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17日金曜日の訃報から 18日土曜日は通夜 19日日曜日は告別式 告別式の後、柩は一旦、彼のこよなく愛した職場に寄り、 最後の別れをした後、 職場の人々にも見送られ、 彼は本当に天に昇って行った。 以前、お坊さんの話を聞いた時、 現在では、人は最後は本当に天に昇っていくとのことだった。 水蒸気となって天に上り、雲になって雨や雪になって、海や陸にも降り注ぎ、 循環する・・・ 水の話、彼とはいっぱいしたなぁ・・・ バーチャル・ウォーターのこととか・・・ 21世紀は水をめぐる争いが起きると言われているとかさぁ・・・ 今日、夕方、彼の部署の同僚と話していたら、 その同僚も「まだ普通に生きているような気がする」と言っていた。 私も、そうだよって言って、 私は暮れに最後に次の新年の仕事の予定を打ち合わせた、 その時の彼のイメージを永遠に持っていたいから、 何度も対面する機会があったけど、 柩の中を見ることはしなかったと言ったら、 「おんなじよ・・・」って言ってた。 私は、実は、毎年のように一緒に仕事していたけど、 私の方はヘルプで入るボランティアの要素が強くて、 一緒の部署にいたことは一度も無い。 彼の主体でする仕事を一緒にするか、 彼が休んでいるときに、代わりの仕事をボランティアでするか。 だから、並んで一緒に仕事したことも無く、 同じ空間に居るときは大抵は、私が立ったままでの打ち合わせだった。 でも、今日夕方話した同僚は、同じ空間で仕事をしてるし、 現にまだ彼の机もあるままだから、 一層不在を消化しないだろうなぁ・・・ 17日から今日21日まで私は張りつめていて、 涙がにじむことはあっても泣かなかった。 なのに、今日の夕方、職場を出るとき、 車の中で、泣いてしまった。 制限時間のあるクライアントをはさんで、 彼とのあの張り合うような力の出し合い、 充実した時間はもう永遠に失われたんだ。。。 自分の方針を確かめる相手はもう、職場にいないんだ。 そう思うのも確かにつらかった。 でもそれだけじゃなくて、純粋に悲しかった。 私が新しく見つけたテーマのイシクラゲとか、 あんなに喜んで張り切っていたのにって・・・ せっかく私がアッケシソウの種を手に入れたのにって。。。 もう、あんなにキラキラと知的好奇心を見せて没頭する人を、 この同じ空間の中で見ることはできないんだもの・・・ かつて娘の恩師の葬儀に会葬した時、 教え子でイラストレーターの永田萌さんが弔電をくれてて 「病のお苦しみからも今は解き放たれて・・・」 その一節が11年たってもずっと心にある。 「もう無理して起きなくてもいいんだよ。」 それは私の唯一の救いの言葉だ。 「死は一切の痛みや苦しみの無い安らかで穏やかな長い眠りに過ぎない」 そうであってほしいと心から祈っている。。。 私にとって、死は無ではなく、再会である。 じゃあ、なんで死を恐れるかって言うと、 現状があまりに散らかっていて整理されていないから、 死後の片付けする人に恥ずかしいからだと思う。 そんなこんなで、今日も生きているけど、交通事故には気をつけなきゃ。 本当に、散らかった状態を2月3月で片付けなきゃ。。。 あらゆることはそのあとで・・・ 職場の変更とか変化とかを、受け入れるのは2カ月以上かかるけど、 取り敢えず、その準備も含めて2月3月を過ごそう。 無駄にはしないよ。Koeちゃんのことを。。。
2014年01月21日
