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仁木英之さんの「胡蝶の失くし物 僕僕先生」を買書つんどく。「僕僕先生」「薄妃の恋」に続く第3弾ということで、まだまだ続きそうないきおいですね。「美少女仙人vs.最凶の刺客!?気ままな旅を続ける僕僕先生と王弁くんを、大唐帝国の闇で蠢く暗殺者集団「胡蝶」が追う─。必殺の吹き矢を操る劉欣が登場。笑いあり、サスペンスあり、涙ありの第3弾。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月31日
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「エイプリルフールお楽しみ企画!」ということで、昨年に引き続き「本当の顔」のブログパーツが登場しました。それが、これ(↓)なんだそうで、しばらくの間は横(→)にも出ているみたいです。情けなさそうなところはそっくりですが、ちょっと(かなり?)若過ぎ!?しかも、耳なんか生えてるし・・・・・。
2009年03月30日
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エドガー・アラン・ポー「黒猫・アッシャー家の崩壊」を買書つんどく。ポー生誕200年とかいうことで巽孝之さんの新訳で出ました。良く分かりませんが、巽さんが小説を訳されるのは初めてではないのでしょうか?「短編集1 ゴシック編」というサブ・タイトルがついているので、そのうち「推理編」とか「SF編」とか出てくるんでしょうね。ちなみに、ポーも僕が定期的に回帰していく作家さんです。「詩人であり、批評家であり、推理小説の祖であり、SF、ホラー、ゴシック等々と広いジャンルに不滅の作品の数々を残したポー。だがその人生といえば、愛妻を病で失い、酒と麻薬に浸り、文学的評価も受けられず、極貧のまま、40歳で路上で生を終えた─。孤高の作家の昏い魂を写したかのようなゴシック色の強い作品を中心に、代表作中の代表作6編を新訳で収録。」(「BOOK」データベースより)収録作「黒猫/赤き死の仮面/ライジーア/落とし穴と振り子/ウィリアム・ウィルソン/アッシャー家の崩壊」
2009年03月30日
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ロバート・E・ハワードの「真紅の城砦」を買書つんどく。新訂版コナン全集の5巻目です。東京創元社のページに新訂版コナン全集の刊行のことばや構成があります。「天才作家が創造し、すべてのヒロイック・ファンタジーの源となった傑作シリーズを、最新の校訂のもとに贈る第5集。本集には新訳3編を収録した。宝物を狙う海賊たちとの死闘を描く「黒い異邦人」。最初に発表されたシリーズ作として絶賛を浴びた、王となったコナンの物語「不死鳥の剣」。囚われの身となったコナン王が伝説の魔道士と遭遇し、一大合戦絵巻が繰り広げられる表題作。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月29日
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「もちろん、自分たちの国語に無関心でゐることは、普通には健康であることの証拠なのです。文学者の場合ですら、さうであります。何事によらず、自意識過剰は一種の狂気でありますから。が、他に極端な自意識過剰が、狂気が存在するとすれば、どうするか。(中略)言葉は誰にとつても身近にあるものです。言葉は自分の外にあつて、しかも自分の内にある。自分の肉体と同様に、自分の意のままに操れるものであり、しかもどうにもならぬものであります。したがつて、それは人を自意識過剰に導き、自慰に堕せしめる。さういふ誤つた過度の関心が問題を推進し、現実を動かしてゐるのです。それゆゑにこそ、私たちもそれを阻止するために、一度は国語問題に関心をもたねばならぬといふわけです。」(福田恒存さん「私の國語教室」序より)※引用は新漢字、旧仮名遣いにしています。
2009年03月28日
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デニス・ジョンソンという人の「ジーザス・サン」という本を買書つんどく。買った時には気づかなかったのですが、「ジーザス・サン」は、もちろん「イエスの息子」という意味ですね。「『ダンダン』─俺はダンダンから薬をもらおうと、農場まで出かけた。しかしダンダンは、銃で知り合いを撃ってしまったという。ブレーキの効かない車で、死にかけた男を医者まで送り届けるドライブが始まった。『仕事』─俺はホテルでガールフレンドとヘロインを打ちまくっていた。喧嘩をした翌朝、バーで金儲けの話に乗ることにした。空き家に押し入り、銅線を集めて、スクラップとして売る仕事だった。『緊急』─俺は緊急治療室で働きはじめた。ぶらぶらするか、雑役夫と薬を盗むしかなかった。深夜、目にナイフが刺さった男が連れられてきた。手術の準備中、雑役夫がそのナイフを抜いてしまった。最果てでもがき、生きる、破滅的な人びと。幻覚のような語りが心を震わす、11の短篇。」(「BOOK」データベースより)「アメリカ短篇小説の最高峰 本書の原書が刊行されたのは1992年。それ以来、多くの読者に衝撃を与え、20世紀末のアメリカ短篇集の最高峰として、誰もが名を挙げる一冊でありつづけている。 デニス・ジョンソンは、旧西ドイツ、ミュンヘン生まれ。ジミ・ヘンドリックスのギターに影響を受けて文章を書きはじめたという。デビュー以来、核戦争後の近未来や、暴力とドラッグに染まった現代アメリカ社会の裏面を精力的に描きつづけている。最新長編『煙の樹』(〈エクス・リブリス〉シリーズにて刊行予定)で《全米図書賞》を受賞、《ニューヨーク・タイムズ年間最優秀図書》にも選ばれた。」(白水社の紹介)
2009年03月28日
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東雅夫さんの「怪談文芸ハンドブック 」を買書。いや、僕はこのての本が好きで、ブックガイドも好きなので・・・・・。「「怪談の定義」「ホラーとの違いは?」「創作怪談と実話怪談の違いは?」「長篇怪談の書き方教えて」「怪談名作ブックガイドを知りたい」「怪談の歴史を知りたい」・・・。『幽』編集長・東雅夫に寄せられたさまざまな疑問に、お答えする一冊。なぜ今、宮部みゆきや京極夏彦は「怪談」を書くのか?「怪談」ブームの仕掛け人である東雅夫が、文学的に、歴史的に、怪談の魅力を紹介していきます。」(メディアファクトリーの紹介)
