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おふくろは1980年3月15日。税務署に親父の確定申告書を提出に行った帰り道、路上で倒れて息を引き取った。急性心不全。享年64歳だった。 糖尿病の持病を待っていて、ある日、右手が思う様に動かなくなったことがある。 そんなおふくろに『ちゃんと摂生しろよ』と言うと「好きな食べ物我慢して少しぐらい長生きするより好きなもの食べてさっさと死んだほうがいいね」なんて軽口叩いていたけど、かなりショックだったとみえて、日頃の軽口は鳴りを潜めた。食べる事が好きなおふくろには辛い事だったんだろうと、太りすぎて心臓に負担が掛かり死にかけた者としては、身につまされるものがある。 名古屋出身のおふくろは、親父の仕事の都合上神戸に引っ越してきた後も、名古屋にあった家屋を改造して当時の名古屋にしては珍しかったお好み焼き屋を営んでいた。私がまだ小学校低学年の頃でおふくろは家に居ず、ずっとお手伝いさんに育てられた。後に神戸に戻り、洋品店、喫茶店、お茶漬け屋と手広くやっていた様だ。 そんなおふくろが京都の『ムラセのわらじ』の話をよくしていた。 ワラジと言っても道中カッパに三度笠のワラジ(草鞋)じゃなくて、京都の新京極にあった『ムラセ(多分、村瀬)』と言う洋食屋のカツのことで、トンであれ牛であれ肉を叩きかなり薄くなるまで伸ばしカツに揚げてあるのでまるで見た目がデカい『ワラジ』の様なのでその名が付いた。とおふくろが説明してくれた。そんな話が忘れられずに、自分のお小遣いで外食ができる様になった頃『ムラセのワラジ』を食べに京都に出かけた。同じ頃に神戸の三宮センター街にトンカツの『武蔵』と言うお店があった。初めてトンカツを食べたのは中学3年生の時。大きな長方形で肉厚のトンカツだった。多分値段は千円少々だったと覚えている。『ムラセのワラジ』は超弩級で大きなワラジは皿から溢れ出んばかり。肉厚は薄いが衣がサクッとしていて口当たりは最高。まるで正反対でありながらどちらも『天下無双』の味わいだった。まっ、中学生の感想だけどね。 その頃の食べ物の思い出をひとつ。 京都の河原町西木屋町の『志る幸』。一人で入店したイガグリ頭の中学生にお店の人も驚いていたが『お母さんと待ち合わせ』って体で入店。昼時を少し回っていたこともあってカウンターの隅の席に座ることができた。わざわざ食べに出かけた『利休弁当』。壁に書かれた品書きはお味噌汁の具だとか。 生まれて初めて京の白味噌の味噌汁を食べた。扇形に盛られた炊き込みご飯。塗りの器に盛られた焼き魚、漬物、和え物。中学生には理解不能な雰囲気。のぼせた。何を食べたのか、よく味もわからなかった。早い話が完全に雰囲気に呑まれていた。でも。いい経験ができた。 最初にパリに長逗留した1976年の7月。ガリガリに痩せて「とりあえず日本へ帰ろう!」と思った。 そんな時にサン・ミッシェルの安旅籠『スエーデ』で食べ歩き専門の日本人に出会った。 夏のバカンスが始まる前にパリの名だたるレストランの食べ歩きをするというので、予定を早めて帰国する前に余った滞在費で酒池肉林(と言っても酒は飲めんし脂っこいものは胃にもたれるけど‥意味が違うか)の1週間。流石にディナーは無理なのでランチタイムに三ッ星のレストランを中心にホテルから予約を入れてもらう。ランチなら服装が少しカジュアルでもあまり咎められる事もなかった で、ケチってケチって生活していたのに、1週間で約40日分の滞在費を使ってしまった。 お陰で体重は4キロ戻り、財布は空っぽになってしまった。 今ではいい思い出だけど‥‥もう、行くことはないんだろうなぁ。
2021.02.26
