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タイトルでおわかりでしょうが、また雑談入りま~す。本編連載中にこれだけ雑談が入るのは、ブログを始めて以来初ではないかと思いますが、「福山編(9)」はまだほとんど書いてなかった上に、今日は帰りが遅くなったし、しかも体調悪い・・・こりゃ、今日の更新は無理だな~と思っていたら、友達から荷物が届いていて、面白いものを送ってくれたのでこれを紹介しようかなって気になったのだ。荷物の送り主は、わたくし専用の京都のセキュリティセンターのセンター長を務めるよしおさん(♀)。よしおさんは西の方へ行ったらしく、昨日は現地から岡山産ピオーネを送ってくれました。粒がすごく大きくて、食べごたえのある美味しいピオーネだった。まず食べて感想を言わねばならん・・・と思って何粒かぶちぶちむしってありがたく戴いたあと、お礼のメールをしたらば、「上様にも一粒・・・」と言われて、「あ」とポカをやらかしたことに気がついた。「上様」は、信長様のこと。安土の考古博物館で買ったちっこいフィギュアが私の部屋に鎮座しておられるのだ。よしおさんはよく食べ物や土産を送ってくれるんだけど、「自分で食う前に上様にお捧げするよーに」と毎回毎回言われていたので、だいぶ習慣化されてきたと思っていた・・・が、今回はそれをすっかり忘れてむしゃむしゃ食べてしまいました福山城シリーズが思ったより長引いてしまったので、福山編を始めてからもう1ヵ月近く経つけど、福山のことを書きながらも少し前からやたら岡山に行きたい衝動にかられていた。吉備路サイクリング楽しかったな~とか、マスカット美味しかったな~とか、やけに岡山での出来事が思い出される。「お城パフェ」も美味しかったしね。ので、「いいな~、おきゃやま・・・」と思いながら信長様より先に高級ピオーネを食べました。今日届いたのは、追加のお土産。私だけかもしれないけど、戦国時代のみならず、現代も中国地方ってのはちょっと地味な存在じゃないかと思う。戦国を勉強し始めてからも、大内さんちを好きになるまでははっきり言って全然興味なかったし(笑)。が、知名度は低くても中国の戦国がドラマティックな歴史を秘めているように、現代でも色々な面白グッズとか食べ物なんか沢山あって、頑張ってるよな~って思う。旅の楽しみのひとつは、やはり土産選び。私が1人で史跡めぐりをする時は、御存じのようにあちこちのお店に寄って土産を吟味するなんて悠長なことはしないけど、それでも家族とか職場の人への土産は買わなければならないので、お土産ショップのような場所には寄る。なるべくなら滞在した現地のお店でお金を使っていきたいとは思うものの、なかなかそれが叶わないこともあり、現地で調達しきれなければ空港で買う。私にとって土産はほとんど義務のようなものだけど、それでも入ったお店に珍しいものとか気に入ったものが多くあれば土産選びも楽しい。特に、同期とかの身近で大事な人達への土産は是が非でも美味しいものを買って喜ぶ顔が見たいので、真剣に選ぶ。特定の地名を出すのもどうかとは思うけど、例えば岐阜。史跡はすごくよかった。クソ暑かったけど、楽しかった。が、土産物はチョ~渋かった・・・いや、食べてみれば美味しいのかもしれないけど、見ててそそられる物がほとんどなかった。私は結構好き嫌いがはっきりしてる方で、気に入ったものには金は惜しまないけど、気に入らないものにはビタ1文出したくない。もうちょっと何とかすればいいのに~とか思いながら、いちおう皆への土産は買いましたけどね。土産の質の悪さで、残念ながら私の岐阜の評価は確実に下がった。もちろん、好みの問題ではあるんだけどね。ただ、何て言うか・・・古いのだ。工夫が足りないってゆーか。対して中国での土産物選びは楽しいです。忙しい中、わたくしの心配をしてくれるよしおさんには、旅先で買い集めた細かい土産などを、家に帰ってから送ります。彼女への感謝と、安全管理料を物納してるような感じで(笑)。もちろん彼女への土産も真面目には選んでるんだけど、ぱっと見て気に入ったものをぽこぽこ買って、送る段になって並べてみると結果的に面白系のモノが多いかも・・・宮島の「鼻くそ」、あれもよしおへの土産だったししかし、そんなわたくしへ彼女はちゃんとした物を送ってくれます。今回はちょっと変わりダネもあったし、地味だけど(中国の皆様ごめんなさい)むこうには色々面白いものや美味しいものが沢山ありますよ~、中国、頑張ってますよ~って紹介したかったんだよね。で、追加のお土産↓。 ほほう~、こんなのあるのか。さすが、フルーツの国・おきゃやま西条へ行った時だったかな、酒の町・西条ならではの「美酒カレー」なるものがあってよしおへの土産にしたことがある。何だったか忘れちゃったけど、他にも変わったネタのレトルトカレーを見たことがあるので、全国に変わりダネカレーは割とあるのかもしれない。しかし、ピオーネをカレーに入れちゃうとはね。フルーツの国ならではの、大胆な発想だよな。まあ、果物入りならたぶん甘口だろうし、辛いカレーは苦手なので(←お子ちゃま)よかった。ちょっと食べてみるまではドキドキですが。でも干しぶどうを使う料理なんかもあるしな、あんな感じなのかな。 ↑これは、前にも現地で見た覚えあるな。有名な「白いナントカ達」のおきゃやまバージョンね(笑)。あと、これ↓。 宅配の伝票の品名には「マーマレード」と書いてあったので、マーマレードの苦みが苦手な私は「これはワシは食えんな・・・家族に譲るか」と思いながら開けてみたら、桃のジャムだった。ジャムだよ、ジャム!品名は正しく書くよーに!!と得意のツッコミを入れながら、一方では安心して美味しそうなジャムを眺めてました。もらった土産ではありませんが、先日披露した上野みやげ。その中の岡山産マスカットオブアレキサンドリアのお菓子を同期にあげたところ、大好評でした。私はお店の名前とかに無頓着なので知らなかったけど、包装紙を見た同期はそのお店を知っていて、柏の高島屋にも入っていると言った。私も似たようなのを以前柏で買ったことがあったので、やっぱり同じお店だったのか~と今日寄ってみたら、あった 源吉兆庵の「陸乃宝珠」。旬のマスカットを使うので期間限定とあり、他のお客さんも買っていたから人気の商品らしい。少し前に、ペアを組んでる上司に色々お世話になったので、これの詰め合わせを送ったところ、上司も知ってはいたが帰りに寄るといつも売り切れで食べたことがないと言っていた。まあ、お値段はかなり張るし、食べログを見ると「マスカットは生のままで食べたい」とか不満を並べてる人も結構いるようですが、私の周りでは「はっさく大福」と肩を並べるほどの大好評だったので、オススメかな。贈答品としても喜ばれるかもしれません。てか、自分用に気軽に買うには確かにちょっと難のあるお値段あ~、おきゃやま、行きて~な~・・・関係ないけど、広島の菓子博で好評だったお菓子でできた厳島神社が広島空港で公開されることになったんだそうな。写真撮影、OKかな・・・寒くなるまで中国に行く予定は今のところありませんが、2年は展示されてるというから、今度広島へ行った時、写真を撮れれば撮ってくるねにほんブログ村
2013年07月31日

次のスポットはさほど離れていない場所にある。三蔵稲荷神社の参道を降りて左手に歩きだすと、道端に三蔵稲荷神社の倉庫のようなものがあって、かなり乱雑に色んなものが収められていた↓。 こういう木の箱って、掛け軸とか巻物なんかが収められてそうだけど、まさかね・・・だいたい「空庫あり」ってあるけど、ここにはごちゃごちゃと色んなものが置いてあるから、空きスペースあるのか?・・・とか、心の中でぶつぶつ言いながら写真撮ってました(笑)。で、このすぐ先には大きな鳥居があります↓。 う~ん・・・この位置はビミョ~だな・・・奥へ行っても神社、手前も神社。果たしてどちらの鳥居なのか?この左手の木が繁っているところは、城内です。北側には高石垣の類はなく、竹柵で囲っていたというけど、どう見ても防御力は低いでしょう。南の大手とはえらい違いだよな~。「頭隠して尻隠さず」・・・いや、違うな。なんて言うんだっけ、こーゆーの・・・この鳥居をくぐって、道なりに進みま~す。 道はかなり細い。絵図では、このあたりの道には東側の外堀へと通じる細い水路のようなものが描かれている。が、これは堀ではなく上水道らしい。現在の福山周辺の地図からでは想像もできないけど、福山はもともと海に面した河口にあったので、飲料水の確保が重要課題だった。この辺は、江戸の町と似てるよね。で、カッチンは芦田川から水を引き、4つのルートに分けて水道を整備した。福山城を語る中で上水道整備は欠かせない話題となっており、城下町の水道の中では 1、神田上水/天正18年(1590) 2、近江八幡水道/慶長12年(1607) 3、赤穂水道/元和2年(1616) 4、中津水道/元和6年(1620)に次いで5番目(元和8年竣工)にできた水道だそうな。 【築城当時どこまで整っていたかは不明であるが、道路工事や家屋の基礎工事で 掘り出された旧水道の遺構は驚くべき精巧なもので、江戸神田上水道にも匹敵する くらいに大規模で、近代水道に似た立派なものである。 この水道の根幹は、勝成の城下町形成のときすでに造られたもので、彼の言動を 記した『宗休様語伝記』にも、石垣をもつ溝を町の中央にうがち、その上に石を架して 暗渠となしたことや、飲料水なるがゆえに決してこの上をまたげることがなかったと、 次のように記されている。】 (「新版福山城」より)そして話はカッチンの有名なエピソードへと続く。 カッチンが城下の侍町を通った時のこと。 あるお駕籠の者が何の気なしに水道の上を通った。 それを見たカッチンが、 「ゴルァァ!! 皆が飲む水の上を歩くんじゃねえ! 脇を通らんか、脇を!!」 と叱って、家臣が通ったその水を飲むというパフォーマンスまでした。 それ以来、皆は水道の上を通らず左右を歩くようになった。最初、オープンな水路の上をまたいだって意味かと思ったけど、カッチンの頃にはすでに暗渠になっていたようだから、水道の上の道を歩いたってことなのかね。はじめから道のはじっこに造ればよかったんじゃないの?とかまたツッコミ入れたくなるけど、上水道の分布図を見ると城を中心に広範囲にわたって水道が巡らされてるようなので、きっと立案から完成までも色んな苦労があって思い入れもあったんだろう。上の写真では道の右脇に水路の名残のようなものがあるにはある。が、右上に建物が写ってるように、近代に入っていくつかの建物が建てられたおかげで、右側の天神山の麓あたりは昔とは様子が異なっているらしい。天神山は、福山城築城の際にカッチンが寝泊まりして工事現場へ出勤したといわれている小山。今、私が通っているのは天神山の東麓。北側には幕末に防備強化のために造られた胸壁といわれるものがあったが、そちらも近代の道路拡張のために遺構が破壊されているみたい。なんで幕末になって防備に力を入れたか?福山城シリーズで書いたように、福山藩は譜代の藩。2度にわたる長州征伐には、幕府軍として戦っている。阿部正弘さんも大変だったけど、その後の福山藩主も大変で、ここでは詳しく書きませんが、福山城に関連することだけをちょっと紹介すると、第2次長州征伐の準備の時には櫛形櫓にあった火薬が爆発し、鎗櫓、鉄砲櫓も延焼するという事故が起こったそうな。大政奉還を経た慶応4年(明治元年)正月には、長州軍が福山へ迫る。実はここまでの間で藩論は割れてはいたんだけど、なんといっても福山城は西国の鎮衛としての譜代の城。朝敵とみなされた福山藩は、築城から240年以上経って初めて本格的な攻撃を受けることとなった。で、それに備えて天神山に胸壁を築き、砲台まで置こうっていう話もあったみたいだけどね、結局天神山、そして近くの小丸山を占拠されてそこから砲撃を受けた。戦災で焼失する前の天守には、この時受けた砲弾の跡が残っていたという。最終的には福山藩の恭順が認められ、死力を尽くした全面戦争は回避された。まあね~、例えば「新版福山城」では天神山のことを 【築城当時搦手の要塞として残した小丘である】としているものの、搦手の要塞・出城といえば聞こえはいいけど、トータルでは防御力は低いんだから、ここを奪われたらどーすんの?て縄張図を見ててやっぱり思うもんね~。で、実際ここから攻撃されるハメになった。という訳で、今私がいる付近にはかつて長州軍がうじゃうじゃいたことになります。情勢がめまぐるしく変わった大政奉還前後の出来事を簡単に書くのは気がひけますが、福山にはまた来ようと思ってるし、別のところでもう少し詳しく書く機会もあるでしょう。あるいは、福山以外のところで書くかもしれないし。ので、幕末に関しては今はここまで。先へ進みましょう。 上の写真から少し進んで、振り返って城側を撮った写真がこれ↑。切り通しです。地形からすると、有名な鎌倉の切り通しとはだいぶ趣が違ってくるし、総合的に考えてこれがどれほどの効果を持つのかということには個人的にははなはだ疑問があるのだけど、当時の面影を残しているとはいえるだろう。「新版福山城」には、『東回りの外堀と天神山の間は竹柵を設け、清水口御門があった』とある。私が持ってる中の古い絵図では、切り通しのあたりは特に何も描かれてないように見えるけど、三蔵稲荷神社からここへ来るまでには確かに竹柵のようなものが描かれている場所もある。福山城廃城後の明治初期頃に描かれたと思われる絵図では、城から天神山へ抜ける道が描かれていて、天神山の麓には簡素な門がある。城が現役の頃にも、同じ場所に清水口御門から天神山へ入る門があったのかな?そして、同じ絵図で天神山の麓付近は長く竹の柵で囲われている。天神山を含めた福山城の小山の北側には、寺社の建ち並ぶ丘陵地帯がある。もちろん寺社大好きな私はそちらも歩き回りたかったけど、結局今回は全然行かれなかった。ので、そちらの実際の様子はわからないものの、天守の展望台から見えた寺の造りからすると、背面の弱さを補うための寺社兼砦だったのだろうと思われる。幕末の長州勢による福山城攻撃の際は、その高台も占領されたようで、 【城の北側両社八幡社(現在の福山八幡宮)から黒門を破り、阿部神社の赤門西側に続く 竹矢来を押し開き殺到してきた】 (「新版福山城」より。原典は「阿部正方公」らしい。カッコ内は戦国ジジイが追加)とあるので、北側へ通じる赤門と、城へ通じる門以外の山麓はぐるりと竹の柵で囲われていたのかもしれない。ま、戦国時代へ逆戻りしたようなだいぶ簡素な防御アイテムではありますが(笑)。↓ランキング参加ちうにつき、ぽちりとお願いしま~すにほんブログ村
2013年07月30日

※「福山城(18)」の続きです。旧天守礎石群の近くには、トイレがあった↓。 城内なので、景観をあわせて桟瓦葺塗籠なまこ壁ふう。ここまではありがちだけど、このトイレの入口の石段を見てください。両脇に櫓台つき。高山城を下山した後はただの公園の段々が郭にしか見えなかったし、今日は近世城郭だったので、もう私の目には櫓台にしか見えません(笑)。規模の大きな城を見続けると、目が(頭も?)おかしくなります。冗談はさておき、もうすぐ16時。あと少しなんだけど、日の短い時期だからちゃっちゃと見ないとなこういう場所の道って、地図を見ててもわかりにくいんだけど、まあたぶんこっちだろうと福寿会館・・・かつての五千石蔵のあった区画の脇の道を進む。ちょっと写真がないのでアレですが、この福寿会館は1930年代に安部和助(あんべ・わすけ)さんが建てた別荘なんだそうな。安部和助さんは「鰹節王」と呼ばれたということで、鰹節ってもっと前からあったんじゃないの?って調べたら、大正元年に煮干しを機械的に削ったものを紙袋、または紙箱に入れて「削り鰹」の商品名で発売したってことらしい。最初は煮干しだけを削ってたのが、鰹節も削るようになり、こちらは「花かつお」の名で売られて現在まで引き継がれている。なるほど、そういうことか~。で、King of 鰹節の大規模な別荘が建ったはいいけど、別荘への専用の道路を通すために二の丸の石垣を崩しちゃったんだと。まあ、時代の流れだからしょうがないものの、石垣を崩して新たに道を造るって、結構大変だったんじゃないかと思うけど。やっぱおかねもちだったんだな~。福寿会館は洋館と和風の本館の2つがあり、洋館には喫茶店があるってことなんだけど、福山城を眺めながらのんびりティータイム・・・なんて悠長なことしてる時間はわたくしにはございません。福寿会館を過ぎてさらに歩くと、次のスポットへの細い道に出た↓。 参道から境内に入った私が目にしたものは・・・ うおおお~ッ、なんじゃこりゃ!!広いとは言えない境内に、テントが張られその中で座って待機する人々・・・ものすごく沢山の人ってほどでもないんだけど、なにしろ元が広くない境内なもので、窮屈この上ない。もう一気にテンションは下がり、イラついたせいで逆に血圧は上がり・・・はい、「備後トラブル集・そのに」で書いた「小さな神社」はここのことです。一体なにごとかと思ったら、この日はこれの発表があったらしい↓。 ポスターにある募集要項を見ると、応募資格は「18~27歳迄の巫女にふさわしい明るい未婚の女性(自薦・他薦を問わず、高校生は除く) 12/31・1/1・2・3の4日間三蔵稲荷神社にて巫女として参加できる方」とある。上限が27歳って、ビミョ~だな・・・神主さんの好みかな?(笑)つか、年末年始の巫女のバイトを顔で選ぶってこと?あい、こちらの神社は三蔵稲荷神社といいます。ポスターによると、どうやらこの日は神社の感謝祭でもあるらしい。てか、感謝祭のひとつのイベントがミス三蔵稲荷のコンテストな訳だな。コンテストの他のイベントは、献茶式、祭典、お茶席、福引き、そしてなぜかビンゴゲームと多彩な内容こんな日に遭遇してしまったのは実に運が悪いが、もう仕方がないのでちゃっちゃと写真だけ撮ろうと奥へ進む↓。 今、何かをしているというより皆様何かを待っているといった感じ。舞台の方に向かってるから、これからコンテストなのかな。さりげなく列席者を見てみると、なんかコンテスト応募者の親戚とか友達とかといった感じの方達がほとんどのように思えた。とりあえず、参拝と写真・・・拝殿を写すのにいい場所には人がいたので、全体は写せず。いや、全体だけじゃなく撮影にはかなりの制約があったので、ロクな写真が撮れませんでした。も~っ、だからイベントはイヤなんだよ~!!で、どこかの破風↓。拝みの部分の瓦は、蛇の目だよな、これ・・・ 社殿の内部も望遠で写しましたが、かなりボケちゃっててお見せできませぬ。が、中にはお狐様がおわした。んで、こちらが狛犬ならぬ狛キツネ↓。しかし、デカいボールを抱えてるとこがやっぱり広島 拝殿もなかなかいい建物だったんだけどな~。残念だな~。んで、こちらが能舞台↓。 妙な布が張ってあるのは、ここがステージ代わりだからのようです。この舞台は阿部氏の時代に現在の福山八幡宮に建てられたものだそうで、古くなって取り壊されそうになってたのをここに移築したんだと~。幕のせいでろくに見えなかったけど歴史のある建物をミスコンのステージに使うってどうなの~とは思うけど、まあこれも歴史のある町ならではのゼイタクでしょう。え~とそれで、この三蔵稲荷神社はカッチン(水野勝成)の祖父・忠政が水野氏の居城・刈谷城の鎮守として祀っていた稲荷神を、福山城の鎮守としてカッチンがここに移建したのが始まりだそうです。各地にある稲荷には色んな名前が付いてるもんだけど、ここの「三蔵」という名前にはこんないわれがあるんだそうな。 【ある年藩の宰料某、多額の藩金を持って江戸に上るに、一人の武士毎日尾行し来り、 陰に陽に保護するものの如し。無事到着のその日その姓名を問いしに、 我は福山の城背に棲む三蔵なりと答えて去る。人以て当稲荷の擁護なりと為し、 遂に三蔵稲荷と呼ぶに至れりと。】 (「新版福山城」より。出典は「福山今昔」とのこと)いやいや、大金を一人に持たせるか~?とか三蔵は忍びのボディーガードだったんじゃないの?とか妙なツッコミ入れちゃダメです(私だけか)。ともあれ、三蔵稲荷は防備の薄い城の北にあって、カッチンの築城当初から福山城を守っていた歴史のある神社です。さて、入ってきた参道とは別の参道へ向かって神社を出る。途中の石段には、巫女さんのカッコをした女の子が親らしいおばさんと身なりを整えていた。たぶん、あの子が今年のミス三蔵稲荷なんだろうな。よく道もわからないままとりあえず降りていったら、途中に摂社があった↓。 小さいけど、よい雰囲気・・・やれやれ、やっと落ち着いて参拝ができるぞ道をそのまま降りていくと、こんな場所に出た↓。ここが表参道なんだな。 しっぽがピーンと伸びて、変わってる・・・この狛キツネは結構高いところにおわして、現地ではよく顔が見えなかったけど帰ってから写真を拡大してみたら 目・・・目が、ないッスそんなに古い石像にも見えないんだけど、目のないキツネなんて思いきったもの造るなあ。にほんブログ村
2013年07月29日

