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2023年08月10日
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カテゴリ: 戊辰戦争の群臣





9、「薩土盟約」


薩土盟約 (さつどめいやく)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬まで結ばれていた、薩摩藩と土佐藩の間の政治的提携である。 薩土提携 などともいう。


幕府崩壊寸前の時期になおも政局を主導する15代将軍徳川慶喜と、倒幕路線をとり始めた薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政奉還・王政復古を通じて、平和的手段で公議政体へ移行すべく提起した連携案に薩摩藩が同調したものであるが、両藩の思惑の違いにより実行に移されることなく2か月半で解消された。


以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。


徳川慶喜


Ø 慶応2年(1866年)末に新将軍に就任した慶喜にとって喫緊の課題は、第二次長州征伐の敗戦に伴う幕府の権威低下の回復と、諸外国との間で約束した開港時期(西暦1868年1月1日は和暦で慶応3年12月7日にあたる)が間近に迫る兵庫開港問題であった。


Ø 薩摩藩はこれらの問題の解決を雄藩諸侯の合議で決すべく、小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らが、有力諸侯として知られた伊達宗城(前宇和島藩主)・山内豊信(容堂)(前土佐藩主)・松平慶永(春嶽)(前越前藩主)に働きかけ、これら諸侯を朝廷の名の下に京都に呼び寄せ、島津久光(薩摩藩主島津忠義の父)とともに慶応3年5月、四侯会議として招集させることに成功した。


Ø しかし四侯会議は、慶喜の巧みな政局操作と両問題の討議順にこだわる些末な議論に終始したために無力化する。かえって慶喜の主導により5月23日の徹夜の朝議で長州処分問題・兵庫開港問題の勅許が下されることとなり、慶喜の政治力を見せつける結果となったため、久光は大いに不満を抱いた。一方、山内容堂は早くも四侯会議の途中で見切りをつけており、5月22日には帰国願いを提出、27日には京都を断って帰国していた。


薩摩藩の倒幕路線



島津久光


四侯会議の失敗は、将軍徳川慶喜の存在を前提としながらも、諸侯会議を中心に据えて幕府体制を変革しようとしていた薩摩藩(島津久光)の従来の方針に大いに変更を加えるきっかけとなった。


ここから薩摩藩が前年初頭に締結された薩長同盟による長州藩との連携に基づき、慶喜の将軍職剥奪および慶喜を中心とした一会桑権力の打破、さらに最終的には幕府の倒壊までを見据えた武力倒幕路線が登場する。


早くも四侯会議崩壊直後の5月25日に京都薩摩藩邸で行われた重臣会議で、幕府との武力対決路線が確認されている(ただし、この時期の薩摩藩の武力行使対象に江戸の幕府組織そのものまで考えていたかどうかについては諸説分かれる。脚注 [2] も参照)。


6 月初め、大久保は鹿児島へ藩主島津忠義および一大隊の上京を求めた。当時、京都の大 久保寓居には、同盟中の長州藩士品川弥二郎が政情視察のため居候していたが、そこへ同藩の山県有朋が密かに上京してきたのを受け、6月16日久光は山県・品川を引見し、近日中に西郷隆盛を山口へ派遣する予定であることを告げ、山県に6連発のピストルを下賜。


さらに両名に先に山口に帰国して両藩が「連合同心戮力して大義を天下に鳴らさん」との方針を長州藩首脳部へ伝えるように依頼した(結果的に薩土盟約の成立によって西郷派遣は中止となり、山県は藩内で面目を失うことになり、一時期奇兵隊本営のあった吉田に引きこもることになる)。


土佐藩の大政奉還路線



中岡慎太郎


土佐藩から四侯会議に参加していた前藩主山内容堂は、早くからこの会議に見切りをつけ、5月27日には出京して帰国の途についたが、それ以前に政局の打開を意図して長崎にいた腹心の後藤象二郎を京都へ呼び寄せていた。


この頃、土佐藩の中でも武力討幕派の乾(板垣)退助と谷干城らは、土佐脱藩中の中岡慎太郎(変名 : 石川清之助)の仲介によって、5月21日は京都の小松清廉邸にて、西郷隆盛、吉井友実らと 薩土討幕の密約(薩土密約) を交わした。


ただし、当時は山内容堂が、徳川恩顧の立場から公武合体・佐幕路線を模索していたため、西郷と乾らのとの間で独断で約束され、翌日、5月22日報告を受けた山内容堂が事後承認する形で締結された。


一方、後藤象二郎は、慶応3年正月に同藩脱藩の浪士坂本龍馬と長崎で会談し、坂本から大政奉還論を聞いて共感していた。後藤は容堂の呼び出しを受けると、坂本を伴って6月9日に土佐藩船夕顔号で長崎を出発。この上京の途中、坂本が後藤に今後の政局の方針を説いたいわゆる「船中八策」を献策したとされる。6月12日後藤・坂本は大坂に到着、翌日には入京するが、すでに容堂は帰国後であった。



Ø 薩土盟約の締結






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最終更新日  2023年08月10日 14時34分31秒
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