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19、藩財政再建に藩主次々謎の死に疑念「竹鉄砲事件」
「竹鉄砲事件」 (たけでっぽうじけん)は、八代藩主 頼央 が鉄砲により暗殺された事件である。別名、 御手判銀事件 とも呼ばれる。元々相良家の記録にはなく、秘匿されていた事件であるが、 渋谷季五郎 が相良家近世文書を整理中に偶然発見し判明した。
発端は七代 頼峯 の 宝暦 五 年(1755)に領内を襲った大水害である。藩は当時すでに財政が逼迫していたが、この大水害により藩士の生活は壊滅的な打撃を受けた。翌宝暦六年(1756)、藩士救済策として、家老・万江長右衛門らの大衆議派が希望者に対し御手判銀の貸し付けの触れを出した。
しかしこの貸付は、その借り高に応じて家禄を渡す分を差し引くというものであり、一〇〇石取り以上の上給者らは、その返済方式では実質的に知行の削減となり藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱え、門葉方に訴え出た。実際、上給者で借り受けを請う者は無く、万江ら一同は謹慎に及ぶ。
一方、相良頼母(後の頼央)ら門葉は、この一件を江戸の頼峯への報告する際、速やかに処分すべく万江を切腹にし、他の者を逼塞すべしとの密書を送っている(万江らは処分されず、謹慎も解かれた模様)。宝暦七年(1757)、藩主・頼峯は、帰国に際して従前どおり門葉(実は弟)の相良頼母を仮養子にしようとした。
頼母は門葉の中心的人物であったため、家老・万江らはこれに反対し、連判状を提出するにいたった。しかし頼峯は、強硬な反対を押し切って頼母を仮養子として帰国した。ところが、頼峯を毒殺し頼母の擁立を企てがあるという遺書を残して、藩医・右田立哲が自殺するという事件が起こった。
頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰した。宝暦八年(1758)、頼峯は江戸参府の途上発病し、江戸到着後死去した。死去により頼母が出府し、八代藩主・頼央となった。翌宝暦九年(1759)6月に帰国した頼央は、その二ヶ月後に急死する。
相良家の記録では、五月に体調を崩し薩摩瀬の別邸で療養していたが、病状が悪化し死亡したとされている。しかし言い伝えによれば、薩摩瀬の別邸に滞在中の七月、鉄砲により狙撃され八月に至り死亡したという。
藩は、銃声を子供の竹鉄砲(爆竹)であると誤魔化し、調査を求める訴えを取り上げなかったという。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主の抹殺を謀ったものと言われている。
また、これにより藩主相良家の血統は断絶し、以後約十年間、他家から 晃長 、 頼完 、 福将 、 長寛 の4人を相次いで継嗣に迎え入れるという不安定な家督相続を続け(内密の藩主すり替えも行っている)、なんとかお家断絶の危機を切り抜けていった。
* 相良 頼峯 (さがら よりみね)は、 肥後 人吉藩 の第七代 藩主 。享保二〇年(1735)九月二九日(異説として享保一八年(1733))、第六代藩主・ 相良長在 の長男として生まれる。
元文3年(1738)の父の死去により跡を継いだ。しかし幼少であることから、幕府より領地を削減されることを恐れた家臣団が、頼峯の生年を2年ほど改竄したと言われている。 享保の飢饉 による被害で藩財政難に苦しみ、倹約令を出す。しかし効果はなく、 宝暦 五 年(1755)に藩内を大洪水が襲って大被害を受けた。
翌宝暦六年(1756)八月に頼峯が江戸に出府しているとき、家老(大衆議派)の 万江長右衛門 ら五人は藩の財政難解決のために、困窮する藩士に藩の銀を貸し出し、返済方法は藩士の知行から年賦払いにするという改革案を提示する。
だがこれは、銀を借りる肩代りとして返済が済むまで家禄を差し出させねばならず、これでは一層貧困に苦しむとして藩士らは反対する。藩士らは、これは家老らの提案であるから家老らに訴え出ても無駄であると、門葉(相良一族で小衆議派)である 相良織部頼真 、相良頼母(後の 相良頼央 )らに訴え出たことから、家老と門葉による対立が起こった。
これに対して、頼峯ははじめ門葉を支持し、さらに自分に継嗣が無かったことから、頼母を自らの養子として迎えるまでにいたった。養子縁組に対して家老一派は反対したが、頼峯は押し切った。ところが藩医の 右田立哲 なる者が門葉一派の指示を受けて頼峯を毒殺しようとする陰謀が発覚する。
この事件で右田は自殺し門葉一派も処分された。宝暦八年(1758年)四月一二日に江戸参府の途上、発病し、江戸到着後に死去した。享年二四歳。この若さのため、一説に毒殺ともされている。跡を養子の頼央(頼母)が継いだ。