全28件 (28件中 1-28件目)
1

ハア・・・近世城郭を縄張図ナシで説明するのはやはりキツいので、結局自作する羽目になりました。博物館のリーフレットにでも載せといてくれたら楽だったんだけどな・・・(↑これを他力本願という)前回、二の丸の石垣は途中で遮られてて、通れるかわからないと書きましたが、いちおう小さな門がついてたみたい。「四ツ足門」だって。で、本来であれば四ツ足門⇒鉄門と回り道しなければならないところ、現在では2つの門はありませんので、そのまままっすぐ進みます。途中にはバラが数本咲いてた↓。 バラの街だからな・・・土産に良さそうなバラグッズとかあるかな・・・その先には、福山城博物館で現在公開中の企画展の大きな看板が↓。 常設展だったら博物館へは行かなかったかもしれないけど、テーマがナイスなので、今回は寄ります。その分、遺構を見る時間が減っちゃうけど、しょうがないよな。で、その先の石碑に福山城の解説が出ていた。 【福山城は、西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が元和5年 (1620)より3ヶ年の歳月を費し、陸海の要衝であるこの地に完成させた 平山城である。 総面積約8万坪(26.5ha)、内外二重の濠をめぐらし本丸には、白亜の 五層六階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城と されていた。 その後、水野5代、松平1代、阿部10代の居城となり、明治になって濠は埋められ、 月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の 戦火により焼失した。 幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、 貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。なお、現在の天守閣等は、 昭和41年市制50週年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城跡は 国の史跡となっている。 城名 鉄覆山朱雀院久松城 別名 葦陽城】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)私が福山城に行きたいと思ったのは、カッチン(水野勝成)の城だったから。カッチンは「備中松山城(6)」に登場してます。備中の三村元親の叔父にあたる親成(ちかしげ)のとこで居候してたことがあるのでね。前にも面白い人と書いたけど、血の気の多いエピソードには事欠かないッス。が、どこまでホントかわからない部分もあるし、ここでは詳しく紹介する気はないのですが、広く知られていることをかいつまんで書きますか。カッチン20歳、小牧・長久手の戦いでのこと。結膜炎で目が痛かったカッチンは、兜をかぶらず出陣。それを見た父・忠重は「接近戦でこそ兜が必要なのに、ここでかぶらないとはお前はバカか!必要ない兜なんか尿桶にでもしてしまえ!!」と怒った。怒られたカッチンも負けずに、「オヤジといえどもこの俺様に向かっての暴言は許せん!戦なんてものは時の運だ。敵の首を挙げるか、俺が死ぬか、見てろよ、クソオヤジ!!」セリフが戦国ジジイバージョンなのは、お断りするまでもありませんねこの時は見事、カッチンが敵の首を取りましたが、オヤジとの仲直りには至らず、忠重に自分の悪口を言っている家臣を斬ったとか、財政の管理をしていた家臣に金をねだったところ断られたので斬ったとか、ホントかよ?って出来事がきっかけで家出したと言われます。その後の流浪の期間中にも、短気を起こして相手を斬ったとかって話がやたら多い。が、そのまま鵜飲みにする気もないので、短気なエピソードの紹介はここまでにしますね。で、家を出てよそに仕官しようとしたものの、親父から奉公構が出ていたのでスムーズな再就職とはならず。まあそれでもどうにか就職はできたようで、わかっているところでは 天正12年(20歳) 家出。 天正13年(21歳) 仙石秀久軍で紀伊平定に参加。四国攻めに参加したという 話もある。秀吉から摂津に所領をもらう。 天正14年(22歳) 再びプー太郎。 天正15年(23歳) 佐々成政軍で肥後の鎮圧戦に参加。 天正17年(25歳) 小西行長軍で天草攻めに参加。 天正18年(26歳) 加藤清正に世話になった後、黒田長政のところへ行く。 長政の大坂行きに同乗し、備後・鞆で勝手に下船。 慶長2年(33歳) 備中・三村親成のところに居候する。 慶長3年(34歳) 長男・勝俊生まれる。 慶長4年(35歳) 伏見へ。父から勘当を解かれる。と、15年の長きにわたり自由に諸国を放浪し・・・ まあ、ほとんどはちゃんと仕官してたみたいだけどね。黒田家を離れてからは備後あたりを転々としていたようで、この間にも様々な伝説を残してます。勘当を解かれた翌年には父・忠重が急死するので、ギリ間に合ったって感じだな。和解の仲介をしたのは、家康。家康の生母・於大の方とカッチンの父・忠重は実の兄妹なので、家康とカッチンはいとこという間柄。以後は徳川家に仕えることとなる。大坂の陣では徳川方として参戦。この時、家康から「もう昔とは違うんだからね。軽々しく前に出ないでよ、カッチン」と釘を刺されていたにも関わらず、やっぱり自ら先頭に立って戦って、「また持病が出ちゃったか~・・・」と家康を呆れさせたというエピソードが残る。数々の殺人伝説については疑わしい面もあるものの、直情型で血の気が多い傾向があったようではある。家康の命令に従わなかったため、戦後に期待したほどのごほーびはもらえず、大和に6万石をもらう。転機が訪れたのは元和5年(1619)。福島正則が川中島へ転封させられた後、安芸と備後8郡には浅野長晟(ながあきら)を、備後7郡と備中の一部をカッチンが引き継ぐことになった。 【それは岡山・広島両外様大藩の間に割り込む形で、きわめて大きな役割を持つ ものであった。この勝成の備後転封は「西国の鎮衛」とも「西街道の鎮守」とも いわれるように、西日本に配置された最初の譜代大名であった。】 (福山城博物館企画展「福山城展-城郭と城下町-」図録より)カッチンの備後入封は、だいたいこんな感じで「譜代」が強調される。が、果たして水野家を譜代と呼ぶことは適切なのだろうかという素朴な疑問が私にはある。確かに、水野家は古くは今川家や松平家に近かった。水野家から松平家に嫁いだのは、於大の方だけじゃない。が、家督を継いだ忠重の兄・信元は、主に織田方として活躍しているのだ。上記の図録に掲載されている関係年表には、信元と忠重のそれぞれの動向も記載されている。それによると、美濃攻め・姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦いにおいて、信元は織田方、忠重は徳川方と別れた形になっている。そして、刈谷城主・信元は信長様に武田勝頼との内通を疑われて殺害された。これは家康によって実行されたともいうし、織田・徳川のタッグで水野氏つぶしにかかったとの見方もある。その後、弟たちに再興が許されるものの、本能寺の変の際には忠重は織田方として京におり、東福寺に匿われて生き延びた。家康と一緒に堺に行った訳じゃなかったんだね。信長様の死後は信雄に仕え、信雄が秀吉と和睦してからは秀吉に仕え、秀吉の死後、徳川家に帰参したという経歴になるらしい。譜代の定義はいくつかあるようで、水野家の場合は徳川家の外戚という立場を考慮されたものらしいけど、その実、水野家と徳川家はなにげに複雑な因縁もあり、ことさらに譜代を強調するような氏族でもないと思うんだけどな。まっ、それは私の個人的な印象ですが。過去の経緯がどうであれ、カッチンの福山城築城の際には、この時期としては異例とも言える好待遇を幕府から受けている。どう優遇されたのか、城内を案内しつつご紹介いたしましょう。あ、結局縄張図使わなかったな(笑)。それと、カッチンが備中にいた時に三村親成が元親の妹を嫁がせてますが、カッチンの長男を生んだのはこの姫じゃなく、侍女のお登久。お登久は別のところでちょろりと顔を出すハズですので、覚えていてくれると嬉しいな三村親成はのちにカッチンに福山に迎えられてるので、福山市内の寺にお位牌があるそうです。親成のお位牌は見られなくても、このお寺には今回是非行きたいと思ってるんだけど・・・にほんブログ村
2013年06月30日

福山城<広島県福山市丸の内1丁目>(住所をクリックするとMapfan webにリンクします)※「福山編(6)」の続きです。福山駅前にある今回の宿にまず荷物を預けて外へ出ると、すぐ目の前に福山城二の丸の石垣が広がる↓。 ふふふ・・・福山駅周辺には宿が沢山あるけど、復元とはいえせっかくの天守を持つ近世城郭のそばなのだから、もちろん私はキャッスルビューの宿を選んだ。早いうちから予約を入れていたので、旅行の少し前に福山のホテルで火災があったというニュースを見た時には「えっ?私のとこじゃないよな・・・大丈夫かな、福山・・・」と焦ったものだ。ああそうか、今にして思えば、この時からトラブルの予兆はあったのカモ・・・いや、幸いと言ってはなんだけど、私の予約していた宿は無事でした。旅の予定を組む時はヒコーキと宿を押さえた後で本格的にコースを検討する訳だけど、一時はごっそり山城攻めに切り替えて、福山城は宿からの眺めだけでガマンしようというプランまで考えた。そもそも福山に行きたかった理由のひとつが、この福山城であったにも関わらずまあ、天候の事情もあって最終的に福山城に行かれることになったから良かった。とは言っても、空港でのトラブルで予定より1時間遅れてしまったので、もう12時。現在残されている遺構はごく一部とはいえ、それなりの規模はある。果たしてこの私が、日の短い時期に半日でどこまで見られるだろうか・・・さて、こちらが福山城全体の絵図↓。 (福山城博物館特別展「福山城展-城と城下町-」図録より)福山城の絵図は結構数があって、私が一番見やすいのは正保城絵図の中の「備後国福山城絵図」なんだけど、ここに掲載できる形での資料は持ってないので、仕方なく「福山城古絵図」から・・・(笑)。 近世城郭跡って、解説と共に縄張図も掲載してくれるところが多いもんだけど、福山城にはそれがなかった。いや、福山城に行かれた方の記事を見るとどこかにはあるらしいんだけど、私は見かけなかった。看板に縄張図があったら、遠慮なくそちらを使うんだけどね。結構、こーゆー案内板の設置の仕方などでその街がどの程度歴史面の観光に力を入れてるかがわかる。観光に力を入れるということは、整備にも力を入れてることにつながる。事前の下調べの時には、いつも観光協会のサイトもチェックするんだけど、福山はあまり参考にできるような情報がなかった。ので、行く前からそういう面で不満はあった。いきなり福山市の観光事業にケチを付けるようでなんですが、せっかく歴史ある観光スポットを沢山抱えてるんだから、街のお宝をきちんと効率よく、歴史ファンも満足させられるような観光案内の方法を考えて欲しいよな~と個人的に思ったものです。まあ、それはともかく。上の写真は絵図でいうと、★の場所から見たところになる↓。 下の部分の青のポッチから下は、現在福山駅になってると思われるところです。三原城ほどじゃないけど、ここも城の中を電車が通っていることになる。福山城の本城域の南半分は内堀で囲われており、18世紀後期に描かれた「阿部時代福山城絵図」によると内堀の総面積は3,259坪。で、最初の写真の手前に写っている道路はかつては内堀でした。この内堀に沿う二の丸下の東南部分は現在では小綺麗な公園風になっている↓。 内堀だったから、それをイメージさせるような造りなのかな?とも思ったが、ウィキペディアには 【福山駅北口に面する二の丸石垣の直下は往時に内堀の近接していたことから 内堀を模した親水施設が造られたが、本来の内堀とは規模・形状は全く異なっており、 工事により本来の遺構を破壊した可能性も指摘されている。】とある。この公園の完成は平成18年。戦後すぐならともかく、平成ともなれば歴史遺産に対する価値観も高くなってきてるんじゃないかと思うけどね。まあ、数年前にも京都あたりで遺構をうっかり破壊しちゃって大ヒンシュクを買ったニュースなんかもあったし、宅地造成などのためにマイナーな遺構が破壊されるなんてケースは最近でも聞くからね。それより、ここの石垣はなんかビミョ~なんだけど・・・これ、昔のままか? 二の丸下の東南隅↓。なんか妙なオブジェが・・・ 同じく東南隅の石垣↓。ここも下部の石はなんだかアヤシイ。遠目で全体を見ると色が違ってるし、かなり後になってからの補修の跡かもな。 でもここは駅のすぐ前なので、福山駅を出るとまずこの石垣が目に入って結構テンション上がりますんで、早速石垣に近寄って刻印探し~。 ↑これはこの上の写真と同じ石垣です。下部の石は上部と比べて材質も違うし、何より形と表面が・・・はっきり言って、綺麗じゃない。綺麗っつっても、別にぴっちりした切込ハギなんかと比べて言ってるんじゃなくて、なんつーか・・・フツーの城って、こーゆー石、使わないよな?って石が多いのだ。だから、後世の補修といっても、かなり後の時代になってからのものじゃないかと私は思った。まあ、水が張ってた影響とかもあるのかもしれないけど。 <※2013年7月6日 追記 私の言う「綺麗じゃない石」は、どうやら空襲で石垣にも火がかかり 石の表面が剥がれ落ちたものだったらしいです。福山駅を出てすぐの場所なので、 戦火を受けた綺麗じゃない石による石垣もぜひ見てってください。) さらに近寄ると、矢穴のある石をいくつも見つけた↓。 あと、刻印も↓。 ただ、この後南側の石垣に沿って歩いていた時、ビミョ~な刻印もいくつかあったので、あるいは面白がって人のいない時間にこっそり刻印を付けたバカ者でもおったんじゃないか!?とちょっと思ったので、もしかしたらいくつかパチもんも混ざってるかもしれません。さすがに矢穴まで模造する頑張りやさんはいないと思うけど(笑)。東南隅の算木↓。 ここからは、刻印を探しつつ二の丸南側の石垣に沿って侵入口・・・いへ、城内への入口を目指します↓。 途中から振り返ったところ↓。この辺の石垣は昔のままらしいな。右側に写ってる道路は、かつては水堀の中あたりだったと思われます。そして歩道部分は武者走り 現在はこの石垣に沿ってまっすぐ歩けるようになってますが、真ん中へんはかつては石垣で遮られていて、★のゴールまで行くのにピンクのルートのように回り道せねばなりませんでした↓。 博物館で買った図録には、いくつもの絵図が掲載されてはいるんだけど、ここの部分はどうも見にくい。モノによっては完全に行き止まりになってるように書かれてるのもある。もしかしたら時代によっては通れなかったかもしれませんが、通れたとしたら、ってことで上の図を見て下さいね で、ピンクのラインが途切れてる場所が鉄御門。櫓門だったらしく、年代不明(恐らく明治初期頃)の「福山城(偕楽園)並びに勇鷹神社絵図」には櫓台だけが描かれている。鉄御門の南側には枡形虎口があり、内堀を渡った先に追手門があった。今は、北門も追手門も影も形もありませんけどね。追手門の先にはさらに外堀が広がり、大手側から侵入しようとした場合、堀を2つ超え、死の枡形を2つクリアし、さらには城門の中でも最強を誇る櫓門を2つくぐり抜けないと本城域へ到達できないという、厳重な造り。ハイテクな近世城郭には、中世山城とはまた違った楽しさがあるからね。特に近世城郭は山城にくらべて古絵図も結構残っているので、シミュレーションもしやすい・・・て、城内に入る前からシミュレーションモードに入っている気の早いわたくし・・・(笑)。にほんブログ村
2013年06月29日

広島の旅の記事はどうしても重くなりがちだし、今年は5月いっぱいまで東西条編をみっちり書いてきたこともあって、まずは関東の短編を一気に片付けてしまおうかと思っていた。(要するに、ちょっと広島疲れした)が、当時の私ならともかく、今の私が関東の城のことを書くには現状のままでは不可能なことに、資料を見返してみて気が付いた。もうひとつ、早く書いてしまいたいシリーズもあるんだけど、こちらもまた大変な歴史を背負った旅でして・・・とゆー訳で、大変そうだから福山編と廿日市編は当分後回しにしようと考えていたのが、他のシリーズよりはまだ楽に書けるのかも・・・と諦めて(笑)、まずは福山編から始めることにしました。現地からの雑談は、「フライングしてプロローグ/福山編(1)」「べんのはなし/福山編(2)」をご覧ください。当初、このシリーズは別のタイトルを考えてましたが、結局ノーマルに「福山編」としました。だって、あの内容じゃしょうがないじゃん!!(←逆ギレ)(当初予定のタイトルは、「備後トラブル集・そのに/福山編(4)」をご参照ください)まあ、福山編の中でも難解な部分はあるし、頭の整理は全然できてないんだけど、どうせいつも本編を始めたらヒイヒイ言ってるのに変わりはないんだから、あまり気負わず頑張ります。東西条編ほどには長くならないと思いますが、記事の分量・・・特に歴バナ部分については、結局あの世の関係者様から「これも書け!あれも書け!!」って指示があるかないかで決まりますので、先のことは私にはわかりませんとは言っても、まだ福山初日の写真の整理すら済んでない・・・「GWに廿日市とまとめて全部やるって宣言してなかった!?」なんてツッコミを入れる記憶力のいいフォロワーさんもおられるかもしれませんが、そんな昔の話持ち出さないで(笑)。てことで、そちらの作業もやりながらになるのでしばらくは更新頻度は遅いかもしれませんが、ご了承くだされ。2012/11/23(金)くもりこの日はいつもよりちょっと早いヒコーキだったから、幾分緊張していた。が、無事ヒコーキに乗れたのでひと安心私が旅の予定を組む時は、いつも直前までコース取りに悩む。まあ、連れがいる時はそういう訳にもいかないけど、1人の時はいくらでも変更はきくから、あれやこれやと欲が出てなかなか決まらないのだ。今回は、特にそれがひどかった。とゆーのも、当初は比較的ノーマルなプランを組んでたのが、山城が近くに沢山あって行きたいところが山ほどできてしまったから。モノにもよるけど、山城はどうしてもそれなりの時間がかかるし、天候にも左右される。悪天候の中、無理してまで山城に行こうとは思ってないからね、私は。なんたって、私の1人旅のモットーは工事現場よろしく「安全第一」これに尽きる。で、今回の初日は天気予報がイマイチだったので、2通りのプランを考えていて、あとは現地で決めようと思っていた。実際、朝の東京は雨が降ってたしね。そして、広島空港着・・・今回の旅での最初のトラブルが発生した場所(笑)。(到着直後については、「備後トラブル集・そのいち/福山編(3)」をご参照ください)もうホント、血管切れるぞってくらい怒りましたね。空港のベンチで早い昼食を食ってた時も、京都のセキュリティセンター長に文句を並べたメールを打ちながらだったし。彼女は優しいので、一緒になって怒ってくれました予定より1時間遅れのバスに乗り込む。時折小雨もパラついてるようで、天気はイマイチ。う~ん、今日は山城コースはやめとこう。広島空港から福山までは約1時間。空港は山の上にあるので、バスの車窓から外を眺めていたら終わりかけの紅葉が沢山目に入った。私は人ゴミが嫌いなので、いわゆる「桜の名所」とか「紅葉の名所」なんて場所にはまず行かない。人を見に行くようなもんじゃん・・・それに、うちは関東平野のど真ん中で山なんかこれっぽっちも見えないので、普通に生活してて自然の樹木が辺り一面に色づくなんて光景は街路樹以外では目にすることがない。が、福山までは高速で山間部を走っていくし、ほとんど枯れかかってるとはいえ、周囲の山が一面に紅葉してるという私には見慣れない光景を見て、機嫌が直った。京都のセンター長は「機嫌直るの早!」と呆れていた。まあさ、せっかく広島まで来たんだし、いつまでもぶーたれててもさ。 こんな景色を眺めながら、バスは進む。バスの車内はちょっと寒かった。ああ、もう冬なんだなあ・・・高速を使うとはいえ、福山へはミワラの倍かかる。昼前になって、ようやく福山駅に着いた↓。 今回はすぐ駅前の宿。まずは荷物を預けて・・・と思って、バスを降りて駅に向かって歩きだしたらバラの花壇があった。 【100万本のばらのまち 福山 福山市は1945年(昭和20年)8月8日、空襲により市街地の約8割を 焼失しました。 被災した人々は焼け野原となった街を前に途方にくれていましたが、やがて 「荒廃した街に潤いを与え、人々の心にやすらぎを取り戻そう」との市民の 呼びかけに、行政も協力して南公園(現在のばら公園)にばら苗約1,000本を 植えました。 この取り組みは人々の心を打ち、以後「ばら」は市民に希望を与える復興のシンボルと して親しまれ、市内各地にばらが咲き誇るようになりました。 1985年(昭和60年)4月には、「ばら」は市の花に制定され、半世期の 歩みのなかで「ローズマインド」と呼ばれる「思いやり・優しさ・助け合いの心」を 表す言葉も生まれました。 市民と行政が協働で取り組んできた「ばらのまちづくり」は、福山市の「協働の まちづくり」の原点として今に受け継がれ「100万本のばらのまち 福山」の 礎となっています。】 (現地解説板より) ローズマインド・・・解説の通り福山も空襲を受け、その際、おきゃやまと同じく大切な文化遺産を失っています。これも歴史とはいえ、実に残念なことであります。※「福山城(1)」へと続きます。にほんブログ村
2013年06月27日

