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釣井の段に復帰。北側から南を写したところ↓。右が北東郭群中の丸の切岸。 この辺からは正直言ってかなり記憶がアヤシイ・・・が、ひとまずこれは左側がライゲンガ丸(のはず)↓。 南の方まで戻ったところで、石垣の切れ目があった↓。入口にしちゃずいぶんミニマムだけど、とりあえずここからライゲンガ丸に上がる。 ここにも石はごろごろしてたけど、地面の状況は釣井の段ほど良くない。ここもそれなりに歩いたはずだけど、写真が少ないので記憶がイマイチ。木が結構あったからかもしれない。中には、こんな木もあった↓。 岩を割って天に伸びる木。これも時間の流れを感じさせる。竹原家の居城は木村城。隆景が竹原家当主のまま沼田家を継いだ時点で、木村城の本城としての役目は終わった訳だけど、沼田家を継いだ後も隆景は「この城は誰がなんゆっても決しちゃぁずさせちゃぁならん(※)。月に5度ずつ大勢の人夫で築城させんさい。塀や櫓も割りあてて修理させんさい」 (※「はずさせてはいけない」の意)と言って破城にはしなかった。有事の際に備えて整備を続けさせたという、慎重な隆景らしいエピソードが残っている。しかし、慶長になって新高山城から三原城へ引き上げる際には、後の景観に配慮するように申し渡してはいるものの、もう新高山城を城として使えるような維持管理は命じなかった。再び戦国の世に戻ることはもうないのだと、大きな時代の流れを実感していたのだろうか。ライゲンガ丸から見上げる本丸↓。 これだけの城を若き日に造り上げて、どんな思いで新高山城にピリオドを打ったのだろう。そして隆景は静かに山を降りた・・・誰もいない城跡は、色々な事を考えるのにぴったり。素晴らしい遺構を堪能して、ほとんどお腹いっぱい状態で再び中央部の中の丸へ戻る細道へ向かう。 この道は、こちら側の本丸大手の方から見る方が綺麗だわね。で、中央部へ戻りました↓。 山上部入口の先には、北側の船木へ降りる道がある↓。 船木への道は、もう1本ある。今回は来た道へ戻るからこの道は使わないけど、歩いた人の話によると、どちらかの道はあんまり良くないらしい。途中で合流するのかもしれないけど。この道は、今度来た時には途中まででも使うかもしれない。この案内の先、中央部中の丸の西側には一段高くなったところがあります↓。 みんなが歩いてできたような道も右側にあるけど、せっかく石段らしきものが残ってるんだから、左の石段から上へ。上がる途中には、また岩を割ってすごい形で伸びる木があった↓。 樹木のパワーって、すごいもんだよな。しかし、私にはこの木、人のひじの骨格にしか見えん・・・いやいや、変な想像をしちゃいかんな。で、これが上がったところ↓。 結構広いし、ここに亭を置くのも悪くないけど、ちょっと防御の点でどうなの~って感じだしな。て、相変わらず会所と蹴鞠と亭のことばっか考えて郭をうろつく(笑)。で、そこから一段下がった先が中央部中の丸の最西部だったかな↓。 この辺から西北方面の眺め↓。 遠くに見えてる高い橋は、東から空港へ向かう時にいつも見るあの橋じゃないかな~。結構眺めいいよな。 さてと・・・縄張図ではこの西側にも郭が描かれているものの、主郭部からはこれ以上行かれない。どうしたらいいのよう・・・そういえば、匡真寺跡の上部に分岐があったよな。あそこから回れるかな?とゆーことで、中の丸を降りて登山道をしばし戻る。次に行くのはこちら↓、西北の郭群。 中央部中の丸を南側から回り込む道では、中の丸を支える岩塊が見られる↓。 中の丸との分岐のところではホントに道かな?って感じもあったけど、ちょっと歩くとしっかりした道が現れたので安心して進む↓。 で、こちらが中央部中の丸の西側直下↓。この道はこのままぐるりと中の丸を取り巻くようになってるんだけど、今回は北側の道は通らなかった。この辺りは小道があちこちに通っているようだし、分岐にはいちいち案内板が建ってる訳じゃないので、構造をきちんと把握してないと恐い思いをすることにもなりかねん再訪した時には、色々通ってみるつもりだけど。 上の写真を反対側から見たところ↓。木がジャマだけど、こちらから見た方が綺麗だな。 ここから西側が三の丸の縄張。中の丸直下から西側の全景を見たところ↓。 あらま、ずいぶんと細長い・・・写真の手前部分が石弓の段と呼ばれるところ。先まで歩いていくと土塁が残り、ここにも船木へ下る案内板がある↓。 古図ではこの辺から延びてる道があって、中央部中の丸にある下山道あたりと合流するように描かれてるんだよなあ・・・昔の道がそのまま残ってるってことなのかな。そしてその先には、北側へと降りる大きな道みたいのが描かれている。他にも別のところへ出る道があるようだから、実際に歩いてみないとわからんな。今回は行かないけどね。それでここの土塁・・・「どこを歩けばいいの?」って詰まった。それもそのはず、ここは箱薬研になっていたのだ。普通に進めないのは当たり前。で、ここでは左の斜面ギリギリのところから上に進んだ↓。 してここが西の丸↓。先が一段高くなっている。これが三の丸の最上部。 脇の道から上へ↓。ここにも石組みの名残がある。 にほんブログ村
2013年03月31日

ほれぼれするような本丸切岸を背にして、今度は北東郭群の東側の区画へ入ります。 左が釣井の段、右が手前からライゲンガ丸、東の丸と看板の縄張図にあります。 【釣井の段(井戸郭) 上下二段からなるこの井戸郭は、東西南北ともに50m余という城内最大の郭である。 上段の郭には径約2mの円形石積井戸が四ヶ所、下段の郭には径約4.2mと 2.2mの円形石積井戸が残っている。 今なお、清水を湛えたものもあり、城主をはじめ多くの家臣団の城内生活を 物語るものである。】 (現地解説板より)この右側エリアをお隣の中の丸から見た写真を「新高山城(28)」に載せましたが、木があって若干見通しは悪いものの、あの通り広いです。それに、釣井の段とライゲンガ丸との段差はそうないので、一緒に見渡せるからよけい広く感じます。これを南の正面から撮った写真がなぜかないんだけど、広すぎてやめたのかもしれない(笑)。して、ここには解説の通りの目玉商品があるので、わりかし良く紹介されてます。以下、本丸のある南側から奥の北側へ歩いていった写真です。第1の井戸↓。 その近くに残る石垣↓。この上段がライゲンガ丸。 第2の井戸↓。石組はよく残ってて、ほんのり湿ってるけど水はない。 その近くの石組↓。こんな感じの低い石垣で、細かく区分けされてたのかもしれない。これだけ広いから、ここには家臣屋敷が建ち並んでたかな~と私は思ってるんだけど。 第3の井戸↓。 これもライゲンガ丸の石垣・・・かな?↓ 「ライゲンガ」って、元は漢字が当てはめられてたはずだけど、どういう由来の名前なんだろう?雷原?頼玄?「元就来たる!」の「来元」とか・・・アハハ・・・新高山城の縄張図は結構世間に出回っていて、郭の名称についてはそれぞれで違っている部分も多い。私のブログでは、匡真寺跡にあった看板の縄張図の名称を使ってます。私の持ってる古図の「沼田新高山之図」は福山の資料館で親切なおじさんにコピーさせてもらったものなんだけど、大きい図じゃないので各郭に書き込まれてる文字までは読めない。そもそもこの図って、何かの企画展の図録みたいなものに載ってたんだけど、古図の下に「当館蔵」と書かれているものの、どこの資料館だかもうわからない沢山資料を貸してもらったから、どこかに書名はメモした気がするんだけど、今は見つからない。広島市内の博物館とかだった気がするんだけどなあ・・・釣井の段にちょっと入ったところから後ろを振り返ると、高くそびえる本丸切岸が美しい↓。 土の造形を美しいと感じるようになった時点で変わったよな~、私・・・と自分で苦笑せずにはいられないんだけど(笑)。これは釣井の段に残る石列↓。これに沿って、建物でも置かれてたかな。 この写真の左奥には、道のようなものが延びている。が、今回は初めてということもあり、ノーマルに見られる範囲でしか城跡を歩いてない。中の丸もそうだったけど、手前に比べて奥の方はそんなに矢竹が刈り込まれてるという風でもなく、現地ではいちおう郭をまんべんなく歩いたはずなのに、後から写真を見ると「あれ、ここ道っぽくない?」って場所も結構あるし、道はしっかりしててもどこに通じる道なのかわからない場合にはあえて進まなかった。で、上の写真の奥は縄張図を見るとどんづまりになってる可能性が高そうだけど、もしかしたら中の丸で行かれなかった下段(リンク先の水色の郭)に通じてるかもしれないから、今度は行ってみよう。 石垣と連結した第4の井戸↓。 まあまあ、どこも埋まっちゃって・・・「目で見る400年の歳月」って感じだよな。で、一段下がってこちらが釣井の段北側の下段↓。そして第5の井戸。 ほとんど埋まっちゃってますが、かなりデカいッス。これが釣井の段で一番大きな井戸かな。この下段は、縄張図で見る限りそんなに狭い区画でもないんだけど、写真の通り結構矢竹が残っていて奥まった場所なので、ちょっと寂しげなカンジ・・・ ところがですね、実際に井戸のところまで行って右上を見上げると、なかなか素敵な光景が広がってるんです この上は、ライゲンガ丸の北側にある東の丸。このあたりは割と複雑な造りになってるようだけど、石垣も結構残ってるし、こんなに高低差があるとは思わなかったな~。そしてこれがラスト、第6の井戸↓。 完全に埋まっちゃってます。が、これもかなり大きかった。新高山城の訪城記の中では「水が溜まってた」って書いてる人もいるけど、私が行った時は1つとして水が確認できたものはなかった。冬枯れか?(笑)この井戸は釣井の段下段の最奥部にあるんだけど、上の写真にもあるように、右手の東の丸の石垣が目を引く。なので、吸いこまれるようにふらふらと石垣に近づいて・・・ 明らかに石を横に寝かせている・・・これを誰が積んだのかは知らないけど、積み方は穴太衆と同じな訳だな。「うふふ、ここは『あぶり』じゃないのね」って1人でニヤニヤするわたくし・・・この場所は一番上の縄張図で★マークのところにあたります。図では釣井の段はここで終わってるんだけど、その先にも東の丸の石垣は続いてる・・・ああ、もうちょっとコレ見たいな~。石垣の下を見ると、ちゃんとした道ではないものの、崩れやすい斜面って訳でもなさそう。もうちょっとだけ・・・地面が柔らかかったら危ないので、すぐ引き返してこよう・・・てな訳で、こわごわ矢印の先へ↓。 ヤ~ン、こんなに残ってるんじゃな~いここまで足を踏み入れる人はそういなさそうだよな。ぱっと見、道になってないところだし。けど、頼りない部分を越えると結構しっかりした道が付いてて、降りたところにはさらに西側へと続く道が延びていた↓。 まあ、この時はこれ以上チャレンジする気はなかったのでここで引き返した。新高山城には各郭をつなぐ小道があちこちに付けられてるというから、1度歩いてもう構造は把握できたし、今度はこの道を行ってみるつもり。もしかしたら、中の丸の水色郭へ通じてる道なのかもしれないし。古図では、釣井の段の真下に北に延びる道のようなものが描かれてる。また、東の丸の稜線の先には「護摩の段」と呼ばれる小さな郭があるようなので、この辺の探索は次回のお楽しみだなにほんブログ村
2013年03月30日

北東部中の丸を出て、さらに奥へ。ここの道はホントに狭くて、明らかに拒絶されてる感じ↓。 こわごわ抜けてくと、眼前には本丸切岸の素晴らしい光景が広がる。 ヤ~ン、こんなに石垣が残ってるんじゃない~!!それに、下から見上げるとすごい高さ・・・奥の方は少し高くなっているので、本丸との高低差は若干少なくなるけど↓。 この素敵な切岸の向かって右手に、大手といわれる小道が付けられてます↓。 おお、ここにあの素晴らしい門があったのかあ~!!本丸のところでは書きませんでしたが、この道の上には解説板が建ってました。 【大手門跡 大手道を登りつめたこの場所は、外枡形の大手門跡と推定される。 三原市内にある宗光寺の山門は重要文化財で高山城(新高山城)の大手門を 移したものと伝えているが、ここにその門が建っていたものと思われる。】てことで~、脳裏に焼き付いてるあのデカい山門を現地で合成するのを非常に楽しみにしていたのだ。・・・・・・・・・・・・・(←脳内合成中)・・・・・・・・・・・・・・アレ?なにかヘン・・・・期待してたのに、なんかしっくり来ない。そもそもアレとコレ、サイズが合わなくないか!?いや、看板にはああ書いてあるものの、城全体の「大手」を指すのかもしれないしな。もしかしたら、山麓にあった大手門カモ・・・いやいや、ちょっと待てよ。あれって、四脚門だったよな。フツー城門に四脚門って使わないし、戦略的(なはず)のこの新高山城の入口に、隆景が四脚門なんか置くか~?宗光寺の山門が新高山城からの移築ってのは有名な話だし、どこを見てもそう書いてあるので、宗光寺に行った時は疑問にも思わなかった。が、実際に城内であの山門を思い浮かべると、どうにもおかしい気がしてきた。そこで帰ってからちょっと調べてみたら、「三原城(7)」で三原城本丸御殿の論文を紹介した佐藤大規氏が宗光寺山門についても書かれているのを見つけた。三原城の論文と同じく、こちらも建築用語バシバシで文章だけではシロートには正確な理解は難しいものの、氏の論文『宗光寺山門の新高山城からの移築説に対する疑問』を要約するとだいたい次のような感じになります。 ・門の移築は、「三原志稿」と「増補三原志稿」に記載があるもので、 「増補三原志稿」は「三原志稿」を書写したものだが、現在残っている「三原志稿」には そのような記述はなく、写本の際に書き加えられた可能性がある。 ・「増補三原志稿」の移築に関する記述には史料的根拠の記載がない。 ・国の重文目録には新高山城からの移築の記載があるものの、同目録では 建築年代などの記載のある他の文化遺産に対しては史料的根拠の明示があるのに、 宗光寺山門にはそれがない。ゆえに、史料的根拠が曖昧と言わざるを得ず、 信用できるものではない。 ・昭和44年~45年の解体修理の報告書にも移築に関する記述がある。 これは宗光寺から提出された資料によるものであるが、その資料は 明治期に書かれたものであり、伝承などを元にした可能性が高いものである。と移築を伝える史料の信憑性の低さを上げた上で、 ・四脚門は古い文献によると親王家や大臣家という特に身分の高い者や 有力寺社にしか建てることのできない、極めて格式の高い門だった。 「洛中洛外図」(上杉本)によると、内裏や将軍邸は四脚門であるが、 細川・斯波氏などの室町幕府内の有力大名の邸宅は棟門となっている。 ・宗光寺では天正10年に移築されたという説を採っており、これが正しいとするなら 宗光寺山門は天文21年~天正10年の間に建てられたことになるが、 この期間の隆景は毛利家の有力武将に過ぎず、有力大名でさえ建てられなかった四脚門を 隆景が建てることは格式の面から不可能と考えられる。 ・四脚門は通常城門には使用されない。二条城には四脚門の唐門があるが、 宗光寺山門は全国最大級の規模であり、この門を有するのならば、新高山城にも 二条城と同規模の御殿があってしかるべきである。新高山城に残る礎石などから、 新高山城に御殿があった可能性は否定できないものの、格式・財力・敷地の広さの点から 新高山城に二条城クラスの御殿が存在した可能性はほとんどないと考えられる。 ・新高山城内にあったという匡真寺の門である可能性もあるものの、 毛利元就の菩提寺となった山口市の洞春寺(もと大内氏の菩提寺)の四脚門との比較で 考えてみると、宗光寺山門は洞春寺山門の規模をはるかに超えている。 有力守護大名の大内氏の菩提寺の門より巨大な門を、毛利麾下の隆景に 建てられる可能性はなく、匡真寺の門であったとも考えられない。と格式などの面から隆景には無理だろ!って流れとなり、結びとして ・建築意匠の点から見ると、頭貫の若葉の彫刻の類例は慶長5年(1600)以前にはなく、 関ヶ原以降は類例が少なくない。このことから、宗光寺山門の建築年代は 慶長5年以降である可能性が高く、建築年代的にも新高山城にあった門とすることは できない。 ・隆景は慶長2年に死去しているので、建築年代からすると隆景による建立では ないことになる。そこで、福島正則による建立と考えたい。正則は49万石の大大名であり 宗光寺はその養嗣子である正之の菩提寺となっており、その門として建立したとするなら 問題はないと考えられる。これを認めたとすれば、現在、正則が建てた建造物は 残っていないことからも貴重な遺構といえる。とある。長すぎてほとんど要約になってないな(笑)。特に後半部分はおおむね本文の引用になってます。この論文は、ありがたいことに全文がネットで読めますので、詳しく知りたい方はぜひそちらをご覧ください。佐藤氏は私は勝手に結構トシの人かと思ってたんだけど、まだ若いしこの論文も平成20年とあるからごく最近のものらしい。福島正則の名前が出てきた時には思わずのけぞったけど(笑)、宗光寺山門と新高山城の現物を見れば、建築の専門知識がなくても通説がなんかおかしいって気付くことは可能じゃないかと思う。新高山城の訪城記には宗光寺山門の写真もあわせて載せてる人が結構いるから、通説に対する疑問を投げかける人がいてもおかしくないと思うのに、歴史ファンの書いたものの中では私は見たことがない。それはつまり、疑問を抱かせる余地がないほど、移築の通説が世間に大々的に広まっているということ。率直に言って、思い込みってコワイもんだな~って思ったね。いや、スペース的に置けない訳じゃないのよ。なんだけど、本丸に大きな御殿を置いたとは私には思えないし、仮に上がってすぐの2段をいっぱい使って御殿を建てたところで、そんなに大きなものは造れない。もちろん、御殿単体で見るなら別に大きくなくてもいいんだけど、建築にはやはり格というものがあり、格のバランスを取る必要がある。宗光寺のあのデカくて立派な山門とバランスを取れる建物を城内に建てるとなると結構大変だし、新高山城の本丸にははっきり言ってキビシイ。仮に隆景ちゃんが私以上に見栄っ張りで、「慣例なんかクソくらえじゃけぇ~!!」って異端児でムリして四脚門を建てちゃったところで、バランスの悪さはどうしようもない。なら、山麓の大手門としてならどうか・・・四脚門は防御には不向きでしょう。城内にもさまざまな工夫が凝らされてるとはいえ、敵兵が城内に入らないに越したことはない。山城は、山上にある別荘じゃないのだ。山麓の入口に四脚門を置いたら、本来75人で済む守備の人数がハネ上がるんじゃないか?まあ、非常に残念ではあるけれど、私も宗光寺山門が新高山城の遺構とはちょっと認めがたい。だからといって、宗光寺山門の価値が落ちる訳ではないけどね。派手好きな人には地味な山門にしか見えないかもしれないけど、日光の陽明門とか派手な彫刻が沢山付いたものよりも、宗光寺山門タイプの方が私にとっては「日暮らしの門」。由来がどうであれ、あの門は重厚でホントに素晴らしいし、ミワラでのおススメであることに変わりはない。現地に来るまでは、まさかこんな結論に至るとは思いもしなかったけどね見てみなきゃわからないことって、やっぱあるんだなあ・・・あ~あ、せっかくミワラで新高山城萌え~したのにな・・・宗光寺の記事にリンク貼って追記しておかなきゃなにほんブログ村
2013年03月29日

さて、ふたたび隆景ちゃんのお城1人占めになったところで、今度は本丸を回りこんで奥へ。 山上部入口の中の丸とこちらの郭群をあわせて二の丸と呼ぶようですが、ご覧の通り分散しててちょっとわかりにくいのでここでは奥の方を北東郭群としておきます。 右が本丸の切岸↑。ここにも結構石が残ってる。少し歩くと、写真のような場所に出る↓。 正面はかなり細くなっていて、がっちりガードされてるカンジ。早く先にも行きたいけど、この写真の左側には綺麗に土塁も残ってるし、とりあえず手前から見ていこう。で、左の矢印の先はこうなってます↓。 看板の縄張図では、ここも中の丸となっている。この入口のミニマムさ、ここには小さな棟門程度が置かれたかな。ここは北東郭群のうち、西側の黄色い区画にあたる↓。 郭の入口までこんなに綺麗に残ってるとは思わなかったな。この入口を入って右手側を見ると、郭の外郭に沿って土塁がある↓。 右奥の土塁まで歩いてその先を覗くと、お隣の郭群がよく見渡せた↓。 すごい、こんなに高低差があるんだ~!それにかなり広いし、なんて美しい・・・!!私が今いる北東部中の丸は、他の郭群に比べてちょっと荒れててね。特に、奥へ行けば行くほど矢竹も多く残ってて、整備作業中って感じだったから郭全体の写真は撮ってない。だから余計、隣の郭が綺麗に見えたんだな。城を紹介する大抵のサイトやブログは、実にコンパクトに記事をまとめているので、写真なんかもだいたい同じようなものしかネットでは公開されてないように思う。記事の分量があらかじめ決められているので、遺構がどれほど多くても目玉商品しか掲載しない、掲載できないような感じ。だから、ここまでの行程の中でも「えっ、こんな遺構あるんだ~!」ってのが結構あった。新高山城には多くの遺構があるので、これをわずかな分量の記事で紹介しようとすると必然的に写真もみんな同じようなものになる。そういう中で、この北東部中の丸は目玉商品が少ないので、ちょっと世間一般では地味な存在。いや、遺構もちゃんとしたのが沢山あるんだけど、他と比べると派手さはないので、どうしても情報が埋もれがち。別に、短い記事が悪いって言ってるんじゃないですよ。読み手にも色々な好みがあるからね。私の場合は、山城へ行く時には詳細なコースガイドが欲しいので、丁寧にルートを紹介してくれてる人の記事は大変ありがたく活用させて頂いてる。だから、自分の記事も誰かの役に立つことがあるかもしれないし、何より沢山の素敵な遺構があることを知ってほしいから自分の欲望のままにだらだら書いてるけど、長すぎてまとまり悪いのは自分でもわかってるので、こうなるとどちらがいいとは言えない。 んでは、ここにはどんな地味な遺構(笑)があるのか? 写真を後から見ると、人間の身体ってのは実に器用にできてるな~っていつも思う。写真の腕もあるかもしれないけど、見たまんまの景色が写真に映ってないのが残念・・・てことで写真ではわかりづらい部分もあるかと思いますが、ここの郭は、他とくらべて小さな起伏が多い。すぐ上の写真は、右方面に本丸(南)があるので、右から左へ歩いていく途中で段差を撮ったものなんだけど、これよりももっと小さな30cm程度の段々が随所にあって、落ち葉であまり目立たないけどアップダウンが多くてボケーッと歩いてるとちょっと危ない。しかも、矢竹を刈り込んだ切株が地面から20cmほど出ていたりして、私が行った時は歩くのになかなか大変だった。山の中ではこーゆーこともあるから、足ごしらえだけはしっかりしてねって「山城攻めをされる方へ2」で書いたんだけどね。登山靴だったら何ともない場面でも、スニーカーだったら運が悪いとケガする場合もあるかもしれないし。不安材料は1つでも潰しておくに越したことはないでしょう? 奥の方はこんな風に矢竹が多く残っていた↓。 ↑ここが普通に歩いて行ける一番奥の北側。色分けした北東郭群の縄張図でいうと、★マークのところだと思う。つまり、この下段の水色部分の郭には行かれなかった(たぶん)。この辺から下に降りる道はなかったように思うんだけど・・・こんな感じでちょっと地味ではあるんだけど、でもここでは矢穴を見つけたよ↓ 「本郷町史」では、中の丸にある礎石を会所のものとしている。ぶっちゃけ、礎石なんか山中にゴロゴロしてるんだけど、山上部入口の中の丸じゃなくて、こちらの北東郭群西側の中の丸のことを言ってるんだと思うものの・・・そもそも、新高山城ってちゃんと発掘調査されてるのか?ネットでちょっと見た限りでは探せなかったので、されてたとしてもごく一部に限られてるんじゃないかと思うけどね。詳しく調査されてなくても、国の指定史跡になれるんだ~ってちょっと変な気分。まあいいや、今度行ったら図書館で探してみよう。遠足イベントでは、何度も山中で宴が催されてましたが、当時の宴で使われるかわらけは使い捨て。盃だけでなく、皿も土師器皿(はじきざら。素焼きの土器)で宴で使用された大量の土師器を使い捨てにしたことから、中世では宴のことを「はじのうつわもの」と呼んだそうな。永禄4年の日記の中で大きな饗応には「御再進」がいたことから、隆景の饗応でも素焼きのかわらけが使われてたと見て間違いはないと思う。であれば、永禄4年の時点でもやっぱりかわらけは使い捨てなので、発掘調査の進んでない現在ではまだ発見されてないものの、新高山の山中のどこかには大量のかわらけが埋もれているものと思われる。そう考えると、ちょっと楽しいでしょ。だからといって、「かわらけや~い!!」って勝手にほじくり返しちゃダメですよ。ここは国の指定史跡ですからね。そんなことしたら、遺構の破壊になっちゃいます。調査されてないのなら、会所を中の丸にあったと断定するのは ちょっと早計かなって気がしないでもないけど、居館については本丸よりはこの北東郭群の中の丸にあった可能性が高いかな、と私は見ている。お隣の郭群も広いんだけど、古図を見るとどうも隣から北へ延びる道らしいものが描かれているので、そっちに居館を置くのはどうかな~って気がするのだ。低い場所だし。新高山城は生活の場でもあったんだから、山中にはかわらけだけでなくいまだに沢山の生活臭い遺物が埋もれているものと思われる。隆景の人気はそこそこ高いんだし、そうした物が公開されれば地元の活性化にもなると思うし、何より色々知りたいと思ってるファンも多いだろうから早く詳しい調査がされればいいな~と思う次第です。お金の面とか、現実的な諸問題も色々あるとは思うけどね。とりあえず、現在品切れ中の「三原市史」を再販してくれればファン(←私)も喜ぶし、三原市の収入もわずかにアップで一石二鳥なんじゃないかと・・・(笑)。ファンの欲望は、尽きることがないのだ↓ランキング参加ちうにつき~。にほんブログ村
2013年03月28日

