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寒松院のすぐお隣がこちら、林光院↓。 入口は純和風だけど、なんか右側の近代的な建物がすごいな・・・ここ、寺でいいんだよなこれも寛永寺の子院。門前には古くて立派な灯籠もある。まず、向かって左↓。 【奉献 石燈籠両基 武州 東叡山 大猷院殿 尊前 慶安五年壬辰年 四月二十日 従五位下中●●膳正源朝臣久●】う~ん、一部磨耗しててかなりキビシイ。お隣と対の灯籠だったら、そちらから読み取ろうかとも思ったけど、明らかに別モノだったので、解読は自力で頑張るしかない。だいたい、一番最後の行はもちょっと上から彫り出せばよかったのに、計算が狂ったのか(笑)最後の名前にあたる2文字が「臣」の両脇に来ている。どうも、「久盛」のようにも読めるんだけど・・・灯籠ってちょいと地味なせいか、あんまり注目する人はいない。見てる人はかなり細かく紹介してるんだけどね。てことで、林光院の灯籠を紹介してる人はいなさそうだったので、読める文字からいくつか検索してみたところ、これはおそらく中川久盛のではないかという結論に至った。ウィキペディアを基に上の銘を復元すると、「従五位下中川内膳正源朝臣久盛」になるんだと思う。へえ、戦国ファンなら名字で想像つくでしょうけど、中川清秀のお孫さんらしいです(次男の子)。母が佐久間盛政の娘なので、盛政には外孫にあたるようですね。ただ、これ、慶安5年(1652)の日付だなあ・・・南部重直の灯籠より、1年遅い。でも、5年にしか見えないんだよなあ・・・干支もどう見ても慶安4年の「辛卯」には見えないし。「大猷院殿」が徳川家光なのは、もういい加減覚えていただけましたわよねんでは、向かって右の灯籠↓。 【奉献 石燈籠両基 東叡山 大猷院殿 尊前 慶安四年辛卯十二月二十日 従五位下大江朝臣毛利日向守就隆】おっと、毛利!?予想外の名前にびっくり・・・ただ、毛利家が面白いのはやっぱり元就さんが生きてる頃で、毛利家本体に限って言えば、私の興味は元就の代までに限られる。いや、ホントはちょいとした個人的怨恨があるので(笑)、厳島の合戦前までなんだけど。だから、江戸期の沢山ある毛利の分家の詳細についてはほとんど知らない。日向守なら本家じゃないことだけはわかるけど。てな訳で、就隆(なりたか)さんについていつものウィキペディアで調べたところ、毛利輝元の次男。兄・秀就と祖父・隆元からそれぞれ一字ずつもらった名前だそうな。現在の山口県、下松・徳山初代藩主。ウィキペディアには 【輝元の実子でかつ末子のために甘やかされて育ち、自由奔放で贅沢好きな 人物であった。】 とある。ハハハ・・・何となく、想像つくそして、就隆のページの最後には 【上野寛永寺には、毛利就隆が寄進した燈篭が現存している。】とある。これだよ~、これ!一口に寛永寺っつっても、子院まで含めると現在でも広いのでこれだけじゃわからないけど、林光院の門前にあるのがそうで~す!!で、灯籠の日付ですが、毛利就隆のは南部重直のと同じ日付。こーゆー灯籠って、みんな日付を同じくして奉納されてるんじゃないかと思うんだけどね。だから、就隆の方はいいんだけど、わからないのは中川久盛の方。なんで1年出遅れてるんだ?ただ、ウィキペディアによると中川久盛は慶安4年に家督を譲ったとある。通常、こういうものは当主の名前で出すものだと思うんだよね。新当主・久清は30過ぎの立派なオッサンなんだし。だから、慶安5年の奉納なら久盛じゃなく、その子・久清の名で出すべきじゃないかと思うんだけど・・・あるいは、久盛の在職中の慶安4年に発注したけど、納期が遅れたとか?アハハハ、んなことある訳ねえその辺の事情はわからないけど、発注した時点ではまだ久盛は家督を譲る気はなかったのかもしれないな。ここまでの上野編で、「大猷院殿」に奉献された灯籠の日付は2種類。どちらにも共通しているのは、20日という日付。これね、家光の月命日(つきめいにち)なんだよね。(家光の命日は4月20日)慶安4年12月20日に奉納された灯籠があるってことは、おそらく家光の上野霊廟はその頃にはあらかた完成していたと見ていいと思う。それで、1年遅れの慶安5年12月20日にも灯籠が奉納されてるなら、この日に大きな法要でもあってそれにあわせてのご進物だったのかな、とも思った。ただ、大きな法要なら祥月命日にやるんじゃないかとも思うんだけど。それとも、霊廟完成1周年を祝って法要でも行われたかな?にしても、中川久盛は慶安4年の(推定)霊廟完成時には灯籠を贈らなかったのだろうか?ちょっとそれも考えにくいんだけど・・・まさかと思うけど、諸大名は慶安4年の(推定)完成時と1年後の法要などのイベントに、それぞれ灯籠を奉納してるってことはないよな。みんなが「両基」を2回も同じ場所に奉納したら大変な数になるし、そんなに置き場ないだろ~・・・それに、日光の大猷院にはまず全員が灯籠を寄進してるだろうから、「両基」を3回も奉納したら、大名のお財布たいへ~ん仏事の出費続きで、大名にしたらいい迷惑だよなさて、こちらの林光院ですが、「天台宗東京教区」の公式サイトを読むと、ちょっとびっくりな寺の名前が出てきた。 【開基の宣雄大僧都は備前の国、岡山の人で光珍寺の澄宣大和尚の下で修行に 励んでいましたが、当時、江戸で評判の高い寛永寺を開かれた天海僧正の高徳を 慕って江戸へ出て僧正のもとで修行する事が許されました。】 (「天台宗東京教区」ホームページより)お・お・おきゃやまの光珍寺って、あの光珍寺だよな!!え~、光珍寺は、昔なつかしの「吉備路編(8)」をご覧ください。そんなにごろごろしてる寺名だとも思えないし、備前限定だから、ここでいう光珍寺は宇喜多家の菩提寺の光珍寺だろうと思います。もうひとつの寺名・岡山寺の名前を出されたらちょっと思い出さなかったかもしれないな。宇喜多のなおくん(直家)のお位牌を拝んでたかもしれない人が江戸でお寺を開いたなんて、なんかオドロキ~。・・・て、解説の最初からヘンなとこに食いつくワタシ(笑)。え~と、それで寛永の初期に鶯谷駅の上に林広院という草庵を開いたとあるから、私が鶯谷から坂を上がってきた辺りになるのかな。寛永寺の諸堂や子院を諸大名が寄進したことは「上野第一編」で書きましたが、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると、新規に子院を建立したほか、既存の子院の外護者になった大名もいるらしい。子院の外護者は「宿坊檀家」(しゅくぼうだんか)、略して「宿檀」と呼ばれ、将軍の上野参詣の際に警護を命じられた大名家が自分の宿坊を警護時の山内の拠点として使用した記録もあり、おそらく多くの大名が寛永寺に宿坊を持っていたのだろう。増上寺の詳しいことはまだ勉強してないけど、こちらも将軍の霊廟参拝があったはずで、条件は寛永寺と同じだから、増上寺にも各大名は宿坊を持っていたのかもしれない。それで、当初の林広院の場所に家光の上野霊廟が建てられることになったので、林広院は立ちのくハメになったが、次に移転したのが西北だとあるので、現在の寛永寺霊園の一角あたりになるんだろうか。当時の林広院の宿檀が、忍(おし)藩主・松平忠弘。忍で松平ならきっとアレだよな・・・と思って検索したら、やっぱり奥平松平氏だった。奥平信昌様のお孫さんです。松平忠弘さんは林広院の保護に尽くしたそうで、徳川家の外戚にあたる奥平松平氏の縁もあったのか、宝永2年(1705)輪王寺宮の推薦を受けて6代・家宣の生母の霊廟の別当寺となり、寺領450石を賜り、寺名を「林広院」から「林光院」へ改めた。つまりは「お腹様別当」だった訳だけど、家宣って増上寺に葬られてるんだけどなんで母は寛永寺?で、家宣生母の長昌院について検索してみたところ、長昌院・・・生前の名は「保良」さんは家康の孫・千姫の女中のそのまた女中であったという。ちょっと身分の低い人だったんだね。それが甲府藩主・徳川綱重(家光の3男)に目を付けられ子を生んだが、綱重の縁談などもあり、2人の男子はそれぞれ家臣に育てられ、保良もまた次男とともに家臣の元に身を寄せた。そして、寛文4年(1664)27歳の若さで亡くなり、日暮里の善性寺へ葬られた。子は根津(上野のすぐ西)の藩邸で生まれたらしいから、近くの日暮里に埋葬されたのかな?綱重にはその後男子が生まれず、家老に育てられていた長男が後継ぎとして実家に呼び戻され、元服して綱豊と名乗った。延宝6年(1678)綱重が死去し、綱豊が16歳で家督を継ぐ。4代将軍・家綱には男子がおらず、後継者をめぐって色々議論になり綱豊も将軍候補にノミネートされたが敗れ、館林藩主・綱吉が5代将軍となる。綱吉にもまた世嗣がいなかったため、再び後継者問題が持ち上がる。ここでも綱豊がノミネートされるが、今度も紀州藩主・徳川綱教(吉宗の兄)というライバルが登場し、すぐには後継ぎが決まらず、宝永元年(1704)綱豊が42歳の時にようやく次期将軍に決定し、家宣と改名した・・・て事で、保良さんが亡くなった時は、自分の子は将軍はおろか甲府の家でさえ継げない可能性が高かった時期なようです。それが、思いもかけず将軍世嗣にまでなったものだから、宝永2年(1705)に保良も故人でありながらにわかに光が当てられ、次期将軍生母にふさわしい祀り方をしようってことで寛永寺に改葬されたってことなのかな。まだこの時、家宣はピンピンしてるし将軍にもなってないから、寛永寺と増上寺のどちらに家宣を葬るかは決まってなかったのかもしれない。ただ、ウィキペディアによると保良の墓碑は谷中の徳川家墓地にあるそうで、寛永寺へは改葬されず霊廟だけ建てられたのか、あるいは徳川幕府崩壊&寛永寺ほぼ廃絶という状況を迎え、寛永寺から谷中へ移されたのか、そこまではちょっとわかりませなんだ。にほんブログ村
2013年11月29日

歴史ファンの皆様の中には光村推古書院の時代MAPシリーズをご存知の方もおられると思います。このシリーズは、古地図にトレーシングペーパーの現代地図を重ね合わせて即座に位置の同定ができる、眺めているだけでも楽しい地図です。私も未公開の「京都魔界編」2編ではこれの京都シリーズにお世話になったりして好きな本なんだけど、さっき本棚に『東京時代MAP 大江戸編』がささっているのを目にして、そっか、これもあったんだっけな~(←忘れてた)寛永寺、載ってるかな~と開いてみたら、家光の上野霊廟も「御霊屋」として本坊の脇に描かれてたので、いつ頃の古地図を基にしてるのかな・・・と考えてたんだけど、眺めているうちなんか違うことに気がついた。位置がね、違うんです。『東京時代MAP』の方だと、家光の上野霊廟は前回の子院群の場所ではなく、もう1ブロック南の位置になっていて、子院群とはかすりもしない。げええ~っ!!家光の霊廟の記事を書いた直後に間違いを発見するなんて!勘違いもいいとこじゃん!!・・・とまっつぁおになりながら、穴の開くほど地図を眺めた後で、やっぱり私の推測の位置の方が正しいらしいという結論に落ち着いた。この地図の後の年代になって霊廟が少し移動した可能性もなくはないけど、本坊の位置もずれているので、どうもそれも考えにくい。あ、別に「この地図、間違ってる!!」ってまくしたてる気はないですよ。古地図の中身として採用した『江戸切絵図』は測量が正確じゃないので、現代地図との比較はあくまで推測です、ってちゃんと凡例に書いてあるしね。ただ、与えられた情報だけをうのみにするんじゃなくて、自分で調べたり考えることもやっぱり大切なんだな~と思っただけです。書籍だけでなく、現地の解説板なんかもね、人様の訪城記とか史跡めぐりレポートなんか見てると、解説板の内容をそのまま素直に受け止めてる方が多いように思われるので、こういうこともあるから、せっかく現地に行くのであれば自分なりの考えも持った方がいいんじゃないかな~って例としてご紹介しました。てことで、間違ってないという結論に至って安心したところで寒松院の境内に入ります。 境内は、はっきり言って狭い。正面が庫裏で、右側がお堂かな。私のカメラだと、建物全体を写すには境内が狭くて無理があったので、建物の全景は撮ってません。まず、お堂の正面にあるこれが目につく↓。 なんだ、これ?「堂」?ん~ん、いや、ちょっと待てよ。「堂」の周りにあるのは「下がり藤」だから、「藤」と「堂」で「藤堂」か!!アハハハ・・・あれ?これって、藤堂家の家紋?と思って調べたら、藤堂家は蔦紋を使用しているようだし、替紋でこのタイプがないかと思って探したけど、どうも家紋ではないらしい。なら、藤堂家のゆかりって意味で付けてるのかな・・・寒松院の起源は、与右衛門こと藤堂高虎が創建したというところは一致している。が・・・その時期というか目的が少々見解の相違などがあるようで、子院を造って寛永寺に寄進したと書いてるものもあれば、もとは藤堂家の菩提寺だったとしているものもある。私は、上野に屋敷を持ってた時の菩提寺だと思うんだよね。だって、墓があるんだもん。ま、その真偽はわかりませぬが、「寒松院」は与右衛門の法号。藤堂家の領地、三重県津市にも同じく与右衛門の法号から取った寒松院があり、そちらは藤堂家の菩提寺。んでは、他のパーツをいくつか・・・ 懸魚の上の飾り金具の真ん中についてる蔦紋、これが藤堂家の紋です。普通の蔦紋は、髪の毛に例えると上部がこんもりしてて「盛ってる」ようなデザインなのが、藤堂家のは薄毛の人のてっぺんがぺしゃんとなってるような感じの特徴があり、「藤堂蔦」と呼ばれるそうな。え?例えが悪い?つまり、現在でも寒松院は藤堂カラーが強いわけだな。しかし、蟇股は蔦紋じゃない↓。 この紋は、唐破風正面の飾り金具の脇にも付いてるし、こんなとこにもある↓。 なんだろう、これ・・・ヤツデとかの植物紋か、あるいは扇面あたりのような気がするけど、何のデザインかすらわからなかった藤堂家の定紋・替紋とも違う。これが寺紋なのかな・・・お堂正面の奥には、この方↓。 台座には何か刻まれている。右から順番に、 妙地院殿運善法蔵大姉 ●寒松院殿松道高潔権大僧都 善心院殿智覚妙鏡大童女え~、真ん中のは与右衛門だな。一番上の文字が読めなくて●としましたが、これ梵字かもしれない。まさか、これが墓ってことないよな。両脇にあるのは奥さんと夭折した娘みたいな雰囲気だから、供養塔みたいなものかもしれない。ところが、帰ってから調べてみたけど、「妙地院殿」は正室でも継室でもないし、お母ちゃんでもない。側室とその子かとも思ったけど、与右衛門て側室持たなかったっぽい・・・ピンポンして聞いてみればよかったかなさて、今度はあまり広くない境内の中を・・・ 正保二酉歳三月二十一日 空仁大徳 俗名 田宮坊太郎「空仁大徳」で検索してもわからなかったが、「田宮坊太郎」だとコトバンクにヒットした。 【江戸時代の敵討ち物戯曲の主人公。モデルは寛永18(1641)年、 四国の丸亀で親の敵を討ったといわれる少年。史実としては疑わしく、 伝説上の人物と考えられる。】正保は寛永の後の元号だから、時期としてはこの人物と同時期ではあるけど、なんだかな・・・俗名まで書いてあるなら、出家して空仁になったってことなんだろうけど、これって墓だよな。わざわざ墓も移転させたのか?よくわからん・・・境内には、灯籠が1基↓。 胴が細くてちょっとバランス悪いでも、笠の部分なんかは結構古そうだな・・・庫裏の屋根↓。 あっちこっちに蔦紋。寛永寺内の子院は、火事やら何やらの理由で移動が多かったことを「上野第一編」で書いてますが、寛永寺廃絶・・・つまり、徳川幕府崩壊以前は、私の知る限りでは寒松院はずっとほぼ同じ場所にある。寒松院は東照宮の表別当で、東照宮自体の移動がないせいかもしれないな。寺内最大の子院であり、代々の学頭が選出されるという高い格を持つ凌雲院でさえ別当ではなかったためか、絵図によっては結構移動してるのに。寒松院を含む寛永寺の子院の多くは、上野戦争の際に焼失したという。その後、新政府により寛永寺の境内地は接収、明治21年(1888)になって、現在の寛永寺の裏手に寒松院が再建される。当時の境内は360坪。が、先の大戦で空襲にあい、再び焼失。戦後になって現在の位置に再建されたとある。この辺りの子院群はおそらくみんな同じような変遷を辿っていると思われ、こちらの地図を見ていただくとわかるように、寒松院があるエリアは子院がひしめきあう子院団地のようになっている。そして、この子院団地の場所がほぼすっぽり家光の最初の上野霊廟の位置にあたる。「最初の」っていうのは、享保5年(1720)に焼失して以後は厳有院(家綱)霊廟に合祀されたからです。( 「上野第一編(2)」も思い出してね)現在の寒松院の境内は、ほとんど建物で埋まっちゃってるから広さはよくわからないけど、たぶん360坪もないよな・・・時代を追うごとに、規模が小さくなってるんじゃないかな。それでも、昭和に入って再建された建物でもあちらこちらに藤堂家のゆかりを示す紋が付いていて、規模がちっちゃくなっちゃってわびしいというよりは、こんな風に藤堂家の紋を沢山付けた(おそらく)もう少しデカい豪華なバージョンの建物がかつて東照宮のそばで偉容を誇っていたのか~とイメージがしやすいので楽しい。子院団地から南西にある上野公園や上野動物園、それから東京芸大なんかも上野の山はほぼすべてがかつての寛永寺の境内。公園内に入ってしまうと寺の名残を残す施設は少ないけど、上野の山では妄想力全開で歩きましょうにほんブログ村
2013年11月27日