高山城シリーズで小早川第4代・茂平が字を知らないというウワサがあると書きまして、何を元に、どう書かれているのか知りたかったので、まずは橘成季(たちばなのなりすえ)がアヤシそうだと思い、彼の書いた「古今著聞集」を見てみました。したら!出てた!「古今著聞集」に!茂平が!!「古今著聞集」は鎌倉期、建長6年(1254)10月17日に成立した説話集。今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。今昔物語集は誰しもが知ってると思いますが、実に色んな話が収められていて、わかりやすく読みやすい。古今著聞集は今回初めて少し読んでみたんだけど、なんてゆーのか・・・今昔物語集に比べると、お話として座りが悪いってゆーか、「えっ?これだけ?そんでどーしたの!?」みたいな~。つまり、書きっぱなしなのだ。橘成季については後で書きますが、「古今著聞集」の最後に成季自身によるあとがきがあり、成立の動機や過程が書かれている。成季という人は詩歌管弦に関心が高く、琵琶の名手である藤原孝時に師事し、また和歌ではあの藤原定家と並び称される藤原家隆に師事している。そうした事から、詩歌管弦の分野における優れた物語を「古今」・・・いにしえから成季の時代に至るまで幅広く集め、記録を遺したいというところから出発した。が、そのうちに本来の分野から飛び出してさまざまな内容へと興味が及び、諸家の収蔵する書物はもちろんのこと、成季自らあちこち出かけては話を集め、さらにはゆきずりの人にも取材するまでとなり、そうして集めた話は20巻約700話。めでたく古今著聞集の完成をみた建長6年10月17日には完成記念パーティーを開いたと自分で書いている。さて、それでは「古今著聞集」に茂平がどのように登場するのか見てみましょう。『古今著聞集』第721段より 「ある殿上人右府生秦頼方の進じたる都鳥を橘成季に預けらるる事」 後嵯峨上皇の随身である秦頼方(はたのよりかた)が都鳥をある殿上人に差し上げ、 その殿上人は都鳥を成季にお預けになった。 成季は何を食べさせたらいいのかも知らないし、虫などを取って わざわざ食べさせるのもめんどくさいので、動物などを飼うのが上手な 小田川美作守入道茂平に預けて世話をさせていた。 建長6年(1254)12月20日、節分の方違(かたたがえ)のために 後深草天皇が前相国・藤原実氏の富小路亭に行幸あそばして、翌日は丸1日 富小路亭でお過ごしになった。 実氏は茂平に預けていた都鳥を連れて来させて、天皇のご覧に入れた。 天皇から都鳥が返される時には、女房の少将の内侍(ないし)が紅色の薄い料紙に 歌を書き、都鳥に付けて返した。 春にあふ心は花の都鳥 のどけき御代のことや問わまし 実氏もまた奉書紙に歌を書いて同じく都鳥に結び付けた。 すみだ川すむとし聞きし宮こ鳥 けふは雲井のうへに見るかな このことを神祇の兼直宿禰が伝え聞いて、持ち主にせがんで都鳥を借りて返す時に 都鳥の芳名、昔万里の跡に聞く、徴禽奇體、今一見の望を遂ぐ。 畏みて之を余り悦ぶ、謹みて心緒を述ぶるのみ。(←原文は漢文) にごりなき御代にあひみるすみだ川 すみける鳥の名をたずねつゝ 前三河守卜部兼直上 と詠んだ。「・・・だから?」って言いたくなるでしょお~まっ、それはともかく。都鳥の世話を成季から押し付けられた「小田川美作守入道茂平」が、小早川茂平。なんで「小田川」?と思ったら、「田」の下の「十」が抜けてるんだね(笑)。でもこれが間違いなく茂平のことらしいです。茂平の生年は不明だけど、ウィキペディアでは没年は1264年となっている。まあ、すでにこの時出家してたようだし、茂平晩年の出来事のようです。この721段は古今著聞集の大トリの話で、このすぐ後には成季の跋文が入る。その跋文の中では確かに建長6年(1254)10月17日に完成祝賀会したよって書いてるのに、後深草天皇の行幸は建長6年12月20日とある。どうも、10月17日に一旦終わらせたものの、成季自身によって最後の721段が書き加えられたようなんだよね。つまり、成季が気まぐれを起こさなかったら、茂平は古今著聞集には登場しなかった。さてと、あいにく茂平の識字についてはここには書かれてませんでしたが、なかなか興味深い記事になっている。まずは、なんで茂平が都鳥を預けられることになったのか。実は、橘成季という人についてはあまり詳しいことはわかっていない。下級貴族ではあったようなんだけど。で、この721段を研究した石井進氏が「成季は西園寺家に仕えていたんじゃないか」と最初に指摘したんだそうな。小早川氏の領地・沼田(ぬた)荘のシステムについて「高山城(2)」に簡単に書きましたが、承久の乱後に沼田荘の領家職(りょうけしき)となったのが、西園寺公経(きんつね)。「きんつね」なんて変わった名前だから記憶に残ってる方もおられるかもしれませんが、この西園寺公経さんは、茂平に沼田川の干拓事業を許可した藤原公経さんと同じ人です。( 「高山城(4)」でおさらいください)第721段には公経さんは出てきません。が、こちらの系図をご覧ください↓。 721段に登場する前相国(さきのしょうこく)・実氏さんは、公経さんの子。つまり、後深草天皇は母方のジイ様んちへ方違に行った訳です。西園寺家は藤原氏の一門、だけどあまりぱっとしなかった。それを劇的に押し上げたのが、公経さん。公経さんは頼朝の姪を妻として、源氏との縁を深めた。この夫婦の間に生まれた長女が建久2年(1191)の生まれなので、そのちょっと前の縁組と思われる。さらには妻の姉妹が摂政・九条兼実の子に嫁いだことによって九条家とのつながりをゲットした。公経さんの縁戚関係を書いてるとキリがないのでここでやめますが(笑)、系図のように天皇家の外戚となるまでになった。鎌倉との縁が深かったために、承久の乱では鎌倉方に情報をリークして鎌倉方の素早い対応を可能にし、公経さんは幕府に大きな貢献をした。その一方で乱の収束にあたり、鎌倉方との調整をすすめ朝廷の立て直しに尽力した。その後は鎌倉への取り次ぎをする「関東申次」となり、政界での存在感を増してゆく。そして、その権勢を支えたのが莫大な経済力。下は西園寺家の荘園の分布図です。 東国は少なく、西国が圧倒的に多い。しかも、海側に偏っている。このうち、西園寺家、特に公経さんが執着したのが伊予のようで、かなりのゴリ押しでゲットした荘園もあったらしい。こういう特色はあまり他の公家には見られないらしく、西園寺家は海上交通に相当の関心を持っていたのではないかと網野善彦氏は指摘する。(「西園寺家とその所領」)もちろん、単なる交通じゃなく貿易につながっていく訳だと思うけどね。西園寺家の所領分布を見た時、のちに海を支配することになる小早川氏と姿がダブった。それから都鳥を茂平に預けたという話・・・まず、私は真っ先に茂平が沼田新荘で鷹の子を勝手につかまえたという相論の罪状を思い出した。茂平が京で「建長のムツゴロウ」の異名を取ってたかは知らないけど(笑)、西園寺家って鷹狩を家業としてるんだよねえ・・・まあ、家業としたのはもう少し後の時代のことかもしれないけど、でも公経さんも鷹の歌を詠んでいる。鷹と都鳥じゃ違うけど、ちょっと鳥を世話するくらいのノウハウは西園寺家にもあったんじゃないかと思うんだけど・・・鷹狩は武家のスポーツだから、もちろん小早川氏だけが鷹の飼育をしていた訳でもないんだけど、今回の記事を書くにあたって少し調べてみたら、色々な面でやたら西園寺家と小早川氏がカブってくる印象が私の中で強くなっていった。そして、調べていく中で少なからず驚いたのが「茂平は西園寺家に仕えていた」という記述が世間には結構あったこと。仕えていた?確かに、自然界からの収穫物なんかは地頭は一番最後で弱い立場だったけど・・・ただ、頼朝はあくまで既存の勢力基盤を犯す形での政策は進めなかった。西国にあらたに御家人が任じられたのは、いずれも平家没官領や承久の乱で院方から没収した土地。しかも、公経さんも承久の乱後に沼田荘の領家となっている。そして公経さんは幕府との縁が深い・・・現地での土地トラブルはあっても、案外沼田荘では他の新補地頭よりは領家と地頭はうまくやっていたのかもしれないな、と思った。もちろんそれは、在京していた茂平が直接領家である西園寺家に親しく仕えていた影響もあるのだろう。「仕えた」ってのは正しくはないとは思うんだけど、権勢を誇っていた公経さんとイチ御家人である茂平とではその立場は比べ物にならない。そうなると、やっぱり「仕えた」と表現するしかないよな~。恐らく、茂平が公経さんに沼田川の干拓事業を認められたのも、都鳥をちゃんと世話したとか、地道な努力が実ってのことなんだろう。で、西園寺家に仕えていたと思われる下級貴族の橘成季と沼田荘地頭職の茂平は同僚のような間柄であり、ゆえに都鳥を押しつけられたのではないかと世間では見られている。時代が下って南北朝あたりになると、さすがの西園寺家も下降線を辿る。一方の小早川氏は紆余曲折はありながらも、着実に勢力を伸ばしていった。しかし、今回の記事を書く中で、小早川氏の背後には西園寺家の影響というのは少なからずあるんじゃないかと思えてきた。西園寺家については色々と論文も出ているようなので、それらを勉強しつつ、気がついたことがあったらまた書きたいと思います。ここに書いた以外にも色々考えたことはあるんだけど、ちょっと1話じゃ収まらなかったわんにほんブログ村
2013年06月26日

日光東照宮の宝物館の中には冷え冷えとしたトイレがありますが(笑)、外にも綺麗なトイレがあります。山内にはあちこちにトイレがあるので、私も安心して長居できます 日光は有名な寒冷地ですが、冬場は洋式便器はウォーム便座になるので、これはホントにありがたいです。日光の冬はマジで寒いからね~。今回(2012年12月1日)は日光で初雪が降った日でもあり、寒い中、特に御仮殿の透塀の撮影でかなり体力を消耗したので、こんな中、冷え切った陶器の便座に腰を下ろした日にゃあ、心臓止まっちゃうだよ~。・・・て、今回はトイレに苦労してないんだから、トイレの話はそこそこに。宝物館を出て右手に進むと、奥にはこんなのがあります↓。 【重要文化財 石唐門 石鳥居 これは寛永18年東照宮奥社に建てられたが、天和3年震災により破損したので 奥社裏山深く埋められて200数10年に及んだが、当宮350年祭記念として ここに移建した。 幕府の作業方大棟梁平内氏の設計により巨石から切出されたもので、江戸初期に 於ける代表的石造美術である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)まず、鳥居ね↓。 鳥居のすぐ左脇にはこんなものもある↓。 なんだコレ・・・これも灯籠っていうのかな?でも、下の部分には明りを入れそうな気もするしな・・・順序が逆転しますが、鳥居の手前には碑がある↓。 【松尾芭蕉句碑 あらたふと 青葉わか葉の 日の光 芭蕉翁おくの細みち日光山吟 松尾芭蕉は、江戸初期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。号は「はせを」と 自署するほか、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。 元禄2年(1689)4月、芭蕉が奥の細道行脚で、門人曽良を伴い、日光山に 参詣したと刻まれている。 小杉法菴の書で、昭和31年9月日光市・東照宮・輪王寺・二荒山神社が建立。】 (現地解説板より)ふ~む、芭蕉おじさんは日光にも来たのか・・・けど、当時って民間人が拝観できたのか?途中までは入れても、現在東照宮とよばれる場所の境内は入れなかったんじゃないかって気がするんだけど・・・で、鳥居の奥にあるのが、石唐門。 名前の通り、全部石造り。たったこれだけの門だけど、どっしりと風格があって間近で見るとなかなかカッコいいです。ま~はっきり言って、宝物館に寄る人自体が少ないので、その奥まで来る人は(たぶん)少ないです。が、唐門と鳥居はいずれも重文。上の解説だけじゃなんだかよくわからないよね。ので、今回も『謎と不思議 東照宮再発見』にお世話になります。鳥居と唐門はもともと奥社にあったもの。奥社は、東照宮の本社からさらに奥・・・というか上にある場所で、そこに家康の墓所もある。元和3年(1617)に家康が奥社に改葬されてから、元和7年(1621)頃に奥社に木造の多宝塔・唐門・拝殿・鳥居などが建てられた。家光による「寛永の大造替」の際も奥社に手が入り、寛永17年~18年(1640~1641)頃に建て替えられたが、この時に宝塔・唐門・鳥居が石造りとなった。東照宮の略年表によると、まず寛永18年(1641)に宝塔と唐門が石造りとなり、その後慶安3年(1650)に唐門と鳥居が石造りとなったとある。あら?唐門がダブってるんだけど。「御仮殿2」で山内の火災の記事を抜き書きしたけど、火災以外にも背後にそびえる女峰山から流れ落ちる稲荷川の洪水もあるなど、日光山内はたびたび自然災害にも見舞われた。が、自然災害の最たるものが天和3年(1683)の地震。これに奥社の建造物もやられた。一体どの程度の地震だったのかと検索してみたら、足利市のサイトに親切な一覧表が載ってた。以下は足利市のホームページ「歴史と文化と花のまち 足利市」からの引用です。 ◆1633年(天和3年)6月17日 8時(M6.0~6.5) 被害は、日光周辺で東照宮・大猷廟・慈願堂等の宝塔の九輪転落、 石垣多く崩れ、天狗堂・仏岩・赤薙山及びその北方の山が崩れた。 ◆1633年(天和3年)6月18日 11時(M6.5~7.0) 被害は北関東地方で、日光では御宮・御堂・御殿・慈眼堂・本坊寺院の石垣が 全て崩れ、東照宮・大猷廟の宝塔の笠石その他が破損した。 余震は、689回を数えた。 ◆1633年(天和3年)10月20日 5時(M7.0) 被害は栃木・福島県で、栃木三依川五十里村で山崩れが発生し、 川を塞いで湖を作った。日光でも山崩れが起き鬼怒川・稲荷川の水をせき止め、 修復半ばの石垣が崩れ、堂塔にも被害が出た。余震は、2100回を越えた。ぬわんと~、1回じゃなかったんですよ。しかも、この3回の地震の震源はいずれも日光付近と見られている。あくまでマグニチュードだから実際の震度がどの程度だったかはわからないけど、揺れのあった地域の中でも恐らく最も日光付近が揺れたってことだよね。規模だけ見てると、一体どれが本震なのかもはやわからない・・・が、関東以北の方は東日本大震災の記憶も新しいので感覚的にわかるんじゃないかと思いますが、最初の本震のちょっと後にもかなりデカい揺れが来たからね。被害状況を見ても、まず最初の6月17日が本震で、翌18日は余震の部類に入るでしょう。これだけならまだしも、10月20日のデカいのは痛かったよな。それまでの600回以上の余震などで地盤が弱くなっていたところに、追い打ちをかけたカンジ?2011年の震災でたわんだ石垣がまだそのままになってた写真を「山内入口2」に載せましたが、あの震災での日光市の震度は5弱。うちも発表では同じ5弱だけど、かなり揺れました。が、あの石垣は崩れなかった。東照宮での震災の瞬間の映像をYou Tubeで見ると、東照宮の陽明門なんかはびくともしてない。境内の石塔は幾つか倒れたりもしたそうだけど、建物には幸い大きな被害は出なかった模様。それと比較すると、一慨には言えない部分はあるけど天和3年の地震はいずれも震度5弱以上だった可能性が高いと言えるんじゃないか?さぞ、恐かったでしょうね~。それで、唐門と鳥居に戻りますが、天和の震災により被害を受けた宝塔は造替されて、現在の青銅製になった。『謎と不思議 東照宮再発見』によると、唐門と鳥居も宝塔と同時期に青銅製に改められたと誤解されてたんだそうな。そこで、略年表の慶安3年(1650)の唐門のダブリの記事が生きてくる。どうやら、前年の慶安2年(1649)にも大きな地震があったらしくてね。再び足利市のホームページ「歴史と文化と花のまち 足利市」から引用しますと、 ◆1649年(慶安2年)7月30日 2時(M7.0) 震源地域:下野・武蔵 被害は、栃木・埼玉・東京に及び、埼玉の川越では家屋700戸が、大破した。 日光東照宮では、石垣・石の井が破損した。余震は、日に40~50回を数えた。と、ページのタイトルが『栃木県・足利市の地震履歴』であるにも関わらず日光の被害状況まで記してくれて、大変ありがたいホームページですがこれで被害を受けたために慶安3年に唐門などが造替されたんじゃないかと『謎と不思議 東照宮再発見』では推測している。青銅製にリニューアルしてお役御免となった石造りの唐門と鳥居は、奥社のある山の中に埋められた。それを昭和42年に発掘して、現在の位置で再び日の目を見ることとなった。復元っていうから、「再現」の意味かと思ったら、『謎と不思議 東照宮再発見』には【残念なことに、袖の部分のみ発見されず新造。】とあるので、掘りだしたものをそのまま宝物館の脇っちょに据えたってことらしい。上の文章は、 【そのため、葵紋が、扉にある様式と異なってしまった。昭和48年に重文指定を 受けたため、今となっては取り替えたくても簡単には行かない。】と続く。その違う紋がこちら~。扉のほう↓。 袖のほう↓。 アハハッ!!まあ、こんなお茶目なエピソードがあってもいいよね~。「100年経てばこれもヒストリー」ってTUBEの歌に名言もあるしさこの近くには、なかば埋没した灯籠もある↓。あるいはこれも、一緒に埋められてたものかもしれないな。下部が欠損してたから、残った部分だけこんな風に地面に植え付けたのかもしれない。 にほんブログ村
2013年06月24日

御仮殿から表参道に戻り、下新道を西へ向かう。日光二荒山神社と大猷院へと通じるこの道は、杉並木と石垣の道。 途中に日光東照宮宝物館があります。 【東照宮宝物館(大正4年開館、昭和42年改築)は、東照宮に伝えられた 数々の重宝を収めている宝物館です。 東照宮の祭神徳川家康公の遺愛品をはじめ、朝廷よりの寄進品、歴代将軍及び 諸大名の奉納品、並びに家康公が積極的であった南蛮貿易による舶来品、 更に家康公の官歴に関する位記・宣旨、東照宮に下された官符・宣命類、 江戸幕府が編纂した大名・旗本諸家の系譜・その他書画類など約1,000点の 宝物を収蔵しています。】 (日光東照宮宝物館リーフレットより)この宝物館のことは、「御仮殿2」にもちょろっと書きました。山内での一般の観光客の集まる場所は、まず何と言っても東照宮、それから表参道沿いにある輪王寺。下新道を西に行った先にある二荒山神社がまずまずで、その奥にある大猷院まで行く人となるとかなり少ない。で、東照宮から二荒山神社・大猷院をつなぐ場所にある宝物館は、一般の観光客はほとんどスルーします(笑)。日本人より、案外ガイジンの方が寄る率高いかも。お宝を収蔵した建物は輪王寺にもあるし、それでなくても山内は見どころが沢山あるからね。でも、私はここの宝物館は好きです。東照宮よりはよっぽど宝物館に来た回数の方が多い。人が少ないから逆に行くってのもあるけど(←相変わらず人ゴミ嫌い)。展示室は3室。するっと見ちゃえばすぐ終わっちゃうと思うけど、じっくり見るとかなり見ごたえのある品が揃ってます。メインは1号室になるのかな。この部屋は、入るとまず関ヶ原で家康が着用したという南蛮胴具足が出迎えてくれます。山内には秀忠の所有と伝わる甲冑もありますが、これは宝物館じゃなく別の場所にあります。奥の方には刀剣類。うち数点は「御在世品」。入口付近のかなり地味なケースの中には、家康の御遺愛品・・・展示品はもちろん入れ替えがあるので、いつもこれらの品が見られるとは限りませんが、今回はこんなお品が並んでました。 ・カップリ(ナイフ)・・・西欧より舶来 ・青磁研棒(乳棒)・・・持薬の調整に用いた ・熊時計・・・舶来品。鋳銅滅金の腹中に機械が収まる ・鉄砲金具・・・御在世品の焼け残り ・瀬戸黒筒茶碗・・・桃山期、美濃で焼かれた。大坂の陣中で旗本・新見正勝が拝領たぶん、これらの小物類はほとんど入れ替えないんじゃないかと思うんだけど、宝物館1号室にはもうひとつ、家康ゆかりの品が展示されることがあります。それが、「網代駕籠」。なんでも~、大坂の陣にはこれに乗って行ったんだそうな~。大御所様ご使用の駕籠とはいっても、ぶっちゃけかなり質素な造りです。個人的には、大坂の陣は胸が痛い戦いなので、ガラスの向こうに置かれたちっこい駕籠を見ては「チッ!こんな駕籠に乗らなきゃならないくらいのジサマが、戦場まで来るんじゃねーよ・・・」とか心の中で口汚く罵ってますが(笑)、これがない時もあったので、入れ替え対象になってるようです。御遺愛品じゃないようですが、ここでの目玉商品のひとつに渾天儀(こんてんぎ。天体観測機器)があります。渾天儀はだいたいいつも展示されてるけど、東照宮所蔵の渾天儀には日本で初めて暦を作成した天文学者・安井算哲の設計によるもので、天皇も使用したことがあるというお品があるらしい。算哲の知名度は、映画「天地明察」で上がったよね。現存している算哲の渾天儀はこの宝物館だけという・・・が、いつも展示されてる渾天儀にはたしか酒井家の奉納によるものと書いてあって、算哲の渾天儀は算哲みずから寄進したとあるので、もしかしたら別モノのことかもしれない。ただ、算哲の渾天儀は2015年の家康の400年忌を前にこれまで不明だった渾天儀の由来を調べ直したところ、2012年にはじめて算哲のものだと判明したとのことなので、同じモノのことを言ってるような気もするし。にしても、算哲が渾天儀を作成したのが1675年というから、300年ほども由来のわからないまま東照宮で保管してたってのも、鷹揚な話とゆーか何とゆーか・・・1号室のど真ん中には、デカい御輿が3つ。寛永12年(1635)に造立されたものと伝わり、昭和44年に新しい御輿が造られるまで使われていたという。御輿の紋はそれぞれ違っていて、左から 抱き茗荷(源頼朝)・・・まあ、徳川家は源氏を自称してるからな。 葵(徳川家康)・・・これはいいよね、ご祭神だからね。 左三つ巴(豊臣秀吉)・・・これがわからん。鎮魂か?とまあ、充分現役で行けそうなキンキラの御輿を見てはいつも首をひねっております。 2号室はあんまり覚えてないなあ・・・絵画類とか衣装系が多い部屋だったかもしれない。あ、ここの奥に征夷大将軍の宣旨があったかも。そしてその近くには、確か石田三成の尺なんかも置かれてたようなレプリカだったかもしれないけど。あ、あと雅楽の衣装とか面とか、楽器なんかもあったかな?デカい太鼓がで~んと置かれてたような・・・そして3号室は私の好きな部屋。なぜかというと、ここには東照宮の大きな模型が置かれているのです。宝物館内部はもちろん写真撮影禁止ですが、「うう、写真撮りてえ・・・」と心の中で叫びつつ、ガラスケースが鼻息でくもるほど顔を近づけては、じっくり眺めてます。建築模型って大好きだから 実寸の20分の1で再現されたこの模型は、なんと灯籠までも細かく再現されており、実に見事。なんでも、建築界の貴重な資料として東大工学部に寄贈されていたのが、近年になって戻ってきたものとのこと。興味ない方にはつまらないかもしれませんが、建築好き、あるいは模型好きには満足のいくであろう見事な模型です。宝物館は新しい建物の建設が予定されてるようですが、1号室の家康の御遺愛品などは手作り感いっぱいな展示方法で、「東照大権現様の御所蔵品の展示がコレでいいのか~!?」ってちょとツッコミを入れたくなるような微笑ましい展示です。新宝物館になったら、こんなアットホーム(?)な展示も見られなくなっちゃうかもしれません。・・・したら、ちょっとさみしいなにほんブログ村
2013年06月23日

