全15件 (15件中 1-15件目)
1

2人目は、繁平さんです。天文11年生まれの繁平さんは、隆景が沼田家を継ぐことになった天文19年時点で8歳。病弱で盲目でまだ幼いとくれば、確かにこの難局を乗り切るのは厳しい。で、家督を隆景に譲った後は、教眞寺という寺に入り、天正2年に亡くなったというのが一般的な繁平の解説。が、盲目説については、疑問視する人も多い。 そもそも盲目というのは、「小早川文書」所収の系図に書いてあるところからきている。 「亦鶴丸 又太郎 采女正 元緒 小早川繁平 又元平 三歳患眼失明 以小早川隆景為養子 譲家 配妹 自薙髪帰禅住教眞寺」前から疑問に思ってたんだけど、普通に繁平の一般的な説を読んでると、家督を譲ってまもなく、幼くして仏門に入ったような印象を受ける。・・・なのに、何で元平・繁平と2つも俗世の名前を持ってるんだ?宗光寺にある碑にも、「小早川元平」と書いてあったしね。で、元平の名前について調べてみたところ、一説に細川晴元の偏諱を受けたという。ああ~?晴元お~?繁平については、専門家を除く歴史ファンは一般的な説をさらっと紹介してる人がほとんど。少し突っ込んだ記述になると、隆景の相続以前に繁平は大内氏によって拘束され、帰城への嘆願をしたものの、ついに願いが叶えられることはなかったという。この事に関連すると思われる書状がある。 「我らの帰城の件については、このように扱われているけれども、 弘中殿にはご理解いただけず、帰城が叶えられずにいるのは仕方のないことだ。 大内様へたびたび申し上げたところ、正しくご裁可いただけるとのこと。 公方へ格別の配慮があり、帰城の件をお願いした。 11月3日 又鶴丸」さらに、もう一通。 「御状、拝見いたしました。又鶴丸殿のご帰城の件については、大内様より 浦へご命令があったのでしょうか、早々に用意をするよう申し付けられ、 承りました。 どのような事であろうとも、弘中・小原の命じる事に従うのがよろしいかと 思います。 11月16日 元就」・・・書いておいて何だけど、この訳、相当怪しいそのうち、こっそり修正するかもしれません(笑)。でも、大体こんな感じのことを言ってるんだと思う。小原君は弘中君の同僚です。で、話を広げすぎるとマズいので、これまでのところでは書いてこなかったけど、繁平の相続時点で、大内氏の東の版図は備後まで延びている。が、天文12・13年に高山城が受けた尼子方の攻撃というのは、大内方から尼子方へ陣替えした備後勢によるものだった。もちろん、大内さんちは備後奪還に動き出す訳だけど、その城はなかなか落ちずに長期戦になった。だから、当然のことながら備後までのルートは確保する必要がある。さらに、小早川領は備後との国境にある。小早川領が落ちれば、東西条に接する高屋保まで大内氏の安芸ラインは後退する。こうした背景から、大内氏からすれば沼田家領は何としても固めておきたい・・・まあ、一旦は繁平の家督相続は認められてるけどね。が、予想はしてたものの、繁平の相続をチャンスと見た尼子方の攻撃が実際に始まったことで、情勢は厳しくなってきた。そこで繁平(又鶴丸)の書状に戻ると、これは直接の嘆願状じゃないけど、文面からこれ以前に、最低でも1度は帰城の件について大内サイドとやり取りがあったことを窺わせる。繁平の拘束をしたのは、弘中君。理由は、繁平が尼子に通じたという噂が出たことによるもの。内通の真偽はわからない。もちろん、まだ幼い繁平本人が、という訳ではなくその周りの動きがって話だけど。繁平サイドでは懸命に弁明したが、だめだった・・・しかし、帰りたかった繁平は、複数回帰城のための交渉を続けたらしい。その過程で書かれたのが上の書状なのだろう。年不祥ながらも、差出人名は幼名の又鶴丸。平均で15歳くらいが元服の時代だから、弘中君に連れ出されたのは15~16歳までのことと思われる。んで、何で細川晴元の偏諱・・・?と思ったら、繁平の書状に出てくる「公方」・・・公方って言ったら、フツー将軍のことを指すと思うけど、最初私は別の誰かを言ってるのかと思った。上の書状でも、別に繁平が「大内様」と書いてる訳じゃなくて、義隆のことは「防州」と書いてるから、そんな感じで誰か偉い人を指すのかと思ってた。けど、色々勉強を始めるまでは小早川氏ってちっぽけなイチ国人かと思ってたんだけど、どーしてどーして。幕府とのつながりは歴史的に長く深く、なかなかの名族であったらしい。いちおう書状の訳文としては、前後の流れから義隆が色々手配したような内容にしてあるけど、どうだか・・・そもそも私の訳も相当怪しいし(笑)。助詞の捉え方で、結構意味って変わってきちゃうんだよね。すいません、勉強不足で。もしかしたら、繁平の側から積極的に、ご先祖様の代から培ってきた幕府とのパイプをここで活用しようとしたのかもしれない。「公方」をまんま公方と仮定すると、細川晴元の偏諱を受けたってのともなんかつながりが見えてくる気がする。帰城交渉の中で、名前をもらうことになったとかね。そうすると、「采女正」の任官を受けたのも、それと一連の出来事だったのかもしれない。ああでも、ちょっと年代的にズレちゃうかなしかし、何故か元平から繁平へと名前を変えている。これは、さすがに大内氏の手前もあったのか。あるいは、同じ字を持つ元就に遠慮したのか。晴元の偏諱は、繁平からしてみれば「余計なお世話」だったりして・・・(笑)。てな感じでどんどん妄想はふくらんでいく訳ですが、連れ出されたのが実際にいつなのかはわからないけど、とりあえずこの辺から窺われるのは、繁平は元服後に出家したということ。繁平の元服が15歳だったとして、元平・繁平の名前を持っていること、また采女正の任官を受けていることから、8歳から15歳までの少なくとも7年くらいは、前当主として世俗にあったことになる。まだピチピチの時期にね。系図では繁平は3歳で失明したことになってるけど、系図がいつも正しいとは限らない。うっかり漢字を間違えたか?みたいのもあるし、場合によっては内部事情に詳しいからこそ書かれなかったこと、あるいは事実を曲げて書いてねーか?って思える時もある。繁平が失明したというのがもし事実でなかったとしたら、大人になるにつれ、自分の境遇に悶々とする日々が長く続いたかも・・・そして繁平の書状の宛先、これが小早川一族で宿老の椋梨盛平なんだな。繁平が家督を継いだ時はまだバブバブの赤ちゃんだから、当然政務は取れない。この時期の椋梨盛平の書状が多いことから、盛平は幼少の当主に代わって家政を取り仕切るような立場にあったことが推測される。 さらに元就の書状、こちらも椋梨盛平あて。元就の書状も何年とは書いてないものの、繁平の帰城に関する内容であることは確か。確実ではないけど、繁平の書状を受けてのものである可能性が高い。書状の訳文が正しければ、繁平の拘束は弘中君の独断のような雰囲気だけど、実際にはそんなことがあるとは思えない。東西条代官が勝手なことをして、難しい時期に大事な駒である小早川に内紛でも起こったらどうする。「新高山城(2)」で天文8年の陣替えのことを紹介したけど、天文10年には一族の中から尼子に通じる者もいた。年不祥だけど、ごたごたしてる小早川家中にイラついた義隆が「こんな時に、何やってんの~、あなたたち!もう、代官にお仕置きさせちゃうからね!ちゃんと言うこと聞くのよ!!」って書状を椋梨盛平に出している。恐らくこれは、なかなか腰の落ち着かないこのあたりの時期に出されたものじゃないかと思われる。こういう立場の椋梨盛平が、繁平の件について元就に相談している・・・書状の年代がわからないのがホントに致命的なんだけど、まあ世間で言われてるように隆景の相続以前の話だろう。隆景の竹原家との養子縁組は、元就が狙ったというよりは、周囲の状況から考えて主君である義隆の意向が強かったように思われる。大内氏と竹原家の縁は長いからね。ただ、竹原家からの縁組申し入れから成立までには3年の時間を費やしている。その間に、前回と今回で書いたような沼田本家のゴタゴタが同時進行していた。隆景が竹原家に入る頃には、すでに元就は沼田本家に照準をあわせていたかもしれない。安芸の防衛ラインを固めておきたい義隆、東西条の統轄を任されている弘中、そして着々と沼田本家での足場を固めていく元就。こんな中に小早川当主として生まれついた繁平は、まるで風に弄ばれるはかない1枚の木の葉のよう・・・にほんブログ村
2013年02月27日

最初の頃、私は隆景の相続にからむ通説を読んで「へえ、そうなんだ~」と思っていた。大体言ってることは皆同じだったからね。けど、隆景および小早川家、さらには安芸国人衆などのことを勉強していく中で、いくつかの素朴な疑問が湧いてきた。その辺を調べれば調べるほど、通説に対する疑問は次々に膨らんできて、今じゃ相続イベントという暗くて奥深い森の中に迷い込んでるカンジ・・・まあ、ここで正解を見つけようなんて思い上がってはいません。どのみち、答え合わせなんてできないんだし。だけど、思っていたより相当複雑らしいことはぼんやりわかってきた。細かくて沢山ある疑問を色々溜めこんでいくうちに、何となく道筋ができていくだろうとは思うものの、頭が悪い私はすぐに忘れてしまうだろうから、ひとまずそれをここで書き出しておくことにした。で、ここからは相続に絡む人々を個別に見ていこうと思いますが、まだ中間報告みたいなもんで話も相当前後して読みにくいことが予想されます。大いなる勘違いをしてる可能性も充分ありますので、その辺りはご承知おきくださいね。また、各ダンジョンを抜けるまでは、「新高山城(2)」の簡単な年表もあわせてご活用ください。さて、天文12年6月11日付の大内義隆の書状を、前回オネエ言葉でご紹介しましたが(笑)、同年7月21日付の毛利氏の書状が2通あります。1通は、毛利元就から沼田小早川重臣・乃美隆興へ。もう1通は、毛利隆元から同じく乃美隆興へ。昔の手紙ってのは、紙っぺら1枚で用を足すものではなく、大概お使いに出された人が具体的な要件を述べるものなので、普通の物語や日記類に比べると、前後の関係がわからなければ非常に訳しづらい・・・核心を述べてないからね。上の2通がまさにそれで、古文書初心者の私には、ここで紹介できるほど満足な訳が付けられない。ただ、6/11から7/21の間に沼田家で何かの動きがあったんじゃないかという事だけは窺える。しかも、元就の手紙と隆元の手紙は文面が非常に似ている箇所もあって、どうせ同じ日付なんだし、連名で1通にまとめれば良かったんじゃね?とか思っちゃうんだけど、元就の手紙にはあって、隆元のそれにはない言葉がある。「御愁訴之儀」・・・沼田家が義隆に対して何を愁訴したのかは、わかりません。時期的に、継嗣問題だとは思うけど。んで、宛先が乃美隆興・・・この人は、後に元就に嫁ぐ乃美大方(のみのおおかた)の兄、または父と言われてる人で、乃美家は小早川氏の庶流にあたる。「隆興」はもちろん、大内義隆からの偏諱だよな~・・・ってぼんやりウィキペディアを調べたら、初めは「公平」と名乗ったらしい。あれ・・・そういえば、義隆から見れば公平は陪臣だよな?「東西条バトル編」を始めてから、「興ナントカ」や「隆ナントカ」って名前がわんさか出てきて、安芸や大内氏の歴史にあまり馴染みのない方の中には「同じような名前ばっかで、もう誰が誰だかわかんね~!!」って方もおられるんじゃないかと思いますが、義興さんも、その子の義隆も、偏諱の大盤振る舞いもいいとこです。特に、義隆ね。けど、いくら気前良く「隆」の字をあげてるからって、陪臣にまで?沼田さんちとは、歴史的にそんなに仲良くないし。んにゃ、ちょっと待て。「小早川興平」はいるけど、「隆」の字もらった沼田家当主っていたっけ?自分の記憶力をまったく信用してない私は、ここで慌てて自分の書いた略図を見直してみた(系図はこちら)。そうだよな、興平~正平~繁平ときて、やっぱり沼田家では義隆から名前をもらってないわ。小早川興平が家督を相続する際の沼田本家の危機については、「三原編(15)」でごくごく簡単に書いてますが、最初は興平の家督を認めなかった義興さんも、結果として興平に「興」の一字を与えている。そして長らく幕府と近しい関係にあった沼田家は、興平の代から大内方へ付くことになるのに、それでも興平の子は義隆から偏諱を受けられなかった・・・なのに、その家臣は偏諱を受けている。これはなんでだ?興平の代から大内方にチェンジしたといっても、「新高山城(2)」の簡単な年表に書いたように、沼田家は一度尼子方へ陣替えをしたという。これが天文8年(1539)のことで、大永3年(1523)生まれの正平はこの時16歳。中世の男子の平均的な元服の時期は15歳頃だから、あるいはまだ元服前で、寝返りのバツとして名前をもらえなかったのかもしれない。が、それでも「乃美隆興」の名前のナゾはまだ解けない。小早川一族の系図は「小早川文書」に載ってはいるんだけど、庶家に関しては途中でカットされている部分もあり、乃美さんちのあまり詳しいことはわからない。また、乃美さんにも古い乃美さんと新しい乃美さんがあるらしく、その辺も難しくてよくわからないんだけど、系図としては大体こんな感じになるらしい。 乃美大方は、隆興の娘という説もありますが、ここでは妹としておきます。で、一番下の3人が隆景および毛利家にとって大事な人となってくる訳です。ひとまず、隆興さんに話を戻しましょう。毛利元就と隆元の親子から乃美隆興への手紙は、もう1通ある。「このたび、又鶴丸殿から竹原隆景に御家を相続することができましたのも、すべて皆様方のご好意によるものです。我らはどれほどお礼を言っても足りないほどです。私と隆元の親子はたとえ御家が没落したとしてもこの御恩を決して忘れることはなく、この先もずっと粗略に扱うことはありません。もしこの約束を違えることがあれば、梵天帝釈・四天王・日本国中60余州の大小の神々、わけても厳島大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神のそれぞれから御神罰を受けることをここに誓います。天文20年9月28日 隆元 元就」 天文20年とあるから、隆景が沼田本家を相続した後のものと思われる。「又鶴丸」は、小早川繁平の幼名ね。前回の記事の通説の中で、隆景を擁立する一派とそれに反対する一派がいたことを紹介したけど、この書状あたりから隆興は隆景擁立派の筆頭格であったとされる。いくら古い名族の本家を継いだからって、一旦養子に出した息子の件について実家の父と兄が日本中の神様に誓ってお礼を言うって、どんなもん?この感謝ぶりを見るに、隆興の貢献度が相当高かったであろうことは確かに推測できる。隆景の沼田本家相続の紹介文ってのは、自然発生的に隆景が当主に望まれて、唐突に天文20年にめでたく当主になったってのが多いんだけど、天文17年頃に隆興の妹だか娘だか、とにかく近しい血族が元就に嫁いでいることから、その頃にはすでに乃美と毛利は親しい間柄にあったのかな~、とは思っていた。が、何で小早川家臣の家から毛利家当主に嫁に行くんだ?どーゆー縁?たまたま通りかかった元就(51歳)に見そめられたとか?(笑)てな疑問はあった。しかし、天文12年および13年の尼子方による小早川攻めの際、元就が小早川の加勢に入り、力を合わせて敵を撃退。乃美氏および小早川一族で宿老の椋梨(むくなし)氏から深く感謝されたという。過去においては、毛利家と沼田小早川家が協力して備後の紛争の仲介にあたった歴史もあったりしたけど、この段階においても毛利と仲良くしておくことに決して損はないと乃美・椋梨の両者は心に刻んだかもしれない。とすると・・・うわあ、推定仲良し年代が天文17年から一気に天文12~13年まで遡っちゃったぞしかもこの時期、沼田家は大内方とはいえ、上述したように義隆の心証を悪くするような動きもあり、まだまだ大内家との絆は不安定。が、毛利と仲良くすることは大内家とのより太く確かなパイプを持つことにもなる。そんな風に捉えると、案外「隆」の字の偏諱の仲介をしたのは元就だったかもな~なんて思った。そして乃美大方の嫁入りは、仲良しさんの証・・・悪くいえば、人質的なものだったかもしれない。乃美大方の生年はわかっていないので、ちょっとエグい計算を色々してみた。最後の子である秀包(ひでかね)様を産んだのが50歳と妊娠可能な最長年齢頃で仮定してみると、嫁いだのが天文17年だったとして31歳。いや、そこまで独身なんてありえね~(笑)。40歳で秀包様を産んだとしたら、嫁入りは21歳。実際は、もうちょっと若いかもしれないな。31歳にしても21歳にしても、当年とって51歳の元就さんとは相当な年の差カップルになるけど、この時代、先立つものは「愛」じゃないから・・・(笑)。にほんブログ村
2013年02月26日

