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出会いは新入社員としてはじめて勤めた会社で・・・16~17年前。淡い憧れの、手の届かない大人のひとたち。私のほしいものを持っている。私のやってみたいことをやっている。気になる。でもなんか、近づけない、嫌われているような・・・そんなインパクトがあったひとたち。そんな人たちが、なぜかお互いに会社を辞めてから、ほそーく・・・つながっている。同じ長野に住んでいるAさん。京都に住んでいるBさん。Aさんの紹介から広がった、私の長野での出会いや活動。今の人間関係のベースのきっかけはAさんだった。Bさんとは、Bさんが会社を辞めて旅をして、京都に住むようになってからちょっとしたメールでの事務連絡とたまたま京都に出張したときに2回ほど飲んだだけだけど。会社勤めの時には知らなかった一面を見る。お互い会社を辞めたから?アジアを放浪したから?似た部分をたくさん発見した。そして会社勤めの時には到底話さなかったと思うような話題。何が違うんだろう?どこが違うんだろう?なんだか少し、分かり合えた気がする。相手のことを知った気がする。ここには、いろんなヒントがある気がする。最近、立て続けに昔からの知り合いにたくさん会う。自分でそういう場につながることをしているんだろうけど。エネルギーをもらっている。しあわせ。
2006.11.28
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チャイルドラインの受け手や支え手の研修に少々関わっている関係があって、今回チャイルドライン全国研修に参加することになった。記念講演では「NPOが社会から求められる責任を果たすためには・・・」というお題で外部講師の講演があった。NPOの運営のこと、初歩的なことだと思うのだけど 目からうろこだった。 愛だけじゃ生きていけない。 マネジメントと愛のバランスをうまくとること。 理事は広告塔として使え。理事はステータスだ。 事務局にはコストをかけて充実、休ませる。 スタッフ的支援者には常に働く満足感を。 100%の達成感や満足度という報酬が大事。 協力者に対するセールスというか情報発信のこととかね。 マスコミや協力者とはマメにコンタクトをとること。 地域社会の人々を巻き込むために・・・ これって、NPOだけに必要なことじゃないよねぇ。 武蔵大学社会学部メディア社会学科専任講師 粉川一郎氏の話でした。 同い年くらいなのかな? 面白かったし、わかりやすくておすすめ。
2006.11.27
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思ったことはその日のうちに アップしないと忘れちゃうわね。 いろいろ思ったんだけどなー。 そうそう、東京にいたのだけどね、 渋谷のロフトでは2回ほど面識のある コーチとすれ違う。 これが始まりだった。 「あ・・・・」と 思ったんだけど、私はおおぜいのなかの一人だったし 覚えてはなかろう・・・ 向こうも気がついた風はなかったし・・ 引き返してご挨拶するほどでもないのかなぁ・・・ 微妙な気持ちを思いながら。 その後すぐに別の階で、学生時代の 友人を見かける。さっきのこともあったしな・・・ でももしかして他人の空似? 化粧がちょっと濃いけどな・・ と思いながらちょっと観察。 あの特徴のあるしゃべり方は本人だと 思って声をかけたら人違い。 なんだかなぁ。 そして夜、友人と食事を約束。 彼女がちょっと話をしたら、なんだかんだ 6人集まってくれて。 久しぶりの顔。10年ぶりくらい? だってあのとき、子供いなかったものね。 そんな人まで。 翌日、昼間の用事のあと 新宿の西口で、会社帰りの知人とばったり。 すごい偶然がとっても嬉しかった。 こんなときは、少しぐらい約束に遅れてもいいよね。 地下交番の前でしばし近況報告の立ち話。 またの再会を祈って別れる。 そして同じグループで学ぶ、リーダーを含む10人が 偶然、東京で集まれたのがこの日。 九州、京都、金沢、長野から私、そのほか 都内近辺のメンバーが始めて全員集合。 それぞれが事情で東京に来る用事が重なったという偶然。 翌日、また昼間の用事の後、 最初はそのまま長野に帰ろうかと思っていたのだけど 一泊延長。 たまたま出来た夜の時間に誰か会えないかしら? と声をかけたら時間を作ってくれた前の会社の知人で 山仲間ふたり。 忘年会の約束と、来年の山行の構想を練って楽しいひと時。 こんなにたくさんの人たちと会えた。 偶然と、時間を作ってくれた友人知人に感謝。
