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皆様こんばんは。戦国ジジイでございます。わたくし、ただいま安芸におります。・・・というのは冗談ですが、別に得意の見栄を張った訳ではありません。本当は今時分、安芸におるハズだったのです。去年あたりまでは、ヒコーキの予約は3ヶ月先までだったのが、最近では半年先まで予約ができるようになったので、8月にはヒコーキを取り、9月には宿も押さえてました。試験も終わって、そろそろ旅の準備をせねばならんな・・・と思い始めた頃、ちょっとげんなりする出来事がありまして。実はその場所は以前にも計画を立てていたのに取りやめにした経緯のある場所で、今回行っておかないとマズいことになるかもしれないと思って、計画を続行するわずかながらの努力を試みてはみましたが、一度下がったテンションというのは簡単に復活するものでもなく・・・色々考えたあげく、結局キャンセルしましたついでに言いますと、年明けには西国の別の場所へ行く予定を立てていて、そちらも早々にヒコーキと宿を押さえてましたが、こちらも同じようなことがあり、キャンセル料はもったいないけども先日思い切ってキャンセルをいたしました。福山編のあとがきを書いた際、来年いっぱいぐらいまでは西国の記事になるかな~としましたが、それはこのキャンセルした2つの旅を念頭に置いていたからで、これらに未公開の廿日市編まで合わせるとそれだけで1年終わる(てか、たぶん1年じゃ終わらない)とあの時は思ってました。しかしですね、もともとこの2つの旅が終われば諸事情により当面西国行きはお預けにしようと思っていたので、まるごとキャンセルした今となっては、必然的に来年のブログの記事も大きく変わることになりそうです。じゃあ何を書くのかって、そりゃアナタ・・・江戸でしょ例のごとく、上野編でも本編を書きながら本などを読んでる訳ですが、戦国時代の西国などと比べれば情報量も格段に多いし、戦国よりはある程度わかっている部分も多いので、なんつーか、躍動感があって江戸は面白すぎ。どんどん興味が脇にそれていくので、本編とは別に歴史系雑談にでもしてテーマごとに書きたいものなんかも多く、当分は飽きそうにありません。いや~、関東にシフトしたいと思ってはいたものの、本来は関東の戦国をやりたかったのに、一気に江戸時代まで飛んじゃいました(笑)。ま、ぼちぼち城にも行くし、戦国もやるつもりではおりますが、今は江戸への関心の方が高い。あと、キャンセルした2つめの日程には別の旅を入れましたので、上野編が終わったらそちらの旅の記事から始めることになりそうです。そちらも、内容的には旬なスポットが多うござります。え~と、今年最後の記事なので、いちおう1年の総括をしようかと思ってあえて雑談を挟みましたが、まあ今年も色々ありました。・・・ありましたが、ここでは書くつもりのない事がほとんど・・・総括になんないじゃんう~ん、これはまたブログを振り返るしかないな。今年、特に後半はそれ以前のようには毎日の更新を目指さなくはなりましたが、それでもわたくしの夜のお仕事であることに変わりはなく、多くの時間をブログに費やしました。それでも、もう3年目に突入して、知識が全然追い付かない中でも色々読んだり、内容の良し悪しは別として今年も結構頑張ったのではないかと自分では思ってます。ちなみに、今年の成果↓ ・東西条編 ・手術報告とその後の寺社訪問ちょびっと ・去年のお墓参りのあとの日暮里寺社めぐり ・福山編 ・上野編(現在進行形)・・・こんだけ(笑)。あと、合間に日光写真館と雑談を入れてますね。それにしても、タイトルだけ見ると実に少ない。何とゆーコストパフォーマンスの悪さ。でもしょうがないよな。歴バナを書かなければ話数は半分以下に収まるんでしょうけど、そういう書き方をすると自分が一番つまらない思いをすることになるから。ブログで収入が得られる訳でもないのに、書いてる本人が一番つまらないんじゃ何のために書いてるかわからないし、史跡や歴史の魅力が伝わる訳もない。ですので、来年も気の向くままに、できるだけ多くのことをわかりやすく紹介できたらいいなと思ってます。旅行をキャンセルしたので、代わりに明日は江戸城でも行こうかと思ってました。明日なら人も少なそうだしね。でも、別の日にも出かけるし、休み中には貞子が久々に遊びに来るので、とりあえず明日は家でゆっくりと・・・学生の頃から、元日に家にいたためしはほとんどないので、これは実に珍しいことです。そういう訳で、本ブログは年末年始も通常通り営業いたします。が、家にいるとなると今度はTVに悩む。特に2日の長時間時代劇・・・さっき番組の予告を見たけど、関ヶ原で死んだ家康に代わって影武者が政権を切り盛りする設定みたいだなあ。家康死んだ説は通常、大坂の陣で死んだ話のが多いと思うけどね。関ヶ原で死んでくれないと、ドラマの構成上、やりづらいんだろうな以前買った本棚をまだ組み立ててないから、作業しながら観てもいいんだけど、2~3年前に観た二兵衛(半兵衛・官兵衛)の時は結構キツかったからなあ。昔は12時間だったのを5時間に縮めたせいか、CMはわずかだし、前編と後編の合間もほんの数分しかなくて、ずっとTVに貼りついていなけりゃならなくなった。それでも、西田敏行だからなあ・・・どうもあの人のって、なんか観ちゃうんだよね。ちなみに、来年の大河は観ませんよ~。岡田君ならちょっと観たいし、隆景ちゃんもそのうち出てくるでしょうけど、自動ツッコミ装置が働いてストレス溜まるのは目に見えてますのでね。それに、黒田親子って好きじゃないんだ。ワタシ。さて・・・ここ数日、ツイッターでどんつく言っておりますが、この「どんつくショック」は今年の10大ニュースに入るかもしれません(笑)。毎年の年賀状は、自分の分はもちろん家の分もわたくしが一手に制作しております。うちは父方の親戚とは縁が薄くて、母方の方のが昔からつき合いが多いです。母方は兄弟も多く、男兄弟やその息子などからの年賀状で母の旧姓・・・「黒川」とでもしておきましょうか、黒川の名前を沢山見ているうち、ふと、黒川の宗教ってなんだろうって思いました。白川の方はね、浄土宗なんです。とは言っても、史跡めぐりを始めるまでは仏教に特段の興味があった訳でもなく、ほんの数年前までは何度も「うちって、真宗だっけ?真が付かない方だっけ?」って親に聞いてたぐらいですので(笑)、まともに浄土宗のことを知ったのは、大津編で頼政の最期を書いたあたり・・・つまり、身近な信仰として浄土宗が生活の中にあった訳ではありません。その程度のレベルなので、子供の頃から黒川の法要には多く連れられていってたものの、何宗なのかなんて考えたこともなかったし、知ろうとも思いませんでした。今はご存知の通り上野編で寛永寺の記事を中心に書いてますので、少し仏教への関心も湧いてきたようで、その関係で黒川の宗教にも興味を持ったのかもしれません。前にも少し書いたことがありますが、黒川の家は江戸の旗本。個人的には天台や臨済への関心が高いので、どちらかだったらいいなあ~と思ってました。ところが、朝はバタバタしてるし夜はご飯食べて風呂に入ったらすぐ夜のお仕事を始めますので、案外親と顔を合わせてる時間は少ない。ので、聞くのをつい忘れがちで仕事中に急に思い出しては、今日こそ帰ったら聞こうと固く誓うのに、毎日忘れるんです(笑)。このままじゃ永遠に聞けないかもしれん・・・そんな危機感にさいなまれて、先日、職場からメールで聞いてみました。いきなりそんな事聞かれた親も驚いたでしょうが、返事を見た私の方がもっと驚いた。え~、ほとんどの方がもうおわかりでしょうが、来た返事は「日蓮宗です」ええええ~!!どんつくぅぅぅぅ~~~!!??・・・いや、日蓮宗がキライって訳じゃないし、日蓮さんは実に面白い人なので、個人的には好きですよ。ただ、その・・・日蓮宗って、独特でしょ帰ってからその衝撃をぶつけたら、母親はケロリとして「法事でもなんみょ~ほ~れんげ~きょ~って言ってたでしょ」と言った。まあ、言われてみればそんな気もするけど、子供だしお経なんか聞いちゃいないし・・・あまりそういう話を聞かせて来なかったことに母親は今さらながら気付いたらしく、自分の子供の頃の話をぽつぽつと語り始めた。「”まんどう”って知ってる?沢山の人達が通りを練り歩いててねえ~。でも、子供だから恐かったのよね~」何が恐いのかと思ったら、白装束着た沢山の人が「どんつく」やる姿は結構迫力あるらしい。ああ、なるほどね・・・後から”まんどう”を調べてみたら、”万灯”と書き、日蓮宗の場合は日蓮さんの命日を中心に行われる法要イベントの中で宗徒がお練りをするものだそうで、ライトアップした背の高い宝塔を紙で作った花で飾り、それを火消しのまといのようにぶんぶん振りながら太鼓や笛と共に「どんつく」集団が行進する・・・簡単に言うと、そんな感じのものらしいです。YouTubeでは万灯の動画なんかもあったので、それらを見てから母親にフィードバックしたら、「ああ、そうそう~。そーゆーやつだった。池上本門寺を出てずっと歩いてきて、馬込と荏原町の間で引き返すのよ~」と懐かしそうに言っていた。え、池上本門寺・・・?そういえば、あれってあの辺だったっけ。黒川の家は、荏原町(えばらまち:大田区)にあるんです。住所としては馬込(まごめ)だし、私もずっと馬込だと思ってたんだけど、本人が荏原町だと言い張るんで、昔の住居表示は荏原町だったのかもしれない。私自身は池上本門寺に行ったことはないんですが、あらためて地図を見てみると、荏原町から南下して北・中・南の馬込を抜ければもうそこが池上本門寺。直線距離にして、2Kmないです。うっわ~、これって要するに「地元」じゃん!しかも、池上本門寺は日蓮さんが亡くなった地ということで、万灯のお練りを含む「お会式」は数ある日蓮宗寺院の中でも最も盛大に行われるらしい。「うわ~、もしうちが離婚してたら、今頃私も日蓮宗だったかもしれないんだ~!どんつくぅぅぅ~!!」ってしつこく繰り返してたら、その反応が母親には意外だったらしい。「やっぱ地元は強いんだね」「もう、そーゆーもんだと思ってたからね~」やっぱ、バリバリの地元じゃんああ、どんつくの血が私の中に流れてたなんて・・・どんつく・・・・・それでは皆様、今年もあと数時間ですが、よいお年を。どんつく。にほんブログ村
2013年12月31日

思いっきりページがまたがっちゃってすみませ~ん。この話は日光写真館の方で書こうかと思ってたんだけど、そちらは2年目の分をいつ始めるかもわからないし、寛永寺にも関係があることなのでおもむろに書き始めた訳です。で、前回の続き。今回の日光詣では前にも書いたように寛永寺モードで行っていたので、幾つかの素朴な質問を抱えていた。いつもの導師様はお優しい方なので、祈祷が終わった後に過去数回ちょっとした会話をさせて頂いたこともあるんだけど、時には他の人に先を越されてお話できないこともある。今回は幸い、誰も導師様をつかまえなかったので(笑)、柏から持参した質問を導師様にぶつけてみた。何て聞いたのかは(たかが1ヵ月前のことなのに)忘れちゃったんだけど、寛永寺のことを少し勉強してるんです、って言ったら、導師様は次のような事を語ってくれた。「寛永寺さんの山主は、輪王寺門跡といいます。日光山輪王寺の山主も、輪王寺門跡といいます。」「ん?」って思わず聞き返した私に、導師様は笑って説明をして下さった。え~、ボイスレコーダーで録音しておくべきだったと悔やまれますが(要するに細かいことは忘れた)、つまるところ、宮が寛永寺と日光輪王寺を兼帯していたからこーゆーことになるんだと思います。導師様が話してくれた上の名称については、輪王寺宮が両山を統轄していた頃の話ではなく、現在のことを言っております。今、私がいる両大師のすぐ隣には「輪王殿」があって、どちらも現在は寛永寺の所管なのですが、地図で見るとこの場所は「輪王寺(両大師)」と描かれている。でも、実際は寛永寺なんです。天海と宮の歴バナを読んできて下さった方は、別に何の不思議もないでしょ?って思うかもしれませんが、現在では一般的に上野の寺の寺号は「寛永寺」。一方の日光は、明治に入って一旦は旧号の「満願寺」に戻されたが、のちに再び「輪王寺」に戻すことを許されている。なので、日光のは「輪王寺」。宮が両山の山主を兼帯されて、江戸期には深いつながりがあった寛永寺と日光輪王寺は、江戸幕府が解体されて神仏分離令などを経て今では別の宗教法人としての道を歩んでいる。ので、もう輪王寺宮はいないんだし、今でも寛永寺が「輪王寺」の号を使うのは単純に考えておかしいような気もするんだけど、実際に現在も上野寛永寺に「輪王寺」の号が顔を出すことがある。例えば、ホレ↓。 これは両大師本堂の脇にあった解説の石碑ですが、最後は輪王寺と寛永寺の号を併記している。つまり、昔のままに寛永寺は寛永寺であり、輪王寺でもある、ということらしい。宮のことを知らない人には、何がなんだかわからないよねちなみに、昔は寛永寺と日光輪王寺は深いつながりがあったんだから、今でもそれに似たような関係が存在してるのかな?と思って無邪気に聞いてみたら、導師様の答えは意外なものだった。「お正月などには他のお寺さんともご挨拶などもあるのかもしれませんが、それ以外のことはわたくしは存じません」あ、あれ・・・?最後の「存じません」なんかは特にはっきりとおっしゃったので、もしかして聞いちゃいけないことだったのかな・・と思った。神仏分離令にはどこの寺社も苦労したらしいけど、日光の山内図なんかを見ると、輪王寺の施設があちこちに点在している。それでも、現在でも東照宮と輪王寺で管轄をめぐって決着が着いてない部分もあるらしく、導師様の「存じません」発言といい、ホント薩長・・・いや明治政府は余計なことしてくれたよな~と思う。1人で寺社なんかに行くと周囲もよく観察するんだけど、明らかに宗教にも建築にも興味なさそうなフツーの観光客が寺社にやって来ては、まっすぐ本堂や拝殿でお参りをして、そのまままっすぐ帰っていく姿を見ては、「日本人ってホント寺とか神社好きだよな~」ってつくづく思う。ジジババだけじゃなく、イケイケな兄ちゃん姉ちゃんでも沢山参拝にやって来るんだからね。おそらくほとんどの人は特定の宗教も持たずに神と仏の違いって言ったらパンパンするかしないかの違い、ぐらいの感覚じゃないかと思う。まあ、昔は檀家制度とかもあったからいちがいには言えないんだけど、そういう善男善女の姿を見るにつけ、神仏分離の意味って何なんだろうって私なんかは思っちゃうんだよね~。・・・あ、ちょっと話がそれましたね(笑)。寛永寺のことを勉強し始めてから日光の見方も変わったので、シロート考えで現在も特別なつながりがあるのかな、両寺が仲良かったらいいな~ってなんとなく願ってただけなんです。残念ながら、あっさり打ち砕かれましたがでも、寛永寺を知れば知るほど、寛永寺だけを学んでもだめ、日光輪王寺だけを知っててもだめ、ということをひしひしと感じるようになりました。これは、長年漫然と日光に通ってた私だからこそ感じることかもしれません。今までは「輪王寺」といえば私の中では日光のことしか頭にありませんでしたが、寛永寺とのこういう関係を知ってからは、日光のことはきちんと「日光輪王寺」と表現するようになりました。ま、そういう過去の経緯がありますので、現在でも寛永寺では徳川家菩提寺としての葵紋、輪王寺宮の菊紋、あと天海マークの丸に二引など色々な紋があちこちに付いてます。門に着いた時にちょうどバアちゃんが1人入っていくのを見たけど、それ以外はここでは誰にも会ってない。もうバアちゃんもいないな・・・帰ったのかな。人がそこそこ来ていれば、恐らくこれ↓にももうもうと煙が立ってたでしょうが、誰もいないので、線香も立ってない。ちょっとハゲてるけど、ここにも天海マークが付いてますね。 この頃になると薄日が射してきて、朝方は涼しかったのが少し暑くなってきた。ので、扇子であおごうとカバンを探ったが、扇子がない 史跡めぐりの時はいつでも色んな物をカバンに詰め込んでくるのだけど、この日は近場の無理をしない(予定の)日帰りなので、ものものしい装備はやめようと思って、出る直前にカバンを替えたのがいけなかった。ああ、ヤバイ・・・いくら涼しい日だといっても、暑がりの私が扇子なしでこの後行動できるのだろうか・・・この辺にはコンビニなんかもないし、ないものはしょうがない。無理はしないことを改めて自分に言い聞かせて、左手にある手水場へ向かう。 右の柱に何か貼ってある↓。 1・2・4はいいけど、3は・・・?宇治の平等院は写生禁止の立て看板があった。世界遺産で、鳳凰堂の向かいは大して広くもないスペースだから、観光客の邪魔になるからなのかな、と思った。ミワラの佛通寺は、カメラの三脚・写生のイーゼル・椅子の使用禁止とあった。どれも地面に突き刺すものだから、聖域に突き刺すようなものを使うなって意味かと思った。杖も突き刺すけど、高齢化社会で杖を禁止するのは酷かもしれない(笑)。ここは三脚のみ禁止なんだな・・・それぞれ理由があってこう書いてるんでしょうけど、なんかよくわからない。 大きな水盤を支えるのは 重いのに、大変だね。ぐるぐる回って足元の獅子を撮ってるうち、水盤の側面に何か付いてるのに気がついた↓。 最初は、ただの持ち手かと思った。でも何かヘンな形・・・そう思って角度を変えて覗きこんだら あっ、ツルかあ~!反対側も↓。 ほおお、よくできてるな~。てか、頭の皿ってナニ?にほんブログ村
2013年12月30日

阿弥陀堂の外側は、垂木まで真っ白↓。内部を見るとピカピカの新築って訳でもなさそうだから、最近塗り直されたのかもしれないな。 扉にも授与品のアッピール↓。 あら、奥に見えるの何でしょ・・・と思って階段を降りて回り込むと ・・・石材置場だった割に新しいものもあるけど、古いものなんかは解体した材料なのかな。でべそを持った石柱もあるし、明らかに石垣の石と思われるものは表面は綺麗に加工されてるけど、ちゃんと奥行を長く取ってる。この石垣の石なんかは、その形からしても結構古いものっぽいな。さて、入ってすぐの第1ダンジョンをクリアして参道を数歩進むと、第2のダンジョン↓。 デカい銅灯籠です。スルーしてしまえばダンジョンでも何でもないんだけど、とりあえずここは撮っておくか・・・ うん、根本中堂にあったのとよく似てるな。デザインは違うけど、胴の下部が妙にアジアンテイストなのもおんなじ↓。 撮る角度によってはなかなかダイナミックな彫り物もあります↓。 間近で見ると躍動感あるし、迫力あるよな~と思いながらも、どうしても頭の皿に目が行っちゃって、ほのかな笑いを誘われます。 たぶんここまでが向かって右側の灯籠じゃないかと思いますが、もしかしたら混ざってるかもしれません(←覚えてない)。今度は左側の灯籠↓。 左右ほとんど同じデザインなので、左側は手ヌキしました(笑)。だって疲れるんだもん。すぐ先に本堂が見えてるのに、なかなか進めないこのもどかしさ。灯籠のすぐ奥には、かなり古そうな水盤↓。 右の「丸に二引」は両大師の門と同じように天海から来ているものだな。左がちょっと磨耗してて今ひとつはっきり見えないんだけど、どうも輪宝紋のように見える。天海は「三宅輪宝」の紋も使ったらしいんだけど、ちょっと三宅輪宝とは違うみたいだなあ・・・かといって、該当する輪宝紋も探せなかったから、正確には何と言う紋なのかはわからない。輪宝紋の一種に違いはないと思うんだけど。水盤の先には、第3のダンジョン↓。 あっ、もうダメ・・・疲れた。てことで、数枚だけ撮って第3ダンジョンのコンプリートならずあえなく撤退・・・ あれ?笠の上部が「丸に二引」になってる。根本中堂と同じく、ここの銅灯籠も銘は見なかったんですが、この紋が付いてるってことは、どこぞの霊廟から移動させたものじゃなく、初めから両大師に寄進された灯籠ってことかな。 ゲームと違って、コンプリートしなくても先には進めます。だいたい、ここを訪れる人でいちいち灯籠にまで足を止める人ってほとんどいないし(笑)。で、第3のダンジョンを過ぎるとようやくここに着きます↓。 ここまでは参道の両脇は土だったけど、ここには白い小石が敷き詰められてる。川にでも見立ててるのかな。ここから聖域って意味なのかもしれない。えっと、確かここで買ったものだと思うけど、『東叡山 寛永寺』という小冊子によると、【創建は正保元年(1644)ですが、たびたび火災に遭い、現在のお堂は平成5年に再建されたもの】だそうな。軒丸瓦は天海マークの丸に二引、その上の大棟には金の菊がある↓。 菊はもちろん、宮から来てるものだと思うけどね。先日(2013.11.23)日光でお護摩を受けた時、外に観光客は多くいたけど私の回でお護摩を受けた人は少なかった。過去1度だけ、若い人が導師を務めた回に参加したことがあったけど、それ以外は長く通っている中でいつも同じ方が導師様。護摩祈願の申し込みをする際、団体様の予約が入ってないか受付のおじさんに聞いてみたら入ってないという。このおじさんは去年のお護摩の時にも欲張ってお願い事を多く選んだ私に対して、一緒に絞り込みをしてくれた親切な人だったので( 「輪王寺2」をご覧ください)、申込書を書いて渡す時に、いつもの導師様がどういう方なのか聞いてみた。そしたら、輪王寺のトップではなさそうなんだけど、修業関係ではいちばん偉い方だという。ああ、やっぱりね~。1度だけ他の方だったことがあったと言ったら、勉強会だとかの公務(?)がある時にはそういうこともあると言われた。でも、祈祷はいつもの導師様のが一番いいらしく、やっぱそーゆーのあるんだ~とちょっと笑っちゃったんだけど、そんな話をしている時に『宝ものがたり』のことを教えてくれた若い坊様が通りかかって、日光輪王寺の護摩祈祷はよそのよりも時間も長めだし、身体加持は日光輪王寺特有のもののようだと話してくれた。身体加持?ああ、全体の祈祷が終わってお札を渡す段で個別に祈祷をしてくれる、アレのことかな。別に偉い方でなくても、私はいつもの導師様が大好きなんだけど、そういう方ならなおさら都合がいいと内心ほくそ笑みながら、いつもの時間で祈祷を受けた。(文字数が足りなくなったので、続きを次回へ持ち越します)にほんブログ村
2013年12月29日