鶯谷駅の南口を出ると、綺麗なネエちゃん達が長いタクシー待ちの行列を作っていた。朝もはよから、一体なんだ?玄人さんのお仕事帰りかな?そういえば、上野第一編で鶯谷に着いたあとしばらくさまよったラブホ街、安政6年(1859)の絵図では、どうもその付近と思われる場所に「日光御門主 御隠殿」が描かれている。御隠殿とは、輪王寺宮(りんのうじのみや)の別邸。かつて高貴な方がおわした場所の近くに、現在では一大歓楽街が広がっている・・・時の流れとは、切ないものよさて、鶯谷から南の上野方面へ向けて坂を登っていく。現在では坂の右手には寛永寺の霊園、左手は忍岡中学校。が、明暦3年(1657)の絵図では、この辺りには「御佛殿」が描かれている。寛永寺が描かれた絵図は私の手元にいくつかあるんだけど、年代が不祥のものもある。ただ、寺内の構成からある程度の時期の推測はつくので、推測を基に判断すると、この明暦3年の絵図が現時点では手持ちの中で一番古いものと思われる。徳川家光の死亡日は慶安4年(1651)4月20日。慶安4年12月20日付けの南部重直の灯籠を「上野第一編(6)」で紹介しましたが、南部重直の灯籠が家光の上野霊廟の完成にあわせて奉納されたものであれば、明暦3年の絵図にも家光の霊廟が描かれてなければおかしい。けど、絵図には描かれていない。けど、位置はフィットしている。てことは、「御佛殿」は家光の霊廟を指すと考えていいのかな?フツーに考えると、佛殿と霊廟は違うと思うけどね。まあでも、明暦3年よりもう少し後に描かれたと思われる『寛永寺』の表紙の絵図には、家光の霊廟の入口に「二天門」が描かれていて、明暦3年の絵図にも同じ場所に二天門が描かれている。二天門は将軍霊廟を構成する建物群のひとつでもあるので、明暦3年の時点でもやはりこの坂の上部は家光の霊廟の敷地の一部だったのだろう。前回の「上野第一編」では、坂を上がりきってから右手にずーっと奥まで進みましたが、今回は上がったすぐ先を左に曲がります。 右のフェンスの中がトーハク(東京国立博物館)。 左には子院が建ち並びます。トーハクはほぼかつての寛永寺御本坊の敷地のアウトラインを残しているようなので、であれば、ちょうどこの道路と左の子院のあたりが最初に家光の上野霊廟が建てられた場所にあたると思われます。『寛永寺』の表紙にプリントされてる絵図だと、こんな感じ↓。 あまり鮮明でなくて申し訳ありませんが、左の「日光 御門跡」の区画が本坊であり、現在のトーハク。ピンクのラインで囲った真ん中のエリアが家光の上野霊廟・・・図では「大猷院殿 御霊屋」です。おそらく慶安4年に建てられ、享保5年(1720)に焼失するまでこの場所が家光の霊廟でした。といっても、本廟は日光写真館で紹介してる通り、日光の大猷院になるんだと思うけどね。でも、霊廟は霊廟。歴代将軍は自分より前の将軍たちの霊廟に毎年参詣しており、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』にはそのルールが書かれていて面白いので、将軍の霊廟参詣についてはあとで書こうかと思ってますが、そういう訳で享保5年まではこの場所に現職の将軍も来ていたことになります。え~っと、享保5年というと、吉宗の時代だな。まあ、7代・家継なんかは夭折してるし(享年7歳)、4代・家綱から8代・吉宗までの全員の将軍が来た訳ではないかもしれないけど。トーハクには沢山の人が訪れるものの、こんな方を歩く人はそういない。まして、この辺に家光の霊廟があったことを知る人は少ないだろう。往時は現職の将軍にさえ制約があった霊廟の場所は、現在では車が自由に通り抜けできる道路に変わっている。『寛永寺』では、将軍霊廟の形式について家光までは過渡期だったとし、4代・家綱から7代・家継までが代表的な形式だとする。8代・吉宗がすっぱり霊廟建設を取りやめたことは「上野第一編(5)」などで書きましたね。その完成形でどれだけの建物が建てられたのかは「上野第一編(2)」で『寛永寺』から引用してますのでそちらを見ていただくとして、上の絵図の霊廟も結構いろんな建物が描かれているなあ・・・それでも、最も大事な「廟」の部分は細部まで描かれてるとは思えないから、実際は家光の霊廟にももっと多くの建物があったのだろう。ちなみに、この霊廟に建っていたとも言われるのが、「上野第一編(1)」で紹介した、現在の徳川家綱霊廟勅額門です。絵図では灯籠が6基しか描かれてないけど、実際は写真の道の奥に諸大名から奉納された灯籠が林立してたんでしょう。南部重直の灯籠が1基、現在の寛永寺に移されてるのだけは自分の目で確認できたけど、元々この辺に建ってた灯籠はその多くが散逸してるんだろうなあ・・・おっと、灯籠といえば、「上野第一編」の最初の頃におともだちの織部さんがコメントを下さって、ぬわんと織部さんち(茨城県日立市)の近くに将軍へ奉納された灯籠があるんだそうなそれも、3基のうち2基は常憲院(綱吉)への灯籠だという。綱吉は初めから寛永寺に葬られてるから、それはつまり上野から日立へ流れていったってことだよな・・・どういう経緯なのか知りたいところだけど、ひとまず現存してるだけでも儲けもんなのかもしれないな。ところでそれ、どなたの奉納品ですか、織部さん?(ここでねだるな)では、ここから上野方面へ向けて霊廟の敷地を歩いていきます。歩き始めのところにある石垣↓。 この辺の子院群は復興前からこの場所にあった訳ではなく、近代に入ってからも戦災などで多少の変遷があるので、これは昔ながらの石垣ではないと思われます。どうも石を組んでるんじゃなく、貼りつけてるだけのようにも見えるし。でも、はつった石を綺麗に並べて、歴史ある場所でもあるし、歴史ファンには雰囲気を感じられるような石垣風な石垣がいい感じです。手前から2軒目のお寺が、本日最初のお目当てです↓。(場所はこちら) こちらの寒松院は、「上野第一編(12)」で名前だけ紹介してます。はい、藤堂高虎が建てたとされる子院です。「上野」の地名の由来はいくつか説があるようだけど、そのうちのひとつが高虎・・・通称・与右衛門(よえもん)に由来するというもの。寛永寺創建以前に、上野の地に屋敷を持っていた与右衛門にちなみ、彼の領地・伊賀上野から取って「上野」と名付けたと言われます。色々資料を読み始めるまでは「へえ、そうなんだ~」と思っていたものの、実際には津軽家・堀家も上野に屋敷地を持っていたし、その他郷士の屋敷などもあったらしいから、最近では与右衛門起源説はちょっとアヤシイと思い始めました。まあそれはともかく、実は私が今年のお墓参り後の史跡めぐりに上野を選んだのは、与右衛門の影響も大きいです。彼の墓といわれるものは、上野にあるんです。・・・ただし、非公開。非公開は知ってたけど、どう非公開なのか行ってみなければわからない部分もあるし、寛永寺も名前だけしか知らなくて行ったことがなかったから、上野なら気分的にも行きやすいし、ってことで上野めぐりに決定しました。ただ、上野行きを決めた当時は寛永寺のことはほとんど知らなかったのでそれほど思い入れや期待感があった訳でもなく、戦国ジジイの気分を盛り上げたのは与右衛門だったと言えるでしょう。さて、そんな原動力役の与右衛門さんについて、この寒松院で色々書こうと思ってましたが、わたくしの旅はクールな史跡めぐりではなく「萌え~」が最大のお楽しみでもありますので、ただ寒松院があるだけの場所で彼について書くのはどうもしっくりこない・・・ので、彼に関するあれこれは、ホンマもんのゆかりの地で書くことにしました。ということで、ここではまず現在の寒松院の紹介だけにとどめますね。入口には、2つの碑がある↓。 【旧東照宮別当】寛永寺の別当には大きく分けて将軍関係、女性陣、とそれ以外の別当の3種類があったことを「上野第一編(5)」で書きましたが、寒松院は東照宮の別当。東照宮ですからもちろん家康で、つまりは「表別当」だったということです。個人的には、東照宮の別当なら表別当の中でも上位の立場だったんじゃないかと思うけど。そして、もうひとつ↓。 【旧津藩主 藤堂高虎公開創之寺】あまり大きくはない門前に、ひっそりとたたずむ2つの地味な碑・・・けど、ここに刻まれているのはただの文字ではなく、確かな歴史。別当がいかなるものであったのか、とか津藩主・藤堂高虎と徳川家の関わりなどについて何も知らなければ、ぶっちゃけただの古っぽい石碑(そこまで言うことないか)。ところが、背景などを勉強するととたんに萌えアイテムに変わるんだから、なんとも不思議なものです。と同時に、あちこちへ行くたびに、勉強の大切さを痛感させられます。にほんブログ村
2013年11月26日

※「上野第一編(13)」の続きです。初回の上野訪問は、思った以上に予定がこなせなくて残念でした。まあ、最も大事な目的はお盆のお墓参りだった訳だから、しょうがないっちゃ~しょうがないんだけど(笑)。しかし、ラッキーなことに思いがけずチャンスは早くにやって来た。で、第一編の1週間後に、再びリベンジに挑みました。上野から帰ったその日の報告は「リベンジ報告」に書いてますので、そちらもあわせてご覧ください。2013/7/20(土) 晴れ多少涼しいとはいっても、夏は暑いのが当たり前だし、なるべく早く行動を開始しておくのがラクだとわかっているのに、現地に着いたのは9時過ぎだった。先週のお墓参りも、家を出るのが予定より30分以上遅れたからな・・・旅先ではそこそこ時間は守れるんだけど、こういう時、近場だとどうも気が緩むらしいさて、今日は前回の続きからそのまんま始めます。てことで、再び降り立ったのが鶯谷(うぐいすだに)駅。前回、寛永寺から帰る時に鶯谷の南口から入ったから、今度は迷わずスムーズに行けるハズ・・・駅の南口改札は狭いけど、いくつか変わったものが置いてあった。けど、それより壁にかかっていた絵に目が行った。 【鶯谷の由来 鶯谷といえば人々は直ちに鶯谷駅のあるそれを想うであらうが、これは明治以後に つけられた名称で、江戸時代の鶯谷として知られてゐるのはここではなく、 今の谷中初音町にあって鶯谷といったのである。 初音町というのは明治二年に出来た町名であるが、その起りは前から初音町三丁目に ある霊梅院附近の森を「初音の森」といったから初音の森にもとずいているので ある。初音の森といわれるようになったのは此の附近に鶯が沢山いたので、 鶯にちなんでつけられたのである。 附近には龍泉寺、海蔵院、長明寺、上三崎北町の本立寺、加納院、観音寺の 七ヶ寺が建ち並んでいて、この下の谷を「鶯谷」といったので、その名は 鶯の名所であったからである。 それは元禄の頃、東叡山輪王寺の宮、即ち上野の宮様が京鶯を数多くこゝに 放されたので、年の寒暖によっておそい早いはあるが立春二十日頃から初音を発した。 関東の諸鳥の囀りがみな訛りがあるけれど、当所の鶯は皆上方の卵なので 東国の訛りがなく音色にすぐれていたという。】・・・要するに、寛永寺の宮が「東国のうぐいすは訛りがあるでおじゃるなあ~」とわざわざ京からうぐいすを運ばせて放したってことらしい。んなバナナ・・・宮にはよほど上野のうぐいすの音が聞き苦しかったのだろうか・・・初音町というのは現在の地名にはないようだけど、寺の分布から見ると、上野駅の東側の浅草との間のあたり、それからその北の入谷とか下谷のエリアを指すんじゃないかと思われる。もともと、「上野」と「下谷」はセットの地名だった。下谷(したや)、入谷(いりや)、それから現在の寛永寺の北西は谷中(やなか)・・・この辺には、「谷」のつく地名が多い。上野第一編で、何度も「上野の山」と書いたけど、低地と上野山内での最高地点との比高は、せいぜい10mちょい。山の多い地域にお住まいの方には、「全然山じゃないじゃん!」って思われるでしょうが、関東は平野だし、この辺は海抜も低いところなのでね。少し前の雑談、「お受験終わり。そして東京から江戸へ」で試験が終わったら上野編を完遂させようとプランを組んでいたことを書きましたが、地図を見ていて「あれ?こことここって隣だったんだ~」て初めて知ったことが多かった。都心に近いところはJRだの地下鉄だので近距離に沢山駅があって、すぐ近くにある場所でも違う駅を使って電車で行ってしまう場合もあるので、案外と土地の連続性が頭に入ってないことが多い(私だけかもしれないけど)。隣り合ってる駅なら、こことここが近いってことはわかるんだけど。(当たり前か)上野編の残りだけだと結構時間が余りそうだから、ついでにどこか近くへ寄ろうかと思って試験勉強しながら考えてた訳ですが、何となく神田明神へ行きたくなって地図を見てたら、上野のすぐ南が湯島、その先が神田だと初めて知ったあ~、こーゆー関係なのか・・・上野から江戸城まで歩き通すコースなんかも面白そうだな~と考えていて、ふと高台にある上野の重要性に気付き、さらにこの辺りは坂が多いことなんかも思い出した。江戸の地形を考え始めるようになったのは、この時からです。で、疲労困憊で試験を終えて、帰りに本屋に寄って江戸の本とかあるかな~と覗いてみたら、色々面白そうな本はあったんだけど、結構地形に関する本もあった。そっか、皆同じことを考えるんだな~と思って、数冊買って帰ったんだけど、その中の一冊、『江戸東京 地形の謎』(芳賀ひらく著)という本は古絵図も載っていて、古い地形がわかりやすく書かれていた。ちょっと前置きが長くなりましたが、上野のページを開くと、上野広小路から始まって上野駅~鶯谷駅~日暮里駅~西日暮里駅と続く現在の山手線のラインはずっと長い崖になっていて、 【台地と低地を画す「偉大な崖」が数km以上つづく】と注釈が付けられている。「偉大な崖」かあ、なんかすごいな~。そういえば、日暮里らへんから山手線で池袋へ向かう途中の片側は急斜面になってるところが多いもんな~。崖とはいっても、上にも書いたように比高はたかが知れてるんですが、地形は結構急なのだ。言われてみれば、ホントに崖。普段の生活の中では全然気にしたことなかったけど、こうして見てみると、山手線はたしかに「山手」を走ってるんだな~と今さらながらに驚いたものです(笑)。なので、わずかな高台とは言っても、平地の江戸では結構インパクトがあるし、上野の山内でも見晴らしのいい場所もある。上野から崖つづきの先の諏訪台にある道灌山城も東側の見晴らしはよかったので、道灌さんが築いた城でなかったとしても、周囲を睥睨(へいげい)するには確かにいい場所だったんだな~とあらためて思った。なんたって、家光が腰掛けて展望を楽しんだくらいだし。あ、諏訪台といえば、先日のNHKの「おはよう日本」で「富士見」の話を取り上げていて、諏訪台の富士見坂出るかな~と思ってたらやっぱり出たんだけど、どうやら地元の子供代表の願いもむなしく、高層ビルが建っちゃって「富士見」坂じゃなくなっちゃったようですね。「あ~、やっぱり建っちゃったか~」と朝から残念な思いをしました。・・・すいません、脱線しました近代に入って、上野~鶯谷間の地形は少し変えられてはいるようですが、上野から日暮里方面へ向かう山手線のラインがほぼ崖の地形を表してます。(周辺地図のリンクはこちら)鶯谷の近く、現在の根岸町のあたりを叡山になぞらえて「坂本」と呼んでいたと「上野第一編(12)」に書きましたが、いつから根岸のあたりを坂本と呼んだかはわからないものの、明暦3年(1657)頃の絵図には上野駅から鶯谷に向けてちょっと行ったあたりの場所に「さかもと」と描かれてる。明暦ならかなり寛永寺の初期の頃だから、もともとは上野駅付近が坂本で、寺域の増加とか寺内の構成の変化とかでもう少し北の方へ「坂本」の名称が移動したのかもしれないな。根岸でも上野駅でも、どっちにしても崖の下。だから「坂本」には違いない。ただ、叡山を真似るんだったら、やっぱり不忍側に付けるべきだと思うけどね(しつこい)んで、火よけのために子院が根本中堂などの主要堂宇から遠ざけられたと「上野第一編(8)」で『上野寛永寺 将軍家の葬儀』から引用しましたが、後期になるとこの崖の下にも子院が描かれるようになる。現在の地図と対比すると、どうもこれらの子院は現在ではJRの用地になってるようなんだな。上記リンクの地図では、上野駅から北へ向けて何本も線路が通ってますが、上野駅のすぐ上、「常磐線」と書かれてるあたりが子院があったと思われる場所です。ただ、この辺りはもともとの地形より少し高くなってるような気がするけど。で、少し高めのまま鶯谷駅に突入・・・鶯谷駅は崖の中腹のような場所にあります。電車に乗ってると高低差とか気にもならないけど、色々考え始めると都内の地形も面白いです。よくよく考えると、急な坂が多いしね。比高がそれほどでないためか、たとえば長崎みたいに「坂の町」ってイメージは一般的にはあまりないかもしれないけど、地形に着目するとなかなか興味深い・・・江戸の本で「坂」とか「崖」をテーマにした書籍が多いのはそのためなんでしょう。いずれ、地形だけをテーマに江戸を歩いてみるのもいいかな~って思い始めました。でもたぶん、欲張りな私は寺とか寄りたくなって地形だけなんてゼイタクな歩き方はできないと思うけどにほんブログ村
2013年11月24日
目次その2です。「~」でつないでいるところは続きページなので、ページ上下の「次へ」をクリックしてお進みください。要するに、合間に雑談を入れなければもうちょっとすっきりしてたハズなんです。それにしても、福山編の途中の雑談が多いこと・・・(笑)。●2011年11月 福山編(広島県)「福山編(1)」~「(4)」「福山編(5)」「福山編(6)」~「福山城(1)」~「福山城(10)」「福山城(11)」~「福山城(13)」「福山城(14)」~「福山城(17)」「福山城(18)」~「福山編(8)」「福山編(9)」~「大谷城(1)」~「市迫城・殿奥城」~「福山編(14」「相方城(1)」「相方城(2)」~「福山編(17)」「福山編(18)」~「神辺城(1)」~「要害山城(1)」~「福山編あとがき&3年目始動」●2012年12月~2013年1月 東西条バトル編(広島県)「2012年ラストお~!!/東西条バトル編(1)」「東西条バトル編(2)」~「(4)」~「鏡山城(1)」~「(11)」「東西条バトル編(5)」~「(11)」「東西条バトル編(12)」~「新高山城(1)」~「(6)」「新高山城(7)」~「東西条バトル編(13)」~「頭崎城(1)」~「東西条バトル編(17)」「東西条バトル編(18)」~「白山城」~「東西条バトル編(24)」~「高山城(1)」~「(2)」「高山城(3)」~「東西条バトル編(26)」~「(29)」「燃え尽きジジイのぼやき(東西条あとがき)」「武将と僧侶のアルコール耐性・前編<東西条編・番外>」~「後編」●2013年3月 手術とプチ馬橋編(千葉県)「手術とプチ馬橋・その壱」~「その伍」●2013年7月 上野第一編(東京都)「上野第一編(1)」~「(4)」「上野第一編(5)」~「(13)」●2013年7月 上野第二編(東京都)「上野第二編(1)」~「(28)」「上野第二編(29)」~「(32)」「上野第二編(33)」~「(70)」「上野第二編(71)」~「(77)」「上野第二編(78)」~「(83)」●2013年11月 上野第三編(東京都)「上野第三編(1)」~「(8)」「上野第三編(9)」~「(12)」「上野第三編(13)」~「(17)」「上野第三編(18)」~「(22)」●2014年1月 お正月特番「新春はケージョーから」(東京都)「新春はケージョーから(1)」~「(11)」
2013年11月24日

