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高山城<広島県三原市高坂町真良>(住所をクリックするとMapfan webにリンクします)※「東西条バトル編(25)」の続きです。今回の旅で最後の山城となるのは、小早川氏歴代の居城・高山城。前日の夜には資料を読み返したり地図を確認したりしてだいたいの予習をしておくんだけど、その作業をしてるうち、かなり不安になってきた。隆景ちゃんの新高山城に比べればちょっと人気は落ちるものの、わりと登って訪城記を公開してる人はいる。が、結構「自分がどこを通ってきたのかわからない」とかって人が多いのだ。そもそも、高山城の縄張図を私は持ってない。てか、恐らく縄張図を持たずに登ってる人が多いんだと思う。だから自分がどこにいるのかわからないのだ。新高山城なら、ネットでも本でも簡単に縄張図をゲットできるのに、高山城となると記事はあっても縄張図が添付されてない。せいぜいが、搦手の方にある簡単な看板の図程度。登ってしまえば、郭の名称を示す標識とかも建てられてるし結構綺麗に整備されてるらしいってのはわかってるんだけど、ちゃんとした縄張図がなくて本当に大丈夫なんだろうかと直前になって急に弱気になった。ただでさえ、高山城の戦歴なんて1度や2度じゃないんだし・・・そう、新高山城が実戦経験を持たないのに対し、高山城はバリバリの古戦場でもあるんです。なんたって、歴史が長いからね。ただ、幸いなことに高山城の訪城記には丁寧に写真付きで紹介をしてくれてる人が数人おられたので、それは資料として持ってきていた。こーゆー時、詳細な紹介文というのはホントに助かる。高山城に限らず、訪城記のほとんどは写真を数枚貼って簡単に紹介してる程度のものだけど、私は詳しく紹介してくれてる先人のサイトにいつもお世話になっているので、自分の記事も誰かの参考になることがあれば・・・と思ってできるだけのことを書いている。まあ、単に考え方と好みの違いの問題だけどね。ただ、どの城もそれなりの歴史や背景を抱えてるんだから、来歴もろくに紹介せずに写真数枚で終わらせるなんて城主に失礼だろうとも思う。そうは言っても、あまりだらだら書くのもどうなの~と自分でも思ってはいるけど、書きたいことが沢山ある時はしょうがない(笑)。て事で、今回も小早川氏の本城ですし、歴史と遺構の紹介を合わせると(また)結構な分量になるんじゃないかと思いますので、よろしくねえ~、また前置きが長くなっちゃいましたが(笑)、急にものすごい不安にとらわれて、なんだかすごく行きたくなくなっちゃったものの、登れるだけの準備はしてきてるし、それに何より新高山城でのミッションがまだ終わってない。新高山城で見つけられなかったのなら、高山城に登って比較することで何か見えてくることがあるかもしれないと思ってたからな。仮に高山城をすっぱり諦めて寺社めぐりとかに切り替えるとしても、今回は寺社はあくまで山城を終えて余った時間で回ろうって程度の、いわばおまけのような扱いだったので、丸1日寺社を回れるような資料を揃えてきていない。仕方ない、何だか行きたくないけど、やはり行かねばなるまい・・・あまりわからないような道だったりしたら、無理はせず引き返してこよう。そう決めて4日目をスタートさせました。まずは本郷駅からタクシーに乗る。登山口までは歩いて30分くらいらしいんだけど、疲れていたし理想のスタート時間より少し遅れたこともあって体力と時間の節約のためにまたタクシーを使ってしまった、朝から軟弱なワタシ・・・行き先を告げて高山城に登ることを少し話したら、またタクシーのおじちゃんに心配された。登山経験がそれなりにあるから、私自身は山そのものには不安はないんだけどね。ただ、はたから見れば女(に見える)1人だからね・・・ご心配、ごもっともですありがとうございます。で、降ろしてもらったのが下二(しもに)のバス停。(場所はこちら) この道をずっとず~っと奥まで行けば、佛通寺に着く。隆景ちゃんも、参詣やら現場監督やらに佛通寺に行く時に、この道を通っていったのかもしれないな・・・いやいや、それはともかく(笑)。通り沿いには、登山口を示す案内は何もない。とりあえず左手の奥へ進めばいいことだけはわかっていたので、写真の矢印の階段を上がってみた。階段を上がると、綺麗な形の山が目に入る↓。 これは古高山の東にある山。なんて山かは知らないけど、綺麗なので「沼田(ぬた)富士」と勝手に命名した。沼田富士を背にすると、こんな道↓。 ここにも案内はない。どうやら登山口までは自力で行くしかなさそうだな・・・。私が今回登りに選んだのは、搦手の道。今日も『広島近郊の山城と史跡ベスト33』をベースとしていて、その本では古高山の南麓にある大手道は荒れてるので搦手からの道を紹介してたのだ。が、先人の訪城記を読むと結構皆様大手から登ってる。て事は、道はある程度大丈夫そうだけど、住宅地の奥ではっきりした登り口がわからなかったので、『広島近郊の山城と史跡ベスト33』のコースガイドに従うことにした。ま、こちらも結局は住宅地の奥まで案内なしに進むしかないんだけどね。ただ、何を目指せばいいのか、大手よりはちゃんとした情報がある。でここも、左へ、上へ・・・の原則に従って左の道へ。途中には、立派な石垣を備えた家があった↓。この辺にも大きなおうちが多い。 その先の道↓。 うん、だいぶ山が近くなってきたな途中にはいくつか分かれ道もあったけど、ここまで来ればどの辺を目指せばいいのかわかってくる。左へ、上へ・・・でアタリを付けながら集落の一番上と思われる道まで来たら、道の奥に目指してたものが見えた↓。ああ、よかったあ~ 奥まで行く途中には、墓地があります↓。「高山墓園」だって・・・いい名前だなあ~(←バカ)。 道の奥にあって、私が目指してたのはコレ↓。高山城の案内板です。(場所はこちら) ピンクの矢印の方が登山口かな。登る前に、ちょっと準備をしよう・・・看板の場所から振り返ると、小さな建物がある↓。座れそうだし、ちょっとあそこをお借りしよう。 ここには井戸もある↑。が、とにかく寒くて水なんか触りたくもない暑い時期なら気持ちいいんでしょうけど・・・建物はこんなだった↓。 ・・・要するに、お墓参りの方のための施設なワケね。ちょっと申し訳ないけど、誰に言うともなくお断りしてからここで身支度を済ませた。京都のセキュリティセンターにも出発の報告を入れてから、いざ小早川の城へにほんブログ村
2013年04月30日

さっき上がってきたところへ戻って、今度は水色の矢印の方へ進む。 白山城の解説板には、『正面の大手筋は、南西に伸びる尾根筋上の郭群から西側の光政寺にかけてと考えられ』とあったので、これが大体の大手筋にあたるのかもしれないな・・・ってちょっと思った。白山城は白市の町の基となった城でもあるし、場所的にも比高の面でも、見やすいように整備してもらえたらそれなりに人は来るんじゃないかと思うんだけどね。でも、こんなびっしりの竹林を見ちゃうとね・・・一口に山の手入れといっても相当な労力が必要とされるし、気軽に「整備してほしい」なんて言えないよなただ、木の根で遺構が破壊されたりしないかなって心配な面もあるにはあるけど。竹林を回り込むと 案外山道。それより薄暗いし、なんかヤダ、ここ・・・このすぐ先に石垣があって、その上に墓場がある↓。 墓は一般の方のもので、私はこちらを見に来たんだけどね↓。 【地蔵菩薩は亡者を救済することを目的に、六体の地蔵をつくったものである。 高さ約90mの立像5体と高さ約60cmの坐像1体からなり、坐像の台座には 享保19年(1734)の年号が刻まれている。】 (現地貼り紙より)ちょっと、台座の銘を確認するどころじゃありませんでした。ああ、早くここ脱出したい・・・六地蔵の奥にあるのが、うぐいす塚への道。が、やっぱり長居したくなかったのでそそくさと降りてきました。もともと白山城に登るのは期待してなかったし、もう16:00だしこの薄暗さだし、それになによりなんかここヤダ~!!って感じだったので。別に霊感がある訳じゃないんだけどね、でもなんかイヤだなって場所はやっぱりあるんだよね。ワタワタとうぐいす塚から降りてくると、こんなのが目に入った↓。 ナニコレ・・・いつ造られたものなんだろう。「弘保のおふろ・・・」とかニヤニヤしながら、でも急いで山を降りた。これで白市で予定してたところは全部見た。面白かったな~、この町!!ただ、公衆トイレを何とかしてほしいかな。ここからは、白市の駅まで歩く。 あの辺の山のどれかに、木原城があったんだな。たぶん、上の写真の方じゃないかと思うけど。はい、旧木原家住宅以降何度か出てきた、あの木原さんです。平賀弘保が築いた白山城は、交通の便などは良かったが後から築く頭崎城と比べれば防御の点で劣った。そのため、弘保は東に滝山城、その手前の尾根伝いの東には新開城、そして東南には木原城の支城を築いて防備を固めたという。だから、この辺り一帯は、まさに弘保が造り上げた町と言っていいだろう。予定を組んでる段階では、木原城の方を通ろうかとも思ったんだけどね。でも、情報が少なかったのでやめた。木原城の城主は、弘保の弟で木原家の祖となった保成。で、保成の子の信友が弘保と不和であったため木原城より西に引っ越して木原城は廃城になったという・・・また不和バナシかよ~!!弘保と興貞、興貞と隆宗、弘保と甥の信友・・・不和の話がホントかどうかはわからないけど、ごく近しい親族間でこんなにいくつも不和のウワサが残ってるなんて、平賀一族って皆様結構アクの強い性格だったりして・・・(笑)。そんなことを思いながら歩き続けたけど、私はとにかく行動中に集中してエネルギーを使い果たすので、終わるとどっと疲れが出る。白市の町から駅まではたかだか1キロぐらいなんだけど、腰も痛いし疲れていたのでやけに長く感じた。 あれ、このうさぴょん、どっかで・・・ああ、巣鴨にいたのと同じやつだ~!!このうさぴょんは全国区なのか(笑)。駅の近くの消火栓↓。 この絵柄は、よくあるやつだっけ・・・白市から西条までは、電車で2駅。その2駅間、眠るのを我慢するのが大変だった。寒かったし疲れたし、暖かい電車の揺れが強烈な睡魔を連れてきて・・・ホテルの窓から見た、西条の夕焼け↓。正面が鏡山方面です。 日の短い時期なのに、今日は珍しく明るいうちに戻れた。やっぱ大内領はいいなあ~。なんだか安心する。私、西条好きだわ。さて、大内領に戻ってきたので、ちょいとまた大内氏関連の話を・・・(笑)。東西条と大内氏のなれそめについては、「鏡山城(1)」以降にざっと書いたけど、今川了俊が九州探題および安芸守護として九州へ下向する際、京から赤間ヶ関までは陸路を取った。その時の行程を、了俊自らが「道ゆきぶり」と題して紀行文を残している。これには何年、とは書いてないものの、九州探題に任命された翌年の応安4年(1371)のものと見られている。で、この付近では沼田(ぬた)から入野(にゅうの)へ入って竹林寺(場所はこちら)を見た後、「高谷」に泊まっている。「たかや」なら平賀領・高屋保の高屋だよな・・・けど、白市の町は白山城の築城(1503)頃の成立と見られているから、小さな里くらいはあったかもしれないけど、まだ町として発展はしてない時期だから、白市の先ぐらいまで進んでそこの「高谷」で泊まったのかもしれない。その先は山を越えて瀬野まで出たとあるので、今の西条駅、もしくはその西のあたりから南西に向けて突っ切っていったものと思われる。この時期、ひろよん(大内弘世)はすでに安芸に進出していたと思われるものの、東西条を領するという段階にまでは至っていないかもしれない。だから西条には泊まってないのかもな。まあ、少なくとも沼田(現在の本郷駅付近)から西条あたりまでは、現在の山陽本線とほぼ同じルートを辿ってきたみたい。応安は足利義満の時代だから、古すぎるせいかあまり史跡めぐりの記事では了俊がこの辺を通っていったことは話題にはならないんだけど、西条から本郷あたりを電車で通過する際には、ちょっと思い出して頂けると嬉しいな大内氏歴代はひろよん以降ほとんどの当主が上洛してるけど、どこを通って京へ向かったのかは私は知らない。まあ、了俊と似たようなルートを通っていったんじゃないかと思うけどね。盛見もそのついでに佛通寺へ寄ったのかもしれないし。頭崎城を発端とする安芸での大バトルのあとで義隆が西条へ来たことがあるのだけはわかってる。この時の一連の動きがとても面白いので、合間を見て別立てで記事を書きたいんだけど、ちょっと詳しい史料が手に入らないもので・・・帰ったぞメールを家に入れて、高校生に見られたことを報告したら「気分いいでしょ。でも知らない人と話をしてはだめよ」と返事が返ってきた。旅先なんだから、会う人会う人みんな知らない人です・・・この日は24,779歩。明日も頑張らなくちゃ・・・4日目<2013/1/3(木)晴れときどき雪> 連日山城だったし、4日目ともなると朝から疲労の色が濃い。ので、いつもより高級なドーピングで心と体を奮い立たせる(笑)。今日も昨日と同じく、電車を1本遅らせた。それでも、家からは「こんなに早く出かけるの?まだそっちは薄暗いんじゃないの?」とメールが入ってきた。ああ、そうか・・・7:00過ぎなんてね、普通の観光で出かける時間じゃないよな。怪しまれちゃうかな・・・電車に揺られて約30分。降りたのは本郷駅。ふふふ、再び小早川領に出勤で~す駅のホームからは、赤い瓦の結構立派な寺が見える↓。 ああ、いい感じだな・・・戻ってきたら、あそこにも寄りたいな~。今日もまずタクシーを使う。おととい、新高山城へ行く時は南側の出口へ出た。が、今日は南口からだとちょっと遠回りになるので、北口にタクシーいないかな・・・とセコい計算をして北口へ出てみた。 正面に古高山(左側の山)が見えるだけで、何もない・・・いや、小さなお堂があったけど↓。 ずいぶん古そうな石仏だな・・・しょうがないので、南口からタクシーに乗った。もちろん、駅でトイレにも行きましたよ。今日も当分トイレには行かれそうにないのでね。ああ、又四郎様、今日は昨日ほどトイレに苦労しなくて済みますように・・・にほんブログ村
2013年04月29日

※「白山城」の続きです。文字数の関係で順番が前後して恐縮ですが、こちらが旧木原家住宅のすぐ近くにある重満家↓。 重満家は酒造業を営んでおり、これは江戸末期から明治初期の建物だそうな。この後で光政寺を目指して脇道を入った訳ですが、白山城の看板があった先の道を北に入ると、長栄座という芝居小屋の跡がある。トイレを我慢してたし(笑)、何しろ先を急いでいたのでその場所の写真はありませんが昔ながらの道らしく、細い道だった。牛馬市のにぎわいについては「東西条バトル編(20)」に書きましたが、広島藩で歌舞伎の興行が許されたのは宮島と三次、そして白市の3ヶ所だけだったという。牛馬市の期間中には上方から歌舞伎役者が招かれ、近隣から見物客が押し寄せたというから、江戸時代には大変な繁栄ぶりだったらしい。そのためか、白市には古くから「白市歌舞伎」という芝居の文化があり、現在では有志によって白市歌舞伎が再演されているそうな。で、結局、光政寺への道は見つからず、次に立ち寄ったのが西福寺(場所はこちら) こんなとこにこんな立派な石垣があるなんて、びっくりですわ~。こちらが山門↓。写真がどうもイマイチだけど、石州瓦の桟瓦葺、薬医門。 が、門の脇の土塀には、また・・・ なんだか、得意そうに白市の町を眺めてるように見える(笑)。動かない石州バトを見て、「白山城から白市の町を見下ろす弘保も、こんな背中だったのかな~」とかって想像するバカはやっぱり私くらいなんだろうな山門をくぐろうとして、門に貼ってある小さな札に目が釘付けになった↓。 なんすか~、コレぇ~!!いや、これを貼るに至った経緯はまず笑えるものじゃないはずだけど、ちょっとお寺にこれって・・・いや、びっくりしたこちらが、西福寺の境内↓。 東広島市の「白市まちなみ探訪マップ」によると、 【安芸国賀茂郡溝口村にあった大福寺(1100年代創建)を、天正12年(1585) 時の住僧・西蓮法師が現在地に移転させた。その名の一字を冠して西福寺と称した。】とある。創建自体はかなり古い寺ってことだな。後ろに見えてるのは、白山城のある城山。本堂正面には龍と波、かな?↓ 彫りの感じからすると、割に新しいもののように見える。本堂はちょっとさみしげだけど、こちらの境内には厳島の神が祀られていた↓。 思ってたよりあっさり終わっちゃったけど、まだ見るべきところがあるしな。それより、トイレ行きたい・・・この後、御土居へ寄ってから再び光政寺への道を探した。よくわからないまま一旦は町を出そうになったので、もうこのまま帰っちゃおうかとも思った。駅に向かう途中にはコンビニがあるはずだから、トイレも行かれるしな~。腰も痛いし・・・探して探してどうにか見つけた道は、もはや公道だかわからないような道だった。そこを進んでいくと、おもむろに山道に入る。竹の生い茂った山道は薄暗いし、ホントにこの道で大丈夫かな~と不安になりながら進んだら、ようやくそれっぽい道まで出た。 手前の道から上がってきて、ピンクの矢印の方に進んだ先が光政寺↓。 本堂の蟇股↓。 この光政寺(こうしょうじ)、平賀弘保が永正2年(1505)に建立したといわれております。だから、白山城には登らなくてもぜひともここには来たかった。本堂には、『ひがしひろしま「歴史散歩」』から抜粋したという簡単な寺の紹介の紙が貼ってあったんだけど、その紙の一番下にこんなことが書いてあった。 【光政寺音頭 ここは白市城下町 その名も高き光政寺 踊ろう皆さん ヨウホイ 器量よし アリャリャンリャンのヨウイトナ~ ヨウイトナ~】・・・・・・・備中高松の「水攻め音頭」といい、日本人ってホントこーゆーの好きだよな~歌詞を見てると、ずいぶん陽気な歌のようだけど・・・最近になって作られたものなのかな。境内には、すごく立派な宝篋印塔がある↓。 享保19年(1734)、木原家の寄進によるもの。なるほど、あちこちに寄進したといううちのひとつがコレなんだな。ほとんど無人じゃないかというような寂しい境内にあって、ひときわ目をひく立派な塔だった。ふう、あとは墓を見て・・・と思って境内を見回したら、入口の方に小さな石造りの建物があるのが目に入った。あ、あ、あれってもしかして・・・!!古いタイプの簡素な作りで、後から人が来たら静かな境内で音が丸聞こえ・・・とか思ったけど、この際そんなこと言っていられない。ので、ありがたく使わせていただきました。白市の駅を出てからかれこれ8時間。結局、福山の時と同じくらい我慢しちゃったな~。とりあえず、弘保に救われた・・・(笑)。我慢から解放されてようやく人心地ついたとこで、本堂の右手へ↓。 こちらは、木原家の墓だそうです。墓石の形からして、江戸期に入って商人となってからのものみたいだな。いくら豪商だからって、ただの町人だったらさすがにここには墓地は作れなかっただろうな。平賀の本家はこの地を去ったけど、代わって分家の木原家が代々白市の町の発展に尽くしてきたって証だな~と墓地を見て思った。今回は平賀家の墓所には行かれなかったけど、次の機会にはぜひ行きたいな~。隆宗の墓参りがしたいんじゃ、ワシ↓ランキング参加ちうにつき、「ぽちり」とお願いしますにほんブログ村
2013年04月28日

白山城<広島県東広島市高屋町白市>(住所をクリックするとmapfan webにリンクします)※「東西条バトル編(23)」の続きです。最初にお断りしておきますが、今回は白山城には登っていません。ので、簡単な紹介のみになります。 旧木原家住宅の先は、長い下り坂。事前の調べでは白山城に登った人は少ないし、その方達も整備されてなくてヤブが多くて大変だったと口をそろえて言っておられた。私はもう頭崎城で充分堪能したし、無理してまで登る気はなかったので、訪城の準備だけは簡単にしておいたものの、白山城は予定には入れていなかった。が、城山の山麓には見たいところがいくつかあったので、ここから白山城のある城山を目指す。 地図によると、この先の道を曲がっていった先に山麓へ行かれる道があるようだったので、左へ入る↓。 当たり前の話だけど、土宮神社から見た時より城山が近い。城山の標高は314m、比高は70mとか130mとかものによってまちまち。たぶん、130mもないと思うんだけど・・・上のmapfanにリンクしてもらえばわかると思うけど、城山は低丘陵の東の出っ張った端に築かれている。写真ではわかりにくいけど、奥にはずっと丘陵が続いてるって訳だな。丘陵の続く北東から南以外の方面・・・北・西・南西は見通しがいいので、丘城程度の小山でも、下から見ると結構存在感がある。白山城はよく「領地のほぼ中央に位置し、四方を眺望できる」と書かれるんだけど、地形図を見てると東および南東は丘陵地帯だからそれは違うんじゃないの?って思う。ただ、自分で白山城に登った訳じゃないから実際のところはわからないけど。この道を入ったすぐ先に、白山城の案内板があった。 【白山城は、平賀弘保が戦国時代の文亀3(1503)年に築いた城で、 それまで本城としていた御薗宇城より本拠を移しました。この地は、交通の便が良い 白市の町を眼下に見下ろせるほか、四方を眺望でき、自然の地形を利用して 防御に適した城です。 最高所の郭は、大きく3段に分かれており、その周囲に帯郭がめぐっています。 この郭群から南西に伸びる尾根筋上や南に伸びる尾根筋には大小の郭群が 広がっています。 正面の大手筋は、南西に伸びる尾根筋上の郭群から西側の光政寺にかけてと考えられ、 途中にも小規模な郭が配置されています。】 (現地解説板より)へえ、こんなとこにちゃんとした解説があるなんて・・・しかも、立派な縄張図まで。私がまず目指してたのは、解説の中にある光政寺。ここに案内板があるってことは、やっぱこの先の道でいい訳だな。と思って歩き出したものの、この先の道はチョ~細くて、ものすごくわかりにくい。結局、ウロウロ歩き回ったものの道がわからず、もう1本の道からチャレンジすることにした。途中にあるのが、西福寺。 寺の内部についてはこの後の旅日記の方で紹介しますが、この造りね・・・西福寺は天正12年(1585)に現在地に移転してきたらしいんだけど、白山城の北東にちょこんと出た立地でこの造りとくれば、「これは出丸か?」って思うのが自然でしょ?天正12年なら砦を寺としてカモフラージュする必要は全くないけど、あるいはその頃には本城を頭崎城に移してたのかもしれないし。この地形なら、寺が移転してくる前にはなんらかの防御施設があったとしてもおかしくないよな~と思った。どこにもそんな事、書いてないけどね。この付近には、武者畠・夢屋敷・鉄砲屋・京阿弥・右京殿という地名が残っているんだそうな。で、この立派な石垣に見とれながらその先の道を右に曲がる↓。 この先も、大体の場所しかわからないんだけど、大丈夫かな~次に目指すのは、「御土居」。不安になりながらも、用意しておいた地図とにらめっこしながら進んでいくと、この辺じゃないかと目される場所はこんなだった↓。 う~ん・・・でも、何の案内板も道に出てないしな・・・しばらく道なりにず~っと進んでみたけど、どうにも違う感じなので途中で引き返してきた。またこの写真の場所まで戻ってきて、やっぱりここなんじゃないかと思ったけど、上がれそうな道はどうも人様の家の敷地のように見える。ので、仕方なくそのまま戻ってきたけど、帰ってから調べ直してみたらやっぱりここでアタリだったらしい。「御土居」といえば、京の秀吉の大規模なものなんかが有名だけど、ここ白市の御土居には、平賀氏の居館が築かれていたという。御土居を町の中心とし、白山城を守りの要としたんだそうな。古い時代には、市場と武士団の本拠地は離れた場所にあった。そもそも市場ってのは交通に便利な場所に開かれたものだし、一方で国人衆の城は防御の点から山間部の峻嶮な地形を生かした場所に築かれたものだという地理的に相入れない問題もあったのでね。しかし、経済の重要性についてはもちろん認識されていたので、領主は市場に代官などを派遣してその経営にあたらせていた。その他に、市場を城下に近づけなかったのは風紀上の問題などもあったらしい。小早川宣平も、「市に住むんじゃねえ!!」って通達を出してるしね(笑)。が、時代が下るとより経済の重要性が高まり、白市のように城下がそのまんま市場になるという現象が起こるようになる。安芸では他に、毛利氏や吉川氏でも同じように城下へ市場が引き寄せられている。平賀氏の場合は、周囲の環境が厳しくなってきたことを受けて弘保がさらに白山城の北へ頭崎城を築くという変遷をたどる。今は御土居の辺りは静かな住宅地。旧木原家住宅や西福寺のある観光のメインストリートからは外れた場所にあるので、何も知らなければここが白市の中心だったなんてことは想像もつかない。宅地造成される前には、この辺りで発掘調査があったらしい。その頃に現場を訪れた方の記事を見たんだけど、今はもう遺構は消滅しちゃったのかな・・・あるいは写真の右側の部分には何も建物はないから、とりあえず主要な部分だけは保存されてるのかな?自分の目でこの上を見た訳ではないので、何とも言えませんが。御土居のあたりから見た城山↓。 山の形そのものは大きく変わってはいないはずだから、ここから弘保や隆宗が同じような城山の景色を眺めたかもしれない。ちなみに、「日本城郭大系13」によると、御土居付近には明屋敷・御屋敷・的場・土居ノ内なんて地名も残っているらしい。地図にはそんな地名は書かれてないけどね。「字」でしょうね。再び西福寺の方まで戻って、道を探す。かなり歩き回った後で光政寺をようやく見つけ、山麓を次のお目当てに向けて歩く。 六地蔵の先に、「うぐいす塚」を示す案内板がある↑。ここを少し上がっていく。 よく覚えてないんだけど、上の写真はうぐいす塚とは反対の方向の道だったかもしれない。その記憶があってたとしたら、ある程度までは城山へ登れるのかもしれないな。それで、こちらがうぐいす塚↓。 【松尾芭蕉の門人野波(のば)の高弟で広島に「風律」という俳人がいた。13回忌に あたる寛政5年(1793)白市の弟子たちが、光政寺南側の山裾に建立した 追慕の立碑である。彼の句に『鶯や となりなれとも こ地の枝』とあり 本句から鶯塚と名がついた。】 (現地解説板より)別にこれを見に来た訳ではなく、その後ろにあるこっちを見に来たのだ↓。 これね、「白山城主の妾の墓」といわれてるものなんだそうです。白山城の廃城年はわかってないけど、秀吉による山城整理令もあったし、頭崎城の戦い以降は本拠を頭崎城に移したともいうので、まあ遅くとも関ヶ原頃までには城の役目を終えたと思われる。そうなると、「白山城主」はかなり限定されてくると思うんだよね。候補としては、弘保・隆宗・広相・元相あたり(隆保は白山城には入っていない)だと思うけど、頭崎城の戦い以後に本拠をそちらに移したんであれば、もう弘保で本決まりってことになる。弘保の、妾・・・?側室じゃなく?うぐいす塚の入口から見るとこんな感じ↓。 小さいけど、立派な削平地だわ、これ・・・なら、城の一部だよな。城の一部に、妾の墓なんか置くか~?居館だって山麓にあるんだし、こんな場所に埋葬なんかするかな・・・って現実的なツッコミを入れるのは、たぶん私くらいでしょうてか、妾の墓でなかったとしても、人の墓のどまん前にこんな石碑を建てちゃうセンスって、俳人としてどうなワケ・・・※「東西条バトル編(24)」へ続きます。にほんブログ村
2013年04月27日