さて、大国からの横槍が入らない天文年間の初め、毛利家でもアグレッシブな戦闘行為は行わず、その代わり豊富な手品のネタをあれこれと使い分けて、着実に地盤を固めます。この点、別の意味でアグレッシブ。なんたって、父祖の代から長年いがみ合ってきたお隣さんとまで仲良くなっちゃったんだからね。いくら争うより仲良くなった方が得策だと判断したからって、初めて訪問したお隣さんちで、初めて間近で話したお隣さんちのご主人といきなり意気投合して、出会ったその日にお隣さんちに泊まって(←宿泊予約なし)、さらに大事な娘をお隣さんちの孫の嫁にって話がどんどん進んでっちゃうって、フツーに考えておかしくね?これで嫁に出されたのが五龍殿。長男・隆元の妹で次男・元春の姉とされる。五龍殿を嫁に迎えたのが、宍戸隆家。以後、元就は隆家を一門と同様に遇し、引き立てている。隆家もまた元就の期待に応え、強力なパートナーの務めを果たした。昨日まで交戦すらしてた相手と、「ただの隣人」を飛び越えていきなり大の仲良しになってしまうんだから、人生何が起こるかわかりません。で、その宍戸さんのツテで、備後の国人・山内氏とも盟約を結ぶことに成功した。しかし、天文5年(1536)、尼子経久の孫・詮久(あきひさ・後の晴久)が山内氏を下して、元就がせっかく築いた盟約を御破算にしてしまう。経久はこの時、まだ生きてます。が、さんざん苦しめられた息子の首実検に立ち会った後には相当がっくりきちゃったらしくてね。正式に経久が詮久に家督を譲るのは天文6年のことだけど、この辺りからは祖父に劣らずギラギラした詮久が出張ってきます。山内氏を下して背後を固めた詮久は、その後美作・備中へ侵攻。天文6年(1537)、大内氏から石見銀山を奪取(なかったとする説もある)。天文7年(1538)、播磨へ侵攻。美作・備中・播磨を破竹の勢いで制圧した詮久は「いずれも敵はなく候」とご満悦だったという。こうした情勢を受けて、大内家との絆をより強固にする必要性を感じた元就は長男・少輔太郎(元服前の隆元)を山口へ人質として送った。詮久の東上作戦の裏にあったもの・・・それは、上洛だったといわれる。そうではないとする説もあるけど、いずれにせよ、東を向いていた詮久が安芸へと出陣したのは天文9年(1540)のこと。そしてまた、安芸に嵐の日々が舞い戻ってきた。この後の吉田郡山城の戦いと、隆景の竹原家相続の段については、ここでは飛ばしますね。別のところで書く予定ですので。が、関連することだけ書くと、吉田郡山において尼子本隊を蹴散らした大内方は、安芸をおおむね鎮圧し、勝利の勢いで尼子の本拠へ向かった(月山富田城の戦い)。しかし、遠征軍はハナから怪しい雲行きで、さらに経久が手塩にかけた月山富田城はなかなか落ちず、従軍した国人衆に不安が広がった。そして、あろうことか戦の真っただ中でオセロの駒が軒並みひっくり返るという、まさかの事態に発展した。つまり、堂々と大内方の国人衆が尼子方へ陣替えをしたんだな。寝返り陣は吉川興経(安芸)、山内氏(備後)、三沢氏(出雲)、三刀屋氏(出雲)。こうなると、敵領の奥深くまで進軍した大内軍が俄然不利となる。義隆は早々に全軍の撤退を決意。大内方の皆様は大混乱の中、それぞれ違うルートを取りながら懸命に領国を目指した。義隆は宍道(現・松江市)から石見路を通って山口へ。途中の揖屋(いや・現東出雲町)まで一緒だった養嗣子の晴持は海路を取り、その途中で亡くなった(晴持についてはこちら)。義隆の腹臣・陶隆房は、浜田経由で山口へ。元就と隆元は松江から石見を目指していたが、現在の島根県大田市まで来たところで敵襲に遭った。かなり危ない場面だったが、この時は家臣が身代りを申し出て元就親子を逃がしてくれたおかげで、吉田まで辿り着くことができた。生死の分かれた退却戦の中、沼田小早川家の正平は、天文12年(1543)5月9日、現・出雲市で討死。やっと小早川が出てきたあ~(笑)。正平の享年は20歳。若くして亡くなったものの、きちんと子供は作っていた。後嗣を残すのも、当主の重要な務めだからね。えらいぞ(笑)。してここからが、本題です。我ながら、前置き長すぎ・・・まずは、竹原・沼田の両小早川相続に関する一般的な説から。 【天文10年に病死した竹原興景には、跡を継ぐ男子がいなかった。 そこで、興景の妻が毛利元就の姪だった縁もあってか、竹原家から 元就の三男・徳寿丸を養子にという申し入れがなされた。 元就はすぐに承諾はしなかったものの、大内義隆の強い勧めもあり、 興景の3回忌が過ぎた天文13年、徳寿丸が竹原家を継ぐことが決定した。 沼田家では天文11年、当主の正平が月山富田城の退却戦において討死。 長男の繁平が1歳で家督を継いだ。 繁平は幼少、かつ病弱であり、天文13年頃には病気のため失明。 尼子方による攻勢が強まる中で、沼田家家中からは竹原家当主・隆景を 当主に望む声が上がり、隆景と繁平の妹を娶合わせて、隆景が沼田本家も継承。 ここに、竹原家と沼田家は統一されることとなった。 隆景が沼田本家を相続する際には、隆景の当主擁立に反対する家臣もいたが、 田坂善慶を始めとする反対派は、隆景によってことごとく粛清されたという。】だいたい、こんな感じ~。え~と、どこからツッコもうか・・・(笑)。毛利元就が次男・元春と三男・隆景を他家に養子に送り込んだことについては、一般的に「乗っ取り」と表現されます。元春の吉川家相続は、少なくとも最初の部分は円満な風に書かれてる史料もありますが、まあ誰が見たって結末はエグイ。それに比べれば、隆景の相続に関する通説では竹原・沼田のどちらも比較的円満相続・・・ただし、沼田本家の方では隆景がばんばん首を刎ねたというエピソードも付いてきますが。このあたり、隆景は元就の冷酷な面を最も受け継いだ、な~んて風に言われたりもする。沼田小早川正平の死亡日は、天文12年(1543)5月9日。月山富田城からの退却軍は、前述の通り整然としたものではなかったので、沼田家からの報告によって義隆は正平の死を知ったのかもしれない。そして、その報告の返書と思われる義隆の書状が残っている。「書状、拝見いたしました。正平殿のことは、ホントに御愁傷様でした。さぞや、お力落としの事でしょうね。近いうちに弘中をそちらへやりますから、後のことは色々と相談してね。そして、高山城のガードはがっちりと固めておいてね。天文12年6月11日」思いっきり意訳なのは、いつもの通りです。また、義隆にいつもオネエ言葉を使わせているのには特に深い意味はありませんので、そこにツッコミ入れないでね(笑)。吉田郡山城の戦いを含む、天文9年(1540)の一連の戦いで勝利した大内軍が波に乗って尼子攻めを開始したように、見事な大逆転劇で大内軍を押し返した尼子軍も再び攻勢に出るであろうことは十分に予想できた。しかも、沼田小早川領は備後との国境に接しており、安芸での最前線を固めておく必要があった。で、前回名前を覚えてねって書いた弘中隆兼さんが早速登場する訳ですが、東西条代官の職務は 「鏡山城(2)」 に書いたような感じで、弘中さんは本国と安芸国人衆の間に立って、両者の絆を取り持つのが仕事。そしてここに至っては、今後の厳しい情勢を見据えながらきっちりと東西条近辺を統括する必要があった。東西条代官としては、歴任者の中でも最も存在感のある弘中さんは、「西条守護殿」とも呼ばれる。時には、「代官」の枠を超えた強権を発動することもあったかもしれない。それは裏を返せば、それだけ厳しい状況で任務にあたっていた事を指すのだろうと思う。にほんブログ村
2013年02月25日