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餃子とラーメンの話の後はうどんとそば。パリでうどんを食べた記憶がない。でも日本蕎麦は何軒かメニューに載せている店があった。値段はやはり約7・800円だったと思う。でも関東風の汁で真っ黒で醤油辛かった。関西人にとって関東風で口に合わない料理は結構ある。逆に言えば、関東人にとっても関西風の料理は口に合わないのかもしれない。身贔屓もあったりするが結局は慣れ親しんだ味が合っているのだけの事。私は関西人だからすき焼きもうどんも関西風が口に合う。でも関西と関東と大きくザックリと分けてしまっているけど、関東風の代表が東京で、関西風の代表が大阪のわけでもないので、このザックリの分け方はおかしい。例えば味噌や醤油は日本中にたくさんの種類・品種があって、関西でしか手に入らない醤油やお味噌、関東限定の物もあったりする。関西に限って知る限りの産地で考えても兵庫県龍野の醤油と同じ兵庫県の小豆島の醤油では同じ県下でも味が違い、味の違いを数え上げたらキリがない。で、結局は慣れ親しんだ故郷やおふくろの味が個々の好みとなっているのだろう。 私は関西人と言いながら名古屋生まれで名古屋に4歳まで住んでいた。神戸に引っ越してからも料理は名古屋生まれ、名古屋育ちのお袋が作っていた(私が30歳の歳に他界したが)お味噌汁は真っ黒な名古屋味噌で作っていたから、中学生の頃までは味噌汁とはほぼ黒い物と思い込んでいた。お袋はわざわざ名古屋から味噌を取り寄せていたらしいが、いつからか八丁味噌に変わり、中学時代は「毎日赤出しを飲んでる」と友人に言われていた。だから今でも自分で作るときは赤出しの八丁味噌を使っている。 昔、パリでちらし寿司をフランス人に振舞ったら『主菜が無くてライスサラダばかり食べさせられた』と言われたことがある。そのフランス人とは別の人物だが、“タタミゼ(日本の文化を理解する人とか、日本かぶれとか)”と言われていた人物を自宅に招待した友人(フランス人)が、その人物が過去に日本で『すき焼き』を食べていたく感動したらしく、お前の日本人の友達(私の事)が『すき焼き』を作れるのなら『ぜひ食べさせてくれ』と言われたので『すき焼き』を「作ってくれ」と別の友人(日本人)を介して言ってきた。そう言えば以前、日本人の友人宅で『すき焼き』を作ったことがあって、その時にそのフランス人も同席していたらしい。そんなことからフランス人同士で約束が出来上がっていたのだろう。でも大変なんだね。フランスにすき焼き用の薄くスライスした牛肉なんて存在しない。パリでは日本食料品店に行けばある事はあるけど法外な値段。「高くてもいいから」と友人が言うので霜降りとまではいかないが、それでも貧乏旅行者にとっては腰が砕けそうな高額の肉を買って『御招待の日』を迎えた。 その日に備えて醤油とザラメを購入。すき焼き鍋がないので鋳鉄の浅めの鍋を借りて用意万端整った。“タタミゼ”の前で牛脂で鍋を慣らしザラメに醤油、馬鹿高い牛肉スライスを焼いて味を付け“タタミゼ”の皿へ。更に肉を焼いて程よいところで白菜・長葱・シラタキに豆腐を加え少し日本酒を加えて味を整え調理を終了した。“タタミゼ”は不思議な顔で見ていたが、しっかり残さず食べて「美味しかった」と帰っていった。後日、“タタミゼ”が申すには「あの日本人が作ったのはすき焼きではない。味は確かにすき焼きらしく作られていたけど調理法はデタラメだ」と言っていたとか。 多分、割下を使った関東風のすき焼きを目の前で調理してくれるお店か何処かで食べたのだろう。まぁいいけど。確かに関西風とは調理法は違うけど、偽物扱いとはねぇ。 何、“タタミゼ”?‥‥ゴザだろ。
2021.02.17
