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ブノワ・デュトゥールトゥル「幼女と煙草」を買書つんどく。なにか、変な本、変なタイトルのような気もしますが・・・・・。「死刑を目前に控えた囚人は、最後の一服を要求した。しかし、刑務所の所長は完全禁煙の規則を盾にそれを拒否。事態は、煙草会社、法曹界、政治家を巻き込んで、奇妙な混乱へと陥っていく…。はたして、囚人は最後の一服を許されるのか?一方、禁煙の市庁舎のトイレで煙草をくゆらせていた職員は、幼い女の子に現場を発見される。威嚇して追い払ったものの、職員には告発の手が伸びる。やがて、囚人と職員の人生は、皮肉な形で交差する─注目の作家が放つブラック・コメディ。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月31日
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時に峯谷ゆすり動きて、風叢林を僵(たふ)すがごとく、沙石(まさご)を空に巻上ぐる。見る見る一段の陰火、君が膝の下より燃上りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。光の中につらつら御気色を見たてまつるに、朱をそそぎたる竜顔に、荊(おどろ)の髪膝にかかるまで乱れ、白眼を吊りあげ、熱き嘘(いき)をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色のいたうすすびたるに、手足の爪は獣のごとく生ひのびて、さながら魔王の形、あさましくもおそろし。空にむかひて、相模々々と、呼ばせ給ふ。(「雨月物語」白峯より)出現した崇徳院亡霊は、たんなる幽魂ではなくて、古代の政治的挫折者、たとえば早良(さわら)親王や菅原道真のごとき祟り神的性格(これを「御霊」(ごりょう)という)をもっていた。(「雨月物語」筑摩文庫版より)祟り神と化した崇徳院と、それを諌める西行のやりとりは、平行線に終わりますが、面白いのは、比のことばを聞こしめして感(め)でさせ給ふようなりしが、御面も和らぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、つひに竜体(みかたち)もかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥もいづち去きけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやなきに、夢路にやすらふが如し。(「雨月物語」白峯より)とあるところです。結局、予言のごとく、平家は瀬戸内で大敗し、壇ノ浦で、安徳天皇は入水しますが、崇徳院、西行の激烈なやりとりの、この穏やかな幕切れは、ちょっとした読みどころだと思いました。
2009年10月31日
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今日は、桜庭一樹さんの「製鉄天使」の発売日、というわけでいきつけの本屋さんに行ったら、なぜか無い。しかたないので、ジュンク堂へ行って買ってきました。そしたら、カウンターの上に「製鉄天使」のリーフレットが置かれていましたので、それももらってきました。なにか得した気分。ラッキー!また、こんな特設ページも設けられています。「辺境の地、東海道を西へ西へ、山を分け入った先の寂しい土地、鳥取県赤珠村。その地に根を下ろす製鉄会社の長女として生まれた赤緑豆小豆は、鉄を支配し自在に操るという不思議な能力を持っていた。荒ぶる魂に突き動かされるように、彼女はやがてレディース〈製鉄天使〉の初代総長として、中国地方全土の制圧に乗り出す──あたしら爆走女愚連隊は、走ることでしか命の花、燃やせねぇ! 中国地方にその名を轟かせた伝説の少女の、唖然呆然の一代記。里程標的傑作『赤朽葉家の伝説』から三年、遂に全貌を現した仰天の快作!」(東京創元社の紹介)
2009年10月30日
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崇徳天皇(すとくてんのう、1119年 ~1164年)は日本の第75代天皇(在位1123年~ 1142年)。退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子だが父には疎んぜられた。1123年に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位につく。白河法皇の死後治天の君となった父、鳥羽上皇に疎んじられ、1142年、異母弟である近衛天皇に譲位する。新帝は崇徳上皇の中宮藤原聖子の養子となっており、当初、崇徳上皇は自身による院政を期待していたのであるが、鳥羽法皇によって発布された譲位の宣命には「皇太弟」と明記されていたため、崇徳上皇は父院としての立場を喪失し、巧みにその院政を封印されてしまったという。こうして上皇となったあとも、実権は治天の君である鳥羽法皇が握っており、その不満は募っていった。近衛天皇の母である美福門院は崇徳上皇を宥めるために、彼の長男である重仁親王を自分の養子として迎え入れた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には重仁親王への皇位継承が可能となったが、その後、崇徳上皇の同母弟雅仁親王の王子守仁親王をも養子としたために、後年の保元の乱の原因となる跡目争いへの種が蒔かれてしまった。1155年に近衛天皇が崩御すると、皇位継承者を決定する王者議定は、鳥羽法皇、美福門院、藤原忠通、信西らの主導の下、重仁親王と守仁親王を候補者として審議されることとなった。だが、あくまでも崇徳上皇を忌避する鳥羽法皇、不仲である崇徳上皇の院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、崇徳上皇の側近であった実弟頼長を牽制したい忠通、そして自身が乳母夫を勤める雅仁親王の即位による台頭をめざした信西らの合意によって、次代の守仁親王の即位を前提として、その父雅仁親王が中継ぎとして即位することとなった。後白河天皇である。(保元の乱)1156年の鳥羽の崩御ごろから後白河天皇側は、検非違使を召集して京中を警備させ崇徳に対する警戒の念をあからさまにしてみせ、鳥羽法皇の初七日を崇徳上皇の臨幸もないうちに実施するなどして、崇徳上皇への露骨な挑発と追い込みを行い始めた。追い詰められた崇徳上皇は藤原頼長とともに白河殿に移り、平忠正、平家弘、源為義ら武士を召集して、生き残りを図るために武力で天皇方を倒そうとした(保元の乱)。しかし、鳥羽法皇は生前すでに有事に備えて、有力な武士らに後白河天皇を守るよう命じており、7月11日には平清盛・源義朝・源義康らの白河殿への夜陰に乗じた奇襲攻撃により、崇徳院方は敗走した。