前回の記事を書いた後に、珍しくツイッターのお気に入りなどを整理していて、その中に寛永寺に関する自分のツイートがあるのを見つけた。2年前の夏のお墓参りの後は、染井霊園付近の著名人の墓と巣鴨の地蔵通り商店街になっている中山道を明治通りまで歩きましたが、「プチ巣鴨編(7)」では千川上水について紹介をしました。綱吉が千川上水を引いた主な目的は、徳川家にゆかりの深い4つの場所への給水だったとされますが、その4つのうちのひとつがなんと寛永寺だったんですね~まあ、要するにそんな事はもはや完全に忘れてたんですが(笑)、あの頃は寛永寺に特段の興味があった訳でもないので、これは仕方ありません(←完全に開き直り)。寛永寺は徳川家の菩提寺、という看板などの解説を見て当時はふんふん、なるほど~と思っただけでしたが、同じ説明を今読むと、これも綱吉が宮の便宜を図ったものかもしれないな~、とすると、綱吉と公弁法親王との関係の深さを物語るひとつの話としてもいいのかもしれない・・・てなことを考えるようにもなりますので、あの記事を書いてる最中はネットで上水関連のことなども色々調べましたし、上水そのものについては結構興味を持って書いてたんですが、興味の対象が変わると見方も変わるとゆーか、人はこうやって成長していくんだな~と自分でも笑っちゃいました。ハハハ。さて、幕末の御家人・山本正恒が遺した記録に、輪王寺宮に関する記述があります。 上野御門主は坊官・御用人やその他、多くの御家来を召し使っておられたが、 御在職中のお食事はすべて精進料理で婦人は一切側に寄せることはない。 御登城の際には黄網代の御駕籠に乗り、お供には金菊紋の付いた先箱・御長刀 および建傘・茶瓶・合羽籠、供侍を多く連れ、行列が通る時は下にいろと 周囲に命じたので通行人はみな土下座した。 下乗橋からは歩かれるが、ここでも通行人は土下座してお通りを待つ。 御召物は綸子・羽二重などで白衣。御衣は天台宗の法衣、鈍色七条五条の袈娑衣は 紫やその他の色があり、紋綸子などに差貫袴を召される。また直綴(じきとつ: 僧衣の一種)・小五条輪袈娑なども召され、これらは時宜に依った。 御年60歳以上で御跡目があれば御隠居あそばされ、根岸の御隠殿に移られた。 それ以降は魚類なども召し上がられ、婦人もお側に仕えて御老体の御世話を すると聞いた。 (「幕末下級武士の記録」より意訳)ご存知の通り、江戸期には参勤交代があったので、江戸には多くの殿様もおられた訳ですが、時代劇なんかを何となく見てると、殿様がお通りになる際には「下にィィィ~、下に」てお触れを出して町人がみんな土下座したような印象があるけど、実際は江戸では将軍および御三家などの徳川姓のお行列に限られていたんだそうな。けど、御三家に並ぶ格式を持つ宮の行列には土下座が義務付けられていた。衣装の部分はいずれも僧衣の説明で、お供の各名称についてもここでは解説を省きますが、フツーに私達が想像する大名行列をイメージして頂ければよいでしょう。黄網代の駕籠と登城の際の下乗場所については、前に紹介した「ワインレッドの網代の溜塗」「表玄関に駕籠のまま横付け」という『寛永寺』・『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の解説と違ってますが、「60過ぎれば定年」とか「在任中は女性は側に寄れないが、隠居すればオッケー」の話など、山本正恒は寛永寺に寺小姓として住み込んだ経歴を持つので、宮の生活全般を垣間見るという点では興味深い史料と言えるでしょう。と、輪王寺宮についてはひとまずこんなところかな。後でまた宮の話は出てきますが、どんな存在の方だったのか、概略をつかんでおいて頂きたかったワケです。それでは、久々に現地に戻りましょうかね~。天海と宮のことだけで、結構長くかかったなあ(笑)。イベントのお誘いの貼り紙で賑やかな門をくぐった正面↓。 真正面に見えるお堂まではそう遠くないけど、そこに至るまでの参道の両脇にはなにやら色んなものがあるので、手前から順番に紹介します。門を入ったすぐ左手↓。 堂自体は新しいものだし、ちょっとこの時はあまりこのお堂には近付きたくなかったので現地ではよく見てませんが、写真を拡大してみると台座にはなにやら銘が彫ってあるなあ。もしかして、結構古いものかもしれない。今度行ったら、見てこようかな。このすぐ先にあるのがこちら↓。 うおお、何じゃこりゃ!?宝塔のようなスタイルだけど、こーゆーのは今まで見たことないような・・・で、興味津々で近寄ってみると 台座には「法華塔」と彫ってある。ああ、じゃあ法華経がこの中に納められてるってことなのかな。台座の他の面には寄進者らしき名前が沢山彫られていて、ぐるりと回ってみたんだけどいつの建立なのかは(確か)わからなかった。現地には解説板もないし、ここを訪れる人はそこそこいるのにネットでも誰も紹介してない。ので、これの由来はわかりません。「上野第一編(3)」に貼った家康や篤姫の墓と見比べて欲しいんですが、よく似てるでしょう?墓である宝塔の方がちょっと胴がずんぐりしてて、正面には小さな扉が取り付けられてるって違いはあるけど、基本的には同じ。他に写真で見た将軍の墓は綱吉と吉宗のがあるんだけど、どちらも宝塔形式。家康以降、ケイキさんを除く歴代将軍はみなこのスタイルかもしれません。ただ、ケイキさんの在任期間は短いし時期が時期なので、14代将軍・家茂(いえもち)の宝塔を造ってるヒマがあったのかは、まだ増上寺に行ったことがないしわかりませんが。今度は門のすぐ右手↓。 お堂の手前にも、気になるものが色々と・・・↓。 「祈武運」の文字の下にはスポンサーの名前が彫ってある。昭和17年のもののようだから、文字通りの願いが込められたものらしい。その右にある水盤↓。 これもね~、左端にも小さな字で色々彫り込んであるんだけど、ビミョ~な磨耗具合で現地ではキビシかった。案外このテのものって、写真の方がよく読める場合なんかもあるので、ぱっと見て読めなければとりあえず写真に収めておくんだけど、ここのはちょっと数文字しか読めない。右下には日付と名前が彫ってあるけど、こちらも一部読みにくいので推測なども交えると、「元文三戌午歳十二月五日」と思われる。名前の方は「諏訪●人右衛門尉源定●」かな・・・その隣にも何か彫ってあるんだけど、ほとんど読めない。「諏訪部」のようにも見えるんだけど、残念ながらどなたの奉納なのかはわからなかった。で、こちらが奥のお堂↓。真っ白な建物には「阿弥陀堂」の額が掛かっている。あ、阿弥陀様ならちゃんとお参りしてかないと・・・わたくしの守り本尊は阿弥陀様なのでね 扉はオープンに開かれていて、撮影禁止の札もない。ホントに撮ってもいいのかな?としつこく周囲を見回してもやっぱりダメとは書かれてないので、思い切ってバシリと・・・ ああ、この雰囲気、なんとなく大内氏の興隆寺を思い出すなあ。そ、それにしても、手前のお2人がだいぶインパクトあるなあ。像と内陣のサイズが見合ってないんじゃ・・・え~、この場合も手前のお2人は脇侍というんだろうか・・・向かって左に地蔵菩薩様、右は先人の訪問記によると、虚空蔵菩薩様らしい。奥におわすのが、阿弥陀様・・・あれ?天台で阿弥陀様?まあ、ここは本堂じゃないから別に不思議はないのか。宗教はムツカシイなあ。内部もまずまずの造り↓。 中には、ひっそりと鐘が置かれていた↓。 写真を拡大すると、どうも銘に「慶安」の文字があるように見えるんだけど・・・これ、本物かな?供出を免れたのか?でも、江戸期の他の元号で下に「安」の字(それだけははっきり読める)を使うのってないしなあ。扉は開いてるけど中には入れないので、入口で首をぐるぐる回して中を覗いていたら、大きな菩薩立像の後ろに小さなお方がいるのを見つけた↓。 ああ、顔とか表面の感じからしてこちらのお地蔵様が本来の脇侍なんだな。とすると、反対側にも本来の脇侍がいたかもしれないけど、この時覗き込んだかは覚えてません(笑)。ここも今後の宿題だな。にほんブログ村
2013年12月28日

あと、宮の大事なお勤めとしては、寛永寺で将軍の葬儀があった場合の導師の役割がありますね。では、ひとりの宮について少しご紹介しましょうか。「上野第二編(19」で天海の遺言の中に京・毘沙門堂の復興が含まれており、公海の代になって完成したと紹介しましたが、毘沙門堂の復興に最初に手を付けたのは天海であり、天海の存命中に現在地に土地を与えられたようなことがウィキペディアに書いてあるんだけど、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると、4代・家綱によって現在の山科へ移転させる形で実現したとある。これは公海自身の書状にもそう書かれているらしいんだけど、今の私にはどちらが正しいのかの判断をするだけの材料がありません。が、リニューアル毘沙門堂が完成したといわれる寛文5年(1665)は毘沙門堂のホームページによると、本堂が落慶した年にあたるらしい。ま、家綱の代で復興が相成ったという事に変わりはないよな(←大ざっぱ)。この毘沙門堂、門跡寺院として名高いが、後西天皇の第6皇子・貴宮秀憲親王がここで受戒して以後門跡寺院となったとある。貴宮秀憲親王は出家ののち、親王宣下を受けて法親王となった。21歳の時、輪王寺門跡に就任し、寛永寺住職としては5代目、宮門跡としては3代目の輪王寺宮となる。これが公弁(こうべん)法親王で、歴代輪王寺宮の中では初代の守澄法親王、最後の公現法親王とともに世間に(ある程度)知られている宮。唐突に毘沙門堂のことを持ち出したのには訳がある。実は、輪王寺宮が山主となって上野に入る前にはまず毘沙門堂に入ることが慣例となっていたそうなのだ。おそらく、その起源が公弁法親王だと思われる。天海の遺した足跡は、色々なところでつながっている。遺言その5の恩赦もそのひとつで、天海自身もあの紫衣事件をはじめ、家光の弟の駿河大納言忠長や、福島正則などの件でも赦免を願い出ており、それはまず家光に受け継がれ、さらに輪王寺宮が特赦を願い出る基となったという。ただ、輪王寺宮による特赦のお願いには有名な例外もある。時期的にタイムリーな話題でもあるので、聞けばほとんどの人が「あ~~~!!」と口を開けるんでしょうが、公弁法親王の輪王寺宮就任は元禄3年(1690)。元禄でタイムリーと言えば、そうです、いわゆる「忠臣蔵」です。だいぶ以前の記事で、わたくしがアンチ忠臣蔵であることをカミングアウトしてますが、やっぱり今年も年末が近くなるとTVやネットではそのテの話題が多くなり、賑やかに忠臣蔵を語る世間を冷ややかな目で見ております。と、まあそれはともかく、旧浅野家の浪士たちが吉良邸で惨殺事件を起こした後の幕府は対応に頭を痛めた。時の将軍・綱吉は57歳、公弁法親王は34歳。2人は23歳もの年の開きがあったが、かなり親密な仲だったようで、寛永寺の主要堂宇の建立時期の一覧を見ると、家綱時代の寛文9年(1669)に「時の鐘」が建立された後は一旦堂宇整備が頓挫したような形に見えるのが、綱吉の代に入った元禄11年(1698)に根本中堂や宝蔵、吉祥閣などが一気に建立されて、ようやくここでほとんどの主要な堂宇が出揃う。それも2人の関係の深さを物語るものだと『上野寛永寺 将軍家の葬儀』は言う。討ち入りから処断が決まるまでの間、浪士達は一旦4大名家の預かりとなったが、この間の各大名家の待遇に対して江戸の庶民は 細川の水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れると狂歌で風刺したという。つまり、4大名家のうち厚遇した細川・水野は賞賛され、冷遇した毛利・久松松平にはブーイングが集中したそうな。幕閣や学者の間でも意見が割れ、なんとなく助命モードになりつつあった綱吉もうかうかと「ね・・・ねえ、今回は助命でどお?」とは立場上言いだせず、宮の特赦を利用する手を思いついた。で、宮と対坐してノドまで出かかっていた上のセリフをさりげな~く遠まわしに表現してみたところ、宮の反応は意外なものだった。「まあね~、確かに忠義者だとは思いますよ。でも、もしここで助命した者の中から、さらに不祥事を起こす者がいたらどうします?今回の義挙にまで傷が付いちゃうんじゃないですかね?今ここで死を与えておけば、後世にまで忠臣として長く語り継がれていくでしょう。ただ命を助ければいいってもんじゃない。時には死も情けだと思いますけどね~」宮の仰せに納得した綱吉は、やっと決断したという。そもそもの発端となった江戸城での傷害事件の動機について、犯人の浅野長矩(ながのり)氏は胸のうちを明かしていない。だから様々な憶測を呼び、物語の中では好き勝手なエピソードがまことしやかに語られたりするんだけど、上野編を書き始めて色々読む中で江戸時代の儀礼とか格式とか少し知るようになると、一国を預かる藩主が、こともあろうに勅使を迎える江戸城において個人的怨恨(と、長矩は言っている)で刃傷に及ぶなど、もはや狂気の沙汰としか思えない。前はあんまりそこまで考えたことはなかったけどね。ドラマなどでは必ずといっていいほど、吉良義央(よしひさ)の陰湿なイジメが悪いんだと言わんばかりに幾つかのイジメの場面が挿入される。信憑性は低いながらも、津和野にも義央にいじめられたという記録があるらしい。が、寛永寺への将軍参詣に警護を命じられた島原藩松平家の記録を見るに、当時の江戸住まいの大名家の間ではさまざまな情報を交換して乗り遅れないようにしたり、よそ様と対応がブレないようにする独自のきめ細やかなネットワークが存在していたらしいのだ。だから、ドラマなどで語られるようないじめの犠牲者になったというのは私にはちょっと考えにくいし、もしそういう類のことがあったのだとしたら、江戸詰めの家臣の努力が不足していたんだろうとも思う。ま、それでも人間だから相性の問題もあるし、そこそこの嫌がらせもあるにはあったんでしょうけど、例えば附届けを多めにして心証を良くしたり、色々努力はしたハズ。それでもなおかつイジメに遭ってしまったら、もう耐えるしかない。江戸期には幾つかの似たような事件もあるにはあるけど、ここまで大きな事件を起こしたのは浅野長矩ただ1人なんだから、他にイジメの犠牲者がいたとしても、長矩以外はみんな耐えたのだ。あの時代において、それは正しい。藩主には、国を守る義務があるのだから。やあ、もうこの点について書き出すと止まりませんよ~だってもう、腹立たしいにもほどがあるってゆーか。浅野長矩のたった一度の短慮な行動は、実に多くの人の運命を狂わせた。まず国を潰し、吉良義央をはじめとする吉良家の20人以上の命を奪った。浅はかな主君に対してまで殉じた討ち入りの浪士達もみんな死んだ。援軍を出さなかった義央の子・上杉綱憲は非難され、綱憲の子で吉良家を継いでいた義周(よしちか)も命を縮めた。松の廊下で浅野長矩を止めた梶川殿も非難を受けた。討ち入りに参加しなかった旧浅野家家臣とその家族は幕末までなじられ、養子先から追い出される者もいるなど、長く苦労が続いた。偽名を使ってひっそりと生きたなんて話もある。まあ、宮と綱吉の会話が史実なのかはわかりませんが、もしそうだったのなら、300年以上経った今もなお、当時浪士達に喝采を浴びせた江戸っ子と同じように世間で浪士達を賞賛する裏には宮の読みがあったことになる。ぶっちゃけ個人的には、「ちぇっ、あの時生きながらえさせて義挙に傷を付けてくれた方がよかったのに・・・」と思わないでもないけど、確実に少数派であるわたくしの個人的意見はともかく、宮が有名な事件と関わりがあったかもしれないというお話でした。はうっ、結局半分以上赤穂事件の話になってしまった・・・ちなみに、前にも書きましたが、わたくしは浪士達を忠臣だと思ってますよ。ただ、討ち入りの中身はほとんど無抵抗の者をバッサバッサと斬り捨てた立派な虐殺。歴史ファンの皆様のほとんどはドラマをそのまま史実として受け止めてはいないでしょうが、一般的にはあまりにもフィクションの部分が独り歩きしていると思うし、毎年、特に討ち入り当日にはなにかと話題になり、浪士達の眠る泉岳寺を訪れるファンは多いものの、同じ日に無残な殺され方をした吉良家家臣の墓の場所がわからないことを知る人はほとんどいないだろうし、「忠臣蔵」を口にする人で吉良家中の冥福を祈る人はほとんどいないだろう。「世の中、不公平」これの一語に尽きますにほんブログ村
2013年12月26日

「日光御鏡頂戴」の続きです。宮が鏡餅を持ち帰ってくるのなら、この日が江戸城の鏡開きになるのかと思ったら、そういう訳でもないらしい。ちょうど先月、あの和菓子の虎屋で虎屋文庫の企画展があったらしく、もうちょっと早く知ってれば行った(かもしれない)のに、惜しかったな~と非常に残念に思いましたが、そのチラシによると、元日の早朝には御三家筆頭・尾張家の正室から将軍とその夫人への贈り物として巨大な鏡餅が贈られたんだと。尾張家だけでなく、他からも同じようにデカい鏡餅が贈られたそうで、その餅を使ったものかはわからないけど、1月11日には鏡開きをして女中達にまでおゆるこ(=お汁粉)が振舞われたそうな。ご存知の方も多いでしょうが、ついでだし正月も近いのでちょっと書いておきますと、鏡餅・鏡開きはもともと武家のイベントから来ていて、具足の前に飾った「具足餅」を下げて雑煮にして食べたのが一般化したもの。女性は鏡台の前に飾ったともいいます。普通、食べ物は庖丁で切るけど、「切る」が切腹を連想させることから手や木槌で割るのが作法。表現も「切る」「割る」など縁起の悪い言葉を避けて「開く」とする。フツーの食べ物を「切る」のはいいのか?とツッコミ入れたくなりますが、まあそのように言われてます。古くは1月20日に行われていたものが、家光の命日が4月20日であることから同じ日を避けて、松の内を過ぎた11日に行われるようになったのがルーツと言われる。江戸城においては、同じ日に家康が関ヶ原で着用したとされる甲冑を黒書院に飾って愛でたという。日光東照宮の宝物館にも関ヶ原で着用したという甲冑が展示されてるけど、この時のは久能山所蔵の甲冑の方みたいね。あ~、ちょっと脱線した感もありますが、つまりは宮が日光で震えてる頃(笑)、江戸城ではもらった巨大モチを引きまわしたりして、華やかな新年のイベントが続いてたようなんです。宮がお土産に持ち帰ったモチの行方が気になるところだけど、宮のモチは東照大権現様の神前へ供えて祈祷をしたもの。鏡餅は神様へのお供え物で、神霊が宿る聖なる食べ物との考え方もあるようなので、そういうモチを「もう2月だもん。モチは食べ飽きたよね~」なんてぞんざいに扱うハズもなく、きっと将軍や一門の方々に食されたのであろう。ところで、宮が年3回のお勤めを果たしに日光へ向かう前には、将軍は贈り物を使者に持たせて宮のもとへ送り、宮の身体の具合を尋ねるのが恒例だったという。そこで宮が「ちょっとカゼ気味で・・・ケホッ」なんて言おうものなら、医師を向かわせて、さらにそれでも良くないようなら、日光へ医師を付き添わせたそうな。宮が日光からお戻りになった際にも、同じように将軍が御機嫌伺いをしたんだと。さて、御鏡頂戴の儀式が終わると、宮はお帰りになる。お迎えと同じように、将軍が自ら宮を見送る。帰りもそのまま、御殿から駕籠に乗って上野へ戻る。と、宮のお勤めとして日光への出張を紹介しましたが、1年のうち3ヶ月は宮は江戸にはいないし、まだ寛永寺に霊廟が少ないうちは霊廟参詣のための御成(おなり)もそんなに多くはなかったでしょうから、頻繁に会っていた訳ではないかもしれない。けど、会わずとも、将軍からは珍しい物が手に入れば宮に届けさせたり、宮の方でもちょいちょいお使いを寄越して上野のお山に咲いた桜を桶に入れて届けさせたり、将軍の健康状態を尋ねたりと、宮と将軍の交流はかなり密接なものだったようだ、と『上野寛永寺 将軍家の葬儀』は語る。宮の存在がどんなものだったか、段々わかってきたのではないでしょうか?前回、1月6日に聖職者が年頭の挨拶に伺うしきたりを書きましたが、現時点であまり詳しいことはわからないんだけど、大名と同じように近隣の寺社には毎月、定例で登城する決まりがあったらしい。神田・護持院の史料によると、1日・15日・28日が登城日のようなんだけど、1日に関しては1~3月の間はない。1月は6日の一斉登城があるし、3月は天明7年(1787)から無くなって(3月が無くなった理由は不明)、2月がないのは『今日ハ御城ニテ御鏡開キ、上野御門主様御登城ニ付』他の寺は行かないんだとある。御鏡頂戴の臨席者の顔ぶれも時代によって多少の差はあるようだけど、元禄期の「隆光僧正日記」によると、宮と一緒に寛永寺の僧が残らず登城して、御鏡頂戴の後に上野衆が年頭の御礼を申し上げたとある。つまりは、寛永寺からは1月6日には誰も登城せず、宮のお帰りを待って2月1日にみんなで年始めの挨拶をしたってことなのかな。ちなみに、「隆光僧正日記」の時は真言宗・護持院の僧である隆光さんも同席してたようなんだけど、綱吉の代以降は護持院からの出席者はなくなって、引き続き輪王寺宮による鏡開きが行われたそうな。個人的には、真言宗の僧が臨席してたってのがちょっとオドロキだったんだけど、なにせ将軍は権力の中心なものだから、当然他宗派や寺社との関わりも色々とあるし、宗教政策ひとつ取っても、江戸ビギナーのわたくしにはかなり難解です。まあ、ぼちぼち頑張りますよ・・・ぼちぼち(笑)。1日っていうと、大名の定例登城日でもあるんだけど、2月は大名たちはどうしてたんだろう?寛永寺以外の寺社が2月は登城しなくてよかったように、大名も2月は免除されたような気がしないでもないけど・・・さて、江戸時代の江戸には将軍様がおわすので、「御成」があります。人によっては結構あちこち出かけたりしたらしいけど、寛永寺には将軍霊廟がありますので、寛永寺への御成もありました。将軍の霊廟参詣については、いずれ紹介したいとも思ってますが、ここでは簡単に関係することだけ。新しい将軍が前将軍の葬儀に参列しないことは少し前に書きましたが、葬儀と埋葬が済むと、その後で初めて新将軍が前将軍の霊廟へと参詣。その他、年回忌(3回忌とかの決められた法要)はもちろんのこと、毎年の祥月命日にも参詣したそうな。いやあ、後の代になればなるほど霊廟は増えてくんだから、墓参りだけでも大変だよな~。ちなみに、墓参りスケジュールを一覧にしてみると、6日・・家定(寛)7日・・家斉(寛)8日・・家綱(寛)10日・・綱吉(寛)12日・・家重(増)14日・・家宣(増)17日・・家康20日・・家光(寛)、吉宗(寛)、家茂(増)22日・・家慶(増)24日・・秀忠(増)25日・・家治(寛)30日・・家継(増)うわあ、忙しっ!!(寛)は寛永寺、(増)は増上寺。家光の本廟は日光だけど、上野霊廟があるので寛永寺に含めました。この日付はウィキペディアからのもの。どなたかが寛永寺に眠る将軍の死没の日付はかなり偏ってるって言っておられたんだけど(←どこに書いてあったのか探せない)、こうして並べてみると20日に3人重複してるだけで、特段偏ってるとも言えないような・・・ちなみに、最後の将軍・ケイキ(慶喜)さんは霊廟を持ってないのでここには含めてません。ケイキさんは在任中は江戸に入ったことはなかったし、いたとしても墓参りどころじゃないご時世だったしね。上に書き出したのは日付だけだけど、将軍が直々に参詣するのは、毎年の祥月命日のみ。月命日には老中が代参したんだそうな。ただ、将軍の参詣の当日に雨脚が強かったり、雪が降った日には順延されたらしい。そうは言っても、雨天順延は1回のみで、延期した当日が同じような悪天候だった場合には将軍の参詣は中止になり、代わって老中が代参したらしい。また、体調が悪かったり重要な公務がある時にはこれまた老中が代参したんだと。菩提寺にあるのは、将軍霊廟だけじゃない。その夫人や御三家、あるいは一門の霊廟もあったのでそれらの墓参りも含めたら、将軍・幕臣・大名の参詣が頻繁にあって迎える側もまあ忙しかったろうな~と庶民的な妄想が絶えませんあ、ちょっと余計な話が多くなりましたが、さすがに将軍の参詣ともなれば諸事大変です。島原藩松平家が将軍参詣の警護を命じられた内容を見ると、お役目を言い渡された時から、あちこちへの根回しだのなんだのも~細かすぎて読んでてウザいほどだし、将軍家御用達を務めた菓子の大店・金沢家の記録によると、将軍の御台所が寛永寺や増上寺に参詣する時には、なんと4~5万もの饅頭の注文が大量に入ったというから(誰がそんなに食べるんだ)、将軍のお出ましともなればどれほどのものか何となく想像もつくというもんです。それだけの将軍の御成であっても、霊廟に参詣に来た将軍を宮が迎えるのは年回忌の時のみ。年回忌以外の祥月命日の参詣には、宮はお迎えはせず、宮の唯一の代理人・学頭が出迎えたという。それでも、祥月命日の参詣の際には将軍が本坊におられる宮を訪問することもあったようで、もちろんその時にはアポなしで「宮!元気~?サプライズだよ~ん」なんて突撃訪問するハズもなく、ちゃんと事前にその旨をお知らせしておくので、参詣が終わってそろそろというお知らせを受けて宮が表玄関の式台まで将軍を迎えに出て、2人で一緒に大書院の上之間に向かって、宮が登城した時と同じように2人で上段で対坐する。談笑が終わって将軍が帰る段になると、宮が式台まで見送る・・・と、お互いがそれぞれに礼を尽くして相手をおもてなししたようです。にほんブログ村
2013年12月24日

