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有名な寒戸の婆の話が、「遠野物語」の第八話にあります。幻想的な神隠し譚として親しまれてきました。この神隠し譚の原話が喜善の「東奥異聞」に載せられており、それを読んだとき、わたしは小さな衝撃を受けたのです。「遠野物語」からは切り捨てられている部分が、そこには語られていたのです。「遠野物語」では、「されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりと云ふ」と話が結ばれ、一篇の幻想的な神隠し譚としてみごとに完結させられています。ところが喜善の原話によれば、そのあとに、巫女とか山伏に頼んで寒戸の婆にたいする魔封じの呪術がおこなわれているのです。村境にひとつの石塔を建てて、ここより内には入って来るな、と道切りの儀礼をしているわけです。(中略)そして、その石塔が大正初年の大洪水のときに流出して、いまはない、と語り納められることによって、ムラの歴史語りともなってゆくのです。(赤坂憲雄さん「遠野/物語考」1章P20)
2009年06月30日
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これも玄関のクチナシの白い花ですが、小さいし、あまりうまく咲かせられないにゃ。
2009年06月30日
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「遠野物語」とその作者である柳田を、ある種の侵すべからざる神話的な存在に祀りあげることで、意識すると否とにかかわらず、その背後に横たわる遠野の生きられた伝承世界と、語り部であった佐々木喜善を相対的に貶めてきた、これまでの「遠野物語」の受容と評価の歴史が根底から問われることになるでしょう。(中略)喜善の語りと柳田の文体とを隔てる距離、あるいは、「一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり」という序文のことばに秘められた、ある微妙な屈折を捉え損なうことによって、「遠野物語」は民俗学の古典となったのです。しかし、、「遠野物語」はすぐれた説話文学ではあっても、あきらかに生きられた伝承世界そのものではありません。(赤坂憲雄さん「遠野/物語考」1章P14)
2009年06月29日
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玄関の白いキキョウが咲き始めました。
2009年06月29日
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こうして見てくると、「遠野物語」は古くて新しいという本質が見えてきます。それは「昔」と「今」の関係と言っていいでしょう。「昔」が「今」にあるからこそ、話は生きているということができるのです。というわけで、石井正己さんの「『遠野物語』を読み解く」を読みました。メモばかりが、やたら多くなりましたが、自分にとってのお勉強なので、引き続き「遠野物語捨遣」と赤坂憲雄さんの「遠野/物語考」を読んでみます。「遠野/物語考」「『遠野物語』を遠野の地に戻し、柳田国男という巨大な影から『遠野物語』を解き放つ―。物語の背後に横たわるさまざまな伝承群を遠野という土地の側から読み直し、原・遠野物語として再構成する“具体の民俗学”の試み。」(「BOOK」データベースより) ↑ 画像は「ちくま文庫」のものです。
2009年06月28日
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「遠野物語」研究の出発点となった「共同幻想論」は、八世紀の「古事記」より前に「遠野物語」を位置づけています。いささか乱暴な作業ですが、それによって、国家そのものの相対化を試みようとしたのです。この仮説はアジア的な農耕社会へ垂線を下ろしましたが、吉本(隆明)はその後、さらにアフリカ的な狩猟社会にまで史観を拡張してゆきます(「アフリカ的段階について」)。(中略) おそらく「遠野物語」を読むには、アフリカで誕生した人類が、その後たどった移動の記憶との深い対話が必要となるでしょう。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」終章P237)壮大なアナロジーかな?
