全20件 (20件中 1-20件目)
1

仁王門をくぐって、左の霊廟宝庫に目もくれず(笑)参道をまっつぐ進めば、突き当たりにはこれが建ちます↓。 【水盤舎 間口 3.878米 奥行 2.994米 棟高 6.30米 天井の龍は狩野永真安信の筆なり。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)水盤舎の右手にも、古い灯籠が建ち並びます↓。 水盤舎はその名の通りお清めどころな訳ですが、ただの手水場じゃありまへん。解説の立札には「水盤舎」とあるけど、「霊廟水屋」としてこちらも国の重要文化財。霊廟宝庫と同じ承応2年(1653)の作。四方を3本ずつ、計12本の御影石で支えるちょっと変わった造り。屋根は銅瓦葺。前回の宝庫は真っ赤でしたが、その前の仁王門の軒は黒漆塗り。そして水盤舎も白い柱に黒漆の軒のコントラストが美しい。東照宮が白と金を基調とするのに対し、大猷院は黒と金がベースカラー。東照宮より控えめにしたとはいっても、抑えた分だけ重厚感があり、大猷院全体での統一感もある。まずは、唐破風に下がる兎毛通(うのけどおし)↓。 な~んて見事なんざましょ!!写真の上に半分切れちゃってる軒丸瓦はもちろん金箔の葵紋ですが、葵紋なんか山内に腐るほどあります(←ばちあたり)。それより、この精緻な飾り!ゾクゾクするほどの美しさに、写真撮ってよかったなあ~としげしげと上の写真を見ておりましたが、ふとおかしな部分があるのに気が付きました↓。 現物をいくら口開けて見惚れようとも、おそらく現地では絶対に気が付かなかったと思う。それぐらい、小さな・・・けど確実に中の模様が同じ列の他のそれとは違う。何でこの2つだけ違うんだろう・・・ああっ、うっかり間違えちゃった~!・・・ま、いっかのハズがない。日光だもの。ハゲて花が小さくなったのかとも思ったけど、模様が綺麗だからそういう訳でもなさそう。とすると、あと考えられるのは「東照宮2」で書いた、五重塔の垂木の配置が最上重だけ違ってるのと同じ理由なのかな、ってことぐらい。真相は不明ですが。さて、遠目に見ると白と黒と金でシックな雰囲気ですが、内部はなにげにあでやかです。 多少のボケはごめんあそばせ(笑)。ぐるぐる回りながら内部を撮影してるうち、ふと水盤に流れ込む水の出どころが気になった。 それで、大きな樋をたどってみました↓。 なるほど、山から引いてるのか。 記事を書く前には、写真サイトに前もってばんばん写真をアップしておくので、フォト蔵のおともだち・天狗さんは記事に先行して写真を見る。で、この写真には『山の水で清める、うまく考えたもんだ』というコメントを下さった。そうか、日光の二社一寺のはるか背後には赤薙山や女峰山の霊峰が控えてるし、元々日光は山岳信仰の盛んな土地。つまりは霊峰から引く霊水で清めることになるんだな。天狗さんこそ、うまいこと言うもんだな~とほとほと感心した。人が変わると見方も変わって、実に面白い。 水の出どころを見ていたら、もう完全に周りの風景に同化してどなたかおわすのに気が付いた↓。 おお~、ひっそりあんなところでガードマンしとるのか!なんか、ミワラの佛通寺での四天王探しを思い出しちゃうな。ふたたび水盤舎の内部へ↓。 水屋だから、波のモチーフが多いのかな。鮮やかだけど、青が基調だから落ち着いた雰囲気ではある。満足して参道を数歩進みかけてから、大事なものを見忘れたことを思い出した↓。 解説にあった狩野安信の天井絵。これは一度も手入れがされてないのか、かなりぼんやりしていてぶっちゃけ言われなければわからないくらい(笑)。元は墨絵だそうで、真下にある御影石の水盤に龍の姿が映ることから、「水鏡(みずかがみ)の龍」と呼ばれているんだそうな。水盤舎でお清めをした後は、参道は90°左に折れて次の門へと進む↓。 こちらが第二の門、二天門。あいにくこの時(平成24年12月)はご覧の通り修復中のようですので、こちらの紹介は次回以降におあずけ。でもねえ、この門ねえ、何年か前から確か垂木が一部折れてぶら下がってたんだよね大丈夫なのかな、修復しないのかな・・・って思ってたから、ようやく工事が入ったのを見て安心しました。修理工事が傷んだ部材だけなら、記事を書いてる今はもう1年近く経つから工事も終わってるかもしれない。ついでに全面修理ともなれば、もう少しかかるかもしれないけどね。 二天門ですから、当然二天がおわします。この門の見どころである二天はさすがに拝観の便を図ってシートがかけられてませんが、その上の「大猷院」の扁額までご丁寧にシートをかけてない・・・この額、実は後水尾天皇の御宸翰によるもの。つまり勅額で、これを戴く二天門は勅額門になります。「大猷院」は家光の諡号。家光の妹・徳川和子(まさこ)は入内して後水尾天皇の中宮となった方。和子の入内前後については、いかにも~な黒いエピソードなんかも色々あるようで、この勅額を見るといつも、「どんな気持ちでこれを書いたんだろう」って思っちゃうんだよね。二天門への石段を上がる手前には、竜光院がある↓。 こちらは立ち入り禁止。ここにも灯籠が結構並んでるのですが、遠くから見るだけ~。大猷院内の灯籠をすべて紹介できないのは、ここがあるからです。まあ、たぶん他にも入れない場所に灯籠があるとは思うけど。さて、今回700枚以上の写真を撮りましたが、御仮殿に続いて大猷院の宝庫の撮影でヘトヘトになりましたので、細部の紹介はここまで。続きは次回以降ね。この後ゆっくり天上の大猷院へ上って、家光公にご挨拶してきました。1人だけ、ずるい!!とか言われそうなので、拝殿と本殿の全景だけ貼っておきましょう(笑)。 あっ、ちなみに、山内の売店に江姫の位牌公開のポスターがありましたが、この時はやってませんでした。江の墓は芝・増上寺にありますが、家光の生母だから大猷院にも位牌があるのかね。それでは最後に、勝道上人様のたくましいお尻でお別れです。やってみるとかなり疲れたけど、写真を見てるとやっぱり楽しいし撮ってよかったとも思うので、もうしばらく日光写真館を続けられそうです。 あ~、このたくましいお尻・・・じゃねえ、立派なお背中。飛びつきた~い!!にほんブログ村
2013年10月29日

仁王門をくぐるとすぐ左手に、こんな建物があります↓。 何の案内が出てる訳でもなし、ぶっちゃけこんな建物は山内に山ほどあるし、仁王門の先には広い参道がまっつぐ伸びてますので、普通の観光客はここには寄らず、そのまま奥へ向かっていきます。 かくいう私も、たぶんこれまでまともに見たことはなかったと思う(笑)。建築に興味を持ったのもごく最近のことだし。が、日光写真館を始めた以上はスルーする訳にもいきません。ので、今回はこちらの建物をご紹介します。これが一体何なのかわかりませぬが、ちゃんと見てみるとさすがの造り。上の写真には灯籠が3基写ってますが、少し前に進んで左を見ると、建物の脇の一角にはこれまた立派な灯籠が所狭しと並べられております↓。 ただでさえ大猷院の拝観者数が少ないのに、ここにまで立ち寄る人となると相当少ないんじゃないかと思われます。ゆえに、仁王門のすぐ脇にあり、参道から離れた場所でないにも関わらず、ここは人界とはほど遠い別世界。誰も来ない静かな境内の片隅にたたずむ古い灯籠達は、厳粛な世界を醸し出します。灯籠の間を回って、銘もいくつかは見たんだけど、何しろ御仮殿で相当消耗していたので、今回は各灯籠の紹介はパス。ちなみに、ここ大猷院は輪王寺の管轄です。輪王寺のホームページによると、大猷院だけで315もの灯籠があるんだそうな。たいがい、灯籠って1基だけじゃなくペアで奉納されてるものだから、315÷2で158人からの奉納ということになる。もちろん、全部が全部見られる訳じゃないんだけど、灯籠まできっちり紹介するとなると気が遠くなりそう・・・毎回、1ヶ所ぐらいずつつぶしていかないとキツイな。灯籠を撮るだけだったら大したこともないんだけど、銘がね~・・・かなり磨耗して見にくいのもあるし、銘を撮るのって結構大変でね・・・ま、次回以降、ぼちぼち頑張ります。で、謎の建物を飾る蟇股たち↓。 一部塗りがハゲてるものもあるし、何しろ蟇股のお役目上、高い所にあるのが常ですので、蟇股の連続撮影というのは想像以上に疲れます。ブレないように息を止めたりもしてたけど、ブレたままやむを得ず次に移ったものもある。これなんかも、何回撮り直したことか・・・↓。 ここはご覧の通り鳥の彫刻ばかりなのに、これは「クマだ~!」と思って綺麗に撮れるよう頑張りましたが、これが限界でした。が、あらためて写真を見てみると、どうも爪のあたりが鳥っぽいので、フクロウとかあんな類の鳥なのかもしれないな。東照宮を彩る彫刻達にくらべると、ここの彫刻はかなり地味な部類に入ります。大猷院の主である徳川家光が、祖父である家康をこの上なく尊敬していたというのは有名な話ですが、父・秀忠が最初に造った今よりもう少し地味だった東照宮を、現在のきらびやかな東照宮に造り替えたのが家光。さらには自身も日光に葬るようにと遺言し、その際、殊勝にも「おじいちゃまよりも派手にしないでね」と言ったそうで、それにより大猷院は東照宮よりも全体的に控えめに造られたとされます。まあ、地味と言ってもあくまで東照宮と比較しての話だし、大猷院には大猷院の良さがあります。今回紹介している建物は、ぐるりと一周することができ、もちろんわたくしは全蟇股制覇にチャレンジしました。が、裏っかわは後ろの石垣との間もかなり狭くて、その上日陰になってるのでフラッシュなしではとても観れたものじゃなかった。かといって、フラッシュをたくと光っちゃってこれまた観れたもんじゃないし、たとえ撮影禁止でないからといって歴史的価値のある建物に至近距離でフラッシュをたくのはやはり控えたいところ。そういう訳で、実際にはもう少し蟇股がありますが、ここには全部掲載できませんでした。だいたいね~、こんな狭い裏っかわにもぐり込む人間ていないし、(いつものことだけど)もう完全な不審者だよな~・・・で、その裏の石垣↓。 参道の目につくところはスキのない切込ハギがほとんどだけど、山内全部の石垣がそういう訳でもないらしい。しかし、この縦に沢山入ってるラインてなんだろ?これも「はつり」の一種?にしては、ちょっと雑な気もするけど・・・こちらは参道から見える部分↓。 ふふふ、見えないところが若干素朴な造りって、何だかおかしい。正面から蟇股を撮り続けて時計回りにぐるりと一周して、正面側に戻ったあたりで右手を見るとここにも灯籠群↓。 いやっ、もう灯籠の撮影は夏の上野で相当疲れましたのでね、こちらの紹介もおいおいってことで・・・こちらが側面↓。 今まで気にしたことなかったけど、大猷院には朱の建物って少ない。もしかしたら、境内でここが一番赤いかもしれないな。びっしりの垂木の先に付けられた木口(こぐち)の飾り金具はすべて葵紋。 で、壁↓。 これって、校倉(あぜくら)造だよな・・・校倉造は柱を用いないで、木材を井桁に組んでくもので、正倉院が有名。東照宮にもこのスタイルの建物はいくつかあって、正確には「校倉造風」と言った方がいいものかもしれないけど、大猷院にもあったんだ・・・ちょっとこの辺のキーワ-ドを手掛かりにいくつか検索してみたところ、どうやらこの建物は承応2年(1653)造の「霊廟宝庫」で、 ぬわんと国の重要文化財らしい。アハハハ・・・フラッシュたかないで良かった~いやね、輪王寺のホームページには、大猷院について 【境内には、世界遺産に登録された22件の国宝・重要文化財が、 杉木立の中にひっそりとたたずんでいます。】とあるので、大猷院てそんなに建物の数ないから、てことは境内にあるほとんどの建物が国宝・重文なんじゃ・・・とは思ったんだけどね~(笑)。国の重要文化財を惜しげもなく、また一切の立て看板もなくそのまんまさらしているのが日光ですいかに贅沢な空間かというのが、これだけでもおわかり頂けるのではないでしょうか。家光の薨去は慶安4年(1651)4月20日。翌承応元年(1652)2月16日に大猷院が起工され、承応2年(1653)4月4日に完成。てことは、大猷院の創建当初からあった貴重な建物って訳だな。あ~、知らないってホント罪・・・ま、何にしても何の建物だかわかってよかった にほんブログ村
2013年10月27日

え~、先日の予告通り、しばらく日光写真館を再開します。前回までの記事はカテゴリ「日光写真館」をご覧ください。4ヶ月ぶりの日光編ですが、残る写真もあと100枚ほど。年末頃にはまた行く予定ですので、こんな感じでマイペースで公開していけばいい感じで消化できるし、何とか続けていけるかな・・・ただ、現地で写真を撮るのがホントに大変なので、きっとまた「やめときゃよかった~」って半泣きになりながら極寒の中でひたすら撮影するんでしょうが(笑)。さて、今回からは日光山内で私が最も好きな大猷院(たいゆういん)へ移ります。こちらは徳川家康の孫にして徳川3代将軍・家光公の墓所です。奥まった場所でもあり、山内で最も集客力のある東照宮に比べると、はっきり言って拝観者数は格段に落ちます(笑)。が、東照宮を一言で表現すると「華麗」なのに対し、大猷院は「幽玄」。拝殿の内部などは、東照宮に比べたら若干おいたわしい箇所もあるものの、ピカピカに手入れされたものよりはかえって時間の流れとか歴史の重みなども感じられて、それがまた風情があると言いましょうか。ここが私はたまらなく好きで、山内に行くと必ずと言っていいほど最後に大猷院に寄る。人が少ないので静かに浸れるから好きってのもあるんだけど、一方ではもっと多くの人に観てほしい。時には「今日は結構人が入ってるな~」って日もあるけど(それでもぱらぱら程度)、いたらいたで個人的にはウザイので、ジレンマ・・・東照宮よりは建物の数も少ないので、地味っちゃ地味なんですが、それでも将軍の墓所にふさわしい彫刻類や、歴史ある建築物が静かにたたずむ素晴らしい場所ですので、お楽しみいただければ幸いです。さて、前置きはこのぐらいにして、内部をご紹介いたしましょう。 ↑こちらが大猷院の入口。手前の左の建物で料金を払って入ります。・・・が、その前に。入口の手前を左に入ると、トイレがあります↓ トイレの前にこれだけ立派な灯籠が並ぶ場所は、日本広しといえどそうそうないでしょう。内部はちゃんとウォーム便座なので、冬でも安心です入口にある灯籠↓。 ここは玉垣があって入れないので、ちょっと銘までは・・・ただ、山内に腐るほどある立派な灯籠はおそらく全てが大名クラス以上の奉納でしょう。立ち入り禁止区域内に建つ灯籠も結構ありますが、近寄って見られるものについてはおいおい紹介する予定です。上の写真の反対側にある灯籠群↓。こちらも近寄れませ~ん。 灯籠脇の石垣↓。山内にはこんな石垣がありすぎて感覚も鈍るほどですが、写真であらためてじっくり見ると、スキもなく実に精緻で見事。 中に入ると、こんなものにも解説が↓。 【これは、祭礼の時「幡」(ばん)を建てる礎石です。 境内に数十個所あります。】 (現地解説板より)ま、普通の日でも「大猷院」ののぼりが立ってますけどね(笑)。昔はこんなの立ってなかったような気がするけど。 この付近の灯籠は今回一部しか撮らなかったので(←かなり疲れていた)、次回訪問以降にまとめてご紹介します。で、こちらが入口正面にある第一の門、仁王門↓。重要文化財。まず両側におられるのが金剛力士像。こんな寒い中、ほとんど素っ裸でいるから、全身赤くなっちゃって・・・じゃありまへん ここからは仁王門の意匠群です。写真のいいところは、細かいところまでゆっくりじっくり見られること。彫刻だけでなく、柱や飾り金具まで実に見事な装飾が施されてますので、ご堪能くだされ。 ま、多少のボケもご愛嬌ってことで・・・(笑)。 日光では、支輪までピッカピカ~。黒漆に金がよく映えてまぶしいぜ・・・ ↑蟇股にはちゃんと眼玉まであるけど、眼の部分にまで装飾が施されてる寺社なんてのも、たぶんそうそうあるものじゃないと思われます。 ここまでは門の表側。今度は門をくぐりますが、朱塗りの扉は大変大きく、扉を補強するための柱も多く通してあり、必然的に釘隠の飾り金具も沢山付いてます。乳金具をアップで写したもの↓。 で、門を入って左手の妻↓。 構造的に、妻には違いないんだけど、なんつーか・・・もう妻飾りとかゆーレベルを越えてます。蟇股、支輪、欄間、飾り金具・・・どれ一つ取っても、それぞれが実に見事な芸術品。「山内の装飾などをできる限り細かく紹介したい」なんて私がバカなことを考えたのもうなずけるでしょう?それにしても、軒が深いな・・・この位ないと、せっかくの美々しい彫刻達が守れないもんな。んで、各パーツがこちら↓。 奥の方は、金の葵の軒丸瓦を葺いた塀がジャマするので正面からは撮れないのが残念ですが。表からのが綺麗に撮れたかな? え~っと、こちらが右側の妻かな?3枚上の写真とぱっと見同じだけど、ちゃんと見ると彫刻が全然違う↓。 仁王門の妻は、麒麟づくしのようです。『東照宮再発見』によると、【麒麟は鹿の体に牛の尾、足は蹄を持つ。身体は五彩で、腹の下は黄色、頭に 一角を有する。生物を食べず群居もしない。王者の政治が仁にかなえば必ず姿を あらわす、と言われた。麒が牡で、麟は牝ともいい、最も傑出した人物のたとえにも 用いられる。】とあり、東照宮には彫刻だけで51体の麒麟がおわすそうな。数では東照宮に劣るかもしれないけど、家光の眠る大猷院の最初の門である仁王門にこれだけの聖獣があしらわれているのも、象徴的だな~と思う。ああ、秀忠の影うすっ・・・・・・にほんブログ村
2013年10月24日