大内義興さんの死を受けて、嫡子の義隆が21歳で家督を相続。たいがいの本って、「数え」で年齢を記載してるのがほとんどだけど、生まれた月日がわかってない人も大勢いるし、数えも正確じゃないよな~と思うので、生年と没年がわかっている人の場合は私は単純計算で表記しますので、あしからず。目の上のたんこぶどころじゃなかった義興さんの死を喜んだのは、尼子経久。翌享禄2年(1529)に入り、まずは備後北部から、そして石見と安芸へも触手を伸ばしてきた。鏡山城シリーズで、歴代大内家当主と安芸との関わりについて簡単に紹介してきたけど、中でも義興さんの影響力は絶大なものだった。ポイントはやはり、流れ公方・足利義尹(よしただ)を連れての上洛戦。上洛する際には、沼田小早川扶平や毛利弘元が苦悩の末に命を縮め、在京中にはお供していた厳島神主家の当主・藤原興親が病死したため、神主家では跡目争いが勃発し、これは多方面に影響を及ぼした。長い従軍に辟易した安芸の国人領主たちがわらわらと勝手に領国に戻って、108年ぶりの一揆を締結したのもこの時期のこと。さらには義興さんの留守を狙って、尼子経久が元気に中国を荒らし始めた。その過程で毛利興元が苦悶して、父と同じく命を縮めた・・・などなど、実に様々。(その辺の経緯については、「鏡山城(9)」あたりをご覧ください)なんか、良くない影響ばっかり書き出して、義興さんが魔性の男みたいに見えてくるけど(笑)、それでも義興さんの死は各国人領主に動揺をもたらした。そんな中、尼子経久の誘いに乗ったのが、石見の有力国人・高橋氏。安芸国人一揆を書いた記事でも、少し顔を出してますね。高橋氏の寝返りを知った元就さん、高橋さんちを討つ決意をしました。まあ、討つって言ってもねえ~、高橋さんは安芸にも支城を持ってるし、かつては毛利家の前当主・幸松丸の後見人を務めていたり毛利家への影響力も少なからぬものを持っていたので、家中の意見は割れた。元就自身にとっても、上記リンク先の系図にもあるように、高橋氏は兄嫁の実家にあたる。また、元就と正室・妙玖との間の子は一般的に三男一女といわれるものの、実はもう1人娘があり、高橋さんちに人質に入っていたという説がある。それ以外にも、若くして亡くなった父・弘元に代わって元就を育ててくれた継母・杉大方(すぎのおおかた)も高橋氏の出身だとする説がある。女性2人にまつわる話がもし本当だったとしたら、元就にも相当縁があったことになる訳だけど、それでも元就は決意を変えなかった。基本、危ない橋は渡らない元就さんだけど、その一方でやるときゃやる!!の典型でもある。そしてこの時は、やった。今なら大内氏の後ろ盾もあるし。もちろん、初めっから大内大明神様をアテにしてた訳でもないでしょうが、心配した義隆は「なんか毛利んちが騒がしいから、ちょっと気をつけてあげてくれる?もし何かあったら、頼むわねあとは弘中と相談してね」てな書状を竹原家の興景に出している。「弘中」は弘中隆兼(ひろなか・たかかね)を指します。この人は元々岩国の領主の家系で、ご先祖も大内氏を支えてきたが、隆兼自身も有能な人であったらしく、東西条を任されている。「鏡山城(2)」でも、歴代東西条代官として名前だけ紹介してますけどね。その職業柄、これからも弘中さんはちょいちょい顔を出しますので、ぜひ名前を覚えていただきた~いして、弘中さんや備後国人・和智氏の協力などを得てついに元就は目的を果たします。ま、実際にはそんな簡単な話じゃなく、尼子家中でのゴタゴタとか色んな問題が絡んでくるのですが、今はこれまでちなみに、先に上げた元就の娘は、開戦により無残にも殺されたという説がありますが、こちらについては現在のところ真偽は定かではないようです。高橋氏を滅ぼした後、主君・義隆から高橋氏遺領の大半を与えられた元就は、実質的に安芸国人衆の中でトップの地位に躍り出た。大内氏の安芸支配に協力する中で、リーダー格の立場も着々と固めつつある。遺領の配分などから推察される高橋氏の滅亡時期は、享禄3年(1530)。その2年後には、将軍・足利義晴の申請により享禄から天文へと元号が改元される。ふう、やっと天文年間・・・今回の記事、主役の隆景は出てこないかもでも大事なんだよ~、この背景が。他の記事にも絡んでくるしね。気を取り直して、頑張ります。享禄の終わり、尼子経久はまさかの事態に直面していた。なんと、実の息子の謀反にあったらしい(塩冶興久の乱)。これは親子ゲンカなんてもんじゃなく、相当深刻なところまで行っちゃって、高橋氏の救援要請に応えてる場合じゃなかった。一方の大国、大内氏は天文元年に九州に出兵して少弍氏攻めを始めるなどしていたので、安芸国内では大国の影響は少なく、天文の始め頃は比較的静かだった。ただ、あくまでそれは大国絡みの話で、各国人の間では相変わらず元気に色々やってたみたいだけど。さあ、ここでちょいとまた元就さんの話です。元就さんが活躍していた時代から現代まで、400年ちょい。400年前に使われてた言葉の中には、すでに現在では使われなくなったものもあれば残ってる言葉もある。しかし、残ってるといっても、必ずしも当時と同じニュアンスで使われてるとは限らない。そんな言葉のひとつに、「毛利元就」という人を説明するのに、どんなに短い文章でも必ず一度は使われるだろうという、「謀略」がある。謀略・・・『weblio辞書』では「人をおとしいれるためのはかりごと」とあり、似た言葉として「たくらみ・はかりごと・策謀・密謀・陰謀」を挙げている。『goo辞書』では「人をあざむくようなはかりごと」とあり、似た言葉としては上記例の他に「策略・経略・作戦」を挙げている。うちにあった辞書も見てみたけど、どれも上2つのように簡単な言葉でしか解説されてなかった。「あざむく」にせよ、「おとしいれる」にせよ、現代に生きる私達が「謀略」と聞けば、大抵の人はダークなイメージを抱くだろうな。それから、日本人の大好きなビッグ3ね。「中国の三大謀将」として、毛利元就・尼子経久・宇喜多直家をまとめてひと山いくらみたいな感じでアバウトに紹介されることもある。が・・・、辞書系の解説、特に類語については言葉としては間違ってないんだけど、昔使われていた「謀」(はかりごと)と現代で使う「謀」とは少し意味合いが違うと思う。「ホントに昔から”謀”って言葉が使われてたの?」って声が聞こえてきそうだし、私も一瞬そう思ったことがあったけど、使われてるも何も、元就さん本人の手紙に出てくるからね。「能も芸も慰めも、なんにもいらん。ただじゃが(ただただ)、武略・計略・調略、これが大事じゃ」(毛利家文書413)これは、ともすれば軟弱に映りがちな長男・隆元の尻をひっぱたいてくれろと元就が家臣に宛てた書状の中の一文。字ヅラだけ見ると、いかにも腹黒オヤジの言いそうなセリフではあるけど、実際に元就さんが駆使した「謀略」の類は、硬軟とりまぜて実に様々。やるときゃマジでやるし、そういう時はホントに恐いんだけど、案外と柔和な懐柔策も多い・・・てか、そっちの方が強硬策よりずっと多くないか?って感じで、自分なりに元就の勉強を始めるまでは、元就に対し現代語の「謀略」のイメージを持っていた私は、少なからず驚いた。大相撲解説の舞の海氏が現役だった頃、「技のデパート」と呼ばれたけど、感覚としてはあれに近いものがあるんじゃないかな~と思う。・・・まあ、大相撲にダークな手はありませんが(笑)。とにかくね、合理的なんですわ。状況に即して手段を変える、これは別に元就さんだけの美点じゃないけど、ハードな策とソフトな策の振れ幅でいえば、才ある多くの武将の中でも群を抜いてるんじゃないかと私は思う。だからね、私が捉える元就の”謀略”に「謀略」の言葉をまんま当ててしまうと、まず私の言いたいニュアンスは伝わらないと思うので、このブログの中では元就の”謀略”を「手品」あるいは「マジック」と言い替えてみようかと思います。「手品」は魔法じゃない。タネも仕掛けもばっちりある。どんなに大バクチを打つ時でも、元就の根回しはいつも用意周到。かつ、鮮やかな結果を残す。毛利元就という人に対する評価は人それぞれだと思うけど、現時点で私が元就の駆使した戦略を表す言葉としては、これが一番ぴったりな気がする。ただ、別に「元就は実はキヨラカな武将なんだ!」なんて主張する気はさらさらありませんよ。なんたってこのオッサン・・・いえ、この方は、防長経略において「家臣が切腹すりゃぁあんたぁ助命してあげるから、開城しんさい」と言っておきながら、その家臣の首実検のあとで「晴英の最期も近い・・・結構早かったけぇ」て手紙を書き、晴英の籠った寺を腹臣に包囲させて「御屋形も切腹候へ」と晴英に自刃を強要して、ついに大内家にとどめを刺した張本人。やる事がエグイんだよ、このオヤジ・・・(←さっきと言ってることが違う)にほんブログ村
2013年02月24日

登山道を登り始めるとすぐに、道のど真ん中にこんなのがあった。 おお、竹の切り株が・・・ちゃんと見てないと、危ないな。ふと周りを見ると、登山道の脇はこんなだった。 あ、なるほど・・・ここは竹林なのか。てことは、ほっとくといずれ登山道もこんな風になっちゃうからきちんと整備してくれてるんだ。去年の福山で、とある郷土史家の方のわずかな情報だけを頼りに完全未整備の山城でヒイヒイ言った経験をした私としては、整備のありがたさがつくづく身にしみる。ちょっと歩くとすぐに解説板が現れる。 【ようこそ魅力いっぱい~新高山(にいたかやま)~ 三原市本郷町は、沼田(ぬた)文化発祥の地といわれる沼田川を中心に 古代から交通の要衝、経済の中心地として発展し、町内には多くの古墳や 史跡等があります。 このような沼田本郷を見下ろす位置にある新高山は、歴史的に重要な役割を 果たしてきており、土器などの出土も見られ、中世においては新高山築城により、 この時代の歴史の主役を演じ、山と人との関わりが強まる一方、変化にとんだ 自然環境と温暖な気候の中で、緑豊かな里山の自然を育んでいます。】 【史跡 小早川氏城跡(新高山城) 小早川氏の祖、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追討に当って終始功をたて、 はじめ備前、備中、備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田庄 (沼田川流域一帯、蓮華王院領)の地頭職を得ると一族あげて相模国から 西遷して来た。 鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地とした山城は、沼田川対岸の 高山城であったが、沼田小早川家を継いだ隆景は、これまで高山城の副塁であった 新高山城の大改修を行い、天文21年(1552)にここに本拠を移した。 以来慶長元年(1596)に三原城に移るまでの45年間、この新高山城が 小早川氏の本拠となった。 この城郭は、標高197.6mの新高山城の天嶮を利用した山城で東西400m、 南北500mの全山を城塞としている。 山頂尾根を削平した本丸、二の丸、三の丸など各種の郭は60余に及ぶ 広大なもので、城主や家臣の居館を山上にあげた中世山城から近世の城郭への 過渡期を示す城郭である。】 (いずれも現地解説板より)で、ありし日の新高山城を復元した想像図がこれ。 どうせ復元図を描くんなら、もっときっちり描き込まんかい!とこれまたツッコミをいれたくなるけど、丁寧に建物を描き込んでいったら各郭の様子とか全くわからなくなるしな・・・難しいところだ。今私がいるのは絵の左下、道がくくっと左に折れているあたり。さて、上の解説にもありますように、この城こそが隆景ちゃんの本拠です。「三原城」および「三原編」シリーズであれだけ色々書きこんだから、あれを読んで下さった方は意外に思われるかもしれないけど、隆景ちゃんの居城といえば、私にはやはり三原城よりも新高山城のイメージが強い。沼田本家を継いですぐに築いた城でもあるし、若き日の多くを過ごした城。隆景の汗の染み込んだニオイがムンムン・・・(笑)。まあ、実際に彼が汗をかいてたのはここじゃなくて遠征先ばっかだけどね。なので、必然的に妄想も膨らみますし、書きたい事は山ほどあります。特に、歴史上の人物としてじゃなく、あくまで1人の生きた人間としてとらえたい私としては、相当脱線するような話題も書くかもしれませんが、そこは隆景大好き人間ならではの記述だとしてお付き合いください。それから、小早川および沼田庄の歴史も相当色々ありますが、新高山城は城としては隆景が最初で最後の城主。ここに長い小早川の歴史まで含めると大変なことになるので、ひとまずこのシリーズでは極力隆景個人に絞った内容とする所存ですので、こちらもあわせて御了承ください。前置きはさておき、歴史の話へと入ります。人の歴史が城の歴史なのでね。まずは、隆景の小早川惣領家相続の背景について。大永5年 水面下で毛利氏が大内方へ帰参。天文8年 大内方であった沼田小早川家が尼子方へ陣替え。 大内氏に一時高山城を占領される。天文9年 吉田郡山城の戦い。天文10年 大内方による佐東銀山(かなやま)城攻め。 竹原小早川当主・興景が在陣中に病死。竹原家から毛利家へ隆景を 養子にもらい受ける交渉が始まる。天文11年 月山富田城の戦い(第1次)。 大内方として従軍していた沼田小早川当主・正平が退却の際に討死。天文12年 月山富田城において大内軍を追い払った尼子晴久が、 石見・安芸・備後の国人切り崩しを始め巻き返しを図る。 沼田小早川正平の子・又鶴丸が小早川惣領家の家督を相続。 これを好機と見た尼子方の沼田庄攻撃が始まる。この時は一族で宿老の 乃美・椋梨氏が尼子勢を撃退。天文13年 毛利元就の三男・徳寿丸が竹原家を相続。 尼子勢が高山城を再び攻撃。籠城の末、なんとか撃退。天文15年 毛利元就隠居。長男の隆元が家督を継承。 吉川家で当主・興経を廃するクーデターおこる。吉川家から毛利家へ、 元就次男・元春をもらい受ける交渉が始まる。天文16年 元就次男・元春が吉川家の家督を継承。 大内氏による備後神辺城(尼子方)攻め。元就は3人の息子を連れて参戦。天文17年 この頃、沼田小早川の庶流である乃美家から乃美大方が元就へ嫁ぐ。天文19年 吉川元春がようやく吉川家本城・日野山城へ入城。 元就が毛利家中の井上一族を粛清。 元就が吉川家前当主・興経を殺害、これにて吉川家乗っ取りイベント完了。 竹原小早川隆景が沼田小早川家の姫(問田大方)と婚礼、 小早川惣領家の家督を継承。天文20年 隆景、沼田小早川本城・高山城に入城。天文21年 隆景、高山城対岸の新高山に城を築く。 大ざっぱに関連する事だけを書き出すと、こんな感じですかねえ~。隆景が小早川惣領家を継いだ結果の系図はこうなります↓。 三原城の時にも書きましたが、隆景の生涯は生家である毛利本家とは切っても切り離せません。「いや、実家はわかるけど、ここでは元春の吉川家相続は関係ないべ?」って思ったアナタ・・・あるんだな、これが。もちろん、直接的には関連はないんだけど、他家を継いだ元春・隆景いずれも、「毛利」という名のデカすぎるジグソーパズルの中の重要なピース。 個々の歴史とともに、毛利本家の動きもしっかりとつかんでおかないと、複雑な安芸の歴史を理解することは難しいと私は思う。んでは、もう少し詳しく背景を見ていきますか。「鏡山城(10)」で毛利幸松丸が夭折したことと元就がその後を継いだこと、「鏡山城(11)」で元就が尼子方から大内方へ陣替えしたことを簡単に書きましたが、その後の話です。大永年間(1521-1528)、大ざっぱにいうと安芸では大内方と尼子方が入り乱れ、備後では尼子の勢力が強い。鏡山城を奪われて大内氏の安芸戦線は後退を余儀なくされたものの、その後の毛利元就の帰参を得て、大内義興さんは主に右腕である陶興房(すえ・おきふさ)を派遣し、時には義興さん自らも安芸に出陣して少しずつ安芸での勢力を回復していった。元就も興房と連携する過程において、安芸国人衆の中で着実に存在感を増していった。順調に物事が進んでいるかに見えた矢先の享録元年(1528)、安芸の陣中において義興さんが突然発病。義興さんのお具合はなかなか良くならず、本拠である山口に戻って、そのまま還らぬ人に・・・激動の時代にあって、ついに大内氏が中央に乗り出すという大内氏全盛期を築いたお方。彼自身も、戦続きの生涯でした。そんな彼が、タタミの上で死ねたことはまだ救いでしょうか・・・いんや、最期までもし意識があったとしたら、思いっきり心残りだったろうと思うけど(笑)。義興さんの葬られた山口・凌雲寺は今は廃寺となってもうありませんが、義興さんのお墓と伝えられる宝篋印塔は残ってます。私が山口に行った時、確か「恋人の聖地」風な感じで凌雲寺跡が紹介されてて非常に憤慨したんだけど、今探してみたら出てこないなあ・・・もうそっち系で宣伝するのはやめたのかな?そもそもあそこ、夏のデートなんか危険だし。(危険な理由は「山口編(1)」をご参照ください)にほんブログ村
2013年02月23日