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16年近く一緒に仕事してきた仕事仲間がとうとう亡くなった。 白血病だった。 再発を繰り返し、入退院し、その都度復帰してきたが、 闘病10有余年とうとうこの日が来てしまった。 思えば、最初の発病は、彼がまだ40になるかならぬか。 3人の子供はまだまだ幼かった。 今、上の2人はもう大学に進み、特に二番目は薬学を学んでいる。 しかし、間に合わなかった。 これまでは、毎回奇跡の様に新しい治療法が見つかり、 それが奏功して、復活してきていた。 病魔と闘いながらも、彼の職人芸は冴えわたり研ぎ澄まされていき、 コンビネーションは抜群だった。 これまで幾多の困難を一緒に乗り越えてきたし、 数々の「奇跡」を生んできた。 実際、彼が居るのと居ないのとでは全く成果が違って、 ちょうど、二人で餅をつきこねるように、 一緒に仕事をしてきた。 去年も4月から休んでいたが、8月の末に無理を押して復帰。 一番困難な秋冬戦線を戦った。 誰もが認める成果を上げ、クライエントからも周囲からも、 彼の仕事は改めて評価されていた。。。 でも、一杯、弱音を聞いた。 一杯泣き言を聞いた。 一杯、一杯、「もう、入院したくない。」を聞いた。 最後に会った時、前日は休んでしまって、 やっと出て来れた暮れも押し迫った日、 執務室の前の車椅子が、彼の執念を感じさせていた。 最後の打ち合わせをした。 しておくからと言った仕事・・・ 今日、約束を遂げて、渡すはずだったのに、 相手が居なくなってしまった。 あんなに急がせたのに、 みんなどこかで、 まだ、大丈夫、また、復帰する・・・そう思っていたのだろう。 正月二日目までは元気だったと聞いた。 救われた気がした。 急変はその後、入院を選ばず、自宅での最期を選んだ。 妻や3人の子供たちに見守られて、息を引き取ったと聞いた。 痛み止めで、ここ数日は意識もなくなっていたので、 苦しむことは無かったと思いたい。 転勤した同僚が自宅に見舞いに来ているのを漏れ聞いた時、 別れが近いことを予感していたが、 私は、自宅にまでは見舞えなかった。 あくまでも、クライエントを介しての、仕事のパートナーだったから。 どんなに辛くても、遺された仕事をやり抜こうと思った。 今朝、職場に電話がかかってきていて、漏れ聞こえる内容からそれとわかった。 できること、考えられることはすべてしたと思う。 彼も、家族も、医師も、私も。 だから、仕事の上では、やりきったと思った。 今まで、彼が休職していた時、 彼が居たらどうしていたかを考えながら仕事をしてきた。 これからは、今までの記憶をたどりながら、やっていくことになるだろう。 あと、数か月なのか、あと数年なのかはわからないけど。 今の職場にいる限りは、そうであり続けるだろう。 取り敢えず、残す2件のクライアントのうち、 1つはもう、することはしつくしたので結果待ちだ。 もう1つは、できる準備を全部して、1月を終えたいと思っている。 人事は尽くしてあるので、天命を待つのみ。 枠があることなので、運は天に任せるしかない。 見守って。。。使徒が12人となるように。 虹の戦士が育つように。 明日、たくさんのこれまでのクライエントと会うだろう。 泣かないようにしきゃ。
2014年01月17日