2009年03月27日
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福田恒存さんの「私の國語教室」を買書。水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」から派生して、買書しました。関心があるうちに、と思って読み始めました。というか、読み始める努力を始めました。というか、ひょっとしてもう挫折しかかっているのではないだろうか?「「現代かなづかい」の不合理と不徹底と論理的混乱は、「表記法は音にではなく、語に随ふべし」といふ全く異種の原則を導入したことから起つた。この原則に基く歴史的かなづかひの合理性、論理的一貫性を具体例を挙げて論証、国語問題の本質を剔抉して学界、論壇、文壇に衝撃を与へた不朽の名著の再刊。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月26日
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それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。というわけで、水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読みました。母語から国語の成立、国語から国民国家の成立という過程はさておき(というのは、僕にとっては、もっと勉強が必要なので)、この本の「日本語が亡びる」という主張を、おおまかにまとめてみると、1.<叡智を求める人>(優秀な知性)は、学問の発展のためにも、その本性からも<書かれた言 葉>である<普遍語>の集積(図書館)に出入りするものである。2.そして、<普遍語>を翻訳する(日本の場合この過程で国民文学が形成される)とともに、<普 遍語>で書くようになる。3.過去例を見ない英語覇権主義の中で、普遍語が英語に集約されると、<叡智を求める人> は、英語で読み、英語を翻訳し、英語で書かざるを得ないようになる。4.そうなると、日本語では<読まれるべき言葉>が読まれなくなり、書かれなくなる。5.かくして日本語が亡びる。6.一方では、大衆レベルでも文化的にも経済的にも英語への依存度が高くなり、ゆるやかに日本 語の劣化が進む。7.これを防ぐには、学校教育において、万人が英語を読み書きできるような教育を目指すのでは なく、英語は少数のエリート集団にまかせ、もっと日本語の<読まれるべき言葉>の教育をす べきである。なにか、こう書いているとひどく要約が間違っている気がしてきますが、それは僕の限界として、この中で「日本語が亡びる」と言われているのは、日本語で「<読まれるべき言葉>が書かれなくなる」ないし「読まれなくなる」ということを指していることが重要だと思います。そこで、<読まれるべき言葉>とは何なのか、英語という普遍語が浸透すれば本当に<読まれるべき言葉>は日本語では書かれなくなるのか、これはもっと詰めなければいけないところだと思いました。また、いずれにしても一般的な話し言葉、一般的な書き言葉としての日本語は亡びるとは言っていないわけで、そのことがどれほどの影響を持つのか、文化の継承という観点でいうならば、文化とはなになのか、これももっと叙述してほしいところだと思いました。ここで本当は、最初に「さておいた」もう一本の柱であるところの国語と国民国家の関係について考えなければいけないところですが、頭の整理がつかないのと、とりあえずは国語に対する関心を呼び覚ましてくれたということで良しとするとして、もっと勉強したうえで、また考えてみたい、かな?と思ったことでした。
2009年03月25日
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E.T.A.ホフマン「黄金の壼」を買書。ホフマンといえば、ドストエフスキーがこよなく愛した作家さんです。僕自身、ドストエフスキーを読んだ影響で、ホフマンを読みました。ホフマンの登場人物にはドストエフスキーのそれのように観念の化け物じみたところは少ないのですが、ホフマンを読んでいると、ドストエフスキーがホフマンの子であるということが、なんとなく感じられます。この本に収録されている中・短編は、いずれも一度、二度と読んだことのあるものですが、なぜかホフマンは、僕にとって定期的に回帰する作家さんです。日本では、たとえば江戸川乱歩なんかがそういう作家さんです。そして、ホフマンといえば漱石の「猫」に影響を与えたとか与えなかったとか言われる「牡猫ムルの人生観」とM.G.ルイスの「マンク」と並ぶゴシック・ロマン「悪魔の霊酒」。現在、「ムル」はちょっと手に入りにくいようなので、「悪魔の霊酒」の紹介をしてみました。「美しい金緑色の蛇に恋した大学生アンゼルムスは非現実の世界に足を踏み入れていくが…(『黄金の壼』)。17世紀のパリ。天才的な職人が手がけた宝石を所有する貴族たちがつぎつぎと襲われる。ようやく逮捕された犯人は意外な人物だった(『マドモワゼル・ド・スキュデリ』)。」(「BOOK」データベースより)「後期ドイツ・ロマン派の奇才ホフマンの大作奇譚。修道院の奥深くに秘められていた聖遺物―悪魔が聖アントニウスの誘惑に用いたと伝えられる霊酒を飲んだ修道士メダルドゥスは、欲望と狂乱の情熱に引きずられるまま、涜神と愛欲の世界に沈みこんでゆく。痛悔の長い告白は、静謐な幼年の日々から始まり、成人して宮廷の世俗世界を遍歴する欲望の日々へ。怪奇の夜と輝く昼の交錯する長編ロマン。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月24日
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藤谷治さんの「いつか棺桶はやってくる」を買書つんどく。 「またたび峠」とともに「つんつるてんの男」二部作を構成するらしいので、いずれ「またたび峠」もこの文庫で出るのでしょう。ところで、「つんつるてんの男」ってなに?「地下二百メートルに二十億の巨費を投じて作られた医療機器メーカーの謎の研究所で働く内藤タダオは、帰宅後、何の前触れもなく、自宅マンションから元美人受付嬢の妻がいなくなっていることに気づいた。ラッピングされた漱石の「明暗」初版本、膨大な記号の羅列で埋め尽くされたノート四冊などを残して。マンションの階段には、ここ数日、「マーちゃん」と名乗る二十代半ばの謎の女性が座り込んでいた。「まむし」と名づけられたタダオの研究内容が、「歴史上最も残酷な殺人兵器となる可能性」を秘めていることと何か関係があるのか─。三島由紀夫賞候補作。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月23日