「出家」というと、俗世での一切は捨てて基本的に皆同じ立場の僧侶になる、って気がするんだけど、まあ今と違って当時は身分社会ですし、輪王寺宮の場合は、宮様のお立場にあることは変わりません。宮は僧侶であると同時に、「輪王寺宮家」という宮家の当主でもあるんだそうな。親王を寛永寺に迎えた理由として、ウィキペディアにはこんな記述がある。 【敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵と されるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという 江戸幕府の戦略だったとも考えられる。 こうすれば、朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることが できるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)の即位として利用している。】「東武天皇」について知りたい方は、ウィキペディアの「北白川宮能久親王」のページをご覧ください。北白川宮は最後の輪王寺宮で、上野戦争で寛永寺の寺地が没収された際、強制的に還俗させられた方です。『神君家康の誕生』(曽根原理著)には、徳川家菩提寺・増上寺の僧である源誉存応(げんよぞんのう)が浄土宗の僧侶を公儀のスパイとして活用する策を家康に提案した話が紹介され、その後にこんな話が続く。 【さらに浄土宗の門跡については、逆に家康から、次の相談があったと記されている。 このたび上洛されたなら朝廷に申し入れ、新たに知恩院(京都の浄土宗の 中心寺院)の門跡職を設け、現天皇の皇子を就任させ、部下となる僧俗をつけ、 浄土宗の中心といたすよう進めていただきたい。 その上で、将来もし天皇や朝廷が徳川家を見限り、別の大名に倒幕の綸旨を 出すようなことがあれば、幕府側で知恩院門跡を天皇に即位させ、 対抗すれば良い。 (中略)存応は、浄土宗のためにも天下万民のためにも良策であると答えたという。 知恩院に准門跡を設けたこと自体は史実であるが、その意図は浄土宗寺院の 格式保持であって、朝廷との対抗策ではなかった。】 (『神君家康の誕生』より)スパイと対朝廷策の話は、存応の弟子である暁誉源栄(ぎょうよげんけい)が記した「暁誉覚書」からのもので、著者の曽根原氏は暁誉覚書のこの記述はフィクションであるとしているが、当時からこういう見方もあったという点では興味深いものだと思う。私の印象では、どちらかというと朝廷との対抗策というよりは、上記引用の最後の部分にあるように、寛永寺のハク付けと天台トップの座の確保、それから朝廷との融和策の狙いの方が強いような気がするんだけど、裏にもしものためのカードという意図がないとも言い切れない。開幕初期の頃は特に、朝廷との軋轢も多かったからね。公武融和の一環として将軍の御台所を京から迎えたように、宮にも朝廷とのパイプの役割が期待された部分もあったろう。では、ここからはエピソードなどを交えながら宮の話をしましょうか。宮の通常のお住まいは、寛永寺。本坊が宮の住居でもあったので、現在のトーハク(東京国立博物館)の場所に住んでおられた訳ですね。宮が寛永寺におられる間やお出かけの時には、山同心が警護を務めた。が、定例の日光でのお勤めもあった。それが、正月と5月・9月の厄月の祈祷。この3ヶ月・・・どこかで見た覚え、ありませんか?「上野第二編(16)」で「落穂集」から浅草寺が初めに祈祷寺としてご指名を受けた際の話を紹介しましたが、当時、江戸城中で行われていた定例の祈祷会が同じ月なんですよね~。正月は物事が生じる月であり、5月は物事が最も勢いよく興る月であり、9月は物事が実を結ぶ月。やっぱり昔の事だから、農業との関連を思わせるようないわれだな。この3つの月は、それぞれ「三齊月」「三長月」「善月」とも言われ、中国において「天」が下界の善悪の判定を下す月とされていたため、その期間中は殺生や結婚なども慎んでいたんだそうな。庚申信仰とちょっと似てるな。その一方で「神通月」とも言われ、この期間に加持祈祷を行えば悪鬼の影響を追い払い、逆に願いが叶うとされた。こういう月だから、日光で宮が幕府のために祈祷をするようになっても、恐らく江戸城でも厄月イベントは続けられたのだろう。江戸の風俗や芸能などを記録した「嬉遊笑覧」(きゆうしょうらん)には、猿回しの記述も出てくる。面白いことに、厄月のやはり正月・5月・9月には猿曳きが江戸城の厩に出かけて祈祷をしたんだそうな。その他、諸大名の厩にも赴いたという。猿は馬の守り神だからね( 「山口編(18)」もご覧ください)。厄月とはまた別の話だけど、毎年正月の6日には全国の僧侶および神職が年頭のあいさつに江戸城へ登城する決まりがあった。でも宮はその時、極寒の日光で幕府のために大事なお勤めを果たしていたので、その中に宮の姿はない。いやあ、ダウンもフリースもホッカイロもない時代、厳冬期の日光はさぞ寒かっただろうな~・・・と、真冬の日光の寒さが身にしみているわたくしはちょっと宮に同情してみる(笑)。けど、日光輪王寺の所蔵品には青銅製の「犬型温湯器」なるものがあって、垂れ耳の犬が「伏せ」をした格好をしていて、大猷院に伝わったものらしい。その写真が日光輪王寺の宝物殿で買った『日光山と徳川四00年の文化』という図録に掲載されているんだけど、もしかしたらいずれかの宮もこれで暖を取ったかもしれないよな~って、相変わらずそんな妄想ばっかりですで、さむ~い日光での祈祷の内容は、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると天下泰平・将軍と幕府の安泰、万民豊楽など。皇族である宮が、徳川幕府のために祈る訳です。見ようによっては、力関係がわかるとも言えますね。この祈祷に際して読んだお経の内容は巻数(かんず)という目録にされ、御祈祷のお札、それから日光東照宮にお供えして御祈祷した鏡餅と一緒に宮が江戸へ持ち帰ります。日光でのお勤めを終えて、宮が登城するのが2月の1日。この日が宮の年始めの登城になると思われます。上野から江戸城までの間を私はまだ歩いたことはありませんが、直線距離にして約3kmだから、1時間くらいで着くのかな。不動産屋さん方式でいけば、40分くらいで着く計算その1時間の道のりを、宮は網代の溜塗(ためぬり)のお駕籠に揺られて進んでいきます。網代の溜塗というのは、竹や杉などの皮を編んだものに下地を塗ってその上に赤い漆を塗り、さらに透明な漆を厚く塗る漆塗りの技法で、深みのあるワインカラーの駕籠のようです。これは将軍と宮にしか許されていない駕籠なんだと。江戸城には多くの決まりごとがあり、大名たちの登城する門も決まっていました。宮がお使いになる門がどれだったのかは現時点ではわかりませんが、やっぱ大手門あたりでしょうかね。一部の大名、役高500石以下の者、50歳以下の者(笑)などは大手門前の橋の手前で駕籠や馬から降りて歩きますが、宮は駕籠に乗ったまま通過します。その奥の大手下乗所から高家、交代寄合、50歳以上の者を含めおそらく全ての大名が歩くようになると思われますが、宮はそのまま通過します。次の大手中の門か、さらにその先にある玄関前の書院門のどちらかで同じ将軍家の菩提寺である増上寺の法主(ほっす)は下乗します。御三家は中の門の前で下乗したともいうから、増上寺も中の門で降りたかもしれない。少なくとも、増上寺が御三家より奥の地点で降りるということはないハズ。でも、宮は駕籠のままスルーします。んじゃ、宮はどこで駕籠を降りるのか?『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(浦井正明著)によると、表玄関にじかに駕籠で乗りつけたそうなんですよ。ものによっては、宮も中の門で降りたとする人がいますが、『寛永寺』にも表玄関に駕籠のまま横付けできる特権を持っていたとあるし、私はこちらの説を信用しますね。(ただし、浦井氏は寛永寺のお坊様なので、『寛永寺』の編集に浦井氏も参加してる可能性は十分にあるんだけど。)通常、宮の格式は御三家に並ぶ。が、法要などの儀式となると、御三家をもしのぐ格式があったという。そういう訳だから、定例の大名の登城の際は通勤ラッシュで大変だったろうけど、大名が御三家と道でバッティングしちゃった場合は、脇に寄って道を空けて駕籠から降りて礼を尽くして御三家に道を譲ったというし、御三家が勅使に行き合った場合でも、片道を空けてすれ違うだけという権力をかさに着て・・・あやや、強大な威厳を持ったさしもの御三家も、もし宮と行き合うことがあったなら、それなりの礼を尽くしたかもしれない。ま、そういうケースがあったのかどうかは知りませんが。とにかく、宮の格式は御三家を下回るものではなかったとご理解ください。さて、表玄関に到着して宮は駕籠を降ります。御殿に入って謁見の間まで進むと、将軍が自ら下段へ降りて、宮を迎えます。言うまでもないですが、通常は将軍はこんなことしません。そして2人で上段へ上って、上段で宮と将軍が対坐します。わかります?上段と下段・・・いわゆる、上座と下座に着くのではなく、上段で2人が向き合うんです。つまり、宮と将軍はほぼ対等の立場という訳です。寛永寺を出てからここに来るまでの宮の登城スタイルは、平時も同じ。別に、年頭だからこの日だけ無礼講って訳じゃありません(笑)。さて、上段に2人が落ち着くと、宮が日光みやげを渡します。上に書いた、巻数とお札と鏡餅の3点セットね。他の厄月である5月と9月にも、同じように巻数とお札は献上したそうですが、その2回については宮がご自身で登城されるのではなく、名代である子院の凌雲院の住職が献上するという決まりになってました。凌雲院の住職が重要なポストであったことは「上野第一編(12)」で紹介しましたが、要するに「学頭」のことであり、唯一宮の名代を務める資格があった方のことです。学頭がおみやげを献上しに伺った際のことまでは『上野寛永寺 将軍家の葬儀』には書かれてないんだけど、おそらく宮個人の特権以外の部分の流れは2月の宮の登城の時とほぼ同じでしょう。てことは、将軍に謁見する機会もあった訳で、そういう重要な役職だからこそ、当代一流の僧が選ばれ、しかも宮と将軍の2人の同意がなければ学頭になることはできなかったというのもうなずけます。2月の献上の場合は、鏡餅のおみやげもあるので、この献上の儀式を「日光御鏡頂戴」(おかがみちょうだい)といったそうです。にほんブログ村
2013年12月22日

やっと輪王寺宮のご登場となりましたが、まずは「輪王寺」について。輪王寺は、日光山に対して与えられた号。今でこそ明治の神仏分離令というハタ迷惑なお達しのおかげで「二社一寺」・・・東照宮とニ荒山神社と輪王寺に分かれてはいるものの、神も仏も一緒だった当時では、日光山すべてが輪王寺だった。少し前の記事で、勝道上人が立ちあげた「紫雲立寺」は、「四本龍寺」となった後に「輪王寺」になってるみたい・・・と書きましたが、「輪王寺」になる前に「満願寺」の号をもらってたようです。平安時代、弘仁元年(810)に朝廷から「満願寺」の号が下されたものらしい。鎌倉期に入り、皇族の住職を迎えるようになるが、戦国の終わりに衰退。江戸期になって寺おこしのプロ(笑)、天海を迎え、さらに公海を経て後継者に守澄法親王を迎えたことで再び朝廷より寺号を賜り、現在まで続く繁栄の基礎となる。日光山とは、こうした古い歴史と由緒を持つ霊場です。で、「輪王寺」の名称ですが、『寛永寺』では輪王寺宮が三山管領宮となり、仏教界の頂点に君臨する象徴的な存在となったという紹介の後にこんな説明が続く。 【今、そのことを何よりもよく示しているのは「輪王寺」という門室号の勅賜だろう。 「輪王」とはもともと古代印度の理想の君主「転輪聖王」に由来する名前である。 釈迦が仏法を説くことを「転法輪」というが、輪とは本来戦車の車輪の意味である。 従って、転法輪とは、ちょうど優れた大王が戦車に乗ってすみやかに四方を 平定するように、釈迦の教えがすみやかに転じ拡がっていくことを意味している。 こうしたことから、後に釈迦自身を表わすのに輪宝を用いた訳である。 従って、仏教界全体を統轄する理想の僧の名としては、「輪王」の名が 最も相応しいことになる。】 (『寛永寺』より)はあ、そんな奥深い由来があったなんて・・・宗教の世界は難しいッス最後の方で「理想の僧の名としては」とありますが、「輪王寺宮」は特定の個人を指す称号ではありません。守澄法親王の後、幕末まで寛永寺には代々親王を山主に迎えたので、守澄法親王以後の歴代山主が皆様輪王寺宮になります。前回も少し書きましたが、日光の山主・輪王寺宮になることは、同時に寛永寺の山主になることであり、輪王寺宮を辞職する時は寛永寺の山主を辞職することでもあります。つまり、江戸期の寛永寺と日光輪王寺は完全に同体と言えるでしょう。これに天台座主がからむとちょっとややこしくなってくる。なんでかというと、天台座主の歴史もまた長いからなのだ。「天台座主」というと、大抵の人が「天台のトップ」をイメージすると思う。おおむねそのイメージは間違ってはいないんだけど、江戸期に関してだけは事情が違う。歴代輪王寺宮の中には天台座主にならなかった方もいた。なら、「三山管領宮」じゃないじゃん!て言いたくもなるけど、あくまでそれは形式上のことであり、天台座主にならなかった、あるいは天台座主を兼ねていない時期があったとしても、実質的な権威は変わらず輪王寺宮にあった。要するに、江戸期の天台を統轄していたのは叡山ではなく、東の叡山=寛永寺だった。なので、他の寺の僧が天台座主の地位にあった場合でも、それは叡山だけを管理したという意味になり、天台座主になろうがなるまいが、天台宗のトップの地位は江戸期を通じて輪王寺宮のものだった。明治期になると、トップの地位は再び叡山に戻ったので、通算して天台座主をカウントする都合上、江戸期も含めて「天台座主」と表記しているが、ちょっと誤解を招きやすい、とウィキペディアになかなか丁寧な解説が載っている。簡単に言うと、江戸期を除いては天台座主=天台宗のトップ、ただし江戸期には寛永寺(輪王寺宮)が天台のトップになるそうなので、この辺りの事情をきちんと踏まえておく必要がありますね。ちなみに、『輪王寺 宝ものがたり』にはこんな話が載っている。 【輪王寺の寺名はどこから 奈良の吉野山に、こんな伝承があります。 天海大僧正が家康公から慶長19年81614)に吉野山の管轄を任され、 そこの金輪王寺の住職となりました。 この寺は南朝の御所となったところで、その名を日光山へもってきてしまい 輪王寺と改称したというのです。宮様を住まわせるには適切な格式の寺名と いうことになります。ただし日光側にはこの伝承は伝えられていないのですが。】ほお、南朝!?と思って軽く検索してみたら、結構この話はネットでも紹介されているので驚いた。なんでも、吉野にこもった後醍醐天皇は実城寺を皇居としたが、その際に寺名を金輪王寺と改めたという。そして、後醍醐天皇は金輪王寺で薨去した。秀吉は吉野に対し柔軟な姿勢で対応したが、家康の時代になると警戒され、天海を学頭に置いて日光の支配下に置き、寺名は没収、以後も厳しい統制を敷き吉野の寺院勢力を削いでいった。と、こんな感じになるようです。ここでは別に、伝承の真偽を問うつもりはありませんが、なかなか興味深い話ではある。仮にこちらが本当の話だったとしても、そりゃ日光サイドではこんなエピソードを由来として紹介するワケないよな(笑)。「上野第一編(8)」で、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』を参考に寛永寺の寺域の変遷が大きく5つに分けられることを書き、そのうち最後の第5期について少し紹介しましたが、著者の浦井正明氏によると、法親王を迎えた承応3年(1654)から万治3年(1660)頃までが第2期にあたるという。現在確認できる寛永寺の寺領に関する文書は、寛永11年(1634)のものが最古だそうで、最初は秀忠からもらった上野のお山の一部に加え、坂本(鶯谷付近)・日暮里・田端と寛永寺に近い場所が与えられている。正保3年(1646)には寛永寺における最古の朱印状が与えられ、赤羽・中里など少し北へ領地が延びた。この時の山内での内訳は、本坊や年中行事料のほか、天海を祀る慈眼堂への配当があり、「学頭料」も見える。山内の実務のトップ・学頭には個別にお手当の支給もあったことを「上野第一編(12)」で書きましたね。この配当から、山内のシステムも次第に整いつつあることが窺われる。この時点で2,100石。わずか8年後の承応3年(1654)、二度目の朱印状を受ける。浦井正明氏は、これを重要視しておられる。承応3年の時には、谷中・十条や鹿浜(足立区)などがプラスされ、総石高は一挙に5,600石にまで膨らんだ。倍以上になったという点の他に、浦井氏は配当の方法が正保3年の時から大きく変わり、その後どんなに寺領が増えようとも、基本的な配当の枠組みが変わらなかったという点に注目しておられる。それはつまり、承応3年に配当のスタンダードが定められたことを意味する。そして、同じ年に法親王が寛永寺の主に就任している・・・ここから、宮を寛永寺に迎えたことで『時の幕閣もそれなりの対応が必要となり、右のような山料関係の整備も行われたのだと考えられよう』(『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)と浦井氏は推測しておられる。内訳について少し紹介すると、この段階から「御隠居料」として500石がカウントされている。この御隠居料が何かというと、守澄法親王へその座を譲った寛永寺第2代・公海に対する配当らしい。『寛永寺』の表紙の絵図は延宝期(1673-88)のものであることがやっと最近わかったんだけど、絵図には現在の寛永寺の北の大きな区画に「毘沙門堂 御門跡」というのが描かれていて、公海は山科・毘沙門堂の門跡で元禄まで生きた方なので、隠居してここに住んでいたものと思われる。のちの輪王寺宮の中には、手持ちの資料の中ではあまり詳しいことはわからない方もおられるんだけど、寛永寺に墓がある方もいるから、生前にその地位を譲って寛永寺内でそのまま隠居した方もいるのかもしれない。その一方、別の場所で隠居生活を送った方もいる。つまりは、いつでも寛永寺に「御隠居」がいた訳ではないんだけど、御隠居様の在・不在に関わらずこの御隠居料はそのまま固定化したんだそうな。浦井氏は著書の中で触れておられないんだけど、「御隠居料」と同じく承応3年の配当目録から現れたものに「目代料」がある。それ以前から寺領の管理とか山内の警備などにあたった人はそれなりにはいたんだろうけど、「目代料」が公式に顔を出すことから、目代をボスとする山内の警備システムも正式にこの辺りから整えられたと言ってもいいんじゃないだろうか。てことは、宮を迎えたことで、幕府の配慮によりセキュリティ度がアップしたって可能性もあるよな、と思った。寛永寺って時代も比較的近いし、場所も江戸だし徳川家との関係も深いから多くのことがわかっているのかと思ったら、案外そうでもないらしい。寺領もそのひとつで、あまり詳しい考証がなされていないために『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の中で浦井氏は結構ページを割いて寺領の変遷について紹介しておられるのだけど、今後の検討課題として幾つかの点を挙げている。そのテーマの1つが、寺領の置かれた場所について。 【東叡山領は、まずいわゆるお膝下の坂本・新堀(日暮里)・金杉・田端などに はじまり、しだいに荒川を護岸沿いにさかのぼる格好で設定されていく。 したがって、享保期の段階で見ると、一部を除き、ほぼ荒川の護岸沿いに連なって 寺領が存在している。これらの土地はほとんどがもともと幕府の直轄地であり、 幕府は宮様の手前もあってか川沿いの肥沃な土地を選んで寄進したと思われる。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)これはまだ浦井氏の推測の段階だと思うけど、幕府の宮に対する配慮の一端が窺える、興味深い記述だと思う。大ざっぱな推測として、宮が寛永寺に来たことでそれまで以上に幕府主導で山内のシステムもより高度に整えられ、経済的にも優遇された、ってことが言えるんじゃないのかな。経済といえば、上に書いたような寺領などはあくまで公式なもので、寺の収入には非公式なものもある。各子院には宿壇からの毎年の附届けもあったし、寛永寺全体で見れば将軍の葬儀を執り行った際の謝礼や、将軍霊廟への参詣の際に関係者から贈られる謝礼など、定期・不定期に結構な収入があった。が、これらは表向きの石高としては一切計上されていないんだそうな。これも、大名によって金額はさまざまだけど、宮をお迎えして格式がアップした寛永寺への贈り物なのだから、それなりの額は包まねばならないだろう。だとすると、宮は経済貢献もしたといえるカモ・・・にほんブログ村
2013年12月21日

天海が徳川家光に託した遺言は、5つある。 1、東照大権現の神威を増すこと。 2、天台宗を繁栄させること。 3、天海の後継者には、親王を迎えること。 4、京・山科の毘沙門堂の門室を再興すること。 5、天皇の命に違反する罪で配流された人々の赦免を行うこと。天海と東照宮は切っても切れない関係にあるけど、それは東照宮のところでまとめて書きたいので、ここでは極力東照宮以外のことに限定します。『寛永寺』によると、天海の死にあたって家光は追悼のために厨房に7日間の精進潔斎を命じ、死の翌月の11月2日(天海の月命日)には江戸・大坂・京・長崎の4大都市で軽犯罪者の釈放を行った。これは通常は将軍の死に伴う措置だったので、異例のことといえる。遺言その5が効いたのかもしれない。ところで、家光は追悼のために異例のことまでしてるし、遺言まで聞いてるくらいだから、家光にもいよいよの覚悟があったと思うのに、家光は天海の死に立ち合っていない。天海の病状報告に20人も寛永寺に配置してるのに。確かに、政務のために駆けつけられなかった可能性もあるけど、家光個人としては天海を看取りたかったんじゃないかと思うんだよね。でも、それはしなかった。これはわたくしの推測ですが、「死穢」を避けたんじゃないだろうか。そんなに沢山の史料を読んだ訳でもないし、そんな理由がどこかに書かれているのかも知らないけど、後代の将軍の葬儀のルールと同じ理由なんじゃないかと思ったのだ。将軍の葬儀の実際というのもなかなか興味深いものなので、番外編にでもしてそのうち書こうかと思ってるんだけど、実は将軍の葬儀には、次代を担う新しい将軍は立ち合っていないらしい。へえ~!!ってカンジでしょ?これもやはり死穢を避けたものらしいので、家光としてはずっと天海に付き添っていたかったけど、周囲に止められたんじゃないだろうか。まあ、家光ならあっさりそれを振り切りそうな気もするけど、前回の最後に紹介したように、自分の姪にあたる天皇の譲位問題などがちょうどバッティングしちゃったので、泣く泣く諦めたのかもしれない。そんな風に思った。天海の遺言は、実はすでに天海の生前から取り掛かっていた内容がほとんどなので、「上様、これをあなたがやってくだされ」というよりは、「上様、仕上げをたのんます」というニュアンスが強い。そして家光は、故人の遺志を継いでそれを成し遂げた。さて、天海の跡は一番の高弟である公海が継いで、寛永寺と日光の山主になった。信長包囲網に関与した叡山は、元亀2年(1571)、逆襲を受けて荒廃した。ウィキペディアによると、近年の発掘調査からはこの焼き討ち以前に多くの施設がすでに廃絶していた可能性が指摘されているようだし、叡山攻めも世間で言われているよりは対象が限定されていたようだともされるけど、いずれにせよこの辺りでかつての姿はなくなっていた。幅広い勉強をしながらも天台へのこだわりが強かった天海は、これの再興に情熱をそそいだ。「上野第一編(7)」で少し書いたように、自分の本拠である寛永寺の整備を一部後回しにしてまで、家光をスポンサーにして叡山の復興に務めた。京・山科の毘沙門堂も、天海の手によって復興がなされた寺のひとつだった。毘沙門堂の前身・出雲寺は寺伝によると8世紀、あの行基様の開山によるという。もとは洛中の上御霊神社付近にあったものらしいが、天海が山科の地に寺領を与えられ、現在地へ移転。ただし、完成は寛文5年(1665)というから、天海の存命中にはまだ復興途上だったのかもしれない。公海はまずこれを継いで、毘沙門堂の復興にあたった。寛永寺が寛永寺たる重要な要素には、2つある。いや、色々あるんだけど、わたくしが考えるのは2つ。ひとつは、開基である天海の存在。そしてもうひとつが、遺言その3にある親王を迎えること。天海が生きてる間には、これは実現しなかった。が、天海が死を迎える以前にそれは実現へ向けて動き出していた。一般には、天海の夢が叶ったのは親王が寛永寺・日光の両貫主を継いだ承応3年(1654)と紹介される。そこまでの流れを、ダイジェストで見てみましょう。元和2年(1616)、徳川家康死去。元和8年(1622)12月、徳川秀忠が上野の地を天海に与える。元和9年(1623)、秀忠が高輪御殿と資金を与え、寛永寺の工事が始まる。 7月、家光が将軍職を継ぐ。 天海の後継者に皇族を迎えるプランがこの頃できる。 寛永2年(1625)11月、本坊落成。「寛永寺」のスタート。寛永6年(1629)、家光の姪(5歳)が即位、明正天皇となる。寛永9年(1632)、秀忠死去。寛永15年(1638)、幕府から朝廷に申請し、明正天皇の弟・幸教親王 (後水尾天皇の第6皇子:4歳)を天海の後継者とする 勅許が降りる。 寛永20年(1643)10月2日、天海死去。正保元年(1644)、幸教親王(10歳)が京・青蓮院で得度し、親王宣下を受け、 尊敬(そんきょう)法親王を名乗る。のちに名を守澄 (しゅちょう)法親王に改める。正保4年(1647)、守澄法親王(13歳)が関東に下向。慶安2年(1649)、守澄法親王(15歳)、一品(いっぽん)宣下を受ける。慶安4年(1651)、家光死去。承応3年(1654)、守澄法親王(20歳)が公海から寛永寺と日光の山主を譲られる。ここまで、寛永寺と関係者も絡めてガスッと書きましたが、かなり長い時間をかけてようやく皇族が寛永寺と日光を継いで第3代山主となります。皇族が出家するというのは古くからあることで、タイミングによって呼び方が変わるらしい。出家した後に親王宣下を受けると、「法親王」(ほっしんのう)。親王宣下の後に出家すると、「入道親王」。守澄法親王をもらう契約は天海が生きてた頃に成立しているので、天海としては1日も早く皇族が自分の跡を継ぐ姿を見たくて、守澄法親王の成長を首を長くして待っていたことだろう。途中で御破算になっちゃう可能性だってあるもんね。ま、こうして並べてみると、家光も自分の目で皇族住職の誕生は見ることができなかった訳だけど、関東に下向したところまでは見届けてるのだから、天海との約束は果たしたと少し安心したかもしれない。「一品」てのは、親王・内親王の位階のこと。一品から四品に分けられるので、端的に言うと最上階のステータスを与えられたってことでしょうかね。ちなみに、法親王が名を「守澄」に改めるのは延宝元年(1673)ですが、「守澄法親王」の名の方が広く世間に知られているので、ここでは守澄法親王で通します。さて、めでたく守澄法親王が東叡山・日光山の両山主となられたので、天海の願いはひとまずここで達成されたと言っていいんじゃないかと思うけど、まだ終わりではありません。明暦元年(1655)10月、守澄法親王が朝廷より天台座主を宣下される。 11月、朝廷から日光へ「輪王寺門跡」の号の勅許が下り、 「輪王寺宮」の始まりとなる。明暦2年(1656)、幕府により輪王寺宮が比叡山・東叡山・日光山の三山を管領する 長として定められる。はいっ、ここでようやく天海のプランが完成を見るのです。同時に、「輪王寺宮」(りんのうじのみや)の誕生でもあります。ばぶう~っ!!守澄法親王が輪王寺宮を名乗る以前から、寛永寺が日光山の山主を兼帯する道はできていました。つまり、寛永寺の住職になることは、イコール日光の住職になることでもある。そこに叡山が加えられることで、天台を完全に寛永寺が掌握したことになるんだそうです。『神君家康の誕生』によると、天台の掌握だけでなく日本の宗教界の頂点に立ったともある。輪王寺宮と天台座主とは必ずしもイコールではないので、ちょっとややこしい所もあるんだけど、ほとんどの輪王寺宮が天台座主も経験してるようです。以後は、幕末まで寛永寺の山主は親王(輪王寺宮)が務めることになる。「輪王寺一品法親王」は三山を管領したことから「三山管領宮」とも呼ばれ、その他に「上野宮」「日光宮」「輪門様」「日門様」など様々な別名がある。ウィキペディアによると、朝廷や公家からは「輪王寺宮様」と呼ばれ、幕府や武士からは「日光御門主様」、江戸っ子からは「上野宮様」と呼ばれたとある。さらに、漢文の教養のある文士たちからは「東叡大王」(とうえいだいおう)とも呼ばれたそうな輪王寺宮が三山を統轄するようになった時点で、天海の遺言はすべて果たされたと言っていいだろう。遺言その5の特赦は、家光に留まらずその後の輪王寺宮にも引き継がれた。太田道灌が最初に江戸城を築いたといわれるのは、長禄元年(1457)。家康が江戸に入府した頃は、まだ江戸の町は野原のようだったともされる。地形も今とは全然違っていた。それが、江戸に幕府を開き、日本一の巨大な城を築いてあらたな都となったが、京に比べ当然歴史は浅い。そういう町に住む江戸っ子にとっては、将軍様と上野の宮様・・・政治と宗教のトップがともに江戸に住んでいるということが、何よりも誇りだったらしい。だから、「上野第二編(12)」の宮のお練りなんかは、そりゃみんな見に行っただろうな~と思ったんだよね。実は、日光の長い歴史の中では親王を迎えた例もある。が、輪王寺宮は、それまでとは格が全っ然違う。だからこそ、寛永寺における歴史の中で、開山である天海とともに非常に重要な存在だったと私は思うのだけど、どう違うのか、宮がどんな存在だったのか、それはまた次回以降に・・・にほんブログ村
2013年12月19日