2006.11.26
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謙虚であるってどういうことだろう。日本人はほめられても謙遜して「いやそんな・・」謙遜しないで受け取ることを知ってから、「ありがとう」と言えるようになった。でも謙虚さがなくなった気もする。とりあえずなんとでもなるっていう根拠のない自信。大怪我をして入院して下半身不随の可能性があったときも、再就職先のあてなどないまま、会社を辞めたときも、海外旅行は社内旅行でハワイにしか行ったことがないのに3ヶ月も台湾、タイ、ネパールを一人旅したときも仕事もないのに長野に住み始めたときも。それと謙虚さは無関係か?謙虚であるってどういうことだろう。謙虚でいるってどういうことだろう。
2006.11.24
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セミナーとか研修で、時間厳守って、体に染み付いたものなんだろうか。たとえトイレ休憩が10分で、しかもトイレが長蛇の列で混雑していても「急がなきゃ」という意識が働く。まぁ、主催側講師側のときにはそういうのもおかまいなしにこっちの都合で時間設定しちゃうのだけど。また、講義中やワークの途中ではトイレに行くのは失礼かな・・・なんて思って我慢していたり、休憩が入らないことにいらいらしたり・・・先日参加した講義型セミナーでは皆さん本当に律儀。トイレ待ちの最後のほうのかた、走って戻られていました。私は、トイレが混んでいれば上の階に移動してひとりでのんびりトイレ。気分転換に散歩。もちろん、基本的には時間厳守です。でも最近。少しづつ、固定観念がはずれてきたというか、「こうしなければいけない」が薄くなってきて自由に振舞えるというか。セミナーの途中でも、トイレにいきたければ状況を見て、行ってしまうし、トイレ休憩が終わっても、疲れたなぁ、休みたいなぁと思えば自主的に休憩にしてお茶していたり。体の声が聞こえるようになってきた。「こんなことしちゃいけないかな。どう思われるかな」が少なくなってきた。もちろん、疲れてても、「絶対聞かなきゃ!参加しなきゃ損!」って思うものは別だけど。おかげで、自分のセミナーのときも、そういう風に言えるし、そういう人がいてもぜんぜん気にならない。まぁ、ペアワークのときは、ちょっと困るかな。みんながみんな「つまんないから、自主休憩・・・」って一人減り二人減り・・・ってなったら・・・って想像すると怖いけどそれって絶対講師の質があがるよね。いや、私が言いたいのはそういうことではなくて。「こうしなければいけない」→「自分に素直」っていうところです(^^;人生楽です。
2006.11.23
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車のフロントガラスが凍り、霜が降り、ああいよいよ本格的に冬の幕開けだ~。とうとう車のマニュアル読みました。デアイサーってどのスイッチだ?とかなんとか。マニュアル読むの嫌いなんだけど・・スタッドレスの交換・・・うーん。いつしよう??今回の車ホイールキャップってのがついてるし、なんか、初めてってひとりで交換するのいやなんだよな~(^^;とへたれな私・・・足回りのさび止め塗装もしたいんだよね・・・ついでに交換もしてもらおうかなぁ・・・サービスでしてくれないかなぁ・・・そうそう・・・この車3度切ると外気温に雪マークがつくの・・・かわいいねぇ。灯油、今年は配達に来てもらおうか、もらうまいか・・いつもは10月に灯油タンクに配達にきてもらうのだけど昨年は灯油の高騰で少しづつ買い足した。そしたら蓋をあけてみたら、先に配達してもらったほうが安い金額になったという・・・今年はどうかな?