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咲きはじめたら早いです。おっと!やっぱり、少し食べられていますが、昨年に比べたら成績優秀ですね。もうひとつの方は・・・・・。
2009年03月22日
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アラン・ベネット「やんごとなき読者」を買書つんどく。本屋さんでぱらりらした時には、エリザベス一世の話だと思っていたので、最初ジャン・ジュネが出てきて違和感を感じても、ある種のタイム・パラドックスものかなにかだと思ってしまいました。しかし、現女王を主人公に小説書くかな?大丈夫なのかな?「イギリスの人気劇作家・脚本家によるベストセラー小説。 主人公は現女王エリザベス二世。それまで本にはほとんど興味がなかったのに、ある日飼い犬が縁で、すっかり読書の面白さにはまってしまう。カンニングする学生のように公務中に本を読みふけるわ、誰彼かまわず「最近どんな本を読んでいますか」と聞いてはお薦め本を押しつけるわで、側近も閣僚も大慌て。 読書によって想像力が豊かになった女王は、初めて他人の気持ちを思いやるようになるものの、周囲には理解されず、逆に読書に対してさまざまな妨害工作をされてしまう。孤独の中で女王は、公人としてではなくひとりの人間としての、己が人生の意味について考えるようになっていたのだが、王宮中に、「陛下はアルツハイマーかもしれない」という噂が広まっていき……。 本好きなら、読むことと書くことの本質を鋭く考察した台詞や思索の数々にうなずかされる部分も多い。実在の女王が主人公という大胆な設定で、ひとりの人間が読書によって成長し、ついには80歳にして新たな生き甲斐を発見していく姿を描いた、感動の一冊。」(白水社の紹介)
2009年03月22日
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かの有名な(?)ヒヨドリヒメコブシ殺害事件から1年が経過し、今年もヒメコブシの花の季節になりました。6つくらいの花が咲き始めていますが、さて、このうちいくつが無事花開くことができるでしょうか?というわけで、とりあえず開花前の写真を、記録として残しておくことにしました。おっ!これは、もう咲いているといってよいかも・・・・・。
2009年03月21日
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「<国民文学>は<国語>と同じようにその起源を忘却することによって成り立つ。日本近代文学もそうである。巷の人が手紙でやりとりする言葉が新聞や小説の言葉に近づき、新しい日本語があたりまえなものになるのと同時に、日本近代文学の起源――それが、大学で西洋語を学んだ二重言語者によって、翻訳という行為を通じ、翻訳の可能性と不可能性のアポリアから創られていったものであることは、急速に忘れられていった。(中略)日本近代文学の起源を振り返るということ自体、<国民文学>が、国民の魂の自然な表現であるという<国語イデオロギー>と相容れないものである。その起源を忘却させようという意図がどこかに存在したわけではない。日本に<国語イデオロギー>が浸透するにつれ、知らず知らずのうちに、日本近代文学が、日本人の魂の表現そのものに思えるようになったのである。しかも、明治時代から義務教育で強制された規範的な<話し言葉>も、やがてラジオ、次にはテレビの普及によって強制を伴わずに茶の間から茶の間へと山を越え、川を超え、県境いを越えて普及していった。規範的な<書き言葉>の流通は規範的な<話し言葉>の普及とあいまって、日本語という<国語>をいよいよ日本人の魂のそのままの表現のように思える言葉――<自分たちの言葉>としていったのである。」(水村美苗さん「日本語が亡びるとき」P227)
2009年03月21日
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「<国語>は自然なものではない。今、人類の多くは、自分たちの<国語>を、おのが民族が、太古の昔から使ってきた言葉だと思いこむにいたっている。ところが「想像の共同体」によれば、<国語>とは、いくつかの歴史的条件が重なって生まれたものでしかない。それでいて、いったん<国語>が生まれると、その歴史的な成立過程は忘れ去られ、忘れるうちに、人々にとって、あたかもそれがもっとも深い自分たちの国民性=民族性の表れだと信じこまれるようになる。<国語>はナショナリズムの母体となり<国民文学>を創り、今度はその<国民文学>が母体となり<国民国家>を創っていく。」(水村美苗さん「日本語が亡びるとき」P109)
2009年03月20日
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マルコス・アギニスの「マラ-ノの武勲」を買書つんどく。大著ですね。4800円です!(いや、そういう意味じゃなくて・・・・・)リョサの推薦が載っていますが、この本の帯を読んだ時、リョサの「世界終末戦争」を思ったりしました。(これも大著です。ただし僕は、リョサでは「緑の家」が一番好きです。)「感動を呼び起こす自由への賛歌」――マリオ・バルガス=リョサ絶賛!「16~17世紀、南米大陸におけるあまりにも苛烈なキリスト教会の異端審問と、命を賭してそれに抗したあるユダヤ教徒の生涯を、壮大無比のスケールで描き出す。アルゼンチン現代文学の巨匠アギニスの大長編、本邦初訳!」(作品社の紹介)
2009年03月20日
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しっぽがじゃまになって、なぜか文字盤を見ることができない時計です。覗きこまないと(へたすると覗きこんでも)時間がわからないため、気持ちに余裕のない時なんかにはイラっとするかも知れません(笑)。
2009年03月19日