養国寺の門を出ると、こんな光景が広がる↓。 ああ、ミワラの戦略的城下町を思い出すな・・・でもここの創建は12世紀だからな。寺が移転したとも書いてないし。ただ、弘保の白山城築城に伴って町が造られたんであれば、そういう計算が全くなかったってこともないんでしょうけど。一旦道に戻ってすぐお隣にあるのが、土宮神社。ここの扁額、面白い・・・ 広場みたいな境内に、社殿がぽつんと・・・境内からは、南にこんもりした小山が見える↓。ああ、あれが弘保が白山城を築いた城山だな。 まずは狛犬から。 足がずん胴でカワイイなあ 降ったりやんだりだった雨も、この頃にはあがって薄日が射してた。 ゆえにシャチも輝いておる↓。 留蓋の狛犬も輝く↓。 そして、アイツも・・・(笑)↓。 留蓋の狛犬ってのは、一般的にはスタンダードの部類に入るけど、この辺じゃ逆に珍しいよな。比較的新しい社殿なんだろうな。 ↑狛犬とハトが並び立つ光景ってのも、他じゃなかなか見かけないよな~と思って写真を撮ってたら、狛犬の方は金目だったことに気がついた。よく見ると、鬼の方も金目っぽい↓。 ・・・前から見ると後ろのシャチと一体化してて、人面魚ならぬ鬼面魚みたいだけど・・・ なんか、拝殿っていうより神楽殿のような造りだな。でもここからお参りするしかないから、やっぱ拝殿なんだろうな。で、こちらが本殿↓。 「懸魚」とつるんと言うと、普通は拝み(左右の破風板がてっぺんで合わさったところ)に下がってるものを指す。が、中にはここの本殿のように脇にも下がってる時があって、この場合は脇のと区別するために拝みの部分の懸魚を「拝み懸魚」または「本懸魚」(おもけぎょ)と呼ぶ。 水色で囲ったのが脇の懸魚。これを「降懸魚」(くだりけぎょ)という。または「脇懸魚」「桁隠」(けたかくし)と呼ぶんだと。それで、ここの本殿の降懸魚は菊なんだよね。 まん丸じゃないけど、でも菊は菊。菊の紋章で一番有名なのは、もちろん天皇家、および宮家。武家でも菊紋を使用している家柄はあるものの、そのほとんどは下賜されたものだったという。が、皇室の権威とともに菊紋の価値も下がり、江戸時代には葵紋が圧倒的に強かったために菊紋の価値も暴落した。明治に入って皇室が奇跡の復活をするとしぜん菊紋の価値もうなぎ登りとなり、明治4年には皇族以外の菊紋の使用禁止令が出され、これは終戦まで続いたそうな。そういう歴史を持つ紋なので、一概には言えないものの、菊の紋を見るとやっぱり「おっ!!」って私なんかは思っちゃうんだよね。そして本殿の蟇股↓。 うむ、なかなか・・・では、恒例の摂社をまとめてご紹介~。 神社の境内に接する民家も、また立派。あの複雑な屋根!ホントにすごいおうちが多いなあ~。 さて、土宮神社を出まして次のスポットへ向かう。その途中にあるのが、恵美須神社↓。 近寄ってみたら ハハハ・・・なるほどそのすぐ先にあるのが「旧木原家住宅」↓。ここは白市の一般的な観光スポットの中で一番の目玉なんじゃないでしょうか。 【重要文化財 旧木原家住宅 江戸時代初期から芸南有数の商家として繁栄した木原家の住宅で、江戸時代中期頃の ような装飾性がなく、きわめて粗大な構造で、町屋形式の古い民家の形態をよく 残している。主屋は、桁行六間半、梁間八間、平入、切妻造、本瓦葺、塗籠の建物で、 鬼瓦には寛文五年(1665)5月27日の銘がへら書きされている。】 (現地解説板より)木原家は商家だけど、その初代は平賀弘保の弟・木原保成。平賀広相は39歳の若さで亡くなったので、関ヶ原の時点では広相の子・元相が家督を継いでいた。関ヶ原後には、元相は毛利家に従って萩へ引っ越したが、保成は一緒には行かず、浅野家に仕えたとも帰農したともいわれる。で、その後白市へ戻って商売を始めて、その子孫が酒造・塩田・両替業などを営んで安芸でも有数の商家となるまでに発展したという。頭崎城シリーズで弘保の生年がわかってないって書いたけど、東広島の教育委員会によると、弘保の生没年は1475年~1558年となっている。この時代、年の離れた兄弟なんてのはごろごろいるけど、まあどんなに多く見積もっても保成は1500年生まれぐらいが限度じゃないか?だから、東広島教育委員会の生没年が正しいとするなら、この話は相当マユツバになってきちゃうけど、まあその子や孫が、ってことなんでしょうね。てことで、こちらも平賀さんのゆかりになります。手広く商売をして儲けた金で、木原家は近隣の寺社などに宝篋印塔などを色々寄進したらしいので、福岡八幡神社の享保の再建も木原系の援助だったのかもしれないね。旧木原家住宅は、瀬戸内海沿岸に残る町屋の中でも特に古いものだという。重文は町の誇り。当然、朝のタクシーのおじちゃんにも勧められた。「今日、見られますかねえ~。年末年始・・・」「あっ、そうか!やってないかもしれませんね~。ハハハ・・・」その通り、やっぱり1月5日までは閉館との貼り紙があった。まあ、これは想定内。それより、地図にはここにトイレのマークがついていたので、私はそっちを期待していたのだ。ところが、トイレは住宅の敷地内だったらしい。うっそおお~!!仮にも観光資源を抱えるところで、出入りが制限されるような場所にトイレを置かないでほしいんだけど!!ヤバイ・・・もう15:00。一体何時間トイレに行ってないんだ?にほんブログ村
2013年04月26日

稲荷神社の先からは、観光サイトでも紹介されてるスポットが多い。ので、ちらほら観光客の姿を目にするようになった。で、稲荷神社の先の道を脇に入る↓。 この感じ、ちょっとミワラっぽい。しかし、赤い屋根なのがやっぱり白市。ミワラの寺で赤瓦ってあったっけ?迫力ある山門を目前にしながらも、やはり脇の民家に目を奪われ・・・↓。 え~、で、こちらが次のお目当て、養国寺です↓。(場所はこちら) これは屋根の一番てっぺんの大棟を望遠で撮ったものです↓。すごいでしょ~、こんなとこまで、この細かさ!! え~っと、確かこの鐘楼門の妻だったと思うんだけど↓ なんか、懸魚(けぎょ)のところが・・・あれって・・・ はわわわ・・・・やっぱり・・・あれは間違いなくスズメバチの巣しかも、あんなにデカい・・・!!真冬でよかった・・・しかし、空き家だとわかってはいても、あんなデカい巣、見てるだけでコワイ懸魚はもともと、雨よけの実用的側面があるからね。あそこなら雨風しのげるし、女王様はいい場所選んだよなあ(笑)。ハチの巣を最初に造るのは、女王様なのよ。春になって、新王と新女王が場所を決めて自らせっせこご普請なさって、小さなマイホームができたらせっせこ子供を作って、あとは子供達に城をデカくさせるのだ。ここの懸魚のヒレは小ぶりだけど、懸魚がちゃんと実用性あるってあの巣が証明してるようなもんじゃないか?あれ、撤去しないのかな・・・鐘楼門の中に、もうひとつ門がある↓。両隅にハトを乗っけて。 その奥が本堂↓。石州瓦の本瓦葺。 ここがまた、なかなか・・・まずは正面の虹梁の上↓。 中国あたりの故事をモチーフにしてそうな感じだな。本堂正面の欄間↓。ちょっとだけ彩色が残ってる。昔はもっとカラフルだったのかもしれないな。 本堂に近寄って見上げたところ↓。 こ、これ、どう見ても太鼓だよね。こんなとこに太鼓がぶら下がってるの、初めて見たあ~!! もしかして、鰐口の代わり?でも鳴らせるようなものは何も下がってないから、鰐口じゃなくて雲板の用をなしてるのかな。あ~、白市、面白い建築に興味を持つようになってからは、ただ史跡めぐりをしてた時よりも数倍色んなことが楽しめるようになったけど、広島の建築はホントに面白い。手挟(たばさみ)にも、立派な彫刻が↓。これは龍かな。 左右の虹梁の上にも、中国のストーリー仕立てのような彫刻が↓。 ふう、首が疲れたけど見ごたえあったなあ どれどれ、あとは床下を・・・ ここはご覧の通り床が高く造られているので、いつもみたいに頭が地面につくほどかがみこまなくて済む(笑)。 うわあ、この中どうなってるんだろう。物置き場みたいな感じかな?でもたぶん、床が高いんだから柱はむき出しになってるハズだよな。あ~、ここ覗きた~い!!で、戸に手をかけてみました。が、かっちり閉まってました。もう立派な不審者・・・東広島市の観光サイトによると、この養国寺は 【元暦元年(1184)創建。元々は真言宗の寺院でしたが、 天正年間 (1500年代後半)より浄土真宗白龍山・養国寺と称しています。 本堂、鐘楼門ともに江戸時代の建物で、本堂は、当時のものとしては規模が大きく 装飾的です。 廊下には、近郷に例を見ない二十四孝板彫りの欄間があります。】 (東広島市観光情報サイト「東広島~ようこそ吟醸酒のふる里へ~」より)とある。こちらのサイトには観光マップも載っていて、そのマップの方では天正年間(1673)に改称したとある。福岡八幡神社の紹介と同じく、明らかに年が間違ってるんだけど、「1573年~」って言いたいのかな・・・「安芸門徒」という言葉で有名なように、安芸は真宗の勢力が強い。蓮如の時代の36年間には、安芸国内で真宗として開基された寺院は32。対して、養国寺のように転宗した寺院は38。石山本願寺時代の50年間になると、開基寺院が61に対して転宗寺院が87と転宗寺院の数が開基寺院を上回っているんだそうな。ミワラにも、順勝寺・浄楽寺・善教寺 などの蓮如や准如ゆかりの寺がいくつもあったしね。ま、あまり細かい寺の来歴はわからないものの、天正年間に改宗してるんだったら、ミワラに立ち寄ったあと、養国寺に准如も立ち寄ったかもしれないよな、な~んて思ったりもした。本堂の脇には、宝形造の小さなお堂。経蔵かな?↓ その近くにある灯籠↓。 宝暦11年(1761)の銘がある。ここには他にも、寛延4年(1751)の灯籠と、元禄6年(1693)の年号をもつ手水鉢があるらしい。て事は後から知ったので、写真はありまへんふう、面白かった~。来てよかったな・・・と思いつつ外へ出ようとしてふと脇の土塀を見ると↓ おお~、3本ライン!なかなかの格ってことだな。(土塀のラインについては「三原編(59)」を参照ください)その土塀の上には、やっぱり・・・↓ 私の記事で寺とハトとくれば、例のあの植物を期待した方もおられるかもしれませんが、残念ながらここにはなかったんですよ。あったら撮ってたよ(笑)。にほんブログ村
2013年04月25日

街道をさらに進むと、次のお目当てが近い。が、この辺でも一般民家に誘惑され・・・(笑)。 この精悍な顔つき・・・これはもはやハトではなく、明らかに猛禽類だよな↓。 古い家ももちろん立派だけど、広島が楽しいのは新しい民家でもこんな伝統を生かした家がごろごろしてること↓。まあ、この町の場合は景観保存とかの規制もおそらくあるでしょうけどね。 でも、いくら景観保存ったって、ここまでしろって規制はないと思うよ・・・↓。やっぱ、お国柄かのいいなあ~、これ。私も欲しい!! このお宅の隣には、ちょっと近代の補強も入ってるけどそれなりに古そうな石垣が続き↓ 上がったところにこれがある↓。(場所はこちら) はい、こちらはお稲荷様です。ここがまた、意外な掘り出し物があって・・・(笑)。まずは拝殿の留蓋から↓。 なんかコレ~、もう鳥に見えないんだけど。顔がカメじゃない?空飛ぶカメ・・・はガメラかんで、私がおお~~~!!と声を上げて気に入っちゃったのが、こちら↓。拝殿の蟇股です。 キツネだよ、キツネ~!稲荷でキツネ~~!!もう素晴らしいとかそーゆー問題じゃなくて、面白い!こんなの初めて見た!!正直言って、これだけでここは満足しましたいや、もちろん本殿も見に行きましたけどね↓。 ここの境内はそう広くはないんだけど、本殿はなかなか組物が複雑で華麗な造りになっていて、立派。屋根も・・・あっ、ちょっと、このテの屋根に弱いんだ、ワタシ・・・ 本殿の屋根に上がる獅子口(ししぐち)には、左三つ巴の紋↓。 それから、本殿の鬼瓦↓。これね、鬼じゃなくてキツネだよね。 鬼瓦といえば、普通の現代人は鬼面を連想するでしょうけど、この部分の瓦にツノをはやした鬼の面が現れるのは室町以降のことで、それ以前は獣面か蓮華文が主に用いられていたんだそうな。ま、この神社はそこまで古くはないだろうから、お稲荷様ってことでキツネ面を持ってきたんだろうとは思うけどね。本殿の正面には、何やら彫り物がある↓。真ん前には立てないので、これしか撮れなかったのが残念だけど。 境内の脇には、灯籠がいくつも並んでいた。 人も来なかったし、一見地味な神社ではあるけど、面白かったなあ~、ここ通りに出て歩き始めるとすぐ、ものすごい家が目に入る↓。 なんじゃこりゃあ~!すごすぎるう~!!東広島市の観光サイトによると、こちらは「伊原八郎家」というそうで、大正4年から2年をかけて築造されたんだそうな。こうした家の幾つかは、東広島市のサイトで「ナントカ家」って紹介されてるんだけど、それぞれには看板でも建ってるのかと思ってた。で、ここには何もなかったので、普通の民家じゃ正面からあまり撮影するのも申し訳ないかな・・・と思ってロクな写真を撮らなかったんだけど、どうもこの派手こい門は「御成門」らしい。なあんだ~、それならもっと写真撮っとけばよかった~いや、その説明の書かれた資料もちゃんと持ってはいたんだけど、何しろ写真と地図を見るのだけで手いっぱいだったし、ここまでの普通の民家だけでももうお腹いっぱいって状態だったから・・・(笑)。建築にさほど興味のない人だったら、サイトで紹介されてるところだけをちゃんと見ていくんでしょうけどね。しかし、一体何の御成りなんだろう?交通の要衝とはいっても、私の知ってる限りじゃ、白市に本陣は置かれてないと思うんだけど。なら、浅野の殿様か?詳しいことはわからない。さらに歩く。↓こちらは伊原惣十郎家。伊原惣十郎さんは、京都御所の灯籠や厳島神社の青銅大灯籠などを造った鋳物師さんなんだそうな。 また民家↓。 ↑出目バトだてか、これホントにハト!?なんか背中がハリネズミみたいなんだけど!同じ鳥の留蓋でも、ミワラは見るからにハト一色でここまで個性的というか、バリエーションなかったぞやっぱここも、本郷と同じく留蓋文化の交差する地域で、鳥バージョンでも統一性が崩れてきてるのかもしれない(笑)。白市は面白い町だなあ。 ↑これなんかさ、悪魔の城とかに飾られてそうなデザインじゃない?(笑)ディズニーの「美女と野獣」で、呪いが解ける前のお城に沢山あったダークな彫刻みたいな。一体何の鳥をモチーフにしたものなんですか!? 色んなのがありすぎて、たまに普通のポッポちゃんを見かけるとホッとするわ↓。 ほう、こちらは正統派・・・けど、しっかり枡形(笑)↓。 白市にあるふたはこれでした↓。えっと、これは西条にあったのと同じバージョンだな。白市は東広島市だからね。 ↓ランキング参加ちう~。「ぽち」っとよろしく~。にほんブログ村
2013年04月24日

満足して福岡八幡神社を出る。ここから真東に行けば白山城に着くけど、見たいところもあったしわかりやすい道を行った方が安心なので、少し北上しながら白市へ向かう。 赤い瓦のお屋根がたくさん~広島空港から白市駅へ向かう路線バスの中でも思ったけど、この辺りは特に赤瓦が多い。赤い石州瓦は、広島の建築の特徴のひとつ。地域性はあるようだけどね。屋根が赤いと、必然的にアイツも赤くなる↓。 立派なお宅も多い↓。 途中の道からは、頭崎山が遠くに見えた↓。 なんだか、ヘンな雲が出てきてるけど大丈夫かな・・・それより、トイレ行きたいこの辺、コンビニもないしな~。周りの風景や民家を見ながらゆっくり歩いて20分くらいすると、白市の町に入る。地図を見てるとそれなりの道路っぽいのに、実際はかなり細い道だった↓。たぶん、昔の街道のままなんだろう。 え~、それで、ここからです。細い道の両側に立ち並ぶ一般民家の屋根に目を奪われたのは(笑)。 ↑これ、石か?すごい変わった瓦・・・ ↑こちらの町並みにも、ハトが進出しておるな・・・下のお家は、観光サイトでは「舛木家」って書いてある。明治後期の建物なんだと。袖壁もついてるし、立派なお宅だなあ~。輪違紋の大棟も美しい↓。 袖壁(そでかべ)ってのは、四角で囲った部分ね↓。 目隠しや防火・防音などを目的とする小さな出っ張った壁のこと。床の間の前面などに用いられることもあるらしい。猫這(ば)い止め、火返しとも呼ばれるんだと。ここなんかは漆喰だし、確かに火をがっちりガードしそうだよね。 このお宅の鬼板は、 なんだろう、この紋・・・葛の葉のようにも見えるけど。袖壁の上の屋根には、ポッポちゃん え~と、あとはもう、どんどこ写真を載せていきますね。とにかく、一般民家の写真ばっかり撮って、全然足が進まなかったことだけ想像していただければ(笑)。 これはちょっと、ハトっぽくないな・・・↓。 これはまた、何とすごい・・・↓ここの屋根も面白かった これ!これ、カメだよね?↓人面ガメ・・・ カメの後ろには、これがいる↓。 どうも、形からするとカエルのように見えるんだけど・・・おんぶガエルみたいな。 ここの通りは、こんなおうちばっかり。どれだけ私が嬉々として写真を撮りまくってたか、わかる人にはわかるでしょう? そうして写真を撮りながらちまちま歩いてたら、ここまで来た↓。 アラ、石垣だわ。まあ、明らかに新しいものだけど(笑)。って、ここではたと最初のお目当てを忘れかけてたことを思い出した。しまった、来すぎちゃったかな・・・道が細いので、うっかり見落としたのかもしれない。とりあえず、この道を脇に入ってみた。何か案内板でも立ってるだろうと探しつつも、やはり道の脇に立つ民家につい目が行き・・・そして、こんな留蓋を見つけた↓。 「宝」?宝船か~、これ!!あれ、ちょっと待てよ、この形って・・・今まで見てよくわからなかったあのテの↓ (本郷・浄応寺)形にちょっと似てないか?最初は波かと思ってたけど、どっちかってゆーと船の形に似てる気がするな~。宝船のお家はこんな外観↓。あまり正面から堂々と写すのも申し訳ないので(笑)、遠目に側面から。 この向かいには、お堂があった↓。こんな古くて小さなお堂でも、屋根は立派。さすがは広島。 この道をしばらく奥まで行ってみたけど、何もない。やっぱり来すぎちゃったのか・・・ 少し戻って1本手前の道を入ってみる。けど、やっぱりわからない。地図によると、この辺のはずなんだけどな・・・↓。(場所はこちら) 平賀弘保が白山城を築いたことによって白市(しらいち)の町が発展したと言われてることは前にも書いた通りだけど、広島・呉・竹原・三原・三次などへ1日の行程という立地から交通の要衝であり、また宿場町としても栄えたという。江戸時代の初め頃にはこの地で牛馬市が開かれ、最盛期には期間中に500頭もの牛馬が集まったんだそうな。私が探してたのは、その牛馬市の跡。まあ、案内板は見つからなかったけど、この辺り一帯がドナドナド~ナ、ド~ナ~~~で埋め尽くされてたことに変わりはない。往時のにぎわいを想像しながら、元の街道筋へ戻る。 ・・・戻って、最初に通り過ぎた時もなんとなく気になってたお家を見ながら通り過ぎようとした。ら、 あ、ああっ、これ!! ・・・紋がなかったら、わからなかった。何に驚いたのかって?これはたぶん、毛利一族の福原さんちなんですよ。新高山城の遠足イベントでもちょっとだけ貞俊の名前が出てきてますけどね。毛利家の重臣で、元就の実母も福原氏の出身の方です。 あっ、そういえば、ここって安芸だったっけ・・・(←忘れてた)確か広島市近辺なんかでも、「毛利さん」がごろごろいるって何かで読んだような・・・なら、やっぱりこちらもあの福原さんのご一族なんだろうな。思いがけないものを目にしたので、ちょっとドキドキした。にほんブログ村
2013年04月23日

