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神戸に住んで67年。生まれは名古屋。幼い頃の記憶はそんなにないが、生まれたのは昭和25年2月。いわゆる早生まれなので学校は昭和24年組と同じで、その前年が戦後のベビーラッシュの年。中学に進学した年の新入生のクラスは18クラスあった。その年の新入生の約3分の1は暑い夏を照り返しのキツイ校庭に建てられたプレハブの臨時校舎で過ごすことになった。若い数字のクラスは木造2階建てのオンボロ校舎が割り当てられたが校庭のプレハブに比べたら快適だったと言えた。1年上級の昭和23年組は何と21クラスあり、しかも1クラス50人越えの人口密度だった。 少し話しが飛んでしまったので今一度幼少期に話を戻すことにする。 姉は昭和23年生まれで町内に同い年が8人もいて、名古屋から引っ越した翌年が小学校入学。幼馴染みがいなかったものの通っていた小学校もマンモス校で転校生扱いされず自然と学校に馴染めた様だった。 私は神戸に来て幼稚園に入園し、お袋が商売を始めた住所に籍をおいたのでいわゆる越境入学で近所の同い年の子供達とは違う小学校に通った為に親しい友達が町内にいなかった。ただ一人、5歳の時からの幼友達がいた。何と今年で66年間の付き合いとなる。ところが一度として同級生どころか同窓生にもなった事がなかった。小・中学時代を学校は違ったが仲良く過ごし、彼は大阪にある高校・大学に進み、私と言えば早々に高校をドロップアウトして家業見習いを始めていた。その頃、巷でボウリングが流行り始め、とりあえず働き出したので小金を持っていたこともあってドップリとのめり込み、マイボールにマイシューズを持っていそいそとボウリング場に通いつめていた。そんなある日、家の前でバッタリとその幼馴染みに出会す。と、何と彼は学ランに坊主頭、ボウリングバックを持っていた。「ボウリングやってんの?」「あぁ、大学でボウリング部に入ってん」「へえ〜、今度一緒に行こか?」「それやったらウチの大学の練習に来えへんか?大阪やけどレーンは時間貸しやし、学割効くし安上がりや。でも、寝屋川(大阪)やけどな」「行く行く。そやけどクラブの上級生は大丈夫か?」「大丈夫や。ウチの大学は今んところ2年生が最上級生やからそんなにうるさないねん。一辺頼んでみるわ」て事で、高校時代はたまに顔を合わすと挨拶する程度の付き合いしかなかったのに、4年振りにボウリングが縁で付き合いが復活した。 彼は短大に通っていて、2年生を2回やり、ボウリングに没頭した2回目の2年生の時の関西学連春のリーグ戦で団体戦はコテンパンに打ちのめされたもののダブルスでは2部校ながら予選1位に躍り出て、門真ボウルのセンターレーンで学友とともにダブルス決勝に挑んだ。当日対戦したのは後にプロボウラーになったT氏の近畿大学チーム。名前も知られていない大学のチームが予選トップとあってセンターレーンのギャラリーは膨れ上がり、それに圧倒されてか決勝の成績は散々。が、何とか関西学連リーグダブルス3位の快挙を成し遂げた。大学卒業後、彼はデザイン専門学校に進み、卒業後神戸新聞社系の広告制作会社に就職した。私はというと、17歳の時から写真にのめり込んでいて、22歳の時に親父の仕事が芳しくないこともあって親父から「他の仕事を探せ」と言われ、折角だから写真を活かした仕事をと考え写真を撮らせてくれる印刷会社に就職することになる。結局写真を撮る仕事といってもスーパーや市場のチラシ用の写真。まぁ、写真学校も出ていないし、そんなものかなぁと思いつつも何とかしなければと思い、一発勝負と印刷会社を辞めてカメラマンになる為の行動を起こした。アルバイトをしながら小金を貯め、写真を撮って歩いた。作品を貯めていつかカメラマンになる為の就職活動をしようと思っていた。今から考えるとなんて浅知恵なんだろうと思う。今の時代なら『写真』の概念も『写真撮影』の概念もデジタルになって変わってしまい、フィルム現像やカメラの基本操作等知らなくても写真は撮れる。でも今から50年も前にカメラマンになろうとしたら、少なくても写真学校を出て学校に来る求人に応募するか、写場で丁稚奉公でもしなければカメラマンへの道程は遠いものだった。ただ、私にとって幸せだったのは共にボウリングに打ち興じた幼馴染みの存在だった。 