があります。」「春米屋土蔵」。「八百屋」を反対側から再び。企画展「江戸のまんが」コーナーへ。江戸時代のまんがは、戯画や鳥羽絵、ポンチ絵などと呼ばれ、その時代を多角的に描いた絵のことを指します。本展示ては、「人物戯画」や大津絵をはじめとして大津絵をはじめとした鳥羽絵や戯画、風刺画を中心に、江戸のまんがを紹介していた。また、そこに描かれている世情や庶民の生活の様子などを取り上げて展示中であった。展示コーナー。「北斎漫画」「北斎漫画」とは、1814年(文化11年)、北斎が55歳のとき、3700図余りの下絵をもとに、版元の永楽屋東四郎より刊行した画集です。その後、1878年(明治11年)までに15冊が発行されました。約4000図の中には、人物や、風俗画、動植物、妖怪にいたるまで、多彩な図柄が含まれており、フランスの印象派など海外の芸術家へ影響を与えたことでも知られています。「広重の描く戯画」。「庶民のなぞなぞ」。「安政の地震~鯰絵~」。地震の原因とされていたナマズを懲らしめる様子が描かれていたり、幕末に描かれた作品では、」こどもの鬼遊びに見立てて幕府軍と新政府軍の争いを描くなど、当時のユーモアを感じることもできます。「絵で見る江戸の庶民の暮らし」。①壁にむだがきする小僧。②子ども衆をよく遊ばせる小僧。①主人のこどもをしかる小僧。②主人のこどもを大切にする小僧。①坊っちゃんとすもうをとる小僧。②湯屋ですもうをとる小僧。①宿入りにばかり早起きする小僧。②ねぞうのいい小僧。「芭蕉句碑」「芭蕉句碑割烹「はせ甚」久保田氏寄託「古池やかわず飛ひこむ水の音」の句は、あまりにも有名です。この句は、貞亨3年(1686年)春、芭蕉が住んでいた第二次芭蕉庵(常磐1-6=現芭蕉記念館付近)で詠まれたものです。この碑の製作年代や製作の理由などは刻銘がなく、わかりませんが、彫りの形態は、かなり古いもののように見うけられます。」「古池やかわず飛ひこむ水の音」。家紋のついた「着物」。「染織(紋章上絵) 家紋 渦巻波 石合信也」。上絵筆と渋紙(またはセロファン)に刻まれた紋型を用いて着物などに家紋を描く技術です。描き方は、着物の生地の白く抜かれた場所に紋を描く方法と、色生地の一部を白く抜いてから描く方法の2通りがあります。再び「火の見櫓町を火事から守るための建物で、最上層には半鐘がつるされており、火の手が上がると番人がこれを鳴らして町に知らせます。」再び「掘割ゾーン」を見る。「掘割ゾーン」は、深川の油堀をイメージして再現されていた。堀に面して2軒の船宿が店を並べている。手前の船宿「升田屋」は、堅い商売をしていて2階は組合の人たちの会合・宴席の場として貸し出たりするが、奥の「相模屋」の方は、男女の密会用に2階を貸し出しているという設定だと。猪牙船(ちょきぶね)。上り階段途中から長屋の風景を再び。そして一階、受付前の「横綱大鵬顕彰コーナー」へ双葉山と並ひ、昭和を代表する大横綱「大鵬」。優勝は史上2番目の32回。2度の6連覇をはたすなど、前人未到の記録を残しました。大鵬こと納谷幸喜氏は永年江東区に住み、名誉区民第一号となっています。また、没年の平成25年には、その功績により国民栄誉賞を受賞しました。このコーナーでは、化粧まわし、優勝賜杯のレプリカ、手形・サイン、写真、髷などのゆかりの品々を展示し横綱大鵬の足跡をたどります。」「江東区名誉区民 称号記」。「横綱推挙状」。その下に「断髪時の髷」が。「横綱・大鵬の手形(実物大)」。「略年譜」。「横綱大鵬の記録」。「化粧まわし」。「横綱大鵬の軌跡」。そして「売店」コーナー。外に出て「深川江戸資料館」の建物を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.24
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「霊巖寺」を後にし、深川資料館通りを東に向かって進む。左手にあったのが「深川江戸資料館」。「江東区 深川江戸資料館」石碑。江東区深川江戸貞料館は、江渡時代に関する資料等を展示及び収集、保存するとともに、区民の集会の場を提供することにより、文化の振興と向上を図るにめに設置されに施設てす。江戸時代末(天保年問)の深川佐賀町の街並みを実物大て再現しており、一日の移り変わりが音響・照明などて情景演出されるほか、お店や長屋に実際に上がって生活用具などに触れられる「体感型」の展示室に加え、小劇場とレクホールを備えた文化施設としての機能も担っています。「企画展 江戸のまんが」が開催中。1Fのロビー展示。資料館の中に入ると、まずは深川にゆかりのある人物と歴史が紹介された展示室が。 伊能忠敬や山東京伝など、数々の偉人が垂れ幕で解説されていました。「伊能忠敬(いのうただたか)日本ではじめての実測地図を製作(1745~1818)上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれ、十七歳のとき、佐原(佐原市)で酒造業を営む伊能家へ婿養子として入りました。寛政六年(1794)五十歳で家督を譲り、翌年江戸へ出て深川黒江町に住みました。江戸では幕府天文方高橋是時に入門し、寛政十二年には蝦夷地への測量に出発します。以来、忠敬の全国測量は十七年間で十次にわたりました。測量に出かけるときは必ず富岡八幡宮に参詣したといわれ、忠敬の没後、高橋是保らによって「大日本沿海輿地全図」が完成しています。「山東京伝。山東京伝は岩瀬伝蔵といい、江戸後期の戯作者でした。深川木場に生まれ十三氏で父親とともに京橋へ転居し、「京橋に住む伝蔵」をから京伝と名乗りました。十七歳で最初の黄表紙作品を出版し、狂歌・洒落本へ領域を広げ、天明二年(1782 )に発表した「御存知商売物」で名をあげました。新吉原を舞台にした洒落本を多く著しましたが、寛政改革ではその著作が取締りを受け、寛政三年( 1791 )には手鎖五十日の刑を受けました。一方、北尾重政のもとで浮世絵を学び、北尾政演の名で絵師しても活躍し多彩さを発揮しました。「佐久間象山塾から多くの人材を輩出(1811~1864)信濃国(長野県)松代藩真田家の家臣。松代城下で生まれ、天保l十三年(1842 )西洋砲術を学ぶため江川太郎左衛門(坦庵)に入門しました。嘉永三年(1850 )七月からの半年間、深川の松代藩下屋敷で西洋砲術塾を開き、勝海舟や函館五稜郭の設計者武田斐三郎などが学びました。木挽町(中央区)に塾を移してからは、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之らも入門しており、象山の門下からは、幕末・明治を彩った多くの人材が輩出されています。元治元年(1864)幕府の命により京都へ上りましたが、尊王攘夷派に暗殺されました。」「伊東甲子太郎深川の道場主から新選組幹部へ(1835~1867)甲子太郎は元鍮木姓で、深川の北辰一刀流伊東誠一郎の道場に入門し、誠一郎の没後、その娘を妻として道場を継ぎました。伊東道場には塾生が十人ほどいたといわれています。元治元午( 1864 )弟の三樹三郎らとともに、新選組に加わるため京都へ上りました。慶応三年( 1867 )三月、近藤勇と意見が合わず脱隊し、孝明天皇の御陵衛士(高台寺覚)となりました。深川の道場主から新選組を足がかりとして政治の表舞台に出た伊東でしたが、同年十一月、新選組によって殺害されました。享年三十三歳。」「四世 鶴屋南北「東海道四谷怪談」の作者(1755~1829)南北は日本橋乗物町(中央区)で紺屋の型付職人の子として生まれました。作者を志し、安永六年( 1777 )に桜田兵蔵として初めて中村座に名がでました。その後、沢兵蔵、勝俵蔵と名を改め、早替わりや仕掛物を駆使した『天竺徳兵衛韓囃』で大当たりを取り、作者としての地位を確立しました。文化八年(1811 )に義父から鶴屋南北を襲名し、四世を名のりました。『於染久松色読販』などの傑作を世に出しました。代表作である『東海道四谷怪談』では深川三角屋敷や砂村などが場面になっています。南北は最晩年を当地で過ごし、黒船稲荷社境内の家で没しました。」「七代目 市川団十郎歌舞伎十八番を制定(1791~1859)七代目団十郎は五代目の孫に当たり、寛政十二年(1800)わずか十歳で団十郎の名蹟を継ぎました。体格は小柄でしたが才能があり、様々な役をこなして絶大な人気を集めました。初代団十郎以来の当り役を調べて、歌舞伎十八番を制定したことでも知られています。市川家は四代目が深川島田町に住んでからここを住居とし、「木場の親玉」と呼ばれ親しまれていました。七代目はその住まいや使用している調度・道具が贅沢であったことなどが天保の改革の倹約令に触れ、約七年間江戸十里四方追放に処せられたこともありました。」「隅田川風物図屏風(すみだがわふうぶつずびょうぶ)」右隻鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし) 文政9年(1826)隅田川に弧を描いて架かる大きな橋は、隅田川の流れのアクセントとなり、さまざまな人が行き交う橋の上の様子は格好の風俗画の画題となっていた。深川は大川(今の墨田川)を中心に細かく掘割がされている事がよく理解できたのであった。この導入展示を出ると、次は常設展示。階段を下りた下に、江戸の街並みが再現されていた。 屋根には猫がおり、時々泣き声が聞こえてくるのであった。そしてこの猫の頭が動いているのであった。 深川佐賀町下之橋際という隅田川沿岸の長屋の街並みと。時代は天保年間末期(1830年代末)を想定していると。 「長屋の街並み」案内図。八百屋には多くの野菜が並んでいた。ニンジン、ナス、キュウリなど現在でもおなじみの食材が並んでいた。まるで本物の如し。ボランティア説明員のオジサンの姿も。青い照明で夜を再現。春米屋「上総屋」。米問屋から米を仕入れて庶民に売っています。唐臼という器械で精米します。正面に木戸が。この日は満月。「相模屋」。「御船宿 升田屋」。火の見櫓。深川の船宿を再現した場所。猪牙舟(ちょきぶね)は本物の水の上に浮かんでいた。天麩羅屋も。 当時は天麩羅はファーストフード?「長屋の住人紹介木場の木樵職人「大吉」妻と二人暮らし。壁には商売道具の大鋸がかかっています。」「長屋長い家を壁で仕切っただけの庶民の住む家。江戸では多くの人々が長屋住まいでした。」「長屋の主人紹介船宿の主人紹介 松次郎猪牙舟や荷船を扱う船頭。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.23
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そして「清澄庭園」を後にし、すぐ左手にあったのが「本誓寺(ほんせいじ)」の山門。「本誓寺」山門まえにあったのが「村田春海の墓」碑。「春海は延享三年江戸の代々富有な干鰯問屋に生まれ加茂真淵の門に入り古学を修め父の春道、兄春郷とともに国文学和歌の道にすぐれ門人に学者を多く出したが文化八年二月十三日六十六歳にて死去し本誓寺に葬られた」「東京都指定旧跡 村田春海墓所在地 江東区清澄3丁目4番 本誓寺墓地指定 昭和18年5月江戸時代中期の国学者で歌人。日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享3年(1746)に生まれた。父春道、兄春郷はるさととともに賀茂真淵の門人で著名な国学者であった。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の研究に造詣が深く、歌人としては加藤千陰かとうちかげとともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられた。門人に清水浜臣しみずはまおみ・小山田おやまだ(高田)与清ともきよ・岸本由流きしもとゆずるらがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれる。『琴後集ことじりしゅう』『歌かたり』『和学大概わがくたいがい』など多数の著書がある。文化8年(1811)2月13日66歳で死去した。墓石に楷書かいしょで平春海先生墓とある。」そして「本誓寺 本堂」。浄土宗寺院の「本誓寺」は当智山重願院と号す。本誓寺は、小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より文禄四年(1595)八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったといいます。慶長11年(1606)馬喰町上町へ、天和2年(1682)当地(深川大工町)に移転、元禄12年(1699)には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったといいます。明治6年(1873)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であったといいます。コンクリート造の本堂。装飾性は廃されていますが、基壇の上に円柱が並ぶ本堂。扁額は「當知山」。欄間は年代を感じさせる、スチールサッシの細い桟の枡格子。中央に浄土宗の宗紋の「月影杏葉」のメダリオン。「本堂内陣」。右手に祠に入った石仏像が。「石造迦楼羅立像」。「石造迦楼羅立像像の石質は花崗岩で、丸堀りに近い浮彫りである。横笛を吹き、甲冑をつけて立つ。口ばしを有し、二臂、二翼、三叉の火炎光背をもつ。朝鮮・高麗時代の作と推定されるが、その渡来の時期などの来歴は不明である。「カルラ」はgaruda(ガルダ)の音写でインド神話上の架空の大鳥、理想化された霊鳥である。四天下の大樹におり、龍を常食とし、羽は金色で両翼を広げると336万里(1344万km)あるという。大乗仏教では、仏法を守護する天龍八部衆(二十八部衆)の一つとされ、火害・疫病を除き、幸福を与えるといわれる。密教では、娑婆世界を主宰する梵天・大自在天の神々が衆生を救うために化身したものといい、また文殊菩薩の化身ともいう。この迦楼羅の信仰は東南アジアを中心に広くアジア各国に広がっており、インドネシア・タイにおいては国家の象徴である国章にされている。ちなみに「ガルーダ・インドネシア航空」の名称もこれに由来している。降魔、病除、延命、祈雨、止風雨、航空安全などの御利益がある。寺務所。観音立像。石碑の文字は?手水場には鬼?が。本誓寺&常照院の共通参道。本誓寺墓地の入口。「明人 呂一官先生菩提所」碑。「呂一官の墓呂一官は明(中国)に生まれ、日本に帰化した人である。一官は漢方医で、薬草・香木などの研究に大変優れていた。はじめ京都にいたが、徳川家康の招きで浜松に居住し、その後家康の侍医として江戸へ移った。日本橋に屋敷地を賜り、元和元年(1615)に「紅屋」という屋号の店を構え、紅・白粉などを製造販売し、たちまち評判となった。元和九年(1623)十月十日に没した。戒名は「迎誉来相信士」。過去帳によると「元祖唐人辻一官」とあり、5代目から「堀氏」を名乗っている。文政五年(1822)堀氏13代目の頃、近江上人外池字兵衛正保の子半兵衛正義が養子となり紅屋を継いだ。これが「柳屋」の創業といわれ、現在でも一官は柳屋業祖として祀られている。一官の墓は宝篋印塔で、本誓寺墓地の左奥角にある。」墓地の奥にあった宝篋印塔の「呂一官の墓」。次に訪ねたのが清澄通り渡った場所にあった「雄松院(おおしょういん)」浄土宗寺院の雄松院は、雄誉上人が開基となり、寛永4年(1627)霊巌寺の開山堂として創建したと。「山門」には「開山堂」とあり、その前には石碑が。「俳人 度会園女(わたらいそのじょ)の墓」碑。「園女は斯波一有の妻で大阪にすみ夫妻医業を営んでいた 園女は俳句を芭蕉に学び元禄七年芭蕉が大阪にゆき園女の宅で発病し十月十二日死去した 園女は夫の死後江戸に移住」門を入った右側に芭蕉の最後を見取った「度会園女の墓」。墓石には戒名と『度會氏園女之墓 享保十一年四月二十日』と刻まれていた。寛文4年(1664)に伊勢山田で生まれた園女は、医師・斯波(度会)一有の妻で夫とともに大阪に住み、俳諧を好み芭蕉の門人となりました。夫の死後、宝永2年(1705)に宝井其角を頼って江戸に出て、富岡八幡宮前で眼科医を営みました。桜を愛好した園女は、正徳の頃富岡八幡宮に36本の桜(すべて焼失)を植え奉納しました。享保11年(1726)に死去し、雄松院に葬られています と。「南無阿彌陀佛」碑。「本堂」。深川資料館通りを歩く。浄土宗の寺の多い三好一丁目が南に。右手に「正覚院」。浄土宗寺院の正覚院は、霊巌寺開山の霊巌上人が開山、尼崎城主櫻井家が開基となり、霊源寺の塔頭寺院として寛永6年(1629)に創建、明暦の大火後、霊巌寺と共に当地へ移転。関東大震災後、開善院、光明院を合併したと。「正覚院 本堂」。「稲荷社」。墓地入口には石仏が並ぶ。そして道路を隔てた隣りにあったのが「長専院 不動寺」。浄土宗寺院の「長専院」は、不動寺と号し、深川の出世不動尊として親しまれている。「長専院」は、德川四天王の一人榊原忠次(寛文五年没1665)が開基、命誉圓壽が開祖となり霊巌島に創建、万治元年(1658)に霊巌寺とともに移転、昭和3年(1928)に不動寺を合併したと。正面に「長専院」の「本堂」。「想像もつかない毎日が音立ててやって来る 一緒なら無敵の毎日が音を立ててやって来る」「コロナちゃん さようなら 願いを込めて 世界が平和でありますように」「長専院の本尊は、江東区指定有形文化財に指定されている「木造阿弥陀如来立像」。像高は75.6cm。三尺阿弥陀と称される来迎形式の阿弥陀如来立像です。右手は肘を曲げて掌を前に向けて立て、左手は掌を前に向けて下ろし、両手とも親指と人差し指を捻じ、右足をわずかに前に踏み出して立っています。この像の造像技法は、二材以上を規則的に接合して造る「寄木造り」、もしくは「割矧ぎ(わりはぎ)造り」です。眼は水晶をはめ込んだ「王眼」とし、表面の仕上げは、肉親部は金の粉末をニカワに溶かして塗る「金泥(きんでい)」、着衣には漆の上に金箔を貼る「漆箔(しっぱく)」が施されています。全体にバランスがよくとれた優作です。形姿と造像技法から、鎌倉時代後期(13世紀後半)の作例と考えられます。保存状態がよく、造立当初の姿をよく残していることは貴重です。」長専院の境内にある「梵鐘」。見事な竜頭が上部に。頭と頭の間、中央上部の突起は宝珠(ほうじゅ)。「木造阿弥陀如来立像 一躯」案内板。「木造阿弥陀如来立像長専院の本尊、像高は75.6cm。三尺阿弥陀(さんじゃくあみだ)と称される来迎形式(らいごうけいしき)の阿弥陀如来立像です。この像の造像技法は、「寄木造(よせぎづく)り」(二材以上を規則的に接合して造る技法)、もしくは「割矧造(わりはぎづく)り」(一木を前後または左右に割って、内部を刳り抜いてから彫刻し、接合する技法)です。眼は水晶を嵌めた「玉眼(ぎょくがん)」、表面の仕上げは、肉身には「金泥(きんでい)」、着衣には「漆箔(しっぱく)」が施されています。形姿と造像技法から、鎌倉時代後期(13世紀後半)の作品と考えられます。保存状態がよく、造立当初の姿をよく残していることは貴重です。」「コンロンカ(崑崙花)」。白い葉と思っていたのは白いがくとのこと。黄色い小さな花が星型でカワイイ、その名は「コンロンカ」。ハンカチの花という名で親しまれることが多いらしい。花の下に5枚のがく片があり、そのうち1枚だけ葉のように大きくなり白いのだと。境内の「石造五輪塔」(榊原式部大輔政倫墓)天和3年在銘。空・風・火・水・地輪のすべての四面に梵字が刻まれている。榊原政倫(まさとも)は、寛文5年(1665)に生まれ、4歳で家督を継いだ。姫路より越後村上15万石に転封された。延宝5年(1677)12月26日に従五位下式部大輔へ叙任したが、天和3年(1683)2月27日に19歳で没した。そしてこちらが「出世不動堂」。扁額「出世不動尊」。不動尊像は『出世不動』と名づけられている。「出世不動尊」の「山門」。深川資料館通り角にあった「浄土宗 長専院 出世不動尊」。そして次に訪れたのが、同じく深川資料館通り沿いにあった「霊巖寺」。「「霊巖寺」(松平定信墓)由来松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。この霊巌寺にある墓は、昭和3年に国の史跡に指定されています。」入口にあった「交通安全」を願うお地蔵さん。「浄土宗 靈巖寺」寺標。石柱「史跡 楽翁松平定信墓」。石仏群。「勢至丸さま」。左手に大きな石仏が。都有形文化財「江戸六地蔵」碑。「江戸六地蔵」は下記であると。札番山・院・寺号御本尊安置街道宗派住所備考1番海照山 普門院 品川寺水月観世音菩薩東海道真言宗醍醐派品川区南品川3江戸33観音2番洞雲山 東禅寺釈迦如来奥州街道曹洞宗台東区東浅草2 3番医王山 東光院 真性寺薬師如来中山道真言宗豊山派豊島区巣鴨3御府内88霊場4番霞関山 本覚院 太宗寺阿弥陀如来甲州街道浄土宗新宿区新宿2およそ5.5メートルの閻魔大王像5番道本山 東海院 霊巌寺阿弥陀如来水戸街道浄土宗江東区白河1 6番大栄山 金剛神院 永代寺歓喜天千葉街道高野山真言宗江東区富岡1地蔵像は再建されず新6番東叡山 寛永寺 浄名院阿弥陀如来 天台宗台東区上野桜木2永代寺の代仏銅造地蔵菩薩坐像 - 東京都指定有形文化財(彫刻)享保2年(1717年)に造られた、江戸六地蔵の5番目。像の高さは、2.73m、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵の第五番として、享保二年(1717)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。蓮台には数ヶ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また顔や肩などには金箔が残っている。水戸街道沿に鎮座。享保2年(1717年)に建立された第五番の地蔵で、斜めにかぶった中型の笠が特徴。他の地蔵より手の指が長く、左手の指は4本くっついていると。欠けて穴の開いた台座からはいくつもの災禍を乗り越えてきた歴史を感じることが出来ると。「銅造地蔵菩薩坐像江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった『刊本江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中6か所に地蔵菩薩をそれぞれ1ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は、廃仏毀釈で取り壊され、5軀が残っています。 霊巌寺の六地蔵は、第5番目で享保2年(1717)に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、4本の指が密着した形になっています。像高は、273cmあり、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っています。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。」「本堂」。扁額「靈巖寺」。「松平定信の墓」入口門。「松平樂翁公霊域」。「松平定信(1759年〜1829年)」は「第8代将軍徳川吉宗」の「孫」に当たり「江戸時代中期」に「大名(陸奥白河藩第3代藩主)」「老中(11代将軍徳川家斉)」を務め「寛政の改革(緊縮財政、風紀取締り)」を行ったことで知られている。定信の墓所は、本堂に向かって左側の墓域内にあったが、平素は墓域の入り口の門には鍵がかかっているようで遠目にしか見られなかった。定信の墓は正面の角柱塔で、その周囲には久松松平家の藩主一族や夫人の墓もあるとのこと。(定信以外の久松松平家の歴代当主の墓は、最後に領地となった桑名にある)。霊巌寺は江戸時代には他にも多くの大名の菩提寺であったが、戦後の区画整理などによって墓域は失われ、墓地内の一角にわずかに当時の石塔が残るのみである。こちらにも。今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名のお墓もここにあるようだが。「史跡 松平定信墓松平定信(1759年〜1829年)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。天明七年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。また朱子学者でもあり、「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。」奥にあった「六地蔵」。「清安院殿 心誉受法信尼」と刻まれた石仏が壁沿いに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.22
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前方の丸太門を潜り対岸の自由広場に進む。前方に石碑と案内板が。「芭蕉句碑」庭園の南隅、深川図書館に近い広場の芝生の隅にあった高さ1m、幅2mの大きな自然石に刻まれていた。「古池や かはず飛び込む 水の音」「「古池の句」碑由来当庭園より北北西400mほどのところに深川芭蕉庵跡(江東区常盤1丁目3番・都指定旧跡)があります。松尾芭蕉は、延宝八年(1680)から元禄七年(1694)まで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して芭蕉庵として住んでいました。かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享三年(1685)の春、詠まれています。この碑は、昭和9年に其角堂9代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたものですが芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願いして、この地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりあるがあるということではありません。なお、当園の南東側、海辺橋緑地に彩荼庵跡がありますが、芭蕉は元禄二年(1689)に「奥の細道」の旅をここから出発しました。 」横にある石はカエルかと思いシャッターを押したが・・・違ったようだ。遠くに東京スカイツリーが見えた。既に赤く染まったモミジを振り返る。「涼亭」は都指定名勝の都立清澄庭園内の数寄屋造りの建物。涼亭は 明治42年(1909)年に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたものです。昭和60(1985)年、全面改築工事を行い現在に至っています。池に浮かぶその姿は、清澄庭園のシンボル的存在屋根は、銅板葦きの数寄屋造りで、座敷には、当時貴重であったガラス障子を用い、その外側三方に水上の吹抜縁を廻らしている。昭和60年に全面改修工事を行っているが、創建時の姿を残している。」「春日燈籠」涼亭も前にある本御影で作られた春日燈籠。園内には他にも石造りの九重、十一重の塔や燈籠が各所に建てられていた。「アオサギ」が静かに羽を休めていた。上手く撮れたと思ったが・・・・いやこれは置物であった。そして前方に見えたのが「富士山」。その裾野に清澄庭園でハイライトと考えるのが「枯滝石組」が。水の流れを丸石で表現し、滝石組の中央には三尊石風に石が組まれている。借景となる築山は富士山を見立てており、サツキやツツジの植栽を数列に配して、富士山にたなびく雲を表現しているのだと。池越しに「大正記念館」を見る。ここにも多くのアオサギが。紀州から運ばせた青石がひときわ存在感を放つ。ここにも「春日灯篭」。「大正記念館」の左横に見えたのが「中村中学校・高等学校」。「涼亭」を再び。「中の島」への橋。再び「大正記念館」の左横に見えたのが「中村中学校・高等学校」。さらに池の周囲の散策路を進む。右手奥にあったのが「石仏群」。「石仏群(江東3文化財)①庚申塔 高さ ハ九・五センチメートル 石室 安山岩(小松石 ) 時代 寛文一◯年 在銘(一六七〇)②法印慶光供養塔(阿弥陀佛) 高さ 一四一センチメートル 石質 安山岩(小松石) 時代 延宝七年在銘(一六七九)③庚申墸 高さ 六七・五センチメートル 石質 安山岩(小松石) 時代 文化十二年在銘(一ハ一五)④馬頭観音供養塔 高さ 四十四センチメートル 石質 安山岩(小松石) 時代 安永三年在銘(一七七四)「多重塔(十一重)」「多重塔(十一重)高さ約ニ・七メートル(九尺)石質 奈良御影この多重塔は、園内の石材の中ではななりの年代もので、出来も良く、最も貴重なものである。初重軸部に、四方仏が刻まれている。手前に「水鉢(摂津御影石)」。「大正記念館 高松宮記念植樹」。「涼亭」は 明治42年(1909)、英国陸軍元帥キッチナーを迎えるため保岡勝也が設計し、この涼亭が建てられました。 庭園の日本情緒を有している数奇屋造りの涼亭は、震災・戦災と2度の災厄をまぬがれて焼け残った唯一の建造物。池を1周して「大正記念館」まで戻る。水鉢(大和御影石)。そして30分ほどの散策を終え、「清澄公園」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.21