今日は日光に行ってきました。あと2回分、年内有効の東武のタダ券があるので、1回は写真をメインにして、1回は恒例のお護摩を受けに、2回とも日光へ行こうと思ってました。ホントは先週行く予定だったんだけど、先週はかなり体調が悪かったので身体を休めるのを優先させたのだ。今週も体調は良くなかったんだけど、最近は月の半分くらいは体調不良の日が続いてるので、すでに年末モードに入って忙しい私は、これ以上延ばすとお護摩でさえ年内に行かれるかどうかわからない・・・で、行かれる時にちょっと無理してでも行っておかないと後がキツイな・・・と思って頑張りました。ただ、心配なのは人出。日光は紅葉も早いので、もう今週ぐらいは山内は終わりかけぐらいのハズだけど、一般的な紅葉の最盛期でもあるし、連休でこそないものの、祝日ではあるから、混むかもしれん・・・まあ、観光客はほとんど東照宮へ直行するんだけどね。でも、今週のうちにどうしても行っておかなくちゃならなかったんです。その理由がこちら~↓。 え~っと、去年もらった夜叉様のチラシが見当たらないので別のところで説明を書きますが、9年ぶりのご開帳だというのに、まだ見に行ってなかったのだ。だって、温かくなると観光客が多いし、紅葉のシーズンは人が多いし、それにぶっちゃけ忘れてたし(笑)。先日になって急に、夜叉様の公開っていつまでだったっけ・・・とチラシを見返したら、今月最後の金曜日までだという。しかも、この夜叉様は天海と輪王寺宮にも関係がある像だと数日前に知ったので、これは何としても行かなくちゃ・・・どうしても体調が悪かったら、ここまで引き延ばしてた自分が悪いんだし、もう諦めるしかないけど、とりあえず頑張るだけ頑張ってみないと・・・と思っていたら今日なんとか起きられたので、どうにか夜叉様にお目にかかることができました。ただでさえ、現在上野編で寛永寺を連載中なので、もう輪王寺は旬の中の旬もいいとこ。まして、輪王寺宮の名前まで出てきたら、これはもう行くしかない。まだ上野編で輪王寺宮のことを書いてないので、夜叉様については日光写真館、または寛永寺の記事の中で書くことにします。今年のお盆の墓参りの後の史跡めぐりに寛永寺を選んだのは特別な理由があった訳じゃないんだけど、知れば知るほどその壮大さに圧倒されるばかりで、いずれ浅草寺や増上寺の記事も書く予定ですが、寛永寺と輪王寺、あるいは寛永寺と浅草寺、みたいな感じで上野編が終わってもあちこちで寛永寺が顔を出すことになりそうです。それぐらい、寛永寺は大きな存在。で、今日はまずやるべきことをやっておこうということでお護摩を受けたのですが、今まで漫然と受けていたお護摩が、今年は寛永寺との関連でいつもとは全く違う気持ちで導師様の祈祷を見てました。ちょっと今日はもうでろでろなので、輪王寺宮のことを書いた後にでも今日のお護摩について書こうと思ってます。日光詣でとはいえ、このタイミングなので今日は寛永寺モード全開で勇んで出かけたのですが、番狂わせな出来事もあり、なんか複雑な気分・・・特に、これまた恒例の大猷院(徳川家光墓所)。前回の日光詣でからちょうど1年経つんだけど、1年の間に結構変わってた。何が変わったって、立ち入れない場所が格段に増えてたんですよ~。例えば、仁王門脇の霊廟宝庫。去年は建物の裏側にまで入り込んで1周できたし、その近くに林立する灯籠群の間も歩けたのに、もう近寄れないように玉石が敷かれ、ロープが張られてた他に数カ所ある灯籠群の場所も、同じく自由に歩けないようにロープが張られてた。ええええ~~!せっかく灯籠のひとつひとつまで撮れるものは撮って、誰の奉納かとか色々紹介したかったのに~!!その気になった矢先にこれって、ひどくない!?日光じゃない別の場所で人気のあるスポットや、人気が出てきたスポットで、綺麗に整備されたのはいいけど「前のがよかった・・・」ってボヤいてる人を今まで見たことあるけど、まさにそれ!その気持ち、今ならすっごくよくわかる!!まあ、世界遺産だしね~。ある程度の規制も致し方ないとは思うものの、今まで見られたものが見られなくなるって、なんだかな~・・・逆に、期間限定で今しか見られないってのもあったんだけど、お気に入りの大猷院で規制がかかるってのが私には痛かった東照宮の宝物館の方は、新しい建物の着工が始まってるらしい。綺麗に格調高い展示になるのは一見いいようだけど、たぶん私は「今までのアットホームな展示の方がよかった・・・」てまた泣くことになりそうだから、新しい建物に移転する前にせっせと宝物館も見ておいた方がよさそうだな~と思った。で、今回も駅からバスで山内へ直行して、人が少ないうちに東照宮を少し撮っておこうと思ってたけど、夜叉様を見る方が先だと思ってそちらを見ているうち、お護摩の時間が迫ってきたので1年の守護となるありがたいお護摩を受けて外に出たら、もうすごい人。これじゃイライラするだけだわ~と思って東照宮へ寄るのはやめて、普段は滅多に行くことのない輪王寺関連の場所へ行った後、大猷院へ行ってもうおしまい。結局、今回も東照宮へは一歩も足を踏み入れませんでした。五重塔の前のあずまやへは、腹ごしらえのために2回行ったんだけどね弁当を持参してたので、そこでお昼を2回に分けて食べたのだ。まあでも、東照宮へ行かないのはいつものパターンではあります。お護摩を受けてる時にあらためて気が付いたんだけど、やっぱり私にとって日光は、東照宮よりお護摩であり輪王寺なのだ。今までは特別な理由もなく、輪王寺が好きだったんだけど、江戸期の歴史を知った今ではもっと興味を持つようになった。江戸期の歴史・・・それは、寛永寺の記事にかかってきます。上野第二編も頑張ります。にほんブログ村
2013年11月23日

慈海僧正さんの墓の手前にも、大きな碑↓。「上野戦争碑記」とある。 さらにその手前にはこちら↓。 【虫塚(むしづか) (都指定旧跡) 虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った 虫類の霊をなぐさめるため、文政4年(1821)に建てられたものである。 増山雪斎は、宝暦4年(1754)の生まれ。本名を正賢といい、雪斎は その号であるが、玉園・蕉亭・石顛通人・巣丘隠人など多くの別号がある。 江戸の文人大田南畝や大坂の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、 その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋 (しんなんぴん)に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。 中でも虫類写生図譜『虫豸帖』(ちゅうちじょう)は、その精緻さと本草学に のっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政2年、66歳で没した。 虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に 寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転した。勧善院は、4代将軍徳川家綱の 生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。 碑は自然石で、正面は、葛西困是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と 菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わった ことが知られる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)さて、雪斎さんのことは知らないので(笑)、ここでも寛永寺に関することだけ補足したいと思いますが、前回の慈海僧正の墓の解説もそうだったけど、寛永寺の規模は往時と今とではケタ違いなので、普通に解説を読むとちょっと混乱を招くんじゃないかと思う箇所がある。明治維新の際、実は寛永寺は一旦終わってます。上野戦争で建物系が壊滅的な被害を受けたことは前に書きましたが、それに先だって、僧侶はもちろんのこと、寛永寺お抱えの見回り役人や鐘撞き係の下っぱまで、関係者すべてが山内処払いの処分を受け、寺域から退去していたんだそうな。その詳しい時期はいつなのかちょっとわからないんだけど、あるいはケイキさんが水戸へ向かって出立したのと同時期かもしれないな。そして焼け野原となった境内地は没収、輪王寺宮は還俗させられ、寛永寺は事実上の廃止状態に追い込まれた。その後、明治8年になってようやく復興が始まるが、かつての栄華は望むべくもなかった。やがては子院も復活するけれど、現在の寛永寺というのは、根本中堂のあるところとそれに隣接する大慈院を含む建物、それと経営する霊園のことを指す。先人の訪問記で、現在の寛永寺のことを「まるで押し込められるかのように上野公園の裏側にひっそりとしている」みたいに表現しておられる方がいたけど、確かにそれは言えると思う。歴史ファンでなくとも、寛永寺の名を知ってる人は多いと思うけど、あまりに立地条件が悪いので、根本中堂・・・というか、「現在の寛永寺」を訪れる人は少ない。上野公園内にあるいくつかの寛永寺の管轄にある寺社は、結構沢山の人が訪れるのに。まあ、復活できただけでもラッキーだったのかもしれないけど、ともかくすべての子院の復活までには至らず、再編成する中で寛永寺本体に組み込まれた子院もあるので、上の解説の下線部分のような表現になってしまうのだろう。で、もともと虫塚のあった勧善院は「お腹様別当」という格式の高い子院だったのに、本体に吸収されちゃった訳だね。私は霊廟には行ってないからわからないけど、かつて霊廟の存在した絵図を見ると、現在の霊園の敷地をほぼいっぱい使って霊廟があったようだから、現在では間違いなく霊廟の規模は縮小されてるはずだし、もう別当を必要としない・・・というか、維持できなくなったのだろう。だって、もう徳川家からのお手当はもらえないんだし。別当の中でも現存している子院はいくつかあるにはあるけどね。さて、ここまでの色々な石碑は、参道の向かって右側に集中していて、左側には木が植わっているだけ。・・・いや、ここにもこれがありました↓。 ハア、暑い中立ちっぱなしで疲れたな。少し休んでこの先のことを考えたいけど、境内だしベンチなんてものはない。かといって、上野公園内に入っちゃうと人も多いし、そもそも公園に入る手前にもいくつかの見るべきスポットがある。どうしようかな~って境内を見まわしたら、奥の隅っちょになんかワケのわからないものがあったので↓、ここに腰掛けてしばし休憩・・・ なんなんだ、これ・・・これもかつての境内を飾っていたものなのかな?由緒あるお品だったら申し訳ないけど、今の私には休憩を取る方が大事(笑)。んで、これ↓に腰掛けた訳ですが、 これ、絶対奉納された灯籠の台座だよな~。(でも座る)前日から凍らせておいたアクエリアスは、この暑さの中でもまだ冷たさをキープしてた。 でも、それももう残り少ない・・・昼メシをまだ食べてないので、ここで手持ちの菓子パンをかじりながらこの後のことを考える。まだ13時すぎで時間は早いけど、これからもっと暑くなるしもうヘロヘロだし、予定をすべてこなせないのは確実。真夏に無理するとロクなことがないしな~・・・で、結局この日はここで打ち切りにすることにしました。ぼんやりパンを食べながら座ってたら、少し離れた場所ですずめちゃんが元気に砂遊びをしてた。カメラを構えたら飛んでいってしまったので、残骸だけ撮りました(真ん中の穴がすずめちゃんの掘ったとこ)↓。 このクソ暑いのに、元気じゃのお・・・それとも、暑いから地面を掘って涼んでたのか?根本中堂には1時間くらいいたけど、拝観者は10人も来なかった。あまりに立地条件が悪いよな・・・かつて栄華を極めた寺だと思うと、あまりのわびしさにちょっと切なくなるけど、人がほとんどいないので浸るには最適。帰ると決めたら、もう一刻も早く帰って家でゆっくりしたい。食べ終わってから立ち上がって周りを見回すと、この辺の塀の瓦にはやっぱり葵紋がついてたけど、塀のラインはなぜか3本だった↓。 外へ出たとこ↓。どうやらこちらが正式な入口のようですね(笑)。 ああ、まさか現在の寛永寺だけで終わっちゃうなんてな~!!ラブホ街をさまよったのも、響いたよな~。仕方ない、涼しい日を見計らってなるべく早めに再訪するとしよう。つか、涼しい日なんて当分来なさそうなんだけど・・・※「上野第二編(1)」へ続きます。にほんブログ村
2013年11月20日

境内には色んな碑があるものの、それらすべてに解説が付いてる訳でもない。こちらはちょっと葉っぱに隠れちゃって読めない部分もあるけど、どうやら戊辰戦争で亡くなった幕府方の戦死者を弔う供養碑のようだな↓。 大正6年とある。このぐらいになれば、少しは大々的に法要を営むこともできたのかな? それから、こちら↓。 【尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。寛文3年 (1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・ 紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、 正徳・享保年間(1711~1735)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、 入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。 寛保3年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、 月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う 酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)、顕彰碑である 「乾山深省蹟」が建てられた。 抱一は江戸琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、 『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年には光琳の墓所を整備するなど 積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、 上野駅拡張のため移転した善養寺(現・豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し、 東京都旧跡に指定されている。 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和7年(1932)、その足跡が無くなることを 惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、 それによると現・善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鴬谷にあった 国華倶楽部の庭へ、大正10年(1921)には公寛法親王との縁により 寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。なお、 入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)酒井抱一(ほういつ)って、「開運!なんでも鑑定団」でよく出てくる名前だよな・・・(それぐらいしか知らない)百回忌まで営むって、熱狂的なファンだったんだ。 解説文に「下谷坂本」って地名が出てきますが、これは鶯谷駅方面の現在の根岸あたりのことで(周辺地図のリンクはこちら)、ここにも叡山との対比が見られます。そう、比叡山を琵琶湖側に降りた、あの近江坂本にならってるんだそうなんです。ま、先行して言っちゃうと、天海は不忍池(しのばずのいけ)を琵琶湖に見立てたって話なんだけど、根岸の方に坂本の地名を付けるって方角的におかしくね!?付けるなら不忍側だろ!ってプチツッコミが入りますが、とにかく不忍池と反対側を坂本と呼んだそうです。お次はこちら~↓。 【慈海僧正(じかいそうじょう)墓(都旧跡) 墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」 左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉 二月十六日寂」と刻む。 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、 川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、 一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。 学頭は、また門主、輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、 学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる 「法華経」「薬師経」翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻の著作がある。 寛永元年(1624)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奉請に よって大僧正の位が贈られた。 墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和33年東京文化会館建設のため 寛永寺に移った。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)・・・なんか、ぱっと見、墓じゃないよね(笑)。その隣にはこれもあって↓ 現地では、私はこちらの宝篋印塔が墓なのかと思った。けど、解説を見ると赤いあぶちゃんを掛けてる方が墓のようだな。それに、坊様の墓っていったら宝篋印塔よりは無縫塔の方が一般的だしな。 さて、これは慈海さんのお墓ですが、ここでは慈海さんではなく、解説に出てくる「学頭」について、再び『寛永寺』からご紹介したいと思います。 一大宗教拠点・寛永寺のトップに立つのは輪王寺宮(りんのうじのみや)。宮については別のところで書きたいので、これまでの記事ではなるべく宮の話は出さないようにしてましたが、解説に出てきちゃったので仕方ありません(笑)。一山を束ねる宮は、多少語弊があるけど、現代でいえば寛永寺内における天皇陛下。対して学頭は、内閣総理大臣。いやいや、宮を総理大臣にして、学頭を官房長官とする方がいいかな。ともかく、学頭は実務レベルでのトップの人。『寛永寺』によると、通常は大僧正に任じられ、学頭個人のお手当(300石)も支給されたらしい。この学頭は単独の任務ではなく、子院である凌雲院の住職と兼務だった。「上野第一編(4)」で寛永寺創建の状況について簡単に書きましたが、寛永寺のできる前に上野に屋敷を持っていた3人の大名、藤堂高虎・津軽信枚(のぶひら)、堀直寄は寛永寺創建のために徳川秀忠に土地を巻き上げられ・・・いへ、収公された。ただ、ちゃんと替地も与えられてるし、この3人は寛永寺の堂宇の整備にも積極的に参加した。これら3大名の姿勢が他の大名を刺激して、みんなも競うように子院を建立したりしたそうな。で、ちょっとものによっては微妙に書き方が違うので今一つわからない部分もあるんだけど、この3家はそれぞれ子院を寄進している。藤堂家は、寒松院(かんしょういん)。津軽家は、津梁院(しんりょういん)。そして堀家が凌雲院(りょううんいん)。ただ、私が思うにあらたに造って寄進したというよりは、それぞれの菩提寺が上野の山にあったのをそのまま寛永寺に組み込まれて温存を認められたんじゃないだろうか。このうち、堀直寄は特に上野の山に多くの足跡を残し、そういう功績が認められたのかどうかまではわからないけど、ともかく凌雲院は寛永寺内で最大の子院だった。解説の最後には、東京文化会館建設のために移転した、とあるけど、上野駅の公園口を出てすぐの場所にどーんと凌雲院があったと思ってください。ま、子院は移転が多かったことも前の記事で書いたけど、根本中堂ができる前の初期の頃と思われる絵図では、凌雲院は東京文化会館の場所ではなく、東京都美術館の北側半分とその奥のあたりにかけて描かれてます。で、学頭の話に戻りますが、解説に「輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者」とあるけど、一口に名代といっても、宮はただのお坊さんじゃなく、とんでもなく格式の高い立場の方だった。どう高いのかはもうちょっとお待ちいただくとして、そういう宮の名代ともなれば、学頭の職務内容も当然レベルが高い。なんたって、「親王の名代として将軍などとの公式会見の場に臨める唯一の有資格者」(『寛永寺』より)なんだそうな。 【この学頭の権威は大変なもので、万一学頭が欠けた時は、寛永寺の山内、 山外を問わず、学識、経験を積んだ当代第一級の高僧を選んで後任に当てる しきたりであった。そして、その任命には宮と将軍との両者の同意が必要と されていたのである。】 (『寛永寺』より)宮はね、そりゃ自分の代わりを務める者となれば、それこそどこへ出しても恥ずかしくない人物を選ぶ必要に迫られるのもわかるけど、将軍の同意って・・・ここからも、寛永寺がただの祈祷寺、菩提寺ってだけじゃなく、徳川家と密接に関わっていたことがうかがわれる。ただ、上の解説によると、慈海さんは没後に大僧正を贈られたことになってるなあ・・・でも、元禄6年(1693)が没年なら、まだ根本中堂はできていなかった頃だし、比較的初期にあたる時期だから、まだ寛永寺のシステムも完全には整っていなかったのかもしれない。あるいは、宮(公弁法親王)が大僧正の追贈を申請したことにより、大僧正=学頭の流れが出来上がったのかもしれないよな。↓ランキング参加ちう~。「ぽちり」とお願いしま~すにほんブログ村
2013年11月19日