新高山城<広島県三原市本郷町本郷>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「東西条バトル編(12)」の続きです。え~と・・・文字数の関係で、思いっきり中途半端な書き出しになってしまって申し訳ないッス。本郷駅からここまでのアプローチについては、「東西条バトル編(12)」をご参照ください。沼田(ぬた)川を西に渡ったら、今度は川に沿ってそのまま北上。川沿いに歩き始めると、すぐにこの石碑がある。 弥生の遺跡道ってのはよくわからないけど、たぶんこのあたりに古い遺跡が点在している事を指すんだと思う。それについては、別のところで簡単に書くつもりです。本郷橋から見る両高山↓。 今は、左の新高山(雄高山)を目指してます。右の古高山(妻高山)は、このあたりから見るとこんな↓。 写真だとイマイチですが、こちらの山も岩が露出していて、なかなかの迫力です。新高山とまとめて一度に登れちゃえばいいんですが、今日はしっかり新高山城を見て思いっきり浸りたいので、無理はしません。私が通常使う地図サイトのMapfanは、山地に近いところはあまり詳細な地図は表示してくれない。が、沼田川の西側はただまっすぐ歩いてくだけなので、迷うこともない。途中で第一のお宮が出た。 ホントは安全祈願のために参拝していきたいところだけど、道から奥へ入っていかなければならないのは時間の都合上、困る。すでにここまで写真を撮りながらちんたら歩いてたせいで予定より若干遅れ気味だしてことで、ここも後回し。この辺にあったふたは・・・ ・・・やっさだ(笑)。前にこのふたを見たのは、マジクソ暑い中で・・・ ああ、あれからもうだいぶ経ったような気がする・・・(※たった4ヶ月前です)さらに歩くと、小さなお地蔵様のほこらが。 何の87番とは書いてないけど、たぶんこれ、「三原新四国」のだよな。そうか、たこつぼの所から始まった三原新四国88ヵ所は、本郷でエンディングを迎えるのか。この付近にもいくつかお寺があるから、そのうちのどれかが栄えある大トリの栄誉に預かっているに違いない。ところで私、いくつ三原新四国を回ったんだろ?今度数えてみようっとここは通り沿いにあるから、今日の安全と良い山旅を祈念して手を合わせていった。このあたりも岩盤が露出してる。 この付近の沼田川流域も、おそらくおおむね沼田川の侵食作用によるものだろうから、岩盤質じゃなかったらもっと削り取られて川幅が広くなってたのかもしれないな。ここから少し上流の流域には、川が氾濫を繰り返してできた地形が残っているし。道沿いの左側は民家だけど、右側は工場などがいくつか並ぶ。元日でさすがにどこもし~んとしているので、歩きながらじろじろと見られる範囲で覗いてたら、とある工場内にこんな標語があった。 【ベテランが次代にたくす宝物 技と誇りと安全第一】いいなあ~、コレ!秀逸!!技と誇りと安全をいっしょくたにするところがイイ!あれこれごちゃまぜになってる、おもちゃ箱みたい楽しいなあ、本郷て正月気分も手伝って、浮かれながら歩く。けど、この道は細い割になにげに交通量もあるので、あまり浮かれて歩いてると危ないです(標語で浮かれるのは私だけか)。その先には、第二のお宮が。 うぬう・・・ここは明らかに鳥居から本殿までは遠いな。ここも後にしよう。けど、ここには私が下山してから行く予定のお寺への案内があったので、しっかりチェックだけした。ちなみに、この鳥居を撮った所からそのまま後ろへ向くと、こんな道が続いてた。 これ、参道だ・・・でもこの道をそのまま行っても、沼田川に突きあたるだけのハズなんだけど。(今いるのはここ。地図の中心点が撮影場所)今回は寺社めぐりは二の次なので調べてないけど、この神社、一体いつからあったものなんだろう?もし小早川氏がこの地に君臨してた頃からあったものなら、長くは川向こうの方が領国の中心地として栄えた場所なんだから、川を渡って参拝しに来たとかね。いやまてよ、隆景ちゃんが三原に本拠を移した際に、ほとんどの寺社が一緒に引っ越ししてるハズだから、その後の創建かもな。後で寄った時に、由緒を見てみよう。あれこれ考えながら歩き続けると、だんだん目的地が近くなってくる。 うっわ~、ナニアレ・・・あれに登るの?私が?どうやって??もちろん、コースガイドは持ってきて登山道は把握してるけどね、なんかあの山容を見てるだけでもうお腹いっぱいってゆーか・・・(←軟弱者)対する川向こうの古高山はこんな感じ↓。 ふむ、こうして見比べてみると、「雄高山」と「妻高山」って呼ばれた理由も分かるな。ただし、それは全体の山容の話。実際に登るとなったら、どちらも上部は岩盤が露出してて急峻な感じだし、見るだけにとどめたくもなってくる・・・ ・・・いやっ、登りますよ。楽しみにしてたんだし。してたんだけど・・・ ナニアレ・・・ ナニアレェェェ~っ!!登る前から早くもげんなりしかけた頃、入口を示す標識が出た。 地図でいうとたぶんここ。ちゃんと通り沿いにあるので、よほどボンヤリ歩かない限りはわかると思います。ここを左に、細道をずっと奥まで入っていく。 途中にあるのが、荒神社。 鳥居の外からパンパンして、さらに奥へと進む。 この辺にも、岩盤の露出している箇所がある↓。 奥の方は墓地。でもちゃんと案内が出てるので安心。 そしてここからが山道。 にほんブログ村
2013年02月21日

え~・・・長らくお待ちいただいてた方々、お待たせいたしました。これより本編を再開いたします。ホントはヘビやカエルを食べた話とか、雑談のネタも色々あるんだけど、再開を延ばせば延ばすほど書きたくなくなるのは必至なので、頑張ります。頑張るって前に宣言したし。ただし、まだ2,500枚をゆうに超える写真の整理をしながらなので、しばらくは更新の頻度は遅いかと思いますが2日目<2013/1/1(火)晴れ時々小雪のち雨>今日は私が新年を迎えるのに最もふさわしい場所へ行く。山城からスタートするので、まだ夜明け前に宿を出た。途中、夜が明けてきたけど、少し雲が出ていたので初日の出は雲に隠れていた。まずは、西条から山陽本線に乗って東へ。途中の駅には、こんな看板があった。 シティ電車ってなんだろ・・・この河内(こうち)から先は沼田(ぬた)川沿いに山陽本線が走り、時には川のすぐ近くを通る。 この辺り一帯は、大昔はもっと標高の高い台地だったらしいんだけど、川の侵食作用などで現在のような地形が出来上がったとのこと。この頃にはすっかり明るくなっていたけど、目的地が近付いた頃にようやく初日の出を拝むことができた。 「おお~、小早川の本拠地で見る初日の出!ここに来てこれを見られるなんて、さっすが又四郎様!!」とわたくしのテンションが一気に上がったのは言うまでもありませぬ。さらに進むと、今日のハイライトが目に飛び込んでくる。 沼田川をはさんで双子のようにそびえる山、左が古高山、またの名を妻高山。右が新高山、またの名を雄高山。電車からは看板も見えます。 ただし、これは望遠で撮ってるけどね。広島空港からミワラへ向かうリムジンバスの中からも、この看板は見えました。 ・・・しっかし、上の方なんて岩ばっかりなんだけど。どうやって登るんだろう、アレ・・・ そして降り立ったのは、本郷駅。 ここは夏のミワラで佛通寺からの帰りのバスの中から見たけど、もっと小さな駅の印象だったような・・・まあ、あの時はバスの料金を一旦清算しなきゃいけないかな?とか色々考えてた時だったからな。(「三原編(60)」をご参照ください)まずは、一旦南へ。歩き出すと、本郷のふたが出迎えてくれた。 今は本郷町は三原市だけど、2005年に合併したっていうからね、だから「やっさ」のふたじゃないんだな。本郷駅の真ん前の道を進んで山陽道に行き当たる場所には、この碑があった。(場所はこちら) ミワラから佛通寺までは40分のバス旅だったけど、ここからだとこの碑から少し東に行って、そこから古代山陽道をひたすら北上するだけ。まあ実際にはそれなりの距離はあるけど、感覚的にそんなに離れてるって感じはしない。なので、歴代小早川当主やその一族が佛通寺まで通ったってのも、ミワラにいた時よりは納得できる。して、これが山陽道の現在の姿↓。 これに沿って、まずは沼田川へ向かう。元日の朝ということもあってか、歩く人は誰もいない。ので、通り沿いの民家をいつものように眺めながらてくてく・・・ 中には古い家もあるけど↓ 全体的には割と最近建てられたものが多い。けど、伝統的な日本建築をとにかく取り入れようという試みなのか、新旧の融合した面白い家もあった この辺も、瓦の装飾には凝っててね。けど、あまり写真ばかり撮ってると前に進まないのでほどほどに抑えて・・・途中には神社もあったけど、ここは帰りに寄ろう。とある家の玄関には、こんな正月飾りが↓。 おお~、宝船かあ~!こんなのあるんだね。途中ちょっと道のわかりにくいところもあったけど、なんとか沼田川まで出た。 正面に見えるのが、本郷橋。これで沼田川を渡る。橋のたもとには鳥獣供養碑があった。ああ、これ~!夏のミワラでバスの中から「何だ、これ?」って思ったやつだ~!そっか、バスはここを通っていったのか。ここも帰りに寄ろう。あちこち寄り始めると、私の場合キリがないのでね、今日はまず大事な場所へ先に行かなくちゃ本郷橋から見る沼田川↓。 沼田川の写真は「三原編」でもアップしたけど、あらためて写真を見るとなんか寒々しい・・・てか、この時かなり寒かったッス。最高気温1℃の昨日よりかは、もうちょっと気温が上がるような予報ではあったけど・・・ 本郷橋は、車道と人道に分かれて2本かかっている。この橋脚、私には蟇股にしか見えないんだけど・・・まあ、上の部材を支えるという原理は同じだよな。「う~ん、蟇股だよな、蟇股・・・」とぶつぶつ言って写真を撮りながら歩いていったら、途中にこんな案内があった。 あれ?梨羽(なしわ)ってそんなに近い距離?なんか、「ここからもうちょっとよ~ん」って風情の看板だけど・・・梨羽氏は小早川の庶流で、古くは「梨子羽」と書いた。後から調べてみたら、すぐ近くではないけどまあ私なら歩ける距離っぽかった。それより、この近くに(平)教経様の足跡があるらしくてえ~!!いずれまた再訪せねばならんな。で、橋を渡りきると看板が出た。 ※「新高山城(1)」へと続きます。にほんブログ村
2013年02月18日