前回の詰の丸からの展望はお楽しみいただけたでしょうか。映像の途中にある山、↓ これが小早川氏代々の居城のあった古高山(妻高山)です。ぱっと見はわからないけど、この山は結構面白い形をしているのだ。けど、この時はこの外観を見て「あ~、昔流行った洋菓子に似てる・・・何てったっけ、アレ・・・」ってウンウンうなってた(笑)。あれから3ヶ月、いまだにそのお菓子の名前が思い出せない・・・なんだっけ、フランスあたりのサバランをこんな形にしたような、カルなんとか・・・カレなんとかだったような・・・画像の最後の方に映ってたのは、沼田(ぬた)川と本郷の町。しかしこの眺めって、どう考えてもアレだよな。朝、山麓から見上げて心の中で悲鳴を上げたあの・・・ うわあああああ~、考えただけで足がすくむう~!!あの岩峰が崩れ落ちたらどうしよう・・・いやいや、400年も崩れなかったんだし、今さら私1人の体重でどうにかなるハズもないさ。崩れたら崩れたで、城内で死亡したって功績を買われて(?)あの世で隆景ちゃんにお目見えできるかもしれないしな。しかし、いくら事前に縄張図を確認してたって、実際に南の山麓から見上げると山上にこんな広い郭が広がってるなんてとても思えない。日陰は寒いけどここは日当たり抜群だし、目の前が高山城なんて最高のロケーションからすぐに立ち去ってしまうなんて勿体なさすぎ~!!ちょうど正午になる時分だしな。てことで、今日3度めのお食事タイム。さっき雪隠郭で食べてからまだ3時間も経ってないけど、ゆったりしていこ~っとベンチの前にはこんなものが設置されてる。 高山城跡案内(所要時間約4分) 新高山城跡案内(所要時間約6分)ぽちっと押して、説明を聞きながらもぐもぐ・・・今は食べるのに忙しいから、食べ終わったら聞き直してメモを取ろう。結構色んなことを話してたけど、聞きながらも目の前にある高山城を見て、今回のミッションについて考え始めた。いや、正直なところ、遺構を素直に楽しんじゃって今の今までミッションを忘れてたんだけど(笑)。あ~な~た、な~ぜな~ぜわったしを捨~て~た~・・・新高山の標高は197.6m。古高山は190m。ほとんど変わらない。沼田川をぴっちり挟んで対峙してるから、立地条件的にも大きく変わるとも思えない。なんで隆景はあのタイミングで、この山に引っ越してきたんだろう。鏡山城に引き続き、新高山城でも『広島近郊の山城と史跡ベスト33』をコースガイドのベースとしたんだけど、この本には 【「古高は360人、新高は75人の兵がいれば、いかなる大軍をもよせつけない」 といわれるほどで、春日山城、岐阜城とともに日本3名城と称された。】とある。中途半端な数字が妙にリアル感あるよな・・・(笑)。「三原編」でも確か何度か書いたけど、昔はこの両高山付近まで入江が迫っていた。ただ、土肥實平から数えて4代目の小早川茂平(?~1264)の頃には現在の沼田川流域の干拓に手を付け始めたというから、隆景の頃には高山城の築城の頃よりは海岸線は後退していた可能性もあるけど。隆景がなぜ新高山に引っ越したかってことは、裏を返せばなぜ小早川氏は新高山ではなく古高山に城を築いたかってことにもつながる訳だよな・・・眼下を眺めながら、そんなことをつらつら考えていた。朝はめちゃくちゃ寒かったけど、ありがたいことにここは日当たりがよくてすごく暖かい。が、この展望台の岩のくぼみに溜まった水は凍っていた。 ご飯を食べてる最中、また大きな音がしたので見上げると ・・・あ~、JAL機だ。機首を思いっきり上げてるから、離陸した直後だな。あれ?待てよ・・・この角度でヒコーキが見えるってことは、もしかして離陸直後に両高山が機内から見えるかもしれない。帰りはちょうど右側の席だから、チャレンジしてみよ~っと しっかりがっつり食べて、さあこれから音声ガイドを聞き直してメモを取ろうと思ったら、後ろから人の声がした。あっ、やだ・・・私の至福の時間が・・・現れたのは、中年の男女3人組。挨拶をかわした後、1人のおじさんが「ここは初めてですか?」と聞いてきた。普通こーゆー聞き方ってしないから、よく新高山に登りに来る地元の方かと思ったら、3人とも登山口にあった背の高い竹の棒をついてるし、小さなウエストポーチをお腹に巻いてるだけで明らかに食料も水分も持ってないし、トレーナーにGパンという一見アウトドア風だけど冬の登山には最悪のスタイルで防寒着も持ってないし、登山をやってる人じゃないことは一目遼然。3人は展望にそれほど感動した風でもなく、かといってベンチに腰掛けて休憩するでもなく、中途半端に長居しそうだったので一声かけて音声ガイドをつけさせてもらった。「お~、こんなのあるんだ~」ってここで初めてガイダンスに気がついたようだったので、散歩がてらに新高山をよく歩く地元の方でもなかったらしい。なら何で、初対面の人間にあーゆー聞き方をするんだ・・・よくわからん・・・と思いながらメモを取っていた。1本終わったところで、おじさんがもう1本聞きたいと言い出した。ダメだ、私のガイダンス追い出し作戦は逆効果だったらしい城跡に興味があるようにも見えなかったから、すぐ飽きて行っちゃうかと思ったんだけどな。彼らの目的が読めないだけに、いつ立ち去るかもわからないし、それまでずっとイラつきながら粘るのもイヤだったので、詰の丸にいるのはここまでと諦めて先へ進むことにした。来た道を戻らなくても、ここまま詰の丸をぐるっと回っていけそうだったのでそのまま歩いてく。 石仏系は廃城の後に置かれたものだけど、それ以外でも結構岩が露出している。本丸の解説にはここに櫓を上げていたと思われる、ってあったけど、この見晴らしだもの、櫓いらなくね~?もちろん、櫓は物見のためだけじゃないけど。ただ、詰の丸の中央部はこれまでの写真のようにゴツゴツした岩が出ているので、普通の建物を置くにはちょっと向かないかも。かといって、何も置かないってのも確かにおかしいしな。天守っていうより、床の高い井楼(せいろう)とかならアリかもな。井楼って、こんなやつのこと↓。 (逆井城)しかし、この高所にこんなもの上げて、風の強い日とか台風の時なんか大丈夫なんだろうか?ここで見張りをしろって言われたらやだな~。周回道を歩いてると、脇に下段が見えた↓。最初に詰の丸に来た時はそんなに上がった感じはなかったけど、上から見下ろすと結構高さがある。 当たり前の話だけど、やっぱりただ縄張図を見てるだけと実物を自分の目で見るのとでは感動が違う。ざくざくと斜面を降りて、最初に山上部に上がってきた中の丸を歩きながら、さっきの3人組が次にどこへ向かうのかちょっと様子を窺うことにした。これだけ広いんだから、彼らが選んだ方向と別の郭へ行けば無駄にイライラすることもないし。で、これが最初の上がり口↓。来た時は気が付かなかったけど、これ虎口だよな~。 中の丸をうろうろ歩き回ってたら、思ったより早くに3人組が下りてきた。しばらく本丸西側の石垣の名残を眺めていたようだけど、そのまま奥へは行かずにあっさりと中の丸から登山道を下りていった。アレ?もう終わり?やっぱり城好きではなかったか・・・山好きって感じでもないし、あの方たちは正月早々、一体何をしに来たんだろうしかし、静寂を破られたおかげで本丸から降りられた(笑)。あのままずっと1人でいたら、はたして自力で下山できたかどうかわからない(←マジで)。ちょっとイラッとはしたけど、あれはあれで感謝すべきなのかもしれないな・・・にほんブログ村
2013年03月27日

まずは、上がって右手奥にある本丸へ。 ↑この小さな盛り上がりが本丸。慶長のお引っ越しの際には石垣の石まで残らず三原へ持ってったとも言われるけど、石垣も少し残ってるし、大きな石がごろごろしてる。 同じ場所から振り返ったところ↓。左には土塁が残ってるし、右側にはうっすら基壇のような盛り上がりがあるのがわかりますか? 縄張図を見てもわかるように、ここは東西に長い地形だけど南北もそれなりの広さはある。でも写真の左右にはそれぞれ建物が置かれてたような感じだし、ここでうっかりミスをして鞠を下に転がしたりしたら大変なことになるよな~・・・って蹴鞠のことばっかり考えてたワタシ(笑)。1枚目の写真の右側に、上がる小道が付けられてる。この道は昔からあったものかはわからないけど、ここは大手じゃない。けど、搦手というにはこの場所どうなの~って感じだしな・・・その道を上がって見下ろしたところ↓。 下から登るのと、上から見下ろすのでは感じが違う。やっぱここは昔からの道なんだ。でも、大手が厳重に守られた造りになってるのに比べて、ずいぶんあっさりした場所に付けられた道のような気がするんだけど(笑)。建物の配置が知りたいよな~。 【本丸跡 本丸は、山頂尾根を削平した四段からなり、東西125mに及ぶ広大な郭で、 西側と北側の斜面は巨石による石垣で補強している。 東端の最高部は標高197.6mで巨石が露出しているが、この上に櫓をあげて いたものと思われ、近世城郭の天守台にあたる郭である。 本丸の広い郭には、居館の跡と思われる礎石が一部露出しており、また 西側の中の丸からの登り口にあたる本丸西南隅には内枡形の後が残っている。】 (現地解説板より)ああ、なるほど、内枡形・・・(↑正面に見とれてて、枡形を乗り越えてきたから気付かなかった)西側の石垣は今見てきたところだよな。東側と南側には石垣がないのか?って思うかもしれないけど、東と南は急峻な斜面なので、必要ないんですよ。造ろうと思ったところで、あれじゃムリ。 解説には4段とあるけど、上がったところは縄張図の通り、うっすら2段に分かれてます。こちら↑は北側の下段。全体を通して礎石が結構あったけど、特にこの写真の左正面には綺麗に礎石の列が残ってました。↓本丸北側下段の大手門付近。土の造形が美しい。 ↓上段と下段の境らへん。ちょっと斜めってるけど、石組みの跡が少し残ってる。 ↓下段を一番奥まで進んで振り返ったところ。ここには細長い建物があったと思われる。上段にまたがって建てたのなら、居館と呼べる程度の大きさのものは造れるでしょうけど・・・ まだ朝から山中で誰にも会ってない。ゆっくりと礎石を探しながら歩き回ってるうち、段々動きが鈍くなってきた。どうしよう、ここから帰りたくない・・・!!帰りたくないっていうか、帰れないかもって思った。史跡めぐりを始めてからまだ数年だけど、素晴らしい遺構を持つ城もいくつも見てきた。でも、こういう感情にとらわれたのは安土城以来、2度め。安土城に行ったことのある方はわかるでしょうが、天主礎石群の一段高いところにみんな集まって休憩する。私も上がってボケーッと座り込んでたけど、あそこはとにかく一般の観光客も多いし、大して広くもない場所でワイワイガヤガヤ賑わしかったので、30分くらいしてから喧騒に負けて大人しく帰ってきた。しかし、今私のジャマをする者は誰もいない。安土城のように入退場を管理する人もいないし、夜になったからって追い出されることもない。帰れなくなったところで、まあ仕方ないか・・・帰りたくないんだもん。以前、私専用の京都のセキュリティセンターのことを書いたけど、行動中はあまり私は報告をしない。休憩中とか、次のスポットへ移動する時くらい。ただ、報告をほっぽっといても夕方になると「はよ帰れ~!!」ってメールが入る。「ごめん、ちょっと帰りたくなくなっちゃったから今日はこのまま城内で過ごすから」って返信したら、めちゃくちゃ怒るだろうな~。場合によっちゃここまですっ飛んで来そうだけど、今の彼女はホントは私のことどころじゃない状況だから、来ることもないだろうしな・・・自分の欲望と怒りまくる友の想像図との間でしばらくもんもんとしていたが、まだまだ見どころがあるから、とりあえず先へ進むことにした。 ↑これが南側の上段。この奥に、最上部・詰の丸へと進む道がある。 ごろごろしてる岩を回り込むように細い道が付けられてる。ここには色々石仏があることは知ってはいたけど、実物はちょっといただけない。誰がこんなものを設置したのか・・・ ・・・いただけないけど、道も細いながらもしっかりはしてるんだけど、なにしろこの道の下は・・・ 実は私、高所恐怖症のケがあるのだ。長野の四阿(あずまや)山へ登った時だったかな~。かなり高度感のあるところで稜線の道は細くて、足がすくむようなところだった。それ以来、高いところがちょっと苦手になった。恐いので身を乗り出して写真を撮ることはできなかったんだけど、たかだか200m程度の山とは思えないくらいの高度感があった。ので、石仏の方へ思いっきり身を寄せながらびくびく進んだ先にはベンチがあり、展望台になっていた。 ここからの眺めを動画に撮りましたので、短い映像ですがぜひご堪能ください。you tube 安芸国・新高山城詰の丸からの展望(0:32)最後、画面がゆらゆらしてモタモタしてるのは動画の止め方がわからなかったからですだって、今のカメラ買ってまだ1年経ってないし、普段使うことないんだもん・・・楽天ブログには直接動画は貼れないので、わざわざこのためにyou tubeを開設したわたくし・・・まあ貼り方もわかったし、ブログでの公開を前提とするなら次からはもうちょっと綺麗に撮るように頑張ります(笑)。にほんブログ村
2013年03月26日

さて、ここで再び会所について。またもや西ヶ谷先生の引用になりますが、 【これ(饗応の料理。戦国ジジイが追加)を調理し、配膳するスペースである台所や 清所(きよどころ)の空間、膳具や調度品を格納しておくスペースもなければならない。 会所建築は、座敷のほか、控えの間や、以上あげた付属建物が存在したはずである。】 (「小早川隆景の戦略と築城」/「小早川隆景のすべて」所収。新人物往来社) ・・・ごもっともです。そして能が行われた舞台もあり、蹴鞠ができる庭も付いてるとするならば、新高山城での候補地は結構限られてくると思います。「新高山城(16)」で載せた写真を再度掲載しますと、 この庭園跡なんかもね、寺の庭っていうよりは、会所の庭って言った方がしっくりくるように私には思えるんだけどね。これから新高山城を訪れる方は、ぜひ会所や連歌の行われた亭にふさわしい場所を探しながら歩いてみて下さいね。漫然と遺構を眺めながらただ歩くよりは、元就親子ご一行様の訪れた息遣いなんかも感じられるかもしれません。≪11日目:閏3月6日 ≫ 今日でお別れ。 隆景様から両殿様へ御太刀が贈られた。 隆元様から隆景様へ鷹が1羽贈られた。 帰路の途中、栖真寺(49)にて両殿様は滝を見物なされた。 隆景様もお見送りに付き添い、栖真寺にて一献が振舞われた。 お座敷には近習を含め100名ほどが列席した。栖真寺の位置のリンクはこちら。栖真寺(せいしんじ)は棲真寺とも書き、小早川氏の祖・土肥實平と遠平の親子が若くして亡くなった遠平の妻の菩提を弔うために承久元年(1219)に建立した寺とされ、小早川氏とはゆかりの深い寺。「三原編(3)」でも書いたけど、實平の墓は米山寺以外に湯河原にもある。實平の生年はわかってないものの、寺伝の通りであれば結構な年齢で沼田庄にいたことになるから、實平はこの地で最期を迎えた可能性がある。「本郷町史」によると「棲真寺十一勝」なるものがあったそうで、具体的にどんな景勝地があったのかまではわからなかったけど、元就親子が観たのは地図で栖真寺の右下にある「瀑雪の滝」だそうな。けど、地図を見てると滝がどーのというより、広島空港のすぐ近く・・・空港のある山のすぐ下を100人もの御一行様がぞろぞろ歩いてったのかと思うと、なんだかおかしい少なくとも新高山城から栖真寺あたりまでは、沼田川沿い・・・つまり山陽本線沿いを通っていったことに間違いはないので、この辺を通る時はぜひジイ様軍団のお通りを想像しながら進んでくださいね(笑)。11日間にもおよぶ日記はここで終わってる。真昼間に酒を酌み交わして、残り半日くらいではたして吉田まで辿りつけたのだろうか・・・遠足イベントはこれにて終了です。ここまで読んでいただいた皆様、お疲れ様でした。私も疲れた・・・(笑)。いや~、疲れた!!2つの大きなイベントを書き終えて、かなり燃え尽き感がありますが、まだ山上部の紹介が残ってる・・・気を取り直して、頑張ります。てことで、お待たせしました。2013年1月1日に戻ります。え~、匡真寺跡の歌碑の紹介で終わってましたが、そういえば「毛利家文書」では隆元の歌は「嵐も長閑なる・・・」だったのが、「小早川家文書」では「山風も長閑なる・・・」となっていて、この歌碑も小早川家文書に基づいたもののようです。まあ、「むべ山風を嵐といふらむ」(by 百人一首)というくらいだから、嵐も山風も大した違いはないけど。 匡真寺跡から登山道に復帰。ここからはしばし登りになります。山麓から見た時にげんなりした、あの岩峰の急峻な山上部へ取り付く道だろうな。 ↑でも、この道も脇に石が残ってたりするし、斜面に残る大きな石をきょろきょろ見ながらてろてろ歩いてたので、そんなにきつい感じはしなかったな。 ↑時折、木々の間から見える本郷の町の景色も慰めになる。この辺も、結構大きな岩がごろごろしてます↓。 匡真寺跡からチョ~ゆっくり歩いても10分かからない位のところで、T字のような場所に行き当たった。右の道↓。 左の道↓。 う~んっ・・・どちらがどうという表示はないけど、右の道のが明らかにいいし、ベンチも置いてあるから右だろうな。右の道を少し歩くと、小広い場所に出た↓。 ここからの眺め↓。 真ん中を流れるのは、沼田(ぬた)川。おお、だいぶ登ってきたな~。そしてこの展望の反対側には、主郭部への入り口がある↓。 ああ、石垣びっしりじゃないけどこの感じ、安土城に似てる~!!どきどきしながら、いよいよ新高山城の核心部へ。 主郭部の拡大図↑。全体図では、上がったところはこの位置にあたります↓。 【中の丸(二の丸)跡 本丸の北方に四段の郭からなる東の丸、井戸郭、五段の郭からなる中の丸、 西方にも四段の中の丸の各郭が配置され、これらが二の丸の縄張りである。 中の丸の郭には随所に土塁を築き、曲輪を設けて防備を固めている。 また、北方の中の丸の広い郭には礎石の配置が一部みられ、規模の大きな建物が あったことが知られる。】 (現地解説板より)上がってすぐの右手↓。 薄く盛り上がったところに石組みの跡があり、奥へと続く細長い建物でもあったような感じ。その奥まで行ったところ↓。 これは後から並べられたものだな。慶長の撤去の際か、もしくは近年に入ってから整備されたか。この場所から入口方面を見たところ↓。 同じ場所から入口下の段を見下ろしたところ↓。 ああ、外枡形のような感じだな。ここは地形から多門櫓か狭間付きの土塀の類が置かれたでしょうし、背後は急斜面。逃げ場は匡真寺跡から上がって来る道しかないから、ここから狙われたらひとたまりもないわこの場所は狭くもないけど、絶対ここに会所なんか置かない。蹴鞠とか、あり得ないから~にほんブログ村
2013年03月25日

≪8日目:閏3月3日 ≫ 会所でのご饗応。夜に入って三組の膳と引物が出された。 向かって左の上座から 木梨殿(42) 熊谷殿(43) 保利殿(43) 上原殿(43) 桂(44) 渡邊出雲守(45) 向かって右の上座から 平賀殿(42) 隆元様 隆景様 宮内(43) 福原(44) 越中(45)日記もあともうちょっとです。この日の記述はご覧の通り相当あっさりしてて、手抜きもいいとこです(笑)。いい仕事してませんねえ~会所で行われてはいるものの、饗応と呼べるほどの形式は整えていないので、会食といった程度のものでしょう。この席の目的がどうも今ひとつつかめないんだけど・・・。とりあえず、内容を見てみますか。まず膳が三組出されたとあるけど、このスタイルからして七五三の膳は出ないだろうから、せいぜい五三々の膳くらいでしょう。次の「引物」はデジタル大辞泉によると、 【ひき‐もの <引(き)物> 1、引き出物。また特に、膳(ぜん)に添えて出す菓子・料理などの土産物。 2、布を引いて仕切りとするもの。壁代(かべしろ)・帳(とばり)など。】だそうで、ここでは1の手土産程度の贈り物があったってことかな。で、出席者。この番号の振り方はちょっと見づらいかもしれないけど、ごめんあそばせ。(42)の木梨殿は備後国人、平賀殿は安芸国人でいずれも隆景と兄弟契約を結んでいます。(43)の保利殿は元就のいとこの子を妻に持つ。熊谷殿は元春の義理の父。上原殿は6日目の饗応では悩みましたが、列席者の顔ぶれとこの呼称からこれは上原元祐と見ていいでしょう。つまり、隆元・隆景の妹婿。それから「宮内」。なんでこーゆー書き方になるのかはわかりませんが、この人はおそらく備後の渋川義正と思われます。渋川さんは元就の妹を娶っているので、元就の義理の弟。もう1人この場に出そうな「宮内」もいるんだけど、その宮内は永禄4年にはこの世の人ではないので、渋川さんでいいんだと思う。てことで、(43)は縁戚関係になります。(44)の「桂」。日記に出てくる桂さんは1人じゃありませんが、ここのは毛利家重臣・桂元澄でしょう。あと「福原」、これは毛利家の筆頭重臣の福原貞俊。(45)の渡邊出雲守は初日にお迎えに出た人です。次の「越中」は自信ないけど、たぶん備後国人の渡邊兼(かねる)じゃないかなあ・・・。ただ、兼だとしたら、この時相当な年だったと思われる。そもそも備後の渡邊さんちはあまり詳しいことはわからなくて、兼が永禄4年の時点で生きてたかすら確認できていない(笑)。が、渡邊さんちの中でも特に兼は毛利家と縁が深かったので、この場に顔を出すのもアリだろうとヤマを張ってみました。という事で、元就親子の他は準親族・親族・毛利家重臣・毛利家と縁の深い備後国人・・・といった顔ぶれで、内々の会合といった感じかな。連日のんきに宴会ばっかりしてるように見えるかもしれないけど、この翌月には門司城の戦いが始まるし、石見の情勢も不安定な上に足利義輝の調停なども入ったりして、周囲の状況は結構大変だった。だから、軍議とまではいかなくても、ただの親睦会というにはちょっと重い顔ぶれだしな~・・・って感じ。≪9日目:閏3月4日 ぱらぱらと≫ 巨真寺において隆元様が隆景様をおもてなし。 お供の衆6名。も~、どんどん記述に手を抜いてますね。真面目に仕事しろっつの11日間におよぶ日記の中で、雨はこの日だけ。晴男は誰じゃい元就さんは「嵐の男」だから、隆元か?こんな短い文章じゃ解説のしようもありませんが、お供の衆の顔ぶれを見ると小早川家の主要メンバーが揃ってるとは言い難いので、小早川衆へのお礼の席というよりは、兄から弟へのねぎらいといった感じの席かと思われます。簡単な会食とか、酒を酌み交わしたとかそんな感じなんでしょう。小早川隆景といえば、多くのエピソードから物静かで冷静沈着なダンディ・・・みたいなイメージを持つ人が多いかもしれないけど、けっこー性格はアク強いッス。10歳下の弟に駄々こねられたら、私だったら有無をいわさず張り倒してるかと思うけど、隆元は耐えた(笑)。お互いに色々と思うところも沢山あった経緯を経て、この時は打ち解けてゆっくりと話すことができたのだろうか。この2年後、隆元は40歳の若さで急死する。死因はいまだにナゾ。あまりに急の出来事だったので、親兄弟の嘆きは深く、さらに普段はさらけ出すことのなかった心情をつづった隆元の書状を、隆元の死後に読んだ元就や隆景の悲痛な想いもまた涙をそそる。隆元の死後、跡を継いだ輝元を支えようと隆景は滅私奉公を地で行くスタイルに変わっていくんだけど、隆元との思い出を振り返った中に、この日の兄弟水入らずの会話も含まれてたかなあ・・・なんてちょっとしんみりしてみる。≪10日目:閏3月5日 ≫ 会所において、お別れのご饗応。50人が出席した。 ・能初 厳島大夫 御宇衆 脇老松 小かう(御幸) 誓願寺 ぬえ(鵺)(46) 三輪 羽衣 西行桜 呉羽 ・御湯漬 五三々の膳 ・初献 隆景様から両殿様へ御太刀が贈られた。 ・二献 ・三献 ・四献 ・五献 ・御再進 6名 御湯 6名 初献之時出之、吉田各勤にて候(47) ・板 白鳥越知包刀・・・隆景様より金覆輪の太刀、折紙が贈られた。 ・折 4名(48) ・御座敷奉行 1名 御燭の心 3名いよいよお別れの大宴会です。御成ではここまで長逗留することはないけど、近いくせにどうも日帰りでもなかったらしく、御成でも同じようにお迎えの饗応とお別れの饗応が催されたようです。最後は総勢50名もの出席者。って、出席者の名前が書かれてないから何でこんなに増えたのかはわからないけど、国衆が後からやって来たりしてるから、備後国人衆や親族衆を加えた結果こんな大宴会になったのかもしれない。お迎えの饗応より、御再進や御湯係の数が多いでしょう?裏方は相当大変だったでしょうね基本の流れについてはお迎えの饗応と同じはずなので、いちいちここでは書きませんが、この日もやはり記述に手を抜いた感が否めない(笑)。そもそも、式三献が書かれてないんだけど。省略したのか?ただ、日を追うごとに記述の具体性が低下してるから(笑)、書くのを省略した疑惑もある。そうは言っても、やはりここは正式な饗応の場なので、能が出たようです。歌舞伎は昔好きだったけど、能については詳しくないのでこれまでは触れてきませんでしたが、(46)は私にはスルーできない。わかる人にはすぐわかるでしょうが、これは源頼政に関連する演目なのだ。頼政に退治されたヌエが亡霊となって、旅の僧に物悲しい身の上を語るというストーリー。ヌエ退治といえば、頼政の武名を上げたエピソードとして有名だけど、頼政の人生は武勇伝ばっかりじゃないしなあ・・・隆景ちゃんに逢えたら、「あなたは頼政をどう思いますか?」って是非とも直撃インタビューをしてみたいんだけど。隆景なら何て言うだろう・・・ズバッと切ってしまいそうな気もするで(47)の意味がよくわからないんだけど、御成だと杯をいただいてから順番に下がるみたいな手順があったようなので、毛利本家内での格付けで酒をつぐ順番が決められたとか、そんな感じなのかなあ・・・そしてここでも白鳥の庖丁式が行われたようですが、まあこれまでの記述を見るに、二献あたりで出たんでしょう。その後の(48)になると、もう折はいっしょくたに書かれてる。ひどくない、この手抜き~!が、これも膳が変わるたびに何度か出されたってことなんでしょう・・・お迎えの饗応を書いた後になってちょっと思ったんだけど、そもそも「献」ってのはひとつの膳に肴が3品載ったものを指すんだから、やっぱり二献・三献と変わるたびに木具に載せた膳が出されて、プラス「折」とか「食籠」が出されたって意味なのかな~って考え直した。そう考えると、台所はもうてんやわんやの大騒ぎだったかもしれないなにほんブログ村
2013年03月24日

