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ふ~、長すぎた歴バナもそろそろゴールが見えてきました。ここまであちこち回り道なぞしてもいますが、いちおう時系列にはきてます(笑)。杉原盛重が永禄7年(1564)頃に伯耆尾高城主になったところまで書きましたが、今回はその4年後、永禄11年(1568)の話になります。さて、今回の主役、藤井皓玄(こうげん)さん。ここまでを地道に読んできて下さった方には、名前だけインプットされてたかもしれませんね。私が現地でコピーさせてもらった資料の中の一冊、『神辺城と藤井皓玄』の中から何度か参考にしてる部分があって、書名だけ挙げてたからね。ここまでの話で、山名理興の家老は1番目が杉原興勝で4番目が杉原盛重、というところまで紹介しましたが、皓玄さんは2番目の家老さんだそうです。お住まいも当然備後かと思いきや、備中の人らしいです。藤井氏の所領は、神辺城から近い。神辺から北東にある現在の高屋町、さらにその北にある芳井町付近一帯に勢力を持った氏族で、出自についてはいくつかの説があるみたいだけど、そのうちのひとつが藤原秀郷(ひでさと)の流れを汲むというもの。ま~た秀郷かよ~!!もう、過去のシリーズでも秀郷流と称する武家をいくつ書いてきただろう・・・ホント人気者だよな~。(秀郷の武勇伝については、「大津編(6)」なぞをご覧ください)ところがこの藤井さん、秀郷流説の方では結城小山氏の一族だとし、在地の名を取って藤井を名乗ったとある。小山氏か・・・秀郷流を名乗るなら、その辺だよな・・・と思って地図を見てみたら、現在でも栃木県下都賀郡壬生町に「藤井」という地名がある。へえ、なんだ。同じ関東人じゃないか~とちょっと親近感がわいた(←単純)。藤井氏が備中に移ってきた経緯についてはわかってないらしいが、『神辺城と藤井皓玄』はさすがに書名に皓玄の名を持ってきているだけあって、藤井氏について結構詳しく書いてある。「高山城(2)」で荘園制について簡単に説明しましたが、戦国期に入ってもまだ荘園制は生きていて、小早川氏が足利義満の口添えで荘園の年貢を(格安で)請け負って、晴れて沼田荘の一円支配を認められたように、鎌倉時代には地頭が本家に代わって定額で年貢を請け負う「地頭請」という現象が現れ、さらに室町期に入ると守護が年貢を請け負う「守護請」が現れる。まあ、「代理取り立て屋」みたいな・・・このシステムは、大ざっぱに言って本家・領家の側からは豊作・不作に関わらず安定した収入が見込めたし、請負人の側からは荘園制という土地の二重システムの中にあって、本家・領家の邪魔も入らず現地支配ができるという、双方にメリットのあるものだった。ところが、中にはこの代理取り立て屋を現地人が拒むケースがあり、備中でもそうした土一揆や武力抗争などがあったという。う~ん・・・備中の地頭職の変遷までは知らないけど、小早川領ではそういうトラブルは私の知る限りではほとんどなかった気がするんだけどなあ・・・守護の入れ替わりとかがあると、そういう事が起こるのかな?あるいは、茂平以降、現地に何とかして食い込もうと一族が結束した結果、他の荘園よりは小早川氏の現地支配がうまくいってたって事なのかな?まあ、小早川氏の場合は茂平が鳥を預かってやったりして領家である西園寺家にもうまく取り入って・・・あやや、お付き合いしてたみたいだから、その辺の違いもあるのかもしれないな。さすが、やり手の本佛様それで、備中ではかなり力を持った守護代の庄氏に対し、藤井氏がいた井原荘では村の有力者が団結して代表者を押し立て、天文8年(1539)にはおそらく本家の京・相国寺へ年貢を収めるのをやめたという。 【井原荘を支配していた守護細川氏や守護代荘(庄)氏の勢力が衰え、かつ 同荘が備後との国境にあった為備後国人衆の勢力に押され支配力が衰弱していった 時であった。井原荘が自衛力を持ち、惣としての代表者に藤井氏を押立てたと 思われる。 これについての史料はないが、このあたりを理解しないと、皓玄があれ程の 勢力を持ち、又、正霊山城や高屋山城を築いて自分の一族の家城とする事を、 解釈できない。】 (『神辺城と藤井皓玄』より。著者名は控えてませんでした。すいません)・・・要するに、藤井氏に関する史料も相当少ないらしい訳ですが、それでも皓玄は「備中で知らぬ者とてない武将」なんて風に表現されるくらい地元では有名な人らしい。上の引用文にある代表者の藤井氏は、皓玄の父だろうと著者様は推定しておられる。であれば、「備後国人衆」の中には当然、山名理興も含まれるんだろうな。ってゆーか、著者様の推定している年代を計算すると、理興パワーが相当な影響を及ぼしていたとも考えられる。備中の国人衆については、「吉備路編」を書いた時に少し勉強したっきりだけど、私は藤井氏のことは知らなかった。でも、上の説明を見るに、だいぶ後になって地域の代表者となり、そこから急速に力を付けてきたように見受けられる。藤井氏の所在が備中の中心部にでもあればその勢力も長続きしなかったかもしれないけど、備後と接する位置にあったのも勢力保持に有利だったかもしれない。それと、藤井氏の高屋は南北への街道も通る交通の要衝でもあったようなので、その辺の関係もあったのかもな。ちなみに、今川了俊の「道ゆきぶり」備後バージョンを「相方城(2)」で簡単に書いてますが、おそらく了俊は高屋付近を抜けて神辺へ出たのではないかと思われます。さて・・・神辺城に関連して藤井皓玄が出てくる場合、大抵は山名理興の2番家老だった過去に一瞬触れた上ですぐ事件の話へ入っていく訳ですが・・・私もそうしようと思ってはいましたが・・・あれこれ読んでも、備後って結構わかってない事が多いみたいだし、私自身も自分の記事に関係する小さな世界しかよく知らない。そんな状況なので、あらたな疑問が浮かぶたび、何度も逆戻りしては苦悶する。「先に勉強しとけよ!」ってツッコミはごもっともですが、書きながら考えてる部分もあるので、致し方ありません(←開き直り)。で、今回あらたにひっかかったのは、「理興の2番家老」という部分。ここまで紹介したように、筆頭家老は杉原興勝、次が藤井皓玄で3番目は前後の状況から大江田隼人祐・・・この大江田さんはどんな人なのか全っ然わかりません。で、4番目が杉原盛重といわれる。杉原氏は神辺の西に所領を持つ大きな一族。だから興勝が筆頭なのはいいとして、次席に備中国人である皓玄が来るのって・・?神辺から見て東に位置する藤井氏は、東の街道の押さえとして重要で、『神辺城と藤井皓玄』の解説にあるように、実際大きな力を持った一族で理興にとっては同盟者として重要な位置付けだったのかな~って思った。理興が神辺城主になった通説は、何度も書いてるように天文7年(1538)に大内義隆の命を受けた理興が神辺城主の山名氏政を追い落としてそのまま城主の座についたというもの。皓玄は、この山名氏政に仕えていたともいわれる。『神辺城と藤井皓玄』では、「山名家伝記」という史料の一文を紹介している。それによると、 【天文七年戊戌七月に、大内義隆大軍を率いて、備後国に攻入り、山名宮内少輔氏政が 神辺の城を囲み責む。氏政防戦すといへ共、国中に異心の者多く、終に落城して 氏政自害せり。氏政が郎等藤井能登入道、大江田隼人介は、氏政の子を伴ひて 因州に来り、後京都に赴く。】とある。一般に言われる皓玄の履歴とは大きく違うところもあるので、何ともいえない部分もあるし、天文7年の大内氏による武力攻撃という通説部分は私は支持をしていないのだけれど、「国中に異心の者多く」という箇所は目を引く。理興が神辺城に入ることになったいきさつは、「神辺和談」によるものだとは思うものの、まだ和談の全貌は解明されてないみたいだし、私自身も消化できてない。が、単純に考えて前の城主に仕えてた人が新城主の2番家老になるっておかしくね!?と思ってたんだけど、すでに神辺周辺での存在感もあった藤井氏が、和談に際して理興・・・というか、尼子派でない新城主を迎えることを支持したのかもしれないな~、と上の文章を読んで思った。あるいは、皓玄が氏政排斥に積極的に関わったのかもしれない。え~、皓玄さんがこの段階で京へ行ったのかの真偽は不明ですが、世間では理興の2番家老を務めたという説が強いので、ひとまずそちらの線で話を進めます。で、神辺城主・杉原豊後守が死去した後、4番家老の盛重が跡を継ぐことになった際に、藤井皓玄と大江田隼人祐は子連れで野に下って京は清水寺の近くに居を構え、潜伏していたとされる。だから、どっちにしても京には行ったみたいなんだけどね(笑)。皓玄が神辺城を退去したのは、自分より下位にあった盛重に仕えるのをよしとしなかった2番家老のプライドだと世間では語られる。ま~ま~そこはいいとして、2番・3番が納得できなかったものを、トップの興勝は耐えたのか?ってふと思った。にほんブログ村
2013年09月30日

今回も、杉原盛重の女性関係のつづきから。え~と、盛重の生年月日なんてもちろんわかってないだろうな~と思いつつ何気にウィキペディアを覗いてみたら、天文2年(1533)生まれとある。えっ?ウソ!隆景ちゃんと同い年!?で、もちろんすかさずにし殿との年齢差を計算しました。にし殿の生まれは永正元年(1504)~永正11年(1514)の枠の中に収まると思って間違いないハズ。ちなみに、上限の永正元年生まれは父・興元が12歳の時と設定してます。これ以上ってことはまずないだろうと思うので、これが最大幅です。なので、盛重との年齢差は29~19歳。うわあ、結構あるなあさて、盛重が備後の要衝・神辺城に続き、伯耆尾高城をも任されたことを「神辺城(21)」に、にし殿の3番目の夫は杉原豊後守ではなく行松正盛とする系譜があることを「神辺城(20)」にそれぞれ書きましたが、今回はその話です。盛重の前の尾高城城主が行松(ゆきまつ)正盛。あまり詳しいことはわからないけど、いわゆる「大永の五月崩れ」・・・これも近年になってずいぶん通説が見直されてるらしいけど、ともかく尼子氏の進出に伴って城を追われた人らしい。『陰徳太平記』では永禄7年(1564)3月以降に行松正盛が尾高城へ戻ったとしているが、ウィキペディアでは尾高城に復帰した後、永禄6年の末には亡くなったとしている。して、盛重が尾高城を継ぐことになったくだりを『陰徳太平記』からご紹介しましょう。『陰徳太平記』巻37「杉原盛重伯耆泉山の城に入る 附弓の濱合戦の事」 伯耆の国、泉山の城主、行松正盛は、元就朝臣の武威によって再び本国へ帰り、 居城・泉山へ入ったが、程なくして中風を患って亡くなった。 元就はこれを聞いて、 「正盛の2人の男子、徳松・松千代はまだ幼い。誰かを行松の家に置いて 2人の子の面倒を見させ、子が成人したら行松の家を継がせたらよいじゃろう」 と言った。元春は、 「行松の後家を盛重に娶合わせて、行松の子らが幼いうちゃぁ 盛重を泉山の城にいさせりゃぁ、伯耆が鎮まるのみならず、因州や但州までも 盛重の武威に服するじゃろう」 と進言した。 盛重にこの決定が伝わると非常に喜んで、神辺城には郎党を多く残しておき、 自身は泉山へと入った。・・・で、盛重家臣には「神辺城(21)」に書いたような盗賊あがりのこわもてが多かったので、泉山の家臣達もそれに触発されて神辺衆と戦功争いをして、盛重の軍はますます強くなった・・・チャンチャンてな話になってますが、現実はそんなにうまくいってなかったかもしれないというのも、「神辺城(21)」の通りです。それで、盛重に嫁いだという行松の後家さんですが、『備後史夜話』(たぶん森本繁氏著)という本では、 【これによって盛重は泉山城とともに、美貌の熟女を手に入れた。 しかし、盛重はこの行松の後家を正妻として娶ったのではない。盛重は永禄元年 正月に神辺城主となったとき、先代杉原理興の後家を正妻として娶っているからだ。】とする。「杉原理興の後家」は、もちろんにし殿のことです。それで、にし殿の年齢を計算して、まったくの政略結婚だとした上で 【そうしたとき、七年後の永禄八年に同じ後家といっても若くて美貌の行松女房を 手に入れたことは、満更でもなかったであろう。今になっては、その盛重の 心の裏をのぞくことはできないが、少なくともかれがこのことを不満に 思っていなかったことだけは確かで、泉山城主となってからのち、旧臣たちとの 軋轢が少しも見られない。よく前城主行松正盛の遺児と家臣たちを盛り立てた からである】としている。行松未亡人が美人だとする根拠は不明だけど、まあその方がロマンがあるっちゃあるのかな・・・(笑)。で、にし殿の3番目の夫が行松正盛だというのは、どうもこの辺の話とごっちゃになってるんじゃないかと思うのだ。ちなみに、『陰徳太平記』の中ではにし殿はまったく出てきません。たとえばウィキペディアで盛重のページを見ると、本文にはにし殿との結婚は全く出てこないけど、経歴のところでは「前年に死去した元・城主の行松正盛の後家と再婚し、行松正盛の遺児を養育する」とあり、サイド欄の妻の項目には「正室:毛利興元の娘」となっている。だから、行松未亡人=にし殿と認識してどこぞの史料にでも書かれ、それを系図が逆輸入した可能性もあるんじゃないかな~って思うんだけどね。人によっては、母の再婚により盛重の養子となった2人の子はにし殿の子のように書いてる人もいるし。ただ、ウィキペディアの同じページでは、盛重が養子とした未亡人の連れ子の元盛・景盛の他にも子供の名前が書かれてるなあ。これは若くて美貌の(笑)行松未亡人が生んだものか、あるいは例のトロロヅキさんがいただいたという資料の中に盛重がやもめだった時期があると書いてあるそうなので、その女性の子供なのか。やもめの時期があるってことは、にし殿も後妻になる訳か?にし殿の前の奥さんに子がいたとしても、ウィキペディアでは盛重の子の順番は連れ子の元盛・景盛が先に来ているので、あるいは身分の低い女性だったかもしれない。盛重についてはここまでですが、中途半端に文字数が余ってしまったので、女性の話をもうひとつ。戦国の女性に関する話ってのは断片的で、詳しいことはわからない人がほとんどですが、『陰徳太平記』の中でも女性の話はあまり出てこない。が、なぜか山名理興の愛した女性が出てきます。真偽のほどは定かではありませんが、フィクションだとしても何でこんな話を挿入したのか、ある意味とても興味深い記述です。「神辺城(19)」で紹介した、盛重が相続することになった段の後半部分です。『陰徳太平記』巻32「杉原忠興死去 附妾貞順の事」 忠興(理興のこと)の臨終の際、殊の外哀れだったのが忠興の妾である。 この人は伯州の山名豊清という人の娘だが、豊清は尼子との戦いで討死。 まだ2歳だった豊清の娘は、乳母に連れられ美作へと逃れて忠興方の人の下で 育てられた。成長するにつれ、見目麗しく、心映えも穏やかな女性となったので、 忠興がこれを伝え聞き、自分の妾とした。忠興は 「そなたはいかなる人の子であるのか?」 と聞いたが、妾は 「幼いうちに父母に別れ、その後は各地をさまよっておりましたので 氏も姓もわかりません」 とだけ答え、ついに自らの素姓を名乗ることはなかった。 さて、忠興の病が重くなると、かの女性を呼んで 「わしの命はもう長くない・・・ただ、ここに至って気がかりなのは貴女のことだ。 貴女はまだ三十にも遠く、先のある若い身なのだから、わしが死んだ後 髪を下ろすようなことはしてくれるな。貴女がこの先、誰か良い人を見つけて 連れ添ったとしても、わしが恨みに思うようなことは決してないから。 わかってくれるな?」 と説得するのを、妾はただ泣きながら黙って聞いていたが、 用があるような素振りで立ってかたわらへ行ったかと思うと、おもむろに剃刀で 両方の小鼻を裁ち割り、肩にも掛からぬほどに髪を切り落とした。 そうしてその姿で忠興に向き直り、 「二夫にまみえることはございませんので、このように致しました」 と言った。忠興はただ驚き、 「これほどの貞女があろうか・・・七回生まれ変わろうとも、貴女の心は 決して忘れない」 と涙を流した。 やがて忠興が亡くなると、かの妾は芸州沼田の佛通寺に入って朝に夕に修行に励んだ。 女性の出家ということで、近隣の話題にもなったが、彼女自身はやがて悟りを得、 周囲の風景などを見ては遠い昔を我が身に重ね、静かに仏弟子としての日々を送った。 この貞女の話は、その昔、梁の貞女「梁寡高行」が再嫁を拒んで 自らの鼻を割いたという故事を彷彿とさせるものだとして様々に伝えられ、 多くの人の涙を誘ったということだ。相当嘘くさいせいか(笑)、歴史ファンでこのエピソードを取り上げる人はほとんどいない。そもそも、理興個人に興味を持つ人って少ないし。で、この理興の妾ですが、この人はここだけじゃなく実は理興の通説にも顔を出します。それは、「理興が杉原から山名姓に変えたのは、妻が山名豊清の娘だったからだ」というもの。他にも、本シリーズでは書きませんでしたが、神辺合戦では理興と姻戚関係を持つ国人が大内方に攻められたという話もあり、理興周辺はとにかく謎が多いので真偽は不明なるも、結構色んなエピソードが語られてます。まあ、上の話自体は山名豊清の娘を妻に持っていたというあたりからイマジネーションを最大限に膨らませて書いちゃったような気もするけど(笑)、こんな話を軍記物に挿入するあたり、やっぱり理興は英雄扱いだったのかな~って気がしたんだよね。でも、上の話では妾は自分の出自を理興に語らなかった設定になってるから、ちょっと矛盾も生じますが。それから、ミワラの佛通寺が出てきますね。『陰徳太平記』では他にも佛通寺が出てくる箇所があり、やっぱ相当の名刹だったんだ~って思った。(佛通寺は「三原編」後半をご覧ください)ただ、佛通寺に女性用の僧坊があったのかははなはだ疑問ですが・・・それにしても、再婚OKなんて大事な話は、自分がピンピンしてる時に言ってくれないと反則だよな。死に際の人に「恨まないから、再婚しろや~」なんて言われたら、かえって恨まれそうで「もっちろん、そうするわよ」なんて言えなくなるじゃないかにほんブログ村
2013年09月29日

予想以上に歴バナが長引いているので、だいぶ疲れてきました(笑)。が、勉強したことを真面目に書き残しておけばいつか別のところで役に立つ(かもしれない)し、遠い昔、一生懸命生きた人達がこれだけいるのだと、通説をなんとなく読んでるだけじゃ感じることのないだろう様々な現実を少しでも一緒に感じてもらえたら嬉しいですさて、シビアな現実の話の後は少し女性の話をしたいと思います。といっても、こちらもうわついた話じゃありませんが・・・警戒はされながらも、(大内家を滅ぼしたりして)急速に領国が拡大していく毛利家にあっては、やはり杉原盛重は大切な人材だった。元就に信頼されるくらいだから、武勇だけでなく盛重の人となりにも魅力があったのだろう。毛利家からは、先代の神辺城主・杉原豊後守に続き、盛重との関係を強化するために、1人の姫が盛重に嫁いだ。ここで「竹原にし殿」の再々登場で~す!山内豊通・竹原小早川興景・杉原豊後守、と3回夫に先立たれたにし殿はこれで4回目の結婚。「神辺城(20)」で杉原豊後守の部分が行松正盛になってる系譜のことを紹介しましたが、豊後守と行松正盛を入れ替えるだけならともかく、上の3人に行松正盛を上乗せすると、盛重まで入れてにし殿は5回結婚したことになっちゃうんです。これはひどいでしょお?盛重が神辺城主になった時期ははっきりしない。が、木下和司氏は前回紹介した論文『備後国衆・杉原盛重の立場-毛利氏との主従関係を中心として-』(「芸備地方史研究 281」)の中で、盛重が弘治3年(1557)2月に領地をあてがう書状を出していることから、その頃城主に就任し、先代の杉原豊後守はそれまでには亡くなっていただろうとしておられる。仮に城主就任の年ににし殿が嫁いでいたとして、花嫁は53歳~43歳。くうっっ、キビチ~~~とある歴史雑誌の公式サイトで盛重のことを紹介しているページがあって、にし殿も軽く登場するんだけど、やはりこちらも盛重の家督相続直後ににし殿を迎えたと見ていて、にし殿のことを「四十歳を過ぎた大年増」と表現している。否定もできないけど、もうちょっと言いようってもんが・・・にし殿だって別に好きで夫を取っ替え引っ替えした訳じゃないぞ。高貴な姫に向かって、なんたる言い草!女の敵め!!と非常に憤慨したものの、その一方で『神辺城と藤井皓玄』という本の中では 【しかも彼女を、元就の意向とはいえ、武将達が喜んで己が妻に迎えているので あるから、余程に艶麗な女性であったのだろう。】と書いている。ハハハ・・・こきおろすのも何だけど、こーゆー書き方も・・・「新高山城(24)」の遠足イベント(「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」)の8日目、縁戚・重臣などでの内々の会合の参加者の「宮内」に対して、【もう1人この場に出そうな「宮内」もいるんだけど、その宮内は永禄4年にはこの世の人ではないので】と書いたのは、この辺にかかってきます。「宮内」で私が想定したのは、もちろん山名宮内少輔理興。あの記事を書いた当時はまだ理興と杉原豊後守が別人か否か?ってことまで考えてはいませんでしたが、理興の通説でも永禄4年(1561)にはすでに理興は死んだことになってるし、にし殿は盛重の嫁になっている頃で、あるいは伯耆尾高城にいたかもしれないよな~って漠然と考えてました。が、盛重が尾高城を任されたのは永禄7年頃のようなので、すでににし殿が嫁いでいたとしても、イベントの頃にはまだ神辺城に住んでたかもしれないと考え直しました。それから、トロロヅキさんがどなたかから頂いた資料によると、にし殿は一時小早川家に戻っていた時期があるようです。ただ、にし殿が盛重に嫁いだ時期を尾高城を任された時期と同じ頃と見ている人もおり、どうもトロロヅキさんに資料をあげた方はそちらの説を採用しているようなので、盛重が神辺城を継いだころに嫁いだだろうと見る私とは意見が違う訳ですが、にし殿が小早川家に戻っていた時期があるというのは素直に受け入れられた。そういえば、竹原ににし殿の墓があるっていうもんな。それが本墓なのか供養塔なのかはわからないけど、先代の姫とはいっても元就の支配者としての存在感は興元の頃とは比べ物にならなかっただろうし、そういう毛利家にいるよりは、小早川家の方がにし殿にとっては居心地良かったんじゃないかな~って思ったんだよね。よその家に嫁に行ったからといって、隆景の養母としての立場は変わらないし、いとこという血のつながりもある。にし殿本人が自分の人生をどう受け止めていたかはわからないけど、毛利家の外交官としてあちこち嫁がされるにし殿を、いつでも隆景は温かく迎えたんじゃないだろうか。まっ、それは同じひとりの人間として推測しただけの話ですが、にし殿が小早川家に戻っていた時期があると推定できる史料があるのであれば、竹原家を出てったにし殿を、その後も「竹原にし殿」と呼んだ理由も説明がつく。あ~、あのイベントの記事書くのって結構大変だったんだけど、真面目に書いててよかったな~なんて今頃思ったりして・・・(笑)。にし殿がいつ盛重に嫁いだかはわからなくても、下限は上に書いた通り43歳頃と思われる。どう頑張っても40歳は下らないハズで、花嫁の年齢から「この結婚は完全な政略結婚だったとわかる」とされるけど、そりゃあもちろんそうでしょ。強力なバックを持たないにし殿が、自由恋愛なんかできるワケがない。(バックを持ってたらなおさらできませんが)それに、どこに書いてある話か知らないけど、盛重の顔は恐かったんだそうな。恐い上に、表情が変わらない。ここから、元春ちゃんの家臣の間では「能面杉原」とひそかにあだ名されていたとか。ライターが男性であれば、同じ男である盛重の立場に立って「40過ぎの年増を迎えなきゃならないなんて、盛重も不運な男だなあ」って書き方になるし、書き手が女性であれば当然にし殿の立場に立って「4人目の夫が能面男だなんて、かわいそすぎる!」となる。オマエはどっちの立場なのかって?いや、ちょっとわかりません。昨日はケンタッキーでうっかり男子トイレに入りそうになりましたしまあ、顔が恐くたって優しい人だったかもしれないし、主家から迎えた姫だから、それなりににし殿のことは大事にしただろう。結局、人間なんて相性だしね。にし殿が4度目の結婚で落ち着いた生活を送れたことを祈るばかりです・・・さて、にし殿の波乱の結婚遍歴は以上で終わりとなりますが、最後の結婚から読みとれることがあります。世間に広く認知されている神辺城主の系譜は、杉原豊後守(理興)~杉原盛重と来るので、これがそのまま杉原家の家系だと解釈される向きもあるようですが、盛重の先代が杉原豊後守であれ山名理興であれ、にし殿が続けて嫁に行っていることから、豊後守(あるいは理興)と盛重の間に親子関係はなかったことになる訳です。そこで、「神辺城(19)」に載せた系譜ですが、 ・杉原豊後守理興 備後国山手の城主 ・杉原兵庫頭直良 後伯耆守 山手城主なり。元就公所々御取合の時、直良弟播磨守盛重を名代となし 手勢を差し遣わし、勲功は数知れず。これだけを見ると豊後守の子が直良で、その弟が盛重なのかと思いますが、にし殿がそれぞれに嫁いでいることから、そのまま受け取る訳にはいかない。木下和司氏は、豊後守と盛重は同じ杉原氏であるものの、別系統だとしておられる。そう考える方が自然だよね。それで、毛利麾下となっての歴史も浅く、かつ毛利家との深い姻戚関係も持たない盛重がなぜ元就の信頼を得て重用されたのか、ここにひとりの女性の存在が考えられると前掲論文の中で述べておられる。まずは、氏の論文から必要部分だけを抜粋して作成した下の図をご覧ください。 都合上、長幼の順序は無視して並べてますのでご了承ください。で、図の真ん中、赤字の「女」がここでのキーマンです。実名がわかりませんが、五龍殿が書状で「はもしさま」としているので、ここでは「はもし殿」としておきましょうか。たぶん読みは「はもじ」だと思うけどね。「はもし殿」は安芸国人・熊谷信直の姪。それが備後国人である盛重の兄・杉原直良に嫁いだ。杉原直良とその子・直盛の「直」は熊谷信直からの偏諱だと木下氏は推測しておられて、それについては個人的には疑問もあるけど、少なくとも直良の次男・春良は天文23年(1554)に吉川元春から偏諱を受けている。元春ちゃんは熊谷信直の娘を妻としているので、熊谷家との縁が深いのです。で、春良の元服時期から遡って、春良は天文10年(1541)頃の生まれだろうとし、その兄の直盛はそれ以前の生まれだから、直盛の両親・・・すなわち、杉原直良と「はもし殿」の結婚も天文10年以前だろうとする。「はもし殿」が五龍殿とその娘の2代にわたって世話をしたというのは、五龍殿の娘が伊予の河野氏に嫁ぐ際、五龍殿とその弟・隆景からそれぞれ「はもし殿」へあてた手紙から窺われる事実。熊谷信直が毛利傘下に入ったのは天文2年(1533)以降のことで、「はもし殿」が五龍殿の世話係になったのはその後のことだと思われるので、五龍殿が元春ちゃんの姉で正しければ、「はもし殿」が来た頃には少なくとも五龍殿は4歳以上になっており、乳母というよりは養育係かもしれない。そのお役目を通じて「はもし殿」は元就の信頼を得、備後国人・杉原直良に嫁いだのではないか、そして「はもし殿」を仲介として、毛利家と杉原氏の間に信頼関係が生まれ、盛重への信頼へ引き継がれたのではないだろうかというのが木下氏の説。この辺も推測が多いので、ろくな史料も知識も持たない私には何とも言えない部分もあるものの、こうして見てみると女性の役割ってのも思った以上に大きいものだったのかもしれないな~とふんふん言いながら木下氏の論文を読んでました。にほんブログ村
2013年09月28日