2009年06月27日
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多島斗志之さんの「黒百合」と柳広司さんの「トーキョー・プリズン」を買書つんどく。「黒百合」は、samiadoさんのブログで紹介されていたので知りましたが、六甲山はご当地の山ですので、買ってみました。多島さんの本は、「症例A」しか読んだことがありませんが、デビュー作も「〈移情閣〉ゲーム」ということで、なにか神戸に縁のあるかたなのでしょうか?「「六甲山に小さな別荘があるんだ。下の街とは気温が八度も違うから涼しく過ごせるよ。きみと同い年のひとり息子がいるので、きっといい遊び相手になる。一彦という名前だ」父の古い友人である浅木さんに招かれた私は、別荘に到着した翌日、一彦とともに向かったヒョウタン池で「この池の精」と名乗る少女に出会う。夏休みの宿題、ハイキング、次第に育まれる淡い恋、そして死―一九五二年夏、六甲の避暑地でかけがえのない時間を過ごす少年たちを瑞々しい筆致で描き、文芸とミステリの融合を果たした傑作長編。」(「BOOK」データベースより)「トーキョー・プリズン」は、茨木月季さんのブログで知って、面白げに思い、買ってみました。今年は「ジョーカー・ゲーム」の評判が高かったみたいですが、これも興味あります。でもって、柳さんは間違いなく六甲山で遊んだことでしょう。「戦時中に消息を絶った知人の情報を得るため巣鴨プリズンを訪れた私立探偵のフェアフィールドは、調査の交換条件として、囚人・貴島悟の記憶を取り戻す任務を命じられる。捕虜虐殺の容疑で拘留されている貴島は、恐ろしいほど頭脳明晰な男だが、戦争中の記憶は完全に消失していた。フェアフィールドは貴島の相棒役を務めながら、プリズン内で発生した不可解な服毒死事件の謎を追ってゆく。戦争の暗部を抉る傑作長編ミステリー。」(「BOOK」データベースより)
2009年06月27日
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飢饉による餓死のような社会的な出来事よりも、「遠野物語」に散見するのは殺人事件です。河童の子を斬り刻んで一升樽に入れて土中に埋め(五五話)、河童らしき物の子を道ちがえに持って行った(五六話)というのは、河童と言いながら「子殺し」です。当時の「岩手日報」を見ると、嬰児殺しの事件がとこどき取り上げられ、裁判になっています。間引きの習慣が近代の法制度のもとでは許されなくなっているのです。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」終章P218)川には河童多く住めり。猿が石川にことに多し。二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きはめて醜怪なるものなりき。女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその終始を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀にうづくまりてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、しだいにその女の所へ村の何某といふ者夜々通ふといふ噂たちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺ひたりしが、後には婿と寝たる夜さへ来るやうになれり。河童なるべしといふ評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れども何の甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑ふ声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなはず、人々いかにともすべきやうなかりき。その産はきはめて難産なりしが、ある者の言ふには、馬槽に水をたたへその中にて産まば安く産まるべしととのことにて、これを試みたればはたしてその通りなりき。その子は手に水掻きあり。この娘の母もまたかつて河童の子を産みしことありといふ。二代や三代の因縁にはあらずと言ふ者もあり。この家も如法の豪家にて何の某といふ士族なり。村会議員をしたることもあり。(柳田国男さん「遠野物語」五五話)
2009年06月26日
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米澤穂信さんの「さよなら妖精」を買書。前から気になっていた本ですが、突然読みたくなったので買って、読み始めました。「1991年4月。雨宿りをするひとりの少女との偶然の出会いが、謎に満ちた日々への扉を開けた。遠い国からはるばるおれたちの街にやって来た少女、マーヤ。彼女と過ごす、謎に満ちた日常。そして彼女が帰国した後、おれたちの最大の謎解きが始まる。謎を解く鍵は記憶のなかに―。忘れ難い余韻をもたらす、出会いと祈りの物話。『犬はどこだ』の著者の代表作となった清新な力作。」(「BOOK」データベースより)
2009年06月26日
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柳田が「再版覚書」で「聴耳草紙は昔話集であるのだが、あの中には私がこちらへ載せるつもりで居た口碑類を若干は取入れてある」と不満を漏らしたのは、こうした話を指しています。しかし、佐々木は、「私の考へでは或一部の説話群の基礎根本をなした種子が、或いは斯う云ふものではなかったのではあるまいかと謂ふ想像からで、これらの集合や組立てでもって、一つの話が構成され且つ成長されたかのやうな暗示もあったからである」と述べています。それは、昔話は神話が零落したものだと認定していた柳田とは、相容れない考え方だったはずです。昔話成長論と言ってもいいような考え方は、佐々木の到達点だったのです。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」七章P174)
2009年06月25日
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いや、青天の霹靂というか、「日本人の歴史教科書 」の表紙の写真について思いがけないトラックバックとコメントをいただきました。確かに、何の説明もない、この写真の使い方は不適切だと思いました。ありがとうございました。
2009年06月25日
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コミックの大島弓子選集(2)~(4)「綿の国星」を読みました。いや、すごいすごい!全編を通して読んだのは初めてでしたが、堪能しました。また、4巻には、何回読んでも難解で、僕には理解の外の「バナナブレッドのプディング」と、とてもほのぼのとする「四月怪談」が入っています。「チビ猫と呼ばれる幼猫の視点から見た人間世界のふしぎと感動―――。少女漫画史に残る傑作の数々を生み出した大島弓子。その代表作と言うべき「綿の国星」。」(メディアファクトリーの紹介)
2009年06月25日
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「遠野物語」の話には「昔」という言葉がずいぶん見られますが、序文に「山神山人の伝説」とあるように、全体を括る言葉は「伝説」だったと思われます。(中略)ところが、「御伽話のこと昔々と云ふ」からわかるのは、遠野では「御伽話」ではなく、「昔々」と呼んでいたということです。それは、遠野に「伝説」とは違う世界、つまり昔話の世界があることに触れた一瞬でした。(中略)こうして方言がよく残っているのは、「昔々」には「伝説」とは違う語りがあったからでしょう。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」七章P158)
2009年06月24日
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ジョージ・オーウェルの「一九八四年」が新訳で復刊されることを、復刊ドットコムで知りました。7月上旬には書店に並ぶそうですので、村上春樹さんの「1Q84」がヒットしたのであわてて復刊するということではないみたいですね。訳者の高橋和久さんは、マイケル・カニンガムの「めぐりあう時間たち」やアラスター・グレイ「哀れなるものたち」、ジョン・バンヴィル「ケプラーの憂鬱」などを訳しておられるかたです。しかも!しかもですね、解説がなんとトマス・ピンチョンというのですから、これは楽しみです!もういっぺん、これで再チャレンジしてみようかな?