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今日は久しぶりに10km歩いた。いつもの散歩道だけど、気が付けばあちらこちらで梅が咲いていた。もう2月も半ば。当たり前と言えば当たり前だけど眼に見える景色は心持ちひとつで大きく変わるようだ。今月に入って何度か歩いた道だけど気が付かなかったのは、花に気が付かない程何処か心にゆとりがなかったのだろう。春が近い。春になったら桜を見に行こう。花を愛でる程に心に余裕が欲しいものだ。 神戸のJR三宮駅の山側に震災前まで『高雄』という台湾料理店があった。長細い店で、カウンター席以外には対面の二人掛けのテーブルが2席か3席かあったと思う。地方紙の『神戸新聞』の本社(神戸新聞社)が駅の南側にって、系列会社で仕事を頂いていたこともあり、本社に立ち寄った帰りにちょくちょく晩飯を食べに寄っていた。神戸には中国料理店が多い。多分、当時はほとんど中華料理と表記されていて広州料理も北京料理も台湾料理もあまり区別されていなかったような気がする。例えば餃子なんてどの店にでも当たり前のようにあると思っていたけど、実のところ餃子(水餃子)は山東料理(北京料理を含む)で主食に当たり、焼き餃子は広東料理に属するとされおやつの部類に属するそうだ。あまり詳しくはないの多くは書かないでおくが、中国では水餃子がメインであって、水餃子の残り物を焼いたりしたのが焼き餃子らしい。その昔、満洲にいた日本人がその味を懐しがって生の餃子をそのまま焼いたのが日本での餃子のルーツだとか。 パリにいた頃。たまに餃子が食べたくなって中国料理店で餃子を頼んでみる。うろ覚えの中国語だが『チャオズ』と覚えていて頼んでみると何とか通じたようで『水餃子』が出てきた。食べたいのは『焼餃子』なのにどの店で頼んでも水餃子、たまに蒸し餃子しか出てこなかった。後々解ったことは上記の通り。ところが台湾では鍋貼『コーティェ(もしくはゴーティェ)』という焼き餃子があり、たまに棒餃子という名前でメニューに載っている店もあるようだ。 話をパリに戻そう。そんな餃子がどうしても食べたい時にはオペラ通り南端にあった『ラーメン亭』なる店に出掛けた。そこに行けば餃子にもラーメンにも確実にありつけるのにどうして最初から行かないかというと、ラーメンが確か邦貨で1000円近くした。餃子もかなりの値段だったと思う。日本で20本入りのタバコが70円か80円の時代、ラーメンは一杯200円〜250円の時代に一杯1000円のラーメンは貧乏旅行者の食い物ではない。それでもどうしても食べたくなる時があって1日の食費をケチって週に一度は食べに出掛けた。でも、ラーメン・餃子セットは食べるわけにはいかなかった。なぜならホテルの一泊の宿泊代より高いんだから。 そんなに無理してなんでパリにしがみついていたんだろう。でも、無駄ではなかったと思う。いや、思いたいかな?。 まぁどちらにしても、今となってはいい思い出だけど。
2021.02.16
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夜になって降り始めた雨は夜半を過ぎても止むことはなく、夜明けまで降り続くようだ。 然程めでたくもなく何かをする事もない誕生日はいつの間にか終わり、ひとつ歳をとった事実だけが残る。 まあ、七十一にも成ればそんなものなんだだろう。 玉子のメレンゲでケーキを焼いてみた。 わざわざ誕生日ケーキを購入する事もなくメレンゲを泡立てココアの粉と砂糖を加え泡立てて生地を作り、ホイップクリームにクリームチーズを加え、フローズンのフルーツを混ぜてロールケーキを作り上げる。もう、クリスマスと誕生日の定番になっている。私の誕生日だから、私のリクエストでエスプレッソのエッセンスを加えさせてもらった。 近しい友人のお宅にお邪魔して作る年中行事。 誰からも忘れ去られる事もなく今年も誕生日を祝ってくれる仲間がいる。感謝。 コロナが落ち着いたらまたウオーキングを始めようと思う。 コロナの前か一週間に50kmは歩いていた。 いつの間にか週3日になり、今は週に1日だけ10km歩いている。 そのせいとは言えないが体幹が觸れてフラつく様になってきた。歳はとるのにこのままではいけないと、2月の目標は週4日。40kmを目指してみよう。 暖かくなったり、寒くなったりと春の天気は移ろいやすい。 せめて、心まで移ろわないで過ごしたいと思っている。 暖かい雨だけど、早く止んで欲しい。 明日、空が晴れてたら、梅を探しに出掛けてみようと思っている。 おやすみなさい。いい夢を。