さて、ここまで由緒ある品々をご紹介してきましたが、根本中堂の境内には変わったものが色々とあります。今度はそれらをご紹介しましょう。 中堂の向かって右側の脇にあるのが、こちら↓。 「茶筅塚」。こちらの由緒はさっぱりわかりませぬ。そのすぐ近くにあるのがこちら↓。 【東京都指定旧跡 了翁禅師塔碑 了翁禅師(りょうおうぜんじ:1630-1707)は、江戸時代前期の黄檗宗の 僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から仏門に入り、後に 陰元禅師に師事します。諸国を廻るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円 (きんたいえん)」と命名し、不忍池に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で 難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。 こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。 宝永4年、78歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。 本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた 場所や、現在の場所に移築された時期などは不明です。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)なんで不明なのかその理由こそ不明だけど(笑)、中におわすのがこの方↓。こちらが了翁禅師さんなんだろうな。 え~っと、解説には「塔碑」とあるのに、どう見たって碑じゃないよな・・・と不思議に思って周りを見回すと、解説板をはさんで 確かにデカい碑があった↓。アハハ、こっちかあ~!! 本文は漢文。あれ、ちょっとこの碑の下って・・・ カメだあ~、カメだカメ~~~!!顔がヘンだけど、甲羅には亀甲文があるし、確かにカメ~~!!あっ、カメ好きなんですよ、私。昔、うちの庭に小さいけど池があってね~。コイと金魚が沢山泳いでたんだけど、池があるからという単純な理由で、近所のおばさんが拾ったカメをうちに持ち込んできたのだ。ちょっとコイ達と一緒にする訳にもいかないので、部屋の中に大きなたらいを置いてそこで飼ってたんだけど、たらいから出ようともそもそ這い上がってはガコン!!と倒れることをしょっ中繰り返してました。ある時、留守の間に逃げ出しちゃってさ・・・「母さん、僕のあのカメ、一体どこにいったんでしょうねえ・・・」 (←古い)いや、カメはともかく。坊様が夢のお導きで開発した薬を俗人の甥に売らせるってところと、一体どんな薬だったんだってちょっと気になったので、軽い気持ちで了翁さんと錦袋円について調べてみたらば・・・なんか、とんでもないお人だった。ウィキペディアには結構詳しく経歴が書かれているので、詳しく知りたい方はそちらをご覧いただくとして、わたくし流にかいつまんで説明するならば、了翁さんを貫く執念みたいなものが2つある。出羽の貧農の家に生まれた了翁さんは、あまり幸せな少年時代を過ごしたとは言えず、仏門に入ったのも母や養父母が相次いで亡くなるという不幸に見舞われたからだった。11歳で出家して13歳の時に訪れた平泉・中尊寺で経典が多く失われていたことを嘆き、藤原清衡奉納の宋版大蔵経などを探し回り寺に納めたという。どうやらこの出来事が了翁少年にとってはかなり衝撃的なことだったらしく、以後の人生においては経典や書籍の収集に情熱を燃やし、宗派を越えてあちこちの寺へ大蔵経などを寄進している。これがひとつめの柱。もうひとつの柱、それがすさまじいほどの荒行。行は色々とやってたみたいだけど、何と言っても目を引くのが「羅切」(らせつ)。「羅」は「魔羅」、または「摩羅」のことで、「マラ」は「人の心を迷わし修行のさまたげとなるもの」・・・転じて男性性器を指す陰語。「戦国鍋」風に言うならば、ホトトギスを切っちゃった・・・え?戦国鍋見てない?つまり、カミソリで自分の性器を切り落としてしまったんだそうなんですよ、了翁さんは。これは、後々まで相当傷みを引きずったらしい。あまりに苦しんだので、有馬温泉へ療養に行ったという(笑)。たぶん、その行程の中だと思うけど、摂津では左手の小指を砕いてそれに火をともす「燃指行」なる荒行を行ったそうな。この時、32歳。さらにその翌年には、左手の指を砕いて油紙を巻いて火をともし、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するというとんでもない荒行、「指灯」を行い、左手は焼き切れてしまったという。まあったく、修行とはいえ、何てことするんですかね~。しかしまあ、私に言わせれば了翁さんは仏門には向かない体質だったんだろうな。これはあくまでシロートの素朴な印象で、教義うんぬんからのアプローチじゃないので反論は受け付けませんが(笑)、健康な肉体から自然とわき出る本能の強い人だったんだろう。今風に言えば、タンパク質を最小限にしか摂らないベジタリアンの草食系男子に「肉断ちしろ」って命令したところで、苦にもならないでしょうからね。苦労しないんじゃ、行にはならないべ。親鸞のように拡大解釈して、妻帯オッケーで新たな道を切り開いた人もいるけど、了翁さんはあえて過酷な道を選んだ。ああ、もちろん親鸞を非難してる訳じゃないですよ。出家したみんなが真面目に女色を断ってたら、今頃「日本人」は絶滅してたか、絶滅危惧種だったかもしれないし。しかし、了翁さんはまさに「身体に叩き込む」方式で、自らに苦行を課し、本能の欲求をそれ以上に強靭な精神力で乗り越えた。・・・乗り越えたと言っても、まだ医療の発達してないこの時代、左手も下半身も相当苦しんだらしい。35歳で江戸に滞在していた時、また古傷が痛み出した。そこで観世音菩薩様に祈ったところ、霊夢を見て錦袋円のレシピを教わったんだそうな。が、ウィキペディアの「羅切」のページには、 【その後、2年ほど傷口が治癒せず苦しんだが、自分の治療用に自ら調合した薬を、 「錦袋円」と名づけて売り出したところ、江戸名物になったと言われている。】とある。この流れの方が現実的だし、何にせよ傷の痛みに苦しんでた時に現れた薬だから、こちらの説の方が現実に近いんじゃないのかね。でも、「ホトトギスを切って苦しんだけど、この薬でばっちり良くなりました~」ってのも体が悪いし、「霊夢で授かりました~」ってちょっと脚色したところで、江戸時代にAC(公共広告機構)がある訳でなし、効能さえあれば詐欺とも非難できんだろう。あっ、別に茶化してるんじゃないですよ。錦袋円は現実に存在したんだし、リアルに想像してるだけ。で、錦袋円がどんな薬だったか気になるところだけど、開発の目的からしても、主に鎮痛でしょうね。ウィキペディアには「飲用すると心身爽快になったといわれる」ともあるので、イメージとしてはモルヒネとかアヘン・・・もっと言うなら、覚せい剤のような成分も若干入ってたのかもな~なんて想像した。weblio辞書だと、「毒消しと気付けの薬」とある。やっぱ覚せい剤系・・・(笑)とにかく、切ったり焼いたりしたままろくな治療も施さなかった傷の痛みが消えるほどの効果があった錦袋円、独り占めせず広く庶民へも分け与えようと思い立った。商売をすることについては、了翁自身にはためらいもあったようだが、錦袋円は噂が噂を呼び、バカ売れしたそうな。この資金を元手に、京や伊勢に施薬院を建て、錦袋円で多くの病人を救ったり、孤児の養育にもあたった。そして、上の解説にもあるように、寛永寺には勧学院を建て、併設した建物には沢山の蔵書を置き、山内のみならず一般にも公開した。これは日本初の一般図書館といわれているそうな。それも、貧しい閲覧者や遠方からの訪問者には宿とメシを提供するという親切ぶり。図書館だけでなく、了翁さんは私達の生活にも馴染み深いものと関係があります。 【勧学寮で寮生に与えられた食事は質素なものであったが、おかずとしては、 了翁が考案したといわれる漬物が出された。大根、なす、きゅうりなど野菜の 切れ端の残り物をよく干して漬物にしたもので、輪王寺宮がこれを美味とし 「福神漬」と命名、巷間に広まったとされる。】 (ウィキペディアより)まあ、福神漬の由来については別の説もあるようだけどね。了翁さんの一生は情熱的に、精力的に、アグレッシブにとにかくすごいものです。そんな彼の功績を称えるため、存命中の貞享元年(1684)には、寛永寺境内に等身大の銅像が建立されたそうな。まさか、上の写真の像がそうなのかな?何も解説がなかったからよくわからないけど、もしかしたらそうなのカモ・・・了翁さんと寛永寺の縁は、勧学院の建立だけじゃなく、講師を務めたり、ちょいちょい滞在などもしていたらしい。享年は77歳。平成19年には、命日の5月22日に寛永寺で300年法会が盛大に執りおこなわれたという。まあ、これだけの人だからね。私はこれまで了翁禅師のことは全然知らなかったけど、仕事の休憩中にネットで了翁さんの事蹟を読みながら、心の中で「ほえ~」と驚嘆のため息をもらしてました。(声に出したらおかしな人になるからガマンした)了翁さんは一般にはあまり知られてないんじゃないかと思いますが、この機会にぜひ皆様もパワフル了翁について知識を深めてみてはいかがでしょうか。にほんブログ村
2013年11月18日

根本中堂の前にはこれまたデカくて立派な銅灯籠が2基並んでおります↓。 実に立派で派手派手しいものではありますが(笑)、こーゆーのの装飾を細部まで撮る大変さはすでに日光写真館の方で充分すぎるほどわかっておりまして、このクソ暑い中だし(訪問日:7/13)、もう無理~!撮りたくな~い~!今回はパスう~!!とやたら自分に言い訳して、一旦はスルーしました。・・・が、ここは日光じゃないけど、その歴史と立場上、日光と同じ扱いをする必要がある・・・てことで、根性入れて写真を撮り始めました。寛永寺の記事はこの先もず~っと続きますし(なにしろ、上野の山ほぼ全域がかつての境内域)、日光写真館の方をご覧になってない方はこのスタイルに驚かれるかもしれませんが、上野編では時に「寛永寺写真館」が出現するかもしれませんので、ご了承ください。ほじゃ、向かって左側の灯籠から。といっても、左右混ざってるかもしれませんが(←よく覚えてない)。 ・・・うん、日光輪王寺の相輪塔前にあった灯籠と似てるな。まだまだ、ガンガン行きますよ~。 ↑ぐるぐる回りながら写真を撮ってくんだけど、一ヶ所だけぽっかり空いてる箇所があった。ここから火を入れるのかな? ↑これは一番下の部分。植物かなにかをモチーフにしてるのかな?んで、こちらが向かって右側の灯籠↓。 つい葵の御紋ばかりに目が行きがちですが、ふと気が付くとその周りは龍だらけだった↓。 すげえな、これ・・・灯籠上部の周囲を取り巻く天人たちといい、一体どうやってこんなの造るんだろ・・・写真を撮るのは確かに大変ですが、撮り始めると漫然と全体を見てるよりはやはり細部にまで目が行くので、楽しいことは楽しいです。 ↑で、こちらも一ヶ所だけ開いてるところがありましたが、竹の棒が渡してあるのがよく見える・・・これ、何だろ?この棒に火を入れた皿とかをひっかけるのかな・・・ああ、でもそんなことしたら棒が燃えるか こちらも灯籠の下部↓。なんか、中東の踊り子がヘソの下まで下げてはいてるスカートのように見えるんだけど・・・ で、踊り子さんには手を触れず覗きこむと、ホイップクリームを絞り出したような渦巻の上には アッハッハ~、チャルメラだ~!! 面白いな・・・どうやってデザインを決めてるんだろ。しかし、マヌケなことに、この灯籠の銘を撮っておりませんでした。わたくし あるにはあったハズだけど、磨耗しててよく見えなかったのかな・・・それか、意匠だけで満足したのかもしれない。てことで、残念ながらどなたの奉納かわかりませぬ。まあ、これだけのお品だから、そこらのヒラ大名の奉納じゃないことだけは確かだよな(←いいかげん)。灯籠はここまで。参道の先には、古そうな水盤が2つ。 【奉納 石盥盤 東叡山 中堂 元禄十一戌寅年九月吉辰 営監 従五位下米倉丹後守源昌尹】米倉なんて聞いたこともなかったけど、どうやらこの方は家光の小姓からスタートして、以後順調に加増され、若年寄にまで出世。ついに大名の仲間入りを果たしたらしい。銘から、根本中堂に奉納されたものとわかるし、元禄11年(1698)は中堂落慶の年だからな。てことは、この水盤は綱吉の時代から明治を迎えるまで、長いこと上野公園の噴水広場付近にあったものだろうな。米倉さんの水盤の向かいにある水盤↓。 こちらは磨耗がひどくて、名前の部分は「営監 従五位下」ぐらいしか読めない。が、米倉さんと同じく、中堂への奉献で、日付も「元禄十一戌寅年九月吉辰」となっている。なのでこちらも、長く噴水広場の方で参詣者を清めてきたのだろう。よくもまあ、上野戦争の折に薩長軍に破壊されずに残ったこと・・・参道の奥、入口付近には地味な鐘楼があります↓。 あまりにひっそりと地味に建ってるので、いい加減疲れたし、撮らなくてもいいか~と思ったけど、そこはさすがに寛永寺。こちらも由緒あるお品でした。 【銅鐘(台東区有形文化財) 本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(4代将軍 家綱)の一周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に 奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと 伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、 神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、 銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに 関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも 貴重な遺品のひとつである。平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財 台帳に登載された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)貴重な割に、台東区の文化財止まりってとこが解せんのだが・・・それに、よく供出を免れたよな。残念ながらこの時、光線の加減か写真がイマイチで鐘が撮れず、周りを数枚撮っただけにとどめました↓。 にほんブログ村
2013年11月17日

さて、前回は現在の上野公園の噴水の場所にあった根本中堂の話でしたが、今回は現在の根本中堂に戻りましょう。まずは、正面側の風景。 根本中堂正面の鰐口↓。これだけデコラティブなものは珍しい。 この鰐口の由来を知りたいと思ったけど、ちょっとわからなくて残念。そんなに古いものではないのか、あるいはお堂と共に川越から引っ越してきたものなのか・・・寛永寺では、歴史を語る古い鰐口も保存されているけど、そちらはまたおいおい・・・鰐口の奥に掛かるのは 扁額の両脇が何となくボケて見えるのは、ネットがかけてあるからです。巣鴨にもこーゆーのあったし、建物保存のための鳥よけだろうとは思うけど、できればない方がいいなあ・・・都内の寺社めぐりはこれからになりますが、他にもこんな寺が多くありそうな気がするな。いやいや、ネットよりこの額です。こちらもまた歴史を語ってくれます。前々回の中堂の解説から一部引っ張ってきますと、この建物は 【明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が 移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造と いわれる。】というもの。え~、川越ね・・・行ったことないし、建築もいい感じだからぜひ行ってみたいとは思ってるんだけど、「小江戸」と呼ばれる川越は人気の観光スポット・・・いつ行っても観光客が多そうだしな~。真冬なら少しは減るんでしょうけど、冬は私も忙しいしなあ。それにあそこは、戦国時代にも色々とあった歴史の濃い場所なので、気軽に行くにはちょっと・・・ま、いずれ行くには行くつもりだし、詳しい説明はここでは控えますが、なんでわざわざ川越から移築してきたかって理由について述べてくれてる人はいないんだけど、喜多院も天海とゆかりの深い寺だそうな。天海の前半生についてはあまり細かいことはわかってないらしいが、11歳で仏門に入り、20代の頃に7年ほど、叡山と園城寺(三井寺)、それと奈良の興福寺で勉強した以外はほとんどが関東+甲斐での活動らしい。その前半生のラストの時期にあたる慶長4年(1599)、63歳で当時の無量寿寺、今の喜多院に入ってそこで名を「天海」に改めた。ウィキペディアでは天海が喜多院に入ったのは天正16年(1588)だとあるが、少なくとも慶長4年には喜多院にいたといえるだろう。天海と家康の出会いの時期についても様々な説があってはっきりしないが、ともかく慶長18年(1613)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、その後も幕府重鎮や徳川家光などの庇護により発展、喜多院には現在も家光や春日局ゆかりの建造物などが残る。喜多院の創建自体はかなり古いものだけど、江戸期にはこのように徳川家との関わりが深かったので、そうしたことから喜多院の建物をもらってきたのだろう。元号を寺名に戴いた「寛永寺」にとっては、寛永期に創建された建物というのもポイント高かったかもね。ただ、個人的にはよくこの時期に新政府が移築を認めたな~って気もするけどね。え~と、それで扁額ですが、「瑠璃殿」というのは、かつての根本中堂の別名。「浄土」については過去のシリーズで何度か書いた記憶がありますが、うち「山口編(10)」では薬師如来様の浄土について書きました。宗教オンチになってしまった現代人には浄土=極楽の単純な図式ぐらいしか思い浮かばないかもしれませんが、実際には浄土はいくつもあります(と仏教では言われてます)。で、薬師如来様の支配する浄土が「東方瑠璃光浄土」なので、本尊に薬師如来像を戴く寛永寺根本中堂は「瑠璃殿」とも呼ばれたそうな。そして前回、かつての根本中堂を飾った勅額について 【これら豪華な品々を収めたお堂の外側には後水尾天皇および 東山天皇の勅額が掲げられるという、規模から中身から すべてが豪勢なものだった、とな。】とあえてさらっと書きましたが、このうち中堂正面を飾った東山天皇の宸筆による「瑠璃殿」の勅額が上の写真の扁額です。とある先人の訪問記では、この勅額は上野戦争で中堂が燃えた際に落っこちてしまったものを再び掲げたとあった。おお、すげえ歴史だなあ~!!と読んで感動したものの、『寛永寺』には全く別のことが書いてあった。 【瑠璃殿の勅額が江戸に到着した日、新橋方面から出火した火事があり上野まで類焼、 本坊、厳有院病・子院13宇を焼失したが、中堂は危うくまぬかれたのであった。 その後火災を心配して、公弁法親王の勅額の複製を造り中堂に掲げ、本物の額は 勅額倉を建て保管してあったので、上野戦争で根本中堂が焼失しても、 勅額は無事で、現在本堂に掲げられている。】アハハハハ、全っ然違うじゃ~ん!!「落っこちたものを再び掲げた」より「火事対策に最初からレプリカを造っておいた」の方がいかにも江戸ってカンジだし、妙なリアル感があるよな。それに、わざわざ勅額蔵まで建てたってことまで書かれてるし、なにより寺の記録だから、どこから仕入れた情報かわからない「落っこちた」説より、レプリカ説の方が誰が見ても信憑性は高いだろう。私のも含め、歴史ファンの書く記事にはちょっと注意が必要ですよそれにしても、根本中堂だって火よけに敷地を確保した上で建てられたんだし、火事が多いなんてのは初めからわかってるんだから、レプリカを造るぐらいなら勅額なんてもらってこなけりゃよかったんじゃ?ってツッコミ入れたくなるのは私だけじゃないだろう(笑)。レプリカを書いた公弁法親王というのは、時の寛永寺門跡。「親王」が付いてることからもわかるように、宮様です。公弁法親王は能筆家でもあったらしいんだけど、いくら字がうまいからって、さすがに勅額のレプリカをただの人が書ける訳もないでしょうしね。しかし、ここからもやっぱり中堂の火よけの効果には疑問があるな。松原を周りに置かない方がよかったんじゃ・・・てことで、この額は300年ちょっと前の勅額な訳ですが、元禄11年(1698)の落慶から明治12年(1879)の移築あたりまで、180年ぐらいずっと大事に保管されてた割には、保存状態はイマイチ・・・まあ、修復とかなければこんなもんなのかな。江戸に来たその日にそんな出来事があったのなら、場合によっては一度も綱吉の建てた中堂にはこの額は掲げられなかったのかもしれない・・・でも、蔵に長いこと閉じ込められず、中堂に華々しく飾られてたら今頃この勅額はこの世に存在していなかったかもしれない・・・実に数奇な運命を経て、平成の世では現役として拝観者を迎えてくれます。ちなみに、後水尾天皇の勅額の方には「寛永寺」と書かれているそうで、「院」じゃなく「天皇」だからおそらく在職中に書かれたもので、根本中堂のできる以前に寛永寺に贈られたのだろう。こちらは見た覚えがないので、現在どうなっているのかはわかりませぬ。さて、中堂を降りて向かって右側にある・・・これ、何て言うんだ?↓ 写真じゃ大きさはわからないかもしれませんが、すごくデカイのだ~。あまりにデカいので、背伸びしてつい中を覗きこみました。そしたら、五右衛門風呂としてもいけるよな・・・ってぐらいのサイズでした。よい子はそんな想像しないでね銘には明治12年9月23日とあるので、寛永寺が再興されてからあらためて中堂に奉納されたものらしいけど、まだまだビミョ~な時期だよな奉納者は連名になってるんだけど、一体どういう人達だったんだろう。にほんブログ村
2013年11月16日