杉原豊後守の死後は、あのバトラー・杉原盛重が跡を継いだとされます。前々回、「神辺城(19)」の山名理興帰還のくだりを『陰徳太平記』から紹介しましたが、最後の「さる子細があり、播磨守盛重が理興の家督を相続した。」の「さる子細」についても『陰徳太平記』で語られていますので、ご紹介しましょう。例によってここも大体こんな内容が盛重相続の理由として一般的に語られます。『陰徳太平記』巻32「播磨守盛重杉原の家を継ぐ事」 弘治3年3月、備後の国神辺道の上の城主杉原宮内少輔忠興(山名理興のこと) が死去。跡を継ぐ実子がおらず、家が断絶しようという時、元就は 「忠興は大内氏に背き、平賀のために城を去って雲州におったが、のちに許しを 乞うてきたけぇ、神辺城を返しちゃった。 その恩に報いようと、備中じゃぁわしのために色々頑張ってくれた。 じゃけぇ、あんなぁの家を断絶させるんはしのびなぁで。 一族の中からええ器を選んで家督を継がせようゆぅて思う。」 と言った。これに対し隆景は 「忠興の一族でありゃぁ、杉原左衛門進興勝じゃろう。武勇の誉れもあるし、 何より律儀が第一の者じゃ。興勝がよいじゃろう。」 と進言したが、元春は 「隆景のゆうなぁもっともじゃ。じゃが、わしが思うにゃぁ、四番家老の 杉原播磨守盛重がよいゆぅて思う。盛重は武勇の場数こそ興勝にゃぁ劣るけれども、 その天性は大器、智計も余人より優れとり、一城を守る将としちゃぁ 興勝よりも適任じゃゆぅて思う。父上、ここはぜひ盛重を・・・!」 と言った。これを聞いた隆景は、 「盛重は乱暴者で、人を生きた虫とも思わず、常にバクチをして己の剛強を誇って 危うい戦を好む男じゃ。盛重を城主として兵の命を預けるにゃぁ危険すぎる。」 と反論した。それに対し元春は 「律儀ばかりで智がすくんぉ(少なく)戦功の多い者は、一兵卒としちゃぁよいが 一軍を率いる将の器じゃぁなぁで。大軍を率いる者は、 自身の小さな戦功にこだわらず智略が人よりも秀でていのぉちゃぁならん。 智勇を併せ持ってこそ、百千もん兵を率いることがでけるんじゃ。 盛重が豪放すぎて危ういようでありゃぁ、わしの下に置いて コントロールすりゃぁよい。それじゃったら、万に一つでも間違いの起こるこたぁ ないじゃろう。」 と言ったので、元就もそれはもっともだと思い、盛重に杉原の家督を相続させて 元春の麾下に置いた。 元春の人を見る目は神にも通じるほどの確かなものであった。 盛重の智略は群を抜き、勇烈は世に鳴り響くものとなり、中国に名を馳せた武士は 多いが、盛重に肩を並べるほどの者は数えるほどだった。 しかも盛重という男は智勇を併せ持つだけでなく、大胆に人材を登用し、 適材適所に据える才能もあった。人の上に立つ役職にはそれに適した者を選び、 足軽などの兵には山賊・海賊の出でも武勇に優れていれば召し抱えて重用した。 そうした輩は元々盗賊を生業としていたので、戦にあっては敵陣に夜討ちや 忍び討ちをかけ、ある時は放火し、またある時は十重二十重もの敵陣をやすやすと かいくぐっては突破口を開くなどしたので、盛重は重要な城や堅固な城をも 次々と落としていった。これは配下に忍びに慣れた者が多かったためである。で、この後は盛重家中で起こった忍び対決などのかなりフィクションちっくな話が語られますが、この段の締めくくりは、盛重配下にはこのように忍びの技を身に付けた盗賊上がりの者が多く、その軍構成からひとたび戦に出れば類友の盗賊どもも近隣からわらわらと参加し、元々命知らずのメンズなので敵方からは恐れられた、としている。元春が盛重を推したのはなぜか?ここで「神辺城(11)」の神辺城攻めのエピソードを思い出していただきたいのですが、神辺合戦を通じて元春が盛重の武勇に惚れ込んだというのが世間で語られる話。神辺城主になった数年後には、盛重は西伯耆の尾高城も任される。転勤じゃなくて兼務です。これも勲功を上げて認められた盛重がさらに重要な拠点をも預けられた、というように、元春の引き立てがあって順調に昇進していった、という風に語られることが多いのかな。テンポのいい軍記物から引いたエピソードであるだけに、強くて才能もある武将の活躍とともに毛利氏が発展していく様は、その世界だけに浸ってれば読んでて素直に楽しいものだと思いますが、現実はそんなに甘いものではなかったようです。で、ここからは木下和司氏の論文『備後国衆・杉原盛重の立場-毛利氏との主従関係を中心として-』(「芸備地方史研究 281」)から、木下氏の述べる「現実」をかいつまんでご紹介します。この論文は確か福山から帰った頃に手に入れたものだと思いますが、最初は難しくてよくわからなかった。が、福山編を書いてく中で少しずつ周囲の状況なども消化できるようになってきたので(←書かないと頭に入らないタイプ)、つい最近になってあらためて読み返したところ、繊細なわたくしは正直言って気分が悪くなりましたいやもう、何つーか・・・シビア~な時代だなあ~ってさ・・・まずは盛重の先代・杉原豊後守にちょっと戻りますが、木下氏は天文23年(1554)5月の防芸引分後、同10月頃までには毛利氏は神辺城を落としていただろうとしておられる。その理由は、陶隆房との対決を前に、背後の神辺城が大内方のままだったら挟撃のリスクがあるからというもの。できればそのまま直轄城にしたかったところだろうけど、当時の毛利氏にはその余裕はなかった。そこで、信頼できる備後の大物に預けようと考えたが、名族の宮氏はおおむね滅ぼされてしまっている。ので、残る大物の杉原氏に白羽の矢が立ったとし、にし殿の嫁入りも、この同盟を強化するためだったとしている。この時期の出来事は史料が少なく、推測に頼る部分も結構多いので、正直言って私は前回紹介した田口義之氏の説明の方がすんなり受け入れられたんだけど、でも木下氏の説も筋は通っている。で、杉原豊後守の死後、跡目を考える際にもやはり神辺城を直接管理したかったと考えただろうけど、備南国人衆の反発を考慮してふたたび杉原氏の中から城主を選んだのだろうという。神辺城を盛重が継いだことはその流れでいいとして、伯耆尾高城までも任されたのはなぜか?やっぱり元春の盛重らぶによるものなのだろうか(笑)。アハハハ、だったら私は気分悪くなって頭を抱えたりしませんよ~。毛利元就といえばいわゆる「三矢教訓状」が有名ですが、ネガティブ元就が出した書状は1通だけじゃない。嫡男・隆元へのオプションもあるし、さらに追加もある。元々話が長い人なので、子供達(末っ子でさえもう24歳)へ切々と訴える書状は、心情を反映してこれまた長い。けど一言で言うと、「われ達が仲ようして家を守ってくれんと、わしゃぁもう心配で心配で心配で心配で心配で・・・・・」となるその書状の中には、「備後の衆も、安芸の衆も、心の中じゃ絶対ウチのことよう思うとらんゆぅて思うんでの~」という一文がある。情に厚い親分肌である一方、1人もんもんと過去のことをいつまでも引きずり続ける名将・毛利元就・・・天正年間に入ると、盛重が国衆の立場でありながら毛利家の領国経営に関わる史料が見受けられると木下氏は指摘し、神辺城・尾高城の重要な城を2つ任されたことと併せて「盛重には元就の異常に厚い信頼があったことになる」とする。木下氏は、杉原氏が毛利家の麾下に入った時期は早くても天文19年(1550)だと見ておられる。田口氏は天文15年(1546)と見ておられるようなので天文19年よりは少し遡るが、それでも毛利配下としての歴史は浅い。それなのに、盛重は大事な役目を担った。シビアに現実を見つめ続ける、元就の信頼を受けて。信頼しているとはいっても、地元の名族出身者を神辺城主にすることはうまくまとめてくれるというメリットがある反面、地元との結び付きが強くなれば下剋上のリスクも伴う。そのリスクヘッジが、非常に逆説的ながらも尾高城主の兼務なのだと木下氏は説く。論文の中では、「保険」と表現される。どういうことなのか、論文をかいつまんでご紹介しましょう。盛重家中の家政を取り仕切る奉行人は、尾高城を任された後でさえ備南の在地領主と考えられる人物が多くを占めていた。尾高城にあっては、備後の奉行衆が在地の西伯耆の領主たちの上に立つことになり、両者の対立を引き起こしたと考えられる。また、永禄13年(1570)の西伯耆の寺の棟札には「源朝臣杉原左近尉盛重、当国在軍節」とあることから、西伯耆衆からは盛重が進駐軍と見なされていたということを挙げ、城主ではあっても実際のところ盛重の現地支配はうまく行っていなかったとする。で、でも神辺城は元々地元なんだから、新天地ならではの苦労はないよね?と思いきや、元就が盛重の活躍の場に用意したのは、西伯耆だった。盛重本人は元春の下で尾高城を中心に活動しており、神辺城は城代に任せていた。実はこの少し後、神辺城が乗っ取られるという事件が起こる。そうした事実からも、盛重が神辺にいなかったことにより、地元との癒着を阻まれてこれまた強力な支配ができていなかったのだろうとした。「保険」はもうひとつあり、盛重と主従関係を結びながらも毛利家とも主従関係を有する者が家中におり、これがまた強力な支配体制を築くことを阻害したという。「強力な」っていうのはつまり、盛重が独自の勢力を築く事を指していて、別に盛重の管理体制に問題があったって意味じゃないから、誤解のなきよう。元就のかけた「保険」はぴたりと当たり、盛重の任された重要拠点支配は、盛重自身によるものというよりは、毛利家のバックアップがあってこそだった。盛重もその点についてはよく理解しており、ために毛利家に忠誠を尽くした、と木下氏は語る。いや、私のつたない要約だけじゃあまりシビアさは伝わらないかもしれないけど、厳しい時代だな~ってゾクッとしたし、何なんだよ、毛利家~・・・って読んでて恐くなりましたね。にほんブログ村
2013年09月26日

神辺合戦で逃亡した山名理興のその後の通説は、「天文23年(1554)の防芸引分の後に、理興が毛利元就に詫びを入れ、許されて弘治元年(1555)神辺城に戻り、名を山名から旧姓の杉原に戻し、弘治3年(1557)病没した。理興の跡を杉原盛重が継いだ」というものだと前回紹介しました。つまり、通説では神辺城主は理興⇒盛重の流れだという訳ですね。「杉原豊後守」については正面からは当たりにくいので、ちょっと奥さんの話をしましょう。ここでふたたび「竹原にし殿」の登場で~す「神辺城(6)」でにし殿がまず山内豊通に嫁ぎ、最初の夫と死別して竹原小早川興景に再嫁してまた死別するところまで紹介しましたが、にし殿が注目を浴びるのはその先も波乱の人生が続くからなのだ。様々な史料から丁寧ににし殿の推定年齢を絞った方もおられるようですが、野生児なわたくしは物理的な線から攻めていったので父・毛利興元に旺盛な生殖能力があった場合も含めて推定されるにし殿の生まれ年は、永正元年(1504)~永正11年(1514)。(※別に興元が性欲の強い人だとしている訳ではありません)トロロヅキさんが以前、どなたかからにし殿の年齢を計算した資料をもらったそうで、それによるとその方はにし殿の生まれ年を永正9年(1512)頃と推定しておられるらしい。が、ひとまずここでは想定可能な年齢幅で書いておきます。天文10年(1541)に2番目の夫と死別した時のにし殿は37歳~27歳。彼女はその生まれゆえに、まだ幼さの残るいとこの面倒を見ながら夫のいない婚家で安穏と過ごす人生を許されず、3度目の結婚をします。『毛利家文書』の中の「毛利弘元子女系譜書」によると、再々婚の相手は「杉原殿」。下の名前が書いてありませんが、これが「杉原豊後守」=山名理興だと一般に言われます。理興の出自の解釈が大事な訳がわかるでしょう?理興が杉原豊後守と同一人物であれば、にし殿は理興と結婚したことになるし、別人であれば、にし殿は系譜の通り「杉原殿」に嫁いだことになるんです。「杉原殿」には下の名前がないので、これを見ただけでは誰ともいえない。でも、頼りにしてた兄ちゃんの娘を嫁にやるくらいだから、そこそこの人物とだけは言えるだろう。山名理興の通説は最初に書いた通り神辺帰還説が幅をきかせているので、一般的には「陶隆房との対決を前に、少しでも味方の欲しい元就には理興の帰還は渡りに船だった」とし、にし殿との結婚については「大事な姪を嫁にやるほどに、理興の心をつなぎとめておきたかったのだろう」というような解説が多いように見受けられる。・・・が、「杉原殿」が理興でなければ、この説明は根底から崩れる。木下和司氏は「杉原豊後守」を杉原惣領家の出身であり、にし殿の3度目の夫だと推定した。これには無理がないと思う。それに、「神辺城(18)」の最後でよく意味のわからない書状を紹介したけど、この書状に何年とは書いてないものの、(天文22年)と注釈が加えられている。大内晴英が義長に改名するのは天文22年(1553)とされていて、書状の中で「義長家督之儀」としているので天文22年以降のものであるとはいえるだろう。ただし、意味がわからないので下限が限定できないんだけどね(笑)。でも、もしこれが防長経略完了後の書状であれば「家督之儀」という言い方はしないと思うし、とりあえずはこの注釈を信じることにしよう。ちなみにこの書状、木下氏は天文21年のものだとし、杉原豊後守が毛利家と通じて大内方になった内容だとしておられるが、どうも私には納得いかないので、自分なりに理解できる時が来るのを待ちます。『陰徳太平記』は読み手の混乱を招く実に悩ましい書ではあるものの、もちろん実態も反映している部分もあるので、頭から無視するべきものでもない。で、理興の帰城は『陰徳太平記』では弘治元年(1555)としていて、通説支持派はにし殿が「杉原豊後守」に嫁いだのはその少し前の天文23年(1554)~天文24年(1555)頃と見ている人が多いのかな。だけど、天文22年には理興はまだ尼子さんちに居候してた訳だから、そんな状態の理興に対して、大友義鎮が義長の件で手紙を出すのはちょっとおかしいんじゃないかと思う。ここからも、山名理興と「杉原豊後守」は別人だといえるんじゃないだろうか。ま、はっきり年が書いてある訳でもないし、そもそも意味がよくわかってないので、根拠としては相当弱っちいかな(笑)。前回書いた別人根拠説その1もあるし、初めから私は理興の杉原氏出身説を支持してないので、ここでは理興と「杉原豊後守」は別人だとして話を進めますね。して、なぜにし殿は豊後さんへ嫁に行ったのだろうか。え~、本シリーズ、備後の通説を覆す内容の部分については引用ばっかりで恐縮ですが、立派な研究結果があるものですから仕方ありません(笑)。で、例によってまたまた田口義之氏にお世話になる訳ですが・・・前回、私が指を(ヘタクソながら)鳴らした前の段で、天文15年の大内家重臣からの書状が「理興配下だった豊後守が大内氏に通じた」内容だとした木下氏の説を紹介しましたが、これにより神辺城へのルートが開かれ、ちょっと長引いたけれども最終的に神辺城を落とせたので、豊後守の功績は大きかった。その褒賞としてにし殿が嫁ぎ、豊後守が神辺城主になったのだろうと『八尾山城と山名氏(21)』の中で田口氏は語る。まあ、天文18年(1549)に理興が逃亡した後、一旦は青景隆著が神辺城に入っていることは間違いないと思うけど、天文20年(1551)の大寧寺の変前後の神辺城の動向はわからないものの、天文21年(1552)の夏頃までには備後外郡で何らかの動きもあったようだし( 「神辺城(18)」参照)、仮に一旦は敵方の横槍が入ったとしても、天文21年前後くらいまでにはキープできてたんだろうな。にし殿も、その頃までには3度目のウェディングベルを鳴らしていたかもしれない。仮に天文20年に嫁いだとして、にし殿は47~37歳。ううん、3度目ともなると、どんなに少なく見積もってもさすがに・・・(笑)。キビシイ世の中じゃのお~さて、『陰徳太平記』の記述に惑わされつつも、理興の帰城に関する段については手掛かりになると思われる部分もある。なにせ、杉原豊後守については完全にすっ飛ばされてる分、豊後守の人生をそのまま理興に取り込んで書いてるのかなって感じられるのだ。すなわち、・弘治元年(1555)に理興が神辺城に戻った。・弘治3年(1557)に理興が病没した。という部分は、そのまま豊後守に置き換えてもよさそう。そして、通説の最後、杉原盛重が次に神辺城主となったというのは実際の出来事で、新城主が誕生したのは弘治3年と言われている。・・・つまり、豊後守はその頃亡くなったと見られている。にし殿にとっては夫との3度目の死別前回、『神辺城と藤井皓玄』から杉原氏の菩提寺・三宝寺の位牌に書かれた文言を紹介しましたが、 二代 理興寺殿前豊州太守大用永調大居士 永禄七年五月一六日寂 杉原豊後守理興公これの死亡日がなんだかな~って書いたのは、弘治3年じゃないからなんです。この日付はどこから持ってきたものなんだろうかわたくしのブログの中では、にし殿の結婚歴を『毛利家文書』から引いていますが、別の系譜では3番目の夫は杉原豊後守ではなく行松正盛だとしている。どちらが正しいとは言い切れないものの、行松正盛の死後、残された妻が杉原盛重と再婚しているあたりとこんがらがってるのかな~って気がする。ほとんどの人はにし殿の3番目の夫は豊後守か行松正盛のどちらかとしてるんだけど、ひどいのになると豊後守に行松正盛を上乗せして、ここまででにし殿は4回結婚したように書いてる人もいる。いや、それが間違ってるとは断定できないけどさ、それにしてもさ・・・さ~て、杉原豊後守と山名理興が別人だとしたら、理興のその後は一体どうなったんだろうか。それについては何もわからない。が、『神辺城と藤井皓玄』には神辺城下にある龍泉寺の過去帳の写真が掲載されていて、ちょうどその写真のページには 【忠興良勇大居士 紅葉山城主山名宮内少輔忠興殿 弘治三年五月五日命終】とある。字が小さいので、日付は三月三日の読み違いかもしれませんが、「弘治三年」部分ははっきりと読める。姓も山名だし、官途は宮内少輔だからこれは間違いなく山名理興のこととして書いてるんだろう。「命終」だから、理興は神辺で死んだって言いたいのか?どこぞの郷土史料にでも「理興、帰還!」みたいな記述があって、『陰徳太平記』はそれを基にしたのか?もう、どこまでもわからないお方・・・ただ、田口氏は理興を、備後で戦国大名に最も近付いた人物と表現しておられる。確かに、備後史の一般書を読んでも神辺合戦、そして山名理興のくだりは最も華やかに語られる。現在でさえこうなんだから、当時の備南では相当存在感があったのだろう。理興本人が活躍した時代より少し下ってからでさえ理興に対する崇敬や憧景の念が根付いていて、後から理興について書き加えたり追悼したりという空気が残ってたのかもしれないよな~・・・なんて風に、てんでバラバラの「理興」に関する記録を見てイライラながらも、備南史をあざやかに彩った武将・山名理興のことを考えたりもしました。にほんブログ村
2013年09月24日

ここからはしばらく神辺城主とその妻の話題になります。まずは山名理興からいきますかね~。この方が難解であるために、福山編を書きたくなかったと以前グチりましたが、そもそも出自がはっきりしてない。わたくしの支持する説は「神辺城(1)」と「2」で簡単に紹介した通りですが、この説は支持を集めつつあるということらしいけど、それまで語られてきた理興の通説とは相当違っている。出自の見解に相違があるだけならいいんだけど、理興の場合はその相違によって神辺合戦後の理興の人生の解釈も変わってくるし、それどころか他の人にまで影響を及ぼすという何とも厄介なもの。で、神辺城を退去してからの理興の通説はこれまた『陰徳太平記』に負うところが大きいようですので、以下にご紹介します。(山名理興の名前は、『陰徳太平記』の中では全編通じて「杉原忠興」ですが、タイトル以外の部分は「山名理興」としています。)『陰徳太平記』巻32「杉原忠興死去 附妾貞順の事」 備後の国神辺の道の上の城主、山名宮内少輔理興は一年平賀のために城を去って 雲州へ立ちのき、尼子晴久を頼っていたが、毛利と陶が決別した頃、 杉原播磨守盛重を元就への使いに出した。 「それがしは貴殿に対して全く敵意を持ってはおらぬ。そのことは先年、 貴殿が吉田で籠城された折によくご存知であろう。 その後、大内勢が神辺城を攻めた際、貴殿も大内殿に従われたので 一旦は敵味方となったが、今は陶と袂を分かったと聞いておる。それがしが 許されて再び神辺城へ帰ることができたなら、以後は貴殿の無二のお味方となって 忠節を尽くす所存である。」 と切々と訴えるのを聞いて、元就は 「理興にはかつて尼子晴久が吉田へ軍を催した際、吉田城中へ使いをもろぉたなあ。 その志は忘れるべきじゃぁなぁで」 と言って、平賀隆宗の了解を得た上で、神辺城への復帰を許した。 理興は大層喜んで弘治元年に神辺道の上の城へ入り、やがて備中を切り従えようと あれこれ画策していたが、その頃から瘴気のようにふらふらと患うようになった。 そして、弘治3年には中風を起こしてついに卒去した。 理興には実子がなかったので、しばらくは家老が城を仕切っていたが、 さる子細があり、播磨守盛重が理興の家督を相続した。「神辺道の上の城」というのは、神辺城の別名です。理興を戻すにあたって平賀隆宗に断っているのは、『陰徳太平記』の設定では隆宗は理興に遺恨があって単独での神辺城攻めを申し出て(「神辺城(12)」参照)、一騎討ちで理興を追い出した(「神辺城(14)」参照)経緯だからでしょう。ただし、さすがに隆宗は神辺城落城以前に死亡しているという認識が広まっているのか、通説では隆宗に断りを入れたという部分はスルーされますが、その他についてはこんな風に理興のその後のベースの話として語られます。「ベース」と書いたのは、一般的な通説ではここに書かれていないオマケが付いてくるからです。そのオマケとは、「神辺城に復帰した後は名を旧姓の杉原に戻した」というもの。そのオマケがどこから来たのかはわからないけど、わたくしは理興が最初から山名氏の出だという説を支持してますので、当然これは却下です。でも何でそんな話が生まれたのか?ここに、理興の出自の通説の難解さがあるんです。『萩藩閥閲録』での杉原氏の系譜は、何と平清盛からスタートする。清盛~重盛~維盛ときて、ずーっと下って ・杉原播磨守匡信 備後国沼隈郡山手の城主 ・杉原豊後守理興 備後国山手の城主 ・杉原兵庫頭直良 後伯耆守 山手城主なり。元就公所々御取合の時、直良弟播磨守盛重を名代となし 手勢を差し遣わし、勲功は数知れず。となっている。で、2番目の「杉原豊後守理興」・・・これが問題。「杉原豊後守理興」については「神辺城(1)」の最後で軽く触れてますが、この人と山名理興を同一人物だとするのが通説。試しに皆様も「山名理興」でウィキペディアを検索してみてください。1行目の終わりに官途が「宮内少輔、豊後守」と紹介されてるでしょう?ところが、木下和司氏によると、史料で確認できる山名理興の官途は天文元年から天文17年頃まで「宮内少輔」なんだそうな。一方で、天文15年12月22日付けの大内家重臣の連名の書状の中に「神辺杉原豊後守」という文言が出てくる。・・・アラ、この書状、吉見興滋も差出人だわ。そうか、天文15年にも吉見君は関わっていたのか。あっ、すいません、脱線しました ダブって官途を持つはずがないので、山名理興と「杉原豊後守」は別人だとできるというのが別人説根拠その1。それから、『陰徳太平記』の引用の最後に出てくる杉原盛重。これは「神辺城(11)」や「神辺城(13)」で吉川元春や平賀隆宗との対決を紹介した、あの盛重さんです。 この盛重さんは、山名理興の4番家老なんだと。(ちなみに「神辺城(13)」で盛重と一緒に戦った杉原興勝は筆頭家老なんだとさ)私が現地でコピーさせてもらった『神辺城と藤井皓玄』という本には、【四番家老が城主の子という事が、社会通念上考えられるであろうか】とある。まあでも、分家を継いで家臣としてあったなら、どっかのCMじゃないけど、「可能性はゼロではない」とも言えそうな気がするんだけど・・・とりあえず、これは根拠に含めないでおくかな~。ところで、「神辺城(9)」の最初で、天文15年に和睦が進められたとも言われるけど、どこかに書いてあるのかな~としましたが、田口義之氏の最近のシリーズ『八尾山城と山名氏』を読んでやっとわかりました。上に紹介した天文15年12月22日付けの大内家重臣からの書状が、これまでは山名理興(=杉原豊後守)が大内氏に内応したものだと解釈されていたらしいので、『備後史夜話』はそれに基づいて「和睦」としたんじゃないかと思われます。同時に、その書状は山名理興が杉原豊後守と同一人物だとする根拠のひとつにされていたようですが、木下和司氏は理興の配下である「杉原豊後守」が理興を裏切って大内氏に通じた文書だとした。詳細は田口氏の『八尾山城と山名氏』に詳しいのでそちらを見ていただくとして(ネットで見られます)、結論だけを紹介すると、山名理興が神辺城へ移った後の八尾山城には杉原惣領家の「杉原豊後守」が入り、その豊後守が大内氏に通じたことによって、安芸から神辺城へ向かうのに必須のルートが確保されたという。前にも書いたように、神辺城って備中に近い奥まった場所にあるから、そこまでのルートの安全をどうやって確保したんだろうと思ってたんだけど、何しろ土地勘はないわ、杉原氏なんてほっとんど知らないわで考えてもわからなかった。だけど、途中の城に大きな味方ができたのであれば、するりとナゾは解決する。「杉原豊後守」の裏切りという箇所を読んだ時、私は思わず「あっ、そっかあ~!そういうことかあ~!」って指をパチンと鳴らしたもんね。いや、ホントは綺麗にパチンと鳴らせないんだけどさ・・・どうでもいいか、そんなこと(笑)。山名理興と「杉原豊後守」の関係をややこしくしているのは、あちこちに「豊後守理興」という記載があることもひとつの原因だと思う。たとえば、『神辺城と藤井皓玄』という本には、杉原氏の菩提寺である三宝寺にかつて三代の城主の位牌があったと紹介されている。(その出典は『備南の懐古』/藤井定市著らしいです)それによると、 元祖 匡信院殿播州太守法麟正壽大居士 弘治二年六月一六日寂 當村古城主杉原匡信公 二代 理興寺殿前豊州太守大用永調大居士 永禄七年五月一六日寂 杉原豊後守理興公 三代 盛重寺殿前播州太守大安宗廣大居士 天正九年一二月二五日寂 杉原播磨守盛重公だそうで、現在では二代と三代の位牌しか残ってないらしい。『神辺城と藤井皓玄』(著者名を控えてませんでした。すいません)では、これをもって『萩藩閥閲録』に記載の系譜の裏付けがなされ、ゆえに山名理興は山手杉原氏の出である説が有力だとしている。ちなみに、「元祖・二代・三代」がどこの城主だとははっきり書いてないけど、流れから言って山手銀山城主と言いたいんだと思います。けど、田口氏は同じ三宝寺の過去帳からは匡信と盛重の間に「杉原豊後守理興」の入る余地は少ない、としておられる(『八尾山城と山名氏(19)』)。さらに、杉原豊後守は確かにいただろうけど、豊後守の実名が「理興」とは考え難い、ともしている(『銀山城と杉原氏(7)』)。う~~~ん・・・現代の感覚だと、位牌はひとつだろうと思っちゃうけど、戦国武将なんかは位牌はいくつもあるわ、墓は供養塔含めあちこちに点在するわ、戒名まで複数持ってる人なんかゴロゴロいるからね。木下和司氏によると、『萩藩閥閲録』の系譜の、特に「豊後守理興」のあたりは『陰徳太平記』などの影響を受けて創られた可能性が高いという。とすれば、そうして創られたものを基に、後世になって供養のためにあらたに位牌が造られた可能性なんかもないとは言えないよな・・・基本的に寺社の記録は信頼性が高いんじゃないかと思うけど、一般に言われてることと寺の記録が大きく相違するケースなんかも世間にはあるしね。けど、「豊後守理興」の位牌に関しては、「理興寺殿」の戒名だし、死亡日まではっきり記載されてるしなあ・・・後付けにしても、妙に堂々としてるってゆーかただ、この死亡日、「杉原豊後守」のものにしてはちょっと・・・にほんブログ村
2013年09月23日