前回は月見櫓の下まで来ましたが、月見櫓のある本丸上段南東隅は他とくらべて割に変遷が大きい場所です。廃城前までは、月見櫓が。明治の廃城で月見櫓が取り壊されてからは、貸会場「葦陽館」が。昭和20年、空襲により天守とともに葦陽館が焼失・・・昭和41年、福山市制50周年を迎えるにあたって、記念事業として天守および月見櫓・御風呂屋の再建を決定。 【復元に要する経費は、日本鋼管福山製鉄所や福山商工会議所などの経済界の主導のもと 全額募金とし、総額1億5471万円の予算のもとに着手した。】 (「新版福山城」より)昭和40年初めでいちおくごせんまんって、結構な金額だと思うけど全額募金とはいっても、やっぱり企業の協賛があってこそだよね。ここまで好き勝手にあれこれ書いてきたので今さら隠す必要もないだろうけど(笑)、福山市の史跡整備事業はぶっちゃけ私の好みではありません。が、色々やっていることはやっているので、結構福山市っておかねもちなのかな~と思った。まあ、上の引用の文章には出てきてないけど、福山通運もあるしね。福山市民の皆様には申し訳ないですが、関東では福山を知らない人が多いです。なので、「福山通運」は知っていても、関東以北の人間には「福山から出たから福山通運」だと知っている人は少ないのではないかと思われます。そういえば、つい何日か前、仕事の帰りに道端に福山通運のトラックが止まっていて、ぼんやり見ながら通り過ぎようとした時、トラック背面に「ばらのまち 福山」ってステッカーが貼ってあって目を見張った「あ」と思ってるうちに通り過ぎちゃったので、引き返してよく見ようかと思ったらちょうどトラックの持ち主らしきスキンヘッドの兄ちゃんが帰ってきたので、諦めてそのまま帰ってきた。後から、兄ちゃんにお断りしてステッカーの写真を撮らせてもらえばよかったな~って後悔・・・(そんなこと頼む奴いるかよ)しかしこの「ばらのまち 福山」ステッカーはいつでもどこでも貼ってあるものではないらしい。そもそも知名度の低さを嘆いた福山市が「福山きらりプロジェクト」としていろんなPR事業に乗り出したうちの一環がこのステッカーだそうで、関東・中部・近畿の福山通運のトラック約4,300台に貼って福山市のPRに協力してもらう計画らしい。当初の予定では、2009年3月頃から3年間の予定とあるけど、今は2013年だから、もうとっくに3年経過しちゃってますケド・・・関東・中部・近畿にお住まいの皆様は、福山通運の緑のトラックを見かけたらぜひバックもご覧あれ。「ばらのまち 福山」ステッカーがで~んと貼ってあると思いますので。て、たまたま私の見た車がステッカーを剥がし忘れてただけだったりして(笑)。あ、ちょっと脱線した感もありますが、企業の税収は大きいよねって言いたかったのと、福山通運は福山市から出てるんだよって福山を知らない人のために書いておきたかっただけです。で、月見櫓の再建の話に戻りますが、再建の決定は天守・御風呂屋と同時だったようだけど、着工は天守が昭和40年10月15日起工、月見櫓と御風呂屋は翌41年5月と少し遅れた。天守工事中、かつ月見櫓工事前の昭和41年の何月かに撮影された福山城公園域の写真があるんだけど、その写真の中で月見櫓の場所には大きな入母屋の屋根を持つ能舞台のようなオープンぽい建物が写っている。これね、昭和22年に昭和天皇が巡幸された際に用意された「お立ち台」らしいッス。あっれ、昭和22年て確かミワラもじゃなかったっけ?て思って「三原城(12)」を読み返したら、やっぱり昭和22年だった。ああ、そうか・・・一連の行幸だった訳だな・・・ミワラでは行幸のために浮城会館と浮城寮が建てられ、福山ではお立ち台が建てられたってことか。お立ち台の他に、宿泊施設も新設されたかもしれないな。戦後間もないこの時期に、一体どの程度巡幸されたんだろう・・・と妙に気になって巡幸スケジュールをちょっと調べてみましたが、結構すごい昭和天皇の戦後の巡幸は昭和21年からスタートし、昭和27・28年はなかったようだけど昭和29年まで続けられた。中でも昭和22年は最も精力的に各地を回られ、6月5日~6月14日まで大坂・和歌山・兵庫・京都の畿内を。8月5日の福島を皮切りに、8月19日まで東北各県を。9月4日~8日まで栃木を。10月7日には長野を訪れ、そこから15日まで上信越を。10月23日に福井から始めて今度は山陰を下っていき、山口でターンして12月11日の岡山まで山陽を東上。重複込みでこの年回った都道府県は、実に25。ウィキペディアには 【※1948年(昭和23年)は東京裁判の判決に備え、巡幸は行われなかった。 ※北海道へは津軽海峡に機雷の残留の可能性もあり、危険の回避から1954年 (昭和29年)に先送りされた。】と注釈がある。もちろん、歴代天皇の中でこんな巡幸をされたのは昭和天皇が初めてだし、しかも様々な困難や危険を伴う中で、早い時期にこれだけ回られたというのは本当にすごいことだと素直に思う。さて・・・月見櫓から北上すると、鏡櫓下に出る↓。この辺の写真は一部本丸上段での記事と重複しますが、ご了承ください。 この後、水色のてんてんの「ぶち抜き御門」を通って天守東側の下段へと向かう訳ですが、現地ではこのあたりの構造をあまり把握していなかったので、櫓跡の写真はありません。とりあえず、下段の残りにどういう櫓があったのかだけ縄張図でご紹介しておきます。 32の鹿角菜櫓は「ひじきやぐら」と読み、二層で神辺城から移築されたといわれる。これまでも塩だのアラメだのって櫓があったから、ここはやっぱりあの「ひじき」を収めたひじき蔵だったんでしょうか・・・34の鬼門櫓はその名の通りの場所に建つためで、三層のこの櫓も神辺城からの移築と伝えられる。で、正確な場所は覚えてないけど確かこの辺にこの方がおられた↓。 【水野勝成之像 瀬戸内海の中央、福山湾岸に河口を開く芦田川。その広漠たる干潟を埋めて 城下町とし、ここに城を定む。 水野勝成は元和5年(1619)備後10万石の藩主に封じられるやこの町を開き 福山と命名す。 移封以来民政に意を用い、広く領内に池溝を開削し、干拓を行い耕地の拡大に努め 芦田川を改修し水道を穿ち藩政の安泰に力を尽す。また社寺を復興し、文化の昴揚を 図り今日の福山の礎を築く。 市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び 明日への躍進を誓う。 昭和53年4月建之】 (現地碑文より)はい、最後はカッチンで~す。なんかこれじゃフツーのおじさんだな・・・せっかく数々のエピソードを持ってるんだから、もうちょっとカブいた姿にしても・・・て、カッチンは別にかぶいてた訳じゃないんだっけ。なら、築城に自らも汗を流したという面を評価して、モッコをかついだ銅像でも親しみがわいて良かったんじゃ・・・しかし、左手に何持ってるんだろ?と思って覗きこんだら、どうやら巻物の類らしい。真ん中に穴が開いてるから、てっきり吹き矢か短筒かと(短筒はもっと後の時代です)。この後、こんな道をぼんやり歩いて 五千石蔵へと降りる36の蔵口門を通って 天守の展望台から見えた旧天守礎石群が保存されてる場所へ出る↓。 燃えた割には、結構綺麗に礎石が残ってるもんだな~。安土城なんか、いかにもって感じだったけどね。真ん中に石があるのは、心柱があったってことだろうか。てか、天守の詳細な図面て残ってるのかな?ふう、これでとりあえずのお目当ては全部見た。あまり時間はなかったけど、楽しかったな。それに、思っていたより大きかった。福山城の規模については、「新版福山城」にこんな風にまとめられていた。 【福山城は櫓の多い城であった。三重櫓が7基、二重櫓が16基、城郭で最も厳重な 防備施設といえる多聞櫓(城の石垣上につくる長屋状の櫓、多門櫓とも書く)は、 本丸と二之丸に配されて東南部を除いてほぼ四周を囲んでいた。その総延長は 291間余(570メートル)にも及んだ。 総延長300間近くになる多聞櫓は全国の城郭でもまれな規模であって、10万石の 大名の居城としては破格の巨城であった。】 周囲の外様の西国大名たちの石高はもっと高い。が、福山城の規模は現在公園として残されている部分を見るだけでも、周辺大名のそれと劣ることはない。カッチンが備後に転封となり、旧領の刈谷や大和郡山から連れてきた家臣の数は、100人程度だったという。それが、のちには2,000を超える家臣を抱えるようになったというから、現地採用された者が相当数いたのだろう。もちろん、三村親成も現地採用者に含まれる。城を築き、土地を拡げ、武士だけでなく多くの町人も移住するようになってあたらしい町・福山が出来上がった。「ばらの町・福山」は「カッチンの町・福山」でもある。※「福山編(7)」へと続きます。城の記事は一旦これで終わりとしますが、この後もほぼ城内を回りますのでよかったらご覧ください。にほんブログ村
2013年07月28日

昨日は仕事の帰り、図書館に行きました。予約した本を受け取りついでに、見たい本もあったので。柏市立図書館の本館は、水・木・金は19:00まで開館しているので、仕事をしている人間にとってはこの夜間開館は非常にありがたいです。震災の後しばらくは節電のため夜間開館は中止されてましたが、最近になってようやく復活したので嬉しい限りです。本館の蔵書は、やっぱり分館とは違うからね。本館でのお目当ては、やはり古文書。歴史を調べるにあたって欲しい本は沢山ありますが、もちろん薄給ですべてを買えるはずもなく、特に沢山ある軍記物の類なんかいちいち買ってたら大変です。ので図書館に資料をゲットしに行く訳です。たまに金曜日に「今日は金曜だから小銭を沢山持ちました~」てなツイートをすることがありますが、たまったストレスを解消しにゲーセンに通ってる訳じゃありません。(だいたい、ゲーセンなら両替機あるし)19:00まで開いてると言っても、仕事の帰りに寄って該当ページを探してそこから1枚1枚自分でコピーするとなるとあまり時間に余裕もないのですが、それでも1回50枚のコピーは下らないので、100円玉を沢山用意していかねばなりません。んで、昨日見たかった本というのは、「徳川実紀」。昨日はじめて徳川実紀デビューをした訳ですが、これは歴代徳川将軍の治政の出来事を時系列に記した書。何冊かに分かれてるんだけど、まず初代と3代目のあたりを見たかったので手に取ろうとしたら、数冊ある中で1冊目と2冊目だけが背表紙の色も違うし、小さなキズも沢山ついてて明らかに使いこまれてる感じ。やっぱり、家康から家光の頃までが人気なんだな~と書架に並んでる本を見てまず笑えた。徳川実紀は参考図書で貸出禁止なので、家に持って帰ってじっくり読む訳にはいかない。ぱらっと見たけど、欲しいページを探し出すのは時間がかかりそうなので、ある人物が実紀の中のどのページに登場するかを網羅した便利な別冊を数ページコピーしただけにしておいた。その後、どんな本があるか書架を眺めていたけど、やはり江戸関係の濃い本は結構ある。福山編の後は廿日市を後廻しにして上野編を書こうかな~と思っているので、お江戸の資料集めモードに入りつつある私としては、これは嬉しかった(←早速数枚コピーした)。閉館時間が迫ってきたので、資料室を出て廊下に貼ってあるポスターを眺めながら歩いていて、国立歴史民俗博物館のポスターが目に止まった。【歴博映像フォーラム8 「石を切る-採石技術の伝統と革新-」】来週の土曜日。場所は新宿。ううう~、真夏の新宿とか、行きたくねえ・・・でも面白そうなテーマだな・・・事前申し込みが必要だとあるので、家に帰って調べてみたら残念ながら定員に達したので申し込み終了とのことだった。ああ、ざんね~ん。しかし、スケジュールを見ると午前中から始まって夕方までみっちりの内容。まあ、ある意味行かれなくて良かったカモ(笑)。普段、こういうのに参加しようという意欲がないので情報を集めることはないのだけど、よく考えてみれば国立博物館やその他私設博物館の類は都内に沢山あるんだから、その気になりさえすれば結構こういうフォーラムとかには参加できるはずなんだよな。その後、歴史関係の一般書架に移動した。これまではあまりお江戸について勉強しようという気がなかったので気が付かなかったけど、やはり参考図書棚と同じくこちらも江戸関係の書籍は多い。実は6月の頃、突然関東のとある古い町に行きたくなってバタバタと資料集めをしていた。その時は、図書館の分館を見てみたら、有名観光地ということもあってやはり関連の書籍が多かった。だいたい、歴史面に手を出すと事前の調べも後始末(←ブログ)も大変だから、建築にだけテーマを絞って建築だけを見に行こうと思っていたものの、見るスポットが沢山あるから絞り込みをするにはどうしてもそこがどういう歴史を持つのかを見ない訳にはいかず、調べ始めると中途半端に手を出すと後が大変だな~・・・季節的・体力的な理由もあって、せめて広島関係の記事が終わってからにしようと行くのを我慢してるんだけどね。でも、やっぱり対象が関東だと沢山の情報が簡単に手に入るとわかったので、わざわざヒコーキに乗って広島や山口くんだりまで通わなくても、近くの史跡めぐりをすればいいんだよな~・・・と思ったものです。それで、本を立ち読みしてる時に仲の良い同僚に声をかけられておしゃべりなんかしてたので、あまり本を吟味できなかったんだけど、ひとまず3冊ばかり借りてきました。そのうちの1冊が「江戸八百八町に骨が舞う」(吉川弘文館)という本で、タイトルが気になったので早速今日読んでみました。著者の谷畑美帆氏は、主に江戸時代の墓から出土する古人骨などから、その骨の持ち主の生前の健康状態を推測する古病理学の観察を続けておられる方だそうで、実際に出土する骨のことなどが書かれていて興味深い。実は書架には、同じような江戸期の骨がどーたらというタイトルの本が数冊あった。ホネ関係で私が借りたのはとりあえずこの1冊だったけど、都内にはそんなに骨がごろごろしとるのか~と興味をそそられた。ま、具体的なホネのことについてはここでは書きませんが、読んでみると思ったほどホネの記述だけという訳でもなく、割に雑多な内容も含まれていた。たぶん、本格的なホネの記述になってしまうとシロートにはついていけないので、骨の研究というよりは古病理学的観点に沿うとこういう色んな内容になってくるんだろうな。骨といえば、だいぶ以前、「徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明・新潮新書)という本を読んだことがある。こちらはお医者さんの書いた本で、確か出土した将軍のホネからより医学的な観点で書かれた内容が中心だった。ホネ1つでも、見る立場によって結構記述が変わるもんだな~と思った。で、「江戸八百八町に骨が舞う」の中で特に私の興味を引いた箇所がいくつかあったので、備忘録がてらちょっとご紹介。火事の多い江戸でも有名な「明暦の大火」については「プチ巣鴨編(3)」で簡単に書いてますが、明暦の大火に関連する記述がいくつかあったのでね。へえ、相変わらず火事に食いつく性分ですんません(笑)。あ、「プチ巣鴨編」を書いてた頃は阿部氏に何の愛着もありませんでしたが、福山城シリーズで阿部正弘について書いたばかりでもあり、自分の明暦の大火の記事を読み返してみて、老中・阿部忠秋の家が実際の火元だったカモという箇所を読んで「この忠秋って、どの阿部さん!?」って調べ直してしまった。私の場合、人に関することは妙に偏執的な愛に基づく場合が多いので(笑)、どうやら先日の記事をきっかけに阿部氏に関する興味が湧いてきたようです。ま、何かに愛着を持てば色々調べようって気にもなるし、そうやって少しづつでも覚えていけば色んなことがわかるようにもなるしね。で、忠秋さんは傍系の阿部さんで正喬さんの御先祖にあたる人のようですね。下野壬生藩主を務めたあと忍(おし)藩に転封になり、初代の忍藩主となった。おなじみのウィキペディアでは 【忠秋は「細川頼之以来の執権」と評せられ、責任感が強く、また、捨て子を 何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、 忠秋の楽しみであった。】な~んて紹介されている。多くの人材を抜擢した正弘さんとちょっとダブったので、阿部さんちはこーゆー血筋なのかと思った。いや、他の阿部さんはどうだか知りませんが。これから勉強しますで、「江戸八百八町に骨が舞う」は汐留(東京都港区)の発掘中に女性の人骨が見つかった話から始まる。現在ではビルが林立する超現代的なこの汐留は、近年までは都心には珍しい近世・近代の巨大な遺構が存在する場所だったそうな。へええ~、汐留がねえ~。全然知らなかったな・・・しかし、考えてみれば近代の埋立以外の土地は「江戸」として多くの諸大名・武士・町人がひしめきあっていたんだからね。それも、新宿などの都心西部より江戸城を中心とする東部の方が栄えていたから、当然っちゃ当然かもしれない。で、「汐留」の地名からもわかるように、元はこの地は海沿いの湿地帯だった。それを17世紀になって幕府が埋立てを始め、大名屋敷が置かれるようになり、幕末の頃には龍野藩・脇坂家、仙台藩・伊達家、会津藩・保科家の3つの大名屋敷があったという。ところが、この3家は明暦の大火以前から汐留に下屋敷を持っていた。明暦の大火後には屋敷地を海側へと拡張し、脇坂・伊達は汐留の下屋敷を上屋敷に改めたんだそうな。明暦の大火以後、道路が拡張されたり江戸の町の大改造が行われたってことは知ってたけどね、具体的な内容についてはあまり知らなかったので、へえええ~って面白かった。他の江戸城郭内にあった大名家も、大火以降は郊外に移転し、それに伴い町の開発が進められ、町人地も広がるようになったと。もうひとつ、面白いと思ったのが食事に関するエピソード。明暦の大火の被害は甚大だったために、焼失した家屋の再建も重労働だった。ので、建築現場で働くあんちゃん達が「ざけんな!1日2食で足りっかよ~!!」と言って日に3回食べ始めたのが1日3食の始まりといわれているらしい。それが一般に広まるようになったのは、もう少し後の元禄頃。いやはや、3度の食事の際は、明暦の大火をしのんでくださいね明暦の大火以外にも火事の多かった江戸では、大火が起こるたびに対策が立てられ、防火に備えた工夫がこらされた。享保5年(1720)には、それまではゼイタクだとして町人には禁止されていた瓦葺きや土蔵が防火のために解禁となる。また、時代劇に見る長屋などは実にシンプルな造りだけど、経済的事情からこうしたものしか造れなかったのではなく、火事が多かったために焼失しても家主の経済的なダメージが少なくて済むように簡素な造りとしたという側面もあるらしい。そして、地下室が造られ、火事に備えてあらかじめ貴重品を地下室に避難させておくことが多かったんだと。これは知らなかったな~。時代劇で、おかみさんがヘソクリを地下室から引っ張り出すシーンとか出てこないもんね(笑)。いやあ、百万都市・江戸は面白いッスにほんブログ村
2013年07月27日

さて、肖像画とはだいぶ違う阿部正弘さんの像付近のお向かいはこうなってます↓。 ここが縄張図27の場所で、人質櫓の南で一旦飛ばしたところです。右側の建物が鐘櫓。かつては鐘櫓の手前に火打櫓があり、左側の石垣上には多門櫓が続いていた。まあ地形と構造物から、防御特性を備えたスペース・・・虎口なんだろうとは思ったものの、どうもしっくりこない。というのも、ここは坂になっていて、どん詰まりの部分ではせっかくの石垣の高さが半減してしまうのだ。上から見た方がわかりやすいかな↓。 なんか変じゃね~?と思っていたら、最初の写真の左側の石垣の途中はかつて台所門があった場所だった。本丸御殿があった当時は鐘櫓のすぐ近くまで御殿の建物がせり出しており、最も鐘櫓に接近した区画は「台所」。筋鉄御門が大手門、棗御門が搦手門、そして台所門がお勝手口みたいな?ただ、台所門はまたの名を馬出門、ジャコノ門ともいう。馬出門の名称の方が一般的のようではあるけど、近くには台所もあるし、台所門の名の方が私にはぴったりくるな。まあ、通常本丸御殿の大きな台所なんて普段使われる場所じゃないけどね。でも、門といっても今はご覧の通り石垣で囲われてますね。ここには門の存在を知らないと見過ごしちゃうかもしれない、石垣の継ぎ目があるのです↓。 つまり、矢印から奥はかつてはなかった石垣だったようです。左側の石垣と正面の石垣の接続部分も変な段差ができていて、おかしな見栄えになってるしね。石垣の上に多門櫓が続いてたのなら、ここは埋門なのかと最初は思った。が、ちょっと絵図が小さくてよく判別できないんだけど、薬医門、もしくは高麗門のような屋根を持った独立した門が描かれている絵図がある。さすがに元和の築城で本丸上段への数少ない出入口のひとつに薬医門は置かないだろうと思うので、高麗門なのかな。「備後歴史探訪倶楽部」様の解説ページでは、水野氏時代以降に渡櫓門に替えられたとしている。いずれにせよ、城が現役の時代にはここはずっと門だった。で、今はなぜ埋められてるかというと、廃城後に二の丸の土地は払い下げとなり、ここには民家が建っていたようなのだ。石垣が開いたままだと敷地がつながってしまうので、ふさがれてしまったらしい。「福山城展」の図録に掲載されてる絵図の中には、戦後に描かれたと思われるものもあり、それには本丸下段に明らかに城の建造物ではない民家のようなものが描かれている。台所門の虎口はちょうど石垣で陰になっちゃってるのでよくわからないけど、本丸下段にはあちこちにこんな建物が描かれているので、同じような感じだったのかもしれない。復興建物を「外観を復原した」と胸張るより、こういう部分を復元したらどうかと思うんだけど・・・せめて解説板を立てるとか。現在は坂になってる部分も、元は平らで土砂で埋まってしまったもののようだから堆積分を取り除いたらどうかな?では先へ進みましょう。この先の左には、うっすら盛り上がりがあった↓。 さらに北側にはなまこ壁ふう現代的建物が↓。ここが神辺三番櫓跡付近と思われます。 上2枚の写真は、道の左手。右手には本丸上段の石垣がそびえてます↓。木に隠れちゃってるけど、横矢のかかる部分が人質櫓の石垣。 上の3枚は上から順に人質櫓石垣の西面・北西隅・北面とずるっと回り込んで撮ったものです。北面の方は、石の色が違う。現在見られる人質櫓とその南の多門部分は縮小されたものだと「福山城(14)」にちょっと書きましたが、残った半分の櫓台も右上の石は隅部分と高さが合ってないし、櫓台ふうになってはいるものの、新しく積まれたもののように見える。で、新しいと思われる上部の石と下の方の石も同じ色だし、隅部分以外は案外かなりの部分が積み直されてるのかもしれない。なぜ、そんな大掛かりに改修されたのか?廃城後の明治26年、人質櫓前には招魂社が建てられた。これは元は最後の福山藩主・阿部正桓(まさたけ)が、石見益田の役と箱館戦争での備後の戦死者の霊を祀るために明治元年に創建したものだったが、それが人質櫓付近に移されてきたという。最初、私は櫓下に招魂社があったのかと思っていたけど、本丸上段の方みたいね(笑)。ただ、前述したように本丸下段は民間へお下げ渡しとなり、畑やら宅地になっているので、人質櫓下付近の遺構の破壊はかなりのものだといわれている。なので、神辺三番櫓手前のうっすらした盛り上がりもどうやら遺構ではないようです。紛らわしいな・・・人質櫓を右に回ると、こんな光景が広がる↓。 この先の左手にはかつて縄張図29の水ノ手御門があり、神辺三番櫓とは塀でつながれていたという。もちろん、その頃の道の左側はこんななだらかでのびやかな地形じゃなかったはず。詳しく城の現役時代の地形などを知らなくても、確かにこの辺は相当遺構が破壊されてるようだな~ってことは容易に想像できる。水ノ手御門から縄張図30の神辺四番櫓までは渡櫓と塀でつながれていたと「新版福山城」は語る。福山城でのお目当てのひとつが神辺櫓群(跡)を見ることだったので、四番櫓付近までは行ってるはずなんだけど、写真がない・・・この辺まで来ると、もう何だかよくわからなかったのかもしれない。それと、モデル気分のチャイナガールに邪魔されて撮影できなかった神辺二番櫓が気になってたからな~。とりあえず、本丸下段の西側はこの辺りで引き返した。後から考えると、そのままずるっと下段を回っていってもよかったんだけどね。ただ、段々時間もなくなってきていたので、ノルマ消化モードに入りつつあったんだよな(笑)。で、伏見櫓下まで戻って今度は下段を時計と反対に回ります。 ↑このあたりが縄張図31の場所で、門を通って出入りするようになっていたらしい。門の名前は不明。戦後に描かれたと思われる絵には、この辺にも民家風の建物が描きこまれている。ここから天守の北へと回る道が今日最後の城内の散策になるので、上段の石垣とわずかに残る紅葉を眺めながらてろてろ歩いた。今はなき31の門をくぐって上段の石垣に沿って歩き始める。いい眺めだけど、復元土塀には沢山狭間があるため、ぼんやり歩いてると上から狙い撃ちにされますから、気をつけて進んでくださいね この先には御風呂屋の懸造が見える↓。 あ~コワ・・・なんでこんな柱で建物を支えられるんだろう。てか、なんでこんなところに造ろうと思うんだろうその先は月見櫓↓。ここで道は北に折れる。 月見櫓の石垣↓。ちょっとたわんでる箇所があった。それと、刻印付きの石があった。 にほんブログ村
2013年07月25日