本殿を見始めたら、宮司さんが出てきて少し説明をしてくださった。遠目からじゃわかりにくいけど、近寄ってみるとかなり沢山の彫物がある。私はこれらをゆっくり見させていただくことにして、宮司さんは次の参拝客が来たので中に戻っていった。いただいた資料の中には、本殿に関する中国新聞のコピーもあった。あら、これ広島大の三浦先生が書いたものだわ。今は教授だけど、コピーには助教ってある。平成元年の記事だから、当時は助教だったってことか(笑)。全文はちょっと長いので、一部を抜粋して引用させていただきます。 【享保元年(1716)に再建された本殿は、江戸中期のものとはいえ、桃山時代を 思わせる。それもそのはず、この本殿はまさに、桃山時代の神社本殿の直系というべき もので、豊臣氏ゆかりの大坂からはるばる運ばれてきたものである。 そのため、豊臣秀頼が大阪府下に数多く造営した、華麗な桃山時代の本殿の意匠と 共通する点が少なくない。 この本殿が造営された江戸中期には、商品経済が発達し、高級品は大坂から 買い求められるようになる。 寺院本殿の本尊を納める厨子や欄間(らんま)の彫り物をはじめ、多くの法具や 祭具が大坂から入ってきた。そして、ついには神社本殿のような建築物までが 大坂で造られて運ばれた。(中略) 大坂から運ばれた神社本殿は、広島県の社寺建築の意匠に大きな影響を与えた。 それまでの中世風の意匠が急速にすたれ、大阪や江戸で流行していた、本格的な 近世建築の意匠がもてはやされるようになった。(後略)】 (平成元年4月22付 中国新聞「ふるさとの古建築」より)ということであります。では、その華麗な意匠をまとめてご紹介しましょう。カメラの腕がもうちょっと良かったら、もっとこの良さをお伝えできたと思いますが、機会があれば是非実物を見てってください。 ここまでは、本殿の正面側だったかな。どこでも好きな場所から撮影できる訳でもないから、ちょっと見にくい部分もあって申し訳ありませんが。で、ここからは本殿の妻側。妻の正面は神域なので、こちらも正面からの撮影はできないし望遠だとどうしてもブレがちなのですべての意匠を掲載できないのが残念です 軒が深いからかな、あまり他では見ないような複雑で凝った造りになっている。 本殿の妻で面白いのがこの部分↓。 どれも上の荷重をうける部材なんだけど、まずは下の右側↓。 天邪鬼なのよ~これ!天邪鬼が、上の斗を「ふんぬ~~~!!!」って感じで肩で支えてる。同じく下段の左側↓。 こちらはちょっと顔の部分が欠損しているようでわかりにくいけど、右側と同じく上の斗を支えてる。こちらの方は腕を支えにしているようで、ちょうどバーベルを顔の位置まで上げたような格好になっている。 で、上段はどんなかといいますと↓ 横に渡ってる柱は虹梁(こうりょう)といって、これも梁の一種。その虹梁に邪鬼が噛みついてる(笑)。これは確かに桃山風だわ・・・この神社を予定に組み込んだのは、単に弘保の創建といわれてたからで、こんな華麗な本殿があるなんてことは微塵も知らなかった。思いもかけず、いいもの見たなあ~ 本殿の向かって左側の回廊の奥にはガードマンがおわすんだけど、 ああ、くび、御首級が取れちゃってますう~!! 首が落ちても微動だにせず本殿を守るガーディアン・・・ 右側の回廊には、この方がいらした↓。 よかった、こちらはお首がちゃんとある 拝殿の正面に戻りまして、狛犬の続き↓。 ・・・しっぽのつなぎの部分が変じゃね?新しいものに比べると、ちょっと洗練されてないカンジ。 口の中にあるのは、ちっこい玉か?それとも、舌が出ちゃってるのか?(笑)下から見上げてるだけでは、わかりませなんだ・・・そして・・・この境内には、ちと変わったものがある↓。 牛乳ビン・・・いやいや、この文言と形からしてこれはきっと・・・裏へ回ったら、なにやらびっしりと文言が書いてあったので、とりあえず何枚も写真に収めてきました。 【至誠奉公 海軍大将 鈴木貫太郎書 本兵器の説明 本砲弾は30糎12吋砲身に使用する○○にして直径1尺長さ3尺1寸4分 砲量100貫価格700圓1○○○○○○ 優良なる銅材を用い其夫端は○○○○特の焼入法により高き硬度となせるもの ○して内部心空に灼薬を充填し軍艦装甲鈑を貫通するや直に信管によりて灼薬点火し 軍艦を損傷し或は沈没せしむ 本砲弾で45口径12吋砲身に装填し装薬にて発射する時は約2里の距離に於て 10吋銅鈑を貫通し得べし 而て砲身の仰角30度に於ける弾丸到達距離は約6里半なり 右呉市在住東高屋村人会の依嘱により謹記す 大正12年8月20日 海軍校師正七位勲六等 齋藤明○】一部磨耗しているので、○に置き換えた部分以外でも読み違えてる箇所もあるかもしれませんが。兵器の知識がある訳じゃないし、好きな訳でもないけど、これを設置した人の思いというものがやはりあると思うので、どうにもわからない物以外は私はなるべくスルーしないようにしている。 結構神社って、このテの遺物があるんだよね。門司の清年神社にもあったし。清年神社のは現物だと思うけど、こちらのは石で復元されたものです。これの銅製バージョンが実際に使われてたのか・・・まあ、こーゆーのには興味のない方が多いかもしれませんが、靖国神社の遊就館には先の大戦で使用された色々なものが展示されてます。私が行った時は、回天(いわゆる人間魚雷)とかもそのまんま展示されてたっけ。遠方の方はなかなか来られないかもしれませんが、日本人ならぜひ一度は靖国神社へ参拝して欲しいものだと、個人的には思いますね。これも歴史ですから。それらの歴史の先っぽに、今の私達がいるんです。にほんブログ村
2013年04月22日

こちらが、福岡八幡神社の拝殿↓。 いくら参道を上がってすぐ脇に灯籠や狛犬があったからって、この拝殿もすぐ真ん前にあるので、まずは神様へご挨拶するのがスジというもの。が、今回それをしなかったのには理由がある。拝殿の正面を見てください。賽銭箱が置いてないでしょう?しかも、拝殿の正面はガラスの戸があって、ぴっちり閉まっている。困ったな・・・どうやって参拝したらいいんだ、ここ・・・昨日の橘神社ほどではないけど、結構参拝客も入れ替わり来ていた。が、来てどうするのかと灯籠の写真とかを撮りながら横目で他の人の動向を観察してたら、みんなガラス戸を開けて中に入っていく。最初は限られた人だけが入っていいのかとも思ったけど、来る人来る人みんな自然に中に入っていくので、そういうスタイルの神社なのかな?と思って、近寄ってガラスの中を覗いてみた。そしたらちょうど宮司さんらしき人が入口近くにいて、「どうぞ」と言わんばかりにガラス戸の向こうから会釈を返してくれたので、安心して山靴を脱いで上がらせていただいた。中に入ると、おザブが整然と沢山並べられてて、脇にはストーブで温まる親子がいた。ちょうど神前には座って参拝してる人がいたので、内部の建築を見ながら前の人が終わるのを待った。まずは参拝を・・・と思って神前に進んではみたものの、普通の神社とあまりに勝手が違うのでどうしたらいいのかわからない。待機用とは別の、お参り用に神前に置かれたおザブの斜め前には、さきほどの宮司さんが幣(ぬさ)を持って立ったまま私を見ている。普段は見栄っ張りな私でも、こーゆー時は素直に教えを請うことにしている。「す、すみません、初めてなもので・・・ここに座ってお参りしていいんですか?」宮司さんはちょっと驚いたようだったけど、笑って、「そうですよ。どうぞ」と言ってくださったので、ザックを下ろして座ってお賽銭を入れた。と、おもむろに宮司さんが私の真ん前に立って、幣をバッサバッサ振りながら祝詞を上げてくださった。うおおお~、こんなの初めてだあ~!なんか緊張するし、変わってるな、この神社・・・それが終わってから、無事に頭崎山を下山できたことのお礼と、残り半日の行程が楽しいものになるように祈願をした。目を開けて前を見ると、そんなに広くはないものの、神前は綺麗に飾り付けがされている。「初めて」というキーワードが宮司さんの胸に引っかかったらしく、ちょうど他に参拝客もいない時だったので、「どちらから?」て話しかけてきてくださった。「千葉からです。この辺は初めてなもので・・・。」てな会話から始まって、頭崎城に登ってきたことや建築が好きでこれから白市を回ることなどを話した。1人で今日は平賀氏めぐりをすることを話したら、ここでもえらい感心された。「あの、縁起とか書いたものがあれば頂きたいんですけど・・・」ってお願いしたら、宮司さんは奥へ取りに行った。待ってる間、奥様らしき人が脇から来て「これ、どうぞ」って神社のお札を差し出した。(ええっ!これ、売り物なのに~!!こんなもの、いただけないよ~!!) ←リアリストありがたく辞退したけど、最後は負けた(笑)。せっかく好意で言ってくださってるのに、あまりかたくなに固辞するのもねえ・・・ハア、こんなものいただいちゃって、どうしよう・・・何か買えるものないかな・・・神前の脇には、お守りやお札が並べられていた。ここには破魔矢もあったので、私はこちらを買うことにした。まだ母親が退院したばかりで、家では初詣に行かれないので、旅先の神社で破魔矢があれば買おうと思ってたのだ。でも、昨日の橘神社にはなかったので、ちょうどよかったそうこうしてるうち、宮司さんが戻られて資料をくれた。お札を私に渡したことを奥様が宮司さんに報告したので、宮司さんにもお礼を言った。またしばらく話してるうち、さっきからストーブにあたってた男の人が奥様に何か話したと思ったら、今度は「これもどうぞ。気をつけてね~」と旅守りをくださった。どうやら、この男の人は息子さんだったらしい。(こ、こんなにいただけませんってば・・・!!)と心の中で必死に抵抗したものの、1人で遠方を旅してることへの心遣いだし、これもご縁だと諦めて、息子さんにもお礼を言ってからありがたくいただいた。それが、こちら↓。 以前、「旅のナイト達」でちょっとだけ紹介したのがこの旅守りです。人から物をもらうのは確かに嬉しいことだけど、このお札とお守りには、私を気遣っての宮司さんご一家の温かい気持ちがこもっているので、この2つを見ると今でも社殿の中での出来事が思い出されて、心が温かくなる1人でいる時だから、余計心に残るんだよね。しばらく話をした後で、建築が好きなら是非裏の本殿も見ていくといいと宮司さんが教えてくれたので、それならばと見にいくことにした。皆様に心からのお礼を言ってから、拝殿を出る。「気をつけてね~」と送り出されたので、気持ちの優しい人達なんだろうな~と思った。外へ出ると、相変わらず風は強いし寒い。が、親切な宮司さん一家のおかげで心が温まっているので、へっちゃら(笑)。あ~、思いもかけずものすごく親切にしてもらっちゃったな~。これは弘保はじめ、平賀の殿様のご加護かも・・・きっちり頭崎城と白市の町とワシらのことを紹介しとけ~!ほいで、また来いや~!と平賀の殿様に言われてる気がした。神社の拝殿にはこんな瓦が上がってた↓。 ツノがあるから鬼だと思うんだけど、正面から見るとヒゲをもしゃもしゃ生やしたお茶目なジイちゃんみたいだ拝殿は平入りだけど、本殿を見ようと裏に回って拝殿の妻を見上げたら、 ヒゲのジイちゃんは同じだけど、こちらは妻だから懸魚(けぎょ)がある。綺麗に彫られてるもんだよな~。で、こちらが本殿↓。 ほう、びっしりとした垂木が美しい。こちらも小早川も・・・もとい、三つ巴だな。屋根にも三つ巴。 にほんブログ村
2013年04月21日

本編の連載中ですが、ちょっとここでミニ雑談。コストパフォーマンスが悪いのは前からですが、シリーズを重ねるごとにそれが顕著になっていき、今回の正月の旅は東西条17話+鏡山城11話+新高山城32話+頭崎城13話・・・で、現時点で計73話。しかも、まだあと1日半ぶんあるから、100話はゆうに超えるこれまでは夏のミワラ(全76話)が歴代最長記録だったけど、記録を塗り替えるのはほぼ間違いありません。だいたい、今シリーズなんかは1日の出来事を書くのに1ヵ月くらい使ってるもんね。どうなのよ、コレ・・・しかし、適当にはしょる気は毛頭ないので仕方ありまへん。気長にやりますわ東西条編の後に何を書くか、自分の都合もあわせて色々考えてはいますが、まだ確定はしていません。たぶん、去年の短編を先に書くかとは思うんだけど。古い旅の中で、「あの時の、読みたくてずっと待ってるんだけどいつ書くの~!」ってリクエストがもしあれば、お寄せください。どこまでお応えできるかはわかりませんが、参考にさせていただきますm(_ _)mさて、そんな長丁場ですし、去年の終わりのように書けない事情があるんでない限りは、ひとつのシリーズが終わればすぐ次を始めます。つまりは当面は雑談を書く余裕がないので、書きたいと思った時に書くしかないのだ。で、今日書きたいと思ったのはコレ↓。 うふふふ、これはポスターなんです昨日ちょっとケガをして、まあ当初思ったよりは後遺症も軽くて済んだんだけど、体調も良くないし、今朝はなかなか布団から出たくなかった。ツイッターでご心配いただいた皆様は、ご親切にありがとうございましたで、布団の中で友達のブログを見ていた。この友達は、あの京都のセキュリティセンターのセンター長です。一昨年、確かこのポスターが貼ってあるのを写真付きでツイートしてたので、軽い気持ちで「盗んできて!」と言ったら、彼女はなんと発行元であるびわこ競艇に電話して、ポスターを取り寄せた。まだ知り合って数ヶ月しか経ってない頃だったので、その行動力に「すごい人だ・・・」と驚いたものです。この「浅井久三」(あさいくぞう)はもちろん、近江の浅井氏をもじったもので、解説には長政のことが書いてあるものの、名前的には久政(長政の父)かな~と思うんだけど・・・浅井久三は武将シリーズの第一弾だったらしく、確か月替わりでもじられる武将が替わっていった。すでに本編を公開済みの「大津編」の後に、秋にも大津に行ったんだけど、まだこのシリーズは続いていて、京阪電車の中に黒田官兵衛が貼ってあったような・・・ちょっと写真が見当たらないんだけどそして、今朝センター長のブログを読んでたら、またポスター請求をしたというじゃあ~りませんか「またかよ~!」と思ったけど、どうも今回はまだ2回目らしい。てことは、初回は明らかに私の要望に応えたものだった訳だから、よほど気に入ったってことだな。(友達のブログ「京都市上下水道局のポスター」へのリンクはこちら)一体どんなポスターかと思ったら、写真も載ってて確かにカッコいい。はったらくおっじさん はったらくおっじさん←古い とか、風の中のす~ばる~ 砂の中のぎ~んが~とかいう歌を思わず口ずさみたくなるような背中。残念ながらポスターには折りジワがくっきり付いてたものの、ポスター請求という彼女の行為が非常に嬉しく、またこれからもいいものを作りたいという広報担当のお姉さんからのお手紙が添えられていたという・・・これね~、お姉さんの気持ち、すごくわかる!わかるよ!!私がブログを始めてから、1年半ぐらいになるのかな?自分の備忘録と、次に行く人の参考になればという思いと、小さな史跡や歴史でも1人でも多くの人に知ってもらえればという思いから始めたものだったけど、好きなことを好きなように書いてるだけなのであんまり「書き手」という意識はなかった。が、ある時「にほんブログ村」からのお知らせで『ブロガーの皆様、読者の皆様、いつもありがとうございます』みたいな文言があった。私は自分のことで手いっぱいで、他の人のブログを継続して見ることはほとんどないし、明らかに読者じゃない。なら、私はブロガーなのか・・・普段、意識したことがなかっただけにちょっと新鮮だった。ブロガーという意識はなくても、自分なりに真面目には書いている。毒を吐く時も、たいていは「ちょっとその考え方、なんとかしてよ!」って状況の改善を望む気持ちから書いてるし。いちおうね。だから、いい評価とかブログの感想をいただくのは、ホントに嬉しい。「にほんブログ村」の記事ランキングの評価方法が変わってからは、自分の記事がランクインされることも多くなった。まあ、ランキングはあくまで相対的な評価だってこともわかってはいるけど、それでも頑張って書いた記事が高い評価を得られると、やっぱり嬉しい。おだてに弱いタチなので人気の高い芸能人を使ったポスターならともかく、ぶっちゃけ限りなく地味な部類に入るこの水道局のポスターを欲しがる人も、そういないだろう。関係者からは「あのポスターいいね」と褒められることはあっても、一般市民からの反応というのは官公庁じゃ確かめにくいと思う。それをいきなり「欲しいんで、ください!!」って言われた日にゃあ、そりゃあ~製作者としては嬉しいだろう。仕事で作ってる人と、趣味でブログやってる私とじゃだいぶ立場は違うけど、真面目に作ってるのは同じ(だと思う)。だから、お姉さんの気持ちが伝わってちょっとじ~んときちゃったんだよね。私のブログは備忘録であるがゆえに、本編の中にも雑多な記述も多いし、しょっちゅう毒も吐く。俺様な個人的見解を垂れ流しにしてるので、毎日読んでれば「なんだコイツ」って思う記述も沢山あるだろうし、スポットや歴史が地味すぎて「つまんね~」って思うことも多々あるだろうと我ながら思う。つまんなければ読まなくなるだろうけど、それでも多くの方が毎日コンスタントに読んでくださって、なおかつクレームが寄せられることもないので、「皆様、オトナだな~」と感心しつつ、いつも読んでくださる皆様には感謝しています。とゆー訳で、水道局のお姉さんの気持ちを思いながら、自分も沢山の方に読んでいただける恵まれた環境にあるということをあらためて認識した訳です。アラ、ミニ雑談のつもりが、結構限度文字数まで近くなってきちゃったなこの後、本編では「東西条バトル編(3)」で現地から報告した、楽しい町歩きがしばらく続きます。過去のシリーズで機会をとらえては建築についての解説も少しづつしてきましたが、建築に興味を持ってくれた方もちらほらおるようで、本を確認しながら乏しい知識で紹介してきた私にとっては、これもまた嬉しいことです。自分の経験から確実に言えることですが、知ってるのと知らないのとでは見るところも感動も全然違うからね。なので、これまでの東西条バトル編ではほとんど寺に行ってない関係上、しばらく建築の解説などもできませんでしたが、これからもいい例と書きたい気持ちがあれば少しづつ続けていきたいと思ってます。まあ、広島は寺院に行かれなくても一般民家にフツーにシャチとか留蓋が上がってるからね、見ててホントに楽しいんだけどね。とにかく瓦と留蓋の写真が多くなると思うので、一緒にお楽しみいただければ幸いです。それでは皆様、また明日もブログでお会いしましょう~にほんブログ村
2013年04月20日

※「頭崎城(13)」の続きです。ここからは、白市駅のほうまで歩くつもりでいた。が、山地の近くはMapfanでは詳しい道は表示してくれないし、だいたいの場所はわかるものの、現在地がはっきりとは特定できない。大通りまで出れば安心だけど、ちょっと遠回りになるし、来る時には農道ばっかり走ってたからあの道を迷わず歩いて帰れるのか不安。それに何より少しヒザに痛みが出ていた。疲れも溜まってるし、粘土質の道を神経使って歩いてたから変な風に足に負担がかかっちゃったんだろうな。腿に筋肉がついてないと、ヒザにダイレクトに負荷がかかるのは経験上知ってる。まだ明日も山城が控えてるのに、ちょっとマズいな・・・て事で、体力と時間の節約のために結局タクシーを呼んだ。お迎えを待ってる間は、近くの民家を眺めて楽しむ↓。 あ、煙出しだ~うちの方じゃこんなの、なかなかお目にかかれないからな・・・それにしても、立派なお宅だこと。迎えに来てくれたのは、朝とは違うおじちゃんだった。「福岡八幡神社まで」と言ったら、「福岡さんですね?」って返された。福岡はあってるけど、地元で言う「福岡さん」が私の目指す神社とイコールなのかはわからない結構、大きな神社なのかな・・・このおじちゃんは静かな人だったけど、運転がちょいと荒い。行きはおしゃべりしてたせいもあるけど、ゆっくりめで農道を普通に走っていた。・・・が、今度のおじちゃんは、細い農道をものすごいスピードで走っていく。(こ・・・こえ~よ~・・・)まあ、対向車なんか来たらすれ違いは無理だから、「農道は、とっとと抜ける!!」がポリシーなのかもしれないけど、正直言って相当恐かったで、降ろしてくれたのがここ↓。 車は写真の奥の方からやって来た。左に写ってるのは、地図を見ると「コミュニティスポーツ広場」だと思うんだけど、だいぶ想像と違うな・・・ここにトイレがないか期待したんだけど、なかった。朝、駅を出てからずっと行ってないからな・・・ああ、トイレ行きたい神社に向かおうと思ったら、広場の向かいにもなにやら気になるものが↓。 どうも産廃処理業者さんの敷地みたいなんだけど、お地蔵様の後ろには↓ と、盗難防止用!?てか、業部内容の書かれた看板もあったけど、その中には「石材業」みたいのは書かれてないから、つまりはこれっていわゆる廃棄物なんじゃ・・・カメラ、いるう~?ってゲラゲラ笑いだしたいのを必死にこらえてました湧き上がる興味を抑えられずに敷地の中を覗くと、石の灯籠なんかもいくつか置いてあって、その脇には「個個の商品売ります」と看板に書いてある。おお、売り物なんだ~、コレ!!なら防犯カメラも必要だよな・・・と妙に納得。結構綺麗で新しいものなんかもあるし、市価よりはお安くゲットできるのかもしれんな。で、こちら↓が神社への入口(場所はこちら)。 【福岡八幡神社御由緒 御由緒 当社は文亀3年(1503)平賀尾張守弘保公が鎌倉八幡宮より勧請されたことに はじまり、現在の本殿は享保元年(1716)広相公によって再建されたものである。 規模形式 大型の三間社流造 向拝一間軒唐破風付銅板葺で、現存する江戸時代の本殿中では 東広島市最大である。】 (現地解説板より。一部省略)はい、とゆー訳で、こちらも平賀さんのゆかりです。頭崎城は終わったけど、まだ平賀氏めぐりは続くのだ。だって今日は、平賀さんの1日なんだもんまず、文亀3年といえば、弘保が白山城を築いたといわれている年にあたる。八幡様はあちこちにいっぱいあるけど、ここのは鎌倉からなんたね。やっぱ、東国武士だなあ。白山城方面へはこの後で行くけど、白山城の麓に広がる白市(しらいち)は市場であり城下町。その白市は、弘保が白山城を築いたことに始まるといわれている。白山城の築城と同時期に勧請されたってことは、城と城下町の鎮守としての意味合いがあったのかもしれないね。位置的には、城の鬼門の方角じゃないけど。で、弘保が勧請してその後広相公による再建とあるけど、この広相さんは頭崎城シリーズで出てきた新九郎じゃありません。 新九郎の方は大永8年(1528)生まれとされているので、社殿を再建したのと同一人物だったら、再建時には188歳になっちゃうので、子孫の広相さんかと思われるものの、私の持ってる系図には近世は載ってないので、広相さんがどういう人なのかはわからない・・・けどさ、関ヶ原以降、平賀氏は毛利家の大減封にともなって一緒に引っ越ししてるはずなのに、平賀氏による享保元年(1716)の再建っておかしくないか?まあ、関ヶ原以降の毛利家の台所事情は相当苦しかったはずだから、庶家ぐらいはこの地に残ったのかもしれないけど。ここまでは神社入口にあった看板に基づいて考えたものだけど、実は東広島市の観光情報サイトにある神社の由来はちと違ったものになっている。 【天文年間(1500年代中頃)に鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したといわれ、 高屋13か村の産土神でした。社殿などの普請は、平賀弘保が中心となって行い、 元禄元年(1557)以降に完成したといわれます。】 (東広島市観光情報サイト「東広島~ようこそ吟醸酒のふる里へ~」より)元禄が16世紀の訳がないから、これは明らかに間違いなんだけど、流れから言ってたぶん「永禄元年」と言いたいんじゃないかと思う。永禄元年なら、新九郎の広相も生きてるし。ただ、永禄元年は1558年だけどね(笑)。文亀3年(1503)の勧請で社殿は永禄元年(1558)だとタイムラグがありすぎて、「おいおい平賀君、どんだけ~!!」って話になっちゃう。が、天文年間(1532-1555)ならまずまずかな・・・天文の終わり頃は、相続のゴタゴタとか大寧寺の変とか防芸引分とか色々と忙しい時期ではあったけど、天文の中頃だと神社の建立にしてはやっぱり時間がかかりすぎてるので、天文の終わり近くじゃないかと思うけどね。個人的には、文亀3年勧請説の方が白山城の築城と同時期だし、ロマンがあって好きなんだけど。ま、完成がいつであれ勧請が弘保だってことは一致してるので、とにかくゆかりの地でまったりしたい私には、あまり大きな問題ではない。(↑相変わらず大ざっぱ)入口の灯籠は↓ おお、ここも佛通寺と同じバージョンだな。この形は、どの程度の範囲に分布してるんだろう。 おお、なんかカッコいいな~。三つ巴だからそう見えるんだろうって?(笑)。これは平賀氏の紋じゃない。平賀紋の梅ヶ唐花だったら、もっと雰囲気出てよかったけどな。参拝の前に、その脇をご紹介しましょう。これにはちょっと理由もありましてね。まず、上がってすぐ左にある灯籠↓。 これは宝永7年(1710)9月吉日に奉納されたようです。富士山の宝永大噴火の3年後だな。この近くには歌碑もある↓。 この歌の元になったのが、こちら↓。 この手水鉢、富士山をかたどったものなんだそうな。どこが富士山?わかんね~・・・と思いながら近寄ったら、 あっ、これかあ~!!なんだ、てっきり鉢そのものが富士山の形とかになってるものかと・・・富士山の鉢の近くにいる狛犬↓。 ちょっと磨耗してるし、結構古そうだな・・・その後ろにいる子↓。お約束のデカいボールを抱えてる(笑)。 にほんブログ村
2013年04月20日

