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東西条編での旅における、私の中での歴史面のハイライトは頭崎城の戦いでした。ひとつの流れが、一旦ここでケリがついたからね。頭崎城が落城した後の、安芸西部での掃討戦の大まかな流れは「頭崎城(9)」で書いてますが、今回はこの掃討戦の終盤頃の戦以外の大内家に関わる出来事をひとつご紹介しましょう。天文10年(1541)3月26日に大内義隆は七尾に陣を移し、5月24日には佐東銀山城へ入る。上記リンクの記事では、尼子派の主力としての武田氏と友田氏に話題を絞ってますが、実はその周辺でも引き続き戦闘が行われてます。そういう中で、義隆は厳島の神職・棚守房顕を七尾の陣に呼び寄せたり、あるいは厳島にお泊まりしたり、あれこれ寄進したり、色々とあったことが「棚守房顕覚書」に書かれてます。まだ義隆が七尾にいた5月5日のこどもの日・・・いえ、端午の神事には外宮で流鏑馬なんかも行われ、大内軍の諸将も見物に出かけたようです。(戦の最中だっつの!)そうしたタナモリとの細かなやり取りがある一方で、同じ頃の5月20日、義隆を目指して明・寧波(ニンポー)を出航した船がありました。大内氏が朝鮮貿易や日明貿易で巨大な富を築いたことは、「山口編」あたりで何度か書いてきてますが、義隆のパパ・義興さんの代では海の向こうでまで遣明船の主導権をめぐって細川氏と実に激しいバトルが繰り広げられたものの、義隆の代では大内氏が遣明船を独占しておりました。義隆が派遣した遣明船は2回。このうち、初回の遣明船を天文8年に送り出しており、その船が寧波から出航したのが天文10年5月20日。正使は、博多・新篁院(しんこういん)の湖心碩鼎(こしん・せきてい)。副使は、京都・天龍寺塔頭妙智院の策彦周良(さくげん・しゅうりょう)。どちらも坊様。で、今回は策彦さんが主役です。余談ですが、策彦は備中の三村元親の叔父・親成とも親交があったようで、策彦が親成に与えた墨蹟は今も残ってるそうです。え~、この時の遣明船の渡航路を見ると、最初は寧波より南の温州に上陸して、そこから北京まで陸路を行き、寧波まで戻ってくるという大変な行程ではあるんだけど、それにしても2年にもわたるというのはあまり例がないらしい。ここから、この時の遣明船が大規模かつ困難なものであったとも言われている。義隆の欲張り・・・以下、「策彦入明記[初渡集]」から感想や説明を交えつつ、簡単に日程をご紹介します。6月26日 九州・五島の日島に到着。上陸して清水を飲む。おフロに入ってから 船に戻る。ミョウガ・青山椒などを食す。7月3日 肥前・斑島に到着。博多から船がやって来て、神谷寿禎からの差し入れで 博多酒を飲む。山口からの使いで警固船が一隻やってきて、 「芸・石二州合戦」の話を聞かせてもらう。ほう、神谷寿禎!彼は、博多の商人としてよりもシルバーラッシュの火付け役としての方が有名でしょう。義興さんの援助を受けて石見銀山の本格的な採掘を始め、のちに「灰吹法」という画期的な精錬技術を導入したことで、石見銀山の産出量を爆発的に伸ばした人です。「芸・石二州合戦」は、尼子詮久との安芸をめぐる一連の戦いですね。もうこの頃には掃討戦もだいぶ落ち着いていたとはいえ、電話も何もないこの時代、口コミじゃないけど、ホントに人を通じて情報が流れていったんだなあ~って、会話の様子を想像してちょっとおかしかった。わざわざ会話の内容を日記に書いてるくらいだからね、尼子詮久の敗北は策彦にとってもインパクトがあったようだし、ひとしきり話に花を咲かせたんじゃないだろうか。で、7月3日は最後に「博多宗繁恵瓜子」ってあるんだけど・・・「瓜子」はカボチャの種とか、スイカの種とか、ひまわりの種って言ってる人もいる。この後、義隆のところに行くまで、策彦は色んな人から差し入れをもらってて、それを逐一書いてるもんだから結構食べ物の話も出てきて面白いんだけど、ここでは「恵」となってるから、中国みやげにひまわりの種でもあげたのかな?中国人はひまわりの種が大好きらしいし(笑)。7月10日 黒川隆尚の領地を見ながら蘆谷を過ぎ、宮浦~藍島と来て、赤間ヶ関で 阿弥陀寺などから歓待を受ける。酒や瓜子を持ってやって来たので、 船の上で酒を酌み交わした。 その後、赤間ヶ関の役人の代理人やら別の船に乗船していた池永・盛田が 酒を持ってやって来た。黒川隆尚は、掃討戦のところでもちょいと顔を出してますが、義隆のいとこにあたる人。この人も面白い経歴を持ってますが、また別のところで書く機会もあるでしょう。で、阿弥陀寺ね。これは、現在の赤間神宮のことです。(阿弥陀寺が赤間神宮になったいきさつについては、「赤間ヶ関編(8)」をご参照ください)ここでも瓜子が出てくるけど、何の種だかはっきりわからないから、もう以後は「瓜子」としておきますね。(←めんどくさい)本文では「携以瓜子、酒等」となってるので出迎え組の手土産かな~と思うんだけど、当時の日本人もフツーにカボチャだかスイカだかひまわりの種を食っておったのか?なら、7月3日のも中国みやげじゃなくて、策彦が差し入れにもらったのかもな・・・あれあれ?ちょっと待てよ、瓜?中世においては、様々な贈答品の応酬があり、公家や武家は毎日のように膨大な品々を贈りあっていたという。現代の感覚だとちょっと意外な感じがするけど、贈答品のひとつとして活躍したのが、瓜。元々は室町時代、5月から7月の間に京の近くの守護代から将軍家へ献上される慣わしだったものが次第に広まって、のちには寺へ贈られたり、公家同士でも贈りあったりするようになった。贈るったって、高級メロン1コ化粧箱入りなんてレベルじゃないんですよ。時代が下るほどに数は増えていく傾向にあり、3籠、10籠、20籠、はては100籠なんて記録もある。「籠」だから、1籠にはいくつかの瓜が入っていたものと思われるが、何籠ともなればかなりの数の瓜が贈られたということになるし、それを方々で贈りあう訳だから、ちょうど今頃の時期、室町期の京では沢山の運送屋さんが沢山の瓜を運ぶ光景がそこかしこで見られたことだろう。ま、瓜にも野菜としての瓜と、甘い果物系の瓜とあったみたいだけど、果物なんか日持ちしないし、一度に瓜をしこたま食ったらゲリするだろうあ、じゃなくて、贈答品に使われたのは野菜系の方みたいです。で、どうも漬物にされたみたいなんだよね。え~、ちょっと脱線した感がありますが、「瓜子」をネットで検索すると、カボチャやスイカやひまわりの種、と出てくるんだけど、当時の社会では瓜はこういう扱いのシロモノだったので、もしかしたらホントの瓜の種を加工して食べてたのかもしれないな~・・・ってちょっと思った。なんにしても、瓜も瓜子も、広く親しまれた食べ物であったようです。で初渡集に戻りますが、池永さんや盛田さんてのは堺の商人らしいです。貿易の主導権争いは元は大内&博多商人vs.細川&堺商人の構図だったのが、一部の堺商人が大内氏の遣明船に同乗していることから、堺商人の中でも大内派と細川派に分かれ、これまで原則大内氏の船に堺商人が乗船することはなかったのが崩れたことにより勘合貿易を大内氏が実質的に独占したということになるんだと。日明貿易をめぐる細川氏とのバトルでは、結構義興さんも義隆もエグイことやってるし、主導権争いは相当激しいものであったようです。7月17日 二号船の池永新兵衛に招かれ、酒宴。初めてシイタケを食べる。 阿弥陀寺へ詣で、酒を勧められる。御影堂へ入り、先帝の像を拝する。 次に壁の絵を見た。先帝のあらましについて描かれたものだった。 門前には松があり、薄墨松というらしい。 神谷寿禎から酒と茄子一盆、博多宗菊の子から「はったい」一袋、 藤田藤四郎から瓜子10枚と兵庫樽1コをもらう。 よくわからない部分についてはすっぱりカットしてます(笑)。が、この日も酒と食べ物の話ばっかりだなあ・・・初めてシイタケを食べたって意味がよくわからないんだけど、そんなことより阿弥陀寺ですよ。感慨深いなあ~。「赤間ヶ関編(17)」に書いた解説を再度掲載しますと、 【赤間神宮の前身は阿弥陀寺という寺院で、そこには安徳天皇御廟堂があり、 幼帝の御尊像を安置して、その周囲に平家一門の肖像画が掛けてあり、 さらに外陣の襖障子八面に安徳天皇後一代の事績を描いた金地襖絵があった。 江戸時代には、参詣の人々にこの絵を絵解きしており その台本『安徳天皇絵説』が長府図書館に蔵されている。】この光景をまさに策彦は見たってことだよね。御廟堂は、御陵の上に建てられた御影堂のことでしょう。 明治期になって御影堂は解体されたけど、その前にも室町の終わりに再建されてるというから、再建される前のものを見たのかもしれない。すいません、赤間神宮の宝物館を思い出して唐突に平家萌え~の世界に入っちゃいました「はったい」は大麦をいって焦がし、ひいて粉にしたものだそうな。「兵庫樽」・・・の中身はきっと酒でしょう。で、この日も瓜子が出てくるが、10枚とカウントされとるぞ。ウリ科の植物の種のことじゃないのか?10枚ってナニ!?もしかして、漬物??瓜にかかずらわってる間に、1話終わっちゃうじゃん・・・にほんブログ村
2013年05月31日

今回、通常のスケジュールを破って山内へまっすぐ来たのは、これを見るためでした↓。 いちおう、当初は公開のスケジュールは決まってたと思うけど、日光観光協会のオフィシャルサイトには「平成24年5月22日(火)~当分の間」とある。なんてアバウトさ・・・並んだり、待つのがイヤだったからさ。早い時間ならいくらか空いてるかと思ったんだよね。ま~、日光といえば、大抵の観光客は個人でも団体でもまず東照宮に来るからね。ホント人が多くてイヤなんだよね。団体さんにかち合ったりすると最悪。まあ、山内で団体さんを見かけない日なんざございませんが、長年日光に通ってるとはいうものの、私はほとんど東照宮には寄らない。人が多いから(笑)。ので、あんまり詳しくはないのですが、確かこの五重塔は通常は柵の外から見るだけだったような・・・つか、鳥居をくぐってすぐの左脇にあるものの、ちょっと奥まったところにあるので、ちょっと目立たない存在。実は私も、これまで立ち寄ったことがない。アハハハ・・・・ 【慶安3年(1650)若狭小浜藩主・酒井忠勝の奉納。高さ35m。 吊られた心柱により高層建築の振動を調整する工夫がされている。 (重要文化財)】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)上の解説だと慶安3年とあるけど、『謎と不思議 東照宮再発見』によると、慶安元年(1648)の徳川家康の33回忌(神様だから「御神忌」というらしい)にあたっての奉納だとある。東照宮にある木造建造物の中で大名の奉納によるものはこの五重塔だけなんだそうな。ただし、残念ながら建立当時のものではない。文化12年(1815)に東照宮で火災があり、惜しくも焼失。その後、文政元年(1818)に酒井忠勝の子孫・忠進によって再建されたものが現在の五重塔。「山内入口2」あたりで杉並木がちょっと写ってますが、山内には樹高の高い巨木が多い。が、五重塔付近の木だけは文化12年の火災で枯れてしまったため、山内にある他の木よりも若く、樹高も低いとある。特別公開の心柱を見るには、別料金が必要。お金を払ったら、ポスターと同じ絵柄のクリアファイルがついてきた。ちょうど私が入ろうとした時、神職のカッコした人が後から団体さんを引き連れてきた。柵の中の狭い場所で何やら説明をしていたけど、邪魔だから早く通過してほしくて周りの写真を撮って間合いを取った。で、以下が五重塔初重の意匠群です。フラッシュをたかない望遠だからブレまくりであまりいい写真がないんだけど ↑こんな細い隙間にまで、意匠が施されてるう・・・ ちょっとブレちゃってるのもあって、ごめんあそばせ。でもわたくしにはこれが限界でした。 何度も撮り直したので、奥に回るまでの間の撮影で結構な時間を費やして、もう首が疲れたそういえば、先行した団体さんの神職風ガイドさんは十二支がどーのと言っておったような・・・十二支の彫り物があるってことかな?やっぱ、便乗してちゃんと聞いておけばよかったかな(笑)。と思ったら、日光観光協会のオフィシャルサイトに「初層を飾る十二支の彫刻は、子(=北)、卯(=東)など、それぞれ方角を表しています」と書いてあった。なるほどね。で、正面の裏まで回るとそこが心柱公開の場所です。この場所で、東西条編の合間に書いた雑談で思いっきり毒を吐いた例のイヤな思いをした訳です・・・(毒にあたりたい方はこちら)心柱も楽しみにしてたけど、私は内部の造りを見たかった。写真は当然撮れませんでしたが、内部はかなり素晴らしかったです。ご存知の方も多いでしょうが、東京スカイツリーはこの五重塔の耐震システムを応用して設計されたと言われてます。そして、五重塔が建つ場所の標高は、東京スカイツリーとほぼ同じ高さ。関係ないけど、明日、5月31日からはNHKも民放もすべての電波がスカイツリーからのものに切り替わるんだそうな。あれってどの辺まで電波届くんだろ?で、東照宮の五重塔の心柱は浮いてるのが話題になりますが、順路に従って時計回りに裏まで進み、内部を見たあとで先の側面に回ると床下から浮いてる心柱が見えます↓。 写真じゃわかりづらいと思うけど、光ってるのが心柱。ここからだと、浮いてるのがよくわかります。こっちには撮影禁止とは書いてないんだよな・・・で、五重塔内部の敷石と玉垣↓。 塔が丸ごと燃えたんなら、火の勢いは相当なものだったと思うけど、石には特に焼けたような跡は見られない。そっくり入れ替えられたのかな。ここで、ちょっと久々に建築の解説です。垂木(たるき)についてはちゃんと説明したことがなかったけど、屋根を支える部材のひとつ。純和風の日本建築でなくても、案外フツーの民家でも使われている。寺院建築では、垂木で屋根を支え、斗栱を組んで建物本体から軒を深く出すことで、本体部分を風雨や夏の強い日射しなどから守る役目を果たします。 ↑これは五重塔の垂木。垂木が二段になってるので、これを二軒(ふたのき)という。本格的な日本建築は、たいていが二軒。垂木が一段なら、一軒(ひとのき)。三段なら、三軒(みのき)。三軒以上はありません。軒が複数ある場合、下の軒を「地軒」(じのき)または「地垂木」(じだるき)、上の段を「飛檐軒」(ひえんのき)または「飛檐垂木」(ひえんだるき)と呼ぶ。古い時代の正規の手法としては、地垂木の断面は円形で、飛檐垂木の断面は角形。つまり二軒の垂木を正面から見た場合、下の段は丸くて上の段は四角だってこと。地(垂木)=円、飛(檐垂木)=角だから、この正規の方式を「地円飛角」(じえんひかく)と呼ぶ。上の写真の地垂木は角だから、「地角飛角」。おもむろに垂木の説明を始めたのにはワケがあります。上の写真の垂木は、みんな軒の先端に対して垂直でしょ。隅木以外のひとつの面の垂木はみんなまっつぐ平行に並んでいる。こういう垂木の配置を「平行垂木」といい、和様のスタイル。五重塔は当然屋根が5つありますが、初重(最下層)から四重まではすべて平行垂木↓。ちなみにこれは四重のです。 これに対して、最上層の五重だけはこうなっている↓。 垂木がまっつぐじゃありまへん。放射状に広がってます。こういう配置を「扇垂木」(おおぎだるき)という。扇垂木は禅宗様。ちょうど写真の下に四重の垂木が写ってるから比較しやすいかな。隅木付近の垂木なんか、四重と五重じゃ配置が全然違うでしょ。一体、何でこんなことになっているのか・・・これについて『謎と不思議 東照宮再発見』では、「徒然草」によると完全なものは決して良い訳ではなく、内裏の造営の際も必ず1ヶ所は造り残しをするし、江戸期には「瓦三枚残す」という風習があったことから、わざと垂木の配列を変えたのではないかと推測している。そして、こうした工夫は東照宮内で五重塔だけではないとのこと。他にどういう工夫が凝らされているのか、こちらもおいおいご紹介いたしましょう。にほんブログ村
2013年05月30日

光明院稲荷社を降りて右に行くと、表参道に出ます。 表参道の終点、この奥にかの有名な東照宮があります↓。 春と秋のお祭りの際には、この表参道で神事・流鏑馬(やぶさめ)が行われます。何年か前に行った時、たまたま春季例大祭の日で(←知らなかった)午後から流鏑馬が行われるというので、開始時間の少し前に表参道に来て、始まるのを待ってました。確か小雨が降ってたりしてイマイチの天候だったせいか、すごい人というほどでもなく、幾つか並べられた関係者用の椅子の後ろが空いてたので、ここならバッチリ見えると思って立って始まるのを待ってたら、身なりのいい男女が数人やって来て私の前の椅子に腰かけた。その中の1人の男性は、なんと徳川のお殿様だったまだ若い、物腰に品のある方で「世が世なら、私なんかが見ることもできなかった方なんだな~」とか「こうやって、徳川家にゆかりのある各地の行事とかに参加してるんだろうな~。お殿様も大変だな~」とか雑念だらけで、お殿様と奥方様、あるいは親族の方と思われる連れの女性の後頭部を間近で眺めてました(笑)。そして始まった神事。表参道の下から上までは、歩くとなったら結構な距離があるけど、ここを馬で疾走すると相当短い。それぞれ、3本くらいづつ矢を射ってたからな。ゴールで馬を止めるのは、さぞかし大変なことだろう。しかし、何が何でも止めないと、そのまま東照宮へ突入してしまう。確か東照宮の入口には「下馬」の札があったから、たとえ神事だろーが乗り入れることは許されんだろう生まれて初めて間近で見た流鏑馬は、かなりの迫力があってカッコ良かった。東照宮で行われる流鏑馬は、小笠原流だそうです。流鏑馬自体は各地で催されるのをたまにニュースで見るけど、こちらにはお殿様もご出席されますので、オススメです(←ミーハー)。表参道を上に、もう少し近寄ったところ↓。 少し早い時間なので、まだ比較的人が少ないです。私が日光に行く時、山内に向かうまでのスケジュールは決まっていて、8:30頃駅に着いて、途中のガストまで歩いてく。ガストで2回目のご飯を食べて(1回目は家で)、11時くらいに山内に入る。大抵、お護摩のために行ってるからね。ずっとそうしてきたもんで、お護摩を受けない時でも同じようにガストでゆっくりしていく。が、今回は撮影で忙しくなるのはわかってたし、観光客が増え出す前に行っておきたいところがあったので、長年の固定化したスケジュールを破って駅からまっすぐ来た。だから、いつもより山内に入る時間が早い。さてさて、東照宮の記事に関しては、『謎と不思議 東照宮再発見』という東照宮の禰宜さんが書いた本を主に参考にするかと思いますのでご了承ください。え~っと、確かこれは東照宮の本殿で買った本で、一般の人間にはまず撮れない写真やエピソードなどが多く綴られていますので、東照宮に興味のある方にはオススメです。 で、上の写真、鳥居までの入口の石段部分は「千人枡形」(せんにんますがた)と呼ばれておるそうです。地形的に、最近では鳥居をくぐった広場の方を千人枡形と言ってるそうですが、鳥居前のこの石段を枡形と呼ぶのが適切かどうかという議論より、古くから石段部分の方を千人枡形と呼んできたとのことです。普通に歩いてるとそんなに感じないんだけど、実際には石段を上がるほどに幅が狭くなっていて、遠近法で奥行があるように見せる仕掛けが施されているんだと。石段脇の石垣↓。なにげに巨石も使われてるし、隙のない切込ハギ・・・あらためて見てみると、結構迫力も風格もあります。 その先にあるのが、大鳥居↓。もう、東照宮じゃ人が写っちゃうのはしょうがないッス。でも、まだマシな方です。 この鳥居だけでも書くことがあります。まずこれは、黒田長政の奉納によるもの。長政の名前もちゃんと残ってます↓。 【奉寄進 日光山 東照大権現御寶前石鳥居者 於筑前國削鉅石造 大柱而運之南海以達于當山者也 元和四年戊午四月十七日 黒田筑前守藤原長政】へえ、黒田家は藤原姓を名乗ってたのか・・・知らなかった。筑前で切り出して海路を南海から運んできた、とね。『謎と不思議 東照宮再発見』には、もう少し詳しい記述がある。 【石材は、領内小金丸村から切り出した御影石で、海路江戸湾まで運ばれ、 江戸からは川を遡り、下野小山近くの乙女河岸で陸揚げされ、そこからは陸路 人力で運搬された。 例幣使街道の十石坂(今市市室瀬)の地名は、この時石材を運ぶ人夫がここで 米十石を喰い潰したことによると言う。真偽の程はともかく、大変な難工事で あったことが想像される。】 この「東照大権現」の文字は、後水尾天皇によるものとされてきた。昭和61年に額の修理と鳥居の石のお掃除が行われた際、東照大権現の「東」の文字の裏から「元和八年三月吉日」の銘が発見され、他の史料などとも照らし合わせて、確かに後水尾天皇の御宸筆であることがここで初めて確認されたんだそうな。昭和61年の修理の際には、色々な調査もなされたらしい。 で、鳥居の笠木と島木は中心がくり抜いてあることが解り、これは新発見だったんだと。また、巫女さんが左右の柱の太さを図ったところ、西側の柱の方が10cm太かったという。これだけデカいと、10cmくらい違ってもわかんないよね~。どんだけデカいか、ご覧になったことのない方はもちろん、ご覧になった方も、後水尾天皇の額束が畳一枚分の大きさがあるだなんて言われなければわかりませんそんなデカさなので、柱:4、貫:3、束石:1、島木:3、笠木:4の計15もの石材からできているそうです。以前は鳥居に注連縄がかけられており、日本一の長さの注連縄といわれたそうですが、柱の継ぎ目にある心木という木材が腐ってかなり減ってしまっていたということで、以降は注連縄が掛けられなくなったとある。なんでも、江戸期の石造りの鳥居では最大の規模なんだと。東照宮内には、建造物や灯籠など諸大名からの奉納品が沢山あるけど、なんたって入口で目立つしね。ずいぶん張りこんだじゃん、吉兵衛!!ってカンジィ~?鳥居をくぐると、整然と大きな敷石がはめ込まれている↓。漫然と歩いてると何とも思わないけど、多くの戦国武将やその子孫たちが建立に関わった場所だと思うと、何もかもが感慨深く見えてくる。 現在の三井寺(大津市)も闕所の後の再興なので、毛利輝元とかおねとか輝元とか(笑)戦国を彩る人達が多く関わってるけど、東照大権現様の御廟所ともなれば、それは多くの有名人が関係してくる。(三井寺は「大津編」を見てね)建造物を純粋に楽しむこともできるし、沢山の戦国武将や著名人のゆかりを探すことをテーマにしても楽しめる。日光はおいしい場所です。吉兵衛(長政の通称)の石鳥居のすぐ先には、左右に灯籠がある。こちらは右↓。 こちらが左↓。ちょっと雪が強く降ってたので、写りが悪くてごめんあそばせ。 【奉献 石燈籠二箇 日光山 東照宮廟前 慶安四年辛卯七月日 従四位下有馬中務小輔源朝臣忠頼】 有馬忠頼は筑後久留米藩21万石の2代藩主。有馬豊氏の次男。ワシャ、有馬さんちは豊氏しか知らんかったけどねこんな灯籠が山内にはわんさかありますので、誰の奉納による灯籠かを紹介するのは時間がかかるぞ~(笑)。ま、灯籠はぼちぼちとね。にほんブログ村
2013年05月29日

※ 「輪王寺3」の続きです。相輪塔の段を降りた正面、大護摩堂の向かって左隣には小さなお宮があります↓。 【光明院稲荷社 鎌倉中期 当山24世弁覚僧正が新たに光明院を建立し、日光山の本坊とした、 その守護神として稲荷社を勧請、光明院稲荷と称す。 古くから日光山の五大稲荷として学業成就、家業繁栄の祈願に特に信仰されている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)へえ、五大稲荷!山内にそんなにお稲荷様があるなんて知らなかったぞ・・・このお宮もね、あるのは知ってたんだけど、もしかしたら1度も寄ったことないかもしれない。まして、普通の観光客なんかは確実にスルーしますね(笑)。かなり細い石段を上がると、これまたミニマムな境内が広がっていた。 いちおう、手水鉢もあります↓。 こちらが、光明院稲荷社のお宮↓。小さいながらも細かく装飾が施されているので、パンパンしてからいそいそと撮影にいそしむ。 正直言って、彩色モノってあまり好きじゃないんだけど、ここのは実に細かく絵が描かれていたので、ちょっと彫り出し物を見つけた気分だった。お宮が小さいから、至近距離で見られるしね 間近で撮ってるから、写真じゃあまり大きさがわからないと思うけど、一つ一つの部材はかなり小さいです。どれだけ絵が細かいか、わかるでしょう?こちらは、側面の妻飾り↓。 小さな海老紅梁にまで、こんなに絵がびっしり↓。 こちらも妻↓。 懸魚↓。え~っと、法具だよな、この輪っか・・・ ちょっとわかりにくいけど、鬼板には金の菊がある↓。 関係ないけど、稲荷社は一段高いところにあるので、お隣の大護摩堂の軒丸瓦が比較的近くに見えます↓。大護摩堂軒丸瓦のビュースポットと言えるんじゃないでしょうか まあ、ホントに小さいお宮がひとつあるだけの地味なお社ではあるし、好きずきあるとは思いますが、近くで見るとその細かさが結構感動モノです。さすがは日光!といったところでしょうか。山内にはそれこそ腐るほど見どころがありますが、ここは小さいからすぐ見終わるし、見てって損はないと思います。ただ、狭いから大勢じゃ上がれないけどね(笑)。輪王寺へ寄るのでしたら、是非こちらのお稲荷様にもお立ち寄りを・・・↓ランキング参加ちうにつき、ぽちっとお願いしま~すにほんブログ村
2013年05月28日