前回、チャイナガールの撮影スタジオと化していた神辺二番櫓跡の写真を載せましたが、あの写真のはじっこには実はこの方も写っておられました↓。 【阿部正弘之像 太平洋の波高く、幕末内外多難の時に際し、老中筆頭として国政を総覧し、近世幕藩 体制における鎖国の旧弊を断って日米親和の条約を結び、開国への道を求め 近代国家への扉を叩く。 阿部正弘は福山藩阿部家七代の藩主にして弱冠25歳で閣老に任じ、爾来10有4年 その開明的な政策を推進し、国政を整えもって国外に対応せり。福山藩主としては 庶民の中に人材を登用し、藩政を改革し教育に明日の世代の形成を託して藩校誠之館を 開き、進んで西欧の学術をも取り入れ、その後の福山文化の発展に貢献す。 市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び 明日への躍進を誓う。 昭和53年4月建之】 (現地碑文より)一般の歴史ファンの綴る福山城の訪城記では、ディープに歴史を語るファンを除いては人に関する記述はほぼカッチン(水野勝成)に限定されるといっても過言ではないだろう。しかし、福山城の歴史においては、水野氏5代よりも阿部氏10代の治政の方が長い。なのに、ほとんど触れられないというちょっと可哀想な阿部さん。せいぜい、この像をちょこっと紹介する程度じゃないかな。もっと可哀想なのが阿部氏の前に入った松平氏。ここは完全にすっ飛ばされる。と言っても、私もよく知らないし書くつもりはないんですが(笑)。・・・ないけど、いちおうどんな人なのかちょっと調べてみたら、松平は松平でも、奥平松平氏らしい。え~っ、奥平氏?マジで~!? (←信昌ファン)奥平氏が松平を名乗ることになったいきさつは、「忍編(1)」にチョ~簡単に書いてますが、長篠城の戦いで奥平氏の名を上げた信昌様、そして家康の娘の亀姫様の間に生まれた子・忠明が奥平松平氏の初代で、福山城に入った忠雅は3代目。が、奥平松平氏は信昌様の孫の代で相続のゴタゴタがあったらしく、忠雅は血縁的には初代・忠明のひ孫であり、奥平信昌には玄孫(やしゃご)になる。奥平松平氏が福山に入ったのは10年で、その後は阿部氏が入るから松平氏は1代限り。藩主である忠雅は最後の1年程度しか福山にいなかったらしい。フツーの歴史ファンの訪城記では歴代城主として「松平氏1代」程度にしか出てこないけど、1代・10年じゃ影が薄いのは致し方ない。奥平松平氏になんらかの愛着を持ってる人(←わたくし)でないとまず書かないよな。あ、水野氏の断絶後は福山は一度天領になってるみたい。その後奥平松平氏が入り、さらに阿部氏が入るという経緯をたどる。阿部氏については、福山に行く前までは私は正喬(まさたか)さんしか知らなかった。TV、特にドラマの類は子供の頃から苦手(アニメは除く)なんだけど、比較的大河ドラマは民放のドラマよりは見た方で、その中でもなぜか西田敏行の「八代将軍吉宗」だけは再放送も見たし、ずっと後になってスカパーの時代劇チャンネルでも再放送を見た。ので、吉宗の側近とか老中の名前は割と頭に残っていて、阿部正喬は秋野太作が演者だった(笑)。だから、譜代として幕閣に名を連ねた家柄かな~程度に思ってたんだけど、正喬さんは傍流の家柄みたいね。関係ないけど、正喬さんも忍藩主を務めていて、奥平松平氏といい、福山藩と忍藩は妙な縁がある。忍藩も譜代が入った領地のようだからね。え~っとそれで、福山藩の方は阿部氏の本家筋のようですが、阿部氏は三河の出身で酒井・本多・大久保などと並ぶ松平家古参の家臣。だからやっぱり譜代なんだな。なので、福山藩はまず水野氏。初代・カッチンは家康のいとこであり、徳川家の外戚。そして譜代。天領時代は幕府から代官が派遣された(城代は丸亀藩・京極氏)。次の奥平松平氏は家康の娘の血をひく外戚。これも譜代。最後の阿部氏はバリバリの徳川譜代。という流れで、天領時代をのぞいてはすべて譜代が入っており、天領時代は幕府直営みたいなもんだから、福山が重要視されていたことが窺われる。で、阿部さん。宗家からも老中や大坂城代を出す名家であったが、黙っていて重要なポストが転がり込んでくるハズもなく、幕閣入りキャンペーンなども必要だったらしい。このため、阿部時代の藩主は藩の経営には関心が薄かったとウィキペディアでは紹介されている。しかし、教育面ではなかなかのものがあったらしく、上の解説に正弘が藩校・誠之館を開いたとあるものの、それ以前にも4代目が藩校・弘道館を開き、5代目も学問所を作っている。弘道館は身分の別があったが、正弘は誠之館を開く際、身分の区別をなくしたという。解説には「藩政を改革した」とあるものの、正弘が福山入りしたのは天保8年(1837)の1度きりであったらしい。嘉永5年(1852)には1万石を加増されて、カッチンがもらった福山10万石は阿部時代になって11万石へとアップした。が、加増分は誠之館へつぎこんだというからすごい(笑)。正弘は江戸で奏者番⇒寺社奉行と順調に出世を遂げ、24歳にして老中の仲間入り。水野忠邦を追い落として老中首座になったというんだから、頭のキレる人であったらしい。ちなみに、このあたりで遠山の金さんも南町奉行になっている。開国前後の動乱はいちおう教科書で簡単に習うのでご存知かと思いますが、幕閣といっても徳川斉昭、松平慶永(春嶽)、島津斉彬などの英邁君主と交わり、川路聖謨(かわじ・としあきら)やジョン万次郎を採用。四賢侯会議からは親藩・外様も幕政に参加させるよう改革を求められてそれに応える姿勢を見せ、その他市井からも広く意見を求めた結果、勝麟太郎(海舟)の意見書が正弘の目に留まるなど、進歩的で人材を重視する人であったらしい。18世紀の終わり、ガイジンが日本に訪れるようになって海防の強化に乗り出した幕府は海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり・海防掛)を設置、元は常設じゃなかった海防掛を正弘が常設とした。それに関連して、大久保忠寛(一翁)や永井尚志が抜擢され、歴史に名を残す人達がたくさん表舞台へ登場するようになる。まあ、幕閣の中心人物だから当然っちゃ当然なんだけど、あら、この人も。まあ、この人も!みたいに、自分の知ってる人の名前が色々出てくると、そうか、そうつながってくるのか~と正弘さんを調べるほどに段々面白くなってくる。実際には上に名前を出した人達以外にも沢山の人材を掘り起こしており、そんな正弘さんの人柄を象徴するような話を松平春嶽さんが残していて、「なんで自分の意見を積極的に述べないんですか?」とある人が聞いたところ、「自分の考えを言ってうっかり失言でもしようものなら、上げ足を取られちゃうかもしれないじゃん。だから、人の話をよ~く聞いて、いいものは取る、悪いものは捨てる、を心がけているのさ。フフフ。」と答えたという。身分や信念にとらわれず、広く意見を求め人材を登用する正弘さんは現代の感覚からすると理想的な政治家のように思えるけど、どんなことにも裏表はあるもので、諸大名が幕政に干渉するきっかけを作り、それがために幕府の力を弱めたとする見方もある。また、譜代からは弱腰と取られ「瓢箪鯰」とあだ名されたともいう。瓢箪鯰(ひょうたんなまず)とは 【〔「瓢箪で鯰(なまず)を押さえる」から〕とらえどころのないさま。 また、そのような人。】 (三省堂 大辞林より)だそうな。大きく時代が変わろうって時に、内も外も大変だったんだね~。結局、嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約を締結。その後、幕府内の人事で井伊直弼に代表される開国派に睨まれることになり、老中首座を辞任。引き続き老中として安政の改革に取り組むが、安政4年(1857)6月17日、現職のまま38歳の若さで還らぬ人となる。死因については一般的に過労死あるいは心労とも言われるが、ガンによる病死とか譜代による暗殺なんて説もあるらしい。激動の時代を幕府の中心として生き抜き、福山の歴代阿部氏藩主の中では最も著名な人物といえるであろう正弘さんは、福山城内ではすっきりとした立ち姿を見せる。細おもてでなかなかのイケメンに造ってあると思うけど、肖像画の彼とはだいぶ違っている。 (「阿部正弘公肖像画」の白黒写真 二世五姓田芳柳筆 福山誠之館蔵。 画像はウィキペディアから)ぽってりちゃんこの画像は保護期間満了だというので掲載してますが、同じ「阿部正弘」のページにはこんなエピソードが紹介されてます。 【正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは 常に長時間で正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、 汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。】アハハハハ~!!太ってる人って汗っかきだしね。しかし、畳が湿るほど汗をかいてたんなら顔だって汗をかいてたハズで、相手からすれば「コイツ、汗ダラダラでキモイ」とか思われてたかもしれないし、濡れたまま長時間座ってれば袴もしわくちゃになりそう・・・それに、人が座ってた後をのぞく茶坊主もどうかしてるよ~!!とか、色んな妄想やツッコミが止まりません(笑)。いや、デブは好きじゃないけど別に正弘さんをバカにしてる訳じゃないですよ。幼い頃から俊才として評判で、ために当時藩主であった正弘の兄・正寧(まさやす)は若くして藩主の座を正弘さんに譲ったというし、動乱の時期に改革を断行した日本のリーダーというと遠い世界の人のようだけど、こんなキモ・・・いへ、ほほえましいエピソードが残っているおかげで人間・阿部正弘を身近に感じられるってもんです。にほんブログ村
2013年07月24日

鐘櫓の自動鐘撞きシステムは、午前6時・正午・午後6時・夜10時の4回時を告げると解説板に書いてある。まだ15:00だからあと1時間あるな・・・どんな音か聞いてみたかったけど、待ってられないわ。鐘櫓の南には伏見櫓があり、これで現在の本丸域の周縁部をほぼ回ったことになる。ここまで立ちっぱなしでちょっと疲れたので、伏見櫓前の石垣に腰掛けて鐘櫓を眺めながらおやつタイム。 南側から見ると、鐘櫓はすごくヘンな形をしている。いちおう鐘櫓は空襲で焼失しなかったので、現存櫓ということになります。が、ここの石垣綺麗じゃない・・・ それに、最上層も不思議な造りになっている。近代の絵図では、鐘櫓は独立した2層の櫓のように描かれている。けど、前回書いたように元は多門櫓の上に載せられた望楼のようなものであり、「備陽六郡志」では「鐘櫓」ではなく、「鐘撞堂」としている。ちなみに、現在二の丸とよばれる下段の北側から鐘櫓を見るとこうなる↓。 こっちから見ると、確かに多門が折れた場所に望楼が載ってるような造りにはなってるよな・・・けど、近代の絵図からすると、廃城になった時点でおそらく多門は取っ払われて2層の独立櫓のような建物に変わったんだろう。「福山城(偕楽園)並びに勇鷹神社絵図」では、鐘櫓は鐘が吊るされてる絵が描かれている。単に鐘櫓ってのを強調したかっただけかもしれないけど、鐘と太鼓で重要な合図を送るのに、現在のような構造ってどうなんだろ?って気もするので、解説文からすると何となく旧状を復元したかのような印象を受けるんだけど、建物の基本部分は昔のまま残ってるものの、外観はここも往時を再現したものではないのかもしれない。それから、解説板では築城当初からあったような書き方になっているものの、「備後歴史探訪倶楽部」様の解説ページでは、初期の絵図には鐘楼が描かれていないこと、すぐ脇の本丸御殿で藩主が寝起きしてるのにこんな場所で鐘を鳴らすのは考えにくいこと、を理由に居館が三の丸に移されて以降のものではないかと推測しておられる。う~ん、言われてみれば確かにそうだよな・・・「備陽史探訪の会」様の「ぶら探訪 その九」には「備陽六郡志」以前に書かれた「福山領分語伝記」を抜粋して掲載されてるけど、そこには「鐘櫓」も「鐘撞堂」も書かれてないしな・・・ひとまず鐘櫓の外観に話を戻すと、廃城後、建物の基礎部分は残ったけども鐘撞き係のおうちのようにまで改修されてほとんど原形をとどめない形状になってしまい、昭和後期になって外観は摸擬復元、多門の切れはしもあわせて摸擬で造って、石垣も修復した・・・大ざっぱな言い方をすると、そんな感じなのかな。だからと言って、別に価値がないと言ってる訳じゃないですよ。そんな変遷を経てまでよく残ったよな~って、逆に感動すら覚えます(笑)。で、上の写真で手前側にあたる多門は縄張図22の火打櫓へとつながっていた。火打櫓は伏見城から拝領と伝えられる。が、拝領についての記述のある文献は1つだけなので、移築説は信憑性が低いと考えられているらしい。火打櫓からも南へまた多門がつながっている。そこから現在二の丸と呼ばれる下段を見下ろしたところ↓。 おお、少し基壇も残ってるカンジだな・・・この下段も、私には結構萌えスポットなんですよ♪同じあたりの場所から、伏見櫓の西面を見たところ↓。 で、伏見櫓の北面↓。 この辺はご覧のように工事用スコーンが置かれてたり、柵で囲ってあったりと少々行動も制限されたけど、内側の石組はよく残ってるんじゃないかな。伏見櫓東面から筋鉄御門を見たところ↓。筋鉄御門を破って押し入ろうとする敵に背後から攻撃を仕掛けて、ここでバッタバッタと討ち取らねばなりません。 伏見櫓からはまた多門がつながって、筋鉄御門でゴール。鏡櫓の先からは本丸御殿経由で天守へ向かっちゃったので、現在本丸と呼ばれるエリアの東北部分はちょっと抜けてるけど、ほぼ外周を回りました。で、筋鉄御門を抜けて今度は下段を回ります。まずは西側へ。伏見櫓を見上げたところ↓。 ここから見ると石垣も高いし、壮観!の一言。で、23を入っていくと現在二の丸と呼ばれるエリアなんだけど、その前に。 23を通り越した奥から大手方面を見たところ。このあたりが西坂口御門のあった場所。この辺はあまり往時の姿をとどめてないらしく、縄張図を見ててもなんだかよくわからなかった・・・ちょっと先まで坂を降りてもみたけど、荒れてる箇所もあったし私のノルマは上の郭なのですぐ引き返してきた。 ↑ここが坂上の脇のスペース。縄張図と見比べると、この奥のあたりに神辺一番櫓があったと思われる。はい、その名の通りこれも神辺城からの移築といわれてるものです。西側から見た古写真には、伏見櫓の右手に神辺一番櫓と思われる塗籠三層で黒っぽい瓦葺の櫓が写っている。ここには寺社方の帳簿が収められていたんだそうな。現在二の丸と呼ばれる郭・・・ああめんどくさい、もうここからは「本丸下段」で通しますのでご了承ください。これから回る本丸下段にも櫓がいくつかありますが、このエリアは確か「ナントカ櫓跡」って看板は一切なかったように思う。もちろん、神辺一番櫓跡推定地にもそんなものはなかった。遺構らしきものもほとんどない。でも、神辺城にあったかもしれない建物がここにあった、って想像(妄想)するだけで、テンションが上がる(笑)。てことで、本丸下段エリアは本丸上段の石垣が目を楽しませてくれますが、外側の櫓跡の類は全然ビジュアル系じゃないので、ただ萌えヂカラだけが頼りです。25の西坂口御門からは東に渡櫓が延び、伏見櫓の北側の石垣へ達していた。その渡櫓の中間に門があり、この門を通って本丸下段へ入っていく構造だったらしい。入った後で振り返ったところ↓。 本丸上段の石垣に接する部分は、少し盛り上がっている。あれ、これって・・・で、少し離れたところから見てみた↓。 おお、門っぽくなってるな。ただ、これが当時のままなのかはわからないけど。というのも、ここから少し先のあたりは近代になってから改変されてるようなんでね。して、この写真の左部分あたりにかつて神辺二番櫓があったと思われます↓。 私にとって萌え~なこの場所、実は最初入った時は棗御門で出くわした例のチャイナガール3人組が1人ずつ地べたに座り込んで完全にモデル気分でえんえん撮影をしていたので、イラッときた。一般の観光客にとっては本丸上段に比べて見どころの少ないはずのこの下段までガイジンが歩いてくれるのは嬉しいことだと思いながらも、「その撮影って、神辺二番櫓跡でないとダメなんですか!?だいたい、そんな地べたにべた~っと座り込んで、お洋服が汚れますよ・・・」と心の中でぶつくさ言いながらここの撮影を後回しにした経緯がある。まあ、半年以上経った今ではこれも旅の思い出だな。旅から帰った直後にこの記事を書いてたら、絶対もっと悪態並べてたと思うけど(←要するに、現地では相当怒っていた)。にほんブログ村
2013年07月22日

棗御門から本丸域へ戻って、御門脇の櫓台へ上がってみた↓。 かなりミニマムなスペースだったので、ホントの物見程度の平屋の小さな建物が建ってた程度かな~と思った。けど、絵図では二層に描かれている。ここの櫓が当時何と呼ばれていたのかはわかっていない。また、これは御門の西側だけど、東側にも同じように櫓台があったと思われるものの、東側の石垣は崩されているらしい。かつてここからは途中に櫓を挟みながら、南へずっと多門櫓が続いていた。現在でも本丸西側の石垣はよく残っていて、ずっと歩けるぐらいになっている↓。 上の写真の左端に写ってるのが井戸↓。縄張図ではマル17の位置。 ↑こちらの写真でも井戸が切れちゃってますが、すぐ近くにこの見事な黄金色のイチョウもあったので、チャイナガールを含め結構人が立ち寄って、ロクな写真が撮れなかったのだ。 【黄金水 本丸に現存する唯一の井戸で、その他本丸には4ヶ所、二の丸に3ヶ所、三の丸に 2ヶ所あったといわれる。城郭における井戸はその城の良否あるいは戦闘の際の 生命をささえるものとして重要視され、この黄金水は渇水時にも水をたたえた すばらしい井戸であった。】 (福山城博物館リーフレットより) 石垣の上も歩きたかったけど、それよりは石垣を見たかったので、このまま地面を歩いて南へ向かいます。わたくしの手書きの縄張図では、多門櫓でつながれた場所は二重ラインで表現してます。少々正確性は欠くかもしれないけど、大体こんなとこだと思う。多門櫓のうちの一部は伏見城から拝領したものとの記述もあるものの、どこに使われたのかはわかってないのかな。現在の本丸西側の石垣には、数か所合坂が付けられていた↓。 で、だいたいこの写真の場所にかつて荒布(あらめ)櫓があったと思われる↓。 この辺の石垣は別に横矢がかかってる訳でもないので、遺構だけで荒布櫓の位置を判別するのは困難。解説板がある訳でもないしね。荒布ってなんだろう?って思って「備後歴史探訪倶楽部」様の解説ページを読んだら、コンブの一種だそうな。そういえば、門司の和布刈(めかり)神社で和布刈神事について少し調べた時、そんな名前が出てきたっけ・・・んじゃ、コンブ蔵ってことか(櫓です)。ここは神辺城からの移築と伝えられる。これで移築組は3つめ。その先も合坂を見ながら進んで行くと、 石垣は西方向に折れる。その先っぽにあるのが、マル19の人質櫓。神辺移築組の第4段。 正直、下の紅葉ばっかり見てましたが(笑)、紅葉に向かって突き出してるのが人質櫓の櫓台です。福山城では人質は取らなかったので、神辺時代の名称をそのまま引き継いだんだろうといわれてます。同じ場所から、これまで歩いてきた北側の石垣を外側から見たところ↓。 ここも石垣の上に上がれるような石段が取り付けられていたので↓、 ちょっと上がってみた↓。 ただし、竹柵は結構内側に付けられてるし、なんか強度に不安を感じたので、すぐ降りたけど(←こわがり)。人質櫓は、細長い感じのスペース。そんなに広くはない。人質櫓からさらに南に多門櫓が続いてたというけど、2枚上の写真なんかで見ると、多門部分はかなり幅が狭い。こんな狭いとこに多門?と思ったら、どうやらここは後代になって石垣の改修があったらしく、現在見られる櫓台の規模も当時のそれより小さくなっているらしい。そして、多門櫓内側の石垣もそれにあわせて狭められたという。なるほど、それならわかるわ。人質櫓とそれに続く多門櫓の本丸側の石垣は、現在ではこんな風になっていてなかなか素敵な眺めなんだけど↓ 残念ながら、カッチンが見た石垣とはちょっと違うものらしい。人質櫓からすぐ南は東側に折れていて、マル20の場所からは下方の眺めもいい↓。 ここは後で書くので、飛ばします。この先にあるのが、マル21・・・と思ったら、マル数字は20までしかないらしい(笑)。すみません、ここからはマル抜きの数字になります。で、21が鐘櫓。この辺りの構成がどうもわかりづらいんだけど、ひとまず現在ではこんな建物が建っている↓。 【福山市重要文化財 福山城鐘櫓 築城当時より城下や近隣諸村に”時の鐘”をつげた遺構で、江戸期には鐘と共に 緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。 当初はこけらぶきか桧皮ぶきであったが、明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため 原形をとどめない状況であった。昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。 城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく、貴重な文化財である。】 (現地解説板より) 福山城博物館のリーフレットの解説だと、こうなる↓。 【本丸の西側に位置し、はじめは鐘を吊り、太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の 太鼓をうっていたといわれる。石見国(島根県西部)大森銀山の応急処置を命ぜられ、 人数をくりだす必要があったためという。 鐘は、儒者山室如斎、菅茶山の銘を刻んだものもあったが、現在は無銘である。 昭和54年改修完了。】う~ん、こっちの方がわかりやすいな。いわゆる「半ドン」だったワケね。「新版福山城」には廃城後の鐘櫓についての記述があり、こちらはもっと興味深い。 【明治6年の廃城後は放置されていたが、明治30年福山城跡公園になったときから 時鐘人(じしょうにん)と呼ばれた鐘撞をする人が常住し、昭和31年まで 時の鐘を打っていた。その後は、有志の方が朝の鐘を打っていたが、昭和60年からは タイマーによって自動で朝・昼・夕の鐘が打たれている。 築城時は檜皮葺であったが、大正時代にスレート瓦となり、さらにセメント瓦となった。 また、時鐘人の住居となったり、附属建物が付加されるなど改変されていた。】スレート?セメント!?「新版福山城」は、いくつか同意しかねるような記述の箇所もあるんだけど、全体の流れ、特に廃城前後とかについては大変参考になる冊子です。それにここは近代のことだし、この記述は信憑性が高いんじゃないかと思う。「新版福山城」が正しいんだとすると、鐘櫓前に設置されてる解説板の『明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため原形をとどめない状況であった』とはちょっとニュアンスが変わってくる。まあ、スレートだから補修と言えないって訳じゃないけど、やけにチープに改変されていく様子が妙に生々しいってゆーか(笑)。ただ、「新版福山城」での檜皮葺と現地解説板の「銅板ぶきとし旧規に復した」では明らかな相違がある。元和の創建で鐘櫓に銅板葺・・・?なんか違和感あるなあ。鐘櫓はいちおう「櫓」という名称になってるし、ちょっと描きづらいのでわたくしの手書き縄張図でも櫓のようにぽこんと描いてますが、絵図を見ると人質櫓から続く多門櫓の上にちょんと鐘撞きの望楼を載せたようなものであったらしい。私の持ってる古絵図では、丁寧に鐘櫓が描き込まれてるのはほとんどないんだけど、福山城博物館の図録に載ってる「福山城(偕楽園)並びに勇鷹神社絵図」には鐘櫓が描かれている。この絵図が描かれたのがいつなのか、図録の解説ページには書かれてないんだけど、絵に描かれた城内の建物は、天守・伏見櫓・筋鉄御門・御風呂屋・月見櫓、と鐘櫓。勇鷹神社は明治10年に改称するから、廃城~明治10年頃の間に描かれた絵図と思われる。で、ありがたいことにこの絵図はカラーで載せてくれているんだけど、鐘櫓だけ屋根は茶色なんだよね。時期的におそらくスレートやセメントになる以前の絵でしょうから、とりあえずわずかな時期であっても、城が現役の頃には茶色の屋根だったってことじゃないだろうか。茶色なら、やっぱり銅板葺より檜皮だよな~。廃城以前に改修された可能性ももちろんあるけど、檜皮葺を本瓦葺、あるいは桟瓦葺に変えることはあっても、本瓦葺だったものを檜皮葺に変えるのはちょっと考えにくい。ので、塗籠瓦葺の多門櫓の上に小さな檜皮葺の望楼を載せたんじゃないかとわたくしは想像しております。にほんブログ村
2013年07月21日