では、平成の世に再び戻って下山を開始します。大きい城っていうから、見るのにも時間かかるかな~と思ったけど、郭の周囲を全く観察できない分、見るところも限られちゃうから、案外あっさり終わっちゃったな~。まだ11:00だし・・・まあ、この後もあちこち見て回るつもりだからこれはこれでいいか下山に使う道はこれ↓。 ちゃんとした道だけど、この道に対して何の標識がある訳でもないので、大将陣から入ってこちらの正面口への道を降りる方はちょっと気をつけた方がいいかも。 下山開始といっても、まだ見どころはあります。これから向かうのは、上の縄張図で下にある白く塗った区画。という訳で、ここから南に降りていきます。 道はしっかりしているものの、脇の斜面はヤブだらけ。もうちょっと見通しが良かったら、見事な土の造形なんかも確認できるでしょうに極楽寺ルートと同じく、城跡と言っても登山道はほとんど普通の山道だと思ってください。下の段へ降りてく間には水場とかもあるらしいんだけど、ちょっとわからなかったし。時折は、ヤブに紛れて石積みの跡らしいものも見えますが↓。 そのうち、大岩が出てくる↓。 ちょうどこの辺りで、カメラがウンともスンとも言わなくなっちゃって、まっつぁおになりながら大岩の下で電池を入れ替えたんだっけか。電池を替えたら動いたからよかったけど。壊れたかと思って焦ったじゃないか一瞬、赤間ヶ関の悪夢が頭をよぎったのは言うまでもありませぬ・・・だって、古戦場だしさ(←まだ恐い)。 この辺の道には、礎石のような石があった。小さな門でも置いてたのかな?で、この先が↓ 鳥居をくぐって振り返ったとこ↓。 鳥居の先から振り返ったとこ↓。 で、以下が鳥居の段↓。 下段を見下ろしたところ↓。 下段には確か降りられたと思う↓。土塁も残ってたかな? そんなに広くもないので、すぐ見終わっちゃいますんで、石積みなどを脇目に探しながら、ここから下山~。 登山道の脇には、人の手が入ったような地形も時おり見える↓。 極楽寺ルートに比べると、こちらの道には時折岩が露出しているので下る時にはちょっと注意が必要。このあたりまで来ると、道はだいぶ緩やかになる↓。 が、緩やかなら歩きいいかというとそうでもなく、下りの途中から粘土質の道になってくるので、つるつる滑って気をつけてはいても、何度も転びそうになった。いや、確か一度転んだな(笑)。そういう訳で、こちらの道は危ないし疲れますだいぶ降りてきたかな~と思った頃、分岐が出た↓。標識は、ない。 えええ~、ここに来てこんなの困るんだけど!!右の道には、水色のテープがある↓。 一般的に、登山道ではテープが道しるべになるもんだけど、誰がどういう目的で付けたものかもわからないしな・・・なので、あんまりアテにはできない。迷ったあげく、まっすぐの道を進んだ。後から地図を見たら、どっちの道も道路には出られたみたいだけど。 この先も、粘土質の道は続く。なるべく滑らないような足の置場を探しながら歩くものの、こんな風に時折道が狭くて逃げ場がない時なんかはそろそろと慎重に歩くしかない↓。 分岐からゆっくり歩いて10分ほどのところで、やっと登山口を示す案内が出た。これは振り返ったとこ↓。私は左の道から来た。というか、左が登山道です(笑)。 この先はこんな道↓。ああ、やっと人界に戻ったあ~。マジで疲れたわ、この道 ここを抜けると、里の風景が広がる。右の脇道を降りる↓。 降りきったところには、これが建ってた↓。 平賀氏が安芸に来て最初に築いた城、御薗宇(みそのう)城は、ここからすごく遠いというほどでもない。御薗宇城の近くには、平賀家の墓もあるということなので、ホントは行きたかった。けど、他にも行きたいところが色々あったので、今回はそちらは諦めた山上にあった解説板には、 【付近には「御屋敷」「蔵屋敷」という地名や常楽寺跡などが残り、居館や寺院、 家臣の屋敷を配置していたころがわかります。このように、頭崎城は戦国時代末期の 国人領主を考えるうえで、非常に貴重な遺跡です。】とあった。県の教育委員会のホームページ「ホットライン教育ひろしま」によると、頭崎山の山麓には屋敷跡・井戸跡・大工屋敷などの跡が残っているらしいが、ネットではさすがにそこまでは調べられない。調査報告書とかを見ないと、その場所まではわからないだろうな 最初の城・御薗宇城、弘保が築いたとされる白山城、今回の頭崎城、そして平賀家の墓をあわせて現在では「平賀氏の遺跡」として県の史跡に指定されている。そしてこれらのスポットは、白市駅に設置されてる看板で紹介されている。平賀氏は江戸期にはこの地にいなかったのに、「『俺っちの殿様』として扱われてるんだな~」って、(よそ者のくせに)ちょっと嬉しくなった※「東西条バトル編(17)」へと続きます。↓「ぽち」もよろしくね~。にほんブログ村
2013年04月19日

平賀隆保について、「新裁軍記」にはこんな記述がある。 興貞は天文4~5年に父・弘保と袂を分かち尼子方についたが、内には父との確執、 外には大内家の圧力があり進退に困った。やむなく大内の下知に従うも、ついには 病と称して頭崎城に引きこもって軍事に関わらなくなった。 興貞の子・隆宗は祖父とともに白山城にあって様々な軍役にあたっていたので、 義隆はこのスキを狙って隆保を興貞の養子とし、頭崎城の守備にあたらせた。 興貞は大内の威を恐れて、それに従った・・・天文4年正月の親子ゲンカ以降、興貞は一貫して尼子方であって、大内方になったという記述は見たことがない。なので、これは天文5年8月以降に大内家による武力介入が本格化する前のことを指していると思われる。それに、一般的には隆保は隆宗の養子と言われてるけど、隆宗が死んだ後に死者の養子になるっておかしいだろ~ってことを指摘して、隆宗の養子じゃなく興貞の養子だろ!って文章の後に、上の文章が続いているので、興貞の養子とするならこういう流れだったんじゃないのかって推論をしたものらしい。興貞の存命中に隆保がすでに頭崎城に入っていたという仮説は、大変興味深いものではあるけどね。けど、それだったら天文10年初めに頭崎城が落城するまでの間、隆保はどうしてたんだ?って疑問が残る。いや待てよ、隆保が山口に送られたのは頭崎城の落城以後の話なんだから、やっぱこの推論は無理がないか?隆保の父・船木常平が生きてる間に隆保が頭崎城に入るということはちょっと考えられないよな。で、「新裁軍記」ではここまでは確証がないとした上で、その後で毛利家臣・桂家の書状を持ち出して、 隆保は天文18年8月の頃にはすでに頭崎城にあって、新九郎と領地の争いが あったようである。思うに、天文18年7月3日に隆宗が病死した後は 隆保が平賀領すべてを治めようとしたが、新九郎がいたために弘保がそれを許さず、 領地を2つに分けて頭崎城には隆保を置いたのでは(後略)。と続けている。ま、結局のところ、隆保が平賀家の当主におさまった理由はわからないものの、平賀家ではこの決定にぶーたれた。・・・が、義隆の決定には従わざるを得ない。しかし、転機は意外に早く訪れた。大内義隆に対する陶隆房のクーデター、「大寧寺の変」が起こったのが天文20年(1551)。「山口編」だとかあちこちで書いてますが、私はこの変には最初から元就は積極的に加担していた説を支持してますのでご了承くださいね。8月20日、隆房と元就が挙兵。まず隆房は厳島と桜尾城を、元就は佐東銀山城を占拠した。9月1日、義隆自刃。9月4日、元就は東西条へ進軍。義隆方である平賀隆保の頭崎城を攻撃に入った。弘保ら平賀家の者は、これ幸いとこれを放置した。孤立した隆保は、頭崎城で自刃したとも槌山城へ逃れたともいう。「大内義隆記」が伝える隆保の最期は、 腹を十文字に切った後で、これまでの事などを静かに語り、歌を詠み、 書き置くことがあるから硯と紙を持って来いと言っても、鬼のような心を持つ介錯人や 家中の者は硯と紙を与えなかった。 隆保は脇差を取り直して喉元から胸の下へと刀を下ろしそのまま伏せて果てた。 8月26日からの籠城の中で柳原殿へあてた一首があったので、それを山口へ送った。 吹風にたまらずとても今朝の露の必ずのちの世をや頼まんという壮絶なもので、隆保が山口に送られたのが9歳の時だったとするなら、享年はまだ19歳という計算になる。平賀家で実際に喜んで隆保を放置したのかはわからない。ものによっては、弘保と広相が挙兵して頭崎城を攻めたともいうけど、なんにしても切ないのう・・・ちなみに、平賀家の系図には隆保は載っていないそうななので、隆保が歓迎されていなかったことは確かと言ってもよさそうだな。上は頭崎城での討死バージョンだけど、槌山城に逃れたとする説の方でも、最後は元就に攻められて自刃したという話になっている。「新裁軍記」では、槌山城で隆保が自刃したというのは「陰徳記」の記述によるもので、これは誤りだとしている。弘保が頭崎城攻めに兵を出したかまでははっきりとしないものの、少なくとも弘保が隆保に助力したという話は私は読んだことがない。とすると、どこからも救援がない中で、隆保が毛利軍の包囲を抜けて弘保方の兵にも見つからず、槌山城まで逃げていくことが本当に可能なのだろうか・・・私もやっぱり、隆保は頭崎城で亡くなったものと思う。ところで、ちょっと関係ない話で恐縮ですが、「大内義隆記」の隆保の記述の前には気になることが書かれている。これは大寧寺の変を中心に書かれているものなんだけど、豊前での犠牲者の後に安芸での犠牲者らしきものが書かれていて、 【安芸ノ国ハ浅治。小早川。又鶴丸失ニケル。】とあるのだ。この書には誤謬も多いとされてるようで、隆保の8月26日の籠城の記述も誤りとされている。が・・・「又鶴丸」は沼田小早川当主の幼名に多い名だし、この時点では小早川家には又鶴丸は1人しかいないはずなんだよね~。結構しつこく書いたので、記憶力のいい方は覚えているかと思いますが、ここで私が気にしてるのはもちろん、小早川繁平のことです。でも、繁平は天正2年没とされてるしな~。けど、何か気になるなあ~。あ、ちなみに繁平の名が久々に出てきたのでついでに書きますと、繁平の父・正平と隆保はいとこにあたります。って、ここでこんなこと書くなって?(笑)さて、隆保の死後、弘保は元就の助力を得て隆宗の弟・広相(ひろすけ)に家督を継がせることに成功する。家督を継いだ広相は、まず天文21年(1552)3月3日に小早川隆景と兄弟契約を交わす。また2月20日付、弘保あてで平賀・毛利・小早川の三家で盟約を結んでいる。さらには吉川元春が盟約に加わり、四家の一揆契約が成立した。平賀家では、広相の相続に協力してくれた元就に深く感謝し、以後は毛利家とがっちりタッグを組んで様々な荒波へ対処する。天文23年の防芸引分の前、陶隆房の出陣要請に対してなかなか動こうとしない元就にイラつきと疑いの念を持った隆房は、元就と他の国人衆との間を分断しようと画策。弘保と広相は、平賀家にやって来た隆房の使者を拘束し、元就の郡山城へ護送。あくまで平賀家は毛利方であるという自らの姿勢を示すとともに、隆房が元就に疑念を抱いて行動を起こしているという事実を教えて元就に覚悟を決めさせた。その後は毛利家の傘下に入る形にはなったが、新高山城の遠足イベント・・・もとい、『毛利元就父子雄高山行向滞留日記』で女性陣と対面してたり、毛利一族とは引き続き良好な関係を築いていたことがうかがわれる。(遠足イベントについては、「新高山城(17)」以降をご覧ください)それから、「頭崎城(5)」に載せた平賀家の系図を見て、アレ?って思った方もおられるかもしれませんが、広相の兄弟が小早川一族へ養子に入っている。それが、景行。養父となったのは、遠足イベントで顔を出した梨子羽(なしわ)宣平。平賀家に限らず、元就と他の国人衆とは最初は(いちおう)対等な立場で盟約を結んでいたのが、元就が得意の手品を使って対等でない立場を作り上げていったので、景行が梨子羽に養子に行ったのがいつかはわからないんだけど、その時点ではすでに毛利家が上に立つ関係が出来上がってたのかもしれない。隆景の養子じゃなく、庶家の梨子羽家に入ってるからね。景行の「景」は、隆景からの偏諱でしょう。そうして、毛利一族との絆を深めていったものと思われる。そして、関ヶ原以降は毛利氏とともに萩に移り住んだ。安芸国人・平賀氏の名前は一般的には相当知られてないと思う。かくいう私も、安芸の勉強を始めるまでは全く知らなかった。過去の様々なシリーズを書いてる間、当初は書く予定じゃなかったことについてだらだら書き続けては、「なんで私、こんなこと書いてんだろ~」ってコストパフォーマンスの悪さに半ベソかいてて、しまいには「これは私が書いてるんじゃない。あの世におわす関係者様たちに書かされてるんだ」と諦めるようになったもんだけど、色々書いてる中で自分の嗜好というのが段々わかってきた。結局、一般的にはほとんど知られてないような国人とか、「華やかな歴史の陰に埋もれた」どころじゃないくらい、マジで埋もれちゃってる武将とか関係者様たちほど、いとおしく感じる傾向があるらしい。あと、大国が華やかに戦闘を繰り広げるのよりは、田舎の土豪たちがちょろちょろと、でも元気にドンパチやってる方が好きみたい。まあ、そういう人達については史料もかなり限られてくるし、勉強するのもまた大変ではあるけどね。そういう好みを持ってる私が最近書く記事は、なんだかだんだんマニアックの領域に入りつつあるような気がしてきました(笑)。もちろん、私の理解なんて浅いもんだし、上には上が山ほどいるけどね。なので、安芸やマイナーな国人の話に興味のない方にはつまらない記事がこの先も続くかもしれません。ただ、広く知られていなくても、それぞれの地域でみんなあれこれ頑張ってたんだよってことを少しでも知ってもらえたら嬉しいと思います。にほんブログ村
2013年04月18日

こちらが頭崎城の最高点、甲の丸(本丸)です↓。 いやあ、荒れてるなあ~(笑)。暖かい時期に行って、もっと草ボーボーの写真を載せてる人もいたし。郭の周りは木と矢竹がびっしりで、周りがどうなってるのかなどは全く確認できない↓。 郭内部を歩いてみる。見た目だけじゃなく地面も荒れてて、かなり歩きにくかった。が、草と落ち葉に隠れて礎石らしいものも見える↓。 一旦下りて、西側にある道を奥まで行ってみる。途中、かろうじて甲の丸の石垣の名残も見えた↓。 脇を矢竹に覆われた道を奥まで行くと、どんづまり。この北側には、西の丸がある。甲の丸と西の丸の間は深い堀切で断ち切られてるのは知ってたけど、何とかここから行かれる道があるのかと単純に考えていた。が、道はないし、北側の斜面も矢竹がびっしりだから、下がどうなってるのかすら見られない。後で考えたら、駐車場の先のあたりから上がれたかもしれないんだけどね。行かれないものは仕方がない。どんづまりの場所には甲の丸に上がる道が付けられていたので、再び甲の丸へ上がる。甲の丸の最北部から二の丸方面を見たところ↓。 ざくざくと、土に足を取られながら南の木段へ向かう。木段の上部から、下段を見下ろしたところ↓。 なるほど、ここが大手なんだな。それにしても、郭そのものには手が入れられてたけど、周りが木と矢竹ばっかりで全然周囲の状況がわからないのが痛い。さすがにここじゃ、あんまりまったりはできないな~。斜面の木が切られてたら、下方にある竪堀群なんかも見えたかもしれないけど。ただ、城跡の整備なんて一口に言っても、実際やるとなったら相当な時間と労力がかかるだろうからな~。けど、もう少し遺構が確認しやすいように手を入れられれば、頭崎城の集客数も上がるんじゃないかと思うけどな。二の丸を抜ける途中にも、礎石っぽいものを見つけた↓。 二の丸入口から下の広場を見下ろしたところ↓。上から見ると、結構な高さがある。それに、下の道の斜面は相当急に削られてるのがかろうじてわかる。 木段を下りて、煙硝の段へ向かう道と二の丸の切岸を見たところ↓。 よくこんなもん、人力だけで作ったよな~。これが、頭崎神社と接する二の丸東側の切岸↓。 ふう、大体こんなとこかな・・・時計を見ると、10:30。小腹もすいてきたし、ここで食べておくと後が楽だな。とは言っても、ベンチのある場所は風が強かったし、二の丸とかは周りに木が多くて薄暗いからイヤだし、どうしよう・・・幸い、頭崎神社は奥まったところにあって風が来なかったので、神社の拝殿(神楽殿?)に腰かけさせてもらった。古戦場だけど、真ん前には本殿があって神様と差し向かいで食べてるようなもんだし、きっとここなら神様が守って下さるだろう(←まだ恐い)で、ここからランチタイムに入る訳ですが・・・この後はもう主郭部を降りてしまうので、その前に歴史の話の続きをしましょうか。どうにも理解しにくい部分もあるので、あんまり書きたくないんだけど(笑)。天文10年に頭崎城が落城した後は、平賀興貞の嫡男・隆宗が家督を継いだ。(平賀氏の系図は、「頭崎城(5)」をご覧ください)隆宗もなかなかカッコイイんだけど、この人については別のところで書こうと思います。が、隆宗は天文18年(1549年)に亡くなっちゃいます。隆宗の生年は不明で、祖父・弘保、父・興貞もこれまた生まれ年がわからないので、得意の計算もできませんが(笑)、隆宗の弟の広相が大永8年(1528年)生まれなので、少なくとも享年は22歳以上といえるでしょう。20代なかば位がいいとこじゃないかと思うけどね~。計算上、30歳くらいまでの想定は可能かとも思えるけど、あんまり隆宗の享年を上げすぎると、その分弘保もヨボヨボになっていくからなそしてこの隆宗の死が、平賀家に新たなトラブルを呼び込むのです。弘保としては、隆宗の跡はその弟の新九郎(後の広相)に継がせたかった。が、主君である大内義隆はそれを認めず、隆保という子を養子にさせて、平賀家を継がせた。この隆保・・・出自は、小早川氏の庶家・船木(舟木)氏。新高山城の主郭部で、「船木への道」という標識が2本出てましたが、あの船木です。ので、新高山城の北側に領地を構える一族だったと思われます。ここで頭崎城の戦いの話に戻りますが、天文9年4月に沼田小早川氏が尼子方から大内方へ陣替えした際、隆保の実父である船木常平はそのまま尼子方へ残ったんだそうな。そのため、大内方へ転じた惣領家は船木常平の三石城を攻めた。常平は天文10年(1541)正月晦日に自刃したと「大内義隆記」は伝える。・・・て事は、頭崎城の落城と同時期ってことか。常平は滅ぼされたが、常平の3人の子は山口の義隆の下で育てられた。まあ、人質としての扱いだとは思うけど、3人もお持ち帰りしなくったって・・・この時、隆保10歳。数えだろうから、実年齢は9歳ぐらいかな?器用な子だったらしく、和歌や蹴鞠に秀でていたという。義隆はこの子に、平賀氏の家督を継がせることを決定した。隆宗には弟もいるのに、なんでわざわざ反逆した小早川の、しかも庶家の子なんかを持ってきたのか?この理由については、色々と言われている。まあ、一番多いのが、義隆の寵童だったからというもの。あと、「平賀つぶし」。寵童については置いといて、平賀つぶしはどうだろうね~。確かに、頭崎城攻めには時間がかかって、ついには義隆みずから出陣するにまで至った。が、平賀氏はもともと大内家との縁が深く、鏡山城の戦いあたりで一旦は尼子方になったものの、たぶんそれから何年も経たないうちに弘保は大内方に帰順しているものと思われる。それに、隆宗の生年を考えた時に、恐らく頭崎城の戦いの最中に元服したんじゃないかと思うんだよね。義隆から「隆」の一字をもらってね。「隆」の偏諱は沼田小早川氏なんかが結構いい比較例になるんじゃないかと思いますが(笑)、隆宗と数年違いの生まれだと推定される小早川正平は、はじめ「詮平」(あきひら)と名乗った。頭崎城の戦いの記事で本文を引用させていただいた吉野健志氏は、その論文『いわゆる安芸郡山城合戦の再評価』の中で、尼子詮久からの偏諱の可能性が高いとしている。偏諱の原則からはちょっと外れるけど、沼田小早川氏が尼子方だった時期はちょうど正平の元服適齢期にも当たるので、確かにその可能性はある。そして天文12年に討死した際には、「小早川正平」と名乗っている。尼子詮久からの偏諱を受けたんだったら、きっと大内方に転じた後すぐにでも改名しただろう。改名の時に「隆」の字をもらえないのは、当然だよね。もともと沼田家は大内さんちとは仲良くなかったし。が、大内方として討死して、その後も(大々的には)尼子方へ転身することもなかったのに、正平の子供(繁平)も「隆」の字はもらえなかった。まあ、繁平さんについては新高山城の相続イベントであれこれ書いたように、かなり複雑な上に解ってないことも多いので、比較の対象には向かないかもしれませんが。ところが、交戦相手(興貞)の子(隆宗)には、「隆」の字を与えている。弘保をつなぎとめる狙いもあったかもしれないけど、やっぱり平賀さんちへの信頼というか愛情みたいなものは義隆の中にも受け継がれてたんじゃないかな~って、名前を見てると思うのだ。なら何で、隆保に継がせたのか?わっかんないんですよ~!わかったら苦労しないですよ~!! (←ヤケ)平賀領は東西条に隣接するから、「つぶし」じゃなくて重要な地を信頼できる家臣に任せたかったって可能性もあるけど、たいがいこーゆー時って後継者が幼いのを幸いに、って感じなのが、新九郎はもう21歳。弘保もいるし、立派にやっていける。しかも、その後の新九郎の人生を見ると将来が危ぶまれるほどに愚鈍な子だったという訳でもない。だから、わざわざ反逆した国人の、しかも庶家の次男坊を、古くから信任が厚く、また重要な地にある家の当主に据えなければならないほどの理由が見つからないのだこうなってくると、もう「寵童だから」の一言で片付けたくなってくるまあ、この記事を書いた後でもしばらくぼんやりと考えるとは思いますが、「寵童だから」ってみんなに言われるのも仕方ないべ~、義隆!!ってちょっと文句を言いたい。ちなみに、「大内義隆記」では隆保の相続は隆宗の遺言によるものだったとしている。・・・が、それはちょっと厳しくないか?にほんブログ村
2013年04月17日