白い・・・白いぜ・・・(by明日のジョー)やっと東西条編が終わった~!長かった~!疲れた疲れた疲れた・・・今回は歴史的に重要な城ばかりを選んだ上に、1日の大半を山城で過ごしてたので、シリーズの話数が長くなるのは自分でもわかってたし、とことん書くつもりではいたけど、それにしたってね~。結局、東西条バトル編29話+鏡山城13話+新高山城32話+頭崎城12話+白山城1話+高山城22話で計109話・・・もちろん、歴代トップです。毎日、地道に読んでくださった方々は、ホントにお疲れ様でした。2月の旅行の前には一時小休止もしたけど、1日の出来事を書くのにだいたい1ヶ月くらいかかっとるもんな。ありえね~。旅日記のタイトルを「東西条バトル編」と名付けたように、どの城の歴史にも大内氏がからむ。戦国を好きになって最初の頃は天正年間がメインだったのが、近頃は天文以前に意識が行っている。目下、最も好きなのが天文年間。安芸の天文年間は、西国の戦国時代で重要な意味を持つので、東西条のなれそめから頭崎城の戦いまでの一連の背景は、それこそ熱に浮かされたように書いた。ここは根性入れて書いた。元々書くつもりだったから、そこまではよかった。が・・・頭崎城までは、安芸の歴史と深く関わる大内氏の話が中心だったし、ある意味ひとつながりの歴史だったからよかった。しかし、おかしな言い方かもしれないけど、小早川隆景は好きだけど、私の中では小早川氏と隆景は別モノ。隆景のあと、金吾(小早川秀秋)の代になると、さらに別モノ。だから、高山城シリーズになって隆景以前の小早川氏を書くのが非常に辛かった。頭崎城を書き終えた時点で、大きなひとつの流れが終わってすでに燃え尽き状態になっていたのだ。その燃えカス状態で書いたのが高山城シリーズ。しかも、私が真面目に隆景以前の小早川氏の勉強を始めたのはつい最近のことで、まだまだ小早川一族の流れについてもマスターしてない状況だから、ホントにここは重かった。勉強してないなら、書くなって?でも、「ちゃんと勉強してから公開します」なんてこと言ってたら、永遠に公開できないしさ~。それに、歴史の勉強には「これで完璧だ」なんて位置はないからね。私が旅に出る時は、独自に資料をそろえていくけど、どちらかというと遺構だとかのハード面の比重が大きい。ある程度の背景も頭には入れておくけど、記事に肉付けできるような細かい歴史などは、たいがい帰ってきてから本腰入れて勉強する。こんなアバウトさで史跡めぐりを続けているものだから、実際に記事を書く段となったら、いつもカツカツ・・・そう、このブログは私の備忘録であるとともに、勉強ノートでもあるのです。過去の記事を読み返したりすると、「うわ~、バカ丸出しでこんなこと書いちゃってるう!」ってのも結構あるけど、そもそも戦国を好きになったのがごく数年前のことだし、知識が浅いのはしょうがないッス(←開き直り)。でも、その時その時でできるだけの努力はしてきているので、少しづつ背伸びしながら書き続けることでちょっとづつ成長できるのかなと・・・(笑)。この未熟なブログを辛抱強く読んで下さる皆様は、実はわたくしの成長記録を見守ってることにもなるのですよ。なんちゃって・・・アハハハ!東西条編では歴史面で書きたいことが沢山あったので、なかなか話が進まなくてちょっと大変でした。あまりに時間が足りなくて、仕事の休憩中にもケータイからちまちま書き溜めてたくらいだから。歴バナの最中は、写真を貼る作業がいらないので、ひたすら自分の頭の中にあることを書きつづっていくだけ・・・少なくとも東西条編の歴バナ部分の3分の1くらいは、職場の喫煙所で書いたものだろうと思います。ブログの画面からタバコの匂いがしてきたら、ごめんあそばせわたくしが愛を捧げる対象は、ご存知の通り大内家と小早川隆景・・・それは現時点でも変わりません。実は、少し前まではいわゆる「史料」というものに手を出す気はありませんでした。大ざっぱな流れがわかればそれで充分満足だったし。が、戦国全体に関心を持って一般的な勉強をしていた頃に比べると、最近はだいぶ興味の対象が限定されてきた。限定されるということは、入れ込むこと。入れ込むと、色々なことが知りたくなってくる。そういう中で、去年などは結構本格的な本を買い揃えました。洋服とか、滅多に買わなくなったもんね。節約のためじゃなくて、そんなことしてる時間がないし、興味がなくなった。もう完全に身なりに構わなくなった・・・こーゆー状態を、世間では「女を捨てた」と言うのでしょう前にもどっかで書いたと思うけど、私が本編を書いてる間はとにかくその登場人物に集中する。勉強しながら書いてるので、書き終える頃には書いてた最中の愛情と、途中で得た知識が合わさって登場人物がかなり好きになってることが多い。三村氏なんか、その典型です。んで、小早川氏・・・これはどうも好きというのとはちょっと違うかも。が、ハンパな愛情よりもずっと高い関心がある。やっぱ、「歴史」と一言で言っても、結局は人生の積み重ねだからね~。幅広く色んな歴史を知りたいとは思っても、そうそう簡単に理解できるもんじゃないですよ。自分の目で書状やらを見て色々考えてみると、研究者が書いた小早川氏の概略などとは結構違う印象を受けることがある。すべての流れを解明できるだけの史料が残されてる訳じゃないから、解釈の違いでずいぶん変わってくるものなんだな~と思った。まあ、言いかえれば自分なりの考えを持てるようになってきたってことかもしれないけど。そういう訳で、東西条編を通してわずかながらも自分なりに考えてきたし、まだまだわからないことは沢山あるし、金かけてるし(笑)、大内氏とも隆景とも違った意味で、小早川氏が私のテーマになりそうです。ゆえに、今後は大内氏と隆景と小早川氏の3本柱・・・「にほんブログ村」で私が参加してるカテゴリーは、「歴史」の中の「地方・郷土史」。「戦国」のサブカテに移ってもいいんだけど、実際には戦国は6~7割ぐらいで、平家や頼政の話もあるし、2割ぐらいは寺社や建築の話だからな。さらにそこに、トイレ行きたいとかの個人的な旅の記録が入りますので・・・(笑)こんな雑多なブログですが、マイペースに努力を続けていきたいと思ってますので、各地の地味な史跡や歴史を、わたくしと一緒にゆるゆるお楽しみいただければ幸いです。さて、次のシリーズですが、本来であれば記憶に新しい廿日市、または福山から片付けていくべき・・・が、入れ込み度の関係もあって、広島の旅の記事はどうしても重くなりがち。福山はまだ軽めにできるハズだけど、ひとつ難物があって頭の整理がいるその他の事情などもありまして、いくつか関東の短編と近畿の旅を先に書こうと思ってます。古いフォロワーさんでも、覚えてる人が何人いるかわからないけど、ほんの1年前ぐらいまでは「47都道府県の中でいちばん好きなのは、滋賀!!」と誰はばかることなく公言していたわたくしですからね。自分でも、ずいぶん変わったもんだな~と時々苦笑してます。思いっきり雑談で終わっちゃいますが、もうホントに高山城シリーズを書いてる時が重くて辛くて・・・で、本編を書いてる最中から例のごとくケータイでグチを書きだしてたので、これも備忘録として残しておくのもいっか~と現時点で思ってることをそのまま付け足しました。あまりにも東西条編が長丁場だったために、東西条の本編を書いてる間に雑談のネタもいくつか浮んできてたので、それを少し書いたあとで新シリーズを始めようと思ってます。日光写真館も、少しづつ進めないといけないしね。本編を書いてる間はいつもヒイヒイ言ってますが、次のシリーズも(ぼちぼち)頑張りますので、次回もおよろしくね更新は毎日続けますので。目指せ、月間皆勤賞!!にほんブログ村
2013年05月27日

寂静寺の境内には、宝形造の小さな経蔵らしきものもある↓。 立派な建物も嬉しかったけど、これを境内に見つけた時の嬉しさと言ったら・・・↓ おひさ~!!今回は山城がメインでろくに寺を回れなかったから、この旅で初めて見たソテツだよな。「三原編」のあと、ソテツをお気に召してくれた方もちらほらおるようなので、今回の旅でこの写真が出るのを待ってたかもしれませんね(笑)。私ももう、これがないと寂しくっていけませぬ・・・いっそ、自分ちに植えちゃおうかとも思ったけど、結構デカくなるからな・・・さて、寂静寺を出て駅方面へ向かう。実は、西国街道沿いにはここに写真を載せたものか迷ったモノがある。 え~と、これは床屋さんなのかな?おとつい、新高山城へ向かう朝にまずこれを見つけて、ぎょっとした。像の後ろには、デッサンまで貼ってあるし。美大生の子供さんの作品とかなのかな・・・隆景ちゃまがこれをご覧になったら、さぞかし驚かれることであろう。で、このすぐ先にあるのが恵美須神社。(場所はこちら) ここの額束が変わっている↓。えびす様だからな。 あと、手水鉢もタイの形をしている↓。えびす様だからな(笑)。 鳥居の先の狛犬↓。 あ、これ子持ちだ。乳でも吸ってるのかな?↓ 反対の狛犬も 悪ガキにいたぶられて悲鳴を上げてるオヤジのようだ『広島近郊の山城と史跡ベスト33』によると、狛犬は天保7年(1836)の寄進なんだそうな。で、その2年後に鳥居が建てられたとある。さてこちらが拝殿・・・でいいんだよな?神楽殿って言いそうになるんだけど 近寄ってみたら、なんと音声ガイドが設置されていた↓。 早速メモ帳を取り出してボタンをぽちっとしてみたら、夕暮れの静かな境内に響き渡る大音量の説明・・・これってご近所迷惑だよな~と思いながらも両方聞いたけど、早くてメモが全然取れなかった。2回目を聞いてる時には、なにやら変な女の人が来たので気が気じゃなかったし。で結局、メモ帳を見返しても断片的な単語がいくつか書かれてるだけで、何がなんだかさっぱりわからない。が、音声ガイドと『広島近郊の山城と史跡ベスト33』に書いてある記述を合わせると、たぶん本郷の商人が商売繁盛・五穀豊穣のために発願して建てた「えびす堂」が始まりで、「天文20年隆景」とメモがあるので、天文年間頃の創建なんだろうと思われる。その後、何度も修理や改築がなされたようで、(おそらく棟札に)文禄4年(1595)の年号が見えるという。こちらが拝殿の内部↓。 左右の額に、えびす様がオラレル・・・白市の恵美須神社もこんなだったよなあ。境内には稲荷社もある↓。社名も額束に書いてはあるんだけど、肝心の部分が読めない 以上で今回のすべての行程は終了~。今日も予報では最高気温1℃って言ってたし、小雪が舞うわ寒いわ・・・西条に戻る30分の間の睡魔との戦いがチョ~辛かった。寝たら乗り過ごしそうだったんだもん。西条駅から宿へ向けて歩き出すと、大きなお菓子やさんが開いてた。あっ、そうか。正月休みだったから、これまで店の存在に気が付かなかったんだな。今日で三が日も終わるし、私も明日は帰るし、楽しかった年末年始が終わるってカンジだな~。正月休みでほとんどの店が閉まってたから、土産は空港で買おうかと思ってたけど、なるべくならお世話になった地元でお金を使っていきたい。ので、このさくらやさんで菓子系の土産をまとめて買った。お店には酒どころ・西条らしく酒まんじゅうがあったので、部屋で食べようとバラで1コ買った。その他の土産を配送にした時、酒まんじゅうはこれから食べるから持ち帰りますって言ったら、お店のおねえさんが試供品のおまんじゅうをくれた。 ここは店内で製造もやってるらしく、できたてのおまんじゅうは温かかった。広島の人はいい人だ。私は日本酒は飲まないし、酒は好き嫌いがあるから酒まんじゅうは自分用にだけ1コ買ったんだけど、これは美味しかった。よし、明日は少し早目に出て、会社の土産はこれにしよう。夜はもう、無事に終わったことの安堵感と溜まった疲れでデロデロ・・・さすがに、現地からのブログ更新もこの日はお休みしました。この日の歩数は、21,253歩。結構歩いたと思うんだけど、意外に少なかったな~。5日目<2013/1/4(金)晴れ>最終日は例のごとく帰るだけ~。白市の福岡八幡神社で買った破魔矢は、コロコロには収まらなかった。 まあ、いいや。空港に着いたら、預かってもらおう。少し早目に宿を出て、さくらやさんで職場への土産に酒まんじゅうを買った。店の奥の椅子を借りてコロコロにぎゅうぎゅう押し込んでたら、昨日とは違うおねえさんが「これ、途中ででも食べて~」と、またおまんじゅうをくれた。できたてほやほやで、温かいを通りこして熱い。今回はホントに沢山の人に親切にしてもらったな~。皆様、ありがとう空港では、驚いたことに破魔矢は預かってもらえなかった。「壊れるといけませんので」だそうな。えええ~、長細い棒を持ちこむ方がマズイかと思ったんだけどな~。「仕込み破魔矢」だったらどうするつもりだ?仕方ないので、破魔矢を握りしめて機内へ。まだドキドキの瞬間が待っている。帰りの席は、右の窓際。新高山城から見たヒコーキの角度と城の位置を考えると、たぶん離陸直後に両高山の上を通過するのだろう。ヒコーキが離陸してすぐ、背中にかかる重力に逆らって肘掛けにつかまりながら窓の下を眺めた。ヒコーキに興奮して外を眺めてる人みたいでちょっと恥ずかしかったけど、そんなこと言ってる場合じゃない。きっと、この窓から見えるハズなのだ。そして、予想通り見えました!高山城、新高山城が!!やった、やったああ~~~!!!空港周辺は山ばっかりだけど、特に高山城の方は一度登ればその特徴ある山容はすぐにわかる。上空からの写真をぜひとも撮りたいところだけど、たぶん私のカメラは離着陸の時は使っちゃマズイんだろうな・・・「写ルンです」なら使えるかな?今度は用意しておくか(笑)。てことで、広島空港から東へ向かうヒコーキからは両高山が見えますので、座席は右の窓際をオススメします。ただし、離陸直後だからね。シートにもたれてるとまず見えませんので、お腹に力を入れて頑張って重力に逆らってください。あ~、楽しかったあ~!!羽田に着いて到着ロビーを出てすぐ、航空神社に初もうでと御礼参りに行った。今年は去年よりもさらに遠出を減らす予定だけど、泊まりの時はまず中国に来るだろうから、今年も安全な空の旅となりますように・・・以上で東西条編はすべて終了です。オドロキの長編を毎日読んで下さった皆様、ありがとうございました。↓最後に「ぽち」もよろしくね~にほんブログ村
2013年05月26日

いやいや、香積寺と城下の寺のことだけで1話使っちゃうとは、自分でも予想外でした。これぞ、気ままなジジイの旅日記・・・しかも、昨日の記事を書いたあとで、香積寺の名前の由来についてまで考え始めちゃったし。香積寺の存在を知ったのは、去年の夏のミワラに行くにあたって寺町めぐりのプランを立てていた時。地図に「香積寺」の文字を見つけた時は、「えっ!ナニコレ!?」って身を乗り出しましたね。だって、私の中での香積寺といえば、山口にある現在の瑠璃光寺なんだもん。(山口の香積寺と大内義弘については「山口編(7)」、香積寺が瑠璃光寺となったいきさつについては「山口編(8)」をご参照ください)沼田の香積寺の正式名称は「桂谷山香積寺」。「桂谷山」については前回「本郷町誌」より引用しましたが、「香積寺」の名称の由来については、私はまだ知りません。が、開山の全庵一藺(ぜんあん・いちりん)が大内氏と関係のある人であり、もし沼田香積寺の創建に大内氏も少し噛んでるんだとしたら、あるいは「香積寺」の名称についても何か関連があるのかもしれない。だって、沼田香積寺ができた時には、山口の香積寺はまだ健在なんだから、山口の香積寺が小さな寺だったんならマイナーゆえにカブっちゃうこともあるかもしれないけど、義弘の菩提寺だからね。それに、開山が全然よその土地の人だったんならたまたま寺名がカブったって可能性もあるけど、全庵一藺は山口にいた人だからね。こういう状況で、フツー同じ名前は付けないと思うんだよね~。さて、香積寺についてはこれでおしまい。本郷周辺には他に小早川惣領家の菩提寺・米山寺や、小早川氏が最初に菩提寺にしようとしたというウワサのある楽音寺などの古い名刹もありますが、ちと高山城からは遠い。が、この香積寺は城下と呼べる位置にあり、しかも小早川興平の菩提寺。高山城・新高山城を訪れる人の中で香積寺に寄る人はほとんどいないと思いますが、前回と今回ちょっと書いたような歴史と背景を持つ寺であり、大きくはないものの、小早川氏をしのぶにはなかなかいいお寺じゃないかと私は思いますので、ぜひこちらのお寺にも立ち寄って往時の小早川氏に想いを馳せる人が増えてくれると嬉しいな~と思います。最後に鐘楼を見てから、寺を出る↓。 この後で、県道50号線を南下して居館跡推定地へと向かう。県道50号線の香積寺前から見た高山城↓。 県道50号線を挟んだ向かいには、沼田富士が大きくそびえる。その向こうには、4つ子ちゃんみたいな面白い形の山があった↓。 県道沿いには、こんな看板もあった↓。 『空港と史跡の町』だって・・・アハハハ!「ふた」と同じく、県境とか市の境とかにあるこーゆー看板も、その土地の名所・名産が描かれることが多いから、私好きなんだよね~。まあ、私の史跡めぐりは歩きが基本なので、あまりこうした看板にお目にかかることはないですが。 居館跡推定地へ向かう途中には、フェイクながらも立派な石垣を備えている民家があった↓。 別の民家には 居館跡推定地(現在の本郷小学校)から古高山はこんな風に見える↓。 写真に写る現代の民家を家臣屋敷に着せ替えして、心の眼(妄想ともいう)で見てくださいね。すると、結構立派な眺めになるでしょう?今川了俊はおそらく居館に滞在したんでしょうから、同じような景色を見たに違いない。小学校の前の道を、西国街道へと向かう↓。 ハアハア、もうちょっとだ・・・次に寄ったのが、寂静寺。(場所はこちら) 工事中のようです・・・が、中にはいちおう入れるらしい。山門の脇にあるのが、鐘楼。 「昭和二四年五月再鋳」ってあるのかな?ここも先の大戦で供出したものと思われる。鐘楼の軒丸瓦は、「立ち茗荷(みょうが)」↓。 ここの懸魚と妻の彫り物がすごい↓。 こんなすごいのを、懸魚と呼んでいいのだろうか・・・デカい羽で、しっかり雨を防いでるといえなくもないけど(笑)。境内には、少しお年を召した親鸞上人様がたたずんでおられた↓。 傘で顔が暗くなっちゃってるけど、どうにも鼻のところが気になって写真を拡大してみた。そしたら、両の鼻の穴に何か突っ込んであるらしい。花粉症かな?鼻の詰めものはともかく、やはりお年のせいかリアルだなあ。ミワラでは、幼体の法然様とか青年の親鸞様ばっかり見てたので、どうもこのリアル感になじめない。やっぱ、専福寺の若くてイケメンの親鸞様がいいな・・・(笑)。境内には何やら長々とした碑文があったので縁起でも書かれてるのかと思ったら、違ったみたい。が、親鸞上人様でわかるでしょうが、こちらは真宗のお寺になります。「本郷町誌」によると、天文18年(1549)僧祐円の開基とある。あれ、もう少し新しい寺かと思ってた。て、ことは・・・この寺も、ミワラへ移転しなかったのか。なんでだろ?で、こちらが本堂↓。 アラ、ここは赤瓦じゃないわ・・なんか新鮮。 こちらが玄関↓。 すげえ立派~!! あ~、ミワラの寺町めぐりを思い出す・・・てか、天文年間の創建というものの、全体的な造りというか印象はミワラに移転した寺とよく似てる気がするんだけど。外観だけ見てると、天文よりは天正以降の寺ってカンジだよな・・・後の時代になって、大々的にリハウスしたかな?建物がこれだけ立派なら、山門もぜひ見てみたかったな~。まあいいや、次に来た時にまた寄ってみよう。にほんブログ村
2013年05月25日

元祖・香積寺は明応3年(1494)、時の小早川惣領家当主・扶平(すけひら)によって子宝祈願のために建てられた、小早川家とはゆかりの深い寺。香積寺の霊験によって生まれたのが、興平。開山は、全庵一藺(ぜんあん・いちりん)。「デジタル版 日本人名大辞典」によると、 【周防闢雲(びゃくうん)寺(現泰雲寺)の覚隠永本に師事して印可をうけ、 能登総持寺の住持となる。のち丹波永沢寺(兵庫県)、闢雲寺住持をへて、 晩年阿波桂谷(けいこく)寺(現桂国寺)の開山となる。】という経歴の持ち主。「本郷町誌」では 【彼は阿波に建てた寺が廃されたので香積寺に併合して、この寺の名を桂谷山とした】とある。どうも桂谷寺が廃寺となって沼田に来たらしいけど、「デジタル版 日本人名大辞典」には香積寺の名はカケラも出てこない。アハハハ・・・この経歴に食いつく人間はそうそうおらんだろうと我ながら思うんだけど、私には少々引っかかる部分がある。大内氏と曹洞宗については、「三原編(14)」に少し書いてますのでそちらも見ていただきたいのですが、まず、全庵一藺が印可を受けた山口の泰雲寺は、現在は小早川隆景夫妻の菩提寺となっている寺。が、そもそもは大内盛見が応永11年(1404)、石屋真梁(せきおく・しんりょう)を招いて開いた寺だった。石屋真梁は18歳で中国に留学し、入宋20年の履歴を持つ当時の名僧。寺の名を闢雲寺(びゃくうんじ)といい、周防五刹のひとつに数えられる寺だった。大内教弘の菩提寺でもある。あ、教弘の墓は、闢雲寺にはないんですよ。教弘は、「高山城(19)」に書いたように伊予の陣中で亡くなってますんでね。瀬戸内海に浮かぶ興居島(ごごしま)なんて面倒な場所に墓があるもんで、きっと私の歴代大内家当主の墓めぐりでは、教弘の墓が一番最後に訪れる場所になるのであろういやいや、墓参りはともかく。闢雲寺から出た全庵一藺が、総持寺の住持を務めたあと、丹波の寺を経て古巣の闢雲寺の住持となった・・・つまり、全庵一藺は大内氏とは深いゆかりがある。そういう人が、小早川扶平の招きに応じて沼田に寺を開いた。「流れ公方」と呼ばれる足利義尹(よしただ)が山口に転がり込んでくるのが明応9年(1500)だから、まだ当然、大内義興さんの上洛戦も始まってない時期なんだけど、なんで大内氏とゆかりのある全庵一藺が小早川氏の寺を造ったんだろうとちょっと不思議な気がして、また「小早川家文書」を開いてみた。そしたら、香積寺開創の前年、明応2年(1493)には大内家重臣・内藤弘矩(ひろのり)から書状が数通送られてきていた。その書状の中では、はっきりした言葉が使われてないのでどうも何言ってるのかわからないんだけど、九州がどーのと言ってるから、諸国で地方武士の蜂起が相次いでいた時期でもあるし、その鎮圧などに小早川氏も協力したのかもしれない。ちなみに、内藤弘矩さんは名前こそ書かなかったけど、「新高山城(8)」で登場してるんですよ。義興さんが家督を継いですぐ、冤罪で誅殺してしまった長門守護代、それが弘矩さんです。また、「高山城(19)」で陶弘護君の最期について書きましたが、弘護君の殺害犯・吉見信頼をその場で成敗したのも弘矩さんと言われてます。大内家内部では、かなりの力を持った人だったようです。そうした人が、小早川家と何やらやり取りを交わしている・・・で、この後ぐらいから大内家からの書状が増えてくるのだ。全庵一藺が阿波に寺を開いたのは晩年のようだけど、総持寺や闢雲寺の住持を務めてるぐらいだから、名僧といってもいい人だろう。大内家とのパイプもあるし。まだ小早川全体が大内氏の傘下に入ってない時期に、大内氏ゆかりの僧が小早川家の寺を造るという不自然さがどうにも引っかかった。てことはね、あるいは大内氏による小早川絡め取り作戦のひとつとして名僧を紹介したって可能性もあるんじゃないのかな~、なんて思っちゃった訳ですよ。どこにもそんな事は書いてないんだけどね。元祖・香積寺が沼田の地に残ったいわれを前回書いたけど、御本尊様が「引っ越し、やだ!!」ってダダをこねずに丸々ミワラへ引っ越してたら、あるいは大内氏の影に気がつかなかったかもしれない。ま、私の推測が全然的外れって可能性も充分にあるけど、表立った歴史の隙間に隠された事情を想像するのは、実に楽しい。推測がある程度当たってたら、もっと楽しいミワラといえば、怒涛の寺社めぐりをしたことを「三原編」に書きましたが、私がミワラで回った26もの寺社のうち、ほとんどが三原城築城に伴う移転組。おお~、高山城下にそんなに寺社があったのか~と最初は思ってたけど、結構庶家の領地にあった寺も移転しているということを最近になって知った。ので、はっきりした場所まではわからないものの、高山城の南麓、現在の本郷駅にほど近い場所にあったであろう寺は大善寺と順勝寺ぐらいってことになるみたい。順勝寺の詳しい由来はわからないけど、臨済宗の巨真山寺(現在の米山寺)に属していたといわれ、田坂義詮の弟が蓮如に帰依して真宗にあらためた。大善寺の創建の時期や由来もわからないし、こちらは新高山の麓にあったとも言うけど、隆景の妻(問田大方)の菩提所ではあったので、高山城および新高山城の麓にあった寺は、いずれも小早川家にゆかりの深い寺ばかりだったと言ってもいいと思う。寿徳寺と法常寺は、城下といえなくもないけど、新高山城の北・船木の地にあったらしい。まあ、これらの寺は現在ではミワラにあって本郷には影も形もないので、小早川氏に特別な執着があって、かつミワラに残っている寺を回った人でないとかつては城下に歴史ある寺が存在していたという実感とか感慨はなかなか湧きにくいかとは思いますが(笑)。ただね、今の本郷に見えるものだけが小早川の歴史じゃないんだよ~って言いたかっただけなんです。だからと言って、別に隆景ちゃんが多くの寺社を移転させたことを恨みに思ってる訳じゃないですが。なんと言っても、ミワラにあれだけの寺町を造ってくれたおかげで、去年の夏にはかなりの数の、しかも古くて素敵な寺社をまとめて回れた訳だししかし、寺社の移転でやはり気になるのは、いくつか元の場所に残った寺があること。筆頭はやっぱり、米山寺だよな~。墓があるから残ったって可能性もあるけど、竹原家の菩提寺・法常寺は墓を残して一旦船木へ引っ越して、さらにその後ミワラへ引っ越しているんだから、米山寺だって同じようにできたはず。あと、新高山を下山した後に行った明智寺。あの記事を書いた時には小早川則平が創建したとしか知らなかったけど、書いた後で「本郷町誌」に則平の護持仏をまつるために堂を造ったものだったという記述を見つけた。まだ他にも残った寺はあるのかもしれないけど、ひとまず私が知ってる中で、三原城築城前にあった寺で、ミワラへ移転しなかったのはこの2つだけ。どちらも小早川当主にゆかりの深い寺・・・やっぱ、プライドがあって拒否ったのかな(笑)。佛通寺も元の場所のままだけど、さすがに佛通寺まで移転させようとは隆景ちゃんも思わなかったでしょうからね。あそこは、周及が選んだといわれてる場所だから。にほんブログ村
2013年05月24日