2006.11.22
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0時過ぎ、長野市内から自宅へ戻る。市内のカフェを出たときは車の外気温は6度。我が家に着いたらマイナス1度。あー、いつスタッドレスに換えようか・・・山は真っ白。もう山は根雪になっちゃったんだろうか。
2006.11.18
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ご近所の酒屋さんでボジョレーヌーボーのイベント。ボジョレーが何種類もも出てきて飲みながら、ゴスペルコーラスを聴きながら食事も楽しみながら。ピザ、チキンのハーブ焼き、チーズの盛り合わせ、ラザニア、ライスコロッケこれで2500円の会費は安い!ちなみに私はゴスペルを唄うほうで出演。そして途中から飲む飲む飲む♪去年もお会いしましたね。同じ町内だけど1年に一回の再会だわ。あらたな町民の方ともお知り合いになり、なんだか楽しい、美味しい、嬉しい。ココに参加するお客さんはみんな、この酒屋さんのファンばかり。酒屋の主人のうんちくを聞く。これがまた、詳しくて、楽しい。実際に酒蔵にまで足を運んでいる人だから、ファンが多いのも納得。奥さんとはチーズの話で盛り上がり。地域にこんな場所があるのはとっても嬉しい。そんなこんなで夜は更けていくのでした(*~~*)
2006.11.17
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長いこと、留守にしていました。10月末から東京へ行ったり新潟へ行ったりの出入りがあり、その後は連続してずっと不在にしていました。ここまで長く不在にしていたのは、ないかも。その間、社会で起こっていたことについての情報もほとんど入らず、また、久しぶりに自宅に戻ってきたら、季節は移ろい、冬になっていました。雪です。浦島太郎のようです。少し筒さかのぼって考えをまとめてみたいと思っています。
2006.11.14
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坐禅の修行ののち、ただ帰るのももったいないと思ったので、いろんな案を考えていたのだが、縁あって、急遽永平寺に行くことになった。坐禅をしてきたけど、永平寺がどんなお寺なのか、実は何も知らなかった。ここでも一般人向けには研修棟で3泊4日の坐禅修行はできたのだということを知った。順路に沿って、歩き、説明文を読むが、多少様子がわかるので、とても興味深い。200人を超える修行僧がいつも修行しているのだそうだ。一週間座ってみて、坐禅により興味が沸いてきたのでどんな本を読めばよいか老師に尋ねたが、「坐禅への思いが駆り立てられるようなものを読みなさい。知識ばかりが頭に入っても頭でっかちになるだけだ」と。体験から入ったほうがからだに落ちやすいということだろう。確かにそう思う。頭から入りたいタイプは余計に、知っていれば知っているほど苦労しそうだし。それにしても常識的なことはどうなのかしらん?やっぱり興味がわいてくるのであった。自分の修行中もおもったけど、頭を丸めたお坊さんがめがねをかけてパソコンの前に座っていたりするのを見るのはなんだか不思議な感じ。1時間半くらい中にいたけど、もっとゆっくり味わいたかったな。雪害による瓦修理の寄付が募られていた。理由はよくわからないけど、寄付したいという思いが確かにあったのに逡巡しているうちに、それをしなかった。ぜんぜん学んだことが生かされていない(涙)こういうのってあとで「やっとけばよかったなー」って思うのが常なのに。娑婆にでると、せっかく学んだものがぜんぜんできない。一週間程度では、まだ山門の入り口にたっただけ。これからが大事なのだと老師は言う。そう。どう、これを生活に持ち込むか。それを続けていくことで「徹する」ことができるのだという。本当に。そうだと思う。課題だ。
2006.11.12
