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鉄道関連のリンク先をラストに追加しました。
大阪駅を後に東京に戻ってきました。温度差で体がついていけません
断然大阪のが暖かいです。
ところで、滞在中は外食がとても多くなります。
何しろ天神橋筋商店街の近くなので食べ物屋の数はハンパなく多いし、とにかく 安い店が多い。
連日食めあてのお客さんや、近年は外国人も団体でやってくる食のスポットの一つなのです。
その 天神橋筋はかつての天満(てんま)青物市場に由来する場所
。
それは石山本願寺があった戦国の時代に始まるらしい。
※ 堂島米市場の米。雑喉場魚市場の魚。天満の青物市場の野菜。それらは秀吉の時代には 天下の台所と呼ばれる大阪の三大市場の一つ
であった
。
天満青物市場の時代、遠方から来て荷下ろしをした船員達が、その足で買い物に出かけた場所が 十丁目筋。それが現在の天神橋筋商店街のルーツらしい。
※ 大阪では南北縦の道が筋(すじ
)。東西横の道を通り(とおり)と名付けられていた。
天神橋筋商店街の全長は2.6km。日本一長いアーケード商店街
としても知られています。
現在アーケードがあるのは天1から天6まで。その中でも天5界隈はとにかく飲食の店が増え続けている場所。
※ 天5に集中する理由は天満市場がすぐ横にあったからであろう。
激細の狭い路地にさえ、店が所せましと道にはみ出ていて、ただでさえ狭い通路なのに夜になると路上に椅子やテーブルを出す店も多数。今時分はビニールシートで周りを被い、外だけど寒さがしのげるような造りに。
かつての天満市場のバラックの下も、今やほとんどが店を閉め、その後はそれぞれ簡易式飲食店になっている。
飲食の方がきっと儲かるのだろう。ほとんどが一杯飲み屋風なのにオシャレな店もあるから面白い。
また、商店街に面した細長いビルなどは、もともと八百屋、魚屋、豆腐屋など小売店の集まったマーケット。それも今は正面の昆布屋を残したくらいで、ほぼ飲み屋街へと変身した。
とにかく行く度に既存の洋服屋とか、靴屋とか、雑貨屋はどんどん消え、新たな飲食店が誕生している。
今やその数は1000程あるのではないかと思うほど。(一坪店舗などもあり繁盛もしているようなので驚く。)
それでもまだお店が増え続けているこの現状は、みんなの食の意識が高いからなのか? はたまたは店を出して一旗揚げたいと言う起業家精神が高いからなのか? 挑戦者が後を絶たない場所のようだ。
さて、今回は前回に続き、2代目駅舎から現在の大阪駅
ノースゲートを紹介します。
さっさと終わらせる予定が結構詳しくなってしまいました
分けた方が良かったか?
前回のリンク先 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)
大阪駅( Osaka Station
) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)
大阪駅 歴代の駅舎
逓信建築 2代目大阪駅舎
悲劇の3代目大阪駅舎
JRの副業 複合型4代目駅舎
開発中の北ヤード
ノースゲート
大阪駅 歴代の駅舎
初代駅舎 1874年(明治7年)~1899年(明治32年)
前回紹介
2代目駅舎 1901年(明治34年)~1935年(昭和10年)

