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社会に出れば多くの摩擦を体験し思い通りにならず我慢を覚える始めは他のせいばかりだが一向に良くならずその原因を外から内に求めれば自分の至らなさが見えて来る自己検証の中に改善点を見つけ悪因の繰り返しに気が付けば試練は試練でなくなって呼びかけと思うようになる悪癖はすぐには浄化できず無私、利他に成るとき悪因は消えているその自覚をもつことが大切だろういつも自分は悪くないし変わる必要も無いと思っている自分がいて、あれが無かったらとかあの人があんなことをしたからとか彼がこうしていればとか”たら”、”れば”が多かったことに気が付くようになれば、自分の関与がその要因に成っていること知るようになる。社会に出れば、多くの摩擦に出会うことになることからこの世の思い通りに成らない『不随の定め』を自覚するようになる。始めは人のせいばかりでも一向に良くなる気配が無いことから自己回帰すれば、その原因を外から内に目を向けることで自分の関与の影響が大きかったことが分るようになる。自分を変える必要を自覚できれば、自己検証の中に改善点を見付け出して、その悪因の繰り返しが多かったことに気が付くことができれば、もはや試練は試練ではなく、何かに気が付かせるための”呼びかけ”と思えるようになるだろう。カルマや業がそれで、何度も同じ過ちを犯し、逃げてもまたその繰り返しでどうしようもないと思っていること自体がカルマ・悪癖で、すぐには修正浄化が出来ず、日々の自覚を、戒めを強くもっていなければ元に戻ってしまうもので、今までの自分と恥が生んだという自覚を強くもって、無私、利他の菩提心で代償を求めず、押し付けずにただ人のためと思うようになればその悪因は消えているだろう。除霊しても一晩寝ればまた元に戻ってしまう、自分がまた引き寄せていることに気が付いて、それまでの自分とは決別する強い自覚をもつことが必要だろう。 2014年6月30日 琢
2014年06月30日
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生計を営むために職に就く当たり前のことだがその職が天職・使命と違う場合が有って違和感や別の予感を感じている好きなことの中に見つけやすくやり甲斐の有無で迷いや葛藤の種類が違う悔いを残さない方に歩もうとするが生活事情がそれを許さないその日々が苦を生むが快苦を超える試練に立ち向かわなければ敗北感に押しつぶされてしまう過去の敗北の中にその答えが有るそれは目に見えない状態だろう抽象的な状態を説明するのは難しく、どんな歩みにも人が求めるものがその状態や境地だろう。認知を受けて評価しやすいのは目に見えるものや手にすることのできるもので、唯物的なものに人気が集中するものだが、時代の流れ、流行で運に左右される場合が多い。生計を営むために職に付くが、それはこの世では当たり前のことで、その職が使命とか天職かどうかがわからず、違和感や別の予感に覆われる迷いの日々を送ったりするもので、自分の特異性は好きなことの中に見つけやすく、やり甲斐の有無で迷いや葛藤の種類が違うだろう。悔いを残さない方に歩もうとするが、生活事情がそれを許さない場合も多く、その連続が刹那的に快苦の選択をさせてしまうものだが、快苦を超えたところに自分の本当の願いが有る場合が多く、快感を原則にすれば避けたり逃げたりで試練に立ち向かうことが無く、自分の弱点に気付くことも無く、何かを気付かせようとする折角の呼びかけにも気がつくことも無く、ただ敗北感に押しつぶされてしまう。その過去の敗北の中に自分の求めようとするもの、潜在意識の中に有る前世からの課題、使命、意味を見付け出す場合が多い。それはものや名誉、名声ではなく、目に見えない何かの境地や状態だろう。違和感や予感がそれを知らせようとしているのだろう。悟らんと 重ねた無駄も 気が付けばあれもわが道 これもわが道 2014年6月29日 琢
2014年06月29日
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準備した対応と突然の対応準備には筋書きがあり傾向と対策を練ってもそれでも上手くゆかず突然のときは自分が丸出しになる受ける側の善処にも依るが主旨の伝わり方が違う準備には作意が入りやすいが突発には作為は少ないが行動に適切さを欠く場合が多い準備が苦手な人はさらりさらりとした対応のためにいつも心を整えようとしている大きな式典の挨拶で大勢の前でスピーチすることが苦手の人が多く、原稿を準備していてもあがってしまって思うようにしゃべれず、ただ原稿を読み上げるだけの冷や汗の瞬間を経験した人も多いだろう。むしろ突然指名されて話をするほうが上手く行ったような気がして、心の中でそのようなときの心の準備をしている人も多いだろう。準備した対応と突発の対応には違いが有るもので、筋書き通りにゆかない場合も多く、傾向と対策を練っていても上手くゆかない場合も多い。突然の場合は自分が丸出しになることが多く、受ける側の善意の受け止めにも依るが、主旨の伝わり方で誤解をされる場合も多く、かといって、準備することはそこに自分の作意が入りやすいために、自分の都合だけを優先しないような気配りが必要だろう。突発に作意は入りにくいが、言動に適切さを欠く場合が多く、いつもどんなときにも身に付けて置くべきものを整えて置く必要が有るだろう。準備が苦手な人は、さらりさらりとした対応を好み、そうできるようにいつも思いやり気くばりと共に適切な対応ができるような自分を目指しているだろう。思い通りにゆかない体験が多い場合は、むしろ準備しないほうが、自然の流れに沿う場合が多く、作為的なものも入っていない場合が多い。周到な準備も良いが自然体でどう受け止めたかの真心を伝えることが大切だろう。人生行路の中ではほとんどが突発のことが多く、心の中の状態・『空』が外に出てしまうもので、いつも有りのままの自分を整えて置く必要が有るだろう。 2014年6月28日 琢
2014年06月28日
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大切な個性を失わずに理性的だと思われれば持戒を強くして別の自分を出せず人の期待に背くことを恐れて裏の自分を隠して良い子になろうとする自意識過剰に成っても集団ではそれが常識で型破りは他に迷惑を与える かと言って常識的にすれば個性が無く個性を抑えれば平均的で新しいものは生まれない世の中はそんな矛盾を抱えて愛が無ければ無秩序になる生い立ちにも依るが大概の人は不自由な気持ちを抱えて生きているだろう。自分のやりたいようにはさせてもらえず欲求不満のような気持ちを抱えて生きているくらいが丁度良いのかも知れない。人の望みは千差万別で自分がやりたいように出来ていれば、周りの人たちにそれだけの遠慮や我慢・忍耐を要求しているようなものだろう。自分を制御しながら人のためになることをするのが良いのだろうが、ついつい自分の都合を優先してしまうから摩擦が絶えないのだろう。理性的だと思われれば、持戒を強くして、別の自分を出せず不自由でも、人の期待に背くことを恐れて、本当の自分を、裏の知られたくない自分を出せず、良い子になろうとしてしまう。自意識過剰な方が良いのかも知れないが、集団の中ではそれが常識に成っていて、型破りは他の迷惑に成ってしまい、相手にされなくなって孤独感に浸るように成ってしまう。かと言って、常識的にすれば個性を出せず、個性を抑えれば平均的な自分に成るしかなく、人智を尽くせても人智を超えることが出来なくなって、新しいものは生まれなくなってしまうだろう。無私、利他の心が根底に有って、何をやるにしても愛・菩提心が有ることで、個性的に成っても認めてもらえるときが来るのだろう。 2014年6月27日 琢