まだ透塀が続きますよ~。 あともう少しだ・・・とゼエゼエしながら左面の途中まで来たところで、透塀に小さな入口があるのを見つけた↓。 この時は別に気にも留めなかった。それより、この辺は透塀の中にある本殿や拝殿の側面に比較的近いので、透塀越しに見える意匠を綺麗に撮ろうと一生懸命だった。 写真で見ると、どれだけ細かい装飾が施されてるかってのがじっくり見える。で、一生懸命写真を撮ってたら、職員らしきおばさんがやって来た。「うわ、こんなとこで1人黙々と写真を撮ってるなんて、不審者に見られちゃうかな~」と内心ヒヤヒヤしたが、さすがに慣れているのかおばさんは私を凝視するでもなく、さっき通り過ぎた小さな門の鍵を開けて中に入っていった。ふ~ん、今はあそこは職員用通用口になってるのか・・・ ここまで来て、ようやく正面に戻った↓。1~2枚はボケたりしてカットしたのもあるかもしれませんが、ほぼすべての透塀の彫刻をここに掲載してます。よく頑張ったと、自分でも思います(笑)。 正面の透塀はちょっとしかないからな・・・と思って最後のふんばり。 あ、あれっ?今までのと明らかに違う・・・さすがに正面は目立つから、ちょっと派手めのものにしたか さっき職員さんが入っていった後、私が正面に来るまでの間に透塀の中では何やらゴトゴト音が聞こえていた。ん?もしかして、雪がやんだから開けてくれるのかな?と思いながら正面まで来てみたら、やっぱり門が開いてた。ラッキー!!どうやら御仮殿は、晴天の時のみ解放のようです。で、もちろん中へ入りました。が、唐門の中は撮影禁止だったので、写真はありません。あくまで仮の社殿なので、東照宮の本宮よりは小さいです。しかし、ここは私のおススメです。なぜかというと~、東照宮は拝殿までは入れる。職員の説明も付く。が、人の集中する人気ポイントにはありがちな不満がある。本宮は、好きなようにゆっくり観られないんだよ~!!大量の観光客をさばくために、順次入れ替え制なのだ。まあ、1回1回が有料な平等院鳳凰堂とかとは違って、完全に追い出される訳じゃないんだけど、東照宮では説明は座って聞く。なので、1人だけ立ってる訳にもいかない。説明が終わった後にはわずかに自由に観られる時間もあるんだけど、私にはとても足りない。説明後のわずかな自由時間をゲットして自分の満足いくまで観ようと思ったら、何度も同じ説明と同じ冗談を聞かなければならない。御仮殿にはそういった制約がない。あと、普通の神社は拝殿と本殿の間はぱっきり分かれていて、外階段などでつながってるもんだけど、東照宮は「石の間」というスペースでつながっている。確か本宮の石の間は通常降りられないような記憶があるんだけど、御仮殿の石の間には自由に降りられる。もちろん、御仮殿は本宮のレプリカではないんだけど、建築好きには多分に欲求不満が残る本宮拝殿よりも、ゆっくり、好きなように、間近で内部を観ることのできる御仮殿はおトクだと思った。石の間付きだし。タダだし(笑)。そういう訳で、御仮殿は山内では地味な存在ではありますが、是非こちらも観てっていただけると嬉しいです。にほんブログ村
2013年06月22日

さて、透塀の続きです。「おんなじようなのばっかで見飽きた~」なんて言わないで、細かな装飾の違いをお楽しみくだされ 御仮殿は、参道より奥まった場所にあるせいもあって、ぶっちゃけ個人の観光客の集客率は低い。ツアーならあるいは寄ることもあるかもしれないけど、他にみどころが沢山あるしなあ・・・団体さんがここに来るかなあ・・・特に私がいた時は誰も来なくて、ましてやこんな透塀までいちいち観る人なんかいやしません。1間に2つずつ彫刻があるので数は多いし、正直言って、ここの写真を撮るのはホントに大変でした。ふうふう言いながら、ほとんど機械的にここまで透塀のすべての彫刻を撮ってきて隣の彫刻を写そうとしたらなにかヘン↓。 妙な覆いがかぶせてある・・・覆いの脇っちょには何か書いてあって、覗きこんでみたら 【(株)イーエム総合ネット 彩色暴露試験実施中 協力:(財)日光社寺文化財保存会】とあった。なんだかよくわからないけど、保存のために色々実検とか研究をしているものらしいな。 こうやって、一般の観光客の知らないところでひそかに地道に文化財の保存のための努力が重ねられてるんだね。この辺りがちょうど本殿の裏側だったかな。まだまだ透塀は続きます。 ちょっと雪が写りこんじゃってますが、この頃にはもうすっかり雪もやんで、陽が射してました。が、周りの木立から葉っぱに積もった雪がサラサラと舞い落ちてきてたので・・・こんな中を1人黙々と写真を撮りつづけるわたくし・・・なんてバカなことを考え付いたんだろうと相輪塔のところでも激しく後悔したけど、やってみようと決めた以上はできるところまでやってみないと気が済まない。さて、表参道に出ていた御仮殿への看板には「現在の社殿は寛永16年(1639)の建立」とありましたが、『謎と不思議 東照宮再発見』によると、実のところ現在の社殿の建立年代についてははっきりしていないらしい。元和2年(1616)4月17日、徳川家康死去。同年の10月に日光に東照社を建立することが決まり、11月17日、造営に着手。普請奉行は藤堂高虎と本多正純、大工棟梁は中井正清。翌元和3年(1617)3月15日、東照社竣工。それまで久能山にあった家康の遺骸が日光へ向けて出立する。4月4日、(故)家康が日光に到着。4月8日、東照社奥院に葬られる。4月12日、御仮殿にて仮殿遷宮。4月16日夜から、徳川秀忠参列のもと正遷座祭が行われ、明けて17日は家康の一周忌。後水尾天皇から「東照大権現」の勅額を賜る。という流れで、御仮殿は東照社の創建時からあったんだそうな。もっとも、初めから現在の場所にあった訳ではなく、もう少し南・・・現在の輪王寺の三仏堂があるあたりにあったらしい。気が付いた方もおられるかもしれないけど、当初は「東照宮」ではなく「東照社」。「社」が「宮」にグレードアップするのは正保2年(1645)のことで、東照社に院号が下賜されたことにより「東照宮」と改められた。元和3年の創建以降、黒田長政の石鳥居の奉納をはじめ諸大名による寄進が続き暫時境内は整えられていくが、秀忠による東照社の造営は現在見られるものよりももっと簡素な造りだった。それを大々的に美々しく大改造したのが、3代・家光。いわゆる「寛永の大造替」です。この時、御仮殿は寛永12年(1635)に他の社殿などよりもいち早く建て替えられて、あわせて場所も現在の位置へ移転した。なら、現在の御仮殿は寛永12年の建立なのかというと、どうもそうでもないらしい。『謎と不思議 東照宮再発見』によると、 【ところが、『東照宮御造営帳』の記載から推定される寛永大造替時の社殿は、 権現造りの特徴である石の間が無いなど、現状と大きく異なっている。従って、 今の社殿は寛永12年以後の再建ということになる。 それでは、今の御仮殿は何時、何のために建て替えられたのか。そこで意味を 持って来るのが、寛永15年の山内大火災である。】となっている。前回山内の火事について書きましたが、その中では寛永15年の罹災は「将軍御殿・大楽院など焼失」とあって、御仮殿が燃えたという記載にはなっていない。が、ここで御仮殿も被害にあったんじゃないかと『謎と不思議 東照宮再発見』は推測している。現に、翌年の寛永16年には御仮殿が移転したという記録があるので、ここで再建されたんじゃないか、と続けている。まあ、『謎と不思議 東照宮再発見』の初版が平成2年で私が持っているのが平成8年の増補改訂版だから、その後で何か決め手となる発見があって、現在では寛永16年建立と確定されたのかもしれないけどね。ただ、建築意匠などが寛永期のものと見られているようなので、あるいはその点をもって「寛永16年建立」としているのかもしれない。にほんブログ村
2013年06月21日

かなり遠目だけど、御仮殿の全景↓。 御仮殿の本殿および拝殿、唐門、御殿を取り囲む透塀、すべて重要文化財。あと前回の鐘楼もやはり御仮殿の附属らしく、こちらも重文とのことだった。で、今回は透塀が主役です。透塀はこんな風に、御仮殿全体を取り囲んでいる↓。 透塀の軒下にも華麗なる彫刻が施されておりまして、わたくし、これを全部撮りました。同じように見えるものでも葉っぱの形が違っていたりして、ビミョーにどれも違う。今回はこれを貼りまくります。手ヌキじゃないよ。元々、こういう写真をひたすら貼るためのシリーズだからね。興味ない方にはつまらないかもしれませんが、こんな写真を逐一貼る物好きもそういないだろうから(笑)、一緒にお楽しみいただければ幸いです。 これは、奥の本殿の方だったかな?↓ すごいでしょお~。写真のウデもあるけど、基本的に写真は実物にかなわないと思ってはいるものの、なかなか高い場所にある細部の装飾までを現地で堪能するのは現実問題として難しいので、こと日光に関しては写真でじっくり細かい部分を楽しむのもいいテだと思う。ただし、これだけの写真を撮るのは実際大変です。まだここまでで片側一面しか撮ってない。途中ですでに半泣きになりながら、ひたすら写真を撮ってました。 奥まで来たところで、息切れしながらちょっと休憩。ふと木立の方を見ると、なにかあった↓。 ひとまず一気に透塀を撮っちゃわないと・・・と後で寄ろうと思っていたのに、ここでかなり体力を消耗したのですっかり忘れてました。が、『謎と不思議 東照宮再発見』にこれについての解説があった。 【文化9年(1812)、大楽院(現在の社務所)から火災が発生。社殿への 延焼はくい止められたものの、廊下は火のトンネルとなり、これに接続した 宝物蔵に延焼。折悪しく、その時御本社は修理中で、通常は本殿内部に保管される 神宝類も、ここに移管されていた。 燃え盛る中、社家が飛び込んで、かろうじて数点の最貴重品を運び出した他は、 ことごとく灰燼に帰した。刀剣だけでも2百振が焼身となっている。この時燃えた 神宝類の灰を埋めた供養塔が、御仮殿の脇に建っている。】・・・とな。ま~、間が悪い時はホントにツイてないもんでね~。うちの母方はいちおう旗本の家系で、戦前はなかなか羽振りが良かったらしく、ジイちゃんは御神輿をポンと寄進したりしたそうなんだけど、先の戦争も終盤に入り本土への攻撃も激しくなってくると、お宝を防空壕に避難させたそうでね。ところが、東京大空襲で防空壕に火が入り、お宝全滅・・・うちは「開運!なんでも鑑定団」が好きで毎週日曜の昼に観てるんだけど、母親は人様のお宝を見ては「あの時焼けなければ、うちだって・・・」と何度も悔しそうにつぶやいてます(笑)。この文化9年の時運び出した「最貴重品」てなんだろ?東照宮の境内とは別の場所に、東照宮のお宝を収蔵・展示する「日光東照宮宝物館」がある。ここには1,000点にものぼる貴重な品々が納められていて、リーフレットには「主な収蔵品」として国宝6点、重文11点、県文1点のほか、御神宝として8点が列記されている。その御神宝が、御寝具および唐櫃(からびつ)だの、御綿入れおよび唐櫃だの御袷および唐櫃だの、なんかファブリック系のものが多い。うむ、選んでるヒマなくて、衣装系のものが置かれてる場所から唐櫃ごと火事場の馬鹿力で運び出したとか?まあ、最貴重品ってぐらいだから、東照宮の本殿の奥深くにしまわれてるかもしれないけどね。でも、宝物館には結構家康の御在世品ってのも展示されてるんだけど。たしか「御遺愛品」としてクマの小さな置時計とか、キセルとか薬研とかあったよな。あと、征夷大将軍の宣旨。これも宝物館で見られます。この辺のこまごましたものは、幸い別の場所に保管されてたのかね。しかし、五重塔も燃えてるし、結構山内で火災ってあったんだな~と思ったら、『謎と不思議 東照宮再発見』には東照宮の略年表が載ってた。「また火事の話?アンタも好きね~」と笑われようが、気になるものはしょうがない。てことで、この略年表の中から火災の記事だけを抜き出してみました。 寛永3年(1626) 11月16日、山内大火。本坊など焼失。 寛永15年(1638) 1月27日、馬町より出火、西町中大火。将軍御殿・ 大楽院など焼失。 承応3年(1654) 1月7日、本坊焼失。 貞享1年(1684) 12月13日、鉢石町より出火、東町中大火。同20日、 蓮華石町より出火して西町・山内に延焼。本坊・御成御殿・ 本宮・御旅所・僧坊など焼失。 天明6年(1786) 日光西町火災、日光奉行屋敷・目代屋敷延焼。 文化9年(1812) 12月30日、東照宮の別所大楽院火災。銅庫に延焼して 神宝・刀剣など多数焼失。 文化12年(1815) 10月16日、五重塔焼失。 う~~ん・・・結構あちこち燃えてる割には、お宝の被害は免れてきたのに、文化9年の時が最初にして最大の被害をこうむっちゃったワケだな。もう、ホントに間が悪いとしか言いようがないよね~。にほんブログ村
2013年06月20日

今日からまた数日、日光編を続けます。これまでの山内の記事については、カテゴリ「日光写真館」をご覧ください。今回のメインの目的はお護摩だったし、山内に来た時は必ずといっていいほど大猷院(家光の墓所)に寄るので、それを差し引くとあまり自由な時間はないな・・・ので、今回は東照宮は寄らなかった。お護摩が終わって、どこ見ようかな~って考えながら歩いてたら、東照宮の手前の脇道に「御仮殿」(おかりでん)の看板があるのが目に入った。 【御仮殿 (重要文化財) 特別公開中 御本社を修理する際にご祭神をお移ししてお祀りする御殿で、現在の社殿は 寛永16年(1639)の建立。仮殿が常設されているのは全国の神社の中でも 当宮のみであります。】そういえば、こっちの道ってトイレか何かに行くのに1度入ったことがあるかないかじゃないか?・・・たぶん、この御仮殿は見たことない気がするので、せっかく日光写真館を始めることにしたんだし、いっちょ行ってみるかあ~!と脇の道へ入ってみた。 道って感じの道でもないけど・・・(笑)。やっぱ、ここは来たことないな。杉木立の中、雪で滑らないように慎重に歩いていくとまずはこんなのが目に入る↓。 鐘楼のようだけど、がっちりガードされてて間近には見られない。が、こんな蟇股を見たら素通りもできない↓。 ので、撮れる限り撮りました。 ほう、素晴らしい・・・この鐘楼には何も解説はなかったけど、これも御仮殿の一部なのかな?長年通ってる中で私も1度も来たことなかったから偉そうな事言えないけど、どうやらこの辺りにはほとんど人が来ないらしく、鐘楼の周りの地面はユルい。山内には他にわんさと見どころがあるから、わざわざ仮の御殿なんか見なくっても・・・って思いがちだけど、どーしてどーして。さすがは日光、手ヌキはないッス して、ここからいよいよカテゴリ名の「日光写真館」らしくなっていきます。つまり、写真ばっか奥にあるのが御仮殿。まずは正面から↓。 ここに出る道の方がマトモな道だったようです(笑)。鳥居左脇には、四半敷になってる区画がある↓。なにかあったのかな・・・あるいは、昔はここに鐘楼でもあったかもしれないな。 立派な灯籠もある↓。これも誰かの奉納かな?くうう、ちゃんと銘を見ておくんだった こちらが御仮殿の入口↓・・・が、門がぴっちり閉まってる。内部は見られないのか・・・しょうがないな。でも外側から見るだけでも、相当なもん。 軒丸瓦は全部葵の紋↓。 こちらは裏側の破風↓。 小さな飾り金具のどれひとつ取っても、ホントに細かくて実に見事。素木の方が好きな私でも、ここまで来るともう好きとか嫌いとかってレベルじゃなく、ただ感嘆するしかない。でもなかなか現地では、建物全体に目を奪われちゃって細部までは見られないんだよね。よほど好きな人とかでなければね。けど、これほどの見事な芸術品をつるっと見てしまうのはあまりにももったいないから、できる限りの彫刻や意匠を紹介していこうとムボーすぎる野望を抱いたワケです。これで仮の御殿!?と金切り声を挙げたくもなりますが、仮だからと馬鹿にするなかれ。最初の解説にあったように、これも重文です。まさに、山内まるごと宝物庫。いやいや絶賛はともかく、まだ御仮殿の写真は続きます。にほんブログ村
2013年06月19日

こちらが経王寺の本堂↓。ここには日蓮宗橘がいっぱい。 広いし、緑は多いし、いいお寺なんだけどね~。前回書いたような状況だったので、まったりできるような雰囲気でもなく、これにて経王寺は終了今度は、日暮里駅の方に向かった途中にある本行寺へ。(場所はこちら) ああ、木がジャマ・・・仕方ない、脇から↓。 門の脇の土塀を見て、信長様が熱田神宮に奉納したという信長塀を思い出してちょっとニヤけながら撮影↓。 ここの瓦は マル本印だあ~ 【月見寺(本行寺) 本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に 神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。 景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人 (俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、 「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。 儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの 墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、 現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)本日のラストは、道灌さんでシメます。しかし、マル本の瓦を見てなんか古そうな寺だな~と思ったら、大永の創建とはね。大永6年ったら、尼子経久に鏡山城を奪われた大内義興さんが安芸の奪還に乗り出した頃だべ?(←何でも大内氏が基準になるヒト)大永6年に道灌さんの孫の太田資高を開基として創立され、太田氏の菩提寺となる。江戸時代には遠州掛川藩5万石を拝領した太田家とその一族の墓所となった。太田家とのゆかりが深い寺なので、太田家関連の書状なども所蔵しており、その中には天正11年(1583)7月29日付けの、羽柴秀吉から三楽斎資正宛ての書状もあるという。門前には著名人の墓があるよ~との石碑が出ている↓。 門の内側に回ったら、こんなかわいらしいお花の瓦があった↓。 境内には、「月見寺」の碑↓。 そして、第1のお目当て↓。 これでは碑文は読めませぬ・・・が、花見寺(青雲寺)・雪見寺(浄光寺)・月見寺とプラス富士見坂も備える諏訪台は眺望に優れた場所だから、道灌山城の存在は不確実であっても、道灌さんが本行寺の場所に物見を置いたというのは納得できる。近くにはこんな碑もあった↓。 「陽炎や 道灌どのの 物見塚 一茶」 要するに、一茶もここで道灌萌え~したワケね(笑)。仲間だ、仲間。こちらが本堂↓。 ・・・えらい、中国風だな。本堂にお参りしたところで、第2のお目当てへ↓。 【東京都指定旧跡 永井尚志(なおゆき)墓 江戸時代後期の幕府官僚、明治政府の官吏。「なおむね」とも読まれてきた。 文化13年(1816)11月3日三河奥殿藩主松平(大給-おぎゅう-)乗尹 (のりただ)の子として生まれた。25歳で旗本永井能登守尚徳の養子となり 嘉永6年(1853)海防掛目付に抜擢された。 安政2年(1855)我が国最初の海軍士官養成機関となった長崎海軍伝習所を 統監した。その後、初の外国奉行になり新設の軍艦奉行となったが、安政の大獄で 処罰された。文久2年(1862)軍艦操練所御用掛として復職し、京都町奉行を 経て慶応3年(1868)若年寄格として将軍徳川慶喜を補佐し大政奉還の 上奏文を起草した。 明治元年(1868)鳥羽伏見の戦に敗れ、函館に逃れたが、明治5年許されて 明治政府の開拓御用掛に任ぜられ、左院少議官、元老院大書記官を歴任した。 岩瀬忠震・大久保忠寛(一翁)らとともに阿部正弘に登用された幕府官僚の 1人である。】まあ、幕末ファンには説明はいらんでしょう。私の幕末の知識は龍馬さんが死んだところで終わってるので永井さんのその後については知らなかったんだけど、函館まで行って榎本武揚なんかと一緒に戦ってるのね~。永井さんの養子の娘の孫が、平岡公威(きみたけ)・・・ペンネーム・三島由紀夫です。学生の頃は三島ファンでした。わたくし(笑)。こんなとこに永井さんの墓があったなんて、調べててびっくりしたよ~。あと、「幕末の三筆」という市河米庵の墓の解説板もあったんだけど、その隣にあるのは ・・・これのことデスカ?欠けちゃってるみたいなんだけど・・・本行寺から日暮里駅へ下る坂は「御殿坂」といい、解説板が建ってた。 【御殿坂 西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。 江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺 (現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。 天保9年(1838)刊の「妙めを(みょうみょう)奇談」は、寛永(1624~ 44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の 御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。】ほう!小菅(こすげ)にも御殿があったのか。どうやらこれも鷹狩りのためのものらしいッス。三河島への「鶴御成」の際の御膳所には既存の寺があてられたし、「将軍腰かけの石」があった浄光寺なんかも御膳所だった訳だけど、わざわざ御殿を造ったケースもあったんだ・・・使用頻度の違い?それとも、近くには御膳所にできるような寺がなかったか。都内の地名に詳しくない方には小菅といってもピンとこないかもしれませんが、現在では小菅の地名は東京拘置所のある所として有名です(笑)。さて・・・地図を作っていた時に、この近くに「ショコラティエ イナムラショウゾウ」なる文字を見つけて、ショコラティエならお菓子やさんか・・・友達にちょいとおシャレな土産でも買えるかな?と思って目を付けていた店があったので、寄ってみた。御殿坂付近はかなりの人出で、浴衣姿の若者もちらほらいる。今日、お祭りでもあるのかな?諏方神社には屋台が出てたしな・・・人の間を抜けてお店のある住宅地へ向かったらば、シャレた外観の1軒のお店を発見。うわあ・・・日暮里にこんな店あるんだ~。降りたことなかったとはいえ、この辺て私の中では下町もいいとこ。古い町並みかと思ってたので、軽いカルチャーショックを受けた。中に入ってさらにびっくり。販売と喫茶店を兼ねてて、若い女性で店内はいっぱい。売ってる種類はそんなに多くはなかったけど、ショコラティエの店だけあってチョコ関係ばっかし。チョコが最高に美味しいって季節でもないんだけどな~人気のお店なのかな・・・とりあえず、持ち帰れそうな菓子はマカロンぐらいしかなかったのでそれを頼んだら、商品を包む時に「お持ち帰り時間は?」と聞かれた。やっべ~、要冷蔵かよ・・・しかし、「やっぱいいです」とも言えず、持ち帰ってきた。うぬう、どうしよう、コレ京都のセキュリティセンター長に送ろうと思ったのに。こんなちっこいのにクール料金かけるのも何だな~とセコい計算をして、結局自分で食べました。マカロンて好きじゃないんだけど、でも全部食べました(笑)。 彼女には今回、とげぬき地蔵のお札を頼まれてたんだけど、どうしたんだっけ、あれ?お札だけ送ったんだっけか?(笑)今回回った寺社は17(蓮華寺と勝林寺は除く)。しめて20,930歩。すべての行程が終了するとどっと疲れが出るのは毎度のことで、ショコラティエの店で私の思考はぷっつりと途切れました。大変なことに気が付いたのは、ぐったりして帰った後です。うわあああ、日暮里駅前にいる道灌さん(の銅像)撮るの忘れたああ~~~!!写真で見てもカッコいいから、すっごく楽しみにしてたのに2013年の墓参りまで道灌さん(の銅像)は持ち越しです・・・にほんブログ村
2013年06月18日