※「高山城(22)」の続きです。古高山を下山して居館跡推定地へ向かう前に、とある寺に寄った。次に行く寺は、三原へ行った際、本郷へ行ったら絶対行ってみようと思っていたところ。地図ではお寺の入口がどちらにあるのかよくわからなかったので、まずは住宅地を抜けて裏手と思われる方から回り込んでみた。ちょうど、東の沼田富士を目指す格好になる。 近づくほどに綺麗な山だな~と思って、何枚も写真を撮った(笑)。崩落とかない限り、4~500年ぐらいじゃ山の形なんてそう変わるもんじゃないから、歴代小早川当主や隆景ちゃんも同じ角度から沼田富士を見たかもしれない(←こんな妄想ばっかり)。で、最初の頃は古高山はこんな風に見えていたのが 目的地の近くまで来ると、こんな風に変わる↓。 関係ないけど、途中の道にはこんな看板があった↓。 おお、なんかグサッとくるな~。西条にあった「献眼・献腎」の看板といい、ライオンズクラブって面白いよな・・・。さて、寺への入口は見つからず、結局県道50号線まで出てから入口を見つけた↓。 この道を奥まで入ったところに、香積寺がある。(場所はこちら) 山門では、早速アイツがお出迎え~↓。なんか、ほっとするなあ(笑)。慣れってコワイわ・・・ まずは、山門のご紹介。 ↑結構、時代を変えての修築の跡が見られる。地味だけど、寺伝によるとこの寺は結構古いからね。 ↑これは木鼻なんだけど、一体何の形なんだかわからない。一部欠損してるようだけど・・・これを別の角度から見ると、どうも柱に組んでないようで、木鼻部分だけを貼りつけてるように見える↓。なるべく古いものは残そうという努力の表れなのかな・・・ ただ、これはちょっとカンベンかな~↓。 たぶん、補修の一種だろうとは思うんだけど、こんな細い棒を打ちつけて一体何の役に立つのか知識不足の私にはわからない。この棒が急場しのぎのものであることを願うばかりです・・・ ビミョ~に微妙な感じの部分はあるけど、古い部分を残しているせいか、派手さはなくても風格はある。門を内側から見たところ↓。バケツが写っちゃってるのはご愛嬌 で、こちらが本堂↓。 境内はそう広くはないので、どうしてもこんな撮り方になってしまう。が、この本堂の大棟には そして蟇股にも うふふ、歴史ある小早川の本拠だもんね。こうじゃなくっちゃね 思っていたより早く下山できたとはいえ、もう15:00だし山中にいた時から何度も小雪がチラついて寒かったし、疲れていた。が、小早川紋で復活した(笑)。まあ、蟇股の方は右三つ巴になってるけど、これは絶対小早川紋として付けてるよな。そうだよな(←決めつけ)。 境内には、解説板があった。 【三原市重要文化財 木造地蔵菩薩立像 一躯 木造尼僧坐像 一躯 地蔵菩薩は、像の高さ1.8mで一木造りである。ふくよかで堂々とした 尊像である。鎌倉中期の作である。地蔵背後の裾に、元応2年(1320)の 墨書銘がある。 尼僧は、延命寺の開山と伝えられているが、廃寺となったため香積寺に移された ものである。像の高さ0.95mの寄木造りである。顎骨が張り、一文字に結んだ口、 角ばった大きな頭、頑丈そうな体格など、尼僧ながら力強さときびしさを感じさせる。 鎌倉期の作と考えられる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) この収蔵品は見てないんだけど、尼僧の解説が面白い。なんでも、鎌倉時代の女性の姿をよく表していると言われてるそうな。つまり、鎌倉期の女性は角ばったゴツイ顔をしていたのか?あれ、でも確か私が読んだ本では鎌倉頃には細顔が登場するって書いてあったような・・・平安期の絵巻物に書かれる美男美女って、みんな下膨れでしょ。当時、米は蒸すのが一般的で、蒸した米は粘り気がなく固いんだそうな。その固い米の他、おかずは大根・茄子などの野菜の他、鳥獣魚貝の肉も細かく刻んで生食されていたのでかなりの咀嚼力を必要とし、その結果顎関節が発達したのではないかという説がある。蒸した米を「強飯」(こわいい)といい、水を入れて炊いたものを「かゆ」といった。「かゆ」の中で現在の私達が食べてるくらいの固さのものを「かたかゆ」といい、もっと汁気の多いものを「弱飯」(よわいい)とか「姫飯」(ひめいい)と呼んだ。平安も末期頃になると姫飯が多く食べられるようになり、その結果、鎌倉時代には早くも細い顔が現れるようになったという。現代でも、柔らかいものばっかり食べてる若者の顎が細くなってきたって言われるもんね。食生活は大事なのだ。 きっと、この尼僧像のモデルとなった女性は伝統的な食生活を続けていて、強靭な顎を持っていたんだろうなどんな像なのか、ちょっと見てみたい・・・で、地蔵菩薩像の墨書の元応2年というのは、年代的に小早川第6代当主・朝平(ともひら)の時代と思われる。前年の元応元年(1319)には、伊予の海賊を捕えたということで幕府からお褒めの書状が出されており、小早川氏がすでに瀬戸内海に進出していたことが知られている。ただね、このお寺は鎌倉期に創建されたものではないんだな。で、香積寺の由来ですが、今回のサブタイトルを「元祖・香積寺」としたのは、三原で「新・香積寺」に行ったからなのだ。(三原の香積寺の記事はこちら)香積寺は明応3年(1494年)小早川14代当主・興平の誕生祈願に13代・扶平によって建てられたという、歴史ある寺。上記リンクの記事では文禄年間に移転したとあるが、天正年間のことだともいう。まあ、他の寺社の移転状況から見て、私も天正年間の引っ越しだと思うけどね。元祖・香積寺が本郷に残った事情については、「本郷町誌」に三原観光情報サイトよりもう少し詳しい記述がある。 【三原に新しく建てた香積寺に、御本尊を運ぶことになった。 真新しい御輿を担ぐため村の力自慢の若者衆がそろって寺にやって来た。 雲一つないすがすがしい秋空のもと、行列は山門を出て坂道を下っていった。 15丁ばかり進んだころ、突然黒雲が空一面に広がり、遠くで雷鳴がとどろいた。 どうしたことか肩にのせた御輿がにわかに重くなり、前進することができなくなった。 これは元の寺に帰ろうとする本尊の十一面観音の霊威であると人々は考え、 銭三百文を帰りの駄賃として与えてもらい、高山城下の香積寺へ引き返したと いわれている。 三百文に因んで、そのとき泊まった地に三百の名をつけたと伝えられている。 なお、本尊は今なお旧香積寺に安置されている。】 本堂の戸は閉まっていたので、残念ながらこの御本尊様は拝めなかったんだけどね。にほんブログ村
2013年05月23日

貢住神社から一旦北側へ回って、上から居館跡推定地を見下ろす↓。 こちらが居館跡推定地↓。左奥が古高山、右のこんもりした林が貢住神社。 中世の居館は、こうした平地に土塁や堀を巡らせていた。今ではこの辺りには堀も土塁も残っていないようだけど、古い地籍図から推定される敷地は堀を含めて東西約90m、南北約120mという。当時の守護大名の平均的な館の規模は1町(109m)四方だから、敷地面積で言えば結構な規模ということになる。ただし、それは室町期の話で、高山城を築いたのが4代・茂平だったとしたら、時代的にまず山麓に居館を置いただろうから、当初は室町将軍邸をモデルにしたものではなかっただろう。最初に小早川氏が移住してきたと言われる場所の候補は、別のところに2つある。が、5代・雅平の時代には新高山に副塁を置いたという話もあるし、割に早い段階から古高山とその山麓に居を移してきたものと思われる。初めは、鎌倉武士の居館て感じだったんでしょうね。同じ頃に引っ越してきた、平賀氏の御薗宇城なんかもそういう造りだし。中盤に入れば、勢力の増大とともに館を拡げて室町将軍邸にならったスタイルにリハウスした可能性もあるけど。 ↑これが小学校の前、南に延びる道。この奥に西国街道がある。街道は付け替えられてる可能性もあるけど、居館より高い場所に街道を置くはずはないので、ここより南に街道と町があったと見ていいのだろう。とすると、居館跡地へまっすぐ出るこの道も、古くから使われていた道なのかもしれない。さて、以上で居館跡推定地の紹介は終わりです。が・・・新高山城の遠足イベント(「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」)で私の尊敬するトロロヅキさんのリンクを貼らせていただきましたが、おとつい、そのトロロヅキさんからコメントをいただいて、気がついたことがあります。安芸の守護は武田氏。そうじゃない時期もあるけど、おおむね武田氏。ところが、「小早川家文書」だけを見てると、武田氏の影が実に薄いのだ。武田氏は幕府方だから、小早川氏とモメることもなく、ゆえに書状が少ないのかもしれないけど、それにしたって影が薄い。ぶっちゃけ、トロロヅキさんに言われて「あ、安芸守護、いたんだっけ~」って思い出したくらいだから(笑)。いや、武田氏が守護なのはわかってるんだけど、そのくらい「小早川家文書」の中では安芸守護の存在感がない。だってそもそも、武田氏からの書状がないんだもん。山名氏が安芸守護を務めてた時の書状は結構あるのに。武田元信の代になって、やっと2通あるくらいか?「小早川家文書」の中での武田氏との接点といえば、幕府から大内教弘へ一方的に東西条の明け渡し命令が出た時と、その他がちょぼちょぼ・・・ぐらいじゃないのかなあ。外部からの書状は、もうほとんどが幕府関係者や将軍の御内書だの御教書だの・・・特に、応仁の乱前後は幕府関係者からばんばん手紙が来てる。その中には、国人衆へ向けての一般的な書状もあるけど、個別のやり取りと思われるものも多い。まあ、乱の期間中が特殊だった訳でもあるんだけど、それにしたって・・・(笑)。幕府から出された命令を武田氏が取り次いだ書状が現在のところないことを考え合わせると、ヒエラルキーの中では小早川氏は守護の下にありながらも、室町中期には幕府奉公衆として半ば独立した立場にあったんじゃないかと思えてきた。特に、備後の宮氏とは一緒に幕府の使者に立ったりしてるし、あるいは宮氏と組んで安芸と備後の守護所の合間、芸備国境付近のエリア担当者のような感じだったかもな~・・・なんて思った。ま、宮氏の勉強についてはまだまだこれからなので、これはあくまで私の推測ですが。ただ、応仁の乱期間中、高山城を応援する幕府関係者からの書状はウザイほどあるし、西軍方からも周辺国人へ高山城攻撃に参加するよう要請が行っている。つまりは東西両軍から注目されていた訳で、このエリアにおける小早川氏と高山城の存在ってのはやっぱり相当大きかったんだな~ってのを、つらつら思った。いや、もう高山城のあとがきのようになってしまってますが、最後に例のミッション・新高山城の築城の理由について。結局、高山城に登っても答えは見つからなかった。で、帰ってからもずっと考えていた。全く別のいくつかの方面からもアプローチを試みてみたけど、思いつきそうで思いつかなかった。時期的に、毛利本家の動きと絶対関係あるよな~と思って、なにげに自分の三原城の記事を少し読み返してみた。あの辺の流れは頭の中に入ってたはずなのに、現地では遺構だとかのハード面ばかり考えていて、知らぬ間に背景のソフト面をおざなりにしていたことを思い出した。で、あらためて年表を見ているうち、ふと気がついた。高山城を守るのに必要な人数は、360人。新高山城は75人・・・そうか、主力を引き連れて留守にしても、効率よく守れるんだ。やっぱりこれからのうち続く戦いを見据えて、自分が留守をしても大丈夫なようにしておいたんだ。登った感想としては、正直私は新高山城より高山城の方がすごいと思った。が、規模がネックになったか・・・厳しい時代の中で、効率を優先させたんだろうな。あれこれ考えた割には、自分の中で納得がいった答えは驚くほど平凡で、かつ単純なものだった。 納得がいくというか、何ていうのか、自分の中で実感できたという方が正しいのかもしれない。その後で、ミッションの記事を書いた時にトロロヅキさんにコメントを頂いて、新高山城の築城と同時期に吉田郡山城と元春ちゃんの日野山城も工事をしているということを教えていただいた。いつ、どんな風に工事をしたのかまではまだ調べてないけど、これも絶対に関連があるはずだと私は思ってる。新高山城築城の翌年、三原要害に在番が置かれたことを「三原城(11)」に書いたけど、在番を申し付けたのは隆景だと思っていたら、毛利隆元の書状に書かれていたことだったのについ最近気がついた。そうか、やっぱり本家の指示で、諸々のことを着々と準備を進めていた訳なんだな。吉川家と小早川家の相続の仕上げ、井上一族の粛清、城の普請、これら一連の慌ただしい動きはすべて1本の線でつながっている。どこを最終地点と読んでいたかはわからない。あるいは最終地点は考えていなかったかもしれない。だけど、少なくとも大寧寺の変でこれまでとは全く違う状況になることだけはわかっていた訳だから、いつ不測の事態が起こっても大丈夫なように毛利一族全体で先手を打って地固めをしておいたような気がする。ここまでは、毛利サイドから見た場合の推測。その他に、高山城シリーズに入って小早川氏の歴史を書く中で気がついたことがある。室町期の守護は将軍の側近くに仕えるのが原則だったから、当主である守護は京におり、現地を直接管理していた守護代が配下の国人と結び付きを強め、応仁の乱以後は現地に力を持った守護代などが守護に取って代わるという現象、いわゆる下剋上が出現した。小早川氏は守護ではなかったけど、中盤からは幕府奉公衆としてやはり当主は長く在京しており、不在の当主に代わって奉行人が置かれ、これが家政や領国の支配を取り仕切った。また、沼田荘内にいくつかあった市の代官も、奉行人の中から選ばれた。奉行人は10数人おり、そのトップが政所。政所は1人で、これに権力が集中した。まあ、今でいう官房長官みたいなカンジ?奉行人になったのは主に沼田家の被官人、それから一族衆よりは若干ランクが落ちる親類衆。新高山城の遠足イベントでちょっと顔を出した真田氏や、それから相続イベントに書いた田坂義詮も奉行人だった。それが、明応9年(1500)に政所の真田氏が殺害された後は奉行人の中で内紛が続き、次第に弱体化していったという。椋梨氏を本家とする新荘系は、地頭職は持っていたものの、あくまで沼田の惣領家に従属していた。が、沼田本家が上記のようなシステムを取っており、奉行人の力が強かったために本家の経営面においては庶家の影は薄かった。そして、隆景の相続イベントを迎える。いわゆる「田坂氏をはじめとする反対派の粛清」の構図は庶家VS.奉行人であって、これに勝利したことで庶家が小早川の歴史の中で初めて一族の経営に重きをなすようになったと言えるのかもしれない。新高山城の築城の理由が「人心の一新」だったというのを、いつ誰が言い出したのかは知らないけど、こうした背景を考えると、隆景が人心の一新を図ろうとした、というよりは初めてイニシアチブを握った庶家が気持ちも新たにスタートを切ろうとして隆景の合理的な築城提案に乗った、って推測もアリかもしれないな~と思った。新高山城の築城の理由の話が、相続イベントや大寧寺の変、さらには三原編までも含めた内容になってしまいましたが、この天文20年前後というのは、毛利・吉川・小早川、そして大内家の多くの人の思惑と運命と命が複雑に絡み合って西国の歴史が大きく変わる、非常に重要な時期。私はどうしてもここに執着してしまうので、しつこいと言われようがこれからも考え、ちょいちょい書いていくと思います。備忘録に書いておかないと、考えたことを忘れてしまうから(笑)。※「東西条バトル編(26)」へ続きます。にほんブログ村
2013年05月22日

登山道に復帰。途中の竹藪にも、ビミョ~な地形が広がっていた↓。 この先が下山口↓。 出口から振り返ったところ↓。 で、ここに出る↓。 ふう、よかった、無事に降りられた~。おじさん、ありがとう写真は撮らなかったけど、確かここには登山口を示す看板が建っていた。(上の写真の場所はたぶんここ)元々大手は使う予定じゃなかったので、きっちり道は把握してなかったけど、この近くには行く予定だったから、幸い地図は持っていた。この辺は思いっきり住宅地なので少しわかりにくいけど、ひとまず南へ歩きだす。だいたいこのあたりの標高が70mなので、大手と搦手とどちらから登っても登山口からの比高は同じって訳だな。この辺からは、左手にやけに立派な山が見えた↓。 おお、いい形だ~。あの山もすごく岩が露出している。位置的に、きっと朝見た沼田富士だな。しっかし、トイレ行きたいな~。この辺は店とかなさそうだから、駅の方に行くまでトイレにはありつけないかもしれん・・・と思いながら坂を下っていったら、すぐのところに公園があって うわああ~!こんなところに!!・・・きっと、お腹に力を入れて必死に我慢している私を見かねて又四郎(←隆景)大明神様が用意してくださったに違いない。いやもう、又四郎様の深い愛を感じつつ、ソッコー使わせていただきました(笑)。そういう訳ですので、搦手の登山口にはトイレはありませんが、大手から登る場合はこの「ふれあい公園」にあるトイレが使えます。ありがたいですね。この公園は結構広いですが、高山城で沢山の郭を見てきただけに、こんなコンクリ製の段々↓もぜんぶ郭に見えますもう、頭も目もおかしいです。 さて、下山したので高山城自体は終わりですが、この後関連の場所へ行ったのでまとめてご紹介します。一旦、寺へ寄ったのですがその付近からは古高山はこんな風に見えました↓。 ここは城の南東にあたる。北稜と南稜がぱっきり分かれてるのがよくわかります。面白い形してるよな~。ただ、どちらの稜線からも馬場へはそう大した比高はなかったので、上の写真だと馬場は鞍部の高い場所にあるんじゃないかと思われる。前回、応仁の乱期間中の竹原家による2回目の高山城攻撃で文明7年3月5日の真良(しんら)の合戦のことを書いたけど、搦手はこの写真の場所よりもう少し北にある。真良って、私は佛通寺に行く時に通った場所のイメージがあって、それは佛通寺川に沿っても~っと奥の方にあるんだけど、高山城からは結構遠い。けど、あらためて地図を見てたら、ちょうど撮影ポイントのあたりの地名も「真良」となっている。昔は、この辺から佛通寺の近くまでの広い範囲を真良と言ってたのかもしれないな。ここなら城にも近いし、案外このあたりが真良合戦のあった場所だったりして・・・上の写真よりもう少し西から見た古高山↓。ここからだと南稜しか見えないし、「屏風岩」とでも名付けた方がよさそうな形をしている。 新高山から見ると、カヌレ・ド・ボルドーなんだけどな・・・見る角度によって全然形が違う、面白い山だ。あ、カヌレ・ド・ボルドーは、昔流行ったフランス菓子の名前です。「新高山城(27)」では思い出せなかったけど、ツイッターのフォロワーさんが教えてくれた。友達とは、ありがたいものです寺のあと、こんな場所へ来ました↓。 この写真より下が、居館跡と言われてる場所です。昔のままの地形ではないかもしれないけど、低い石垣なんかもあるので、この広い段々に家臣屋敷が建ち並んでる光景を思わず想像した。 よく見ると、矢穴のある石が使われてるし↓。 この道を下って、お目当ての神社へ(場所はこちら)。ちょっと入り口はわかりにくい。 小さな神社だけど、急な坂を登る。すぐ上の写真は、上がってから見下ろしたところ。こちらが貢住(ぐじゅう)神社の本殿↓。 本殿の前の敷石には、宝篋印塔を転用したものが使われている↓。 出たあ~、広島スタイルの灯籠だあ~!この貢住神社は、居館跡推定地とされる本郷小学校とスレスレの場所にある。元はもっとなだらかな丘だったらしいが、小学校の新校舎を建てるのに削られたそうで、貢住神社のある小高い場所に館を防御する郭があったのではないかという話らしい。貢住神社を降りると、小学校の中に何やら石が並べられていた↓。 なあに~、アレ?もしかして、古い石垣の石を保存してるのかな・・・あ~、近寄って見たいけど、ここで侵入したら前科一犯かな このあたりを工事した時、いつの時代のものかはわからないけどコップ1杯くらいの黒米が出てきたらしい。小学校と貢住神社のある丘の境目を見たところ↓。 ぱっきり斜面が断ち切られている。居館のあった頃は、もう少し高い位置に建ってたのかもしれないな。あるいは、推定敷地面積は南北に長いようなので、上の写真ではもう少し奥の方に建物があったのかもしれない。同じあたりから、さっきの石垣のある段々を見上げたところ↓。 貢住神社の場所に郭があったんなら、やっぱりこの上にも居館を取り巻く家臣屋敷とかあったっていいよな・・・ここから登山口のある大手までは、標高にして50mくらい坂を上がっていく。中世ロマンに浸りきった私の目にはもうこの場所は家臣屋敷跡地にしか見えなくて、居館の背後に並び立つ家臣屋敷群、その後ろに屹立する古高山、と往時の光景を想像すると、さぞかし壮観な眺めだったろうな~と寒い空き地の脇でしばし萌え~・・・・・・・さて、貢住神社からは小学校の方へ降りられないようなので、家臣屋敷跡地(←決めつけ)を北へぐるっと回り込んで、小学校へ向かいます。貢住神社から少し坂を上がって段々を見たところ↓。 ただの寂しげな空き地も、屋敷跡地だと思えばいと楽し。ほらほら、アナタの目にも、屋敷跡の削平地に見えてきたでしょお~?にほんブログ村
2013年05月21日

ああ、応仁の乱付近になるとどうしても大内氏のことも書かなきゃならないのはわかっていたけど、今回こそはなるべく小早川だけにまとめてコンパクトに仕上げたかったんだけどなあ・・・ま、長らく読んでくださる皆様は、もう慣れっこですわね高山城が1度目の攻撃を受けた後、幕府内部では竹原家の裏切りに憤慨。ま~、たぶん「あれだけ『一族うち揃って』って言ったのに!!」って思ったんでしょうね。それくらい、これまでに紹介してない沢山の文書の中で口をすっぱくして「一族うち揃って」を連呼してたので。ウラを返せば、「こうなるのはわかってたんでしょ?」とも言いたいが(笑)。この時の竹原家当主は弘景。応仁元年(1467)12月29日には、小早川煕平あてに竹原弘景討伐の命が下された。それだけじゃなく、弘景の弟へ当主を交代させるという将軍の命令が下りた。この通達は何年とは書いてないものの、煕平の子・敬平あてであり文明4年(1472)12月に煕平が亡くなっていることから、その前後のことと思われる。毛利氏が西軍に転じた時も幕府はぷんすか怒ってるし、応仁の乱の期間中の書状は沢山あって読むのもめんどくさいんだけど(笑)、一方では結構生々しい感情が伝わってくるのもあって、面白い。高山城の1回目の包囲がいつ解かれたのかははっきりしないけど、応仁2年(1468)6月にはいっせいに竹原家に攻撃を仕掛けていて、翌文明元年(1469)頃にはひとまず終わっていたものと思われる。2回目の攻撃は文明5年に始まったとされるが、それまでの数年間が平和だったという訳でもなく、文明2年(1470)には西軍方が小早川領の久芳・戸野・河内・造果に城を築いている。これには毛利氏も加わっていたらしい。が、翌文明3年(1471)には煕平が新荘の椋梨氏らとともにこれらの城を落とすなどの動きがあった。さて、文明5年(1473)9月の2回目の高山城攻撃は、ちょっと本気だった。文明6年(1474)に大内政弘は足利義視(将軍・義政の弟)の名で小早川家の惣領を竹原弘景に与え、また備後と安芸の両国の衆へ高山城攻めに加わるよう義視に御内書を出させている。2回目の攻撃の最初の頃、煕平の跡を継いで惣領となった小早川敬平は京にいた。が、文明6年12月には高山城が危なくなってきたため、将軍・義政の命により敬平が帰国。あわせて周辺の国人衆へも敬平への加勢が要請されたが、この指令は備前までも行っているし、はては西軍方へと転じた毛利豊元にまで届いている文明7年(1475)1月13日付けで、細川政国から敬平へ「高山城の包囲をお上が心配してあちこちに援軍を頼んだから、みんなで頑張ってね!早く西国を安定させようよ」って励ましの手紙が行ってるんだけど、ホントに方々に頼みちらかしたことがわかる(笑)。その後もしばらく周辺国人などへの合力要請は続いているものの、高山城ではなかなか敵を撃退できない。まあ、そうは言ってもひたすら籠城してたって訳でもなく、文明7年3月5日には真良(しんら)と本郷で合戦が行われている。場所的に、大手と搦手から同時に討って出たってカンジなのかな。真良での合戦の方では、敵方であった毛利氏から死者が出ている。記録にある城方の名前は沼田家直属や庶家の被官人がほとんどだけど、中には山名氏の被官や巨真寺(現在の米山寺)の僧侶も混じっている。この戦いの後、東軍方では中央と連携を取りながら和平工作に乗り出す。東軍からは備後の守護代・宮田教言と、同じく備後の宮氏から2名の計3名。西軍は備中から庄元資が出た。おなつかしや~!庄氏だよ!!備中の下剋上のパイオニア!!・・・いやいや、庄元資の登場に喜んでる場合じゃありまへん。結局、沼田荘の熊井田本郷・安直本郷・梨羽北方を割譲する案を敬平が受け入れ、和議が成立。そしてようやく高山城の包囲が解かれた。中盤の歴バナに入って、幕府との関係を絡めながら色々書いてきましたが、小早川氏の位置づけというものを少しご理解いただけたでしょうか。竹原家に比べたら、沼田家は大内氏との関係は浅い。東西条絡みでは、敵となった。でも、幕府の命によるよその場所での戦では、小早川氏が大内氏の下に付いて共に戦うこともあった。大内氏と仲が悪いというより、沼田家は幕府に忠勤を尽くしただけ。戦国時代の始まりを応仁の乱とする従来の説は近年見直されているみたいだけど、私なんかは嘉吉の乱をスタートに置いてもいいんじゃないかと思ってる。ただ、そうは言っても応仁の乱で諸々の状況が大きく変わったのは事実。そして幕府の威光により一族をまとめ、対外的にも大きく勢力を伸ばしてきた沼田本家もまた、時代の変化の渦の中で大きなターニングポイントに立たされることになった。大内義興さんの上洛戦にあたって、時の当主・扶平が心労で若くして亡くなったというのも、惣領家ゆえの苦悩だったと言えるのではなかろうか。それと、最近の幕府がらみの記事を書いててふと思ったことがある。小早川繁平の初名・元平が細川晴元の偏諱だとする説があるのを「新高山城(6)」で書いたけど、これが本当だったとしたら、あるいは長らく幕府に尽くしてきた小早川氏と再びヨリを戻そうとしたか?って気もしたんだけど、どうでしょうね。相変わらず、相続イベントは謎だらけじゃ・・・(←しつこい)さて・・・高山城と小早川氏の概略については、今回はこれで終了とします。小早川領にはまた来るしね。この後の高山城の戦歴は尼子がらみで、その辺は新高山城シリーズの相続イベントあたりでさらりと書いてますので、おさらいしたい方はそちらをご覧ください。イワオ様に腰掛けて腹ごしらえをしてから、下山開始。ここまでで、登山口からだいたい4時間くらい。思ってたより早く終わっちゃったな~。たぶん、ベンチがなくて休憩が少なかったからだと思う(笑)。 下山道は、南丸と出丸の間にある大堀切の下を通っていく。上の写真が、大堀切を下から見たところ。やっぱりすごいなあ~。このあたりはホントに見事なので、未練たらしく出丸の土塁に近寄ってみたら ・・・あ、土塁に石垣が埋もれとる。 いや、ホントに見事だわ~。大手から上がってきた人は、まずこの光景に感動するんだろうな。この切岸の下は あまり奥までは行かれなかったけど、どうやら竪堀となってそのまま下へ続いているらしい。ちょっと降り口はわかりにくかったけど(←標識ナシ)、少し進むとちゃんと道があった。しばらく行くと おっ、なんかこの先、展望よさそう・・・ おお~、よく見えるわ~!!しかしこの展望って、たぶんアレだよな・・・南の山麓から見上げて岩ばっかりになってるあの辺だよな・・・この先は、しばらくこんな道を進んでいく↓。 途中からは岩塊が露出した道になる↓。このあたりで小雪がまた降り出して寒いし、足元は岩場の下りで神経使うし、疲れた・・・下の写真は、岩場を降りきって見上げたところ。 時折はこんな道もある↓。 これはかなり降りてきたのを、下から見上げたところ↓。ここまで来ると、下山口も近い。が、この辺の地形がちょっと気になったので、ここから左手の方へ上ってみた。 ↑これ、土塁か?自然地形か?ただ、地形的にはほとんど平地なんだけど・・・この上はこんな感じ↓。道のようでもあるし・・・ これを上がったところ↓。 小広い削平地のようでもあるんだよなあ。上がった道を上から見下ろしたところ↓。 う~ん、何ともビミョ~だ(笑)。でも、この辺も建物があったような気がするな。にほんブログ村
2013年05月20日