家光が将軍職に就任したのは、19歳。天海は87歳。天海が107歳で死んだ時、家光は39歳だった。将軍としての実に20年を、天海とともに過ごしたことになる。「上野第二編(15)」で、「駿河土産」から天海の家康・秀忠に対する人物評価を紹介して、そのつづきを保留としましたが、つづきの部分には家光の評価が来る。 当将軍様(家光)は利発な方で、理屈っぽい面も強いので、 御伽をするにも気が詰まるわい。 と天海大僧正はおっしゃられた。アハハハハ・・・これまで私は、家光がどんな人なのかはほとんど知らなくて、ただ疳の強いワガママ坊ちゃん的なイメージしかなかったんだけど、なかなか政治的手腕にも優れた人だったみたいね。オヤジの遺言もあったから、遠慮なく思うがままに振舞い、祖父が造り上げた政権を、父が地道に固め、それを家光が完成させた。「徳川3代」ってのは、実に的を得た言い方だと思う。ただ、正室・孝子とのエピソードに代表されるような、クセのある一面を持つ性格であるとも言える。 天海からすれば、子供の頃から家光を見てきて孫かひ孫も同然といった感覚だったろうけど、その天海にしてこの評価だからちょっと笑えましたね。まあ、主君と家臣という立場にはありながらも、家族のような思いもあったからこそ、逆にお互いに物言いにも遠慮がなくてこういう評価になったのかもしれないけど。ウィキペディアには、こんなエピソードが載っている。 「天海、ほら、柿」 「おお、これは美味そうですな。 どれ・・・(モグモグ) うん、うまい」 「・・・? 天海、柿の種なんか包んで、どーすんの?」 「持って帰って、植えます」 「プハッッッ!! て・・・天海、今いくつ!? もうすぐ100歳じゃん!! 桃栗3年、柿8ね・・・」 「天下を治める方が、そのように性急ではいけませんな」 数年後。 「上様、おひとついかがですか」 「あ、柿。 天海、どうしたの、これ?」 「いつぞや戴いた柿の種が、実を付けました」 としれっと答えたという。真面目な秀忠に対しては、天海は長寿の秘訣としてリラックスを詠んだ歌をプレゼントした。一方、対照的なその息子には、説教的な歌を送っている。それが、「上野第二編(12)」の両大師の門の解説にあったもう一首の歌。 気は長く つとめは堅く 色うすく 食ほそうして 心ひろかれハア・・・わたくしには、これといった座右の銘はございませんが、どれか選べと言われたら、これを挙げたでしょう。「輪王寺1」でも書いてますが、日光で三仏堂に寄った時は観光客の立ち寄らない暗い隅っちょへ必ず行って天海坐像に挨拶し、坐像の前に小さく書かれているこの歌を読み返しては心に刻んで帰る・・・たとえ、無理な訓示であっても。その長年にわたる思い出の歌が、まさか家光へ贈られたものだったなんて。「ワシャ、家光か!!」と爆笑しましたね。うう、耳が痛いからこそ、心に刻んでなるべく努力しようと思う訳で、つまりは家光と私は性格および生活態度が似てるってこと・・・?いやいや、深く考えるのはやめよう。世の中には、耳の痛い人間なんか山ほどいるハズだ(←決めつけ)寛永寺の立ち上げに実体を与えたのは、秀忠。が、着工の年に家光が将軍職を継いでいるので、将軍在位でいうなら、家光の代から寛永寺がスタートしたといえる。本坊ができた寛永2年(1625)から寛永16年(1639)の間に、家光の後押しを受けて諸大名や御三家などからの寄進も相次ぎ、主要な堂宇はおおむね出揃っている。ただし、開山堂は天海を祀るものだから当然天海の死後の建立だし、根本中堂は上野第一編の方で書いたように、綱吉の代を待たなければならない。オヤジが天海と始めた事業を、家光が引き継ぎ整えていった。天海最晩年の大仕事は、この寛永寺の整備、それから「上野第二編(11)」で書いた家綱の誕生祈願といえるだろう。寛永17年(1640)時点で、家光に子はいたが女子だった。家光はすでに36歳。早いとこ手を打っておかないと、後がヤバい。で、天海が子宝祈願に乗り出した訳だけど、『輪王寺 宝ものがたり』によると、良源さんの画像とともに天海自ら日光にこもり、サポート役に日光輪王寺・寛永寺の僧のみならず修験僧まで参加しての一大イベントだった。たぶん、この最中の出来事じゃないかと思うんだけど、家光が別件で天海に祈祷の依頼をしたという話がある。 「なんかさ~、江戸城に火事の危険があるっていうんだけど。 天海、ちょっと防火の祈祷もしてくんない?」 「ワシャ、若君誕生のための大事な祈祷中なんですけど。 この上防火の祈祷なんかした日にゃあ、 祈祷の効果が半減しちゃうし~。 考えてもみてくだされ、上様。 お城は燃えてもまた建てればいいが、 1日も早く若君がお生まれにならなければ、 天下のピンチです。 ワシには若君ご誕生の方が大事ですからな、 火事の祈祷はお断りです。 ま、よくよく火の用心に努めることですな。フン」 この天海の見識に、かえって家光の信頼は増したという。上野編は他のシリーズよりも色々なエピソードを持ち出してますが、雰囲気を出すために相当脚色入ってますので、100%このセリフだと信じないようにね(いちおう言っておかないとね)遠慮なく天海が家光の依頼を却下して子宝祈願に集中したことで、めでたく4代将軍・家綱が誕生。これを皮切りに、綱重・綱吉と家綱の跡を継ぐ男子がボロボロ生まれ(綱重は将軍にはならなかったが、その子が6代将軍になった⇒ 「上野第二編(4)」参照)、ひとまず将軍の血脈は保たれた。寛永15年(1638)には川越で大火があり、喜多院が全焼する。家光はただちに喜多院の再建に取り掛かり、「家光誕生の間」と「春日局化粧の間」を移築する。これは江戸城唯一の遺構と言われているらしい。遺構って言っても色々あるから、ここでは御殿建築の意味だと思うけどね。江戸城の御殿は最終的に本丸・二の丸・西の丸すべてが焼失しているので、喜多院に残る貴重な遺構は、家光の天海に対する愛が時空を越えて現代に伝わったと言えるのカモ・・・(笑)。家康の死後、日光で年忌の導師を勤めたり大蔵経の出版に取り掛かったり東照宮の縁起絵巻を完成させたりと100歳を過ぎてもなお精力的に活動を続けてきた天海だったが、さしものスーパージジイにも最期の時がやって来る。天海の死については、「教科書が教えない歴史有名人の死の瞬間」(新人物往来社)に詳しい。一部抜粋してご紹介しましょう。天海が体調を崩して病床についたのは、寛永20年(1643)7月14日。家光は医師4人を付け、歩卒20人を病状の報告のために配置して逐一容体を報告させた。寛永寺では、天海の回復のための祈祷が始められたが、天海はすぐそれと気づき、「今はまだ軽いが、やがては定められた寿命が尽きる。それは祈祷や薬で治るものではない。この世には、できないこともあるのだ」と言って祈祷をやめさせた。9月29日、家光が見舞いにやって来て手ずから薬を飲ませた。そして、日頃気になっていることがあれば、きっと実現させようと家光が言うと、天海は5つの遺言を託した。家光は遺言を涙ながらに聞き入れ、狩野探幽に命じて天海の肖像画を描かせて、それを天海に見せたところ、天海はにっこり笑っただけだった。10月1日深夜、死期の迫ったのを悟った天海は高弟たちを呼び寄せ、天台の奥義を口述筆記させてそれを自ら校閲した後、家光へ届けさせた。10月2日、朝10時頃から唯識論をひもといていたが、昼になって口をすすぎ、手を洗った。そして新しい清潔な衣に着替えたが、それも弟子に手伝わせてやっとの状態だった。瀕死の身ながら威儀を直して呼吸を調え、しばらく数珠を握って経文を唱えた。 天海の目には、文殊師利菩薩の来迎姿が浮かんだらしい。数珠を三度鳴らして深く礼をしてから、「今、百余年の修行は終えて仏界に進むのだが、すべて何ごとも自然に思える」と言い、弟子を一人一人名を呼んでは合掌して、別れを告げた。「今こうして死に臨むが、もしも自分に恩を返したいと思うことがあれば、いっそう学道に励むがよい。現世の出会いの縁はここだけに限らない。さらに浄土で再会したいものだ」 この一言を言い終えると、眠るように息をひきとった。すでに夕方のことだった。天海の訃報はただちに江戸城に届けられたが、家光の姪である明正天皇の譲位問題があり、家光への報告は4日の午後になった。訃報を聞いて家光は落涙して悲しんだ。天海の最後は、半跏趺坐のまま姿勢を崩さず、表情は微笑が漂っているようだったという。家光はその姿に名残は尽きず、再び狩野探幽に画像を描かせた。 5日の夕方、天海の遺体を拭き清めて入棺した。墓所はかねての予定通り日光大黒山に移して、家康の許に殉葬と決まり、6日に千人の葬列で出発した。川越仙波、世良田、佐野春日岡、鹿沼薬王寺を経て10日に日光に到着。これらは遺言だったという。日光では金綾で覆った棺に百味珍華を供え、水銀、朱、塩で封じて埋葬したが、それ以来、水の出なかった大黒山に清水が湧き出すようになったそうな。慶安元年(1648)閏正月11日、「慈眼大師」号が勅許された。家光は同年4月、彼の最後となる日光社参で天海の墓前にそれを報告した・・・にほんブログ村
2013年12月17日

皆様が思っている以上に、わたくしは頭が悪いです。上野第一編からここまでの間に、数冊の本なぞを読んではいますが、特に『神君家康の誕生』は宗教部分の話も多くて、一度読んだだけでは頭に入りませんでした。理解できてないのは自分でもよくわかっていたので、現在読み返し中ですが、昨日ちょっと驚くような記述を見つけました。おっかしいな~、1回読んでるハズなんだけどな~で、『神君家康の誕生』に他からゲットした話なども交えてその部分を紹介しますと、家康が死亡した時点での天海の拠点は、川越の喜多院。63歳の天海が慶長4年(1599)に川越の無量寿寺に移り、ここで名を「天海」に改めたことを「上野第二編(14)」で書いてますが、当時は無量寿寺の中院が関東天台の本山と言われていた。無量寿寺には中院の他、北院、南院などがあったらしいが、天海が入った当時は相当荒れていたともいう。内部抗争があったなんて話もある。天海は中心的存在の中院ではなく、北院に入った。山号は、中院・北院ともに「星野山」(せいやさん)。慶長18年(1613)、家康の定めた「関東天台宗諸法度」により、関東の天台寺は延暦寺の支配下から独立して、北院がその本寺と定められた。天海は「北院」を「喜多院」にあらため、喜多院は「東叡山」の山号を与えられた・・・ほお、「東叡山」は寛永寺以前に存在していたのか!ちょっと、いやだいぶオドロキでしたね。天海、この時77歳。ただ、まだこの時点では叡山の勢力の一部を移したに過ぎない。でも、確実な一歩ではあった。家康と天海のタッグで、最終的には叡山のすべてを東へ移そうという狙いがこの辺りからあったという可能性はあるよな・・・これにより、喜多院と中院の地位は逆転する。で、ここからが大事なんですが、 【家康の死後も、天海は喜多院住職として江戸幕府と関わった。しかし、川越は 江戸から遠い。将軍秀忠は、元和8年(1622)に江戸城近くの土地を、 翌9年には白銀5万両と高輪御殿の建物を寄進し、天海の拠点となる寺院を 作らせた。ひとまず完成したのが寛永2年(1625)。 これが寛永寺の始まりである。 (中略)寛永寺も、一方では延暦寺を模すなど公的な側面を持つが、他方 京都や滋賀近辺の名所を移し(琵琶湖にならった不忍池など)、建物も天海の自費で つつましく建てられるなど、天海の私寺的側面を残していた。】 (『神君家康の誕生』より)ほっほっほ~・・・「ねえ・・・天海、ウチの近くに引っ越して来ない?」 (by 秀忠)・・・か!これならわかる!てか、私にはしっくり来る。まあ、元和8年時点で天海は86歳だしね~そりゃ、当時は川越~江戸間の往復は大変だよな~。この話からすると、やっぱり秀忠も相当天海に信頼を寄せていたと言えるだろうな。大ざっぱな説明だけを読んでると、寛永寺の始まりは藤堂家やら3大名から上野を召し上げて、初めから上野の大部分を天海に与えていっきなり大寺院を造り出したような印象を受けるんだけど、これなら寛永寺初期の絵図で僧坊の隣に「百姓地」なんかがゴロゴロあるのもうなずける。( 「上野第二編(7)」もご参照ください)ただ、前回の土井利勝の言なんかにもあるように、寛永寺はただの高齢者用議員宿舎ではなかった。幕府の介入による官寺という面も確実にあり、関東の天台元締めの称号「東叡山」は喜多院から寛永寺へ移され、喜多院はもとの山号「星野山」に復帰した。スタート部分の「天海の私寺的側面」との兼ね合いがまだ消化できてないんだけど、ひとまずこれらの流れから推測すると、「大御所様、徳川家の末長い安泰のために、こんなプランはいかがでしょうな」「なになに、天海?ふ~ん、ああ、なるほど・・ふんふん・・・じゃあ、ひとまず関東の天台を独立させるか!頼んだよ、天海」「アイアイサ~」家康没。享年73歳。チ~~~ン・・・・・「ねえ、天海・・・ウチの近くに引っ越して来ない?」「おお、秀忠様・・・実は、亡きお父君とこんな夢を語り合っておりましてな。これを機に実現できたら、こんな嬉しいことはございませぬ」「どれどれ?え、こ、これは・・・!!よし、徳川家のために、私が引き受けた!!」・・・言うまでもないとは思いますが、原作・脚本:戦国ジジイのお茶の間劇場です。たとえばこんな流れはどうかな?って思ってみただけ。初めから官寺として建てられたのであれば、多方面との調整なども必要だし、元和8年に秀忠が突然高齢者用議員宿舎を造ることを思いついた訳でもないよな。当然。それと、よく言われる堂宇や地名などの叡山との対応ですが、確かに呼応する部分は多い。が、一般的な解説の勉強から一歩出て自由に自分なりに物事を見てみると、この堂宇は叡山を摸したっていうより、単に天台特有の堂宇配置ってだけなんじゃないの?って思う部分もある。いくつかそういう部分に気がつくと、たとえば天海=明智光秀説があれやこれやのこじつけを持ち出してるのと同じように見えてきちゃってね。別に、先人の研究を否定する訳じゃないんですが、確かにそう解釈できる部分もあるけど、実のところは、たとえば長く無名の僧だった天海にとっては叡山はあこがれの存在で、幕府とともに造り上げた新しい寺も大好きな叡山を真似っこしちゃお~!!とかって可能性だってあるんじゃないのかな、って最近思うようになりました。天海がからむと、何もかもが何らかの思惑とか策謀とか何か隠されてるだろうって風に見られがちな気がするんだけど、ナナメからばっかり見るのもどうなのかな・・・ってね。ただ、そうは言っても、天海は確かにただの素朴で気のいい長生きジイさんではありません。天海の宗教的作戦がいつから、どんな風に天海の胸の内で練り上げられていったのかはわかりませんが、家康が関東天台を独立させた時点で壮大な構想の最終地点も視野に入れていた可能性は十分にあると思う。そして、天海の作戦は別の重要なファクターも加え、その死後についに完成を見ることになる。それについてはこの後で出てくると思いますので、秀忠との絡みは一旦ここで終わりとしますが、天海のプランに現実の力を与えたのは、秀忠だった。そして、それは子にも受け継がれてゆく。さて、最後は3代・家光さんです。この方は熱狂的な天海ファンだったので、エピソードは沢山あります。家光が将軍職を譲られたのは、元和9年(1623)、19歳のとき。とは言っても、父・秀忠は大御所として実権を握っていた。祖父・家康はとっくの昔に死んでおり、家光は将軍就任時点で87歳の天海に傾倒した。ジイちゃんと孫っていうより、当時ならひいジイちゃんて年だよね「家光」の名乗りは、黒衣の宰相として活躍した金地院崇伝(こんちいん・すうでん)が付けたものらしい。崇伝さんは外交僧として活躍した高僧なんですが、天海の影に隠れて一般にはほとんど知られてない、お気の毒な方です。崇伝さんについては、また書く機会もあるでしょう。家光がなぜ天海っ子になったのか、実のところはわからない。『寛永寺』では、父・秀忠を嫌っていたから、父の代わりに敬慕したのが祖父・家康であり、天海だったのだとしている。が、本当に世間で言われるほど秀忠と家光は仲が悪かったのか?と最近では思うようになった。たとえば、こんな話がある。 ある日、江が秀忠に鴨の汁物を出した。 「この鴨ね、国松(家光の弟)が獲ったのよ、 すごいでしょ」 「ほう、そうか、国松が・・・ どれ、それじゃ、戴こうか」 「すごいでしょ~、8歳にしてこの腕前! 西の丸の堀で撃ち落としたんですって!!」 「な・・・なんだと?西の丸で!?」 秀忠は血相を変えた。 「この江戸城は、大御所様から私が賜った大事な城で、 竹千代(家光)が継ぐ城でもある。 その江戸城内で鉄砲を打つとは、 兄に鉄砲を向けると同じことだ! けしからん!!」・・・と、秀忠はちゃぶ台をひっくり返し・・・じゃなく、箸を投げ捨てて席を立ったそうな。個人的には、あるいは秀忠は弟の方を可愛がっていたのかもしれないけど、きちんと家光を尊重し、徳川家の安泰を図ろうとするだけの認識と節度は持っていたんじゃないかと思うけどね。家光が秀忠を嫌っていたとする理由のひとつに、秀忠のやり方を家光がすっぱり変えたというのがある。例えば、秀忠が最初に建てた日光東照宮の地味な建物を、現在のようなキンキラで華麗な建物に替えた、とかね。でもこれは、秀忠自身の遺言でもあるのだ。 ウチの天下はまだ浅い。これまで様々な決まりを創ってはきたが、まだまだ 完全ではない。数年のうちにも、私はこれを整えようと思ってはきたが、 もうそれを果たす時間がない。私が死んだ後、お前がこれを整えなさい。 大幅に変えることになったとしても、構うことはない。むしろ、それこそが 私の志を継ぐものだと思いなさい。徳川3代っていったら、よくドラマなどでも取り上げられるし、家光は春日局VS.秀忠・江の夫婦による兄弟の家督争いが一般的なイメージとして先行しがちで、歴史ファンの間でも結構このまんま受け止めてる人も多いような気がするんだけど、たとえ間違っていたとしても、通説をそのまま鵜呑みにするんじゃなくて、それぞれが独自の考えを持ってもいいんじゃないかと思うんですが、いかがでしょう・・・にほんブログ村
2013年12月16日