夏休み頃の記事でマイブームとしてレトルトカレーのことを書きましたが、まだブームは続いてます。どころか、今や休日の朝はカレーです。「またカレー!?」と母親は見るたび笑ってますが、うちではホントにレトルトのカレーなんて買ったことがなかったので、毎回ちょっとずつ取り分けておすそわけしてやると、何だかんだ言って嬉しそうに食べてますこうなったら、「大辛」以外のカレーを制覇してやろうと、あちこちの店に入るたびにまだ食してないものをまめに買い続けてはいますが、生まれてこのかた460年、レトルトカレーに縁のない生活をしてきたためにレトルト市場の奥深さというものをつゆ知らず、いまだ終わりの全然見えないカレーの世界をさまよっております。まだ食べてないものも含まれていますが、今回はひとまずここまでの成果をご披露致しましょう。もう、自分でもどこまで買ったのかわからなくなってきちゃってさ~(笑)。て、雑談でさえ備忘録がわりにするわたくし・・・まずは、一般的な食品メーカー系からいこうかな。 ↑これはハウス食品の期間限定品らしいけど、すごく美味しかった 夏だけなんてもったいな~い。 ↑同じシリーズのワイン仕立てのが美味しかったので買ってみたけど、結構スパイシーだった。 割と一般的なシリーズもののカレーでも結構種類があるもので、店によっては品揃えにも差がある。で、これを東武ストアで見つけた時にはちょっと驚きました↓。 おお、カレーマルシェ!これってまだあったんだ~。 (←物知らず)最初出た頃って、西田ひかるあたりがCMやってたんじゃなかったっけ?相当昔だよね~。お値段は258円。カレーの探索を始めた頃は、レトルトの200円台ってすごく高く感じて、200円台のお品を買う時はいちいち悩んでたもんだけど、これが出た当時のレトルトの価格帯は知らないものの、結構いいお値段だよね~。このお値段で長いこと生き残ってきたって事を知って、東武ストアの陳列棚の前で静かに感動してましたマッシュルームがごろごろ入ってて、確かにおフランスのかほりがしたな。スーパーに並んでるのはやっぱりメーカーのが多いけど、上の種類以外でも高級感を打ち出した独自のものも沢山ある。 ↑396円。たけえ~・・・しかし買わずにいられない。これはまだ食べてません。 ↑298円。これもまだ食べてないけど、うまそ~ ↑312円。だいぶ金銭感覚が鈍ってきました(笑)。日頃のケチぶりを知るわたくしの相棒がこの記事を見たら、「ちょっと、どうしたの?頭ダイジョブ!?」って大層驚くに違いない。 ↑これはS&B食品の「カレー好きなら知らなきゃ損する噂の名店」シリーズ。これの「湘南ドライカレー」はすごく美味しかった 今度は、セキュリティーよしおが岡山みやげに送ってくれたもの3種↓。 どれも美味しかったけど、特に2つ目のひるぜんジャージー牛肉のは、レトルトとは思えないほどデカイ牛肉がごろんと入ってて、びっくりした。ご当地カレーはやはり違います。こちらもご当地カレーの部類に入るんだろうが、姉からもらったもの↓。 「ふなっしー」は千葉県船橋市の非公式ゆるキャラ。これをもらうまで、私はふなっしーの存在を知らなかった。「梨汁入り」にすごく惹かれてすぐ食べたけど、梨だからそんなにインパクトのある味でもない。でも、そこはかとなくフルーツカレーっぽい感じではあった。今度はメーカー以外。こちらも色んな種類がある。 ↑JALだよ!こんなの出してるんだ~。「CURRY de SKY」は他の種類も並んでたな。機内食とは別モノなのかな? んで、こちら↓。 422円だか417円だか、とにかくそのくらいのお値段。これは探索を始めた頃にも見かけたけど、結構辛そうだったので最初はやめた。が、表示されてる辛さもあんまりアテにならないことが経験上わかってきたので、再びこれを見かけた時にはすごく悩んだ。レトルトに400円出すとか、私の感覚だとありえね~しかし、自称鳥肌が立つぐらい美味いカレーだと言ってるぐらいだから、相当自信があるのだろう。買うか買わないか店先で悩んだ時間は、300円台のカレーの比ではありません。店内の監視カメラに映ってたとしたら、相当アヤシイ客に見えただろう。案外、万引きGメンがそばで待機してたかもねま、ここに載せてるんだから、結局買いました。買った後も、お値段に見合う味なのか試してみる勇気がなかなか出ず、しばらく保管しておいたけど、ついに意を決して食べてみました。結果は・・・鳥肌は立ちませんでした。が、火を噴きました。不味いって訳じゃないんだけど、日本人向けというよりはインド風ってゆーか、独特の味。それより何より、とにかく辛かった。それでも頑張って半分ぐらいまでは食べたけど、一度じゃ食べきれない辛さだったので、ギブアップして親に譲った。母親は私よりは辛いのが好きな方だけど、一口食べてやっぱり辛いと言っていた。お値段の高いものは、もはやバクチです・・・・・さて、こちら↓。 東武ストアの商品棚にフツーに並んでた。お値段、なんと678円探索を始めるずっと以前、ご当地カレーで500円ぐらいのを確か見たことがある。土産ものなら500円てたぶんそんなに高いものとは感じないと思うけど、普段行くスーパーで、しかも自分用に買うレトルトに678円てあり得ないも~、どんだけ悩んだか想像してみて下さい。けどな、飛騨牛だぞ・・・販売者は大垣の「吉田ハム」。しかし、食べてみなけりゃ何事も始まらない。てことで、清水の舞台から決死の大ジャンプを敢行いたしました。飛騨牛なら、大ハズレってことはないだろうと思って早速食べてみたところ、ちょ~おウマかった!!!コクがあって、とにかく濃厚。どこにでも置いてあるもんじゃないかもしれませんが、これはおススメ。いんや~、高いだけあるわあ。同じく東武ストアにあった、北海道カレー2種↓。 これは普通の陳列棚にはなかったので、たまたま仕入れたものかもしれない。黒の方はまだ食べてませんが、白の方はホタテの旨味がかなり出ていて、濃厚なシーフードカレーといった感じでとっても美味しかった。どちらも450円。こんなのを食べた後にこーゆーのを買うのは、逆に勇気がいります↓。 でも、ボンカレーといえば定番だしな。まだ食べてませんが(笑)。え~、福山編をしこしこ書いてる間に買ったのはとりあえずこのくらいかな。東武ストアには千疋屋のフルーツカレーも置いてあった。確か500円台。たけえ~・・・しかしだね、これだけ単価の高いカレーがフツーに並んで置かれてるってことは、買う人がいるってことだよな。店にもよるけど、100円ぐらいの気軽に買えるものって案外種類が少なくて、200~300円台のものが割合豊富に置かれてたりする。意外な現実に、驚きを隠せません。旅先の夕飯には、特に冬なんかはこういった高級カレーもいいんじゃないかと思ったものの、ホテルじゃ「チン」できないからなともあれ、もうしばらく探索は続きます。みかんを食べすぎると手が黄色くなるけど、カレーの食べすぎで顔が黄色くなったりしたらやだな・・・とあらぬ想像をしつつ。にほんブログ村
2013年10月22日

や~、やっと福山編が終わった・・・結局、福山城18話+大谷城と相方城が3話ずつ+市迫城・殿奥城1話+神辺城33話+要害山城2話+旅日記25話、の計85話。「備後トラブル集」まで含めれば全88話。さすがに滞在期間が1日分少ないので東西条編の話数は抜きませんでしたが、結構書いたなあ先週ぐらいから、一体何を書いたんだろうと思って最初から読み返してみました。安芸や大内氏の流れまで書いて、めちゃくちゃ遠回りしたようにも思ってたけど、案外分量的にはそんなでもない。それより、神辺城周辺は特にわからないことが多すぎて、それらをいちいち上げてはつらつら思うことを書いてる方が多かったかな。だってもう、ホントにわからないんだもんそもそも、最初の福山城から長くなったからな~。10話以内には収まると思ってたのに(笑)。私はもちろん通史を書いてる訳でも、論文を書いてる訳でもないので思いついたことや考え途中のことまで気楽に書いてたけど、これが論文だったらじっくり熟考した上に結論とその根拠を簡潔に述べなきゃいけないんだから、論文を書く人なんてのはホントに大変なんだな~としみじみ思ったものです。「福山編(6)」で本編を開始した時、『記事の分量・・・特に歴バナ部分については、結局あの世の関係者様から「これも書け!あれも書け!!」って指示があるかないかで決まりますので、先のことは私にはわかりません』・・・とあらかじめ予防線を張っておきましたが(笑)、当初はあまり書くつもりがなかったのに、気が付けば話の流れで脇道にそれたりもして結局あれやこれやと書きこむハメになり、ヒイヒイ言いながらも「もはやイタコ状態だな・・・」となかば諦めつつ、気の向くままに書いてます。どうも新しいシリーズを始めるごとに歴バナの分量がどんどん増えていって、神辺城シリーズなんかは最新なだけにその最たるものじゃないかと思いますので、日に日にイタコ度が増しているようですPCのキーを毎晩打ち込んでるのは確かにわたくしの指ですが、それこそゴーストライター状態カモ・・・て、ホントにあの世の関係者様が私の中に入って真実を書き連ねてくれたら、おそらくもっとドラマティックですさまじい記事が出来上がるのだろうとは思いますが。旅に出る前には、おもに先人の訪城記をコピーして史跡の概略とか現地の様子などを調べておきます。以前は帰ってから記事を書く段にもそれをそのまま活用してましたが、最近では手持ちの資料もだいぶ増えたし、ナマイキにも細かいことで通説に疑問なども持つようになったので、近頃では現地用に揃えた資料は現地でのみ使用し、それ以外のちゃんとした資料を手元に置いて記事を書くようになりました。歴バナにはそこそこの話数がかかるので、毎日それらの本を本棚から出し入れするのはすごく面倒・・・分厚い本ばっかりだしね。てな訳で、新しいシリーズを始めると、それに関連する本をひっぱり出して床に平積み~。古文書系史料を使う場合には何冊も用意しておくので、本編・・・特に歴バナを書いてる最中の私の部屋は、平積みのままの本の山が出来上がってます。この山を見るたび、「ああ、戦闘中の風景だ・・・」と思います。んで、ひとつの大きなシリーズが終わるとそれらを本棚に撤収する訳です。今回の福山編では、(珍しく)『萩藩閥閲録』まで持ち出してたので私の部屋は特にすごいことになってました。けど、今回の史料は昨日片付けたものの、本をしまう時にはなんだか宴の後片付けとゆーか戦の終了とゆーか、どこかもの寂しく感じたりもして・・・まあそれでも史料系の本なんて高くて何でも買えるものでもないし、まだまだ欲しい本は沢山あります。が、何しろ1冊の重量も結構あるので、一般民家の耐荷重ってどの程度あるんだろうか・・・て不安にもなる夏休みに大量のマンガなどを処分したので、新しい本棚を買ってそろそろ私の大事な史料達をきちんと収納しようと思ってはいますが、今は2つの部屋に分けて置いてる本を私の部屋1ヶ所にまとめて、床が抜けないだろうかと不安。クローゼット用の本棚を買ってはあるのですが、取り寄せてみたら本棚だけですげ~重い・・・これに重い本なんか収めてクローゼットにしまってホントに大丈夫なんだろうか!?ともう不安だらけ。その本棚は組立式で、試験が終わったら組み立てようと思ってるんだけどね。さて、もうひとつのタイトルの方ですが、本ブログ、本日から3年目に入ります。いや~、早いなあ!!え~と、昨日までで全591話、アクセス数は59,000にちょいと届かず・・・真面目な記事もあれば、どうでもいい旅の記録まで綴る実に雑多なブログですが、ホントに沢山の方に遊びに来ていただいて、も~感謝に堪えませんm(_ _)m特に、最初の頃はまだそこそこメジャーな史跡なんかもあったけど、ちょうど1年前ってまだ三原編を書いてた頃で、その後は東西条編に約半年かかり、あと都内の寺町めぐり、その他が雑談と日光編をちょぼちょぼ挟み、で直近が福山編と、広島の旅はマイナーな歴バナ部分の方が多く、とても一般受けする内容とは思えないそれでも、シリーズが変わっても変わらず読み続けて下さる方が多いようで、これはとてもありがたい事だな~といつも思います。毎度ありがとうございます実は、自分の中ではそろそろ関東の歴史にシフトしたいな~と思っているのですが、どうしても行かねばならないところもまだ西国に残ってますので、もうちょっと先の話になるかな・・・西国に遠征すれば、また後始末(←ブログ)に相当時間がかかることは目に見えてますので、書こうと思っている古い旅の方は、もう公開できないかもしれませぬ。古い旅の中には、ぜひ紹介したい寺なんかもあるんですが、ちょっと物理的に無理かもな~って思い始めました。まあ、その時はもうしょうがないよな。今のブログのスタイルを崩そうとは思ってないし。関東の戦国は、それは複雑なので、頭の悪い私は完全に切り替えて本腰入れて勉強するぐらいでないととても把握できない。それに、行きたくて狙ってはいるんだけど、ちょ~お歴史が重くてうかうかと手を出せない大物が関東にございまして、あれをイチから勉強するとなると、行く前から気が重くてしょうがない。(でも行く。いずれ)ま、それはまだ先の話ですが。少なくとも来年いっぱいぐらいまでは西国の記事が中心になるかと思います。で~え、残る西国の記事・・・はつかいち。どうしよう、コレ真面目に書けば福山編と同じくらいには時間がかかるだろうから、ちょっと今から始めるのはキビシイ。あるいは、相当後回しになるかもしれません。んでも、ブログは今やわたくしの夜のお仕事とりあえず試験が終わるまでは雑談と、しばらくぶりの日光編などを書きつつ、来月からは日帰りをまとめた短編を年内に上げられたらいいなあ~と考えてます。いよいよ山城シーズンの到来でもあるしね、そろそろそちらの準備も始めないと・・・うふふ。しかし、先週の土日、珍しくちょっとツイートなんてしてみたけど、まあ140字の短いこと!連投する方もいるけど、私は140字に収めてこそのツイートだと思ってるので、ブログで好きなだけ書きつづってる私には、やっぱりもう140字の世界は厳しいな、とあらためて思いました(笑)。(連投を非難してる訳ではありまへん)という訳で、これからも好きなことを好きなようにだらだら書くのだろうとは思いますが、各地の素敵な寺社や史跡、マイナーだけど魅力的な西国の歴史などを引き続き紹介していきたいと思ってますので、一緒にゆるゆるとお楽しみいただければ幸いです。どうぞ、3年目もおよろしくねにほんブログ村
2013年10月21日