今週の頭、関東は涼しくて過ごしやすかったです。週末までこの涼しさが持てば、早速先週の上野のリベンジができるカモ・・・と思い始めたところでまた暑くなり。30℃くらいまでだったらなんとか行けるよな・・・と様子を見ていたものの、木曜なんかは朝から暑かったのでやっぱり無理~と早々に諦め。が、金曜は割と涼しめだったので、気温と体調次第だよな~と夕方までさんざん迷って、都内でも30℃切る予報だったし体調も悪くなかったため、寝不足だけど行っちゃうことにしました。なぜか私は、一度凍結した予定を復活させるのに妙なエネルギーを必要とする。現に、調べっぱなしの予定をいくつも抱えてるし、頼政のとこでさえ色々あって当初行くはずだった時からもう2年経つ(笑)。だから、行くつもりで調べたものはとっとと行ってしまう方がいいというのは経験上わかっていたので。今日の台東区は、最高で27℃だったらしい。出かける直前になってカバンを変えたので、うっかり扇子を忘れてしまったことに現地で気が付いたんだけど、それなりにうっすら汗はかいたものの、なんとか過ごせたくらいだもの。これはきっと、先週1つのお堂しか見れずに帰ってきてしまったので上野編のキーパーソンである与右衛門(よえもん)が「はやくおいでよ」って絶好のリベンジ日和を用意してくれたに違いない。歴史に名を残す武将は、やはり400年経っても違います。で、今回の記事では先行プロローグとして上野動物園の動物さんの写真もあわせて公開しようと思ってましたが、ちょいと写真を見てみたら結構枚数ある・・・ちょっと1話では収まりそうにないので、動物さんも本編に譲る事にしました。じゃあ今回は何の話かというと、お土産です。1日で結構散財してしまいまして、面白いものもあったので一部ご紹介いたします。まずはリベンジだから、パンダ焼ね↓。 これは上野動物園の入口にある、桜木亭というお店でしか売ってないようです。先週はこれが無性に食べたかったのに、結局買えなくて悲しい思いをしました別に、素晴らしく美味しいってものでもないんだけどね。でも、一途なわたくしはやけにこれが食べたかったのです。まず先に食べたのは、母親。「もうちょっとあんこが入っててもねえ~」って言うから、「文句言うなら食うな」と思いながら土産の整理をしていて、その後自分でも食べてみたらホントにあんこが少ない(笑)。これはつまり、アレだよな・・・とパンダ焼のパッケージに書いてあった文言を思い出した↓。 今はこうじゃないことは、皆様ご存知ですよね。だからきっと、パンダが贈られた当時に作られたパンダ焼はパッケージと同じく、あんこの量もパンダが初来日した何十年前と同じなんだろうと思った 20年前と同じお値段で売ってる移動販売車の竹竿みたいだ・・・パンダが来日してから何十年経っても、不思議なものでやはり上野へ来るとパンダモード全開になる。で、巾着2種↓。 上のが飴入り。別のワゴンに入ってたから全く別モノかと思ってたんだけど、こうして並べてみると同じだな・・・飴入りの方は友達への土産で、飴ナシは自分用に買ったんだけど、これじゃおそろいになっちゃう。ま、いっか~。もひとつ巾着↓。カバンの中の小物を整理するのに、巾着が欲しかったんだ~。 それと、Tシャツ↓。これはオヤジへのおみやげ。 デカいパンダの顔に、デカく「SAVE THE PANDA」ってプリントされてるのもあったんだけど、ちょっと恥ずかしいかな~と思って地味なのを選んであげたのに、デカすぎると言って気に入らなかったようなので、結局母親が着ることになった。デカきゃいいだろうとXLを買ったんだけど、昔の人だからダボっとしたのがイヤみたいなんだよね。カワイイのに・・・今度行ったら、「SAVE THE PANDA」のTシャツ買っちゃうぞあとは、ストラップ↓。これは娘さんたちへのお土産。 パンダの5つ子ちゃんという設定らしい。たいてい私は出掛けると娘さんの首輪につけるストラップを買って帰るのだ。今は、確か下関の亀山八幡宮あたりで買ったクリスタルのヘビが彼女たちの首元にぶら下がっている。娘さんの首にパンダちゃんがユラユラしたら、可愛いだろうな~今度はちょっと変わりダネ。今日は変わった絵柄の絵馬をいくつか見たんだけど、これは形そのものが面白い。なんでも、個人情報保護の観点からこーゆースタイルのものが生まれたんだそうな↓。 中に紙が入っていて、それに願い事を書いたあとで手前にあるセンでふたをするようになっている。こんなの、初めて見たわ~。この絵馬の絵は大仏様なんですが、こんなのもあった↓。 大仏飴。金太郎飴の大仏バージョンこれは皆で分け合う方がいいだろうと母親にもわけてあげたら、「え?これ、どうなってるの~」と目を細めて飴をくるくる回している。何で素直に見れないのか・・・と思ったら、中には確かにもはや顔とは言えないような崩れた絵柄の飴も含まれていた(笑)。面白いよな~。つい買っちゃうんだよね、こーゆーの。帰ろうと上野駅構内を歩いていたら、上野動物園130年記念とかで駅ナカの名店街みたいなとこで特別企画品があるようなポスターが貼ってあったので、もう少しお土産も買いたかったし軽い気持ちで寄ったのがいけなかった。入口付近にあるパンダの焼き印の入ったケーキを買おうと最初は思ったものの、その奥にあるお店の高級菓子に目が止まった↓。 何でも、桃が丸ごと1コ入ったゼリーだそうで、すごく美味そうだけどこれ1つでスーパーの1パック数個入りの桃よりも高い。が、私は初めて見たしやっぱり夏はのどごしのいいものに惹かれるから、ついお買い上げ~。このお店には私の大好きな鎌倉せんべいもあった↓。左はびわゼリー。 あと、岡山県産マスカットオブアレキサンドリアを丸ごとぎゅうひでくるんだものがあった↓。 これと全く同じだったかは覚えてないけど、似たようなものを食べたことがある。それはとても美味しかったので、職場の人への土産もかねてお買い上げ~。ああ、岡山行きてえ・・・こんなもんばっかり買って、会計をしてもらったら「計算、間違えてませんか?」みたいなすごい金額だったアハハハ、やっちゃった~。まあ、あんまり出かけないしたまにはいっか~。他にも色々買ったので、職場にこれをいくつ持って、あの人に配って~とかって考えたり写真を撮ってるだけでも結構時間がかかった。なにかもらえる? と足元で待機していた娘さん(大)は、待ちくたびれて気がついたらうつらうつら居眠りこいてました↓。 眠いなら布団で寝なさいよ・・・てか、どんだけ買ったんだって?とりあえず土産の整理が終わってご飯を食べながら寺で買った資料の絵図を眺めていた時、大変なことに気がついた。「そもそも3つのお目当てがあって動物園へ行ったのに、1コ忘れてたあ~!うひゃああああ、またリベンジか~!?」今日はあちこちですごく楽しくてまったりしちゃったので、結局また全部の予定はこなせませんでした。調べものをしてるうち、当初のお目当てよりも近くで見たいところが増えたので、今日無理して頑張るより、少し残して別のところと一緒にまた見にきてもいっか~と思って途中で切り上げてきたから、まあ再チャレは予定の行動ではあるんだけど・・・あ~あ、また入園料払って入場しなきゃならんパンダTシャツは園内のショップにあるものだったから、ついでにワンサイズ下の「SAVE THE PANDA」のTシャツも買ってくるか・・・(笑)。 にほんブログ村
2013年07月20日

博物館の各階を見た後で、最後に1階でお買いもの。これまでに何度も本文を引用させていただいてる「新版福山城」もここで買いました。入口付近には、福山城のスタンプがあった↓。 スタンプは2コあってもうひとつも押したんだけど、綺麗に押せなかった・・・もしかしたらここに一緒に百名城のスタンプもあったのかもしれないけど、あったとしても相変わらずの百名城ギライにつき、「あ~ん、百名城?どうでもええわ、そんなん・・・」て感じで思いっきり無視したんだと思う。天守を出て西方向へ。天守の南西隅部分↓。 天守石垣は積み直されてるかと思ったけど、下の方は黒く焦げてるような所もあるし、赤くなってる石は福山駅を出てすぐの場所にある東側および東南部の石垣のように熱で石の表面が剥離して綺麗じゃなくなってしまった石と同じ形状をしている。てことは、空襲に焼かれた石垣をそのまま再利用してるのかな?もちろん、一部は補修されてるでしょうけど。さて、ここからは城を守る櫓と石垣を見て回ります。 まずはこれが天守の北西にある塩櫓に連結する多門櫓の石垣↓。 ここを北に向かうとすぐ、塩櫓↓。 この石垣には石段がついていて、上がれるようになっていたので上がってみた。一部礎石の名残のような石も残っている↓。 二層の塩櫓は、神辺城から移築されたと伝えられる。福山城内には塩櫓の他にも、神辺城からの移築といわれる櫓が多くあり、私が福山城に来たかった理由のひとつでもある。神辺城も歴史のある城だけど、そのほとんどをバリバリの戦国山城として過ごしている。神辺城からの移築説が正しいとしても、おそらく福島時代に建てられた櫓ばかりだと思われる。あ、でも福島氏の前に一時毛利家が入ったことがあるな。もしかしたら、毛利櫓も含まれてるのカモ・・・まあ、どのみち神辺城からの移築といわれる櫓はどれ一つとして現存してはいないんだけどね。神辺移築組櫓の中には、なんか手ヌキな名前~って櫓もあるものの、ここは塩櫓だからたぶんその名の通り塩を収めてたのかな。塩櫓跡からは、北面がよく見渡せる↓。 ・・・まあ、現在ではかなり木が繁っちゃってますが手前に見えてるのが、天守からも見えた旧天守礎石群。その奥は現在ではテニスコードになっていて、オジサマたちが楽しげにパコパコ軽快なラリーをしていた。ただ、櫓台からこの展望だからね。木がなくて二層の櫓に登れば、もっとよい眺めだったろう。 天守北側の石垣に沿って、東へ。ここの石垣は少し土に埋もれているようで、現在は塩櫓本丸側の石垣よりは低くなっているんだけど、それでもじかに上がろうとすると「うんしょ」って感じ。けど、途中に剥がれた石が1コ落ちてて、踏み台にちょうどよかった↓。 この写真の石も赤くて綺麗な石じゃない。天守に近いから、ここも火をかぶったんだろうな・・・東北隅にあるのが、玉櫓↓。 神辺移築組第2段。「玉」だから、弾丸?ここも二層の造りで、塩櫓との間には長さ16間の塀が設けられていたという。玉櫓から南を見たところ↓。正面が付櫓。左の低い石垣は、手前と奥では全然違っているので、たぶん奥の方は戦後に積まれたものだろう。ちょっと雑・・・ で、天守東面と北面↓。 「福山城(11)」で「天守には 誰もが紹介するかつての姿と違う部分が2ヶ所ある」と書いて、最上重のはね上げ雨戸を紹介しましたが、もうひとつの違う箇所がこの北面。ここはかつて下見板張だった。板の素材は、鉄。いくつかある壁面の種類の中でも最強をほこる鉄板張です。現在でも「鉄壁の守り」なんて言葉が使われますが、実際に鉄壁は存在したんですよ~。ただし、北面だけね。これについては、色々言われる。いくら西国の鎮衛を期待されてたとはいえ、パーフェクトに堅固な城を築かれては万が一の時に幕府が困るからとか、あるいはカッチンが幕府に遠慮した、という理由で搦手には堀を通さずに大手に比べて防備が手薄な縄張となったため、それを補うために北面だけ鉄板張にしたと一般的には言われる。が、人によっては「いやいや、そんなに皆が言うほど北面の守りは弱くなかったんだよ~」ともいう。私が歩いた感じでは、地形的に旧本丸の全周に内堀をめぐらすとなると確かに大変だよな~とは思ったけど、どうも古絵図を見ると常興寺山の北側には石垣も築かれてなかったようなんだよね。「これはさすがにどうなの~」ってのが私の素朴な感想なので、やはり弱い搦手の防御力をアップさせるために鉄板張としたってとこが妥当だろうな~と現時点では思っている。古写真はもちろん白黒なので、天守北面が写りこんだ写真はどれも黒い。あまり写真は鮮明じゃないんだけど、どうも窓も鉄板で覆ってるように見える。それどころか妻壁まで黒く写ってるので、屋根の庇の内側以外の壁という壁は鉄板で覆われていたかもしれない。雰囲気を味わおうと、上の写真で塗り絵をしようと思って、はたと「鉄の色って何色?」ってソッコーつまづいた(笑)。「鉄色」っていったら暗いグリーン系の色を指すらしいんだけど、なんか銅板張みたいになっちゃうので、とりあえず工事現場に敷かれている鉄板を思い出してサビの出てる赤系の色で表現してみようと思ったらこんな風になっちゃった↓。 ま、いっかとにかく、一面だけ違う壁だったんです(←大ざっぱ)けど、大筒はこれでしのげたとしても窓がないんじゃ天守北面は防御一点張り?それに、いつから鉄板張だったのかははっきりわかっていないらしい。「新版福山城」では風雨よけと防御の点から後の時代に付加されたんだろうと見ているようだけど、私はこここそ当初からこの造りだったんじゃないかと思うんだけど。あ、と・・・初重は、窓が2段になってますね。福山城天守には地階があるんだけど、完全に天守台にもぐってるんじゃなくて上の方に窓を設けて採光をしたようなので、下の窓は地階の部分にあたるものと思われます。で、ここが天守東側奥↓。確かここはどん詰まりになっていて、回り込めなかったような・・・ひとまず、ここで引き返しました。 今度は、現在天守と呼ばれる区画の西側に沿って歩きます。塩櫓から多門櫓で連結された内五番櫓を過ぎてマル16の位置にあるのが、棗(なつめ)御門↓。 これは門の外から本丸を見たところ。ホントは内部から外に向かって歩きながら写真を撮りたかったんだけど、ちと制約がありまして。私が行った日には、各郭を見て回る人にはほとんど会わなかったんだけど、運悪く中国人観光ギャル3人組がいてね。上の写真にも写ってますが、ギャルがポーズを決めて写真を撮り始めると、なかなかどいてくれなくて困った。しかも、この時は御門の石段にぼーんと荷物を放りだしてきゃいきゃい撮影をしていた。石段の上に写ってる荷物がそれです。いくら常識のない最近の若者だって、日本人は(たぶん)こんなとこに荷物は置かないべ・・・ところで、ギャルの荷物の右側にある石は石段とは違ってますね。視線をそのまま左にずらすと、「棗御門跡」の碑の後ろにも同じような石がある。これはたぶん、門の礎石でしょうね。この2つの石に鏡柱を立てて、門があったんでしょう。サイズはあまり大きくない。右側には櫓台のような石垣が写ってるので、一瞬櫓門かとも思ったけど、サイズ的にちょっと違う感じ。この櫓台を内側から見たところ↓。 棗御門はせいぜい高麗門かと思うんだけど、背後には礎石がない。まあ礎石は残ってないだけかもしれないけど、脇に櫓台があるので、櫓と連結させた棟門だったのかな。ここが搦手の門。棗御門の名称は、棗の木で造られたところからきているといわれる。ただ、「備後歴史探訪倶楽部」様の棗御門のページの解説では、幾度かの改修があった可能性があるという。棗御門からは降りられるようになっている↓。 曲がった先にはお城風アイテムとして冠木門があったけど、私は本丸西側に沿って歩くので、門だけ見て引き返してきた。にほんブログ村
2013年07月19日

では内部へ。 外観はそれっぽく仕上げてあるものの、他の再建天守と同じくRC造(鉄筋コンクリート構造)で博物館になっている。内部は撮影禁止ですので、写真はありません。天守焼失後の焼け残った天守台の写真を見てると、正直なところ「再建なんかしないで、これをそのまま展示してくれた方がよかった・・・」て私は思っちゃうんだけど、しょうがないわな。今回、内部へ入ったのはちょうど企画展「福山城展-城郭と城下町-」をやってたから。が、「なんでこのテーマでこれを出す?」ってのもちらほらあって、なんかイマイチ・・・人によっては、「ここでこれが見られるなんて~」って喜んでた方もおられるようだから、人それぞれのようです。ただ、図録の解説なんかでも「う~ん」て箇所が結構あるし、福山城博物館のスタッフとは感覚が合わないらしいことがわかったいいとか悪いとかの評価じゃないですよ。仮にも相手はプロなんだし、ど素人の私が学芸員様にケチつけるなんてそんな大それたこと・・・でも図面の類は結構あったよな。これはよかった。あとは常設展の方が見ごたえあったような・・・(笑)。最上階は展望台になっていて、ここからはよく周囲が見渡せる。北側の真下に見えるのは、元の天守礎石↓。空襲で罹災した他の城の天守と同じように、礎石群だけ別の場所に移されている。 そこからちょっとカメラを上に振ると、真ん中へんに見える大きな建物がある。これが福寿会館で、貸会場なのかな。 福寿会館のある一帯はかつて縄張図のマル12の五千石蔵があった場所。「新版福山城」にはちょっと面白い紹介がされている。 【ここには御用米蔵が数棟存在し、五千石蔵とも称し、水野家時代に幕府から 預かった米を貯蔵していた。 寛永11年(1634)5月、九州の豊後から幕府に納入する米五千石を預かって 貯蔵した記録があり、寛永16年(1639)には、備中成羽からの米 五千石を預かり、これは築切にあった浜の蔵に貯え、合計1万石を収穫期には預かり、 古米を売りはらっては新米に取りかえて、有事に備えたのである。 この古米が出るので、福山の武士や町人はいつも古米を食べていたといわれている。】アハハハ・・・笑っちゃいけないけど、責任ある立場ってのも大変だねえ~。まあしかし、このエピソードから幕府の援助は築城時のハード面に限らず、引き続きソフト面の援助を受け連携を取っていたことがわかる。その後も城下の民は古米を食べつつ、幕府の米を預かっては江戸へ送ったり飢饉があった年には救助米として困窮した地域に送る手配をするなど、「江戸幕府福山支社」みたいな感じで御用米を差配していたらしい。享保以降は預かる米も減らされて米蔵も他へ移されたようで、五千石蔵は不要となりいつしか建物は崩れてしまったともいう。福寿会館より北の少し小高い場所には、寺社がいくつか建ち並ぶ。行きたいのはヤマヤマだけど、ちょっと時間が足りなさそうだよな~。とりあえず、今日は無理。明日・明後日で時間が余れば少しでも寄りたいと思ってるんだけど・・・が、遠目からでもあの辺の造りはやはりただの寺町じゃないことがわかる↓。 ああ、あの立派な石垣。うう、見に行きてえ・・・その少し左側は、こんもりした小山↓。 丸で囲ったうちのたぶん左半分くらいが天神山といわれている小山で、築城の際、あの辺にカッチン(水野勝成)が寝泊まりして現場に出勤したという。天神山とは切り通しで画され竹柵で取り囲み、その背後は川を通して搦手の守りとしたというが、大手の厳重な造りと比べるとやはり弱っちい感は否めない。こちらは確か、南西の方角↓。戦国期には遠くに見える山々にもぽちぽちと山城があり、有名な草戸千軒遺跡もこの方角にある。 で、こちらが南側↓。真下は本丸御殿跡地。 いやあ~、たかだか標高20m程度の小山なんだけどね。さすがに天守の最上階からは、眺めがいいわあ~。城下の眺めは築城当時とはもちろん違うけど、西国の鎮衛としての重責を担って築き上げたこの天守から、カッチンもきっと良き眺めをご覧になったであろう。最上階から廻縁に出る扉は、水野紋つき↓。四隅についてるのはハートじゃなく、猪目(いのめ)ね。 ちなみに、天守最上重の外観はこうなっている↓。 どの程度焼失前の外観を再現してるのか古写真と比較しようと思ったら、前回の記事で書いたように、ここは窓の上まではね上げの雨戸で覆われているので全然わからんかった再現度のビミョ~な再建RC天守の細部を見るってのもなんだけど、城郭建築の基本をちょっとばかり紹介しようかな。これまで数多くの寺社の記事を読んできてくださった方は、建築部材についても結構覚えていただいてるんじゃないかと思いますが、城郭建築ってのは寺社建築の流れをくんでます。そもそも私が寺社好きになったのも、城郭建築の本を読んで独学で勉強している中で、「やっぱ、おおもとの寺社建築を理解しないといかん」と思ったから。ただ、流れをくんでるといっても、あくまで城は戦闘用施設だから寺社建築とは違う。城が寺社建築を取り入れてるのは、「格」の面が大きいと思われます。で、再建福山城天守は、4重までは壁面はのっぺらぼうの塗籠。最上重だけが上の写真のように柱・長押・肘木の形を出し、窓は華頭窓、廻縁つき。2階以上の楼閣建築では最上階は下の階とは別格で、てっぺんを華やかに飾り付けた。城においてもそれが受け継がれ、特に天守では寺社と同じように華やかな造りとし、格を高めた。本来は、柱などは木材をそのまま表に出す「真壁造」が格が高いんだけど、防火という観点から城郭建築では柱の形を残して塗り籠めるという方法が多く取られるようになった。「柱の木材を見せるって言われても、ピンとこない~」って声が聞こえてきそうですが、城内にはちょうどいい例があります↓。 これは「福山城(4)」で掲載した伏見櫓北面の写真ですが、1階部分だけ柱が出てるでしょう?私が伏見櫓を本丸内部から見た時にヘンだと思ったのがまさにこれで、このスタイルは原則から外れている。最初は最上重のみ柱形や長押形を出してたのが、時代が下ると下層も柱形などを出すようになったという。だから、最上重もしくは全層で柱形を出すのはいいんだけど、最下層だけ木材を出す真壁造風にするってのはおかしいんじゃないかと思ったんだよね。ただ、実は福山城天守の古絵図で伏見櫓と同じように最下層だけ木材を出してるように描かれている絵がある。ので、なんかヘンな感じもするものの、あるいはこれが過渡期のスタイルだったのか?とか、伏見櫓は元から最下層だけ真壁造で、新築の天守もそれにならって同じように造られたのか?とか、色々想像は沸くもののなんか宿便を抱えてるみたいでどうもスッキリしない。あ、私は軟便体質なので宿便に苦しんだ経験はないんですけどね。て、私の便通なんかどうでもいい?という感じで、再建福山城天守は私が学んだ建築の原則に則ってます。ヘンなのは伏見櫓の方。櫓は天守とは違うけど、基本は同じだと思うんだよね。どうにもわからないなあ・・・どこかに伏見櫓と同時期に建てられた櫓があれば比較できるかもな~。これについては、今後の宿便・・・いへ、宿題です。にほんブログ村
2013年07月17日

お待たせしました、福山城の続きを再開いたします。 ↑これが本丸の奥御殿付近から見た天守全景。鏡櫓から亭櫓を挟んで、天守の向かって右に見えてる平屋の建物あたりまでかつて多門櫓が続いていた。遠目から見て、最初右の渡櫓ふう建物が付櫓かと思った。・・・が、内部はトイレだった(笑)。付櫓は、この↓右の建物でした。ホントは1階部分の前面もそうなんだけど、思いっきり木に隠れちゃってるし~ 天守のある部分は、一段高くなっている↓。う~ん、ここは積み直されてるのかな? この辺から振り返ったところ↓。 今はもうグラウンド状態。が、かつてはここは本丸御殿でほとんど埋め尽くされていた。この空間、遊ばせとくのもったいないよな~。礎石がなくてもいいから、御殿全面、平面復元すればいいのに(←しつこい)。 【史跡 福山城跡 昭和39年(1964)2月7日指定 この城は、元和5年(1619)福島正則の改易により備後10万石の領主として 入封した水野勝成が、3年の歳月を費やし構築した近世の城郭である。低い丘陵を 利用した平山城で、東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、 小丸山・天神山を天然の防塁とした。 現在内外の堀は埋められ、三之丸と共に市街地化しているが、二之丸・本丸は 築城当時の姿をよく伝えている。 城地には、そそりたつ石垣をはじめ重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門、市重要文化財の 鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。 なお、天守閣・月見櫓・湯殿は昭和41年(1966)に、鏡櫓は昭和49年 (1974)に、それぞれ外観復原したものである。 城号 敵追山(鉄覆山)朱雀院久松城(葦陽城) 城主 水野氏五代・松平氏一代・阿部氏十代】 (現地碑文より)さて、「福山城(10)」までの記述でやけに含みのある書き方をするな~と思った方もおられるかもしれませんが、福山城は基本的な構成はカッチン(水野勝成)の築城からあまり変わるところがなかったらしい。が、郭の名称は変わっている。 具体的な変遷についてはよくわからないんだけど、現在では上の図の黄色の部分が本丸、水色の部分が二の丸と呼ばれる。二の丸はこの後歩きますが、先に感想を言っちゃうと、あまり広いところはないし、帯郭といった感じ。もちろん、広くないから郭じゃないって訳じゃないんだけど、どうも歩いた感じでは本丸下段といった印象だった。その後で図録に載ってる古図を見ると、モノによっては水色の下段を含め「本丸」としている図もあった。ああ、やっぱりね。後の時代では確かに水色部分を二の丸、それを取り囲む広い郭を三の丸としたようだから、別に水色が二の丸で間違いではないんだけど、個人的にどうもしっくり来ないので、私は黄色と水色をひっくるめて「本丸」と呼んでます。で、この外観。ここでも「外観復原」を強調しているような印象がありますが、古写真と見比べてみると窓とかは違っているし、月見櫓・御風呂屋(御湯殿)と同じく、完全な外観復元ではないらしい。特に深い意味はなく「外観復原」といってるのかもしれないけど、どうにもこの書き方は紛らわしい。それと、まんじりと古写真と見比べなくても天守には誰もが紹介するかつての姿と違う部分が2ヶ所ある。そのひとつが最上重で、今は赤い高欄と華頭窓で瀟洒な感じだけど、ここははね上げ式の雨戸で窓の上まで覆われていた。カッチンの築城当初にこんなもの取り付けるかな~って気もするので、「築城当初の姿を再現した」っていうならそれ以上何も言えないけど、焼失前の天守とは明らかに違っている。長い歴史の中では何度か改修もあったようで、当初はもちろん軒丸瓦は水野紋だったのが、阿部紋の時期もあったらしい。また、現在では総塗籠になっているのが、初重だけ長押と柱を出した造りに描かれている絵もあるし、驚いたことに4重は元はこけら葺だったのが、後から瓦葺に替えられた可能性も指摘されている。絵図なんかは必ずしも正確でない部分もあるかもしれないけど、それが本当だとしたらかなり大掛かりな改修が行われた可能性もある訳だし、最上重を覆う雨戸だけを取っ払ったところでそれが築城当初の姿だと言い切れるのだろうかという素朴な疑問が残る。だからせめて、「外観復原」て表現をやめたらどうかな?って思っちゃうんだけど・・・再開直後からまたネチネチと書いてますが(笑)、福山城に限らず市内には山城も色々あるんだし、熱意のある郷土史家の方々も沢山おられるんだから、そういう方達とタイアップして本格的な展示や紹介へシフトすればかなりレベルの高い歴史の町ができるだろうに・・・と無性に歯がゆくなってしまうのです。福山は。ま、現在のことはともかく、カッチンの天守は私が現地で買った資料には「江戸時代新築の天守閣遺構の中では最も優れたものであった」「戦国期の実践と安土桃山時代の権威の象徴としての城の姿を最高度に発揮させる築城術を取り入れて、長をとり、短をすてた最も模範的な様式であった」(以上は「新版福山城」から)「近隣の諸藩へ幕府の威光を見せ付けるには十分であったろう」(「福山城展-城と城下町-」図録より) などなど、絶賛の嵐。確かに、天守遠景の古写真を見ると常興寺山にそびえたつ天守は偉容を誇っている。天守内部を写した写真も結構あって、どれほど外観が美しくてもそこは当然御殿じゃないので、現存天守に見られるような「やぐら~」って造り。福山城博物館所蔵の内部の古写真で見る限りでは、天井も張ってなくて梁も桁もむき出しのままなんだけど、かつては2階から5階まで天井が張ってあり、3階と4階には床の間、階はわからないけど畳を敷き戸障子を立てた形跡があったようで、城好きが想像する天守内部とはちょっと違うイメージのものだったらしい。「新版福山城」ではこれを『これも天下泰平の築城の生んだもので、純軍事的な天守にはなかったものである』と表現してるんだけど、実のところどうなんだろう?ホントに当初からそんな悠長な内部だったんだろうか。カッチンの備後入封と福山城築城の経緯から考えると、どうも違うんじゃないかって気がするんだけど・・・かといって、後の時代では御殿すらほとんど使われてなかったんだし、まして天守内部に手を入れる必要性なんかさらにないようにも思うしな~。でもやっぱり当初からそんな造りだったとは私には思えないので、後代の改修の際にあわせて内部もリフォームしたって感じなのかな。天井板を含めた建具系は、天守の焼失前には取っ払われていたそうな。公園化して以降は有料で一般開放してたから、拝観の便を図るために撤去されたのか?あるいは、小物ならいくらか売りやすかっただろうから、ドナドナの運命に遭ったのかもしれない。ただ、公園化された後の明治29年、県から福山町に公園を移管した際に荒れまくりの天守や伏見櫓を修繕する見積もり書が県知事あてに出されたようで、これには天守内の天井の見積もりも含まれているのでまだこの時点では天井は残っていたことがわかる。じゃあ、天井はいつ剥がされたんだろう。その後の苦しい時代で焚きつけとか戦時用品にでも転用されたかな?(↑妄想が止まりません)天守の造営には京都の大工が関わっていたと伏見櫓のところで書きましたが、福山城天守で注目されるのが「材料の精選と施工が入念であった点」(「新版福山城」)だそうで、天守はじめ新築の櫓の多くに東北産の巨大なヒバ材(アスナロ)が使われ、そのため「昭和20年の戦災まで、多少の修理は加えられていたもののほとんど破損せず立派に残っていた」(「新版福山城」)んだと。まさに「いい仕事してますねえ~」な天守だった訳だけど、塗籠は下見板張より手間がかかる。( 「岡山城(8)」などもご参照ください)古写真で見る天守は実に立派な建物だけど、その実、漆喰はハゲハゲのボロボロ(笑)。天守と伏見櫓が売れ残ったことはすでに書いてますが、「新版福山城」では 【天守閣や伏見櫓は取り払うのに費用がかかり、塗籠めの建物は建築用材が 取れるのみとあっては買い手がなく、とうとう天守閣も20~30円まで 下がったが、ついに買い手がなかった。これには、絶対神聖視されていた 天守閣を俗人が所有して取り壊すという行為そのものに対して、祟りの恐怖を 感じてのことでもあったらしい。】とあるんだけど、どうだろうね~。ここに古写真の転載をできないのが残念ですが、ハゲまくりの天守なんてぶっちゃけ威厳もへったくれもあったもんじゃない(笑)。三原城の廃城の時も、士族があれこれ頑張って手を尽くしたみたいだし、さすがに士族は畏敬の念も愛着もあったでしょうけど、時代が大きく変わった時だしね~。解体にもカネと手間がかかる、維持管理はもっと大変。しかも時代は西洋に追いつけ追い越せで時代遅れの天守なんてお荷物もいいとこ、ってのが私の想像なんだけど。現存12天守のひとつ、備中松山城天守だって解体に金がかかるからって放置されてたおかげで残ったんだし、何が幸いするかわからないのがまた歴史の面白いところでもある。にほんブログ村
2013年07月16日