啓運寺を出て、諏訪台通りをさらに南へ。ここまで来ると、日暮里駅も近い。あともう少しでミッション完了だあ~。 通りの名称としては、「諏方」じゃなくて一般的な「諏訪」の方を使うのね。次にやって来たのが、延命院。(場所はこちら) 入るとすぐ、この碑がある↓。 【七面大明神と延命院の大椎 日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。 家綱出生の際に安産を祈祷した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、 甲州身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648)別当寺として 延命院を開創したという。 七面大明神には、胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、 仏師矢兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に 祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は 七面坂と呼ばれる。境内には樹齢600年を超えるといわれる大椎 (都指定天然記念物)がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ここも老女のゆかりか・・・やはり江戸だなあってカンジ。で、樹齢600年超というシイがこちら↓。 【東京都指定天然記念物 延命院のシイ シイはブナ科に属し、日本の照葉樹林の最も中心となる常緑高木である。 堅果(実)は、渋みがなく、やや透明な白色で食用となり、また庭園樹としても 広く利用されている。 延命院のシイは、天保7年(1836)開板の「江戸名所図会」巻五の 「日暮里惣図(ひぐらしのさとそうず)」に、現在地と思われる位置に 本樹の全容が描かれていて、当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが 伺われる。 かつては幹周り5.5メートル(平成9年調べ)の巨樹だったが、平成14年 (2002)5月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため 現在の樹形に保っている。】 (現地解説板より)大きいっちゃ大きいけどね。でもそれより、がっちり鉄棒で支えられてて、延命措置がおいたわしいってゆーか・・・延命院だけに(笑)。ここから境内を見ると ほう、綺麗にしとるな~。手前のお堂から見ていこうかな。 ここも橘か・・・と思ったら日蓮宗の紋なのか、コレ。辺りを見回すと、あちこちに日蓮宗橘がいっぱいついてる。 「新編武蔵風土記稿」によると、釈迦堂とか七面社とかいろいろあったようなんだけど、 どれが何だかよくわからないので、手前からずるっとご紹介します(笑)。 ↑これはちょっと日蓮宗橘とは違うけど、でも懸魚にも鬼板にもこれでもかってぐらい橘が入ってる。留蓋↓。あれ?今日、ここまでで留蓋見たっけ? 獅子(狛犬?)の留蓋はスタンダードだけど、同じようでどの子も結構違う。綺麗に写真が撮れると、その違いもわかりやすい。エアコンの目隠し↓。景観を保つのも大変だよな~といつも思う。って、こんなの撮るなって?(笑) 鰐口↓。ここのは柄がない。 今日見てきたお寺は再建で現代風の建物が多かったけど、ここの屋根は結構古そうで立派だったから、満足した。次に向かったのが、通りをはさんですぐお隣の経王寺。(場所はこちら) おお、すげえ立派な門~ 【大黒天 経王寺 経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655)、 当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために 寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には 日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を 広くあつめている。 慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、 新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。】 (現地解説板より)その弾痕の痕がこちら~↓。 左の面の、白くなってる部分。貫通はしなかったみたいで、ちょっと欠けてる程度。撃った距離にもよるでしょうけど、幕末だし、正面から本気で狙ったらこんなもんじゃ済まないんじゃ?今日ここまでの寺社めぐりでは、境内には施餓鬼のお客さん以外は拝観者らしき人にはほとんど会わなかった。が、駅に近いせいかこの門前には数人門を眺めてる人がいた。その中に珍しく、若い1人だけの兄ちゃんがいて、これは地元のおばさんにつかまって何やら色々説明されてた(笑)。富士見坂でのバアさんといい、若い人に色々教えたいって気持ちがあるんだろうな~。まあ、地元の古老の話ってのは時にびっくりするようなのがあるから、いいことだとは思うけどね。若いのにこんなとこに1人で来るってのは、やっぱり歴史とかに関心がある人だと思うし。しかし、あの兄ちゃんがいなかったら私がつかまってたかもしれん・・・苦笑いしながらおばちゃまの話を聞いてる兄ちゃんを横目に見ながら、これ幸いと撮影にいそしむわたくし・・・ おっとお~!蓮華文じゃんっ!!蓮華文の瓦は、古い時代のものに多い。別にここのがニセモノっていう訳じゃないんだけど、なんてゆーのか・・・蓮華文が主流だった時代で現存してる瓦ってのは、奈良とか特に古い時代のが残ってる寺にしかない。経王寺はもちろんもっと後の時代ではあるんだけど、それでも蓮華文が好きな私としてはこの軒丸瓦は嬉しい。蓮華文にも色々変遷があり、これは八葉単弁蓮華文ていうのかな。白鳳期以降のデザインで、初期のものよりは段々複雑になってきたタイプ。後世のものでも、蓮華文がこんなとこで見られるなんて嬉しいな まっすぐ行ったところが本堂らしい。が、まずは手前にあったお堂に寄り道。こちらが大黒天堂↓。 留蓋もあるし、結構古くていい感じ。あれ?ここの瓦・・・ 打出の小槌だ 大黒天堂だからか~。脇っちょにも↓。 実はこの時、お寺の中では大ゲンカをしてて、大変やかましかった。一方的に女の人がキイキイわめいてるだけなんだけど、どうも聞いてると洗濯物の出し方だか何かが気に入らないらしく、えんえん甲高い声で怒鳴り続けている。私が境内にいた間ずっと怒り続けていたから、ちいちゃな事であれだけ情熱を燃やせるってのもすごいよな~と感心したほどだった。でもね、お寺なんだしね、もうちょっと人目ってのを気にした方が・・・ にほんブログ村
2013年06月17日

養福寺の門を入ると、正面にこれが目に入る↓。金字の扁額は、山岡鉄舟の書によるものらしいです。 デカい仁王様がおられる・・・仁王門か。 養福寺の創建は元和6年(1620)という。本堂や観音堂などの建造物は戦災で失われたものの、宝永年問(1704~1711)建立と伝えられるこの仁王門だけは幸い焼失を免れたんだそうな。仁王門と中におわす仁王様はともに荒川区の指定文化財。ここにも施餓鬼の案内があった。が、養福寺では今日が開催日ではなかったらしい。仁王門をくぐると、裏側には二天がおわした↓。フェンスが張られてるからちょっと写りがよくないけど、ごめんあそばせ。 たぶん、上が多聞天で下が広目天だな。こちらも荒川区の登録文化財。遠目から見るとこうなる↓。 境内は割と広くて、緑が多い。こちらが玄関↓。建物は現代風だけど、大きな唐破風が立派。 鐘楼↓。 ちょっと銘は見えなかったんだけど、「新編武蔵風土記稿」には享保2年(1717)の鐘を掛けるとあるから、これがそうなのかな?建物は燃えても、鐘は残るでしょ~。いやでも、鐘は荒川区の登録文化財に含まれてないから、供出したかな?床は四半敷↓。 ・・・が、鐘の真下にぽっかり空いた穴に目がいく。今までこーゆーの、見たことあったかなあ?音響装置? 境内には石碑の類も沢山あったが、この方もおわした↓。 台座には『南無大師遍照金剛』とある。ああ、空海さんか・・・ 現代で「お大師様」といえば、一般的には空海を思い浮かべると思うけど、実は大師号を持つ人って多いんだよね。最初に大師号を賜ったのは、最澄(伝教大師)。他に大師号を持つ人で一般にも有名な名前を挙げると、円仁・円珍・良源・法然・親鸞・道元・日蓮・一遍・瑩山・蓮如・天海・陰元・・・と有名どころだけでもこんなにいる。だから、「大師」と入ってるだけではイコール空海さんということにはならない。じゃあ何で『南無大師遍照金剛』で空海さんとわかるかとゆーと、もちろん空海の法号を「遍照金剛」(へんじょうこんどう)と知ってる人にはすぐわかるんだけど、遍照金剛を知らなくても「南無」がついてるので真言宗だとすぐに見わけがつく。真言宗では密教のスーパースターである開祖・空海への信仰は篤く、高野山奥の院の霊廟では今も空海さんが生きているとされ、毎日着替えと食事が供される。自分を菩薩と信じた日蓮さんの名前を冠した日蓮宗でさえ、題目は「南無妙法蓮華経」、すなわち「妙法蓮華経(法華経)の教えに帰依します」。浄土宗なら「南無阿弥陀仏」になる。「南無」については以前「山口編(9)」でも書いたけど、「帰依します」って意味だからね。だから、「南無大師遍照金剛」といえば、「大師様に帰依します」ってことになるんだけど、実在の人物の名前(宝号)を唱えるのは、真言宗だけじゃないか?そう、空海さんは神様仏様になってしまったのです。まあ、理念としては空海さんを拝むことでその背後にあられる大日如来様を拝み、さらにはすべての神仏へつながっていくってことらしいんだけど。空海と最澄は同時代人ということもあり、星君と花形君のような永遠のライバルに見られるけど、現代人にとっては最澄より空海の方がメジャーと言っていいと思う。しかし、偉大な宗教人イコール偉大な教育者かというと必ずしもそうでもなく、日本仏教界における後世への影響度という点でいえば、空海は最澄にはるかに及ばないという歴史の皮肉が面白い。 この近くには、「弘法大師千百五十年遠忌」の碑も建ってた。真性寺にも沢山弘法大師遠忌の碑があったけど、今日も高野山では空海さんに着替えと食事が供えられてる一方で、1000年以上経っても忌碑が建てられるって矛盾が、なかなか凡人には理解しがたいところではありますが・・・ 奥の方へ行ってみたら、現代風の外観のお堂らしきものがあった。が、すぐ近くに張られたテントでジイさんが2人しゃべってて、遠慮なくこちらをジロジロ見て居心地悪かったので、気になるものだけ撮ってそそくさと戻ってきた。これがお堂の扉↓。足利家・・・(←違います)中におわすのは、如意輪観世音菩薩様らしい。あ、じゃあこれは観音堂か。 「新編武蔵風土記稿」によると、養福寺では弘法大師作の十一面観音と慈覚大師作の正観音を安置していたとあるけど、今もあるのかな?ただ、観音堂の入口には「御本尊 如意輪観世音菩薩」としか書いてないから、現存してたとしても、現在は空海・円仁の観音様は観音堂にはおられないのかもしれない。扉の脇には、こんな瀟洒なものが↓。 観音堂の外観を写そうとするとジイさんのいるテントまで入っちゃうので、全体の写真はありません。養福寺を出て、さらに南へ。次に寄ったのが、啓運寺。(場所はこちら) ここの境内はあっさりしている。建築はどれも現代的。が、本堂に掛かっている扁額の左はしの文字が気になった↓。 「始皇帝末葉」?始皇帝の子孫の秦さんが奉納したとかって意味?よくわからん・・・啓運寺の創建は元和だとか正保だとか天保だとかあちこちで色んな人がバラバラに書いていて、はっきりしたことはどうもわからない。が、元は上野・下谷1丁目にあったのが東叡山寛永寺の用地となったため引っ越しと相成り、さらに幕末に戦火にあい、現在地に移転してきたとのこと。幕末なら、彰義隊の上野戦争のことだな。歴史に興味のない人は、かつて上野公園で激しい戦闘があったなんて知りもしないでしょうけどね。ええと、ここへ来たのは、荒川区の登録文化財があるということだからなんだけど・・・このお堂の中かな?↓ ここの鰐口には柄がある↓。鰐口って普通は無地だと思うんだけど・・・ 穴から中を覗いてみた↓。 ここも橘紋か・・・この辺、橘多いな~。正面にはこの方がおわした↓。 望遠で撮ってるのであまり写りはよくないけど、ビジュアルからして多聞天っぽいな・・・きっとこれが、お目当ての「木造毘沙門天像」だろう。ここからではもちろんわからないけど、台座の裏には「寛政九年(1797)八月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘があるという。こちらの境内には、延宝8年(1680)銘の区内で唯一の日蓮宗系の庚申塔があるってことだったんだけど、前にも書いたようにこの時は庚申塔に興味なかったので探してません。書いてる今では、「見とけばよかったあ~」って非常に悔やまれますが、知識があるとないとでは見るところも全く違ってくるという、いい例ですにほんブログ村
2013年06月16日

浄光寺でのいちばんのお目当て目指して、いざ墓地へ。最初は道だったけど、すぐに完全な墓地になったので、頼政の数珠をぶら下げて教えてもらった方向へ進む。墓地を歩き回る時は、いつもこうして魔除けに数珠をぶら下げて歩く。「数珠に魔除けの効果あるのか~?」とかツッコミ入れないで。気分の問題です。特に今愛用の数珠は頼政の数珠だから、頼政が守ってくれると勝手に信じてる。ま、頼政だって死んでるんだから、死者に守ってもらうってのもおかしな話だよな~と時々自分でも笑ってますが。で、途中からは線路に面したガケに立つ墓の間を縫うようにして進む。道らしい道でもなく、ホントに墓の間の細道なので、こっちでいいのかな・・・と途中立ち止まったりしながらも、どうにか教えてもらった門まで辿り着いた。この門は、フツーの民家のお勝手口とかにあるような現代的な小さな門だった。こわごわ門を開けて入ってみると、そこにようやくお目当てを見つけた↓。 これが、前回の記事の解説にあった「将軍腰かけの石」です。穴が開いてる・・・元から開いてたのか?そんなに座りいいようには見えないんだけどいや、案外この穴が安定感あったりして(笑)。吉宗の御成(おなり)があったっていうから、てっきり吉宗が腰掛けたのかと思ってたら、隣にこんな石碑があって 『三代将軍御腰掛石』とある。あれ?家光なの?江戸幕府初代将軍の家康が大の鷹狩り好きだったことは有名ですが、孫の家光もかなり好きだったようで、鷹場の指定をしたり、鷹狩りの色々な制度などを整えたりしたそうな。5代・綱吉の代には「生類憐みの令」で鷹狩りもほぼ廃止されたが、それを復活させたのが吉宗。つまりは、家光も吉宗も浄光寺へ来たってことか・・・もちろん、吉宗以降は将軍の御膳所とされてるんだから、他の将軍も訪れた可能性もある訳だけど。ん?待てよ、ここって日暮里だよな・・・すぐ近くの三河島は、江戸時代、鶴が飛来する「代」(しろ)があった場所。将軍が朝廷に献上する鶴の鷹狩りを行う「鶴御成」は吉宗の子・家重から恒例になったってことだけど、たぶんそれは「鶴御成」の名称だとか、一連の儀式めいた手順が固定化した段階を指すものじゃないかと思うんだよね。三河島での鶴御成の際には、御膳所となった寺は現在の荒川区に2つ定められてたらしいんだけど、そちらの寺の由来を見ると、元文2年の吉宗の御成よりはもう少し後の時代のことらしい。だけど、鶴はそんな人の世の営みには関係なく、昔から三河島に飛来していた。てことは、家光も吉宗も、あるいはそのどちらかだけでも、浄光寺に来た中にはのちの世にいう「鶴御成」が含まれていたかもしれない。な~んてちょっと思った。(江戸時代の鶴の鷹狩りについては、「新高山城(22)」もご参照ください)この場所から見える東の風景はこんな↓。 今じゃ何の変哲もない都内の風景だけど、この腰かけの石は「江戸名所図会」にも描かれている。画像でしか見てないから、細かい文字までは読めないんだけど、どうも腰かけの石は高台の東面のはしっこに描かれているように見える。遠くには山が描きこまれていて、これも文字は読めないんだけど、まあ形と向きからいって筑波山だろうな。浄光寺のある諏訪台は眺望絶佳の高台だし、昔は遮るものもなかったから、今と同じような位置に腰かけの石があったんだとしたら、家光はここから見える東の風景を楽しんだんだろう。天気がいい日だったら、筑波山も見たかもしれない。日暮里の寺町めぐりをネットで公開してる人は結構いて、入口の解説に腰かけの石のことが書いてあるから、浄光寺に来た人はみんなその存在を知ってる。が、腰かけの石の写真を掲載してる人はほとんどいないから、実際にこれを見た人は案外少ないんじゃないかと思う。そりゃそうだよな~。案内板がある訳でなし、この場所は普通の人にはまずわからない。拝観の便を図るために境内の目立つところに置く訳でもなく、こんな本堂の裏手にひっそり置いたままってことは、昔からほとんど位置を動かしてないのかな。歴史ある場所から動かしたくないのかもな。そんな風に思った。まあ、動かしてない方がこちらとしても妄想に浸りやすくていいんだけど(笑)。さて、めでたくお目当てを見ることができて満足したあ~戻ろうとしたけど、腰かけの石の近くにあるこの灯籠がどうにも気になってパチリ↓。 銘はちょっとわからなかったけど、変なカタチ結構古いものかもしれないな。「たけのこの里」みたい・・・浄光寺を出て、次を目指す。通りにはこんな看板があって、なにげにお江戸ムードを演出している↓。 浄光寺の少し先にあるのが、養福寺。(場所はこちら) 【養福寺と文人たち 養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の 木食(もくじき)義高(享保3年/1718没)によって中興されたという。 江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、 その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」 などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の 四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、 畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」など さまざまな文人の碑が残る寺として知られている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)門前にはこんな碑があった↓。 「警火 警視庁 養福寺」ってある。アハハハ、南泉寺といい、なんか面白いな~。まあ、警視庁の「庁」の字が旧字だから、割と古くに建てられたものかもしれないけど、石碑って結構お金かかるでしょ?ただ、ここに現代風の「警火」の看板なんか建てたら確かに景観は損なうしな~。お寺さんも色々大変だな~と現実的なことをあれこれ考えてみる。入口の門にはこんな紋がついていた↓。 丸に二引き両と、輪違い紋。どっちが表紋かな?門を入るとすぐ左手に灯籠がある↓。 いちおう柵がしてあるので、銘は見られなかったけど割に古そう・・・ただ、笠の下にある火袋(ひぶくろ)の部分の紋様が星紋系の一種かな~と思うんだけど、どうしてもボタンホールに見えちゃって(笑)。門を入った正面には仁王門があってまず目を引くんだけど、仁王門の前にも灯籠がある↓。 おお、これは明らかに古そうだぞ~。2枚目の写真の方は側面に月があるから、正面のもやっぱり星なんだと思うけど、相変わらず私の目には3つ穴のボタンホールにしか見えず・・・(笑)。ここ養福寺には井原西鶴の先生にあたる人で談林派を残した西山宗因という俳諧の師匠を記念するために江戸中期に作られた灯籠があるという。これがそうかははっきりわからなかったんだけど、胴の部分には「門人」って刻まれてるから、おそらくこの灯籠のことだと思われる。さすが、文人ゆかりの寺だな。にほんブログ村
2013年06月15日

本殿域の右手、一段下がったところにも摂社がある。ここはちょうど線路沿いの崖の上に位置するので、山手線が下を通るのが見えた↓。 ふむ、見ようと思えば電車内からこの場所が見えるワケだな・・・この下段がいつからあったのかはわからないけど、道灌山城がここにあったとしたら、これも郭のひとつだったりしてね。で、奥にあるのがこちら、末廣稲荷神社・銭降稲荷神社↓。 銭が降るなんて気になるネーミングだけど、お稲荷様の由来を記した解説などはない。こちらにも狛犬がおわしたが・・・ はああ、頭の上、なにか載ってるう~!!特に2枚目の方の子は、目玉がぎょろりと上を向いてるから、頭に乗っけたみかんを落とさないようにバランス取ってるようにも見えるよそ様のサイトを見ると、この子たちもかなり面白い背中をしてたらしいが、まだこの時は背中までチェックする習慣はなかったので・・・ちぇっ、惜しいことしたなあ。けど、この写真でも変なシッポをしてるらしいことはわかる(笑)。で、この下段からは崖を下に降りられる道が付けられている↓。 【地蔵坂 この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、 諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が 安置されていることにちなむという。】 (現地解説板より)浄光寺は、諏方神社入口の手前にあった寺。この後で行きます。上に戻りまして、手水舎の前にはこんな立派な蔵のような建物がある↓。ここに御輿が収められているみたいだな。 このあたりからは、お隣の浄光寺のものらしい宝形造りの建物が見えた↓。 うおお、すげえ、チョ~古そ~。なんか出そう~(笑)。これで諏方神社はおしまい。歴史はあるし、為朝が出てきたし、摂社もよかったし、それになんと言っても狛犬がヒット揃いだったな~なんか、ここには狛犬ファンには人気の狛犬がいるらしいだけど、どの子のことだろう・・・クロちゃん?ローマン(ローマ)ちゃん?みかんちゃん?私はみかんちゃんが良かったなローマンちゃんで思い出したけど、日暮里の地名の由来の説のひとつに、「ナポリ」が転化したものだというのがある。その関係であんな風変わりなローマン狛犬がいるのかとも一瞬思ったが、あれを奉納したのは町火消の「れ組」だと台座に書いてあるからやっぱ違うか・・・(笑)。境内を出る前に、神社にふさわしい外観をそなえた立派なトイレ↓をお借りして膀胱の準備も済んだところで、お隣の浄光寺へ。 こちらが浄光寺の正面↓。 綺麗な幕がかかってるし、門前には車が沢山停められてるし、門を入った正面にはテントが貼られてる。ここも施餓鬼か?中に入ってみたら、案の定本堂には沢山の人がいて、お経が聞こえてくる。係員のような人までいるし、イベント真っ最中だな・・・ここには大きなお目当てがあるから来たんだけど、まずは入口付近から見ていこう。 【江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺) 山門をくぐって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。 元禄4年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ヶ所に六地蔵として 開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は 「地蔵前」ともよばれる。 浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の 別当寺であった。元文2年(1737)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、 同5年以降徳川将軍御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。 眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので 「雪見寺」ともよばれた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)門前にあるこれが、六地蔵らしい↓。 あれ?解説だと、山門の中にある銅造のがそれだとなってるよな・・・でも、これにも「六地蔵三番目」って書いてあるんだけど。山門は高麗門↓。自転車が写っちゃってちょっと台無しだけど、イベント中だからしょうがないよね。 ↑なかなか風格もあって立派な門なんだけど、この飾りを見た時、こーゆー細長いランドグシャを周りに貼りつけたケーキを思い出したわたくしなんて言ったっけ、あのお菓子・・・入ってすぐの右手にはお地蔵様が並んでいて、その奥には石仏のようなものがごちゃまんと詰め込まれ、さらに奥にひときわ目を引く大きな灯籠がある↓。 銘は見なかったけど、大きくて立派。結構古いもののようにも見えるけど・・・今度は、山門の左手。門のすぐ脇には、これがある↓。 恥ずかしながら、これを撮った時点(2012年7月)では一体なんなのかわかりませんでした。あまりやたらに道端のお地蔵様とかにお参りしたり、写真を撮ったりするのはよくないと言われていたので撮るのをどうしようか迷ったんだけど、やっぱり撮っておいてよかった。はい、記事を書いてる今ならわかります。手術後にも関わらず寄り道した、馬橋の香取稲荷神社のおかげで。成長したなあ、ワタシ。エッヘンこれは、庚申塔群ですね。庚申塔の存在自体は以前から知ってはいたけど、具体的にどういうものなのかは知らなかったし、正直言って興味もなかったので、諏方神社にあったという古い灯籠型の庚申塔も写真は撮りませんでした。が、諏方神社のもきっとこれと同じような形のものなんだろうな。左に並んでる普通の形のも、全部庚申塔ね。庚申塔群の奥におわしますのが、この方↓。 こちらは荒川区指定の有形文化財、銅造地蔵菩薩坐像。文化6年(1809)作。その隣がこちら↓。 こちらが解説にあった、江戸六地蔵のようです。荒川区の指定文化財。開眼は元禄4年(1691)といわれる。江戸六地蔵は1番目から順番に、駒込・瑞泰寺、千駄木・専念寺、ここ浄光寺・下谷・心行寺、上野大仏堂、浅草寺・正智院と続くそうで、このうち現存するのは専念寺と浄光寺だけなんだそうな。銅造りのせいか、そんなに古いようには見えないんだけどね。ただし、なにげにデカい。なにせ、約3m・・・この正面が本堂↓。ご覧の通り、卒塔婆がいっぱい並べられてるからやっぱり施餓鬼だな。 なので、本堂の中は見られませんでした。まあいいさ、私の目的は他にある。境内の目立つところにはお目当てはなかったし、左手の奥には諏方神社から見えた石造りの蔵みたいのがあるだけで境内はどん詰まり。右手の灯籠の奥をのぞいてみたけど、そこからはもう墓地で、お目当てのありかを示す案内板もない。う~ん、困ったな・・・アレはぜひとも見たかったんだけど。しかし、幸い本堂の下に張られたテントには施餓鬼のお世話係のおばさまが数人いたので、ダメ元でちょっと尋ねてみた。そしたら、墓地をずっとずっと奥へ回り込んで、さらに門を開けて入った本堂の裏手にあるとのこと。おばさまは親切な人で、丁寧に道を教えてくれたんだけど、聞いてるうち不安になってきて、「あ、あの・・・門を開けて入っちゃってホントにいいんですか!?」って念押ししたら、「大丈夫よ~。ただ、本堂では法要をやってるから、静かにね」って快くGOサインを出してくれた。うおお、ラッキー!!教えてもらわなかったら絶対にわからない場所だから、諦めてすごすご帰るしかなかったよな。施餓鬼サマサマ、おばさまサマサマだわにほんブログ村
2013年06月14日