頼長は矢傷によって六日後に死亡、忠正・家弘・為義は捕縛の後に処刑され、崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、後白河天皇の下に出頭したものの許されず、讃岐国に流刑に処された。このため、その後の崇徳上皇は「讃岐院」と呼ばれた。(怨霊伝説)讃岐での軟禁生活の中で、仏教に深く傾倒して極楽往生を願うようになっていった。五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、治天の君となっていた後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、影響下にある朝廷は写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳上皇は、自分の舌を噛み切って、その血でせっかくの五つの写本全てに「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込んだ。爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になった、とすら言われた。1164年に讃岐で崩御する。哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった。崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に大火事が起こり、末期には叛乱が相次ぎ、更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う(鎮魂)1183年には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳天皇廟」(のちの粟田宮)が設置された。だが、応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また、崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。後の明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳の霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。更に東京オリンピックに際しても使者を派遣している。(うぃきぺでぃあより)
2009年10月30日
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「雨月物語」を読むにあったって注意したいことは、これは短編小説集にちがいないが、現代のそれとは違って、第一話の内容が自然に第二話の主題を喚び起こし、第二話の主題がおのずからに第三話の構想を作り出してゆくという、非近代的で同時に卓抜な連作法である。どの一編も前後の作品と断絶していながら、かつ連続しており、その精神の運動の血脈において、九編の物語はそれぞれ独立しながらも円環状に連結していて、みごとな言語宇宙として完結しているということである。(「雨月物語」筑摩文庫版はしがきより)これと、これで、「雨月」を読んでみます。
2009年10月29日
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こんなんが出ましたね。「僕僕先生」の、仁木英之さんの「千里伝 五嶽真形図」です。大河ファンタジーの第一巻の書き下ろしだそうで、何巻になるのか、また、第二巻がいつ出るのかも分かりませんが、全部出てから読みましょう、と思いつつ買っちゃいました。なんとなく、このカバーイラストの雰囲気は池上永一さんの「テンペスト」によく似ていますね。「超大作ファンタジー、ついに日本から生まれる!日本ファンタジーノベル大賞受賞作家・仁木英之がこの世界の虚空に放つ、震天動地の英雄小説(ヒロイック・ファンタジー)。導かれし者たちは、神の意図をも超えてつながる――未曾有の危機に瀕する天地に、女神・西王母の祈りを受けた3人の勇士が旅に出る。南平郡王の孫・千里、少林寺の僧・絶海、チャイダム高原の戦士・バソン。異なる地に育った勇士たちを待つのは、人類がついぞ克服できなかった、相手を想う絆(つながり)の試練。魔神・共工が襲いくるなか、“五嶽真形図”が下す結論はいかに。」(講談社の紹介)
2009年10月29日
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「雨月物語」に出現する化身や怨霊や亡魂や幽鬼は、いってみれば、素朴と純粋をひたむきに愛する秋成が、あくまで自己に忠実であろうとする精神を具現化したものであり、反封建的・反儒教的な思想を形象化したひとつのすがたであった。その意味では、「雨月物語」は意欲的な文学であり、夢と純粋にみちみちた浪漫主義的文学であった。(「雨月物語」角川文庫版解説より)
2009年10月28日
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ケイト・モートン「リヴァトン館」を買書つんどく。この本は、けっこう話題になりそうな感じがします。しかも、なかなか面白そうです。「老人介護施設で暮らす98歳のグレイス。ある日、彼女のもとを新進気鋭の映画監督が訪れる。1924年に「リヴァトン館」で起きた悲劇的な事件を映画化するにあたり、ただひとりの生き証人であるグレイスにインタビューしたいと言う。封じ込めていた「リヴァトン館」でのメイドとしての日々がグレイスのなかで鮮やかに甦る。ふたりの美しいお嬢様、苦悩する詩人、厳格な執事、贅を尽くした晩餐会─そして、墓まで持っていこうと決めたあの悲劇の真相も。死を目前にした老女が語り始めた真実とは…。滅びゆく貴族社会の秩序と、迫りくる戦争の気配。時代の流れに翻弄された人々の愛とジレンマを描いた美しいゴシック風サスペンス。イギリス『サンデータイムス』ベストセラー1位、amazon.comベストブック・オブ・2008。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月28日
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古代の人々にとって、人はまさに「草」そのものだったということになります。というわけで、三浦佑之さん「古事記講義」を読みました。まず、「神話はなぜ語られるのか」に始まって、スサノヲ、ヤマトタケル等の英雄伝承の語られ方や、オホクニヌシに代表される出雲神話の取扱い等から、個々の伝承の「語り」の残滓を色濃く残している「古事記」と、国の正史としての「日本書紀」の違いを述べていきます。これは、先行する伝承の名残を「古事記」の中に見いだす、「古事記」の古層への旅といってよいのだと思います。さらに、「古事記」の本文と序文との関係に話は及び、序文は、後世に権威づけのために書き加えられたものであろうと推論しています。しかし、、むずかしい議論はともかく、この講義は読み物として大変面白く、「古事記」そのものへの興味をかきたてるものであることは間違いありません。ほんとに、「古事記」そのものも面白いですし、この物語は、われわれの心性の中に息づいているものだと思います。そして、それが、正史である「日本書紀」ではなくて、「古事記」であることが、この講義のもうひとつのミソかもしれません。もっとも、現代ではそういう心性も、著しく希薄になっているのかもしれませんが・・・・・。ところで、この講義は「人は草である」(アシカビ、クサ)という「古事記」の認識から入っています。前に、別の古事記入門書で、「人は虫である」(ムスヒ、ムシ)とも読んだことがあります。「草であり虫であるヒト」という世界観、こういうことを忘れてはいけないんだろうな、とつくづく思いました。