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「今私たち日本人にとって、日本語という<自分たちの言葉>は、あまりにも自明なものとなっている。そして、それは、日本語という<書き言葉>にかんしても同様である。日本人は神代の昔から日本語という<自分たちの言葉>を話していた。そこへ、ある時たまたま朝鮮半島の人を通じて漢字という文字が入ってきた。それを見た日本人は、その文字に工夫を重ねて自分たちの文字を創り、それに漢字を交えつつ、日本語という<自分たちの言葉>を書き表すようになった。これが、日本語という<自分たちの言葉>の<書き言葉>の成立である――と、多くの日本人はなんとなく思っているのではないだろうか。このようなものの見方が必ずしも間違っているわけではない。これだけ漠然としたものの見方では、どうとでも解釈できるからである。だが、このようなものの見方は、実は、しばしば、一つの誤った認識を前提としている。はかならぬ<書き言葉>とは<話し言葉>を書き表したものだという前提である。それは<書き言葉>の本質を見誤っているだけではない。それは、まずは、人類の歴史そのものを無視したものである。人類が文字というものを発見してから約六千年。そのあいだ、人類はほとんどの場合、自分が話す言葉でそのまま読み書きをしてきたわけではなかった。人類はほとんどの場合、<外の言葉>――そのあたり一帯を覆う、古くからある偉大な文明の言葉で読み書きしてきたのであった。そして、それらの、古くからある偉大な文明の言葉は、地球上のあちこちにいくつかあった。それが本書でいう<普遍語>である。」(水村美苗さん「日本語が亡びるとき」P104)
2009年03月18日
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チャールズ・ストロスの「アッチェレランド」を買書つんどく。ところで、僕は「残虐行為記録保管所」を持っているのでしょうか?分かりません・・・・・。「〈ローカス賞受賞〉ギブスンの鮮烈×クラークの思弁! 英国SF新世代の旗手が描出する、〈特異点〉を越えた人類の姿。 ようこそ、変容と狂騒の21世紀へ! 時は、21世紀の初頭。マンフレッド・マックスは、行く先々で見知らぬ誰かにオリジナルなアイデアを無償で提供し、富を授けていく恵与経済(アガルミクス)の実践者。彼のヘッドアップ・ディスプレイの片隅では、複数の接続チャネルが常時、情報洪水を投げかけている。ある日、マンフレッドは立ち寄ったアムステルダムで、予期せぬ接触を受けた。元KGBのAIが亡命の支援を要請しているが、どうやらその正体は学名パヌリルス・インテルルプトゥス――ロブスターのアップロードらしい。人類圏が〈特異点(シンギュラリティ)〉を迎える前に隔絶された避難所へと泳ぎ去りたいというのだが……。この突飛な申し出に、マンフレッドの拡張大脳皮質(メタコルテックス)が導き出した答えは…… 〈特異点(シンギュラリティ)〉を迎えた有り得べき21世紀を舞台に、人類の加速していく進化を、マックス家三代にわたる一大年代記として描いた新世代のサイバーパンク。」(早川書房の紹介)
2009年03月18日
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「私は何でも知っているのだよ。何でも知っているが、何もできん。知っていることと、できるということは、関係がないからね」というわけで、立松和平さんの「うんたまぎるー」を読みました。しかし、いったいこの本はどういう本なのでしょうか。黒船来航時の琉球の話であり、運玉義留という義賊がいかにして誕生し、そして死んだかという話であり、なんといってもそのころの庶民の話なのだと思います。そこに、千里眼の語り部テルリン、夢見のジュリであるチルー、義賊の相方油喰小僧、なんとも不思議な出生の豚女真加戸、なぜか食べてばかりいる母、波之上の眼鏡(なんみーぬがんちょう)ベッテルハイム、記録する機械ともいうべきテイラー、そしてさまよえる提督ペリー、と多彩な登場人物と、民話、運玉森(うんたまむい)での魂(まぶい)落とし、キジムナーなど琉球の驚異的現実があいまって、大きなカタルシスはないけれど、とても魅力的な世界をつくりだしています。こう書いていくと、最近読んだ池上永一さんの「風車祭」「レキオス」「テンペスト」などが思い返されてくるわけですが、立松さんの「うんたまぎるー」が書かれたのが1989年、実に20年前ですから、先駆的作品として池上さんの作品に大きな影響を与えているように思います。また、破天荒であるにもかかわらず、どこか静謐さが漂った物語であり、それは、はっきりとは書かれてはいないものの、琉球の終焉と沖縄の運命を予見する、ちょっとせつない作品だと思ったことでした。
2009年03月17日
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「命懸けでやってきたつもりだったが、会ってみれば俺たちと変わらない。琉球にもこんなひどい酔っ払いはめったにいるもんじゃないよ。まあいいさ。この世のことはそう簡単にわかるもんじゃない。わからないからこそ、この男も海をさまよってるわけさあ。永遠にわからないだろうということがわかったさあ。俺はこの琉球におるよ。死ぬまでおるよ。異国の王の悩みを知って目の前が明るくなった気分だよ」(立松和平さん「うんたまぎるー」P293)迷子のペリーさん、酔っ払いのペリーさん、悩めるペリーさん。
2009年03月16日
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ドン・デリーロの「墜ちてゆく男」を買書つんどく。アメリカでは大家であるにもかかわらず、日本では「リブラ時の秤」も「マオ2」も「アンダーワールド」も「コズモポリス」も「ボディ・アーティスト」も絶版になってしまっているようです。典型的に読まれない作家さんなのかも知れません。いや、人のことは言えませんが(笑)。で、ふと思ったのですが、現在、一時のジョン・アーヴィングやらレイモンド・カーヴァーのように、ジャンル作家以外で読まれているアメリカの作家さん、いや外国の作家さんはいるのでしょうか?この頃、古典の新訳などで爆発的に売れていることがあるにしても、外国の現代作家の作品がそのように売れているというのはあまり聞いたことがないように思いました。カズオ・イシグロさんなんかは、読まれているのでしょうか?「9・11から七年。米最大の作家が初めて「あの日」と対峙した、新たなる代表作。2001年9月11日、世界貿易センタービルは崩壊する。窓外には落ちる人影。凍る時間。女好きでポーカー狂のエリートビジネスマン、キースはその壮絶なカタストロフを生き延びる。彼は妻と息子の元で新しい生に踏み出すかに見えたが――。全米の注視を浴びながら刊行された、アメリカを代表する作家の「あの日」への返歌。」(新潮社の紹介)
2009年03月16日