≪7日目:閏3月2日 ≫ 高間(37)において連歌の会。 出席者14名、書記1名。 御発句ならびに脇第三。 「何人」 若木より見ん世も久し花の春 元就 霞の月に交わす松が枝 隆元 嵐も長閑なる夜の明け初めて 隆景 同日に鞠の会。プレイヤー5名。(38) 同日に常のお茶の間(39)にて隆元様(40)が太平記を講読される(41)。 その夜は隆元様は奥の御座敷にてお休みになられた。 やっと7日目・・・書いてる方も疲れてきました(笑)。連日様々なおもてなしを手配した沼田の姫をはじめ、小早川衆も相当疲れただろうな~なんて裏方の苦労を実感したりして・・・この日はちょっと雅な1日。まずは連歌の会。(37)の「高間」について西ヶ谷先生はこう記しておられる。 【この高之間は連歌に詠まれている情景からも、雄高山山頂部のおそらく本丸と いわれる辺りに建つ亭建築で行われた連歌会であろう。文明年間以降の 有力国人領主層の居城には、金閣、銀閣風の亭建築があったことは、諸記録で 確認できる。高之間とは、亭建築内の座敷だったと考えるのが自然であろう。】 (「小早川隆景の戦略と築城」/「小早川隆景のすべて」所収。新人物往来社)「高間」という名称からも、山上部にあった建物でありそれは亭建築だったろうとすることには私も異論はないです(←ナマイキに・・・)ただね、歩いた感じでは 紫のエリアあたりにありそうかな~って思った。 ピンクの部分は山上部の入り口と本丸で防御上重要なエリア。本丸もそれなりの広さはあったけど、隆景がここに亭を置くかなあ・・・。水色はかなり広いんだけど、ここはおそらく主に居住空間だったんじゃないかと思うのだ。黄色の部分は結局行かれなかったから何とも言えないんだけど、こちらはまた別の空間だったような気がするので、なんかイマイチ。てことで、紫のあたりの郭に亭があったんかじゃないかと勝手に推測してます。このイベントが終わったら山上部の紹介をしますので、写真はもう少しお待ちくださいね。さて、メインの連歌。出席者の名前は全員書かれているものの、歌が紹介されてるのは元就様親子の分だけ。そしてこの3つの歌が、匡真寺跡にあった歌碑に刻まれているという訳です。え~・・・こういう和歌を見て、何となく歌の雰囲気を味わうことはできるものの、私にはとても人様に解説するほどの立派な訳は付けられませんので、またもやトロロヅキさんのお世話になろうかと思います(笑)。実際にこの山中で元就親子が詠んだ歌の世界を、是非味わってください。(トロロヅキさんの記事へのリンクはこちら:「雄高山滞在日記~滝と大河と兄弟関係~」 )ちょうど今、平成の世では桜も咲き始めて本格的な春の訪れをあちこちで実感できるので、通勤の際に色んな花を見かけては、「若木より見ん世も久し花の春・・・」と頭の中でつぶやきながら自転車漕いでます(笑)。このイベントは3月といっても当然旧暦なので、実際にはもうちょっと遅い時期にあたる訳ですが、戦国時代はプチ氷河期なんて話もあるし、平均気温は今とは全然違うので、桜真っ盛りとまではいかなくても、遅い春くらいではあったかもしれない。春のほがらかな雰囲気と、末っ子(28)の成長に目を細めて喜ぶ父(64)。『父さん嬉しいなあ』か・・・トロロヅキさん、上手いよなあお次は(38)、蹴鞠の会です。 【(前略)鞠之会が催されたのは、おそらく会所に面した庭であったとみられる。 蹴鞠は、室町武家社会でもかなり流行していたとみられ、清州城での斯波氏が催した 蹴鞠の会や、織田信長が二条城で催した蹴鞠の会などが記録に残されている。】 (前掲書より)蹴鞠が行われた場所が会所に面していたかはこの日記からはわからないけど、当然観客席も必要だから、会所の庭ってのは妥当だよな(←ナマイキすぎ)。ただ、それならばなおのこと、会所には結構な広さが要求される。山上部に上がった時、「蹴鞠はどこでやったんじゃい」って思いながら歩いてたけど、上がってすぐのところは「こんなとこでパスボールなんかしたら『おむすびころりん』になって大変じゃん・・・」って思ったし、やっぱり本丸も面積的にキビシイ。となると、匡真寺跡、もしくは鐘の段の雪隠郭あたりが可能性高いんじゃないかと思うんだけどね。西ヶ谷先生の文に信長様が出てきましたが、今川氏真に蹴鞠を所望したとか、どこかから(←忘れた)の帰りに京で蹴鞠をしてから安土に帰ったとか、信長様と蹴鞠のエピソードは多い。面白いことに、ウィキペディアには 【しかし室町時代の末期に織田信長が相撲を奨励したことで、 蹴鞠の人気は次第に収束していったといわれる。】 (「蹴鞠」の項より)とある。信長様の相撲好きは有名だけど、信長様御自身も蹴鞠をする方だったし、上記のページには「蹴鞠を得意とする人々」の中に含まれてもいるくらいなので、この説、どうなんだろう?って私は思うけどね。戦国ファンに有名な蹴鞠の家柄といえば、やっぱり飛鳥井家だと思うけど、その邸宅跡に建つ京都の白峯神宮には、現在ではこんな碑が建つんですよ。 日記に話を戻しますと、プレイヤーの名前の前に「守得」って書かれてる。一瞬、ゴールキーパーのことかと思ったけど、蹴鞠ってそーゆースポーツじゃないしなその後は(39)の「常のお茶の間」に場所を移したようです。この日記は、宴の進行とか隆景のもてなしというものよりも新高山城の構成という観点から見られることが多く、中でもこの「常のお茶の間」は目を引くらしい。茶の湯の流行は一般的に戦国期後半のように思われているけど、バサラ大名として有名な佐々木道誉(1296~1373)の頃にはすでに茶会が存在していたらしく、その歴史は古い。とは言っても、この戦略的(なはず)の山城に茶の間を設けたことは、やはり隆景らしいというかチャレンジャーというか・・・(笑)。まあ、天文の築城当初からあったかまではわからないけどね。隆景と茶の湯といえば、こんなエピソードがある。元々隆景は茶の湯を好んでいたが、ある時ぱったりやめてしまった。その理由は「茶の湯は俗世のわずらわしさから逃れ、岩栖野居の趣向、水雲鳥魚の閑さをなぞって自然に帰って心を安らかにすることなんでワシもたしなんできた。ほぃじゃが、きょうびの茶愛好者を見ると茶器をなんぼでこぉただの高いモノを値切って安くこぉた者を目利きと称えたりだの、茶の湯の本意から外れとる。人の心は何と物に影響されやすいもんか~」だそうな。(39)~(41)の文章の原文は『太平記、隆元様常のお茶の間にて一芸を召して読侍る』となっており、「一芸を召して」が気にかかる。わざわざ茶の間でやってるんだから、茶の点前を披露したのかな?ただし、「小早川家文書」の方では隆元じゃなく隆景となっており、どちらが正しいのかはわからない。その夜は隆元は巨真寺まで戻らず城内で寝ちゃってるから、隆元の方が正しいのかも。頑張りすぎて、疲れちゃったかな(41)、太平記の講読については西ヶ谷先生は 【鎌倉武士以来、武家社会では、『兵法七書』『源平盛衰記』『吾妻鏡』を教材に講読会が 催されたり、さらに『古今和歌集』『源氏物語』などを講読して、教養を身につけて いた。室町期には『太平記』を兵法・戦略上からも勉強することが武家社会で 盛んであった】 (前掲書より)との解説を付けておられる。そして日記の解説の結びとして、 【(前略)戦国時代初めの在地領主の教養の高さを数々の事例と共に今に伝える 貴重な史料といえる。同時に戦国大名の居城が、地域社会の中で、単なる軍事拠点 ではなく文化センター的な役割をもっていたことを示してくれる。室町武家社会は、 京だけに花開いたものではなく、地方にも根ざしたものだったことを如実に 語ってくれる史料ともいえる。】 (前掲書より)としておられる。 ううん・・・・・・京だけに花開いたものじゃないなんて当たり前じゃん・・・てツッコミ入れたくなるのは、大内ファンの私ぐらいかもな京文化の伝播方法は色々あります。が、当時はもちろん現代のような高度情報化社会じゃないので、「人」が媒体の主役であると言えましょう。大内家のような守護大名は在京の折に直接吸収したし、大内文庫には数多くの貴重な書籍が収められていたので、上京したことのない義隆でさえ、都レベルの教養を身につけていた。これまでにあちこちで書いてきたように、小早川氏は幕府とのつながりも深く、京でお役目を与えられたりしたこともあったので、他の国人衆よりは直接吸収する機会も多かったと思われる。その他の方法としては、カテキョー。公家があちこちの家に招かれたりして、和歌とか蹴鞠とかの文化を教えに出向いた例も多い。公家の貴重な収入源でもあったようだし、まあ、出稼ぎのようなもんだよな。だから、「地方の武士は教養が低い」なんてのは偏見もいいとこだと私なんかは思っちゃうんだけど、とにかく、このアカデミックな1日を通して毛利一族がどんな文化的教養を持ち、この新高山城でそれを楽しんだかってことが450年以上経った現在でも窺うことができる。頑張っておもてなしした甲斐があったね、隆景ちゃん↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2013年03月23日

≪5日目:3月30日 ≫ 桂景信(32)の私宅において、梨子羽宣平殿の饗応が行われた。 御湯漬 五三々 御相伴 隆景様 平賀殿 保利殿 熊谷殿 此外吉田供奉之衆(33)梨子羽宣平はお迎えの日に書いたように、小早川家臣団の中でナンバー2の人物。(32)の桂景信は、毛利家の重臣・桂元澄の子で、毛利家から隆景付として派遣されて小早川家を職場としている。おもてなしの中身は、もうわかるよね。湯漬けプラス5+3+3のおかずの載った膳が出されたってこと。んで、出席者は・・・「保利殿」は安芸国人・天野隆重と思われる。この方は毛利家重臣・福原広俊の娘を母に持ち、さらに今回の遠足メンバーの一員でもある福原貞俊の妹を妻に持つ関係から、元就の信頼も厚かったとされる。平賀君は隆景の義兄弟、熊谷君は元就の盟友であり元春の舅。ので縁戚系で縁の深い人と言えるでしょうか。で、隆景ちゃんはいるものの、元就・隆元の名前はない。そして最後(33)に「此外吉田供奉之衆」とあって、これはそのまま転記した。つまり、吉田から来た毛利家の家臣衆も出席していたと思われるのに、ごっそり名前がカットされている。なんかね~、この日記は日によって記述に相当バラつきがあったりして、この日なんかはその最たるものじゃないかと思うんだけど・・・手抜きすんなや!!とツッコミを入れたくもなるが、この顔ぶれと主催者からして、ここは梨子羽君から毛利家家臣団への饗応と見るべきかと思われる。隆景ちゃんと平賀・保利・熊谷の諸氏は特別ゲストみたいなもんかね?元就と隆元はこの日、何をしてたんだろう・・・≪6日目:閏3月1日 ≫ 会所においてご饗応。 向かって左の上座から 隆元様 木梨越前守★ 熊谷兵庫頭(信直) 門田藤四郎★ 上原(34)★ 池上★ 椋梨治部少輔(弘平)◆ 向かって右の上座から 法泉寺 元就様 平賀殿 隆景様 石原源介 桂元澄 古志左衛門大夫★(35) 梨子羽又次郎(宣平)◆ 乃美弾正忠(隆興)◆ (末席は略) ・御湯漬 五三々膳組 ・能初 近江大夫 脇 難波梅 田村 定家 鞍馬天狗 鈴木 皇帝 卒塔婆小町 杜若 白楽天 お伴の衆から芝居へ樽折が贈られた。 舞台へ元就様・隆元様・隆景様・奥方様それぞれより上衣が贈られた。 舞台へ国衆からそれぞれ折紙が贈られた。 ・初献 ・二献 板 生鶴(36) 篠原四郎左衛門包刀・・・隆元様より御太刀と折紙が贈られた。 ・三献 ・四献 ・五献 ・御再進 4名 御湯 4名 御座敷奉行 1名 御燭の心 1名御一行様のご滞在中、毎日様々な催し物があったが大きな宴会は3回。この日は中のご饗応にあたります。全体の流れについては、お迎えの饗応の記事から応用してね。では、これはどんな会なのか、顔ぶれを見てみましょう。つっても、わからない人もいるんだけどね(笑)。◆マークの人は、小早川家臣。椋梨弘平と梨子羽宣平コンビはお迎えに出てきたから割愛。乃美隆興は相続イベントで顔を出しました。★マークの中には知らない人もいたんだけど、調べたところでは備後国人衆らしい。(34)はホントに「上原」としか書いてないんだけど、この人たぶん、「日幡城」で出てきた上原さんじゃないのかなあ・・・ただ、上原元祐なら隆景の義理の弟にあたるんだから、「上原殿」とか書いてもよさそうだけど。てか、この次の饗応には「上原殿」が出てくるんだよな。こんな風に記述が一定じゃないので、こちらとしては頭の痛いところ。そして(35)、ちょっと変わった名前なので記憶にある方もおられるかもしれませんが、この方は「三原城(8)」の2番目の記事で書いた、被害者の古志さんかと思われます。「石原源介」がどなたかはわからないんだけど、山名系の国人に石原氏ってのがいるから、そのあたりかと思われる。残りは元就親子・縁戚関係・同盟者・毛利重臣といったメンバー。ということで、どうもこれは主に備後国人衆のお目通りの場らしいな。備後国人衆は、毛利家に直接というよりは隆景を通して毛利家につながっていた。新高山城内に人質がいたかはわからないけど、少なくとも三原城にはいた。毛利家じゃなく、隆景の元に人質を送っていたってことだね。国人衆の方にも、「隆景様にお願いすれば何とかなる!」という意識があり、現に隆景が筑前名島へ引っ越した後でさえ、調停を依頼した備後国人もいた。なので、言ってみれば山陽エリア統括部長(隆景)の主催するパーティーに、大企業の会長(元就)と社長(隆元)にご挨拶するために山陽エリア下の各支店長(国人衆)が招かれたような感じ?元就・隆元と隆景のどちらがこの場を企画したのかはわからないけど、ただの遠足で終わらないところがさすがだな。この宴でも、それぞれお酌をする人が決められてるんだけど、竹原衆の名前もぽちぽち混ざっていて、「両家とも、仲良くやってるか~い?」ってエール(ツッコミ?)を送りたくなるこの顔ぶれのためなのか、お迎えの饗応に比べると幾分簡素な感じは否めないものの、ここでも二献で庖丁式が行われている。で、(36)の「生鶴」ね。生とありますが、鶴の刺身じゃありまへん。確かに、鳥料理でレア風なレシピもあるにはあるけどね。「新高山城(19)」で保存のために塩漬けにした食材のことを書いたけど、それの対義語にあたります。つまり、塩で保存されたんじゃない、ナマの食材ってこと。ここではどのようにして鶴を食べたのかはわかりませんが、ひとつ鶴のレシピをご紹介しましょう。 肉には、塩と酒をふっておく。 濃い目の古味噌を溶いた汁をぐらぐら煮立たせておく。ダシは後で入れる。 汁に肉を入れる。旬のものを一緒に入れるのもグッド。夏の葉物やウドなどは あらかじめ酒で煎ってから加える。もみ豆腐などもよい。 香り添えにユズを加えるとよい。 (「大草家料理書」より)これは汁物みたいだね。難しいレシピじゃないけど、そもそも今は食材が手に入らないからね(笑)。庖丁式は古くからあり、その昔は主人みずからが式を行って心からの歓待の意を表したという。そもそものルーツがそういうものなので、幾つかある料理の流派の庖丁家系図には、細川政元・勝元・晴元・澄元なんて戦国ファンにはお馴染みの名前も連なっていて「あ~、あのへん、そーゆーのやりそ~」ってちょっと笑える。解体ショー自体はみんなの前でやるけど、調理は台所でされて再び客の前に出された。ものによっては、貴人の前で調理するメニューもあったらしいけど。「貞丈雑記」という書によると、古くは鶴の庖丁式というのは行われなかったらしい。 【鶴は『蔭凉軒日録』の文明10年(1478)をはじめとして、 天文から天正にかけての贈答品に多く見られる。鶴が高貴な鳥としてあがめられる ようになったのは、(略)天正15年(1587)秀吉が大坂城で開いた茶会以降らしい。 正月3日の茶会は権威を示すものだったし、権力者の振る舞いに鶴が用いられた 例と考えてよい。】 (江後迪子「信長のおもてなし」/吉川弘文館より。漢数字は戦国ジジイが変換)そして宮中でも正月の恒例行事として鶴の庖丁式が行われるようになったそうな。永禄の頃の鶴の捕獲方法はわからないけど、江戸時代、8代将軍の子・9代家重から恒例になったという鶴の献上についてご紹介しましょう。鶴が季節によって下りてくるポイントを「代」(しろ)といい、千住三河島筋・小松川筋・品川目黒筋に18箇所あった。代には11月下旬から12月にかけて「鳥見」という見張りを置き、餌付けなどをしてターゲットを馴らしていく。馴れた頃合いを見計らって鷹匠頭へ報告。鷹匠頭⇒若年寄⇒老中へと報告が進み、鷹狩りの日取りが将軍へ通達される。当日。鳥見が大きな日の丸の扇を高くあげてターゲットへと近づき、驚いた鶴が飛び立とうとする間合いで将軍が鷹を放つ。実際は1羽の鷹で鶴をとらえることは難しいそうで、その場合は鷹匠が後詰の鷹を放つ。こうして捕えられた鶴は将軍の御前に引き出され、鷹匠が鶴の左わき腹を開いて鷹に内臓を与え、その後は赤ずきんちゃんよろしく鶴のお腹に塩を詰めて再び縫い合わせ、夜を日に継いで京まで輸送。京では贈られた鶴の肉を吸い物にして新年三が日の朝の供御(くご)になったという。供御とは、貴人に出されるお膳のこと。明応9年の大内義興さんの饗応の中にも、供御は出されました。いちおう、御成として整えられた場だったからね。一方、鶴を送り出した江戸では、功労者への表彰式が行われた。鶴を捕えた鷹匠には金5両。鷹をおさえた者には金3両。そして狩りの主役である鶴を捕えた鷹には紫のふさを付けて隠居が命じられた狩の後に行われた午餐では酒樽を開き、鶴の血をしぼって混ぜた「鶴酒」がお供に振舞われたという。ああ、鶴の残酷物語・・・さて、日記の宴に話を戻しますと、隆景の妻からも芸人衆へ贈り物がなされている。てことは、この場にいたんだ?そういえば、金吾(秀秋)の婚礼の宴でも沼田の姫は陰から見てたみたいだしな。こうやって書いてくれないとわからないけど、この他の饗応でも大事な場面では奥方様が陰から見てたのかもしれないな。にほんブログ村
2013年03月22日

≪4日目:3月29日 ≫ 御裏御座敷(20)において両殿様から御女中様へお礼がなされた。 竹原にし殿様(21) 平賀(廣相)殿(24) 御新造様(22) 蓮華寺(25) 御相伴 東殿様(23) 元就様より御女中様へ 薄板(26) 四おもて 千疋(30) 厚板(27) 一おもて 御樽十荷折三合(31) 同じくひがし殿様へ(28) 薄板 二おもて 千疋 隆元様より御女中様へ 厚板 二おもて 樽十荷折五合 同じくひがし殿様へ 薄板(29) 二おもて 千疋 いやいや・・・ここも難解だった~(笑)。ギリギリになって、どうにかあらかた分かったけど。又四郎大明神様、ありがとうまず(20)、「御裏御座敷」。この日の記述は「毛利家文書」と「小早川家文書」では結構違ってる箇所があって、上の文章は「毛利家文書」からのもの。ここは「小早川家文書」では「御裡座敷」となっている。たぶん、会所とは別の建物じゃないかと思うけど、言ってみれば「本丸御殿の奥向」みたいな感じの場所でしょうね。で、(21)~(25)がこの時の出席者なんだけど・・・前回までお迎えの饗応について書いたけど、この後も饗応は開かれる。その際の座席表も載ってるものの、名前の向きで誰がどのように座ったかってのがわかるようになっている。が、この時のだけは上のように普通に名前が書かれているだけで、座席の並びだけはわかるものの、向きがわからない。さらに、元就・隆元から局衆へのお礼の場だというのに、元就・隆元の名前は書かれていない。う~ん・・・考えられるのは、江戸時代ほど表向・奥向の区別は厳密ではなかったと思われるものの、アバウトにでも区別はあったはず。程度の差はあっても、「女の園」が出入りできる人間の限られた空間であることに変わりはないだろうから、日記の記録者はこの対面の場を見てないんじゃないだろうか。だから、ぼんやりとしか書けなかったかな~って思った。んじゃ、どなたが出席されたのか?まず(21)、「竹原にし殿」。わざわざ「竹原」とあるから、竹原家の人だよな。私はまだ竹原には行ってないんだけど、現在の竹原市に「手島屋敷」というのがある。手島屋敷は竹原家の居館跡と推定されている遺構で、かつては「西殿屋敷」「西の殿屋敷」と呼ばれていたんだそうな。なら、竹原家と沼田家がひとつになった後、居館の主人クラスの人を「西殿様」と呼ぶのもアリなんじゃ・・・主人クラスならまず当主を思い浮かべるけど、竹原隆景の先代・興景はとっくに亡くなってる。興景の父でかなり勢力をふるった弘平も、とうにいない。そしてこれは局衆へのお礼の場なので、ここはやはり元就の姪にあたる興景の妻と見るのが妥当かな。ただ、少々腑に落ちない点がある。別のシリーズで簡単に触れるつもりだけど、この方はなかなか波乱の人生で、永禄4年の時点では新高山城からは結構離れた場所に住んでいたと思われるのだ。(23)に「東殿様」がいるから、それぞれ西と東に住んでた人かなって可能性もあるけど、たぶん「竹原にし殿様」は新高山城には住まなかった。住んだことがあったとしても、一時的なもの。少なくともこの時点では、別の国人に再嫁していたと思われる。だから、新しいダンナと一緒にこのイベントに参加するならまだわかるんだけど、ダンナの名前はこの日記には出てこない。う~ん・・・1人で来たのか?わざわざ?それか、一時的に吉田にいて、元就御一行様と一緒に来たか。「竹原にし殿様」は一旦置いといて、(22)の「御新造様」は沼田の姫・・・のちの問田大方で問題ないよな。その隣の(23)、「東殿様」はまあ「様」が付いてるから高貴な方だし、「築城の理由」で人質説が出たように、結婚当初から姑が同居していた。ので、これは沼田の姫の生母と思われる。先に(25)、「蓮華寺」。ここはちょっと自信ないけど、永福寺(蓮華山永福寺)のことを指すんだと思う。永福寺は小早川茂平が建立した寺で、古くは京都東福寺の末寺であったという。東福寺派の重要な寺院としての位置付けにあり、永福寺の住持が東福寺の住職となった例も多いとのことで、格の高い寺院だったらしい。「本郷町史」によると、 【寺には、1561年(永禄4)に毛利元就が小早川隆景を新高山城に訪問したとき、 その宴に列席した蓮華尼に与えたという「絹本著色釈迦涅槃図」(県重要文化財)が 架蔵されている。】とある。日記の中で蓮華寺が出てくるのはここしかないから、この時に元就に絵をもらったという寺伝になってるようなんだけど、ちょっと「?」な部分がある。「小早川家文書」にある系図には、一族の中から蓮華寺に入った人も数人書かれてはいるんだけど、みんな女性なんだよね・・・だから、系図だけを見てると蓮華寺は尼寺なのかと思うんだけど、尼様が東福寺の住職になれるハズもなく・・・まあしかし、本郷町史の方も「蓮華尼」となっているから、何にしてもこの日に参加したのは尼さんだった訳だよな。ちなみに、蓮華寺のあとに書かれている「御相伴」。「デジタル大辞泉」によると次のような意味があるんだそうな。 【1、連れ立って行くこと。また、その連れの人。 2、饗応の座に正客の連れとして同席し、もてなしを受けること。 または、人の相手をつとめて一緒に飲み食いをすること。また、その人。 3、他とのつり合いや行きがかりで利益を受けること。 また、他の人の行動に付き合うこと】単に、飲み食いのおこぼれにあずかるだけの意味じゃないんだね(笑)。もちろん、ここでは2にあたります。さて、ここまでの出席者4人が女性なのに対し、(24)の平賀殿。名前を見てもわかるように、この方は男性です。黒一点だな平賀さんちについては別のところで書きますが、小早川さんのお隣さんです。お隣さんだけに、古い時代には領地のことでモメたりもあったようですが、永禄4年の時点では隆景と盟約を交わしており、元就親子とは固いきずなで結ばれていました。奥向の女性陣とただ1人対面していることからも、平賀君と毛利さんちの親密さがうかがえるように思います。てか、もしこの場に元就と隆元がいなかったとしたら、平賀君が両殿様の名代ってことになるのかも・・・(26)以降は、元就・隆元からのプレゼントなんだけど・・・ここが一番難解だった。トロロヅキさんも悩んだようだけど、私も相当悩んだ。薄板を4おもて・・・「おもて」なら確かに板っぽいしな。しかし、何で厚いのと薄いのがあるんだろう。この日記の解読にあたっては、ご飯を食べながら毎日料理書を読んでたので、ただの板ってのも何だし、もしかしてまな板かも・・・って思った。どうも庖丁式を行う時は、庖丁師はまな板持参でイベント会場へ行ってたみたいなんだよね。上流社会に限られてたのかもしれないけど、当時のまな板は今と違って足がついてたし。それに、まな板の四隅と中央の各部分にはちゃんと呼び名があって、かなり宗教的というか神聖な扱いだったようだから、貴重品とまではいかないかもしれないけど、贈りものとしてアリのお品だったのかな、と。ちなみに、先日の手術の際に診療台で気を紛らわすために一生懸命考えてたのは、この「板」のことです(笑)。それで船越先生に急に「まな板の上の時間が長くって」なんて言われたので、吹き出しそうになったのだ。しかし、まな板の数え方って「おもて」で正しいのか?と思って調べたら、「一枚、一挺、一丁」と数えるらしい。じゃ、じゃあ板の数え方は?「一枚、一面、一片」なんか違う・・・ネットでものの数え方を集めたサイトがあったので、なかばヤケで「おもて」と数えるものを全部探し出してやろうかと思った。が、数え方の総数は5000もある・・・ゆえに、「あ行」の「あ」の項目だけで、早くも挫折した(←根性なし)。もうこれは、わからないままで進めるしかないかな・・・と思いつつ今回の記事を書き始めたが、やはり諦めきれずぽつぽつ調べていて、ホントに直前になってようやく「厚板」「薄板」の記述を見つけた。信長様の子・信忠様と武田信玄の娘・松姫の婚約が調った際、結納品として数々の贈り物が双方で交わされたようなんだけど、信長様から松姫への贈り物の中に「厚板・薄板・緯白・紅梅の織物百反ずつ」があったというのだ。織物?なんで布のことを板と呼ぶのか・・・この頃の中国の織物というのは、板に巻き付けて輸送されることが多かったんだと。絹や綿でも厚地の織物は厚い板に巻き付けたので「厚板物」、綸子などの薄手の織物は薄い板に巻いたので「薄板物」と呼ばれたという。これだ!これだよ~!!布は普通「反」でカウントするし、信長様からのプレゼントも「百反ずつ」と書かれているから「一おもて」がどの程度の量なのかまではわからないけど、女性へのプレゼントとして織物ならば納得がいく。やったあ~、織物に決定~!!(28)(29)は「小早川文書」で記述が違っている箇所。(28)はそもそもなくて元就からは沼田の姫だけへのプレゼントになってるし、(29)は薄板じゃなく厚板になってる。まあ、これは写し間違えたかな・・・(31)はお金。(32)は酒とか食料品の類が贈られたんでしょう。で、ここまでを見てわかるように、沼田の姫とその母の「ひがし殿様」には贈り物があるのに、「竹原にし殿様」には何もない。外部の人間だったら1人だけのけ者にするハズもなく、ここからも「竹原にし殿様」は元就の姪で隆景の義母にあたる方かと思われる。小早川繁平の生年が天文11年でその妹が1歳下だとするならば、沼田の姫はこの時18歳。それなりに家事はこなせたかもしれないけど、義父・義兄であり主家の当主ご一行様を迎えるにはちょっと荷が重い。もちろん、「ひがし殿様」がちゃんと仕切ったでしょうけど、気の利いた女性の手は少しでも借りたい場面。なので、「竹原にし殿様」は案外裏仕事のお手伝いに来たのかもな・・・なんて思った。にほんブログ村
2013年03月21日