※ 写真は、ルクアイーレ(Lucua1100)オフィス入口の展示コーナーより。
初代駅舎が手狭になり旅客も交通量も増えたので、3カ年継続事業で34年7月に新駅が竣工。
初代駅舎より約2丁(約220m)東に移動しほぼ現在の位置に。
移転の最大の理由は、2年後の1903年(明治36年)に天王寺今宮で開催される内国勧業博覧
会に備え、より多くの来訪者を受け入れる駅舎の誕生であった。当事の工費は12万円。
駅前には、待合茶屋や、旅人宿、運送店がだんだんに増え、人力車が客待ちで群れをなすなど繁華街となっていったらしい。
建物はみかげ石造り。しかしモニュメント内部はレンガ。
木材はヒノキとケヤキが使用された
豪華なもの。
ホーム幅17m。待合室は270坪、2階には乗客の為の食堂も完備。
写真を見る限り、ドイツ系のNeoclassicism(新古典様式)かな?と思ったが、 設計したのは逓信技師の吉井義則 氏(生没不明)。
日本人と知って驚き、逓信技師と知ってさらに驚き。![]()
逓信建築 2代目大阪駅舎
日本の近代建築の始まりの中に逓信(ていしん)建築と言うのがある。
かつての逓信省では、郵便・電信・電話・電気など事業の局舎、施設の設計を自前の技師集団でおこなっていた
らしい。
それは 逓信建築(ていしんけんちく)なる言葉を生み出す程に合理的で堅実で質の高い建築設計を数多く生み出したそうだ。結果的に個性的な建築家を多く輩出
したらしい。
※ 逓信省(ていしんしょう)は、当事の電気通信事業の政府機関。今の日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)の前身にあたります。
設計したのは逓信技師の吉井義則 氏と解っているのに、
逓信建築の中に2代目大阪駅が含まれていなかったのは、今はその建物自体が無いからなのか?
復元できればそれなりのものであったと思われるが、残念ながら2代目駅舎は3代目ができた後に東京の技芸学校に2500円で売却されて解体された。
完全なる解体ならまだしも、外壁の御影石の化粧板だけを持ち去ったらしい。
中之島の日本銀行大阪支店、大阪造幣局の泉布観(せんぶかん)と共に大阪の3名所とうたわれた駅舎
だったのに・・ ![]()
この2代目大阪駅舎の時に日露戦争(にちろせんそう)1904年(明治37年)~1905年(明治38年)が勃発。時の政府は鉄道の国有化を進めた。
3代目駅舎 1940年(昭和15年)~1979年(昭和54年)
この写真を見た時に、昔の東西統合前のベルリンの駅を思いだしました。
写真で見て解るよう、駅前がすっきり整理されている。
3代目駅舎は駅だけでなく、駅の前の整理と整備、近辺の区画整理、そして地下鉄建設や私鉄(阪急、阪神)のターミナル改造が含まれての改築
だった。
なぜなら、1940年(昭和15年)に 東京で開催予定のオリンピックをめざし、宿泊も完備したステーションビルとして構想。しかも、旅客専用の高架停車場として計画されていた。
当初は3階までが駅舎。4~5階がホテル。231個室。収容300人。宴会場、サロン、浴場まで完備する近代建築技術の 粋(すい)を結集した近代建築で計画され、国際ステーションとして華々しくデビューするはずであった。(全館完成ならず、未完の竣工。)
悲劇の3代目大阪駅舎
1937年(昭和12年)、日華事変
が勃発。国家総動員方が公布され 戦局は深刻化
。
その中で1940年(昭和15年)、3階までの駅舎は一応の完成を見たものの 時局はオリンピックどころではなくなっていた
。
1941年(昭和16年)、 太平洋戦争に突入。「金属類回収令」が公布。
1943年(昭和18年)、4階以上の 駅舎以外の鉄骨の供出命令
が出され、切り取った鉄の重量は650トン。
それらは戦列の大砲の弾となったそうだ。(軍からは鉄の質が良いとほめられたらしい。)
因みに、悲劇は社寺にも及んでいた。1942年(昭和17年)、仏具特別回収なるものが行われ、四天王寺では、大梵鐘がターゲット。同じく1943年(昭和18年)、梵鐘は供出され、銃弾など兵器となり人を襲ったのだ。
また、駅の悲劇はそれだけではない。
駅は 連日連夜、臨時電車が走り、出征兵士の送り出しや軍需品輸送に利用
され構内は兵士見送りの人波で大混雑。
1945年(昭和20年)にはついに 空襲で大阪駅倉庫一帯と商店街が焼夷弾により焼失
。梅田から心斎橋の方まで見渡せるほどだったらしい。
そして 終戦、今度は進駐軍部隊の輸送で利用され、駅舎は米軍鉄道輸送司令部として連合国軍に接収。
結局、3代目大阪駅舎は戦争のあおりを受け、当初予定の駅舎にはなれず、ホテルもできず、それでも戦後の動乱も乗り切り、大阪万国博覧会をへて、高度経済成長を通過し 、1979年(昭和54年)まで頑張ったのである。
※ 1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会の為、1967年(昭和42年)~1970年(昭和45年)駅舎の改良が行われている。
4代目駅舎 1979年(昭和54年)~2011年(平成23年)
大阪万国博覧の時でさえ、駅舎は建て替えられる事はなかった。
大阪市は万国博覧会にそなえ、「大阪駅前市街地開発事業」をスタート。駅前の再開発と共に大阪市の顔となる駅舎の建て替えも希望していたようだが、JRは改良程度に留めた。
結局の所、赤字のJRに建て替えのお金がなかったのだろう。民間の資本での改築申請もあったらしいが・・。
JRの副業 複合型4代目駅舎
JRが重い腰を上げたのは 1971年(昭和46年)に国鉄法改正
が行われ 、国鉄業務以外の副業が認められる事になった
事だ。
JRでは「駅周辺用地の高度利用」をうたい、業務施設機能と商業施設を併せ持つ複合型の駅舎の開発を決めた
。(駅舎の中にデパート、ホテル、旅行サービスなどを誘致。)
つまり、 建て替え費用の負担ばかりか、今後の家賃収入、その他諸々の収入が得られる と
言う事だ。
前回「 JR西日本では、自社の駅と施設をまとめて大阪ステイションシティー(Osaka Station City)と銘打って宣伝 している。
鉄道以外の商売にも熱心
なようである
。」と書いたが、まさにそれである。
1976年(昭和51年)、「大阪駅ターミナル問題懇談会」発足。
新駅は地下4階。地上27階。
延べ床面積は13.6万平米の総合ターミナルビルと駅業務用施設(別棟の北ビル)の建設が決まる。
1979年(昭和54年)、駅本社となる業務用施設、「北ビル」が開業。
1983年(昭和58年)、もともと駅本社のあった場所に各種商業施設の入った大阪ターミナルビル「アクティ大阪」が開業。その中核となる施設はホテル(グランビア)。確か時代はバブルの頃。
※ 現在ホテルグランビア大阪の大株主はJR西日本ホテル開発である。
ここに3代目駅舎で構想していながら実現できなかったターミナルホテルがやっと4代目駅舎で実現。利便か? 儲けか? 駅舎とホテル一体と言う発想と着眼はどこよりも早かったかも・・。
5代目駅舎 2011年(平成23年)~