2009年10月27日
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そしておそらく、古事記は、歴史書編纂の試行錯誤の途中に生まれ、主流から外れてしまった歴史書の一つだったのではないかとわたしは考えています。もう少し言えば、推古天皇の時代(七世紀初頭)に、聖徳太子と蘇我馬子によってもくろまれたという「天皇記・国記」に連なろうとする歴史意識をもつのが古事記でした。推古朝は、第四回の講義でもふれたように、日本列島において「国家」がはじめて自覚された時代でした。そこでめざされたのは、推古朝という時代にとっては前代の王朝ともいえる河内(難波)王朝の終焉として語られるオケ・ヲケの伝承にいたる古代ヤマトの神話と歴史を記録することだったのです。おそらく、そのもとになったのは語り継がれてきた伝承群であり、それら累積された伝承を「大君(天皇)」の継承という王権の時間軸の上に並べてゆくことでした。しかし、七世紀末から八世紀初頭の律令制古代国家にとって、そこに描かれた歴史は、とても正史にはなりえない、旧時代の歴史でしかなかったのです。だからこそ、古事記とはまったく異なった体裁と内容を持つ日本書紀が編集され奏上される必要があったのです。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P369)
2009年10月26日
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A・L・マカン「黄昏の遊歩者」を買書つんどく。訳者の「あとがき」を読んでも、ホラーとして評価されてしまったことに対する怨念(本人のというよりも訳者の)みたいなものを感じる、ミョーな本です。しかし、カバー地味すぎ。「19世紀末から20世紀初頭までのメルボルンとウィーンを舞台にし、特異な性癖を持つ親子と、彼らの生み出す芸術作品が、様々な軋轢を生み出していく……。オーストラリアの歴史的に大きな事件を背景に描き出した、ときにグロテスク、ときにエレガント、ときに官能的な、メルボルンという都市の神話化を目指した、純文学志向のゴシック小説!」(国書刊行会の紹介)
2009年10月26日
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古事記に語られる神話のおもしろさはさまざまな面から指摘できますが、その一つに、オホナムヂを主人公として、出雲を舞台に語られる冒険物語をあげることができるでしょう。そして、その大部分を日本書紀は伝えていないのです。いわゆる出雲神話と呼ばれる部分なのですが、なぜ古事記には出雲神話があって日本書紀には存在しないのか、これは、古事記と日本書紀の違いを考えるうえで、また、古事記とはいかなる作品かということを考えるうえで、たいへん興味深く、かつ重要な問題だろうと思われます。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P290)なぜ古事記は、アマテラスを始祖とする天孫系による地上支配の前段階に出雲を中心とした葦原の中つ国の成立を語らなければならなかったのでしょうか。そのひとつの説明としては、構想された国家の空間軸の中で出雲という世界が神話的に位置づけられているからだという西郷信綱「古事記の世界」の認識を放棄することはできません。そして、日本書紀がそれを語らないというところからみて、古事記の出雲神話が、古事記固有の世界観をもとに語られているというのは間違いないでしょう。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P328)
2009年10月25日
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『古事記』『日本書紀』で出雲を主要な舞台として語られる神話を言い、とくに『古事記』の神話について呼ぶのが一般的である。また『出雲国風土記』に記された神話をさすこともある。『古事記』では、高天原を追放されたスサノヲが出雲に降りて、八俣の遠呂智を退治する場面に始まり、葦原中国を統一した大国主神が、高天原から派遣された建御雷神に服属を誓って「天の御舎(出雲大社)」に隠棲するまでの範囲が出雲神話である。そこには、遠呂智退治神話・稲羽の素兎・大穴牟遅神の根の国訪問神話・八千矛神の神語・大国主神と少名毘古那神の国作りなど、日本神話を代表する神話が数多く含まれ、民間伝承との関係を考察する上でも重要である。なお、『日本書紀』には大国主神に関する話はほとんど収載されていない。『出雲国風土記』に記録されたものでは、八束水臣津野命による「国引き」神話が有名である。記紀神話において、なぜ出雲が神々の世界である高天原や、天皇の支配する大和に対立拮抗する世界として描かれるかという点に関しては、実態的な支配勢力の存在を想定したり、宗教的な信仰圏を考えたり、国家の世界観としての日の沈む西方の暗黒性が論じられたりしており、解決をみていない。近時、大量の銅剣(一九八四年)や銅鐸(一九九六年)が発見されたり、日本海文化圏の固有性がクローズアップされるなど、考古学や歴史学との学際的な研究が求められている。伝承文学の問題としては、神話と昔話の関係、民間伝承の「語り」などを考える上で、欠かすことのできない神話群である。たとえば、遠呂智退治神話は各地の伝説や昔話に語られる英雄の魔物(妖怪)退治の伝承と構造やモチーフを共有するし、根国訪問神話は成人式の通過儀礼を背景にもつことが指摘されている。また、出雲神楽や備中神楽など中国地方の民間神楽においては出雲神話が重要な題材となっているほか、青柴垣神事(美保神社)や鎮火神事(熊野大社)などは国譲り神話を起源として実修されている。(『日本民俗大辞典』吉川弘文館 三浦佑之さんの記述より)
2009年10月24日
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近頃、いろんなところで見かける花ですが、うちの庭でも咲いてます。カタバミの一種であることは間違いないと思いますが、ハナカタバミと言うんでしょうか?