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再び「海辺橋」まで戻り、この橋を渡る。橋を渡り左折し、川に沿って進み、「清澄橋」交差点方面に向かって進む。右手にあったのが「江東区立深川図書館」。清澄庭園の隣にある図書館。東京市から江東区に移管された歴史ある図書館で建物自体は改築されて、その当時からのものではないが、区立図書館にしては荘厳な外観をもつ建物であった。そして「清澄橋」を左手に見る。江東区を流れる歴史のある運河・仙台堀川(せんだいぼりかわ)に架かる「清澄橋」。現在は護岸耐震補強?工事中であった。「清澄公園」内に入る。「清澄庭園」の西側に隣接する「清澄公園」。桜の老木の下に東屋が。レトロ調の時計台が桜の並木の隙間から見えた。そしてこちらが、「清澄公園」の正門入口。「清澄公園」表示。「東京都 名勝 清澄庭園」案内板。「清澄公園案内図」おしゃれなカフェのある清澄白河にある公園。駅から徒歩5分と好立地。隣にある清澄庭園には毎日多くの観光客が訪れ、観光スポットとしても有名。緑豊かで広々とした公園内の中央には芝生広場があり、ジャングルジム、アスレチック遊具がいくつかあった。また、水遊びができるじゃぶじゃぶ池があるので、夏期には子どもたちが集まって楽しんでいるようだ。大きな藤棚の下にベンチがあるなど、ゆったり休憩するにも最適。そして再び「時計塔」、時間は9:40。そして隣りにある「清澄庭園」を訪ねた。池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園で、東京都指定名勝に指定されている公園。大人150円、シニア(65歳以上)70円で庭園入場チケットを購入。「東京都指定名勝 清澄庭園」案内板。「東京都指定名勝清澄庭園泉水、山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。この地の一部は江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間( 1716 ~ 1735 )には、下総国関宿藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。明治11 ( 1878 )年、岩崎彌太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13 ( 1880 )年に「深川親睦園」として一応の竣工をみました。彌太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治時代を代表する庭園が完成しました。清澄庭園は、大正12 ( 1923 )年関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こうした庭園の持っ防災機能を重視し、翌大正13 ( 1924 )年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公団用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7 ( 1932 )年7月に公開しました。また、昭和52 ( 1977 )年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園しました。なお、清澄庭園は、昭和54 ( 1979 )年3月31日に東京都の名勝に指定されています。」「清澄庭園」案内図。「大正記念館(たいしょうきねんかん」入口。入口横の休憩スペースの前には、水を微細な霧状(ミスト)にして噴霧する「ドライミスト」が設置されていた。そして庭園内部に入る。こちら側にも休憩用ベンチが。この建物は、以前の受付用の建物であったのだろうか?「涼亭」の案内表示板があったが、とりあえず反対方向に進む。散策道には大きな飛び石が埋めれていた。清澄庭園は池泉回遊式。日本中の石・岩がところどころにあしらわれていることで石・岩好きの人には人気のある庭園であると。このような手水鉢も園内各所に配置されていて、それぞれ名石から造られたものであると。「江戸東京九庭園」案内板。これで訪ねていないのは「殿ケ谷庭園」のみか?散策路脇の巨岩、巨石にはそれぞれの名前が。「生駒石」。「大正記念館」。「こちらの建物、「大正記念館」は有料の貸出施設てす。予約のお客様以外の人室はご達慮下さい。施設を使用するには事前の予約が必要です。ご希望のお客様は庭園サービスセンターまでお越しください。」「佐渡 赤玉石」。佐渡赤玉石、伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、備中御影石、讃岐御影石など、これらは庭園に置かれた多くの庭石のうち代表的なもの。このほか敷石や橋、磯渡りの石を含め、園内には無数の石が配置され、さながら「石庭」の観を呈していたのであった。これらの石は、岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めたものであると。三つの中島を配した広い池。水面に島や数寄屋造りの建物、樹々の影を映し出すこの池は、庭園の要。昔は隅田川から水を引いていたのだと。そのため潮の干満によって池の景観が微妙に変化したと。現在は雨水でまかなっているようだ。手前に「磯渡り」が。池に沿って配置された磯渡り(飛び石)から池の中の亀や魚を間近に見ることが出来た。石を飛び飛びに配置して歩けるようにしてあった。妙なスリル感があって、子供もこれは楽しめること間違いなし。私も慎重に!!。左手の石の島には亀が。そして何とか石橋まで辿り着いた。やや曇っていたが風もなく水面も穏やかに木々や岩を水面に映し込んで。「石橋」。「枯滝石組」、「磯渡り」に続く清澄庭園のみどころであると。長瀞峡の北側から山灯籠のある島へ渡る石であり「仙台石」であると。再び「涼亭」の案內に従って進む。前方、池の先にあるのが「涼亭」。池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物。明治42年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもの。震災や戦災をまぬがれ今日に至りましたが、昭和60年(1985)に全面改築工事を行い、現在集会施設として利用できます。池の廻りの散策路を進み、いろいろな角度から庭園の風景を楽しむ。前方に大きな石碑が。「清澄園記「本園はもと岩崎男爵の別墅なりしを大正十三年六月東京市に公園としてせられたるものなり。江戸地圖を案ずるに寛延二年前にありては松平大炊の名見ゆるも以後は久世大和守の下屋敷となり明治維新後は久しく荒癈に歸せしを明治十一年に岩崎彌太郎君始めて付近一帯と併購して別邸を構え庭園を拓き殊に奇巌珍石を全國より移し来たりて其景観を添へ名けて深川親睦園と云ひ故旧内外紳士を会してその清娯を倶にし又社員平日の勤労を慰むるの處とせられたり十八年君溘逝の後彌之助君は今兄の志を紹きさらに園地を修造し館舎を新築して樹石泉水の配置より壮橋幽煙の景致に至るまで瀟洒清雅の趣を画されたれば明治時代に営造されし代表的大庭園となり往古にも比するもの尠き名園として其名内外に高きに至れり斯くて大正九年に及び岩崎家は市民行樂の地少なきを思ひ爲めに清澄庭園の名に於て其の東南隅約三千坪を公開せられたるが幾もなく十二年の大震大火にこの名園の建築物と老樹佳水とを併せて殆ど烏有に歸せしめたるも幸に全園の布置結構に於ては大變化を來たさざりしかば久彌君は比較的破損の尠かりし東半部一萬五千五百四十一坪を公園として永久に保存すべく本市に寄附せられたり本市は直に復舊の工を起し二年を經て竣工せしが昭和三年大正天皇の葬場殿の御下賜ありたるを以て其の材料を用ゐて舊館址に建坪七十一坪の集會場を建設したり卽ち今の大正記念館是なり本園の市有に歸せしは全く男爵家が市民に對する好情の發露にして吾等市民は各自業務の餘暇此處に來りて心身を泉石花木の間に娯ましめ以てその健康を保持し徐に本園の由來する所を思はば亦必ず感謝の情を發し油然として愛園の念を生ずるものあらん爰に是を記して後の人に告ぐ」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.20
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「法乗院 深川えんま堂」の横にあったのが「心行寺」。「山門」には「心行寺」と書かれた提灯が。「あなたがいる、それだけで嬉しい人がいる」と。そういう「あなた」でありたいと。「本堂」が前方に。「浄上宗 心行寺 江東区深川ニ丁目一六七号双修山養源院と号し、元和ニ年(一六一六年)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主 吉川監物の室 養源院殿の発願開基による。寛永十年(一六三三年)現在地に移転、当時 境内地は、間ロ四十ニ間奥行四十ニ間総坪数一七六四坪、影窓院 正寿院のニ末寺があった。大正十ニ年関東大震火災の厄にかかり、昭和七年再建された本堂庫裡も同ニ十年戦災のため再度烏有に帰した。現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味し、昭和四十三年に落慶した。本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。史跡開基養源院殿墓 五重石塔 宝筺印咒塔五世鶴屋南北墓 松本交山墓 工藤琳甫墓悟道軒円玉墓 深川七福神福祿寿堂」「客殿」。寺務所。「六角堂」に安置されているのが、深川七福神の「福禄寿」。「六角堂」の前にも「福禄寿」の石像が。「福禄寿」は、名前は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表す寿の3文字からなる。長い頭、長いあごひげ、大きな耳たぶを持ち、年齢は千歳という。長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、右手に宝寿、左手に巻物を括り付けた杖を持つ。「五重層石塔」「五重層石塔空風火水地五層の石塔で「元亨四年」の銘がある。元亨四年は一三ニ四年で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。」「影窓院地蔵(ようそういんじぞう)」。「影窓院地蔵「府内備考続編」によると、この石造地蔵善薩立像は、当寺に影窓院と正壽院のニつの塔頭があり、影窓院にあったので、この呼称がある。結縁地蔵として縁むすひ、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑わった。」「宝筺印咒塔(ほうきょういんじゅとう)」「宝筺印咒塔(北州塚)文化文政の頃江戸の名妓であった川口直が、その夫忠七の菩提を弔うために建てたものである。川口直は、大田蜀山人作詩の清元「北州」に、あの甲高い節付けをしたので有名で、又隅田村から小梅村の境まで、独カて楓樹を植えた。幕末の頃、その紅葉は向島の名物でもあった。芸妓をやめて日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、後、浅草橋に移って胡麻味噌の石焼き豆腐を呼び物にして、非常に繁昌した。夫の忠七は、「竹明」と号して笛の名手であった。」「南無阿弥陀佛」碑。そして「心行寺」を後にし、「清澄白河駅」方面に進む。前方右手にパネルが。「小津安二郎誕生の地江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治36年(1903)12月12日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が10歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を1年間勤めた後、大正12年(1923)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。昭和2年(1927)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。昭和37年(1962)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和38年(1963)60歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。」「小津安二郎誕生の地」を振り返る。更に進むと前方に「仙台川堀」に架かる「海辺橋」が見えて来た。「海辺橋」の手前、左側にあったのが「彩茶庵跡」。「彩茶庵跡」碑。「江東区登録史跡 採荼庵跡、~奥の細道はここから~採荼庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採荼庵、御雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の慕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。菘尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「常磐屋句合」「角田川紀行』などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。採荼庵があった場所については、杉風の娘婿である隨夢の遺言状に「元木場平野町北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰からから万年町ニ丁目(深川一ー八)をはさんだ一画でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより一四〇メートルほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採荼庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。」『おくのほそ道』へと出立する前に採茶庵で佇む芭蕉の姿。別の角度から。唇を噛み締めた姿に芭蕉の決意が感じられたのであった。「海辺橋」を渡り、右手の「江東区 平野児童館」前にもパネルが。「滝沢馬琴誕生の地」。「滝沢馬琴誕生の地(平野一ー七・八付近)江戸時代後期の小説家。明和四(一七六七)年六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元(一八四八)年十一月六日、八十ニ歳で病没しました。名は典邦、曲亭馬琴・著作堂主人なとと号しました。安永四(一七七五)年、九歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、同九(一七八〇 )年、十四歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆て身を立てようと、寛政ニ(一七九〇 )年山東京伝のもとに入門しました。翌年正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名て黄表紙「尽用而ニ分狂言」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。天保五(一八三四)年ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、ロ述・代筆で著作を続けました。読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約四七〇種にものぼる著作を残しています。」「芭蕉記念館・深川江戸資料館案内図」。そして「うみべはし」を引き返す。流れる川は「仙台堀川」。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつである。江戸時代(寛永以後)に開削し、運河として利用されてきた。岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来する。「仙台堀」とも呼ばれていた。橋を渡り右に折れ川沿いの小道を進む。ここが「芭蕉俳句の散歩道」。人がなんとかすれ違う事が出来る程度の細道。左手の生け垣の中に「芭蕉俳句」が並んでいた。・草の戸も住替る代ぞひなの家・行春や鳥啼魚の目は泪・あらたうと青葉若葉の日の光・夏山に足駄を拝む首途哉・早苗とる手もとや昔しのぶ摺・あやめ草足に結ん草鞋の緒・夏草や兵どもが夢の跡・五月雨を降りのこしてや光堂・蚤虱馬の尿する枕もと・閑さや岩にしみ入る蟬の声・暑き日を海にいれたり最上川・象潟や雨に西施がねぶの花・荒海や佐渡によこたふ天河・石山の石より白し秋の風・寂しさや須磨にかちたる浜の秋そして前方に通行止めのバリケードが。「工事に伴う通行止めのお知らせ」が。入口にきちんと表示しろ!!と怒りが・・・・。そしてやむなく「芭蕉俳句の散歩道」を戻る。「水辺の散歩道案内看板」があったが、通行止めを引き返すという「水を差された」現実。しかし入口の手摺には「この先工事中につき 通行止 ご協力下さい」と。手摺ではなく「芭蕉俳句の散歩道」の入口のど真ん中に表示すべきと我儘にも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.19
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「深川公園」を後にし、北に進むと正面に現れたのが、「首都高速9号深川線」の高架。「門前仲町」交差点。永代通りと清澄通りがここで交差するのだ。ここを左に曲がり「門前仲町の火の見櫓」を見に行く。左手道路の反対側に「門前仲町の火の見櫓」があった。江戸時代の火の見櫓を模したもので、地上2階建て、鉄骨造りで、高さは約9メートル。平成14年(2002年)に建てられた。かつての火の見櫓は現在の門前仲町の交差点付近で、富岡八幡宮の一の鳥居があったあたりと伝えられている。江戸時代には火災が多く、各地にこのような火の見櫓があったと言われ、その頃を偲ばせてくれるのであった。そしてその先にあったのが「黒船橋」。「黒船橋乗船場」の案内塔。右手の桜並木の下に、船着き場が見えた。毎年桜の季節には大横川の両岸に桜が咲き乱れる。提燈によるライトアップも行われ、期間限定で船も運航。川面からの桜見物をすることができるのだと。桜のシーズンには舟が運行されて。 【https://4travel.jp/travelogue/11336524】より「江東区黒船橋のりば」。「黒船橋」。「黒船橋」の由来は、1732(享保17)年に、年浅草蔵前黒船町が火災にあった際、焼け跡が日除け地となったため、同町の住民が深川黒江町に移転し地名をとったとか、戦国時代徳川家康に勧誘されたウィリアム・アダムス(三浦按針)が黒船リーフデ号を係留したことに由来するとか、諸説があるようだが。下を流れる川は「大横川」。「黒船橋」の先の右手にあったのが「戦災殉難者慰霊之碑」。この場所から来た道を引き返す。再び「門前仲町交差点」を通過し進むと、再び「首都高速9号深川線」が。「首都高速9号深川線」の高架を潜る。そして「深川一丁目」交差点へ。「深川一丁目」交差点を左折し、首都高の高架を潜り500mほど進むと左手にあったのが「伊能忠敬住居跡」碑。日本で初めて科学的測量による日本地図を作成した伊能忠敬は、寛政7年(1795)から文化11年(1814)まで当地に居を構え、ここを測量の原点としました。測量の際には富岡八幡宮にお参りをして旅立ちました。このことにちなみ、平成13年(2001)に富岡八幡宮境内に伊能忠敬像が建立されました。「伊能忠敬は千葉県に生れ江戸にでて高橋東岡(高橋至時)に測量術を学び寛政7年(1795)幕府の命をうけて全国を測量し沿海路程図を完成した。」そして「深川一丁目」交差点まで戻ると、横断歩道の先に見えたのが「陽岳寺」。その前に、「陽岳寺」前を右折しその先にあった「玄信寺」を訪ねた。正面に「本堂」が。「あたりまえが 一番ありがたい」と。浄土宗寺院の「玄信寺」は、幽遠山と号す。関東郡代伊奈忠順の妻が開基、還蓮社本誉玄故上人が開山となり、寛永6年(1629)深川下佐賀町に創建、寛永18年当地に移転したと。扁額「幽遠山」。本堂の屋根の「宝珠水煙(ほうしゅすいえん)」。宝珠とはお釈迦様の遺骨を納めるところ。水煙は火炎の透し彫のデザインだが、火をきらうことから水煙と呼ばれるのだ。「寺務所」。「勢至丸」像。浄土宗の開祖・法然の幼名が「勢至丸」。そして「深川一丁目」交差点まで戻り右手の「陽岳寺」を訪ねたが・・・。「陽岳寺由来向井忠勝(1582~1641)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永14年(1637)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。慶長2年(1597)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬、夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎へ出陣しました。寛永2年(1625)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。」臨済宗 妙心寺派「長光山 陽岳寺」の門は閉まっており、境内には入れなかった。「本堂内部」👈リンク をネットから。 そして更に進むと、右手の上に「法乗院」、「ゑんま堂」と書かれた扁額?が。「法乗院」正面。「深川 法乗院 ゑんま堂」。「法乗院真言宗豊山派寺院の法乗院は、賢台山賢法寺と号し、ゑんま堂として有名。法乗院は、覚誉僧正が開山となり、寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年当地に移転したと。御府内八十八ヶ所霊場74番札所で、 江戸三えんま『深川ゑんま堂』として知られている。法乗院本堂の右前に「鳥塚」の碑があり、その碑の前に「曽我五郎の足跡」石があった。「曽我五郎は、日本三大仇討ちの一つである曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)で、兄 曾我十郎と共に父親の敵である工藤祐経を討ったことで知られています。また、歌舞伎「曽我物語」の主人公として、庶民の支持を受けています。足跡石は、歌舞伎に縁深い当山に移されたもので、若くして一生を父の仇に終始した曽我兄弟の五郎が老母を背負い、工藤祐経の菩提と老母父の仇の報告をした帰りに残されたものと言い伝えられています。」そしてこちらが「ゑんま堂」。「ゑんま堂」には日本最大の閻魔(えんま)大王座像が安置され、本堂1階には江戸時代に描かれた『地獄極楽絵』が展示されているとのこと。日本最大のハイテク閻魔様が鎮座していたのであったが・・・残念!!。「閻魔様の前のご利益別のお賽銭入れにお金を入れると、閻魔様が突然光り輝き、おごそかな音楽とお説教が述べられる仕組みであるとネットから。閻魔様もお堂内部もド派手な装飾で、昭和61年(1986年)の再建でハイテク閻魔になったと。閻魔様のお説教の内容は現地でご自分の耳でお聞きください。」と。平成元年に建立の閻魔大王座像は、寄木造で、高さ3.5m、幅4.5m、重量1.5tという巨大な閻魔様。名実ともに日本一の閻魔大王像であると。大王の左手の上には地蔵菩薩(閻魔様と表裏一体の仏様)が乗っており、右ひざの前には見返り不動明王が立っていた。「本堂」2階から「ゑんま堂」を見る。本堂2階のバルコニー?に安置されていた左から「子育慈母観音」、「水子地蔵尊」。左から「十日地蔵尊」、「光岳地蔵尊」、「子育地蔵尊」。本堂の地獄極楽絵。天明四年(1784年)に江戸の宋庵という絵師によって描かれたものだとか。 【https://fusui-powerspot.org/s/2980.html】より「本堂」2階の「大日如来像」。「観音堂」入口。前面に金網があり・・・・。中央が「大聖歓喜自在天(聖天様)」奥上段は、左:如意輪観音菩薩 中央:十一面観音菩薩、右:聖観世音菩薩 のようだ。「大聖歓喜自在天(聖天様)霊験あらたかにして、祈願する者に信じられぬ奇跡、奇瑞を表す秘仏、守護仏である。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.18