前回ジオラマや図解で位置など紹介。
5代目駅舎の誕生は、北地区に残る梅田貨物駅用地など24haの活用を検討する中で生じた
ものだ。
2003年(平成15年)。「大阪駅北地区全体構想」が発表。
国際都市をめざした上での街造りが検討され、広場、通路の整備や駅の改良などが行われる事になった。
2011年(平成23年)3月、大阪ターミナルビル、サウスゲートビルディング(旧アクティ大阪)開業
同年4月、橋上駅舎 前回紹介した 3階改札(連絡橋口)開業
同年5月、ノースゲートビルディング 開業
新しくなった大阪駅は、大阪の玄関にふさわしい空間と荘厳さと格調を持って誕生。さらには駅前広場と一体となるデザインが重視。新しい街。そして新たなランドマークとなるようスタイリッシュにデザインされている。
(ごちやごちや感がなく、イベントにもすぐ活用できるようなゆったりめの造り。)
下は前回も紹介したルクアイーレ にある「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のジオラ
マ
ノースゲート側の面
※ 映り込みで見えにくいので背景を消しjました。
ノースゲート側の写真はグランフロントが存在するので全景の実写は難しい。
屋上は庭園とさらに上が菜園として公開されている。
長らく北に残っていた曰わくのあった操車場(北ヤード)は(墓地→駅→
車両基地→貨物駅)土地を売却して国鉄長期債務の返済に充てられることになったらしい。
そして梅田の貨物駅はグランフロント大阪のオープンと入れ替わるよう2013年4月1日に正式に廃止。
開発中の北ヤード
ノースゲートビル屋上庭園からの北ヤードを撮影(2017年11月現在)
右のビルがグランフロント大阪。(グランフロント北館Cにはインターコンチネンタルホテルが入っている。)
北ヤードをはさんで向こう側が新梅田シティ。
左中、ガラス張りのが梅田スカイビル。左がウエスティンホテル大阪。共に新梅田シティを構成。
かなりの敷地が開いていたのですね。今は見渡せますが、グランフロント前に何やらビルの工事が始まっているようです。
この景色はいつまで見られるのでしょう。そして今度は何ができるの
?