大内氏や小早川氏が絡む話ならわたくしにとってはホームのようなものなので何となくだらだらと進んで行きますが、備後は完全にアウェイなので、この先の話はまた気が重いです・・・(↑要するに勉強不足)本シリーズは最後まで一気に歴バナを書いてしまいますので、遺構だけを知りたい方はもうしばらくお待ちください。歴バナを書き終えたら、たぶんまた燃えカスになるだろうな・・・天文18年(1549)に神辺城が落城し、年末頃には青景隆著が入ったところまで「神辺城(14)」に書きましたが、青景君が神辺城に入った同じ頃、毛利隆元が大内義隆の養女を娶ったものと思われます。神辺城自体にはしばらく特筆するような動きは見られませんが、天文19年(1550)に入ると大内家内の空気が相当怪しくなり、同時に毛利家でもあわただしい動きが見られます。2月 吉川元春、家督相続後ようやく吉川氏の居城・日野山城へ入る。7月12日 毛利元就、井上一族の粛清に踏み切る。 同じ頃、吉川家前当主・興経が尼子と通じ謀反を企てているという 噂が広がる。8月15日 大内家両社での参詣の際、陶隆房による襲撃の噂があり、 義隆と相良武任は参詣を取りやめる。8月16日 噂を心配して山口に駆けつけた近郷の兵が屋形を警固する騒ぎが起こる。 杉・内藤にも謀反の噂があり、両者は実子を人質に出して弁明する。 義隆が陶隆房追討の兵を出すという噂が隆房に伝わり、隆房は防御を 固める。 相良武任、2回目の出奔。8月17日 陶隆房、自邸の武装について詰問を受ける。 吉川興経、噂について元就に弁明する。9月27日 毛利元就、吉川興経を襲撃。 11月?日 陶隆房、自領の富田に帰る。時期がわからないので上には書いてませんが、この年は隆景が沼田家を継いだとされる年でもあります。あと、おそらく平賀隆保もこの年に平賀家の家督を継いでるでしょうね。そして運命の天文20年(1551)。8月20日 陶隆房・毛利元就挙兵。9月1日 大内義隆、長門大寧寺において自刃。9月4日 毛利元就、東西条へ進軍。平賀隆保の頭崎城を攻める。9月8日 元就、東西条・槌山城を包囲。翌天文21年(1552)。3月3日 大内晴英、大内家の当主として迎えられ山口入り。4月21日 尼子晴久が備後守護を兼ねる。6月 大内晴英、備後討伐を表明。と、ここまで大きな流れを一気に書きましたが、神辺城督となった青景君がいつまで神辺城にいたのかははっきりしません。ただ、周囲の状況を見るとあまり長いことはいなかったんじゃないかと思うけど。というのも、大寧寺の変までの大内家家臣の中では韓流ドラマもまっつぁおの、非常にドロドロしたものが繰り広げられておりまして、一般に言われていることが事実に近いのであれば、青景君もドラマを構成する一員だからです。エンディングが近くなってくると色々展開も早くなるので、ちょっと神辺にいたらキツいんじゃないかと思うんだよね~。青景君はひとまず置いておくとして、天文18年に大内家内で緊張が高まった頃、安芸では毛利元就を介して陶隆房による国人衆の取り込みが順調に進んでいたようです。備後についてはよくわからないんだけど、水面下でのクーデターの準備段階では備後衆は蚊帳の外だったともいわれる。で、天文20年、ついに蜂起。隆房と元就は身近な家臣や国人衆をおおむね抱き込んでいたので、あとは平賀隆保など少数の義隆派を落とすだけ。東西条の拠点であった槌山城を包囲したというのは、平賀隆保が頭崎城から槌山城に逃げたという話とセットじゃないかと思うので真偽はイマイチわかりませんが(隆保の最期は「頭崎城(12)」を参照)、長らく東西条代官を務めてきた弘中隆兼を攻めた訳ではないようです。その後も弘中君は活躍してるからね。ので、挙兵から鎮圧までにはそう時間はかけなかったと思うのに、この混乱に乗じてきたのが尼子晴久。天文21年4月に備後守護に任じられた晴久が出兵して備後の回復を図ると、またまた尼子方へ転じる備後衆が現れた。して、大内家新当主・晴英は 【六月、備後の我に服従せざる諸城主を毛利元就に依頼して攻めしめ、 備後隣境の安芸諸城主に毛利氏に戮力せんことを論すべきが為に、 九日江良房栄を差遣わす。】(『大内氏実録』より)と備後の巻き返しを始めた。ここで通常語られる備後の城は滝山城で、神辺城の名は出てこない。が、天文21年のものと見られる8月13日付けの毛利元就・隆元親子の書状に「神辺固屋を崩せたなぁ、外郡衆のおかげじゃ。ありがとの」てなことが書いてある。詳しいことはわからないけど、元就がお礼を言ってるんだから、大内方に踏みとどまった備後外郡衆が神辺を攻めたってことだろう。てことは、尼子晴久がふたたび触手を伸ばしてきた時期でもあるので、この時の神辺城主が誰だったかはわからないけど、神辺城が尼子へ通じる動きがあったのかもしれない。ちなみに、『福山志料』では 【平賀太郎左衛門隆宗 六郡志に天文19年(1550)より弘治元年(1555)まで(神辺)城主たる事 六ヶ年と云。今按に大内記には神辺の陣に死すること見ゆれば、ここに有りしは その子弟一族なるべし事平賀が伝に詳し。】なんて言ってます。私がここまで書いてきたことと全然違うし(そもそも『福山志料』では神辺城落城は天文19年10月だとしている)、以前私が「あちこちに色んなことが書いてあって、もうやだ」ってボヤいたことがありますが、備後の他の城はどうだか知らないけど、神辺城周辺の記述は相当バラつきがあります。『ナントカ家文書』なんてものも必ずしも全てが正しいとは限らないので、もうこうなってくると我が道を行くしかありません(←ちょっと逆ギレ)。ので、この先は特に「神辺城周辺の正しい歴史」ではなく「戦国ジジイが素朴に考えた神辺城周辺の歴史」であることを念頭に置いてお読みくだされまあ、基本は信頼性の高い書状関係を中心に考えてますが。で神辺固屋攻めの書状に戻りますが、平賀家はこの後一貫して毛利方なので、天文21年8月13日の時点で平賀氏が神辺城主だったという『福山志料』の記述はつじつまが合わず、ゆえに却下わたくしの見落としがなければ、次に『萩藩閥閲録』に神辺城周辺に関連すると思われる書状が現れるのが天文21年12月20日付け。これは大内晴英と陶隆房からそれぞれ1通ずつ出されており、内容は「外郡の戦に勝ったことは嬉しいなあ。太刀一腰あげちゃうね」てな感じのもので、神辺の文字は出てこないし神辺固屋の戦とイコールなのかはわからないけど、少なくとも神辺周辺で大内方がどこぞの敵と戦っていたとは言えると思う。どこぞの、って言ってもほぼ尼子方としていいんじゃないかと思うけど。さて、どんどんイヤな部分に近づいてきます天文22年4月6日付け、大友義鎮(よししげ:のちの宗麟)から「杉原豊後守」あての書状があります。これは大内義長(晴英から改名)の家督の件について「今後もよろしくね」的なことを言ってるようなんだけど、なんでこの時期に義鎮から杉原氏へこういうことを言ってるのかさっぱりわからない。「わからないなら書くんじゃねえ!」ってツッコミが入りそうですが、まあ時系列に見てますので・・・(笑)。義鎮は、義長の実の兄。義鎮・義長兄弟の母は大内義隆の姉とされます。この時期がどうもなあ・・・この翌年には毛利家が陶隆房と手を切るいわゆる「防芸引分」が実現するので、それ関連かとも思ったんだけど、独立の思いは元就の頭の中にあったかもしれないけど、元就本人は直前までそれを実行に移そうとはしていなかったので、やっぱり違うよなあ・・・て、中途半端で申し訳ないですが、この後「杉原豊後守」が登場しますので、許してちょにほんブログ村
2013年09月22日

前回がキリが良かったので相続イベントの話はあれで終わりにしようとも思いましたが、次にいつこの話を書けるかわからないので、もうちょっとだけ。『陰徳太平記』については、以前は読むつもりはありませんでした。が、この書から多くの通説が生まれ、また引用などもされているようなのでやはり何がどんな風に書かれているのか把握しておく必要があると思い直し、最近になって手に入れました。で、相続イベントについてはこんな風になっていたので、『陰徳太平記』からざっとご紹介します。『陰徳太平記』巻16「小早川系譜 附隆景小早川相続の事」 小早川正平は始め詮平と称した。正平は天文12年5月9日雲州鳶巣川にて討死。 嫡子又鶴丸繁平は幼少の時から3年眼病を患って手を尽くしても治らず、 小早川家は断絶の危機に瀕した。 このため、一族の乃美安芸守・梨羽中務少輔・椋梨次郎左衛門・小泉助兵衛らが 協議し、繁平が両眼を失明してしまったので一族の中から当主にふさわしい者を 選んで本家を相続させようということになったが、その任に堪える者がいなかった。 世間の情勢を見れば、諸国では将も士も自立の道を目指して離合集散を繰り返し、 合戦は止むことを知らない。こうした中で智勇文武に優れた名将は毛利元就を おいて他になく、いずれは中国を支配して諸将の上に立つべき人物である。 彼の子息を養子として家系を継がせれば、先祖をよく顕し、子孫は繁栄するだろうと 衆議が一致して元就に申し入れを行ったところ、公は「それは喜ばしいことだ」 として三男又四郎隆景を養子にする契約がなされ、正平の息女と娶合わせる こととなった。 又鶴丸は盲目ではあったけれど、心までは暗くない。しかし、現世においては 暗黒よりも暗い世界を歩んでいかなければならないことを悲しみ、 遠くの山を照らす月の彼方にある世界に生まれ変わる願いを持って やがて剃髪して墨染の衣をまとい、教真寺という山寺で修行をして 過ごすようになった。 出家してからの繁平は朝に夕に修行に励んだので、和尚も繁平を導くことに 心を砕いた。 ある夜半、カラスの一声を聞いて繁平は悟りを得た。 法号を一林院文室元緒居士という。 田坂全慶・羽倉の某などは 「たとえ盲目であったとしても、繁平こそ主と仰ぐべきである。 それが叶わないのなら、一門の中から家督を継がせれば当家の血脈は 絶えずに済むものを、他氏の人間をわざわざ入れて血脈を絶えさせることは 合点がいかぬ。」 とこぼしていたが、隆景がこれを伝え聞いてことごとく首を刎ねた。 『陰徳太平記』が様々な通説を生み出しているらしいことは知っていたけど、実際自分で読んでみると、「隆景のおかしな通説を生んだのはオマエか~~~!!」って吠えたくなりましたね。いや、これもう丸々現代でも通説として語られてるんだけど。最後の「隆景がことごとく首を刎ねさせた」なんて言い回しも、ふっつ~に使われてるしね。これを覆すだけの明確な史料がほとんどない現在の状況では、嘘っぱちと攻撃する訳にはいかない。が、稲村山城の落城が天文16年で正しければ、上の文章には矛盾がある。だって、隆景の相続は天文19年頃とされているから。もし稲村山城落城の年代と上の文章のどちらも正しければ、隆景の沼田家相続は天文16年1月以前ということになるか、あるいは稲村山城が天文16年に落ちた後も田坂義詮(全慶)は生きていて、天文19年以降に殺されたかのどちらかになる・・・けど、どちらも苦しいと私は思う。それと、『新裁軍記』では徳寿丸が竹原家を継いだ事を取り上げて、例によって「諸軍記では何も書かれてないんだけどさ~」と書き出している。私はそちらを先に読んだので、ウソでしょ~?って思ったけど、確かに『陰徳太平記』の中では毛利家からそのまま養子になったような記述になっていて、竹原のことは完全にすっ飛ばされてるまあ、そうは言っても私は『陰徳太平記』を頭っから全否定してる訳じゃないですよ。たとえば繁平の入った教真寺については相変わらずナゾなので、上の文章で教真寺を「山寺」としていることには興味をそそられますね。当時の寺は多くが山の中にあったとは思うけどね。さて、相続イベントはここまでです。新高山城シリーズを書いた時には、まとまらない材料をそのまま書いたのであんな記述になって心苦しく思っていましたが、当時自分が何を考えていたか振り返れたし、その後で神辺合戦を書いたことで現実的背景からそこそこ流れをまとめられたので、福山編を後回しにしてよかったと今は思います。て、別に計画的だった訳でもないんだけど。いいんです、人生何事も結果オーライですそれでは大変お待たせいたしました。「神辺城(14)」で城と命をかけたもののふの真剣勝負において、平賀隆宗が一世一代の大ペテンで山名理興から神辺城を奪った話の続きを、ふたたび『陰徳太平記』からご紹介します。『陰徳太平記』巻18「備後の国神辺城明け渡す 附目黒最後の事」 山名理興が神辺城を明け渡したことを夢にも知らない尼子晴久は、 神辺城の苦戦を聞いて 「今こ~を見捨てたら、備州の味方はくじけてしま~だら~」 と目黒新右衛門秋光に足軽500を付けて神辺城の援軍に送り出すことにした。 目黒がかしこまって申すには、 「備後へ着いたらかの城を固く守って平賀なんか追い崩す~。 その上で近郷の衆を当家へ取り込もうと思っちょ~ます。 そ~ができん時は、二度と雲州へ戻~事はねわ。」 と大きく出て一旦自宅へ戻り、妻子に最後の暇乞いをした後で、尼子兵500の 先頭に立って備後は神辺城を目指した。 その途中で城を退去した山名理興とばったり会ったので、目黒は大いに驚き、 「ど、どうしたんかいね! 何で城を出てきちょったのかいね!?」 と理興に問いただすと、理興は例の平賀隆宗との対決を説明した。 目黒はこれを聞いてすこぶる怒り出し、 「兵は詭(いつわり)の道であるとは、 古今の武士の誰んもが知っちょ~ことだ。 だけん、弁慶が五戒を受け~時、 『妄語戒と申すは、嘘を言わぬ戒のことのようだ。 人を害するほどの時は、嘘を言わずにはかなわないことも きっとあるだろう。仏の仰せも納得がいかないので、 妄語戒も保たないだろう。』 と言ったんだないか。 はかりごとを帷幄のうちにめぐらす時は 偽言妄語も恥ずべきものではね。 いかに平賀と固く約束したからてていって、 おめおめと城を渡す奴があ~か! も~、信じられん! あり得んだども!!」 と理興に悪態をつきまくったが、理興は 「それがしもそれは存じておるが、天神地祇に誓っての約束だったので、 天の照覧も恐ろしく思って、このように城を明け渡してきたのだ・・・」 と涙ながらに語った。目黒は 「御辺(ごへん)がこげして下城してきちょったからには、こ~から神辺へ行って 平賀と合戦したとこめがで、もはい利を失っちょ~し、いたずらに多くの兵に 損失を出すだけで、晴久には何の得にもならん。 かてていって、このままえんだ(帰った)のでは晴久の御前で大見栄きった言葉が 嘘になってしま~。 この上は、引き連れてきちょった足軽をこのまま帰し、それがしは神辺へ向かい 平賀に検使を1人頼んで自害す~よ。」 と言って、連れてきた500の兵を理興に付けて出雲へ帰し、自身は単身神辺へ 向かって平賀に用向きを伝えた。隆宗は目黒の話を聞くと、 「あわれ義士かの。 あたら兵(つわもん)の自害することの不憫さじゃのぉ」 と感涙の涙を流し、検使として坂新五左衛門を遣わしてやった。 目黒は近くの禅寺に入り、仏前に向かい香を焚き三拝してすっと庭へ躍り出て、 立ったまま刀を抜き、「君と一言の約に因りて臣が百年の齢を誤る」と 白居易の詩を口ずさみ、腹を十文字にかき切った。その後、膝をついて 「これ撃ってごしなはい(撃ってください)」 と坂に声をかけて斬らせた。 隆宗は目黒の遺体を丁重に取り扱い、首を故郷へ送ってやった。 晴久は一部始終を聞いて、 「つわものを無駄な事で失ってしま~なんてて、 何ともつま~への(残念だ)」 と目黒の死をはなはだ惜しみ、息子2人を召し出して、目黒の家は小身だからと 目賀田の家を継がせ、200貫ずつの所領をあてがってやった。 これが目賀田采女清直、目賀田段右衛門政則で、いずれも父に劣らぬ勇者であった。わたくしにはとても出雲弁なぞ使えませんので、尼子晴久と目黒氏のセリフ部分は方言変換サイトにお世話になりました。ただ、変換できない言葉じりがある一方で、あまりにローカルな言葉に変換されてしまう部分もあって、やむなく一部注釈を入れるに至りました出雲弁、面白すぎ・・・じゃのぉて!晴久が援軍を出したというのはホントなんだろうか?話の上では天文19年の出来事になると思うけど、実際に神辺城が落城した天文18年に読み換えたとして、その時期にも尼子のサポートがあったんだとしたら、興味深い。てか、落城前に目黒軍が到着してたら、さらに戦は長引いたかもしれない。平賀軍はあぶないところだったね。この話はまた後で出てきますので、目黒氏のことを覚えていてくださいねにほんブログ村
2013年09月21日

すいません、1話で収まりきらず(笑)前回の天文16年説の続きです。隆景の沼田家相続は天文19年といわれているけど、天文18年の長男をハブにした毛利親子ご一行様の山口行き(「神辺城(12)」参照)の目的の中には、沼田家相続の了解の取り付け、あるいはお礼も含まれてるだろうと私は思う。大内義隆の意向の確認かお礼のどちらだったかはわからないけど、少なくとも元就親子が山口に行った時点では沼田家相続の話はほぼまとまっていたと見ていいんじゃなかろうか。毛利氏が小早川氏全体を吸収しようなんてデカい話が義隆を無視して進められるとはとても思えない。大体ね、毛利元就って人は相続には十分な準備を欠かさない。元春の吉川家相続、隆景の竹原家相続に至ってはそれぞれ3年の時間をかけてる。こんな慎重な人が、沼田家相続の際に簡単に大事な末っ子をポイッと入れる訳がない。吉川・竹原の準備期間が3年というのはただの偶然かもしれないけど、同じくらいのインターバルは置いているだろう。う~ん3年かあ・・・と思って、隆景の沼田家相続といわれる天文19年から3年を引いてみたら天文16年・・・この奇妙な符号はなんだ?前回の話も含めて、こうした諸々の出来事から、天文16年にはすでに新しい時代に向けての行動が始まっていたように思えた。繁平の盲目説については、私は相変わらず疑いの眼を向けてます。だって、幼くて盲目の繁平を拘束することに何の意味がある?本当に病弱で盲目だったなら、逆に拘束されなかったんじゃないだろうか。しかも、拘束には明らかに弘中君などの大内家重臣が関わっている。これは拘束されるだけのそれなりの事情があったと見るべきだろう。でもね、繁平が失明してなかったとしたら、なぜ系図に書かれたんだろう?「失明」の文言がいつ系図に挿入されたのかはわからない。あるいは隆景の相続後に、相続を正当化するために書かれた可能性もあるけど、「病弱」だけでも良くない?もしこの記述が何らかの事実を反映してるのだとしたら、考えられるのは本当に失明していたか、あるいはそれに準ずるようなことがあったか、のどちらかぐらいしか私には考えつかない。う~~~ん・・・『小早川家文書』の系図では、繁平は3歳の時に眼病を患い失明したとある。この系図には繁平の生年は書かれてないけど、天文11年生まれというのが正しかったとして、「3歳」はもちろん数えだろうから、天文13年頃の出来事か・・・ん?天文13年といえば、沼田領が攻撃されたといわれていて、尼子方との接点のあった年じゃないか。てことは、例えば天文13年に家中で尼子方への内通の動きがあり、それを理由に拘束された。でも幼い当主の内通の事実を系図に書くのはおかしいし、体面もある。だけど何らかの形で残しておこうと思って、「失明」という形で表現した、とか?・・・それに、「失明」という言葉を考えてみれば、文字通り視力を失うというものから、光を失うということでもあるし、拡大解釈すれば当主の資質を欠いたとか資格を失ったという意味にあてはめられなくもない。いや、もうここまで来ちゃうと個人的憶測以外の何者でもないけどね。でも、そんな風な推測が頭に浮かんだ。沼田家の相続イベントが難解なのは、様々な人のそれぞれの思惑が複雑に絡んでいるから。誰が何を考えていたか、どういう状況にあったか推測も交えもう一度整理してみましょう。最近になって少し考えが変わった部分もあるのでね。神辺合戦の流れも思い出しながら読んでくださいねまず、竹原を除く小早川家内には、一部尼子方の者がいた。おそらく、被官人が中心だったろうと思われる。それから、「高山城(22)」に書いたように、明応年間を境に被官人の勢力が弱まり、庶家が本家の経営にも乗り出すようになってきた時期でもある。相続イベントの頃には被官の中でも田坂氏が中心的存在と思われ、田坂義詮の居城は天文16年に小早川勢の攻撃を受けて落城したとされる。次に大内家。天文12年から天文15年までの期間を神辺合戦に含めていいのかは相変わらず疑問が残るけど、備後の回復を狙った動きがあったのは確か。天文16年からは神辺城を標的とした戦いが始まっており、ルートの確保は絶対に必要。竹原家が裏切ることまではさすがに想定してなかったでしょうけど、それでも沼田本家がふたたび尼子方へ転じたら、神辺城攻めも頓挫するし、安芸防衛ラインが後退する。それでなくても直近の頭崎城攻めの途中までは沼田家の高山城は尼子氏にとって重要な拠点の一つであったし、不穏分子が熾火(おきび)のように存在している可能性は沼田家が大内方になってからも常に弘中君などの頭の中にはあったかもしれない。繁平の拘束については、東西条代官であり安芸全般について責任を持つ弘中隆兼がもちろん関わっていると思われる。が、繁平の帰城交渉の行方について弘中君と並び決定権を持っていたと思われる小原隆言が、神辺城攻めにも責任を持っていたことを考え合わせると、拘束の事情が備後戦線にも関わりがあるんじゃないかという推測も成り立つ。最後に毛利元就。ここが一番私の見方が変わったかもしれない。何が変わったかはひとまず置いといて、隆景の沼田家相続の話が持ち上がってからは、このイベントを完遂させるために色々手は尽くしたろうと思われる。年不祥ながらも、繁平の帰城交渉の途中では新荘系小早川氏本家の椋梨盛平から相談を受けている。書状の時期がわからないものの、小原君が出てくることから神辺城が落城する天文18年以前の可能性が高いと思われる。とすると、隆景が相続したといわれる天文19年以前に、元就が小早川家中の大事な相談を受ける関係が出来上がっていたといえる。ひとまずこれだけの事を材料に、相続イベント全体の流れを推測してみました。まず繁平の拘束時期は、天文12~13年、天文16年のどちらもありえる。「3歳失明説」を重視すれば早い方になるし、背後の状況を考えるなら天文16年でもおかしくない。ただ、ウィキペディアでは田坂氏の稲村山城は【1547(天文16)年1月16日に小早川勢に強襲され、落城した】とあり、さらに【正式に沼田小早川家を相続した隆景は、隆景の沼田小早川家相続に反対した一派の粛清を行い(一説によれば元就本人による粛清だったともいわれる)、義詮は高山城内で日名内玄心により暗殺された。その後、天文16年(1547年)1月16日、乃美宗勝らの襲撃により稲村山城も落城し】となっている。わたくしのブログの読者様は、この文章が大いなる矛盾を含んでいることにお気づきだと思いますが、そこへのツッコミはここでは我慢して(笑)、どこから持ってきた日付かはわかりませんが、稲村山城が天文16年1月16日に攻められたのが正しいのであれば、天文16年の拘束はちょっと無理が出てくる。というのも、天文16年の尼子軍の接近は、書状の流れからすると、1月よりもう少し後じゃないかと思えるのだ。それに、繁平の拘束の意味ね。繁平本人に罪のないことは弘中君だってわかってるはずだし、それ自体には直接の意味はない。なら何で拘束したか考えてみた時に、これは家中の尼子派への牽制、もしくは人質として当主を押さえたんじゃないかという考えが浮かんだ。まして田坂義詮が繁平の後見人だったなら、効果はかなり期待できるんじゃないか?ただ、尼子派に反乱を起こされたら意味がない。田坂義詮などの尼子派中心人物もあわせて拘束した可能性もあるけど、そこまですると武力抗争にまで発展する恐れもあるし、火種を大きくするだけ。にしても、罪のない幼主を拘束して親大内派の小早川家臣にまで反感を買わなかったのかな~と思ったけど、ここで被官を追い落として実権を握ろうと思った庶家がいたとすれば、また話は違ってくる。大内家としても、親大内派が家中の実権を握れば小早川一族全体の掌握につながるし、歓迎できる。備後へも安心して遠征できる。それから、小早川正平の家督を繁平が継承する際には椋梨盛平から元就に相談したような形跡があり、あるいは繁平の家督について大内家への口添えを頼んでたかもしれない。天文12年に椋梨領が攻撃を受けた際には元就も協力してくれて、これは特に新荘系にはありがたかったはず。小早川家からすれば、毛利氏との関係を深めることは大内家へのよりしっかりしたパイプができる。大内家からすれば、沼田家と毛利家がつながれば小早川一族の掌握も楽になる。こうした三者の思惑が絡み合って、天文13年頃に家中で尼子氏と内通する者が現れ、その牽制として繁平は拘束され、天文16年頃にはおそらく弘中君了承の上で小早川家内で尼子派の粛清が行われ、同じ頃隆景が後継者に指名されて、同盟の証として乃美大方が元就に嫁いだ。家中の尼子派を一掃し、大内家に忠誠を見せた親大内派の代表格・乃美隆興はご褒美として掟破りの偏諱を受けた・・・そんな風に今回の諸々の推測をまとめてみました。ただ、そんな中でも親大内派は繁平を見捨てなかった。その後も繁平が生き続けたことがそれを物語るんじゃないだろうか。元就からすれば、たぶん繁平も排除したかっただろうと以前書いたけど、あるいは元就を通じて弘中君に繁平の助命を嘆願したかもしれないな~とも思った。さて、ここまでのところで元就氏が前面に出てきませんね。神辺合戦を書く中で、当主交代のきっかけはあくまで大内VS 尼子の世情を背景に小早川家内の勢力争いと大内家の備後計略の政治的な要素が大きいのかな~って思うようになったからです。でも、隆景の沼田家相続の話が出てからは別よ。その先は元就さんお得意の周到な準備を重ねただろうという点については私の見方は変わっていません。ただ、年不祥で主語も目的語もロクに書かれなくて意味がわからないけど、どうも気になる書状がいくつかある。これについてはもう少し材料が揃わないと何とも推測のしようがないので、今は保留にしておきます。それらの書状の意味がわかったら、また推測を修正するかもしれません。にほんブログ村
2013年09月20日