2021.02.15
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昨日(2月13日土曜日)、テレビドラマを見た。昨日の書き込みで『パワハラ』なんて書いたのもそのドラマが気になっていたのかもと思い、チャンネルをあわせる。昔だったら「チャンネルをまわした」なんて書いていただろうに、いま時、チャンネルのダイヤルをまわすテレビやダイヤル式の電話機もない。まっ、それは置いといて。 先週の土曜日、NHK制作ドラマ『六畳間のピアノマン』のテーマはパワハラだった。内容的にどうと言うんじゃないけど、テーマ曲がビリー・ジョエルの『ピアノ・マン』だったからつい最後まで見てしまった。懐かしかった。 ビリー・ジョエルは1949年5月生まれ。私は1950年2月生まれだから学年はタメ。 ビリー・ジョエルの『ピアノ・マン』は1973年にリリースされたシングルで最初のヒット曲。私はその頃、左前になった時計屋を継ぐのは無理だからと何処か他所で働けと親父に言われ、23歳にして初めて就職活動をした。何をやりたいのか、何が出来るのか、お先真っ暗で只々飯を食うためだけに就職口を探した。漠然とだが趣味で続けて来た写真を仕事に出来ればと求人を探す。でも、写真学校を出ている訳でもなく趣味程度の知識しかないのに写真の仕事が見つかる訳もない。そんな時に新聞の求人欄に『写真に興味がある方』という三行広告を見付けて飛び付いたのが印刷会社の求人だった。神戸の兵庫区にあった有限会社に就職して慣れないサラリーマン生活を始める。基本給は安かったがほぼ毎日残業があって、手取りは税込だが基本給の倍近くになった。毎日、終電近くまで働いて、深夜に晩飯を食べながらラジオを聞く。そんな時に流れてきた曲が『ピアノ•マン』だった。歌詞を和訳するとまるでビリー・ジョエルが生まれ育ったニューヨークの下町のピアノ・バーの出来事が飾らない言葉で綴られていた。メロディーも好きだったけど、歌詞の内容を知ってからは、さらに好きになった。後にフランスに出掛けた時に彼の曲を入れたカセットテープを擦り切れるほどモノラルのプレーヤーで聞いた。思い出の曲。 昨日、テレビドラマ『六畳間のピアノマン』の第2話が放映された。内容はオーバーワークで交通事故を起こし亡くなってしまうサラリーマンの話。やはり上司のパワハラがあるのだが、父親は息子の死の原因のひとつに「人に優しくあれ」とした自分の育て方が間違いだったのかもと深く後悔していた。そんな時に訪ねて来た幼馴染みの友人3人から息子の生き様を聞き、息子が優しさ故に自分自身に無理を強いていたことを知る。そして、息子を追い詰めていたパワハラ上司と出会うのだが‥‥間違った解釈をしていたら申し訳ないのでこれくらいにしておいて‥‥ドラマの中で父親と息子がビリー・ジョエルの『ピアノ・マン』を風呂の中で、ピアノの前で仲良く唄うシーンが出てくる。その辺りで突然涙が溢れた。自分でもなぜ泣いているのか解せなかったが涙が止まらなくなった。泣くような楽曲じゃないのに。多分、二十代後半の色んな出來事が思い出されたのかも。 ドラマが終わってから古いiPodで『ピアノ・マン』を何度も何度も聴いた。涙がいくらでも出た。訳わからん。 やっと落ち着いてテレビを点けると福島・宮城南部で震度6強の地震があったと臨時ニュースが告げていた。何度も揺れる映像が流れる。だめだ、神戸の震災とオーバーラップしてまた涙が流れてきた。 ビリー・ジョエルのせいじゃないけど『ピアノ・マン』のメロディーに乗って、いい事も悪い事も綯い交ぜに2月14日を迎えた。 世間では『バレンタイン・デー』だが爺ィにとっては『チョコレートの日』。カカオ85%の苦いチョコレートを口に掘り込み『ピアノ・マン』を聞きながら呟く。「ハッピー・バースデー、俺‥‥七十一 目出度くもなし オラが春」。字あまり。