2013年9月 梅田スカイビルからの大阪駅北側と北ヤード を撮影

古い写真だし、映り込みもあるので綺麗とはいえませんが、
在りし日の北ヤードの写真
です。
すでに梅田貨物駅が閉鎖され、解体が進められ始めた頃ですね。
ノースゲート
さて、現在のノースゲートビルの方を紹介。
ノースゲート地上階
グランフロント前から

地上階では、グランフロントと大阪駅の間には公共の道路が存在した。
以前は歩道があり、渡ることが可能であったが、現在は仕切りができて渡れないようになっている。
大阪駅ルクア側の地上階側がJRハイウェイバスの配車場になった
からだ。
向こう側に渡りたい人は、一度2階に上り、改めて駅側のコンコースにまわるか、ヨドバシカメラの方まで行ってから信号を渡るしか無い。
因みに、現在はヨドバシカメラまで歩道橋が付いたのでノースゲートからそのまま行けるようになった。(地下からも行けるが・・。)
ノースゲート2階エントランスフロア 入口

このフロアから、先ほどの駅
側の地上階中央コンコースに降りる事が可能。
また、登れば3階連絡橋の改札コンコースに出る。
※ 時計のついている階が3階
連絡橋の改札コンコース。

上降と下降のエスカレーターが両サイドについている。
←緑、エレベーターも設置
されているので車イス、ベビーカーの方はそちらへ。
地上階行きのエスカレーターに乗れば旧大阪駅中央コンコースへ

因みに正面ガラスの向こうに見えるのは11番ホーム。東海道本線北陸方面行き 特急列車。
※ ホーム階は2階と言う設定のようだ。だから改札は1階口と3階口となる。
ノースゲート3階 連絡橋と連絡橋改札のあるフロア

左、グランフロント方面
右 連絡橋と連絡橋口改札。そしてサウスゲートと大丸デパートにも接続。
見えるエスカレターの裏(写真では右)にインフォメーションがある。
ノースゲート3階中央のエスカレーターと階段。連絡橋の上に付いている展望デッキ「時空の広場」へ。

この階段の真後ろがインフォメーション。そしてさらに向こうが連絡橋と改札。
連絡橋の上の展望デッキ「時空(とき)の広場」

連絡橋の上を利用したテラス広場。各種イベントが催される。
ルクアとルクアイーレのの5階に接続されている。
展望デッキ「時空の広場」からはホームも見下ろせる。但しガラス越しに・・。

展望デッキ(時空の広場)からさらに上階に上る。
ルクアとルクアイーレの連絡橋(ルクアの7階)に出る。

ルクアとルクアイーレの連絡 橋(ルクアの7階)か
ら

ノースゲートのエントランスフロア(2階
)と向こうに見えるのがグランフロント大阪。
さらに上がると映画館や屋上庭園へ

屋上庭園から先に紹介した北ヤードが見える。
さらに屋上菜園までは階段を上る。

ノースゲートビルのオフィスタワーと右が北ヤード。
景色はそこそこであるが、屋上菜園は何もなく、苦労して登るほどでもなかったかも・・。
大阪駅(Osaka Station)おわります。
大阪については以下も書いています。
リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)
リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)
リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村
リンh 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)
リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)
リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜け
リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎
リンク 四天王寺庚申堂
鉄道関連のB ack number
リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)
大阪駅(
Osaka Station
) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)
リンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)
リンク
東海道新幹線開業50周年の日
リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)
リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)
リンク ユーロスター(Eurostar)
リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)
リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)
リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)
リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)
リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)
リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」 2023年02月25日
大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅 … 2017年11月15日
ドクターイエロー(Doctor Yellow) 2017年10月07日