神辺城の落城まで来まして、まだ話は続きますが、一旦ここで隆景の沼田小早川惣領家相続イベントの話を蒸し返したいと思います。現地に行ったのは福山の方が先ですが、新高山城シリーズを書いてる時は当事者近辺の流れを追うのに必死で、神辺合戦から読み取れることがあるとは思ってなかったのでね。それに、書いてるうちに新たな視点が湧いてくることも、考えがまとまることもあります。まあ、我ながらしつこいな~とは思いますが、たぶん自分で納得いく答えが見つかるまでこの先もずっと考え続けるのでしょう。新高山城シリーズでは関係者ごとに見つつ、書いた時点での疑問点や状況をあれこれ書き出しましたが、おさらいしたい方は「新高山城(4)」以降を見ていただくとして、ざっと当時の内容をまとめますと、まず通説は 沼田家では天文11年、当主の正平が月山富田城の退却戦において討死。 長男の繁平が1歳で家督を継いだ。 繁平は幼少、かつ病弱であり、天文13年頃には病気のため失明。 尼子方による攻勢が強まる中で、沼田家家中からは竹原家当主・隆景を 当主に望む声が上がり、隆景と繁平の妹を娶合わせて、天文19年 隆景が沼田本家も継承。ここに、竹原家と沼田家は統一されることとなった。 隆景が沼田本家を相続する際には、隆景の当主擁立に反対する家臣もいたが、 田坂善慶を始めとする反対派は、隆景によってことごとく粛清されたという。で、客観的に見て動かない状況は・前当主・繁平は高山城とは別の場所にいて、帰りたがっていた。・繁平は元服後に出家した。・天文17年頃には、庶家の乃美氏から乃美大方が毛利元就に嫁いでいる。・隆景の相続には乃美氏が貢献している。・天文19年頃に隆景が相続した。2番目の繁平が元服後に出家したというのは私の推測ですが、「新高山城(6)」に書いたような状況からここに含めても差し支えないと自分では思ってます。ちなみに、「新高山城(6)」の中でちょろっと出したなかなか落ちなかった備後の城というのは、もちろん神辺城を指します。そして、これまでの記事でのジジイの推定は・田坂義詮の没年は、居城・稲村山の落城と同時、もしくはその直前か直後で、 天文16年と思われる。・隆景を高山城に送る以前に、元就は家中の反対派を片付けていると思われる。・乃美隆興は大内義隆の偏緯を受けたのか?・乃美大方の嫁入りは同盟の証、もしくは人質に近い存在かもしれない。え~と、まず乃美さんから行こうかな。本シリーズに入って安芸の流れも見ているうちに、やけに乃美さんちが存在感あるな~と思った。例えば、「神辺城(3)」に書いた、天文12年6月の尼子方による椋梨領攻め。椋梨氏は新荘系小早川氏の本家だから、史料に名前こそ現れないものの、周辺の新荘系庶家も応援に駆け付けただろう。なのに、援護してくれた元就の奮戦を報告したのは椋梨と乃美だった。椋梨氏はいいのよ。当事者だし、本家だし。が、なんで乃美氏まで・・・乃美氏には古い乃美さんと新しい乃美さんがいることを「高山城(19)」に書きましたが、ここでいう乃美さんは新しい方。新・乃美氏の祖は11代・煕平の次男で、12代・敬平の弟にあたる。つまり、庶家の中では惣領家当主に血が近い。加えて、敬平のあと扶平・興平・正平はいずれも若くして亡くなった。こうしたことから、創設当時から新・乃美氏の発言力は結構あったのかもしれない。神辺合戦では、坪生要害を落とした時に乃美宗勝が感状を受けている。( 「神辺城(9)」をご覧ください)宗勝は実は浦家の人間だから、海上からの支援が小早川氏の役割だったなら、そう不思議なところはない・・・が、宗勝の父・賢勝の代から乃美を名乗っているところが気になる。あるいは、賢勝が継いでからの浦家は乃美の分家的な感じだったかもしれないという想像が頭をかすめた。まあ、神辺合戦中には浦家以外の庶家も参加してるだろうから私の考えすぎかもしれないけど、坪生要害攻め(天文16年)が始まる頃には浦家を含む乃美一族による隆景へのバックアップ体制が整っていた可能性もあるんじゃないだろうか。ただ、水軍を隆景が率いるのはいいとして、陸からの応援もあるだろ~。幼主・繁平を補佐していたフシのある椋梨盛平なら、本荘と新荘の陸軍を率いるのに不足はないとも思えるんだけどね。けど、それを示す史料は今のところ見当たらない。そういえば、推定の中で乃美隆興の「隆」は大内義隆の偏諱を受けたんじゃないかと書いたけど( 「新高山城(5)」をご覧ください)、どうも通常のルールでは陪臣には偏諱は行わないらしい。じゃあ、偶然?にしても、初めから「隆興」だったならまだわかるけど、元々「公平」と名乗っていたんであれば、途中から「隆」の字を使った名前に変えるのは不自然。でもでも、偏諱のルールが邪魔をするう~・・・もし隆興が義隆から偏諱を受けたんであれば二階級特進以上の掟破りだから、それこそ抜群の功労でもなきゃあり得ない・・・沼田家相続のひとつの大きなカギは、何と言っても繁平の拘束にあると私は思う。拘束の理由としては繁平が尼子方に通じたからだと一般的にいわれており、それが本当だったなら神辺城を中心とする備後戦線と関連が深いんじゃないだろうかと思って、月山富田城遠征後の安芸と備後の流れを書きながら、平行して繁平の拘束時期についても考えてみた。持ち前のしつこさで相当色んな事を考えたんだけど、それらを断片的に書きつづっても意味不明な文章になるし、その都度メモをしていた訳でもないのでもうその全ては思い出せない(笑)。が、新たに推測したところをまとめてみますと、少なくとも繁平の拘束時期は父・正平が亡くなった天文11年(1542)から隆景が沼田家を相続するまでの天文19年(1550)に絞られる。まあ、隆景の相続時期そのものもはっきりしてないんだけど、ここではひとまず一般的に言われる天文19年としておきましょう。それから、拘束の理由が尼子への内通だとした場合の推測になりますのでご了承ください。ここまでの神辺合戦の流れの中から窺える尼子方の接近時期は2回。月山富田城攻めの直後、天文12~13年頃が1回目。次が天文16年。(⇒「神辺城(10)」を参照)実際はもっとあるかもしれないけど、手持ちの史料から確認できるのはこれだけ。<その1:天文12~13年説>この時期には小早川領が攻撃を受けているし、尼子方は力攻めだけではなく調略も行っていた可能性は十分にある。もちろん、繁平はまだ1~2歳だから繁平本人の内通ではなく、尼子寄りの家臣にそういう動きがあったってことで、家臣も共に拘束されたかもしれない。頭崎城攻めの終盤までは、小早川家も尼子方だったんだしね。天文8年の尼子方への陣替えの時の城代は田坂氏で、この方はまず田坂義詮の一族だろうから、田坂氏が尼子寄りだった可能性はある。(田坂さんについては「新高山城(9)」をご覧ください)そして、田坂義詮は繁平の後見人を務めていたとされる人。昔のことを持ち出して難癖つけられたというより、ホントに尼子方と誼を通じて拘束されたのかもしれないな・・・と神辺合戦を書きながら思った。しかし、まだ幼くて明らかに罪のない繁平を拘束することに一体何の意味があるんだろう、という疑問が残る。<その2:天文16年説>周囲の状況から考えると、こちらの方が本命に近い。この時期は色んな出来事が重なるのだ。まず、国境まで尼子兵が来ていたことが小原隆言の書状からわかる。(上記リンク「神辺城(10」を参照ください)この書状の中で「調略」という言葉が使われているのは「神辺城(10)」に書いた通りだけど、最初私は大内方が尼子方を調略したのかと思っていた。が、尼子方による大内方の調略とも読めるのか・・・それに対して毛利隆元が出張っていって、事なきを得たのかもしれない。そして、調略のターゲットには小早川氏も入っていたかもしれない・・・この年の4月には坪生要害を落とし、神辺城攻めも本格化した頃。こんな時期に小早川氏が再び尼子方に転じたとしたら、もう山名理興討伐どころじゃなくなる。「新高山城(6)」で毛利元就から椋梨盛平あての書状を私の超アヤシイ訳で紹介しましたが、この書状から繁平の件については弘中君と小原君が実権を握っていたことがうかがわれる。弘中君は何度も紹介してる通り、東西条代官であり安芸との関わりも長く深いので、弘中君から時期を絞るのは難しい。が、小原君は私の手持ちの史料だと天文16年以前に安芸・備後戦線に関わった形跡が見られない。だからと言って、帰城交渉を始めた時期にたまたま小原君がいただけかもしれないし、確実な証拠にはならない。が、私の知る限りでは小原君が安芸・備後に関わったのは神辺合戦が激化した天文16年(1547)~天文18年(1549)頃。ひとまず、小原君が安芸・備後にいた頃にはまだ繁平は拘束されていたと見ていいだろう。そして、天文16年は田坂義詮の居城・稲村山城が落城したといわれている年でもある。同じ天文16年の坪生要害攻めからは、乃美宗勝が隆景をしっかりサポートしている。あ~んど、乃美大方も天文17年頃に毛利家に嫁に行っている・・・にほんブログ村
2013年09月19日

平賀氏が神辺城攻めを引き継いでもなお神辺城は落ちませんでしたが、天文18年(1549)7月3日、平賀隆宗は陣中で亡くなります。死因は病気とされてます。「頭崎城(11)」を書いた時には平賀弘保・興貞・隆宗いずれも生没年がわからなかったので、あれこれ計算をしてみましたが、「山城攻城記」様のサイトにそれぞれの生没年が書いてあるのを見つけました。それによると、 弘保:1475~1558 興貞:1498~1552 隆宗:1524~1549だそうで、これを基にすると隆宗の享年は25歳。おお、私の計算、いいセンいってたじゃんそれに、興貞はやっぱり討死じゃなくて出家したってことになるよな。天文18年時点では弘保は74歳か・・・嫡男は当主の座を追われ出家、期待の孫には先立たれ、ご老体にはさぞこたえたことだろう弘保といえば、大内義隆が将軍・足利義晴から上洛の要請を受けた際、義隆から「一緒に行きましょうね」ってお誘いを受けていたらしい。それに対して弘保がお返事したのが天文7年だから、ちょうど頭崎城攻めが激化した頃ですよ。ここからも、古いつき合いの平賀氏が義隆からも信頼されてたことが窺えるのに、なんで隆宗の死後、あんな相続をさせたろう?10年の間に何かが変わったのだろうか・・・(←しつこい)隆宗の死後持ちあがった平賀家のあらたなトラブルについては上記リンクを見ていただくとして、隆宗の死で奮起した平賀家家臣団が頑張ってついに神辺城を落としたといわれます。ここまで頑張ってもなかなか落ちなかった神辺城が、なんでここに来て落ちるか?って疑問もあるけど、隆宗の死を契機に援軍が来たかもしれないしな。して、『大内氏実録』によると隆宗の死から2カ月後の9月4日夜、神辺城主・山名理興は城を抜けて逃亡したとある。9月8日には陶隆房から平賀弘保あてに、隆宗のお悔やみを述べた上で、家督については神辺の件が落着してから定めることに致しましょう、という内容の書状を送っている。9月4日に理興が逃げたんなら、9月8日にはもう落着してるんじゃないの?って思ったら、逃げただけで理興はまだ生きてるから、捜索が続けられたらしい。で、そのために弘中君と青景君を投入したと『大内氏実録』は語る。なら、理興が逃げた時点では大内軍はタッチしてなかったってことか・・・翌月くらいには青景隆著が神辺城に入ることが決まったらしく、11月には周辺国人へそのお知らせが行っている。で、ここまでのところについて『新裁軍記』では、 ・神辺城落城時に、他家の戦功が見られない。よってその時点では加勢はなかった。 ・隆宗の跡目について願い出たのに、大内家では落城してから許すとしている。 これは神辺城攻めが平賀氏のみに任されていたためで、隆宗の死亡時点では まだ城が落ちていなかったので「落城が先だ」とされた事を意味する。 ・9月7日付けの毛利元就の書状に「神辺城は先日4日に落ちたらしい。理興が 逃亡したというのが本当なら、知らせを寄越すように」とあることから、 元就が帰って以降に落城の噂を耳にしたことを表し、これも平賀氏が単独で 城を落としたと見ることができる。 ・ただし、毛利軍の帰陣がいつかは判然としない。が、4月16日の合戦の感状が あることから、4月から5月の間に帰ったものと思われる。他の諸将の帰陣も 同じ時期であろう。とまとめている。あっ、そう・・・平賀氏単独ですか・・・まあ、当主の死に打ちひしがれてるところに「城を落としたら家督を考えてやるよ」な~んて言われた日にゃあ、「こなくそ!!」って感じにもなるかもねっと、陶隆房はこの時点ですでに打倒義隆の準備を進めていた可能性があるので、隆宗の跡目に隆保を送り込んだことは、案外来るべきその日に向けてついでに「平賀つぶし」を目論んだ隆房が義隆にうまいこと言って仕向けたって推論がちょっと頭をかすめたんだけど、どうでしょうね。でも義隆寄りの子を入れたところで、隆房の戦力になる訳じゃないし、隆房にはなんのメリットもないな・・・やっぱ違うかさて、城が落ちるところまで書きましたが、落城に関する隆宗のエピソードを『陰徳太平記』からまたご紹介しましょう。もうツッコミどころ満載の愉快で怪しげな話ですが、なんせわたくし、隆宗ファンなもので・・・そしてこれが、隆宗最後の武勇伝になります。『陰徳太平記』巻18「備後国神辺の城明け渡す 附目黒最後の事」 平賀、山名とも「今日こそは!」と思いながらも早くも3度の正月を迎え、 城はいっこうに落ちる気配もない。もはや天運に任すのみと心に定めた隆宗は、 理興に使いを出した。 「これまで戦ってもまだ決着もつかず、兵はある者は討たれ、ある者は傷つき、 このままじゃぁいたずらに兵も民も苦しめるだけじゃ。 わしゃぁ運を星に任せ、貴殿の矢を2本受けることにしたんじゃ。 矢が当たりゃぁわしの運が尽きたと諦めよう。 が、もし外れたら速やかに貴殿が城を出るっちゅうなぁどうじゃ?」 これを聞いた理興は、 「ふん・・・ワシの弓の腕は古の弓の名人にも劣らぬものだぞ。 たとえ蚊のまつ毛、蟻の眼であろうと、見えさえすれば射あててやる!」 と喜んで隆宗の申し出を受けた。 時は天文19年10月13日、隆宗・理興は供も連れず2人きりで 城の尾崎で会った。 隆宗は床几に腰掛け、九字・護身法を行って「弓は当たらない」と念じて待つ様は まさに的のようであった。 理興は弓弦を湿らせて矢を2本取り、隆宗に相対して矢をつがえ、 「さあ、どこに射ようか? どこでも望みの所に当ててやるぞ」 と隆宗に問いかけると、隆宗は扇で自分の胸板をほとほとと叩き、 「ここじゃここじゃ。 わしの胸で受け止めて、貴殿の弓勢と鏃(やじり)がどれほど鍛えられてるか 試しちゃろう」 とにっこり笑って立ち上がった。 いくら兵の命と引きかえとはいえ、中国無双の手練の矢、 1本どころか2本受けようという隆宗の度胸こそ大胆不敵。 宵のほどは北風が雲を帯び、月は少し暗かったが、この時は時雨の後で 空は晴れ渡り、寒月は殊の外澄み渡っていて木の影に遮られることもなく 白昼よりもよく見えるほどだった。 まして隆宗の身に着けているのは鎧も兜も金箔縅(おどし)。月の光に輝いて 射外すはずもない。理興が引き絞って放った矢は弦音高く飛んでいき、 確かに手応えはあった。 「当たったであろう」 と理興が問いかけると、隆宗は少しも騒がずからからと笑い、 「長の籠城で弓の腕も落ちたかの。だいぶ低かったぞ。 日頃は1~2町の中じゃぁ獣でも鳥でも10のうち8・9は射ると 聞いとったんじゃがの。 それが、1町の中に立つ人間をこうも見事に外すたぁな」 と言い放った。 実は一の矢は隆宗の太腹を打っていたのだが、隆宗は名うての剛の者であったので、 二の矢を当てさせないためにこう言ったのだった。理興は 「えっ、マジ?低かった?」 と真に受けて、二の矢を高めに放ったので、矢は隆宗の肩すれすれに越していき、 後ろにある石に当たった。石は火花を散らし、鏃は砕けて飛び散った。 隆宗は2mほど動いてそれをよけ、 「さあ、約束通り城を明け渡してもらおうかの」 と理興に迫った。 誓約は金石よりも固いもの。理興は城内を綺麗に掃除して、約束通り 城を隆宗に渡し、自身は尼子を頼って出雲へと落ちていった・・・。この話はまだ続きがありますが、都合により一旦ストップです。サギ師・隆宗の最後の雄姿はいかがでしたでしょうか?蚊にはまつ毛ないし、どんなに明るい月夜でも昼間よりよく見えるはずがないし、だいいち石に当たれば火花が飛んで鏃が砕けるほどの弓の勢いなら、それをお腹に受けて瞬間的にでも絶対体は動くはずだし、も~う上の文章を書くのにツッコミまで書くのをどれだけこらえたか・・・でも、私はこのエピソード、隆宗がカッコよくて大好きです。隆宗に広島弁を使わせるべきか悩んだけど、ニヒルな世界を味わいたい方は隆宗のセリフを標準語時代劇調に直してお読み下さい(笑)。ウィキペディアでは『陰徳太平記』を物語としては不人気だったとしているけど、ホントかなあ?読んでて面白いと思うし、これなら一般ウケするんじゃないかと思うけど。ただ、史料でウラが取れてる部分もある反面、明らかに史実と相違すると思われる点も多分に含まれてます。上の話でいえば、隆宗と理興の対決は天文19年10月13日としているけど、実際には天文18年に青景隆著が神辺城を任されたという書状が存在するので、間違いと言っていいでしょう。ツッコミ大魔王・『新裁軍記』では落城の日付は9月4日に間違いないとした上で、「平賀隆宗は神辺城落城以前に死亡している。その証拠に陶隆房が『家督については神辺一着以後に定める』としており、死後もしばらく落城していなかったといえる。つまり、隆宗の生前に運の矢で城を落としたなどとはとんでもない話で、陰徳は妄説だと知れる。」と非常に憤慨した様子で、一刀両断どころじゃないくらいバッサリ切っているハハハ・・・・まあ、あんたが正しいとは思うけどさ~、そこまでズバズバ言わなくたって・・・(笑)。にほんブログ村
2013年09月18日