2009年06月24日
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佐々木は「遠野物語」の世界がある一方で、こうしたいかがわしい現実があることもよく認識していたのです。すでに見たように、昭和五年に「見世物追憶」を書いていた頃、柳田は「遠野物語」の固有性を否定していました。二人の態度はずいぶん違いますが、共同作業で作りあげた「遠野物語」を相対化した点ではよく似ています。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」六章P153)
2009年06月23日
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高原英理さんの「ゴシックスピリット 」を買書つんどく。「ゴシックハート」は、もうひとつピンとこなかったのですが、これも買ってみました。「小説、映画、マンガ、歌舞伎、アート―合い言葉は「残酷」「耽美」「可憐」。暗黒世界に顫える精神を、澁澤龍彦・中井英夫の血統をひく異才が語り尽くす新たなるゴス「GOTH」の黙示録。」(「BOOK」データベースより)
2009年06月23日
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すでに見てきたように、「遠野物語」には、「昔」と「今」の照応する話がいくつも見られました。この「昔」は単なる過去ではなく、「今」の状態になった起源の時間です。「遠野物語」の題目に「小正月の行事」、「遠野物語捨遺」の題目に「年中行事」があります。それらの話にある行事が毎年繰り返されるのですから、「昔」は「今」に再現されることになります。そうした時間の構造が、序文で主張した「目前の出来事」「現実の事実」という認識を支えているのです。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」五章P138)
2009年06月22日
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大塚ひかりさん現代訳「源氏物語(第4巻)」を買書つんどく。これは順番ですから。「栄華を極めた源氏に、新たに持ち上がった縁談。六条院に暗い影が忍び寄る……物語中最高傑作と言われる「若菜上」「若菜下」から、「夕霧」まで。」(筑摩書房の紹介)
2009年06月22日
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狐に化かされる場所というのは決まっています。遠野町の東では鶯崎、西では多賀神社、北は八幡山でした。だいたい村と町の境界に当たる場所で、村の人が町へ行き来する時に、こうした出来事に出会ったのです。狐に騙されれば、それは笑い話になりました。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」五章P134)
2009年06月21日
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筒井康隆さんの「馬の首風雲録」を買書。今は昔、13歳の時にハヤカワ文庫版の「馬の首風雲録」を買って読みました。当時、子どもながら、とても感動したことを憶えています。このたび、いきつけの本屋さんで、筒井さんのサイン入り(地元の作家さんなので、この書店では筒井さんのサイン本がよくあります)の扶桑社文庫版を見かけたので、欲しくなって買ってしまいました。で、家に帰って、ゴチャゴチャの中から35年ほど前のハヤカワ文庫版を引っ張り出して、つらつら比べてみると、旧版には新井苑子さんのイラストがたくさん入っていて、古びてはいるけれど、やっぱり捨てがたく、むしろこれにサインが欲しいと思いました。「「馬の首」と呼ばれる暗黒星雲には、犬に似た知的生物が住む星があった。ところがここで戦乱が勃発、戦闘は急激にエスカレートしていく。この機に乗じてひと儲けをたくらむ行商人「戦争婆さん」もその波に呑まれ、4人の息子たちがひとり、またひとりと戦渦に巻きこまれていく。彼らの運命は、一大宇宙戦の趨勢を決定づけることになるのだが…戦争の悲惨さ、滑稽さ、カッコよさ、すべてを内包して疾走する、筒井康隆第2長編SF。」(「BOOK」データベースより) 上が扶桑社文庫版。下がハヤカワ文庫版。同じ新井さんのカバーイラストです。 ↑ 筒井さんのサイン。ちょっと見えにくい。 ↑ ハヤカワ文庫版の新井さんの口絵とイラスト
2009年06月21日
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こうした狼との対立にも、終止符が打たれます。和野の佐々木嘉兵衛が大谷地へ狩りに行くと、何百とも知れない狼が群れて北の方へ行きました。その頃から遠野郷には狼が極端に少なくなったそうです。(四一話)「或年」としかないのが残念ですが、これが遠野における最後の狼です。狼の絶滅にはさまざまな説がありますが、こうして狼が遠野郷の地を去った後、その空隙を埋めるように人里に近づくようになったのが熊だったのです。(石井正己さん「『遠野物語』を読み解く」五章P129)というわけで、遠野に復帰しました。
2009年06月20日