で、めでたく綱吉が根本中堂建設に乗り出す訳ですが、前回の解説にもあるように、当初は現在の場所ではなく、上野公園内のあのデカい噴水の場所に建てられました。当時、噴水の場所には別の建物があったので、根本中堂を建てるためにそれをちょっと不忍池(しのばずのいけ)の方へずらして建てたんだそうな。この辺りは「竹台」(たけのだい)と呼ばれ、左右に竹が植えられていたことからこの名前が付いた。植えられていた竹というのは、慈覚大師・円仁が唐入りした際、中国の五台山から持ち帰って叡山に植えた竹を、さらに株分けしたものなんだと。え~っと、私の手元には『東叡山 寛永寺』という小冊子もあるんだけど、これどうしたんだっけ・・・もらったのかな?いやでも、ゴーカ写真入りだから開山堂あたりで買ったのかもな。綱吉が建てた根本中堂の規模は『寛永寺』の方にも書いてあるんだけど、「間口何間」と言われても、柱を何本建てればいいか想像するぐらいで実際の大きさはなかなかピンとこない。が、小冊子の方はわかりやすく書かれていて、それによると間口45.5m、奥行42m、高さ30mとある。え~、45m!?50m走のゴールって結構遠くなかったっけ・・・横幅のが広いから、噴水広場からはみ出ないか!?と思って地図で測ってみたけど、はみ出るほどではないらしい。ただ、噴水脇の広い道までめいっぱい使ったサイズにはなると思う↓。 これは先日の、第3回目の訪問の朝の写真ですけどね。普段はこんなテントは張られてないけど、この日はイベントでもあったんだろうな。この辺はご覧の通り広々としてて、噴水もごく小さくしか写ってないけど、手前にいくつかの堂宇があってその奥に根本中堂、奥に見えてる建物がトーハクで、かつてはそこが本坊でした。これだけの規模の建物なので、『東叡山 寛永寺』には「江戸随一の建物でした」とある。寛永寺の執事長さんが書いた『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(浦井正明著)という本には主要堂宇の初建年次が一覧表になっていて、それによると寛永2年(1625)の本坊建設から長い時間をかけて堂宇が次々新築され、その中では根本中堂はなんと最後から2番目に遅く建立された。根本中堂ができた同じ年には、宝蔵や吉祥閣なども建立され、主要な堂宇はほぼこの時点で出揃ったといえるのだろう。また、寺域も様々な出来事をきっかけとして次第に拡張され、大きく5期に分けられるという。そのうち、最後の大拡張が根本中堂のできた時期、元禄~宝永年間(1686~1710)。 【元禄期の拡張の目的は、主として元禄11年(1698)の竣工した根本中堂と その周辺に存在する主要伽藍を火災から守ることにあった。(中略)江戸期の 火災発生件数はわれわれの想像を遥かにこえたものであった。したがって、 当然のことながら火災に対する備えがきわめて重要な問題となってくるわけである。 いわば元禄の拡張は、諸堂宇や子院を主要伽藍から隔離するための新たな境内地が 必要になったことを意味している。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)火災・・・きましたね、私の好きな話題が(笑)。いや、好きっていうか、なんか気になっちゃうんだよね~。「江戸の花」っつったらもちろん火事と喧嘩ですが、もしかしたら私の中に流れてる江戸っ子の血が騒ぐのかな~なんて最近思い始めた。ああ、私自身は雑談「お受験終わり。そして東京から江戸へ 」で書いた通り、完璧な柏っ子ですけどね。けど、母親が馬込(大田区)の出身で、母方のジイちゃんの母ちゃん・・・つまりひいばあちゃんなんかは、キップのいいちゃきちゃきの江戸っ子だったらしい。ま、それはともかく寛永寺は主要堂宇が出揃うまでも長い時間をかけてるし、新しい建物を建てるのに子院を移動させたりとか、あと寛永寺内でも火事があったらしく、そうした出来事などをきっかけに、寺内ではかなり多くの変遷が繰り返されている。時代と場所が近いために、ちょっと本などを見ただけで江戸市中や寛永寺の古絵図が簡単に手に入り、すでにいくつか手元に持ってはいるんだけど、結構絵図ごとに子院の場所などが違っていて、それら細部を正確に説明するのは難しい。そうは言っても、根本中堂や本坊、東照宮などメイン中のメインは移動がないので、現在の地図と同定はしやすい。で、『寛永寺』の表紙になっている絵図は恐らく結構初期の頃のもので、延宝8年(1680)以前と思われる。根本中堂が描かれてないし、家綱の霊廟も描かれてないからね。その絵図では、噴水広場辺りにはいくつかの伽藍が描かれていて、敷地の横幅もおおむね現在の広場と同じくらいの規模だったと思われるものの、その両脇には子院がびっしりと控えている。それが、根本中堂ができた後の時代の絵図になると、噴水広場脇にあった子院はかなり遠ざけられている様子がわかる。おお~、なるほど、これ火除けなのか~と思ったね。ただ、新しい方の絵図ではもと子院のあった場所には「松原」が広がっていて、その奥に子院があるので、もし子院から出火して松原に延焼したらやっぱりメイン部分も類焼するんじゃないかな・・・ホントに火除けになんのか、これ!?ってちょっとツッコミ入れました根本中堂のあった場所は現在では噴水になってますが、ここは子供はもちろん、大人もゆったりと憩う場所。この場所が根本中堂だったことを知ってる歴史ファンは多くいますが、なにしろ多くの美術館・博物館や動物園を擁する場所でもあり、上野の山を訪れる人は多い。ので、全訪問者数の比率でいえば、噴水広場で寛永寺の歴史に浸る人は少ない。ですが、あのだだっ広い噴水付近を通る時にはそんな歴史もあったんだな~ってことを思い浮かべていただくと、また違った感慨があるのではないかと思います。あ・・・結局、火事に食いついている(笑)。話を根本中堂の歴史に戻しましょう。元禄期の拡張は火災対策だったらしいが、宝永の拡張は綱吉の霊廟建設のためだったという。そして、これをもって寛永寺の寺域はほぼ固定化したとある。空前の大伽藍・根本中堂の建設には松平薩摩守が任命された。『寛永寺』によると、「含み状を頭髪に結びつけ、決死の覚悟で中堂の建設に当たったという」とあるから、名誉なお役目以上に責任重大だったんだな。可哀想に・・・ただ、綱吉の霊廟勅額門のところにあった解説では奉行は柳沢吉保が勤めたとなってたけどね。松平薩摩守って誰よ?と思って調べたら、時期と官職からどうやら島津綱貴(つなたか)のことらしい。あの島津忠恒のひ孫にあたる方ね。ウィキペディアの島津綱貴のページには、 【幕命による寛永寺本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、 薩摩藩の財政は逼迫した】とお手伝いさんだったように書かれてるけど、どっちの立場だったにせよ、綱貴は根本中堂で苦労したってことだな。本尊は薬師如来。これもね~、堂宇なら何やらにはそれぞれ色んな意味が込められているので、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』などのちょっと詳しい本を読むと、シロートの手にはおえんな・・・とげんなりしてくるんだけど、まあかいつまんで説明しますと、まずここにも叡山との対応が見受けられる。延暦寺根本中堂の本尊は薬師如来像。「東の叡山」だから当然ともいえる。が、それだけじゃなく、東照大権現として神格化されていた家康の本地仏も薬師如来。『上野寛永寺 将軍家の葬儀』では、家康が江戸に入府して以来、徳川家の祈祷寺としては浅草寺があったのに、なぜあらたに寛永寺が建てられたのかという疑問について論じていて、その理由のひとつにこの点を挙げている。つまり、薬師如来を祀りたいダブルの理由があるのに、浅草寺の本尊は観世音菩薩だったから、ちと具合が悪かったのだろうとしている。明快だな。しかも、ただの如来像じゃない。わざわざ近江の石津寺から勧請した。近江という場所もポイントだけど、なんで石津寺の像が狙われたかというと、延暦寺根本中堂の薬師如来像と同じ木材で、伝教大師・最澄が自ら刻んだという言い伝えのある像だったのだという。脇侍には、日光・月光の両菩薩像。こちらは山寺として有名な出羽・立石寺から勧請されたもので、慈覚大師・円仁の作と伝えられるもの。以上の三尊は上野戦争の際には運び出され、幸いにして現存し今も根本中堂におわすという。いずれも重要文化財。寛永寺根本中堂の名作仏像コレクションはまだ続く。中央須弥壇には他に十二神将もおり、これまた立石寺からのもの。須弥壇左右の脇壇には、智証大師・円珍作の不動明王と定朝作の毘沙門天がおわした。不動明王と毘沙門天については、どこから来たのかは『寛永寺』には書いてないけど、これだけのメンツを揃えてるのだから、やっぱりどこぞの寺から奪って・・・いへ、勧請したのだろう。 【堂内は、天井の中央に狩野永叔の竜、左右には狩野探信、探雪の天人、 後方の壁には狩野探叔の十六羅漢など幕府奥絵師狩野派の豪華絢爛たる 障壁画で彩られていた。】 (『寛永寺』より)で、これら豪華な品々を収めたお堂の外側には後水尾天皇および東山天皇の勅額が掲げられるという、規模から中身からすべてが豪勢なものだった、とな。これだけのお堂、島津綱貴だけじゃなく絵師やら大工やら関係者はそりゃ大変だったろうと思うけど、一方で資材調達にあたった紀伊国屋文左衛門などは大もうけしたっていうんだから、やっぱり公共工事ってのは儲かるんだなあ・・・その後、安永5年(1776)と文久2年(1862)に大修築がなされたが、慶応4年(1868)5月15日、焼失。この日は上野戦争の日で、戦火にかかったのかと思ったら、『寛永寺』には 【上野戦争は午後2時頃には官軍の勝利となり、彰義隊は山内から追われてしまったが、 山内を巡回した鳥取藩士堀正等が、ずっと警固しているのも面倒とばかり、 中堂に火を放った結果だというのだから、残念なことであった。】とある。これ、ホントの話でっか・・・しかし、贅を尽くした、まさに徳川家と一体だった寛永寺の中堂が幕府崩壊とともに灰燼に帰したことは、実に象徴的だと思うのは私だけではないだろう。にほんブログ村
2013年11月14日

南部重直の灯籠の後ろには 地図を見ると、特設テントの張られてた入口から見えた建物と棟続きらしいけど、この外観だから、こちらが玄関なのかもしれないな。単なる入口じゃなく、本式の玄関の方ね。大きな建物のどこまでがそうかはわからないけど、手前あたりの建物は現在では大慈院らしい。大慈院はもともと、常憲院(綱吉)の表別当で、古くはこの場所ではなかった。で、歴史的に重要な場所を有してます。それが「葵の間」。慶応2年(1866)7月20日、第二次長州征伐のさ中に14代将軍・家茂(いえもち)が大坂城で薨去。12月5日、一橋慶喜が将軍宣下を受け大坂城で15代将軍に就任。慶応3年(1867)10月13日、慶喜は二条城において大政奉還を諮問。10月14日、政権返上を明治天皇に上奏。10月15日に勅許され、大政奉還が成立。薩長ら倒幕派の先手を取った形にはなったが、まだこの時点では将軍職の進退問題については触れておらず、ついで10月24日に征夷大将軍辞職を朝廷に申請。矛先をかわされた倒幕派は計画を練り直し、12月9日、王政復古のクーデターを起こす。クーデターにより新政権から慶喜は排除されたが、温和な作戦で挽回を図る。・・・が、結局、薩摩の挑発に乗った形で慶応4年(1868)京へ向けて進軍。1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。この戦いの途中で慶喜は側近や妾などを連れて単身江戸へ退却してしまう。これについては敵前逃亡だとか、あんまりいい評価がされてないけど、ともかく江戸へ帰った。すでにこの時、慶喜は将軍ではないので、徳川家最後の将軍でありながら、将軍として江戸にいたことはなかったことになる。ほどなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、新政府軍が東征を開始。旧幕府内にはもちろん抗戦を主張する者もいたが、慶喜はこれを抑えて朝廷への恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任、そして自身は12日、寛永寺大慈院に入り謹慎。あわせて徳川宗家の家督を養子に譲った。この間、寛永寺の宮や天璋院(篤姫:13代正室)、静寛院(和宮:14代正室)などを通じて様々な嘆願や交渉が行われる。ドラマなどでは篤姫と和宮の活躍がドラマティックに描かれるけども、実のところ効果のほどはイマイチだったらしい。そして、江戸城進撃が3月15日と決定される。その後はあの有名な勝・西郷の会談が行われる訳ですが、3月13日と14日の2回・・・つまり、江戸城攻撃のまさに前夜。西郷(せご)どんが慶喜の助命に応じたことでどうにか攻撃が回避され、新政府側からは様々な条件が出されるものの、4月4日、最終合意に達した。新政府側が江戸城に入り、慶喜の助命と水戸での謹慎の命が正式に降りる。4月9日、静寛院宮が清水邸に移る。4月10日、天璋院が一橋邸に移る。4月11日、新政府側が江戸城を接収し、いわゆる無血開城を迎える。・・・という流れで、ケイキさんは2月からここ寛永寺の「葵の間」でじっとおこもりしてた訳ですが、江戸開城の同じ日、寛永寺を出て水戸へ出立した。出発は午前3時。「黒木綿の羽織に小倉の袴を著け、麻裏の草履を召さる」(『徳川慶喜公伝』)という質素ないでたちで、供回りもごくわずかだった。土地勘のある人には興味深いスケジュールですが、その日のうちに松戸(千葉県)に入り、そこで一泊。翌12日は藤代(茨城県)で一泊。13日は土浦で、14日は堅倉で、15日に水戸に到着した。わたくしの住む柏は松戸の東隣で、もちろん水戸街道も通ってるけど、ケイキさんがこの辺を通って水戸まで帰ったなんて考えたこともなかったし、知らなかったな~。てか、柏から歩いて4日で水戸へ着けるの・・・考えただけで気が遠くなりそうてことで、ケイキさんが表舞台から一旦身を引いた、その歴史を見届けた場所でもあるんです。寛永寺は。ちなみに、「葵の間」は例の団体様専用の特別参拝のコースに入っているようです。もちろんわたくしは見てませんがで、敷石に沿って表側へと歩いていきますが、なんかここにも気になるものが・・・↓。 あれも灯籠の台座だよな~。霊園の方にも、山と積まれた台座があったけど、本体はどうしたんだろう・・・これも上野戦争などで戦災にあって壊れちゃったのかな?台座だけこんなに残しておいてどうするって気がしないでもないけど、どれも大名の奉納による、古くて由緒あるものではあるから捨てるに捨てられないのかもな・・・て、やけに現実的なことを考えながら進んでやっと正面側へ。 【寛永寺本堂 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、 慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から 12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂と なったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。 間口・奥行ともに7間(17.4メートル)。前面に3間の向拝と5段の木階、 背面には1間の向拝がある。周囲は勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には 木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。 桟唐戸(さんがらと:正面中央など)、蔀戸(しとみど:正面左右など)、板壁など、 すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰(たるき)とし、細部の 様式は和様を主とする。 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に 本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造(ちゅうどうづくり) と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて 畳敷になっている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)歴史・建築・宗教的部分とに分けてそれぞれをしっかり解説してるとは思いますが、あまり長い文章にすると誰も読まないからね~ので、これだけの内容にとどめているのは致し方のないことだと思います。私のブログを読んで下さってる方は、長文は慣れっこでしょうし(笑)、歴史の好きな方々ばかりだと思いますので、ここから再び『寛永寺』をもとに若干の(←予定)補足をさせて頂きます。ちなみに、寛永寺の歴史はいくつかの側面でそれぞれ重い歴史を背負ってますので、歴バナを一気に書くのは私も大変だし、読む方も忘れちゃうかもしれない。ので、本シリーズでは各スポットで関連する歴史をちょぼちょぼ書いていこうと思います。話が前後してわかりにくい箇所もあるかもしれませんが、ご了承ください。「上野第一編(4)」では、天海が元和8年(1622)に徳川秀忠から上野の地を与えられ、翌元和9年(1623)に徳川家の別殿と白銀3万両をもらって、これを基に寛永寺の建立が進められ、その2年後の寛永2年(1625)、3代将軍・家光の代になって現在のトーハク(東京国立博物館)の場所に本坊が建立され、この年をもって寛永寺の創建とされた・・・ってとこまで紹介しました。寛永寺の正式名称は「東叡山 寛永寺」。「東叡山」はあの比叡山に対応する山号で、「東の叡山」を意味する。「寛永寺」は比叡山延暦寺が元号を寺名としたのにならい、創建された「寛永」の元号を取って「寛永寺」としたとされる。そもそも元号を寺の名に戴くというのが特別なことらしく、他には弘仁寺・建仁寺・長禄寺・仁和寺などがあるが、数は少ない。延暦寺の場合は勅許によって寺名を決めたということで、寛永寺も同じく勅許を取り付けて寺名を決定している。そうしてスタートした「東の叡山」寛永寺は、名前だけ延暦寺に対抗したものではなかった。まず寺地の選定。上野は確かに秀忠からもらったけども、「どこでもお好きな場所に寺を建てますから~」って選地を秀忠に丸投げするハズもなく、最澄が御所の鬼門(北東)・比叡山に鎮護国家のための寺・延暦寺を建てたように、江戸城の鬼門にあたる上野を天海自身が選定したといわれる。その後増えていく堂宇や付近の名称なども延暦寺に対応したものであり、各建物などはおいおい紹介していきますが、「ちょっと天海ジイさん(←創建時89歳)、しつこくない!?」ってぐらい、初めて知る叡山との関連性に驚いたことは多かった。『寛永寺』でも、 【天海僧正の比叡山への固執ぶりは尋常なものではなかった。】って書いてるぐらいだしで、藤堂・津軽・堀の各大名から土地を巻き上げて・・・(は冗談です。この3者はちゃんと優遇されてます。)まずは本坊から取りかかったようだけど、元和9年に秀忠から拝領した御殿というのは、家康が駿府と江戸を行き来していた頃、秀忠が家康を送迎した御殿だったそうな。だから、秀忠からも相当な扱いを受けてたってことだよね。本坊ができると、そこから2年のうちには諸大名の寄進によって色んな建物が建てられ、その後も堂宇は増え続けていった。ところが、延暦寺の根本中堂っていえば山内の中心でしょ?ってイメージがあるのに、寛永寺に根本中堂が建立されたのは元禄10年(1697)、落慶はその翌年の元禄11年(1698)・・・なんと綱吉の時代に入ってからだった。何でそこまで遅れたのか、あまり詳しいことはわからないけど、寛永寺に根本中堂を建てる前に、天海は比叡山に大講堂(寛永13年:1636)、根本中堂(寛永17年:1640)を家光から寄進させ、その他にも文殊楼・四季講堂などの建物を建立したとある。 【そこには大師(天海)の無私の心と比叡山への崇敬の念が強く感じられるのである。】 (『寛永寺』より)ただでさえ天海ジイさんて普通の人の2倍生きてるし、前半生はあまりよくわかってないみたいなのに、その上こうした不可解な事実があるともう混乱してきますイメージ的には、天海さんて叡山への対抗心バリバリなんだけど・・・それはともかく、天海がエネルギッシュに活動した結果が、自分とこに根本中堂の建立が遅れた一因になったようであります。にほんブログ村
2013年11月12日

綱吉の霊廟勅額門のある駐車場を一旦出て、元の道を奥まで進めばそこが寛永寺の入口。(場所はこちら)ここまでの長い塀にはいくつか小さな門もあって、そこには「関係者以外立ち入り禁止」と書かれてたけど、こちらの大きな門は今日は卒塔婆を抱えた人達で賑わっている。巣鴨の蓮華寺がお盆の特別体制を敷いていたように、寛永寺でも特設テントが張られて墓参りに来た人達の受付をしてた。ので、入口はオープンに開かれてました。これなら、墓参りの人に紛れて霊廟の近くまで行けるのかな・・・とも思ったけど、一般公開されてないものを無理に見ようとは思わないので、墓地とは別の、奥の方へ向かう。現在の本堂と思われる建物の脇の小道へ進むと、まだ真新しいピッカピカの塀が迎えてくれた↓。 ところがこの塀、見るからに新しいくせに軒丸瓦は いやん、蓮華文じゃないは~、1コでいいから、蓮華文の軒丸瓦欲しいな~。塀に沿って歩いていくと、奥に立派なお堂が見えます。こちらが根本中堂で~す。 ここは裏手にあたるようだけど、まずは建物を観察。 大棟には、金の葵が光ってます。瓦の並びも、実に美しい。 屋根にカメっぽいのが見えたのでズームしたら、玄武のようでした↓。 留蓋に四神を持ってくるケースは、あんまりないんじゃないか?よくあるのは狛犬だけど、あれって白虎って訳じゃないよな。トラと狛犬じゃ違うしな・・・それにしても妙にリアルで、なんか迫力ある。正面へ回るには、渡り廊下をくぐる(実際は、くぐらなくても行かれます)。くぐった反対側には なんじゃ、こりゃ!?わざわざこの低い廊下の下をくぐりに来るお茶目なカラスがいるってことか?ここはきっと、近所のカラスにとってのゲームスポットなんだな・・・その先は ところどころ穴が開いてるのは虫食い?ちょうど目玉のところに1コだけ綺麗に穴が開いてるから、お誂え向きに下を向いてるように見える(笑)。 ↑総素木の立派ないかにも私好みの建物・・・が、霊廟勅額門を2つ見た後だと、さすがに地味感は否めない(笑)。この辺まで進んだところで、振り返ってさっきの玄武が綺麗に撮れないものかと再びチャレンジしたけど、全体を撮るには奥側の方がよかったみたい。ただ、さっきとは違う感じで撮れた↓。 キバが鋭い・・・口の下についてるのは、顎ヒゲか?すんごい魔除けの効果ありそう・・・ 渡り廊下のあるのは真裏だったようで、ここでやっと側面。写真を撮りつつ、ゆるゆる正面へ回り込んでいきます。 ↑こちらが側面。妻があるから、この建物は平入りってことだな。しかし、ちょっとあの妻・・・ あれ、どう見ても窓だよな。ズームして見てみると、奥には網戸らしきものがあるし、その手前にも鳥よけなのか針金みたいのが数条渡してある。あれは昔からあーゆー造りだったのかな~。格式のある寺院で、妻に窓ってアリ?謎だあ・・・デカい懸魚についてる丸い金の模様は、もちろん葵です。妻壁にも結構奥行があるのが遠目にもわかるけど、やっぱり素木だと傷みも早そうだな。そろそろ修築時期が近付いてる気がするけど・・・で、ここで建物に近づいていつものように軒丸瓦を撮ろうとした訳ですが・・・ おお、寛永寺のフルネーム入りだあ~!寛永寺の根本中堂な訳ですから、このロゴは一見何の不思議もないのですが、実はこの建物は元からここにあった建物ではありません。寛永寺オリジナルの根本中堂は、これも上野戦争で焼け落ち、よそから移築されてきたのが現在の根本中堂にあたります。なので、軒丸瓦が「寛永寺」となってるってことは、近代に入ってから屋根が葺き替えられたってことでしょう。それより、私の目を引いたのは軒平瓦の方。「寛永寺」と「寛永寺」の間をつないでる、逆三角形の瓦のことね。これ、滴水瓦(てきすいかわら)だよな~。珍しい滴水瓦ってのは、その名の通り水がしたたるような形をした瓦です、てな感じに紹介されることが多いと思うけど、大陸生まれの瓦で、日本では一般的に文禄・慶長の役で朝鮮の陶工を連れ帰ったことから急速に普及したといわれる。滴水瓦は支那式唐草瓦(しなしきからくさがわら)、高麗瓦(こうらいがわら)、朝鮮瓦とも呼ばれ、14世紀頃に普及したという。実はその時期の滴水瓦が国内でも見つかっており、ひろよん(大内弘世)の墓のある山口・乗福寺でも発掘され、国内最古級の滴水瓦だとされている。つまり、乗福寺訪問の際に私は滴水瓦の存在を知った訳です。ふふふ。文禄・慶長の役以降に造られた滴水瓦は、たとえば姫路城なんかにも使われてるらしいけど、乗福寺で見つかった滴水瓦には、朝鮮半島では王宮のみに使われた龍の文様もあり、安土桃山時代に流行したものとは格が違うんですよ~、ヘッヘッヘま、そんな訳で滴水瓦にはちょっとした思い入れがあるので、ここでお目にかかるとは思わなかったし、現在の乗福寺は桟瓦葺で滴水瓦が使われてる訳じゃないので、現物を見るのはこれが初めてじゃないかな。なので、ある種の感動に包まれながらしばしこの滴水瓦を眺めておりました。江戸の旅行記でまで大内氏の話が出るなんて、「どんだけ好きなんだ!」って呆れる方も多いでしょうが、いつだって私の中にはマグマのように大内氏への愛がみなぎっておりますので、当然のことであります。この付近には、すごく古そうな灯籠もあります↓。 【奉献 石燈籠両基 武州 東叡山 大猷院殿 尊前 慶安4年辛卯歳 十二月廿日 従五位下南部山城守源重直】かなり磨耗してるし、一部欠損してる箇所もあるけど、たぶんこれで正しいと思います。この方は陸奥盛岡藩の2代目藩主で、蒲生氏郷の娘を母に持ち、加藤嘉明の娘を妻に持つんだそうな。姻戚関係がややこしいな・・・「両基」とあるからやっぱりペアでの奉納らしいのに、ここにあるのは1基のみ。相棒はどうしたんだ?それに、この日付ね・・・家光の死亡日は慶安4年(1651)4月20日。翌承応元年(1652)2月16日に日光大猷院が起工され、承応2年(1653)4月4日に完成、というスケジュールは日光写真館を含め3回目ぐらいの紹介になりますが1年目の日光写真館では灯籠の紹介は断念したものの、まばらに写真は撮ってました。あらためて日光大猷院の灯籠の銘を見てみると、本多忠義奉納と思われる灯籠の日付は承応2年4月20日・・・つまり、本多忠義のはちゃんと日光大猷院の完成にあわせて造られたもので、他の灯籠も同じ日。たぶん、日光の大猷院廟へ捧げた灯籠はすべて同じ日付なんだろう。ところが、寛永寺のこの灯籠の日付、慶安4年12月20日はまだ日光は着工すらしてない。てことは、この灯籠は家光の上野霊廟へ奉献されたものってことだよな。しかしだね、日光の大猷院には315もの灯籠があるってんだから、承応年間にどんだけの大名がいたかは知らないけど、おそらくみんな日光へ奉納してるんだろうな。その2年前にできたと思われる上野霊廟へも多くの灯籠が奉納されたんだろうから、贈る側からすれば結構な出費だよね。「霊廟はひとつにしてよね!」ってボヤいた大名は、1人や2人ではないだろう・・・にほんブログ村
2013年11月11日

