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1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。
1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。
貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。
並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。
また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。
1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される。
日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高価を理由に拒否される。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。
1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。
同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。
バイエルン国王のルートヴィヒ 2 世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く [11] 。再度日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地にある。
年表
1796年2月17日 - 神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれる
1805年 - ハイディングフェルトに移住
1810年 - ヴュルツブルクの高校に入学
1815年 - ヴュルツブルク大学の哲学科に入学。家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことに
1816年 - バイエルン王国の貴族階級に登録
1820年 - 大学卒業。国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業
1822年 - ゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命
1822年 - オランダのハーグに赴く
1822年7月 - オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる
1822年9月 - ロッテルダムから出航
1823年3月 - バタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任
1823年6月末 - バタヴィアを出航
1823年8月 - 来日
1824年 - 鳴滝塾を開設
1825年 - 出島に植物園を作る
1826年4月 - 第162回目のオランダ商館長(カピタン)江戸参府に随行
1827年 - 楠本滝との間に娘・楠本イネをにもうける
1828年 - シーボルト事件
1830年 - オランダに帰国
1831年 - オランダのウィレム 1 世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる
1 831年 - 蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託される
1832年 - ライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設
1832年 - バイエルン王国・ルートヴィヒ1世からバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る
1832年 - オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全 7 巻の『日本』刊行開始
1844年 - オランダ国王ウィレム2世の親書を起草
1853年 - アメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請
1857年 - ロシア皇帝ニコライ 1 世に招かれ、書簡を起草
1845年 - ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。 3 男 2 女をもうける。
1854年 - 日本開国
1858年 - 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除
1859年 - オランダ貿易会社顧問として再来日
1861年 - 対外交渉のための幕府顧問に
1862年5月 - 多数の収集品とともに長崎から帰国する。
1863年 - オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進
1863年 - オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される
1863年 - 日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示
1864年 - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰る。
1864年5月 - パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力
1864年 - ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催
1866年 - ミュンヘンで「日本博物館」を開催
1866年10月18日 - ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去
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