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すごい元気なグループの人たちと昼食で一緒だった。 仕事場からお昼ご飯を食べに出て、 スペイン料理の店でランチを食べたんだけど、 まあにぎやかなグループ。 シェフに電話で開いてるかって聞いた時、 グループの予約が入ってるから、料理出すのに時間かかるって そう言われたけど、確かに6人のグループは健啖で、 よく飲み、よくしゃべり、実に盛り上がっていた。 同志社大学の兵庫県人会の同期会であることが、 よくわかり、かつ、年齢構成もあと2年で還暦くらい。 ということは、あの5人のおばさんと1人のおじさんは、 結構小金持ちの家に生まれたことになる。 話題も、子育てから孫、自分ちの嫁、姑、親の介護、看取り。。。 それはそれは非常に参考になるお話ばかりでした。。。 隔てる物の何もない小さなお店の中で、隣り合っているだけでも、 そのパワーがグングン伝わってくる。 そして、私の仕事に関する情報もちょっと小耳にはさんで、 まあ、にぎやかなランチタイムだった。。。 私は、話す相手と言えばウエイトレスのお姉さんなんだけど、 年末年始の話しの流れで、実家が山口県と言ったら、 自分もですって言うので、驚いた。 で、光市の出身ですと言うので、 昔、妹が、光市の中学で教員をしていたと言うと、 どちらの中学ですかと重ねて聞かれたので、 そこまでは覚えていないと答えた。 すると、市内の中学は4つしかないと言われ、 順番に彼女が名前を言って、最初の中学が、 なんと、その妹の最初に勤務した中学であり、 その37歳と言うウエートレスのお姉さんの出身中学だった。 びっくりですわ!!! 多分、時期的には重なってはいないだろうけど、 思いがけないことがある。 そう言えば、昔神戸で、輸入食品の店で買い物をしていた時、 隣り合わせた客が、山口県の下関市の私と同じ中学の卒業生だった。 私の妹は、その中学でも教員をしていたことがある。 私が初めて車で事故をやった時の相手の会社の社長が、 私の母の中学教員の頃の教え子で、 連れて行かれた板金屋のオヤジと二人で、 話し込みながら私の顔を本当にじろじろ見るので、 母親の名前を出して、ご存知ですか?と言ったら、 二人とも教え子だった。。。 まあ、事故の責任は相殺だったんだけど、 すべて先方持ちになって、助かったことがある。 今の職場の同僚に、山口県出身が私を入れて3人いるが、 私以外の2人は高校の先輩後輩だ。 私の妹の主人と同じ高校に当たる。 で、金曜日に、帰省したかって話を若い方の同僚としていたら、 なんと、私の実家の近所の蕎麦屋まで、毎年年越し蕎麦を食べに来ると言う。 我が家から車で5分ほどの山の中の蕎麦屋である。 わざわざ、何台もの車に分乗して、毎年毎年もう何年も食べに来ているそうだ。 我々地元の人間はその時期を避けて、空いてる時に行くが、 一切予約のできない店なので、ガチンコで、1時間くらいは普通に待つ。 その待ち時間が短かったという話で、 次からは通行税を取るから、我が家に一声かけて言ってと冗談を言った。 そのくらい、我が家の近くの店に、往復3時間もかけて、来て、 その帰りに川棚温泉と言うそこの温泉街の温泉に浸かって帰るのが、 定番の年越しと言うから驚いた。 私はその時分には買い忘れの食材とかを買い足しに、 その温泉の近所のスーパーに買い物に行っている。 ほんの2週間足らず前のニアミスだ。。。 私の世間は非常に狭いことがよくわかる。 さて、お昼ご飯の途中で職場の同僚から、 彼女の大分県の親戚からの毎年の贈り物が届いたからと電話があり、 机の上に置いてもらった。 柚子の皮の砂糖漬け、非常に美味しい。 初めて食べた。 定番の「ゆずまん」の柚子皮のジャムを、 もっと上品にした御菓子。 今までは、ザボンのワイン煮の砂糖漬をもらっていたけど、 また違う美味しさだった。 柚子の皮の香味は、文旦系だと思った。 そんなわけで、昨日は昼も晩もおいしい、一番いい日だった。 夜、薬が効かなくて、全然眠くならず、布団の中で2時から4時まで頑張った。 さすがに4時に、あきらめて薬を追加して寝た。 極彩色のいろんな夢を布団から出るまで楽しんだ1月12日でした。。。