ある日、彼と喫茶店にいた。「カメラマンになりたい思って会社辞めたけど、新聞の求人広告探しても職安行ってもそんな仕事あれへん。何とかアルバイトで食い繋いでおるけど、まぁ、親の家におるから何とかなってるけどこのままでは先が見えんわ」と愚痴をこぼしていた。すると彼が言った。「ウチの会社の写真の部長に聞いたろか?」「えっ!?」「ウチの会社広告制作会社やからカメラマンが4人とアシスタントが1人いてるけど、そのアシスタントがカメラマンと一緒に車の撮影で大阪のスタジオに行ったら、会社の中の暗室や写真の仕事が手薄になるって部長が言うてた。アシスタントならアルバイトで雇ってくれるかも知れへんから聞いたるわ」と言ってくれた。結局、彼の口利きで写真部長に合い「取り敢えず来てみるか」の言葉で、私のカメラマンへの道が開た。 先日、その話を彼にすると「そんな事あったかなぁ」という。「いや、まがりなりにもカメラマンに成れたのはお前が部長に掛け合ってくれたからや。感謝してるで」「そうやったかなぁ。でもな実はあん時カメラマンのTさんが『彼は写真学校出てるんか?出てないんやったらカメラマンとして本雇いには成られへんで』って言われててなぁ」と申し訳なさそうに言った。「いや、それでもとにかくカメラマンとして門戸を開いてくれたんはお前のお陰や。感謝してる」。45年越しに感謝の気持ちを伝えることが出来た。 彼のお陰でカメラマンになれ、私の仕事が安定して来た頃に彼は制作会社を辞めて母校のデザイン専門学校の教師となった。そして彼の誘いで神戸のデザイン専門学校と大阪のビジネススクールで写真講師の仕事を紹介して貰い、25年間講師を勤めた。今思い起こせば人生の節々で彼のお世話になっていたのだ。71歳になって、初めて彼に感謝の気持ちを伝えた。それとて彼は「そんな昔の話し。忘れた」と笑い飛ばしていたが‥‥感謝している。 もう66年の付き合いになる。今、交流のある幼少期からの友人は彼1人。3日に開けずLINEで言葉を交わす。彼は酎ハイを片手に嫁の目を脱れて出先の公園からLINEしてくる。何のかのといっても他人ながらお互いの長い人生を知っている唯一無二の友人だ。私が心臓で倒れ救急搬送されたことも知っている彼のLINEでの第一声は、何時も「どや?元気か?」 有難い。唯一無二の幼馴染みであり、大切な親友だ。何時までも元気でいてください。 何時までも元気で居よう。お互いに。
2021.04.20
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最近やけに涙脆くなった。以前はドラマや映画を観て涙を流す事など殆どなかったのに、かなり涙腺が緩んでいる。人に言わせると『それも歳のせいかも』と言われた。以前に、瞬間湯沸しの様に突然激昂するって書いた事があったが、あれも老害ならこれも老害かも知れない。感情の昂りを抑えられないのは同じ事なんだろう。 以前からウオーキングで立ち寄っていた神戸市灘区の公園に三匹の猫がいた。一匹は丸々と太った茶色の混じった灰色の縞猫でピンクの鼻をしていたので勝手に『桃』と呼んでいた。多分兄弟か姉妹猫だと思えるもう一匹の縞猫は鼻が黒かったので『黒』。イージーなネーミングだけど二匹共なかなかの美形猫だった。そしてもう一匹は黒っぽい雄の縞猫。真っ直ぐで長い尻尾をいつもゆらりゆらりと揺らしていたので『シッポ』君と呼んでいた。もうかれこれ三年の付き合いになる。はじめて公園で出会った時『桃』は人馴れしていて平気で餌を強請ってきた。『黑』は『桃』よりも少し小柄で、遠くから餌が出てくるのを眺めていて、そろりそろりと寄って来ては少し咥えて遠くに運んで食べていた。『シッポ』君は子猫で遠巻きに見ていて、そっと餌を置いてやると恐る恐る近づいて来て周りをキョロキョロ見ながら食べ始めるが、少しでも音を立てたり動く気配を感じると慌てて逃げるような臆病な猫で肩から背中にかけて大きな傷跡があった。肋骨が浮いて見えるほど痩せこけて瘡蓋が生々しく見え、そこだけ毛が抜け落ちていた。 ウォーキングの途中に立ち寄るとまずは『桃』が現れ、少しして遠くから『黑』がそっと近づいてくる。餌を二つに分けてやると『桃』は堂々と喰らい、『黑』は慌てて食べてその場を離れた。餌がない時は寄って来ないし、こちらから近づくと一定の距離を置いて離れていった。 