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私は幽霊というものはあると思っている。怨念というようなものもあると信じている。この宇宙は霊界と物界とで成り立っていて、その霊界と物界との間には、絶えず交通があるものだと確信している。 それ故、私は好んで怪談を読む。殊に西洋の優れた詩人の書いた怪談を読む。エドガア・アラン・ポオだの、エエ・テエ・アア・ホフマンだの、ハンス・ハインツ・エエヴェルスだののように、既に、その方面で名の高い作家は問わないとしても、西洋にはずいぶん優れた作家のものでこの方面の名作がある。古いところで・ダニエル・デ・フォオの「ヴィイル夫人の幽霊」、近くはキップリングの「幽霊人力車」、モオパッサンの「ラ・オルラ」などは誰でも知っていよう。キイルランドの「シエスタ」、アラルコンの「丈の高い女」、コムパアト「物言わぬ女」なども有名である。殊に露西亜には優れた作家にこの種の作が多い。プウシュキンの「ピック・ダアム」、ドストエフスキイの「死人の笑い」、ゴオゴリの「消えてなくなった証書」、レルモントフの「未完小説の断篇」、ツウルゲネフの「幽霊」などは誰でも知っていよう。その外、リエスコフの「白鷲」、ソログウプの「新聞広告によっての死」、ブリュソフの「弁護」など、いずれも第一流の作家が書いた第一流の怪談である・・・・・。(小山内薫「番町の怪と高輪の怪と」冒頭より)デフォー「ヴィール夫人の亡霊」(岡本綺堂編「世界怪談名作集」河出文庫他)キップリング「幻の人力車」(岡本綺堂編「世界怪談名作集」河出文庫)モーパッサン「オルラ」(「フランス幻想小説傑作集」白水uブックス他)キイルランド「シエスタ」いったい誰?何者?アラルコン「背の高い女」(「スペイン幻想小説傑作集」白水uブックス他)コムパアト「物言わぬ女」これも知らん人や・・・・・。プーシキン「ピック・ダアム」(「スペードの女王・ベールキン物語」岩波文庫の中の一篇かな?)ドストエフスキー「死人の笑い」(「作家の日記」の中の短編かな?)ゴーゴリ「消え失せた手紙」(「悪魔のトランプ占い」ポプラ社)レルモントフの「未完小説の断篇」これも不明。(「シートス」ロシア神秘小説集かな?)ツウルゲネフの「幽霊」(ツルゲーネフ「不思議な話」ロシア怪談集かな?)リエスコフの「白鷲」レスコフ?なんでしょうが・・・・・。ソログウプの「新聞広告によっての死」(ソログープ「光と影」ロシア怪談集かな?)ブリュソフの「弁護」(ブリューソフ「防衛」ロシア怪談集かな?)ことほど左様に、よく分かりませんでした。
2009年06月20日
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それが彼女が二十年前に、あの教室で手渡してくれたパッケージの意味だった。というわけで、村上春樹さんの「1Q84」を読みました。いや、ようやく書店に並び始めましたが、しばらくの間、大変なことになっていましたね。こういうこともあるんだ、と認識を新たにしてくれた出来事でした。さて、小説の構成としては、当初、青豆の物語が天吾の物語に飲み込まれるように始まったのが、終盤、天吾の物語をも飲み込んで、心の外側とも内側ともいえないような、全体的に薄明のような、より大きな物語として進行していきます。こういった、物語が物語に飲み込み、飲み込まれていく過程というかが、醍醐味のひとつでした。ところで、この薄明のような、というので思い出すのが、この小説にも出てくる「渚にて」の最初に掲げられている、これが世界の終わり方これが世界の終わり方これが世界の終わり方バーンとではなくメソメソとThis is the way the world endsThis is the way the world endsThis is the way the world endsNot with a bang but a whimper.というフレーズで、T.S.エリオットの「うつろな人間(The Hollow Men)」という詩の一部だったのでした。もうひとつは、善悪を超えた虚無のような、暗闇のようなものが、まるで遺伝子のように、避けがたく受け継がれていく、という世界観があります。これは、「ねじまき鳥クロニクル」のノモンハン事件に言及するあたりから形を取り始め、阪神・淡路大震災とオウムのサリン事件を契機にして先鋭化してきたものと同じものだと思われますが、これを「やれやれ」と左に受け流すのではなく、真っ向勝負するかまえを見せています。この虚無・暗闇、を克服するものは何なのか?これが、村上さんの伝えたいメッセージであり、そして、これは物語といった形でしか答えられない問いなのだろう、と思いました。しかし、この物語はこれで終わっていませんので、今後、BOOK3、BOOK4として書き継がれていくのか、あるいは天吾や青豆やふかえりの新たな現在の物語、たとえば「200Q」として書かれるのかどうかは分かりませんが、いずれにしろ書かれなければなりませんし、村上さんもきっとそうされると思います。
2009年06月19日
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青豆はそのときひそかに、ある種の心を月に託していたのかもしれない、と天吾はふと思った。彼女と月のあいだに、何か密約のようなものが結ばれたのかもしれない。月に向けられた彼女の視線には、そのような想像を導く、おそろしく真摯なものがこめられていた。 そのとき青豆が月に向かって何を差し出したのかはもちろんわからない。しかし月が彼女に与えたものは、天吾にもおおよそ想像がついた。それはおそらく純粋な孤独と静謐だ。それは月が人に与ええる最良のものごとだった。(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第18章天吾P392)
2009年06月18日
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甲高い声のリトル・ピープルが言った。「われわれはちっともかまわん。山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第19章青豆P403)しかしその足下には目に見えぬ底流が太く流れていた。飾りのない簡潔な言葉遣いの中に、青豆はその不吉な響きを聞き取ることができた。そこにあるのはある種の病の到来を暗示するような暗鬱さだ。それは人の精神を芯から静かに蝕んでいく致死的な病だ。そしてその病を運んでくるものは、合唱隊のような七人のリトル・ピープルだった。ここには間違いなく何かしら健全でないものが含まれている、と青豆は思った。それでも宿命的なまでに自分に近しいものを、彼らのヴォイスの中に青豆はなぜか聞き取ることができた。(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第19章青豆P408)間違いなく遺伝子の比喩ですね。