2014年01月12日
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あんまり長いことすね肉も炊いてなかったし、 元夫君のおでんにアキレスとすね肉をいれたろと思って、 思い立って仕事の帰りに買い物に行った。 で、まあ、けっこう気に入ったすね肉を買い込んで煮込んだ。 それまでの煮汁は茹で卵だけが残っていたので、 その煮汁を小鍋に移してそこにすね肉を投入し、 大鍋には別に新たに汁から作っておでんを炊いた。 大鍋の方にはアキレスを投入したので、とろとろになった。 小鍋の方は、投入したすね肉を煮たたせないように とろ火でことこと3時間近く炊いた。もっとかも。。。 寝る前に試食したら、結構柔らかくていい感じで、 昼食用に取り除けて、残りのすね肉と新たに炊いたおでんとを合わせた。 お弁当にすね肉とこんにゃくとアキレスを煮汁と取っておいたら、 煮汁は完全に煮凝りになっていたわ!!! 私の欲しいおでんは、こうでなくちゃと思った。 これで厚揚げと大根が入ったら、私の分になる。 ま、厚揚げと大根は、今度にしよう。 で、そこに元夫君が登場する。 昼間に明らかにおかゆを噴きこぼしているので、 そのことを聞いたら、最初はしらを切ったが、 論より証拠で、ガスコンロの周辺は、糊状のものが、 数ミリ厚さで広がっている。 なんと、老眼の元夫君には、見えていなかったのだ。 噴きこぼしたのに、放置してばれない見つからないと思ったのは、 見えていなかったためだった。。。 その方がショックが大きいわ・・・ しかも、おかゆを炊いて食べるくらい胃の調子が悪く、痛むと言いつつ、 前日は巻きずしといなりずしと買って来ていた。 そのおかずに毎日毎日どんだけおでんを食べているのかと、 本気であきれる。 もっとあきれることに、胃腸科の病院を変えようと思っていると言う。 自分の訴えに耳を貸さず、クレーマー扱いするからだと。 胃が悪い人が、食べる量ですか??? 同居人としては、ただあきれるばかりです。 そもそも、炊飯器では最初からおかゆが炊けるのに。 面倒くさい人だ。 で昨日の晩御飯は、おでんと肉まん1袋!!! クレーマーじゃなかったら、ただのバカでしょう。 そう思っていたら、今朝冷蔵庫の横の棚にカップ焼きそば発見。 え~~~~っと思っていたら、帰宅後台所に食べた後を発見。 しかも、私が昨日仕込んだおでんは卵以外ほぼ完食。 新たに竹輪が投入されていました・・・ 知らんし・・・ 誰の胃が痛いのか、誰の胸焼けがするのか??? 全くの意味不明な訴えです。。。 そこで、今日は無視して、すき焼き風煮ものを作りました。 全く、これで明日帰ったらなくなっていたら、 詐病を疑いますね・・・ 胃ガンでも、食道がんでもいいけど、 ワンコよりは長生きしてほしいと思います。 すね肉は本当に美味しかったです。。。
2014年01月09日
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母だって、父より1歳年下なだけで、決して若くない。 新しいことに対しては研究熱心な人ではない。 保守的で、古いことを何度も繰り返し読み込むことは得意。 古い本とか、もう60年以上前の料理の本とか、 グラムを使っていないようなものまで持っている。 しかも繰り返し繰り返し読んで、それを再現することに熱心だ。 それなのに、夫たる父ときたら、歯無しである。 総入れ歯になって以降、本当にむごい。 母の自慢の料理の微妙な歯ごたえとか、 熱さ冷たさ、微妙な味付け、すべてを台無しにする。 