ひとつの戦いの話が終わったので、一旦ここで平成の世に戻ります。 煙硝の段を出て、今度は分岐を上の道へ。左が二の丸の切岸↓。 この道の途中にあった大岩と、そこからの景色↓。 だから、高いところが苦手だからあんまり身を乗り出せなかったんだってば・・・(笑)。この道を奥まで行くと、小広い場所に出る↓。上の縄張図では、黄色のルートの終点がここにあたる。 なんか、色々案内が立ってるんだけど・・・ 大将陣への案内がこんなところに・・・説明は間違ってはいないんだけど、大将陣へ向かう道の方面に立ってないから、ちょっとこの説明だけだったら正しく大将陣へ向かうのは難しいかもしれない。今回はやむを得ず極楽寺ルートを登ってきたけど、この時私の持ってた縄張図には大将陣の位置は書かれてなかったから、この看板だけではたぶん大将陣へは行かれなかったな・・・まあ、結果としては良かったのかもしれないこの場所からは各所へ行かれるようになってて迷っちゃうんだけど、まずは神様へご挨拶しよう。 はい、ノートに書いてある通り、これは頭崎神社といいます。大永5年(1525)、平賀弘保により勧請されたといわれてるものです。頭崎城の築城が大永3年(1523)とされているので、築城当初からあった古い神社って訳だな。で、こちらがその本殿↓。 これは18世紀のものだそうです。だから弘保や興貞が目にした神社とは違うものなんだな。山城の頂上付近とはいえ、要の城として築かれた頭崎城の鎮守な訳だから、当時はもう少し立派なものだったかなって気はするんだけどね(笑)。ちょっと申し訳ないとは思ったけど、神様にお断りしてから石段を上がってお宮に銘とか彫りがないか確認しに行った。けど、はっきりしたものは確認できなかった。頭崎城神社の境内には、平成12年12月吉日付けの新しい石碑があった。『頭崎城主要部分 土地17028平米』とあって、その横に寄附者の名前が8人分書いてある。へえ~、ここって個人の所有だったんだ。てか、「主要部分」だけが寄附されてるのか。その他の山林部分は今も個人所有なのかもしれないな。個人の所有する土地で一般開放されてる城には以前にも行ったことがあるけど、こうやって整備された上で解放してもらえるってのはホントにありがたいことだよな~。とか思いながら石碑を覗きこんだら、8名の寄附者の中に「平賀」さんが1名と「西平賀」さんが1名おられた。この平賀さんは、あの平賀さんだよな・・・西平賀さんは、分家とかかもしれないな。元の広場に戻って、今度は縄張図のグリーンの区画・太鼓の段へ向かう。 ↑太鼓の段の石垣。右に「三の丸」と書かれた案内があるけど、この道を奥へ行けば三の丸へ行かれるって意味だったらしい。この時はそれがわからなかったので、行きませんでしたで、太鼓の段へと登ります↓。こっちにも石垣が残ってて、嬉しいな 東 ここにはベンチもあったけど、とにかく風が強いわ寒いわで、まったりするどころじゃありませんでした。でも、2段に分かれた郭はなかなかの広さがあった。で・・・、たぶんこちらが太鼓の段の東側に位置する三の丸じゃないかと思われます↓。行かれそうだったのに行ってない場所を写真で見ると、リベンジしたくなってくるよなあ。 太鼓の段を下りたところ↓。 ここは当初予定してた正面口の登山道がある場所でもあるので、正面口から上がってきた場合は、一気にあちこちに道の延びたこの光景を目にすることになります。左から、煙硝の段への道、二の丸への階段、頭崎神社、三の丸への道、最後に太鼓の段への登り道と選択肢は5つ。どれでもお好きなものからどうぞんで、私は正面にある二の丸への木段を上がります。上がってすぐが二の丸(縄張図のピンクの区画)↓。 う~ん・・・草も刈ってくれてるし、冬枯れもしてるんだけど、やっぱ荒れてるなあ。主郭部の写真は、先人の訪城記で色々見てはいたけどね。なまじ昨日、新高山城なんか歩いたもんだから、余計荒れてるように見えてしまう。ここには、やたら岩がごろごろしてた↓。 二の丸からは、さらに北側の本丸へと続く道が延びている↓。 道の途中にも巨岩が↓。これ、昔からあった岩たちなのかな~。 奥へ進むと右に一段上がった小さな郭があり、さらにその上の本丸へ上る木段がある↓。 上がる道の途中には、石垣が↓。タクシーのおじちゃんが言ってたのは、これのことかな? にほんブログ村
2013年04月16日

前回、頭崎城の陥落まで書きましたが、まだ話は終わっていません。歴史の話の最初の方で、頭崎城を「震源地」と表現しましたが、それはここからの流れにかかってくるのです。 1月12日 厳島神主家・友田興藤がまたもや大内家へ反旗を翻す。 1月13日 尼子軍が撤退を開始。 1月15日 大内方の黒川隆尚、警固船の将として厳島へ向かう。 能島・来島の警固船30あまりが急ぎ厳島社の大鳥居前に出て戦うも、 敗れる。大内軍がこれを追う。 厳島にいた桜尾兵はそのスキに廿日市へと走る。 棚守房顕親子が大野沖へ黒川隆尚を出迎え、厳島へ渡る。 3月4日 毛利元就が大内義隆の命を受け、佐東銀山城攻めを開始。 3月18日 義隆、岩国から大野へ進み、門山に陣を置く。 3月19日 門山の北へ陣を進めるため、藤掛七尾に下見に出向いた弘中隆兼ら 大内軍を、桜尾城からの追撃兵が襲う。 3月23日 義隆が七尾に移陣し、桜尾城を包囲する。 3月27日 佐東銀山城攻めの陣中において、竹原小早川興景が死去。 4月5日 桜尾城では友田興藤だけを残し、夜半に城兵がすべて逃亡。興藤自刃。 4月6日 大内軍、五日市城包囲。 4月8日 五日市城に逃亡していた興藤の子・広就が自刃。厳島神主家滅亡。 5月?日 佐東銀山城に対し、武田旧臣・香川光景らが開城を勧告。 城兵はこれに応じ、開城。 5月13日 佐東銀山城兵に陰謀の噂が立ち、城兵を収容していた伴城を元就が攻撃。前にも出した図を再度掲載しますと、 東部が片付いたので、ここからは大内方による西部の掃討戦になります。で、左下にある桜尾城、上の流れではここに関するものがほとんどで、この城は厳島神主家の本城。上に出てくる大野・七尾は、現在の廿日市市にあたります。桜尾城の友田興藤は、かつて鏡山城の戦いを招いたり、大内家にとってはちょいと目障りな存在。ところが、興藤が再び反抗した天文10年1月12日は、尼子軍が撤退する前日だった。間が悪いにもほどがあるってゆーか・・・大内VS尼子の主戦場となった吉田郡山が落着したので、義隆は残る尼子派の最大拠点・佐東銀山城と興藤の桜尾城の攻略にかかった。3月4日からは、元就が佐東銀山城攻めを始める。陶隆房に命じられた天野興貞(前回参照)も、この戦いに参加している。佐東銀山城の攻防については、手持ちの資料では詳しいことがわからないのであまり書けなかったけど、尼子詮久の威を借りて帰国していた銀山城主・武田信実は尼子本軍の退却の後に再び逃亡したという。「続本朝通鑑」には4月に互いに死傷者を出したという記述もあり、佐東銀山城自体はもう少し頑張るようなんだけど、そんな経緯なものだから、どの時点をもって安芸武田氏が滅亡したというべきか・・・何にせよ、安芸武田氏はここで終わった。余談になるけど、佐東銀山城の開城後に接収した武田氏の什宝の中に「新羅三郎の鎧」があったと棚守房顕が覚書の中に書き記している。安芸武田氏は、甲斐の武田氏と同じ一族。甲斐武田氏といえば、「御旗楯無も御照覧あれ」の名セリフが有名で、楯無鎧(たてなしのよろい)は新羅三郎義光以来の相伝と伝えられているもの・・・「おお、これって、楯無のことかあ~!?やっぱ武田一族だなあ」って1人ニヤニヤしたわたくし・・・。まあ、タナモリは楯無とは一言も書いてませんが(笑)。で、接収された鎧は元就から陶隆房へ贈られ、義隆へと献上され、さらには厳島社へ奉納されたという。余談がもうひとつ。佐東銀山城攻めの陣中で、竹原家の興景さんが亡くなってます。ここから「小早川隆景」が誕生する訳ですね。元春ちゃんも吉田郡山で初陣を果たしたといわれてるし、次代を担うニューフェイスが一連の戦いの中でちらりと顔をのぞかせる。元春11歳、隆景8歳。早く大きくな~れ~ああ、子供の両川を思い浮かべてニヤついてる場合じゃありません。桜尾城の話に移りましょう。それまでは周防にいた義隆だけど、ここから陣をじわじわと北上させる。2月に廿日市に行った時、私はここを歩いた。写真を撮ったり他へ寄りながらだったから、桜尾城から藤掛七尾までの正確な所要時間まではわからないけど、目と鼻の先といってもいいくらい近いです。ここへおつかいに出た弘中君達を、桜尾城から出た兵が攻撃しているので、佐東銀山城との連携も取れずに孤立しているといえる状況でも、まだ活発に抵抗していた様子がうかがわれる。ちなみに、内藤隆時の弟はこの時に討死している。それでも義隆は陣を進め、ついには桜尾城を包囲した。友田興藤の最期についても、タナモリが書いている。家中の者が離反し、夜中に興藤だけを残して城から脱出したという。いや、大内の本軍が取り囲んでいたなら、桜尾城ってそんなに大きな城でもないし見つからずに城兵すべてが脱出するなんて不可能だろう。投降して、許されたのか?これについては誰も書いてくれてない。1人だけ残されたことに気がついた興藤は、城に火をかけ自刃したそうな。訳のわからないのがその後で、夜が明けてから大内軍は桜尾城へ入った。そこには、興藤と思われる焼けた遺体があった。が、もとどりはちゃんと残っていたので、右田右京・神代左馬助の2名はその毛を抜き始めた。同僚たちは「おかしな奴だ」と言ってその様子を見ていたとタナモリは言う・・・なんすか、この記述!?おーまいがー・・・・・・興藤の子(あるいは弟)の広就は五日市城へ逃れていたが、五日市城主・宍戸氏によって自刃させられたという。広就は弓の名手だったので、大内軍へ3本矢を打ち込み、弓を切り折って自刃したと、タナモリは伝える。広就の首級は桶に入れられ、9日に七尾で義隆による首実検の後、桜尾城で勝鬨を上げたそうな。ここにおいて厳島神主家も滅亡し、以後は実質的に大内家の支配下に入る。タナモリの覚書によると、前年の天文9年9月から厳島の鹿が多く死んだそうで、神主によくない事が起こると囁かれていたそうな。この後、5月24日には七尾から佐東銀山城へ陣を移す。かつて自分が苦い初陣を果たした城に入って、義隆もさぞ満足したことだろう。残る吉川は、石見・備後の国人らとともに大内家に服属。安芸の尼子勢力の一掃だけでなく、周辺国の国人もおまけでついてきて、終わってみれば義隆の完全勝利となった。しかし・・・おみくじで「大吉」を引くと一瞬嬉しいけど、本文って意外にいいことが書かれてないでしょ?満月だって翌日には欠け始める。「祇園精舎の鐘の声」は「盛者必衰の理をあらわす」と続く。安芸の勝利の後で義隆が起こした行動は、月山富田城の戦い。これの結末は「新高山城(4)」で書いてますので、忘れた方はそちらを見てね。月山富田城攻めの後は、義隆はぱったりと軍事から手を引いた。大内氏滅亡の序章となる大寧寺の変は、そんなに単純な理由で引き起こされたものでもないんだけど、月山富田城での鮮やかすぎる敗北と無縁とも言い切れない。安芸でこれほどまでの勝利を収めなければ、尼子の本拠まで攻め込むことにはならなかったかもしれないし、月山富田城の戦いがなければ大寧寺の変も起こらなかったかもしれない。一方の尼子詮久は、この一連の戦いで受けたダメージは大きく、かつての勢いはなくなった。天文の初め頃から時間をかけて東を攻略してきたけど、背後が崩れたことでこれ以上の進展も見込めなくなった。詮久の東上作戦の目的を上洛と捉えている人は、この状態を「詮久の上洛の夢は消えた」と表現する。私は尼子氏の歴史についてはほとんど知らないので、上洛が目的だったかどうかは自分の中での結論は持っていない。が、詮久が頭崎城の救援に向かわなければ、詮久の目的がもう少しはっきり見えてきただろうと思う。救援に向かわなければ頭崎城も佐東銀山城も大内氏の大軍に飲み込まれて、結局東上を中止せざるを得なかった可能性もあるけど。つまり、詮久の東上の真意がどこにあったのか、それを歴史の闇に葬ったのは他ならぬ頭崎城だったと言えるんじゃないだろうか。大寧寺の変で義隆を失った大内家には、義隆以前までの勢力はなくなっていた。この隙間で力をたくわえたのが、元就。大寧寺の変の数年後には防長を制圧し、あらたな中国の覇者となる。もちろん、歴史ってのは絶え間なく続いてるものだから、頭崎城だけが特別な存在って訳でもないんだけど、頭崎城をめぐる戦いによって大きく流れが変わったことは確実と言っていいだろう。頭崎城を「震源地」と呼んだ理由は、そこにある。にほんブログ村
2013年04月15日

尼子詮久が最初から頭崎城に向かってれば、もっとこの流れはわかりやすかった。何で詮久は頭崎城ではなく、元就の居城・吉田郡山城へ向かったのか・・・このことも、郡山合戦と頭崎城の戦いの関連が語られなかった理由のひとつ。それまでの通説(前回を参照)では、何年もかけて東をガンガン攻めてきた詮久が、「あ。毛利を討伐しちゃおう」てなカンジで、おもむろに安芸に舞い戻ってきたような印象を受ける。詮久の東上作戦は、だいたいの人が上洛を目指したものだったと捉えていて、今シリーズで何度も本文を引用させていただいている論文の著者・吉野氏も、詮久の目的を上洛と見ている。通説では、上洛にあたって背後の憂いを除くために毛利討伐を決定したとの理由づけがされてたんだけど、「だったら先に片づけとけよ!」ってツッコミを入れたくなるのは私だけじゃないと思う。これじゃ詮久が頭悪い子みたいじゃないか詮久の安芸入りについて、吉野氏は 【尼子氏は、頭崎城の囲みを解かせ、併せて尼子方を去った安芸の大内方諸国人を 自陣営に引き戻すことを目的としていたのである。その背後には、戦国大名の 存立基盤の一つである知行・所領の保障者という側面の維持がある。(中略) 尼子氏がいざという時、あてにならないということになれば、その基盤は一挙に 失われるのである。】 (芸備地方史研究228「いわゆる安芸郡山城合戦の再評価」/吉野健志)と述べておられる。鏡山城シリーズなどで安芸の国人一揆とかについて書いてきたけど、結局のところ、大国のはざまにあってその影響を受けざるを得ない国人衆にとっては、自主独立を目指しながらも、時には大国に依拠しなければやっていけない。自分のポリシーを貫くことは立派だし、その結果華々しく散ってしまったとしても名は残るし、日本人は判官びいきが大好きな民族だからのちの世でやたら称えられる場合なんかもある。が、現実問題として一族郎党を抱える領主としては、一族が族滅するかもしれないポリシーなんかは二の次。いかにして生き残るか、生き残るためにはどこに付くか、そっちの方が大事。だから、安芸では何度もオセロゲームが繰り返されてきた。そこには(大体の場合)ネチネチした感情論は伴わないし、ドライに陣替えが行われてきた。歴史の話の中では、バックを変えることを「寝返り」とか「裏切り」っていうけど、どうも現代の感覚だとこれらの言葉はドロっとしたイメージがあって、ドライな生きる知恵の選択肢のひとつを表現するには適切ではないように感じる。なので、私のブログの中ではそういう言葉はあまり使わないようにしている。そしてここでは、「自分を守ってくれるのか」という問題は頭崎城だけじゃない。周囲の尼子派の国人衆も、注視しているのだ。「ダメじゃん、尼子・・・」となれば、すでに天文9年の前半から義隆が大規模に軍を展開している時期でもあるし、周囲の尼子派がごっそり大内方へ陣替えしてしまうかもしれない。安芸だけじゃなく、石見や備後にまで波及すれば『ふりだしにもどる』のコーナーにサイコロが止まってしまう可能性だってある。安芸における尼子派の最大勢力といえば、武田氏。大永年間には、武田氏が支援した厳島神主家・友田興藤が大内家に反旗を翻したことによって、鏡山城の戦いが引き起こされた。その武田氏でさえ、詮久が安芸入りした後の9月13日には一部が大内方へ奔り、同族が殺されるなどの内紛が起こる有様だった。この事件には、義隆が近くまで出陣してきた事も大きく影響している可能性がある。実際には義隆が動いているのはもっと前の話だから、義隆の出陣から詮久が出陣を決定するまでの間にも安芸には動揺が広がり、安芸の全域で双方が入り乱れての状況であったことが窺われる。これらの情勢を見て、詮久は安芸の救援に乗り出した。乗り出さざるを得なかった、という方が近いかも。詮久はなぜ吉田郡山を選んだのか? 【第一に安芸国でも最有力の大内方国人毛利氏を攻めることによって 頭崎城の包囲を解かせ、平賀氏を救出すること。 第二に安芸国に軍事的圧力をかけることによって武田氏内部を安定させること。 第三に尼子氏が出兵するに当たって補給がもっとも容易な尼子氏勢力圏に隣接する 大内方の要地であったこと。 そして第四に、離反した毛利氏を尼子方に引き戻すことである。】 (前掲論文より)通説では、6月に尼子国久の新宮党が備後から入って失敗したから、今度は石見ルートを取ったと説明される。が、敵地へ入るとなれば補給線の確保を考えるのは当然のことだし、そもそも(郡山合戦の前哨戦としての)新宮党による祝屋城攻めは現時点で確認されていない。だから、この説は無理がないと思う。毛利攻めに成功していれば、詮久のこれらの狙いは吉へと変わり、さらには安芸の風土の特殊性から勝利が勝利を呼び込み、詮久にはウハウハの結末が待っているはずだった。現に、第一の読みは当たった。敵方の詮久が、毛利の本拠を攻撃すれば頭崎城を包囲している大内軍は救援に向かい頭崎城の包囲は崩れるだろうと読んでいたことからも、天文9年なかばまでの時点で大内氏と毛利氏の親密さは周囲にはっきりと認識されていたことがうかがわれる。ま、天文6年には元就は長男の隆元を山口に人質として送ってるしね。もちろん、大内方としての立場を明らかにするために送った訳だけど、当の隆元は山口で大切にもてなされ、優雅な人質生活を送っている。ところが、なぜか通説では義隆が元就を試したとされている。以前は通説ってあまり疑いもせずにいたんだけど、最近になって自分でも色々読んだりしていると、頭崎城の件に限らず結構通説ってのもアテにならないもんだな~と感じるようになった。別に、頭から通説をバカにしてる訳じゃないですよ。ただ、いくつかの誤認が重なったり、史料(特に軍記物)だけを鵜飲みにするとまるで迷路を抜け出せなくなったように、事実と全く異なる説が大手を振って語られることってあるんだな~ってのを、つくづく感じる。まあ、歴史の真実なんてのは結局のところ私達にはわからないものだし、吉野氏の説も実は違っているのかもしれない。が、頭崎城および郡山合戦に関する一連の解説には無理がないと思うので、今はこちらを支持している。年が明けて天文10年(1541)、大内軍は尼子軍との決戦に臨んだ。ここでは、尼子方の安芸国人・吉川興経が奮闘した。新高山城の相続イベントに顔を出した、あの興経さんです。詮久が吉田郡山を選んだ第三の理由は補給線の確保とされているけど、強力な援護を期待できたことももちろん含まれていたと思う。興経さんは、武勇の誉れ高い人だったからね。ちなみに、「陰徳記」などでは元春ちゃんの初陣もこの時だったとされています。・・・で、結果として詮久はその夜のうちに撤退を決意した。郡山合戦については、元就が幕府へ提出するための報告書を書いていて、それによると尼子の軍勢は出雲・伯耆・備前・美作・備中・備後・石見、そして安芸半国の国人衆が参加し総勢3万とある。ちょっとこの報告書も一部情報操作がされていて、これだけを鵜飲みにはできないんだけど、それはともかく、それなりの大軍勢が総退却を開始。大内方でも当然追撃はするが、雪に阻まれて多くを取り逃がしてしまった。雪に助けられたものの、逃げる尼子方でもこれまた雪が災いした。詮久自身はどうにか帰国したが、兵に多くの犠牲を出したという。今日の記事でも、タイトルの頭崎城はろくに顔を出していませんがそちらはどうなったのか?前回の記事のタイムテーブルは、天文10年1月30日を最後にしていますが、この文面が問題でね。「西条表の件は落着したので、佐東銀山城攻めをお願いします」って吉田郡山にいる陶隆房が書いているのだ。ここから、頭崎城は天文10年2月頃まで陥落していなかったと吉野氏は推測している。天文4年の父・弘保との武力衝突から実に6年。尼子方による援護があったとはいえ、弘保は頭崎城の縄張をよく知ってるはずだし、その上で本気出してる大内方の攻撃をこれだけの期間しのいだんだから、城主・平賀興貞はもっと評価されていいんじゃないの? 【慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ、毛利氏に従って萩に移るまで、 頭崎城は平賀氏の本城として使用されました。その間、何度も改修を重ねたと思われ、 その城域は東西900m南北600mに及び、中世の山城としては広島県内では 毛利氏の郡山城に次ぐ広さがあり、平賀氏の支配領域のほぼ中心に位置しています。】 (現地解説板より一部抜粋)主郭部の遺構についてはまた後で紹介するけど、普通に城跡を歩いていて現在見られる部分は、かなり限られている。だから、解説に大規模な城だと書かれたところで、全然ピンと来ない。実際、現地では結構あっさり終わっちゃったし(笑)。ところが、吉野氏の論文に添付されてる頭崎山全体の見取図を見ると、城域が広範囲にわたってるのもさることながら、主郭部の北側に感動的なほどの大規模な郭群が認められる。 【頭崎城は16世紀末まで使用されたため、現在残る城跡が天文年間のまま保存されて いるとは考えにくいが、これほど大規模化した背景には、長い籠城戦が影響していると 思われる。その用途としては、合力の援軍を収容する駐屯地として使われたものだろう。】 (前掲論文より) 大内ファンでありながらも、この城で興貞が粘りに粘ったのかあ~ってあれこれ想像に耽りながらこの見取図を見てると、ホントに飽きない。で、その頑張りやさんの興貞はどうなったのか?頭崎城で討死したともいわれるし、出家して仏門に入ったともいわれる。これだけの長きにわたって落城しなかった頭崎城が、どうやって最後陥落したのか知りたい・・・どっかの旧家の蔵の中とかから新しい史料出てこないかな にほんブログ村
2013年04月14日