御座には おくいれ 御てかけ 御瓶子 置鳥 置鯉(7) があった。 (式御肴から初献までは前回・前々回をご覧ください) ・二献 盃の台 板 白鳥大野包刀(11)・・・両殿様から太刀と折紙が与えられた。(12) 折(13) ・三献 盃の台 隆景様から両殿様へ、甲冑が贈られた。 ・四献 盃の台 板 ・五献 盃の台 隆景様から両殿様へ御腰物が贈られ、隆景様が御自身で捧げた。 ・六献 盃の台 折 両殿様それぞれから隆景様へ、御腰物が贈られた。 ・七献 盃の台 隆景様から両殿様へ、御鞍が贈られた。 食籠(14) ・八献 盃の台 食籠 ・九献 盃の台 段子(15) 末長左近大夫承 隆景様から両殿様へ贈られた。 御再進(16) 4名 御湯(17) 4名 御座敷奉行(18) 1名 同ろうそくの心(19) 2名 御成が盛んだった室町中期以前には、式正料理(正式な儀式料理)が用いられていたが、時代が下るにつれ、次第に宴も簡略化の方向へ向かう。前回貼った山口観光コンベンション協会様のリンク先を覗いた方にはわかるかもしれませんが、義興さんの饗応は二献・三献とその都度立派なお膳が用意されてるのに対し、隆景ちゃんの宴では七五三の本膳料理が出たあとはちょっとしたものだけが出されているように見受けられる。三献・五献なんかは酒の他は献上品しかないみたいだしね。ただ、私が最も比較の対象とする明応9年(1500)の義興さんの饗応と、だいぶ簡略化されてる天正9(1581)・10年の信長様の饗応とでは80年もの開きがあり、その途中(1561)にある隆景ちゃんのおもてなしはちょうど過渡期にあたるので、これが時代の流れなのか、あるいは立場から来る略式のスタイルなのかまでは判別できない。だから、メニューがわからないことが(私には)致命的なんだってば・・・さて、(11)、これは悩んだ~。最初は全くわからなかったけど、ふと、あれ、もしかして・・・ってちょっと思いついて、その辺りから調べてみてやっとわかった。「庖丁式」あるいは「式庖丁」って言葉を、聞いたことがありますか?古くからある料理の流派で行われるもので、食材には一切手を触れず解体を行う儀式を指します。現在では、古い神社に奉納されたりが多いのかな。厳島神社にも、庖丁式のポスターが貼りだされてたし。でね、 【鯉の切り方などの包丁式という故実をもてなしのひとつとし、 もっとも古い料理の流派四条流が興ったのもこの時代(平安時代)だった。】 (江後迪子「信長のおもてなし」/吉川弘文館より。カッコ内は戦国ジジイが追加)ていう文化がかつて存在し、さらに「板 白鳥大野包刀」とあるから、「板」はまな板もしくは食器のことで「包刀」は庖丁だよな・・・「大野」がちょっとよくわからないけど、庖丁師の名前かもしれない。なるへそ、ここでは白鳥の庖丁式が行われたに違いな~い!!てやっとわかった次第です(間違ってたらごめんなさい)。つまり、今風にわかりやすく言えば、宴の最中にみんなが見ている前で白鳥の解体ショーが行われたって感じ。で、続く(12)。両殿様から庖丁式のパフォーマーへ、ご褒美として太刀と折紙(おひねり)が下賜された、と。「諸国図会」という書に鶴の庖丁式のことが書かれていて、 【さて清涼殿の階下にのぞみて、太刀折紙を賜ふ】とあるので、おそらく当時の庖丁式が終わった後には、貴人から太刀・折紙などのご褒美が下される慣例になってたんだと思われる。 で、これでやっと(7)へ進めます おくいれ 御てかけ 御瓶子 置鳥 置鯉「御瓶子」は誰でもわかるよね。とっくりのデカいもので、酒器のこと。現在では神事くらいにしか使われないそうだけど、昔は宴に使われていた。その前の「御てかけ」・・・これは「御手懸」と書き、祝儀の際に客の前に出す盛り物なんだそうな。オードブル盛り合わせみたいな?で、「置鳥」「置鯉」・・・鳥と鯉の置き物があったのか?と単純に想像しがちだけど、庖丁式が二献で出てくるので、もしかして式に使われる鳥と鯉がまな板に据えられて置かれてたんじゃないかって思った。鳥の据え方も料理関係の古文書には色々書いてあって、 鳥を板にすゆる事、(略)鳥のくびを鳥の左の方へ折てすゆべし(鳥板記) 板に鳥据る事、鷹の鳥は志餌(くちえ)たる方を上になし居る也、射鳥は矢目を 上にして居べし、順逆の沙汰に有べからず(庖丁聞書) 鳥をば左を面向とす(武家調味故実)とか何とか、あれこれ決まりごとがある。なんだけど~、白鳥の庖丁式は書いてあるけど、この最初の饗応で鯉の庖丁式があったとは書かれてないんだよな~。瓶子と御手懸があるから、飲食物で統一されてたんじゃないかと思ったんだけど・・・こうなると「おくいれ」が手掛かりになるかもしれないのに、これについてはさっぱりわからなかった。こういった内容の事になると、ほとんどネットは役に立たないと私は認識しているので、あらためてネットで「置鳥」について調べなかった。が、何気に検索してみたらgoo辞書に 【おき-とり<置(き)鳥> 近世、祝宴、特に婚礼の席などの飾りとした雌雄の鳥。置き鯉(ごい)と対をなす。】ってあっさり書いてあった。何だよ~、一生懸命考えたのに!! (←逆ギレ)ううむ、しょうがないな・・・鯉の庖丁式が書いてない以上、やはり置物説のが正しいのカモ・・・次の(13)の「折」は、食物を入れる容器のことで、蓋をして折何合と数えたらしい。まあ、この時に蓋がついてたかはわからないけど、現在でも「折敷」「折詰」なんて言葉が残っているから、なんとなくイメージできるでしょ?だから、ひと皿分くらいの食べ物が出されたって感じだと思う。四献の「板」、(14)の「食籠」も中身的には似たようなもんじゃないかな。入れる容器によって表現を変えてるのかもしれない。次の(15)、「段子」・・・これは悩ましい。考えられるのは2通り。食べ物か、献上品か。食べ物の場合は、さらに2つ考えられる。ひとつはお団子。もうひとつは唐菓子で、「団喜」という油で揚げた唐風のお菓子があるんだそうな。名前が似てるから、これの可能性も否定できない。ここまでの進物のやり取りには、それを取り次ぐ人の名前が書かれてるんだけど、すべて省略した。が、九献はそもそも「段子」がわからないし、ここだけ人の名前の後に「承」の文字が付いてるので、そのまま載せた。団子でも団喜でも、スイーツであることに違いはないので、「承」とあるところから、追加で注文でも受けたのかとも思った。ラストオーダー的な?献上品だった場合は、緞子(どんす)の可能性が高い。実際、緞子が献上されてる御成もあるし。ただ、その場合は 段子 三端。紅少々。 段子 一端。紅。(いずれも「飯尾宅御成記」)って風にどんなものをどのくらい、ってちゃんと書かれてるんだよね~。甲冑とか武具なら、フツーはいちどきに5つとか贈らないからわざわざ「一」って数量を書かなくてもいいけど、緞子だったら量くらい書くべ?てか、ちゃんと書いとけ~!!・・・が、わざわざ「隆景様がスイーツを両殿様に贈った」と書くのもやはりヘンなので、ここはやはり緞子ではないかという結論に至った。宴の式次第はここまで。残りは、この饗応にあたって宴を円滑に進めるために特別ミッションを与えられた小早川家臣の名前が書いてある。これ以外にも、初献から九献まで、それぞれお酌をする人の名前が書かれてるんだけど、ここでは省略しました。で、最後の人達はどんな役目なのかというと・・・まず(16)、「御再進」。この頃の宴会では、素焼きのかわらけを使う。基本、使い捨て。で、素焼きなので時間が経つと湿って使いづらくなっちゃうんだそうな。そんな杯を取り替えるのがお役目。次の(17)、「御湯」。最初はお風呂係かと思ったんだけどね(笑)。はっきりとはわからないけど、義興さんの饗応の中で「御湯」ってのがメニューに含まれてるから、まあ「お冷や係」みたいな感じなのかなあ・・・あるいは、フィンガーボウルみたいなものが置かれていたのか。4人も「御湯」が置かれてるところが気になるけど、総勢37名もの大宴会だし、持ち場を決めてたのかもしれないね。(18)の「御座敷奉行」さん。これは指示に従ってふすまの開閉などを行うお役目なんだそうな。最後(19)、「ろうそくの心」係さん。もうこれはそのまんま、ローソクを取り換える人。ちなみに、2人のうち1人は真田さんって人で、この名前は古い文書にはよく田坂さんと一緒に顔を出すから、相続でモメなかったら田坂義詮さん、あるいはその子の名前がこの日記に書かれていたかもしれないな・・・なんて、ちょっとしんみりしたざっとこんな感じ~。もっと色んな知識があれば面白い解説もできるかもしれないけど、今の私にはこれが精一杯。でもまあ、こうして見てみると結構宴も面白いもんだと思いませんか?にほんブログ村
2013年03月20日

御座には おくいれ 御てかけ 御瓶子 置鳥 置鯉(7) があった。 ・式御肴 御酌 小泉興一 御加 粟屋小次郎 同御宮仕 天野五郎 内海刑部丞 井上叉右衛門尉 ・御湯漬 七五三の膳、御菓子九種(9) 御酌 井上叉右衛門尉 同脇 小泉興一 末席まで含め、出席者37名。(座席表は略) ・能始 裳懸河内守 脇高砂 蘆苅 夕顔 紅葉狩 熊野 弓八幡 ・初献 隆景様から両殿様へ、太刀・馬が贈られ(10)、梨子羽殿から桂元澄殿へ 引き渡された。式三献が済んで、次に出るのが(9)の本膳料理。 【正式な本膳料理が出されたのは、室町将軍を招いて行われた御成のときだった。 そして、もっとも完成された様式は七五三の膳というもので、 菜の数が七品、五品、三品と盛られているものである。】 (江後迪子「信長のおもてなし」/吉川弘文館より)「七五三膳」の前に「御湯漬」とありますが、湯漬けは7・5・3の品数には含まれません。ご飯とおかずは別ってね。純粋なおかずだけで7+5+3。 【これらの料理は木具(きぐ)というヒノキの白木で作った三方で出された。 江戸時代までは、木具のほうが格上で、塗りの道具の方が格下だった。】 (前掲書より)なので、ヒノキの白木の三方に7つおかずの載った膳、5つ載った膳、3つ載った膳の3つの膳が並べられたわけ。プラス湯漬け。まあ、「新高山城(17)」で書いたように、残念ながらこの時のメニューはわかりませんが、この頃の料理の特徴についていくつか簡単に紹介しましょう。まず、料理1品に食材は1つってのがほとんど。複数の食材を煮込んだり盛り合わせたりってメニューは少ない。鳥肉を使った品なら、素材は鳥肉だけ。次に、野菜が少ない。ほとんどが肉か魚介類のメニュー。だから「ふろふき大根」なんてのはこの宴には出てない可能性が高い。野菜は少なくても、肉・魚介系の食材は豊富だった。・・・豊富というか、現代では食べなくなったものを結構食べていた。肉食を意外に思う方もいるかもしれないけど、牛と馬以外の肉でかなりのバリエーションがある。牛と馬は農耕などに役立つので、古くは殺生が禁止されてたそうでね。私の手元にはいくつか中世の料理書があって、結構細かいレシピも書かれてるんだけど、牛と馬に関するレシピはやはりどこにも載っていない。牛と馬がダメなら、他に何を食べるのか?ふふふ・・・記録に残っているのは、ウサギ・鹿・タヌキ・ムジナ・カモシカ・イノシシ・熊・カワウソ・イルカなど。あとは鳥肉。雁・白鳥(くぐい)・鶴・こうのとり・カモ・キジ・菱喰(ひしくい・ガンの仲間)など。結構びっくりでしょ?そして調味料。16世紀初め頃には、しょうゆ・砂糖・みりんは存在していなかった。塩とか味噌とかあとお酢系の味付けぐらいかな。戦国も後半頃になってくるとしょうゆが登場する。現在でもしょうゆで有名な千葉県野田市のしょうゆは、永禄年間に甲斐武田家へ「川中島御用溜醤油」と称して納めた記録があるんだと。しょうゆの起源にもいろいろ説があるものの、紀州・湯浅でしょうゆの製法が発展し、天正年間には日本初のしょうゆ屋さんが誕生したといわれるが、まだ永禄4年の時点ではそんなに一般的ではない感じ。ところで、レシピを見てると調理の際に結構酒を多く使うことに気が付く。当時は現代と違って保存にも限りがあるから、塩漬けにしておいた食材も多い。そこで、塩を抜いて酒に漬けて・・・とか、酒で塩を洗って・・・とかいうレシピが多い。今度は調理方法。煮るか、煎るか、焼くか、あえるか、ゆでるか。刺身もあった。揚げものは室町時代に登場した調理方法らしいけど、まだそんなに一般的ではなかったのか、私の持ってる料理書にはそのレシピは書いてない。さて、七五三の膳の後には「御菓子九種」とある。これは当時、本膳料理とセットで出されたものらしい。ただし、御菓子といっても現代の私達が想像するお菓子とは全く違う。16世紀初め頃の「御菓子」は「木菓子」といって、くるみ・干柿・みかんなどの果物系のほか、栗・昆布・のり・山芋などを盛り合わせて出していたらしい。ちなみに、明応9年(1500)3月5日に大内義興さんが出した「御菓子」は まつき(?)・削栗(栗の塩焼き)・昆布(千切りの干昆布)・みかん・ ところ(塩でボイルした山芋)・飴・串柿(干柿)・くるみ・のり(水で戻した板海苔)天正9年(1581)に信長様が家康に出した「御菓子」は 羊羹・みかん・くるみ・饅頭・らくがん・あるへいとう・のし昆布翌天正10年(1582)に信長様が家康に出した「御菓子」は 5/15夜 ようひ餅・豆飴・美濃柿・花に昆布・から花 5/16朝 薄皮饅頭・美濃柿・山芋・びわ・麩揚げて 5/16夜 羊羹・うち栗・くるみ・揚げ物・花に昆布・おこし米・のし天正14年(1586)に毛利輝元が秀吉に出した「御茶の子」は ざくろ・ひめくるみ・みかん・うんぞうかん・打くり・からなは・ うすかわ・豆飴・結花昆布・みの柿・山いも・・・とまあ、時代が下るにつれ、現代で言うお菓子らしきものもぽつぽつ現れてくるけど、昆布や山芋なんてシブいものもしぶとく生き残っているのがわかる。甘味料自体は割と古くから使われてはいたんだけど、こういう正式な場ではあまりそういう味付けのものは出されなかったみたいだね。饅頭・羊羹なんてのも、古くは全く甘くない品だったし、信長様と輝元が「御菓子」として出したこの2品が今と同じ甘ったるいものだったかはわからない。時期的に明応と天正の間に位置する今回の宴では、おそらく隆景ちゃんの「御菓子」の半分以上は、私達にはとてもスイーツと呼べないような食材が並んでいたことでしょう。とまあ、色々書いてきましたが、何となく宴の料理の想像がついてきましたか?明応9年に大内義興さんが主催した御成の料理を町おこしの一環として山口市が再現したことがあってね。これは上に引用した本の著者・江後迪子先生が監修したイベントなんだけど、この料理の写真がレシピ付で財団法人山口観光コンベンション協会様のサイトで紹介されてます。山口の観光協会やNPOはホント、こーゆー面でのレベルが高くてね・・・中世の御成の料理を再現なんて企画はそうそうないので、中世の料理に興味を持たれた方、あるいは隆景ちゃんの宴の雰囲気をちょっとでも味わいたい方は、是非そちらもご覧ください(リンクはこちら)。んで、(10)。初めてこの日記を読んだ時、正直言って私は気分が悪くなった。「実の親子でこんな仰々しいことするなんて~」が、当時は身分社会だし、隆景はあくまで家臣。今は平等な世の中だけど、伝統を重んじる梨園とか相撲の世界なんかは実の親子でも師弟の関係には厳しい風習が残ってるしね。まあ、今は公私の区別があるから、プライベートな時間では普通の親子関係でしょうけど。時代が違うんだからしょうがないけど、大変だな~って思っちゃった。ただ、家臣のもてなしだからこれで済むけど、これが御成ともなるとホントに大変。都落ちした足利義尹や足利義昭の御成を除いては、当然のことながら御成は京で行われるものだから、お供の顔ぶれも豪華。ので、将軍様への献上はもちろんのこと、お供の一色殿だの細川殿だの畠山殿だの赤松殿だのへも豪華グッズを贈呈しなければならなかった。御成は確かに名誉なことではあるけれど、主催者側の出費も相当なものだったと思われる。江戸期に入ってもしばらく御成は続けられたが、この大変さから江戸初期の段階で行われなくなったそうな。ま、そんな感じで中世の宴会には御進物のやり取りは欠かせないものだったようです。にほんブログ村
2013年03月19日

≪2日目:3月27日 ≫ 雄高山にご到着。隆景様は麓までお迎えに出られた。 元就様は井上春忠の私宅(1)を宿所とし、井上のもてなしを受けた。 隆景様もこれに同席。 隆元様は宿所の巨真寺(2)に入り、そこで食事を取られた。 夜になって隆景様がお礼に下りてこられた(3)際に小さい魚などを持ってきたので、 元就様・隆元様・隆景様の他、家臣31人で酒盛りとなった。(4) 同日、熊谷信直殿(5)、保利中務少輔殿が遅れて来られた。 各人の宿所へは、酒肴や炭・薪などが手配された。 新高山城は、山上で生活していたと言われます。少なくとも、山麓に居館跡のようなものはまだ見つかっていません。そんな訳で、山住まいをしていた隆景はお迎えのために下りていったのですが、(1)の井上君ちが山麓にあったのか、山上にあったのかはこの記述じゃわからない。場合によっては、一旦下山してから山上にある井上君ちまで一緒に上がっていったとも読めるし。ただ、わざわざ「私宅」と書いてるからね。まあ、山麓にあったのかなって気はするけど。それよりナゾなのが、隆元の宿泊先。(2)の巨真寺っていったら、素直に考えれば現在の米山寺。が、ちょっと遠くないか!?現在の米山寺の位置だと、新高山城から直線距離で3kmぐらいあるんだけど。夜には一緒に酒を飲んでるんだから、もう少し近いところにいたんじゃないかと思うんだけどなあ・・・ここでまたまた「教真寺」と取り違えてないか!?とか言いたくなるんだけど、この時はまだ繁平は生きてるから、そんないわく付きの場所(笑)へ泊まるはずもないしな・・・とすると、あと考えられるのは、米山寺の飛び領が城下にあったかな?往時はかなり大きな寺院だったし、何といっても小早川惣領家の菩提寺だから塔頭のひとつも城下に持ってた可能性はないとは言えないんじゃないかな?そう思いながら本をパラパラ見ていた時、順勝寺の記述に目が止まった。確か相続イベントのところでも書いたけど、順勝寺は巨真寺に属していたといわれ、三原に引っ越す前は高山城下にあったとある。おおっ、これだよ、これ~!!やっぱり城下にもそういう寺があったんだ。まあ、だからといって隆元が順勝寺に泊まったとは言えないものの、同じように城下にあって巨真寺に属する寺か、あるいは城下の塔頭に泊まったんじゃないかという気がしてきた。ただ、近くにいたんだったら久々に親子3人水入らずで食事すればいいじゃん・・・とか思うんだけど、「お疲れでしょう。まずは、ごゆるりとなされませ」てな感じでそのまま宿で軽食をとったのかもしれないしな。そして(3)、隆景がどちらのステイ先に行ったとは書いてないけど、まあパパのところでしょう。で、ここでようやく井上君ちの私宅が山麓にあった事がわかる。たぶん、山上にも家は持ってたと思うけどね。井上春忠君は、「三原編(34)」でちょっと顔を出してますが、元は毛利家家臣の出身。「パパ、気兼ねなくくつろいでね」って感じなのかね(笑)。で(4)、夜になって酒盛り・・・ここでは割愛したけど、一緒にいた31人の家臣の名前もずら~っと書かれている。私はまだ毛利家家臣についての知識は全然ないので、この中で知ってる人はちょっとだけ。そこでトロロヅキさんのお知恵を借りると、出席者の平均年齢は相当高いらしい。しかも、遅刻者2名を加えると、主賓・ホストを含め総勢36名のジジイ軍団。あらたまった饗応の席でもなく、無事に新高山城下まで着けた安堵感も手伝って相当盛り上がったんじゃなかろうか・・・隆景ちゃんはこの時、御歳28歳。毛利本家の古くからの家臣、しかも酔っぱらいのジジイ集団が相手となると、お世話する方も大変だなあ~とちょっと隆景ちゃんに同情してみる。遅刻組の2人のうち、(5)の安芸国人・熊谷信直の名前は知らなくても熊谷直実の名前は知ってる方も多いでしょう。一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取ったとされる、あの熊谷さんです。その直系の子孫とされるのが、信直さん。(直実のろう人形の写真を見たい方はこちら。ただし、背中だけ)直実さん自身は、武士の身を嘆き仏門に入ったといわれてるけどね。その子孫である信直さんは、実は父親を元就に討ち取られてます。が、その後なんやかやあって毛利の傘下に入り、娘が元春に嫁ぐというちょっと複雑な経歴の方です。「保利殿」は安芸国人・天野隆重と思われる。しかし、なんで信直は遅れてきたのか・・・案外、最初は元春ちゃんが来るはずだったとかね。≪3日目:3月28日 午後から≫ 会所において御饗応。MC:椋梨殿。 両殿様(元就・隆元)から隆景様へ太刀・馬・甲冑が贈られ(6)、 福原殿から椋梨殿へ引き渡され、座敷に置かれた。 御座には おくいれ 御てかけ 御瓶子 置鳥 置鯉(7) があった。 ・式御肴(8) 御酌 小泉興一 御加 粟屋小次郎 同御宮仕 天野五郎 内海刑部丞 井上叉右衛門尉 文字数の関係上、一旦ここで中断しますが、ここからが饗応の本番です。まずは、この最初の饗応が行われた「会所」ね。西ヶ谷先生は山上部にあったと書かれているけど、はっきりした場所はまだわかっていないんだと思う。山上の可能性ももちろんあるけど、私としては匡真寺跡なんかもアリなんじゃないかと思うけどね~。あそこ、広いし。そもそも、匡真寺が建てられたとされるのは、天正5年(1577)。天正の初め頃からは隆景は三原城の方にいることが多かったようだから、匡真寺を建てるために公式な接待の場所である会所を新高山城から三原城に移したとしても問題はない。「法常寺」で書いたように、元亀年間(1570~1573)には城下移転のプランもできてたみたいだし?いずれにしても、会所は山中にあった施設だと思われる。で(6)、普通御成だと進物の献上から始まるんだけど、ここでは元就・隆元からの下賜から始まってるなあ・・・(7)は後述。(8)は「式御肴」としか書かれてないけど、この後に本膳料理が出てくることから「式三献」と見ていいんだと思う。「山口編」で書いた文章を再度掲載しますと、 【このおもてなし料理である式正料理は、まず肴3品と酒を乗せた膳を3回に分け、 計9杯の酒を勧める「式三献」から始まる。 肴が3品載ったひとつの膳を「献(こん)」といい、 一献ごとに盃に酒が3回注がれる。 これを3回繰り返すので、三献(さんこん)。 酒は3杯×3回で9杯・・・そう、これは三三九度のルーツでもあります。 】平安時代の貴族が有職故実を元にして形式化した料理・宴会のルールはその後室町時代に入って多くの決まりごとが整えられ、料理の仕方や盛り付け、さらには食べ方にまで細かい決まりができた。料理の流派にもいくつかあり、大事なところは「口伝」とだけ書かれていて文書には残っていない。「奥義」みたいなもんかね。日本料理の一派、四条流の料理書『四条流庖丁書』にも「式三献」の項目はあるものの、「口伝」の一言で終わっちゃってて詳細な内容はつかめない。が、吉良流では初献の引き渡しには「のし、昆布、勝栗」が付けられたそうで、「アレ?」って思った方も多いでしょうが、出陣式に行われる「三献の儀」に出される「勝栗、打あわび、昆布」によく似ている。儀式料理と出陣式じゃかけ離れたイメージがあるけど、文化ってのは色んなところでつながっているってことがおわかりいただけるんじゃないかと思います。まあ、この宴ではどこの流派に則ったものかはわからないけど、たぶん「のし、昆布、勝栗」と似たようなものが出たんじゃないかな。ただし、「のし、昆布、勝栗」は儀式料理ではあまり食べるためのものではなかったそうなので、もう少し食べやすい肴が出た可能性はある。「や~、遠いところお疲れ様でした。まずは一献!」「いやいやいや・・・おっとっと、もうその辺で・・・」「いらっしゃいませえ~!どおぞお、お通し(御肴)でえ~す」なんて現代の居酒屋のノリでスタートした訳では決してないからね。ここは饗応の中でもかなり重要な場面で、厳かな雰囲気で進められたハズです。式三献が出陣式や結婚式などの重要な儀式に引き継がれたことからも、大事な儀式だったということがわかるでしょう?ところで、饗応の場面では何献と膳が変わるたびにあらかじめ決められたお酌の人も変わるんだけど、「御酌」の後に書かれている「御加」・・・これが何なのか、わからなかった。「加」は「伽」の類義語でもあるようなんだけど、ここではもっと明確な役割が与えられていたはず・・・一体、何をする人だったんだろう?こうして仰々しく固めの杯(?)を交わした後で、宴は進んでいきます。にほんブログ村
2013年03月18日