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そもそも「大阪国」とは何なのか。国というからには国民がいるのだろうか。これは女だけの大事な秘密。といっても、どこまでも簡単な秘密やけどね。はじまりの小さな歴史と、あとは男が何かアホなことやってるらしいけど放っとこ――それだけ。というわけで、万城目学さんの「プリンセス・トヨトミ」を読みました。恥ずかしながら、僕はこの本を読みながら興奮してくるのを止めることが出来ませんでした。それは、小説の出来の良し悪しやものごとの善悪なんか軽々と乗り越えて、おじさんの中の「男の子」に直接訴えてくるものだと思います。それでもって、見守ってくれている女性のみなさんには、つつしんで感謝を!という気持ちなので、だからほかの事はどうでもええです。といえばおしまいですが、松平の心理の動きがその頂点で転回するシーンは、この本のクライマックスだと思うのですが、その理由というのが、分かるには分かるものの、僕には納得できなかったことがちょっと残念でした。また、この本には前2作に見られたようなスーパーナチュラルな要素の関与は影を潜めていますが、替わりに架空の国「大阪国」の制度が、登場人物の行動を支配しているように感じました。そやけど、そんな事どうでもええねん。
2009年03月15日
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「それでも、松平の脳裏に未だはっきり刻みこまれているのは、闇夜に浮かぶ大阪城の真っ赤に染まった姿である。といっても、炎に包まれているわけではない。まるで血の色に彩られたように、大阪城が赤く表情を変え、夜空にそびえ立っていたのである。」(万城目学さん「プリンセス・トヨトミ」P176)
2009年03月14日
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小川正廣さんの「ウェルギリウス『アエネ-イス』 神話が語るヨ-ロッパ世界の原点」を買書つんどく。なんたってローマ建国の祖ですからね。しかし、「アエネーイス」は一回読みかけて挫折しています。「みずからの激動の時代体験をとおして人間と社会の問題を深く掘り下げ、知的苦闘の中から作品を生み出したウェルギリウス。このラテン文学最大の詩人が後世にあたえた影響ははかりしれない。彼の遺した大叙事詩『アエネーイス』により「ヨーロッパ」という概念は初めて創られ、またダンテ『神曲』においては主人公を冥界に導く人々としても描かれた。『アエネーイス』は、民族や人種を超え、個人が相互の理解と尊重により結びつけられる社会を創るという理想と、その実現のための大きな苦難を、ローマ建国の英雄アエネーアスに体現させて謳いあげた作品である。ここに込められた詩人の未来へのまなざしは、今なお英雄と同じ苦悩を背負って生きる人類への励ましでもある。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月14日
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「たとえば、ひょうたんは世界最古の栽培作物だった。西アフリカのサバンナ地帯にその起源を持ち、何千年もかけて日本にやってきた。どうやって伝わったのかはわからない。海の上をぷかぷか浮いてきたのかもしれない。日本では八千五百年前の福井県の遺跡から、ひょうたんの破片がいくつも発見されている。穀物の栽培なら弥生時代まで待たなければならないが、ひょうたんの栽培はすでに縄文時代前期から行われていたらしい。ウリ科のひょうたんはつる性の一年草で、三月に種を蒔くと、六月に小ぶりな白い花が咲き、九月に実が成る。サイズ・形状によって様々な呼び名があり、たとえば千成ひょうたんが高さ十三センチ未満のものを指すのに対し、百成ひょうたんは十三センチから二十センチのものを指す。千成ひょうたんは百成ひょうたんより、身体が小さい。そのぶん、多くの実をつける。だから「千成」らしい。ウリの仲間ゆえ、漬け物などにして食べることもできるが、現在はそのほとんどが加工され、装飾品や縁起物として用いられている。かつては酒器として実用的に使われたほか、平安時代、空也上人はひょうたんを叩いて念仏を唱え、戦国時代、豊臣秀吉は千成ひょうたんを馬印、すなわち自分のシンボルマークとして用いた。」(万城目学さん「プリンセス・トヨトミ」P362)
2009年03月13日
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高橋源一郎さんの「大人にはわからない日本文学史」を買書つんどく。まあ、なんとなく・・・・・。「過去の堆積としての文学史を語り直すでもなく,文学史と無関係に新しい小説を読むのでもない.一葉からケータイ小説まで,”リアル”を刻み続けた百年の営みの,過去と現在とを対話させるすべはないだろうか? 著者年来の宿題がいまついに試みられた,来るべき千年のための日本文学史序説.」(岩波書店の紹介)
2009年03月13日
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日本には白桐をもとに意匠化された家紋がいくつかある。それらを総称して桐紋もしくは桐花紋というが、中でも五七の桐と呼ばれるスタイルが有名である。古くから桐は鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも嵯峨天皇の頃から天皇の衣類の刺繍や染め抜きに用いられるなど、「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされた。また中世以降は天下人たる武家が望んだ家紋としても有名で、足利尊氏や豊臣秀吉などもこれを天皇から賜っている。このため五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。近代以降も五七桐は「日本国政府の紋章」として大礼服や旭日章(及び旧制下の桐葉章)、瑞宝章(新制下)の意匠に取り入れられたり、菊花紋に準じる国章としてビサやパスポートなどの書類の装飾に使われたり、「内閣総理大臣の紋章」として官邸の備品や総理の演台に取付けられるプレートに使われている。(うぃきぺでぃあ)「花札にも「桐に鳳凰」という図柄があるように、古来、桐は鳳凰が宿る木として神聖視されてきた。ゆえに桐紋は、菊とともに天皇家の紋章として用いられた。豊臣秀吉はこれを朝廷から下賜され、家紋とするに至った。明治政府もまた、「五七桐紋」を礼服の紋章に指定し、その習慣は引き継がれ、現在も日本国政府が作成するパスポートやビザに用いられている。」(万城目学さん「プリンセス・トヨトミ」P266)
2009年03月12日