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「富岡八幡宮」を後にし、深川不動尊仲見世通りに向かい進む。ここが深川不動尊仲見世通り。右手にあったのが「永代寺」。高野山 真言宗 「大栄山 永代寺 略縁起」「永代寺は、寛永四年(1627)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立する。現在の深川公園辺りは、曽ての永代地庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、毎年三月二十一日から二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。又将軍家違例の時や、世子誕生の折りには祈祷札を徴せられ、承応三年(1654)からは年頭独札の許可、元禄十二年(1699)には乗輿御免、或は京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(1733)に出たこと等、永代寺に対する幕府の信任を示すものである。以上永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(1868)に発令された神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となるも、関東五ヶ寺随一に数えられた名刹を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属する寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院(元禄五年-1692-創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を永く継承する。」「本堂」。「地蔵堂」。扁額「地蔵堂」。「地蔵堂の内陣」。「絹本着色地蔵菩薩半跏像 一幅」がこの寺にあると。地蔵善薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦八四.〇cm、横三七.〇cm。表装は縦一七八.八cm、横五六.〇cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っています。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。地蔵信仰は奈良時代未ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。鎌倉時代に流布した像容は僧の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を特ちます。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(一四世紀)の製作と考えられます。本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという殄しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。」「大栄山 永代寺」を深川不動尊仲見世通りから再び。そして正面奥に「成田山 深川不動堂」の姿が。7・8月15日 10時・12時・14時に「孟蘭盆会萬燈供養」が行われると。境内案内図。 【http://www.fukagawafudou.gr.jp/guide/index.html】より「深川不動尊由来深川不動尊は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878)当地に遷座され、同14年、堂宇が建立されました。元禄(1688~1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。」正面に「旧本堂」成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派の寺院であり、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院である。通称は深川不動尊、深川不動堂。前本堂が東京大空襲で焼失した後、千葉県本埜村(現・印西市)の龍腹寺の堂(文久3年・1863年建立)を移築して本堂としたもので、昭和25年(1950年)に移築が完了、翌年に落慶法要が営まれた。現在は帆刈黌童作の丈八の「おねがい不動尊」が安置されている。敷地内に一歩足を踏み入れると、大きなわらじが飾ってあった。こちらは「わらじ守り」と言われていて、足腰の息災を願うお守りなんだと。「手水舎」。手水舎の奥に「深川龍神様」の祈祷場所があった。こちらは深川不動堂ならではの場所で、「龍神願い札」を水に浮かべて祈祷するとお札が水に溶けていき、お願い事が龍神様のもとへ届くと言われているのだと。そして「旧本堂」を参拝。「おねがい不動尊」を金網越しに。旧本堂の扁額「深川不動堂」。本堂の木鼻の獅子の彫刻。「旧本堂」右手に「愛玩堂」。愛玩堂ではペットの長寿延命・病気平癒・傷病平癒を祈願出来ると。また、ペット供養・人形供養も行っているようであった。旧本堂に登る階段の両脇は、制咜迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)。巨大な草鞋の後には矜羯羅童子が。お不動様の多くは、脇士(わきじ)に矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた姿でお祀りされていると。これはお不動様の持つ「慈悲(じひ)」と「忿怒(ふんぬ)」を両童子を以て表しているとも云われ、矜羯羅童子が「慈悲」を、制吒迦童子が 「忿怒」を表しているのだと。境内右手「深川開運出世稲荷」成田山出世稲荷(荼枳尼天)を勧請したもの。扁額は「荼枳尼天尊」。「荼枳尼天尊」の赤い幟旗が並ぶ。「祈祷殿」。護摩木、御朱印受付所。そしてこちらが「新本堂」。外観は文字のような模様でいっぱいに飾られているが、こちらは「真言梵字壁(しんごんぼんじへき)」と言われている。不動様のご真言を古代インドの文字(サンスクリット)で書いたものだとのことだが、非常に芸術的な印象を受けるのであった。不動明王のご真言が梵字で書かれているのだと。右側の金ストライプのある黒い部分が2010年に竣工した「新本堂」。設計は玉置アトリエ。京都にある小さな設計事務所でこれ以外に特に目立つ公共的作品は見当たらないと。左側の大きな屋根を持つ部分が2017年に建てられた「翼殿」。御祈祷の申し込みやお札の受け取りにに集まる信者を風雨から守るためのの施設であると。こちらにも梵字が連なっているのであった。文字は一辺30cm程の大きさか。ひとつづつアルミで鋳造されているとのこと。奥には多種の蓮が栽培されていた。世話をする人の姿も。ここが「新本堂」の入口。数年前に訪ねた時には「新本堂」に入り、この写真を。真っ白に光り輝く静かなクリスタル回廊。1万体の五輪塔が納められている「祈りの回廊」。手水舎の先にあった「亀鯉供養之碑」。昔、深川公園には、池があったが、その池に住みついていた亀や鯉を助け出さないまま、面倒くさがって、そのまま生き埋めにしてしまったのだと。不動明王が安置されていた「古いお札納め所」。そして「深川不動堂」から深川不動尊仲見世通りを見る。大きな青銅の灯籠。明治末期の富岡八幡宮と深川公園の姿を今に伝える漆喰画。「深川公園について深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。明治12年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。明治40年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。この漆喰画(しっくいが)は、文化12年(1815年)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治22年(1889年)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。」「深川公園」の「深川不動堂」側にあったのが「石造燈明台」。「石造燈明台」案内板。「江東区指定有形文化財(建造物) 石造燈明台 明治三十一年在銘 一基日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動尊の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。」「明治三十七八年役戦死者忠魂碑」日露戦争の慰霊碑で、題字は渋沢栄一氏によるもの。「富岡八幡宮別棟永代寺跡」碑がその脇に。江戸時代は富岡八幡宮の別当(神社を管理する寺)、永代寺がここにあったと。往時にはこのあたりが海岸線で、永代島という島の寺という意味で、永代橋の名の起こりにも通じる名刹であったと。公園では少年野球の練習が行われていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.17
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そして「横綱力士碑」の脇を奥に入っていくと朱の鳥居が並んでいた。「永昌五社稲荷神社(えいしょうごしゃいなりじんじゃ)」倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。五穀豊饒・商売繁盛の神様として、特に地元の肥料商関係者から絶大な信仰を集めていると。近隣の稲荷社五社が合祀された神社であると。扁額「永昌五社 稲荷神社」。そしてその横には「末社六社(まっしゃろくしゃ)」が。向かって左から、祖霊社・花本社(それいしゃ・はなのもとしゃ)、天満天神社(てんまてんじんしゃ)、聖徳太子社(しょうとくたいししゃ)、住吉社(すみよししゃ)、野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)、車析社・客神社(くるまざきしゃ・きゃくじんじゃ)が祀られていると。◆祖霊社・花本社(それいしゃ・はなのもとしゃ) 富岡八幡宮の歴代祖霊を祀る。神道では祖先を崇めることは神様を敬うことと同様に 大切なことと考えられています。花本社は松尾芭蕉を祀り、祖霊社に合祀されています。 芭蕉は深川に仮住居を設け、生涯でもっとも長い住まいであった縁から当境内に祀られています。◆天満天神社(てんまてんじんしゃ) 学問の神様として受験生の信仰を集める菅原道真(すがわらみちざね)を祀る。◆聖徳太子社(しょうとくたいししゃ) 憲法十七条・冠位十二階の制定、遣隋使の派遣など、我が国の基礎を固めた聖徳太子を祀る。◆住吉社(すみよししゃ) 古くより航海安全・和歌・農耕の神様として信仰される住吉神を祀る。◆野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) 相撲の始祖といわれる野見宿禰命を祀る。◆車析社・客神社(くるまざきしゃ・きゃくじんじゃ) 車析社は、平安後期の儒学者・清原頼業(きよはらのよりなり)を祀る。 後嵯峨天皇の牛車が門の前で動かなくなった故事に基づいて車折大明神と称されています。 客神社には芸能の神・宇受売命(うずめのみこと)を祀り、車析神社に合祀されています。「合末社鳥居昭和十ニ年に合末社の鳥居として建立されました。残念ながら鳥居の上部が欠落していますが、これは昭和ニ十年三月十日の東京大空襲の被災によるものです。この大空襲において富岡八幡宮は御本殿をはじめ大部分を焼失しますが、幸い七渡神社・合末社・永昌五社稲荷神社は焼失を免れました。しかし空襲における焼夷弾は、この付近にも落下し、その直撃を受けて烏居上部が崩れ落ちました。ニ度と起こってはならない戦争の痕跡を静かに伝えています。」そして「弁天池」。鯉や亀がのんびりと泳いでいた。「七渡神社・粟島神社(ななわたり・あわしまじんじゃ)」七渡神社は市木嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る。七渡弁天と親しまれる八幡宮が創祀される以前から祀られている地主神。関東大震災・東京大空襲の災難もくぐりぬけ、このときに弁天池に避難した人は一命を取りとめたという。また、ご祭日にはお使いの白蛇が出てくるという話もよく聞かれる。粟島神社は少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀り、七渡神社に合祀されています。裁縫上達の神様として信仰を集めており、2月8日には献針祭が行われ、参拝者の皆様の折れ針・古針が供えられます。「七渡神社」の石鳥居。「針塚」と見ざる言わざる聞かざるの三猿の「庚申塔」。二の鳥居。「七渡神社・粟島神社」社殿。扁額「七渡神社」。東参道近くにあった人物像。「富岡宮司寿像」。「福岡県築上郡八津田村東八田に明治廿五年一月三日生。川面凡児翁の推薦により富岡八幡宮の祭祀を継承する為の富岡宣永の養嗣子となる。国学院大学を卒へ砥鹿神社北海道十一ヶ国総鎮守官幣大社札幌神社勅祭官幣大社鹿島神宮等に各々宮司として奉仕、砥鹿神社にては山林経営施業案を立て、神社百年の大計を樹立した。三河一国の青年指導教化、札幌神社にては境内整備社務所、参集殿、斉館の新築、道会初日全道会議員の神社参拝道政奉告の新例を開く。鹿島神宮に於ては昭和度の大造営を完成、氏子、神社により胸像建立さる。昭和廿四年父祖伝奉の富岡八幡宮々司として奉仕、戦災により焼失したる八幡宮の御社殿再建、その間茨城県神社庁設立、初代庁長、神社本庁総長、国学院大学理事、同大学評議委員会議長、同大学院友会々長、神社本庁顧問、長老の称号を受け、北白川総裁様より鳩杖の下賜にお言葉を賜わる。氏神、産土神の神学的研究により哲学博士、文学博士の学位を贈らる。」「森羅亭万象の歌碑」「ふしの嶺世に おおへとももろひとに 笠きてくらす すがたみせたり」森羅亭万象は、わが国最初の電気実験者であり戯作者であった平賀源内の二代目。狂歌をよくし天保四年(1833年)建てられた碑。「富岡八幡宮 婚儀殿」。「大橋清太郎句碑(おおはしせいたろうくひ)」元衆議院議員で北品川で材木店を営む。俳号は杣男(そまお)。「辰己なる 鎮めの神の 破魔矢かな」。「木場の木遣り碑(きばのきやりひ)」民俗芸能「木場の木遣」〔都・区無形民俗文化財〕を記念した石碑。「木場の木遣り」の発祥は古く、現存の文献によれば、既に慶長初期の昔に行れている。当時、幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げをした、とある。元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の「納め木遣り」が用いられ、保存会により今日に伝えられている。元禄の始めには、武家屋敷の並ぶ両国の七つ谷の倉の間部河岸という所で3代将軍家光公に筏の小流し(さながし、筏組)、角乗り、木遣りをご覧に入れ、以後年中行事となった。この時、川並みという言葉が発祥したと伝えられる。明治12年(1979年)、米国のグラント前大統領が来日の際に、木遣りは角乗りと共に上野の不忍池で天覧の栄に浴している。江戸の昔より正月2日から7日に掛け木遣りにて初曳きし、材木屋さんに売り捌くのを年中行事としていた。」「大木遣り唄木遣(きやり)とは、筏師(川並)が、鳶口ひとつで材木を操る時の労働歌で、たがいの息を合わせるため、掛け声のように即興の詩をつけて歌ったものと。「木場の角乗碑(きばのかくのりひ)」民俗芸能「木場の角乗」〔都・区無形民俗文化財〕を記念した石碑。木場の角乗は、江戸時代に木場の筏師(いかだし)が、水辺に浮かべた材木を、鳶口(とびぐち)ひとつで乗りこなして筏に組む仕事から発生し、これに数々の技術が加わり、芸能として発達しました。「木場の角乗りは三百余年の昔、徳川幕府から材木渡世の免許を与えられた業者の材木を扱う川並の祖先の余技として進展し、若者の技術練磨の目的を以て今日に伝わるものである。其の間,明治初年三島警視総監時代、水防出初式に初めて浜町河岸で披露,又グランド将軍が来朝の際、上野不忍池にて催し、後横須賀に於て軍艦進水式の折り、明治天皇の天覧の栄を賜る。その後、浜離宮や両国橋開通式の祝事に披露されてきた。第二次世界大戦により中断したが、戦後有志相寄り,東京木場角乗保存会を設立し、昭和二十七年東京営林署貯木場に於て披露し、同年十一月三日東京都文化保存条令に基き、都技藝木場の角乗りとして無形文化財に指定された。」この石碑には「一番」の文字が刻まれていたが。「神馬」碑。が。西参道を歩くと「神馬像(しんめぞう)」本殿前の境内への階段横の狛犬。そして本殿前に再び戻ると若き神職が朝の清掃中。「資料館」。休憩所。力持碑(ちからもちひ)民俗芸能「深川の力持」〔都・区無形民俗文化財〕を記念した石碑。55貫目(約206kg)だと。「此の力石は雑司ヶ谷鬼子母神祠にあったものを會長福士民蔵之れを見出し深川区史編纂主筆三輪善之助氏及び豊島区永江維章氏の斡旋により法明寺住職近江正順師より深川富岡八幡宮へ奉納寄贈されたものである。」「力持の由来力持は昭和三十一年十一月二十四日無形文化財に指定され、現在木場の角のりと共に江東区が誇る郷土文化財である。この力持の技芸は深川佐賀町を中心としてその周辺に江戸時代より伝わるものでその沿革は文献に乏しいが当時国持大名が自領の藩米を江戸に廻送して之れを浅草蔵前の札差(現在の米問屋の仲買)に杔て処理したもので札差による米殻倉庫業の発達繁栄に伴ひその從業員が余技とする力自慢の彼に江戸の下町趣味の芸能と更にスポーツ的娯樂が加味されたのが現在の力持の曲技で明治以後においても隅田川の東西河岸の倉庫や問屋などでその從業員達の間で盛んに行われて来たが時代の変遷で衰微したしかし近年漸くこの力持の技芸を復興させようとする機運が次第に髙まり深川力持睦会が組織されたのである。」「力持碑」。「復興記念碑」。西側の「お手水所」。近づいて。「お手水所谷川の清き流れをいまここに見るここちして口すすぐなりこの水盤の石は四国の霊峯石鎚山に源を発する加茂川より採取せるもので世に伊予の青石といわれる名石であります。又、水除け石は伊豆長岡の六万石、犬走りは常陸の丹波石が用いられています。すべて山下太郎氏の奉納によるものであります。」「三末社(さんまっしゃ)」への参道と石鳥居。「三末社(さんまっしゃ)向かって左から、金刀比羅社・富士浅間社(ことひらしゃ・ふじせんげんしゃ)、恵比須宮・大黒宮(えびすみや・おおくにぬしみや)、大鳥神社・鹿島神社(おおとりじんじゃ・かしまじんじゃ)」が並ぶ。「金刀比羅社・富士浅間社」。「恵比須宮・大黒宮」。「大鳥神社・鹿島神社」。「深川八幡富士(ふかがわはちまんふじ)」以前ここにあった巨大な富士塚は昭和三十九年(1964)に破却されたが、平成十四年(2002)再建されました。現在では約1mの火山石の山になっていて、手前に湖に見立てた白い石が敷き詰められている円があります。また、富士塚の左手前には「富士講同行碑」が見えます。各種の石碑が建っていた。「奉納」と刻まれた石碑の上部には富士山の姿が。「登山再建立手傅」碑も同様に富士山の姿が。「富岡八幡宮」に西側石鳥居。正面に「深川公園」入口。西参道の鳥居。しかしながら、3年前、2017年に12月に発生した富岡八幡宮の宮司姉弟の骨肉の悲惨な争いを想い出しながら、参拝者の数はどうなっているのだろうかと思いながら富岡八幡宮を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.16
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更に参道を進むと右手には歴史を感じさせる石灯籠が一対。「この灯籠一対は江戸時代関東郡代を世襲した伊奈家十代伊奈忠宥(ただおき)により宝暦年間当宮に寄進されたものです。」そして反対側には「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」碑と「天皇陛下御野立所(おのだちしょ)」碑が。「天皇陛下御野立所」碑。昭和二十年三月十八日戦災地御巡幸ノ際 玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ東京都 昭和三十五年四月二十九日建立。「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」と刻まれた石碑。「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると。大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。」「昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から東京大空襲の被災地を視察されました」「昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮」「願掛けの八角十二支」説明板。「江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する平成31年3月18日 富岡八幡宮友の会」「願掛けの八角十二支」真ん中にとんぼが掘られていた。「願掛けの八角十二支石碑」の触り方。金運、人気運・才能運、恋愛運・人間関係、仕事運・健康運それぞれの願掛けのやり方が。願い事は「ひとりひとつ」と。★金運 巳→酉→丑 右手で巳、左手で酉、 右手ずらして丑★人気運・才能運 寅→午→戌 右手で寅、左手で午、 左手ずらして戌★恋愛運・人間関係 申→子→辰 左手で申、右手で子、 右手ずらして辰★仕運・健康運 亥→卯→未 左手で亥、右手で卯、 左手ずらして未願いがかなった場合は、神様にご報告に訪れて下さい。私は左手で亥、右手で卯、左手ずらして未を。そしてその横にあったが「手水舎」。一対の黄金の鳳凰が。この手水舎は2016年12月に完成したものだと。右手の黄金の鳳凰がビニールホースで聖水を。左手の鳳凰も同様に。金色の羽を広げた立派な鳳凰が口から聖水を出していた。この手水舎では人感センサーにより左右の鳳凰の口より水が出るようになっているのだと。手水舎の向かいにあったのが昭和「天皇陛下御製」が。「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれいく 民をおもひて」正面に「本殿」の姿が。階段下から「西参道」を見る。両側に祠の形の灯籠が。そして「富岡八幡宮 本殿」。1627年(寛永4年)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島にと呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。また八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。広く美麗な庭園は人気の名所であったという。なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立している。当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された とウィキペディアより。主祭神 第十五代天皇・応神天皇(おうじんてんのう:八幡神)相殿神神功皇后(じんぐうこうごう:主祭神の母)仁徳天皇(にんとくてんのう:主祭神の子、第十六代天皇)天照皇大神(あまてらすすめおおかみ:主祭神の祖神)常磐社神(ときはやしろのかみ)武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと:主祭神の重臣)日本武尊(やまとたけるのみこと:主祭神の祖父)天児屋根命(あめのこやねのみこと:主祭神の祖ニニギとともに降臨、中臣氏(かなとみうじ)の祖)竈大神(かまどおおかみ)も祀られています。現在の社殿は昭和三十一年(1956)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっている。扁額は「萬世泰平」であろうか。「本殿 内陣」。今年の絵馬。「本殿」を右側から。左側から。奥の「本殿」。境内の保護樹木「クスノキ」の前に「百度石」。境内にあった「金魚花魁(きんぎょおいらん)」の絵画。「青森県弘前市にて2013年8月1日から7日にわたって開催された『弘前ねぷたまつり』。その中で実際に運行したねぷたを、富岡八幡宮での展示のために再構築しました。今作のような美人画は、「見送り絵」と呼ばれ、雄々しいねぷた絵とはまた違った魅力を持つ。部分はねぶたに明かリが灯された際、透き通るような光を放つ。輪郭線や色の境目に施された透明な塗リ加工は『蝋引き」と呼ばれ、この部分はねぶたに明かリが灯された際、透き通るような光を放つ。一定の温度で溶かした蝋を、絶妙な筆使いで塗るこの技術は、筆使いと、大胆かつ繊細な色彩を際立たせる、ねぶた制作になくてはならない工程といえる。「ラッセーラー」の掛け声を共に灯篭を運行させる青森県青森市の『ねぶた祭り』とは違い、弘前市の『ねぶた祭リ』は「ヤーヤドー」の掛け声を使用する。その土地独自の発展を遂げたねぶた/ねぷたの姿の一片を感しられる作品である。」境内右手に絵馬の奉納場所が。「深川富岡八幡宮」の絵馬。「本殿」右奥に進んで行くと「横綱力士碑(よこづなりきしひ)」が。明治三十三年(1900)、第十二代横綱・陣幕久五郎(じんまくきゅうごろう)を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立された。この碑には初代・明石志賀之助(あかししがのすけ)から第六十七代・武蔵丸関までの四股名(しこな)が刻まれていた。新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納される。また両側には伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、大隈重信(おおくましげのぶ)といった賛同者の名も刻まれていた。高さ3.5m、幅3m、重量は20t。右手の碑には第四十六代朝潮太郎~第六十六代若乃花勝の文字が。そして左の碑には第六十七代武蔵丸光洋~第七十二代稀勢の里寛の文字が。「横綱力士碑◇建立 明治三十三年◇重量 約五千五百貫(約ニ十トン)当宮では貞享元年(一六八四)に幕府の公許のもと初めて勧進相撲が行われ、以後年ニ場所の相撲興業が定期的に行われた事により江戸勧進相発祥の地として知らるようになりました。初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれたこの碑は、第十ニ代横綱陣幕久五郎が発起人となり各界の協賛を得て奉納されたものです。なお、正面参道・大烏居手前左側には「大関力士碑」が建立されています。」ここにも江東区教育委員会の「横綱力士碑」案内板。「江東区指定有形文化財(歴史資料) 横綱力士碑」附 陣蟇・不知火顕彰碑ニ基 日月石寄附碑 地固め寄附碑土台石垣魚かし石柱ニ本 土台下玉垣富岡一ーニ◯ー三 富岡八幡宮この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十ニ代陣幕久五郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(一六八四)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(一七六四~七一)には、春・秋ニ場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(一八◯一)までに本場所三十一回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥の地といえます。偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣慕・不知火顕彰碑や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正未ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。」そして「陣幕・不知火碑」。こちらが「陣幕」碑。第十二代横綱・陣幕久五郎(きゅうごろう)を顕彰する碑。この碑に刻まれているのは安政4年(1857)正月場所2日目の取組で、両碑の上部には「安政四年正月 両国回向院ニ於テ大相撲興行二日目ノ取組ナリ」と彫ってあった。「不知火碑」第十一代横綱・不知火光右衛門(みつえもん)を顕彰する碑。「出羽海一門友愛之碑」。「かつて出羽海部屋、春日野部屋を中心とせる出羽海一門に所属し、相撲技に励みたる者たち、それぞれの社会より集いて、親睦のため「出羽海一門友愛会」を結びたるは昭和三十一年一月なり。 一門の弥栄と相撲道の隆盛を祈り、江戸勧進相撲ゆかりのこの地に友愛の碑を建つるものなり。」と。「出羽海一門友愛之碑」と対をなす柱状の碑は、「超五十連勝力士碑」。この碑が建ったのは昭和63年9月、つまり千代の富士が連勝している最中だったのだと。高さは2m、直径80cmで、11角柱という極めて珍しいスタイルをした赤御影石の碑である。 もともとここには釈迦ヶ嶽の等身碑があったが、大関力士碑のところへ移されたのはこの碑を建てるためだった。 正面に「超五十連勝力士碑」と隷書(大嶋瑞雲筆)で揮毫され、右へ順に到達者の名と記録が刻まれている。 刻まれている力士は「双葉山(69連勝)」「千代の富士(53連勝)」江戸時代の「谷風(63連勝)」明治時代の「初代梅ヶ谷(58連勝)」そして明治から大正にかけての「太刀山(56連勝)」の5人だけ。上から連勝数・地位(第何代横綱)・力士名・期間である。建立当初は4人しかいなかったが、建ってすぐに千代の富士が53連勝を達成したので、12月に名だけを彫り、 引退後に連勝記録を彫って今の姿になったのだと。しかし白鵬の名は今も彫られていないのだ。千代の富士の例に倣えば、名だけは彫っておいても良いのだが、 63連勝を記録してから10年以上も経っていながら、まだ彫られていない。引退時にまとめて彫るという意向なのだろうか。それともこれから63連勝以上を?境内一番奥の蔵。「古札納め所」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.15