2009年06月17日
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広野由美子さんの「ミステリーの人間学 英国古典探偵小説を読む」を買書つんどく。広野さんの本では、「批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義」をつんだままです。メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」は大好きな本です。「読者を謎解きに導く巧みなプロット。犯罪にいたる人間心理への緻密な洞察。一九世紀前半ごろ誕生した探偵小説は、文学に共通する「人間を描く」というテーマに鋭く迫る試みでもある。ディケンズ、コリンズ、ドイル、チェスタトン、クリスティーなどの、代表的な英国ミステリー作品を取り上げ、探偵小説の系譜、作品の魅力などを読み解く。」(「BOOK」データベースより)
2009年06月17日
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しかし彼自身は多くの意味合いにおいて普通ではない人間だった。その普通でなさは、少なくとも部分的には、善悪の基準を超えたもののように思えた。そしてその命を絶つのもまた、普通ではないことだった。それはあとに奇妙な種類の手応えを残していった。普通ではない手応えだ。 彼が残していったものは「約束」だった。青豆はしばらく考えた末にそういう結論に達した。約束の重みが、彼女の手の中にしるしとして残されたのだ。青豆はそれを理解した。このしるしが彼女の手から消えることは、もうないかもしれない。(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第17章青豆P360)
2009年06月16日
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「日本人の歴史教科書 」を買書。以前、扶桑社版のを買って、線を引きながら読んだことがあります(教科書ですから・・・・・)。この本も、線を引きながら、少しずつ読んでみることにしましたが、ところで、この表紙の写真の手は、どの仏像のものでしょうか?とても、やさしくて美しいです。
2009年06月16日
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きっといつか、もっとあとになって、自分はこの出来事の意味や目的を理解できるようになるのだろう、と天吾は思った。そのためにはこの瞬間をできるだけ正確に、明瞭に意識にとどめておく必要がある。今の彼はただ数学が得意なだけの、十歳の少年に過ぎない。新しい扉を目の前にしているが、その奥で何が自分を待ち受けているのかを知らない。無力であり無知であり、感情的に混乱し、少なからず怯えてもいる。自分でもそれはわかっていた。そして少女も、今ここで理解されることを期待してはいない。彼女が求めているのは、自分の感情を天吾にしっかり送り届けるという、ただそれだけのことだ。それは小さな固い箱に詰められ、清潔な包装紙にくるまれ、細い紐できつく結ばれている。そのようなパッケージを彼女は天吾に手渡していた。 そのパッケージを今ここで開く必要はない、と少女は無言のうちに語っていた。その時がくれば開けばいい。あなたは今これをただ受け取るだけでいい。(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第14章天吾P307)
2009年06月15日
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これからは、アジサイの季節です。
2009年06月15日
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「お父さん」と天吾は呼びかけた。その言葉を口にするのはとても久しぶりのことだった。「僕は天吾です。あなたの息子です」「私には息子はおらない」と父親はあっさりと言った。「あなたには息子はいない」と天吾は機械的に反復した。父親は肯いた。「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。「あなたは何ものでもない」と父親は言った。そして簡潔に二度首を振った。(中略)「あなたは何ものでもない」と父親は感情のこもっていない声で同じ言葉を繰り返した。「何ものでもなかったし、何ものでもないし、これから先も何ものにもなれないだろう」それでじゅうぶんだ、と天吾は思った。(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第8章天吾P174)父親は肯いた。「空白が生まれれば、何かがやってきて埋めなくてはならない。みんなそうしておるわけだから」「みんなそうしている?」「そのとおり」と父親は断言した。「あなたはどんな空白を埋めているんですか?」父親はむずかしい顔をした。長い眉毛が下がって目を隠した。そしていくぶん嘲りが混じった声で言った。「あんたにはそれがわからない」「わかりません」と天吾は言った。(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第8章天吾P181)