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昔から、誰かとふたりで同じことをしていると、私には注意が来て、相手にはなにもない。そんなことがよくあると感じていた。「私は言われたとおりやっているのに」「私よりも、もうひとりの人のほうが、注意されるべきなのになんでわたしばっかり?」「あの人はぜんぜん違うことやっているじゃない。」「それは私のせいじゃない。あの人がやったことだ。」若いころはそれが納得行かなくて、注意した人にくってかかった。そういうときにはたいてい、相手を持ち上げる、よいしょをする人もいたりする。どうしてなのかぜんぜん理解できなかった。今回も同じ。へんだなぁ。もう一人の人は教えてもらったこととぜんぜん違うことをやっている。でもまぁ、私は私。教えてもらったとおりのことを素直にやろう。しかし。また、私だけ注意をされた。それも二人の人から。「あれぇ?まただ。」「私は言われたとおりのことをやっているつもりなのになぁ。」ふと、もうひとりのことも頭をよぎるけど、それはそれで私には関係のないことだ。「やっているつもり」っていうのは、「言われたとおりにやっていない」可能性もあるわけで・・・ふと立ち止まり、考えてみる。たしかに私なりの「解釈」が入っているような気がしてきた。確認をしてみた。なぞが解けた。翌日。気がつくと、もう一人の人も、今までのやり方を改めて、師の指示通りやりはじめていた。そういえば、以前上司に私にだけ注意があることに、不満を訴えたら「おまえには言えば伝わると思うから言うんだよ。でも彼女に同じように言ってもだめなんだ。彼女はよいしょしてやる気になってもらわないと。わかるだろう?」人それぞれ違うから、育て方も違うというのはわかるけど、若いうちはそれを納得できない感情があった。今。似たようなシチュエーションで思ったこと。直接彼女に注意をするよりも、私に注意をしたほうが、より伝わると思ったんだろう。実際いくつかの場面で、私と師とのやりとりを経て、彼女はだいぶ変化した。人と比べて誰かに腹をたてたりしない自分。理不尽さを感じないで淡々といられる自分。これは、コーチングやファシリテーションを学ぶことで私が成長したのか。それとも今回の学びが生かされていたのか。そのあたりはよくわからないけれど。人と比べたり、過去のことを持ち出したりして、被害者意識を持つのではなく、ただ現実に起こっていることに向き合い、受け入れ、そこで行動を起こす。すごくすっきりとしている。「歳だよ」とは言わないでね。
2006.11.08
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坐禅の修行中に出会ったMさん。彼はライブなファシリテーターだった。坐禅中はほかの人のことは見ないし、よくわからない。食事中も、あの席に座っている人・・・となんとなくはわかるけどお話しすることも目を合わせることもない。そんなときに私より数日遅れてやってきたMさんは、何度もきている古参のかた。修行中、すれ違うとき、ほかの方は無視、もしくは、立ち止まって無言、無表情に手を合わせるだけ。私も「無表情で」とは言われてはいないのに、そういうものだと勝手に思っていた。本当はいけなかったのかもしれないけどMさんは、しっかり立ち止まって、じっと目を見て、「にっ」と笑って手を合わせてくれる。ほっとするひとときだった。今思えば、ちゃんと坐禅がわかっていて、ひとつひとつの動作になりきって入れさえすれば、笑おうがなにしようがいいんだろうなぁ。それが体感としてわかっていないから・・・坐禅のみの数日間から作務を初めて許された日、基本的にはこちらから訊かなければ教えてくれない状態の中・・・たぶんそれらの中からも気づいていくことなんだと思うのだけど・・「ゆっくりね」そんな一言で、なんのための作務かを思い出させてくれる。「わからんこと、きいてね」わからないことは素直に聞けばいいんだよね。そんなことさえも緊張でわからなくなっている自分を正しい位置に戻してくれる。そして・・・ほおっておいてくれる。人にものを申すときには言葉は少々荒っぽく聞こえるけど、本質をつかんだ的確なこと。そしてその言葉のもっと奥、でどころにはあったかいものが流れているのが伝わってくる、そんな人だった。物申すというのではない、仲裁というかな、いいとか悪いとか、そんなのではなくて、誰をも尊重した上でのあったかさ。Mさんの人柄が伝わってくる。禅堂にひとたび入れば、一瞬の隙もない・・・それは気配から感じるのだけど。最終日、雷のなる大雨の晩だった。私一人遅くまで禅を組んでいたら、夜中にトイレに起きてたまたま気がついたのかもしれないけど、1時間くらいだろうか、(もちろん)無言でつきあってくれた。そのときには、「ああ隣に座ったな。」「いつのまにかいなくなったな」だけ。それが、禅堂をでて、ふと思い出したときに、私へのエールのような「がんばれよ」っていう声がけのように感じ、嬉しく思った。座禅中に心を動かすのも、それは雑念なんだよね。意識していたわけじゃないけど、少しはできるようになったんだって思った。私より5日ほど遅れての初参禅のTさん。