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斎樹真琴さんの「十四歳の情景」を買書つんどく。「地獄番鬼蜘蛛日誌」の斎樹さんの新作です。「視力を失い始めた十四歳の池山潤。同じ症状に苦しみ一年前に死を選んだ兄・昌義が遺した日記から、視力が消えてから見えてくる「時の情景」を知る。そして、滝口雅也。なぜ、兄貴は彼に私を託したのか―。遺伝子と折り合いをつけ、“此の世の理”に抗おうとした少女が綴った、ある夏の日記。小説現代長編新人賞を受賞したデビュー作『地獄番鬼蜘蛛日誌』で、“恐るべき才能”を驚嘆された著者の衝撃第二作。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月12日
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桜庭一樹さんの「続々・桜庭一樹 読書日記」を見ていたら、こんなことが書いてありました。「名字が変わったことで、久方ぶりに呼吸が楽になった気がしている。断ち切った。過去の血の物語が山を越えてこの大都会まで追ってきたとしても、もう、名前がちがうからわたしをうまくみつけられないだろう。それに、夫がいるから、大丈夫……。門の前にユラユラ立ち、過去の物語からわたしを守ってくれる。 未来の物語を、探すのだ。」おっと、いささか即物的な感じがするのはともかく、知らぬ間に結婚していたことや、ノロけが入っていることは、もっとともかくとして、これが現在の桜庭さんの心境を表しているんだろうな、と妙に感慨にふけったことでした。
2009年03月11日
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出版芸術社のふしぎ文学館の一冊、友成純一さんの「狂鬼降臨」を買書つんどく。友成さんの本を買うのは初めてで、鬼畜系っていうんですか、この系はひょっとして苦手なのですが、なにを魔がさしたことやら、買ったそばから後悔したりなんかしてます・・・・・。「突如、現れた地獄の<鬼>により、地上は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄と化した。なすすべのない恐怖から、快楽を貪るだけの人間をたんたんと嬲り殺す鬼達。憎悪の文学を確立した傑作「狂鬼降臨」。誰一人死ぬことが不可能となった世界を描き、著者自ら「狂鬼降臨」の一環と語る「地獄の釜開き」。全身が腐る病、退廃病。男にのみ感染するこの病の感染源は女だった……「呪縛女」。飛び散る脳漿、溢れる体液、あなたは友成純一の世界を黙視できるか?」(出版芸術社の紹介) (収録作)・狂鬼降臨 ・地獄の遊園地 ・呪縛女 ・蟷螂の罠 ・地獄の釜開き
2009年03月11日
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「経験したことのないくらい、心臓が早鐘を打ち鳴らしていた。すでに「装備」の命令を受けたオニたちは、めいめい手に棍棒や大きな鉤のついた熊手のようなものを用意し、”絞り”をふるふると揺らしていた。丸い頭に襤褸を纏い、棍棒や熊手を掲げるシルエットは、さながら平安の世、都で狼藉の限りを尽くした比叡山の山法師が如き眺めだった。」というわけで、万城目学さんの「鴨川ホルモー」を読みました。いや、面白かったです。というか、まあ、「で?」と突っ込むのが大人気ないと思えるほど、あとくされも罪も無い、とびきりキュートな青春恋愛小説といった趣で、僕自身とても若返った気がしてしまいました。万城目さんの本で思うのは、「鹿男あをによし」でもそうでしたが、異界との交流というか、登場人物を動かしているのは異界の論理である、というふうに読めることです。ちょっと大袈裟ですけど、古代ギリシャでは、これを神々と呼び、宿命と呼んだようなものでしょうか。このことが、へたすればベタになってしまう危険を孕んだ感傷的なお話を、陰影あるものにしているという気がします。このあたりのバランス感覚という意味では、珍しい作家さんなのかも知れません。しかし、そんなことはともかく、高村魅力的!凡ちゃんカワイイ!のでした。「このごろ都にはやるもの、勧誘、貧乏、一目ぼれ。葵祭の帰り道、ふと渡されたビラ一枚。腹を空かせた新入生、文句に誘われノコノコと、出向いた先で見たものは、世にも華麗な女(鼻)でした。このごろ都にはやるもの、協定、合戦、片思い。祇園祭の宵山に、待ち構えるは、いざ「ホルモー」。「ホルモン」ではない、是れ「ホルモー」。戦いのときは訪れて、大路小路にときの声。恋に、戦に、チョンマゲに、若者たちは闊歩して、魑魅魍魎は跋扈する。京都の街に巻き起こる、疾風怒涛の狂乱絵巻。都大路に鳴り響く、伝説誕生のファンファーレ。前代未聞の娯楽大作、碁盤の目をした夢芝居。「鴨川ホルモー」ここにあり。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月10日
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桜庭一樹さんの「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」が角川文庫から出ました。富士見文庫版と違って、おじさんでも買いやすくなりました(笑)。(後ほど、ハードカバーも出ていますが、これもおじさんでも買えます。)初めてこの小説を読んだとき、処理しきれない衝撃を受けたことを思い出します。僕にとっての桜庭衝撃ベストといえば、この本と「私の男」のラスト一行でしょうか。「その日、兄とあたしは、必死に山を登っていた。見つけたくない「あるもの」を見つけてしまうために。あたし=中学生の山田なぎさは、子供という境遇に絶望し、一刻も早く社会に出て、お金という“実弾”を手にするべく、自衛官を志望していた。そんななぎさに、都会からの転校生、海野藻屑は何かと絡んでくる。嘘つきで残酷だが、どこか魅力的な藻屑となぎさは序々に親しくなっていく。だが、藻屑は日夜、父からの暴力に曝されており、ある日―。直木賞作家がおくる、切実な痛みに満ちた青春文学。」(「BOOK」データベースより)ちなみに、富士見文庫版の紹介は次のとおりですが、こちらのほうが内容をよくあらわしているような気がします。(しかし、この表紙はおじさんには買いにくい。でしょ?)「大人になんてなりたくなかった。傲慢で、自分勝手な理屈を振りかざして、くだらない言い訳を繰り返す。そして、見え透いた安い論理で子供を丸め込もうとする。でも、早く大人になりたかった。自分はあまりにも弱く、みじめで戦う手段を持たなかった。このままでは、この小さな町で息が詰まって死んでしまうと分かっていた。実弾が、欲しかった。どこにも、行く場所がなく、そしてどこかへ逃げたいと思っていた。そんな13歳の二人の少女が出会った。山田なぎさ―片田舎に暮らし、早く卒業し、社会に出たいと思っているリアリスト。海野藻屑―自分のことを人魚だと言い張る少し不思議な転校生の女の子。二人は言葉を交わして、ともに同じ空気を吸い、思いをはせる。全ては生きるために、生き残っていくために―。これは、そんな二人の小さな小さな物語。渾身の青春暗黒ミステリー。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月09日