2009年10月24日
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修復できない父と子の対立を基調として語り出された古事記のヤマトタケル伝承は、主人公ヤマトタケルの、知恵を逸脱した暴力性や排除された者の苦悩を表現の内部に呼びこんでしまったのです。それは、さまざまな伝承群を取捨選択しながら己の内部に繰りこんでゆこうとする「語り」が必然的にもたらしたものでした。もちろん、古事記の場合も文字化にともなう「書記」文体の構成力や描写力といった要素を否定し去ることはできませんが、古事記が基調としているのは、音声によって伝えられる伝承がつねにもつ累積性でした。そして、ヤマトタケルを主人公とする物語が引きよせてくる伝承と排除する伝承との腑分けは、語り手と聴き手とによって成り立つ場の力とでもいえるものによってなされるのです。ある一人の作家や編集者の手によって編まれてゆくというようなものではありません。ヤマトタケルの物語から読みとれる逸脱する者のもつ危うさや魅力も、そうした語りの場によって準備された累積性がおのずと醸し出してしまったのです。もちろん、古事記にもさまざまなかたちで文字の論理が関与しているのは当然です。そうでありながら、文字の論理が個々の伝承の細部に影響力を及ぼすほどには、文字は語りの方法を突き崩すことができなかった、それが古事記に見られるヤマトタケルの物語だといえるのではないでしょうか。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P234)
2009年10月23日
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ルイ・ルネ・デ・フォレ「おしゃべり /子供部屋」を買書つんどく。なにか難しげな本のような気もするのですが・・・・・。「《話す》という欲求に憑かれた男の物語(「おしゃべり」)、口をつぐんだ少年をめぐる奇妙なゲーム(「子供部屋」)。ことばの《在/不在》を問う《沈黙の作家》の珠玉の名作を、オリジナルな形で収録。かつて書かれたもっとも奇怪でもっとも衝撃的な作品の一つ ――ジョルジュ・バタイユ」(水声社の紹介)
2009年10月23日
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というわけで、エリオット「袋鼠親爺(ポサムおやじ)の手練猫名簿」を買って読みました。ミュージカル「キャッツ」の原作となったユーモア詩集。といっても、ミュージカルは見たことがありませんので、僕にはあまり関係ありませんが。もともと、「猫の名前」についての特別の前口上がある本ですから、柳瀬さんの訳も「名前」にこだわりにこだわっています。英語では伝わる「名前」のニュアンスを、日本語でも表わす工夫をしています。しかし、一方で、ほんとにそれがいいのだろうか、とも思いました。というのは、池田雅之さんの訳では、まんまの読み下しに、注で補足されていたので、さほど戸惑いはないと思うのですが、マキャヴィティとアスパラガス以外はミュージカルと似ても似つかぬ名前ということになると、さすがに違和感があるのではないでしょうか?以前、「ロード・オブ・ザ・リング」を映画で見たときに、かつて読んだトールキンの「指輪物語」では「馳夫」だったのが「アラゴルン」になっていることに違和感を持ったもので・・・・・。(繰り返しますが、「キャッツ」は見たことがありませんので、今回は、僕には関係ありません。)といっても、この本の本文はとってもしゃれていて、読みやすく楽しいですし、イラストもとてもキモカワイイ本になっています。なので、「キャッツ」を見ていない人にお勧めします。「ノーベル賞詩人T・S・エリオットが「ポサム親爺」の名で書いた、痛快無比な猫たちの詩。超ロングラン・ミュージカル「キャッツ」の原作でもある。初版刊行70周年を記念して、アクセル・シェフラーのオリジナル・カラーイラストとともに新たに刊行。作者エリオットの技も精神も見事にすくいとった柳瀬尚紀の名訳でお楽しみください。」(評論社の紹介)
2009年10月22日
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もしもそれが隣近所の猫様ならしばしば会ってる顔なじみなら(わしの家にもよく顔見せる)おっとと、これはお猫様! そう挨拶し 目を合わせるジェイムズという名で呼ばれているのは 耳にするしかしまだまだその名で呼びかけるのは 躊躇する畏れ多くもお猫様の目に信頼に足る友と映るためにいささかなりと敬意のしるしを表してたとえばクリーム一皿差し出してたまにはどうぞお腹いっぱいキャビアあるいはフォワグラパイ瓶詰め美味なる雷鳥肉や鮭ペーストもそうとも、きっと大好きだとも(わしの知ってる猫様の場合兎の肉をひたすら熱愛食べ終えると舌で前足ぺろぺろぺろりオニオンソースも残さずぺろり)お猫様には三十六計献げるに如かず敬意の証拠のかずかずさすればいずれ目的達成、福来るついには名前を呼べるにいたるそんなふうに物好き猫好き話し好き話しかけてお猫様とお近づき(柳瀬尚紀さん訳エリオット「袋鼠親爺の手練猫名簿」の「お猫様に話しかける法」より)
2009年10月21日
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岩井志麻子さんの「雨月物語」を買書。本屋さんで冒頭をぱらりらしていたら、とっても面白そうだったので、買ってみました。「「白峯」崇徳院の猛る声とそれをいさめる西行法師/「菊花の約」友人をひたすらに待ち焦がれる宗右衛門の慟哭/「吉備津の釜」妻の凄惨な嫉妬心に追われる男の愚かさ/「蛇性の婬」白蛇の淫靡な美しさに囚われる男の恐怖 ほか背景に上田秋成と、その母の盲執と歪んだ愛情を置いた、新しい世界観による「岩井志麻子版・雨月物語」!」(光文社の紹介)
2009年10月21日
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結局のところ、古事記に描かれた神話や伝承のなかから典型的な英雄を見出そうとすると、スサノヲ・オオナムヂ・ヤマトタケルに尽きるといってよさそうです。そして、彼らに共通するのは、いずれの主人公も王権の内部でというよりは、その周縁で成長したのではないかと思われる翳りを秘めているということです。このことは、英雄伝承を考えようとする場合にはけっこう大事なことだと思っています。それは、物語を語る「語り手」の視点がどこにあるかということにかかわっているからです。(中略)もちろん古事記は書かれたテキストですから、そのテキストを制御する書き手の視点は存在します。その書き手は、王権に近いところに身を置いて古事記という作品を書いたはずです。しかし、個々の神話や伝承の細部にまでは、書き手の視線は届いていないのです。現存する古事記というテキスト以前に何らかのかたちで存在した神話や伝承、おそらく音声によって伝えられていたものも書かれたものもあったと考えられますが、それら個々の神話や伝承がそれぞれに抱え込んでいた語り手の視線を、古事記というテキストは完全には払拭できなかったのではないでしょうか。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P151)
2009年10月20日