2009年06月14日
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一輪だけ先ぶれのように咲きました。ほかは、つぼみも小さいですからまだまだ時間がかかります。
2009年06月14日
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「ここではない世界であることの意味は、ここにある世界の過去を書き換えられることなんだ」「好きなだけ、好きなように過去を書き換えることができる?」「そう」「あなたは過去を書き換えたいの?」「君は過去を書き換えたくないの?」彼女は首を振った。「私は過去だとか歴史だとか、そんなものを書き換えたいとはちっとも思わない。私が書き換えたいのはね、今ここにある現在よ」「でも過去を書き換えれば、当然ながら現在だって変わる。現在というのは過去の集積によって形作られているわけだから」(中略)「ひとつだけ言えることがある。あなたはかつての数学の神童で、柔道の有段者で、長い小説だって書いている。それにもかかわらず、あなたにはこの世界のことがなんにもわかっていない。何ひとつ」(村上春樹さん「1Q84」第24章天吾P553)
2009年06月13日
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湊かなえさんの「贖罪」を買書つんどく。そういえば、桜庭一樹さん絶賛のイアン・マキューアン「贖罪」もつんだままだなぁ~、と思いました。「取り柄と言えるのはきれいな空気、夕方六時には「グリーンスリーブス」のメロディ。そんな穏やかな田舎町で起きた、惨たらしい美少女殺害事件。犯人と目される男の顔をどうしても思い出せない4人の少女たちに投げつけられた激情の言葉が、彼女たちの運命を大きく狂わせることになる──これで約束は、果たせたことになるのでしょうか?衝撃のベストセラー『告白』の著者が、悲劇の連鎖の中で「罪」と「贖罪」の意味を問う、迫真の連作ミステリ。本屋大賞受賞後第1作。」著者のことば「コンプレックスを持った子どもが、そのコンプレックスに命を救われたら、その後どのような人生を送るのだろう。外見の小さなコンプレックスなど、年をかさねるにつれて、忘れたり、どうでもよくなっていくことのはずなのに、逆に重くのしかかってくることになるかもしれない。 その子どもが「償い」をしなければならない状況に置かれたら、どんな手段を選ぶだろう。 ――そんな話を書きたいと思いました。小さな田舎町を舞台に。 この作品が書けたことを、自分自身、心の底から満足しております。 一人でも多くの方々にお読みいただければ幸いです。」(東京創元社の紹介より)こんな特設ページもありました。
2009年06月13日
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青豆はそのあとたまたま「渚にて」という映画をテレビの深夜放送で見た。一九六〇年前後につくられたアメリカ映画だ。アメリカとソビエトとのあいだで全面戦争が勃発し、大量の核ミサイルがトビウオの群れのように大陸間を盛大に飛び交い、地球があっけなく壊滅し、世界のほとんどの部分で人類が死に絶えてしまう。しかし風向きかなにかのせいで、南半球のオーストラリアだけにはまだ死の灰が到達していない。とはいえそれがやってくるのは時間の問題である。人類の消滅は何をもってしても避けられない。生き残った人々はその地で、来るべき終末をなすすべもなく待っている。それぞれのやり方で人生の最後の日々を生きている。そんな筋だった。救いのない暗い映画だった(しかし、それにもかかわらず、誰もが心の奥底では世の終末の到来を待ち受けているものだと、青豆はその映画を見ながらあらためて確信した)。 いずれにせよ、真夜中に一人でその映画を見ながら、青豆は「なるほど、睾丸を思い切り蹴られるというのは、こういう感じの心持ちなのか」と推測し、それなりに納得した。(村上春樹さん「1Q84」第11章青豆P233)
2009年06月12日
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電車が国立駅に到着するまで、ふかえりはそのまま彼の手を軽く握り続けていた。彼女の手は思ったより硬く、さらりとしていた。熱くもなく、冷たくもない。その手は天吾のおおよそ半分の大きさしかなかった。 「こわがることはない。いつものニチヨウじゃないから」と少女は誰もが知っている事実を告げるように言った。(村上春樹さん「1Q84」第8章天吾P187)
2009年06月11日
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村上春樹さん訳のカポーティ「誕生日の子どもたち」を買書つんどく。前から、村上さん訳の「無頭の鷹」(おそろしいほどの傑作だと思っています)が読んでみたくて、ハードカバーで買おうか買おまいか悩んでいたのですが、この度文庫で発売されたので、買いました。「「私が泣くのは大人になりすぎたからだよ」。かつて悪意の存在を知らず、傷つけ傷つくことから遠く隔たっていた世界へカポーティは幾度となく立ち返ろうとした。たとえその扉はすでに閉ざされていようとも。イノセント・ストーリーズ─そんな彼のこぼした宝石のような逸品六篇を、村上春樹が選り、心をこめて訳出しました。」(「BOOK」データベースより)収録作品「誕生日の子どもたち/感謝祭の客/クリスマスの思い出/あるクリスマス/無頭の鷹/おじいさんの思い出」(「BOOK」データベースより)で、ふと見るとその横に、佐藤亜紀さんの「戦争の法」の文庫版が並んでいました。あいや、これは!僕の大好きな本です。この機会に多くの人に読んでいただきたい作品なので、ついでに紹介してみました。 「1975年、日本海側のN***県が突如分離独立を宣言し、街は独立を支持するソ連軍の兵で溢れた。父は紡績工場と家族を捨てて出奔し武器と麻薬の密売を始め、母は売春宿の女将となり、主人公の「私」は親友の千秋と共に山に入って少年ゲリラとなる…。無法状態の地方都市を舞台に人々の狂騒を描いた傑作長篇。」(「BOOK」データベースより)
