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だが、その誇りも脅かされることとなった。病に臥した父が、高御坐を長子である大友に譲りたいという心を覗かせるようになったのだ。先が長くないと感じたとき、男は我が身の占めた座を、血を分けた兄弟ではなく、己が血をまっすぐに注ぎこんだ子に譲りたいと望むのかもしれない。しかし、大友の母は、伊賀の国からきた采女でしかない。これまでの習わしからいえば、そんな列をわきまえないことは許されないはずだった。中臣鎌足がいたならば、父をうまくなだめてくれただろうが、そのころにはもう死んでいた。大友が大王となれば、十市は大后となる。十市の母の額田は、大后の母となり、我は額田に頭を垂れる身となってしまう。耐えられないことだった。去年の神無月、夫が病に臥す父の御床に呼びだされ、大王の位を奨められた。夫は、これは罠だと考えて断ったという。高御坐に就く素振りを見せれば、痛くもない腹を探られ、討たれかねないと考えたのは、あたりまえのことだ。これまで父は、大王の座を脅かす者を、そうして殺しつづけてきたのだから。夫はすぐに頭を剃り、沙門の姿となって、鎧兜、太刀や弓矢を大王の倉に納めて、刃を交えるつもりのないところを見せた。そうして、妻たちや幼い子たちを引き連れ、近江宮を出た。しかし、吉野にお供することを許されたのは、大妃である我と我が子、草壁、そして遊び手として同い歳の忍壁だけだった。(坂東真砂子さん「朱鳥の陵」P112)
2012年08月31日
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白妙は、女嬬の顔をまじまじと見つめた。先とは、神々の決めることだ。こうしたい、ああしたいと願って進むのではなく、徴となって現れる、ああしろ、こう しろという神々の御心に従って生きるものだと思ってきた。香島神社の阿礼乎止売の役割から退き、親の家に戻ったときも、このたび国造の命で倭国に来たとき もそうだった。しかし、この女嬬は先をみずからの心で決めている。新益京に住む人々たちは、霊の置き処からして違うのかもしれないと思った。(坂東真砂子さん「朱鳥の陵」P99)
2012年08月30日
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シェイクスピア「トロイラスとクレシダ」を買書つんどく。このシリーズは淡々と、買書つんどくやってます。「トロイ戦争は終盤にさしかかり、トロイの王子トロイラスは、恋い焦がれていたクレシダと結ばれて永遠の愛を誓うが、クレシダはギリシャ軍に引き渡される。その後ギリシャ陣営でトロイラスが目撃したのは、ディオメデスの愛を受け入れるクレシダの姿だったー。引き裂かれた愛の行方と先行きの見えない戦局を取り上げた異色劇。」(「BOOK」データベースより)
2012年08月29日
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「三日平氏」の段が最も熱心に扱っている話題は、池大納言頼盛の関東下向、即ち頼朝の異常なほどの頼盛厚遇のありさまであ る。また、心に残るのは、主にし たがって鎌倉に行くことを峻拒する頼盛の家臣、弥平兵衛宗清の話である。頼盛は清盛の異母弟。母は修理大夫藤原宗兼の娘、のちの池禅尼。源義朝の三男頼朝 は、平治の乱直後、平家に生け捕られたが、清盛に助命を乞うた池禅尼のおかげで死を免れ、伊豆配流となった。頼朝は池の尼の大恩を忘れず、事あるごとにそ の子頼盛の扱いに報恩の意を尽した。頼盛はそのために平家一族から二心ある者として疎まれ憎まれる身になった。覚一本「平家」には、頼盛が頼朝の勧誘にい そいそと従って関東に下向したのは元暦元年五月四日のこととある。だが「玉葉」によれば、それより早く前年の十月、頼盛は京を逐電して鎌倉を目ざし、その とき京に向けて出陣の途次にあった頼朝と落ち合って、大軍上京の可否について議定の場において助言し、兵糧確保の至難を説いて、頼朝に上京を思いとどまら せたということがある。頼盛はその後いったん都へ戻り、五月にあらためて関東へおもむいたものか。このとき、頼盛がまた京へ戻るにさいしては、頼盛の没官 家領をすべて返還する由、また頼盛を権大納言に復帰させるべき由を頼朝は後白河院に申し入れた。頼朝をはじめ東国の大名小名よりおびただしい引出物をも らった頼盛は「命生き給ふのみならず、徳ついてぞ(大もうけまでして)(都へ)帰りのぼられける。」覚一本「平家」はこうしるしたあとに「三日平氏」の出 来事を付け足しているのだが、頼盛の帰郷と「三日平氏」の叛乱との関連には少しも触れていない。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P355)
2012年08月29日
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「三日平氏」の段は、寿永三年三月二十八日の維盛入水のあとを承けて、しばらく維盛に係わる話題をつづけたのち、四月一日におこなわれた除目によって鎌倉前兵衛佐頼朝が、木曾義仲追討の賞とて従下の五位から階五つをとびこえて正下の四位に昇ったことをいう。その四月には改元あって寿永三年は元暦元年と改まるのだが、覚一本「平家」にはこの改元のことが全く出ていない。「玉葉」によれば、改元は四月十四日。また 頼朝の加階は四月一日のことではなく三月二十八日、即ち維盛入水とされる日と同日である。頼朝加階の日のほうを四月一日にずらしているのは、興を殺ぐのを恐れてのことか。このたびの改元には、崇徳院の怨霊の祟りから世を守ろうという含みがあった。世には源平の内乱いつ果てるとも知れない上に、治承より養和、寿永にかけて五、六年ものあいだ不順の天候がつづき、五穀実らず、餓死者は都の巷にも数限りなく打ち捨てられていた。保元の乱に敗れて讃岐に憤 死した崇徳院、同じ乱に無慙な敗死をとげた宇治の悪左府藤原頼長、このふたりの怨霊が仇をなして、世の乱れいつまでも鎮まらぬかと、人はおそれをなした。 崇徳院はかねて祇園社近傍の小祠に祀られていたが、改元の翌日、四月十五日に、崇徳院を神としてあがめ奉るべく、後白河院の御沙汰あり、あらたに社を建て、官移しする儀式が執りおこなわれた。社の用地には、保元の乱のとき崇徳上皇の立てこもった白河殿の旧地、大炊御門末といわれる地が当てられた。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P353)
2012年08月28日
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比売朝臣(額田王)は阿舎の外の緑に目を遣って、遠い日を想っているようだった。「初めてお近くに接したのは、新羅との戦の折でした。大王の乗られた軍船に、我も讃良皇女も乗っていたのです。」比売朝臣はさらになにかいいたげに、紅を差した唇を僅かに開いた。声は出なかったはずなのに、白妙は朗々たる若い女の声を聴いた。熟田津に船乗りせむと月待てば額田の声は春の潮風に乗って、冴え冴えと響きわたった。赤みを帯びた満月が、瀬戸内の静かな海を静かに照らしている。我は軍船の上から、高い櫓の上に立つ額田を見上げた。勝ち戦を祈る幣や五色の旗のたなびくなかに、額田と祖母、そして父が立っていた。祖母は、頭には金色の兜、上着と裳の上から朱糸で綴ったきらびやかな鎧を着て、腰には太刀を下げている。父もまた戦の身支度で寄り添っている。鉄の鎧が月の光を照り返し、その姿を鈍く輝かせている。たっぷりと間合いを取ってから、高く結った髪に髻華を挿し、白の上衣に若苗の裳、紅色の肩巾をかけた額田がまた声を張りあげた。潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな潮風にも波音にも負けないほど凛とした声だった。船に乗る者たちは、神宿りした歌の重み、強さを軀に流しこんでいる。我も、その言霊を身の隅々まで浸みわたらせる。額田の声は届かなかったはずなのに、湾に浮ぶ百余りの軍船も歌を味わうように、たゆたっていた。(坂東真砂子さん「朱鳥の陵」P80)このシーンはすごい・・・・・。
2012年08月27日
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朧谷寿さんの「藤原氏千年」を買書つんどく。藤原氏は、やっぱり古代史のキーかな、と思って・・・・・。「始祖・鎌足から不比等、良房らをへて道長に至り、ついに満天に輝く望月となった藤原一族。権謀、栄華、零落、風雅、伝統・・・・・。今に伝わるその足跡をたどる。」(「BOOK」データベースより)
2012年08月26日
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稗田阿礼(生没年不詳(7世紀後半から8世紀初頭))という人物については、「古事記の編纂者の一人」という以外にはほと んど何もわかっていない。同時代に編まれた『日本書紀』にもこの時代の事を記した『続日本紀』にも名前は出てこない。『古事記』の序文によれば、天武天皇 に舎人として仕えていた。一度目や耳にしたことは決して忘れなかったので、その記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられた。そのとき 28歳であったと記されている(『古事記』序)。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦する(声を出してよむ)所を筆録し、『古事記』を編んだ。「舎人」といえば通常は男性であるが、江戸時代から「稗田阿礼は女性である」とする説があり、民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも唱えている。稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君と同族であり、猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で、「アレ」が巫女の呼称、というのがその根拠である。(うぃきぺでぃあ)賣太神社(めたじんじゃ)は奈良県大和郡山市の稗田環濠集落の端にある神社である。稗田は天鈿女命を祖とする猿女君稗田氏の本拠地であり、祖先の廟祠として創建されたものとみられる。かつてこの神社は平城京の羅城門付近に存在しており、道祖神としての役割もあったとされる。(うぃきぺでぃあ)
2012年08月26日
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宮部みゆきさんの「ソロモンの偽証(第1部)」を買書つんどく。このぶっとさで、あと2冊発売になりますが、とりあえず第1部が発売されましたので、買書しました。「その法廷は十四歳の死で始まり偽証で完結した。五年ぶりの現代ミステリー巨編!クリスマスの朝、雪の校庭に急降下した十四歳。その死は校舎に眠っていた悪意を揺り醒ました。目撃者を名乗る匿名の告発状が、やがて主役に躍り出る。新たな殺人計画、マスコミの過剰報道、そして犠牲者が一人、また一人。気づけば中学校は死を賭けたゲームの盤上にあった。死体は何を仕掛けたのか。真意を知っているのは誰!?」(新潮社の紹介)
2012年08月25日
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常陸国では、もう田植も始まるころだ。郷も蘇ったように生き生きしていることだろうと考えるだに、恋しさに胸が詰まった。白妙の生まれた地は、香島神宮を囲む高台にあった。東は大海、西は香取流海が広がり、水の彼方から陽が昇り、水の彼方に日は沈んでいった。そのあたりの山や谷のあちこちに散らばる郷のひとつが日枝郷(ひえだのさと)だった。谷間に流れる小川や湧き水が草木を潤し、春には野の花、秋には紅葉の錦が郷を包みこんだ。白妙は、古より日枝郷で太占に携わっていた氏の生まれだった。今でも古老が、鹿や猪の骨、亀の甲羅を焼いて、占で大事を決めていた。白妙の氏には、焼かれた骨に入る罅や黒い焦げ跡から、お告げを読み取る才のある者が多かった。前の祖のさらに前の祖が太占をしていたころにできた香島神宮に、白妙の氏が仕えるようになったのは、そんなわけだったと聞いている。さらに、特にその才の閃きを見せる童は、神事に携わる阿礼乎止売や阿礼乎止古として召されるようになった。兄の皁妙が八歳のときに香島神宮の阿礼乎止古となったのは、自然の成り行きだった。阿礼とは、ひらひらと翻るという意味だ。神の宿りたまう阿礼の木と共にひらひらと心を翻し、神のお告げを言葉として紡ぎだす。それが神宮に仕える阿礼乎止古と阿礼乎止売の役目だった。(坂東真砂子さん「朱鳥の陵」P48)
2012年08月25日
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高山樗牛に「滝口入道」という小説がある。明治二十六年、東京帝国大学哲学科に在籍中の高山林太郎は学資に窮し、「読売新聞」の歴史小説の懸賞に応募するべくこれを書き、翌年当選、同紙に二十三回にわたって作者匿名で連載され、次の年、春陽堂より作者名なしの単行本として発行され、大いに読まれた。樗牛は生前、「滝口入道」の作者であることをついに公言しなかった。この人、少年時代より「平家」ならびに「源平盛衰記」を愛読していた。「滝口入道」は両書をもとにして、自由勝手に滝口入道の行状を作り変えた小説である。「平家」調の美文の綾羅錦繍をまとわせたこの小説、いま読み返してみると、おそろしい道徳小説とわかって、興味索然たるものをおぼえる。樗牛は「源氏物語」をきらっていたそうである。小説の発端は清盛全盛の治承の春、西八条邸の宴。小松内府に仕える斎藤滝口時頼は、遠目に見た横笛の舞姿がまぶたに焼きついて、その日から恋のとりこになる。千束なす恋文をとどけさせる。梨のつぶて。「平家」も「源平盛衰記」も、時頼と横笛は睦言を交わし、交情は膠のようであったと言っているものを、一指も触れぬ女に朝となく夕となく懸想文を書き、ある日、鞘を払った刀に映るおのが顔のやつれ加減にびっくりしたとは、この男、むなしいエロトマニーに耽っていたとしか思えない。だが、樗牛はこの男の片思いの独り角力を新しい時代の人倫の手本として、敬仰しつつ描いている。あなたも私も、野暮がこんなに綺羅で飾られた明治の日露戦争の時代に生まれ合わさなくてよかった。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P351)
2012年08月24日
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三条の斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼と云ひし者也。もとは小松殿の侍也。十三の年、本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑子横笛といふをんなあり。滝口是を最愛す。父是をつたへ聞いて、「世にあらんもののむこ子になして、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめて」と、あながちにいさめければ、滝口申しけるは、「(中略)思はしき者を見むとすれば、父の命にそむくに似たり。是善知識也。しかじうき世をいとひ、まことの道に入なん」とて、十九のとし、もとゞりきッて、嵯峨の住生院におこなひすましてぞゐたりける。横笛これをつたへ聞いて、「われをこそ捨てめ、さまをさへかへけむ事のうらめしッさよ。たとひ世をばそむくとも、などかかくと知らせざらむ。人こそこゝろづよくとも、たづねて恨みむ」と思ひつゝ、ある暮がたに都を出て、嵯峨の方へとあくがれゆく。(中略)滝口入道が声と聞なして、「わらはこそ是までたづね参りたれ。様のかはりはてりておはすらんをも、今一度見奉らばや」と、具したりける女をもッて言はせければ、滝口入道むねうちさわぎ、障子のひまよりのぞいて見れば、まことに尋かねたるけしき、いたはしうおぼえて、いかなる道心者も、心よわくなりぬべし。やがて人を出して、「まったく是にさる人はなし。門たがへでぞあるらむ」とて、つひにあはでぞかへしける。横笛、なさけなう、うらめしけれども、力なう涙をおさへて帰りけり。滝口入道(中略)、嵯峨をば出て、高野へのぼり、清浄心院にぞ居たりける。横笛もさまをかへたるよし聞えしかば、滝口入道一首の歌を送りけり。そるまではうらみしかどもあづさ弓まことの道にいるぞうれしき横笛が返ことには、そるとてもなにかうらみむあづさ弓ひきとゞむべきこゝろならねば横笛は、その思ひのつもりにや、奈良の法花寺にありけるが、いくほどもなくて遂にはかなく成にけり。滝口入道、かやうの事を伝へ聞き、弥ふかくおこなひすましてゐたりければ、父も不孝をゆるしけり。したしき者共も、みなもちゐて高野の聖と申しける。(「平家物語(四)巻第十」P70)滝口入道の話は、「平家」が出所だったんですね。
2012年08月24日
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フリードリヒ・デュレンマット「失脚 巫女の死 デュレンマット傑作選」を買書つんどく。鹿島茂さんの、こんな書評がありました。「いつもの列車は知らぬ間にスピードを上げ…日常が突如変貌する「トンネル」、自動車のエンストのため鄙びた宿に泊まった男の意外な運命を描く「故障」、粛清の恐怖が支配する会議で閣僚たちが決死の心理戦を繰り広げる「失脚」など、本邦初訳を含む4編を収録。」(「BOOK」データベースより)
2012年08月23日
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三位中将(重衡)、土肥次郎を召して、「出家をせばやと思ふはいかゞあるべき」とのたまへば、実平、此由を九郎御曹司に申す。院御所へ奏聞せらりたりければ、「頼朝に見せて後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかでゆるすべき」と仰ければ、此よしを申す。「さらば年ごろ契ッたりし聖に今一度対面して、後生のことを申談ぜばやと思ふはいかゞすべき」との給へば、「聖をば誰と申候やらん」。「黒谷の法然房と申也」。「さてはくるしう候まじ」とて、ゆるし奉る。(「平家物語(四)巻第十」P44)なんと、法然上人だあ~。
2012年08月23日
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思えば木曾義仲、今井四郎兼平の首が都大路を渡されたすえ、梟首されたのは一月二十六日のこと。わずかに半月後の二月十三日、通盛以下平家十人の首が獄門のほとりの楝の木にかけられた。この獄門は近衛通りと西洞院通りのまじわる南西に設けられた左獄の門だったらしい。敵の首を斬り落し、首桶に収めて運び、首実検をする。次には槍、長刀の先に首を突き刺し、隊伍をなして道をすすみ、見世物にしたのち、木にかけて曝す、あるいは板にのせて曝す。中国をまねたこういう習俗は、ずっとのちの世までつづいた。梟首が我国のいつの世に始まり、いつの世に絶えたか、確かなことを私は知らないままながら、明治の直前の京都にこれがまだおこなわれていた(以下略)。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P331)
2012年08月22日
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寿永三年二月七日、摂津国一の谷にて討たれし平氏の頸共、十二日都へ入る。(中略)同十三日、大夫判官仲頼、六条河原に出むかッて頸共うけとる。東洞院の大路を北へわたして、獄門の木にかけられるべきよし、蒲冠者範頼・九郎冠者義経奏聞す。法皇、此条いかゞあるべからむとおぼしめしわづらひて、太政大臣、左右の大臣、内大臣、堀河大納言忠親卿の仰あはせらる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相の位にのぼるものの頸、大路をわたさるゝ事、先例なし。就中此輩は、先帝の御時、戚里の臣として、久しく朝家につかうまつる。範頼・義経が申状、あながち御許容あるべからず」と、おのおの一同に申されければ、わたさるまじきにて有りけるを、範頼・義経重ねて奏聞しけるは、「保元の昔を思へば、祖父為義があた、平治のいにしへを案ずれば、父義朝がかたき也。君の御憤をやすめ奉り、父祖の恥をきよめんがために、命を捨て朝敵をほろぼす。今度平氏の頸共、大路をわたされずは、自今以後なんのいさみあッてか凶賊をしりぞけんや」と、両人頻に訴へ申間、法皇力及ばせ給はで、終にわたされけり。見る人いくらといふ数を知らず。帝闕に袖をつらねしいにしへは、おぢおそるゝ輩おほかりき。巷に首をわたさるゝ今は、あはれみかなしまずといふ事なし。(「平家物語(四)巻第十」P12)
2012年08月21日
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御名部皇女の夫であった高市皇子は、飛鳥浄御原朝の長子とはいえ、母は筑紫の氏上の娘でしかないので、日嗣御子となることなく、大臣の一人として、長いこと、父や皇后を助けてきた。それでも、どんな難しい勤めにも文句ひとついわず取り組み、見事に成し遂げていたという。飛鳥浄御原朝が薨った後太上天皇はずいぶんと頼りにしていたらしい。しかし、ここ幾年か、太上天皇はなにかにつけて大納言に頼るようになっている。大納言の妻の一人に、県犬養三千代という宮人がいる。高い位に就く命婦として軽皇子の乳母を務めていた女で、太上天皇はもとより、皇太妃にも頼られ、今も内裏を仕切っている。それが白妙を皇太妃の前に連れていった中宮大夫で、大納言の名が藤原史(ふひと)。藤原宮と同じ名を持つ藤原氏が、もとは中臣氏だったと知ると、白妙がなぜ京に召されることになったのかはっきりした。中臣氏は、常陸国香島郡を作った氏だった。倭国からやってきて、下総国と常陸国の海辺の地を譲りうけ、香島郡を造り、香島神宮を造った。常陸国の領地を分け与えた那賀国造がそれまで氏神として祀ってきた神が、香島神宮の神となった。そんなわけで、中臣氏は今も香島郡に領地を持ち、那賀氏を香島神宮の祀事に携わらせている。皇太妃が三千代に、密かに夢解売を探してくれと頼み、三千代が史(ふひと)に、史(ふひと)が那賀国造に問い合わせてみたのではないか。(坂東真砂子さん「朱鳥の陵」P47)
2012年08月20日
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昨日、アジュール舞子の海岸でおこなわれたパールキャンドルです。この後、雨で大変なことになりました・・・・・。
2012年08月19日
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ジョン・W.キャンベル/ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「クトゥルフ神話への招待」を買書つんどく。諸星大二郎さんの「栞と紙魚子シリーズ」から、「クトゥルーちゃん」。「人類の神のイメージとなった“旧支配者”が太古に地球を征服し、それに準ずる神々も存在した。いまは地下や海底や異次元で眠っているかれらは復活のときを狙っている・・・・・。極地で見つかった謎の生物との壮絶な戦いを描いて三度も映画化された名作「遊星からの物体X」。映画『エイリアン』『プロメテウス』の原型 にあたる「クトゥルフの呼び声」。さらに「恐怖の橋」「呪われた石碑」「魔女の帰還」などラムジー・キャンベルの未訳中短篇五本を収録した、待望のクトゥルフ神話アンソロジー。」(「BOOK」データベースより)
2012年08月19日
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「常陸国から来たのであれば、新益京には愕いたであろう」次官は、藤原宮の奥のほうに向って足を進めながら話しかけてきた。白妙は、「愕きました」と慎ましやかに答えた。「我 が国で初めての京だ。これまで天皇が新たに立たれるたび、そのお住まいが宮となってきた。だが、藤原宮は違う。この宮は、京を擁している。唐国の範に倣 い、京の真んなかに宮を置き、前には政の場、後ろには市、周囲には官人の住まいを設けてある。東西八坊、南北十二条の豊葦原瑞穂国で初めての京なのだ」唐国の難しい言葉を混えながら京の有様を誇らしげに語るこの男は、あの魑魅たちを見ないのだろうと、白妙は思った。(坂東真砂子さん「朱鳥の陵」P15)
2012年08月18日
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「あの塚は、どなたのお墓なのですか」白妙は三百足に問いかけた。人々のざわめきのなかでも、その澄んだ高い声はよく響いた。三百足は、白妙が指で示したほうに恭しく頭を下げた。「あれこそは、口にするのも畏れ多い飛鳥浄御原の大朝に天の下をお治めになられた天皇のお眠りになっておられる陵です」いったい、誰のことだろう。常陸国で生まれ育った白妙は、倭国の大王のことをよく知らない。また倭の大王が変わったらしい。誰がその跡を継ぐかで戦いになったらしい・・・・・。そんな噂が流れてきては、また別の噂に取って代られ、たまに倭の大王のお触れだといって、役が重くなったり、賜ろものがあったりしたが、その大王の名を耳にすることもなかった。白妙が路に迷ったような顔をしていると、使部として京暮らしが長く、この度、里帰りしていた真萱がいった、「飛鳥浄御原朝のことさ。その皇后が、新益京をお造りになった太上天皇だよ」「太上天皇・・・・・」天皇というのが、倭国の大王の新しい呼び名であるとは知っていたが、太上天皇とは、初めて耳にする言葉だった。「新益京に宮をお遷しになった天皇だ。五年前、孫にあたられる今の天皇に高御坐をお譲りになってからも、ずっと共に世を治めておられる。ほんとのところは、太上天皇こそ実の天皇というところだけどね」「いやいや、実の天皇は、あの陵に眠っておられる飛鳥浄御原朝だ」語り手役を真萱に奪われまいとするかのように、三百足が向きになって話に入ってきた。「太上天皇のお言葉は、すべてをお隠れになった飛鳥浄御原朝のものだというではないか。京をお遷しになったのも、先だって天の下に知らしめた大宝律令も、飛鳥浄御原朝が生きておられたころからの願いだったというから」「夜見国に逝った夫の願いを、妻が叶えるというわけか。うちのに聞かせてやりたいよ」話を聞いていた荒磯が羨むような声を上げた。(坂東真砂子さん「朱鳥の陵」P5)
2012年08月17日
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天智天皇が亡くなると、翌672年に、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子とのあいだで皇位継承をめぐる戦い(壬申の乱)がおきた。大海人皇子は美濃を本拠地とし、東国からの軍事動員に成功して大友皇子の近江朝廷をたおし、翌年飛鳥浄御原宮で即位した(天武天皇)。乱の結果、近江朝廷側についた 有力中央豪族が没落し、強大な権力を手にした天武天皇を中心に中央集権的国家体制の形成が進んだ。天武天皇は、675年に豪族領有民をやめ、官人の位階や昇進の制度を定めて官僚制の形成を進めた。684年には八色の姓を定めて豪族たちを天皇を中心とした身分秩序に編成した。また、律令・国史の編纂や銭貨(富本銭)の鋳造、中国の都城にならった藤原京の造営を始めたが、その完成の前に亡くなった。天武天皇のあとを継いだ皇后の持統天皇はそれらの諸施策を引き継ぎ、689年には飛鳥浄御原令を施行し、翌690年には戸籍(庚寅年籍)を作成して民衆の把握を進めた。そして694年には、飛鳥の地から本格的な宮都藤原京に遷都した。(山川出版社「詳説日本史B」P33)天武天皇の時代にはじめられた国史編纂作業は、奈良時代に「古事記」「日本書紀」として完成した。712(和同5)年にできた「古事記」は、宮廷に伝わる 「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇が稗田阿礼によみならわせた内容を、太安万侶が筆録したもので、神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語であり、口頭 の日本語を漢字の音・訓を用いて表記している。720(養老4)年にできた「日本書紀」は舎人親王が中心となって編纂したもので、中国の歴史書の体裁にならい漢文の編年体で書かれている。(山川出版社「詳説日本史B」P46)
2012年08月16日
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凡東西の木戸口、時をうつす程也ければ、源平かずをつくいて討たれけり。矢倉のまへ、逆も木のしたには、人馬のしゝむら山のごとし。一谷の小篠原、緑の色をひきかへて、うす紅にぞ成にける。一谷・生田森、山のそは、海の汀にて、射られきられて死ぬるは知らず、源氏のかたにきりかけらるゝ頸ども、二千余騎也。(中略)いくさやぶれにければ、主上をはじめたてまッて、人々みな御舟にめして出給ふ、心のうちこそ悲しけれ。塩にひかれ、風に随ッて紀伊路へおもむく舟もあり、葦屋の沖に漕出でて、浪にゆらるゝ舟もあり。或は須磨より明石のうらづたひ、泊定めぬ梶枕、かたしく袖もしをれつゝ、朧にかすむ春の月、心をくだかぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕とほり、絵島が磯にたゞよへば、波路かすかになきわたり、友まよはせる夜鴴、是も我身のたぐひかな。行さきいまだいづくとも思ひ定めぬかとおぼしくて、一谷の沖にやすらふ舟もあり。かやうに風にまかせ、浪に随ひて浦々・島々にたゞよへば、互に死生も 知りがたし。国をしたがふる事も十四箇国、勢のつく事も十万余騎、都へちかづく事も僅に一日の道なれば、今度はさりともとたのもしう思はれけるに、一谷をも攻め落されて、人々みな心ぼそうぞなられける。(「平家物語(三)巻第九」P346)これにて「巻第九」を終り、「巻第十」に入ります。
2012年08月15日
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コニー・ウィリス「ブラックアウト」を買書つんどく。オックスフォード大学史学部のタイムトラベルシリーズ、「ドゥームズデイ・ブック」、「犬は勘定に入れません」の続編です。いや、「ドゥームズデイ・ブック」大好きです。「2060年、オックスフォード大学の史学生三人は、第二次大戦下のイギリスでの現地調査に送りだされた。メロピーは郊外の屋敷のメイドとして疎開児童を観察し、ポリーはデパートの売り子としてロンドン大空襲で灯火管制(ブラックアウト)のもとにある市民生活を体験し、マイクルはアメリカ人記者としてダンケルク撤退 における民間人の英雄を探そうとしていた。ところが、現地に到着した三人はそれぞれ思いもよらぬ事態にまきこまれてしまう・・・・・続篇『オール・クリア』とともにヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞の三賞を受賞した、人気作家ウィリスの大作。」(「BOOK」データベースより)
2012年08月14日
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薩摩守忠教(忠度)は、一の谷の西手の大将軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂に黒糸をどしの鎧着て、黒き馬のふとうたくましきに、いッかけ地の鞍おいて乗り給へり。其勢百騎ばかりがなかに打かこまれて、いとさわがず、ひかへひかへ落給ふを、猪俣党に岡辺の六野太、忠純、大 将軍と目をかけ、鞭、あぶみをあはせて追ッ付たてまつり、「抑いかなる人で在まし候ず。名のらせ給へ」と申ければ、「是はみかたぞ」とて、府りあふぎたまへるうちかぶとより見入れたれば、かねぐろ也。あッぱれ、みかたにはかねつけたる人はないものを。平家の君達でおはするにこそと思ひ、おし並べてむずとくむ。これを見て、百騎ばかりある兵ども、国々のかり武者なれば、一騎も落あはず、われさきにとぞ落ゆきける。薩摩守、「にッくいやつかな。みかたぞと言はば、言はせよかし」とて、熊野そだち、大力のはやわざにておはしければ、やがて刀を抜き、六野太を馬の上で二刀、落ちつくところで一刀、三刀までぞつかれける。二刀は鎧のうへなればとほらず、一刀はうつかぶとへつき入られたれども、うす手なれば死なざりけるを、とッておさへて頸をかゝんとし給ふところに、六野太が童おくればせに馳来ッて、うち刀を抜き、薩摩守の右の可否なを、ひぢのもとよりふつときり落す。今はかうやとや思はれけん、「しばしのけ、十念唱へん」とて、六野太をつかうで弓だけばかりなげのけられたり。其後西にむかひ、高声に十念唱へ、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」とのたまひもはてねば、六野太うしろよりよッて、薩摩守の頸を討つ。(「平家物語(三) 巻第九」P326)このあたり、敦盛、知章など強い印象を残す討死が続きますが、中で、明石ゆかりの「忠教(忠度)最後」をメモりました。なお、近所の忠度塚には、「平家」に出てくる、「旅宿花」と題された、行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひのあるじならましという歌の碑もあります。
2012年08月13日
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「坂落」の段は、とってつけたような一節でおわっている。「能登守教経は、度々のいくさに一度も不覚せぬ人の、今度はいかが思はれけん、うす黒といふ馬に乗り、西を指いてぞ落ち給ふ。播磨国明石浦より船に乗つて、讃岐の八嶋へ渡り給ひぬ。」馬の名が「うす黒」。不吉な気配が 立つ。その「うす黒」に乗って西の方を指していったと聞けば、いよいよ悪い気配がする。あとは作り話ではないか。すなわち豪勇の教経は一の谷であえなく討死か。それを秘めて、死んだ人にはせず、いずれ八嶋でも、壇の浦でも、あっぱれな武者振りをこの人に振り付けようがために、「平家」は生き延びさせたのではないか。それが証拠に、「吾妻鏡」寿永三年三月十三日の条に、一の谷で討ち取られた平家一族の首が都入りして獄門にかけられた次第をしるすなかに、通盛、忠度、経正の次に教経とある。また「玉葉」の同じく三月十三日の条に、平氏の首級を合計十、京の獄門に梟した次第を記録した後、「十九日、渡さるる首の中、教経に於ては一定現存すと云々」とある。(杉本秀太郎さん「平家物語 無常を聴く」P321)
2012年08月12日
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源氏の大手(生田の森)ばかりではかなふべしとも見えざりしに、九郎御曹司、搦手にまはッて、七日のひの明ぼのに、一の谷のうしろ鵯越にうちあがり、すでに落さんとしたまふに、其勢にや驚たりけん、大鹿二・妻鹿一平家の城郭、一谷へぞ落ちたりける。(中略)御曹司、城郭はるかに見わたいておはしけるが、「馬ども落いてみむ」とて、鞍おき馬を追落す。或は足をうちをッてころんで落つ。或は相違なく落ちてゆくもあり。鞍おき馬三疋、越中前司が屋形のうへに落ちついて、身ぶるひしてぞ立ッたりける。御曹司是を見て、「馬どもは、ぬしぬしが心得て落さうには損ずまじいぞ。くは落せ。義経を手本にせよ」とて、まづ卅騎ばかり、まっさきにかけて落されけり。大勢みなつゞいて落す。後陣に落す人々のあぶみの鼻は、先陣の鎧・甲にあたるほどなり。小石まじりのすなごなれば、流れ落しに、二町計ざッと落いて、壇なるところにひかへたり。(中略)おほかた人のしわざとは見えず、たゞ鬼神の所為とぞ見えたりける。落しもはてねば、時をどッとつくる。三千余騎が声なれど、山びこにこたへて、十万余騎とぞ聞えける。村上の判官代康国が手より火を出し、平家の屋形・かり屋をみな焼払ふ。をりふし風ははげしゝ、くろ煙おしかくれば、平氏の軍兵どもあまりにあわてさわいで、若やたすかると、前の海へぞおほくはせ入りける。汀にはまうけ舟いくらもありけれども、われさきの乗らうど、舟一艘には物具したる者どもが四五百人、千人ばかりこみ乗らうに、なじかはよかるべき。汀よりわづかに三町ばかりおし出いて、目の前に大ふね三艘しづみにけり。(「平家物語(三) 巻第九」P314)
2012年08月11日
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武蔵房弁慶、老翁を一人具して参りたり。御曹司(九郎義経)、「あれはなにものぞ」と問たまへば、「此山の猟師で候」と申す。「さては案内の知ッたるらん。ありのままに申せ」とこそのたまひけれ。「争か存知仕らで候べき」。「これより平家の城郭一谷へ落さんと思ふはいかに」。「ゆめゆめ叶ひ候まじ。卅丈の谷、十五丈の岩さきなンどと申所は、人のかよふべき様候はず。まして御馬なンどは思ひもより候はず。其うへ、城のうちには落しあなをも掘り、ひしをもうゑて待まゐらせ候らん」と申す。「さてさ様の所は鹿はかよふか」。「鹿はかよひ候。世間だにもあたゝかになり候へば、草のふかいに臥さうどて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だにさむうなり候へば、雪のあさりにはまんとて、丹波の鹿は播磨に印南野へかよひ候」と申す。御曹司、「さては馬場ござんなれ。鹿のかよはう所を、馬のかよはぬやうやある。やがてなんじ案内者つかまつれ」とぞのたまひける。「此身はとし老てかなふまじい」 よしを申す。「汝が子はないか」。「候」とて、熊王と云童生年十八歳なるをたてまつる。やがてもとゞりとりあげ、父をは鷲尾庄司武久といふ間、これをば鷲尾の三郎義久と名のらせ、さきうちさせて、案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿になかたがうて、奥州で討たれ給ひし時、鷲尾三郎義久とて、一所で死にける兵物也。(「平家物語(三) 巻第九」P292)
2012年08月10日
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レオ・ペルッツ「夜毎に石の橋の下で」を買書つんどく。なんだか、グスタフ・マイリンクの「ゴーレム」を連想します。「1589年秋、プラハのユダヤ人街を恐るべき疫病が襲った。墓場に現れた子供の霊は、この病は姦通の罪への神の怒りだと告げる。これを聞いた高徳のラビは女たちを集め、罪を犯した者は懺悔せよと迫ったが、名乗り出る者はなかった・・・・・神聖ローマ帝国の帝都プラハを舞台に、皇帝ルドルフ2世、ユダヤ人の豪商とその美しい妻、宮廷貴族、武将、死刑囚、錬金術師、盗賊団、道化、画家らが織りなす不思議な愛と運命の物語。夢と現実が交錯する連作短篇集にして幻想歴史小説の傑作。」(国書刊行会の紹介)
2012年08月09日
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正月廿九日、範頼・義経院参して、平家追討のために西国へ発向すべきよし奏聞しけるに、「本朝には、神代よりつたはれる三つの御宝あり。内侍所・神璽・宝剣これ也。相構て、事ゆゑなくかへし入れたてまつれ」と仰下さる。両人かしこまりうけ給はッて、まかり出でぬ。(「平家物語(三) 巻第九」P274)後にこれが、義経の命取りになります。
2012年08月08日
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神戸は生田神社の「生田の森」です。
2012年08月07日
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本谷有希子さんの「嵐のピクニック」を買書つんどく。この本は、なかなか評判よさげなので、買ってみまし た。「優 しいピアノ教師が見せた一瞬の狂気を描く「アウトサイド」、ボディビルにのめりこむ主婦の隠された想い(「哀しみのウェイトトレーニー」)、カーテンの膨 らみから広がる妄想(「私は名前で呼んでる」)、動物園の猿たちが起こす奇跡をユーモラスに綴る「マゴッチギャオの夜、いつも通り」、読んだ女性すべてが 大爆笑&大共感の「Q&A」、大衆の面前で起こった悲劇の一幕「亡霊病」・・・・・などなど、めくるめく奇想ワールドが怒涛のように展開する、著者初にし て超傑作短篇集。」(「BOOK」データベースより)
2012年08月06日
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平家は、こぞの冬の比より讃岐国八島の磯を出でて、摂津国難波潟へおしわたり、福原の旧里に居住して、西は一の谷を城郭に かまへ、東は生田の森を大手の木戸口とぞ定めける。其内、福原・兵庫・板やど・須間にこもる勢、これは山陽道八ケ国・南海道六ケ国、都合十四ケ国を討ち従 へて召さるゝところの軍兵なり。十万余騎とぞ聞えし。一の谷は、北は山、南は海、口はせばくて奥ひろし。岸たかくして屏風を立てたるにことならず。北の山 ぎはより南の海のとほあさまで、大石をかさねあげ、おほ木をきッてさかも木にひき、ふかきところには、大船どもをそばだてて、かいだきにかき、城の面の高 矢倉には、一人当千と聞ゆる四国・鎮西の兵物ども、甲冑・弓箭を帯して、雲霞の如くに並み居たり。矢倉のしたには、鞍置馬ども十重、廿重にひッ立てたり。 常に太鼓をうッて、乱声をす。一張の弓のいくほいは、半月胸のまへにかゝり、三尺の剣の光は、秋の霜、腰の間に横だへたり。たかきところには、赤旗おほく うち立てたれば、春風に吹かれて天に翻るは、火炎のもえあがるにことならず。(「平家物語(三) 巻第九」P266)
2012年08月05日
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高野史緒さんの「カラマーゾフの妹」を買書つんどく。高野さんが「江戸川乱歩賞」ですと!なんてこった!しかも、「カラ兄」の第二部ですと!なんてこった!「『カラマーゾフの兄弟』で描かれる父殺し。その真犯人は別にいる。歴史的未解決事件の謎が今ここに解かれる。興奮度超級のミステリ。 ドストエフスキーの書いた世界文学の金字塔『カラマーゾフの兄弟』には、書かれていない第二部がある。父殺し事件の真犯人が別にいることは、第一部を詳細 に読めば明らかなのだ。事件から十三年後、カラマーゾフ家の次男イワンが特別捜査官として町に戻ったことで次々に暴かれる衝撃的な真実。その日、本当に起 こったこととは、そして家族が抱えていた真の闇とは何だったのか。すべてがいま解き明かされる。興奮の文芸ミステリ!第58回江戸川乱歩賞受賞作」(講談社の紹介)
2012年08月04日
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今井の四郎・木曾殿、主従二騎になッてのたまひけるは、「日来はなにともおぼえぬ鎧が、けふはおもうなッたるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身もいまだつかれさせたまはず。御馬もよわり候はず。なにによッてか一両の御きせながをおもうはおぼしめし候べき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人候とも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七八候へば、しばらくふせき矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申。あの松の中で御自害候へ」とて、うッてゆく程に、又あら手の武者五十騎ばかり出できたり。「君はあの松原へいらせ給へ。兼平は此敵ふせき候はん」と申ければ、木曾殿のたまひけるは、「義仲宮こにていかにもなるべかりつるが、これまでのがれくるは、汝と一所で死なんと思ふ為也。ところどころで討たれんよりも、一ところでこそ打死をもせめ」とて、馬の鼻を並べてかけむとしたまへば、今井四郎馬よりとびおり、主の馬の口にとりついて申けるは、「弓矢とりは、年来、日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、ながき疵にて候也。御身はつかれさせ給ひて候。つゞく勢は候はず。敵におしへだてられ、言ふかひなき人、郎等にくみ落させ給て討たれさせ給なば、「さばかり日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまッたる」なンどと申さん事こそ口惜う候へ。たゞあの松原にいらせ給え」と申しければ。木曾、「さらば」とて、粟津の松原へぞかけたまふ。(中略)木曾殿は只一騎、粟津の松原にかけたまふが、正月廿一日、入相ばかりの事なるに、うす氷ははッたりけり、ふか田ありとも知らずして、馬をざッとうち入たれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。今井がゆくへのおぼつかなさに、ふりあふぎたまへるうち甲を、三浦石田の次郎為久、追ッかゝッて、よッぴいてひやうふつと射る。いた手なれば、まッかうを馬のかしらにあてて、うつぶしたまへる処に、石田が郎等二人、落あうて、つひに木曾殿の頸をばとッてンげり。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声をあげて、「此日ごろ日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久が討ち奉たるぞや」となのりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今はたれをかばはむとてか、いくさをもすべき。これを見たまへ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落、つらぬかッてぞ失せにける。(「平家物語(三) 巻第九」P254)木曾殿最後です。
2012年08月03日
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綿矢りささんの「ひらいて」を買書つんどく。立ち読 みのページがあります。「やみくもに、自分本位に、あたりをなぎ倒しながら疾走する、はじめての恋。彼 のまなざしが私を静かに支配する――。華やかで高慢な女子高生・愛が、妙な名前のもっさりした男子に恋をした。だが彼には中学時代からの恋人がいて……。 傷つけて、傷ついて、事態はとんでもない方向に展開してゆくが、それでも心をひらくことこそ、生きているあかしなのだ。本年度大江健三郎賞受賞の著者によ る、心をゆすぶられる傑作小説。」(新潮社の紹介)
2012年08月03日
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大将軍九郎義経、軍兵どもにいくさをばさせ、院の御所のおぼつかなさに、守護し奉らんとて、まづ我身ともにひた甲五六騎、六条殿へはせ参る。御所には大膳大夫成忠、御所の東のつい垣のうへにのぼッて、わなゝくわなゝく見ませば、しら旗ざッとさしあげ、武士ども五六騎のけかぶとにたゝかひなッて射むけの袖ふきなびかせ、くろ煙けたてて、はせ参る。(中略)九郎義経門前へ馳参ッて、馬よりおり、門をたゝかせ、大音声をあげて、「東国より前兵衛佐頼朝が舎弟、九郎義経こそ参ッて候へ。あけさせ給へ」と申しければ、成忠あまりのうれしさに、つい垣より急ぎをどりおるゝとて、腰をつき損じたりけれども、いたさはうれしさにまぎれておぼえず、はふはふ参って此由奏聞しければ、法皇大に御感あッて、やがて門をひらかせて入れられけり。(中略)九郎義経を大床のきはへ召して、合戦の次第をくはしく御尋あれば、義経かしこまって申しけるは、「義仲が謀叛の事、頼朝大におどろき、範頼・義経をはじめとして、むねとの兵物卅余人、其勢六万余騎をまゐらせ候。範頼は勢田よりまはり候がいまだ参り候はず。義経は宇治の手を攻め落いて、まづ此御所守護のためにはせ参じて候。義仲は河原をのぼりて落ち候つるを、兵物共に追はせ候つれば、いまはさだめてうッとり候ぬらん」と、いと事もなげに申されたる。法皇大に御感あッて「神妙也。義仲が余党なンど参ッて狼藉もぞ仕る。なんぢら此御所よくよく守護せよ」と仰ければ、義経かしこまりうけ給はッて、四方の門をかためてまつほどに、兵物どもはせ集ッて、ほどなく一万騎ばかりに成にけり。(「平家物語(三) 巻第九」P242)
2012年08月02日
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カルロス・ルイス・サフォン「天使のゲーム」を買書つんどく。あとがきによると、「風の影」の前日談になるようです。「1917年、バルセロナ。17歳のダビッドは、雑用係を務めていた新聞社から、短篇を書くチャンスを与えられた。1年後、独立したダビッドは、旧市街の“塔の館”に移り住み、執筆活動を続ける。ある日、謎の編集人から、1年間彼のために執筆するかわりに、高額の報酬と“望むもの”を与えるというオファーを受ける。世界的ベストセラー『風の影』に続いて“忘れられた本の墓場”が登場する第2弾。」「ダビッドが契約していた出版社が放火されて経営者が亡くなり、刑事にマークされる生活が始まる。いっぽうで移り住んだ“塔の館”のかつての住人ディエゴ・マルラスカが不審な死に方をしていたことがわかり、関係者を訪ね歩くダビッド。調べていくうちに、マルラスカと自分に複数の共通点が見つかり、彼を襲った悲劇に囚われていく。“本に宿る作家の魂”を描く珠玉の文学ミステリー。」(「BOOK」データベースより)
2012年08月02日
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同正月十一日、木曾左馬頭義仲、院参して、平家追討のために西国へ発向すべきよし奉聞す。同十三日、既に門出と聞えし程 に、東国より前兵衛佐頼朝、木曾が狼藉しづめんとて、数万騎の軍兵をさしのぼせられけるが、すでに美乃国・伊勢国につくと聞えしかば、木曾大におどろき、 宇治・勢田の橋をひいて、軍兵どもをわかちつかはす。折ふし勢もなかりけり。勢田の橋は大手なればとて、今井四郎兼平、八百余騎でさしつかはす。宇治橋へは、仁科・高梨・山田の次郎、五百余騎でつかはす。いもあらひへは、伯父の志太の三郎先生、義教、三百余騎でむかひけり。東国より攻めのぼる大手の大将軍は、蒲の御曹司範頼、からめ手の大将軍は、九郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、都合其勢六万余騎とぞ聞えし。(「平家物語(三) 巻第九」P226)
2012年08月01日
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うおんたな(魚の棚)の「うおんたこくん」です。トリックアートとゆ~んだそうです。
2012年08月01日
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