2014年06月27日
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理性的だと思われれば持戒を強くして別の自分を出せず人の期待に背くことを恐れて裏の自分を隠して良い子になろうとする自意識過剰に成っても集団ではそれが常識で型破りは他に迷惑を与えるかと言って常識的にすれば個性が無く個性を抑えれば平均的で新しいものは生まれない世の中はそんな矛盾を抱えて愛が無ければ無秩序になる生い立ちにも依るが大概の人は不自由な気持ちを抱えて生きているだろう。自分のやりたいようにはさせてもらえず欲求不満のような気持ちを抱えて生きているくらいが丁度良いのかも知れない。人の望みは千差万別で自分がやりたいように出来ていれば、周りの人たちにそれだけの遠慮や我慢・忍耐を要求しているようなものだろう。自分を制御しながら人のためになることをするのが良いのだろうが、ついつい自分の都合を優先してしまうから摩擦が絶えないのだろう。理性的だと思われれば、持戒を強くして、別の自分を出せず不自由でも、人の期待に背くことを恐れて、本当の自分を、裏の知られたくない自分を出せず、良い子になろうとしてしまう。自意識過剰な方が良いのかも知れないが、集団の中ではそれが常識に成っていて、型破りは他の迷惑に成ってしまい、相手にされなくなって孤独感に浸るように成ってしまう。かと言って、常識的にすれば個性を出せず、個性を抑えれば平均的な自分に成るしかなく、人智を尽くせても人智を超えることが出来なくなって、新しいものは生まれなくなってしまうだろう。無私、利他の心が根底に有って、何をやるにしても愛・菩提心が有ることで、個性的に成っても認めてもらえるときが来るのだろう。 2014年6月27日 琢
2014年06月27日
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別人格に成るとき夢を描いているとき想像を膨らませているとき妄想しているとき好奇心旺盛であればいろんな自分を観ている願いを立てるのは自由だが現実は厳しい願いが無ければ試練も無く成長も無い子供は夢の宝庫で見えないものが見えるものをつくらせる希望は光で周りを明るくする何でも否定的に考えて、失敗を避けようとすること、必要以上の恐れをもつこと、挑戦を面倒だと思うこと、どうせやっても無理だと思うこと、初めから何もしようとしないこと、こういう悪い想念ですべてをマイナス思考に覆われていれば、どんな恩恵が有ってもチャンスを掴み取ることができないだろう。誰にも好奇心が有るが歳と共に自分で封じ込めてしまうのだろう。何処かに別人格になりたいと思ったり、夢を描いていたりして想像を膨らませたり、さらには妄想したりして、好奇心旺盛なときはいろんな自分を観ているのだろう。願いを立てるのは自由でも現実は厳しく、もうそれだけで臆病に成って願いを諦めたりしていれば、いつまでも自分の時代は来ないだろう。願いが無ければ試練も来ず、超えた試練が無ければ成長も無いだろう。子供は夢や希望の宝庫で、想像を膨らませながらできるようになろうといつも挑戦していて目が輝いている。見えないもの、心の状態のすべてから何かが生まれ、見えるものを造りだす元に成っている。希望は光で、夢や希望に向う姿は周りを勇気付け、成就することが出来れば感動を与え、子供たちの目を輝かせて将来の夢を描かせるだろう。 2014年6月26日 琢
2014年06月26日
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断片的体験から気が付くことは限られていて長期の体験でも偶然と思えばその理由がつながって来ないものともの、こととこと、人と人すべて意味の有ることと思えばその必然が解ってきて根底に共通するものに自分の傾向を知ることが出来るその発見からその条件下に自分が為すべきことが見えて来るそれが思い出すべき約束だろう自分が果たすべき約束がそこに有る自分が何処から来て何処に行こうとしているのか、前世が有ったのか、何をして来たのか、生まれてきた意味は何か、果たすべき約束が有ったのか、使命が何なのか、こういうことを一度や二度は考えたことが有るだろう。何をしに来たのか、どう生きれば良いかを模索しながら、夢や希望に向って失敗を重ねて自分の至らなさを実感しながら成り行き主義のような歩みを重ねているのだろう。目先の好奇心を充たそうとしながら、多くの試練を超えて、漠然とした夢や希望が次第に的が絞られてくるのだろう。断片的な体験から、気が付くことは限られているが、自分の歩みを単なる偶然と思えば何も見えてこず、修正事項も解らず、何を為すべきかの理由がつながって来ないだろう。ものともの、こととこと、人と人を通じて、すべてに意味があることと思えば、その必然が解ってきて、根底に共通するものに気が付き始めて自分の傾向を知り、そこから多くの恩恵や縁に感謝するところから、自分がなすべきことが観えて来るのだろう。そういう風に仕向ける何かの仕組みがはたらいていて、前世からの意識の中から、為すべきことを思い出させようとしているのかも知れない。袋小路を手探りで出口を捜すように歩んできたことの共通する意味から、その必然を思い出すことで、どんな課題を抱えて生まれて来たか、何を果たそうとしているのかの自分の使命が観えて来るのだろう。その自覚ができることが生きてできる覚りに成るのだろう。人の世は 必然の道 天の道歩むべき道 辿るべくして 2014年6月25日 琢
2014年06月25日
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賢者の覚りと愚者の覚り覚りは同じでも範囲が違う点と線と面の覚りどれも点では不動でも何処にいても誰と対面してもいつも不動でいられない瞬間的菩薩は可能だが相手や位置が変われば凡人でしかない広くなるほど愚かさを自覚し欠点を修正することで許す心が広くなり奥行きが広く懐が深くなる単細胞の幸せは永くは続かない多くの体験を積むほど人のぬくもりのありがたさが解ってくるが、いつも求めて止まぬ幸せは永く続かないことを知るようになる。どんなものも時と共に変化して止まず、諸行無常をこの忍土の常だと割り切ることを覚えるだろう。ショーペンハウアーのようにこの世に始めから幸福なんてないと思っておく方が立ち直りやすいかも知れない。生きている以上煩悩はつきもので、有情・うじょう・煩悩が有る状態では、生きてゆくには不可欠でも菩薩や如来の状態には成れないだろう。賢者の覚りと愚者の覚り、同じ覚りでも範囲が違う。点と線と面の覚りでは、どれも点では不動だが、何処にいても誰と対面してもいつも不動ではいられないだろう。瞬間的な菩薩には成り得ても、相手や居場所が変われば普通の自分のままでただの凡人でしかないだろう。心が広くなるほど愚かさを自覚するもので、その愚かな部分・欠点を修正することで許す心がさらに広くなって、奥行きが広くなって懐が深く、器が大きくなれるのだろう。人の心が幸せを感じるときは、心が安定していて機嫌が良く感謝にあふれているときだろう。どん底を知ったものが幸せを感じやすく、単細胞だった頃の幸せが永くは続かないことも理解出来るように成るだろう。分相応や足るを知ることの戒めが出来ていれば、ちょっとしたことにも歓ぶことが出来て、感謝の念も湧き出してくるだろう。その状態になればどんなことをも粗末に扱えないことを、当たり前と思う心を厳に戒めることを知っているだろう。 2014年6月24日 琢