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この日・7月11日(土)は、江戸・深川を都内に住む友人と歩いて来ました。今年3月末で「完歩」した江戸日本橋から京都三条大橋までの「旧東海道を歩く」中で多くの社寺仏閣の境内や街道脇に江戸時代、数々の名句や紀行文を残した俳諧師・「松尾芭蕉」の句碑に出会ったのであった。この「松尾芭蕉」は、江戸・深川の庵を拠点に活動しており、「おくのほそ道」の壮大なる旅もこの地から始まったのだ。そのため、深川界隈には芭蕉にまつわる史跡が数多く残されているとのことで、芭蕉ゆかりの地を散策して、往代の偉人に思いを巡らせようと思ったのであった。この日も早朝に自宅を出て小田急線に乗る。小田急線で中央林間駅まで。そして東急田園都市線・急行南栗橋行きに乗り換え、九段下駅まで行く。そして東京メトロ東西線に乗り換え門前仲町駅に到着。時間は7:47、ここまで約1:45の移動時間で800円の格安ルート。地下連絡通路には深川の名所や風景のがパネルで紹介されていた。この後、訪ねた富岡八幡宮の絵画。伊能忠敬像。そして地上に出ると目の前には永代通りが。正面に見えて朱の鳥居が永代通りからの深川不動尊商店街入口深川不動尊商店街は、永代通りから不動堂に至る参道沿いの門前町で、近年は富岡八幡宮と合わせた下町観光の回遊路の一部になったような趣で、普段なら外国人も含め多くの人で賑わうはずなのだが・・・この日は早朝と新型コロナの影響で。この地域がいわゆる現在の「深川」地域。江戸時代の「本所深川繪圖」。そして今いる「門前仲町駅」周辺。最初に訪ねた「富岡八幡宮」が永代通り沿いの近くに。周辺観光案内ボード。富岡八幡宮まで320mと。「永代通り」の表示と「富岡八幡宮」と書かれた提灯がアーケード上に。そして「富岡八幡宮」参道入口に到着。「富岡八幡宮」案内板はチョット疲れ気味。「由来この神社の3年に一度の本祭りは、夏祭りにふさわしく神輿に水をかけながら練り歩くので、「水かけ祭り」の名もあり、50基余の連合渡御は江戸三大祭りのひとつとして有名です。寛永元年(1624年)、当時永代島と呼ばれた小島に、京都の公卿が八幡神像を奉安したのが、始まりといわれています。境内には、「横綱力士碑」「力持ち碑」「木場角乗碑」など深川にまつわる石碑等があります。」左手の「掲示板」には例大祭の案内が。「富岡八幡宮 境内案内図」。「富岡八幡宮」社銘碑。朱の大鳥居とまっすぐ続く正面参道の先に、朱色の社殿が見えた。青の地の扁額「富ヶ岡八幡宮」。大鳥居を潜ると左手に像が。東京「伊能忠敬」銅像。もちろん、江戸時代に初めて正確な日本地図を作成した中心人物 「伊能忠敬」。「伊能忠敬銅像近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと5 0歳の時に江戸に出て富岡八幡宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。約2 0 0年前の寛政12年閏4月1 9日(陽暦では1 8 0 0年6月11日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で1 0回の測量を企画しましたが、遠国こ出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿などの測量開始地点に向かって、歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。伊能測量開始2 0 0年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。」近づいて。光背碑には日本地図が描かれていた。そして「天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑」。昭和天皇のものであろうか。「元准勅祭神社(もとじゅんちょくさいしゃ) 東京十社めぐり」案内板。皇居が京都に在った昔から、国家鎮護のために天皇陛下から勅使が遣わされる神社があり、「勅祭社」と呼ばれていた。明治天皇が東京にお移りになられた際、この「勅祭社」に准ずる神社として「准勅祭社」を定められた。これが東京十社の始まり。この制度は現在無くなったので元をつけて「元准勅祭社」となっている とネットから。参道右手にあったのが「大関力士碑」と刻まれた碑を中心とした関連碑群。勧進相撲は安土桃山時代から、寺社建立や修繕の資金調達のために全国各地で行われていたらしいが、江戸で初めて貞享元(1684)年に寺社奉行が許可し春・秋の2場所が行われたのがこの境内だったと。以降100年ほどこの地で開催され、定期興行化や番付制が生まれ、やがて両国の回向院へと場所を移したのだと。更に、ここ富岡八幡宮は、大相撲の新しい横綱が誕生した折に、横綱力士碑への刻銘奉告祭とともに奉納土俵入りが行われている、相撲と大変ゆかりの深い神社であるのだ。歴代大関の四股名は、その斜め後ろの両脇にある大きな石に刻まれていた。この石碑は、明治31年に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されたものです。向かって右側が市川團十郎が寄進したもののようであった。左側が尾上菊五郎が寄進したもの。初代大関・雪見山(ゆきみやま)から最近では昨年に旅したブルガリア出身の琴欧洲関(ことおうしゅうぜき)まで、114人の歴代大関の四股名が彫り込まれているとのこと。この石は、横綱力士碑を建てた際に、資金協力者の名前を刻むために準備された仙台石だが、工事を急いだため、名前を刻まないまま、横綱力士碑の手前に置いてあったものだと。鉄砲柱のような円柱の碑は「巨人力士身長碑」。「小島貞二が12人を選んで、その身長を「-」印で刻んだものである。当初「-」には朱が入っていたが、今は落ちている。選ばれたのは、鬼勝力之助(寛永・7尺4寸5分)・釈迦ヶ嶽雲右衛門(明和~安永7尺4寸8分)・九紋竜清吉(天明~寛政・6尺8寸5分)・鰭ヶ嶽源太夫(寛政・6尺8寸)・大空武左衛門(文政・7尺5寸)・竜門好五郎(文政・7尺4寸5分)・生月鯨太左衛門(天保~弘化・7尺6寸)・武蔵潟伊之助(明治・7尺)・男山応輔(明治・6尺8寸)・出羽ヶ嶽文治郎(大正~昭和・6尺7寸7分)・白頭山福童(昭和・7尺1寸5分)・不動岩三男(昭和・6尺9寸5分)。碑は高さ279cm、直径50cmである。」とネット情報。因みに最長身の生月鯨太左衛門(天保~弘化・7尺6寸)は230.3cmとなるが。「強豪関脇力士碑」「拝殿裏に明治からある「横綱力士碑」、ここに建つ「大関力士碑」に続いて、「強豪関脇力士碑」が昭和62年12月に建てられた。 成績より年功に重きがおかれた時代に上がつかえて関脇どまりに終わった者、関脇に在って土俵を盛り上げた者について、彼らを「強豪」の名のもとに顕彰するための碑といえる。 江戸縦1枚番附が発行されるようになった宝暦 7年(1757)10月場所から、年6場所制移行直前の昭和32年まで、 偶然とはいえ200年ぴったり、その間の関脇力士のうち、強豪と呼び得る者を選んだ結果、42人になった。 順序は新関脇の場所の順とし、四股名は最後の関脇のときに統一されている。左側面に「昭和三十三年より年六場所制を採るため一線を引き、 昭和三十二年以前の百二十五名に及ぶ関脇のうち、表記の力士たちを強豪として選ぶ 昭和六十二年十二月 小島貞二・加藤健治撰 磯田日出夫書」とある。 碑の高さは155cm、幅122cm、厚さ24cmで、仙台石。碑群の左端にあるので、巨人力士手形・足形碑とともに他の碑を挟む形になってい。」と。下中央に日本のプロレスリング創始者「力道山光浩」の名が白く。「巨人力士手形・足形碑」「6人の手形と3人の足形を選んで石に彫ったものである。必然的というべきか、 全員が「巨人力士身長碑」にその名を刻している。上段の手形は左から大空・釈迦ヶ嶽・九紋竜、中段の手形も左からいけば、鰭ヶ嶽・出羽ヶ嶽・竜門で、 下段は足形となっていて、これまた左から挙げると、生月・竜門・男山である。もちろん原寸大だが、これがまたデカいのデカくないのって、 ケタ外れとしか言いようがない。巨人とは何の関係もないが、横綱照國の足形もケタ外れである。長さと幅が殆ど変わらない。 長さはとにかく短く、幅はとにかく広い。」とこれもネットから。左手の丸い碑が「釈迦嶽等身碑」。高さ228cm、直径46cmの円柱で、碑文で埋め尽くされていた。「出雲釈迦嶽雲右衛門長七尺五寸石象表本右没十三年永慕建焉闕里孔信龍伯鱗韻言東魯孔信鳳仲翼書揮天明七年春二月朔天建置弟真鶴崎右衛門山川降気斯出大人身長丈余膂力絶倫角觝相撲鳴於深川一朝化去姓名尚伝空存其地子弟消魂建石象形表於万年鳩谷天愚公孔平信敏撰 赤峰劉長和書」と記載されているのだと。碑文は上の通りで、記されていることは、・出雲産の釈迦ヶ嶽は身長7尺5寸、これを石で象る。・歿後13年の天明 7年(1787・正確には13回忌)2月1日、弟の稲妻がこれを建てる。・撰文は鳩谷天愚孔平こと(萩野)信敏である。といったことであるとのこと。「釈迦嶽等身碑寛延二年(一七四九)出雲国(現安来市)に出生。松平家のお抱え力士雷電為五郎の弟子となり大坂で初土俵、明和七年(一七七〇)江戸番付に東大関として登場する。身の丈七尺五寸(二米二六糎)四拾五貫八百匁(一七二瓩)の巨体があった。江戸在場所中の成績は二三勝一分一預という高い勝率を残した。安永四年(一七七五)若干二十六才にて没したのは惜しまれる。この碑は天明七年実弟の真鶴咲右衛門により建立された。」そして参道左手にあったのが「神輿蔵」。一の宮と二の宮の神輿が展示されていた。左手に一の宮の神輿が展示されていたのでガラス越しに。重さ4.5トン・宝石が多数使われる日本一大きな黄金神輿だそうだ。平成3(1991)年に佐川急便社長により奉納されたが、大きすぎて一度使われて以来この神輿蔵から出ていないらしいと、本当なのであろうか。製作年 平成3年 作者 第十六代浅子周慶 型 屋根延金地塗神輿 台輪幅 5尺(1m51cm)屋根幅 9尺5寸(2m89cm)高さ 14尺5寸(4m39cm) 重量 約 4.5トン 装飾鳳凰の胸 ダイヤモンド 7カラット鳳凰の目 ダイヤモンド 4カラット 1対鳳凰の鶏冠 ルビー2,010個狛犬の目 ダイヤモンド 3カラット 2対 (左右)隅木の目 ダイヤモンド 1カラット 4対 (左右前後)小鳥の目 ダイヤモンド 1カラット 4対 (左右前後)屋根は、純金 24kg その他 プラチナ、銀、宝石多数使用右側に収められている二の宮神輿は重さ2トン。こちらは3年に一度行われる本祭りには大神輿54基として街を練り歩く。 観衆から清めの水が掛けられ「水かけ祭り」ともいわれる。「水かけ祭り」の写真。 ・・・つづく・・・
2020.07.14
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60.歌川芳盛 東海道 草津 文久3年(1863)「草津名物の姥が餅を売る茶屋の風景です。先触れに促され、土下坐をして行列を待つ人の姿も見えます。」61.河鍋暁斎 東海道名所之内 京筑地承明門 文久3年(1863)「内裏の南面正門である建礼門を入ると、その先に承明門があります。画中では、公家の正装である束帯姿の将軍が承明門に入ろうとする場面が描かれています。御所の警備にあたる検非違使などの官職がそれぞれの配置についている様子も見られます。」62.作者不詳(かわら版) 伊豆相模武蔵安房上総下総総泰平鑑「泰平鑑という表題ですが、幕末の海岸防備を擢いた「御固図」の一つです。この図の特徴としては、防備に当たる各藩の家紋や藩主の名前に加え目印となる纏や簡易な印を背に入れた陣羽織なども一覧の形で表しています。また、画面中央には、アメリカ国旗をはためかせた「蒸気船」が何艘も描かれ、その大きさについて長さ幅を詳細に記入しています。そして、そこから漕ぎ出した小船(カッター船)を望遠鏡で覗いたように大きく表現しており、交渉にあたる幕府とアメリカ使節団の互いの緊迫感が感じられます。」63.作者不詳(かわら版) 海陸御固御場所附 江戸末期「伊豆から房総に至る「御固場」を描いた瓦版です。防備に当たる各藩の家紋や藩主等の名前が記されています。左側にある「御台場」は他の2図よりもリアルに描力かれ、一番御台場・(武州川越藩)松平誠丸、ニ番御台場・(奥州会津藩)松平肥後守、三番御台場・(武州忍藩)松平下総守と担当する藩主の名が記されています。中央下には、小さく江の島が描かれています。また、左側には各大名等の配置表(場所附)が添付されています。こうした情報も、当時の庶民の関心事だったようです。」防備に当たる各藩の家紋や藩主等の名前が記されています。64.作者不詳(かわら版) 浦賀圍図 江戸末期 「江戸時代末期の黒船来航により、江戸幕府は大きな緊張感に包まれその対応として、三浦半島から房総半島にかけての海岸線の守りを固めました。この海防を絵図に記したもののが「御固図」とよばれるものて、この絵図でも海岸線沿いに譜代大名などを割り当て、強固な防御施設を配備している様子がわかります。江戸城に近い海上には砲台を備えた「御台場」が築造され、絵図中には櫓や大砲、藩主の家紋の入った幟旗も見えます。」65.ニ代目歌川国輝 東海道末広五十三次名所双六 慶応元年(1865)「末広(扇子)をマスに見立てた東海道五十三次の道中双六です。振り出しは右下の日本橋、上がりは中央に位置する京です。すべてのマスに行列が描かれており、また京のマスでは束帯姿の人物が書状を与える場面が描かれています。このことから、第14代将軍徳川家茂の上洛を意識して描かれたことがうかがえます。藤沢のマスでは「南湖のまっ原」が描かれています。現在、南湖は茅ヶ崎市域ですが、当時は藤沢宿の範囲として捉えられており、藤沢宿の名所のひとっとして多く描かれました。」「おまけ展示コーナー」。「ちりめん絵ちりめん絵は一見小さな錦絵のように見えますが、実は和紙に摺った普通の大きさの錦絵を、棒に巻きつけ縮めて作ったものです。近くで見ると、ちりめんに似た細かい皺があります。ちりめん絵は外国向けのものとして量産され、クレープ・ジャポン(ちりめん織をフランス語でクレープと呼ぶ)、略してクレポンと呼ばれました。当時は比較的安価に買えたものであったらしく、画家のゴッホもちりめん絵を多く集めていたとされます。」それにしても、上の説明ではよく理解できない私、棒に巻きつけ縮めて???豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 藤沢 弁天小僧菊之助 慶応3年(1867)豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 見附 三作妹お辰 慶応3年(1867)豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 沼津 黄瀬川 亀鶴展示コーナー。豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 岡嵜 和田志津馬最初の展示コーナー入口左にあった「浮世絵の中のこれは何かな?」再び展示室入り口にあった歌川広重初代 相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図。制作時期:弘化4年~嘉永5年(1844~1853)頃。板元:住政これは「相州江之嶋弁才天開帳参詣群衆之図」と同時に江戸の四谷傳馬町二丁目の住吉屋から刊行された作品で、江の島弁財天を参詣するために参道に列をつくった女講中音曲(おんぎょく)連中のその後版とも言えるものです。画面左の岩場や参道に角木瓜(もっこう)の日傘の常磐津(ときわづ)節、中央の三本杵は江戸長唄(ながうた)の杵屋(きねや)、菱に三つ柏は清元(きよもと)節、桜草の宮本節も右の平な俎板岩(まないたいわ)の上で緋毛氈(ひもうせん)を広げ酒肴を楽しんでいます。その傍では釣りをする清元節の女性たちもいます。三々五々岩場巡りをしたり、本宮岩屋に詣たり、裸の子供たちに投銭をしてそれを海中で拾わせたりして芸者が楽しむ有様は、天保9年(1830年)に書かれた『富士大山道中雑記附江之嶋鎌倉』にも「…嶋入口并此所にても子供数多居、少々の出銭にて海中え飛入り、種々の芸事いたし候事」とあります。当時の江の島詣の様子をよく表現しています。。画題にある「本宮岩屋」は、窟(いわや)弁財天の開帳に合わせて刊行されたことを証明していると。そして展示室入口前の案内板。そして「江の島」に関する様々な浮世絵の一部が切り取られて。歌川国貞画 東海道名所之内 江ノ島(御上洛東海道・行列)将軍が江の島の岩屋の前で、海女の親子が海中から鮑(あわび)を取ってくるようすを上覧している場面。以前にはなかった説明文が。「月岡芳年 今様げんじ江之嶋兒ヶ淵」元治元年(1864)田舎源氏の光君が江の島遊覧に訪れ、稚児ヶ淵で海女(あま)達の鮑漁りを見物している様を描いています。光の君は特徴のある海老茶筌髷(えびちゃせんまげ)に豪華な衣裳を身につけています。いわゆる源氏絵で版の色数も多く、空摺(からずり)の技法も駆使した入念な錦絵海女たちの鮑取りの姿。江の島の稚児ヶ淵にて、アワビ採りをする海女と、それを眺める男性とお付きの女性が推かれています。「作者不詳 相州江ノ島 弁財天上下ノ宮 己巳年御開帳繁栄之全図 文化6年( 1809)多くの作品で江の島でアワビ採りをしているのは女性として描かれていますが、この作品では男性の姿で描かれている点が注目されます。「歌川広重 東海道 七 五十三次 藤沢 弘化4年-嘉水5年頃(1847-52)藤沢宿の夜の風景が描かれています。江の島一ノ鳥居と大鋸橋(現・遊行寺橋)が見えます。旅籠の前で客引きをする人などが描かれ、当時のにぎわいが感じられます。「歌川貞虎 鎌倉七里ケ浜ヨリ江の嶌 遠見ノ図 天保年間(1830- 44)」右手の手拭いを髪に巻く「姉さん被り」そして煙管を持つ女性の姿をズームで。江の島詣をする華やかな女性たちが描かれています。手拭いを髪に巻く「姉さん被り」は海の潮風から髪を守るためのもので、浮世絵によく擢かれています。「歌川芳形 東海道藤澤 文久3年( 1863 )」馬方が飾りを付けた馬の足の具合を見ているところです。馬が見据える背景にみえる緑の三角は大山です。「FUJISAWA UKIYOE MUSEUM」。「歌川国貞(三代豊国) 東海道名所之内鎌倉七里が浜の風景 文久3年( 1863 )」菅笠を被った旅装束の女性が、若い娘が引く牛に乗り、七里ガ浜の浜辺を悠々と行く様子が描かれています。海はやや波立ち、海上には船の白い帆が漂っています。「魚屋北渓 江島記行兒ヶ淵 天保年間( 1830-44 )」男性が遠眼鏡(望遠鏡)であたりを眺望しています。江戸時代の記録によると、江の島では遠服鏡で景色を眺めることがよく行われていたようです。「歌川広重 冨士三十六景相模七里か浜 安政5年( 1858 )」広重の最晩年に制作されたシリーズ作品「冨士三十六景」の一つです。縦の構図を生かし、七里ガ浜から江の島と富士山を望む風景です。「喜多川歌麿 風流四季の遊弥生の江之島詣 享和年間(1801-04)」女性は商家の女房と思われ、後ろには荷担ぎの若衆がいます。荷物には紐でくくりつけられた貝屏風や干し雲丹といった江の島名物の土産が描き込まれています。エレベータホール 正面。反対側通路にあったポスターコーナーの「はだの浮世絵ギャラリー」ポスター。「これも五十三次」ポスター。そして7階の窓から、江の島方面を見たが、江の島の姿は見えなかった。「ココテラス湘南」を出て駐車場に駐めてある車に向かう。右手前方にあったのがショッピングモール「テラスモール湘南」。東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道線辻堂駅北口に、2011年(平成23年)11月11日にオープンした商業施設。湘南地域最大級の大型ショッピングモール。 辻堂駅北口と歩行者デッキで直結しているのだ。大きな公園の先が駐車場。大きな公園は「神台(かんだい)公園(シークロス公園)」。そして左手に「テラスモール湘南」を見ながら駐車場に戻り、帰宅の途に。 ・・・END・・・
2020.07.13
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そして展示コーナーの途中にあったのが「江の島弁財天道標昭和41年(1966)1月17日指定/江の島道の道標です。江戸前期の鍼医・杉山検校が藤沢宿から江の島へ続く約4㎞の江の島道周辺に48基の道標を建立したと伝えられています。のちに移設されたものもありますが、市内では藤沢橋脇、白旗神社境内、遊行通りロータリー内、砥上公園、法照寺境内、片瀬小学校、密蔵寺向かい辻、大源太公園、西行戻り松脇、湘南モノレール「湘南江の島」駅付近、片瀬洲鼻通り、江島神社参道福石横の12基が指定されています(市内で未指定もあり。鎌倉市・東京都にも各1基確認されている)。いずれも火成岩製、ほぼ同型同寸。標身高120㎝の尖頭角柱形。」これはレプリカなのであろう。四面のうち三面に「一切衆生」「ゑのしま道」「二世安楽」と刻まれています。「一切衆生」:この世に生きているすべてのもの。生きとし生けるもの。特に人間に対して いうことが多い。「二世安楽」:来世のこともこの世のことも、仏様に任せ切って南無阿弥陀仏とお念仏を称える 身になってこそ、本当の安らぎがいただけるのです。ソーシャルディスタンス 2m と注意喚起のパネルも。正面に藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」。そして再び「御上洛東海道と幕末の浮世絵」展示コーナーの続きへ。「御上洛東海道と幕末の浮世絵東海道を日本橋から京都へと向かう徳川家茂の上洛を描いた、通称「御上洛東海道」と呼ばれるシリーズは評判となり、その作品数は1 6 2点にも及びました。その人気を受けて、同じく「御上洛」を扱った浮世絵作品や絵双六などが登場しています。長い行列を描くために俯瞰的な構図の作品が流行り、横浜の開港を描いた「横浜絵」にも受け継がれます。また、将軍上洛の起因でもあた外国船の来航も、当時の一大関心事であり、絵巻や瓦版(事件の速報記事を一枚摺りにしたもの)に写し取られています。実に様々な物事を対象として描かれた作品から、幕末当時の時代の息吹を感じていただきたいです。」41.歌川国貞(三代豊国) 東海道名所之内 鎌倉七里ガ浜の風景 文久3年(1863)「菅笠を被た旅装束の女性が、若い娘が引く牛に乗り、七里ガ浜の浜辺を悠々と行く様子が描かれています。海はやや波立ち、海上には船の白い帆が漂っています。波打ち際を見ると、若干の雲母が施される等、摺りの工夫が見られます。実際の上洛の際に、将軍が七里ガ浜に訪れたわけではなく、あくまても想定で描かれた作品と考えられます。」42.歌川貞秀 東海道名所之内 由比ヶ浜 文久3年(1863)「鶴岡八満宮一ノ鳥居の前あたりから、稲村ガ崎、腰越、江の島、さらには遠く箱根山、ニ子岳(双子山)、下田、そして富士山にまて及ぶ景観が、地名と共に描きこまれています。また、中央に画面をニ分するように松の木が描かれるといった斬新な構成も見られます。波打ち際に立っているのが将軍家茂と思われますが、実際の上洛の際に家茂がこの場听に立っことはなく、他のシリーズ作品同様に、源頼朝に仮託して描れたものと考えられています。」43.二代歌川国貞 二代歌川広重 東海道名所之内 江之嶌 文久3年(1863)「国貞の弟子であるニ代国貞(四代豊国)と、広重の弟子の二代広重による供筆作品です。江の島の岩屋の前で、海女の親子が海中から鮑を採ってくるようすを、将軍が上覧している場面でしよう。ただし、実際に家茂が上洛の途中て江の島へ寄った事実はなく、源頼朝に仮託したものと考えられます。画面中央の波を境に、陸上のようすをニ代広重が、海中のようすをニ代国貞が描いており、師匠同様に、風景描写に長けたニ代広重、人物が得意なニ代国貞が、それぞれの手腕を発揮しています。」44.河鍋暁斎 東海道名所之内 箱根山中猪狩 文久3年(1863)「将軍が座す御前で、勢子(狩猟の際に、獲物を追い込む役目の人夫)が追い立てた猪や鹿などが、崖から逆落としになっています。猟師たちの動きや表情には、北斎漫画的な描写が見られ、自身も絵手本をよく出した暁斎の興味の幅広さが出ています。画中にある「惺々周麿」とは、「暁斎」と改める以前の画号です。」45.作者不詳 相州浦賀米国船入津之図 嘉永6年(1853)頃。「嘉永六丑年六月三日申ノ下刻 相州浦賀津江入舩北亜墨利加ハシトン舩十四日メニ 浦賀ニ入津ト云嘉永6年( 1853 ) 6月、米艦隊(黒船)入津の模様を記録した墨書画です。当時の記録等から抜き出して1巻にまとめたたものと思われます(横浜市歴史博物館蔵に類似の着彩画あり)。「アメリカ人栗(久里)浜上陸行軍ノ図(惣人数五百余人)」の図中、ニ角帽子をかぶって、下に「惣大将」と記されているのがべリー提督で、同行の童子が、書翰を入れた包を持ています。ます。巻末には、「久里浜陣押、荒増之図(惣人数一千百有余人)」が記されていて上陸時の日本側の態勢も記録されています。」