私が支持する吉野氏の説において、たぶん長く語られてきた通説と最も異なるのが、元就の居城・吉田郡山城での戦い。それまでどう言われてきたのか、簡単に通説を紹介しますと、 天文8年11月、尼子詮久は尼子に背いた元就の討伐を表明した。 まずは翌9年6月に叔父の新宮党・尼子国久を派遣。備後路から宍戸氏の城・祝屋城を 攻めるが、宍戸勢の奮闘により敗退。 8月に詮久みずから3万の大軍を率いて今度は石見路から安芸へと入った。 元就は城下の者を城に入れ、男女8,000人で籠城した。うち、兵は2,400。 大内義隆は元就の忠誠心を確かめたいと思い、すぐには援軍を送らなかった。 が、寡兵の毛利軍が尼子の大軍を相手に奮戦して長期戦となったのを見て 義隆も満足し、陶隆房に10,000の軍を預けて郡山城の救援に送り出し、 12月に入ってようやく援軍が到着した。 そして天文10年1月13日、毛利・大内の連合軍が尼子軍を退け、詮久は出雲へと 撤退した。「オマエは・・・また毛利かよ!!」って怒らないでよ。ちゃんと関係あるんだってば!吉田郡山城の戦いを知らない方は、この流れをよく押さえておいてくださいね。では前回の続き。8月に入り、大内義隆は岩国手前の玖珂郡本郷まで進む。一方、尼子詮久も石見路から安芸へ侵入。佐東銀山城から逃走していた武田信実も、詮久とともに安芸入りしたとされる。詮久の安芸入りに先立って尼子国久が攻めてきたという通説は、感状がないなど確実な史料が見つからないことから、近年では否定される傾向にあるという。 8月7日 義隆、厳島社に剣馬を奉納。 9月4日 詮久、吉田郡山近くの多治比に着陣。翌日から毛利との小競り合いが始まる。 9月? 義隆、岩国横山まで進む。 9月26日 尼子軍が毛利領の坂・豊島を襲い、大内方の杉隆宣・竹原小早川興景と交戦。 元就も郡山城から出撃して、勝ちをおさめる。 10月4日 陶隆房が大内家臣の杉・内藤らとともに警固船2~300で厳島へ渡る。 隆房は太刀二振・神馬二頭を奉納し戦勝祈願。翌5日に海田へ上陸する。 10月11日 義隆、岩国へ厳島神官・棚守房顕を呼び寄せ、13日に謁見。 太刀一振と千疋を与える。 10月16日 弘中正長が厳島社へ代参。大内氏の氏寺・興隆寺の真如坊が祈願のために 厳島へ7日滞在する。 12月3日 陶隆房、郡山城東方の山田中山へ着陣。 12月11日 陶隆房、安芸国人・宍戸元源と元就に命じて尼子陣営の宮崎長尾を 攻撃させる。 1月12日 厳島神主家・友田興藤が大内家へ反旗を翻し、能島の警固船を遣わして 厳島を占領する。 1月13日 吉田郡山にて尼子軍との決戦。夜に尼子軍が総退却を開始。 1月30日 陶隆房が安芸国人・天野興定に佐東銀山城へ向かうよう書状を出す。 さてと、一気に郡山合戦の終結までを書き出しましたが、これ以外にも、吉田郡山では小さな戦いがいくつもあります。が、あくまでメインは頭崎城についての記事なので、ここでは郡山合戦の細かい経緯までは見ていきません。「頭崎城がメインったって、どこにも出てきてないじゃん・・・」って思ったアナタは正しい。確かに、表立っては出てきません。それゆえに、これまでは頭崎城と郡山合戦が深いつながりがあることが見過ごされてきたようなのです。だけど、上の動きの中でもちゃんと頭崎城は見え隠れしているのだ。最初の段階、義隆サイドではやたら厳島関連の動きが目につきます。実際はもっと色々奉納したりとかあるんだけど。伝統を重んじ、寺社の保護などにも積極的だった義隆だけど、わざわざ厳島詣でに軍を率いてきた訳じゃありません。義隆が岩国入りする以前に、すでに頭崎城の他に安芸西部でも戦を展開していたんだから、一連の奉納やら何やらはやはり戦勝祈願がメインでしょう。特に私の目を引くのが、10月16日の記述。大内氏の氏寺・興隆寺については「山口編(21)」以降で紹介してますが、大内時代には大内氏が唯一にして最大の興隆寺の大檀那。それはもう、大内氏とは深いふか~いつながりのある大寺院でした。10月13日に義隆が謁見した厳島神職の棚守房顕、この人が色々書き残していて、史料としての価値が高いとされている。そのタナモリが書いた「棚守房顕覚書」には、10月16日は『氷上ノ真如坊ハ御祈念ノタメ七日在島アリ』としか書かれてないんだけど、私はこれを見て「おお~!義隆、気合入ってんじゃん!!」ってちょっと感動したね。ま、ちょっとこの感覚は大内ファンにしかわからないかもしれませんが・・・(笑)。「氷上」はもちろん興隆寺(氷上山興隆寺)を指す。「真如坊」は、興隆寺の塔頭のひとつでしょう。興隆寺は往時には堂宇は100、僧は500人もいたって規模のお寺だからね。大内氏にとって重要な寺の僧侶が、遠征軍に混じって周防の端までやって来て、厳島で7日おこもりをした・・・「御屋形様!安芸へ行かれるってホントですか!?私、いっぺん厳島へ行ってみたかったんですう~!!一緒に行ってもいいですかあ」・・・のハズがないでしょう。真如坊が興隆寺の数ある塔頭の中でどの程度のポジションを占めてたのかはわからないし、おこもりの目的もタナモリは書いてくれてない。が、やはりこれも戦勝祈願だったと見ていいだろうと私は思う。それもかなり本気の、ね。ここまでは、私の推測。が、幸いタナモリはもっとはっきり陶隆房の祈願の目的を書き残してくれている。それが、「棚守房顕日々記」の中の『西条表へ出陣あるべく』という文言。10月5日に海田へ上陸した隆房は、12月3日に吉田郡山に着いている。この2ヶ月のブランクも、義隆が元就を試したという通説を生み出したひとつであるようだけど、試すなら隆房は参拝した後で岩国に戻ればいいじゃん?吉田郡山までの途上で尼子方との戦を展開していたという可能性もなくはないけど、それならそういう記述がどこかにあってもよさそうだよね。「棚守房顕覚書」の方では、海田に上陸した後そのまま吉田へ向かっているような記述になってるんだけど、それが正しいのだとしたら、海田から吉田までの40km程度の道のりを、隆房は2ヶ月もかけて進んだことになってしまう。これでは、いくら大内家大好きの私でも「おいおい、隆房ちゃん大丈夫かあ~?これじゃ後詰めになんないべ~!!」って思わざるを得ない。しかし、隆房の上陸に先立つ9月26日には、毛利領内で杉隆宣が竹原小早川興景とともに戦っている。前々回の記事にも書きましたが、杉隆宣は弘中隆兼に代わって頭崎城攻めの最高責任者となった大内家臣。なので、頭崎城を攻めていた杉隆宣の元に、尼子詮久が毛利攻めにやって来たという連絡が入り、隆宣が急いで吉田郡山へ向かったという推測が成り立つ。大将が頭崎城をほっぽってどうする・・・そこで、陶隆房の「西条表へ出陣あるべく」が生きてくる。隆房の出陣は、杉隆宣の抜けた穴を埋めるためのものだった、ということが吉野健志氏の論文『いわゆる安芸郡山城合戦の再評価』で詳しく語られている。これも、どうやら6月16日に頭崎城が落城したという説が強かったために、これまでは西条表=頭崎城攻めという図式が浮かばなかったものらしい。が、隆房の2ヶ月のブランクも、この説なら納得がいく。 【「西条表」が何を表すのかは、一連の行動が出陣という軍事行動であることから、 西条近辺での軍事、つまり、頭崎城の攻防戦を指すことは明らかである。 大内義隆は、尼子氏の強力な頭崎城支援に対して、その攻略を目指して 山口を出陣したのである。】 (芸備地方史研究228「いわゆる安芸郡山城合戦の再評価」/吉野健志)ここまでの流れを簡単な図にすると、こんな感じになります↓。 にほんブログ村
2013年04月13日

ここから、運命の天文9年(1540)です。 1月9日 九州平定を終えた大内義隆がついに動き出す。まずは防府へ着陣。 1月13日 義隆、傘下の安芸国人・天野興定に西条表への出陣を促す書状を出す。 2月14日 安芸入りしていた大内方の椙守・宇野らが佐東川口を攻める。 2月22日 14日に同じく、佐東川口で戦う。 3月 尼子詮久が赤松氏を追放し、播磨の平定をほぼ完了させる。 4月 沼田小早川正平が大内方へ帰順する。 5月5日 大内軍、佐東箱島に戦う。 6月2日 佐東銀山城主・武田光和が急死。若狭武田氏から信実が迎えられるが、 家中で内紛が起こりのちに出雲へ逃走する。 6月16日 造賀で毛利元就・平賀弘保の軍が首33を挙げて平賀興貞軍に大勝。まずはここまで。いきなり色んな話が出てきて驚いた方もおられるかもしれませんが、頭崎城の戦いは単なる弘保・興貞の親子の争いにとどまらず、実に大きなうねりを引き起こしたから。ただ、2月・5月と大内軍が佐東(現在の広島市安佐あたり)を攻撃しているように、頭崎城だけが戦場だった訳じゃないんだけどね。頭崎城にすべての兵力が結集したんだったら、もっと頭崎城の戦いは有名であっていいはずだからね(笑)。しかし、安芸の歴史は様々な国人衆に大国の思惑が絡み合い、非常に複雑。その背景を理解していただくために、これまでも鏡山城や新高山城のシリーズで大ざっぱな流れを書いてきた訳なんです。極論すると、頭崎城の戦いを書くためにここまで歴史の話をしてきたと言ってもいいくらい。ちょっと大げさだけど、これまでの流れがここでひと区切りつくからね。※もう一度おさらいしたい方は、 「鏡山城(9)」 「鏡山城(10)」「鏡山城(11)」 「新高山城(3)」 「新高山城(4)」あたりをご覧ください。天文年間に入って、大内VS尼子の大きな戦いはなかったものの、それぞれのシンパに分かれた国人衆の対立は続き、いわば代理戦争的なものはあった。平賀親子の争いも、このうちに入る。その頭崎城がなぜ、大きな流れを造り出すほどの戦いにまで発展したかというと、やはり義隆・詮久の大国のトップが自ら乗り出してきた事に尽きるだろう。横目で安芸および周辺国に注意しながらもそれまで別の方向を向いていた2人が、なんでいきなり安芸に出張ってきたのか・・・先に動いたのは、義隆。ただし、前回書いたように大内家ではすでに弘保に援軍は送り込んでいた。・・・が、4年経っても頭崎城は落とせなかった。九州は片付いたわ。次は安芸を何とかしなくちゃね・・・この頃の主だった関係者を図にしたのがこちら↓。 大内氏の東西条の拠点だった鏡山城は、尼子から取り返した後大永7年(1527)頃に曽場ヶ城にその役目を譲った。義隆が頭崎城を重視して弘保を支援したのは、平賀氏の領地が東西条と隣接するから。この上弘保まで尼子方に再び寝返って平賀領・高屋保すべてが敵方になってしまうと、大内氏は非常に苦しい立場に追い込まれる。安芸には多くの国人衆がいて、オセロのひとつの駒が白から黒に変わると、周りの駒まで連動してぱたぱたと簡単に入れ替わってしまうことがある。東西条周辺でそれが起こると、鏡山城の戦いの時のように再び安芸戦線が後退してしまうかもしれない。そういった事情もあり、義隆としては弘保の寝返りはどうしても避けたかった。一方の尼子詮久にとっても、頭崎城は何としてもキープしておきたい城だった。安芸国内での尼子方は頭崎城だけじゃないけど、ここを失うとこれまた他の基盤も弱くなる。 【尼子氏にとって頭崎城は大内勢力の中に打ち込んだ大きな楔であり、その支援は 強力なものだった。】 (芸備地方史研究228「いわゆる安芸郡山城合戦の再評価」/吉野健志)詮久による頭崎城の支援としては、たとえば前回書いたような天文5~6年頃に毛利氏の所領を奪ったことや、備後の名族・宮氏などを従属させて備後南部にまで勢力を伸ばし、周辺を着実に固めていったことなどが含まれる。今回は頭崎城を中心とした記事なので、西部戦線については詳しく書かないけど、天文9年までの期間に元就が義隆に対し援軍の要請をして、毛利領の南にある坂要害に大内家臣が入っている。ここからも、安芸でも尼子の勢いが相当なものであったことが窺われる。有事に備えて造られた堅城・頭崎城とそれを守る興貞自身の才覚、そして詮久の強力な支援がぴったり合わさって、5年越しの大内氏による攻撃にも頭崎城は耐えた。これまでは上の表の最後、6月16日の元就・弘保連合軍の勝利の際に頭崎城が落城したと言われてたようなんだけど、その後の経緯や書状などからもうしばらく頭崎城は健在だったと、上記論文の中で吉野氏が明らかにしている。ちなみに、杉隆宣あての義隆の自筆書状が現在も残っている。『今度造賀之儀』という書き出しで始まるこの書状は、これまでは「造関の儀(関所)」と考えられていたのが、近年になって「造賀の儀」・・・つまり「造賀之合戦」だったことが判明したんだそうな。文面としては、「スギちゃ~ん、造賀で調略をもって勝ったんだってえ~?よくやってくれたわ今後も油断することなく、しっかり頼むわね。あとは内藤隆時から聞いてね」って引き続きオネエ言葉の超現代語訳ですが、まあこの方がニュアンスが伝わるんじゃないかと・・・(笑)。ちゃんと「造賀」って書いてあるのが、なんで関所だと解釈されてたんだ?ってつい思っちゃうんだけど、それだけ大内氏の研究者にとっても頭崎城の戦いというのは重要視されていなかったってことなのかもしれない。ただ、現在のところ、これが6月16日の戦いで出された感状だとは決まってはいないようです。が、義隆から杉隆宣あての造賀での戦いとなると、年代はかなり限定されてくるはず。度重なる大内方の攻撃にも落ちなかった頭崎城を攻略するために、大内方では途中から包囲網を築いて持久戦に切り替えた。そのために頭崎城・白山城の西の造賀に築かれたのが造賀要害。これは頭崎城の落城後に大内氏から平賀弘保に返還され、ほどなく破却されている。義隆の書状には造賀要害のことは一言も出てこないけど、杉隆宣の敵が誰であったにせよ、造賀要害が存在していた時期が最もこのエリアでの戦闘が激しかったであろうことは疑いがないところだと思うので、頭崎城攻めの中で出された感状の可能性が高い気がする。それまでの通説では、6月16日に頭崎城が落城したと考えられていたので、義隆の出陣の理由というのもよくわかっていなかったらしい。大内軍の展開を見ると、安芸西部でも同時に戦を仕掛けてはいるものの、そもそも義隆が安芸に出向いた理由というのは、自らの出陣と同時に天野興定あてに出した書状が教えてくれていると吉野氏は指摘する。この天野氏は大内氏との縁も長かったが、鏡山城の戦いあたりで尼子方へ転身。義興さんはこれが許せなかったらしく、反撃に転じた際に興定の米山城を攻めている。ここでは毛利元就が間に立って、大内家への帰順を成功させた。ただ、前回書いたように、天野興定は平賀興貞に内通した大内方の人間の誅殺にも関わっているようなので、義隆の指令以前にもちょいちょい弘保軍へ加勢していたものと思われる。義隆が動いても、尼子詮久はすぐには動かなかった。頭崎城の他にも、安芸には佐東銀山城や高山城があって、それぞれが連携することで大内方の攻勢をしのいでいたのかもしれない。それに、頭崎城は5年持ちこたえた実績があり、尼子本軍を出さずとも、今すぐ落ちることもないだろうと読んでいた可能性もある。その詮久にびっくりニュースが入ったのが4月。沼田小早川正平の陣替えだった。 【頭崎城と最も密接な関わりを持つと考えられるのが、平賀領の東隣に位置する 沼田小早川氏である。(中略)頭崎城に拠る平賀興貞は、決して安芸南部で孤立した 存在であったのではなく、西に武田氏、東に沼田小早川氏という味方を持ち、 さらにその東、備後には宮氏等の強力な尼子与党が控えていたのである。】 (前掲論文より)東の沼田小早川が崩れ、さらに6月の武田光和の急死。武田家ではこの後ゴタゴタが起こり、いきなり西の基盤まで弱くなった。こ~では頭崎城が孤立しかねない・・・!ほんなま(※)播磨平定もメドがついたし、一旦安芸を片づけるか(※)とりあえず東(播磨)が片付いたから西(安芸)に本軍を差し向ける余裕ができたとも考えられるけど、天文9年4月以降に播磨での動きが見られなくなることから、尼子軍の本国への帰還もこの頃の可能性があり、そうであったとすれば4月の沼田小早川氏の背反と時期が同じとなるために、義隆の出陣および高山城が崩れたという衝撃の事実が尼子軍の帰国を促したかもしれないと吉野氏は推測する。にほんブログ村
2013年04月11日

明治神宮に参拝して写真を撮ってたら、チコちゃんを連れたおじいちゃん夫婦が下りてきた。チコちゃんを撫でながら、「千葉から来たんだってよ~!」「え~、千葉から?1人で!?」「はい、ハハハ・・・お城とか好きで・・・」「わざわざ頭崎にねえ~・・・学生さん?」・・・の後に、「東西条バトル編(3)」で現地から報告した「高校生?」のビックリ発言が飛び出した訳で・・・(笑)。10分くらいはおしゃべりしてたんじゃないかと思うけど、「千葉から1人で」というシチュエーションがこのご夫婦にはかなり衝撃的だったらしく、ほとんどがその話だった。広島近辺には友達も身寄りもないと話したら、「てっきり親戚の家に遊びにでも来たのかと」ってまたまた驚かれた。「いやもう、広島・山口に親戚欲しいですよ~」「そりゃ~あなた、こっちで結婚するしかないわね」「ハア、ですよね~~~」あっ、そうだ。主郭部の構成はだいたいわかってるけど、下山では当初使うはずだった登山道を下りようと思ってるので、道を教えてもらおーっと。地元の方なら知ってるだろうと縄張図を見せながら聞いて、登山道の場所を教えてもらった。ヨシ、これで安心だ普通の登山だったら、案外山道ってそんなに分岐はないもんだし、登山道として整備されてるところだったら標識も割に整えられてるもの。が、山城だと郭をつなぐ小道だとか腰郭だとかがあちこちに延びてたりして、しかもそれらの道にはいちいち案内板は期待できないから、山城攻めには登山とはまた違った難しさがあるもんだな~と、山城経験は浅いものの、色々歩く中でだんだん要領がわかってきた。特に、土地勘が全くなくて、しかも山中にほとんど人がいない場合。いくら事前に資料は揃えてるといっても、実際に山中に入ってみると方向感覚なんかも狂うし、自分の持ってる情報だけでは心細く思う場面も出てくる。ので、山を歩いてる地元の人に会った時は進んで色々と教えを請うようになってきた。4つめの城でもそうやって貴重な情報をもらったので、今回は本当にありがたいと思った。もちろん、聞く相手は選ぶけどね。この頃には雨はやんでたけど、冷たい風が強く吹き付けてきてすぐ寒くなったので、チコちゃんとそのパパ・ママは帰っていった。私もすっかり冷え切ってしまったので、急いで上着と防寒小物を装着。ふと足元を見ると、 サイズ的には、犬なんだけど・・・ま、まさかチコちゃんの落とし物!?いや、それにしても新高山城での瓦の上の落とし物といい、なんでわざわざこんなとこで・・・明治神宮の裏手は展望がいいと聞いていたので、裏手へ回ってみる↓。 う~ん・・・どんより曇ってるのが残念だけど、かなり見通しがきく。往時はもっと良かっただろうな。しかし、わざわざこの頭崎城に来たことが相当驚きだったみたいだな。まあ、今では全国区で有名な城という訳でもないし、例えば新高山城なんかと比べたら訪城者数はそう多くはないかもしれない。が、これまでの通説ではあまり重要視されてなかったので広く知られてはいないのだけど、この城は安芸どころか中国の歴史において非常に重要な城なのだ。少し長い目で見れば、中国の勢力図が塗り替わって、あらたな覇者を生み出した流れの震源地となった城。どう生み出したのか、ここから歴史の話に入りましょう。ひとつお断りしておきますが、話の中では長く語られている通説と違う部分も出てくると思います。が、私は私の支持する説に基づいて話を進めますので、あらかじめご了承ください。現時点ではどちらが主流かはわかりませんが、こちらの説も多くの支持を集めているということです。まずは背景から。「新高山城(4)」の記述と一部重複しますが、よければそちらもあわせてご覧ください。天文年間の初め、大内義隆・尼子詮久の両大国の目はそれぞれ西・東と別々の方向を向いていて、しばらくの間は安芸で大国絡みの大きな戦闘が行われることはなかった。しかし、平賀家では静かに小さな炎が燃え広がろうとしていた。そもそもどういう経緯でそうなったのかはわからないが、頭崎城の興貞と白山城の弘保の親子間で反目しあうようになっていった。平賀さんちの系図はこちら↓。 興貞は尼子派。弘保は孫たちと共に大内派で、父ちゃんをのけ者にしてジイちゃんと孫が白山城にいた。頭崎城の説明の中でよく言われるのが、「あろうことか興貞が尼子に寝返って」というものなんだけど、ちょっとこれには疑問がある。大永3年(1523)の鏡山城の戦いでは、長く親大内の立場だった平賀氏もやむなく尼子方となった。鏡山城の落城を見て頭崎城を築いたんなら、もともと頭崎城は尼子方の城として築かれたことになる。とすると、弘保がいつ大内家に帰参したのかははっきりわからないけど、寝返ったのはむしろ弘保の方と言えるんじゃなかろーか。まあ、平賀氏は本来的には大内方の歴史の方が断然長いんだけどね。しかし、何で孫たちまでジイちゃんと一緒なのか・・・興貞とその子たちの仲は良くなかったって言うんだよね。まあ、孫は置いといても、弘保と興貞が不和だったというのはよく言われるところ。ただし、不和といっても今みたいに平和な世の中じゃないんだから、単なる親子ゲンカっていうよりは、意見の相違があったって事でしょうけど。大内と尼子のどちらにつくか、とかね。けどこれも見方によっては、見解の相違でバックが分かれたんじゃなく、大国のはざまで生き残りをかけて分かれた可能性もあるよね。例えば関ヶ原で真田家が分かれたように。では、初期の段階の流れを、大国などの動きも交えながらざっと見てみましょう。≪天文4年(1535)≫ 平賀:正月に弘保が頭崎城を攻めて親子間で武力衝突。2月に和睦。 大内:九州攻めの最中。前年には肥前にいた九州探題・渋川氏を滅ぼし、 この年には大友氏との和睦交渉が始まるなど九州平定が見え始めた頃。 尼子:美作攻めの最中。しかし、九州の鎮静化を受けてか東を攻めつつ西にも さりげなくちょっかいを出し始める。≪天文5年(1536)≫ 平賀:8月に興貞が高尾に出陣して、再び争いが勃発。大内家による仲裁が入るが 双方とも聞き入れず、交渉は決裂。大内家から杉長相・弘中隆兼らが 弘保の加勢に入り、頭崎城の戦いが始まる。 11月7日・11月15日に戦闘を仕掛けるが、陥落せず。 その後、大内軍の財満備中守が興貞に内通。杉隆宣・内藤隆時の命により 安芸国人・天野興定が内通者を誅す。 毛利:頭崎城攻めに参戦。この頃、吉川勢(尼子方)に備後・石見などの所領を一時 奪われる。 大内:少弍氏を滅ぼし、九州平定がほぼ完了。 尼子:備後・山内氏を下す。備中・美作攻略。≪天文6年(1537)≫ 平賀:興貞奮闘、頭崎城落ちず。 大内:義隆、将軍・足利義晴から上洛要請を受けるが、情勢を鑑み泣く泣く断念。 尼子:播磨遠征。≪天文7年(1538)≫ 平賀:興貞頑張る。 毛利:尼子に誘われるが、お断りする。 大内:大友氏との和議整う。頭崎城攻めに本腰を入れる。杉隆宣が頭崎城攻めの 責任者となり、内藤隆時も投入する。 尼子:播磨遠征。≪天文8年(1539)≫ 大内:陶興房没。陶隆房が登場。 冬、椙守・宇野・杉らを安芸へ投入。 沼田小早川:尼子方へ陣替え。 尼子:播磨遠征。 通説では、11月に詮久が毛利討伐を表明したとされる。関連する主だったものしか挙げていませんが、この他にも尼子方と大内方の小競り合いは各所であったようです。時期がはっきりしないので書かなかったけど、後半になってくると備後でも尼子の影響力が強くなってきたらしい。その一方で、天文7年には大内方が備後の要衝の城を落としたりもしている。大内義隆・尼子詮久のそれぞれが安芸に出張ることこそなかったものの、安芸・備後・石見で両者の戦いが次第に激化していったものと大ざっぱに背景をご理解ください。「多々良盛衰記」には、天文8年8月に詮久が3万の軍勢で安芸へ乱入したとある。これはたぶん天文9年の間違いだと思うけど、石見あたりでは尼子軍による攻撃もあったらしい。そしてこの間、ずっと頭崎城は落ちなかった。確かに、こーゆー時のために弘保が頭崎城を築いた訳だけど、守るだけじゃなく大内方への調略も試みていたようだから、興貞も優れた武将だったと言っていいんじゃなかろうか。にほんブログ村
2013年04月10日