2021.02.14
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ブログを書こうと思いカレンダーを見て驚いた(現時点2月12日23時45分)。昨日(2月11日)は祭日だった。そう紀元節。神武天皇が即位された日(今は建国記念日って言うけど)だった。 爺ィになって仕事もせず、日がな一日のらりくらりと暮らしていると曜日なんてあって無いようなもの。そう言えば、第二次大戦下の日本軍歌に『海の男の艦隊勤務、月月火水木金金』っての歌詞があった。海軍の艦船の上では土曜も日曜もなく勤務が続くと言う歌詞だけど、それのまるで正反対で毎日が日曜とは言わないが何の勤務もない。まぁ、毎日の賄いは作るとして、掃除や洗濯は必要に応じてだし、毎日決まったルーティーン・ワークも無く、気がついた時に「そうだそうだ」とやれば誰から咎められるわけもなく、やらなければいつか自分が困るだろうから、やれる事は今やっておこうとやっているだけの日々。考えようによっては毎日日曜だし、毎日艦隊勤務かもしれない。だからカレンダーを見るまで、第一カレンダーを見る必要があまり無い生活をしているから、気付かない。気づく必要もないのかも。 病気になって日記をつけるようになった。毎日食べたもの。出掛けた所。会った人。何をしてどう感じて何が出来なかったか。そんな習慣もコロナ禍とともに消滅してしまった。 何やってんだろう。 森元総理の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長辞任が女性蔑視の発言で世界中から叩かれて決まった。でも、森本総理の事例もだが、日本が承認している国は世界に196ヶ国あってそれらの国から日本は男女平等度121位と見られている事の方がもっと恥ずかしいと思う。セクハラやパワハラはやられた方がどう捉えたかの問題だと言われる。女性蔑視もそれをしたとされる当人は蔑視などした認識はないのだろう。パワハラもだけど、だから余計になくすのは難しいよね。それにしても日本人は自覚していないけど日本はかなりの女性蔑視国として見られているんだね。それでも観光で行きたい国ランキング世界12位の日本。その日本は、カロリーベース食料自給率はたった38パーセントなのに、年間食品廃棄物量約650万トンで世界ワースト6位。テレビでは食べ歩き番組やラーメン選手権、大食い選手権なんてのもやっている。そのテレビが『ミシュラン』の星とりを派手に取り上げ、その同じテレビ局が飢餓に苦しむアフリカの子供を救おうなんて寄付金を募るユニセフの広報を流している。日本だけの事じゃない。世界中似たり寄ったりなんだろうけどもっと道理にかなった事をやりたいね。 爺ィの戯言。ご容赦を。
2021.02.13
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今の人は下げ時計とは言わないようだ。正しくは「懐中時計」‥それも言わないか。「ポケットウォッチ」とも言われるそれらは今の若い人達には縁がないらしい。腕時計でさえしない若い人達が増えている。考えたら何でもスマホで事足りるからメモも取らない。辞書もいらない。新聞も紙の本も読まないそうだ。勿論全てではないだろうが。こんな話を書いたのは、片付けていた書類棚の引き出しの中からたまたま『ULYSSES NARDIN』の下げ時計が出てきたから。時計の修理を生業にしていた親父が残したもので、当時はそこそこの時計だったと思われる。裏蓋に刻まれた『横航』の文字は旧海軍横須賀航空隊の備品だったのだろう。