「上野第二編(12)」で両大師の門の解説に天海の歌が2首載っていましたが、このうち1首は徳川秀忠に向けたものといわれる。 長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼(だらに) おりおり ご下風 あそばさるべし粗食・正直はいいよね。日湯は毎日風呂に入りなさい。陀羅尼はお経を詠みなさい。そして「ご下風」・・・「ブッブッブ~!と屁をこきなさい」・・・秀忠の人柄と生き方が窺えるような、天海の指南です前回、小早川隆景のことを引き合いに出しましたが、毛利家でいうなら、毛利隆元が秀忠の立場にあたる。隆元も相当なプレッシャーにさいなまれ続け、「どうせ私なんか・・・ううっ」と、ちょ~おネガティブな心情を書きつづったものが残っている。そうは言っても、生前はそれを表に出すことはなく頑張っていたので、隆元が急死した後、その心情を書いたものを見せられたオヤジや弟は「お、お前~!こんな根暗なこと考えてたのかあぁぁ~~!!」と驚くやら号泣するやら・・・隆元は家督を継いではいたものの、オヤジがまだピンピンして実権を握られてるうちに亡くなってしまったけど、秀忠は家康の死後も生きて、事実上の権力者として頑張った。家康は確かに偉大な存在だった。が、その偉大な存在を徳川政権の精神的支柱として実体化し、その後の長く続く幕府の礎を築いたのは紛れもなく秀忠の功績だと私は思う。だから、その点をもっと評価されてもいいんじゃないかと思うんだけど、共同作業者である天海がこれまたあまりにビッグだったゆえ、ここでも影が薄くなりがちな秀忠・・・で、その天海との共同作業ですが、前回『寛永寺』から紹介した天海の12の功績のうち、「1.寛永寺の創建」と「12.東照大権現とその思想」の2つが主なものといえるでしょう。12については東照宮のところで書こうと思いますので、ここでは寛永寺の創建についてだけ。寛永寺の創建の簡単な話は「上野第一編(4)」で書いてますが、大体創建のエピソードとしては、「天海が比叡山を江戸へ移すとの強い意志を持ち、比叡山を模して江戸城の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を創建した」って風に紹介されるのがほとんどだと思う。最初は私も、なるほど~と思ってました。が、本編を書きながら並行していくつかの本や資料を読んでいるうち、一体どこまでが天海の意志で、叡山に対してどれほどの対抗心と強い決意を持って寛永寺の創建に至ったのか?・・・だんだん、わからなくなってきました。相変わらず書きながら勉強しているため、中途半端になってしまって恐縮ですが、ひとまず現時点でつかんだことまでを書き留めておくつもりなのでご了承くだされ江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐が享保12年(1727)に発表した「落穂集」にこんな話がある。 私が聞いたところによると、権現様(家康)が江戸へご入国なされたのは天正18年 (1590)8月上旬に間違いないです。 北条家の遺領を権現様が拝領なさる事は、戦の前から決まっていたのでしょうか、 権現様が小田原へ着陣なされた後に、江戸表における祈願所になるような天台宗の 寺を一つ、それから菩提所になるような浄土宗の寺を一つ、選んでおくよう 指示されました。 浄土宗で仰せにふさわしいのは、伝通院と増上寺の2つだけでしたが、 このうち伝通院は古刹ですがちょっと田舎でした。増上寺は前に海(当時の増上寺は 芝ではなく日比谷にあり、日比谷まで海が入り込んでいた)、後ろに山を抱え、 大変眺めが良く、その上江戸城の近くにあります。 天台の寺は、浅草寺観音堂の他には見当たらないようでした。 これを報告すると、権現様はただちに増上寺と浅草寺観音堂の住持を小田原の陣所へ 呼ばれ、両寺はともに境内乱妨禁制の書付を下されました。 この時、祐筆の書いた書付をご覧になり、浅草寺への書付は「卯月日」と書くように 言われたので、祐筆衆が「一般にこのような書付には、月の異名(=卯月)は 書かないものでございます」と申し上げたところ、権現様は「増上寺は菩提寺なので きちんと四月日と書くが、浅草寺は祈祷所なので卯月でよい」と重ねて仰せに なったという事です。 ま、ちょっと昔の話なんで本当かどうか・・・ハハハ・・・ 当時の浅草寺は、古刹とはいってもあまり繁昌しておらず、寺の坊は昔から36坊と 伝えられてはいますが、そのうち10坊ほどが清僧の僧坊で、残りは山伏同様の 妻帯肉食をする坊主どもだったので、幕府の祈祷所には不都合ではないかと 皆が噂をしておりましたが、何のお構いもありませんでした。 当時は正月・5月・9月に城中で定例の大般若転読の祈祷が義務付けられており、 公儀のご祈祷でもあるので、観音堂で修行する際は清僧達が出て勤めるようにと 言われておりました。これにより妻帯の坊主どもは寺での居心地も悪くなり、 ある者は子を、またある者は弟子を清僧に仕立てて寺を譲り、自分は寺の内に 隠居所を構えて引き篭り、間もなく浅草寺の山内は自然に清僧になったそうです。寛永寺創建前、家康の江戸入府以前から開幕初期の頃の話です。「上野第一編(4)」で、最初は増上寺が徳川家の菩提寺、浅草寺が祈祷所の役割を担っていたことを紹介してますが、そのなれそめを語っているようです。この話がすべて事実かどうかはちょっとアヤシイ部分もあるようだけど、少なくとも家康入府頃の江戸には、浅草寺をしのぐような天台宗の寺はなかったのだろうと『上野寛永寺 将軍家の葬儀』は語る。個人的には、浅草寺の評価が興味深いところですね。この通りではなかったとしても、こういう風に言われていた時期があったってことだもんね。一説には、浅草寺を推薦したのは天海だとしているらしいが、総合的に考えてそれはないだろうと『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の著者・浦井正明氏は推測しておられる。で、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の中で浦井氏はなぜ浅草寺があるのに、あらたに寛永寺が創建されたのかという疑問について、いくつかの推測を挙げておられる。かいつまんで紹介すると、だいたい以下のような感じになります。 ・浅草寺は古来より庶民の寺のイメージが強く、幕府が大々的に増改築したりという こともない。そのため、幕府の寺(=官寺)というにはちょっと庶民的すぎる。 ・天海が描いた、比叡山延暦寺という勅願寺を江戸に移す壮大なプランを 生かすには、浅草寺には地形の点で難がある。江戸城からの方角と宗派という点では 問題はないが、上野にくらべ浅草は低地すぎる。 ・比叡山延暦寺を東に移すのなら、当然本尊も同じ薬師如来が求められる。しかも、 薬師如来は東照大権現となった家康の本地仏でもある。浅草寺の本尊が一寸八分の 観世音菩薩だというのはよく知られたことで、庶民と観音のイメージが強すぎる 浅草寺を、薬師如来を本尊とする寺に造り変えるのは至難の技といえる。 ・比叡山を東に移すには、周辺の諸堂宇の移築、あるいは新築を伴うことを意味するが、 既成の市中にある浅草寺周辺にはあらたな堂宇を造ることは困難だった。ということで、 【以上のような諸条件を入れて考えてみると、天海の進言を受けた幕府が、 この上野の地に天台の一大祈祷道場を新規に建立し、芝とともにここをもって 自らの権威の象徴と精神的な支柱にしようと考えたとしても決して不思議ではないと 思うのである。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)と来る。ふうむ、なるほど・・・しかし、『寛永寺』では、家康の存命中から寛永寺の創建プランが天海の中にあったとするものの、家康の没年は元和2年(1616)、事態の変化があったのが元和8年(1622)。実際に動き出したのが翌元和9年(1623)。何でこんなにタイムラグがあるんだ?本当にこんな長い間、天海はただじっと待っていたのか?てか、寛永寺創建を思いついたのは、実際は元和2年以降だったんじゃないのか?てね、だんだん疑問に思ってきちゃった訳なんです。「落穂集」には寛永寺創建についてこんな話がある。 私が聞いているのは、元和9年(1623)家光将軍の時代に建立のお考えがあり、 翌年の寛永元年(1624)より普請が始まり、開山は日光山の別当・天海大僧正、 惣奉行は土井大炊頭(利勝)殿と言うことでした。(中略) その時の惣奉行である土井大炊頭殿が言われるには、「東叡山は天下安全の 祈祷の為にあり、公方様のお考えで幕府を挙げて今度建立するので、徳川家の恩を 蒙る国主、郡主方は誰でも天下安全の祈祷に異論はないはずである」と言われ(後略)元和9年は、秀忠が高輪御殿と金子を天海に与え、寛永寺の着工が始まった年。同じ年、秀忠は家光へ将軍職を譲っている。ただし、自分は父と同じように大御所として実権を握ったままだったので、日付的に家光が将軍になった後に寛永寺の工事が始まったとしても、実質的なスポンサー兼施工主が秀忠であることに変わりはない。「落穂集」が土井利勝に言わせてるあたりからすると、寺院内部の具体的な企画・立案・設計はおそらく天海だろうけど、寛永寺は初めから官寺として創建されたってことになる。であれば、家康が定めた祈祷寺である浅草寺がなんか使い心地悪いなあ~ってだんだん幕府が思うようになって、浅草寺との調整などもあって元和9年を待たなければならなかったのかとも思ってみたけど、浅草寺だって一時はちゃんと祈祷寺のお役目を果たしていたんだし、そもそも「叡山を移す」というプランがなかったら、浅草寺にそんなに不都合があるとも思えない・・・な~んか、スッキリしない・・・にほんブログ村
2013年12月15日

天海が家康と出会ったのは、慶長12年(1607:71歳)。天海はまだこの後も40年近く生き続けるので(笑)、『寛永寺』では以後の天海の事蹟を12の項目に分けて簡潔に説明している。ここではその一つ一つの詳細を書くことはしませんが、項目のタイトルだけ紹介すると、 1.寛永寺の創建 2.朝幕間の斡旋 3.法親王の下向 4.比叡山の復興 5.日光山の復興 6.天台寺院の再興と帰宗 7.教学の振興と学僧の要請 8.赦免運動 9.天海蔵 10.天海版大蔵経 11.歴代将軍の師 12.東照大権現とその思想 (『寛永寺』より)だそうな。これらの項目の内容のほとんどは、別に書くべき場所があるのでここでは最小限にとどめます。9の「天海蔵」は天海の書物コレクションのことで、前々回、「随風」時代に集めた本で直筆サインがあることを書きましたが、天海はその生涯を通じて仏書などの収集に努めたらしく、「天海」時代にも署名をしたり、「天海蔵」のハンコを押したらしい。つまり、自分の手元に集まってきた本のすべてに目を通していたのだと『寛永寺』はいう。これらの天海コレクションのうち、寛永寺所蔵のものはやはり上野戦争などの不遇の時代を通過した関係上、一部失われているらしいが、叡山と日光の所蔵品については現存しているという。10の大蔵経は、天海が日本で初めて大蔵経を刊行したことをいう。あれ、大蔵経って大内氏もそうじゃなかったっけ?と思って調べ直したら、大内氏のは大蔵経の輸入だった。大内氏の活躍していた時代には、国内には大蔵経の版木がなかったので、大内氏は朝鮮からさかんに輸入してはあちこちの寺院へ寄進したんだな。さて、歴バナはまだまだた~くさんありますが、ひとまず天海の話の最後として、11にある歴代将軍との関わりについてエピソードなどを交えながらご紹介しましょう。まずは初代・家康さん。家康と天海の出会いは、前回書いたように慶長12年(1607)というのが一般的。ときに天海:71歳、家康:64歳。出会った2人は恋に落ち(笑)、「もっと早くそちと出会いたかった・・・」と家康が言ったという。天海については世間では実に色んなことが言われているので、私はまだその一端すらもろくに知ってはいない状況ではありますが、それでも私に言わせると、家康の晩年に出会ったからこそ天海は重用されたんじゃないかと思う。松平時代から徳川家は浄土宗だったのに、天海に出会ってから家康が天台宗に改宗しようとしたのを、「どちらも同じ仏教なんだし、ご先祖を大切にしてくださいよ~」と言ったとも、「人の上に立つ方は、一つの宗派に偏っちゃだめッスよ~」と言ったとも、とにかく改宗を思いとどまらせたという。これは天台の僧でありながら、現実をよく見据えて柔軟に物事を考えた天海の姿勢をよく表すエピソードではないかと思う。天海と家康の出会いには、こんな話がある。 初の出会いの際、天海は家康に手土産を持参した。 「不老長寿の秘薬にございます」 と言って差し出したそれは、なんと納豆だった。 当時、納豆は庶民の食べ物で、身分の高い人へ献上するようなシロモノではなかった。 お付きの者はハラハラしながら側で見ていたが、家康は 「ハッハッハ! ありがたく頂戴しよう」 と笑って収めたという。科学の発達してないこの時代、さすがの健康オタクの家康でも「ナットウキナーゼって、血液をサラサラにするんだよね。天海はボクの健康を気遣ってくれたんだね」なんて言うはずがない。怒らずに笑って納豆をもらった家康の真意はわからないが、天海自身は納豆が大好物だったという。関西人はあまりお好きでないかもしれませんが、納豆は皆様ご存知の通り健康食です。僧侶という立場もあって、天海の食事は精進料理が基本だったと思われますが、周囲にも健康法として粗食を勧めていたようです。こうした、世間の常識にとらわれない天海の現実主義的側面が家康に気に入られた理由のひとつじゃないかとこの2つのエピソードから感じました。天海もまた家康の信頼に応え、家康に対して心を砕いた。前回、大坂の陣頃の時期に家康が多くの仏教宗派と交流を持っていると書きましたが、具体的に何をしたのかというと、御前での「論議」を開いたりした。論議とは、仏教の教義についての問答や議論のことをいう。御前論議についてはまた別のところで書こうかと思ってますが、『寛永寺』によると、江戸城・駿府城・二条城・京の御所などで行われ、慶長末年の数年間だけで120回もの論議が開かれたそうな。これは天台だけでなく真言宗などの他宗の論議も含まれているが、うち90回は天台論議だそうで、『寛永寺』では「大師主催による天台論議が如何に家康をはじめとする当時の人々を魅了していたかを物語っている」とする。で、「東源記」にはこんな話が載っている。 「ワシは年寄りじゃが、法会に参加するたびに 喜びが心身に満ちて若返るようじゃ~。 しかし、さすがに年じゃの・・・ 長時間の論議になるとどうにも身体が・・・ アイタタタ なんとかならんかの~、天海・・・」 「おまかせくだされ、大御所様。 以後は大御所様の御前での論議は、 問答を一往復に限ることにいたします」 天海はこれをすぐに僧たちに告げて、そのように執り行った。 人々はこれを「一句問答」と称した。慶長18年(1613)の項にこれが書かれているので、家康は70歳。家康より7歳年上の天海は77歳ジジイ同士のやり取りがちょっと笑えますが、天海の家康に対する配慮と、77歳でもなお現状を即座に理解しそれに素早く対応するという、天海の機転の早さが窺えるエピソードです。ま、一発でズバッと答えなきゃならなくなった論議の参加者たちは大変だったろうと思うけどね(笑)。こんな風に家康との親密な関係を築いた天海は、江戸の町づくりにも参加したという。ナゾの多い怪僧・天海が関わった江戸の町に隠されたミステリーを追い求める歴史ファンは多い。さて、今度は2代・秀忠さんです。秀忠さんと天海の直接のやり取りというのは私はまだ知らないんだけど、「駿河土産」にこんな話がある。 大猷院様(家光)の御代に天海大僧正がおっしゃるには 「権現様(家康)は様々な御経験から世の有為無常を悟っておられ、 台徳院様(秀忠)は柔和な方だったので、このお2人には 色々なことも申し上げたし、御伽もしやすかった。(つづく)」つづきはまた後でね。偉大な父と派手な息子の間にあって、秀忠はちょっと影が薄い。でも、それも致し方のないことだと思うのだ。突然、隆景ちゃんの話になりますが、『小早川隆景のすべて』にこんな文章がある。 【隆景が生まれたとき、父の元就は37歳の壮年だった。(中略)その ゴッドファーザー的存在の元就が死ぬのは元亀2年(1571)である。75歳の 長寿だった。このとき隆景は39歳。隆景が本領を発揮するのはそれからだが、 それはまた65歳の生涯のうち、隆景は壮年期までを偉大な父の影響のもとに 生きざるをえなかったということになる。】性格的には激しい一面も持ち、子供の頃から頭が良かった(といわれる)隆景ちゃんが、オッサンになるまで偉大な父の下にあるってどんなだろう・・・って、これを読んだ時遠い目になったものですが、父・家康が死んだ時、秀忠は37歳。意外に秀忠が若いうちに家康が死んだんだな~って思ったけど、まあ秀忠は長男じゃないしね。偉大な父を持ち、同じような年にその父を失ったという点では秀忠も隆景も似たような境遇にある。・・・が、毛利元就と徳川家康のどっちが偉大かとは簡単には言えないものの、家康は天下人であり、立場は全然違う。このプレッシャーは相当なものだったと思う。26歳にして将軍職を譲られた後も、実権はいぜんオヤジが握っており、駿府(家康)から江戸(秀忠)へあれやこれやと指図されることもしばしば・・・「駿河土産」にはこんな話がある。 権現様(家康)がある時、本多正信へ 「秀忠は律儀すぎるの~。 人は律儀だけでは成り行かぬものだと そちからもよく言ってやるがよい」 正信が帰って秀忠様にこの事を申し上げ、 「御前様は時々はウソを言った方がいいようですよ」 と伝えると、 「内府様(家康)の軽口なら買う者もあろうが、 私がウソをついても誰も買わないさ・・・」 とお笑いになった。悲しく笑う律儀者・秀忠だけど、私は別に秀忠が凡庸だとは思わない。若くして自刃させられた家康期待の長男・信康は才気溢れる人だったともいうけど、徳川260年の結果論からいえば、信康様が家康の跡を継いでいたら、はたしてこれだけのものを築けただろうかと個人的には思う。偉大な父をこよなく尊敬し、畏れ、律儀で柔和な秀忠だったからこそ、より盤石に基礎を固め、家光へバトンタッチできたんじゃないだろうか。そして、天海をはじめとする脇がそれを支えた。「上野第一編(4)」で寛永寺創建について少し書きましたが、寛永寺の創建が現実のものとして動き出したのは、秀忠が実権を握った代になってから。しかも、思い出の高輪御殿と大金を天海にプレゼントしている。家康の存命中に寛永寺の着工ができなかった「諸般の事情」がわからないので何とも言えない部分もありますが、父が重用した天海に秀忠もまた深い信頼を寄せ、のちに徳川家にとって重要な寺となる寛永寺を天海とともに造り上げたと言ってもいいだろうと思う。・・・あんまり、寛永寺の話で秀忠って出てこないんだけどね。ここでも影が薄い、可哀想な2代目・・・(笑)。にほんブログ村
2013年12月14日

さてと、ここまで会津美里町の「天海大僧正一代絵巻」を中心に前半生を見てきましたが、「そんなに勉強してどーすんの?」って言いたくなるぐらい、ひたすら勉学と修行に打ち込んできた様子がわかります。・・・わかりますが、すごく地味。やる気も才能もあって、業界ではあるいはそこそこ名を知られてたのかもしれないけど、それでも後半生に比べたらものすごく地味(笑)。こんな天海さんが一体家康とどんな出会いをして、そこからどんな風にあらたな栄光の道を切り拓いていったのか、この地味な前半生を知って逆に興味が湧きました。宗教の世界は奥が深いので、本質的な部分についてはちょっと資料を読んだくらいじゃさっぱり理解できませんが、それでもここまでをまとめると、本業の天台だけでなく他宗派やさまざまなことを幅広く学んだといえることができそう。そして、『神君家康の誕生』(曽根原理著)では、 【さらに、一宗一派にとらわれないような<柔軟さ>と関わるように思われるのが、 血縁をめぐる二つのエピソードである。】とし、前回の経歴の中に出てきた母の死と、蘆名義広を護って常陸へ向かった時の話を挙げている。蘆名義広の件については前回引用しましたが、母の死についてはこんな風に紹介されている。 【永禄元年(1558)、南都で修学中の天海(23歳)に母の危篤の報せが届いた。 ただちに会津に戻った天海は、病床に侍し看病に励んだが、定命のため 母は逝去したという。 「東源記」にはその箇所に、「出家者は肉親の恩愛を離れるべきものなのに、 どうして孝行に励むのか」という問と、「恩愛を忌むというのは人々を 欲望の世界から救うための方便説であり、戒によって孝を滅ぼすならそれは 戒ではない」という答を載せる(以上大意)。この問答は、天海の立場や主張を 示すため挿入されたものであろう。】 (『神君家康の誕生』より。漢数字は戦国ジジイが変換)文中の「東源記」は天海の死から7年後に書かれた『東叡開山慈眼大師伝記』のことで、京・妙心寺の僧である東源(とうげん)さんによる伝記。東源さんは臨済宗の人なので、天台宗である天海とは宗派が異なるが、これもまた天海の後半生におけるエネルギッシュな活動の中で深い親交を持つようになった人であり、「東源記」が書かれた時期は東源さんのように天海と親しく交わった人達がまだ多く生存していたのだから、上記のエピソードや蘆名義広の話などは全くのフィクションとは考えにくいだろうとしている。 【そこには、仏教の原則にとらわれるような<硬直した>対応が否定され、 現世秩序の中での忠孝が称揚されていた。そうした現実肯定の方向性は、 彼の天台教学修学とも軌を一にするものであった。】 (『神君家康の誕生』より)でどんな修学をしたのかというと、20代と30代に学んだ内容は「本覚思想」・・・専門的な説明はできませんが、【つまり現実の徹底的肯定】(前掲書)なんだそうな。 【このように、天海の前半生には世俗的価値を重視する志向が強く見られるのであり、 武士の一族出身であることと相まって、武家の価値観を生かし世俗権力を擁護する 仏教樹立が彼の課題となっていた。家康の天海に対する帰依を考えるとき、 こうした点は見逃せない。】 (『神君家康の誕生』より) 家康が江戸に幕府を開いたのは、もちろん関ヶ原に勝利したからだけど、最終的に覇権を確立したのは、やはり豊臣家を滅ぼした時点であると多くの人が認識しているでしょう。その大詰めの忙しい時期に、家康は多くの仏教宗派と交流を持っている。今の研究の世界ではどうなのか知らないけど、『神君家康の誕生』によると、そうした出来事はこれまでは政治的側面からの解釈が多かったようで、著者の曽根原氏は「文化的・宗教的カリスマ性確立」の側面から迫るという主旨で本を書いておられるのだけど、なぜに大寺の高い地位にある僧でもない天海が、徳川3代から深い信頼を寄せられるようになったのかという素朴な疑問を持つわたくしには、この本は大変興味深い。もちろん、政治的な思惑が皆無な訳はないんだけど、「人間」として捉えたいわたくしには、たぶんそれだけじゃピンと来ない。・・・ただ、この本は宗教の話も当然多くて難しいんだけどね。頭が悪くてしかも野生児なわたくしは、感覚的に納得いく部分をこの本から嗅ぎ取って参考にさせていただいておりますという訳で、曽根原説によると天海は現実主義者だったようですね。これはやっぱり、武家の出と戦国時代の大詰めだったことが大きく影響してるんだろうな。さて、前回途中まで引用させていただいた会津美里町の「天海大僧正一代絵巻」は、54歳で常陸へ落ち延びた後は81歳まで飛んでしまいますでもここからが大事なので、ひとまず一代絵巻はここまでとします。絵巻の始まりからここまでは(めんどくさいので)絵巻に従い数え年での表記でしたが、以後は通常通り実年齢での表記に戻します。天正17年(1589:53歳)、蘆名義広とともに常陸に移った天海は、江戸崎の寺を修築してしばらく住んでいたらしい。慶長4年(1599:63歳)、川越の無量寿寺(のちの喜多院)に移り、ここで名を「天海」に改める。慶長8年(1603:67歳)、下野久下田(くげた)に移る。この時期の同地の領主は水谷(みずのや)氏っぽいから、ここで水谷と天海の縁ができた可能性もあるな。水谷氏はまた後でちょろっと出てきます。翌9年(1604:68歳)、長沼(現・真岡市)で古刹の宗光寺を再興する。長沼の宗光寺は今も続いています。慶長12年(1607:71歳)までここで過ごす。して、いよいよ家康との出会いです。普通の人ならここで一生終わってますが、スーパージジイ・天海はここから大きな華を咲かせるのであります。家康と天海の運命の出会いの時期には2つの説があるそうで、ひとつが天正18年(1590)、もうひとつが慶長12年(1607)。天正18年説の方は、元ネタの「天正日記」に疑わしい記述の多いこと、その後20年近く2人の接点が確認できないことなどを理由に、イマイチ信用に欠けるという評価を受けているらしい。が、「形式的に新領主への挨拶があった程度なら可能性があるかもしれない」と『神君家康の誕生』は語る。で、慶長12年~13年頃の出会いというのが多く言われている。「東源記」によると、 【天海は慶長12年(1607)に家康の命をうけ、学問興隆のため叡山に登山 したという。翌13年には家康の命により駿府に赴き、初めての対面を遂げた。 天海は翌14年に権僧正に任じられており、肩書きも宗光寺住職から 叡山南光坊住職に変わっている。 同年に智楽院の号を得、翌15年には探題にも任じられた。もともと比叡山に 強い基盤があったとは思えない天海がこうした出世を遂げるのは、他に要因が 考えられないことから、このころ家康の知遇と後援を得たことは 間違いないだろう。】 (『神君家康の誕生』より)なるほど、「南光坊天海」ってのはここから来てるんだな。引っ越しなどは多かったものの、ある意味ここまでゆったりと流れていた天海の人生は、家康との出会い以降、どんどんスピードアップしていきます。慶長17年(1612:76歳)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改めて関東天台の本山とする。慶長18年(1613:77歳)、日光山の管理を任される。同じ頃、家康に天台の教義をたびたび伝授する。日光は、秀吉による小田原攻めの際、北条氏に付いたってことで一旦寺領を没収されてるんだよね。事実上の闕所(けっしょ)といってもいいのかもしれない。が、家康との出会い以降、どんどん信頼を得て浄土信者である家康に個人的な帰依を受けるまでになり、関東の霊場・日光を託された。日光山自体は古い歴史を持っているけど、「日光」と言って世間一般で思い浮かべるような荘厳な日光山のあらたな歴史は、天海が日光に関わったことによって始まる。日光が世界遺産の指定を受けたのは、もちろん家光が壮麗な寺社に改築したことが大きいと思うけど、そこに至るまでの話として天海の存在というのは非常に大きいと思う。ゆえに世界遺産指定のMVPは、文句なしに天海さんといえるでしょう。 観光といえば、会津美里町は天海ゆかりの地をウリにしている。 しかも、美里町のイメージキャラクターは「あいづじげん」。「じげん」は射撃の名手・次元大介じゃないッスよ(笑)。慈眼大師のじげんです。卵の形をした身体に目ヂカラが特徴的なキャラクターで、美里町観光協会のサイトによると、慈眼=慈悲の心をもって世の中を見る目、にあやかりたいという願いからこのルックスとこの名ができたという。さらに、美里町には「天海さんまつり」なるものがあって、「天海さんなりきりコンテスト」などイベントも盛りだくさんらしい。各地に多くの足跡を残した天海は、現在もなおゆかりの地に宗教・文化、そして経済貢献をしている。ちなみに、「会津美里町観光ポータルサイト」の天海さんまつりの予告の記事(2013.9.6付)には、正子公也氏による、ビジュアル系若づくり天海の華麗なるイラストが載っている。(「天海さんまつり 正子公也」で検索すると探せると思います)このイラストでビジュアル系天海がまとっているのが、前回紹介した大阪城天守閣収蔵の天海の甲冑。ただ、この甲冑を身に着けたのが磨上原の合戦後の逃亡の時だったとしたら、天海はすでに54歳だから実際はもっとシブイお姿だったと思うけどねにほんブログ村
2013年12月13日