2014年06月24日
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人にも宇宙大自然にも自然治癒力がはたらいている自然の摂理は元に戻そうとする力がはたらいていて新しい芽を出すのも復元作用で太陽が遍く照らすのも宇宙大自然の愛と言っている大気の循環も、水の循環も生きるものの恩恵で一つの愚かな心に左右されない愛はこの世にもあの世にもいつの世にも流れているものでその恩恵に感謝できるものは賢いどの生い立ちにも、どの道を歩こうとどの生老病死にもいつも周りに有る環境には宇宙大自然が有る。そのすべてには天が張り巡らせた羅網が有って相互に関連し合い、互いに無駄なものはひとつも無いと言う。どんなものをも復元させようとする力がはたらいているように思う。人にも宇宙大自然にも自然治癒力のようなはたらき、仕組みが有るのだろう。自然の摂理は元に戻そうとする力がはたらいていて、すべてに周期が有って循環しているように、新芽を出すのも種族保存も復元作用で、太陽が遍く照らしているのも宇宙大自然の『愛』と言っている。大気の循環も水の循環も地上に棲むものの恩恵で、一つの愚かな心に左右されることが無い。愛はこの世にもあの世にも、いつの世にも流れているもので、その恩恵に感謝できているものは賢く、自然の中の一員としての自覚ができれば自分が何を為すべきかが解ってくるだろう。悟らんと 重ねた無駄も 気が付けばあれもわが道 これもわが道 2014年6月23日 琢
2014年06月23日
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神仏は自分を罰することを望まない自分の犯した過ちは自業自得、因果応報で自分に返って来るもので悔過、懺悔で浄化する社会秩序には法律が有って罪をつぐなうチャンスをくれる法の取り決めを犯す前に観力を養って悔いを改める浄力を自分を毒し品格を落とす前に迷惑、苦を与えない自己形成をする自分を腐らせて罰を与えるのではなく周りに苦を与えない明るさだけでも機嫌良くなる恩恵は与えられている集団に入って解ってくることは、自分にも言えることだが、人は自分から崩れ去ってゆく材料をこしらえてしまっていること。自分の愚かさや甘さは自分が一番よく知っているもので、いくら言い訳や釈明をしようとしても、何回も同じ身勝手なことをしていれば人から相手にされなくなって、自分から消えてゆくしかなくなってしまう。自分を騙すことが出来ないのが人間で、信頼関係で保たれている社会では、唯物主義、刹那主義、利己主義は短期間は行使できても永いスパンでは矛盾が吹き出して自己保存をするしかなくなってしまうが、これも身勝手なもので永くは続かないだろう。神仏はその人が自分を罰することを望んでいないと言う。自分の犯した過ちは仏教では『悔過・けか』で、キリスト教では『懺悔』して浄化するように成っている。社会秩序を保つためには法律が有って、罪をつぐなうチャンスが与えられている。法の取り決めを犯す前に、観力を養い、自分の罪の原因と成っているカルマを看破して浄力を使って修正浄化する。自分を毒して品格を落とす前に、迷惑や苦を与える摩擦を起こさないための自己形成をすること、これが初期化することだろう。自分を腐らせて罰を与えるのではなく、その前に摩擦を起こさないために相手の身に成ってものを考えて行動すること。周りに苦を与えない明るさだけでも、機嫌良くなる恩恵はいくらでも与えられていて、これに気が付かず粗末に扱うことが無いように感謝することを学ぶように成っている。感謝こそ 道の極みと 仏道に菩提の心 にじみ出てこそ 2014年6月22日 琢
2014年06月22日
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記録は目指すものにとって目標や目安になる日々の精進は体をつくるだけでなく心の在り方が大切で不可能から可能へ自分を整えさせるもの指針が無ければ道が歪んで限界を超えられない他に感動を与えられるのは挑戦したもの以外に無く子供たちに夢を与えることになる生き甲斐はそこに有るのだろう好奇心旺盛な子供の頃は何にでも興味が有って、本や映画を観れば自分を主人公に見立て、スポーツを見ればヒーローに成って、その与えた感動に自分を重ねていた。子供の頃に描く夢や希望は漠然として数多いものだったが、歩みの中で絞られて自分にできること、好きなこと、縁の有ることに打ち込むようになってゆく。迷いはそこから始まって、いつも葛藤の連続に成るものだが、記録は目指すものにとって目標や目安に成って必死でその記録を破ろうとする。日々の精進は体をつくるだけでなく、心を整えることが必須のことで、眼には見えないものが原動力に成って不可能から可能に変えさせるのだろう。目標や目安の指針が無ければ右往左往して道をゆがめて限界を超えることが出来ないだろう。他に感動を与えられるのは挑戦したもの以外に無く、子供たちに夢や希望を抱かせることは人の使命を果たすことになる。使命を果たすミッションワークに就くこと、その自覚ができるほど生き甲斐を感じられるように成れるだろう。記録は破られるものと言うが、多くの人の夢や希望の指針・目標に成れば、みな追いつけ追い越せで、人が限界を超える能力を出すことで必ず破られるときが来るのだろう。気力と強靭な精神力が有れば、どんなことに挑戦しても不可能を可能に変えることが出来るだろう。人の世は 必然の道 天の道歩むべき道 辿るべくして 2014年6月21日 琢
2014年06月21日
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朝の気分前日から尾を引くもの天候にも影響がある小さなことにも気を配りその原因を確かめて置くその日の運勢も参考に注意事項にも留意して明るく素直な心で出会う人や出来事に対応する些細なことにも動く感情を抑へ平静を保とうとするが理性を失えば乱されてしまうのが忍土だろうその決意と努力の積み重ねでしか自分を変えることはできない嫌なことばかりで試練を重たく感じ始めれば、何で自分ばかりがとかどう考えても自分は悪いことなどしていないのにとか、真面目に考える人ほど自分を責めていってストレスで神経症に成ってしまう。原因を自分に求めれば自分を変えたくなるのは自然なことだろう。自分を変えるには相当の覚悟と強い決意が必要で、安易なものでないから頓挫して六道輪廻を繰り返してきている。ま、いいかとか今日は特別だとか、明日からとか、一度禁を破れば元に戻ってしまうもので、相当な自覚が必要だろう。朝起きたときの気分、前日から尾を引くもの、天候にも影響される心、小さなことにも気を配り、その原因を確かめておく。運勢を観るときは気分が良くなるものとその日の注意事項を確かめて、明るく素直な心で出会う人や出来事に対応することを心掛けておくこと。些細なことにも動く感情を抑へ、平静を保とうと努力しても理性を失ってしまえば乱されてしまうのがこの忍土の世だからだろう。自分を変えようとすることは大事なことだが、流されないような固い決意と飽くなき努力、精進の積み重ねでしかなく、簡単ではないことの自覚が出来ていなければ不可能で、虚しさや悔いを残さないように、行き止まりを感じても道を求め、先延ばしを厳に戒めて、絶対に投げやりにならないように自己管理をする必要が有るだろう。 2014年6月20日 琢
