歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

コメント新着

日本真空管大全の著者@ Re:「戦後日本の回想・30年」トランジスターラジオ発売。    川村一彦(02/18) 大変面白く拝読させていただきました。 な…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2024年06月21日
XML
カテゴリ: 戦国




この報を受け、事態の重大さを再認識した信長は、自ら三人衆を討ち獲るべく、
馬廻り 衆三千騎を引き連れて岐阜城を 二十日 に出立。 二十一日 には 横山城 二十二日 には長光寺に、 二三日 本能寺 に到着した。


 『 言継卿記 』によると京都にいた時の織田軍は四万まで膨れ上がったようである。その後、京都を 二五日 に出立、枚方を経由して翌二十六日には野田城・福島城から南東五キロの 天王寺 に着陣した。


 これに対し三人衆軍も 三好康長 、安宅信康、 十河存保 斎藤龍興 等の阿波、 讃岐 淡路 からの援軍が到着し、この時の総数を『 信長公記 』によると八千ほどとしている。


 織田軍の配陣は、本陣を天王寺に置き、天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に陣取り、主力は天満が森で摂津の地理に詳しい三好義継、松永久秀、 和田惟政 らを配した。


  三人衆軍と比べて織田軍は数倍の兵力があったと思われるが、野田城・福島城が デルタ地帯 にある堅城であった為、いきなり力攻めにしなかったようで、 まずは誘降戦術を採った。


二八に細川信良を始め 三好政勝 香西長信 らが織田軍へ寝返り、 九月三日 に将軍義昭が 奉行衆 二千を引き連れ、 細川藤賢 のいる 中嶋城 へ着陣している。


 このような中、中立を保っていた石山本願寺の顕如が一通の檄文をしたためていた。


 この檄文は近江中部の本願寺門徒衆に宛てたもので、「身命をかえりみず」と記していることから、戦闘態勢を整えていたのではないかと推察されている。また顕如は 九月十日 にも 浅井久政 ・長政父子に書状を送っている。


 織田軍は野田城・福島城の対岸に「楼岸の 」と「川口の砦」を築き、それぞれに武将を入れ、環境が整った 八日 、野田城・福島城の西の対岸にあった 浦江城 (別名、手好城、海老江の砦)を三好義継、松永久秀隊が攻城した。


 この時 火縄銃 以外にも 大鉄砲 が用いられたのではないかと思われている。大鉄砲とは通常の火縄銃に比べて口径が大きく主に攻城戦や 海戦 に使用されたと言われている。


 そのような兵器を使い三好:松永隊は浦江城を落城させ、野田城・福島城の攻城の砦とした。織田軍は更に川を埋め、対岸に土手を築き、櫓を上げ、 十一日 より野田城・福島城への直接的な攻城が開始され城兵の首級が七つ上がり、翌 十二日 は更に鉄砲を使用した攻城戦となったようである。


 この日別動隊が織田軍に加わった。『信長公記』によると、雑賀衆・ 根来衆 の二万兵(内、 鉄砲 衆三千兵)からなる連合軍が遠里小野、住吉、天王寺に陣取った。


 大規模の援軍を得た織田軍は三好三人衆軍との間で銃撃戦となり、この時の様子を『信長公記』は、「御敵身方の鉄砲誠に日夜天地も響くはがりに候」と伝えている。


 その後、織田軍は 畠中城 も落城させた。三人衆軍にも鉄砲があったと思われているが、野田城・福島城に入城している鈴木重秀等が率いる傭兵雑賀衆にもかなり数の鉄砲が存在していたと思われている。


 浦江城、畠中城が落城し、目の前には砦や櫓がいくつも建てられ、二万兵からなる雑賀・根来連合軍が合流すると、さすがに三人衆は信長に和平を申し込むが、信長は徹底攻撃を主張し和平案を受け入れなかった。


 この時まで堅城を誇る野田城・福島城に苦戦しているものの、大勢は織田軍の有利に変化なく和平案の拒否は当然と思われている。


 しかし、この日の夜半から戦況は石山本願寺の参戦で変化する。『細川両家記』に、とあり、石山勢は鐘を合図にして織田軍に襲いかかったようである。 


 石山本願寺は福島城まで約四キロに位置する。顕如軍が参戦したことにより三人衆軍の士気は盛り上がり、翌 十三日 早朝、織田軍がせき止めていた防堤を打ち破ったようで、この時の状況を『細川両家記』は、と記している。浦江城だけではなく、野田城・福島城を周りを取り込んでいた砦も海水に浸かってしまったと思われている。


 また『信長公記』によると同日夜には顕如自ら鎧を着て織田軍の本陣に襲いかかり、「楼岸の砦」と「川口の砦」には石山本願寺から鉄砲を撃ちかけたようである。


 翌 十四日 は海水がなかなか引かず、翌 十五日 から 十七日 までは鉄砲による攻撃が出来ず大規模な戦闘にはならなかったようである。


十六日 、近江で浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突くべく進軍を開始。この報せを受けた 宇佐山城 主・ 森可成 野府城 主・ 織田信治 青地茂綱 らと共に交通の要所である 坂本 を先に占領して街道を封鎖、連合軍の南進妨害を試みる。そして十六日に緒戦においては連合軍を撃退する。


 しかし、顕如の要請を受けた 延暦寺 の僧兵も連合軍に加わると、形勢は逆転。  二十日 、森らはさらに数の増えた連合軍を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬・玄蕃の二千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに 朝倉景恒 山崎吉家 阿波賀三郎 の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため、ついに崩れて森可成、織田信治、青地茂綱の三人は討ち死にする( 宇佐山城の戦い


 続いて浅井・朝倉連合軍は宇佐山城への攻城戦に移行。守備側は千人、攻城側は三万人と劣勢であったが、可成の重臣 各務元正 武藤兼友 肥田直勝 林通安 らが奮闘して持ちこたえた。


 連合軍は城攻めを諦め、 二十一日 に逢坂から京都の 山科 方面まで出軍してきた。


 二三日、信長は全部隊に撤退命令を出し、足利義昭と共に帰京。これを知った浅井・朝倉連合軍は比叡山に後退。翌 二四日 、信長は逢坂を越え、近江へと向かった。戦いは「 志賀の陣 」へと続く。


 三人衆軍には 二七日 篠原長房 が中心となり、 細川真之 三好長治 十河存保 ら、阿波・讃岐の兵二万からなる大援軍が兵庫浦に上陸、翌二八日、織田軍に属していた 瓦林城 越水城 の城主・瓦林三河守を討ち取り、 十月一日 に野田城・福島城に入城する。


 ここに至って信長は、三人衆、本願寺、浅井長政、朝倉義景、 六角義賢 ら連合軍との和睦を模索する事になる。義昭は三人衆に対しては敵対心があったようではあるが、顕如に対しては開戦当初から一貫して和平を求めており、信長はこれを利用し 朝廷 工作を実施し、 正親町天皇 より「講和斡旋を希望す」という言を得て、 十一月三十日 に各陣営で話し合いが行われ、 十二月十四日 に和睦が成立し、長政、義景、六角連合軍も撤兵する。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年06月21日 08時44分57秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: