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同閏二月二日、二位殿あつうたへがたけれども、御枕の上によッて、泣泣のたまひけるは、「御ありさま見たてまつるに、日にそへてたのみすくなうこそ見えさせ給へ。此世におぼしめしおく事あらば、すこしもののおぼえさせ給ふ時、仰おけ」とぞのたまひける。入道相国さしも日来はゆゝしげにおはせしかども、まことにくるしげにて、いきの下にのたまひけるは、「われ保元・平治よりこのかた度々の朝敵をたひらげ、勧賞身にあまり、かたじけなくも帝祖・太政大臣にいたり、栄花子孫に及ぶ。今生の望一事ものこる処なし。たゞし思ひおく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見座利つるこそやすからね。われいかにもなりなん後は、堂塔をも立て、孝養をもすばからず。やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わがはかのまへに懸くべし。それ孝養にてあらんずる」とのたまひけるこそ罪ふかけれ。同四日、やまひにせめられ、せめての事に板に水をいて、それに臥しまろびたまへども、たすかる心ちもしたまはず。悶絶?地して、遂にあつち死にぞしたまひける。(中略)さてもあるべきならねば、同七日、愛宕にて煙になしたてまつり、骨をば円実法眼頸に懸け、摂津国へくだり、経の島にぞをさめける。さしも日本一州に名をあげ、威をふるッし人なれども、身はひとときの煙となッて、都の空に立のぼり、かばねはしばしやすらひて、浜の砂にたはぶれつゝ、むなしき土とぞなりたまふ。(「平家物語(二) 巻第五」P290)ついに、清盛、「あつち死」です。
2012年05月31日
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オキナグサが、完全に綿みたいになってしまいました。
2012年05月31日
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「平家」はここに入道相国の北の方、二位殿時子の見た夢という一項をさし挟む。猛火の燃えあがっている車が、邸内へ引き入れられた。地獄の番卒、牛頭馬頭が車の前後に従っている。車の前面に鉄のふだが立ち、「無」という一字がよめる。「あれはどこより来たか」と問えば、「閻魔の庁より、平家太政入道殿の御迎えにまいって候。」「あのふだは」と問えば、「奈良の大仏、南閻浮提金銅十六丈の廬舎那仏を焼きほろぼし給える罪によって、無間の底に堕し給うべきよし、閻魔の庁に御定め候が、無間の無の字を書かれたばかりで、間の字がまだ書かれておらぬのじゃ。」二位殿の夢はここでさめた、と。この夢を語り聞かされた人びとは「みな身の毛よだちけり。」聞かされなかったのは入道相国ただ一人のはずだが、聞かされたとて、この人は驚かなかっただろう。地獄の使者、石像の騎士の招宴に平然と応じて雷火に打たれたドン・ジュアンが想起される。あの世も、地獄も、極楽も、清盛はドン・ジュアンと同様信じてはいなかった。この世が一切であり、極楽も地獄もこの世にしか見なかった。この倨傲は何に由来したのか。仮説はやがて「慈心坊」「祇園女御」とつづく段々にあらわれるだろう。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P214)
2012年05月30日
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小野正嗣さんの「ヒューマニティーズ 文学」を買書つんどく。こ~ゆ~のを買うと、また本を買う意欲が湧 いてくる、元気の源というわけで・・・・・?。 「文学は人間存在のはじまりから、その傍らに、つねに在った。言葉が発せられ、書 きつけられるとき、それが他者にむけて、その心に働きかけようとするとき、文 学は生まれる。想像力と共感の力を涵養し、「いま、ここ」にはいない者たちと私たちを結びつけ、人々の新たな関係性と社会、世界との結びつきを書き換えて ゆく文学の可能性を、根源から問い直す。」(「BOOK」データベースより)
2012年05月30日
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同廿七日、前右大将宗盛卿、源氏追討の為に東国へ既に門出と聞えしが、入道相国違例の御心ちとてとゞまり給ひぬ。明る廿八日より、重病をうけ給へりとて、京中・六波羅、「すは、しつる事を」とぞさゝやきける。入道相国やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し。ふしたまへる所四五間が内へ入ものは、あつさたへがたし。たゞのたまふ事とては、「あた、あた」とばかり也。すこしもたゞ事とは見えざりけり。比叡山より千手井の水をくみくだし、石の舟にたゝへて、それにおりてひえたまへば、水おびただしくわきあがッて、程なく湯にぞなりにける。もしやたすかりたまふと、筧の水をまかせたれば、石やくろがねなンどのやけたるやうに水ほとばしッて、よりつかず。おのづからあたる水は、ほむらとなってもえければ、くろけぶり殿中にみちみちて、炎うづまいてあがりけり。是や昔法蔵僧都と言ッし人、閻王の請におもむいて、母の生所を尋ねしに、閻王あはれみ給ひて、獄率をあひそへて焦熱地獄へつかはさる。くろがねの門の内へさし入ば、流星なンどの如くに、ほのほ空へ立ちあがり、多百由旬に及けんも、今こそ思ひ知られけれ。(「平家物語(二) 巻第五」P288)んなこと、あるわけない。
2012年05月29日
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ブレーズ・サンドラール「モラヴァジーヌの冒険」を買書つんどく。これは、僕にとって、「幻の書」の復刊です。「ベルリン~ロシア~アメリカ~パリ……。あらゆる存在を破壊的して世界を駆け抜ける、光と闇の皇子・モラヴァジーヌの奇想天外冒険譚。サンドラールが放つポップでキュートな旅する文学。」(河出書房新社の紹介)
2012年05月29日
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さる程に、其比信濃国に、木曾冠者義仲といふ源氏ありと聞えけり。故六条判官為義が次男、故帯刀の先生義方が子也。父義方は、久寿二年八月十六日、鎌倉の悪源太義平が為に誅せらる。其時義仲二歳なりしを、母なくなくかゝへて、信及へ越へ、木曾中三兼遠がもとにゆく、「是いかにもしてそだてて、人になして見せたまへ」と言ひければ、兼遠うけとッて、かひがいしう廿余年養育す。やうやう長大するまゝに、ちからも世にすぐれてつよく、心もならびなく甲也けり。(中略)在時めのとの兼遠を召してのたまひけるは、「兵衛佐頼朝既に謀叛をおこし、東八ケ国を討て従へて東海道よりのぼり、平家を追ひ落さんとすなり。義仲も東山・北陸両道を従へて、今一日も先に平家を攻め落し、たとへば日本国二人の将軍と言はればや」とほのめかしければ、中三兼遠大にかしこまり悦で、「其にこそ君をば今まで養育し奉れ。かう仰らるゝこそ、誠に八幡殿の御末ともおぼえさせ給へ」とて、やがて謀叛をくはたてけり。(中略)兼遠、「まづめぐらし文候べし」とて、信濃国には禰の井の小野太・海野の行親をかたらふに、そむく事なし。是をはじめて信及一国の兵物ども、なびかぬ草木もなかりけり。上野国に故帯刀先生義方がよしみにて、田子の郡の兵ども、皆ひつきにけり。平家末になる折をえて、源氏の年来の素懐をとげんとす。(「平家物語(二) 巻第五」P278)
2012年05月28日
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「忠度塚」のちょっと北に、平忠度の右腕を祀るという、「腕塚神社」があります。うちの近所は、平忠度と縁が深いようです。
2012年05月28日
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入道相国が都帰りをきめたいきさつについては、編者不詳とはいいながら建保七年(一二一九)に稿成ったと考えられる「続古事談」の「巨節」の巻に、おもしろい逸話がみえる。六波羅の太政入道が福原に「京立てて、みなくだりゐてのち、殊のほかに程経て、古京と新京といづれかまされると言ひ定めをせんとて、古 京に残りゐたるさもある人どもみな呼びくだしけるに、人みな入道の心をおそれて、思ふばかりも言ひ開かざりけり。長方卿(梅小路中納言)ひとり、少しも所を措かず、この京(福原)をそしりて、言葉惜しまず散々に言ひけり。さて、もとの京の良きやうを言ひて、つひにその日の事、彼の人の定めによりて、古京へ 帰るべき儀になりにけり。」のちに人が八条長方にむかって、清盛ほどの悪人の思い立てた新都を、どうしてあれほど大胆にこきおろされたのかと問うと、いや、じつは清盛の腹のなかを読んでいたのだ。よからぬ新儀をおこなった人間は、はじめのうちこそ人の言い分を聞きはしないが、その仕業を少し後悔する心が 起きてくると、きまって人の意見を聞くものだ。さては新京をくやむ気が湧いたかと見て取ったので、言葉を惜しまず、あんなに言い放ったのだ、と。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P191)
2012年05月27日
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平忠度(ただのり)は、平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。兵庫県明石市には、忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。また忠度公園という小さな公園もある。(うぃきぺでぃあ)いや、近所なもんで・・・・・。
2012年05月27日
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「富士川」「五節之沙汰」には、朝廷に関する大きな記事が二つ含まれている。一つはこの年(治承四年)九月の高倉上皇の厳島行幸。長門本によれば、このと き清盛は同行の後白河法皇と一室にこもって密談し、決して源氏に味方なさるまじきことを法皇に誓約させたという。もう一つは、福原新都において安徳即位後 の大嘗会あるべきところ、大極殿さえ建たない新都にはおこなわれがたく、旧都より神祇官を招いて新嘗祭を取りおこない、のちに五節の舞のみが催されたこ と。福原は都として第一にそなえるべき儀典の場さえ欠いている。あわれなことであった。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P189)
2012年05月26日
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神戸は垂水のマリンピアから、新たに就航した舟(?)です。個人経営されてるんだとか。
2012年05月26日
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「殿上闇討」から「吾身榮花」にいたる四章段が、平氏の興隆と栄華を物語った部分であるが、このうち平氏なり清盛なりの昇進の過程を物語ったところはきわめて少く、わずかに清盛の位階・官職の上昇ぶりを表面的に記しているにすぎない。忠盛の昇殿と、栄華時代の平氏とのとのあいだにおかるべき台頭の過程は、少しも物語化されないで、ただ、鱸による前兆でもって、平氏の卿らいの繁栄を暗示することだけに終っている。このことは平家物語の主題が平氏の滅亡を語ることにあったという理由からも説明されようし、あるいはそれほど平氏の興隆がすみやかであったという理由もあったかもしれない。しかし、平家の作者には清盛が権力をにぎるまでの宮廷内部の複雑な政治の過程を物語とするだけの力量も興味もなかったということを、より本質的な理由としてあげた方がよいとおもう。これは平家の作者だけの問題ではなく、この時代の物語というものが本質としてもっていた制約であって、このことを知っておくことは、平家物語を理解するための一つの手がかりをあたえるものである。(石母田正さん「平家物語」P70)
2012年05月25日
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ほのほの中にてやけしぬる人数をしるいたりければ、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、或御堂には五百余人、或御堂には三百余人、つぶさにしるいたりければ、三千五百余人なり。戦場にて討たるゝ大衆千余人、少々は般若寺の門の前にきり懸け、少々は持たせて都へのぼり給ふ。廿九日、頭中将、南都ほろぼして北京へ帰りいらる。入道相国場借り沿いきどほりはれて、よろこばれけれ。中宮・一院・上皇・摂政殿以下の人々は、「悪僧をこそほろぼすとも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御歎ありける。衆徒の頸ども、もとは大路をわたして獄門の木に懸らるべしと聞えしかども、東大寺・興福寺のほろびぬるあさまッしさに、沙汰にも及ず、あそここゝの溝や堀にぞ捨ておきける。聖武皇帝、震筆の御記文には、「我寺興福せば天下も興福し、吾寺衰徴せば天下も衰徴すべし」とあそばされたり。されば天下の衰徴せん事も疑なしとぞ見えたりける。(「平家物語(二) 巻第五」P240)平家の、奈良焼打ちです。人も、寺や仏像などの文化財も、多くが失われました。
2012年05月25日
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世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎(せいじゅう)吾ガ事ニ非ズ。(藤原定家「明月記」)新古今集断想 ――藤原定家「それが俺と何の関りがあらう? 紅の戦旗が」貴族の青年は橘を噛み蒼白たる歌帖(カイユ)を展げた烏帽子の形をした剥製の魂が耳もとで囁いた燈油は最後の滴りまで煮えてゐた直衣の肩は小さな崖のごとく霜を滑らせた王朝の夜天の隅で秤は徐にかしいでゐた「否(ノン)! 俺の目には花も紅葉も見えぬ」彼は夜風がめくり去らうとする灰色の美学を掌でおさへてゐた流水行雲花鳥風月がネガティヴな軋みをたてた石胎の闇が机のうへで凍りついた寒暁は熱い灰のにほひが流れてゐた革命はきさらぎにも水無月にも起らうとしてゐた。 (安西均)
2012年05月25日
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安徳幼帝の福原行幸にとって、都が西へ移されたのは治承四年(一一八〇)六月二日であった。いままた「にはかに都帰りあり けり。」「平家」語り本系統は還御の日を一二月二日とする。六月二日からちょうど六箇月はおぼえやすい。けれども、当時の公卿の記録、実録はおしなべてこ れを十一月二十六日のこととする。定家「名月記」治承四年十一月の記事には「二十六日、天晴る。今日、天子両院すでに還御なるをもって、未の刻、本院(後 白河法皇)は六波羅の泉殿、新院(高倉上皇)は同じく池殿、天皇は五条東洞院に、おのおの入御云々」としるす。定家はつづけて後日に聞いたこととして、新 院はみずから下車になり、近習の手をわずらわされなかったが、女房は召人の肩に懸けられて入御の後、そのまま臥せられたとしるしている。女房とは清盛の娘 徳子である。還御のための福原出発は二十三日。新院は還御あって以来、病がちだったと「平家」は語る――「新院いつとはなく御悩のみしげかりければ、いそ ぎ福原をいでさせ給ふ。」都まで四日の旅、病める高倉院が気力をふるって六波羅の池殿に入御の様子、そして徳子の疲労憔悴のさまが、「名月記」のおかげで よくわかる。藤原定家、当時十九歳。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P190)
2012年05月24日
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昨年の5月24日から禁煙し、1年が経過。体調、いまだ戻らず。やっぱ5年なんかなあ・・・・・。
2012年05月24日
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つまり平家物語の作者は、後からかんがえれば、滅亡するほかなかったような運命にさからって、たたかい、逃げ、もがいたところの多くの人間に深い興味をもったのである。それを物語にしたことによって、彼は人間の営みを無意味なものとかんがえる思想とたたかっているといってもよい。それは作者の意図や思想と矛盾しているかもしれないが、客観的にはそうなのである。平家の作者は、暗い運命観や無常観にとらわれているようにみえて、じつは内乱がくりひりげた人間の生き方の種々相、その悲劇と喜劇が面白くて仕方がなかったのであろう。歌の世界を除いては、世俗的な人間はその色彩をうしなってしまい、どす黒い悲哀に生涯支配されていたような定家にくらべても、平家の作者ははるかに楽天的であり、だからこそこの時代に物語などを書けたのである。(中略)現世と生の無意味さを説く精神が強まってきているこの内乱時代に、現世と生の面白さ、豊富さ、複雑さを教えた点に、平家物語の価値がある。平家に一貫する悲観的な精神や宿命観も、右のことをぬきにしては正しく理解されまい。(石母田正さん「平家物語」P50)
2012年05月23日
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伊藤元重さんの「日本と世界の「流れ」を読む経済学 ニュースの本質を見抜く」を買書つんどく。うん、 こ~ゆ~のも読んでみたいな、と・・・・・。「東 日本大震災をはじめ、ユーロ危機、円高・円安問題、少子高齢化など、多くの困難に直面している日本と世界。複雑に絡み合った経済の諸問題を解決する鍵は、 いったいどこにあるのだろうか?著名経済学者が日々のニュースを元に、混迷する経済を読み解く。複雑な問題を「自分の頭で考え抜く」ための55の視点。」(「BOOK」 データベースより)
2012年05月23日
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しかるをこの福原の新都には、大極殿もなければ、大礼おこなふべきところもなし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき様もなし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。今年はたゞ新嘗会・五節ばかりあるべきよし、公卿僉議あッて、なほ新嘗のまつりをば、旧都の神祇館にしてとげられけり。(中略)今度の都遷をば、君も臣も御なげきあり。山・奈良をはじめて、諸寺・諸社にいたるまで、しかるべからざるよし、一同にうッたえ申あひだ、さしもよこ紙をやらるゝ太政入道も、さらば都帰りあるべしとて、京中ひしへきあへり。同十二月二日、にはかに都帰りありけり。新都は北は山のそひてたかく、南は海ちかくしてくだれり。浪の音つねはかまびすしく、塩風はげしき所也。されば新院いつとなく御悩のみしがかりければ、急ぎ福原を出でさせ給ふ。摂政殿をはじめたてまッて、太政大臣以下の公卿・殿上人、われもわれもと供奉せらる。入道相国をはじめとして、平家一門の公卿・殿上人、われさきにとぞのぼられける。誰か心憂かりつる新都に片ときも残るべき。(「平家物語(二) 巻第五」P228)
2012年05月22日
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川上弘美さんの「七夜物語」を買書つんどく。ファンタジーというジャンルの中で、どのように川上さん流でいけるのか、とても興味深いところです。「小 学校四年生のさよは、母親と二人暮らし。離婚した父とは、以来、会っていない。ある日、町の図書館で『七夜物語』という不思議な本にふれ、物語世界に導か れたかように、同級生の仄田くんと共に『七夜物語』の世界へと迷い込んでゆく。大ネズミ・グリクレルとの出会い、眠りの誘惑、若かりし両親、うつくしいこ どもたち、生まれたばかりのちびエンピツ、光と影との戦い……七つの夜をくぐりぬけた二人の冒険の行く先は? 著者初の長編ファンタジー。」(朝日新聞出版の紹介)
2012年05月22日
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さる程に十月廿三日にもなりぬ。あすは源平富士河にて矢合と定めたりけるに、夜に入ッて平家の方より、源氏の陣を見わたせば、伊豆・駿河、人民・百姓等がいくさにおそれて、或は野にいり山にかくれ、或は舟にとり乗ッて海河にうかび、いとなみの火の見えけるを、平家の兵ども、「あなおびたゝしの源氏の陣のとほ火のおほさよ、げにもまことに野も山も、海も河もみなかたきでありけり。いかゞせん」とぞあわてける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、たゞ一どにばッと立ける羽音の、大風いかづきなンどの様に聞えければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大ぜいのよするは。斉藤別当が申つる様に、定て搦手もまはるらん。とりこめられてはかなふまじ、こゝをばひいて、尾張河、洲俣をふせけや」とて、とる物もとりあへず、我さきにとぞ落ゆきける。あまりにあわてさわいで、弓とる物は矢を知らず、矢とる物は弓を知らず。人の馬にはわれ乗り、わが馬をば人に乗らる。或はつないだる馬に乗ッてはすれば、くひをめぐる事かぎりなし。ちかき宿々より迎へとッてあそびける遊君・遊女ども、或はかしらけわられ、腰踏みをられて、をめきさけぶ物おほかりけり。(「平家物語(二) 巻第五」P218)富士川の合戦は、戦いもしないで、平家が敗北しています。というか、合戦ですらなかったということで・・・・・。
2012年05月21日
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うちのセミノール・オレンジの花が咲いています。
2012年05月21日
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作者は平氏の滅亡、この時代の一切の転変の背後に、人力のおよばない暗黒の力、運命の支配をみていた。この思想が作者の現実をとらえる「眼」を規定していることは知盛についてまえにみたが、知盛は物語の各所にちりばめられている副次的な人物にすぎない。作者の運命観が物語においてしめる地位は、重盛において代表されている。それは重盛の言葉が作者の思想を代弁しているというような直接的な関係においてではなく、物語の構造のなかで重盛にあたえた地位によって、作者の思想をもっともよく表現しているのである。重盛が清盛や後白河法皇よりも一段高い地位をあたえられていることは、平家物語の構造において彼が主導的な地位をしめること、したがって彼の系統が物語を貫く縦糸となるべきことを予め暗示しているといえる。(石母田正さん「平家物語」P24)
2012年05月20日
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ちょっとポケビの、あいや、千秋の歌が聴きたくなったので・・・・・。
2012年05月20日
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作中人物としての重盛が平家物語においてしめる位置だけについてかんがえると、彼は平家の没落の運命の預言者としての地位をしめている点が重要である。(中略)すなわち重盛は、一門都落ちにいたってはじめて一族が自覚した滅亡の運命を、平氏の栄華の時期にはやくも自覚したという点で、その家人たちから畏敬されていたのである。(中略)重盛がこのような運命の預言者たり得たのは、彼が神々を媒介として、運命を察知し得る特別な能力をそなえた人間であったからであった。古代人の考えでは運命は厳存していても、それはたれのまえにも自分をあらわにするような性質のものではなかった。特別な人間のみがそれを察知し、それによって未来を予見し得るのである。(中略)平家物語において、重盛が「天性此大臣は、不思議の人にて、未来の事をも兼て悟給けるにや」と、未来を予見することのできる不思議な人物とされているには、それだけの理由がある。彼は清盛や義仲や義経などの普通の人間とは、性質のちがう世界に片足をおいている人物であって、このことは平家物語の構造を知るうえに大切なことである。運命と人間を媒介する一つの方法は夢想であるが、平氏の滅亡の運命を予言する信託が、とくに重盛の夢にあらわれたことは注意する必要があろう。春日大明神は、重盛の夢想のなかで、平氏の悪行が度をすぎたので、清盛の首を召しあげるという託宣を下しており、それによって重盛は、「一門の運命既に盡んずるにこそ」と、平氏の過去と将来をかんがえて涙したとしるしてある。重盛のこの性格を理解しておかないと、少なくとも彼が重要な役割を果す物語の前半の構造を理解することはむずかしい。(石母田正さん「平家物語」P20)
2012年05月19日
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フランソア・ラブレー「ガルガンチュアとパンタグリュエル 第五の書」を買書つんどく。どうなるのかと思った、「ガルガンチュアとパンタグリュエル」も、これで完結です。「フランス・ルネサンス文学を代表する作家ラブレーの記念碑的傑作ー爆発的な哄笑と荘厳とが交錯する不思議な文学世界の魅力を伝える新訳、完結。「聖なる酒びん」のご託宣を求めて大航海へと船出したパンタグリュエル一行は、難儀な教皇鳥や司教鳥の飛び交う“鐘の鳴る島”、刀剣の類が実る大木の茂る“金物島”などの異様な島々を巡り、ついには神託所に到達してお告げを解き明かす。奇想あふれる版画「パンタグリュエルの滑稽な夢」全120点を収録。」(「BOOK」データベースより)
2012年05月19日
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(文覚は)近藤四郎国高といふものにあづけられて、伊豆奈古屋がおくにぞ住みける。さる程に兵衛佐殿(頼朝)へ常は参ッて 昔今の物がたりども申てなぐさむ程に、或時文覚申けるは、「平家には小松の大臣殿こそ、心も剛に、はかり事もすぐれておはせしか、平家の運命が末になるや らん、こぞの八月に薨ぜられぬ。今は源平のなかに、わとの程将軍の相持ッたる人はなし。はやはや謀反おこして、日本国従へ給へ」。兵衛佐、「思ひもよらぬ 事の給ふ聖御坊かな。われは故池の尼御前に、かひなき命をたすけられたてまッて候へば、その後生をとぶらはんために、毎日に法花経一部転読する他事なし」 とこその給ひけれ。(「平家物語(二) 巻第五」P198)文覚が、頼朝に、決起を促す場面です。
2012年05月18日
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ゲイル・キャリガー「アレクシア女史、欧羅巴で騎士団と遭う」、「アレクシア女史、女王陛下の暗殺を憂う」を買書つんどく。あと一冊で完結です。それから読もう。なんちゃって。「アレクシア女史、欧羅巴で騎士団と遭う」「異 界族と共存する19世紀の英国。人狼団の長マコン卿は、妊娠が発覚した妻アレクシアを放逐した。人狼に繁殖能力はないからだ。不貞行為の濡れ衣をかけられ たアレクシアは、男装の発明家ルフォーと旅に出た。だがイタリアを目指す一行を吸血鬼が襲う!一方、ロンドンではアケルダマ卿が姿を消し、マコン卿の副官 ライオールが謎を追って奮闘していたー歴史情緒とユーモアで贅沢に飾られた懐古冒険スチームパンク第三弾。」「アレクシア女史、女王陛下の暗殺を憂う」「異 界族と人類が共存するヴィクトリア朝ロンドン。伯爵夫人アレクシアは妊娠八カ月を迎えた。お腹の子の異能を恐れる吸血鬼の執拗な攻撃に、人狼団はある秘策 を打つ。そんななか消滅寸前のゴーストが現われ、女王暗殺をほのめかした。凶事を防ぐべく暗中模索の捜査を始めたアレクシアは、やがて夫マコン卿と人狼団 にまつわる過去の秘密と出会うー謎解きとユーモアと叙情が贅沢に織りなすスチームパンク冒険奇譚、第四弾。」(「BOOK」データベースより)
2012年05月18日
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新中納言、「見べき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、乳人子の伊賀の平内左衛門家長を召て、「いかに日此の約束は違まじきか。」と宣へば、、「子細にや及候。」と申す。中納言に、鎧二領着せ奉り、我身も鎧二領着て、手を組で海へぞ入にける。「見べき程の事は見つ、今は自害せん」という知盛の言葉は、平家物語のなかで、おそらく千鈞の重みをもつ言葉であろう。彼はここで何を見たというのであろうか。いうまでもなく、それは内乱の歴史の変動と、そこにくりひろげられた人間の一切の浮沈、喜劇と悲劇であり、それを通して厳として存在する運命の支配であろう。あるいはその運命をあえて回避しようとしなかった自分自身の姿を見たという意味であったかもしれない。知盛がここで見たというその内容が、ほかならぬ平家物語が語った全体である。(中略)知盛はこの意味で平家物語の作者そのもの、あるいはその分身の一つであるといってよい。屋島で知盛が諸国の武士の離反を運命的なものとして受けとり、だからこそ都にふみとどまってたたかうべきであったのだと語ったとき、作者はその言葉に「誠に理と覚て哀なり」と附言して、知盛にたいする自分の同情をかくそうとしていない。もちろんこのような直接的な形での作中人物にたいする作者の同情の有無が問題なのではなく、時代と人間の運命を確信し、そのために現実を生きることの矛盾をさらけだしているような知盛という人物を新しく創造することによって、作者がなにをとらえ、かつ視ることができたかということが問題なのである。(石母田正さん「平家物語」P16)
2012年05月17日
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どこででも、たくましく生きています。うちの庭にも咲いています。
2012年05月17日
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子が自分の見ているまえで、しかも身代わりになって、むざむざ殺されるのを見過ごして逃げのびた知盛のこの言葉は、素直であるといってよい。このような場合、「他人のことならばどんなに非難めいたことをでもいいたく思うのに、自分のことになると、よくも命は惜しいものでありましたと、今こそ思い知らされました」という彼の言葉には、自分にたいする武将らしい弁護は少しもまじっていない。生死の境に立てば子をさえ見殺しにする人間の生への執着と利己心の恐ろしさを、そのままさらけだしているのである。平家物語は一貫して現世を厭わしいものとし、来世を賛美したが、同時にこの物語ほど人間の生への執念の強さを語った文学も少いだろう。知盛はそれを素朴な言葉で語ることのできる人物であった。(石母田正さん「平家物語」P11)
2012年05月16日
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マシャード・ジ・アシス「ブラス・クーバスの死後の回想」を買書つんどく。光文社文庫すごいなあ、こうい うのも出すんだ・・・・・。「死んでから作家となった書き手がつづる、とんでもなくもおかしい、かなしくも心いやされる物語。カバにさら われ、始原の世紀へとさかのぼった書き手がそこで見たものは……。ありふれた「不倫話」のなかに、読者をたぶらかすさまざまな仕掛け。極端に短い章や 「……」だけの章など、視覚的な楽しみもたっぷり。」(光文社の紹介)
2012年05月16日
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しかし平家物語は、民衆がつくったものでないことはもちろん、盲目の琵琶法師が創作したものでもない。だれかがこの物語を創作して、それを琵琶法師に語らせたのである。この作者については、はっきりしたことはわからないが、おそらく漢学の教養の深い中流貴族である信濃前司行長という人であろうといわれている。はじめに引用した文章は、いずれも平家物語のなかではわかりやすい方だが、それでも当時の民衆が耳できいてわかりそうにない言葉がつらねてある。このことだけでも、平家が民衆のなかから創られた文学でないことは、ほぼ見当がつく。文章をみただけでも明白な、民衆と作者の距離を念頭におくことが大切で、平家が物語だからといって両者を単純に合体させてはならない。平家物語は民衆や武士の感情の一側面を、物語として系統化し、組織立てることをしたが、そのようにする仕方は、この時代の支配的な思想、とくに中小貴族の思想や教養を身につけた作者によってきめられていく。平家物語の無常観も運命観もその一つであろう。(石母田正さん「平家物語」P5)
2012年05月15日
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桜庭一樹さんの、「まだ桜庭一樹読書日記」が更新されてましたので、ご紹介。今回は、フィリパ・ピアス短編集「真夜中のパーティー」、水村美苗さん「本格小説」、佐野洋子さん「わたしが妹だったとき」、皆川博子さん「マイマイとナイナイ」、牧野修さん「MOUSE」、松谷みよ子さん「ふたりのイーダ」「モモちゃんとアカネちゃん」、天沢退二郎さん「光車よ、まわれ!」、マーガレット・パウエル「英国メイド マーガレットの回想」なんかのことでした。佐野洋子さんて、「100万回生きたねこ」の人でした。
2012年05月15日
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日本人はそれまで、自然の移り変りには敏感であった。それを詩や物語で表現することに巧みであったといえる。しかし、世の中と人間の移り変り、しかも昨日と今日、昨年と今年というような短い期間の移り変りをとらえることは、自然のようにたやすくはできなかった。それには歴史的な変動を経験する必要があったからである。治承四年(一一八〇年)五月の以仁王挙兵にはじまる六年間の内乱がひきおこした変動は、人間と世の中の変化を一年を単位として、とらえ得るような基盤をつくりだしたのである。(石母田正さん「平家物語」P4)くじけそうになる「平家」への関心を持続させるため、ということもあります。
2012年05月14日
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うちの花ですが、シャクナゲではないか?と思っています。アザレアではありません。
2012年05月14日
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「文覚被流」の段で、一つだけおもしろいのは、文覚、安濃津から伊豆へと向う船に乗り、遠江天龍灘で大しけに遭ったとき、 船の舳に立ち、沖をにらまえて大音声に「龍王やある龍王やある」とよばわり、「おかにこれほどの(神護寺再興の)大願発いたる聖が乗つたる船をば、あやま たうどはするぞ」と叫べば、波風ほどなく収まったという話。生形貴重の説によれば、平氏には龍神につらなる性質が付与されているので、龍神を調伏する霊力 を得た文覚には、頼朝に謀反を促す資格がある、と(「平家物語必携」一九八五年、学燈社)。龍王、龍女が「平家」の隠れた要どころにひそむらしいことは、 追い追いわかってくる。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P182)
2012年05月13日
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三浦佑之さんの「あらすじで読み解く 古事記神話」を買書つんどく。引き続き、「古事記1300年」祭り、ということで、「古事記講義」の三浦さんの、さらなる入門書が出ましたので買書。ちなみに、前にも書きましたが、三浦佑之さんは、三浦しおんさんのおとーさんです。「日本人なら一度は読んでおきたい「日本のはじまりのものがたり」。難解だからと敬遠せずに、まずはあらすじで流れを大掴みに把握してみましょう。紐解いてみれば、「稲羽の白兎」や「海幸彦・山幸彦」など、子供のころから親しんできた話が多いことに気づきます。その上、登場する神々の人間臭いこと! 編纂1300年に当たる今年、ベストセラー『口語訳 古事記』の著者が、さらにわかりやすくその謎と魅力を伝えます。」(文藝春秋社の紹介)
2012年05月13日
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福原へ都をうつされて後、平家の人々夢見もあしう、常は心さわぎのみして、変化の物どもおほかりけり。ある夜、入道のふし 給へるところに、ひとまにはゞかる程の物の面出で来てのぞきたてまつる。(中略)岡の御所と申すは、あたらしう造られたれば、しかるべき大木もなかりける に、ある夜おほ木のたふるゝる音して、人ならば二三十人が声して、どっとわらふことありけり。(中略)又あるあした、入道相国帳台より出でて、つま戸をお しひらき、坪のうちを見給へば、死人のしゃれこうべどもが、いくらといふかずも知らず、庭にみちみちて、うへになりしたになり、ころびあひころびのき、は しなるはなかへまろびいり、中なるははしへ出づ。(中略)其外に一の厩に立てて、舎人あまたつけられ、あさゆふひまなくなでかはれる馬の尾に、一夜のうち に、ねずみ巣をくひ、子をぞうんだりける。(中略)昔天智天皇の御時、竜の御馬の尾に、一夜の中に鼠すをくひ子をうんだりけるには、異国の凶賊蜂起したり けるとぞ、日本記には見えたる。(「平家物語(二) 巻第五」P154)稲生物怪録なんかは、こういうところにルーツがあるのかも・・・・・。
2012年05月12日
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吉田敦彦さん監修「古事記と日本の神々」を買書つんどく。これは、ちょっと便利な本だと思いました。 「国生みとイザナキ、天の岩戸とアマテラス、出雲大社とオホクニヌシ、天孫降臨とニニギ…日本神話に描かれた知られざる神々の実像とは!『古事記』編纂1300年のいま、ふんだんな写真と地図で日本人の源流をあらためてたどる一冊です。」(青春出版社の紹介)
2012年05月12日
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同六月九日、新都の事はじめあるべしとて、上卿には徳大寺左大将実定の卿、土御門の宰相中将通親の卿、奉行の弁には蔵人左少弁行隆、官人共を召し具して、和田の松原の西の野を点じて、九域の地を割られけるに、一条よりしも五条までは其所あッて、五条よりしもなかりけり。行事官帰り参ッてこのよしを奏聞す。さらば播磨の印南野か、なほ摂津国の児屋野かなンどといふ、公卿僉議ありしかども、事ゆくべしとも見えざりけり。旧都をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事ゆかず。ありとしある人は、身をうき雲の思ひをなす。もとこのところに住む物は、地を失ッてうれへ、いま移る人々は、土木のわづらひをなげきあへり。すべてたゞ夢のやうなりし事どもなり。(中略)六月九日、新都の事はじめ、八月十日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。ふるき都はあれゆけば、いまの都は繁昌す。あさましかりける夏も過ぎ、秋にも已になりにけり。やうやう秋もなかばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡をしのびつゝ、須磨より明石の浦づたひ淡路のせとをおしわたり、絵島が磯の月を見る。或は白良・吹上・和歌の浦・住吉・難波・高砂・尾上の月のあけぼのをながめて帰る人もあり。旧都に残る人々は、伏見・広沢の月を見る。(「平家物語(二) 巻第五」P146)
2012年05月11日
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播州は加古川にある、国宝の鶴林寺太子堂です。実家に寄ったついでに、久々に訪れたら、鶴林寺へ入るのが有料化されてました。いや、自転車で行って、よく寝っころがっていたもんだが・・・・・。
2012年05月11日
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しかるを桓武天皇延暦三年十月二日、奈良の京春日の里より、山城国長岡のうつッて十年といッし正月に、大納言藤原小黒丸・参議左代弁、紀の古佐美・大僧都玄慶等をつかはして、当国賀殿郡宇多の村を見せらるゝに、両人共に奏して云、「此地の体を見るに、左青竜・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地也。尤帝都を定むるにたれり」と申。仍乙城郡におはします賀茂大明神に告申させ給ひて、延暦十三年一二月廿一日、長岡の京より此京へうつされて後、帝王卅二代、星霜は三百八十余歳の春秋をおくり迎ふ。「昔より代々の帝王、国々ところどころに、多の都を建てられしかども、かくのごとくの勝地はなし」とて、桓武天皇ことに執しおぼしめし、大臣・公卿、諸道の才人等に仰あはせ、長久なるべき様とて、土にて八尺の人形を作り、くろがねの鎧・甲を着せ、おなじうくろがねの弓矢を持たせて、東山峰に西向きにたててうづまれけり。末代に此都を他国へうつす事あらば、守護神となるべしとぞ御約束ありける。されば天下に事出でてこんとては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今にあり。(「平家物語(二) 巻第五」P142)
2012年05月10日
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庄司薫さんの「さよなら快傑黒頭巾」を買書つんどく。はたして、読み返す気になるのか、と疑問を抱きながらも、残すは「青」のみです。「危機一髪というと必ず救いに現れる「快傑黒頭巾」はもういないのか…東大医学部紛争のさなか、医者の卵の結婚式に突然招かれた薫くんは、異様な雰囲気に驚き、先立つ男たちの「人生の兵学校」の複雑さを知る。夢はあえなく破れるからこそ夢なのか・・・・・。激動する時代を背景に、理想と現実のはざまで葛藤する若者たちを描き、人生の哀切を超えた真理に迫る現代青春小説の最高傑作。「薫くん四部作」第三弾。「あわや半世紀のあとがき3」収録。」(「BOOK」データベースより)
2012年05月10日
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治承四年六月三日、福原へ行幸あるべしとて、京中ひしめきあへり。此日ごろ都うつりあるべしと聞えしかども、忽に今明の程とは思はざりつるに、こはいかにとて、上下さわぎあへり。あまッさへ三日と定められたりしが、いま一日ひきあげて二日になりにけり。二日の卯刻に、すでに行幸の御輿をよせたりければ、主上は今年三歳、いまだいとけなうましましければ、なに心もなう召されけり。主上をさなうわたらせ給時の御同輿には母后こそ参らせ給ふに、是は其儀なし。御めのと平大納言時忠卿の北の方師の典侍殿ぞ、一つ御輿には参られける。中宮・一院・上皇御幸なる。摂政殿をはじめたてまッて、太政大臣以下の公卿・殿上人、我も我もと供奉せらる。三日、福原へいらせ給う。池の中納言頼盛卿の宿所、皇居になる。(「平家物語(二) 巻第五」P136)福原遷都の記述ですが、その前の「まとめ」に、園城寺(三井寺)・南都(興福寺)の衆徒が以仁王の乱に協力し決起したのに驚いた平家は、守るに不利な京を脱出して福原へ遷都することで寺院勢力との衝突を回避しようとする。治承四年六月二日のことである。狼狽した平家に長期の展望はなく、安徳天皇を確保することを考えるのみである。(P134)と書かれています。
2012年05月09日
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まんま、うちの柴わんこ(♀)です。お風呂に入れられて、乾かされてます。
2012年05月09日
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「平家」によれば、高倉院、頼政ともに果てたのは治承四年(一一八〇)五月二十三日のことである。宮の令旨の使者として源行家が鎌倉の頼朝めざして京を発ったのが四月二十八日とあるから、一箇月も経ぬうちに、大きな出来事に一先ずは成敗がついてしまった。五月二十七日、平知盛、忠度、一万余騎をもって三井寺を攻め、堂舎塔廟六百三十七宇を焼く。寺を創建した円珍が唐より持ち帰った一切経七千余巻もこのとき忽ち煙となった。しかし、史書に照らせば、平家による三井寺焼打ちは治承四年十二月十一日であり、十二月二十八日の南都興福寺、東大寺の焼打ちがこれにつづく。いずれも、すでに福原遷都が失敗し、都が再び京都にもどったのちのことであった。「平家」は三井寺焼打ちを遷都直前のところへ移し、これを巻四のおわりに据え、第五の巻を南都炎上で閉じる。大きな歴史離れとして、この作為の意味づけをする人は少なくない。このあたりで地獄の劫火のような火の色、炎の渦をしばらくぶりに見させようという「平家」のはからいかと私には思われる。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P167)
2012年05月08日
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多和田葉子さんの「雲をつかむ話」を買書つんどく。この頃、タイトルの「買書とつんどく」をサボりがちなので、カツを入れるつもりで、「つんどく」年季の入った多和田さんの本を買書しました。「犯人と出遭った胸躍る話は、みんなに話してきかせたくなる。鱒男、鷹先生、双子の片割れ、マボロシさん・・・・・。雲を見ていると「互い違い」な出遭いの数々が浮かんでくる。「破産出版」という会社、「海老の地下室」というレストラン、「助ける手の家」という宿泊施設・・・・・。突然届いた犯人の手紙から、「雲づる式」に明かされるわたしの奇妙な過去。」(講談社の紹介)
2012年05月08日
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飛騨守影家は、ふる兵物にてありければ、このまぎれに宮は南都へやさきだゝせ給ふらんとて、いくさをばせず、其勢五百余騎、鞭あぶみをあはせて追ッかけたてまつる。案のごとく宮は卅騎ばかりで落させ給ひけるを、光明山の鳥居のまへにて追ッつきたてまつり、雨の降るやうに射まゐらせければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹に矢一すぢ立ちければ、御馬より落させ給て、御頸とられさせ給ひけり。これを見て、御共の候ける鬼佐渡・荒土佐・荒大夫・理智城房の伊賀公・刑部俊秀・金光院の六天狗、いつのために命をばをしむべきとて、をめきさけんで打死す。(「平家物語(二) 巻第四」P106)以人王の最期です。
2012年05月07日
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