2014年06月20日
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根の張ったものより芽を摘むほうが簡単だが太陽光を妨げるもの木漏れ日の間隔を保つこと樹木の手入れが山を良くする庭の木の剪定も自然を美しくするもの林業の使命は自然の摂理に従って生きとし生けるものを救うこと唯物的、刹那的、利己的に成れば先が無くなってしまう森羅万象に癒され大地と共に共生する心は人に与えられた共通の使命だろう最近、若者が森に向い始めたと言う。森を山を維持する生業は林業だが、採算の悪さと労働力不足で手入れが行き届かなく良い木材が育たなくなっていると言う。樹木の間隔を一定に保つには人の手が必要だが、伐採した木材の買い手が無く、人を雇い入れることも出来なくなっていると言う。エネルギーの転換の必要性から火力発電の燃料に、形の良くない樹木が使われ始めていると言う。林業に日が差して来たのだろう。根の張ったものより、芽を摘む方が簡単だが、太陽光を妨げるものを伐採し、木漏れ日の間隔を保つことが大切で、そういう樹木の手入れが山を良くするのだと言う。庭の木の剪定も、自然を美しくするもので、林業の使命は、自然の摂理に従って、生きとし生けるもののお役に立つこと、生かすこと、救うことで、単にもうけ主義の唯物的、刹那的、利己的なものでなく、自然の中に共生する人間としての義務でも有るだろう。大自然に共生することは、森羅万象に癒され、小さな生き物にもすべてのものにも意味が有る自然の摂理に従ってこそ遠い先が観えて来るのだろう。生まれ出たときから親に教えられなくても与えられていた『良心』を原点として、全人類がその原点に心を戻す必要が出て来ているのだろう。人としてどう在るべきかが問われているのだろう。 2014年6月19日 琢
2014年06月19日
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新しさだけを競う危険人智を超えたものが先を拓くが人智を尽くしたものの反論もある成否を精査するもの変化と共に成り立つ社会で見えないものが与える刺激が世の中を活性させる沈滞には活性しかなく挑戦を讃美してその勇気を賞讃する旧態依然を打破して育てるもの痛みには歓びを 混乱には調和を停滞には活性を 破壊には創造を愛がそのすべてを成さしめる人はしたいようにしたがるもの、思い通りに運びたがるものだが、現実はそのほとんどが摩擦の原因に成っているもので、そのやり方の中に業・カルマがその因を成している。料理では素材の仕込が必要で、灰汁を落として煮崩れを防ぐ準備が先に成っているように、人もそれぞれが灰汁落しで初期化して、拒絶反応を起こさない誰にも通用する自己形成が必要に成ってくる。人智を尽くして人智を超えるためには必須のことで、その根底には、大和魂ー武士道ーサムライ魂のこだわりがあって、そのなかには愛・菩提心が流れている。人智を超えるとき、新しさだけを競う危険がある。陣地を超えたものが先を拓くが、人智を尽くしたものの反論も有るだろう。成否を精査することが必要だが、変化と共に成り立っている社会では、見えないものが与える刺激が世の中を活性させるのだろう。どんなものでもハードの前にはソフトが有って、製造の前に設計、アイデア、閃き、発見、発明が無ければ設計はできないだろう。見えないものが原動力に成って世の中を動かしている。沈滞ムードを打破できるのは人の心で、その挑戦に讃美を送り、その勇気を賞讃する。痛みには歓びを、混乱には調和を、停滞には活性を、破壊には創造を、そのすべてが菩提心・愛から発せられているものだろう。真念一貫 不逃避 忘己利他 一隅を照らす神理を求め 逃げることなく 人のための 光となれ 2014年6月18日 琢
2014年06月18日
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畏敬の念、威圧感、迫力、真剣さ机上の結果だけの知識ではその緊迫感は味わえないどうなるか分らない危機感の中でしかその境地に至らない想像の世界は妄想も有って架空の世界で体験でしか得られない心境が有る安全地帯では得られないもの結果の中にはその葛藤が入っている先を知りたければ占いしかない不安感体験して知る先見能力何にでも通用する能力は挑戦してみなければ得られない霊的なものはみんなもっているのだろうが、それを観ることができずに信じきれない特殊能力や超能力だと思っている人は多いだろう。目に見えなければ、手にすることが出来なければ、写真に写らなければ、数式で解明できないものは信用できず、人間死んだらお終いでその先の世界なんてないだろうと思っている人は多い。心の中では逆に証明できない不思議な体験、恩恵を受けたことを否定できず、何か神仏の仕組みがはたらいているのかも知れないと思う心ももっているだろう。畏敬の念、威圧感、迫力、真剣さの中に、机上の結果だけの単なる知識だけでは味わえない緊張感を体験したことが有るだろう。どうなるか解らない危機感の中でしかその心境には至ることが出来ず、自分に死ぬかも知れないほどの試練を課して荒行をすることで間脳、霊道を開かせて、先見能力、予知能力、洞察力を得ようとする修行も有る。想像の世界は妄想の世界も含めて架空の世界で、体験でしか至らない心境が有る。安全地帯でのんびり構えて情報だけを収集していては得られない境地、結果・果報の中にはその葛藤が入っている。先を知りたければ占いしかない不安感、それを超えられずにお金やものが人生のすべてだと思っている人、それが人生の目的や使命だと思っている人が多い。極限の体験をして得る先見能力、何にでも通用する能力は、自分の灰汁落し・業カルマの初期化をした上で高い境地を求める挑戦をしてみなければ得られないだろう。 2014年6月17日 琢
2014年06月17日
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足を運ぶことの大切さ道順を考えれば面倒で億劫なところでも行ってみれば清々しくなる霊山、霊峰、霊場には身を置かなければ味わえない歴史や空気が有る先人をたどれば求める心境に接したようなそこにしかない空気に触れて想像力をゆたかにする今も変わらない四季の繰り返しに同じ空気をすっているような爽やかな気分になれる霊的なものが見えなくても、その地に足を踏み入れることで何か感じるものが有るだろう。小学校のときを思い出せば、遠足や工場見学などであちこちに行った記憶が有るだろう。今同じところにいけばその懐かしさを感じ、また違う感慨深さを味わえるだろう。人は進化しているもので、心境が変われば同じところに立っていても感じ方は一味違うだろう。机上で学んで議論を戦わせることは良いことだが、それだけでは単なる知識だけに終わって、能書きだけの人間で、人としての奥の深さが出てこないだろう。足を運ぶことの大切さ、道のりを考えてしまえば面倒で億劫なところでも、行ってみれば、その地を踏むことで感じる新鮮な清々しさを味わえるだろう。霊山、霊峰、霊場には、身をおいて観なければ味わえない歴史や空気がある。芭蕉の”夏草や 兵どもの 夢のあと”静けさや 岩にしみいる 蝉のこえ”など、行ってみてリアルに感じる何かが有るだろう。先人をたどることで、その求めた心境に接したような、そこでしか味わえない空気に触れれば、想像力は豊かに成って、今も変わらない四季の繰り返しに、その時代も同じ空気だっただろうと深呼吸をしたくなるだろう。すべての答え・ヒントは歴史にあり、と言ったことが有るが夢や希望、魂の願いも、歴史の中の誰かをたどってみれば、その生き様や言葉から自分が求め続けてきた、探し続けていたものを見つけ出すことが出来るだろう。そのときに本当に爽やかな気分に成れるだろう。 2014年6月16日 琢