暑中お見舞い申し上げますえ~、本日から真面目に福山編を再開するつもりでしたが、朝から頭痛いしどうも調子悪い・・・それに、今日は何といってもお客様がなので、ダラケついでに最近一族に加わったニューフェイスをご紹介しましょう。ツイッターを真面目にやってた頃は、「オマエは露出狂か!?ってぐらい、なんでもツイートするよね」な~んてとあるフォロワーさんに言われたこともあるほど、あれこれマメにツイートしてましたが、最近じゃブログ更新のお知らせにしか使ってない・・・ブログは元々、旅ログを公開する場であって旅の記録を除いてはあまり個人的なことは書いてない。だいたい、本編を書いてる最中にはいつも時間に追われてて雑談を書こうなんて気にもならないからな。なので、このタイミングでのこうした雑談ってのは最近の私にしては珍しい部類に入ります。ま、それはともかく、本日のお客様。 貞子、5か月。シェパードとラブラドールの間に生まれた子らしいです。なんでも、生まれてすぐに置き去りにされてたところを保護されたそうで、一緒に保護された兄弟たちは方々へもらわれていったのに、貞子だけ残ったとのこと。そこで、里親の登録をしていた姉の家族が引き取ることになったんだそうな。春にもらって来た子なので、姉は名前に「はる」の音を入れたかったらしく、かと言って自分の息子も「はる」なので、どうしよう・・・と思いながら貞子と顔を合わせた時に、「サダハル」という名前が浮んだんだそうな。女の子だよ?なにをどーすれば「サダハル」って名前になるんじゃ?信じらんないセンス・・・親の顔が見たいわ(←一緒に住んでます)最初、「サダハル」という音しか知らなかったので私は「貞治」という字をあてた。が、そのまんま呼ぶのもあんまりなので、女の子らしく「貞子」と呼んでいた。そして今日、いよいよ貞子とごたいめ~んどういう字を書くのか聞いたところ、「定波流」なんだと音は「はる」だけど、これじゃ夏の名前っぽくね?動物病院とかで貞子の名前を登録する時はいつも「ホントにこれで間違いないですか?」って聞き返されるらしい。私が市役所の戸籍係とかだったら、まんず「こんな名前、やめなさい」って説教するだろうな。こんな冗談みたいな名前、すぐに後悔して改名するかと思ったのに、命名してもう2カ月くらいになるのかな・・・まだ彼女は「定波流」のままこの暑い夏を過ごしている。正式名称が判明しても、「貞子」と呼びならわしてきた私には、もう自分の中で名前を変えることはできない。ので、サダハルは「定波流」と「貞子」の2つの名前を持つ女になってしまった(笑)。さて、貞子はさすがに両親が大型犬というだけあって、身体はすでにうちの娘さん(大)よりも大きかった。が、犬好きな人はこの感覚をわかってもらえると思うけど、顔も身体もまだ子供コドモしている。でも、無駄吠えもしないし、なつっこくて元気ないい子だった。体重は11キロぐらいだというので抱っこしてみたら、体幹(胴体部分)がずっしりと重い。「いかめし」って、ぱっと見小さくてこれだけじゃ明らかにご飯足りないよな~って感じなのに、切ってみると中にびっちりもち米が詰まってて、結構あれだけでもお腹いっぱいになるよね。貞子もそんな感じだった。見た目大きくはないけど、体幹には筋骨と内臓がぎっしり詰まってます~みたいなて、犬の胴体をいかめしに例えるなって?(笑)え~と、それで貞子の外見は・・・デカい耳、茶色い目、真黒いマズル、細長く垂れたシッポ・・・さすがにシェパードそのものとはいかないけど、かなりシェパの血が出てるなって感じ。うちは大型犬が大好きな家で、シェパは私の永遠の憧れ。ただ、在野でも準警察犬としてシェパは定期的に訓練に出さなきゃいけないとか聞いたことがあるし、うちはみんな犬に甘いので、甘ったれシェパが出来上がりそうで(笑)。それにやっぱり、大型犬は老後の介護とか病気の世話が大変でね。今の娘さん2人の前に、ゴールデンを2代続けて飼ったんだけど、やっぱり大変でした。私は平日の日中はいないし、結局世話をするのは両親だから、そうした負担を考えるとうちではもう大型犬を飼うことはないと思う。おっと話がそれちゃったな。狭い室内を、みんなにちやほやされてちょろちょろ歩き回るので沢山撮った割に貞子の写真はあまりいいのがない。イマイチなのは動きのせいだけじゃない。この顔↓。 うちは今まで、こんな風にごんべさんみたいな真黒いマズル(鼻の周辺)の子っていなかったから知らなかったけど、目の近くまで黒くなってるもんだから、表情を撮影しにくい。そうか、ごんべさんタイプの子は写真が撮りにくいんだな・・・と新たな発見をしました。私は写真をプリントしたりするのに何度も席を外して、ずっと一緒にいた訳じゃなかったんだけど、私が来るたびに貞子は大歓迎モードだったらしい。私はそういう姿しか見てないから知らなかったけど、最初に両親が出迎えた時なんかでもそれほど大喜びはしなかったんだって。イヌはオオカミと同じで、タテ社会に生きる動物だから、よくTVなんかで甘やかしすぎてイヌが人間のリーダーになっちゃったワガママ犬なんかが「バカ犬」として映されるけど、優しくしながらも誰がリーダーかってのをきっちりわからせておくと、ちゃんと理解して従うものなんだよね。長年犬と付き合ってきた私としては、もちろん人んちの子だからといってホイホイ甘やかしたりはしない。貞子もおそらく、そーゆー私のリーダーとしての高貴なオーラを感じ取って一瞬で服従したに違いない。オホホホ・・・・さて・・・ダラケまくりの3連休も今日でおしまい。皆様、楽しい連休をお過ごしになられたでしょうか。ああ、明日から仕事かあ~。こんなんで、お仕事できるんかいな、ワシ。今週は4日も働くんですか。マジっすかいや、そんなことより福山編だ。結局、写真の整理も全然進んでないし、ヤバイっす。ヤバイですが、とにかく書かなきゃ先へ進めないので、ちんたら頑張りま~す。あ~、書きたくな~い(←ホンネ)おっと、忘れるとこだった。ワクワクしながら黙って姉にいとこのSちゃんの写真を見せたところ、「え~?Sちゃん~?」てすぐにわかった。ありえね~・・・私なんか、実物を間近でジロジロ見てもわからなかったのに(笑)。ちぇ~っ、つまらんにほんブログ村
2013年07月15日

すみません、今日も福山編はお休みです。やはり昨日の暑さがこたえたのか、今日は日中ほとんど寝てました。夕方に起きた頃には雷雨が来て、小心者な私は雷が鳴ってる時は家ではPCをつながないことにしてるので、ブログの下書きもできず。少し資料も読み返したものの、近頃では脳ミソがいかれてるのでとにかく何か書いて形にしてみないと考えもまとまらない。そういう訳でまだ「福山城(11)」は一字も書いてないのです・・・私のブログは基本的に紹介を前提にしているので、あまり歴史に詳しくない方でもそこそこ理解してもらえるように平易な文章をこころがけている(つもり)。なので、見た目の文章とそれにかかる時間とは実は見合ってないことが多い。頭も悪いので、結構時間かかってるんですよ~。1話の文章量も多いしね。「三原編」を書いてる時だったかな、偶然写真のデータ量を減らす方法に気が付いた。楽天ブログは半角10,000文字が限度なんだけど、古い記事をたまに手直ししたりすると、写真のデータが多いままで8,000文字~9,000文字って記事が多い。今は写真のデータを減らして、その分本文の文字数が増えて、さらに限度ギリギリまで入れることが多いので14,000文字近くまでいける。「半角10,000文字が限度」ってタテマエとの関係がよくわからないんだけど、昔の記事より格段に文章量が増えた。だから、福山城の続きを書くとたぶん今日の更新は無理だなと早々に諦めましたやる気も出ないしな・・・昨日は当初予定してた時間より30分ほど家を出るのが遅くなって、お寺ではいとこのSちゃんに会うというハプニングもあり、おまけの史跡めぐりを開始する時間がそもそも遅れていた。が、予定を全然こなせなかった理由はそれだけじゃない。お寺から移動して降りたのは、上野のひとつ手前の鶯谷(うぐいすだに)駅。この駅には北口と南口があって、私は北口から回り込むつもりで駅を出た。鶯谷へ降りたのは初めてで、ちゃんとした地図も用意しておいたんだけど、だいたい大通りをこんな感じで回り込めばいいんだよな~と頭にはあったし、メールを打ちながら地図をろくに見ずに歩き始めたのがいけなかった。メールを打ちながら細い歩道を歩いてると、やたらカップルが反対側から歩いてくる。歩道が細いんだから3人が横一列になってすれ違えないのに、向こうは2人並んだまま通り過ぎようとするから、ぶつかった奴もいた。「チッ!なんだよ、このバカップル~!!」と思ってふと見上げると、そこはラブホ街だったしかも、2軒や3軒てレベルじゃない。ず~っと歩いていっても、若者が入りそうな小奇麗なタイプから、中高年が利用しそうな古びた和風タイプのものまで、とにかくラブホ!ラブホ!駅のすぐ近くなのに、こんな一大ラブホ街があるなんて。「そ、そうか・・・鶯谷ってこーゆー街なんだ~・・・」と初めて知る現実に、軽い衝撃を受けた。行けども行けどもなんか違う風景なので、こりゃ大通りへ出た方がよさそうだな~と思ってラブホ街を抜けて出てみたものの、なんか変なのでケータイのナビウォークを見てみたら、ちょっと違う方向へ進んでいた。ナビウォークを見ながら線路を渡る本来の道へ復帰したものの、工事中のせいなのか歩いて線路は越えられなかった。警備のおじちゃんに聞いてみたら、ず~っと奥まで歩いていくと線路を渡る階段があると教えてくれた。で、またラブホ街を抜けて駅まで戻ってみたものの、駅付近には階段らしきものは見当たらず、結局南口まで歩くハメになった。南口からだと、ルートの関係で同じ道を2度歩かなきゃいけないからイヤだったんだよな~。時間は計ってないけど、30分はロスしたと思う。すでにお墓のおそうじで大汗かいてたし、うだるような暑さの中をラブホ街をさんざん歩いて迷って、もう今回はこのまま帰っちゃおうかとも思ったそれでもだらだらと第1のお寺へ向かう。上野で有名な寺っつったら、「ああ、あれね~」と首都圏近郊の方にはわかるでしょうが、わからない方は旅ログの公開までお待ちくださいで、寺まで向かう途中にもちょっとした見どころがあったので撮影してる間にも、もう汗ダラダラ・・・前日から凍らせておいたアクエリアスはまだ氷が残っていて、体内を冷やすのに役に立った。寺へ向かう道筋は、脇に大きな墓地がある。去年の日暮里の寺町を歩いた時と同じく、今回も卒塔婆をかついだ人が結構いた。私がいつも7月にお墓参りに行くのはお盆だからという訳ではなく、8月は旅行の準備で忙しいからという単に自分の都合なだけだったんだけど、こうして去年・今年と卒塔婆をかついだ沢山の人にでくわすと、やっぱり東京では今でも7月がお盆なんだな~と思った。まあ、一昨年は7月30日、去年は7月21日に行ってて、別にお盆を狙っていった訳じゃない。が、今年は7月15日のお盆を目前に控えた7月13日。そういえば、うちのお墓がある蓮華寺にはいつもより人がいたし、隣接する染井霊園にも割と人がいたよな~。それに、いつもお線香をもらう時にはお勝手口から声をかけるけど、今回は大黒さん(ご住職の奥さん)が本堂の火鉢の前で待機してたから、あれもお盆の特別体制だったんだ(笑)。私が子供の頃は蓮華寺での法事によく行ったもんだけど、ここでの法事には長いこと参加してない。てか、ここ数年法事がない。ので、墓参りの時に大黒さんには会っていたものの、住職さんには長いこと会っていなかった。それが、今回建物の中から男の人の声がして、すぐに「あっ、住職さんの声だ!!」ってわかった。住職さんはお腹の底から声が出るような豊かな声量の持ち主なんだけど、たぶん私はいとこのSちゃんと同じくらい長いこと会っていない。それなのに、声を聞いただけですぐわかったんだから、子供の頃の記憶ってすごいもんだな~と思った。まあ、風習っていっても時代と共に変わっていくもんだし、東京でも若い人なんかは現在では一般的なお盆である8月に行く人が多いのかもしれないけどね。で、そんなお塔婆の群れを見ながらやっとこさ第1の寺へ到着・・・ここはなかなか良かった。有名な割には、人もぱらぱらと来た程度だったけど。このお寺は、かつてはかなりの規模の大寺院で現在では縮小されてるとはいえ、上野山にぽつぽつと関連のお堂などがあるので、今回はそれらを一気に攻めようと思っていた。お堂の存在は知ってたけど、行ったことのない寺がほとんどだったので。それとあわせて、上野にゆかりの深い武将のスポットを巡るというのが、今回のプラン。第1の寺を見たあと、上野公園まで歩いてあちこち回るはずだった。が、第1の寺を一通り見終えて時計を見ると13:30・・・腰が痛くなってきたので、石碑の台座に腰掛けて手持ちのパンをかじりながらこの先のことを考えた。凍らせたアクエリアスももう溶けて残り少ない。飲み物なんかはもちろん買えばいいんだけど、この暑さでこのペースで残りの体力だと、どう頑張っても全部こなすのはムリ。全部回れたところで夕暮れまでかかるし、最後は上野公園の森の中を歩き回るから、薄暗い森の中なんかイヤだし。「上野なんかいつでも来られるんだから、今日は無理しないでおこう」それで切り上げることを決めた訳だけど、これがもし泊まりの旅先だったら、「せっかく来たんだし、もうちょっと頑張っちゃおうかな~」って絶対なったと思う。実際、大津の初日もミワラの2日目もそうだった。大津の時はその夜にマズイと思う症状が出たから翌日は(いちおう)控えたけど、ミワラの時はそれはなかったから3日目も普通に行動を開始した。でも、スタートも遅くなったし、ちょっと歩くとすぐに疲れて何度も休憩を取ってた。今から思うと、相当身体にきてたんだと思う。史跡めぐりをする人で、私みたいに1日中バカみたいに歩きづめって人はいそうでいないように思う。車とかを使う人なら、真夏の行動っていってもそんなに問題はないかもしれないけどね。私の場合は、狭い範囲内で小さな史跡だとか小さな寺社にも寄るので、どうしても歩く方が便利。このスタイルを貫こうとするなら、今後は夏場の旅行は控えるべきだよな~と昨日を振り返ってあらためて思った。ただね、今年は焦って予定を入れなかったのには理由があるんです。珍しく今度の年末年始も、休暇の入れようによってはかなり長い休みになるし、カレンダー通りの休日とは別に、長い休みがもらえることになってるからね。そこで山城やら冬でないと行かれない場所へ行こうと思ってるので、夏に頑張る必要がなかったんだな。ただ、そういうのがない普通の年だと、やっぱり長い夏休みは旅好きの人間にとっては魅力的。う~ん、来年からどないしょ・・・しっかし、こんなに夏の暑さがこたえるとはね~。実は今回、所用があって久々に上野動物園に寄るつもりでした。動物さんを見るのが目的じゃないんだけど、行くとなれば可愛い動物グッズとかお菓子とかありそうだし、せっかく入場料払って入るんだから、ついでに好きな動物さんたちもいくつか見たかった・・・それに何より、パンダ焼き!これは人形焼きのパンダバージョンみたいなものですが、これが無性に食べたくなった。今回、絶対買うつもりでいた。・・・て、結構楽しみにしてたのにいや、近いからいつでも行かれるんだけど、こーゆーのにはモチベーションが大事だから、一旦お預けにした予定を再度復活させて出かけるのは、私の場合どうも気が重くなりがち。なので、夏のうちに再び続きをしに上野に行くかもしれません(←懲りない)。そしたら、まとめて記事をアップできるしな。それにパンダ焼き・・・ああパンダ焼き。ちなみに、明日は姉が最近飼い始めた犬を連れて遊びにやってきます。もちろんSちゃんの写真を見せますが、この姉とは昔「Sちゃんてカッコいいよね~」って話してた記憶があるので、反応が今から楽しみです。絶対、私や母親と同じことを言うと思う・・・にほんブログ村
2013年07月14日

