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2023年07月19日
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カテゴリ: 大名のお家騒動





2・竹鉄砲事件


相良 晃長 (さがら みつなが)は、 肥後 人吉藩 の藩主。第8代藩主 良頼央 の養子として、 宝暦 年(1759)から宝暦一二年(1762)まで藩主の地位にあり、公式には第9代藩主とされる一人目の人物である(後述)。宝暦“二〇年(1752年)二月二〇日、 日向 高鍋藩 主・ 秋月種美 の三男として生まれる。


兄に有名な 出羽 米沢藩 主・ 上杉鷹山 (治憲)がいる。宝暦九年(1759)一二月一一日、頼央が暗殺されたため、 末期養子 に迎えられて家督を継いだ。相良家と秋月家の間には、領地が近いという関係の他、第六代人吉藩主 相良長在 の正室の寿昌院が秋月家出身(種美の姉で晃長の伯母)という縁もあった。


当初は兄の松三郎(鷹山)が養子に望まれていたが、すでに上杉家との養子縁組の交渉が進行中だったため、代わって弟の長次郎(晃長)が迎えられた。生来病弱であった晃長は、三年後の宝暦一二年(1762年)二月四日に早世した。享年一一歳。


この年齢で継嗣があるわけがなく、秋月家と同様に相良家の縁戚に当たる 大納言 鷲尾隆熙 の子を新たな藩主 相良頼完 として迎えた。しかし、頼完は晃長より年長で、さらに一七歳未満では 末期養子 は認められないことから、人吉藩では無嗣断絶による 改易 を恐れて、晃長の病状は回復し、その後に頼寛と改名したということにした。 つまり、幕府には晃長と頼寛を同一人物であるということにして処理し、さらに公式系譜も改竄した。



相良 頼完 (さがら よりさだ)は、 肥後 人吉藩 の藩主。公式には第九代藩主とされる二人目の人物である(後述)。寛延二年(1749年)、 羽林家 公家 大納言 鷲尾隆熙 大炊御門経音 の次男)の次男として生まれた。


一度 大坂 の寺に預けられていたが、相良家の養子話が持ち上がった頃にたまた鷲尾家に戻されていた。 宝暦 一二 年(1762)に(本来の)第九代藩主 相良晃長 が死去する。 鷲尾家 と相良氏は縁戚関係に当たることから、その後釜として藩主に擁立され、人吉藩内において極秘のうちに宝暦一二年(1762年)一二月一五日に家督を継いだ。


姻戚とはいえ公家から後継者を選ぶことになったのには、極秘のうちに事を運ぶ必要があったが、他の大名家や旗本の子息では武家社会で顔が知られている、また露見すれば累が及ぶ危険があるといった事情や、 相良氏 藤原南家 の流れをくむという事情があった。


一〇歳で死去した晃長に 末期養子 を迎えるのは難しく(十七歳以下での末期養子は認められていなかった)、さらに頼完は晃長より3歳年長であり、幕府に認定されず無嗣断絶で 改易 になる可能性が高かった。それを恐れた藩の重臣たちが、幕府には晃長が全快して頼完と改名したと説明し、晃長と同一人物ということにされたので、公儀への記録では宝暦九年(1759)一二月一一日に家督を継いだことにされている。


明和二年(1765年)二月一五日、将軍 徳川家治 御目見 した。同年一二月一八日、従五位下近江守に叙任される。藩政においては 明和 期の天災により、藩財政難で苦しんだ。明和4年(1767年)一月一七日に死去した。享年一九歳。跡を養子の 福将 が継いだ。



相良 福将 (さがら とみもち)は、 肥後 人吉藩 の第一〇代藩主。寛延三年(1750年)六月一三日、 美濃 苗木藩 主・ 遠山友明 の次男として生まれる。初名は 友充 (ともみつ)。明和四年(1767)三月五日、(二人目の)第九代藩主・ 相良頼完 が死去した。


当初、相良家の重臣は幕府に 秋月種武 の弟・種穀との養子縁組を願った。しかし、 老中 松平武元 は、年齢の高いことや異姓であることを指摘して却下し、人吉藩主家の別の姻族か、武元の実弟 遠山友明 の次男・友充のどちらかを要請した。


相良家の姻族に他に適当な人材もないので、相良家の重臣は友充擁立案に同意し、友充を 末期養子 に迎えた。こうして、遠山友充改め相良福将(「福」は第四代藩主 頼福 偏諱 である)は、頼完の末期養子として家督を継いだ。


同年四月一五日、将軍 徳川家治 御目見 する。同年一二月一六日、従五位下越前守に叙任する。明和四年一月に、 米良山騒動 が起こって一八二人が処罰されるという事件が起きている。


藩政においては洪水や旱魃が相次ぎ、二万石の収入が一万四千石程度まで激減したと言われている。ただし学問には熱心で、後に 藩校 が創設される基礎を築いた。明和六年(1769年)一月十二日に死去した。享年二〇歳。若死にのため、一度もお国入りすることはなかった。跡を養子の 長寛 が継いだ。


3・竹鉄砲事件・






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最終更新日  2023年07月19日 14時35分02秒
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