2009年06月11日
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それはどう見ても、ほかの誰かが手にとって読むことを前提として書かれた文章だった。だからこそ「空気さなぎ」は文学作品とすることを目的して書かれていないにもかかわらず、そして文章が稚拙であるにもかかわらず、人の心に訴える力を身につけることができた。しかしそのほかの誰かとはどうやら、近代文学が原則として念頭に置いている「不特定多数の読者」とは異なったものであるらしい。読んでいて、天吾にはそういう気がしてならなかった。 じゃあ、いったいどのような読者が想定されているのだろう?(村上春樹さん「1Q84」第6章天吾P128)
2009年06月10日
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鳥越碧さんの「一葉」を買書つんどく。ふと、書店で見かけたので買ってみました。「15歳で戸主になり、貧しさゆえ作家になる決意をした樋口一葉。小説の師・半井桃水への恋情、歌塾・萩の舎での屈託を抱え、極度の借金に追われながらも、わずか十数ヵ月で鴎外、露伴らから絶賛され近代文学の頂点に立つ。24年の生涯を全力で生ききった、稀有な天才作家の儚くも美しい足跡を綴る、感動の長編小説。」(「BOOK」データベースより)
2009年06月09日
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リトル・ピープルも空気さなぎも実在する、とふかえりは天吾に言った。彼女は「さきがけ」というコミューンの中で盲目の山羊を誤って死なせ、その懲罰を受けているときに、リトル・ピープルと知り合った。彼らと共に夜ごと空気さなぎをつくった。そしてその結果彼女の身に何か大きな意味を持つことが起こった。彼女はその出来事を物語のかたちにした。天吾がその物語を小説のかたちに整えた。(村上春樹さん「1Q84」第22章青豆P507)
2009年06月08日
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「ここではない世界は、ここの世界とどう違うのかしら。今自分がどちらの世界にいるか、見分けはつくのかな?」「見分けはつくよ。僕が書いているんだから」「私が言っているのは、あなた以外のほかの人にとってということ」(中略)「たぶん見分けはつくと思う」と天吾は言った。「たとえば、ここではない世界には月が二個あるんだ。だから違いがわかる」 月が二個浮かんでいる世界という設定は「空気さなぎ」から運び入れたものだ。天吾はその世界についてもっと長い物語を――そして彼自身の物語を――書こうとしていた。設定が同じであることは、後日問題になるかもしれない。しかし天吾は今、月が二個ある世界をどうしても書いてみたかった。(村上春樹さん「1Q84」第8章天吾P550)月が二個ある、ここではない世界に、青豆は存在する。
2009年06月07日
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彼はその音楽を聴きながら、ワードプロセッサーの画面に向かって文字を打ち込んでいった。朝の早い時刻にヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聴くことは、日々の習慣のひとつになっていた。高校生のときに即席の打楽器奏者としてその曲を演奏して以来、それは天吾にとって特別な意味を持つ音楽になっていた。その音楽はいつも彼を個人的に励まし、護ってくれた。(村上春樹さん「1Q84」BOOK2第2章天吾P34)メモ4、メモ5は、この物語が「どのような形で」「誰の」物語であるのかを示唆しているように思われます。
2009年06月07日
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しかしなぜ、その音楽がヤナーチェックの「シンフォニエッタ」だとすぐにわかったのだろう、と青豆は不思議に思った。そしてなぜ、私はそれが一九二六年に作曲されたと知っているのだろう。彼女はとくにクラシック音楽のファンではない。ヤナーチェックについての個人的な思い出があるわけでもない。なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭の中にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。そしてまた、その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞り上げられているような感じがあるだけだ。青豆にはわけがわからなかった。「シンフォニエッタ」という音楽が私にこの不可解な感覚をもたらしているのだろうか。(村上春樹さん「1Q84」第1章青豆P16)
2009年06月06日
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秋里光彦=高原英理さんの「闇の司」を買書。前の「抒情的恐怖群」のところで触れていた本ですが、持っていなかったので。「凄惨極まる映画『女殺油地獄』の撮影中、撮影直後に起こった連続殺人。被害者は主演女優を含む三人で、いずれも残虐に、そして猟奇的に殺された。手がかりは女優のひとりが死に際に書き残した「オニ」という文字。次に殺害される危険を感じた撮影カメラマンのわたしは、撮影所のある仮名手町界隈を調べはじめるのだが…衝撃的な表題作に、幻想味溢れる一篇を加えた、珠玉の作品集。」(「BOOK」データベースより)