武器、サーベルを持って、それぞれ異なる帽子を被っている。軍隊が更新行進する時に使用する楽器。外輪蒸気船「サスケハナ号」図。アメリカ人栗浜上陸行軍ノ図 総人数五百四人。総大将の横に国書を持った子供の姿も。日本の「久里濱陣営之図 惣人数一千百有余人」。「久里浜陣営之図」の「奉行本部」。川越藩と忍藩の武将たちがこの場所を担当していたと。「泰平(太平)の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰) たった四杯で夜も寝られず」浦賀沖のペリー艦隊の図。46.歌川貞秀 東海道勝景従日本橋至荒井 東海道勝景従白須賀京都迄一覧 文久3年(1863)「東海道の日本橋から荒井宿 (新居とも。静岡県湖西市)までの俯瞰図(大判錦絵3枚続き)と、白須賀宿(湖西市)から京都までの俯瞰図(同前)をつなげた絵図です。道を湾曲させることで東海道各地の宿場等の名所を織り込みながら6枚のの画面に収めてしまう技法は、のちの吉田初三郎の鳥瞰図につながるものと言えましよう。」【https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Bunkyu3Harunomiyakoji/01.html】より東海道勝景従日本橋至荒井一覧。中央右端の江の島の姿が。東海道勝景従白須賀京都迄一覧。47.歌川芳員 横浜明細全図 慶応4年(1868) 「日米修好通商条約の締結により、安政5 (1858)年に開港した横浜の様子を描いた絵図です。港には欧米各国の帆船が描かれ、中央下部の「御台場」の向かいの「ハトバ」は、現在の通称「象の鼻」です。その上側、アメリカ合衆国の国旗が描かれているのが「亜役館」(アメリカ合衆国の公使館)、その右手「番所」脇には、「仏役館」「デニマルカ(デンマーク)役館」「プロシェン(プロシア)役館」も見えます。また現在の外人基地のあたりには、「英軍衛」「仏軍衛」などの兵営も見えます。現在の県庁部分に見える「御裁判所」の文字は、刷られたものではなく朱印で、慶応4 ( 1868 )年刊行時に加えられたと考えられます。」地図の右側。地図の左側。48.歌川芳盛 東海道之内 岡部 文化3年(1863)「岡部宿から丸子宿へ向かう途中には、宇津の山(宇津之谷峠)とよばれる峠道を越えます。本作では宇津の山で将軍が鷹狩をする様子が描かれています。多くの家臣たちに囲まれ、椅子に座り扇を持った人物が将軍でしよう。そばに控える多くの家臣の表情が細やかに描かれているのも印象的です。」49.歌川芳虎 東海道 藤枝 文化3年(1863)「藤枝宿を江戸に向かって進む家茂の行列を旅籠の中から見た構図となっています。行列の手前で土下座をしている旅籠の男性たちに対して、女中たちは興味深々といった様子で顔をあげています。旅籠の店先にはいくつもの木札が下げられているのが見えます。これらは講札といい、参詣の旅をする講の一行が、あらかじめ決められた茶屋や旅籠を見つける目印として掲げられたものです。まるで現代のツアー予約のようなイメージです。画面右手前の講札には「絵草紙講中」など洒落のきいた制作の講が書かれたものもあります。行列の向こうに見える旅籠の看板には、この版の版元を表す遠川屋の文字が記されています。」50.歌川芳盛 東海道 金谷 文久3年(1863)「将軍を駕籠に載せたまま大きな輦台で大井川の渡しを渡っています。従者はその身分に応じてか、平輦台や肩車で渡っている様子が見られます。行列の先頭は、向こう岸の山間に見える金谷宿の前を通り、すでに峠の向こう側を下っているようです。」51.歌川国貞(三代豊国) 東海道 日坂 文久3年(1863)「日坂宿は、急勾配の坂が続く難所として知られる小夜の中山峠の西側に位置します。画面奥には、小夜の中山峠が描かれています。画面手前には、日坂宿名物の「あめの餅」の看板を掲げた茶屋に立ち寄り駕籠を降りた将軍と、出迎える茶屋の女性たちが描かれています。」52.歌川国貞(三代豊国) 東海道 掛川 文久3年(1863)「宿場を通過する行列を、画面手前の若い男女が振り返って見ている様子が描かれています。色味を抑えた山々などの背景とは対照的に、色彩豊かな男女の装いが映える一枚です。」53.歌川国綱 東海道 白須賀 文久3年(1863)「海岸に沿って東海道を進む行列が描かれています。行列の進む道は遠州灘を一望できる名勝地の潮見坂と思われます。潮見坂は京都から江戸に進む際に初めて富士山を見ることのできる場所として知られ、絵にも「富士見松」と名のついた松が見られます。」54.歌川芳虎 東海道 藤川 文久3年(1863)「藤川宿を通過する行列を鳥瞰的に描いています。店先に「泊」や「休」の文字が見えることから旅籠であることがわかります。それぞれの店から人々が土下座をし、恭しく行列を出迎えている様子です。」展示コーナー。55.歌川芳虎 東海道 宮 文久3年(1863)「熱田湊の船渡場が描かれています。画面右手前には熱田神宮の浜の鳥居、後景には伊勢湾が広がっています。宮は熱田神宮の門前町として栄え、海上七里の渡しの渡しロでもあり、様々な物資が集まる要所でした。島居越しに見える赤い豪華な船は御座船といわれる貴人を乗せる船のことです。将軍はこの船に乗って渡ってきたのでしよう。」56.二代歌川広重 東海道 石薬師 文久3年(1863)「石薬師といえば「義経桜」がよく知られています。馬にまたがる若武者も、右手前の桜に目を向けているようにも見えます。」57.歌川国綱 東海道 庄野 文久3年(1863)「街道を粛々と歩を進める行列の様子が描かれています。画面からはみ出すように大きく描かれた松の木を手前に配すことで、この2本の松の間からみえる後景に奥行きを感じさせる構図となっています。行列の人々も、持ち道具の種類によって、それぞれ着物の絵柄に違いがみられており、細やかな意匠が見受けられます。」58.二代歌川国貞 東海道 亀山 文久3年(1863)「坂道を行列が続いています。画う右に見える石垣上にそびえ立つのは亀山城です。この城は当時、歌舞伎や合巻などを通して広くられており、亀山の仇討ち物碆の舞台として人気を博していました。」59.歌川芳年 東海道 石部 文久3年(1863)「行列が石部宿の本陣に到着した様子です。たき火の煙が画面を縦に覆う構図で、煙の色にも濃淡がほどこされ、構図の工夫が感じられます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.12
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「御上洛東海道」の展示の途中にあったのが藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」。「藤沢宿」「藤沢宿は東海道の日本橋から数えて六番目の宿場です。江戸幕府の道中奉行所の記録では藤沢宿の名物を「大山詣で、江の島弁財天詣で」と記しています。」「江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったことです。メインの東海道を西へ、四ッ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社・江の島弁財天へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあリ、観光、流通の中心地となリました。主な名所に、時宗総本山清浄光寺(通称は遊行寺)、江の島(江島神社)一ノ鳥居(江の島は、宿場から一里ほど南)、四ッ谷の立場(宿と宿の間の休憩地)、南湖(茅ヶ崎市)の左富士などがあリました。」「江の島詣や大山詣りの追分として栄えた藤沢宿や、風光明媚と讃えられた江の島の風景は、浮世絵の格好の画題として採用され、それら人気の風景を背景にした美人画は、江戸の人々に好まれました。本コーナーでは、藤沢宿・江の島の風景を背景にした艷やかな美人画の数々を紹介いたします。絵師たちによる表現の違いもお楽しみください。」展示コーナー。20.ニ代目歌川豊国 和国名所江ノ島 全勢揃 鶴屋内かくし 文政11年(1828)「本作は画面上部に青の濃淡で絵柄を表現する「藍摺」で江の島と富士の風景が配されており、下部には当時評判の遊女が手紙を書く様子が描かれています。鶴屋というのは吉原にあった遊女屋の名前で、「かしく」が遊女の源氏名です。」21.歌川芳晴 藤沢 天保14年~弘化4年(1843~47)「旅支度をする女性が描かれ、こま絵には遊行寺と大鋸橋(現・遊行寺橋)が見られます。女性の腰ひもを結ぶ仕草や風景の絵から、国貞の描いた「美人東海道」の藤沢の図を元にした作品であることがわかります。落款に見られる「芳晴」は歌川芳春の早い時期の表記です。芳春は歌川国芳の弟子として、幕末から明治にかけて活動しました。」 22.歌川国貞(三代豊国) 二代歌川広重 諸国名所七里ヶ浜 文久2年(1862)「手前の女性は国貞(三代豊国)、背景はニ代広重によって描かれた双筆の作品です。江の島への道中、七里ガ浜から海を眺めながら、煙草を一服する女性が描かれています。女性の装いをみると、手ぬぐいを陂り、大きめの浴衣を羽織っています。こちらは浜辺での砂や埃をよけるためのもので、江の島へ向かう女性の江戸時代における定畚ファッションでした。本作は「団扇絵」と呼ばれるもので、江戸時代の人々はこのような団扇絵を買い、その年に流行に合わせて団扇の紙を張り替えて使用していました。団扇絵は実用品であるため、現存の少ない希少な作品とされています。」23.歌川広重 東海道五十三図会 七 藤沢(美人東海道) 弘化4年~嘉永5年(1847~52)「広重の美人東海道と呼ばれるシリーズの内、藤沢宿を描いた作品です。画面上部の枠には、大山の眺めと藤沢の宿場風景が一つの画面に描きこまれています。女性は手に江の島名物である貝柄杓(貝殻の器のっいた杓)と干し雲丹を持ち、駕籠の上に乗っている品物は、鮑の漬けと貝屏風です。おみやげをたくさん買って、江の島から帰る様子とみられます。」24.歌川芳虎 書画五拾三駅 相模藤沢 山帰定憩 明治5年(1872)「この作品は、画面上部に文人墨客の文章と絵、下部には各宿駅ゆかりの故事や伝承、風景が描かれているシリーズ作品です。藤沢の図には、上部に其角堂(俳人・穂積永機[1823 ~ 1904] )の俳句、下部には茶屋でお茶を差し出す女性の姿が描かれています。表題の「山帰」の山とは大山(雨降山)のことで、女性のうしろにある縁台には、大山詣をあらわす御神酒枠(大山から水や酒を持ち帰る容器)が置かれています。また、右端に描かれている柱は当時設置されたばかりの電信柱で、明治の街道を象徴しています。」25.豊川国周 善悪三拾六美人 照姫 明治9年(1876)「照姫相州金沢瀬戸浦なる照姫松の由来を聴に小栗孫五郎満重は持氏公の怒に触れ主従わづか十一人流浪なして藤沢在の横山先生安春の邸に一服なす折から主人安春毒酒を以て小栗主従を害せんとす照姫察し満重に告其身も逃れ野島が崎に隠れ居しが宿の老女の嫉妬のために松葉に熏され危難に逢しが六消千光寺観せ音の利益によって、助りしとぞ。藤沢山の縁起を略して 深川山人誌」26.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黃 嘉永4年(1851)「五行説において重要な色とされていた「青」「赤」「黄」「白」「黒」の5色にそれぞれ美人が当てはめて描かれています。また、この美人たちは、歌舞伎の登場人物に擬えて描かれており、各色は、その役が決まって着る衣装の色と対応しています。黄:お駒(『恋娘昔八丈』より)黄色地に縞模様の、"黄八丈"の着物を着た、材木問屋の娘である「お駒」が描かれています。お家騒動に巻き込まれるお駒と髪結いの才三郎の情話『恋娘昔八丈』は、安永4年に浄瑠璃、翌年には歌舞伎の世話物狂言として上演され、人気を博しました。黄八丈は、歌舞伎の初演で三代目瀬川菊之丞がお熊役として着ていたことをきかけに、江戸で大流行しまた。八丈島の特産品てもあり、将軍家の御用品としても献上されています。」27.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黒 嘉永4年(1851)「黒:小梅(『隅田春妓女容性』より)か本作に描かれた美人は、侠客「梅の由兵衛」の妻「小梅」とされています。歯には既婚女性の証である”お歯黒”が見られ、褄の部分には梅の紋様が配されています。また着物は鳥の柄となており、黒の色と対応しています。褄を取りながら船の乗り場に立っていることから、降りた船を見送っているところでしようか。」28.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 青 嘉永4年(1851)「青:照手姫(小栗判官ものの物語より)小栗判官は藤沢の遊行寺とゆかりのある人物で、照手姫は小栗判官の恋人です。」29.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 赤 嘉永4年(1851)「赤:八重垣姫(『本朝廿四孝』より華やかな赤い振袖を着た「八重垣姫」が描かれています。八重垣姫は上杉謙信のひとり娘、また武田信玄の息子「勝頼」の許婚でもある設定です。なお『本朝廿四孝』などの時代物の歌舞伎に登場するお姫様を”赤姫”と呼び、赤い着物が定番となっています。手に持つのは武田家の宝の一つ「諏訪法性の御兜」です。兜の白い毛部分や着物の裾には空摺りが施されています。空摺りとは版木に絵の具をつけず、刷り圧だけで紙面に模様をつける技法のことです。」30.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 白 嘉永4年(1851)「白:役名未詳白地に絣の着物を着た美人が描かれています。役名は未詳ですが、髮型から芸者であると考えられ、屋根舟の後方に立ち、扇子を口にくわえながら帯を直すという仕草で描かれています。空には満月がさえざえと輝き、その下に見える橋は、竹材問屋が見えることから江戸の京橋と思われます。」「藤沢ー江ノ島」歌川広重「江の嶋弁才天開帳詣」「藤沢ー江の島」歌川広重『六十余州名所図会』「相模 江之嶋 岩屋ノ口」そして次の江の島コーナー「明治の江の島を描いた浮世絵と石版画」へ。「江の島富土山を別格とすれば、浮世絵に描かれた風景の中でその数では江の島は、かなりの上位に入ると言えましようそれほどに、江戸時代の江の島詣では一大ブームでした。」江の島は湘南海岸と砂州でつながった島です。波の浸食でできた「岩屋」の存在は、古くは宗教的な修業の場として多くの修行者の来訪を伝えていますが、鎌倉時代に源頼朝の祈願により文覚が弁財天を勧請したという由来から、弁財天の島として信仰を集め、また風光明媚な行楽の地としても人気を得るようになリました。浮世絵では、初期には富士山や朝日などとセットで中国の神仙思想にある蓬莱山に擬して描かれたものが多く、江の島詣でが盛んになるにつれ、参集する人々を描いたものが多くなっています。」「明治の江の島を描いた浮世絵と石版画本コーナーでは、浮世絵(木版多色摺り)と石版画で描かれた近代の江の島の風景を紹介いたします。江戸時代から人気の名所でもあった江の島の描かれ方の変化を、技法の違いだけでなく、風景や風俗のとらえ方の違いもご覧ください。」歌川広重初代 相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図 弘化4年~嘉永5年(1847~52)31.楊州周延 波枕江の島新語 明治13年(1880)「自序仲街を籠で通るや汐干貝とは。七世三升が吟にして能く深川の情を穿ち。八幡鐘のきぬぎぬに櫓下の迎ひ舟。なみの随意現なく、ゆふべの夢を波枕。その江の島に思ひ寄たる。歌舞伎の種を抄録もの。鳥居が画風の絵島。その顛末を七里が浜の。いとながながと記載せしを。丸鉄が梓にちりばめて発兌さんと乞ふに任せ。近頃流行三編読切。海鬼灯を鳴したまふ婦幼衆のお伽草。あたる満汐打かへす。浜の真砂の汐干貝。必らず拾ひ給はれと願ふものは竹芝の漁夫 久保田彦作記」歌舞伎の作者であった久保田彦作( 1846 ~ 1898 )が著した明治の絵草紙。画の周延は幕末から明治初期にかけて役者絵の第一人者で、さながら歌舞伎を見ているような作品です。こうした絵草紙類にも、名所江の島はたびたび取り上げられました。「「つづき」へも是より厳しき法 令いでいよいよ世の中静謐に及び男 女が風俗 ▲▲善かたに 改まりし と言つたふ めでたし めでたし めでたし」32.三代歌川広重 立斎漫画 明治12年(1879)「画面左上から、水鳥、歌舞伎の登場人物(『積恋雪関扉」の関兵衛)、翁面、江の島、ガス灯の点灯が張交絵で描かれています。画面右はガス灯の点灯の様子です。点灯方という専門の職業の人が、夕方になるとガス灯に火を灯し、朝になると消すために街中を走り回っていました。」33.楊斎延一 江の島美人の賑ひ 明治28年(1895)「江の島へ続く砂洲の道である洲鼻の入り口にて、貝拾いなどをして遊ぶ女性達が描かれています。楊斎延ー( 1872ー1944 )は楊洲周延の弟子で、美人画を得意としました。他にも役者絵や、文明開化頃の東京名所などを描きました。」34.小林清親 日本名所図会 江の島 明治29年(1896)35.楊州周延 名勝美人会相州七里ヶ浜 明治27年(1894)「明治期を代表する美人画絵師である楊洲周廷による本作には、三人の女性と、七里ガ浜から見た江の島の風景が描かれています。手前の姉さん被りをした女性は、一見すると若い娘のようですが、ニ人の少女を手招きしている様子から母親を若い女性の風俗で描いたものと考えられます。青色を基調にした背景や着物の淡い色により、近代の新しい美人画を象徴する柔らかな色彩の作品となっています。」ニ人の少女を手招きしている母親。ニ人の少女が母の下へ。36.鈴木年基 相州江之嶋 明治期「西洋絵画や写真の流入と共に写実的な風景が描かれるようになった一方て、浮世絵の画風を引き継いた絵師もいました。本作では高さは強調されていないものの、島の形などは写実とは言い難く、手前に見切れた樹木を配し遠近感を出すことも、浮世絵に見られる手法です。作者の鈴木年基(生没年不詳)は、幕末から明治にかけて活した浮世絵師である芳年の門弟で、大阪で活躍した絵師です。」37.尾形月耕 月耕随筆 江の嶌参り 明治29年(1896)「江の島への道中において、七里ヴ浜の浜辺で一休みする女性たちが描かれており、右奥には小動岬も見られます。本作を描いた尾形月耕( 1859-1920 )は浮世絵作品も手掛けましたが、特定の浮世絵の一門に属していたわけではなく独学で浮せ絵や菊池容斎の画風を学びました。画業の早い時期においては蒔絵や輸出用の七宝の下絵を描くほか、新聞・雑誌の挿絵に腕をふるい、後年には日本画家として万国博覧会等に作品を出品するなどして情力的に活動しました。」38.矢島知三郎 辨天娘 明治25年(1892)39.太田節次 江の島真景 明治26年。「デッサンスケールの上に江の島景が描かれています。明治になり西洋文化を取り入れる中、奥行きを正確に遠近法や一点透視図法、更には黄金分割などの絵画技法を日本でも取り入れるようになったことを物語っています。また明治22年( 1889)には東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校し、西洋絵画の研究が急速に進められました。」40.美術着色会社 相州江之嶋真景 明治22年「明治になると、江の島は実景に則して描かれるようになり、富士山よりも高さを誇張して描かれる傾向が弱まったことが感じられます。手前の女性は着物姿ですが洋傘を持っており、また奥の男性は洋服を着ていることから、風俗の推移も感じさせる作品となっています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.11
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6月24日(水)に「藤沢市藤澤浮世絵館」を久しぶりに車で訪ねました。「藤沢市藤澤浮世絵館」はJR辻堂駅から徒歩で10分弱の「ココテラス湘南」のビル内にあります。「Cocco(ココ)」は、イタリア語で「かわいい子、秘蔵っ子」などを意味するのだと。「ココテラス」は、日本語で「此処を照らす」明るい子どもたちの未来の言葉にかけられていると。住所:藤沢市辻堂神台二丁目2番2号。ビル入口にあった「案内板」。「藤沢市藤澤浮世絵館」は「ココテラス湘南」ビルの7Fにあるのです。新型コロナの影響でしばらく閉館していましたが、6月16日(火)から事前予約制で体調に問題ない方のみが、事前に体温の申告、マスク着用で入館できたのです。この日の目的は6月16日(火)から開催されている「御上洛東海道と幕末の浮世絵」(前期)展示の鑑賞のため。「藤沢市藤澤浮世絵館」にてこの展示の動画「藤澤浮世絵館 解説ムービー 御上洛東海道と幕末の浮世絵」のそれぞれ(1)👈動画リンク、(2)👈動画リンク、(3)👈動画リンクがネットに掲載れていましたので👈動画リンクにて紹介させていただきます。私も2年以上に渡る「旧東海道を歩く」👈リンクで江戸・日本橋~京都・三条大橋までを延べ32日間でこの3月末に完歩していたので、その「復習」も兼ねての訪館となったのです。東海道を京都へと向かう徳川将軍(御上洛)の姿を描いた、通称「御上洛東海道(ごじょうらくとうかいどう)」と呼ばれるシリーズを展示しているのです。「御上洛東海道」は文久3年(1863年)に多数の版元と絵師が参加して刊行され、江戸時代の浮世絵の掉尾(ちょうび)を飾るといわれるほどの技術と、シリーズの全作品数が160点を超える揃いものとして知られているのです。本展では、所蔵の74点を前期・後期に分けて展示。また、幕末期の浮世絵も紹介すると。7Fエレベーターホールの壁に掲げられた「浮世絵とは」のパネル。「浮世絵とは、江戸時代に発達した版画絵のことです。現実の世相や風俗といった「浮世」を損いた絵画で、その名はに17世紀中頃には見られるようになります。」そして浮世絵は「歌川広重 東海道五拾三次之内 藤澤」。この鳥居は江の島弁財天のもので四人の座頭たちが通り抜けようとしている。大鋸橋の向こうに開けるのが藤沢宿。さらにその向こうの山の上に見えるのが遊行寺で、藤澤は遊行寺の門前町として開けた宿場であったのです。そして、受付で予約そして健康を確認していただき展示場内へ。「ごあいさつ藤沢市は、市民の郷土、の愛新を育み、市民の文化の向上に寄与することを目的として、東海道藤沢宿や江の島の浮世絵をはじめとした郷土資料の鑑寳ができる施設「藤沢市藤澤浮世絵館」を聞館いたしました.藤沢市の浮世絵等資料コレクションは、1980年(昭和55年)に、市制40周年を記念して、日本大字元総長の呉文炳氏から譲り受けた江の島浮世絵等が中心となり、以来、郷土資料の一環として、藤沢宿、江の島を題材とした浮世絵や、関連資料を収集してきたものです。浮世絵は、人々のくらしや世相を描く絵画作品であり、江戸時代の庶民文化として発展しました。さらに、19世紀末には、ゴッホなどに代表されるヨーロッパの画家たちに大きな影響を与え、世界中から注目される美術品でもあります。藤沢の地は、江戸時代には東海道藤沢宿がおかれ、また時宗総本山清浄光寺(遊行寺)が立地し、信仰・行楽の地であった江の島や大山(雨降山)への参拝道の入口として、名所や伝説に根ざした多くの浮世絵が描かれたところです。藤澤浮世絵館は、今後も皆さまに地域の文化を伝え親しんでいただき、楽しくご利用いただける施設となりますよう取り組んでまいります。皆さまのご来訪を心からお待ち申し上げます。」「東海道五十三次」東海道五十三次とは江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道に置かれたの宿場のことです。日本橋を起点に三条大橋(京都)まで、約500kmの道のりです。「御上洛東海道文ス3年( 1863 )、1 4代将車徳川家茂は、公武合体のもとでの攘夷の決行を迫る孝明天皇に、開国を言上するために上洛しました。この上洛は、3代将軍家光の上洛から約230年ぶりの出来事でした。このような歴史上の重要な出来事も、浮世絵に描かれると、東海道をめぐる名所絵として楽しむことができます。このシリーズ作品は通称「御上洛東海道」と呼ばれており、25軒の版元による共同企画のもと16名の絵師が参加して刊行され、その作品数は162枚にのぼる超大作で、幕末の東海道作品として大ヒットしました。1.歌川国貞(三代豊国) 東海道 日本橋 文久3年(1863)「画面中央に大さく描かれた日本橋の向こう側に、毛槍が見えていることから、行列が近づいている場面であることが分かります。足早に通り過ぎようとする棒手振りや、足をとめて見ている者など、橋の手前にいる人々のざわめきも伝わってくるような臨場感のある作品です。画面上部には赤いぽかしが施され、上空には鶴い舞い、将軍の旅の始まりを寿ぐかのような、おめでたい構図となっています。」2.歌川国貞(三代豊国) 東海道 品川 文久3年(1863)「江戸時代から花見の名所として知られる御殿山の場面を描いています。画面手前の桜の下にみえる男性は、まさに花より団子と言わんばかりに、両手に団子を持って楽しんている様子です。」3.歌川芳虎 東海道 神奈川 文久3年(1683)「神奈川宿の台の茶屋を通る行列が描かれています。後景に見える丘のような台地は野毛の切通しで、その奥には開港されたばかりの横浜の開港場が描かれており、湾には洋船が停泊しています。」4.歌川芳艶 東海道 程ヶ谷 文久3年(1683)「行列が本陣を山発したところてしようか。画面奥に進む行列の中ほどで、馬に乗った後ろ姿の人物が将軍です。その行列を遮るように、たき火から立ちのぼる煙が画面全体に広がっています。画面上部に連なっているのは、保土ヶ谷宿の旅籠です。旅籠の人々が一人ずっ控える様子が細やかに描かれています。たき火の色が黒くなっていますが、これは丹焼けといって、丹(あざやかなオレンジ色の絵の具)が酸化したもので、本来は鮮やかな朱色で摺られていました。」5.河鍋暁斎 東海道名所之内 権太坂 文久3年(1683)「権太坂は、東海道て江戸を発ってから最初に出会う上り坂の難所として知られています。後景には権太坂を上る旅人の姿が博暗く描かれている一方、画面手前の茶屋の風景は色鮮やかに描かれているのが対照的です。」 6.歌川貞秀 東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 文久3年(1683)「藤沢の場面では、遊行寺の前を通る行列が描かれています。題字の右には「鎌倉道」、左には「江戸の方」とあり、遊行寺の林には「小栗堂」「小栗十騎の基(小栗の家臣の墓)」、右下の江の島一の島居付近には「江の嶋みち」といった表記が見られ、周辺の名所がクローズアップされています。現在でも、長生院の境内には「小果堂」と記された石の標柱があり、往時の賑わいが偲ばれます。」前半の「御上洛東海道」展示コーナーは右側の壁。7.歌川芳形 東海道 藤沢 文久3年(1683)「馬方が飾りを付けた馬の足の具合を見ているところでしよう。行列はすてに宿場を抜けようとしていて、馬がそちらを見据え-ている様子が印象的です。背後にある緑の三角は大山です。」8.河鍋暁斎 東海道名所之内 南湖 文久3年(1683) 「南湖は現在の茅ヶ崎市南部の海岸に接した地域名ですが、この地域の北端は東海道を含んでおり、ここに立場(宿と宿の間の休憩所)がありました。