あ~ん、疲れたあ~。前回の記事で書いたように、連休の初日である本日、巣鴨へ墓参りに行ってきました。去年も一昨年も、墓参りの前にちょっと付近の史跡や寺へ寄りましたが、今年はこの暑さだし、朝早く出て墓参りを済ませてから上野へ移動して、ちゃちゃっと歴史ある場所を回って、昼には帰路につく・・・そう目標を立てて、昨日・一昨日でバタバタと調べ物をしたのに、結局いちばん最初に考えたプラン、あの有名な寺を1つだけ見ようと思ってた通りの行動で終わっちゃいましただって、暑かったんだも~ん。今日の東京は時折晴れ間ものぞいたけど、おおむねくもり。ピ-カンじゃなくて良かったな~と思ったものの、かなり蒸し暑かったです。もう、上野といえばあの武将!!ゆかりのスポットへ行くのを結構楽しみにしてたんだけどな~・・・14:00ぐらいで切り上げたものの、相当消耗したため、もう今日は福山城とか書く気が起こりません(笑)。いっそのこと、福山城を中断して今日の旅ログを先にあげてしまおうかとも思いましたが、1つの寺しか見てないにも関わらず、写真は200枚ぐらいある(笑)。ので、とりあえず今日はプロローグ風な感じで1話だけ書いておこうと思います。2013/7/13(土)くもり時々晴れ・・・蒸し暑いまっすぐ墓へ・・・とは言っても、去年の忘れものを回収しに行かねばならん。てことで、乗り換えで下車した日暮里駅の改札を一旦出る。去年、御殿坂を降りたところにはなかったんだから、反対側へ出ればいいんだよな・・・と思って御殿坂と反対方向へ向かう。が、日暮里に降りたのなんて去年が初めてだし、周りをきょろきょろ見ながら進むけど、見つからない。うう、このまま見つからなかったらどうしよう・・・でも、あんまり探し回る気力もないしな・・・と弱気になりつつ駅周辺と思われるあたりをてろてろ歩いてたら、遠くにお目当てのお尻を見つけた↓。 あった、あったああ~!!この辺はバス乗り場でロータリーになってるので、車に轢かれないように注意しながら回り込んで近づく。 まだお顔は見えない。顔は男の命だからな・・・そう簡単には見せてくれない訳だな(←違います) はいっ、こちら、去年のラストに撮り忘れた太田道灌公(の銅像)ですしかし、ずいぶん高いところにおられるな・・・こんな高い柱の上にいるなんて知らなかったぞ妙な横断幕が貼ってあるし・・・ 古いフォロワーさんで覚えている方もおられるかもしれませんが、騎馬像と死因との関係についてのとあるツイートを見た後で、手持ちの写真で検証したことがあります。いちおうその俗説について紹介しますと、馬の脚が4本とも地についていれば病死や老衰などの自然死、1本浮かせていれば戦闘での負傷が悪化するなどの後日の死、2本浮かせていれば戦死、というように、乗馬している武将の死因を示すのが騎馬像における伝統的な様式だと言われているらしい。それ以来、騎馬像を見ると自動的に検証装置が働くようになっちゃってさ~。ブログでは書いたことないから、ひとまずここまでの結果をまとめておきますと、 ↑平将門(坂東市・ベルフォーレ)。討死だからバツ。 ↑井伊直政(彦根駅前)。関ヶ原の傷が元といわれるからマル。 ↑ひろよん(山口市・瑠璃光寺)。討死じゃないし、傷が元とも聞いたことないから病死だと思う。なので、マル。 ↑毛利敬親(山口市・亀山公園)。全身写ってるのがなかったけど、1本浮いてるよな・・・そうせい候も病死だろうからバツ。 ↑大内義興(山口市・龍福寺)。これは資料館の中におわすゴールドミニバージョンだけど、外には同じタイプのブロンズビッグバージョンがおわす。義興さんは病死だから、バツ。 ↑織田信長(岐阜市・岐阜公園)。足が1本も地に着いてません。よって判定不能・・・あと、写真が行方不明なんだけど上田駅前におわす真田信繁(幸村)公の像は足が1本浮いてる。討死だから、思いっきりバツ。で、ここまででマル2、バツ5(判定不能1名含む)。さて、道灌さんはいかに? 足が全部着いてますね。彼は殺されてるので、バツ。マル2、バツ6になりました。ま、騎馬像で最も有名な部類に入るのが青葉城の伊達政宗像だけど、私は自分の目で見てないものの、もらったテレカに写ってるのは足が1本浮いてる。だからこれもバツで、マル2、バツ7としていいかな。道灌さんのお顔はこんなだった↓。 ちょいとシブめ・・・(笑)。弓を持ってるから、ちゃんと装束も合わせてるね。満足したところで、再び電車に乗って巣鴨へ。いつも日暮里で乗り換える時は上野寄りの地味な連絡通路しか使わないから何もない駅なんだと思っていたら、道灌さんの後ろに見える入口から入ってみるとすごく綺麗な構内でびっくりした。巣鴨駅から染井霊園に向かう方の出口の駅前はこんな↓。 かつてこの辺りは藤堂家の屋敷があった。今回は寄り道せずいつものルートでお寺へ向かったけど、藤堂家のなにかを示す看板などは見当たらなかった。以前は学校の辺りとかに解説板みたいのがあったような気もするんだけど、気のせいだったのかな。さて、お寺では私はいつも2つの墓に寄ります。1つは累代の墓、もう1つは私には大おじさんにあたる人で29歳でたしか硫黄島で戦死した人のお墓。累代のお墓の方は、お線香の燃えカスが残っているだけで枯れかかったお花などはなかった。7月に私が行くといつもこうなので、今年もシーズンのトップバッターだな~と思いながらお墓のおそうじ。曇ってたけど、すぐに汗が噴き出してきた。こりゃ、来年はナントカ工務店とかのロゴ入りの長いタオルを首からかけないとダメかな~と思った(笑)。累代のお墓のそうじを終えてお花を供えて、次は大おじさんの方へ。1人だから、両方のおそうじが終わって綺麗にしてからお線香をもらいに行くのだ。流れ出る汗を我慢しながら大おじさんの方をおそうじしてる時、後ろの累代のお墓の方から「誰か来てるね」って話をするのが聞こえた。大おじさんの方の作業を終えて水桶を戻しに行く時、累代のお墓の方を見たら、うちのお墓の辺りに誰かいる。いや、でも知らない人だからうちじゃないよな・・・ゴミを捨てて桶を戻して、累代のお墓に置いておいた日傘を取りに行ったら花が増えてる。あれ・・・?お堂の方に行こうとしたら、さっき見た親子連れが前方にいた。向こうも私を見てる。双方、すぐに相手が誰だかわからないので、思いきって聞いてみた。やっぱりうちのお墓に来た人だったんだけど、顔を近くで見ても誰だかわからない。しょうがないので、直球で「すいません、どなたですか?」って聞いて、相手の名前を聞いたら母親のお兄さんの子供・・・つまり、私のいとこだった。「えっ、Sちゃん!?(まあ~、すっかりおじさんになっちゃって!!)」いちおう、社会人としてのそれなりの常識は(たぶん)あるので、カッコ内の言葉はもちろん飲みこみましたよ私より5~6歳年上のそのいとこは、若い頃はイケメンだったんだけどね~。白髪も染めてないみたいだし、言われれば昔のおもざしは確かにあるものの、もうフツーのおじさんだった。たぶん、このいとことは10年以上会ってない。年取ったからとはいえ、お互いに顔を見ても全然わからなかったくらいだから(笑)。てか、ここ数年、巣鴨へは私が1人で代参してるけど、今まで親戚に会ったことは1度もなかった。だから、これは驚いたね~。しかも、話を聞けば彼は7月・8月とお彼岸の年3回来ているらしい。うむ、さすが本家の長男だ。私はカメラを持ってきてたので、母親に見せたいと思って親子の写真を撮らせてもらった。いつも墓参りが終わると、綺麗になったお墓の写真と無事終了の報告をメールするんだけど、今回は驚かせてやろうと思ってメールをしなかった。彼らは池袋でおもちゃを買うと言っていたが、私よりも早く家に帰ったらしく、家に戻ると母親が開口一番「Sちゃんに会ったんだって?」って聞いてきた。どうやらSちゃんが自分の母親に報告したらしく、おばさんから家にお礼の電話があったそうなのだ。ちぇっ、驚かそうと思ったのに・・・(笑)。Sちゃんの写真を見せたら、「あら~、おじさんねえ!昔はイケメンだったのにねえ~」って私と同じことを言ったしかし、10年以上も会ってないいとこにばったり出くわすなんてね。墓参りをした後は気分も清々しくなるもんだけど、今年は特に良い気分だった。にほんブログ村
2013年07月13日

本編の途中ですが、本日は純粋な雑談をば。去年からどうも体調が不安定で、今月もしょっぱなから寝込んで3日会社を休んでました。その間に、トンデモな早い時期に梅雨があけて殺人的な酷暑のはじまり・・・ホントはやることがあるので今日・明日とブログを休むつもりでしたが、帰ってきてからどうも気分が悪い。頭は痛いし吐きそうで、熱中症とまではいかないけどちょっとその傾向があるような気がする。で、やる気は起こらないくせに夏の旅でムチャしたこととか失敗談ばかり思い起こされて、とりあえず雑談なんか書いてみるかと(笑)。近年の夏はハンパなく暑いですが、当然のことながら1年ごとに年を取っていくので、年々身体への負担も大きくなってきた。暑いのも寒いのも苦手なので、シーズンが変わるたびに今シーズン越せるかな~と思ってますが、「今年の夏を越せるんだろうか・・・」と冗談ヌキで真剣に危俱してます。今日のニュースで「2010年並の猛暑か!?」ってのがあったけど、なんかもう毎年暑くて、「あの年は暑かった」とか比較もできないくらいなんですけど~。特に私の場合は、夏でも史跡めぐりの旅先では1日中外を歩きっぱなしだし。まあそれでも振り返ってみると、2010年は私が1人旅デビューした年。本ブログ最初のシリーズ、名古屋が3月。7月の海の日の連休は彦根だった。梅雨明け直後だったけど、琵琶湖があるから若干気温は低めかと思っていた。が、乗り換えの米原で電車まちしてる間に、ものすごい蒸し暑さでもうヘロヘロ・・・その旅の2日目は佐和山付近を中心に歩いた。ホントは佐和山城にも行きたかったんだけど、いくつかの不安材料があったので、泣く泣く諦めた。諦めた理由の1つは、もちろん危険な夏の低山だったから。で、佐和山の山麓の寺を見た後、地元の人が石田三成をしのんで造ったという石田地蔵を求めて山腹にある墓地をウロウロしてた時、登山スタイルでない軽装のねーちゃんが1人で登山道を上がっていくのを見た。その時点で昼前でかなり暑かったし、「こんな時期にあんなカッコで山を登るなんて・・・」と思いながら背中を見送っていた。あのヒト、無事に下山できたんだろうか・・・翌8月は、夏休みで岐阜へ行った。あの年は確かに暑くて、連日ニュースで「多治見で○○℃」って言ってたなあ~。ホントに毎日、TVで多治見と岐阜のどっかのことばっかり聞いていたので「行くのやめたら?」と母親に何度言われたことか・・・それでも、山をやってた時に熱中症の勉強とかもしたし、それなりの知識はあるので対処はできると思っていた。現地に行ってみると、岐阜市内はたしかに暑かった。でも、2日目は予定通り歩きとおしたんだな~。斎藤道三の丘城まで登っちゃったし(笑)。まあ、途中自販機で何度も冷たい飲み物を買ったし、ちょいちょい休んではいたけど。あまりの暑さにへばって、15:00過ぎぐらいには切り上げようかとも思ったけど、最後に濃姫の墓を見てから・・・と欲張って、結局夕方近くまで歩き回っていた。途中、美江寺観音の境内にトイレがあったのでお借りした時は、汗で全身ぐしょぐしょで下着を下ろすのに苦労しましたいや、ホント無茶したよな~。お昼に喫茶店で涼んだ以外は、一切クーラーなしの炎天下を歩きまわってたから。宿に帰った時は、洋服が塩をふいていた。その時もキャッスルビューの宿を選んだんだけど、実はそこは長良川の戦いの古戦場だった。2日目の夜はクーラーをかけてても暑くて、なかなか寝付けなかった。その時は、古戦場だからなのかと思っていたけど(←こわがり)、今にして思えば単に熱中症の一歩手前の段階ぐらいにまで身体に熱がこもっていたんだと思う。3日目は加納城付近をお昼前まで歩いた。で、帰りの新幹線でふと自分の姿を見ると、3時間程度しか歩いてないのにすでに洋服に塩が付いていた(笑)。岐阜のハンパない暑さでどうやら身体中の汗腺が目覚めたらしく、帰ってからのそれ以降の汗の出方といったら、自分でも驚くほどだった。あの暑さの中を歩き回って倒れることもなく生きてたんだから、若かったなあ~と思う次の年、2011年の海の日の連休は大津。この時のことは公開済ですので、忘れた方や読んでない方は「大津編(4)」 「大津編(8)」あたりをご参照ください。だいたいね、旅に出る前には通勤を歩きに切り替えて体力造りに励むものの、海の日の連休って梅雨が明けるかどうかって頃で、本格的な夏の暑さにはまだ身体が慣れきっていない。史跡めぐりをする以前から、連休といえば必ずどこかへ出かけてたけど、7月の彦根も暑くて辛かったし、大津での出来事をきっかけに海の日の連休は旅に出るのをやめた。大津の次は8月の山口。ここも盆地だから暑かったけど、雨ばっかりでかなり行動も制限されたからそれほど暑さにやられたという記憶はない。それでも、わずかな晴れ間では雨の後だけに相当蒸し暑かったし、クーラー効きすぎの資料館で疲労が倍増したりするなど、順調だった訳でもない。あの時行った寺などを思い出すと、まず「すんごい蒸し暑かったよな~」とか「蚊が多かったよな~」とかのヘンな記憶が真っ先に蘇る。身体が覚えちゃってるんだよね。そして去年、2012年の7月・・・は前述の通り出かけなかった。これは正解だったと家にいながら思った。翌8月の夏休み。ミワラ。いやもう・・・楽しかったけど、あんな歩き方をしてはいけなかった。せめてお昼ぐらいはちゃんとお店に入って、少しでも身体を冷やしておこうと思っていたものの、結局お店を探すのがめんどくさくなって神社のベンチとか公園のベンチとかでパンをかじっていたという・・・(笑)。何事もなかったから良かったようなものの、今から思うと「バカだったよな~」と反省の嵐・・・・・・さて、今年2013年は、もちろん海の日の連休は旅はしません。夏休みはすごく行きたいところもある・・・冬になると山城攻めで忙しくなるので、寒くなくても行かれるところに行っておきたい・・・が、体調も思わしくないし、旅ログも(東西条編が長すぎたおかげで)全然進んでないし、ここで出かけるとブログネタが溜まってゆくだけ。色々勉強もしたいしなあ・・・と自制して、我慢できるなら我慢しようと旅の予定はまだ入れていません。直前になってどうしても我慢できなくなったら、もうそれはしょうがないよな~と思ってはいたけど、梅雨が明けてみればこの殺人的な酷暑。この環境下で、歩き回る旅を計画しようなんて気は全く起きません。まあ、日帰りでちょっと行っちゃおうかな~ってところはあるけど。ただ、欲張らず見たい寺だけ見て帰って来ようかな~と・・・一般的なお盆は8月ですが、東京では7月がお盆なので、今年も近々墓参りに行ってきます。去年は前シリーズの「プチ日暮里編」で書いたように、墓参りの後で西日暮里から日暮里までの寺町を歩きましたが、日暮里から南も腐るほど寺があるので、今年は日暮里から歩き始めて去年の続きをしようと思ってました。が、この暑さだからもうムリ!!なので、有名だけどまだ行ったことのない寺を1つだけ見て早々に帰ってこようと思っていたものの、どうにも欲が出てしまう場所なのでまたちょっと歩くことになるカモ・・・それでも、サカサカと行動を済ませて昼までには終わらせるぞと固く心に誓い。この暑さで歩き回るのとか、ホント無理だから~!!今度こそ無理はしないように、気をつけてきます皆様も、色々と夏のご予定もおありでしょうが、くれぐれも熱中症には気をつけてくださいね。あれはホント、死ぬからね。真夏の炎天下でなくたって、春の室内でも熱中症って起こるものなんですよ。自分でも気付かないうちに、じわじわと(時には急激に)熱に身体が侵されていくのだ。熱中症にいちばん有効なのは、何と言っても予防です。特に今年ほどの暑さになると、外へ出ないのが一番なんだけどね。私なんか、毎日帰ってくるたびに「今日も生きてたあ~」って思うくらいしんどい。まさか、のっけからこんなに暑くなるなんてね。やっぱ、今年は旅行の予定入れないで正解だったな。皆様が無事に、楽しい夏を過ごされることを願っております。ああ、雑談書いてるうちに気持ち悪いの治ってきたわにほんブログ村
2013年07月11日

月見櫓から北へ行ったすぐ先にあるのが、鏡櫓↓。ここも入口は狭い。 石垣には、刻印ぽい石も↓。 この付近では親子連れが遊んでいてなかなかどいてくれなかったので、先に櫓の北側へ回ってみた。ら、ちゃんとした入口らしきものがある↓。 入口に「文書館」て札が付いてたので、ちっちゃな資料館みたいなもんかと思って扉に手をかけてみたが、閉まってた。あ、ちゃんとした文書を収めてる場所って意味なのね(笑)。あれ~?でも、博物館でもらったリーフレットには「随時開館」て書いてあるけど。申し込みとかが必要なのかな?文書館入口は階段で少し高くなっているので、そこから鏡櫓北側の下段を見下ろしたところ↓。が、ここは近代に入って改変されている場所なので、かつての土塀は白の点々のような感じで続いていたと思われます。 石垣には紅葉の鮮やかな赤が・・・↓。て、紅葉モードで撮ったらこんなに鮮やかすぎる赤に写っちゃったよ やっとお子ちゃま達が去ったので、西側から撮影↓。 この時ちょうど屋根にはハトが数羽とまっていて、ちょっとミワラふう(笑)。 【鏡櫓(文書館) 本丸の東側に位置し、東南隅の月見櫓から北へのびる塀でつながれ、6間と4間の 広さをもっていた。明治6年廃城の際とりこわされたが、昭和48年9月30日 外観復原がなされその姿をみることができるようになった。 この鏡櫓は福山城博物館の文書館として昭和49年4月2日開館し福山を中心に 文書、記録類を収集整理する場として活用されている。】 (福山城博物館リーフレットより)下から見るとこんな感じ↓。 鏡櫓は古写真にもかろうじて写ってるんだけど、ずんぐりってゆーか、なんかちょっとスッキリしない形をしている。ここも説明は「外観復原がなされている」とあるものの、往時の姿をそのまま再現したものではないらしい。3枚上の写真を写した辺りの場所から振り返ったところ↓。 だいたいこの写真のど真ん中あたりに、かつて伏見御殿(奥向)があったと思われる。本丸御殿の平面図を見ると、奥向から鏡櫓までは大して離れていない。写真の左にある建物が御風呂屋で、その前が平面復元されている場所。右に写ってる木のある場所へ近寄ってみましょう。 庭園風だけど、このセンスは私好みじゃない。この辺りの場所は、本丸御殿全体のちょうど中央と思われる。実は、御殿の平面復元がされているのは御風呂屋の前の表向付近に限られ、中央部~北部にはその類のものは一切ない。廃城後、公園化した後の明治初期頃に描かれたと思われる絵図には、すでにこの場所は大きな池が描かれている。デフォルメされてる可能性もあるから、その当時の池が現在と同じ規模なのかはわからないけど、公園の経営を軌道に載せるためにプチ動物園経営なんかして色々頑張ったみたいだし、本丸御殿部分ではちょうどこの池のあたりが一番遺構が破壊されてるかもしれないね。さて、鏡櫓については一旦ここで終わりにして、さらにここから北へ進もうとするとこんな塀があって往時の通りには進めない↓。 この柵の先は 広い石段と冠木門があって、お城ふう(お城だけど)。これは(たぶん)門の外から見たところ↓。 が、これはかつては存在しない門でした。廃城から月見櫓跡地に葦陽館が建てられるまでの流れを前回書きましたが、明治8年に大久保利通から公園化の許可が下りたあとに、登城への利便を図るためにこの部分の石垣を一部ぶち抜いて造った入口なんだそうな。縄張図では、水色のポッチが新造の階段の場所。わたくしはここを「ぶち抜き御門」と命名しました(笑)。 ちょっと今さらですが、この縄張図は幾つかの図面とわたくしの記憶を基に大体の位置関係を説明するために描いたもので、建物の大きさや郭の形・大きさなどは精度を追求してませんのでご了承くだされ。この図にあるところはほとんど歩いたけど、完全に歩ききった訳ではないし、写真がなくて記憶が辿れない場所もある。記憶がないゆえに図面を見てるだけでは自分の頭の中でどうにもつながらない部分もあるので、そうした場所は描いてませんし(笑)。で、かつては、鏡櫓の北へは多門櫓が続いており、多門櫓の途中にはマル10の亭櫓と呼ばれる物見が載せられていた。亭櫓は物見櫓とも、また化粧櫓という名称もあわせ持つ。そして、亭櫓はすぐ西にある女の園の奥御殿と廊下でつながれていた。「備後歴史探訪倶楽部」様のサイトで亭櫓のページでは、化粧櫓という別名から女性陣の生活の場であったかもしれないと推測しておられるが、その可能性は充分にあると私も思う。城によっては、多門櫓の内部を細かく仕切って長局にあてたところもあるし。とすると、鏡櫓もその名称から似たような使われ方をした時期もあったかもしれない。ただ、鏡櫓のすぐ近くにあるのは「伏見御殿」なので、奥御殿の女性が使ったとはちょっと言い難いけど。それから、「亭櫓」という名称ね。物見が一番の目的ではあっても、平和な時代のことだし、その名の通り「亭」として使われた時期もあったかもしれないな~と思った。たぶん、眺望としては月見櫓の方がいいんじゃないかと思うけど、鏡櫓からも下がよく見渡せたようだし、きっと亭櫓からもそれなりの眺めが得られたんじゃなかろうか。あるいは、カッチン(水野勝成)の正室である三村元親の妹や側室(お登久)なんかが亭櫓で「女子会」を開いたかもしれない。(↑そんな想像ばっか)ただ、後期に描かれた絵図では南はじの表向の部分しか御殿が残っていないものもあるし、譜代といえどやはり妻子は江戸住まいだったろうから、化粧櫓が女性陣に使われたとしてもごく初期の時代に限られると思うけど。本丸御殿の中央付近から北側を見たところ↓。 かつては手前の空間に女の園が広がってましたが、今はご覧の通り見事に何もありません。この辺て、発掘されてるのかな?確か、御殿付近からは水野紋の瓦が見つかったなんて何かで読んだ気もするけど。仮に礎石類が残ってなかったとしても、どうせ今は何も使われてない空間なんだし、ど真ん中にあるビミョ~な池も思いきって取っ払って岡山城みたいに全面平面復元してみたらどうかな?名古屋城みたいに、豪勢な御殿を再現してくれなんてゼイタク言わないからさ。にほんブログ村
2013年07月10日

御風呂屋の奥は、ちょっとぽっかりした空間↓。 「福山城本丸御殿指図」なんかではここは何も描かれてないけど、割に広い空間だし書院に面した場所だし、能舞台とか茶室ぐらい置けそうに思うけどね。 その先、現在本丸と呼ばれる敷地の南東隅(図のマル8)にはこれがある↓。 【月見櫓 月見櫓はもと京都伏見城内にあったものを移建したもので、本来は着見櫓の ことである。追手側(南)も入江方面も展望出来る南東隅に築かれ、藩主等の 到着を見極める役割をなしていた。1階南面に石落としがあり、古い建築様式を もっている。明治初年にとりこわされたが、昭和41年秋、天守閣とともに 外観復原されたものである。現在は貸会場として利用されている。】 (福山城博物館リーフレットより)今回の福山城シリーズはいつになく楽しくない記述が続いてるので、読んで下さる方もあまり楽しくないでしょうが、私だって楽しいことばかり書いていたいんです。ので、クレームは福山市にお願いします(←責任転嫁)いやそれは冗談ですが、予想より長くなってるなあ、このシリーズ。「いつものことじゃん」て?へいへい、どーせね・・・さて、この月見櫓。藩主の到着を目ざとく見つけるための着見、というよりは監視のための付見、と一般的に紹介されてるように思う。「新版福山城」による廃城の過程は、まず明治6年に県から民間に払い下げが決まったことから始まる。建造物・樹木などを入札にかけたがなかなか買い手が付かず、値下げして切り売りして少しずつはけていった。天守と伏見櫓が売れ残ったのは「福山城(4)」に書いた通りです。落札と同時に物件を引き上げるという条件だったらしく、モノが売れていくたびに城内は荒廃していくという状況だった。どんどん荒れていく城跡を見て心を痛めた士族や市民は、明治7年9月に本丸とまだ残っていた建物の無償払い下げおよび城地を公園として保存することを申請した。同年10月、伊藤博文により許可がおり、翌年1月、大久保利通から敷地は公園とし、建物は永久保存するよう通達が出された。そこで寄付金を元手に公園の経営に着手し、城跡の一部を改造。天守へは1銭で入れたという。が、すぐに経営難に陥り、荒廃した天守の修理費も工面できず、明治17年県に公園を返納。県営の公園となっても資金不足は相変わらずで、結局城地は荒れていった。明治21年3月、有志により活性化プロジェクトが発足。月見櫓の跡地に「葦陽館」を建てて貸会場とする策を練って、株主263人を集めて建設した、とな。これを見る限りでは、明治8年1月の一蔵どん・・・いえ、大久保利通の通達以後は建物は取り壊されてないはずなので、それ以前に売られていったものかと思った。が、「新版福山城」の月見櫓の項には、『明治12年頃取り壊されており』とある。えええ~・・・保存するために公園化したんじゃないの?「建物は永久保存」という一蔵どんの指令は無視かえ?取り壊された理由はわからないけど、貸会場「葦陽館」がここに建てられたのは、やっぱり展望がよかったからなのかな。「葦陽館」の名称は、福山城の別名「葦陽城」からきてるんでしょうね。 【後世、久松城(福山城の正式名称)のことを雅名で「葦陽城-いようじょう-」と いっているが、「葦」は芦田川、「陽」は水の北を陽と呼びならわしていることから、 瀬戸内海の北にそびえている城という意味で詩人などが呼びなしてはじまった ものだろう。(中略)当時詩人仲間では久松城を葦陽城と呼びならわして いたようである。】 (「新版福山城」より。カッコ内は戦国ジジイが追加)そして、昭和41年、現在のニュー月見櫓が建てられた。リーフレットの解説によると、外観を復原したとあるけど、「備後歴史探訪倶楽部」様のサイトで検証がなされていて(リンクはこちら)、それに従って自分の写真とオリジナル月見櫓の古写真を見比べてみると、確かに窓の位置などは違っている。なので、内部はもちろんのこと、外観もそれっぽい感じに仕上げたもの、と言ってよさそうだな。そもそも私が知る限りでは古写真で月見櫓が鮮明に写ってるものってないので、写真を元に完全外観復元なんて無理な話だもんな~。さて、それではニュー月見櫓の外観を見てみましょう。本瓦葺、総塗籠。垂木の形および柱型・長押形を出す。2階には赤いオシャレな高欄が付く・・・が、古写真では高欄があるようなないような・・・でオリジナルがどうだったのかイマイチわからない。妻壁は木連格子。総じて格の高い造りをしているようだけど、なんかこの木連格子、白塗りしてある・・・漆喰?塗籠の妻壁に木連格子をかぶせるのはアリみたいなんだけど、木連格子そのものを塗るってのは正しい手法なんでしょうか?左側はちょっと木に隠れちゃってるけど、渡櫓を付櫓としていたようなので、それを摸したものと思われる。もちょっと、櫓に近づいてみましょう。 ↑入口。内部は貸会場とはいえ、あくまで櫓としての外観なので、狭い(笑)。でもやっぱり、入口の階段の脇にはこんなものもあって思わず笑いをそそられる↓。 あっ、ちょっと・・・このメーターの右脇に落ちてるのって、瓦の破片みたいなんだけど。瓦好きのわたくしが思わず食いつくアイテムですが、当然オリジナル月見櫓の瓦のハズもなく・・・ついでに中も覗く↓。ツッコミばっかりで何ですが、本来の櫓の窓の格子の間隔はもちょっと狭いと思われます。これじゃ外から見通せちゃう。ガラス越しに見ると中にはちょっと古風な木の階段があり、この辺にはごちゃごちゃとモノが置かれていたようだった。ホントに今も使われてるのかな? 下から見上げたとこ↓。軒丸瓦は水野紋、長押形には釘隠しが付いてオシャレ感アップ。 やっぱり、「月見櫓」という名称からイメージされるものを外観に反映させたって感じだな。別に、オリジナルと違うであろう箇所があるからって、価値がないって言ってるんじゃないですよ。まあ、単に「外観を復原した」よりは「古写真などを元に、おおよその外観を復元した」って正確に表現してくれた方が誤解を招かなくてグッドだとは思うけど。入口付近、南側から下を見たところ↓。 終わりかけの紅葉が半分ほどを占めてますが(笑)、この正面の先の方は大手よりちょっと東側の場所にあたる。現在では木の上に写っている福山駅の建物に遮られちゃってるけど、往時は確かに南側の城下はよく見渡せただろうと思う。で、櫓の南側の面を下から見上げるとこうなります↓。 初重南面は軒唐破風。紅梁には柄が彫られ、水野紋の蟇股付き。 瓦は1回くらいは葺き替えられてるんじゃないかと推測されるので、後期には軒丸瓦は阿部紋あたりになってたんじゃないかと思うけど、蟇股はどうでしょう・・・櫓の蟇股なんてほとんどお飾りだろうし、あまり替える必要もなさそうだから、伏見城からの移築説が正しいのであれば、取り壊されるまでずっと葵紋のままだったかな?オリジナルに蟇股があったなら、の話だけどね。で、2枚上の写真の、建物と石垣の接する部分が上記リンク先の「備後歴史探訪倶楽部」様のページに書かれているでこぼこなままの石垣ね。ホントだ、言われるまで気が付かなかったな~。真ん中部分は出窓型石落とし。が、古写真では確かに軒唐破風になってはいるものの、出窓かはよくわからないし、石落としがあるのかはもっとわからない。それに、どうも窓の数が違うように見える。今度は付櫓の方へ。付櫓の北面↓。 左手前にあるのは 井戸?の再現?ちょっと意図がよくわかりませぬが・・・で、たしか写真正面の土塀の狭間から覗いたとこ↓。 すぐ下は現在二の丸と呼ばれる郭。その先には現代的な景観が広がってますが、現在三の丸と呼ばれる一帯であり、正面にあるピンクの建物が今回の私のお宿。ふふふ、キャッスルビュー、楽しみだなあ にほんブログ村
2013年07月09日