『シッボ』君は慣れるのに半年ほどかかったが何とか側まで来て手から餌を食べてくれる様になっていった。誤解のない様に断っておくが猫の食器は持参していたし、余った餌はポリ袋に入れて持ち帰っていた。公園で猫に絵付けをしてはいけないのだろうが、後片付けはしっかりしていた。言い訳でしかないが。 去年の暮れ辺りから『桃』も『黒』も見かけなくなり『シッポ』君だけが餌食べにくる様になっていた。背中の傷は痕が残っているものの少し毛も生えて見えなくなっていて、すっかり大きく成って大人猫の顔になっていた。公園に着くとマスクの下で『チッ、チッ』と舌を鳴らしたり口笛を吹くと、どこからともなくう現れて小さく鳴いて体を擦り寄せ喉を鳴らしてくれた。 ところが3月の末に遭ったのを最後に姿を見せなくなってしまった。その時に保護猫のVカットの入った耳と反対側の耳が妙に垂れていて元気が無かったのが今になって気になっていた。何度も何度も公園に出掛けて探すのだが『シッポ』君の姿を未だ見ていない。最後に会った時、少し急いでいたので餌をあげられなかったし、いつもなら十五分程体を撫でてやったりするのだがそうしてあげられなかったのが妙に気掛かりで気になって仕方がない。 昨晩、陽が暮れてから公園で二十分程『シッポ』君を待っていた。不覚にも涙が流れた。何かあったのか?。誰かに拾われたのならいいけど。心配でならない。この涙は何なのだろう?。やはりこれも老害のひとつなんだろうか。これ以上あれこれ書くのはやめておく。 人付き合いもとんと減ってしまった独居老人の戯言。 猫さんも相手になってくれないのかね。寂しいなぁ‥‥。
2021.04.17
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今日は二つ話しを書こうと思う。 まずは日本の話。コロナが収束したら何処の国へ旅行に行きたいかってアンケートを取ったら、二位に倍以上の水をあけて日本がダントツの一位とテレビ番組で言っていた。何んか自分の事の様に嬉しい。最近、日本人で良かったと思うことがよくある。別段何かがあったわけではないが日本の事を褒められると妙に嬉しい。外国人が旅行先に日本を選んだ理由は、街が綺麗。安全。日本人が親切。食べ物が美味しいと続く。外国で少し暮らしてみると分かるのだがとにかく人間不信に陥る。勿論、悪い人達ばかりでないのは分かるけど、税関でお金を抜かれ、国鉄職員に騙され、言葉が不自由と分かると途端に騙しにかかる。街中にスリはウヨウヨいるしヨーロッパの国々ではジプシーの子供は集団で荷物を奪いにくる。大半はいい人達なのは分かるし困っている日本人を助けてくれる人にもたくさん出会った。でもね。旅行者が出会う人達は概ね旅先で関わりを持つホテルや商店や、旅行者と職業的に携わる人達が殆ど。今日のテレビ番組で見た内容は外国人がお金にクレジットカード、新幹線のチケット等を財布に入れて街中で落としたら、どれだけの確率でその財布が返ってくれるかという実験だった。50回落として、そのうち何回手元に戻って来たかという結果が信じられなかったらしい。アンビリーバブル!。100%返ってきた。海外ではあり得ない事だ。でも日本に生まれ、71年間日本に住み、傘を盗まれたり釣り銭を誤魔化されたり、言われもない違反を警察から押し付けられたりもしたけど、それでも日本は外国より確実に安全で人は親切で街は綺麗で、何よりも人が暖かいことは事実だ。 足掛け5年。正味4年間をフランスで過ごし、親しくしてくれたフランス人に随分助けられた。そのフランス人が「かばんは襷掛けにして、人前で財布を出しちゃダメ。ズボンの後ろポケットとか上着のポケットに金目の物を入れない様に」と執拗に言う。日本じゃ幼稚園児か小学校の児童にしか言わない様な事だ。それを20代後半のおっさんに口うるさく言ってくれた。本当はみんな親切なのかもしれないが旅行者は狙われる。その旅行者、日本にきた事のある外国人旅行者が日本は安全で‥‥と、日本を褒めてくれる。そして旅行に行きたい国の第一位に選んでくれた。自分の事の様に嬉しい。でも、安全とは言え、そんな日本でもコロナの嵐は一向に収まる気配もない。安全ではない。今は。オリンピックは出来るのだろうか。長い間練習や鍛錬を続けてきた選手や代表候補の方達には酷かもしれないが、中止したほうがいいのではと思う。