本殿へ参拝する前に手水舎に寄ってみた。全体の写真がないけど、ここには素敵な彫り物が沢山あったので、細部はバシバシ写真を撮った。 結構いいっしょ~!!ああ、千社札剥がしてえ手水舎にこれだけの彫り物があるってのがびっくりしたね。フツーの神社かと思ってたけど、やっぱり格がありそうな・・・が、この素晴らしい手水舎は実はかなり現代的で、「龍口に近づきますとセンサーの反応で水が出ます」と貼り紙がしてある。 この龍の口から出るのかな?↓記憶にないってことは、たぶんお清めはしなかったんだな(笑)。だって、なんかフタがかぶせてあるし。 で、こちらが拝殿↓。 おお、立派じゃないか・・・こちらにも狛犬がおわします。が・・・ すげえな、これ・・・なんかローマ人みたい都内の狛犬も、結構掘り出しモノ・・・てか、変わりダネが多いかもしれんな。後ろ姿も、実に変わってる↓。 ビミョ~にかしいでるとこがまた、妙なリアル感があるってゆーか・・・背骨出てるし。シッポさえなかったら、古代エジプト風のヅラかぶった人間が胡坐かいてるみたい(笑)。パンパンしてから内部を覗く↓。 お供え物も沢山あがってるし、立派な本殿だな。この中に掛かっている扁額に「諏方神社」とあることから、こちらでは表記を「諏訪」ではなく「諏方」としているともいう。境内には、社名についての解説もあった。 【「諏方神社」御社名に就いて 当社は、信州・諏訪大社の御分社ですが、御社名は「諏方神社」と申し上げます。 この「諏方」は古来の表記であり、御社名や古文書等に使用例を見ることが できます。 抑も信州・諏訪地方は往古、「洲羽」「須波」などと表されていましたが、 和銅6(713)年の”畿内七道諸国郡郷の名は好き字を著けよ”(続日本記)の 制以降「諏訪」となったようです。しかし中世から近世にかけて「諏方」の 表記も併せて多く用いられるようになり、その傾向は国の記録や公の文書にも 及び、大社に納められた奉納の品にも見られました。 こうした中、天保5(1834)年、諏訪・高島藩に於いては「諏訪」と書く旨 指令が出されるという動きもありましたが、近年に至り全国的に地名、人名 などに於て「諏訪」が通常の表記となり、御社名などに残っていた「諏方」は 使われなくなっていったようです(現在、御社名としては、全国の御分社 八千有余社の内数社にみられます)。 当社におきましては、所蔵する元禄時代の軸(細井廣澤書)に「諏方大明神」と あることに拠りまして「諏方神社」を御社名としています。】 (漢数字は戦国ジジイが変換。それ以外は原文のまま)拝殿の蟇股↓。 では、拝殿脇の摂社をご紹介~。まずは、「三宝荒神社」↓。 造りは新しいけど、ここもなにげに細かい彫り物がある。カメちゃん↓。 懸魚↓。これは何の鳥だろう・・・尾っぽはクジャクみたいに派手だけど。 蟇股は龍↓。 正面にも龍↓。 社の脇っちょ↓。松と・・・懸魚と同じ鳥がいる。鶴って、こーゆー羽してないよな? その奥が三峰神社↓。 石造りだけど、垂木とかまでちゃんと造られてる。 うん、これは秩父の三峰神社からの勧請だな。ここまでは、拝殿の向かって右側。左側をのぞいたら、渡り廊下の向こうにも宮が見えた。この廊下の下はかなり低いので、思いっきり腰をかがめてくぐっていった。ああ、また不審者みたい・・・ 奥にあったのがこちら↓。御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神とある。 この付近には、諏方神社の縁起も書いてあった。 【諏方大明神略縁起 源義朝家臣豊島兵四郎、義朝落命後の永暦元年(1160)生国信州下諏訪に蟄居、 諏訪明神を信心し、再び源氏に忠勤せんと願うも病に相果てり。子息平六郎 困窮甚だしき余り、家の再興を諏訪明神に祈誓せるに霊夢あり。現れたる貴人の 宣託に従いて湖水に向かうに、水中より光の発するを見、潜りてその元を尋ねるに 御神体と思しき物を得。 平六郎之を祀りて朝夕信心せるに家は漸く栄え、治承4年(1180)の 頼朝挙兵に於ては軍功数度に及び、此れに仍って元久2年(1205)、 武蔵国中豊島郡を領地に賜る。是より豊島左衛門経泰と名告り、信州より遷奉る 御神体を東の方、山麓に奉祀せり。 扠、嫡子左近太郎の代に至りて家は没落せるも社は其の儘に在りしが、或る時、 盗賊の押し入りたる事有り。御神体を持ち手逃げ去りしが、途上、俄かに 立ち竦みたるに、土民此れを取り押さえ、御神体を社へ遷し奉りき。 土民等此処を以て其の神徳を敬い、産土神と仰ぎ奉れり。その後時を経、 山上開削されし折、麓より当地に遷し奉りき、と伝えたり。】う~ん、なるほど・・・つまり、信州の諏訪様は源家とのゆかりがあるってことね。そーゆー縁で為朝の人形が造られたのかもしれないよな。まあ、一般的に一番メジャーな源家のヒーローは義経だし、ほかにも色々いるんだから、なんで為朝をチョイスしたのかはナゾですが(笑)。 にほんブログ村
2013年06月13日

富士見坂を上がりきったとこから下を見下ろす↓。 おお、こっちにも坂の下と同じように道路に富士山がそびえてるう~。 【富士見坂 坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と 呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことが できる坂である。】 (現地解説板より)えええ~、ここから今でも見えるの?マジで?でも、この解説の下には「関東の富士見100景」って看板もあるし、まあ条件のいい時なら見えるのかな・・・して、解説の付近のフェンスには、なにやら手書きの紙が貼られている。 【お願い。 富士山を見に来た、皆さんにお願いがあります。 わたし達・僕達の大好きな富士山がここから見られなくなると、大人の人達から 聞きました。 ”原因”は、新大久保という所に新しく、大きなビルが立ってしまうからです。 わたし達・僕達では何も出来ないので、”協力”して下さい。 (高くしないで下さい。) 石原東京都知事に、お手紙を書いて下さい。そして、石原都知事もここに来て、 わたし達・僕達の大好きな富士山を見てほしいです。東京で最後の富士見坂を 守って下さい。 日暮里・谷中・千駄木子供代表】 (句読点が多すぎて適度にカット。あとは原文のまま)う~~ん・・・富士見坂の上から見渡せる範囲ってのは写真の通りかなり限られているので、遠くの新大久保にビルが1コ建った程度で見えなくなるってことは、肉眼だと富士山は相当ちいちゃくにしか見えないってことなんだろうな。上の「お願い」には年月日が書かれてないので、これを見た時点(2012年7月)で富士見問題はまだモメてる最中なのかどうかもわからない。が、地元の景観を愛する子供達が立ちあがったってことだな。富士見坂から富士山が見えなくなったら、「関東の富士見100景」から外さなきゃなんないしね。その後、どうなったんだろう・・・さて、ここからは線路に平行する高台エリアの寺社を回ります。まずは、諏方(すわ)神社。(場所はこちら)ここと、その北にある西日暮里公園にかけてのあたりが道灌山城のあった場所と推定されてます。 ↑この写真の右側にも寺がありますが、まずは奥の諏方神社の境内へ。 【諏方神社 信濃国(長野県)上諏方社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。 当社の縁起によると、元久2年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。 江戸時代、三代将軍徳川家光に社領5石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として 広く信仰をあつめた。 旧暦7月27日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御(みこしとぎょ)が 行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の 郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。 拝殿の脇には元禄12年(1699)銘・元禄14年(1701)銘の灯籠型の 庚申塔が並んで建てられている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)「新編武蔵風土記稿」によると、「一寸許なる薄黒き円石を神体とす」とな。家光より古い文安年間に太田道灌が社領を寄進したとの説もある。でもこの場所は道灌さんの出城があったとも言われてるんだから、それなら出城を廃した後に寄進したってことになるのか?ちょっと道灌寄進説は無理があるような気もするけど・・・ここから南へ通じる道は「諏訪台通り」。これは諏方神社から来ている名称だと思うけど、字が違う。「すわじんじゃ」って言ったら、フツー「諏訪」と思うよね。「諏方」ってのは古い表記で、昔はこちらの名称の方が多かったんだって。それが現代ではほとんどが「諏訪」の表記になり、現在1万ほどもある諏訪神社の中で「諏方」としているのはわずかに3~4社ほどなんだそうな。では、中へ。 人はまばらだけど、境内の奥の方にはちょうちんのカーテンがぶら下がってるし、屋台もあるし、テキ屋の兄ちゃんみたいのが数人いる。屋台っていっても営業中ではなく、準備中か撤収中といった風情。普通の参拝者はほとんどいないから、木が繁ってちょっと薄暗い境内でテキ屋系兄ちゃんばっかりだと、なんかちょっとやだな・・・落ち着いて見られるかな・・・そんなことを思いながら参道を進んで行ったら、道の脇に目の覚めるような狛犬がいた↓。 うおおお~ッ、なんじゃこりゃ!!身体、黒いんだけど!口、赤いんだけど!よく見たら、鼻の穴まで赤く塗られてるなんだコレ・・・ずいぶん斬新なデザインだな~。その向かいあたりにはこれがあった↓。 由来とかは何も書いてないけど、まあ忠魂碑ったら忠魂碑でしょう(笑)。 本殿に向かう前に、まずこの建物が目についた↓。 【源為朝公の山車 この人形は山車にしつらえ御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた 「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(1854~1860)と あるが作者は現在不詳。 当時の日暮里諏方様の山車は、江戸の中で最も有名であり且格式の高いもので あった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が 勢揃した。その勢揃の順位が三番目、道中鳶頭連中が木造りと芸者の手古舞を、 二頭の牛車が引いて参列し絢を競ったといわれる。 明治の終わり頃迄は本祭りのたびに牛と子供連中に曳せたが、その後土地の発展に 従い電線等により不可能となり、氏子有志が組織した「祖祟会」が維持管理し 人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したが その痛みが激しく、このままでは朽ち惜しいということで、金子正男・工藤三郎 両氏相計い昔日の姿に復元したものである。】 (現地解説板より。原文のまま)た~め~と~もお~~~!?いや、まさかこんなところで為朝の名前が出てくるとは・・・!!為朝の生涯についてはここでは書きませんが、頼朝の父・義朝の弟。なので、頼朝・義経にとっては叔父さんにあたります。ま~、義朝の兄弟ったら個性派揃いでね(笑)。義朝の弟は5人いますが、うち義賢(よしかた)は木曽義仲のオヤジ、行家はのちに令旨を持って精力的に各地を回って平家打倒のハッパをかけて回ります。で、為朝といえば・・・一口で言って、暴れん坊?幼い頃から剛勇で鳴らし、身長は七尺ほど(2m10cm)の大男。私が為朝のことを知った時大笑いしたのが、左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かったというエピソード。体格に恵まれていたせいもあって、生まれつきの強弓の名手だったという。12cm違うって結構だよね。為朝が洋服を着る時代に生まれてたら、合う洋服がなくてさぞ難儀したことだろう。特注か母ちゃんに縫ってもらうしかないよな(笑)。やんちゃパワーは兄達に対しても向けられ、もてあました父・為義から豊後に追放され、一時鎮西(九州)に住んでた8番目の子ってことで鎮西八郎の名で呼ばれる。まあ、別に日暮里が為朝ゆかりの地って訳じゃなく、為朝の人形があるってだけの話なんだけど。ただ、この解説はあっても残念ながら為朝の人形が見られる訳じゃない。復元されて、今はこの中にあるってことなのかな・・・にしても、牛車で曳いたとか芸者が出たとか、江戸の名残だなあ~ってカンジ。山車にも格式があるのね。神社の格で決まるのかな?でも、大きい神社なら他にもいっぱいあると思うんだけど・・・勢揃いした山車の1番手と2番手はどこの山車だったんだろ?にほんブログ村
2013年06月12日

修性院のすぐ先にあるのが、法光寺。(場所はこちら) 門の手前には、これがあった↓。 【慰霊碑由来 ノモンハン事変以来終戦に至るまで陸軍少年飛行兵として戦野に赴きし者 約4万5千にして空陸海に散下せし者数うるに限り無し 依って生存者遺族有志等相い集うて慰霊の誠を捧げんとして是を建立す 行き交う人々心あらば一遍の回向を賜らんことを】 (慰霊碑隣の解説より)1970年だから、戦後だいぶ経ってから建立されたものらしい。手を合わせてから中へ。 境内はそう広くはない。日照山法光寺は通称・富士見坂法光寺。慶安3年(1650)赤坂に開基。四谷坂町へ移転、その後明治期に入ってから現在地へ移転したとのこと。ここには尾張柳生家の墓があるらしい。 本堂は宝形造・・・一見、本瓦葺っぽいけど、ちょっと違う。私が境内に入った時、屋根に沢山カラスが止まってて面白い光景を造り出していた。本堂に近寄ったら1羽、また1羽と飛び立ってしまったが、それでも肝の据わったのが2羽だけ残ってくれた↓。 おっしいな~、右端にもう1羽残ってくれたら完璧だったのに!(笑)本堂の蟇股・・・の役目を果たしているもの↓。 木鼻はこんなの↓。 これが寺紋かな?↓ 留蓋~↓。 おお、これはカッコいい・・・火焔立つ宝珠、とでも言うのかな?法光寺のすぐ隣には、南泉寺がある。ここは、ちょっと楽しみにしてたんだよね~。なぜかというと、これがあるからなのだ。 【美濃遠山氏の聖観音(南泉寺) 山号を瑞応山と称する臨済宗妙心寺派の寺。元和2年(1616)徳川家から 境内3200余坪を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた 老女岡野の遺言により貞享3年(1686)朱印地30石を賜った。 本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家紋、 「遠山家 息心庵本尊、正観音菩薩、安政四年丁巳七月十日」の銘がある。 上半身等に江戸期の補修が加えられているが、鎌倉期の作と推定される。 その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。 境内には、菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)これね、所蔵はしてても、たぶんふらっと行ってつるっと見られるようなもんじゃないと思うんだけど、もしそうだったとしても、この美濃遠山氏の観音様(荒川区登録文化財)を、拝観できるか聞いてみようと思ってたんだよね。で、楽しみにしてた訳ですが・・・まず、青雲寺に続いて今日2つめの臨済の寺だな。こんなとこに臨済の寺があるってのがまず(私には)驚きだったんだけど。日暮里界隈の寺社は、今はそんなに有名じゃなくても著名人とのゆかりを持つ歴史のある寺が結構あるんだけど、こちらもなにげに立派な歴史をお持ちです。まず、開山は大愚和尚。元和2年というと、秀忠の時代ですね。石高は30石。それと共に寺紋に葵を拝領。妙心寺輪番住職を勤め、格の高い紫衣と宮中への参内を許されていた。徳川家の信仰と庇護を受けたことにより、寺格はかなり高いものであったようです。中興開基は老女・岡野。老女ったって、バアさんのことじゃないですよ徳川家光・家綱の3代・4代将軍に仕え、化粧料として300石を賜った。岡野さんは延宝4年(1676)7月13日に73歳で亡くなったが、遺言により朱印30石を南泉寺へ寄進したという。岡野さんの墓もこちらにあるそうな。「新編武蔵風土記稿」による寺宝は、 厳有院殿(徳川家綱)御書一軸。達磨を書かせ給ふ。 朝鮮国王所持扇一本。象牙の平骨にて人物山水等を彫刻す。小骨10本は加羅なり。 地紙惣金表面に山水、裏面に梅鳥を墨にて書く。を延宝年間に拝領したとある。さて、そんな歴史を踏まえながら中へ入ろうとしたら、門の外にはこんなのがあった↓。 お、おお・・・!交通安全・火の用心、どちらも大事なことだよな、うん・・・渾身のパンチを軽くかわされた感がなきにしもあらずだけど、気を取り直して中へ。 ほう・・・どこも境内は綺麗にしてるな~。 しかし、やはり立派な唐破風の玄関が目をひく。 おっ!葵の紋はっけ~ん ただ、葵は葵でも「家紋大全」によるとこれは「松平三つ葵」って紋らしいな・・・けど、将軍家の「徳川葵」にも変遷があるらしく、後期のタイプともよく似ている。ま、いずれにせよ徳川家から公認された寺紋てことだよな。あと、大きくはないけどなかなか立派な灯籠があった↓。 「松桂院殿石灯籠」って刻んである。年月日の部分を撮らなかったし、「松桂院殿」がどなたなのかはわからないんだけど、名前からして身分のある方の寄進なんだろうな。さて・・・境内をひととおり見終えたので、美濃遠山氏の聖観音(てか、家紋入りの厨子が見たかったんだけど)を見せていただけるか尋ねようとしたものの、境内に拝観者は私1人だし、お寺の中もし~~~んと静まり返っている。お留守かな・・・いや、中に誰かいたとしても、これだけ静かな中をピンポンして邪魔するのもなんかためらわれたので、やっぱり声をかけるのをやめた。南泉寺を後にして、今度は東の高台の方へ向かう。たしかこの道を上がってったんだと思います。ここは「富士見坂」。綺麗にタイルが敷き詰められてるだけかと思ってフツーに坂を上がりかけて、ふと気がついて数歩戻ってみた↓。 おお、このタイル、富士山をモチーフにしてるんだ!!そっか、富士見坂だもんな~。で、先に進もうとしたら、法事のようなカッコをしたバアさん・・・いへ、初老の上品なご婦人に声をかけられた。あ、「上品な」ってのは別に取ってつけた訳じゃなく、ホントに品のよさそうな人だったからでね(笑)。そのバアさんも途中まで同じ方向に行くらしく、話をしながら・・・もとい、一方的に話をされながら一緒に富士見坂を上がっていった。まあ、このバアさんが口グセなのか「あなたね~」を連発する人で、ちょっとイラッとしちゃったんだけど、この辺の出身の方で茨城の方へ嫁に行ったらしい。ついでに卒塔婆を抱えてる謎の人達のことを聞いてみたら、この日は施餓鬼(せがき)の日だったらしい。なるほど、それであちこちで卒塔婆を担いでる人達がいたのか・・・このバアさんは、私がよほどバカな物知らずに見えたのか(否定はしませんが)色々ウンチクを披露してくれた。その中で、「あなたね~、日暮里の地名の由来を知ってるの?」って言うから、いくつかある地名の説の中でいちばんメジャーな「ええと、日が暮れても見飽きない日暮らしの里から来てるって言いますよね」って答えたら、「違うのよ、あなたね~」って話し始めてくれたんだけど、何て言ったんだっけか・・・(←やっぱりバカ)確か、どこかからちょうど日が暮れる距離の場所だって言ってたような?江戸城?いや、江戸城から日暮里まで1日もかかるワケないよな~。富士見坂は途中からかなり急になる。バアさんは話づめだったからかなり息も切れたんじゃないかと思うんだけど、それでも口は休めなかった。私も、耳は傾けながらも周りの観察と撮影は休まない↓。 おお、これにも真ん中に富士山があるぞ。日暮里の地名の由来としては他にも、太田道灌さんが新しく堀を掘ったことから「新堀」と呼ばれ、それが日暮里に転化したって説もあるんだけどね。そんなで2人で息を切らせながら坂を上がり、私はここからまた寺社めぐりが続くので、これから帰るというバアさんにお礼を言って別れた。ちょっと口調はイラッときたけど、自分の生まれ故郷に愛着があって色々教えたかったんだろうな~とバアさんの背中を見送りながら思った。にほんブログ村
2013年06月11日