寛永寺の寺領は11,790石、寺域は305,000坪、子院は36坊、主要な伽藍堂塔は30を越える。これだけの大寺院なので、当然格式も高く、また寺内には独自の組織や子院の役割などもあった。ここではひとまず霊廟に関するものだけを、『寛永寺』からご紹介しましょう。寛永寺には「別当」と呼ばれる寺がいくつかあるそうな。一般的に「別当」とは寺務を統括する長官のような立場を指すらしいが、寺ごとに呼称が違っているケースも多くあり、寛永寺には別当寺がごろごろあった。別当の中でも群を抜いて格式の高かったのが「表別当」。これは歴代将軍の霊廟を守る寺で、霊廟ごとに別当寺が割り当てられており、まあ言ってみればひとつの霊廟に専任の墓守寺があったって感じなのかな。ここまで紹介した寛永寺内の霊廟は、3代・家光、4代・家綱、5代・綱吉。初代・家康はご存知の通り日光東照宮が霊廟だけど、寛永寺内にも東照宮があり、これにも別当が付いていた。綱吉以降は8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定が寛永寺に葬られてはいるが、倹約将軍・吉宗は享保5年(1720)、「御霊屋建立禁止令」というのを出して個別の霊廟を建設するのを禁止し、自らも常憲院(綱吉)霊廟に合祀され、以後の将軍もこれにならって既存の霊廟に合祀の上、宝塔か霊牌所が建立されるというスタイルに変更されたので、寛永寺内には実質6人の将軍が眠り、あと家康と家光をプラスした計8人が祀られていることにはなるけども、表別当が8寺存在した訳ではないのかもしれない。表別当はその格式に見合うだけの潤沢なお手当も支給されており、『寛永寺』で紹介されている承応期(1652~1654)の寺領配当を見ると、 本坊:1000石 東照宮料:1335石 大猷院料:1370石と生きてる人の給料より死んでる人のための給料の方が多い。これについて『寛永寺』では 【徳川家の祭祀に関わるものであり、基本的には他の一般寺領と同列には扱えない。】としていて、そりゃそうだよな~とは思うものの、霊廟の管理のために相当な金をかけてたんだって事ぐらいはわかる。こんな金食い虫をぼんぼん建てていったら、そりゃ~幕府も相当な負担で頭が痛くなるだろうな~と素直に思った。しかしいくら財政立て直しのためといっても、吉宗の霊廟建設禁止令は相当思い切った決断だったんだな~と思う。それまでは将軍が薨去すれば、当然のようにあらたな霊廟が建てられてたんだからね。紀州の4男坊への風当たりも相当強かっただろう。あ、吉宗って3男坊かと思ってたら、4男なのね。兄が3人いたことになってるから、1人早世したのかね?ちなみに、吉宗以前はそれぞれの将軍が霊廟を持っており、前回書いたような事情で寛永寺と増上寺に分散して霊廟が建てられましたが、寛永寺は彰義隊の上野戦争で大ダメージを受け、さらに先の大戦での空襲で寛永寺・増上寺とも多くが焼失したので、「上野第一編(1)」~「(3)」で紹介した家綱と綱吉の霊廟勅額門は奇跡的に難を逃れた、貴重な建物です。上野のお山といえば彰義隊のことがどうしても頭をかすめますが、正直言って私は彰義隊も白虎隊も好きじゃない・・・悲惨すぎて。ので、本シリーズで上野戦争について書く気はありません。そうは言っても、この後歩いてく中では自然と「ああ、この辺が激戦地だ~」とか思ってしまう訳ですが、ウィキペディアでの「上野戦争」のページには、この戦いで焼け野原と化した寛永寺境内の様子を写した写真が掲載されてました。そちらの写真を見てもらえばわかりますが、手前の区画には明らかに礎石群が露出しており、堂宇があったことがわかる。その奥も一面焼け野原で、建物系はこの時点で壊滅的な被害を受けた様子がうかがえる。その中に点々と、水盤舎らしきものが2つ、あと門がぽつりぽつりと残っていて、よくこれが残ったな~と思わず大きなため息が出ました。その上、勅額門は東京大空襲をも乗り越えたまさに奇跡の建物なので、この門を見るにあたっては、できればそうした歴史も思い浮かべて欲しいし、大切に後世に伝えたいものです。寛永寺に葬られた徳川家の方々は、将軍だけじゃない。前々回、天璋院篤姫の墓の写真をご紹介しましたが、女性陣も寛永寺に眠っておられます。といっても、あまり詳しいことはわかりませぬが、徳川家菩提寺に葬られたのは将軍の正室や将軍の生母が主だと思われます。だって、側室まで一緒に霊廟なんか作ってたら大変だしね~。多いところでは、家康:15人、家光:7人、家斉:16人、家慶:7人・・・何をもって「多い」とするかはビミョ~なところですが女の扱いはめんどくさいし、1人だけでももてあまし気味の男性諸君が現代には多いんじゃないかと思いますが、まあ世子を残すためでもあるし、女性陣とは生活そのものは分かれてたからね。で、正室はおおむね夫君とともに葬られてるようですが、中には例外もある。それについては、おいおいご紹介する機会もあるでしょう。寛永寺に葬られた将軍の正室にも霊廟が建てられたようで、それを守る別当もいた。こちらを「裏別当」と呼ぶ。また、将軍生母の霊廟を守る別当もあり、「お腹様別当」と呼ばれた。裏別当とお腹様別当は表別当に次ぐ格式とお手当が与えられており、『寛永寺』で紹介されてる中では、家綱夫人の別当・春性院や家綱生母の別当・宝樹院がともに別当料として500石をあてがわれたようで、経費から霊廟の規模や格式もなんとなく想像がつく。んで、 【なお、当然のことながら、以上の表、裏、お腹様の各別当は、江戸城中でも 特別の格式をもつ寺として別格の待遇をうけたのである。】 (寛永寺刊行物・『寛永寺』より)だそうな。後でまた書きますが、寛永寺そのものも非常に格の高いお寺ではあったんだけどね。けど、ただの子院という扱いじゃなく、この3者は徳川家の別当寺としてまた別口の待遇を受けてたってことになるのかな。別当にはもう一種類あります。こちらは特別な呼称はないようだけど、山内にある主要な堂宇を管理する寺で、創立者・天海を祀る開山堂、山王社、釈迦堂、清水堂などにそれぞれ別当が付いていたそうな。格式・知行などの点では前の3者にははるかに及ばないとされるが、別当としてのお手当の他に固有の財源を持っていたから、他の平坊と呼ばれる一般子院よりは恵まれていた存在だったとある。さて、一旦ここで現代に戻ろうと思いますが、上野編を書くにあたっては、第一編のリベンジ編・上野第二編で買った寛永寺発行の『寛永寺』を主なベースとしています。優秀なナビゲーターがあれば勉強になることも多いし、つたない知識で歴バナを書こうって気にもなるものです過去のシリーズでもそうでした。で、この『寛永寺』、よくありがちな普通の冊子かと思ったら、寛永寺の重すぎる歴史や創立者である天海、はては天台宗のことにまで実に簡潔に、けどポイントを押さえて解説してくれている相当ためになる冊子です。だいたい、いかに聖職者といえど、「おらが寺、おらが開祖」の話になれば結構鼻につく表現てのは往々にして見られるものだけど、『寛永寺』に関しては割にクールで公平な書き方がされてるものじゃないかと思うので、そういった面でも好感が持てます。ただ、紙面が限られている分、断片的な表現に留めている部分もあり、興味を持った箇所については自分で調べて補っている訳ですが、それでも概略を知るにはこの類の冊子にしては十分すぎるほどだと思いますし、私が紹介するのもごく一部ですので、これから寛永寺に行かれる方で寛永寺のことを知りたい方にはおススメの冊子です。私が買ったのは輪王寺(日光じゃありまへん。寛永寺内のです)ですが、たしか清水観音堂にも売ってたと思いますので、ご参考まで。あ、それで、『寛永寺』は表紙に寛永寺の古絵図がプリントされてるんだけど、いつの頃の絵図かは書いてないものの、諸堂宇がほぼ建立されて以後で、なおかつ享保5年(1720)以前のものだと思われます。家光の霊廟、「大猷院殿 御霊屋」が描かれてるからね。私が鶯谷駅を出てからここまで長い塀に沿って歩いてきた、その塀の向こうは、現在では一般にも開放されてる霊園だけど、この絵図では霊園の大部分は木しか描かれてない・・・ただ、「大猷院殿 御霊屋」と区分けがされてないから、家光の霊廟の奥に控える森を一部つぶして霊園経営にあてたのかもしれないな。(つぶしたと言っても、家光霊廟は享保5年にとっくに焼失してますが)綱吉の勅額門のあるあたりには子院が2つばかり描かれている。ただ、長い歴史の中には色々子院の変遷などもあったみたいだけど。で、綱吉の勅額門のある付近には、ちょっと気になるものが描かれている↓。 真ん中にある「日光 御門跡」とある区画が本坊で、現在のトーハク(東京国立博物館)の敷地がほぼこれにあたる。なんで上野なのに「日光」とあるのかは、もう少しお待ちください。その隣のピンクで囲った部分は字がかすれて読みにくいけど、「化野」と書いてある・・・・・・たぶんここは、現在の上野中の場所あたりじゃないかと思うんだけどね。(周辺地図のリンクはこちら)「化野」の字ヅラを見れば、ほとんどの人が京都の「化野(あだしの)念仏寺」を思い浮かべるんじゃないかと思います・・・が・・・、私、あそこ大ッ嫌いなんだよね~。恐山よりよっぽど怖いわ京都の化野はもともと風葬の地で、たしか京では「野」ってのが墓場・・・というか、遺体を野ざらしにしてた場所を指してたと思ったけど、なんで寛永寺内にこんな名の場所があるんだろう。「あだし」っていう言葉は、「はかない」とか「変わりやすい」って意味らしいんだけど(=徒し)、どうも寛永寺内の「化野」も葬送と無縁の場所とも思えないんだよなあ・・・絵図では、高い塀に囲まれた小さな区画になっている・・・こんな場所に遺体を野ざらしにする訳もなし、であれば、例えば荼毘専用スペースだったとか?にしても、本坊のすぐ脇だしなあ・・・こんな所にそんな場を設けるかなあ・・・寛永寺教化部に問い合わせたら、教えてもらえるかなあ・・・にほんブログ村
2013年11月10日
こちらは「日光写真館」の専用目次ページです。日光の記事は公開する時期も相当ばらけてますし、何しろ10年覚悟の長期戦で挑んでますので、年を追うごとに見づらくなるのは必至でしょう旅日記の方の目次は時系列に並べてますが、こちらはスポットごとに分けてリンクを貼っておきますのでご活用ください。記事と記事を「~」でつないでいる部分は連続したページになってますので、ページの上下にある「次へ」をクリックしてそのまま進んでください。「新カテゴリー作成案」「日光写真館開設/はじめに」●山麓「神橋」●参道「山内入口(1)」~「山内入口(2)」●輪王寺「輪王寺1」 「輪王寺2」 「輪王寺3」 「輪王寺4」「輪王寺5」~「輪王寺16」●東照宮「神社仏閣に勤める人」 「東照宮1/千人枡形~石鳥居」 「東照宮2/五重塔」●御仮殿「御仮殿1」~「御仮殿4」●日光東照宮宝物館「日光東照宮宝物館」「日光東照宮宝物館/石唐門・石鳥居。と地震。」●大猷院「大猷院1」~「大猷院3」●史跡探勝路「史跡探勝路1」~「史跡探勝路7」●雑談やら「2013日光詣で」「2014日光詣で」
2013年11月09日
戦国ジジイこと白川りりのブログへようこそ!本ブログでは戦国ファンのわたくしが史跡を求めて旅をした時の記録を、主に紹介しております。ほとんどが城・史跡・墓ですが、各地を回るうち、寺社建築などにも興味を持ちましたので、そういった紹介などもしております。史跡を回る際には、その背後にある歴史はヌキにできませんが、ひとくちに歴史と言っても他人の人生が織りなす歴史でもありますし、細かいエピソードなどはとても覚えきれず、またぜひ色んな人に知ってほしい話も沢山あります。かいつまんで紹介するにしても、歴史の話まで交えるとどうしてもひとつのシリーズの話数も長くなりますし、あまり使い勝手のよくない楽天ブログでは過去のシリーズを一から読み返すのが困難だと自分でも思うようになりましたので(でも面倒だから引っ越す気はない)、このほど、シリーズごとの目次を作成しました。記事を上げる順番と、行った順番は必ずしも一致しませんが、本目次は現地に行った順に並べておきますのでご了承ください。「日光写真館」については、本編の合間などにばらけて更新してますので、カテゴリーから見ていただくのがいいとは思いますが、こちらも話数が長くなるとかなり見づらいかもしれませんので、専用ページを別に設けて、まとめてリンクを貼っておきます。こういう作り方の目次がどれほど役に立つかもちと疑問がありますが、ひとつの旅で旅日記と城にカテゴリーを分けてもいるし、中国地方は現時点で城・旅日記ともそれぞれ200話ぐらいあるので(笑)、とりあえずシリーズの頭出しをする程度には役に立つでしょう≪目次≫●2010年3月 名古屋編(愛知県)「武将都市ナゴヤ(1)」「名古屋城(1)」~「名古屋城(2)」「名古屋城(3)」~「名古屋城(5)」「名古屋城(6)」~「武将都市ナゴヤ(2)」「武将都市ナゴヤ(3)」~「清州城」~「武将都市ナゴヤ(7)」「武将都市ナゴヤ(8)」~「稲葉地城」~「名古屋編を終えて」●2010年5月 忍編(埼玉県)「忍編(1)」~「忍編(2)」「忍城(1)」~「忍城(2)」「忍編(3)」「忍編(4)」~「忍編(7)」●2011年7月 大津編(滋賀県)「大津編(1)」~「大津城」~「大津編(3)」~「膳所城(1)」~「大津編(5)」~「瀬田城」~「大津編(8)」~「大津編(30)」●2011年7月 プチ巣鴨編(東京都)「プチ巣鴨編(1)」~「プチ巣鴨編(8)」●2011年8月 山口編(山口県)「山口編(1)」~「長山城」~「山口城(1)」~「山口編(2)」~「大内氏館(1)」~「築山館(1)」~「山口編(20)」~「山口編(24)」「山口編(25)」~「山口編(28)」●2011年9月 吉備路編(岡山県)「吉備路編(1)」~「岡山城(1)」~「庭瀬城(1)」~「撫川城(1)」~「吉備路編(2)」~「加茂城」~「日幡城」~「岩崎山<吉川元春陣>」~「備中高松城(1)」~「吉備路編(3)」~「備中松山城(1)」~「吉備路編(4)」~「吉備路編(11)」●2012年1月 赤間ヶ関編(山口県・福岡県)「赤間ヶ関編(プロローグ)」~「赤間ヶ関編(7)」「赤間ヶ関編(8)」~「門司城(1)」~「門司城(3)」「赤間ヶ関編(35)」~「東明寺城」~「三角山城(1)」~「赤間ヶ関編(48)」●2012年7月 プチ日暮里編(東京都)「プチ日暮里編(1)」~「道灌山城」~「プチ日暮里編(7)」~「プチ日暮里編(15)」●2012年8月 三原編(広島県)「三原編(1)」~「三原編(37)」「三原編(38)」~「三原城(1)」~「三原編(61)」~「三原編(63)」
2013年11月09日