福山駅へ着く頃には、もうとっぷり暮れていた。あ~っ、カッチンの墓参りできなかった~!三村親成の位牌のある龍興寺行かれなかった~!渡辺氏ゆかりの寺へ行かれなかった~!いやいやいやいや・・・・・せめて、カッチン(水野勝成)の墓ぐらいは行きたかったよな~。寺町プランを組んだ時は、もちろん墓参りもコースに入ってました。が、結局山城優先プランに切り替えたからな・・・うう、ごめんね、カッチンあ、龍興寺ってのは「福山編(22)」に出てきた寺です。神辺からカッチンが福山に移させた寺で、三村親成(元親の叔父)の位牌は普通に拝観するだけじゃ見られないんでしょうけど、それでも行くだけ行きたかった。とりあえず、土産買わなくちゃ、土産・・・で、福山駅の「さんすて」で調達したんだっけかな。バラグッズを探して、種類はそんなになかったけど、バラのジュースがあった。2種類あって、高い方は京都のセキュリティーよしおへ、安い方は自分用に買って飲んでみたけど・・・うん、まあバラかな、って感じだったかな(笑)。でも、こんなのがあった↓。 野球とかサッカーのシーズン中は、TVのスポーツニュースはこちらではとにかくカープ!サンフレ!!どちらも観ない私には、「またかよ~」ってぐらいしつこく・・・あやや、熱く報道されます。このカープチューハイが今夜の友・・・そして備後での最後の晩酌になります。宿へ戻る途中の福山城月見櫓↓。 要害山城へ向かう途中、痛くなり始めてた爪がどうなってるのか見るのも恐ろしかったけど、靴下を脱いで確認してみたら何ともなかった。あ~、よかった・・・部屋でゴロゴロしながらセキュリティーよしおのブログを見たら、なんと私のことが記事になってた。(リンクはこちら)私が彼女のブログの中で主役を張ったのはこの時が初めて。あ~、思い返せば福山滞在期間中はずいぶん色んなことがあったんだなあ・・・(↑遠い目)そういえば、ここまでの記事で1日ごとの歩数を書かなかったので「アレ?」って思った方もおられるかもしれませんが、メモしたものが行方不明だったんです(笑)。先週ぐらいにやっと見つけたので、ここにまとめて書いておきます。 1日目 15,870歩 2日目 24,322歩 3日目 18,264歩 最終日は帰るだけで、4,407歩。さすがに2日目はね、結構歩いたからね。でも、私の旅の中では24,000歩は「ちょっと多め」ぐらいのもん。3日目は資料館で長居したからな(笑)。<4日目>2012年11月26日(月) 雨 ↑部屋からの眺め。正面に見えてるのは鏡櫓。予報の通り、今日は朝から雨。でも今日は帰るだけだし、3日間天気はまずまずだったからラッキーだったなしかし、家では全然ラッキーじゃないことが進行中で・・・( 「備後トラブル集・そのさん」)をご覧ください)重い気分で早めに宿を出る。バス乗り場へ向かう途中の駅前には、こんなものがあった↓。 【福山駅前に残る福山城遺構 福山駅前付近は、福山城三之丸の南東部にあたり、外堀に面して藩の勘定所や 重臣の屋敷がありました。外堀の南中央には、大手門があり、外堀を渡って 城下へ通じる木橋が架けられていました。 さらに、その外堀の東側には城内に湾入した舟入があり、御水門(おみずもん)と 二重櫓を備えていました。この舟入は、瀬戸内海から入江を通って外堀に入ってきた 舟をつなぎとめる施設で、御水門は舟から石段を上り直接城内に入る門、二重櫓は 舟入に入る舟の監視機能をもった建物です。 この舟入と御水門は、まさに城郭から入江を通り瀬戸内海に通じる「潮の道」の 門戸であり、海へ開かれた福山城郭の特質を示す重要な遺構です。】 (現地解説板より)で、発掘調査の際の写真も掲載されていた。 うわっ、こんなに残ってたんだ~。これをそのまま展示する訳にはいかなかったのかな~と思ったら、 【舟入は、保存のため埋め戻して地表にラインを表示しています。 二重櫓台の南側石垣については築城当時の高さに復元して、上部のみ公開しています。】・・・なんだと。ラインで表示って言われても、バスの時間もあるし雨の中コロコロを引いて歩き回るのは大変なので、ここでの探索はしませんでした。で、ここにはなんと福山城全体の縄張図があった↓。 舟入付近だけを拡大して、堀を色分けしたのがこちら↓。 見ての通り、現在の地図に縄張図を重ねあわせたものですごくいい。なあんだ~、こんないいのがあるんなら、なぜ城内にこれを展示せんのか!・・・と最後までクレームの嵐で恐縮ですが(笑)、福山城にしろ神辺城にしろ、いいお宝を持ってるのに、なんか維持管理方法がズレてるんだよなあ。何も大層な費用をかけて豪勢な復元建物や(元町長の)銅像なんか建てなくってもいい。もっとチープにシンプルに、でもきちんとお城のことを理解できるような展示が福山市にはできるはず。文化遺産の管理などはどうしても行政のトップなどの考え方に左右されるものではあると思うけど、2022年には福山城は築城から400年を迎える。その記念の年に向けて、地元ではシンポジウムとか色々行われてるようだけど、これを機によりよい展示方法を考えていただけたら、福山の町の建設に心血をそそいだカッチンもさぞ喜ばれるのではないでしょうか幸い、今回の福山編を書くにあたって大変お世話になった「備陽史探訪の会」様をはじめ、福山には地元の歴史を愛する方達が多くいらっしゃるようなので、福山の今後に期待してます。舟入のすぐ近くにあるバスターミナルで空港行きのバスを待つ。福山駅前からは沢山のバスが出ているらしく、四国行きの長距離バスなんかもあった。江戸期に大規模に埋立が行われた現在の福山はあまり海の近くってカンジじゃないので不思議な気がしたけど、因島とかをつなぐルートで海を渡るのかな。広島空港へ着いてからも娘さん(大)のことが心配で落ち着かない。けど、相当余裕を持たせて空港に着いたハズなのに、カードの手続きに思いもかけず時間を取られてしまったので、まったりする訳でもなく帰りのヒコーキに乗り込む。そこからがまた「備後トラブル集・そのさん」の後半の通りの状況で、も~ホント、さんざんでしたまあ、色々あったけど史跡そのものは良かったし人もすごく良かった。ただ、ロクに寺社を見てないので、その点で物足りなさはある。今度は寺町行きたいな~。ただ、夏はもう出かける気はないし、かといって寒い時期だとまた山城へ行きたくなるだろうから、時期の選定が難しいな(笑)。さて、ちょっとばかり文字数が余ったのでちと後日談を・・・まず、娘さん(大)ですが、父親がとにかく娘に甘いので、一生懸命病院に連れてって治療を続けさせた結果、おかげ様で元の疾患の方も良くなりました。なにせ、心配だからと1階でずっと娘さんの添い寝を続けてたぐらいだから(笑)。うちでは代々、愛犬を家で見看ってて、老犬や病犬の介護ももちろんしたし、ホントに目が離せない時は家族が交代で24時間付き添ってはいたけど、今回はそこまで深刻じゃなかったのに。病気が良くなってからもうちのダディは何だかんだと言い訳を付けては毎日毎日自分で2階から1階へ布団の上げ降ろしをして、1年近く経った今でも娘さん2人と3人で寝てるんですよ。その少し前に、うちではベッドの総入れ替えをして、毎日使うものだから気に入ったものにしなさいと私が予算まで出して高いベッド一式を買ってやったにも関わらず、大して使わないうちに看護生活を始めてしまったので、高いマットレスの代わりに煎餅布団を床に敷いて毎日寝てるとゆー・・・それから、足の爪ね。左右とも剥がれかけてたんだけど、いつの間にか新しい爪に完全に癒着してしまって、新しい爪が古い爪を押し上げてくれるまで待つしかない状態になってしまった。で、右の爪が取れたのがつい先月(2013年9月)。自分では2月の廿日市あたりで取れるかな~と思ってたのに、こんなにかかった(笑)。我ながら、伸びるの遅すぎ・・・しかし、左はまだなんです。まだどころか、半分の位置にすら来てないんです深爪にこりごりした経験から、足の爪は切らずに削るだけにしてるんだけど、そんなにマメにやってる訳でもないから、靴に圧迫されて伸び悩んでるのカモ・・・いや、それでもいつか取れてくれればいいんだけど、途中で引っかかってて、また前のように大変なことになったらどないしょあ~、もうあんな大変な思いしたくないんだけど・・・さて、以上で長すぎた本シリーズも終わりです。途中だらけたり、毎日更新できなかったにも関わらず、本シリーズも沢山の方にご覧いただいたようで、ありがとうございましたm(_ _)mちょっと福山は地味ですが、少しでも良いところを知っていただければ、こんなに嬉しいことはござりませぬ。(て、他県人で、しかも文句ばっかり書いてたくせに)にほんブログ村
2013年10月20日

※「要害山城(2)」の続きです。ふたたび天満神社の境内へ。現地碑文より、一部抜粋してご紹介します。 【天満神社の由緒 御祭神 菅原道真公(845~903) 由来 当天満神社は、寛弘3年(1006)年難波津の天満宮を勧請し、小祠を建て 総産土神とす 寿永年中(1181~1182) お宮を建立 <永保3年(1083) 社殿を建立との口伝えあり> 安政4年(1857) 大暴風雨により大破し、安政5年本殿屋根葺替。幣殿・ 御輿蔵を再建す 大正13年(1924) 本殿を一段上に移し修復。本殿屋根替。祝詞殿・神饌所・ 社務所を新築す 昭和41年(1966) 本殿屋根銅板に葺替す 平成18年(2006) 天満神社創建壱千年事業により現在の結構となる 当時の呼称は、古く天満天神、次いで天神社 元禄年中(1688~1703)から天満宮 明治4年(1871)現在の天満神社に改称す】 (漢数字は戦国ジジイが変換)ほおお、11世紀?平安時代!?ちょっとびっくりなんだけどでもこの辺て古墳も多いし、古代の古い寺も多いみたいだし、国分寺も近くにあるし、山陽道もあって開けた土地だし、古くから栄えてた土地みたいなんだよね。その頃って、誰が領家だったんだろう・・・ああっ、試験が終わったら図書館行って調べてこよう(その頃には確実に福山編は終わってます)戦国時代頃の記述がずっぽり抜けてるけど、大正に入って一段上げて現在の位置になったのであれば、当時は麓にあったってことかな。当時の規模がわからないのが痛いけど、無人の小祠とかでなければ、神辺合戦の頃には平賀兵がずかずか入り込んだかもしれない(笑)。「神社創建壱千年事業」ってのがスケールがデカすぎてちょっと笑っちゃうんだけど、拝殿がピカピカなのもうなずける。で、私が楽しみにしてたのは真新しい拝殿ではなく歴史のありそうな本殿です。 一軒(ひとのき)の平行垂木。隅部の垂木や柱はわりかし新しいように見えるので、記念事業あたりで一部補修がされてるのかもしれない。(垂木の説明については「東照宮2」をご覧ください)手挟↓。 白と、かすかに緑の彩色が残ってる。こちらも手挟と降懸魚(くだりけぎょ)↓。 う~ん、なかなか華麗ではあるけど、繊細というより大胆で力強い彫りだよな(笑)。木鼻はゾウ↓。 鼻がヘン・・・まだゾウを見たことなかったかな?でも、ゾウの初来日は応永15年(1408)だから、それ以前の建立ってことは考えにくいんだけどな。(象の来日については「赤間ヶ関編(47)」をご覧ください)まあ、応永以降常にゾウさんが国内にいた訳じゃないし、誰でも見られたもんでもないから、こんなもんか・・・口の中には赤が残ってるから、白・緑・赤の3色は使われてたんだな。しかし、この木鼻、写真で見るとどうも貼りつけてるだけのように見えるんだけど・・・貼りつけてるんだとしたら、ここだけまわりよりも古い部材できっと大事に残そうとしたんだろうな。しかし、別の場所の木鼻はゾウじゃない↓。 なんだろう、これ・・・牡丹かな?こういう場所にこういう彫り物があるのは珍しい。本殿正面の蟇股↓。 う~~~ん・・・・・本殿自体はまんず江戸期に建てられてるものだと思うけど、意匠は桃山とか古い時代の雰囲気だよなあ。順不同で先に東西条編を書いてるので、現地ではわからなかったことも今では多少の知識も増えた訳ですが、1年経った今、この写真を見てると平賀氏の福岡八幡神社で学んだことを思い出す。江戸中期に入って、その頃大阪や江戸で流行していた本格的な近世建築の意匠がもてはやされるようになった、って三浦先生の解説のアレね。そして、ここまでの写真の中に映ってる斗などには、植物のような小さな彫り物もあるし、彩色の跡もある。かつてはこの本殿、相当華やかな建物だったに違いない。ふうっ、これで天満神社はおしまい。帰りは正規の参道の長い石段を下っていく。川をはさんで、西側から要害山を見たところ↓。 要害山は独立峰ではあるけど、こうやって横から見ると結構山頂は奥の方にあるなあ・・・木がなくても、あそこからホントに神辺城は見えたんだろうか。その先、神辺旭高校↓。 今日は神辺城と要害山城で切岸を沢山見てきたので、ここも立派な切岸にしか見えませんあまり世界に浸りすぎると、現実社会に戻るのに苦労します。まあでも、こうして見るとここも高台にある訳だよな・・・天文17年(1548)の総攻撃の時にはまだ攻め手は連合軍だったから、要害山には大内の本軍を置いて、安芸国人衆は一段低いあそこの場所に陣を敷いてたかもしれないな。要害山の南麓が秋丸だともいうし。とすると、目の前の高台に毛利元就や隆元がいたかもしれない。ここから先は、進行方向を右に折れて湯田村駅へ向かうんだけど、龍泉寺を出て要害山へ来るまでの間、時々振り返っては神辺城の眺めを確認していた。・・・が、とにかく要害山城からの眺めを楽しみにしていてほとんど写真は撮らなかったので、ちょっとだけ黄葉山が見える位置まで進んでとりあえずこれだけ撮った↓。 あ~~~っ、この眺めを山頂から見たかったな~(←しつこい)ちなみに、マル1がたぶんアベマキ様で、マル2が歴史民俗資料館。角度によっては、ずいぶんはっきり見えるもんだな~。ここから黄葉山までは、直線距離で2km切るぐらいかな。平地では数キロ先からアベマキ様が見えるってのも、あながち誇張でもなさそうだな。ちょっと残念な思いを抱えながら、元の道へ戻って湯田村駅を目指す。駅までは大した距離はない。この辺はのどかな住宅地なんだけど、そこはやはり広島らしく立派なおうちも多い。中でもここはすごかった↓。 基本、一般の民家はあまり撮らないようにしてるんです。これでも。先に公開した東西条編では、特に白市でばんばん写真を撮ってましたが、なるべくパーツだけに限定するようにはしました。しかし、この豪勢な屋根!!1人で楽しむにはあまりにもしのびなく(笑)、思わずカメラを向けた。壁もおしゃれだけど、かなり新しいものっぽいから、外観をそろえたってカンジかな。広島の、特に古い町を歩く時はも~うカメラが手放せません。して、こちらが福塩線の湯田村駅↓。 無人駅です。ちょうど神辺旭高校の生徒の下校時間で、結構高校生がいた。自販機で切符を買ってホームに立ったら、目の前にすごく立派な寺があった。電車が来るまでちょっとだけ時間があるから、寄ってみよう・・・で、行ったことは行ったんですが、写真がないあれかな、自販機でコーヒーを買った記憶があるから、それを飲みながら境内には入らず、手前だけをぼんやり見たのかもしれない。きっと写真を撮り始めるときりがなくなって電車を1本逃がしそうだったから、自重したんだろうな寒くて疲れてたし、まだ土産を買ってないから早く帰りたかったし・・・ただ、後から調べたらこの宝泉寺、寺伝によると相当古いらしい。なんと創建は9世紀だっていうんだから、すごいわ~。やっと来た電車に乗り込んだら、ぱらぱらと席は空いてた。けど、福山まではそんなに時間かからないし、立ったまま車窓から黄葉山などを眺めていたものの、100枚を超す大量のコピーが今頃になって肩にくい込んできた結構、紙って重いものなんだな・・・疲れてたし、だんだん貧血起こしそうになってきたので、やせ我慢せず途中から座って福山へ戻る。にほんブログ村
2013年10月19日

土塁に沿って郭を時計回りに歩く。 ↑この写真の左手前は横矢がかかっており、前方には北の虎口が見える↓。 北の虎口を郭内部の正面から見たところ↓。 よくまあ、綺麗に残ってるもんだな~。天満神社から上がってきた道が一部外側の土塁を崩してるようではあるけど、それ以外はほぼ元の形をとどめているらしい。それに、タイミングもよかったみたい左の手前にこんもりしてるのも、刈り草の山だからね。これが元気に繁茂してる時だったら、おそらく遺構を確認するどころの話じゃなかっただろう。で、今度はここから出てみる↓。 確かこれが、真下を撮ったところだったと思う。たしかに虎口です。この辺からは、確か東方向にだったと思うけどかすかに道のようなものがあった↓。まあ、どこへ通じるかわからないからちょっと覗いただけにしたけど。 主郭部は2重の土塁になっていて、間が空堀になってるんだけど、虎口の東側はあまり刈り込まれてなくてこのままでは通りにくそうだったので↓、 一旦郭内部へ戻る。北の虎口から内部を見たところ↓。 ・・・結構斜めってるなあ。礎石の類がないか、それなりに探したはずだけど、写真がないから見つからなかったんだろうな。まあ、城っつっても、ここが神辺合戦の最中に築かれたものであれば「陣」だしな。掘立柱程度の簡素な建物をいくつか置いたってカンジなんだろうな。ここ自体のスペースは結構広い。それで、東側の土塁に沿って南下し始めたら土塁が低くなってるところがあったので、空堀に降りてみた↓。・・・が、後から縄張図を見てよく考えてみると、もしかしてこの辺が南東の虎口だったのかもしれない つーか、ぱっきりそれとわかる南東の虎口を見た覚えがないんだよなあ(笑)。この南東側の斜面には5段に分かれる帯郭があるという。そちらの方へ行かれる道があるのかはわかりませぬが。ここからは、空堀の中を歩いてみる↓。 改変が加えられてないといっても、土塁そのものが少し低くなっていたり、空堀が埋まっているのかそんなに高くない場所もある。が、大体この位の高さが本来の切岸なんじゃないかと思われる。空堀はぐるっと一周できるはずなんだけど、この先はヤブや道があまり良くなかった関係で、確か引き返してきたような気がする。(相当うろ覚えですいません)郭内部、推定南東虎口付近から南側を見たところ↓。 右奥は折れて、横矢がかかってるのがわかりますか?もうすぐ16:00。当初の予定では、この後お隣の山王山城へ行くはずだった。が、ここがこんなに綺麗に残ってるとは思わなかったし、要害山に登る前にすっぱり山王山城は諦めてたから、その分ゆっくり見られてよかったなあ人も来なかったし。それに、下草が刈られているのといないのとでは随分違う。ツイてたよなあ・・・しかし、ツイてない事がひとつだけあった。 これは、南の方角を撮ったものです。過去のシリーズなどを覚えている方はおわかりかと思いますが、私は現場でその時その時のお目当ての武将様が見たであろう光景を、妄想力全開で眺めるのをとても楽しみにしている。神辺城では、山名軍に混じってこの要害山が見えた。距離感などがわかって、とてもよかった。今度は要害山から平賀軍に混じって神辺城を遠くに眺めたかったのに、完全に木に遮られてちいとも見えやしねえ!も~っ、神辺城を眺めるのが一番の目的といってもいいくらいだったのにい~!!は~あ、見えないものはしょうがないッス。後は帰るだけだけど、10時頃に神辺城9郭でおやつパンを食べただけだったから、何か食べてこう・・・郭内部にはあいにく腰掛けられるような石とかもなかったので、おにぎりを頬張りながら郭内をウロウロ歩いて最後の余韻を楽しむ。中央付近には、何やら石碑も建つ↓。よく読めないけど、「要害龍王」ってあるのかな? しかし、この写真・・・右手の矢印のところに写ってるのって、虎口だよな。やっぱ、空堀に降りたところが南東の虎口だったのか~!今写真を見てると、「気づけよ」って自分にツッコミ入れたくなりますが、左手の土塁はだいぶぼんやりした感じになってたしな・・・まっ、済んだことはしょーがないッスんで、この辺が北西の空堀だったっけかな~↓。2重の土塁がよくわかる。 西側の斜面は比較的刈られていたので、竪堀もはっきり確認できる↓。 西側の眺め↓。 ハア、西じゃなくて南が見たかったんだけどな~。でも、竪堀もはっきり写ってるな要害山の標高は94m。山麓の神辺旭高校前の道路あたりで海抜20mだから、比高は70mちょいだけど、下が平野だとやっぱり見晴らしはいい。当時はもちろん南側の斜面の木はなかっただろうから、おそらく要害山からも神辺城のある黄葉山はよく見えただろう。あちらの方が標高は高いし(←132m)。『日本城郭大系13 広島・岡山』によると、要害山の東麓には「屋敷」といわれる居館跡があるんだそうな。ただ、神辺合戦の最中に敵地で山麓に居館を置くなんてことは考えにくいので、きっとそれは山王山城に付随する施設なんじゃないだろうか。で、その後に南麓に大内・毛利軍が布陣したといわれる「秋丸砦」があると文章が続いてるけど、地図を見ると南麓の神辺旭高校の敷地のすぐそばに「古城神社」なんてものがあるので、その辺のことを指してるのかな、と思った。まあ、それにしても最後に平賀氏単独での持久戦に切り替えるなんて、やっぱり思い切った決断だったよな~って思う。平賀軍は800ともいうけど、背後から援軍が来て挟み撃ちにされたらどうするんだ?実際、目黒秋光のエピソードもある訳だし。ホントに目黒氏の応援てあったのかな~。墓が神辺にあるっていっても、寺の縁起もどうにも、って箇所もあるし・・・( 「福山編(22)」 「23」もご参照ください)て、いい加減しつこいよな、私もちょうどおにぎりを食べ終わる頃、人が上がってきた。ので、幸せな萌えタイムはおしまい。普通に見られるのは山頂の主郭部だけだったけど、よかったなあ、この城。来てよかった時期によっては、下草がいっぱいで遺構の確認もしづらいかもしれませんが、何しろ綺麗に残ってるし、天満神社から簡単に上がれるし、おススメです。神辺城を見るのであれば、ぜひセットで見てってほしいお城ですね。その節は、超マイナーですが平賀の御曹司・隆宗様のことも少しでも思い浮かべていただければ、こんなに嬉しいことはござりませぬ・・・※「福山編(24)」へ続きます。にほんブログ村
2013年10月18日