※「道灌山城」の続きです。西日暮里駅から道灌山通りを西にちょっと行ったところから脇の細道に入る。この道は「六阿弥陀道」というらしい。いよいよ寺社めぐりが始まるぞお~今回、どこへ寄ろうか考えていた時に「道灌山城はどうかな?」って思って地図を見たらば、ま~この辺てば寺社があるわあるわ・・・日暮里や西日暮里なんて通過するだけで、1度も降りたことはなかったので、ここにこんな寺町があったなんて知らなかった。ので文句なく日暮里界隈を回ることに決定。ここから、南にある日暮里駅まで寺社を見ながら1駅分歩きます。寺社が沢山あってとても全部は回れなさそうだから、由来や歴史などから行き先を決めてって、いくつかカットもしてはいるものの、それなりの数は予定に組み込んでる。わたくしのペースと体力とこの暑さで、果たして半日でどこまで予定をこなせるものか・・・まあ、こなせなくてもまた来年来てもいいんだしな。てことで、最初の寺は青雲寺。(場所はこちら)六阿弥陀道をさらに脇に入った奥に寺の入口があった↓。 【滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺) 青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(1751~64)、 堀田相模守正亮(まさすけ)の中興と伝える。 江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、 四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺 (修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。 現在、谷中七福神のひとつ「恵美寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の 筆塚の碑(文化6年/1809)をはじめ、硯塚の碑(寛政10年/1798)、 日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が 多く残っている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)江戸の政治家はあまり知らないんだけど、堀田って幕府老中とかを務めたあの堀田だよな・・・と思って調べたら、やはり正亮さんも老中首座を務めた人とのこと。出羽山形藩3代藩主、のち国替えとなり下総佐倉藩初代藩主。ま~、この人は子だくさんなんだけど、娘はそれぞれ榊原・本多・松平・大久保・間部だのなんかすごいお家へ嫁いでる。まともに系図とか書いたら大変そうだな~って思ったで、こちらが本堂↓。桟瓦葺、一重の裳階(もこし)つきかな。 唐破風造の玄関↓。 玄関の瓦が あらあ、素敵~!と思ってその下の兎毛通(うのけどおし)にカメラをずらしたら、 え~と、真ん中の白いのは、ハートを重ねたような形でこれも猪目(いのめ)の一種です。が、てっぺんの部分がやけにうにょ~んとなっているので、ここにふさわしくないモノをつい思い浮かべてしまった不謹慎なわたくし・・・(笑)。境内には、安井金毘羅さんの碑もあった↓。 今はお堂がある訳ではなく、この碑しかないんだけど、かつては境内の鎮守だったそうな。ただ、「安井」とあるので、これが上の解説にある狂歌師の安井甘露庵の碑なのかな?で、左に途切れて写ってるデカい石碑、これが「船繋松の碑」らしいです(←まともな写真がない)。「新編武蔵風土記稿」によると、昔は金毘羅さんの他にも観音堂・秋葉・熊野・稲荷・浅間・弁天・大黒・恵比寿・布袋堂等などがあったそうで、青雲寺は日暮里花見寺三寺のひとつでもあるし、谷中七福神の恵美寿様もあったので、多くの江戸庶民に親しまれてきたのかな~と往時のにぎわいを想像してみる。ちょっと今からじゃ想像つかないけど、江戸時代はこの辺て人気のレジャースポットだったらしいんだよね。が、沢山あったこれらのお堂は文化4年(1807)に焼失したそうで、以来再建はされなかったという。で、こちらが解説にもあった滝沢馬琴の筆塚の碑です↓。 石碑の左にある標柱の側面には、何やら解説が書かれてる。 【戯作者滝沢馬琴(1767~1848)は精力的な著作活動のうちに多量の禿筆 (とくひつ。使い古しの筆)を残した。これを供養するため、文化7年(1810) に築いたのが筆塚である。文化6年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちと 業績が記されている。額字の「ふでをうずめし つかのめい」(=原文は漢字)は、 国学・漢学・考証学者で著名な狩谷えき斎筆。由来は儒学者亀田鵬斎が撰文し、 自ら筆をとった。 日暮里と文化人とのかかわりを知る上で貴重な碑である】歴史ある立派な史跡で標柱も建ってるんだけど、木の陰にあるし、筆の形してるとか目を引くデザインて訳でもないので、見るつもりで探さないとちょっとわかりづらいかも。それに比べると、こちらはインパクトがある↓。 こちらも植え込みと同化してる感はあるけど、誰が見てもわかるこのデザイン、これが硯塚だな青雲寺はかつては寺の北東にある西日暮里公園のあたりまで境内だったそうで、文化~文政の頃に諸堂などを失ってからは次第に衰退していったものが、明治期に入って再建されるにあたって寺域を一部手放したという。その際、石碑などを境内に移したそうなんだけど、筆塚・硯塚は元はこの場所にあったものではなく、元の場所を発掘したら古い筆や硯が出てきたんだそうな。船繋の松も、境内東のガケにあったものだという。その昔は入海がここまで来ていて、船をつないだとも航行の目印にしたともいわれる。青雲寺を出て、六阿弥陀道を南へ。細い道を少し行くと、卒塔婆をかついだ人達がちらほら現れ始めた。なんだ?葬式か法事でもあったのかな・・・さらに進んで、寺っぽのが近くなってきたあたりでピンク色の壁にこんなのがあった↓。 えっと・・・・個人的には、あんまりなごむってカンジじゃないんだけど・・・こーゆーのをいくつも見た先に、次のスポット、修性院があった。(場所はこちら) 【日ぐらしの布袋(修性院) 修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。 谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって 江戸市民が行う年中行事の一つであった。 江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、 江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(現、身延山関東別院 玉川寺)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい 庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。 境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣サク碑がある。】 (現地解説板より)へ~え、谷中の七福神て、そんなに有名なものだったんだ。そうか、布袋さんを祀るからあの壁の絵なワケね・・・「日暮里」の地名は、この「日暮らしの里」からきているともいわれる。 境内に入ってみたら、手に手に卒塔婆を持った人達であふれかえっていた。 ↑これは一通り卒塔婆を配り終えた後みたいで、これでも落ち着いた方。でも、後片付けやら何やらでワタワタとなかなか人が去らなかったので、修性院はこれでおしまいにした。修性院は法華宗。天正元年に田中村(どこだ?)から移転してきたという。「新編武蔵風土記稿」によると、ここには聖徳太子と毘沙門天の像があるそうで、毘沙門天は伝教大師の作と伝えられているとのこと。ま、境内はご覧の通りでしたので、本堂の中は覗けませんでしたけどね。一体、何のイベントなんだ?↓ランキング参加ちう~。「ぽち」っとお願いしま~すにほんブログ村
2013年06月10日

道灌山城<東京都荒川区西日暮里>(住所をクリックするとMapfan webにリンクします)※「プチ日暮里編(6)」の続きです。JR西日暮里(にしにっぽり)駅を降りて駅の西側に出ると、小高い丘状の地形になっていて、この辺りを道灌山という。上記のリンク先を見ていただくとわかるように、西日暮里駅を通って西にある不忍(しのばず)通りへぶつかるまでの大通りは「道灌山通り」だし、周辺には「道灌山」の名を冠したマンションだとかがいくつもある。この道灌山に、太田道灌が砦を築いたといわれている。最高所は西日暮里駅すぐ南にある諏方(すわ)神社。諏方神社からその北にある西日暮里公園あたりにかけてが、道灌山城のあった場所と推定されているようです。西日暮里を電車で通ることのある方は、東京駅から池袋方面に向かってった場合、左側の駅の向かいに高台がありますね。あれがそうです。諏方神社の境内の端っこから駅を写すと、こうなります↓。 同じく諏方神社境内から、東側を見たところ↓。 下を通るのは、JR山手線。今はビルがあるから見晴らしいいってほどでもないけど、昔はもちろん高層建築なんかはないから、この程度の丘でも結構見通しはきいたんじゃないかと思います。この斜面も当時のままではないかもしれないけど、現在でも上から見下ろすと、高台程度の比高でありながら、結構斜面は急。それと、関東南部、特に江戸湾に流れ込む河川沿いの地域は、江戸時代に大規模な流水路の付け替え工事が行われたので、江戸以前の中世は今とはかなり地形が違っていた。現在線路になってるあたりは、かつては音無川という川が流れていたようで、道灌山にある寺の中には「船繋ぎの松」があったという寺もある。だから、水の利も良かった訳だよね。ので、道灌さんがここに砦・・・というか出城を築いたというのも、うなずけます。しかし、実は道灌山城は太田道灌の城ではなかったともいわれます。もう1つの説は、江戸の土豪・関道閑の居館があったというもの。関氏は古くからの江戸の地のジモティーで、武蔵の豪族・平重継が江戸に移ってきた際には重継(あるいは子の重長)に娘を嫁がせたという。重長はのちに頼朝に仕えて鎌倉の御家人となり、江戸氏繁栄の基礎を築いたとされる人物なので、そこに娘を嫁にやるくらいだから、関氏も結構な勢力を持っていたものと思われる。どちらも「どうかん」。太田道灌さんの人気は高いから、名前がすり替わって伝わっちゃったのか、あるいは道閑さんの居館跡に道灌さんが出城を築いたために地名が塗り変えられてしまったのかはわからない。でも、関道閑さんの居館もこの地にあったんだとしたら、名が埋もれちゃって可哀想だよね~。え~、道灌山城に関してはこれ以上のことはわからないので、本日の記事は以上で終了です・・・が、ここでやめるとクレームがつきそうなので、どうしようか考えた結果、ちょいと歴バナを書くことにしました。道灌さんからはちょっと離れちゃうけど、無関係って訳でもないし、何事も基礎が大事ですのでね。で、ここからは関東公方について少々。室町から戦国にかけて、ナントカ公方ってのは数種類ありますが、ここでは関東について限定します。西国にもいくつかあるけど、大した存在感ないしね(笑)。それに比べると、関東の公方は関東のみならず、遠く離れた場所にまでかなりの影響を及ぼした方達です。ま、影響っつってもロクなもんじゃないんだけどまずは、こちらの足利家の図をご覧ください↓。 カッコ内は職を継いだ順番です。色分けしてますので、色ごとに見てね。ピンクはもちろん、足利将軍家ね。古河公方・足利将軍家ともにこの先もまだ続きますが、ひとまずここまで。必要最低限の関係者に絞ってますので、ご了承ください。今回使用するのは、この系図の一部です。ま~、関東公方に馴染みのない方はこの図だけで「なんじゃ、こりゃ!?」って思うんじゃないかと思いますが、系図を作る作業ってのも結構時間がかかるものなので、作業の途中で「あ~、ウザ・・・すっぱり説明カットしちゃおうかな~」とも思いましたが、中身はともかく影響力(だけ)はあった方達なので、歴バナの途中でいきなり「ナントカ公方が・・・」とだけ書いたところで、この方達がどういう存在なのかを知らなければ、数々の戦いや事件を理解したことにはならないのでね。それに、すでに行ったところやこれから行くところの記事を書くにあたっても、この方達は色んな場面で絡んでくるので、ここは大事なところなんです。そもそも鎌倉公方とは、足利尊氏が関東十国の押さえとして2代将軍義詮(よしあきら)の弟・基氏を鎌倉に派遣したことに始まる。鎌倉公方の役職は鎌倉府の長官であり、当初は「関東管領」といった。関東管領を補佐する上杉氏は、「執事」。太田氏はその上杉氏の家宰だった。それが、いつの頃からか「関東管領」は「鎌倉公方」となり、「執事」が「関東管領」を自称するようになった。勝手に呼称をグレードアップさせちゃうあたり、もうこれだけでどんな方達なのかちらりと想像つくんじゃないかと思いますが・・・そう、関東の自称「公方」は京の将軍家に対してライバル心ギラギラで、鎌倉府設置の目的とは裏腹に困った行動を繰り返します。まず2代目・氏満。3代将軍・義満を補佐していた管領・細川頼之が失脚する原因となった康暦の変では、反頼之派の斯波義将と組んで出兵しようとする。いちおう途中まで出兵はしたんだけど、家中のゴタゴタがあったもんであえなく失敗。3代目・満兼。この人は大内義弘の応永の乱で義弘と組んで義満に対抗した。この時も武蔵の府中(東京都府中市)まで来たところで関東管領の上杉憲定に止められ、一旦ストップ。その後足利(栃木県足利市)まで軍を進めたものの、義弘が敗死したことにより鎌倉へ戻った。・・・とまあ、幕府に対抗し続けた家系に生まれ育った4代目・持氏はというと・・・ここで話は一旦将軍家の後継者問題に移ります。5代将軍・義量(よしかず)は16際の時、父の4代将軍・義持から将軍職を譲られた。が、応永32年(1425)2月27日、18歳にして早世。義量には嗣子がなく、他に将軍職を継げる兄弟もいなかったため、将軍空位のまま父の義持が将軍代行を務める。義量が亡くなった年の11月30日、鎌倉公方の持氏は「チャ~ンス!!」とばかりに、自分が義持の猶子になって上洛して奉公したい旨を告げる使者を京へ送った。が、この使者は義持に会うことすらできず追い返されたという。しかし、チャンスは3年後に再びやってきた。応永35年(1428年)1月7日、義持は風呂場でお尻のできものを掻き破ったため感染症になり、17日には危篤になった。いい大人(42)がどんだけ掻いたんだとツッコミ入れたくなるが、それはさておき、継嗣を定めてないので重臣たちはあわてた。そこで、義持の護持僧を務めていた醍醐寺の満済に後継者についての意向を尋ねさせた。義持の回答は「重臣たちのよきにはからえ~」だったが、管領・畠山満家以下重臣は「ちょ・・・マジ困るから~!満済ちゃん、もっかい聞いてきてよ。お願いっっ!!」と再び満済を送りだした。その際の提案として、 ・義持の兄弟4人の仲から後継者を指名してください。 ・八幡様の神前で、兄弟の名字を書いたクジを引いて 神意によって決めるのはどうでしょう?の2つの案を出した。そこでようやく「然らば籤たるべし」との回答をゲットした。義持もまだ若かったとはいえ、なぜに後継者を定めておかなかったのか・・・「次を決めておいたって、有力大名たちに支持されなければ意味ないじゃん」と言ったとされ、ここから将軍権威の弱さを指摘する意見もある。が、満斉の記した日記によると義量の死後に石清水八幡宮に参詣したところ、男子が生まれる夢を見たのでそれに賭けていると義持が語ったとある。ともあれ、幕府管領・畠山満家は石清水八幡宮(他の八幡様との説もある)に詣で、神前でクジを引いて戻った。翌18日、義持が死去すると重臣たちの前でクジを開封した。書かれていたのは「青蓮院殿」。義持の同母弟で、天台座主・比叡山青蓮院門跡の義円だった。他の3人は腹違いだがいずれも義持の弟で、義円を含めみな出家していた。鎌倉公方・持氏の名前はハナから書かれていなかった。ま、当然っちゃ当然なんだけど・・・19日には早速、義円をお迎えに行った。義円は何度か断ったものの、最終的に承諾し、その日のうちに青蓮院を出た。が、元服前に出家していたため、世俗では無位無官だし、しかも法体(つまりハゲ)の者が将軍職を継いだ先例もないため、朝廷の意向でまずは義円の髪が伸びて元服を行えるようになってから昇進・任官させることになった。3月12日、還俗してまずは従五位下からスタート(2ヶ月でそんなに髪伸びるか?)。翌月の4月14日には従四位に昇進したものの、まだ将軍宣下は得られなかった。ので、鎌倉公方・持氏が将軍になるんじゃないかとのウワサが京の町に飛び交ったという。根も葉もないウワサだったとしても、鎌倉公方がどういう風に見られていたか、ここから窺われるというもの。翌年の3月15日、ようやく征夷大将軍に就任。当初は「義宣」と名乗っていたのを「義教」に改名し、ここにくじ引き将軍・足利義教が誕生した。くじ引きって言っても、当時と今の感覚は全然違うからね。テキトーに選んだって訳ではないので、その辺誤解しないでね。ま、義教のくじ引きにあたってイカサマがなかったかまではわかりませんが。将軍職を狙っていた鎌倉公方・持氏は、この結果に地団太踏んで悔しがったことだろう。そして、その悔しさが義教への憎悪に変わっていくのだ・・・※「プチ日暮里編(7)」へと続きます。にほんブログ村
2013年06月09日

↑こちらは、「プチ巣鴨編(8)」で紹介した銅造地蔵菩薩坐像。簡単な説明は前にも書きましたが、今回は解説板を撮ってきたので以下にご紹介します。 【江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之 略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を 両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に 倣って、宝永3年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中 6ヵ所に地蔵菩薩をそれぞれ一体ずつ造立したと伝えられています。 各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、 神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。 六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は、廃仏毀釈で 取り壊され、5体が残っています。 六地蔵のうち、眞性寺の地蔵は第4番目で、正徳4年(1714)に造立されました。 平成20~22年度の修理の際に胎内から銅造地蔵菩薩坐像4体と銅札、 木札等が多数発見されました。それらは修理完了時に再び体内に戻され、 大切に保存されています。像高は、268cmあり、かつては鍍金が施されて いました。 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから 文化財に指定されました。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)お地蔵様の下には、六地蔵関連の碑がやたらある↓。 すぐ近くには南側の門があるんだけど、ここで去年は気付かなかったモノを見つけた↓。 石造りの柱に、木造の木鼻がくっつけられてる木鼻ってのはそもそも、柱を組んだ出っ張りの部分の先端に彫刻を施したものなんだけど、この柱は石だから、別にいらない訳ですよ。でも、ぺこんと貼りつけてる。昔使われてた残りなのかな?面白いなあ~。表門は唐門・・・で去年撮ったと思っていたせいか、全体の写真がありませんが、部分的に拡大したのを数枚撮りました。 ↑このトゲトゲは去年も気になったんだけど、斗栱をよく見ると絵が描かれているし、かすかに彩色の跡も残ってる。かつては相当華やかな門だっただろう。 ↑これは松と鷹、かな?カッコいいな・・・こーゆーモチーフって、ありそうであまりない気がするけどね。 あとは、外側の土塀沿いを少し歩いてみました↓。軒丸瓦とかは、全部檜扇(ひおうぎ)紋です。 境内を見終えて次へ向かおうとしたら、表門をちょっと脇に行ったところになにやら解説板があるのを見つけた。 【江戸・東京の農業 旧中山道はタネ屋街道 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、 縁側を使わせてもらう人などもいました。 旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、 タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するように なりました。 その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が 出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から 板橋区清水町にいたる約6kmの間にタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も 建ち並びさながら、タネ屋街道になっていました。 寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきた タネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。 馬12~3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道の タネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと 同じようにタネも行商により商われていました。 平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業 東京都種苗会】へええええ~っそんな庶民の歴史なんて知らなかった・・・JA設置の看板ってとこがいいよな。てか、巣鴨は中山道沿いだからはるばる諏訪から来たとかって解説になってるけど、旅人はどの街道でも弁当を食べるんだから、他の街道だってタネ屋街道になる条件はあったんじゃないのかな?ただ、すぐ近くに植木屋の密集地帯・染井があるから、特に中山道がタネ屋街道として発展したのかな?ああ、でも植木と野菜じゃ違うか こーゆー庶民の身近な歴史ってのは、その道の専門家だとか、知ってる人しか知らない歴史だろうからね。どんどんこの類の看板は設置してほしいところだよね。それにしても、馬12~3頭の荷物の中身は全部タネでっか一口に行商って言っても、かなりの規模だよね。さて・・・ここからは、去年撮れなかったモノを探しに、白山通りを南へ。下だけ見ながら。・・・て、探し物がなんだかもうおわかりですね。白山通りの巣鴨駅周辺は、店が沢山立ち並んでてかなり人も多い。その合間を縫って、探す探す・・・が、ケイキさん(徳川慶喜)の屋敷跡を過ぎても見つからなかった。おっかしいな~。この辺のハズなんだけどな~。見つからないものはしょうがない。白山通りを渡って駅へ向かうことにした。先人の写真を見ると、確かにこの辺にあるはずなんだけどな~・・・もんもんとしながら、信号が青に変わったので渡ろうとしたら、車道の真ん中にお目当てがあるのを発見!うわあ、こんなとこに・・・!!てな訳で、探してたのはこれです↓。 「プチ巣鴨編(7)」で千川上水のことを書きましたが、このふたは六義園への流水路の上にあるもののようです。ただし、千川上水の六義園への水路は昭和43年の都営地下鉄工事で中断されているため、このふたはそれ以前に設置されたもののハズであり、現在は使われてないだろうとふたマニアの方は述べておられる。横断歩道の手前で信号待ちしてる車内からの視線を感じながらも、千川上水ゆかりのふたへの情熱が、わたくしをして横断歩道のど真ん中に立ち止まって写真を撮らせることになりました。ま、さすがに恥ずかしさもあったので、さりげなく日傘で隠してはいたんだけど(笑)。今度は電車に乗って、山手線で3駅移動。降りたのは西日暮里(にしにっぽり)。もちろん本日のメインはお墓参りだった訳ですが、無事メーンエベントも終えたし、ここからが午後の部の本番になります。にほんブログ村
2013年06月08日