2014年06月16日
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これで終わったと思ってもまだ終わっていない場合が多い失敗しても修正浄化が終戦処理がお世話に成った人への謝意迷惑をかけた人へのお詫び開けた引き出しを閉めること次の、別の選択肢を決める抜けたこと忘れていることの確認すべてあとの信用問題になるどんな気付き、智慧になったかそれが次に生かされ、先を拓かせる先を読む材料になるいつも心を整えておくこと生きていれば、希望が有れば、成し遂げようとするたびに問題や試練がやってくる。経験が浅いほどどうすれば良いかがすぐには出てこず、誰かに相談したり、知恵者の指示を受けたり、そのたびに自分だけでなくほかの人の引き出しを開けて解決しようとする。一段落して収束すればホッとして、これで終わったと思っている人が多いが、まだ終わっていない場合が多い。失敗でも成功でも、そのときに学んだことから自分の修正課題が観えて来るはずでそれを修正浄化して置くこと、終戦処理を忘れている人が多く、お世話に成った人への謝意、迷惑をかけた人へのお詫び、結果や経緯の報告等、開けた引き出しを整理してちゃんと閉めて置くこと。同時に次の、別の選択肢を決めること、抜けたこと忘れていることの確認のすべてがあとの信用問題に関係してくる。人の温情や行為を粗末に扱わないこと、その恩恵に気付いたこと、どんな智慧を頂いたかを感謝しながら確かな歩みをすることが次に生かされ、先を拓かせることに成るし、先を読む材料にも成るだろう。心眼をひらいていつも心を整えておくことが重要だろう。油断大敵で、いつもほころびはそこから来ると肝に銘じておくこと、どんなことにも学ぶところがあって決して粗末に扱わないこと、感謝を忘れないことはすべての基本だろう。どんなに人気が有ろうと人望が厚かろうと、してもらって当たり前は地獄行きと戒めておくこと、かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻むことだろう。 2014年6月15日 琢
2014年06月15日
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意地を張れば道理がへこむ孤立が待っている人は孤独感に弱いもので孤独を解消する方法を学ぶ相手の立場を解ればこちらも解ってくれる一方通行に交わるもの無く相手に敬意を払えば摩擦は少なく穏やかな会話もはずむ相手を知れば対立を避けられ良き縁に成り合える相手が喜べば嬉しく自分の存在価値も見えて来る殻を堅くして破れなくしている要因は、間違った信念のとき、過去のとらわれがあるとき、既成概念にとらわれているとき、責任転嫁をしているときだと高橋先生は言っている。その状態を正当化して意地を張っていれば、人の止むに止まれぬ正しさを観ようとせず、摩擦が多くなって一皮剥けた自分に成ることが難しくなってしまう。”意地を張れば道理がへこむ”というくらいで、自分の意志を通そうと自己正当をすれば孤立が待っているだろう。人は孤独に弱いもので、孤独を解消する方法を学ぶことになる。相手の立場に立ってよく理解することで自分への理解もしてもらえるようになるものだが、自分の立場だけを解ってもらおうとするときには摩擦が多くなっている。一方通行は平行線に成って交わるものが無く、対立するときには末路を考えて、相手の仏性に敬意を払って、本筋に戻ること、本当の自分が何をしようとしているかを思って素直に謙虚になることが大切だろう。それが出来れば摩擦が少なく成って穏やかな会話もはずむようになり、孤立することも少なくなってゆくだろう。生い立ち・基盤を良く理解することで相手がよく観えるようになって、これしかなかったという止むにやまれぬ選択の正しさを理解できるようになって、良き縁に成り合えるのだろう。相手が喜ぶことで自分も嬉しくなるもので、そのときに自分の存在価値、居場所も観えて来るだろう。 2014年6月14日 琢
2014年06月14日
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何ごともトップクラスを見れば自分には無理だと腰が引ける諦めずに挑戦して練習を積めば次第に身近に思えて来るプロとアマチュアの違いも見えて違いが解るようになれば練習も高度に成って掘り下げるほど共通の哲学が見えて来るやって出来ないことは無くどの分野でも共通の智慧を知れば照準が合ってくる”為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも成らぬは人の 為さぬなりけり”先人の言葉に学ぶことも道どの分野のものでもプロを観れば奇跡を見ているようで、自分には無理だと始めから諦めている場合が多く、プロでも初心者のときが必ず有ったと思えば、先ず手をつけてみることも必要だろう。自分でも出来るようになれば見ているときより面白くなって、もっと上手くなりたいと思うだろう。どんなことでもトップクラスを見れば腰が引け、辱を晒したくないと放棄してしまう場合が多い。やってみること、下手でも諦めずに挑戦して練習を積むことで、次第に身近に思えてくるようになり、プロとアマチュアの違いも解るようになってくる。決まった距離をゼロ地点から観れば遠く感じ、何歩か歩を進めることで前に進めば、次第に目標が近くなってくるもので、違いが解るようになれば、練習も高度に成ってくるだろう。掘り進むほど共通の哲学が観えて来るもので、どんなこともやって出来ないことは無いだろう。見栄や外聞を気にして格好悪いからと諦めず、どの分野にも共通の智慧が有ることを知れば照準が合ってきてその意思が固まって、多くの試練を超えた上で成就している場合が多い。大義名分の言葉も探してみれば歴史上の誰かの良い言葉が必ず見つかるもので、上杉鷹山の言葉は有名だろう。”為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり”先人の言葉に学ぶことも道だろう。 2014年6月13日 琢
2014年06月13日