徳川秀忠から拝領したという建造物の中には、能舞台もある。私の手元にある本丸御殿の平面図は福山城博物館企画展「福山城展-城郭と城下町-」の図録に掲載されているものしかないんだけど、とにかく小さくて文字はあまり読めない。ホントは図書館にも寄りたかったんだけど、時間がなくて行かれなかったからなあ・・・図書館だったら、もう少し大きな絵図がゲットできたかもなあ・・・そもそもこの「福山城本丸御殿指図」がいつ描かれたものかの解説も載ってないんだけど、どうも絵図には能舞台っぽいものは見つけられない。ただ、鞆の沼名前神社にある能舞台が、伏見城にあった組立式のものを福山に移し、カッチン(水野勝成)の死後、万治年間(1658~1661)に沼名前神社に寄進されたといわれてるようなので、「福山城本丸御殿指図」はそれ以降に描かれたものなのかもしれないな。でもきっと、寄進される前は城内にあったのだろう。一般的には、能舞台・茶室・風呂屋のリラクゼーション施設は中奥に付随するものなので、おそらく書院の近くにあったものと思われる。ちなみに、カッチンは結構能が好きだったらしい。さて、前回から表向・中奥・奥向とつらつら書いてきましたが、奥向の東側には、近い方から居間・料理間・台所と続く。ここまでで、天守郭を除く現在の本丸の敷地内の南半分を占める。「備陽六郡志」には、台所の庭でカッチンが相撲を見たなんて記述もあり、当時の流行りモノのあれこれをカッチンも愛好していた様子が窺われる。残りの北半分の敷地にも建物群が連なってはいるが、こちらは「女の園」。三村元親の妹でありカッチンの正室であるお珊も、このエリアに住んでいた。大抵の近世城郭では、築城当初は本丸にあった御殿が藩主の住まいであり藩政の中心だったのが、時代が下ると二の丸などにその機能が移されてるようだけど、ここ福山城の本丸御殿も初代・カッチンは住んでたものの、2代・勝俊が当時の二の丸に御殿を築き移ったといわれる。が、前回リンクを貼らせていただいた「備陽史探訪の会」様の『ぶら探訪 その九』の最後のページでこの件について触れられていて、それによると古い文献には3代・勝貞があらたに御殿を建てたとはっきり書いてあるのに、なぜか後の時代に書かれた文献の記述(=2代目が二の丸に御殿を築いた)の方が優勢になっているという。自分で史料を検証した訳ではないので、ここではこれ以上書きませんが、『ぶら探訪 その九』の最後の文章が非常に印象的です。「現在の福山城を楽しみたい」という方はさらりと流していただいて構いませんが、「福山城をきちんと知りたい」と思われる方には非常に参考になる資料だと思います。(「備陽史探訪の会」様の『ぶら探訪 その九』へのリンクは上に貼ってあります。前回の記事と同じリンク先です。)で、上記リンク先には「備陽六郡志」の記述も載っていますが、それによると奥御居間・奥御台所・御居長局は享保15年(1730)に江戸へ移されたとあり、下台所はそれ以前に解体されていたらしい。特別な儀式などでしか使われなくなったので、奥向などは荒廃もしただろうし、実際表向きさえあれば後期には用は足りたのだろう。明治に入って御殿は切り売りされて、ひとつの建物を残して解体された。この時売られていった用材を使って建てたという家が、「新版福山城」発行の時点では残っていたらしい。現在でもそれらの家が残っているのかはわかりませんが。御殿本体についてはここまで。次は、御殿の附属施設であり城内でのひとつの見どころとなっている建物をご紹介しましょう。 この建物は、御殿に足を踏み入れるとすぐ脇に目につくものですが、まず私は こっちに目が釘付けになった(笑)。だってここ寺じゃないし、城内だし~!まさかここでお目にかかれるとはねいや、再開の喜びはともかく。 【湯殿 京都、伏見城内にあった御殿とともに移築した建物で、国宝に指定されていたが、 昭和20年(1945)の戦災により焼失した。昭和41年(1966)に 内外ともに復原したものである。】 (現地解説より。漢数字は戦国ジジイが変換)明治期の本丸御殿の解体の際、ひとつだけ残されたのがこの建物です。 ここにある意匠を見て、復元とはいえこれが伏見城にあったのかあ~と喜んで写真を撮ってました↓。 伏見櫓や鉄の御門では「秀吉の伏見城のハズなかろ?家康の伏見城じゃろ?」とツッコミを入れていたにも関わらず、頭の悪いわたくしはこの紋にたぶらかされて、喜んで写真を撮ってました。さて・・・わたくしのテンションが低いのにお気づきの方もおられると思いますが、この建物も「難あり」です。まず、建物の名称。今回の記事のサブタイトルは「御風呂屋」なのに、解説では「湯殿」とある。福山城の訪城記ではほとんど「御湯殿」と紹介されるし、リーフレットなどの公的な案内でも「御湯殿」と書かれる。が、「福山城本丸御殿指図」では「風呂屋」とあるし、文献では「御風呂屋」と書かれる・・・歴史の好きな皆様ならとうに御存知でしょうが、「風呂」と「湯殿」は違います。「湯殿」は今でいう風呂だけど、「風呂」はサウナにあたるんです。本丸御殿には、別に「湯殿」もちゃんとあります。(「備陽史探訪の会」様の「ぶら探訪 その九」で公開している図面が見やすくておススメです。リンクはこちら) お湯に浸かるというスタイルがいつ頃から定着したのかは定かでないらしく、カッチンの築城当初から「湯殿」があったのかはわからないけど、御殿内に「湯殿」ができてからは、ちゃんと「風呂」と「湯殿」の言葉を使い分けてたことが文献や絵図から窺われます。なので、ここは歴史的には「御風呂屋」が正しいと思われます。現在の福山城跡では「御湯殿」がほとんど固有名詞のようになっちゃってますが、あえて正しい方の名称をサブタイトルとしました。福山城博物館のリーフレットの方では 【京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建物で、 (中略)建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間とに わかれていた。(中略)天守閣とともに外装、内部ともに復原されたものである。 現在は貸会場として利用されている。】との説明で、ばっちり秀吉の伏見城からの移築だとしている。だから、桐紋なんでしょう。きっちり復元した風呂場を、貸会場にね・・・ちなみに、私が行った日はこんなんやってました↓。 催し物のない日は内部見学できるのかは知りません。が、なんか違和感ばかりが増えてゆく・・・ここまでにもどうもスッキリしないことも色々あったしな。それでちょっと調べてみたところ、「備後歴史探訪倶楽部」様のサイトで写真と絵図を使って検証されているページを見つけた。(備後歴史探訪倶楽部「御湯殿の変遷について」へのリンクはこちら)こちらによると、どうやら明治以前にも改修されていたようで、明治に入ってからは一時期料亭(!!)として使用されていたらしく、その時にも改修があったのではないかと推測しておられる。そして、現在の「御湯殿」はその明治の改修後のものとも外観が違っていると・・・厳密には「摸擬」あるいは「復興」と使うべきところでも、私もまとめて「復元」で済ませてることが多いのであまり人の事は言えないんだけど、「内外ともに復原しました」とあれば、たいていの人は「昔あった建物を、内部も外観もそっくり再現したんだな」って思うんじゃないかな。まあ、内部は自分の目で見てないから何とも言えない部分もあるけど、上記リンク先の記事では内部を覗いてがっかりしたと言っておられる。「なんで全然違うものなんか造ったんだよ~!」なんて言うつもりはもちろんない。史跡に対する考え方も当時と今では違うだろうし、その他現実的な諸問題なんかも色々あっただろう。でも、違うなら違うって言えばいいのに。なんでわざわざ「内外ともに」まで言っちゃう?これは本当にがっかりでした。昔のままの建物じゃないからって訳ではなく、ありのままのことを伝えてくれないことが。その場でそう言ってくれれば、こちらもそのつもりで見るのに、後から知るとガッカリ感も倍増ってゆーか・・・・・ガッカリな事ばっかり書いてもこちらも気が滅入るので(笑)、最後に南側下段から見た御風呂屋をご紹介しましょう↓。 こうやってガケなどにムリムリに造るのを「懸造」(かけづくり)といいます。日本一有名な懸造は、そりゃ清水の舞台でしょう。ああ、コワイ・・・なんでこんなとこに造るんだろ?(←高所恐怖症)ちなみに、ホントの風呂場部分はちゃんと地上にあって、その隣の「御物見の段」とよばれる3段の座敷部分のいちばん南側が飛び出てるようです。この飛び出た「上段の間」は、サウナで汗をかいた後に眼下の眺望を楽しみながら涼んだといわれてるようですが・・・こんなとこで涼んでたら危ないよ、カッチン!!にほんブログ村
2013年07月07日

渡櫓を後に、本丸の敷地内へ踏み出す。かつてはこの一体にで~んと本丸御殿が・・・アレ?なんだコレ・・・ あ、これ側溝だ。これってもしかして・・・碑の立つ場所へ行ったら、こうなってた↓。 「伏見御殿跡」と刻まれた碑の奥には、柵で囲って本丸御殿の間取りを再現した空間が広がってた。この碑のある場所はかつての表玄関にあたる。「あそべる!!!」岡山城中の段でのチョ~楽しかった記憶が即座に蘇り、嬉々として土足で御殿内へ踏み出したのは言うまでもありませぬ・・・ 式台から上がるとすぐ広間。が、藩士はここからではなく、このすぐ北側にある内玄関から入っただろう。といっても、本丸の御殿が政庁として使用されたのは初期の頃に限られ、次代あたりからは幕府の使者を迎えるなど特別な場合にのみ使われたようなんだけどね。玄関口は筋鉄御門を入ってすぐの場所にあるので、現在「本丸」と呼ばれる区画の中では南に位置することになる。「君主は南面する」という中国の思想の影響により、御殿は南向きに建てるのが望ましいとされていたので、その原則に則ったものと思われる。「備陽六郡志」によると、式台の上の鴨居には極彩色の虎と牡丹の彫り物があったそうで、「虎の間」と呼んだとある。が、別にこれは福山城に限ったことではなく、玄関の俗称は「虎の間」と言われるくらいに虎の障壁画などがあちこちの御殿の入口を飾っていたものなんだそうな。 ↑広間には礎石も残っている。福山城博物館企画展「福山城展-城郭と城下町-」の図録には、「福山城本丸御殿指図」という御殿の平面図が載ってるんだけど、小さいので見にくい・・・が、この最初の部屋は南北は4~5間、東西は3間の広さと思われる。ちょっと、この芝生ジャマなんだけど。礎石が残ってるんならそれで充分なんだから、芝生いらないべ?ここのエリアはこの広間が1つだけではなくいくつかの部屋があり、いわゆる表向にあたる場所と思われる。 ↑これは恐らく当初はなかったように思われるけど、ちょうどこの辺の場所、広間と奥の書院をつなぐあたりは坪庭になってたようだから、あるいはカッチン(水野勝成)も、これとは別の、水の張った小さな池を眺めたかもしれない。あ、カッチンは隠居するまで本丸御殿に住んでたようなんですよ。奥向の方にも庭園はあったようだけど、「新版福山城」には『泉石は勝成時代、紀州や伊予の青石を選んで築庭したもので、名石も多かったが、各家に散在してしまった』とある。ので、上の写真の生垣の裏っかわはこんな風になってたんだけど↓、 かつて本丸に華を添えた名石はこの中には含まれてないことになる。その先が表向から東に位置し、廊下でつながれた一角、書院エリアになるのかなあ・・・↓。書院だから、おそらく藩主が日常の政務にあたる場所で、中奥に相当するエリアと思われる。 書院は「皇帝の間」と呼ばれた。これは古代中国の理想的皇帝とされる堯・舜・禹の三帝や、同じく古代の周の文王(姫昌)・武王(姫発)を描いた襖絵が飾られていたことによるものらしい。そして「新版福山城」には、『かつて後陽成天皇を聚楽第に迎えた御便殿(ごべんでん。貴人が休む仮御殿)の跡と伝えられていた』とある・・・はひ!?じゅじゅじゅらく・・・?一体何を元にこう伝えられてたのかさっぱり意味がわからなかったんだけど、秀吉が伏見の隠居屋敷を指月山の伏見城へと改修している最中に豊臣秀次の事件が起こり、聚楽第にあった建物の多くが伏見城へ移築されたといわれているので、昔は「聚楽第⇒指月山伏見城⇒福山城本丸書院」という伝説が囁かれていたものと思われる。 ↑側溝跡なんかは結構しっかり残ってる・・・が、御殿入口で最高レベルまで上がってたテンションは、御殿内を歩くうち段々下がってきた。だって囲いがしてあるし、芝生があるし、これって中に入っちゃダメってことでしょ?それに、間取りは大ざっぱに復元されてるようだけど、何の説明もない。比べちゃいけないと思うけど、岡山城の表書院なんてぴっちり平面復元してあって、部屋には名札がついてたし、御殿の平面図も看板に載ってたし、とにかく見学しやすかった。私もあんなのがあるなんて現地に行くまで全然知らなかったけど、何の知識もなくても資料も持ってなくても、その場で充分すぎるほど楽しめたもの。 御殿の平面復元だけでなく、他の遺構の展示とかも説明もしっかりしてたし細やかな配慮が各所になされていて、岡山城をちゃんと知りたいと思ってる人間にも満足のいくものだった。そりゃ、評価は個人差あるものだけど、でも管理者のセンスと熱意を感じられる展示内容だった。 福山城は、御殿の間取りを再現しようとした着眼点はすごくいい。でも、礎石や側溝が残ってるんなら、芝生も柵もいらない。「新版福山城」によると、明治に入って御殿が撤去された後は城のあちこちに民家が建てられ、クジャク園・鹿園・小動物園なんかもあったそうで、明治期以降に描かれたと思われるいくつかの絵図では本丸御殿付近は大きな池のある庭園風になっていて、オリのようなものが描かれてる絵もあるので、一時はこの辺りにクジャクさんでもいたかもしれない。それが、昭和39年に国の史跡指定を受けるにあたって、それらの物は移転され、御殿跡を発掘して礎石を掘り起こしたとある。その際に、たぶん芝と柵のレイアウトにした方がわかりやすいと思って今のようなスタイルに整備をしてくれたんでしょうけど、人様の訪城記を見ると建物のない御殿跡に興味を持つ人って一般のお城ファンの中にはあまりいなさそうだから、柵で間取りを表示したところであまり効果はないような気がする。お城ファンが見ないものなら、一般の観光客はなおさら見ないだろう。であれば、芝生をはいで礎石を綺麗に露出させて御殿の間取図の看板でも建てておく方がいいんじゃないかと思った。興味のある人は、シンプルな方が楽しめるんじゃないのかな。本シリーズ、なにげに福山市の整備事業について批判的な意見が続いてますが、おしい!!って感じなんだよな~。悪くはないんだけど、おしいのだ。 せっかくカッチンが残してくれたお宝なんだから、観光客ばかり狙うんじゃなく、もう一段深い展示を考えてほしい。他にもそういう場所があるから、全体を通してつい批判的になっちゃうんだよねでも、素材は良いものを持ってるんだから、ちょっと考え方とやり方を変えるだけでいい展示ができるはずだという期待をこめて個人的意見を述べさせていただきました。さて、書院から北側のエリアは奥向にあたる「御殿」。この殿舎が、伏見城から移築してきたといわれているものです。本丸御殿全体の間取りは、「備陽史探訪の会」様のサイトで見やすい平面図が公開されてますので、そちらもあわせてご覧ください。(リンクはこちら) 福山城博物館企画展「福山城展-城郭と城下町-」の図録には、 【伏見御殿は伏見城から移建された建造物である。(中略)八間と八間半の殿舎と 上段、次の間、納戸の間が広がり、格天井には秋野の七草が狩野永徳や山楽の筆で 描かれていた。屋根は桧皮葺で棟は箱棟になり、葵の紋所が付いていた。】とある。うん、建築様式からいうと格のある御殿だったみたいね。しかし、「箱棟」ってナニ!?初めて聞く言葉だったので、ちょっと調べてみた。あんまり詳しいことはわからないんだけど、元は茅葺き屋根で最上部の大棟の部分の始末をつけるために箱型で大棟を囲ったもののことを言ったみたいで、桧皮葺でも箱棟とすることがあるらしい。箱棟の写真を見てたら、東西条編で頭崎城を下山した後に見た民家を思い出した↓。 この当時は、屋根からぽこんと突き出したものはみんな煙出(けむだし)だと思ってたので(笑)、記事にもそう書いたけど、あらためて見てみたらこれが箱棟だったらしい。アハハハ・・・だって知らなかったんだも~んしかし、福山城内に桧皮葺の建物があったとは興味深い。「伏見城からの移築」といわれるものが全部ホントかは少し疑わしい感もあるものの、御殿内で奥向だけが桧皮ってのもちょっと不思議な感じがする。いや、他の建物の屋根がどうだったかは書かれてないんだけど、拝領した殿舎を中心に建て増ししたっていうから、建て増し部分は瓦葺だろうと推測しただけ。あくまで個人的な想像だけど、カッチンによる元和年間の新築であれば、やっぱり奥向も瓦葺にしたんじゃないかと思うんだよね~。となると、「伏見御殿」と呼ばれるこの奥向が伏見城からの移築だとする説に特段の無理はないよな~と私は思った。にほんブログ村
2013年07月06日

それから、確かこれは筋鉄御門の真下から天井を写した写真↓。 チョ~個人的な見解で非常に申し訳ないとは思うのですが、今回の旅において、公的機関の提供する歴史・史跡情報というのは私は得るところが少なかった。そのかわり、郷土史を研究する「備陽史探訪の会」およびその会員様が惜しみなくネットなどで情報を提供してくれていたので、これはホントにありがたかったし、色々な面でお世話になった。で、「備陽史探訪の会」で筋鉄御門の内部の見学会をしたことがあったそうで、その時の様子もネットで公開されていた(筋鉄御門の内部は通常は非公開)。それによると、櫓部分の床板は薄い板敷1枚・・・一度に大勢の人が乗ると危険なため、公開されないようだとある。ええええ~・・・・・当初からそういう仕様だったのかはわからないけど、つまりそれって、せっかくの櫓門だとゆーのに耐荷重の関係で正面からの攻撃はあんまりできないってこと?まあ、筋鉄御門と伏見櫓は多門櫓で連結されていたようだけど、具足付ければ1人あたりの重量は増えるし、清州城で短い火縄銃を持った時ってすごく重かったから、そういうアイテムの重量を差し引くと櫓に入れる人数はさらに減るし・・・肝心の櫓門に人があまり入れないようじゃ攻撃は側面(多門)と背後(伏見櫓)に頼るようになるってこと?オイオイ・・・見かけは立派だけど、構造的に扉の強度も怪しいし、本丸の正門がそんなんで大丈夫なのかあ~?と前回に引き続きツッコミが止まりませんさて・・・筋鉄御門で重要なファクターといえば、「伏見城からの移築」。徳川秀忠にもらったといわれる建造物の中には、鉄の門は確かに書かれてます。が、私が知る限り古文書の中での記載は「鉄御門」または「鉄門」。「筋鉄御門」という名称はない。けど、現時点での公的な説明としては筋鉄御門が拝領の品だと説明される。ただね、「鉄御門」は追手門の中の門として筋鉄御門とは別にちゃんとあるんだよね。 今回、福山城博物館で買った資料の中に「新版福山城」という小冊子があって、129ページの中に福山城の歴史などがぎっちり詰まっている本なので、福山城シリーズを書くにあたって大変参考にさせていただいてるんだけど、その中では筋鉄御門のことを「伏見城からの移建と伝えている」とあるのに、鉄御門の項では「伏見城から拝領した楼門」とある。どっちの門なんじゃい・・・とツッコミを入れたくなるが、鉄御門の方では 【伏見城移建はこの城門で、現存の筋鉄御門は元和創建であるとする説も出ている。】と補足がある。どちらが正しいのかはわからないけど、筋鉄御門は明治29年に大修理、昭和26年からは解体修理が行われているのに、伏見城からの移築を示す棟札や墨書などは見つかっていないらしい。ま、元和年間なら築城当初からあった訳だし、伏見城からの移築じゃないからといってこの立派な櫓門の価値が落ちる訳じゃないけどね。上で紹介した、筋鉄御門の内部を見学した方の話によると、結構古材も使われていたとのこと。福山城の石垣は神辺城から持ってきた石材も多く含まれてるようだから、神辺城ほかからの木材の転用も当然あるだろうし、個人的にはカッチン(水野勝成)が造った門のような気もするな~。ただ、その場合でも棟札がないのが気になるところだけど。んじゃ、外観の続き。石垣との接続部分↓。 マルで囲ったのは乳金具(ちちかなぐ)といい、扉に打ち付けた金具を受ける金具の出っ張りを隠すもの。この写真にはペットボトルは置いてないけど、かなり巨乳だから扉は相当重そうだな~と思った。筋状であっても、鉄張りだからね。 ↑上層の渡櫓部分の床は門よりも少し前面に張り出し、風雨よけとする。で、この飛び出た部分が石落としの役目も持つらしいんだけど・・・これ、床張ってる?(笑)部分的に外せるようになってたりするのかな?控柱とかんぬき↓。結構扉、薄い?至近距離で抱え大筒とか使った場合、どの程度までこれで耐えられるものなんだろう。 反対の扉の裏には、外された古い脇戸らしいものがあった↓。 この扉の裏っちょは狭かったんだけど、でも刻印付きの石があった アラ?ちょっと、この辺の石ってば、はつってる? 「はつり」ってのは、石の表面にノミを点々と打ちつけて、表面を綺麗に仕上げたものをいいます。狭かったけど、もぐってよかったカモ・・・出ようとした時、人の気配がした。まさかこんなとこに人がもぐってるなんて思わないでしょうから、驚かせちゃいかんな~と思って咳払いをして存在をアピールしてから出たのに、やっぱり外にいたお兄さんに驚かれた(笑)。いちおう、気を遣ったんだけど・・・門の真下から内部を見たとこ↓。大きい門でしょお~。 これを抜けるといよいよ本丸。遠くに天守が見える↓。 本丸側から筋鉄御門を見たところ↓。 柱形・長押形を出し、屋根にはシャチを載せて格を高める。軒丸瓦は、ここも沢瀉(おもだか)。瓦は葺き替えられてる可能性が高いから、当初からこの姿だったのかはわからない。筋鉄御門のすぐ外、右手はこうなっている↓。(縄張図では水色の場所) ここはかつて筋鉄御門に連結する渡櫓があった場所で、番所が置かれていたともいう。今あるのは、それを摸して復元したものと思われる。ご覧の通り、壁しかないし(笑)。ここからは、下の南側帯郭がよく見える↓。 ちょっと木がジャマだけど、位置的にかつてはこの正面に櫛形櫓・鑓櫓・鉄砲櫓が団子三兄弟のように見えてたはずだし、 ↑この写真の左下奥には鉄御門と、内堀を挟んでさらに南にある追手門あたりがよく見えただろうと思われる。縄張図と見比べながらかつての外観を妄想しつつ、福山城の大きさを感じてみてください。しばらく下を眺めた後で次へ行こうと身体の向きを変えたら、なんかすごい光景が目に入った↓。 うおっ、なんだこの木・・・真横から見たらこんなんなってた↓。 幹が結構太いから、この場所から建物が撤去されて久しいのかとも思ったが、障害物がなければおそらくこの松は真っ直ぐ空に向かって伸びてたハズ・・・一体いつから生えてた松なんだろう。正直言って、福山市の史跡整備やその他歴史関連の姿勢については現時点では私はあまり好きじゃないんだけど、復元にあたってこんな邪魔っけな場所にある松を大事に残したことは賞賛に値する(←ちょっと大げさ)。にほんブログ村
2013年07月04日