今年もバレンタインが終わりました。うちでは昔から、家族の間でチョコを贈り合っているので毎年それなりにチョコを買ってはいますが、父親も糖尿持ちだし、今年はチョコじゃなくてイクラ丼にしました。イクラに特別な理由がある訳じゃないけど、単に私が好きなもので(笑)。んで、今年私が買ったチョコは1コだけ。オランジェット(あるいはオランジェ)ってチョコを御存じですか?これは、オレンジピール(オレンジの砂糖漬け)にチョコをかけたもの。見ようによっては、細長いウンチみたいなビジュアルをしてますが(笑)、私はこれが好きなんです。最近はこれを毎年買って、わたくしのこよなく愛する武将様方へお捧げしている。「信長様、隆景ちゃま、義興さん、盛見、・・・え~と・・・あ、元春ちゃんだ!食べてね」どうもまだ元春ちゃんのところへ行ってないせいか、ちょっと忘れがちになるけど、ギリ思い出した(笑)。このうち、実体(つっても、フィギュアだけど)を持ってるのは信長様と隆景ちゃんだけ。信長様は安土城考古博物館で買ったもの。大・中・小あるうちの一番小さいやつ。隆景ちゃんは、友達からもらったもの。オランジェットの小さい箱に2人は乗らないので(隆景がデカい)、代表して信長様がチョコの上に鎮座しておられました。2月14日当日。仕事から帰ったら、私あてに郵便物が届いておりました。 先日の「毒は新鮮なうちに・・・」で京都のセキュリティセンターについて書きましたが、そこのセンター長からの贈り物だった。センター長もいちおう女性だけど、中身はオッサン。今や、男から男へチョコを送る時代ですリーガロイヤルホテルって書いてあるし、なんか高そう・・・一方の私も今回の土産と一緒にチョコを送ったけど、私のは例の「鼻くそ」。こーゆー時、人間性って出ますね(笑)。この友達は、「からいた」だとか私の好きな京都のお店・マールブランシュのお菓子とかちょいちょい食べ物を送ってくれる。その時はいつも先に自分で食うな!と言われるのでまず信長様(のフィギュア)にお捧げするんだけど、今回も慣例に従って信長様の下に敷いた。信長様が敷いてた私のオランジェットは、替わって隆景ちゃんの尻の下へ・・・ちなみに、私が彼女のブログの中で最初に主役を張った時(友達のブログ「仲良しりっちゃん(^。^) 」はこちら)「だいたい1550年くらいの生まれじゃないか」て事を書いていたので、そこから概算で「460歳くらいだと彼女は思っている」と自分のブログで書いたところ、彼女はそこからまたきっちり計算して自分のブログで公開した。(友達のブログ 「牡蠣が嫌いなりっちゃん」はこちら)とゆー訳で、私の生まれ年は1553年に確定したようです。年齢詐称が会社にバレて、解雇されないことを祈るばかりです。人間の体は、大事に使えば120年くらいは持つと言われますが、私は人間の限界に日々挑戦し続ける毎日なのです。460年も生きてりゃ、俺様にもなるしワガママにもなるよな~と自分で納得しました。ですので、ブログの中でどんなに毒を吐こうとも、「460歳だから、しょうがないよな~」と暖かい目で見守ってやってくだされけど、「鼻くそ」は美味しかったらしいので、良かったッス。今度は自分で食べてみよう・・・翌日の15日には、職場の友達から友チョコをいただいた。素直に「愛してるよ」って言ってくれていいのに~(笑)。名前こそ出してないものの、実はこの友達も数回私のブログに登場してます。丸亀城で車から降りずに駐車場で旦那様の帰りを待ってたのはこの人だし、一昨年のGWで腹をこわした時も、前日この人と飲んでました。職場で私のツイッターアカウントとブログアドレスを教えてるのはこの人だけなので、じかに感想やらお褒めの言葉やら(たまに)頂きます。今回の旅でのトラブルを期待していることをカミングアウトされたのも、職場の喫煙所での出来事でした。友チョコであろうと、女から男へのチョコなので、世間的にもこれは正しい。うんうん。てことで、いただいたチョコを2段重ねにして信長様の尻の下へ。これが私の今年のバレンタインの成果。数日したら、オランジェットも含めすべて私の胃袋に収まります。今度は土産のはなし。京都の友達の上記ブログ「牡蠣が嫌いなりっちゃん」の中で今回の土産物が披露されてましたが、真ん中のカキのオリーブオイル漬けは、私が口で息をしながらまるできちゃないモノをつかむようにレジまで持っていったシロモノです(笑)。「よく嫌いなカキを梱包できたね~。えらいじゃん!」と褒められましたが、お店で入れてくれた外袋から出さずにそのまま入れたので、カキは見えてませんでしたあと、「瀬戸内レモンパスタ」ね。 これは実は、前回の東西条の時に空港で彼女用に買ったんだけど、他のお土産とのサイズが合わなくて自分ちで食べてしまったものです(笑)。好きずきあると思うけど、ほんのりレモンの香りがして私は美味しいと思ったので、今度こそ!と再び買いました。この他、職場用にチームの皆へとか親しい人へ数種類土産を買ったけど、そのうち大好評だったのが「はっさく大福」。これは以前、TVの旅番組かなにかで見たことがあったんだけど、空港にあったので買って配った。ごろんとしたはっさくをそのまま白あんで包んでさらに大福の皮でくるんだものなんだけど、大福といってもさっぱりしてて美味しかった。これが予想以上に大好評で、同期は「お取り寄せしたいんだけど」って言ってた。なので、食べ終わったあとの包装を冷蔵庫に貼ってるらしい「はっさく大福」を配ったうちの1人は当日休んでたので机の上に置いてきたんだけど、翌日、「ヤバイ!!」と言いながら私のところへ来た。何がヤバイのか、仕事で何かあったのかと思ったら、「ヤバイ!あれ、チョ~ウマすぎ!!また買ってきて!!」と次回の土産の指令を受けた。何だよ・・・いつも土産を渡しに行くと、「また広島~!?」ってゲラゲラ大笑いするくせにしかし、喜んでもらえたんならよかった。前回の西条みやげの酒まんじゅうも結構好評だったし、今度からは食べる前に写真を撮っておいてブログで紹介するのもアリかもしれないな~と思った。さて・・・そろそろ、「東西条バトル編」を再開せねば。しかし、今回の旅でも写真の枚数1,377枚・・・今回は現地では一切写真の消し込みはしなかったので、これが実数です。いつものこととはいえ、これだけあると写真を回転したりヘンなものが写ってないかチェックしたり、名前を付けて保存する作業だけでも大仕事です。前回の東西条の時には、どうも頼政に呼ばれた気がするので、本編を中断してるついでに来週あたり頼政のところへ行ってこようかな~とも思ってるし・・・しかし何より、やはり途中で中断すると再開するのに気が重い!それでなくても、今回の廿日市も歴史的に非常に重い土地なので、ついブログの構成をあれこれ考え始めて、そっちから書き出したくなるまあ、東西条の時は1日ごとにテーマというか対象の国人が絞られてるので、前に「山口編」を中断した時よりは気持ちの整理は付けやすいんだけどね。とは言っても、「東西条バトル編」もここからが色々と重い内容になってくるので、精神的負担が非常に大きい。もう写真だけペンペン貼って遺構の紹介だけに留めちゃおうかな~って怠け心もふつふつと湧いてくるけど、私の場合はそれじゃブログを書く意味がない。「ウダウダ言っとらんと、とっとと始めんかい!!」・・・やります、やります。書きますよ~。書けばいいんでしょ~とりあえず夏までは遠出の予定はないので、しばらくはブログに集中することになるかと思いますが、夏までに福山・東西条・廿日市の大物を書き上げられるでしょうか・・・そしてまた、ブログネタだけが溜まってゆく・・・にほんブログ村
2013年02月16日

ただいま~。って、帰ったのは昨日ですが(笑)。書き上げる前に、ゆんべは疲労で沈没しました。私が山城を予定に組み込む時は、平地での史跡巡りの時よりも早い時間に宿を出発する。時間を気にせず、ゆっくりまったり浸りたいので。前回の東西条もそうだったし、今回も2・3日目と山がメインだったので、早く出た。そして、最近は旅の雑談を旅先からブログに入れるようになったので、それまでよりも少し寝る時間が遅くなった。ゆえに朝は早く、夜は遅くがどんどん顕著になり、旅の都度睡眠不足・・・(-.-)zzZ昨日も帰りの電車の中が眠くて辛かった。ダメだ、少し寝ようと目を閉じてみたものの、不思議と眠れない。けど、目はモーレツに眠くてしんどかったわ~。眠れないので、電車の中でブログの下書きなんぞちまちま始めてみた。そのうち西条が近づいてきたので、外を見てたら見慣れた赤瓦の屋根が目に入るようになった。まだ広島も数えるほどの場所しか行ったことないけどね。でも、やはり今回も地域性を感じたな~。廿日市自体は古い町だけど、今の町並みは現代的な家が多い気がした。まあ、あくまで今まで私が行った幾つかの町と比較しての話だけどね。けど、廿日市も広いので、広島市に近い方は特にどうということもない普通の家並みなのに対し、広島市を過ぎてちょっと南に下ると「これぞ広島!」って感じの立派な瓦屋根の家が立ち並ぶ。いずれ本編で写真付きでご紹介しますが、宮島口よりさらに南に下ったとある町では、広島東部よりは留蓋やシャチなどのデコラティブな屋根を持つ家は少なかった。あれ?これはまた、広島には珍しく随分とシンプルな・・・と思ってたら、とある特徴に気がついた。ぱっと見の派手さはないけど、普通の民家には見ないような立派な妻を持つ家が結構あったのだ。廿日市市は広島県とは言っても、ここはもう周防に近いし、東と西ではこれだけカラーが変わってくるのかと、楽しく一般民家を眺めながら歩いた。ただ、今回歩いた地域では広島独特の赤い石州瓦で葺いた家はあまり見なかった気がする。現地ではそうとは気付かなかったけど、西条に近くなったあたりからは見慣れた赤い瓦がばんばん出てきたので、そういえば、今回ほとんど赤い瓦を見なかったような・・・って思い出した。いや、あったのかもしれないけど、東部ほどそこかしこにってほどじゃなかった気がするんだよな。日本建築、いや広島の建築ってホントに面白いよな~。帰路もおかげ様で、順調でした。空港で土産を探していたら、空弁があった。 うちでは両親はカキを食べられるし、母親なんかはかなり好きだけど、何しろ娘が全員揃いも揃ってカキ大嫌いなもので、我が家ではカキ料理が出ることはありません。が、空弁ならここでしか売ってないし、親孝行な私は家でカキを食べることのできない可哀想な両親のために、目をそむけながらかきめしを買いました。かきめしの隣には、宮島名物あなごめしの空弁があったので、私はこれを晩メシにしようと思っていた。が、「今日は夕飯作らなくていいからね~」と電話してる間にすっかり忘れてしまい、かきめし2つだけを買った。自分の嫌いなものを買うから、テンパッてたんだな。あなごめしを買い忘れたことに気が付いたのは、ヒコーキから乗り換えた電車の中・・・(笑)。まあいいや、私の晩メシは駅のモスバーガーで買って帰ろう。(↑食事にこだわらないタイプ)あと、空港にはこんなのもあった。 いるよね~、こーゆーの買う人しかし、妙に気に入ったので私も買いました。自分用じゃないけど(笑)。 ヒコーキの中からは、遠くに雲を引きながら飛んでいるヒコーキらしきものが見えたので、何が飛んでるのか双眼鏡で確認しようとしたけど、ちょうど機内サービスのコーヒーをテーブルに置いてた時だったので、コーヒーをこぼさないようにザックを取り出そうとしてるうち、その物体は行き過ぎてしまった。機内から別のヒコーキを見たのなんて、初めてだあ~ところで、羽田空港内には「航空神社」なるものがあるのをご存知ですか?これはねえ~、ミワラの時に知ったんだっけかな~。ミワラの後の福山はトラブル続きで、とどめが帰りのヒコーキだったので、到着ロビーを出てからまっすぐ航空神社へ向かった。無事に帰れたことのお礼を言いに。その次の東西条の時も今年1年の無事を祈りに寄ったし、なんだか恒例のようになってきたので、今回も寄った。ちょうど到着ロビーからモノレールに乗り換える途中にあるしね。 【羽田航空神社由緒 ここ東京国際空港は昭和6年東京飛行場として発足以来、紆余曲折を経て 今日我国空の表玄関として運輸交通の発展のため重要な使命を果たしております。 予てより我国航空界に携る人々の間において、航空に最も縁の深いこの羽田の地に 航空界発展の礎となられた諸々の御霊をお祀し、今後の航空界の躍進と 航空安全輸送の御加護を祈念したいとの気運があり、この度東京国際空港 ターミナルビル増改築工事を機縁として、空港全域を見守るに最も相応しい この場所を神域と定め、昭和38年7月11日財団法人日本航空協会の 航空神社より御分霊を勧請し奉斎申し上げて、羽田航空神社を建立致した 次第であります。 なお、毎年5月20日を例大祭と定め祭事を執り行います。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)神社のある小部屋には窓がないので、全域を見守るにふさわしい場所なのかは不明。何しろ、トイレのすぐ近くだし(笑)。ちなみに、前回東西条から帰って寄った時はこんなでした。 すんごい豪勢でしょ~。これが正月バージョンらしいです。この時は、神社におなじみの・・・何て言ったっけ、あの曲。神前結婚式とかにも流れるあの曲がかかっていて、ビルの中の味気ない小部屋だけど、大変厳かな雰囲気を醸し出してました。羽田へお越しの際は、到着ロビーを右に出てすぐのトイレの奥に航空神社がありますので、空旅の多い方は安全祈願にぜひお立ち寄りください。羽田からはモノレール経由で電車に乗り換え。平日の真昼間でも、都内の電車や駅はさすがに人が多い・・・アレ?人が多いのに、不思議とイラつかないぞ、私。そうか・・・旅先では、きちきちに詰まったスケジュールをこなすのに戦闘態勢に入ってるからな。今回は広島駅には降りなかったけど、広島駅付近での電車内のあまりの人の多さに「広島、人多すぎ~!市内観光とかするの、なんかやだな~」と思ってたけど、都内では人の多いのに慣れてて、そういうもんだと思ってるから別に何とも感じないんだ。なんてワガママな私・・・にほんブログ村
2013年02月13日