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先入観は先入観としてかたよった見方をせず素直に接すれば相手の見方が変わる見た目で得をする人、損をする人第一印象で左右される本当にいい人かどうかは目を見て話し心の内を語り合わなければ本質が観えず目の中に共通するものを見付け出せない共に良き縁に成り合えるかは交友を深めれば解る出会いでの第一印象は大事なもので、直感的に感じたことが間違っていなかったと、あとに成って解ってくることが多い。会話をすることは心の内を語ることで、どんな人かが見えて来る。ちょっとした言葉の中にその心の本当の姿が観えて来るもので、器の大きさや目指している境地がどんなものかも見えて来る。最近の自分は多少初期化してきたことから、二見【勝った負けた、損した得した、プラスマイナスで比較する見方】で見ることが少なくなって、とらわれも少なく成ってきたように思う。すぐに落ち込んでしまうことも少なくなって、相手と競争することも少なく成っている。先入観は先入観として、かたよった見方をせず、素直に接すれば、相手の見方が変わってくる。見た目で得をする人、損をする人、それも必然のもので過去の心の表れが表情に出てしまっている場合が多く、第一印象で相性の度合いが左右されてしまう。本当にいい人かどうかは、目を観て話し、心の内を語り合わなければ本質が観えて来ず、目の中に共通するものも見つけ出すことが出来ない。大志が有るほど良いが、相応の精進への果報が有るはずでも、望みが高すぎればいつも不満を抱えて、修正を要する人とそのままで良い人が有って、分相応の願いならどんな試練が来ても超えることが出来るだろう。共に良き縁に成り合えるかどうかは交友を深めれば次第に観えて来るだろう。何ごとも粗末に扱わず、大切に接していれば、生い立ちによる止むに止まれぬ正しさを受け止めることが出来て、相手の仏性に敬意をはらうことも出来るように成るだろう。 2014年6月12日 琢
2014年06月12日
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ぶっぽうそうという鳥がいる仏法僧は仏と法と僧の三宝として聖徳太子が国を治めるために掲げた指針その求道と戒めそれを学んで導くもの三蔵は経、律、論経は釈迦の教義律は戒め・戒律論はその解釈、説明と導き心の安定のための求道解釈導きはそれぞれで強調するところが違うが山に上れば頂上は一点しかない・真理哲学は真理で共通のもの奈良時代の宗派は南都六宗【三論、成実、法相、倶舎、華厳、律】聖徳太子が父用明天皇の意思を継いで病気平癒のために立てた法隆寺は法相宗だった。中国隋王朝に統制された国であることを認めさせたのが、憲法17か条と『仏法僧』で『和を以って尊しとなす・・・』、国を治めるものの心構え、衆生と天皇の関わりの在り方を説いて以来、今もそれが大和民族の中に生きている。『ブッポウソウ』という鳥がいるが、雷鳥で有名で青緑色の美しい夏鳥で山地の森林にすんでいる鳥のことだそうで、実際に『ブッポウソウ』と啼く鳥はコノハズクだと言う。仏法僧は国の三宝として神仏、教義、それを求道して衆生を導く僧を重んじた。三蔵【玄奘三蔵・三蔵法師のことで西遊記で孫悟空らと天竺に向ってシルクロードの旅をして3335巻の経典を持ち帰り唯識を説いた僧】は経、律、論のことで、経は釈迦の教義、律は戒律、戒めのこと、論はその解釈と説明、導きで、如是我聞・サンスクリットを漢訳した経典のためにたくさんの宗教ができることに成った。その導きの宗教は慣れや好き嫌いの、心の趣く導き方があるもので、排他的に論破しようと争うものではないだろう。山に喩えればどの山を何処から上っても頂上は一点しかないという、どの宗派でも真理は一つしかないということで『万教帰一』と言われている。 2014年6月11日 琢
2014年06月11日
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60兆の細胞分裂は生きている間は自律している心が安定していれば正常で想念が悪ければ気が病んで異常な症状が出る病は異常な部分が出てゆく相・すがたで代謝が良ければ分泌物が多く体を活性化して艶が良くなる不要なものは外に出され心の不安定と共に滞留する出るものは良いとされ悪いものは溜め込まず笑って外に出すのが良い昔から『笑う門には福来る』と言い、声を出して笑うことでがんや糖尿病が消えると言われている。筑波大・遺伝子工学村上和雄先生が証明したが、人は機嫌良く生きているのが一番で、1日10万回の心臓の鼓動、60兆の細胞分裂も円滑に自分の意思に関係なく自律して行われている。心の影響は大きく、安定していれば正常だが、想念が悪くなって、怒り、怨み、憎しみの感情が暴れだせば、次第に気が病んで異常な症状が出るようになる。それが病気だが、異常な部分が出てゆく相・すがただと言われ、機嫌が良ければ元々病など無いものとされ、代謝が良ければ分泌物が多く、体を活性させて艶が良くなって、不要なものは外に出されてゆき健康が保たれると言われている。心が不安定になれば体の中に不要なものが滞留して病気の原因を作り出してしまう。出るものは良いと言われ、悪いものを溜め込まず、大きな声を出して笑うことで外に出てしまうと言う。病院の検査でがんと診断され余命3年と言われても、それまでの心とは全く違う心で食べるものを食べて毎日正しい生き方に変えたところ、再度の検診結果では癌が消えていたという事例も多いと言う。『病は気から』と言うが、医師もまったくその通りだと認めている。間違いを起こしやすい心を別なものに変えて、怒らず、恨まず、憎まずにいつも笑いながら機嫌良く生きていることが自然の理に叶っているのだろう。 2014年6月10日 琢
2014年06月10日
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愛の芽生えに時と形と義務は無く自分の都合は通らない押し付ける愛、振り回す愛は本物でなく根底に流れているもので無償の愛に包まれれば人生は豊かに成る拘束せず自由なもので信念を確かにするもの束縛、繋縛は独占欲からで情のからんでいるものとして”かけた情けは水に流せ受けた恩は石に刻め”『愛』にはいろいろな種類があって、男女の愛、親の愛、一族の愛、仕事・会社・土地への愛、国への愛、など与えっぱなしのもので、無私、利他のもの、自分の都合を忘れて命を掛けられるもの、代償を求めないものだろう。愛の芽生えは、時と形と義務は無く、押し付ける愛や振り回す愛は本物の愛ではないだろう。心の根底に流れているもので、その無償の愛に包まれれば、人生が豊かに成るだろう。拘束するものでなく自由無碍な『忘己利他』のひろいもの、自分の信念を確かなものにさせてくれるものだろう。生まれたときから守るために与えられている独占欲は、情の中にはたらくもので、それが有るから種族保存が出来て秩序も保たれるのだろう。束縛や繋縛もその内の一つで、強すぎても弱すぎても良くないものだろう。弦のように強く張りすぎれば切れてしまい、弱すぎれば音が出ず、程好く張れば良い音が出るように、情も掛けっぱなしのものが良く、人に感謝を教えるものだろう。”かけた情けは水に流せ 受けた恩は石に刻め”は、長野県の善光寺に有る石碑に刻まれているもので、情けをかけても恩着せをせず、相手は忘れられないものでも自分は水に流して忘れている方が良いものだろう。自分が逆に恩を受ければ心の奥の魂に刻み込んで、その感謝の気持ちは一生忘れてはいけないものだろう。受けた恩はお返しするものでなく、順送りのもので、頂いた人に返すのではなく後進に繋ぐもの、それが本当の恩返しなのだろう。 2014年6月9日 琢
2014年06月09日