父にとって大切なことは、食べるときに上の入れ歯と下の歯茎で食べられること。 下の入れ歯がどうしても合わないから。。。 入れると痛くて噛めないらしい。 クッション材を使うと、それが痰の様にからんで、 寝ている父のむせる原因になったりするらしい。 すべてのことは、母には未知の領域で、かつ想像したくない未来で、 頭で情報を拒否してしまうようだ。 父だって自分が総入れ歯になる前は、おばあちゃんに思いやりの欠片も無かった。 おばあちゃんが食べられないような4つ割りサイズで、 無造作に剥かれたリンゴを、私は何度も薄く切ってあげたっものだった。 大きいと口が開けられないとおばあちゃんは私にこぼしていた。 でも、血縁の無い父や母には愚痴もこぼさず弱音も吐かず、 だから、父や母はおばあちゃんに対して思いやりが欠けていたと思う。 あらゆる点で、強く思う。 だから、私は、その点で、両親に優しくなれない時がある。 96までおばあちゃんが自宅で過ごせたのも、 数えの米寿のおじいちゃんが自宅で息を引き取ったのも、 母が頑張ったからであり、父が頑張ったからだろうけど、 そう思おうとしても、どこか、棘のある対応が記憶の網に引っ掛かっている。 母は、おばあちゃんを病院に入れて、最後の2週間ほどを不幸にしたが、 その点について話すとき、 じゃあ、お母さんは自分のこととなったらどうしてほしいの? じゃあ、お父さんが倒れたら、どうするの? そう、私は問いただしてみたくなる。 自分が望むことを、日頃から、傍に住んでいる妹に伝えておいてほしいと、 今回、母には言ってきた。 倒れても、救急車は呼ぶななのか、 病院では今までの様に相部屋が好きなのか? 父は入院自体が二度とごめんだと言っているが、 そんなことは、倒れた時にどうしようも無いだろう。 せめて、普段から今度何かあったらとか、言っておいてほしい。 父の生きる意欲は旺盛だ。 スロークッカーにスロージューサーにザイグルに圧力鍋に、 冷凍庫を埋め尽くす食材に、 廊下に積まれた段ボール入りの野菜や果物のお取り寄せ。 生きる意欲があるから、食べることにあきらめきれない。 母を傷つけるようなことを平気で言う。 母は母で、父を傷つけるようなことを平気でする。 元々中の悪いうちの元夫君と私なら話は分かるが、 こうなったのは、父の胃ガンの手術の後からだ。 強情な母の一直線な気持ちから、父に術後のうがいさえもさせなかった。 父は、母の愛情を完全に逆に受け取って、 カラカラに乾いた口を潤したいだけなのにそれを許さない母を恨んだ。 そればかりか、母のことを強情だと見舞いに来た知人に罵ったらしい。 いっそ、 「胃ガン3期です。転移してます。膵臓も脾臓も取りますか。 胃部は全摘で、食道下部から小腸につなぎます。 リンパ廓清も可能な限りします」 医者がそう言ってくれていたら、 母のその後の30年の苦しみは無かっただろう。 父の気力が萎えて、闘病もできなかったはずと、母は言うし。 私は、その後ずっと丸山ワクチンを受け取りに行き続けた母を偉いと思う。 思うけど、その当時でも、胃ガンを死の病とは思わなかった。 切らずに丸山ワクチンでも良かったし、最小限の手術でも良かったと思う。 去年の母の手術でもそうだったけど、切らなくてよかったのにと思う。 現に医者が率直に認めて内視鏡でも取れたと言っている。 腫瘍が縮小することだってあるんだ。。。 母の思い込みが強かったからよかったけど。はあ・・・
2014年01月05日