奈良の春日の青芝にィィィ~、腰をおろせば、鹿の~フ~ン~安芸3日め~。先日「いたい・・・」の記事で書いた口内の傷が、そろそろ存在感を増してきております。今日で全ての行程はおしまい。 最初はちょっと無理かな?ってプランを組んでたんだけど、ひとつを除いて全部消化してしまった!すごいじゃん、ワシで、安芸で鹿といえば・・・宮島です。今回は廿日市を回りました。今回の報告は「東西条バトル編」の次になると思うけど、ブログのシリーズのタイトルの候補がいくつもあって、迷っている・・・ノーマルに「廿日市編」にしたらわかりやすいけど、そもそも義興さんがきっかけの旅だったからな、義興さんの名前も入れたい・・・「義興追慕編」とか「義興らぶ編」とか(笑)。あとひとつ候補があるんだけど、まあ「東西条バトル編」もあと2ヶ月くらいかかるだろうから(笑)、ゆっくり考えよう。さて今日のタイトルですが、また毒吐きま~す。史跡は良かったんだけど、別口でかなりイラついたので。 ちなみに、あくまで個人的な感想ですのでクレームは受け付けませんからね~( ̄∀ ̄)今回は宮島の対岸、本土側の海に面した宿。厳島神社の大鳥居が見える部屋で、今も宮島の夜景を見ながら書いてます。まず、こっちに着いて先に宿に荷物を預けに来たんだけど、とにかく人の多さに驚いた。さすがの宮島も、オフシーズンだからいくらか空いてるかと思ったのに・・・!のっけから私の機嫌が悪くなったのは、皆様もうお分かりでしょう。一瞬、ツイートでボヤいたくらいだから。まずは本土側から攻めていったんだけど、2日目の午後からは宮島に渡った。フェリーも人が多いし、宮島側のフェリー乗り場前には何のためだか知らないけどハンパないくらい長蛇の列ができてた。私はまず、観光客の行かない方面へタクシーで向かったんだけど、「すごい人ですね~。びっくりしちゃった」って言ったら、「ホントにねえ~、なんなんですかねえ~」ってタクシーのおじさんも呆れ気味だった。その長蛇の列は、カキ料理が食べられるからだったらしいんだけど、何もここであんなに並ばなくたって、カキなんかどこでも食べられるべ?私は並んでないから別にいいんだけどさそのあと山に登って、降りたら友達への土産に生ガキを買おうかと思ってた。桟橋まではちょうど商店街を通るからね。この友達は、昨日の記事で書いた厳島神社のお守りを買ってくれた人。今までにも何度か私のブログに登場してる。彼女は私のことを460歳くらいだと思ってるので、かよわいヨイヨイのジジイが1人であちこち歩き回るのをほっとけないらしく、自分も忙しいにも関わらず、旅の間中メールであれこれと面倒を見てくれる。私も家に旅のスケジュールは置いてくるものの、1人の気楽さや予定のこなし具合から予定を変更することも多いので、万が一の時には細かく行程を把握していてくれる人がいるのはとても助かる。ちょうど京都にセキュリティセンターを持ってる感じ。カキ大好きのそんな彼女へ、宮島名産のカキを送ろうと思ってたのだ。しかし、不安はあった。何しろ私が世界で一番嫌いな食べ物は、カキ。ヘビもカエルも食べられるけど、カキは人間の食べるものじゃないと思ってる。(クレームは受け付けませんてば!)しかも、宮島の商店街では1コからその場で食べられる焼きガキを売ってるらしいので、カキのニオイで倒れるんじゃないかと思ってたのだ(-o-;)そして商店街へと足を踏み入れた私の敏感な鼻に図々しく入り込んできたのは案の定、焼きガキの耐えられないニオイ・・・!とりあえず、マスクを装着してみた。・・・効果ナシ。口で息をして店内を歩き回ったけど、そこのお店では生ガキは取り扱ってないようだった。ダメだ・・・このニオイの中、これ以上探し回ってしかもあのグロテスクな実物を見るなんてことは私にはできない・・・! ひとまず、調理済の変わりダネをひとつゲットしたけど、レジに行くまでの間、パックの端っこだけを指先でつまんで持ってった。「どんだけ嫌いなんだ!あんな美味しいものを食べられないなんて、かわいそ~!」なんて言わなくていいです。ちっとも可哀想じゃありませんから。ひとまず、この島を1分1秒でも 早く離れなくちゃ・・・!と店を出て急いで桟橋へ向かおうとしたものの、ごった返す観光客でなかなか前へ進めない。しかも、皆ちんたら歩いてる。口で息をしてたとはいえ、あのニオイが私の肺に入り込んでると考えるだけで耐えられない。途中、息を止めてみたりしたけど、あまりに観光客の歩みが遅いので、そのうち息がもたなくなり「アンタら、私を殺す気か!!」って怒鳴りちらしたい気分になった。ああ、ヤダ・・・やっぱりカキが死ぬほど嫌いな私は、広島県人にはなれない(ρ_;)そして今日も山に登った。 途中までは人に会わなくて、静かですごく良かった。これはブログで宣伝しなきゃ!と思ってた。目的地の手前に見晴らしが良くて日当たりのいい大岩があったので、お腹も空いたしそこでお昼にした。が、上からはやたら声が聞こえてくる。やっぱり、上で食べる人が多そうだな・・・ここを選んでよかった食事の後で上に行ってみたら、沢山の人が大岩の上で思い思いに広がって、弁当を食べていた。うぎゃあああ~!静かに萌え~できないじゃん!ここが一番肝心なとこなのにィィィィ~!!仕方なくさっさと写真を撮って大岩の裏へ回ろうとしたら、他人の迷惑顧みずそこらじゅうに人が座り込んでいるので、こちらがよけて歩かなきゃならない。バランス崩して絶壁から落ちたらどうしてくれるんだ・・・!人のいないところがあったので通ろうとしたら、そこの岩にはタオルとか洋服を広げて干してるし(-"-;)物干し場か、ここは!!何とか裏へ回って、周りの様子を見学。こちらは嘘みたいに静かだった。用を済ませてから、私が足早にその場を立ち去ったのは言うまでもない。ここからは人も多くなるだろうしな~、さっさと見て、急いで降りよう・・・。人が格段に増えた道を歩いてたら、とある神社への案内の看板を見つけた。無事に行程をこなせたら、やはり最後は厳島神社に寄って神様へお礼を申し上げなきゃならん、と思っていたけど、この人だかりですでに寄る気はなくなっていた。が、案内板の出てる神社はどうやら同じ神様を祀っているようなので、ここで参拝していこうと寄ってみた。着いたら、女性が2人いただけだった。彼女らが去ったら参拝しようと建築を眺めていたら、大勢の人の気配・・・「着いたよ~!ここにしよう。どうせ人もいな・・・」と言いながら、おじさんがひょっこり顔を覗かせた。「す、すいませんね~」と言うから、何がすまないのかと思ったら、わらわらと続いてきた子供達が本殿の真ん前に座り始めた。ええ!ここで弁当タイム!?これじゃ子供に参拝することになってしまう。ここも参拝はできないか~!!(;`皿´)=з引率の大人は2~3人いたようだけど、他人の迷惑にならない行為を教えるのが大人の役目じゃないのか!いい年して、常識のない・・・(-_-#)で、プリプリして元のルートに復帰。この先も、人が岩の間を通ろうと待ってるのに年甲斐もなく岩に登ろうとしてるオヤジとか、道を譲ってるのに無言で通り過ぎるオヤジとか、迷惑な観光客ばっかり。ある寺の前で休んでたジジイは、「おねーさんのその靴、いくらしたの?」 といきなり聞いてきやがった。何なんだよ、この客層の悪さ。商売繁盛はめでたい事かもしれないけど、世界遺産でね、世界中から人がやってくる訳でしょう。しかも、触れ込みは神の島。海外からはるばるやって来るお客様は、この下品な喧騒を見てどう思うんでしょうね。日本人だって、歴史のある神の島に期待してやって来る人は多いと思うよ。今回、宮島での私のテーマはかなり絞られてた。自分の世界に浸ってたから、そういった歴史面では良かったけど、それ以外ではぶっちゃけ相当ガッカリした。ので、もう宮島に行くことはないと思う。ただ、あれ、ここって行かれるんだ~って現地で知ったルートがあったから、もしかしたらもう1度くらいは来るかもしれないけど。大体、自分の世界に浸るのに良いスポットを見つけても、最初は誰もいなかったのになぜか私が居座ると後から観光客がやって来て、「その話はここでしないとダメなんですか!?」みたいなおしゃべりやとんちんかんな解説を始めたりして邪魔が入る。なんでだ・・・(-_-#)昨日までは暗くなってもフェリーは双方向とも沢山の人が乗ってたけど、連休最終日の今日はさすがに人は少なめだった。やっぱり、連休だから特別な混みようだったのか・・・人ゴミが嫌いでこれから宮島に来ようとしてる方は、シーズンに関わらずなるべく連休は外すことをおすすめしますね。ただ、恐らく普段の休日もかなり混むとは思うけど。でもね、宮島はさすがに観光資源はいいものを持ってますよ。ま、私の紹介するのは一般向けじゃないけど(笑)。本編の方では、そんないい所をご紹介するつもりですので、良かったらそちらもご覧くださいね。ただし、公開は当分先の話(笑)。にほんブログ村
2013年02月11日

安芸2日め。今回は一般的にも有名な、大古戦場が含まれてます。それでなくとも、この辺りは恐らく安芸で最も争いの激しかったであろうエリアの南端に位置するので、前回「東西条バトル編」同様、恐怖心が顔を覗かせる。実は少し前、日光輪王寺からとある授与品の案内が来てた。何でも今年は大きな事件の起こりがちな年回りらしく、輪王寺では特別に秘仏の公開をするらしい。像は小さいけど、あまりに強力な破魔のパワーを持つため普段は厳重に三重の厨子に収められているそうな。で、それに合わせてその夜叉様のブレスレットを期間限定で特別頒布という案内が来ててね。一般には売り出さないという触れ込みだったし、これからも古戦場には間違いなく行くので、これはいい!と買おうと思ってた。 が、また本をあれこれ買っちゃっので、自粛(笑)。でも、やっぱり不安はある・・・そうだ、最近お守り増えたんだっけ!と思い出し、各種持ってくことにした。てことで、今日は私を守って下さる方々をご紹介しましょう。 まずは写真左から、かねたん(笑)。これはお守りじゃないけど、一人旅デビューの名古屋からいつも一緒日中は宿でお留守番なんだけどね。堂々とベッドサイドに置いて出かけていくので、お掃除に入った人はきっと笑っておるだろう。その隣が、信長様(のお守り)。京都の建勲神社の。これは2代目なのだ。 このお守りを持つようになってからは、私は自分用のお守りを買わなくなった。三原編の次にこの2代目を買った旅の話を書くつもりだったんだけど、結局そのまま現在に至ってるので、ちょっとだけ簡単に書いておこうかな。このお守りの存在を知らない人は、せっかく建勲神社に行っても 今は買いづらいかもしれないのだ。1代目をゲットしたのは、2010年。織田木瓜のお守りを売ってるのはここだけと聞いてたから、建勲神社でのお目当てのひとつだった。その時は、社務所(?)の縁側に置いてあったからすぐにわかった。赤・青・白の3色あって、私は白にした。それからはずっと持ち歩いてたんだけど、いつも一緒なので、わずかな間にだいぶ薄汚れてきた。実は1度、うっかり紛失したことがある。そのことに私は気がつかなかったんだけど、ある時、会社の駐輪場に誰かの落としたお守りが看板にかけてあった、「あ~あ~、お守りなんか落としちゃって、バチ当たりめが・・・!」と興味本位でどこのお守りか覗き込んだら、見覚えのある薄汚れた建勲神社のお守り・・・急いでカバンを探ったけど、ない・・・!うわああああ~、私のだ!!バチ当たりは私でした。でも、信長様(のお守り)は私のところに戻ってきてくれた。2011年、再び建勲神社に行くプランを立てた。もちろん、新しいお守りに受け替えてもらうつもりだったけど、前にあった場所に置いてない。しかし、大事なお守りの受け替えは私の中で決定事項だったので、縁側から中を覗き込んで宮司さん(かな?)に戸を開けてもらった。「何か?」と聞かれたので、「あの、お守りの受け替えをお願いしたかったんですけど、もうないんですか?」って聞いたら、「ありますよ」と言って、奥から持ってきて下さった。私はその時気がつかなかったんだけど、同行してくれた友達いわく「神棚にお辞儀して持ってきてたよ」とのこと。そんなとこまで見てたのか・・・(笑)。しかし、そんなら私の手元に来るまで信長様のお側にあったお守りってことだよな。ちょっと感動した。ついでに言うと、ここにはおみくじもあるんだけど、半分は「凶」なんだって。ちょっと変わってるでしょ。それで、2度目の時もおみくじを引いて番号を伝えたら、「あ」と言って、引き出しからおみくじを持ってきて下さった。「あ」ってなんだろ・・・と思っておみくじを見たら、大吉。「大人はなかなか大吉は引かないんですよ~。子供さんとかぐらいで」「だって私、お子ちゃまなんです」とはさすがに言えなかったけど、つまりはおみくじの番号まで覚えてるってことか・・・それもすごいな。こんな感じで、建勲神社は何気に独特な神社です。だって、信長様を祀る神社ですから(^w^)このお守りは、私にとっては特別なお守り。旅先で、疲れてるのになかなか寝つけなくてイヤな時なんかは枕元に置いて一緒に寝る。一緒にいると安心するたとえ今、信長様の天下統一を遅らせた毛利一族に心惹かれていようとも(笑)。信長様のお守りの隣にあるのは、前回の東西条バトル編でとある国人ゆかりの神社に行った時に頂いた旅守り。ここではとても親切にして頂いて、思いもかけないことだったので戸惑いもあったけど、そのお気持ちが嬉しかった。から、付き合いは浅いけどこれも私には特別なお守り。最後は厳島神社のお守り。これは去年の終わり頃だったかな?厳島に行った友達が送ってきてくれた。今回の旅とは非常に関連が深いので、こちらのお守りにもご同行いただいた。これらの特別なお守り陣のバックアップを頂いて、昨日・今日と予定の消化は非常に順調。まあ、昨日資料をなくすという失敗はあったけどね。年取るとどうしてもボンヤリしてくるけど、あの失敗でふんどしを引き締めました(笑)。同じ失敗を繰り返さなければいいことなのだ(←珍しく前向き)。明日は色んな面でシビアとゆーかハードな所へ行くけど、強力なガーディアンがいるからきっと大丈夫( ̄∀ ̄)ただ、昨日と今日引いたおみくじの裏にはどちらも「都合の悪い時だけ神頼みに走るのは真の信心ではない」って意味のことが書いてあったんだけど(笑)。 当たってる?(^_^;)にほんブログ村
2013年02月10日