「人よむなしく 応仁の大乱」正直言いまして、応仁の乱なんか書きたくありません。大変だから(笑)。ので、ここでは乱の経緯だとか概略については書きません。「ジジイ、いっきなり手ヌキ宣言かよ~?」って思われそうですが、そうじゃありまへん。東西条編の後はしばらく古いシリーズをいくつか書こうと思ってます。広島モノよりはいくらか古い旅の方がライトにまとめられるかとは思うんですが、その古い旅の中で避けて通れないのが応仁の乱。という訳で、乱そのものについては別のシリーズの方で書く予定なのです(書きたくないけど)。ですので、ここでは乱の前後の小早川氏を中心に書きますのでご了承ください。まあ、実は結構この時期のことってすでに「鏡山城(8)」あたりで書いてるんですけどね。とりあえず、小早川氏の歴史として簡単にまとめていきますね。室町幕府と密接なつながりを持っていた小早川家は、応仁の乱の少し前頃には安芸の国人衆の中では幕府方の代表的存在となっていた。応仁の乱のひとつの要素として、畠山家での相続のトラブルが挙げられるが、享徳4年(1455)には家督を継いだばかりの畠山義就に協力して大和へ出陣したりもしている。鏡山城シリーズで書いてきたように、大内氏も安芸の拠点として東西条を有しており、安芸は幕府内の実力者である細川氏と大内氏の勢力の接点となる。長禄元年(1457)、大内教弘は安芸西部に出兵のついでに沼田家の所領である田万里を占領した。寛正2年(1461)には幕府から一方的に東西条を武田氏に与えるとの通達が出され、小早川煕平が幕府の使者として山口まで押しかけている。が、寛正年間の末頃には大内方の西条衆(野間・阿曽沼・平賀・竹原小早川の国人衆)が東西条奪還のために武田氏の鏡山城を攻撃した。これに対し、武田氏を支援するため、沼田家の煕平は主力不在となった竹原家の本拠を攻めている。さて、寛正3年(1462年)伊予では細川氏と河野通春の間で対立が起こった。将軍・義政は寛正5年(1464)11月、大内教弘へ伊予出陣を申し付ける。小早川家には、少し遅れて翌寛正6年6月25日付けで「河野通春討伐のために一族うち揃って細川勝元へ合力するよう」命じた書状が残っている。そして、8月頃には庶家の土倉・梨子羽氏らが伊予に着陣している。大内教弘は、幕命に従って伊予へ渡海した。が、途中から敵方である河野通春の支援に回った。前回「嘉吉の乱」に少し触れましたが、教弘の先代・持世が嘉吉の乱が原因で亡くなった後、朝鮮から持世の弔問の使者が訪れ、教弘がそれに答使を送ったことで大内家では本格的な朝鮮貿易が復活し、のちに朝鮮貿易の勘合符が与えられるなど、教弘の代から対外貿易に弾みがついた時期でもあった。そして、日明貿易においては大内氏と細川氏はライバルだった。それまでの東西条に対する幕府の嫌がらせもあったし、教弘もついにキレたのかもしれない(笑)。ともかく、ここで大内氏は堂々と敵方に回った。幕府・・・つーか、細川勝元はそりゃ~怒りましたサァー。して、9月18日付けで教弘へ「とっとと周防へ帰りやがれ!!」て帰国を命じている。が、当の教弘は船中で発病し、そのまま9月3日に亡くなっていた。この時、将軍から医師が遣わされたともいうんだけどね。ただ、教弘が実際にいつ伊予へ渡ったのかはわからないんだけど、教弘の背後を守る形で安芸に来ていた大内家重臣の陶弘正が8月26日に安芸国府で討死しているので、8月の下旬にはすでに河野通春と手を組んでたんじゃないかと思うんだよね。教弘死亡の報が京に届いたのは10月7日。死者あての帰国命令ってのもマヌケなので、あらためて10月22日付けで今度は教弘の子・政弘討伐の指令が出される。しかし、すでに安芸では大内氏による小早川領への攻撃が始まっていた。標的となったのは、新荘の能良・乃美あたり。10月3日と5日の2回、交戦があったことがわかっているが、大内方の攻撃はかなり激しいものであったらしい。また、武力攻撃だけじゃなく、小早川内部の切り崩しも行っていた。これに応じたのが、乃美員平と家平の親子。この乃美さんは、後の時代で活躍する乃美隆興とか乃美宗勝を輩出した庶家の乃美さんとは別モノでね。この翌年、乃美家平が領内にゴロツキを住まわせ、ご近所さんに乱暴狼藉を働いているという罪状で幕府が家平の所領を没収し、惣領の煕平に与えている。これは言いがかりかもしれないし、あるいは大内氏への協力のために家平が兵を雇い入れていたのかもしれない。その後しばらくしてから煕平の次男に乃美郷を与えて新しい乃美氏を立てさせた。こちらが、一般的に有名な方の乃美氏になります。大内氏に話を戻しましょう。上の10月3日と5日の攻撃は、小早川勢が頑張って撃退した。が、事態を重く見た幕府では、小早川軍を帰国させた。おそらく、煕平本人が帰国したんじゃないかと思うんだけど。で、細川勝元は10月22日付けで「大内政弘討伐の上意を受けて帰国したんだから、ぜっひとも頑張ってよね!もし何かあったら、何でもいいからその都度ぜ~んぶ打ち明けてね。政弘討伐は、一族が一丸となってやり遂げてほしいんだけど、もし従わない者がいればきつ~くおしおきね~」と煕平に言いつけている。また、同日付けで管領・畠山政長から別の書状もあり、それには「大内政弘の討伐は一族親類あげて参加し、忠節を尽くしてね」とだけ書かれているので、つい「連名にして1通にまとめられなかったんですか?」ってツッコミを入れたくなる(笑)。特に、この頃から幕府関係者の書状が頻繁に送られてきていて、読んでるとすっげ~ウザい・・・いえ、緊迫した様子が伝わってきます。して、応仁元年(1467)。正月早々、管領・畠山政長が失脚して立て籠り、応仁の乱が勃発します。大内政弘は、先に出た乃美家平や竹原家などを引き連れて上洛。ちょうど同じ頃、小早川煕平も上洛しようとしたらしく、政弘とバッティングしちゃうかもしれないから、一旦上洛を見合わせてはどうかと細川勝元から止められている。もちろん、その後煕平は上洛しているけどね。そして京では誓願寺北・東陣のあった白雲構・北小路今出川などで戦闘に参加し、負傷者や戦死者を出している。国許では、高山城が竹原家に攻撃を受けた。包囲は3年にも及んだというが、ひとまず落城はしなかったらしい。小早川領のすぐ隣、備後でも東軍と西軍に分かれての戦があり、幾度か小早川家から援軍を出している。中盤あたりになると、煕平も帰国したらしく、備後で西軍が勢いづいてきた情勢を京に報告したり、備後で有事の際には速やかに加勢に向かうよう幕府奉行人から言われたりして、この地域における東軍の中心的存在だった。南北朝の争乱と同じく、応仁の乱でも一族内で東軍(細川方)と西軍(山名方)に戦ったのはどこの家でも見られた光景ですが、実は大内家でも分裂がありました。ひろよん(大内弘世)以降の大内家当主の系図を「山口編(4)」に載せてますが、教弘の兄弟・教幸が途中から東軍に参戦してしまったのです政弘から見れば、おじさんに当たる人ね。教幸だけじゃない。重臣の仁保弘有(にほ・ひろあり)まで東軍に転じてしまった。仁保弘有の肖像画は涼やかな顔立ちで、私この人好きなんだけど(←イケメン好き)、弘有は備後まで来て煕平に協力している。教幸は赤間ヶ関(現在の関門海峡付近)で挙兵した後、芸備攻略を命じられるんだけど、現在の廿日市あたりまで来たところで大内家重臣の陶弘護(すえ・ひろもり。陶隆房のジイちゃん)に阻止された。弘護は応仁元年に父に従軍するんだけど、その時12歳。14歳で元服し、同じ年、教幸と対峙した。27歳以前の弘護を描いたと思われる肖像画は、スマートで涼しげな仁保弘有とは対照的なでっぷりさんで、いや、これだったら14歳で敵を追っ払うのも道理だよな~、みたいな・・・そうなんです、14歳の弘護君、教幸の軍に勝っちゃいまして、教幸はからくも石見の吉見信頼のところへ逃れました。吉見信頼の協力を得た教幸はその後も頑張りますが、結局数回弘護に敗れ、最後は豊前で自刃しました。教幸に加担した吉見信頼も弘護君らに攻められ、所領を削られるハメに・・・仁保弘有の方の詳しいことはわからないものの、摂津あたりで敗れたらしい。当主・政弘が西軍の重鎮として足かけ10年、京で転戦していられたのも、領国を守るこうした忠実な家臣たちのおかげだった。久方ぶりに帰ってきた政弘を富田の自邸で迎えた弘護に対して、政弘は「国許が安泰だったのはお前のおかげだ・・・おお、兄弟よ!!」と言って感謝することしきり。以後、弘護は四六時中政弘につきまとい・・・いえ、近侍して、なおいっそう忠勤に励んだそうです。ついでだから、最後まで書いちゃいましょう。築山館のところではどうも書けなかったので・・・吉見信頼は、その後政弘に正式に許されます。そして文明14年(1482年)5月27日、家臣の慰労のために築山館で開かれた酒宴の席で、弘護君は吉見信頼に殺されます。享年27歳。先に弘護が吉見信頼を刺したとも言うんだけど、これに先だって吉見信頼が弟に家督を譲っていることから、吉見信頼の計画的犯行と見られている。弘護を殺した直後、吉見信頼も同席していた大内家臣に殺されてますが。吉見信頼の犯行の動機については色々言われているものの、教幸の挙兵に絡んでの出来事の影響が皆無だったとは言い難い(と、私は思う)。まさに、「人よむなしく」だなあ・・・・・にほんブログ村
2013年05月19日

小早川春平の子・則平は足利義持に仕えた。義持の信任も厚く、将軍の九州上使となって九州探題の渋川満頼・義俊親子の加勢に入っている。南北朝の初めころまでは、沼田荘へ預所の橘氏が来ていたが、「高山城(8)」で書いたように、足利義満の口添えがあって沼田荘の一円支配もできるようになった。また、父・春平から継いだ佛通寺の整備などを通じて一族をまとめ上げることに成功し、内外ともに充実した時期となった。則平の晩年、大内家では盛見が当主でこちらも幕府の信任が厚く、相伴衆として在京するかたわら、幕府の九州経営にも協力。盛見の九州出陣には、竹原家の弘景も協力するよう幕府から指令が出されている。しかし、盛見は筑前で討死・・・盛見の跡を継いだ大内持世を救援するために、幕府から安芸国人衆へ出動の命令が下された。が、則平は将軍・義教から重大な指令がない限りは軽々しく動いてはいけないと言われていたので、これに応じなかった。当時、幕府から指令が出されると、守護がこれを中継して配下にその指令を実行させた。つまりは、中間管理職。ここでは守護の山名時煕がその任に当たった。安芸では毛利光房などが命令に従って九州へと向かったが、将軍のいいつけを守っていた則平は、山名時煕の命令をガン無視。それも、1度じゃないんです。上(幕府)からせっつかれ、下(則平)は言うこと聞かないし、ああ、中間管理職の悲しさよ・・・そして、則平へこんな書状を出すに至りました。 「大内方に協力して出陣するよう去年(永享3年)7月に御教書があり、 それぞれが承ったと報告を受けておるが、その後この老いぼれが 2回督促してみたところで、1度も返事が来やしない。 老いぼれと思って馬鹿にしておるのか! 上意に逆らうつもりか! こんな風に安芸の衆が引きこもっているものだから、すでに大内方には そのしわ寄せが来ているという。 かくなる上は、3日のうちに準備を整えて出陣してもらいたい。 今度引きのばせば後悔するであろうと、今日、飯尾為種と飯尾貞連が通達してきた。 が、まずはせめて、せめて今度こそは私への御返事をいただきたい・・・・」ま~たいつもの脚色か~と思うでしょうが、実は今回は脚色少ないです。現代語に置き換えただけ。いや、マジで。だって、山名のジイさん、自分で「愚老」って言ってるんだもん。「ほとんど半泣きで書いたでしょ~、コレ!!」って笑いましたね。いつの時代も、管理職ってのは大変なものなのだ。山名のジイさんには悪いけど、私はこの書状、何百年も前のとは思えないくらい血が通ってる文章なので好きだから紹介したかった。が、それだけではなく、当時の則平は守護の命令を無視するくらいの力とプライドを持ってた証だと思う。結局、則平は九州へと出陣していきました。出陣の前に「悔い返し」をして、ご丁寧にトラブルの種を残してね。そして則平は九州の陣中において死去。則平の死後は、子の持平と煕平、それから幕府や大内家や竹原家も巻き込んだ大バトルとなりました。(あらましは「鏡山城(8)」に簡単に書いてます)何度も幕府がコロコロと態度を変えるもんだから、これに関連する書状を見てるとホントにイラつくんだけど、途中の段階では所領は持平と煕平で折半、両名とも幕府に出仕させるという案で持平と煕平の和睦が一旦成立してます。して、持世は京にいる間、後花園天皇の行幸にもお供したようです。煕平は一時期九州へ出陣していたようだから、煕平が不在の間の出来事だったのかもしれない。が、将軍・義教が相続問題に介入してきたことによって、ついには兄弟間での武力衝突となるに至る。まあ、この時は持平方が自己の要害などに立て籠ったりしたのがメインで、高山城が包囲されたなどの記述は残ってないので、高山城自体は戦に巻き込まれなかったようだけど。ちなみに、惣領家がゴタゴタしてる間、竹原さんちは足利義教の弟・義昭(のちの15代将軍・義昭とは別人)が南朝の残党などと組んで大和で戦っていたところへ、幕府方として参陣してます。相続の介入などは迷惑な話だけど、小早川氏が幕府の一員として重視され、小早川一族もそれに応えていた様子がうかがえます。さて、足利歴代将軍はマイナーな人はとことんマイナーですが、強烈な個性を持つ人はとことん強烈ですキョーレツ度でいえば、ダントツトップが義満(3代)で2番目がやっぱ義教(6代)じゃないですかね。義教さんが「嘉吉の乱」(1441年)で派手な死に方をした後に将軍に選出された義勝(義教の子)から、義教殺害犯の赤松満佑・教康親子討伐を命じた書状が沼田家と竹原家にそれぞれ残っている。同じ嘉吉元年(1441)7月4日付けで出されたこの書状は、5文字を除いて同じ文章。竹原家あての方が5文字多い。何を余計に竹原家に言ってるかというと、「一族うち揃って」竹原家と大内氏の具体的ななれそめについてはわからないものの、嘉吉の乱の少し前、応永32年(1425)には盛見が東西条内の内海村を竹原家の弘景に預けているので、すでに竹原家と大内氏の親しい関係は出来上がっていた。嘉吉の乱では、同席していた大内家当主・持世も巻き添えくって後日死亡しているし、まだ大内家は幕府から敵視される段階ではないんだけど、庶家を持たない竹原家にわざわざこう言ってるってことは、大内氏との独自の関係を築いていることに対し、なにか思うところがあったのかな~ってちょっと思った。指令を受けて沼田家と竹原家の双方とも赤松討伐に参加し、最後に赤松満佑が籠った城山城(現・兵庫県たつの市)の包囲軍の中にも混じっている。義教の死後、嘉吉元年10月には煕平が惣領として幕府から認められる。その後、しばらくは兄・持平方とのこぜりあいが続くものの、最終的に煕平が惣領として落ち着き、足利義政の代で将軍奉公衆となった。足利6代将軍・義教はそのキョーレツな個性で独裁者となり、ほぼ将軍の親政を確立していた。その義教が亡くなったこと、死後の様々な対応が遅れたことなどで将軍家の権威は低下し、守護大名による合議制が復活。そしてまた、政権内での権力争いや守護家でのゴタゴタなどが頻発し、混乱の時代へと入っていく。一方の煕平は奉公衆として活躍し、将軍の覚えもめでたかったようで、河原猿楽などにも供奉している。そうしたことを背景に、一族内での権威も高めた。強いリーダーなら一族のまとまりもいいだろうと思うんだけど、ここがまた多くの庶家をかかえる小早川一族の難しいところで、煕平の代では庶家が結束して盟約を締結している。すなわち、・大小のことに関わらず、互いを見捨てず何でも協力しようね!・庶家の親類や被官人を惣領が引き抜いて自分のとこに直接出仕させようとしたら、 みんなで心を合わせて拒否ろうね!・惣領家といえども、庶家に対して無理な要求をしてきた時には みんなで協力して拒否ろうね!・一族の中で惣領に従わない者がいれば、衆中で制裁をしてやろうね!・衆中の力を頼みにこれを悪用する者がいたら、そいつは追放ね!・・・とまあ、惣領の権力がこれ以上強化されないようにというあたりをポイントにしながらも、一族の結束と惣領への服従をあわせて謳っているところがなんともビミョ~というか・・・これは沼田の本荘と新荘の庶家13名の連名による契約状。ここに竹原家の署名がないことが興味深い。一匹狼かい(笑)。が、この契約から4年後の享徳4年(1455)には、幕府要職にあった飯尾為数の仲介で煕平と竹原盛景が和睦の契約状を取り交わしている。この中で、以後竹原家では沼田荘の相続に関しての訴訟はしないこと、両家が仲良くすることを約束させられ、「則平の悔い返し」に端を発する沼田荘の相続問題はようやくエンディングを迎えた。しかし、沼田・竹原の和睦が成ったといっても、もう激動の時代がそこまで来ている。教科書で習う歴史の年号のゴロ合わせで、結構な数の人が覚えてるんじゃないかという、「人よ むなしく」・・・アレが目前です。にほんブログ村
2013年05月18日

さて・・・ここまで一気に遺構を紹介してきましたが、下山の前に少し歴史の話をば・・・マイナーな割には、実は小早川氏って結構な名族で、しかも中央とのつながりがかなり長く深いので、小早川氏単独で実情を書ききるのは大変難しいです(と、最近知りました)。ので、ここでは高山城の戦歴を中心にかいつまんで書こうと思います。ま、元々が大内萌え~のための旅なので、大内氏も顔を出しますが(笑)。だって「東西条バトル編」だし スキあらば、間欠泉のように大内氏への愛がぷしゅっと噴き出すわたくし・・・ これは以前載せた系図ですが、小早川氏には庶家が多い。他の国人の庶家の総数まではきっちり把握してないんだけど、安芸の国人衆の中では多い部類に入るんじゃないだろうか。庶家が多いことは一族の繁栄につながるし、小早川氏の場合は海にも手広く進出した。が、惣領はその分庶家の統括をしなければならない。「高山城(5)」で書いたように、すでに茂平が存命の頃から庶家は独自の活動を始めていて、時代が下るほどにそれぞれの庶家が独自に力を蓄えていく。そんな庶家を統率するための後ろ盾を、沼田家は鎌倉幕府の権威に求めた。幕府としても、様々な公事を御家人に遂行させるために、惣領をバックアップする。まあ、これは小早川氏に限ったことじゃないけどね。幕府の公事ってものは、軍事力を持っての警護などが主だから、惣領がちゃんと一族を統括していてくれないと、幕府としても困ったことになる。当主1人が中央に詰めてればいいってもんじゃないのだ。小早川の庶家の中で最も有名なのが、竹原家。詳しいことはここでは書かないけど、竹原家は色んな意味で独特だった。最初は竹原家も、沼田家とともに鎌倉幕府に仕えてます。が、初代がちょっとスキャンダラスな経歴を持つ人だったので、その関係もあり、都宇・竹原荘が没収されて鎌倉の建長寺に与えられてしまう事態となった。没収後20年くらい経ってから、建長寺には代わりの所領をあてがい、都宇・竹原荘は竹原家に返還される裁定が幕府から下されたものの、それが鎌倉幕府によって実行されることはなかった。「チッ!!なんだよ~、鎌倉・・・」とキレた竹原家では独自にあらたな道を求め、足利高氏(のちの尊氏)が登場すると、すかさずこれに参加した。が、一族を統括する重い役目を背負った沼田家は、竹原家のように身軽にとらば~ゆする訳にもいかない。そして鎌倉幕府についたまま、1度目のピンチを迎える。これについては「三原編(35)」に簡単に書いてますので、そちらをご覧ください。上記の三原編では、室町幕府への接近をはかる・・・といったあたりで終わってますが、今回はその続き、小早川中盤の話になります。室町幕府といっても、前段階として建武政権があるけどね。周囲の期待と裏腹に、建武政権は2年あまりで尊氏の挙兵を招いた。竹原家では、尊氏が鎌倉で挙兵した際、当主・祐景が尊氏軍に合流している。沼田家でも一族の船木氏を派遣しており、尊氏が備後・鞆に入る際に周辺国に主要な人材を配置した段では、安芸に桃井の布河近作と小早川一族を差し置いたと「梅松論」に記述がある。だって他の国に置かれたのは、播磨に赤松、備前に尾張親衛と松田一族、備中に今川三郎四郎兄弟、周防に大将・新田大島兵庫頭と守護・大内豊前守(鷲頭長弘)、そして長門に大将・尾張守(斯波高経)と守護・厚東太郎入道っていうすごいメンバーだからね。ここに小早川がぽちりと入ってる訳ですよ。このへんから、新しい時代の盟主となる尊氏に接近していく沼田家の様子と、小早川一族がそれなりの勢力を持っていたことがうかがえる。ちなみに、周防守護は鷲頭長弘、長門守護は厚東太郎入道(武実)となってますが、鷲頭長弘と厚東(ことう)氏の名前は「鏡山城(1)」でちょっぴり出てきてます。この後、ひろよん(大内弘世)が分家の鷲頭長弘から一族内での権力を奪い返し、厚東武実のひ孫の義武を倒して防長の守護となり、大内氏の発展が始まります。して、また新政権が誕生したものの、今度はやっかいな南北朝問題が起こります。南北朝の争乱については難解なのでここでは書きませんが、他の武家と同じく、小早川氏でも庶家の一部が宮方(南朝)につくなどの動きがあった。当時、梨子羽あたりを領有していたと思われる庶家の頼平も宮方となり、暦応元年(1338)高山城に立て籠ったという。また、これに呼応して一族の小早川高平が新荘の上山城に籠城した。その後、上山城は安芸守護代と国人衆に、また高山城は沼田家・国人衆のほか、伊予からも地頭が動員されてそれぞれ奪い返した。こうした経緯などを経て、沼田家では室町政権に接近し、次第につながりを強めてゆく。ここでもやっぱり、一族を統括する惣領のバックアップを期待する思惑もあったんだろうと思うけどね。ただ、室町政権との関わりは竹原家より大きく出遅れた形となったので、沼田家では信頼を得るために相当頑張ったんじゃないかと思われる。時系列にどんどこ行きま~す。南北朝をさらにややこしくしたのが、足利尊氏とその弟・直義の争い、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)。これによって、南朝がまた息を吹き返してしまった。観応2年(1351)、南朝の後村上天皇から「味方して功績を挙げれば、安芸守護にしちゃうよ~んどお?南朝に来ない?」とお誘いが来るが、時の当主・貞平はどうやらシカトしたらしい。詳細はわからないものの、文和4年(1356)に高山城が何者かによって攻撃されている。これも南朝がらみじゃないかと思うけど。今さらながら、歴代当主の系図↓。最後の1人が抜けてるけど、別にいいよね(笑)。 この頃、宮方が備後でやんちゃしたりするけど、最終的にこれを降伏させ、足利義詮(尊氏の子)からいくつか小早川家に対し感状が出されている。ので、一部の庶家が宮方になるなどの動きはあっても、一族全体、特に沼田家ではここは一貫して武家方として戦い、着実に幕府の信頼を勝ち取っていったものと思われる。小早川春平の代になると、足利義満が親衛隊として編成した奉公衆として京に常駐するようになる。奉公衆は将軍の直轄領の管理を任されたり、特権などもあった。そして有事の際にはもちろん戦力となる。春平がいつ奉公衆になったのかまではわからないけど、おそらく大内義弘の応永の乱にも(大内氏の)敵方として参加してたんじゃないかと思うんだよね~。応永の乱を書いた軍記物、「応永記」には幕府方としてはほとんど主要な守護大名クラスしか出てこないし、詳細な陣立てが書かれてる訳じゃないので、小早川氏の名前は出てこないんだけど。ただ、備後の宮氏は出てくる。宮氏が奉公衆だったかは確認できなかったけど、親衛隊なら当然参加してるだろうと思われるからね。義満といえばそれは色んなエピソードをお持ちの方ですが、春平は晩年出家しているので、これってもしかして、義満が出家した時、守護や公家もこぞって頭を丸めているから、春平も一連のマルガリータラッシュの中で出家したのかな~って想像してちょっとニヤニヤしまった。春平といえば外せないのが、佛通寺の建立。上の1つめの庶家を含めた図でいうと、春平の父・貞平の代からあらたな庶家を増やしたので、一族の結束を図るために高名な愚中周及を招いて菩提寺・巨真山寺(米山寺)とは別に佛通寺を造ったといわれる。(佛通寺については「三原編(49)」以降を、愚中周及については「三原編(49)」と「三原編(56)」をご覧ください)佛通寺に行った時は、ホントに小早川ってただのイチ国人領主かと思ってたのでなんで周及が春平の誘いを受けたんだろう?って思ってたんだけど、やっぱりそれなりの家格を持っていたからなんだね。在京による各方面へのコネなんかもあったかもしれないし。春平の子・則平の代にも佛通寺の整備は続けられ、佛殿やら方丈やら建てる時の寄進の記録が残っている。それには庶家だとか色んな人の名前が記載されているので、確かに一族あげてのバックアップだったし、結束のための創建だったといわれるのもうなずける。まあ、ただ単に一族の結束とか惣領の権威づけに利用しただけだったら、当主みずから周及の肖像画までは描かないと思うけどね(笑)。にほんブログ村
2013年05月17日