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「探検隊はこれをどう考えてよいのかわからない現実の前に立ってしまった。那覇を発ってから二番目に見た家畜は豚だったが、どういうわけかこの豚は貞操帯をしていたのだ。口輪のようなものかとも考えたが、革でできたものを尻に下穿きのように着けている。相当に年たけた老豚ではあっても、貞操帯を着けた豚などは夢の中にさえでてこないではないか。老豚は腹に陽を当てて眠っていた。清国人苦役がおもしろがって小石を投げた。腹に石をぶつけても老豚は眠っていた。もう一度石を投げようとした清国人苦役を、将校が制した。それは賢明な処置だったといわなければならない。もし老豚が安らかな眠りから醒めたら、彼らにどんな災いをもたらすかもわからないからだ。 豚小屋の石垣の手前で、テイラーは握ったペンを動かそうともせずに立ちつくしていた。これをどう描写してよいか迷ってしまったのだ。目の前のことを正確に書くならば、彼は理性を失って幻覚の中にあったとの嘲笑のそしりを受けねばならなくなるかもしれなかった。そうなれば、これまでの彼の辛苦の記録は全否定の憂き目に遭うかもわからない。確乎たる意志で、テイラーは目の前の光景を記録に残さないことにした。つねに自分は理性的であると、テイラーは何度もくりかえし思うのだった。」(立松和平さん「うんたまぎるー」P208)
2009年03月08日
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万城目学さんの「プリンセス・トヨトミ」を買書つんどく。「鹿男あをによし」は読んでいるのですが、なんでかデビュー作の「鴨川ホルモー」は持ってもないし、もちろん読んでもなかったので、この度文庫化されたのをきっかけに「鴨川ホルモー」も買書してしまいました。「女子になりたい中学生・大輔と彼を守ってきた幼馴染の茶子(ちゃこ)。彼らが暮らす空堀(からほり)商店街に、会計検査院の調査官3人の手が伸びる。5月末日の木曜日、大阪が完全に止まる。あらゆる種類の営業活動、商業活動、地下鉄、バス等の公共機関も一切停止。しかしそのことは大阪人以外は全く知らない。その発端となったのが、会計検査院からやってきた個性豊かな調査官3人と、空堀商店街にあるお好み焼屋の中学生の息子に、その幼馴染の女子。彼らが、大阪人に連綿と引き継がれてきた、秘密の扉を開けてしまうのだった……。歴史と古典を巧みに取り入れた突飛な着想と独特のユーモアで人気を博す著者が京都、奈良を舞台にした物語の次は、いよいよ大阪。万城目マジックをご堪能下さい。」(文藝春秋社の紹介)
2009年03月08日
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「さて、王府も頭を抱えている。内には義賊、外には黒船だ。ペリー提督の目的は、琉球に水と食糧と石炭の補給地をつくることだよ。(中略)アメリカと清国の間で、どうしても石炭を積み込まなければならない。この島に石炭がでれば一番いいんだが、さてどうなのだろう。サスクエハンナ号で提督は摂政と会見していろいろなことを話した。摂政の来訪の返礼として、提督は七日後に首里の王宮に親しく敬意を表するために訪問すると語ったわけだよ。摂政とすれば、提督に王宮にきてもらいたくない一心で一生懸命黒船にきているのだよ。上陸しないで帰ってもらいたいのだ。しかし、提督は断固たる決意をみせ、必ずこれを実行すると述べたので、議論はおしまいになったよ。(中略)摂政の立場としたら、それだけは許すことはできない。尚泰王は十一歳の子供で、皇太后は病気だからね。首里城にきてもらっても、真中が空っぽと同じだからね。」(立松和平さん「うんたまぎるー」P155より)
2009年03月07日
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「海軍大臣閣下。かの不可解な国日本に至る前に、私はより不可解な国琉球に迷い込んでしまいました。」(立松和平さん「うんたまぎるー」P186より ペリーの手紙)
2009年03月06日
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ジェイムズ・ジョイスの「ダブリナーズ」を買書つんどく。たとえ、ジョイスの本丸「ユリシ-ズ」や「フィネガンズ・ウェイク」は読めなくても、これは大好きな本の一つです。かつて、安藤一郎さん、高松雄一さんの訳で読んだことがありますが、今回、かの柳瀬尚紀さんの新訳ということで、とても期待をしている一冊です。ちなみに、未見ですが、この中の最終編(「ザ・デッド」)がジョン・ヒューストン監督で映画化もされています。奇しくもヒューストンの遺作となった作品です。「アイルランドの首都ダブリン、この地に生れた世界的作家ジョイスが、「半身不随もしくは中風」と呼んだ20世紀初頭の都市。その「魂」を、恋心と性欲の芽生える少年、酒びたりの父親、下宿屋のやり手女将など、そこに住まうダブリナーたちを通して描いた15編。最後の大作『フィネガンズ・ウェイク』の訳者が、そこからこの各編を逆照射して日本語にした画期的新訳。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月06日
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「百姓は一生懸命働いてもせいぜい地頭代(村の頭役)までだ」と奉公主に言われた義留は、それならば大泥棒になって名を残そうと主家を飛び出す。油喰坊主とコンビを組み大名やお金持ちを狙って盗みを働き、金品を貧しい者たちに分け与える。しかし、忍者の様に活躍する義留も、槍の名手の儀保里之子(ジーブサトヌシ―)と対決し捕らえられてしまう。 いわゆる義賊の物語りである。原作は、石川文一さんという人で、初演は定かではないが、明治以降の商業演劇の中で生まれ、1970年代まで盛んに演じられた。のだそうです。(「現代芸能 沖縄の芝居」より)多謝!