さて、今回からしばらくこの城で実際にあったイベントをご紹介します。遺構だけを知りたい方は、1週間くらいしてからまた遊びに来てくださいね(笑)。永禄4年(1561)、毛利元就と隆元が家臣団を引き連れて遠足にやって来た時の記録が残っております(毛利家文書403「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」)。まあこれもね~、それなりに知られてはいるかもしれないんだけど、まともに解説してる人は実に少ない。前回掲載した歌碑があるので、新高山城を訪れた人の一部は「元就が来た」とは触れているものの、全体を通して紹介してるのは、私は3つしか読んだことない。1つは西ヶ谷恭弘先生の書いたもので、「小早川隆景のすべて」に収録されてる。西ヶ谷先生の名をご存知の方も多いでしょうが、主に新高山城の構成についてこの「日記」を見ておられて、ついでに宴の進行についても触れられている。・・・が、私がいうのも何だけど、誰が見てもわかる初歩的なミスもあったりして、なんとも・・・やっぱり、宴となると城郭研究とは全く違う専門分野に入るんだな~とあらためて思ったりして・・・今ひとつが、私の尊敬するトロロヅキさんが書かれたもの。トロロヅキさんは本能丸出しの私と違って、とても論理的な方なので、全体をわかりやすく、かつ簡潔にまとめておられる。(トロロヅキさんの記事のリンクはこちら:『毛利元就父子雄高山向滞留日記~日本初?慰安旅行~』『雄高山滞在日記~滝と大河と兄弟関係~』)まあ、その・・・私とトロロヅキさんとでは、知識量も考察力も全然レベルが違うので、あんまり比べないでね(笑)。ちゃっちゃと全体を知りたい方は、トロロヅキさんの記事だけを読んで1週間くらいしてからこちらに復帰していただくのもひとつのテです。とにかく私は、このイベントを色んな人に知って欲しいだけなのだ。あともうひとつは、ネットで公開されてる歴史ファンの書いた記事で、「こんなん読みましたけど~」って感じでライトに紹介をしてるもの。郷土史家の方なんかは、あるいはこれについて詳しく書いてる方もいるのかもしれないけど、何しろ広島~千葉の遠距離片思いロード驀進中という地理的制約があるので、私が入手できる資料はおのずと限られる。我ながら長い前置きだとは思いますが、つまりは私は元就・隆元の滞在中に催された宴そのものについての解説はほとんど読んでいない訳さ。でも、私が知りたいのは料理の中身と、隆景がどんなもてなしをしたのかということ。料理への興味を与えてくれたのは、大内義興さん義興さんが足利義尹のために開いた御饗応について読み、そして再現された饗応の料理を山口の菜香亭で目にしたのが直接のきっかけだった。まあ、山口へ行く少し前に料理関係の本をたまたま読んで面白いな~とは思ってはいたんだけど、やはり視覚に訴えるインパクトというのは大きかった。そういうわたくしですので、宴会の進行を中心にこの滞在日記を紹介しようと思います。ただ、紹介を始める前にお断りしておくことがあります。まず、「毛利家文書」に掲載されているこの日記には(私には)致命的な欠陥がある。滞在期間中に色々なおもてなしがある訳ですが、メインはやはり宴会。宴会には次々と料理が出てくる。そしてそのメニューは別紙に書かれている、とある。が~あ、その別紙分が「毛利家文書」には掲載されてない。なんでやねん!!この日記の写しは「小早川家文書」にも収録されていて、わずかに毛利家文書のと記述が違っている箇所があるんだけど、やはりこちらもメニューは載っていない。なんでやねん!!!そういうことですので、メニューがわからない以上、どんなに頑張っても限度があります。メニューがわかれば、隆景がどんだけ気張ってもてなしたのかある程度はわかるかもしれないのに・・・それから、宴会の中身となると、これは料理研究家とか有職故実の知識を持っている方でないと正確で細かい解説は難しいと思う。料理研究家ったって、イマドキのじゃなく、歴史面から考察できる人でないとダメだけどね。料理史って言った方がいいのかな。さらに、他のおうちの宴会と比較しながら考える訳なんだけど、私が持っているのは義興さん主催の御饗応を中心とした、御成(おなり)の記録。隆景ちゃんには悪いけど、家臣が主人をもてなすのと御成とではレベルが全然違う。御成以外では、信長様が家康を接待した時の資料も少しあるけど、これも若干上から目線での饗応なので(笑)、立場が違う。・・・とまあ、あれこれ言い訳を並べてみましたが、あまり正確なところはお伝えできないかと思うのです(←でも書きたい)。色々頑張ってはみたけど、結局わからないままのことも多いし。たぶん、間違ってる箇所もあると思う。参考にできるものがない中で、シロートが独自に内容の理解に取り組んだ結果が以下の記事になりますので、その点は御理解ください。では、そろそろ始めたいと思いますがその前に(まだあるのか)、御成とか宴会の基本事項については「山口編」の(12) と (13) で簡単に書きましたので、ご面倒ですが是非こちらも押さえてください。必要があれば、本文の中でもあらためて書くと思いますが。話が長くてホントにごめんなさいね。ただ、隆景ちゃんのあれこれって案外研究が進んでないんだな~って今回あらためて思ったからさ。じゃあ、一緒に永禄4年にジャンプしましょうちなみに、本文部分はいつもの通り意訳がほとんどですので、あらかじめご了承くださいね。≪1日目:永禄4年(1561)3月26日 ≫ 吉田郡山を出発。梨子羽宣平殿が乃美まで迎えに出て、 椋梨弘平殿がおもてなし。その夜は椋梨に泊まった。 隆景様は接待役として渡邊出雲守を遣わした。初日の記述はこれだけ(笑)。地名を見ると、「東西条バトル編(11)」で書いた現在の豊栄町あたりまでお迎えに出て、そのまま椋梨(むくなし)さんちまで行ってそこで泊まった、と。その後は恐らく、現在の山陽本線に沿って北側から新高山城に向かったって感じかな。梨子羽(なしわ)氏の領地は新高山城の西にあって、椋梨領からはかなり南になるから、お出迎え役としてはちょっと遠くて可哀想なんだけど、このイベントの直前、永禄4年2月5日付の小早川家臣団の座席図では梨子羽宣平はナンバー2になってるから、まあ立場上仕方ないわね。ちなみに、梨子羽宣平の上位は椋梨弘平(盛平の子)。なので、家臣団のトップとナンバー2が初日に揃ってお迎えしたことになります。そもそも今回のサブタイトル、「ご光臨」て言葉は私が考えたものじゃなく、この日記に書いてある文言なのだ。初日が『至雄高山被成御光儀』、翌日が『至雄高山御光臨』。いやいや、すごい扱いッス。当然、お迎えする方だって気合が入ります。あと、隆景ちゃんからお遣いに出された渡邊さん。日記には渡邊さんは2人出てくるんだけど、ここのはたぶん備後国人の渡邊房と思われる。渡邊さんちはあちこちに散らばってますが、みんな一字名だからどこにいても同じ一族の渡邊さんだってことが一目瞭然で、これは便利だよね(関係ないか)。本文部分については意訳だけど、各人の呼称については基本的に日記のままで書いてます。この日記を誰が書いたのか知らないけど、まあ毛利家家臣でしょう。元就・隆元は当然のことながら、他家に養子に行って今は家臣の立場にある隆景ちゃんまで「様」付けだから。それに、古文の表記方法で敬意を表すものがこの3人には随所に付けられているので、「元就様親子」に対しては特別な敬意が払われているのがわかる。椋梨・梨子羽の両者は元就・隆元からすれば陪臣にあたるけど、この2人は小早川一族の出身。だから「殿」が付く。対して、備後国人の渡邊君は呼び捨て・・・ああ、身分社会だなあ~ってカンジ。にほんブログ村
2013年03月17日

↑全体図での匡真寺(きょうしんじ)跡の位置。下がその拡大図。 【匡真寺跡 小早川氏の菩提寺跡で、隆景は、天正5年(1577)亡父毛利元就の七回忌、 亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、ここに匡真寺(現在三原市宗光寺)を建立し、 法会を盛大に営んだ。 寺跡は東西41m南北72mも及ぶ広大なもので、全面に瓦片が散乱し、 築庭を思わせる遊水地・築地塀の跡などが残っている。】 (現地解説板より)はい、相続イベントで出てきたあの匡真寺はここにあったといわれています。現在の宗光寺については、「三原編(26)」以降をご覧ください。宗光寺のところでも書いたけど、この匡真寺の建立にあたっては畿内から宮大工を呼んでそれは豪華な寺を建て、法会にも100人もの僧を招いて盛大な式を執り行ったという。私、相続イベントを書いてる時にふと気が付いたんだけど、天正5年て義兄の繁平の3回忌にもあたるんだよね。繁平の没年が天正2年で正しかったとするなら、両親の法要の他に、案外繁平の法要もこっそり含まれてたりしてね・・・なんて思った。で、これまで掲載してきた縄張図はこの匡真寺跡にあった看板のものですが、これには西側の郭群もきっちりと描かれていた↓。 こちらの郭群を紹介してる人は私は見たことなかったんだけど、なんか図を見てると行かれそうじゃん・・・行けるもんなら行ってみたいよな~。後で気をつけて見てみようっと。さて、匡真寺跡に足を踏み入れると、まずこんな光景が広がる↓。 写真の右側が匡真寺跡北側の部分。ここには石組みが残っていて、その手前には細い側溝のようなものも確認できる。え~と、ここには瓦が散乱してるって話だよな・・・と思って少し歩きだしたら、探すまでもなく北側のところに沢山落ちてた↓。 ↑おっ、平瓦だ。ほとんどの瓦は割れてたけど、綺麗に残っているものもある↓。大きさ比較のために、いつものようにペットボトルを置いてみました。 「いろはす」の隣にコロコロあるものは、どなたかの排泄物です。犬でいえば、中型犬くらいのサイズだよな。野生動物の落としものだったとしたら、割と大きな動物じゃないかと思うけど・・・てか、野生動物がわざわざ瓦の上にウンコするか!?(笑)あと、こんな瓦もあった↓。 ふむ、つまりはここに本瓦葺の建物があったってことだな。まあ、桟瓦(さんがわら)が登場するのはもっと後の時代なので、当然っちゃ当然だけど。でもホラ、檜皮(ひわだ)葺の可能性とかだって考えられる訳だし。あと、誰が積んだのか知らないけど、岩の上にも瓦が置かれてた↓。 白っぽい瓦もあるけど、黒い瓦もあちこち散らばってる。ちょっと平瓦を持ってみたら、ずっしりと重かった。瓦を持つ機会なんてないから知らなかったけど、こんなに重いものなんだ~。ただ、同じ本瓦葺でも当時の瓦と今の瓦じゃ重量は違うと思うけどね。ここにあるのは、ほんまもんの400年前の瓦。こんなに無造作に沢山落ちてるんだから、小さなカケラぐらい持ち帰ってもいいよな~っていけない誘惑にかられたとしても、我慢しましょう。ここは国の指定史跡ですから、自分のゴミと思い出以外、何も持ち帰ってはいけません。それにしても、こんな重い瓦を沢山屋根に載せるんだから、日本建築ってすごいもんだよな~。しかもこんな山の上に。 瓦を早速見つけて満足したので、今度は郭内を散策~。まずは、登山道に面した東側から↓。 ここには土塁が残ってる。落ち葉に隠れて、丸瓦もあった↓。 これは石組みの跡かな?↓ この東側は一段低くなっていて、細長い区画。奥まで行くとさびたベンチが置かれていた。 さびてはいても、いくつもベンチがあるくらいだから眺望がいいのかと思ったら、こんなだった↓。 なんでこんなとこにベンチを置いたろう・・・ まあ、サビがひどいので、座る人は誰もいないと思うけどね。郭内をウロウロ歩いてたら、大きな音がしたので空を見上げるとヒコーキだった。ああ、すぐ近くの山上に広島空港があるんだもんな。匡真寺跡にはさびたベンチの他に、木のベンチも置かれてたんだけど、ベンチにはこんなのが書かれていた↓。 なるほど・・・保存会の皆様が設置してくれてるのか。城跡の整備って一口にいっても大変なことだと思うけど、訪れる側としてはホントにありがたいよな~。北側から南方面↓。 ここにはもみじもあったので、紅葉のシーズンには綺麗だろうな~。その頃にはそれなりの人出もあるのかもしれない。さて、解説に『築庭を思わせる』とあったのは、北側のこの部分を指します↓。 北側の斜面には巨石もごろごろあり、これも庭園の一部なんでしょう。 そしてここには、歌碑もあります↓。 てことで、次回からこの歌碑に関連する第2のイベントの話に入ります。にほんブログ村
2013年03月16日

今度は水色の区画の東南の郭へ。ここは図の通りちょっと道がすぼまっていて、写真の奥が東南部↓。 この辺には、明らかに人の手が入った大きな石がごろごろしてた。ここを抜けると、こんな光景が広がる↓。 ・・・ちょっと下草が多いけどね。図では東南に向けて小さな下段が3段描かれているけど、写真の右側には伐採した木などが積まれていて、そちらへは行かれなかったので、ここの下段は確認できなかった。でもね、ここまで来ると、こんな素敵なものが見られるんです↓。 おお~、石垣じゃん!!こんなのあるなんて、知らなかったぞ。あんまり、鐘の段を詳しく紹介してる人っていないからな・・・てか、普通の訪城記って、私みたいにだらだら書かないからね(笑)。この石垣に近寄ってみると、どうも岩盤が露出してるだけのようにも見える・・・でも、端っこには確かに石も組まれてるしな。鐘の段には、石垣らしい石垣はここにしかなかったんだけど、かつては全面石垣が組まれてたのかな。まあ、解説には中世初期のものと推定されている、とあったから、当初はなかったのかもしれないけど。一部岩盤を利用しているような感じでもあるから、慶長元年のお引っ越しの際にもここだけ残されたのかもしれないな。礎石類がないか落ち葉の中を探しつつ~↓。 この奥には、水色の区画の最後、東北側の郭が広がる↓。 あんまり郭って感じでもなくなってきてるけど・・・(笑)。歩いた感じでは、ここにはほとんど人が入ってこないみたい。登山道なんかは相当踏み固められてたけどね。ところで、このまま進んで鐘の段の入り口まで回り込めるのかな?戻るの、めんどくさいんだけど・・・で、奥まで行くとこうなってた↓。 ああ、あの上が鐘の段北側の黄色の郭だな。あそこは別に狭くもなかったけど、こうして下から見上げるとなんだか土橋のように見える。あいにくこの斜面には、道らしい道はなかった。でもまあ大した高さでもないし、いいや、登っちゃえ~黄色の郭へ復帰すると、鐘の段の向かって左側に小道があるのを見つけた↓。 上がる途中にも、石垣の名残↓ 少し上がると、北側直下の堀切に出る↓。おお、右側の道よりこっちからの方がいい眺めだな さらに上がると、足元にはこんなものが・・・↓ ああ、ここはかつて石段だったんだ。で、鐘の段登頂~↓。 この鐘の段は、中世初期のものと推定されていると解説にあった。お隣の高山城の築城年代ははっきりしてないんだけど、まあせいぜい小早川茂平(?~1264)の代ぐらいだろうと思う。であれば、ここに高山城の副塁が置かれたのかもしれないよな。新高山城は、国の指定史跡である割には、私が調べた限りでは例えば城下の発掘調査なんかはほとんど進んでないらしい。鐘の段についても、「中世初期の築城と推定される」どまりなのかな~。中世初期っていっても、相当アバウトだしね。小早川氏が沼田庄に入る前は、土着の豪族なんかもいたから、あるいは小早川氏によるものではない可能性もあるかもしれないけど・・・んで、この鐘の段。ここまでの写真で想像はつくでしょうけど、結構下に木があったので、南側の眺望はよくなかった。昔はもっと見えたんじゃないかと思うけど。そして現在では、なんだか地面がぼこぼこしております↓。 なにこれ・・・モグラ?新高山城に住むモグラなんて、ちょっとうらやましいカモ・・・ああ、私もモグラになりたいここにも、これは礎石だよな、ってのがあります↓。 よお~し、鐘の段終わり!!とっても良かったけど、このエリアだけを城というにはちょっと小規模。だいたい、どこまでが当初の丘城なのかもわからないし。やっぱり、メインな城というよりはサブ的なものといった方がしっくりくるような・・・。最後に、もう一度トイレへ行って登山道に戻る。ああスッキリ、ありがたや~本丸方面への道↓。 この辺からは大きな石もごろごろしだすし、登山道にはいくつもベンチが置かれている。これだけベンチがあるってことは、年間を通してそれなりの登山者がいるんだろうな。ここまでのところ、私は誰にも会ってないけどね。まあ、元日から山城に来る人もそういないのかもしれない。けど、静かに城跡を堪能できるのは私には嬉しいこと。隆景ちゃんのお城、独り占めじゃあ~ ここからちょっと上がったところに、番所跡の最上部、軽石の段への入り口がある。 ここにはご覧の通りの表示があるけど、中の段と下の段には何も標識はなかった。でも、ちゃんと上がれるので下の2つの郭も見落とさないでくださいね~。 ↑軽石の段は、下の2つの郭に比べて小さい。でも、下段よりは土塁がはっきり確認できる(写真右側)。 軽石の段北側上部↓。 登山道に戻って、今度は本丸方面を目指す。登山道の脇にも石組みが残ってるけど、道の真ん中にも石がある↓。昔はこの辺は石畳だったのかな~。 その先の道↓。 道が結構広くてしっかりしているので、かけ上がる分にはそんなに攻めにくそうにも見えないけど、登山道の脇はこんな風にうまく高低差を利用した作りになっているので、これは城方の方が有利だよな。 ↑この上はもう次のエリア、匡真寺跡。新高山城の標高は197m、比高は177m。この辺りの標高はだいたい130mぐらい。もう半分以上登ってきた計算になるけど、割と早い段階から遺構にお目にかかれるので、きついという感じはしない。この先が匡真寺跡入口↓。 にほんブログ村
2013年03月15日

このエリアは、全体図でいうとピンクで囲った部分になります。拡大して色分けしたのがこれ↓。 雪隠があって、私がご飯を食べたのは黄色の区画の上の緑の部分。この部分もご覧の通りかなり奥行があって広いんだけど↓ 実際はこの写真の奥、図でいうと黄色より下の部分を鐘の段エリアと呼ぶらしい。図で黄色の上部がケバになってるでしょ。それが、この写真↓手前の段差。この小さな段差がケバの部分。 この写真は黄色の小さなケバのところから、雪隠の方向を撮影したもの。図ではこの雪隠のある郭は平坦になってるけど、実際はうっすらした基壇のようなものがあって、ここにも建物があったのかな~って思った。黄色の区画に入ると、解説板がある。 【鐘の段 城山の南斜面中腹に半独立的な小丘をなしている郭で鐘の段と呼ばれる。 この鐘の段は、北方背後に土塁を儲けた二郭、東側に大小二郭、西南側に三段の 郭を配置している。 鐘の段を中心としたこれらの郭は、地形、縄張りなどからみて、中世初期の 独立した山城(丘城)の形態をなしており、この部分の築城年代は古いものと 思われる。】アレ?看板の縄張図だと郭部分は白表示なのに、雪隠のある郭はグリーンになってて、なんか郭扱いされてないような感じの表示だけど、「北方に二郭」とあるから、やっぱり雪隠郭(←勝手に命名)もここに含まれるんだな。で、これ↓が鐘の段(図のピンクの部分)。このエリアの最上部。 写真じゃわかりづらいかもしれないけど、ここにも石垣の名残のようなものがちらほら見えます。右側に小道があったので上がってみたらば、奥まで道が続いていて、どうやら鐘の段をぐるりと回り込んで南側の郭まで行かれるようになってるらしい。まずそちらから攻めていこうかと歩き出したら、鐘の段の北側直下にはこんな立派な堀切が・・・↓ おお、すげえ~この鐘の段西側の道には、ほんのり土塁もある↓。落ち葉でわかりにくいですが、目をこらしてご覧ください(笑)。 この土塁の下方には、何やら立派な郭が見える(図の黄緑の区画)。まずここへ足を踏み入れてみた。 落ち葉が多いし、ところどころ下草が生えてるので写真じゃわかりづらいと思うけど、肉眼でははっきりと地形が確認できる。この西側の郭は、鐘の段の曲線に沿ってうにょ~んと奥まで延びてるんだけど、結構広い。郭の外郭に沿って歩いてみると、この下にも、郭の北側にも小さな削平地がいくつもあって、気がついたらメモ帳を取り出して縄張図を描いていた。うひゃあ・・・こんな広島の誰もいない山の中で、なに1人で縄張図描いてんだ、私!!縄張図ったって、別に実測する訳じゃないし、アウトラインを描いてるだけなんだけどね。先人の描いた立派な縄張図も、ちゃんと持ってるんだけどね。でも、何てゆーか・・・描きたかったのだ。きちんとした縄張図を見ながらひとつひとつ確認するのもいいけど、自分の目で見ながら描くことで、体感したかったというか・・・図を見てるだけだと、現物と照らし合わせて「へえ~、なるほど・・・」で終わっちゃうけど、いざ自分で描いてみると思った以上に複雑に造られてるってことがよくわかる。そうは言っても、それはあくまで描き始めてからの感想で、現地ではとにかく描きたい衝動に駆られただけ・・・(笑)。「あ~あ、私、いつからこんな人間になっちゃったんだろ・・・」って自分で自分にツッコミ入れながら、とにかく描いてました。写真も撮らなくちゃいけないし、ああ忙しいして、ここにも自然のままではない石がいくつかあった↓。 ひとしきり鐘の段西郭のヘタクソな縄張図を描いたあとで、元のルートに戻ろうと上を見たら、鐘の段の小さな盛り上がりが目に入った↓。 さて、お次は図の水色の区画へ・・・と思ってルートに復帰したら、水色郭へ入る手前に道らしきものがあった。 う~ん・・・結構奥まで続いてそうな感じだけど、この木がな・・・自然に倒れたものか、通行止めの意味なのか。で、結局この道はパスした。今は、鐘の段の下を時計と反対回りに進んでます。水色の区画の最初の郭がこれ↓。 一番南側まで進んで下段の白の郭を見下ろしたとこ↓。 これも写真じゃ木があってわかりづらいけど、奥の方まで郭がず~っと延びてます。この場所からは白い郭へ降りる道はなかった。もしかして、さっきの倒木の道を進めば西南下段の白の郭へ行けたのかな。ちぇっ、惜しいことしちゃったなあ。 でも、この上段に比べるとあまり手入れしてない感じだしな。まあ、ここは上から見るだけでもいいや。ここから見上げる鐘の段↓。 右端に、細い木の切株があるのがわかりますか?ちゃんと整備してくれてるんだね。まあ、欲をいえば鐘の段に生えてる木も切って欲しかったけど・・・(笑)。にほんブログ村
2013年03月14日

中の段へ上る小道↓。 上がって南側(下の段方面)を見渡したところ↓。ここも細長く、結構広い。 はじっこはうっすら盛りあがってるようだけど、土塁の跡かな?ここにも、礎石らしきものがある↓。 ちなみに、結構落ち葉が積もってたので、足で落ち葉をかきわけてます(笑)。奥まで行って、下の段を見下ろしたところ↓。下の段から中の段の切岸を見てる分には、そう高くは感じなかったけど、こうして見下ろしてみると案外高度感がある。まあ、鏡山城ほどじゃないけどね。 中の段からは、木々の間から・・・あれ、本丸だよな。ああ、まだ遠いな・・・あそこまで歩くのかあ~(←軟弱者)。 中の段から見る、軽石の段(番所跡最上部の郭)の切岸↓。 それで、この軽石の段の切岸に沿って、うっすら盛り上がった箇所があってね↓。 ああ、落ち葉かき分けて撮影すればよかったな(笑)。ここに、切岸に沿って細長い建物でもあったのかもな~って思った。登山道に戻って、さっき我慢した分岐を左へ↓。 ここには、大きな石がごろごろしている。この辺りから所々登山道にベンチが置かれてたんだっけかな。 道に沿って奥まで進むと、その入口にはこんな光景が広がる↓。 右にあるのは、雪隠。 ここにこれがあるのは知っていたけど、ちょっとイマイチって書いてる人がいたから、どうしようかな~と思ってたんだ。でも、この先にはトイレなんかないし、行けるものなら行っておきたい。で、中を覗くと・・・ アラアラ、綺麗なもんじゃないの~。ニオイもないし。ただちょっと、見ての通りの簡易便所だからご用の最中に後から人が来たりしたらやだな・・・1人だから、荷物を外に置いておく訳にもいかないし。静かな山の中で誰か来る気配がないかしばらく耳を澄ましてみたけど、なんか誰も来なさそう。てんで、思い切ってありがたく使わせていただいた。雪隠の中には、このトイレの衛生的な使用方法が書かれていた↓。 なるへそ・・・これのおかげで臭わないのかな、このトイレ。この説明書に沿ってトイレ液を使おうと中を見回してみたけど、なんだか使い方がよくわからなくて結局そのままにしてしまった。ごめんちゃい・・・だって、わからなかったんだもん 雪隠の外には、これって手洗い場?みたいなのがあったけど、見ての通りの色だし、凍ってるし・・・まあ、始めからこんなものアテにはしていない。あおぞら雪隠用に、登山の時にはウェットティッシュは必需品なのだ。いや、もちろんご飯の時にも使うんだけど(笑)。 ↑雪隠の奥には、結構な高さの切岸がある。この上が、匡真寺(きょうしんじ)跡。はい、相続イベントの繁平のダンジョン(後編)で出てきた、あの匡真寺です。写真の左側には、道がある。結構しっかりした道で奥まで続いてるようで気になるんだけど、どこへ出るのかわからないし、現在地を把握できない場所へ踏み込むのはもと登山者としてはやってはいけない事だと認識しているので、そちらへは行かなかった。スッキリしたところで、9:00すぎ。まだ登山口から大して歩いてもいないけど、朝が早かったからなんだかお腹すいちゃった。ちょうどこの頃、空は晴れてるのに小雪が舞い始めてかなり寒かった。寒いと、体力の消耗も早いんだよね。ここにはちょうど陽当たりのいい場所にベンチもあったので、まずここで腹ごしらえをすることにした。 えっ!9:00過ぎに食べたら、その後もたないんじゃないの!?ってご心配いただいた心優しいアナタ・・・ 心配いらないですよ~。昨日の鏡山城でも沢山食べてたし、こーゆー環境下ではエネルギー消費も早いって自分の体質は、登山してた経験からよくわかってますのでね。左下のビニール袋の中には、まだこんもり食料が入ってます で、天むすおにぎりとクリームパン、あと瀬戸田のみかんでしっかり腹ごしらえポットの中に入ってるのは、紅茶に「黒糖しょうがパウダー」なるものを混ぜたもの。しょうがなら身体が温まるかと思って。今は、便利なものが色々あって助かるね。余談ばっかりで何ですが、この日は元日。ホントは、特別な場所で過ごす特別な日なので、コンロを持ってきて簡単なお雑煮でも作りたかったんだ~。身体も温まるし。あっ、コンロっていっても家庭用のカセットコンロとかじゃないですよ。登山用のコンパクトなコンロがあるのだ。それで、自分も食べつつ、このお城の唯一の城主様に陰膳よろしくお捧げしたかったのに・・・いや、陰膳てゆーかほとんどおままごとかも(笑)。でもね、ここは国の指定史跡。仮に火気厳禁とは書いてなくても、基本火気は控えるべきだし、それでなくても厳冬期はどこの山も枯れ葉が積もってる。万が一、山火事でも起こしたら・・・!!あの世で隆景ちゃまに、八つ裂きの刑どころじゃ済まないくらいの折檻を受けるだろう。冗談はともかく、それ以前の問題として、登山用コンロもカ小さなボンベを使う。ボンベは当然、ヒコーキ持ち込み禁止・・・ゆえに、私の手料理を愛する城主様にお捧げする夢は諦めた。てな訳で~、泣く泣くコンビニで買った大量の食糧を携えて登城いたしました。このお城ではその昔、どんな新年のお祝いがなされたんだろうね。にほんブログ村
2013年03月13日