伏見櫓からは3方向へ進むことができる。 まずは本丸に行って博物館と周辺の遺構をとっとと見に行くべきなんだけど・・・すぐにはここを去りがたかった。なんでか?伏見櫓の真下から来た道を振り返ると、こうなっている↓。 この地形と舞台装置、遊びたくなるでしょ~!?え?なんない?(笑)で、自然と脳内シミュレーションが始まって遊びだしたら、ちょうど本丸から女性の観光客が数人降りてきた。よしっ!このまま降りてくれれば、いいカモだぜと心の中で歓喜しつつ、紅葉などを撮ってるフリをして土塀に近づいてチャンスを待った。土塀の向こうでは、カモ・・・いへ、女性陣が階段を降りていく音がした。よっしゃあああ~!!とすかさず狭間にカメラを突っ込んで黄緑の矢印の方向へ覗いたとこ↓。 ほっほっ、丸見え~ここの土塀は復元だと思うけど、ちゃんと狭間から侵入者を捉えられるように造ってあるじゃないか。ここの土塀は、階段に沿ってコの字になっている↓。 ターゲットが降りていって狭間から見えなくなったので、図の水色の矢印の位置の狭間へ移動して追撃を試みた↓。 お~っ!よく見えるわ!!近世城郭、楽しいなあただ、水色部分の狭間はえらい低い位置に取り付けてある↓。縦長のって一般的に矢狭間って言われるけど、この低さじゃ矢は使えない。丸い銃眼にしても、ちょっと低すぎない?でも、座って銃を構えて低いところを狙う分にはこれでいいのか・・・ さて、観光客の方々が(本人の預かり知らぬところで)友情出演してくれてシミュレーションにも満足したところで、本丸へ。 左が伏見櫓、右が本丸への入口・筋鉄御門(すじがねごもん)。この道は少し坂になっていて、ここからは伏見櫓の東面が間近に見える。 この面、狭間がある・・・他の面にはないのに。伏見城からの移築が正しいとしたら、伏見櫓の位置の重要性からして福山に引っ越してきてから東面にだけ狭間を開けたのかもな。伏見櫓は南北の長さは短いからご覧の通り窓1コしかないし、窓1コじゃあんまり防御の役に立ちそうにないもんね。柱形(はしらがた)や長押形を見せるのは南面とは同じだけど、柱を直接出す北面とはデザインが違っている。伏見城からの移築の伝承を持つ建築物についてのとある論文を読んだんだけど、どうもそれによると福山城の研究ってそんなに進んでないらしい。大ざっぱな流れとしては、築城よりかなり後になってから書かれた古い文献をもとに、明治に郷土史家が研究成果をまとめた後は、さしたる検証もなされないまま明治期の研究成果がそのまま定説になってたようなんだよね。前回、伏見櫓はどの伏見城の櫓だったのか書いたけど、福山城伏見櫓の通説の知識を持たず、かつ「伏見城」の変遷を知ってる歴史ファンに「どの伏見城から来たと思いますか?」って聞けば、たぶん大体の人が私と同じく「そりゃ、家康の木幡山伏見城でしょ?」って答えるんじゃないかと思うんだよね。でも、福山城伏見櫓については「秀吉の伏見城から移築された」というのが長い間の定説だったらしい・・・なんでそーなるのか理解に苦しむところだけど、しっかりした再検証や考証が長い間されてこなかったのなら、それも致し方のないことだといえる。で、伏見櫓北面のデザインが他の面と違うことは、昨日の記事を書く中で初めて気が付いたことだった。しかも、柱を見せて長押を見せないってなんか工法が中途半端みたいだし・・・福山城へはそれなりの人が訪れてるんだから、この違いに誰1人気付いてないなんてことはないハズだけど、そもそも一般の城好きの中で城郭建築の知識を持ってる人ってかなり少ないから、この点について触れてるお城ファンは私は見たことない。専門家の論文の中にならあるかもしれないけどね。福山城には結構古写真や絵図が残っているので、他の建物の外観なんかと比較してもみたけど、写りが鮮明でない部分も多いし、絵図などから判明した他の建物の外観の中には、ちょっと城郭建築の原則にあてはまらないものもあった。これを私の言葉で表現すれば、「へんちくりん」。伏見櫓も、考えれば考えるほどへんちくりんな建物に思えてきて、「ホントにこれ、伏見城からの移築かな~」と疑わしくなってきたそれに、伏見櫓の鬼板はこれだった↓。 下の方が見えないから確実じゃないけど、たぶんこれ、沢瀉(おもだか)だよな・・・伏見城の遺構であれば、ここは葵紋でも付いてそうな気がするけどね。なぜ沢瀉(水野家の紋)なのか。移築の際に遠慮して水野紋に改めた可能性ももちろんあるけど、同じく伏見城から拝領したという本丸御殿には葵の紋が付いていたという。長い歴史の中では当然瓦の葺き替えも必要だから、当初の葵紋が外されたってのはいいとして、家康の伏見城が建てられてからそんなに年数が経ってないうちに拝領したんだから、水野時代には葺き替えの必要はまだなかった気がするんだけど。やるとしたら、阿部時代だよな。現在の福山城内には土塀なども含め再建された建造物の方が多いけど、水野紋が圧倒的に多い。水野氏より阿部氏の統治期間の方が長かったにも関わらず。どこかでどなたかが、「水野紋を意図的に配置しているようだ」てなことを言っておられたんだけど、私もそう思う。「築城したのは水野氏だから、当初の姿を再現したい」という思いがあるのかもしれないけど、どうも福山城では見たまんまをそのまま信じてはいけない気がする。あ、別に福山市の文化事業がうさんくさいとかって言ってる訳じゃないですよ。明治以前にも修復とか改修は行われてるだろうから、誰が悪いとかって話じゃないんだけど、総合的に考えて、少し自分の頭でも考えながら見た方がよさそうだな~って思っただけ。さて、なぜだらだらと個人的な疑問を書き出したのかというと、これからご紹介する筋鉄御門もどうにも何ともな面があるからです。まずは、外観↓。 【筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付櫓門で、伏見櫓と 同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を 打ち、扉にも12筋の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、堅固な造りとなっている。】 (現地解説板より)昭和8年、伏見櫓と同時に国宝指定(現在は重要文化財)。扉と柱の筋鉄とはこれです↓。 脇の小門にも筋鉄↓。鏡柱の前のペットボトルは、大きさ比較のためにわたくしが置いたものです。 立派な門には違いないのですが、どうもいくつか納得いかない部分がある。まず、扉↓。 扉の構造については今回は省略しますが、長い柄のついた金具を扉板に打ち付けて鏡柱にぶら下げるようになっているものなので、金具と扉を補強するために扉の表面に打ち付けるのが八双(はっそう)。だから、扉の構造を考えれば八双はグリーンの点々の位置にあってしかるべきなのに、なぜか扉の下にある。実はわたくし、扉の裏っかわにもぐり込んで写真を撮ってまして裏の補強部分はこうでした↓。 う~ん・・・いちおう、裏は補強してあるワケね。(てか、補強しないと早晩扉が落下するし)じゃあ、表側の補強は一体どうしてるんじゃい・・・他の城門の扉の写真を見ると、八双のない扉もある。八双が全く見えないのであれば、表面に薄い板とか外張りの金属製の板でも貼ってるのかもしれないから、それはそれでいい。が、ここは一体なんのためにこの位置に取り付けたのかわからない場所に八双がある。なんなんだ、これは・・・私程度の知識じゃ、これは解決できない。万が一、見た目通りに八双がないんだとしたら、いくら扉の全面に筋鉄を打ちつけたところで、実は筋鉄御門の扉の強度って大したことないんじゃないかとさえ思えてくる。まあ、表側の補強が全くないハズは(たぶん)ないんだけど・・・にほんブログ村
2013年07月03日

お待たせしました、ここから建造物の登場で~す。二の丸南側石垣に沿った登り道、この辺はかつて「だらだら坂」と呼ばれていたらしいですが、上がりきって道なりに右に曲がると、ど~んと・・・ これはインパクトありますね~。なんたって、現存櫓だからね。 【伏見櫓(重要文化財) 三階の隅櫓、本瓦葺。伏見城「松ノ丸ノ東やぐら」(梁の陰刻による)にあったものを 元和8年(1622)水野勝成の福山築城に当たって、将軍秀忠が移建させた ものである。伏見城の城郭建築の遺構としては稀有のもので、白壁三重の 豪華な姿に桃山時代の気風がうかがわれる。】 (リーフレット「福山城博物館」より)え~・・・福山城についてはあっさり進むかと思ってましたが、結構現地で資料を買い込んでたので、それらを読んでたらやはり色々書きたくなってきました(笑)。という訳で、伏見櫓だけで書くことがいっぱいあります。まず、この櫓は現存です。昭和20年の空襲の際、天守は焼失しましたがこの伏見櫓とすぐ向かいにある筋鉄御門は難を逃れました。で、伏見櫓南面の石垣↓。 ずいぶんと色が違うものだな・・・最初、空襲で焼けたから上部だけ補修したのかと思った。でも、櫓本体が残ってるんだから石垣の上部だけ焼けるハズがない。じゃあ何でこんなに色が違うのかと思ったら、下の黒っぽいのって大部分はカビなんだってね。石垣の上に建物がある場合、石垣上部は建物で雨がかからない(から白い)けど、下の部分は雨ざらしだからカビが生えやすいんだと。まずは、外観から。 三層三重、総塗籠本瓦葺。下(南側)から見るとスタイルがわかりにくいけど、本丸の北側から見るとこうなる↓。 望楼型じゃん!!て建物と同じ高さから見て初めて気づく。柱や長押(なげし)の形を見せ、垂木は正工法。東西に平ぺったく、特に下から見上げるとヘタな天守よりずっしりとデカい。初重は柱を見せる真壁造り・・・と思ったけど、なんか違うなあ。天守の場合、最上階こそ真壁造りにするものらしいけど、ここの3重は何もないのっぺらぼう。妻壁には飾りも何もない。遠目に見ると白亜の総塗籠ですごくカッコイイ建物に見えるけど、意匠としてはやはり櫓レベルといったところ?それに、初重は北面と南面で外観が違う。本来、柱を見せる方が格が高いから、入口のある正面部分だけちょっとハクを付けてるのだろーか・・・あと、軒を支える方杖(ほうずえ)がやけに目につく(ピンクの矢印の短い柱)↓。が、これは後世の補強によるものではないかと考えられているそうな。 まあ、なんであれ石垣も櫓もかなり立派なものです。残念ながら、通常は非公開。が、内部を写した写真を見ると、華麗な外観に比べ内部はやはり間取りや特別な造作もなく、やっぱ櫓~といったシンプルなもの。福山城においては、この櫓は武具倉庫として用いられていたようです。 二の丸南側石垣の下の解説にあったように、水野氏が福山城主を務めるのは5代。カッチン(水野勝成)から5代目の勝岑(かつみね)は生まれたその年に4代目である父の逝去に伴い、生後6カ月にして家督を相続。1歳2カ月で将軍に拝謁するため江戸に向かい、1ヵ月の長旅の間に病にかかり、5月4日にどうにか将軍に拝謁はできたものの、その翌日に死亡。もう拝謁ってか、「ウチの赤ちゃん見せに来ました~」ってカンジだもんね。かわいそすぎる当然嗣子はおらんので、水野家は断絶となった。お家断絶となれば、城を明け渡さなければならない。知らせを受けた福山城下では、藩士は籠城を叫び、領民までが押し寄せて幕府への抗議を求めた。騒然とする中を、家老や目付が必死になってこれを抑え、どうにか無血開城までこぎつけた。明け渡しの時点で、倉庫としての伏見櫓に収められていたものは ・足軽具足150領、網代笠52。いずれも黒塗りで胴には丸に沢瀉、陣笠には 裏永楽銭の水野家の家紋入り。 ・鉄砲100挺、玉箱10荷、火縄箱10荷 ・弓100挺、空穂(うつぼ)100腰。空穂は沢瀉紋入りの但馬塗。 ・火矢2挺(500目筒+1,200目筒各1)だったそうな。平和な時代に入ってからの城でも、これだけの武具を備えてたんだね。この他に、前回紹介した櫛形櫓・鑓櫓・鉄砲櫓にもそれぞれ備え付けの武器があったでしょうしね。さて、伏見櫓の由来ですが、解説の通り伏見城からの移築とされます。伏見城って言っても、ご存知の通り伏見城は1つじゃないけどね。最初の秀吉の隠居屋敷および指月山伏見城は倒壊してるからもちろん違うし、その後の木幡山伏見城は関ヶ原前哨戦の伏見城の戦いで炎上してるだろうしね。まあ、伏見城の戦いで討死した兵の血痕が残るといういわゆる「血天井」は三十三間堂そばの養源院に現存してて、養源院のお兄ちゃんが棒で指しながら「これが鳥居元忠の血痕です」って説明までしてくれたけどね。血天井が残ってることを理由に、木幡山伏見城のすべてが焼失した訳ではないとしている方もおられるらしいけど、実のところあれが血痕だって証明された訳じゃないみたいだね。状況からいって、私はほとんど燃えただろうと思ってはいるけど、仮に燃えなかった建物があったところで、同じ木幡山に伏見城を再建した時、家康なら綺麗に破壊してるだろうと思うんだよね。ので、当然「家康の木幡山伏見城」だよな~と思っていたら、結構最近まで「秀吉の伏見城」という解説がなされていたらしい。これはオドロキだったね。で、福山城の築城にあたって幕府から絵図面割師と石垣奉行の派遣があったと前回書きましたが、棟札から京の大工が天守の造営に関わっていたことがわかっていて、あるいはこれも幕府による派遣の可能性もあると見ている方もおられる。幕府の協力は人材面だけにとどまらない。次は経済面。小判12,600両、銀子380貫目の貸借を許可した。城が完成するまでの間は、カッチンの参勤交代の江戸詰は免除され、西国から幕府へ納められた年貢を鞆で受け取らせ、普請の助けとさせているそうな。そして物資面。カッチンが備後に入封した元和5年(1619)はちょうど家康の伏見城を廃城とする決定がなされた年だった。ので、徳川秀忠は伏見城内の建造物などをカッチンに下賜することにした。秀忠からもらった建物がこちら↓。 大きな円は、本丸御殿です。この他に、追手御門・多聞・廻塀180間・橋3基・能舞台とかなりの大判振る舞いだった様子。が、これらのほとんどは現在では失われている。元禄6年の初めに取りかかった基礎の土木工事は、早くも年末にはほぼ完成した。12月に普請が成った報告書が幕府に出され、あわせて秀忠へお礼言上したようで、秀忠は黒印入りの返状を土井利勝に持たせている。その後すぐ建築に取りかかり、元和8年8月28日、カッチン自ら秀忠に拝謁の上、築城が完成したことを報告。秀忠からは酒肴のもてなしを受け、什宝の茶碗を下賜されたほか、同行した重臣にも金子と時服を賜るなど、築城イベントは幕府の協力のもと、円満に終了した。明治初期の廃城の過程はどこも胸が痛い話ばかりだけど、福山城も廃城は免れなかった。他の城と同じように競売にかけられたが、なかなか買い手がつかず、小分けして値下げしてようやくちょぼちょぼ売れていくという状況だったらしい。ところが、天守や伏見櫓は解体などにも費用や手間がかかるので、叩き売りのような値段になってさえ最後まで買い手が付かなかった。何が幸いするかわからないもので、誰も買わなかったおかげで伏見櫓は残った。福山城跡を公園化して保存への道筋ができるまでは、実に様々な変遷があったらしい。その間、売れ残った天守などの荒廃は進み、この状態を憂えた福山町会が明治28年に保存会を結成。寄付金をもって、天守や伏見櫓の修復がなされた。昭和8年、伏見櫓を含む建造物3棟が国宝に指定(現在は重要文化財)。それまでは、伏見櫓が伏見城の遺構であるということは古文書などにしか書かれていなかったものが、昭和28年の解体修理の際、「松ノ丸ノ東やぐら」と梁に彫られたものが発見され、伝承が本物であることがようやく確かめられたんだそうな。・・・写真で見ると、結構梁の目立つ場所にデカデカと書いてあるように見えるんだけどね(笑)。高い場所とかにあって、見えなかったのかな。まあ、長い歴史の中でもほとんど使われなかった櫓だしね。「伏見城の遺構」といわれるものはやたらあるけど、伏見櫓については伏見城からの移築であることが確実視されている。にほんブログ村
2013年07月02日

ヨシ、今回こそ城内まで行くぞ(←あくまで目標) 上の図で「?」の付近↓。 石垣の下にはこんなものがあった↓。 なんすか、これ。井戸?かつての福山城内には、本丸には4ヶ所、二の丸に3ヶ所、三の丸に2ヶ所井戸があったといわれる。このうち、今日では「現存する唯一の井戸」と紹介される井戸は本丸に1つあるのみ。「備陽六郡志」には、 一、井 鉄門升形之内ニ壱ヵ所 御台所脇ニ壱ヵ所と記載がある。この場所はマル2の鉄門の内側ではある。写真の石組は全然違うものかもしれないけど、縄張図の黄色のエリアにはかつて井戸が確かにあったらしい。 やっぱ、石垣はいいなあ~ここから先は、階段を上がる。上から見下ろしたところ↓。 備後と備中の一部を与えられたカッチン(水野勝成)は鞆から上陸し、まずはここから少し離れた場所にある神辺城に入った。神辺城も歴史のある城だし、カッチンの前に国主だった福島正則は家老の福島正澄を神辺城に入れた。古い山城である神辺城は、福島時代になって近世城郭にリニューアルしたと思われるが、元和元年(1615)の一国一城令によって城郭の主だった部分は破却されたともいう話もある。が、福山城内には神辺城からの移築とされる櫓が複数あるので、入封した時にはすでに城としての機能を果たさなかったから福山城を新たに築いたという説はどうなんだろう?という疑問が残る。神辺城を拠点としなかった理由については、他にも落城の経験を持つ城だったからカッチンがイヤがったという説もある。まあ、水野勝成という人を考えた時に、落城経験があったからって有効だと認めればそのまま神辺城を拠点としたと私は思うけどね。それよりは、やはり築城の時期が問題だと思う。神辺城全盛の頃は、当時山側を通っていた山陽道にも近く、確かに交通の要衝だった。しかし、カッチンの備後入封は元和年間。「元和偃武」(げんなえんぶ)という言葉が指すように、戦いの時代は終わった。各戦国大名はみな山を降りて平城、あるいは平山城に移って久しく、領国の発展にファイトを燃やすカッチンがバリバリの戦国気風を残す神辺城に本拠を置かなかったのは当然の流れといえるのではなかろうか。神辺の地を選ばないとすると、他に使えるような城もないし、新たに自分の城と町を造り上げなければならない。着任したカッチンは、領内の巡視から始めた。これには城地の選定の意味合いも含まれており、その結果、品治郡桜山・沼隈郡蓑島・深津郡野上村常興寺山の3ヶ所が候補に上がった。そして、常興寺山という小山・・・現在の場所に決定した。その当時、城下の部分は芦田川の河口に広がる干潟であり、築城とあわせて埋立も行われた。埋立工事は後の時代にも引き継がれ、段階的に陸地部分が増えていった。このあたり、ミワラと似てるよね。ミワラを小早川隆景が造り上げたように、福山はカッチンが手掛けて繁栄させた町だった。まあ、干拓とひとくちに言っても簡単じゃないし、カッチンが隠居した頃の正保年間にも大規模な干拓が行われた。この時の工事は難航したようで、たびたび堤防が切れたりした。ある時、工事を巡視に来たカッチンに地元の庄屋が「塩崎大明神様にご祈願されてはいかがでしょう?」と進言し、カッチンは素直に祈願に出向いた。その後工事は順調に進み、「千間土手」といわれる堤防が完成した。カッチンは大明神に感謝し、あらたに社殿を建て、所領を寄進したという。治水工事ってのはどこでも似たようなエピソードがつきものだけど、実際大変な工事だったんでしょうね。人の力だけでやる訳だから。常興寺山を選んだことについて、福山城博物館企画展「福山城展-城郭と城下町-」の図録では、 【芦田川の川口を押えた要害の地で、北に丘陵を背にして神辺平野を控え、 南は内海に臨み、外港としての鞆とも交通の便がよく、備後の中心地としては 最適の場所であった。】と絶賛する。もちろん、カッチンの一存だけで新しい城を築けるはずもなく、幕府に工事の申請を出している。西国の押さえとしての役目を負っていたため、西国の大名たちが反旗を翻して東上するような有事の際にも陸・海両面での防御に適していた福山の地へ新城を築くことを、幕府は許可した。この辺、わざわざ辺鄙な萩を指定されたどこかのお大名とはえらい違いだして、めでたく城地の選定も済んで許可をもらった後は体力仕事が待っている。カッチンは常興寺山の北にある天神山に仮住まいしながら現場の指揮にあたり、時には自らモッコをかついで作業したなんていかにもカッチンらしいエピソードが残っている。築城にあたり、各方面から人材を集めた他、幕府からも絵図面割師と石垣奉行を派遣してきた。この石垣奉行が、花房志摩守と戸田土佐守・・・花房君は、備中シリーズで何度も出てきたすけべえ・・・もとい、助兵衛(職秀)君の方じゃなく、その一族で備中高山城主を務め、かんべ~に水攻めの献策をしたとのウワサもある正成君の方です。(忘れた方は「備中高松城(4)」をご覧ください)また、正成君は「岡山城(9)」で書いたように、八丈に流されたひでくん(宇喜多秀家)に援助をし続けた人でもあります。ウィキペディアには「臨終の間際まで秀家の安否を心配していたらしく、花房氏の家名が続く限り宇喜多氏を援助することを遺言したという」ともある。正成君が福山に出張してきたのは晩年のことで、工事の監視をする一方でひでくんに支援物資を送っていたのね~なんて、思いがけず久々の名前にちょっとしんみり・・・え~、すみません、思いっきり脱線しました(笑)。西国の押さえの立場ではあっても、やはり幕府の監視も受けていたことがここからわかる。他にも幕府に遠慮したか、もしくは許可が下りなかったと思われる部分がある。さて、上の写真に戻りますが、写真でこの階段の右手(縄張図ではマル3)にはかつて階段状に櫛形櫓・鑓(やり)櫓・鉄砲櫓の3つの櫓が建ち並んでいた。 ・櫛形櫓・・・具足櫓ともいい、弓・鉄砲・武具などを収めていた。 ・鑓櫓・・・槍を収めていた。 ・鉄砲櫓・・・鉄砲を収めていた。このうち、櫛形櫓は神辺城からの移築といわれ、鑓櫓は櫛形櫓の付櫓だというので、鑓櫓も神辺城からの移築なのかもしれない。現在は階段の左手(写真では右)はスパンと切れてるので、影も形もありません。マル2の鉄(くろがね)門が福山駅の新幹線改札口のあたりといわれるので、位置的に上の3つの櫓も福山駅の用地に含まれているものと思われます。階段を上まで上がると、石垣上の土塀の屋根も近くなる。この場所の軒丸瓦は 水野氏の紋は、沢瀉(おもだか)は沢瀉でも「立ち沢瀉に水」のがメジャー。が、この軒丸瓦の「丸に二本沢瀉」も水野家の家紋であるらしい。上がりきったところから見下ろすとこうなる↓。 下の車が止まってるあたりには大きな枡形を、駅の構内には柱・扉・鴨居に鉄を張った鉄門を、そして手前のレールのあたりには櫛形櫓・鑓櫓・鉄砲櫓を妄想しながら、上の写真を見てくださいね。結構、広いよね。にほんブログ村
2013年07月01日
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