2009年06月06日
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安藤礼二さんの「光の曼陀羅 日本文学論」と「霊獣 死者の書完結篇」を買書つんどく。折口信夫さんは、僕には、なにか得体のしれない人といった印象がありますが、この安藤さんという人にも、得体のしれないイメージがあります。よくできてるわ。いや、しかし、散財してしまった。「光の曼陀羅 日本文学論」「折口信夫『死者の書』を起点に浮かび上がるまったく新しい日本文学の系譜、“光の曼陀羅”。埴谷雄高、稲垣足穂、武田泰淳、江戸川乱歩、南方熊楠、そして中井英夫…。此処と彼方をつなぐ文学のもつ力の本質を明らかにする画期的な評論集。折口信夫新発見資料収録。」(「BOOK」データベースより)「霊獣 死者の書完結篇」「光と闇、夢と現実、少女と死者が渾然一体となり、光り輝く胎児が生み落とされる。 未完に終わった、もうひとつの「死者の書」。それは高野山の霊窟に生きながら入定した空海をめぐる物語だった。折口信夫が織り上げようとした壮大な光の曼陀羅の全貌がいま解き明かされる。古代と近代は一つに重なり合い、仏教とキリスト教は融合し、世界神話の構造が立ち現れる。大江健三郎賞に輝く気鋭の、新たなる飛翔!」(新潮社の紹介)
2009年06月05日
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「そして王国がやってくる」と青豆は小さく口に出して言った。「待ちきれない」とどこかで誰かが言った。(村上春樹さん「1Q84」第15章青豆P353)
2009年06月04日
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「とにかくその本が出版されたのは一九四九年で、その時点では一九八四年は遠い未来だった」「ことしのこと」「そう、今年がちょうど一九八四年だ。未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて破棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にも分からなくなってしまう。誰が敵で誰が味方なのかもわからなくなってくる。そんな話だよ」「レキシをかきかえる」「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うことと同じことなんだ。それは犯罪だ」ふかえりはしばらくそれについて考えていた。(村上春樹さん「1Q84」第20章青豆P459)
2009年06月03日
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離森の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸の工場ありたり。その小屋の戸口に夜になれば女の伺ひ寄りて人を見てげたげたと笑ふ者ありて、淋しさに堪へざるゆゑ、つひに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木伐出しのために小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の者いづれへか迷ひ行き、帰りて後茫然としてあることしばしばなり。かかる人夫四、五人もありてその後も絶えず何方へか出でて行くことありき。この者どもが後に言ふを聞けば、女が来てどこへか連れ出すなり。帰りては後は二日も三日も物を覚へずといへり。(柳田国男さん「遠野物語」七五話)こりゃいったい、何の話であろうか?わけがわからなかったところで、「遠野物語」から「捨遣」へと進みました。
2009年06月03日
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1Q84年――私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。Qは question mark のQだ。疑問を背負ったもの。(村上春樹さん「1Q84」第9章青豆P202)ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル。僕は途中で挫折したまま、読めていませんが、「1Q84」に取りかかる前に、読める方はこの本を読んでいたほうがよいのかも・・・・・。ジョージ・オーウェル「1984年」。しかし、なぜ絶版なんだろ?
2009年06月02日
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塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は雨ざらしなり。これをカクラサマといふ。村の子供これを玩物にし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどするゆゑに、今は鼻も口も見えぬやうになれり。あるひは子供を叱り戒めてこれを制止する者あれば、かへりて祟りを受け病むことありといへり。(柳田国男さん「遠野物語」七二話)カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭の飾りの有様も不分明なり。(柳田国男さん「遠野物語」七三話)カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、その地に常います神をかく唱ふることとなれり。(柳田国男さん「遠野物語」七四話)いや、これは大変おもしろい神様です。
2009年06月01日
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