年齢は私より一回りも上だけど、笑顔が天使のようで、素直で無邪気なTさん。あなたの老師への素直な質問と、笑顔には癒されるとともに私がいかに「ねばならない」にとらわれているのか「型」にはまりやすいのかに気がつかせてくれた。3度目の参禅というHさん。黙々と教えを守り、生活の中でも坐禅の考えを実行し続けて修行の姿勢を教えてくれました。そしてその内側にはとても熱いものをもっている人でした。参加している一人一人が、どこで何をしている人なのか、そんなことも基本的にはわからない。基本的にはおしゃべり禁止なので。そんな環境での出会いだけど、また、会ってみたい。今度はもっと思い切りみなさんのことが知りたい。そんなステキな人たちばかり。修行の邪魔しちゃいけない・・そんな思いもあって、連絡先の交換もせず。そんなこんなも修行中は雑念になっちゃうのだけど。きっとご縁があれば、またお会いできるのでは?型破りな道場で、ほかのところでは通用しないやりかただと聞いている。でも、早くに本質を体でつかめるようなそんな工夫がされていて、現代人に入りやすい入り口を用意してくれている、そんな道場そして人間臭いお坊さんたちに出会えた、身近に感じる道場だった。
2006.11.07
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初めての食べ方だった。釜あげの蕎麦・・・お湯が黄色っぽかったので、きっと韃靼蕎麦かなと。乾麺だと思う。それを生卵にいりこを轢いて粉にしたものと、色味はとても薄いその地方の醤油、ごま、蕎麦湯をかけて溶いたスープで食べる。そのあと素麺も生醤油で食べたりしたんだけど、美味しかったのはその醤油のせいかしら?とも思いつつも、釜あげ蕎麦。美味しかったです。素麺も同じに食べます。最初は私も生卵、使って食べてみたけど、白味のかたまりがどうも苦手なので、たまごを使わずにトライ。それでも美味しかった。これはその家のオリジナルの食べ方なんだろうか。それともその地方では当たり前の食べ方?
2006.11.06
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坐禅をしたことでわかったこと。お坊さんの身のこなし、一般人と違うよね。「ながれ」ない。たとえば声を後ろからかけたとする。「立ち止まる」「振り向く」「気がつく」「おじぎする」一般人は、立ち止まらずに後ろを振り向き、ああと気がついて、場合によっては歩きながらおじぎする。なんかそんなかんじ。以前、草津の町民向けの無料の温泉に行ったときであったおばあちゃんの所作も印象的だった。しなやかにさりげなく、音なく、おけでお湯を汲み、からだの線に沿ってお湯を流しかける。はねもなく、音もなく。とても美しく、見ていて気持ちが現れるようだった。両者とも共通するのは、たぶん、「その動作そのものになる」ということ。心とからだが離れていない。「なりきる」まさに坐禅の教え。普段私たちはお湯を汲みながらも、からだを流すことを考え、お風呂上りに何をしようかなどと、やっていることと心で思っていることが一致していない。「今」に生きていない。心はいつも未来を考えている?そんなこといっても、忙しいし・・・・そんなことしてなんのため?とか言われるとうまく説明はできない。でも、私はそういうこと、できるだけ大事にしたいし、そうすることで違いが生まれてくるような気がしている。こんな気づきも、坐禅をしているときには、かえって雑念になってしまうのだけれども。「今」に生きるための修行。日常に取り入れていくこと。コーチングも「今ここ」が大事。ファシリテーションも「今ここ」「今ここ」に関わる自分がもっとはっきり「今ここ」を生きるのは私にとって必然でもあるように思っている。
2006.11.05
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一週間、坐禅の修行に行った。おととしだったろうか、永平寺の精進料理という本を手にしてから、洗い物、掃除そのほか家事一切から始まって、すべてのことを集中して丁寧に、修行僧のごとく行うことが、「今」を大事に生きることにつながるのではないか。それが修行になるのではないか。そんなことを思っていた。もっともっと「今」を大事に生きていきたいと思っていたのだ。それが出来ていない自分がはがゆかった。でもなかなか、普段の生活の中、ひとりでは出来ないなぁと言い訳をしていた。ある日知人がヴィパソナ瞑想に行っているという話しを聞いた。そういえば、5年位前にも一度クライアントさんからその名前は聞いたことがあった。