2009年03月05日
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ハーパー・リーの「アラバマ物語」を買書つんどく。表紙も造りも、なんかもう昔の本という感じ。あらすじを紹介したものを載せようにも、どこを見ても映画の紹介ばっかりでまいりました。ともあれ、ハーパー・リーはカポーティの幼なじみで、この本にも幼き日のカポーティが出てくると聞いています。この本の存在も映画も前から知っていましたが、この度、桜庭一樹さんの読書日記に触発されて買ってみました。
2009年03月04日
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言葉には力の序列がる。一番下には、その言葉を使う人の数がきわめて限られた、小さな部族の中でしか流通しない言葉がある。その上には、民族の中で通じる言葉、さらにその上には、国家の中で流通する言葉がある。そして一番上には、広い地域にまたがった民族や国家のあいだで流通する言葉がある。今、人々の間の交流が急激にさかんになったことによって、言葉に有史以来の異変が二つおこっていると言われている。一つ目の異変は、下の方の、名も知れぬ言葉が、たいへんな勢いで絶滅しつつあるということである。今地球に六千ぐらいの言葉があるといわれているが、そのうちの八割以上が今世紀の末までには絶滅するであろうと予測されている。(中略)二つ目の変化は、今までには存在しなかった、すべての言葉のさらに上にある、世界全域で流通する言葉が生まれたということである。それがいま<普遍語>となりつつある英語にほかならない。(水村美苗さん「日本語が亡びるとき」P48)
2009年03月04日
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津村記久子さんの「八番筋カウンシル 」を買書つんどく。芥川賞受賞第一作が、書き下ろし作品です。津村さんの本もたまってきたので、一冊くらい読まなくっちゃいけませんね。「小説の新人賞受賞を機に会社を辞めたタケヤス。実家に戻り、家業を継ごうと考えはじめるヨシズミ。地元の会社に就職するも家族との折り合いが悪く、家を買って独立したいと考えるホカリ。幼なじみの3人が30歳を目前に、過去からの様々な思いをかかえて再会する。久しぶりに歩く地元の八番筋商店街は中学生の頃と全く変わらないが、近郊に建設される巨大モールにまつわる噂が浮上したことで、地元カウンシル(青年団)の面々がにわかに活気づく。そんな中、かつて商店街で起こった不穏な出来事で街を追われたカジオと15年ぶりに再会し…。生まれ育った場所を出た者と残った者、それぞれの人生の岐路を見つめなおす終わらない物語。」(「BOOK」データベースより)
2009年03月03日
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大島孝雄さんの「ガジュマルの家」を読みました。短いけれど、石垣島500年を巡る物語です。いつの時代にも、死のテーマが大きく影を落としていますが、最後に樹木の精霊であり不死(?)のキジムナーである「ぼく」は、限られた生を選択し、500年の円環は「灰色のノート」の中で閉じられます。なにしろ、500年を、知的ではあるけれど素朴に、テンポよくあれよあれよと進んでいきますので、ついていくのがちょっと大変ですが、幸い歴史や風俗は池上永一さんの本を読んでいたので、とても理解の助けになりました。紹介文のとおり、マルケスの「百年の孤独」の影響が顕著に現れていると感じます。でも、嫌みのない味があり、僕にとっては永らく付き合える作品になりそうです。面白かったです。
2009年03月02日
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キジムナー(キジムン)は、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物、妖怪で、樹木(一般的にガジュマルの古木であることが多い)の精霊。「体中が真っ赤な子ども」あるいは「赤髪の子ども」「赤い顔の子ども」の姿で現れると言われることが多いが、また、手は木の枝のように伸びている、一見老人のようだがよく見ると木そのものである、などともいう。土地によっては、大きくて真っ黒いもの、大きな睾丸の持ち主などともいう。跳びはねるように歩く。 男女の性別があり、大人になって結婚もすれば、子どもを生んで家族連れで現れる、あるいは人間の家に嫁ぐこともあるなどとされる。魚介類を主食とする。とくに魚の目玉が大好きで、目玉だけがない魚の死骸があったら、それはキジムナーの食べ残しと伝えられる。 また、グルクンの頭が好物だともいう。 自ら海に潜って漁をする。いっぽうで人間の船に同乗して共同で漁を行うと伝えられ、ほかにも作業の手伝いをして褒美に馳走をいただく、夕食時にはかまどの火を借りに来る、年の瀬は一緒に過ごすなど、人間とは「ご近所」的な存在であるといった伝承が多い。キジムナーとともに漁をすると、たちどころに船が魚であふれるほど魚が捕れるが、前述のようにキジムナーは好物の魚の目玉を食べるので、捕れた魚は必ず片目がないという。人間と敵対することはほとんどないが、住みかの古木を切ったり虐げたりすると、家畜を全滅させたり海で船を沈めて溺死させるなど、一たび恨みを買えば徹底的に祟られると伝えられる。赤土を赤飯に見せかけて食べさせる、木の洞など到底入り込めないような狭い場所に人間を閉じ込める、寝ている人を押さえつける、夜道で灯りを奪うなどの悪戯を働くともいう。東北地方の座敷わらしに近い伝承もあり、キジムナーに気に入られた家は栄え、反対に嫌われた家は滅びるとも伝えられる。(うぃきぺでぃあ)
2009年03月01日
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娘は青い魚の目玉をえぐり出し、コーニーに渡した。コーニーは走って家に戻り、ガジュマルの根元に二つの目玉を並べて置いた。それから家に入ると、腹這いになって目玉を見張った。マッチューが畑から帰ってきたときも、同じ姿勢で目玉を見張っていた。マッチューが何を言っても耳には入らなかった。目を離す瞬間をキジムナーは狙っているのだ。じっと見ていると、二つの目玉もコーニーをじっと見返した。きっとキジムナーもどこかからじっと目玉を見ているに違いない。そのうち我慢できなくなって出てくるだろう。(中略)しかしキジムナーはなかなか出てこなかった。コーニーはだんだん待っているのがつらくなった。むこうが出てこないならこっちから行ってもいいと思ったが、体がこわばったように動かなかった。再びガサッと音がした瞬間、コーニーの体はバネのように跳ね上がりガジュマルめがけて突進していた。(中略)このようにして、ぼくは自分に気がついた。あるいは気が付いたら存在していたというべきか。雲がとぎれて月の光が差すと、ガジュマルの梢に唐突にぼくはいたのである。得体のしれない衝動が体の底から湧いてきて、幹を駆け降り、地面に並ぶ二つの魚の目玉を見つけるとためらうことなく口に含み、両頬を膨らませながら村の白い道を走った。急かされるように手近な樹に駆け上がり、勢い余って枝の先から空中に躍り出ると、あたりの樹々がいっせいにざわめき、時空の狭間にぼくは飲み込まれていった。(大島孝雄さん「ガジュマルの家」P27)「昨日の夕方、逢い引きした帰りに墓のところを通ったら、少し先を猫が歩いていたわけさ。ひょこひょこと人間みたいに後ろ足だけでよ。それで誰かが死ぬと思って、こっそり後をつけたら、猫はジラーの家の前に立ったわけさ。ああ、わたしの家じゃなくてよかったよう・・・・・」そのときカナシは、門口に立っている猫を見て叫び声を上げたのだった。猫は人間のように後ろ足だけで立ち、前足をふらふらさせ、口をだらんと開けて舌をひきつらせながら家の中をじっと見ていた。その視線の先ではジラーが眠っていた。「おまえは誰の使いできたかっ」カナシは震えながら叫んで猫に石を投げつけた。我にかえった猫は四本の足で墓地の方角に逃げっていったので、カナシはジラーの命がまもなく尽きることを知って悲しくなった。(大島孝雄さん「ガジュマルの家」P53)
2009年03月01日
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