生まれ年の次は生まれた場所。これも山城とか近江とか陸奥とかさまざま。『寛永寺』では会津・蘆名氏の一族だとし、その中の三浦氏か船木氏だという説を紹介している。ウィキペディアによると、船木氏説が現在では最も有力らしい。前回紹介した「胤海伝」では陸奥は会津の生まれだとあるそうだが、蘆名氏の一族だとしていながら同時に「室町11代将軍・足利義澄の末子だって言ってる人もいるよ」なんて紛らわしい文章まである。将軍のご落胤説の原因のひとつに、天海が用いた紋があるそうで、「上野第二編(8)」で両大師の門に天海マークの「丸に二引」が沢山付いてる写真を載せましたが、一般的に蘆名氏の紋は「二」じゃなくて「三」・・・「丸に三引」といわれてるらしい。上記リンクで、「丸に二引」を蘆名氏が使用していたという『閾(いき)ペディアことのは』様の考察を紹介しましたが、まあ別に無理はないと思う・・・というか、反論できるだけの材料を持ってない。が、やはり「丸に二引」で最もメジャーなのは足利家であり、ゆえに天海=丸に二引=足利将軍家という単純な図式が成立し、将軍のご落胤という俗説が生まれたのではないかという。それから、宇都宮氏の系図に「下野守正綱の女が古河高基に嫁し、永正七年天海を生む」という記述があることから、古河公方・足利高基の子だとする説。そして、おそらく誰もが一度は聞いたことがあり最も有名、かつ最もうさん臭い天海=明智光秀説。まあご存知の方も多いでしょうが、いろは坂を登った上にある明智平の名称だとか、東照宮におわす随身さんの付けてる紋が明智の桔梗紋だとか、徳川秀忠・家光親子から一字を抜き出すと「光秀」になるとか、見方によっては面白くもあるけど、こじつけ的な印象もある。光秀だと年齢的に無理があるから、その娘婿の秀満じゃないかと言ってみたり、明智説の世界は元気だなあ~と思うものの、『寛永寺』では「どれも信ずるに足りないものである」と一蹴しているでは、蘆名氏出身説で天海の前半生をざっと見ましょうか。わたくしの手元には、1枚のリーフレットがある。前々回、日光で大護摩堂の若い坊様に教えられて『輪王寺 宝ものがたり』を買いに宝物殿へ行ったことを書きましたが、ここへ入ったのはじ~つ~に久しぶり。てか、過去1度か2度しか入ったことないかもしんない・・・(笑)。だって、相当昔に行った時は書画が多くて、よくわからないしあんまり興味もなかったからさ・・・それに、まだ日本史を好きになる前の話だから、徳川家に特別の関心があった訳でもなかったし。あ、ここでいう宝物殿は、東照宮の宝物館とは別モノなんですよ。現在では東照宮と輪王寺は分かれてますのでね、輪王寺にも宝物殿があるんです(輪王寺の配置図はこちら)最後に行った時からは、もう10年ぐらい経ってるかもしんない(笑)。今回の宝物殿のお目当ては『宝ものがたり』ただ一つだったんだけど、どうせ私ここもタダで入れるんだし(通常は有料です)、せっかく寄ったので内部も見学していった。で、宝物殿に置いてあったリーフレットを戴いてきた訳です。タイトルは『天海大僧正生誕の地 会津美里』。発行元は福島県大沼郡会津美里町の観光協会。これまで私の中での日光における天海というのは、三仏堂の暗い隅っちょにおわす天海坐像と、そこに書かれているありがたいお言葉。これに尽きていた。が、今回は寛永寺モードで日光に行っていたので、このリーフレットを見つけて「おお~、こんなのあるのか!」とすかさず手を伸ばしました。リーフレットはタイトルの通り、天海生誕およびゆかりの地として見どころを紹介しているもので、地図には天海の両親の墓とか誕生地(舟木氏館跡)などが描かれている。天海の生誕地についての寛永寺の公式見解は『寛永寺』にあるように会津の蘆名氏出身説になるんだと思うけど、日光輪王寺に会津美里町のリーフレットが置かれてるってことは、日光サイドでも寛永寺と同じ立場を取ってる訳だよな。で、リーフレットでは天海107年の歩みを簡潔に紹介している。前回紹介した両大師にある解説は、天海の事蹟を中心に書かれたものだったけど、リーフレットの方は人生そのものを子供でもわかるようなスタイルで書かれていてなかなかいいものだと思うので、リーフレットの「天海大僧正一大絵巻」に沿って紹介したいと思います。・・・ただし、当然簡潔すぎるきらいもあるので、一部黒字で補足していきます。 ◆文殊菩薩の申し子生まれる・・天文5年(1536)1歳 天海さまは両親が文殊堂にお祈りをして授かったといわれ、幼い頃から とても知識欲が旺盛だったと言われております。幼名は兵太郎といいました。 ◆龍興寺にて11歳で得度す・・天文15年(1546)11歳 天海さまは龍興寺で、11歳のときに仏門へ向けて修行に入ったのです。 天台宗の寺として名高い龍興寺で、名僧で知られる弁誉舜幸(べんよしゅんこう) 法印のもと、随風(ずいふう)という僧侶になりました。得度とは、 世俗の生活から離れて、僧となって仏道の修行をすることをいいます。 ◆長い修行の旅へ・・天文18年(1549)14歳 天海さまは、14歳のとき故郷を離れて、仏教だけでなく儒学(中国古代の学問)や 史学(歴史を勉強する学問)、易経(古代中国から伝わった占い)などを 学ぶために、各地を巡り歩くのです。随風の他、「無心」と名乗ったともされる。「天海」に改めるまでが50年。随風時代に蒐集した写本の中には、「随風」の直筆サイン本が現存しているものもある。天文18年、まずは宇都宮で天台の教義を学ぶ。在籍した粉河寺は当時、関東の天台の寺では興隆をきわめており、全国から雲水が集まっていたという。1年も経つと「名器」と言われるほどに頭角を現していたそうな。天文22年(1553:18歳)、叡山に登り天台三大部を修める。弘治2年(1556:21歳)、山門(延暦寺)から寺門(三井寺)へ移り、仏教哲学や法相宗などを学ぶ。同じ頃、奈良の興福寺において仏教のほか、神道家から日本書紀の神代巻を習っている。永禄元年(1558:23歳)、母の病気により帰郷。母の死にあたって2年の喪に服する。永禄3年(1560:25歳)、足利学校にて儒学を学ぶ。当時の足利学校は、トップレベルの総合教育期間。儒学だけでなく、幅広い知識を得たという。永禄7年(1564:29歳)上州で易経などを修める。5年の上州滞在を経て再び叡山での修学を希望するが、時は織田信長による叡山攻めにより甲斐の武田信玄の下へ赴き、甲斐でも勉学に励む。 ◆会津に戻り、稲荷堂の別当に・・天正元年(1573)38歳 天海さまは会津の領主・蘆名盛氏に切望されて帰郷すると、黒川城(今の鶴ヶ城) 内にある稲荷堂を、10年近く守り通しました。ここでいう別当とは、僧侶と 神職を兼務することをいいます。稲荷堂に10年とあるけど、会津にはもっと長くいた。この間にも会津や上州・世良田などで研鑽を積む。 ◆蘆名義広を護り、常陸へ・・天正17年(1589)54歳 磐梯山麓の磨上原の合戦で、蘆名義広は伊達政宗に敗れました。天海さまは 甲冑に身を包み、義弘を護って常陸の国(茨城県北東部)へ落ち延びました。東北の歴史はあまり知らないけど、磨上原くらいなら知ってる。が、天海にも関係があったとは知らなかったなあ~。この逃避行について、『神君家康の誕生』(曽根原理著・吉川弘文館)ではこんなエピソードを紹介している。 【伊達政宗との戦いに敗れた蘆名盛重は会津から逃亡を図るが、敵の追手に阻まれる。 同行した天海は、一族であり檀家でもある盛重のため、敵に向かってそれまでの 不義をなじり「自分は僧侶の姿をとっているが血縁を捨てず檀那の恩を忘れない。 ただ義のために命をかけるのみ」と大声で呼ばわった。敵はその剣幕を恐れ、 殺生の報いを思い自ら退いたという。】「殺生の報い」って、つまり相手が「坊主を殺したら後味悪い」って思ったって意味?それに、すでにこの時点では、普通の人なら「晩年」と言っていいぐらいの年齢。まあ天海は普通の人じゃないので、ここがちょうど折り返し地点だけどね実は、大阪城天守閣に天海所用といわれる甲冑が所蔵されている。私が大阪城に行ったのは史跡めぐりを始めて間もない頃だったんだけど、天守閣では過去の企画展の図録も結構販売されていて、重量も考えず沢山買って帰った。その中の一冊に『武装』という武具展の図録があり、天海の甲冑載ってるかな~と思って久々に開いてみた。そしたら、あった!載ってました!!図録の写真を転載するのはマズいかなと思うので、お見せできないのが残念ですが、一度見たら絶対忘れないだろってぐらいインパクトのある見事な甲冑。「銀小札萌黄糸威二枚胴具足」(ぎんこざね もえぎいとおどし にまいどうぐそく)。前立には金の麒麟、脇立に朱の水牛。赤い水牛のツノだけでもかなりのものだけど、とにかく目立つのが脇立を包み込むように背に付けられてるビッグサイズの繰半月の指物。さすがに大阪城の所蔵品だけあって、一緒に図録に掲載されてる甲冑は真田信之とか藤堂高虎とか後藤又兵衛とか仙石秀久とか片桐且元とか浅野長政、脇坂安治・・・きりがねえ(笑)。とにかくメジャーな方々や、その子孫、あるいは有名人から拝領したという、実にゴーカな顔ぶれの甲冑ばかり。そういう甲冑を押しのけて、この中では1・2を争うインパクト度だと思います。指物がとにかくデカくて、これでホントに歩けるのか!?ってカンジはありますが、少し色あせた若草色で統一された、シックで品のいい甲冑です。これが常陸への逃避行の際に使用された甲冑かはわからないけど、図録の解説には天海の遺品だとある。武家の家に生まれたといっても、世俗を捨ててもう40年にもなるのに、故郷で城主の近くの寺に住まううち、周囲の環境の変化を受けてもしもの時のために備えておいたのだろうか。あるいは、元々は天海のものではなかったけど、一族であり領主でもある蘆名義広(常陸へ移った頃、盛重と改名)のためにムラムラと侠気が湧いてきて、みずから甲冑をまとったのかもしれない。ちなみに、蘆名義広は佐竹義重の次男だったため、実家である常陸を目指したようですね。兄の佐竹義宣が関ヶ原で所領を没収された後は、父・兄とともに秋田に移り、角館(かくのだて)を与えられる。義広が現地で城を移転してあらたな城下町を造り上げた。これが現在観光地でもある角館城下町の始まりだそうで、もし逃亡中に追手に討たれていたら、角館は重要な観光資源を失っていたかもしれない。してみれば、天海もみちのくの小京都・角館の繁栄に一役買ったともいえる。にほんブログ村
2013年12月11日

前回ちょっと収まりきりませんで(笑)、良源さんのありがたい画像の続きですが、「上野第二編(8)」の両大師門前の写真の中に、金文字で「両大師」と書かれた木の札がありますね。これについて『寛永寺』に解説があって、 【明治までは、両大師の画像が1ヵ月ずつ子院をめぐり、画像のある子院の門前に 建てられたものである。そして10月1日に両大師に戻り、2日の天海僧正の 命日には、本坊から輪王宮が輿に乗り、一山住職とともに盛大なお練りが行われ、 この行事を見物するため江戸庶民が蟻のごとくむらがった、との記録がある。 当日は法華八講という特別な法要が行われたが、現在も続いている。】だそうな。宮のお練りかあ~。上野でそんな華やかなイベントがあったなんてね。江戸期の天海の人気は知らないけど、良源さんは古くから人気者だし、宮は江戸っ子の誇りだったからね~。(すいません、宮についてはもうちょっとお待ちください)すごい人出だったってのは、容易に想像がつく。スタートは本坊だろうけど、どのルートを通っていったんだろう・・・根本中堂を一周ぐらいかな?東照宮にも寄ったかな?(←現地でRPGしたい)山同心たちも、さぞ警備が大変だっただろう・・・山同心といえば、「上野第二編(7)」で彼らの制服について書きましたが、ハッピの背中に染めぬいた「カスガイ山」ってどんなんだろうと思っていたんだけど、『寛永寺』の裏表紙にあるこのマーク↓ 山っぽい形をしてるし、これのことかな~と思っていた。で、お練りのルートとかネットでわからないかな~と検索していたら、思いがけずこのマークのことがわかった。これはやはり「カスガイ山」で、なんと宮がご使用になられた紋らしい。宮はもちろん宮様なので、天皇家の菊の御紋もあわせて使っておられて、菊の下にカスガイ(鎹)の入った旗の画像がネットで公開されていた。宮が遠出なさる時は、この旗を立てていったらしい。てことは、山同心たちは宮印のハッピを着て山内を闊歩してたってことで、さぞかし誇りを持って仕事してたんだろうなあ~としばし空想の世界に浸りました。さて、ここからはいよいよ天海さんの話に移ります。まずは両大師の門にあった解説文の続きから。 【二、慈眼大師小史 天海大僧正(1535~1643)は寛永寺開山、東叡・日光両輪王寺の 開基であり、神儒仏の三教にわたってその神髄を会得された高僧である。 大僧正は天正18年(1590)徳川家康公と相識り、江戸幕府が開かれるや 仏教による平和政治を献言し、治国平天下の祈願寺として、また源平以来の 戦乱犠牲者の冥福を追善する東叡山寛永寺を勅許により寛永2年(1625)に 創建して開基となった。 この寺名は天台宗祖伝教大師が比叡山を開いて延暦寺を建て、国家鎮護の道場と されたことにならわれたもので、関東の比叡山という意味である。 また大僧正は将軍が江戸に住み政治の中心となったと同じく、東叡山を宗教の 中心地として永く泰平の基礎を確立するため、正保4年(1647)後水尾天皇 第三皇子尊敬法親王(後に守澄と改む)を勅許によってお迎えして、 輪王寺門主と申し上げ、法親王は天台宗を管領して比叡東叡日光の三山を統括 せられることとした。 戊辰の役(1868)は第13世輪王寺宮公現法親王(のちの北白川能久親王)の ときである。 これより先、大僧正は元和2年(1616)4月17日家康公の死にあい、 遺命で葬儀の導師を勤めたが、翌3年家康公に山王一実神道による東照大権現の 神号を賜わり、日光に東照宮を建てて奉祀した。日光山の今日あることは 大僧正の偉業の一つである。 その他大僧正の偉業として特筆されるものに、織田信長公によって焼土となった 比叡山諸堂宇の再興があり、また天海版といって珍重される大蔵経の開版がある。 なかでもこの上野に桜樹を吉野山から移植されたことや、不忍池を蓮の名所と したことは吾人の忘れてならないことである。 大僧正は108歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で 遷化されたので、その御遺徳を追慕して翌正保元年に慈眼堂が建てられ、 また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵大師の御影と共に天下をまもり 万人に利益(りやく)を授けん」と語られた因縁により、慈恵大師を併せて おまつりし、日々不退に御供養することは変わらない。 慶安元年(1648)後光明天皇から慈眼大師の謚号を宣下された。 大僧正作の左の歌にあやかりたいものである。 気は長く つとめは堅く 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ 長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼(だらに) おりおり ご下風 あそばさるべし 誠心もって両大師の御前にぬかずかれ、無限の福徳を得られんことを 付記 いま社寺で行なわれているみくじは、慈恵大師の創作をもととし、前述のように 慈眼大師が慈恵大師を尊信して夢中に得たものと御伝記にある】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換、句読点を適宜挿入)あ~お~・・・書くべきエッセンスは、ほとんど上の解説に凝縮されてるなあ。もう私、書かなくていい?いやまあ、各スポットで関連する話をおいおい書くとして、最初の「東叡・日光両輪王寺の開基」ってとこは誤解を招きかねないのでちょっとだけ補足しておくと、東叡山寛永寺の開基、これは「上野第一編」の方でも書いてますが、ここはいいです。日光輪王寺の開基・・・こちらは「輪王寺1」で開山の状況について書いたように、日光の寺の創建は奈良時代ともっと古いです。寺伝通りではなかったとしても、寛永寺創建よりは確実に古いです。なら何で日光輪王寺の開基と書くのか?「紫雲立寺」としてスタートした日光の寺は、後に「四本龍寺」と改称したとこまではわかるんだけど、その後は江戸期まで商号変更した形跡は手持ちの資料では見当たらない。だからいちおう「四本龍寺」のままだったんじゃないかと思うけど、山内に堂宇などが増えると後の時代にはもう「日光山」って表現になってる。何しろ一山すべてが同一法人だったんだから、「四本龍寺」ってちっこい枠には収まらない・・・収める必要もなかったのかもしれない。江戸期に入って天海の死後、日光に「輪王寺」の号が下賜される。寛永寺にも同じく「輪王寺」の名称が与えられるんだけど、ひとまず寛永寺の方は置いといて、天海は寛永寺と日光山を統轄したから、実際のところ天海存命中は日光に「輪王寺」は存在してなかったんだけど、煩雑な説明はヌキにして、日光山の中興の祖、って感じのことを言いたいんだと思う。さてと、南光坊天海。家康のブレーンとして、名前だけは戦国ファンにも有名だと思うけど、実際天海がどんな人だったのかということは、案外知られてないんじゃないだろうか。かくいう私もほとんど知りませんでした。特に、その前半生。実は、現代の歴史ファンはもとより、天海と同時代の人にさえ前半生はあまり知られていなかったらしい。それもそのはず、天海自身が多くを語らなかったのだ。『寛永寺』によると、「東叡山開山慈眼大師縁起」(通称:「胤海伝」)にこんな話が載っているそうな。 ある人が 「師の生まれなどについてお聞かせください」 と氏素性などについて大師に尋ねても、 「もう生まれも育ちも忘れちゃったよ~。 大体、一旦空門(仏門)に入ったら そんなのもう関係ないしさ」 とおっしゃるばかりなので、実のところ詳しいことは何もわからない。胤海(いんかい)さんは天海の直弟子で、幼い頃から天海に仕え、常に寄り添うようにお側にいた方だそうな。 【その胤海にして、なお大師の父母の名やその年齢を知らなかったのである。 世間の人々が大師の俗姓や年齢を知らないのはむしろ当然というべきであろう。】 (『寛永寺』より)天海といえば異常なほど長生きした方ですが、別にボケが入った訳でもすっとぼけた訳でもありません。仏弟子となったからには、俗世のことを知ったからといって何の意味もない・・・そういうことらしいです。ま、それはそれでいいんだけどね、天海は相当な存在感があり、また後半生ではエネルギッシュに華々しく活動された方なので、天海がおのれの事を語らなかったがために、後世では実に様々な憶測を呼ぶことになった。まず、年齢。『寛永寺』によると、生年には12~15もの説があり、享年は90歳から140歳まで、なんと50年もの開きがあるという140歳説は、天海の存命中に書かれたものの中にあるそうで、それでも下限は90歳だから、当時から年齢の謎についてちまたで囁かれていたものの、どうやら「すげえジジイらしい」という認識だけはあったものと見える。通常語られる天海の生年は、天文5年(1536年)で隆景ちゃんの3歳下。これは朝廷の記録係である小槻宿祢(おつきのすくね)が遺した日記から来ている。もう誰も覚えちゃいないと思うけど、「武将と僧侶のアルコール耐性・後編」で出てきた小槻伊治(これはる)の一族の方です。この方が寛永9年(1632)家康の17回忌に日光に出張した際の記述に 東照社(のちの東照宮)の薬師堂において、法華万部供養会の法要があった。 導師は南光坊大僧正、今年97歳。とある。いくら天海が自分の生まれを明かさなかったとしても、小槻宿禰の立場と公式な日記であることを考えあわせると、この記述の信憑性は高いだろうってことで、「97歳」はもちろん数えだから、逆算して天文5年生まれ、享年は数えで108歳、実年齢で107歳という計算になり、これが今日での定説なんだそうな。にほんブログ村
2013年12月09日

さて、良源さんのお力を示すエピソードとして、死後600年以上も経ってから天海とタッグを組んで徳川家に貢献した話に4代将軍・徳川家綱の誕生に関わるものがある。これは前々回の解説の最後に書かれてるもので、自分の記事の中でいつ書こうか考えてたんだけど、別のところで書くとなるといつの公開になるかわからないので、やっぱりここで書いておくことにしました。ここまでの上野編で幾度となく本文を引用し、また多く参考にさせていただいてる寛永寺教化部発行の『寛永寺』、これはここ両大師で買ったものです。『寛永寺』には巻頭に、寛永寺所蔵の什宝の写真が結構載せられてまして、その中に『伝民部法眼筆「元三大師御真影』というのがある。写真に付いてる解説を抜粋してご紹介します。 【(前略)形態は比叡山瑞応院本と類似するが、時代はそれより古く応永期頃の 作であろう。本図には、織田信長の比叡山襲撃の際に横川から辛くも救出されて 伊勢西来寺に蔵されたが、三代将軍家光の世子誕生祈祷に当って天海が借り受けて 本尊とし、家綱が誕生したという来歴がある。 以来、寛永寺は本図を秘蔵の一幅として相伝した。慈恵大師画像の逸品として よかろう。】 (『寛永寺』より)最初私はこちらの話しか知らなかったので、「へえ~、なるほど・・・てか、レンタル品がなんでここにあるの?天下の寛永寺が300年以上も延滞してていいんですか!?」てツッコミ入れて笑ってたんですが、先日日光に行ってからは、どうにもわからなくなりました。そうなんです、日光にも関係があったんです。日光輪王寺の本堂は、ご本尊様がおわす三仏堂。現在もまだ工事中で、全面シートに覆われてる写真は「輪王寺1」で載せてます。・・・寛永寺の記事でまた日光ですが、メインタイトルと記事の中身がマッチしてないのは神辺城シリーズで前科がありますしね遠慮なく書かせていただきますね。先月だったか、輪王寺から「もうすぐ1年経ちますよ~」のお知らせを戴いた中に、三仏堂の進捗状況についての報告も入ってたのでちょろっとツイートしましたが、そのお知らせでは三仏の阿弥陀様・千手観音様・馬頭観音様のうち、現在堂内におられるのは阿弥陀様だけで、あとのお二方は修理のため関西の特殊工房に出向いておられるとあったのに、私が先日行った時には阿弥陀様もおられなかった。3人が再びお揃いになるのはなんと5年後。年末が近くなると、関東では毎年このデカい三仏のすす払いが年末恒例行事としてニュースで放映されますが、当分の間はこのニュースは見られそうにありません。お堂の主の三仏が皆様お出かけになられて、現在の三仏堂はすっかり工事現場と化している訳ですが、工事のために物を移動させてたりするので、通常は見られなかったり見にくいものがよく見えるという、期間限定のお楽しみもあります。日光におけるわたくしの行動は、二社一寺のうち、二社(東照宮・二荒山神社)よりもだんぜん一寺(輪王寺)の比重の方が大きい。ここ数年は三仏堂へは寄ってませんが、それでもここには阿弥陀様(わたくしの守り本尊)や天海の像などお気に入りも多くあるので、以前は毎回寄ってましたし、内部は大体把握してます。ので、何が工事期間中のラッキーなオプションなのかも自分で探せる訳ですが、三仏を過ぎた奥に小さな護摩壇がある。三仏はキンキラだし、まあ明るいところにあるのですが、護摩壇の方は薄暗いせいもあってか、あまり寄る人はいない。が、私はなぜかここが好きで、首が疲れるまで三仏を見た後は必ずここに寄って大きなお鉢にこれまた大きなスリコギでご~~~~~ん・・・・・と鳴らして、お参りする。ここにも小さな賽銭箱があるので、もちろん別口で寸志を納めます。ところが、好きといってもかなり漠然としたもので、あんまり細部についてはこれまで見たことはなかったし、そもそも暗いので護摩壇の構造を把握してはいなかった。それが、今回は工事中につき堂内は明るく照らされていて、護摩壇もよく見えた。建築が好きになったこともあるし、今回は寛永寺萌え~してたので、昔とは視点が違っていることが自分でもよくわかった。残念ながら、今回は護摩壇の回りにはロープが張られていて、「ご~ん」はできなかったんですが、今さらながら「へええ~~~・・・こんなんなってたんだ~」って興味深くしげしげと眺めておりました。護摩壇の前にあるのは、黒塗りの大きな御厨子。1m50cmくらいはあるかなあ・・・堂内は撮影禁止なので写真はありませんが、通常よりよく見える御厨子をじろじろ見ながらルートに従って回り込むと、御厨子の背面が露出していて、朱で何やら書いてある。これは通常は見えていなかったものじゃないかと思うけど、あるいは暗くて気が付かなかっただけかもしれない。それに、長年通ってるとはいっても、自分でも笑っちゃうくらい日光に関しては歴史とか何かの由来とか知ろうともしなかったのでね。ホントにねえ~、何も知らなくて、一体何が好きで何しに通ってたんだろうと爆笑すらしたくなりますっと、それで御厨子。朱書きの銘文は漢文ですが、わかりやすい説明文が貼ってあったので、手書きで写してきました。 【この慈恵大師画像の秘仏とされるゆえんは、ある時大師が比叡山横川で座禅された 時の影が壁に消えずに残った。それを弟子の阿闍梨公が絵に写し留めたところ、 影が消えたともいわれたもので、影大師と称する霊像である。 信長の比叡山焼討の難を逃れ秘匿されていたものを、寛永17年将軍徳川家光の お世継ぎ誕生祈願のために関東に移し、その霊像を本尊として天海大僧正が 日光で祈祷し、8月3日無事家綱公が誕生された。 鎌倉・室町期の源家(将軍家)も祈り、また徳川将軍家も守られたもので、 これを写して江戸の泰平と国家安寧を祈るために厨子を造ったとされる。 江戸の棟梁鈴木氏が歴代修理(安永年間:1770年代、文久3年:1863)を 重ねてきたことが記されています。】で、厨子の最後にある日付は「寛永19年壬午天正月吉日」。『寛永寺』の解説と読み比べてみて下さい。「織田信長の叡山焼き討ちをかろうじて逃れた慈恵大師の画像に天海が祈り、めでたく家綱が誕生した」という部分は一致してますが、細部が違う。『寛永寺』には、天海がどこで祈祷をしたのかは書かれてないけど、三仏堂の厨子の銘によると日光で祈祷をしたことになっている。また、厨子の文には「これを写して」とあるので、寛永寺にあるのが原本で日光の厨子に納められてるのがコピーとも読めるけど、寛永寺の画像は応永頃の作と推定されている。一方の三仏堂厨子の画像は、良源さん存命中に描かれたものであり、鎌倉の将軍家もお世話になったって話になっている。ので、寛永寺所蔵と日光輪王寺所蔵の慈恵大師画像は制作年代がズレる。画像を見比べれば手っ取り早いんだけど、『寛永寺』は写真が載ってるのに対し、三仏堂の御厨子は閉じられてて画像は見られない。秘仏ってあるしな・・・日光山内で売ってる刊行物は、おととしあたりに東照宮で買った『謎と不思議 東照宮再発見』ぐらいしか持ってなかったので、いいかげん日光についてもちゃんと勉強しようと思って、今回は買える刊行物はなるべくすべて買おうと思っていた。しかし、今までは買うつもりがなかったから知らなかったけど、いざ買おうとなると案外少なくて、輪王寺の大護摩堂(←色々売ってる)にはホントの観光用パンフレットって類のものしかなかった。で、護摩堂の若い坊様とちょっと話をしてた時についでになるべく詳しい歴史とか書いてあるものがないか聞いてみたら、宝物殿の方に置いてあると教えてくれたので、お護摩の後で宝物殿に行って『輪王寺 宝ものがたり』(東京美術)なる本をゲットした。それには「慈恵大師画像」の写真が載っていたので、『寛永寺』のと見比べてみた。う~ん・・・良源さんのポーズとか、着物の感じなんかはほぼ同じなんだけど、着物の柄が違うし、持ってるものもちょっと違う。脇侍に至っては、全然違う。画像自体は、日光輪王寺の方が状態がいいし新しいカンジ。だから寛永寺のをコピーした絵かなって気もするけど、『宝ものがたり』に掲載されてる画像が「影大師」だとは一言も書いてない。画像の掲載されている同じページには、こんな解説が載っていた。 【もと天狗堂と呼ばれたお堂がありました。慈恵大師堂が正式な名称で、 本尊は慈恵大師、それと将軍地蔵・大天狗・役行者・牛若丸も祀られていたと いいます。 このお堂は家光公の若君誕生(寛永17年:1640)の祈願のため天海大僧正が 指揮して建てたものです。翌年自らここに籠り日光山の僧と寛永寺の僧、それに 日光山伏らがともに修法を凝らして祈念を込め、そのかいあって家綱公が無事 誕生されたといわれます。】 (『輪王寺 宝ものがたり』より)寛永寺・日光輪王寺それぞれの解説を見てると、それぞれに別の話が伝わっていて、双方が「ウチが祈祷して、慈恵大師画像もウチにあるんだよ~!ウチが!ウチが!」って競ってるような印象があって「どっちが正しいんじゃい!!」ってイラついてきたんだけど、『宝ものがたり』を読んでちょっと納得した。つまり、誕生祈願は日光で天海が行ったんだな。画像の由来に違いはあるけど、「影大師」の写しが横川から流れて日光で期待に応えたあと、おそらく江戸へ移されて、それが現在の寛永寺所蔵の画像なのだろう。日光輪王寺の御厨子は家綱誕生後に造られたものだから、寛永寺所蔵の画像を写したものを納めたんじゃないか・・・そんな風に、自分の推測をまとめました。まあ、「影大師」の確実な絵を見てないので何とも言えない部分はあるけどね~。こうして、良源さんのお力を借りて子宝祈願に臨んだ天海だったが、この願いが叶わない時は二度と山菅の橋(現在の神橋)を渡ることはない・・・つまり、江戸へは戻らず、日光で隠遁するとの決意をもって挑んだともいう。そして見事4代将軍の誕生に貢献した天海は、世継ぎである幼子に「竹千代」と命名したとされる。「竹千代って、徳川家の世子に付けられる幼名でしょ?天海が名付けたっておかしくない!?」ってほとんどの人が思うでしょうがそんな話もあるってだけのことです。あるいはここから以後の世継ぎに竹千代の名が与えられるようになったのかもしれないし。にほんブログ村
2013年12月08日