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マット・ラフ「バッド・モンキーズ」を買書つんどく。よくわからないけど、装丁もペーパーバック様で、面白そうだったので。「“あたしは悪を殲滅する組織の一員なのさ”殺人で逮捕された女ジェインは、精神科医にそう告げた。鮮やかなオレンジ色の銃で悪を葬る─それが自分の任務だと。標的=幼児連続殺人犯、連続男娼殺し、爆弾魔…ジェインの口から語られる悪との壮絶な対決。だが、彼女の告白は「真実」なのか?すべてを監視する「眼」、雑誌に隠された暗号、斧を持つピエロ…都市伝説の不安にアメリカン・コミックのクールネスを搭載、奇術師の周到さで仕立てた、超鋭利な一気読みハイパーアクション!最終章のめくるめく反転に瞠目せよ。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月20日
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さらに、エリック・マコーマック「隠し部屋を査察して」も買書つんどく。インターネット古書での購入です。「7月7日、日曜日の朝。カナダのある町に突然、幅100メートル、深さ30メートルの溝が出現、時速1600キロで西に向かいだした。触れるものすべてを消滅させながら…。世界じゅうを混乱に陥れる怪現象を淡々と描く「刈り跡」、不可解な死の真相を迷宮に追う警部「窓辺のエックハート」、全体主義国家のもと、想像力の罪を犯し幽閉された人々をめぐる表題作など、奇想きらめく20の物語を収録。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月19日
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庭のクジャクアスターです。
2009年10月19日
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改めて、スサノヲはウケヒに負けたのかと考えてみた時、前提条件を語らないことによって正邪があいまいになっていることこそが、古事記にとって重要なことだったのではないかと思えてきました。どういうことかというと、古事記の語りをたどるかぎり、スサノヲが勝ったとはどうしても読めません。では、日本書紀正伝のように、スサノヲは負けたのかというと、そうも言い切れないのだというところに古事記における語りの眼目があるとは読めないかということです。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P75)
2009年10月18日
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珍しいと思って買ったピンクのキキョウの花が咲きました。でも、「来年もピンクの花が咲きますか?」と聞いたら、「土の影響かも・・・・・モゴモゴ」なんて言ってましたから、ほんとは白なのかもしれません。その報告は来年ということで。
2009年10月18日
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文字を用いて歴史を記述するという作業は、七世紀初頭の推古朝に始まり、およそ百年を経た七二〇年に、日本書紀として完成します。そして、それが律令国家の成立過程にみあうかたちでもくろまれたものであるという点については、「口語訳古事記」の解説「古事記の世界」でも論じたところです。その百年にわたる歴史書の編纂事業は、天皇を頂点とした古代大和朝廷が律令制国家となるための基盤整備ともいえるものでした。それゆえに、律令の編纂とその改訂作業が歴史書の編纂事業と並行して行われ、歴史と律令とが、国家を支える両輪になっていったのです。そして、日本書紀は、古代東アジアにおいて普遍性をもつ漢文によって記述されることで、はじめて国家を支える権威になりえたのでした。今は散逸してしまった「帝紀」や「旧辞」も含めて、文字による歴史を手に入れることで古代律令国家は出現することになったといえるでしょう。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P142)
2009年10月17日
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須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」も買いました。「今世紀フランスを代表する作家ユルスナールに魅せられた筆者が、作家と作中人物の精神の遍歴を自らの生きた軌跡と重ね、パリ、アレキサンドリア、ローマ、アテネ、そして作家終焉の地マウント・デザート島へと記憶の断片を紡いでゆく。世の流れに逆らうことによって文章を熟成させていったひとりの女性への深い共感、共にことばで生きるものの迷いと悲しみを静謐な筆致で綴った生前最後の著作。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月17日
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アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・アレヒン(Александр Александрович Ал?хин、1892年~1946年)は、ロシアのチェスの選手である。(発音は、「アレヒン」と「アレキン」の中間、時に「アリョーヒン」と表記される。)裕福な家庭に生まれ、父親は地主でドゥーマ(議会)の一員だった。1914年サンクトペテルブルク大会で3位に入り、他の入賞者4人とともにグランドマスターの称号を贈られた。ロシア革命後、結婚を機にフランスに、のちドイツに移住した。同じ1927年にキューバのホセ・ラウル・カパブランカに挑戦、マッチに勝利して世界チャンピオンとなった。1935年に格下と見られていたマックス・エーワに敗北、失冠した。敗因は準備不足と過度の飲酒習慣にあったとされる。断酒して臨んだ2年後のリターンマッチでは雪辱を果たし、再びチャンピオンとなった。第二次大戦中にはナチス政権下で行なわれた競技会に参加、その協力者と見なされた。そのため戦後は主な競技会に招待されず、移住先のポルトガルを中心に小規模な大会とマッチに出場した。1946年にチャンピオンのまま同地で死去。アレヒンはその創造性豊かな棋風から「盤上の詩人」と称えられ、映画『白い雪』のモデルとなった。(うぃきぺでぃあ)
2009年10月16日
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「時の娘」といえばジョセフィン・テイ。ではなくて、「時の娘 ロマンティック時間SF傑作選」を買書つんどく。これは好きな人が多いだろうなぁ~。「時という、越えることのできない絶対的な壁。これに挑むことを夢見てタイム・トラヴェルというアイデアが現れて一世紀以上が過ぎた。時間SFはことのほかロマンスと相性がよく傑作秀作が数多く生まれている。本集にはこのジャンルの定番作家といえるフィニイ、ヤングらの心温まる恋の物語から作品の仕掛けに技巧を凝らした傑作まで名手たちの9編を収録。本邦初訳作3編を含む。扉裏作品紹介・解説=中村融」ウィリアム・M・リー「チャリティのことづて」デーモン・ナイト「むかしをいまに」ジャック・フィニイ「台詞指導」ウィルマー・H・シラス「かえりみれば」バート・K・ファイラー「時のいたみ」ロバート・F・ヤング「時が新しかったころ」チャールズ・L・ハーネス「時の娘」C・L・ムーア「出会いのとき巡りきて」ロバート・M・グリーン・ジュニア「インキーに詫びる」(以上東京創元社の紹介)