要害山城<広島県福山市神辺神辺町字徳田>(住所をクリックするとMapfan Webにリンクします)※「福山編(23)」の続きです。天満神社を奥へ進むと、舗装路が広がる。どうやらここまで車で上がってこられるらしい。てことは、山麓のお堂で小休止したあと、私は道から外れて竹林の中を歩いてきたけど、あのまま道路を登ったらきっとここに出られたんだろうな。道路を挟んで神社の裏っかわには歩道がつけられていた↓。 ヨシ、これだなゆっくり歩いても5分もしないうちに、前方が開けてきた↓。おっ、いよいよか? 上がりきる手前の斜面↓。ここまでの道の脇は、ずっとこんな感じで草ボーボーだった。 ところが、これを上がりきるとそれまでとはうって変わった実に感動的な光景が広がる↓。 うわあああ~、ナニコレえええ~~~!!この光景は、先人の訪城記で写真で見ていた。が、やっぱり実物は写真とは比べ物にならない。もう、大げさだといわれようが、それこそまばたきするのも息をするのも忘れるくらい小さい目を見開いたまま、要害山城の心臓部へと足を踏み入れた。・・・で、もったいつける訳じゃないですが、まずは要害山城の沿革から。この城は、一般のお城ファンの記事では宮氏によって築かれたものとして紹介されることが多い。あれ?そうなの?と思って手持ちの『日本城郭大系13 広島・岡山』を見てみたら、「天神山城」として以下のような説明があった。 【城の歴史は明らかではないが、南北朝期に宮氏によって築城されたものと考えられ、 室町期には神辺城主山名氏の家臣山名清左衛門尉時英が居城している。 また、天文十六年(一五四七)の大内・毛利両氏による神辺城攻撃の際、 神辺城の外郭として、宮次郎左衛門尉の守るこの城が攻撃され、落城した。】郷土史料などを基にこうした記述になってはいるようだけど、田口義之氏は『要害山城の価値』の中で、 【記録から見て、この城は天文一七年(1548)に築かれ、翌年の九月には放棄された。 県内1千ヵ所に及ぶ中世山城の中で、これほど残された遺構の年代がはっきり 分かる例はない。(中略) 国人の居城クラスの山城は、郡山城と同じような改修を経て、今日に至っている。 要害山城跡のように、天文一七年という特定の年代に築かれたことが判明し、 直後に放棄され、今日まで手が加えられていない、というのは大変まれな例 なのである。】と語り、それゆえに「奇跡」だと表現しておられる。要害山城のある要害山のすぐ東には、山王山という小山があり、そこには宮氏が築いた山王山城があった。だから、山王山城と混同してるんじゃないかなって気もしたんだけど、すぐ隣の山ではあるから、山王山城の出城とか砦のようなものぐらいは要害山にも置かれた可能性はある。『日本城郭大系』の解説にある「大内・毛利両氏による神辺城攻撃」はもちろん神辺合戦のことで、要害山に向城を築いたあたりの経緯については「神辺城(12)」に書いてますので、忘れた方はそちらをご覧ください。世間では陶隆房が神辺城攻めの大将として備後まで来たように書かれてるけど、私は神辺城シリーズで何度か書いたように、隆房本人は出張ってきてないだろうと思っている。少なくとも、天文18年(1549)春には備後にはいなかったといえるだろう。そう考えるおもな理由も「神辺城(12)」の通りですが、仮に山口でのおもてなしスケジュールが間違ってたとしても、もし隆房が神辺にいたんであれば、山口へお伺いを立てなくてもその場で平賀隆宗に任せるという決定ができたんじゃないかと思うんだよね。だから、隆房がなんで神辺攻めの総大将とされたのかは不明だけど、あるいは陶隆満とごっちゃになったんじゃないかとか、いろんな想像(妄想)が自然と湧いてきます要害山城が築かれたのが、神辺城攻めが本格化した天文17年(1548)なのか平賀隆宗が城攻めを引き継いだ天文18年なのかはわからないけど、まあそれなりの大軍ではあったはずだから、天文17年の方が妥当かな・・・って個人的には思う。天文17年であれば、大内軍の本陣が置かれた可能性だってある訳だし、あるいは陶隆満・青景隆著や小原隆言などの神辺城シリーズの歴バナで何度も顔を出した面々もここにいたかもしれない(↑また妄想)さて、大内氏重臣の皆様がここにいて欲しいのはヤマヤマですが、少なくとも平賀隆宗はここにいた。そしてここと神辺城の間で、「神辺城(13)」や「14」で紹介したようなバトルが繰り広げられていたのだろう。はい、要害山の名称に覚えのある記憶力のいい方もおられたかもしれませんが、「神辺城(29)」の8郭付近から眺めてぼんやり萌え~していた、あの小山がここです。要害山城、もしくは要害山の南麓の郭は「秋丸」と呼ばれたという。最終的に神辺城攻めを引き受けた平賀氏が安芸国人だったから秋(安芸)丸といわれたなんて愉快なエピソードもあるけど、それだったら毛利氏や小早川氏がここに陣取ったって「秋丸」になった訳だよなて妙なツッコミを入れたくなるのはわたくしだけでしょうか・・・まーまー、それはともかく、ここに平賀の隆宗様がいらした・・・『陰徳太平記』での「舎弟の隆祐」が誰だか相変わらずわからないんだけど、おそらく新九郎広相のことだよな。あるいは隆祐から広相に改名したのか!?とも思ったんだけど、結局わからなかった。兄弟そろって大内義隆から偏諱を受けた例は毛利家などにあるし、平賀氏なら年代的に広相が「隆」の字をもらってたっておかしくない。てか、もらう方が自然じゃないんだろうか・・・なのに、なんで「広相」なのか、ちょっと不思議な気がしてしまうのです一体、「広相」ってのはどこから来た名前なんだろう。隆保の平賀家相続があったから、広相は隆の字をもらえなかったのかとも一瞬考えたけど、隆保が平賀家に来た頃はとっくに新九郎は元服してるはずだから、すぐその考えを打ち消した。あっ、すいません。またもんもんロードに入りかけました(笑)。ここから隆宗は神辺城攻めを続行し、推定25歳頃に陣中で病没した・・・あれ?てことは、ただいただけじゃなく、ここが隆宗様ご臨終の地にもなる訳か?まだ神辺城も落とせず、若い身空でさぞ心残りだったろう。合掌。さてと、お待たせしました。現地での感動的な光景に戻りましょう。左手に進んで振り返ったところ↓。 要害山城主郭部は、南北に長い楕円形をしている。入口は3ヶ所あり、上の写真のすぐ先が南西の虎口↓。 ちょうど草を刈ってくれて間もない時期だったようで、あちこちに干し草の山が積み上げられてる。上の写真の正面にも小さな盛り上がりが見えますが、これも干し草の山です。まずはここから郭内部へ侵入~。 奥の建物は石鎚神社。かつてここは古墳だったようで、神社拝殿の下からは埴輪が出土したらしい。神社の向かって左手には、土塁がある↓。 同じ場所から振り返ると 郭をぐるりと取り囲むように、土塁が綺麗に残ってる。いやん、カンドーにほんブログ村
2013年10月17日

目黒秋光が丁谷の雲渓庵で自刃したのがホントであれば、首は送り返してやっても遺骸はやはり神辺に葬るだろうから、神辺に墓があるのは別に不思議ではない。が、目黒氏の墓といわれるものがこの龍泉寺にあるってことは、寺とともに墓も移転させたのかな?前回の縁起によると、そもそも目黒氏の菩提を弔うために雲渓庵を再興させたんだから、墓を移転させても別におかしな話でもないように思えるけど、雲渓庵がここに移転してきたのは、カッチン時代に入ってからなんだよねえ・・・福島氏に仕えたという、秋光の孫・政貴はその頃どうしてたんだろう?福島氏改易の際、神辺城主・丹波守正澄は城の明け渡しに反対したって話もあるけど、川中島へお供したんだろうか・・・いやいや、大減封もいいとこなんだから、政貴なんかついていけないよな~。なら、ふたたび浪人?どちらにしても、雲渓庵の引っ越しの頃には、目黒政貴は大した影響力も持っていなかっただろうと思われる。そんな状況なのに、わざわざ墓まで移転させたのか?いやもう、どうにもしっくり来ないことが多いので、ついあれこれ考えちゃうよ~(笑)。神辺城の歴バナで龍泉寺の名前を出したのは、藤井皓玄の蜂起の段。( 「神辺城(26)」をご覧ください)あの時の戦いで討死した兵の名が、敵味方を問わず龍泉寺の過去帳に記されているという。その時はまだ龍泉寺は「雲渓庵」で、丁谷にある無住の寺・・・あ、そっか!雲渓庵の再建は慶長7年(1602)で、龍泉寺の開基は嶺外梵雪(れいがいぼんせつ)という僧らしいんだけど、この坊様は龍興寺の2代目住職だった方で、龍興寺移転後、そのまま龍泉寺の住職を務めた方らしい。つまり、再建後の雲渓庵(龍泉寺)も、龍興寺も、神辺合戦や藤井皓玄の反乱の時は寺としてのまともな機能はなかったんだ。(つか、たぶん龍興寺は存在すらしていない)てことは、目黒氏の最期もリアルタイムで書けるはずもなく、再興してからどこかの史料や言い伝えから持ってきて過去帳に書いたと見る方が自然だよな・・・藤井皓玄の乱での戦死者の名前も、どこかから伝え聞いて記録したのかな・・・う~~ん、やっぱりナゾが多いぞ、過去帳もんもん考察はこのくらいにして、次へ急がねば。墓参りを終えて、戻る途中に見た本堂↓。 大きな破風で立派な屋根なんだけど、裏手の屋根の継ぎ目が気になった。思いっきりぶち抜いて増築したってカンジだよな。あんなことできるんだ、すげえな(笑)。龍泉寺を出て、今度は北へ向かう。屋敷があったともいわれる天別豊姫神社へも行きたかったけど、時間もないしもう入口を探すのはやめた。かつての城下町の中を、なるべくわかりやすそうな道を選んで、まずは高屋川に出る↓。 これは東方面。これをずっと遡っていくと、藤井皓玄の領地へ着く。( 「神辺城(24)」などもご参照ください)川の右手には山陽道が通り、七日市・三日市などの市が立っていた。佐藤昭嗣氏は昔はもうちょっと南側・・・写真でいえば、右寄りがかつての流水路だったのではないかとしておられるけど、おそらく九州へ向かう今川了俊はこの辺りを通って、同じような景色を見たのだろう。(←願望)それから、「福山編(18)」で紹介したように、この高屋川に生息する宮入貝がかつて恐ろしい風土病を引き起こしていた。天文年間頃も、片山病ってあったのかな。あったんだろうな、たぶん。山名理興の家臣の中にも、この原因不明の病気に苦しんでた人がいたかもしれない。こちらが西側の光景↓。 私が今いるのは下の図のピンクの★よりちょっと北の橋の上で、西側の風景を見るとどうしても「領家」の地名が気にかかる。 この「領家」は間違いなく荘園制でいう「領家」だよね~。(荘園制と領家の関係は「高山城(2)」などをご参照ください) 神辺周辺の土地支配者って誰だったんだろう・・・って、先日図書館へ寄ろうかとも思いましたが、なにぶん今は試験勉強中でもありちょっと忙しいので、その辺を調べるのはまたの機会に譲ることにしました。が、おそらくこの辺りは領家の直轄地だったんじゃないかな。あるいは、預所でも置いてたかもしれない。こういう地名が残ってるって、いいよね~。む~~ん、現在では何てことない川沿いののどかな光景ですが、歴史のあるところは妄想のネタには事欠きません(笑)。それで、上の図の「高屋川」と書いてある上にかかる橋はその名も「領家橋」。そこから黄葉山一帯を眺めたところ↓。 う~ん?1郭あたりとおぼしき場所に、ぽこんと飛び出てる木があるぞ・・・あれがもしかしたら、アベマキ様かもしれないな。ここからは、まっつぐ北へ向かう。足の爪が痛くなり始めてたので、もうこの辺りで3つ目の城へ行くのは断念した。が、途中の道にあった地元の病院の表示が疲れた心を慰めてくれた↓。 アハハハ・・・神辺は大内氏の支配下だったからね。「よしたか」の名前があっても何の不思議もない(漢字に変換しなくても、誰のことだかわかるよね) そんなバカなことばっかり考えながら傷む足で歩いて、神辺旭高校を過ぎると次の目的地も近い。まずは神社を目指せばいいんだけど、マップファンの地図ではあいにく神社への入口がわからなかった。ので、とりあえず山すそへ近寄れそうな住宅地を入っていくと、小さなお堂があった↓。 この中はちょっと腰掛けられるようになっていて、午後の陽光の中を歩いてきてさすがに暑くなったので、上着を脱いで身支度を整えてから再び歩き出す。少し道を探した後、明らかに参道じゃないけど上に上がれそうな道があったのでとりあえず進む↓。 上の方で、道は山道に変わる。途中にあったお堂↓。 いや、あれが目的の神社じゃないだろう・・・つか、ここってもしかしたら城の削平地なのかな?あり得ない話でもなさそうだけど・・・さらに進むと、ようやく参道の途中に出た↓。 なんだ、こんな立派な参道があったのか・・・帰りはこれを降りてみようっと。石段を上がっていくと、上はさらに立派だった↓。 ここが天満神社。(場所はこちら)拝殿は真新しい感じだけど、奥の本殿は結構年季入ってる↓。 おおお~、いい感じじゃないか!妻壁はかなり傷んでるけど、かすかに彩色の跡が残ってる。かつてはかなり華やかな建物だったろうし、結構年数経ってそうだな・・・よしよし、ここは降りてきてからじっくり観ることにしよう※「要害山城」へ続きます。にほんブログ村
2013年10月15日

※「神辺城(33)」の続きです。車道をうねうねと下って吉野山公園も過ぎる。屋敷跡があったといわれる神社へ寄りたかったんだけど、現地ではその入口がどこにあるのかわかっていなかったので探しながら歩いたけど、入口は見つからなかった。だいぶ降りきった後で、振り返ったとこ↓。 次の城へ行く前に、ちょっと寄ってくところがあったので、右手に尾根をひとつ回り込んで目的地まで歩く。 歩いてみると思ったより遠かったし、道もなんだか心細い道になってくけど、途中の道には上の写真のようなものもあったりして慰められる。てか、この石垣、そんなに最近造られたもののようにも見えないんだけど、ひょっとして江戸期の石垣の名残なのかな・・・山すそのちょいと寂しげな道を進むと、途中にお目当てを示す碑が出る↓。 少し安心してさらに進むと、道の一番奥に次のお目当て、龍泉寺がある(場所はこちら)。 うめばち?何の紋だろう・・・創建者ゆかりの紋ではなさそうだから、寺紋かな。さて、龍泉寺の名前は歴バナの方で何度か出してますが、神辺城主の菩提寺といわれております。創建のエピソードは史料によって多少の相違がありますが、福山市神辺歴史民俗博物館様のサイトに寺伝による話が詳しいので、一部引用してご紹介します。 【寺伝によると建武2(1335)年に神辺城を築城した浅山景連 (あさやま・かげつら=のち朝山)が、同時期に菩提寺として丁谷(ようろだに)に 建立した「清水山(せいすいざん)雲渓庵(うんけいあん)」を始まりとしています。 代々城主の菩提寺として栄えますが、その後、積雪により大破。無住となり 衰微してしまいます。】はい~、また伝説の築城者・朝山さんが出てきましたね。( 「神辺城(1)」もご参照ください)朝山さんが築いたかはともかく、最初に城を築いたといわれるのは私が登った黄葉山ではなく、その北にある古城山の方だとされている。・・・が、古城山も龍泉寺からすぐの場所にあるので、場所的には別におかしな話という訳でもないような気もする・・・ただし、現在の位置で考えれば、の話ね。上の解説によると、もともとは丁谷にあったってことだけど、丁谷って神辺城主郭部の南に広がる谷を指すと思うんだよねえ。古城山にいた朝山さんが菩提寺として創るには、ちょっと離れてない?逆に、黄葉山の神辺城主の菩提寺って言った方がまだしっくり来る。なので、おそらく長いこと黄葉山の神辺城を築いたのが朝山さんて考えられていたのだろうから、その伝承から創建者を朝山景連だとしたんじゃないかな、って思った。ああ、もちろん寺伝にケチつけてる訳じゃないですよ。ただ、朝山さんてのちに生まれ故郷の出雲へ帰ったって話もあるみたいだけどね。ま、それはともかく朝山氏の紋は梅鉢ではないようなんだな。かといって、山名紋でもないし、杉原紋でもない。さて、ここ龍泉寺は下の図では右下の方にあります↓。 (『神辺城跡発掘調査報告』の「神辺城付近地形図」に、 佐藤昭嗣氏の『神辺城の頃』に添付の「地籍図による神辺城下復元案略図」 の内容を加えたもの)居館跡の位置については佐藤氏の推定ですが、帰り谷の北には屋敷群があったともされるので、何にしても黄葉山北麓一帯に城関係者の居住空間が広がっていたってことでしょう。龍泉寺は谷の奥まった場所にあるものの、南にそびえる山頂には25郭の跡も認められており、25郭のピークからは龍泉寺の東隣の谷へ通じる道がある。あるいは、かつては25郭から龍泉寺へ降りる道なんかもあったかもしれない。境内にある鐘楼↓。 屋根は広島らしく立派だけど、柱の下部が石で継いである・・・たぶん、最近になってからの補修なんでしょうけど、なんか強度、大丈夫なのかなって気になる本堂はこの時、あいにく工事中だったのでほとんど写真は撮れずまあ、いいさ。私がここに来た目的は別のところにあるのだ。てな訳で、愛用の頼政の数珠をいそいそと装着して、墓地へ。龍泉寺は細い谷の奥にあって、山腹には墓地が広がる。お目当ての写真だけは持ってるんだけど、場所がどこだかわからないし、案内が出てる訳でもないので、墓地内をひたすら歩いて地道に探すしかない。しばらく歩きまわった後で、道沿いにお目当てを見つけた↓。 光線が強くて光っちゃってますが、右側の墓石群がそれです。かなり古そうな、小さな宝篋印塔や五輪塔の間にあるこれが、ここでのお目当て~↓。 はいっ!こちらがなんと、目黒新右衛門秋光さんのお墓と伝えられてるものです。目黒さんのことを忘れちゃった方は、「神辺城(17)」を見てね。神辺城を退去した山名理興に、自身が引き連れてきた兵を付けて出雲へ行く手配をしてやった後、平賀隆宗に自刃を願い出て、近くの禅寺に入ったというその寺がこの龍泉寺なんだそうな。『備後史夜話』には龍泉寺の過去帳の文章が一部掲載されているので、そちらからご紹介しましょう。 【天文十九年十月神辺合戦のとき、目黒新左衛門秋光、当寺に於て自害(十月十五日) す。子孫、福島正則に奉仕。福島丹波守と共に神辺に在住す。此時目黒政貴、 祖父新左衛門自害の地に寺を建て、菩提を弔はん事を願ひければ、慶長七年三月、 当城主福島丹波大檀那となり、当寺を中興、龍興寺(福山市北吉津町)の末寺とす。】う~んう~んう~~~~ん・・・・・心情的にはこれをそのまま信じたいところだけど、どうにもわからないことが多すぎる『陰徳太平記』の設定では、山名理興が平賀隆宗と逢引き・・・じゃなくて一騎打ちをしたのが天文19年(1550)10月13日の夜。隆宗が命がけのペテンに勝って、理興が律儀に後片付けをして城を明け渡したのが10月14日。そして、龍泉寺の過去帳による目黒氏の命日が10月15日・・・つまり、『陰徳太平記』と過去帳との符牒は合う訳だよね。てか、ぶっちゃけ『陰徳太平記』から持ってきた話のように思えるけど。まあ、龍泉寺の記録を『陰徳太平記』が参考にした可能性もあるし、同じ話がどこぞの郷土史料に書かれてるのかもしれないけど、天文18年(1549)の末には大内家臣・青景隆著が神辺城の城督になることが決定してる訳だから、この部分はリアルタイムで書かれてない可能性がかなり高いと言っていいんじゃないだろうか。そもそも、目黒氏の応援てのもホントの話なのかな~って私は思ってるし・・・まま、目黒氏が帰るに帰れなくなって自刃したのが現実の話だとしても、その現場はここじゃないんだよね。だってその頃、龍泉寺の前身・雲渓庵は丁谷にあったんだから。そして、その頃の雲渓庵は衰退して無住の寺だったらしい。しかし、縁起には目黒氏の孫まで出てくるからなあ(笑)。出雲に残した子は主君に取り立てられて、同行した子は神辺で隠棲?隆宗の温情により、同行した子の切腹は認められなかったとしても、目黒氏の首を送り返してやる時に、一緒に帰らないか?フツー。在陣が長引いたんだったら、目黒氏の子がちょいと現地の女性に手を出して子を産ませちゃったなんてのもあるかもしれないけど、なんかそういう感じでもなさそうだしなあ・・・ちなみに、目黒氏は過去帳では新左衛門ですが、『陰徳太平記』では確かに新右衛門になってます。Hei!Left or Right?龍泉寺の縁起に戻りますが、目黒秋光の孫・政貴(まさたか)は福島氏に仕えたとある。杉原・毛利時代はどうしてたんだ?その後の話は福山市神辺歴史民俗資料館様のサイトの方にもう少し詳しく書いてあって、目黒政貴の願いを入れて慶長7年(1602)3月に福島丹波守正澄が再建したという。この頃までに、現在の龍泉寺の場所には「龍興寺」が建立されており、再建した丁谷の雲渓庵は龍興寺の末寺とされた。福島氏の後に入ったカッチン(水野勝成)は、あらたに福山城を築き本城とする。城下町の建設には寺社の移転がつきものだけど、福山も例外ではなく、カッチンは神辺からも寺を移転させており、その中に龍興寺もあった。で、龍興寺が引っ越した跡地へ雲渓庵が入り、龍泉寺へ寺名をあらためたという・・・正直、なんともな~!!って感じの縁起ですが、素朴な疑問は色々湧くものの、別に縁起にケチつけようとか真偽を問うなんてつもりは毛頭ありませぬ。ま、伝承ですから、伝承・・・にほんブログ村
2013年10月14日