今回からは少し別の話を集中して書こうかと思ってましたが、せっかくなのでちょっと慈恵大師・良源さんについてお手軽なウィキペディアでお勉強しました。近江の国・現在の長浜に生まれた良源さんは、もともと位の高い僧ではなかったが、持ち前の頭の良さと法力で天台座主にまで上り詰めた人らしい。別名は、前回出てきた「角大師」のほか、「豆大師」「厄除け大師」「降魔大師」「魔除大師」などさまざま。角大師の由来は前回書きましたね。「豆大師」ってなんじゃい・・・と思ったら、ちっこい良源さんが横並びに4人ずつ、7段構えで座ってる。その上に3人が1段、一番上に2人が1段、の計33人のちっこい良源さんがプリントされたお札がある。これについては、こんな伝説があるそうな。 寛永年間のこと。 河内の国・寝屋川のとある百姓が、田植えも無事に終わったので、 日頃から信仰している叡山は横川(よかわ)の大師詣でにやってきた。 まずは大師廟へ参詣して、 「今年もどーか、水難・干ばつ・大風などにあわず豊作でありますよーに」 と時の経つのも忘れ、一心に祈った。 夕方には大師堂へ向かい、そこで通夜をさせてもらうことにした。 百姓が大師堂に入った頃から降り出した雨は次第に激しさを増し、淀川沿いにある 自分の家や畑が水浸しになっていないか、気が気でない。 「せっかく田植えが終わったばかりだとゆーに、これじゃもうダメかもしれん。 せめて家におったなら、何とかしようもあるほどに。 なんでワシはここにおるんじゃ・・・」 居ても立ってもいられなくなった百姓は、寺の坊様に苦しい胸のうちを訴えた。 すると坊様は、 「お前はバカか。田植えの守り神である大師様に来ていて、泣きごとを 言う奴があるか。今こそ、大師様に祈ったらええじゃろう」 「あ・・・・」 そこで宝前に端座し、 「どうかお助けください」 と一心に御名を唱えお経を読み、夜通しひたすら祈り続けた。 夜が明けるのを待って大雨の中を我が家へと急ぐ道々、被害の大きさがイヤでも 目に入ってくる。 「ああ、これじゃワシんとこもダメじゃろう・・・」 悲観的になりながらも自分を励まし、ようやく村の入口に辿り着くと、 村の衆は手に手に鍬や鋤を持ったまま、茫然と立ち尽くしている。 「ううっ、やっぱり・・・」 と全滅した田を想像しながら近づくと、1人の男が百姓を見つけて 「おぬし、どこ行っておった? それにしても、うまいことやりおったな、コイツめ!!」 「ハア?何言っとんじゃ。 それより、ワシの田んぼもダメなのか!?」 「何言うとる。お前んとこだけが無事だったんだぞ! だからこうして、皆で手回しよくやったなあと羨ましがっとったんじゃ」 「いや、手回しも何も・・・ ワシャ、横川に行っておったんじゃ。 夕方からの雨に気が気じゃなかったが、どうしようもないし、 夜が明けるのを待って急いで帰ってきたんだぞ」 「お?それじゃ何にも知らんのか? 30人ばかりの、桶や鍬を持った子供上りの若者がやって来て、お前の田んぼで 畔を造るやら、水をくみ出すやら、そりゃもう手際よく働いてたんだぞ。 見てみろ、お前の田だけ、苗の顔が見えとるぞ!」 訳がわからないまま自分の田へ行ってみると、はたして一面に広がる 濁った水の中で、百姓の田だけちゃんと苗が見えている。 「・・・? 不思議なこともあるもんだなあ」 とキツネにつままれたような気持ちであっても、ひとまず田は無事だったので、 家に戻ってみた。家に入ると、妻や子が 「あっ!お前さん! 田を見て来たかい? うちの田だけが助かったんじゃ!」 と嬉し泣きしながら迎えた。 「も~、肝心な時にお前さんはいないし、女子供では物の役にも立たないと 思いながらもあれこれとやっていると、夜明け前にどこから来たのか、 30人あまりの子供上りの若い衆がやってきて・・・」 滔々と語る妻の話によると、ちょうど横川で坊様に諭されて一心に大師様に 祈っていた時間に若い助っ人がやって来たのだという。 ここでようやく若い衆の正体がわかった百姓は 「そうか、これはお大師様のお助けに違いない! こうしちゃいられねえ、早速お礼にお参りしなくちゃ!!」 そこで急いで横川に引き返して、例の坊様に不思議な出来事を話すと 「それはおぬしの誠が大師様に届いたのじゃ。よかったのう。 大師様は観音様の化身だから、33人の童子に身をやつして お助けくだされたのじゃろう」 これ以降、33体のお大師様のお姿が1枚に納められているお札を「魔滅大師」 といい、田を守ってくださるお札として、田植えが済むと竹の皮に包んだお札を 竹に挟んで田ごとに立てるようになったそうな。「ジジイ、なんかちょっと広島弁入ってない!?」て細かいツッコミ入れるのやめてね(笑)。つまり、「豆大師」は豆つぶのようにちっこい良源さんという意味でもあり、魔滅(まめ)の霊験もあるって意味なようですね。長い歴史の中には、結構大師号をもらった人もいるので、各地にある「お大師様」がどの大師様を祀ってるのか、今まで興味もなかったし考えたこともなかったけど、関東では佐野も良源さんを祀るお大師様なんだってね。ええ~?ちょっと待って、それじゃ川崎大師は?と思ったら、こちらは真言宗で弘法大師空海を祀る厄除大師なんだと。そうか、空海だったのか・・・いかに自分が物知らずか、あらためて知りましたそして、良源さんは「おみくじ」の創始者でもあるという。おみくじ大好き人間にも関わらす、その由来とか考えもしなかったわたくしは慌ててどういう事なのか調べました。すると、丸亀の妙法寺様のサイトに説明があったので、以下簡単にご紹介します。 江戸時代初期、上野寛永寺の天海大僧正は日頃から慈恵大師に深く帰依していた。 ある時、天海の夢枕に慈恵大師が立たれ、 「信州は戸隠の明神御宝前に、観音百籤があってね。 これはのちの複雑な世において、悩める人々を救うために私が自ら観音様に 祈念して授かった、処方箋とも言えるものなんだよ~。 この百籤を私の影像の前に置いて、心を尽くして占えば、その願いに応じて 吉凶を教えてあげるからね。沢山の人を救ってあげてね」 と告げられた。 天海が早速人を使わしてみると、お告げの通り偈文百枚が納められていたという。 番号を振った100本のくじを小さな穴の開いた箱に納め、 祈りながらその中の1本を引き、番号に応じた偈文から吉凶を判断すると、 的確な指示が得られたそうな。現在のおみくじは、これを基にして発展したものなんだそうな。へええ~、知らぬ間に、長いこと良源さんにお世話になってたんだなあ・・・丸亀の妙法寺様には、なんと輪王寺宮からいただいた元三大師降魔尊像が現存しているそうで、上記の説明のあるページには、その像の写真が載っている。(リンクはこちら)そして、古式にのっとって住職様が相談者からじかに話を聞き、如意輪観音菩薩様と良源さんにお伺いをして悩める世人の相談に乗っておられるそうな。観音様の化身といわれる良源さんに由来するおみくじと、忿怒(ふんぬ)相で降魔の姿をした良源さんの像・・・ダブルの良源パワーで悩みも吹っ飛びそう悩める方々は、ぜひ丸亀の妙法寺様へどうぞ。観音様の化身といえば、摂関家は観音様を守護としていたらしく、ゆえに良源さんも摂関家の篤い尊崇を受けたという。ウィキペディアによると、良源さんの幼名は「観音丸」または「日吉丸」といったそうで、これは偶然なのか、後付けなのか、それとも何かしらの由来があってのものなのか・・・ともかく、生前には摂関家のみならず、村上天皇の皇后の安産祈願を行うなど、天皇家からも尊崇を受けた。そして死後も、良源さんの法力は衰えない。天海を仲介として、江戸期に入ると将軍家にも貢献をした。・・・てとこで、(また)ちょっと文字数が足りなくなったので本日はここまで~。にほんブログ村
2013年12月07日

引き続き、両大師の門をご紹介。 ご覧の通りべたべたと(笑)、いろんなものが貼られてます。まずはイベントの貼り紙からいこうかな。 去年あたりだったか、NHKのニュースで仕事前の朝のお稽古ごとがひそかなブームになってるというのを見たことがあるけど、8:30はビミョ~な時間だよな・・・サラリーマンやOLなら、8時くらいのスタートでないと厳しかろうでも、いい企画ではあるよな。ただし、9時始業の勤め人には向かない(笑)。 ↑こちらは月イチか。実費のみ負担てとこかな。 ↑こちらは売店のご案内だな。パンフレットは買おう。お香もあるのか・・・日光の輪王寺にも5~6種類のお香が売ってて、いつもお香を買って帰るのだ。寛永寺ブランドなら買ってみようかな~。これは匂いを嗅いでから決めよう。1,000円ならよく買う「輪王寺香」と同じでお手頃価格だしな。「輪王寺香」はさわやかな香りで使いやすいってのもあるけど、他とくらべて安いのも理由の一つ。大猷院で売ってる「家光公」のお香なんかは、3,000円もするんだよ~!大猷院の拝殿には小さな売店コーナーがあるんだけど、売上に協力したい私は、なるべく何かを買うようにしている。が、そもそも売ってる種類が少ないし、最近では昔よりもさらにグッズの種類が減った気がするので、ほとんどの物品は買ってしまっている。残るは「家光公」なんだけど、なかなかお香に3,000円はね~で、つい二の足を踏んでしまって長年買えなかったけど、去年初めて「家光公」にチャレンジしました。市販されてる香水系などの使いやすいお香に比べたら、1,000円の「輪王寺香」でもお高めだとは思うけど、お寺で売ってるお香もいいもんです。向かって右側の貼り紙のはしっこには、見覚えのある絵があった↓。 あっ、これえ~!毎年日光で受け替えてる鬼門除けの中に入れる紙に描かれてるやつだ!!寛永寺の記事なのに日光の話題で恐縮ですが、江戸期には寛永寺と日光輪王寺は一体といっていい関係だったのでね。寛永寺と関係があることぐらいは以前から知ってはいたけど、ちゃんと寛永寺の歴史を知ると日光の見方も変わります。東照宮の五重塔心柱特別公開のデカい看板を「東照宮2」の記事で紹介してますが、「江戸と日光 新たなつながり」というキャッチコピーはまさに私のためにあるようなキャッチで、寛永寺を知ることで日光の理解も深まったし、今まで知らなかった日光のあらたな側面を知るようになって、遠く離れた日光がすぐ身近に感じられるようになりました。江戸にいては日光を思い、日光にいては江戸を思い・・・もはや私の中では、寛永寺と日光は切っても切り離せない関係になってるので、「日光写真館」の記事の方もそのつもりでお読みくだされで、上の絵には解説が付いてます。 【厄除角大師(つのだいし)縁起 両大師堂におまつりしている慈恵大師(第18代天台座主良源大僧正)は、 元三(がんざん)大師ともいわれ、厄除のお大師様として古来より信仰を 集めています。 平安の昔、京に疫病が流行った時の事、ある風雨が鳴り止まぬ夜、疫病神が 慈恵大師の前に現れ「お前も罹(かか)らねばならぬ」と小指にとりつきました。 大師はたちまち発熱しましたが少しも驚かず禅定に入って心を整え、 おもむろに小指を弾きました。すると疫病神が転がり出て熱も下りました。 早速大師はその時の姿を弟子に写させ、版木に彫り「お札」を刷らせました。 そしてこのお札を家々の戸口に貼らせると、その家の者は疫病に罹らず、また 罹った者はすぐ快方に向かったのです。 このお札の大師のお姿は何と角の長い魔物のかたちをしておりました。 以来このお札は角大師と呼ばれ、厄除大師として広く信仰を集めております。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)う~んっ?つまりこの一瞬ぎょっとするような絵は、疫病神の方じゃなく良源の姿だってこと?日光輪王寺で受けられる鬼門除けのお札には、祀り方とか簡単な説明書きがついてるけど、ここまで詳しくは書いてないから知らなかったなあ。それには、 【お札には、降魔の姿をした角大師の護符が挟んであります。】としか書いてない。この鬼門除けのお札は、裏にもお札がはめ込んであって、中から角大師の描かれた護符を取り出して護符の裏に同居家族の名前と生年月日を書き込んで、またお札にはめ込む。外から見ると角大師がお札の裏に見えるようになってて、角大師のいる面を壁につけて部屋の北東、または北の壁に飾る。つまり、外から悪いものが侵入しようとしても、壁側にいる角大師が追い払ってくれるという仕掛け。輪王寺のお札のありがたいところはこれだけじゃなくて、一緒に入っているハガキに家族の名前と生年月日を書いて投函すると、日光の御本尊様の前に捧げて無病息災を祈願してくれるという、二重の御加護が受けられるシステム。さらに、受け替えの時期になると「もうすぐ1年ですよ~」ってお知らせをくれる親切さ。私はお護摩と一緒にこれを求めて、導師様の念を入れていただくのでさらにパワーアップ輪王寺のサイトでは通販もしているようなので、皆様もおひとついかがですか?寛永寺には同じ鬼門除けのお札はないけど、解説の最後には 【角大師のお姿の描かれた「角大師護符」「角大師御守」は本堂にて授与致して おります。】とあるので、お値段的にはこちらの方が求めやすいかもしれませんね。今度は向かって左側の貼り紙↓。 ふむふむ、やっぱり寛永寺ではお護摩は縁日限定なんだな。受付は随時やってるけど、祈祷は月イチってことか。 アレ?さっきの写経会と同じ案内だよな・・・ ↑こちらは授与品のご案内。「大賀ハス」がここにもあるのか~!古代ハスのお守りならちょっと欲しい気もするけど、私には信長様のお守りがあるからもう他のお守りいらないんだよね。 おお、こんなのまであるよ~!商売頑張っとるな~(笑)。さて、楽しい貼り紙の後は、ちょっと長い解説どす。 【両大師略縁起 このお堂には 慈恵大師(良源大僧正)と慈眼大師(天海大僧正)をお祭りしている 一、慈恵大師小史 慈恵大師(良源大僧正:912~985)は学徳行業が秀でて当時の仏教界に 大師と肩をならべる僧はなく、特にその学識は後世比叡山から輩出した鎌倉仏教の 各祖師に強く影響したので比叡山中興の祖と称する。 大師のすぐれた学識を示したものに仏教史上で有名な応和問答がある。 これは応和3年(963)に村上天皇が法華経書写の供養のために宮中の清涼殿で 開かれた法華経論義(法華経討論会)で、大師は奈良仏教の巨匠といわれた法蔵を 論破した。 法蔵は大師を評して、釈尊の弟子の富楼那尊者(ふるなそんじゃ)のように 雄弁家である、とうてい自分の及ぶところでないと述べている。これについて 大師の弟子恵心僧都(942~1017)の著述によると、大師の雄弁は 仏教論理学に基礎を置く大師独特の新発明のもので、論理学の本家である 奈良仏教の学者がいっこうに及びもつかなかったものであるとのべてある。 しかも、この恵心僧都の書かれた書物(四相違略註釈)は当時の支那(中国)に 送られて仏教論理学者をおどろかせたという伝説がある位である。 大師はその優れた学徳によって村上・一条・円融の三天皇の特別な御帰依があって、 慈恵大師の謚号を賜わったが、宮中に参内しては密教の霊験をしばしば あらわされたのである。 その霊験とは、天元4年(981)8月円融天皇が御病気になられたとき、 大師が参内すると忽ち平癒したと伝記にあり、また宮中で大師が護摩供を修すると 大師が不動明王と同じ姿になったと伝えられる。 そのほか、大師が疫病神を降伏して自ら夜叉の姿になったということから、今日でも その御影像を写して厄除角大師と申して尊崇しておまつりしているのである。 そのほか大師の厄難消除・福願与時の御利益は数多く伝えられているが、中でも 大師の威力を現わしたことは、天海大僧正が三代将軍家光公の靖によって世嗣安産を 祈願するにあたって、天海大僧正は民部法眼筆の慈恵大師御影像を寛永寺にまつって 大師の霊験を祈祷したところ、その効験があって後に四代将軍となった家綱公が 誕生したのである。 それより将軍家の信任を得たばかりでなく、江戸市民もこれを聞きつたえて 子授け大師とよび信仰するようになった。永観3年(985)正月3日に 入寂されたので元三大師とも申して、今日でも大師への信仰は東叡山を その発祥地として広く関東一円に行なわれている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)最後の子授けの話については、もうちょっと後かあるいは別のところで書こうかな・・・いいネタがあるんですよお~、ダンナにほんブログ村
2013年12月05日

敷地に沿って交差点を右に曲がると、大きな案内図があった↓。 図のほぼ真四角の敷地は、古絵図では「慈眼堂」として描かれている場所。ここは現在でも寛永寺の敷地です。この看板のすぐ先が おお~、すげえ!あれが旧本坊表門か~!!前回の日本鳩レース協会から屏風坂上の交差点に出るまでの間に、道路からもすごい建造物が見えてましたので、うおっ、なんじゃあ、ありゃあ~!!って思いながら歩いてたのですが、これだったんだな。にしても、この変形武田菱(←違います)の付いた柵は閉じられてて、門に近寄れないんだけど。え~、まさか、ここから見てガマンしろってことじゃないよなしょうがない、とりあえずこれ以上近寄れなかった時のために、写真を撮っておこう・・・とフェンスの穴にカメラのレンズを突っ込んで撮ったのがこちら↓。 瓦なんかはだいぶ新しいみたいだな・・・と思って屋根を見てたら、大棟に目が行った↓。 え~、ナニアレ~!あんなの見たことない!すごい変わってる~。でも、結構気に入りました。この大棟。柵にへばりついて写真を撮ってたら、ちょうど夏の選挙前だったので、とある候補者の選挙カーが近くを通った。聞くともなしにスピーチを聞いてると、なんと選挙公約にオリンピック誘致を掲げている(まだ決定前の出来事です)。ええ~、オリンピックって一議員の努力で何とかなるもんなの?アナタがオリンピックを開催するんですか?公約にオリンピック誘致っておかしくない?仮に選挙で当選しても、東京に決まらなかったら責任を取ってアナタは議員を辞職するんですか?・・・とまあ、何度かツイートしてる通り、わたくしは東京オリンピック反対派でしたのでね。即座に沢山のツッコミと罵声を浴びせてましたよ。頭の中で。オリンピックはいいんだけどね。東京はイカン。大体、沢山の競技を開けるような場所もないし、地震のリスクはダブルで抱えてるし・・・いや、トリプルか。南海トラフと首都直下型と千葉沖。それに、最近の日本の夏ってば死者が出るくらいの過酷な環境。東京は夏のオリンピックには向かない。これが地方都市だったら、私も応援したよ。こーゆー時くらい、地方に花を持たせてやれよ・・・って思うんだよね。オリンピックより、東北の救済が先だろ?そんなこんなで苦々しい思いを抱えながら、ひとまず中に入れる入口があるハズだぞ・・・と思ってそのまま奥へ進むと、ありました。 【両大師 正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立。 天海僧正は慶安元年(1648)朝廷より慈眼大師の諡号(没後に贈られる号) を受けたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称した。 その後、天海がもっとも尊敬した平安時代の高僧慈恵(じえ)大師良源をも 安置したため、慈眼大師天海とともに一般には”両大師”と呼ばれるようになった。 天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも 優れたものの一つ(東京都指定有形文化財)。良源を描いた「元三大師画像」は、 室町時代初期の制作。優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきた (台東区指定有形文化財)。 また、江戸時代初期の銅鐘・銅燈籠が現存。いずれも、国の旧重要美術品である。】 (現地解説板より原文のまま。漢数字は戦国ジジイが変換)という訳で、こちらは天海のために造られた開山堂です。上の写真の立札によると、こちらでもお護摩をやってるらしいけど、縁日の日限定なのかな?「御祈祷受付」とあるから、いちおう個人でも受けられそうだけど、入った感じだと日光のように随時(時間は決まってますが)当日申し込みで受けられそうな感じでもなかったな。縁日は3日とあるから、天海の命日かと思ったら、天海の死亡日は10月2日。良源の方が1月3日なので、そちらを採用したのかもしれない。門前にはこんなものが↓。 なんだ、このでべそ?幡を立てるものなのかな・・・日光のはでべそじゃなくて、くぼんでたけど。でもこの奥に、これを使って幡が立てられてたので、このでべそにはめ込んで使うものらしい↓。 さてと、まずは門前の紹介からいきますかね~。ここも結構面白いのだ。 ここの門に付けられてる紋は ・・・丸に二引。この家紋でまず思い浮かぶのは、やっぱり足利家。それから安芸国人の吉川家(笑)。『閾(いき)ペディアことのは』様のサイトによると、 【『新編会津風土記』によれば、「大沼郡高田町、国幣中社伊佐須美神社に、 高田城主蘆名盛安、盛常父子納むる所の神輿あり、左三巴の神紋に配して、 丸に二引両の家紋を打てり」とあり、蘆名氏が二引両を用いたのは 動かしがたいと思われる。】とある。天海についてはこの後で少し書きたいと思いますが、蘆名一族の出身と言われてるんだよね。「天海は蘆名氏の族として、常にその家紋を用いている。」(『閾ペディアことのは』より)ということなので、つまりこれは慈眼堂のヌシ・天海の紋として付けてるってことかな。しかし、屋根に載る瓦はこれじゃない↓。 こういう場所なので、本来であれば何かの紋がここには入ってたはずだと思うけど、ぽっかり空いている・・・これまで見てきたものと考え合わせると、ここにも葵紋が入ってたんじゃないかと思うんだけどね~。ただ、この門がいつ造られたものなのかは不明。戦後の再建だったら葵の可能性は低くなるけど、それだったらここにも「丸に二引」を入れるんじゃないかい?こんな風に、紋が入るべき場所がぽっかり空いてるのを上野でいくつ見てきたろう・・・どうにも不可解だ 蟇股もまた不可解↓。 ジジイ、気にしすぎだよお~。たまたま真ん中がぽっかり空いてるだけの、ただの板蟇股だって!!って言われちゃ~それまでだけど、なんか気になるう~。だって、真ん中に紋が入ればしっくり来る気がしない?上野にはナゾが多い・・・にほんブログ村
2013年12月04日