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12月26日、油焼けした唐揚げを空腹時に食べてしまう。 12月27日、猛烈な吐き下しで午前5時から苦しむが、 梅干しの種粉末とサクロンでしのいで、 もう一度寝てみる。 さらにぎりぎりまで寝て、もう一度梅干しの種粉末とサクロン。 マスクをして上京の途に就く。 白湯とサクロンに途中からあったかい十六茶。 ホテルでココアを作って飲んで糖質も補給。 コンサートに行く。 ホテルに戻るまでに十六茶の紙パック1つ。 ホテルで黒糖入りの生姜湯を飲んで寝る。 12月28日、朝食を梅干しとお粥メインとして、 浅草散策。昼食はお好み焼き半分ともんじゃ焼きちょっと。 胃腸が落ち着きかけて、意欲が出てきて、 上野アメ横で、ソフトクリームを食べきる!!! 新幹線でまた休養。焙じ茶。1本。 実家に戻ってから、晩御飯の残りの押し鮨2切れ。 12月29日、やっと朝寝をしていたら、父に起こされる。 朝食は軽く少なく。 昼食も軽く焼き肉。少なく。 母が姪と買い物に出かけ、そのまま母は同窓会へ。 夕食の支度をする。贅沢な新巻鮭。 夕食後、夜に母を迎えに行く準備をして待つ。 12月30日、完全回復。普通に食べる。母の買い物に付き合う。 お正月のお飾りや、お節の準備や、 毎年止めると言いながら、母はなかなか止めることが出来ない。 残っていた父の年賀状を出しに行く。 母は、予定していた特定郵便局が閉まっていて驚嘆。 開いている別の郵便局に車を走らせる。 夜はすき焼き風煮込み。 12月31日、お正月の来客に備えてお飾りやら掃除やらをする。 父は妹が住所録を打ち込んでくれたあと年賀状が戻ってきていなくて、 去年の賀状をもとに出すことが出来ないので、 もうこれ以上は出せないと言う。 すでに出した賀状にも、自分の住所氏名印を押し忘れたのやら、 なかなかぼけぼけだが、 自分が無くしたかもしれず、妹に言いだせない。 母は、夢中でお節を作っている。 食べる人のいない黒豆の瓶の大きさにちょっと・・・ 栗きんとん、芋の裏ごしが省かれているが、 栗はたっぷり。 数の子は、味付け数の子で、安かろう不味かろう。 晩御飯は焼き肉の残りの肉を取り敢えず焼いて食べるが、固い。 紅白歌合戦は、ほとんど見ていないと思うのに、 つけてあるし、音は消してある。変なの。 寝る前に、父がトイレから出てこなくて、 母が私をおろおろして呼ぶ。 父は排便が途中で止まって、出るに出られない状態。 睡眠薬(ハルシオン)を服用しているので、 寝ぼけている。 やっと出てきてからも、ベッドにちゃんと寝られないほど、酩酊状態。 この時点で、母は、翌日の準備のカニを忘れている。。。 1月1日朝から日本晴れ。年賀状も程良くたくさん。 足して160歳を超える夫婦にしては、多すぎかも。 来客に対応し、妹家族にも会える。 私は昼食時からの接客気疲れと、カニを焼き疲れた。 カニは、まあまあ良かった。 母の接待では、飲み物が出てこないことに気づいて、 あわてて、ノンアルコール飲料を出す。 子供向けは水のみ。これは、昔から。 私の娘の子供のころからで、水が本当に美味しいから。 晩は、そう、なぜか、サンマ。野菜室からサンマ。 ザイグルっていう調理器具は、母を焼き魚の苦労から解放した。 1月2日朝から、母は、下痢。 胃癌の手術から半年。サンマ2切れ、1匹は多すぎた? まだまだ無理は禁物だってこと。 朝は、焼きガニの残りが入ったお雑煮で、 昼も煮魚と豆腐で質素だったけど、 晩も、その煮魚と年末の焼き肉の残りでのスープと、超質素。 母がサラダボールにスープを入れるのに閉口する。 何年越しで、いくら頼んでも止めない。 年賀状を2回出しに行く。 二回目中学の同窓生のおばあさんの通夜と葬儀の告知を見る。 今日は、妹の家で練習中のハープを聞かせてもらった。嬉しい!