ふうっ、ついに新高山城の話数を抜いてしまいました・・・これで本シリーズが歴バナ・記事の総分量ともに城部門でトップです一体何をそんなに書いてきたんだと自分でも思いますが、20話以上写真も図もない文字ばっかりの記事なので、読み返すのもひと苦労・・・長らくお付き合いいただいた皆様、お疲れ様でした。て~え、まだ終わってません(笑)。 吉野山公園への悩ましい道を過ぎた先は小広い舗装路に出て、その場所に何度か掲載してきた移築櫓のみの推定位置図の看板があります。推定位置図の写真が2枚に分かれてしまったので、自分で描き直そうかとも思いましたが、ちょっと信憑性どうなの、ってどうしても思ってしまうので、やめました。帰り谷の方からは、ここまで車道が延びているので、おそらくここに車を停められるんだろうと思います。で、この場所からは西に向かって舗装路が延びておりまして↓ 私はこの道は行かなかったから詳しくはわからないけど、車で上がった方達はだいたいこの道を通って5郭へ行って、そこから1郭目指して上がっていくようなので、たぶんこの遊歩道は縄張図の紫のラインで示したあたりを通しているのだと思われます。上の写真では、右手側が高くなってるけど、写真を撮ったところより手前にはこんなものがありまして↓ 「西福寺 奥の院」? 西福寺って、黄葉山の北側にある寺だよな。そういえば、「神辺城(27)」で紹介した佐藤昭嗣氏の『神辺城の頃』にも西福寺が描かれてたから、古い寺なのかもしれない。そう思ってちょっとネットで調べてみたら、 【現在の場所に慶長年間(1596~1614年)に奴可郡(ぬかぐん)中野村 (現庄原市西城町)から「胎蔵寺(たいぞうじ)」というお寺が移されますが、 元和5(1619)年、福山藩主・水野勝成が福山に拠点を移し始めるのに伴い、 福山城の鬼門鎮護のために城北の吉津(よしづ=現福山市北吉津)へと 移されました。 そして、その跡地へ川南の岩田から「平等寺(びょうどうじ)」というお寺を移し、 その後「西福寺」と改称したといわれています。】 (「福山市神辺歴史民俗資料館」様のサイトより)とあるので、少なくとも慶長年間にはあった寺らしい。でも別に、周りを見回しても寺とかお堂のようなものは見えない。石碑の裏の小高い場所へはなんとか上がれそうだったので、上がってみたらこれがあった↓。(縄張図では青の★の位置) ふむ、これのことかな? 石仏自体は新しいものだけど、いつからあるんだろう、これ・・・上がった場所は特にどうということもない。が、どうも石仏の後ろが気になったので、ちょっとその先を降りてみた。そしたら なんと、さっき下から見上げた毛抜堀の上部の堀底だった。木や落ち葉で相当見にくいとは思いますが、別にしゃがんで撮った訳ではなく、立ったままこの高さだから、なかなかに立派な堀だってわかっていただけるんじゃないでしょうか。反対側↓。 あの橋がさっき見た遊歩道なんだな。奥の院を見に来ただけで、堀底に出られるとは思わなかったから、すごくトクした気分だったまあ、人によっては毛抜堀の標識のところからじかに上がってくるツワモノもいるかもしれないけど、あの場所からは私は侵入しようとは思わなかったしね。遊歩道の方へはそのまま竪堀になってるようだけど、そちら側へはこの先でかなり急になるようなので、このまま堀底を伝っていくのは無理。ので、来た道を引き返して今度は橋の方から毛抜堀を見てみる。橋から見上げたところ↓。 見下ろしたところ↓。 ふむ、やっぱり堀底から見るのが一番迫力あるな。うふふ。以上で主郭部はおしまい。今度は右の道を上がって資料館を目指す↓。 近世城郭風入口を上がって資料館入口から振り返ると、黄葉山のピークがよく見える↓。 移築櫓推定位置図によると、この場所には「日笠の丸」と書かれていて、福山城への移築櫓のうち、鹿角菜(ひじき)櫓があったと考えられてる場所らしい。で、福山市神辺歴史民族資料館の内部へ。内部は撮影禁止。思っていたよりも小じんまりとした建物だったけど、展示品は原始時代の石器から昭和に使われた民具まで、バラエティ豊か(笑)。ここには、私が黄葉山に上がる際に通った荒神社の近く、「下古屋」のあたりから出土したという、シャチホコが展示されている。が、私の目を引いたのは中谷廃寺跡から出土したという、蓮華文の軒丸瓦。3点あったうち、大きいものは掌ぐらいのサイズですごく気に入った。あ~、1コでいいから、蓮華文の軒丸瓦欲しいな~他には確か古代の耳環なんかもあって、ちょうど孫とジイちゃんの2人連れが「なあに、これ?」「イヤリングだよ」「イヤリング?パパがしてるやつ?」って爆笑をこらえるのに苦労させられた会話をしておりました。君んちでは、ママじゃなくてパパが耳環しとるのか一通り見終えた後で、事務所へ。そこから先は「備後トラブル集・そのに」で先行して公開した通りです・・・でもね、資料館のおじさんはホントにいい人だった。沢山資料をコピーさせていただいたおかげで、どうにかここまで記事を進めることができました。人はいいんだよなあ、福山・・・今思い返しても、そんなに長いこといたのか実感わかないんだけど、10:39の写真の後は13:59まで時間が飛んでるので、確かにそれだけの時間いたのだろう。事務所の前の椅子に座って資料を読んでた時、事務所の中ではおじさんが弁当を広げてる音がしたしな9郭で食べといてよかったな~って思ったものさ、フッ。まあ、当然なんで千葉から1人で神辺へ来たのかって話も出るので、「大内氏が好きで・・・」とか前日の行程などの話をしてるうち、「随分勉強してるようだけど、どうやってそれらを知ったの?」って聞かれたので、「あ、田口義之さんのサイトなどを読んで・・・」と答えたら、「田口さん?ああ、先日も来ましたよ~」と言っておられた。そっか、さすがに顔見知りなんだな。ピンポイントで目的地付近のことならわかるけど、広域になると全然土地勘がないので、一度資料館の外へ連れられて周囲の説明などもしてくれた。杉原盛重は山中幸盛のライバルとしての方が有名だと知ったのも、この時だった。後から知ったんだけど、幸盛が捕らえられた時、盛重の尾高城で拘留されたこともあったらしい。ま、予定外に時間を費やしてしまったけど、資料館での時間は色んな意味で楽しいものだった。おじさま、ありがとうございました資料館で長居してるうち、すっかり冷え切ってしまったので外の日射しが温かい。資料館を出て、車道を帰り谷へ向かって降りていく。途中から見た黄葉山↓。 神辺城を制覇して、この辺りが大内氏の東の最大版図。大内義興さんが上洛戦に成功していることから、京を東限とする人もいるけど、それはちょっと違うんじゃないかい?かつてこの城をめぐって、魅力ある武将達が激しい戦いを繰り広げていた。私がここまで書いてきたのはその一端でしかないけど、少しでも神辺城と城に関わった人達のことに興味を持って現地にも足を運んでいただけたら、嬉しいです。※「福山編(22)」へ続きます。にほんブログ村
2013年10月13日

さて、9郭にも発掘調査の手が入っている。発掘調査報告書より簡単に紹介しますと、ここでも礎石の列が確認されており、礎石のある建物が9郭にもあったことが判明したそうな。それから、北西の方角にはL字型に曲がる溝が確認されており、礎石建物と同時期に存在した可能性が考えられるものの、なんでL字の形をしているかや建物の本来の規模など、詳しいことについてはこの調査ではわからなかったらしい。1郭は何段階ものリフォームがあるから、礎石とかの遺構の残存状況が悪いのも致し方ないけど、1郭以外のあまり手が入ってない郭だったら、案外移築櫓の存在の確認なんかもしやすいんじゃないかと思ってたけど、9郭でも建物の完全復元までには至らなかったらしい。ただ、9郭内では礎石が地山の上に据えられており、他の遺構面が確認できないことからこの礎石建物1棟以外の存在は考えられないという。そして、荒布櫓の存在も確認できなかった、と。調査では、1郭側の南端には石垣の跡が認められた。たぶん、これのことじゃないかと思うんだけど↓。 ・・・わずかな名残だけどね。ここの石垣も石が抜き取られており、【石を抜き取った際、裏側を50~60cmも削平しているため、裏込の石があったかどうかは不明であるが、地山そのものが3~7cmの角礫で、裏込の必要はなかったのではないかと思われる。上側のレベルがそろっていないことより、更に上に積んでいたものと思われるが、何段あったかは不明である】んだそうな。元・町長さんのいる主郭部西端の6郭から郭内を順ぐりに見てきた限りでは、今回私が石垣の名残らしきものを見たのはここだけだった。が、主郭部の南側の山腹には一部石垣の跡も見つかっているようなので、場合によっては駐車場から山腹の周回路を辿る途中に木々のすきまから見えるものもあるのかもしれない。という訳で、9郭で検出されたのは、建物跡1棟、石垣、溝各1ヶ所。遺物の数はそう多くないらしいが、瓦片・・・ここでは軒平瓦だけではなく、軒丸瓦のカケラも見つかっているんだそうな。まあ、時期的に当然、瓦で葺いてたなら本瓦葺でしょうからね。 あと見つかっているのが備前焼の甕とすり鉢、土師質土器の小皿、鉄釘の破片、だそうな。古銭がここから4枚見つかっているのは、前回書いた通りです。9郭の北端からは、下の10郭がよく見える↓。 ちょっと脇の木がジャマだけど、ちょうど舌の先っぽのような形をしてるのがよくわかる。9郭の出入口は、南西に2ヶ所、南東に1ヶ所。ここのベンチで10時のおやつを食べていた時、1郭から人が降りてきたけど、その人は南東からそのまま抜けていった。でも私はもちろん真下に見える10郭へ降りたかったので、南西の方に道を見つけて降りたんだっけかな。10郭へ降りてから見上げた、9郭の切岸↓。 9郭との比高は6mほど。9郭~1郭間の比高も同じくらいのはずだけど、9郭~10郭間の方が等高線の間隔も詰まってるし、見るからに斜度が急。ここから北側に向き直って全体を見たところ↓。 そしてここには、これがある↓。 郭内を歩きながら、東側の端から下を覗いてみたら、帰り谷が少し見えた↓。 北側のいちばん奥から9郭方面を見たところ↓。 こちら側から見ると、うっすら盛り上がってるような箇所も見えるけど、ここには詳しい調査は入ってないようだし、往時にどうなっていたのかはわからない。10郭北端の先は、ほぼ真北方向に4段、北東方向に3段、それぞれ別尾根伝いに小さな郭らしきものが確認されているようだけど、この場所から降りられるような道はなかった。屋敷跡じゃないかと言われてる真北方向の郭へ降りたかったんだけど、ここからは行かれないみたいだな。下から上がれる道が付けられてるのかな。縄張図による10郭の出入口は3箇所。南西に9郭への道と、大手方面へ抜けられそうな道の2本ある。あと、南東に1つ。私は南東の方から出た。南東の道は主郭部東側の山腹に付けられた道で、広くてなだらかな道↓。 縄張図でもこの道は太いラインで描かれてるので、実際に城兵がここを行き来してたんだろうな。少し進むと、10郭から見たよりも帰り谷方面が尾根の先端までよく見える↓。 さらに進んでいくと、前方左手にこれが見える↓。 あ~、あれが資料館か・・・あれを、確か1郭に建てようという計画だったと読んだような・・・よかったよなあ、1郭が保存されて。この後、あれに向かう予定なんだけど、地図を見ると主郭部とは別の山頂らしいんだよなあ。どうやって行くのか道がわかってないんだけど、大丈夫かな・・・だからね、真偽の不明な移築櫓の、しかもお値段高そうなやたら立派な石碑を置くよりも、城内の郭の位置とルート図を各所に建ててくれた方が有意義だし安上がりだし、いいと思うんだけどねえ。(↑しつこい) で、確かこれが9郭へ上がる道だったような↓。 その先で、分岐が出る↓。 ここにはちゃんと標識がある。上が1郭への道で、下が だそうな。吉野山公園は結構下の方にあると思うんだけど、資料館もそっちへ進んでいいのかな・・・でも目的地が見えてるし、1郭へ上ったところで確実に資料館に辿り着けないのはわかっているから、下の道を選んだ。進むにつれ、資料館は近くなっていく↓。 あの建物自体は、復元でも何でもありません。ここ神辺城での私の時間軸はもちろん神辺合戦のあった天文年間に照準を合わせているので、やっぱり不釣り合いな感じがしてしまうのだけど、神辺城全体の歴史でいえば終盤にはあんな感じの建物があるにはあった訳だしな・・・もう少し時間軸を後にずらせば、あれはあれでイメージしやすいのかもしれない。ただ、縄張図を見ると、あの辺て24郭の位置じゃないかと思うんだよね。24郭だったとしたら、あれってRC構造だし、あれを建てる際に遺構はかなり破壊されてしまったんじゃないだろうか・・・普通の木造民家程度だったら、案外地面の下の遺構は残るものらしいんだけどね。ちょっと複雑な思いを抱えながら進むと、これが出る↓。 上の縄張図だと、右下のオレンジの太いラインがこれにあたります。カメラを上に転じると ふむ、なるほど。「通称 毛抜堀跡」とあるのは、堀の断面からの分類で、U字型になっている堀のこと。落ち葉も積もってるし、ちょっと木がジャマなので下から見てる分にはそんなにすごい堀って感じはしない。この辺にはまたこれがあって↓ 標識のすぐ先がこうなってた↓。 えええ~、これが道ィィィ~?草が相当覆いかぶさってはいるものの、道だと思えば道に見えなくもない。この辺りからは直接吉野山公園に降りられる道も確かに延びてるハズだしな・・・しかし、すぐ近くに見えてる資料館へこの道を行くはずはないし、あくまで標識は吉野山公園への道を示すものだから、しばらく眺めて悩んだ後でここはスルーした。↓ランキング参加ちうにつき、ぽちりとお願いしますにほんブログ村
2013年10月12日