予定してたお墓参りができなくてがっかり・・・傷心をかかえて振り向くと、通りを挟んだそこはもう次のお目当ての敷地。ここには低い石垣が積まれてる↓。 ここはまんず、近代に入って積まれたものだとは思うけど、それにしても、この石・・・ なんだろう、この四角の穴?全部の石にこの穴があいてる訳じゃないから、オシャレで付けた穴とも考えにくい。なにかの石を転用してるのかな・・・この、ちょっとへんてこな石垣の上に建つ塀は5本ライン。 うん、これはいいよな。ヘンなのは、根本中堂の塀の方だ( 「上野第一編(13)」をご覧ください)塀に沿って歩いていくと、 これが次のお目当て、の裏手。フェンスにはなぜか、変形武田菱・・・(←違います)このちょうど向かいあたりに、子院団地を奥へと延びる道がもう1本↓。 が、この通りにもやっぱり 静まり返った子院団地を前にして、この看板のおかげで一歩も中に入れない小心者のわたくしが悲しい思いでうつむくと 側溝を覆うふたについてるちっちゃい可愛らしい桜が慰めてくれた。・・・あ、ちょっと元気になった(←単純) そのまま道を進むと、行き止まりのT字路(いまここ)左手の光景↓。 写真の右手のすぐ裏は、かつての崖。この道の奥も色々と変遷があって、ひとまず手持ちの絵図を見ると寛永寺が生まれて間もない寛永19年(1642)には、トーハクからこの辺の敷地がいっしょくたになっていて、建物は書かれてないけど「大僧正」とだけある。つまり、トーハクと子院団地とこの場所までが本坊のある寛永寺の中心部だった訳だな。「大僧正」の区画の隣には「百姓地」なんかがあって、まだまだ寺域が山内で限られた時代だったらしい。ちなみに、まだこれは天海が生きてた時期なので、「大僧正」は天海を指すと思われます。少し時代が下った明暦3年(1657)になると、山内の主要部分はほぼ寺域になっており、沢山の子院なども描かれ整然とした寺の絵になってくる。で、この道の奥には「元龍院」とあるんだけど、これはお墓参りを予定してた現龍院とは別モノなのかな?明暦3年より少し後のものと思われる『寛永寺』の表紙の絵図では、また構成が変わり、この道の奥には「圓覚院」がでーんと大きく描かれている。明暦よりさらに200年ほど下った安政6年(1859)の絵図では、子院団地の東側ブロック半分とこの場所は木が描きこまれてるだけの森のような絵になっている。てな感じで、ほんの数枚の絵図を見ただけでも土地利用にこれだけの変遷があります。が、寛永寺初期から幕末まで、ずっとこの場所も寛永寺の土地でした。んで、上の写真の右手に写ってる白い建物、何の気なしに看板に目をやったら 「社団法人 日本鳩レース協会 J.R.P.A」おおお~、こんなとこにこんなものが!!てか、鳩レース協会なんてあるんだ・・・鳩レースといえば、大人になってから読んだ「シートン動物記」の鳩のアルノーの話を真っ先に思い浮かべますが、セキュリティよしおのおじさんが鳩レースをやってたらしいので、協会の前で、よしおのおじさん(会ったことはありません)のことをぼんやり想像してました(笑)。ここまでは、T字の道の左手。わたくしの進行方向は右手↓。 左の建物のたぶんすぐ裏がガケなので、この辺りがかつての寛永寺の東端になります。長い塀にそってずっと歩いていくと、ようやく次のお目当てを示す看板が出た↓。 これを右に曲がっていくと、「両大師」。写真は撮ってませんが、交差点の左へ延びる道は現在ではJRの線路をまたぐ橋になっていて、「両大師橋」と名前が付いてる。つまり、ここも左側のすぐ先はガケ。今は崖の下を線路が通ってるので降りてくことはできないし、降りる用もありませんが(笑)、かつてはガケと台地を結ぶ坂になっていたようです。明暦3年(1657)の絵図だと、坂を降りた先が「さかもと」。『寛永寺』の表紙の絵図だと、「びやうぶ坂」(屏風坂)とある。屏風の名が付いてるってことは、坂の下から見上げると屏風のようにそそり立つ急な崖だったのかもしれないな。『江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく著)によると、山内へ通じる坂として代表的な坂が3つ知られており、屏風坂もそのひとつだったらしい。で、『寛永寺』の絵図の方には、坂の下には小屋のようなものが描かれている。この位置だし、これって門番小屋かもな。て~ことで、ここで『寛永寺』を中心に山内の警備システムについて少しご紹介します。寛永寺には専任のガードマンがおり、「山同心」(やまどうしん)という寺役人がその任に当たった。役人だから、本来の身分は公務員じゃないかと思うんだけど、ほとんど寛永寺のお抱えだったらしい。制服もある。 【彼らは背中に「カスガイ山」を染抜いた浅黄の法被(はっぴ)に「たっつけ袴」を 着け、腰に木刀を差すという出立ちで山内の取り締まりに当っていた。】 (『寛永寺』より)それから、下っぱ幕臣・山本政恒が残した記録によると、赤い房を付けた十手を腰に差していたらしい。一目で「あ、山同心だ」とわかるようなおそろいのスタイルだったんだね。山同心は40人以上いたらしいが、そのボスが「目代」(もくだい)。寛永寺を取り締まる目代は代々「田村権右衛門」の名を受け継ぎ、目代料として100石が支給されていたという。 【従って、彼の役目は山内の取締まりだけではなく、東叡山領の年貢の取り立てや その実質的支配など、いわゆる寺務を除く一切の面にまで及んでいたから、 そうした方面からの副次的な収入も馬鹿にならないものがあったと思われる。】 (『寛永寺』より)山同心たちのメインのお仕事は、警備。寛永寺には8つの門があったと言われ、どうも倹約将軍・吉宗の代になってから門の数も削減されたらしいけど、減らされてこの数なのか、最盛期の門数が8つなのかは現時点ではわからない。数え方によっても違うし・・・けど、上野戦争の時点でもいちおう8つの門は確認できる。そのうちのひとつが、「屏風坂門」・・・やっぱり、『寛永寺』の表紙にある坂の下の小屋は門番小屋なんだな。で、日中にはこれら8つの門の警護と、輪王寺宮のお住まいでもある本坊の警備。夜には山内の定時巡回をした。暗闇の中の巡回などで消費される提灯やローソクなどの消耗品は、寛永寺から費用が支給されたという。ボスの目代にはまた特別なお役目がある。それが、宮の警護。宮が寛永寺を出てよそにお出ましになる時は、配下を引き連れて目代が道中の宮の警護にあたったそうな。山内にいる人間がみな寛永寺のお坊さんだったら、日常のお仕事はそう大変ではないかもしれない。ところが、江戸期には一般庶民も山内をウロウロしていた。現代では、上野公園は花見の名所。不忍(しのばず)側から延びるかつての長い参道は、昼はのどかな大勢の花見客が通り、夜は野外大宴会場に早変わりする。私も都内に勤めてた頃、仕事の後で職場の飲み会をやったもんな~(笑)。江戸期にも実は上野のお山は江戸っ子の花見の名所であり、桜以外にも蓮見、月見、雪見など、豊かな自然を楽しむ人気の観光スポットだった。寛永16年(1639)3月20日に東照社一帯で起こった火災は、花見客が出したものだったという噂が当時立ったくらい、早い時期から山内には庶民が出入りしていた様子が窺える。喧嘩っ早い江戸っ子がケンカでも始めれば、山同心がすっ飛んできて騒ぎを鎮めたことだろう。けど、ピリピリした警備だけだったという訳でもなく、山同心は役得として訪問客に薄縁(うすべり。むしろの敷物のこと)を貸したり、茶や菓子などを売ったりもしていたらしい。ガードマン兼レジャーシートレンタル業兼茶店経営・・・ところが、夕方になると本業のガードマンの面が強くなる。山内への出入りには時間が決められており、明六ツから暮六ツ・・・大体、午前6時から午後6時まで。刻限の6時になると、山同心たちは一斉に門を閉じて容赦なく庶民を追い出したそうな。要するに、江戸期にも見事な夜桜はあるにはあったけど、江戸っ子は上野のお山で夜桜を楽しむことはできなかったんだと。『寛永寺』には、これを残念がった無念の古川柳が紹介されている。 千金の時分追出す花の門にほんブログ村
2013年12月03日

林光院を出た先↓。 この辺一帯の子院団地に建つ各子院をすべて回る予定はない。林光院は門前に立派な灯籠があったからつい入っちゃったけど、でも入ってよかったなあ・・・しかし、この先は確かお寺の入口らしきものはなかったんだよな。裏の通りの方に入口があるのかもしれない。で、林光院から少し歩いていった先が上の写真な訳ですが・・・ うぬ、灯籠だよな。どう見ても。一部欠損はしてるけど、笠の部分の紋は葵。「上野第一編」で山と積まれた灯籠の台座部分だけを沢山見てるので、ここのは台座から外されてることがわかる。林光院の内外の灯籠もそうだったけどね。で、覗きこんでみると、胴の部分は 【奉献 大●●殿 慶安五年●辰】で下の部分には 【尊前 四月二十日 従五位下本多下●●●●●●】とあって、どうやら上と下でつながっているらしい。年代から読みづらい部分の推測も交えると、 【奉献 大猷院殿 尊前 慶安五年四月二十日 従五位下本多下●守藤原●●】てな感じかな。名前の部分が特に磨耗がひどくてほとんど読めないんだけど、これは本多俊次のだろうとアタリを付けました。わたくしは。ので、最後の行は「従五位下本多下総守藤原俊次」になると思われます。え~、俊次さんは、「大津編」でちょっと名前を出してます。膳所藩主であり、今井兼平の大ファンだったというエピソードなんか紹介してますね。( 「膳所城(2)」 「(4)」あたりをご覧ください)なんか、歴史に興味のない人がこの光景を見たら、狭い空き地に打ち捨てられた古ぼけた灯籠が1基だけで哀れを誘われるかもしれないな。え?ワシ?ワシは違いますよ。そりゃ最初は、こんな光景が広がってるなんて想像もしなかったし知らなかったから、なんじゃあ、こりゃあ~!!ってちょっとびっくりはしたけどね。それより、これは家光の霊廟へ奉納された灯籠に間違いないと思うんだけど、「慶安5年(1652)4月20日」だなんて、第三の日付が出てきたぞ。まあ、でもこれはいいさ。4月20日なら、家光の一周忌にあわせて奉納された灯籠ってことだからな。ここは明快・・・ではあるけれど、それぞれの大名が推定霊廟完成時(慶安4年12月20日)、1周忌(慶安5年4月20日)、それから完成から1周年(慶安5年12月20日)の3回、家光の上野霊廟へ灯籠を奉納したってことはないよなあるいは、諸大名が全員灯籠を奉納したらすごい数になるから、幕府の方から何回かに分けた灯籠奉納スケジュールでも出されてたか?(笑)本多俊次の灯籠の先には掲示板があって、中に寛永寺のポスターが貼ってありました↓。 何のポスターかって、霊園のご紹介です↓。 やあ、何でこんなのにまで立ち止まったかってーと、我が家ではお墓ショッピングを検討してましてね。霊園の広告が入るとチェックをしてるんだけど、ある時寛永寺霊園の広告が入っていたのだ。うっそ!寛永寺に墓が持てるの!?ここ、ここ!マミィ、ワシここがいい~!!・・・て歴史ファンなら当然なった訳ですが(ならない?)まあやっぱ、行きやすくて家から近い場所がいいという親の希望があるので、泣く泣く引っ込めたという訳で・・・(笑)。それに、柏周辺の霊園よりかちょっとお値段お高めだったんだよね。私が見た広告のは、安いので120万ぐらいだったかな~。んで、まだ新規募集をやってるのか・・・と思ってつい立ち止まって見てしまったんですが、ここのは永代使用料&墓石工事の総額で276まんえん・・・値段、上がっとるな。霊廟の近くとか、立地のいい区画なのかな。(普通の人は、霊廟に付加価値を見出しません。たぶん。)あ~あ、寛永寺に墓欲しかったな~・・・とちょっと切ない思いを抱えながら先へ進むと、今度はこれ↓。 おお、さっきより荒れた感じが迫力あるぞ(笑)。 笠と胴の各パーツが完全に分解して、灯籠バラバラ事件になっとる笠や胴の下部についてるのは葵の紋だから、これも寛永寺の霊廟へ捧げられた灯籠だな。残念ながら銘は見えませんでしたが、胴のつなぎ目部分と思われるところはこんなんなってた↓。 へえ・・・なるほど、このでべそで下の部材と噛み合わせるのか。なかなか灯籠のパーツなんて見ることはできないから、これはこれで面白い。しっかし、重い胴をこのでべそだけで支える訳じゃないよな。胴の上にはこれまた重くて大きな笠が載るし、でべそだけじゃあまりに頼りない・・・かといって、接着剤なんか使わないだろうし。あっ、でべそはともかく、立ってる方の灯籠はこちらどす↓。 これの銘も、磨耗がひどい。推測を交えて読んでみると、 【奉献 大猷院殿 尊前 石燈籠】・・・後はもうダメ。読めない。てことで、残念ながら両方ともどなたの灯籠かわからなかったのですが、とりあえず立ってる方は家光に奉納された灯籠に間違いはない。で、林光院先のとあわせてこんなとこにひっそり立ってる2本の灯籠ですが、この場所は「上野第二編(2)」で書いたように、家光の上野霊廟の跡地。そういう場所の道路沿いにこうして古い灯籠が並んで立ってる光景は、かつての家光の霊廟に立ってた灯籠群を思い起こさせるので、見ようによってはなかなかの萌えスポット(笑)。だからと言って、この2本の灯籠には当初あったはずの台座が付いてないので、350年以上も変わらずずっとこの場所にあった訳ではないと思うけど。でも、こんな感じで諸大名から奉納された灯籠がこの辺に立ち並んでたんだな~と思うと、妄想大好き人間としてはたまらなく楽しいですね(←霊廟で楽しむな)。と同時に、沢山あったはずの大猷院殿への灯籠たちは一体どこへ行ってしまったんだろうとも思う。壊れてしまったものもあるだろうけど、中には織部さんちの近くにある灯籠のように(「上野第二編(2)」参照)、各地へ持ち去られたり、譲られたりしたものもあるのかもしれない。さて、子院団地をぐるりと回り込んで、もうひとつ寄りたい子院があるんだけど・・・(現在地はこちら)↓。 この通りを入ればいいんだよな、と思ったら、通りの入口にはこんな看板があった↓。 え~~~っ、ナニコレ!!用はあるんだけど、なんかこれじゃ入りにくい・・・私が行きたかったのは、写真の左手に写ってる「現龍院」。この現龍院は、稲葉正成(春日局の夫)が建てたといわれる子院で、ここの墓地には家光に殉死した佐倉藩主・堀田正盛と岩槻藩主・阿部重次およびその家臣の墓があるんだそうな。たぶん一般公開はしてないと思うんだけど、『東京都の歴史散歩』には「案内を乞うと墓参が許される」とあったので、せっかく近くまで来たんだし、墓参りをして行こうかな~と思ってた・・・んだけどね。ちょっとこう書かれちゃうと、入りにくいな~・・・てことで、今回は諦めました。現在でもお願いすればお墓参りさせてもらえるのかはわかりませんが、こういう通りの中にある子院だし、ここは事前に問い合わせをしていった方が良さそうですね。ちなみに、阿部重次さんは阿部氏宗家2代。重次さんのずーっと子孫が、「福山編」でやたら出した正弘さんになります。家康・天海大好きの家光は生前、結構マメに日光社参にお出かけしてるんだけど、途中の岩槻(埼玉県)では重次がお迎えしたそうな。重次さんのいとこの忠秋さん、この方も老中として家光に忠勤を励んだ方で、あの知恵伊豆(松平信綱)をも上回る機転のきく人だったらしい。忠秋さんは重次さんのように殉死こそしなかったものの、死後も家光公を守ろうねと家光の側近・梶定良と語らい、日光大猷院の家光の墓の前に葬られたそうな。家光の大猷院廟は非公開なので私は見ていませんが、廟の前には阿部忠秋の墓、後ろには梶定良の墓があるらしい。家光も忠義者の家臣を持ってシアワセじゃの~。にほんブログ村
2013年12月02日

いやあ、場所柄当然の流れとはいえ、今回やけに霊廟に食いつくな~と思っていたら、そういえば私の肩書、「墓マイラー」だったわ(肩書か?)最近、あんまり墓へ行ってないから忘れてたわ~。アハハハ・・・・・っと、それで前回の林光院の歴史の続きです。良い檀那を得て「お腹様別当」にも昇格し、宝永6年(1709)には輪王寺宮のお口添えもあって、6年ぶりの大改修が行われる。これも、別当になったからこそじゃないかと思うけどね。正徳2年(1712)には幕府から100石が加増され、収入は550石にまでアップした。江戸期にはこうして順調に栄えていった林光院だったが、慶応4年(1868)の上野戦争で寛永寺の堂宇の多くが焼失、さらに上野から追い出されて子院を含む寛永寺は困難の時代を迎える。本体は比較的早い時期に上野の山に復活を遂げたけど、「天台宗東京教区」様のサイトの説明で次に林光院が顔を出すのが明治35年(1902)。それまで、どこでどうしてたんだろう・・・桜木町48番地から大正4年(1915)には町内の9番地へ移転。東京大空襲(昭和20年)で建物が焼失した後は一時凌雲院へ身を寄せていたが、昭和25年に現在地へ木造の院宇を再建。平成元年、木造から現在のRC構造の近代的な建物へ生まれ変わった、とな。大変だなあ~。明治後の林光院の住職さんは、のちに日光輪王寺の門跡になられた方だそうですよ。さて、それでは境内へと入りましょう。まずは門から↓。 こちら、徳島藩蜂須賀家(25万7千石)の江戸藩邸の中屋敷御庭仕切門で昭和30年に移築されたものだそうな。蜂須賀家の中屋敷は三田(港区)にあったらしいんだけど、慶応のそばだっていうから、つまりは増上寺からも近いじゃん・・・増上寺は東京大空襲でも被害を受けてるのに、よくこの門が残ったよな~。それとも、昭和20年の時にはすでにどこぞに転売されて、幸いにも東京大空襲を逃れたかな?巣鴨だって空襲を受けてるのに、藤堂家の門といわれるものが残ってるし、江戸の大名屋敷の建築物って実際のところ、どれくらい残ってるんだろう?そういえば、池袋の方にも何かあるって聞いたことがあったような・・・門の中の意匠はなかなかダイナミック・・・阿波だから、泡立つ鳴門でも表現してるのかと思ったけど、なんかそれじゃ阿波って鳴門と阿波踊りしかないみたいで阿波人に悪いかな・・・とちょっと反省した(笑)。 正面から見てるとちょっとわかりにくいけど、平入りの唐門。兎毛通(うのけどおし)は牡丹。飾り金具は、銅製かな?金具の真ん中には「卍」・・・こちらは蜂須賀家の御紋↓。 それほどどっしりした重厚感はないけど、なかなか華やかで格のある造りになっている。門をくぐった近くには、こんなものがさりげなく置かれていた↓。 ふむ・・・これが蜂須賀家の門に付いてたハズもなし、かつての林光院の建物に載っていた瓦なのかな。ただ、そんなに古そうにも見えないし、上野を追い出された時にこんな重いものかかえて退去するとも考えにくいし明治の再興以後の建物の瓦なのかもしれないな。えっとそれで、門を入るとすぐ建物↓。 地図を見ると、お隣の寒松院と敷地の広さは同じくらいかもしれない。でもちょっと広めの住宅地といったスペースにお堂を建てるとなると、もうそれだけでパツパツ けど、この近代的な建物は檀信徒の尊い浄財が支えになったっていうんだからなあ・・・ところで、昔は寛永寺本体も栄えてたからいいけど、今みたいな環境の中では子院の収入源てなんだろ・・・本体は霊園経営もしてるけど、子院の収入は・・・?アラ、わたくしったらつい俗っぽい想像を 門の正面はご覧の通りパッツンパッツンだけど、左手には少し空きスペースがあって古そうな灯籠もある↓。 これが、木はあるし玉石が敷かれていてぐるりと回り込めなかったんだけど、「台徳院殿 尊前」は読める・・・はああ!?台徳院!!??「台徳院殿」は、2代将軍・秀忠のことですよ・・・ちょっと年号は磨耗してて、よく読めない。名前の部分は木に隠れちゃってて、一部しか読めない。その名前は、「源朝臣通●」なんだけどね、「通春」のようにも読めるんだよな~。まさか、吉宗のライバル・尾張通春(のち宗春と改名)ってことないよな。あ~、年が読めないのが痛い・・・しかし、とりあえず秀忠に奉納された灯籠ってことは間違いないぞ。秀忠が芝の増上寺へ葬られたことは、「上野第一編(4)」で書きましたね。先の大戦で増上寺も寛永寺も被害を受けて、場合によっては戦後の混乱の中でどこぞへ持ち去られたものなんかもあるかもしれないけど、さすがに増上寺のものが寛永寺に運ばれたとは考えにくい・・・てか、現代では寛永寺と増上寺の関係ってどうなんだろ?もう昔の因縁には縛られてないのかな?ああ、またまた俗っぽい想像が・・・(笑)。ひとつ思い出したのが、紅葉山(江戸城西の丸東北)の霊廟のこと。紅葉山には、歴代将軍の霊廟があったらしいんだよね。それを家光が城内に移した後に、また紅葉山に戻したって話があるんだけど、おそらく規模は本廟ほどではないにしても、紅葉山霊廟にもいくつかの灯籠が置かれてた可能性はある。明治期だか昭和だかの戦後のどさくさに紛れて元の場所から移動されたか、あるいは明治維新で江戸城の主が変わった際にお下げ渡しになったとか?まあ、その経緯は林光院様に聞かないとわかりませぬが、秀忠への灯籠が寛永寺にあるということが、かなり相当非常にびっくりです。都内の徳川家ゆかりの寺社などでは、灯籠はものすごく面白いアイテムかもしれませんね。現代では。で、この灯籠の上の部分、ここもまた変わっている↓。 笠の上に3段の「だるま落とし」が積まれたような格好になってますが、一番下の部分、これ十字だよな~。なんなんだ、これ・・・奉納した大名の家紋かとも思ったけど、クルスのように十字になってる紋を使うのは、島津しか私は知らない。だいたい、島津なら外側にマルが付くし。ただ、将軍霊廟への奉献の灯籠の上部に自分とこの家紋なんか付けるハズないよな~とも思う。・・・灯籠観察が楽しいといっても、結局ほとんどの疑問を解消できないので、これは「想像すること自体が楽しい」と割り切るしかありませんね。でなければ、疑問が溜まる一方で1人もんもんとストレスを抱えるか、現地でよ~く現物を観察して、いさぎよくピンポンして直接関係者様に突撃インタビューするよりほかないでしょう。にほんブログ村
2013年12月01日
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