林道を歩いていくと、こんなのがあった↓。 なんかこれね~、何なのかよくわからないんだよね~。元は郭があったのかもしれないけど、今は林道と一緒になっちゃってるし。名前の由来もわからない。敵方の大将がこんなとこに陣を置くはずもないしな・・・しかし道路の脇には、土塁らしきものがある。 ↑こんな感じの小広いところが2・3続いた後、 おお、ちょっとそれっぽくなってきた感じだな。でもまだ林道は続く↓。 あれ?あの高いのがそう?まだあんなにあるの?大将陣からてろてろ歩いて5~6分。やっとここに出た↓。 なるへそ、ここまで車で上がれるのか。荷台が開いてるから、チコちゃんを連れておじいちゃん達は先に上がっていったんだな。ここにはトイレがあった。 うお、ラッキー!!これは知らなかったから、天の助け・・・と思ってドアを開けたら排泄物で相当汚れてたので、さすがの私もここは使えなかった。公共の場所を、なんであんな風に汚したままの人がいるんだろう・・・トイレの奥には、細い道が続いてる。どこに行く道かわからなかったので私は行かなかったけど、旅から帰った後に手に入れた詳細な縄張図を見ると、この道は一部、西の丸の下に4重に設けられた畝状空堀群の一番下の空堀あたりとかぶってるかもしれない。トイレでスッキリの夢破れ、仕方なくルートに戻る。ここからが本番だからな。メゲてもいられない。 ここからは、はっきりと竪堀も確認できる↓。 その反対側↓。 だいぶうっすらだけど、どうも空堀のように見える・・・この時私が持ってたのは、かなり大ざっぱな縄張図で、後で手に入れた詳細な図を見てると、ここを入っていったらもっとはっきりとした空堀が確認できたかもしれないな~・・・と非常に悔やまれる。いや、悔しいのはここだけじゃないんだけど右手の斜面には、落ち葉に埋もれた石垣の名残もちらほら↓。 して、この上が西の丸なんじゃないかと思われます↓。 この時は上からは西の丸へ行かれないなんて思わなかったし、どこを歩いてるかもよくわかってなかったので、「大きな岩だな~」なんてのんきに写真だけ撮ってスルーしました。知らないってホント罪・・・段々道は戦闘的になっていきます↓。 ↑これも堀切っぽいな・・・後から考えると、甲の丸(本丸)と西の丸を絶ち切ってたのかもしれない。この反対側は竪堀となって斜面を下りていきます↓。 おっ、石垣だ↓。 東 矢竹がびっしりで、山側の斜面の上は見通しが悪いんだけど、結構大きな石があるっぽいから、ここで落石とかあったらやだな・・・ しばらく歩くと、こんな道に出た↓。 なに、この注意書き・・・そんなに悪い道に見えないんだけど、重量オーバーだと踏み抜いちゃったりするのかな内心びくびくしながら渡った先には、これがある↓。 あ、よかった・・・神社が近そう。ここまで来れば、「ここはどこ?」状態から解放される。この先は分かれ道。 まずは下の道へ向かう。 三の丸の看板にはいい縄張図があったはずなんだけど、写真を漏らしたらしいので山麓にあったちょっと大ざっぱな図を使います。色分けした郭が、ノーマルに歩いて見られる郭。で、この煙硝の段は水色の区画にあたります↓。 私は大将陣の方から来たから、図の左上から黄色のルートを通ってここまで来たことになります。んで、ここにあるのが明治4年に勧請の明治神宮。 これまた、すごい岩だな~。この前には、こんな碑がある↓。 地震で何が倒壊したのか、よくわからないんだけど・・・神社の前から見下ろした風景↓。 う~ん、イマイチ・・・往時はもっとよく見えたことだろう。神社に背を向けて、煙硝の段を見たところ↓。 にほんブログ村
2013年04月09日

薬師堂からゆっくり歩いても10分もかからないところで、これが出た↓。 巨岩がごろごろしたところに、小さなお堂がひとつ。これが奥の院。 しかしこのお堂、小さいけど・・・う、美しい・・・周りの岩がぐらつかないか足場を確認しながら脇へ回ってみたら、 いやん、素敵前回の福山でもろくに寺社は行かれなかったし、今回もそれなりに寺を予定に組み込んではいたものの、初日の福成寺はアレだったし(笑)、はっきり言って寺院建築に相当飢えていた。それがこんな山中で、こんな華麗な彫り物にお目にかかれるなんて~!!岩の上にこわごわ乗りながらも、それこそ夢中になってお堂の写真を撮りまくってました。あ~、やっぱり建築が好きなんだなあ、私しかも、白塗りはしてあるけどヘタな彩色がしてないとこがまたイイ。いかにも私好みじゃ。城攻めという大きな目的も吹っ飛んで、誰もいない奥の院で写真を撮りながらしばし幸福感に包まれておりました。ひとしきり写真を撮って満足したところで周りを見回す・・・ だいたいこーゆー看板って、ルートのところに置かれるもんじゃないかと思うけどね。しかし、どうも道らしいものは見つからない。アラ、どうしましょう・・・しばらくモタモタした後で、看板に書いてあるように奥の院の裏手に回れってことか!と気がついて、ふたたび岩を乗り越え・・・ 確かに、道があった。ああ、ここからはガイドさんもいなくなるな~。ちょっと心細いな~。しかし、この先からは土塁や竪堀のように見えるものが現れる↓。写真だと全然わかりませんが 途中で小雨がパラつき始めた。まだそんなひどい降りでもないし、登山道を歩いてるうちは木が幾分遮ってくれるから、カサもカッパもいらないかな。それより汗かいちゃって・・・昨日もおとといも、結局ずっとダウンを脱ぐこともなかったのにな~。しばし歩くと、次の看板が出た↓。 奥の方から歩いてきて、振り返って撮った写真なんだけどね。右にぱっくり口を開けてるのは、竪堀か、コレ!?それとも最近になって付けられた道なのか?上に倒木がかぶさってはいるものの、立派な道に見えなくもないし、この位置に看板立てるのってマズイんじゃ・・・山城を歩いてると、「よりによってなぜこの場所に看板置くか!?」って場面に結構出くわす。看板の設置ひとつでも、なかなか難しいものがあるよな・・・いやまあ、整備して頂けるだけでもありがたいとは思ってるけどね。この先くらいからは、段々なだらかになっていく。 さらに進むと、こんな道↓。 そんなに狭い道でもないけど、石がごろごろしてたりしてあんまり歩きいい道じゃない・・・ん~、この道っていつからあったものなんだろ・・・ああ、でも途中石段みたいのとかもあったしな。それなりに古い道なのかもしれない。今回この城での私の時間軸は天文年間(1532-1555)の前半なんだけど、山麓にあった看板によると関ヶ原(1600年)まで使われたっていうし、廃城になるまでに整えられた道かもしれないな。ただちょっと、縄張図を見てるとここに道を付けるのどーなの・・・って気はするけど。 さらに先↓。 オイオイ、大丈夫かあ、この道~!!(←もう笑うしかない)でも空は開けてきてるし、稜線がそろそろ近そうだな。この先の道はこんなんなってた↓。 う~~~ん・・・地面も落ち葉も湿って滑りやすかったから、人がうっかり足を滑らせただけならいいけどね、なんか動物の跡だったらやだな・・・大きさ的に言って、イノシシのヌタ場とか・・・あ、ヌタ場には水があるか(笑)。まあ、ここまで誰にも会ってないし、当然熊鈴はぶら下げてるけどさ。けど、山の中じゃ何が起こるかわからないし。登山経験がなく山城を歩いてる人はあまり気にしないかもしれないけど、アニマルトラッキングといって、足痕とか糞とか木の皮がハゲてるとかの様々な痕跡から野生動物の種類や生態を観察するものがあります。山城はほとんどが超低山レベルの山にあるからそんなに心配いらないかもしれないけど、山深いところだったりするとそれなりに大型の動物とかがいる場合もあるだろうから、山城攻めにはアニマルトラッキングの基礎知識もあるのが理想だと私は思いますね。特にクマとかイノシシとか、運悪く遭遇した場合に大きな被害を受けかねない動物の痕跡くらいは知っておいた方がいいでしょう。んで、この先が・・・↓。 ちょい!!どこを通れって!?・・・まあ、ここが極楽寺ルート最大の難所と言えるかもしれません(笑)。ただ、気を付けて歩けば、見た目ほど危険な道でもなかったけどね。恐いからといってあまり山側に重心をかけすぎると、バランスを崩してかえって滑りやすくなったりして危ないので、こーゆー場所では一歩一歩足場を確保しながらゆっくり進みましょう。で、この危険ポイントを過ぎると左に道が曲がってるのが見えますが、ここまで来ると やったあ~!やっと出たあ~!!これは林道らしい。登山口からここまで、周りを見ながらチョーゆっくり歩いて奥の院で写真を撮りまくって、それでも40分。一息ついて地図を確認してたら、写真の奥の方から軽トラが上がってきた。作業の人かと思って車内を見もしなかったけど、私の前で車が止まって中から顔を覗かせたのは、チコちゃんのおじいちゃんだった。軽トラの荷台にはチコちゃんがつながれて、私に尻尾を振ってくれている。おお、覚えててくれたんだ~助手席には、奥さんもいた。どうやら登りの部分は車でショートカットして、久々にチコちゃんと登城しに来たらしい。「乗っていかん?」って聞かれたけど、写真を撮る都合があるし、ここを歩くために来ているので、ありがたくお断りさせていただいた。チコちゃんを乗せた軽トラを見送って、私も林道を右に歩き出す。 「小雨降ってるのにな・・・まさか私のことを心配して、わざわざ来てくれたんじゃないだろーな・・・」私のために来てくれたんじゃないとしても、登る前にも心配してくれたし、いい人だ。林道を歩きだすと、この看板があった↓。 ここまで来れば城跡まで間違いなく行かれるのはわかってるけど、こうやって看板があるとやっぱり安心する。味気ない林道を歩いてたら、前方に軽トラがいた。どうやら、ぬかるみにはまってしまったらしい。奥さんが降りて1人で車を押そうとしてるので(笑)、手伝おうと急いで近寄ったら、おじいちゃんは自力でピンチを脱出した。さすが、慣れていらっしゃる・・・脱出後の軽トラと、後ろを歩く奥さん↓。 にほんブログ村
2013年04月08日

こちらが極楽寺のお堂↓。 垂木の感じだと、そんなに古そうには見えないな・・・ と思ったら、脇に「薬師堂 明治28年落○」と書いてあった。明治28年落成だと思うんだけど、葉っぱに隠れて見えない(笑)。今日は湿度もあるし、昨日よりはなんだか汗が出る。新高山城と比高はそんなに変わらないんだけどね。上着を2枚脱いで、身支度を整えてから再び出発。確かお堂の裏手だったと思うけど、こんなのがあった↓。 すらっと通り過ぎようとして、脇の碑文に目が止まった。 平賀さんの名前がいっぱいある・・・やっぱり、平賀氏の子孫とか一族の方かな。さて・・・ここでちょっと、平賀氏の来歴について簡単にご紹介。小早川氏初期の系図を「三原編(2)」に載せてますが、土肥實平の子・遠平が養子にもらい受けたのは、平賀義信の子。が、この平賀義信さんは系図の通り清和源氏の流れで、安芸国人・平賀氏は藤原北家・良房流の流れを称しているので、小早川の血の実質的な祖となった平賀氏と今日の主役の平賀さんとは別系統のようです。安芸平賀氏の祖とされているのは、藤原良房の後裔・松葉資宗。清和源氏ではないけど、こちらも源平の戦いで多くの功を挙げ、出羽平鹿郡、安芸高屋保、上総桜尾郷、越中油田条を与えられた。資宗の子の代くらいに出羽の平鹿郡へ移り、平鹿氏(あるいは平賀氏)を名乗ったと。文永11年(1274年)頃になって、元寇に備えて一族が西国へと下り、所領である安芸高屋保(現・東広島市)に御薗宇(みそのう)城を築いたのがこの地でのスタート。気付いた方もおられるかもしれませんが、この流れは小早川氏と同じ。実はこうした経緯を経て安芸に土着したのはこの両家だけではなく、「安芸国人」として普通に語られる武家のほとんどが、元は東国の出身。治承・寿永の乱、いわゆる源平の戦いの後に平家没官領(もっかんりょう。平家滅亡後に朝廷に没収された平氏の所領)を与えられたり、承久の乱後に院方から没収した3,000箇所もの荘園の地頭に任じられた新補地頭が安芸国人衆の主な顔ぶれ。それらを大ざっぱに図にすると、こんな感じになります↓。 厳島神主家はちょっと後の話で、あと野間氏は尾張からの移住者なんだけど、戦国時代において普通に「安芸国人」と言われる人たちのほとんどが、ゲルマン民族の大移動のような関東からの下向組。いわゆる「西遷御家人」。備後にもこういう人が多いんだけど、ちょっと図に収まらなかったので割愛しました(笑)。私が遠出できなくなったら、これら国人衆の出身地を回ろうかな~と思ってるんだけど平賀さんのように、安芸以外にも所領を持ちながら最終的に安芸に本拠を構えた国人は多い。 【このような東国武士が芸備両国に本拠を移したところは、ほとんど山間部の 谷盆地である。この地方には太田川・沼田川・芦田川・江ノ川などの河川によって 各所に地味肥沃な谷盆地が開けており、これらは当時の農業経営には海岸部より適し、 さらに拓殖の余地も存していた。 同時にそこは、外敵から防衛できる要害の地で、中規模の武士団が根を下ろすのに 適していた。(中略)山内首藤氏や吉川氏が交通至便な摂播の地をおいて 芸備に入った理由もそこにあった。】 (「日本城郭大系13 広島・岡山」新人物往来社より)う~ん・・・わざわざ山間部に入らんでも・・・とか思っちゃうんだけど、まあ鎌倉幕府も相当血なまぐさいしね。総合的に判断した結果、一族あげての移住を選んだ人が多かったってことなのかな。小早川氏の場合は、あまり選択の余地はなかったけどね。平賀さんちに話を戻しますと、安芸・高屋保に本拠を移した後はもと住んでいた出羽の領地は次第に失われていった。最初に築いた御薗宇城は、山城というよりは平山城に近く、築城の時代を反映した鎌倉御家人の居館的な趣きが強い城という。今回は時間が足りなさそうなので、行かないけど。鏡山城シリーズで東西条(とうさいじょう)と大内氏の歴史についてかいつまんで書いたけど、東西条と領地が接する平賀氏は大内氏との縁も古く、嘉吉2年(1442)には戸野郷にある大内氏の氏寺・興隆寺の御経料所を預けられている。また、当主が大内家からの偏諱を受けるなど、長い歴史の中ではおおむね大内氏寄りだったものと思われる。戦国時代に入り、時の当主・平賀弘保は文亀3年(1503)、御薗宇城より南東の城山(標高314m)にあらたに白山城を築く。比高130mの白山城は堅城というまでには至らず、近隣にも支城を築いた。そんな弘保に転機が訪れたのは、大永3年(1523)の鏡山城の戦い。鏡山城の落城を見て白山城の防備に不安を感じた弘保は、白山城の北に位置する頭崎山にあらたな居城を築いたといわれる。しかし、当の弘保は頭崎城には入らず、嫡男の興貞を入れた。まあ、この名前も義興さんからの偏諱だろうと思うけどね~。手持ちの資料にはどこにも書いてないけど、弘保の名前も政弘(義興のパパ)からもらった可能性が高いんじゃないかと思うんだよな~。さて、平賀氏については一旦ここで終わります。「えっ、もう終わり!?」って思ったアナタ・・・ご心配なく、まだた~っぷり話はありますからうふふふふ・・・・・極楽寺からふたたび山道へ↓。 ・・・なんか、写真見るとずいぶん暗いなあ。実際、薄暗かったけどね。道もよくわからないし、新高山城に比べると荒れぎみだし古戦場だし・・・気分は、とんがり峠の細道を~、迷子の迷子の子羊があ~・・・てカンジ。恐がりのくせによく頑張ったなあ、ワシ(笑)。上の写真の左に写ってる白い看板には、こう書いてあった↓。 アレ?この上にまだ奥の院があるのか・・・で、これに従って左の道を上がったんだと思う(←もう覚えてません)。大事なところにはこうして看板があったし、迷うような分岐がそうあった訳でもないのでその点は良かったッス。まだ奥の院が上にあるので、ガイドさん・・・いえ、お地蔵様も引き続き奥の院へといざなってくださる↓。 慣れるとこれも逆に安心感があるこの先からは、石畳の跡とか石垣の名残らしきものがちらほらと現れて、ちょっと楽しくなってくる。 にほんブログ村
2013年04月07日

頭崎城<広島県東広島市高屋町貞重>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「東西条バトル編(16)」の続きです。登山口の少し手前には、頭崎城について書かれた看板がある。タクシーのおじちゃんが気をきかせてここに寄ってくれたので、ちょっと降りて写真だけ撮らせてもらった。 【県史跡 頭崎城跡(かしらざきじょうあと) 昭和44年4月18日指定 大永3年(1523)出雲の戦国大名尼子経久は安芸国に南下し、大内氏の支配する 東西条の鏡山城を攻略した。この事態に対処するため、白山城主平賀弘保は 頭崎城を築き、嫡男興貞の居城とした。 標高504m、ふもとからの比高200mの険しい山を利用し、その頂上から 四方にのびる尾根に多くの郭を有機的に配置し、石積み、土塁、竪堀などの遺構も よくのこす戦国時代の典型的な山城である。 甲の丸(本丸)、西の丸、太鼓の段、煙硝の段などという郭の名前とともに、 ふもとには、新市、お屋敷、タタラなどの地名がのこっている。】 (現地解説板より)再び車を走らせて、着いたのがこの場所。 今日も頼りのコースガイドは、『広島近郊の山城と史跡ベスト33』。これの地図を見せた訳じゃなかったんだけど、ここも登山口だという。「ホントに好きな人は、この奥まで行きますけどね~。どうします?」「で、でもここも登山口なんですよね?」確かに登山口だと言うし、眼の前にもそう書いた看板があるので、ひとまずここで降ろしてもらった。タクシーを見送ってから看板まで歩いていってみたら、こう書いてあった↓。 ああっ、これ、極楽寺の方かあ~!予定では、こちらの道は使わないつもりでいたのだ。『広島近郊の山城と史跡ベスト33』にはこのルートは書いてない。事前に調べた訪城記の中では、1人だけこのルートを歩いてる人がいたけど、その方は下山に使った道で逆方向だし、途中の道すじの紹介は全くといっていいほどされていなかった。極楽寺経由登山口のだいたいの位置はわかるし、確かに城跡まで行けることもわかってはいるけど、何しろ詳しいことがわからないので、かなり不安になった。ああ、やっぱり地図を見せて当初予定の登山口か確認するんだったな・・・周りを見渡すと、こんな風景が広がる↓。 写真の下の方から走ってきたから、この奥っていうとさらにこの先へ進むって意味だと思うけど、城跡は写真でいうと右方向のハズなんだけどな・・・「ホントに好きな人」ってどーゆー意味?その人達は一体どこから登るっていうんだろ?どのみち、ここから当初予定してた登山口までは歩いていける距離のはずで、そう遠くはない。それだけの距離のためにタクシーを呼ぶのも何だし、行かれることはわかっているので、諦めてここから登ることにした。一番上の写真の手前の道を、右に上がっていく。途中の左側にはこんなのどかな風景↓。 この辺から次の看板は見えないので、どっちへ行ったらいいのかわからない。左に入る小道をしばらく行ったり来たりした後で、元の道に戻ってそのまま上まで登ってみた。少し上がったところで、脇にある民家につながれたわんこ(柴犬)に吠えられた。吠えてはいるものの、尻尾も振っていたので近寄ってみたらなつっこい可愛い子だった。しばらく撫でて(犬と)話していたら、家の中からおじいちゃんが出てきた。わんこの名前はチコちゃんだという。あっ、チコちゃんの写真がないや・・・登山口のことを聞いたら、やっぱりこのまま真っ直ぐ進めばいいらしい。「どっから来たん?」「千葉です」「千葉あ~!1人でか!?」「はい」「1人で登るんか?大丈夫かあ~?」・・・とまあ、これまでもこの先も、私の旅において広島の各所で何度も繰り広げられる会話をしばらくした後、チコちゃんにバイバイして登山口へ向かった。おじいちゃんも以前はよく頭崎山へ登っていたらしいが、最近は足腰が弱くなって行っていないという。道を教えてもらったので、安心して再び登りだす。途中の右手にはこんな風景が広がる↓。 今はこんなのどかな風景だけど、かつてはこの辺にも兵が押し寄せてたのかな・・・さらに進むと、次なる案内が見えた↓。 ああ、よかった~。いきなり道がわからなくてどうしようかと思っちゃったよ ふむ、ここは極楽寺への参道も兼ねてる訳だな。ここから山道に入る↓。 道は割に広くてしっかりしてはいるんだけど、鏡山城はもちろんのこと、昨日の新高山城よりももっと山道らしい道。しっとりと濡れた落ち葉が積もっているので、足元にも注意がいる。歩く道々には、沢山の石仏がある↓。 ううん・・・・雨が降りそうで曇ってるから山中は薄暗いし、あんまり沢山の石仏があるのもコワイな・・・ 実はこの城は、バリバリの実戦経験を持つ城なのだ。だからちょっと、行く前から恐さがあったんだよね~。それでも頭崎城を選んだのは、安芸およびその周辺の歴史においてこの城が非常に重要なカギを握る城だったから。その話は、もうちょっと後でね。恐さはあったものの、詳細なルートがわかってない分、迷った時のために道沿いの石仏は全部写真に収めた(笑)。しばらく歩いていてふと気付いたんだけど、この道は極楽寺への参道も兼ねてる訳だから、寺へ着くまではお地蔵様がずっとおわすのか。なら、恐いどころかお地蔵様が見えてるうちは正しいルートを辿ってるってことになるのかな・・・って、ここの道の法則を理解した。歩き始めて少しすると、道から少し外れたところには石垣が現れる↓。 さらに上がると、巨岩がごろごろした場所に出た↓。 ↑これなんかはデカすぎて、真下からだと全部画面に収まりません。で、この上が極楽寺の境内。まずは立派すぎる宝篋印塔がお出迎え↓。 よくわかりませんが、とにかく立派でした(笑)。この向かいに、境内を上がる石段がある↓。 にほんブログ村
2013年04月06日

この区画の一番奥にあるのが、これ↓。 宝形造、桟瓦葺。小さいけどなかなか風格がある。お堂のすぐ脇の道は結構交通量があって、しかも交差点なので信号まちの車内からの視線を感じるけど、恥じらっていては史跡めぐりなんかはできないので頑張った。で、このお堂の懸魚はこんなのだった↓。 顔は龍なんだけどね。こーゆー骨ばった翼を持つのって、珍しくないか?最初、コウモリの羽かと思った。お堂の中はこんなのだった↓。 ああ、なるほど、ここはお大師様なんだ・・・で、普通だったら「大師堂」と書かれた扁額のある場所にはこんなものがかかってた↓。 ???どーゆーゆかりがあるのかは、わかりませぬ。ヨシ、これで完全に終わりだもうすぐ17時だから、今日はもう国分寺は無理だな・・・仕方ない。駅まで戻る途中にある民家↓。 このおうち、朝もすごいな~と思って見てたんだけど、あまり人様のおうちを写すのもどうかと思って朝は撮影を我慢した。が、やはりあまりに立派なので、誘惑に負けた・・・ こーゆーポーズを見ると、「シートン動物記」を思い出さずにはいられない。「ああ、アルノー、それでは低すぎる!!」ってさ(笑)。ハトのレースの話だったと思うけど。勝ちを急ぐあまりに低く飛びすぎたハトのアルノーは、タカか何かに襲われちゃったんだっけかハトの留蓋の他に、こんなのもあった↓。 ・・・やっぱり本郷は、留蓋における東西文化の交流点だ。電車に乗って西条まで戻った頃にはもう真っ暗だった。詰の丸にいた時はあんなに日差しが暖かかったのに、夕方にはかなり寒くなってたから疲れも倍増。この日の歩数は27,106歩。城内ではちんたら歩いてたからそんなでもないかな~と思ったけど、それなりに歩いてたんだな。てか、山を降りてから相当歩き回ったからな。あ~~~~、疲れた・・・・3日目<2013/1/2(水)ときどき小雨>今日も電車に乗って国人衆のお宅訪問~。昨日と同じ電車に乗るつもりだったけど、3日目で疲れも溜まってきたので、1本遅らせた。予報では、朝のうちは雨か雪って言ってたけど、宿を出る頃にはもう降ってなかった。駅に向かって歩きながら、京都のセキュリティセンターと家に出発報告のメールを入れたら、母親から「誰か友達に会う予定はないの?少し気分転換は?」って返事が返ってきた。これが私の気分転換なんです・・・城や歴史に興味のない人にはわっかんないだろうな~。さて、西条から電車に乗って降りたのは白市(しらいち)駅。ここも歴史のある町なので、駅には周辺のスポットの案内図がある。 【平賀氏と高屋地域 戦国時代、白市を含む高屋地域に大きな勢力を誇ったのが、安芸国の有力な豪族であった 平賀氏です。 はじめ白市の北西にある御薗宇(みそのう)城を本拠とし、次いで1503年に 白山城を築き、白市を開きます。その後、白市の北にある頭崎城に移ります。 戦国大名毛利氏に属し活躍した平賀氏は、18,000石の所領を持ちましたが、 関ヶ原の戦いの後、毛利氏とともに現在の山口県に移りました。いずれも県史跡である 先の3つの城跡のほかにも、平賀氏の足跡は現在でもこの地域に数多く残されています。】 (現地解説板より)はい、とゆー訳で、今日は新高山城の遠足イベントに出てきた小早川さんのお隣、平賀さんがメインの1日です。今日はこの後しばらくトイレに行かれそうにない。ので、看板をチェックして駅のトイレに行ってから、タクシーに乗り込んだ。白市は小さな駅なんだけど、広島空港から出る路線バスが止まるからね。タクシーも数台駅にいるのだ。今日のタクシーのおじちゃんは、おしゃべり好きな人だった。行き先を告げて、千葉から来たと言ったら「えっ、わざわざ千葉から!?」ってものすごく驚かれた。福山以降、こーゆー反応が多かったので、驚かれるのにもだいぶ慣れてきました・・・・駅から走り出して少しすると、古い町並みを通る。ここは後で寄るつもりなので、おじちゃんの説明を聞きながら道の様子をチェック。栄えたとはいっても小さな町だし、道も細くて結構複雑そうだな・・・町を過ぎてからは、城の話が続いた。話を合わせてくれてるのか、タクシーの運ちゃんには割と城とか歴史好きな人が多いんだけど、この時のおじちゃんは実際に自分でもあちこちの城へ行ってるらしく、色々な話をしてくれた。城好きにも色んなレベルがあるし、好みも人それぞれなので、こーゆー時には逆に私はあまり自分から話はしない。初日に鏡山城へ行ったと言ったら、「鏡山城?あんなのは、ダメです」ってズバッと切られた。あれだけ素晴らしい遺構の残ってる城のどこがダメなのか・・・要するに、おじちゃんは土城よりは近世城郭派らしい。丸亀城とか備中松山城の話を好んでしていたので、石垣がないとダメだと言いたいんだろうな。その代わり、これから行く城の石垣が残ってる場所を説明して「ここは絶対見てってくださいね~」って教えてくれた。昨日の新高山城でほとんど人に会わなかった話をしたら、「元日ですからね~」と苦笑された。普段はやっぱり、結構人がいるらしい。そんな話をしながら窓の外を眺めると、ほとんど農道といったような田んぼの中の細道をずっと走らせている。山を降りたら、駅の方まで歩くつもりでいるんだけどな・・・大体の地図は持ってるけど、段々不安になってきた。おじちゃんにも「無理ですね~」と言われたので、いちおう名刺をもらっておいた。歩けない距離でもないけど、時間もかかりそうだし疲れも溜まってるしはたして体力が持つかどうか・・・※「頭崎城(1)」へ続きます。にほんブログ村
2013年04月05日