(「神辺城跡発掘調査報告」より)水色の区画は遺構が少なくとも2時期にわたるのは前回書いた通り。城内にある唯一の絵図、福山城への移築櫓の推定位置だけを記した看板を見ると、1郭には一番櫓と塩櫓があったと考えられているらしい。ここの礎石の状況から、この位置には1層以上の建物があった可能性もあるものの、サイズ的にそれが塩櫓だと断定できるまでには至らなかったらしい。その隣、ピンクの細長い区画は礎石の間隔が狭いので、廂に相当する部分と思われ、これに付随する礎石を追ってみたがそれらしい礎石は発見できなかったとのこと。水色および黄色の建物とは別棟らしい。で、水色の建物の棟方向は南北の可能性が考えられる、とある。へえ~、礎石だけでずいぶん色んなことがわかるんだな~。棟方向まで推定できるなんて、びっくり。黄色の建物の方は、南北の端は礎石の残存状況の関係で特定できなかったらしいが、ここも瓦が少量と土師器質の土器片が大量に見つかった。その上、それらの土器片は礎石よりも下層に多いので、ここから水色の建物と同じく、【以前の遺構面を整地して礎石を設定したことが判明した】そうな。黄色の部分の南側は別の建物なのか断定はできなかったようだけど、北と南で別の建物であったとしても、礎石の間隔から北側の建物と同時期に存在した可能性があるという。それから、紫のライン。これは礎石の列なんだけど、他の建物とは明らかに軸の方向が違う。ので、時期が違う可能性があるという。1郭には他にも色々ありますが、最後に1郭のまとめを『神辺城跡発掘調査報告』からご紹介します。 【検出された遺構の数は、1郭で、礎石建物跡5、溝3、石垣1、石組1、(中略) 礎石建物跡については、1郭では一応5棟分が推定復元されたが、これ以上 存在していた事はほぼ間違いない。礎石列の方向の違いより2時期はあり、 しかも1時期は相当建て込んでいたと思われる。ただ、礎石列の残存状態が 非常に悪く、完全に規模が推定できたのは1棟もなかった。 そのため、本郭の調査目的の1つであった一番櫓、玉櫓、塩櫓が果して存在したか という問題についての回答は得られなかった。】という訳で、排土して調査しても移築櫓の存在を断定できなかったのだから、9郭を除いた調査の入っていない他の郭での移築櫓の存在はなおさら歴史の闇の中といえると思います。「礎石列の残存状態が非常に悪く」とあるのは、どうも結構な数の礎石が抜き取られているためのようで、古い時代の礎石については、あるいは整地の際に抜かれたものかもしれないし、新しい時代の礎石は福山城へ引っ越したのかもしれない。「1時期は相当建て込んでいたと思われる」ってとこが笑えるけど、建物がなにもない現在では、1郭~5郭あたりの中心部はそこそこの広さがあるけど、ここに建物をどっちゃり置いた光景を想像すると、相当息苦しい(笑)。しかも、図の水色と黄色のあたりは遺構から最後のリフォームの前の段階でも瓦葺の建物があったことは確実と言っていいと思うので、たとえ個々の床面積が大きくなかったとしても、それなりに重厚な建物が1郭だけでも複数あったというのはどうもピンと来ない。そこで駐車場の方にあった移築櫓推定位置図ですが、 人質櫓がおそらく2郭、荒布(あらめ)櫓が9郭かな。1郭周辺は櫓だけで相当なスペースを櫓に割いてることになると思うけど、ホントにこんなに沢山の櫓があったのかな~って気になる。個人的には、福島時代に黄葉山にそんなに沢山櫓を上げるかな~って気がするので、多くが杉原盛重頃から毛利氏時代に上げられたもののようにも思える。けど、少なくとも1郭では瓦で葺いた建物を一旦壊して均してその上に新しい建物を建てていることになる。そして、南側にある石組などはかなり新しい時代のものと推測されるようなので、神辺城の歴史の終盤には1郭のかなり大掛かりな手入れが行われたようではある。神辺城跡からは14枚の古銭が見つかっているという。9郭から4枚、10郭から1枚、よくわからない場所から1枚、で残りの8枚はここ1郭からの出土。このうち、8枚の古銭の拓影が調査報告書に掲載されてるんだけど、綺麗なものはホントに綺麗で、「永楽通宝」とか「天聖元宝」などの文字がはっきり読める。9枚が渡来銭で、4枚は不明。残りの1枚は寛永通宝。寛永通宝の鋳造開始年代は福島正則の改易後だから、この唯一の寛永通宝はカッチン(水野勝成)ご一行様の落とし物か!?ああ、でもカッチンが福山城に引っ越した後に寛永通宝の鋳造が始まってるのか・・・なら、ピクニックに来た江戸時代人の落とし物か?それとも、山林の見回りにでも来たお役人様の落とし物か?どちらにしても、一時的に来た人の持ち物だったんだろうから、とんだうっかりさんだこと古銭の他の出土品としては、瓦が一番多く、数千点はあるらしい。多すぎて数えてないんだな・・・(笑)。その次が土師器皿の小片で、約2千点。その他は陶磁器片が少量と古銭、鉄釘片。遺構からは3時期以上の可能性が考えられるそうな。さて、1郭はこれでおしまい。現地では南東の方にかつて石垣があったなんて知らなかったし、結構奥の方は草が生えてたので、西側を中心に歩いた後、次へ向かいました。 こちらが北東から9郭へ延びる道↓。 これは縄張図にも太いラインで描かれてるので、城が現役の頃から使われてた道だろう。縄張図を見ると、一旦北西に出て途中の分岐に入ると11郭経由で9郭へも抜けられるようだけど、今回は通ってないので現在はどうなってるのかわからない。なだらかな道を降りていくと、前方に藤棚みたいなものが見える↓、 ふ~ん?あれが「公園化」の成果かな・・・何もしなくて良かったんじゃないか・・・とか小さなツッコミを入れながら道に沿って歩いていくと脇にこれがあった↓。 縄張図の赤丸の場所がこれで、井戸跡とある。そう言われて初めてかすかなくぼみが認められる程度のもの。でも、山名理興も籠城の際、ここの水を飲んでたかもしれない。 このくぼみのすぐ右脇にあるのがこちら↓。 何もこんな場所に置かなくったっていいのに・・・と思いながらお社を覗きこむと、「日御碕神社」とある。んん?日御碕(ひのみさき)って、出雲の!?なんでここに日御碕神社が・・・きっと出雲から勧請してるんだよな。で、ここで伯耆尾高城を任された杉原盛重のことを思い浮かべた後で、ふと神辺城築城者との伝承のある朝山次郎左衛門尉景連のことを思い出した。「神辺城(1)」にもちょっと書きましたが、朝山さんて出雲の佐陀大社の一族の出身なんだよね。とは言っても、朝山さんが築城の折にここに勧請したとはちょっと考えにくい。というのも、仮に伝承の通り朝山さんが築城者であったとしても、最初はこの黄葉山には城を築いてないと思われるからなのだ。であれば、やっぱり盛重かその子の縁で日御碕から勧請したか、もしくは後代になって朝山氏築城伝説から逆引きして日御碕から勧請し直したとか、そんな感じなのかなあ~。一体いつからあったものなんだろう・・・この辺りから見上げた、1郭の切岸↓。 大体4mくらいの高さがあるのかな。井戸跡を過ぎてから振り返ったところ↓。 1郭からはぐるりとカーブを描いて9郭へ入るようになっている。9郭には、これがある↓。 藤棚(かな?)の前にはベンチがあり、ちょうど日当たりが良かったので少し休憩~。 わたくしの旅にグルメなどという言葉が無縁なことは皆様ご存知の通りですが、夏のミワラでは猛暑だったこともあって、とにかく持ち歩いても悪くならないものをという観点で行動食を選んでたので、貧相な食事にさらに輪がかかってましたが(笑)、初冬ともなると持ち歩ける食料の幅も広がる。そういえば、神辺合戦の時ってどうやって食料を調達してたんだろう。最後の籠城の時なんかはお腹すかせた兵がこの辺ウロウロしてたかもしれないよな~。そんな場所でこんなもの食べちゃって、大丈夫かしらん・・・て内心はちょっとびくつきながらも、霊感のない鈍感ジジイなので 9郭でそこそこの腹ごしらえをしていきました。今日も結構欲張りなプランを組んではいるものの、現地で気分が良くなるとあくせく行動するよりも気分のままにとことんまったりするタイプなので、ここでも誰もいない静かな城跡で1人楽しむ・・・なんたって、昨日が散々だったからな~。神辺城は管理方法に若干の不満はあるけど、それでもやっぱりこうして整備してもらっている城だと、安心して楽しめる。整備された城ばっかり行ってたら、たぶん何も感じることはなかったと思うけど、前日未整備の城で失敗したからこそ、整備のありがたさがつくづく身にしみる。昨日はホントに大変だったけど、まあいい経験をしたって言えるのかな。この福山での経験とかつて山口の大内氏館の史跡庭園のイベントに参加させてもらったことを通じて、史跡整備に関する考え方が変わったのは確か。少しは成長したといえるのかな?にほんブログ村
2013年10月11日

8郭からはそのまま奥へ進むこともできるけど、3郭へ上がって郭内部から進むことにした。で、4郭へ戻ってこちらが3郭へ上がる小道↓。 う~ん、きれいだ~縄張図を見ると4郭との比高は7mくらいあるのかな。3郭に上がってすぐの西端から4郭を見下ろすと、5郭まで見える↓。 目を北に転じると、さすがに高いだけあって8郭から見るよりも要害山がよく見える↓。 ダメだ、あの山を見るとどうしても意識があちらに飛んでく・・・で、ここは だそうです。(福山城での乾櫓の位置は「福山城(18)」をご覧ください)進行方向に向き直ると、 縄張図でもこの3郭は細長い形をしてるけど、現在では右手に植え込みがあるので、目に見えているよりはもうちょっと幅があるものと思われる。左側下段に延びてる道は8郭から続くもので、上の図だとピンクのラインにあたる。少し進んだところ↓。 え~っと、だいたいこの辺りが2郭かな。これもあったし↓。 この辺はどうものっぺりしてて、なんか郭って感じじゃない・・・それもそのはず、前回、一部工事が先行して地元住民の通報によってストップさせた過去を紹介しましたが、その時点で2郭と3郭はほぼ工事が終了していたんだそうな。で、関係機関が協議した結果、2郭と3郭はもうそれ以上手を加えないという条件でやむなく公園整備を認めたと発掘調査報告書序文は語る。なので、この辺りは公園化に伴う工事で当時とは少し違ってる部分もあるかもしれない。元々がどういう計画だったかは知らないけど、1郭と2郭に建物を置く計画だったと何かで読んだような・・・場合によっては、今頃ここには近世城郭風建物でも建ってたかもしれないさらに奥へ進むと、いよいよって感じの風景になる↓。 真ん中よりちょっと左にある区切りも、工事の名残かな。あるいはこの部分には、うっすら基壇の跡でも残ってたかもしれないな~と思った。 ↑1郭西側直下。2段に分かれてるのかな。奥の方には大きめの石がいくつかあって、このまま礎石に使えそうな形をしてるけど、石垣の残りって可能性もあるしな・・・それに、石の位置が移動している可能性も十分にある。他の郭はともかく、2・3郭内部はちょっと過去の経緯を差し引いて見た方がよさそうな気がする。この辺からは図のピンクのルートに一旦合流して、1郭へと続く。道の途中にあるアベマキ↓。 これは福山市の天然記念物なんだそうな。神辺歴史民俗資料館様のサイトによると、樹齢は不明。高さ約30m、幹周り約3mで、平地の数キロ離れた場所からも見えるとある。この場所はほぼ黄葉山の最高点に近い標高だからね。そのすぐ奥にはこれがある↓。 アハハハ、どんぐりがお供えしてある~。アベマキ様が落としたどんぐりかな。そしていよいよ1郭、神辺城本丸↓。 もう冬の寒さなんだけどね。思ったより下草が残ってるなあ。確か、郭へ足を踏み入れるあたりには早速礎石らしきものが↓。 【1郭への通路は、北東・北西・南東部の3ヵ所にみられ、位置的にみて北西部が 正面で、南東部が裏面にあたり、それぞれ門があった可能性があるが、周辺の石垣が ほとんど根こそぎ抜き撮られているため、断定はできない。】 (「神辺城跡発掘調査報告」より)南東の方はあまり良く見ていないのでわからないけど、北側の郭群から通じる道がこれにあたるのかもしれない。北西は私が侵入した場所で8郭へ続く道を指すと思われ、北東は9郭へ続く道が今も使える。さて、まずは2枚上の写真の正面にある解説板へ向かう。 【神辺城跡 神辺平野を一望することができる場所に築かれた神辺城跡は、室町時代初め頃に 築かれた山城で、山頂や尾根を削って平坦にした郭が約25箇所確認されています。 郭には建物や土塀が建てられ、城を守るために造られた石垣や空堀、井戸の跡も 残っています。 山城は戦の時に立て籠る施設で、城主は日常は麓の平地に館を造って住んでいました。 現在の広島県立神辺高等学校のあたりは古屋と呼ばれ、城主の館を中心に 武士の屋敷があったと考えられています。 以後、江戸時代の初めまで約300年間にわたって備後地方南部の拠点として 威光を誇っていました。】 (現地解説板より)一般的に言われる神辺城築城当時の話を簡単に「神辺城(1)」で紹介しましたが、建武年間(1334~37)の築城とは言われるものの、古い時代のことについてはあまりわかってないというのが実情らしい。元々はこの黄葉山に築かれたものではなく、近くの古城山に築かれたものだっていうし。神辺城の発掘調査は公園整備のための事前調査だったので、1郭と後述する9郭のみ詳細な調査が行われた模様。「発掘調査報告書ありますか?」って聞いて貸してくれたのが1977年のだったから、たぶんそれ以降は地面を掘り返しての詳しい調査は行われていないのだろう。幸い、1郭については詳しい報告が書かれているので、報告書を基に少し1郭の紹介をしたいと思います。で、まず井戸なんだけど、現在訪城者にわかる形で残されているのは1箇所。が、地元の方の話によると1郭中央東端と11郭にも井戸があったとされているんだそうな。発掘調査では1郭内に井戸は検出できなかったようだけど、言い伝えがホントだったら、たぶん解説板と「本丸跡」の立派な碑があるあたりじゃないかと思うんだけどね。 (「神辺城跡発掘調査報告」より)↑こちらが1郭内の詳細図。色分けした部分が、礎石から推定復元した建物です。1郭には礎石や瓦の破片があると聞いていたので、地面だけをひたすら見ながら図の水色のブロックへ入ってみました。そしたら、草に隠れてはいたけど、頑張って探すまでもなくお目当ては簡単に見つかった。まずは瓦~。 残念ながら、新高山城のようにほぼ原形をとどめているものは見つからなかったけど、瓦好きのわたくしには十分すぎるほどです。ほとんどが平瓦のようで、ここでは軒丸瓦っぽいのは見つけられなかったんだっけかな。それから礎石~。 礎石の方は、少し足で落ち葉や地面をかいてますけどね(笑)。このブロックでは【多数の瓦片の堆積がみられ、その下より整然とした礎石列が検出され】たそうで、 【礎石抜き取り穴よりは、土師質土器や鉄釘の破片が出土し、しかもそれが 全面に広がることより、礎石列は以前の遺構を均した上に設置されたことが 判り、1,2区(水色の区画付近)は遺構が少なくとも2時期にわたることが 判明した。】 (【】内はいずれも発掘調査報告書より。()内は戦国ジジイが追加)「はじのうつわもの」がここでも見つかったのか・・・その土器片の中には、あるいは山名理興が口をつけた器もあったかもしれない。て、私ってそんな想像ばっかにほんブログ村
2013年10月09日

ぷ~りぷり怒りながら元町長さんの足元へ戻る。ここからの眺めは実に素晴らしい。こちらが北の方角かな↓。 こちらがたぶん西↓。 この辺は案外山がないんだな。つまりこれが神辺平野か。右奥に見えてる山あたりが、宮氏の領地かな~。だったら、左手奥あたりが相方城になるよな。山を見てあれがどれだ、って同定できるほど土地勘がないのが残念ですが、ここから遠くを眺めて遠い昔に浸るのは実に楽しい。しばらく展望を楽しんだ後で、次へ向かう。縄張図を見ると、左側から行かれる道もあったかもしれないけど、私は右の道へ進んだ。6郭出口付近にも、こんなものが・・・↓。 神辺町民の皆様には誠に申し訳ないとは思いますが、現在の6郭のしつらいは実に悪趣味。発掘調査のきっかけを前回紹介しましたが、工事が始まってしまったのを地元住民が通報してストップさせたらしく、もし工事がそのまま進んでたら、今頃歴史ある神辺城の本丸が一体どんな無残な事になってたか想像するだに恐ろしい福山城シリーズで紹介した通り、神辺城にはかつて多数の櫓があったとされており、本丸側にあった看板にはそれらの推定復元図が描いてあった↓。 ところが、城内で私が見た限りでは解説図はこれだけで、せっかく立派な主郭部の縄張図があるのに、それを載せた解説はどこにもなかった。そういう訳で、本シリーズでは発掘調査報告書の図を拝借して紹介を進めさせていただきますが、やっぱりお城ファンでも復元櫓とかあればいいなあ~って言ってる方もおられるほどなので、城に特別の関心がない人であればなおさらそう思うのだろう。よその城でも、城郭風建物でも造っておけば人が集まるんだろ?ぐらいの認識で安易に造ろうとする為政者がいるけど、遺構が全くないのならともかく、神辺城には沢山の遺構があるのだから、安易な客引き感覚でおかしなものを造るのはホントにやめて欲しい。確かに、神辺城は最終的には近世城郭の態をなしていただろうけど、山城には山城ならではの素敵な遺構が沢山ある。それより、ちゃんとした縄張図を使って城の解説をして欲しいよな。さて、文句はひとまずこの位にして、次へ。現地でも縄張図は持ってはいたけど、詳細で綺麗な図は主郭部を歩いた後に手に入れたものだしイマイチ記憶も定かではないが、6郭を右側に出ると舗装された道路。ここはピンクの16郭と重なってる通路かもしれない。その先が分岐だったんだっけかな。帰り谷の方から車で上がって来る方達はだいたい駐車場から遊歩道を伝ってまず5郭に入っていくようなので、おそらく15郭・14郭あたりを経由して本丸南側直下を通るルートが付けられているのだろう。6郭には寄らず5郭から1郭へ向けてスタートするから、世間ではあんまり元町長さんの像が話題にならないんだよね。 それで、こちらが(たぶん)5郭↓。 右の建物ってなんだっけ?トイレだっけ?使った覚えないけど・・・ で、ここにはこんな立派な碑がある↓。 一見いいような碑だけど、私はここでも不満たらたらだった。なんでか?縄張図を使った解説がないと上に書きましたが、それだけならまだよかった。神辺城の主郭部に建てられてるのは、この「ナントカ櫓」の碑ばっかり。確かにラストは近世風の櫓があったんでしょうけど、何の櫓がどの郭にあったかなんて、確定した訳じゃないんでしょう?それより、縄張図と照合できる「ナントカ郭」の解説が欲しいんだけど。実は、この福山3日目の写真は昨日全ての名前付けが終わったとこなんだけど(笑)、1年近く経ってどの写真がどこの郭だったのか、こういうスタイルのせいで記憶を辿るのが大変でした て、1年近く放置していた自分が悪いのはわかってますが、要するに観光協会としては、福山城へ移築された櫓があったのをウリにしたい訳だよね。でも、神辺城が備後の華だったのは、やっぱり毛利時代以前だと個人的には思うんだけどね。現実問題として、観光協会様の戦略とかも色々あるでしょうけど、なんかちょっと違う~って正直思っちゃうんだよね。これは福山城の管理姿勢への不満と同じ。何となくそれっぽいものをあやふやなまま造るより、どちらも重要な城なんだから、もっと本格的な紹介や整備をして欲しい・・・そう思えて、いい城なだけにものすごく歯がゆかった一言でいえば、あ~~~~、もったいない!!ってカンジ?5郭から4郭へ上がる道↓。 なんか、左にも小道が延びてるなあ。おそらくこれが、図の青い矢印で示したルートだと思われる。広域の図の方では、この道は途中までしか描かれてないんだけど、今はどこまで行かれるんだろう?方角的に、かつてこの道は大手付近へ抜けられる道だったのかもしれない。その先あたりから北側の斜面↓。 これは道か?竪堀か?でも現在はご覧の通りの状況なので、サイズ的に今にもこの草のトンネルからズザザザーーーッッ!!ってイノシシでも駆け上がってきそうで(笑)ちょっとびくびくしながら写真を撮りました。4郭の切岸↓。 上がった先の光景は、テンション上がります↓。 思えば、私にとって本格的な山城はこれが初めてだったんじゃないか?だって昨日は失敗続きだったし、相方城は主郭部をちょっと見た程度だし、近世城郭の平山城や小山の中世土城は行ったことあるけど、やっぱり山城とは違うし。すごいな~とは思ったものの、福山の後に行った東西条編の山城に比べると、まだ見方もよくわかってない頃だったので、ちょっとぼんやり見てました。ああもったいない(←1年後の自分の声)。眼前に広がる3郭の切岸には「いらっしゃ~い」って誘うような小道が付けられているけど、誘惑を乗り越えてまずは3郭北側を回り込むように付けられてる道を進む↓。その奥が8郭。 8郭付近から北側を見たところ↓。 ああ、正面に小山が見える。あれが神辺合戦で大内軍が陣を置いた要害山だな。平賀隆宗がこもった「向城」はあれのことだ~『陰徳太平記』では隆宗が陶隆房におねだりして造らせた設定になってるけど、私は隆房は出張ってきてないと思ってる。( 「神辺城(12)」をご覧ください)ま、それはともかく、結構近いな・・・あそこにいる隆宗と、山名理興や杉原盛重や杉原興勝がバトったのか~。(『陰徳太平記』での隆宗と山名ズとの愉快なバトルはこちら)もちろん、現実は愉快どころじゃなかったはずだけどね。わずかな先に見える要害山を目にして、しばし神辺合戦に思いを馳せてひとり萌え~・・・・・・・・・↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2013年10月07日

