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2・竹鉄砲事件
* 相良 晃長 (さがら みつなが)は、 肥後 人吉藩 の藩主。第8代藩主 相 良頼央 の養子として、 宝暦 九 年(1759)から宝暦一二年(1762)まで藩主の地位にあり、公式には第9代藩主とされる一人目の人物である(後述)。宝暦“二〇年(1752年)二月二〇日、 日向 高鍋藩 主・ 秋月種美 の三男として生まれる。
兄に有名な 出羽 米沢藩 主・ 上杉鷹山 (治憲)がいる。宝暦九年(1759)一二月一一日、頼央が暗殺されたため、 末期養子 に迎えられて家督を継いだ。相良家と秋月家の間には、領地が近いという関係の他、第六代人吉藩主 相良長在 の正室の寿昌院が秋月家出身(種美の姉で晃長の伯母)という縁もあった。
当初は兄の松三郎(鷹山)が養子に望まれていたが、すでに上杉家との養子縁組の交渉が進行中だったため、代わって弟の長次郎(晃長)が迎えられた。生来病弱であった晃長は、三年後の宝暦一二年(1762年)二月四日に早世した。享年一一歳。
この年齢で継嗣があるわけがなく、秋月家と同様に相良家の縁戚に当たる 大納言 ・ 鷲尾隆熙 の子を新たな藩主 相良頼完 として迎えた。しかし、頼完は晃長より年長で、さらに一七歳未満では 末期養子 は認められないことから、人吉藩では無嗣断絶による 改易 を恐れて、晃長の病状は回復し、その後に頼寛と改名したということにした。 つまり、幕府には晃長と頼寛を同一人物であるということにして処理し、さらに公式系譜も改竄した。
* 相良 頼完 (さがら よりさだ)は、 肥後 人吉藩 の藩主。公式には第九代藩主とされる二人目の人物である(後述)。寛延二年(1749年)、 羽林家 公家 の 大納言 鷲尾隆熙 ( 大炊御門経音 の次男)の次男として生まれた。
一度 大坂 の寺に預けられていたが、相良家の養子話が持ち上がった頃にたまた鷲尾家に戻されていた。 宝暦 一二 年(1762)に(本来の)第九代藩主 相良晃長 が死去する。 鷲尾家 と相良氏は縁戚関係に当たることから、その後釜として藩主に擁立され、人吉藩内において極秘のうちに宝暦一二年(1762年)一二月一五日に家督を継いだ。
姻戚とはいえ公家から後継者を選ぶことになったのには、極秘のうちに事を運ぶ必要があったが、他の大名家や旗本の子息では武家社会で顔が知られている、また露見すれば累が及ぶ危険があるといった事情や、 相良氏 が 藤原南家 の流れをくむという事情があった。
一〇歳で死去した晃長に 末期養子 を迎えるのは難しく(十七歳以下での末期養子は認められていなかった)、さらに頼完は晃長より3歳年長であり、幕府に認定されず無嗣断絶で 改易 になる可能性が高かった。それを恐れた藩の重臣たちが、幕府には晃長が全快して頼完と改名したと説明し、晃長と同一人物ということにされたので、公儀への記録では宝暦九年(1759)一二月一一日に家督を継いだことにされている。
明和二年(1765年)二月一五日、将軍 徳川家治 に 御目見 した。同年一二月一八日、従五位下近江守に叙任される。藩政においては 明和 期の天災により、藩財政難で苦しんだ。明和4年(1767年)一月一七日に死去した。享年一九歳。跡を養子の 福将 が継いだ。
* 相良 福将 (さがら とみもち)は、 肥後 人吉藩 の第一〇代藩主。寛延三年(1750年)六月一三日、 美濃 苗木藩 主・ 遠山友明 の次男として生まれる。初名は 友充 (ともみつ)。明和四年(1767)三月五日、(二人目の)第九代藩主・ 相良頼完 が死去した。
当初、相良家の重臣は幕府に 秋月種武 の弟・種穀との養子縁組を願った。しかし、 老中 松平武元 は、年齢の高いことや異姓であることを指摘して却下し、人吉藩主家の別の姻族か、武元の実弟 遠山友明 の次男・友充のどちらかを要請した。
相良家の姻族に他に適当な人材もないので、相良家の重臣は友充擁立案に同意し、友充を 末期養子 に迎えた。こうして、遠山友充改め相良福将(「福」は第四代藩主 頼福 の 偏諱 である)は、頼完の末期養子として家督を継いだ。
同年四月一五日、将軍 徳川家治 に 御目見 する。同年一二月一六日、従五位下越前守に叙任する。明和四年一月に、 米良山騒動 が起こって一八二人が処罰されるという事件が起きている。
藩政においては洪水や旱魃が相次ぎ、二万石の収入が一万四千石程度まで激減したと言われている。ただし学問には熱心で、後に 藩校 が創設される基礎を築いた。明和六年(1769年)一月十二日に死去した。享年二〇歳。若死にのため、一度もお国入りすることはなかった。跡を養子の 長寛 が継いだ。
3・竹鉄砲事件・