(新高山城跡全体図・現地看板より)遺構だけを知りたい方には、大変お待たせいたしました。ここから城跡の紹介に入ります。歴史の話の方が好きで、次のイベントを読みたいと思ってくださる方は、もうしばらくお待ちくださいね。さて、最初の解説板のあったところは、T字になっている。どちらがコースかは書いてないものの、右側にこれ↓があったから、右が登山道だろうな。 まあ、その・・・良かれと思って用意して下さった方には非常に申し訳ないですが、はっきり言って、こんなもの必要とする山じゃないです。ストックは使い慣れない人には負担になることもあるし、まして自分の身長ほどもある竹の棒なんかは、使うべきじゃないです。ただ、足腰の弱い人なんかは、下りの際にバランスを取るのには有効です。が、この程度の山でこれを必要とするくらい体力に問題がある場合は、「登るの、やめた方がいいんじゃ・・・」とも言いたくなるし、「体力作りしてからいらしてはどうですか?」と勧めたくもなる。「どの棒にしようかな~」って選んでる時間を、登山前のストレッチに使いましょう。いきなり登山者の面が顔を出して、しかも辛口で恐縮ですが、「この程度の山」でも山は山だし、「山城攻めをされる方へ」の1・2で書いたように、様々な面でしっかりと準備をしてから入山してくださいね。ま、私がかつて山をやっていたからと言って、継続して山登りをしなければ山で使う筋力ってのは当然落ちるし、今回も旅の前から通勤を歩きに切り替えて体力作りはしたものの、特別な筋トレをした訳じゃないです。でも、筋肉痛にはならなかったし、道も整備されてるからガンガンにハイスピードで登りつめるとかでない限り、普通の人には杖がなくても問題なく登れる山ですので安心してください。城の遺構を見に来た人は、通常ゆっくりと歩くもんだと思うしね。歩き出しの道はこんな↓。 思ったより、道がしっかりしている。ああ、いよいよだな~。 この道は、大手道だという。全部が全部そうなのかはわからないけど、この辺りは昔からあった道っぽいな。新高山城の絵図は、「沼田新高山之図」というのが三原城主・浅野氏の命によって江戸初期に作成されている。この原図は、残念ながら被爆によって失われたそうなんだけど、昭和初期に作成された写しが残っている。なかなか細かくしっかりと描かれていて、手元にあるいくつかの縄張図と見比べてみてもほぼ同じ構造になっているので、各郭の遺構が良好に保たれている様子がうかがえる。で、「沼田新高山之図」に描かれた大手道らしきものもほぼ現在のルートと合致するように思われる。新高山城の説明として、よく『慶長元年に隆景が三原に本拠を移すまでの約45年間、小早川氏の本拠であった』と書かれるんだけど、慶長元年は最終的に新高山城を廃城としたものであって、「三原城」シリーズでも書いたように、実質的な本拠はもっと早い段階で三原城へ移していたものだろうと私は思う。ただ、慶長元年に最終的に三原へ引っ越した際、石垣の石やら何やらごっそり持ってったって話だけど、自分が築き上げて長く過ごした城に愛着があったのか、引き移し後にも新高山城の景観に配慮するよう隆景が命令を出しているので、「沼田新高山之図」が描かれた当時はすでにほとんどの建物や石垣はなかったと思われるものの、郭の土組み自体はありし日のまま残されていただろうから、「沼田新高山之図」からほぼ当時の城の構造をうかがうことができる。 ↑歩き始めてしばらくすると、沢筋のようなところを渡る。写真だと、右奥から来て左に渡るカンジ。今は水がないし、あんまり沢っぽくも見えないんだけど、だからといって竪堀というにはちょっと・・・だしな。これを渡ると、こんな道↓。 ここからは、道の脇にぼろぼろ石垣や石組みの名残が出てくる。 この右上はもう郭。全体図ではこの位置にあたる↓。 図をさらに拡大↓。 【番所跡 軽石の段・中の段・下の段の三郭からなり、大手道を警固する番所が 設けられていたところである。 この番所の東方と西方にもそれぞれ東の番所、西の番所と呼ばれる郭が 残っている。】 (軽石の段にある現地解説板より)縄張図を見ると、ここに来るまでの間の登山道から少し奥まった場所にも沢山の小さな削平地があるようですが、登山道を普通に歩いていて最初に上がることのできるのが、この郭群です。解説の通り大きく3段に分かれ、さらにその下に小さな下段が付いてる。私が登山道から上がれる道を見つけたのは、たぶん下の段だと思う・・・(←早くも記憶が薄れがち)上がってすぐに広がる光景↓。 奥まで見渡したところ↓。細長いけど、結構広い。 今はご覧の通り木があるので、下方の南側の眺望は良くない。郭内をうろうろ歩いていたら、落ち葉に隠れて礎石や石組みらしきものもあった↓。 下の段から見る、中の段の切岸↓。 一旦登山道へ戻って、中の段へ向かう。ここにも、石垣の名残が・・・↓。 このすぐ先には、本丸方面と他の郭群との分岐が現れる↓。 早く先へ進みたいけど、ちょうどここに中の段に上がれる道があったので、はやる気持ちをぐっとこらえ、中の段へ上る。↓ランキング参加ちうにつき~。にほんブログ村
2013年03月12日

長い長い相続イベントにお付き合いいただいた皆様、お疲れ様でした。実は私はとんでもない勘違いをしていて、あの世で関係各者様が手を叩いてげらげら大笑いをしているかもしれませんがいいもん、別に間違ってたって。ただ、相続の件について通説以外で触れてる人ってあまりいないから、私は自分の頭で考えたかった。でもあれはまだ中間報告みたいなもので、この先解釈が変わっていくこともあるかと思います。恐らく基本ラインは変わらないとは思うけど。しかし、ほぼ歴史の話だけで、もう10話・・・実は書こうと思ってるイベントはもうひとつあるので、このシリーズ、軽く30話は超えるかもな(笑)。まあ、シリーズの分量イコール誰かさんへの愛情ってことでさて、そろそろ平成の世に戻って遺構の紹介なんぞ始めたいと思いますが、その前に・・・私が新高山城に来たのは、もちろん隆景の城だからだし、ここに来た方の記録を読むと遺構もかなりいいらしいという、1粒で2度おいしいグリコな城だから。けど、実はその他にもうひとつ、大きな目的があった。「三原城(2)」でもちょろりと書いてはいるんだけど、もう誰も覚えてないでしょうから(笑)、あらためて書いておきましょうかね。天文19年(1550)、相続イベントを終えて隆景は沼田小早川家を継いだ。翌天文20年(1551)、竹原小早川家の木村城を出て沼田家の本城である高山城にお引っ越し。さらにその翌年、新高山城を築いて本拠を移した。高山城の築城年代は諸説あってはっきりしてないんだけど、少なくとも300年近く小早川惣領家の本拠としてあったものと思われる。そんな歴史ある城をね、他家から養子で入った若造(19)が家督相続の翌年にポンと本拠を移すって、不自然じゃない?しかも、新居は沼田川を隔てただけの真向かい。なんで隆景はわざわざそんな事をしたんだ?そんな訳で、新高山城築城のナゾに少しでも迫りたいという想いを抱えてやって参りました。現地に立つことで、見えてくることもあるかもしれないし。そして、新高山城を理解することは三原城の理解にもつながると私は思ってる。「三原城」シリーズで、三原城とは何だったのか感覚で理解したことを書いたけど、あれで終わった訳じゃない。色んな角度から見て考えて、諦めずに答えを求め続ければいつかはそれなりのものを見出せるだろう・・・見出せなくても、探したい。とりあえず、小早川隆景の事蹟が多すぎてまだ全然把握できてない状況だから、まずは基本の勉強を少しづつでも進めていかないといけないんだけど・・・あちこちで活躍しすぎなんだよ、このヒト!!ほどほどにしといて欲しかったわ・・・(←逆ギレ)新高山城の紹介としては、「隆景によって天文21年に築城された」というのが多いけど、登山口付近の解説板に『沼田小早川家を継いだ隆景は、これまで高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い』とあったように、確かに隆景の築城以前から砦くらいのものはあったものと思われる。現地に行ったことのある方はわかると思うけど、古高山と新高山はホントに沼田川をはさんでぴったり対峙する山だから。この地形から、新高山に何も置かなかったというのはまず考えられない。それで、サブ的位置付けにあった新高山に、隆景はわざわざ本拠を移した。本拠を移した理由として世間一般に語られている説は、いくつかある。『家督相続後の人心を一新するためだと思いま~す』これが一番多い。っていうか、ほとんどがこれ。普通のお城ファンは、城について書かれた本とか他人のサイトやブログをそのまま転用してるだけのようだから、まあ仕方のないことだとは思うけど。じんしんのいっしん~?誰がこの城を築城したと思ってるんだ?小早川隆景だぜ!?そんな理由で、隆景が城を築くかっての!それに、歴史ある本城をいきなりマスオさんが移すって言い出して、小早川家臣が素直についてく訳ないじゃん!!・・・うん、我ながら下品だしかし、実際こんな風にツッコミ入れてるんだからしょうがない。見栄張って気取ってみたところで、いつかはボロが出るのだ。え~、築城の理由としては、わたくしにはこの説は全く納得がいきません。ただ、ここまで相続イベントについてあれこれ見てきた今では、そういう効果も確かにあったかもしれないな、と思うようになった。ちょうど、小早川春平が佛通寺を開いた時と同じような感じでね。ただ、春平の場合は庶家の結束を固めることを目的に含めてもいいと思うけど、隆景の新高山城の場合はあくまで副次的な効果にとどまると思う。だって、隆景がそんな理由で城を作る訳ないじゃん!!いや、私の思い込みはともかく、客観的に考えてもおかしいと思うんだよね。だってね、そもそも家督相続で死者が出るほどモメて、前当主は隠居させられてるんだよ?いちおう、家督相続前に危険分子はすべて取り除いているはずだ(と思う)けど、残った家臣が100%心から隆景を歓迎してた訳でもないでしょうし、そうした過程を経て当主におさまったよそ者が、家督を継いだ翌年に歴史ある高山城を捨てて新しい城を築くなんて言い出した日にゃあ、「なに言っちゃってんの、アンタ!?」ってなるのがむしろ自然なんじゃないのかね。それも、作るのはプライベートな時間を過ごせる小さな離れとかじゃない。バリバリの戦国山城ですよ。当然、お金も時間も労力もかかるし、家督を継いだ翌年に軽く引っ越し宣言なんかしたら、人心の一新どころか、内部に敵を作ることにもなりかねないと思うけどね。てな訳で、第一の説、却下~。他には、こんなことを言ってる人もいた。『沼田の姫とその母親を人質に取ったようなものだ』いや、そりゃねえべ~!!とこれを読んだ当時は即却下したけど、相続イベントについて現時点で考えられることをひとまずまとめた今では、繁平にとってはそういう心理的効果もあったかもしれないな・・・と思うようになった。ただし、あくまで繁平限定でね。そもそも、城主はこの後仕事で出張(戦)することが多いんだから、人質効果は全くない。隆景は365日、新高山城に引きこもってた訳じゃないのだ。ので、築城の理由としては、これもボツ。あと、自分で考えたものとして『ましゃか、自分の力の誇示のためだったとか・・・』ってのがある。のちに隆景は”春風にたなびく楊柳”なんて言われたりもするんだけど、実はかなりアクの強い性格してるし、結構見栄っ張りなところもあった。そして、若い頃はその性格を隠そうともしなかったただ、パパからは「家中から憎まれないようにしなさい」と教えられてるし、例え性格が悪かろうと(笑)、頭の悪い子ではなかった。隠れた動機として全くなかったとは言い切れないものの、やはりリスクのある行動ではあるし、これも築城の直接の理由としてはあまりに幼稚で、いただけない。「家督相続の翌年に、対岸に新高山城を築きました」「ふ~ん」「その翌年には、三原要害に在番を申し付けました」「へえ~」「永禄10年になって、三原に城を築きました」「そうなの~」・・・みなさん、ちょっと素直すぎやしませんか?私がひねくれてるだけなのか?いやいや。「知将」「賢人」「日本の蓋」など、各方面から高い評価を得た小早川隆景ならではの、クールで合理的で明確な理由が、必ずあるはずなのだ。それを、見つけたい。ここに来るまでに、頭で考えられることは色々考えてきた。でも、納得いく答えは見つからなかった。とすると、後は現地での実感が頼り・・・なんとか見つかるといいなあ~。又四郎様、どうかお導きを・・・にほんブログ村
2013年03月11日

ここまで長々と相続に関わる人や出来事を、私の個人的推測を中心に見てきましたが、最後に、同時期に起こった元春の吉川家相続イベントと比較してみましょう。てことで、吉川・沼田小早川のプレス担当者様にインタビューするというスタイルで、ちょっとライトに話を進めてみます。『吉)』は吉川、『小)』は小早川ね。Q1)前当主の紹介をお願いします。 吉)吉川興経。吉川元経と毛利元就殿の妹の間に生まれた子なので、 元就殿には甥になります。また、叔母が元就殿に嫁いでますので、 こちらの方では元就殿には義理の甥にあたります。 小)小早川繁平。小早川家第3代・景平公から絶えることなく続いてきた、 由緒正しい小早川惣領家の血を受け継ぐ者です。 Q2)当主交代のきっかけは何ですか?建前ででも結構ですので。 吉)家臣によるクーデターです・・・ 小)病弱で盲目の幼主に代わる新しい当主を立てようという動きが 家中に起こりまして・・・ Q3)どちらも下からの動きなんですね。ところで、元就氏の介入もありましたよね? 吉)・・・・・・。 小)・・・・・・。 Q4)え~と、では、当主交代劇の家中での立役者はその後どうなりました? 吉)早々にお役御免になりました。その他の家臣も、知行替えという形で 毛利家から送り込まれた家臣に所領を譲らされるなど、 中心は毛利家家臣で固められました。 小)うちにも毛利家から入ってきた方はいますが、一部を除いては まあ基本的に変わりないですかね。 Q5)なるほど・・・小早川さんの「一部」というのは? 小)あ・・・新当主選定の際に意見が分かれまして、家中で争いが起こりましたので、 その・・・討死した者などがおりまして・・・ Q6)そうでしたか。では、前当主の方はその後どうされました? 吉)毛利領内で監視下に置かれていました。 その後、突然興経様が尼子と通じているという噂が立ち、 毛利家家臣の襲撃を受け、天文19年(1550)9月27日、 討ち取られました。同時に、興経様の嫡男も殺されました(泣)。 小)出家して、寺に入りました。その後、天正2年(1574)11月13日に 亡くなりました。ざっと、こんな感じでしょうか。時期も経過もよく似てるけど、途中から吉川家の方は雲行きが怪しくなってきて、結末・・・とゆーか、前当主の運命は吉川と小早川では全く違うものになった。何が明暗を分けたんだろう?繁平のダンジョンで「よく繁平は殺されなかったよな~」って書いたけど、それはこの吉川興経の最期を思ってのセリフなのだ。たぶん、元就にすれば繁平も排除したかった。でも、しなかった。盲目だから?そんな説、そもそも怪しい。出家したから?還俗してギラギラ頑張っちゃった人なんか、室町~戦国にはごろごろいるさ。養子縁組に先立つ両川側からの当初の条件はほぼ同じだったと思われる。が・・・この結末を見るに、恐らく沼田家は交渉を相当頑張ったんじゃないかと思う。元就が隆景の身を案じたのと同様に、沼田家の方でも繁平の命の保証はきっと譲れない一線だった。そのために、双方の合意を見た後に、田坂氏ら隆景擁立反対派を小早川家内で粛清するなど、沼田家側は精一杯の誠意を見せて、この契約がお互いに無事に遂行されることを切に願っていたように思えてならない。「お互いに」ってところが重要でね。そして、乃美隆興は妹(か娘)まで元就に差し出した。私が思うに、沼田家側では元就という人を、その奥にある恐さをよくよく理解していたんじゃないのかな。尼子方による高山城への攻撃、大内氏との不安定な関係。油断できない状況下にあって、毛利家をバックに得ることは、確かに大きなプラスにはなる。でも、それは両刃の剣。吉川家の方でも似たような環境にあったけど、元就の本当の恐ろしさを理解していなかった。吉川家の交渉の過程を見ると、「手玉に取られている」以外の表現は見つからないくらい。その甘さが、興経の悲劇を招いたんじゃないかと思う。んで、毛利家をバックに付けて隆景を沼田家当主に迎えるという苦渋の決断をしたものの、繁平の命の保証は取り付けた。だから繁平は殺されず、その延長で家督譲渡後も興経のように領内から連れ出されることはなかった。そして沼田家側でも元就との誓約を守り、隆景の元で一丸となってその後の毛利本家の戦いにも大きく貢献した・・・私、以前から「家督を相続したすぐ後から毛利家の戦いに参加させられて、よく小早川家臣がついてきたよな~」って思ってたんだけど、こんな感じの両家の固い約束があったのだと思えば、合点がいく。厳しい環境の中で小早川家を存続させるために、乃美様始め家臣たちは毛利傘下に入る道を選んだのだ。田坂義詮とは選んだ手段と方向性が違っただけなのだ。小早川家を守ろうと頑張ったのは、どちらも同じ。「元就は前当主を排除したかった」なんて書くと、また腹黒なイメージを持たせるかもしれないけど、今とは全く環境の違う当時のことだからね。政治的判断としては、これは正しい。特に、吉川興経の方はバリバリの壮年期で不穏な動きもあり、これを放置しておくことは元春のためにも、毛利家のためにもならない。その点、繁平はまだ幼かったから、興経よりはユルい条件で交渉を成立させることが可能だったというのもあるかもしれない。それから、小早川家は早くから海に進出していた一族だったから、言ってみれば技術職。内陸にあって水軍のノウハウを持たない毛利家が自家の家臣だけで小早川水軍の能力を発揮させられるハズもなく、そうした理由から小早川家臣団の温存を認めたという可能性もあるかもね。そのあたりも踏まえて、こまごまとした交渉が続けられたことだろうと思う。吉川と小早川のイベントが終了して、結果として西に吉川、東に小早川と毛利領を挟む形で実質的な毛利の支配地が拡大した。しかも、吉川は山岳に強く、小早川は海の一族。あまりにも見事なイベントの成果から、元就は初めから両家を狙ってたって書き方をする人がいるけど、それはどうかな。「新高山城(4)」で少し紹介したように、天文の初め、元就は「安芸に広げよう、友達の輪っ!」とばかりにお友達大作戦を繰り広げている。仲良しの種を丹念に振り撒いた中でたまたま大きな芽を吹いたのが、吉川と小早川だったんじゃないかと思うけどね。まあ、相続のきっかけはどうであれ、毛利家の飛躍的な成長をよく主君・義隆が許したもんだ。分国のイチ領主があまり勢力を拡大するのは、フツーの盟主は好まないからね。尼子からの芸備国人切り崩しの際に、元就が気を吐いていもづる式にオセロの駒が入れ替わるのを防いだとか、この頃までに元就はかなりの実績を挙げていた。だから、義隆の元就への信頼は相当なものだったと思われる。それを裏切りやがって、このオヤジ・・・あややところで、隆景の相続の説明で「分裂していた竹原・沼田両家を再び統合した」ってよく書かれるんだけど、ちょっと言わせていただくと、別に分裂した訳じゃないから。フツーに嫡男の弟に所領を分与しただけだから。多くの庶家がある中で、一般に知られているのは、竹原家ぐらいのもん。隆景が最初に継いだ家だから知名度が上がったってのもあるだろうけど、それ以前から、竹原家は庶家の中でも際立った存在だった。長い小早川の歴史の中には、庶家が一致団結して「もうあれこれちょっかい出さないでよ!」って惣領家に対抗しようとしたこともある。が、竹原家の独立性は他とは違う。バックを選ぶのが上手かったとか、色々理由はあると思うけど、相続の違いがポイントだったといわれる。その辺については、竹原に行った時に書きましょうかね。それで、この沼田小早川相続イベントだけど・・・一言で言うと、「毛利元就って、なんなん!?」ってカンジ。沼田の惣領家は次第に庶家に対する求心力も低下して、小早川一族内では惣領家と竹原家がツートップといってもいい位の状況だった。惣領家の当主を継ぐことは、確かにポイント高い。が、前述したように小早川さんちの場合は竹原家が、時には惣領家をしのぐほどの力と自立心を持っていた。こんな中で惣領家だけを押さえても、小早川氏の完全掌握にはならない。竹原家だけでも同じ。あくまで庶家なんだし。だから、近隣の国人領主と比べて、小早川氏の吸収はかなり難しいレベルのものだったんじゃないかと思う。が、元就は見事それをクリアした。自慢の手品で。たぶん、この相続イベントは竹原家をなだめるのにも相当の時間と労力を要したんじゃないだろうか。隆景が竹原を出てって沼田入りするだけならともかく、竹原と沼田を一緒にしようってんだから、竹原家中でも結構な反発があったんじゃないかと思うのだ。竹原家の創設から約300年。竹原には竹原のプライドがある。両家がひとつになって50年近く経った後でさえ、沼田家菩提寺・米山寺と竹原家菩提寺・法常寺が隆景の葬儀と埋葬を分担して行った事からもわかるでしょう?(その辺は、「三原編」をご覧ください)竹原家ができる一代前には、沼田新庄に新庄系小早川家というのが作られた。庶家だけど、この新庄系の中でさらにまた庶家を作ってそれなりの勢力になっていた。が、新庄系小早川氏の本家は椋梨氏。なので、新庄系あたりの説得には、椋梨盛平が頑張ったかもしれない。そんなこんなで、様々な思惑が複雑に交差する中を、元就は笑顔でイベントを終了した。まさにテクニシャン。希代の手品師。ここまでを真面目に読んで下さった方には、このイベントが『病弱で盲目の幼主に代わって隆景を立てようとする動きが起こり、天文19年に隆景が竹原家と沼田家を統一して沼田本家を継いだ』なんて簡単な一文で済まされるようなもんじゃなかったであろう事をご理解いただけたでしょうか・・・にほんブログ村
2013年03月10日

4人目は田坂義詮(たさか・よしあき)さんです。この方は、出家後の善慶(ぜんけい)、あるいは全慶の名で書かれることが多いです。田坂さんちの出自については、あまりはっきりしていない。が、小早川の庶流だとか、美濃から身を起こしたとも言われてるらしい。で、通説。 繁平の失明とそれに続く尼子方の高山城攻撃、こうした危機的な情勢を受けて、 沼田家では「繁平ではこの難局は乗りきれない」との風潮が沸き起こり、 竹原家を継いで勢力を伸ばしていた隆景の実績を買って、 沼田家に迎えようという声が上がった。 田坂義詮を中心とする反対派は隆景により粛清され、ことごとく首をはねられた・・・田坂氏の古い経歴はわかっていないが、高山城から少し離れた稲村山城に居城を構えたのは応永元年(1394)といわれ、少なくとも小早川春平(佛通寺を開いた人)の代には沼田小早川の家臣としてあったものと思われる。以後は沼田家の執権として力をふるったとされる。そして義詮さんは、繁平の後見人でもあったという。田坂氏は小早川家の系図には出てこない。もしホントに小早川の庶流だったとしても、傍流の傍流くらいのもんなんだろう。そんな人が、当主の後見人?もちろん、後見人は1人とは限らない。が、後見人説が本当なら、義詮さんは結構な勢力を持った人だったと思われる。田坂さんちが力をもった背景には、経済力があったからなんじゃないだろうか。と地図を見ていて思った。とゆーのも、田坂氏の居城・稲村山城のすぐ近くには沼田市(ぬたのいち)があるからなのだ。「市」ですから、市場です。史料上の初見は、応長2年(1312)。なかなか盛況を呈した市場であったらしく、「本郷町史」にはこんなことが書いてある。 【当時沼田荘の地頭小早川氏の家臣たちは、小早川氏の居館付近に住んでいたが、 その地を離れて沼田川下流の沼田市に居住する者が多くなり、 なかには市場の住人と婚姻関係を結ぶ者さえおり、市場の自由な空気のなかで 商品流通にしだいにかかわるようになっていたことがうかがえる。】家臣の引っ越しがよほど目に余るものだったのか、小早川宣平は「ちょい!皆がそんな遠くに住んじゃったら、とっさの時に間に合わないじゃん!これ以上そこに住むんだったら、もうそいつとは会ってやんないからね!た・・・ただし、今月はもう残り少ないから、来月からの話ね」と3月26日付け(笑)で通達を出している。が、その後も沼田市住まいのブームは収まらず、禁制を出したりなんだかんだあったらしい。沼田荘内には他にもいくつかの市があったが、例えば稲村山城近くの本市にはかつては300軒の家と1ヶ所蔵があったとある。中世の300軒って、かなりのものだと思うけどね。そして、別の市には代官を管理にあたらせていたという記録が残っていることから、本市も同じように代官の管理下にあったものと推測される。古い時代の文書には、たびたび田坂氏が顔を出すので、沼田家中でも重きをなしていた様子がうかがえる。であれば、すぐ近くに居城もある訳だし、小早川家直属の被官であった田坂氏が本市の代官を務めても不思議はないんじゃ・・・まあ、市場の代官職にあったからって、悪いお代官様でない限り、自分ちの経済力につながるもんでもないかもしれないけどね。さて、天文8年に沼田家が尼子方に陣替えした際、高山在城奉行は田坂四郎右衛門尉という人だったという。この時はすぐに大内氏によるお仕置きが入り、大内氏の監視下に置かれる羽目になった。田坂四郎さんの個人の特定がちょっとできないんだけど、まあ名前からして義詮さんの一族なんだと思われる。沼田家が尼子寄りだったというよりは、反大内派が家中にいたというべきって気がするな。もちろん、親大内派も家中におり、ために天文8年の時は大内さんちに通報されて、尼子派の反抗は終わった。ただ、陣替えの際に田坂氏の一族が在城奉行であったことから、田坂氏が尼子寄りだった可能性も考えられるし、実際にはそうではなかったとしても、繁平拘束の際にはそのあたりをうまく利用されたのかもしれない。とりあえず、一万歩譲って繁平が病弱で盲目、さらに取り巻きが尼子派という理由により、しっかり家中を取り仕切れる当主を新たに立てようというのはまだいい。ああ、今さらですが、私は繁平の盲目説は信じてないんですよ。だって、怪しすぎるんだもの。で、誰を立てるかって話だけど、直系で跡を引き継げる男子はいないから、そしたら一族の中からフリーな男子を選ぶべきなんだよね。そのための庶家でもある訳だし。しかし、竹原家当主の隆景に白羽の矢が立った。これはやっぱりおかしいだろ!もし庶家の当主を沼田家の当主にするんだったら、その庶家には後釜を立てるのがフツーじゃないのか?だけど、隆景は竹原家当主のまま沼田家の家督を引き継ぎ、竹原家と沼田家をひとつにした。だから、隆景擁立のウラにはやはり大内氏や元就の暗躍があっただろうと私は考える。隆景の沼田家相続を義隆の小早川つぶしだと見る人もいる。地理的にも戦力的にも重要な小早川家・・・義隆からすれば、大内家の直轄にできればベストだったかもしれないけど、そうするには小早川一族はちょいとデカすぎる。でも、安芸の国人衆のリーダー格であり、安芸での作戦には東西条代官と並んで事にあたらせるほどの毛利家を使えば・・・。しかも、元就の三男・隆景はすでに竹原家に入り込んで実績を挙げている。駒として、これほど理想的な人材もないだろう。通説以外での隆景の惣領家相続に関する説明ってのは、元就の策謀、あるいは義隆の意向のどちらか一方に限定されたものが多いように思う。だけど、すでに国人衆トップの位置にある毛利家が実質的に小早川すべてを吸収するとなれば、その勢力は飛躍的に拡大する。しかも、「新高山城(2)」の年表にさらっと載せたように、天文15年からは元春の養子縁組の話も同時進行していた。こうなると、もはや元就の野望だけでどうなるってレベルじゃない。 ただでさえ、他家との養子縁組なんて話は主家の承認がいるものなんだし。特に、小早川イベントの方は諸々の背景やその後の経過を見るに沼田家の隆景擁立派は義隆や元就の意向を受け入れつつも、相当の念押しをした上で最終的に話をまとめたと思うんだよね。さらに、小早川家には庶家が多いので、多くの庶家の抱き込みや根回しにも時間がかかったと思うし、またどんなに時間がかかっても、そこはきっちり話を煮詰めてお互いに様々な確約を取り付けたと思われる。小早川サイドからの条件は後述するとして、毛利家が取り付けた確約とは何か? もう一度、「新高山城(2)」の年表を見てください。竹原家と隆景の縁組、吉川家と元春の縁組から元春の入城まで、どちらも元就は3年の準備期間を置いている。竹原家の時は尼子との戦いだの何だので忙しかったし、可愛い末っ子を出すのがためらわれたか?みたいな感じで、そんなに緊迫した両家の交渉はなかったかもしれないけど、元春の養子縁組は明らかに違う。交渉開始の翌年には縁組が成立しているのに、そこから元春が吉川家の本城に入るまで3年。そんなに長い間、元就は一体何をやってたんだ?元春ちゃんの吉川家相続についてはここでは詳細は省きますが、一言で言うと元春のためにじ~っくりと万全の態勢を敷いてやっていたのだ。そんな慎重な元就が、内情が不安定な沼田家に、なんの準備もなく隆景を送りこむワケがない。だから、恐らく元就は隆景の身の安全を最優先に考えただろうと思うんだよね。ちなみに、両家の確約なんて書いてはいますが、そんなものどの史料にも載ってないですよ。あくまで個人的な推測です。で、田坂義詮。通説をぼんやり読んでると、天文19年(1550)に隆景が本家を継いでから隆景によって反対派が粛清されたような印象を受ける。はっきりそう書いてる人もいるし、義詮さんは高山城で暗殺されたともある。が、田坂氏の稲村山城が隆景派に攻められて落城したのは、天文16年(1547)。居城が落城した3年後にその当主が殺されるって、おかしいだろ!!だから、義詮さんは稲村山城の落城とともに討死したか、あるいは居城が攻撃される直前に高山城で殺されたか、どちらにしても天文16年が没年なんだと思う。と、いうことはですよ・・・隆景の沼田家相続の話がいつからスタートしたのは判然としないものの、少なくとも天文16年にはかなり煮詰まった段階まで来ていたと見ていいだろう。義詮さんの殺害には乃美宗勝が関わっていたらしく、感状が出されている。が、手持ちの資料では感状の内容までは確認できないので、誰が、いつ出したものなのかはわからない。ちぇっ。稲村山城を攻めたのは、あくまで小早川勢。だけど、その裏には隆景を守ろうという元就の強力な意思が働いていたと思うし、隆景が沼田家に入る前にすべてをクリアにしようとしたはずだと思う。ゆえに、隆景が家督を継いだ後に隆景自身によって反対派が粛清されたという説は私は信じていない。ちなみに、田坂氏は全滅した訳じゃない。三原の順勝寺は義詮さんの弟が入った寺だし、同じく出家して粛清を免れた子は現在の府中市に寺を開いた。長い歴史の中での沼田家の危機の際には、いつも竹原家が助け舟を出していた。しかし、この時の竹原家当主は隆景。あくまで小早川一族から惣領家の当主を立てようという隆景反対派がいなくなれば、もう沼田家を守る勢力はいない。小早川の血を守ろうと頑張った義詮さんに合掌。にほんブログ村
2013年03月09日