さて、ぼちぼち歴史の話なんかも交えていきますかね~。これさえなければ、さっさか終わるんだけどね~。わかっちゃいるけどやめられない、ア、ソレ!元和2年(1616)1月21日、駿府は田中へ鷹狩りに出かけた徳川家康は、ちょうど京から戻ったばかりの茶屋四郎次郎を召し出してしばしおしゃべりに興じた。「ねえねえ、最近上方で珍しいものってなに?」「なんか~、タイを油で揚げたものが流行ってるみたいッスよ。僕も食べましたけどね。いや、美味しかったな~」ちょうど献上のタイがあったので、早速タイの天ぷらをむさぼったところ、その夜、腹痛に見舞われた。天ぷらと発病の関連性についてはわかりませぬが、以前、天ぷらの食べすぎで胆のう炎を起こしたって人を見たことあるなあ・・・ともかく、25日には駿府に帰城した。その後、一旦は持ち直したようだけど、年も年だし(73歳)病状は悪化の一途を辿った。胃ガンだったという説もある。江戸では「大御所、倒れる!」の報に驚き、様々な人を遣わして手厚い看護を続けるも、結果ははかばかしくなかった。ブレーンと言われる天海は病床へ侍り、本多正純なども看護に当たったが、3月末には薬も受け付けなくなった。そうした状況に死期を悟ったのか、家康は外様の大名などを召しては今後について色々と指示を出した。中でも前田利常・島津家久・伊達政宗などは枕頭に呼ばれ、刀を賜った上で何かの大事の際には、北国筋は前田、西国は島津、奥方は伊達に頼むと言い置いた。細川忠興も同じように後事を託された。皆はさめざめと泣いた。4月半ばには福島正則を呼んで、名物の茶入れを与え、「そちの事を秀忠へ悪く言う者がおったでの~、しばらく江戸へ留めおいたんだが・・・そちに異心のないことは、ワシから秀忠へよく言っておくから、安心して国許へ帰るがよい」正則が泣くばかりで何も言えずにいると、「もし今後秀忠に不満があるようなら、別に兵を起こしても構わないし~。好きにしちゃってよ」と追い打ちをかけた。正則は大声で泣いた。後で本多正純を呼んで、「どうだった?」と聞くと、「太閤が世にある時から徳川家に対して二心は抱いてないものを、今のお言葉はあんまりでござる~!大御所様は何と情けないことをおっしゃるのか!!・・・と正則は言っておりましたぞ」「ふ~、その一言が聞きたかったんだよね。これでよしと」・・・と、ホントにあなた、病気デスカ?と最期までツッコミ入れたくなるようなタヌキぶりま、発病から死まで約4カ月、俗に言う「天ぷらで死んだ」説はこれだけのタイムラグがあることから相当疑わしいものの、この期間を無駄にせず、あれこれ形見分けしたり細々と指示したという話が残っている。そして自分の死後の処理についても、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を召して、指示を出した。すなわち、 ・遺体は駿河国の久能山に葬ること ・葬儀は江戸の増上寺で行うこと ・位牌は三河国の大樹寺に納めること ・一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請することそして、神に祀られることによって八州の鎮守になろう、とな。この言いつけは守られ、まずは久能山の東照宮に葬られた。のちに日光へ改葬されているので、遺骨はすべて日光へ移されたのか、あるいは久能山と分骨しているのかなど、遺骨の行方は死後400年近く経ってなお歴史ファンの想像力を掻き立てている。大樹寺(岡崎市)は、15代将軍のケイキさんを除く歴代将軍の臨終時の身長を摸したといわれる位牌が安置されてることで有名ですね。で、寛永寺。徳川将軍が数名眠るこの寺が、遺言に出てきません。そりゃそうです、元和2年、家康の在世中にはまだ寛永寺は存在してなかったんです。ので、この時点では芝の増上寺(浄土宗)が徳川家の菩提寺でした。寛永寺(天台宗)の創建は寛永2年(1625)。開山は南光坊天海。寛永寺創建プランは家康の存命中から天海の中にあったものの、諸般の事情により叶わなかったという。諸般の事情ってなんだろ・・・天海の夢が実現に向かって大きく動き出したのが、元和8年(1622)。寺地には現在の上野公園の地が選ばれた。当時、上野の地には藤堂高虎・津軽信枚・堀直寄の3人の大名の下屋敷があった。3人の中で最も有名なのはもちろん藤堂高虎でしょうが、外様でありながら家康の篤い信頼を受けた武将。津軽信枚(のぶひら)は「三原編(29)」で少し書いてますが、家康の養女・満天姫を正室に迎えており、天海との縁も深いといわれる。堀直寄は堀直政の子。堀秀政の外孫にあたるのかな?元は豊臣系であったものが、関ヶ原では東軍につき、以後は徳川家に臣従する。のちに直寄は駿府で家康に仕えたという。この3人から、徳川秀忠はそれぞれに替地を与えた上で上野の地を押さえた。その他にも郷士の屋敷などがあったが、これまたまとめて収公。そしてあらためて天海に上野を与えた。翌元和9年(1623)には御殿山にあった徳川家の別殿と白銀3万両を天海に贈り、これを基に寛永寺の建立が進められた。その2年後の寛永2年(1625)、父・秀忠から将軍職を譲り受けた3代将軍・家光の代になって現在のトーハク(東京国立博物館)の場所に本坊が建立され、この年をもって寛永寺の創建とされる。が、当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺だった。先年の大河ドラマ「江」では「浅井江」という個人に光が当てられたけど、それ以前にも江姫はドラマなどによく顔を出し、歴史ファンのみならず時代劇ファンにもそこそこ存在は知られていた。ほとんどは春日局や家光との絡みで出てくる、アクの強い母ちゃんといった存在で、「お江与の方」という名の方が通りがよかったかもしれない。まあ、ご存知の方が多いと思うので細かいことは書きませんが、いわゆる「夫・秀忠と共に家光の弟・忠長を溺愛し、忠長有利と見た周辺の諸大名もご機嫌取りに忠長に接近するようになったので、危機感を持った春日局が駿府の家康に直訴し、家康のバックアップでようやく家光の相続が世間にお披露目された」って流れね。春日局周辺の史料では「家光が自殺を図った」という記述も存在するようだし、ドラマなどでは話を盛り上げるために大小の脚色なども当然あるんだけど、程度の差はあれ、家光の地位が危うくなりかけたような状況は確かにあったらしい。江姫の立場からすれば、自分は生まれた時から実父や養父にも死に別れ、成長してからも様々な困難を乗り越え、実の姉すらも婚家に滅ぼされるという過酷な人生を送り続けてきた。江戸に幕府が開かれ、豊臣家は滅んでも、まだまだ戦国の気風を色濃く残すこの時期、病弱でクセのある家光よりは、聡明な弟の忠長に継がせる方が徳川家の末長い安泰につながると江姫が考えたのは無理もないだろう。もちろん、実際に江や秀忠が何を考え、どんなゴタゴタがあったのかはわからないけどね。ただ、単なる偏愛というよりは、しかるべき考えに基づいた可能性は充分にあると思うんだよね。そうした幼少期が家光の心にどんな影を落としたのか、これまた不明ではあるものの、世間では家光は父・秀忠を嫌っていたと言われる。嫌っていなかったとしても、祖父・家康と天海への傾倒ぶりは尋常なものではなかった。そんな家光が寛永寺創建が始まった同じ頃に将軍職を継いだものだから、寛永寺の建立にも俄然はずみがついた。家康が江戸に入府した天正18年(1590)以来、徳川家の祈祷寺は浅草の浅草寺が担っていたが、寛永寺ができるとその立場は取って替わられた。のちに浅草寺は寛永寺の傘下に入るが、松平時代から浄土宗の檀家であった徳川家の菩提寺はいぜん増上寺であり、秀忠は増上寺へ葬られ、その妻・江も同じく増上寺へ埋葬された。そして家光の晩年。本来であれば増上寺で葬儀・埋葬を行うべきところ、なんと ・葬儀は寛永寺で行うこと ・初七日には上野を発って日光へ移し、そこへ霊廟を建てることという驚くべき指示を出した。家光の真意はわからないが、今や日光は敬愛してやまない祖父・家康と天海が共に眠る場所。死後もこの2人と共にいたいと願ったのだろうと寛永寺刊行物・『寛永寺』は語る。増上寺としては当然面白くないが、ここは我慢した。それほど、当時の人々にとっても家光の家康・天海に対するパラノイア的愛情はよく知られたことだったのだろう。てことで、初代は日光、2代目は増上寺、3代目は日光に墓が分かれたが、3代目は異例のことであり、次代からふたたび増上寺へ入れば済む話だった。ところが、前回までで4代・家綱と5代・綱吉の霊廟門を紹介したように、家光の子供達は続けて寛永寺で葬儀・埋葬を行った。これにはさすがの増上寺もブチ切れた。そこで幕府へ猛抗議をしたものの、「将軍の御遺命」をタテに押し切られてしまった。とは言っても、増上寺の言い分はもっともすぎることなので、綱吉の跡を継いだ6代・家宣は幕閣と相談して、以後は寛永寺と増上寺のバランスを取るという形で決着した。つまりは、ここで正式に寛永寺も徳川家の菩提寺とされたことになる。こうして家光のワガママに端を発する墓バトルは、<日光> 家康(1)、家光(3)<芝・増上寺> 秀忠(2)、家宣(6)、家継(7)、家重(9)、家慶(12)、家茂(14)<上野・寛永寺> 家綱(4)、綱吉(5)、吉宗(8)、家治(10)、家斉(11)、家定(13)と歴代将軍の墓が分かれることで収められた(カッコ内の数字は将軍の順番)。最後の将軍・ケイキ(慶喜)さんは大正に入ってから亡くなっていて、当然将軍として死亡した訳ではないので、将軍霊廟は造られていない。ので、増上寺と寛永寺にちょうど6人ずつ・・・数が合ってよかったね(笑)。ただ、実のところは日光は寛永寺と一体といっていい存在だったし、祈祷寺も兼ねていたので、寛永寺の方が比重が大きい。まあそれでも、遠く離れた日光のことでもあり、ひとまず増上寺のメンツは守られたってことなのだろう。にほんブログ村
2013年11月07日

霊園内の綺麗な石垣はラッキーなオプションでしたが、こちらが次のお目当てになります↓。 【徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財) 五代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、 宝永6年(1709)1月10日に63歳で没した。法名を常憲院という。 綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」 などを施行した将軍として有名。 元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が 建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と 奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に 移されている。 綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を 通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に 解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに 重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)綱吉は3代・家光の子。兄である4代・家綱の右大臣昇進と共に元服して、家綱の偏諱を受けた。上野(「うえの」じゃなくて「こうづけ」の方)館林藩主となり、「館林宰相」と通称される。とはいっても、綱吉自身は江戸におり、竹橋(千代田区)に住んでた頃に明暦の大火で焼け出されたそうな。その後は上野のすぐ南にある神田に移った。ええ~、神田?どの辺だろ・・・と思ったら、神田ってゆーかほとんど大手町の位置らしいけど。では、門の外観をご紹介しましょう。 いかにも「綱吉の時代ィィィ~!!」って感じの、実に豪華で華麗な造り。ただ、霊廟にふさわしい落ち着き感も備えている。 しかし、ここも唐破風の上の鬼板が気になる↓。 これは明らかに中身を外してるよな。まんず、ここには葵紋があったのだろう。たまたま何かのきっかけで外れちゃったって可能性もなくはないけど、簡単に外れるようなちゃちな造りをするハズがないし、家綱の勅額門といい、どうも意図的な気がするんだよな~。 こちらの門も、柵があって近寄ることはできない。正面から見える部分だけをひとしきり撮ったあと、脇の柵に何か貼ってあるのに気が付いた。 【天璋院篤姫 墓所(非公開) 天璋院篤姫は天保6年(1835)12月19日、薩摩藩今和泉島津家 島津忠剛 (ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて 生を受けました。(幼名 一子<かつこ>・於一<おかつ>) 嘉永6年(1853)、島津本家28代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、 名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の 近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。 その後、安政3年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、 同年に徳川13代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの 密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか2年後の安政5年 (1858)に逝去され、14代将軍には紀州の慶福(よしとみ<のちの家茂公>)が 就任しています。(落飾し、天璋院と号する。) また同年、養父 斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を 相次いで亡くしました。しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐に よく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。 公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立して いましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に 対し、徳川家の存続を嘆願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献しています。 明治になると、わずか6歳で徳川家を継いだ16代家達(いえさと)公の養育に 余生を捧げ、明治16年11月に49歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を 捧げました。 なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物で あったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)解説の最後には「平成20年」とあるから、やっぱり大河効果だな。それまでは一般的な認知度ってのはそんなに高くなかっただろうからね。篤姫の墓は解説の通り非公開ですが、写真がサービスされてます↓。大河効果、あなどれんな・・・(笑) 武将様の墓へ行かれる方などにはわかるでしょうし、私もブログの中でいくつか写真をアップしてますので覚えてる方にはわかるでしょうが、通常武家などの高貴な方の墓は宝篋印塔、または五輪塔であって、このスタイルではない。武家どころか、天皇家や公家などにもこういう宝塔は使われない。が、徳川将軍やその正室などは写真などで見る限り、みなこの宝塔。綱吉の墓も非公開だけど、寛永寺の刊行物には写真が載っていて、やっぱり宝塔。これはとても象徴的だなと思う。徳川家将軍の墓はいくつかにばらけていて、私が見たのは家康さんだけ。だいぶ前に写真を撮ったはずだけど、見当たらない・・・しかし、ツイッターに残ってたのでケータイからの写真を載せますね↓。 え~っと、これを撮ったのは2011年らしい(←覚えてない)。まだこの時点では、墓のスタイルがどうとか考えてなかったけど、色々見て少し墓の種類などもわかってきた今では、これが相当風変わりな墓だってことがわかる。寛永寺内の墓は通常非公開。近年になって霊廟参拝を始めたらしいが、こちらは事前予約要でしかも5名様以上。ゆえに、気ままに観たり撮ったりするのに単独行が最適のわたくしには手が届かない・・・芝・増上寺の方も特別参拝をやってるらしいけど、ホームページを見ると10名以上の団体様専用なのか、個人でも公開日なら参拝できるのかよくわからない。増上寺はそのうち行ってみるつもりだけど、気軽に参拝できないことは確か。日光大猷院の家光廟は、平成12年に初めて奥の院の特別公開をやったらしいけど、期間中に行かなかったのか、私は見てない。ところが、家康の墓へは奥宮への料金さえ払っておけばいつでも誰でも気軽に拝観できる。いや、前は確か別料金だった気がするけど、今は全部込みの料金かもな。てことで、徳川将軍の中で唯一神として祀られてる方であり、最も神聖なはずの東照大権現様の墓が簡単に見られるという不思議な現象がここにある・・・しかも、徳川家の埋葬は土葬。戦国武将達は火葬が多いと思うけど・・・隆景ちゃんもだし。でも、土葬だったために確か墓の改葬の時だったと思うけど、あわせて遺骨の調査などもされて、それを基にしてお医者さんが書いた『徳川将軍家十五代のカルテ』(篠田達明著)という本をだいぶ以前に読んだことがあり、とても興味深く感じたのを覚えている。篤姫の解説板のさらに脇には、さっき見た(地味な方の)石垣がずっと奥まで続く↓。ああ、なんか上の方に外れてしまいそうな石があるんだけど・・・ 石垣付近から見た妻側↓。 近寄って見たいけど、写真を拡大すると意外に懸魚なんかは地味な意匠だな・・・(笑)。門前の石段は、長い石をつなぎあわせて綺麗に造られている↓。石段の上は四半敷。ここはおそらく昔のままなんだろう。 敷地内には、お堂が見える↓。あれは近代に再建されたものだな。 にほんブログ村
2013年11月05日

今度は勅額門の前に立つ灯籠。まずは向かって右側から↓。 【武州 東叡山 厳有院殿 尊前 延宝九年辛酉五月八日 丹後宮津城主 従五位下對馬守阿部正盛】「阿部正盛」で検索すると、誰だかわからないんだよね~、この人。が、将軍家の霊廟に奉納するくらいだから、当然当主のハズ。阿部氏で丹後宮津藩主になったのは宗家のみ。しかも、丹後在任期間は短かったので、どうもこの正盛さんは阿部正邦のことじゃないかと思います。正邦の家督相続の際には家中でもめごともあり、岩槻藩で当主人生がスタートするも10年で丹後宮津へ転封。16年後には下野宇都宮藩へ転封、そして13年を経て備後福山藩へ転封となった完璧な転勤族。譜代と言っても、甘くないんだね~ま、転勤しても石高はいちおう横ばいで減らされることはなかったようだけど、それでも江戸から遠い福山への転勤が決まった時は52歳という年齢でもあり、「ハア、もう困っちゃったな~」って述べたという。で、この正邦さんが阿部氏初代福山藩主となり、以後の福山藩は幕末まで阿部氏が続きます。今度は向かって左側↓。 【武州 東叡山 浚明院殿 尊前 天明六丙午年九月八日 三州西尾城主】片側は銘がちゃんと写ってないし、もう一方は肝心の名前の部分が欠損してて誰の奉納だかわからないが、これ厳有院(家綱)への奉納品じゃないぞ。「浚明院」は10代・家治の諡号だな。吉宗の孫にあたる方ね。時期から調べると、たぶんこれは松平乗完(のりさだ)の奉納だな。なんで家綱の霊廟門の前に家治への灯籠なんかあるんだろう・・・かつて寛永寺の境内は広大な敷地だったのが、明治に入ってかなり縮小されたから灯籠の置き場に困ってこんなとこに置いちゃったのかとも思ったけど、家治は家綱の霊廟に合祀されたとあるので、これはこれで正しいのか。家治は祖父・吉宗以上に倹約に努めたという。そして吉宗はそれまでの将軍のように埋葬を派手にするのではなく、死後も霊廟の大部分を省略して質素にするようにした方。なので、家治も祖父の定めたルールに従って、自分専用の霊廟が新築されることもなく、合祀という形になったものらしい。ちなみに、吉宗以前の霊廟建築がどんなものだったのか、寛永寺発行の『寛永寺』によると、 【霊廟は大きく分けて、二天門、勅額門、鐘楼、水盤舎、井戸屋形、中門、 廻廊、供所、拝殿、相之間、本殿、仕切門からなる霊廟の中の「霊」の部分と、 唐門、拝殿、中門(鋳抜門)、宝塔からなる「廟」(墓)の二つの部分から なっている。 前者は本尊、木像、位牌を祀った本殿(霊殿)を中心にした部分であり、 後者は将軍の遺骸を祀った宝塔(墓)を中心とした部分である。江戸中期までの 幕府は一人一人の将軍のために、こうした壮大な建物を造営していたのである。】だそうな。これは相当な出費だよな~。家治は吉宗からは殊の外可愛がられたようで、家治も偉大な祖父をこよなく尊敬していたらしい。ちょっと家光を彷彿とさせるよな。ので、どうせ合祀するんだったらじい様と一緒にしてやればよかったのに・・・とか思った。はい、暴れん坊将軍・吉宗さんもここ寛永寺墓地に眠っております。家治の代は田沼意次が活躍した時代でもあり、ウィキペディアにはなかなか面白いエピソードがいくつか紹介されてるけど、ひとつ思わず吹き出した話をご紹介しましょう。 【徳川将軍家では例外的に愛妻家であった。正室・倫子女王との間に2女を儲けるも (これ自体が異例)、男子を得る事ができなかった。近臣が側室を薦めても なかなか選ばず、遂に田沼意次の薦めで側室を選ぶ代わりに田沼も側室をもつことを 条件にした。】「ああ~?側室う~?やなこった!」「しかし上様、継嗣を残すことも重要なお役目ですぞ。このままでは、徳川家は・・・」「チッ!しょうがねえなあ・・・なら、お前も側室を持てよな」「え・・・・・っっっ!!」そしてめでたく男子が生まれると、その子は愛妻のもとで養育させ、用済みの生母のところには通わなくなったという子作りの道具にされた側室は可哀想だけど、政略結婚でも夫婦仲がよいというエピソードはちょっとなごみます。 さて、この御門、家綱の霊廟の門ではありますが、元々家綱のために造られた門ではないという話があります。では何だったのかというと、家光の霊廟の門だというんです。つい先日、日光の大猷院を少し紹介したばかりですので、なんで上野で家光なのかと思う方もおられるかもしれませんが、家光さんは死後しばらく上野におられたんです。寛永寺の歴史やその創始者については後でまとめて書くつもりですが、ひとまず関係することだけを書きますと、家光は死ぬ前に寛永寺に葬儀を任せること、初七日には上野を出発して日光へ移送し、日光に自分を葬るようにとあらかじめ指示しておいたそうな。そんなねえ~、現代の葬儀屋さんのようにスピーディーに葬儀ができる訳でも、電車や車で日をまたがないうちに日光入りできる時代でもないし、ましてパンピーじゃなく将軍の葬儀と埋葬だよ?家光の薨去は慶安4年(1651)4月20日。翌承応元年(1652)2月16日に大猷院が起工され、承応2年(1653)4月4日に完成・・・と「大猷院(2)」に書いたように、着工が約1年後、完成が2年後。日光大猷院の完成までの間、家光自身はどこにおられたのか・・・はっきりした事はわからない。輪王寺の刊行物にでも書いてないかな。近々また日光へ行くから、探してみよう。ま、ともかく初七日まではおそらく寛永寺で保管してたんでしょうし、かつての寛永寺には慶安4年(1651)に建立された家光の霊廟が確かにあった。ただし、上野の家光の霊廟は享保5年(1720)に焼失してしまったそうで、その後は再建されず、霊牌は厳有院霊廟に合祀されたという。たぶん、日光に立派な大猷院廟があるからあらためて上野に再建しなくてもいいと思ったんじゃないかね(笑)。家光廟についてはそういう経緯があるので、家光の勅額門を家綱に転用したというよりは、合祀に伴う移築だったのかもね。ただ、家綱の死は延宝8年(1680)。そこから40年後に家光が合祀されてるんだから、その当時、家綱廟もちゃんと自分の勅額門を持ってたはずで、オリジナルの家綱霊廟勅額門は一体どうしたんだ?って疑問が残る。享保5年に家光霊廟と一緒に焼失でもしたのかね?さて、次のお目当てを目指します。まだこの先も長い道。あ~つ~い~ コーナーまで来たあたりで、霊園内に何やら気になるものがあってもう目が釘付け・・・↓。 なに、あの立派な石垣・・・櫓台?いやいや、でもね、この辺て寛永寺ができる以前は武家の敷地だったんですよ。そして、今回の上野めぐりの中には土地所有者のうちの1人の武将がお目当てに入ってますのでね。つい、そーゆー想像をしちゃうんだよね。まあ、もちろん江戸開幕以後にもらった領地だから、江戸城からほど近い上野の山に櫓なんか築くはずはないんだけどね。あ~、あの石垣近くで見たいなあ・・・寛永寺創建以前の遺構ってことはないのかなあ、アレ。突き当たり付近まで来たところで駐車場の入口があり、その奥に次のお目当てが見えたので入ってみた。が、右手にすごいものが目に入ったので、吸い寄せられるようにふらふらと・・・ これ、さっき塀の外から見えてた石垣だあ~一部「はつってる」ような石もあるし、これは明らかに近代に積まれたものじゃない。一体、何のために積まれた石垣なんだろう・・・この寛永寺は、江戸城からは北東の高台にある。寛永寺と徳川家との関係はそれは深いふか~いものなので、あるいは出城としての機能も持たせていたとか・・・と、つい戦国ファンならではの戦闘的な想像が頭を駆け巡る。が、今回墓地へは入ってないのではっきりした場所はわからないけど、この付近にも将軍だとか徳川家の方達の御廟があるので、あるいは石垣の上の高い場所にはそうした高貴な方達が眠っているのかもしれない。それにしても綺麗な石垣だこと・・・駐車場の方へ戻って、続きの石垣を眺める↓。 アラ、こちらはちょっと・・・(笑)この面は道路側からは見えない。大々的に目につかない場所の石垣の表情が若干変わるのは、日光も上野も同じなんだなとちょっとおかしくなった。にしても、石垣の前に積まれてるのって灯籠の台座だよな。ずいぶん沢山あるんだけど。本体はどこ行ったんだ、本体は?にほんブログ村
2013年11月04日