2014年01月02日
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午 と言う字を習ったのは、小学校の何年生だっただろうか。 もちろん「うま」と習ったはずはない。 多分「午前中」の「午前」で習い、「午後」も習い、 気のきいた先生なら「正午」って言う話もしてくれて、 「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の話もしてくれて、 24時間時計を示しながら、 「この2時間が一時」で、 午の時は、24時間の真ん中、そのど真ん中が正午で、 正午の前が午前、正午の後が午後だぜ。 午前11時から午後1時の間に正午が来るから、 「午後」を「後午」って書いたり、 「午」を「牛」って書いたりしないこと!! 「牛」には角があるから出てるだろ、 「午」「馬」には角は無いからな!とか、 黒板に板書しながら言っていそうだが、 もちろん、私の先生はそんなことは教えてくれていない。 お蔭で、私は、午後を逆に書いたり、牛後と書いたりするのは、 普通であった。。。。 教える順序から行くと、「十二支」は後だし、 他の字が難しすぎて、適さないと思うかもしれない。 でも、意識付けってもんである。 絵でもつけてくれたら、すごくわかったと思うし、 丑三つ時なんて、言葉は結構知っていたものだ。 「草木も眠る丑三つ時」って、昔は結構テレビで見聞きしたものだ。 自分の干支を知らない子供は日本の小学生にはいないだろうから、 その学年の子の2つの干支を織り交ぜて話をしてくれれば、 印象深かったのになぁ・・・ もったいないことだ。 私はADHDだから、記憶にないだけだろうか? 私にわかるように教えてくれてのは、理科の先生だった。 「南中高度」とともに記憶しているから。 私にカタカナを教えたのは父か母か、多分父だと思うが、 今日、私は中国人の友人で日本語もばっちりの女性と カタカナの話をしていた。 彼女はトゥりリンガルで、ご主人もそうだ。 長男は日本語が最も得意で、せっかくなのに中国語は少し、 英語は、苦手のようだった。 高校2年生なのにまだ3級と言っていたから。 中国人の彼女は、私費留学で日本の広島にある大学の大学院に来て、 そこで日本語の勉強をしていて、今のご主人と知り合った。 ご主人は中国でも高校時代から日本語を勉強していて、 中国でも日本語と英語を勉強していたので、 日本の大学院では経済学を勉強しに来ていて、 広島大学の大学院に進学していた。 先年亡くなった彼の父親は戦前日本の大学を卒業しているエリートで、 そのために文革時には下放されて非常に苦労していた。 私の父親とはたまたま父が仕事で中国に渡航したときに知り合い、 その縁で、父が費用を負担して日本の大学院への挑戦を後押ししていた。 親の世代が日本語ぺらぺらだから、彼はきれいな標準語の丁寧語を話した。 奥さんのほうは、文字から覚えて、非常に苦労していて、 分けてもカタカナが覚えられなかったそうだ。 おそらく、最初にひらがなを習って、その後、カタカナを覚えたので、 覚えにくかったのだと思う。 先にローマ字からカタカナに入ったら、カタカナのほうが簡単だ。 彼女に、カタカナと漢字の関係を教えてあげたら、 今日初めて知ったと驚いていた。 最初から知っていたら、カタカナを覚えるのが簡単だったろうと、 初期の苦労を語っていた。 中国語文化圏の人で高校を出ているくらいの人は、 漢字も英語も知っているから、 カタカナを覚えるのは、漢字の一覧表の色をちょっと変えるだけで そこにローマ字を添えてあげればすぐだろう。 日本語は発音が簡単だから困ることはない。 ダディドゥデドとザジズゼゾを練習するくらいでいいんじゃないか。 そんなことを、今日、思った。 今度中国人留学生の多い大学に聞いてみよう。 カタカナの元漢字の色つき五十音図なんて、 公文式あたりが出していそうだ。 これも聞いてみよう。 新年早々、良い勉強が出来た。 浅草寺、おみくじ、大吉だったしな。 ご利益 現世利益(げんぜりやく)があらたかである。。。 ばんじうまくいく!!!
2014年01月01日
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