松並木と「左富士」が東海道の名所の一つとなっています。」9.二代歌川広重 東海道 平塚 文久3年(1683)「行列が相模川の下流域である馬入の渡しを通過しています。画面手前の馬にまたがる若武者は将軍を彷彿とさせますが、画面中央ではためく吹流しには、源頼朝を表す笹竜胆が描かれています。実際の上洛の際も、馬入の渡しに橋は架けられていませんでしたが、この図は鎌倉時代に相模川に架けられた橋の落成式に頼朝が参列したという地域の伝承にちなんで描かれたものと思われます。」 10.歌川国貞(三代豊国) 東海道之内 大磯 文久3年(1683)「東海道の名所を背景に、画面手前に美人が配されるという国貞ならではの構図です。手前の女性は、大磯にゆかりのある虎御前です。浜千鳥柄の着物は、恋人の曽我十郎の着物と同じ柄であることから、ニ人の関係を暗示しています。」11.歌川国綱 東海道 小田原 文久3年(1683)「室町時代から小田原で外郎薬の販売を続けている外郎屋の屋の前を行列が通っています。外郎薬は万能薬として広く親しまれ、小田原の名物として知られていました。屋の入口に見える虎の置物は、小田原の城主であった北条家の当主が代々用いていた虎朱印にちなんで描かれたもの、あるいは、歌舞伎の演目『外郎売』の台調にある「欄干橋の虎屋の藤右衛門・・・」の一節にちなんだものではないでしようか。」12.歌川芳盛 東海道 箱根 文久3年(1683)「箱根関所を通過する行列が描かれています。関所の役人たちが大番所の縁側から降りて土下座をしています。実際の箱根関所は小田原藩の管轄にありましたが、画中の大番所に貼られている幕には、小田原藩主の家紋ではなく、笹竜胆が描かれていることから、この画でも将軍を源頼朝に仮託して描いていることが分かります。」13.歌川国貞(三代豊国) 東海道 三嶋 文久3年(1683)「三島宿は、三島大社の門前町てあるとともに女郎衆とよばれる飯盛女を多く抱えて賑わう宿場でした。画の手前には、身支度を整える飯盛女たちの様子が描かれ、後景には三島大社の鳥居の前を通る行列が描かれています。」14.歌川国貞(三代豊国) 東海道 原 文久3年(1683)「茶屋で休想する旅人とお茶を差し山す女性の奥に行列が見えます。さらにその後景には富士山が大きく描かれています。富士山の名所として知られる一本松の立場(宿場と宿場の間の休憩所)の場面と思われます。この辺りから見る富士山が、東海道中て一番大きく見えると評判でした。」15.二代歌川広重 東海道 蒲原 文久3年(1683)「行列が舟に小分けに乗り込み、富士川の渡しを渡っています。従者の持ち物が大きく描かれている点が特徴です。画面手前にみえる舟に張られた幔幕には笹竜胆が描かれており、こちらも将軍を源頼朝に仮託して描かれていることがわかります。画面手前側にあたる富士川の西側に、次の宿場の蒲原宿がありました。」16.二代歌川広重 東海道 由井 文久3年(1683)「行列が薩埵峠を通っています。この薩埵峠から見る富士山は絶景として知られており、画面中央に突き出した崖の奥に富士山の姿が見えます。」17.歌川国綱 東海道 江尻 文久3年(1683)「行列が本陣に到着した様子を描いているものと思われます。出迎える人、荷を降ろす人、宿場に繰り出す人など、様々な様子が見てとれ、宿場の賑わいが伝わる構図となっています。将軍の姿はすでに見えませんが、本陣の幔幕には他の図と同様に笹竜胆が描かれています。」18.歌川芳盛 東海道 府中 文久3年(1683)「府中宿を行列が通ります。中景にみえる黒い門は、府中宿にあったニ丁町の遊郭です。ちょうど門の手前に見える白馬に赤い傘をさしている人物が将軍に見立てられています。ぼかしの奥の後景には、駿府城と富士山が大きく配されています。」19.二代歌川広重 東海道 鞠子 文久3年(1683)「鞠子宿(現在は丸子)といえば、とろろ汁が有名です。画中ても、街道の両脇に「とろろ汁」の看板を掲げた店がいくつも連なっています。鞠子宿は東海道で最も小さな宿駅でしたが、宇津之谷峠を控えた休憩地として賑わっていました。画面手前右の茶屋の店先にいる女性たちは、ちょうど行列に気づいたところのようです。茶屋の屋根の奥から、大名行列の先頭をゆく毛槍が顔を出しています。」前半の「御上洛東海道」展示コーナーを振り返る。 ・・・つづく・・・
2020.07.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク6月23日(火)の早朝に近くにある「相州藤沢 白旗神社」に新車で久しぶりに行って来ました。手前に「御典橋」とその奥に「鳥居」。「白旗神社」社号標石。平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになったのだと。「大御神灯」慶応元年(1865)6月に建立、高さ17尺(5.1m)、台座の底辺は7尺(2.1m)。日本初のグラスファイバー製の大鳥居であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。そして社殿への階段の両側には狛犬が。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。 その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。そしてこの日の撮影の目的の「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は昨年・2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」境内の「令和ニ年庚子歳 干支絵馬」。この絵馬は藤沢市在住の漫画家 佐野絵里子氏による原画をもとに奉製した絵馬であると。牛若丸と静御前。夫婦岩を意識した配置となっている。2020年、令和2年の干支・ネズミが遊んでいる綱が注連縄か。「湯立神楽 舞台」。「藤沢市指定重要無形民俗文化財 湯立神楽白旗神社 を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、鎌倉神楽 等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東 一帯に分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。」「神輿殿」。昭和54年5月、白旗神社神輿保存会が結成され、これを契機に昭和55年11月に造営された。中央に儀式殿があり、向かって右に義経、左に弁慶の二基の神輿を収蔵していると。「御神札授与所・社務所」昭和51年11月に完成した天平建築様式の社務所。お神札、お守り、おみくじの頒布、お祓い・お願い事の受付を行っている。近くにある「義経首洗井戸道しるべ」。👈リンク。「御神札授与所・社務所」前の「義経藤」。「義経藤」は純白の藤。 【https://twitter.com/tanuhashi102/status/1257468445249028096】よりそして「弁慶松」。こちらが「弁慶藤」、その手前に「芭蕉句碑」。「芭蕉句碑草臥て 宿かる比や 藤の花 文化二年建」。夕刻、いい加減歩き疲れた。そろそろ宿に入る時分、眼前に藤の花を見ると。文化2年(1805)に江戸の俳人以足によって建立されたと。「弁慶藤」は紫。 【https://twitter.com/lammy1999/status/1122044834082983939/photo/1】より夜になれば。「弁慶藤」の前から境内の「義経松」、「弁慶松」方向を見る。境内の反対側には「古神札納所」。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。近寄って。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。近寄って。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「金のしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。」「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって右。向かって左はピンボケ。白旗神社と書かれた白旗には「寒川比古命 源義経公」と。階段を上がり「拝殿」に向かって進む。左手に「干支絵馬」。「拝殿」はもう一つの石段の上に。境内には義経公に纏わる「鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」「拝殿」。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。「拝殿」の緻密な彫刻にも目をひかれたのであった。「拝殿」の横に白旗神社「弁慶の力石」があった。「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れろと健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。この石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。」「拝殿」前より参道を振り返る。境内から「源義経公武蔵丸弁慶公之像」と「大鳥居」を見ながら、車に乗り込み帰路についたのであった。
2020.07.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「村岡御霊神社」を後にし、再び「古館橋」まで戻り、柏尾川を渡る。「腰越大船線」を柏尾川に沿って南下すると左手にあったのが「中外製薬(株)鎌倉研究所」。そして「手広」交差点を右折し、藤沢駅方面に歩く。「川名」交差点手前の路地を右折し進み、「川名清水谷戸」に辿り着く。「川名清水谷戸」は、近くの人々が農業を営み、自然と共生しながら里山環境を守ってきた場所。昔ながらの原風景がそのまま残る貴重なスポットなのである。左右を丘陵の稜線に挟まれた谷あいの平地で、田んぼや畑、水路、溜池があり、 いわゆる里山を形成しているのだ。藤沢市内には、三つの谷戸があり、「遠藤笹窪谷戸」「石川丸山谷戸」そしてここ「川名清水谷戸」。奥の沼には蓮が。未だ開花には早かった。そして次に訪れたのが「神光寺横穴古墳群」。神光寺の門を過ぎてすぐの土手にぽっかり穴が開いているのであった。右から第横穴古墳と第2横穴古墳。「市指定・史跡 神光寺(じんこうじ)横穴古墳(横花墓)群横穴墓は、丘陵斜面や断崖に横穴を堀り、死者を埋葬する墓で、古墳時代に造られた横穴系の埋葬施設の影響を受けて、5世紀代に九州北部で造られ始めました。横穴墓は有力者の墓であったと考えられており、藤沢市内では6世紀後半頃から7世紀代を中心に造営され、神光寺横穴古墳群の位置する片瀬丘陵では数多くの横穴墓が造られました。神光寺横穴古墳群は、昭和43年に横穴墓7基の調査が実施され、土師器片、須恵器片などが確認されています。玄室内では、遺体を安置する棺座が玄室の床面から高い位置に造られており、地域的な特徴とされ、市内の古墳時代を考える上で貴重な史跡といえます。」ここ片瀬丘陵には、一〇〇基を越える横穴墓の存在が知られているのだと。これが第2横穴古墳。近くにあったのが「シェア畑 湘南藤沢」。農具資材、種苗・肥料、アドバイザーサポート付きの貸し農園。入会金:11,000円 3㎡:6,400円 6㎡:8,400円〜そして「高野山真言宗稲荷山 神光寺」を訪ねた。「高野山真言宗稲荷山 神光寺」寺標。「掲示板」「何かにつまずいたら 一歩先を見るとよい いつまでも そこにいると その苦しみから ぬけだせない」「咲く花に この世の ご縁を学び 散る花に この世の 無常を学ぶ」「生きている間が人生 どう生きたら いいのか 今のうちに 考えておきたい」「 藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造虚空菩薩立像木造一木造り、彫眼。表面刳落、右腕・左肘先・両手足欠如(本来は右手に宝剣、左手に宝珠を持っていたと推定される) 像高108.7㎝。本像は、嘉永4年(1851)に神光寺に合併吸収された大勝寺・「新編相模国風土記稿」に「大勝寺、川名山金剛院と号す。本寺前(鎌倉手広青蓮寺)に同じ。本尊は虚空蔵なり」とある虚空像菩薩と推定される。風化が甚だしいが、古様の作風から製作年代は平安時代は中期頃と推定され、市内屈指の古仏である。また、立像の虚空菩薩像は全国的にも非常に希少な存在である。」高野山真言宗「稲荷山影向院(ようごういん)神光寺」の「本堂」。「本堂」の扁額 「影向院(ようごういん) 」 。「本堂」に向かって右前の「弘法大師像」。角度を変えて、後光のお姿を。弘法大師石像の「堂」。堂に添えられた石碑。「稲荷山影向院 大師石像 創建文政項 相模国巡四国八十八箇所 七十四番 川名村 御詠歌 いと深くかけし誓をたのみにて 川名のはしを わたるもろ人動物の像と合体したユーモラスでほのぼのとするベンチと石造の仏塔。「弘法大師報恩謝徳供養塔」。③神光寺 ④横穴墓群 案内柱「文化財ハイキングコース案内板村岡の歴史と文化財 村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生れた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による錬倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になりました.やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の7ヶ村〔柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚.宮前、川名〕は藤沢宿の助郷と定めら街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぷための人や馬を提供することを義務づけらました。明治時代になって助郷題度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。現在の村岡地区は.武士が権勢を誇っていた頃の村岡とは地形もかなり麦っているようですが、それでもこの地を歩くと、平良文の居住地といわれる村岡城址をはじめとして、二伝寺境内に伝わる良文の墓、良文が将門の乱鎮定にあたって勧請したと伝えられる御霊神社、渡内村の名主であった福原家の番屋門など、村岡の地に生きたひとびとが遺した多くの歴史的遺産に接することができるはずです。」そしてこの日の「藤沢歴史散歩」の最終ゴール地点の「川名御霊神社」を訪ねた。「御霊神社」社号標石。石鳥居。「社殿」は長い階段の上に。三回折れて平場がある、四本連なる階段。「御霊神社由来」碑。 創 立 天慶四年八月(千有余年前) 祭 神 早良親王 合祀 平景政 例 祭 九月吉日早良親王は相模平氏村岡良文の祖神なり良文は村岡郷に住し四辺を開拓して恩恵を垂れ景政は良文の裔にして鎌倉時代武者を以て知らる因縁浅からず当初鎮護の神となす我々民族心の古里である手水場。「まきの樹」。「明治百年記念 まきの樹」石碑(昭和43年(1968年)銘)。更に階段を上って行く。階段上に「社殿」。藤沢市川名の御霊神社は、村岡御霊神社の分社と伝えられている。祭神の早良親王は、桓武天皇の弟。川名の地は、鎌倉郡津村郷に属し、村上五郎(平良文)の領した村岡に近いことから、村岡氏の支配下にあったものと考えられるが定かではない。平安時代後期には、鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の一部として、大庭氏の支配下にあったと考えられている。祭神 早良親王 鎌倉権五郎景政扁額「御霊神社」。「稲荷社」。扁額「正一位 稲荷大神」。「福禄寿像」。相州村岡七福神の福禄寿。相州村岡七福神巡りでは、残りの弥勒寺(毘沙門天) 、小塚荒神社(布袋和尚)、柄沢神社(恵比寿) 、渡内日枝神社(弁財天)、高谷大神宮(大黒天)、宮前御霊神社(寿老人))に会えるのであった。そしてこの日のゴール地点から帰路への階段を下る。そして県道32号線藤沢鎌倉線に出て「御霊神社前」江ノ電バス停で藤沢行きのバスを待ち、藤沢駅に17:30に到着し、更に自宅まで、神奈中バスを利用し帰宅したのであった。そして18時過ぎに帰宅して、この日の歩数を見ると何と!!早朝6時に自宅を出発し。18時に過ぎに帰宅するまで、ひたすらカメラ片手に歩いたのであった。しかしこの日は足の痛み等はほとんど無く元気に帰宅できたのであった。そしてこの日でほぼ全ての「藤沢歴史散歩」コースを完歩したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク右手にJR大船工場(正式には「JR東日本 鎌倉総合車両センター」)の広大な跡地。この広大な敷地には、昭和18(1943)年に「大日本帝国海軍 横須賀海軍工廠 田浦造兵部 深沢分工場」(以下「海軍工廠 深沢分工場」と略す)が設置され、魚雷等が造られていたようだ。終戦後に日本国有鉄道の土地となり、昭和20(1945)年12月1日に「日本国有鉄道(国鉄)大井工機部 大船分工場」として発足。昭和25(1950)年 に「国鉄 大船工場」、昭和62(1987)年には「JR東日本 大船工場」、平成12(2000)年には「JR東日本 鎌倉総合車両所」、平成16(2004)年 には「JR東日本 鎌倉総合車両センター」と名称を変更しているのだと。この広大な敷地の再開発計画は?ここは鎌倉市。「NEMS cafe」案内板が巨大な跡地の狭い入口に。新型コロナ対応で新たに出店した店なのであろうか?入口で中を覗いていると、大きな声で「いらっしゃいませ!!どうぞどうぞ!!」の声をかけられたが・・・。そして「古舘橋(ふたてばし)」入口交差点に。「古舘橋」とあるのは、このあたりは当時の武士の館だったのであろう。下を流れる川が「柏尾川」。「柏尾川」を渡り、再び藤沢市内に戻ったのであった。北に向かっ進んで行き、御霊神社の裏参道を下りると「鎌倉古道(上の道)」と刻まれた標石が道の角に。鎌倉街道(かまくらかいどう)👈リンク は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在するのだ。「鎌倉街道(古道)上道」として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉 - 化粧坂 - 瀬谷 - 本町田 - 小野路 - 府中 - 所沢 - 入間 - 笛吹峠 - 奈良梨 - 山名 - 高崎のルートである。武蔵国府付近は、東芝府中工場 - 分倍 - 中河原へ抜けるルートとなっている。そして右に進むと直ぐに古道が途切れ、辻の角に立つ標石柱の前には神戸製鋼のフェンスで囲まれた敷地内に兜松があったが、昭和22年(1947年)に枯死してしまったという。フェンスには「兜松と八ッ嶋」の看板があるだけであった。「兜松と八ツ嶋この道は鎌倉の化粧坂から柏尾川を渡り、村岡城内に通ずる鎌倉街道の名残である。八幡太郎義家が鎮守府将軍のとき奥州に後三年の役があり鎌倉権五郎景政も十六歳で従軍した。苦戦が続き新羅三郎義光も援軍にかけつけた。特に仙北郡金沢棚の合戦には鳥海弥三郎に右の眼を射られその矢を射返して敵を討ちとったことは有名である。凱旋のあとかねて祈願した御霊神社に戦勝のお礼詣りした記念に岩上の末の根もとに兜を埋めたのが兜松の由来である。またこの付近は新田義貞の鎌倉攻めの中心地で鎌倉方は相模守赤橋守時で六万余騎の大軍で元弘三年(一三三三)五月一八日は一日一夜のうちに六五度の合戦が行われた激戦地で世に州崎の戦いといわれている。その時の戦死者を葬ったのが八ツ嶋である。」兜山(塚)の木立をフェンス越しに。ズームで。「かぶと松の碑永保3年(1083)陸奥守兼鎮守府将軍源義家赴任、後三年の役となる。鎌倉権五郎景政若干16歳で出陣。仙北郡金沢柵の合戦の時、鳥海弥三郎に右目を射られ、その矢を射返して敵を討ちとった。凱旋し御霊神社に戦勝を報告、記念にこの岩上の松の根もとに兜を埋めたといわれている。源頼朝は鎌倉に幕府を開き、北条氏これを継ぐ。元弘3年(1333)5月、新田義貞上野国で挙兵 利根川を渡り疾風のごとく鎌倉に迫る。三浦義勝、村岡に陣を敷き鎌倉総攻撃を敢行 18日村岡の激戦となる。鎌倉方赤橋守時以下九十余人自害す。村岡方の戦死者を八ツ嶋に葬る今回この兜松に合祀す。」と刻まれているとネットから。そして「兜松と八ツ嶋」から引き返して「御領神社」に向かう。途中、美しいガクアジサイが。「御霊神社」の裏山の後河内公園北の断崖絶壁の山肌とその下に駐車した?車が並ぶ。旧家の前の左手に産直野菜の出店「はやしふぁーむ」があった。ズッキーニ。そしてこれは初めて見る「丸いズッキーニ」・グリーンエッグ。買いたかったが、まだまだ歩くので・・・・。来年、種を買って育ててみたいと思いながら。そして、変形十字路の右手奥に「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」の石鳥居が見えた。藤沢市宮前560。「宮前御霊神社」案内柱。そして角にあった「道祖神」碑とその手前に「力石」が2個。白ペンキで重さが書かれてあったが・・・??。「道祖神碑」。双体神祇道祖神、文化十一(1814)年そして「祭神」の銘。「大門この一帯を通称大門町と呼んでいるこの辻に道祖神あり丈化十一年(一八一四)宮前村中とあり昭和二十年代までこの前で正月十四日に村中集まってだんご焼きが行われた場所今では宮前公園で毎年行われている。ここの力石は大九十三キロ(二十五貫目)小七十八キロ(二十一貫目)あり。明治・大正時代項この大門に夜な夜な若い衆が集まりこの力石を担いで力を争そっていたと古老の話あり。普この場所で夏場鎌倉囃しの養成練習をした。参進には榎が両側に三本ずつあったと古老は云っていた鎌倉権五郎のお手植との伝説あり」「御霊神社」石鳥居と扁額。参道の「タブノキ」。「タブノキ」の前には松尾芭蕉の」句碑が。「梅が香に のつと旭の出る 山路かな」立春を過ぎて残る寒い朝。梅の香が匂う山路には、何の前触れもなく朝日がひょっこりと昇ってくる と。「のっと」という日常語を持ってきて、死後に一大流行を作り出した「軽み」の実践句であると。何故ここに芭蕉句が?梅の名所なのか?「宮前町内会館」。「御霊神社」碑。「日露戦役記念碑」。「手水舎」。「社殿」への石段。石段手前にあった「御霊神社」石碑。「御祭神 本殿五座 崇道天皇 光仁天皇第二皇子早良親王(さわらしんのう) 権五郎景政(ごんごろうかげまさ) 葛原親王(くずはらしんのう) 高見王(たかみおう) 高望王(たかもちおう) 境内副社 十二天王 疱瘡神 笹折矢竹稲荷 七面宮 祭日 毎年九月十八日 由来沿革 御祭神崇道天皇は桓武天皇が御宇延暦十二年五月現在の京都市に御霊宮として祀り給い 其の後村岡に五郎良文公が住し天慶三年に勧請し戦勝祈願をなしたるを初めとす のち鎌倉権五郎景政を合せ祀り二柱たりしが北条時頼の命により 葛原親王 高見王 高望王の三柱を加え県下に十三の分社ありその後村岡五ヶ村総鎮守として現在に至っている」「社殿」。藤沢市宮前のここ村岡御霊神社は、坂東八平氏の祖村岡五郎(平良文)が勧請したと伝わる。平良文は、桓武天皇を祖とする平氏で、承平・天慶の乱では平将門とともに平国香と戦ったとされるが定かではない。御霊神社の近辺に良文の館があったとされ、祭神の鎌倉権五郎景政もこの地に住したと考えられている。景政は、良文の子孫。父景成の代に鎌倉の大倉ヶ谷に館を構え「鎌倉氏」を名乗ったと。階段上に「寿老人」。「神社正面旧階段の鎌倉石前の鎌倉石の階段は慶応四年に御霊神社の造営完成後神社正面の階段九二段を元鎌倉郡今泉村より切り出し村人たちが運んで神社の正面階段に石工が工事しました慶応四年(一八六九)一三九年の歳月の経過で鎌倉石は軟質なので消耗が激しく危険なので昭和五二年神社萱葺き屋根を銅板に改修工事した後階段も新しく白川石にて改修し現在に至っております。」「寿老人」に近づいて。「末社十二天王社」の朱の鳥居。「末社十二天王社」「村岡御霊神社の境内社十二天下の小池で鎌倉景政(19)は射られた左目を洗ったことで平癒したという。十二天王社は十二天明神天神七代地神五代を奉祭し(『御霊宮来山(仁安2年(1167年))』『大永元年(1521年)文書』)、小名小山(村岡城址からのびる山の最南端)に祀られていたが、後に十二天王社は御霊神社に移され祀られる(『十二天王碑』『末社十二天王社看板』)。昭和初頭(1925年ころ)には道路拡幅で山は削られ、3m半ぐらいの「シシオトシ」もなくなり、湘南貨物駅ができたことで鎌倉権五郎景政の服を洗ったと伝えられている十二天の小池(『御霊神社略記』)もなくなり、片眼の魚の住家もなくなったため、金森氏(通称十二天)の宅端に祠を造り記念碑を建てたという。かつては天王様という立派な御輿を担ぎ、毎年7月14日に盛大に祭りが行われたが、(御輿は山頂に埋められ)御霊神社の御霊庵での日侍講に変わり、12歳を頭とする子供十二天祭りへと発展したと伝わる。」十二天王を祀る「石祠」。「十二天王社」碑。「七面宮」。「兜山七面宮鎌倉権五郎景政の兜を埋めし処の塚、八幡太郎景政と誓いの松榎の大樹あり、兜松と云う、兜山に大松ありこれを兜松とよんでいた。鎌倉権五郎景政は,後三年の役で源義家に従い戦功をたて,戦勝を祈願した宮前の御霊神社に戦勝の報告に参詣された記念に兜山に兜を埋めたと伝えられています。兜山には七面宮があり安政年間(一八五四)大風で破損し当御霊神社の境内に移したという。」「折笹矢竹稲荷大明神」。鎌倉権五郎景政が後三年の役の際に片目を射られた矢を射返して敵を討った。この矢を地に刺すと矢笹が生えてきたので矢竹稲荷を祀ったというと。「旗立山の由来この碑の左上山頂に平坦地(平台山)が一二〇〇坪程あります。前九年の役(一〇五六)の出陣にあたり、源頼義がこの山にて白幡を立て軍勢を集めたことからこの地は旗立山と呼ばれています。また、その子源義家も後三年の役(一〇八六)の時に同じように白幡を立てたとされています。(其のとき村岡城主鎌倉権五郎景正が初陣としてこの戦いに参戦しました。)この旗立山には葛原親王(桓武天皇第五王子)が祀られていた塚があったとも伝えられています。」「疱瘡神」解説石板によると、天然痘は最も恐ろしい疫病とされ、その苦しみを少しでも軽くするため石塔を建て、祈りを捧げたのだと。この「疱瘡神」は八幡山の麓にあったが、鎌倉権五郎景政により御霊神社に移されたものだとか。帰路は「女坂」を下る。石段の下にまで下り、正面の空き地の奥にあったのが「徳寿院跡」案内板。第十六番村岡山徳寿院(廃寺)跡。草むらの脇の斜面下のやぐらの中に石仏そしてその横に石碑群が。「大師像」は、徳寿院跡地の後の崖をくりぬいたやぐらの一番右端にあった。「大師像」の左手には昭和57年宮前念佛講中が建てた石碑が並んでいた。「準四国八十八ヶ所 第廿六番阿波國観音寺」👈リンク 石碑。第16番御詠歌「ただたのめ ふたたびとては あひがたき 稔りをここに 宮前の寺。昔の人は稲刈り後の暇になった頃、相模国準四国詣りをしたようです。なんと、八十八ヶ所4、5日で回ったと。「徳寿院跡この地は村岡山と号す渡内天嶽院の末寺があっ所です。