干支(文字盤のこと)には、二時・四時・八時・十時の位置に夜行塗料が、5・15・25・35・45・55の位置には算用数字が書かれている分刻みの文字盤で、十二時の位置にはストップウオッチの30分計と六時の位置に時計の秒針があって、見た目にはストップウォッチだが、時針(短針)と分針(長針)と秒針(ストップウオッチ用)がついているという変わり種の懐中時計が出てきた。少なくとも80年は経っているアンティークの代物だが中の機械は素晴らしく美しく、少し遅れ気味だがしっかりと動いている。で、思い出に浸ってしまった。 今から41年前の1980年8月。日本でお盆を迎える為にフランスから帰国し東京でクライアントの出版社や旅行雑誌の編集部に挨拶廻りして帰神したのが8月12日。翌13日の朝、約5ヶ月ぶりに親父と顔を合わせた。暑い日だった。仕事に出掛けようとしていた親父に声を掛けた。「今日は暑いんだから休んだら」。「仕事してる方が楽や」と親父。そう言って出掛けて行った親父はその日帰って来なかった。69歳だった。8月13日。その年の3月15日に逝った母親の初盆だった。葬儀の席で姉が「お母ちゃんが迎えに来たんやわ」と言った言葉が忘れられないでいる。 今日は2月10日。あと数日で71歳になる。この一年。何もしていなかった気がする。コロナ禍だけのせいではない。自分自身の生き方が虚ろなんだろう。80年前の時計がしっかりと時を刻んでいるというのに。時計を見ながら、ふとそう思った。
2021.02.10
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もう殆ど東京オリンピックは飛んでしまった。多分ないと思う。と言うより人命に関わる事だからその後にどうするのかは別として、そろそろ結論を出さないといけないだろう。ところが毎日某氏の女性蔑視的発言や、それに対する某政党の某幹事長が「某氏は発言を撤回したので問題ない」とか、オリンピックのボランティアの辞退を表明した諸氏の行動に対して「あらたに募集する」とまるでモウマンタイと言い切っていた。問題はそこじゃないと思うけど。最近の政治家は前アメリカ大統領を筆頭に不可思議な人ばかり。若い人達の中には「不思議ちゃん」とか呼ばれる人達がいる様だが、いい歳した人達の中にも摩訶不思議さんがいっぱいいるようだ。 私もよく「意味不明な行動をしてる」と言われているけど。
2021.02.09
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毎日コロナの感染者数がテレビから流れてくる。 今日は何人?。東京は?。大阪は?。 私は兵庫県に住んでいるからつい兵庫県の感染者数が気になる。 ところで、コロナだけが原因じゃないけど若年者層や女性の自殺者数が増えているってニュースが流れているが、その実、どの程度増えているのかは全く報道されない。小規模の会社の経営者とか街の商店の店主とか、コロナが原因でリストラされた人達とか経営の立ち行かなくなった人達の自殺数も増えている。実際にどんな状態にあるのか全く知らされることはないけど、毎日何処かでコロナに感染した人達の数より、どうしようもない状態に追い詰められて自ら命を立つ人達の数が増える事の方が私には気になる。 あるJR駅の駅前ビルの一階にある立ち飲み屋のカウンターに、毎晩ひしめき合って飲んでいる人達を見る。その駅の近辺に最近オープンしたラーメン屋の店先に20人近い若者が行列を作っているのを見る。流石にマスクはしているものの一塊になって順番を待っている。多分、彼らにはコロナなんて気にとめる程の事ではないのかも知れない。 コロナ禍が原因で自ら死を選ばなければならないような事情など想像も出来ないのだろう。 私には他人事とは思えない程怖い事なんだけど。 勿論コロナも怖い。でも自ら命を絶たなければならない事情など想像もしたくない。 いつまで続くのだろう。
2021.02.09
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