太鼓丸付近のこんな伸びやかな稜線をてろてろ南下↓。 この辺は派手な遺構などはほとんどないものの、小高くなった各郭にはわずかな盛り上がりや石組みの名残らしきものがある↓。 今はこんなに綺麗に整備されてるけど、高山城はだいぶ長い間放置されていたらしい。私が持ってる『日本城郭大系13 広島・岡山』(新人物往来社)は昭和55年1月10日初版第1刷のものなんだけど、これには 【現在、山上の郭は荒野の状態を呈しているが、(中略)三原市は昭和55年度から 保存管理計画を策定し、整備・公開をはかる予定のようである。】とある。以前にも載せた「道造りの記」には 【全山矢竹に覆われていたので、鎌とのこぎりを持ち、道造りに励み、 以来100回を越す登山路開発に汗し、平成10年巡回路4キロを整備した。】とあるくらいなので、三原市による開発はあんまりスムーズじゃなかったのかもしれない(笑)。巡回路っていったら、たぶん私の図でいうと青ルートのことだと思うんだよね。新高山城なんかも、釣井の段の奥の方は矢竹群の刈り残しとかあったし、どちらの山も放置しておくと全面矢竹に覆い尽くされちゃうのかもしれないな・・・綺麗に整備してもらって、こうして遺構を楽しめるのはホントにありがたいことだと思う。まあ、高山城は欲を言えば、馬場のあたりをもう少し刈り込んで欲しいかなこの辺から権現丸に近くなっていきます↓。ここは下部に少し石組みが残ってるし、切岸は高い。 ↓これは上の写真を上がる途中に撮ったもので、小さな段に分かれてるような気もするけど、単なる自然地形なのかもはやわからない。 さらに先↓。 ↑上の3枚はたぶん権現丸の1つ手前の郭で、ここと権現丸に使われてる石が私が見てきた中では城内で最も大きいクラスの石が使われてると思う。小郭を乗り越えながら少しずつ高度を上げて、ここに出る↓。これが権現丸の北側。 この場所からは、トンネルが真下に見える↓。 権現様へは、この岩場を登る↓。足場が置きにくくて、あんまり歩きよくない。 上がったら、また伸びやかな稜線が続いてた↓。途中にある小さな段差を越えながら進んでいく。 奥はちょっと小広くなっていた↓。ここの盛り上がった場所に三角点がある。城内での最高地点。 権現様の小高いピークを越えると、ちょっと細い道になる↓。この先が、西の丸への周回鼻血ルートの入口ね。 次の小山を登ると ああ、イワオ様が見える・・・イワオ丸に復帰だ~イワオ様のすぐ手前には これは明らかに自然の石じゃないよな・・・礎石か?それとも、石段の名残か?確かイワオ丸だったと思うんだけど、実はここにはこんなのがあって↓ 最初見た時、首つり用のロープかと思ってドキッとした。(↑こーゆーことばっかり考えるからよくない)誰だ?高山城にブランコなんか普請した奴は?さて・・・これでとりあえず全ての郭は見た。時計を見ると、13:00。結局高山城内にはベンチは1つもなかったからあんまり休憩もしなかったけど、イワオ様は腰掛けるにはちょうどいいし、ロケーションはいいし、寒い日だけど日当たり抜群で暖かい。この後は下山して少々町を歩くので、ここで食べておく方がラクだよな・・・と思って、城内で2度目の食事タイム。連日寒かったせいもあるけど、今回はホントによく食べたよな~しかし、膀胱はもう破裂寸前・・・やっぱ、山城だとどうしてもこうなるんだよな~。「トイレのはなし」で書いた予感的中・・・そうだ、来シーズンは簡易トイレを持ってきてみようか。ブツを残さないなら、いくらか気も楽になるかも・・・そうは言っても、たぶん実戦経験のある城だったら恐らく無防備な姿をさらけ出す気にはならないと思うけど特に、高山城はね。本文の中では(これでも)あまり書かなかったんだけど、現地では実は相当ビクビクしてました。霊感はないんですよ。ないんだけど、なんか恐かった。だから、下山した時にはたぶんここにはもう来ないかな~と思ってたんだけど、こうして記事を書きながら写真を見てると、やっぱり今回歩かなかったルートも歩いてみたくなる。新高山城はほっといても人が来るだろうからあえて宣伝はしないけど、私のオススメは高山城ですねぜひ、こちらの城も多くの人に見て欲しい。こんなに素敵な遺構が沢山あるんだよ~って知ってほしくて写真も沢山載せましたが、やっぱり実物と写真じゃ違うからね。新高山城へ来るならぜひ!高山城も!たかやまじょお~、高山城を、よろしくお願いいたしま~す(↑選挙カーのノリで)にほんブログ村
2013年05月16日

南稜最北端の稜線下を西に回り込んだ先にも、まだ道は続く↓。 こちらの道にも、わずかに石組みが残る↓。 こんないい道になったかと思えば↓ だいぶ荒れてる場所を通り抜け↓ 最後にここに出る↓。 ああ、よかったあ~。やっと着いたあ~。石垣が沢山あって楽しい道ではあったけど、ちゃんとゴールに辿り着けるのかは歩いてみないとわからなかったから、ようやくほっとできた。まあ、前回書いたように分岐もあったけど、どこを目指してるのか頭にあればここには着けるし、そんなに心配はいらない道だと思います。ただし、暖かい時期だと相当草ボーボーになるでしょうから、その時は道もわかりづらくなる可能性大ですが。(つか、そんな時期に行くべきではない)1ヶ所だけ、斜面をトラバース・・・え~と、横切るところで頭崎城極楽寺ルートの難所のように少々道が危ない場所がありましたが、これもしっかり足場を確認しながら渡ればさほど問題になるようなこともないと思われます。上の写真の場所は、南稜最北端の西の丸下段です。最南端の出丸からスタートしてずっと稜線を北上してまた同じ道を戻ると南稜の郭ほとんどを2回歩くようになりますが、おじさんに教えてもらった周回路は権現丸・太鼓丸・西の丸をごっそりカットするので、重複が少ないし、何より石垣がたくさんあるルートなのでおススメです。が、入口からここまで一切標識はありませんので、それを念頭に置いた上でルートを選んでくださいね。まあ、分岐で間違えたとしてもたぶん馬場に降りちゃうだけじゃないかと思うんだけど。 さて、ここから稜線に復帰です。土塁が少し残ってるし、西の丸の切岸は高いです↓。 ここを上がると おおお、すげえ~!!こういう山城ならではのお楽しみポイントは、南稜の方が多いかもしれませんね。私の場合は、北稜のまったいら~にもやたら感動したけど(笑)。そしてこの辺りからは、高山城が現役だった頃には見えなかったモノが見えます↓。 さんようしんかんせ~んこれね、いちおう、少し新幹線が通るのを待ったんです。で、1~2本頭を捉えられなかったので粘ってやっと新高山トンネルを抜けた直後の新幹線の撮影に成功したものの、結局これじゃなんだかわかりませんねトンネルの右上に見えてるのはもちろん、新高山のあの岩峰・・・この場所は新高山の真東にあたりますが、ここからみてもすごい山だこと。ただ、南側の山麓から見るよりは、稜線が西に延びてる様子が確認できる。再び新高山を目にして喜んだのもつかの間、キビシイ現実を思い出した。待てよ、残るは太鼓丸と権現丸だけで、もう後がないじゃん・・・うわあああ、ヤバイ、ミッションがああ~!!てことで、ここから慌てて考察に入ったので、はっきり言ってイワオ様までの間の記憶はかなりうつろです。記憶がってゆーか、本人がうつろでした(笑)。これまでも何度も忘れては思い出しを繰り返したミッションは、もちろん新高山城の築城の理由を探ること。新高山城では(遺構を楽しみすぎて)答えを見つけられなかったので、高山城に登って比較することで何か浮かぶものがあるかもしれないと持ち越していたのだ。困ったな、もう待ったなしだぞしかし、登ってみるまで高山城がこんなに素晴らしいとは思わなかった。なぜ、これだけの城を捨てて沼田川を隔てただけの場所に引っ越したのか・・・あ~な~た、な~ぜな~ぜわったっしを捨~て~たああ~・・・もう完全に「夢追い酒」(by渥美二郎)がミッションのテーマソングになっちゃってます。これを歌いながら、ぼんやり歩いてく姿だけご想像ください。で、同じ場所から見た南稜西側の斜面↓。 ここからは沼田川も見えるし、本郷の町も見える。沼田川流域と本郷の町を見下ろすには確かに新高山城の詰の丸からの方が展望がいいけど、高山城は北の丸から新荘方面もよく見通すことができるしな・・・高山城を本城、新高山を副塁のままでも良かったんじゃないの? ただ、難点をいえば高山城は広すぎるのがアダにはなるかもね。でも、数度の城攻めにも耐えてる実績があるしな~・・・う~ん、わからん搦手にある図では、西の丸と次の太鼓丸の間には小さな郭が3つほど連続して描かれてる。ぼんやりしながらひたすら小さなアップダウンを黙々とこなしてたので、どれが何番目の郭とか、もうわかりません(笑)。 これは振り返ったところ↓。形からいって、この辺が太鼓丸と思われます(←大ざっぱ)だって結局、南稜では郭の名称を示した標識はイワオ丸にしかなかったんだもん。ただ、権現丸だけはわかった。三角点があったからね。 ↑左の木にぶら下がってる赤いものを見た時、何があるのかと一瞬ぎょっとしました(←まだ恐がってる)。誰かの落とし物の真っ赤な帽子が木にくくりつけてあるだけだった・・・で、この場所からは お~、よく見えるぞな、もし~!!たぶんここが、新高山城を望むのに一番のビュースポットじゃないでしょうか。おととい、新高山を下山してから寺を探し回ってトンネル付近まで来た時も、対岸からは古高山がずいぶん近くに見えたからな・・・2つの山が最も接近する場所かもしれない。岩峰もよく見えるわ・・・↓ あれ、ちょっと待てよ、この角度って・・・と思って双眼鏡で覗いたら、おとといご飯を食べた展望台のベンチが見えた↓。や、やっぱりあんなとこにいたんだ・・・ よくあんなところに城を造ろうと思ったよな~。このあたりの場所から、カメラを少し新高山の北に振ると 今はちょっと木で展望が遮られちゃってるけど、これがなければここからは新高山の北、船木の周辺が丸々見通せます。高山城の南麓に広がる本郷の町からは、梨子羽を抜けてそのまままっすぐ平賀氏の白市の方へ抜けられるようなんだけど、「道ゆきぶり」を見ると今川了俊もこの新高山の北を回って行ってるようでもあるし、古くは梨子羽経由よりは船木経由の方が主街道だったのかな~と思うんだよね。だとしたら、街道を押さえる点からも高山城の方がポイント高いんじゃないかな~って気がするんだけどね。高山城を描いた古図は、2つばかり見たことがある。そのうち、「沼田古高山城図」には「ムカシ道」として船木へ抜ける道が描かれている。私の持ってる図はあまり鮮明じゃないんだけど、北稜と南稜の間にある谷間のあたりから北へ延びてる道がある。南に大手、東に搦手、そして北にムカシ道。ただ、「沼田古高山城図」では現在大手道といわれる辺りにはちょっと道らしきものは確認できない。もうひとつの古図には、ば~んと南に大手が描かれてるんだけどね。今回は谷間の部分は歩いてないので何とも言えないけど、船木の方から登り下りしたって人の話は聞いたことがないので、残念ながらムカシ道は現在は切り拓かれていないものと思われる。にほんブログ村
2013年05月15日

小心者のわたくしが勇気をふりしぼってこれから歩く道は、上の図でいうとイワオ丸と権現丸の間から出ている赤のルートになります。便宜上同じ場所にしましたが、馬場を経由してイワオ丸と権現丸の間に出るという青ルートの標識はここにはありません。で、この道を入るとすぐ いし、いし、石垣だあああ~~~!!よく見ると、奥の方にも矢竹に隠れて低い石垣が沢山ある↓。 これは、入ってすぐの左側の方だったかな・・・↓。 入り口付近は割と矢竹が刈られているので石垣が見やすいですが、ちょっと奥まで進むとほとんどがヤブの中なので、ぱっと見はそんなに沢山石垣や基壇のような地形が隠されているとはわかりません。だってもう、ほとんどがこんな感じの道だったし↓ ただ、私は入った直後からヤブの奥に石垣が隠れているのを見つけてしまったので、以後はずっと目をこらしながら矢竹の中にある石垣を探してました。 ちょっと、なにここ・・・すごいんだけど・・・北稜の広くてまったいらな郭群にも感動した。南丸と出丸の間にある大堀切や土塁や切岸も素晴らしかった。でも、石垣の残存度でいえばここはナンバーワン何度も座り込んで矢竹の奥へと続いてる石垣を覗きこんだけど、かなり残ってる。石垣と言っても他と同じく高さがあるものではないので、このあたりも北稜のように細かく何段にも分かれて削平地があるのだろう。ほとんどがヤブに隠れちゃってるのが残念だけど。おじさんは何ていい道を教えてくれたのだろう。振り返れば、鏡山城で会ったおじさんには大手に登山道があるのを教えてもらったし、頭崎城ではチコちゃんのパパママにも登山口と下山口を教えてもらったし、そしてここではこんなにいいルートを教えてもらった。みんないい人だったなあ。広島の人はいい人だ。ま、新高山城で会った不思議な3人組は何も教えてはくれなかったけど(笑)、でもあそこで静寂を破られなかったら、降りたくなくてもうしばらくもんもんとしていたかもしれない。ヤブの中のあちこちに見える石垣にコーフンしつつ、おじさんへの感謝でいっぱいで相当テンションが上がっていたので、最初のビクビクもどこへやら、こんな道がずっと続いてたって平気↓。 ↑この石垣もね、右上は枯れ草で隠れちゃってるけど、ずっと奥まで続いてるの。頭を地面すれすれまで下げて中を確認したので、間違いありません。こちらのルートの両脇一帯のヤブを綺麗に刈り込んだら、相当見事な光景が広がると思うよ。何でしたら、手伝いますけどで、上の石垣を夢中になって撮ってたら、空はよく晴れてるのに、急に粉雪が舞い出した。あ・・・風花だあ・・・と思って空を見上げたら、上空に大きな鳥がホバリングしてるのが見えた。かなり上にいたのに大きく見えたし、羽の形から鷹あたりの猛禽系の鳥だと思うんだけど、すげえ、あんな大きな鳥でもホバリングできるんだ~と思って見てたら、鷹(←決めつけ)はずっと同じ場所で動かない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(←鷹)たぶん数秒程度の出来事だったろうとは思うんだけど、誰もいない完全な静寂の中で、時が止まったような気がした。しばらく見つめ合った後、あ、ああ・・・しゃ、写真撮ろう・・・とカメラを構えたら、鷹はぐんぐん高度を上げて飛び去ってしまった。雪はもうやんでいた。1人残されて、呆けたようになりながら鷹が飛び去った空だけ撮った↓。 こういうのは主観の問題だから、他人からすれば何とも思わないだろうけど、あの鷹は絶対私を見てた。美味しそうなウサギちゃんに間違われちゃったかな?不思議な感覚にちょっとホケッとしながらも、先へと進む↓。 しばらく歩くと、こんな道に出る↓。 これまではどの辺を歩いてるのかわからなかったけど、ここまで来れば左手の稜線を回り込んでるんだなってのがわかる。イワオ丸の先の入り口からここまで、写真撮りーの鷹と見つめ合いーのしながら約10分。途中には、2ヶ所ばかり分岐のような場所があった。もちろん、標識はない。稜線を回り込んでいくんだから、なるべく左方面に進めばいいんだよな~と思って、どちらの道も左へのルートを選んだ。が、どちらかの道からは馬場へ降りられるのかもしれない。この先の、いくらか見晴らしのいい場所から下を覗いたところ↓。 相変わらず草ボーボーだけど、恐らく真ん中の木がない部分が馬場で、向こうが北稜なんだろう。この場所から馬場までは、そんなに距離がないように見える。先の道は左に曲がっている↓。そろそろ、西の丸が近いかな・・・ この辺にも石組みが残ってた↓。 ここから西の丸まではあと5分くらいかかったから、この場所を西の丸直下と呼んでいいのかはわからない。が、こんな場所にまで石組みが残ってるって、往時は一体どのくらいまで手を入れて、どれだけの建物が建ってたんだろう。「全国で5本の指に入る規模」というのはダテじゃない。稜線を左(西)に回り込んだであろう場所からは、さっきよりもさらに馬場の様子がよく見える↓。 ちょうど正面の辺りには鞍部らしきものがあって、下の方には道らしきものが見える。おそらく、北の丸西下段にある虎口から延びる道の一方はあの道なんだろう。ここから見てると、大した比高はなさそうだな・・・今度来た時にまだ歩いてないあれらのルートを制覇するとしたら、どうやって歩くのが効率いいかな?にほんブログ村
2013年05月14日

出丸の向かいにある南丸へ上がる。堀切に面した南丸の切岸↓。 この辺から見た北稜は 先行こ、先・・・ここが南丸↓。搦手にある図ではここは「西丸」ってなってるんだけど、『広島近郊の山城と史跡ベスト33』に載ってる同じ図には「南丸」とある。最近になって、看板を替えたのかもしれない。まあ、この稜線の先には「西の丸」もあってややこしくなるので、ここでは南丸としておきます。 特に何がある訳でもないし、北稜ほどまったいらでもないので、見ようによってはつまらないかもしれないな・・・(自分で写真を見ててもちょっとつまらない)が、この郭からは若干木に遮られるものの、本郷の町が見下ろせる↓。 木がなければかなり展望はいいハズ。このシリーズの最初の方で書いたように、眼下の町は小早川茂平が干拓によって土地を拡げたものであり、遠くの山の中には小早川の菩提寺・米山寺がある。茂平の頃の色々な苦労を思って本郷の町を見下ろすと、なかなか感慨深いものがある。さて、ここから南稜を北へ向かって歩きま~す。南丸を降りて見上げたところ↓。ぽちぽち石が残ってる。 南丸から先の道↓。 ↑左端を除く部分には、ところどころうっすら盛り上がったような箇所がある。奥の方の矢竹が刈り残されているので、全体的にどういう感じなのかまでは確認できなかったけど。この先の右手に、道らしいものがあった↓。 う~ん・・・本丸行き?たぶんこれが、搦手にあった図のイワオ丸と南丸の間に出る正規ルートなんだろうな。 この図では馬場へ入らない感じになってるけど、馬場へ入らない左側の道は私が登ってきた南丸と出丸の間に出る道だから、おそらくこの道へ上がるには一旦馬場を経由するハズ。だから、「馬場へ」って書いた方がいいような気もするけど(笑)。私は結局、おじさんに道を教えてもらったからこの道は使わなくて済んだけど、あんまりこの道はよくないって書いてる人がいたんだよなあ。でもこうして標識が出てるってことは、それなりに通れる道ではあるのかな?そしてこの先を上がったところが、イワオ丸↓。 デカイ岩がで~んと鎮座しておる。確かにイワオ(巌)だわ このイワオ様からの眺めはすこぶるいい↓。 今日一番の展望だあ~ イワオ様の東側には、一段下がった郭が延びている↓。 郭の奥の方からイワオ様方面を見たところ↓。 イワオ様の脇っちょには、井戸跡らしいくぼみがあるって話だったんだけど、よくわからなかった気がするな~。それより、トイレ行きたい・・・まあ、あとは一番奥の西の丸まで歩いていけば終わりだ。あともうちょっとのガマンだ・・・イワオ様に腰かけて、休憩を取りつつこの先の郭を図で確認してたら、扇の丸で会ったおじさんがやって来た。またしばらく話をしてて、下山道の話になった。扇の丸でも確か、大手がよくわからないから三尺道を降りるつもりだと話した気がするんだけど、さっき感動した南丸と出丸の間の大堀切をそのまま下っていけばいいらしい。確かに、大手に出た方が本郷の町に近いから楽は楽なんだけどな・・・しかし、途中の道の紹介までしてくれる人ってホントにいないから、大手道の情報は全くと言っていいほど持ってないぞ迷うような分岐はないか、どの辺に出るのかなどおじさんにしつこく聞いてみたら、丁寧に教えてくれた。下山口のあるあたりは、居館跡と推定されている場所にも近い。北稜へ登り返して不便な搦手口に出るよりは、大手道を行った方がいいに決まってる。おじさんの情報で安心した私は、予定を変えてこのまま大手を下っていくことにした。さらにおじさんは、「この先から西の丸へ行かれるんを知っとるか?」と聞いてきた。「へ?西の丸・・・ですか?このまま真っ直ぐ行けばいいんじゃ・・・」ところがそうじゃなくて、イワオ様の先から直接西の丸へ出られるとゆーのだ。へえええ~、そんなの初めて聞いた・・・道も問題なさそうだし、入り口についておじさんに(また)しつこく聞いてから、おじさんにお礼を言って再び行動開始。おじさんはこれで下山するらしい。ちょうど昼時だからな・・・きっと、おうちにご飯を食べに帰るんだろうイワオ丸を降りて振り返ったところ↓。左の端あたりにも、石組みが少し残ってる。 その先の道↓。ここも一部刈り残しがあるので、実際南稜がどの程度の幅があるのかよくわからない。 で、この先が問題の分岐と思われる場所↓。 イワオ丸の次、権現丸へ行くにはまっすぐ水色の矢印の方へ進みます。ピンクの矢印の方は ・・・て結構立派な道になってるものの、ここには標識なんかはないし、高山城の縄張図は世間に出回っていないので、普通に城攻めで来た方のほとんどは恐らくこのルートは使わないでしょう。入口部分くらいはちょっと覗くかもしれないけどね。ただ、いくらゴールを知ってるからといって、どのあたりを歩いていくのかなどの詳細は一切わからない。常に現在地を把握しておくのが基本の登山においては、これはいい行動とは言えない。しかも私の場合、単独行な訳だし。「安全第一」を旅のモットーとしている私にはイレギュラーな決断にはなるけど、おじさんの情報が信頼できることは南稜に上がれた時点で確認できてるし、実際歩けるかどうか判断できる程度には、粘っておじさんから情報は引き出してある。あんまりイマイチな感じの道だったら、引き返してくればいいんだしな・・・入り口を前にしてちょっと緊張したけど、せっかく教えてもらった道でもあるし、意を決して脇の道へ。にほんブログ村
2013年05月13日

前回と同じ写真で恐縮ですが、この場所、見ての通りもうもうと竹やらヤブやら茂っている。特に右手の方はかなり薄暗い。 ああ、なんかここ、すごいイヤ・・・いちおう真ん中は竹が刈られて道ができてるし、その奥には開けた馬場が見えるのでちょっとスルーする訳にもいかないしな・・・もっと暖かい時期に行った方の写真を見ると、道の両側の竹がしなって完全に低い竹のトンネルのようになってた(笑)。そこまでいっちゃうと、たぶんこれよりもっと薄暗いんだろう。写真ではそう薄暗いように見えないかもしれないけど、私はなんかここすごくイヤで、びくびくしながらへっぴり腰で奥へと進んでみると、薄暗い竹林の中には こんな低い石組みが少し残ってました。ここにもどうやら建物が置かれてたっぽいな。そしてここが馬場↓。 かなり荒れてたし、私は馬場に入る手前の道を上がるつもりでいたので馬場は歩き回らずすぐに引き返したんだけど、奥の方にある標識には、左がイワオ丸で右が北の丸跡と書いてあった。ああ、やっぱりここからも北の丸へ上がれるんだ~。次回はできればそちらのルートも制覇したいと思います。だってここ、奥の方はヤブとかすごいからさ~、どうも内部を歩いてみようって気にならなかったんだよね。ただ、結論から言うとこの場所は北稜の最北部(=北の丸)と南部(=本丸)、それから南稜の中央部の2ヶ所(=イワオ丸・権現丸)の4つのルートが交差するようです。2つの稜線に分かれた大規模な城ではあるものの、実際歩いてみると馬場へは思っていたほど大した距離でもなかったので、北稜と南稜の連絡もそう不便ではないのかもしれない。とっとと馬場を出て、元の道へ戻る。今度は一番上の写真で左手の道へ↓。 高山城は、全山通して道に標識は少ないです。あるにはあるんだけど、初めからそれをアテにできるほどには立ってない。よく整備された山城だと、あちこちに解説板だとかが建ってることもありますが、その類になると全くないです。主要な郭には郭の名称を記した板が立ってますが、比較的北稜の方がよく整備されており、南稜では「ナントカの丸」と書いた板も一部に限られます。稜線に上がってしまえばあとはまっつぐ進んでいくだけだから問題ないんだけど、北稜と南稜をつなぐ道をたどろうとすると、まず4本の青ルートのいずれかを使うことになりますので、先人の訪城記などで充分にルートを確認しておくことをお勧めします。それで私がこれから使うのは、正規の道(?)である青ルートではなくおじさんに教えてもらった南丸と出丸の間に出る赤のルート。 この道は、馬場入口から見るとなんかアヤしい道だし、奥へ進んでいくと途中では こんな心細い道になっていくので、何も知らずにこの道を通ったら相当不安かもしれません。私もおじさんに教えてもらったから何とか進めたものの、おじさんの情報がなかったらたぶん馬場の標識に従って行ったことでしょう。結果的には、今回私の歩いたルートが一番無駄がなく効率が良かったので、おじさんに感謝時折木をかいくぐりながらこんな道を進んでいく↓。矢竹がびっしり生えた脇の斜面には、うっすら削平されたような場所も何段か見えた。 その先まで上がると こ、虎口だ・・・!すげえ~!!と鼻を押さえながら(←鼻血が出るんじゃないかと思った)写真を撮ろうとしたら、またカメラがフリーズしやがった。こんな光景を前にして、ここで動かないってカンベンしてよ~!!ヘタなことをしてすべての写真がパアになると困るので、なんとか穏便な手で動いてくれないかと試してみたものの、レンズが伸びたまんまウンともスンとも言わない。ヤバイ・・・ヤな感じのした馬場へ行ったばっかりだし、今度こそダメかも・・・とりあえず上に上がって、座って色々やってみたがやはりダメなので、レンズが出たまま電池を交換した。ら、ようやくレンズが収納できて、カメラで見る限りではこれまでの写真も無事だったので、ほっと一息いや、ビクビクしてるのがいけないとは思うんだけど、赤間神宮での不可解な出来事もあったしさ~、どうしてもね。もう、どっと疲れが出ましたよ。で、再び元の場所へ戻って撮ったのが上の写真になります(笑)。ここはつい目の前の石組みに目が行きがちですが、地面にも礎石のような石が埋まってます↓。 門でも置かれてたかな?それともここは石段だったか、石畳だったのか。北稜に残ってる石組みはほとんどが小さな石を土留程度に組んだものだったけど、こちらのは石も大きいし、だいぶ石垣っぽい。それに、ああ、見事なこの土塁・・・やっぱり、北稜よりも南稜の方が新しいものなんじゃないかな~。この付近は特に、これぞ山城!!って感じで見事です。まずは、上がりきる前↓。 上がりきったところ↓。 上がる前に左手にあった石組みの残る土塁は、大堀切を進んで反対側から見るとこんなにもっこりしている↓。 奥の方ではだいぶ段差もゆるやかになっていたので、土塁を上がって先端部から上がってきた道を見下ろす↓。 私が見た限りでは、北稜にはこーゆーのは北の丸西側下段にしかなかったからな・・・北稜から南稜へ抜ければ、この雰囲気の違いが楽しいけど、南稜から北稜へ渡った場合は、あるいは物足りなく感じるかもしれない。土塁を越えて左手の郭へ。この土塁を内側から見ると、こんなに高い↓。 土塁の内側にはわずかに石組みもあったので、石だ石だ~と近寄ってみたら なんか、赤いんだけど・・・大火の時のならいいけど、田坂さんの血とかじゃないよね・・・で、こちらが郭の内部↓。 奥の方から大堀切方面を見たところ↓。 この手前の石に腰かけて電池交換しました(笑)。確かここには「ナントカ丸」って標識はなかったんだけど、この奥には小さな郭があるだけなので、どうも正規ルートで出るはずの南丸ではないらしい。搦手の図を見ながらウンウン考えて、ここは恐らく出丸なんだろうという結論に至った。扇の丸で会ったおじさんは南稜へ上がるルートを教えてくれただけで、「南丸と出丸の間にある堀切に出るんだよ」とは言わなかったからね。出丸を見てから再び土塁へ登って周りを見下ろしてみたらあまりに素晴らしい光景だったので、動画に収めました。出丸からスタートして時計周りにぐるっと一周してますので、一部木に遮られて見にくい部分もありますが、よかったらご覧ください。(YouTubeへのリンクはこちら)にほんブログ村
2013年05月12日