2009年10月16日
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繁栄と有限の二つを象徴化したコノハナノサクヤビメがサクラでなければならないのは、サクラこそがその二つを象徴する唯一の「木の花」として存在するからです。(中略)サクラということばの起源は「咲く+ラ(接辞)」で、その「咲く」は、サキ(崎・先)やサカ(坂)と語源がおなじです。「咲く」というのは、枝の先に神が寄り付き、その霊力が最高に発動している状態をあらわします。そして、神の寄り付いたしるしが「花」なのですから、逆に、花が散る時は、人にとってもっとも危険な状態になるわけです。「咲く」という語を名にもつ唯一の花であるサクラが、和歌に代表される伝統的な美意識のなかで、華やかさ=生と、不安=死とを併せもつ花として感じ取られているのは、それが仏教的な無常観に裏付けられて平安時代以降に生じたものではなく、その木がサクラと呼ばれたときから始まるのだと考えなければなりません。そして、コノハナノサクヤビメの「木の花」がサクラ以外の花であったとすれば、人間のひとときの繁栄と限られた時間ののちの移ろいとしての死の起源を語ることなどできなかったはずです。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P47)僕は、なんとなく、コノハナノサクヤビメについて、コブシの花のようなイメージを持ってました。コノハナノサクヤビメとイハナガヒメはニニギの逸話で有名ですが、コノハナチルヤヒメという姉妹がいるというのも、この本で初めて知りました。確かに、「古事記」では、スサノヲからオホクニヌシに至る系譜のところで出てきます。
2009年10月15日
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トマス・M・ディッシュ「歌の翼に」を買書つんどく。昔、サンリオSF文庫で刊行され、絶版になっていた幻の書の復刊です。「SFのみならずゲイ小説、教養小説、音楽小説などのあらゆる要素を投入しながら、支配する者とされる者の宿命、芸術の喜びと悲惨をエモーショナルに描く、奇才ディッシュの半自伝的長篇にして最高傑作がついに復刊!」(国書刊行会の紹介)
2009年10月15日
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「君なら大丈夫。どこへでも、行きたい場所へ行ける」と、とっくりさんは言った。というわけで、小川洋子さんの「ミーナの行進」を読みました。感傷的な物語ではありますが、ミーナのひたむきな純粋さが、帯の宣伝文どおり「胸に迫って来る」ようでした。須磨の海岸で、沖に出て行った父と兄に向かって「戻って来て」と叫びながら、唇を震わせて泣いているミーナの姿が、今でも頭の中に鮮やかに浮かんできます。それだけで、僕にとっては十分です、という感じです。いや、実は、冒頭から、ミーナの身になにかが起きるぞ、とひたすらイヤな予感にとらわれて、胸が痛いようだったのでした。しかし、ブラフマンは死なせてしまいましたが、ミーナは生き延びましたね。よかった、よかった。小川さんにしては、珍しく普通の小説だと思いましたが、小川さんらしい特徴がなくとも、また、関西弁がちょっと変でも(余分か?)、これは愛すべき小説だと思いました。ところで、ユダヤ人であるおばあちゃんのローザは、双子の姉を殺したドイツへの郷愁の念をいつまでも捨てなかったのですが、ミーナも最後はドイツへ行っちゃいましたね。なんでやろ?ついでながら、この本はタイムトラベルものではありませんが、不思議と時間旅行をしたかのような感覚がありますね。これまた、なんでやろ?
2009年10月14日
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ミーナと小林さんとポチ子(コビトカバ)、彼らの行進は威風堂々としたものだった。ミーナは真っ直ぐ前を見据え、小林さんはしっかりと房を握り、ポチ子は一歩一歩坂道を踏みしめてゆく。門の前を掃いている人、阪急芦屋川駅へ急ぐ人、同じ小学校へ通う子供たち、誰もが行進に出会うと立ち止まり、道を譲る。小林さんは目礼し、微妙な手綱さばきで方向を調整する。「あらミーナちゃん、学校?」近所の顔見知りのおばさんが声を掛けてくることもある。するとミーナはポチ子の背中から、「おはようございます」と、礼儀正しくあいさつをする。(小川洋子さん「ミーナの行進」文庫版P60)ポチ子とミーナと小林さん。三人は一つのチームだった。どこにもいびつなところがなく、互いが互いを等しく支え合い、誰が欠けても成立しない、完全な形のチームだった。(小川洋子さん「ミーナの行進」文庫版P312)ミーナは小学校へ向かって自分の足で歩きだした。たった一人の行進だった。その小さな背中が坂道を下りきり、角を曲がって見えなくなるまで、私はミーナを見送った。(小川洋子さん「ミーナの行進」文庫版P331)
2009年10月13日
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スチュアート・ケリー「ロストブックス 未刊の世界文学案内」を買書つんどく。本屋さんで、序文をぱらりらしていたら、ひき付けられてしまいました。「文学はすべて媒体のなかに存在する。書き記されて初めて文学となる。世界的評価のある西洋の古典にしても、喪失という大海から偶然にも顔を出せた幸運の代物にすぎない。数知れない不幸な傑作が大海には沈んでいるのだ。失われた本はいつまでも魅惑的だ。それは想像のなかでしか完結しない。しかし、実体のない本だからといって、絶対に手が届かないわけではない。文学が家だとしたら、「失われた本についての本」である本書は、墓であり痕跡でもある。本書はもうひとつの文学史であり、存在したかもしれない本への哀歌である。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月13日
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ミーナという子供を一言で説明しようとすれば、喘息持ちの少女、本好きの少女、コビトカバに乗る少女と、さまざまな言い方ができるだろう。けれど他の誰とも違う、ミーナがミーナである証拠を示そうとするならば、マッチで美しい火を点すことのできる少女、と言わなければならない。(中略)彼女に出会う以前、私にとってマッチはマッチ以外の何ものでもなかった。ところがひとたび彼女がマッチ箱を取り出すと、それは無言の儀式にもなり、敬虔な祈りになることを知った。(中略)私は思わず見とれる。マッチの炎がこんなにも透き通っていることに初めて気づかされる。微かに残る赤燐の匂いがなければ、ミーナが魔法を使ってどこからか明りを運んできたのではないか、炎が澄んでいるのは彼女の人差し指が燃えているからではないかという錯覚に陥りそうな気がしてくる。(小川洋子さん「ミーナの行進」文庫版P103)
2009年10月12日
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庭のシュウメイギクです。きれいに咲いたのですが、やっぱりうまく撮れませんね。