さて、本日から予告通り上野編を始めます。3回に分けて行った分をまとめて書きますが、前回の撮り残しを再度撮りに行ったりしてちょっと読みづらい箇所もあるかもしれません。そこはご容赦ください。まずは初回、お墓参りの後の行程です。先行して公開済のプロローグは「墓参り2013」をご覧ください。2013/7/13(土)くもり時々晴れ・・・蒸し暑い去年までのお墓参りの記事で、巣鴨に津藩藤堂家の下屋敷があったことは何度も書きましたが、巣鴨駅から少し入ったあたりの駐輪場↓。 たぶん、この辺りで発掘調査が行われたんじゃないかと思うんだけど・・・(発掘調査の遺物などについては「プチ巣鴨編(1)」をご覧ください)いずれにしても、この辺り一帯が藤堂家の屋敷地だったのだ。今はご覧の通りで、屋敷跡の面影はみじんもありません。都立・染井霊園内にはこんな看板があちこちに立つ↓。 墓参りに来た人の物を盗むとか、ばちあたりめが・・・墓参りを済ませて、いとこのSちゃんとオドロキの再会を果たした後、鶯谷(うぐいすだに)へ移動。ここで「夏はダラケ・・・」で書いたように、ラブホ街をさまよった後、ようやく目的の道へ出たのがもうお昼前。そもそも、家を出たのが予定より遅れたからな・・・この日は相当な蒸し暑さで、この時点でかなり消耗していた。でも、ここからが本番だからな。頑張らなくちゃ上野公園には、文化施設が立ち並ぶ。え~っと、上野駅に近い方から、東京文化会館・国立西洋美術館・国立科学博物館・東京都美術館、そして国立博物館・・・通称トーハク。それぞれ企画展の会期も長いし、さすがにいいものをやるので家から行きやすいこともあり、各種企画展を観によく来た。中でも一番行くのがトーハク。が、その裏に行ったことはこれまでなかったし、まして鶯谷から歩いたことなんてない。ので、地図を見ながら進んでようやくこの道に出た↓。 こちら、寛永寺の塀です。上野といえばパンダか西郷(せご)どんか寛永寺かってぐらいの有名なお寺ですので、ご存知の方も多いでしょう。今回の墓参りの後のプランを考えていた際、上野の山全域にぽつぽつと寛永寺関連の寺や施設が点在する事を知って、それらは単体では存在は知っていたものの、これまで行ったことはなかったし、寛永寺の管轄だとは知らなかった。ので、今回は寛永寺を中心に回ろうという予定を組みました。で上の写真ですが、塀のラインは5本。土塀のラインと格の関係については「三原編(59)」で書きましたが、ここが5本ラインなのは当然ともいえる。お寺の歴史については、もうちょっと後で書きましょうかね。塀の向こうは寛永寺の墓地。この墓地には、徳川将軍も数人眠る。5本ラインの理由はこれだけでもおわかりでしょう。長い塀に沿って、奥まで歩く。周辺には、卒塔婆をかついだ人達が同じ方向を目指して歩いていた。たぶん、寛永寺墓地にお墓参りに来た人達なんだろうな。都内ではもともと7月がお盆だと東京生まれの母親が言っていたけど、こうしてこの時期に法要が営まれてるってことは、やっぱり今でも7月のお盆の風習が残ってるってことなんだな~とあらためて思った。ダラダラ汗をかきながら進むと、土塀の間に第一のお目当てが現れた↓。 【徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財) 4代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、 わずか10才で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日に39才で没した。 法名を厳有院(げんゆういん)という。 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに 後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に 起った由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、 この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた 貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 なお、このうち水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものであるが、 この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の 上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 家綱の父である3代将軍・徳川家光はドラマなどでもよく出てくるし、様々なエピソードをご存知の方も多いでしょうが、公家の姫を正室として迎えていた。このお姫様が鷹司孝子。名前だけは私も知ってたけど、この人って佐々成政の外孫なんだってね。嫁入りにあたって、孝子姫は徳川秀忠の正室・江(ごう)の猶子となり家光の御台所となったそうな。が、家光とのソリが合わず、のちには事実上、御台所としての地位はなくなる。家光の孝子嫌いはかなり徹底しており、孝子姫も運が悪かったな~と思うんだけど、そんな感じなものだから当然2人の間に子はできなかった。正室との仲が悪い上に病弱で変わり者の家光には、他の女性との間にもなかなか子ができず、心配した春日局が家光好みの女性をあれこれ探し出して家光の目に留まるようにさせたなんて話もありますね。で、33歳にして初めて長女が生まれてからはボロボロと順調に子ができたようですが、家綱は家光37歳の時の子。なので10歳という年齢にして将軍職を継ぐハメになりました。ちなみに、孝子は別居させられて孤独な生活を余議なくされますが、家光が亡くなって、家光から孝子に残されたのはわずか50両の金子と幾つかの道具類のみという過酷さ。また、正式に離縁した訳ではないので名目上は正室の立場であったものの、家光は自分の子供達と孝子との間に養子縁組をさせなかったんだと。それでも孤独に耐え抜き、家光の死後、孝子は落飾した。そんな孝子に対し、家綱は家光の死後、父の正室・・・すなわち、自分の母と同様として庇護と敬意を送り続けたとされるが、孝子の死に際しては家綱は喪に服することができなかったという。実にお気の毒な女性だとは思うけど、孝子以降は将軍の正室は京から迎えることが慣例となるので、京と江戸をつなぐパイオニアとも言える。まあ、慣例とは言っても、確か宮崎あおい(篤姫)って島津の出身だったよな・・・と思って調べたら、11代・家斉(いえなり)も島津家から正室を迎えているらしい。ただ、どちらも公家の養女として将軍家に嫁に行っている。他の御台所はすべて京の出身。あと、解説に出てくる酒井忠清・・・酒井氏の中で戦国ファンに一番有名なのは、もちろん四天王と呼ばれた酒井忠次ですが、忠次は酒井広親の長男の家系なのに対し、忠清さんは次男の家系のようですね。徳川家中についてはあまり知らないので、おいおい勉強していくしかないのですが、ウィキペディアによると酒井氏は松平氏の一族だとある。酒井家の系譜では大江広元を祖とし、広元の5男の家系を称している。広元の4男は毛利家の祖とされているので、なら酒井氏と毛利氏は同族じゃ~ん!アハハハ・・・まっ、「自称」なので相当疑わしいですがさてと、まずは華麗な外観からご紹介しましょう。 さすがにこの時代になると、もう桃山のかほりはしませんね。洗練された江戸風ってカンジ。柵の外から見るしかないので、後ろに止まってるタクシーのおっちゃんの視線を感じながらも、柵にへばりついて写真を撮ってましたが、ちょっと気になる箇所もあった↓。 このスペードみたいな意匠は、元からこうだったのか?下に写ってる軒丸瓦はもちろん葵紋だし、スペードの部分にも当然葵が入っててしかるべきだと思うんだけど・・・上野には徳川家ゆかりの建造物も多いですが、他の場所にもこんなのがいくつかあって、これはやはり時代の流れでこうなったのかな~って思った。東照大権現様の御世は遠くなりましたねえ・・・にほんブログ村
2013年11月03日

試験がようやっと昨日終わりました。テキストが来た時点ですでに1ヶ月切ってたけど、具合が悪くて寝込んでた2日以外は毎日少しずつ勉強してました。まあ、日中は頭と神経使う仕事してるので、平日の夜なんかは疲れちゃってあまりできなかったけど。それは仕方ないよな。それでも少しずつやってかないと進まないし。それより、横になって勉強するのは歴史の勉強でもそれ以外でも同じことで、ただでさえ仕事で疲れてるのに、その上横になってつまらない勉強なんか始めれば、眠くなるに決まってます。それは初めからわかっていたので、とにかく眠らないことが大事だと、コーヒーとお菓子が欠かせませんでした。最初の頃なんかは特に、ポテトチップを大量に食べてましたね。晩御飯の後にね。試験が終わる頃、ぶっくぶくに太ってたらどうしよ~とあらぬ想像をして1人で笑ってましたが、試験を数日後に控えたとある日、そういえばしばらく体重計ってないな~と何の気なしに体重計に乗ってみてびっくり。そこには、いまだかつて見た事のない数字が表示されてました。ええ、もちろん増量系です。とゆーことで、只今わたくし、史上最大に太っております。いや、参ったな・・・まさかこんなになっているとは。試験太りとか、もうどうしてくれるのよう。やはり試験の数日前、帰ったらとある古書店から目録が届いてました。頼んだ覚えもないのに何かと思ったら、閉店することになったので在庫一掃処分とのこと。そのまま玄関に座り込んでちょっと中身を見てみたら、書状とか絵図とか垂涎ものの写真ページから始まる実に豪華なもの。某城の絵図なんかは欲しいと思ったけど、貧乏人の私には即決できるようなお値段じゃないし、とにかく試験で今はそれどころじゃない。ぱらぱらと写真ページだけ見てから、試験後にゆっくり見ようと一旦は目録を閉じました。が、何となく気になって数時間後に別の気になるページだけ開いてみたら、前から欲しかったものが格安のお値段で載っているじゃ~あ~りませんか!これは早くしないと誰かにさらわれてしまうかも・・・と思って、次の日に早速申込書を送付しました。試験勉強中には、一発で合格したら何か自分にごほーびでも買おうかな~、平賀家文書でも買っちゃうかと考えてましたが、先月からやたら財政難なので、何となく立ち消え・・・その後には、大内グッズでも注文しちゃうかなって考えも頭をよぎりましたが、ごほーび以前にまずやることをやらなきゃ、とちまちま勉強の日々が続き。その後で目録が届いたので、これは隆景ちゃまがごほーびを用意してくれたのカモって驚きましたね。いや、結局お金を出すのは自分なんだけどね(笑)。ただ、日程的に私がブツをめでたくゲットできれば、場合によってはちょうど結果発表の頃に私の手元に届くのかも・・・もし全教科クリアできて、その日にでも届いたりしたらちょっと恐いくらいの隆景ちゃまの愛だなとゾクッとしました。「ただの偶然じゃん!」て笑う人もいるでしょうが、いいんです。隆景ちゃんはいつも私を守ってくれるし、こういうのは気持ちの問題です。ただね、練習問題はまずまずだったのに、本試験は難しかった。時間もパツパツで、ろくに見返しなんかできなかったし。だいたい、全教科受けるとなると休憩なしのぶっ通しで約3時間。途中からは腰が痛くなるし、あくびは連発するし(笑)、結果ははかばかしくないかも・・・まあ、落ちたからといって(たぶん)解雇される訳じゃないし、次を頑張るしかないよな~と早くも諦めムードではあります。試験の日付の中で私に当てられたのは一番早いお日取り。キツイな~と最初は思ってたけど、かといって連休を2回もつぶさなきゃならないのも何だし、途中からはこれはこれで良かったのカモ・・・と思うようになり、よし、連休は憂さ晴らしも兼ねてお出かけしてやる!と考えました。この後は夏の上野の記事を書こうと思っていたものの、2回行ってまだ当初の予定をクリアできてないので、まずは上野めぐりを完結させることにしました。残るスポットはあといくつかなので、その近辺でオプションを付けることにしましたが、直前になってばたばたと準備していたら、ちょっと誤算が生じました。千葉県柏市在住のわたくしは、生まれも育ちも柏の柏っ子。千葉県てのは北西に長いツノを突きだしたようなおかしな形をしていて、柏はそのツノの付け根の位置にある。ちょっと西に行くとすぐ東京、ちょっと東に行くとすぐ茨城。そんな位置にあるので、他の柏人がどう思ってるかは知りませんが、私は千葉県人というよりは東京と茨城のあいのこのような感覚でいる。つまり、千葉県人でありながら、海に突き出た房総半島を同じ県だとあまり認識していない。茨城の太平洋側からは上野へ抜ける常磐線が通っているので、交通の便はよく、東京のベッドタウンでもある柏やその近隣の市からは学生や仕事人が多く都内へ出る。千葉っていうと海のイメージを持つ人が多いかもしれないけど、内陸にある柏に住み、行動範囲も狭い私には海は縁遠い。茨城は親しみはあるけど、そんなにあちこち知ってる訳でもない。それよりは、何かというと都内へ出ていたので、感覚的に東京が一番馴染みがあるのかもしれない。そういう訳ですので、都内の記事の中では「あんた、千葉県人でしょ?その書き方、おかしくない!?」って箇所があるかもしれませんが、ご容赦ください。たぶん、船橋とか浦安とかの内海側で都内に近い場所に住んでる人の中にも、同じような感覚の人は多いんじゃないかな。で、誤算の話に戻りますが、追加のプランを考えて地図を見ていた時、今までは気にもならなかったことが急に目につくようになった。特に、地名と地形ね。「あれっ?ここって・・・」ってことばかり浮かんで、色んな方向に考えが行ってしまう。たぶん、土地勘がなければ気にもならないんでしょうけど、やたら「江戸」が浮き上がるようになってきた。いや、都内の史跡めぐりといえばほとんどが江戸時代のものだから、もちろん「江戸」を意識してはいるんだけど、何て言うのかな・・・これまでは2次元のぺらぺらな「江戸」だったのが、より立体的な3次元の「江戸の町」になってきたような感じ?要するに、ものすごくリアルな感覚として捉えられるようになった。それもそのはず、都内に馴染みがあるといっても私の場合は23区の西側じゃなく、山手線の東側エリアに圧倒的に縁がある。新宿とか渋谷とか、若者の町は用もないし人が多いから行きたくもないし。でも、私が学生の頃から通っていた中央区・千代田区・文京区・台東区あたりはもう完全に「江戸の町」。東京=江戸じゃないんですよ。主に東部地域がいわゆる「江戸」なのでね。つまり私はずっとお江戸に通っていた訳で、偶然にも江戸を理解する下地ができていたことになる。こんなこと、今の今まで気が付きもしなかったけどね。これまで、わざわざ遠くまで行かなくても江戸もあるじゃんて思ってたけど、別に気合を入れてあちこち巡ろうという気はなかった。国の首都としての期間も長いし、沢山史跡があるのはわかってても、遠出できなくなったら行こうかな、ぐらいに思っていた。そんなに江戸に興味がないってのもあったけど、手を出すとちょっと危険ってうすうす自分でもわかっていたのかもしれない。しかし、ついにその危険な状態に陥ってしまいましたよくよく地図を見ると、寺もいっぱいあるし、イヤでも歴史のニオイのするところが相当沢山ある。そうなると、もうあちこちに目が行って今回追加で行く場所を選ぶのに苦労しました(笑)。何だかね~。史跡めぐりをするようになってから、これまでも都内の史跡や寺社を回ったけど、こういう感覚に捉われたことはなかった。戦国を好きになったのがつい数年前のことなので、全然知識が追いつかなくて「もっと早くから勉強していれば・・・」と何度も思ったけど、やっぱりタイミングってあるものなんだな~と今回あらためて思いましたね。おそらく、江戸については今が私の「その時」だったんでしょう。そして、「その時」を迎えた瞬間から、私の中で東京はもはや東京ではなく、「江戸」へと変貌を遂げました。広島や山口と違ってすぐにでも行かれる距離にあるので、これは非常に危険な状態ですが、さすがに江戸となると資料も多く、また近いゆえに気軽に多くの書籍などに目を通すことができます。そういう環境にあるのだから、ただ闇雲に回るのではなく、きちんと下調べなどもしてなるべく丁寧に回りたいな~と思ってます。で、まずは今日行ってきましたが、結局ほとんど上野編の完遂だけに終わってしまった・・・1日で写真は800枚以上。ま、ボケてるものなどもあるので、それはこれから消し込みします。ヘロヘロになって上野駅で和菓子を買おうと思って改札を入ったら、なんか行列が・・・ 「あ」と声に出して、ソッコー列の最後尾に並びました。これね、ミワラにあるお店なんです。クリームパンが人気らしいんだけど、数量限定なのか、私が去年の夏にお店に寄ってみた時には完売後でもう店は閉まってた。期間限定での上野駅出店と書いてあったけど、ミワラで買えなかったものが上野で買えるって・・・昨日の試験でかなり疲れたので、正直今日は行くのをやめようかと思った。でもなんとか行かれて、その上結構頑張ったので、これはもう隆景ちゃんがねぎらいを用意してくれたとしか思えん。帰って早速食べましたが、もうパンというよりはスイーツ。美味しかったけど、あんこモードに入っていた私よりは親に好評でした(笑)。 2枚目のは包み紙に書いてある絵。 【広島県のまん中、瀬戸内海に面した三原は、古くから海上交通の要衝として栄えた 城下町。やっさ祭り、神明(ダルマ)市、タコの町として有名なところです。】とあるんだけど、これ気に入らねえ。タコとやっさはしょうがないけど、ダルマより小早川隆景を入れんかい!!にほんブログ村
2013年11月02日
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