4月17日 神辺籠屋口で合戦。4月21日 神辺七日市表固屋口で合戦。4月?日 平賀家が神辺城攻めを一手に引き受ける。6月2日 神辺で合戦。6月5日 神辺で合戦。6月18日 神辺固屋口で合戦。7月3日 平賀隆宗死去。9月上旬 神辺城落城。え~、天文18年のサイドストーリーはとりあえず前回までとして、神辺合戦の話に戻ります。4月21日も「固屋口」が出てきますが、「七日市」もくっついてます。ここから、当時の神辺城下に市があったことが窺われます。余談ですが、仕事で全国からの書類を扱ってると、様々な地名で手を止めることがよくあります。以前は「城東」とか「馬出」とか「堀切」とかの城に関連するわかりやすい地名だけに目が行ってましたが、最近ではそれ以外の、昔そこに何があったか、どういう場所だったかを示す地名にも目を留めるようになりました。地名にも色んな種類がありますが、結構多いのが「ナントカ荘」ってやつね。遠い昔に始まった荘園制が、21世紀の現代でも地名として残ってることに歴史ファンとしては深い感慨を覚えてボンヤリしますね・・・仕事中にね(笑)。地名ってのは明確な土地の記憶で、あなどれないな~と思うことが多いので、なるべく古い地名は残して欲しいものです。あっ、で、4月21日の戦いについて毛利隆元が感状を出してるので、平賀隆宗が神辺城攻めを引き継いだのはそれ以降、4月下旬じゃないかと思われます。平賀隆宗は「頭崎城(11)」やその他頭崎城シリーズで名前だけ出してますが、この神辺城シリーズで隆宗のことを書こうと思って我慢したんです(笑)。東西条編では「竹原にし殿」のことも最低限の記述にとどめたし、初めから東西条編の各シリーズと神辺城シリーズを連動させるつもりだったので、本シリーズが誰も書かないようなおかしな構成になってるのも仕方のないことだとご了承ください。して、ここからは平賀隆宗が主役です。神辺城の記事にも関わらず、ここまで城主である山名理興は最初の頃にしか出てきませんでしたが(だって史料が少ないんだもん)、わたくしの立ち位置的にしょうがありません・・・が、隆宗を書くオマケにちょっと出てきます。え~、月山富田城攻めの最中、山名理興とその仲良し組が陣中で好き勝手なウワサ話をしていた『陰徳太平記』のエピソードを「神辺城(3)」でご紹介しましたが、その中に隆宗の話も出てきてます。はい、頭崎城を落とされたオヤジ・興貞に代わって平賀家の家督を継いだと思われる隆宗は、月山富田城攻めにも参加したようです。『陰徳太平記』では、隆宗のことを陶隆房・吉川興経と並べて「類なき剛将」としている。さらには「隆宗は京童共、鬼平賀と号する程の強将なれば」と持ち上げている。隆宗の在世中は、遠く離れた京にまで隆宗のウワサが届く理由がないだろ・・・とついツッコミを入れたくなるものの、神辺城攻めにおいては「鬼平賀」にふさわしい武勇伝が書かれてます。まあ、タイムテーブルを見てもわかるように、隆宗は同年、若くして亡くなって活躍の場が少ないので、すげ~胡散臭い話だろうが、『陰徳太平記』から少々マイナー武将・平賀隆宗の紹介をさせていただきます。隆宗が単独での神辺城攻めを引き受けて以後のエピソードです。『陰徳太平記』巻17「平賀杉原合戦の事」 平賀隆宗と山名理興(原文では杉原忠興)は、足軽を出しては小競り合いを 続けていたが、いずれも劣らぬ勇将でもあり、なかなか勝負はつかなかった。 天文18年11月19日、杉原播磨守盛重、杉原左衛門大夫興勝は 700騎を率いて隆宗のこもる向城へ押し寄せて、足軽に 「なんか~、ウチの城を落とすためにここに籠ってるって聞いたんだけど~、 別に戦う訳でもなくずっとここに籠ってるじゃ~ん? てことはあ~、実はウチの城の護衛をしてくれてるんだったりして~? アンタんとこの家臣は、実は誰1人として 城攻めなんかしたくないんじゃないのかなあ~?」 と挑発に出させた。これを聞いた隆宗は 「あんの、クソ盛重め~~!!」 と500騎を率いて討って出た。その際、舎弟の隆祐に 「わりゃぁ囮となって麓を下れ。適当に矢いくさをしたところで 弱々しゅう引き上げて来い。追手を引きつけてから一気に討ち取る!」 と作戦を授けた上で500騎のうち300の兵を隆祐に預け、自身は旗を巻いて 200の兵とともにこっそり城を出て途中で待ち受けた。 隆祐は杉原勢と渡り合った後、一矢打っては退き、を繰り返し、うまく山腹まで 杉原勢を誘い込んだ。 頃はよしと見た隆祐が一目散に城へ駆け戻ると、これを見た城内の見張りが 合図の太鼓を打つと同時に、谷に隠れていた隆宗率いる200騎が 杉原勢の右手からまっしぐらに襲いかかった。 杉原興勝も盛重も音に聞こえた勇者であったが、横合いから不意をつかれては かなわない。杉原勢があえなく崩れて敗走するところを隆宗が追い、 首50ほどを上げた。 「ゴルァァァ!さっきまでの罵声はどうしたあ!! 返せ~、左衛門! 戻せ~、播磨守!!」 返せといわれて返す者がおるハズもなく、 盛重と興勝の2人はまっしぐらに城へ戻って行った・・・・・隆宗の弟は新九郎(広相)と梨子羽に養子に行った景行しか私は知らないので、「舎弟・隆祐」が誰のことを指すのかはわかりません。さて、続き続き・・・ 翌日。 足軽がまた小競り合いをしているところへ、隆宗がわずか50ほどの兵を率いて 現場の指揮に現れた。城中からその様子を見ていた盛重は、 「うっしゃあ! 昨日のリベンジじゃあ~!!」 と屈強の兵300を選んで、隆宗の旗本へまっしぐらに向かって行った。 隆宗は少し油断しており、しかもこちらは少人数。隆宗ピンチと思われたが、 そこは剛の平賀兵、馬を一列に並べてリベンジに燃える盛重の攻撃を よく防いでいた。 杉原興勝は前日の戦いで軽傷を負い休んでいたが、盛重が出たとの報を受けて あわてて馬に飛び乗り、50騎ほどを率いて盛重の後を追った。 それを見た隆宗は 「くそっ、やられた! こうなりゃぁもう、皆でここで死んでやるう~!!」 と死に物狂いで敵へ討ちかかっていった。命を捨てた兵が一度にかかってくれば、 さしもの杉原勢も退かざるを得ない。敵が少し退いたのを見て隆宗は 「よしっ!ここが退き時だ! みんな、城へ戻るぞ!!」 と先頭きって退散したので、平賀兵も急いで引き返した。 「逃すか、ボケが!!」 と盛重が追うと、隆宗が真っ先に引き返し、よくしんがりを務めていたが、 隆宗の馬が射られてしまった。 ああっ、隆宗様、あやうし・・・ベン、ベベン ここで舎弟・隆祐が4~500の兵を率いて向城から救援に来た。盛重は 「昨日のお返しじゃあ~!!」 と首14~5取ったところで退いて行った。 十死を逃れ一生を得た隆宗は、それでも敵に後ろを見せることはなかったのに 「今日は油断してしもぉた・・・ 何たる不覚!!」 と歯噛みをして立ちつくしていた・・・・・あ~、だんだん講談調になってきました(笑)。いやホント、昨日ついーともしましたが、軍記物はただ読むより自分流に書く方が楽しいです。ただ、自分なりに書くと(特にセリフ部分は)性格出るなあ~とつくづく思いますがバトルはまだ続きます。 さらに翌日。 また足軽同士の小競り合いがあったので、隆宗は例の金ピカの鎧を着て、 屈強の兵30ばかりを選んで足軽を追い払うと、逃げる敵には目もくれず、 そのままたった1人で神辺城内へふいっと入っていき、 中で古い小屋を見つけると、それに火をかけてすぐさま駆け出ていった。 「お、おい、今の平賀隆宗じゃ・・・! くそっ、油断して討ちもらしちゃったよ~!!」 と手に手に武器を引っ提げて城兵が隆宗の後を追ったところへ 現れたのが1人の武者。 この者は最初に隆宗が城内に入った時、一緒に城へは入らず三の丸の橋の下に 隠れた男だった。 「チッ!臆したか・・・」 と隆宗は橋の下の男を見て思ったが、実は隆宗の退路を確保しようと隠れたのだった。 この者が橋の下から追手の足を薙ぎ払って深追いを阻んだので、 隆宗は何事もなく悠々と引き上げることができた。後で隆宗が 「誰だ、あいつ?」 と聞くと、坂新五左衛門という名で、故あって吉田を去り、浪人となって 平賀家に身を寄せているということだった。 隆宗が着用したという「例の金ピカの鎧」というのも『陰徳太平記』に出てくる話で、なんでも月山富田城攻めの際には籠手鎖まで金の具足を着て、前立てにはこれまた金造りの5本立てのシュロの葉を用いたという、太閤秀吉もまっつぁおのド派手なユニフォームなんだそうな最後の勇者は、毛利元就が大永4年(1524)に弟とその取り巻きを粛清した時に逃れたとされる坂元祐さんのことです。ディテールについてはほとんどフィクションだろうと思うものの、6月には合戦の記録があることから、小競り合いを含め両者の間でこんな風な攻防があったのだろうと思われます。にほんブログ村
2013年09月17日

はい、天文18年(1549)に移ります。1月?日 陶隆房、よその家の家人の誅伐に関わった件で詰問を受ける。2月14日 毛利元就、元春・隆景を連れて山口入り。4月17日 神辺で合戦。4月21日 神辺七日市表固屋口で合戦。4月?日 平賀家が神辺城攻めを一手に引き受ける。5月18日 元就、山口を出立。6月2日 神辺で合戦。6月5日 神辺で合戦。6月18日 神辺固屋口で合戦。7月3日 平賀隆宗死去。9月上旬 神辺城落城。え~と、今回も青字の部分が神辺城関連で日付は『萩藩閥閲録』から持ってきてます。あ、と前回書き忘れましたが、天文17年6月の城攻めの後、大内方では神辺城周辺で大規模な「稲薙」を行ったようです。「稲薙」はその名の通り稲を刈っちゃうことで、もう収穫は見込めないし、心理的な効果もあったようですね。昔なんか当然人力のみで田植えするんだからさ~、せっかく苦労して農民が植え付けたものをダメにしちゃうなんて・・・ああもったいない平成の世では収穫間近の農作物をどこぞの不届き者がごっそり盗んでしまうなんて世知辛いニュースが結構ありますが、あれ、見ててマジで腹が立つんだよね~まあ、そうは言っても天文年間とは時代が違います。なんたって命がかかってますから、ここに腹を立てても仕方ありまへん。そして持久戦に切り替えて、包囲は続けたって感じなのかな。年が明けて早々、大内家内ではまたもや不穏な動きが見られます。もちろん、こんなとこで大寧寺の変について書くつもりはないですが、同じ時期に何が起こっていたのか、流れを押さえていて欲しかっただけです。翌2月、隆元を除く毛利家ご一行様、山口へお出かけ・・・「も・・・元就さん、今や押しも押されぬ安芸国人のリーダーである貴方が、なぜこの時期に?まだ神辺城落ちてませんよ!?」「わしゃぁもう隠居してるけぇのぉ。隆元は残してるから、別に問題ないじゃろう?」「いや、隠居ったって、全然実権渡してないじゃないですか!しかも子連れ・・・吉川も小早川も、大事な戦力じゃないですか!!」「うるさいのぅ。大内様へ諸々のお礼をゆいに来ただけだし。大丈夫で、大丈夫・・・」「何が大丈夫なんですか?この時期じゃなきゃダメだったんですか!?」ダメだったんですよ、この時期じゃないと。元就が山口へ何をしに行ったのか、基本的な見方は山口編を書いた当時と変わってませんので、読んでない方や忘れた方は「大内氏館(4)」を見ていただくとして・・・山口編を書いた時はロクな資料も持ってませんでしたので、お供したのは誰なんじゃい?って感じだったけど、やっぱり隆元はこの時は山口へは行ってませんね。だって隆元は、表にある4月の戦いについての感状を出してるし、元就が山口から帰った後、山口に付き添いに行ったと見られる家臣には「父上のお供、ありがとな。色々大変だっただろ?」ってねぎらいの書状を出してるしね。けど、歴史研究のクオリティの高い山口で、こんな間違いを犯すだろうか・・・なんで龍福寺資料館に隆元の人形なんか展示したろう?『陰徳太平記』では隆元も一緒に行ったことになってるから、そちらを採用したのかな?ああそれから、上の記事を書いた時から2年経った今では、元就が受けたもてなしの内容が書かれた史料が手元にあります。新高山城の遠足イベントでは、メニューがないとボヤきましたが、この時のはちゃんと残ってる。・・・もちろんこの場では料理の中身については書きませんが、メニューがあったらあったでそれはまた解析が大変・・・まあでも、これだったら誰かしら研究してるよな。まさか手つかずってことないよな研究はされてても、わたくしには探せない可能性もありますので、そうなったら自力でレシピを解析せねばなりませんとんでもない作業になりそうですが、山口を再訪した時、あるいは別立てでいつか大内家のおもてなしについて書くかもしれません。(↑大変なのがわかってるから、言い切れない)料理のことは置いといて、山口滞在中に元就をもてなしたメンツから神辺合戦のこともちらりとうかがえます。何がわかるのかって?まずは、おもてなしスケジュールを見てみましょう。3月5日 義隆のおもてなし。3月9日 青景隆著のおもてなし。3月19日 陶隆房のおもてなし。3月23日 義隆&陶隆房のおもてなし。4月14日 陶隆房のおもてなし。これは元就が客の立場の饗応ですが、元就から大内家重臣へも沢山贈り物などをしてそれぞれと会っているらしい。そのうち、神辺合戦に関係すると思われる人だけを書くと、陶隆房・青景隆著のほかに3月16日・4月23日に吉見興滋とも会っている。つまり、この方たちは天文18年の春、山口にいた訳です。ご面倒ですが、「神辺城(9)」の文書から推測される神辺攻めでの出張組リストと見比べていただくと、青景君は天文17年中頃に名前がないと思ったら、一旦山口に帰っていたようですね。元就が帰るのと同じ頃に、再び備後へ出張したんだろうな。吉見君も推定天文16年と天文17年以外は書状に名前が出てこないから、天文18年に山口にいても別に不思議はない。まあ、大内家重臣からの感状の日付は、合戦から結構タイムラグがあるし、必ずしも現地にいたとも言い切れない部分はあるものの、署名人の顔ぶれと状況から、ほぼ現場責任者と見ていいんじゃないかと判断して話を進めてますのでご了承ください。で、問題は陶隆房なのだ。一番上のタイムテーブルで、4月に2回合戦があったようですが、その次、平賀君が神辺城攻めを一手に引き受けたとありますね。この経緯について、『陰徳太平記』では 【仕寄を付けて連日攻めても、地形は峻嶮、城に籠もる1千5百の兵は剛強で たやすく落ちそうにない。 これを見て平賀隆宗は、 「私は山名理興とトラブルがあって、も~う憎くてたまらんのです。 奴の所領を戴けるなら、私1人で理興の首、取ってみせましょう。 どうか、この私にお任せを!」 と陶隆房に申し出た。隆房がこれを了承すると隆宗は喜んで 「じゃあ、向城を築きたいと思いますので、ご助力を」 と頼み、隆房もこれを受け入れ各陣から人夫を出させて向城を築き、 隆宗に任せた。これにより陶・毛利・吉川・小早川の面々は陣を引き払って 領国に戻っていった。 こうして平賀隆宗は800の兵を率いて向城に籠った。 山名理興はこれを聞いて 「ワシが憎いから1人で落としてみせるだとお~! あ~んの、こわっぱめ!! 今すぐ奴を捕えて、門の外で首を刎ねてくれるわ!!」 と地団太踏んで怒りまくった。】(巻17)てな感じで、なんか隆宗が執念深くて自信家で、しかも図々しい人みたいに書かれているのが気に入らないけど、とにかくそんな経緯だとしております。ただ、それがいつなのか、日付は書かれていない。『大内氏実録』の方では、隆宗の遺恨話も採用してはいるものの、若干趣きが違う。 【是月(天文18年4月)、平賀太郎左衛門尉隆宗、神辺陣中より建言して、 一城を取るべきが為に大軍を客地に置くは不利なり。隆宗山名に宿怨あれば、 隆宗に任ぜられたしと申請ふを以て隆宗に攻城を命じ、諸軍は各国に就かしむ。】『続本朝通鑑』ではこの出来事を6月としているが、それは誤りだとビシッと切った上で、平賀家譜および古文書から4月を採用したと近藤清石は述べている。ふ~む・・・やっぱり『平賀家文書』買わなきゃダメかな(←前から欲しかった)ただ、『陰徳太平記』に『大内氏実録』の年月を当てはめると天文18年4月に神辺で隆宗が陶隆房に愁訴したってことになると思うけど、それは明らかにないよね。だって、隆房はその時山口にいて表では元就をもてなし、裏ではこっそり元就と文通してたんだから。ので、ここは『大内氏実録』の方が事実に近いのではないかと思われますが、「神辺陣中より建言して」とあることから、陣中で隆宗に任せることが決定したのではなく、上層部の指示を仰いだってことになるのかな。そりゃそうだよね~、連合軍が周囲から攻めてってやっと城に取りつくところまで来たのに、平賀軍のみに任せてすべてがパアになったりしたら大変だもんね~。しかも動機は個人的怨恨とか、ありえね~ちなみに、隆宗の遺恨てのははっきりしてないようですが、坪生の地を理興に奪われたことじゃないかと世間ではウワサされてます。しかしまあ、大軍で落とせなかったものを平賀氏単独に任せるってのも、ずいぶん思い切った決断だよな~と思う。とにかく、神辺城攻めは平賀氏が引き続き行うことになったようです。天文18年4月にね。4月。4月以降に元就親子が山口に来たんだったら、まだわかるよね。しかし、隆宗が悲壮な決意で神辺城攻めの続行を受け持った時、毛利さんは山口で豪華な接待を受けていたのだ。これ、どう考えてもおかしくない!?おかしいでしょ~・・・・・・元就は今や、ただのイチ国人じゃない。備後内郡をも任されてる。一万歩譲って、「もう隠居してるし~」を受け入れたとしても、有力他家を継いだ息子2人まで連れて来るなんて、明らかに戦力減。「隠居のご挨拶と息子達が他家を継いだことへのお礼」が建前だという印象は、神辺城というフィルターを通しても疑いが晴れるどころかますます疑念が湧く。そうして、陶隆房の計画は着々と進められてゆくのだ・・・にほんブログ村
2013年09月16日

ここから天文17年(1548)に入ります。6月2日 大内軍・毛利軍および安芸国衆で神辺城攻撃。6月5日 神辺で合戦。6月18日 神辺城に迫り、塀越しに戦う。6月28日 神辺で合戦。8月 大内義隆、相良武任を再出仕させる。10月 天文16年5月からこの月までの間に、竹原小早川徳寿丸元服。まずは神辺城関連ですが、上の流れの青字部分は『大内氏実録』にあるもの。6月の合戦に先立つ3月には、大内家重臣による連名で安芸国人あてにこんな書状が2通出されてます。「去年、弘中隆兼を外郡・内郡へやった時、色々ありがとね~。今後もしっかりね~。」最初、これは坪生要害の戦いに関連する書状かと思った。でも坪生合戦からは時間が経ちすぎてるし、その後も尼子兵の侵入などもあったようだから(=前回参照)、具体的に何があったのかまではわからないけど、備後戦線では記録に残されていない数々の出来事があったのかもしれない。で、6月・・・あれ?2年続けて6月に戦いがあるのか。農繁期とかとの関係かな上のタイムテーブルは、合戦に関連して出された感状から読みとれる日付とは若干相違があります。感状から日付を抜き出すと、6月18日 神辺固屋口で「城越えの鑓働き」あり。6月20日 18日に同じ。の2日しかわからない。現在残る11通の感状は毛利隆元からがほとんどで、元就からが1通・・・いや違うな、元就のものはお見舞いの文書だから、『萩藩閥閲録』で確認できる上での感状はすべて隆元から出たことになる。それから、感状に「神辺固屋口」の表現があることから、山麓にも何らかの施設があったと見られている。『大内氏実録』の流れは古文書から引いたものだとしているけど、細かい日付の違いはここでは気にならない。それより、両方に共通しているのは「城越え」「塀越え」って部分で、前年にはまだ坪生など周囲を攻略してた状況であったのが、天文17年には神辺城に迫るまでになったことを意味する。実はここまでの間に、天文16年~17年頃にかけて大内方が周囲の城を落としていったとも言われるのですが、どうにもアヤシイ話も含まれてるようだし、今の私には自分の頭で判断できませんので、ここでは周囲の状況についてはごっそりカットさせていただきますm(_ _)mただ、天文17年6月に山名理興の本城に肉迫できるだけの環境が整ったことは間違いないでしょう。ん~で、感状を見る限りではこの時の城攻めは大内軍・毛利軍・安芸国人・備後国人あたりが参加していたようですね。小早川軍の存在は、ここからは窺われない。『陰徳太平記』ではこの辺、陶隆房が5千の兵を率いて安芸入りし、合戦イベントの募集広告を出したところ、 ・毛利元就 ・毛利隆元 ・吉川元春 ・小早川隆景 ・宍戸元源 ・宍戸隆家 ・平賀隆宗 ・香川光景 ・己斐豊後守の豪華メンバーが集い、1万を超える軍勢になった。して、6月20日に神辺表へ出陣したとする。神辺合戦については、『陰徳太平記』ではいっきなりこの天文17年6月の戦いの記述から始まっていて、『新裁軍記』が小さなテーマを取り上げては、「こんな話、どこの軍記物にも書かれてなくってさ・・・」ていちいち断りを入れているのもうなずけるさて、悪いけど軍記物からの引用は必要最低限にとどめようと思ってますが、天文17年6月の戦いに関連しての『陰徳太平記』のエピソードを、少し長いですが1つご紹介します。『陰徳太平記』巻17「備後国神辺の城合戦の事」より 天文17年6月23日、吉川治部少輔元春は吉川家を相続して以後 初めてとなる戦なので、 「よお~っしゃ! ここは是非とも活躍して目立たにゃぁ!!」 と張り切って1千の兵を率いて城の麓へと押し寄せた。 まずは小高い場所に馬を控えさせて、足軽をいくつかの隊に分け、近隣を放火。 山名理興は神辺城を叔父の弾正忠に守らせておき、自身は1千の兵を2つに分け、 杉原左衛門大夫に300の兵を預けて討って出させた。城兵は 「ちょっと! 放火、やめてよ~!!」 と吉川勢に向かっていき防戦に努めたが、城兵の少ないのを侮った吉川兵は、 手柄を立てようと我先にと城兵へ向かっていった。 これを見た理興は、城の後方から林を抜けて吉川の本陣へと回り込み、 一気にカタを付けようと、元春の旗本へ斬りかかった。 かねてより理興は 「長引くと元就が来て、勝つことは難しくなる。 とにかく、元春を討ち取っちゃおう! 皆が勇気を出して頑張れば、大丈夫、この戦勝てるから!!」 と言い渡しておいたので、理興配下の杉原播磨守盛重は率先して敵陣へ 斬り込んで行った。 元春この年19歳。 勇気ある若武者で、多勢の敵の急襲にも少しも臆することなく、バカでかい声で 命令を下したので、吉川1千の兵も元春に従い力戦した。 が、城兵は多勢でしかも不意打ち。押され気味の自軍を見て、元春は危険を顧みず 自ら槍を取って敵兵に突きかかっていった。 こうなると、家臣も頑張らざるを得ない。激戦の中、杉原盛重が負傷し 少し退いたところを、勢いづいた吉川勢がガンガン押しまくったので、 ついに理興は兵を引いた。 追撃する吉川兵に対し、理興は城の柵ぎわで取って返し反撃に出た。・・・が、 ここも破られて理興は城中へと戻った。 さて。 合戦が終わって、陶隆房が元春の陣へやって来た。隆房いわく、 「御自ら敵と最初に渡り合い、敵もひるんだようです。 この戦、勝利間違いないですな しかし、武勇を誇り軽々しく矛を合わせて戦ったことはイケてません。 いやいや、元春殿はお若い。 今後はこのような振る舞いをしてはいけませんぞ。」・・・と、18歳(←実年齢)の若獅子・元春ちゃんの凛々しい様子が描かれております。合戦の推移の真偽のほどはわかりかねますが、元春の兄・隆元から多くの感状が出されているし、備後国人・湯浅氏の被官は討死をしているようなので、元春VS.理興の対戦だけではなく、この前後で激しい戦いが行われたようです。え~と、私は『吉川家文書』を持ってないので、『萩藩閥閲録』に元春からの書状がない以上、元春がホントにこの戦に参加していたのかはなんとも言えません。ただ、この時点で元春はまだ吉川氏の本城へは入城してませんでした。それまでどこに住んでたんだろう・・・吉田の実家から出陣してきたのかな?このエピソードはまた後の話につながってくるので、元春と山名理興、そして理興の家臣・杉原盛重のことを覚えていて下さいね6月の戦には大内家からは杉甲斐守・弘中隆兼・小原隆言の重臣が検使として参加したようです。そういえば、『陰徳太平記』などではこの時陶隆房が出張ってきたとあるものの、『大内氏実録』ではそれを採用してませんね。『大内氏実録』の中では、 【十七年戊申夏六月二日、毛利元就国衆を以て備後安那郡神辺を撃ち、村尾城主 山名宮内少輔理興と戦ふ。これより先、杉甲斐守、小原隆言も出張し弘中隆兼と 同じく毛利氏の軍に検使たり。】とある。陶隆房といえば、親族衆(陶氏は大内氏の分家)であり奉行三家老の1人。隆房が出張ってくれば、そこそこ記録は残ってるだろうと思うんだよね~。ので、近藤清石(大内氏実録の著者)もアヤシイと踏んで採用しなかったのかもしれない(笑)。が、大掛かりな総攻撃が仕掛けられたようであるのに、神辺城は落ちなかったみたいです。天文17年の神辺城攻めの記述は6月のもののみ。城攻めはさらに来年へと持ち越されるので、大内軍による包囲が続けられたものと思われます。で、一番上のタイムテーブルに戻って、天文17年のその他の出来事を見ますと、前回の最後で紹介した相良武任が1回目の家出から呼び戻されてます。武任の帰参によって、大内家では破滅への「その時」に向けて、ますますダークな雰囲気が漂います・・・暗い話題の次は、明るい話題をひとつ。竹原小早川家を継いでいた毛利元就の3男・徳寿丸がこの頃元服しました~!!いや~、おめでとうおめでとう徳寿丸の元服のお日取りはわかっていません。が、天文16年5月3日に出した坪生合戦の感状が「徳寿丸」であり、次に天文17年10月に顔を出す時には元服後の名前らしいので、神辺城攻めの合間を縫って木村城に戻って元服したのであろうとされております。はい~、とっくにおわかりですよね。ようやく「小早川隆景」の誕生で~す!!うう、ここまでどれだけこの名前を出すのを我慢してきたことか・・・「隆」はもちろん、大内義隆から一字もらったもの。「景」は竹原家の通し字。義隆は大内家中はもとより、九州も含めた周辺国人に「隆」の字の大盤振舞いをしてますが、ついにわたくしの隆景ちゃんも隆ブラザーズの一員となりました。にほんブログ村
2013年09月15日