立て続けに二人のひとからその名前を聞く。興味はあったものの、私は日本に根付いている、日本古来のものに総体的に興味があったのでどうせやるなら日本的なもの・・・そんな風に思ったら、「坐禅」と思いついた。永平寺=坐禅にはならなかったのが不思議なんだけど。ある日以前にクライアントになってくださった方で、知人と会うことになった。これも不思議なご縁で、急に「会いたくなった」のだ。そのときに、お互いの近況や関心ごとを話しているうちに、とても近い感覚を感じ、ぽろっと「坐禅やってみたいんですよね・・・」と今まで誰にも話したことなかったことを口にしていた。すると、その方のご主人が坐禅修行に一週間行ったことがあるという。詳細はわからなかったが、このタイミングやご紹介にご縁を感じ、今回参禅することになった。申し込みはしたものの、詳細はなにも伺っていない。坐禅をしてなんになるのか?坐禅の心得もなんたるものかも、何を得られるのかも何もわからなかった。HPを見て私の思う「今」を生きることにつながる何かは得られそうだ。それだけは確信していた。老師「どうしてここへ来たんですか?」私「今を大事に生きたいと思いまして」老師「坐禅するだけならあなたの近くにもたくさんあるでしょうに」私「知人のご主人の紹介で、ご縁を感じました」あまり調べたりせずに、直感やご縁を信じて行動をおこすことは私には吉と出る。考え過ぎて検討分析しすぎて、行動をとりやめることがある。こんなことも今思えばまさしく「坐禅」の前後のない今に生きる教えを証明している気がする。自我をなくし空となり、ご縁に応じてなんにでもなる。私が体験からわかっていながらも、くりかえし起こす過ち。その証明がされたように感じた。そうだ、これだ。私に大事なものだ。そんな確信を持った。
2006.11.04
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人は、自ら学びたいものを学び、話したいことを話す。ファシリテーターや、主催側がどんな意図を持っていても。参加者のエネルギーの方向性を感じ取り、参加者の欲求も満たしながら、目的というゆるやかな枠の中で、最大限に参加者が自発的に学び気づき、理解しあう場作り。ファシリテーターが学ばせたいこと、気づかせたいことを持っていてそれにとらわれているならば、ワークショップ形式にする意味はない。それなら、最初から講義をすればいい。それを彼らが学びたいのか?気づきたいことなのか?ファシリテーターはグループにいったん任せたなら、まかせきることだ。それは上司が部下に与えた仕事を信頼し任せきるのと同じこと。できることはときどき様子を見て、必要ならちょっとしたサポートするだけだ。ファシリテーターは組織におけるリーダーと同じなんだなといまさらながら、企業研修で思ったのであった。
2006.11.02
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町のある会のグループリーダーをしている。リーダーは会議には必ず出席するもの・・・・というイメージがおそらく私にはあった。ある日、グループリーダーの集まる運営会議の日程が最初から合わないものであったので、メンバーに代理出席を頼んだ。代理出席を頼むということ自体が私には新しい行動だった。しかし、思いのほかスムーズで私個人の内面も、会自体にもなんら影響を与えることなく、うまくすすんだのがとても気持ちのいい体験だった。そして、その運営会議の報告と今後の活動を決める会議にもちろん出席を予定していたが、急遽、どうしても参加できない事情ができた。運営会議はともかく、自分の代表しているグループの会議にでないというのは私の想像の範囲外だった。しかしながら、ただ、淡々と、今できることを考え、ことを進めて行った。先に代理出席を頼んだ人に進行をお願いし、メンバーに協力を要請し、場をメンバーに任せることが出来た。何年か前の私だったら、「リーダーが出席しないなんて、無責任と思われないだろうか?」なんて「人にどう思われるか」を心配して右往左往していただろう。お願いしてみたらなんのことはない。快く引き受けてもらい、会議も滞りなく終了し、議事録まで送ってもらった。すごく心地のいい体験だった。メンバーとリーダーの垣根のない、お互いに助け合う平等な関係をあらためて意識できた体験だった。メンバーに感謝。この体験が出来たことに感謝。
2006.11.01
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