また、○○寺で天嶽院の隠居寺とも云われていました。本尊は聖観音を祀ってぃたようで創建の年歴等は不明ですが、古い〇〇に享保十二年(一七一六)の銘があり、この時代からのようであります。開山以後十二代の無縫塔墓碑があり、明治中期に廃寺となりました。その後宮前部落で管理しており、お日待や村の集会所に使われていました。昭和二十年代に解体された境内には弘法大師の像があり、江戸時代に始まったとされた相模の国・準四国八十八箇所霊場の中の十六番札所であります。慰霊碑。戒名が。歴代の住職であろうか?「村岡御霊神社」の帰路、参道の左にあったのが「内出町稲荷社」。「社殿」をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉市寺分地区の散策を続ける。「大慶寺」のすぐ先、左手奥にあったのが「駒形神社」そして石鳥居。鎌倉市寺分1-10-12。急な石段を上って行く。階段の上の境内正面に「拝殿」。祭神は、駒形大神(こまがたおおかみ)ということになっているが、地元では邇々芸命(ににぎのみこと)と伝えられて来たと。古くより、農業の神として崇められ、治承年間、この辺りを領していた大庭景親が「天候不順が止むよう祈願した」と伝えられている。境内には、1822年(文政5年)の造られた弁財天(やぐら内)や、富士信仰の名残の石塔が置かれている。江戸時代までは、本尊として千手観音が安置されていたというが、現在は、中国風木造人形七体と木造神馬が安置されている。かつては、東光寺の管理下にあったという。「拝殿」の奥に「本殿」。右奥に稲荷社、手前にやぐら内の弁財天。弁財天像、文政5年銘。ズームで。そして更に南に進む。右手に「 東光寺」と書かれた案内柱が。「高野山 真言宗 東光寺」。「東光寺」入口門。境内の「聖観世音菩薩像」。平成19年8月建立。門前の蔵のある家の者が30代の若さで亡くなられそれを悲しんで建てられたもの。「南無大師遍照金剛」と書かれた赤い幟が並ぶ。「太子堂」。鎌倉市寺分1にある東光寺は高野山真言宗のお寺で「天照山薬王院東光寺」という。創建は永享3年(1431年)と言われ、中興開山は法印霊範である。高野山慈眼院の法印霊範が隠居所とした寺と伝えられている。また、本尊不動明王は、智証作と伝わる。扁額「東光寺」。「太師堂」前の「弘法大師ご修行像」。「四国八十八ケ所 お砂踏み霊場弘法大師様開創の四国八十八ケ所霊場の各寺院よりお砂を勧請し、修行大師様の四方に納めさせて頂きました。「南無大師遍照金剛」とお唱えしながら、発心の道場 修行の道場 菩提の道場 涅槃の道場と、時計廻りにお詣り下さい。そして本四国八十八ケ所霊場遍路行と同じ御功徳を頂いて下さい」「やぐら」。「やぐら」内の石仏、庚申塔群。「岩壁家之墓」。「水子地蔵尊」の奥に「探し大師」。相模国十三番札所の弘法大師坐像。探し物が見つかるのだと。「六地蔵」。ここにも「岩壁家」の墓が。この寺の近くの旧家なのであろうか?「弘法大師御入定千百五十年御遠忌供養塔」。白のアジサイ。そして次に訪ねたのが「梶原 御霊神社」。「一の鳥居」とその奥に「二の鳥居」。「二の鳥居」の先に「石燈籠」と「社殿」。燈籠の台座に遊ぶ狛犬が刻まれていた。「拝殿」と「狛犬」。「御霊神社鎮座地 鎌倉市梶原一丁目十二番二十七号御祭神 鎌倉権五郎景政霊由緒御祭神景政は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(1045年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し安部貞任・宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(1052)時の人始めて鎌倉権五郎景政に御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり。後年鎌倉権太夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(1190)九月梶原平蔵景時一宇を建て、景政の霊を祀り御霊社と尊称す。」向かって左側の阿形「狛犬」。牡丹?の花を咥えてしかも子連れ。右側の吽形「狛犬」は何も咥えていない?「拝殿」。この石碑には何と?再び親友から「堅牢地神」ではないかと。「堅牢地神」は大地をつかさどる地神で、大地が万物を載せて堅固不動であるところから、堅牢の名がある。万物を生育し負載するはたらきを神格化したものであるようだ。「本殿」への石段。「青面金剛童子碑」。「本殿」。「陸軍歩兵一等卒勲八等安田定吉之碑」日露戦争に従軍し、明治37年8月22日に寺児溝西北髙地にて戦死した安田定吉さんの慰霊碑。有志らによって明治40年2月に建立されたのだと。「梶原景時の墓」梶原景時は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変) とウィキペディアよりそして「梶原 御霊神社」を後にし、「新川」沿いを柏尾川に向かって進む。右手にあったのが「鎌倉市立深沢小学校」。「新川の由来この川は潅漑用水路として開削されたものです。昭和十五年深沢村の中央に西方の柏尾川へ注ぐて五キロメートルの水路が設定されました。元より主として柏尾川、大塚川、笛田川の三すじの水系に頼ってきた耕地ですから、この「新川」の誕生はその後の農作業に大きな潤いをもたらしました。土地の提供や取水方式への合意など地域の人々の共同する心が整わなければ成し得ない大事業であったと思われます。深沢耕地は東部の山里から西へど潅水がゆきわたり稲作への貢献度は絶大であったと推察できます。深沢尋常高等小学校の生徒たちの中には、この開削事業に「川底固め」のために参画した例もあったと聞きます。それほどに地域社会の悲願だったとも言えるわけでこのエリアの人々の熱意や気概を伝える「新川」でもあります。」「湘南モノレール」下を潜る。「湘南モノレール」路線距離(営業キロ):6.6 km 方式:懸垂式(三菱サフェージュ式) 駅数:8駅(起終点駅含む) 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:全線(直流 1500 V) 閉塞方式:自動閉塞式 信号保安装置:ループ式ATS 交換可能駅:4駅(富士見町、湘南深沢、西鎌倉、目白山下) 最高速度:75 km/h ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.06
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク「富士塚」を後にし、西に向かって進むと江の島 龍口寺から大船を結ぶ市道「大船西鎌倉線」に出たが、道の上を湘南モノレールが懸垂して走っていた。湘南モノレール「湘南町屋駅」手前の「町屋駅前」交差点を渡り更に西に進む。右手前方にあったのが「三菱電機㈱鎌倉製作所」が。この先の十字路を左折し南に向かう。柏尾川に向かって進むと正面に寺院の山門が姿を現した。「真言宗 泉光院」。鎌倉市上町屋631。山門前の掲示板には「良く忍耐する者は よく その希望を遂げる」と。我がこれまでの人生は「良く忍耐」できなかったのではと猛省。「天守山 泉光院」寺標と「山門」。山門をぬけると、 正面に本堂、左に薬師堂、参道両側に向かい合って宝筺印塔と宝号塔があり、本堂前面に弘法大師修行像、右に庫裡があった。「宝筺印塔」。宝号塔「南無阿弥陀仏」。「薬師堂」。薬師堂の薬師如来は、眼病平癒の信仰をあつめ、「町屋薬師」とも呼ばれている。「薬師堂」扁額。「本堂」。鎌倉市手広の鎖大師・青蓮寺(2002年6月掲載)の末寺として、高野山真言宗に属していたが現住職の代に、 真言宗大覚寺派に変わったと。真言宗大覚寺派の「天守山 高音寺 泉光院」👈リンク開山 季等和尚 寛永十六年九月七日本尊 阿弥陀三尊「弘法大師石像」。「いぼとり地蔵尊」。石を奉じてお祈りをすると、「いぼが取れる」とか「子供が元気に育つ」といわれているのだ。中央に「いぼとり地蔵」、両側に「弘法大師石像」が祀られていた。「庚申塔」と「馬頭観世音」碑が並んでいた。一番右にあった「十一面観音像」。「六地蔵尊」。本堂横の「大日如来坐像」。「愛玩動物墓」。私の墓石はこの何分の一のものになるのであろうか?そして近くの南側にあった「天満宮」を訪ねた。「天満宮本殿」。鎌倉市上町屋に鎮座する天満宮は、社伝によると天慶年間(937年〜947年)に平良文が霊夢から天満宮を勧請したのが始まりという。平良文は鎌倉権五郎の祖である。祭神は菅原道真であり、上町屋の鎮守である。境内社に梅王社、松王社、稲荷社があるというが、本殿の左右に建つ覆い屋の中は2つとも狐の像があり稲荷社に見えた。社殿は天明元年(1781年)に再建され、石造鳥居は天保11年(1840年)に建立された。関東大震災でも倒壊しなかったのだろうか。江戸時代までは泉光院の管理下にあった。その名残で、正月に泉光院から御幣を受けて祀る習慣が今も続けられているとのこと。「南無仙元大菩薩」。「山真講」の石碑。「真」の字の上に富士山の姿が。富士講「山真講」は千葉市寒川町で、文化年間に活動に入った。千葉市中心部から東金街道に沿って発展したようだ。「仙元大菩薩」は中国から伝来した弥勒教と富士・山岳信仰が結びついて生まれた宗教である弥勒講に登場する菩薩で、日本の国土を守護する米の神、富士山信仰・浅間信仰の祭神で、」石碑が富士山に向かって建てられているのだと。横の面には「大天狗 小御嶽石尊大権現 小天狗」と。一般に「石尊大権現」といえば神奈川県の大山阿夫利神社を指すのだと。よって「石尊参り」は大山詣でのことだと。大山関連の石碑にも、「石尊大権現・大天狗・小天狗」と書かれる。しかし、これに小御嶽が付くと、まったく別物となるのだと。富士山五合目には、現在も磐長姫を祀る小御嶽神社がある。ここに勧請された富士太郎坊という天狗が「小御嶽石尊大権現」なのだと。反対側には「元祖 食行身禄佛」と刻まれていた。「食行身禄(じきぎょう みろく)」は、日本の宗教家。富士講の指導者。本名は伊藤 伊兵衛(いとう いへい)で、食行身禄は行名(富士講修行者としての名前)。伊藤食行身禄、伊藤食行とも言われていたと。「菅公一千年際記念碑」(明治34年(1901年)銘)。「菅公」とは菅原道真のこと。この石碑を建てた1000年前は901年、この歳に菅原道真は大宰府に左遷されたのであった。平安京を離れる際に詠んだのが、有名な次の和歌。「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」と。「稲荷社」。「天満宮」を後にし、「泣塔」に向かって進む。この付近には、寺の如き大きな屋敷、民家がところどころに。寺の如き屋根を持つ旧家が。ここの地名は「町屋」であり、昔は賑わった場所であったのだろう。そして、Iphonesによると「泣塔(なきとう)」に到着したはずが、それらしき物は見当たらず、こんもりとした竹藪はフェンスに囲まれていて立入禁止になっていた。深沢地域・梶原のJR東日本・旧大船工場跡地脇に建つ宝篋印塔・「泣塔」。「泣塔」(なきとう)とは、洲崎古戦場近くに建つ宝篋印塔。1356年(文和5年)の銘があり鎌倉市の有形文化財に指定されている。洲崎では、1333年(元弘3年)、新田義貞と赤橋守時の軍が激しい戦いを繰り広げられた。泣塔は、背後に「やぐら」もあることから、この戦いの戦死者の供養塔と考えられている。「かつて、泣塔は、手広の青蓮寺に移されたが、毎晩、すすり泣く声が聞こえたので元の場所に戻された」という伝承が残されていることから、「泣塔」と呼ばれるようになったという。この辺りの地名をとって「陣出の泣塔」と呼ばれている。これが見たかった「泣塔」なのであったが。 【http://blog.livedoor.jp/mamataro911/archives/1546175.html】より「泣塔」を後にし、数少ない後ろ髪を引かれながらモノレール方面に戻る。次に訪ねたのがモノレール下にあった「洲崎古戦場跡」碑👈リンク。元弘3年(13339)5月18日、新田義貞の鎌倉攻めのおり、多摩川の分倍河原(ぶばいかわら)の戦いに敗れた北条軍は一気に退いて、この地に布陣した。新田軍の前面は掘口貞満軍、守は北条軍の将・赤橋守時。両軍がここで激突し、5月18日終日、戦いが続いた。一昼夜に65度に渡る切りあいがあり多数の戦死者がでて、始め、6万騎あった幕府軍は、新田軍の猛攻に会い、ついに300騎ほどになってしまった。幕府軍の赤橋守時は自害した のだと。「洲崎古戦場跡此ノ辺リ古ノ洲崎郷ニ属ス 元弘三年五月新田義貞鎌倉攻ノ折 ソノ武将堀口三郎貞満 大島讃岐守守之洲崎口ヨリ攻ム 鎌倉方ハ赤崎相模守 守時ヲ将トシテ邀撃シ 戦闘六十数度 遂ニ敗レ守時以下九十余人自刃シタル古戦場ナリ 」そしてモノレール下を「湘南深沢駅」方面に向って歩く。「富士塚小学校入口」交差点の路地を左に入り突き当たりを右に進んで行く。左手にあったのが「休場山 等覚寺」。鎌倉市梶原1-9-2「休場山 等覚寺」寺標と藁葺屋根の「山門」。この寺の山号は「休場山」、大相撲の力士には敷居が高い寺なのでは。「東覚寺(とうがくじ)」案内板。「東覚寺休場山弥勒院東覚寺と号し、高野山真言宗に属す。開山は秀恵僧都で応永年間(1394-1428)の創建という。本尊は不動明王、また出世子育地蔵尊を安置す。訓蒙学舎(深沢小学校の前身)創設の地なり」「等覚寺六地蔵」。左から4番目は、文化6年(1809年)11月吉日、念佛講中と読める。「水子地蔵尊」。「大師堂の弘法大師(石像)」。「延命地蔵尊」。「本堂」。扁額「休場山 等覚院」。「本堂内陣」。「弘法大師御入定千百五十年御遠忌供養塔」。「本堂」前の石灯籠。「北條一族 供養塔」。洲崎古戦場跡から出土した戦死者の供養塔。1333年(元弘3年)、新田義貞軍と赤橋守時軍は激戦を繰り返し、守時軍は敗れ90人以上が自刃したという。そして次に訪ねたのが「東覚寺」と小山の反対側にある「大慶寺」。「山門」前に「開山 大休正念禅師」碑と「関東十刹 大慶寺」寺標。臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は霊照山。鎌倉市寺分1-5-8。「山門」。「本堂」。創建は文永6年(1269年)〜弘安2年(1279年)とされ、開基は永井光録、開山は大休正念(仏源禅師)であり、至徳3年(1386年)に関東十刹に列せられた。地名の寺分は大慶寺の寺域で大慶寺分と言われていた。指月軒、覚華庵、天台庵、大東庵、方外庵など塔頭が五つもある大きなお寺であったが、永禄4年(1562年)上杉謙信が鎌倉八幡宮参拝の折の戦火により灰燼に帰し、昭和19年(1944年)に残っていた方外庵が大慶寺と改称し、復興したのが現在の大慶寺である。平成2年(1990年)から檀家を受け入れるようになり、樹齢700年を越えるといわれる天然記念物のビャクシンの老木2株の裏にお墓を造成して檀徒希望者に分譲している。最近、本堂を改築し、広い駐車場の前に山門も移築して屋根の萱が葺き替えられた。「本堂内陣」。「寺務所」。境内の「宝篋印塔」が2基。「宝篋印塔」の両脇に樹齢700年以上と言われるビャクシンの木。「本堂」裏の墓地の奥の「やぐら」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.05
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク「山崎跨線橋」を渡り最初に訪ねたのが「妙法寺」。「本堂」妙法寺は、山梨県にあった寺で、関東大震災により廃寺となっていたのを、1928年(昭和3年)、日宝が鎌倉に再建した寺。宗派:日蓮宗。 山号寺号:宝珠山妙法寺。 創建:昭和三年(1928)。 開山:日宝。 本尊:大曼荼羅掛軸。 寺宝:本尊、木造日蓮上人坐像、木造鬼子母神像他。「妙法寺」、「南無妙法蓮華経」と開基の「中興 耀光院日寶上人」と刻まれた石碑。「地蔵堂」地蔵堂には、動物供養のために作られた猫や牛の石像もみられる。2人の上人像。「耀光院日寶上人之像」「當山中興 耀光院日寶上人之像」と刻まれた石碑。「二世 妙龍院日光法尼の像」。「當山中興 二世 妙龍院日光法尼の像」と刻まれた石碑。境内に石碑が並ぶ。右に「馬頭観音」、中央に「北条秀頼神社」、左に「山門并石段」と。寺院に神社の碑があるのは、かつての神仏一体の名残か?「北條秀頼神社」碑。「山門并石段」碑。境内の片隅、本堂の右手に七面天女が祀られた「七面堂」があった。「七面堂」の前には、「妙法庚申神社」と刻まれた小さな石碑が立っていた。この石碑は、寺を建てるとき地中から出現したものだと。「庚申ノ霊感告テ曰ク當山北方地下數尺六百三十年ヲ経タル我ガ神體アリ速ニ出シ法華勧請セヨ即チ守護法益ヲ得マシミ惣法其地ニハ此ノ神體出タリ依テ此處?ニ謹ミテ勧請ス維時昭和九年九月十日 寳珠山 龍敬誌 感得主 ???」と刻まれていた。そして「妙法寺」を後にし、進むと変形4差路にあったのが「庚申塔」。ここも古くからの辻で、山崎村への入口部分だったようだ。左の「角柱型庚申塔」には「大正九庚申年十月」(1920)、「深澤村山崎」と刻まれていた。その隣の「駒型 庚申塚 三猿」には「山崎村/講中」、「文政五壬午年十一月十五日」(1822)と。その横に「駒型 青面金剛立像 三猿」、文字は判読出来なかった。一番右に「折損塔 青面金剛立像 邪鬼 三猿 二鶏」、「山崎村」、「宝暦六年/子十一月」(1756)とそれぞれ刻まれていた。次に訪れたのが「天神山城」。案内板等が無く・・・。この先で行き止まりで、何も発見できなかったが・・・?今、考えてみると、この先の山が「天神山」であり、この「天神山」が「天神山城」跡なのであろう。そして「庚申塔」の路地を右に曲がり先に進むと右手奥に石段が見えた。「ここは北野神社」の案内板。石段の先に「北野神社」の石鳥居が見えた。この地図を見て?、今回は「北野神社」は訪ねなかった。「北野神社」をネットより。北野神社は、山崎天神とも呼ばれ、暦応年間(1338-1341)、夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものと伝えられ、鎮座する山は「天神山」と呼ばれている。その後、1362年(貞治元年)、円覚寺塔頭黄梅院主によって再建され、村の鎮守となった。江戸時代には「洲崎神社」とも呼ばれていたという。(洲崎は現在の寺分・梶原・山崎・上町屋の古称。)夢窓疎石は北野神社とともに宝積寺も建立。本地仏として十一面観音像が安置されていたというが、明治の神仏分離によって昌清院に移された(円覚寺塔頭如意庵末寺)。祭神は菅原道真(すがわらのみちざね)、素戔嗚命(すさのおのみこと)。 【https://www.yoritomo-japan.com/page140kitanojinjya.htm】よりそしてさらに進み「山崎」交差点で湘南モノレールの下をくぐり、直進する。鎌倉市山崎の住宅街を進む。右側の林の手前の路地に石碑が。「従是えのし満」と刻まれた「江の島への道標」。「文化八年(1811)未年五月」とも。「山崎集会場」の角を右折し、坂道を更に上って行く。この集会場の場所には「十王堂」があった模様。右手にあったのが「昌清院」。門が閉まっていたため境内には入れなかった。昌清院の山号は「山崎山」。以前は「長崎山」あるいは「諏訪山」などと号していたが、近年に改められたのだと。残念ながら山門入口は閉まっており境内には入れなかった。よってこれも「本堂」の姿をネットから。山崎の昌清院は、円覚寺塔頭如意庵の末寺。本尊は釈迦如来。開山は如意庵八世の以足徳満(いそくとくまん)といわれている。その一方で、昌清院に伝わる如意庵開山の無礙妙謙(むげみょうけん)坐像の胎内銘に「当院開山」と記されているという。北野神社(山崎天神社)に、本地仏として祀られていた春日の作と伝えられる「十一面観音像」は、昌清院に安置されている。他に「地蔵菩薩像」、「十王像」、「倶生神像」、「奪衣婆像」を安置。これらの像は、近くにあった十王堂に安置されていたものと考えられている(現在の「山崎の集会所」がある所に十王堂があったという。)。「本尊釈迦如来坐像」は1775年(安永4年)の作、「奪衣婆像」は室町後期の作。 【https://4travel.jp/travelogue/11295765】より----------------------------------------------------------------------------------------------そしてこの寺は高校時代の学友のN氏が不慮の事故で20歳の若さで亡くなり、この寺の墓地に埋葬されている事を、これも学友のM氏がこのブログを見て教えてくれたのであった。そして2020年7月26日(日)に同じく学友のO氏との3人でお墓参りに再び訪ねたのであった。何と亡くなってから丁度50年目になるのであった。何度かお墓参りに訪ねたことのあるM氏が脇の潜戸から境内へ。そして階段上に本堂が。そして「本堂」。豪雨の合間に3人でお墓参り。そして、献花用の花束のビニールを境内の焼却炉に捨てに行くと、大声で戻って来たのであった。焼却炉の中に蜂の大群が入ると。私が行って、焼却炉の蓋を開けると日本ミツバチが巣を作っていたのであった。箱があれば、持ち帰りたかったが・・・・寺の住職が飼っている可能性もありやむなく諦めたのであった。そして境内の墓石、歴代の住職の墓であろうか?------------------------------------------------------------------------------------------そして少し来た道を戻り左折して、更に急坂を上る。正面に中央に手摺のある急な階段が現れた。なんと手摺の上部は給水栓?になっていた。鎌倉市寺分2丁目29にある「富士塚公園」に到着しベンチで暫しの休憩。「富士塚公園」。この場所を訪れたのは、「富士講」の遺跡に興味を持つ高校時代の飲み友にその写真を撮ってきて欲しいと以前に頼まれていたからなのであった。正面の石段がこの山の山頂への入口。この左側の階段を上って行ったが、直ぐに山道がなくなっていたのであった。一面、雑草や小木に覆われて、獣道さえ確認できなかった。ここを上っていくのは危険と判断し、やむなく引き返したのであった。ただし、ここは4、5年前にも訪れた事があるのであった。その時は山道がそれなりに管理され上っていくことが出来たのでその時の写真を。富士講の石碑(天保12年(1841年)銘)。洲崎富士塚山頂の石仏。嘉永2年(1849年)銘。これは釈迦石仏で、台座には世話人や富士講中の人の名が記されているという。帰路に湘南モノレール、その先の三菱電機㈱鎌倉製作所を見る。藤沢方面を見る。藤沢市役所新庁舎手前のNTTビルの塔(右)とそしてNTTコミュニケーションのアンテナ塔(左)をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.04
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我が趣味の養蜂場に咲く「アーティチョーク(Artichoke)」の花が満開になっています。キク科チョウセンアザミ属の多年草。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)。ヨーロッパでは若いつぼみを食用とする(花菜類)とのことですが・・・・。地中海沿岸原産とのこと。多くの我がミツバチがこの花を訪れ、花の中に潜り込んでいます。最初は、花粉を求めてやって来ているのかと思いましたが、ミツバチの脚には花粉球はなく蜜(ミツ)を求めて訪花しているようです。しかし、日本はもちろん、ヨーロッパ等でも「アーティチョークのハチミツ」をこの眼で見たことがありません。どなたか、見た、食べたことのある方は書き込みをお願いいたします。-------------------------------------------------------------------------------------------------【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「諏訪神社」の次に訪ねたのが「龍宝寺(りゅうほうじ)」。玉縄城二代目城主北条綱成によって1503年に開かれた曹洞宗の寺。藁葺き屋根の「山門」に向かって進む。「山門」は元禄時代の建築とのこと。「龍宝寺」案内板。●宗派 漕洞宗●山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺●建立 16世紀中頃●開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい)●開基 北条綱成(ほうじょうつなしげ)玉縄三代城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建立した瑞光院(ずいこういん)ともいわれる香華院(こうげいん)がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。」「境内案内図」。 【http://www.kcn-net.org/kokenchiku/ryuhoji/ryuhoji.html】より「陽谷山 龍宝寺 案内」石碑。宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏開山 泰絮宗栄大和尚開基 玉縄城主(北条綱成、氏勝)本堂 木造銅葺重層入母屋造 (昭和三十五年建立) 設計 大岡 実山門 江戸時代元禄年間造鐘楼堂 設計 大岡 実面山瑞方禅師の銘文記す一、玉縄北条氏の供養塔一、新井白石公の碑一、金比羅宮一、子育地蔵尊堂一、福徳稲荷堂(天保年間造)一、弁天堂一、道祖神一、玉縄ふるさと館一、旧石井家住宅(国重要文化財) 歴史民俗資料館(鎌倉市指定)「山門」の扁額は「陽谷山」。「曹洞宗 陽谷山 龍寶寺」寺標。境内の左手にあり宗教法人 龍寳寺が経営している幼稚園が。「玉縄幼稚園 にゅうえんしき」と。新型コロナウィルスの影響で式典が延びているのであろう。「玉縄ふるさと館」が右手に。もともとは『玉縄民俗資料館』という名称であったが収蔵品の劣化と共に来館者も激減していた様で、2013年3月に国指定重要文化財である旧石井家住宅と併せ、「玉縄ふるさと館」としてリニューアルオープンしたのだと。右にあった「子育地蔵堂」。「子育地蔵尊」。團野功雄の歌碑。「いぞそらは 吾が身散るとも 我が心 堅く護らん 皇孫の國 功雄」。裏面には「神風院殿至誠明道大居士 神風特別攻撃隊至誠隊隊長 従七位功三級勲五等海軍少佐 團野功雄 支 昭和十九年十月二十九日大東亞戦争比島沖航空戦ニ於テ 第ニ神風特別攻撃隊隊長トシテ勇戦名譽ノ戦死ス 行年二十四歳」とあるそうだ。辞世の句だと。旧石井家住宅(重文)。元禄期に建てられた農家(名主)。境内の「芍薬園」。隣でショウブの花が開花中。芍薬が開花するとみごとに。 【https://tuesgenial.exblog.jp/18030589/】より参道の小さな社は「金比羅宮」。境内は広く、やや左にゆるく曲がるように参道が続き、一段高いところに堂々とした「龍寶寺」の「本堂」が立っていた。「本堂」。龍宝寺は火災により山門と鐘楼以外を全焼しているのだと。現在の建物は石碑にあった通り、昭和34年(1959)に大岡実の設計により再建された物「本堂」の扁額は「龍寶寺」。「本堂内陣」。 中央にご本尊の釈迦如来、両脇に文殊菩薩、普賢菩薩が祀られているのだと。「玉縄北条氏供養塔」。「玉縄北条氏供養塔永正九年(一五一二)伊勢宗瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として関東進出の重要な役目を果たしてきました。戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、外に向かっては勇猛果敢に戦いました。この供養塔は、龍賓寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍賓寺墓地裏の尾根上に移設しました。この度、玉縄城築城五〇〇年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いっも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。「本堂」の裏にも渡り廊下で繋がれている建物が。「本堂」前から広い境内を見る。「龍寶寺」を後にし、県道402号線を大船フラワーセンター方面い進むと正面にトンネルが現れた。神奈川県道402号 阿久和鎌倉線にある「龍寶寺トンネル」。延長: 52m 竣工:昭和45年(1970年)。そして「龍寶寺トンネル」を潜り50m程の路地を左折して、300mほど進むと左手にあったのが「玉泉寺」。「真言宗 聖天山 歓喜院 玉泉寺」の「本堂」。「玉泉寺」は、江戸時代に小林若狭という人物が建立した。山号の「聖天山」は、背後の山に聖天の祠があったことによるという。秘仏本尊の不動明王像は、胎内に小さなお不動さまを抱えていることから、「胎内不動」と呼ばれ、この胎内の像は願行上人が作ったものとされている。願行は泉涌寺派の法燈を鎌倉に植えつけた僧(泉涌寺第六世)で、大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造したことで知られている と。「本堂」の扁額。境内の稲荷社。「 修行大師像( 弘法大師空海)」「本堂」裏の墓地。「六地蔵尊」。「武将のお墓」寺院の裏のやぐらには、小林若狭の父とその家臣一族数十名が葬られていた。布袋様に似ているが・・・。地蔵様の首がなく、抱えているように見えたが・・・。そして再び県道402号線に戻り、東海道線の方向に歩を進める。右手にあったのが「日比谷花壇大船フラワーセンター」。閉園中であると思っていたが、開園している様子。帰宅して調べてみると、この日から再開園したのであった。「山崎跨線橋北」交差点。宙に浮いている?信号が中央に。「日比谷花壇 大船フラワーセンター」案内板。「山崎跨線橋」を渡る。下を流れる川は「柏尾川」。「柏尾川」そして「JR東海道本線」に架かる「山崎跨線橋」。前方、左側にあったのが「鎌倉市 山崎浄化センター」とその先に「鎌倉武道館」。焼却棟の壁には静の舞と流鏑馬の武将が描かれていた。東海道線、横須賀線の線路が。出発を待つ成田エクスプレス(NEX)の姿も。そして「山崎跨線橋南」交差点まで進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.03