2009年10月12日
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田中英光さんの「オリンポスの果実」も、インターネット古書で買いました。「最初から最後まで、船の中で一緒だった女性に対する恋情を告白するという手法で書かれたスタイルは主人公の感受性の豊かさを感じさせる。第10回ロサンゼルス・オリンピックのボート競技の選手であった作者の私小説的作品。思春期の感受性の豊かさを思い出させるとともに、当時のオリンピック遠征の様子が垣間見られて面白い。(シドニーオリンピックの年に 大野晋)」(青空文庫の紹介より)
2009年10月11日
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桜庭一樹さんの「製鉄天使」のカバーと内容紹介が出ていました。「辺境の地、東海道を西へ西へ、山を分け入った先の寂しい土地、鳥取県赤珠村。その地に根を下ろす製鉄会社の長女として生まれた赤緑豆小豆は、鉄を支配し自在に操るという不思議な能力を持っていた。荒ぶる魂に突き動かされるように、彼女はやがてレディース〈製鉄天使〉の初代総長として、中国地方全土の制圧に乗り出す──あたしら爆走女愚連隊は、走ることでしか命の花、燃やせねぇ! 中国地方にその名を轟かせた伝説の少女の、唖然呆然の一代記。里程標的傑作『赤朽葉家の伝説』から三年、遂に全貌を現した仰天の快作!一九八×年、灼熱の魂が駆け抜ける。」それと、桜庭さんの読書日記が更新されてましたので、あわせてご紹介。
2009年10月11日
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やっぱり、前とおんなじ花のようです。3回目です。MAKONAKOさんとか、chico5055さんとかのは違う花が咲いているみたいなんだけどなぁ~。どこが違うんだろ?ひょっとすると、テンプレートを変えると、咲く花もかわるのかも?などと、思ってはみましたが、今のテンプレートけっこう気に入ってるし・・・・・。
2009年10月10日
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笙野頼子さんの「海底八幡宮」を買書つんどく。笙野さんは、いったいどこへ行くのか?僕は、ただ、ひたすらつんでいくのみ!「国家神話とは何か、ストーリーで徴税、キャラクターで徴兵をするためのものだ! 国を追われ、来歴を消され、名前を奪われ、真実を消され……白髪の作家が千葉の建売りで見た、真夏のミル・プラトー千五百年史。」(河出書房新社の紹介)
2009年10月10日
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僕の狼狽ぶりに圧倒されたからか、あるいは自分でも心のどこかでまずいと思ったからなのか、目が合った瞬間、彼は段ボールの破片を両手に挟んだまま、固まって動かなくなった。瞬きさえせず、じっとこちらを見つめていた。瞳はチョコレート色だった。「駄目じゃないか」僕がつぶやくと、両手に挟んだものを足元にぽとりと落とし、同情に満ちた表情で小首を傾げた。「私にもどうしてこんなふうになってしまったのか、さっぱり分かりません」そう嘆いているかのようだった。かわいいですね。みなさんも同じだと思いますが、ブラフマンはカワウソみたいな動物なのかな?と思いました。(イデゑもんさんの写真日記より。多謝!)というわけで、小川洋子さんの「ブラフマンの埋葬」を読みました。ブラフマンは、「僕」の魂の象徴なのだと思いますが、傷だらけで発見され、回復し、そして死んでいく。ブラフマンのかわいさ、純真さに比べて、その発見と回復と、ひいては死の原因となる肝心の「娘」が、謎めいてはいるものの、一方でまったく魅力的ではないように感じました。とはいうものの、これがこのお話の「謎」かけなんでしょうね。以前に、ユゴーの「ノートル=ダム・ド・パリ」を読んだときに、エスメラルダがまったく魅力的に感じられなかったのを思い出したりなんかしました。
2009年10月09日
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そしてまず、高天の原に三柱の神が成り出ます。これも、誰かが造ったというわけではありません。「なる」のです。この「成る」という発想こそ「古層」だとみたのは、思想史家の丸山真男でした。丸山は、世界の創世神話を見ると、「つくる」「うむ」「なる」という三つの語り方があって、古事記の神話の場合、「なる」が古層にあり、それは、主体を必要とする「つくる」や「うむ」とはちがうと言います。(中略)丸山のいう「なる」は、「柿がなる」などという時のナルと同じです。それは、天と地がはじめて姿を見せた時のさまとも同じだということがわかりますよね。造ったものはいつか壊れるけれども、成るものはつぎつぎに「なる」のだ、「不断に成りゆく世界」だと丸山真男は言っているのです。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P30)
2009年10月08日
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吉田篤弘さんの「圏外へ」を買書つんどく。クラフト・エヴィング商会吉田さんの本を買うのは、これが初めてです。「つむじ風食堂の夜」作者の新たな代表作! 主人公は、「カタリテ」と名乗る小説家。書き出しで行き詰まり、書き続けることができなくなってしまう。そんななか、小説内の登場人物が、痺れを切らして 「蝙蝠」に変身しながら新たな話を始めてしまったり、〈南の鞄〉という謎の巨大鞄から生まれた過去形で予言をする「ソボフル」なる人物の壮絶な半生が突如 長々と語られ始める。一方、ようやく自ら「語り」を再開させることになった「カタリテ」は、自らの作品世界に入り込んだ後、ひたすら「南」を目指す。そし て、〈エッジ〉という名の作中人物や作家たちが集う奇妙な療養所に辿り着くが…。」(小学館の紹介)
2009年10月08日
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神話は、人が、大地やそれをとり囲む異界や自然、あるいは神も魔物も含めた生きるものすべてとの関係を、始原の時にさかのぼり、そこに生じた出来事として語ろうとします。それによって、今、ここに生きることが保証され、それが限りない未来をも約束することで、共同体や国家を揺るぎなく存在させます。神話というのは、古代の人々にとって、法律であり道徳であり歴史であり哲学でした。そしてまた、心を豊かにする文学でもありました。だからこそ、人が人であるために神話は語り継がれなければならなかったのです。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P28)古代の人々がそうであったように、われわれにもまた神話が必要です。人はなぜ生きるのかということの答えを求めようとするかぎり、人は神話に行きつくしかないからです。そして、現代の神話は、科学と呼ばれています。遺伝子工学も生物学も考古学も人類学も、求めているのは現代の神話ではないかと思えます。わたしたちの今を根拠づけようとして、遺伝子はイヴへとさかのぼり、新たな細胞が作られ、土を掘り返して始まりの人を求めようとしています。古代の神話もまた、始まりを求め、生命のメカニズムを極めようとしました。それが、人が人であるためには必要なことだったからです。ただ、われわれとは思考の方法や回路がすこしだけ違っていたに過ぎません。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P99)