本丸直下の周回路をたどると、本丸の南から降りた道と合流する↓。途中、右手の方に1本延びる道があった。な~んも標識が出てないけど、あれが南稜の方へ抜けるルートなのかな・・・ まっすぐ上がって行くと、この場所に出る↓。ここも小さく数段に分かれていて、細かく仕切られていたカンジ。矢竹群の左奥が本丸。 ちなみに、本丸の南側からこの場所へ直接降りることもできます。本丸の降り口から見下ろしたところ↓。 本丸下の道沿いには、低く組まれた石列が残る↓。 この後、扇の丸を見てから南稜の郭群を見に行く訳ですが、後回しにすると忘れそうなのでここで書いておくと(笑)、何て言うのかな~、結構各郭の内部が細かく仕切られていて、妙に生活感があった。私の見たところ、南稜の郭群にはこういうものはほとんどない。まあ、単に残ってないだけの可能性もあるけど、南稜に比べると北稜の稜線の方がどっしりとして広いし、ゆえに充分なスペースが確保できる。それから、北の丸以降「まったいら!!」を連発してきたけど、広いからそう感じるだけなのか、南稜にくらべて北稜の郭群の方が地面のならし方が綺麗。全国でも有数の規模を誇る城であり、築城から新高山城に本拠が移されるまでの間に段階的に整備されたものだろうけど、北稜の郭群の方が歴史が古く、また居住空間としての中心的役割もあったんじゃないのかな~って小さな段差の石組みを見るにつけ、思った。あくまで、私の印象ですけどね。さて、周回路をまっつぐ進んで、今度は扇の丸へ向かいます。本丸の南側から降りた場合は、左手に道が延びてます。道の奥には、扇の丸への方向を示す標識も出てます↓。 そのすぐ先で、右手の斜面に登る道が現れます↓。これを上がる。 上がる途中の道には、わずかながら石が埋まってた↓。ここはかつて石段だったのか? 上がりきると、扇の丸。北稜最南端の郭。 反対の奥から見たところ↓。 これまで細長い郭ばっかり見てきたけど、ここは細長くない。そして、山中に入ってから今日初めてここで人間に出くわした。 手荷持一切ナシの軽装でストレッチをしてるおじさんだったので、裏山にウォーキングに来た地元の方かな~と思った。ああ、ざんね~ん。結局、今回の4つの城で1組ずつ誰かしらに会って、完全独り占めって訳にはいかなかったかまあ、ほとんど独り占めと同じ状態ではあったんだけどね(笑)。軽く挨拶を交わして、おじさんが入らないように私は写真を撮り始めた。ここまでの郭で、土塁だとかの防御特性を持つアイテムはほとんど見受けられなかった。ここも広さは充分にあるものの、そういう点からいえばぶっちゃけ目ぼしいものはない。ただ、真ん中に大きな石があって、これは目をひく↓。 なんだ?このくぼみ・・・もしかして、井戸跡?顔を上げると、おじさんはいなくなっていた。一人になって存分に浸ろうと周りを見渡したものの、郭の周囲は木に取り囲まれていて回りが全然見えないさすがの私も、これじゃ浸るにも限度がある(笑)。最初に扇の丸に上がってきたのは北側からだったけど、郭を奥まで歩いてみたら南側からも降りられるようになっていて、そこでおじさんがストレッチを続行中だった。私も降りて下を見に行ったら、おじさんが話しかけてきた。ま、山城での会話の中身は私の場合どこでも同じになる訳ですが、今回は特に「アンタ1人でか~?やめんさい」と強めの口調だった。「ハハハ・・・まあ、登山はやってましたし、慣れてますから・・・」「いや、そういうことじゃなくって~・・・」ってかなり呆れ気味だった。おじさんの言いたいことは自分が一番よくわかってます。ご心配はありがたいし、おじさんが明らかに正しいんだけど、私にも色々事情があるのだ。そうだ、慣れてそうな人だから、南稜への道を聞いてみよう・・・で、搦手の図をプリントしてきたものを見せて聞いてみたら、やっぱりさっき右手に見てきた道を進めばいいらしく、特に迷うような道でもないとのこと。が、 馬場へ降りて、南丸とイワオ丸の間に出る青のルートは現在は使われてないとのこと。アレ、権現丸への道の方って言ったかな?(←忘れた)ただ、一旦降りて左側の奥の方へ進めば、南稜に上がれると教えてくれた。おお~、やっぱり慣れてる地元の情報は貴重だな。私が事前に調べた先人のいくつかの訪城記では、こうしたルートまで紹介してくれてる人は全くいなかったし、あちこちの延びる道すべてに標識が設置されてる訳じゃないので、こうやって先の情報をゲットできると安心感が違う。そもそも、縄張図を持ってないからさ~。おじさん、ありがとうおじさんと話してた場所は少し木が切れていくらか展望も良かった気がするんだけど、会話して終わっちゃったので写真はありません会話の途中で石垣の話になって、話してた場所から振り返るとすぐそこに石組みが残ってた↓。 おじさんに連れられて奥まで行くと、そこにもあった↓。 おおおお、いいじゃないか~!確かこの時、石垣についての基本的な講義をされたような気がする。結構旅先では、こんな風にかなり初歩的な講義をされることがあるので、相手からすれば私は相当バカっぽく見えるんだろうなといつも不安になるんだけど、まあ親切心だよな。広島の人は親切だ。おじさんにお礼を言ってから扇の丸へ一旦上がって、来た道を再び戻る。 ↑右手に上がれば、本丸。ここを過ぎてまっすぐ降りてく。下から見るのと、上のこの場所から見るのではずいぶん印象が変わるもんだな~と思った。降りてく途中には、石垣の名残も見える↓。 して、この先で左に延びる道へと入る↓。北稜とはこれでお別れ。 途中、荒れ気味な場所もあるけど、全体的にはしっかりした道。段々南稜と思われる風景が見えてくる↓。 ハンモ、ハンモ~(←繁茂)と笑いながら進んでいくと、たいして歩かないうちにこんな場所に出た↓。 標識は何もないけど、どうやらここが分岐らしい。北稜と南稜の間の低い部分にある馬場と呼ばれる場所に行くには結構降りるのかと思ってたけど、南稜へのルートに入ってからここまで、普通に歩いて5分もかからない。意外とあっさりここへ着いちゃったのがちょっとオドロキだった。↓よろしければ「ぽちり」とお願いしま~すにほんブログ村
2013年05月11日

感動で熱にうかされたようにぼんやりと奥まで進んでいくと、まだ上段があった↓。え~と、北下段から数えてこの写真で見えるまでの部分で5段あるってことか? 一番奥の切岸が一番高い。あれが二の丸の最上段かな↓。 上がったところ↓。ここがやっぱり二の丸の最南部だった。そして二の丸で一番高い場所。 北の丸と同じく、二の丸も南北に細長い郭だった。ただし、5段の郭すべてをあわせると相当広い。非常にローカルな話で申し訳ないけど、以前親戚が山梨県の上野原市に住んでてね。中央本線の四方津(しおつ)駅前の山を切り開いて大きな新興住宅地が造られてるんだけど、なにせ山の上にあるもんだから、確か駅から直通のエレベーターがあったんだよな。これだけ広い郭を見てると、まさにその大規模山上住宅地を思い浮かべる。高山城は、新高山城ほど山上で生活してたって風には言われないんだけど、この城、かなりの大人数が余裕で暮らせるほどの広さがある。しかも、まだ北の丸と二の丸しか見てない段階でそう感じるんだから、どんだけ~ってカンジ。縄張の優劣を語れるほどの知識もないし、そんなことするつもりもない。・・・が、新高山城も良かったけど、この城、ホントにすごいわ~と思った。二の丸最上段の南奥には、降りられる小道が付けられている↓。案内板が立ってるから、この奥へ進めばいいのかな。 降りる道には大きな石があった↓。石組みの名残かな? 北の丸の西側に延びてた道(前回引き返したところ)は、あるいはこの場所とつながってるんじゃないかな~と思ってたんだけど、本丸へのルート部分以外はかなり刈り残しがあったので、こちらからは道らしきものは見えなかった。ここじゃないなら、あれは一体どこへ出る道だったんだ?で、この道をさらに奥へ進む↓。 奥にはこんな光景が広がる↓。 ほう・・・ここからが本丸か。ちなみに、右手はこんなんなってた↓。 う~ん・・・広く矢竹が刈られていて奥まで行かれそうだけど・・・来た道を振り返ると、こんもり矢竹が茂っている↓。 ハハハ・・・まあ、昔はこんなんじゃなかったはずだからね。矢竹群で視界が遮られてしまうのがちょっと残念だけど、ルートはきちんとしてるし、ゼイタクは言えないよな。とりあえず、ここは本丸へと上がる。して、これが本丸北側の切岸↓。一部崩れてはいるけど、ここにも少し石組みが残ってる。 本丸へ上ったところ↓。 はあ・・・ここもまったいら。本丸も奥行があって広いし、ホントにすごいわ、ここ・・・奥へ進む途中、郭のはじっこから西側を見たところ↓。真冬だとゆーのに元気よく草木が茂っていて、展望悪し。 本丸も奥行があって広いんだけど、二の丸ほど長くはなく、何段にも分かれてはいない。ああ、なんか小腹がすいてきちゃったな・・・寒いからエネルギー消費が早いんだと思う。てことで本丸で1回目の食事を取ろうと思ったものの、ここにはベンチなんてものはない(結局、全山通してベンチは1つもなかった)。山だから当然レジャーシートは持ってきてるけど、周りは木が茂ってて日陰になってるし、このだだっ広いまったいらな場所で1人でちんまり座って食べるのもなんかイヤだったのでウロウロ場所を探したら、南端の斜面に日当たりがよくて楽に腰掛けられる場所があったので、そこで食事を取った。今日も山中でゆっくりするつもりだったし、寒くてお腹がすくだろうからおにぎり3コとパン2コ、あと各種おやつやデザートを取り揃えて、補給態勢はばっちりまだここまでで誰にも会ってないな・・・静かでいいんだけど、こんなにすごい城なのにな~。新高山城もいいけど、私のオススメはこっちだなまあ、好きずきあるとは思うけどね。でもどうせ新高山城まで来るんだったら、ぜひ高山城も見てって欲しい。私は時間に縛られたくなかったから日を分けて登ったけど、さらっと見る人だったら1日でもなんとか見れるんじゃないか?個人的にはさらっとなんて見て欲しくはないけど。でも、日を分けてでも登る価値は充分にあると思いますよ。食べてたあたりの場所からは下に道があるのが見えた↓。 あ、なんかトイレ行きたいカモ・・・まだ北稜も全部見てないのに、ヤバいなさて、ここからの記憶が大変アヤシイのですが、たぶん本丸に上がる前に右に延びてた道が気になって、一旦戻った気がする。 二の丸からのルート上ではわからなかったけど、ちょっと奥へ進むとここも北の丸の北下段の下と同じように、小さな石組みの段差が残ってた。そして(たぶん)この先を奥へ↓。 はううう、やっぱりこっちへ来てよかったあああ~!!その奥↓。 一番奥まで行くと、ちょっと土橋のようになっていた↓。そして、右手にも道が延びている。 今回はなにしろ縄張図もないので、わからない場所を歩き回る訳にはいかなかったけど、きっとここが北の丸の西側へと通じる道なんだろうな。一度歩けば大体の構造とかはわかるし、高山城はそんなにルートも複雑そうではないから、縄張図がなくてもまあ大丈夫だろう。今度はこの道もチャレンジしてみようで、左側はこんな↓。 真っすぐ行くと本丸へ上がれるようになっている。右手にも道がある・・・これはきっと、さっきご飯を食べた時に見た道とつながっていて、本丸下の周回ルート(てか、腰郭)になってるんだろう。まずちょっと本丸へ上ろうとしたら、切岸に石組みが残ってるのが見えた↓。下にもばらばらと石が転がっている。ここは他よりも石垣に近い形でがっちり組まれてたかもしれないな。 本丸はもう見たので、ここからは周回ルートを辿る。 高山城に限った話じゃないけど、私みたいに城跡をだらだら紹介する人ってあまりいないので、こんなに石組みが残ってることは登ってみるまで知らなかった。高山城のは石垣というよりもほとんど土留めのようなもので、もっと後の時代の大規模な石垣とは全然タイプが違うんだけど、それでもこうして当時の面影を残す石組みがわずかながらも残っていることは、とても嬉しかった。 にほんブログ村
2013年05月10日

北の丸の最西部からは、新高山の北を流れる沼田川やその流域がよく見える↓。 この場所から南の本郷の町方面の眺めは確かイマイチだったと思うけど、北の船木のあたりはよく見渡せる訳だな・・・たぶん、古高山の南側は南稜から見えるだろうから、北も南もばっちり見えるってことだ。写真に見えてる部分はまだ沼田本荘だけど、その奥は新荘が広がる。眺望はどうしても木に左右されてしまうので一概に比較はできないんだけど、新高山城から北部を見るよりは、この場所からの方がよく見通せると思う。いいポイントじゃん、この城。刈り残しの矢竹群をぐるりと回り込んで戻ろうとしたら、斜面に石組みが残ってるのを見つけた↓。 石垣をよく見たくて、足場を確認しながら斜面をちょっと降りてみたら小さな削平地になってて、その下には左右に道のようなものが見えた↓。 この辺からは、さっきよりもさらによく新高山の岩峰が見えた↓。 やっぱり、はたから見てるとすごい山だよな~これらの下の小道はどこへ出るかわからないので、適当なところで元の道に復帰。矢竹群に沿って歩いていくと、さっき負傷した場所に戻る↓。石組みのすぐ右側がうっすら低くなってるのがわかりますか?ここが郭と郭の境目だったんだろうと思った。 同じ場所から、最初に上がって来た東側を見たところ↓。しつこいけど、ホントにまったいら。このまんまで今すぐ家とか建てられるんじゃないか?よくこんなに綺麗に残ってたもんだよな~。 感動のため息をつきながらゆるゆると東へ向かって歩いて、北の丸を降りる。上から見下ろすと結構な高さがある↓。 まだまだこの後沢山の郭を見るので、右下に見えてる道は今回は行かなかった。が、構造からしてさっき石組みを見に降りた斜面の下にある道あたりに出るのかもしれない。北の丸を降りてそのまままっすぐ行くと、ふにゃあ~って力が抜けてしまいそうな光景が広がる↓。ここからが二の丸エリア。 ちなみに、二の丸のすぐ脇にあるのが、搦手の登山道↓。ここには登山道を示す標識は出ていませんので、大手から来て搦手へ降りる方はこの左の道を降りていってね。 いやもう、どこから見るか迷っちゃうんだけど、ルートとしてはずっと奥へ進んで本丸に至るので、ひとまず下から見ていこうっと。で、二の丸に沿って下の道を奥へと進む↓。 な~んて美しいんでしょう!!もう、脳内アドレナリン出まくり・・・あれ、エンドルフィンか?(笑)北の丸に引き続き、ここでもため息ばかり・・・そして「二の丸跡」の標識がある場所、10センチ程度の小さな段差には石が組まれております↓。ここがきっと二の丸の北限だな。 道の奥を見たところ↓。 右側には一部矢竹の刈り残しがあるので、二の丸と北の丸との境がどんな風になってるのかはちょっと確認できなかった。この場所は二の丸の最北部にあたり、北には一段下段がある。その下段にも、少し石垣が残ってますの↓ 道の入口部分では下段はそんなに高くないんだけど、奥へ進むにつれ道が少し下がるので、その分切岸は高くなる↓。 道の一番奥から来た道を振り返ったところ↓。 写真ではわかりづらいけど、真ん中を通る小さな石組みのすぐ左側は細くくぼんでいるので、排水のためかな~とか思った。右にあるのが、二の丸の北下段の切岸ね。結構高いでしょ?して、道の奥で二の丸の下段に沿って回り込んでいくと、西側はこんな風になっていた↓。 ヤ~ン、もう・・・綺麗すぎ!!結構複雑に小さな段差とかが多いので、新高山城に続きもうこの辺りでメモ帳出して縄張図を書いてました(笑)。できれば綺麗に描き直してここに載せたかったんだけど、なにしろボールペンで描いてたもので、あちこちにバツが付けてあってもう自分でもどれが正規のラインなのかわからなくって・・・次の山城シーズンには、小さなスケッチブックと鉛筆を持参することでしょう。 すぐ上の写真の方は、門でも置かれてたかな・・・ちょっとこの奥を覗きこんだら、両側に道が延びていた。が、まだ二の丸を全然見てないので、ここで引き返した。 青のラインは、搦手の登山口にあった図のルートを描いたもの。行かなかったからはっきりとはわからないけど、この図だとこの先の道あたりから馬場(真ん中のグリーンの部分)に降りられるのかもしれない。さて、今度は二の丸の北下段に上がります↓。 北下段は鍵形に二の丸に沿ってるんだけど、奥まで行ってみるとここも小さく数段に分かれてたりして、結構複雑な造り。西側は若干荒れてます↓。・・・が、ちょぼちょぼ石も残ってる それからやっと、二の丸の上段へ↓。 ここも南北に細長い郭。かなり広い。そして、まったいら。いや、300年の重みを感じたね。ここには、こんな標識がある↓。 アレ、ここ本丸?って一瞬思ったね。右に進めば本丸って意味だよなちょっとこれ、わかりづらい・・・にほんブログ村
2013年05月09日

思いがけない負傷にメゲそうになったけど、このために腕輪念珠も買ったし、向かいの山には又四郎様がおられる。大丈夫、大丈夫(なはず)。気を取り直して、続行。矢竹が茂る場所の手前には、石組みが残ってる↓。 これの反対側にも↓。 この2つの石組みの間は小さく一段下がっていて、ここは恐らく通路のようになっていたんだろう。矢竹群の脇は道ができていて、さらに奥へ行かれるようになっていた↓。 木がジャマで奥の場所からの展望はイマイチ↓。沼田川が新高山城の北側を回り込んでる辺りだろうな。 それにしてもこの刈り残してある矢竹群、ホントにびっしり生えててすごいわ・・・↓。 搦手の登山口にあるという「道造りの記」は、実際は看板の裏に書いてあったものらしいんだけど、私がその存在を知ったのは『広島近郊の山城と史跡ベスト33』に書いてあったからだった。それによると、 【全山矢竹に覆われていたので、鎌とのこぎりを持ち、道造りに励み、 以来100回を越す登山路開発に汗し、平成10年巡回路4キロを整備した。】とあるんだそうな。うわあ~・・・たぶん、こんな感じでびっしり全山に生えてたんだろうな~。整備ったって、1度刈れば済むってもんじゃないしね。継続的に管理が必要だもんね。これは相当大変な作業だったと思うよ。感謝の念に堪えませんわ。入山料取ってもいいんじゃないか?って私なんかは思っちゃうんだけど。まあ、こういう刈り残し部分をこの山で見たのはここが初めてだったので、「なんでここだけ残す?いわくでもあるのか、気になるじゃないか・・・」って正直思ったけどね(笑)。んで、矢竹群の奥まで来るとさらに下段があるのが見えた(写真の右奥)↓。 ちょっと頼りない道だけど、ここも奥へ行かれるようになってる↓。 奥はちょっと荒れてて、小さな郭だった↓。ここが北の丸の最西部。 そして、ここまで来ると ああ、新高山だ!新高山城が見えるう~!!うわあ、ここから見えるなんて思わなかったな~。・・・てか、ここ、どこ?搦手口にある看板の図が見にくいのは、登山口から正面に古高山を見たようにぐるりと向きを回転させてるからで、登山口に立ってる場合はイメージがつかめていいんだけど、山中に入ってしまうとこの描き方は非常によろしくない。ここのは地形図とかも持ってきていなかったので、なんでここから新高山城が見えるのかがさっぱりわからなかった。ということで、毎度おなじみ、手描き感いっぱいのわたくしの愛らしい地図の登場です 初めにお断りしておきますが、各郭の大きさとか形は無視してます。郭の位置とルートの概略だけ説明するための図なので、あらかじめご了承ください。黄色の郭群が北稜、ピンクが南稜です。高山城の南、本郷駅周辺の町から古高山を見上げた時には南稜が見えてるということになります。そして、沼田川の左側には新高山城がある。北の丸は南稜の最北部にある西の丸より北に出っ張ってるから、遮るものがなく新高山が見えたって訳だな。逆に、おとといの新高山城詰の丸の展望台からもこの場所が見えてたんだろう↓。 新高山城を目にしたので、唐突にミッションを思い出した(←また忘れてた)。うう、なんとか答えを持ち帰らねば・・・高山城の築城年代は、はっきりわかっていない。搦手口の解説には、全国で5本の指に入る屈指の規模を持つとあるものの、それだけの城を築くにあたって、庶家に指示を出した文書などは一切残っていない。もちろん、初めから現在残っている全ての郭を整備した訳じゃないでしょうけどね。本郷村の「国郡志書出帳」には、土肥實平が築城と書かれているものの、三原・成就寺所蔵の「小早川正平画像」の賛に茂平築城と書かれているんだそうな。一般的に言われる「茂平が高山城を築城」というのは、おそらくここから来ていると思われる。が、茂平の築城って年代的にどうなんだろうという気はする。ただ、竹王丸との相論から、茂平が半世紀近くにわたって惣領の座にあったことがうかがわれる。歴代小早川当主の中で強権を発揮したのは、何と言っても沼田に土着してからのパイオニア・茂平、それから小早川の名を広く知らしめた隆景が2大巨頭で、隆景以前の小早川で充実期を築いた春平・則平あたりがそれに続く。ので、地元民との摩擦なども一番大変な時期ではあったものの、茂平なら山上に初期の城を築くのは可能な気がする。けど、荘園制のところで書いたように、地頭の所有する土地って茂平の頃は結構限られてたと思うんだけどな・・・領家の土地に城を建てることにはならないか?って素朴な疑問が湧いたんだけど、竹原の荘官との相論では山と川での収穫物を分けあうみたいな話になってるから、山林の所有者がきっちり決められてる現代と違って、開墾されてない山は公共物扱いだったのかもな~って思った。ところで、古高山は「妻高山」という別名の他、「五代山」という呼び名も持つらしい。これも「国郡志書出帳」からで、 【五代三郎雅平新高山を築て本城之要害とする由、故に古高山を五代山という】とあるんだけど、五代目が新高山に要害を築いたんなら、新高山を五代山と呼ぶべきじゃないのか?とツッコミを入れたくなるこれが本当なら、すでに雅平の時代には古高山には城があって、しかも向かいの新高山に早くも砦が置かれていたということになる。応仁の乱あたりの時期になってくると、「高山城」の名は文書にばんばん出てくる。せめて今川了俊がちょっとでも書いていてくれたらよかったんだけど、前々回書いたように「道ゆきぶり」には政治・軍事向きの話は一切書かれていない。なにしろ、沼田に3ヶ月以上滞在していながら、小早川のコの字も出てこないんだから、高山城の話なんか出るワケがない。でも、了俊が来た時には恐らく山上に初期頃の城はあったと思われる。というのも、応永5年(1398)10月8日以前には「高山城」と呼ばれるものが存在していたことがわかっているのだ。搦手口の解説板に、「1400年頃大火に遭う」とあったのがそれ。この火事の詳細についてはわかっていない。が、火事のことを教えてくれてるのが時の当主・小早川春平から菩提寺の巨真山寺(現在の米山寺)にあてた書状で、茂平が藤原公経さんに許可をもらって干拓事業を始め、不断念仏堂の資金にあてた説明から始まって、「数通の寄進状とか規式とか置文とかあったけど、高山城が火事に遭った時に全部燃えちゃったからさ~。だから、この書状を後世への証書として、将軍家とウチのご先祖様への供養に励んでよね」・・・と言っているのだ。だから、結構な規模で火災があったんじゃないかってことだと思う。応永は足利義満の時代。このくらいまで時代が下れば、本格的山城の構築もだいぶイケる。派手な火事を機に、初期の山城から本格的な山城へと大々的にリフォームしたかもしれない。偉容を誇る山容に、大規模な城。この後の時代から「高山城」という言葉が沢山出てくるのも、リニューアルオープンと関係してる可能性もあるよな。ちなみに、義満は小早川さんちに良くしてくれて、応永12年(1405)には沼田荘の年貢を150貫文で請け負うことを条件に、沼田荘の領家職を認めてくれました。本来の沼田荘の年貢は400貫文だっていうんだから、値切った?これが春平の子の則平の時代で、単なる地頭職ではなく、晴れて沼田荘の一円支配を認められて、小早川氏中盤の充実期を迎えます。にほんブログ村
2013年05月08日