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愛と権利愛が無ければ荒んだ道を歩む生きる権利は誰にも有るもの愛は与えっぱなしのもので人の道を左右する法は何処にも無い常識は学ぶもの知らなければ道を外す親といえども子の道を変えられず転ばぬ先の杖の助言は愛からで選んだ道を掘り進むところには愛の枠が横たわっている選ぶ権利は誰にも有るが道は険しいもので信念が無ければ前に進めず愛が信念を確かなものにする束縛や繋縛は強すぎれば人を拘束してがんじがらめにしてしまうものの、程好い縛りは愛を感じるもので、無ければ人を不安にさせてしまう。親の愛はともすれば自分の勝手な期待と願いのために子供の個性を伸ばすことをさせず、自分の欲望のままに繋縛で育てようとしてしまう。愛と権利を思えば、愛が無ければ荒んだ道を歩むことも多く、生きる権利は誰にも有るものの、愛は与えっぱなしのもので、人の道を閉ざす権利は何処にもないだろう。常識は学ぶ智慧で、知らなければ道を踏み外すことも多く、親といえども子の道を変えることは許されないと解っていても口を挟んでしまうものだろう。転ばぬ先の杖の助言は愛からのもので、選んだ道を掘り進むところには、その愛の枠が横たわっている。親の愛は虚しく悲しいもののようでも強権であっては成らず、道を選ぶ権利は子には充分に有るものだが道は険しいものだろう。自分に信念が無ければ主導権が無く、いつまで経っても独り立ちは出来ないだろう。子が親に成ったとき、孫ができるときには同じ愛に気が付くときが来るもので、愛が信念を確かなものにしていることが解ってくるだろう。果てしなく 険しく続く 天の道受容してなほ 見えぬ道のり 2014年6月8日 琢
2014年06月08日
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罰が当たる因果応報を感じるときその原因と成った素行を改め感情や思いを抑制する神仏は罰を与えないが罪を犯さないための持戒を要し悪因・悪業を断ち切ること日常の強い決意を固めておく人も自分も痛い目に遭えばそのパターンを避けようとする怒らず、恨まず、憎まずでいつも原因の自己検証をすること業・カルマを削ぎ落とし、引き剥がす決意で甘い心を捨てることだろう善行を積んで罪消しをすると言うが、自分の気付かないところで他に迷惑をかけているもので、知らないところで他を傷つけてしまっている場合も多いという。自分に苦を与えている人が失敗すれば、自業自得だとか因果応報だとか言うが、自分が無意識に与えている他への苦には全く気が付いていない場合が多い。善行を施せばその罪消しに成ると言われ、一日一膳とか神社仏閣にお参りに行ったりする風習が有る。因果応報を感じるときは、その原因になったと思われる自分の素行を改めて、無意識に動いてしまう感情や思いを抑制する必要を感じるだろう。神仏は罰を与えないといわれているが、罪を犯さないように厳しい戒めをもっておく必要がある。自分のもっている、よく問題をお越しがちな悪因・悪業を断ち切ることだが、これが出来なくて六道輪廻を繰り返すといわれ、相当の強い自覚が必要になる。除霊をしても一晩寝ればまた元に戻って自分で引き寄せてしまうもので、人に取り除いてもらうような甘いものではないことを肝に銘じて、その強い覚悟が必要だろう。人は痛い目に遭うほどそのパターンに入ることを避けようとするもので、『怒らず、恨まず、憎まず』で、いつも自己検証をして業・カルマの修正浄化、削ぎ落とし、引き剥がす決意を固めておくこと、甘い心を捨てることだろう。 2014年6月7日 琢
2014年06月07日
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末路を知って対決を避けるには相手の仏性に敬意を払うこと原点に戻ること愚かさを知ること目的が何かその本筋から逸脱しないこと求めるもの以外にとらわれず見なかったことにして忘れるよく自分を知っておくこと樹木の幹と枝と葉養分は地中の根から年輪を観ればすべてが見えるよくその仕組みを知っておくこと自然は人の心を癒してくれるもので、そこに学ぶものは多い。樹木を見れば、幹と枝と葉が全体を覆っていて地中では根を広く張っている。葉は太陽光を受け入れ、広く張った根から地中の養分と水を吸い上げている。風や嵐の外界からの影響は年輪を見ればいつどんなことが有ったのかのすべてが解る。よくその仕組みを知っておくことで人の有り方の共通点に気がつくことも智慧の一部に成る。風や嵐になる部分は、社会での人々との摩擦で、思い思いに歩む人との摩擦は必然のもので、その摩擦を如何に少なくできるかが人生勉強にも成っている。経験を積むほど対決したときの末路が観えて来るもので、それを避けるには、先ず相手の仏性に敬意を払うこと、自分は何をしようとしていたかの原点に戻すこと、自分の愚かさを知ること、たとえ勝ったとしても気まずいものが残ってしまうことを知ること、そのときの目的が何か、その本筋から逸脱しないこと、求めるもの以外にとらわれることなく、心に引っ掛かることが有っても見なかったことにして忘れるようにすることだろう。傾向と対策は必須のものだが、相手のものよりも自分の傾向を良く知っておくことが最も大切なことで、すべての摩擦の原因をつくっているのは自分の場合が多いこと、その結果を観て自己検証した上で、その必然の原因を修正浄化して置くことから摩擦が少なくなってゆくのだろう。人の皺は年輪のようなもので、顔を観ればどういう苦労を超えてきた結果の表情かが見えて来る。 2014年6月6日 琢
2014年06月06日
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出家であろうと在家であろうと願うところは同じ苦を受け止めて安定を目指す道他を慈しみ愛するところに光が満ちてくる思いやりは他の立場に立って二見を滅するとき六無為を超えたそのままの『空』の中に十二縁起のままに必然の道が見えて来る転生の意味を知り業・カルマを浄化して六道輪廻を脱却する最終使命は光、照らしだろう人は自分の偏行【作意、触、受、想、思】の中から気が付く別境【欲界、勝解、念、定、慧】からこの世の生き方をわきまえてゆく。魂の意識の蔵に持ってきている前世からの願い、約束を思い出せず、生まれてきた意味を喪失して無知からこの世の人生を歩み始めるのだろう。出家であろうと在家であろうと、苦・試練を思い出すための呼びかけと捉え、受け止めてすっきりしなかった心の安定を目指す道を歩んでいる。他を慈しみ愛するところに菩提心が芽生えて光が満ちて来る。思いやりは相手の立場に立って、二見【勝った負けた、損得、プラスマイナスのとらわれ】を滅するとき、『空』【定義付けるものではないがしいて言えば、虚空滅無為、不動滅無為、釈滅無為、非釈滅無為、想受滅無為、真如滅無為の状態で、第三の目が開いたかとか、不動心が有るかとか、わかっているかどうかとか、ちゃんと八正道で受け止めているかとか、悟ったかとかに全くとらわれていない状態】の状態で、十二縁起【無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死】のままに、転生の意味を知ること、業・カルマの浄化をして初期化することで、六道輪廻を脱却することができる。最終使命は光、照らしだろう。かたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろくこれが般若心経・空のこころなり 奈良薬師寺 2014年6月5日 琢
2014年06月05日