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク「貞宗寺」を後にし、県道302号線に再び戻り、先ほど訪ねた「久成寺」方面に歩を進め、ファミリーマートの先を右に曲がり、緩やかな坂道を上って「玉縄城址」方面に向かって行った。神奈中「陣屋坂(じんやさか)」バス停前を通過。玉縄城が廃城(1619年) になった後に玉縄領を預かった松平正綱が、この辺りに陣屋を構えたから「陣屋坂」の地名が出来たという。1698年(元禄十一年)正綱の作った陣屋は廃止されたのだと。左手にあった「陣屋坂公園」の先で「陣屋坂」は大きく左(西)にカーブ。更にしばらく上って行くとT字路がありその近くの高台のフェンス越しに朱の鳥居が見えた。「相模陣稲荷神社」。「相模陣」という地名も、玉縄城の南側を守るための陣屋があったため付けられた名称と考えられている。1619年(元和5年)、松平正綱が陣屋を造ったといわれている。「相模陣稲荷神社」は、陣屋坂を上りきる手前にあった。この「陣屋坂」は、「七曲坂」と「ふあん坂」の間にある坂。「ふあん坂」は、玉縄城から久成寺へと下る急坂で、玉縄城の防禦にとって重要な役割を果たした坂。階段を上がり「社殿」へ。「社殿」前には、「正一位稲荷大明神」と書かれた幟が対で。そして筍が奉納されていた。そして更に「陣屋坂」を上って行くとT字路に到着。右手に進むと「七曲坂」そして「玉縄城跡周辺」にとの案内。玉縄城方面に向って更に住宅街を進む。大手門跡、現在の清泉女学院の裏門(?)である。玉縄城の本丸があった場所は、現在は清泉女学院という中学・高等学校の敷地になっているのだ。学校の正門側にも遺構が残っているようだが、立入禁止表示板そしてゲートが設置されていて学院の許可が無いと立ち入れないのようであった。「玉縄城址」案内板。玉縄城は永正九年(1512)北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれた城です。城が築かれた場所は古くは鎌倉街道、後に東海道と鎌倉を結ぶ中継地点という交通の要所にありました。北は大面川、西に滝ノ川(旧柄沢川)、東から南にかけては柏尾川があり、水運と同時に天然の水堀の役目も果たしていました。城主は初代氏時、二代為昌と北条本家から輩出された後に、本家が最も頼りにしていた武将である綱成が継ぎ三代となり、さらに氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が続きました。これら名君揃いの城主が守った玉縄城は、その堅固さから一度も攻め落とされることはなかったが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、徳川家康軍の説得に応じて開城しました。その後、徳川方の城になって、元和元年の一国一城令により、元和五年(1619)廃城となりました。」道路の左上、たちいりきんしの先には、清泉女学院中学高校のグランドがあるようであった。「植木1号市民緑地」案内板。「16世紀の玉縄城想像図」。「玉縄城は、永正9(1512)年。伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれました。天然の要害となる丘陵に空堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城で、「東国無双の名城」でした。当時をしのぶ地形は、七曲坂、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに残っています。玉縄城主として特に有名なのは不敗の名将。黄八幡の北条綱成です。その一門は玉縄衆と呼ばれ、鎌倉を守る役割を負っていました。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城攻めのとき、六代城主氏勝は徳川家康の説得で無血開城し、元和5(1619)年に廃城となりました。」舗装道路が終わり、細い山道状の石段を下って行くのであった。陣屋坂の上のT字路の一角の、民家の横の小さな空間の草叢の中に、ここが玉縄城址であることを伝える石碑があった。、陣屋坂に面した側から小さな階段を登ったところ。「玉縄城址」「玉縄城ハ永正九年十月北條早雲ノ築クトコロタリ 大永享禄ノコロハ北條氏時之ニ居リ 天文初年ヨリ一族北條綱成居城ス 天正十八年小田原北條滅亡ノ際城主氏勝降伏シ後城ハ徳川氏ノ有トナリ 程ナク廃城トナリシモノナリ」。【玉縄城は1512年10月に北条早雲(そううん)が築きました。1521年頃から1542年頃までは北条氏時(うじとき)がこの城主であり、1542年からは一族北条綱成(つなしげ)が城主になりました。1590年に小田原の北条氏が亡んだ時、城主の氏勝は降伏し、城は徳川氏のものとなりました。その後ほどなく、城は廃止されました】しばらくはひたすら階段が続いていた。山の斜面にはヤマユリが咲いていた。最近は、自然のヤマユリはあまり見かけることが、少なくなってしまったのだ。坂の途中には七曲の防衛の拠点である武者だまりの広場が存在し、休憩スペースとなっていた。「七曲坂武者だまり址鎌倉街道中之道や江戸湾(現在の東京湾)から攻め上ってきた敵から玉縄城の中心部を守る武者たちが防御の拠点にした平場でした。武田や上杉あるいは里見や徳川の軍勢も攻め込めなかった玉縄城の堅い守りの一つです。」玉縄城址 歴史の道「七曲坂」。「玉縄城緑地ボランティア活動日のご案内」。そして「七曲坂」の出口(入口)にあった冠木門を潜り振り返る。「鎌倉・玉縄城を偲ぶコースマップ」。そして更に下って行くと左側にあった丸い建物は「認定こども園 鎌倉みどりこども園」。更に下っていくと右手にあったのが「玉縄城長屋門」。現在地元の方の民家・小坂邸の一角に位置し、私有物となっているようで、中に立ち入ることは出来ないようであった。この長屋門の辺りは、玉縄番匠跡で城郭や寺社の大工集団が集まっていた場所であると。長屋門に近づいて。県道402号線に出て左折して進むと、前方が「諏訪神社前」交差点。「諏訪神社前交差点」を渡り少し進むと右手奥に諏訪神社の銅製の鳥居が迎えてくれた。鳥居の扁額には「諏訪・御霊両太神」と書かれていた。「社務所」が左手に。境内石段登り口の「由緒」と書かれた石碑。「由 緒この神社は、今からおよそ四百二十年前当時の玉縄城主 北条綱成公が、軍神の称ある信州諏訪の建御名方冨命・八 坂刀売命二座の神霊を玉縄城内の諏訪壇に勧請したものと伝えられている。その後、神社は元和年間玉縄城の廃城、さらに幾星霜を経 て現在のこの位置に移された。この時すでに鎌倉権五郎景 政一門の霊を祀った御霊神社があり、この神社と諏訪神社と合祀され村民の両大社への崇敬あつく、五穀豊穣、村内 安全と繁栄を祈願する祭典が毎年行なわれている。ちなみに北条綱成公は、黄八幡といわれた有名な武将であ ったが、天正十五年七十三才で没した。公一門の墓は社殿 脇の山頂にある。」「社殿」。「大船町」と「玉縄村」の「合併記念」の奉納額が「社殿」に掲げられていた。昭和8年(1933)玉縄村は大船町に編入、そしてその後、昭和23年(1948)大船町は鎌倉市に編入されているのであった。「諏訪 ・御霊 両大神」と書かれた扁額。諏訪神社の祭神はもちろん建御名方神(たけみなかたのかみ)、もしかすると 妃神・八坂刀売神(やさかとめのかみ)を合祀。御霊神社の祭神は鎌倉権五郎景政。そして「社殿」の向かいにあったのが「舞殿」。「舞殿」に腰掛けてしばしの水分補給の休憩とオニギリを1個、補給したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.02
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今日から7月、今年も半年が過ぎ、あっという間に2020年も折り返し地点。今日7月から1年の後半が始まります。今年は年明け早々から、全世界で新型コロナウイルス感染症が拡大するなど、私達いや人類が今まで経験したことのない生活を強いられています。そして、我が日本でも第2波の危機に直面している毎日が続いています。しかし、感染者数の増減に“一喜一憂”してしまうのは仕方ないのかもしれない とは言え、感染状況の全体像を見据える必要があることは言うまでもない。東京都における最近の感染者数は、若者の割合が高かったり、『夜の街』でクラスターが発生したりしていることから、SNS上では非難する投稿も多いとのこと。だが、現時点でピークは91人が亡くなった4月22日で、グラフ上でも突出している。その後は細かな上下動はあるにせよ、確実に減少に向かっているのも事実なのである。もちろん今後、増えない理由が何もない下では、急速に感染者数も死者数も増加する可能性はある。ホストクラブ、若者、男性に感染者数が多い理由の主因はなんなのだろうか?感染者数増加が更に現実化した際は日本人個々が独自の判断で「正しく恐れる」、「正しく対策する」必要があるのであろうが。いずれにせよ、自由に外出出来ないことを体験して、自由に外出できることの喜び・楽しみを再認識するより良い時間にしなければなるまい。フェイクニュースに惑わされず、新型コロナウイルスのワクチンと治療薬が早くできることを期待して、新型コロナウイルスに負けずに乗り越えて行かねばと!! 【https://the-liberty.com/article.php?item_id=17298】よりそして、今日7月1日から「新たな法律・制度」によって、コロナ対策以外の我々の日常も少し?変わるのです。★レジ袋の有料化全国一律でレジ袋が有料となるのです。対象となるものは「プラスチック製の買い物袋」で、紙袋などは本制度の対象外。現在既に導入しているスーパーやドラッグストアもあるのだが、ファミリーマートはサイズを問わず1枚3円、セブンイレブンは4種類あり1枚3円、特大サイズは1枚5円、ローソンは3種類あり1枚3円となると昨日の民法テレビで。★道路交通法改正で「妨害運転罪」が施行(6/30~)「あおり運転」としての後方から著しい接近、クラクションやハイビーム、幅寄せ、割り込み後に急ブレーキ等による行為について「妨害運転は懲役又は罰金、免許も取消し」と規定され、この6月30日に施行されたのです。また「自転車」も車両として例外ではないと。 【https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1262080.html】より★キャッシュレス・消費税還元期間終了2019年10月から始まったキャッシュレス・消費税還元は、2020年6月30日で終了となる。よって、7月1日からは消費還元制度はなくなるため、実質消費税10%の時代がやって来ることとなるのである。一昨日、昨日の同じものをネットで購入したが、既に価格が違っていたのであった。おそらく一昨日の購入分は決済が昨日6月30日、昨日の購入分は今日7月1日なのであろう。 【https://news.yahoo.co.jp/byline/kandatoshiaki/20200630-00185767/】より。実はこの他にも、4月1日から既に変わっているルールもがいくつかあるのだと。「自転車保険の加入義務化」そして教育面では「外国語教育の強化」仕事面では「時間外労働の上限規制」「源泉所得税の改正」、生活面では「改正相続法」も4月1日から施行されている とネット情報から。---------------------------------------------------------------------------------------------------さて我が趣味の養蜂場の畑に植えてある「ビービーツリー」が開花を迎えています。ビービーツリー(和名イヌゴシュユ)はミカン科の落葉樹。蜜源の少ないこの夏季におよそ1ヶ月にわたり花をつけるため、 貴重な夏の蜜源植物なのです。花のあとは赤い実を付けますが、食用には なりません。私が趣味の養蜂を始めた10年前に苗木を購入し植え付けたもの。今回の写真は、数日に渡ってIphonesで撮影した為?かややピンぼけの写真も。「ビービーツリー」という名の由来は諸説あり、英語でミツバチを意味する「Bee Bee」から由来しているとされていたり、開花時に蜜を求めて集まったミツバチや他の昆虫の羽音が「ビービー」という音に聞こえたからとも言われているのです。この日も花のまわりをたくさんの我がミツバチ?が絶え間なく飛び回っていたのです。それぞれの花にミツバチが訪れ、本当に木全体から羽音が「ビービー」と聞こえて来るのです。花の少なくなったこの時期に、小さな白い花がいっぱい咲くのでミツバチの蜜源にとっても効果的なのです。そして巣箱の側に「ビービーツリー」の大樹があるのです。ミツバチの巣箱越しの「ビービーツリー」。そして我が趣味の養蜂の巣箱です。群勢も大きくなり、貯密も増えて来ましたので3階建てにしている群も。巣門で門番、換気をしている働き蜂。近寄ってズームで。内検の際の巣箱です。この巣箱には巣枠を9枚、ビッシリと。巣枠には一面に働き蜂が。白い「無駄巣」も作り出していました。群が大きいと、恐ろしい早さで大きな「無駄巣」を造るのです。「無駄巣」が大きくなると除去が面倒になるので、定期的に内部検査し「無駄巣」が小さい内に除去する事が望ましいのです。流蜜期は造巣スピードが早く「無駄巣」が出来やすいので、「無駄巣」の予防と早期除去を徹底して行う必要があるのです。この日は「無駄巣」の予防の為に新しい巣礎枠を1枚追加しました。中心いるのがこの群の「嬢王蜂」。こちらは別の群の「嬢王蜂」。働き蜂が、我が「嬢王蜂」に敬意を現し同じ向き、お尻を向けずに囲んでいるのです。「ビービーツリー」の花が終わると、蜜源が更に少なくなって来ますので、秋用に「赤花そば」の「高嶺ルビー」の種をネットで購入しました。ソバの蜜はフランスでは最高級のハチミツと言われているようです。我が養蜂場では色の黒いソバ蜜が混じった「百花蜜」になりますので、秋のハチミツはやや色が濃いハチミツになるのです。以上、ミツバチの大切なハチミツを、許可なく横取りしている素人養蜂家の報告でした。
2020.07.01
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『鎌倉散策 目次』👈リンク渡内地区と村岡地区の境の道を東に進むと前方左側に鬱蒼とした林が現れた。ここを更に進むと左手に「二伝寺」の境内への入口があった。「二伝寺」脇門から境内に。藤沢市渡内三丁目13番1号。「二伝寺」の「本堂」。二伝寺は、1505年(永正2年)、玉縄城の初代北条氏時の発願によって、鎌倉光明寺第九世正空によって開かれた浄土宗の寺。扁額は山号の「戒法山」。「戒法山宝国院二傅寺」。当寺は戦国時代の永正二(一五〇五)年、玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。開山にあたっては、福原左衛門忠重の援助がありました。当時は玉縄城から尾根つづきで地域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので、玉縄城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと考えられます。開山当時、寺号は違うものでしたが、大本山光明寺に伝わる本山伝の伝書か紛失した時に、当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)かあったので二伝寺と呼ばれるようになったと伝えられています。松平正次一族の墓玉縄城開城の後、徳川家康から屋敷を賜り渡内に住み玉縄城を守護したのが松平正次です。その後、玉縄城は廃城となりますが松平正次の子供たちが玉縄藩としてこの地を治めました。向かって右から松平正次、正次の内室、正吉、久次、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます。平 良文(村岡五郎良文)桓武天皇の四代あと、平高望の五男、東下りして村岡城に居を構え、村岡五郎と称しました。後に鎮守将軍に任ぜられ、坂東平氏の始祖と言われています。境内山頂に、初代平良文 二代忠光 三代忠通の塚があります。幡随意自道上人善行 松本家の出身で、当寺範誉義順のもと出家した浄土宗の高僧、京都百万遍知恩寺三十三世の後、神田に新知恩寺幡随院を開山しています。晩年には徳川家康の命を受け、キリシタン改宗の為、北九州地方に向い教化をしました。開山した寺三十三ヶ寺弟子三十五名を教え、伝法においても幡随意流伝法をまとめています。墓地の入口・左にあったのが「松平正次一族の墓」向かって右から松平正次、正次の内室、正吉、久次、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます。「藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造聖観音坐像木造寄木造り、玉眼。身部の金泥と衣部の漆箔、及び両手足は後補。像高49.5cm 総高68.2cm。左手に蓮華を持つ通常相。作風は鎌倉期以来の慶派的特長が濃厚であり、相好は繊細かつ上品に引き締まり、尊体の抑揚も程よく、また衣文表現も巧みである。構造や材質(木および漆)も近世以降のものではなく、金箔を再塗装したが像の持つ整って上品な雰囲気と時代の特徴は失っていない。以上から鎌倉末期、14世紀の造立を推定する。なお、本尊を安置する戒法山宝国院ニ伝寺は鎌倉群三十三観音の三十二番札所である。」「本堂」横の墓地。アジサイも美しく。「本堂」裏の竹林と墓地。村岡歴代城主墓案内を漸く見つける。村岡城主であった良文、忠光、忠通の三代の墓が紹介されていた。「村岡五郎平良文公墓前碑」。「村岡五郎平良文公墓前碑良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和二年(八百八十六年)三月十八日生まれ、延長元年(九百二十三年)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護神に勧請し(現在の日枝神社)天慶二年(九百三十九年)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城國の御霊宮の祭神早良親王(追謚号祟道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥) の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るたり。 その子孫は前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶六年(九百五十二年)十二月十八日六十七歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。」「良文公 塚」「忠光公 塚」「忠通公 塚」そしてこちらが山門への参道。「山門」。「浄土宗 二伝寺」寺標。ここにも「戒法山 宝国院 二傅寺当寺は戦国時代の永正二(一五〇五)年、玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。開山にたぞは福原左衛門忠重の援助がありました。当時は玉縄城から尾根つづきで地域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので、玉蝿城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと伝えられます。開山当時、寺号は違うものでしたが、大本光明寺に伝わる本山伝の伝書が紛失した時に当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)があったので二伝寺と呼ぼれるようになったと伝えられています。」そして「二伝寺」を後にし、狭い坂道を下っていくと藤沢市から鎌倉市に入り県道302号線に出た。その向かいにあったのが「光圓山久成寺(くじょうじ」。鎌倉市植木494。「光圓山久成寺」寺標。「山門」。「日蓮立像」山門を潜るとすぐの所に日蓮立像が置かれていた。この寺の日蓮は若々しくて雄々しい姿をしていた。鎌倉の日蓮宗の寺には日蓮立像がいくつかあるが,それぞれ違った姿,形をしているのが面白い。久成寺は勿論日蓮宗.山号は光円山.徳川家康が小田原城攻めのときにここで祈祷したとのこと。「松平甚之助新兵衛内室の墓」「松平甚之助新兵衛内室の墓天正十八年(一五九〇)四月玉縄城が落城した後、徳川家康はこの地玉縄領を代官松平甚右衛門正次におさめさせた、その居蹟は今の植木「陣屋Lにあると伝えられるその子松平甚之助新兵衛(駿河大納言忠長卿に仕えた人)の内室妙秋院日種の霊とその一族の祖霊を供養のため後裔にあたる松平甚之助久勝が元禄七Z成年五月朔日ここに墓を建てたものである。」「本堂」。光円山久成寺は、永正17年(1520)に日蓮宗の熱心な信者であったといわれる後北条氏の家臣・梅田尾張守秀長が宅地を寄進して日瞬を開山に迎えて建立したといわれる日蓮宗の寺院です。 小田原の陣に出陣中の徳川家康公が久成寺に立ち寄り、四代住職日顗上人の祈祷の恩賞として三石を与えたといわれている。 その後、鷹狩りの折立ち寄った際、日顗が柚子を献上し、家康公からは「葵の紋」入りの弁当箱を授けられたという。 この弁当箱は行厨(こうちゅう)あるいは破子(わりご)と称し、久成寺の寺宝となっています。「本堂」の扁額「???」。これも高校時代の友人から「𨾏凰閣」ではないかと。「本堂」を斜めから。「不動明王」碑。歴代上人(日舜、日慈、日康上人)の墓か?上杉謙信公祖「長尾新六、定景一族の墓」。長尾定景は源実朝を暗殺した公暁を討ち取った人物で、上杉謙信の先祖とも言われています。境内の坂道脇に咲いていた「常盤露草(ときわつゆくさ)」三角形の可憐な小さな白い花。 雄しべは6本あり、毛が生えていた。そしてしばらく藤沢市を超えて鎌倉市植木の散策を続ける。次に訪ねたのが「圓光寺」。鎌倉市植木549。「真言宗 城護山 圓光寺」。「本堂」。永禄年間(1558~1570年)に玉縄城主北条氏時が澄範を招いて玉縄城内に創建された。その後、玉縄城が廃城になると現在の地に移されている。開山 澄範開基 北条氏時本尊 不動明王扁額「圓光寺」。「薬師堂」。薬師堂には行基作と伝わる薬師如来像、十二神将像が祀られているが、60年に1度開帳される秘仏。「無縁佛塔」。ズームで。「無縁塔」碑。「圓光寺」を後にして、次に向かったのが「貞宗寺」。鎌倉市植木656。境内?の池には鯉が。次に訪ねたのが「玉縄山 珠光院 貞宗寺」。「貞宗寺」(浄土宗)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の祖母貞宗院の隠居地に建つ寺。大奥で御年寄役を勤めた貞宗院は、晩年この地に屋敷を構え、貞宗院死後、その遺言により「貞宗寺」が建てられた。創建は1611年(慶長16年)と伝えられている。開山は、貞宗院が生前帰依していた大長寺の暁誉源栄。大棟には徳川家の紋である「三葉葵」が入っており、徳川歴代将軍の位牌も安置されている。貞宗寺の寺小屋は、現在の玉縄小学校の前身となった(明治6年の学制によって「玉縄学校」が置かれていた。のちに龍寳寺に移転)。開山 暁誉源栄開基 貞宗院本尊 阿弥陀三尊お寺の方が「本堂」を開けてくださいました。大奥で御年寄役であった貞宗院死後、その遺言により貞宗寺が建てられたのだ。徳川家の紋である「三葉葵」が。徳川歴代将軍の位牌も安置されているのだと。こちらは「事務所」であろうか?「地蔵堂」。「地蔵堂」には小石が積み上げられていて、編笠、わらじ、草履が奉納されていた。よく見ると青面金剛像と如意輪観音像。きっと昔は石のお地蔵様もここにいて、人々の願いを聞いていたのだろう。「御霊屋」。貞宗院の墓といわれる宝篋印塔が安置されていると。扁額「御霊屋」。「御霊屋」の先、高いところにあったのが「極楽廟」。「永代供養墓 極楽廟」案内板」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.01
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