さて、上にあるのが搦手の登山口の看板にある図。これはネットで公開されてる訪城記のあちこちに載ってるので、高山城を訪れる人のほとんどがこれを頼りに登ってるんだと思う。身支度を整えてから再び看板の前に立つと、脇に延びてる道が目に入った↓。 ああ、たぶんこれが図にある「三尺道」なんだな。こちらの登山口には、「道造りの記」という搦手の登山道を整備した際のことを書いたものがあるそうなんだけど、正面の登山口に進んだところには見つけられなかった。古高山は図の通り、真ん中の低地を挟んで稜線が2つに分かれた面白い形をしている。先人の記録を読むと、どちらか一方しか行かれなかった~って人が結構いるんだけど、私は今日はすべての郭を回る予定。ただし、道のはっきりわからない大手へは出ず、またこの搦手へ戻ってくるつもりでいるので、下山には三尺道を使ってみよう。で、看板の奥へ進みます↓。 道は幸いちゃんとしてるけど、道の脇は結構樹木が茂っていて・・・う~ん弱気になったら負けなので、(誰も見てないけど)平静をよそおって歩き出すと、入ってすぐのところから石垣があった↓。 おおお、すげえ、いっきなりかよ!!これは嬉しかったね。遺構が出始めれば、もうそこからは登りのきつさとか恐さとか気にならなくなるもんねしかし、あまりに入ってすぐの場所にあった石垣なので、もしかしたら後世に入って築かれたものかもしれない・・・とも思ったけど、別にここに畑とかある訳じゃないし、新高山城に本拠を移してからはサブ的に多少使われた程度のものだろうと思うので、後の時代にこの石垣を築く理由がない。登山道を開く際に作った可能性もなくはないけど、どうやらこちらの道は相当近年になってから整備されたようなので、結構古そうな見かけとはギャップがある。まあ、何にしてもスタート直後からこんなのが見られたら、主郭部に上がるまでの道も楽しくなるよな~。案の定、途中の道にも石垣の名残があった↓。 主郭部へ上がる前には、「堂(牢)屋敷」と「石おとし」なるものがあるらしい。牢屋敷なんて名前からして行きたくないんだけど、結局その郭へ行く案内板などは出ていなかったので、行かれなかった。 ↑この辺の道は平らですごく綺麗。登山道を整備ったって、そんなに綺麗に道を作れるもんじゃないから、昔から使われてた道なのかもしれないな~と思った。道はつづら折り。こういう道は慣れてる。しかも、道の脇に石垣などを探しながら写真を撮りながらで、例のごとく超スローなペースなので、登りがきついとも感じない。 ↑まあ、中には明らかに登山道整備の段階で積まれた石もあるけどね。 ↑脇の斜面に埋まる石。石組みの名残りかな? 鬱蒼と茂る木で少し薄暗い登山道をゆるゆると登ると、おもむろに上に出た↓。 登山口からここまで、ゆっくり歩いて20分かかってない。古高山の標高は197m、比高は184mとある。が、下二のバス停で標高約20m、搦手の登山口の標高が約70mなので、搦手の登山口からの比高は120mちょい。ここからは、じ~つ~に素晴らしい光景が広がる。左右どちらにも行かれるんだけど、まずは右手の北の丸へ上がる。牢屋敷はここから離れた場所のようなんだけど、石おとしは図で見るとそう遠くはなさそうなんだけどな・・・北の丸の切岸の手前とかに行かれる道がないか探してみたけど、なかった。北の丸へは、土橋のような道を上がる↓。 上がる途中から見た北の丸直下↓。落ち葉がフカフカして歩きにくそうだけど、これって北の丸に沿って奥まで行かれるようになってるのかな? 上がりきる手前には、かすかな土塁と礎石のようなものがあった↓。ここに門でも置かれてたかな。 これも上がりきる手前↓。石組がちょっと残ってる。 この上には、感動的な光景が待っていた↓。 北の丸の東奥から全景↓。 高山城内の全郭の中で、北の丸は最北部に位置する。写真の通り、東西にわたって細長く郭が延びてるんだけど、とにかくまったいら!そして広い!!山の上だなんて思えない!!平城と違って、山城は基本的に削平して造り出すものだから平城よりの地ならしよりは地固めはラクだっていうけど、それにしても見事にまったいら!!新高山城も良かったけど、ここ、すごい!!!・・・あ、びっくりマークの数が感動の度合いを表してると思っていただければ(笑)。とにかく、のっけから滅茶苦茶感動しましたなにココ・・・すごいじゃん。写真では見てたけど、やっぱ実物は違うわ。ちなみに、東の奥から撮った2枚目の写真の撮影地点の後ろはこんなです↓。 木で全然見えませ~ん。こちらが仏通寺川や下二のバス停がある方面で~す。ここから、西へ向けて歩き出す。奥まで進むと、小さく一段上がった場所に矢竹がこんもり生えていた↓。 どうも、ちゃんとした縄張図がないせいか方向感覚がつかみにくい。私の持ってる登山用のコンパスは安全ピンで固定できるようになっているので、いちいちコンパスを出すのも面倒だからポシェットに着けちゃおうとピンを外そうとしたら、寒いせいか指がうまく動かず、針を指にぶっ刺した。「あ」と思ってる間にみるみる血がにじんで ぎゃああああ、負傷したあ~!!!ヤバイ・・・何か連れてきちゃったかな真っ先にそう思いました。だってこの城、色々あるしさ~。田坂さんも城内で殺されてるかもしれないし。籠城も何度かしてるし。それでなくても300年もの歴史があれば、色々あっただろう。正直、登る前からなんか恐かったんだよね。針を刺しただけなのにやけに血が出るので、血が垂れる前に急いで拭き取ってバンソコを貼った。高山城に私の血なんか残していきたくない・・・針の傷って小さくても痛いもんだけど、なんだかすごく痛い。待てよ・・・このコンパスって登山をやってた頃に買ったものだから相当年数が経ってて、しかもしばらく針部分は使ってなかった。だ、大丈夫かな、これ・・・傷口からバイキン君が入ったらどおしよう・・・城攻めで負傷したのは2度目。いや、移動中にケガした忍城を入れたら3度目か。いやいや、ミワラを入れたら4度目か(笑)。まあ、ミワラのは大したことなかったけど。ケガ多いよな、ワシ。だからみんなに、失敗談を期待されちゃうんだ結局、この傷が治るまでに3週間くらいかかりました。痛みはかなり後まで残ったし、途中で変な皮のむけかたもした。おかしいようだったら病院へ行こうと経過を見ていましたが、幸いそこまでには至らず。皆様も、城攻めの際のケガには充分ご注意をにほんブログ村
2013年05月07日

最初の庶家ができた段階から、沼田の惣領家と庶家との間で問題が起きていたことを、茂平の相論を例に前回紹介しました。その後の時代でも、時には惣領家に対抗するために庶家同士で起請文を交わしたり、色々な動きがありました。が・・・、反発したりしながらも、いちおう惣領には従ったし、惣領家と庶家で協力する誓約を交わしたり、惣領家のピンチを救ったこともあった。核家族化した現代ではなかなか理解できない部分もありますが、これが血のつながり、一族ってものなんでしょうかねえ・・・まあ、お殿様の子孫とかのいいお家柄だったら、「一族」って感覚は今でも生きてるのかもしれないけど、思いっきりパンピーの私じゃね今回は、そんな「一族だなあ~」って雑談をちょっとだけ。と言っても、そんなものものしい話じゃないですが。ぶっちゃけ、とにかく今回は茂平のことを書きたかったので、ひとまず自分の中では満足しちゃったんだよね~。(←要するに燃え尽きた)寛正2年(1461)、大内教弘に対し東西条を安芸分郡守護・武田信賢に渡すよう幕府から通知が出た際、小早川煕平が使者に立ち、大内氏の本拠である山口まで出かけていったことを「鏡山城(8)」に簡単に書きましたが、その時の旅費を庶家に割り当てて分担させた書状が残っている。うおっ、コレ、自腹かよ~!!って笑ったねちょっと現在の価値に換算してどのくらいの金額になるのかはわからないけど、乃美の25貫文を筆頭に、椋梨・小田・梨子羽・生口・土倉が20貫文、浦・小泉・船木・秋光が15貫文などなど、ほとんどの庶家に細かく割り当てが書かれている。庶家のうち、現在の竹原市に近い高崎氏へは「船一艘 七端帆仕立之」とある。高崎は瀬戸内での重要な港であり、小早川氏の外港として見られている。また造船も行っていたようで、「仕立」とあるから、まさか新造・・・?とりあえず高崎さんちは船を用意したようで、「七端帆」の規模がはっきりわからないんだけど、どうも3~4人載りクラスの船っぽい。まあ、あくまで幕府の使者としてだしね。それに、備後の宮さんも別立ての船で同行してくれたかもしれないし。しかし、このお出かけは海路を取ったのか・・・高崎さんちに用意させたのなら、高崎から出航したのかもしれないよな。で、この通達に関連して沼田家の被官である真田さんから書状が出ていて、それにはもしお手元の苦しい方がいらしたらご相談に乗りますから、遠慮なくおっしゃってくだされ~!ってあるのだ。ちょっともう・・・こーゆー生活くさい話、大好きなんだけどてか、よくこんな書状残ってたよな~。皆様の物持ちの良さに驚かされますわ。それから、「一族」を感じさせるのは、やっぱり竹原さんちでしょうね。沼田家と竹原家の確執などについては、過去のシリーズのあちこちで書いてきてますのでここではあらためて書きませんが、とにかく竹原さんちは庶家の中でも際立って独立心が強かった。沼田と竹原で干戈を交えたこともある。新高山城シリーズで、遠足イベント(毛利元就父子雄高山行向滞留日記)の中の女性陣へのお礼で「竹原にし殿様」を書いた後にふと竹原の手島屋敷が「西殿屋敷」「西の殿屋敷」と呼ばれていたのは、東の沼田に対する西の殿様って意味だよな・・・うおお~ッ、対抗心バリバリじゃん・・・て思ったんだよね。それでも惣領家のマジもんの危機を救ったのは、他ならぬ竹原家だった。それも2度も。これはちょっと、この厳しい時代にあってはレアなケースだと思う。(2度のピンチは「三原編(35)」と「三原編(15)」に簡単に書いてます)さすがに3度目は竹原家の当主が当事者だったために竹原と沼田がひとつになることで決着を見るに至ったけど。3度目を危機と見るかは、見解の分かれるところですが。まあ今に残る書状を見てると、家とか一族とか、平和な時代に生きる私からすればなんにしても大変な時代だったよな~ってしみじみ思いますよ・・・・・・さてと、歴バナ第一段はここまで。真ん中らへんあたりの当主たちは、さらに複雑な時代を生き抜いてまして、庶家の動きもてんでバラバラ(笑)。後半の当主については結構関係ないようなシリーズでもちょいちょい書いてきましたので、小早川氏の概略については一旦終わりとします。話は変わって。「東西条バトル編(25)」で今川了俊の「道ゆきぶり」をご紹介しましたが、彼が沼田に入ってます。え~と、旅のスタートは2月20日の早朝。応安4年(1371)のこととされてます。朝露に衣を湿らせながらの出立。ず~っと西へ下ってきて、5月19日に尾道から沼田へ向けて出発します。海沿いを来たようで、途中くじら島を見ながら糸崎にさしかかり、干潟の向こうに因島を見ながら芸備国境を越えます。三原からどのルートを通って沼田へ入ったのかが書いてないんだけど、この時期、三原はまだ小早川領ではなく、したがって三原要害もありません。現在の三原駅周辺はまだ海の中だった頃だから、九州攻めに向かう家康と同じように、桜山の北側を回り込んでいったものと思われます。その時の桜山には、山名氏の桜山城があったかもしれないけどね。では、ご本人様に沼田周辺の道ゆきぶりを語っていただきましょう。 備後と安芸の国境を出る。 横たわっている山中には、茅葺きの堂がある。この山の麓まで海が続いていて、 このあたりで沼田川と合流している。 沼田川に舟で出ているうちに夕暮れになり、夕闇の中に見える山の端も すっかり夕闇に溶けてしまいそうな頃、蛍がほのかに飛び交い始め、 なんとはなしに心細い気持ちになっていると、この里へ松明などをともして 向かってくる火の光が川波にきらきらと映って、鵜飼いを見ているような心地であった。 この辺りは、寿永の昔までは海の底だったということで、そこらの石の側面などには 牡蠣という貝の殻がついているそうだ。 遠くの山々はあちらこちらに樹木がよく茂っていて、大層趣きがある。小早川領での記述はもう少し続くんだけど、今はこれまで嘉禎4年(1238)、太政大臣の藤原公経さんから許可をもらって小早川茂平が始めた沼田川流域の干拓事業は、5代あとの春平が佛通寺を建立するあたりまで、160年くらい続けられる。沼田荘全域の労働力を使っていいと公経さんが言ってくれたのに、しばらく後には新荘家が幕府に相論を持ちこんで手を引いたりした経緯もあった。後半のあたりでは、商業資本を組み込んで工事が続けられたらしい。佛通寺の創建が応永4年(1397)だから、了俊が沼田に来た頃は工事も終盤に差し掛かっていた。工事は内陸から海へ向かって進められたようなので、おそらく海岸線は相当東へ後退していて、現在の本郷駅周辺あたりはほぼ現在と同じ地形になっていたものと思われる・・・んだけど、海と沼田川が合流したところに来たって言ってるなあ。まだ川幅が広かったって意味なのかなあこの「道ゆきぶり」はジャンルとしては紀行文に分類されて、上に紹介した箇所では出てこないけど、あちこちで歌なんか詠みこまれてて、途中目にする光景だとかを格調高くつづったものです。(いつもみたいに超現代語訳したくてウズウズしたけど、大変格調高い文体なので、さすがにやめた)が、この一見優雅な旅のゴールには、南朝勢力の強い九州の鎮圧という重いミッションが待っている。して、5月19日に沼田に着いて、西へ向けて出立したのが8月29日。3ヶ月超もの長逗留。この間のお宿は書かれていません。でもね、道すがら周辺国人お誘い合わせのための旅だった訳ですから、まんずステイ先は高山城、もしくは麓の居館でしょう。3ヶ月、小早川の城を拠点に周辺の国人衆へ動員をかけた。九州探題の在任中は安芸・備後・筑前・筑後・豊前・ 肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の守護を兼ねていたので、沼田に陣取りながら安芸と備後国人へのスカウトを中心に準備を進めていたものと思われる。なぜ沼田を拠点にしたのか・・・鎌倉幕府滅亡の際、沼田家は1度目の大ピンチを迎えたが、その後は室町幕府への接近をはかった。了俊が沼田に来た時の沼田家当主は8代・貞平、9代・春平のどちらかと思われるが、例えば春平は将軍奉行衆(将軍の親衛隊)として京に常駐していたので、幕府内でなかなかの出世をしていたものと思われる。そういう立場と小早川氏の実力から、ここを選んだのではなかろうか。沼田を出た後は、前に書いたように高谷から瀬野、海田へ出てここで20日ばかり過ごしているので、安芸西部の取りまとめをしたのかな。しかし、沼田の3ヶ月にはかなわないので、備後と安芸のほとんどを沼田にいる期間中にまとめたものと思われる。ちなみに、「道ゆきぶり」の中ではどの国人と交渉して・・・とか、そんなこと一切書かれてないんですよ。ひたすら、旅日記の記述に徹してるの。この徹底ぶりは、ホントにすごいと思うね。むしろ、一言も書かれてないからこそ、逆に了俊のすごみを感じるというか沼田のことを書きながらも、この旅の終盤で了俊が大内さんちの義弘さんと出会って、大内氏がさらに発展してくのか~・・・って大内萌え~に浸るのは、大内バカのわたくしならではでございましょう。にほんブログ村
2013年05月06日

まだ小早川茂平の紹介が続きます。古い時代の文書には、領家との土地トラブルなどで幕府の裁定を仰いだものがいくつかある。その中で最も笑える・・・いえ、興味深いのが文永3年(1266)ので、言ってみれば被告の立場で茂平が登場する。原告は、新荘椋梨の3代目・竹王丸(前々回の系図では定平)。新荘系の初代が茂平の弟だから、竹王丸からすれば茂平は大おじさんにあたる。沼田荘での活路を切り開いたやり手の大おじさんに対し、大甥が不服を申し立てるってのも結構すごいと思うけどねしかし、中身はもっと笑える。ちなみに、茂平の生没年は系図には書いてありません。ウィキペディアには「1264年死没」とあるけど、どこから持ってきたものなんでしょう。ただ、文永3年の時点ではすでに茂平は出家しており、さらに裁判には代理人を立てているので、かなり晩年であることに違いはないと思うけど。あるいは、裁定の申し込みから実際の審理が始まるまでに時間がかかって、その間に被告死亡に至った可能性もあるかもしれない。で、その中身ですが・・・まずは竹王丸の言い分から。「そもそも安直(あちか)・本荘・新荘の3ヶ所は、御先祖様の土肥遠平公が勲功によって拝領したもので、それを養子の景平が継いだもの。安直と本荘は大おじちゃんが、新荘はうちのジイちゃんがもらったものなんだよね。新荘のうち福田・椋梨・高崎・大草の4つの村はうちのパパが管理してて、それをボクがもらった訳さ~。それは、幕府もちゃんと認めてくれたんだよ。なのに、大おじさんは惣領だからと言って新荘で好き勝手ばっかりしてる。これ以上の無体な乱暴は、即刻やめていただきた~い!!」対する茂平の代理人は、「安直・本荘・新荘の3ヶ所を遠平様が拝領したことについては、今さらくどくど申し上げるまでもありませんな。フン惣地頭のことは、遠平様・景平様の譲状にちゃ~んと書いてあるではありませんか。これまでの惣領としての約50年間、小地頭の取り分についてモメたこともありませんし、何を今さら・・・右大臣家や二位家からも下文はもらっておりますし、遠平様・景平様の譲状の通り、竹王丸殿には慣例に従って粛々と惣領の命に従うよう、裁定をお願いしたいですな。」スタートはこんな感じ。例によって超意訳で多少の脚色も入ってますが、雰囲気を味わっていただければ(笑)。惣地頭も小地頭もどちらも地頭なんですが、惣地頭は統括者っていえばいいのかな。要するにここでは、新荘が茂平の支配下にあるかどうかが争点となっている。この文書、実はすごく長いんです。ので、ここでは茂平が新荘でどんなご無体をなされたのかだけ簡単に紹介しますね。 <罪状> 1.預所からもらった新荘の成富名を拠点に周囲の土地を取り込み、 自己の所領に組み入れた。 2.2年前、竹王丸の父・国平が新荘内のヒノキ3,000本を伐り出して 沼田川を下ろしたところ、茂平に没収された。 3.新荘に押し入って紺灰を作るために木を焼いた。 4.新荘で狩猟をした。 5.新荘で鷹の子をつかまえた。 6.牧垣を勝手に作った。 7.新荘の役人を勝手に自分の代官にした。とか何とかなんか、新荘で無茶苦茶やってるジイさんを思い浮かべてゲラゲラ笑ったもんだけど、これらのご無体のおかげで、当時の沼田荘の様子が垣間見える。まず、2のヒノキの3,000本てのは借上人に渡そうとしたもののようで、すでに新荘が独自に商人と結びついていたことを表す。木・・・でちょっと思い出したことがあったので脱線しますが、遠い昔、律令制ができた頃、中央集権のために中央と地方を結ぶ官道が整えられた。7つある官道のうち、大宰府と都を結ぶ山陽道は最も重視され、約16キロごとに駅が設けられた。小早川領では、真良・梨葉・都宇の3つに駅があった。それが、9世紀頃になると陸路よりも海上輸送の割合が増えてくる。どうも安芸の陸路は不便だったらしいんだけど、瀬戸内海の航路は早くから開けていたという。安芸には船材が豊富で、遣唐使船の造船なんかにも貢献したらしい。その名残が各地にある「船木」の地名で、沼田荘にも船木があり、かつ新高山城と高山城に挟まれて狭くなっている箇所の北にまで海が入り込んで入江を形成していたことから、沼田荘(当時は沼田郡)でも造船が行われていた可能性があるんだそうな。で、この話は一旦ここで置いておきますが、3の項目は、別に茂平が焼き討ちマニアなんじゃなくて(笑)、草木染めのための灰を作ったということらしい。ここから、沼田荘で紺染めが行われていたことがわかる。4・5の2つは武士らしい話というか・・・小早川家は武家なので、他の武士と同じように武芸の鍛錬のために狩猟を好んで行っていたということなんでしょう。また、年貢から本荘と新荘のそれぞれに、白皮をなめしたり皮染めをする職人がいたことがわかっているので、あるいは経済的活動の一環でもあったかもしれない。5の鷹の子を取ったというのも狩猟に関連する話で、鷹狩りに使う鷹の飼育が行われていたということになるらしい。6は牧垣を作ったということなので、馬の飼育、あるいは放牧が行われていたと考えられる。ということで、2は庶家が早くも自立して商業資本との連携を始めたこと、それから「船木」の地名や他にも「木引谷」などの地名が荘内にあることから、元々木材が豊富な地域の上に林業を行っていた可能性を窺わせる。新荘内には、米の代わりに弓を納めてた地域もあったようだしね。で、3~6が手工業、狩猟・牧畜業を示唆しているので、領家などとのせめぎ合いの中でも、着実に小早川氏が根を下ろしていった様子が想像できる。他にもだらだらと論争が続いてるようですが、ひとまずこの時は茂平は新荘で勝手をしないこと、ただし幕府の公事に関しては新荘は惣領の命に従うこと、という裁決がなされている。上は本荘と新荘の一族間での争いですが、外部とのバトルももちろんありました。都宇・竹原荘は承久の乱で鎌倉方に味方したことにより、茂平に地頭職が与えられたものだった。本所は下賀茂神社。仁治元年(1240)、ここの荘官と茂平の間で相論が起こった。茂平はここでも代理人を立てて参戦。まあ、どこでも領主側と地頭との間のトラブルに共通するのは、土地の問題(=地頭の横領)と職務権限の範囲についてなのでそれについてはここでは割愛しますが、竹原での相論の中では川と山での収穫物に関するものも含まれている。面白いのが川での猟で、当時の慣習として 領家 ⇒ 預所 ⇒ 地頭の順番で猟をしていたんだそうな。あと、山の畑などに関しては国例に従うこと、という裁決がされている。時代が時代なんだから、国例なんていったら領家側が強いに決まってんじゃん・・・て力関係が窺われて、面白いな~と思った。こうした幕府の裁定の記録というのは、やはり初期の文書に多いんだけど、なんてゆーのか・・・とにかく躍動感があって、読めば読むほど面白い。争点となっている事柄を裏返せば、当時の色々な状況も見えてくるしね。茂平やその子たちの相論の記録を見ながら実際の様子を想像してみると、なんかアメリカの西部開拓時代とかとイメージがダブるんだけど(笑)。ああ、彼らはフロンティアだったんだな~ってカンジでまあ、小早川氏は開発領主じゃないから実際は違うんだけどね。個人的なイメージとして、ってことで。特に、茂平の場合は在地領主の力が強く、かつ初めて行く土地へ進出するという高いハードルがあった訳だけど、さらに弟・季平と所領を分けあうという、小早川家の中で初めて分割相続が行われた代でもあったから、一族内の惣領と庶家が対立するという、これまた初めてで難しい問題も抱えることになった。領家に対抗して土着していくためには強い意志が必要だけど、強すぎると庶家の反発を招くし他に面白い話として、茂平は字を知らないといわれてるんだそうな。何を元にしてこう言われてるのかは、今の私にはわからないんだけど、長く在京していて字を知らないなんて、そんなことアリなんだろうか・・・きっとそれは、京で知り合った誰かの日記あたりに書かれてるんだろう。どうやって書かれてるのか、知りたいな~。京といえば、茂平はほとんど京に常駐していて、必要な時だけ沼田に帰ってきてたみたい。在京の間には荘園領主ともお近づきになって、そのパイプを通じて現地での支配力を高めたようでもあるんだよね。アクの強さだけでなく、このタフさも私は好きだなそれにしても、裁判の中身の細かいこと!各地の西遷御家人のほとんどは領主側と同じようなトラブルを抱えて、幕府に相論が持ち込まれたでしょうから、受理する側も大変だな~と率直に思った。やっぱり、竹王丸から訴えられた時も審理の開始までに時間がかかって、順番が回ってきた時にはすでに茂平はこの世の人でなかったかもしれないよな。まあ、文書には「故」とは書かれてないけどね。にほんブログ村
2013年05月05日

小早川氏が沼田荘に来た当時はもちろん家父長制で、惣領が一族の統括をする。教科書で習った通り、御家人は鎌倉幕府への奉公をし、かわりに所領を安堵してもらう。その他、勲功に対しては闕所となった土地をもらう。ま、もらうといっても、「高山城(2)」に書いた通り、土地システムは一元管理ではないので、丸々土地をもらえた訳じゃないんですが、そこまで正確に書いてると訳のわからない文章になるので、これまでの説明を踏まえた上での表現とご理解ください。で、前回「高山城(3)」に書いたように、御家人の所領というのは全国に幅広く分散していた。遠く離れた領地を管理するために、惣領は一族を派遣して現地の管理にあたらせる必要があったので、血縁のつながりが重視され、惣領は一族を取りまとめるのに尽力した。しかし、取りまとめると一口にいっても、代を重ねるごとにどんどこ庶家が増えていくからね。 これは前回のと同じ系図ですが、新荘系だけでも庶家が増えて、本荘・新荘のいずれも庶家の取りまとめには苦労した。竹原家の場合はまたちょっと特殊なんだけど、それについては別のところで書きたいと思います。新荘・竹原のどちらもそれぞれ地頭職は持っていたが、その上に惣領制があるので、幕府の公事に関しては基本的に惣領である沼田家の指示に従わなければならなかった。そういう原則はあっても、後の時代になってくると惣領家の求心力の低下が顕著になってくるが、じゃあ初期は円満だったかというとそうでもない(笑)。さて・・・、ここで4代・美作守茂平の登場です。法名は本佛。大内家でいえば、ひろよん(弘世)のような存在の方です。ひろよんに例えただけで私の言わんとするところを理解した方は、相当私のブログを真面目に読んできてくださった方でしょう(笑)。いや、私この人大好きなんだよね~。アクが強くって歴史の中の人達の生きた証をたどりたい私としては、人間くさい話が大好き。知将と呼ばれる隆景ちゃんなんかは、晩年になればなるほど理詰めで周りをうならせたというエピソードを数多く持ち、果ては冷静に理屈をこねくり回して天狗さえも追い返したという逸話を持つ。が、スキのない聖人君子のような隆景ちゃんよりも、パパに家中のグチを言ったり、兄ちゃんに駄々をこねる人間くさい隆景ちゃんの方が私は好き最初に沼田に定着を始めたのが3代・景平だか4代・茂平だかははっきりしないものの、少なくとも茂平の代では沼田に居を構えていた。ここまでに書いたように、領家や荘官ががっちり陣取ってる土地だからね、ここにくい込んでいくためには、一族の団結が不可欠であり、惣領には強力なリーダーシップが求められる。そういう意味では、茂平は申し分ない人材だったと思う(笑)。 沼田荘には山が多く、また現在よりもかなり内陸まで海が入り込んでいた。上の図でいうと、「沼田」の文字があるあたりが現在の本郷駅付近で、三原から沼田川を上って「沼田」の文字の左下で川が分岐するでしょ。かつてはこの辺まで海だった。で、こうした地形の関係から当時は多く谷あいに田が開かれ、谷水を利用して耕作されていた。沼田荘の川沿いの平地には条里制が施行されてたっていうんだから、畿内との関係が深かった古代から引き続き発展していた様子がうかがえる。ただし、限られた開けた土地には既存の勢力が強かったので、門田を中心に周囲の土地を取り込む他、茂平はうまい手を考えついた。それが、干拓事業。沼田小早川家の菩提寺・米山寺のしおりにはこんな縁起が書いてある。 【東廬山米山寺は寺伝によると、平安時代の仁平3年(1153)に誓願禅師によって 天台宗寺院として建立され、巨真山寺と称したが、のちに巨真山をコマヤマと読み、 これがなまってコメヤマとなり、さらに米山の字をあて、室町時代には、ベイサンジと 呼ぶようになった。また巨真寺とも称した。 天台12世覚仙の時、建保の初土肥実平法を受け、没するにおよび此処に葬ったという。 嘉禎元年(1235)に小早川氏4代の茂平が境内に不断念佛堂を建立し、また 伽藍を整備して歴代の牌子を安置し、小早川総領家の菩提寺とした。 嘉禎4年一条入道太政大臣(藤原公経)の御教書によって、塩入荒野を開き (沼田千町田)、佛餉灯油修理料田とした。(後略)】時間のある方は「三原編」の(2)と(3)も見て頂きたいんですが、夏にミワラに行く前にそれなりの勉強もしたものの、「小早川家文書」には手を付けていなかった。ので、不断念仏堂建立の目的が鎌倉将軍家の菩提を弔うためというのは本でちらりと知っただけだった。何も知らず、考えもしなければはっきり言って気にも留めないような縁起だけど、自分で藤原公経(きんつね)の下文を見て、さらに時代背景なんかも勉強すると上の青字の簡単な文章にも色々な人の歴史が隠されてるんだなあ~って思ったし、有名どころをあちこちつまみ食いするよりも、ひとつのことを掘り下げて勉強する楽しさを知った。それで、公経さんの書状ですが、これには代々の将軍の御菩提を弔うための堂だとはっきり書いてある。・・・まあ、菩提を弔うのはいいことですよ。小早川氏は鎌倉の御家人ですしね。茂平は不断念仏堂の仏飯や灯油料、また修理代として沼田川流域を干拓して料田とすることを申請して、太政大臣である公経さんに許可された。そして、干拓事業の許可のみならず、沼田荘内の荘官や百姓もこの開発に従うようにと公経さんは言っている。・・・話を先に進めましょう。梨子羽の南に、楽音寺(がくおんじ)という古い寺がある。(場所はこちら)できれば今回行きたかったけど、残念ながら行かれなかったので、今度行った時に写真などを載せますね。寺伝によるとこの寺の創建者は藤原倫実(ともざね)で、藤原純友を討った功により沼田7郷を賜ったという。そして、藤原倫実が沼田氏の先祖とされている。7郷というくらいだから、当時の沼田郡、のちの沼田荘の広い範囲にわたって勢力を持っていたことがうかがえる。楽音寺はこの沼田氏の氏寺だった。地理的にも沼田荘のほぼ中央に位置し、多くの免田を持ち、周辺寺院の筆頭として法要を行うなどの有力寺院でもあった。現地での影響力はかなりのものがあったらしく、これを味方につけるとだいぶ進出も楽になる。茂平は楽音寺を氏寺として取り込もうとした。が、なんかこの作戦はイマイチだったらしく、のちに茂平は不断念仏堂を置いた巨真寺(米山寺)を氏寺としている。米山寺へ行った時、なんで惣領家の氏寺をこんな不便なとこに置いたろう?って思ったけど、どうも米山寺のある山のすぐ近くまで海だったようだから、当時はそんな不便な場所でもなかったのかもな・・・開けた土地にはそう簡単には進出できなかった訳だし。そして、干拓によってできた新しい土地は(名目上)米山寺のものであり、実質的には小早川氏のものとなる。しかも、干拓の人手は、関係ない沼田荘全域の労働力を自由に使える。当初は楽音寺を狙ってたようだから、最初から米山寺を氏寺とするつもりはなかったかもしれないけど、「将軍家の菩提」は黄門様の印籠のように小早川氏の発展をバックアップしてくれたのか~!って笑えた。まあ、平たく言えばうまく口実に使った訳だけど現在残っている史料から具体的に確認できる茂平の行動には、当然のことながら限りがある。そもそも茂平本人は、京にいることが多かったようだしね。ただ、小早川氏発展の基礎を築いた人物であることに変わりはないし、恐らくあの手この手で現地の支配力を強めようと頑張ったのではないかと推測される。そして、強烈な個性を持つ親父からは、これまた個性的な子が生まれた私にとって最もインパクトのあるのが竹原家の初代となった政景さんなんだけど、彼については竹原のところで書きたいと思います。政景の他には、浄蓮尼がいる。この人は犬女といい、茂平から梨子羽の地頭職を譲られた。女性ながらも、既存の勢力の強い梨子羽の地にあって精力的に支配地の拡大を図り、領家とモメたりした記録が残っている。また、浄蓮尼は楽音寺にも関わり、彼女を通じて小早川氏が楽音寺の寺務にも次第に介入するようになっていく。浄蓮尼は一期領主だったが、彼女の後を継いで梨子羽の地頭になったのも神郷殿という女性だったそうな。神郷殿の詳しい出自はわからないものの、この人も地頭として活躍したようで、実力で地頭に選ばれたのかは不明だけど、この頃の文書とかを見てるとなんつーか・・・男も女も、エネルギッシュだなあってカンジ。にほんブログ村
2013年05月04日