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一族に坊さんが出れば五代救われる道を求め、極めて得るものその背中を観て伝わってくるもの他を導くこと、祈ること徳積みをしてくれるからか神仏のご加護の及ぶところ少なからずその恩恵を賜っている他に奉仕する布施を積めば持戒は当然の如く羅網の精進をして煩悩を滅するところに他の救済が有るその自覚が光と安定になる永い歴史に共通して言えることは、民は心の安定を願っているということで、人心の乱れを調和させるものが宗教だったのだろう。宗教で心の中に抱くものが神仏で、その中心は太陽系宇宙では太陽信仰だった。一神教と多神教が有って、キリスト教、イスラム教は一神教、ヒンドウ教は多神教で、仏教はどちらかと言えば多神教といわれ、四大宗教といわれている。日本では神道だったが、仏教伝来、聖徳太子以来、仏法僧と言って、神を崇拝しながら仏に法を学ぶことを推奨してきて以来、神道と仏教が上手く溶けこんだ文化が発展している。一族に坊さんが出れば五代救われると言われ、その功徳は末代まで伝わって、その恩恵を賜るからだろう。道を求め、極めて得るもの、その背中を観て伝わってくるもの、他を導くこと、祈ること、経文には絶大な力が有って、人々を救済することになる。徳積みをしてくれるからか、神仏のご加護の及ぶところなのか、少なからずの恩恵を賜っているのだろう。他に奉仕する布施を積めば、持戒は当然の如く理性を引き出して、天に張り巡らされた羅網の一つの網の目として、自分の役を果たす精進をして、煩悩を滅するところに、他の救済が有るのだろう。その自覚が光と心の安定になるのだろう。 2014年6月4日 琢
2014年06月04日
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世の中、人間関係、思考も羅網だがだからこそ伝えるのは難しいすべての体験、哲学が違うから共有するもの同士が集まり違う共有とは相容れない理解し包容することで妥協点を見付け出すそこに和が生まれ一つのことに響働できれば自分の役割が見えて来る幅広い交友の中に良き縁と絆が結ばれ一人では出来ない力を出すことができる羅網は天が張り巡らした天工のもので、宇宙大自然、そのなかに共生するすべてのものに相関関係が有るもので、良きにつけ悪しきにつけ周りにかかる影響は大きい。この世の中、人の関係も思考、思想も羅網の中のもので、だからこそ伝えることが難しい。すべての体験や哲学が三つの『ち』【血筋、土地柄、時代の知識】や思想、宗教によって違うからだろう。共有するもの同士が集まり、違う共有とは相容れないところが有る。地続きであれば、隣同士でも国境や地名が違う場合も有って、熾烈な生命線に成っている場合も多いだろう。人間として原点に戻って理解し合い、包容し合うことから妥協点を見付け出してはじめてそこに和が生まれ、もし一つのことに響働することが出来れば、自分の人間としての役割が観えて来る歓びも有るだろう。幅広い交友はその人の人脈に成っていて、その一つ一つを横につなげることから良き縁と絆が結ばれることになる。人には無限の力と何か一つのことに集中すれば無限のエネルギーを出すことができるが、絆を強く結んだものの多くが自己ベストを尽くすことに成れば、一人では出せない大きな力に成って、世の中、その地、その国でさえ変えてしまう巨大な力が湧き出してくるだろう。初期化して今までの自分を変えることで、万能細胞のように、拒絶反応を起こさない誰にも合う自分に成って、何をつくり出すかが問題で、大志を抱くことから、この世の羅網に大きな相乗効果を生み出すことが出来れば最高だろう。 2014年6月3日 琢
2014年06月03日
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自然淘汰は人の意思ではなく自然の摂理で日頃の心掛けの真価が問われる世の役に立つものが残され不要なものは消え去る永いスパンで残ろうとすれば流れに合う努力を要する思い付きでなく無私、利他の精神で全体を見渡していること誠意が有れば何かが観えて来る四弘誓願を実践すること自然淘汰は、不要なものは淘汰される、食べるものが無くなれば消えてゆく、何もする意志を持たなければ不要なものは存在できなくなる、存在価値が無くなれば消え去ってゆく、ということに成る。自然界での生存競争は厳しいもので、気力が無ければ生命力も減退して消えてゆくしかないだろう。誰の意思でもなく、自然の摂理で、人の存在価値も、日頃の心がけの真価が問われているのだろう。世の役に立つものが残され、不要なものは消え去ってゆく。永いスパンで残りたいと思えば、流れに合う努力を要するもので、一時の思い付きでなく、無私、利他の精神で精進しながら必死に生きようとする強い意志が必要だろう。惰性ではなく危機感をもってあらゆる努力を積み重ねながら、自分の歩み、人生の全体を見渡していること、そこに愛と誠意・菩提心が有れば何かが観えて来て、自分の生まれた意味や、何をする使命を持って来たのか、悔いの残らない自覚した生き方が観えて来るだろう。四弘誓願・しぐせいがんの実践、人を救済すること、煩悩を滅すること、学びを網羅すること、成仏することを念頭に置いて、生き残るために八正道【正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定】で自分を律しきること。自然は優しくも厳格なもので、その摂理に学ぶことは多いだろう。やるかやらないかの選択も自分の意思で、どんな生き方を選ぶかはすべて自分にかかっていて人のせいにはできず、どう生きるかの信念が必要で、自分の道は自分の足で歩くことが必須のことだろう。 2014年6月2日 琢
2014年06月02日
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イライラ、もやもやするときは短気を起こさず心を広くして感情に流されないこと見える部分は狭くその決断で後悔が多い理性的な戒めを前面に出して相手のことを考える身をちじめて小さな自分に成れば観えて来るものが有る時には屈辱感も溜めることで次の力になる耐え忍ぶことは力に成っている細かい失敗はたくさん有るもので、人の我慢で成り立ってきた自分を思い出すことも大切なことだろう。結構許してもらって来ているもので、苦笑することも有るが、それも恩恵の一つだろう。記憶に残っている後悔は、視野が狭く、短気を起こした結果が多く、時と共に許されてきたものも有るだろう。短気は損気と言うが、何の徳にもならない場合が多い。人の心は毎日違うもので、天候に左右されやすく、体調にも関係が有って、理由も意味もわからず、何故かイライラ、もやもやするときは要注意だろう。ちょっとした感情の動きで吐く言葉や行為には相手を傷つけている場合が多く、感じ、受け止め、考え、行為の結果をよく思い出して、何処でストップをかければ良かったかの止観をすることで、自分を変えることができる。短気を起こさず、心を広くして『かたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろく』に努め、感情に流されているときは見える部分が狭く、その決断で後悔が多いと自分に言い聞かせること。理性的な戒めを前面に出して、相手の立場や状態を察してみることも必要で、身をちじめて小さな自分に成ることができれば、観えて来るものも有るだろう。時には屈辱感も、溜めることで次の力に成っているもので、忍辱・にんにく・耐え忍ぶことが大きな力に成って、自分では思いもよらない大きなことができるときも有るだろう。耐え忍ぶことで、もっと苦しい立場にある人の心を察することも出来て、人の心の癒しができれば、これまでにギクシャクしていた関係の知人とも和解することができるように成れるかも知れない。 2014年6月1日 琢
2014年06月01日
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