神辺城へは、帰り谷を太いピンクの矢印の方向へ車道が上まで延びてるので、そちらから入る人が多いように思われる。が、駅からまっつぐ歩いたところにも登山道があって駅から余裕で歩いていける。私はどのみち歩きが基本だし、山城はやはり歩いて登ってこそ。てな訳で、駅から歩きだす。 正面の山が、神辺城のあった黄葉山。駅からまっつぐ東に延びる道を進んで、上の図の黄色いライン、国道313号線を越えると道は格段に細くなる。途中にあった民家↓。 昨日もこのテの屋根がホントに多かったけど、神辺もこの屋根なのか。かなり特色あるよな。登山道入口への道は、あまり細かいことはわかってなかったんだけど、確か神辺公民館を右手に見てずっと奥まで進んだあたりにこの看板があったような気がする↓。 私がまず目指したのは、図では駅から延びる細いピンクの矢印の先にある、荒神社。看板に従って進むと、神社の入口らしきものが見えた↓。 アラアラ、ちっこいお社かと思ってたら、結構立派な参道でないの~!鳥居をくぐった先にも、石段は続く↓。 石段の途中には ・・・あい、おはよ~。今日もボール遊び、頑張ってね~。石段を上がりきると、小広い削平地↓。 現地でコピーさせてもらった発掘調査報告書ではここは郭だと認識されてないようだけど、ここも昔からあった削平地じゃないのかな。ただし、この場所は標高25m程度ほどでかなり低い場所にあるので、防御施設というよりは屋敷の類があった程度かもしれないけど。社殿に近づいて、まずは今日の行程が無事に終わるようにパンパン神辺城の発掘調査報告書は、 【神辺城跡は、広島県深安郡神辺町大字川北・川南古城山に所在する山城で、 歴代の備後国守護職の居城であった。】という書き出しから始まる。神辺に守護所が置かれたというのは長らく言われてきたことらしいが、近年の研究結果では神辺には守護所は置かれなかったとされる。で、その後に続く文によると、前々から県の指定史跡にという要望があったらしいが、様々な事情により指定を受けるに至らなかった。そうこうしているうちに黄葉山の山頂一帯を公園化するという話が持ち上がり、連絡がうまく行ってないとかよくわからない事情で一部の工事が勝手に進められ、急遽発掘調査をしてその結果いかんで公園化について検討することになった。という経緯のある調査なので、コピーしてきた図を見ると、どうも対象は公園化の対象となっている山頂付近に絞られていたようで、黄葉山の西麓側はルートも途中で途切れてるし、黄葉山全体でそれなりの調査はしてるんでしょうけど、西側はあまりわかってないような印象を受ける。ひとしきり荒神社の境内を見回した後で、社殿手前の右に延びる石段を上がっていく↓。 なんか、上に石造りの建物が見えるな・・・ 頑丈なブロック造りの外壁に守られて、小さなお社があった。中におわしたのは、お狐様。 あいにく賽銭箱はなかったけど、パンパンしてから先へ進む。この先はもう山道↓。 こちらのルートから登っている訪城記は見たことなかったので、実際どういう道なのかは全く把握してなかったけど、この感じなら道も整備されてそうだから、なんとか大丈夫そうだな。そう思って歩き出すと、すぐ普通の山道に変わった↓。 確か荒神社から上に出るまでは標識はなかったと思うけど、踏み跡はしっかりついてるし、迷うような分岐もない。で、調査報告書の図には竪堀などの類は書きこまれていないので、はっきりとはわからない部分もあるものの、この辺の登山道から斜面を見下ろすとわずかに竪堀のようなものも見える↓。 でも、もう少し行った先には畝状竪堀群が見えるらしいので、この場所に竪堀があったっておかしくない訳だよな。しばらく薄暗い森の中をてくてく歩き、途中写真を撮ったり周りの地形を見渡したりしてゆっくり歩いて約15分。おもむろに西側の展望が開ける↓。 黄葉山の標高は約130m。ただし、平地も低いので比高は110mほど。決して高い山ではない。まして、ここはまだ上がりきってない場所。それでもこれだけ見晴らしがいいのだから、ん~っ、なるほど、いいポイントだわ~って気にもなる。神辺合戦で大内方の実数がどの程度だったかはわからないけど、天文17年以降はもちろん本腰を入れて城攻めにかかってるんだから、それなりの数はいただろう。今は樹木に遮られて直下は見えないけど、当時は木がなかっただろうから、比高があまりない分、眼下に詰める大内軍もよく見えたかもしれない。城を直接包囲されても、山名理興率いる神辺城は1年以上持ちこたえた。頑張ったなあ、理興。この辺りからは、斜面に広がる畝状竪堀群が見えるとのことだったが、あいにく斜面は伐採されてなかったので、全然わからなかった。一息入れて、眺望も楽しんだ後でさらに上を目指す。ここからは、上までそんなに遠くないハズ・・・ところが もう11月も終わりだとゆーのに、道端の草が元気に細道に覆いかぶさっていて、露で濡れているのでパンツが濡れてしまいそう・・・で、スパッツを装着して歩き出す。せっかくスパッツを付けたのに、すぐ空が開けて上に出た。あれ、どなたかいる・・・ 先客の正面に回り込むと、 うわあっ、ナニコレ!シュミ悪う~~~~っっっ!!!私が発掘調査報告書をコピーさせてもらったのは、黄葉山を出てからなのでイマイチ自信ないんだけど、この場所ねえ、たぶんねえ、6郭じゃないかと思うんですう~。 7郭の方から上がってきたんじゃないかと思うんだよね。発掘調査のきっかけになった事件は上に紹介した通りだけど、最初は1郭(本丸)に城郭風建築でも置きたい構想だったらしく、調査の結果それは取りやめになったんだけど、こんなとこにこんなものがあるなんて知らなかった。しかも、ここにおられるのは元町長さんだけではない。元町長さんの足元の6郭西端から東の方を見ると、 手前から順に、 「感謝之碑」はとある民間企業が、神辺で創業した創業者を称えるために創業75周年を記念して建立したものらしい。も~、勘弁してくださいよ、ホント・・・これらの像や碑は、神辺城でないとダメだったんですか!?元町長さんがどんだけ偉大なお人だったかは知らないけど、顕彰なら駅前とかに建てたらどうかね?そしたら一般の観光客や町民の目にも触れるだろうに。なぜに神辺城の、しかも郭を丸々ひとつ潰してこんなの建てるって、も~信じらんない!ありえへん!!にほんブログ村
2013年10月06日

あ~、第1話からひたすら歴バナを書き続けてもう27話・・・過去のシリーズでは歴バナは分割して書いていたので、一気に全てを書いたのはたぶん初めてではないかと思いますが、正直、前回でもう終わった気分になっているワタシ・・・この後の記事が7話続けば、城の記事の中では歴代最長になります。まあ、まだそんなに写真は撮ってない時期だったようで、たぶん7話までは行かないんじゃないかとは思いますが。ただ、歴代2位の長さだった高山城シリーズ(全22話)は軽く超えてますので、この時点で本シリーズが2位に踊り出ました。が、高山城シリーズの話数を抜いた時、実は恐ろしいことに気づいてました。まだその時点では遺構をひとつも紹介してない純粋な歴バナのみ・・・ま、まさか歴バナ部分では歴代最長なのでは!?と思って、あわてて最長の新高山城シリーズの遺構部分の話数を数えてみたところ、だいたい13話・・・全32話-遺構部分13話=歴バナ19話。うわああああ、何てこった、神辺城が歴バナ部門1位かよ~~~!!と予想外の出来事にあぜんとしたものです寄る年波には勝てず(なにせ460歳)、最近はどうも頭の中だけで記事の構成などを組み立てられなくなってきた。ので、福山編・・・特に、盛りだくさんで萌え~なスポットの神辺城シリーズについては、もう行き当たりばったりもいいとこ。ひたすら自分の気の向くまま、そして無意識にキャッチする霊界からの指令を受けて書き続けた結果、こうなりました。しかし、いくら何でもまさかここまで長くなるとは自分でも予想してなかったので、ホントにびっくりです。まあ、普通の人は神辺城の記事では書かないような「どこが神辺城やねん!?」て記事も多く含まれてるので、当然の結果ではあるかもしれません。ま、書いてる最中は正直言って大変でしたが、歴史やそこに登場する人達のことをあれこれ想像しながらの作業なので、大変さと同じくらい楽しい時間であったことは確かです。・・・て、完全にあとがきの風情ですが、長らくわたくしのブログを読んで下さっている方の中には「要するに、(やっぱり)燃え尽きた訳ね」と察知している方もおられるんじゃないでしょうか・・・前回の記事を書き終えた直後は「これだけ書いたんだから、もう遺構の紹介いらなくね~!?」ってかなり投げやりでしたが、さすがにそういう訳にもいかないのでここから現実に戻って遺構の紹介に入ります。っと、その前にこの場を借りてお知らせがございます。先日、とある試験を受けるようにと会社から突然の指令が下されまして、本来業務には全く関係のない試験なので迷惑千万なのですが、来月頭に試験を受けることになりました。4科目あるうち、自分で科目は選べるものの、最終的にはすべての教科を取らなければならないので、夜の本業(←ブログ)があって忙しいわたくしにはいつまでも余計な勉強をダラダラと続けているヒマはない・・・そこで、無謀にもすべての教科を一気に受けることにしました。普段でさえ時間が足りてないのだから、どうせ受けるなら極力1回で済ませたい・・・4科目ともなるとさすがに分量も多いようで1回で受かるかはわかりませぬが、今月いっぱいはブログの時間を半分くらい割いて試験の勉強にあてる予定です。福山編は当初からたたでさえ進行が遅くて、毎日読んでいただいてた皆様には大変申し訳ございませんが、これからは記事の更新が大幅に遅れると思いますので、ご了承をお願いいたしますm(_ _)mっつっても、もう試験まで1ヵ月切ってるのに、まだテキスト来ないの~。「ざけんな!!」と人事に大声で怒鳴り込みたいところですが、ともかくテキストが来てないおかげでこの週末の時間はブログに当てられます。さて、それでは大変お待たせいたしました。現地での行動編に入ります。肌寒い11月の神辺駅↓。 1両の電車なんてうちの方では見かけないので、鉄子のようでちょっと恥ずかしいけど、思わず撮影。でもこれ、行き先が「総社」になってるなあ。てことは、これが井原鉄道かなあ。隣の黄色い電車が福塩線だったかなあ(←覚えてない)。柱の陰で腰をかがめて駅員さんが作業してるのは、「福山編(21)」の最後に書いた、例のお掃除です(笑)。神辺にはなにげに観光名所もあり、改札を出るとそれぞれの所在地を示した看板があった↓。 これは神辺駅と神辺城周辺だけを拡大したものだけどね。廉塾なんかは有名だけど、今回は寄る予定はない。それより、神辺から少し北に行ったところに国分寺があるから、時間が許せばできればそこには行きたいと思ってた。さてと、私があの100枚を超える資料のコピーをさせていただいたのは、ここ神辺での出来事です。そもそもは発掘調査報告書の販売をしてないか聞いてみたことから始まったコピーなので、もちろん報告書のコピーもさせていただいたけど、その他におじさんは『神辺城の頃』という本を貸してくれた。これは神辺に在住の佐藤昭嗣氏が平成15年4月19日に菅茶山遺芳顕彰会総会で行った記念講演「神辺城の頃」を一部加筆・修正して出版されたものらしい。伝承や江戸期に書かれた史料などは色々あるけど、それだけじゃ信憑性は何とも言えないし、地面を掘り返すのが一番いい方法ではあるけど住宅地なんか簡単に堀り返せるもんじゃないし・・・そこで佐藤氏が注目されたのが、地籍図などから読みとれる地割や地名をもとに、神辺城下の姿に迫ろうとする方法だそうで、すべてのページをコピーした訳ではないんだけど、読んでて興味深い。ただ、佐藤氏本人が本文の中で述べておられるように、これは医師の診察でいえば問診や触診にあたる部分であり、もちろん氏の推測も多く含まれているのでこれだけで正確な城下の姿を復元するのは難しいという。そうは言っても、ネットをちらりと見たくらいじゃ歴史ファンの書く神辺城の記事で城下の姿を推定したものは見たことがないし、何と言ってもタダで手に入れているものなので、おじさんの御厚意に報いるためにも、ここは簡単にでも紹介せねばなるまい・・・と図を作成してみました。で、こちらが1977年の神辺町教育委員会『神辺城跡発掘調査報告』の「神辺城付近地形図」に、佐藤昭嗣氏の『神辺城の頃』に添付の「地籍図による神辺城下復元案略図」から一部加えたものです↓。 紫の字の地名が、字(あざ)とか小字なのかな。ここまでを地道に読んできてくださった方には、地名や寺名に覚えのある方もおられるかもしれませんね。それから、水色のぼかしのラインは、佐藤氏が堀跡ではないかと推定しておられる部分です。図の上に高屋川が流れてますが、この川は神辺から総社に抜ける井原鉄道におおむね沿うように流れていて、ここから上流へ辿っていくと、記憶に新しい藤井氏の領地へ着きます。で、佐藤氏は高屋川はその昔、もう少し南を流れていて、後から現在の位置へ流水路が付け替えられたのではないかとしておられる。となると、かつては高屋川は神辺城の堀の役目を果たしていたかもしれない。あと、図にはいくつか「コヤ」の地名が見られますが、右上の「小屋」は城から少し離れているし、図には載ってないけど、「小屋」よりもう少し右上には「古城」という小山があるので、そちらの古城に属する「コヤ」なのかもしれない。あ、城好きの皆様には解説はいらないと思いますが、いちおう書いておきますと、「小屋」は館とか居館のことね。「備中松山城(14)」なんかにも、山麓の居館に「御根小屋」って出てきたでしょ。神辺城の大手は北にあったと推定されているようで、図の「杉原屋鋪」あたりが大手口にあたるかと思うんだけど、「杉原屋鋪」は現在では杉原盛重の居館跡といわれているところ。しかし、『神辺城の頃』によると、天別豊姫神社の参道の東にある相撲場が山名理興の1番家老・杉原興勝の屋敷跡だと『備後國安那郡神邊誌』にあるらしい。うっわ~、興勝の家!すげえ伝承だなあ~!!・・・と、ちょっと鼻で笑いながら驚いてしまいました(笑)。郷土史料の中で最も古い『備陽六郡志』には「神辺大明神より東の方に屋鋪地アリ、是則盛重屋敷跡なり」とあるそうで、佐藤氏はピンクで「居館?」と書いた場所がかつての城主の居館跡ではないかと推定しておられる。ここは図の通り、堀推定地に囲まれた場所にあたり、室町期の大名の居館が京の将軍邸にならって造った方形の居館と類似することと『備陽六郡志』の記述が推定の基になっているらしい。ただ、あちこちで書いてるように、室町期の大名の平均的居館面積は一町(約109m)四方。対して、ここは約120m四方とあるので、若干大きめ。まあ、大内さんちなんかはケタ外れのデカさ(東西160m、南北170m)だったけどねけど、もし「居館?」の場所が居館だったなら、おそらく盛重の時代よりは建設年代はもう少し遡るだろう。地形をそのまま生かした室町風の居館造りであったなら、の話だけどね。そして、推定大手口の周辺には「コヤ」の地名が3つある。神辺合戦天文17年の回で感状の中に「神辺固屋口」という文言が出てきますが、「杉原屋鋪」から「下古谷」あたりに毛利氏を含む大内軍が展開してたのかもしれないな~とぼんやり萌え~・・・にほんブログ村
2013年10月05日