ふ~、歴バナだけでもう10話・・・普通の歴史ファンの訪城記なら、7年の神辺合戦の軌跡を長くても5行くらいで収めてますよなのに、わたくしは神辺合戦で考えたことがありすぎて、すべてを書ききれないんじゃないかと思うほど。いつからこんな書き方をするようになったのか・・・たぶん、東西条編あたりを境に自分の頭で色々考えるようになってきたんじゃないかと思うけど。ただ、通説ってのも案外あてにならないものだと知ったし、自分で考えて消化した方が遠い昔の出来事をよりリアルに捉えられるような気がするので、稚拙であろーが間違ってよーが、最近は自分の素朴な疑問や感じ方を大事にするようになった。わたくしのブログでは旅日記と城の記事を分けて書いてますが、城の記事で歴代最長なのは新高山城(全32話)。イベントを2つ書いたからね。が、本シリーズ、まだまだ先は長いッス。あっさり終わらせるつもりの部分もあるけど、しつこいとこはしつこいので、もしかして新高山城の話数を越えるんじゃないかと思い始めました・・・さて、前回天文16年(1547)のタイムテーブルに戻りますが、まだ坪生要害から抜けられません(笑)。史料から推測される小早川軍の構成は、水軍が中心。ただ、前回書いたように沼田惣領家の統制下にあるはずの浦氏からもこの戦いに兵を出している。いちおう、この時点では小早川氏全体が大内家の傘下にあるので、戦略が海からの支援ということであれば、海側に所領を持つ庶家が参加するのは別に不思議なことではないのかもしれない。竹原小早川興景のことを書くにあたって、少し興景の書状を見ていた時、たとえば吉田郡山城の戦いの中の天文10年1月3日の軍功状などには、日名内・乃美などの庶家の名前もあるし、小早川家の被官がケガをしているようなので、そこそこ「小早川軍」と呼べる軍を興景が率いていたらしいということがわかった。が、坪生要害の戦いでは、私の手持ちの史料からはあまり沼田本荘と新荘から兵を出した感じは窺われなかった。それに、前回紹介した感状の差出人ね。『新裁軍記』では、この戦いでのトップは毛利元就だとしている。毛利隆元からも感状が出されているので、元就・隆元親子が参加していたのだろう。一方の小早川家からの感状は、徳寿丸からのもののみ。もちろん、全ての感状が残っている訳でもないでしょうから断定できない部分もあるものの、少なくとも坪生の戦いでは徳寿丸が小早川軍を率いていたと見ていいのだろう。ちなみに、天文11年生まれの沼田家当主・又鶴丸(繁平)はこの時5歳。徳寿丸が華々しいデビューを飾った坪生要害(清水山古戦場)を、せっかくだから今回訪れようかと思った。が、田口義之氏の「びんご古城散策」によると、戦前に山の麓を掘り返したところ、大量の人骨が発見されて坪生合戦での戦死者のものだろうと地元で伝えられているとのことだったので、やめた(←相変わらずの恐がり)。坪生の人骨がホントに合戦で命を落とした時のものだったとしたら、結構激しい戦だったのかもしれない。古老の伝える昔話ってのは、案外どこかしらに真実を含んでいるものじゃないかと私は思ってるしね。あ、それから、徳寿丸が竹原家を継いだあと、2~3年大内家に人質に行ってたとする説がありますが、天文15年までの動向は判然としないものの、天文16年にはこうして初陣を飾ってますから、徳寿丸の人質はないと思います。だいたい、人質に取る理由がないし、当主が人質ってナニ!?て感じなんだけど7月ごろ 毛利元春が吉川家の家督を継ぐことが決まる。8月?日 小原隆言が安芸入り。8月12日 大内義隆、毛利隆元を備中守に推挙。12月下旬 尼子軍が国境に駐軍。小原隆言は賀茂郡志芳にて毛利元就と会談し、 外郡へ出陣。尼子軍退散。え~、話が長すぎてページがまたがっちゃったので、前回のものを再度載せましたが、8月に登場する小原隆言(おばら・たかこと)は大内家の家臣です。大三島の鶴姫伝説をご存知の方も多いでしょうが、鶴姫を主人公にした話だと、討死した兄に代わって16歳にして出陣した鶴姫は、天文10年(1541)小原隆言を討ち取ったそうです。が、前回書きましたように、小原君は天文16年~18年までの神辺合戦の関係書状にばんばんサインしてますので、神辺合戦に参加したのは、大内家の行く末を案じた小原君のゴーストだったかもしれませんま、伝説ですから、伝説・・・で、小原君は義隆の代の「大内殿有名衆」に名があり、侍大将・先手衆。月山富田城攻め以前には伊予にも数回出撃しております。ここまでのところで伊予については触れてませんが、月山富田城の敗退後、安芸と備後で防衛戦が展開されるのと同時に大内氏では伊予にも兵を出して天文16年時点でも継続して戦ってます。ま、この時の小原君が伊予から直接来たのかまではわかりませんが。して、12月の記述を見ると、この時期にもまだ尼子兵が入り込んでいた様子がわかります。え~と、どの段階からかはよくわからないんだけど、義隆は備後支配を内郡(内陸部)は元就に、外郡(沿海部)は弘中隆兼に任せたようで、尼子軍が国境のどこにいたのかまでは書いてないけど、外郡に小原君が行ってるということは、小早川領付近まで来たのかもしれない。ここはちょっと引っかかる部分があって後でまとめて書きますが、外郡のことについても小原君が元就と相談してるので、元就が安芸・備後戦線で重要な参謀の役割を果たしていたことがうかがわれる。天文16年12月頃に尼子兵が侵入したことは、小原君から毛利隆元あての書状でわかるんだけど、その書状の中で小原君は隆元の備中守受領についても触れている。『新裁軍記』ではこのあたり、8月12日に隆元の備中守は決まったけども、戦の最中で忙しかったりしたのですぐには隆元に知らせが届かず、年末になってようやく本人へお知らせが届いたとしている。ので、天文17年からは晴れて毛利少輔太郎隆元あらため、毛利備中守隆元と相成ります。その少し前あたりには元春の吉川家相続がようやく決着するし、「戦の最中に何やってるんですか?」って言いたくもなるけど、戦が常態化していた当時では、遠征とかでない限り、日常生活の隣で戦にポンポン出てたのかな~ってちょっと不思議な感じがした。まあ、この年の2月には義隆は策彦周良を正使として2度目の遣明船を出してるしね。(策彦周良が1度目の遣明船から帰った後の愉快な酒バナについては、「武将と僧侶のアルコール耐性」をご覧ください)あと、元就と小原君が会った志芳は、神辺城からは結構離れた場所にある。それに、吉川家とのやり取りの書状でも「御陣所」とかって書かれてないみたいだし、てことは、大きな戦以外では元就親子はちょいちょいお家へ帰ってたのかな~って思った。いくらかの毛利兵は戦地に残してたかもしれないけどね。小原君から隆元への書状の中では、「所々調略故不得寸暇延引候」という言葉が使われてるんだけど、年不祥8月26日付けの平賀弘保あての書状に「於堺目調略之子細候」という文言を見つけた。書状の差出人は、吉見興滋・小原隆言・青景隆著・陶隆満の大内家重臣。手持ちの史料で確認できる出張組司令官は前回の最後に紹介しましたが、それと見比べてみると、吉見君をのぞいてメンバーが当てはまるのは、天文16年6月と天文18年8月。小原君を除いたメンバーにすれば、天文17年3月も該当する。ただ、手持ちの書状では確認できなかったけど、『大内氏実録』によると、天文17年にも小原君は神辺へ来ているらしい。て感じで、人の線から攻めると天文16年~天文18年の間の可能性があるけど、「調略」が話題となるのは、小原君と元就が相談した天文16年しか私は知らない。天文16年6月当時の書状には吉見君の署名はないけど、前回書いたように、吉見君が天文16年にもどこかへ出張していたことは確実なので、弘保あての書状が天文16年のものである可能性はあると思う。であれば、神辺合戦において通常平賀弘保の名前が出てくることはないのだけど、弘保も自領にあって遠くから神辺城攻めを援護していたのかもな~って思った。で、一旦は小原君は山口へ帰ったようです。ひとまず天文16年に関したことはここまでですが、文字限度数も近いし、ページがまたがると後が面倒なので、天文17年は次回からとして、一旦天文14年の出来事に戻ります。大内義隆の晩年を語る時、必ず出てくる大内家家臣がいます。名は、相良武任(さがら・たけとう)。ここでは詳しいことは書きませんが、安芸と平行して大内家の流れも見ていきますので、簡単にご紹介します。義隆の右筆として仕え、のち奉行人。その行政能力は高く、義隆も重用したようです。月山富田城攻めにおいては、武任は大反対したとされ、大内軍が見事に負けた後は、家中での発言力も強くなったといいます。陶隆房などのイケイケ武人を武断派とするならば、相良武任は文治派。そう、ちょうど大内家の石田三成と思っていただければイメージもしやすいかと思います。陶隆房がのちに義隆に反旗を翻したのは、この相良武任に義隆の寵愛を奪われたからという痴話バナシを造り上げる人もいますが、そんなんじゃありまへん。で、天文14年というのは、相良武任が武断派とちょっとヤバくなり、1回目の出奔をした年です。ついでに出家までしていたようです。安芸と備後で防衛を固めてる間、大内本家ではすでにキナ臭い空気が充満しつつありました・・・にほんブログ村
2013年09月14日

私が現地でコピーさせてもらった例の100枚を超える大量の資料の中には、備後の通史を書いた一般図書もある。そのうちの(たぶん)『備後史夜話』という本では、天文15年の暮れになって山名理興と大内氏の間で和睦交渉が進められたが、和睦の条件をめぐって対立し、結局交渉は決裂したとしている。う~~ん・・・結構言いきっちゃってるけど、これはどこかに書いてあるのかなあ?私は備後の郷土史料はホントに断片的なものしか持ってないので、何とも言えないんだけど・・・ただ、他ではこうした記述は私は見たことがない。で、天文16年からは合戦の事実を裏付ける書状などが多く存在して、天文12年~15年までとは大違いなので、天文16年以降を神辺合戦と呼んだ方がいいんじゃないかと私なんかは思っちゃうんだけど、当事者でもある小早川隆景が7年かかったって言ってるんだしなあ・・・でも、前回紹介した渡辺家の文書の全文を私はまだ読んでないんだけど、田口義之氏によると、説得に熱が入りすぎたのか、事実と少々異なるとおぼしき記述が見受けられるという(笑)。ダメじゃん、隆景ちゃん・・・「神辺城攻め7年かかったよ説」がこの隆景の書状だけによるものなのか、あるいは他の史料も存在してこう言われているのかはわからない。『新裁軍記』では、隆景の書状について 【ただしこの証文は写しなり。然れども文勢事実共に虚脱に非ざること疑いなし、 その上吉田記にもこの証文を取用たり】としているけれども、田口氏の指摘もあるし、果たして「7年」部分に全幅の信頼を置いてもよいものなのか・・・父親譲りのオーバーさでちょっと大げさに書いちゃった可能性だって、なくはないんじゃない?(笑)え~、ま~、とにかく世間的には大内氏が神辺城を落とすまでには7年かかり、神辺合戦のスタートは天文12年(1543)だとされておりますです~(←なげやり)。天文16年(1547)に神辺城攻めが激化する以前から大内方による準備が進められ、攻略がすでに始まっていた証拠として、天文13年(1544)7月3日付けの大内義隆から因島村上氏への書状がある。これは備後・鞆に18貫の地を給与するとした下文で、神辺合戦を語る上で欠かせないひとつのファクターとなっている。つまり、神辺合戦の話では必ずといっていいほど取り上げられる書状な訳で、書状の写しは『因島村上家文書』の中にあるらしい。そして、これを機に因島村上氏は大内氏の傘下に入り、小早川氏とのお付き合いも深まったと当然のように世間で語られているので、私もそれをそのまま受け止めていた。が、田口義之氏は『びんご古城散策/大可島城と村上亮康(2)』の中で、この書状はニセモノだろうと判定しておられる・・・おえ~~~~っぷ!!吐きそう何が何だかわからなすぎて、もう神辺城の記事書きたくないんですケド・・・ととととりあえず、私は『因島村上家文書』は持ってませんが、『小早川隆景のすべて』によると、因島村上家から竹原小早川徳寿丸あてに太刀を贈ったそうで、年不祥ながらも幼名の徳寿丸の名前でお礼状を出しているようなので、おのずと年代は絞られる。ので、有名な義隆の下文がニセモノであったとしても、徳寿丸の元服以前からそれなりのお付き合いはあったようです。まあ、お隣さんだしね。え~っと、真面目にあれこれ考え始めるとマジで気分が悪くなってくるので、ぽちぽち天文16年に入りましょうか。ここからの流れは、おそらく郷土史料などにも書かれてるんじゃないかと思うけど、わたくしの乏しい手持ちの史料やコピーした資料だけでも結構色んなことが書かれていて、「ホントかよ?」て感じなので、ひとまずここでは『大内氏実録』『萩藩閥閲録』『小早川家文書』『毛利家文書』からの情報をメインにしてご紹介します。4月28日 毛利軍・小早川軍が備後外郡五ヶ荘に戦い、坪生の要害を落とす。7月ごろ 毛利元春が吉川家の家督を継ぐことが決まる。8月?日 小原隆言が安芸入り。8月12日 大内義隆、毛利隆元を備中守に推挙。12月下旬 尼子軍が国境に駐軍。小原隆言は賀茂郡志芳にて毛利元就と会談し、 外郡へ出陣。尼子軍退散。出典が限られているので、並べるとこれっぽっちの出来事ですが、書くことは沢山あります。青字の部分が神辺城関連、黒字はその他の出来事です。まず最初の坪生要害。小早川軍と言っても、主力は恐らく竹原軍。とゆーのも、徳寿丸の初陣がこの坪生要害攻略と言われておるのです。徳寿丸、この時14歳。そして、徳寿丸の署名での感状も残されております。この戦いに関連しての『萩藩閥閲録』に掲載されている書状は、天文16年5月3日付けを最初に、最も遅いもので天文17年3月17日。1年近く経っちゃってるよ・・・ざっと見ただけなので、1~2通の見落としはあるかもしれませんが、しめて12通の感状を見つけました。差出人はそれぞれ徳寿丸、毛利元就、毛利隆元、大内義隆、あと神辺城攻めの責任者と思われる大内家重臣の面々。受取人は、ちょっとはっきりしない人もいるけど、因島村上家家臣、備後国人、安芸国人、毛利家家臣、大内家家臣てとこかな。坪生要害は神辺城から東南の小山に築かれた砦。上記の因島村上家への下文の真偽はともかく、大内サイドでは海側からも攻めていったらしく、本陣は鞆に置き、徳寿丸は天文14年から鞆に在陣していたともいわれる。で、鞆から北上して山名理興方の城を落としていったので、理興は大内対策として坪生に出城を築いたとされる。一方の大内方では、小早川軍をして手城に城を築かせ、前進基地としたという。「坪生」も「手城」も、現在も地名が残っている。(周辺地図はこちら 。右上に坪生、左下に手城)つい何日か前、坪生町にお住まいのお客さんがどっかの銀行の手城支店を振込先に指定した書類があって、もう仕事中だというのに意識が飛んでいきましたよ・・・て、真面目に仕事しろって?ただ、この辺てカッチン(水野勝成)が福山城を築いて以降、相次ぐ干拓でかなり地形が変わっている。んで、干拓の状況の地図を見てみると、現在の手城町はぽっかり海の中。手城町から北も結構海で、天文16年当時は坪生付近まで海だったかもしれない。手城には手城島城跡というのがあり、現在は陸続きらしいがかつては海に浮かぶ小島で、四方が絶壁の堅固な地形であったという。先に挙げた感状の受取人、この中には気になる人が含まれている。1人は小早川一族の乃美宗勝。この方は一般的に、厳島の戦いから小早川水軍の提督として活躍したという風に言われているけれど、乃美を名乗ってはいるものの、実は浦家の人間。(乃美氏と浦氏の関係図はこちら )宗勝の父・賢勝は乃美氏の生まれで、浦氏を継いだ。のに、なぜか父ちゃんも宗勝も乃美を名乗っていてちょっとややこしいんだけど、竹原に近い海に面した一帯が浦氏の所領だった。その地理的関係からも推測できるように、浦氏は初代から水軍を擁していたという。もう1人は、末長景道。この方は名前がよく出てくる割に詳しいことがわからないんだけど、『萩藩閥閲録』の文書には、景道さんの先代・先々代は竹原小早川氏に仕えたとある。景道さん自身はといえば、『小早川隆景のすべて』によれば因島村上家と小早川氏の両家に同時に仕えた人だという。どちらも海の一族。それから、浦家の家臣と思われる人も坪生要害の戦いで感状を受けており、これらの人々から、この時の小早川軍の構成は水軍がメインだったかな~ということが窺われる。さて・・・大内義隆から因島村上家へのアヤシゲな書状とセットで語られる話に、手城に城を築いたというのがある。これはおそらく『小早川家文書』の中の、年不祥8月7日付けの書状から来ていると思われる。内容は、「備後外郡五ヶを竹原に預けるので、ここに城を築きがっちり固めておくように。そして海上の安全を確保するように」てな感じ。「五ヶ」は五箇荘(ごかのしょう)のことで、まあ大ざっぱに言って手城と坪生の間にまたがる一帯ですかね。で、これを受けて手城島城を築き、その後に坪生要害を落とした、という流れで語られることが多い。・・・のだけど、ちょっとすっきりしない。この書状、受取人は弘中隆兼。差出人は吉見興滋・青景隆著・陶隆満の大内家重臣。吉見さんは石見国人の吉見さんの一族じゃないかと思われるんだけど、『大内殿家中覚書』の奉行衆に見える「波多野備中守」がそうだともいう。青景君と陶隆満君は「神辺城(4)」で簡単に紹介しました。東西条代官・・・この頃はもう「西条守護」と言ってたかな、の弘中君は結構長いこと東西条を中心とした安芸、それから備後南部を任されていたけど、神辺城関連の書状を見てると万年管理者の弘中君とは別に、合戦イベント用に臨時に重役が派遣されたらしいことがわかる。しかも、ちょいちょい入れ替えがあったらしい。書状に残るイベント要員は、天文16年6月 小原隆言・青景隆著・陶隆満天文17年3月 吉見興滋・青景隆著・陶隆満天文17年6月 杉甲斐守・弘中隆兼・小原隆言天文18年7月 小原隆言・青景隆著・右田隆俊天文18年8月 小原隆言・青景隆著・陶隆満天文18年11月 竜崎隆輔・小原隆言・陶隆満てな感じで、天文18年は短期間で署名する人が変わっているので、必ずしも署名をした人が神辺城攻めの責任者とは言えないかもしれないけど、ある程度は実態を反映しているものと思われる。こうして並べてみると一目瞭然だけど、吉見興滋は天文17年にしか顔を出さない。ので、天文16年前半の坪生要害攻め以前に竹原家に五箇荘を預けたというのは正しい見方なのだろうかという疑問が湧く。ただ、天文17年の安芸国人へのとある書状の中で「去年、興滋が帰る時さ~」って言ってるものがあるので、吉見君がどこから帰る途中だったのかはわからないけど、あるいは天文16年にも備後に遠征していた可能性はある。そもそも、天文12年~15年の書状が少ないからなあ・・・信頼性が高い文書系史料の空白部分は、郷土史料に頼るしかないのかもなあ・・・にほんブログ村
2013年09月13日

え~、天文13年(1544)のビッグイベントにかなり記事を費やしましたが(笑)、『大内氏実録』には同じ年の3月上旬、「卜部兼右山口に下向す」とある。卜部兼右は吉田兼右(かねみぎ)のことで、『兼見卿記』で戦国ファンにお馴染みの吉田兼見のお父さんです。大内義隆といえば、月山富田城攻めに失敗して引きこもり、文芸や遊享に走って身を滅ぼした・・・みたいなイメージが強いかもしれないけど、別にこの時が吉田家とのお付き合いの始まりだった訳じゃない。戦国きっての文化人でもあり、華麗なる大内文化の申し子ともいえる才能を持ち合わせていた義隆の関心は、和歌や漢詩文のみならず能楽・儒学・仏学・神道・有職(ゆうそく)学など幅広い分野に及んだ。このうち、吉田家からはもちろん神道を学んだ訳だけど、すでに天文3年(1534)、吉田家を通じて神道伝授の第1ステップとなる書を山科言継に求めている。その後も順調にお勉強は進むが、驚いたことに天文11年(1542)3月、月山富田城攻めの遠征途中の陣中でも、吉田兼右から20数種もの神道関係の書物をもらってるんだそうな。ところが、せっかくもらったそれらのうちの幾つかを敗走して山口に帰還するまでの間に紛失しちゃったらしく(そりゃそうだろ)、帰った翌月の天文12年6月5日にはあらためて伝授してもらったという。いやいや、再伝授の頃の大内家内では、想定される尼子方の来襲に備えてそりゃもう真剣な討議が連日重ねられてたと思うけどね。ちゃんと軍議に出てたか?義隆。とりあえず、晴持を失った悲しみで泣き暮らしていた訳でもないらしい。・・・て、海を越えて朝鮮にまでその勉強熱心なウワサが届いたという、いかにも義隆らしいエピソードでした。翌天文14年(1545)は神辺城に関連するような目ぼしい記述はない・・・が、『萩藩閥閲録』を見ていた時、平賀隆宗が家臣と思われる人に所領をあてがうという書状を見つけた。(平賀家の略図はこちら)実のところ、隆宗についてどこまでわかっているんだろうか?とりあえず、ネットなどでは詳しいことはわからないが、一般的に頭崎城が落ちた後に家督を相続したといわれる。まあ、少なくとも書状の日付の天文14年12月23日時点では平賀家当主としてあった訳だな。神辺城とは直接の関係はないけど、この年は毛利家にとって重大な出来事があった。毛利元就の愛妻・妙玖(みょうきゅう。実名は不明)が若くして亡くなったのだ。妙玖さんは元就より2つ下の明応8年(1499)生まれとのことなので、単純計算で享年46歳。2人が結婚した年はわかっていないが、30年近く連れ添って、政略結婚であったにも関わらず元就が彼女の死後も何度も書状で彼女のことを書いていることから、夫婦仲は良かったとされる。 妙玖さんは、吉川家の出身。思いっきり手ヌキですが、妙玖の左隣の元経とその左の元就の姉妹から生まれた子・興経がこの当時の吉川家当主。元就から興経を見た場合、妻の甥なので自分にとっては義理の甥。さらに自分の姉妹の子なので、そちらの線から攻めると実の甥。頭崎城~吉田郡山城の一連の大バトルを経て一旦は大内方へ入った吉川興経は、月山富田城攻めを契機に再び尼子方へ転じた。大内軍および傘下の国人衆も帰国して、尼子晴久の来襲に備えて安芸で慌ただしく厳戒態勢が敷かれる中、義隆は天文12年8月18日付けで裏切り者の吉川家の所領を元就に任せるという内容の書状を出している。この時は、まだ妙玖が生きていたためか元就は「ラッキー!!」とホイホイ吉川家の領地を戴いちゃうことはせず、義隆に赦免を乞い、吉川家の窮地を救った。この時、元就に下心があったとは私は見ない。打算が皆無だったとも言い切れないけど。が、元就の尽力で周囲が大内方に次第に帰参していく中で孤立しつつあった吉川家サイドとしては、元就は恩人。結果として、この後の元春の吉川相続イベントへの下地がひとつ増えた。そして、妙玖の死を境に、その土壌に1つの大きな花を咲かせる動きが見られるようになる・・・・・備後の城から安芸を見るという、おかしな作業はまだ続きます翌、天文15年(1546)も神辺城関連では目立った動きは見られないなあ。が、毛利家ではこの年もビッグイベントがありました。6月頃、元就が隠居し長男の隆元に家督を譲渡。実年齢では元就49歳だけど、数えでは50歳ですかね。「キリのいいところでの隠居、おめでとうございます。今後はごゆるりと、セカンドライフをお楽しみくだされ」・・・であったのなら、毛利元就はもっとマイナーな戦国武将として終わったでしょう。元就のセカンドライフは、ゆるりとしたものではなくギラギラしたものとなった(笑)。同じ年、吉川家では家臣のクーデターにより当主・興経が隠居に追い込まれ、元就の次男・元春を養子にという交渉が始まる。交渉は翌年まで持ち越され、天文16年(1547)閏7月に元春が吉川家の家督を継ぐことが決定した。・・・が、元春ちゃんはまだしばらく入城はしない。え~、月山富田城での敗退後の天文12年から15年までを、(ほとんど安芸の流れをメインに)見てきましたが、天文16年からはやにわに慌ただしくなります。そして、神辺城もやっと出てきます神辺城をテーマにしながらこんな記事を書くのはたぶん私ぐらいしかいないでしょうが(←自信アリ)、神辺城の流れを整理しているうちに、ああ、これとこれは同時進行だったのか~って思うことが多かったので、色々書いてきた訳です。さて、神辺城でもっとも有名だろうと思われるのが、「神辺合戦」。一般の歴史ファンの書いた神辺城の訪城記では、天文16年からの動きをかいつまんで書いてる方が多いように思われますが、実際には天文12年、山名理興が大内家に反旗を翻してからずっと続けられていたようです。なんと足かけ7年。頭崎城の戦いといい、尼子方に転じた武将はツワモノ揃いだなあ(笑)。もちろん、尼子晴久のバックアップがあってのことでしょうけど。過去のシリーズなどで『新裁軍記』を参考にした文を書いてますが、これは巷で流行りの軍記物などの記述の誤りなどを逐一チェックして、ツッコミをえんえんと綴った大変な本です。内容は永正14年(1517)~永禄6年(1563)までの毛利家の編年体の歴史書で、対象の期間はそう長くないものの、かなり細かいテーマを取り上げてツッコミを入れている。元文3年(1738)に着手されたというけど、その時代によくまあこれだけのものを書いたな~とウンウン言いながら読んでます。たとえば神辺城のことにしても、ある程度ちゃんとした本などでもつるっと語られているものの、これってどこから持ってきた話?って思ってしまうものが多い。で、手持ちの本をあれこれ読みちらかしているうち、「あっ、これかあ~!」って出典を見つけることもあるんだけど、案外『陰徳太平記』などの軍記物の記述がそのまま通説になってることが多いと最近知った。ところが、『陰徳太平記』には「これはフィクションだよな」ってエピソードが結構挿入されてるかと思えば、一方で『新裁軍記』を読むと「この話さ~、どの軍記物でも取り上げてないんだけどさ~」って書き出しで始まる項目がいくつもある。『毛利家文書』などの書状関係をはじめ、寺社系証文だの様々な史料と対比させて書かれているものだけあって、『新裁軍記』の論考には納得できるものも多いし、現代では広く知られているようなことが当時はあまりパンピーに知られていなかったのか~ということが窺えて興味深い。で、神辺合戦の7年という部分に戻りますが、『新裁軍記』によると、神辺城攻めに7年かかったということは軍記物にも『毛利家文書』にも書かれておらず、渡辺家の証文に見えるとある。この証文というのは、神辺合戦からかなり年数が経った後に小早川隆景によって書かれた書状のことで、ここに「大内殿のもとで神辺に7年詰めた」という記述がある。残念ながら隆景ちゃんは合戦の開始年月日までは書いてくれてない。が、神辺城が天文18年に落城していることから、『新裁軍記』では逆算して天文12年をスタートの年だとしている。天文18年から7を引いたら天文11年にならないか?と思うものの、まあ天文12年だと言ってるんだから、それ以上はつっこまないことにしよう(笑)。ところで、山名理興が攻められたのはなぜだろう?通説では、天文7年に山名氏の神辺城を落とした後に理興が杉原姓から山名姓を名乗るようになったのは、山名氏に代わって備後を統括するという強い決意の表れだとか、妻が山名氏の出であったからだとか、色々言われる。ま、私は「神辺城(1)」~(2)で田口氏の説を紹介したように、理興は最初から山名姓だった説を支持しているので、通説とは根底から解釈が相違する立場になります。備後って、横幅がスリムなんだよね。備後の中でも東に位置する神辺城は、西から見た場合、備中に近い奥まった場所にある。「神辺城(3)」~(4)で書いた天文12~13年の尼子方の攻撃はホントかな?って思う部分も若干あるものの、小早川領の東隣なども一旦は尼子方に落とされたりしたらしいので、史料では詳しいことはわからないけど、各所で大内VS.尼子の攻防は確かにあったのだろう。しかし、天文12年に神辺城攻めを開始したのであれば、当然芸備国境から遠い場所にある神辺までのルートを確保できていたことになる。てことは、結構早い段階で尼子勢力を駆逐、あるいは帰参させることに成功していたってことか・・・「神辺城(2)」に書いた天文9年の元就による神辺城攻めでは、周辺の備後の城主と備中の城主も参戦したとある。この話自体はちょっとマユツバだけど、理興が神辺城周辺エリアでの親分格だった状況を窺わせる。であれば、裏切り者への制裁というよりは、やはり備南の再制覇を目指して大内方が大規模な攻勢に乗り出した、と見ていいのかな。にほんブログ村
2013年09月11日

