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2023年08月11日
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カテゴリ: 戊辰戦争の群臣






坂本龍馬


6月13日後藤は入京すると容堂の意を体して、17日京都藩邸にて今後の方策に関する「大条理」(すなわち大政奉還論)を在京藩首脳である寺村道成(左膳)、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟(藤次)の3人に説き、賛同を得る。


同日、後藤は伊達宗城にも内意を伝えたが、宗城は大政奉還論は時期尚早として難色を示し、後藤の意を小松・西郷に伝えた。その前日、上述のごとく長州藩の品川・山県に武力倒幕の決意を伝えていた薩摩藩では、この後藤の動きに関心を抱き、いっぽう土佐側でも薩摩藩の倒幕への動きは中井弘を通じて後藤・寺村に情報がもたらされており、薩摩側との交渉を急いでいた。


この両者の思惑の一致により、薩摩・土佐両藩での話し合いの場が持たれることになる。


6月22日、三本木の料亭で薩摩藩から小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐藩から後藤象二郎・寺村左膳・真辺栄三郎・福岡孝弟の両藩首脳が会合し、それに「浪人の巨魁」として坂本龍馬・中岡慎太郎が陪席した。


この席において後藤の大条理 = 大政奉還論を薩摩側の出席者が了解し、その方針に沿って盟約を結ぶことが決定した。


すなわち議会政治の採用による新政の開始への手段として大政奉還による王政復古を採択し、武力倒幕を原則回避する方針となったのである。一般的にはこの日をもって薩土盟約の成立とする。


翌23日、後藤・寺村・真辺・福岡のほか、佐々木高行・由比猪内が加わって前日の協議内容を確認。翌日には後藤・寺村・真辺の人が帰国して容堂および藩主豊範と相談すること、福岡が京都にとどまることが決まった。26日寺村は盟約内容のメモを西郷へ提出。28日には在京中の芸州藩重臣辻将曹と寺村・佐々木が会談し、建白について辻の同意を得ていた。


島津久光も鹿児島の藩主茂久に宛てた手紙でこの約定書と大条理旨主を同封し、この策が成功すれば皇国挽回の基本となると記しており、土佐との盟約を承認していた。7月1日には正式に薩摩側から寺村の約定書について「趣旨甚だ御同意の旨」の回答があり、翌2日薩摩藩の招待で宴席が設けられて結束を確認した [17] (ただし西郷は病欠)。


7月3日後藤 ・寺村・真辺の3人は高知へ帰国するため京都を出発。帰京は10日後の予定であったが、後述のごとく、実際には 2 月後となる。


盟約の内容



後藤象二郎


史料としての薩土盟約書は、会談の参加者であった大久保利通自筆の原本が鹿児島県歴史資料センター黎明館玉里島津家史料に残されているほか、上記寺村が西郷へ確認のために提出した書取の写しが、西郷から長州藩の山県・品川を通じて木戸孝允の手に渡り、木戸が清書したものを杉孫七郎が影写した文書が残っており、盟約の詳細を知ることができる。


玉里島津家史料の薩土盟約書には、後藤の主張する大条理の主旨を簡潔に4箇条に要約した大綱と、それを敷衍して具体的な盟約内容に踏み込んだ約定書の2通の文書が存在する。約定書ではまず前文で、国体制度(王政復古)の回復、および大条理すなわち王政復古・大政奉還の上、諸侯会議を興すことが急務であると主張し、それを受けてより詳細に具体的な盟約内容に触れた7箇条を記した約定書から成っている。


明治27年(1894年)の勝田孫弥『西郷隆盛伝』以来、この大綱(大条理主旨)と約定書の2つの文書のセットが「薩土盟約書」と呼ばれ、通説とされてきたが、青山忠正は両文書に同様の文言の繰り返しが多いことなどから、本来この2文書は2点 1 組の文書なのではなく、大綱の方は6月22日の両藩会談の際に土佐側が用意していた議題(アジェンダ)文書であり、約定書の方はその会談の結果を踏まえて26日に寺村から西郷に送られた盟約正本であると主張 [18] 、佐々木克も同様の意見を述べている。


長州側の史料である上記木戸書写の文書では、前者の大綱部分が無く、後者の約定書にあたる部分のみであり、2点 1 組であったならば木戸が後者のみを書写するのは不自然であることも、この推測を裏付けるものとなっている。


約定書の内容は以下の7箇条から成る。


大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきである。


議事院は諸藩の費用供出で成り立つ。


上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選挙し、諸侯も職掌によって上院に充てる。


将軍職は執政の最高官ではないので、徳川慶喜は職を辞して諸侯の列に戻り、政権を朝廷に帰するべきである。


諸外国との条約は兵庫港(神戸)で新たに外務大臣が交渉し、新条約を制定して通商を行う。


律令以来弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球上に恥じない国体を建てる。


皇国復興の議事に当たる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うべきである。


重要なのは前半の第1~4条であり、王政復古の大条理の為に幕府に建言して速やかに大政を朝廷に奉還させ、幕府(将軍職)ではなく朝廷が執政を行い、国家の意思は議事堂で決定されるという、新たな国家体制を提示した約定となっている。中でも四侯会議で煮え湯を飲まされた薩摩にとっては、第4条にある慶喜の将軍職辞任は必須の条件であった。また注目すべきは第6条で朝廷の変革をも要請しており、摂政・関白などの古来からの制度の廃止を想定したもので、後の王政復古の大号令における「摂関幕府等」の廃止につながるものであった。






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最終更新日  2023年08月11日 10時28分09秒
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