皆様、こんばんは。連休ですね~。 ですから、わたくし安芸に来ております( ̄∀ ̄)「また広島!?」ええ、そうです。また広島です。それが何か?もうね、言われ慣れました。そのセリフ。でも、去年の夏のミワラが広島デビューだった訳だから、そこからスタートしてミワラ・福山・西条・今回と4回続いただけなんですけどね。まあ、半年で4回ってペースではあるけど、「あのね、西条に泊まってね、そこから電車で周辺に通ってね・・・」って細かく話したところで、私の周りの大抵の人はわからないから「広島に行く」としか言わないだけで、実際は全部違う広島ですしね。最初は今回の連休は出かけるのをやめようと思ってた。ヒコーキをまず予約した後に、迷ったあげく今回はやめておこうと決めた・・・ハズなのに、予約済のヒコーキの購入期限が迫ってきたら「山城シーズンの連休は今回で最後だしな・・・やっぱ、行っちゃおうかな~・・・」て欲望を捨てきれず、期限ギリギリになって結局お買い上げ。でも、広島行きのヒコーキは押さえたものの、当初は別のところへ行こうと思ってた。それがあれこれ調べてくうちに、行き先変更しようかな~、って雰囲気になり、さらに「うおお、山口行きてぇ~!」って考えに取り憑かれ、一時はキャンセル料払ってでも山口に変更しようかと思った。ホラ、大内義興さんの墓参りって期間限定だから。もう少しして暖かくなったら、かつての西国の王者・義興さんは平成の世ではking of マムちゃんへと変貌を遂げられ、また来シーズンまで私には手の届かない人になってしまう・・・しかし、年末からの様々な出費も相当な額になってるし、ここでキャンセルに1万2万払うゼイタクはしとられんぞ・・・という現実を冷静に(?)見つめ、とりあえず安芸国内の行き先を変更することで決着したヒコーキのキャンセルは経験ないんだけど、早割のキャンセルだとキャンセル料を何百円払えば済むってものでもなさそうなんだよね。んで、正月に引き続き、山口行きを先送りにした私が選んだのは、またもや安芸でありながら大内萌えできる場所(笑)。しかも、そんな理由で選ぶ人間いるか!みたいな・・・ いいんです別に。愛さえあれば、何言われようとへっちゃらです。しかし、きっかけは大内萌えであろうと、そこは大毛利家のお膝元。毛利家絡みの史跡もわんさとありますし、有名な場所へも行く・・・ので、ブログの事を考えるとまたまた気が重いまあ、帰ったら東西条バトル編の続きから再開しますけどね。私の旅にトラブルはつきもの・・・しかもまた広島空港利用ってことで、友達は「今度は何が起こるかね」って楽しそうに言った。「楽しみにしてるでしょ!」と抗議したら、「だって色々起こるんだもん」と彼女は静かに美しく微笑みながら、本人を前に堂々とカミングアウトした残念でした~。今回は信じられないくらい順調だったもんね!まずは、ヒコーキ。そもそもいつもヒコーキの出発が遅れるのが悪いんだよ!と思って出発の際に時計とにらめっこしてたけど、やはり今回も後から後から呑気な客が乗り込み・・・離陸前のアナウンスでは、「本日は飛行に時間がかかる上、駐機場から遠い滑走路を使用するため到着が遅れる見込みです」・・・???飛行に時間がかかるって、なに?気流が悪いとは言わなかったよな?今回も路線バスから電車に乗り換えるので、バスは確実に待ってはくれないだろう。 あ~、もうダメだ・・・定刻通りに着いたとしても、いちおうバスに間に合うように努力はするけど、ダメなら最初から駅までタクシーを使うつもりだった。広島空港に期待するのはもうやめたのだ。が、到着は遅れなかった。今回は遠いのでトイレにも行ったけど、外に出たらまだバスがいた。乗り込んだら、ちゃんと定刻通りに出発して、電車にも乗れた。あらら?前回、前々回は何だったんだ?ちょっと拍子抜け・・・しかも、それだけじゃない。なぜか私は、ヒコーキは右側の窓際を取ることが多い。それが今回は左の窓際だったんだけど、初めてヒコーキから富士山が見えた!(≧∇≦) 広島行きの航路は、富士山の北を取るからね。TVでは上空からの映像を見たことはあるけど、自分の目で上から富士山を見るのは初めて。ちょっと感動したねまあ、感動しつつも、青木ヶ原に広がる自衛隊が良く見えたので、「おいおい、いいのか~?コレ・・・」とか「雲海が見たいだけなら、竹田城よりヒコーキに乗った方がいいだろうに・・・」とか、富士山東の崩壊部分って大沢崩れだったっけ?あれを見て、「ダメだ、巨大な竪堀にしか見えん・・・」て苦笑したり、色々だったけどね(笑)。広島空港付近ではちょっと見られるかドキドキのものがあったので、岡山を過ぎたあたりからはずっと地上を見てた。 そしたら、今どこなのか結構地形がわかっちゃって、これは自分でもちょっと驚きだったね。ほんの少し前までは中国なんて全然わからなかったのに(笑)。そしてお目当て。見えました!小早川の城のあった二つの山、両高山が!隆景ちゃんの新高山城(跡)があ~!!時には一度空港を通り過ぎて東にターンする事もあるんだけどね、今日は西を向いたまま着陸したから見えたんだな。これはラッキーだった( ̄∀ ̄)vあまりに順調だったので、ひょっとして今回の運を行きで使い果たしたカモ・・・とも思った(←貧乏性)。そしてやはりラッキーは続かなかった。ひとつのエリアを終えて、さあここから歩き続ける行程だぞ~、急がなきゃ・・・と思いつつザックから飲み物を出した時、資料を入れたファイルがないのに気がついた。ウゾ・・・!!(°□°;ノ)ノ 幸い、今日の分は手元に持ってたし、明日以降の分はコロコロに入れて宿に預けてるから、予定はこなせるハズ。戻って探すにも、どこで出したか全く記憶にない。ので、仕方なくそのまま前へ進んだ。いつも忘れ物チェックは相棒が欠かさずやってくれてて、一人旅を始めてからは自分でちゃんとチェックするよう心がけてたつもりだったのに無意識に今日の分もコロコロに入れてないかと淡い期待を抱いたけど、やっぱりなかった。あ~あ、やっちゃった・・・まあ、帰りのヒコーキのバーコードも入ってたけど、ケータイから取り直せたし、なくても支障はないのが不幸中の幸いだった。ただ、メールをコピーしたのがあったからな・・・個人情報の点が気がかり。電車に忘れてきたのかもしれない。皆様も、くれぐれも旅先での忘れ物にはご注意を(T_T)にほんブログ村
2013年02月09日

今日の夕方は歯医者さんでした。ちっこい虫歯をクインクインするのに、痛いのが苦手な私はもちろん麻酔を打ってもらいました。帰ってもまだ麻酔は切れてなかったけど、普通にご飯を食べ始めたわたくし・・・今日の晩御飯は赤魚で、何度かガチンと噛んでは、「あれ、また小骨~」と思いながら食べてました。麻酔を打った右側も普通に使ってたんだけど、思うように筋肉が動かないのでどうしても右側に食べ物がたまっちゃって箸で何度か掻き出しながら食べてた。そしてふと気が付くと、右側の肉を相当噛んでたらしく、信じられないくらい口の中が傷だらけいやあああ~、小骨だと思ってたら、自分のお肉だったワケぇぇぇ~!?んにゃ、小骨も確かにあったんだけどね。ついでにお肉も噛んでたらしい。筋肉が思うように使えないって、大変な事なんだな~とあらためて思いました。子供の頃はそうでもなかったけど、大人になってからは私はなにげにケガが多い。以前、家の階段を踏み外して私の可憐な桃尻で全体重を受け止めたことがある。しばらくは痛くて動けなくて、そのまま階段で固まってたら母親に「いつまでそんな所にいるの!邪魔よ!!」ぐらいに言われて、痛みをこらえて階段を降りて、愛犬の布団をぶんどってその晩はそのまま夜を過ごした。朝になっても動けない私を見て、大変なことだとようやく周りも認識したらしく、ちょうど姉も休みの日だったので車で近所の整形外科に連れていってもらった。「白川りりさ~ん、診察室へどおぞ~」と呼ばれて、母親と姉に両側から支えられてよたよた歩く私を見つめる、待合室の沢山の目・・・朝の個人経営の整形外科って、ほとんどが常連のジジババばっかりなんだよね。「若いのに、どうしたのかしら・・・」って遠慮なく注がれるジジババの好奇の目にさらされて診察室へ向かう恥ずかしさ当時はまだピチピチだったしさ(笑)。で、診断は尾てい骨にヒビが入ってるとのことだった。これが私の骨折初体験。まあ、程度にもよるんでしょうけど、私の場合は自然にくっつくのを待つしかないね~ってことで、ソフトコルセットみたいのが出ただけだった。つまり、そこからは自分の治癒力だけが頼り。まだ若かった頃だったけど、それでも痛みが取れるまで1ヵ月ちょいかかったのかな。治るまでの間の2大恐怖、何だと思いますか?ひとつは、トイレ。大の方。あら、また汚物の話だわさいやいや、至って真面目な話です。もうひとつが、くしゃみ。どちらも、いきむでしょ。普段は気にもならないけど、いきむ時って、すごく尾てい骨に力がかかるの。トイレは我慢できないから、ひたすら用が済むまで耐えるしかなかったけど、くしゃみの時は「くしゃみ、したくない!!」って拒絶反応が時にくしゃみを止めてしまうこともあった。止まらない時でも、直前まで心と体が必死に抵抗するから、「へ・・・・くしょおおおん・・・」てものすごく力のない変なくしゃみになって、自分でも恥ずかしかった。いや、身体の中で無駄な部分ってないんだな~ってあの時はつくづく思いましたね。骨折なんて大げさなものじゃなくても、くしゃみが恐い時がある。子供の頃から腰が弱いので、今でも旅先で歩きすぎたり無理をすると、くしゃみで腰に強烈な痛みが走ることがあるのだ。ブログ最初のシリーズ、「武将都市ナゴヤ編」でも書いたっけかな?あの時は、くしゃみで腰がくだけてそのまま崩れ落ちた。幸い、宿に帰ってからの部屋の中での出来事だったのでそのまましばらく座り込んでたら、どうにか動けるようになったけど。ぎっくり腰にならなくて良かった・・・私の史跡めぐりの旅はとにかく歩いて歩いて歩きたおすので、いつも腰に不安を抱えながらの行動になる。なるべくひどくならないように、旅が近づいてくると自転車通勤を歩きに変えて体力作りに努めてるから、最近では最初の史跡めぐりの頃のようなひどい腰痛はあまり起こらなくなったけどね。ので、どこかの街角で変に突っ立ったまま「へ・・・・くしょおおおん・・・」って力のないくしゃみをしてるジジイがいたら、私かもしれません。もしそのまま崩れ落ちて地べたに座り込んじゃったら、優しく介抱してくださいねにほんブログ村
2013年02月07日