小早川興景と竹原にし殿がどのくらい夫婦として過ごしたのかはわからない。2人の間には子はできなかった。永正16年(1519)生まれの興景と永正11年生まれ(←仮定)の竹原にし殿とは、少なくとも5歳の開きがあった。にし殿の生年を最大幅まで上げると、11~13歳差くらいまでの可能性もある。そもそも、何でにし殿が竹原家に嫁いできたんだろう?過去には、毛利家が小早川家と組んで備後の紛争の調停にあたったり、国人衆の中でリーダーシップを発揮した時もあった。が、家格の差というのは確かにあるように思う。ただし、この頃の小早川惣領家は当主が相次いで若死にして、尼子氏の台頭により家中の意見が割れるなど、不安定かつ落ち目(笑)の時期ではあった。一方の竹原家は、大内氏という強力なバックを持ち、沼田本家との融和を図ったこともあって、隆景以前の竹原家の歴史の中では弘平の時がピークといえるんじゃないだろうか。大内家の古くからの信任の篤い竹原家と、親しい期間はそう長くはないものの、先代の義興さんの時代から目を見張るほどの実績を挙げて、大内義隆から相当な信頼を置かれたと思われるフシのある毛利元就。平凡な推測ではあるけれど、安芸での地盤固めのために信頼する配下同士の婚姻による結び付きを義隆が押し進めたかなって気がする。さあて!だいぶ遠回りをしましたが(笑)、「神辺城(4)」の最後、毛利徳寿丸の竹原家相続の話に戻ります。天文10年(1541)に竹原小早川家の当主・興景が亡くなってから徳寿丸が竹原家の本城・木村城に入城するまで3年。竹原家から毛利家への養子縁組申し入れに関する書状は残ってないのかな?ただ、大内義隆から毛利家にあてた書状が2通残っている。まず最初は、天文10年と思われる12月27日付け。「竹原のことなんだけどね、遠慮しなくていいから、僕ちゃんに継がせちゃいなさい」当主を失った竹原家が、いつまで義隆の掃討戦に付き合ってたのかはわからないけど、桜尾城のカタが付いたあたりでいい加減引き上げたかもしれないな。(安芸の尼子掃討戦については、「頭崎城(9)」をご覧ください)跡継ぎがいないのは、家中の重要問題。興景の葬儀などを済ませつつ、討議を重ねて遅くとも秋頃までには交渉を開始してるのだろう。2通目は、天文11年と思われる7月3日付け。「ちょっとお、竹原のこと、断ったの?竹原が泣きついてきたんだけど。竹原も困っちゃってるんだから、彼らのお願い、聞いてあげてくれないかしら。弘中ともよく相談してね。」ここから、交渉は難航し義隆のOKが出た後でさえ元就がかなり渋った様子がうかがわれる。それと、義隆が徳寿丸を指名したのではなく、あくまで竹原家からの自発的な申し入れだったこともうかがえる。ただし、申し入れをする前に当然義隆、あるいは東西条代官の弘中君に相談はしてるだろうけど。それにしても、なんでわざわざ他家の人間を入れようと思ったのか・・・竹原家は小早川4代・茂平の子の代を祖とする古い家系。初期の頃の特殊な事情もあってか、都宇・竹原両荘の地頭職を代々引き継いできたにも関わらず、庶家は持たなかった。竹原先代の弘平は、前々回書いたように一旦は宗家から養子をもらった。が、天文10年時点では沼田家の正平に子はいない。竹原のプライドから、普通の庶家からの養子じゃいやだ!って思ったのかもしれないけど、一族内の家格でいうなら、新荘系小早川氏の本家・椋梨さんちからもらったっていいじゃん・・・て思うものの、椋梨さんの詳しい系図は「小早川家文書」には載ってないので、あるいは適任者がいなかったのかもしれない。通説だと、ここで竹原にし殿がプッシュしたとかにし殿のコネで徳寿丸に目を付けたとか、いずれにせよにし殿がキーマンであるかのような説明がつく。が、それはどうでしょうね。鏡山城の戦いの後は、竹原家と同じく大内家と長らく親しい関係にあった平賀氏でさえ、一旦は尼子方に転じた。まあ、平賀氏の場合は地理的な問題もあるので仕方がない。安芸に尼子フィーバーが吹き荒れる中で、ずっと大内方に属してきた竹原家としては、主家とともに苦しい思いを味わってきたかもしれないし、大永5年(1525)に元就が大内家に帰参してからの活躍は、これまた主家とともに頼もしく映ったことだろう。そして興景とにし殿の縁組。頭崎城攻めから吉田郡山城の戦いにおいては一緒に戦い、にし殿との縁組以降、間近で元就の頼もしさに接して毛利家との太いパイプを保ち続けたいと竹原家が思ったんじゃないだろうか。あと、一般的な説明として「竹原家をつなぎとめておきたかった大内義隆が、この縁組を強力に推進した」というのがある。あるいは、「徳寿丸の竹原家相続は、大内義隆の海上政策の一環だった」とまで言われることもある。でもこれって、私に言わせれば竹原家の歴史を知らない人の言うことだろうと思う。(て、私もふんぞり返れるほどの知識がある訳じゃありませんが)だって毛利家との縁組が解消されたからって、竹原家が大内家から離れる理由なんかない。それに、わざわざ内陸に生まれた徳寿丸を送り込まなくたって、海を支配する竹原小早川氏を、大内家では長いこと掌握してきた。いちおう申し添えておきますと、上の説をバカにしてる訳じゃないですよ。何が真実かなんて、どうせわかりっこないんだし。徳寿丸の竹原家相続がのちに見事な花を咲かせる結果から見ると、うがった見方もついしたくなるのは道理だし、私も一時そっちの線から考えたこともあったけど、沼田家相続のようによほど複雑な事情がない限りは、現代に生きる私達も400年以上前に生きた彼らも結局は同じ人間なんだし、きっかけは案外単純なところに転がってるんじゃないだろうか。もちろん、環境は今と昔では全然違うから、一概には言えないけどね。時期を同じくする吉川家相続イベントの方は、最初からキナ臭いと私は思ってるし。これまで、過去のシリーズで小早川氏については色々書いてきたものの、竹原家を中心に書いたことはなかった。でも、本シリーズに入って当時の竹原家の状況などを書いて竹原家の視点で周囲を見てみると、この相続の最初はやっぱり竹原家の自発的なものだったかな・・・って思いが強くなった。ただ、にし殿や義隆の存在の影響力が皆無だったと言うつもりはない。大体、元就って人は慎重を絵に描いたような人で、自分が毛利家を継ぐ時も元春が吉川家を継ぐ時も、そして徳寿丸が竹原を継ぐ時も、じらしてじらしてじらして(笑)相手から強く要請されたような形を取って、時間をかけてイベントを完成させる。元就が竹原家に対して難色を示したのがポーズだったのかはわからないけど、なかなか煮え切らない叔父に対して、にし殿が働きかけたということはあったかもしれない。それに、義隆にしても興景&にし殿のカップルに続いて信頼する竹原家と毛利家が引き続きタッグを組むというのは、願ってもない縁組だったろうと思う。だから、わざわざ2回も口添えまでしてやったんじゃなかろうか。ただ、1回目の手紙の1週間前には義隆は従三位に昇進して晴れて公卿の仲間入りをしたので、気分が良かったのもあったカモ、な~んてね徳寿丸の相続にあたっては、それほど障害となることはなかったろうと思うのに、それでも最初の申し入れから入城までに元就は3年かけた。まあ、その3年には月山富田城攻めやその後の防衛戦などがあって、忙しかった時期も含まれてるからな。して、天文13年(1544)11月、毛利徳寿丸は竹原小早川家の当主として木村城に入城した。徳寿丸、この時11歳。徳寿丸が竹原家を継いでからの、にし殿の動向はわからない。いとこであり養母でもある訳だから、しばらくの間は徳寿丸の面倒を見てやったかもしれないけど、数年ののちには毛利家へ戻っているのではないかと思われる。もしかしたら、徳寿丸が木村城を出たのと同時期かもしれないな。で、にし殿には一旦ここでご退場いただきます。あ、言い訳が多くて恐縮ですが、本シリーズ、にし殿の他にも過去に書くのを我慢したあの方とか、色んな人が出てきます。また、神辺城のメジャーな出来事が安芸での重要な沢山の出来事と同時期にあたるため、神辺城とほとんど関係ないような記述も沢山出てきます。できるなら一つの事柄や一人ずつに絞って書いた方が読みやすいかもしれませんが、タームが長いため、今回は時系列に書いていきますのでかなり読みにくいと思われます。私にとっては食いつきどころ満載で重要な時期なので、書きたいことを省く気は全くありませんが、それでも「も~、しょうがないから、とことんジジイに付き合ってやるよ!」って心の広い方がいらしたら、ぜひ頑張ってください。・・・じゃなくて、一緒に頑張りましょうにほんブログ村
2013年09月09日

竹原の話、1話で終わらなかったなまあ、わたくしの場合大内家と小早川家が絡むと必然的に話は長くなることは長らく読んでいただいてる皆様はよくご理解いただいてるでしょうから、気にせず進めます。ちなみに、「人の歴史が城の歴史」と考えるわたくしは今は「神辺城」というフィルターを通して西国の歴史を見ている段階ですので、歴バナがあとどれくらいかかるのかは自分でもわかりません(笑)。では、前回に引き続き竹原小早川弘平。永正10年(1513)に沼田小早川家から福鶴丸を養子に迎える契約をしたものの、永正16年(1519)に弘平に待望の実子が生まれ、その子が跡を継いだ。これが興景。大内義興さんからすれば、沼田家を竹原家の人間に継がせることで小早川家を完全に傘下に収めたかったところだろうけど、弘平はそれに従わなかった。それに、永正9年(1512)の安芸国人一揆に弘平が署名しているということは、義興さんを京に残して弘平が安芸に帰ってきたことを意味する。弘平が離反したというところまでは行ってなくても、自分の意に従わなかった弘平に対して、両者の間でどういうやり取りが交わされたのかはわからない。が、大永8年(1528)4月18日付けの小早川興景への加冠状には義興さんの花押があり、「興」の一字を与えている。ここから、義興さんも弘平を許し、大内家と竹原家は引き続き良好な関係を保ったことがうかがわれる。大内氏との関係が崩れなかったのであれば、バックは強力なままだし、前回の最後に書いたように竹原家は今まで以上に一族の中でも重きをなし、さらに惣領家の経営にも関与するようになっていたことになる。小早川惣領家の家政はそれまで主に奉行人が取り仕切っており、竹原家はなかば独立したような地位にあったものの、新荘系小早川氏は惣領に従属する立場を取っていた。その辺については、「高山城(22)」でも少し触れてますが、弘平が一族の間で台頭してきた時期は、ちょうど明応9年(1500)に奉行人のトップ・政所が殺害されて被官人の力が落ちてきた時期とクロスする。余談になりますが、弘平の後は新荘系小早川氏の本家・椋梨盛平の名前が多く書状に登場することから、庶家の力が増して小早川家内での勢力図が変わってきた時期ともいえるのだろう。毛利元就の姪が嫁いできた頃の竹原家は、そういう状況にありました。竹原小早川興景は、元服時点で9歳。天文8年(1539)4月24日には大内義隆が興景を中務少輔に推挙(20歳)。天文9年(1540)からの尼子詮久による吉田郡山城攻めの際には、興景は毛利氏への救援に赴いて戦っている。この直前までの行動ははっきりわからないけど、たぶん頭崎城攻めに参加していて、郡山城ピンチの報を受けて杉隆宣と一緒に吉田へ向かったんじゃないかと思うけどね。天文10年(1541)1月3日の合戦では興景の軍と毛利家の軍がともに戦っており、小早川家内でのケガ人リストおよび殊勲者リストが残っている。それによると、合戦に参加したのはほとんどが竹原家の人のようではあるけど、ぽちぽちと沼田本荘・新荘の庶家の名前も見える。まあ、これは従軍者リストではないから、実際にどの程度本荘と新荘の兵が遠征軍に含まれてたのかはわからない。高山城近辺では船木常平の件もあり、頭崎城もまだ落ちてなかった時期なので、本荘と新荘の主力はあまり遠征軍に回せなかっただろうと思うけど、興景が小早川一族を代表して遠征したともいえるのかな~と思った。で、そこからわずか数カ月先の天文10年(1541)3月27日、興景は佐東銀山城攻めの陣中において病没。享年22歳。まだ若いし、あまりに急な死だし、その後の展開をうがった目で見ると、ホントに病死なんだろうか・・・と疑りたくなる場面もちょっとあるものの、とりあえずここにはツッコミは入れないでおきましょう。ふうっ、これでやっと「竹原にし殿」へ進めますまずはこちら~↓。 以前、鏡山城あたりで使った相関図に竹原にし殿を加えただけのものですが、この毛利の姫様は、元就の兄・興元の娘。(上の相関図は、都合により長幼の順序を正しく表示してません)隆景ちゃんや元春ちゃんからすれば、いとこにあたります。『毛利家文書』の中に「毛利弘元子女系譜書」という文書があり、毛利弘元(興元・元就の父)の子供達、プラス孫についても若干の記載があります。この系譜によると、興元にはまず娘があってその経歴を記した後に「御次男幸松殿」と来る。フツー、私達が「御次男」と言われれば他に長男もいたんだろうと考えるけど、それについては何も書かれていないので、たぶん「第2子」と言いたいんだろうと思う。まあ、実は夭折した長男がいたかもしれないけど、あまりここでは問題にならない。それより、幸松丸より娘が先に来ていることが重要。これをそのまま受け取れば、第1子が姫で、第2子が幸松ということになる。竹原にし殿は、実名・生没年ともに不明。が、不謹慎を承知で言いますと、オヤジが若くして亡くなってるので沼田の姫(隆景の妻)と同じように、比較的計算はしやすい。で、またあれこれとエグい計算をしてみた訳ですが・・・まず、父の毛利興元はウィキペディアによると明応元年(1492年)生まれ、永正13(1516)年8月25日死去。弟の幸松丸は永正12年(1515)生まれ。毛利興元が高橋氏の娘と結婚した年は、わかっていないようです。なので、物理的な線からちょいと攻めてみますか(笑)。え~っと、かの有名な「3年B組金八先生」では中3同士で子供を造ってしまうという、今から考えるとかなりショッキングな事件が含まれてましたが、鶴見辰吾が15歳で杉田かおるを孕ませたということは、一般的に考えてもその位の年で男子は生殖能力があると考えていいんだよな。ま、世界には男女ともにひとケタで子供を造っちゃったという、考えるだに恐ろしいお子ちゃまもいますが15歳といえば元服適齢期でもあるし、竹原にし殿を造れる最も早い年を興元15歳の時と仮定すると、その年は永正4年(1507)。いちおう、竹原にし殿と幸松丸は高橋氏の娘から生まれたような記述になってるので、幸松丸が永正12年(1515)の1月1日に生まれたとしても、竹原にし殿の最も遅い生年は永正11年(1514)の年初。永正4年~永正11年の期間からさらに竹原にし殿がお腹にいる期間を除くと、竹原にし殿と幸松丸との年齢差は最大で6歳ぐらいの計算になる。毛利興元の結婚時期を何とか絞れないものかと考えてみたけど、なんとも・・・ただ、上の相関図は永正9年の一揆締結に関連しての結婚ラッシュの説明として使ったもの。(記事は「鏡山城(9)」をご覧ください)ここで興元が実力者・高橋氏の娘を娶った可能性もある訳だよな。もしそうだったとしたら、竹原にし殿と幸松丸との年齢差は1歳ぐらいになる。自分でもつくづく、こーゆーの好きだよな~と笑っちゃいますが、どうも一般的に説明されてるだけの文章では満足できず、リアルに自分の頭で考えたいと思うようになっちゃったのでね。新高山城の遠足イベントのレディースデーの記事の中で、竹原にし殿のことを「別のシリーズで簡単に触れるつもりだけど」と書いたけど、もちろん「別のシリーズ」はこの神辺城の記事を念頭に置いてはいたものの、竹原家の状況などの背景までは書くつもりはなかった。ホントに簡単に紹介するつもりだった。でも、私が悪いんじゃありません。それだけ、竹原にし殿が歴史ファンの興味をそそる波乱の生涯を送られたんだと思ってくだされ結構、にし殿の年を計算してる人って多いのよ(笑)。毛利本家の勉強については相変わらず進んでませんが、どうも永正9年の一揆との関連がクサい気がするので、とりあえず竹原にし殿は幸松丸の1歳上(永正11年生まれ)として話を進めます。竹原にし殿が小早川興景と結婚した時期もわかっていません。ただ、実は彼女はこの時が初婚ではなく、バツイチだった。最初の夫は、備後の有力国人・山内豊通。バツイチといっても、死別だったようです。豊通さんも若くして亡くなったようで、詳しいことは全然わからない。その父・直通は西国の戦国の歴史では結構メジャーな人ですが、生没年不詳な上に割と長生きしたっぽいので、このオヤジから豊通の生年を絞るのは困難。つか無理。ウィキペディア等で簡単に調べたところによると、父の直通は天文4年(1535)に元就と盟約を結び、その翌年には尼子氏によって居城を追われたらしい。で、一時は豊通が当主として活動した形跡があるという。天文4年の盟約で仲良しさんの証として竹原にし殿が嫁いだ可能性もあるけど、天文5年に直通が追われるまでには豊通が亡くなっているものと思われるので、天文4~5年の結婚だとかなりハードスケジュール・・・それに、毛利家から山内家に嫁いだ女性はそれ以前にも数人いるので、盟約を結ぶ以前に嫁に行ってた可能性も多いにある。が、少なくとも天文5年以前に最初の夫と死別しているとはいえるだろう。天文5年時点で、竹原にし殿22歳。とすると、竹原小早川興景との結婚時期は少なく見積もっても天文6年(1537)~興景が死ぬ前年の天文9年(1540)。最後尾を天文9年としたのは、天文10年は興景は年初からずっと陣中にあったからです。もちろん、山内豊通の没年がわかってない以上、天文6年よりもず~っと遡る可能性も大いにありますが。にほんブログ村
2013年09月08日

安芸における大内氏の拠点は、ひろよん(大内弘世)が基礎を造り、その子・義弘の代には出来上がっていた。義弘の次代、盛見の時には確実に竹原家が傘下に入っている。( 「鏡山城(2)」あたりもご覧ください)竹原小早川家が幕府に代わる新しいバックボーンを求めたあたりの経緯については、「高山城(17)」で簡単に書いてますが、大内氏と親しくなってから100年以上。安芸国人として多少は独自の動きをすることはあっても、竹原家があからさまに大内家から離反したことはたぶん一度もないんじゃないだろうか。さて、毛利元就の姪が嫁に行った相手は、竹原小早川興景。ウィキペディアによると興景の生まれは永正16年(1519年)、死没は天文10年(1541)3月27日。父・弘平の存命中に家督を譲りうけたらしいが、なにぶん22歳の短い生涯で活躍年代が限られているので、興景さんのあまり詳しいことはわからない。花ムコのことがわからないのに、何を見るんだって思うでしょうが、興景の父が弘平だってところが、少しブログに書こうかという気にさせまして。まずは、以前にも掲載した沼田家と竹原家の当主の系図をご覧ください。 ど真ん中の隆景の左隣が興景、弘平さんはその上にいます。竹原家の方は多少名前にバラつきがありますが、この図が示す通り、沼田惣領家の通し字は「平」、竹原は「景」です。そして、弘平は歴代竹原家当主の中でただ一人、「平」の字を用いています。ま、実は弘平さんて過去のシリーズで何度か登場してはいるんだけど、今回はあらためて書きましょう。竹原小早川弘平は、生没年ともに不明。応仁元年(1467年)10月2日、家督継承。文明5年(1473)と思われる書状から、恐らくこの頃に元服したものと思われる・・・が、この書状、実に興味深いことが書いてある。差出人は「全教」・・・この名前、どっかの書状で見たことあるんだけど、誰だったか思い出せないまあ、内容的に幕府関係者か幕府に近しいお偉いさんだと思われます。宛先は弘平の父・弘景あてで、「お宅の息子さんの名前ね、大内政弘からも上申がありましたが、相談した結果、『平』の字を差し上げることになりました。いや~、めでたいですなあ!!」と内容が色々ある中でこの話題をトップに持ってきている。その数段後で、「名前の件については、大内政弘へもお礼を言っておいてね」としているので、政弘が一枚噛んだことにより、この重要な議題が落着したと見ていいのだろう。弘平の加冠状は見当たらなかったけど、おそらく烏帽子親は政弘で、「弘」の字は政弘から一字もらったものと見るのが自然ではないでしょうか。ただ、弘平のオヤジも「弘景」なので、親子2代が同じ字をもらうのってアリかな~とは思うんだけど。ウィキペディアでは、政弘から名前をもらったのは弘景とあり、弘平の名前は列挙されてない。でも、弘景は大内教弘・政弘の2代にわたって仕えたようなので、教弘からの偏諱って可能性もあるんでない?と思って弘景への加冠状がないか探してみたら、あった。大内教弘の名前で。なあんだ~、やっぱそうだったのか~。という訳で、小早川弘景・・・大内教弘からの偏諱小早川弘平・・・大内政弘からの偏諱という結論に落ち着きました。以前、雑談「大内さんちの通し字?」に書いたように、大内家には誰が見てもわかるような通し字はない。が、わたくしが地道に数えた結果、「弘」の字を使う人が当主・一族ともに多いことがわかった。一般的な偏諱のルールは、一字の送り主が当主の場合、下の字が通し字で上の一字を家臣や配下にあげるというもの。(当主でも上に通し字が来る家も結構あるので、一慨には言えませんが)まあ、教弘なら「教」の字をあげるところだし、政弘なら「政」の字をあげるべき。しかも、「弘」の字は大内家の通し字に準ずる字なんだし。ので、これはかなりイレギュラーな偏諱になりますが、別に大内家当主が変人ぞろいなんじゃなくて、大内家がビッグゆえのちゃんとした理由がある。教弘・政弘の「教」「政」の上の字は、時の将軍、足利義教(6代)・足利義政(8代)からそれぞれ一字をもらったもの。だから上に拝領した字を戴いてる。こんな字、他人にあげる訳にはいかないでしょ?(ただし、あげちゃう人もいます)ついでに書きますと、政弘の子・義興さんは気前よく「興」の字を周囲にあげまくってますが、これも「大内さんちの通し字?」に書いたように、「義」「興」の2字を足利義尚(9代)から賜ったもの。どちらも拝領の字であれば大切だけど、「義」の字は足利将軍家の通し字だから絶対あげられない。義興さんの子・義隆の名前ははっきりしないけど、「義」の字を使ってるあたり、たぶんこれも拝領したものと思われる。だから、「隆」の字をばらまいた。余談ですが、ウィキペディアでは大内政弘から偏諱を受けたのは小早川弘景の他に、陶弘護・吉川弘経・毛利弘元のみ挙げてるけど、私はここに平賀弘保も含めていいと思うんだよね。ただ、私は「平賀家文書」は持ってないし、正確なところはわかりませんが。あくまで個人的な憶測です。全教の書状に話を戻しましょう。名前の件についてまず報告した後で、次にはこんな言葉が続く。「公方様へのお礼はちと少ないですが、ひとまずこれで承りました。その他の方々へのお礼もしっかりとお手配くだされ。」ふんふん、上つ方とのお付き合いも大変だなあ。ここではもちろん当事者である竹原家からのお礼の金品について言ってるけど、おそらく大内家からも根回しのためになにがしかの現金が使われたことだろう。大事なのは、その次。「小早川煕平の跡目については、嘉吉元年の御裁可の通りと御内書が下されました。いやいや、まことにめでたい!!」嘉吉元年(1441)の御裁可とは何か?こちらも過去のシリーズで数回書いてますが、要するに沼田小早川則平の「悔い返し」に端を発する小早川惣領家の内紛、および将軍・足利義教が介入してさらに問題を大きくした、一連の相続大バトルのことです。「鏡山城(8)」や「高山城(18)」あたりもおさらい頂きたいのですが、一言で言うと、小早川則平が出陣する前、一旦は長男・持平に譲った家督を次男・煕平に与えることを決定し、則平は出張先で討死。持平・煕平の兄弟間で争ってるうちに将軍・義教が介入し、沼田惣領家をそっくり竹原家の盛景に与えるというトンデモな裁定を下した。そのトンデモが、嘉吉元年の御裁可(本文では「御成敗」)です。この問題については、幕府の仲介により享徳4年(1455)には当事者間ですでに決着が着いている。一旦カタが着いたことを、20年近く経ってから持ち出してくるなんて、政弘もエグイよなあまた、それに乗る幕府もどーよ・・・つまり、この書状が示すところは、大内政弘の強い意志が働いて竹原家が正当な小早川惣領家を継ぐべきものと幕府に認めさせたもの、さらに沼田惣領家が名乗ってきた「平」の字を竹原の跡継ぎに名乗らせることでそれを公に示した、と見ることができるのではないかと思います。大内家にとって、竹原家は古くからの重要な手駒。上の出来事でもうかがわれますが、時期による程度の差はあれ、大内家によるバックアップは結構なものがあったといえるでしょう。ということは、大内家が勢力を強めるに従って、竹原家の家運も上昇する。大内家は、ひろよんが防長の守護となって以降、義弘の応永の乱で一旦は幕府に潰されかけるものの、盛見の代から少しずつ盛り返して順調に右肩上がりで勢力を拡大していき、義興さんが上洛に成功してから義隆の後半あたりまでが絶頂期。小早川弘平の元服に関連する全教の書状からは、政弘の代でも相当な影響力を持っていたことがうかがわれる。ま、カネの力もあるかもしれないけど(笑)。さて、大内家絶頂期のスタートとなった大内義興さんの上洛戦には弘平もお供した。足利義尹が奇跡の将軍職復帰を果たした後の永正8年((1511)8月16日、やはり足利義教の御教書を持ち出して沼田小早川興平(6歳)の家督を弘平に継がせる御教書を義尹あらため足利義稙の名前で出している。ま、この日付を見るにホントはこんな御教書を出してる場合じゃなかったと思うんだけど、たぶんここも義興さんの思惑が働いてるんだろうな。一見、全教の書状の時と同じように見えるけども、状況は全然違う。なんたって義興さんは義稙復帰のMVPであり、その後も引き続き強大な軍事力で義稙政権を支えて実質的な国内のトップの地位にある。だから、政弘の時よりもより実効性があった。一方の沼田惣領家にとっては、ここが2度めの大ピンチ。・・・が、弘平はそれに従わず、逆に一族の融和を図った。ここで弘平が惣領の座についてたら、あるいは小早川家は宮氏のようにもっと早く弱体化したかもしれない。実子のいなかった弘平が取った融和策は、沼田家当主の興平の弟・福鶴丸を弘平の養子に迎えて竹原家を継がせる。もし弘平に子ができたなら、福鶴丸には所領をあてがうというものだった。さらには沼田・竹原の宿老が親しく交わり、惣領である興平がおかしな事を言い出したら、両家の宿老で興平に意見しようという内容。これが永正10年(1513)4月20日のこと。ただし、沼田家当主である興平自身もまだ幼い。両家の確約ともいえる永正10年の養子縁組以前の永正9年3月には、安芸で108年ぶりに締結された国人衆の一揆契約に弘平が署名している。この一揆契約状に小早川興平の名前がないことから、何かしらの思惑があって沼田家が参加しなかったと見ることもできるけど、ここまでの背景を考え合わせると、弘平が幼い興平を補佐する立場にあり、一揆には弘平が代行して署名したと考える方が自然ではないかと思われる。にほんブログ村
2013年09月07日