鎌倉時代頃の相続は、分割相続。子供達への分配はもちろんのこと、当主である自分の死後未亡人となる妻にも生前に所領の配分を決めておいた。ただし、女性への相続はその本人が生きている間に限られた。これを一期分(いちごぶん)という。 上の図は小早川一族の大ざっぱな系図で、四角で囲ったのが庶家。ちょっと全部は収まらなかったので、土肥實平と遠平親子もカットして3代景平から始めてます。4代茂平の娘の浄蓮尼も、この一期領主にあたる。地頭の直営地である門田を中心として開発を進め、次第に自己の所領を増やしていきつつ、庶家に所領を配分してまだ領家の力が強かった土地への影響力を強めていった。この頃の相続の特徴として、惣領による単独相続ではなく、惣領以外の庶子も含めた分割相続と女性への相続が認められていたことが挙げられる。が、それだけではなく、縁戚関係も重視されていたという。例えば、茂平。茂平の妻は大中臣氏の出身で、そちらの系図には茂平の名前も記載されており、あわせて沼田荘が所領として書かれているという。あと、図書館で郷土史の本を見ていた時、「千葉氏が一時、沼田荘を所有していた」という記述を偶然見つけた。これの出典については不明なんだけど、私の手持ちの資料では千葉氏が沼田荘に任じられたという記述を見つけることはできないので、大中臣氏と同じように縁戚によって千葉氏の系図に書かれたものか、もしくはそれに近いような状況ではないかと思われる。こうなってくると、もう訳がわからないよね。まるっきりウソを書いてるとも言えないけど、こうしたことを考えると、系図などをそのまんま鵜飲みにしてはいけないのか・・・と史料を読む難しさをあらためて感じる。当たり前のことだけど、時代背景をきちんと理解しないと、正しく史料を読みとれないってことだもんね。そういう事情もありまして、文書に記載されている所領もどこまで実態を反映しているものなのかちょっと疑わしい面もあるものの、大体の所領というのは惣領が残した譲状、現代でいうなら遺言書が教えてくれる。で、小早川氏の所領はどんなもんだったかといいますと、まずは3代・景平の時には沼田の本荘と新荘がある。先にお断りしておきますが、あまり正確に所領を書くと大変煩雑になるので、ここではかなり大ざっぱに書きますことをご了承ください。景平は子・茂平に惣領の座と沼田本荘を譲り、茂平の弟・季平には沼田新荘を譲った。季平の系統が、新荘系小早川氏となる。季平の子の代から椋梨氏を名乗り、新荘系の中でさらに増えていく庶家を統括して椋梨氏が新荘系の本家となった。4代茂平の代では、承久の乱後に都宇・竹原荘をもらってこれを雅平の弟に継がせて竹原小早川氏ができた。ね?しつこいようだけど、竹原家は別に分裂した訳じゃないから。ただの分割相続だから、そのへん誤解しないでね茂平の頃になると色々なことがわかってくるが、所領もそのひとつで、いくつかある譲状によると、茂平の代では上に書いた沼田の本荘と新荘、それから都宇・竹原荘のほか、 ・讃岐国与田郷 ・相模国成田内北成田郷・飯泉郷 ・阿波国坂西下荘内 ・鎌倉米町 ・小松(所在地不明) ・信州赤坂 ・佐木島 ・常陸国藤井郷あたりにわずかな所領や田・屋敷、あるいは限定的な権限の地頭職やその他の役職を持っていたことが窺われる。鎌倉ってのがちょっと意外な気がしたんだけど、やっぱり御家人だからなのかな。譲状には「鎌倉米町在家一宇跡」とあるので、屋敷とちょいとした田んぼ程度のものかとは思うけど。時代が下ると、これに備前国裳懸荘の地頭職だの、伯耆国富田荘天万郷の一分地頭職だの、美作国打穴荘上下村だの、伊予国越智郡内大嶋の4分の1地頭職だの、下総阿玉郷だの色々入ってくる。一瞬目を疑ったのが、貞治2年(1363)の譲状に「安芸国高屋保」と書かれてるもので、高屋保は平賀氏の白市周辺の荘園を指す。『荘園志料』によると、高屋保は平賀氏が建武3年(1336)に勲功としてもらったものだとあるので、相当疑わしいけど、その後の代の譲状にも高屋保はばっちり書かれていて、何なんだかよくわからない。高屋保だけじゃなく、伯耆の一分地頭職なんかもカラ手形じゃないのかと思うんだけどその他には変わりダネとして、椋梨家の定平さんが箱根のお山で犯罪者を逮捕した褒賞として、出羽国由利郡小友村をもらった記録なんかがある。さらに小早川さんちは京にもなにがしかの土地を持っていたようで、四條油小路屋地・七條大宮篝地四半町・東山霊山内平松屋敷地の記述がある。鎌倉の御家人には様々な公事の割り当てがあったが、例えば茂平は在京奉公人として六波羅探題の指揮下で京に常駐しており、担当が七條大宮だったんだそうな。七條に屋敷を構えてたってことなのかね?四條の油小路屋地については、康永4年(1345)5月に敷地の件で千葉胤泰とモメて幕府の裁定を仰いだ記録が残っている。地元だけじゃなく、出張先でまで土地のトラブルがあるなんて笑えるいや、別に小早川氏だけが欲深いんじゃなくて、どの家でも似たような問題はあったんでしょうけどね。興味深いのが東山霊山で、ここには小早川氏の祖となった土肥實平の墓があったと「小早川家文書」にあるのだ。實平は小早川の初代だから、もちろん沼田小早川家の菩提寺・米山寺に墓がある。それから、出身地の湯河原にも墓がある(ちなみに遠平の墓もある)。しかし、東山霊山に第3の墓があったとはね!!これは(私には)結構衝撃的だった。今の霊山(りょうぜん)に實平の墓と伝えられているものがあるのかはわかりません。が、茂平から竹原政景への譲状の中には、50石を霊山の灯油料などとして納めるよう書かれているので、それがいつまで続けられたものかまではわからないものの、少なくとも初期の小早川氏の段階では霊山の實平の墓へ供養が続けられていたことがわかる。實平の晩年についてはよくわかっていないので、3つあった墓のうちどれが本墓なのかはわかりません。あるいは、どこか別のところにひっそりと埋もれてるのかもしれないし。あらたに所領をゲットした場合なんかはここぞとばかりに書かれるものの、それを失ったことについてはあまり書かれていない。というか、書かれたものが残っていない。ひとまず私が知っているのは、康正2年(1456)に徳政令の関係で七條大宮の返上についての書状があることぐらいかな。ただ、この後どうしたのかはわからないけど。まあ、そもそも遠隔地についてはどこまで実質的な権限があったのかもわからないしね~。小早川の領地が妻方の系図に書かれているように、小早川の妻方の領地を譲状に書いてる可能性もあるし。ただ、例えば平賀氏なんかの場合は、安芸に引っ越してきた後、それまで住んでた出羽の所領は失われていったというし、上に書き出したうちのいくつかは、同じように自然となくなっちゃったのかもしれない。時代が下れば、環境も厳しくなっていくからね。相続の配分については、あらかじめ生前に決めておくものの、なにも死に際にあわてて決める訳じゃない。分割相続だからこそこまごまと決めておく訳で、譲状を書いた時から何年後にそれが現実のものとなるのかは、書いた段階ではわかっていない。なので、この頃の譲状には最後に「あとで気が変わるかもしれないから~。そこんとこ、よろしくね」とただし書きが付いている。まあいちおう、命に背いた者があれば、って文言はあるけどね。本文では「可悔返也」という文言になるので、一般的にこれを「悔い返し」という。小早川家でも、一度この悔い返しが行われた時があった。それが「則平の悔い返し」。あらましについては「鏡山城(8)」に書いてますので、忘れた方はそちらも見てね。則平が出陣する前、譲状などを弟に預けておいたが、納得いかなかった持平はどうやら叔父の手から譲状を奪ってしまったらしい。この叔父は僧侶だったので、力で負けちゃうのは仕方ないよね。譲状を奪われた後、そのことについて叔父が起請文を書いてるんだけど、この中の文言に土肥實平の墓が東山霊山にあったことが書かれているので、後の時代の人間からすれば、何が幸いするかわからないってゆーか・・・だって、譲状が奪われなければ、霊山に何があったのか私にはわからなかったかもしれないんだもん。それで、「鏡山城(8)」のあらましの中で最後に竹原家の盛景も登場してきますが、盛景以降、竹原家の譲状の中には贈与する財産として「沼田本荘」の語句が現れるようになる。なんかもう・・・笑っちゃうよね。こういう文書の中から実態を抜き出すってのは非常に大変な作業になると思うけど、私は研究者じゃないし、こんなことがいっぱい書いてある「小早川家文書」を眺めてはひたすらのんきに楽しんでおりますにほんブログ村
2013年05月03日

※「輪王寺2」の続きです。え~っと・・・・・本編を始めると、それにかかりっきりになるのはいつものことですが、最近のシリーズは以前よりも歴史部分の比重が大きくなっているので、ただでさえ遅筆な私は1話書くのにもかなり時間がかかります。昨日の更新もギリ間に合ったという訳で、今日はまだ「高山城(3)」を一字も書いてないし、どんなに頑張っても今日の更新はまずムリ。書きたい雑談もいくつかあるんだけど、ちょっと1話分書くだけの資料はないだろうしな・・・どうしようかな~と考えてて、うやむやになりかけてた日光シリーズを思い出した。普段の中じゃなかなか日光編まで手が回らないので、「ライフワークどころじゃないじゃん・・・」て自分でも呆れていたものの、これは「日光写真館」のカテゴリー名の通り、写真が主体のシリーズなので、本編の途中でぽつぽつ入れたとしても前後の流れとかもそう問題ではない。そうか、これ使えるかも!って気が付くに至った訳で、これからは本編の下書きのストックがなくなった時は、時々このシリーズの続きが顔を出すかもしれません(笑)。もちろん、毎日継続して読んでくださってる方がいる以上、なるべく本編の方を続けて一気に書くようにはしますけどね。てことで、前回「輪王寺2」ではお護摩が終わったところまで書きましたので、その続きになります。ありがたいお護摩が終わって外へ出ると、ほとんど雪はやんでた。 大護摩堂はデカいので、正面からの撮影はかなりキビシイものがあります。写真で数えると、14間くらいあるのか・・・? ↑大護摩堂の大棟。これが輪王寺の寺紋なんだと思う。袋とかにもプリントされてるし。軒丸瓦もこの紋↓。くうう~、カッコええの~ 大護摩堂の向かいには、これがあります↓。後ろにあるビルみたいのは、現在工事中の三仏堂。 【重要文化財 相輪塔-そうりんとう- 慈眼大師(天海大僧正)が寛永20年に家光公の発願によって比叡山の宝塔に擬して 構築した高さ15メートルの青銅の供養塔であり、塔内に千部の経典を収蔵し 天下泰平・国土安穏を祈願せるものなりと云う。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この解説板は石段をちょっと上がったところにあるし、相輪塔はホントにこれだけの塔なので、個人で観光に来てる人の6~7割はスルーするんじゃないですかね。日光山内には重文なんてごろごろしてるしね(笑)。まあ、私は大護摩堂でひいたおみくじを結びに行くので、いつも相輪塔の段には上がるんだけど、それほど関心はなかった。これが実は結構なお品だったことを知ったのは、建築の勉強を始めてから。お寺にある塔とかって、よくこんなの(ピンクの枠の部分)があるでしょ↓。 (宮島・多宝塔)枠で囲った部分を「相輪」(そうりん)という。この部分だけでもそれぞれの部材に細かな名称が付いてるんだけど、とりあえずここでは必要部分以外は割愛しますね。 相輪が屋根に接する部分を「露盤」(ろばん)、その上の部分を「伏鉢」(ふくばち)といって、露盤と伏鉢でお釈迦様の墳墓を表す。一番上の「宝珠」は仏舎利を納める場所だしね。なので、ここは重要な宗教的意味合いを持つ部分。で、普通は多重塔の上に置かれる相輪だけに焦点をあてて仏塔と同じものとみなし、相輪だけを境内に祀った金属製のものを相輪塔というんだそうな。相輪塔の始まりは、最澄が延暦寺に建立したものと言われていて、現存する相輪塔は全国でわずか5基。そのうちの4基が関東にある。最澄が始めたというのがホントなら、8世紀末~9世紀の始めで相当古い時代だから、長い歴史の中ではそれなりの数が建てられたものだろう。それが、今じゃたったの5基・・・しかも、家光の発願で天海が建てたとくればね。さすが、日光 写真を撮った時は雪が降ってたので、あまり鮮明でなくて申し訳ないですが、上のチラチラした部分を望遠で撮ると、細部まで実に細かく作られていて美しいです。望遠なのは、実物は結構な高さがあるのでそんなに間近では見られないからです(笑)。派手な東照宮とかに比べればぶっちゃけ地味な塔ですが、貴重なものなので山内にお立ち寄りの際は是非こちらもご覧ください。相輪塔の前には、これまたデカくて立派な灯籠が2基あります↓。これも青銅製かな? この塔にね、色々な彫刻とかが実に細かくあってね。てな訳で、ここからようやく「日光写真館」らしく写真のオンパレードになっていきます。ただし、光線の加減だとかの諸事情により、すべての写真は掲載できませんでしたので御了承ください。現地では、残らず写真に収めたんだけどね 似たように見える彫刻でも、ビミョーに細部が違ってたりする。ここからは、胴の部分の彫刻です。中国の法話とかをモチーフにしたストーリー仕立てのようなんだけど、物知らずなもので何の話かはわかりませぬ・・・ ここまでが、相輪塔に向かって左の灯籠。ここからは、向かって右の灯籠。これには、 【奉献 唐銅御燈篭銅御燈篭一基 慶安元戌子年四月 京堺江戸大坂長崎 糸割府人中】の銘がある。 ぱっと見、ただのデカい灯籠ですが、よく見るとこんなのが一面にあります。 1つ1つが本当に細かくて、じっくり見始めると止まりません。・・・が、この2基の灯籠にある彫刻の写真を撮るだけで相当の時間がかかった。雪はやんだものの、積もった雪から冷気が上がってきて足は冷たいわお腹は冷えてくるわ・・・相輪塔の段を撮っただけで、山内にある細部の彫刻達すべてを紹介するという困難さが身にしみて、こんなことのチャレンジを始めたのを早くも後悔した軟弱者のわたくし・・・にほんブログ村
2013年05月02日

まずは、搦手口にある看板の解説から。 【高山城と小早川隆景公の歴史 ○鎌倉時代の初期、小早川4代小早川茂平築城。 ○1400年頃大火に遭う。 ○毛利元就の三男が竹原小早川の養子となり、小早川隆景を名乗る。 ○1551年本家沼田の小早川家をも継ぎ、高山城へ入る。 ○1552年17代小早川隆景本城を新高山城へ移す。 ○築城してからこの間沼田小早川惣家の本城として約350年。 ○1567年三原城を築き始め、1582年隆景三原に移る。 ○9郭と多くの出丸を持ち、中央の低地を挟んで2つの連郭式縄張の山城である。 ○高さ291m、広さ41万平方メートル、全国でも5指に入る規模。】 (漢数字は戦国ジジイが変換。)う~ん、なかなか大胆に言い切ってるなあ(笑)。まあ、簡単に概略を述べるにはある程度は割り切らないといけないしね。さて、まずは歴史の話から始めます。新高山城シリーズでは隆景に限定して話を進めましたが、こちらでは逆に隆景以外の小早川氏の話が中心となりますので、ご了承ください。以前、雑談「小早川隆景の知名度」で隆景のビミョ~な知名度について書いたけど、まあ隆景の名前くらいは知ってる人はそれなりにはいる。が、隆景以前の小早川氏に関心がある人となると、間違いなく格段に数は減る。私ももちろん小早川氏については隆景から入ってるんだけど、庶家も多いし当初思ってたよりなかなかの家柄で、面白い話なんかも色々あるので、一般の歴史ファンの中ではあまり紹介されることのない隆景以前の小早川氏について、古い時代を中心に少し書いていきたいと思います。初期の小早川氏については、「三原編(2)」で簡単に紹介していますが、話はもうちょっとさかのぼって、沼田(ぬた)庄の歴史について。平安時代頃に大フィーバーした荘園制については、誰しも教科書で習いますが、あれってよくわからないよね~。今回、沼田庄のことを書くにあたって少し勉強し直してみたら、案外複雑なシステムらしくてね~。まあ、ここでは簡単に書きますね。なんで戦国の国人のことを書くのに、平安の荘園制から始めるのかって?そりゃアナタ・・・小早川氏が鎌倉の御家人だからですよ。回りくどい説明にはなるけど、この背景も大事なのだ。それに、こんなことまで書くのは国人衆の中では小早川氏だけになると思うけど、安芸や備後にも多くいる西遷御家人のほとんどは同じ環境に置かれて、似たような発展を遂げたと思われるので、そういう点でも一度は書かなければならないことだと思ってるのでね。で、治承・寿永の乱・・・いわゆる源平合戦のあと、多くの御家人が西国に地頭として任じられた。平氏の力が強かった西国に勢力を伸ばすため、そして西国武士の抑えとして。そのうち、北条氏の力が強くなってくるなどの背景もあり、本拠を西国に移す者が増えてきた。ただ、地頭に任じられたからといって初めから順調だった訳じゃない。なんでか?そこで荘園制。沼田荘と荘園制のシステムをおおざっぱな図にすると、こんな感じになる↓。 荘園制も、初期の形態から段々と本格的荘園へと発展していったらしいんだけど、沼田荘の場合は本格的荘園のうちの寄進系荘園にあたるんだそうな。自力で開発した地元の領主からスタートして、どんどん権勢家へ寄進してくってパターンね。荘園領主のうち、最高位の者を「本家」という。本家・領家のうち、実権を握った人のことを、「本所」という。沼田荘では蓮華王院がこれにあたる。現地で実際に経営にあたるのが、荘官。本所から派遣された預所(あずかりどころ)と共に、荘園を支配する。領家は平家とされてるけど、別にはっきりそう書いたものが残っている訳ではなく、平氏が滅んだ後に沼田荘が平家没管領となっていることから、平氏が領家だろうと見られている。上の図には書かなかったけど、沼田荘は平氏から院または皇族へ寄進されたようで、最終的に後白河院が蓮華王院を建立する際に沼田荘を寄進したという流れらしい。蓮華王院は、「三十三間堂」といえば誰でもわかるかな。平氏に従った沼田氏が滅んだあと、領家は後鳥羽院から堀川天皇へと移っていったが、承久の乱で院方が負けたことにより没収。承久の乱の情報を幕府にチクって幕府方の勝利に貢献した、公家の西園寺公経(きんつね)に領家職が引き継がれた。以後は西園寺家が領家職を続け、鎌倉時代の末には沼田新荘の椋梨子と和木が、西園寺家の娘で亀山院の妃となった女性に贈られている。小早川氏は、こういう支配機構の中に地頭として入ってきた。「地頭」というと、守護とともに鎌倉幕府が新しく作ったイメージがあるけど、実はもっと前からあったんだそうな。たとえば、安芸では平氏も地頭の任命をしている。ただし、それらはあくまで私的なもので、朝廷からの勅許を得ることで頼朝は公的な性格を与えた。晴れて公権力の一部となった地頭だけど、私的なものである荘園制はまだ生きてる。教科書では(たぶん)習わないけど、荘園のシステムって結構長く続いたってんだから、オドロキだよね。荘園が完全に解体されたのは、太閤検地。16世紀の終わりですよ。ので、小早川氏が沼田に移ってきた頃は、荘園制バリバリの時期だった。幕府から正式に任命された地頭といっても、こうしたシステムの中じゃちょいと肩身が狭い。あまりいい例じゃないけど、まあ現代で例えるなら、ぽっと出の県知事や大臣が、議会とはソリが合わないし官僚は言うこと聞かないし・・・で苦労してるみたいな(笑)。いい例じゃないというのには訳がある。「地頭に任じられた」というと、イコール領地をもらったのかと最初は思ってたんだけど、そうじゃないらしい。あくまで、所領の管理と支配を幕府が認めただけのことなんだと。つまり、土地システムは依然として荘園制のままだったというのだ。平氏が滅んだからといって、きれいに支配者が入れ替わった訳じゃない。土地を実質的に支配する領家・本家は力を保ったまま。荘園制のヒエラルキーの中では、権勢家に保護してもらうかわりに当然上位者へ年貢を納める。教科書で習う鎌倉幕府のキーワードのひとつに、「御成敗式目」があるのは皆様覚えておられると思いますが、この式目の中にも、ちゃんと第5条に「年貢は本所にきちんと正しく納めてね。滞納して本所に要求された場合は、それに従ってね。もし年貢が足りなくて納めきれない場合でも、3年以内には本所に納めてね。これを守れなかったら、地頭を解任しちゃうからね。」と地頭に本所への納税の義務があることが定められているのだ。実際、地頭と領家・本所とのトラブルは土地や年貢に関するものが多かった。小早川氏でもこうした問題は起きている。最初の武家政権だからね。人は時代の観念そのものから抜け出すことはなかなか難しいし、社会の仕組みそのものを変えるってことは大変な事なんだな~とこれを知った時、思ったね。土地を所有して力はあるけどいわば私的なものである領家・本家。その土地のトップではないけど公権力に立場を裏打ちされた地頭。二重支配のこの時代の枠組みというのは、想像以上に複雑で難しい。 さて、鎌倉初期の土地システムについてはこのくらいにして、上の図は小早川庶家の分布図です。新高山城とか頭崎城シリーズを読んでくださった方には、椋梨とか梨子羽(なしわ)とか船木とか、ちょっと覚えのある名前もちらほらあることでしょう。 カッコ内は、現在の地名ね。小早川氏が沼田荘に移ってきた時期については、判然としない。が、幕府からの安堵状からして、4代茂平の代には下向していただろうと推測されている。(初期の系図はこちら)系図のリンク先(「三原編(2)」)には初期の流れも書いたけど、沼田荘を継いだのが平賀義信の子じゃなかったら、あるいは沼田荘も没収されてたかもしれないね。和田・三浦・梶原などなど、有力御家人つぶしもかなりエグイものがあるからね。ま、ともかくここでは茂平が沼田に引っ越してきたことにしましょう。茂平が来た頃、沼田荘の中心は梨子羽あたりだった。このあたりは古墳やら古い寺院も多く、出土品から推測するに、かなり古い時期から沼田と畿内との関わりは深かったらしい。地理的な問題や土壌など様々な面から、有利な土地だったんでしょうね。が、梨子羽の地には在地の領主などの勢力が強かったため、茂平は梨子羽を避けて、少し離れた古高山の麓付近に身を置いた。といっても、すぐ高山城を築いた訳ではなく、梨子羽より東のあたりに居館を置いた。居館の場所についてはまだ結論を見ていないが、現在のところ2つ候補地が上がっている。本郷村の「国郡志書帳」には、小早川初代の土肥實平が文治3年(1187)西国探題としてやってきて高山に居住したという記述があるが、当時はまだ山の麓に住む時代であることから、古高山ではなくその麓に住んだんだろうと見られている。その頃、地頭の屋敷は「館(屋形)」と呼ばれ、居館の周囲に堀や土塁をめぐらせて館の防御としたため、「堀ノ内」とか「堀内」「土居」と呼ばれた。居館は非課税。また、「門田(かどた)」「佃(つくだ)」などと呼ばれる直営地が認められており、これも屋敷とともに無年貢地とされた。つまり、地頭の私有地。これが地頭の財源になる。この門田を屋敷の周囲や付近に置いて、段々とその周囲も開墾するなどして土地を取り込み、少しずつ領内における勢力を伸ばしていった。その過程において、当然のことながら領家とのトラブルも起こり、沼田氏の遺産である梨子羽の門田を継いだ茂平の娘が領家に訴えられて裁判沙汰になった記録などが残っている。新参者は苦労するのう~(笑)。でもしぶとく現地にくい込んでいって、発展していく訳だけど。にほんブログ村
2013年05月01日
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