染井霊園を抜けて、巣鴨で最も有名なとげぬき地蔵(高岩寺)へ向かう。去年も高岩寺へは行ったけど、あの時もロクな写真撮らなかったので補足の写真を撮るのと、今年は母親がとげぬき地蔵のお札を欲しいと言ったので、それを求めに。そういう用事がなかったとしても、うちでは墓参りと大福がセットになってるので、どのみち地蔵通り商店街には寄らなければならない。途中の道には、大量のうさぴょんが整列をしていた↓。 順序が逆転して恐縮ですが、「東西条バトル編(25)」に載せた写真と同じうさぴょんです。こんなかわいらしい顔をしていながら、このうさぴょんは東京と広島・・・だけでなく、おそらく全国の道路で車から歩行者を守ってくれているのでしょう。国道17号線をわたって地蔵通り商店街に入ると、入口にはこんなものがあった↓。 巣鴨でも、ついにゆるキャラを造ったのか・・・ここを訪れるのは、高年齢層がかなりの割合を占めるから、ゆるキャラ効果がどれほどのものか個人的には疑問があるが。巣鴨で「すがもん」ね。しかし、この中にあるのは「おしり」だけなのだ↓。 せっかくだから触ってみたけど、手触りは確かにいい。けど、沢山の人が触ってると思うと、なんかな・・・(←変なとこでリアリスト)で、肝心のおもてなしキャラ、「すがもん」はいなかった。仕方ないので、のぼりだけ撮ってきました。「すがもん」とはこんなのらしいです↓。 高岩寺へ行く前に、腹ごしらえ。去年入ったお店は、11:30までなら喫煙オッケーなのだ地蔵通り商店街には昔に比べたら新しくて綺麗な食べ物やさんも沢山できたけど、たいてい禁煙だからね。で、同じ店に入って窓から外を眺める↓。 ああもう・・・あーゆー売り方って、すごく美味しそうに見えるんだよね~。去年は結局買わなかったけど、今年は買ってみようかな・・・さて、お腹がいっぱいになったところで、高岩寺へ。(場所はこちら)「とげぬき地蔵」の名の由来とか、毛利家がらみのエピソードについては「プチ巣鴨編(5)」をご覧ください。本堂の内部はこんな感じ↓。 とげぬき地蔵のお札をいただいてから、外へ。今回写真を撮ろうと思っていた物の前にはジジババの行列ができていたので、先に隣にあるお宮を見た↓。 このお宮は「小僧稲荷」というそうで、小さなお宮の前にはお狐様もおわすのだが、 ・・・頑丈なケージ入りなんでこんなに厳重にする必要があるんだ?夜な夜な遊び歩くって伝説でもあるのかな?で、こちらが小僧稲荷のお宮↓。 おお・・・割に新しいものっぽい気もするけど、カッコいいな写真を撮ってる間に、少し隣の行列が空いたので、隙間をぬって撮影。こちらが「洗い観音」になります↓。(洗い観音の由来については、「プチ巣鴨編(6)」をご覧ください) もうね、カメラを構えても、洗う手を引っ込めないもんね。こうやってジジババ・・・いへ、信心深い方たちが一生懸命毎日毎日ゴシゴシ洗ってる訳ですよ(笑)。だってここには、きちんとお行儀よく並べるようにコースまで造られてるんだから。洗い観音の人気の高さがうかがえるってもんです。境内には、去年と同じくお守りグッズばかりを扱った露店がいくつか出ていた。何かないかと物色してたら、ちょうど娘さんたちの首輪に着けるのによさそうなカエルちゃんのストラップがあったので、2つ買った。そしたら、お店のお姉さんが、時代劇でおかみさんがダンナの出がけに打つ火打ち石みたいのをカチカチ打ってお祓いをしてくれた。へえ、面白いな・・・ちなみに、このカエルちゃんを帰ってから母親に披露したら、自分への土産だと勘違いしてえらく喜んだ。ガラス製で可愛いカエルちゃんだったからね。「え~と、娘さんたちのなんだけど・・・でも、気に入ったんならあげるよ」と言ったら、自分の思い込みが急に恥ずかしくなったらしく「いいわ、いいわよ~」って何度も言っていたものの、結局カエルちゃんが娘さんたちの首元に下がることはなかった。代わりに、母親のケータイにぶら下がってます。今も。さて、高岩寺から北の中山道は去年見たので、駅の方へ向かう。去年も行った真性寺へ、補足の写真を撮りに寄った。(場所はこちら)真性寺の歴史については、「プチ巣鴨編(8)」をご覧ください。境内には、このテの石碑がいっぱいあります↓。 弘法大師遠忌の碑を全部撮ってたら大変なので、一部しか撮ってませんが(笑)。あと、芭蕉おじさんの歌碑がある↓。 白露も こぼれぬ萩のうねりかなこの歌碑は、寛政5年(1793)の芭蕉百年忌に、蕉門十哲の1人、杉風の曾孫弟子の採荼庵(さいとあん)梅人と社中の人々により建てられたもの。残念ながら、芭蕉おじさんが巣鴨に来たって訳ではないみたいなんだけど、当時の境内には萩が茂みのようになっていたというので、葉の上の白露をこぼしもせず、萩がしなやかに風に揺れているこの句がこの地にふさわしいとして建てたのかもしれない。この歌碑の裏には杉風の「萩植てひとり見習ふ山路かな」という句も刻まれてるそうなんだけど、ちょっとここにズカズカ踏み入るのは勇気がいります。で、こちらが本堂↓。 なんか、キンキラで派手だな~と思って近寄ってみた。 おおお~、すげえ~!!ここも本堂は再建だと思うけど、派手だわ~。2枚目の写真の下段の蟇股の中にいるのは、金の飛天か菩薩様のようだな・・・御本尊は薬師如来様。が、古来より秘佛として1度も開扉されてないという。にほんブログ村
2013年06月07日

西福寺の境内にはこの方がおわす↓。 台座の写真を撮らなかったのでどなたかは忘れたけど、真言宗だから空海さんかな?(←大ざっぱなO型)その隣にはこんなものが↓。 写真じゃ大きさがわかりづらいけど、この鐘、すごくちっちゃいの~!今回は境内の中に入ったとはいえ、本堂の正面付近しか見てないからあまりうかつなことも言えないんだけど、もしかしてこれ、鐘楼の代わり?でも、ちゃんとした鐘なんだよ。ホレ↓。 和鐘です。下に置いてあるトンカチ・・・いえ、木槌で打つようになってます。ふっふっ、このサイズなら気軽に撞けるよな(←相変わらず鐘がトラウマ)もちろん、撞きました。撞くってゆーか、コーンと打っただけだけど(笑)。この脇を少し奥に入ったところには石碑などがいくつか建ってたけど、今回は西福寺はこれまで。西福寺のすぐ先には、染井稲荷神社がある。 【染井稲荷神社の由来 一、ずっと昔からあった染井村 いまのそめいよしの町会のあたりで350年前にその名を刻んだ石像がある。 一、建てられたのは300年以上も前 関東大震災や戦災にも拝殿・本殿はもえなかった。火防の神。 一、ご神体は二体 保食命(うけもちのみこと)と320年前に御霊入れ(みたまいれ)された 十一面観音の石像が安置されている。 一、珍しい大切な宝もの 葵のご紋入り瓶子(お酒を飲む道具)一対や、奉納舞につかわれた 古い締太鼓と胴長鼓が保存されている。「カンシンの股くぐり」の額も貴重な ものです。】 (神社解説より。漢数字は戦国ジジイが変換)子供にもわかりやすいように書かれている・・・ここって、戦後の再建じゃないんだ~。まあ、当然補修は重ねられてるでしょうけど。てか、「カンシン」てナニ?と思ったら、「史記」からの故事で「韓信」らしい。以下は「故事ことわざ辞典」より。 【「韓信」とは、漢の天下統一に功績のあった名将。 韓信が若い頃、町のごろつきに喧嘩を売られたが、韓信は大志を抱く身で あったからごろつきと争うことを避けた。言われるまま彼の股の下を くぐらされるという屈辱をあえて受けたが、その後韓信は大成し、 天下統一のために活躍したという故事から。 将来に大望のある者は、目の前の小さな侮りを忍ぶべきという戒めである。 「感心なことだ」の意味で相手を褒める際、「韓信」と「感心」をかけて 「感心の股くぐり」と洒落て使うことがある。 】ほっほ~、なるほどね。じゃあ、ちょうど股をくぐってる板絵があるってことかな。で、狛犬↓。上の写真にも写ってるけど、ここのはちっちゃいの~。だいぶ新しいものっぽいけど、小さいからちょん!と見上げる格好になってて、カワイイ~ 本殿を脇から↓。 屋根の鬼板は・・・ え~っっ、ナニアレ桃?タマネギ?(笑)脇の小さな一角には、摂社がある↓。 注連縄が青々としている・・・灯籠も古そうだし、小さいけどなんか風格あるな。灯籠のすぐ後ろに小さな祠があったので覗いてみたら、お狐様だった↓。 銘とかは見なかったけど、中におわすお狐様は磨耗してるし、顔の感じからすると結構古いものじゃないかと思う。二重の鳥居の先には、小さなお宮が↓。 割に新しいものみたいで、まだ綺麗。こーゆー小さなお宮には時に掘り出し物があるので、パンパンしてから例によって近寄ってみた↓。 おお~、いい感じ!しかし、3枚目のは鼻の穴、デカくね・・・ この摂社の境内は、小さいけど雰囲気あって私は好きだな。特にお狐様が。次回もまた寄ってこーかな・・・神社を出て染井霊園に(やっと)向かう。・・・が、霊園に入る前にもうひとつ見るべきものがある。 霊園の手前にあるこの古い碑は十二地蔵というそうです。あんまりはっきりした由来はわからないみたいなんだけど、享保15年(1730)の大火による犠牲者の供養のために江戸中期頃に建てられたと言われてます。去年の「プチ巣鴨編」ではやたら明暦の大火のことを書いた記憶があるし、「三原編」でも佛通寺では火事にこだわった・・・何か知らないけど、火事に食いつく性向があるみたいです、わたくし(笑)。で、享保15年の大火ってのをちょっと調べてみたけど、江戸の町は火事が多すぎて、主だった火災にカウントされてないまあでも、ここに建てられてるってことは、この辺りで火事があったんだろうな。藤堂家の下屋敷は無事だったのかな?この十二地蔵は、舟型の石に上に6体、下に6体の計12人のお地蔵様がおわす。六地蔵はよく聞くけど、十二って聞かないよね~。で、上段の地蔵群の上の空間はこうなっていて↓ 写真じゃわかりづらい・・・(現地でもわかりにくかった)。が、もやもやしたようなものが彫られていて、これが大火の火や煙を表しているとされている。そしてやっと今日もっとも大事な墓参りへ。朝は曇ってたけど、この頃から薄日が射し始めた。ああ、やっぱりね・・・去年もお墓に来たら晴れ始めたし、こうなると思ってたよ。ま、ご先祖様が喜んでくれてるんだったらいいんだけど。しかし、今日も暑くなりそうだあ~。ここまで「染井霊園」を連発したけど、うちのお墓は霊園内ではなく、霊園に隣接したお寺にある。染井霊園は都立の霊園だから、お堂とかはないんだよね。去年は本堂にシートがかぶさってて、工事中だった。ので去年との比較はできないんだけど、瓦なんかは綺麗になった気がする。 これは寄棟造(よせむねづくり)。あれ、上にあるの、鴟尾(しび)だ・・・へえ、こんなお寺だったんだ~。建築に興味なければ、こんなの気にしないもんね。 無事お墓参りを済ませ、すぐ近くの勝林寺へ。 寺の歴史や田沼意次公のお墓については、「プチ巣鴨編(3)」をご覧ください。で、正面から門を写してみようと思っていたものの、やっぱり道が狭すぎて斜めからの撮影になった 勝林寺は墓地がほとんどで、その他境内と呼べるような敷地はかなりミニマムなんだけど、それなりに建物の写真は去年撮ったと思っていた・・・だから今回は中へは入らなかったんだけど、あらためて去年の記事を見てみると、建物の写真貼ってないうわあ・・・また次回、寄らないとダメかな(笑)。にほんブログ村
2013年06月06日

今度は妙義神社本殿の脇をご紹介。まずはこちらが庚申塔↓。庚申塔については、「手術とプチ馬橋・その伍」でも簡単に解説してますので、よければそちらもご覧ください。 【豊島区文化財 庚申塔 寛永19年(1642)建立 「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛文庚申ノ碑ニアリ、 是ヲ神体トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事がわかる。 昭和40年(1965)神社復興工事の際、境内土中より発掘され社殿左側奥に 建立されたが今回の境内整備に伴い現位置に移された。 尚寛文2年(1662)の碑は戦災で失われたと思われる。 平成10年9月建之】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ちょっと字は磨耗してる箇所もあって、あまり読めなかったんだけど・・・なんでこんなのが土中に埋まるんだ?それも戦災?本殿の向かって右側には、摂社と石碑がありま~す。 鳥居をくぐって近寄ってみたら、「道灌霊社 祭神 太田道灌公」って書いてある。そうか、道灌さんも神様になったのか・・・その隣↓。 ちょっと光っちゃって字が読めないんだけど、「稲荷山 神のナントカナントカ」って書いてある。どうやら歌碑みたいだな。その隣↓。 こっちはまだ読める。えっと、延宝年間(1673~1681)にはここにあったと言いたいらしい。 稲荷明神 天満宮 祠 弁財天明治5年に遷宮したとあるみたい。「新編武蔵風土記稿」によると、昔は幣殿・拝殿の他に摂社として稲荷庚申・天王社・月社があったらしいので、そこそこ大きな神社だったってことだろうな。振り返ると、鳥居の内側にはこんなものが↓。先代の台座か? さて、これで妙義神社はおしまい。隣にある公園を抜けて次に向かう↓。ここもかつては境内だったのかもな・・・ 次にやって来たのは、「門と蔵の公園」。(場所はこちら)こちらは去年も来ましたが、あまりよく見なかったしロクな写真撮っとらんな~と思ったので、補足の写真を撮りに来たのだ。まずは、蔵ね↓。(蔵の解説は「プチ巣鴨編(1)」をご覧ください) なんか瓦がすごいな~と思って、双眼鏡で覗いてみたらこんなだった↓。 「茂」だ!「茂右衛門(もえもん)」の「茂」だああ~!!いやあ、これは気が付かなかったな~・・・てか、去年は藤堂家の門がお目当てだったから、蔵はほとんど見なかったんだよね。 去年は公園内でジイさんがくつろいでいたので園内には入らなかったんだけど、今回は隅々まで見てみた。したら、奥には色々あった。 何だかわかります?上から順に、防災用井戸、ベンチ兼防災用かまど、ベンチ兼非常用グッズ入れ。これ、前からあったものなのかな~。それとも、震災を受けて作られたかな?うちの近くの公園にもこーゆーのあるけどね。去年だか、利根川に変な物質が流されて突如断水した際、防災用井戸が役に立ったもん。備えがあるのは、いいことですよ。公園の一番奥から入口方面を見たところ↓。 綺麗に整備されてるけど、大きくはないのですぐに見終わっちゃう。最後に藤堂家下屋敷の裏門を見て、と。 門の解説も、お手数ですが「プチ巣鴨編(1)」をご覧ください。これは内側から撮ったものだけど、前回よりは多少建築のこともわかってきたので、初めて見た時とは印象が違う。なかなか立派な門じゃないか・・・これで下屋敷の裏門?上屋敷の表門て、どんだけ立派な門だったんだろうと興味は尽きない。ここから染井霊園までは、去年と同じルートを辿ります。まずは、再びの西福寺。(場所はこちら)去年は境内に入らなかったからね。今回も仙台藩主・伊達慶邦の碑は探さなかったけど、ちょっとだけ入ってみました。(西福寺の解説は「プチ巣鴨編(2)」をご覧ください) あ・・・中にも解説板がある。 【西福寺 真言宗豊山派の寺院で、藤林山歓喜院と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。 本尊は、徳一大師の作といわれている木造阿弥陀如来立像である。創建の年代は 明らかでないが、「江戸初絵図」や「江戸名所図会」・「新編武蔵風土記稿」 などにも記事があり、駒込に江戸時代から続く寺院である。 この寺が位置する染井地域は、江戸時代、大名屋敷が多くあり、近くに津藩藤堂家の 下屋敷があったことから、その祈願寺となっていた。また、近隣には植木屋も 集住しており、その菩提寺ともなっていた。 かつての境内地は、非常に広大であったが、明治維新後に縮小されたといわれている。 境内には、明暦元年(1655)に造られた六地蔵がある。これは「六道」 すなわち地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための 六体の地蔵が刻まれたものであり、豊島区内では最古のものである。 墓地には、徳川将軍家の御用を務めた植木屋として名高かった伊藤伊兵衛政武 (4代目、宝暦7(1757)年没)の墓がある。政武は樹仙と号し、 「増補地錦抄」などを著した、江戸時代の先駆的な植木屋である。この墓所は、 東京都史跡に指定されている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)伊藤伊兵衛って、「染井吉野桜記念公園」の絵にあった名前だ・・・同じく染井で植木屋として活躍した丹羽家の当主が代々「茂右衛門」の名を継いだように、伊藤家でも「伊兵衛」の名を継いだらしい。初代の伊兵衛さんは津藩藤堂家に出入りしており、冷たい露から藤堂家の植物を守る仕事をするかたわら、いらなくなった植木や草花を自分ちに持ち帰り栽培を続けてるうちにいつしか植木屋になったといわれているそうな。やっぱ、巣鴨~駒込周辺は何かにつけ藤堂家の影響が大きいんだな。伊藤家の庭はなんと6000坪!将軍も訪れたというびっくりなエピソードがあるそうな。にほんブログ村
2013年06月05日

では、大黒神社本殿のご紹介。 鉄筋造りだけど形式に則っていっちょまえに蟇股がある↓。 アハハハ、ここ、打出の小槌尽くしだ~ まあ、建物自体はご覧の通りなので特筆すべきものはありませんが・・・しょうがないよね。で、早速ここでおみくじをひいてった。さて・・・染井霊園へ行くにはこのまま東へ向かうんだけど、気持ち回り道をして本郷通りを北へ。本郷通りが広いのでつられてぼんやり歩いてったら、うっかり曲がるべきところを通り過ぎてしまった。あわてて引き返したら、通り沿いには道標が建っていた↓。 これに従って細い道を上がっていくと、ずっと奥に次のお目当て、妙義神社があった(場所はこちら)。 ここにはこんな碑がある↓。ちょっと全文は読めないんだけど、右から2つ目の石には「寛政6年」(1794)とある。 境内には、神社の縁起が書いてある。ちょっと長いですが、歴史ある場所ですので全文をご紹介しましょう。 【妙義神社 当社の祭神は、高御産霊神(たかみむすびのかみ)・日本武尊(やまとたけるの みこと)・神功皇后・応神天皇である。文政11年(1828)に成立した 『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、 のち白雉2年(651)5月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、 区内最古の神社ということになる。 くだって文明3年(1471)5月、足利成氏(しげうじ)との戦いを前にした 太田道灌(どうかん)は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。 その際、「雲払ふ 此神垣(かみがき)の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは 成氏を敗走させたという。 続いて道灌は、文明9年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同11年の 千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。 こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。 その一方で、大永年間(1521~27)には江戸城代遠山丹波守が、また 永禄12年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間 (1573~91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰退するなど、 当社にとって戦国時代は波乱の時期でもあった。 境内には、寛永19年(1642)11月に駒込村の農民によって建立された 庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) ふう・・・・・・・・・前回のシリーズ、東西条編で何度も「安芸の歴史は複雑です」と書きましたが、同じ室町後期~戦国時代の関東も、ハンパなく複雑です。とにかく、「公方」というお方を中心に、現在の関東全域でスケールのデカい戦いが繰り広げられてましたので。私が安芸の歴史を複雑だと感じるのは、沢山いるマイナーな国人衆のことを満足に把握してないせいもある。が、そうした個人的な事情を差し引くと、安芸は確かに複雑だけど、たぶんこの関東全域で展開された戦い・・・特に道灌さんの周辺の方が、もっと複雑ではないかと思う。「複雑」よりは「厄介」の方がしっくりくるかな?(笑)いや、厄介なのは「公方」の存在なんだけどね。とにかくも~、なんつーか・・・いへ、泣きごとはやめましょう。地道に頑張ります。なんたってその辺は、私にとっては郷土史に関わってくるのだ。「千葉なのに、なんで郷土史?」って思うでしょ?来てるんですよ、うちの近くに。道灌さんが。解説にある文明11年(1479)の千葉孝胤攻略、これは臼井城(千葉県佐倉市)攻めのことを言ってるんだと思うんだよね。孝胤が臼井城に籠城する原因となった戦いが前年の文明10年にありまして、その合戦がうちの近くで行われたんです。道灌さんが由来とされる地名も残ってます。ま、それについては別のところでね。もっとちゃんと勉強しないと・・・(笑)。太田道灌といえば、江戸城を築いた方として有名ですが、私にはそうした縁もあり、ろくに知りもしない近隣の武将よりはよっぽど親しみがあります。(いや、ホントは単に勉強してないだけなんだけど)なので、ちょうど染井霊園の近くでもあったし、道灌さんのゆかりということで今回ここを訪れました。さて、こちらが境内↓。 右の手前に見えてるのが手水舎。その奥に社務所らしいのがあった。上の解説に「戦勝の宮」と呼ばれたとあるように、こちらでは道灌さんの勝守りを扱ってるということだった。普段なら別に勝守りはいらないんだけど、道灌の勝守りとなれば、これは是非とも欲しいと思っていた。・・・が、社務所は閉まっている。代わりに貼り紙があって、勝守りは500円とある。ふむふむ。その隣の紙には、 【神社にご用の方は午前中にご来社かお電話下さい。】とある。・・・いちおう、午前中なんだけど。土日は休みなのかな?ともかく、ここは電話で予約しておく方が確実らしい。本日のメーンエベント(墓参り)がまだだから、あまりゆっくりしてる訳にもいかないしな・・・仕方ない、縁がなかったと諦めよう。手水鉢の水は綺麗だったので、まずはお清めをしてっと。 龍の口から水が出てるんだけどね、どっちかってーと「この水、うんめ~!!」って喜んで飲んでる風に見えて、ちょっとおかしかった。この龍、やけにまつ毛長いしで、本殿へお参り。 おお~!こんなとこに小早かわ・・・いへ、左三つ巴が。 再建だからね、鉄筋で味気ないのはしょうがないッス。ちゃんと道灌さんのゆかりを示す碑もある↓。 境内は広くはないけど、この一角だけは木も立派で、静かでいい雰囲気。 「新編武蔵風土記稿」による、かつての社宝は 【刀一腰、菊一文字の作と云、錆て銘字読へからす、菖蒲作りなり長さ三尺二寸 太田道灌寄附すと云。 木印一顆。八角面径一寸五分松蔭印と云傳ふ、印文滅して読へからす、 相傳ふ観應年中護国親王寄附せらると、護国は宗良親王の御事にて 守邦親王にはあらすと云。 尊意僧正像一体。運慶の作と云長二寸八分、右手に羽扇を持左手に念珠を掛け、 脊に翼あり、天満宮社傳曰法性坊尊意僧正は、延暦寺十三代の座主にて 菅公祈の師なりと。 千手観音像。木像なり、長二寸、文明年中太田道灌戦陣に臨まんとして、 僧圓勧宥鎮二人に修法を命せし時の本尊なりと云作しらず。 曲玉十六顆。 鏡一面。圓鏡径三寸六分に和歌を刻す、増鏡掛てそ頼む神風の吹起すへき 名をも家をも、三楽斎とある、させる古物ともみえず。 板碑一枚。長八寸余の断碑なり、暦應□□□八月日白鳥宮と彫る、是恐らくは 後人のものせしなるへし。】最後から2つめの鏡、三楽斎って資正(すけまさ)のことだよねえ。太田さんだもんねえ。道灌奉納の品は、江戸時代まではあったんだそうな。にほんブログ村
2013年06月04日