うおお~、教真寺のことに1話使っちゃったから、ダンジョンがひとつ増えちったここの話題は、繁平の項目に含めようと思ってたんだけど。まあ、いいや。3人目は小早川繁平の妹様です。ここはダンジョンというほどの内容でもないので、気楽にお読みください。こーゆー時くらいしか、この方の事は書けないと思うので・・・とは言っても、たぶん、ほとんどが私の妄想の話になります(笑)。繁平の妹は、生年・実名ともに不祥。ただ、幸いと言っては不謹慎だけど、嫡男である繁平がまだ幼いうちに父・正平が亡くなったので、沼田(ぬた)の姫の生年はほぼ特定できる。天文11年(1542)1月19日に大内本軍が厳島神社に戦勝祈願をした後、出雲に向かっているので、正平がお家を出たのは年末年始頃かな~。(正平の最後の出陣についてはこちら)。繁平は、天文11年生まれとされる。計算上、同腹だと相当キビシイけど、まあ正平が合流したのは1月よりもうちょっと後だったかもしれないし、ギリ繁平の出生直後に作った子だったとして、沼田の姫は天文11年の終わり、もしくは天文12年の初め頃の生まれと推定される。仮に別腹だったとしても、繁平が長子である以上、繁平との年齢差が1歳以上ということはあり得ない。ただし、系図に繁平の生年が書いてある訳じゃないので、もしかしたらもう1年くらい早い生まれかもしれない。あるいはもっと早い生まれだったとしても、正平の没年から計算すると、繁平と沼田の姫の年齢差は最大で5歳くらいだろう。さて、「新高山城(2)」の年表に書いたように、この姫は竹原小早川当主・隆景とカップリングされて沼田小早川家を継いだ。繁平と1歳違いだったとして、花嫁はこの時7歳。一方のマスオさん・・・いえ、隆景ちゃんは17歳。う~ん、高校生と小学生の組み合わせ・・・ゲホンゲホン繁平のダンジョンで、当時の男子の平均的な元服の時期は15歳頃と何度も書いたけど、対する女子の裳着(もぎ)、あるいはそれに準ずる成人式の年齢は、12~13歳。これはもちろん、初潮を迎える時期にあたるところから来ている。実際、「今昔物語」でも「13歳になる娘に男ができたので、愛染明王様のお札をくだされ」なんて娘の母親が言ってるシーンがあるくらいなので、当時は今よりも性成熟期を迎えるのも、また世間にそれが認められるのも早かった。が、隆景の本家相続時には沼田の姫はまだ7歳なので、この時点では婚約だったかもしれない。実際の夫婦になるのは、もうちょっと先の事だったと思われる。さっきからエグイ話ばっかり・・・いい加減にしろよ、エロオヤジ!!って批判も聞こえてきそうだけど、至って真面目な妄想ですよ。ま、ちょっとヤキモチも入ってるかもしれないけどえ~、個人的なジェラシーはともかく(笑)、私がこの姫に対して思うのは、夫と兄の関係についてどう思っていたのかな~って点なのだ。最初の頃は、まだ子供だったから何もわからなかったかもしれない。でも、大人になるにつれ、自分の周りの境遇についても理解するだろう。兄を隠居させて当主の座についたよそ者・・・そんな夫を憎んだことはなかったんだろうか。あの時代に、惣領家の姫として生まれついたんだから、そんな感傷はなかったんじゃないの?・・・確かに、そうかもしれない。でも、偉い人のお家に生まれたからって、皆が皆そう簡単に割り切れた訳じゃない。それを説明するのに、いい例がある。って言うと、また不謹慎の文字が頭をかすめるけど東西条バトル編を始めてから、大内義興さんがばんばん登場してきて、私が義興さんを好きなものだからそれに感化されて、義興さん、かっこいいって思ってくれてる人もいるかもしれないけど、義興さんにだって失敗はあった。当時の失敗は、偉い人であればあるほど、ささいなことが人の生死につながりかねない。義興さんのパパ・政弘は、歴代大内家当主の中では数少ない自分ちのタタミの上で亡くなった人で、病気のために生前に家督を譲った。その翌年、政弘が死去。まだ若かった義興さんは、同年、家臣の讒言に乗せられて長門守護代とその子を誅殺してしまう。後で冤罪だったことを知った義興さんは激しく後悔したが、覆水盆に返らず。結局、長門守護代の娘を正室に迎えてその実家を再興させた。正室となった娘は、義興さんとの間に嫡男・義隆を儲けたが、陶隆房のクーデターの際のエピソードなどを見るに、気性の優しい女性らしい人であったらしく、父の仇を夫に持ったことで苦悩したともいわれる・・・沼田の姫の場合は、夫は兄の仇ではないけど、円満な家督譲渡ではなかったと思うし、似たような境遇と言ってもいいだろう。が、この姫がどう思っていたのかは伝わっていないが、隆景は妻を大事にしたという。妻に関する有名なエピソードで、「隆景は妻に接する時は常に肩衣・袴を付け、まるで客人に対するようであった」というのがあるけど、ちょい、ソレ、大事にしすぎ・・・「そんなんだから、子ができなかったんじゃないのか!?」って私以上にエグいツッコミを入れる人間も、世間には多い。ま、実情はどうであれ、2人の間に子はできなかった。それでも、隆景は側室を置かなかった。けど、男子の本能としてつまみ食いくらいないハズなかろ?どっかに落としダネとかいないもんかな~とか下賤な想像を正直拭い切れないものの(笑)、「隆景の子」というのは伝わってはいない。沼田の姫に子ができていれば、女系にはなるけど、小早川の正統な血は残せた。しかし、子宝には恵まれず、兄である繁平もシングルのまま僧籍に入り若くして亡くなったことで、小早川氏の祖・土肥実平から数えて3代目の景平以降連綿と続いてきた沼田小早川の血はここで絶えた。華々しい活躍をした夫の陰にあって、沼田の姫に関する話はあまり伝わってはいないが、戦だの毛利本家の政務だの豊臣家の五大老だの、かなり留守が多かったはずの夫に代わってしっかり家中を取り仕切ったであろうことは想像がつく。それでなくても、よそから来た嫁さんじゃなく惣領家の正統な血を受け継ぐ姫なんだから、沼田の姫がよほどクセのある人間でない限り、家中のまとまりも良かったことだろう。隆景もそんな妻に信頼を置いてたんじゃなかろうか。隆景の死後、関ヶ原を経て毛利家が防長2国へ大減封となって以降は沼田の姫は毛利家に従って周防・問田に移り住み、問田大方(といたのおおかた)と呼ばれることになる。隆景の本家相続によって小早川氏はその名を広く世間に知らしめることになるが、隆景が豊臣家から養子に迎えた金吾(秀秋)は関ヶ原の2年後に若くして亡くなり、小早川家は断絶した。「三原城(8)」で華々しく迎えた正室とは別の女性から生まれた子がいたという説もあるが、幕府からは無嗣改易の処分を受けた。問田大方は元和5年(1619)に亡くなったとされるが、その頃にはもう豊臣家も小早川家もなく、主家である毛利家は幕府に睨まれながら防長でちいちゃくなっている。彼女は晩年、生まれ故郷から遠く離れた周防の地でどんなことを思いながら過ごしたのだろう・・・ああ、なんだか書いてる私までブルーになってきた(←妄想しすぎ)。問田大方の墓は、山口にある。私はまだ行ってないけど、元は大内教弘(政弘のパパ)の菩提寺だったものを、隆景夫妻の菩提寺とし、隆景の法名(泰雲紹閑)から泰雲寺と商号変更した。山口の大内氏ゆかりの寺が毛利家各者様の寺に改められたのは、他にもいっぱいあるけどね。だからこそ、前回えんえんと書いた教真寺が匡真寺になったという推測は、別におかしくも不思議でもないことだと思ってる訳だけど。泰雲寺には、隆景の供養塔もあるそうな(本墓は米山寺)。隆景の死後も長く生きた彼女は、きっと夫の冥福を祈りながら静かに暮らしたのだろう。そうであったと思いたい。金婚式を迎えるまでには残念ながら数年足りなかったけど、でも今は、夫婦で同じ寺に仲良く祀られている。にほんブログ村
2013年03月08日

すいません、別の記事が入りまして。ここから相続イベントを再開します。前回の帰城交渉の経過や結末がどうなったのかはわからない。が、繁平は元服後に出家した。出家の経緯もわからない。当主に返り咲くことまでは考えてなかったかもしれないけど、普通に考えれば繁平の元服は隆景に家督を譲ってから7年後ぐらい。その頃には、恐らく毛利家による防長計略も完了して、隆景の沼田家当主としての立場は揺るぎないものになっていただろう。帰城の望みが完全に絶たれたことで、繁平はあらたな人生を踏み出そうとしたのかもしれない。ところで、繁平が出家後に入ったという教真寺、これについては全くわからない。ここにも疑問がある。「三原編」でも少し書いたけど、教真寺の資料はないものの、高山城下には似たような名前の寺が2つある。ひとつは、巨真寺。もうひとつが、匡真寺。この2つの寺はいずれも、過去のシリーズで紹介してます。私が思うに、「教真寺」はこのどちらかの寺を指すんじゃないかな~。ひとつ目の巨真寺、これは沼田家の菩提寺で、現在は「米山寺」と名前を変えている。最後の当主を除く沼田家歴代当主の墓があり、また「三原編(21)」以降で紹介した大善寺、あれもかつては巨真寺の塔頭のひとつだったという話もあり、「三原編(2)」でも紹介したけど、巨真寺は当時はかなり大きな寺院だった。歴史も古く、沼田本家の菩提寺だから、前当主が入るのに格としてはふさわしい。小早川一族からも、過去に何人も巨真寺に入ってるし。しかし、少々腑に落ちない点もある。「三原編(2)」で引用した米山寺のしおりを再度掲載しますと、 【東廬山米山寺は寺伝によると、平安時代の仁平3年(1153)に誓願禅師によって 天台宗寺院として建立され、巨真山寺と称したが、のちに巨真山をコマヤマと読み、 これがなまってコメヤマとなり、さらに米山の字をあて、室町時代には、ベイサンジと 呼ぶようになった。また巨真寺とも称した。】室町って一口に言っても、年代に相当の幅があるからね~。それに、昔って今ほど漢字の使い分けは厳密じゃないし。「三原」と「柞原」の表記が明治まで混在していたように、「米山寺」と「巨真寺」がある程度の期間、並行して使われていた可能性は充分にある。なので、繁平の出家当時にはすでに巨真寺は米山寺に商号変更しているハズであり、ゆえに繁平が入ったのは米山寺ではない、という証拠にはならない。ものによっては、隆景が米山寺に改めさせたという記述もあるし。ただ、小早川一族から米山寺に入った人間は多くても、ほとんどは次男とか当主の弟たち・・・小早川家の系図はあんまり詳しいことは書いてないんだけど、少なくとも繁平以前の当主が隠居して寺に入ったという例は聞いたことがないから、米山寺に入った当主経験者はいないはず。もし繁平が米山寺に入ったのだとしたら、出家の経緯はどうであれ前当主が自分とこの寺に入るなんて名誉なことなんだから、ちゃんとそういう風に書いておくんじゃないかと思うんだよね。では、もう一方の匡真寺はどうか?これがまた難解でねえ~・・・巨真寺(米山寺)よりは、匡真寺の方が可能性が高いと私は思ってる。匡真寺は、こちらも商号変更して、現在では「宗光寺」として三原にある。「宗光寺(26)」の記事もあわせて読み返して頂きたいのですが、宗光寺がクサイと思うのは、何と言っても繁平の菩提所、一株院(いっちゅういん)が宗光寺にあること。繁平の法名は、「一株院文室元緒」なんですよ。ただ、宗光寺は天正5年(1577年)に隆景が実の両親を弔うために創建したものと言われている。繁平の没年は天正2年とされているから、素直に考えると年代が合わない。が・・・実は匡真寺は隆景の創建じゃなく、元々あった寺をリニューアルオープンさせたものだったとしたら?仮にも前当主が入るくらいの寺なら、それなりの格はあったはずだと思うんだよね。それに、そもそも教真寺はどこにあったんだ?現在とは全く感覚の違う当時のことだから、正統の前当主なんてものはこの場合、火種を抱えてるようなものでもある。この辺については、あとでそれなりにまとめるつもりではいるけど、ぶっちゃけ、よく繁平は殺されなかったよな~と思う。実際、繁平と同じような経過をたどって悲劇の結末を迎えた同時代人もいた。が、繁平は殺されなかった。しかし、騒動のタネになりかねない存在ではあるから、可能性としては毛利領内で毛利家の監視下に置かれたという事もなくはない。でも、それはなかっただろうと私は思う。繁平はおそらく小早川領内の高山城下、もしくはそれに近い場所にいたんじゃなかろうか。もし教真寺が誰か歴代当主あたりによって創建されたものだとしたら、法名に「教真寺殿」とかって付いていてもよさそうなもんだけど、そういう法名を持つ惣領家当主はいない。たいがい法名って、自分が開基になったお寺とか、あるいは菩提寺の寺院名がそのまま付くんだよね。過去のシリーズで紹介した寺でいえば、佛通寺を創建した春平の法名は「佛通寺天心宗順」だし、成就寺を菩提寺とする正平は「成就寺天秀祖祐」。同じような例は他にもある。中には「ナントカ寺」ではなく「ナントカ院」って人もいるから、創建した寺じゃなく塔頭を菩提所とした人もいたかもしれない。んで、繁平。一株院は、はっきりとはわからないけど宗光寺・・・いえ、匡真寺の塔頭だったんじゃないかと思われる。仮に「教真寺」が正しい記述だとしても、誰が創建したものかはわからないけど、たぶんそれなりの格はあるお寺だった。そこの塔頭である一株院に繁平は入ったんじゃなかろうか。隆景が匡真寺を造った年には、すでに繁平は亡くなっていた。帰城交渉以降、繁平が表舞台に出てくることはないから、その後隆景と会ったりとか直接のやり取りがあったのかまではわからないけど、前当主で義理の兄でもある繁平が生きてたら、さすがにその寺を自分の両親のための寺にリニューアルすることははばかられたかもしれない。でも、匡真寺創建の天正5年には繁平はこの世の人でなかった。前当主が入る程度の格のある寺なら、尊敬してやまないビッグダディ(元就)を祀る寺とするのに、不足はない。そして教真寺は丸ごと匡真寺に商号変更、あるいは一株院はそのまま匡真寺の塔頭として組み込まれた。もしくは、元々繁平がいたのは教真寺で、商号変更した際に繁平の分だけ一株院として分離した可能性も考えられるけど、匡真寺の創建より繁平の没年が先であることを考えると、ちょっとそれはないのかな~って気はする。で、一株院とともに三原に移転した匡真寺は、江戸期に入って宗光寺にまたまた商号変更して、一株院を塔頭としたままその後を過ごした・・・そんな感じなのかなあ~。あるいは、米山寺の塔頭であった大善寺が独立して三原に移転している事から考えると、一株院は元は米山寺(巨真寺)の塔頭で、本寺である米山寺から離れて三原に移転したという可能性もある。だけど、それなら何でわざわざ匡真寺の下に入るかという疑問が残る。ひとまず言えることは、繁平は「一株院」にいて、その一株院は三原では宗光寺(当時は匡真寺)内にあったということ。この点は動かない。もんもんとした考えをそのまま文章にしてるので、読みにくくて非常に申し訳ないとは思っていますが、詰まるところやっぱり私は教真寺=匡真寺なんだと思う。教真寺は少なくとも現存してないんだし、実在していた寺にしては史料がなさすぎる。教真寺が実在していなかったとまでは言わないけど、それなら何で教真寺が残っていないのか・・・どこかの寺に吸収されたか、廃絶したか。竹原家の菩提寺・法常寺の住持記を見ると、確かに長い歴史の中には衰退した寺もあったようだけど、「三原編」で私が回った寺のほとんどは、もとは高山城下にあったもの。三原には、今でも古い寺が結構残ってるんだよね。しかも、隆景は寺社の保護も積極的に行った。そんな中で、教真寺をみすみす廃絶させる訳がないと思うのだ。福島氏時代に吹き荒れた寺社の社領の没収で没落した可能性もなくはないけど、一株院は三原の匡真寺の境内に確かにあった。こうしたことから考えると、教真寺、あるいは一株院は匡真寺に吸収されたって考えるのが一番無理がないかなって思うんだけど・・・ただね、それなら繁平の紹介文には「出家して匡真寺の前身・教真寺に入った」とか書かれてもよさそうなもんだけどね。あ~、わからないわからないあの世ででもいいから、関係者様に会うことができたら、繁平関連のことは是非直撃インタビューをしたいナゾのひとつだよな。にほんブログ村
2013年03月07日

灯籠の脇には、石塔群がある。 一番奥は、何の変哲もない石塔。どうやら何かの供養塔らしい。その隣が、こちら↓。 どなたかはわからないけど、お顔の感じからしてお不動様とか夜叉様とか、ワイルド系の仏様?(笑)して、そのお隣がこちら↓。 手が数本あって、法輪を持っている。衣装は割とシンプルだけど、何と言っても、この頭・・・!!現代風に言えば、「高く盛ってる」カンジ?このお方の足元には、これがいる。 これは天の邪鬼だよな。ミワラの四天王コンプリートの時に見たからな。てか、天の邪鬼ってなんだ?あらためて調べてみると、昔話に出てくる悪い鬼のことで、物まねや人の心を探るのに長じているんだそうな。また、仏像では仁王・四天王などの仏法守護神に踏みつけられている小鬼、とある。んん・・・じゃあ、頭を盛ってるこの方は、仁王様か四天王なのか?と思ってその辺りを調べてみたら、この方がどなたなのか、またこの石塔群が何なのかやっとわかった。ここにある4つの石塔の両はじの2つは、こんなものなんです。 上の写真の石塔には、「奉供養青面金剛」と彫ってあり、下の写真の石塔には、「庚申塔」とある・・・ 【人々は庚申信仰により、人間の体内にすむ三尸(さんし)虫が寿命を縮めるのを 防ぐため、60日に1回回ってくる庚申の晩には寝ないで健康長寿を願いました。 この庚申待を記念して建てられたのが庚申塚です。】 (柏の庚申塔にある市教育委員会の解説より)三尸は三虫(さんちゅう)ともいう。人がこの世に生まれ落ちた時から人間の体内に住むと考えられていた。三尸が寿命を縮めるとあるけど、別に三尸が悪さをするんじゃなくて、庚申の日に宿主である人間が眠ると体内から三尸が抜け出して、天帝に宿主の悪事をチクるんだそうな。で、悪事の罰を与えにやってくるのが、天の邪鬼。まあまあ、悪い事さえしてなければ別に三尸も天の邪鬼も恐くはないんだけど、そこはにんげんだもの。それなりの心当たりがあるから、三尸が体内から抜け出せないように庚申の夜は眠らない・・・けど、1人では睡魔に負けちゃうかもしれないから、みんなで集まって眠らない夜を過ごす。これが庚申待、庚申講だそうな。もし天の邪鬼がやって来たら・・・そしたら、青面金剛(しょうめんこんごう)様に追っ払ってもらおう!そんな理屈で、青面金剛様は庚申待のご本尊様なんだそうです。庚申待の風習はなんと平安時代からあるらしく、一連のストーリーに天帝が出てくるあたり、仏教ではなく道教を由来とする思想とされている。青面金剛様のビジュアルにはバリエーションがあるという。腕は2・4・6・8本。手には法輪・弓・矢・剣・錫杖・棒・矛、杖、蛇、またショケラと呼ばれる人間を持つこともある。顔はだいたい忿怒相(ふんぬそう・怒りの表情)。三眼の場合もある。蛇が髪の中や手や足にいたりする。ドクロが髪の中にいたり、首や胸から下げている場合もある。足には天の邪鬼を踏みつけている。「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿と一緒にいることが多い。そして、『阿弥陀如来集経・第九』という書には青面金剛様のビジュアルについて「頭髪は竪に聳え、火焔の色の如し」とあるそうな・・・なるほど!!なら、3つめの髪を高く盛ってる・・・じゃない、髪が聳えてるお方は、法輪も持ってるし後ろの手には剣とか武器っぽいのを持ってるし、間違いなく青面金剛様だな。え~と、2つめは・・・ 顔は怒ってるし、頭にはドクロみたいのがあるし、顔の向かって右側に法輪を掲げてるし、 ↑これは左手部分。磨耗しちゃってわかりにくいけど、これが「ショケラ」かあ~!ショケラの起源とか語源については世間では意見の一致を見ていないらしく、「青面金剛に髪を吊された半裸の女人像」という風にしか今のところ表現できないらしい。 ↑で、足元部分。天の邪鬼を踏みつけて、その下に三猿がいる。なあるほど~!てっきり、古い石塔を一カ所に集めただけかと思ってたんだけど、この4つの石塔は全部庚申講に関連するものだったんだ~!庚申塔自体はあちこちに残ってるし、庚申信仰があることは知ってたけど、私の記憶にあるのは地味な石塔だけだったりするから、実際庚申講がどんなものかこれまで興味を持つことはなかった。でも、わかるようになるとやっぱり面白いよね「盛ってる」青面金剛様の石塔は、延宝2年(1674)、4つめの「庚申塔」の石塔には、安政7年(1860)と銘がある。庚申塔群の奥には、お寺がある。 境内の造りからして、間違いなく昔は神社と一体のものだったな。正真寺の留蓋↓。 これも波、かな?瓦には金剛杵。 本堂の前には、小さなお堂。 中にはお地蔵様がいらして、木の板には「松戸二十ナントカ内 十二番」と彫られていた。よくわからないけど、まあ「三原新四国」みたいなもんだろうな(←大ざっぱ)。このお堂の前には小さな・・・何て言うんだっけ、こーゆーの。 奉納者の名前は読めるけど、年月日の部分は欠損しているらしく、いつの奉納かわからない。まあ江戸期だろうとは思うけど。境内には、他にもいくつかの石仏が並ぶ。 【この六地蔵は古く弘化三年に建立された。近年破損が進んできた為に世話人一同 修復を発願す。 之によって三祖に報恩謝徳し檀信徒一切精霊に廻向し奉る。ここに後に伝えんが為に その浄業を誌す。 平成一八年七月吉日】 (基壇の解説文より)弘化3年は1846年。六地蔵の隣にも、石仏が・・・ ほう、これは美しい・・・このテの石仏で心惹かれることって正直言ってほとんどないんだけど、ここのは妙に気に入った。2枚目のは、安永3年(1774)、3枚目のは元禄11年(1698)と読める。元禄にしては、ずいぶん保存状態がいいな。で、3枚目の方には「奉造三十九夜念佛講」って彫ってあるんだと思う。2枚目の方は何のものだかわからないけど、何かの講中に関する石仏であるらしい。以上で境内は終わり。正直言って期待はしてなかったんだけど、すごく良かった~。寄って良かったあ~。この後、郵便局へ寄ってから駅まで歩いたんだけど、頭は痛いし結構消耗したみたいで、普通に歩いてるつもりなのに足が前に出ない。そのうち麻酔も切れてきて、術創が痛み始めた。時々出血してるのがわかるし、フラフラになりながら家に帰った。その後は、ご飯⇒薬⇒寝る、の繰り返し。顔は腫れるし、身体はだるいし、金曜日を指定しといて良かった~。思ったより食べることはできたけど、とにかく余計な事はしたくなくて、手術した金曜日から日曜の夜までは顔も洗いませんでした(笑)。患部に触りたくなかったんだもん。ここからまた、肉が再生するまで2カ月くらいかかるかな~。まだ上の親知らずが2本健在なんだけど、先生からこれも抜くような指令が出ませんように・・・にほんブログ村
2013年03月06日

