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2024年06月28日
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カテゴリ: 戦国





12「小谷城の戦いで浅井家滅亡


天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を始めた。撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、そのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、取って返して全軍を浅井氏に向けた。


浅井軍は、信長の軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が、織田軍に囲まれる。


信長は不破光治( 同盟の際の使者 )、さらに木下秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。


8月27日父の久政が自害。『信長記』には翌28日に長政は小谷城内赤尾屋敷にて自害したとされるが、29日に出された長政の片桐直貞に対する感状が発見され、命日は9月1日であることが判明した。


この感状において長政は、同年7月末に信長主導で行われた改元後の元号「天正」ではなく、足利義昭が主導して改元された前の元号「元亀」を使用している。これを信長に対する抵抗の意と解釈する説がある。


ただし改元の同時期に浅井勢は既に小谷城に籠城しており、外界の情勢に疎かっただけとも考えられる。


小谷城の戦い (おだにじょうのたたかい)は、天正元年(1573年)8月8日から9月1日まで織田信長と浅井長政との間で行なわれた戦国時代の戦いである。


元亀元年(1570年)4月、尾張の織田信長・越前の朝倉義景と同盟関係を結んでいた北近江の浅井長政は、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交した( 金ヶ崎の戦い )。


同年6月28日には朝倉氏と連合して、信長と徳川家康の連合軍を迎えるも敗北( 姉川の戦い )。直後に浅井氏は本拠・小谷城の南方拠点である横山城を奪われ、木下秀吉が守将として浅井氏の監視役に置かれた。


それでも浅井氏は信長への抵抗を続け、9月に信長が三好三人衆を討伐せんと摂津に出兵(野田城・福島城の戦い)した隙を突いて再び朝倉と蜂起し(志賀の陣)、一矢報いた。


この時期から室町幕府15代将軍足利義昭の呼びかけに応じた石山本願寺らも織田氏を攻撃し始めた( 信長包囲網 )。


しかし近江では、孤立した佐和山城主の磯野員昌や宮部継潤が織田家に降伏。小谷城近辺の町が毎年放火・刈田狼藉を受けるなど、浅井氏は苦境に陥っていった。


元亀3年(1572年)7月、5万の大軍を率いた信長は小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から横山城まで長大な要害を作り始めた。これを見た浅井氏は、朝倉氏に「河内・長島で一向一揆が起き、尾張と美濃の間の道をふさいだので、朝倉殿が出馬なされば尾張・美濃勢をことごとく討ち果たせるでしょう」と虚報を伝えて援軍を求め、越前からも朝倉軍(義景の1万5000、朝倉景鏡の5000)が救援に駆けつけた。


これと同時期に西上作戦を発動させた甲斐の武田信玄が信長・家康の領国へ侵攻した。


しかし義景はほとんど攻勢に出ず、むしろ朝倉勢から前波吉継父子、富田長繁・戸田与次・毛屋猪介が織田方に寝返る始末で、織田方の要害が完成してしまった。信長は志賀の陣に引き続き、「日を決めて決戦に及ぼう」と義景に申し入れたが、やはり義景は動かなかった。9月16日、信長は木下秀吉を虎御前山砦に残して横山城に兵を引いた。


11月3日に浅井・朝倉勢はやっと動き、要害に攻撃を仕掛けてきたが木下秀吉に撃退され、12月3日に朝倉勢は越前へ撤兵してしまう。武田軍も信玄の体調が悪化したために甲斐に撤退をはじめ、その途中、翌元亀4年(1573年)4月に信玄が病没。朝倉軍引き上げから翌年2月までの信長の動向は良く判っていないが、おそらく美濃で武田氏を迎撃する準備をしていたと思われる。なお、自分の死を3年間は隠せ」との信玄の遺命に従った武田家では、同年内の織田・徳川への本格的な再攻をすることは無かった。



戦闘の経過


小谷城籠城・朝倉氏滅亡


元亀4年3月、信長包囲網の盟主・足利義昭が槇島城で挙兵。信長は和睦を申し出るが義昭は拒絶、4月に一度は和睦したが、7月に義昭が再挙兵すると戦闘に及び義昭を降伏させ、7月20日に義昭を放逐し( 槇島城の戦い )、28日には元亀から天正に改元させた。


更に8月8日、浅井家重臣の山本山城主阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始、虎御前山の砦に本陣を布いた。


織田軍は背後に朝倉氏が控えていた事もあり無理に力攻めはしなかった。一方、浅井長政は居城の小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ、小谷城の孤立は益々強まっていく。


浅井氏は朝倉氏への援軍要請しか手段が無く、その朝倉氏は朝倉家家中の一部から上がった反対の意見を押し切り、義景自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。






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最終更新日  2024年06月28日 08時57分51秒
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