前回紹介した『陰徳太平記』の藤井皓玄による城攻めは、永禄12年(1569)8月3日。ですが、チャンスが訪れたのはその前年の永禄11年と書きました。永禄11年までがどんな年だったかざっと書きますと、永禄9年(1566)には毛利氏がついに宿敵・尼子氏を滅ぼす。大きな仕事をやり終えた毛利元就は、翌永禄10年(1567)、ふたたびの隠居宣言。・・・が、孫の泣き落としにあい、あえなく撤回。あ、この年、元就の9男・元総(もとふさ)・・・のちの小早川秀包(ひでかね)様が生まれてますね(笑)。そして、永禄11年春には伊予に出兵。平行して九州へも食指を伸ばした。九州の状況なんか真面目に書き出したら大変なことになるのでここでは書きませんが(笑)、大友氏の傘下にある国人衆を調略して、当主のソーリン大慌て。5月下旬には九州攻めに本腰を入れるべく、伊予から戻ったばかりの両川を投入した。エネルギッシュなパパに付き合う息子たちはたいへ~ん・・・いよいよ戦闘も本格的となり、それまで本拠の吉田にいた元就は孫を連れて長府へ陣を敷いた。そしてこれが、元就の最後の出陣となる。後方に詰めている元就の指令を受けて、両川率いる毛利軍は博多の近くの立花城まで進んだ。その数は4万ともいわれ、神辺城主・杉原盛重の姿もあった。有地元盛なんかもここに混ざっていたらしい。つまり、主要な軍勢を多く引き連れて、本土の毛利家の領国は手薄な状況にあった訳です。「神辺城(21)」で「備後の衆も、安芸の衆も、心の中じゃ絶対ウチのことよう思うとらんゆぅて思うんでの~」という元就の書状を紹介しましたが、リアリスト・元就の観察眼は正しく、ここまで大内家をはじめ周囲の氏族を滅ぼしたりして領国を拡大してきた毛利家に不満を持つ輩は芸備衆だけではなかった。そうした不満分子が潜む本土側は手薄、そして今は九州の雄・大友宗麟を相手に戦っている・・・苦しい立場に追い込まれたソーリンは、ひそかに不満分子を煽動して形勢を挽回する作戦に出た。まずは尼子再興の夢に燃える山中幸盛ら旧尼子家臣をバックアップ。それから、大内義興さんの弟が豊後に亡命しており、その子・輝弘がソーリンちに居候してたので、これに兵をつけて山口へ送り込んだ。山中幸盛っつったら、もう無限のバイタル男で『陰徳太平記』をちょっと読んだだけでも爆笑シーンがいくつかありましたが、ここから天正年間に入るまで毛利家を悩ませるのだから、この九州攻めも中国の歴史におけるひとつの転機といえる。そして、藤井皓玄もこの幸盛ウェーブに載った1人。ちなみに、備中ではやはり毛利軍の出陣のスキを狙った宇喜多のなおくん(直家)が張り切って備中攻略に乗り出している。( 「備中松山城(4)」なんかもご覧ください)九州攻略に成功して博多を押さえられれば、対外貿易の夢も広がる。結果論でいえば、海を渡るよりもあらたに征服した旧尼子領の地固めをするべきだったってことにもなるかと思うけど、あるいは元就の胸の内には、かつて貿易で莫大な富を築いた大内氏の影を追い求める野望なんかもあったかもしれない。が、遠征先ではいいセンまで行ったものの、実はお尻には火が付きまくりで、結局その対応に追われるハメになってしまった。で、藤井皓玄。京に潜伏したのはホントなのか、よく理解できない部分もあるんだけど、実のところは遠い京で静かに暮らしてただけなのかもしれないよな。それで、井戸端会議ででも幸盛蜂起のウワサを聞きつけて、ムラムラと神辺城奪回の夢が湧いてきたのかもしれない(笑)。それにしても、11年て・・・(←しつこい)前回の『陰徳太平記』では、8月3日に皓玄が攻撃を仕掛けたとなっているが、『備後史夜話』だと6月18日未明になっている。この日付についてもまちまちに語られてるんだけど、落城後の奪回戦の開始日が8月3日ともされる。個人的には、1ヵ月半くらいのタイムラグがあれば、立花にいる盛重や長府にいる元就に急いで報告して戻ってきて、体勢を立て直す準備もできるし所原君の傷もそこそこ治っただろうし(笑)、6月18日落城、8月3日に奪回戦開始ってところが妥当なセンかとも思える。『備後史夜話』によると、皓玄が神辺城を落とした際、城を守っていた兵や家老なども命を落としたという。前回の引用だと、落城したもののあっさり奪回されてるような書き方だからあんまり大変な出来事って印象ないんだけど、皓玄の城攻めに関するものを読むと「大事件」とか「不始末」とか結構大仰に語られることが多い。まあ、元春ちゃんの下でバリバリ活躍する盛重の、それも伯耆尾高城ではなく地元で本来の本城ともいうべき神辺城が落とされたことは、当時としては結構衝撃的な出来事だったのかもしれない。知らせを受けた盛重はもちろん驚いた。でも、とても帰れるような状況ではない。そこで、元就が備後に残っている楢崎豊景・村上祐康・三吉隆亮らに神辺城の奪回を命じたという。前回の話では、神辺城にいた盛重の子は次男・景盛だけになってたけど、『備後史夜話』では長男・元盛もいたとして、この2人を奪回戦の総大将にしたとしている。元盛・景盛はどちらも若くて美貌の(笑)行松未亡人の連れ子らしい。元盛は元就か隆元のどちらか、景盛は隆景からの偏諱でしょうね。盛重が伯耆尾高城主になった後は景盛が神辺城を引き継いだともされるけど、所原君が城代に置かれたという話の方が世間では多く語られるように思われる。さて、毛利方による反撃を受けて藤井皓玄は神辺城から脱出した。皓玄には4人の男子があり、長男の新介広吉は前回の引用の通り神辺城で討死したという。討ったのは加勢した楢崎三河守の末子・少輔三郎。が、少輔三郎もここで討死する。また、皓玄と一緒に旗揚げした3番家老の噂のある大江田隼人祐もここで討ち取られた。皓玄が神辺城を落とした時に討死した毛利方の兵も、その後の奪回戦で命を落とした皓玄方の兵たちも、神辺城下にある龍泉寺の過去帳にその名が記されているという。皓玄はその後、次男の市之丞広貞と共に落ちていった。『備後史夜話』によると、最初は自領の高屋方面へ行こうとしたらしいが、追手に行く手をふさがれていたので、備中の浅口郡へ入ったとある。西大島の石砂で細川氏の家臣に襲われ、そこで皓玄は自刃した。村人の手によって皓玄の遺骸を埋めた場所に瓦の小祠が置かれ、「藤井さま」と呼ばれて供養されたそうな。そして、皓玄の御首級は楢崎三河守が元就の本営に送り、元就の首実検を受けた。皓玄と一緒にいた次男の市之丞広貞は死地を切り抜け、漁船に乗って逃げ延びたとも、自領の芳井で自刃したともいう。三男の動向についてはわからないが、芳井にある重玄寺の過去帳に永禄12年8月21日死亡と書かれているそうなので、おそらく毛利方によって藤井氏の領地が攻められ、そのさ中で命を落としたのだろう。皓玄による神辺城の占拠はそう長い期間ではなかったが、この一連の戦いで多くの命が失われた。天正9年(1581)に杉原盛重が亡くなると、長男の元盛が家督を継ぐが、翌年、弟の景盛に殺されるという事件が起きる。その景盛は毛利家から謀反の疑いをかけられて、天正12年(1584)に殺される。以後は毛利家の直轄となり、譜代の臣などが入って神辺周辺の統率をするが、天正19年(1591)になると毛利元就の8男・元康が入城する。この頃までに毛利領では大掛かりな惣国検地が行われており、その結果、備後国人の渡辺氏の所領が元康の領内に組み込まれてしまい、途方に暮れた渡辺氏が小早川隆景に嘆願しに行ったという。当時の隆景ちゃんのお住まいは、筑前・名島。はるばる九州まで泣きついてきた渡辺氏のために、ひと肌脱ごうとした隆景ちゃんが元康に渾身の長文を送っている。この書状の中に、例の「神辺城を落とすのに7年かかった」という文言が含まれており、神辺合戦7年説の大きな手掛かりになっているものと思われる。関ヶ原(1600年)を経て毛利氏が防長2国に押し込められた後は福島正則の所領となり、家老の福島丹波守正澄が3万石で入った。そして神辺城は毛利氏時代を経て福島氏の管轄となっている間に、近世城郭へリニューアルしたものと思われる。福島正則が転封されると、今度はカッチン(水野勝成)が入った。カッチンは備後入りしても神辺城には入らず、すぐ福山城の築城に取り掛かったとする人もいるけど、1度くらいは足を踏み入れてるだろう。入ったからこそ、もう神辺城は時代にそぐわないと判断したんじゃないのかね。ここで藤井皓玄の子供の話に戻りますが、4男は備中の三村親成の元に身を寄せて、成長して小坂信濃守利直と名乗った。のち、故郷に戻って医者になったそうな。カッチンの放浪歴を「福山編(2)」で紹介してますが、三村親成のところに滞在してた時、居候の分際でひとりの侍女に子を産ませた。この侍女・お登久こそ小坂信濃守利直の娘・・・つまり、藤井皓玄の孫。そしてお登久と子供はのちに福山城へ迎えられ、その子が2代目の福山藩主になった。福山の水野氏は結局5代で断絶しちゃうけど、それでも皓玄の血をひく子孫が神辺城に代わる新しい城の城主になった。皓玄もさぞ、草葉の陰で喜んでいたことだろう。カッチンが福山城を築いたことにより、神辺城はその役目を終える。神辺城からいくつもの櫓などが福山城へ移築されたという話は福山城シリーズで紹介した通りですが、神辺城の最終形態は石垣に覆われた近世城郭だったので、石垣の石も多く運ばれたことだろう。神辺城から移築されたという建造物は、残念ながら今ではもう残っていないものの、あるいは現存している福山城の石垣の中には、かつて神辺城を守っていた石が埋め込まれてるのかもしれない。にほんブログ村
2013年10月03日

あ~、思いっきりページがまたがっちゃって申し訳ありませ~ん。前回の続き、杉原興勝のもんもん考察から始めま~す。これまで気にもしなかったけど、興勝の「興」って大内義興さんの「興」だよな?義興さんが亡くなるのは、享禄元年(1529)。だから、それ以前に偏諱を受けたことになる。神辺和談が行われたのは大永年間(1521-1528)の末と思われ、同じ頃山名理興も神辺城に入ったと木下氏は見ておられる。少なくとも天文元年(1532)には理興が神辺城主であったであろう史料が存在する。( 「神辺城(2)」をご覧ください)そして、但馬・備後守護の山名誠豊と義興さんが和談に関するやり取りをしていたことを窺わせる書状が数通残っている。これはいずれも年不祥だけど、山名誠豊と義興さんのどちらも享禄元年に亡くなっていることから、大永年間のものとみていいのだろう。ここに来てようやく杉原氏についてちょっと勉強する気になったけど(笑)、どうも惣領家はその少し前に断絶したか衰退したかしているらしい。杉原氏にもいくつかの庶家があり、そのうちのひとつ、盛重を出した山手杉原氏が惣領家の所領などを継いだらしいんだけど、興勝はこの系統ではないらしい。てか、杉原氏の系譜も複数あるようだけど、私が見たうちでは興勝はどこにも書かれていない。一体、誰なんだ、コイツ?そもそも興勝って実在したのか?ってもんもんと考え始めちゃった訳なんですが、ひとまず実在したとして、陪臣には偏諱はしない原則だから、興勝が理興の家老に組み込まれる前に「興」の字を戴いたのだろう。それに、庶家の当主ぐらいの立場ではあったハズ・・・と思ってあちこち探したけど、手持ちとネットの中で唯一『神辺城と藤井皓玄』だけが木梨杉原氏の出としているだけだった(出典は『西備名区』)。う~ん、じゃあ、木梨杉原家の当主?でも、それを示す系図などはない。『萩藩閥閲録』にも書かれていない。大体、木梨氏の大永以前の動向もよくわからないんだけど・・・尼子フィーバーが吹き荒れる前に名前をもらったか、大永中頃の大内方の巻き返しの際に大内方に付いてもらったか、あるいはちょっと年代的に苦しいけど、神辺和談で貢献したごほーびか。なんでどこにも書いてないんだろう・・・この人が「杉原豊後守」って可能性だってあるんじゃないのか?ってとこまで妄想は膨らんだ。木下和司氏が言われるように、備南の実力者ってことで杉原氏に神辺城主の任が与えられたんなら、筆頭家老の興勝が継いだって不思議はないんじゃね??まあ、理興の筆頭家老ではあったとしても、城主の跡目を検討する段には病気や老齢で引退してた可能性もあるよな・・・ろくな史料がない以上、あとは妄想ロードをひたすら爆進するしかないので興勝についてはここでやめますが、2番手・藤井皓玄と3番手・大江田隼人祐が盛重相続を不服として城を出たんであれば、盛重の相続は結構ゴリ押しだったってことになるよな。それに、今さらながら備後国人の盛重が元春の下で山陰を中心に活躍したってのはやっぱり不自然。木下氏の言われる「保険」もあっただろうけど、盛重に関しては毛利家による強い引き立てがあったであろうことをうかがわせる。関係ないけど、木梨杉原氏の城主は天文12年6月に尼子方に拉致されたんだそうな。ほお、小早川領のすぐ近くでそんな事があったんだ~!って、またぞろ小早川繁平拘束事件に頭が飛びました(笑)。驚いたことに、木梨杉原家ではその後、城主を奪回したらしいんだけどね。ただ、小早川氏の場合は繁平が帰りたいって嘆願してるから、木梨家のケースとはだいぶ違うとは思うものの、繁平の推定拘束時期の付近の備後国人の状況を調べることで、また新しい見方ができるかもしれないな~と思った。あ~、すいません、あちこち意識が飛びまして(笑)。皓玄さんの話に戻りますが、私は盛重は弘治3年(1557)頃には神辺城を継いでるのだろうと思っているので、そこから次の転機が訪れる永禄11年(1568)まで11年。前回引用した『山名家伝記』の記述が正しいのであれば、少なくとも天文元年(1532)までには隠遁していると思われるので、そちらで計算すると36年・・・おいおい皓玄さん、どんだけ~!!て大爆笑したくなるような年数が開いてしまう訳ですが、11年だって大した執念深さ・・・あややさて、それではおなじみ『陰徳太平記』から皓玄がその名を高めたであろう事件について紹介いたします。『陰徳太平記』巻44「備後の国神辺の城合戦 ならびに防州關所の城合戦の事」 備後の国神辺の城は、杉原播磨守盛重の居城であった。 盛重は九州に従軍し、家僕の所原肥後守に神辺城を守らせていた。 備後の住人・藤井能登守皓玄と大江田隼人祐は尼子勝久に組みし、備前・美作の 衆とともに500あまりの軍勢で永禄12年8月3日の夜半に神辺城下に押し寄せ、 鬨を上げてまさに城に攻め入ろうとした。 肥後守は突然のことに驚きもしたが、少しも騒がず鎧をさっと肩に掛けると、 一の城戸口へ討って出て果敢に防戦に努めたので、肥後守の左右にいた敵兵は 一気に8人まで打ち倒されたが、肥後守も3ヶ所手傷を負った。 城内の者はといえば、寝ぼけて物の役にも立たず、そうこうしているうちに 一の城戸を破られ、甲(つめ)の丸に入ってなおも防戦したが、それもいよいよ 危なくなってきたので、この上は自害しようと思ったが、それを見た前原入道が 肥後守の袖を引いて 「御辺が自害すりゃぁ、播磨守殿の御子息らぁ敵に囚われてしまうじゃろう。 ここはなんじゃゆうても一方を切り開いて、落ち延びてつかあさぃ。」 と諌めたので、肥後守も 「ようぞ申された」 と同意し、播磨守の次男・彌八郎景盛を引き連れて、突破口を開いて落ちていった。 敵がこれを追いかけようとしたので、主を何とかして逃がそうと、高橋某をはじめ 城兵が追手に立ちはだかって戦い、討死した。 こうして皓玄は城内に入り、さらに近隣をも従えようと様々な画策を凝らした。 傷を負った肥後守はしばらく静養していたが、ようやくその傷も癒えてくると、 味方をひそかに寄せ集め、神辺城奪回を狙った。 これを聞きつけた楢崎三河守貞長(あるいは豊景)は嫡子・弾正忠元兼(あるいは 忠親)を、立花に在陣中の盛重への遣いとし、自らは隠居の身なれど 末子の少輔三郎を連れ、肥後守と合流して神辺へ押し寄せた。 迎え討つ皓玄らは狭間から弓矢・鉄砲などで散々に撃ちかけたが、 会稽の恥を雪がん(かいけいのはじをすすがん)として、降るほどの矢鉄砲にも ひるむことなく、ただ一息に攻め立てた。楢崎三河守も負けじと攻め登り、 少輔三郎や郎等が多く討たれたがこれもまた攻め続け、ついに城内へと攻め込んだ。 肥後守らの猛攻に崩された城方では、甲の丸へと逃げ込んだが、逃すまいと 執念で追い立てて皓玄の嫡子某を討ち取った。皓玄はついに逃げ去り、 城は奪い返された。『陰徳太平記』では割にあっさりした記述になってます。不意を突かれて一旦は城を奪われたものの、盛重の子も守ったし、自力で奪い返せて肥後守の面目躍如で万々歳・・・ちなみに、所原肥後守が守って連れ出したという景盛は若くて美貌の(←しつこい)行松未亡人の連れ子のようです。奪回戦で討ち取られたという皓玄の嫡子はここでは名前すら出てきませんが、新介広吉さんというそうです。『神辺城と藤井皓玄』によると、 【広吉は暗玄の長男で勇武の聞こえ高く、雄偉であって、嘗て備中吉備津宮へ 柄五尺八寸、長さ七尺の野大刀を奉納し、これが現存していたと云われる。】かつて、だから今は現存してないのかな?大刀といえば、私は熱田神宮の真柄太刀を思い浮かべますが↓ ・・・撮影禁止かと思ってたけどね。きょろきょろ見回したけど、禁止の立札は立ってなくて、みんなバシバシ撮ってたので、私も便乗しました。撮影禁止だったらごめんなさいm(_ _)mんで、この真柄太刀は「刃長 221.5cm」とあるので、現在の尺度で計算すれば新介広吉の太刀は約212センチでほぼ真柄太刀と同じサイズ。実物を見たことある方はおわかりでしょうが、もうデカすぎて太刀とかゆーレベルを超えてますまあ、奉納イコール御使用品ではないにしても、ひょろっちい奴が見栄張って馬鹿デカイ太刀を奉納してもお笑い草なだけだし、豪傑にふさわしい奉納品ではあるでしょう。この段の後半部は、同じ頃、毛利家臣・桂元澄の子が守っていた岩国の城が数千もの一揆勢に取り囲まれて、大ピンチ・・・!多勢に無勢でどうしようもない状況ながら、一揆勢のうちから取っていた人質を2~30人引きずり出して城の塀に張り付けるという「人間の盾」大作戦に出て、一揆勢はなす術もなかった・・・という実にオソロシイエピソードが語られています。なぜ皓玄はチャンスをつかめたのか、ここで少々背景の説明が必要になるかと思われますが、文字数の関係もございまして(笑)、それはまた次回に・・・にほんブログ村
2013年10月01日
全20件 (20件中 1-20件目)
1
![]()