2009年10月07日
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「折口信夫集 神の嫁」を買書つんどく。これで、柳田国男さん、折口さんそろい踏みですね。しかし、ありがたいことに、この文豪怪談傑作選シリーズは、いつ完結するのか、よく分からないシリーズです。とりあえず、続けられるだけ続けようということでしょうか。「巫者に憧れ、河童と戯れ、まざまざと異界を幻視した折口信夫は、近代日本が生んだ大いなる学匠詩人にして稀有なる霊媒(ミーディアム)であった。文学と民俗の両面にわたる深遠幽暗な折口学の根底には、常に彼方への視線、人外のモノへの共感がひそめられており、それはしばしば怪談文芸の領域へと肉迫する。知られざる名作怪談「生き口を問う女」や「稲生物怪録」ほかの創作と論考を一巻に。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月07日
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久しぶりに台所の床下収納庫を開けてみたら、猫の死骸があってぎょっとしてのけぞった。よく見てみると、それは腐った玉ねぎだった。というエピソードに引き続き。わたしの妊娠体験なんて、スパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない。その玉ねぎが床下収納庫で人知れず猫の死骸になってゆくところに、初めて小説の真実が存在してくると、わたしは思う。(小川洋子さん「妊娠カレンダー」あとがき)小川さんのファンタジスト的側面がよく現れていると思い、事後ながら、メモってみました。
2009年10月06日
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小川洋子さんの「妊娠カレンダー」を読みました。確実に姉は太ってきている。お腹の膨らみに合わせて、頬や首筋や指や足首に脂肪がつきはじめている。白く濁った張りのない脂肪だ。わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。「妊娠カレンダー」う~ん。心理がよう分からん・・・・・。芥川賞受賞作。わたしは誰かと初めて会う時、その人の身なりや人柄には全然神経が行き届かないのです。わたしがただ一つ興味を持つのは、器官としての身体です。あくまでも、器官としての「ドミトリイ」怖いですねぇ~。いったい何が起こってるんでしょうか?どうしても、お答えしなければならないのでしょうか。あなたとその質問の間には、何のつながりもないように思えるんです。あなたはそこに立っている。質問は宙を漂ってる。わたしはここにいる。ただそれだけのことで、これ以上に変化のしようがないと思うのです。犬の気持ちにお構いなく、雨が降るみたいに「夕暮れの給食室と雨のプール」焦点のはっきりしないお話しで、「どうなと解釈して」って感じ。全体的に、小川さんというのはこういう人なんだ、という雰囲気は伝わってきますが、テーマみたいなものが、僕にはつかみきれないお話しでした。「出産を控えた姉に毒薬の染まったジャムを食べさせる妹…。妊娠をきっかけとした心理と生理のゆらぎを描く芥川賞受賞作「妊娠カレンダー」。謎に包まれた寂しい学生寮の物語「ドミトリイ」、小学校の給食室に魅せられた男の告白「夕暮れの給食室と雨のプール」。透きとおった悪夢のようにあざやかな三篇の小説。」(「BOOK」データベースより)
2009年10月06日
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歴史書の編纂は、七世紀の初頭からくり返し行われていました。いくつもの書物ができ、それらが中間報告書のような役割をはたしながら、新たな歴史書が編まれてゆきました。そして、その完成形として日本書紀が編まれ、古代律令国家の正史となったのです。古事記は、数多くの中間報告書のうちの一つだったのではないかとわたしは考えています。(中略)古事記も、おそらくは早い段階で書かれた史書のいくつかを元にしながら編まれたのでしょうが、前に述べたように、書かれた歴史以外の、語られる歴史よりかかっている部分が濃厚に認められます。それに対して日本書紀の場合は、純粋に漢文で記述するという営為を通して編まれているといってよいでしょう。(三浦佑之さん「古事記講義」文庫版P72)
2009年10月05日
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小川洋子さんの「ブラフマンの埋葬」、「ミーナの行進」を買書。小川さんの本をちょっとまとめて読もうと思って・・・・・。「ある出版社の社長の遺言によって、あらゆる種類の創作活動に励む芸術家に仕事場を提供している“創作者の家”。その家の世話をする僕の元にブラフマンはやってきた―。サンスクリット語で「謎」を意味する名前を与えられた、愛すべき生き物と触れ合い、見守りつづけたひと夏の物語。第32回泉鏡花賞受賞作。」(「BOOK」データベースより) 「美しくて、かよわくて、本を愛したミーナ。あなたとの思い出は、損なわれることがない─ミュンヘンオリンピックの年に芦屋の洋館で育まれた、ふたりの少女と、家族の物語。あたたかなイラストとともに小川洋子が贈る、新たなる傑作長編小説。第四二回谷崎潤一郎賞受賞作。」 (「BOOK」データベースより)
2009年10月05日
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青山七恵さんの「かけら」を読みました。じっと見ていると、わたしは昔から父をちゃんと知っていたという気がしたし、それと同時に、写真の中の人はまったくの見知らぬ人であるようにも感じた。「かけら」娘とその父が、ひょんなことから二人っきりでサクランボ狩に行くだけの話ですが、これはよかったですね。本当によかったですね。また、このお話しは娘の視点で描かれていますので、同じように娘をもつ父の身として、感じ入るものがありました。川端賞受賞作。僕は即座に、二人はもう終わっていたのか、と思った。あのときと同じように、僕の知らないうちに。「欅の部屋」結婚するに際して、前に別れた女を思い出してばっかりいて、しまいには結婚する相手とも「もう終わっている」なんて言い出す、なんともへたれたお話しです。なんぼなんでも、こんなんでええんかいな?少し目を離していると、栞はなぜか自分たちとは逆方向の、駅に向かう人たちの流れの中に入ってしまうので、その度に杏子がポシェットのひもをつまんで、正しい流れの中に引き戻してやった。「山猫」歪んでいる。なにが歪んでるのかよくわからないながら歪んでいる。また、意識的なのかもしれないけれども、どいういわけか、話しの流れも阻害されています。中では、やっぱり表題作「かけら」が図抜けてよかったと思いました。短編ながら、今年読んだ中でもベスト級の作品だと思います。
2009年10月04日
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