三仏堂が工事中のため設けられた細い通路を通って、護摩堂へ向かう。途中にある庭園↓。 もう12月だからほとんど冬枯れ状態だけど、時期が良ければここは綺麗ですよ。普段、丁寧にここを見ることはないけど、よく見たら小さな石塔とかいろいろあるな・・・近づけないけど。あら、あんな方もいる。今まで全然気が付かなかった~。 相当望遠で撮ってるからイマイチだけど、なんだか四天王っぽいな。ああ、佛通寺での四天王探索を思い出すな~。通路を抜けて三仏堂の裏手へ回ると、ばーんとどでかく広がる大護摩堂に目が行きますが、まずはその隣のちょい地味な建物を御紹介しましょう。 トイレを出た頃に降りだした雪は、早くも積もり始めている。ええ~、こんなに降るなんて・・・んで、この建物、現在はここに立ち寄る人はほとんどいませんね。私も普段は寄らない(笑)。けど、実は国の重要文化財です。重文ったって、日光山内には国宝だの重文だのがごろごろしてるから、貴重な建物なのに現在ではぶっちゃけほとんどかえりみられることのない、お気の毒な建物。これは「護法天堂」といい、護摩祈願所。本尊は毘沙門天・大黒天・弁財天で、今はここの中にはいらっしゃらないらしいが、三仏堂が国家安泰という壮大な祈祷を行う一方で、護法天堂は個人のための護摩を焚く庶民向けの場なんだそうな。個人向けの祈祷の場なので、三仏堂の本尊の千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音が庶民向けに変身した姿(毘沙門天・大黒天・弁財天)で護法天堂のご本尊様となられたらしい。 今はここではお護摩は焚いてないけどね。ここが開いてるのは、私は見たことがないなあ・・・ ↑鰐口もいちおうぶら下がってはいるものの、現在は鳴らせるようにはなってません。重文だから? ↑鰐口の上の蟇股。護法天堂の建築年代は江戸前期(1615~1672)頃とされている。「文化遺産データベース」には、 【護法天堂は三仏堂の北側に建つ簡素な建物で、輪王寺山内では最も古く、 貭が良い】とあるけど、ホントに簡素な建物でねえ~(笑)。どんな簡素か、見たいですか? 垂木は疎(まばら)垂木。紅梁もほっとんど飾り気がなくて、さすがの建築好きの私でも「うおお~、地味すぎィィィ~!!」とぶつぶつ言いながら写真を撮ったくらいで縁の下もいつもの通り覗きましたが、ここには亀腹はありませんでした↓。 それよりは、やっぱこちら↓の派手な建物の方に目が行っちゃうよな~。 護法天堂は石段を上がった少し高いところにあるので、アラ、ここ、護摩堂がより近くから見れるのね~と護法天堂そっちのけで護摩堂の写真をぱちぱち撮り始めたわたくし・・・んがっ!! 見てください、この雪~!!華麗な護摩堂の妻が、雪ぼこりで台無し・・・ 仕方ない、ここは今度来た時にまた撮り直そう。護摩堂へ行こうと振り返ると、もう一面の雪景色。 ↑護法天堂の石段。この可憐な足跡は、わたくしがさっき付けたものです。つまり、雪が降り始めてからまだ私以外誰もここには寄ってない訳です・・・。 お次は、今回のメーンエベントの行われる大護摩堂へ。 大護摩堂はデカイ上に、すぐ正面に三仏堂があるので、正面から綺麗に建物全体を写すのは難しい。こちらでありがたい密教のお護摩が受けられるのです。祈祷は7:30、11:00、14:00の1日3回。当日の受付でOKです。祈願料は3,000円、5,000円、10,000円だったかな?お護摩の最中に、自分の名前と祈願の内容が書かれたお札を1枚1枚護摩の火にかざして祈祷をして下さるんだけど、お値段によってお札の大きさが違うので、祈願料が一目でわかります(笑)。お願い事は、心願成就・厄除け・家内安全など色々ある中から選べるようになってます。ちょっと前の雑談にも書いたけど、2012年は色々大変な事があってロクでもなかったので、これも、これも・・・とマルしてったら3つになった。申込書を書いて受付に出したら、「ごめんなさいね~、お願いごとは2つまでなんですよ~」と言われて、思わずゲラゲラ笑ってしまった。そりゃそうだよな~。お札の下部の右側には自分の名前が書かれて、左側にお願いごとを書くようになってるんだけど、スペースが小さいから2つが精一杯だもん。私はお護摩と同時に方位除けのお札も受けるから、いつも3,000円の一番小さなお札だし欲張りもたいがいにしろって?そんで、受付のおじさんとあれこれ話し合いながら2つに絞って落着方位除けのお札は、護摩堂の向かって左側の授与所で受けられますので、お護摩を同時に受ける場合は祈願受付所で申込書と一緒に出しておけば、普通のお札と一緒に導師様の念を入れてもらえます。 さて、このお護摩は、シーズンというかタイミングがありまして、正確なところはわからないけど、私の経験からすると、年末年始を除けばやっぱり節分の前後が一番混みますね。年が変わる時期だからね。個人経営の会社とかだと、従業員全員で来るようなケースもあって、団体さんにかち合うとちょっとヤダ。あと、節分のちょっと後にナントカ会って団体さんが来るのが恒例らしく、ここも私は外す。ただ、一度それにあたった時には、お護摩の後で団体様に便乗して護摩堂の2階でありがたい法話を聞かせてもらっちゃったんだけど。団体さんが何でイヤかというと、終了までに時間がかかるからなのだ。それはお護摩の進め方にある。厄年うんぬんに関わらず、もう10年以上このお護摩を受けてるので、その長い期間の中には時間をなるべく短めにして参拝者の負担を軽くしようとする試みが感じられたことが数回あった。ビミョーに、やり方を変えてるんですよ。大体の流れ自体はもちろん変わらないんだけどね。導師様は、いつも同じ方。優しげで、私はこの方が大好き一昨年はいつもと違う若い方が務められていたので、病気でもされたのかと思って心配してお護摩の後で思わず聞いちゃった。で、最初は導師様のご挨拶というか簡単なお話から始まる。それから厳かな密教の祈祷に入っていくんだけど、どうもこれが眠りを誘うらしく、相棒が一緒の時はたいてい奴は私の隣で幸せそうに船を漕いでいる。途中から、井桁に組んだ護摩木に火が入ります。護摩壇の正面におわすのは、不動明王様。お不動様の清浄な炎で、ケガレやら煩悩やらを燃やしつくす訳です。参拝者のお札を火にかざして導師様が念を入れる段になると、終わりが近い。その頃には、参拝者が1人ずつ前に進んでお焼香をします。祈祷が終わると、導師様がお札を1人1人に手渡して下さるんだけど、その際、あらためて本人に念を入れて下さいます。時には数人まとめて念を入れる場合もあるけど、すいてると大概1人ずつやってくれますね。その念もね、力を込めてやって下さるので、人が多い時には相当大変だよな~とかって思いながら見てる。で、念を入れた後、それぞれに「どうぞ守られますように」って導師様の合掌で終わる。どうです、ありがたいもんでしょお~。しかも、実はこれで終わりじゃないのだ。お札には葉書が同封されてて、家族の名前を生年月日を書くようになってる。これを出すと、輪王寺の仏前で読みあげて祈祷してくれるシステムらしく、ゆえに葉書は早急に返送下さいと書いてある。厄除け祈願とかだと神社に行く人が多いかもしれないけど、輪王寺のお護摩は独特だし、私はここをオススメしますね。ちなみに、祈願者がいない回でも大護摩堂では定時に祈祷を行ってます。なので、お護摩を受けなくても祈祷の様子を見ることはできます。祈願者じゃないと護摩壇には近づけないけどね。祈願申し込みはしなくても、このありがたい祈祷は一見の価値ありです。にほんブログ村
2013年02月05日

今日は毒を吐きま~す。また悪い項目が増えた人間ドックの結果を見たばかりなので、若干トーンダウンしてますが(笑)。旅日記の本編再開までにどこまで進められるかわからないものの、とりあえず昨日日光編の続きを1話上げましたが、まずはその時の不愉快な出来事から。今、日光東照宮ではこんな企画をやってます。 五重塔は大鳥居の脇の少し奥まったところにあり、かなり地味な場所にあります。はっきり言って普段これに足を止める観光客はほとんどいないし、私も東照宮は人が多くてイヤなのであまり行かない・・・なので、五重塔をまともに見たことはありませんでした。けど、滅多にない機会なので拝観料を払って中へ。五重塔の心柱が見られるのは、入口の真後ろの側。間近に見ることのできない塔なので、いつものように蟇股などをバシバシ撮りながらちょっとずつ進んで行きました。幸い、雪が降っていたのでそんなに混むこともなく、写真を撮り続けて奥へ。裏っかわの心柱公開の面には、「正面からの撮影はご遠慮ください」と書いてあった。心柱や塔の内部は当然撮影禁止なのはわかっていたし、そこを撮らなきゃいいんだろうと思っていたので、そこにはカメラを向けず上の蟇股を撮っていたところ、塔の扉の脇に座っていた係のおじさんが「正面からの撮影はご遠慮ください」とすごく意地悪そうに、けど私の方は見ずに言った。「あの・・・蟇股を撮ってるんですけど・・・」「正面からの撮影はご遠慮ください」と同じように前を向いたまま言うので、感じ悪いオヤジだな~と思って、「蟇股もダメなんですか?」って聞いたら、またこちらを見ずに前を向いたまま「正面からの撮影はご遠慮ください」と言った。正面からの撮影って、こちらの面からの撮影は全部ダメって意味なのか・・・しかし、そう書いてあるにも関わらずその意味が理解できない頭の悪い人間に、同じ事をただ繰り返すってどーよ?「どうやったらこのバカに理解させられるのか」って風に考えられないなんて、私以上に頭が悪いか底意地が悪いとしか思えん(↑完全な逆ギレ)。コイツ、「正面からの撮影はご遠慮ください」としか言葉の入ってない人形なんじゃないかと思った。でも、他の人には「正面が心柱です」とか別の言葉を言っていたので、どうやら生身の人間らしい。この感じの悪いオヤジは、ぱっと見神職のカッコをしている。しかし、本職の方なのかはわからない。もしかしたらシルバー人材とかかもしれないし。仮に本物の神職だったとしても、この対応はないでしょう。「オレは東照宮の宮司なんだから、特別なんだ。今回は特別に公開してやってるんだから、ありがたく思え」なんて大いなる勘違いをしてるんじゃないかと思うほどの感じの悪さだった。逆ギレなのは、百も承知です。が、オヤジ自身にも腹が立ったが、私が一番頭に来たのは、自分の立場をわかってないこと。日光東照宮は世界遺産。世界中から、いろんな人がやって来る。はるばる遠くから来てくれた人達に対しても、あのオヤジは同じような態度を取ることがあるのか!?輪王寺の方でも書くかもしれないけど、震災の後、日光でも観光客や日光山内への参拝客は激減した。しばらくの間はホントに人が来なくて大変で、やっと最近になって少し回復してきたという話を今回輪王寺の人から聞いた時、私は涙が出そうになった。スカイツリーとのタイアップもあるけど、どこかで五重塔の公開はもう少し先の予定だったとか聞いたような気がするんだよね。でも、観光客の呼び戻しプランの一環として少し早めたんじゃないのかな~って話を聞いた時、思った。だけど、どれだけ皆が一生懸命観光客を呼び戻そうと頑張っても、たった一人の心ない行いで台無しになってしまうことだってある。現に、長年通った日光で私が苦々しい思いを抱えて帰ったのは今回だけだった。いるんだよね~、普通のサラリーマンでも、自分が企業の看板を背負ってるって自覚のないヤツが。もちろん、そもそも悪いのは私なんだけど、例えば輪王寺の護摩堂で、うっかり天井の龍を撮影してしまったことがある。そしたら、輪王寺のおじさんは「ごめんなさいねえ~、内部は写真、ダメなんですよお~」って優しくわかりやすく言ってくれた。そう言ってくれれば、こちらだって「しまったああ~!!」って自分の過ちに気がついて「ごめんなさい!!」って言えるのに。観光収入が大きな割合を占める日光で、地元の人みんなが観光客の回復を目指して頑張ってるのを、あのオヤジは理解しとるのか!?って無性に腹が立った訳です。けど、日光にはあんなオヤジがごろごろしてる訳じゃないですよ。彼1人だし、そもそも悪さをしなければ彼だって(たぶん)別に普通の係員なんだと思うので、皆様は安心して日光においでくださいね。ただの偏見かもしれないけど、神社の宮司とお寺のお坊さんとではお坊さんの方が真面目な印象がある。「真面目」ってのは適切な言葉ではないかもしれないけど、何て言うのかな・・・現代では、ほとんどの人に「公人」と「私人」の区別がある。私の知り合いのそのまた知り合いの宮司さんは、普段の日は外車を乗り回して遊び回ってるらしい。別件で、最近とあるツテでとある神社のとある宮司さんと知り合いになったんだけど、コイツも口だけではっきり言ってロクでもない奴だった。対してお坊さんは、「中身が深いなあ~」って人が多い。お坊さんには修行があるからなのかなあ。宮司さんよりは、お坊さんは「公」と「私」の区別が少ないように感じる。まあ、お坊さんのプライベートは知らないし、個人個人では色んな人がいるから、宮司さんよりお坊さんの方が人間ができてる、な~んて事はもちろん言えないけどね。ただ、個人的な生活についてはどうでもいいけど、職務中だけはちゃんとしてほしいよね。神社仏閣に来る人は、大抵は格式のある場所と思って来てるんだから。というのは、本職の人はもちろんちゃんとしてるんだけど、たまに「誰がこんな奴を採用したんだ!?」っていうようなアルバイトが混ざっているからなのだ。輪王寺でも以前、感じの悪いアルバイトらしき女の子に会ったことがある。が、今でも忘れられないのは、鎌倉の鶴岡八幡宮。私はあそこに初詣に行くことが結構多いんだけどね。参拝客が多いので、正月はアルバイトを沢山置いて授与品の売り子をさせている。ある年に出会ったアルバイト(男)はひどかった。イヤな思いをしたからこういう言い方をする訳じゃなくて、真面目な話、ちょっと精神疾患を抱えてるだろうという子だった。当然、彼のおかげで私の正月気分は台無しになりました。鶴岡八幡宮の警備員の冬の制服は真っ赤な長いコートを着てそれはそれはカッコいいものなんだけど、そのカッコいい警備の兄ちゃんたちを見ても、私の機嫌は直らず・・・神社仏閣でイヤな応対をされる時ほど、気分の悪いものってないんだよね。清々しい気分で神様仏様に会いに行ってる訳だから。なので、若いアルバイトであれシルバー人材であれ、その場所にふさわしい人材を慎重に選んで採用してほしいものだとつくづく思います。たった1人のせいで評判ガタ落ちってことだってあるんだから。にほんブログ村
2013年02月01日
全15件 (15件中 1-15件目)
1