1964年の東京オリンピックが開催されたのは中学3年生の時。その当時家業は全盛期で親父はオリンピックを観る為にカラーテレビを買ってきた。日本選手団の赤いブレザーが印象的だった。何とかもう一度あの時のような高揚感を味わいたいものだ。 で、もうひとつの話し。 親父は時計の修理職人だった。家業は時計商と言うより時計修理業と言ったほうが当たっていた。しかもアメリカの船舶相手の仕事で船舶商工業者という税関のパスを貰って毎日アメリカ船に出掛けては時計を修理していた。 親父の仕事を手伝い出して何年かキャリアを積んだ頃、親父の仕事の凄さが分かり始めた。わざわざ日本の修理屋に時計を直してもらう為アメリカから持ってくる。勿論船員だから神戸に寄った時に時計を修理に出すのだが、わざわざ持ってくる。しかも、船が神戸港に停泊している間に修理し終わる。そんな技は真似できなかった。時計の修理もしたけど、何かあれば親父がリカバーしてくれるから出来た事。今更にその腕は素晴らしく、時計修理工としては尊敬している。人間的には難ありだったけど。 その親父が『月下美人』を育てていた。毎年大輪の白い花を咲かせていた。何鉢も。花が咲くと決まって自分の仕事部屋に見に来いという。行かないとうるさいのでとにかくチラッと見て自分の部屋に戻っていた。心の中でわざわざ人を呼び付けてまで見せる凄い事かよと思っていた。ある年、テレビで神戸の病院の院長が育てている『月下美人』が開花したと言うニュースが流れた。ニュースになるほどの出來事なのかと思いながらテレビを観ると、親父の『月下美人』の方が遥かに美しく、素晴らしかった。昔話だけど。こんな放蕩息子しか育てられなかった親父が見事に『月下美人』を育てていたなんて。 ん?、それって単純に息子の出来が悪いって事かな?。失礼しました。すんません。
2021.04.11
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今、世界中の人口はWHO(世界保険統計)に加盟している194の国と地域を対象として約78億人。 日本の人口は2018年の統計で世界10位、約1.27億人。人口TOP10にアジアの国が6カ国。1億人を越える国は世界に13ヶ国あって13位のフィリピンを含めてアジアの国が7カ国含まれている。ただし、同じ国連の機関であるUNFPA(国連人口基金)が発表している2020年度の統計では日本は11位で1.26億人と減少傾向にあるが、1億人を越える国はエジプトが加わり14カ国となっている。で、1位は何処かと言うと中国で14.4億人。ただしこの数値には台湾も含まれている。香港は100年の間英国の植民地となっていて中国に返還されたから中国に含まれるとしても台湾は?。今のところ国連に加盟されていないので中国の人口に合算されているのかも。もう「フォルモサ」とは呼べず「チャイニーズ•タイペイ」どころか「チャイナ」になるのかね。 2位の国はインドで約13.8億人。簡単に言うと世界中で5人に1人は中国人で、5人に1人はインド人ということになる。多勢に無勢というけど、太平洋に面した国々でトラブルが起きたとして正に多勢に無勢。ウイグル族の問題も多勢に無勢。そのうち尖閣諸島の問題も多勢に無勢?。ちょっと違うかも。でも力技で来られたら、軍隊と海上保安庁ではどうする事も出来ない。海上保安庁は何も出来ない。それを知ってて尖閣や沖ノ鳥島に不気味に現れる。まぁ、沖ノ鳥島に関しては中国だけではなく、韓国や台湾、北朝鮮も「島ではなく岩」と主張しているけど。 こんな話を書く気は無かったけど、コロナの発生地は「武漢ではない」と未だにWHOの調査を拒み続けている中国の態度が怖い。そんなに自信があるのなら調査させればいいのにと思う。まあ、この話はこの辺で終わっておこう。意見の違いは多々あるだろうから。 明日は赤十字病院でMRIをとる。去年の6月に脊柱管狭窄と診断された。椎間板ヘルニアもあるのに。昨年の秋頃から神経痛も出なくなり安心していたのに、ここに来て俄に右足が攣ったり痛んだり散々な毎日をおくっている。で、再検査となった。悪化していなければいいけど。老骨に鞭打って行ってこよう。 71だもんね。
2021.04.01
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