明智寺の境内には、小さなお堂もある。 あと、鐘楼↓。 ・・・だいぶ後世のものだけどね。往時の明智寺はそれなりの規模があったんじゃないかと思うけど、これも時代の流れだ。則平の寺が残ってるだけでも私には嬉しいさ鐘には、昭和56年の銘がある。「池の間」には飛天などがいて、ちょっと瀟洒なカンジ。あ~、よかった。これで満足だ。明智寺を後にして、登山道を降りる。もうひとつの寺は、由来とかはまったくわからなかったんだけど、すぐ近くらしいから行ってみようと目を付けていた寺だった。え~と、確か登山道から墓地まで下りた辺りの左手に細い石段があったんだっけか。要するに、どちらの寺も「大手道入口」の標識から城内に入ったところにあった訳です。ちゃんと地図とかを確認してれば行きにチェックして帰りにスムーズに寄れたのに、とんでもない遠回りをしました。わたくし。で、石段を上がった先が浄応寺の境内↓。 だいぶ色あせちゃってるけど、赤瓦だな。本堂の背後に、新高山が屹立しているのが迫力ある。これも後世の建物らしいけど、屋根は立派だこちらの屋根の大棟にいるのが・・・ おお、なんかすごい!いいもの見たなあ~大棟のこの位置にこーゆーのがあるのは見たことない気がするけど、この場合も留蓋って言うのかな?炎を背負ってるみたいだから、お不動様かな?軒の方にある正真正銘の留蓋はこちら↓。 う~ん、なんだろ、これ・・・波の一種かな?本堂の蟇股↓。 真ん中にある三角の細長いのは、どうも琴っぽい。これは珍しいそして本堂の戸は、嬉しいことにちょっぴり開いてました。こちらが正面↓。 そして向かって右側↓。 戸が開いてはいたものの、上がるのはためらわれたので覗くだけにした。なので、幕の奥にある像とかはよく見れなかったし、今もって浄応寺の由来はわからないんだけど、この垂れ幕だし、こちらも小早川のゆかりなのかもしれない。ここへ来るまで大変だったけど、来た甲斐があったなあ~本堂の向かいにも小さなお堂があった↓。 残念ながら、戸には鍵がかかってて入れなかったけど。お堂の脇から見る城下の眺め↓。 真ん中の木がちょっと邪魔だけど、小高い場所にあるので割に本郷の町が見渡せる。よっしゃ!これで今日の本郷でのノルマは終了した。駅へ向かって歩き出す。途中の道から、沼田川の対岸を見たところ↓。 新高山城は山上で生活してたけど、小早川歴代の城・高山城は山麓に居館を置いていたという。真ん中のもっこりした辺りがそうなのかな~。途中の民家にあった留蓋↓。 この顔は、もはやハトじゃないけどね(笑)。しかし、ミワラほどハト一色って訳でもないので、この辺の留蓋文化は東(ミワラ)のハトと西(東西条側)の波系の混在する地域ってカンジだな。新高山山麓の沼田川西岸には、近世あるいは近代の石垣もちらほらある↓。 これなんかは、石積みは割に新しそうだけど、石自体は結構古そうだよな・・・本郷橋まで戻ると、これが目に入った↓。 ああそうだ、まだこれがあったんだ・・・充実してたから、すっかり忘れてたよ これが、夏にバスでミワラへ向かう途中に見て気になっていたものです。「本郷町史」でもこれに関する記述はちょっと見つけられなかったので、結局何なのかはわからなかったんだけど。 「昭和42年4月」と石碑の脇に銘がある。川沿いの狭い区画には、意外に色んなものがごちゃまんと置いてあった。 これは狛犬だよな・・・ちょっとここには降りて行けなかったので、近くには寄れなかったんだけど。昔神社だったものを、ここに一緒にしたのかな?このそばには灯籠があった。 またこのタイプか・・・このテの灯籠がこちらのひとつのスタンダードなのかもしれないな。にほんブログ村
2013年04月04日

橘神社に寄ったのは、もちろん初詣もあるからだけど、神社の入口にこんな案内があったからだった。 橘神社の下に書いてある「明智寺霊園」。霊園じゃなくて、明智寺へ行きたかったのだ。この赤い矢印に惑わされた・・・神社へ登る参道は左に付けられてるんだけど、右に山すそを回り込む道があったので、そちらへ進むのかと思ってまずは行ってみた。 神社の山麓を歩いてると、田んぼを挟んだ右手の新高山の中腹の高いところに寺みたいな瓦屋根が見えた。あれだよな、たぶん・・・寺の大体の場所はわかってはいるものの、詳細な地図は用意できなかったので道がわからない。が、新高山城のすぐ近くにあるからわかるだろうとタカをくくっていた。歩いた先に田んぼを渡る道があるのかと思ったけど、行けども行けどもそんな道はない。あっち側に行きたいんだけど、ワシ。神社入口まで戻って、1本先の細い道を歩いてみる。 立派な土塀だなあ~。一般の民家なんだけど、これ。銃眼があれば、もっと楽しかったけどこの近くの民家には、おなじみのコイツがいた↓。 ああ、ミワラにいるってカンジィ~!!雨は降ってくるし疲れたし寒いし道は見つからないけど、ちょっと慰められた。この道から山腹に上がる細い参道でも付けられてるんじゃないかと思ったけど、見つからないままに寺のあるとおぼしき場所を過ぎてしまった。おかしい・・・今度は沼田川沿いを行ってみよう。この道を歩いてると、相変わらずのすごい山容が目に入る。 こっちからだと、どう見ても溶岩ドーム程度の盛り上がりがあるようにしか見えないんだけど。面白い山だよな~。新高山城の登山道入口を過ぎると、対岸の高山城が近くなってくる↓。 古高山を突き抜けているのは、山陽新幹線です。古高山の下を抜けた後、新高山の下を抜けるルートなのだ。広島方面からだと、新高山⇒古高山⇒三原城と小早川領内における主要な3つの城を思いっきり通っているので、「小早川氏に恨みのあるJR職員でもいたのか!?」って言ってる人がいた疲れてちんたら歩いてる間に何度か新幹線が通っていったので、近くまで来た時に私もシャッターチャンスを狙ってみたけど、そーゆー時に限って新幹線はやって来ない。私は「鉄」でも「鉄子」でもないので、お目当てがやって来るまで粘る気もなく、ほどほどのところで諦めた。昔は、手前の道路も含め写真に写ってる地面が全部川だったんじゃないかな。そうなると、結構広い川幅だよね。天正の頃、この辺りを通ったナントカさんはナントカって日記の中で、沼田川を渡るのに渡し賃がいるって事を書いてるし。沼田川に橋が架けられたのは、明治に入ってからのことらしい。沼田川沿いをずっと北上して行ったら、こんなものがあった↓。 【銘水「沼田本郷の天然水」のご利用方法 ★飲料水として 常温で飲んでも美味しいですが、冷蔵庫で10℃位に冷やすと更に美味しく 感じます。 ★炊飯・お料理に お米の炊き上げ水に、味噌汁、煮物、スープなどあらゆるお料理の旨味を 引き立てます。 ★焼酎の割り水に お茶・コーヒーに 焼酎、ウィスキーや各種アルコール類などの割水として、又、お茶、コーヒーなどに おいしさを引き出し、味わいをまろやかにします。】ふ~ん、こんなのあるんだ・・・しかし、空きのペットボトルなどはなかったので水は汲まなかった。いちおう、有料だったし。【100円硬貨1枚を入れたら、20リットルの天然水が出て止まります】って、そんなにいらんわ!!で、この奥に「新高山城(32)」で紹介した想像図の看板があった訳です。看板の奥には、なぜかこんなものまで・・・ う~ん、なかなか良くできてるけど、なんでこんなとこにこんなものが?塔より寺だよ~、寺!!この先までもうしばらく行ってみたけど、道は細いし、どうも違うみたい・・・おっかしいな~。この後、橘神社から北側を何度も歩いて探し回りました。だって、小早川ゆかりの寺だからどうしても行きたかったんだもん屋根は見えてるのにな~。どうやったらあそこまで行けるんだろう・・・ 歩いてる途中、民家のブロック塀にこんなのを見つけた↓。 あれ?これ、ミワラの「笑う塀」と同じやつじゃん?なんだ、特別なやつじゃなかったんだ、あれ(笑)。探し始めてかれこれ1時間近く。また橘神社まで戻って案内板を見直して、もう1度だけ行ってみよう、これで見つからなかったら諦めよう・・・と沼田川沿いを歩きだす。狭い範囲をこれだけ歩き回って道が見つからないなんて、おかしい・・・しかし、やっぱり見つからなかった。諦めようと決めたのに諦めきれず、しつこく歩いていて、ふと登山口を入ったところにも道があったよな、って思い出した。日の短い時期なので、薄暗くなり始めた中を登山道入口へ入る。 この後もしばらく行きつ戻りつしてモタモタしてたけど、登山道へ入って竹の棒が置いてあったところに城方面と反対に行く道があったのを思い出して、山道を上がっていった。それで、ようやく着いたのが だいぶ色あせちゃってるけど、確かに小早川紋だ。やっと見つけたあ~!!この明智寺は、小早川則平(1373~1433)が嘉吉元年(1441)に建立した寺なんだそうな。手持ちの資料ではこれ以上の詳しいことはわからないので、縁起とかあればできればいただきたかったんだけど、元日の夕方でひっそり静まり返ってる中を「たのも~!!」するのも気がひけたので、諦めた。まあ、来られただけでもいいや。沼田小早川当主・則平は、佛通寺を創建した春平の子。春平の死後、引き続き佛通寺の整備に力を入れた人でもあります。この場所は新高山城内にあたるけど、もともと新高山にも小早川氏の副塁が置かれてた訳だし、ここに則平の寺があるのは別に不思議じゃない。あるいは新高山城を廃城にした後に移ってきた可能性もあるけど、もしかしたら創建当初からずっとここにあったものかもしれないよな。新高山城の人気はこの辺では高いと思うけど、城を訪れる人の関心は大抵隆景一代に限られていて、隆景以前の小早川氏に興味を持っている人はかなり少ない。登山道に明智寺への案内が出てる訳でもないし、小早川氏そのものに興味を持つ人は少ないので、この寺を紹介してる人も必然的に少ない。だけど、遠い昔に則平が建てた寺はひっそりと、でも確実に新高山に残ってる。建物は当時のままじゃないことは明らかだけど、それでも嬉しいことだよな誰もいない小さな境内には、こんなものが建っていた↓。 アハハ、ミワラにも沢山400年記念のものがあったけど、お祭りムードは本郷にまで波及してたんだ~。ああ、今の行政区では本郷も三原市内なんだけどね。でも、私の中では本郷・・・というか沼田とミワラは違う。そもそも、昔は安芸と備後で国も違ってたし。境内には、他にもこんなのがあった↓。 朝、沼田川沿いを歩いてる時に87番があったから、その前なんだな。しかし、この辺には別の霊場もあるって何かで読んだから、「三原新四国」じゃないのかもしれない。にほんブログ村
2013年04月03日

※「新高山城(32)」の続きです。ふう、予定よりはちょっと遅くなっちゃったけどまだ時間はあるし、本郷でのお目当てをちゃちゃっと済ませて西条の国分寺を見られると後がラクだからな。がんばんべ~。まずは一旦沼田川沿いの道を南に戻って、朝見た神社へ初詣。 ふむ、名前の通り神紋は橘なんだな。車も数台止まってるし、ちょいちょい人が出入りしてるからこの辺じゃ結構大きな神社なのかもしれない。鳥居には貞享5年(1688)と銘がある。鳥居の奥には、まず狛犬。 なんか耳が面白~い。そのすぐ奥に、第2の狛犬。 出たでた、デカいボールかかえてんのが・・・関東にこのパターンの狛犬っているのかな~。後ろ姿↓。楽しそうにボール遊びしてる犬にしか見えん・・・ 第2の狛犬の奥に石段。長いな・・・ 上がりきったところにあった灯籠↓。これ、佛通寺にあったのと同じタイプだ。 この先もまだ石段↓。写真には写ってないけど、結構一家総出の初詣が多くて、年寄りにはちょっときつそうだった。 ここを上がりきってもまだ石段↓。ふへえ~、やっぱ先に新高山城に行っておいてよかった~。 3回曲がってやっと社域。結構登ったよな。 上がってすぐのところにいた、第3の狛犬↓。 これはまた、何て面白い顔をしてるんだろう。出目狛犬・・・境内には結構人がいたけど、皆様普通の初詣客なので、こんな写真撮ってるのは私だけです。で、正面に拝殿↓。 おお、なかなか立派じゃないか~。この神社、いつからあったものなんだろう。由来が知りたいと思ったけど、境内には説明板の類はなかった。まあ、小早川以後の創建だとは思うけど。少なくとも貞享5年にはあった訳だから、そこがスタートだとしてもかなり古い神社ってことだよな。まずは、今年1年の無事を願って神様へご挨拶。 おお、立派立派~。欲を言えば垂れ幕は小早川紋がよかったけど、隆景ちゃんの当時からあった神社だったら、今頃この神社は三原にあったかもしれないしな。参拝を済ませ、大好きなおみくじを・・・これはアレです、「東西条バトル編(2)」で現地から報告した、アレです(笑)↓。 どだい私にブログで愛を叫ぶなって方が無理な話で、神様のお告げをすっかり忘れて新高山城だけで31話も書いちゃったよよしよし、ちゃんと初詣してこれで今年1年も安泰(のはず)だで、ここから境内散策。拝殿の左手から本殿へ回る↓。 う~ん、地味っちゃ地味だけどなかなか・・・この辺の摂社の床下に積んであった瓦の中に、小早川・・・いえ、巴紋の瓦も無造作に置かれていた↓。 はああ~、いらないんだったらこの瓦、私にくださ~い ではここから、本殿の左右にある摂社をまとめてご紹介~。 造りはどれもほぼ同じだけどね。でも私、摂社を綺麗にしてるところって好きなんだよね。もちろん、この時は正月だから特別な飾り付けをしてたのかもしれないけど。本殿の向かって右側には、不思議なものが・・・ ・・・??この辺で競馬場って・・・福山?福山にだって神社はあるのに、何でわざわざ本郷の神社に?よくわからん。拝殿からぐるっと時計回りに本殿を回って戻ってくると、その先には橘の腹巻した馬がおわす↓。 この台座には、 【この神馬は昭和15年4月創建されましたが同19年5月第二次大戦に出征(供出) したため嗣子に依り平成御大典を記念して再建し奉献されたものです。】とある。で、神馬の向こうに見えてる建物へ向かいます。 この中には・・・↓。 左下のは、虎だよな~。虎のエピソードといえば結構限られてくるけど、虎を右から狙ってる武士はなんか腰に丸い輪っかを・・・蛇の目?清正か、これ!?もう1枚↓。 どうも川の中にいるらしい。黒馬だし、もしかしてこれ、磨墨(するすみ)かも?その左に白馬がいるから、生食(いけづき)だったりして・・・だったらいいなあ~こんな板絵が、この中に沢山ありました。見てよ、コレ↓。 結局、橘神社の由来はわからなかったけど、「本郷町史」によると13世紀中頃のこの辺の神社を書いたものに「八幡宮」の記述があり、これの1つに比定されてるそうな。また、山口県文書館所蔵の毛利家に伝わる「中国行程記」(1764)には現在の橘神社のある場所に「橘」と描かれている。にほんブログ村
2013年04月02日

【西の丸・北の丸(三の丸)跡 中の丸に続いて西方に配置された四段が西の丸で、これからさらに北西にのびる 北の丸の五郭が連なっている。これらが三の丸の縄張りである。 西の丸の東端の郭は石弓場と呼ばれるが、それ自体が二の丸を守る箱薬研の堀切の 役割を果している。 また、北の丸の中心的な郭には石積みの方形基壇が残っており、社寺に類する 建物があったと思われる。】 アラ?石弓の段自体が箱薬研?難しいな・・・縄張図を見てもわかるように、石弓の段から北の丸にかけては複雑な造りになっており、実際かなり歩きにくかった。これまでに遺構を沢山見て、沢山萌え~してきたからさすがに疲れてたのかもしれない(笑)。ここにも礎石らしきものがちらほら見えます↓。 で、ここが北の丸・・・かなあ・・・↓かなりうつろに歩いてたんで、記憶がアヤシイ この辺の地面の状況はあまりよくなかった。さて・・・この南側にも郭がいくつかあって、行かれるものならぜひ行ってみたいと思ってたけど、ネットで公開されてる訪城記ではそちらの記事は見たことがない。ただ、あまりいい状況ではないというのはどこかで読んだことがあったし、ひとまずここからはスムーズに行かれる道はない。ここまででもう充分すぎるほど堪能したしな・・・時計を見ると、14:00。9時前に入ったから、5時間近くいたのか・・・この後は近くの寺を2つ見て、山麓にあった神社に初詣が今日のノルマ。時間が余れば西条に戻って国分寺くらい見るつもりだった。これ以上道を探す気力もなかったし、ちょうどいい時間でもあるので今回はこれで終わりにすることにした。でも、南西の郭群へは2つばかり行けそうなルートを見つけたからな。次回チャレンジしてみようっと降りると決めたら、行動は早い。これまでちんたら歩いてたのとは別人のようにずかずか歩きだした。石弓の段まで戻ると、中央部中の丸の見事な高さが目に入った↓。 これを人の力で切り出したんだから、すごいもんだよな~。帰りは来た道を戻るだけなので、早かったッス。結局、朝から山中で会ったのは詰の丸で遭遇した3人組だけ。でも、山中にはベンチがいくつもあったから、普段は結構人がいるんじゃないかと思う。元日を選んでよかったなあほとんど1人占め状態だったから、思う存分楽しめた。又四郎様、ありがとう元日からこんな素晴らしい城を見て、今年はさいさきいいなあ~!!・・・・アレ?そういえば去年の元日も素晴らしい城跡へ行って、おんなじ事思ったっけ。でも去年は・・・・・・・・・まあいいや、考えてもしょうがない。今日1日で今年1年の運を使い果たしただなんて、又四郎大明神様がそんなみみっちいことするハズがないあ。そういえば、またミッション忘れてた(笑)。も~、ホントに素直に楽しんじゃってそこまで考える余裕なかったよ~。まあ、まだチャンスはある。しばし持ち越しだな・・・え~っと、だいぶ文字数が余っちゃったので、ここまで書けなかったことを少々。各郭を歩きながら「ここで蹴鞠ができるかなあ・・・」って考えてましたが、隆景ちゃんは天正16年に「紫組冠懸」を許されてます。戦国ファンの中では飛鳥井雅綱は結構有名じゃないかと思うけど、雅綱の子・雅春から蹴鞠の門弟として認められたものらしい。あんまり詳しいことはわからないんだけど、どうも朝廷に出仕する時にかぶる冠は、通常頭に乗せるだけなのが、蹴鞠の上達者には組紐をつけることが許されたんだそうな。免許皆伝みたいなもんかね。蹴鞠と組紐がどーゆー関連があるのかはわからないけど、何かの故実があるんでしょうね。隆景の肖像として有名な米山寺の肖像画は衣冠束帯姿だけど、それには紐はついてない。いちおう法常寺の木像の写真を確認してみたら、ちっこい方にはついてなかったけど、大きい方の隆景ちゃんはヒモ付きだった!・・・ただし、紫の紐じゃなかったけど。隆景の周りの人で同じように紫組冠懸を許された人には、毛利秀元や立花宗茂がいる。デキる人ってのは、どこまでもマルチな活躍をするものなんだなあ・・・しかし、天正16年といえば、御年55歳。それまでに地道な練習とかしてたのかな~。新高山城内で練習することなんかもあったのかな~って考えると、ちょっとおかしいこのヒモを着けてれば、「おっ、飛鳥井のファンタジスタ!」って一目瞭然だもんね。誇らしげに紫の紐を付けて闊歩することなんかもあったのかな・・・下山してからは、ちょっと歩き回って苦労するハメになったのですが、沼田川沿いの道をずっと北上していったら、こんな看板を見つけました。 ありし日の、新高山城の想像図です。 【この想像図は、一通りの整備が終わった新高山城を描いたものです。 城は、建物を建てたり、防御の足場となったりする「~丸」と呼ばれる平坦な段と、 それを取り囲む「切岸」と呼ばれる崖から成っています。当時は「切岸」には 草木は無く、容易に登れないようになっていました。一方、「丸」には逆に 木が植えられ、中が見通しにくくなっていました。 新高山城は、標高197mの山頂を中心に全山が要塞化された大規模な城でした。 小早川隆景は、天文21(1552)年に高山城から新高山城に移り、 慶長元(1596)年、新高山城を廃し、三原城に隠居しましたが、翌、慶長2 (1597)年6月、65才にして世を去ります。 新高山城はまさに、隆景とともに興り、隆景とともに廃れた、45年間に亘る 隆景一代の名城と言うべきでしょう。 対岸の高山城跡、三原城跡と共に、昭和32年12月11日国指定史跡になっています。】 (現地解説板より)右を流れるのが沼田川。川の下の方に、いくつか船が描かれてる。「本郷町史」には、 【新高山城は城の大手口が船着場に臨んでいた。本郷村の『国郡志書出帳』にも 「村内土地古今相違様子、当村大川筋往古は入海にて、高山城跡御在城の節は、 新高山阯に御船入と申処在て御船繋る由、古老申伝にて、今は其所畠と成りぬ」とある。】と記載がある。絵の船着場の両脇に建物が2つ描かれてるけど、この後これを求めて私はえんえん山麓をさまよう訳で、結論としてこの絵では「大手道入口」の標識のあった場所をそのまま船着場として描いてるようです。ちなみに、船着場の北側の川べりに赤いポッチがあるのがわかりますか?も~、場所がわからなくて、こんな方までとぼとぼ歩いてったんだから・・・そちらの苦労話については、この後の旅日記の方をご覧ください。私の苦労話なんかどうでもいい?でも、それも小早川ゆかりの場所なので、これから新高山城に行かれる方で小早川氏に興味のある方は参考にして頂けると、私みたいに歩き回らなくて済みますよ~(笑)。以上で長かった新高山城シリーズも終了です。イベントを書いてる最中はこれだけで50話くらい行くんじゃないかと思ったけど、ひとまず終わって良かった・・・まあ、少しでもこの城の歴史と良さが伝わればいいな~と思って書いてましたが、写真と実物では全くと言っていいほどの違いがあります。なので、現地にもぜひ足を運んで名将の造った名城をお楽しみいただければ嬉しいッス。※「東西条バトル編(13)」へ続きます。↓ねぎらいの「ぽち」もよろしく~。にほんブログ村
2013年04月01日
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