こちらが、香取稲荷神社の正面です。(場所はこちら) 正面も派手さはない・・・が、ここにも小早川紋がいっぱい・・・(←違います) 拝殿の留蓋はこれ↓。 まず、留蓋の手前の瓦ね。これは正式には軒丸瓦とは違うと思うんだけど、巴紋がこういう形で瓦に使われてるのは私は見たことない。同じ巴紋を家紋とする小早川家の本拠地でも、いくつか巴をあしらったものはあったけど (三原・法常寺)こんな感じだったりね。巴紋は紋としては単純な部類に入るんじゃないかと思うけど、この単純なデザインを建築部材に適用すると、意外にバリエーションが広がるものなんだな。それとも、東西の地域性にも関わってくるのかな?西国ばっか旅して、西国の建築ばっか眺めて来た私には、香取稲荷神社方式の瓦の方が若干違和感を感じるんだよなあ。それから、この留蓋ね~。 波、かな?波の間にも、丸いプツプツが描かれているから、泡立つ波を表現してるのかもしれない。まあ、この辺りは広島と違って普通の民家に留蓋なんか上がってませんから、小さな神社仏閣を丁寧に歩いて比較してみないと関東の留蓋の地域性とかはわかりませんね~。比較対象できるブツが神社仏閣限定となると、広島より関東の方が作業は大変そうだな・・・てか、フツーの民家に留蓋とかシャチが上がってる広島の方がどうかしてるよ!って言いたいくらいだけど拝殿の裏側(本殿側)の屋根はこんなの↓。 ちょっと修繕は味気なくていただけないんだけど、私、屋根瓦が実に細かく丁寧に作られてる部分って大好きなんだよね~。まあ、普通の人はこんな屋根の一角になんか目もくれないでしょうけど、私はこの部分だけでこの神社、好印象思いもかけず、めっけもんだったなでは、拝殿に近づいてみましょう。 あれ・・・横書きの扁額って、珍しいような? 正面の、蟇股と呼ばれるモノが置かれる部分には、龍がいる。これはもはや、蟇股とは呼べんじゃろ その両脇の木鼻には・・・なんだこれ、だいぶロン毛が風になびいてるけど、獅子かな? ん~っ、なかなか~手挟(たばさみ)はこんな↓。 おおお~、良いではないか、良いではないか~!!グヘヘヘ・・・と頭の中でエロオヤジを演じながら、黙々と写真を撮る。ずっと患部にガーゼを噛んだままだから、口開けられないんだよね拝殿の前には狛犬がおわすのだが・・・ ・・・?胸元が、なにかヘン。ぼっかり欠損でもしてるのかな?と思って、反対側へ移動してみた。 うん?歯はあるし、顎はあるし、胸毛もあるし・・・しばらく眺めた後で、どうやら布らしいものをくわえている事に気がついた。両脇にひらひらと布が垂れ下がってるんだ!このスタイルは珍しい。一体、どんないわれや由来があるんだろう。狛犬も、実に様々あって面白いよなあ。後ろ姿はこれ↓。洗い髪がぺったり貼りついてるような・・・アハハハ・・・ 反対側の狛犬はこんな↓。 こちらは布はくわえてないけど、相棒と同じく結構独特の顔してるよな~。あれ?この足元・・・ ああ、やっぱり。子供だわ。頭をもたげて、何かをせがむような格好をしている。へ~え、関東にも子持ちの狛犬がおるんじゃなあ~。こちらの狛犬の背中↓。 いつもの習慣で後ろ姿を撮っただけだったんだけど、狛犬の向こうに写る境内はそのまま狛犬の視界に映る景色。こうして見ると、結構境内を見渡せる位置にあるものなんだな~。尻尾の毛が立派すぎて、台座からお尻が落ちそうですよって心の中でツッコミを入れつつも、ただ黙々と神様を守っている姿にちょっと感動・・・境内には、灯籠がある。 建造物にせよ、石塔類にせよ派手こい広島風のものばかり見続けてきたので、チョ~地味。しかし、銘は嘉永4年(1851)とある。馬橋駅周辺だけを見てると、割とこの辺りは新しい町なのかなって印象なんだけど、江戸川周辺あたりは結構古い土地なのかも・・・地図をあらためて見てみると、坂川と江戸川の間には流山街道が通っていたらしい。なるほど、この辺は街道沿いだったのか。納得。にほんブログ村
2013年03月05日

全ての処置が終わって、診療台で少し安静にしてる間、船越先生はカルテの処理とかH先生への報告書を作成。「”歯科恐怖症気味との事でしたが、局麻(局所麻酔)だけで頑張りました”と書いておいたから」「その報告を持って帰れと、H先生に言われてるんですう~」とガーゼを噛んでてまともに口も開けられないながらも言ったらば、船越先生は笑っていた。さらに、M先生が手術後の注意をわかりやすく説明してくれた。「お酒は、飲まれますか?」「はい、毎晩」「血流の関係で、出血したり腫れたりするので少し我慢していただいて・・・」「わかりました」「タバコは、吸われますか?」「はい」「あ・・・タバコも血流の関係でですね・・・」「えっ!タバコもダメ!?」「す、すいません・・・ちょっとだけ、ちょっとだけ我慢していただいて・・・」うぬう・・・まさかタバコ禁止令が出るとは・・・!しかし、今回はかかった時間からも、手技の内容からも1度目の時よりか大変だったことは素人にもわかるしな。さらに、先生は2人とも「まず、腫れます」とおっしゃった。ああ、同僚が親知らず抜いた時も、顔腫らしてたもんな~。自分の1度目の時のことは覚えてないけど。抗生物質が合わない体質とは言っても、抗生物質にも系統があるらしいので、このタイプならあるいは大丈夫なんじゃないかという薬を船越先生は出してくれた。さらに痛み止め。普通に抗生物質と一緒に出す種類の痛み止めとは別に、特に痛い時用の薬を5回分出してくれた。通常は1~2回分程度しか出さないし、場合によっては処方しない患者さんもいるらしいんだけど、今回は大サービスしてくれたらしい。H先生の紹介だからという事もあったかもしれないけど、こんな風に最初から最後まであれこれ気を遣っていただいて、これはホントにありがたいと思った。そして、今回の主役である親知らずちゃんを見せてくれた。 歯の左側が、根っこの先っぽの部分ね。ペットボトルのキャップと比較するとあんまり大きく見えないけど、実際は結構大きくて立派。大抵、抜いた歯って持って帰るか聞いてくれるもんだけど、この時は別に何も聞かず、前のテーブルに置いただけだった。無造作に置かれた自分の歯を覗きこんだら、思ったより綺麗に根の部分が残っていたので「これ、もらってもいいですか?」って聞いたら、「えっ!これ、欲しいの!?いやあ~、根っこの部分を欲しがる人も珍しいねえ~」と半ば呆れながら、包んでくれた。そんなこんなで時間を過ごしてるうち、止血も確認できたので、これにて手術完了。本当なら翌日に消毒に来なくちゃいけないんだけど、これ以降の処置はH先生がやってくれるので、ここでの受診はこれが最後。船越先生とM先生にお礼を言って、診察室を出る。 院外の薬局で薬をもらって、ふたたび馬橋駅まで向かう。病院を出る頃から頭が痛くて、それでなくても手術で気力・体力ともに消耗してるからバスかタクシーで帰ろうかとも思ったけど、帰る道々に色々用があるので、また歩くことにした。行きも駅から20分ちょいで着いてるし、できれば柏で色々買い物とかしたかったけど、もうそれは諦めて、馬橋での用事を済ませたらまっすぐ帰ろう。その程度なら、体力も持つハズだ・・・病院から少し歩いた先にあるのが、坂川。 ここにかかる稲荷橋を渡るんだけど、坂川にはいくつか欄干が朱に塗られた小橋がかかる。 【坂川の流れる下谷地区は、大雨豪雨のたびに洪水や大きな被害を受けました。 改修工事は延宝年間より天保6年栗山までの堀継が許可になるまでの沿岸農民が 訴え続け完成されたものです。】 (現地解説より。青字部分はかすれて読みにくく、推定した箇所)へえ~、地図で見てると坂川ってもっと細い水路みたいな川かと思ってたけど、案外水量もあって立派な川だし、坂川のすぐ西には六間川があるし、さらにそのすぐ西側には江戸川が流れてるからな。詳しくは知らないけど、江戸期の江戸では相当多くの流水路の付け替えが行われただろうしな。この辺りが昔はどんなで、どんな改修が行われたのかまでは調べてないけど、地形を見るに、確かに水害で困っただろうな~って気はする。さて、稲荷橋を渡ると今回のお目当てでもあるお寺がある・・・んだけど、隣り合う神社には脇から入れる小さな入口があったので、写真を撮りつつそちらから失礼させてもらった。香取稲荷神社本殿の妻↓。 派手さはないけど、結構いい感じ・・・小早川紋・・・いえ、巴紋だし(笑)。私が入った脇の入り口は、神社本殿の左側にあたる。入ってすぐのところには、小さなお稲荷様があった。 「南無天神宮」と中の石に書いてある。合祀されたものらしいな。私は生まれも育ちも柏なので、香取神宮ったらこの辺にはボロボロあるし今まで気にしたことなかったけど、そういえば西に旅して香取神宮にお目にかかったことってないような・・・ってふと気がついた。で、香取神宮についてあらためて調べてみたら、やっぱり分布は関東が中心なんだってね。歴史について色々知ろうと思ったら、政治史や合戦のことばかりでなく古文書の知識もいるし、当時の生活様式全般についても知らないと本当の意味で理解することはできない。昔生きた人の人生を一緒にたどる作業をする訳だからね。ところが、身近な存在ってのは身近すぎるゆえになかなか勉強の対象に置き換えることが難しく、したがって香取神宮の勢力範囲とかなんて考えたこともなかった。いや、これでも郷土史も真面目にやろうと思ってはいるんですよ。ただ、今はちょっとOとかMとかKとかの頭文字の、西国の武家の方々がなかなか私を解放してくれないんでね(笑)。神社仏閣大好き人間の私ですが、古くて大きくて立派な神社とかお寺もいい・・・それだけで価値があるものだし、建築も見事なものを有している場合が多いし。が、あちこち回っていく中で、大きくて立派なところよりもほとんど人の来ないような、下手したら由来すらもろくにわからないようなちいちゃなちいちゃな神社とかの方に、いとおしさを感じることに気がついた。時には、そんなところに掘り出し物があったりもするしね。全く期待してないところで、面白いものやいいものに出会ったりするのがたまらんのですわ~(←意外性に弱いタイプ)。そんな訳で、「香取神宮」の名称を聞いたのが初めてという方もおられるかもしれませんが、色々機会を捉えては地元周辺の小さくて地味な神社仏閣もおいおい紹介していきたいと思ってますので、よろしくね定期的に近隣に出かけていくほどの時間の余裕はないので、当面はあくまで何かのついでの時に限られるけどね。たとえそれが手術帰りであろうと、寄れる時は寄りますよ~(笑)。にほんブログ村
2013年03月04日

初診受付は、9:00から。早目に行くつもりではいたけど、着いたのは9:00を少し回った頃だった。初診受付を済ませ、教えられた診療科へ向かう。よく覚えてないけど、東京歯大の時は割とすぐに診察台へ連れていかれて手術を始めたような・・・が、今回はまず放射線科へ行ってレントゲンを撮るように指示された。あれ?前回は自分で写真を持っていったか、先生が裏で手配してくれてたか覚えてないけど、今回はここで撮るんだ・・・さすがに大学病院ともなれば、職場の診療所とは施設が違う。レントゲンも平面のものとパノラマ撮影で自分の頭の周りを機械がぐるぐると回るものがあって、実際の医療の現場に興味津々の私には面白い。ただ、パノラマ撮影が始まった時、電話の待ち受け音でよくかかる電子音の軽快な曲(←曲名が思い出せない)がおもむろに流れ始めて、つい噴き出して口に入れてる板がズレそうになって困ったけど。こんな感じで、病院内でも緊張感まるでナシ。診療科でも放射線科でも、待ってる間はずっと古文書の解読をしてたし。いや、緊張しないように現実を忘れられるものを用意してったってのもあるけどね。さて、写真を撮って診療科で待ってたら、男の人に呼ばれた。診察室へ案内されて自己紹介したその人が、H先生から紹介された先生だった。東京歯大の時が、女の先生⇒女の先生って流れだったから、今回もてっきり女の先生⇒女の先生だと思ってた。思い込みって、コワいわ・・・で、この先生、船越英一郎が2時間ドラマで医師の役やってるシリーズあるでしょ。タイプ的には、まさにあんな感じ!顔はそう似てはいないけど、話し方とか雰囲気は、フナコシそのまま!!だから、ここでは「船越先生」としておきます(笑)。以下、船越英一郎演じるエネルギッシュな医師を想像しながらご覧下さい。「ちょっと、歯科恐怖症のケがあるんだって~?H先生がわざわざ手紙を付けてくれたんだけど」「え~と・・・痛いのがダメなんで・・・」「手術のやり方、H先生から聞いた?」「いへ、聞いてないです・・・」「歯ぐきを切開して、粘膜をびろんとはがします。んで、顎の骨をドリルで削ります。で、歯の頭を出してから割っていきます。」「どちらかとゆーと、細かい話は聞かなかった方が良かったような・・・」「そーゆー訳にもいかんのよ~。途中でやっぱりやめますって事はできないからね。何だったら、点滴で麻酔入れて完全に寝ちゃってる間に手術するって方法もあるけど。ただし、その場合は今日はできないんだけど。どうする?やっぱり今日はやめとく?」おお~、そんな素敵なやり方があるのか。まあ、苦痛は少ない方がいいに決まってるけど、それだったら何のために今日休みを取ってきたのかわからない。「いへ、大丈夫だと思います。前にも抜歯の経験はあるし、せっかく休み取ったんだし、頑張ります・・・」「よお~っし!!じゃあ、行きましょう!!!」大きな病院の歯科へ行ったことのある方はわかると思うけど、あーゆーとこって、広いスペースにオープンな診療台がいくつも並んでるんだよね。沢山ある診療台は見事に埋まってたけど、かろうじて隅っこの診療台が使えることになった。どの位待ったかはわからないけど、先生が準備をしてる間、診療台で1人ぽつんと座ってた。待ってる間、後ろの方で「途中で・・・ホントに困る・・・麻酔を多めに・・・」って誰かが話してるのが聞こえた。周りの診療台にも他に患者さんが沢山いるから、誰のことかはわからないけど、聞いてて直感で「ああ、私のことだ、これ~」と思った。まあ、何を言われても、痛みさえないようにしてくれればいいのだ。虫歯を削るキュイ~ンってあの音なんかは大嫌いだけど、機械の音だけで「やっぱり私には無理ですう~!手術、中断してくださいい~!!」ってネを上げるほど、そこまで私は神経細くない。ただ、そうは言っても結構始まるまでには時間がかかったので、段々緊張してきた。緊張を我慢すると貧血につながりやすい体質なので、さっきまで読んでた古文書のわからないところを一生懸命考えながら気を紛らわせてるうち、準備が整った。「お待たせしちゃって、ごめんなさいね~。まな板の上の時間が長くって」待ってる間、まさにそのまな板の事をウンウン考えてたので(←マジな話)、妙な符牒に笑いが出そうになった。「大丈夫ね?」って最終確認をされたので、「今日抜いて帰らないと、絶対H先生に怒られますから」と答えた。「え~、H先生、こわい?」「普段は優しいけど、これに関しては絶対譲らなかったから」「まあねえ~、この歯の写真を見た歯医者は、100人中100人が抜いた方がいいって言う歯だからねえ~」ううっ、そうなのか・・・しかし、ここまで来たらもう逃げられない。船越先生の他に、もう1人若い男のM先生という先生が付いて手術が始まった。顔に大きな紙をかぶせられて、まずは麻酔から。あちこち注射針を刺して麻酔が効いてきた後で施術が始まる。先生は最初の麻酔の段階からかなり気を遣ってくれて、「大丈夫?」を術中に何度も連発した。今となっては回数をカウントしておかなかった事が悔やまれるんだけど(笑)、少なくとも30回は「大丈夫?」と声を掛けてくれたと思う。もしかして、50回も越えてるかもしんないたぶん、患者さんの中には深刻な歯医者恐怖症の人もいて、そういう人の場合はホントに大変なんだろうな~と思った。M先生は、歯科の先生ではあるんでしょうけど、どうも診療科は別の科らしい。船越先生が施術しながらM先生に色々説明してるのを聞いてて、そう思った。段々と手術は、力技みたいな内容の術に移っていく。その都度、痛みがないかを確認しながら船越先生は手術を進めていった。1度目の抜歯の時は、案外とあっさり終わった気がするんだけど、今回は結構時間がかかった。ドリルで骨を削るって説明があったけど、施術を受けてる感じでも1度目の時よりは大掛かりな手術の気がした。おかしなもので、骨に神経は通ってないのに骨を触られてる感覚とかあって、「変なの~」と思いながらひたすら口を開けてた。が、なかなか手術は終わらないし、口は疲れてくるし、グイングインものすごい音のする機械を何度もかけてるし、「もう、私の身体に何するのよう・・・」って気が遠くなりそうになりながら、頑張った。どうも、普通だったらスコーンと抜けるところが、虫歯になってるためにちょっと難航しているらしい。が、そのうち、無事取れたらしいことが先生の会話からわかった。ま~た、その時の船越先生とM先生の会話がさ・・・「俺、最初に歯を揺らしといたでしょ?あれをやっておかないと、こんな風に抜けないんだよ。若い先生にありがちなのがこの失敗で、歯を割った後に揺らしても効果はない。歯を割る前にやっておかなきゃ。こないだも『抜けない埋伏歯の手技について』みたいなテーマで講義したんだけど、ここが重要なんだよ」えっ、ちょっと・・・!て事は、運が悪いと手術中に「すいません、この歯、抜けませんでしたあ~!」なんて謝られちゃうこともあるワケ!?うわあ~、コワッ!!私は船越先生で良かったあ~そして洗浄の後、縫合。「5mm以内の切開なら、縫合は不要って論文もあるし、俺は5mm以内にとどめてるけど、今回は縫合します」うわあ~・・・スポンて抜いた歯ならともかく、切開した歯ぐきを縫わないとか、考えただけで気が遠くなりそう・・・糸のかけ方も色々コツがあるらしく、M先生に説明しながら手早く縫合をしていく。この抜糸がまた、チョ~痛くてイヤなんだけどさ・・・最後はガーゼを患部にあてて、止血。自分でぎゅっと噛んで、さらに先生からほっぺたをぎゅぎゅっと押された。この時も、「ちゃんと患部にガーゼを当てたことを確認しないとダメなんだ」とかってM先生に説明をしていて、手術の間中ずっとM先生と一緒になって説明を聞き続けてきたから「へえ~、なるほど・・・医者って、すげえなあ~」と思った。にほんブログ村
2013年03月03日

隆景ちゃんの本家相続イベントにお付き合い頂いてる方には、途中で第2ダンジョンに置き去りにして申し訳ありませんが、ちょっと旬な話題をば・・・ここまでの新高山城の書き方でわかる人にはわかるでしょうが、一切の焦りを捨てました。わたくし。早く進めるためにちっちゃくまとめる気なんかは、もはやこれっぽっちもありません。書きたい事を、欲望のままに書き綴ります。先日、孫たちが遊びに来た後で母親が「若い人と話すっていいですねえ~」ってお姑さんと電話してたのを聞きながら、「そういうアナタの娘は、毎晩死者の声を聞きながらブログを書いてるんですよ」と電話してる後ろで小さくつぶやいてみた(笑)。いや、霊感がある訳じゃないし、マジで幽霊と会話してる訳じゃないですよ。でも、マイナーなことに力が入る傾向があるのは相変わらずで、小説を書く人以外で例えば小早川繁平に光を当てる人なんかはあまりいないと思うし、超マイナーな人の話をさらっと終わらせられない時なんかは、あ~、また霊界から書かされてるう~って諦める事にしてるからさワシャ、イタコか・・・で、がっぷり四つで新高山城に取り組む覚悟を決めましたらば、開き直りとは恐ろしいもので、気持ちに変な余裕ができた。以前の私だったら、個人的に「ちょっと、聞いてよ!」って事があったとしても、本編連載中にそれをブログの記事にすることはなかったと思うけど、ま、今苦しんでる真っ最中でもありますので、備忘録としてここで書いておこうかな、と思った次第で。それで、主題の手術ね。これは、親知らずの抜歯です。ツイッターでご心配いただいた方々は、ありがとうございます。普段は職場の中にある歯医者さんに通ってるんだけど、そこの診療所で抜く事のできる親知らずと、できない親知らずがある。親知らずの抜歯は今回が2度目で、1度目は曲がって生えてるからってことで当時の先生の後輩を紹介してもらって、水道橋の東京歯大で抜いた。もう5~6年前くらいになると思うけど、麻酔の後の切開の時に痛みがあったので、「結構痛いものなんですねえ~」って言ったら、麻酔を追加してくれて、そこからは術中の痛みはなかった。が、出血が結構あって、家に帰るまでの間に自分の血の味で気分が悪くなったことを覚えてる。1度目は右の下の親知らず。今回は左の下の親知らず。抗生物質が合わない体質だとか、回復力に自信がないとか様々な事情から、左下の抜歯はずっと先延ばしにしてきたんだけど、ついに今シーズンのうちに抜いてしまおうと先生は決めたらしい。現在の主治医は、1度目の抜歯の時とは違う先生で若くて美人のH先生。前回と同じ東京歯大でもよかったんだけど、先生のお知り合いだという日大の病院を紹介してもらった。本来なら、事前に診療とかレントゲンの撮影とかに行かなきゃならないんだけど、そこはまあ紹介ってことで、便宜を図ってもらうという手筈で手術の予約を入れてもらった。手術日は、人間ドックも廿日市旅行も終えてスケジュール的に一段落する3月1日。んが・・・廿日市旅行の際、日中は正月の西条よりかはずっと暖かかった。が、2日目からは海を渡ってたので、朝夕の海風は特に冷たく、冷え切って宿に帰りついた私は毎晩カップラーメンを主食にしていた。旅先での食事が貧相なのは、相変らずなんですところが、食べ始めると、右の上の奥歯が痛い。以前からこの歯は、冷たい水がしみるということはあったんだけど、食事には差し支えなかった。この時の痛みはかなりの激痛の部類に入ったとは思うけど、仕方がないので痛みに耐えながらラーメンをすすってた。毎晩。その後、帰ってきてからは、何もしなくてもその歯が痛むようになり、ちょっと物が触れただけでも痛む段階まで進み、ついには右で物が噛めなくなってしまった。「左の手術をして、右で物が噛めないんじゃ、ご飯食べられない・・・これは、手術中止だな」と思いながら、急遽診察を入れてもらった。ところが、どうした事か、診察の数日前から一切痛みがなくなった。水さえもしみなくなって、はた目から見れば「前よりいいじゃん」って状態・・・なんか、手術がイヤでウソついてる人間みたいだけど、ホントに痛かったんだもん!!ウソじゃないもん!!!今は良くても、手術の後でまた右側に同じ痛みが出たらイヤだから、やっぱり今回は抜きたくないんですけど・・・って小さく言ってみたけど、H先生は延期はあっても中止は許さんという。しかも、延期だったら自分で電話して予約を取り直さなきゃいけないらしい。ええ~、自分が抜きたい訳でもないのに、何でそんなめんどくさいこと・・・手術日が近づいても、右の歯に痛みはほとんど出なかったので、仕方がないからもう1度でカタをつけてしまおうと覚悟を決めた。して、3月1日の手術当日。体力的に自信のない私は、金曜日に休暇を取って手術に臨んだ。病院への行き方はいくつかあるけど、手前の馬橋(まばし)駅から歩くことにした。馬橋には昔、友達が住んでたのでよく遊びに行ったよな~。けど、日大病院は友達んちよりさらに遠く、歩いて約20分くらいとの事だったので、初めて行く所でもあるし、前日に地図で場所を確認したらすぐ近くにお寺があるのに気が付いた。まあ、小さいお寺だとは思うけど、こんな事でもなければこのお寺には永遠に寄る機会はないだろうから、カメラを持ってくことにした。さて、実に久しぶりに降り立った馬橋駅はまるで別の駅のようで、ちょっとまごまごしちゃったけど病院に向かって歩き始めた。途中にあった馬橋のふた↓。 馬橋は、行政区では千葉県松戸市に入ります。で、このふたはちょっと見づらいかもしれないけど、「矢切の渡し」だな。あんまり若くない方は(笑)、細川たかしのヒット曲「矢切の渡し」を思い浮かべますかね。連れて逃~げ~てよ~ついてお~い~で~よ~で始まる、あの曲。あの「矢切の渡し」です。「矢切の渡し」は、松戸にある矢切(やぎり)と寅さんで有名な葛飾柴又を結ぶ手漕ぎの渡し船のことで、現在もこの船に乗ることができます(場所はこちら)。私は乗ったことないけど。へええ~、お隣さんって言っても、私なんかは滅多になんてレベルじゃない位松戸になんて行かないから知らなかったけど、こんな素敵なふただったんだ~。いいな、いいな。うらやましいな。さらに歩いてると、別のバージョンもあった。 コアラちゃんそういえば、去年の正月に埼玉の城跡(←未公開)へ行った時にもコアラのふたがあったっけ。あそこは確か、どこぞの外国の都市と姉妹都市だか何かの縁があったと思うけど、松戸もオーストラリアのどこかと姉妹提携でもしてるのかな?てな感じで、あれほど嫌がってたにも関わらず妙に緊張感のない中で病院へ向かって歩く・・・そのうち、地図で見たお寺が出てきた。あ~、これか~。でも今はまず用を足すのが先だから、寄るのは後にしよう。途中の道沿いには郵便局があって、現金書留を送りたいと思ってたから、ここも帰りに寄ろう。こんな時じゃないと、こーゆー用は足せないんでね。して、着いたのがこちら。日大松戸歯学部付属病院。 まあ、たぶんこの手前の建物は歯学部のもので、ずっと奥の方にあるのが病院の施設だったみたいなんだけど(笑)。だって、初めて行く大きな建物って、入口がわかりにくい時とかあるじゃん?にほんブログ村
2013年03月02日
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