え~と、もっと書きたい雑談は色々あったんですが、いざ書いてみるとなんか気が乗らない・・・まあ、日帰りの短編ならすぐに終わるし、別に焦ることもないよな~と思って、ひとまず新シリーズを始めることにしました。首都圏にお住まいの方にはタイトルですぐにわかるでしょうが、今シリーズは、都内。2011年のお盆の墓参りの後に巣鴨周辺をウロウロしたことは去年の「プチ巣鴨編」に書きましたが、今回は去年、2012年のお盆の墓参りの後に近くの史跡などを回った記録になります。いや、東西条編が長すぎて、段々夏が近くなってきてしまったので、行き先はそれぞれ違うとはいえ、墓参りの記事を2年分溜めたくないな~と思ってこのシリーズを書くことを選んだ次第です(笑)。つまり、今年の墓参りの後にもどこかへ何かを見にいこうと思ってるワケなんだけどね自分で写真を見てても感じるんだけど、一昨年と去年とでは写真の枚数も撮り方もだいぶ違っているので、巣鴨周辺は補足として一昨年と同じ場所へ行って写真を取り直したりした関係で、一部「プチ巣鴨編」と重複する箇所もありますが、そこはご了承ください実は、去年の春に新しいカメラを買いましてね。この時のお出かけは、外で初めて新しいカメラを本格的に使う機会でもありました。また、8月には大抵旅行に行くので、私が墓参りに代参する時は一般的なお盆の8月ではなく、旅行の準備で忙しくなる前の7月に行きます。古くは東京のあたりでも7月に墓参りしてたっていうし。そして去年の8月といえば、あのミワラでの怒涛の寺社めぐり・・・あれだけの寺社を集中して回るってのは初めての経験だったし、幸い巣鴨からほど近い日暮里(にっぽり)になかなかの寺町があることを事前の下調べの中で知ったので、ミワラ行きを翌月に控えて予行演習のような位置付けでもありました。まあ、要するに今回のシリーズ、寺社が多いワケです。ただ、ミワラの予行演習とはいってもそこは広島ではなく都内ですので、ハトの留蓋とソテツは期待しないでくださいね2012/7/21(土)くもりのち晴れ・・・蒸し暑いうちの母方のお墓がある染井霊園(東京都豊島区)に行くには、いつも巣鴨駅で降りる。が、前年(2011年)にあれこれ調べていた時、ひとつ手前の駒込駅からも行かれるということを知ったので、今回は初めて駒込で降りてみた。駅の北口から出ると、すぐ目の前に「染井吉野桜記念公園」がある。(場所はこちら) やあもう、ぶっちゃけフツーの公園ッス(笑)。が、ソメイヨシノ発祥の地とあって、公園内にはこんな碑もあります↓。 【駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉・植木の一大生産地で あった。 この地で江戸時代以後多くの優れた園芸品種が誕生したが、なかでも染井吉野は、 当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。 左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている 様子である。】 (現地解説板より)左の絵ってのがこちら↓。 ソメイヨシノの起源については諸説あるみたいだけど、染井での品種改良説が有力・・・と、これは去年も書いたな(笑)。公園を出て、眼の前の本郷通りを渡りま~す↓。この真ん前に、次のお目当てがある。 通りを渡って次のスポットに入ろうとした時、ふと脇にある橋の欄干に目がいった↓。 最初は下の段の桜しか見てなかったけど、後から上の段のモチーフが富士山だったことに気が付いた。うわあ・・・なんでここに富士山?ここは昔、「富士見」だったのかな?今はもうビルもあるし、この場所から富士山なんか見えっこないけどね。けど、お江戸の時代にはちょっと高い場所なら富士山が見えただろうから、古い時代を想像すると、都内の味気ない光景もなんか楽しくなってくるよね。まあ、桜柄のふたが染井の地特有のものでなく都内共通なように( 「プチ巣鴨編(2)」をご覧ください)この欄干も都内共通なのかもしれないけどね。・・・て、「プチ巣鴨編(2)」でクールなツイートされたことをまだ根にもってるわたくし・・・で、次は大黒神社。(場所はこちら) 見ての通り、入口はなんか味気ない・・・が、どーしてどーして、狭い境内はなかなか面白かった。まず入口の門↓。 打出の小槌だあ~!!そっか、大黒様だもんな・・・ 内部も一見味気ないんだけど、まずは一通り見ていこうっと。狛犬を見ようと思ったら、その台座の紋に目がいった↓。 おお~、ここにも打出の小槌がなんか面白いな、この神社・・・ あははっ、なんかボディービルダー系・・・こちらの大黒神社の創建は天明3年(1783)。徳川家斉(いえなり)が鷹狩の帰りにこの神社に立ち寄り、その後に第11代将軍となったことから、出世大国や日の出大国とも呼ばれておるそうな。あいにく私が行った時は、社務所はぴっちり閉まってたけど、ここの絵馬はこんなのらしい↓。 家斉にあやかって出世したい方は、ぜひこちらの絵馬で出世祈願を神社には木彫りの7つの大国神があり、甲子の日には木彫の大黒天像を授けてもらえるそうなんだけど、面白いのは参拝者はそのつど小さい像から順番に大きい像を受けてくんだと。逆マトリョーシカみたい・・・(笑)。現在の社殿は戦後に再建されたもの。染井付近は先の大戦で空襲を受けてるからね。明治12年(1879)に元老院幹事・細川潤次郎男爵の助力で神社となったという経歴を持つが、この細川さんは戦国ファンがまず真っ先に思い浮かべるであろう熊本の細川さんではなく、土佐の人らしい。江戸の海軍操練所で学び、また同郷人である中浜万次郎(ジョン万次郎)と知り合い英語も学んだ。土佐に帰国後は吉田東洋に認められ、土佐藩主・山内容堂の侍読および藩校の教授として洋学を教えた、という人。境内には、細川潤次郎さんの撰による碑が建っていた↓。 どうもこの碑には縁起っぽいものも書かれてるようなので、後で解読しようと思って写真を撮ったんだけど、一部欠損してたり磨耗して読めない箇所もあるので断念した。が、細川潤次郎さんは従二位の男爵らしいです。結構な地位じゃんね~。にほんブログ村
2013年06月03日

8月22日 加賀梅の小袖を拝領。夜、太守(大内義隆)が凌雲寺・大宮官務・ 沢善太郎・杉彦九郎など数名の供を連れて私の滞在先においでになった。 私は太守の長寿を願って盃を捧げ、夜明けに鶏の声を聞くまで 宴会が続けられた。「山口市史」に収められてるところでは、前回、8月18日に佐東銀山城に到着してから22日までの間の記述が抜けてますが、実際は佐東に着いた翌日の19日、策彦は義隆および御曹司・晴持に謁見して今回の遣明船から復命したことを無事報告したようです。晴持この時17歳。一連の安芸遠征の戦いでは、私が知る限りでは晴持が指揮を取ったとかって記述は見たことないので、義隆と行動を共にしていたものと思われます。厳島外宮での流鏑馬は見たらしいんだけど。お供の「大宮官務」は小槻伊治(おつき・これはる)と思われます。大宮家は朝廷で官務(太政官や宮中の庶務を取り仕切る)を歴任した家柄で、大宮家の出身である伊治さんは、一族内であれこれモメ事があったあげく義隆を頼って山口へやって来た人です。伊治さんの娘・おさいの方は義隆の寵愛を受け、晴持の死後に義隆の子を儲けますが、元は義隆が京から迎えた公家の娘である正室に仕えていた女性だといわれるので、伊治さんが頼ったのは義隆というよりも、娘だったかもしれません。ただ、ウィキペディアでは伊治さんが山口に下向したのは天文15年となっているので、今回の話の天文10年にはまだ山口には来てなかった可能性もあるけど、一時的に合流したのかもしれないし、私の手持ちの資料では天文15年春には確かに伊治さんが山口にいたことは解ってるけど、「天文15年に下向す」といった記述は見つけられないので、天文15年下向説が正しいのかはわからない。義隆が正室・貞子を迎えたのが17歳頃。すでに人生の半分は貞子と夫婦として過ごしており、おさいの方ともそれなりに長いつき合いとなっていたかもしれない。こうしたことから、おさいの方の縁で前々から義隆と伊治さんの交流があった可能性は十分にある。てか、「大宮官務」って呼ばれる人ってフツー何人もいないはずだから。で、義隆とともに朝まで酒宴・・・義隆の健康を願ってとあるものの、はっきり「盃を捧げ」とあるので、間違いなく策彦も飲んでます。もうおわかりでしょうが、今回のタイトルの「武将」は義隆、「僧侶」は策彦のことです。そしてここから酒バナ(酒の話)も佳境に入っていきます。8月24日 保寿寺とともに太守のもとを訪れる。翌朝には太守は西条へ赴くとの ことだったが、夜を徹して宴会。空が白んでからお開きとなった。8月28日 陶隆満に招かれ、将棋(あるいは碁)を打つ。午後、風呂を頂いてから 点心。夜まで酒宴。杉宗長も一緒だった。9月9日 保寿寺がやってきて、酒を出す。午後、小槻伊治が保寿寺に会いに来て、 酒宴。冷泉隆豊・西院も同席。相良新右衛門の吹く尺八にあわせて 小歌を歌う。9月11日 夕方頃、西条から太守が帰還。義隆に会ってから、中1日おいて徹夜の酒宴・・・しかも、2度目の時は義隆が翌日に西条まで行くのがわかってるのに、朝まで飲むって寝てねーだろ、義隆!!いんや、馬上で居眠りこいてたかもしれん・・・で、ここで義隆が東西条へ行ったことがわかる訳です。鏡山城はこの時、もう東西条の拠点ではないので、行き先は恐らく曽場ヶ城。東西条を統括する弘中君が出迎えたことでしょう。あるいは、平賀弘保なんかも義隆に会いに東西条まで出向いたかもしれない。25日に義隆が出立してからの記述はちょっと空いてますが、ここに書いた以外にもどうやら大内家重臣からかわるがわる接待(酒宴)を受けたらしいです。策彦が自分で「小歌歌っちゃった~」って書いてるあたり、相当盛り上がって策彦自身もめちゃめちゃ楽しんだらしい様子が窺われるってもんです。まあね、安芸戦線は完全勝利、大内氏が独占した遣明船も無事使命を果たし、めでたいことが重なって皆様相当気分が良かったであろうことは想像つくけどね。さて、義隆が東西条から帰ってくると・・・9月12日 風風雨雨。夜に保寿寺とともに太守に謁見。風の中会いに来たことを 太守は喜ばれ、そのまま引き留められて深夜まで酒宴。9月13日 晴れ。加賀梅の小袖と白の袷(あわせ)を太守の使いが持ってきて 拝領する。お礼を言いに行こうとしたら、太守は保寿寺で茶会を 開いていた。そこで保寿寺へ伺うと、茶会が酒宴に変わり、 深夜まで飲んだ。9月14日 太守のお召しにより伺い、古い勘合符を点検した。池永・盛田などの 堺衆のことについて質問を受ける。帰ろうとしたところ、太守に固く 引き留められ、酒を飲むことしばし・・・酒宴は深夜に及んだ。9月16日 太守から軽い食事をごちそうになる。山口へ帰る暇乞いを太守に告げる。 保寿寺・観音寺・陶隆満・杉宗長(興重)などが同席していた。 次回の遣明船についての話が出た。午後に点心をいただく。9月17日 保寿寺から軽食をいただく。午前に杉彦九郎がお使いにやって来て、 太守が晩餐に招いて下さるという。そこで、保寿寺・凌雲寺・ 覚雄(寺?)・観音寺などとともに伺うと、松茸汁が出た。 酒宴は夜明けまで続き、太守は非常に興に乗って前坂まで私を送られ、 坂の途中では盃を手にして小歌を歌うほどだった。9月18日 佐東銀山城を出立、山口へ向かう。保寿寺・凌雲寺・小槻伊治・西院などが 坂の途中まで見送りに来たが、それを押しとどめて杉宗珊の陣屋へ 暇乞いに行った。焼き松茸が出され、酒を勧められた。白糖をもらって、 夜8時頃になって船で厳島へ詣でた。ちょっともう・・・この酒飲み強行スケジュール、ひたすら笑えるんだけどマッタケが2回出てきますね~。美味しかったから書いたんだろうな(笑)。松茸の市場での流通の記録は延徳4年(1492)に現れ、売り始める時期は8月10日と「鹿苑日録」に記述がある。だから、ちょうど旬な時期だった訳ですね。それにしても、この酒浸り生活、どーよ?勧められても「いへ、わたくし、飲めませんから・・・」なんつって断ったらシラけるし、策彦がそんな奴だったらこうも連日の酒宴にはならないと思うんだよね。佐東銀山城へ来るまでの間にもみんないそいそと酒を持ってきてるし、策彦はかなりイケる口だったんじゃないのか?この後は厳島に行ってから小方(岩国のちょっと北)~防府~山口へと向かったようですが、その間の日記も 晩メシ食ってフロをもらう。その後、点心と酒~。 フロに入って晩メシに焼き松茸とシイタケが出た~。 果物と酒1本もらった~。 点心と酒が出た~。・・・て、帰国後、本土へ上陸してからは遣明船副使の記録というよりは「策彦の酒飲み日記」と名前を変えた方がいいんじゃないかってカンジの日記になってます(笑)。策彦はこの時、40歳。義隆は34歳。どちらもバリバリの男盛りで、しかも双方とも大役を果たしたばかり。この行程を知った時、2人の驚異的な(酒)体力に驚愕したもんだけど、天文10年の夏はどちらも充実した日々を送っていたと言えるでしょう。この後、天文16年(1547)に義隆は2度目の遣明船を派遣します。2度目は策彦が正使。1度目は2年かかったけど、2度目もかなり大変だったようで、帰国するまでに3年の月日を費やしました。策彦が帰国した翌年には大寧寺の変が起こり、義隆が自刃。2度目が最後の遣明船となります。策彦のことを知らなかった方は、今回の記事だけを読んで「飲んだくれ坊主め~」と思った方もおられるかもしれませんが、策彦自身は若い頃からかなり優秀な人であったようです。高名な僧であったため、他の戦国武将との関わりも多く、例えば信長様は策彦に賛を依頼したそうだし(高齢を理由に弟子を代わりに推薦したとされる。それで書かれたのが「安土山記」)、今川義元の詩歌会に参加したり、武田信玄に招かれて甲斐武田氏の菩提寺・恵林寺(えりんじ)の住持になったり、長宗我部元親から元親夫妻の法号の選定を依頼されたりと、実に華やか。策彦とは、そういう人です。今回の記事、例えば尼子ファンなどの中にはあるいは「チッ!大内義隆、いい気になりやがって・・・!そんなんだから富田城でボロクソに負けるんだろーが」な~んて苦々しく思われる方もおられるかもしれませんが、ま、それはそれとしてね。押しも押されぬ西国の大々名・大内義隆と「五山の俊英」と謳われた策彦周良。わずかな日数の間にこれだけ一緒に飲んでるってことは、義隆と策彦は相当ウマが合ったんじゃないかと私は思うんだよね。壮年期を迎え、力も野望も才能もある前途洋洋の両者がひと仕事を終えて豪快に飲みまくった天文10年の夏の数日間を思う時、一方ではその酒量に爆笑しながらも、もう一方では(ちょっと年齢的にはズレるけど)まさに輝かしい青春の1ページだなあ~と微笑ましく、さらに2人の心情やその場の情景をリアルに想像すると、涙もろいわたくしは感慨の涙さえ浮かんでくるのであります。にほんブログ村
2013年06月02日

7月26日 快晴。堺衆の一部はここから東上し、彼らとはお別れ。 周防の小郡へ向かう。午後になって矢田小三郎が豆腐を一盆と桑落酒を 2本持ってやって来た。イマイチ行程がはっきりしないんだけど、たぶん下関から周防灘を東上して山口湾へ入り、椹野川(ふしのがわ)を遡って現在の新山口駅付近まで来たんじゃないかと思う。どうせ椹野川を上がっていくんなら、鰐石まで行っちゃえばよかったのに。・・・て、多くの旅人が行き来した鰐石の船着場を策彦も使ってたらロマンだったなあ~って勝手に浸りたかっただけここでも差し入れをもらってますが、「桑落酒」はそう書いてある訳じゃなく、「桑落両瓶」としか書いてないんだけどね。ただ、桑の実の落ちる頃醸した名酒を桑落酒というらしいので、これまでのもらいものから推測するに、これも酒だろう・・・と思って桑落酒としました。7月28日 今日も晴れ。新里・矢田らが土生(はぶ)まで護送を付けてくれた。 途中の府中で潮まち。この時、与五郎が私のウワサを聞いて 「壺」をさげてやって来たので、小宴。護送の衆にも酒をふるまう。 矢津有寺を見に行く。門には横書きで「海右第一峰」とデカく 書かれていた。 馬で土生へ向かい、そこで昼食。関所の人から瓜子1盆もらう。夕方頃、 厚狭に着き、今日は大福寺へお泊り。寺長から瓜子6・7枚もらう。 夜になって明りを灯して酒宴。 7月29日 快晴。8時頃起きる。寺へ茶碗2コを贈る。昼過ぎに厚狭郡山中へ。 勝連寺に泊まる。山中へは5里くらいで、同行者が疲れたので まだ日が高いうちに晩ごはん。寺主と酒を飲む。 ここで幼き頃より私の父に仕えていた俗名を孫二郎という僧に ばったり逢い、手を取りあって再会を喜ぶ。 7月30日 今日も晴れ。寺主へ茶碗を3コ贈る。厚狭郡東隆寺を過ぎて、 小郡へ戻って餅と白酒で休憩。その後、湯田へ向かい温泉でひとっ風呂。 堺衆が果物やら「酉水」などを持って迎えに来たので、酒宴してる間に ちょっと雨が降ってきた。雨も上がったので、夕方近くなって山口へ。 日暮れ後に定林寺から饅頭一盆と「桑郎」2本をもらった。また、近隣の 寺などから使いがやって来て、米1俵・味噌三升をくれた。相良武任からも 米(あるいはサケかマス)とお金をもらった。今回の話は、「東西条バトル編(25)」で「別立てで記事を書きたいけど詳しい史料が手に入らない」と書いたもので、どこの所収かはわかってるんだけど、柏の図書館にあるかどうか探さないとな~・・・って思っていたら、手持ちの「山口市史」に収められていたので、「ラッキー!!」と思ってそれを元に書いてます。が、「山口市史」ではどうも飛ばされてる日があるらしい・・・古文書初心者の私の解釈も我ながら怪しいし、前日の分が抜けてたりするとちょっと前後の関係もおかしい箇所もあるかもしれませんが、ご了承くださいで、26日はいきなり小郡まで行ったんじゃなく、途中、長府から厚狭郡に入り、翌日宇部の寺に泊まってそこから小郡まで行ったみたいですね。船ならスコーンと椹野川をのぼって鰐石まで行けちゃいそうなもんだけど、結構時間かかるものなんだな~と思った。てか、滞在先からちょいちょい出かけてるみたいだし、あんまり急いでる感じもしないんだけど・・・簡単に紹介するといいつつ、自分の持ってる資料に書かれてる日の分は全部書いてるんだけど(笑)、その中に限って言えば、前回の6月26日以外で酒の出てこない日がない・・・古文だから、「酒を飲んだ」と直接話法で書かれてる箇所はほとんどない。もらった酒は世俗にあるお供の衆に全部あげたという可能性もなくはないけど、もらっただけじゃなく酒宴になったという日も何日もある。これは、明らかに策彦も飲んでるよな。ええと、お坊さんて、基本禁酒なんじゃ・・・関東の寺は現在のような視点で見た寺はほとんどないのでよく知らないんだけど、広島の寺の門前には「酒おことわり」と書かれた石がよく建ってたけど。ま、そうは言っても、当時の坊様は言語や幅広い知識などで外交には欠かせない存在。格の高い僧になれば、上つ方の宴に臨席する機会も多いだろうし、世間とのおつきあいの一環として酒を飲むことも必要とされたのかもしれない。それにしても、酒の差し入れ多すぎじゃね?しかも不思議なのが、酒の記述が一貫してないこと。単に「酒」と書いてる時もある。「壺」とか「樽」とくれば、流れから言って酒だろうとピンと来るようになった。しかし、7月30日の「酉水」「桑郎」は最初わからなかった。が、どうも酒くさい・・・と思って調べたら、やはりどちらも酒の異名だった。こうなると、前回6月26日の「清水」も相当アヤシイ。はっきり酒を「清水」と呼んだという確証はつかめなかったけど、なんかこれも酒な気がする。なんで陰語なんか使うんだ?さすがに飲みすぎの自覚だけはあって、堂々と記述するのがためらわれたか?(笑)日によっては、時間が書かれてるものがあって、割に朝はゆっくりした時間に起きてるような印象を受ける。「辰の刻」(午前7時~9時くらい)なんて日もあるし。「飲み過ぎて朝起きれないんじゃ・・・」って思うのは私だけではあるまい。なので、これ以降の記述で酒の陰語が使われてる場合は、色を変えるだけで説明は加えませんので、「また酒か~」とだけ思っていただければ(笑)。7月30日の湯田は、現在の山口市中心部から西南にちょっと行っただけの場所にある温泉地です。ここまで来たらもう山口は目と鼻の先なんだから、酒宴しとる場合か!ってカンジなんだけど大内家では教弘の代あたりから内政にも力を入れ始めて、壁書(禁制)なんかも整えられるんだけど、長禄3年(1459)5月22日付けの「大内家壁書」では湯田に関する項目もある。 夜中に湯田の湯へ入事 但、湯治の人ならびに女人、農人などは除く・・・なんで夜中に温泉に入っちゃいけないのかはわかりませぬが、当時は夜中に結構入ってた人がいたってことだよね。湯田温泉へお越しの際は、山口で重臣たちが策彦の到着を待ってるにも関わらず「プハ~!温泉、サイコ~!!」てのんびり湯に浸かって、酒宴まで開いてくつろいでたことにも想いを馳せてみてくださいねで、日付が飛びます。8月18日 早朝、佐東銀山城へ到着。興禅寺に昼食をごちそうになる。夜は凌雲寺に ごちそうになり、薪を贈られる。ふ~、やっと佐東銀山城に到着です。「興禅寺」は寺とは書いてないんだけど、たぶん僧侶関係じゃないかと思うので、興禅寺としておきました。この当時、毛利氏の吉田郡山城に興禅寺というお寺はあったんだけどね。吉田の興禅寺とイコールなのかは、わかりません。で、夜の凌雲寺・・・これは大内義興さんの菩提寺・凌雲寺(山口市)に間違いないと思うんだけど、なんでここに凌雲寺が出てくるのかがわからない。凌雲寺の僧も同行してたのかなあ?まあ、義隆の安芸遠征には大内家累代の菩提寺・興隆寺の僧もいたんだし、呪術系戦力(?)として主だった寺の僧の一団がいたのかもしれない。この日は珍しく、酒の記述がないなあ・・・しかし、ちょっとぐらいは飲んでるかもしれない(←疑いのまなざし)。そしていよいよ、義隆ちゃんとのご対面です。にほんブログ村
2013年06月01日
全28件 (28件中 1-28件目)
1