どんな時も~、どんな時も~、僕が僕らしくある~ために~、好きなものは好きと~、言える気持ち抱きしめてたい~(ば~いマッキー)言い訳も前回済ませたし、私らしくマイペースに行きま~す。前回の6月27日の攻防に間に合ったかはわからないものの、弘中隆兼が東西条の拠点・槌山城に入ったのは天文12年の7月と『大内氏実録』は伝える。小早川領に回せるほど東西条に兵が詰めてなかったかもな。月山富田城からはとにかく帰るのに精一杯だったろうし。あ、前回、大内義隆が山口に帰還したのが6月25日と書きましたが、わたくしの読み違いでした。5月25日が正しい日付なので、お詫びして訂正いたしますm(_ _)m大内家ではそこから10日前後くらいで態勢立て直しの協議をしたものと思われます。対応には急を要したので、近くにいる毛利家にとりあえずの救援を依頼したかもしれない。頭崎城攻めのピーク時には最高責任者が杉隆宣に代わる場面もあったようだけど、義隆の代ではおおむね弘中君が東西条およびその周辺を取り仕切っていたと思われる。軍事面では、「東西条バトル編(10)」でも少し書いたように、大内教弘の代あたりから陶家がちょいちょい芸備に顔を出す。前回紹介した大内家から元就あての書状は、天文12年(1543)7月9日付けで出されたもの。だから、7月上旬には安芸戦線の補強が整ったといえるのかな。ちなみに書状は大内家重臣の連名によるもので、差出人は弘中君、青景隆著(あおかげ・たかあきら)、陶隆満の3名。青景隆著は長門の国人で、青景城(山口県美祢市)城主の一族。庶家の出らしいが本家をもしのぐほどだったという。「大内殿有名衆」の中では国衆として記載がある。この時期からしばらくの間、備後戦線を任される。陶隆満は、陶氏の一族に間違いはないんだけど、陶氏の系図は宗家の分しかはっきりしたことはわからない。ので、隆房とどういう関係かは不明。でも、「大内殿有名衆」の中では小座敷衆として名前があり、大内義隆の次代では奉行人にまでなる。陶隆満も青景隆著とともにこの後の備後戦線の感状などに多く顔を出すので、同じく備後戦線を任されたものと思われる。で、同じ7月に大内・毛利軍が神辺城を攻めたともいうんだけど、これホントかなあ・・・ただ、『新裁軍記』には「この時大内家の旧約を変せざるは毛利家ばかりなり、元就公御智略をもって備後・安芸の国人次第に大内方に引き成され」とある。「毛利家ばかりなり」はさすがにオーバーだと思うけどそれ以前からタッグを組んで安芸を任されていた弘中君とともに、元就が地道に勢力の回復を図っていったのだろう。ただし、山名理興はなびかなかったけど。天文12年のものと思われる10月18日付け毛利隆元(元就の子)の書状からは、備後の国人・高須氏と「気をつけようね」って連絡を取り合ってる様子がうかがわれる。この時、隆元は「石見に行っちゃってたから、会えなくてごめんね」って言ってるので、芸備のみならず石見方面へも精力的にパトロールやら引き抜きやらに出向いてたのかもしれない。あるいは、月山富田城の戦い後、尼子方では石見銀山の奪回をはじめまず石見あたりから回復を図ったようだから、応援に行ってたのかもな。11月23日には、義隆から伊予の国人へ「尼子晴久が芸備へ来るってウワサがあるんだけど!ぜ~ったいに油断しないでね!!」てな書状を出しているので、当然芸備の国人衆へも同じ書状がいってるだろうし、当時の緊迫した様子が伝わってくる気がしませんか?(雰囲気を出したいなら、義隆にオネエ言葉を使わせるなって?)ここまでの間に、尼子方では石見だけでなく、備後の城も落としていた。翌天文13年(1544)の3月には弘中君が備後へ出陣し、元就も備後田総で尼子方と戦ったという。尼子晴久が本気出してきたのが、天文13年の7月。新宮党の尼子国久・誠久(さねひさ)親子を総大将に遠征軍として派遣し、尼子軍は三吉氏の比叡尾(ひえび)山城(現・三次市)へ迫った。この遠征は、何かと目ざわりな元就を今度こそつぶしちゃおうと晴久が吉田郡山城攻めを企画したものともいわれる。毛利家では三吉氏に応援部隊を出したものの、ちょっと派手に負けてしまった。が、三吉さんちが頑張ったので尼子軍は撤退。これを機に毛利さんと三吉さんは親密度を増したので、途中経過はどうであれ、何事も結果オーライ毛利さんちには嬉しいオマケがついてきた。まあ、こうした過程を見てると、別に元就はボランティアや親切心で周囲を助けたりした訳じゃないし、ただの点数稼ぎで大内方へのスカウトをしてた訳でもないんだけど、大永年間の後半やこの天文12~13年に多くの国人が元就になびいたということは、やっぱり侠気はあるし力も持ってるし、それになにより元就個人に人を引き付けるだけの魅力があったんだろうなとつくづく思う。『本郷町史』では、同じ天文13年に高山城が尼子軍の攻撃を受けたとある。これ、「尼子経久父子」が出張ってきたとあるんだけど、明らかに間違いだよな・・・(経久は天文10年に死んでます)『陰徳太平記』の方では、天文13年10月初旬に尼子新宮党が高山城を攻めたとしている。ここではまず近隣に放火し、ついで小早川本城である高山城攻めに入る。が、小早川庶家の乃美・椋梨・梨羽・小泉らが幼い当主・又鶴丸を守って撃退。この様子を見た配下から、「この城は3日や5日じゃ落ちませんよ。10日もたてば、元就が後詰めにやって来るでしょう。したら、どーすんの?」と説教され、やむなく引き上げた、と。ただし、これを裏付ける書状などは手持ちの史料では見つけられなかった。さ~て、天文13年はちょっと重要なイベントがありました。サブタイトルにもあるように、この年、元就の3男・徳寿丸が小早川氏の有力庶家・竹原小早川家を継いだのです。いや~、おめでとうおめでとう徳寿丸の竹原家相続については、竹原のところで書こうと思ってましたが、関係者が神辺城と関わりがあるし、よくわからないこともあるので、一旦ここでまとめておくのも無駄にはならないと思ったのでね。まずは竹原家相続の一般的な説から。 天文10年(1541)3月4日からの佐東銀山城攻めの陣中において、 竹原家当主・小早川興景が病没。 後継ぎのいなかった竹原家は毛利家へ、元就の3男・徳寿丸を養子にする 申し入れをした。元就ははじめ難色を示したようであるが、主君・大内義隆の 強い勧めもあり、徳寿丸は天文13年に竹原家の本城・木村城へ入城した。 徳寿丸が選ばれたのは、興景の妻は元就の姪であったため、その縁を頼ったとも 興景の妻が一役買ったからだともいう。え~、どんどん神辺城から遠ざかっていきますが(笑)、細かいことは気にしないでくだされ ここでポイントになるのは、興景の妻で元就の姪という女性です。「竹原にし殿様」、この名前を覚えてますか?忘れた方は、「新高山城(21)」をご覧くださいね。竹原にし殿様と興景の妻がイコールだということは、確定した訳じゃない。違うだろうという人もいる。が、遠足イベント(「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」)の3/29の内容を見る限り、一般に知られている人の中では彼女以外には考えにくい。3/29のレディースデーに同席していた「東殿様」も確定はしていないものの、沼田の姫(隆景の妻)の実母だろうという見方は変わってない。あるいは、竹原を「西殿様」と呼んだことに対して、沼田家当主、またはファーストレディーを「東殿様」と呼んだのかもしれないし。ま、実際には永禄4年3月29日の時点では、沼田の姫が小早川家で最高の女性だったんだけど。ただ、興景の妻はこの時竹原家を出て再婚していただろうと思うので、そういう人をわざわざ「竹原にし殿様」と呼ぶか?って疑問はあるけど。ひとまずここでも興景の妻=竹原にし殿として話を進めますのでご了承ください。高山城シリーズを一通り書き終えた頃、私の尊敬するトロロヅキさんから「家格の点から見ると、自分の姪を名家である小早川家に嫁がせた元就は頑張ったんですね」という内容のコメントを頂いた。小早川氏が沼田に移って以降の、中央とのつながりなども含め小早川氏が活躍していた様子をあれこれ書いてきたにも関わらず、家格の釣り合いとかそんなところまで考えなかった私は、いただいたコメントを見て「ああ、そうか。なるほどな~」と思った。で、竹原にし殿が嫁いできた頃の竹原家の状況を少し考えてみました。が、文字数の関係もありますので、今宵はここまでに致しとうございます・・・にほんブログ村
2013年09月05日

ここからは、東西条編であれこれ書いてきた歴史と絡めながら話を進めます。リンクもなるべく貼るようにしますので、忘れた方はご面倒ですが東西条編のおさらいもしながら読んでいただけると嬉しいです。大永3年(1523)の鏡山城の戦いの後、安芸の国人衆の多くは尼子方へとなびいた。東西条周辺のいわゆる西条衆でさえ、一部尼子方へ奔ったようだから、まさに尼子フィーバーが吹き荒れた時期と申せましょう。もちろん、備後衆もその例に漏れない。しかし、大永5年(1525)に毛利元就が大内方へ帰参すると、状況は少しずつ変わってくる。あまり詳しいオセロゲームの推移はわからないけど、今回のシリーズを書くにあたって、これまでほとんど開くことのなかった『萩藩閥閲録』を今さらながら見てみたところ(笑)、大永7年には備後衆が大内方へ帰参したという書状がぽちぽちあって、なんだか大内義興さんと陶興房(隆房のパパ)の喜ぶ顔が目に浮かぶようだったので、大永の終わりまでには(大永は8年まで)芸備とも大内氏がかなり盛り返していた状況といっていいだろう。ちなみに、大永7年にはどうやら陶興房と平賀興貞が会ったらしく、まだこの時点では興貞は尼子へ転じていなかったらしい。(興貞については、「頭崎城(5)」以降をご覧ください)で、その平賀興貞が引き起こしたと言っても過言ではない一連の大バトルおよび大内義隆の完全勝利についても頭崎城シリーズでまとめて書きましたが、その後の月山富田城攻めで鮮やかなる敗北を喫し、小早川正平や大内晴持は不運な死を遂げ、生き残った方々もほうほうの体でそれぞれの領地へ帰ってきました。『大内氏実録』によると、義隆が山口へ戻ったのが天文12年(1543)6月25日。が、小早川正平の死亡日が5月9日だから、ちょっと義隆ちゃん遅すぎないか?って思う。だいたい、正平のお悔やみの手紙を6月11日付けで沼田小早川家へ送ってるんだから、6月11日以前には帰ってたんじゃないかと思うけど。ただ、『大内氏実録』には「6月2日の文書に、まず一軍を沼田金山へ差し籠らせた」というカッコ書きも添えられているので、5月中にはなんとか山口へ辿り着けたんじゃなかろうか。まっ、それはともかく。愛する晴持を失った悲しみに溺れる前に、この時の義隆は帰国するとすぐ安芸の各国人に尼子の来襲に備えるよう防御を命じ、兵を沼田へ送ったという。義隆から沼田家へのお悔やみの手紙は「新高山城(4)」に書いてますが、「近いうちに弘中(隆兼)をやるからね~」という文言は、要するに軍を率いた弘中君が救援に行くからね、って意味になるのかな。しっかし、なんで真っ先に沼田なんだろう・・・備後と国境を接するのは、小早川領だけじゃない。南部の小早川氏よりは、もっと北部に位置する城を補強した方がいいような気もするんだけど。やっぱり、大内氏との縁がまだ浅く、直近でも尼子方だった沼田家の歴史が義隆に不安を抱かせたのだろうか。プラス、当主が若くして討死、嫡男の又鶴丸(のちの繁平)はまだ赤ちゃん。敵方からすれば、狙いやすいウサギちゃんに見えたかもしれない。そして、義隆の読みはあたった。話が前後しますが、月山富田城攻めで大内軍が総崩れとなったのは、義隆の完全勝利で「大内様、おさすがですう~」となびいてきた国人衆が戦の最中に堂々と寝返ったからだった。古くからの傘下の国人衆、新しく加わった国人衆を取り交ぜて意気揚々と尼子の本拠へ向かったものの、戦線は膠着。『陰徳太平記』では、備後・石見・出雲の国人13人は陣中で次第に仲良くなって、合戦も終盤を迎える頃には毎晩酒や茶を飲みーの、連歌しーの踊りーの何でも話せる仲に進展していたとする。この仲良し組に山名理興もいた。雨で気分もスッキリしないある日、理興が口火を切った。「ねえねえ、ぶっちゃけ、大内と尼子ってどう思う~?」話題が話題なので、最初は遠慮して盛り上がらなかったが理興がうま~く誘導して、次第に話に花を咲かせていった。もう古いチャイナの話とか持ち出してえらい長い文章なので、ここでは全てを書きませんが、大内義隆と尼子晴久(詮久から改名)の評価はもちろんのこと、毛利元就をはじめ平賀隆宗やら熊谷信直やら傘下の国人衆の批評に移り、果ては北条氏康まで登場するという盛り上がりよう(笑)。結局、「義興公はよかったけど、義隆はダメだよね」って方へ話が進み、仲良し組はこぞって富田城へ入っていった、と。見てもいない談合のシーンを、よくもまあこれだけ長々と書けるもんだな~と感心してしまいますが、つまり山名理興も寝返り組だったようです。理興の通説でも、前回紹介した田口義之氏の説でも、どちらも神辺城主としての理興は大内方としてスタートしている。尼子詮久が東上作戦を繰り広げていた中には理興の名前はないそうだし、参戦しなかっただけで実は途中で理興が尼子方に転じてたんだったら、義隆は大々的に神辺城を攻めてるんじゃないかと思うんだよね。ま、前回書いたように、天文9年に元就が攻めたという話もあるにはあるけど、元就がすんごい軽くあしらわれてるし、戦上手の元就がそこであっさり諦めるかな~って気がする・・・さて、『陰徳太平記』では理興は富田城攻めの最中に尼子方に走ったとあるが、一般的にはその後の尼子の調略に応じたとされる。最中なのか後なのかの真実はわからないものの、月山富田城攻めの失敗を契機に他の備後衆とともに理興は大内氏に反旗を翻した。その後の行動は素早かった。天文12年(1543)6月27日、小早川領の椋梨が早速尼子方の攻撃を受けた。続いて7月7日も。閥閲録だと攻撃者の名前ははっきり書いてないものの、山名理興も椋梨を攻撃したとされる。 おなつかしや~の小早川庶家の分布図ですが、どうもこれ、納得がいかないってゆーか・・・備後から侵入した場合、結構椋梨領って奥まってない?ついでに系図も載せますと、 椋梨より東にある土倉・和木・大草なんかも結構古い庶家なので、天文12年の時点でおおむねそれぞれの領地は分布図の通りだと思うんだけどね。まあ、史料に残ってるのが椋梨の受けた攻撃だけなんだとは思うけど、沼田新荘の北部がまず狙われたって感じなのかな。結構奥まで侵入を許したってことになるよね。おそらくこの時は、新荘系が協力して防戦に努めたものと思われる。これに関連して大内家から出された感状から推測するに、椋梨氏と乃美氏が奮闘した模様。が・・・この感状、敵を追っ払うのに協力した毛利元就あてなのだ。椋梨氏と乃美氏から、元就が善戦したことを報告したものらしい。椋梨氏は新荘系小早川の本家だからわかるけどね、乃美氏もね・・・ここから、この段階で乃美氏も結構存在感を増してたカモ、という気がした。わたくしが何を考えてるか、記憶力のいい方にはわかるかもしれませんが、新高山城シリーズで書いた、隆景の相続イベントがどうしても頭をもたげます。実は、この時の戦のことは山名理興の名前こそ出さなかったものの、相続イベントの乃美隆興のダンジョンでちょっとだけ書いてましてね。「またその話でっか~!!」と呆れる方もおられるかもしれませんが、どうにも謎の多いイベントだし、私は執念深いのだ神辺城の記事でこんなことを書く人はまずいませんが(笑)、まだまだ東西条編の内容を蒸し返す記述は続くと思われます。だって、同じ時期で登場人物も同じなんだからね。しかも、天文4年~10年までも重要だけど、天文10年~20年までもあらたな時代の幕開けの準備期間ともいえる、重大な時期。こんな大切な期間の出来事を、神辺城だけに限定した記事が私に書ける訳がない。ので、安芸がお嫌いでなければ、ゆるゆるとこのシリーズをお楽しみいただければ幸いです。このシリーズ、歴バナで相当長くなるかもな・・・(また?)。にほんブログ村
2013年09月03日

『水野記』の中にある、領内の寺社の由緒などをまとめた『寛永寺社記』に「山名理興」が社領を寄進したという内容の文書がある。安堵状というのは、一般的に領主が代替わりした時に、引き続き元の所有者の経営権を認めるものだけど、土地の寄進もそのタイミングで行われるものなんだそうな。田口義之氏が『風雲の神辺城 山名理興の登場』の中で引用しているのは3ヶ所。これらにはいずれも天文元壬辰年に「山名理興」が社領を寄せたとある。また、年不祥の12月1日付けで「宮内少輔 理興」が「丹下神四郎のこと、承りました」てな内容の書状を備後国人・和智豊郷あてに出している。備陽史探訪の会の『神辺城を廻る戦国武将たち』という講演会資料の中には、12月1日付け「宮内少輔 理興」の書状に続けて、天文元年11月16日付けの和智豊郷から丹下神四郎あての書状が掲載されていて、11月16日の書状では備後国の鋳物師大工職は三谷郡を除いて任せる、といった内容のことを言っているらしい。ので、12月1日付けの「宮内少輔 理興」から和智豊郷あての書状は、天文元年のものとみて間違いないだろう、としている。そして、この2通の書状の写しは全国の鋳物師を統括した真継家の所有となっていた。ここから、田口氏は 【室町時代、国内の鋳物師職の任命権を持っていたのは守護であった。 天文元年(一五三一)十二月の時点で理興が備後守護の職権を行使していたのは 間違いない。】 (『風雲の神辺城 山名理興の登場』より)としておられる。社領の寄進・鋳物師の任命という史料に残る事実などから、天文元年には「山名理興」が守護に相当する権力を持っていたという、通説とは大きくかけ離れた結論が導き出される。理興の出自については、『備陽六郡志』『福山志料』などには八尾城主と記載があり、「理興は杉原氏の出で銀山城主」という説が定着する以前には、それら文献の通りに受け取られていたという。現在でも八尾城主説を採る人はいるけど、杉原氏出身だという部分は動かない。ので、その場合は「八尾杉原氏の一族」という風に紹介される。八尾城(八ツ尾城)は、相方城や亀寿山城より北西に位置し、現在の府中市にある山城。築城そのものは備後守護・杉原伯耆守光平によるものとされるが、史料の上ではそれ以後は杉原氏が居住したという確証はなく、山名氏の備後守護としての拠点であったものを伝える史料ならある。山名氏もさすがに名族だけあって色んな人がいてややこしいけど、備後守護の山名さんは但馬の山名さんちだと思ってください。山名宗全はこちらのおうちの人です。一方、但馬とは別に伯耆にも山名さんちがあり、『西備名区』では理興の父を伯耆山名氏の一族であると伝える。そして、伯耆山名氏の子孫・氏明が神辺城主になったとする史料がある。山名氏明は「宮内少輔」に任官し、その弟は「村尾十郎」と称した。神辺城は本来、「村尾城」と呼ばれていたことを前回書きましたが、この「村尾」なんでしょうね。在地の名称を取って名字とすることは、当時あちこちで見られたことだからね。ここから、伯耆山名氏の一族が神辺に移り住んだ事実が存在する、と読める。ここまでをまとめると、理興は伯耆山名氏の一族の出身で、天文元年(1531)には備後守護、あるいは守護代に相当する権力を行使していたということになります。さて、『萩藩閥閲録 遺漏』に、大永年間(1521~27)のものと見られる宮實信の書状がある。宮氏の中では下野守家と上野介家の間で惣領の座を争っていたらしいと「大谷城(2)」で書きましたが、時には両者が協力することもあり、「備後両宮」と恐れられたそうな。で、大永年間頃にも2人の宮氏が力を持っており、書状を残した宮實信は、その当時の備後3大ボスの1人で、その頃「神辺和談」というものがあったことを書き残してくれている。とは言っても、別に「実録・神辺和談のすべて!」なんてものを残している訳ではなく、したがって周囲の情勢などから推測するしかない。神辺和談については、木下和司氏が論文を発表しておられるようですが、不勉強な私はまだそれを読んでないので、ここでも引き続き田口義之氏のサイトを参考にさせていただきます。備後守護家の山名氏は、応仁の乱では大内政弘とともに山名宗全が西軍のトップとして戦い、宗全の養女は大内教弘(政弘の父)の正室となるなど、大内家との関係は深かった。その守護山名氏が、尼子方に転じたことにより備後国内に動揺が走り、あらたに守護の一族を備後に迎えて時勢に対処しようとしたのが「神辺和談」。迎えられたのが、理興だという。ちなみに、理興はダイレクトに神辺城に入ったのではなく、八尾城主になっていることから、八尾城⇒神辺城の2つのステップを踏んだ可能性が高く、これにあわせて国人衆の領地替えも大規模に行われたことがうかがわれる、とされる。これらを踏まえて最後に理興の出自をまとめると、「伯耆山名氏の一族の出身で、八尾城を経て神辺城に入った。神辺城主となったのは、大永末頃~天文元年の間である」という感じになります。む~~~~~・・・・通説とは相当かけ離れるけど、こちらの説の方が無理がないと私は思うよなあ。前回からここまでの山名理興の話については、私は自分で研究した訳ではないのでかいつまんで紹介するにとどめましたが、田口義之氏のサイト(『備後山城風土記』『びんご古城散策』など色々あります)には、根拠となる史料の明示および丁寧な解説がついてますので、きちんとしたことを知りたい方はぜひそちらもご覧くださいそれにしても、何で山名理興のあんな通説が生まれたんだろう?って果てしなく疑問が広がるんだけど。それに、この名前・・・たぶん、「興」って大内義興さんのイメージが強いせいもあるし、「理」を「ただ」って読む習慣がないので、「ただおき」なのか「おきただ」なのか頭の悪い私は正直いまだにわからなくなることがあります(笑)。最初、義興さんの偏諱かと一瞬思ったけど、それなら「興」の字を下に持ってくるはずがないしな。田口義之氏の『八尾山城と山名氏』によると、伯耆山名氏の中に「興」を下の字に使う人もいたらしいので、やっぱり義興さんの偏諱じゃないってことだな。そうだよな。大内氏といえば、大内ファン必携の書『大内氏実録』を見てみたところ、天文7年の項に神辺城を落として理興を入れたという記述はない。『大内氏実録』は士族出身で郷土史家の近藤清石(きよし)が明治23年に刊行したもので、藩の右筆として古記録を調査したというだけあって膨大な文献や書状から大内氏の歴史や人物などをまとめたもの。出典なども明示されていて、書状関係だと一括して「古文書」とされちゃってる部分もあるんだけど、大内氏の勉強にあたっては外せない一冊。数は多くはないものの、軍記物も一部取り入れてる。でも、理興の通説に該当するような記述は見受けられなかった。近藤清石が備後の文献にあたらなかったんじゃないの?って言ってしまえばそれまでだけど、神辺城は大内氏にとっても重要な城だし、まして尼子方から奪ったという経緯であれば、全く書かれないということはないんじゃないかと思うんだよね。ので、近藤氏が天文7年落城説を採用しなかったのは興味深いと思った。さて、山名理興の出自と神辺城主になった経緯については一旦ここで終わりとします。が、ちょぼちょぼ通説との比較などもするかと思いますので、前回書いた通説についてもよく押さえていてください。いや、最後までナゾが多いんだもん、この人・・・もうやんなっちゃうで、ここからは東西条シリーズを読んで下さった方には割となじみやすい話になってくるかと思います。ついでに、私がどうしても神辺城を外せなかった理由もわかるはず『西備名区』では天文9年(1540)春、あるいは天文8年に毛利元就が神辺城を攻めたとしている。その中では、理興の配下が神辺城に集結し、毛利軍はいとも軽くあしらわれ、簡単に落とせないと見た元就は早々に撤退したことになっている。安芸の天文9年の前半のタイムテーブルは「頭崎城(6)」に書いてますが、どうもこの時期の攻撃というのは考えにくい・・・相手から攻撃されたんなら応戦するってことはあるでしょうけど。でも、元就がモーレツに忙しくなる前のことではあるから、絶対無理!!とまでは言いきれない。ただ、この時の元就は大内方だから、その元就が攻めるなら理興は尼子方ってことになるよね。ところが、天文9年の後半から始まった吉田郡山城の戦いの最中、理興が元就に陣中見舞いの使者を送ったなんて話があるのだ。お見舞いの件が事実だったなら、敵方にわざわざ陣中見舞いなんてするワケがない。「神辺和談」については、私はまだ自分の中で消化できてないけど、理興が神辺城主になってから天文12年までは大内方だったのだろうと思う。なぜでしょう・・・そこで、次回から新しいステップへと入ります。にほんブログ村
2013年09月01日
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